その空はただ白く

 

序、海原の光景

 

十メートルを超える高波が、第十七咸蓮丸の船体を激しく揺さぶった。まるで木の葉のように4トンの小さな船体は翻弄され、スクリューは虚しく空回りするばかりだ。雨は激しくなる一方で、つぶてのように降り注いでいた。風は無慈悲で凶暴で、思いのままに小さな船を翻弄する。

船が波に揺さぶられる度、船室の中のものは激しく左右に叩きつけられた。時計の前面保護カバーが砕け、ラジオが床に重苦しい音と共に叩きつけられ、ついにはガラス窓も割れる。激しく吹き込んでくる風雨。操り手を失った舵は、虚しく右往左往するばかりである。

本来船は人間が海原に乗り出すために造り出した道具だ。操るのは基本的に人間である。だが、その人間は、船底に意識を失って伸びていた。かなり激しく頭を打っているので、風雨を浴びても目を覚ます気配はない。

やがて、今までにない高波が、無数の稲光と共にやってくる。巨大なうねりが、複雑な流れと風雨に生み出され、重なり合った結果であった。属に言う三角波である。三角波は、風雨に翻弄されながらもどうにか沈まずにいた船を、真横から直撃した。

小舟が、宙を舞った。着水までに二秒を要する。窓から派手に海水が入り込み、今までどうにか生きていた機器類に被る。時計が動きを止め、ラジオが断末魔のうめきをあげて沈黙する。

雨はまだ止む気配を見せない。三角波でもどうにか転覆を免れた漁船は、水面に落ちた木の葉のように翻弄され続けている。再び、巨大な三角波が襲い来る。僅かに船をそれるが、それでも数メートルにわたって乱高下し、海水は容赦なく船の中に入り込んだ。ついに抗議の呻き声を上げながらエンジンが焼き切れる。

また一つ、巨大な波が。力尽きた漁船に、それは容赦なく襲いかかった。

 

朝。水平線から太陽が昇る。

昨晩、辺りの海を蹂躙し尽くした嵐は、嘘のように去っていた。空はただ青く、雲の一つもない。波は穏やかで、乳児の呼吸のように規則的に反復を繰り返す。空には鴎の群れがいて、水面下の魚を狙っていた。

一羽がしばし旋回していたが、やがて降りる。降りた先にあるのは、半壊した漁船であった。小さな甲板には小魚の死骸が打ち上げられており、既に乾き始めている。それを咥えて、一息に飲み込んだ。

やがて、鴎の仲間達も、羽を休めるために次々と降りてきた。人間が現れるまでは安全だと知っているのだ。甲高い鳴き声を上げながら、鴎たちは情報を交換する。何処に魚がいるか。何処に邪魔者がいるか。天候はどう変わりそうか。様々なことを伝え合う。

やがて、魚群を発見したという意味を持つ鳴き声が、高らかに響き渡った。遙か遠くの水面で、銀の細かな輝きが瞬いている。鰯の群れだ。鴎たちは一斉に飛び立つと、時ならぬ獲物の到来に、興奮しながら空を滑っていった。

大漁だ、大漁だ、獲物だ、獲物だ。歓喜の声を上げながら、鴎たちは水面に躍りかかり、そのたびに鰯を咥えていく。空中で獲物を飲み込むと、すぐに次の獲物を狙いに掛かる。既に、誰も朽ちた漁船など一顧だにしない。

そのうち、急降下した一羽が、不意に水面下に消えた。消える寸前、巨大な赤黒い影が見えたが、鴎たちは気にしない。運が悪かったのだ。

今の影はアンコウだろう。たまに水面まで出てきては、鴎をさらっていく恐ろしい奴だ。ただし、年に何度もあることではない。むしろ、獲物の取り分が増えて嬉しいほどだ。

鴎たちは宴を続ける。数が減ったことなど気にはしない。そして、漁船で異変が起きたことにも、また気付かない。

たらふく鰯を食べた鴎の一羽が、再び羽を休めようとして、漁船に向かった。そして、ようやく気付く。人間が船の中にいて、自分たちを見上げていることに。

警告の声を上げる。鴎たちは知る。あの漁船が、もはや安住の宿り木では無いことを。他の場所でなければ、休むことが出来ないことを。

やがて漁は終わり、鴎たちは去る。皆満腹で、上機嫌だ。巣に戻れば雛たちが待っている。胃液で溶けかけた鰯を雛たちに食わせることを夢想すると、鴎たちの心は一杯になるのだった。

やがて、その海域から鴎の姿は消える。

ただ波間に、壊れかけた漁船が一つだけ残った。

 

深海へゆっくり潜っていくアンコウは、腹の中でもがく鴎の感触を楽しんでいた。

ごくたまに水面まであがっては、小魚の群れに紛れ込み、食事に夢中になっているバカな鴎を丸呑みにする。それが彼女の楽しみだった。アンコウの口は巨大だ。獲物の少ない深海で、機会を無駄にしないための工夫である。それが、こう言う時にも役に立つ。それに、胃袋の中で獲物がもがく感触が、実に楽しい。

潜行するアンコウのすぐ近くを、巨大なホオジロザメが通り過ぎていく。流線型の美しい体が、海の中を我が物顔に行く。腹には数匹のコバンザメをひっつけていた。アンコウは逃げない。ホオジロザメが、満腹だと知っているからだ。動きを見れば分かる。経験から来る知識ではなく、先祖が蓄えてきた膨大な本能のなせる技だ。事実ホオジロザメはアンコウに興味を示さず、ただ悠然と通り過ぎていった。小魚の群れが、アンコウの上を通り過ぎ、つかの間日光を遮る。

この辺りの海には、底がない。正確には、底は遙か深海に潜らないと無い。潜れば幾らでも潜って行くことが出来る。そして素晴らしいことに、しばし潜るだけで鬱陶しい日光は届かなくなり、アンコウにとっての安住の地がやってくる。静かで、ただ暗く、そして居心地の良い場所、強烈な水圧も、むしろアンコウには気持ちよい。横に裂けた巨大な口を半開きにしたまま、アンコウは潜る。ただ深く潜る。

遠くで大王烏賊が泳いでいる気配。此方は恐らく空腹で、動きが殺気立っている。アンコウは意識的に潜る速度を上げた。襲われてはかなわない。その頃には、既に胃に収めた鴎は絶息し、動きを止めていた。小さな尾びれを動かして、アンコウは海底を目指す。

辺りにマリンスノーが降り注ぎ、音が目立って減っていく。やがて、なだらかな砂地が何処までも広がる海底に到達。平べったい体を海底に潜り込ませると、アンコウは安心して動きを止めた。

ただ静かで、ゆったりした時間がやってくる。額の提灯を使う必要はない。しばらくは食事しなくても良いほどの獲物だったからだ。体の隅々まで、胃袋から吸収した栄養が行き渡っていく。危険を冒して海面まで出て行った甲斐があるというものだ。

しばし安楽にしていたアンコウだったが、すぐそばに見慣れないものがある事に気付く。それは尖っていて、硬くて、あまり安全とは思えないものだった。しばし観察していたアンコウだったが、襲ってくる気配はないと判断すると、再び長い静止停滞に戻る。

暗い静かな海底で、アンコウはただゆっくりした時間を過ごす。獲物はまだ必要ではないし、繁殖の時期でもないから、する事がないのだ。それは生き急ぐ必要がないという意味もある。

自分のすぐそばに突き刺さっている何かには、模様が描いてある。アンコウにはそれの意味を理解することもできず、しようという気もなかった。

ただ、何よりも勝る沈黙こそが、アンコウの安らぎであった。

 

無限かと思える沈黙。壊れかけた漁船の中で伸びをしているのは、人間だった。船底から出てきた人間は、目を擦り、乱れた長い髪を掻き上げる。そして唐突に大あくびをした。

まだ発育期の体を精一杯に伸ばして、辺りを見回す。一面、静かな反復を繰り返す青のみ。ただそれだけがあり、それのみが世界の全て。

塩水を散々浴びた白い服はごわごわになっている。多少心地が悪いが、それでも構わない。辺りは良い香りに包まれている。それだけで幸せ。船底は酷い臭いがしたので、此処に出てきたのだ。船底には白い粉が入ったビニール袋が山ほどあったが、塩でも砂糖でも小麦粉でもないし、食べられそうもない。ちょっと口に入れただけで吐き出してしまった。他には小魚の死体がいくらか。もう腐り始めて、酷い臭いを放っていた。

どうしてこんな所にいるのかは、よく分からない。ドアが開いていたから、部屋を抜け出した。しばらく歩いていたら、港町に出た。遠くに広がる海と、赤銅色の肌を持つ筋肉質な男達。物珍しい光景に、ついに我を忘れて。気がつくと、船底にいた。

街を歩いていた時から、船底で気がついた時までの記憶が、すっぽり抜け落ちている。だが別に構わない。なぜなら、世界はこれほどまでに美しいのだから。

風が吹いたので、気持ちよくなって、人間はくるくると回った。感極まっても、声は出さない。

否。喋ることが、元から出来ないのだ。

物言わぬ少女がくるくると踊る船は、やがて命を終えようとしている。嵐を何とか耐え抜きはしたが、強度には限界が来ていたのだ。無論、少女にはそれが分かっていた。だが、それが何だというのだろう。

来る日も来る日も白い壁に覆われた世界で、食事と排泄だけをしていた日々。動き回ることが出来るのも、部屋の中だけ。たまに来る大人は、気味が悪そうに少女を見るだけ。此処にはそういう停滞したものが何もない。白い壁もない。食料もないが、別にそれはいい。

今はただ、全てを楽しもう。世界を慈しもう。

少女はそれだけを考えていた。

 

1,坂道

 

船の下から声が飛んでくる。船縁から顔を出した漁師の青年は、表情を変えず、内心舌打ちしていた。

まだ若い漁師である山本宗二は、不意に現れた警官達に対して、どうしても友好的にはなれなかった。打ち上げられたゴミを片付け、自分の家の漁船をメンテナンスしていた所だったので、不快感を隠さずに言う。

港はゴミだらけで、傷ついた船も多い。漁の時ほどではないが、今は戦場のように忙しいのだ。

「何だよ」

「幾つか聞きたいことがあります」

手帳を見せながら、警官達は口元だけで笑った。物腰こそ丁寧だが、眼光はそれこそ鷹のように鋭い。先頭に立つ人間が言う。不審な人間を見なかったか。不審な船を見なかったか。不審な事は何かなかったか。

いずれも心当たりがなかったので、宗二は首を横に振る。警官達は顔を見合わせると、別の漁師の所に行った。入れ替わりに、三つ編みを揺らして近づいてきた宗二の妹恵子が、乳歯が生え替わって不揃いになっている歯並びを見せながら言う。

「にーちゃ、お巡りさん達、何してるの?」

「さあな」

「恵子も色々聞かれたよ。 怪しい人なんて見てないのに」

宗二は一回り年が離れた恵子から視線を離すと、船のメンテに戻る。これから漁に出るには、一刻も早く船を直さないといけない。無駄話をしている暇はない。恵子はしばらく退屈そうに八トンある中型漁船を見上げていたが、やがてタラップを登って、中に乗り込んできた。手足が伸び始めている恵子は、タオルを頭に巻くと、良く焼けた手足をむき出しに腕まくりして、掃除を手伝い始める。ゴミを取り除いて、甲板にモップをかけ始めた恵子の背中をちらりとだけ見ると、宗二はエンジンのメンテに戻る。表は恵子に任せておいて大丈夫だと判断したからだ。

エンジンは古く、何カ所かには錆が浮いている。必死に勉強して様々なパーツの動きと仕組みを理解するのに二年かかった。ライトを当てて丁寧に細部までチェック。必要とあれば油を差し、或いは磨く。かなり手間の掛かる作業だ。汗を拭いながら、宗二は一息つくべく、一端甲板に出てからたばこをくわえて火をつけた。

この漁船第四福島丸は、山本家の生命線だ。不器用な宗二は漁しかできないから、これしか金を稼ぐ手段がないのだ。だから、神経質すぎるほどにメンテナンスを行わないといけない。風が気持ちいい。たばこを消すと、腕まくりして、再び気合いを入れ直す。

徹底的な作業が終わったのは、夕方のことであった。船底からあがった宗二が顔を出すと、甲板で恵子が眠りこけていた。穏やかな日差しに当てられての事らしい。揺らしても起きないので、背負って船から下りる。しっかり渓流ロープをつなぐと、宗二はまだ辺りを調べている警官達を横目に、家に戻る。先祖代々から引き継がれているあばら屋に。もちろん平屋で、雨漏りも酷い。ネズミも住み着いていて、毒餌を撒いた程度ではまるで通用しない。夕食や朝飯を囓られることは日常茶飯事で、酷い時には冷蔵庫の中にまで潜り込む。

家に帰ると、たてつきが悪い戸を苦労しながら閉める。がらがらともの凄い音がするし、こつを理解しないと鍵も上手く掛からない。今まで泥棒に入られたことはないが、当然だ。こんな襤褸屋に金があると思う方がおかしい。

所々白熱電球が残っている家の中を寝室に向かう。床板は踏むとぎしぎし鳴る。へこむところさえある。恵子を襤褸の布団に寝かせると、仏壇の前に座った。一番前に立てかけてあるのが、四年前に海難事故で命を落とした両親の写真だ。無言のまま前に座ると、何度か鉢を鳴らす。別に語りかけるようなこともないし、お供えもしない。そう言うことをするのは、恵子だ。

恵子は隣の部屋でよく眠っていた。学費を稼ぐためにも、宗二が頑張らなければいけない。高校を中退して必死にやってきた漁は収入のムラが多く、とてもではないが怠けていられるような仕事ではない。恵子は時々海に連れて行って欲しいとせがむが、そんな暇はない。水揚げの時は殆ど戦場のように忙しいし、大嵐の中船を繰る事が必要になってくる事もある。だから、滅多に連れては行かない。昔は泣いて大騒ぎした恵子も、最近は無理に連れて行って欲しいとせがむこともほとんど無くなってきた。

神経質な声が聞こえてくる。隣の家の老婆だ。捜査に来た警官達に悪態をついているのが、宗二の元まで聞こえてくる。

小さな港町に、警官が大勢押し寄せてきたのは、嵐が去った翌日のことであった。駐在の警官は腰の曲がった老人が一人だけで、困惑する彼を引き立てて、強面の警官達が港で大勢の漁師達を相手に職務質問を繰り返している。粗暴だが素朴な漁師達は、その光景に心を乱され、穏やかではいられないようだった。宗二ももちろんその一人である。

激しい嵐の日には、命を落とす者や、沖に流される船が必ず出る。それらを警官達が嗅ぎ回っているのだと周囲に知れたのは、昼過ぎのこと。小さな漁村では、一人が知ると言うことは全員が知識を共有すると言うことだ。二時間もした頃には、殆どの村人達が、それを元に憶測で状況を分析し始めていた。

嵐の後片付けが終わってから、漁師達は普通順繰りに海に出かけていく。だがこれではそれもままならない。漁師達は反感を募らせる。事実殆ど誰も何も知らなかったからである。見当違いの方向で疑われ、腹を立てない者などいない。

「あれ? にーちゃ、メンテ終わったの?」

眠そうに目を擦りながら恵子が布団から這い出してきたので、宗二は無言で頷くと、仏壇を顎でしゃくる。もそもそと恵子は座布団に正座して、仏壇に手を合わせた。宗二は恵子を放っておいて、台所に出る。魚を捌くのは得意だが、他の料理は殆ど出来ない。いつのまにか料理の腕は、恵子に追い越されていた。最近ではコンビニで食事を買ってくることも多い。恵子にも、充分な食費を渡してはある。

