三国の志
序、呉の絶望
陸抗は絶望した。
結局羅憲が堅守した白帝城を抜けず、荊州に引き上げてすぐに、呉帝孫休が死んだのである。革新的なことを行った訳ではないが、温厚で、誰にも好かれる人物だった。今まで呉を牛耳ってきた連中が、四家と邪悪さでは肩を並べかねない者達ばかりだったと言うこともあり、ほんの僅かな間だけでも、呉には光が差したのだ。
だが、次の皇帝となったのは、孫皓。
世間では孫策の再来と噂される、文武両道とされる人物だ。だがまだ少年の頃、面倒を見たことがある陸抗は知っている。この少年が、とんでもない邪悪を心に秘めた怪物だと言うことを。
どうしてそうなったのかはわからない。ただ確実なのは、長くに渡った呉の権力闘争と圧政が原因だろう。
四家の支配で、呉の裏側は闇に閉ざされた。
それを命がけで打ち破ったのに、今度は独裁者達によって、豊かな江東の地は踏みにじられてしまった。
さらに、とどめが今、刺されようとしている。
何とか、本拠地にしている江陵に、陸抗は辿り着いた。屋敷に着いた時には、もはや意気消沈して、十歳は老け込んだかのようだった。
「胃が痛い。 薬はないか」
「すぐにお持ちいたします」
従者が飛び出していく。寝台に横になるが、ずきずきと胃がずっと痛み続けていた。
医師の話によると、胃袋が溶けるほどに痛んでいるという。襄陽にいる敵、羊枯の方が味方よりもまだマシ、という状況が、長年陸抗の胃を痛めつけてきたのだ。孫琳(リン)のように、隙あらば欲望のままに荊州を奪おうとする味方さえもいた。
薬が運ばれてきた。
「どうぞこれを」
「うむ」
誰もが知っている。これは、羊枯が送って来た薬だ。
魏でも義人として知られる羊枯は、好敵手として認めた陸抗と、不思議な友情を築いている。時々春秋左氏伝に関する手紙が送られてきて、その考察の深さに唸ることも一再ではなかった。
だが、それももう終わりかも知れない。
羊枯の薬を飲むと、少しからだが楽になった。大きく嘆息すると、陸抗は鈴を鳴らす。孫皓が皇帝になったことで、呉は終わった。それを一番良く知る陸抗は、出来る限り部下や民を救いたかった。
すぐに部下達が集まってくる。
いずれも小粒な連中ばかりだ。優秀な者は、殆どがみな粛正されてしまった。朱異が生きていれば、少しはマシだったが。もはやどうにもならない。
「皆に、先に伝えておくことがある」
「大都督!」
「悲しむな。 私の死はもはや必然。 病魔が私を殺さなくても、新しく即位した孫皓が、私を生かしては置かないだろう」
皇帝を呼び捨てると、陸抗は咳き込む。
血が、大量に布団に飛び散っていた。
「何かあったら、羊枯を頼れ。 あれは敵将だが、恐らく魏に残った最後の義人の一人で、頼りになる。 襄陽に逃げられそうもなかったら、交州に逃げ込むのだ」
「し、しかし、そのような忠義に反すること」
「お前達の忠義に、あの凶暴な猿のような孫皓が、報いようなどと考えると思うか!」
思わず周囲の武将達が青ざめるほどの強い言葉を放ってしまった。
今までたまりにたまっていた鬱屈が、ついに出てしまったのである。胸が急激に苦しくなり、また吐血した。医師が首を横に振る。もう、助からないと言うことなのだろう。
あまり多くはない財産を、意識がある内に全て分割してしまう。子供達はそれなりの数がいるから、一人一人にはあまり多く残してやれないのが少し悲しい。しかし、もう彼らも良い年の大人だ。自力で路をある程度切り開かないといけないだろう。
全ての遺産分与を終えると、布団に倒れ込む。楽には死ねそうにない。
結局、父の遺産に頼ってばかりだった。負けはしなかったが、勝ちもしない人生だった。呉の領土は守ったが、それを望む民がいたかと聞かれたら、はっきりいって首を横に振るしかない。
朱異のおかげで、長らく続いた黒幕政治から、やっと呉は抜け出すことが出来た。
だが、次の皇帝はあの孫皓だ。朱異のように、勇気を出して命を捨てて、奴を屠るべきだったのかも知れない。
民に申し訳が立たない。そう呟きながら、陸抗は窓の外を見た。
北の空。あの下には、羊枯がいるはずだ。
もはや、呉に民を任せることが出来る者はいない。魏の司馬一族も、その点では同じだ。
羊枯と、その跡を継ぐと言われている社預ならば。或いは、きっと。
陸抗は、咳き込みながら、これからどうするか考える。
まだ、幾つか。やらなければならないことがあった。
1、集う剣
小さな酒場に、複数の人影が集まっていた。
若者が一人に、後は年配の男ばかり。不思議な組み合わせである。少し居心地が悪そうにしている若者の側には、一人の足が悪そうな男が、口を引き結んで立っていた。
若者の名は、ケ忠。そして側に立っている男は、陳泰である。
洛陽に逃げ込んだケ忠を、最初に保護してくれたのが陳泰だった。後はケ忠の自立性を最大限尊重しながらも、途轍もなく厳しく様々なことを教えてくれる。母が優しかったのとは対照的だが、それでも自分のためにしてくれると分かっているので、ケ艾は嬉しかった。
ただ、父とは思っていない。ケ忠の母がケ艾だとすれば、最後まで一緒にいたと聞いている王桓が父だと考えていた。
少し離れた席に座っている温厚そうな男は陳式。蜀漢の宿将として、何度も魏軍に煮え湯を飲ませてきた将軍である。この間の、林の組織襲撃でも、細作達を使って敵の居場所を割り出してくれた。そして当然のように本人も戦った。
何度もケ艾を追い詰めた名将だとは聞いていたが、流石の武勇である。老いてはいるが、その絶倫の武芸は並ではなく、細作達を次々と斬り伏せ屠る様子は、感嘆さえ覚えてしまった。
その側にいる何名かも、名が知られた人物らしい。特に一番背が高く筋肉質な老人は、名前を知ったらきっと驚くと言われた。興味はあるが、まだ陳式はちょっと怖いので、聞きに行けないのが不便である。
奥の方で、一人壁に背を預けているのは鳳という男だ。
肌が黒く、筋肉の質は漢人と明らかに異なっている。山越の出身で、呉から来たという。許儀が探してきてくれた人物で、洛陽で林の組織と戦っている所を、共闘を持ちかけたのだという。
なれ合うつもりはないらしいのだが、ちゃんと連携してくれるし、何より武芸が凄まじい。実戦で鍛えに鍛えたその技は、細作の中では最高峰に違いない。いにしえの英雄達と比べても、何ら遜色はないと、陳式の側にいる大柄な老人が笑いながら太鼓判を押してくれた。
酒場に、許儀が戻ってくる。
気難しそうな壮年の男性を連れていた。目には強い知性の光があり、口元の髭は丁寧に整えられている。
姜維。
許儀が蜀漢に行って、わざわざ助け出してきた男だ。混乱の中殺されそうになっている所を、許儀とその私兵達が助けたのである。連絡は受けていたのだが、本人の顔を見ると複雑である。ほんの少し前まで、殺し合いをしていた仲なのだから。
姜維もケ忠を見て、流石に眉をひそめた様子であった。だが、陳式が咳払いをして、渋々という形で席に着く。
西方の人間の血が入っているらしい、若い娘が続けて酒場に入ってくる。蜀漢の手練れ細作として知られた、シャネスの孫娘らしい。向黎というそうである。祖母はぶっきらぼうな所のある人物だったそうだが、やたら丁寧な物腰で、笑顔も柔らかい。
「林が戻ってきています。 すでに敵の集結も始まっている様子です」
「うむ、よく調べてきてくれた」
蜀漢の大柄な老人が立ち上がると、全員が着目した。既に相当な高齢のはずだが、その身から放たれる圧倒的な気迫は、並の人物ではないと一目でわかる。これでもケ忠は、ケ艾の息子として、魏軍の中枢にいた人々を見てきているのだ。
「自己紹介をしておこう。 私は馬超。 かって、蜀漢の将軍だった男だ」
「馬超!」
思わず驚きの声が漏れる。
ケ忠でさえ知っている。単独で曹操を追い詰め、蜀漢の将軍としても武勲著しい人物だ。西涼では未だ神のように威名がとどろいているという。まさかまだ生きているとは思っていなかった。
それにしても、馬超なら圧倒的な武芸にも頷ける。陳式を片手であしらっていたと陳泰に聞いているが、それも無理がない話なのだろう。馬超の凄まじい逸話なら、ケ忠でさえ知っているほどなのだ。
「其処にいる陳式は皆も知っているな。 此方は向寵。 白帝城の守りを担当し、呉方面の諜報を行う細作達を纏めていた」
向寵が、寡黙に頷く。側に立った向黎が、にこりと微笑んだ。
続いて、姜維が紹介される。姜維は不器用に礼をすると、向寵の隣に座った。それにしても凄まじい面子だ。死んだとされている人物ばかりだが、歴史上重要な役割を果たした男達ばかりである。
続いて、魏側の紹介に入る。
まずは許儀。許?(チョ)の息子であり、歴代の曹一族を守り続けた最強の盾。その武勇を疎む司馬一族によって遠ざけられてしまい、蜀漢の地で逃亡。今、この場にいる。もし逃亡しなければ謀殺されていただろう。歴史的には全ての名誉を奪われ、経歴を抹消されてしまっている。
ケ忠は、言うまでもなくケ艾の息子である。実際には子を産めない母の養子なのだが、ケ艾以外に母はいないと、ケ忠は考えている。
