登極
 
序、何にも劣らず、何にも勝てず
 
クロム=ギュウ=ルは、上官に呼び出された。長い戦争がようやく終わって、安心しているのか、或いは他の理由か。野戦陣地内というのに殺気だった雰囲気はなく、周囲にたむろしている軍人達は皆リラックスしている。銃器こそ手放してはいなかったが、緊張感と同居してはいなかった。勤務時間中だというのに、鼻歌を唄っている者さえいる。流石に酒を飲む者はいなかったが、許可されれば遠慮無く酒宴を始めていたに違いない。三つの首と七つの目を持つ妖魔も、鋭い翼を持つ魔族も、毛深くたくましい上級獣人も、皆安心と同時に、虚無感を覚えていたのだろう。そして、今までの激しい、凄まじすぎる戦争の数々を思えば、誰も彼らを責める事など出来なかった。
クロムは彼らの間をゆっくり進み、三ヶ月を過ごしたこの陣地、魔界軍第七十四師団第六砲兵連隊駐屯陣地を感慨深げに眺めやった。その顔は幼さが多分に残っていた。当然の事であろう、彼はまだ人間でいえば十四歳前後の少年だったからである。少年は、自分が呼ばれたわけを悟っていた。彼は、今日限りで軍を首にされるのである。99パーセント以上間違いのない事であり、そしてその少年の予測は的中していたのであった。彼は、上司に退職金を渡され、敬礼を持ってそれに応じた。四年にわたる軍役が、これにて終了したのだった。
彼は無能だったから首になったのではない。逆に、軍以外で充分に生きていく能力があったから、首になったのである。天界でも、似たような光景が至るところで繰り広げられていた。軍に偏りすぎたマンパワーを、民間へ戻す作業が、両世界で急ピッチに行われていたのだ。それは、わかりやすい言葉で言えば、軍縮であった。そして少年は、その対象となったのであった。
 
クロムはいわゆる妖魔に属する少年である。見かけは地上を支配している人類に近いが、身体能力や魔力など、すべての能力は桁違いに高い。だからこそ、超実力主義社会の魔界で若くして軍人になり、前線に出て、わずかながら戦功も上げる事が出来たのである。
少年は、良く友人に〈まじめそうだ〉といわれた。そして、それ以外の事を言われた事は滅多にない。クロムは哀れな程個性に乏しい少年で、趣味も良く普及した平凡な球技であり、それにおいても突出した実力を持っているわけではなかった。顔も可もなく不可もなくといった感じの、どこにでも転がっているような個性のない顔で、背も同じ種族の中では標準的、また太ってもやせてもいなかった。歩くときに、必ず右足から踏み出すという癖があったが、別に個性的でも目立つ癖でも何でもなかった。
こういう状況に置かれた子供がする行動は、だいたいにおいて決まっている。必死に個性的になろうとするのだ。少年も、多くの者達が歩んだその歴史に習った。彼は様々な事を勉強し、実力を付けていったのである。まず彼が挑戦したのは、武術だった。師匠が良かった事もあり、〈邪竜剛縛拳〉と呼ばれる、魔界では中の上程の知名度を持つ立ち技系格闘技を、そこそこのレベルまで上達する事が出来た。しかし、残念ながら、彼以上の使い手などいくらでもいた。
続いて彼が打ち込んだのは球技だった。これもそこそこの腕前に成長したが、そこそこでしかなかった。彼は才能が確かにあった、だが彼を凌ぐ才能の持ち主など、それこそどこにでもいたのである。
器用貧乏と言う言葉を自覚したのは、彼が人間の年齢で十二の時だった。勉学も、魔法も、そこそこの力を得た。だが、所詮そこそこでしかなかったのである。
やがて、軍からの誘いが来て、彼は戦争に行く事になった。別に是が非でも欲しいというわけでもなく、それなりには使えそうだと判断されたのである。少年はそれを誰よりも良く悟っていた。戦場は地獄も同然の有様であったが、何とか生き残る事は出来た。だが、何一つ得る事など出来なかった。確かに彼は何でも人前以上に出来たが、同時に、何も誰にも負けない程出来る物はなかったのだ。そして、器用貧乏というのは、実力主義社会の魔界ではもっとも屈辱な事だった。何でも人前以上に出来る人材よりも、何か一つ、何か一つでも良いから他の追随を許さぬ程優れている人材の方が、魔界では遙かに尊敬され、重宝され、出世も確実で、将来も開けているのである。戦争が終わって二年間、少年は無為な時を、軍陣地にて過ごした。
少年は必死にあがいた。自分を証明しようとして、長所を探そうとして、誰にも負けぬ自分を捜そうとして、あがき続けた。だがあがけばあがく程、自分の器用貧乏ぶりを証明するだけだった。本当のところ、彼が器用貧乏になっているのには、焦るあまり色々な物に手を出しすぎている事もあったが、追いつめられた少年はそれに気づかなかった。本当のところ、何かを極めようとすれば、少年は極める事が出来たかもしれなかったのだ。だが、無惨な焦りがその機会を尽く潰していたのである。
軍陣地を飛び出した少年の目には、涙が光っていた。退職金の振り込まれたカードを握りしめた少年は、必死に走り、やがて山の上に出ると、大声で叫んだ。その屈辱の咆吼を聞く者など、誰一人魔界にはいなかった。少年は絶望していた。多分今後も、仕事にだけは困らないだろう。だが、永久に自分を証明する事など出来ない。クロムはそう確信していた。
死んだらすぐに忘れ去られる。そして、永久に抹消される。精神的に追いつめられた少年は、そんな事を考えながら、何とか戦火に耐え抜いた家へと帰還していった。既に両親は戦死しており、家には誰もいなかったが、これに関しては特に少年が特別不幸だったわけでもない。天界でも魔界でも、このような状況は珍しくも何ともなかった。荷物を下ろして、ソファに身を投げ出して、少年は泣いた。そして涙も枯れ果てた頃、彼は自分宛に手紙が来ていることに気づいた。それは、彼の恩師の一人、中堅どころとして知られる学者の手紙だった。そしてそれには、新しい仕事の斡旋書類が同封されていた。
 
1,仕事場の風景
 
地上における強国の一つ、アスフォルト皇国は、内乱の危機を脱し、そこそこの政治的手腕を持つ新教皇の手によって再生の途上にある。腐敗は徐々に取り払われ、他の強国に若干遅れる事にはなったが、致命的破滅を回避し、発展の時代に躍進する事になったのである。
その一角、ヴォラード地区に、魔界の大使館は存在している。そこは魔界でも十指に入るAランク政治家のメリッサ=ライモンファスを始め、癖は強いが有能な者達が勤める、人間世界と魔界との橋頭堡である。大使館の作りは質実剛健を旨とする魔界の風潮をそのまま体現し、重厚で隙が無く、とかく実用第一に作り上げられていた。大使館の側にはいくつか小さな店があり、町から少し距離があるのにどういう訳か繁盛しているようだった。辺りには女の子の姿と、軍人の姿が目立ち、それ以外の人間はほとんど見あたらない。
クロムは魔界大使館を見上げると、懐から何かを取り出す。それは魔界から支給されたIDカードであった。カードの存在を確認し、常に張られている結界の外縁部に歩み寄ると、少年は咳払いし、地上から突きだしている棒の先端部を押した。それはインターホンで、機密を含み結界にガードされる建物の外には、大概そうした形で設置されている物だった。ベルの音は外には聞こえない。ただ、押された事を示す赤いランプが、インターホンの先端部で淡く点滅を繰り返した。
「何用か」
結界の一部が、不意に映像を映しだした。それは赤い瞳を持つ若い男で、魔族が人間に変異した物だとすぐにクロムは悟った。生真面目そうなその青年に、クロムは敬礼し、IDカードを取り出して見せた。
「政府の推薦を受けました、クロム=ギュウ=ルです」
「おお、報告は受けている。 今結界をあけるから、急いで中に入るようにな」
怪訝そうな顔をするクロムの前で、結界が開き、映像の男が現れる。クロムは最敬礼すると、カードを男に差し出す。生真面目そうな男は、丁寧にそれを確認し、中へはいる事を許可した。一息つき、一歩を進めるクロムの背後から、猛牛が突進するような音が響き来る。
「早く入れ!」
慌てた男の声が響き、クロムは素早く大使館の前まで歩み寄った。そして振り向くと、周囲にたむろしていた女の子達が一斉にこちらに走り出してきているところだった。恋する乙女特有の燃えるような瞳で、彼女らは結界に走り寄ると、それをたたき始めた。クロムなど眼中にないようである。おそらく相当に強力な魔族であろう男も、服やら体やらを捕まれて、困惑しきった声を上げた。逃げ遅れたのである。
「キャー! モルト様ー! 出てきてー!」
「今日は不在だ。 こ、こら、結界をたたくな! それに私の服を引っ張ってはいかん!」
「嘘よ! きっとこれから出てくるところだわ!」
「引っ込んでなさいよ、ドケチ門番!」
結界を、女の子達がたたくと、中にマナの波紋が広がる。塵も積もって山となるの言葉通り、複数の衝撃が、内部に負荷を産んでいるのだ。いずれ、このパワーが安売りの際に発揮されるのであろう。困り切った表情で、生真面目そうな〈門番〉は首を横に振り、クロムに視線を向けた。
「ここは私が何とかする、君はさっさと中に入れ!」
「は、はい」
クロムが慌てて頷き、ドアを閉める。外からはまだ喧噪の音が響き来ていた。
「こ、こら! 結界に落書きをしてはいかん! いたい! いたいっ! 私の髪を引っ張るな! こ、こらっ! それだけはいかん、いかんぞぉおおおおおおおおおっ!」
 
