螺旋の先端

 

序、来訪者

 

コーネリア王国の国土の多くは、山に囲まれた盆地であり、外部との連絡通路は極めて数が少ない。南部諸国との連絡の役目を主に果たしているのは、コーネリアの南西部にある関所である。また、北部と北東部にも同様の関所があり、魔物や山賊に備えていくらかの兵士が駐屯している。北部は帝国領辺境に通じ、出て暫く行くと旧アーデンハイト王国の首都ヴェセに出、かって大陸を支配した王国首都の寂れた姿を見る事が出来る。東部もまた帝国領辺境に通じていて、こちらは関所を出て数日歩くと海に出る。関所を避け、山を越えて行く事も出来るが、わざわざ危険を冒して其処までする必要など無い。関所は旅人にある程度の通行料と、身分の提示を要求するが、金額は少なく、充分に普通の旅人が払える程度の金額でしかない。また、求められる情報も、個人情報が主な物で、それもさほど厳しくはないからだ。

ただ、こういったやり方が成り立つのは、この国がずっと平和であった事、敵対勢力がいない事、身分を偽ってまで侵入する価値がない事が要因であろう。また、国を訪れる旅人自体も極めて少なく、セルセイア麾下の諜報員が影から不審人物をチェックするだけで、充分事は足りていた。

しかし、状況は変わりつつある。魔物よりも、むしろ人間が原因で、状況は静から動へと変動しつつあった。兵士達に内緒で監視が増やされ、その体制も強化されつつある。理由は簡単な事であった。家康がセルセイアと協力して、本格的な行動を開始したからである。

 

関所の一つ、北部駐屯砦の兵士ミシュクが、それに気づいたのは陽が昇って暫くした頃であった。鈍痛にも等しい恐ろしく暇な時間が過ぎ去ったとき、それは来た。

普通の国家であれば、国境警備隊といえば命がけの危険な仕事であるが、ここしばらく戦乱に見舞われておらず、危地に立った事のないこの国の兵士達は、閑職の一つぐらいにしか考えていない。それは極めて危険な事態でもあったのだが、全くの事実でもあったので、今までは何の問題も起こらなかった。

ミシュクはまだ若い兵士であり、年齢は女王であるイレイムと同じである。その彼も当然周囲と同じように自分の職を考えており、今日、わずか七人しかいなかった朝の入国者チェックを終えると、暇を覚えて欠伸をしていた。周囲の兵士達もレッセ〈チェスと将棋を足して二で割ったような遊戯〉に興じたり、町の美人の噂をしていたりして、際限なくたるみきっていた。

今日、ミシュクは午後から見張りの任務が入っていた。午前の任務はたるみきった空気の中、水飴が垂れるようにゆっくり流れすぎ、無為な時間と共に終わった。そして、少し早めに昼食を切り上げ、槍を手にして外に出た彼は、遠くよりゆっくり来る人影を見つけたのである。

それは馬に乗った人物だった。汚れた旅装束で、馬の上でうつらうつらとしている。馬も人も疲れ切っているようで、周囲の様子には全く気づかない。そして、剰りにも自然に、関所をそのまま通り過ぎようとしたので、慌てて兵士達が制止した。

「おいおい、こまるよ、君っ!」

隊長格の兵士が馬のくつわを押さえ、他の兵士達を呼び寄せた。ミシュクは念のために戸を閉めるように指示され、すぐにそれに従う。そしてそのとき、ようやく旅装束の者が顔を上げた。顔は疲れ切っていて、汚れきっていたが、女性だと遠くにいるミシュクにも分かった。

「どこだ、此処は……」

「何を言ってる。 大丈夫か? 気は確かか?」

もしここがこの平和呆けした国でなければ、この旅人は既に不審人物として、斬り捨てられていただろう。隊長が何度か話しかけるが、疲れ切っているらしい旅人の返答は要領を得ず、挙げ句の果てに落馬しそうになった。隊長は慌てて旅人を抱き留め、周囲の部下に指示を飛ばした。

「おい、あんた、しっかりしろ! タンカだ! 早くしろ!」

ミシュクが呼ばれ、旅人を手慣れない動作で担架に乗せた。このとき彼は、この旅人が、後にこの地に大きな影響を及ぼす事など、知りもしなかった。ただ、意識朦朧としたまま運ばれていく旅人を見やり、思考の片隅で、こう思っただけであった。

綺麗な人だな、と。実際、その旅人は、絶世の美人と言うほどではないが、汚れていても充分に水準以上の美しさを持っていた。

だが、それも絶対的な印象を、他者に植え付ける物ではない。仕事が終わる頃には、ミシュクの脳裏の中心から、それは隅に追いやられ、忘却の沼に片足をつっこんでいた。そして次にその女性が兵士に思い出されるのは、少し時を置いてからの事となる。

 

1,息吹

 

それは、春の息吹が大地を満たし、鳥たちがさえずり、暖かさが空気を覆う季節だった。徳川家康や、高柳藍がいた世界では、春とも呼ぶ季節である。同じ大陸であっても、位置によって、この季節が来る時期はかなり異なってくるのだが、コーネリア王国では、今が芽生えの季節であった。

動物たちや、それに魔物達も、その季節に生き、建設的に新たな命の誕生を祝っていた。それに比べて、人間共の行動は非建設的な事この上ない。軍事などというくだらなく意味もない行動に奔走し、命さえも投げ捨てて、それに身を預けていたのである。

コーネリア王国で、事に非建設だった人間は、徳川家康という客将であった。彼は二ヶ月間の調査で王国内を徹底的に調べ尽くしており、それを終えた今、積極的な戦略的強化に乗り出したのである。

まず彼が始めたのは、あくまで秘密裏であったが、軍事訓練であった。相手は主に、山にいる魔物であったが、兵士達を組織的に行動させ、集団戦の意義を教え込むには充分な相手だった。数度の狩りで、魔物相手に実戦を経験した兵士達は、少しずつ実戦になれ、集団戦という物を知り始めた。家康の訓練は極めてハードで、なお実践的であり、幾度も繰り返し行われ、短期間で正規軍の動きは目立って良くなっていった。

続いて、これもあくまで秘密裏にであったが、城塞の強化を開始した。古くなった部分の改修という名目であったが、工事には全て家康が立ち会い、徹底的な指導を行った。無論すぐに完成するはずもなく、また根本的な補修も出来ない。工事が完了するのが先か、彼が想定する帝国軍の来襲が先か、微妙な処であろう。何にしろ、それは命を造りはぐくむ行動ではなく、その正反対の行為であり、何一つ産まない物でもあった。

他の動物たちとは全く違う行動をとり続ける生物、ヒト。それはどこの世界でも同じであり、同様に愚劣であった。

 

「うむ。 それらの資材はそちらに運べ。 落とさないように気をつけよ」

コーネリアの北部にある砦の城壁上で、家康が何人かの人夫に、きびきびと指示を飛ばす。指示は的確であり、また指導を自らが積極的に行い、自分だけ怠けて休むような事はなかった。

家康に限らず、貧弱な地盤から、自らで勢力を拡大した戦国大名は様々な知識を持っている事が多く、戦やそのほかの時には、積極的に動いて例を示す事が多かった。こういった行動は家康にとってはごく自然な物であり、特に普段に比べて勤勉になったわけではない。

