雪踏みの学校

 

序、絶望の挫折

 

私は、無能な教師だ。

故郷では、どうしても思ったように生徒達と接することが出来なかった。学校のシステムの崩壊。モンスターペアレンツの横行。生徒達の中にも、親からろくな愛情を注がれていない子もいたし。集団の中で、周囲に対して暴力を加える事しかコミュニケーションが取れなかったり。

経験が浅いことは事実だったけれど。

私の周囲のベテラン達も皆目を白黒させていたから。今はきっと、学校というものが、壊滅的な過渡期に来ているのだろう。

何もかもが、あっという間だった。

PTAの暴走。

誰も彼もが、子供の世話を押しつけあって。

最後には、学校で自殺者が出た。

隣のクラスの担任の生徒だったけれど。

学校そのものが、それでマスコミのつるし上げになった。

教師はみんな、死ぬ思いをした。

連日連夜の会議。

対策会議ではどうしていいかもわからず。

左翼系の組合に所属している教師は、さっさと逃げて以降は顔も見せず。

国からの査察が来て、校長が首になって。他の教師達も、皆彼方此方に飛ばされた。特に、生徒を「自殺させた」教師は、行方もわからなかった。

悪夢だった。

モンスターペアレンツに育てられて、自制心の欠片もない生徒が。授業中だろうが関係無く弱い生徒に暴力を振るい。

それを咎めると、鬼のような形相のモンスターペアレンツが、人権屋と呼ばれる連中を引き連れて、学校に乗り込んできた。この地域のPTAがタチが悪い連中に好き勝手されているという話は聞いていたけれど。

まさか、此処までおぞましい存在になり果てているとは、思いもしなかった。

そして、担任教師は、土下座までさせられた。

加害者生徒はますます調子に乗り。

手当たり次第に周囲の生徒に暴力を振るうようになり。

そして、イジメは更にヒートアップした。

正直な話、あの子が本当に自殺したのかもわからない。あの屑生徒が、殺した可能性も高い。

いや、ある意味、あれは殺人事件だった。疑う余地は無いだろう。

事件は最悪の幕切れを遂げた。

ネットで情報が拡散され。

加害者家族は失踪。加害者児童は、全身をズタズタに切り裂かれた状態で、発見された。

首には看板が突き刺され。

それには天誅と書かれていたという。

自業自得の末路と言えるのかは、わからない。

ただ、はっきりしているのは。

あの時、私の学校教師としての生は、一端終わったという事だけである。

その時点で、私の心身は既に限界が来ていた。

元々、生半可なブラック企業など及びもつかない労働状態に晒されていた私の体は、ぼろぼろになっていたし。

どれだけ悪辣であっても、生徒は生徒だったのだ。

死者が出たことで、精神も限界を超えてしまった。

しばらくは病院の世話になったけれど。

その病院にも脅迫状が届くようになったのだ。

あの加害者児童を殺した犯人はその時点で捕まっていたけれど。ネットの世論はヒートアップするばかりで。

私は院内に乗り込んできた人間に、いつ危害を加えられてもわからない状態になっていたのである。

病院側に、勧告された。

出て行って欲しいと。

私は家に戻って、愕然とした。

一人暮らしのアパートは、内部が滅茶苦茶に荒らされていた。住所もネットで晒されていたし、何が起きたのかは火を見るよりも明らかだった。

私には、何を主張する権利もなかった。

家に手紙が届いていた。

実の両親からの縁切り状。

そして、調べて見ると。

両親は、何処かに引っ越した後だった。

警察はどのみち、保護などしてくれないだろう。元々県警がやる気がないことで知られていたし、何より世論を敵に回す。

失点が多い近年の警察が、そんな事をするとは、私には思えなかった。

勿論、事実はどうだかはわからない。

ただその時の私には、そう思えていたのである。

進退窮まった私は。

失踪した、加害者児童の担当教師のようになろうと思った。いっそのこと、誰も知らない場所に行ってしまおうと思ったのだ。

つまり自死である。

担当教師がそうしたのだろうと、その時は私も思っていたし。

何より、アパートには、連日よく分からない人が押しかけていた。

おかしな事で。

イジメをヒートアップさせた張本人である人権屋も、それには加わっていた。きっと彼らは、自分がする事が常に全面的に正しいと思っているので。自分が人を死なせたという可能性には、思いも当たらないのだろう。

既に、まともに思考できる状態でなかった私の所に。

外務省から、連絡が来たのである。

アトランティスに行かないかと。

その名前は、私も知っていた。

通常の人間では対処できない、特殊な空間が発生した場合。それに命がけで挑むフィールド探索者。

そのフィールド探索者の中でも、このJ国出身者で。

最も有名な一人が、建国したのが、アトランティス。

マスコミなどには独裁国家として叩かれることもあるが。実はJ国とは、裏側から様々な取引があると言う。他の国と、問題を起こしたという話も聞いていない。そればかりか、噂は根強い。

新興国として、今非常に伸び盛りだと。

アトランティスでは、社会からあぶれた人材を募集していて。

私に、白羽の矢が立ったというのだ。

アパートに来た外務省の役人は。はげ上がった頭をハンカチで撫でながら。やつれきった私に言う。

「今の状況で、貴方が悪くないと言っても、誰も耳を貸さないでしょう。 過熱しきった世論は生け贄を求めています。 既に失踪した担任教師や、辞任して田舎に引っ込んでしまった校長は、こうなることを読んでいたんでしょうね。 彼らが負う責任まで、貴方にかぶせられてしまった、という事です」

言われなくても、そんな事くらいはわかっていた。

だが、どうにもできないのだ。

外務省の役人は、言う。

「もう、警察でも、貴方を守りきる事は難しいでしょう。 かといって、世論が完全にターゲットとしている貴方は、もはや何処に逃げてもあらゆる目が追っていると見て良いでしょうね」

「死ねと仰せですか」

それだけしか言えなかった。

だが、外務省の役人は、首を横に振る。

「そうならないための、アトランティス行きです。 彼処に行けば、マスコミも世論も、どうすることも出来ませんから。 貴方が悪くないことは我々もわかっています。 今は、そうするしかありません」

アトランティスに行くための手続きは、役人の方でしてくれると言う。

私は、もう。

選択肢を、他に残していなかった。

 

新しい任地に向かう。

今、私は。

船の上にいた。

任地であるアトランティスはもうすぐ。

風に吹かれながら、視線を向ける先が、それだ。

非常に広大な大地が、視界いっぱいを塞いでいる。もう、其処までアトランティスは近いのだ。

私は、定期船さえないこの土地に、逃げてくるしか無かった。

前は飛行機しか渡航手段がなかったけれど。

今は、船もある。

オーストラリアから、十時間以上掛けての船だけれど。飛行機は乗り込むためのチェックが厳重で、特殊な仕事の人間しかまず利用できない。特に、少し前の大規模なカルトが絡んだ事件以降、これから向かう国は、神経質になっている。

でも、私を受け入れてくれたのは、どうしてだろう。

わからない。

ただ、私には、もう行く場所もなかった。

私は教師としては、失格だったかも知れない。

実際、もはや逃げる事しか、出来なかったのだから。

他に方法は、無かったのだろうか。

連日の過酷な勤務。

これでも、部活で拘束される中学や高校の教師よりはまだマシだという話を聞いて、私は絶望したものだ。

隣のクラスの学級崩壊については、私だって聞いていた。

連日の会議で、やつれきった担当教師の様子を見ていれば、それが如何に無茶苦茶な状況下も、理解できていたはずだ。

何か、出来ていたのだろうか。

出来ていたはずだ。

絶叫が、脳裏に響く。

お前は人殺しだ。

絶対に許さない。

あの屑と同じ場所に送ってやる。

アパートの周辺から、金切り声が、いつもしていた。隣の住人からも、出て行けと面と向かって言われた。

いずれにしても、あそこにいても。

もう死ぬほかに路は無かっただろう。

外務省の役人が手配してくれた、この場所の他に。私には、生き延びるための居場所はなかったのだ。

ほとぼりが冷めるまで。

そう役人は言ったけれど。今のネット社会で、そんなものが冷めるだろうか。

船が来る。

あまり新しいとは言えない、錆が浮かんだ船体が目だった。アレはおそらく、戦闘目的の船だろう。

この国が有している海軍のもの、と言うわけだ。

英語で何か説明されている。

外務省に渡された翻訳用の電子手帳によると、どうやら臨検というものがあるらしい。噂に聞く、少し前のカルトがらみの事件が原因で、この国への入国は厳しくなっているということだけれど。