そして、陳泰。
魏の忠臣にして、義の男である。若い頃には気性の荒い部分もあったと言うが、今では寡黙ながらも重厚な男に代わっている。ケ忠にとっては、頼りになる後見人だ。
そして、最後に呉。鳳は言葉少なく、自己紹介をした。
「鳳だ。 林を殺す事だけが、今の俺の生き甲斐だ」
それでいいと、馬超は言った。別に誰も、馬超が仕切ることに、不満を示さない。迫力にしても経歴にしても、この場で馬超が最適任だと思ったからだ。
だが、馬超は驚くべき事を言い出した。
「ケ忠。 そなたが皆をとりまとめよ」
「ぼ、いや私がですか?」
「我らは皆もう老いている。 私などは、とっくに墓に入っていなければならないほどの年だ。 林を屠ることしか生き甲斐がない者さえいる。 だが、お前は違う。 色々と悲しいこともあっただろうが、未来のある年だ」
その未来は、母や、王桓が命がけで作ってくれたものだ。そして自分は、母に何も出来ず、のうのうと生き延びてしまった。
王桓が死んだことだけは、王濬が密かにくれた使者に聞かされた。ケ艾も、多分生きてはいないだろう事も分かる。
こんな情けない自分に、そんな価値があるのか。未来があるというのは若いと言うことだが、ただそれしか自分には価値がないのではないのか。そう何度も逃げる途中ケ忠は思った。俯くケ忠に、馬超はなおも続けた。
「これから二日ほど掛けて、私が作った路を、お前に見せよう」
「路、ですか」
「そうだ、路だ。 この戦いが終わったら、お前にはそれを継いで欲しいのだ。 これは、ここにいる全員の意思だ」
他とはなれ合いを好みそうにない鳳までが頷いたので、ケ忠は驚いた。
肩を叩いたのは陳泰である。
「俺も正直、見せられて驚いた。 お前なら、それをきっと正しく引き継いでくれるはずだ」
「ぼ、僕に、そんな事ができるのでしょうか」
「お前なら出来る。 あのケ艾の心を引き継いだお前なら、必ず。 そしてお前は、これから俺達全員の志も引き継ぐのだ。 重いが、お前ならば背負って歩けるはずだ」
力強い陳泰の言葉。
不安が、少しだけ晴れるのを、ケ忠は感じた。
そのまま、解散になる。馬超はこの年になっても、相当に体を鍛え抜いている。全身を覆う筋肉は巌のようであった。
店の裏手で、何回か組み手をして貰う。剣術でも槍術でも、まるで撃ち込む隙がなかった。天才的な素質を持つ武人が、練りに練り上げた技である。しかも、その筋肉は、屈強な若者でもとても歯が立たないだろう程の質だ。
何度も転がされ、そのたびに立たされる。
剣はたたき落とされ、槍は跳ね上げられた。白打に関しても結果は同じで、何度も投げ飛ばされ、締め落とされた。
二刻ほど戦った後、向黎が水を持ってきた。飲んでみると、少し潮の味がする。
「筋が良いぞ、これならすぐに強くなる」
「え? そんな」
「肉を食え。 野菜もくえ。 そして眠れ。 林を倒した後は、ただ健康に、己を磨き続けろ。 そうすればお前は文武において、この中華でかなう者がいないほどの男になれるだろう」
馬超が眼を細める。深い皺に覆われた目に、優しさが宿っているのを、ケ忠は感じた。
無言でそれを見ていた向黎が、不意に視線を遠くに向ける。
「大きな気配があります。 林かも知れません」
「捨て置け」
「しかし、良いのですか」
「よい。 奴は今、私の正体を探ろうと躍起になっている所だ。 当然周囲に分厚く護衛もおいているだろうし、攻める時ではない。 奴が己の欲求を満たそうと動き始めた、その時。 仕掛ける隙が産まれる」
ぐっと馬超が水を飲み干す。酒が飲みたいなと馬超が呟くが、駄目だと向黎が言下に拒絶した。
馬超も渋々という様子で諦める。或いは、医師に止められているのかも知れない。
「あれが間に合えば、勝率は更に上がるが。 黎、どうだ。 間に合いそうか」
「少し前に、寿春を出たという連絡がありました。 今は街道を北上しているでしょうし、恐らくは」
「よし。 それは良いことだ」
ケ忠にはわからない会話をしながら、二人はなにやら納得している。ただ、話の内容からして、強力な援軍が来るのだろう。それは確かに、頼もしいことではあった。経験は少ないとはいえ、わずかながら実戦経験もケ忠は積んでいるのだ。戦略的な思考くらいは、出来るようになっている。
訓練が終わると、寝るように言われた。明日は筋肉痛だろうなと思う。軍に入る前後から体は鍛えてきたが、馬超のそれはまるで次元が違ったからだ。一人前の兵士を作るための訓練ではなく、武人として頂点を目指すものに思えた。
案の定、翌日は体中の筋肉が軋んだ。
だが、早朝には馬超は既に起きていた。しかも、かなり体格が良い馬に跨って、洛陽の郊外を駆けていたようだった。
「馬超どの。 流石に其処まで目立つ行動は」
「何、気配は感じなかった。 それにこの場に押し込んでこられても、十人や二十人なら返り討ちにしてくれるわ」
陳式の苦言も、鼻で笑い飛ばしている。実際馬超なら、多少の人数など、ものともしないだろう。
しかも、この酒場に集結したのは久し振りのことらしい。既に殆どの面子は消えていた。全員の挙動を把握しているのは向黎だけということで、朝の内にとケ忠は全員が何処にいるかを教えられた。
竹簡に書こうかと思ったら止められる。
「絶対になりません。 記憶してください」
「でも、こんな複雑な内容なのに?」
「記憶する技が幾つかあります。 ケ忠様はかなり頭も良いですし、すぐに覚えられるでしょう。 私だって、半月で身につけましたから」
にこりと向黎が笑う。漢人とは骨格からして違う所があるので、それだけで不思議な魅力が辺りに振りまかれる。
いろいろと教わりながら、苦労してどうにか覚える。
食事も終えると、もう馬超は剣を振るい始めていた。陳式もすぐに予定通り出かけてしまう。姜維もそれに着いていった。
軽く、馬超と手合わせをする。剣術について、色々教えて貰いながら、訓練を続ける。
「基礎がしっかりしていると、教えがいがある」
「ありがとうございます」
「陳泰や王桓に教わったと聞いている」
「はい。 遊びに来ては、何だか競うように技を教えてくれました」
からからと馬超は笑った。
昼少し前に、酒場から出る。店主に馬超はたっぷりの金子を渡していた。多分身を守るための資金でもあるのだろう。
三人で、洛陽の郊外に向かう。流石の人混みで、同じ人にすれ違うことは滅多にない。木を隠すなら森と言うが、確かにこれならちょっとやそっとで人を探すことは出来ないだろう。
向黎に近付いてきた男が、何か耳打ち。頷くと、向黎も耳打ちを返した。すぐに離れていく。
細作かなと、ケ忠は思った。
「何かあったんですか」
「呉の状況が思わしくないようです」
「呉が、ですか」
「新しく即位した皇帝孫皓が、前評判とは裏腹な暴虐を発揮し始めているようです。 諫言する家臣を片っ端から殺し、宮殿に河を作り気に入らない家臣の顔の皮を剥いで投げ込んでいるとか」
何かの間違いではないかと思ったが、向黎は首を横に振った。
どうも、裏付けの取れている話らしい。もしそれが本当だとすると、おぞましいことだ。裏側で陰謀を進め、残虐な手段で敵を殺す司馬一族とは違う、非常に直接的かつ許し難い暴虐の形である。
「ふん、何時の時代も君主になる資格のない輩はいるものだな」
「近年では、宴会を開いて、酔っぱらった家臣に難癖を付けては処刑するような事までしているとか」
「人を殺したくてうずうずしているのだろう。 或いは、自分の権力がどれほどのものか、確認したくて仕方がないのかも知れぬな」
魏の状況も良くない。
新しく即位したばかりの皇帝曹奐は、完全に権力を失い、傀儡も同然である。如何にも脂ぎって精力的な司馬炎がことごとくを掌握しており、近々退位させられるのではと言う噂もある。だが、誰もそれを悲しんでいない。
悲しむような人間は、皆陰謀や内乱によって粛正されてしまったのだ。
その内幕を、ケ忠は既に知らされている。聞いた時はあまりの悪逆ぶりに愕然としたものだが、しかし周囲の反応は違っていた。特に馬超は、もうとっくに分かっていたことだと、達観さえしていた。
やがて、洛陽の城門を出ると、何処までも畑が広がる郊外になった。点々としている農家の周囲では、民が働き、畑を耕している。水田も広がっていて、青々とした稲穂が風に揺れていた。
規模が凄まじすぎて、どれほどの米が取れるのか想像も出来ない。河北は更に凄いという話で、それもまた驚かされる。何度見ても、この光景だけは圧倒される。
「今年は豊作になりそうだな」
「ええ。 周辺の民族達がどれだけ苦しい食生活をしているか、もう魏の為政者達は理解できていないでしょう」
「曹操があれほど危機感を抱いていたというのに。 曹操は怨敵だったが、今では気の毒にさえ思えるようになってきたわ」
「先見の明がある人だったのでしょうね。 敵も味方もないあの世では、案外劉備様と仲良く過ごされているかも知れません」