ただ、自ら道を切り開いた戦国大名が、皆こう知識豊富で積極的な者達だったわけではない。名将だった父、それに養父の影響を大いに受けてそだった立花宗茂などは、典型的なお坊ちゃんで、戦にこそ知識豊富で強かったが、逆にそのほかの事、特に生活知識は無きに等しく、苦労など全く知らなかったようである。彼は誇り高い男であったようだが、逆に言えば、それは誇りだ何だと寝言をほざきながら、充分に生きられる、他の戦国大名に比べて極めて幸運な場所に生きていた事をも意味しているのだ。あくまでこれらの経験は、貧弱な地盤から自らの地位を築き上げた者のみの強みであり、地獄が如き境遇から地位を築き上げた家康の苦労を忍ばせる事象であろう。

家康は数日間、何人かの文官や武官を、現場責任者として使い回し、能力と特性を見ていた。そしてだいたいの見当をつけると、イレイムの許可を得て、ある男を最も重要な戦略的拠点となる、北部の砦の改修責任者に任命した。

家康は実力主義者であり、現実主義者である。だが、人事という物は、残念ながらそれだけでは成立しない。彼がまだ武田勝頼と激しい戦を交えていた頃、抜擢した有能な男がいたが、彼は周囲との折り合いが会わず、結局裏切る事となり、家康は手痛い打撃を受けた。魏の武帝曹操は、有能ならば賄賂を取るような輩でも良いから取り立てろと言う布告を出しているが、それは曹操自体が千年来の天才であったから出来た事である。曹操の人を見る目は確かであり、しかも能力の極限まで部下を酷使し、コストに見合う成果を出す事が出来たのだ。家康には流石に其処までの才能もなければ、自信もなかったため、最善の選択肢を経験に基づいて選択するほか無かった。一度手痛い目にあった彼は、選択の際の判断基準を柔軟に増やす事に成功しており、今もそれに基づいて行動していた。

「家康様、作業は順調でございますか?」

「ん? おお、陛下。 万事順調でございますぞ」

部下の前であったから、当然家康は敬語を使って応じた。家康の後ろには、護衛とセルセイアを伴ったイレイムがいて、笑みを浮かべていたのである。相手の身分に関係なく、様をつけて呼ぶイレイムの口調は広く知られていて、別に家康にへりくだっているとは誰も思わなかった。

家康は表向きには、聖皇国から流れてきた客将という事にされている。聖皇国には、黒髪黒目の人間が少なくなく、家康によく似た背格好容姿の者もいたから、とりあえずのごまかしにはなっていた。無論きな臭さを感じる者も少なくなかったのだが、問題にならなかったのはそれだけイレイムが信頼されていた事を示している。また、家康の辣腕ぶりは周囲に知られてもいたから、ぐうの音も出ないのも確かであった。

他愛のない会話を少し交わすと、家康は城壁上にあがってきた男をめざとく見つけ、呼び寄せた。頭をかきながら、その男は走り寄ってきて、何度も頭を下げた。

「陛下、紹介いたしましょう。 サイモン=タム。 現在、この砦の修繕主任をしてござる」

「サ、サイモンです。 陛下には、ご機嫌御麗しゅう」

それはまだ若い男であったが、お世辞にも容姿は良いと言えなかった。髪の毛の生え際は既にかなり北上しており、やせてもいない。背も低く、顔の作りも水準以下で、鼠のような印象を周囲に与えた。

男は小脇にびっしり何かを書き込んだ書類を抱えており、色の異なるアムをポケットに数本入れていた。家康が去って良い旨を告げると、小男は恐縮しながら、その場から離れていった。

「貧相な男ですね。 役に立つのですか?」

「役に立つ」

形式上、同格の同僚だから、家康は部下の前でもセルセイアと話すときは口調を変えない。彼はセルセイアとイレイムを手招きすると、城壁の上から、サイモンの働きぶりを二人に見せた。

「あ、君、君。 そうじゃないんだ。 それはこっちに運んで」

サイモンはこまめに周囲に気を配り、積極的に人夫に声を掛け、丁寧な指導をしていた。また、誰に対しても高圧的にならず、失敗したら自ら家康に教わった見本を見せ、巧くいったら必ずほめていた。

「正直な話、こういう場所には、常識外の天才など必要ないのです。 ああいう男が、多少要領は悪くとも、丁寧に仕事が出来る男こそが、必要なのでございますぞ」

「そうなのですか、とても勉強になりますね」

「確かに、この場所には合った人材のようですね」

家康が城壁から部下を見下ろしながら言い、イレイムが素直に感心し、若干無愛想にセルセイアが答えた。家康は更にサイモンの話を続けた。

「あの男は、丁寧な性格なのですが、運動能力が劣っていたため、軍で随分出世が遅れていたようでした。 しかし、周囲からは信頼を得ていたし、試しにこういった仕事をやらせてみたら、実に良く動く。 やはり、適材適所というものですな」

「はい、私もそう思います」

家康は頷くと、改修が終わりつつある砦の中へ、イレイムを促して入り込んでいった。今までの二ヶ月間、必死になって彼はこの地の軍事技術や戦法を調べ、そしてある結論を出していた。

彼の故郷の戦法が、この地では充分に通じる。そういう結論である。

砦の中にある司令室は、一つだけ天窓が設けられ、板戸が開けられて、中に明かりが差し込んでいる。中央に置かれた机の上には、コーネリア王国の全土を書いた地図、それにその周辺国の地図が広げられ、幾つかの色が塗られた木片が置かれており、すぐに戦略を練る事が出来るように準備されていた。

周囲の兵士達を下げさせると、家康はよそ行きの仮面をはずし、いつもの様子に戻った。そして、地図の上を指し、難しそうな面もちで言った。

「イレイム殿、では防衛計画について説明する」

「はい、家康様。 始めてください」

「うむ。 まず、コーネリアに侵入するには、主に三つの経路がある。 いずれも山道を経由する物で一つは北から、一つは東から。 そして最後は南から。 此処まではよいか?」

イレイムが頷いたので、家康は言葉を続けた。此処までは、この国に暮らす者ならば、当然知っている事であり、最低限の準備として話しただけにすぎない。

家康は現在ある地図をたたむと、別の地図を広げた。それはセルセイアから譲渡された物で、街道の位置、移動にかかる時間、村の配置などが細かく記されている詳細な物だった。幾つか砦も書き込まれているが、現在修復が行われている物には、丸印がつけられていた。

「戦に入る際、数が少ない我らが後手に回っては話にならない。 よって、総司令部は前線に置く必要がある。 帝国軍が使用できる進入路は北と東の二つ。 そして二つある進入路のいずれにも、全軍を急行させるには、現在我らがいるこの砦がふさわしい。 補助として、この砦、この砦、更にこの砦も使えるように修復しておく必要があるな」

家康は地図上の、丸印をつけた砦を順番に指さしていった。それは独創的な戦略に基づく物ではなく、あくまで基本に沿って作り上げられた戦略によって計画されており、無駄がない。問題は国家予算であるが、元々無理な出費をここしばらくしていない事もあり、家康の頭の中では、帝国を撃退するまでの一連の行動が終わった後も、何とか金が足りると算段が済んでいた。

「家康様、ではこの砦で戦が起こるのですか?」

「いや、それはないな。 儂は敵の情報をつかみ、準備が済み次第、此処を打って出て戦に赴くつもりだ。 北から敵が侵入してきた場合、おそらく最初の決戦は、このあたりで行われるだろうな。 東から侵入してきた場合は、此処で迎え撃ちたい所だ」