もみくちゃにされた門番が、疲れ切った表情で戻ってきたのは、数分の後だった。乱れた髪を直し、破れた服を見て嘆息すると、クロムに向けて苦笑して見せた。
「驚いたか。 これが地上だ」
「は、はい。 確かに予想とはずいぶん違っています」
「私も最初に配属されたときは驚いた。 ……まあ、本当のところは」
魔族の青年は、紐がはみ出しているスーツを見て、頭を振りながら応える。
「この地区の政治が巧くいっていて、皆の心に余裕があるのだ。 だから彼女らはああも輝いていて、力強い。ほんの二年前まで、ここは非常に貧しい地区で、民衆は塗炭の苦しみに喘いでいたが、今は流通する多数の物資、安定した政策、強固な治安、全てが豊かさを産んでいる。 ここに来るまで、私は政治が如何に大事な物か知らなかったが、今では日ごとにその重要性を思い知らされているよ」
魔族の青年は、それだけ言うと、表情を改めた。
「所で君は、Aランク以上の政治家、軍人、或いは上級以上の博士、ようするに魔界で一線級の人材と会った事があるか?」
「和平到来記念式典で、遠くから大魔王と大地母神を拝見しましたが」
「そうか。 では、実質上会った事はないな?」
頷く少年に、わずかばかり同情の視線を向けて、魔族の青年は言った。
「驚くと思うが、あまり取り乱さないようにな」
最初、少年はこの言葉の意味を理解できなかった。だが、すぐにそれを悟る事となる。通路を進み、ホールにはいると、そこは日が差し込んでいて、誰かが真ん中に倒れていた。それはよれよれの汚い白衣を着た女性で、頭の上からは猫の物に似た耳が突きだしている。日溜まりの中で、床にへばりつくようにして、幸せそのものの表情で、寝涎を垂れ流しながら、その娘はだらしなく寝ていた。顔立ちは整っているのに、髪の毛も乱れ放題、宝石の原石は泥の中に放り込まれ汚れきっている。唖然とするクロムは、魔族の青年に振り向く。
「誰ですか? あのだらしない人は」
「あれが、人類国家犯罪学の権威、リゼア=ルーシィ上級博士だ」
少年は、頭の中が真っ白になるのを感じた。この人物こそが、彼がこれから助手として下につく事になる、上司だったからである。そして、このだらしない人物が、大使館内ではむしろまともだと言う事に気づくのにも、さほど時間はかからなかった。少年にとって、受難の地上生活の、始まりであった。
 
「そうか、軍を退役して、推薦でここに来たのだね。 色々大変だったろう」
「は、はあ、まあ」
少年が相づちを打ち、恐縮そうに真から心配してくれた者を見た。それはこの大使館の司令官である、人類学の権威、ヴォルモース=ファーゲット上級博士であった。ヴォルモースは、体の上につきだした巨大な目を揺らし、無数の足を器用に折り曲げて座りながら、まず絶品と言っていい食事を、無数にうごめく触手で器用に摘んでは背中の口に運んでいる。その後ろでは、種族名にもなっている〈鞭の尻尾〉が、特に意味もないのに揺れていた。彼の味覚からしても、食事が充分以上においしいのだろう。
ヴォルモースに続いて口を開いたのは、目が覚める程の美青年だった。彼はかなりの腕前を持つ剣士で、名前をサーガス=モルトと言う。落ち着いた雰囲気といい、洗練された容姿といい、成る程、これなら女の子達があれほど熱狂するのも頷ける。だが、その食卓には石鹸が積まれ、彼は何の躊躇もなくそれを口に運んでいた。
「それにしても、何故に人類国家犯罪学を選んだのだ?」
「えっと、それは。 僕の恩師の一人が、人類学の教授で、新しく有望な学問だからって、ここの仕事を推薦してくれて」
「誰? それ誰ー?」
続いて、口を開いたのはルーシィだった。口調はのんびりしていて、予想通り緊張感の欠片もない。
「アイレス=ヤング博士です」
「ああ、あの子ー」
「知っているんですの?」
会話に口を挟んできたのは、クロムよりも更に若いと思われる少女だった。無意味にフリルやレースをごてごてつけた服を着こなし、異様なまでの可愛さを強調したファッションに身を包んでいる。この少女こそ、魔界で十指に入る手腕を持つAランク政治家の一人、メリッサ=ライモンファスである。
「にゃはははははは、よい子のヤングちゃん。 覚えてるよー」
「ほう?」
「がんばりやさんだったけどー、才能もあったけど、私事と公事と切り離して物事を考えられなかったからー。 結局BNランク以上の博士になれなかった子だよー」
「それは研究者としては致命的ですわね」
淡々と言い、メリッサがフォークで料理を口に運ぶ。その表情に哀れみや嘲弄はなく、ただひたすら事実を冷然と指摘していた。
恩師をコケにされているのに、クロムは何故か怒れなかった。感情的に馬鹿にされているのではなかったし、それは充分に客観的な分析であったからだ。アイレス博士は、良く自分の欠点を把握していて、常々先ほどルーシィが漏らした言葉を口にしていたのである。温厚で心暖かな彼女は周囲の人望を集めていたが、それだけでは地位を築けないのも、魔界の厳しさであった。或いは研究者よりも、研究指揮者であれば高い評価を得たかも知れないが、本人にその気はないようだった。
「所でルーシィ、バイゼルフォンド王国の件だが、彼もつれていくのかい?」
不意に咳払いして、ヴォルモースが言った。そして、触手の一本で、クロムを指す。
「そーだねー、どっしよっかなー。 ヴォルちゃんはどう思う?」
「私は問題がないと思う。 フィラーナがここを離れられない以上、代わりになる者がついていかないと、君の研究に支障が出るだろうしな」
「あの、ルーシィさん」
「んー? フィーちゃん?」
本人を目の前にしながら、本人不在の会話をする二人の前で、咳払いしたのは人間の少女だった。暖かい笑みと、優しい雰囲気の少女で、図抜けた美人ではないが、自然と近くにいる者を安心させる雰囲気を持つ。メイドの格好をしており、テーブルに並ぶ料理を作ったのは彼女らしい。クロムより少し年上で、そろそろ幼さが顔から消えようとする年頃のようだった。
「クロムさんの意志は、聞いてみないんですか?」
「にゃははははははは、そっか、そうだったねー。 忘れてたわ、ゴメンゴメン。 クーちゃん、どする? ついてくる? それともここで資料整理してる?」
相手に悪気がないので、クロムは怒れなかった。メイドの少女に感謝しつつ、笑みを浮かべてみせる。資料整理といっても、見習いに重要な資料の中身が見せてもらえるはずもない。向上心に満ちた少年は、想像を絶する程退屈な時間を無為に過ごすよりは、過酷で有為なフィールドワークを選びたかった。
「僕は依存ありません。 是非ご一緒させてください」
「そっかー、じゃ出発はあさって。 準備しておいて」
クロムは理解していなかった。何故先ほどヴォルモースがフィラーナを引き合いに出したのか。冷静に考えてみれば、広間で寝ているルーシィを見た時点で、危険信号が点滅してもおかしくはなかったのだ。
種族は違うが、メイドの少女は、クロムから見ても十分に魅力的だった。彼女に庇ってもらえたのが、よほど嬉しかったのだろうか。後で少年は、どうしてもっとよく考えなかったのだと、何度も自責した。
少年は今までの人生でも、もっとも過酷な二週間を、これから過ごす事になったのである。それは自業自得の結果であったが、同時に未来への第一歩でもあった。
 