向黎と馬超は非常に難しい話をしていた。向黎はケ忠と殆ど年も変わらないのに、英才教育を受けていたはずのケ忠よりもずっと先を行っているように思えて、ちょっと悔しい。会話に加われず困っていたケ忠に、馬超が振り返った。
「その先だ。 其処に、路の一端がある」
「軍用路や農業路のことではないですよね。 具体的には何なのですか」
「見れば、いや話してみれば分かる」
ますますわからなくなった。路とは話すことが出来る存在、つまり人だというのか。
畑を抜けると、竹林に出た。馬超が下馬して、三人で徒歩にて進む。奥の方には小さな廬があった。
出迎えてくれたのは、やはり小柄な老人だった。最近は老人に、しかし強い力や意思を秘めた老人にばかり出会うと、ケ忠は思った。
「陳宮の墓は奥か」
「ええ。 父もあなた様が来て喜ぶでしょう」
「陳宮さん、ですか」
「聞いたことがありませんか? 呂布の参謀をしていた人です」
唖然とし、固まってしまう。馬超とは生きていた時代も違うはずの人だ。しかし、墓参りをするほど仲が良かったと言うことなのか。
史書を鵜呑みにするなと、ケ忠は何度も言われた。陳泰にも、王桓にも、ケ艾にもだ。呉の荊州討伐は嘘ばかりだし、魏の高官、特に司馬一族に近しい者に関しては、事績について飾ったものが少なくないという。呉は実際には少し前まで四家と言われる豪族に全てを握られていて、孫家は傀儡に過ぎなかったと言う話だし、その類の史書の嘘は枚挙に暇がない。
しかし、陳宮が生きていて、馬超と交流があったというのは。想像の遥か上を越えていた。しかも陳宮と言えば、魔王がごとき呂布の側で、様々な献策をしてきた人物という印象がある。蛇蝎のような姿しか思い浮かばなかった。
墓は質素で、ちんまりとしていたが、しかしとても丁寧に掃除されていた。これだけで、陳宮の印象が揺らぐ。こんなに丁寧に墓が掃除されているというのは、それだけ家族に愛されていたと言うことだ。
ケ忠の家には?(カク)昭の墓があったが、非常に綺麗に掃除されていた。牛金の墓も、である。ケ艾はいつも掃除する時、墓の汚れを丁寧に払い、話し掛けながら真心を込めていた。陳宮の墓も、同じように扱われているのは間違いない。
墓参りを済ませると、廬に。茶を出された。あまり高級な茶ではないが、とても優しい気持ちになれる美味しい茶だった。
向黎は他の家族と話があると言うことで、すぐに席を外した。腕利きの細作と言うことでもあるし、何か重要な話があるのだろう。
茶を飲み干すと、満足そうに馬超は眼を細める。
「うむ、また腕を上げたな」
「馬超将軍に喜んでいただけるのが、楽しみになっています」
「そうか。 ところで、この若者がケ忠だ」
「おお。 私は陳覧と申します。 陳宮の末の子になります」
丁寧に抱拳礼をされて恐縮してしまう。しばらく世間話をした後、馬超が不意に話を切り替えてきた。その目に、強い光が宿る。
「それで、例の件は上手く行ったか」
「はい。 田家のみなさんの協力で、何より張家の皆様のおかげで、河北の知恵者達とも知り合うことが出来ました」
「張魯将軍は、遺言で一族に声を掛けていてくれたからな。 ありがたいことだ。 田豫も同じ事をしてくれていたと聞く」
「とても興味深い話が出来ました。 袁一族に対する印象が一変しましたし、向こうには史書を書くのに長けた一族もいました。 彼らに、少しずつ英雄達の物語を形にして貰おうと思っています」
何のことだろうと、ケ忠は思った。だが、とても興味深い話である。
馬超は向き直ると、教えてくれた。
「これが、私が作り上げた路だ。 各地の賢者達の知識を交換し、互いの情報網をつなぎ合わせて、全土に知恵の路を作り上げる。 そうすることで、この地の文化を永続的なものとしたいと思っている」
「文化、ですか」
「そうだ。 はっきり言うが、中華は近いうちに滅びる。 異民族の一斉侵攻によって、な」
馬超が言うと、陳覧も頷いた。ケ忠は返す言葉が無く、しばし視線を彷徨わせてしまった。あまりにも、それは衝撃的な言葉だった。
中華が滅びる。それは、ここに来る途中、馬超が言っていたことの延長なのだろうか。
「そ、それはどういう事なのでしょうか」
「どういう事もありません。 漢民族が作り上げた中華文明圏は、司馬一族の内部崩壊による自壊後、異民族の一斉侵入によって崩壊します。 次に天下が統一されることがあっても、それは漢民族による単一政権ではあり得ないでしょう」
「この地の文明は、神代の古くから存在した。 だが、それもこれで終わる。 正確には、終わるきっかけになる。 次に新しい文明が出来るとしても、このままでは以前よりも遙かに規模を縮小することになるだろう」
言い終えると、馬超は茶を飲み干した。
気まずい沈黙のなか、ケ忠は何とか反論を試みたかった。それでは、天下太平のために戦い続けた英雄達が、あまりにも気の毒ではないか。彼らは一体何のために生き、何のために後世に命をつないできたというのか。
「それをさせないために、我らは馬超どのの呼びかけに応えて、知恵の路を造っているのです」
「そう言うことだ。 だが、これだけではまだぴんと来ないだろう」
強張った顔で、ケ忠は頷いた。素直でよろしいと、馬超も陳覧もからからと笑う。湯を点ぜよと陳覧が言うと、まだ若い孫娘が帰宅の準備をしてくれた。
「儂も出かけてくる。 馬超どのと一緒に、許昌までな」
「お爺ちゃん、あまり無理はしないでね」
「分かっておる。 儂とて、この路を完全なものにし、後世に伝えるまでは死ねぬわ」
意外に健脚な陳覧老人は、軽々と驢馬に跨る。見たところ六十には達しているようだが、実に元気である。
そのまま、ケ忠も馬超も、東に向かう。
許昌は曹操が整備した都で、根拠地にしていた時機も長い。だから街路は良く整っているし、人口も多い。今は洛陽に抜かれてしまっているようだが、それでもこの中華でも屈指の見事な都市である。
ケ忠もケ艾に連れられて何度か足を運んだが、洛陽よりも若干こじんまりとしているくらいで、決して劣っているとは思えなかった。ただ、近年、加速度的に治安が悪化していると言うことで、それが悲しい。
そういえば、向黎は着いてこない。
「馬超将軍、向黎が来ませんけれど」
「あれはもう先に許昌に向かった。 現地で色々としておかなければならん事があるのでな」
「やはり、人を集めるのですか?」
「いや、気難しい者達が多いから、事前に話を通しておくのだ。 そうさな、五人か、六人は集うか」
何だか、少し楽しみだ。
陳宮の子という老人は、途中色々な話をしてくれた。呂布の事についても、である。
呂布の側にいた高順という武将の正体には驚かされた。呂布と董卓の間の、本当の関係についても、である。
董卓が双子で、途中で入れ替わっていたというのは、ケ忠も仰天して声をあげそうになった。もちろん話半分に聞かなければならないのだろうが、それでも驚天動地の話である。それに、彼らの人間味がある話も聞かされる。そうすると、悪逆非道の魔王という薄っぺらな表現が薄れて、邪悪だが人間だった者達だったのだという実感が湧いてくるのである。不思議だった。
「私も話に聞いている程度ですが、黄巾党の乱の後くらいの武将達は、皆良くも悪くも器が大きかったようでしてな。 今のこじんまりとした人間達に比べると、ずっと視野も度胸も広大だったように思えますな」
「昔は良かったというような話ではないのですか?」
「かかか、なかなか言うのう」
「私も陳覧に同意見だ。 父祖の代の者達は、蜀漢で何度も駒を並べて戦ったが、皆英雄と言うに相応しい者達だった。 現在の武将で言うと、そうだな。 ケ艾がかろうじて対抗できた、という程度だろう。 呉だと陸抗くらいだろうな」
馬超もそう言うとなると、反論の余地はないのかも知れない。何しろ激動の時代を生き抜いてきた証人なのだ。それに、確かに半分は物語として聞いていても、曹操や劉備の活躍には胸躍るものがある。関羽や張飛は、現在の魏でも評価が高く、一部では崇拝に近い形で尊敬されているほどだ。
「しかし、かといって昔は良かったとばかりは言っておられんからな」
「はい。 早めに路を強固にして、後の時代に対応できる代物としましょう」
街路を行き交う人々は多い。だが、どの顔も、明るいとは言えない。司馬一族以外は人にあらずという風潮が、やはり影を落としているのだ。しかしながら、呉よりはマシだという現実が、彼らを反乱には駆り立てない。
さっき雑談の中で聞いたのだが、河北の田一族も、相当に苦労しているらしい。司馬一族以外と言うことで、何もかもに税が増えるのだという。関所を一つ越えるだけで税を取られるとかで、商売を成立させるのに四苦八苦しているとか。
不意に手綱を引かれた。
「脇道にそれるぞ」
「どうしたんですか?」
「司馬一族が来る。 司馬炎ではないようだが、平伏するのも腹立たしい。 脇道にそれてやり過ごす」
馬超に手綱を引かれるまま、街道からそれた。話が聞こえたのか、街道にいた他の旅人達も、さっと脇道にそれていく。逃げ遅れた僅かな人数を残して、広い街道から、瞬く間に人がいなくなった。
