異界へ

 

序、遠き異界の地にて

 

その土地は、山に囲まれた盆地だった。外界とは幾つか細い道を経由して行き来するしかない閉鎖空間で、しかも特にうまみがある土地というわけでもない。経済戦略的にも、軍事戦略的にも、見るべき所のない土地であった。生産される物資は、土地の住民の胃を満たすのがせいぜいの分量で、よそに輸出するほどの量はない。また、大きな輸出産業もなく、優れた経済力を有しているわけでもなかった。

この土地は、〈コーネリア王国〉と呼ばれる政権によって統治されている。傑出した君主を輩出した事があるわけでもない、どこにでもある程度の小国で、大陸の動乱につけ込んで勢力を伸ばすほどの力はない。何度か他国の侵略も受けたが、必死の抵抗で退ける事に成功していた。

一応、王城と呼ばれる物はある。だがそれは、よその国ではせいぜい砦か出城くらいの規模しかない。故に、堅固とはとても言い難く、要塞の機能などとても持ち合わせていない。とてもではないが、長期の籠城戦などには耐えられる場所ではなかった。ただ、平城であったから、統治には適していて、暴君が暫く出ていない事もあり、民衆と統治者の絆は強かった。

 

この世界には、魔法という物が存在している。それは絶対的な力を持つ物ではなく、魔法だけで戦局を変えるほどの力はない。しかし、肉体的にどうしても非力な女性が、戦場で男性と五分に渡り合えるのは、この魔法のおかげであった。魔力は、基本的に女性の方が遙かに強いのだ。

魔法は絶対の物ではなく、超越的な物でもない。制限は多く、非力な側面もある。如何に天才といえど、誰にもまねできぬ魔法など使えない。突出しすぎた存在、魔族や神族が空想の世界の産物であり、人が一応相対的に最強の地位を保持する世界であったから、それも当然であったかも知れない。

だが、一つだけ例外があった。このコーネリア王国の倉庫、その奥底に眠る、一つの秘宝がそれである。形状的には一振りの、しかもさび付いた只の剣にすぎないそれが、例外の存在だった。

その剣は、武器として使う物ではなかったが、最強の武器でもあった。剣として使えば、全く役には立たなかったが、他の用途で使えば国家を破滅させるほどの力を発揮する事が出来る物だった。

剣の名は、〈こと寄せ〉。異界の生き物を呼び寄せ、また退散させる事が出来る、いわゆるマジックアイテムである。そしてその力を持つマジックアイテムは、この世界に〈こと寄せ〉一つだけであった。これを造った者の名や、その動機はよく分かっていない。ただ、はっきりしているのが、これによって世界のバランスが崩れるほどの災害が、何度と無く起こった事である。異界の生き物たちは、狡猾で残忍で、この世界の生き物達よりも遙かに優れた力を有している事が珍しくもなかった。故に〈こと寄せ〉を手にした王は、それを戦の切り札として使おうとすることが多く、結果身を滅ぼした例が多々ある。

特に酷かったのは、フルア大陸歴455年に起こった異世界生物災害〈オーレルの嘆き〉であった。この時、召喚されたのは異界の至高神で、その圧倒的な力は確かに召喚者に完全勝利をもたらした。だが、その後、至高神は自分の世界に帰るため強引に空間に穴を開け、その結果空前絶後の大災害が世界を襲ったのである。その中心地となったオーレル地方は文字通り地上から姿を消し、今は円形の内海の奥底にて沈黙している。これをはじめとして、〈こと寄せ〉によって発生した災害の被害はいずれも甚大であり、忌まわしきその名を知らない者は誰もいない。

だが、現在それが、コーネリア王国にある事を知る者は少ない。そしてそれが眠りから覚め、再び動こうとしている事を知るものは、輪を掛けて少なかった。

 

1,〈こと寄せ〉

 

暗く、乾燥したその部屋は、滅多に人が訪れる場所ではなかった。コーネリア王国の王城、その地下にあり、警備も厳重でしかも目立たぬように配置されている。中には厳重に封印された箱が幾つかあり、その中の長細い一つに、その娘は歩み寄った。娘は明らかに緊張を覚えていて、箱に触れようとしたが、それは果たせなかった。娘は、沸騰した薬缶に触れたときのように、或いはおびえたように手を引っ込め、深呼吸して動悸を整えた。

「本当に、よろしいのですね?」

若干の不安を帯びた声が、娘の右から掛けられる。声の主は、実用的な服装に身を包んだ妙齢の女性だった。しかも声に特徴が無く、顔立ちも派手ではなく、巧妙に個性を消している。何度会っても顔を覚えられそうにない、そんな女性だった。

「はい。 もう決めた事ですから」

娘は、問いに笑顔で応じた。地味な服装をしているが、それは注視すれば上物だと分かる。色彩のセンスも上品で、威圧感よりも好感を抱かせる容姿だった。多少気が弱そうではあったが、瞳の奥には意志の炎があり、今それは静かに燃え光を放っていた。娘は深呼吸すると、意を決して箱を持ち上げ、大事そうに抱える。小さな金属音が響き、一瞬身をすくませるが、すぐに平常に戻った。ため息をつくと、娘は額の汗をぬぐい、静かに笑みを浮かべた。

娘の名はイレイム=アス=コーネリア。この国の女王である。そして隣に立つ女性は、セルセイア=サス。この国の情報を一手に司る、諜報組織の長であった。

コーネリアが他国に唯一誇れるのが、この諜報組織の存在である。優れた軍事力を持つわけでもなく、傑出した将軍がいるわけでもない。特に金があるわけでもなく、堅固な要塞があるわけでもない。そのような貧弱な小国が、生き残るために選んだのが、情報能力の強化であった。百三十年ほどかけて強化された諜報組織は、今や他国の追随を許さず、大陸の情報の多くを、この小国が掌握する事に成功しているのである。積極的に攪乱工作を行えるほどの規模はないが、それでも掌握している情報量は多く、それが侵略の撃退の際、大きな力を発揮してきた。

その組織は少数精鋭主義で、分析を専門とする者と、前線で情報を集める者が極めて機能的にわけられ、それぞれのチームの長をセルセイアが束ねている。組織の性質上かなり実力主義的な色彩が強く、また首領は若い事が多い。セルセイアは若いボスだが、先代のボスなどは十代半ばにしてボスに就任している。

そういった、現実的に構築され、機能的に組織された部分がある一方で、コーネリアの政治制度は特に優れているわけでもなく、旧式な部分も少なくない。政治制度自体はごくありふれた王政で、世襲が正当化されている。女王であるイレイムは、特に政治手腕が傑出して優れているわけでもなく、先代国王の娘だから最高権力者になる事が出来ただけである。その政治手腕は小娘のもの相応で、政治に関するアドバイスは、長老達に仰いでいるのが日常だ。

他に冠絶した武勇を持つわけでもないし、魔力も人並み。能力的には特に傑出した部分のない女王であったが、優れていて、君主として他者に誇れる部分もあった。それは、民を愛する心と、果敢な決断力である。そしてそれが、秘宝である〈こと寄せ〉の使用を決断させた。この娘が決めたと断言した場合、その決定は覆らない。それが、この子娘に長老達が敬意を払う理由の一つであった。

「セルセイア様、戻りましょう」

「仰せのままに。 儀式を執り行う準備は既に出来ております」

部屋の外にイレイムが出ると、陽の光が差し込んでいた。思えば三日三晩悩んだ末、昨日の夜中に決断したのである。だから、側にいるのはセルセイアだけだった。儀式自体は誰にでもつとまる程度の物だが、問題はその後の〈契約〉である。それには相応の体力と精神力が必要であり、失敗したら取り返しがつかない。故に、セルセイアは若き主君を心配したのである。やはり疲労を隠せない様子の主君に、セルセイアは心配を視線に含んで投げやったが、こういうときに何を言っても無駄だという事も、彼女はよく分かっていた。セルセイアはイレイムが幼い頃から側にいて、彼女の事を良く知っていたからである。