2,内戦
 
魔界から地上世界へ来るのに、クロムは〈ポッド〉を使った。これは空間転送時に、物や人を輸送する際に使う輸送機のような物で、武装はないに等しく、大戦時は安全圏で主に使われた。乗り心地はよく言っても貨物列車と言ったところで、揺れるし冷房は効いていないし、あまり良い印象を少年は持たなかった。ただ、軍で戦っていたとき乗った戦艦は、それに比してマシだったかと言えばそうでもなく、安全なだけポッドの方が良かったかも知れない。
クロムがルーシィと地上にある王国の一つ、バイゼルフォンドに向かう事になり、少年はまたポッドに乗るのかとも思ったが、予測ははずれた。二人をバイゼルフォンドに送るために、小型の軍用迷彩輸送機が、大使館の倉庫から引っ張り出されたのである。これは軍用機といえども、二世代前の輸送機であり、天軍と戦う際には(もはやあり得る事ではないが)とても使えるような代物ではなかったが、使い道があるかも知れないとしてヴォルモースが軍から引き取ったのである。無論使用の際には、魔界の軍本部へ許可を申請せねばならないが、それは既にすんでいた。天軍にも小型輸送機が使用される事、その飛行ルート、そして目的は知らされており、不幸な事故は起こりえない。乗り心地も快適とは言えないが、決して不快なものでもなく、少年は一息ついていた。
クロム少年は、あのメイドの少女が焼いてくれたらしいクッキーを頬張るルーシィと会話の機会をなかなかつかめず、気まずい時間を感じていたが、やがてルーシィが先に口を開いた。
「ところで、バイゼルフォンドについて予習してきたー?」
「は、はい。 人口百四万を抱える王制国家で、軍事力が強く、主な産業は農業。 土地がやせていて、国民の生活は豊かではなく、他国への侵攻をたびたび行う。 そんなところでしょうか」
「それだけー?」
ルーシィが小首を傾げ、瞳の奥に、今までとは違う光を宿した。
「まあ、一夜漬けでそれだけ調べればいいって所なのかなー。 ちょっとわかんないけど……」
今までと全く違う相手の様子に、少年は息をのんだ。こういう雰囲気を、彼は感じた事がなかった。
「次からはもっとちゃんと頼むよ。 そんな知識、何の役にも立たないよー」
「……」
ルーシィは猫耳をひくひくと揺らすと、クロムを一瞥し、嘆息して髪をかき上げた。
「じゃ、必要な情報を出しとくよー。 メモしてね」
「は、はい」
「まず、バイゼルフォンドは多民族国家。 成立したのは百六十七年前で、当時混乱期にあったルイルス大陸、その南東部を支配していた貴族の一つバイゼルフォンド候オッフェンがたてた国だよー」
慌ててペンを走らす少年を見ながら、ルーシィは頬杖をつき、新しいクッキーを摘みながら続けた。
「王国内では、主に七つの民族があるのー。 そして、今、支配民族であるキーア人と、被支配民族の一つドルカルス人の対立が激化して、南部のソウレウ州を中心に、激しい内戦が行われてるんだよ」
「どうしてそんな事になってるんですか?」
「原因は豚」
「えっ?」
「宗教が違うんだよー、二つの民族は。 ドルカルス人は、神の聖なる生け贄として、豚を捧げるんだけどー。 その生け贄に選ばれる豚を育てる権利は誰にでもあって、毎年みんなが豚を育てる事に精を出すわけ。 はむはむ、ほのふっきーほいひいねー。 はふはふぃーひゃんらよ」
クッキーを幾つかつまみ、話を中断したルーシィに会わせ、クロムは筆を休めた。輸送機の窓からは、遙か下の海が見えるばかりで、今のところ陸地は見えない。地上での法定速度を、この輸送機は守って飛行していて、まだまだ目的地に着くには時間がかかる。幸せそうにクッキーをかみ砕いて飲み込み、始めたときと同じく、唐突にルーシィは続きを話し始める。
「えっと、続き。 で、内戦が起こった原因は、キーア人の介入。 強権化をすすめてる今の王、アイボルト=フォン=バイゼルフォンド、あ、この名前絶対にドルカルス人の前で口にしない事。 この馬鹿が、政策の一環として、神の生け贄になる豚を強引に奪い取って、公式の場で料理して食べちゃったわけ。 キーア人の宗教で、豚は不浄な、もっとも地位の低い家畜とされてて、ドルカルス人の宗教を否定したいって意味もあったみたいだよ。 で、もともと過酷な税や差別に苦しんでいて、最近反抗の気運を高めてたドルカルス人に精神的優位に立とうとしたんだけど、大失敗。 長年の不満が大爆発、ドルカルス人が一斉に大反乱を起こしたわけだよー」
「信じられない話ですね。 どうしてそんな政治手腕しか持たぬ輩が、王に据えられているんですか?」
「にゃはははははは、それはねー、人間が血筋とか、伝統とかを、多数の命より大事に考えるからだよー。 元々人間は極めて利己的な生き物で、権力とかを私物化したがるしー、一族とかで独占したがるの。 その結果、世襲とかいうおバカな制度が正当化されちゃう訳なんだね。 で、こういうアホが王様になるわけだよ。 あり得ない話だねー」
痛烈なルーシィの台詞に、効果的に反論できる人類はおそらくおるまい。政治に個人的感情を挟んでは絶対にいけないのに、人はそれをしない。結果、このような愚行がまかり通り、政治が〈汚い物〉になるのである。
そして、このときクロムは気づいた。今ルーシィが言った情報は、国家を包括的に要約した物ではない。生きた国家としての情報である。それの、なんとみずみずしい事か。自分が要約した情報に比べ、なんと生き生きした生命力をたたえている事か。
「それで、今回の研究のために、その内戦の事を調べるんですか?」
「違う違う、これはあくまで余技。 最低限の情報。 私が調べに行くのは、内戦を激化させてる原因だよー」
顔を上げたクロムの前で、ルーシィはあまりにも平然とその言葉を吐いた。
「今、バイゼルフォンドじゃ民族レベルの大虐殺が行われてるんだよー。 で、報復が報復を読んで、確か現在、死者が五万人を超したくらいだったかな」
凍り付くような沈黙だった。クロムは思わず息を飲んでいた。そして、これから自分が如何に恐ろしい学問へ足を踏み入れたのか、少年は思い知らされる事になる。
 
「望遠レンズ」
「は、はい」
「んー、おー、おーおーおー。 やってるやってる」
輸送機から二人が降りたのは、人里から遠く離れた山の上だった。ルーシィは普段の動きが鈍いくせに、木登りは異様に達者で、唖然とするクロムの前でするすると樹上へと上っていった。少年は優れた運動能力で、何度か木の枝を蹴って跳躍し、追いつくと手伝いを要求されたのである。
ルーシィは淡々と観察している。遠くから響き来る悲鳴と、何かが燃える音、破壊される音。望遠レンズには情報記憶装置がセットされていて、ルーシィの見ている光景は全て保存され、同時に大使館にあるマスターコンピューターに転送されてもいた。クロムにも渡されたハンドヘルドコンピューターにも、同時に映し出されている。その光景は、極めて無惨かつ酸鼻であり、生真面目で優しいクロムは思わず目を背けた。そして、やがて決然と顔を上げた。
「僕が……僕が行って来ましょうか? きっと止められると思います!」
「今加害者になってるのは、ドルカルス人。 でもねー、ほんの二日前には彼らの村が同じ目にあったんだって」
ルーシィの周りを、小さな円状の物体が複数飛んでいる。それはフロートアイと呼ばれる自動機械で、透化迷彩機能があり、主に情報収集に使われている事を、クロムは知っていた。フロートアイ達は、先ほどから幾度も惨劇の場とここを往復し、せっせとルーシィの鞄へ情報を運んでいた。主に音、そしてここからは見えない位置の情報を収集しているようだった。また抵抗も出来ない子供が、画面の中で殺される。その母親らしい村人が、輪姦された上に惨殺される。クロムは立ち上がり、叫んでいた。
「ルーシィ上級博士!」
「とりあえずー、今の内にドルカルス人とキーア人の特徴を、頭にたたきこんどいてね」
「そんな事は……」
「どうでも良くないよー?」
すっと顔を上げ、ルーシィがクロムを見た。その瞳は、信じられない程の冷たさを称え、凍り付くように冷静だった。
 
「これは彼らの問題。 そして、身を守る以上の理由で、或いは情報収集以外の理由でー、これに干渉してはいけない。 それは決して良い結果を生まないよー」
「でも、でも! 彼らにも未来があって、生きる権利があるじゃないですか! 彼らは生きているんです! 理屈を言うよりも、助けるべきじゃないんですか!?」
「だったらこんな国家、支持しなければいいんだよー。 これは、それぞれの首領が公認してる虐殺なの」
唖然とするクロム、ルーシィは再び望遠レンズに視線を戻す。以前彼女に同じ事を言った者がいたが、その者は国自体を変えるべく動き、それを成し遂げた。それに比べ、クロムのしようとしている事は、まったく近視眼的で、ほんの末端をも変えられないだろう。そればかりか、返って混乱を加速する可能性すらもある。何しろ、今観察されている虐殺は、国公認の、或いは民族のリーダーの指示で積極的に行われている事なのだ。これは国家犯罪以外の何者でもなく、ルーシィは調査に来ている。そして、今回の調査で、魔界に政治的干渉の禁止を指示されているルーシィは、少年の行動を看過できなかったのである。
「自分の弱さを盾にしてー、現状に満足する。 一人じゃ何も出来ないなんて逃避して、結局現状に妥協する。 その結果がこれだよー。 弱いなら弱いなりに、強いなら強いなりに、努力は出来るはずなのにねー。 これは人の問題。 私たちは、それを自分の糧にする以上の事は許されないんだよー」
やがて、惨劇は終わった。 だがルーシィは暫く観察を続け、フロートアイを何度も向かわせては、村が丸焼きになるまで情報収集を続けた。クロムが、やりきれない表情で、その様を見守っていた。
 
ルーシィの旺盛な探求心は、翌日も変わらなかった。フロートアイを向かわせるだけではなく、自身も戦闘が行われている場所へ赴き、透化迷彩機能を使って至近から資料を集めた。当然クロムは護衛役で、のほほんと戦場を歩き回るルーシィを、飛び来る矢や、振り回される刀剣から必死にガードしていた。ただ、ルーシィは守られているばかりかというとそうでもなく、クロムが間に合いそうもないときは、意外にすばしっこい動きで攻撃をさけたり、予想外の馬鹿力で邪魔な人間を押しのけたりしていた。考えてみれば、魔界の上級獣人ならこれくらい出来て当然で、それに気づいたクロムは鬱陶しい流れ矢を避けながら一息ついていた。
余裕が出来たクロムは、戦場を見回す事が出来た。彼がいた、凄まじい魔力によって生み出された魔法と、それに劣らぬスーパーテクノロジーによって作られた兵器が飛び交う、地獄の戦場とはだいぶ違ったが、死が周囲に散乱し、集団心理から生まれる異常な憎しみがぶつかり合う点では代わりがなかった。少年は、戦場では、高位魔族の補助を行ったり、戦艦の砲手をしたりしていて、天軍兵士と肉弾戦を行う事は少なかった。だが、至近で死の臭いは何度もかいだし、少ないとは言っても肉弾戦は幾度も行った。自分の手で、天使を殴り殺した事もあった。自分の手で肉を殴り潰す鈍い感触を覚えると、それは何日も夢に出た。頭から血を流した天使が、夢の中で何度も少年につかみかかった。それほどに、肉弾戦とは凄惨無比な物だった。そして周囲には、その肉弾戦が満ち、それによって生産される肉塊が地を埋めていた。
「はいはい、だめだよー。 手を出さない」
不意に耳元で声がして、クロムは思わず体を硬直させた。少年の目の前では、瀕死の兵士が必死に敵に命乞いをしていた。敵兵は残忍に笑っていて、何が起こるかは明らかだったからである。いつの間にか側に歩み寄ってきていたルーシィが、少年にくぎを差したのである。
「でも、ルーシィ上級博士……!」
「でももなにもない。 この兵士が死ねば、そっちの兵士が助かる。 そっちの兵士が死ねば、この兵士が助かる。 どっちに転んでも同じだよー」
襟首をつかんで、ルーシィはクロムを引きずっていった。少年が、響き渡る悲鳴に目をつぶり、耳をふさいだ。斧が振り下ろされ、鮮血が吹き出し、兵士の首が落ちた。
 