少し離れた所から見ていると、龍車に良く似た作りの車で、誰かが来た。逃げ遅れた民は、皆虫のように地面に平たくなっている。乗っている人間は見えないが、さぞふんぞり返っているのだろう。
「ふん、曹一族でさえ、あそこまで傲慢ではなかったわ」
「長安では、彼処まで酷くありませんでした」
これは何かの悪夢かと、ケ忠は思った。長安暮らしが長かったと言うこともあり、そちらでは司馬一族の権力は、これほど強くなかったということもある。しかしそれを差し引いても、これは酷すぎる。
龍車は皇帝が使う乗り物であり、それを模したものに傲然と乗るというのは、権威づけのためだ。
つまり、自分たちが如何に権力を持っているかを示すために、皇帝という最高権威を踏みにじって見せているのである。もちろんこれには、反乱分子のあぶり出しという目的もあるだろう。権威を振りかざしてみせることで、不満を見せる者がいたら、ことごとく誅殺する、というわけだ。
あまりにも俗悪なやり口に、吐き気を覚えた。思えば対蜀の最前線基地でもある長安では、此処までのことは出来なかったのだろう。今は違うと言うことである。司馬一族の天下統一を阻む障害は、呉に暴君が登場したことで、もはや無いに等しいのである。
「司馬一族の天下は揺らぐことがないと思っているのだろうな」
「何だか酷いです。 絶望を感じてしまいます」
「恐らく、秦の始皇帝や漢の高祖も、同じようなことを考えただろう。 だが、結果は見ての通りだ。 永遠に続く栄華などないし、単独の一族による権力独占など、上手く行く訳もない」
それに、司馬一族はあまりにも権力欲が強すぎると、馬超は吐き捨てた。どうせ天下を取った所で安定せず、すぐに一族同士での殺し合いが始まるだろうとも。
やがて、龍車に似た司馬一族の車は通りすぎていった。それと同時に、わいわいと旅人が戻ってくる。
「それにしても、どうして来るのが分かったんですか?」
「ああ、それは気配を感じたからだ。 遠くから溝の匂いにも似た、傲慢で自分が天下一の偉さを獲得したと錯覚している愚かな気配が漂っていたからな。 すぐにぴんと来たよ」
からからと、馬超は笑う。苦笑せざるを得ない。しかし、この人ほどの武人となると、あながち冗談でもないのかも知れなかった。
途中、何度か宿場町で休んで、次の日には許昌に着いた。
許昌は若干洛陽よりも小さいが、それでも三重の城壁に囲まれている堅固な都市であった。前にケ忠が訪れた時よりも、更に規模が拡大している。街の外に広がる肥沃な耕作地に関しては、洛陽よりも規模が大きいようにさえ思われた。
大通りの周囲にある露天では、文字通りあらゆる物資が売っている。母は素朴な柄の着物を好んだが、此処にあるのは派手なものばかりだ。
「おや、珍しいな。 長安よりも此処の方がだいぶ都会に見えるが、目移りはしないか」
「え、あ、はい。 僕、どうも派手なものが少し苦手で」
「面白いことを言う奴だ。 私もまだ若い頃は、派手なものにかなり目移りしたのだがな」
かって錦馬超と言われた人である。それもまた頷ける話だ。この人の時代、西涼は中華でも最貧地帯だったと言うが、其処で珍しい伊達男として通っていたのかも知れない。
だが、今では相当に落ち着いている。こんな落ち着きが欲しいと、ケ忠も思うほどである。
やがて、大通りに面している、小さな宿に入った。
話どおり既に向黎が待ってくれていた。さっと耳打ちを受けた馬超は頷くと、荷物を店主に預けながら、ケ忠に振り返った。
「一日ほど予定を延ばすが、大丈夫か」
「はい。 問題ありません。 寿春から来るという方を待つんですか?」
「そうだ。 飲み込みが早くて助かる。 他の連中はもう大体揃っているが、一応引き合わせてはおくか」
小さな宿に見えたのだが、中に入ってみると意外に広い。こぢんまりと見せる作りになっているのかも知れなかった。
既に奥では、わいわいと宴会が始まっていた。集まっているのは老若男女様々な人物で、ざっと二十人という所か。皆一癖も二癖もありそうな者ばかりで、出身地もばらばらに見えた。様々な地方の訛りが聞こえてくる。
馬超が入っていくと、一瞬だけしんとする。だが、すぐに笑顔が馬超を迎えた。相当な顔役に対する態度だ。その気になれば、馬超はこの近辺の侠客を纏め上げて、反乱を起こすことも出来るかも知れない。
ケ忠も紹介される。少し照れくさかったが、すぐに受け容れて貰った。座らされて、酒を飲まされる。少し強めの酒だったが、既に元服した身だ。辟易はしたが、飲むことは出来る。
「羊修、夏候一族の伝は出来たか」
「もう少しという所です。 夏候淵将軍の事績が、どうにもまとまらなくて」
「実情と名声がかけ離れた人物だからな。 夏候惇将軍もそうだが、苦労しそうだな」
「しかし、纏め上げて見せます」
超有名人の名前が、ぽろりと出てくる。酔眼の男が、ケ忠の側に座った、酌をされたので、受ける。かなり遠慮無く注いでくるその男は、まだかなり若かった。
「それにしても、蜀漢征伐は、かなり情報が錯綜しておりますな。 一体現地で、何があったのです」
「僕は途中で母に逃がされたので、わからない部分も多いです。 ただ王濬将軍からの話によると、とても口には出来ないような邪悪な陰謀が、全てを飲み込んだようです。 母もその犠牲になったと思うと、悔しくてなりません」
「やはりそんな所でしょうね。 今、賈充の派遣した軍勢が蜀漢を抑えに掛かっていますが、兎に角治安が壊滅してしまって、手を焼いているようです。 蜀漢には忠義を誓っていた南蛮諸国も一斉に反旗を翻していて、魏の役人などとても入れる状態ではないとか」
それ自体が司馬一族の狙いだったのだろう。
多分蜀漢の治安が回復するのには、十年程度掛かる。その間に、作り上げられた情報網や経済的な仕組みは徹底的に破壊され、独立勢力などとても作り上げられない状況になる。更に、呉が内部崩壊寸前になるまで、同じくらい掛かるだろう。蜀漢が安定した頃には、呉も簡単に踏みつぶせる状況になる、というわけだ。
幼い頃、ケ忠は司馬懿を見たことがある。母に連れられて、少しだけ顔を合わせたのだ。鋭い所もあるが、さほど悪い人のようには見えなかった。好々爺という単語を口にされたら、嗚呼多分あの人がそうだったのだろうと思えるような人だった。
だが、これらの陰謀を見ると、それにも歪みが掛かってしまう。何だか、自分の記憶に自信が持てなくなってくる昨今だった。
「司馬炎の強欲呆けが、高笑いをしているのが見えるようだ」
「……はい。 僕は司馬一族とはあまり関わったことがないのですが、それでも良い印象は持てません。 例え母が司馬懿将軍に良くして貰っていたとしても、です」
「悪しき者を見ているのだから、当然のことだ」
一刀両断に馬超が斬り捨てる。若い男は一礼すると別の輪に加わり、ケ忠も杯を片手に彼方此方の席を回った。
それにしても、宴の彼方此方で、様々な興味深い話を聞ける。呉の内幕や、蜀漢の経済について。そして名前も知らなかったような名臣、英雄達についても。
袁紹は愚かな君主の見本のように思っていたケ忠だが、河北出身の知識人達の輪では、意外に評判が悪くない。袁紹が決断力に欠けるようになり始めたのは老年からで、実際には官都の戦いでも曹操とかなり良い勝負をしているのだという。
他にも、色々な話が山ほど聞ける。そして何よりも、それらの話をしている知者達が、とても皆楽しそうにしているのが印象的だった。
宴が終わったのは夕刻である。めいめい解散していく皆を見送る馬超。誰もが馬超に感謝の言葉を述べていた。
これが、知恵の路なのか。
多分喋っていた賢者達は、皆がその土地では名の知れた古老や学者、それに場合によっては歴史の瞬間を見てきた者達だろう。
そして、本来だったら絶対に顔を合わせることのない彼らが、知恵の路によってつながれているのだ。これは奇跡と言うべき出来事ではないのだろうか。
最後の一人を送り届けると、ケ忠は黙り込んでしまった。
武器を持っての戦いでは、絶対に出来ないことが此処で為されていた。元々、歴史的に仲が悪い地域の者達だっているのだ。それがあれだけ和気藹々と交流するには、どれほどの苦労があったのか、想像も出来ない。
馬超は、引退し、蜀漢を離れてから、ずっとこの作業に従事していたという。これは決して笑うべき結果ではない。むしろ驚嘆すべき事だ。彼ら知恵者達の作り上げた知恵の路は、あまりにも深く、そして太い。多少の弾圧程度では、まるでびくともしないだろう。そして彼らが故郷に帰り、此処での成果を広めるのだ。民は、物語に脚色されているとは言え、事実を知ることとなるのである。
それは、誇りになる。
希望へとつながる。
例え暗黒に世界が包まれようと。この土地で戦った英雄達の生き様は、必ずや生きる気力を民へと分け与える。
そしてそれは、未来へとつながるのだ。
「凄い、ですね」
「もうこれのすばらしさを理解したか。 私の目に狂いはなかったようだな」