「すぐに、儀式を、始めます」

一言一言、自分に言い聞かせるようにイレイムは言った。そして、王城内にある、〈儀式の間〉へ向かった。いつもは短く感じられる廊下が、今日は嫌に長く、嫌に暗く、彼女には感じられた。

 

セルセイアの言葉通り、既に其処では準備が整えられていた。薄暗い部屋の中央には魔法陣が設置され、複雑な幾何学模様がびっしりと書き込まれている。たたき起こされたらしい長老達も、既に部屋にいて、困惑と不安の混じった視線を互いに交換しあっていた。

現在の政権、専制国家内で言う〈王朝〉の始祖が、いかなる人間だったか、彼らは知っている。それが残したいくつかの決まり事も。イレイムが行おうとしている事は、その決まり事の中で定められている重要事にあたり、長老の地位にある者は出席が義務づけられていた。

この国で女王の補佐をしている長老は三人。最年長の男は、ドルック=ボールズという名で、主に国の財政を管理している。もう頭ははげ上がっているが、爛々たる眼光と、白く豊富な口ひげは健在である。また高齢にも関わらず健康で、精神もしっかりしており、未だに杖の類に世話になる事は無い。

女王の政治に対する補佐をしているのは、ドルックよりも十歳ほど若い男で、エイモンド=カイスと言う名を持つ。胃に病を患っており、長老職からの引退が近いと噂されているが、本人の前でそれを言う者は誰もいない。この男は有名な勘気持ちで、また乱暴であり、部下や民間人に対する暴行事件を幾度か起こしている。ただし、政治手腕と知識はそれなりの物があったから、周囲はそれに対して口をつぐんでいるのが実情であった。

一番若い男は、タイロン=バキューマ。この国の軍事を任せられている長老である。無論最高権力は女王であるイレイムに属するのだが、実権を握っているのはこの男だ。勇敢だと言われているが、長い事侵略を受けた事がないこの国には実戦経験の持ち主がほとんどおらず、この男も例外に漏れない。

この三名に、セルセイアをくわえた四人が、この国の中枢を握る者達だった。この国で権力者は、〈こと寄せ〉を使用する際、長老達に理由を告げ、同意を得なくてはいけないという義務があった。現在までこの法は実行される事が無かったが、今日始めて実行され、そして守られた事になる。

先ほどの暗い倉庫と違い、ここは薄明かりがともされ、周囲の様子は明かである。故に、皆の姿ははっきり女王にも見えた。薄い緑の瞳をしたセルセイアが、短く揃えた黒髪を掻き上げ、魔法陣の側に用意された自分の席に着くと、髪がもう無く肌色の頭をしたドルック、白髪のエイモンド、赤毛のタイロンと、四色のトラストを醸し出した。薄いグリーンブルーの瞳を持つ女王は、彼らをゆっくり見回すと、腰まで伸びた焦げ茶の髪を揺らして自らの席に着いた。女王は若い事もあり、またこの国の最高権力者が絶対権力者ではないという事もあり、長老達は彼女にかなりしゃらくさい口を利く事が許されていて、女王自身もそれを歓迎していた。無論衆目の前では許される行為ではないが、それに関する分別くらいは皆持ち合わせている。

「陛下、早速だが、こと寄せの使用に関する説明を聞かせていただきたい」

「はい、分かりました。 タイロン長老」

素直に応じると、イレイムは呼吸を整え、軍事を司る長老へ説明を始めた。

「セルセイア様からの報告は、みなさまも伺っていると思います」

「ああ、セイモル帝国が、こと寄せの事を調べている、という奴か?」

「はい。 その後の報告で、どうも、帝国が、我が国にこと寄せがある事を掴んだらしい事が分かりました。 しかもハイマンド皇帝は、こと寄せに重大な興味を抱いている模様です」

その場にいる長老三人が、等しく息をのんだ。仮にも公式の、重要な行事の場であるから、ひそひそ話を始める者はいなかったが、困惑した視線をかわし会う事は避けられなかった。その中で、最初に口を開いたのは、最年長のドルックだった。

「で、こと寄せを使い、帝国を撃退するわけだな?」

「はい」

「危険は承知の上だな?」

「はい」

いつもながら、一度決断したイレイムの言葉は明確で、曇りがない。ドルックは咳払いをすると、今度はセルセイアに声を掛けた。

「セルセイア殿。帝国の中で、どれくらいその情報が拡散しているか分かるか?」

「流石に其処までは。 ただ……」

「ただ、何だ?」

「こと寄せを使う事は、世界中で禁忌とされている事です。 無論、セイモル帝国でも例外ではありません。 皇帝がこと寄せを使うとすれば、あくまで秘密裏にでしょう。 皇帝の権力を支えているのは、民衆の絶大な支持ですから、それを裏切ろうなどと彼は考えないはずです」

セルセイアはこの大陸の国家の情報の多くを握っており、その正確さには定評がある。また、常に陣頭に立って戦を指揮し、民の立場に立って物を考えるハイマンド皇帝の有能さは、この大陸にすむ者全てが知っており、言葉には説得力があった。

それにしても、〈こと寄せ〉を守るために〈こと寄せ〉を使うというのは、非常に危険な行為である。イレイムが数日間悩み抜いたのは、それが理由であった。一番最後に口を開いたのは、エイモンドだった。

「で、何を呼ぶ。 神か? 悪魔か? 竜か?」

「人を呼ぼうと思っています」

「なるほど、軍勢を召喚するのか。 しかしそうなると、帝国と全面戦争になるな」

「いえ、そんな事はしません」

怪訝そうに眉をひそめたエイモンドに、イレイムは笑顔で答えた。

「私は、人を二人だけ呼ぼうと思っています。 一人はとても強い人を。 今一人は、この地を守れる、合理的に物を考えられる人を」

「馬鹿な! たった二人で、あの皇帝に対抗しようと言うのか! あの、大陸最強の、帝国軍を防ごうというのか! い、いかれておる! 狂気の沙汰だ!」

「今までこと寄せを使った人たちが、何故破滅を産んでしまったのか、私なりに考えました」

エイモンドに対し、イレイムは冷静だった。一度この娘が決断し、やり遂げると決めたとき、そのグリーンブルーの瞳には炎が宿る。そして今、瞳はまごう事無く燃えていた。

「理由は、こと寄せに頼りすぎて、自分で努力を放棄してしまったからだと思います。 だから、最小限の力をこと寄せに借りて、私たちの力で帝国を撃退するべきだ。 私はそう考えたのです」

「成る程、確かに一理はあるな」

「ま、まて! という事は、その人間に、この国の事を任せると言う事ではないか!」

女王の言葉に同意を示したタイロンに、エイモンドが露骨な動揺を浮かべながら噛みついた。額からは汗が流れ、青ざめて呼吸は荒くなっていた。

「その人間に、国を乗っ取られたらどうするつもりだ! 陛下! 自分がしようとしている事が分かっておるのか!」

「勿論、責任は私がとります」

「ど、どうやって!」

「こと寄せを破壊し、召喚した者を強制的に故郷に送り返し、私自身は命を絶ちます」

女王の言葉には、誰にも曲げられない強い意志がこもっていた。うめき声と共にエイモンドは着席し、しきりに汗をぬぐった。手ぬぐいはすぐに汗まみれになり、忌々しげに長老は舌打ちした。