「どうして……どうして助けてくれなかったんだ……」
夢だと分かってはいた。だがクロムは、罪悪感で体を締め付けられ、身もだえしていた。彼の周囲には、今日の戦闘で死んだ兵士達が立っていて、血みどろの手をのばしてくる。クロムは身がすくみ、捕まれるまま、呪詛を上げられるままであった。
「助けてくれても良いじゃねえか……力出し惜しみしやがって……てめえのせいで俺は……!」
「許してくれ……僕は……」
「外道! 卑劣漢! 鬼! 悪魔!」
「許して、許して……!」
「ゆるさねえ、ゆるさねえ! 呪ってやる! 呪ってやるっ!」
 
跳ね起きた少年は、隣で大の字かつ無防備に寝ているルーシィを確認すると、冷や汗の伝う額をぬぐった。ルーシィの言った事がいちいち正論だというのは、少年にも理解できた、だが心の方はそれに納得しなかった。それが罪悪感を産み、少年の心を締め付けていた。
帰ろうか。そう少年は一瞬だけ考えたが、すぐにそれを心の中から振り払った。彼は勘が非常に鋭い方で、自分の直感を信頼してもいた。少年は、今回が最後のチャンスだと敏感に感じていた。直感が、それを通告してきていたのである。
この学問は、凄まじいまでに酸鼻な代物だった。だが、未来を産む有為な学問である事も、少年は悟っていた。彼は頬を一打ちすると、心を切り替える。もう、少年は逃げるわけにはいかなかったのである。
彼の隣で、ルーシィは気持ちよさそうに寝ている。研究の仕事が終わった塗炭に、崩れるように寝てしまったのだ。色気は全くなく、まるで動物か子供である。だがその中身は子供どころか、凄まじいまでの合理的思考に統制され、豊富な人類に対する知識を持った、魔界有数の学者なのだ。その横顔を複雑な面もちでみやると、クロムは嘆息した。恐ろしい程までに、彼の心を疲労がむしばんでいた。
 
3,出会い
 
ルーシィが情報収集を開始してから、三日が経過した。たったの三日で、二人は四度もの戦闘に遭遇し、遠くから、或いは近くからその情報を収集した。単純に言われたとおりの作業をしているクロムに比べ、ルーシィは精力的に仕事をしており、全身から生命のオーラを放っていた。しかも、彼女は単純な殺し合いよりも、非戦闘員の虐殺や、民家への放火、略奪行為などを熱心に記録していたのである。これでそれらを楽しげにやっていたら、クロムは流石に我慢がならなかっただろう。だがルーシィは、熱心でありながらもそれらの行為に愉悦を感じている様子はなく、それが、クロムを反発させながらも、心の奥底では感心させる一因となっていた。
ただ、クロムが閉口した事が一つある。ルーシィが、想像を絶する程の生活無能力者だった事である。当然家事や炊事は全て少年に押しつけられ、このときばかりは彼も嘆息するほか無かった。しかもルーシィの話では、大使館の人員の内フィラーナ以外の全員が生活能力に欠けるとかで、少年は返す言葉がなかった。超一流の人材は、何にも完璧だという固定観念を少年は抱いていたのである。だがそれは見事なまでに、事実によって粉砕され、風にとばされてどこかに飛び去ってしまった。ぶつぶつ言いながら片づけをする少年をせかし、ルーシィが歩き出す。二人は山の中を歩き、やがてルーシィが目的地点を見つけて、目を細めて耳を揺らし、口笛を吹いた。激しい喚声が聞こえ始め、走り出すルーシィ。森が開け、その光景があらわになった。
二人は城の前にいた。その城は堅固な山城であり、反乱を起こしたドルカルス人の一氏族が立てこもり、外をキーア人の将軍が率いる軍勢が囲んで猛攻を掛けていた。この城は非常に重要な戦略的拠点で、長く攻略に時間を掛ければ、確実にドルカルス側の増援が駆けつける。現在戦況はほぼ五分、しかも膠着状態に陥っているため、この戦は両軍にとって非常に重要な物だった。
キーア人の将軍は、それなりに有能なようであった。包囲陣の構造は理にかない、攻撃も整然としている。だが内部に立てこもるドルカルス人も、時間を掛ければ援軍が到着する事を知っているようであり、激しい抵抗を止めようとしない。城門に何度も破城槌が打ち付けられるが、内部から雨のように矢がそれに打ち込まれ、周囲を守る兵士達がばたばたと倒れる。当然攻城側も応戦し、喉を射抜かれた兵士が、絶叫しながら門の下へ落下していった。脳みそ地面にをぶちまけて痙攣するその兵士を、攻城側の兵士が踏みつけ、更に内部へ弓矢を打ち込もうとした。だがそれは果たせず、場内から飛来した矢がその右目に深々つきたち、もんどりうって倒れた兵士は絶命した。無惨な光景から目を背けながら、クロムが言う。
「凄惨ですね……」
「戦争ってのはこんなもんだよー。 さ、城内に入りこもっか」
あまりにも平然とルーシィがそれを言ったため、クロムは言葉がなかった。あまりにも超然とした考え方に、圧倒されたのである。そして、ルーシィはクロムの背負うリュックに器用に乗ると、踵でそれを小突いた。
流石に前線で戦っていただけあり、クロムは運動神経、反射神経、ともに優れている。心中で不満の言葉を呟きながら、彼は城の一角、もっとも壁が高く、もっとも攻略しにくい所にとりつき、登り始めた。そこは攻撃側の兵士がとりついておらず、守備側の兵士も数が少なかったため、上りやすかったのである。流石にルーシィは落ち着いたもので、地面が遙か足の下へ移行しても、全く動揺する気配を見せない。しばらくの壁との苦闘の末、クロムはルーシィを背負ったまま、城に潜入する事に成功した。
城の中は外の戦場同様の激しい喧噪が渦巻いており、兵士達は皆殺気立っていた。透化迷彩を使っているとはいえ、彼らにぶつかれば騒ぎが起こるおそれがある。ルーシィは早速リュックから降り、フロートアイをとばして情報収集する一方、自身もあたりを調べ始めた。クロムはため息をつき、小声で上級博士へ話しかけた。
「城の中で、昼寝なんてしないでくださいよ。 流石に危ないですから」
「するわけないでしょー? バカ言ってないで、さっさとクーちゃんも周囲を調査してくる」
いつもとは別人のように鋭い目つきでルーシィが言ったため、クロムは生唾を飲み込んだ。そして、情報収集をするべく、城の奥へ潜り込んでいき、やがて情報収集に適当な場所を確保した。そこは幾つかある倉庫の一つで、現時点では何も置かれておらず、一時的な拠点にするには申し分がなかった。
ルーシィは適当な空の木箱を引っ張ってくると、それを机代わりにして、ハンディコンピューターを操作し始めた。激しくフロートアイが飛び交い、周囲の会話を収集する。そして、その情報はコンピューターに集積され、見る間に解析されていった。クロムはその手際の良さを感心してはいたが、研究の後にルーシィが倒れるように寝てしまう事、その後は何をしても簡単には起きない事をここ数日の体験から知っていたから、気が気ではなかった。しかもルーシィはクロムの予想以上に力が強く(戦闘経験は分からないが、おそらく力はクロムより上だ)、寝起きは機嫌が悪いので、騒ぎが加速する可能性すらある。流石にクロムも、ルーシィがここで眠ってしまい、しかも何かの間違いで見つかりでもしたら、どうなるか予想できなかった。
外で喚声が沸き上がり、ただ事でないと察したクロムは、弾かれるように部屋を飛び出した。その背に、ルーシィが画面を見ながら声を掛ける。
「おー、凄いよー」
「上級博士?」
「凄い凄い。 偽撃転殺の計が見事に決まったみたいだよー。 やるねえ、ゾンエ将軍」
ゾンエというのが、攻め手側の将軍である事を思い出し、クロムは青ざめた。ちなみに偽撃転殺というのは、一転に集中攻撃を掛け、その後不意に今まで見向きもしなかった地点に攻撃を集中、一気に勝負をつける策であるが、クロムはそれを知らなかった。ゾンエは集中攻撃していた正門から、不意に今まで見向きもしなかった裏門へ精鋭を急行させ、伏兵と一緒に集中指向、一気に堅固な城壁を突破する事に成功したのだった。
「と、とにかく! 脱出しましょう!」
クロムが慌てたのも当然であった。喚声は恐ろしい勢いで近づきつつあり、同時に煙が城内に満ち始めたからである。だが、ルーシィはもう少しもう少しと言い続け、少年の心胆を寒からしめた。その時場外で喚声が上がった。ルーシィのコンピューターには、勢いに乗る攻城側の背後に、有力なドルカルス軍部隊が出現したらしいと出た。
何にしろ、あちこちに火をつけられたこの城は長く持つまい。場外の戦闘は激しさを極めているようであり、だが城内の兵士は奇計にかかった事で算を乱し、勢いを盛り返す程の余力はない。
「ん? ちょっとまずいかなー?」
「何今更言ってるんですか!」
不意にルーシィが吐いた台詞に、少年はしらけた声で答えた。だが、上級博士の次の言葉に蒼然とならざるを得なかった。
「この城にドルカルス人有力豪族の娘さんが保護されてるみたいだね。 で、攻城側がそれに気づいて、必死に探し始めたみたい。 にゃははははははは、多分外の戦況が思わしくないんだろーね」
クロムは窓から外をのぞく。外での戦闘は、ドルカルス側が密着状態から、強烈な中央突破を強行し、それにキーア側が意地になって応戦したため、凄まじい乱戦へ移行しており、もはや陣形も指揮も何もない様子であった。ひたすらに原始的な格闘戦が展開され、司令官の怒号も事態を何ら収拾へとは向かわせない様子である。
それと、ほぼ同時であった。倉庫のドアが蹴りあけられ、屈強な男と、やけにおっとりした娘が入り込んできたのは。思わずクロムが声を上げかけるが、自分が透化迷彩を実行中だと気づいて、生唾を飲み下した。ルーシィは目を細め、おもむろにペンを取り出すと、その様子を観察し始めた。服の仕立ての良さといい、落ち着いた雰囲気といい。噂をすれば影、の言葉通り、追われる張本人が現れたのだろう。或いはその影武者かも知れない。目を輝かせるルーシィに対し、クロムは気が気ではなかった。
「姫、ここにてお待ちください」
「まって、ゼフィン。 どこへ行くの? 暗くて怖いわ。 私、お外がいい」
「我が儘を言われますな。 すぐ戻りますので、ここでお待ちください」
状況を理解していないらしいおっとりした娘。いわゆる天然というタイプという意味ではルーシィに似ているが、その質が根本的に違っている。屈強な男の方は、困っているようだが、嫌悪の表情を浮かべていない。それを確認すると、ルーシィは忙しく筆をノートに走らせた。次の瞬間、クロムが生唾を飲み込み、屈強な男が素早く反応した。
「何奴! 誰か其処にいるな! 魔法使いか!?」
「あーもう。 とろいなあ……」
クロムが反応するより早く、ルーシィが動いた。荷物をまとめて立ち上がると、透化迷彩を解除する。現れた猫耳の娘と、渋々迷彩を解いて現れた少年を見て、屈強な男は構え、娘は興味に目を輝かせた。
「おのれ、妖怪の類か!」
「あら、ひょっとして妖精さん?」
「そんな事よりもー」
ルーシィは独特の歩調でひょいひょいと屈強な男に歩み寄った。男は無骨な武人のようで、非武装のしかも女性が近寄ってきても、いぶかしがる以上の事は出来なかった。ルーシィはひょいとその間合いの中にはいると、驚く男の耳元に小声で囁く。その言葉は、ほとんど外には漏れなかった。
「……あのアホ娘を連れてこの城を脱出する方が先じゃあないのー?」
「……我が主君をバカにするな!」
ルーシィが屈強な男に視線を向け、そして更に小さな声で耳元で何か囁いた。彼はそれを受け、明らかにたじろぎ、青ざめ、そして咳払いした。剣を納めた彼を見て、クロムは嘆息した。
「……確かにその通りだな」
「じゃー、協力してあげるから、ささっとでよっか、ささっと」
「でも、どこから脱出するんですか? もうあちこちにキール兵がいますし、安全な退路なんて」
「クーちゃん、その子見てて。 いこっか、ぜっちゃん」
クロムの言葉を途中で断ち割ると、ルーシィはゼフィンと共にあわただしく部屋を出ていった。部屋に残されたのは、呆然とする少年と、緊張感がルーシィとは別の意味で無いおっとりした娘だけだった。
 