その一環なのだろう。

どやどやと船に入り込んできた者達を見て、目を見張る。

屈強な体格の、半魚人としか言いようが無い異形の者達。

手には宝石のついた槍。

これだけで、もはや此処が異世界なのだとわかる。

船の甲板で立ち尽くしている私は。彼らが、翻訳用の電子手帳をぶきっちょに扱うのを、ぼんやりと見ていた。

「一列に並んでください。 これから、検査をします。 パスポートを準備してください」

半魚人達が、臨検とやらを始める。

見ていると、半魚人だけでは無い。

もっと巨大な体格を持つ者や。全身から触手が生えている者もいるようだった。

私は、並ばされる。

ああ、此処で死ぬかもしれない。

そう思うほどに、私は悲観的になっていた。

半魚人の中には、あごひげが生えている者がいて。彼らはなにやらぶつぶつと呟きながら、槍を並んでいる一人一人に向けている。

アレは何をしているのだろう。

「はい、次」

一人ずつ、訳が分からない儀式のようなものをされているけれど。

美味しいかどうか、確認でもしているのだろうか。

私の番が来た。

槍を向けられる。半魚人が、じろりと此方を見た。

「あんた、手荷物に何か妙なものが入っているね。 見せてもらおうか」

「はい、どうぞ」

「ん」

トランクを渡す。

とはいっても、家を出るとき持ちだしてきたのは、ごくわずかな財産と、身の回りの品だけ。

小さなトランクに、入りきるほどの量しかなかった。

半魚人では無い、子供ほどしか無い背丈の、青白い肌の者が来る。

見た目、人間とは思えない。顔の造作なども、人間とは違う。目鼻立ちなどが、どうしてもあり得ない形になっているのだ。

青白い子供が、トランクを開いて、念入りに調べる。

彼が取り出したのは。

ずっと昔に、お土産として観光地で買った、木彫りの人形だった。

捨てるのも何だし、持ってきていたのだ。

「何だね、これは」

「ただの人形です」

「これには魔術が掛かっているよ。 解析するまで預かっていいか」

「どうぞ、ご自由に」

青白い子供に、手を引かれる。

念入りに検査するというのだろう。

好きにすれば良い。

いっそのこと、海にでも放り込んでくれないかなとさえ思っていると。青白い子供は、意外に近代的な設備の所に私を連れていった。

これは、X線による荷物の検査装置か。

通ってみせる。

多分、骨格が向こうでは見えているはずだ。

「はい、機械などを埋め込まれている形跡無し。 体に刃物などを隠している形跡無し」

「そっか。 じゃあ、大丈夫そうだね」

口々に、半魚人達が話し合っている。

何のことかはよく分からないけれど。他の人も順番に並ばされて、X線による検査を受けていた。

一人、引っかかる。

体の中に、薬物を隠していたらしい。その場で捕まって、強制送還される。

暴れ出す男だけれど。

半魚人の屈強な体格の前には、どうしようもない。

多分オーストラリア政府に連絡しているのだろう。半魚人の一人は、無線で何かを話していた。

程なく、全員の検査が終わった。

木彫りの人形は返して貰えない。まあ、どうでも良いので、放っておく。

其処から、船を下りさせられる。

とはいっても、海にドボンというわけでは無い。小舟を出して、其処に乗せられたのである。

半魚人の数名が、海に。

そうすると、とんでもなく巨大な怪物が、海面を割って、何体か姿を見せた。タコのようだったり魚のようだったり。

いずれも、とてもこの世の生き物とは思えない。

悲鳴を上げる船の人々。

私は、妙に冷静だった。

多分、もう自分の命が尽きても良いと思っているからだろう。

「はい、お静かに。 これから我等が神の艦隊が、陸まで皆さんを護送いたします。 みんな大人しい戦闘生物なので、安心してください」

何かひどい矛盾した発言を聞いた気がするけれど、どうでもいい。

小舟は流石にモーターボートになっていて、海面を蹴立てて進み始める。半魚人は、平然と泳いでそれについてきていた。勿論巨大生物もである。

何だか、何もかもが違う世界だ。

私はこれから、どうされるのだろう。

この化け物達の餌にされてしまうのだろうか。

それも良いかもしれない。

教師失格のこの身だ。

私の担当生徒では無かったとは言え。結局、学校にいた子供を守れなかった無能に、代わりは無いのだ。

悄然としている私と違って、周囲は騒がしい。

十字を切って必死に祈っている人もいる。

勿論半魚人がダメージを受けている様子は無い。

ほどなく、あまり建物がない港に着く。小舟が桟橋に着くと、半魚人に促されて、みんな降りた。

建物もまばら。

あまり、発展しているとは言えない港。

向こうで、セスナが着陸しているのが見える。船がこの様子では、きっと飛行機も、色々大変なのだろう。

「はい、みなさん、並んで。 これから、もう一度身体検査をして貰います」

半魚人の一人が、手を叩く。

これは、言われた場所に着くのに、どれだけ掛かるのだろう。丸一日かかっても、不思議では無さそうだと、私は思った。

 

1、異国へ

 

翻訳装置に頼りっきりの時間が続くと、不安にもなる。時々フリー使用可能なコンセントがあるので、充電は出来るのだけれど。

これは翻訳装置を無くしてしまっては、きっと何も出来なくなってしまうだろう。

港で幾つかの建物をたらい回しにされる。

持ってきたパスポートを預けて、返して貰って。

外務省からもらった書類を渡して。返して貰って。

夕方になって、宿舎に案内された。

毛布と簡易寝台が、小さな部屋に並んでいる。これは、カプセルホテルよりもひどいかもしれない。

ただ、殆ど人はいない。

私と一緒に入国した人の殆どは、もう手続きが終わったらしく、港を出てめいめいの目的地に向かったようだった。

観光の人などは、まっさきに港を出て行ったのを、私も見ている。

半魚人の見張りに、聞いてみる。

「何、此処は」

「貴国の外務省への確認と、検証作業をしています」

「お風呂と食事は」

「用意しています」

案内されたのは、一応水道がついているバスルーム。後、奥の方に、キッチンがあって、其処で夕食をサービスしてくれているという。

奧で料理をしているのは、気むずかしそうな中年の男性だ。驚いたことに、J国人のようである。

ただ、忙しく働いているようで、喋り掛ける余裕は無い。

寝室に戻る。

もう一人、長々と待たされている人がいる。

さっき十字を切っていた人だ。

多分、何処かの慈善団体の人なのだろう。いわゆるシスターに見える。

私より少し年上で、善良そうな、しかし臆病そうな人だった。優しそうで、虫一匹殺せそうにない。

後掛けている眼鏡が分厚くて、せっかくの綺麗なお顔が隠れてしまっている。

一礼して、隣の簡易寝台に。

英語圏の人らしく、この人とも翻訳装置を使って会話をする事になる。面倒だが、こればかりは仕方が無い。

「貴方は、慈善団体の人ですか」

「はい。 私の所属している教会が、この国で人権侵害や迫害が起きていないか調査して欲しいと言うことで。 屈強な男性も何名か送り込まれているのですが、私みたいなみそっかすも……」

恥ずかしそうにうつむく。

ちなみに色々なルートでの入国を検証するために、彼女は海路から。他のメンバーは、空路から入国したという。

「貴方は、どのような目的で、この最果ての国に」

「行く場所がないところを、外務省に声を掛けられました。 私自身、正直何をして良いのやら」

「大変ですね。 私の教会に来ませんか。 神は迷える子羊を、いつも光で照らしあそばします」

「有り難い申し出ですが、遠慮しておきます」

宗教に偏見がある訳では無いが、流石にいきなりそれは遠慮したい。気を悪くした風もなく、シスターはアニーと名乗る。

私は風倉揚葉と、名を告げた。

「アゲハ、ですか」

「ええ。 教師をしていました」

「教師ですか。 素敵なお仕事ですね」

「有り難うございます」

素敵、か。

屑教師も屑教師。生徒を守るどころか、死なせた最悪のゴミカスだけれど。

心中で、自分を突き刺す。

しかし、それで気が晴れるわけでもない。

「この国では、人材を募集していると聞いています。 しかしフリーエフォートなる団体が、非常に悪質なテロ行為をもくろんだという事で。 それ以来、入国には面倒な審査が掛かるようになったそうです」

「へえ……」

フリーエフォートなら聞いたことがある。

少し前につぶされたカルト団体で、努力をしないことを信条とするとか言う、穀潰し肯定集団だ。

確かにアトランティスにちょっかいを掛けて潰されたらしいと言う話は聞いていたけれど。

その聞いていた話が、目の前で影響を及ぼしている。

「いずれにしても、殆どが又聞きの話ばかりです。 早く国に入って、実態を確かめたいです」

「熱心ですね」

「私、子供が好きなんです。 紛争地帯とかには危なくて行かせては貰えないですけれど、せめてこういう、中に入ることが認められていて、安全も保証されている場所だったら、実態を見てみたくて。 もしも人権侵害があるのなら、何とかして改善したい」

優しそうな人だけれど。

きゅっと結んだ唇には、強い意思の力が感じられる。

私はどうだろう。

結局私は、教師になったのも、夢を叶えたからでは無い。大学で何となく教職課程の単位を取って。何となく教師になっただけ。

小学校教師になってみて、現実を見て。

そして今、打ちのめされて、此処に放り出されている。

それだけの落伍者。

それだけの屑だ。

夕食に呼ばれたので、出向く。

用意されていたのは、野菜を中心とした料理だ。それも、見た事がある野菜ばかり。どんなゲテモノが出てくるのか不安だったのだけれど。

これはおそらく、アニーさんを見て、肉類が出ないようにと料理人が配慮してくれたのだろう。

気むずかしそうな男性だけれど。

この辺りの細かい気配りは、不器用な優しさを感じさせられる。

豆のスープは特に絶品。

温かくて、体に力がみなぎる。

体が温まったところで、寝室でさっさと寝る。半魚人が巡回していて、危険は一切無さそうだ。

あんなおっかないのが巡回していて、泥棒とかしようと考える奴はいないだろう。

そもそも、其処まで人がいない。

この港だって、人が極端に少ないのだ。泥棒を警戒しているのでは無くて。あの半魚人、私やアニーが逃げ出すのを防ぐためにいるのかも知れない。

疲れが溜まっていたのか。

すぐに眠ることが出来た。

不思議な話だ。

学校にいたときは。一切眠ることが出来なかったというのに。

何も枷がなくなったら。嘘のように、簡単に眠れるようになったのだから。

 