馬超は破顔して、ケ忠の頭をわしわしと撫でた。もう元服しているのだが、馬超にしてみれば初陣の小僧も同然なのだろう。それにしても大きくて力強い手だ。今でも数十斤の武器を平然と振り回すだけのことはある。
今まで何処に行っていたのか、向黎が来た。陳覧も一緒にいる。彼女らが連れているのは、数人の細作らしき男達だった。抱拳礼をすると、一番年を取っている、猿のような男が報告してきた。
「林が洛陽でかなり大規模な網を張っています。 既に皆様は避難しましたが、恐らく数日以内に追撃を掛けてくるかと思います」
「だそうだ。 どうする、ケ忠」
「知恵の路に、何かあったら大事です」
「それに関しては案ずるな。 既にこの近辺の知恵の路に関しては、二重三重、もっと深く張り巡らせている。 私が心配しているのは地方に伸びる知恵の路で、それの補強を今日少しした。 私が死ぬまでには、もう少し念入りに強くしておこうと思っているがな」
馬超がそう言うのなら、少しは安心できる。非常に長い年月を掛けて構築しただけあり、多少の攻撃で壊れるような脆い代物ではないのだろう。
「それならば、陽動は出来ないでしょうか」
「ほう?」
「大掛かりな網を張っていると言うことは、それだけ林が大きな兵力を動かしていると言うことです。 もしもそれを引きつけることが出来れば、林の周囲に大きな隙が出来るのではないでしょうか」
「ふむ、読みは悪くないのだが。 何かいやな予感がする。 姜維と陳泰にも相談した方が良いだろうな」
ケ忠も、それには同意である。なぜ馬超が此処まで自分を立ててくれるのか、まだぴんと来ない部分があるし、何より敵が大きすぎる。
林と言えば、ケ忠が魏軍にいた頃から、その怪物じみた逸話は聞いていた。噂によると、既に齢は三桁に近付こうとしているという。それなのに童女にしか見えず、実際肉体は最盛期のまま。そして今も強くなり続けていると言うではないか。
邪神窮奇と名乗っているそうだが、それも頷ける。本物の邪神でさえ、今の林の前には道を空けるかも知れない。豪傑としての性を残している馬超でさえ、年を経て衰えが見えているのだから。林の異常さがよくわかるというものだ。
一旦許昌を出る。ばらばらになったり集ったりしながら、一度南下。
そしてある人物と合流してから、不意に西に進路を変え、宛に入った。
宛から北上して、弘農に。そして、東に洛陽を見た時には、既に半月が経過していた。
これは姜維の策である。逃げる途中で、何度か馬超がわざと遅れたりしながら、敵に見つかりやすく痕跡を残していった。林自身が出てこなければ、これでかなり時を稼げるという。
姜維の凄い所は、林が出てきた場合も含めて、策を練っていることである。一度完膚無きまでに負けて、もはや失うものが無くなったからか。むしろ姜維の策は、冴えに冴えているようだった。
足を引きずっている陳泰は、仕込み杖を使っている。時々足を止めて遠くを見ながら、気配を読んでいるようだった。一度馬超と手合わせしているのを見たが、もの凄い腕前だ。足を悪くしてから、陳泰は却って強くなったのかも知れない。
陳式はあくまで寡黙で、たまに馬超と何か話している。立ち入っては行けないと思って、ケ忠は何も言わなかった。
許儀は毎晩、数珠を手に持って祈っていた。どうやら腐屠に入ったらしい。死者を弔うのだと言っているが、しかし頭は剃っていない。全てが終わってから頭を剃ると、許儀は言っていた。
毎晩、遅くなってから鳳は向黎と一緒に現れた。二人とも闇に生きる者である。こういう時間の方が動きやすいのだろう。ただ、向黎は情報収集が中心なのに対して、鳳はバリバリの武闘派である。毎晩林の手下をどれだけ仕留めたというような戦果報告があって、首も見せられた。
首には漢人のものだけではなく、山越や、西や北の騎馬民族達のものも含まれていた。
林が恐ろしく手を広げていることが、これだけでも明らかだ。奴のもくろみはよくわからないが、もしも全てが狙い通りになったら、中華どころかこの大陸が終わるかも知れない。
林だけは、どうしても倒さなければならない。
それが、生き残った者達の義務だった。
2、決戦洛陽
闇夜。
跳ね起きた馬超が、無造作に長刀を振ると、どすりと凄い手応えの音があった。襲撃だと、叫ぶ。
陳式も起きだした。許儀は既に、数人の敵を相手に、同時に渡り合っている様子であった。片足だけなのに、器用に身を起こすと、陳泰が仕込み杖を抜く。そして、迫る影を拝み討ちに斬り倒す。なかなかの鋭さだ。
陳式は剣を抜くと、一人の首を跳ね飛ばし、ケ忠を探す。若者はまだ未熟ながらも、馬超が鍛え抜いている。簡単に倒されるような腕ではないはずだが。探している内に、見つけた。細作二人を相手に、五分の戦いをしていた。
安心した陳式は、足運びを工夫して音もなく忍び寄ると、まずケ忠の後ろに回り込もうとした一人目を斬る。相手の力を利用して、流れるように斬ったので、鮮血が遅れて噴き出す。無数の敵味方がひしめく戦場ではこう綺麗には行かない。だが、この程度の人数が相手であれば、この技は苦もなく出せる。
隙が出来た瞬間、ケ忠が正面の敵を斬り伏せる。ぎゃっと鋭い悲鳴を上げて、敵が地面に倒れ伏した。
闇に紛れて、暗殺用の短刀が飛んでくる。馬超がケ忠の前に飛び出すと、長刀を一閃。一瞬で全てをたたき落とした。闇の中で、許儀が敵を斬り伏せたらしい。静かになった。陳泰も、既に眼前の敵を屠り去っていた。
向黎が飛び出してくる。返り血を浴びていた。
「ご無事ですか」
「此方はな。 見張りは」
「二人倒されました。 申し訳ありません。 これほどの規模で、奇襲を仕掛けてくるとは」
「よい。 それよりも、後を始末せよ」
頷くと、向黎は細作の死骸を処理し始めた。長刀を振るい、返り血を落とすと。馬超はどっかと腰を下ろす。疲弊している様子もなかった。
圧倒的な強さを見せつけた馬超だが、不満らしい。手を握ったり閉じたりしている。
「衰えていませぬな」
「技だけはな。 力は最盛期の半分を切るかもしれん。 どれくらい己の力が衰えているかは分かっているつもりだったが、それでも実戦をこなしてみると、それが実感できてしまって悲しいな」
「いまので、最盛期の半分、ですか!?」
「あくまで力は、だ。 技である程度は補っているが、それも限界がある。 正直な話、今林との決戦を選択できて良かったと私は思っている。 三年後であれば、多分もう戦うことは出来ないだろう」
頑健な馬超も、もう流石に限界であるらしい。
陳式も、最近は老いを強く自覚せざるを得ない。若者に嫉妬さえ覚えることもある。並の若者よりはずっと体力があるつもりではあるが、実際に戦ってみると、以前のように戦場で暴れるのは無理だなと思ってしまう自分がいる。
もう此処は洛陽の手前。だからというべきなのか、林の手下の襲撃を受けた。ぐずぐずしていると、司馬一族の息が掛かった軍が来るかも知れない。馬超がいるからというのは、もはや理由にならない。当人が衰えたと正直に言っているのだ。あまり多人数を相手にするのは、望ましいことではないだろう。
死体の始末が終わったと、向黎が報告してきた。
すぐにその場を離れる。ケ忠が心配げに言った。
「姜維将軍達の別働隊は、無事でしょうか」
「あまり楽ではないだろうな。 我らが急がねば、更に戦況は悪くなる。 休んで疲れは取れたか」
「大体は」
「そうか。 洛陽に入ってしまえば、林も即座の襲撃は仕掛けてこないだろう。 後は、奴の居所さえつかむことが出来れば」
馬超が馬に手早く荷物を載せ、手綱を引く。ケ忠はまだ慣れていないようで、若干作業が遅かった。
陳式は最後まで辺りを警戒して、敵の残存戦力がいないか確認。もしも敵が生き残っていた場合、此方の動きを全て掴まれることになる。恐らくは、戦力も、だ。
とくにケ忠がいることを此処で知られると何かと拙い。馬超がもり立ててはいるが、ケ忠の指揮はまだ未熟で、細作達に意思を伝え切れていない。目の前で人死にが出るのも、辛そうにしていた。
洛陽の西門から入ると、丁度夜が明けた。
予定していた合流地点である酒屋にはいると、中は凄まじいあれ方だった。どうやら襲撃を既に受けていたらしい。店主達の死体はないが、逃げ延びたかはわからない。捕らえられて拷問されていたら最悪だ。訓練を受けた細作といえど、林は様々な薬物の知識にも長けていると聞く。情報を根こそぎ引き出されてしまうかも知れない。
一旦酒場を出ると、第二の合流地点へ移動。
そちらは貧民街の奥にある、小さな宿である。陳泰の部下だった男が経営していて、殆ど客もいない。
そちらは幸い無事だった。だが、もはや何処であっても、安心は出来ないだろう。
敵が先手を打ってきたと言うことは、何処かで情報が漏れていると言うことだ。敵のが圧倒的に戦力の多い現状、もはや一刻の猶予もならなかった。
「それにしても、こういう戦いは苦手だ」
「陳泰どのは、やはり正面切っての戦の方が好きか」