おそらく娘は、今外で何が起こっているかも分かっておるまい。クロムに興味津々の視線を向け、手を合わせて小首を傾げ、緊張感のない声で言った。
「あなた、妖精さんなの?」
「僕は妖魔です。 それよりも、ここは危険です。 何が起こるか分からないから、気をつけていてください」
「そうなの? よく分からないわ。 それに、お外がさっきからずいぶん騒がしいけど、どうしたの?」
クロムは頭を抱えた。この娘に悪気が無く、そもそも世間を知らないのはよく分かった。だが、あらゆる意味で何をするか分からないルーシィと、世間そのものを知らない娘をガードし、これから逃げなければならないと思うと、少年は胃に痛みを覚えた。城内の戦闘は激しさを増し、喚声は確実に近づいてきている。ドルカルス側が圧倒的に不利なようだが、それでも抵抗を止めぬようで、城内では時々魔法が炸裂する音や、武器がぶつかり合う音、断末魔の悲鳴が轟いている。それは先ほどから数を減ずるどころか、ますます増えているようであった。
「あ、そうだ。 忘れていたわ。 私の名前は、フィリルール=フォン=カルシスよ」
「……僕は、クロム=ギュウ=ルです。 危ないですから、出来るだけ声を立てないで」
そういってクロムは、フィリルールに視線を向け、それを停止させた。改めて見ると、相当な美少女である。しかも少年の好みにそう、無垢な表情を浮かべた、優しげな容貌の持ち主だった。思わず相手をまじまじと眺めやってしまう少年に、その意味を全く気づかずフィリルールが言った。
「どうしたの? 私の顔に、なにかついている?」
「い、いえ。 それよりも!」
「お取り込み中しつれー」
「わっ! ルーシィ上級博士!」
不意に声を掛けられて、クロムは本気で動揺した。後ろでは、なにやら殺気を称え、ゼフィンがクロムに視線を向けていた。
「隠し通路の安全確保したよー。 ちゃっちゃと逃げよっか」
クロムはただ頷くしかなかった。このとき、ルーシィが研究者としての、恐ろしいまでの冷酷な瞳を湛えていた事に、少年は全く気づかなかった。
 
隠し通路の中は狭く、蜘蛛の巣が縦横に張り巡らされ、その中を這うようにして四人は進んだ。先頭を行くゼフィンは、元々寡黙な男のようで、一言も口をきこうとせず、無愛想さを終始維持した。最後尾のクロムはというと、前を行くフィリルールのひらひらしたスカートと、それの隙間から見える繊細な肌を直視しないように、真っ赤になって視線を逸らしながら、等距離を保って着いてきていた。
途中いくつかの部屋を通過し、隠し通路はどんどん城の下層へと進んでいった。そして最後にたどり着いたのは、地下通路だった。
人がやっと通れるか通れないかという程度の高さと広さしかなく、狭く汚い通路は、城の外に通じてはいた。だが、出た先は決して安全な場所ではなく、森の中だった。早速木登りが得意なルーシィが、上って周囲を確かめると、そこはまだキーア人の勢力範囲で、安全地点とはとうてい言えなかった。最短経路でドルカルス軍の元へ行こうとすると、秩序を取り戻し援軍と合流したキーア軍と正面衝突する事になり、大幅な迂回経路をとらなくてはならない。
クロムはすっかり忘れていたが、ここ数日の虐殺で、ドルカルス人は加害者でも被害者でもあった。また、ルーシィが、そもそもどちらに荷担する気もない事も脳裏から消え失せていた。何故、ルーシィが二人に協力を申し出たのか。それに最初から少年が気づいていれば、後に起こる悲劇は防げたかも知れない。それは極めて低い確率ではあったが、その芽の一つをつぶせたかも知れない、それは事実だった。ただ、それには魔界の技術が必須であったろうから、この地によい事であったかは分からない。
 
4,別れ
 
それから数日は、ルーシィが活発に行動する事はなく、酸鼻な戦場の中を彷徨き回る事もなく、クロムにとって心安らぐ日が続いた。時々キーア人の偵察部隊と鉢合わせし掛ける事もあったが、いずれもやり過ごす事が出来、戦闘自体は一度も発生しなかった。移動距離も短い。城を脱出し、大急ぎで山を二つ越えると(この際フィリルールが歩けなくなったが、ゼフィンは何も言わずに彼女を背負い、黙々と行軍した)、そこで適当な山小屋を確保し、今は其処に落ち着いている。
ルーシィとゼフィンは、時々クロムに聞こえないような小声で、なにやら相談をしていた。そのときの上級博士の視線は、今までクロムが見たこともないほど鋭く、冷徹さに満ちていた。ゼフィンは明らかに歴戦の戦士であり、無駄なく鍛えられた肉体には無数の傷跡が残っている。王女様を守護する騎士、といったところであろうか。ルーシィと話す時に青ざめたりはしていたが、それ以外ではほとんど感情を見せず、いつもむっつりとしていた。
クロムはこの数日、ずっとフィリルールの玩具となっていた。文字通りの箱入り娘らしく、外の事は何も知らないようで、この娘は何にでも興味を示した。木や鳥の事を聞くばかりか、クロムの耳がわずかにとがっている事や、服装の事を聞いたり、持ってきた965式対天使荷電粒子銃をさわろうとしたりした。それらの行動にはいちいち悪気が無く、クロムは怒るに怒れなかった。それに少年は明らかにこの無邪気な娘に好意を抱いており、一挙一動が気になるようで、暇があれば後ろ姿を視線で追いかけたりしていた。ルーシィも普通にフィリルールに応じてはいたが、どうもその視線には冷気の棘が含まれているような感じを、クロムは受けていた。
 
