戦より逃れて
序、魔物狩り
コーネリア王国の首都アウスフェッセンは、大国で言う地方都市程度の規模であるが、丁寧に都市整備を何世代も掛けて行ってきたため、良く構築され、清潔な雰囲気を醸し出している場所である。
こういった町の中には、都市自体を迷路化、要塞化して外敵の進入に備える物もあるが、それは同時に都市の複雑化と、不便さをも産む。この町は、機能別に街区を整備し、区画ごとに道標を設け、機能的に都市を作り上げていて、迷子になる者はほとんどいないと言われる。それは王都として、生活するは申し分ない便利さであったが、同時に戦になったときの事を、全く考えていない作りでもあった。
都市人口は八千、簡易ながら下水道も整備され、疫病の発生率も少なかった。農業生産物は近くにある三十ほどの村から運ばれ、市場にて販売される。住民達は、それぞれに仕事を持ち、貧しくもなく豊かでもない生活を送っていた。彼らは、絶大な政治能力を持っているわけではなくとも、丁寧に統治をし、また決して無意味に豪奢な生活をしない王家には信頼を寄せていて、政情不安になった事はここ百五十年ほどない。
町はずれには、様々な産業区画がある。畜産業を行う者達の住まう一角もあり、そこに三年前、よその国から夫婦が越してきた。妻はともかく夫は異形で、はじめは周囲の者達に気味悪がられたが、根は夫婦共にいい人だと知れると、次第に受け入れられていった。時間はかかったが、夫婦側からも積極的な歩み寄りがあったため、実現した事であった。また、住民と仲良くなる事の出来たきっかけは、彼らの元の仕事自体にもあった。実際問題、やはり閉鎖的な性格を持つこういう土地では、異国の民を受け入れる寛容さが住民に欠けるのも事実であろう。それを打ち抜くには、何かしらのきっかけが必要なのも、また事実であろうか。
夫婦は以前、戦絶えぬ土地で暮らしていた。そこで、もともと野生であったり、軍隊が放って野生化したりした、獣を越えた力を持ち、人語を解し、時には魔法すら使いこなす強力な生物「魔物」を倒す仕事、いわゆる「魔物狩り」をしていた。そこそこに名が知れた者達であったらしいのだが、其処を離れて此処に移ってきたのである。以前の事について、夫婦は貝のように口を閉ざし、いっさいを語ろうとしないため、詳しい事情は誰も知らなかった。
この国にも、魔物はいる。下水道に住み着いていたり、或いは山奥にいたりして、時々人を襲うが、地上における人類の覇権を揺るがすほどの力はない。無論普通の人間よりは遙かに強いが、軍隊や、本職の「魔物狩り」に複数でかかられたら敵わない。しかし、普通に暮らす人間達からは、必要以上におそれられている存在でもあった。宗教における悪魔が恐れられるのと同じように、魔物達は人から恐れられ、現れるとすぐに退治されてきた。
こういった魔物は、戦場で軍用に使われる他、たまに里に現れ人を襲った。戦いに関しては忌避していた夫婦であったが、それらの魔物を撃破する事に関しては、積極的に動いた。下水道から現れ、数人の人間を殺傷し、周囲を恐怖のどん底に落とした魔物を撃破したのはこの夫婦だった。命の恩人である夫婦に、今まで冷ややかな視線を向けていた住民は感謝し、これがきっかけとなって、仲間として受け入れたのである。だが、軍からスカウトを受けても、感謝に報奨金を渡されても、彼らは笑顔で謝絶していた。この夫婦が何を考えているのかは、周囲の誰にも分からなかった。少なくとも、出世をしたり、名を上げようとしたり、そういった野心的な行動を取ろうとしているようには、誰の目からも見えなかった。
今日も夫婦は数頭の牛を飼い、豚を購入し、これらの世話をしたり、解体して肉屋に販売したりしている。何もない平和な生活が、豊かでもなく貧しくもない平凡な生活が、彼らには何よりの宝になっているようにも、周囲からは見えた。子供が欲しいと時々漏らしてはいたが、それ以上の願望は何も漏らさなかった。限りなく、彼らは無欲に見えた。だが、結局の所、彼らの真意を知る者は、誰もいなかった。
1,家康動く
城下町や、農村の者達が普段通りののどかな生活をする中、王城の中では、事態が静から動へ変動していた。政治顧問として就任した家康が、本格的に行動を開始したのである。
まず、家康が周囲に求めたのは、情報の提示であった。全く知らない土地での行動には、何かにつけて情報が必要なのは当然であるが、家康のそれは非常に貪欲だった。飢えた獣のような印象さえ、周囲に与えた程である。彼は座敷に座って情報を聞くだけではなく、自分で積極的に彼方此方に足を運び、自分で確認した物に対し、周囲の者達に細かい説明の提示を求めた。また、それはいちいち的確で鋭く、従者に選ばれた者達は戦々恐々とし、いつ質問が来るかと首をすくめていた。
そんな家康は、当初周囲によい印象を与え無かったが、次第にそれは畏怖に代わった。彼は強力な権力を与えられはしたが、幾つかの小さな事件を手際よく処理し、今まであった無駄を効率的に排除し、誰の目からも明かな功績を短期間で示して見せたからである。同時にトップであるイレイムには敬意を払い、一歩を引いて接していた事もある。イレイムは周囲から暖かい敬意を受ける女王だったから、それは非常に賢明な判断だと言えただろう。それが本心からの行動か演技なのかは周囲にも分からなかったが、ともあれ家康は慢心することなく、鋭く貪欲に情報を集め、的確に物事を処理し、急速に地歩を固めていった。
積極的に動き出した家康に対し、藍は沈黙を保っていた。無論、寝ていたわけでもないし、遊んでいたわけでもない。自分の強さを始めて知った彼女は、兵士の訓練場や軍事施設を視察するイレイムと家康についていき、実戦訓練に何度か参加したりした。だが、召喚されてから一月経つ現在も、未だはっきりした返答をイレイムにしていなかった。
「家康様」
イレイムの声に、家康は馬上で振り返った。この世界にも馬はおり、彼が故郷で乗り回していたそれよりも若干大きいが、乗りこなせないほどではない。家康は鷹狩りの他に、水泳や乗馬を趣味としており、慣れてしまえばすぐにこの世界の馬も乗りこなす事が出来た。
「イレイム殿、何か」
「我が国は、貴方から見てどうですか?」
「どうかというと?」
「……好きに、なれそうですか?」
今、家康はイレイムと、護衛の者達と共に、町の側に設置された砦を視察に向かう途中である。一応そこは戦略上の重要なポイントであり、今までにも二度家康は視察に訪れていた。今日は今まで以上に詳しく砦を調べる予定であり、宿泊する事にも決めていた。砦には既にセルセイアが向かっており、彼の指令で集めた情報の整理を終えているはずであった。
家康はこの国に来てから、平和な世界だなと何度か思った。だが、それと好きになるとは話が別だ。だが、それをストレートに言うのも芸がない。数秒沈黙すると、家康は返答を返した。
「今はそれどころではない。 儂はこの国が、大国を撃退できる力を身につけるよう、全身全霊を傾けて働かねばならぬ身であるからな」
「そうですか、申し訳ございません、家康様」
心の底から申し訳なさそうな顔をイレイムがしたので、家康は苦笑した。地獄の乱世を生き残ってきた彼には、女王が随分うぶに見えたのであろう。戦国の時代は、民衆ばかりか、女性も皆逞しかった。イレイムのようにうぶな娘はいなかったし、いても生き残れなかった。