「では、始祖の名において、採決を」

立ち上がり、イレイムが言った。タイロンがまず立ち上がり、ドルックが続いて立ち上がった。そしてゆっくりセルセイアが、その後に続いた。床を蹴るようにして、エイモンドが立ち上がった。起立は賛同の意志を示す行為であったから、満場一致で女王の決断は歓迎された事になる。ただ、内心では、歓迎していない者もいたようではあるが、その者もこの場で孤立する危険性くらいは理解していたのだろう。

「……みなさま、感謝いたします。 では、儀式を開始したいと思います」

女王の声が、儀式の間に響いた。最強最悪のマジックアイテム〈こと寄せ〉が、二百三十年ぶりにその力を発揮しようとしていた。この国にて続いた平穏な時代が、迫り来る嵐に耐え抜くために、波乱の時代へと移り変わろうとしていた。それはある者にとっては嘆くべき事でもあったが、同時に別の者にとってはチャンスでもあったのである。

儀式自体は簡単である。こと寄せと契約し、力を振るうだけでよい。魔法陣が必要であるが、特に難しい物ではなく、普通に経験を積んだ魔導師なら、構造を理解した上で構築できる程度の物だった。女王はこと寄せを抜き放つと、刀身を下に向け、目をつぶり、呟くようにキーワードを言う。

「こと寄せ」

イレイムが、こと寄せに呼びかける。魔法陣が輝き、言葉を言霊に換え、こと寄せに注ぐ。災厄の刀を手にしたイレイムの全身が、魔法陣の中央にて輝き始めた。

「こと寄せ。 答えたまへ」

光は一瞬ごとに色を変え、強さも変化した。ある時は淡く、ある時は眩く、ある時は激しく。そして、イレイムの脳裏に、声が響いた。それは静かで、機械的で、人間味に欠ける声であった。イレイムは、こと寄せの事を、先祖の書き記した研究書で知っている。それによると、この刀は機械に近い物だと解説されていたが、まさにその通りだとイレイムは感じた。

「我に何を望む」

「プログラムの発動を」

「……心得た」

イレイムの頭の中に、凄まじい勢いで文字が流れ込んできた。呼吸を落ち着かせると、女王はそのうちの幾つかを選び、指定した。これは詳細に先祖によって子細が記されている作業で、イレイムはその全てを理解していた。だが、実行の段階になれば、緊張するのは避けられなかった。それでも、イレイムはやり遂げる事が出来た。目的の物を丁寧に選び出し、静かにそれを告げる。

「召喚作業、22、および366を。 座標および時間は指定座標99777whhuを指定。」

「了承。 プログラム22は三時間後、366は八時間後に執行。 以降当機は一年間のチャージ期間に移行」

「承知。 眠るが良い、こと寄せよ」

魔法陣の中央に、こと寄せを突き立て、イレイムは嘆息した。大仕事が終わり、賽は投げられた。もう、引き返す事は出来ない。

「召喚の間に急いでください。 お客様を迎えなくてはなりません」

イレイムは汗をぬぐい、皆へ振り返った。その表情は疲れ切っていたが、まだ燃え尽きてはいなかった。

 

2,戦国を生きる者

 

徳川家康は、数え年で四十三歳になる、壮年の武将だった。その目には鋭い光が宿り、動作はきびきびとして、生命力に満ちあふれている。身長は若干低めだが、それと運動神経は関係がない。名将と名高かった彼の祖父松平清康も小男であったらしく、背が低いのは遺伝かも知れない。肉体的にも健康そのものであり、またその能力はバランスが取れていて、政治家としても軍人としても一級の力を持ち合わせていた。特に彼は政治家としての手腕と、野戦指揮官としての手腕に傑出した物があり、現在急速に勢力を伸ばしている羽柴秀吉に対抗できる数少ない存在だった。

現在家康は、その羽柴秀吉と、激しい戦いを交えている。後の世で〈小牧長久手の戦い〉と呼ばれる戦であり、家康に有利に展開したが、結局の所は勝負がつかずに終わった。

三方々原で武田信玄にもて遊ばれていた頃とは違い、現在の家康は自他共に認める円熟した武将である。その能力の基幹になっているのは、才能以上に、若い頃から積み重ねてきた苦労が大きい。後の世の風評からは信じられぬ事やも知れないが、彼は常に家臣に慕われる、理想的な君主になろうとし、可能な限りそれを演じ、実行してきた。また、鷹狩りを通じて民衆とふれあい、その労苦を知る事も忘れなかった。

決断は自分でし、責任は自分でとり、戦場では陣頭にしばしばたった。実際、万夫不当とまでは行かずとも、普通の武将よりも優れた武勇の持ち主であったから、その自信がそうさせたのかも知れない。そしてそれらの行いが、家臣の忠誠を引き出し、団結させていったのである。

だが、彼が聖人君主だったかというと、それは大きな間違いである。彼は本来、短気で、我が儘で、しかも執念深い性格であった。それを示す良い例として、こんな逸話が残っている。

家康は幼い頃、人質として織田家と今川家の間を盥回しにされ、その際に今川の武将から酷い侮辱を受けた事があった。彼は数十年後、武田の家臣になっていたその武将を、戦場で捕らえた。家康は幼い日の事を忘れもせず、相手の顔を覚えていたため、烈火のごとく怒り、即座にその武将に切腹を命じたという事である。

また、彼にはねばり強い反面、偏執狂な部分もあり、少々妄想がすぎる部分もあった。性格には幾つも矛盾を抱え、陰湿さも持ち合わせているため、後世ではいまいち好かれない。だが、それこそが、彼の中に重みと深みを産んでいたのである。

 

家康の周囲で、勝ち鬨があがっていた。秀吉の甥、羽柴秀次の率いる部隊を、家康が急襲し、痛烈な打撃を与えた戦の余韻であった。何人か侍大将も討ち取り、秀次は這々の体で秀吉の元に逃げ帰った。今まで有利とは言え、神経を削りあう持久戦が続いていたため、実戦が行われ、なおかつそれが大勝利に終われば、意気が上がるのは当然であったが、家康は素直に喜ぶ事が出来なかった。

確かに今までの戦は有利に進んでいる。十一万の兵に、一万八千の兵で戦いを挑んでいるのに、である。兵力差は六倍、しかも秀吉は名うての戦上手で、凡百の愚将などではとうていない。野戦の名将と呼ばれる家康の名声は、伊達ではないという事になる。だが、その名声にふさわしい男は、この勝利に絶対的な価値を見いだしていなかった。

「呑気な物だな……」

床几に腰掛け、頬杖をつきながら、家康は一人ごちていた。彼の瞳には、勝利に浮かれ、軽口をたたき合う部下達の姿が映っていた。勇猛な彼の部下達は、地位にふさわしい、良い活躍をしている。彼もそれに関して、ケチをつける気は全くない。戦功に見合う評価が出来ない手合いは、この時代生き残る事が出来ない。そして家康は、弱冠二十五にして戦国大名となり、この地獄の世を生き残ってきた者である。それである以上、当然、部下達の活躍は、彼にとっても嬉しい事であった。実際、部下に激励の言葉を掛ける事を怠る家康ではなかった。

しかし、彼は戦略的に状況を見ていた。その視点から行くと、素直に喜び続ける事は出来なかったのである。戦術レベルで、今のところ確かに味方は敵を凌いでいる。しかし、秀吉は戦略家としても超一級の武将である。おそらく、今度は戦略的な揺さぶりを掛けてくる事であろうと、家康は推測していた。