今の時点で貯金は百七十万ほどあるが、そんなものは不漁が続けばあっという間に吹っ飛ぶ。ガソリン代もバカには出来ないし、船自体もがたが来ているからだ。せめてそろそろ中学にあがる恵子が良い高校へ行けるように学費を用意しておきたいのだが、それも難しい。未来は暗いと言わざるをえない。

「にーちゃ、今日は私が作るよ」

「いや、いい」

「そう? 何作るの?」

「鍋」

冷蔵庫に入れておいた魚を何匹か捌くと、野菜と一緒に土鍋にぶち込む。鍋は料理下手な宗二でもそれなりのものを作れるところがいい。やがて、野菜と魚肉が煮える、良いにおいが台所に立ちこめ始める。調味料の順番さえ間違えなければ、こんな適当な料理を美味しく食べられるのだから、不思議なものだ。

恵子は生まれつき体が小さい。その代わり頭が良くて、持って帰ってくる通信簿には高ランクの評価が並んでいる。漁師としては役に立てなくとも、他の分野では分からない。だから宗二としては、是非良い大学まで行って欲しいのだが、恵子の年でそれを考えるのには無理がある。だから、それを考えるのはまだ後で良い。今は宗二が守るのを、受け入れていればいいのだ。

夕食の間も、恵子は良く喋った。宗二はずっと無言だった。恵子は喋るのが楽しいというのだが、どうしてもその感覚は理解できない。漁の時も宗二は無言である。沈黙こそが、彼の安らぎなのだ。

不思議な団らんの中、静かに夜は更けていった。恵子がもう一度眠ってから、軽く酒を飲む。酔うほどには飲まない。明日何があるか分からないからだ。酒もそれほど強くはない。美味しいと思ったこともない。

ただ、時々、飲まないと眠れない日がある。そんな日には、浴びるようにして飲む。今日は違った。ビールを一缶空けるだけで眠くなったので、そのまま布団に潜り込み、後は自分でも知らないうちに眠りに就いていた。

 

夜が明けて、宗二が港に出ると、警官達はダイバーを連れてきて、港の底をさらい始めていた。無言で福島丸に歩く宗二に、同年代の仲間の一人が声を掛けてきた。宗二より若干背が低いが、より筋肉質で、良く喋る男である。彼は事情を喋りたくて仕方がないようで、無言のままの宗二に言う。

警察はどうやら、此処に停泊していた所属不明の漁船と、恵子と同じ年頃の女の子を捜しているのだという。

性質の悪い「観光客」がたまにクルーザーを我が物顔に停泊させたり、漁場を荒らしたりすることは良くある。そう言う連中も金を落とす存在には変わりないので、村では対応に苦慮しているのが現状だ。ただし、状況は把握しておく必要がある。だから村人達は、目を常に光らせている。もっとも、事情通を自称する宗二の仲間の場合は、単に興味が先行しているだけだろう。

「事情通」の話によると、警官達は海上警備隊に連絡を始めているそうだ。興味がない宗二は片手を揚げて話を打ち切ると、福島丸に乗り込み、ガソリンや網の状態を確認。巻き上げ機が少し古くなってきているので、出航前に油を差す。巻き上げ機が上手く動かないと、一人ではとても網を引き上げることが出来ない。後は天候だ。船室でラジオとテレビをつけ、天気予報を確認。あまり良い状態ではない。出かけるのは見合わせた方が良いかもしれないと、宗二は思った。だがそれでも、出かけていく船はある。特に漁上手で知られるベテランの赤木爺の第七喪神丸が出て行くのを見て、宗二は失敗したかなと舌打ちしていた。

何隻かの漁船と入れ違いに、クルーザーが現れた。いかにも厳つい海上警備隊の男達がばらばらと降りてきて、警官隊のボスに敬礼。その後、数名の警官を乗せて海に出て行った。時に密航船ともやりあう警備艇は武装していて、しかも船足が速い。あんなものを呼び出すのは、相当な事があった証拠だ。宗二は嫌な予感がして、ますます海には出たくなくなった。

港に出ていた警官達も半数以上が村の方へ引き上げていく。その間に来た警官達がある程度金を落として入ったので、村人達はそれなりに釈然としないものを感じながらも、どうにか我慢する事にしているようだ。宗二にしてみれば、どうでも良いことだが。

あくびをしながら空を見上げる。やはり、漁場は良い状態とは思えない。こういう日はさっさと切り上げて、家で酒でも飲みたいところだ。無論昼間から、妹の見ている前で酒など飲めない。だから船室で昼寝しながら、いい天候に変わるまで待つ。気は進まないが、働かないと喰ってはいけないのだ。

こう言う時、天候をリアルタイムで知らせてくれるラジオは便利だ。どうしても駄目なら家に帰って、恵子が寝てから酒にする。最近出た発泡酒が安くて美味しいので、宗二はかなりの数を船底に隠していた。恵子は酒を見ると怒るのだ。

やがて、素朴な村人達が暮らす村が戻ってくる。最初から何もなかったかのように。宗二は毛布を引っ張り出すと、被って昼寝を始めた。

 

海上警備隊の中型クルーザーに乗った警官は七名。その中で、今回の任務の重要性を知らされているのは、ボスである日出川百合惠警視と、お目付役の香山修三警部だけである。

香山はクルーザーの最上層で、手すりにもたれて風に吹かれていた。長身痩躯の香山は既に五十代半ばで、髪は殆ど白くなり、ノンキャリアとしてはそろそろ出世の限界点に近い。しかしながら、今まで三十を超える難事件を解決してきた実績を持つ男で、有能さで本庁でも知られている。特にその粘り強い捜査能力は買われていて、事件を放り出したキャリアの尻ぬぐいにかり出されることが多い。そのため、影ではダーティハリーなどとあだ名をつけられている。事実逮捕術の達人でもあり、よほどの相手でもなければ後れを取ることはない。この年になって肥満と縁がないのも、本人の行き届いた鍛錬と、細かい性格を伺わせる。

猛々しいイメージを持たれる事の多い香山だが、実際は暴力が嫌いで、学業に身を入れずジャニーズ系アイドルグループの追っかけばかりをしている娘に苦悩する初老のお父さんでもある。更に言えば、漁師達は彼を警官達のボスだと考えていたようだが、事実はナンバーツーに過ぎない。

香山の階級は警部。警官としてはかなり高い地位だが、あまりナンバーワンとして事件解決をする事はない。大体は手柄が欲しいキャリアに頼まれて、ナンバーツーとしての指揮を執るのだ。それだけ実力を買われているという事なのだが、あまりほめられたことではない。本来国家一種をくぐり抜けたキャリアはエリートであり、つまり最精鋭であるべき存在で、通常の警官を使いこなして事件を解決する立場にある。それなのに、実質上ただのお荷物と化してしまうのは、どう考えてもおかしいのだ。

彼が今お目付をしている日出川は二十五才のキャリアで、警視総監の娘である。如何にもコネで入ってきたという、たたき上げとは無縁の軟弱そうな風貌だ。今回クルーザーに乗っている警官達の殆どが、彼女の取り巻きであり、警視総監がつけた護衛役でもある。そう聞かされている。香山も動きから相手の力量が分かるが、流石にかなりの使い手が揃っている。護衛としてはどれも役立つだろう。

日出川はとにかくぬるい女だ。身長はどうにか平均程度で、殆ど自己主張をしない。美人といえば美人だが、とてもではないが激務には耐えられそうもない細い体で、武器を持った犯人を取り押さえられるとはとても思えない。捜査の最中、たたき上げの警官達は彼女を「姫」と呼んで蔑んでいた。香山もキャリアには良い印象を持っていないので、周囲と似たような評価をしていた。唯一評価できるのはそこそこ整った顔とやたらばかでかい胸くらいだろう。昇進試験だけにうつつを抜かしていればいいのだから、楽な商売だ。

これで知性のひらめきがあればまだマシなのだろうが、日出川はとにかくぼんやりした女で、昼寝をしていることも珍しくない。取り巻き達も、本人がいないところでは悪口を言っている。

どうしてこんな無能が、血筋だけで警視になれるのか。そう憤る事もある香山だが、決して長続きはしない。もう諦めているからだ。クルーザーは海上を滑るように行く。船縁にもたれて、きらきらと輝く海面を見ていると、多少は気が晴れた。美しいものは、やはり心を和ませてくれる。

心が和むと、建設的に考えたくもなる。あの姫も、仮にも国家一種に受かっているのだから、それなりに頭は良いのだろうと、思ってもいないことを無理に考えて気を晴らす。この年になっても、世の理不尽に対する怒りは絶えない。だがそれが判断を鈍らせることを、香山はよく知っている。

「勤務、お疲れ様です!」

気合いの入った声に振り返ると、良く日焼けした中肉中背の青年が敬礼していた。安藤という名の海上警備隊の一人で、このクルーザーの乗組員の中では比較的ましな奴だと香山は評価していた。えらが張りだして唇が分厚い印象的な顔をしており、美男子ではないが、誠実で働き者で、好感の持てる青年だ。鷹揚に頷くと、香山はたばこを取り出そうとして、切らしていることに気付く。帰るまでが少し苦痛になりそうだ。舌打ちしながら向きを変え、手すりに背中を預けながら言う。

「どうだ、見つかりそうか」

「難しいですね。 あの嵐だと、相当な沖合まで流されている可能性がありますし、転覆している可能性も低くはありません。 最低でも八割は越えているでしょう」

「転覆してしまっている場合は仕方がない。 だが、そうでない場合を想定するのが、俺たちの仕事だ。 一応海流からの割り出しは掛けているんだろう?」

「もちろんやっています。 もし船が沈んでいなければ、流されている辺りは大体分かっていますが、ただ」

安藤は言葉を切る。少ししてから話し出すが、彼は残念そうだった。こういう仕事をしている以上、シビアに考える癖が付いているのだろう。

「ただ、生きている可能性は、残念ながら高くはないと思います。 あの嵐だと、波の高さは十メートルを超えていたでしょうし、三角波も頻繁に発生したでしょう。 ただ、我々としても、発見に全力を尽くします。 ヘリも飛んでいますし、発見さえ出来れば迅速に救助できるでしょう」

「ああ、そうしてくれ。 頼りにしているぞ」

安藤には事情を話していないが、気付いているはずだ。完全に門外漢である香山が、姫様のお守りをしながら護衛達と一緒に、海上警備隊のクルーザーに大挙して乗り込んでいるなど尋常な事ではない。

尋常ではない状況の裏には、当然それにふさわしい事情がある。この胸くそが悪くなるような事件を一刻も早く解決せねばならず、そのために香山は此処にいる。キャリア共のくだらない勢力争いの結果派遣されたと思われる日出川など最初から当てにはしていない。あの姫様は、ずっとぼんやりしていた。パトカーの中で実に幸せそうに寝ているのを見て、首を絞めたい衝動にも駆られたが、我慢した。この事件だけは、香山の手で片付けなければならないのだ。

階段を上がってくる音。商売柄、香山は一度聞いた足音は忘れない。ましてこの足音は、様々な理由から忘れることが出来ない。

「見回りお疲れ様です!」

「お疲れ様です。 そろそろ着きそうですか?」

「あと三時間半ほどです。 まだ時間はありますので、ゆっくりしていてください」

のんびりした質問にも、笑顔で安藤は応えていた。元々香山を含めて、警官など邪魔で仕方がないはずなのに、良くできた男である。それに比べて、香山のボスと来たら。

眠そうな半眼で、辺りを見回しているのが、「姫」こと日出川百合惠である。二の腕まで届く長い髪は今時珍しく真っ黒で、潮風に嬲られてはためいている。のんびりを通り越して鈍重な言動、見栄えが良いが動くには邪魔な胸、維持するのが大変かも知れないが細くてすぐ折れそうな体。警官にこれ以上もないほど向いていない人間だ。不満そうにぶら下がっている腰の拳銃すらもが重そうである。

姫の後ろに二人着いている護衛が、サングラスの奧からじっと辺りをうかがっていた。姫に対してではなく、姫の父君に忠誠心が篤いのだと一目で分かる。姫を守ろうという意思よりも、保身の努力が感じられるからだ。いずれにしても、くだらないと言うほか無い。そんなくだらない権力闘争を海上警備隊のクルーザーに持ち込んでしまって、申し訳ないと言うほか無い。

姫はしばらくぼんやり立ちつくしていたが、不意に香山に向き直る。

「香山警部、本庁から何か新しい報告はありましたか?」

「いいえ、特に何も。 昨晩の内に関係者は全員拘束したみたいですし、口を割る人間が出始めるまでもう少し掛かるでしょう」

「あまり面倒がないといいんですけれど」

マイペースでそう言ったので、香山は脳の血管が切れそうになった。この業界は面倒を乗り越えてなんぼなのだ。捜査は足と頭と忍耐で行うものであって、ヒーローが解決するものではない。それは面倒と無駄に見える作業の塊だ。事件現場を丹念に調べ、周辺の人間関係を徹底的に洗い、様々な関係部署と話を調整。それらを最大限の速度で行う。そうすれば、事件の全容は必ず見えてくるのである。

近年注目されているプロファイラーでさえ、的確な判断をするのには、膨大な情報の取得が必要なのだ。ましてや近年は価値観の複雑化から、犯罪の種類も増えてきており、解決は容易ではない。それを念入りに捜査して、犯人の襟首を何度も香山は掴んできた。そうやってキャリアが放り出した迷宮入りの事件を幾つも解決してきた香山は、やはり日出川が好きになれそうもない。

面倒をバカにする人間は、根本的に警察の仕事が分かっていない。日出川は何よりも精神的な面から、警察官が向いていないとしか思えない。そして、そんな人間が、警官達の上に立てるわけがないのだ。

香山はもうすぐ定年引退だが、あまり将来を楽観する気分にはなれない。この日出川が警視総監にでもなった日には、部下達がどんな苦労をするかと思うと、ぞっとする。もちろん香山も血を吐くような努力を繰り返してきた口なのだが、それでも部下達の負担は少しでも減らしてやりたいと思うのが、不器用な親心である。

日出川は小学生のように指先を口に運んで水平線を見ていたが、やがて伸びをしながら降りていった。お昼寝なさるのだろう。本当なら無駄なものを積むスペースなど一切無いクルーザーの中に、のうのうとお昼寝部屋を確保しているのだ。そのお昼寝部屋が熊のぬいぐるみやらフリルのレースやらに満たされている事を想像して、香山はぞっとした。勘弁して欲しい。個人の趣味としては何も言わない。だが、仕事場に持ち込むべきものではない。あの姫なら、それをやりかねない。

取り巻きが降りていくのを見送ると、香山はたばこを取り出そうとして、無くなっていることに気付いて舌打ちした。

「サンライトですが、いいですか?」

「お、すまないな。 助かる」

安藤が出してくれたたばこをもらうと、百円ライターで火をつけた。たばこでも吸わないと、やっていられないというのが本音だ。安藤は笑顔で、いちいち怒っている香山を見ていた。

「警視のことを、あまり良く思っていないのですか?」

「ああ、そうだな。 正確には、良いところが見つからなくて困ってるんだがな」

「そうでしたか。 本官には、警視はそれほど悪い人だとは思えないのです。 だから、嫌いではありません」

「ほう?」

確かに香山も日出川が悪い人間だとは思っていない。警官に致命的に向いていないと思っているだけだ。だが、そういう観念で日出川を肯定する人間がいることには思い当たらなかったので、意表を突かれていた。