今彼が乗っている馬は、よく世話され、性質もおとなしい。鞍や鐙の細工を見ると、彼の故郷の物に全く技術面で劣らない。武具の性能も、おそらくいい勝負であるはずだ。ただ、流石に銃火器はまだ出回っていないようであり、戦に関して、少しばかり頭を古くする必要がある。だが、最終的な、本質的な部分は変わらないわけだから、戦で苦労するわけではないだろう。家康は相手を立てる事を考えて、今度は自分から言葉を発した。
「イレイム殿は、この国が好きなのだな」
「はい、大好きです」
「立派な心がけだ。 だが、君主はそれだけではつとまらぬ。 時には感情を殺せるよう、国に対する愛をも封殺できるよう、訓練した方がよいであろうな」
淡々と言い放つと、家康は視線を周囲に向けた。この国は何度か戦を経験もしているとの事だが、周囲で暮らす民は、平和で牧歌的で、地獄の労苦に耐えられそうもない。おそらく戦を経験したのは、数世代も前の話なのであろう。戦の際に何をすればいいか、軍人ばかりか、民にも教え込まねばなるまい。改めてこれからせねばならない、苦労の困難さが思い知らされ、家康は心中にてため息をついていた。それにしても、彼にとって辛いのは、薬も作れない上に、鷹狩りも出来ない事であった。彼は薬の調合に関してはプロ並みの知識があり、典型的な医者嫌いの薬好きであった。しかも彼はどちらかというと藍と同じ人種であり、薬を造る事自体に異常な楽しみを覚えていたのである。ようするに、楽しみ方の深さと愛情の注ぎ方が、普通の人間よりいわゆるマニアに遙かに近いのだ。彼が愛好した事で知られる鷹狩りも薬と同様である。彼は鷹狩りの功徳、つまり良さを周囲に幾度か語ってはいる。だが、実情を言うと、家康は単純にそれが好きで好きで仕方がなかったのであり、功徳とやらはそれを正当化するための方便にすぎなかったのである。ただし、家康が現実主義者であり、鷹狩りが体の鍛練に役立ったのも事実ではあった。
頭を振って、家康は頭を切り換え、再び別の話題を口にする。考え込んでばかりでは、相手に不信感を抱かせやすいからである。それに、鷹狩りをしたくて仕方がないといっても、この世界には鷹を育て調教する鷹匠もいなければ、身近に鷹自体もいないのだから、どうしようもないだろう。鷹の調教は非常に長時間を必要とする作業で、それをやっている暇など無いのだ。趣味と仕事が対立した場合、家康は躊躇無く仕事を選ぶ事が出来た。彼は趣味に力を入れたが、それにかまけて国務をおろそかにした事はない。幾ら好きで好きで仕方が無く、周囲にその良さを熱く語ってしまう鷹狩りであっても、国務の前には優先できないのだ。
「それにしても、儂と共に呼ばれた小娘、藍と言ったか」
「藍様が、どうかしましたか?」
「現時点で、あれはまだ役にたたんな」
小首を傾げたイレイムに、家康はそう判断した理由を言わなかった。砦は目の前に迫ってきており、戸が開かれるのが遠望できた。堀には水が入っておらず、塀もそれほど高くはない。ある程度情報を把握した後、家康はこの砦の改修をする事を既に心中で決定していた。
自分たちを迎え、礼をする兵士達に礼を返すと、家康はイレイムに続いて砦に入った。この世界で一般的な敬礼の仕方を既に家康は身につけており、その動作は自然であった。彼は多くの目があるときには、イレイムの下に自分がいる事を、さりげなくだが厳然と守った。兵士達にも、心優しいイレイムは人気があり、彼らの反感を買ってはそもそも今後起こりうる戦が成り立たなくなってしまうからである。
砦では、セルセイアが待っていた。彼女はイレイムの命で家康について動いており、内心はともあれ現時点でもっとも協力的に行動している一人でもある。セルセイアは、家康には天才を感じなかったが、同時に熟達した手腕は感じており、敬意を払いながらも、内心が読めずに警戒もしていた。
こういった、単純な物差しで測れない存在は、心を洞察するにも難しいし、仲良くなるのも、そして裏をかくのも難しい。イレイムを実の妹以上に大事に考えているセルセイアは、この様な老獪な男の前に、大事な存在を置いておくのが不安でならなかった。無論、そんな考えは、顔に出さなかったが、家康に考えを悟られているか、悟られていないか、それさえも分からなかった。
砦にはいると、家康は休憩をする前に、まず砦の防衛体制を見て回った。もう何度か見てはいるのだが、それでも怠りなく見て回っている。実戦経験のない兵士達には分からない砦の欠点が、彼には手に取るように分かるようであり、時々渡されたアムと呼ばれる筆記用具を取り出しては、熱心に何か書取をしていた。
彼の故郷で一般的だった筆記具は、墨と筆である。墨はとにかく耐久性に優れていて、環境次第では千年以上も字を残す。一方、この世界で一般的な筆記具は白い棒に似た物質で、粉のような者を固めた物らしい。耐久性は墨に劣るが、利便性はずっと高い。そのアムで何かを書き取ってはしきりに頷いている家康を見て、イレイムは頼もしそうに目を細め、セルセイアは無表情を保っていた。家康が応接室に入ったのは、砦を訪れてから実に三時間の後であった。そこでイレイムとセルセイアは、驚くべき提案をされ、驚愕する事となる。
2,変わり者夫婦
自分の中に〈何か〉がいる。それを藍がはっきり自覚したのは、召喚されてから一週間ほどが過ぎた日の事であった。考えてみれば、まだ体が完全に出来てもいない子供が、歴戦の強者である家康の太刀を受けられるわけがない。まして藍は、平和な日本で生まれ育ち、実戦訓練などそれまで一度も受けた事など無かったのである。
その〈何か〉は、積極的に自己主張をする事は無かった。だが、剣を握ったり、槍を渡されたりすると、体の中で静かに、だが着実に燃え上がった。これが武者震いという感覚なのかと藍は最初思ったが、数度剣を振ってみて、それが違うと気づいた。なぜなら彼女の精神は、この〈何か〉が一度燃え上がってから、異常なまでの鋭さと冷静さを併せ持つようになり、周囲を的確に見る事が出来るようになったからである。かってないほどに静かで強い自分を知って、それが今までの自分と確実に違うと悟り、藍は〈何か〉の存在を自覚した。それには数日がかかったが、頭の固い大人であれば、もっと時間がかかったかも知れない。ともかく、現在藍は、〈何か〉の存在を受け入れ、それがいる事を前提として思考を進める事を、自然に行えるようになっていた。
今は夜、二つの月が天にかかり、地上を淡い光で照らしている。故郷の物とは微妙に違う寝床の上で、藍は天井を見つめながら、心の中に住んでいるであろう〈何か〉に、心の中で語りかけていた。
「起きてる?」
返事はない。今まで三百回近く語りかけたが、〈何か〉は常に沈黙を守っていた。藍は目をつぶると、再び〈何か〉に、無言のまま語りかける。
「監視されてるね。 イレイムちゃん、私の事信用してないみたいだね」
やはり、それにも返事はない。藍の感覚は最近鋭さを増す一方で、天井裏に監視者がいる事などすぐに知れていた。無表情を保ったまま、心中で苦笑しながら、藍は三度心の声で、見えない第三者に語りかける。
「それもそうだよね。 ふわふわしてても、流石にあの人バカじゃないって」