ルーシィがフィリルールに向けている視線の意味を知ったのは、逃亡生活を始めてから五日目の事であった。クロムはその日、偵察をかねて水汲みへ行き、以上がない事を確認して戻ってくる途中にその光景を目の当たりにしたのである。
小屋の外では、満天の星空の下、ルーシィとゼフィンが話し込んでいた。ゼフィンはもう既にルーシィには逆らえないようで、頭を下げて悄然とその言葉を聞いていた。
「お嬢様は、では」
「無理だね。 ま、あのまま権力を得ようものなら、多分この地区で史上最悪の暗君になるよー」
「しかし、お嬢様はお優しい方です」
「あれは優しいんじゃなくて、頭が弱いだけだよー」
自分でも思っている事を指摘されたらしく、ゼフィンは言葉を詰まらせ、下を見た。クロムは木陰に隠れて聞いていたが、今のやりとりは彼には当然看過できるものではなかった。少年は湯気が出るような勢いで憤慨しており、思わず文句を言いたくなったが、雰囲気的に出て行きづらく、黙っていた。精神の奥底で、自分はルーシィに敵わないと無意識的に認めていたのやもしれない。
「どうすれば……」
「まず、有能な男を見つけて、伴侶にする事。 後はー、気を引くのにちょうど良い玩具を見つけて、与えておく事。 間違ってもー、政治には関与させちゃダメ。 或いは、もういっさいその辺は放棄して、一般人になっちゃうのもいいかもしんない」
クロムはそれ以上聞く事が出来ずに、その場を離れ、裏口から山小屋に入った。中では既にフィリルールが寝ていたが、クロムが帰ってきたのに気づいて目を覚ました。外で何が話されているかも知らないし、それを知ったところで意味を理解できないだろう娘は、クロムに笑いかけた。クロムはやるせない気分を味わった。
「どうしたんですか? お体の調子が悪いのですか?」
「僕は大丈夫です。 そのまま休んでいてください」
「でも、とても悲しそう」
言葉に詰まったクロムが下を見ると、フィルリールは寝床から出て、歩み寄った。クロムが顔を上げると、至近から自分を見ているフィリルールの顔が合ったので、少年は真っ赤になった。
「クロム様、いつもとても良くしてくださってありがとうございます。 私は貴方が大好きです」
「あ、えっと、あの、その……」
「ですから、そんなお顔をされると、とても心配です。 どうしたんですの?」
クロムが真っ赤になったまま黙っているので、フィルリールはその手を少年の額にやった。
「熱は、無いようですね。 お風邪でも召したのかと心配になりました」
咳払いの音がした。音の発生源をクロムが見ると、ルーシィがいて、手招きをしていた。
 
外に引っ張り出されたクロムは、機嫌が悪そうだった。甘い気持ちを全身で感じていたところだったのだから、無理もない話ではある。ただ、あの様子では、フィリルールはクロムに特別な感情を抱いている可能性は非常に低いと言えるだろう。明らかに、あれらの行動は全て地だ。
「何ですか、ルーシィ上級博士」
「わるいねー、いいとこ邪魔して」
「そ、そんな事はありません!」
「にゃははははははは、そうむきになるなってのー」
ひとしきり笑うと、ルーシィは不意に真剣な顔になった。
「これから山小屋を出るよー」
「どうしたんですか?」
「フロートアイの収集してきた情報だけど、キーア人の増援部隊がー、この近くを通るみたい。 数はだいたい千前後。 ま、黙ってやり過ごすのは無理かな」
場が一気に凍結した。青ざめるクロムの中で、既にキーア人は死神と化している。少年にとって、フィリルールの害になりうる存在は、全て常軌を逸する危険な存在だった。ドルカルス人の兵士がキーア人の少女を強姦して殺したり、子供を切り刻んで血に酔ったりという状況をここ数日で何度も見たというのに、それをすっかり忘れて、そういう考えを頭の中で固定させてしまっていた。
「ルーシィさん、分かりました! 急いでここを出ましょう!」
「へいへい、そーだよ。 早くいこっか」
 
ルーシィの言葉を聞き終わるか終わらないかのうちに、少年は小屋に駆け込み、脱出の準備を始めた。大あくびをすると、ルーシィは不穏な光を目に宿し、舌なめずりした。
上級博士は知っていた。フロートアイが収集してきた情報を総合すると、ほぼ確実にその軍の一端と接触する事になる。意図的に情報を伝える事を渋ったわけではないが、その際にフィリルールが死んだりすれば、かなり面白い情報が収集できる事はない。
ルーシィは、フィラーナを除く人間に対し、極めて冷静な視線を一貫して持っている。フィラーナには暖かい対応を一貫して行っているが、他には違う。理由はなぜだか、誰も知らなかったが、フィラーナと人間が同じである事を、不満に持っている事は確かなようだった。
彼女は人間の事に詳しい。特に政治について、国家については非常に詳しい。魔界大使館の中でも、メリッサに次ぐ豊富な知識量を誇るだろう。そして彼女は、魔界大使館の中で、もっとも人間を否定的に見ている存在でもあった。
自分の学問を、ルーシィはライフワークと思っている。同時に、自分の大事な存在であるフィラーナと、人類が同じ存在であるかどうか、調べる材料としても使っている節が最近見られる。そして今回起こりうる事態は、それに役立つ事疑いなかった。
おそらくレイアがここにいたら、ルーシィに論戦を挑む事は間違いない。助けられる相手を、何故助けないのだと。だがルーシィがここでフィリルールを助けたところで、状況が良くなるわけがない。国家レベルの視点でものを見たとき、人助けは必ずしも良い結果を生むとは限らないのだ。ルーシィの決断は、メリッサも支持するだろう。なぜならルーシィはここに来る前様々なシミュレーションを彼女と行っており、それにそって先ほどの行動を起こしたからである。
ルーシィはこの地域の政治干渉権を魔界に与えられてはいないので、良くする事も悪くする事も出来ない。また、フィリルールは地方豪族の娘にすぎず、ドルカルス人の中でもそう高い地位にある家の令嬢ではない上に、婚約者は既に内戦で死亡している。社会的な知名度もない。死んだところで、政治的に影響はない。つまり、死んだところで政治的社会的情勢的に影響は出ないVIPであり、これ以上もない程の研究材料なのである。
ルーシィの持つ持論に、〈国家犯罪は単一、或いはごく少数の個人的欲望もしくは意志によって引き起こされる〉という物がある。彼女が上級博士にまで学者としての地位を高めえたのは、この説が充分な客観性を持つ論文によって説明され、豊富な証拠によって立証されている事にある。超実力主義社会の魔界で、それは絶対の条件だった。今回の研究素材は、その理論を更に完成させ、研究を進める素材になり得る物であった。
ここで重要なのは、ルーシィがフィリルールを個人的に嫌っているから、こういう事を企んでいるわけではない、という事だ。個人的な視点で見れば、むしろ好いているかも知れない。だが、もともとルーシィは、フィラーナ以外の人間を観察対象としか見ていない。仮に好きであったとしても、それはバードウォッチャーが、鳥を愛するのと同じような感覚であろう。
ルーシィが言った〈頭を切り換える〉というのは、こういう事だ。これは一流の証拠であり、必ずしも非人間的な精神構造の結果、とは言い切れまい。ルーシィは、必要とあれば幾らでも冷酷な決断をする事は間違いない。そして良いこと言われたヤングは、これを割り切る事が出来なかったのであった。
おそらく、ここでルーシィが個人的感情でここの内戦を収めたいと思い、動いたところで、良い結果は生まれないだろう。仮にこの土地に一時的な平和がもたらされたところで、長期的に良い結果は確実に生まれまい。ただ、彼女は意図的にフィリルールを見殺しにするつもりもないだろう。ただ彼女はこう思っているだけである。チャンスだ、と。
 
闇の中の森を、四人は進み始めた。相変わらず周囲に興味を示し、呑気なフィリルールを除く三人の表情は厳しい。或いは、そういう表情を作っていると言うべきであろうか。山中での行動は、案の定強行軍になり、その途中でやはりフィリルールが音を上げた。クロムが真っ赤になりながら、背中を貸そうかと提案しようとした。だが、その前にゼフィンがフィリルールを抱え上げたので、結局少年は何も言えなかった。
ルーシィの耳が、ひくりと動いた。同時に、クロムも殺気を感じ、精神に緊張を走らせ、邪竜剛縛拳の構えをとる。片手でフィリルールを抱え上げているゼフィンが、空いた手で剣を抜きはなった。
同時に、周囲に無数の人影が現れた。リュックを背負い直すと、ルーシィはクロムに鋭い視線を向ける。
「しょうがないなー、強行突破するよ。 許容は30」
「? 許容って?」
「処分していい人間の数」
先に手を出したのは、包囲側の兵士だった。一斉に剣を抜き放ち、突進してくる。数はおよそ五十程だった。月光を浴びながら、突進してくる兵士達の兜には、キーア人特有の赤い羽根飾りがつけられていた。
相手が動くのを確認すると、クロムが動いた。手近な兵士に接近すると、振り下ろされた剣をぎりぎりでかわす。そして、兵士の剣を持つ手を取ると、踏み込むと同時に相手の顔面に掌底を見舞った。首の骨が負荷に悲鳴を上げ、盛大に鼻血を吹き出した兵士が絶叫して倒れる。殺してはいないが、当分戦う事は出来ないだろう。更に後ろから突っかかってきた兵士の攻撃を受け流し、再び剣を持つ手を取る。そして体が泳いだところに、脇腹の後ろに膝蹴りを見舞った。兵士の肩の関節が悲鳴を上げ、もんどりうって兵士は倒れた。
「手強いぞ、気をつけろ!」
兵士が叫び、クロムに集中攻撃する。天使、もしくはB級以上の力を持つ魔物以外の戦闘で、魔界製の武器を使ってはいけないという指定が既に来ているので、少年は徒手空拳で戦うほか無い。それでも危なげなく少年は敵を倒していき、次の瞬間に場に闖入者が入り込んだ。
長く太い首が、乱戦の場に不意に割り込んだ。それはこの地で戦闘用に飼い慣らされ、実践投入されている、〈ゴーフェリア〉と呼ばれる魔物だった。容姿は巨大な甲虫と言うところで、全身を黒光りする外骨格で覆い、鋭い牙は強靱な顎に支えられ、圧倒的な破壊力を誇る。首は長く、二つの節があり、柔軟にしかも素早く動いて敵を討つ。草食であるが、飼い主の命令には忠実で、ある程度の言葉も理解できる。
このゴーフェリアは、ドルカルス側の魔物使いが放った物だった。ドルカルス軍にもキーア人援軍の話は伝わっており、奇襲の一環としてゴーフェリアが放たれたのである。命令は、森の中にいるドルカルス人以外の人間を皆殺しにしろ、であった。
鋭い牙が大きく開き、キーア人兵士を捕獲する。そして空中に持ち上げると、一息にかみ砕いた。まずそうに兵士の死体を放り捨てると、ゴーフェリアは雄叫びを上げた。それを聞き、更に数体のゴーフェリアが森の奥から現れる。同時に、キーア側の兵士が場に大量に乱入し、凄まじい乱戦が始まった。
「フィリルールさん!」
クロムが絶叫するが、既に少女の姿は周囲にない。もう一度呼ぶも、結果は同じであった。時々突っかかってくる兵士を突き飛ばし、或いは弾き、少年は周囲を必死に見回す。だが、地獄の戦場と化した其処では、怒号と喚声にそれは虚しくかき消されるばかりであった。クロムはそれほど強い妖魔ではないから、一人でこの状況をひっくり返すほどの力はない。
「引くよ」
いつの間にか透化迷彩を発動させていたルーシィが、クロムの襟首を掴み、素早く引っ張った。それに対し、少年は激しく抵抗した。
「フィリルールさん! フィリルールさん! 離してくださいっ! フィリルールさんがっ!」
少年の首に、鋭い手刀がうち下ろされた。それを最後に、少年の意識は遠くへ飛んだ。
 