「それに警視は、かなり賢い人だと思います」

「どうかな。 俺には分からん」

紫煙を吐き出すと、もう一度香山は海を見た。遙か遠くまで、全く代わり映えのない、美しい海原が広がり続けている。

国家一種はまぐれで受かることが出来るような試験ではない。だが、それをクリアしたはずのキャリア達の無能ぶりを見てきた香川は、素直に賛同できなかった。ただし、様々な事件を解決する過程で、時に美しく或いは醜くおぞましい人間の裏表を見てきた香山は、否定も出来なかった。奧にまで踏み込んでみなければ、人間の本性は分からないものなのだ。

反論はしたが、香山は安藤を見直した。今までのイメージが剰りにも悪かったが、日出川をもう少し見直す必要があるかも知れなかった。何にしても、今は一刻が惜しい。クルーザーは探査能力を前回に、最大船速で急いでいる。

鴎が飛んでいる。自分たちと同じだと香山は思った。香山もこの事件を解決する鍵となる存在を探している。鴎たちも、自分たちの生命を支える獲物を探している。根本的には同じなのだ。獲物を逃がすわけに行かないと、殺気立っていると言う点で。

船は波を蹴立てて進む。数日前に嵐があったとはとても思えない、美しい海原は、ただ穏やかだった。

 

白くて大きな鳥が飛んでいた。群れを成して空を舞っていた。翼を広げ、猫のような鳴き声を上げながら、旋回と効果上昇を繰り返している。海面に降下すると、その嘴には必ず光るものがくわえられていた。G2は、それが魚なのだと気付いて、思わず拍手していた。

G2には、何もかもが面白かった。

白くて何もない部屋から出ることが出来てから、世界の美しさが、G2にはまぶしかった。最初に見えた赤。何処までも伸びる灰色。不思議そうに自分を見る他の人間。笑顔で笑いかけても、殆ど応えてはくれなかった。歩いているうちに、意識を失って、船にいた。何で船にいたのかはよく分からない。これが船だというものだと、何故知っているかも分からない。だが、それはどうでも良いことだ。

何もかもが美しい。何もかもが素晴らしい。

白い服は彼方此方破れていて、所々血と腐った海水がにじんでいる。船は先ほどからぎしぎしと音を立て通しだ。大きめの波が来ると、派手に傾くことも珍しくない。沈むかも知れない。だがそれでも構わない。沈むとしたら、それは運命である。G2はそれに対して悲観もしていなかったし、嘆きもしなかった。

目が覚めてからしばらくは船の上でくるくると舞っていたG2だが、今は甲板に座って鳥たちの姿を見つめている。舞っているうちに砕けたガラスを踏んでしまい、足の裏をしたたかに傷つけてしまったからだ。

元々灰色の道を歩いているうちに、散々傷つけてしまった足の裏。先ほどガラスを踏んだことで、歩くのには不都合なほどにダメージを受けてしまったのだ。痛いのは構わなかったが、体の構造的に舞うことが出来なくなってしまった。だが、それはそれで別にいい。座って空を眺めることが出来るのだから。

退屈を感じることもない。今までの何も変化がない世界から比べると、此処はきらめく宝箱のような場所だ。

じっと座っていると、徐々に鳥が此方に警戒心を失っているのが分かって、それもまた面白かった。やがて大胆な一羽が、G2の姿が見ているにも関わらず、船に向けて降りてきた。船尾の辺りにとまる。動くと逃げてしまうと思って、G2はじっとしていた。大きな翼をたたんで降りてきた鳥は、しばしG2を見つめていたが、やがて視線を背ける。触ろうと思って手を伸ばしたのだが、一声上げて逃げてしまった。

再び鳥が近づいてくるまで、随分時間が掛かった。G2は辛抱強く待った。どうせ足は歩くに不適な上、歩いたところで行ける場所は限られている。海に入っても泳ぐことは出来ない。沈めば死ぬ。死ぬことは別に構わないのだが、もう少し世界を楽しんでいたいと、G2は思っていた。

船室があった辺りは、がれきの山と化している。船底から出てくる時に、随分苦労したのもそのせいだ。がれきをどけようと思ったのだが、重くて出来なかった。そのがれきに、また鳥がとまる。鳥はG2の掌ほどもある魚を咥えていて、一息に飲み込んだ。凄いと思ったので、G2は拍手する。そうすると、また鳥は逃げてしまった。

やがて鳥たちは行ってしまった。代わりに、海の表面に、銀の輝きが無数に見えるようになった。

先ほどから、意識の密度が少しずつ薄くなりつつあった。体内時計の状況などから考えて、白い部屋から出てきてから、39時間ほどが経過している。その間栄養を摂取していないのだから、無理もない話である。だが、別にそれでも構わない。意識が続く限り、世界を楽しむことが出来るのだから。

新しく栄養を摂取しようにも、栄養となりうるものがない。やがて動けなくなることが分かっていた。体も弱ってきていた。だが、それもまた運命だ。それに、栄養物の取り方を、G2は知らなかった。

海面の銀の輝きが跳んだ。それも、かなりの距離だ。一匹がそれを始めると、次々と跳び始める。かなりの距離を跳ぶ魚たち。船に徐々に近づいてくる。

ひときわ大きい波が来て、G2は船縁に背中から叩きつけられた。傷ついている船に、大量の海水が入ってくる。船底に入った海水が、更に船を不安定にした。ひゅんと音がして、G2のすぐ上を魚が跳んでいった。ひれを翼のように広げていて、とても面白かった。

遠くからエンジン音が聞こえる。魚たちが逃げていく。無粋な音だとG2は思った。だが、別にどうでも良い。変化には変わりないのだから。

近づいてきたのは、船だった。ただし、乗っている人間達はいずれも目つきが悪く、G2を指さしてはしきりに何か話し合っていた。此方に好意を抱いていないことは一目で分かる。白い部屋に入れられていた時、時々見に来た大人達と同じ感じがした。

またあの部屋に連れ戻されるのかも知れない。また変化がなくなってしまうのは少し悲しい。血を失いすぎたからか、空腹が原因から、さっきよりも更に意識が薄くなりつつある。船が近づいてくるのを見ても、特に何とも思わない。やがて、船は近づいてくる。乗っている人間達が持っている、長い棒が日光を反射して、ぎらぎらと輝いていた。知っている。カラシニコフと呼ばれるものだ。

カラシニコフは殺傷のための道具だ。魚たちはもちろん、人間の命もたやすく奪うことが出来る。あんなものをどうして持っているのだろう。G2は小首を傾げる。やがて船に乗り込んできた屈強な男達が、G2の腕を掴んだ。そのまま吊り上げられ、座り直させられる。かなり乱暴な動作だった。

男達がかわしている言葉は、日本語ではない。発音やイントネーションから言って、中東系の言語だ。何人かが船底を覗いて、悲鳴を上げていた。早口にG2に対してまくし立てる。此処にあったものはどうした。どうしてこんな事になっている。

そう言われても、状況を説明できない。紙とペンがあれば話は別だが、そこまでの意思疎通は無理だろう。やがて、いきなり殴られた。船底に叩きつけられ、頭を踏みつけられる。男達は目に狂熱を宿していて、カラシニコフをG2に向けて叩き込んで来かねなかった。だが、リーダー格らしい者が止める。サングラスをした大男で、肌が焦茶色をしており、体つきも他より屈強だった。

「此奴を確保できただけでも、よしとするべきだ。 うるさい日本警察がかぎつける前に、さっさと引き上げるぞ」

「だけどよ、ボス」

「引き上げると言っている」

少し強めにリーダー格が言うと、他の者達は押し黙った。もう一発頬を殴ると、引きずるようにG2は男達の漁船に乗せられた。よく分からないもので、手首と足首を縛られる。そして船底に放り込まれた。痛かった。

再び暗くて何もない場所。変化も音だけだ。寂しいと言うよりも、残念だ。

また外を見たい。また海を見たい。また鳥たちを見たい。

身をよじって、外に出ようと努力する。だが、殆ど何も出来なかった。せめて手首と足首だけでも自由にして欲しいなと思った。

次の瞬間。

巨大な揺れがG2を突き飛ばし、船底の壁に叩きつけた。他愛もなく意識が飛んで、後は虚無の世界だけがあった。

 

2,白い空

 

タラップをあがって、船に乗りこむ。漁に最適の空だと宗二は思った。エンジンにガソリンを補給し、網の状態をチェック。網を巻き上げるウィンチの動作確認をしてから、鉢巻きをする。何処にでも売っている安物なのだが、宗二のお気に入りだ。漁に出る時は、必ずこれを巻いて、気合いを入れるのである。

係留用の縄を解こうと思ったところで、下から声が飛んでくる。恵子だった。今日は髪をポニーテールに縛り、スラックスを穿いている。シューズもパステルブルーのお気に入りではなく、靴紐を結ぶ頑丈な奴。その上、荷物は少し時代遅れになりつつあるポーチだけ。活動用の格好だ。そして、恵子が活動的な格好で船に来ると言うことは。

「にーちゃ!」

「恵子」

「漁に行くの?」

「ああ」

悪いことに、今日は一般人にとっては三連休の最終日だ。しかも、装備から言って、宗二が日帰りで漁に行くつもりだと、恵子は見抜いているはずだ。恵子は頭が良い。勘も鋭いので、最近はますます嘘をつけなくなってきている。

あまり漁に行きたいとだだをこねなくなってきた恵子だが、その代わり行くと言い出すとてこでも動かなくなる。しばし黙って相対していた宗二は、顎をしゃくって乗るように促した。うきうきとタラップを登ってくる恵子を見ると、それで多少は気分も紛れるのだから不思議だ。

恵子が船に乗りたがる時には、大体何かがある。この間は年に何度もない大漁になったし、更に前は逆に不意の大嵐に遭いかけて、命からがら港に引き返した。今回も何かあるかも知れない。船室に入った宗二は、航路図と進路を見比べながら、いつもの漁場へ向かおうと舵を回す。

一人前の漁師であれば、秘密の漁場の一つや二つ、持っていて当然だ。もちろん宗二も幾つか持っていて、だが普段から行くことは少ない。頻繁に行くと漁場も荒れるし、他の人間に見つかりやすくもなる。だが、今日はとっておきの所へ行こうと思っていた。

恵子がいると、何かしらのサプライズがある。もし大漁になればめっけものだ。幾つか痛んでいる船のパーツがあり、買い換えるための資金が欲しい。そのためには、金が掛かるのだ。

恵子の学費だけが、出費の主要因ではない。何事も、世の中は金で回るのだ。社会で生きるからには、望むと望まざるとに関わらず、金は幾らでもいるのである。

船は順調に海原を滑り、やがて海の色が濃い青へと変わっていく。暗礁に乗り上げる危険性がこの辺りから無くなる代わりに、遭難すると確実に死ぬ。ただ、今日は日帰りの予定なので、あまり外洋には出ない。ふと甲板を見ると、恵子が座り込んで網のチェックをしていた。最初はぎこちない手つきだったが、最近は宗二も唸る腕になってきている。

ただ、見かけ通りに、恵子には力がない。港に暮らす女には、男顔負けの力を持つ者も多く、そうでないと出来ない仕事もある。それを考えると、如何に手先が器用であっても、恵子は根本的に損をしていた。

そう言う意味でも、恵子が雄飛を望むのであれば、宗二は支援してやりたいと思っている。世界史に残るような偉人には、若い頃の雄飛を生涯の糧にしている者が珍しくない。宗二が読んだことのあるガンジーの伝記でもそう書いてあった。恵子も雄飛すれば、きっと苦労を乗り越えて、大きくなることが出来るはずだと、宗二は信じている。そのためには、やはり金が幾らでもいる。

遠くの空に、雲がぽつぽつと見え始めた。雲は見えるが、色は白く澄んでいて、雨の恐れはない。東に舵を取り、海原をゆっくり旋回する。魚群探知機を見るが、めぼしい獲物の姿は無い。此処は潮の流れから言って、かなりの魚が集まる穴場のはずなのだが。多少の失望を覚えながら、宗二は海原を見た。魚影は当然のように確認できず、何処までも静かに波が反復しているだけだ。鴎すらいない。

釣りと同じく、漁では忍耐心が試される。長時間居座ることで、ようやく魚影が見えてくることもある。丸二日同じ場所で待ち続け、鰯の大群にかち合ったこともある。どちらにしても、まだ失望するのは早い。こう言う時、男だけの船では軽く酒が振る舞われたり、たばこを吸う人間が出てくるのだが、宗二にはそういうストレス発散手段がない。黙々と太い針を使って網を修繕している恵子の小さな背中を見ると、副流煙を吸わせるのは後ろめたい。漁しかできない能のない兄だから、楽しい話をしてやることも出来ない。出来るのは、恵子の将来のために、金を稼ぐことくらいだ。

喋る男はもてるという時代が今だと、宗二は聞いたことがある。その時代に反感を持つ男が多いようだが、宗二は違う。自分に出来ないことをやってみせる相手には、素直に敬意を抱くのが宗二のやり方だ。喋る努力もしてみたが、結局無理だった。今では宗二は「つまらない男」だと村の女達から嘲笑され、相手にもされない。事実そうなのだから仕方が無いとも、宗二は思っていた。

少し風が出てきたので、宗二はコートを出して、甲板にあがった。無言のまま針を動かしていた恵子は、笑顔で振り返りかけて、停止した。針を動かす手も止まっている。何かあったなと瞬間的に察した宗二は、周囲を見回して、遙か遠くにそれを見た。

煙が上がっている。それも、かなりの量だ。

船舶火災は致死率が高い。慌てて海に飛び込んでおぼれると非常に危険で、あっという間に海水に体力を奪われ尽くして沈むことになる。船室に飛び込んだ宗二はすぐにエンジンを吹かすと、舵を取った。網を素早くたたむと、恵子も船室に飛び込んでくる。足は遅いが、こう言う時は運動神経よりもむしろ反応速度がものを言う。恵子は迅速に消火器を引っ張り出し、ピンを抜いている。波を蹴立てて走る船は、程なく煙の大本を視認できる位置まで近づいた。

同時に、聞き慣れない音がする。爆竹かと思ったが、違う。断続的かつ、もっと鋭い。悲鳴が聞こえた。エンジンを弱め、舵を切る。四福島丸は右手に燃えさかる中型漁船を横手に、旋回して距離を取った。

「様子を見る」

「え? どうして?」

「今、銃声が聞こえた」

さっと恵子の顔が青ざめる。気付いたのだろう。密航船や、よその国の工作船である可能性があると言うことに。

空路で日本に侵入することが難しい現在、密航者は主に海路で来る。ヤクザや大陸の犯罪組織の手引きであったり、それらと通じた漁師の仕業である事が多い。また、海上自衛隊に撃沈された北朝鮮の工作船の例もある。さらには、麻薬や覚醒剤の密輸ルートとして、海路が使われることも多いのだ。この辺りではそういったアンダーグラウンド系の噂は聞いたことがなかったが、警察が大挙して押しかけて来ていたこともあり、油断は出来ない。銃声から銃の種類まではもちろん特定できないが、下手に近づかず、様子を見た方がいいのは確かだ。

再び銃声。反射的に恵子が伏せる。もう少し距離を取ろうかと宗二が舵に手を掛けた瞬間、船が爆発した。

 

呆然と空を見上げながら、ジネスはどうしてこうなったのだろうと思っていた。さっきまで自分たちは凱旋の途上にあり、これから膨大な武器弾薬を手に入れて、故郷で待つ同志達に送り届けることが出来たはずなのに。

