蠢く蝮

 

序、ヴィルセの苦悩

 

ヴィルセ=フリードは、このところ上機嫌である。 今までたまっていたストレスと不安感が

魔界大使館の的確で迅速な政策により、一つ一つ潰され、街が活性化してきたからである

無論蓄えは減りつつあったが、そろそろ塩田の経営が軌道に乗り始め、塩の生産量が消費量を上回り

余所の街に売る見通しが付き始めたので、その不安からも解放されそうであった

隣の地区の執政官は、悪政を行う暗君で、メリッサの評判が高まり始めた今

移民も徐々に増え始め、人口も増え始めている。 そして、彼らを養う資金も仕事も充分だった

現在、人口は四千から四千三百人まで増加している。 三ヶ月で一割近い人口増加である

このまま行くと、住民の二割弱を軍人が占めるという事態は、そう遠くない未来解消されそうであった

また、山には雑然とはいえ緑が戻り始め、禿げ山は生き返り始めていた

安心が生じる一方で、若干の不安も芽生え始めている

その理由は、メリッサが彼にはさっぱり分からないことを、娘に言い出したからである

三権分立の重要性だとか、近代的な政治は民衆の自主的意志によって行われなければいけないとか

民主主義と社会主義の特性だとか、専制国家は混乱期にのみ存在意義があるだとか

政治と宗教は絶対に結びつけては行けないだとか、彼の常識に完璧に反することを

「メリッサの政治講座、その11ですわ〜」

などと独特の口調で言いつつ、吹き込んでいるのである

あまり悪い事とは思えないが、娘が自分の分からないことをして、面白いとは思えないヴィルセだった

それは一人立ちしようとする娘に苦悩する、一人の父の感情だった。

だが、それが娘のためになるとも分かっているため、苦悩はますます大きくなるのである

一つのストレスが潰れたと思えば、また別のストレスが鎌首をもたげる

軍の者達は、哨戒任務や警戒任務をモルトと共に行い、山賊の残党をこの一月でほぼ刈り終え

マフィアの残党の内、社会復帰できそうな者を軍に入れて鍛え直しと言った任務を行っていたが

それ以外は、メリッサの極めて計画的な開墾政策にかりだされ、畑ばかり耕せられ

開墾が終わったと思ったら、これまた極めて計画的な治水作業にかりだされ、河ばかりいじっていた

将来広がるトモルアの街を考慮し、計画的に進められている開墾は、確かに彼らにも有意義だと分かる

また、将来の街を考慮した衛生対策と水害対策の為に、治水工事を行うことの重要性はよく分かる

だが、彼らは軍人である。 強大な敵と戦い、そしてそれによって家族を守りたいのである

当然ヴィルセに対する忠誠は大きく、ヴィルセによる激励を受けて士気は保っているが

やはりそれでも不満はたまる。 極端な話であるが、彼らは血に飢えていたのだ

メリッサにしてみれば、ここで兵士を喪失するわけには行かない

平和な時代といえど、それは全体を見てのこと。

領土を巡った小競り合いは、皇国内でもしょっちゅう起こっているし

それにまた連合と皇国が戦闘に突入すれば(両国の軍事力疲弊から言ってまずあり得ないが)

このヴォラードからも、幾らかの兵がかりだされ、その内の多くが生きて帰ってこないだろう

ヴィルセは積極的に訓練を行い、兵士達の不満を反らそうとしており、今の所それは成功している

だが、それにも限度というものがある。 今の世代の兵士達が軍の主核となっている内はまだ良いが

若い世代が主力を担うようになり、そのときまだ今の状態が続いていたら・・・

決して、面白い状態にはならないだろう。

ヴィルセの苦悩を余所に、皇国北部、ヴォラードからかなり遠い場所で、一つの陰謀が蠢き始めていた

それはこの国の矛盾に反抗する者達による、命を懸けた政治的逆転劇を狙う行為

・・・つまり、民族レベルでの反乱工作である

 

1,翼を持つ者達

 

この所メリッサの元にもたらされる情報は、いずれも国家レベルの活動が沈静化している物であった

フォルモリア連合は、盟主であるアッカード王国と、二番手の実力者であるメルカイド王国が

長期に渡って水面下での睨み合いを続けていたが、大陸間戦争が終わった頃には両国の過激派が

それぞれの盟主によって一掃され、現在は急速な歩み寄りが行われている

また、第三の勢力とも言われる、皇国の七割程もある広大な領土を持つドルモウス帝国では

皇帝が変わり、国政の腐敗が一掃され、発展と平和の時代が訪れつつある

戦争による消耗が終わり(正確にはそれ以上の消耗が出来ない状態になり)

破滅か建て直しかの時代が来たわけであるが、大国は幸いにも皆建て直しに向かった訳であった

だが、皇国だけは違った。 未だに、どちらへ行くかのベクトルが定まらない状態である

メリッサの元に、看過し得ない情報が舞い込んだのは、そんな状況のおりであった

無論会議が開かれた。 そして、ヴォルモースは驚くべき提案をした

天界側の大使館とも話し合いを行い、事態の監視を積極的に行うべきだというのだ

確かにそれは合理的な考えであったが、今まで対立を繰り返してきた両陣営である

そんな考えが即座に浮かぶというのは、流石にヴォルモースであった、というべきやもしれない

メリッサは数秒の沈黙の後、それに賛成した。 他の者達は、全員おいおいに賛成した

かくして天界大使館に通信が送られ、何度かの協議の後

天界大使館の職員が魔界大使館を訪れることになり、両者の会議の日がやってきた・・・

 

響きわたる荘厳な音楽に、皆が空を見上げると、それはいた

<魚>であった。 この間魔界大使館の側に着陸した物に比べ、とにかく華美で豪勢であり

無意味に大きく、それでいて性能は魔界製の<魚>に劣る

これは実力よりも血筋、中身よりも外見を重視する天界旧時代の悪弊の名残であるが

現役の空中魔導艦を別に壊す必要もないので、現在も使用されているのである

無論その報は、ただちにヴィルセの元に届けられ、200の兵を連れて将軍は現場に急行したが

既に当地では着陸した<魚>から降りた天使達が、魔界大使館の連中と話しており

別に侵略行動でもなんでもなく、ただ交渉に来たと分かると、部下を帰して非礼を詫びた

それにしても、<魚>から降りた天使達は、余りにも常識外かつ予想外の姿であった

特にリーダーは凄まじい。 ヴォルモースにも引けを取らないほどの異形だった

彼らを見て驚くヴィルセに、メリッサは笑った

「彼らの中は、私の旧知も何人か混じっていますわ。

それに、今後何かと共同作業する事もあるでしょうし、レイアさんに紹介しておきましょう

娘さんを呼んでいただけます? ヴィルセ将軍」

「了承した。 すぐに娘も此処に呼ぼう」

将軍の憮然とした返事を聞くと、メリッサはきびすを返し、館の中に戻っていった

ヴィルセは、またしても非常識な姿の相手に娘を接させる事になると気付き、溜息をついた

あの後、レイアはずっと悪夢に悩まされ続けている。 今でもヴォルモースの目をまともに見られない

だというのに、同じくらい凄まじい姿をした者をまた見ねばならないとは、不幸であった

 

レイアは程なく、何人かの兵士に守られて現れた。 既にこの三ヶ月で、十七回の訪問を行っており

グレーターデーモンとも顔なじみになり、今ではすっかりここの雰囲気にも慣れている

しかし、未だに父の心配通りヴォルモースには馴染めない。 今でも、周囲に一〜二回は夢に見て

恐怖の叫び声と友に起きることが多く、兵士達もそれを良く知っていた

ただ、何しろデリケートな年代の女の子の事ではあるし、それ以外では何時も冷静であったから

レイアが人望を失うようなことはなく、現在に至っている

「レイアです。メリッサさん、どういたしまし・・・・?」

扉を開け、口を開いたレイアが硬直した。 そこには、ヴォルモースが異形の姿のままおり

彼の左右には、モルトとフィラーナ、それにルーシィとメリッサのいつものメンバーに加え

天使が四名いたのだが、そのメンツが問題であった

ヴォルモースだけでも恐ろしいのに、天使達のリーダーの姿も、また凄かったのである

一瞬遠のく意識を必死に引き留め、レイアは席に着く。

この地の主要人物全てが、ここに集まった瞬間であった

 