イレイムの言葉に、家康は平原と沼地、そのほかにも何カ所かの、砦以外の地点を指さした。それを見て、怪訝そうにイレイムが小首を傾げた。

「では、この砦を、何故修復するのですか?」

「兵士達を安心させるためだ。 いざ戦となったとき、司令部が全く手つかずの砦だったら、兵士達はどう思う? イレイム殿」

「それは……多分、心配すると思います」

「そうだ。 そして不安は、恐怖と敗北感につながる。 強大な敵を相手にするのだから、少しでも兵士達の精神的な負担は取り去ってやらねばならん。 戦の前に負けてしまっては、そもそもの意味がないからな」

イレイムが困ったような表情をして、家康は苦笑した。最近はイレイムに戦の事を教え込んでいる彼であったが、その時間は少なく、まだまだ女王は戦の事を知っているとは言い難い。

「そうさな、言うならば、戦と言う物は、戦いが始まる前に勝負が決している事が多いのだ」

「戦う前に、ですか?」

「そうだ。 儂の故郷に、こういう言葉がある。 己を知り、敵を知れば、百戦危うからずや。 意味は、敵と味方の事を完璧に把握していれば、たとえ百回戦っても負ける事はない、と言った所だ。 儂は実戦の中で、この言葉の正しさを認識した。 まさに至言であるな」

「ええと……」

家康は、困惑しているイレイムの前で、地図上に視線を落としながら、例を示して見せた。

「例えばな、敵の兵力、敵将の性格、更に敵の訓練度、通る道。 これらの情報が分かっていれば、幾らでも敵の裏をかく事が出来る。 この道を敵が通ってくるとする。 この地点は自分でも確認したが、左右が切り立った崖になっていて、見通しがつかない。 敵がある程度この道を通り過ぎた所で、上から大岩を落として退路を遮断、全軍で前から襲いかかればどうなると思う?」

「少ない兵力でも、勝ち目があるかも知れません」

「そういう事だ。 更に、敵将の顔も割れていれば、一気に相手を討ち取る事さえ可能だ。 ……まあ、ここまで事態が巧く動く事はまれであるがな。 情報の持つ力が分かったか? イレイム殿。 とりあえず、実例は実戦で見せてやろう。 何しろ我らには、情報収集のエキスパートであるセルセイア殿がついているのだからな」

「努力しましょう」

不意に話を振られたセルセイアが、形容しがたい口調で言い、家康は遠慮無くからからと笑った。家康の大言壮語は、数ヶ月後に現実となる。もっとも、現時点で彼が上げた業績は、イレイムの頭に情報戦の重要性を叩き込んだだけであったが、それで充分であったかも知れない。家康が咳払いをし、更に技術論に移ろうとしたとき、兵士が戸をノックした。

「何事ですか?」

「お取り込み中失礼いたします! エイモンド長老が、陛下にお会いしたいとの事で、下に来ています」

「……。 分かりました、此方へ呼んでください」

腕組みをした家康に、出ていった兵士を見送ると、イレイムは肩を落として声を掛けた。イレイムもエイモンドが家康を目の敵にしている事は良く知っており、今日の訪問の理由もだいたい見当がついたからである。

「エイモンド長老は、決して悪い人ではないのですが……」

「確かに、悪人というような男ではないな」

苦笑した家康の前に、話題に上った男が現れた。不機嫌そうな表情を隠しもせず、司令室に入り込んでくると、鷹揚にイレイムに挨拶した。政治を担当する長老、エイモンドであった。

「陛下、軍事会議に余念がないようで、結構な事でございます」

「ありがとうございます、エイモンド長老。 今日は何のご用ですか?」

家康は腕組みしたまま、悠然と様子を見守っている。故郷での彼の部下に鬼作左、本名本田重次と呼ばれる男がいて、気性は荒かったが私心無く公平な男であったため、民に恐れられても嫌われない名奉行として活躍していた。気性が荒いという点では、このエイモンドも同じであるが、私心の固まりである点はどうにもいただけない。家康は、いざとなったらこの男を排除する事も考えていた。

イレイムとエイモンドは暫く言葉を交わしていたが、それは程なく終わった。最近の出費や政治について、イレイムにエイモンドが質問していたのだが、それらの全てを立石に水を流すがごとく女王が答えたので、長老は表面で安心しつつ、内心は舌打ちして引き下がった。何を目的としていたかは明白であろう。要するに、もし女王が答えられなければ、それを家康の独走のせいだと決めつけ、弾劾するつもりだったのだ。使っている言葉は高度だが、このあたりの発想は幼児の喧嘩と事ならぬ。それらの事情を一目で見抜いた家康は、心中で失笑を隠せなかったが、表情は巧く隠して無言を通していた。

それにしても、家康はイレイムには何度も感心していた。家康はかなりの量の書類を女王に提出し、いちいち承認を受けてから行動を実行したり、人事を行っていたのだが、それで実際の行動が遅延した事は一度もない。女王の決断は早く、しかも今日の事象でも分かるとおり、きちんと自分が承認した事について覚えているのだ。確かにこの娘は、家康とは違う形であったが、君主の器であっただろう。

エイモンドは暫く会話を交わすと、司令室を出ていった。終始無言のまま家康はその背を見送り、イレイムに話しかけられるまで声を発しなかった。

「家康様、ご迷惑をおかけしました」

「いや、構わぬ。 それにしても、困った男だ」

家康の苦笑は司令室に流れ、すぐに消えた。咳払いすると、再び家康は机に向かい、今度は情報戦の技術論をイレイムに説明し始めたのであった。

 

2,変転し心

 

王城の庭にて、鋭い音が響く。高柳藍が、与えられた槍を振るって、戦闘訓練にいそしんでいたのである。彼女の前には、案山子に据え付けられた鎧があり、既に幾つか穴が開けられていた。

今まで藍は、与えられるままに幾つかの武器を試してみた。剣を試し、斧を試し、弓も試した。自分の中の〈何か〉と武器の相性を試すかのように、色々と武器を振るってみた。その結果、大体〈何か〉の得意不得意が分かってきた。

まず駄目だったのが、斧であった。斧は重量級の武器であり、その破壊力は想像を絶するが、藍にはとても使いこなす事が出来なかった。続いて打撃系の武器も使い物にはならなかった。必殺の気合いと言うか、攻撃時の一体感というか、そういった物が彼女には感じられなかったのだ。

一方で、剣は持った途端に強烈な一体感を覚え、圧倒的な戦闘力を引き出す事が出来た。剣の亜種である、家康に貰った脇差しが、現在の彼女の主力兵装であり、もっとも上手に使いこなせる。続いて槍が手に馴染み、今も一体感と高揚を藍に感じさせる事が出来た。

弓は可もなく、不可もなくといった感触である。どういう訳か、大の男が引くような強弓も平気で引く事が出来たが、命中精度はそれなりで、実戦ではとても使えそうにない。そのほかの武器は、いずれもたいした精度では使いこなせず、すぐに利用する意志を放棄していた。

「せいっ!」

気合いのかけ声と共に、藍は槍を繰り出した。小さな体が、まるで槍と一体化したように伸び、穂先が鋭く光って鎧を貫く。心地よい感触が少女の手に伝わり、満足げな笑みを浮かべさせた。槍に限れば、もう彼女は充分以上に、熟練兵以上の手腕で使いこなす事が出来るようになっていた。

武具の訓練をすると同時に、あくまで周囲に悟られないように、藍は脱出する準備を進めていた。町の様子を探るのはもちろんの事、最近はさりげなく警備の状況や、兵士の数、配置のパターンなども調べ始めている。

また、魔術師の確保も、着実に準備を始めていた。計画に利用できそうな、頭はよいが極めてバカな素材を見つけたのである。学問や魔術に関しては造詣が深いのに、脳味噌が空という理想的な存在を見つけたのだ。