自問自答は誰にも届かない。体が急速に冷え込んでいくのを感じる。右腕は根本から吹っ飛び、足ももう動かないのだ。大きな波が来る。もう終わりだと、ジネスは観念した。

破滅の最初は、ハミルの行動から始まった。

クライアントから要求された人間の確保は上手くいった。細い少女で、抵抗もせず、何が起こっているかも理解できない様子であった。問題は船に積み込んでいた相当量の覚醒剤だ。みな海水に浸かって、使い物にならなくなっていた。それでも、契約上では、少女を確保すれば半額は払われるはずである。

流石に日本の犯罪組織だけあり、その金額は想像を超えるものであった。これだけあれば、天罰と殉教のための爆弾を大量に作ることが出来るはずで、思わずジネスは胸が熱くなった。他の者達も、皆興奮して、口々に神の奇跡を称えていた。

それが半額になってしまったのだ。苛立ったハミルが少女を殴りつけ、頭を踏んだが、殺してしまっては意味がない。残りの半額も無くなってしまう。リーダーのフセインが制止し、ダクトテープで少女の手足を縛って船底に放り込んだ。少女は悲鳴の一つも上げず、どうしてこんな事をするのだというような目で此方を見ていた。殺気が削がれるのを、ジネスは感じた。今まで散々人を殺してきた。女子供の鼻や耳を削いだこともある。子供の悲鳴は実にサディズムを刺激して、殺しを楽しいものに変えてくれた。

それなのに、この少女の反応は何だ。殺す気力も起こらなかった。不思議な目であった。自分が苦しむことを何とも思っていないのだ。商売柄、頭のおかしい人間は幾らでも見てきた。だが、そんな連中であっても、この少女のような目をしている者はいなかった。

それからはさっさと海域を離れることになり、漁船に偽装した高速クルーザーはエンジンを高らかに鳴らせながら波間を走った。オート操縦に切り替えると、狭い甲板にテーブルが出され、コーヒーが振る舞われた。皆が高級なブルーマウンテンに舌鼓を打つ。気の荒い長身のハミルもご機嫌の様子で、愛用のカラシニコフを振り上げて、アッラーを称える言葉を唱えた。その瞬間だった。

どんな任務の時にも手入れを怠らなかった、天罰の代行者であるカラシニコフが、暴発したのである。

ハミルの右腕が、吹き飛んだ。更にその破片が、ダムダの両目を抉り、ジネスの足に突き刺さった。悲鳴がとどろく。ダムダは臆病な男であった。この事態に、パニックになったのだろう。辺りをまさぐってカラシニコフを引っ掴むと、手当たり次第にぶっ放したのである。

リーダーのフセインの頭が真っ先に吹っ飛び、その死体は瞬く間に穴だらけになった。今まで米軍の追求を何度もかわしてきた名小隊長の、あっけない最後だった。全身から鮮血を吹き上げながら倒れるフセインの横で、ビラートとクリルが弾丸の雨を浴びて即死した。ジネスは伏せ、甲板に落ちているフセインのカラシニコフを拾い、まだ辺り構わずカラシニコフを叩き込んでいるダムダの体に銃弾を叩き込んだ。ダムダはそれでも回転しながらカラシニコフを離さず、弾丸の雨が操縦室に飛び込んで計器類や操縦装置を穴だらけにした。死んで千切れかけてもまだダムダの指はカラシニコフの引き金を引いていた。弾倉が空になるまで、カラシニコフは辺りに破壊をまき散らし続けた。

それが、致命的な破壊の始まりだった。

エンジンに着火したのか、或いは他の理由かは分からない。これは爆発するなとジネスが思った瞬間、紅蓮が視界の全てを満たした。

海に放り出される。ゆっくり流れる視界の隅で、ハミルが全身火だるまになって、悲鳴を上げながら踊り狂っていた。そういえば何年か前に、爆弾で吹き飛ばした異教徒共が、あんな風に踊っていた。感慨にふける暇もなく、海に落ちる。

目が今の爆発で焼けたらしく、上手く周囲を見ることが出来なかった。そのままもがいて、海面に出る。その瞬間二次爆発が起こったらしく、したたかに鼓膜が刺激される。海水も入って、耳はもう使い物にならなかった。水面に浮かぶことが精一杯だった。そして、現在に至る。

自分たちにはアッラーの加護があったはずだ。そう自問自答する。いつもは力を与えてくれるその教えが、今は非常に遠かった。波が来る度に、顔に塩水が多量にかかる。声にならない呻き声を漏らす。今頃になって、足が痛み始めていた。

混乱する頭を落ち着かせるように、これは神の試練だと無理矢理自己暗示を掛ける。それに死んだ奴らは、今頃天国で女達に囲まれているはずだ。もし死んだとしても、自分もそこへ向かうことが出来る。

船のエンジン音が聞こえる。今はたとえ米軍であっても、この悪夢から救い出して欲しい。そう思った瞬間、脇の下あたりから、もの凄い水圧が盛り上がって来た。

ジネスは忘れていた。海には、流れた血液を辿り、獲物を狙う大型の捕食生物がいるという事実を。その凶暴性は伝説にまでなっており、映画の題材としても人気があるという事を。

悲鳴を上げながらもがくが、もう遅い。

水面下から襲いかかってきた巨大な鮫が、ジネスの体を真横からくわえ込む。顎の力は三トン強。一瞬にして肋骨が粉砕され、内蔵が潰される。声にならない悲鳴を上げるジネスは、自分が五メートル近いホオジロザメに襲われ、海面下に拉致されたことに気付いた。死にたくない、死にたくない、死にたくない。体中が引き裂かれるような痛みの中で、身勝手な思考が頭を流れる。

不意に、ホオジロザメがジネスを離した。大量の血を流し、海底へ沈みながら、ジネスはアッラーに感謝する。そして、次の瞬間、見た。襲い来る、無数の小型の鮫を。

手に、足に、腹に。手当たり次第、見境無く、鮫が噛みついてくる。引きちぎられる肉の感触が、パニックを加速した。もがけばもがくほど、鮫は興奮し、更に激しく噛みついてくる。

最後にジネスが見たのは、全長三メートル半ほどのタイガーシャークが、頭をかみつぶそうと、白目をむき大口を開ける、そのまがまがしい姿だった。

 

船に恵子を残すと、救命ボートを使って、慎重に宗二は煙が上がる船に向かった。ボートには消火器を詰め込んでいる。既に沿岸警備隊には救助の依頼を送った。二時間以内には来るという。ゴムボートを広げるのは実に二年ぶりで、埃がしつこくゴムに張り付いていたが、どうにか破れずふくらませることが出来た。そのまま備え付けのオールを使って、炎上中の漁船に向かう。

オールは扱いが難しい。海水は重く、少し油断するとすぐに方向が変わってしまう。重労働の上熟練の技がいるので、極めて非効率的だ。海水を掻きながら、どうにか四苦八苦してボートを進めていく。漁で鍛えている宗二は、都会者など二人まとめて相手に出来る腕力を持つが、それでもこの労働はきつかった。

やがて、派手に煙を上げる漁船にたどり着く。消火器を抱えて、タラップをあがる。そして甲板に出た瞬間、恵子を連れてこなかった判断が正しかったことを、宗二は知った。

辺りは死体だらけだった。頭が吹き飛び、体中を蜂の巣にされている男。甲板に突っ伏している男は、右半身が殆ど襤褸雑巾のようになっていた。右腕が吹き飛んだ黒こげの死体が、海面に浮かんでいる。興奮した鮫が獲物を探して、海面に背びれを何本も突きだしていた。ボートに乗っているのもあまり安全とは言えない。

甲板には銃が落ちていた。しかも複数。種類はよく分からないが、どうみてもこの男達はカタギではない。一体何があったというのか。

操縦席は完全に火の海となっている。いるかは分からないが、最低限の行動として、生存者を捜す必要がある。消火器を使って、まず操縦席の火を消す。業務用の消火器だけあり、返ってくる圧力も凄いが、威力も桁が違っている。見る間に操縦席は泡だらけになり、火も消えた。ちなみにこれは恵子がいざというときに欲しいと言っていて、それもそうだと購入したものである。恵子はアクセサリー類も好きなのだが、本当に役に立つものはもっとほしがる。だから買っておいたのだが、予想以上に役に立ってくれた。

めぼしいところの火を消してから、船底に降りてみる。煙が充満していた。めぼしいところの火は消したが、潜在的な火力はまだまだ健在。危険は去っていない。船が爆発でもしたら、幸運であっても海に投げ出され、鮫の餌だ。

「誰かいないか」

出来るだけ大きな声を絞り出したつもりだったが、一回目はかすれてしまった。咳払いしてから、二度、三度と繰り返す。船底はさほど広くなく、誰かいるとは思えなかったが、念のために降りてみる。ガソリンに引火して本格的に爆発すると厄介だ。誰かいるなら今の内に助けておいたほうがいい。

ただでさえ暗い船室は、煙で一歩先も見えない有様だった。柔らかいものを踏みつける。人間の腕だった。悲鳴を上げそうになるが、何とかこらえる。そのすぐ側にある、明らかに日本製ではない携帯が点滅しているが、絶対に出るものかと宗二は思った。ヤクザかテロリストか、ろくでもない相手が出るのは目に見えている。

咳き込みながら、辺りをまさぐる。もう一度人間を呼ぶが、応えはない。引き返そうかと思い、這うようにして階段へ。周囲が暑くなってきている。肌で危険を感じ取った宗二は、長居無用とばかりに出ようとする。

不意に煙の向こうから人の顔が現れたので、今度こそ宗二はひっくり返りそうになった。胸を押さえたのは、心臓が飛び出すかと思ったからだ。

がつん、がつんと音がする。船に外側から何かがぶつかっている。ほぼ間違いなく、興奮した鮫だ。ボートに乗っていればあまり危険はないが、海に投げ出されると非常に生還率が低くなる。

鮫は別に人間を好きこのんで食ったりはしない。その代わり、他の動物と区別もしない。そして鮫の顎の破壊力は万力などの比ではなく、人間の骨などたやすく噛み砕く。恐怖心を更に刺激された宗二はパニックに陥りかけたが、雷鳴のようなひらめきをきっかけに、どうにか精神を立て直す。今死んだら、恵子は孤児院にでも行くしかなくなる。施設を差別するわけではないが、両親がいない状況で、これ以上寂しい思いをさせてはいけない。無能な兄だが、恵子には自分しか肉親がいないのだ。

もう一度、慎重にさっきの人間の顔を確認する。近づくと、ますます濃くなる煙の向こうから、小作りな少女の顔が現れる。至近までいくと、横たわった少女が、ダクトテープで手足を縛られている様子が分かった。手足は細くて白く、非常に貧弱そうな子供だ。何故驚いたのか、自分が宗二には分からない。その上、少女の白い顔には殴られた痕まである。さっき上で死んでいたり手足をばらまいていたりした連中が、文字通りの屑だという事が分かり、宗二は安心した。あのような連中に同情などする必要はないからだ。このまま放っておいて、この船と一緒に燃え落ちればいい。同時に怒りも覚える。恵子と同じ年頃だからだろうが、名も知らぬ少女が酷い暴力に晒されたことに、平静ではいられなかった。

できるだけ優しく抱え上げると、船底を出る。少女が気絶して煙を吸わなかったのは幸いだった。さぞ怖い思いをしただろう。甲板に出ると、再び周囲からは火の手が上がり始めていた。あまり時間はない。エンジンのガソリンに引火したら、木っ端微塵だ。

タラップを降りる。肩に担いだ少女が、意外と重い。脇に挟んだ消火器を置いていこうかと思ったが、どうしても捨てきれなかった。ボートに飛び乗ると、辺りは鮫だらけだと言うことを思い出して、改めてぞっとする。少女を横たえると、出来る限りの速さで、オールをこいだ。原動機付きの救命ボートもあるにはあるのだが、とても高くて手に入れられなかったのだ。

船が傾き始める。あれが工作船だったのかそれとも密入国船だったのかは分からないが、とにかく同情しようという気にはなれなかった。アフリカの人身売買業者などは、子供を完全にモノ扱いし、売れ残りを海に捨てることがあるそうだ。世の中には、そういう地獄に限りなく近い場所がある。そういった場所で必死に生きている人間もいる。だが、それは宗二の理論ではない。宗二は、そういう場所で生きている人間のことを理解しようとは思うが、一緒になろうとは思わない。

後方の船が一段と激しく煙を上げる中、宗二は力一杯オールをこいだ。ゴム製のボートが波間を行く。さながらナメクジのようなその歩みに、全身に冷や汗が浮く。波で押し戻されそうになり、気合いの声を入れながらオールを振るった。やがて、背中に灼熱を感じた。船が赤々と燃え上がる。甲板にいた連中は、全部まとめてバーベキューである。

ほとんど間をおかず、爆発した。

二度、三度、巨大な紅蓮の炎が、空を焦がす。

すぐ近くに、黒焦げの足が降ってきた。ぼちゃんと派手な音を立てて海に落ち、浮かんでいた。履いていたのは、見たこともない、外国のメーカーの使い古しのスニーカーであった。

爆発の衝撃にやられたか、鮫が海面に浮いてきた。一メートルくらいの小柄な奴だ。引き上げて冷凍室に放り込みたいところだが、構っている暇はない。オールをこいで、とにかくこの場から離れる。もったいないが、仕方ない。

がれきが油と一緒に周囲に散らばっていく。大した量ではないのが救いだ。少女の手足のテープを一刻も早く剥がしてやりたいのだが、力加減をどうしたらいいのか分からない。此処は恵子に任せた方が良さそうだ。そのためにも、早く、力の限りにこぐ。

もう一度背後爆発。それが、最後だった。船が中央部分から真っ二つに折れ、後半部が海底へ沈んでいく。前半部は粉々に砕けて吹っ飛び、辺りに資材と油の大判振る舞いをしてから、船としての命を終えた。迷惑な話だ。ヤクザだかテロリストだか知らないが、自分の家か何かで勝手に死んで欲しい。海を汚さないでほしいものだ。

やがて、どうにか第四福島丸にたどり着いた。甲板では既に恵子が待っていた。ゴムボートの上に少女の姿を認めると、すぐに包帯と薬の準備を始めたようだ。力は弱いし体格も貧弱だが、機転が良く利く。安心した宗二は、右手から派手に血を流していることに今頃気付いた。さっき船の中でやってしまったらしい。

オールも既に血だらけである。そして、鮫の血に対する嗅覚は犬に近い代物だ。海に落ちていたら、真っ先に鮫に殺られていただろう。今頃になってそれに気付き、もう一度宗二は身震いした。

短いタラップなのに、もの凄く長く感じられた。甲板にあがって振り返ると、火が消えるところだった。何だか分からない連中の船が、今完全な死を迎えたのだ。漁師の端くれとして、船の死には感慨も多い。死んだ連中ではなく、船の冥福を祈って、宗二は黙祷した。

改めてよく見ると、少女は汚らしい白い服を着ていて、腐敗した海水の臭いがした。酷いところに閉じこめられていたのだなと、宗二は思った。呼吸は弱いが、心臓はきちんと動いているのが、抱えている時に服越しに分かった。手首を触ってみると、脈も弱くはない。

恵子がハサミを取り出して、テープを処理に掛かる。ここから先は、恵子の仕事だ。服を脱がせて体を拭くかも知れないし、宗二はその場にいては却って邪魔になる。警備隊に連絡を入れようと船室に足を踏み入れた宗二の背中を、恵子の静かな声が打った。

「酷いよ、こんなの。 この子、何日も食べてない。 縛って、ぶって、散々傷つけて、汚いところに閉じこめて。 一体何があったの? この子が一体何をしたっていうんだろう」