人殺し。

外から、叫び声が聞こえる。

私は耳を塞いで、必死に身を縮めて。恐怖が去るのを待っていた。

ドアが激しく叩かれる。

お前のせいで子供が死んだ。

教師の自覚もない恥知らず。

殺してやる。

出てこい。

ドアを叩く音。ドアが破られたら終わりだ。外にいる奴は、包丁を持っていてもおかしくない。

もう、外に出ること自体が、出来ない。

誰も味方はいない。

友人達も、全員私を見限った。あんな奴だとは知らなかったと、友人の一人がSNSで発言しているのを見て、絶望した。

反論も出来ない。許されてもいない。

私のいた学校で、子供がイジメに遭って殺されたのは事実だ。自殺したんじゃない。モンスターペアレンツと、その子供に、殺されたのだ。

私は、それを。

止めなければならなかったのに。

目が開くと。

心配そうに、アニーが見下ろしていた。

「どうしたんですか、アゲハ」

「夢を見ていました」

心配させたくないので、それ以上の事情は告げない。この人は私の罪を告げたりしたら、きっと余計な心配を抱え込んでしまうだろう。

半魚人に呼ばれて、アニーが出る。

豪奢な服装の、何だろうアレは。顔が幾つもある、きんきらきんの人が出てきて、アニーと話し始めた。

翻訳機では無くて、頭の中に、直接言葉が響いてくる。

「なるほど、それでは私が直接案内しましょう」

「お願いします!」

アニーが気を引き締めた様子で、きんきらきんの人に連れられて行った。

この国には、少し前まで世界を騒がせていた異星の邪神が何柱もいると聞いているけれど。きっとあれは、その一柱なのだろう。

さて、私はどうなるのか。

アニーが行ったことで、ついに一人になった。港にはまた船が来ているけれど、ひょっとすると今度来た人達よりも、処置が後になるのだろうか。

不安が押し寄せてくる。

いっそのこと、海に放り込んでくれれば良かったのに。

ため息が零れた。

「アゲハさんですね」

顔を上げる。

翻訳機を使わない、J国の言葉だ。

巫女が着るような千早を纏った女性である。顔立ちは若干幼さを感じさせるけれど。雰囲気は、落ち着いていた。落ち着きすぎて、浮き世離れしている。

そのせいだろうか。一般的では無いはずで、実用性も薄いはずの千早が。その女性には、しっくり馴染んでいた。

綺麗な人だ。

化粧してやっと人並みの盆暗である私とは、えらい違いである。和風美人というのは、こういう人を言うのだろう。

「貴方は」

「私はサヤと言います。 此処の国に、時々お世話になっている、フィールド探索者です」

「!」

フィールド探索者。

普通の人間では生還が叶わない空間を処理する専門家達。この女性が本職だとすると、始めて言葉を交わした。

一般人が、フィールド探索者と出会う機会は殆ど無い。

テレビなんかでは出てくる事もあるけれど。彼らはマスコミを嫌っているという話もある。

まあ、無理もないだろう。

私でさえ、マスコミによるフィールド探索者を叩く目的の記事や、番組は見た事があるくらいだ。

アトランティスに至っては、狂気の独裁国家として、名指しで批判する番組を、何度となく見てきている。

この国の事実上の元首は、J国出身のフィールド探索者だけれど。

マスコミが彼女を評するときは、基本的に批判となる。邪悪な独裁国家で、国民は弾圧されているという激烈な批判も良く耳にする。

実際に足を踏み入れてみて思ったのは、人が少なすぎて、何とも言えないという事だ。

半魚人達は私に丁寧に接してくれたけれど。

それも、これから先は、どうなるかわからない。

「此方に。 案内します」

「……」

サヤと名乗る彼女に連れられて、歩く。

港を出ると、一面の青い野原に出る。その一角に、ちょっとごつい4WDが止められていた。

大柄な。いや、巨人とでも言うべき存在が、すぐ側に立ち尽くしている。格好も、ずっと昔の僧形に見えた。

「大入道、見張り、お疲れ様です」

「いえ。 主よ、運転は」

「私がしたいところですが、話がありますから、魔奴に任せます」

「わかりました」

ふつりと。

大入道と呼ばれた巨体が、4WDの側からかき消える。

思わず二度見してしまうが。其処には、もう誰もいない。サヤさんは、くすくすと笑う。

「驚かれましたか?」

「あれは、一体」

「私の友達の妖怪です。 式神として、お仕事の時は、私を守ってくれたり、一緒に仕事をする人達の耳目になってくれます」

「……」

さすがはフィールド探索者と言うべきなのか。

私には、正直ついて行けない世界だ。

4WDの運転席には、まるで双子としか言いようが無い、サヤさんそっくりの女性がいたけれど。

彼女は狸で、人間に化けているのだとか。

頭がくらくらしてきた。

後部座席に、二人で乗る。かなり古い車のようだけれど、クッションはそれなりに柔らかかった。

車が出る。

「まず、アゲハさんですが、外務省と正式に連絡が取れて、検証も終わりました。 私の先輩フィールド探索者であるスペランカーさんは、貴方を丁重に迎えてくれるという事です」

「はあ、そうですか」

「それで、お仕事の希望はありますか?」

「仕事、ですか」

四流とは言え一応大学出だし、教職免許も持っている。

小学校教師をしていたが、その気になれば中学校くらいまでなら教えられる。ちなみに数学だったら、高校受験まではしっかりこなせる自信もある。

出来る事なら。

教師はやりたくない。

かといって、こののっぱらを延々と走っている国に、どんな街があるのかもよく分からない。

そもそも人間がいるかさえも。

その状態で、レジ打ちだとか、コンビニバイトとか、J国で一般的なバイト職をこなそうにも、逆に現実味がない。

「出来れば、教師をしていただけませんか?」

「……っ!」

「貴方の経歴については、私も聞きました。 私もJ国では、普通の人には見えないものが見えると言う事で、随分寂しい思いもしました。 平和で安定した国ですけれど、どうしようもない欠点があるのも事実です。 ましてや近年は、教育がとても乱れているようだとも聞いています」

口を引き結んで、こたえない。

何がわかる。

本職でもない人間に。

「一度、この国の中枢部に案内します。 其処で、仕事を見つけて貰います」

「仕事は、見つかるんでしょうか」

「それはもう。 この国は、今世界中から異星の神々と、その眷属が移り住んできています。 カリスマとも言える私の先輩がまとめている彼らですけれど、やはり発達に伴って、色々と問題も起きています。 お仕事を手伝ってくれる人は、それこそいくらでも必要です」

集落が見えてきた。

粗末な家々。

集落の周囲にあるのは、柵だろうか。

暮らしているのは、半魚人だけでは無い。ミイラ男や、なんと骸骨もいるようだ。服を着た骸骨は、まるで人間と変わらない生活をしている。ミイラ男達も、体が腐敗している様子は無い。

違う生物として。

この世界に、存在しているのだ。

4WDを止めると、サヤさんは車を降りて、代表者らしい者と話し始める。

何か問題は起きていないか。事件はないか。対応できる事があれば、すぐにする。

長老らしい、首から派手なネックレスを掛けている骸骨が、何か応じている。彼の周囲には、大小様々な骸骨が集まって、色々と話をしていた。

側では、サヤさんそっくりな、狸だという人が。メモを熱心に取っている。

窓から首を伸ばして見ていると。

半魚人には子供が何人かいるようだけれど。

骸骨もミイラ男も、子供の姿は見えなかった。

サヤさんが戻ってくる。

「随分と頼りにされていますね」

「有り難うございます。 もうすぐ一族の当主になって、名前が変わる予定です」

「へえ……」

「私の一族は、小夜という名前を、当主になると引き継ぎます。 私みたいな一族の巫女は、一人前になるとそれに近い名前を貰って生活します。 私は先輩と一緒に戦い続けた結果、恥ずかしながら分不相応な武勲を積むことが出来て。 口うるさい一族からも認められて、そろそろ当主にと言う声が上がってきています。 何か問題が無ければ、来年に今の老当主が引退して、私が代わる予定です」

そうなのか。

まだ私とそう年も変わらないだろうに、荒事で生計を立てている一族の当主。

きっと怖い思いもしてきたのだろう。

4WDが、また走り出す。

途中、幾つかの集落を通り過ぎて。その度に、サヤさんは的確に、住民達から話を聞いて、要望を集めていた。

不意に、途中から真夜中になる。

周囲は、緑の原野が拡がっていたのに。いきなり砂漠になっていた。

平然としているサヤさん。

此処では、これが当たり前だというのだろうか。

目が回りそうだ。

「後三時間ほどで着きます」

「随分と、交通の便が悪そうですね」

「急いでいるときは、ヘリや魔術で一気に移動することもありますけれど、燃料代はそれなりに高いですし、魔術となると使える人が限られます。 特に問題が無い場合は、車を使うのが普通です」

砂漠は、何処までも続いている。

しかし、いきなりまた緑の原野に戻って、私は目を見開くばかりだった。

この国は。

何もかもが。私の知っている常識の外にある。

サヤさんがいうには、重異形化フィールドというらしく。幾つもの世界が、重なりあって、此処に存在しているらしい。

4WDがとまる。

ギリシャ神殿みたいなのの前である。

幾つか、まるでムービーに出てくるような、装甲バスが停まっている。装甲板でガチガチに周りを固め、とげとげまで着いていて、とても怖い。

サヤさんに促されて、神殿に入る。

中には、槍で武装した半魚人が巡回していた。それだけではない。

彼方此方の部屋には、意外に近代的な設備があり、人間の技術者がPCをカタカタ叩いていた。

神殿の中は、外から見たよりも、ぐっと広い。

石材も、一体何なのかよく分からない。

彼方此方に建ち並んでいる神像は、非常に不気味で。異星の邪神をかたどっていることは理解できたけれど。あまり直視はしたくなかった。

サヤさんが、笑顔で話しかけたのは。

白い髭を蓄えた、老齢の半魚人だった。

見るからに着ている服が豪奢である。多分地位を示すものなのだろう。

「長老さん」

「おお、サヤ殿。 其方が、例の先生ですかな」

「はい。 後は、引き継いでもよろしいですか」

「おう、おう。 構いませんぞ」

一礼すると、サヤさんは、狸だという人と一緒に神殿の奥に行く。

あの陳述書を、引き渡すのだろう。

忙しく行き交っている半魚人達。此処は、港とは比べものにならないほど、人の行き来が活発なようだ。

「では、此方に」

長老だという半魚人は、流石にJ国語を喋ることは出来ず。翻訳装置を介して、意思をやりとりしなければならなかった。

 