それは貴族の娘で、藍より少し年下の見習い魔術師だった。背は低く、体は小さく、気がとにかく弱い。藍が故郷で友人になった、内藤佐知子に雰囲気がよく似ていたかも知れない。出会ったきっかけは、やはり時々まめに行っていた、脱出時用の下準備だった。

現在、藍は極めて利己的な目的で、日々を過ごしているが、それは必ずしも彼女が薄情で身勝手な事を意味はしない。確かに目的自体は極めて薄情で身勝手ではあるが、目の前の理不尽な暴力や虐めには、故郷と同じく純粋な怒りを、少女は感じる事が出来た。そして今の彼女は、それを充分に誅する事が出来る力を持っていたのだ。

半月ほど前の事であった。いつものように町を探り終えて、帰る途中の彼女は、数人の魔法学校生徒を見かけた。そのまま通り過ぎようとしたが、様子がおかしいので立ち止まってみると、人気がない事を良い事に、先輩らしい生徒が後輩らしい少女に無理難題をふっかけ、泣き出す少女の髪を引っ張ったりしていたのである。

女子の方が、男子よりも基本的に虐めは陰湿になりやすい。藍は問答無用で助けに入り、先輩らしい生徒数名を一応手加減はしながらも〈ぼこぼこ〉にし、生徒手帳等を取り上げて姓名を控えた。魔法学校は厳格な規律によって運営されている場所で、今イレイムの庇護を受けている彼女が虐めを告発したりしたら即座に学校を止めさせられる。それを冷然と藍が説明すると、ゲス共は泣いて許しを請い、二度と同様の行為をしない事を誓った。虐めはいじめられる方が悪いなどという言葉が、強者から見た暴言以外の何者でもなく、弱者の権利を踏みにじる物だと、強者ではなかった藍は良く知っていた。そして、強者となった今も、その考えを変える気はなかったのである。

子供は大人に比べ、純粋で動物的であるから、弱者には非常に冷徹である。虐められていた少女は、ティータ=フォル=フェシルと名乗り、感謝の言葉を言ったが、それほど藍は感銘を受けなかった。藍は虐めこそしなかったが、同時に弱者に愛情を感じるほど大人でもなかった。この少女に同情する事など無く、単に頭に来たからゲス共を〈ぼこぼこ〉にしただけにすぎなかった。このあたりは、内藤佐知子との関係にも共通している。要するに、ませてはいても、所詮藍は子供だったのである。弱者に一方的な暴力を加える下郎に怒りを感じはしても、即座に弱者を保護しようとは思いつかないのだ。

だが、頭の中に〈何か〉を住まわせている藍は、普通の子供ではなかった。儀礼的にティータを助けて、色々事情を聞くうちに、こう思ったのである。

これは使える、と。

 

「アイお姉様ー!」

訓練を終えた藍が振り返ると、文字通り〈とてとて〉といった様子で、ティータが此方へ走ってきた。此処が王城内でも、奥や兵士達の調練場であれば、子供が入る事など出来ない(調練場などといっても、たかが知れた規模ではあったが)。だが此処は一応貴族の娘であるティータなら入らせてもらえる、城内でも一番外側の部分である。特に手入れされているわけでもなく、案山子も藍が自分でこしらえた物であった。今日は休日で、魔法学校の生徒には、自由行動が許されている。そして最近、ティータは休みに必ず城を訪れ、藍と会う事を日課にしていた。

藍がティータの様子を見守っていると、案の定三メートル程まで近づいた所で、顔面から転んだ。赤い丸い帽子が飛び、地面にゆっくり舞い落ちる。暫く気まずい雰囲気が流れた後、藍は苦笑し、頭をかきながらティータを助け起こした。栗色の髪の毛を持ち、ダークブルーの瞳をした人形のような少女は、目を涙に潤ませると、しくしくと泣き出す。

「お姉様、いたいー」

「泣いちゃだめだよ。 ほら、もう」

泣き出すティータの顔を、ハンカチで拭いてやる。ティータは藍より二つ年下と言う事であったが、とてもそうは見えないほど幼い、だいたい四つか五つは年下に見える。ただ、魔術に関する才能は本物のようであり、見せて貰った成績表には上位の点数ばかりが並んでいた。そしてこれが、虐めの要因の一つであったらしい。どうしても才能がないくせにプライドばかり高い先輩達の目には、とろくさいくせに成績がいいこの娘が不愉快な存在に映ったのであろう。

「で、ティータ、例の物は持ってきた?」

「はいなのですー。 このご本で良いですかー?」

そういって、ティータが差し出したのは、魔術書だった。学校に入ったとき、一番最初に支給される物で、これを読んだ所で実用的な魔法など何一つ使えない。ティータは入学して二年で、既にこの魔術書より四段階上の物を読み進めており、事実上、二年飛び級しているそうである。潜在的な魔力も高く、後は技術さえ付けば、中位から上位の魔法を使う事も不可能ではないという話であった。

早速藍は、ページをめくってみる。以前こと寄せに召喚されたときに見た記号を、これで見つけられればよいと考えたのだ。無論魔法陣の構造全てを覚える事は出来なかったが、幾つかの記号はきちんと覚えている。目次から、幾つかのページをめくり、藍は目的の物を探し出した。

「あった、これだ」

「あ、アイお姉様ー。 それは〈請〉の魔法文字なのー」

「〈請〉?」

「はいなのですー。 ティータちゃんがお勉強している所でー、いっぱい出てくるのー」

藍は目を細め、詳しい説明を求めたが、すぐに失敗を悟った。流石に飛び級を繰り返しているだけあり、ティータの説明は複雑を極め、すぐについていけるレベルではなくなったからだ。この世界での魔法は複雑な理論に基づいて組み立てられる物のようで、呪文を唱えて即発動というようなお手軽な物ではないらしい。それでも何とかくみ取った概要は、この文字はあくまで媒体であり、他の文字の力を増幅する物であるらしい言う事だった。

藍は失望を隠せなかったが、記憶している文字はまだある。そしてそれらを調べてみると、いちいちティータは詳細を言う事が出来た。それらはいずれも補助的な役割をする魔法文字らしく、残念な結果には終わったが、逆にある重要な事項を藍は悟った。こと寄せを動かす魔法陣は、充分にティータが理解でき、巧くいけば操作できる代物だと言う事である。後は、こと寄せの魔法陣の詳細を調べなくてはいけないが、それには慎重な行動を必要とする。只でさえ、彼女にはプロの諜報員が監視のために張り付いているのである。口が堅いどころか、おそらく何でも言う事には素直に答えてしまうであろうティータがいる前で、計画の事をほんの少しでもしゃべるわけには行かないのだ。

色々な事を話して、ティータはとても楽しそうにしていた。藍は、少なくとも表面上はティータを邪険にしなかったから、余計なつかれたようであった。感覚が鋭い子供は少なくないのだが、ティータは藍が自分を利用するつもりだなどとは、全く気づいていない様子であった。少なくとも、藍が冷静に観察する分にはそう見えた。

夕方になり、流石に疲れたようで、眠そうに目をこすりながらティータは学校へ帰っていった。途中まできちんと藍は送って、手を千切れんばかりに振るティータに手を振り返し、苦笑をかみ殺して帰城した。彼女の計画は着実に進んでおり、しかもその重要な鍵の一つが、これでそろった事になる。予想よりも、遙かに良い事態であった。笑みをかみ殺すのに、藍は苦労しなくてはならなかった。