なぜなら、未だに逃亡を企んでいるのだから。そう付け加えると、藍は寝返りを打ち、目をつぶった。藍は完全に有罪だったのである。
今まで、何度か城外に出る事はあり、そのたびに藍は周囲の地形を探る事を怠らなかった。同様の事は家康も行っているようであったが、家康は彼女にまして、それに関して貪欲だった。頭が異常に冴えるようになったとはいえ、藍はまだ政治や軍事に関して分からない事も多かったから、そしてそれを充分に自覚していたから、家康が自分と単純に同じ事をしようとしているとは考えなかった。
藍は頭の中で、何度も計画を立てては、それを断念していた。まず最低条件として、彼女が帰るにはこと寄せを手に入れなくてはならない。そして、それを作動させなくてはならない。
今までの様子からして、イレイムはふわふわしているだけで主体性のない女性ではない。優しい事が第一として、厳然としてあるのだが、同時にきちんと合理的な判断も出来る傑物である。こんな状況でなければ、名君として後世に名を残すかも知れない。三国志演義で、魏の武帝曹操が、〈乱世の奸雄・平時の能臣〉三国志正史で〈乱世の英雄・平時の奸臣〉と呼ばれた事を藍は知っていたが、イレイムは後者の逆なのかも知れないと藍は思った。たまたま、彼女は生まれてくる時代が良くなかったのであろう。
此処までの判断は、普通子供には出来ない。自分の思考が異常なまでに老成している事に藍はまだ気づいていなかったが、心の奥では薄々気づき始めていたかも知れない。
ともあれ、藍はそのイレイムを出し抜かなくては帰れないのだ。続いての条件として、こと寄せを作動できる、或いは作動法を知る者を確保しなくてはならない。これは極端な話、藍をこと寄せで召喚したイレイム本人でも良いのだが、それには何らかの方法で、彼女に無理矢理言う事を聞かせなくてはならない。下手をすれば、拷問の類さえ行わなければならないだろう。藍はイレイムを出し抜こうと考えてはいたが、同時に女王が人間として尊敬でき、好きでもあったから、この方法は避けたいとも考えていた。
まず第一段階として、こと寄せを確保する。第二段階として、それを動かせる者を従える。それには安全な隠れ場所が必要なはずであり、人一人を拉致して城から脱出しなければならない事も意味している。現在の藍は、その辺の武人などとは比較にならない肉体能力を身につけているが、当然それも無限の物ではない。流石に、城の兵士全部を相手にしつつ、人質を抱えて逃げるほどの自信はない。
藍はぼんやりとしつつある自分に気づいた。天井の監視者は、まだ自分に注意を払っている。物音一つ立てない優秀な男で〈それすら現在の藍には判断できた〉、気配や視線を悟れるようにならなければ、絶対に天井にいる事など気づかないだろう。わざと大あくびをすると、藍は視線を遮るように布団をかぶり、眠りにつく事にした。
藍は陽光降り注ぐ中、愉快げに歩調も軽く、城下町をふらついていた。日差しは暖かく、寒くも熱くもない。日本で言う、丁度秋くらいの気候である。この世界の服は既に与えられており、藍の事を異質に思う通行人はいないようで、誰も彼女に目をとめる者はいなかった。
町は碁盤状に区画が割り振られ、住所さえ分かればすぐに目的地にたどり着ける仕組みとなっている。住民の行き来はそれなりに活発で、生活臭も濃く、商店には豊富に品物が並んでいる。それらの間を通り抜けながら、藍は周囲を見、あたりの地形を頭に叩き込んでいた。
それにしても、この街区の構造では、逃げるのはかなり難しい。回り込まれやすいし、身を隠す物も少ない。複雑に入り組んだ町では、構造を覚えてしまえば追っ手を煙に巻くのもたやすいが、これではそれも無理だ。人質を取り、素早く目立たないように街路を抜け、一気に郊外に出るほか無い。そして、その郊外の地形も、充分に把握しておく必要があるだろう。勿論、町の外門への最短距離と、其処を突破する方法を考えておく事も重要であろう。
今、藍は一人のように見えるが、実はそうではない。姿と気配を隠し、セルセイアの部下が数名、彼女をつけてきている。帰る時間を告げて藍は城を出てきているが、それまでに帰らなければおそらく彼らが何かしらのアクションを起こす事であろう。藍は既にそれに気づいていたが、全く気づいていない振りをして、鼻歌を唄いながら町をふらつく。
暫く時間も過ぎ、空腹を覚えた藍は、昼食を取るべく、彼女は目に付いた店の一つに入った。店は小さかったが、看板に目立つように趣向を凝らしており、何となく気を引かれたのだ。〈アッセム〉という食べ物を売る店だと言う事は看板からも分かったが、それ以上の事は分からない。店の中は閑散としており、あまりはやっていない店だと言う事は、すぐに藍にも分かった。
「いらっしゃーい!」
店の奥から、威勢の良い声がして、店主らしい女性が出てきた。高貴さや威厳といった要素はないが、下町的な、親しみやすい雰囲気の女性である。年は藍より七〜八歳上と言った所であろう。藍と同じ黒髪黒目で、顔立ちも体型も日本人とよく似ている。動きやすいように髪を三つ編みで束ねて、先にリボンを巻いており、素朴なそのリボンが実に彼女によくあっていた。藍は笑顔で挨拶を返すと、メニューの中から適当な物を選び、それを注文した。値段も悪くないし、接客態度も問題がない。彼女が注文をしてすぐに、この世界で一般的な、茶によく似た飲み物〈クル〉が運ばれてきたし、机の上や椅子も良く掃除されて綺麗に片づいている。クルの温度も丁度良く、子供が飲んでも丁寧に入れた美味しい飲み物だと分かる。何故この店が流行っていないのだろうと藍は小首を傾げたが、その疑問はすぐに氷解する事となった。
料理の見かけはそれほど悪くなかった、いやむしろ綺麗にかつ丁寧に盛りつけてあると言える。盛りつけてある料理もそれほど悪くはない、いやそれどころか充分以上に美味しい。問題だったのは、あまりにもセンスが悪すぎる皿であった。料理は悪くないのが、それがのせられている皿は、剰りにも悪趣味で、藍を呆然とさせた。何しろ、腐肉にたかる蛆虫が、剰りにもリアルに表現されていたからである。しかも、皿の全てがそんな調子のデザインであった。
無言のまま藍はトレイから皿を取り、テーブルに置いたが、そのトレイも凄まじかった。背中に槍を突き立てられた男が、鮮血を背や目から垂れ流しながら、此方に手をさしのべ、必死に助けを請うている図で、藍が硬直するのに充分なリアルさであった。美味しいのに、さっぱり味がしないような気がする料理を無言のまま藍は口に運び、やがて食べ終えた。
「ね、ねえねえ、あんた」
声を掛けられた事に気づいて、びくりと藍は体を震わせた。そして、ゆっくり視線を声の主に向けると、先ほどの娘が怪訝そうな顔をして、腕組みをして立っていた。
「それ、自信作だったんだけど、そんなに不味かったかい?」
「不味くはないよ。 でも……」
「ん?」
「お皿が、悪趣味すぎ……」
藍の言葉に、娘は怪訝そうな顔を崩さない。どうやらこの娘、自分の店が何故繁盛しないか分かっていない様子であり、久しぶりの客に原因を聞いてみたくなったようであった。
「皿なんかが、そんなに大事かなあ。 料理は味が全てだよ」
店主は怪訝そうな表情を続けたまま、更に言った。