これは戦の常識であるが、戦術的な勝利を幾ら重ねた所で、戦略的に敗北したらひっくり返す事は絶対に出来ない。現在家康は、亡き信長の次男織田信雄と同盟を組み、連合軍で秀吉に立ち向かっているが、信雄は坊ちゃん育ちで無能な男であり、全く頼りにならない。本来同盟を組むには値しない男であるが、大義名分というものが戦には必要で、それがなければ信望を失う。そして信雄は、その大義名分を作った男である。早い話が実用性はないのに、いなければいないで困る厄介な輩であった。家康には司令官として、こういう戦力をも有効活用しなければならない。すなわちそれだけの度量が求められるのである。

現在、家康に協力する勢力はそれなりに多い。だが、いずれの勢力も秀吉に対して積極攻勢をかけるだけの力はなく、その圧倒的な実力の前に戦々恐々としているのが現状だ。家康にしても、本気で秀吉を覆滅できると、完全に信じているわけではない。だが、此処で勝つ事は、秀吉の力にくさびを打ち込み、戦況を有利にしうる、できるではなくしうると考えているから、不利を承知で戦っているのである。

実際問題、家康には秀吉が打ってくる手が読めていた。まず間違いなく弱点に攻撃を掛けてくるはずだ。そして、おそらく秀吉もそれを察している。焦点になるのは、家康と同盟をくんでいる信雄だ。

力で脅すか、利権で脅すか、そこまでは分からない。秀吉は人たらしと呼ばれる調略の達人で、また戦の指揮も巧妙でねばり強い。そして、行動に出るときの早さと来たら、おそらく信長以上だ。もし正面から戦う事になれば、何においても、信雄如きでは、対抗する事など不可能である。家康は其処をだましだまし、何とか無能で度し難いお坊ちゃんをやる気にさせなくてはならないのだ。

そしてその具体的な方法が思いつかないから、家康は苛立っていた。無能な信雄を戦力として、旗印として有効活用し、味方の勝利に役立てなくてはならない。かっての、限りなく主君に近い同盟者の息子である事など関係がない。食わねば食われる、殺さねば殺される、利用しなければ利用される、それが戦国の掟である。そして家康は、それを守る事に後ろめたさを覚えはしなかった。なぜなら領主とは民百姓の命を預かる身分であり、あらゆる手を使って彼らを守る事を考えなくてはならない存在だからである。自分自身だけではなく、彼らのためにも戦わなければならないときは、確かにあったのだ。これは家康が必ずしも好戦的な事を示さないが、同時に際限なく冷酷になれる事を意味していた。

家康は様々に考えを巡らせていた。部下達の言葉に応じ、時には激励もしてやりながら、実は裏で様々に考えを巡らせていた。そして、彼は自分の周りが光に包まれたのに気づいた。

「む……? 何事だ!」

床几を蹴って、家康が立ち上がった。彼は一時的に光で視力を失っていたが、それでも刀を抜き放つ事に成功していた。そして、動揺することなく、臆することなく叫んだ。

「出会え! 曲者だ!」

叫びと同時に、光が薄れてきた。数度瞬きをすると、家康は油断無く構えを解かぬまま、周囲を見回した。そして、自分が先ほどまでいた自軍の本陣とは、全く別の場所にいる事に気づいた。

「異国の将よ、良く来てくれました」

「何者だ!」

家康は、眼前に現れた数人の者達に叫んだ。彼を警戒させた理由は、全く見慣れぬ彼らの格好が原因であった。家康は現実主義者であったが、迷信深い事とそれは両立する。見慣れぬ相手を、あやかしの類かと思ったのである。

「私たちは丸腰です。 武器をお納めください」

「黙れ! いったい何をした!」

「それを説明いたします。 ですから、武器をお納めください」

「……」

家康は黙り込んだが、刀を鞘に収める事はしなかった。彼の目から見ても、あまりに眼前にいる者達の服装は奇怪であり、あり得る事ではなかった。特に異質なのは髪と瞳の色で、ブルーグリーンの瞳や、緑の髪など、どう考えても彼の常識では考える事が出来なかった。信長の所で家康は黒人を見た事があったが、それでも此処まで異質な印象を受けなかった。

しかし、家康は同時に、相手に敵意を感じる事も出来なかった。彼は修羅場を数え切れないほど潜ってきたし、心理の洞察能力には自信があった。その彼を持ってしても、相手に敵意を感じられなかった。状況は異常だが、どうも危険はなさそうだ。数秒の思案の末、家康はその判断を下すと、刀を鞘に収め、嘆息して今一度語りかけてきた娘を見た。無論、何かあれば即座に刀を抜くべく、体勢は崩さない。

「……分かった、話を聞こう」

「ありがとうございます。 まず、此処がどこかをお話しいたします」

娘の口調は柔らかく、好感が持てる。家康は警戒を解かないまま、相手の話を聞き始めた。その顔が驚愕に彩られるまで、そう時間はかからなかった。

 

3,平和に浸かる者

 

高柳藍は、十二歳になる普通の少女だった。小学校六年生の彼女は、学業に傾倒するわけでもなく、遊びに傾倒することもなく、その辺の一般人と同じ生活を普通に送っていた。視力は悪く、いつも分厚い眼鏡をかけていて、運動神経はさほど良くない。歴史に関する知識は豊富で、逆に算数は苦手だった。

現在、彼女が暮らす国は不況だ何だと騒がれているが、世界的に見ればこれほど平和な国など無い。十七や十八になっても恋愛ごっこに現を抜かし、実用性もない学問を必要もないのに修得する。そんな無駄が出来るのは、この国が平和である事に他ならない。

ただ、この国に暮らす者の精神のたがが、最近はずれてしまっているのは事実であろう。善悪の区別は極めて曖昧な物に成り下がり、法は軽視され、命の価値は薄れている。陰湿な虐めが横行し、若者と老人は対立し、互いを尊重しようともしない。長い平和が心を腐食させたと言う者もいるが、それよりも、平和が当然ある物だと仮定してしまったのがまずかったのであろう。彼らの先祖が如何に苦労して、血を流して、その平和が到来したか考えようともしない、考えても出来ない。そんな環境にあるのでは、はやり心は腐食するのかも知れない。もっとも、長い戦乱が続いて、心が荒みきるのとどちらがましかといわれれば、それに明確な答えを出せる者などいないだろう。強いて言えば、どちらも同等に有害だと言う他はない。

民の心のたがをはずす直接的な原因となったのは、狂信的なカルト教団の無差別テロであったが、それが無かったとしても、現在のような状況は到来した可能性が高い。自分が何故いるのか、生活があるのか、考えなければ、いや考えようともしなければ、周囲を取り巻く環境は、必ず手痛いしっぺ返しをしてくるのだ。そしてそれは、時代や国に関係ない事実であった。

そんな時代に、高柳藍は生きていた。これから国が滅びるか、新しい時代が始まるか。過渡期にある社会の中で、自分の決断が何よりも重大な時代の中で、彼女は生きていた。

 

学校の帰り道。高柳藍は、いつものように級友と話しながら帰宅していた。彼女の所属する小学校では、ランドセルの着用が義務づけられていて、生徒達はカラフルなそれを背負って登下校する。藍は交友関係が狭いわけでもなく、逆にそう広くもない。ただ、友人とはじっくり深くつきあうタイプで、絆自体は強かった。

藍はどんな会話も嫌がらなかったが、友人達が避棄していた会話が一つだけある。それは歴史に関する会話、特に真田幸村に関する会話である。普段はおとなしい藍がこれに関してだけは別人のようになり、自分の世界に入って暴走するからである。