翌日、藍はいつものように訓練を終えると、イレイムに断って城を出た。城を出る際、家康にあったが、儀礼的な挨拶以上の事はしていない。家康が無能な男だなどともう藍は思っていないが、心を許したいとか、悩みをうち明けたいとか、そういう事を感じない相手である事も事実であった。

この世界に藍が来てから、そろそろ二ヶ月半になる。城の内部構造はもちろんの事、既に町の構造はあらかた把握し、警備兵の数や、その練度に足るまで、もし聞かれれば大まかには答えられるようになっていた。むしろこの町の住民よりも、この町について詳しいほどである。

それは藍の心に余裕を産み、更に深く事情を観察させていた。そしてそれが、彼女の心に、変化を産んで行く事となる。

 

町を歩いていた藍は、無心に歩いているように見えたが、実は違った。今日も監視者の存在をきちんと自覚しながら、町の様子を観察していたのである。

「ねえねえ、起きてる?」

口に出さず、藍は問いかける。いったい何度目の問いかけかは分からぬが、自分の中に確実にいる〈何か〉へのそれは、今回も返答がなかった。そして、藍はいつもと同じように、答えが返ってこないのを承知の上で、言葉を続けた。

「町、大体分かったね。 どこから逃げるのが良いと思う?」

やはり返事はない。藍は嘆息すると、歩調を崩さず町を歩き行き、ある店の前でふと足を止めた。それは以前、あまりにも悪趣味な皿を使うため、せっかくの料理を台無しにしていた料理店だった。中を覗いてみると、客が数人入ってはいる。でも、行列が出来るには、まだほど遠い様子であった。丁度昼時であったし、藍はのれんを潜り、中へ入ってみた。

「今度は、少しはマシになってるかな」

問いかけに、やはり返答はない。席に着くと、あの店主が現れ、すぐにクルが運ばれてきた。店主は藍の事をきちんと覚えていて、周囲の客に料理がで終えている事を確認すると、笑顔を浮かべた。

「おいっス! 元気にしてたかい?」

「うん、元気だったよ。 今日は、これをちょうだい」

「あいよっ! すぐに出来るから、待っててね!」

店主は身を翻すと、奥に消えていった。手際よく料理を造っている様子が、音だけでも分かる。藍は目を細めると、周囲を見回し、そして気づいた。客達は、あまり嬉しそうに料理を食べていないのだ。嫌な予感がしたが、藍はそれでも店主を信頼した。そして、見事に裏切られる事になった。

「出来たよ! 熱いうちに食べて!」

「うん。 じゃ、いただき……」

藍の口が、皿を見た瞬間に急停止した。えぐさを極めていた、前回よりは遙かにマシである。しかし、それはあくまでも、比較級的な問題でしかない。彼女の前に出された料理は、眩いばかりの金色の皿にのせられていたのであった。

それは、豪華を遙かに通り越して、極めて成金趣味で悪趣味な代物だった。呆然とした藍は、暫く言葉を失い、黙々と料理を食べ終えると、得意満面になっている店主の方へ振り向いた。

「どうだい、今回のお皿は金かけたんだよ! 美味しいだろ!」

「……うん。 前回よりは」

藍の言葉に、周囲の客全員が密かに心中で同意した。確かにこの店の料理は、値段の割には美味しい。しかし、この成金趣味を極める皿で食べるのは辛い。しかし、今まで使っていたあの異常なおぞましい皿で食べるよりは遙かにマシであり、味もする。それで僅かであったが、客が増えたのだ。

「あのー、店主さん、何て呼べばいい?」

「あたしかい? あたしはアイサだよ」

「アイサさん、お皿にお金かけなくて良いよ。 普通の白いお皿に載せて出せば、充分美味しいと思う」

周囲で、客達が一斉に頷いた。眉をひそめたアイサは、困ったように小首を傾げた。

「え? でもこのお皿、凄く高価な物だよ?」

藍はため息をつくと、アイサを納得させるべく説明を始めた。そしてそれが終わるには、たっぷり数時間を必要としたのだった。

 

「ふー、食べた食べた」

満足そうに独り言を言いながら、日の落ちかけた王都を、藍は歩いていた。案の定というか、何というか、普通の白い皿にのって登場した料理は格別の味わいで、客達も皆絶賛した。それを見てようやくアイサも納得したようで、経営方針を切り替える事にしたようである。

アイサは、料理人としては抜群のセンスを持っているのだろうが、他に対するセンスが欠落しているようであった。彼女はおそらく、料理に関する才能が突出している代わりに、他の才能がずいぶんと欠落しているのだろう。天才と呼ばれる人種には良くある事で、彼女もその例に漏れなかっただけであろう。また、アイサは、あまり女らしくない格好をしていたが、それはその辺に単に無頓着である結果であるかも知れない。しかし、本人の無頓着とは裏腹に、それは逆に健康的で魅力的な雰囲気を醸し出す材料にもなっているのだが。

何にしろ、一つ分かっている事がある。この一件で、アイサと藍は親友になれたと言う事だ。自分を慕う人間はいたが、親友はいなかった藍にとって、これはとても嬉しい事だった。

「ねえねえ、起きてる?」

返答がないのを承知の上で、藍は上機嫌のまま、〈何か〉に語りかけた。歩調は軽やかで、ついうっかりスキップを踏んでしまいそうだった。

「ここ、少し良い所かも知れないね。 だって、こんな美味しい物が食べれるんだし」

 

翌日、藍は朝から外に出て、町を見て回った。今までと異なる視点で、町を見て回ったのだ。それはとても新鮮な光景に、少女には思えた。今まで観察の対象だった町が、全く別の物に見えてくる。自然とアイサの店に足を運んだ藍は、何の気兼ねもなくのれんを潜った。

「おはよー! アイサさん!」

「いらっしゃい! 藍ちゃん、席なら空いてるよ! 好きな所に座っとくれ!」

「今日は何がおすすめ?」

「そうさねえ、藍ちゃんにはこれかな。 これだったら、あたしも自信を持って勧められる」

藍が選んだ料理が、運ばれてくるまでそう時間がかからない。アイサの手によって造られた料理が、極常識的な器に盛られて、湯気を立てている。あの異常な皿で味さえ殺されなければ、それは本当に暖かく、美味しい料理だった。

「美味しいかい?」

「うん、とっても♪」

「そうかい、嬉しいよ。 これからも、あたしに至らない所があれば、遠慮無く言ってくれよな」

「うん! そうする!」

それだけ言ってから、藍は不意に真剣な表情になった。自分の思いを確かめたくなったのだ。

「ね、ねえねえ、アイサさん」

「うん、何だい?」

遠くで、アイサが皿を洗う音がする。もう一度呼吸を整えると、藍は言った。

「私たち、友達だよね!」

「……当たり前じゃないか。 これからも、よろしくお願いするよ!」

藍は、嬉しかった。このとき、彼女の中で、何かが変わり始めた気がした。

 

3,戦を忌む者

 

コーネリア王国で、在野の人材の収集抜擢が行われ始めたのは、砦の修復が軌道に乗り始めた頃だった。これは家康よりも、むしろセルセイアが入念な準備を行い、それに基づいてイレイムが自ら行った。そしてその過程で、何人かの人材が集まった。

その一人が、北の国境で保護された、傷ついた旅人だった。最初、セルセイアは気にもとめなかったのだが、部下の報告を聞いて耳を疑った。旅人の正体が、メルフィラレルの狼と呼ばれた勇将アッセアだと分かったからである。