「俺にも分からん」

「にーちゃ、ごめん。 お湯でタオル絞ってくれないかな。 せめて、髪だけでも拭いてあげたいよ」

自分の膝に少女の頭を乗せて、恵子は泣いているようだった。宗二も怒りが再燃してくるのを感じる。生命の危機を脱すると、やはり他人への意識が鮮明になってくる。

宗二は、お湯を沸かすべく、ポットに水を注ぎ始めた。

 

ビルの窓側を総ガラス張りにした、豪勢な内装の部屋であった。革張りのソファは大きく、部屋の奥には巨大なダブルベット。マホガニー製の机の上には、ブランドもののデスクランプが設置されている。その机についているのは、神経質そうな、痩躯の、白髪の老人であった。部屋の豪華な内装は彼の巨大な権力を表していたが、余裕のなさが妙なアンマッチを生じさせていた。

男は、携帯が完全に沈黙したことを確認すると、大きく嘆息した。側に控えている秘書が、静かな声で決断を促す。

「G2の能力から言って、恐らくあの者達はもう生きていないでしょう。 どうしますか、次長」

「どうするもこうするもない。 あれが公式の場に渡ったら厄介だ。 特に公安には絶対に渡すな。 何があっても回収しろ。 それが無理であれば消せ」

「はい。 手配します」

秘書は長身の異様に容姿が整った女で、機械的な口調で携帯に命令を下す。やがて携帯を折りたたむと、秘書は一礼した。

「悪いお知らせと良いお知らせです」

「どうした」

「まず悪いお知らせを。 あの日出川警視が、いち早く状況をかぎつけて現場に向かっています。 第六特務小隊の一部を伴っているとか」

指先でマホガニーの机を何度となく叩いていた男が、舌打ちした。日出川は昼寝姫などと言われている人物だが、事件に対する異常すぎる嗅覚を持ち、侮れない。今までもキャリアの対立の影を縫って行われてきた犯罪を幾つも潰してきた経歴を持ち、警視庁上層部ではフクロウの百合惠などと言われている。その上、第六特務小隊は、SATの精鋭から選抜した特務部隊で、隠密行動に特化した警察の切り札だ。

「それで、良い知らせというのは?」

「部下を失ったことに気付いたムハマド・ジャミンが、自ら部下達を連れて偽装船に乗り込んだそうです」

ジャミンは一種の異常者で、中東を中心に活動しているたちが悪いテロリストだ。CIAが懸賞金を掛けている男で、金額は五十億を超えている。自分の息子さえも自爆テロに使った事があり、仲間内からも頭のねじが外れている様が忌避されている程の男である。彼が日本に来ている事を知っている者は少ない。男はその数少ない例外で、スポンサーの一人でもあった。

「殺さないように、念は押しておけ」

「押しておきましたが、相手があのジャミンでは難しいかも知れませんね。 ただ、これで警察にあれが渡る可能性は低くなったかと」

「ううむ、確かにそうだが」

男はうなり始める。場合によっては消せと言ったのは自分なのに、まだ諦めきれないのだ。無理もない話である。途轍もない資金が、あれにはつぎ込まれているのだから。

とにかく、日出川が動いていると言うことは、警視庁も本腰を入れたと言うことだ。此処からは時間の勝負になる。めまぐるしく思考を働かせながら、男は保身の道を探り始めた。

 

3,静かな海

 

最初にその船の接近に気付いたのは、宗二だった。恵子は酷い待遇を受けたと思われる少女を手当てし終えると、ずっと悲しげに髪を撫でている。恵子は頭が良いし有能だが、やはり子供だ。こう言う時は感情が先に立つ。だから自分が警戒していなければいけないと、宗二は思っていた。だから、発見できた。

さっきの連中のこともあり、宗二は神経を張り詰めていた。念のために海上警備隊に連絡しようとしたが、無線が使えない。嫌な予感が加速する。接近してくる船は漁船に見えるが、船足が妙に速い。

「船室に、その子を連れて入れ」

涙を拭っていた恵子が、船に気付く。すぐに異常に気付いたのだろう。少女を抱えて、船室に飛び込む。宗二もそれに続いて船室にはいると、エンジンを吹かした。

スクリューが回転を開始し、波を蹴立てて船が走り始める。殆ど間をおかず、甲板に一人、銃を持った男が上がってくるのが見えた。さっき死んでいた連中と同じような銃だ。第四福島丸は、元々速力を売りにした船ではない。もし、相手が殺すつもりで追いすがってきたら、どうにもならない。

それでも、船の扱いには慣れている。すぐには捕まらない。沿岸警備隊がどちらから来ているかは分からないが、そちらへ向かうしかない。

相手の船と直角に、一気に加速。旋回して追いすがってくる相手の船を尻目に、最大限までエンジンを吹かせる。同時に銃声。連続して響いてくる。甲高い悲鳴を恵子が上げたので、宗二は一気に血が沸騰するのを感じた。

「伏せてろ!」

叫ぶと、不意に旋回して、外洋を目指す。すれ違う。ターバンを巻いた、サングラスを掛けた男が、何事か叫きながら銃を乱射していた。捕まったら確実に殺される。自分が殺されることはまだしも、恵子が殺されることが我慢ならない。

大事な商売道具の船に、鋭い音と共に銃弾が叩き込まれる。すぐに旋回して、敵の船も追ってくる。ジグザグに、時に不意に旋回して向きを変えながら、必死に宗二は敵を振り切る努力をする。だが、元々敵船の方が速力がある。しかも、此方には攻撃手段がないのだ。

船室の窓ガラスが吹っ飛ぶ。直に風が吹き込んでくる。

「恵子!」

「大丈夫! それより前、前!」

「分かった!」

健気な恵子の言葉に、後れを取るわけにはいかない。悪態をつきながら、宗二は舵を繰って、船を駆る。銃声はとぎれることがない。多分相手は遊んでいる。ハンティングをしているつもりなのだろう。

少女が目を覚ましたらしい。後ろの気配で分かった。猛烈に追いすがってくる後方の漁船が、速度を上げた。旋回してかわしに掛かるが、かなり短時間で慣れてきている。きっと後方を見て、恵子が叫ぶ。

「人殺し!」

返答は銃弾の嵐だった。降伏を促すような言葉もなければ、子供に対して容赦しようという反応も無い。相手は本物の殺し屋だと、宗二は確信した。それならば、此方も構う必要は一切無いだろう。

地の利は、此方にあるのだ。

蛇行し、急カーブを入れながら、宗二は相手を誘導する。露骨な殺意が加わっている自分の行動に、驚くことはなかった。恵子を殺そうとしている奴に、容赦などする意味も必要もない。

激しい銃弾の雨が、福島丸を傷つけていく。集弾率は恐ろしく高く、一撃ごとに確実に船のパーツが破壊され、海に投げ出されていく。貯金はこれで全部吹っ飛んでしまうだろう。

保険にも入っているが、銃撃を受けて損壊したという内容で、保証をしてくれるとは思えない。色々と難癖をつけて、補償金額を削るのは目に見えている。保険屋に良い印象を持ったことがない宗二は、ここを自力で乗り切るべく、全精神を集中した。

 

ムハメド・ジャミンは舌なめずりしながら、逃げ回る漁船に向けて、カラシニコフの引き金を引き続けていた。連射される銃弾の雨が、次々に漁船に痕をうがつ。興奮して零れた涎を拭いながら、ジャミンはマガジンを装填し直す。古いマガジンはその場に捨て、すぐに腰ためして連射に戻る。鋭い風を受けて、ターバンが揺れる。整えた黒い口ひげは、歓喜と憎悪に緩みっぱなしであった。

中肉中背、特に目立つ美男子ではない彼だが、雰囲気は尋常なものではない。ジャミンは仲間内からも恐れられる生粋のテロリストであり、米国人を本気でこの世から皆殺しにしようとしている存在である。出来るかどうかは問題ではない。米国人と、米国人に協力的な存在と、異教徒は皆殺し。それがジャミンの思想の要約だった。そのために戦う存在は全て聖戦の同志であり、手向かう相手は全て殺す。そのためだけに、彼のカラシニコフは炎の天罰を落とす。

殺しによって快楽も感じるが、それはアッラーが与えてくれるものだと、ジャミンは考えていた。それが己の内から生じているとは考えていない。故に罪悪感もない。殺すと獲られる快感は、神がジャミンにくださるご褒美なのだ。そんな思想はコーランの何処にも載っていないかも知れないが、関係ない。神は感じるものだからだ。その証拠に、同じ神を信じているはずなのに、無数の宗派があるではないか。

中東の片田舎で暮らしたジャミンは、悲惨な少年時代を送った。どれほど両親が働いても、生活は楽にはならなかった。やがて父は生活苦から薬物に手を出すようになり、四十半ばで拳銃自殺した。母は男を取っ替え引っ返し、やがて「背教者」だと罵られて、スラムで襤褸雑巾のようになって発見された。

孤児として、ジャミンは生きるためにあらゆる事をした。十三の時に人を殺し、それ以降は坂道を転がるようにして、テロリストへの道へ深く深く踏み込んでいった。今では国を代表するテロリストの一人であり、CIAに懸賞金も掛けられている。だが、むしろそれは都合がよい。賞金稼ぎも、軍隊も、向かってくれば皆殺しだ。その方が、米国に天誅を加えるのが早くなる。

かって貧しいスラムで、泥まみれの腐肉を喰らって生き延びたあの日のことを、ジャミンは忘れない。両親を惨殺したも同然の米国は許さない。あれが全て米国のせいだと、今ではジャミンは考えている。だから、ジャミンには敵を討つ権利もあるのだ。敵を殺すたびに感じる快楽が、神のご褒美だ。つまり、神も彼の行為を祝福してくださっているのだ。

日常生活では、ジャミンは極めて無口だ。部下達もジャミンには声を掛けては来ないし、いないところでほっとしているのも知っている。強者であり、践教者であるとジャミンは自負していた。いつの時代もそれらは恐れられる。味方にもだ。だから、部下達の行動を自然だとも思っていた。理解者は神だけでいい。神だけが、彼を知ってくれていればいい。究極的には、部下も仲間もいらない。天使達もいらない。神には、ジャミンだけがいればいいのだ。ジャミンがいれば、神の代行者として、後の全てを皆殺しにする。それだけで、世の中は全て神の意志の御許に跪くだろう。部下も仲間も、そのための道具に過ぎない。

またマガジンが空になる。新しいマガジンを部下から受け取ると、再び掃射に掛かる。

今回、ジャミンは怒っていた。有能な部下達が、犬死にしたのが許せなかったのだ。信仰を全うするためにはいかなる犠牲を払うのも聖戦の一部だとジャミンは考えている。だから日本の犯罪組織などとも手を組んで、資金を得た。だが、そのようなことのために、貴重な部下を死なせたのは失態だった。大事な道具が、無駄になってしまった怒りは計り知れない。それをした異教徒共は、地獄の苦しみを味あわせてやるのが妥当だ。怒りから来る不快感と、神が与えてくださる快感に胸を焦がしながら、ジャミンは蛇行する敵船に、カラシニコフを乱射する。

敵の動きが良くなって来ている。平和ぼけした日本の軍隊など恐ろしくもないが、米軍が出てくると面倒だ。だから、そろそろ狩りも終わりだ。一気にとどめを刺してやる。そう思ったジャミンは、RPG7を部下から受け取る。

RPG7。俗に言う対戦車携行ミサイルである。強力な歩兵用携帯兵器であり、当たり所によっては地上戦の主力兵器である戦車を一撃で粉砕する。安価な上に入手しやすい強力な武器として、カラシニコフと並んでテロリスト達の愛好を受けている存在だ。もちろんジャミンも愛用している。これを使って、必死に逃げる異教徒共のトラックを吹き飛ばしたこともある。あのときは実に楽しかった。

もう逃がさない。とりあえず船のエンジン部分に直撃させて、止める。もしその状態で生きている敵がいたら、引きずり出して八つ裂きにした後、日本の警察に箱詰めにして送りつけてやる。その作業の過程を夢想し、ジャミンは恍惚を覚えそうになった。呼吸が乱れてくる。だが、ぎりぎりの理性で踏みとどまった。

RPG7をで正確に敵をロックオン。蛇行しているが、もう動きのパターンは読んだ。仕留める。含み笑いさえ漏らしながら、ジャミンは必殺兵器の、引き金に指をかける。子供を八つ裂きに出来ると思うと、小便を漏らしそうだった。肉にナイフが食い込む感覚、内臓を引っ張り出す感覚、いずれもなかなか味わえない、至高の快楽だ。特に素晴らしいのが、目玉をえぐり出す時の音である。神の素晴らしい報酬に、ジャミンはその時、いつも性交などとは比較にもならぬ快感と喜びを覚えるのだ。

さあ、神よ。忠実なる貴方の僕が、どのような天使よりも神罰を代行できる貴方の剣が、今また背教者を地獄に送ります。

ジャミンはそう唱えると、完全に狙いを定め、腰を落とした。

空白の沈黙。もう一度、引き金を、引く。

何かの間違いなのか。神の加護を念じながら、引き金を、もう一度、引く。

慎重にもう一度。更に三度ほど乱暴に引く。

それだというのに。神の代行者である自分が、光栄にも使ってやろうとしているのに。RPG7は、うんともすんとも言わなかった。

唖然としたジャミンは、部下を叱咤する。きちんと整備はしたのかと。部下は応える。毎日確実に行っていましたと。胸ぐらを掴んで引き寄せると、激しく部下を殴打。ほお骨を砕き、頭突きを浴びせ、更に突き倒して膝を踏み砕いた。悲鳴を上げてのたうつそいつを、海に叩き込む。もがく部下が、すぐに海の向こうに遠ざかっていった。神の意志を執行する術を持たぬ臆病者は死ね。神は今こそ、血を求めておられるのだ。吐き捨てると、ジャミンはRPG7を乱暴に投げ捨て、代わりを持ってくるように部下に言った。青ざめた部下が、代わりのRPG7を持ってこようとする。

次の瞬間であった。

ジャミンの体が、宙に舞った。中肉中背とはいえ、六十キロを超える体が、いとも簡単に空に投げ出されたのである。

何が起こったのか分からなかった。だが、放物点の頂点で、それに気付く。海から岩がほんの僅かだけせり出している。暗礁だ。暗礁に乗り上げたのだ。RPG7の引き金を引こうとして、手間取った一瞬が、彼の手から神の加護を奪い取ったのである。

呪いの雄叫びが喉の奥から沸き上がる。

彼の視界の果てで、船が爆発する。理由は分からない。なぜだか分からないが、彼の乗り物が吹き飛んだ。

おのれ、おのれおのれおのれ。おのれ異教徒らめが!