案内されたのは応接室。

壁の素材はよく分からないけれど。置かれているソファにしても調度品にしても、なかなかJ国の一流企業のそれに劣ったものではない。

茶を出されたので、有り難くいただく。

半魚人の長老は、向かいに座ると。私のものらしい、履歴書を机上に出してきた。

「風倉揚葉さん。 向こうでは、色々と大変だったようですな」

「出来れば、教職にはもう着きたくありません」

「……この国での教育は、おそらく貴方の国とは、少々違っていると思います」

若干慣れない手つきで、長老がプロジェクタを動かす。

映り込むのは。

文字通り、未開集落での生活だ。

人々は、魚を捕り畑を耕し、素朴な生活をしている。生活をしている人々は、人間では無く、半魚人であったり骸骨であったり、或いは、見た事も正体を想像も出来ない存在であったりした。

「見ての通り、この国の大半の民は、彼ら素朴な存在です。 ようやく人間との共存を考え始め、この国の生産力を上げて、苛烈な理屈で廻されている国際社会との折り合いを考え始めた人々です。 彼らには人間を遙かに凌ぐ腕力と生命力がありますが、惜しむらくは、色々な理由から学がありません。 貴方には、初等教育の一部。 そうですな、経歴書通り、数学を希望者に教えて欲しいのですが」

「数学……」

私のいた学校では。

教師には、色々なものが求められた。

生徒の全てを預かるのが教師だとされた。

それが出来ない人間は。

無能として、弾劾された。

そして、何か起きた場合。

全ての責任が、教師の両肩に乗った。

唇を噛む。

「貴方の能力であれば、基礎的な数学くらいは容易く教えられるでしょう。 この国の未来のために、是非教育をお願いしたいのです」

「私は、生徒を死なせた人間です」

ぼそりと、口から零れる呪い。

感情を閉じている私は。

相手の顔を、見る事が出来なかった。

「私に、ものを教える資格はありません」

「……そうですか。 それではこうしましょう。 まずは、この国で始めて作られた教育機関に出向いてみて、其処での教育の様子を見ていただきましょうかな。 それで、考えが変わるようなら、教育に携わっていただきたい」

「私のような人間に……」

「良いですかな。 この国は、今手が足りません。 貴方には、教育を行う能力があると、私は判断しています。 手が足りない以上、適材適所が当然ですからな。 出来れば、貴方にも、そうして欲しいのです」

長老が席を立つ。

すぐには無理でも、いずれは必ず。

そう言われた。

そんな事を言われても。

急に物事が激しく動きすぎて、私はどうすれば良いのか、よく分からない。そもそも、教職は、もはや私にこなせるとは思えない。

モンスターペアレンツ達の狂態は、今でも脳裏に焼き付いている。人権屋や、更にはもっとよく分からないならず者達と結びついた彼らは、学校にあらゆる暴虐を加えて、己の快楽を満足させようとしているとしか思えなかった。或いは、彼らの資金源になっている人々の命令だったのかもしれないけれど、その辺はよく分からない。

崩壊寸前のシステム。

時代に完全に取り残された学校という代物。

先生の質が落ちたのでは無い。

あらゆる意味で、激流に飲まれていたのだ。

生徒だって、もはや教師を舐めきっていた。

授業の間走り回る生徒を座らせたら、それが体罰になるなどと言う判例が出たのである。もう、まともな教育なんて、できる筈もなかった。

半魚人に促されて、応接室を出る。

別室に案内されて。

更に、其処から。装甲バスに乗るように、促された。

これから、その教育機関とやらを見に行くらしい。

私は。

結局この世の果てでも。教師という職業からは、逃れられないらしい。

これは、何の罰なのだろう。

大学時代、ろくに考えもしないで、教職を選んだ罰だろうか。教職は聖職なのに、私のような輩が関わったから、だろうか。

言われるまま、連れて行かれる。

装甲バスの中はひんやりしていて。他の乗客も、皆静かにしていた。

これはどうやら他の国で言う路線バスのような役割をしているらしい。戦闘力がない乗客でも、安全に移動できるようにと。こんな大げさな装備がされているのだと、一緒に乗って来た護衛兼監視が教えてくれた。

もう、どうでも良い。

何がどうなっても。もはや私は、驚かないと思った。

 

2、学校

 

夜中に到着したのは。

少し大きめの集落だった。

どうやら、港で仕事をしている人達も暮らしている場所らしい。それほど大きくは無いけれど。一応、街としての機能は有しているようだ。

案内された宿舎は。

J国の安アパートよりは、少しはマシ、と言う所だろうか。

中にはネットも配備されているようで、少し型式はふるいが、有名メーカーのPCも置かれていた。

ただし個室では無くて、休憩室に、である。

個室にもネット回線は敷かれているようだが。PCは多分、個人で持ち込まなければならないのだろう。

部屋にはベッドもあって、ちゃんとシーツも敷かれている。

半魚人ばかりの国だけれど。魚臭いようなこともなく。シーツに横たわると、心地よかった。

風呂にはもう入る余力も無い。

一眠りしてから、起き出すと、もう朝。

数日は休んで良いと道中に言われたのが救いか。一応もてるだけのお金も持ってきているけれど。

それでも、物価がわからない。

どれだけ怠けていられるかは、わからなかった。

ニートというのは、基本的に支えてくれる親なり家族なりが存在するから、成り立つ行為だ。

こんな異国で、仕事をせずに怠けていられるだろうか。

だが、私には。

教育なんて。

昨日はつかれていたから、悪夢は見なかった。

だがここしばらく、恐怖から解放されたためしがない。自室で、ぼんやりと過ごす。思い出して、スマホを取り出してみると。

電波は通じていた。

しかし、これを弄る気力もない。

ふらりと、外に出る。食事はしないのかと見張りに言われたけれど、首を横に振る。見張りは、大きく嘆息した。

「外に食い物屋もありますが、手持ちが心許ないんじゃないですかね」

「どうでも良いですね」

「……ふむ」

見張りが、何処かに連絡し始める。

私は、見張りがついてくるのを横目に、宿舎を出た。

側にはバス停。見ると、一時間に一本どころか、一日に一本来れば良い方。ただし路線によっては、一日何本も来るパターンがあるようだ。

まだ路線については、よく分からない。

半魚人が連絡を終えた。

「貴方の心にはトラウマが巣くっているようですが、この国では魔術による治療が可能です」

「ぞっとしない」

「良いから受けてみましょう。 経歴を見る限り、貴方は理不尽な苦しみを受けているとしか思えない。 PTSDはこの国では一般的な病でしてね。 戦士の中には、そうやって治療を受けて、前線復帰する者も多いんです」

随分紳士的な半魚人だ。

苦笑いしようとして、失敗する。

半魚人でさえ、こんな風に他人を心配したりするのに。私は一体、どんな魔境で暮らしていたのだろう。

勿論此奴が、長老が言っていたように、今後のこの国のために、私を人材として大事にしている事はわかる。

だけれども、私がいた場所では。

人材はいくらでもいるという扱いだった。

いくらでもいるから、好きなだけ使い潰してもいい。

教職だけじゃない。

社会の全てで、そんな理屈がまかり通っていた。

「それより、学校というのは」

「教職を引き受けてくれますか」

「まずは見てみたいのですが」

「案内します」

ほっとした様子で、半魚人が私を促す。

それほど広い街では無い。

通りすがる中には、人間もいる。どこから来たのかわからないけれど、かなり雑多な人種が混じっているようだ。

ビルも、ちらほら見える。

ただ、どれも二階建て三階建て。

あまり大きなものはない。

歩いていると、すぐに抜けられそうな街だ。

「この町は、いずれ更に拡大して、港と連結していく予定です」

「寂しい街ですね」

「今はまだ、先進国の街に比べれば規模は小さいですが。 いずれは何処の先進国にも誇れる街にして見せますよ。 そのためにも、教育は必要です」

そう言われても。

案内されるまま歩き続けて。

辿り着いたのは、それほど大きくもない平屋の建物。まさか。これが、学校なのか。

見た感じ、平屋で、地下はあるかもしれないけれど。十部屋もないと見て良さそうだ。

生徒は。

「何しろ、教育を受けたいという者が今までいませんでしたからね。 今までは限定した少数の者だけが教育を望んでいましたが。 この間のフリーエフォートの事件以来、やはり教育は必要だという結論が、上層部の間で出たようでして。 この学校も、いずれ更に拡大する予定です」

中を見せてもらう。

校庭は運動を行うのには充分な広さだ。

というか、今もなにやらやっている。

槍を持っているのは、六本も腕がある巨人。彼が声を張り上げて、並んでいる者達に、なにやら教え込んでいた。

翻訳する気になれない。

槍を持たされた、雑多な連中が、声を張り上げて振るっている。

此処は、軍事教練も行っている、という事なのだろうか。

別の一角では、真っ黄色の、目が痛くなるような配色の得体が知れない何かが。触手を無数に周囲に伸ばして、その一端ずつに杖をかざしていた。

これもなにか周囲に音を漏らしていて、翻訳機にはひっきりなしに文字が浮かんでいる。

「あ、あれは」

「ああ、貴方の国では見かけませんか。 魔術の授業ですよ。 あの方は、以前神々に作られた魔術専門の奉仕種族でしてね。 神々と人間が和解した今は、我々元奉仕種族に、その豊富な魔術の知識を教育してくれています。 我々も魔術は使えるんですが、あの人ほど高度な魔術は中々使えませんから、有り難い事です」