今、藍と話しているのは、内藤佐知子。転校してきたばかりで、しかも引っ込み思案な性格のため、友人がいなかった。こういう性格は年上の男性には好かれるかもしれないが、同年代の男子や女子には全くと言っていいほど好かれない。幼い子供は相手の力に敏感で、弱いと見るとそもそも人間としてみない事が多い。そして、佐知子のような性格は、紛れもなく弱い部類に属する。ものの哀れなどという考えを理解できるようになるのは、もっと大人になってからの話であり、小学生にそれを求めるのは厳しいであろう。子供は大人に比べて多分に動物的であり、本能的であり、無垢な分残虐で、弱い者や敵には容赦がないのである。

佐知子と普通に話したのは藍だけであった。しかも藍は学級内で隠然たる力を有する大野浪江と親友であったため、以前の学校で起こったような虐めは起こらなかった。だから佐知子は藍に感謝しており、積極的に話したがった。そして、今日一緒に下校する事に成功したのである。藍は歴史の話をしていたが、佐知子にそれは全く未知の分野であったので、彼女は素直に感心していた。話が一段落した所で、佐知子は笑みを浮かべながら言った。

「そうなんだ。 藍ちゃんって、色々知っているのね」

「ありがとう、そういってくれると嬉しいよ」

「藍ちゃんって、歴史に出てくる人で、誰が一番好きなの?」

もし藍の親友がこの場にいたら硬直したであろう。核爆弾のスイッチが押された瞬間だった。

「それはもう! 幸村様にきまってるっ!」

「ゆきむらさまってひとなの?」

「うん、そうそう! 日本史上最高の名将、信州の産んだ天才! 真田信繁こと、真田幸村様よっ!」

目を爛々と輝かせて、何か危険な部分のスイッチの入った藍の様子に、佐知子は困惑したが、時既に遅し。佐知子の手を掴むと、完全に自分の世界に入った藍は、如何に幸村が素晴らしいか語り続けた。

「もう、天才すぎてうっとりしちゃうっ! 大阪の陣での活躍、何倍の敵兵をも平気で撃退して、狸おじんの家康をぶちのめして、危ない所まで追いつめたんだからっ!」

「そ、そうなんだ」

「きっと幸村様が信長か秀吉の部下に早くからなってれば、歴史は大きく違ったはずよ! あの家康みたいな運だけでのし上がったサイテー狸が天下を取るような事なんて無くて、豊臣幕府とか、織田幕府が日本をもっとずっと良く統治したのは間違いないっ! そうしたらきっと幕末ももっと平和に過ぎて、太平洋戦争も日本が勝って、今頃はきっと幸村様祭りが日本中で、いや世界中で行われているはずっ!」

「えっと、あの」

何か途轍もなく危険なものを発動してしまった事に気づいた佐知子は、困惑を隠せなかったが、藍のヒートアップは更に続いた。

これは藍の友人達が聞かされてきた事で、佐知子もその洗礼を受ける事になったわけである。別に藍に右翼的な思想があるわけではない。彼女は幸村を三度の飯よりも好きであり、それが世界中で崇拝されたらどんなに素晴らしいかという妄想を語っているのである。そして、その妄想は更にエスカレートした。

「きっと幸村様が現代にいたら、お口のおひげが凄く似合うステキなおじさまだと思うのよっ! それでクールなまなざしで、声も渋くて格好良いと思うっ! それでそれで、きっと、私の手をそっと握って、目を正面から見つめながら、こういってくれるのよ!」

「あの、藍ちゃん」

「藍、お前を愛している。 ってねっ! キャー! 素敵すぎー!」

呆然とする佐知子の前で、藍は蕩々と語り続けた。それは果てしなく続いた。

 

確かに真田幸村は名将であったが、藍の評価は度が過ぎるであろう。もしそれほどの名将であれば、真田が日本を支配していた事は疑いない。藍は自分の理想像を歴史上の人物と重ね合わせて、妄想に酔っているにすぎないのだ。これは歴史好きに共通する病癖であり、特に藍が酷いわけではないが、免疫のない人間には強烈なインパクトを与える事疑いない。

判官贔屓と言う有名な言葉がある。判官というのは源義経の事で、悲劇的な敗者に感情移入する日本人の特性を示した言葉である。義経の他にも、悲劇の名将楠木正成や、藍もご執心の真田幸村は人気が高く、あり得ない歴史のイフを作家に語らせたものだ。また、豊臣家などは朝鮮出兵で無駄に大量の血を流した上、民衆を大量虐殺したにもかかわらず、同様の理由で人気が高い。朝鮮出兵が失敗したのは民衆を敵に回した事が最大の要因であり、それを指示したのが秀吉だと言う事も忘れられている。晩年の秀吉は明らかに精神を病んでいたようであったが、それも無視されている。また、幸村が大阪城に入場するときに、あまりにも粗末な格好であったため、山伏に間違われて追い出されそうになったという事実も、故意に無視される類のものである。美化されている義経など、反っ歯の小男であったのだが、無論それも故意に忘れられている。そして一番忘れられているのは、歴史的敗者は、破れるべくして敗れている事がほとんどだ、という事である。もっとも、勝者も叩けば埃が幾らでも出る事は疑いがないのだが。

とりあえず、佐知子が解放されたのは、たっぷり三時間も経った後の事であった。彼女は別に藍を嫌いになる事はなかったが、歴史の話をするのはこりごりだった。そして、藍はそれに気づかなかった。

 

久しぶりに愛する幸村様の事を他人と語れた事で、藍は上機嫌であり、鼻歌を唄いながら帰宅した。歩調は軽く、無意識にスキップまでしていた。如何に妄想の産物であるとはいえ、恋する乙女だとは言え、彼女が深く真摯に幸村を愛している事は疑いのない事実であろう。もっともそれを幸村本人が知ったら、苦笑して肩をすくめた事は疑いなかったであろう。そんな事などお構いなしに、幸村を愛する少女は、リズミカルな歩調を保ったまま、マンションの一室のドアノブをひねり、自宅に帰り着いた。玄関には、彼女のもの以外の靴があり、それを見た藍は声に喜びを含ませた。

「母さん、ただいまー!」

「お帰りなさい、藍」

藍は一人っ子である。核家族化が進んだ現在では、珍しくも無い事であった。両親は共働きであり、滅多に家にいる事はないが、今日はたまたま珍しく母親がいたのだ。家族が同じ食卓にそろった事など、ここ三ヶ月ほどもなく、一人で夕食をとる事など、彼女には珍しくもなかった。

しばらく母と楽しく話をした後、宿題がある事を指摘され、ランドセルを背負って彼女は部屋に戻った。マンションの隅にある一室が彼女の私室で、そこには無数の歴史書と、愛する幸村関係の書物が並び、憩いの空間にカスタマイズされている。幸村の本は、子供向けの本から、かなり対象年齢の高いもの間であり、彼女のマニアぶりが伺われるであろう。宿題が終わったら、改めてそれらを読もうと思い、藍は軽い歩調で部屋に向かった。

そして、藍が部屋に入った瞬間、その体が光に包まれた。

 

「え? ええっ!?」

素っ頓狂な声を上げ、藍は周囲を見回した。あたりには光が満ちており、彼女の視界をふさぎ、自由を奪った。転んで、床に倒れた彼女は、困惑を隠せず周囲を見回す。あたりに満ちていた光は徐々に弱くなり、そして彼女の視力もそれにつれて回復していった。

周囲は異質な空間だった。広く見えるように計算して造られた板の床、天井は高く、周囲の壁には穴が空いていて、光と心地よい空気が入り込んでいる。倒れた痛みはなく、頭を降りながら藍は立ち上がり、目の前に現れた数人の男女を見た。