呪いの言葉を心中にて吐きながら、ジャミンは海に落ちた。カラシニコフは無くしたが、まだ神の手であるナイフは持っている。今まで数十人の神の敵を切り刻んできた武器だ。まだ、自分にはこれが残っている。一人でも多くの背教者共を殺してから、偽物の神をあがめる異教徒共を切り刻んでから、神の御許へ行くのだ。そのためには、まだ死ぬわけにはいかない。まだ地上には、神の代行者が必要なのだ。

海面へ向かって手足を動かす。やがて、暗礁に掴まり、水上に出ることに成功。

そして、彼は見た。今まで彼が乗っていた船が、転覆している様を。その上、船体からは紅蓮の炎が吹き上がり、その周囲には点々と彼の部下達が浮かんでいた。

今まで追っていた漁船は、一定距離を保ったまま足を止めている。此方の様子を見ているのだろう。不届きにも、命乞いをする声。異教徒に命乞いをするなどとは何事だ。部下の醜態に、ジャミンは頭の中が真っ赤になるような感覚を覚えていた。

ナイフを口にくわえて、海に飛び込む。これでも水泳には自信がある。服を着たままの水泳はそこそこに難しいが、ジャミンには天性の運動能力と戦闘センスが備わっている。体を動かすことは、努力よりも才能がものを言う。一気に二十メートルほどを行き、背教者に落ちたくだらぬ元部下の元にたどり着くと、ジャミンは奴を水面下に引きずり込んだ。

恐怖に引きつる部下の顔と、半笑いを浮かべたジャミンの顔が、浮沈の半瞬だけ交差する。

そのまま、一息に頸動脈にナイフを突き刺す。ナイフを回しながら首を引く。一気に骨が露出して、冗談のような量の血が辺りにぶちまけられた。

他の部下共も皆殺しだ。だから、わざわざ海水中に大量の血液をばらまいたのだ。異教徒に命乞いをするような奴は背教者だ。背教者は全部神の代行者の手で殺す。一匹残らず地上から消し去る。

まだ生き残っていた部下共が他にいたが、見る間に群がってきた鮫たちに襲われ、生きたまま八つ裂きにされていく。いい気味である。背教者に落ちた奴などイスラームの戦士でもなければ、天国へ行く資格もない。そのまま鮫の餌として、糞になるが良い。

笑いながら、ジャミンは水中を行く。目指すは、停泊中の異教徒共の船だ。ナイフ一本あれば、平和ぼけした異教徒共など充分である。その場で皆殺しにしてくれる。

神よ、我に加護を!神よ、我に力を!

唱えながら、殺戮の権化である男は、魚のように体をしならせて、異教徒の船に海面下から忍び寄っていった。

 

後方で、もろに暗礁に乗り上げた漁船が横転、更に爆発したのを、宗二は確認した。恵子は少女をかばうようにして伏せていたが、やがて立ち上がる。上には空。

船室の天井は、吹っ飛んで無くなってしまっていた。

改めてみると、酷い有様だ。ソナー類は全滅。窓は綺麗に割れており、ガラスの破片が周囲に散らばっている。宗二の体にも幾つか刺さっていたが、許せないのは恵子の腕や足に幾つか傷が出来ていたことだ。それだけで連中は万死に値する。

海に投げ出されたテロリストだかヤクザだかよく分からない奴らは、殆どが即死したらしい。ぷかぷか浮かんでいるばかりだ。立ち上がった恵子が、指さす。意味はすぐに分かった。生きている奴がいて、悲鳴を上げているのだ。だが、それはすぐに沈んだ。代わりに大量の血が、海面に浮かび上がってくる。

不自然だ。鮫に襲われたにしても、彼処までは行かないだろう。すぐに離れた方が良いと、宗二は判断。エンジンを動かす。だが、エンジンは酷使に耐えかねたか、元気がない。何度かキーを回すが、どうしてもスクリューを回そうとはしてくれなかった。

「にーちゃ、ちょっと」

「後にしろ」

「ん、うん」

怒鳴りかけて口をつぐんだ宗二は、自分が助けてきた少女が、此方を見ていることに気付いた。手を止めてしまう。

恵子と同じか少し下くらいだろうと、最初宗二は考えていた。だがその表情はまるで赤子だ。良い意味でも悪い意味でも無垢すぎる。じっと宗二を見ている。この年頃になると、もう打算が働くようになるし、自立の下準備として大人を悪意のフィルター付きで観察し始めるものだ。宗二もそんな時期があったからよく分かる。だというのに、この少女にはそれがない。まるで呆けているかのようにぺたんと座って、何の悪意も敵意もなく宗二を見上げていた。傷だらけの細い手足が、妙に白く見える。手首と足首に残っている痛々しいテープの跡が、際だっていた。

宗二は美男子でもないし、清潔にしているわけでもない。筋肉質の、何処にでもいる成人男子に過ぎない。汗の臭いや血の臭いもさせているし、年頃の女子からは倦厭したくなる相手のはず。

それなのに、少女は笑った。

ばつが悪くなって、宗二は視線を逸らす。恵子はあきれたように嘆息すると、言った。

「この子、しゃべれないみたい。 それだけ。 それと、にーちゃの判断通り、さっさと離れた方が良いと思う」

「そうか」

とにかく、今は此処を離れることだ。もう一度キーを捻ると、太鼓を叩くような重厚な音と共に、エンジンが起動した。ようやくだ。とりあえず、港に向かって、まだ残っている警官達に事情を話すほか無い。無線はいかれているし、この状態で海上警備隊にかち合うのは難しいだろう。出張ってくれた海上警備隊には、後から平謝りするしかない。

船が動き出す。見る間に暗礁が遠ざかっていった。恵子がガラスを手際よく掃除し始める。舵もかなり危なかったが、どうにか動いた。どうにか動きはしたが、ひょっとすると、いやひょっとしなくても、もうこの船は駄目かも知れない。憂鬱だ。恵子のせいではないし、この少女の責任でもない。悪いのはあのテロリストだか何だかよく分からない奴らだ。だがそれを言っても仕方がない。

腕の良い漁師である宗二だが、上手く新しい船を入手できるかどうか。しばらくは小型の中古船で、近場で漁をして茶を濁すしかないかも知れない。恵子の学費を貯めるどころか、とんだ出費である。

少女を怖がらせてはいけないから、怒るのは駄目だ。苛立ちの発散手段が見つからず、宗二は思わず天を仰いだ。雲が凄い速さで流れていく。

風だけは、どうしてかとても心地が良かった。

 

4,舞う鴎

 

ヘリからの報告を聞いて、香山は愕然としていた。予想される地点に漁船が流されていなかったという事については良い。それが全く別の、「かなり流された可能性が低い」場所で見つかったことも構わない。

問題は、そのすぐ側で、漁船の残骸が見つかったと言うことだ。しかも、残留物の中からは、大量の弾薬とカラシニコフが発見されている。船籍も登録されていない。盗まれたものか、或いは外国から密航してきたものか。

胸くそが悪い事件だったとは思っていたが、カラシニコフと偽装船とは尋常ではない。一体何が絡んでいるというのか。

「香山警部」

「あん?」

振り向いた先にいるのは、日出川の護衛の一人であった。奴はありがたくも姫が呼んでいると伝えてきたので、香山は苦虫をかみつぶして吐き捨てると、その後について船室へ。入るだけで怖気が走るようなピンク改装がされているかと思った姫の私室だが、入ってみると中は案外まともである。姫はデスクについていて、側に無表情で屈強な男が立っていた。

「どうぞ、座ってください」

「はい」

姫に勧められるまま席に着く。驚いたのは、姫の表情がいつもと違うことだ。普段から鈍そうな目は半眼に絞られ、緩んでいた口元は横一文字に引き結ばれている。そういえば、体型も少し違うような気もするのだが。これは流石に気のせいだろうか。机の上で指を組み合わせ、それで口元を隠している姫は、日出川にいつもとはまるで違う静かな口調で言った。

「安心してください。 盗聴器はついていません。 最初に、香川警部は、この件についてどれだけ把握していますか?」

「どれだけといわれても」

「時間はありません。 要約してお願いできますか?」

そう言われると、香川も真剣に応えざるをえない。

「製薬会社の施設で、人体実験をしていたというものでしょう。 後ろに大物の政治家が複数ついていて、いまだに黒幕は分かっていない。 その施設がこの間全焼し、警察がようやくその隙に踏み込むことが出来た。 何人かの犯罪被害者は救出することが出来ましたが、一人の少女が見つかっていない。 その少女が、今我々の探している重要参考人です。 摘発した組織構成員の一人がさらって彼らが覚醒剤を取引するのに使っていた偽装漁船に隠し、海に流された事までは、複数の証言で分かっていました」

「なるほど。 それだけですか?」

「背後の組織関係などにはまだ分かっていないことが多いですが、それが何か」

「実は、大体背後関係は分かっています」

半目のまま、姫は言った。いや、百合惠警視と言うべきか。安藤の言葉が、今頃になって鮮明に脳裏によみがえってくる。

「そもそも、その少女を、どうしてこうまで躍起になって追っているかは知っていますか?」

「何かしらの重要参考人だとは聞いています。 そこまでしか聞かされていません」

「なるほど、分かりました」

姫が隣の男と目配せをかわす。男は頷くと、外にいる二人に声を掛け、警戒を強めるように言った。

「実はこの事件、我々は表に出す予定でいます。 そのためには、貴方の力が必要となります」

「は、はあ。 それで」

「それでも、表に出せる部分と、出せない部分があります。 貴方には、それをある程度把握しておいてもらいます」

香山は一気に緊張を覚えた。この姫様もとい百合惠警視は、自分を運命共同体の一員となれと脅しているのだ。逆らえば殺す程度の事は考えているだろう。美しい髪を掻き上げると、百合惠警視は言う。

その言葉を聞いて、流石に香山は、しばし思考を働かせる事が出来なかった。

全て聞き終えたところで、アラームが鳴る。きびきびとした動作で、警視が電話に出る。やがて、その半眼が、更に鋭く引き絞られた。

「私の狙撃銃を用意してください」

「な、まさか」

「相手は残念ながら、拘束できるような人間ではありません。 遠距離からのスナイプで仕留めます」

反論は出来ない。香山は、いつもとはまるで違う動作でコートを羽織ると甲板に出る警視を、呆然と見送る他に為す術がなかった。

誤解していた可能性は確かにあった。だが、これはいくら何でも変わりすぎだ。女は化ける生き物だとは知っている。しかし、いくら何でもこれは。全くの別人ではないか。

日出川に従う護衛共は、今や本性をかなぐり捨て、忠実なる下僕の群れとかしていた。感情は最小限に抑え、全身無駄ない緊張に満たしている。一目で分かる。戦闘のプロフェッショナルだ。困惑する海上警備隊の者達に目を光らせながら、彼らは分厚く日出川の周囲を固める。そして、恭しく狙撃用のスナイパーライフルが入ったかと思われる黒いボックスを手渡す。日出川はそれを鷹揚に受け取ると、もの凄い手際で見る間に組み立て、弾丸を装填した。

弾丸の装填音が、甲板に短く、だが最上級の威圧と共に響き渡った。

「ヘリより報告。 ジャミンの偽装船も、警視が予想した地点にある暗礁に乗り上げて転覆したようです」

「あの子の能力から考えると、無理もないことでしょう。 しかしそうなると…」

一瞬狙撃をやめようとした日出川だったが、すぐに行動再開。甲板で片膝を立てると、日出川は狙撃用ライフルを固定するための台を持ってこさせる。あまりにも慣れた手際に、香山はただ見ていることしか出来なかった。自分に何が出来るのか、この年になって、香山は自問自答していた。

「拾ったのは状況証拠から言って間違いなく漁船ですね。 その暗礁から、港に最短距離で行ける海域を探ってください。 通常の漁船が出せる安全速度から、今の位置を割り出してください。 其処へ先回りするように、舵を」

「はっ!」

日出川の言葉には、反論の余地がない。香山は相手を見くびっていたどころか、とんでもない怪物の足下で好き勝手言っていたことに、今更ながら気付いていた。

 

安全速度に戻すと、福島丸は帰投ルートに着いた。もうオートでの航行は不可能だから、ずっと宗二が操縦桿に張り付いている必要がある。宗二は海原にも注意していたが、それ以上に後ろの様子が気になる。恵子は手早く掃除を終えた後、少女に色々話しかけていたが、どうも会話が成立していない様子なのだ。

恵子が持ってきたサンドイッチを、少女は貪るように食べた。腹も鳴っていたし、よほど酷い環境にいたのだろう。本当に美味しそうに食べてくれたので、宗二まで嬉しくなったほどだ。

食事はしてくれたが、その先が難しい。喋ることが出来ないという事に気付いた恵子が、紙と鉛筆を用意した。少女は手慣れた様子で、G2と書いた。それでにこにこ微笑んでいた。恵子は自分を指さしながら恵子と書く。ケイコケイコと繰り返して、自分の名前を覚えさせようとしていたが、小さな手を叩いて少女は笑うのみ。恵子の様子がおかしくて笑っているのかも知れない。悪意はなさそうだが、宗二にはとても扱えそうにない相手であった。

悪意が全くない少女。いわゆる「無垢」というのは、こう言うのを言うのかも知れないと、宗二は思う。実際に見てみると、確かに圧迫感は感じないが、その代わり病的だ。人間の中に普通に存在する悪意が綺麗にとりさらわれてしまうと、やはりどこかが異形となるのかも知れない。

恵子は必死に少女とコミュニケーションを取ろうとしていたが、言葉は殆ど通じていないようだし、ボディラングエージも同等の結果らしい。疲れ切った恵子の声と裏腹に、少女は実に楽しそうにしている。

「うわ、これ」

「どうした」

「にーちゃ、見てみて。 ほら、これ」

振り向くと、紙に難しい記号が乱立していた。見ただけで眠気を覚えるような複雑さで、何が書いてあるのかはもちろん理解できない。恵子はある程度理解できるのか、目を素早く動かして、文字列を追っていた。

「分かるのか?」

「ん、うん。 ちょっとだけ記号とかで見たことがあるけど、多分これは微分方程式って奴だよ。 意味は全然分からないけど」

「一体その子は何なんだろうな」

宗二はごく当たり前の疑念を口にする。

喋ることは出来ない。どう考えても、カタギとは思えない連中に追われていた。虐待の後があり、そして悪意のない不思議な表情。

この少女も、カタギだとはとても思えない。見れば少女は、空を舞う鴎に笑顔で手を振っていた。無邪気な表情は、年齢を半分程度に見せているのではないかと錯覚させる。まだふくらみも丸みも足りない幼い体が、それをますます助長させている。

船が揺れて、少女が頭を壁にぶつけそうになる。タイミングを見越していたらしい恵子が、さっと手を伸ばして少女を支えた。G2というのは何だろうか。ひょっとして、それが名前なのだろうか。この少女の知性は決して低くはなさそうだ。今も興味深そうに、船に併走して跳んでいるトビウオを見ていた。目が輝いてる。

少女の顔が曇ることが、逆に想像できない。ちらちら見ていると、恵子のもっと幼い頃の事を思い出してしまう。

少女が宗二に手を伸ばしてくる。どういう表情を作って良いのか分からない。笑顔を浮かべるべきなのかと思ったが、そんな表情、最後に作ったのは一体いつだったか。大きな手を伸ばして、頭を撫でてやると、猫のように目を細めて喜ぶ。どう反応を返して良いのかよく分からない。困惑する宗二に助け船を出すように、恵子が言った。

「分かってるのは、銃を撃ってくるような人が、狙っているって事だよね。 酷い話だよね。 こんな可愛い子に」

「ああ、そうだな」

そうなると、港に着いてからも安心できなさそうだ。多少の相手になら、肉弾戦で後れを取ることはない自負はある。海で鍛えた肉体は、陸のそれよりも平均的に屈強だ。漁師達は皆喧嘩が強く、スジ者でさえまともに戦いたがらない。宗二はまだ若く、体格的にも優れているから、そう滅多な相手には負けない。

だが、それでも戦闘のプロではない。戦闘のプロが如何に恐ろしい相手なのかは、遭ったことのない宗二でも分かる。多分殺しに躊躇もないだろうし、技術的なものでも一般人が手に負える相手ではないはずだ。さっき銃を乱射しながら追ってきたような相手に出くわさなければいいのだが。

船が揺れる。その時、違和感を感じた。何か妙な重量がある。しかも、かなり船の外側に、だ。多分外壁だろう。

この船は宗二にとって何より大事なものだ。場合によっては自宅よりも大事だと言える。それだけに隅々までよく知っている。だから、違和感には、非常に大きく深刻な危機感が伴った。