「あたしは経費と努力を全部、料理が美味しくなるようにつぎ込んでる。 これに関しては、どこの誰にも否定させないよ。 だから皿が安売りの十枚セットのになるのも仕方がないんだけどなあ」
「うーん、それは分かったけど、このお皿じゃせっかくの料理が美味しくないよ」
怪訝そうな顔のまま、店主は小首を傾げていた。藍はなんだか、この娘が哀れになってきた。おそらく、職人としてはいい腕の持ち主なのだろうが、経営者としては完全に失格なタイプであろう。何故こんな若くしてお店を構えていられるのかは分からないが、このままではこの店、長続きしまい。
さらりとこんな推察をしている事に気づいて、藍は自分の中の別人を改めて認識した。幾ら何でも、これは小学生の思考ではない。そして、もしも自分の中の誰かがいなければ、それが〈小学生らしくない思考〉だと気づく事さえ出来なかっただろう。
「そっか、考えてみれば、お店が流行らないのも事実だ。 あんたの言う事、本当かも知れない。 アリガト、試してみるよ」
「それが良いと思うよ? 料理は美味しいし」
それだけ言うと、藍は料金を払い、店を出た。そして、去り際に一度だけ店の方に振り向いた。暫くしてみたら、もう一度来てみようと思ったのである。皿が良くなれば、きっと美味しい料理になるはずだからである。また、自分と同じ人種に見える相手と、より多くコミュニケーションを取りたいと思ったのも事実であろう。
それだけ考えると、自分の目的を思い出し、藍は再び周囲を探り始めた。監視の連中はちゃっかり自分たちも交代で食事を済ませていたようであった。それを気配からあっさり関知し、しかもそれが普通の事になっている藍は、自分が一番この世界に深く足をつっこんでいる事に、未だ気づいていない。
王立魔法学校のそばを通り過ぎ、藍は畜産産業区の方へ向かった。今日の本当の目的は、こと寄せを使う際に必要である魔法使いの確保、つまり確保しやすくなるように面識を造る事、の準備段階であり、そのために魔法使いの卵達が通う学校の位置を確認しに来たのである。あくまで個人レベルでの話であるが、自分の頭が〈誰か〉のせいで異常に鋭く冴えてきている事を自覚している藍は、それを最大限に有効活用し、生活上で使う事を全くためらわなかった。
怪しまれないように、さっさとその前を通り過ぎ、暫く行くと、肉屋等が道の左右に増え始める。そして動物の体臭が漂い始め、藍は顔をしかめた。周囲には料理屋の類はなく、むしろ料理する前の材料を売る店の方が遙かに多かった。
自分の眼前に、皮をはがれた大きな動物の死体がぶら下がっているのを見て、藍は悲鳴を上げかけた。そして、少しだけ安心した。まだ自分が子供的な思考を出来る事を再確認したからである。おそらく監視者も、不可思議な行動をする藍を不審に思っているのは間違いない。ため息をつくと、藍は隣の区に移動するべく、呑気に歩き出した。
動物の血肉の臭いはやがて弱くなり、だんだん薄れていった。畜産産業区のはずれまで来たとき、藍は隣の地区である商業街区を経由し、城に戻ろうと考えた。そんな彼女が、不意に足を止めた。勝手口が開きっぱなしになっており、人気のない家が視界に入ったからである。数秒間勝手口を眺めたが、人気はない。小首を傾げ、ゆっくり開いたままの勝手口に歩み寄ると、藍は中にいるかも知れない人に呼びかけた。
「誰かー、いますかー?」
返事はない。唇に指先を当て、数秒間考えた後、藍は再び呼びかけ、そして返事がないのでにんまりと小悪魔的に笑った。逃走の際、一時的に使う隠れ家に最適だと思ったのである。監視者には、後で適当にごまかしておけば良いであろう。
「くしししし、これは、使えるかも☆」
語尾に星などつけながら、藍は家の中に入り込んだ。住居の中で靴を脱ぐ習慣のないこの土地では、特に靴下になる必要はないのだが、藍はわざわざ靴下になり、鞄に靴を放り込んで、家の中の探索を始めた。
家の中は広くも狭くもなく、綺麗に片づいている。これは空き家ではなく、家の者が旅行に行っているか、出かけている可能性が高い。何にしても、勝手口を開けっ放しだとは不用心な者達である。泥棒に入られて当然だなと藍は思ったが、自分自身が泥棒当然のことをしていることを忘れているのは子供故であろう。
何にしろ、藍は喜びの宝物を失望のゴミ箱に直行させ、嘆息すると、家を出ようとした。そんな彼女の耳に、物音が入った。そして同時に、気配を感知し、彼女は全身に緊張が満ちるのを感じた。
遠くにいる監視者の状態まで察知するほどに感覚が冴えている藍から、気配を消すとはなかなかただ者ではない。しかも、気配は極至近で、すぐにまた消えた。しかも、意図的にそれをやっている様子はない。もし藍に害意を抱く者であれば、相当に手強い相手であろう。無意識的に、家康が憮然とした表情でくれた脇差しに手を伸ばし、藍は壁に半身を密着させた。そして耳を壁に付け、中の物音を探る。
中からは、定期的な音が響いていた。とても小さいが、何かを刃物で切っているような音である。去るべきなのではないかと藍は思ったが、同時に怖い物見たさで、ドアノブに手を伸ばし、音を立てないように注意しながら、ゆっくりドアを開ける。
僅かに出来た隙間から中をうかがうと、そこは台所のようであった。そして、小山のような〈何か〉があり、視界の八割を塞いでいる。音は、その何かの向こうから響いているようであった。〈何か〉の正体は、どうしてもこの狭い隙間からは特定できず、他もよく分からない。藍はもう少し隙間を広げようとし、そのときドアの金具が僅かに音を立て、慌てた藍は力の加減を間違え、前に倒れ込んでしまった。
「わ、わわわわわっ! きゃあっ!」
ドアは全開になり、小さな悲鳴を上げて前に倒れ込んだ藍は、小山のような〈何か〉が、ゆっくり振り返った。
それは、巨大な体躯の男だった。全体的に黒を主体としたデザインの服を着込み、何故か熊の刺繍をしたフリル付きの巨大なエプロンをしている。手にしているのは、鮫でも解体できそうな巨大な出刃包丁で、口の回りには茫々たる髭が生え茂り、頭はさながら巨大な鳥の巣のようであった。呆然とし、硬直する藍の小さな体を、小山のような巨体から放たれた、凶暴な眼光が串刺しにした。
「ぴいっ……!?」
すくみ上がる藍。男はゆっくり体を揺らすと、上体をのけぞらせ、体の芯から迸るような絶叫を上げた。
「う……ぅううううううううおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉおっ!」
完全に腰が抜ける藍。彼女はあまりの恐怖に、身動きする事も出来なかった。それに対し、巨大な男は、掴みかかるでもなく、襲いかかるでもなく、更に咆吼する。
「かーちゃん! かーーちゃんっ!」
男は目を血走らせ、包丁を振り回しながら、更に吠えた。
「俺達の家の中に知らない子がいる! 家の中に変な子が紛れ込んでる! 俺の目の前にいる!」
そして、男は泡を吹きながら、窓を破らんばかりの大音声で言い放った。
「怖えええええええええええええええええっ!」
お前の方がよっぽど怖いわ、と心の中で毒づく事だけが精一杯だった。藍はあまりの恐怖からか、その場でへたり込み、後ろに倒れて気を失った。鋭い判断が出来ても、所詮はまだまだ子供、先ほどの恐怖は剰りにも刺激が強すぎたのであった。