天界大使館の者達は、皆魔界大使館の職員達に引けを取らない個性を持つ者達だった

科学者であり、研究者でもあるレギセエルは、淡いブルーの瞳と縮れたドレットヘアを持つ巨漢で

鋼鉄のような黒い肉体に、いつもラジカセを担ぎ、昔は<退廃的音楽>として忌み嫌われていた

<ハードロック>や<ラップ>なる音楽を、ヘッドホンを掛けて最大音量で楽しんでいる

言動は陽気で、歩くときにも常にリズムを取って行動し

サングラスと口ひげが似合いすぎる、非常にワイルドな人物であるが

女性に対しては非常に誠実でしかもうぶであり、三年前に結婚した奥さんには頭が上がらず

口を開けば、いつも奥さんの自慢ばかりしている。

実際、奥さんは出来た人物であり、しかも清楚な美貌の持ち主である。

自慢するのも、当然なのかも知れない

護衛員として派遣されたフェゼラエルは、モルトと浅からぬ因縁がある退役軍人で

その実力も拮抗しており、戦場では何度か死闘を行った間柄である

剣術使いであり、最初は守りに徹し、相手の隙をついて一気に反撃するタイプの武人であるが

それはどちらかといえばの話であり、その攻撃能力、防御能力共に非常に高いレベルである

また、普段の彼女を見た者は、戦場で血の嵐を巻き起こす死神などとは、到底想像できないだろう

フェゼラエルは、長い黒髪の眼鏡っ娘で、とにかく何時もぼんやりしており

趣味はぼんやりすること、放っておくと自分の世界に入り込んで何時間でも延々とぼんやりしている

それでいて、戦場では人格が違うのかというとそうでもなく

突っかかってきた者を返り討ちにする以外はぼんやりしていて、また相手を覚える気がそもそも無く

何度も死闘を行ったモルトでさえ、七回目の戦闘でようやく名前を覚えてもらったほどだ

背は少し低めで、体つきは貧弱だが、顔立ちは水準よりずっと可愛らしく、男性にはもてる

しかし本人に、全く異性に対する(同性にも)興味がないため

周囲のアプローチは全て無駄に終わっているのが、彼女の周囲における現状である

若々しい容姿だが、天界大使館役人のメンバー内で最年長で、実はモルトより三割ほども年上だ

そんな彼女は<ドラウドルス平原大会戦>で、天軍の主力部隊と一線級人材が壊滅的大打撃を受け

それによって、高位のポストに起用された(天軍では出自が能力以上に重視される)寒門出身者で

初めてその時、嬉しそうにしていたのを見て同僚が困惑していたという逸話がある

悩みがない者などいない。 折角志願して軍隊入りし、戦場で戦果を上げても評価されず

周囲にはバカにされ続けた彼女が、ようやく評価されたのが嬉しかったのだろう

それは、彼女が初めて実績で評価された瞬間だった。 以降はぼんやりしながらも戦場で活躍し

大戦の終結と共に退職し、現在は友人のリエルに頼まれて、天軍大使館の護衛官をしている

天界大使館で政治任務を担当しているのは、フェゼラエルの旧友であるリエルである

リエルはタートルネックの黒セーターと、何時も首から下げているロケットがトレードマークの天使で

年齢はメリッサより30歳ほど上だが、見かけはほぼ同年代である

翼は六枚、メリッサと同じように高い評価を受ける若手政治家であるが

一を聞いて十を知るタイプのメリッサに比べ、才能より努力で実力を伸ばしてきたタイプで

過剰な勉学のせいで目は非常に悪く、特殊なコンタクトを入れないと一センチ先も見えない

才能でメリッサに劣ると言っても、この娘が天才であることは疑いなく

経歴と実績は、決してメリッサに引けを取らない。 現在の能力はほぼ互角であろう

努力家というと、生真面目な朴念仁を想像する者が多いが、この娘は違う

と言うよりも、何を考えているかさっぱり分からないタイプで

まじめな顔をしていると思えば、真顔で今日は何月何日かと聞いたり

にこにこしているかと思えば、政治議論を頭の中で熱く練り上げていたりと

とにかく常人が理解できない思考回路をもっており、それに関してはメリッサも警戒しているようだ

そして、リーダーのカズフェルである。

他の者達が翼を持つ以外はほぼ人間形態なのに対し、この者は全く違う姿を持つ

カズフェルの中央に存在するのは、蒼い球体である。 大きさは子供の頭ほどあるだろう

そして、その球体の外側円周上に、四つの牛の頭が、等間隔を置いて並び

球の上には、巨大な眼球が魔力の支えによって浮いている

牛の頭の上には、蜻蛉の羽のような半透明の翼が、四つの頭にそれぞれ一つづつ付いており

そして、牛の頭達は、等速度を保ったまま、常に球体の周りを回転しているのである

ヴォルモースも異形ではあるが、このカズフェルもまた異形であった

精神生物として、見かけにこだわらない天使には、こういう存在がたまにいる

二代前の熾天使長ラウウェルなどは、頭が山羊の巨大な蛇という姿をしていたし

フェゼラエルの妹は、羽にたくさん目を付けてその姿を変えようとはしない

レイアはヴォルモースもカズフェルも見ないようにしていたが、体の震えまでは消せず

びくびくしながら、席で縮こまっていた。

怖がることが失礼だとは知っていたが、体の方が言うことを聞いてくれないのだ

「まず、初めてあった方は、はじめましてといっておきましょう

我はカズフェル=レインバウア。 天界大使館を政府から任されている者です」

カズフェルが眼球を動かし、それが三百六十度一回転して一巡すると、空間に荘厳な声が響いた

どうも、空間に魔力で干渉して音を発生させているらしい。 丁寧な言葉遣いによる挨拶だった

専用の非常に長い椅子に座っていたヴォルモースは、それを受けて一礼し、自らも触手を振るわせる

「私の名はヴォルモース。 魔界大使館を任されている者です

こちらは右からメリッサ=ライモンファス、サーガス=モルト、リゼア=ルーシィ、フィラーナ

此方の方々は、人間側の代表者の、アスフォルト皇国将軍ヴィルセ=フリード氏

そして、将軍のご令嬢レイア=フリード殿です。 ま、以後よろしくお願いいたしますぞ」

人間で言えば笑顔で、ヴォルモースは器用に感情の起伏を混ぜながら言った

カズフェルの人格は、既にメリッサの手により調査済みである

礼儀正しい相手には敬意を払い、無礼な相手には失礼な対応をする天使で

それは上司に対しても同じ事であり、相手が熾天使だろうと遠慮しない

一方で、能力に対する正当な評価と、統率力には評判があり、故に部下からの評価は高い

フェゼラエル以上の、寒門出身のこの天使が出世できたのはそういう理由からである

最も、カズフェルもフェゼラエル同様に、状況が逼迫するまでは出世できなかったのだが

彼の大きな眼球が回転し、部下達の方を向く。 意図を察して、部下達が立ち上がった

「レギセエル=アッカドだ。 ちいと地味な屋敷だが、手入れが行き届いて快適ダゼ

招いてくれてありがとな。 後でカミさんにも、此処の良さを教えるつもりだ」

最初に発言したレゼキエルは、そういうと真っ白な歯を見せて笑い、席に着いた

続いて立ち上がったのはリエルであった。 慇懃に頭を下げ、静かに言う

「リエル=マクレインです。 お招きに預かり光栄です

今日は来る途中、外でカモメの形をした雲を見ました。 綺麗な雲でした」

何故か雲の話をすると、リエルは席に着いた。 政治会談の時も、この娘はこういう意味のない話から

相手を自分のペースに巻き込むことを得意としているが、どうもわざとではなく地らしい

続いて、フェゼラエルが立ち上がる。 モルトが、彼女に鋭い視線を射込んだ

「フェゼラエルです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

沈黙を不審に思った皆が彼女を見ると、数秒して我に返り、続けた

「すみません、壁紙が素敵だなーと・・・・思ってしまいました

あたし、時々自分の世界に入っちゃうんです。 許してくださいね・・・」

笑みを浮かべると、フェゼラエルは着席し、そして次の瞬間にはもう自分の世界に入っていた

確かに、ここの内装はそこそこにいい物を使っている

質実剛健を旨とすると言っても、訪問者にはそんな理屈は通用しないからである

モルトは一方的にフェゼラエルをライバル視しているが(ひょっとしたら恋心もあるかも知れない)