嬉しそうに言う見張り。

聞き慣れない音。

ぴかぴか光る何か得体が知れないもの。

見ているだけで、気が狂いそうだ。

魔術の授業は、生徒が周囲を囲んで、杖を振り回して、何かしている。その中に、おかっぱの赤髪を持つ、とても可愛らしい人間の女の子が混じっていた。完全に魔女ルックで、J国だったらハロウィンの仮装だと勘違いされそうだ。

「魔術を習う人間もいるんですか」

「ああ、あの子は。 おっと、まだ部外者の貴方には話せません」

「……」

つまり、何か重要な人物、というわけか。

そういえば女の子の側に、金色の人型が立っている。あれは授業を受けているとはとても思えない。

見張りか、或いは護衛なのだろう。

建物の中も見せてもらう。

授業はそれぞれ細分化されているようだ。

ひょっとすると、米国式かもしれない。

確か米国では、教師がそれぞれ教室を持っていて、生徒が移動する、という仕組みをとっているはず。

学校の中には、警備らしい半魚人もいて。

時々、私の見張りとすれ違うときに、敬礼していた。

「此方が職員室です」

案内されて、覗くと。

意外に近代的な設備が揃った職員室がある。

ただ問題は、殆ど人員がいない事だろうか。それに、人間が座るとはとても思えない席も見受けられた。

充分にスペースはある。

私が教師として赴任しても。

すぐに場所は確保できる、という事だ。

 

一日がかりで街を案内して貰って。

宿舎に戻って、自室に籠もる。

スマホに着信。

どうやら、この国に行くように勧めてくれた、外務省の役人らしかった。

「どうですか、この国は」

「どうと言われても。 J国とは何もかもが違いすぎて、困惑しています」

「向こうの政府にも承認が取れていますが。 何か問題があったら、すぐに連絡してください」

一瞬、息が止まった。

なるほど、そう言うことだったのか。

わざわざ外務省が私を紹介して。更に、港でずっと足止めされた理由が、よく分かった。

私は公認スパイとして、此処に派遣された、と言うわけだ。

勿論、それほど高度な仕事をする事は求められていないだろう。内部の実態がよく分からないこの国。

内情を知らせてくれる人間は、一人でも欲しいと言うのが本音なのだろう。

「マスコミに知られたら、何を報道されるかわからないのでは」

「ははは、冗談を。 あんな連中の言う事を今時誰が信じると」

「確かにそれはそうですが……」

「事実、アトランティスを散々罵倒しているマスコミですが、一部の老人以上の層を除くと、アトランティスへの悪評はほぼ見受けられません。 既にマスコミは、国民の情報ソースではなくなっているんですよ」

そういえば。

私を追い詰めたのも、マスコミよりもむしろSNSによる情報拡散だった。

「いずれにしても、もう貴方は其処で脅かされることもありません。 しばらく心身を休めてから、教職についてください」

「でも、私は」

「しばらくは補助金も出します」

しばらくは、という部分を、役人は強調した。

わかっている。

ただほど高いものはない。

外務省の役人としても、私を使うと考えた以上。充分な利潤を上げるつもり満々という訳だ。

連絡を切る。

あの役人は、私がこのままだと、アトランティスで餓死するしかない事を知っているのだろう。

流石にこの異国で、金もなく生きていけると思うほど、私も阿呆では無い。

かといって、国に帰って、何があるだろう。

J国での私の居場所など、既に存在しない。両親にさえ縁を切られたのだ。それにSNS大全盛のこの時代。

私が帰れば、即座にその姿は拡散され。

居場所も特定され。

政府の保護もなくなった上に、ほぼ確実に殺されるだろう。直接殺されるかはわからないけれど、精神的には間違いない。

大体、そもそも私を雇う会社がないはずだ。

どれほどのブラック企業であっても。

私を雇うことのマイナスを理解していれば。わざわざ地雷を踏みに行くようなことは無いだろう。

学校にいた他の教師達は、どうしているのだろう

私が攻撃のターゲットにされて、ほっとしているのだろうか。ほとぼりが冷めるまで、田舎で静かに過ごすと言っていた同僚もいた。

彼らも、苦しい思いをしているに違いない。

でも、それは私も同じ。

理不尽な仕打ちに苦しみ、結局の所、悶々とするばかりだ。

部屋を出て、宿舎の休憩室に。

PCが開いていたので、使わせて貰う。言語は英語だったけれど、ブラウザのリンクに大手のポータルサイトがあり、其処からSNSにつなげる事は出来た。

検索してみると、まだ私のことは炎上している。

どうも海外に逃げたらしいという情報もあった。

その通りだ。

空港で私を見たのかも知れない。

オーストラリアのシドニーで飛行機を降りて、其処からタクシーで港に行って。船に乗って、ここに来たのだけれど。

いずれにしても、私も嫌われたものだ。

顔写真も当然のようにアップされていた。

義侠心による行動なのだろう。

死ぬまで追い詰めろ。

そう発言している者も目だった。

擁護意見を言う者は、ほぼいない。いたとしても、押し潰されてしまうのだろう。社会の過渡期にあるJ国で。

自分の意見をきちんと持っている者は多くない。

かくいう私だって、そうだったのだ。

どうして安易に、教職を選んでしまったのか。

本当に今更ながら、後悔しか浮かんでこない。

「アゲハさん」

顔を上げると、アニーだった。

優しい表情の彼女は、PCを一瞥だけした。

私はブラウザを落とすと、PCの前を離れる。彼女も、ここに来ていたのか。そういえば人権侵害がどうとか言っていた。学校があるここに来るのは、当然の帰結だったのかもしれない。

「此処に、来ていたんですね」

「数学教師をして欲しいと言われて、来ました」

「私は、今日で視察を終えて帰ります。 予想していたような人権侵害はなくて、むしろもの凄く良い国です。 ただ、その凄く良い部分が、この国を主導しているスペランカーさんのカリスマによる所がとても大きいのは気になりました。 スペランカーさんがいなくなりでもしたら、どうなるのか」

不安そうに眉をひそめるアニー。

そして彼女は。

咳払いすると、PCの方を見た。

「聞かされました。 J国で貴方が、どのような目にあったのか」

「……!」

「もし、この国にいられないとなったら、私を訪ねてきてください。 受け入れる準備はしておきます」

一礼すると、アニーは宿舎を出て行った。

PCの前には、半魚人が座って、何かを検索し始めている。

私は、ただ。

愕然と立ち尽くすことしか、できずにいた。

 

3、初めての授業

 

公認スパイとしての私には、監視がついて当然か。

多分半魚人の見張りも、上層部から事情は聞かされていたのだろう。

学校の側の宿舎に移ってから、二日。

外出する度に、半魚人の見張りは、ついてきた。

学校周辺の施設についても、説明される。学校に通っているのは子供ばかりではないらしく、彼らをターゲットとした定食屋も幾つかあるようだった。

流石に世界的なファーストフードチェーンなどは、まだ進出してきていない様子だけれど。

案内された定食屋は、どこも普通に美味しい食べ物が出てきた。

街の側には川がある。

結構深い川だけれど。

半魚人達は海でもそうだったように、平然と潜っては、槍を使って魚を捕っているようだった。

しかも川がとても綺麗で、澄んでいる。

見ると、川の近くに浄水設備がきちんと作られている。

先進国でも、汚水を垂れ流しにしている所は珍しくないのに。

「素材も良いんですが、もう一つ、食事が美味しい理由があるんですよ」

「はあ」

「我等が主の右腕をしているお方が、本職の料理人もしているんです。 彼女が定食屋で、レシピなどの指導をしていましてね。 それ以降、料理がとても美味しくなったと評判でして」

聞いたことがあるかもしれない。

この国はスペランカーというカリスマと、その右腕になっている凄腕のフィールド探索者が廻していると。

特に右腕の方は、各国の諜報機関も一目置くほどの人物で、この国の発展の鍵を握る人物とさえ言われているとか。

絶大なカリスマと。

実行機関を握る才人。

なるほど、その二人のマンパワーが、この国を動かしているというわけだ。その恩恵は、こういう末端にまで、現時点では行き届いている。

凄いことなのだろう。

私には、縁遠い世界だが。

学校に、また連れて行かれる。

今日は、広い校庭を使って、格闘技の訓練をしているようだった。

数日前に教えていたらしい六本腕の先生はいない。代わりに、屈強な人間の男性が、様々な技を教えていた。

非常に屈強な人物で、それより何より、動きが凄い。

頭一つ分も大きい種族の相手を、軽々と放り投げて見せている。あれは、歴戦の技が為す事なのだろう。

「あの人も、スペランカー様の御親友です。 たまにこの国に来ては、ああして兵士志望者の訓練を見てくれています」

「……」

この国は、スペランカーというフィールド探索者に、依存しっぱなしというわけだ。

アニーの懸念ももっともだと、私は思う。

もしもスペランカーという人がいなくなれば。

確かにこの国は、地獄に落ちるしかないような気がした。

学校を離れる。

病院に連れて行かれた。

小さな総合病院だが、PTSDの治療に関しては、かなり力を入れているという。働いているのは殆どが人間ではなく。診察をしてくれた先生も、人間では無かった。

円筒形の体に無数の触手が生えていて、全身にたくさんの目がある。

その場で回れ右して、逃げたくなるほど、不気味な容姿だ。

勿論白衣など着ていない。

「カルテを見ましたが、かなり重度のPTSDに近い症状ですね。 学校で同僚が生徒を死なせ、その事が社会的制裁の原因となり、家族にまで見捨てられたと」

ずばりその通りなので、言い返すこともない。

というか、口で喋っていない様子だ。触手を振るわせて、それで音を出しているようである。

何もかもが、違う世界の住人なのだと、一目で分かる。

J国には、全く存在し得なかった人だ。

いたのかも知れないが、少なくとも普通の人は、一生接触する機会がない相手だと断言しても良いだろう。

此方の恐怖と困惑など知ったことでは無いと言わんばかりに。

ドクターは、淡々とこれからする事を告げてくる。

「一番手っ取り早いのは、過去の記憶を消してしまう事ですが、それは貴方も望まないでしょうし、記憶が戻った時に自殺などの行動を取りかねない。 そこで、今日はシナプス連結を少し弱める魔術を使います」