アッセアが帝国との会戦で敗れた後、連合から出奔したという情報はセルセイアの元にも届いていた。しかし、その後の消息は、小組織の悲しさから掴む事が出来ず、行方不明扱いとなっていた。だが、それが思いも掛けぬ形で分かり、セルセイアは喜んだ。そして、間をおかずに、イレイムに報告した。

イレイムはすぐに護衛と家康を伴い、北の国境に向かった。北の山道は、魔物が出る事もあるにはあるが、それは例外にすぎない。また、魔物は確かに強いが、これだけの護衛がいれば絶対に現れない。毒蛇や毒虫と同じ事で、人間が怖がる以上に、彼らは人間を恐れているのだ。

魔物が現れる事もなく、イレイムは北の砦に着いた。衰弱したアッセアは医務室で安静にしており、未だに意識が戻らない。二日ほど眠り続けているとの事だが、イレイムと共に来た医師が診察した所、命に別状がない事も分かった。単に疲労が極限まで達していたのが原因のようで、静かに寝息を立て、アッセアは眠り続けていた。しばらくは起きる様子もなく、身動き一つさえしない。極限の疲労に蝕まれた体が、貪欲に睡眠を要求しているのだろう。

「これは驚いたな。 勇将だと聞くから、どのような大男かと思えば、娘ではないか」

家康の第一声は、不当に女性をおとしめた物ではない。本来男性の仕事である部分を、女性が担当していることに素直な驚きを覚えたのだ。

「はい、女性の将軍は珍しくありません。 帝国にも何名か高名な将軍がいらっしゃいますし、聖皇国の大将軍も、かなりのお年ですが女性です」

「ふむ、おなごを合戦場に出して、大丈夫なのか?」

「家康様の故郷では、魔法がないのでしたね。 この世界では、魔法という物があり、それは女性の方が圧倒的に優れた素質を持っているのです。 故に、いくさで女性が男性と同じように活躍する事が出来ます」

「そうか、実際に一度見てみないと、何とも実感できぬな」

家康が小首を傾げたので、妙にかわいらしいと思って、イレイムは笑った。アッセアが目を覚ましたのは、イレイム達が北の国境に着いてから、ほぼ一日が過ぎた頃だった。

 

「……父さん」

目を閉じたまま、アッセアが呟いた。彼女にとって、父は決して慈父ではなかったが、掛け替えのない家族であった。表面上は嫌っている振りをしていたが、内心は誰よりも慕っていて、本当に困った時などは、こんな時に父がいればと思う事が珍しくなかった。

アッセアは夢を見ていた。夢の中で、彼女はいつものように武装していた。手には剣を持ち、戦況を観察している。強大な帝国軍を、退けた戦の時の夢だった。

この時、メルフィラレル市軍は帝国の大軍相手に一歩も引かず、猛悍な粘りを見せ、一瞬の隙をついて勝機を掴み、一時的にとはいえ帝国軍を敗走させた。〈メルフィラレルの狼〉アッセアの名は周囲に轟いたが、彼女は自分の実力を知っていた。女将軍は、戦の最中平静を装っていたが、何度も父の名を頭の中で呼んでいたのである。勇将などと呼ばれはしていたが、事実は只の臆病者だ。そう、アッセアは、自分の事を評価していた。

勿論兵士達には見せられなかったが、本当は戦など嫌いだった。無論武人の誇りといった物や、指揮官としての責務といった事は十分に知っているし、誰にも文句がつけられないほどきちんと遂行してきた。だが、本当は、戦など大嫌いだったのだ。まず第一に怖くて仕方がなかったし、第二に父に頼らなくてはならなかったからである。

一種の倒錯した心理であるが、彼女は父を心の中でこれ以上もないほど頼りにしていたのに、一方では父に頼る自分を不甲斐なく思っていた。その結果、彼女は武人の誇りを持ちながらも、同時に戦を嫌い忌む者となったのである。

夢は続く。帝国軍が敗走していき、周囲の兵士達が喚声を上げる。確かに勝ったが、帝国軍の物量は圧倒的であり、しかも味方の被害は大きい。更に悪い事に、アッセアが率いているのは一軍にすぎないのだ。そして、腐敗して利権が縦横に絡み合うメルフィラレル軍では、アッセアに総指揮権が移る事はあり得ない。もし次に帝国軍が攻めてきたら、もう撃退するのは無理だ。アッセアはそう悟っていて、そしてそれは事実となった。

夢の中で、彼女は宴会に引っ張り出され、戦勝祝いと称してさんざん飲めもしない酒を飲まされた。兵士の前で無様な姿は見せられないから、それでも彼女は景気づけにつきあい、飲んだ。次々に祝いの声と共に酒瓶を持った手が突き出され、アッセアの手の杯に酒がつがれる。ぼんやりしながらそれを見つめていたアッセアは、不意に父の声を聞いた。

「アッセアよ……」

「……! 父さん!」

彼女が顔を上げると、厳格な顔つきの、白い髭をした父が立っていた。完全武装であり、手には鞭を持っている。教育の際使う鞭で、殺傷力は低いが、痛さは尋常でない。アッセアの父は、子供にも厳罰主義で望み、実の娘にも鞭を振るう事をためらわない男であった。

いつの間にか周囲は宴会場ではなくなり、自分の家となっていた。腰が抜けたアッセアは、わなわなと震えながら父を見た。彼女の体は子供になり、肩を掴み、震えている。最初に彼女が、父に抱いた感情は親愛。そして次に抱いた感情は恐怖。その次は鈍痛。それが蘇り、アッセアは思わず恐怖に満ちた声を漏らした。

「父さん……!」

「またおいたをしたな? また怖がったな? また戦を嫌がったな!? ガディス家の名を汚す気か!」

「と、父さん、ぼくは、ぼくは……!」

「黙れっ! 臆病者がっ!」

鞭が振り下ろされた。悲鳴は上げられなかった。悲鳴を上げれば、更に折檻が酷くなったからである。トラウマになるほどの恐怖を父から受けながら、アッセアは育った。

不意に景色が変わる。もう男の子の格好をさせられていたアッセアが、庭で父に語りかけている。父は、アッセアが何か新しくできたときは、ほめる事を忘れない男だった。信賞必罰の姿勢は厳格で、厳格すぎたため、子供にも容赦のない行動に出たのである。要するに、この老父は頭が固すぎたのであった。

「父さん、見てみて! ぼく、また新しい技を身につけたよ!」

「そうか、素晴らしいぞアッセア。 お前は儂の誇りだ」

「父さん……」

再び場面が変わる。アッセアは、今の姿に戻っていた。

「父さん……貴方は……ぼくの何だ……いったい何なんだ!」

足音を感じ、彼女が顔を上げ、表情を引きつらせた。鞭を持った父が、向こうから歩き来たからである。本能的な恐怖から、そして寂しさから、アッセアは逃げられなかった。悲鳴も上げられなかった。ただ、押し殺した声を、上げるだけだった。

「アッセア」

「う、うううっ!」

「アッセア!」

「……!」

目をつぶったアッセアは、全身を脂汗が流れるのを感じた。そして、不意に彼女は目を覚ました。跳ね起きた彼女は、自分が見た事もない部屋にいる事に気づき、眼前に知らない娘がいる事に気づいた。

反射的に、剣に手を伸ばそうとするが、そんな物は当然取り上げられている。それに気づき、表情をこわばらせるアッセアに、眼前の娘が笑いかけた。後ろでは、明らかにかなりの使い手であろう女が、腕組みをしてやりとりを見守っている。アッセアは指揮能力こそ高いが、武芸はさほどでもない。素手で、少なくとも後ろに控えている娘を倒す自信はない。唇を噛む彼女に、眼前の娘が、咳払いをして語りかけた。