藍が目を回してひっくり返ってから、数秒後。家の二階から、誰かが降りてきて、ゆっくり歩いて台所に入った。雪色の髪を持ち、涼しげな目をした、誰もが認める美人だった。イレイムとは違う意味で暖かい印象を周囲に与える女性で、暖かさと同時に妖艶な大人の雰囲気を身に纏っている。だが、動作は、そして口調も、妙に幼かった。
「あなたあ、どうしたのぉ?」
女性が部屋に入ってくると、男はほとんど音速かと思われるほどの早さで、その背後に隠れた。体の体積が違いすぎるので全く隠れないが、ともかく隠れたつもりであるらしい。そして、ある程度音量を抑えて、自分の前に女の子が不意に現れた事を、さも恐ろしい魔物か何かが現れたかのように説明した。女性はそれを聞き終えると、寝ぼけ眼をこすり、中腰になって目を回している藍の顔をのぞき込み、にんまり笑った。妖艶な体なのに、その笑みは嫌に幼かった。
「わあ、かわいいこ。 どこからはいりこんできたのかしら」
「こわいよかーちゃん!」
「だめよぉ、あなた。 こんなちいさなこのまえで、そんなおおごえだしちゃあ」
「ごめんよかーちゃん!」
女性は笑顔のまま、男の額にデコピンする。
「はい、おしおき。 かわいそうに、このこきぜつしちゃったじゃないの」
「いたいよかーちゃん!」
異様なやりとりは延々と続いたが、それは不意に止まった。二人が同時に、新たに現れた気配に気づいたからである。女性の目が鋭く細まり、現れた三人の男達に誰何した。
「だれですか?」
「……。 こういう者だ」
男は形容しがたい表情で、王立諜報機関の手帳を出し、女性に見せた。そして、女性が本物だと確認し、返すと、目に光を宿らせた。
「あなた方は確か、下水道から現れた魔物を退治した、ロフェレス夫妻だったな」
「はい、そうですけどぉ?」
「その子は、我らの監視下にある大事な存在だ。 引き取らせていただこう」
女性は目を細め、じっくり諜報機関の三人を見たが、やがてため息をついた。
「わかりました、どうぞ、つれてってください」
女性が素直に応じたので、諜報機関の男は内心で安堵のため息をついた。この夫婦が腕利きの魔物狩りであり、抵抗されたら此方もただではすまない事を知っていたからである。
諜報機関の三名は、藍を抱え上げると、家の外に去った。それを見送ると、女性は頬に手を当て、城の方を見る。
「どうして、ときのながれのちゅうしんにいるひとたちと、かかわっちゃうのかなぁ」
勝手口を閉め、女性は再び欠伸をしながら、二階に戻っていった。奇妙な夫婦の、奇妙な日常が戻ってきていた。
3,雷雲
「帝国と、聖皇国を戦わせる?」
周囲に人はいない。いるに入るが、それはセルセイア麾下の精鋭諜報隊員である。思わず声を上げたセルセイアと、困惑しているイレイムを前に、家康は地図を広げた。
大陸北部の群雄割拠状態と違い、南部は勢力が安定していて、姻戚関係で強く結ばれている。それらの国は勢力的にも安定していて、ごくたまに小競り合いが起こる事はあっても、ここ百三十年ほど大きな戦は起こっていない。その安定した国々の中で、一番大きな力と国土を持つのが、聖皇国と一般に呼ばれる、聖アーサルズ皇国である。
「儂は、故国で天下統一を目指して戦っているが……」
相手の質問には答えず、家康は帝国の広大な版図を指さし、静かに続けた。いつもの鋭い眼光はなく、むしろ事務仕事を処理するかのような、淡々とした様子である。
「もし、儂以外の誰かが圧倒的な権力を手に入れ、天下が安定するというのなら、それで覇業は諦めるだろうな。 無論大きな隙が出来れば話は別だが、平地に乱を起こすようなまねはせん。 逆に、平地に乱を不要に起こすような輩は絶対に排除せねばならん。 それが国主というものだ」
「……続けてください」
何か言いたげなセルセイアに、視線で柔らかく制止をかけると、イレイムは言った。家康は頷き、地図に再び指を向け、言葉を続ける。
「今、大陸が平和になるには、何が必要だと思う?」
「平和ですか?」
「うむ、その通りだ。 では、それは何によってもたらされる?」
「……。」
「答えは、安定だ」
家康はそれだけを言うと、指を動かし、帝国の上で止めた。彼の言葉は絶対の真実ではなかったが、同時に真実の一端を鋭くついてもおり、長年の重みからもたらされる説得力も持ち合わせていた。
「次だ。 今、我々が強大な帝国の攻撃を凌ぐには、どういった方法があると思う?」
「和平案はおそらく無理でしょう。 軍を出さない代わりに、こと寄せを出せと言われるに決まっています。 軍を強化するか、援軍を出してくれるように他の国に頼むか……」
「或いは、皇帝を暗殺する、という手もあります」
「ふむ、どちらも意見としては正しいな。 だが最善の策とは言い難い。 まずイレイム殿の策だが、勢いのある帝国に、こんな弱小国を救うためにたてつこうなどと言う国があるかな? それに、もしそれで助かったとしても、援軍を出した国には多大な借りが出来る。 それには相当な外交手腕が必要で、それに援軍が来ても帝国を撃退できるとはかぎらん以上、あまり取りたくない策ではあるな。 しかも策がなった後も、コーネリアに安寧がもたらされる保証はない。 下手をすれば、援軍を出してきた国の属国に成り下がらざるを得ない事態も来るかも知れぬ。 続いてセルセイア殿の策だが、もし暗殺者が捕まったら、帝国に面と向かって喧嘩を売るような物だ。 現時点でそれを行うのは、リスクが高すぎる。」
イレイムとセルセイアが口々に言い、家康はそれぞれに弱点を指摘して見せた。セルセイアは家康の整理された頭脳の一端を見て、探りが不発に終わった事を知った。当然その程度の事は、セルセイアも知っており、もしも此処で家康が笑止な答えを返すようなら、今後監視を強めようと思ったのだ。だが家康は、探りを一刀両断して見せ、セルセイアの挑発を簡単にはねのけて見せた。流石に、この程度で尻尾を掴ませるような男ではない。
「では、家康様は、どうしようと思うのですか?」
「大陸の北と南で勢力を拮抗させ、この国に手を出すのが無意味だと思わせる。 その過程で、おそらく一回、いや二回は帝国を撃退せねばならないだろうな」
家康の言葉は、イレイムには抽象的すぎた。彼女は笑顔を浮かべると、家康に情報の精密な提示を求めた。
「ええと、具体的にお願いいたします」
「まず第一に、セルセイア殿、この間の調査の結果を」
家康が話を振ると、セルセイアは指を鳴らし、部下にある資料を持ってこさせた。それは家康がコーネリアの国内を把握すると同時に、国外の情報をセルセイアに集めさせていた、その成果であった。
「この調査の結果から、儂は幾つかの事を分析した。 そして、結論を出した」
「どういう結論ですか?」
「南側の諸国は、北を未開の地だと思いこみ、完全に侮っている、と言う結論だ」
家康の指は、帝国の北にある幾つかの群小国の上を移動した後、聖皇国の上に止まった。聖皇国は、帝国と国境を接しており、国力から言ってももし戦になれば中心になる国であった。
「現在、帝国の主力部隊が北で転戦していると言う事もあるが、南の国々は帝国の恐ろしさを知らぬようだ。 儂が思うに、ハイマンド皇帝は南の国々を一気に攻略すべく、今までわざと南の国の軍には手を出さなかった、のではないか?」