「え……? あれ?」

「何だ、随分小さいのが現れたな。 本当にこれでよいのか?」

「はい、間違いないはずです」

藍の前で、戦国時代の鎧を着た男と、暖かい雰囲気の女性が、言葉を交わした。事態が理解できない藍の眼前で、更に会話は進行する。

「こんな子供が何の役に立つ。 こと寄せとやらは本当に正しい者を選んだのか?」

「こと寄せは、今まで多くの災厄を引き起こしてきました。 しかし、一度も的確でない存在を呼び寄せた事はありません。 信頼して良いはずだと、私は思っております」

「ふん……知れた事ではないな」

鎧の男は、吐き捨てると部屋を出ていってしまった。その表情は冷酷で、苛立っているようでもあったが、現在の日本人にはない圧倒的な生命力の輝きに満ちてもおり、藍を驚かせた。呆然としている藍に、ゆっくり女性が歩み寄る。そして、暖かい笑みを浮かべた。

「ようこそ、異国の者よ。 良く来てくれましたね」

藍の日常が終わる、最後の時間だった。それに平凡な日々を過ごしてきた少女は、露程にも気がつかなかった。

 

4,契約

 

事態が分からず混乱する藍は、最初に自分がいた部屋から少し離れた、別の広い部屋に連れて行かれた。そこでは先ほどの鎧を着た男が不機嫌そうに胡座をかいて頬杖をついており、何人かの男女がせわしなく行き交っていた。彼らはいずれも藍の常識では見た事のない衣服を着て、あり得ない瞳や髪の色をしている者も少なくなかった。

その場に先ほどの部屋にいた、焦げ茶の髪をして青緑色の瞳を持つ女性が入ってくると、行き交っていた者達は頭を下げ、皆部屋を出ていった。藍は言われるままに勧められた席に座り、身をぎゅっと縮めると、周囲を改めて見回した。知らない場所に連れて行かれた際に、動物はひっきりなしにあたりの情報を探ろうとして感覚器官を動かすが、その動作によく似ていたかも知れない。

「異国の者達よ、では、何が起こったのか、何故あなた達が此処にいるのか、説明させていただきます」

「早くしろ」

ぶっきらぼうに鎧の男が言い放ち、その口調があまりにも鋭かったので、ひくりと藍は身を縮ませた。無論、男は藍になど目もくれない。以外なのが女性の反応で、鋭い男の口調にも、全く動じる様子がなかった。或いは、年上の男性と接し慣れているのかも知れない。改めて藍が見てみると、若いのに落ち着いた雰囲気の、笑顔が素敵な女性だった。異性にも同性にも好かれそうなタイプであり、威圧感は感じられなかった。

「まず、名を名乗りましょう。 私はイレイム=アス=コーネリアともうします。 この国の、女王を勤めさせていただいております」

「えっと、高柳藍です」

「徳川家康だ」

「ええっ!?」

藍が立ち上がり、怪訝そうに家康と名乗った男がそちらを見た。藍の知識では、家康といえば嫌みの代名詞で、豚のように太っており、無能の極みで、只ぼんやりとしていたら天下が向こうから飛び込んできたような印象を受ける人物だった。無論、戦に関しても無能で、負けてばかりだと思っていた。

今、藍の眼前にいる男は、若干小柄ではあったし、鋭く冷たい雰囲気を持っていたが、無能さや愚鈍さなど微塵も感じられない。千事が万事しまった印象を受ける男で、身には圧倒的な生命力のオーラをまとい、有能だが冷徹な会社社長と言った印象を受ける。怪訝そうなまなざしを受けて藍は黙り込み、おずおずと席に戻った。目の前の男は、同姓同名の別人かも知れないし、或いは自分が徳川家康だと思いこんでいる狂人かも知れない。考えてみれば本物の、歴史上の徳川家康が藍の前に現れるわけがないのである。少なくとも、彼女の常識からすれば。

藍の考えなど、家康と名乗る男に届くはずもない。男は不機嫌そうにイレイムと名乗る女性に視線を戻すと、静かに言った。声は鋭く、多分に不機嫌さを含んでおり、苛立ちも交えているようだった。

「続けてくれ」

「はい、分かりました。 まず、この土地は、貴方達のいた世界とは別の世界です。 何故貴方達が此処に来たかというと、私が〈こと寄せ〉でお呼びしたからです」

「其処までは聞いたな。 で、何故我々が呼ばれたのだ」

藍は何とか話についていけていた。彼女は歴史以外にもファンタジーが好きであったから、何とかイレイムの話している言葉の意味が分かった。そのとんでもない状況と、自分の置かれた危機の意味が。

「家康様には、この国の政治を見て貰いたいのです。 藍様には、家康様と共に戦っていただきたいのです」

「儂がまつりごとを見る? 何故だ?」

藍の前で、家康と呼ばれた男が、苦笑を口の端にひらめかせた。

「まつりごとというのは、武士の代表が行うと思うか? 或いは、公家共が行うものだとでも思っているのか? それは違う。 まつりごとは、いつの世も、民の支持を受けた代表が、自分に命を預けてくれる者達のために行うものだ」

家康の言葉が、現代のもの以上に現実的なので、藍は驚いた。だが、いつの時代の政治家も、本当に政治というものの本質を理解してれば、家康と同じ事を言ったであろう。まつりごと、すなわち政治とは、相対的多数の総合的利益のために行うものであって、一部の特権階級が甘い汁を吸うために行うものなどでは断じて無いのだ。これはそのもっとも汚い部分である、軍事にも共通している事実である。

「まず、儂はこの土地の者ではない。 この土地を守る理由も無い。 土地の者達が、儂に命を預ける理由がない。 そして、ここからが大事な事だが」

声が大きくなり、同時に家康の瞳が、苛烈な光を帯びた。マフィアのボスでさえ、たじろぐほどの圧倒的な眼光であった。イレイムが流石に身をすくませ、その額に汗がぬぐうのを藍は見た。

「天下は、回り持つものだ。 誰か一人の物ではない。 一人が持つ事によって安定するなら、それも良かろう。 だが、国家が滅びるというのは、民に見放された事と同義だと考えるが良い! ……この国が滅びに頻しているのか、どうなのかは儂にはわからん。 だが、滅ぶときには滅ぶが良い。 それは民の罰という物で、自業自得という物なのだ。 国が滅びても民は生きる。 滅ぶべき国を救えというのなら、儂は断固断る!」

「……」

家康の言葉に、イレイムは蒼白になり、黙り込んでしまった。藍は今までのイメージが音を立てて崩れるのを感じ、驚きを視線に含ませながら、家康の横顔を見ていた。数秒の沈黙が続いたが、イレイムはきっと顔を上げ、手を叩いて従者を呼び、何かを持ってこさせた。

「……分かりました。 政治を見て欲しい理由を言わせていただきます」

「……」

家康の前で、地図が広げられた。藍も身を乗り出し、それを見た。国別にカラフルに塗り分けられたその地図では、目立つ勢力が二つあった。一つは北にあり、今ひとつは南にある。南には大国、そして中規模の国が安定した様子で並んでいるのに対し、北は一つ強大な国がある他は、小さな国が無秩序に並んでいた。中央ほどに、山に囲まれた小さな国があり、イレイムはそれを指さした。

「これが、我が国、コーネリアです」

「うむ、そうか」

「そして、北の大国がセイモル帝国。 勇猛果敢な軍と、名将と名高いハイマンド皇帝に率いられた新興国です。 ここ三十年で大幅に勢力を拡大、周囲の小国を切り従えて勢いを増しています」