「メルフィラレル市国の将軍、アッセア様ですね?」

「そうだ。 お前は……何者だ」

アッセアには、身分を偽るとか、そういった発想がなかった。自分からべらべらと言いこそしなかったが、聞かれれば堂々と自分の名を名乗った。それは支配者階級独特の、歪んだプライドを持たせる教育が産んだ副産物で、一種の凝りであった。それが、その民間人と異なる所にあるプライドが、旅を困難にさせた一因となっていたのは疑いのない事実であった。

眼前の娘は、笑みを崩さず、そのまま自らも名乗る。その顔に驚きはなく、貴族を〈優れた者〉だと誤認している民衆特有の卑屈さもない。

「私は、イレイム=アス=コーネリア。 この国の女王をしています」

裏表のない、好感の持てる笑顔だった。アッセアは、心理的に、わずかに緊張をほぐした。イレイムが、彼女にはとても優しく暖かく見えたのだった。

しかし、それと心を許す事は話が別だ。イレイムの話した内容に、このときアッセアは、最後まで首を縦に振らなかった。

 

部屋の外で、家康は腕組みをして待っていた。そしてイレイムが出てくると、僅かに視線だけ上げ、結果のみを聞いた。

「どうだった? 使えそうか?」

「使える、使えないの問題ではありません。 人は物ではないのですから」

「ああ、一人の個人としては、イレイム殿の言葉は正しいな。 しかし、それは国主の言葉ではない」

冷静に事実を指摘され、イレイムは口をつぐんで黙り込んでしまった。セルセイアが、非難を込めたまなざしを家康に向けたが、蛙の面に小便である。そんな物で、この男を動じさせたり、驚かせる事は出来なかった。

「その様子だと、説得はならなかったようだな」

「はい。 アッセア将軍は、もう戦をするのは嫌だと……」

「ふむ……」

家康はそれを聞くと、少し真剣な表情で考え込んだ。彼は様々な人材を部下に持っていて、長所を生かし短所を改め使い続けてきた。しかし、裏切られた事もあったし、ついに能力を引き出しきれなかった事もあった。おそらく、部下を使いこなす能力に関しては、同時代の英雄たる秀吉に一歩を譲る事であろう。

しかし、それでも百戦錬磨の戦国大名である事に変わりはない。家康はイレイムに、話の内容を逐一聞きながら、冷静にアッセアの心理を分析していった。そして、やがて結論を出した。

「あの娘をやる気にさせるには、餌がいるな」

「そうですね。 やはり、疲れていたようですし、美味しい食べ物も必要でしょうか」

「……まあ、そういう事だ」

視点が完全に異なってはいたが、イレイムの言葉が完全に的をはずしていたわけではない。セルセイアがイレイムの言葉を受けて頷き、外へ食料を用意させに行った。こんな小国の、しかも辺境だから、たいした食べ物を用意できるわけではない。だが、一応兵士達の食事を作っている給仕はいるから、彼に命じていつもより少し良い料理を造らせる事は出来る。

「イレイム殿、あの娘をやる気にさせるには、餌が必要だ。 それは、とても空虚であり、同時に大事な物でもあるな」

「ええと、それはどういう事でしょうか」

「あの娘になくて、イレイム殿に当たり前にある物とは何だ?」

家康は明らかに楽しんでいる。イレイムは、彼が知識を注げば注ぐほど答える事が出来る娘だったからだ。こうして考えさせるようにし向ければ、そうするだけ成長していく。だから、わざと抽象的な事を行って、納得させるようにし向けていた。

「……! 平和!」

「そうだ。 帝国を撃退し、儂の策がなった暁には、二度と戦に出なくて良い。 実際、そうなれば、当分戦は世から消えるであろうから、問題ない」

以前の説明で、それを知ったイレイムは、真剣に頷いた。だが、彼女には、まだ自信が足りないようだった。

「しかし、どうしたら、それを説明できるでしょうか」

「あの娘は木訥だが、阿呆ではない。 簡単にはいかないぞ。 イレイム殿、じっくりねばり強く説得して欲しい。 あの娘を説得できるかどうかが、帝国を撃退する鍵を握ると言えるからな」

 

久しぶりの豪華な食事を味わうであろうアッセアを見ながら、イレイムは笑顔を浮かべ、その裏で必死に頭を働かせていた。

元々イレイムは、常人離れした知恵を持つわけでもなく、頭の回転が速いわけでもない。知恵は長老達に及ばないし、一生懸命考えても卓絶した結論を導き出せるわけでもない。だが、彼女は誠実であり、誰よりもまじめだった。そして最終的な決断力、責任感、意志の強さは充分に周囲よりも優れたものを持っていた。それは国主として最低限必要な物であり、同時に飛躍の足場になりうる物だった。だから家康程の男が、半分面白がってはいても、敬意を払いついてきてくれるのである。

責任感が多ければよいと言う物でもないが、イレイムの場合はそれが間違いなくプラスに働いていた。少なくとも、普段は確実にそうであった。しかし、今回ばかりは足かせになってしまったようだった。

「ふう、あまり豪華な料理ではないが、腹に染み渡った。 感謝する」

余程空腹だったらしく、見栄も外聞もなく、料理をむさぼり食っていたアッセアが顔を上げた。イレイムは我に返り、表情を変えないように苦労しながら、落ち着いた口調で語りかける。

「すいません。 王都であれば、もう少し良い物が用意できたのですが」

「いや、充分だ。 ……だが、悪いが、戦に出るのはもう勘弁して欲しい。 他の形で、恩は返させていただきたいのだ」

アッセアは苦笑しながら、だが断固とした口調で言った。これは、イレイムにしかできない事であり、そして国家の命運がかかっている事でもあった。呼吸を整えるのに、女王は苦労した。

焦っては駄目だ。彼女は不意に、そう思った。考えてみれば、彼女はまだ藍さえ完璧には説得できていないのだ。焦らず、じっくり行こう。そもそも頭がよいわけではないのだから、そうやっていくしかないではないか。

そう考えがまとまると、イレイムは急に心が楽になるのを感じた。無論、時間はそれほど無い。だが、此処で焦っては、全てがおしまいだ。もともと帝国に逆らおうと言う事自体がかなり無茶な事なのであり、今更焦っても何にもならないのである。

「アッセア様、貴方を王都に招きたいと思います。 よろしいでしょうか?」

「む……うん。 分かった。 コーネリアは平和な国と聞いていた。 王都に招いていただけるのなら、これに勝る喜びはない」

妙な、少年のような口調でアッセアは一瞬しゃべりかけ、すぐに堅い口調に戻った。それを聞いて、イレイムはアッセアに対する印象が、更に柔らかくなるのを感じた。単純な話で、とても可愛いと思ったのだ。この人の地を引き出せるようになったら勝ちだ、そう女王は思った。

 

翌朝、護衛と家康、それにアッセアを伴い、イレイムは王都へ帰還していった。イレイムの隣には、愛馬に乗ったアッセアがおり、若干疲れは見えたものの、姿勢もしっかりしていて危なげはなかった。その背後を、砦の兵士の一人であるミシュクが見送っていた。十歳ほど年上の同僚が、残念そうにする彼の肩を叩く。

「なんだ、あのねーちゃん、やっぱりお偉いさんだったみてえだな」

「……ああ、そうだよな。 陛下が迎えに来るんだもんな」

「諦めろ、身分が違うわな」

「そ、そんなんじゃねえっ!」

同僚は、笑いながら砦の奥に消えていった。ミシュクは忌々しげに小石を蹴飛ばすと、もう一度だけアッセアが去った方を見送った。だが残念な事に、既に女将軍の姿は見えなかった。