「その節は、確かにあります」
「自らを侮らせ、侮りきった後、真の力を持って一気に敵を攻略する。 良くある戦略だが、それに南側の国は気づいていないようだな。 このままでは、こと寄せを使えば天下統一がたやすいと、ハイマンド皇帝が思うのも、無理はない事態が来るであろうな」
セルセイアの情報から、家康がたたき出した結論がそれであった。これは彼が戦略家として困難な立場に何度も立たされ、苦境に喘いできた経験がはじき出した物であろう。家康の武器は天賦の才よりも、圧倒的に豊富な経験の量にあるのである。
国家レベルの戦略の話では、流石にセルセイアも知識の量が劣る。黙り込んだ彼女の代わりに、イレイムが家康に次の言葉を投じた。
「では、今後の家康様の戦略は、どう言った物になるのですか?」
「早めに、聖皇国と、帝国の軍を戦わせる。 全面衝突ではなく、局地戦で構わないが、帝国の恐ろしさを聖皇国が思い知れば充分だ。 この策を成功させるため、今後は更に多量の情報が必要になるであろうな。 そしてその影で、コーネリアは軍備を整え、帝国がこと寄せを求めて進行してくるくらいまでには戦いを行える程までに整える。 以上だ」
「しかし、それでは聖皇国の人々が……」
イレイムは優しい娘だった。家康の示した戦略が、自国の民のために、他国の民を害する物に思えたため、つい反射的に批判が出たのだ。だが、家康は、軽くそれを受け流した。
「いずれ帝国とは戦うのだろう? ならば、先に現実を思い知る必要があろう。 自分たちの見ている夢が、現実の前では如何に甘く、脆いかという事実をな。 セルセイア殿の情報からすれば、南部の諸国が聖皇国を中心に早めに団結すれば、帝国とは良い勝負が出来る。 軍事力も、国力も会わせれば上だからな。 総合的に見て、そういう事態が来れば、状況は安定するだろう。 そして、そうすれば、帝国は無理にこと寄せを使わなくても良くなる。 ハイマンドという将の器を信じるのであれば、無駄に犠牲を出してまで、天下を取ろうなどとは考えぬだろう。 そうすれば、こと寄せを手に入れる意味もなくなる。 無論、簡単に奪取できるなら奪おうとするだろうが、我らが徹底抗戦し、与しやすくは無い事を示してみせれば、諦めるはずだ」
言い終えると、家康は眉をひそめた。イレイムはこれだけの高度な戦略構想を見せられるのは始めてであり、脳細胞を酷使して疲れたようで、疲労の色が濃くなっていたのだ。苦笑すると、家康は言った。
「疲れたか、イレイム殿」
「はい、少し」
「少し休憩したい所だな。 湯をいただこうか」
「良い葉が入っています。 クルなどどうでしょうか」
「そうか、ならばそれでも良い。 少し休みを入れよう。 クルというのは、儂の部屋に運んでくれ」
家康はそれだけ言うと、一旦自室に引き上げていった。イレイムは嘆息すると、どっと疲れに襲われたようで、額を抑えてへたり込んだ。
「国の事というのは、大変ですね。 改めて思い知った気がします」
「人の命を預かるのだから、それも当然です」
「……あちらを立てれば此方が立たず。 私、地獄に堕ちるのでしょうね……おそらく」
「陛下が落ちるのであれば、私もお供いたします。 ご安心ください」
心底から自分を励ましてくれているセルセイアの言葉を聞き、イレイムは笑みを浮かべた。女王は今までのやりとりで疲れてはいたが、なんとも暖かい笑みであり、セルセイアはそれを見て安心をいつものように感じたのだった。
小一時間が経過し、家康は再び部屋に現れた。流石に籠城戦や長期の持久戦も経験しているだけあり、この程度の事ではほとんど疲労も感じないようだった。実戦で鍛えられているだけあり、一般人とは根本的な体力が違うのである。そして、彼の場合は精神的なスタミナも豊富であり、あまたの危機で鍛えられて危地にも強い。
「クルはどうでしたか?」
「うむ、甘い茶というのは始めて飲んだ。 不思議な味わいであった」
家康の時代、砂糖は貴重品であり、糖分を補給するために干し柿などが珍重されていた位である。その点、コーネリアは砂糖がそれなりの分量流通しており、紅茶に似たクルにもそれは入っている。それが、家康には不思議であったのだろう。
「そうですか、家康様の故郷のクルは、どういう物なのですか?」
「儂の同盟者である信長公が精神的な芸術として確立したものだ。 飲み方、楽しみ方自体に様々な作法があり、茶道具には城が買えるほどの値打ちがつく事も珍しくない。 庶民とはあまり縁がない物だ」
「そうですか、似たものでも、世界によって色々違うのですね」
「だが、人間はどこでも同じのようだな。 戦に明け暮れ、親兄弟が互いに殺し合う。 金銭は命に優先し、民と支配者階級の対立は絶えない。 腐敗は横行し、正直者は馬鹿を見てばかりだ」
辛らつな言葉を吐くと、家康は咳払いし、話の続きに入った。彼の目には再び真剣さが満ち、クルの話をしていたときとは別人のような鋭さが漂う。
「対外工作は、今後儂とセルセイア殿で行う。 今後、コーネリアでは、在野の人材の発掘に勤めたい所だ」
「どういった人達に、手伝って貰うのですか?」
「一人でも多い方がいいが、まずは戦が出来る者だ。 よその国から来た者達から、使えそうな者に声を掛けて行くつもりだ。 それが終わったら、使えそうな者に片っ端から声を掛けていく。 経費はかかるが、こればかりは仕方がない事だ」
先ほどから、家康の言葉に何とかついていけていた状態のイレイムだったが、今回は何とか理解する事が出来た。彼女は、それが正しいか確認するためにも、家康に言う。
「それはつまり、実戦経験者が必要だと言う事ですか?」
「うむ。 だが、あまり表立ってやられると困る。 山に何と言ったか、ええと、ま……まものであったか? ともかく、それが出たとか何とか理由をつけて、少しずつ集めていこうと思う」
「はい、では、それに関して私たちからは何を致しましょうか」
女王の言葉に、家康は即答した。彼としては、遊兵を造るわけには行かなかったし、第一女王には様々にやって貰うべき事もあったのである。
「説得だな。 イレイム殿の人望を生かし、彼らの心を溶かして欲しい。 そして絶対に、彼らと在来の軍人との間で摩擦が起こるが、その調整にも努めて欲しい所だ。 無論これは儂も行っていくが、イレイム殿の協力が絶対に必要な事でもある」
「分かりました。 一人でも多く、我が国のために戦っていただけるよう、努力していきましょう」
「官民一体とならねば、この危機を乗り越える事は到底出来ぬ。 これは決して我らだけの問題ではない。 努々、それを忘れぬように、イレイム殿」
「はい、分かっています」
実のところ、これに関してイレイムに心配は全くないと言える。この娘は、若いのに実にしっかりした責任感を持ち、家康が行動を起こす際に承認を求められると、必ずその詳細の説明を求め、協議してから許可している。頭もそれほど悪くないし、決して政治を家康に押しつけたわけではない。家康がしたのは、あくまで念を押すという事だけであり、問題がない事は家康も分かっているのだ。
藍と違い、家康は今のところ、此処を脱出しようとは考えていない。だが、もしイレイムが約束を違えるような娘であれば、この国を乗っ取り、自分の支配下に置いて天下統一を狙うつもりであった。それは家康の、生粋の戦国大名としての資質を示しており、燃えたぎる野心の強さも示していた。