「シナプスを弱める?」

「記憶は、シナプスの連結によって強く引き出されもするし、忘れ去られもします。 貴方の場合、ショッキングな事件が続いて、問題の記憶へのシナプスの接続が強くなりすぎているのです。 貴方は罪悪に苦しんでもいるようですが、そもそも貴方に罪はないでしょう。 貴方を苦しめているのは、心ない娯楽を求める者達と、連結を強めすぎたシナプスです」

触手の先端を頭に向けられる。

ふつりと、何かが切れたような感触があった。

何か変わったのだろうか。

「また、悪夢を見たりする場合は来なさい。 私の方で、シナプスの連結について、調整します」

小首をかしげながら、外に出る。

見張りと一緒に、外に出て、なんと無しにわかる。

学校への恐怖が、消えている。

いや、消えてはいないけれど、かなり薄れている。

気分も、少し上向いたかもしれない。

「西洋医学に比べて、精神に関する介入は、魔術医療の得意とする所です。 料金もだいたい同じくらいで受けられますし、多分その必要ももうないでしょう。 よその国々なら大体はインチキ医療だそうですが、此処の国では神々がもたらした魔術が奉仕種族によって使用されているので、きちんと効果もありますよ」

ぼんやりと、半魚人の言葉を聞きながら、空を見上げる。

何だろう。

少しだけだけれど。

私を包む悪意が、薄れたような気がした。

何もかもが違うこの世界で。

私は、ほんの少しずつでも。

変われるのだろうか。

J国で、今教師をするのは、多分無理だろう。もう私には、彼処で暮らしていく事は出来ない。

私が望んでも、向こうが許さない。

完全に集団から弾かれた私は。もう向こうから見れば、不倶戴天の敵。土下座しようが靴を舐めようが、向こうは許しはしないだろう。私が罪人かどうか何て関係無い。社会から弾かれた。それだけが、向こうにとっての判断基準だからだ。

私だって、二十年以上J国で暮らしていたのだ。

向こうの良いところと悪い所くらいは、よく分かっている。

インフラはとても良く整備され。食べ物は美味しいし、余程のことがない限りきちんとした教育も受けられる。

犯罪は世界一少なく、治安も安定し、平和というものの恩恵を世界で一番受けられる国だ。

だが、もう私には。

居場所がない。

弾かれたから。

それがJ国にとっての全てだ。

「もう一日だけ、考えさせてくれますか?」

「良いでしょう。 最悪の場合も、貴方の事は、責任を持って出国まで面倒を見させていただきますよ」

礼を言うと、宿舎に歩く。

この国だって、理想郷なんかじゃない事はわかる。

極めて危うい国だ。

カリスマと非常に優秀な参謀によって支えられている、雑多すぎる混沌の国。今は平和で発展に向かっているが。いずれ世界の悪が押し寄せて来かねない場所。

素朴だけど荒々しい人々は。

カリスマという支えがなければ、暴徒とも悪魔とも化すだろう。素朴な人々が、必ずしも優しくなどない事は、歴史を学べばすぐにでも分かる事だ。

宿舎に戻ると、ごろんとベッドに転がって、後は目をつぶって眠ることにする。

実のところ、どうするかは、もう決めている。

だけれども、もう一日だけは、のんびりと過ごしたい。

教職を三年間務めて。

それで何も得られなかったのだ。

疲れだけが溜まった。

体の中に、傷だけが増えた。

ただ、今は。

それを無言のまま。誰もいない空間で、癒やしたかった。此処では、私を傷つける者はいない。

それがわかっているからこそ。出来る事だった。

 

翌日。

しっかり正装すると、化粧も整える。見張りの半魚人に、決意を告げた。

「数学しか、それもJ国での高校受験レベルまでしか教えられませんが、それでもいいなら教鞭を執ります」

「問題ありません。 今は教職になれる人間が、一人でも欲しいのですから」

半魚人は、自分の事のように喜んでいる。

この素朴さ。

社会そのものを信頼している。

いや、カリスマとなっているこの国の元首を、心の底から信頼しているからの発言なのだろう。

この国は、J国では独裁国家として散々批判されているが。

本当にそうなのだろうか。

いや、形式としてはおそらく独裁国家だ。

だが元首は国民のために粉骨砕身しているし。自分に都合が良い民が育つようにだけ、手を掛けているわけでもないことがわかる。

きっと、よそではモデルケースには出来ない、極めて特殊な例だろう。

でも、この国は。

私を受け入れてくれるかもしれない。

半魚人に案内されて、学校へ。

粗末な学校だけれど。今後街が拡がれば規模を拡大するという。そういえば、妙な空き地が目立っている。

これは校舎を増設するためのスペースなのかもしれない。

職員室に行くと。

校長だという、年配の半魚人が出迎えてくれた。

「おお、見学に来てくれていたアゲハ殿ですな。 数学について、J国での高校受験レベルまでの教育を担当できると聞いています」

「微力ですが、雇っていただけますか」

「大歓迎です。 まずは此方に」

案内されたのは、小さな会議室。

其処で、翻訳装置と、テストを渡される。

面接の判断材料だという。

「この結果が芳しくなくても、首になるようなことはありません。 自己申告と、此方での能力判断のすりあわせをするだけです」

「わかりました」

テストなど、久しぶりだ。

書いてある文章もそれほど難しくない。

小学校レベルの四則演算。

そういえば、最近は足し算などで、数字の順番を決め、出題側の意図と違えると間違いとするとか言う愚かしい事をJ国ではやっているが。アトランティスの問題文には、それは見当たらない。まあ、あれは円周率を約3とするような愚かしさだったし、他の国で採用していないのは当然か。

この辺りは、暗算で余裕。

続けて方程式。

円の面積。

複合図形の面積。

徐々に問題が難しくなっていく。

渡されているシャープペンシルを用いて、さらさらと解いていく。制限時間はないようだから、見直しもしっかりこなす。

連立方程式。

微分積分。

立体の体積計算。

少しずつ難しくなっていく。

だが、どうにでもなる。

一般的に、教えるには三倍理解しなければならないのだ。大学で散々学んだ事である。教職になるために、徹底的に再勉強もした。高校に配属されることも想定していたからだ。何となく選んでしまった教職の道だけれど。

それでも、私は。

真面目にやっていた。

真面目にやっていても、報われなかった。

そう言うことだ。

高等数学の問題に突入。

大学レベルの問題がゴロゴロ出てくる。これは、相手の言う大学受験のレベルが、海外の一流校だと言う事か。

出来るには出来るけれど。

流石に難しくなってきた。

一端気分を変えるために、最初に戻って、確認。二カ所でミスを発見したので、修正を掛ける。

それから、じっくりと高等数学の難問達に勝負を挑む。

二時間ほど掛けて。

出来る問題は、全てを処理完了した。

「出来ました」

「どれ。 確認します」

笑顔のまま、半魚人の校長が、問題を持っていく。

向こうでひそひそとやっているのがわかった。

ほどなく、校長が戻ってくる。

「素晴らしい。 多分数学教師としては、この学校設立以来の逸材です。 ただ、自分が問題を解けるのと、生徒に教えられるのは別の話ですので、授業にはしばらく補助人員を付けます」

「わかっています。 新米教師からやり直す覚悟です」

「大いに結構。 それでは、常任教師のみなさんを紹介しましょう」

即日採用か。

この辺りの足回りの速さは、J国ではなかなか真似できないだろう。

職員室に連れて行かれる。

グレーのスーツをしっかり着込んでいる私は。眼鏡を直し。タイをしっかり直すと、何度も練習してきた礼をした。

「J国から来た風倉です。 よろしくお願いします」

校長が、順番に紹介してくれる。

どうやら此処は基礎的な体力を付けるための軍事予備校の意味もあるらしい。体育教師は、格闘技の教師も兼ねているようだった。

前に見た、六本腕の人が立ち上がる。

間近で見ると、筋骨隆々。

顔も人間とはかなり違っていて、ドラゴンのようだった。

「彼は一年前にここに来た、アトランティスに移住してきた神の奉仕種族。 しかも、オンリーワンタイプの戦士として作られたlahsoafdsasjapdfhpです。 非常に戦闘力が高く、配下の奉仕種族を訓練する職にも就いていたので、この学校では体育教師をしてもらっています」

「よろしく、ミスアゲハ」

意外に紳士的な挨拶を、しかもJ国語でされた。

話を聞く限り、戦闘だけのために「作られた」人のようなのに。此処で牙を抜かれたのか、もともと優しい人だったのか。どちらかなのかは、私にはよく分からない。握手をするが、腕力がすごくて、手加減しているのがそれでいてよく分かるのだった。手もとても大きい。

次に紹介されたのは、毛むくじゃらの人。

元々雪男とかサスカッチとか呼ばれていた種族らしい。

前は人間を襲って喰うことが珍しくない奉仕種族だったそうだが。神々の長が人間と和解したことで、それは一切禁止されて。今ではアトランティスで試行錯誤しながらやっているそうだ。