「貴様と何度となく戦った俺が言うのも何だが、その通りだ。 貴様の凄まじい突撃にはいつも胆を冷やしたが、しかし心も躍った」
陳泰は直接会ってみてよくわかったが、典型的な武人だ。忠義を捧げるべき相手を求め、武勇を戦場で発揮することに命を賭ける。元々ひ弱だった陳式に比べると、恐らく幼い頃から求める究極の到達点があったのだろう。
馬超が戻ってきたので、交代で見張りに入る。細作が何名か出入りしているが、入ってくる情報はいずれも芳しくない。姜維達とは連絡が今のところ取れていない。連絡の中継地点が、何カ所か寸断されているらしかった。
「最悪の場合、姜維の事は諦めなければならないかも知れぬな」
「姜維だけならともかく、鳳と奴が着いている。 多分大丈夫だろうとは思うが」
「ううむ、しかし」
「戦場に、確かに絶対はない。 だが、何しろ長年三国を渡り歩いて来た男だ。 危険の避け方や、敵の中をかいくぐる方法は誰よりも知っているだろう」
長いこと会っていないが、不思議な信頼感がある。
時間は瞬く間に過ぎていく。昼過ぎに、また別の拠点に移った。もちろん痕跡などは残さない。陳泰は店主に、かなり多めの金子を渡していたようだった。
次の拠点は、洛陽の城壁のすぐ側。少し大きめの廃屋である。
何とこれは陳泰の別荘であったらしく、こんな時のために残しておいたものだという。既に誰も入っていないだけあって中は荒れ放題だが、しかし広いし、何より防戦を意識した作りとなっている。
「一旦此処で、情報を見極めましょう」
「それが良さそうだな」
ケ忠の言葉に、皆が同意した。
細作が集めてくる情報は、日に日に減りつつあった。
林は冷徹に、失敗した部下の死骸を見つめていた。
洛陽の少し西。僅かに街道から離れた地点である。死骸は野犬でも掘り返さないように、かなり深くに埋められていて、探し出すのに苦労した。
「この様子だと、全滅か」
「申し訳ありません、林大人。 手練れを三十人から用意したのですが」
平謝りする部下は無視して、傷の様子を確認。
やはりいる。関羽や張飛並みの使い手が。だが、力で切っているのではなく、技に重点を置いているのが気になる。
敵が二手に分かれたことは、既に分かっている。此奴らが仕掛けたのは、洛陽に潜り込んだ方の敵だ。その中に、超一流の手練れがいる。もう片方は、攪乱と陽動が目当てだろう。
しかし、洛陽に入り込んだ方の目的は何だ。林は近々、野望の最終段階を起動するつもりだが、それを邪魔するつもりなのか。いずれにしても、林に対する敵対行動の意図が読めないのである。
呉が裏にいるという可能性は、最初から考えていない。あの国の細作部隊は既に林が徹底的に叩きつぶし、再建の気配が起こる度にまた潰して回っている。そもそも呉は、新しく即位した孫皓が予想以上の暴君で、もはや国を保てる状態ではなくなりつつある。魏にちょっかいを出す余裕など無いのが実情だ。
蜀漢の残党が敵に混じっているのは、ほぼ間違いないと林は睨んでいる。しかしそうなると、連中の目的がわからないのだ。林に今更喧嘩を売ってどうしようというのか。資金源も、それにどうやって林の本拠を見つけ出したかもわからない。
ただの私怨かと思い、それも違うと考え直す。
林は確かに面白半分散々命を奪ってきた。だが、私怨で林を本気で殺そうとする奴は鳳くらいしかいないはずである。それ以外は、そもそも林によって誰がどのように殺されたかさえ理解していないだろう。
部下がいなくなってから、頭をかき回す。
やりたい放題の人生を過ごして、いよいよ野望に王手を掛けた。それなのに、どうしてその直前でこのようなことになるのか。障害自体は嫌いではないのだが、後一歩でお預けを喰わされるのは流石に気分が悪い。
計画を早めるか。そう林は思った。
だが、先に小石の処理をしておいた方がよい気もする。三十人の細作を瞬く間に仕留めた手練れどもとはいえ、林の部下は今既に数千に達する規模にまで膨らんでいる。洛陽近辺には既に二千強が集まっており、これを全てぶつければ如何に武芸の達人だろうが英雄だろうが、例を挙げれば若き日の呂布であろうが、勝てる訳がない。
しばらく悩んでいる内に、陽動部隊を追っている細作達から連絡が来た。二度にわたって撃退され、大きな被害を出したという。敵は僅か数十。蜀漢の細作が中心となっているが、しかしその中に、考えられない存在がいたという。
「関羽、だと?」
「あり得ないとは思うのですが。 赤ら顔の巨漢で、青竜円月刀を自在に使いこなす達人となると、関羽くらいしか思い当たりませぬ」
「馬鹿な。 関羽の死は私が何十年も前に確認している。 幻ではないとすると、奴に似た人物か、或いは一族か」
だが、それも考えにくい。
というのも、関羽の一族は、蜀漢の脱出に失敗したからだ。魏の遠征軍の中に、頭がおかしい男が一人混じっていた。?(ホウ)会という老将で、自分が?(ホウ)徳の子孫だと信じ、関羽によって殺された父の敵を討つという目的で、関羽の子孫を皆殺しにしたのだ。
混乱の中、凶行は実施された。そして多くの血を、?(ホウ)会の刃が吸った。
実際には皆殺しには遠い状況で、多くが散り散りに逃げ去ったという話だが、それでもそれほど目立つ相手なら逃がすことはなかっただろう。それに、関羽の子孫が彷徨いているという話など、聞いたこともない。
「恐れながら」
「何だ」
苛々してうろうろ歩き回る林に、おそるおそる挙手したのは、古株の一人であった。曹丕が皇帝の頃から、諜報活動を担当している男である。手堅い仕事をするのだが、頭が少し悪いのが玉に瑕だ。
「市井では、三国志なる講演が流行っているようです。 それぞれの英雄の特色を強調している作りになっているそうなのですが、それによると関羽が丁度そんな姿として書かれているとか」
「それで?」
「え、ええと。 関羽の姿を模した狂人が、正義漢を気取っているのかと」
言い終える前に、男の首は飛んでいた。林は口の端をつり上げながら、敢えて敬語を使った。
「他にご高説がある方はいらっしゃいませんか?」
「ひいっ!」
「役に立たない奴輩ですね。 他に意見がないのなら解散とします。 さっさと情報を集めてこないと、そいつと同じ目に遭わせますよ」
抱拳礼もそこそこに、部下達が散っていく。
林は舌打ちすると、切り落としたばかりの生首を踏みつぶしていた。敵の正体がまるでわからないというのが、なぜこれほど頭に来るのか。林自身にも、わからなかった。
かって陳泰の屋敷だった拠点に、夜半過ぎにその男は現れた。
最初陳式は、その男が誰かわからなかった。いや、分かってはいたのだが、脳が混乱を起こしていたのだ。
いるはずがない人が其処にいる。そうとしか思えなかった。
関羽。
かって陳式が荊州で何度も見た英傑。この時代でも最上位層に食い込む武勇を持った豪傑中の豪傑。馬超も同じ印象を抱いたらしく、最初固まった後、ゆっくり口を開いた。
「久し振りだな、関索」
「流石馬超様。 良く見抜かれましたな」
そういって、巨漢は破顔した。顔の顔料を落とすと、ようやく見覚えがある顔が現れる。そうだ、老いてはいるが間違いない。関平だ。荊州陥落後、思う所があって名前を変え、蜀漢を去った関平である。
まだ生きていてくれたのか。そう思うと、陳式は嬉しくなった。
姜維と一緒の陽動部隊として、動いてくれていたのだという。相当な達人である姜維だが、関索の助力がないと危ない場面が何度もあったそうだ。
場所を変える。留守居を残して、他の者達もいる場所へ移動する。闇夜に紛れて移動することは、軍にいた頃からずっとやっていた。だが今は、昔よりも更にそれに慣れてしまった気がする。
洛陽の郊外の酒場。何度目かに変えた拠点で、ようやくまた全員で合流することが出来た。姜維や鳳も無事だ。許昌以降も着いてきてくれている陳覧も、平然としていた。
彼らは関索を見て一様に驚いた。蜀漢の中でもごく一部の者しか知らない事だったからだ。いずれにしても、此処で心強い援軍である。喜ばない者はいなかった。
馬超に促されて、ケ忠が場を仕切る。それに異を唱える者はいない。この若者は、悩みの中で急速に成長しつつある。流石は、あのケ艾の息子だけはあった。
「それでは、細作からの情報を纏めたいと思います。 姜維将軍、何かそちらでは掴めた情報がありましたか」
「無い。 ただ、一つ妙なことがあった」
「妙、とは」
「どうも敵の動きが稚拙すぎるのだ。 ただ数を頼りに押してきているとしか私には思えん。 林と言えば、この中華でも最強最悪の細作と聞いているのに、ずいぶんと工夫がない戦いをするなと思い、気に掛かっていた」
姜維の言葉に、陳式は頷いた。馬超も同じ事を感じていたらしく、同意の言葉を告げる。考えてみれば、確かに林の攻撃は稚拙だ。物量を投入してくるばかりで、腸が灼かれるような威圧感がない。
影から襲ってくる細作は面倒な相手の筈なのに。むしろ今では軍の方が厄介だと思える状況であった。
「そちらでもそうだったか。 こちらも同じ事が起こっていた」
「そう思わせる罠という可能性はないでしょうか」