イレイムの指先が、北に広がる大国の上に移動した。そして、その声が緊迫を帯びた。

「ハイマンド皇帝は、こと寄せが我が国にある事を知りました。 そして、自らの覇道のため、こと寄せを使うつもりのようなのです」

「使わせてやればよいだろう。 天下統一がなれば、民の生活も安寧になる」

「いけません。 今までこと寄せで天下を統一した者で、平和に終わった者は誰一人おりません。 前回こと寄せを使った王は、呼び寄せた魔物に国を滅ぼされてしまいました。 島ごと消し飛んでしまった例さえもあります」

家康は腕組みをして、暫く考え込んでいた。事情があまりに彼の住む世界の現実と違いすぎるので、困惑を隠せないのであろう。だが、流石に決断力と判断力を備えているだけの事はあり、やがて事態を飲み込んだようであった。或いは、そう見せかけて事態を流し、様子を見るつもりなのかも知れない。ともあれ彼は、視線で続きを言うように促した。イレイムは額の汗をぬぐうと、言葉を一つ一つ選びながら続けた。

「ハイマンド皇帝は、英明な王です。 英雄の素質を持つ、優れた君主です。 今の彼ならば、こと寄せを使いこなせるかも知れません。 しかし、彼の子孫や、彼自身が年をとってからは、どうなるか分かりません」

「ふむ……」

「こと寄せは、あまりにも便利すぎるのです。 歴代の使用者も、最初は巧くいっていた例がほとんどです。 しかし、徐々に便利すぎること寄せに頼るようになり、感覚が麻痺していって、最終的には身を滅ぼしてしまいました。 私も始め、こと寄せを使う事には躊躇いたしました。 しかし、この国を守るためだけに、最小限の人を呼び出すだけなら仕方がない事だと思ったのです」

「……分かった。 要するに、こと寄せを守るために、こと寄せを使ったわけだな? そして儂らに、こと寄せを守って欲しい、というわけだな?」

鋭く核心をつかれて、イレイムは顔を下げた。藍はやりとりから目を離せなくなっていた。家康と名乗る男が、偽物だとはもう彼女は思っていなかった。好感は湧かないが、凄い存在の前に自分がいる事だけは分かっていた。

「……今、我が国は困難な状況にある」

頭を下げたイレイムに、家康は声をかけた。その口調は、若干先ほどよりも柔らかくなっていた。

「儂の代わりがいるならばそれもいいが、息子の秀忠はまだ役立たずで、とても周囲の国々を統治するつわもの共とは戦えないだろう。 家臣達にも、皆をまとめられるような者はいない。 儂が国を離れたら、我が国は良いように蹂躙される事疑いない」

「それなら、問題ありません。 この戦いが終わったら、召喚した時間に貴方達を返す事が可能です」

「そうか。 だがしかし、もう一つ、重大な問題もある」

家康が身を乗り出し、苦笑した。

「儂はもう四十をすぎた。 体の頑健さには自信があるが、時は何よりも重要だ。 そう長い時間は、ここのまつりごとを見ていられん。 そしてまつりごとは、短期間では出来る事に限界があるのだ」

政治を知り尽くした家康の言葉には、確かな重みがあった。だが、イレイムはそれに屈する事はなかった。

「一年、一年間だけ貴方の時間をください。 一年で、貴方を故郷に帰す算段をします」

「一年か……ふむ……」

家康はしばしの沈黙の後、顔を上げた。周囲に緊迫した空気が流れ、それが不意に和やかな物へと一変した。家康は静かで深みのある笑みを、口の端に浮かべていたのであった。

「分かった。 話に乗ってやろう」

「ありがとうございます、家康様」

心から感謝し、イレイムは頭を下げた。家康は静かに頷き、瞳に形容しがたい光を湛えた。

 

藍は二人のやりとりを、静かに聞いていた。まだ若いのに、家康と渡り合ったイレイムに敬意を表したのもあるし、言葉に圧倒的な迫力を含んでいた家康に畏怖を感じた事もある。家康がイレイムの言葉を受け入れた理由は正直分からなかったが、その言葉が出たとき、藍は安堵のため息をついていた。

「藍様、次は貴方の番です」

「え、あっ、はい!」

不意に名を呼ばれて、藍は我に返った。家康は腕組みをして目をつぶり、なにやら考え込んでいるようであった。難しそうな顔をしており、下手な事を言えば怒鳴られそうだと藍は思った。素直にイレイムの言葉を受け入れたようには、到底思えなかったが、同時に何か下劣な事を考えているようにも見えなかった。

「藍様、貴方には家康様の下で戦っていただきたいのです」

「え? えーと……」

藍が困惑した声を上げ、家康が舌打ちした。そして自らの腰から脇差しを抜くと、藍の方に放った。慌ててそれを受け止める娘に、冷厳な声がかかる。

「こと寄せとやらが信頼できるか知りたい。 我が太刀を受け止めて見よ」

言葉を吐くと同時に、家康が立ち上がった。そして、イレイムが止めるまもなく、腰の太刀を抜き放つ。誰の目にも業物と分かる名品で、刀身は陽光を反射して輝き、鋭く冷徹な殺意を放っていた。へたり込む藍に、家康はつかつかと歩み寄り、無造作に一太刀を浴びせた。

家康は一騎当千の武を持つわけではないが、水準の家臣よりは遙かに優れた武勇の持ち主である。その太刀は鋭く、重く、烈しかった。もし、抵抗がなければ、藍の首は一太刀にてたたき落とされていただろう。風を切る音が、死に神の刃が振り下ろされる音のように響いた。

藍の瞳に、振り下ろされる死が映る。剰りに目まぐるしく動く事態に、少女は混乱し、悲鳴を上げる事も出来なかった。時間が粘つく油のように、ゆっくり流れ、死が確実に迫ってくる。冷厳な視線が藍の体を刺し、殺意と共にえぐる。恐怖が臨界点に達し、次の瞬間、藍は動いた。

それは雷のような早さだった。跳ね起きた藍は、手をなめらかな動作で脇差しに滑らせた。金属が烈しく擦れ合う音がして、刀身が解放される。家康の太刀と匹敵するほどの名品であったが、それは藍には見えなかった。重さも感じず、恐怖も消し飛んだ。ただ、ゆっくり家康の太刀が飛んでくるように見えた。それを斜め下から、藍は異常に手慣れた動作で、淡々と迎撃した。

閃光が爆発し、家康がくぐもった声を漏らした。次の瞬間、跳ね上げられた太刀が回転しながら床につきたち、烈しい擦過音と金属音を立てた。藍は完璧なまでに洗練された動作で脇差しを振り上げており、数秒の後、その事実に気づいた。

「え……あ……あれ……?」

「……どうやら、こと寄せとやらの判断は正しいようだな」

家康は痛む手を押さえ、淡々と言った。やせ我慢しているのは明白で、実際は苦痛にわめきたかったのは疑いない。床に突きたった太刀を引き抜くと、鞘に収め、呆然としている藍の手から脇差しももぎ取った。

「少し休みたい。 部屋をくれないか?」

「はい、藍様もお休みになられますか?」

「……うん」

自分の異常な力に、誰よりも驚いている藍は、それだけ言うのが精一杯であった。

 

数時間の休憩の後、イレイムの対応は少し変わった。まず、藍とうち解けようと、彼女は思ったようであった。国家云々の話はとりあえず休止して、世間話や、自分の話を中心にし始めたのである。こと寄せの機密についても、イレイムは隠そうとはしなかった。ただし、外で話すのは絶対に禁止という言葉を付け加えての事であったが。

「じゃあ、私たちの言葉が通じるのは、こと寄せが召喚するときに、特殊な魔法で翻訳しているからなんだ」

「その魔法自体が、現在の人には実行も再現も不可能なものなの。 それだけを見ても、こと寄せは、とても恐ろしい力を持っているのよ」

「ふーん、そうなんだ」

いつの間にか、藍の顔には笑顔が浮かんでいた。彼女は、先ほど自分が発揮した力の異常さを誰よりも良く認識しており、既に事態を受け入れて飲み込んでいるようだった。家康は仏頂面でそれを眺めていたが、やがて視線を逸らした。