ライバル視される方は、そんな事などどうでもいいようであり

挑戦的な視線を叩き付けられても、平然としていた。 気付いても、にっこり笑い返すだけだった

自分がモルトにどういう感情を持たれているかさえ、この娘は気付いていないだろう。

戦場で生きて来れたくらいだから、決して愚鈍ではないが、しかしとことん鈍いのだ

ぼんやり何かを考えているフェゼラエルに舌打ちすると、モルトは視線を戻した

モルトを慕う女性は、トモルアの街にも既に30名以上もおり、現在も増加傾向にある

彼女らが見たら烈火の如く怒るだろう光景であったが、フェゼラエルにその様な事が分かるわけもない

「我らを招いていただき、ヴォルモース殿には感謝の言葉もありません

誰にでも分かることですが、これは両世界にとって大きな進展です

双方の末端が、自主的意志によって歩み寄りをはかる

・・・これが如何に大きな事か、言うまでもないでしょう」

心底嬉しそうな、だが無機質な声が空気中に響く。 カズフェルの言葉は、素直な感動に満ちていた

だが一方で、ただそれだけでは無いことも承知している

この場ではそう大きな事を言われないだろうが、それはいきなりの衝撃を避けるための措置で

両者の連携が近い将来必要となるために、呼ばれたことは明白である

それは魔界側が、天界側の掴んでいない抜き差しならぬ情報をつかんでいる証拠でもあり

一方で政府高官レベルにまで話が行かない以上、それが人間界に限定されたことだとも洞察でき

心中で、事態の規模に安心もできる。

もっとも、天界大使館の役人でこれが分かっているのはカズフェルとリエルだけだろう

やがて場所はホールに移り、会食へ移行した。 その過程で、モルトがフェゼラエルを連れて外にでた

 

「モルトさん、どーしたんです? あたし、パーティの御馳走楽しみなんですけど?」

外に連れ出され、開口一番にフェゼラエルは言った

次の瞬間、モルトが剣を抜き、超高速の斬撃が襲いかかる

そして、剣の柄を軽く弾いて、フェゼラエルはそれを受け止めた

「・・・技が、荒いですね? どうしました?」

「久しく強敵と戦っていなかった物でな・・・行くぞ!」

モルトは笑っていた、それは久しぶりに五分の力量を持つ相手と戦うことの出来る喜びであり

戦闘に取り付かれた者が、殺し合いの中で見付けた快楽に酔う表情だった

周囲に衝撃波が飛び散り、轟音が巻き起こる。 視認できぬほどの速さで、両者が刃を交えているのだ

だがそれは、ほんの数秒で終わった。 モルトの髪が一本、中途から斬られて地面に落ちる

「むー・・・すっごく欲求不満みたいですねー。

技は荒いし、攻撃は大味・・・今回はあたしの勝ちですね」

そう言って、剣を鞘に収めるフェゼラエルは、髪の毛一本とて傷ついていなかった

無言の沈黙は、数秒続いたが、やがてモルトが不快げに舌を鳴らした

「・・・こんな時に、一体何を考えている」

「あ、すみません。 あのテラス、渋いけど素敵なデザインだなーって思って」

呆れたように頭を振ると、モルトは屋敷の中に戻っていった

ほんの数瞬の攻防だったが、彼の負けは疑いのない事実であったし

相手が、フェゼラエルが<あの事件>の後だというのに、何時もと変わらぬ様子なので安心もしたのだ

その後暫くフェゼラエルは其処でぼんやり立ちつくしていたが、やがて思い出したように屋敷に戻った

 

リズムを取り、相変わらずお気に入りの巨大ラジカセを肩に担いで

しかも公式会見の場だというのにスーツも着ず(天界では、こう言うことが非常に五月蠅いのに)

食事をつまんでいたレギセエルに、ルーシィがフィラーナを連れて歩み寄った

「久しぶりねー。 元気してたー?」

「Oh、ye・・・おっと、ルーシィさん、久しぶりだな。

そちらのお嬢さんが、前に言っていたあんた達の保護者カナ?」

「そんな・・・私はフィラーナと言います。 姓はありません

此方こそ、貴方の噂は前々から耳にしていました。 よろしくお願いいたしますね」

優しい微笑みを、フィラーナが向け、レギセエルがサングラスの奥の目を細めた

爆裂する個性を持つ自分に、物怖じせずに近づいてくるのが嬉しかったし

何より、昔の、出会った頃の奥さんを彷彿とさせるところがフィラーナにあったからである

そんなフィラーナを見て、レイアが驚いていた。 何時も冷たく、絶対に心開かず

必要最小限のことしか自分にしようとしないフィラーナの、癒されるような心暖かい笑み

しかもあんな個性の塊のような天使に平然と近づき、物怖じせずに接しているのだ

今まで、冷たくて酷い人だとレイアは彼女を評価していたが(失礼だとは知りつつも)

その評価が根底から覆るような、純粋で暖かい笑みだった

「レイア、驚いたか?」

「お父様・・・・私・・・・私・・・」

いつの間にか、レイアの後ろにはヴィルセが立っていた。 天使達と声をかわした後

無骨な将軍は娘の驚きに気付き、その正体を察し、歩いてきたのである

「フィラーナ嬢は、人間相手に仮面を被っている。

お前にも、その理由と、仮面の下にある優しさがおいおい分かってくるだろう

もしも、あの子が仮面を脱いでくれるときが来たら

あの子はお前にとって、比類無い友になることは疑いない。 努力してみることだ」

「はい。 ・・・努力してみます」

フィラーナはそんなやりとりには、一切気付いていなかった。

もっとも、気付いていたらますます心を閉ざしたであろうから、それで良かったのだろう

フィラーナは自分に向けられる視線にも気付かず、今度はメリッサの方に近づいていった

それを見届けると、ルーシィは別人のような冷酷な表情を作った

前に、フィラーナが彼女の研究を聞こうとしたとき、見せた顔だった

「レッギー・・・所でー、そっちの方はどうー?」

「俺の方はそうさな、大分いい資料が集まってナ

やっぱり情報は現地で収集するに限る。 そっちはどうだ?」

同じく陽気な何時もとは全く違う表情を作るレギセエル、超長命生物は色々な顔を持つものだ

「私はね、フィーちゃんのおかげもあって、随分研究が進んでるよ。

疲れてるとき、あの子いいタイミングで色々してくれるんだ。 本当に助かる

・・・・今一番不安なのはね、私の研究を知ったとき、フィーちゃんが私を嫌わない勝って事」

「俺の不安も、カミさんが研究を知ったとき、俺のことを嫌わないかって事ダッタ

だけどな、あいつは俺を認めてくれたよ。 あの嬢ちゃんも、カミさんと同じ目してる

だから大丈夫・・・ダトおもうぜ。 いいお嬢ちゃんだよ、あの子は間違いなく」

その言葉を受け、ルーシィは笑った。 フィラーナの物には及ばなかったが、暖かい笑みだった

 