 

4,絡み始める螺旋

 

アッセア将軍を、イレイムの指示で庇護した事は、一部の高官を除いて秘匿された。これは秘密主義というのでも何でもなく、現時点ではまだ準備があまりにも整っていないため、帝国に開戦の口実を与えるわけにはいかなかったのである。家康による兵士の訓練は、秘密裏に、だが着実に進んでいる。だが、まだまだ開戦は無理だと家康自身が言っており、帝国への配慮には細心を要する。コーネリアは平和な国であるし、対外進出の野心がない事も知られていたから、とりあえず帝国にこの国を攻める口実がない。いずれこと寄せを求めて押し寄せてくるのは確実であるが、それまでは、何としても隙を見せてはいけないのである。メルフィラレルの狼と呼ばれ、帝国軍相手に激しく抵抗したアッセアを庇っている事が分かれば、帝国に絶好の口実を与えてしまうのであろう。

現在家康が、タイロン長老、ドルック長老と協議した結果、だいたい二千五百の兵力を、二回までなら動員できると計算は済んでいる。これに対し、帝国は〈師団〉と呼ばれる独立兵団を基本に行動し、この一単位だけでも兵力は五千から八千、親衛師団に至っては一万を超す兵力を持つ。しかもこれらは例外なく百戦錬磨の猛者達で、皇帝が実力に基づいて抜擢した将軍が率いるのだ。これに対するには、入念な準備と、詳細な情報、それによってようやく造る事が出来る戦略が必要である。故に、アッセアの力は絶対に必要であり、またその存在は秘匿しなければならなかった。

 

「藍様、今はお暇ですか?」

「ん? 陛下、何?」

庭で槍を振るっていた藍が振り向くと、そこにはイレイムと、知らない女性がいた。ショートカットの赤毛で、大きな瞳はとても愛らしい。普通にしていればいいのに、無理にそれを自分で否定しているような感じである。何というか、男っぽく見せようとして、却って女っぽさが際だってしまっているとでも形容すれば正しいであろうか。いずれにしても、何とも変わった雰囲気の女性だった。顔の作りは、まあ、可もなく不可もない、そこそこの美人と言った所で、だが没個性というわけではない。雰囲気の妙さと相まって、印象に残る人物である事は確かだった。

「誰? その人」

「本当にこの子供がそうなのか?」

「はい。 この人が、武芸の達人、高柳藍様です」

いきなり視線を逸らした不躾な娘を、藍は目を細めて冷静に見やった。もう彼女の中で、〈何か〉の存在は当然ある物となっていて、以上に鋭く冷静な思考を働かせる事に抵抗はない。その思考によると、大体推測される事象は以下のような物だ。

……わざわざイレイムが紹介しに来たのだから、何かのスペシャリストである事は明らかだが、問題はその詳細である。見たところ、武芸に関しては全くたいした事がない。これは無論彼女に比べての事だが、何にしても一騎当千というレベルからはほど遠い。また、この様子からして、どう考えても政治や経済のプロフェッショナルとは考えにくい。世間知らずである事は、見た瞬間に判断が付く。

見かけ、動作、今の台詞だけでそれだけが判断できたが、流石にそれ以上は無理だ。藍は笑顔を作ると、ちょこんと頭を下げて可愛らしく挨拶して見せた。

「高柳、藍です。 よろしくお願いします」

「アッセア。 アッセア=ウル=カディスだ。 よろしくな」

「アッセアさんは、何がお好きですか?」

「ぼ……おほん。 私はそうさな、武器や防具が好きだ」

素でそういう言葉を吐く。おそらく、間違いなく生まれながらの軍関係者であろう。ここまでで、大体藍にはこの娘の正体が分かった。おそらく、軍事顧問か、将軍であろう。

今までの藍は、これで相手をどう利用しようかと思考を進めたであろうが、今は違った。アイサと言う〈友達〉や、ティータと言う〈庇護者〉が出来た彼女は、少しずつ変わり始めている。二三アッセアと言葉を交わしながら、藍は戦が少しずつ近づいている事を察して、思考を目まぐるしく働かせ始めていた。

「藍様、お願いがあるの」

アッセアが挨拶を一通り終えて去った後、イレイムが言った。視線を藍が返すと、女王は笑顔を保ったまま続ける。

「あの人、城の外にそうそう出してあげるわけには行かないの。 だから、藍様が色々お話ししてあげて。 何か良い事があったら、話してあげて欲しいの」

「私で良いの? 陛下がきちんと仲良くしようとしなきゃ……」

「ううん、いいの。 私は私で仲良くしていくの。 でも、藍様もお願いね」

〈鋭すぎる観察力〉をついうっかり示してしまい、失言を悟って沈黙しかけた少女に、イレイムは変わらぬ調子で続けた。イレイムがバカでないと藍は悟っているが、同時に頭が良いとも思っていない。天然と呼ばれる要素も確かにあり、故に今の発言だけで警戒されるとは思えず、内心で安堵し、そのままの表情で藍は答える。

「いいよ、分かった。 ……時にダンナ、時々悪い事もして良いっすか?」

「え? うん、そうね。 本当に少しだけなら、ね」

「くししししし、分かったよん。 じゃ、色々と、あの人と遊んであげるわ」

小悪魔的に笑う藍にほほえみ返すと、イレイムは執務室に戻っていった。その背を見送りながら、藍は事態の分析に入った。

城から出せないと言う事は、出すとまずい事になる者なのであろう。つまりそれは、現時点で考えて、もっとも可能性が高いのは帝国にとって都合の悪い人物だ、と言う事だ。コーネリア内部での無法者だという線も考えられない事はないが、だったら城内さえ彷徨かせてやる事は出来ないだろう。それらから考えて、導き出される結論は一つ。あの娘は、帝国の対抗勢力の将軍だった者か何かであろう。

そして、今までの事態を総合し、おそらく貴族か、名門の軍人であろう事も結論出来る。世間知らずぶりの要因は、その辺りにある事であろう。

である以上、仲良くなる事は簡単だ。今まで見た事もないであろう、世間というものを見せてやり、それに染めてしまえばよいのである。

今まで藍は、理由は何であれ、城下町をかけずり回ってきた。そのお陰で、かなり地理には詳しくなり、面白い所も色々知っている。自分が好きな所や、面白いと思う所にアッセアを案内するのは、何の雑作もない、とても簡単な事だった。無論最低限の分別はついているので、幼くして歓楽街の類には近寄るような事はなかった。

このとき藍は、何故そんな事を、コーネリアの国益になるだけの事を、積極的に自分がしようとしているのか、完全には気づいていなかった。確かに彼女はイレイムが嫌いではなかった。そればかりか、アイサやティータも嫌いではなかった。しかし、それだけで、ここまで動くであろうか。否、それはあり得ない。

彼女が好きになり出していたのは、この〈場所〉だった。国家などという、政治を行うための組織ではなく、ただ存在する〈場所〉である。コーネリア王国などではなく、其処に住む者達。それを、彼女は好きになり始めていた。そして、それが、ごく自然に、この決断をさせていたのである。

藍が視線をずらすと、所在なげに辺りを見回し、何をして良い物か分からず困惑しているアッセアの姿が目に入ってきた。ほくそ笑むと、藍は槍を立てかけ、向こうへと歩き出す。やがて彼女は、困惑する将軍を、〈案内〉と称して彼方此方引っ張り回し始めたのだった。

(続)