彼はその中でも特に珍しい、人間と積極的に関わる立場になった存在だそうだ。

「サスカッチのアンジェラロリンだ。 物理学を教えている」

「よろしく、みす、アゲハ」

「よろしくお願いします」

本物の喰人種族と聞かされて、少し怖かったけれど。

毛むくじゃらの中から覗く丸い目と牙だらけの口は、少なくとも此方に敵意を向けてはいないようだった。

校長が教えてくれるのだけれど。喰人衝動を、神々の長が取り除いてくれたという事で。今では人間と変わらない食生活でやっていけているのだとか。

続けて紹介されたのは、人間だ。

かなり大柄な筋肉質の男性で、特徴的なファッションをしている。肌の色から見るに、アラブ系か。

「イブラハムさん。 見ての通り人間です。 化学を教えて貰っています」

「よろしく」

言葉少なく、翻訳機から言葉が出る。

何でも、故郷では信仰の自由がなくて、此方に来たそうである。信仰を認めて貰う代わりに、大学で学んでいた最先端の化学を教えているのだとか。ちなみにキリスト教徒だそうである。

彼が以前は数学教師を兼ねていたという。

話を聞いてみると、大学のレベルが違う。

これは気合いを入れて勉強をし直さなければならないかも知れない。

見た感じ、自分にも他人にも非常に厳しそうな雰囲気である。

更に、紹介されたのは。

空中に浮かんでいる脳みそから、触手がたくさん生えている人、かなにかよく分からない存在。

彼もオンリーワンタイプの奉仕種族。

言語学を教えているそうだ。

「ホゾ774さんです。 言語翻訳に特化した奉仕種族で、最近仕えていた神がアトランティスで冬眠することにしたと言う事で、此方で教鞭を執ってくれています。 言語学全般を教えてくれています」

「よろしく、アゲハ殿。 J国の言葉も問題なく使いこなせるから、ご心配なく」

「よろしくお願いします」

触手と握手か何かよく分からない行為をする。

更に、もう一人。

半魚人の、非常にカラフルな衣装を着込んだ人が最後に紹介された。

「エンデバルド。 私の甥です。 魔術を教えています」

「いやー、魔術といっても、基礎的なものばかりです。 専門の魔術は、非常勤の講師が教えています」

気さくな様子の半魚人と握手。

魔術師だという彼は、見かけではわからないけれど。実はとても若いのかもしれない。

他にも何人か、非常勤の講師がいるらしい。

道徳や社会、音楽についても、いずれ専任の教師を赴任させたいという事だった。という事は、今の時点では非常勤がやってくれている、という事なのだろう。

教室なども見て廻る。

ざっと見た感じでは、小学校や中学校と言うより、職業訓練校に近い。職安などでやっている、技術を学ばせるための場所というべきだろうか。

この国では、基礎教育がまだ無いのか。

そう思うと、まだまだ遅れているというのが、よく分かる。

だが。

遅れてはいるが、上り調子なのだ。

この国は更に先に行く。

イブラハムさんの授業を見て、それがよく分かった。

生徒は非常に雑多。

人間は殆どおらず、種族も極めて多彩。それだけではなく、年齢層も非常にたくさんあるようだった。

教えている化学は、中学レベルのもの。

ただし、教え方は丁寧で、黒板を縦横に使って、様々な事を説明している。

今教えているのは、熱を加える事による物質の状態変化だけれど。なるほど、見ていてとてもわかりやすい。

黒板に書かれている文字は英語だけれど。

どうにか私にも理解できる。

なるほど、このレベルの授業が必要なのか。

ひょっとすると、故郷のものより、更に難しいかもしれないけれど。

むしろ、個人的には、嬉しくなってきた。

見た感じ、教師は。

生徒のメンタルケアまでしなくてもよい。

何でもかんでも、生徒のことを任されていない。というか、押しつけられていないというべきか。

そういったことは、親や或いは専任のスタッフがやるのだろう。

子供のメンタルケアどころか、情操教育までやらされ、部活で殆どの時間を食い潰されているJ国の今の教師に。

私はどうしても希望がもてなかったけれど。

此処は徹底的な分業制が行われている。

次の授業に移行。

今日は、他の人の授業をまず見る事からだと言われているので。私の出番は無い。

次は小学校レベルの理科を開始。

話を聞くと、最初に入学希望者にはテストを受けて貰い、レベルにあった教室にふり分けられるという。

その後は各自に適切な授業が順番に行われ。

それ以外では、宿題が出されて、こなすことを求められる。

中には、やる気を出さない者もいるけれど。

これは一種の職業訓練校。

お金を払ってきている生徒が多数。

つまり、さぼれば、金が無駄になるだけなのだ。

勿論、義務教育とこの方式では、様々な良い部分と悪い部分があるけれど。義務教育の美名のもと、あらゆる事を押しつけられているJ国の教育よりも、これはむしろ自分には向いていそうだ。

勿論、J国の義務教育の方がいいと言う者もいるだろう。

私は、の話である。

生物の分類についての説明は分かり易い。

一通り授業が終わると。

年齢も性別も種族もまちまちな人々は、教室をわらわらと出て行った。

これは、気合いも入る。

最後の授業が終わったのは、夕方四時。

残業がきついのかとおもったけれど、部活の類は行わないそうだ。更に、書類整理には、専門のスタッフもいるという。

それだけではない。

魔術による回復班までいる。

単純な疲労回復の魔術を使用するスタッフで、これは音楽だのアロマだののリラクゼーションと違って、実用的なものだそうだ。

授業の疲れを毎回回復する魔法陣が用意されており、これのメンテナンスを外部業者がしてくれているそうだ。

徹底的な分業制。

掃除なども、専門の人間がしていると言う。

勿論警備もだ。

これは、先進国の学校のシステムの良いとこ取りをしながら、拡大を目指している学校と判断して良さそうである。

イブラハムに、資料を渡される。

「数学の授業カリキュラムは、私が組んだものがあります。 これから引き継ぎますので、次からお願いします。 最初の授業は、校長が補助に着きますので、問題は無いでしょう」

「有り難うございます」

見せてもらう。

これは、私が組むようなものよりも、ずっと高度だ。

この人、本当に良い大学で学んでいたんだなとわかる。そして、苦しかったことだろう。信仰の自由だので、故国にいられなくなったとすると、何もかもがばかばかしかったに違いない。

どこの国も問題が多いものだ。

勿論、このアトランティスにも、未発達という最大の問題がある。

それを解消していくのは。

今此処にいるスタッフ、というわけだ。

定時で上がれるのも、J国の学校ではあり得ない。

宿舎に戻ると、此処ならやれると思った。

勿論、今後義務教育に近いスタイルの学校も出てくるのだろうけれど。

今の私には。

此処があっている。

外務省には感謝するほかない。多分意図してのことでは無いのだろうけれど。私は、此処で。

きっと、「人間」を続けていくことが出来る。

 

最初の授業開始。

翌日から、早速校長が補助についての授業を開始した。

最初の授業は、四則演算。

足し算引き算かけ算割り算について、順番に教えていく。生徒は四十人ほど。

なるほど、こういう国では、四則演算でさえ、わからない人がそれなりにいる、という事か。

そして四則演算が出来れば。

出来る仕事にも、幅が出てくる、と言う訳なのだろう。

それは他の授業も全て同じ。

四則演算だけでは無い。言葉も化学の知識も。

何もかもが、仕事に使えることばかり。

専門的な勉強は、それだけ専門的な仕事に生かすことが出来る。しかしそもそも、その前段階が、重要なのだ。

見るとかなりご年配な人もいるようだ。

勿論、見た感じは、だが。

一通りの勉強を終えると、一時限目終了。

変わっているのは、終わった後、まとめて質問タイムが設けられていること、である。此処で分からない事をまとめておいて聞け、と言うわけだ。

幾つか、質問がされる。

特に割り算について、質問が多かった。

確かに割り算は、算数における最初の壁だ。当然、私も質問に関しては、色々返事を用意している。

中年男性らしいミイラ男が挙手。

割り算について結構鋭い質問が来たので、こたえると。納得した様子で、座ってくれた。

最初の授業はどうにか完了。

次は応用だ。

四則演算のコツは、とにかく数をこなすことだと私は思っている。

だから、渡された資料に手を加えている。

配られた問題を見て、皆が顔を見合わせていた。

「この四つの数字を使って、四則演算をして行きます」

渡しているのは、四つの数字だけが書かれた紙。

これに、四則演算の記号を書き加えて。結果がどうなっていくかを、それぞれで勉強していくのだ。

これは、私が昔やっていた遊びを応用している。

車のナンバープレートを見て、それから十を作るという遊びである。

J国の学校では、なかなか許されなかった問題なのだけれど。

こういうのは、シンプルが一番なのだ。

勿論数字を足したり掛けたりする順番なんて気にしない。

こたえさえ出れば、それで良いのだ。

順番にやっていくと。

少しずつ、コツも掴んでいく。

九九に類するものはどこの国にもあるらしいのだけれど。

まずは足し算引き算を中心に教えていって。九九はそれからだ。

こういう基礎勉強は、面白い事が第一。

歌とかを授業に取り入れるのも、もっとやっていくべきなのかも知れない。

ただ、今教えているメンバーは、ご年配の方などもいるから、それは避けた方が良いだろうか。

一通り、問題を解いていく。

確実に、理解度が上がっていくのがわかった。

単純な四則演算でも、出来ると大分違う。

特に、四則演算を暗算でこなせると、日常生活がかなり便利になる。

それも経験談をあわせて話していくと、俄然生徒がやる気を出すのがよく分かった。

後は、宿題を出しておく。

一通り授業が終わると肩も凝ったけれど。随分と達成感があった。

生徒達が感謝して、教室を出て行ってくれる。

これは、何だろう。

今まで、味わうことがなかったものだ。

職員室に戻る。

校長が、驚いたように言う。

「ずっと仏頂面だったのに、随分と表情が変わりましたね」

「え、そうですか」

「ええ。 今日のアゲハさん、笑っていましたよ」

そうなのか。

そうか。

教師になって。ものを教えるってのは。

本来、こんなに楽しい事だったのか。

何だろう、私は。

一体故郷で、何をしていたのだろう。

そう思うと、涙が零れそうだった。

だけれども、これからは、無駄にしてしまった時間を取り返す。これからは、もう時間を無駄にしない。

教えて欲しい人に教えて。

それを、全ての力に変えていく。

此処でなら、それが出来るかもしれないと思うと。

私は、とても嬉しかった。

 