魔界大使館のエースであるメリッサは、しばらくは食事に集中していたが

腹がいっぱいになるのを見計らって、一人で食事しているリエルに歩み寄った

「こんにちわ、ですわ。 リエルさん。 前にあったのは、確か六年前でしたわね」

「うん。 しかし、お互いに変わらないね

人間だったら、おままごとしている子供が大人になる年月なのに」

リエルは、公式以外の場所では、口調がぐっと柔らかくなり、しかも悪くなる

表面的には二人ともそれで笑ったが、水面下では既に腹のさぐり合いを始めている

リエルは今回呼ばれた理由を、半分ほどは洞察している。 情報が足りないため結論は出していないが

幾つかの仮説は既に構築しており、現にその中の一つは現実を正確に射抜いていた

「フィラーナさん、紹介しますわ」

歩み寄ってきたフィラーナに笑みを浮かべ、メリッサは笑った

「此方、リエルさんですわ。 ちょっぴし頭が悪いですけど、それを補う努力家で

私のライバルです。 つきあいはもう二十年にもなりますわ」

「こんにちわ、リエルさん。 フィラーナです」

先ほど同様の暖かい笑みを浮かべると、フィラーナは頭を下げた

この娘の言葉には、接した相手の心の鎖を緩める効果があるようで

無論それは下心のない優しさから来るのだろうが、リエルもその効果に当てられ、表情を思わず緩めた

「こんにちわ。 そこのひらひらおマヌケ政治家の保護者だってきいてるよ

大変でしょ、この幼児ロリ趣味おばかさんの世話は」

一瞬のうちにメリッサを徹底的に二度も冒涜しながら、さらりとリエルは続けた

「そんなんでも私のライバルなんだから、しっかり面倒見てくれて嬉しいよ」

「相変わらず口が減らない・・・・このド地味陰険アホ小娘天使が・・・」

こめかみに青筋を浮かべながらも、心中では笑い、メリッサは言った

普通ならその場でとっくみあいの大喧嘩になりそうな会話ではあるが、この二人はこれで相手を確認し

相手を認め、そしてライバルとして認識しているのである

一見不気味ではあるが、こういう友情も存在する。 別にそれを否定する必要など無いだろう

二人の関係が、一風変わっていながらも心温まる物だと悟ったフィラーナは、静かに微笑した

料理の換えを取りに、安心したフィラーナが戻る。 それを横目で見ると、リエルは静かに口を開いた

「で・・・今回の本当の目的は?」

「ふふ、簡単なことですわ

皇国で少しまずいことが進行してて。 いざという時は我々で協力してそれを潰すか

それとも皇国を見捨て帝国辺りに移動するか、考えなければいけないのですわ」

メリッサによく似た冷徹な光を湛えながら、リエルは鼻を鳴らした

この少女は、見かけはともかく一人前の政治家である

必要だと思えば、数万の命を切り捨てることも考えるし(自分の物や家族の物も含め)

当然、友情以上に政治判断を重視することが出来る。

メリッサがこうも簡単に事情を話した理由は不可解だが、此処で嘘を言う理由はない

少なくとも、彼女には考えつかなかった。 数秒の考えの後、リエルは決断を下した

「成る程、そーゆーことか。 分かった

今の所、協力しといた方がいいね。 じゃ、色々準備しとく」

「それが賢明ですわ。 どっちの政府も、今は無駄な出費が出来ない状態ですもの

・・・ところで、そちらの方は、統治どうなってます?」

「まあまあ、って所だね。 そっちは上手くいってるみたいじゃん

羨ましいよ。 こっちももうちっと頑張らなきゃね」

此処で聞かれているのは、実際の事情以上に個人的な感想である

それを悟り、見かけ通り幼い笑顔を浮かべて、リエルは苦笑していた

これは当人の力量の問題ではなく、状況がヴォラード以上に悪かったから、というだけである

天界政府の大使館が置かれているゾ・ルラーラ地区は、ヴォラード地区より人口が多いが

汚職官吏の横行、海賊や山賊の跳梁跋扈は殆ど同じであり

加えて、リエルの手に掌握された人材が、ヴィルセほど優秀ではなかったため

膿出しと、状況の沈静化に時間がかかり

(戦闘専門家ではないリエルやレギセエルさえ、犯罪組織の壊滅に動かなければならなかった)

現在はようやく治安と情報ルート、交易ルートの掌握に成功

卓越した手腕で、人類側の人材育成と土地の基礎能力向上を平行して行い

それが軌道に乗り始め、ようやく土地の活性化が始まっている

ヴォラードに比べ、活性化が数ヶ月遅れているが、人口が多い分状況次第ではどうなるか分からない

また、リエルの政治手腕の内、人材育成能力はメリッサのそれを上回る(わずか、ではあるが)

それらが理由故に、メリッサも全く油断が出来ない。

土地の潜在能力を一刻も早く覚醒させねば、一気にリエルに追い越されることだろう

後は二言三言言葉を交わし、二人は食事に戻った。

そして、その後は一言も言葉を交わさなかった

 

ヴォルモースとカズフェルは、部下の行動に干渉せず、自分たちで大雑把な話をしていた

それは殆どが他愛のない話だったが、途中でヴォルモースは表情を改め(正確には雰囲気を)

フィラーナが台所で料理をしていることを確認すると、話し始めた

「・・・優秀な人材とは、灰汁が強いモノでね。 うちは、実質上あの子のおかげでもっている

私には出来ない・・・あの子の様に、皆を団結させることは。

だが、あの子を大事にすることで、皆を団結させることは出来る。 それが救いではある

カズフェルさん、貴方の所はどうなのかな?」

「我の配下達は、個人プレーを主としている。 我は彼らの個性を伸ばし、最低限の干渉しかしない」

数秒の沈黙の後、ヴォルモースは再び触手を振るわせた

「それは現在では良いかも知れないが、危機に陥ったり、部下が精神的に落ち込んだ時には大変ですな

貴方の所でも、中心になる人材を確保してみてはどうでしょう」

「考慮しておく。 確かに、それは重要な事です

先ほどから見ていると、あの子は刺抜きとして最良の存在のようだ

だが、<人間>に対する冷たさも目立つ・・・それを克服すれば、更に上に行くことが出来るでしょう」

敬語と恭しい口調が微妙に混じった言葉遣いで、カズフェルは淡々と応えた

パーティの終了時間はそろそろ近づいていた。 だが、それは有意義に終わろうとしていた

 

2,政治的策謀へ

 

大使館同士の交流パーティは、無事終了した。 お互いに腹を探り合い

一方で真剣な話し合いもし、いざという時の協力体制を確認し、パーティは有意義に終わったのである

また、レイアはフィラーナに対する印象を改め、これからは努めて接近をはかろうと模索し

ヴィルセはヴィルセで、妙な焦臭さを感じ、周囲に対する警戒を強め始めていた

そんな折りのことであった、ヴォラード地区の周辺で、妙なことが起こり始めたのは

 

真夜中の大使館、一番遅くまで起きて事務処理をしていたメリッサが(ただし、起きるのは遅いのだが)

ドアをノックする音を聞き、ガウンを羽織って外に出る

そこには、人間形態となったグレーターデーモンの一人ゲズールルがおり、会釈していた

メリッサは、どんな場合であっても、年長者には言葉使いが丁寧だった

ただし、行動はそうではなかったのだが

「何ですの? ゲズールルさん」

「<蝮>を確認しました。 隣のアスクライド地区にて、数人の部下と共に活動中です」

メリッサの目が細まり、空気が一気に緊張した

蝮というのは、この国の裏側でかなり大きな勢力を持つ武器商人であり

当人の人柄から蝮と呼ばれ、周囲に畏怖されている人物である(蝮には失礼な話である)