次に少年が目を覚ますと、そこは戦闘地点からだいぶ離れた場所だった。彼は乱暴に地面へ転がされており、首の後ろに痛みも残っていた。
「おー、おきたか」
「ルーシィ……さん……」
「はぐれたところまでは覚えてるー? とりあえず、キーア人兵達はあの後、ゴーフェリアにかなりやられたみたいだけど、結局この森を通過する事には成功して、少し先で布陣してるよー」
「そうですか……じゃあ……」
それだけ言ってから、クロムはルーシィの表情に初めて気づいた。愉悦ではないが、真に生き生きとした生命力を湛えていたのである。嫌な予感がして、少年は飛び起きた。
「はやく、探しに行きましょう!」
「慌てて探しに行っても、見つからないよー。 もうフロートアイを山中に飛ばしてあるから、帰ってくるの待とっか」
クロムはこのときだけは屈しなかった。両目に炎を宿し、ルーシィに必死の反撃を試みる。
「フロートアイにはリモートリターン機能があります! 探しに行っても問題はないはずです! 僕はわずかですけど気を探知できますから、フィリルールさんが近くにいれば分かりますし!」
「何をそんなに慌ててるのー?」
「人の命がかかってるんです! 落ち着いてなんていられませんよっ!」
「そうじゃなくて、好きな子が危ないから急ぎたいんでしょー?」
自分の心を見透かされて、クロムは硬直した。もっとも、そのような事など、客観的に見れば一目瞭然であったが。
「こういう状況下、個人的感情で動いて良いってー、軍で言われたの?」
「それは……その……」
「フロートアイのリモートリターン機能は、普通の情報収集機能分のメモリーを食って作動するって知ってるよねー。 短気は損気だよ。 ま、落ち着いてここで待った方がいいよー」
クロムは決然と顔を上げた。そして唇を噛み、言った。
「それでも僕は……フィリルールさんを探しに行きます! 減俸してくださっても構いません!」
闇の中に少年は掛けだした。それを見送ると、ルーシィはため息と共に起きあがった。
「やれやれ、何かあったなら、もう無駄なのにねー」
そういって埃を払うルーシィは、荷物をしょい直すと、少年に遜色ないスピードで闇の森を走り始めた。そして、程なくクロムに追いつくと、肩をたたいた。
「仕方がないから、今回だけは許してあげるー。 手分けしてさがそっか」
「上級博士……ありがとうございます!」
「じゃ、私は右。 クーちゃんは左。 集合地点はここ。 時間はこれ。 見つけたらこれで合図」
少年には、今ルーシィが言った情報を納めた小型携帯端末が手渡された。そしてルーシィが右に飛び、クロムが左に飛ぶ。二人は疾風の如き早さで、森の中を走り始めた。少年がこの行動をするのをルーシィが許した理由は、おそらく既に結果を悟っていた事、そしてフィラーナが同じ目にあったときの自分を考えた事、が上げられるかも知れない。
 
少年は特殊なゴーグルとヘッドホンをつけ、闇夜の森を走った。そして、何度も周囲を見回し、気を探った。
周囲には無数に死体が転がっていた。原始的な魔法を使ったらしく、木が焦げていたり、へし折れていたりした。そして、ゴーフェリアの死体が、兵士達の死体に混じって点々と転がっている。おそらくここが主戦場だったのだろうと、少年は推察した。
主戦場だった場所を抜けると、死体は減ってきた。同時に、少年の嫌な予感が加速してきた。少年が真っ先に駆けつけたのは、先ほど戦闘が行われた地点であったが、そこにもフィリルールの姿はなかった。十体程の兵士の死体と、魔法攻撃を集中して受け倒れたらしいゴーフェリアの亡骸だけがあった。
「くそ、どこに行ったんだ!」
少年は焦る。必死に周囲の状況を調べ、倒れている兵士が絶倫の剣技で屠られた物だと推察した。おそらく、ゼフィンの手にかかったのだろう。そして、この地点では決着が付かなかったらしい事も推察できた。一人抱えるというハンデ付きで、これだけ戦えるのだからたいした物だ。である以上、フィリルールはまだ生きている可能性が高い。そう自分に言い聞かせ、立ち上がったクロムの耳に、合図の照明弾が打ち上げられる音がヘッドホンから響いた。これは特殊ヘッドホンでだけ集音できる特殊な波長の音(無論、事前の設定が必要)、特殊ゴーグルで確認できる紫外線(以下同じ)を発する物で、人間に絶対渡さない事という前提付きで、使用が許可された軍用品だった。
少年は走った。照明弾が打ち上げられた場所は、ここから半キロ程離れた場所だ。大丈夫だ、絶対大丈夫だと自身に言い聞かせ、少年は走った。そして、最悪の結果に直面した。
 
5,反抗
 
其処に倒れていたのは、ゼフィンだった。命に別状はないようであったが、全身に多くの刀傷を受け、動ける様子はない。周囲には、十人を超すキーア人兵士が倒れていた。
「来たか。 見つけたよー」
「フィリルールさんは!」
率直な少年の言葉に、ルーシィは顎で奥の茂みを指した。少年は飛びつくように其処へ走り、それを見た。
「……!」
其処にあったのは、着衣を引きはがされ、明らかに兵士達の慰みものにされ、挙げ句に殺されたフィリルールの亡骸だった。頭が真っ白になり、少年は膝から崩れ落ちる。その両目から、涙が流れ始めた。
「何で……何で……何でこんな……何でこんな事に!」
「俺は必死にここまで逃げてきた。 三十人程の豚汚しが、ここまで追ってきた。 俺はここに倒れてる奴らを倒した。 だが……そこまでだった!」
ゼフィンの口から、言語化した涙がはき出された。無論、豚汚しとはキーア人の事だ。ルーシィは、荷物の中から予備の白衣を取り出すと、無惨なフィリルールの遺体に掛けてやった。その間も、ゼフィンの言葉は続いた。
「俺は頭に打撃を一発貰い、気を失った。 それで奴らは俺が死んだと思ったらしい。 そして気がついたとき……俺は……俺は! 俺が情けなく寝ている間に、我が主君はっ!」
「うわあああああああああああああっ!」
絶叫し、少年は泣き崩れた。一人だけ、ルーシィは異様に冷静だった。凍るような目でゼフィンを見据えると、静かに言った。
「仇ー、討って欲しい?」
「俺が……魂にかけて討つ!」
「その体でー? しかも実行犯の顔全部覚えてるの?」
「……貴方は確か、悪魔だと言っていたな」
ゼフィンの言葉に、ルーシィが目を細める。相手が完璧に自分の術中にはまったと察したからだ。禁止行為すれすれだが、一応魔界製府の許可範囲には入っている。
「俺の魂をくれてやる! だから、奴らを地獄へ叩き込んでくれ! 豚汚しどもに、永劫の業火を!」
「魂なんていらない。 その代わり、ぜっちゃんの記憶が欲しいなー。 見せてくれて、それを好きにして良いって言うだけでいいよー」
「何でも良い、何でも良い! だから、我が主君を、汚し! 犯し! 殺した輩に制裁を! 我が主君は、あのままでは天界へいけぬ! 俺は地獄に堕ちても良い! だが、主君は、主君だけは!」
「あ、そういやぜっちゃんの国じゃ、自分を冒涜した相手が生きている限り、天国にはいけないんだったよねー。 分かったよ。 それで納得するなら、殺ってあげる」
ルーシィは笑みを浮かべると、契約書を取り出し、ゼフィンにサインさせた。そして特殊な装置をリュックから取り出し、ゼフィンの頭に当てた。そして、奥へ歩いていくと、泣きじゃくるクロムの側に座り、フィルリールの頭にもそれを当てた。少女は放心状態の呈で、ナイフを胸に突き立てられて死んでいた。頬には涙が伝った後があった。両親から暴力を受けるどころか、暴力の存在自体知らない少女が、いったいどれほどの恐怖の中で死んでいったか、想像するのは実に容易である。ナイフを抜き捨てると、ルーシィはクロムに言った。
「埋めといてー。 このままにしておくのはかわいそうでしょ」
 