家康の戦略は、この会談の後、直ちに実行に移される。未だ足踏みをしている藍に比べ、家康は一月で完璧に状況を整理し、猛々しく前進を開始していた。これは、平和に生きた者と、地獄の戦国時代を生き抜いてきた者の、闘争心の差であったかも知れない。
しかし、家康が今までイレイムに言っていた事に嘘はない。彼は仕事を趣味に優先させられる事からも分かるように、国務を自身に優先できる男だった。また、彼はイレイムの素直さと、積極的な姿勢と、行動力と決断力を高く評価していて、自分の弟子のようにも思い始めてもいたのである。複雑な思いが、家康の中で、渦潮のように回り、絡み合い、蠢き始めていた。
「家康様?」
「うん、なんだ、イレイム殿」
考え込んでいた家康は、イレイムの言葉で我に返り、そして苦笑した。彼も人である以上、完全ではない。僅かなりとはいえ、弱みを見せるとは不覚であったが、それも致し方ないであろう。家康は立ち上がると、今後の細かい計画を練りながら、イレイムに断って自室に戻っていった。
砦より、少し離れた場所。王城でもない、静かな場所。そこは王都の外れにある、大きくも小さくもない屋敷であった。その中で、男が、明るくも無ければ正しくもない様子で声を張り上げていた。
「だからワシは危惧していたんだ! いずれこの国は、あのイエヤスとかいう男に乗っ取られるぞ!」
「そういきり立つな、エイモンド。 陛下が決定してから、こうなる事は予測していただろう」
わめき散らしたのは、政治を担当する長老エイモンドだった。それをなだめるように声を発したのは、経済を担当する長老ドルックである。一番若いタイロンは、沈黙を守ったままであった。
「ともかく、この一月だけで奴が有能なのははっきりしたではないか。 この国のためには、それが良いのだろう」
「しかし、このままでは、長年掛けて気づいたワシの地位が」
「ならば、おぬしにしか出来ぬ事をすれば良かろう。 新参者に軽々脅かされるような仕事を、今までおぬしはしてきたのか?」
返答に困ったエイモンドを後目に、ドルックは美味だがアルコールが強烈な酒をあおった。そして、それを見ていたタイロンが、不意に沈黙を破った。
「何にしろ……歴史が動き出したのだと私は思う。 今まで小川だったのが、滝にさしかかったような印象だ。 それに気づかないよりも、早く気づいたから幸せだったのかもしれん。 少なくとも、早めに流れに逆らう努力をするか、流れに乗る算段をするか、考える時間があるからな」
「しるか! ワシは、ワシはあんな奴に権力を渡すものか!」
椅子を蹴倒すエイモンドを見て、二人の長老は嘆息した。今までに地味だが着実な実績を重ねてきたエイモンドは、決して無能な男ではない。だがパブリックとプライベートを区別できない傾向があり、今もその一番良くない面が露出していたのである。今に始まった事ではないが、あまり良くない事は事実であった。
しばらくエイモンドは酒をかっ食らって暴れていたが、やがて静かになった。寝息を立て始めたその横で、ドルックは、タイロンに視線を向けた。
「歴史は滝に移り始めたのかも知れぬな。 ワシらも、乗り遅れないようにせいぜい努力するようにしないと、滝壺に叩き付けられて粉みじんだの」
「その通りだ。 こいつと同じにだけは、なってはいかんな」
静かに頷くと、二人は屋敷を後にした。内心で、既に二人は、エイモンドを見限る決心をしていたのかも知れない。
4,竜帝ハイマンド
ハイマンド=セイモルは帝国の二代皇帝である。二代皇帝といっても、国家元首が皇帝などと名乗るのが気恥ずかしい小国がこれほどの大国に成長できたのは、彼の功績以外の何者でもない。現在三十九歳になる彼は、熟達した武人であり、同時に政治家としても見るべき所のある男であった。彼は山岳戦等の複雑な地形での戦いをもっとも得意としており、政治面では貧しい地区や国の建て直しが得意だった。
彼は従う者には寛大で、能力のある者は積極的に取り立てたため、部下には優れた人材が集まっている。将軍としても、政治家としても、まず一流と言っていい人物だが、政治家としては現在宰相をしているエイフェンに一歩劣り、軍人としては直属精鋭である、親衛竜師団四つを束ねる知将ハイマーに二歩ほど劣る。だが、彼らを従わせているのは、能力よりも、その皇帝としての器であった。
ハイマンドは竜帝と呼ばれる、武に傾いた皇帝である。だが、兵士達が、皇帝に命をかける理由はそれとは関係ない。ハイマンドは常に戦場では最前線で戦い、兵士達と同じ食事を取り、危険も生活も兵士達と同じ所においてきた。退却戦の時も、彼は常にしんがりを勤め、一人でも多くの兵士を助けるべく奮闘してきた。そんな皇帝であったからこそ、兵士達は命をかけ、皇帝の覇道に協力してきたのである。
また、ハイマンドは民衆からも人気が高い。彼は今までの貴族階級を一掃すると、実力主義を主体とした社会を作り上げ、平等な制度を約束し、しかも実行してきた。その過程でかなりの血が流れたのは事実であるが、旧時代の悪弊が一掃され、歴史の闇に放り捨てられた事で、社会は新陳代謝を活発にし、民衆はそれを敏感に感じとっているのである。
皇帝は多少女性関係がだらしない所もあったが、生活自体は質素で、民衆の膏血で贅沢をするような男ではなかった。部下達にも慕われるのは、信賞必罰の姿勢が厳格であると同時に、人としての優しさも持ち合わせている面が広く知られているからである。少し短気な事も知られていて、酒に異様に弱い事も有名であったが、これらはむしろユーモラスなエピソードとして民衆の間に伝わっていた。
この様に、ハイマンドは皇帝としては理想的な人物であった。家康と、藍と、イレイムの前に立ちはだかる男は、まごう事なき英雄であり、歴史の担い手であった。
帝国の北部にあるアッサート平原は、現在激しい合戦の舞台となっていた。帝国に抵抗する三カ国が結成した連合軍が、侵攻してきた帝国軍の一師団を撃退したのが事の発端である。帝国軍は不敗というわけではなく、皇帝自身が敗れた事もある。皇帝は全力を尽くしての敗北は恥ではない、死こそ恥だと常々言っており、破れても将は引く事を柔軟に学んでいた。破れた第七師団を率いていた将もそれに従い、国境の要塞まで撤退すると、帝国本土に援軍を要請、近くまで来ていたハイマンドが自ら親衛師団を率いて援軍に駆けつけ、合流を阻止すべくそれに三カ国連合軍が戦いを挑んだのであった。
帝国軍は第四親衛竜師団約一万二千、それに対し連合軍は約九千であった。彼らを率いているのは旧メルフィラレル市国の将軍アッセアであり、故国を滅ぼされ流浪の旅をしているうちに、顧問として三カ国に兵の指揮を任されたのであった。実際、彼女の指揮で帝国軍はかなりの苦戦をし、その手腕は周囲に轟いていた。国を滅ぼされはしたが、それは彼女が一軍しか率いていなかったからで、全軍を率いていればもう少し結果は違ったかも知れない。帝国軍の二個師団が合流する前に各個撃破するという戦略も正しいものであり、勢いに乗る三カ国連合軍は彼女の指揮で燃え上がるような攻撃を帝国軍にくわえた。帝国軍は行軍中に連合軍に攻撃を受けた事もあり、陣形がのびきっており、凸字陣の連合軍に対すには多少不利であった。しかも連合軍は機敏な動きを見せ、的確な地点に苛烈で容赦のない攻撃を集中してくる。皇帝は見事なその動きを見て、心底から感心し、顎に手を当てて相手に対する賞賛の言葉を吐いた。