「単に驕っているだけではないのか」
ぼそりと、鳳が呟いた。
全員がしんとしたのは、鳳が決してただの細作ではないと言うことを、ここしばらくで知ったからだ。
見掛け通り山越の出身である鳳は、少年の頃から林という怪物と接している。林に技を仕込まれもしたし、そのやり口を間近で見てもいるという。数年前に老衰で命を落としたシャネスを除くと、一番林を知っている者の一人と言って良いだろう。
鳳は一人組織の壊滅から生き延びたことからも、非常に頭がよいし機転も利く。その彼が、根拠もない事を言うはずがない。
「何かしら、そのように判断できる根拠があるのか」
「林という奴は、子供だ。 百年生きているか邪神のような武勇を持っているかは、確かに正しいかも知れん。 だが、本質は自分の好き勝手に何もかもを弄り倒したいと思っている子供に過ぎん。 子供が、あまりにも異常な力を手にしてしまった化け物、それが林だ」
「なるほど。 思い当たる節があります」
向黎が頷いた。細作としてまだ若いながらも林の配下と戦ってきている彼女である。ある程度、わかることもあるのだろうか。
関索もそれに同意した。
既に年老いているとは言え、関索も中華を歩き通した男だ。林の闇には今まで散々触れてきたのだろう。
しばらく考え込んでいたが、ケ忠が顔を上げる。
「もしも林が驕っているのだとしたら、今は凄く怒っているのではないのでしょうか」
「そうだな、考えられる話だ。 格下と侮っていた相手に振り回され、兵力を削られているのだ。 頭に来ない訳がない」
「それなら、利用できるはずです。 ひょっとすると、部下が頼りないと思いこめば、自分で直接出てくるかも知れません」
それは、魅力的な考えだ。だが、其処まで上手く行くとは思えない。
もしも実施するにしても、大きな餌が必要になるだろう。例えば、林がどうしても必要としている行動の詳細とか。或いは、作戦の全容とか。
「驕っているとしても、単騎で林を引っ張り出すのは容易ではないぞ。 奴の組織に内通者がいれば、少しはマシになるのだが」
「それなら、心当たりがある」
陳泰が挙手して、皆を見回した。
そして、意外な人物の名前を、口にしたのである。
「賈充だ。 正確には奴の配下ではないが、もしも司馬一族の配下としては屈指の実力を持つ奴が林の正体を知ったなら、此方に情報を流す可能性が高い。 ただし、その後我らも消しに掛かる可能性も否定できない」
「まるで狸のような男ですな」
「もしも、この後の返り咲きや、権力を求めているのなら、賈充との接触は勧められないが、隠遁するか中華を去るのであれば、切り札としては数えられる」
陳泰は、元々魏の高官だった。魏が終わろうとしている今でも、まだ隠れた人脈は多く持っているはずである。
それならば、今の言葉には期待が持てる。恐らく、確実に会合の場を設けてくれるだろう。
しばらく考え込んでいたケ忠は、頷いて立ち上がった。
「わかりました。 陳泰将軍にお願いしたいと思います」
「いいのだな。 もう皆、権力はいらないのだな。 英雄として返り咲きたいとは思わないのだな」
一瞬だけ姜維が未練を見せたが、他は誰もがしんと黙りこくっていた。許儀に到っては、腐屠の聖言を呟いたきりである。仏門に入ったのは、嘘ではないと言うことなのだろう。既に心身共に出家しているという訳だ。
「未練は、ないな」
「応っ!」
馬超が立ち上がり、皆を見回したことで、会議はまとまった。陳式が応えると、他の者達もみなめいめいそれに続く。
林を倒した後のことは、その時に考えればいい。此処は、敵より如何に大胆な行動に出るか、が胆であった。
敵は洛陽に潜んでいるのに。全く動きが追えなくなった。しかも洛陽の南で動いている連中を追うために、かなりの戦力を割いており、それも動かせずにいる。完全に、状況は手詰まりだった。
林は腕組みして、幾つかある拠点を彷徨き回っていた。どうしてこうなる。かってないほどに戦力は充実している。自分が知らないことなど、無いはずなのだ。それなのに、なぜ。敵は自分から身を隠すことが出来る。
敵は挑発するように行動を続け、既に五十人以上の配下が倒されている。いずれも手練ればかりで、被害が増えるばかりの現場からは悲鳴混じりの救援要請が来る始末だった。昔はこうではなかったと思い、苛立ちは更に募る。しかし考えてみれば、昔は兵力が少なくて、管理が容易だった、だけかも知れない。そう思い直すと、自分の迂闊さに気がついて余計に腹が立った。
床に転がっていた木箱を蹴飛ばす。こんな事なら、魏の細作全てを配下に治めたのは失敗だったのかも知れない。少数の質が保たれた兵隊だけを管理して、天下を思いのままに動かすという方法を採るべきだったのかと思い、しかしもはやどうにもならないことに気付く。
魏が保有している細作全てに、声を掛けてしまっている。
闇の世界は今大わらわだ。林が相当焦っていることを、細作どもは敏感に察知しているだろう。
驕って、いたのか。実力以上に。
誰もを殺せ、もてあそべる立場になったことで。林は油断してしまっていたのか。最後の一手を打つ今になって。
百里を行く者は、九十九里を半ばとすという。本当にそれを実施して、残りの一里で油断したら。最後の目的地の直前で、迷子になってしまった。そのような印象を受けてしまった。
木箱を踏みつぶす。乾いた音を立てて飛び散る木材。
殺そうにも敵がいない。流石に残虐な林も、落ち度のない配下を殺し続ければどうなるか位は分かっている。少し前に司馬昭という愚劣な例がいた。内心嘲笑っていたあの男と同類になることだけは、避けなければならなかった。
部下の気配。舌打ちをすると、顔を洗うようにして撫でる。そして蜜柑を懐から出して、食べ始めた。部下の前で最近は動揺している所を見せすぎた。落ち着いているように見せなければならなかった。
二つ目の果肉をほおばった所で、部下が姿を見せる。気配を消すのは下手で、殆ど素人同然だ。こんなのを統率していかなければならないかと思うとため息が出る。やはり兵を無闇に増やしたのは失敗だった。
「林大人」
「如何したか」
「賈充将軍からの連絡です。 司馬炎様が、ついに即位に向けて動き出されるようです」
「ふん、そうか」
よりによって、この時期に。吐き捨てたかった。どうにかして林の視界の外で動いている連中を潰さないと、おちおち眠れない。
林としても、あまり時間がないのだ。得意の絶頂にある奴を追い落とすには、どうしても機会が限られてくる。それを外すと、却ってまずい。とくに今の状況だと、腐敗した呉を潰すために司馬炎は出兵すると言い出す可能性もある。天下統一と共に為されるのは恐らく相当な大規模軍縮で、それによって一番影響を受けるのは林だろう。場合によっては、司馬一族の闇を支え続けた林自体が、用済みと見なされる可能性さえある。あの貪欲な司馬炎にしてみれば、金食い虫の上に扱いづらい林など、邪魔以外の何者でもないだろうから、この推察は高確率で当たるはずだ。
「曹奐の周囲を念入りに見張れ。 無能とは言えない男だし、油断すると手を噛まれる可能性がある」
「わかりました、そのようにいたします。 しかし、曹奐と司馬炎様との力の差は圧倒的です。 今になって逆転が可能だとは思えませんが」
「ふん、それはどうだろうな」
司馬一族は今、連中が気付いていないだけで、かなり危険な状態にある。というのも、林が彼らの中を暗躍し、司馬炎に対抗できそうな者を片っ端から間引いたからだ。相互に暗殺を平然とするような一族である。林が暗躍して、適度に有能な者を間引くくらい簡単だった。
以前、林が司馬昭に貴方たち一族はそろいも揃って自分が一番頭が良いと思っていると指摘したのは、此処からである。林が殺した司馬一族は、五人六人どころか、二十人を軽く超えているのだ。
林が司馬炎を殺すのはいい。
だが、他の連中によって司馬炎が殺されると、この後が収拾のつかない事態になる可能性が高いのだ。それこそは林の望む所だが、今林が求めているのは、自分の制御下にある混沌なのである。
「とにかく、下手なことはされないように見張れ。 まだ、曹一族に対する忠臣は、何処に潜んでいるかわからない状況だ。 それにお前達も、今暗躍している連中の尻尾を掴めずにいるだろう」
「は。 申し訳ありません」
「そう思うならすぐ動け。 百人以上を動員して、奴の周囲を見張るのだ」
平伏した細作が消える。
林は木箱の残骸を踏みつけながら、役立たずと呟こうとして止めた。
これは自分の失敗でもあるからだ。
天上天下唯我独尊と考えている林だからこそ、自分の失敗に対しては苛立ちもする。しかし、今まで生きてきて、この程度の失敗は経験がない、わけではない。必ずや、挽回は出来るはずだ。
いっそ、計画を早めるか。
今、闇で動いている連中が、林のもくろみを正確に理解したら面倒なことになる。そのためには、司馬炎をつつく必要もあるかも知れなかった。
賈充との面会は、意外と早く実現した。