家康は非常にねばり強い性格で、それに関しては秀吉をすら凌ぐ。また、戦略眼も優れていたから、物事を短絡的に判断する事もなかった。そして彼が考えている事を見抜くのは、今のイレイムや、藍には不可能だった。この様な男を、これから巧く使いこなしていかなければならないのだから、イレイムの苦労は本当に大変な物になるであろう。

藍はイレイムに心を許し始めていた。しかし、この少女は事態を冷静に見始めてから、状況が如何に大変な物かもわかり始めていた。それを知ってか知らずか、イレイムは笑顔で言う。

「それで、藍様。 私に力を貸してくださいませんか?」

「ごめんなさい、少し考えさせて」

藍の返事は即答だった。彼女はこのとき、何とかして元の世界に帰る方法を考え始めていたのである。実際問題、彼女は歴史好きであったが、政治は嫌いだった。そして印象は変わりはしたものの、家康もやはり好きにはなれなかった。

歴史好きである以上、合戦が如何に酸鼻な物であり、困難な物かくらい藍も知っている。まして、これから彼女が相手にしなければならないのは、名将に率いられた、勇猛果敢な軍勢である。藍は家康を愚図で馬鹿で卑劣なだけの狸親父だなどとはもう思っていないが、軍人としての評価はまだ未知数であり、命を預けられるなどとは考えていない。まして、此処は異国の地であり、イレイム以外の人間がどんな連中かも全く分からないのだ。

まだ幼いのに、藍はかなり計算高かった。実際問題、彼女も自分の頭が此処まで冴えるとは予想外だったろう。この娘は、危地に陥ると本来の姿が発揮され、能力が一気に開花するタイプのようだった。現在の日本にいれば終生平凡な人生を送ったであろうが、戦乱の時代ではのし上がる事が可能であったかも知れない。

だが、それを彼女が望んでいるかというと、話はまた別だ。藍は話を受け流しておいて、チャンスを虎視眈々と伺い始めたのである。驚くほど合理的な判断力が、彼女の中で動き始めていた。

 

5,それぞれの思惑

 

イレイムは何とか家康との契約をする事が出来て、安堵を覚えていた。後は藍ともう少しうち解け、契約にこぎ着けたい所であるが、無理押しは失敗する可能性が高そうだったので、暫く様子を見る事にした。彼女は執務室に戻ると、様々な手続きをするべく書類の処理を始めたが、その手が止まった。

「陛下、お話が」

「セルセイア様、何ですか?」

不意に後ろから声をかけられても、イレイムは動じなかった。声がセルセイアの物であり、彼女が無二の腹心である事は疑いなかったからである。手を止めて、イレイムは振り返り、セルセイアに向けて笑みを浮かべた。

「藍殿の事ですが」

「はい、藍様がどうかしましたか?」

「何かを企んでいる物と思われます。 お気をつけください」

怪訝そうな顔をする藍に、セルセイアはなおも言った。

「子供とは思えないほど、巧妙に隠してはいますが、瞳にやましい光がありました」

「……そうですか」

イレイムはセルセイアに絶対的な信頼を寄せている。その言葉は信用できるし、何より彼女のために言ってくれていると知っていたからである。

「分かりました。 セルセイア様、彼女を刺激しない程度に、監視してください」

「後は、家康殿の事ですが」

セルセイアの声が、心なしか低くなった。歴戦の諜報員である彼女にとっても、家康は相当に手強い相手であり、簡単にはかれる存在ではなかった。性格には矛盾が多く、複雑であり、単純に分類する事はまず出来まい。少し監視しただけで、油断ならない相手の能力を悟ったセルセイアは、警戒心を隠す事が出来なかった。

「あの男、何を考えているか分かりません。 気をつけてくださいませ」

「セルセイア様がそういうと言う事は、とてもあの人は凄い人なのですね」

緊張感のないイレイムの言葉であったが、相手の言葉の恐るべき意味は十分に理解していただろう。しかし、その上で、イレイムは家康を信頼すると決めていた。セルセイアの瞳に、妹か娘を心配するような、微妙な光が宿った。

「セルセイア様、大丈夫です、きっと。 私は家康様を信頼します。 藍様も信頼します。 今は無理でも、きっと心は通じるはずです。 そして、こと寄せの事を信じましょう。 人が正しく使えば、あの恐ろしい剣は、きちんとそれに答えてくれるはずです」

「……」

前向きな言葉は、セルセイアには甘くも思えた。しかし、同時に貴重な物にも思えたので、あえて苦言を封じた。いざというときは、自分が盾になる決意をして、セルセイアは再び言葉を吐く。

「それと、長老達が素直に家康殿の施政をうけいれるでしょうか」

「私が何とか説得して見せます」

その言葉には、やはり重い決意がこもっていた。いずれこの国の歴史上に残る名君の器か、それとも只甘いだけの小娘にすぎないのか。何にせよ、この娘が責任を積極的に引き受け、自分の立場を理解しているのは確かな事であった。セルセイアは目をつぶり、頭を下げると、執務室を後にした。

セルセイアは、主君が名君であろうと、暗君であろうと、終生忠誠を尽くす気持ちでいた。たとえ自らの命が危険にさらされようと、幾億の民に主君が恨まれようと、その気持ちは揺るがなかったであろう。それはある意味狂信的に見えたかも知れないが、彼女にとっては違った。心の奥底で、セルセイアはイレイムを自分の家族だと思っていたのである。

闇の世界を良く知るセルセイアには、イレイムの光がまぶしかった。それはさながら、洞窟に差す、一筋の光であった。だから、それを塞ごうとする存在は、彼女にとって不倶戴天の敵であった。長老であろうと、家康であろうと、帝国であろうと、或いは藍であろうと。もしそうなれば、地獄の底まででも追いつめ、殺す覚悟であった。しかし、今は只、イレイムの決断を信じるつもりだった。

部屋の外に出たセルセイアは、夜空を見上げた。其処には黄色い月が二つ浮かび、大きな一つは真円に近い形を、今ひとつは半円に近い形を示している。それから降り注ぐ光は、只黙々と地上を照らし、虫の鳴き声と合わさって幻想的な雰囲気を作り出していた。

コーネリアはそう大きな国ではない。だが、紛れもなく存在する国であり、セルセイアの故郷でもある。そして、イレイムの愛する土地でもあった。

イレイムは全てをなげうって、女王としての勤めを果たそうとしている。その姿は気高く美しかった。光には闇が伴い、闇がなければ光は存在し得ない。イレイムは紛れもなく光、だとすれば自分が闇になり、徹底的なまでに闇になり、補佐する覚悟をセルセイアはしていた。

 

コーネリアの地で、複数の思惑が絡み合い、動き始める。それはまだ統一性を持たず、自分勝手に蠢きあい、歴史という舞台の上で無様にもがくばかりであった。家康という大きな糸が、イレイムという眩い糸にたぐられ、それに終止符を打とうとしている。それにより、今まで表面化していなかった様々な問題が、一気に噴出しようとしていた。

フルア大陸歴799年一月。コーネリアの歴史上で、もっとも烈しく炎が燃えた一年の始まりは、意外にも静かであったが、だが内部は灼熱の溶岩を湛えていたのであった。この溶岩は、やがてコーネリア王国だけではなく、セイモル帝国、南の聖アーサルズ皇国も巻き込み、燃え上がって行く事となる。

(続)