かなりのやり手であり、その能力は一級品ではあるが、同時に非常に冷酷な性格で

ヴィルセも幾度か顔を合わせたことがあるが、良い印象を受けたことは一度もない

「活動の内容は分かりませんの?」

「調査中です。 奴はかなり強力な用心棒を連れて来ています

加えて、警戒心が強く、簡単には尻尾を出しません。 調査を続行いたしましょうか」

曖昧に頷くメリッサ、彼女としては、こんな所に蝮が来た理由の方が気になるのであった

アスクライド地区は十四万の人口を抱える巨大な地区であり、現在苛政に苦しめられている

巨大とはいっても聖王都があるフォラステール地区には到底及ばないし、軍事戦略的にも価値が低い

軍需物資の大量生産が行われている場所でもなければ、マフィアのはびこる暗黒街でもない

つまり、蝮が行く理由が、表面上からは判断出来ないのだ

となると、誰かと、何か重要な打ち合わせでもするつもりなのであろうか

同地区の警備員は腐敗の局地にあり、監視は笊に近い

もし見つかっても、袖の下を掴ませれば、簡単に沈黙する

良からぬ企みの打ち合わせをするなら、これ程楽な場所もない

「・・・監視を続行。 警戒レベルAで対応なさい

必要とあれば、殺すこと。 能力的には惜しいけど、必要ならば致し方ないわ

それと、天界大使館に連絡を取って。 向こうからの情報も、合わせて私に報告しなさい」

「分かりました。 では、失礼いたします」

闇にかき消えるように、ゲズールルは去った。 天界大使館の側にある地区が、蝮の本拠地である

この蝮は、必ず災いの渦となる。 故に、絶対に目を離すことは出来なかった

メリッサは数秒沈黙していたが、やがて振り向いた

「いつ頃からいましたの?」

「ついさきです。 お菓子とホットミルク用意しましたよ」

視線の先にはフィラーナがいた。 心配げな視線を向けるメリッサに、優しく微笑んでみせる

「私には、難しい仕事は分かりませんが、頑張ってください

メリッサさん、私は大丈夫です。 何があろうと、貴方を信用しますから」

「・・・有り難う。 政治ってのは、綺麗事だけでは片づかない部分があります

でも、本質的には大多数の民のため、そして弱者のための存在なのですわ」

妙な言葉をメリッサは吐いていた、そんな言葉、事実だとしてもただの自己弁護に過ぎないのに

鋭い知性を持つ者なら、すぐに分かることだった。 メリッサ自身も、吐いて一秒後には後悔していた

フィラーナもその辺は理解していたようだが、この娘は柔らかく受け止めることが出来るのだった

「分かっています。 さあ、残業頑張って下さいね」

「・・・ええ。 分かりましたわ」

メリッサはぎこちなく笑みを浮かべると、ホットミルクを受け取った

白い飲み物は、砂糖が非常に多かった、甘くてそれでいて暖かかった

 

ヴォラード地区へ流入する民は、それからの三ヶ月間でも増加し続けていた

計画的な指示による植え付けと、荒野の再利用の結果

北部の村々でピルテアの収穫が行われ、それは街の住民ばかりか流民の腹を満たすにも充分な量で

(つまり、農業政策が功を奏し始めていた)現在、街に飢えはない

流入のさいに通る道には、既にメリッサの指示で軍が配備され、食料や衣服のない物にはそれが配られ

また、民同士の諍いを仲裁し、そして仕事を斡旋してやっていた

塩田の経営はこれ以上の大規模にはなり得ないが、それでも人員はいればいる程良い

メリッサの指示で積極的に幾つかの地区から資材が集められ、街は大きくなる一方である

問題は仕事と資金であるが、塩田の経営が完全に軌道に乗った今、その心配は当分無い

ただし、黒字も消えた。 そろそろ、更なる資金調達法が必要になってくるだろう

メリッサがここで改革を初めて丁度半年が経った日。 流入する住民の中に、興味深い人材がいた

家族連れのその男は、トモスという名であり

アスクライドで働いていた役人で、地位的には中堅であったが

本来は宰相クラスの仕事を任せられる人材で、情報力も豊富であり、部下からの評判も良かった

ただし、上司からの受けは悪かった。 媚びを売りもしなかったし、何より本人に面白みが無かった

現在、ヴィルセがここの領主を表向きはしている。 まだ彼の屋敷はなく、砦が彼の住処であるが

それでもそこは細部まで良く掃除され、決して見苦しいところではなかった

彼に、流民となったトモスを迎える様に指示したのは、メリッサであり

ヴォルモースはそれを聞いてゴーサインを出した。 ヴィルセはそれに忠実に従い

家族共々トモスを砦に迎えて、食事を勧めて話を聞いた

トモスは冴えない男で、家族も普通の者達だった

娘は素朴な顔立ちで、暖かい雰囲気がどこか魔界の者と接するフィラーナににていた

家族の歓待をレイアにまかせると、ヴィルセはトモスに向き直り、茶を勧めながら言った

「貴公ほどの人材が、我が地区に来てくれたのは有り難い

それにしても、何故地位を捨てて来たのだ、こんな面白みもない場所に」

「それはとんでもない話ですぞ。 此処の発展は、今までとはうってかわって素晴らしい

革新的な政策、柔軟な対応、そして商才すら感じさせる手腕。 わたしめは感服した次第でございます

・・・あれは、ヴィルセ将軍の手による改革なのでございますか?

それとも、此処に建てられたという、魔界の建物が原因なのですか?」

何かを含んだ口調でトモスが言う、流石に油断ならない男だとヴィルセは感じ

適当に誤魔化しておくと、レイアを呼び、情報を聞かせることにした

レイアも当然アスクライドの情報には詳しいが、トモスのそれは流石に比較にならず

真綿が水を吸い込むように情報を吸収するレイアに驚きながら、トモスは知る情報を流していった

そして、結果はメリッサの元にすぐもたらされた。

メリッサは自分の指示通りヴィルセが事を行ったことを確認するとほくそ笑んだ

やはりこの男は、将軍として得がたい人材なのだ。

与えられた任務を、忠実に実行する能力に於いて比類無い

こんな優秀な人材を自分の元に放り出した皇国の無能ぶりを鼻でせせら笑うと、メリッサは部下を呼び

もたらされた情報が本当の物か、精密に確認させた。 これは絶対に必要な措置だった

何故かと言えば、トモスがスパイである可能性は否定できないし

信用できぬ人間の情報を鵜呑みにするのは、余りに危険だからである

数日間の調査の結果、情報は全て信頼できる物だと判断された

メリッサはヴィルセを呼び、トモスを大使館に案内するように指示した

翌日、メリッサは使者をアスクライドに派遣

領主の公式文書がその手で配達され、数回の協議の末受認された

文書の内容は、アスクライドからヴォラードに流入する民を

ヴォラードが受け入る事をアスクライドが公式に認めること

その見返りとして、アスクライド南東部で暴れ回る山賊組織の壊滅工作をヴォラードが行うこと。

以上であり、無気力で知られるアスクライド領主フォライデン司教は、それを二つ返事で受け入れた

無論、それがどういう結果をもたらすかなど、知りもしないで

 