「恵子」

「どうしたの?」

振り返ると、恵子は少女の腕に包帯を巻いていた。自分を後回しにして、知らない相手から手当てするのだから、良くできた娘だ。ただ、この様子だと、母性本能を刺激されているのかも知れない。

「嫌な予感がする。 船の左外側に、何か張り付いていないか?」

「! にーちゃ!」

「その子、抱きしめてろ。 捕まっていた方が良い!」

二人同時に、その可能性に気付いた。急角度で舵を切る。強烈なGを船体外部に掛けて、振り落としに掛かる。エンジンが抗議の声を上げる。もう少し保ってくれと心中にて懇願しながら、宗二は舵を切った。

同時に、不審な重心が移動する。相手も気付いたのだ。此方も気付いたという事実に。

這い上がってくるのが、船体の重心移動で分かった。奴が甲板にあがった瞬間が勝負だ。相手が如何に戦闘のプロでも、無防備な時は必ずある。

「消火器!」

「分かった!」

恵子が消火器に飛びつく。急激に蛇行しつつ、宗二は振り返る。甲板に右手が掛かっていた。チョコレート色の肌の、それほどたくましくは思えない指先が見えた。手は毛だらけで、日本人のものよりも多少太く見える。何度も振り落とそうと蛇行を仕掛けるが、びくともしない。

十中八九、さっき無差別乱射を仕掛けてきた奴だ。緩急を何度も入れるのだが、落ちる気配は全くない。むしろ、此方の抵抗を見抜いている気がする。

船室の柱に、少女と一緒にしがみついていた恵子は、既に消火器を掴んでいた。少女はにこにこと笑みを浮かべている。そう言えば、如何に言葉がしゃべれないからといって、悲鳴の一つも上げないというのも不思議だ。目を覚ましてから、何度も怖い目には会っているはずなのだ。悪意だけではなく、恐怖も感じていないのか。そうなると、ますます怪物に近い存在である。怖いとは思わない。何処か悲しい。

奴の左手が甲板に挙がってきた。不意にスピードを緩める。奴が飛び上がるようにして、甲板に体を押し上げてくる。口元には歓喜、目元には狂気。恵子が消火器を噴霧、それが顔面を直撃した。悲鳴が上がる。更に、恵子が消火器を、宗二が空いた手でスパナを投げつける。消火器は顔面に見事に炸裂し、スパナもそれに続いた。骨が陥没したような音がした。そのままエンジンを一気に吹かせる。

煙が後方に流れていった。恵子が悲鳴を上げる。ナイフを抜きはなった奴が、顔面を血だらけにしながら立っていたのだ。恐ろしいバランス感覚が、彼を海に落ちる運命から救ったのだろう。見た瞬間に分かる。戦っても勝ち目は全くない。殺しがしたくてうずうずしている様子が、宗二には手に取るように分かった。

「に、にーちゃ!」

「時間を稼ぐ! 救命ボートで、その子と逃げろ!」

「バカ言わないでっ!」

奇声を上げながら、男が躍りかかってきた。手にしているナイフは、もの凄い大振りで、喰らったら腕ぐらい吹き飛んでしまいそうだ。悲鳴を上げる恵子をかばいながら、宗二はガードポーズを取って、男の攻撃から急所だけでも守ろうとする。だがナイフは飛んでこず、代わりに蹴りが鳩尾に叩き込まれた。内蔵を的確に圧迫する蹴りは、体格差を軽く凌駕し、宗二の肉体に深刻な打撃を与える。

男が何か叫く。アラーという言葉がそれに混じっていることを、確かに宗二は聞いた。飛びついてくる男。組まれたらおしまいだと、宗二は必死に逃げる。ナイフが振り回されて、したたかに宗二の二の腕を切り裂いた。大量の鮮血がぶちまけられ、宗二は呻いて、だがきっと男を見据えた。男は船室に半ば体を入れながら、ナイフを保った手をゆらしていた。乾き掛けた海水の臭いと、それ以上に濃い血の臭いがする。恵子も床に落ちていたドライバーを掴むと、唇を噛んで、必死に男を睨む。勝ち目はないが、最悪でも恵子を守らなければならない。宗二は血が垂れ落ちる腕を一瞥する。しびれて動きが極端に悪くなっていた。痛みも酷い。

男は変質者めいた目で、恵子をさっきから舐めるように見ていた。宗二が倒されたら、恵子がどんな目に遭うか、想像するも恐ろしい。覚悟を決める。足下には、マイナスドライバーがある。

恵子は逃げないだろう。それは宗二が一番よく分かる。だから、道は一つしかない。刺されても良いから、此奴を殺す。それしか、恵子を生かす方法がない。此奴を殺すこと自体に抵抗はない。問題は、どうやって隙を作るかだ。

「あ、だめっ!」

恵子が悲痛な声を上げる。少女が笑顔を保ったまま、男の前に出ようとしたのだ。狭い船室の残骸の中では、それだけで他の人間の動きが大幅に制限される。いきなり前に出てきた少女の髪が、潮風に嬲られる。男はナイフをちらつかせながら、少女を威圧していたが、眉をひそめる。宗二も少女の肩に手を掛けようとして、動きを止めた。

分かっているはずなのに、恐れていない。

異様だ。男が発している殺気の意味は分かっているはずだ。ナイフが刺さったらどうなるかも、分かっているはずだ。それなのに、どうして笑顔を保っていられる。

震えが来た。

男が意味を成さない声を上げて、ナイフを少女に突き立てようとする。その瞬間。振り上げた男の手が止まる。ナイフが壁に突き刺さっていた。

 

何が起こったのか、ジャミンは一瞬理解できなかった。

熟達のナイフ使いであるジャミンが、壁にナイフを突き立てていた。あり得ない話である。どうして手元が狂った。

ターゲットの子供が正面に出てきた。淫売にも髪を隠そうとせず、笑顔を向けている。気持ちの悪い子供だ。子供はぴいぴい悲鳴を上げてもがくから、切り刻むのが面白いのだ。異教徒の子供を切り刻むのは、神がジャミンに与えてくださる最高の快楽にしてご褒美。それなのに、この子供は、代行者たるジャミンの喜びを邪魔しようというのか。さっきからほほえみ続けていて、気色が悪いことこの上ない。何という不埒で、許し難い輩だ。

絶叫が喉から迸る。ナイフを無理矢理壁から引き抜く。

気がつく。ツインテールに縛っているもう一人の異教徒の子供がいない。

腿に鋭い痛みが走る。壁を伝って後ろに回り込んでいた異教徒の子供が、ドライバーを突き立てていたのだ。代行者たるジャミンの神聖なる体に、何という不信心な。金切り声を上げて、子供を突き飛ばす。子供は脆くも吹っ飛び、海に落ちた。雄叫びを上げて、漁師らしいもう一人が突っ込んでくる。捨て身で掛かってきた相手をいなした経験は幾らでもある。引きつけて、膝蹴りを叩き込む。更に首筋に肘撃ちを落とし、床にたたきつけた。無様な悲鳴を上げる男の頭を踏みつけ、ナイフを突き立てようとする。だが、その時、左手に違和感。

髪を伸ばしたままの異教徒の子供が、腕を掴んでいたのだ。悲しそうな目でジャミンを見ている。そうか、貴様が先に死にたいか。先に地獄へ行きたいというのか。ならば望み通りにしてやろう。髪を掴み、壁に叩きつける。柔らかい体が、軋む音がする。舌なめずりしながら、目玉をえぐり出しやすいように髪を掴む力を強める。性的な興奮すら覚えていたジャミンの足を、激痛が貫いた。

「ぎゃあああああああっ!」

体を折って絶叫。足首に、根本までドライバーが突き刺さっていた。もちろん先端部は貫通して逆側から顔を出している。踏んでいた漁師の男の仕業だ。更に奴はドライバーを、力任せに引き抜く。まるでシャワーのように血が噴き出した。目をむき、ジャミンは吠える。

「この異教徒めが!」

「うるさい背教者!」

たどたどしい母国語で、海の方から声一つ。海に叩き込んでやったあの餓鬼だ。奴は船にすがりつきながら、炎のような目でジャミンを見ていた。日本人がジャミンの言葉を理解したと言うことよりも、その言葉の意味がジャミンを突き動かす。

「おのれ、おのれ! 言うに事欠いて、神の代行者たるこの私を、背教者だと!」

目から炎が吹き出すような怒りに駆られたジャミンは、だがその場で横転する。漁師の男が力をこめて、引きずり倒したのだ。そのまま取り押さえようとしてくる漁師の男の脇腹にナイフを突き立てる。その過程で、壁にまた刃先がぶつかり、僅かにそれた。だが脇腹を切り裂いた痛みに、漁師の男が呻き、力が弱まる。腹に膝蹴りを叩き込むと、馬乗りになった。

さっき離してしまった子供が、どういう訳か悲しそうにじっと此方を見ている。それが自分に対する哀れみだと気付いて、ジャミンは思考が暴走するのを感じていた。異教徒に哀れまれるいわれなど無い。ジャミンは代行者で、世界の誰よりも正しく、誰よりも神の御許に近いのだ。異教徒など家畜にも劣る存在。ジャミンに皆殺しにされるための価値しか無く、死んだら地獄に行くだけの連中だ。それが、よりにもよって、神に最も近いジャミンを哀れむというのか。

ナイフを振り上げる。漁師の男は首筋と胸をかばおうとする。そのガードしようとする腕に突き刺し、引き抜く。楽には殺さない。ジャミンが知るもっとも残虐で苦痛を伴う方法で、徹底的に痛めつけて殺す。更にナイフを一閃、肉を抉り、皮を裂き、血を辺りにぶちまける。

「ひひひひひっ! 神の代行者を侮辱した罪、地獄で悔いるがいい!」

「あんたは神の代行者なんかじゃない! ただの血に飢えたバケモノよ!」

「うるさいこの餓鬼がああっ! この漁師の次は、貴様を八つ裂きにしてやる! そこで震えて見ているが良い!」

ナイフを振り上げたジャミンは、鮮血の糸を引くそれを、今漁師の男の目に突き立てようとした。

右手に灼熱が走る。

呆然と見上げる。

手首が。今までナイフを掴み、幾多の神敵を屠ってきた代行者の手首が。

根本から吹き飛び、無くなっていた。

お、おおおおお、おおおあああああああおおおおおおおおっ!

漁師の男が、血だらけの手でドライバーを掴み、絶叫するジャミンの顎の下を狙って突き立てて来た。狙いは僅かにはずれ、頬に突き刺さる。口の中にドライバーの先端部が入り込んできた感触に、ジャミンは悲鳴を上げた。

神よ、神よ、お救いください!

必死に祈りながら、もがき、そして逃れようとする。何故手首が消えた。分かっている。スナイプを受けたのだ。狙撃音がしなかったということは、とんでもない遠くから。一体どこから。どこから殺られたのだ。

ジャミンは立ち上がり、見た。海の遙か向こう。一キロ近くは離れている舟の上で、構えている人影を。神に祈るように、頬にドライバーを刺したままのジャミンが、手を高々と上げる。

その胸に、ライフル弾が突き刺さる。それは肉と骨をたやすく砕き、心臓を貫通して、向こうへ抜けた。

「神の、御許、に」

それが、ジャミンの最後の言葉となった。

海に落ちる。ジャミンの周囲に、無数の鮫共が群がってきた。生きたまま八つ裂きにされるジャミンの目から、光が失われていった。

 

実に九百メートルの距離から、二度の精密狙撃を成功させた日出川百合惠警視は、ふうと小さなため息をついていた。軍用のスナイパーライフルを用いたとはいえ、なかなかに出来ることではない。波によって生じる揺れや、激しい動きをしている相手の一瞬の隙も見きらなければならない。それには、膨大な集中力が必要となる。

日出川は一種の異能者である。正確には、集中力が普通の人間に比べて、著しくむらがあるのだ。日出川が物事に集中できるのは、一日に二時間程度。それ以外は眠るか、或いは非常にぼんやりした状態で過ごすことになる。そうしないと、脳が焼き切れてしまうのである。

こんな難儀な体質に産まれた理由はよく分からない。だが、百合惠は、この体質を嫌ってはいない。集中している時間の脳の働きは並の人間の二十数倍に達し、それを利用して今まで数々の難事件を解決し、警察社会を渡り歩いてきた。

中学の頃から、あだ名は一貫して変わっていない。ずっと眠り姫である。それが揶揄を含んでいるのは、言うまでもないことだ。何とでも言うがよい。私は起きている間に、お前達の何倍も働いているのだ。そう百合惠は笑顔の裏で毒づいたこともある。だが、実績を上げるようになってきてからは、周囲に部下を配することが出来るようになってきた。部下を配置すれば、少なくとも周囲の連中とは意識的な壁を作ることが出来る。壁の中でならば、心を落ち着かせることが出来る。だから、今では比較的穏やかな気分であることが多い。

現在の警視総監の娘と言うことになっている百合惠だが、実際に血はつながっていない。今回逃げ出したG2と同じように、どこかの研究施設で作り出されたらしいと言うことを、今では知っている。警視総監としては、百合惠を活用するつもりなのだ。あくまで駒であり、使い捨ての道具。警視総監は百合惠を人間だとも思っていない。キャリアである「弟」を溺愛しているのも、その辺が理由だ。だから、百合惠の最終目標は、警視総監を叩きつぶすことにある。今回も、その計画の一環なのだ。

そのためには、優秀な部下が幾らでもいる。

側では、香山が黙然と立ちつくしていた。有能な男だ。定年も近いが、百合惠が権力の階段を上りきるくらいまでは、子飼いとして使いたい。そのために、わざわざ今回は連れてきた。煙を上げているライフルの銃口を天に向けると、百合惠は意識が薄れ始めるのを感じた。脳をそろそろ休ませなければいけない。

「敵沈黙。 状況終了です」

「生存者を収容して帰投」

「はっ。 生存者にはどのように含ませますか」

「その辺は香山警部に任せます」

目を擦りながら、百合惠は大きく伸びをした。脳が休眠を開始すると、弛緩するのは筋肉だけではない。胸が大きく見えるのも、その影響の一つである。集中時間は全身の筋肉がボディラインを引き締めているのだが、それが緩む。結果、胸が大きくなったように見えるわけだ。

タラップを降りると、複雑な表情で香山が着いてきた。双眼鏡で見ていたはずだ。今、百合惠がテロリストを容赦なく射殺した有様を。ついでに命令も与えたのだが。聞いていなかったと言うことは無いだろう。

「日出川警視、貴方は」

「すみません。 後は頼みます」

「……一体貴方は、何をしようとしているのですか」

香山の問いに、手をひらひら振って返すと、百合惠は自室に引っ込む。無機質な船室は、非常に落ち着く場所だ。隅に用意した布団の中には、熊の刺繍をしたタオルがある。これは、幼い頃の記憶に、唯一残っているもの。百合惠にとっては、数少ない宝物の一つである。

ぎゅっとタオルを握りしめて、眠りに入る。外を固めている部下達は、いずれも百合惠がスカウトし、引き立ててきた部下達だ。自分で作った茨の城の一室で、百合惠は眠る。やがて来る、完全なる開放の日を目指して。

そのためには、駒は幾らでも必要だった。

 

海上警備隊の船が、接舷してきた。四苦八苦しながら、鮫が群がってきていた海から恵子を引っ張り上げた宗二は、壁に背中を預ける。濡れ鼠になった自分に構わず、唇を噛みながら宗二の傷の手当てを始める恵子をぼんやり見つめながら、あのいかれた犯人の断末魔を思い出していた。奴は喜んでいるようにさえ見えた。価値観は様々だというが、その全てが共存するのはとても難しいのだなと、宗二は思った。