4、学校

 

宿舎。隣の部屋で、とても明るくてポジティブな曲が流れている。

音楽教師が、授業で使う曲を流しているのだろう。聞いたことがある。異世界から来てくれたアイドルが、このアトランティスでは大人気で。当然、彼女らの曲を学校の授業でも扱っているそうだ。

アイドル達の所属事務所には許可も取れているらしく、早速自分でもやれるように、音楽教師は頑張っている、ということなのだろう。

J国ではあまり気にしていなかったけれど。

此処に来て、音楽の大事さはよく分かった。

街に出てみると、音楽を奏でている人の周りには、人が自然と集まってくる。音楽を奏終わると、拍手が巻き起こる。

当然おひねりも入れられるし。

みんな嬉しそうにしている。

J国にはあまりにも音楽が溢れすぎていたから、気づき得なかったのだろう。

商業と密接に結びつきすぎていないからだろう。歌っている人達も、とにかく楽しそうで、それが印象に残る。

ちなみに、J国から入り込んでいる曲もあるが、あまり評判は芳しくないらしい。異世界のアイドル達が、この国では音楽のトップシェアを独占している、というわけだ。

隣の部屋から出てきたのは、少しくたびれた感じの女性教師。水島能野子さん。

彼女もJ国から来た。

高校で音楽を教えていたらしいのだけれど。生徒達はあるタイミングになると、「音楽のような役に立たない学問なんて」と馬鹿にして掛かり、授業などまともに受けてはくれなくなってしまうと言う。

それがとてもつらかったと、何度か愚痴をこぼされたことがある。

更に最悪なのが、音楽関連の部活だったという。

勿論、全ての学校がそうではないだろうが。彼女がいた学校は最悪だったそうだ。

特に吹奏楽部は、体育会系の悪い部分を文系に取り入れたような部分があり。練習を量でカバーし、根性論で無駄な負担を正当化。生徒にも教師にも負担ばかりを増やしていたそうである。

彼女は副顧問をしていただけれど。

音楽が嫌いになって部を出ていく生徒を見ては心を痛め。それどころか、「強豪校」の面子を守るために、部活内で精神的なリンチまでも行われている様子を見て、いつも悲しい思いをしていたそうだ。

結局彼女は過労から倒れてしまい、病院で教師をリタイア。

音楽教師なんぞの行く当てなど無いとすげなく言われて。色々苦悩した末に、ここに来たそうである。

私よりも二歳年下の彼女が、五歳も年上に見えるのは。

その辺りの苦労が、彼女を苛み続けていたから、なのだろう。

きっと音楽が好きだったからこそ。悲しい思いをしたのだ。そう思うと、此方まで悲しくなってくる。

「アゲハ先生、おはようございます。 五月蠅かったですか?」

「いいえ。 元気が出る良い曲ですね」

「はい。 とにかく楽しく歌っているのが伝わってくるのが良いですね。 音楽に触れる喜びや、音楽を造り出す楽しさを、この曲なら学ぶことが出来ます。 アトランティスの人達がみんな好きだというのも頷けます」

くたびれた雰囲気の彼女は、最初この国の異形の人々を怖がっていたけれど。

今では普通に接することが出来る。

私も、頑張らなければならないだろう。

一緒に連れ立って食事に降りる。

宿舎の食堂では、既に朝食が出始めていた。

食事を先に始めているのは、アニーさん。

結局何度か視察に来ているうちに、スカウトされたとかで、学校で道徳教師をしてくれている。

とにかく色々な考え方がある種族に道徳を教えるのは一苦労だそうだけれど。

彼女は単純に善良な人なので、道徳を教える事は、とても嬉しい事だそうだ。世界に愛をと本気で考えている人なのである。

ただ、学校側も、特定宗教に生徒を誘うのは禁止としているので、授業にある程度制約はつけられているようだが。

挨拶をした後、向かいの席に座る。

いただきますと言って食べ始めると。いつも彼女は、嬉しそうにする。

「J国のその文化は独特ですね」

「一人暮らしが多くなっている今は、廃れ始めてはいますけれど」

「もったいない」

「全くです」

此処の食事は美味しい。

それに、休日をちゃんと取れるのも嬉しい所だ。この辺りは、教師という職業に負担が掛かりすぎているJ国とは違う。

早二年、此処で過ごしているけれど。

教師としての不満は無い。

出来の良い生徒も悪い生徒もいる。だけれども、みんな熱心に数学を学んでくれるということが。これほど嬉しいとは、思わなかった。

義務教育の欠点は、生徒が必ずしも、学びたいとは思っていないと言う事だろう。

だから学びたいと思わせる前に、どうしても刷り込みをしてしまう。

それがプレッシャーになって、学問を嫌いになる生徒がたくさん出てくる。

勿論、義務教育は制度として素晴らしいけれど。

いずれ解消しなければならない欠点も厳然としてある。

此処では、まだ義務教育にまで到達していないけれど。

その代わりに、みんな学問に熱心で。輝く未来のために頑張っていた。

確かに足りないものはあまりにも多いけれど。

指導者が非常に有能で、腐敗もないし。

一番大きいのは、国が、まだ若い。

それを実感できるのは、とても嬉しい。

「ごちそうさま」

美味しいご飯を食べ終えると、食器をカウンターに出す。

気むずかしそうな料理人は、にこりともしないけれど。片付けた食器を受け取って、黙々と洗い始める。

メニューも毎日五種類くらいは用意してくれるし、栄養のバランスも考慮してくれているのは嬉しい。

大企業の食堂ならもっとメニューは多そうだけれど。

此処のは基本外れがないので。

食事は、毎回楽しみでならなかった。

早めに、学校に出る。

定時開始前には、基本住んでいる校長しかいない。書類整理がかりが準備してくれた書類を受け取ると、授業に向けて準備開始。

今日は、四則演算と、九九、それに面積の求め方だ。

能野子さんも、少し遅れて来る。

校長と話しているのは、ピアノ導入について、だろう。

ピアノを使って音楽の授業をしたいらしい。しかしピアノはけっこうお値段が張る楽器だ。中古品にしても、この国まで持ち込むのは大変である。

お金があれば、買いたいものはいくらでもある。

ここに来てわかったのだけれど、魔術は決して万能では無い。出来る事には限りがあって、その辺りは科学と同じ。だから、よそからどうしても輸入しなければならないものもある。

お金は、どうしても必要なのだ。

音楽は究極的には、高額の楽器がなくても出来る。

勿論、ピアノがある意義は、私にもわかる。

ただ、どうしても予算は、限られているのだ。

「もうしばらく、能野子先生は我慢してください。 それに、ピアノはこの国にあまり数もない。 教えても、ピアノを弾ける生徒は、あまり多くないでしょう」

「いつかは、必ずお願いします」

「はい。 此処で教育を受けた生徒が、各地で成果を上げていますから、予算もまもなく増やせるはずです。 それに近々学校を拡張するときには、一気に予算に余裕も出来るでしょう。 その時には、必ず」

校長は顔は怖いけれど、極めて誠実だ。

だからこそ、この新しい気風に満ちた学校を任されているのだろう。

チャイムが鳴る。

私は、自分の教室に急いだ。

 

以前と同じく、この学校では、教師が教室を持っていて、生徒が其処に通うことになっている。

今日のカリキュラムを確認。

四則演算の授業の資料を確認した後、授業をする準備を終える。

生徒達がどやどやと入ってくる。

以前寄りも更に、混沌が増している。老若男女、種族関係無し。色々な人が、基礎的な算数を学びに来る。

知っているだけで、出来る事が増える。

それが楽しいのだという。

人間も増えている。

何らかの理由で、この国に来た人達の子供達。

街の方では、半魚人の子供と、人間の子供が遊んでいる光景も見かける。大きなモンスターのような種族の背中に、人間の子供が乗せて貰っている事もある。人間と半魚人が談笑している光景は、もう珍しくもない。

混沌が、力になっている。

「はい、授業を始めましょう」

黒板に、順番に、数式を書き出す。

皆、真剣に授業を受けてくれる。

いずれ、問題も色々出てくるだろう。だけれども、この国は今はまだ大丈夫。私は、此処で生きて良い。

故郷と違って。

両親はもう音信不通。私を娘だなどと思ってもいないだろう。

友人達も同じ。

もう、私を人間だとは見なしていないだろう。

今は、此処に居場所が出来た。

だからもう良い。

欠点も、まだまだたくさんある国だけれど。

私は此処で、数学を教えていく。

不思議な話だけれど。

私はここに来て、やっと教師になれたのかもしれない。

授業を終える。

質問タイムが終わると、いつも熱心に来てくれている半魚人の青年に気付く。最近は、私も、半魚人の見分けがつくようになって来ていた。

彼はお金を稼ぎたいとかで、此処で数学を勉強し始めた。

覚えは良くないけれど。

四則演算は、そろそろ卒業しても良い頃だろう。

少し前に聞いたけれど。

彼は例の、異世界から来たアイドルグループのライブに行くのを楽しみにしているらしくて。それでお金をせっせと稼いでいるという。

数学をしっかり学べば、もっとお給金が貰える仕事に就けるとかで、一生懸命やっているそうだ。

学ぶ目的は、人それぞれで良い。

問題は意欲だ。

さて、次の授業の準備だ。

私も教える事が、今では楽しくて仕方が無い。

ここに来て良かった。

心から私は、今そう思っている。

 

(終)