「ルーシィさん、モルトさん、いらっしゃいます?」

広間にメリッサが足を踏み入れると、そこでは偶然にかルーシィとモルトがいて

真剣な顔つきで、カードを切っていた。 モルトはカードが弱く、完全にルーシィのカモだった

それ故に不愉快そうなモルトが舌打ちと共に振り返り、ルーシィが満面の笑みを浮かべた

「なーに? 今すんごく良い所なんだけどー?」

「・・・その通りだ。 何か重要な用事か?」

「ん、ちょっと。 今からアスクライドにある、モスクロ山に行って来て欲しいのですわ。

目的は其処に巣くう山賊の壊滅。 そして、彼らの保有する情報の確保」

剣士の表情が引き締まった、無意識に長髪に手をやり、丁寧な口調を作って聞く

「処分方法はどうする? 捕獲か? 殺すか?」

「全員殺しても構いませんわ。 ただし、リーダーは捕まえること」

大量虐殺を促してしておきながら、メリッサの表情は普段と変わりなかった

モルトは不服そうに<ブラッディクロウ>を持って立ち上がり、ルーシィはカードをしまって笑った

「今度のは貸しにしとくね、モルちゃん。 ね、ヴォルちゃんの許可は当然取ったよねー?」

「勿論ですわ。 ルーシィさんの派遣も、許可済みの事ですもの」

その時、ルーシィは非常に冷酷な表情を浮かべていた

何故彼女が派遣されることになったか、すぐに理解したからである

「これがアスクライドにはいるのに必要な許可証ですわ

そうそう、フィラーナさんが、明日レイアさんと区境の関所を見に行くそうですから

帰りにでも、声をかけて差し上げて欲しいですわ」

無言のままモルトは頷き、虚空にかき消えるようにその場を後にした

少しでも強い相手がいれば楽しいし、たまには剣にサービスしてやらねばならないからである

「じゃ、行って来るねー。 出来るだけ早く帰ってくるから、兎さんでも料理して待っててー」

「私の料理で良いんですの?」

一瞬の沈黙の後、ルーシィは前言を撤回し、慌ててモルトの後を追った

メリッサの料理が食べられたもので無いことを、ルーシィは良く知っていたのである

 

2,政治とそれがもたらす物

 

モスクロ山は標高1000mにも満たぬ低い山だが、鬱蒼とした樹海は昼なお暗く

しかも失政で食べられなくなった農民や浮浪者達が、徐々に集まり初めて

六年前に有能な男が血を血で洗う抗争の末リーダーに収まると、急速に組織化していった

以後は其処を通る旅人を襲撃し、男は殺して金品を奪い、女は若ければ慰み者にした後売りさばき

若くなければ男と同じように扱い、おぞましいことにどちらの場合も殺した後は食料にした

つまり、旅人が通れる状況ではなくなったのであった

別に、彼らが特別に凶悪なわけではない。 凶賊等という存在はそんなものだ

無論、討伐軍がここで派遣される所なのだが

アスクライド領の将軍達は、皆軍人と言うより経済官僚に近く、互いに派兵を押しつけ合い

兵士達の戦意も低く、それでも二回ほど派遣された討伐隊は二度とも敗北して逃げ帰った

それに伴って山賊の凶悪度はますます増し、現在はこの辺りを飢狼の森と言って近寄るものはおらず

また、山賊のリーダーは積極的に犯罪者を仲間に受け入れる旨を呼びかけ、勢力を増していた

最近では近隣の村々に襲撃をかけるようになり、<飢狼賊>と呼ばれ恐れられている

狼に極めて失礼な呼び方であるが、農民が憎む狼ほどに山賊が憎まれていると解釈が容易である

腕の立つ冒険者の中には、こんな連中一人で全滅させうる者もいる

だが、彼らは数が少なく、村が雇える冒険者では質もたかが知れている

何度か腕利きと自称する冒険者が雇われ、山賊の討伐に向かったが、一人も帰ってこなかった

住民からの不満はピークに達し、村を放棄する村民も続出し始めていた

それで、奇妙な話で相手の意図が読めないながらも

体内の癌たるモスクロ山賊を処分できるというのならと、アスクライドは申し出を受けたのだ

三流の政治家の特徴は、目先の利益に捕らわれて致命的な失策を犯すことにある

もっとも、それでも政治のなんたるかすら理解していない政治屋よりはましなのだが。

ともあれ、モルトとルーシィは彼らに迎えられて、アスクライド内に足を踏み入れた

周囲の村での情報収集は、ゲズールルらの手によって、既に終了している

・・・大量虐殺が、今此処に始まった

 

森の上に人影があった。 それは、モルトであり、翼もないのに彼は宙に浮いていた

「・・・本拠地は確認した。 どうもあの洞窟の中のようだな」

森の中を透視しているかのように、モルトは呟いた、 すぐに無線を取りだし、ルーシィと連絡を取る

「私の目的は、敵司令の確保と奴の保有している情報の確保

そして、捕まっているかも知れない者達の解放だ

その過程で向かってくる者は処分する。 残りの者はルーシィ、貴公にまかせる」

「うん、久しぶりにたくさん食べることにするねー。 兎さんもいるー?」

数秒の沈黙の後、モルトは応えた。 既に視線は、ある一点に絞られていた

「・・・・生態系に問題が出るほどは捕食するな。 魔界政府の規約に触れる

兎の数は、辺り一帯で350程だ。 三十匹ほどは食べても良いだろう」

「うん、分かった。 じゃねー」

通信を切ると、ルーシィは日当たりのいい木に登り、日光を浴び始めた

こうやってひなたぼっこをするのが、ルーシィの第一の趣味だった

次の趣味は、食事である。 一番好きな肉は兎の肉。 人肉は好きではないが(何しろまずいので)

ただでたくさん食べられると言うのなら、言うことは一つもない

ほどなく、轟音と共に、樹海の中央部で煙が上がった

モルトが作戦を始めたのである。 悲鳴を上げる暇すらなく、死んだと認識する暇すらなく

音速を超す斬撃の前に、山賊達が斬られて行く

山賊達が逃げるルートは、既に把握している。 程なく、ルーシィは木を降り、大きく息を吸い込んだ

「さーて・・・行くわよー・・・」

虐殺は、ほんの三十分ほどで終わった。 巨大な百足の咆吼が、一度だけ樹海に響いた

それだけで、充分だった

 

洞穴の中には、死体は一つもなかった。 壁には鮮血が飛び散っているが、最小限の分量である

死体は全て、洞窟の外に放り出され、ルーシィが処理した。 一つも残さずに、処分した

元から外にいた者は、これもルーシィに処分されていた。 強烈な麻痺効果を持つ咆吼で停止させられ

生きたまま貪り食われていった。 正確には頭からかみ砕かれて飲み込まれた

山賊のボスは、気絶させられた後強固に縛り上げられ

徹底的なボディチェックの末に舌を噛まないように猿ぐつわを噛まされ、床に転がされていた

周囲には幾つかの書類があり、モルトはそれらに素早く目を通し、やがてひとまとめにした

既に剣は鞘に収められている、久しぶりに大量の血を吸って、満足そうに低音を発しながら。

「私には政治は分からぬ。 故に、これらの書類の判断はメリッサが行うのが良いのだろうな

一応目を通しておくか、ルーシィ。 貴公にも興味がありそうな内容だ」

「うん、うんうん。 ちょーだい」

のんびりした口調で受け取ったルーシィは、一枚目の書類から既に目を輝かせていた

素早くメモを取り、二枚目、三枚目をチェックする。 二十枚ほどの書類に興味を示し

やがて額の汗を拭うと、モルトに笑いかけた

「ふーん・・・・・・・ところでそっちはー、なんだったの?」

「・・・フィラーナやレイア嬢には見せられぬものだ。 人肉の塩漬けが樽に詰まっていた

殺した旅人の肉だろう。 奥には血を詰めた物もあった

最深部の牢には、衰弱しきった娘が何人か入れられていた

山賊達が慰み者にしていたのだろうな、生きてはいたが、皆衰弱して怯えきっていた」

ルーシィが視線を移すと、その娘達は意識を失って床に転がっていた

モルトの手によって、強めの睡眠薬をかがされたのである。

調査を邪魔されるわけには行かないし、ルーシィの本性を見られてもまずい

「しっかし、人間てのは・・・何度見ても・・・

此奴らがフィーちゃんと同じ種族だって、どーしても信じられないよねー」

「確かに、大多数の人間はフィラーナとは違うな、いや違いすぎると言ってもいい

だが、昔の魔族や妖魔とて、それに天使だって似たようなものだったはずだ。

今でも、魔族の中には良い奴もどうしようもない屑もいる。 種族レベルで存在は判断するな

研究内容があれである以上、貴公には、その辺がよく分かっているだろう?