宗二の側には、悲しそうに目を伏せて、ずっと白服の少女が着いていた。どうしていいのか分からない様子で、ただ辛そうだった。彼女が結局行ったのは、血だらけの手で、宗二の傷口を押さえることだった。無論殆ど効果はないが、必死なのはよく分かる。宗二は少女の頭を撫でると、ごろんと大の字に横になる。もう何もできない。動くための力が残っていない。

周囲を海上警備隊の屈強な男達に囲まれる。銃器を手にはしていなかったが、表情は厳しい。

白い服の少女は、困ったように周囲を囲む大人達を見ている。大人達は警戒している様子だが、銃を向けてくるようなことはない。宗二はぼんやりと、大股で歩み寄ってくる年配の警官に視線を向ける。警官は警察手帳を開いてみせると、言う。

「私は警視庁の香山だ。 少しばかり事情を聞かせてもらえないか」

「ああ、その前に、恵子の手当をしてやって欲しい。 あのいかれた奴に、海に突き飛ばされて、落ちたんだ。 海には鮫もいた。 怪我してるかも知れない」

「私より、にーちゃの手当が先です! お願いします!」

髪から海水を垂らしながら、恵子が少女と宗二を背中に庇うようにして言った。必死な懇願を聞いて、香山はため息一つつくと言う。

「分かった。 医療班は既に待機させているから、心配しなくて良い。 この船は後でフリゲート艦に引っ張らせよう。 それにしても、酷い有様だな」

「ああ、最悪だ。 銃撃されたって言っても、保険屋は聞く耳持たないだろうしな」

「それは私たちが何とかしてみよう。 君が何もかも、正直に話してくれたら、だがな」

担架が運ばれてきて、宗二が乗せられる。応急処置は済んでいたが、かなり限界に近かった。正直な話、絶叫したいほど体中が痛いのだ。恵子に後を任せることを伝えると、宗二は意識を失った。

 

香山は自分からG2を守るようにして立っている少女を見ていた。気丈な子供だ。さぞ恐ろしい目に遭っただろうに。

ムハメド=ジャミンの死体は、後ろで日出川の部下達が海から引き上げていた。鮫にずたずたに食いちぎられて、子供に見せられる状態ではない。国際指名手配のテロリストとはいえ、無惨な有様だ。だが、此奴は今まで最低でも数十人の命を奪った殺人狂だ。子供だけでも十人以上を惨殺しているという。自業自得といえるかも知れない。

香山は精神を引き締める。躊躇無く射殺する日出川の本性に戦慄を覚えたのは事実である。だがそれ以上に、今は子供をどうにかして守ることを考えなければならなかった。親でもある香山は、小さな子供を守りたいと思う。それが誰の子供であっても、だ。

「おじさん、一つ聞いていいですか?」

「何だね」

「この子をどうするつもり?」

「どうもしない。 親の元に届けるだけだよ」

少女の目に、嘘つきの大人を責める光が宿った。そう言えば、娘がジャニーズの追っかけにはまるようになる前も、こんな目をしていた。大人に対する決定的な不審が、目に光となって宿っていたのだ。

「G2なんて名前の子が、まともな親を持っているとは思えません!」

「参ったな、そんなことまで分かっていたのか」

「この子を拾ってから、変なことばかり起きてます。 戦い慣れてるはずのテロリストが、ナイフを壁に引っかけたり、銃撃を何度も失敗したり、にーちゃの操船が上手かったとはいえ、あっさり暗礁に乗り上げたり! どう考えても、何もかも、この子に有利に働いたとしか思えません。 この子、一体何者なんですか!?」

随分頭がいい子だと、香山は思った。なだめるのに苦労しそうだった。

そう。このG2と呼ばれる、にこにこと香山を見つめている白い服の少女は、一種の生物兵器だ。おぞましい人体実験の数々の末に誕生した、異形の存在なのである。人間以外の要素も、事実混じっているという。どういう意味かは分からないが、この状況で無事な様子を見る限り、あながち嘘とも思えない。

G2は生物兵器といっても、本人に凄まじい身体能力が備わっているわけではない。SFに出てくるような、超能力の数々を持っているわけでもない。この子供が持っている能力は、ただ一つ。

自分の周囲の出来事が、全て自分の良いように運ぶというものである。

正確には自分が生存できる確率を操作するというものらしい。よく分からない。分かるのは、この子の能力を最大限に引き出せば、極めて危険な兵器となると言うこと。この子を作り出した組織が、中東系のテロリストまで使って、回収に躍起になったわけである。上手く使えば、どれほどの事が出来るのか、ちょっと香山には想像できなかった。

戦闘慣れしたテロリストの考えられないミスの数々、都合良く側を漁船が通りかかるなど、このG2の能力は香山の目から見ても本物だ。もちろん能力には限界もある。その証拠に、少女の細い手足には、無数の傷が残っている。不潔な腐敗臭もしているし、多分此処まで相当な苦労があったはずだ。日出川が狙撃銃を準備していたのも、かなりの確率でジャミンが生き残っていると判断したからだ。そしてジャミンは生き残った場合、どのような手段を用いてでもターゲットに肉薄しただろう。そしてそれらの推測は、見事なまでに事実と合致した。狙撃しなければ、無辜の民間人が虐殺されるところだった。

自分を守ろうとする少女の意思がG2には分からないようで、声を出さずに、白い指を伸ばして香山に触ろうとしている。世界全てに興味津々の様子だ。

G2は口をきくことが出来ず、多分成長しても生殖機能が備わらないと、日出川は言っていた。この少女の意思は立派だが、人間社会で暮らしていくことはもとより出来ない。せめて、同じ境遇を持つ日出川がかわいがることを期待するくらいしか、香山には出来ないのだ。

「何とか言ったらどうなんですか!」

「お嬢ちゃんは賢いな。 だが、それならば、私が何故何も言わないか、分かるのではないかな」

「…っ」

「大丈夫。 G2と同じ境遇の人の所に、今から連れて行く。 その人は社会的な地位もある程度はある。 研究施設に閉じこめるようなことはしないし、時期が来たらまた会わせてあげよう。 約束だ」

抗菌手袋をした日出川の部下が、G2を左右から掴む。出来るだけ優しくするように言う。少女も海上警備隊のクルーザーに乗り移るように香山が言うと、彼女は海上警備隊員達を見張るようにして、G2の側にぴったりついた。多分母性本能が為す行動なのだろう。襟を正したくなる光景であった。

船の調査要員をある程度残して、香山もクルーザーに戻る。甲板に出て一服。たばこでも吸わなければ、やっていられない気分であった。日出川の部下が来て、口封じをするかと聞いてきたので、首を横に振った。処置は香山に任されている。である以上、そんな手は使いたくない。どのみち、あの子供らがG2がどうのこうの、存在確率をいじる能力がどうのと言っても、誰も聞く耳など持たない。

代わりに保険会社に手を回して、船を弁償してやれと言うと、敬礼して無言で去っていく。日出川が持っている力は、相当なものなのだとこのやりとりだけで分かる。このボスは例外的に有能なキャリアであり、その下で働けば今までどうしても出来なかった事も、手が届く。それは分かっている。分かっているのに、どうしてか不快だった。

たばこが切れた。舌打ちしていると、安藤が歩み寄ってくる。此奴も日出川の部下だったのだろう。差し出してきたサンライトの箱を受け取ると、新しい一本に火をつけた。

「警視とは、上手くやって行けそうですか?」

「上手くやるさ」

白々しいと思いながらも、香山は煙を空に吐き出す。

考えてみれば、今までの努力が認められたという事でもあるのだ。これまでの苦労が認められ、人生の新しい岐路が訪れたと言うことでもある。

煙が流れる空が白い。不思議と、気持ちが晴れ始めていた。

 

煙が上がる銃口を吹くと、CIAのエージェントである由香=エドヴァルトは携帯に出る。電話の先は、警視総監だった。

彼女の足下には、G2をはじめとする数々の生物兵器を作り上げてきた実行機関の長が転がっている。今まで秘書として仕えてきた、次長と呼ばれる高級官僚である。後ろから後頭部を撃ったので、即死だ。せめて楽に殺してやるのが、嘘とはいえ一時期は仕えた相手に対する礼儀だった。

「はい。 こちらは始末しました。 G2の性能実験は充分な結果をもたらしたかと思います」

警視総監は満足そうに相づちを打つと、後始末をするように命じて、携帯を切った。鼻で笑うと、由香は携帯を折りたたみ、今度は部下に命令する。この組織は殆ど警察と公安に抑えられたが、まだ残存の部分がいくらかある。それを処分しておかなければならない。もちろん、処分方法など決まっている。皆殺しだ。

世の中、上には上がある。今の時点で、日出川百合惠は警視総監とCIAの掌の上にいる。奴は非常に使いがいのある駒で、存在価値が高い。場合によっては警視総監から乗り換える可能性もあるが、今はまだ、ただ此方の思うとおりに踊り続けるピエロに過ぎない。それは、何も百合惠だけではない。日本の警視総監も、さらにはCIAの長官すらもがそうだ。

汚い仕事を引き受け続ける過程で、由香の手には裏社会の情報が嫌が応にも流れ込んでくる。様々なVIPの弱みもあれば、莫大な金を生み出すドラッグルートの情報もある。いずれ、全てを支配する。野望に身を焦がし、由香はほくそ笑む。

部屋を出て、部下達に処理を行うべく連絡を入れる。真の勝者は、この自分だと、由香は闇に満ちた廊下を歩きながら思った。

 

5,沈み行く古きもの

 

山本宗二は、目覚まし時計の音を聞いて、嫌々ながら布団から這いだした。たまの休みではあるが、今日ばかりは仕方がない。恵子も楽しみにしているし、起き出さないわけにはいかない。

目を擦りながら歯を磨き、さっさと着替える。居間では眼鏡を掛けた恵子が、海外版の新聞を広げていた。日本の新聞は情報の精度が低すぎて、当てにならないのだという。確かにその通りだが、英語が読めない宗二には出来ない芸当だ。妹に新聞を読んでもらうのも恥ずかしいし、真似はしない。たまに日本語版のニューズウィークを読むくらいである。

中学に入ってから急激に背が伸び始めた恵子は、今高校二年生である。どうやら頭の良さは身内のひいき目以上のものがあったらしく、本当に海外留学の話が出始めているらしい。ただ、そうなると貯金が心配だ。推薦入学をとるとなると、更に難しい学問が必要となる。だが恵子は黙々と勉学を続けており、少なくとも学力面での不安は、父兄である宗二の耳に入ったことがない。今のところ、高校の学費は捻出できている。これからのことは、その時考えるしかない。

恵子は台所に入ってきた宗二を見上げると、大人っぽい笑顔を浮かべる。ショートに切りそろえた髪は子供らしさが殆ど無い。顔は、ツインテールにしていた頃の丸みが失せ、殆ど大人のそれになっていた。残念ながら目立つ美人ではないが、それでも落ち着いた雰囲気がある。

「おはよう、兄ちゃん」

「ああ」

「ちゃんと覚えていてくれたんだね。 嬉しいよ」

相変わらずの襤褸屋で、宗二は恵子と朝食をとる。相変わらず貧しい生活が続いている。学費は何とか出せてはいるが、家の修繕費まではとても作れない。この間の台風の時は、雨漏りがして大変だった。

今日の朝食当番は恵子だった。恵子は和食派で、必ずといって良いほど味噌汁を作る。素朴な味のものばかりだが、宗二は嫌いではない。大体納豆が付くのも特徴だが、これは宗二の好みを配慮してのことだろう。鍋を作って夕食と朝食を兼用にしてしまう宗二とは、細かさが違う。

手早くご飯を食べ終えると、すぐに近場の駅まで歩く。外に出ると、多少気恥ずかしい。よそ行きのスカートを穿いている恵子と、よれよれの外出着を着ている宗二とでは、見かけがあまりにも釣り合っていない。

自分が「ださい」格好をしていることは、宗二も自覚している。事実、途中何度も通行人にじろじろ見られた。恵子の女友達に、ゴリラのようだと陰口をたたかれたことが何度もあることを、宗二は知っている。その女友達の一人が、通り過ぎていった。汚物を見るような目で宗二を見ていた。

「ほっておきなよ」

「ああ。 気にしていないさ」

「あいつ、ビジュアル系のバンドマンにしか興味が無くてさ。 働いてお金を稼ぐ人間がどれだけ尊いか、分かってない子供なんだよ。 何がビジュアル系だか。 ガキの悪口なんか、聞く価値もないね」

「……ありがとうな」

恵子の弁護は耳にいたい。働くことにかまけていて、お洒落の一つをしない自分にも責任はあるのだから。

それから二言三言話しながら、駅に着く。わびしい地方駅で、各停しか止まらない。三回ほど乗り継いで県庁所在地のある都市までたどり着く。これで五百円かからないのだから、交通網整備に関しては良い世の中だ。ただ、電車に乗り慣れていない宗二は、改札の変化にとまどうばかりだった。駅前も数年前とは比べものにならないほどに美しく整備されていて、すすけていたアスファルトの舗装道路は新品に変えられていた。ただし、其処を走っているバスは、宗二が知っている古い型のままで、塗装がはげかけた車体を揺らして、まだ現役の交通手段として頑張っていた。

確か、待ち合わせはこの近くのはずだ。恵子が手紙に同封されていた地図を広げる。陸上の地図は苦手な宗二だから、恵子に任せっきりだ。辺りは都会そのもので、宗二は落ち着かない。恵子が肘で小突く。あまり田舎者っぽい行動をするなと言う意味であろう。

「こっちだよ。 行こう」

「ああ」

大勢の人間が行き交う道。どれもカラフルで、宗二とは同じ人種とは思えない。それだけで息が詰まる。やはり海で魚と勝負している方が性に合っている。長い坂道をあがりきると、緑の芝生がまぶしい公園の側に出た。良く整備された、美しい公園であった。奥の方には、チューリップの花畑がある。小高い丘も作られていて、ハイキングに来ている家族連れもいるようだった。

公園の中にはいると、犬に糞をさせないように警告する看板。どんなところでも、無粋なことをする阿呆な飼い主がいるのだなと、宗二は思った。恵子につられて、着いていく。丘もたまには良いなと、緑の香りを嗅ぎながら、宗二は思った。

やがて、足が止まる。

公園のほぼ中央部。大きな円形の噴水があった。数段にせり上がっていて、水量が非常に豊富だ。

噴水の側の茶色いベンチに座っているのが、ひょっとしたらそうだろうか。恵子が手を振って駆け出す。宗二もそれについで大股で歩き出した。相手も恵子に気付いて立ち上がった。どうやら、間違いないらしい。

緑の芝生の中、アクセントとなる白い点。美しい腰まである髪を風になびかせている、白いワンピースの女。顔立ちは良く整っていて、寂しげな雰囲気が、当時の面影を残している。良く一目で分かるものだと、宗二は感心した。この娘が、あのG2であろう。今は香山双葉と名乗っているはずだ。あのとき、海で助けてくれた警部の養子となっているらしい。

相変わらず喋ることは出来ないようだが、その無垢な笑顔は健在だった。相手は宗二のことを覚えていたようで、怖がることもなく笑顔を向けてくる。手足はすっかり伸び、体つきは大人のそれとなっているのに、どうしてかあの子だと一目で分かった。

「ほら、兄ちゃん」

「あ、ああ」

どうしてか気恥ずかしいが、それでも礼儀はきちんと守るべきである。

だから宗二も、ぎこちなく、それに笑顔を返していた。

 

(終)