「アッセア将軍か、予の精鋭を此処まで苦しめるとは、なかなかやるではないか。 これは是非、部下に欲しいな」
「感心している場合ではありません。 我が軍は陣形がのびきり、極めて不利な状況です。 早急に対処策を講じませんと、このままでは左右に分断されます!」
「ああ、分かっておる。 第七騎兵連隊、予に続け! 総力戦用意!」
参謀の声に、ハイマンドは愛馬にまたがり、剣を抜いた。周囲を固める精鋭達が一斉に喚声を上げ、もっとも激しい攻撃を受けている部分へと急行する。ハイマンドは戦況を見ながら、猛烈な勢いで敵の先鋒に突進、勝ちにおごる彼らを一挙に蹴散らした。
ハイマンドはそのまま乱戦を指揮し、兵士達は皇帝が前線に出てきた事を知って喚声を上げた。志気が一気に上がり、元々数に劣る連合軍はじりじりと押され始める。だが、敵も然る者、此処まで温存していた最精鋭と共に、皇帝の居場所を把握し精密な突撃を開始した。皇帝の首だけが目当て、そういわんばかりの猛烈な突進だった。
周囲の戦いは徐々に帝国軍が有利になり始めていたが、流石に中央部はそうも行かない。ハイマンドにも何名かの連合軍兵士が戦いを挑み、そのたびに絶倫の剣技で撃破されていた。護衛の兵士達も必死の苦闘を見せ、皇帝から敵を遠ざけようとしたが、皇帝は積極的に自らの存在をアピールし、自分だけ逃げようとはしなかった。それが兵士達の心を燃やす。そして敵のさらなる突進を前に、皇帝は剣を振り上げ、絶叫した。
「ここが正念場ぞ! 守りきれば我らが勝ちだ! 者共、予に続けえっ!」
「おおおおっ!」
「陛下を殺させるな! 全軍、行けえっ! 突撃っ!」
兵士が喚声を上げ、前進を始めた皇帝と共に突進した。将達もそれに続き、声をからして兵士達を指揮する。勇将の下に弱卒なし、三波にわたる連合軍の突撃は粉砕され、ついに力つきた連合軍は総崩れとなった。更にその後方には急報を聞いて駆けつけてきた第七師団が現れ、敗走に移った連合軍を挟撃したため、帝国の勝利は完全な物となった。
乱戦の中、皇帝は二本の矢を受けていた。だがいずれも致命傷になるような物ではなく、一本に至っては鎧で止まっていた。周囲では凱歌が上がり、皇帝はいつものように降伏した兵士を許す布告を出したので、抵抗も微弱であり、連合軍の抵抗は急速に沈黙していった。大勢が決まったため、皇帝は馬を下り、駆けつけた第七師団の将をねぎらいながら、矢傷の治療をさせていた。そんな中、前線の将から報告が届いた。
「敵将、アッセア将軍には逃げられた模様です。 残念ながら……」
「そうか、まあいい。 あの女も、余程予の部下になるのが嫌と見えるな。 我が軍の被害はどれほどだ?」
近くにいた将の元には、既にそれに対する報告が届いていた。義務的な口調で、淡々と将は実情を読み上げた。
「死者はおよそ千。 敵兵はその二倍半の死者を出した模様です」
「そうか、後で敵味方構わず、葬ってやるように通達せよ」
「はっ!」
こういった命令が、兵士達の心を動かす事を皇帝は良く知っていた。そして、それが如何に重要な事かも。皇帝が戦場に向けて敬礼すると、周囲の将達もそれに習う。この皇帝の部下になれた事が、彼らの誇りであった。そして皇帝は、彼らの忠誠を受ける事に誇りを覚えていた。
三分の一ほどにまで打ち減らされた連合軍を率いて、アッセアは肩を落として退却戦に移っていた。生き残った兵士にも、無傷な者などほとんどいない。周囲からは冷たい視線がアッセアに注ぎ、将の中には露骨な敵意を向ける者さえいた。
アッセアは最後まで殿軍に残り、味方の撤退を援護し続けた。それは将として当然のつとめであり、だがここでそれは常識ではなかった。アッセアに助けられた兵士の中には、同情を込めた視線を向ける者もいたが、腐りきった体制の中に生きる連合の将達にそれは無かった。針のむしろに座らされ、屈辱の時間は続き、やがてそれは頂点に達した。
「アッセア将軍、いつもながら見事な負けっぷりですなあ」
連合の主力国、アイゼンハイムスに帰り着いた途端に、迎えに来た将軍に浴びせかけられた第一声がそれであった。もう戦は嫌だと考え、隠棲していたアッセアを引っ張り出したのは彼らだったのに、そんな言葉が掛けられた。彼女にも武人としての誇りがあり、屈辱に青ざめたが、将は気づかない振りをして続けた。
「流石にメルフィラレルの狼。 今度私にも、負け方の極意を教えていただきたい物です。 いやあ、本当に見事な手腕であったそうで、尊敬しますよ」
「……知るかっ!」
「は? ……ぐがっ!」
飛んできた拳が、将の鼻骨を砕いた。アッセアはたわいもなく地面に転がった将に冷徹な一瞥を与えると、愛馬を駆り、一気にアイゼンハイムスを出た。追っ手は誰もいなかったが、それはもう彼女に利用価値が無くなったからであった。
「みんな……大っきらいだ。 ぼくがいったい何をしたっ!」
古風な価値観の父に、男として教育されたアッセアは、一人の時や、信頼できる者の側ではそういう一人称を使った。彼女は罪もない愛馬に何度も鞭をくれると、涙を拳でふき取り、平原を疾駆した。もう帰る家は無い。帝国軍は無闇な略奪や暴行をいっさいしなかった。あきれ果てた事に味方に灼かれたのだ。〈戦術的判断〉の結果だそうであり、抗議はいっさい受けいられなかった。もう家族や、信頼できる者も一人もいない。戦争で全員死んだ。
孤独で、傷ついた心を、処分した財産で買った静かな家で癒そうとしていた矢先、都合のいい言葉で再び戦場に引っ張り出したのは誰だ。彼奴らではないか。平原を疾駆しながら、アッセアは叫んだ。そして、馬が疲れ果てているのに気づき、慌てて走るのを止めた。彼女は疲れ切っていた。悪い事に雨まで降り出し、アッセアの全身に降り注いだ。見る間に、くすんだ赤毛が水に濡れていく。周囲に傘になるような物はいっさい無く、雨は容赦なく降り続ける。
「もう連合にもいられない。 でも、ハイマンドも好きじゃない。 南に……いこうか。」
涙は止まらなかった。自分のふがいなさを嘆きながら、アッセアは愛馬に語りかける。頬を水が大量に流れ落ちていく。雨だけでなく、涙が流れ、流れ落ちていく。それと同時に怒気が流れ去っていき、疲労と悲しみが盛り上がってきた。
「ごめんよ、八つ当たりして。 もう、戦争がない所にいこう。 きっと、戦争がない国がある、あるはずだよ。 ぼくが探す……探し出す……きっと……あるはずだから」
馬の首を今一度叩くと、アッセアは南へと進み始めた。路銀はほとんど持ち合わせておらず、辛い旅が続いた。まして、箱入りで育てられ(いわゆる箱入り娘とは少し違うが)世間の常識にも疎いアッセアには、なおさら辛い旅であった。
彼女が、愛馬と共にコーネリアにたどり着いたのは、二週間の後の事である。そして彼女は、そこでまた、自らの運命に翻弄され、最終的には再び戦場へと辿り着く事となる。
(続)
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