フィラーナがいる以上、此奴らを基準に判断することはない。 帰るぞ」

モルトは言葉を断ち割ると、軽々と捕らわれていた娘達を担ぎ上げ、書類はルーシィにまかせて

かき消えるようにその場から消えた。 肩をすくめると、ルーシィはその後を追った

「分かってはいるけどねー、私ってさ、どうしてもそーゆーの納得できないところがあるから」

彼女の呟きは虚空に流れ、誰の耳にも届かなかった

 

モスクロ山賊、一日にして全滅。 その報は直ちに周囲の村々、それに街に広がり

それを苦もなく成し遂げた魔界大使館の恐るべき実力を、住民達は畏怖の声を加えて噂した

山賊の主立った者達の死体は、メリッサの指示により、ルーシィが意図的に処分せず

被害を受けた地区の住民に引き渡され、彼らによって八つ裂きにされて街頭に曝された

同時に山賊が掌握していた街道は再び通行可能な状態になり、住民達のヴォラードに対する友好度は

嫌が応にも高まり、流入する住民を加速する要因となった

それに拍車をかけたのは、先にかわされた公約である

即ち、アスクライドからヴォラードへの移住を認可する・・・

結果として、これから一年の間に、四千五百人の人間がヴォラードに移住することになる

 

モルトは帰り道、関所でメリッサの言葉通り、フィラーナとレイアを見付けた

相変わらずフィラーナは人間に対して冷たい態度をとっていたが、しかし弱者に対して冷酷でもなく

笑顔は一度も見せなかったが、迷子を案内してやり、老人を手伝ってやり

ヴィルセの代理として此処を任せられているクレイナを手伝って、手際よく働いていた

レイアは此処で付けられている帳簿と流民のリストに目を通し、素早い計算で矛盾点を発見して

素早く周囲に指示を飛ばし、事務作業を片づけていた

先にモルトに気付いたのはレイアだった。 咳払いをするモルトに、ぎこちなく礼をしてみせる

「仕事は順調か? メリッサが心配していた」

「大丈夫です。 道中で、フィラーナさんは一度も口を利いてくれませんでしたが」

やはり、まだまだ相互理解には時間が必要だろう。 モルトはそれを確認し、視線をずらした

そこには真面目に働くクレイナの姿があり、それを見届けるとモルトはまた視線を戻す

既に捕獲した山賊のボスは、別のルートから、クレイナの手により大使館への搬送を終えている

現時点で流民は皆このルートを通り、ヴォラード地区に入って来るが

それはメリッサの指示により、此処を通る住民に仕事を与えることが明言されているためで

民の七割ほどははピルテアの大量収穫、それに山の再生作業、農地の拡大を行う村々へ移住

残りは街へ行って、急ピッチで進められる街の建築作業に従事させられている

まだ彼ら用の家は粗末ではあるが、これは建築が追いつかないためである

無論都会に立ち並ぶような家は建ててやれないが、住むのに問題ない家ならあてがえるだろう

「知っているかもしれぬが、フィラーナは出来た娘だ。 貴公が誠意を見せて接していけば

いずれ、必ず応えてくれる。 ・・・事情を知る私からは、あの子にどうこう言えないがな」

「分かっています。 努力してみます」

レイアの決意を秘めた言葉に頷くと、モルトはフィラーナの方に歩み寄る

フィラーナはその時、既にルーシィと話し込んでいた。 白衣に付いた血には気付かないようだったが

どうもメリッサの指示で何かをしてきたことは理解しているらしく、咳払いすると言った

「ご苦労様です、ルーシィさん」

「何の事ー? ・・・ごめんごめん、ありがとね

フィーちゃんにも、いずれ話すよ。 気を使ってくれて嬉しいよ」

モルトはそれを見ると、静かにその場を後にした。 声をかける必要がないと判断したためである

 

ルーシィが持ち帰った書類に目を通したメリッサは、直ちにその旨をヴォルモースに説明した

「ほう・・・そう言うことか。 君が何を熱心に動き回っていると思えば・・・」

「そう言うことですわ。 これは蝮による作戦の一旦だと断言できます

他にも何カ所かで、この男は武器をばらまいているでしょう。

呆れたことにアスクライドの官僚も、何人か蝮を経由してモスクロ山賊と利益を貪っていたようですわ

その辺は山賊のボスを、モルトさんが拷問して自白させ済みです

自白の後は、用もないので処分しておきました。 あのような輩は、生きているだけ餌の無駄ですので

死体は、既にアスクライドの住民に引き渡してあります。 逃亡中を捕縛したと説明しておきましたわ

死因については、脱走しようとして斬られたと言うことにしておきました」

静かにそれを聞いていたヴォルモースは、触手の一本でペンを取り、日記に何かを書き記していた

それが仕事の一つだと知るメリッサは、それが済むのと、ヴォルモースが言葉を発するのを待った

「ふむ・・・分かった。 それでどうするのかね?」

「・・・このままでは、近い内に、この国が滅びますわ」

さらりとメリッサは言った。 そして、彼女の顔を見つめるヴォルモースに向けて続ける

「社会矛盾の蓄積が、蝮の武器ばらまきに寄って刺激されます

更に、奴はある大型組織との連携も始めているようですわ。

結果、国民の20%が参加する大反乱が発生します。 ちなみに、この数字は最小ラインですわ

その過程で蝮は双方に武器をばらまき、膨大な利益を確保するでしょう

大規模な反乱が始まるまで五年、国家崩壊まで更に一年

連合の干渉によって、内戦は最低でも30年、最大で65年以上

小国家による分裂抗争が始まった場合は、最低200年は続き

その過程で最低一億人以上が死に、美術品や建造物の被害はまあ・・・このくらいですわね」

計算機を弾いて見せたメリッサの手の中には、想像を絶する金額が並んでいた

無論、魔界の経済力から見れば笑止な金額だが、皇国の経済から見れば致命傷を遙かに超す

大陸レベルで立ち直れなくなるだろう。 おそらく、この大陸は連合と帝国に分割支配されるはずだ

注意すべき点は、ここでメリッサが、魔界の政治家として

極めて冷徹に事実を分析、対応策を言っている事であろう

彼女はヴォラードを任された政治家である以上に、魔界政府の政治家なのだ

口調には感情というものが無く、自分の政治判断次第では一億人が死ぬと言う場所でも同じである

それらを無言のままヴォルモースは聞いていたが、やがて静かに言葉を発した

「・・・で、我々はどうすればいいのかな?」

「策は幾つかありますわ。 まず第一に、この地区を独立状態にして、周囲の争乱に干渉しない

まあ、それには更なる農業発展政策で、食物の自給自足を推進せねばなりませんが

第二に、とっととこの国を見捨てて帝国に行く。 連合よりあっちの方が将来性ありますので

これには政府の許可を得なければいけませんし、外交官はまた苦労することになりますわ

第三は、蝮を叩いて反乱工作をやめさせる。

ただし、抜本的な改革をしないといずれこの国は爆発します。

この場合は皇国政府にも裏側から働きかけねばなりませんわね」

はどうしたいのだ?」

ヴォルモースの言葉は、場に沈黙をもたらした。 <君>と言うのが、政治家としてではなく

個人としてのメリッサにたいする物であったからである

この辺が、ヴォルモースの一筋縄ではいかないところであった。 相手の言葉を一通り吸収し

それから、確信を貫く。 それによって、仲間の信頼を鋭く得て行くのだ

「・・・言い換えよう。 フィラーナは良い子だし、君は彼女には嫌われたくない

出来れば血をあまり流したくないと、考えているのではないか?