ようやく落ち着いて来た少年は、ゼフィンが止血するのを手伝っていた。ルーシィはひっきりなしにコンピューターを操作しており、此方には一顧だにしなかった。
「少年……俺はこれから、鬼となる」
クロムに、ゼフィンはそれだけ言った。少年は、それに異議を唱える事が出来なかった。
「見つけた。 実行犯全員ー、固まってまーす。 にゃははははは、ちょうど許容人数の残りと同じ人数だし、一網打尽といこっか」
クロムが顔を上げると、ルーシィはリュックを背負い直し、歩き出していた。ゼフィンに一礼し、フィリルールの墓に敬礼すると、少年はまた闇夜の森に駆けだしていった。少年は、今までこういう行為にいっさい手を貸そうとしなかったルーシィが、何故今更こんな行動に出たのか気づかなかった。ルーシィは確かに頭に来ていた。だが彼女は、それ以上に、研究のためにこの行動をとったのである。
 
「なあなあ、あのメス豚の面、今思い出しても笑えるぜ!」
「自分が何されるか分かったときの顔だろ! ひゃははははははは、面白かったなあ」
「もっと楽しめそうだったのに、あっさり殺しやがってよぉ!」
「何言ってるんだよ、刺したの見ておめーだって笑ってたじゃねーか!」
兵士達の嬌笑が響いた。別に彼らが特別卑劣なわけでも外道な訳でもない。彼らも故郷では良い父親であり、良い兄であり、良い恋人である。戦場の狂気と、民族レベルでの憎しみに、戦場で殺戮を繰り返し麻痺した感覚が加わると、こういった行為に抵抗を覚えなくなるのだ。
普段、民族レベルでの憎悪という物は、煽らない限り、或いは余程強引な政策を採らない限り爆発しない。そういった物を正当化すると、確かに短期的には政治的な効率が上がるのも事実である。だが、一旦爆発した対立感情は、救いようのない溝を生み出し、其処に無数の命と血を吸い込む。そして戦争になったりすれば、先ほどのような悲劇が、ここ数日で繰り返された無惨な出来事が、大量生産される事になるのだ。そしてそれを招くのは、政治を執る者の、或いはそれに近い立場にいる者の、もしくは時代の焦点になっている者の、個人的欲望、或いは意志である事が、ほとんどなのである。少なくともこれらは、ルーシィの理論の正しさを後押ししていた。無論例外はある事だろう、だがそれは所詮極少数にすぎない。
魔界政府から、ルーシィは三十名の殺戮許可を得ている。これはもし戦闘に巻き込まれたさいの予防措置と、特殊な事情で殺した方が研究資料が集まる場合を考慮した数字だ。無論無為な殺人をしたり、政治的地位が高い者を殺して当地の政治を混乱させたりしたら政府に処罰されるが、今からルーシィがやろうとしている事は、取引と言う事もあり、ぎりぎり許容範囲内であろう。はっきり言って、この陣地内で愚劣なる言論をかわしている兵士達が死のうが死ぬまいが、この地の歴史に影響などでない。
今、キャンプの中にいる兵士は二十二名。周囲に他の陣はなく、攻撃は容易である。しかもこの中の全員が、フィリルールの強姦殺人に関わっている。茂みの中から、その姿を確認すると、ルーシィは傍らのクロムに語りかけた。
「どする? 殺りたい? いやなら私がやっちゃうよー」
「……お任せいたします。 僕がやるより、ルーシィさんの方が無惨に殺せそうです」
「そか、じゃ」
ルーシィが立ち上がり、その体に秘められた真の姿を解放した。それは、体長十四メートルを超し、青黒い体を持つ、巨大なるムカデだった。強烈な魔力波動が周囲に吹き荒れ、あたりの動物たちが我先に逃げ出した。その巨体から放たれる威圧感は圧倒的で、魔界の上級獣人の凄まじい力が伺えた。
「キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアっ!」
巨大なるルーシィが体をひねり、咆吼を上げる。それは麻痺効果を含む、強烈な音波攻撃だった。兵士達は、剣すら手に取る暇もなく、地面に倒れた。しかもルーシィは、意図的にその効果を弱めたようで、全員意識があり、恐怖に引きつったまま兵士達は巨大ムカデを見上げている。
「クーちゃん、ひろっといて」
ルーシィが、兵士の一人をくわえた。そして空中に持ち上げると、わざと大きな音を立てながら、その体をかみ砕き、飲み込んでいった。肉がかみ砕かれ、骨が砕け、鮮血が流れ出す音が周囲に響く。やがて、乾いた音と共に何か落ちてきて、麻痺咆吼の効果を受けなかったクロムがそれを拾った。兵士の生首だった。
兵士の一人が、引きつった悲鳴を上げてもがく。だがそれを嘲笑するように、ルーシィがその兵士をくわえ、わざとゆっくりかみ砕いて食べていった。
「は、はふ、け、へ……」
助けて、といったつもりだったのだろうが、漏れたのは意味不明の言語だった。失神する兵士、涙を流して哀願する兵士、いずれもルーシィは食べた。一人残らず、ゆっくりかみ砕き、飲み込んでいった。そしてその場には、二十を超す生首が残された。
ルーシィが元の姿に戻る、そして血みどろの口を拭いた。
「やっぱりー、まずいね、人肉」
「上級博士……」
「その物体から、記憶引っ張り出しといてー。 それが終わったら、ぜっちゃんにあげてきて」
その言葉で、少年はようやく悟った。この襲撃すら、研究の一環だと。この兵士達の記憶すら研究資料にし、自分の糧にするのだと。恐るべきレベルで練り上げられた策略、常軌を逸した効率性だった。
考えてみれば、全て合点のいく話だった。ルーシィは、フィリルールの死を悟っていたのではないかと、少年は気づいた。そして、それに積極的に荷担しなくても、知りながら積極的に利用したのではないかと。或いは、死んでいた場合、生きていた場合にあわせ、それぞれ策を練っていたかも知れない。そうでなければ、手際の良さが説明できない。のほほんとしながら、全ての事態を予測しきっていたのかも知れない。その予想は、おそらく九割以上の確率で正解しているはずだ。
何もかも、彼女に利用されていた。命も、死も。そしてそれは、おそらく魔界の未来のためになる。すばらしい、文句なしに凄い。悪辣ではないし、理にかなう。死んだ者も無駄にはならない。少年はそう素直に思った。だが、同時に自分の眼前で、扉が閉まるのを感じていた。そして、それを開けようと言う意欲が、少年の中から永遠に消えた。
「僕は……一流にはなれそうもありません。 ここまで、頭を切り換えられません。 何でも、利用できません……フィリルールさんの死を、ここまで研究に利用するなんて……僕は……できません。 上級博士、貴方は凄いです。 確かに超一流です。 でも……僕は、もうそれにはなれない……はっきり分かりました」
少年はそれだけ言い、テントの布を引きちぎって生首を包み、引きずっていった。ルーシィは頭をかくと、その様を見送った。
この無惨で無意味な戦いは、六年後に終了する。鬼神と呼ばれた猛将、イルファン=ゴルプクレンの活躍が、その主因だった。後に王となるイルファンは自身を鬼と常々証し、戦場では圧倒的な破壊力を振るって敵を粉砕した。(その配下には、あのゼフィンもいたが、彼自身は戦争が終結する直前に戦死している)ゾンエ将軍も、第四次マルクテス平原会戦で、イルファンの手にかかった。結局今までの支配者階級キーア人が被支配者に転落し、ドルカルス人がこの地の覇権を握る。だがイルファン王はキーア人を虐待したため、もろい平和にしかならなかった。後にイルファンの日干しと呼ばれる、大量虐殺が行われ、その死者は八万を超えた。他にも彼によって惨殺されたキーア人は、十五万に迫るとさえ言われた。キーア人は耐えた。そしてイルファン王の死と同時に、一斉蜂起したのである。愚王アイボルト、そして鬼神イルファン。時代の中核となった、この二人の個人的感情が、それぞれの民族を代表していたとはいえ、国家犯罪を誘発し、平和を粉砕した。それは、完璧なる事実だった。
 
6,それぞれの器
 
帰りの輸送機の中で、少年は気持ちを切り替えていた。もうきっぱり道を究める事を諦め、自分の器にふさわしい場所を探そうと考えていたのである。
少年はルーシィを憎んではいない。むしろ、素直な尊敬さえ覚えた。ただし、同じ場所に行く事は絶対に出来ない、それも悟った。だから今は、普通に話す事が出来た。すっきりした表情で、少年はコンピューターを操作するルーシィに語りかける。
「博士、僕を魔界大使館で、或いは公国首都での常駐員として使っていただけませんか?」
「そーだねー、クーちゃんにはそれがいいかな」
「ありがとうございます」
「ま、一流になろうとあがくだけが人生じゃないよー。 自分の居場所と器をわきまえて、生きるって方法もあるしね」
肩をすくめたルーシィは、まじめな顔になってクロムの目をのぞき込んだ。
「それぞれの道、それぞれの器。 力が抜けただけでもー、一歩は前進したんじゃないのかな」
「僕も、そう思います。 僕は、これから僕にふさわしい器を探します。 フィリルールさんの分も、一生懸命生きなきゃいけないから」
ルーシィはその言葉に、だらしないが嫌みではない笑みで応えた。クロムは、上級博士の生の表情を、初めて見た気がした。
(続)