あの子は人を憎んでいるが、人が大量に死ぬこと、それを促進するような政治的判断は好まぬはずだ

・・・憎しみは、個人レベルの話。 人が死に、不幸になることを喜ぶような子ではない

であるからこそ、一億人を見殺しにするような政策を採れば・・・絶対に修復できぬ溝が出来る」

「流石ですわね、その通りですわ

・・・私としては、三番目を取りたいところです。

三番目を取れれば、下らない内戦で無駄に死ぬ人が一億人減るわけですもの

ただし、それには天界大使館との連絡

それに魔界政府との連携、それに必要以上の皇国に対する干渉が必要になってきます

おそらく、それを政府が甘受する可能性は低いでしょう」

再び訪れた沈黙は、ヴォルモースが破った

「分かった。 とりあえず、他にも内戦を収める手段がないか模索して欲しい

そして、いざというときに執る手段を、まとめて於いてくれると嬉しいな

そのときが来たら、政府に上申し、決定を仰ごう。 それは私から行う」

「分かりましたわ。 ・・・」

メリッサは無言のまま、部屋を出た。 その表情には笑顔があった

リーダーの有能さを再確認し、仕事にやりがいを感じたからである

 

3,降りかかり始める火の粉

 

関所での仕事の後、フィラーナとレイアは連れだって帰路に就いていた

相変わらず心を開かず、口を利こうともしないフィラーナであったが

レイアは根気よくコミュニケーションをとろうとし、その誠意は少しずつ伝わり始めていた

前ほど冷たい態度を、フィラーナはとらなくなってきていた。

体に触れさせることだけは絶対に許さなかったが、レイアとしてはそんな必要もなかったし

氷の塊が、少しずつ溶け始めていることが実感され、嬉しくもなっていた

ただし、溶け始めたとはいえ、氷の塊は依然としてあり、非常に大きい。

それは、帰り道で思い知らされることとなった

 

護衛の兵士二人は、レイアの知り合いであり、どちらも腕利きの魔法剣士である

しかもフィラーナ自身が、その気になれば訓練された兵士の一個小隊を

10秒で文字通りひねりつぶせる程度の力を持っているので、皆は若干リラックスしていた

強力すぎる力を持って生まれた存在は、人間の中では絶対に差別される

フィラーナの場合、殺されなかっただけマシであったが、それでも不幸であったことに疑いはない

その差別が如何に彼女の心を傷つけたかは、現在の様子でも明らかだし

薄っぺらな言葉で簡単に修復できると思ったら大間違いである

兵士二人が、奇妙な気配に気付いたときには、もう遅かった

宗教国家だけあり、狂信的なアスフォルト教の信者は少なくない

それは長い圧制のせいで減ってはいる。(もっとも、他の宗教を信仰するなどと言うことは

誰も露ほどにも考えないようだが、それは長く同じ宗教に曝され続けた結果であろう)

中央ならともかく、この辺りでは政治に勢力を及ぼすほどはいない

だが、此処にいるその男は、間違いなくその狂信者だった。

狂信者と狂人は常にイコールではないが、この男は両者を兼ね備えていることが歴然であり

泡を飛ばして、舌を動かし喚いた

「偉大なる我が皇国に災い為す悪魔の手先が・・・!」

周囲の者達が、一斉に視線を男に向けた。 皆、不審と不満を視線に湛えている

魔界大使館が出来てから生活が確実に良くなってきたし、物価は下がったし

アスクライドから流入する住民とも、目立って摩擦は起きていない

少しでも考えれば、何故そうなったかは分かるはずだ。

咎めるような視線を受けながらも、男は動じない・・・そもそも周囲が見えていないようだった

男はつばを飛ばし、爛々たる狂気を両目に湛えながら、ほざき続けた

「消え去れ、悪魔の手先! 貴様のような輩は醜い怪物共に犯されて、泥の中で這いずっていろ!

皇国からでて行け! あばずれが!ゴミが!ケダモノが!雌豚がああああああ!」

レイアは硬直して動けなかった。 兵士達は男を取り押さえようとしたが、男がナイフを取りだし

舌打ちし、兵士の一人が魔法を唱え始める。 もう一人は、剣を抜いて相手の隙をうかがう

彼らを無視するように、男は卑猥な言葉をフィラーナに浴びせ続けた。

そして、のけぞって笑いながら、停止する彼女に言い放った

「貴様のような親無しの・・・・」

この男が事情を知っていたとは思えない。 何か、狂った頭と舌が偶然紡ぎだした言葉だったのだろう

しかし、次の瞬間、フィラーナの理性は消し飛んでいた

男が浮き上がり、激しく地面に叩き付けられた。 骨が数本へし折れ、血泡を吹いた男が絶叫した

完全に能面のような表情を保ったまま、しかし目には炎を燃やし、フィラーナが右手を突き出す

地面に転がった男が再度浮き上がり、空中でみしみしと鈍い音を立て始めていた

強烈な力が、男の貧弱な体を締め上げている。 不可思議な力で握りつぶすつもりなのは明白だった

「フィラーナさん・・・・・!」

前に言われていたことも忘れて、レイアが後ろからフィラーナを抱きしめた

それは突発的な行動だったが、フィラーナを必要以上に刺激するには充分だった

次の瞬間、レイアは大きくはじき飛ばされ、地面に転がっていた

意識はなく、額からは血が流れていた。 次の瞬間、男は地面に放り出され、フィラーナは我に却った

 

この事件が後に残した物は大きかった。

レイアは軽傷で済んだが、フィラーナの心にはまた大きな氷の塊が復活し

しばらくは仕事にも支障がでて、心の傷を再確認させることになった

また、ヴィルセは直ちに男を尋問したが、まともな証言など得ることは出来ず

翌日には大使館に謝りに行った。 全ては、自分の管轄下で起きた不始末であったからだ

メリッサは平謝りする将軍に対し、謝罪などは良いから今回の事件をさっさと納めることを指示し

レイアの怪我を確認すると、死人がでなかったことを安堵し、次の手に取りかかった

もし、死人がでていれば、暴発したフィラーナの恐ろしさが周囲に広まり

確実に街の民達は、不必要に魔界大使館の住民を恐れ、それに従うヴィルセを疑うようになる

それではまずい。 政治の一角を為しているのが住民に対する心理的配慮であり

<政治的システム>でそれを押さえ込もうとする政治家は、二流どころか三流以下である

事件から一週間経つまで、フィラーナは笑顔を浮かべることが出来なかった。

それに伴い、大使館の業務も効率が悪化し、ルーシィの研究も進まず、ヴォルモースの研究も進まず

モルトも機嫌が悪く、三名のグレーターデーモンさえ沈み込んでいた

そして、事件の影には一人の男の姿があった

「ふむ・・・やはり間違いないな、あの娘が魔界大使館のアキレス腱だ」

そう呟く男は、革製の帽子を禿頭に目深に被った男であり

ボディーガードらしい無表情な銀髪の娘を、側に従えていた

男の眼光は鋭く、そして周囲に並々ならぬ殺気を湛えている。

身振りと言い、軍隊出身であることを臭わせる油断ならぬ動きといい

ボディーガードを連れていることと言い、かたぎの人間でないことは明らかだった

「殺しますか? 外にでてきたときなら、あの力なら充分に殺せます」

「やめておけ。 そうしたら、魔界大使館のモルトを敵に回す事になる

うちの組織は大きいが、高位魔族並のあいつは相手にできん。 お前でも敵わぬわ

組織が奴一人のために壊滅したら笑い事にならぬ。 しばらくは静観しておけ」

銀髪の娘は無言で頷く。 狂人をそそのかし、フィラーナを刺激した首謀者に

男の名はドラーケ=ヴォルモズン。 娘の名はナターシャ。 娘に姓はない

この男は、通称で呼ばれることが多い。 直属の部下でさえ、そう呼ぶ

即ち、蝮と。 この男こそ、皇国を戦乱の渦に叩き込もうとしている男、蝮であった

                                    (続)