陳泰が残していた人脈と、それにケ忠の事を気に掛けていた王濬の努力が功を奏したのである。ただし、面会の場に出ることが出来たのは、ケ忠と陳泰だけであったが。従者として、向黎も連れて行ったのは、念のため、保険を掛けたからである。従者一人くらいは、賈充も承知してくれた。
賈充は夜半、腕利きの護衛数名を連れて、郊外の酒場に現れた。仮にも魏でも最高の地位を独占している人物である。ケ忠も何度かみかけたことがあったが、少なくとも公式の場では威厳をいつも保っていた。
だが、どうしてか。直接面会した賈充は、疲れ果てているように見えた。益州の混乱を回復するために、益州に兵を置いてきたと聞いている。強行軍で中華の東西を行き来している訳で、当然だろう。もっとも、疲労の原因がそれだけだとは思えなかったが。
「おお、本当に、ケ忠か。 そうかそうか、あの混乱の中、生きておったか」
「おかげさまで」
「すまん。 ケ艾殿を死なせてしまったのは事実だ。 私も最近の司馬一族には、ついていけない部分がある。 だが、どうにも出来ないのだ」
深々と、最初に賈充はあたまを下げた。一瞬、信じそうになった。だが考え直してみれば、この男はずっとこうして地位を保ち、度重なる司馬一族内での暗闘にも巻き込まれず、生き残ってきたのだ。
ある意味、司馬炎よりも危険な男かも知れない。襟を正したケ忠の後ろで、陳泰は立ちつくしていた。
「それで、私を呼び出したのはなぜかね」
「林を、知っていますか」
「知っているもなにも、あのような化け物、忘れようとしても無理だ。 司馬一族の闇の仕事は一手に引き受けているようだし、いにしえの豪傑でも連れてこないととても倒せはしないのではないのかな」
「その林が、とても大きな、危険な陰謀を目論んでいる可能性があります」
そうかも知れないなと、賈充は茶をすすった。まあ、林をいつも間近で見ているのなら、当然の反応だろう。
だが、それでは困る。
ここしばらく、ケ忠は具体的に林が何を目論んでいるか、分析を続けてきた。
今までの司馬一族の暴虐の影に林がいて。そして、歴史を動かしてきたとしたら、目的は安易に中華全土の掌握と言うことになる。
だが、それは違うという結論が出る。なぜなら、既に裏側では、林が三国全てに睨みを利かせているも同然だからだ。しかし、林は本気で此方を排除に掛かってきている。下手をすると、今後は軍も繰り出してくるだろう。
それは、なぜか。
まだ、目的が果たされていないからだ。
林は何か究極的な目的を持っている。闇の中で動き続け、全てを飲み込んできた邪神は、恐らくそれを近々達成しようとするだろう。馬超が言うように、欲望に向けて飛翔する瞬間だ。
その欲望が達成されたら、どうなるか。
「中華全土が、滅ぶかも知れません」
「どうやって?」
「林がもしも表の権力を握るつもりだったら、その機会はありましたし、司馬一族の傀儡化も難しくはなかったと思います。 しかし、林は司馬一族の頭目を暴れ回らせながら、自分は影でのうのうと過ごしていた。 違いますか?」
「違わないな。 私もそれには同意する」
既に、結論は出ている。
まだ、仮説だが。極めて可能性が高い仮説だ。
「林は恐らく、司馬炎が皇帝になった直後に、暗殺するつもりです」
「何だと?」
「今、司馬一族には、司馬炎を除くとこれといった人材がいません。 意図的に横並びの人材ばかりが揃っています。 それを不思議だとは思いませんか」
「……続けてくれ」
賈充の目が熱を帯びた。話に食いついてきたと言うことだ。
証拠は、無い。しかし、集った剣の全てが、林の危険性を理解している。このままだと中華全土を飲み込もうとしていることも。
もしも林が望む世界があるのなら、それはどういうものか。
太平の世ではないだろうと、最初に斬り捨てることが出来た。では、戦乱の世なのか。しかしそうなってくると、なぜ今までそうしようとしてこなかったのが気になる。
陳覧とも話し合って、出た結論がこれだ。
「恐らく林は、天下統一に近い状態にまで持ち込ませて、其処で一気に中枢を断つつもりなのだと思います。 これが成功すれば、恐らく天下は歴史上類がないほどの大混乱に陥るでしょう」
「ふむ……」
「司馬炎は今のところ、呉を討伐する前に皇帝を名乗るつもりのようです。 それを考えれば、今が暗殺の一番の好機でしょう。 もしも呉を討伐し終えた後だと、林は用済みとして、消される可能性があります。 如何に林と言えども、天下統一を果たした覇者が本気で殺しに掛かったら、逃げられるものではありませんから」
賈充はじっとケ忠の目を見ていた。恐らく、ケ忠が考えたことか、判断をしている所なのだろう。
腕組みしていた賈充だが、不意に茶を飲み始める。ずずっと音を立てて、湯飲みの底に残った一滴まで飲み干すと、大きく嘆息した。
「なるほど。 理にかなう話ではある」
「あまり、大きな協力は求めていません。 林の居場所と、それに軍の介入だけでも防いでいただければ」
「少しばかり遅かった」
賈充は、少し疲れたように見えた。
ケ忠が口をつぐむと、懐から竹簡を取り出す。それは司馬炎の直筆らしい、命令書であった。
それにはこう書かれていたのである。
皇帝を翌日退位させる。既に準備は整っているので、お前は周辺で蠢いている連中を排除するように、と。
蠢いているというのは、曹家に忠誠を誓う家臣達のことだろう。傲慢な言葉の羅列に吐き気がしたが、確かに一見すると、もはや林の行動は止められないようにも思えた。
「見ての通り、ケ忠。 君の言葉が正しければ、間もなく林は動く。 そして油断しきっている司馬炎様は、殺されるだろう。 戦争が中央から遠のいて、腕利きはますます数を減らしてきている。 一応凄腕が周囲の警備に当たっているが、林から司馬炎様を守れるかどうか」
「いえ、これはむしろ好機です」
「何?」
「林の居場所が特定できるからです。 林は恐らく、必ず司馬炎を自分で仕留めるために動きます。 其処に居合わせれば、倒すことが出来ます」
賈充が驚きに目を見張る。
ケ忠は、更に続けた。
「林は恐らく、此処に全ての兵力を投入してくるはずです。 警備は細作達に皆殺しにされるでしょう。 そこで、我らが割って入ります。 その許可をいただきたく」
「しかし、そなたらは司馬炎様を恨んでいるはずだ。 近づける訳には行かぬ」
「恨んではいます。 でも、理解はしています。 司馬一族がいなければ、今の魏は崩壊してしまうと」
いずれ遠からず、崩壊の日は来るだろうとケ忠は諦めている。
しかし、天下統一と太平は、短い時間でも来る。そして何より、ひょっとしたら司馬一族も、天下を取れば少しは変わるかも知れない。司馬炎がきちんと後継者を育てれば、その政権は安定するかも知れない。
もしも駄目であっても、馬超が作り上げた知恵の路がある。民は誇りを身につけて、生きていけるはずだ。今、知恵の路はほぼ完成している。そして関索らが各地で広めている三国志の物語は、いずれ全土を覆うだろう。英雄達は、民の心に住む。もう少し時間があれば、中華という文明の消滅は避けられるのだ。
その時間を。命を賭けても、作らなければならなかった。
「林を倒せる手駒がいるのかね」
「手駒はいません。 でも、同志ならいます」
「……ふむ、まあいいだろう」
闇の権力闘争を生き抜いてきた男が、連れてきた護衛に耳打ちする。頷くと、彼は一足先に闇へ消えていった。
新しい茶を向黎が注ぐ。それを吹いて冷ましてから、また啜り始める賈充。この据わった肝が、闇の中を生き抜いてくれた秘訣なのかも知れない。
「思えば林はあまりにも便利すぎた。 あれほど闇を影を引き受けてくれる奴はいなかったし、なにより作戦の遂行率が常識外れに高かった。 私もその行動を危険だなと思いながらも、見逃してきてしまった。 責任は取らせて貰う」
「賈充将軍」
「ただ、出来るのは現場に迎え入れるまでだ。 逃げるのは自分でやって欲しい。 それに、将軍として返り咲くことは不可能だと、理解はしていて欲しい」
「分かっています。 既に、同志達全員の同意を取っています」
そうかと、賈充は呟いた。
蝋燭の炎にその顔が照らされる。賈充は、実際の年齢よりも、ずっと老け込んでいるように見えた。
「私も、この世界に生きるのは少し疲れていた。 もしも平和な世界が来るのなら、それで安定するのなら、とても嬉しいと思う。 だが、その土台になった無数の屍が、どれだけの涙を流したのか。 忘れてはいけないとも思っている」
「僕も、漢中から脱出するまで、それを理解できませんでした」
「お互い、愚かな話だ。 だが君はまだ若い。 出来るだけ追撃が掛かるのは防ぐようにするから、必ず生き残れ。 未来を捨てるでないぞ」
抱拳礼をかわして、一度その場を離れる。
決戦の時は、近付いていた。
3、邪神の終わり
皇帝退位。
そして、司馬炎の皇帝即位。
それらの一連の事件は、あまりにもあっさりと行われた。反発する者も殆どでなかった。既に魏は十年も前から、司馬一族の私物も同然であったからだ。司馬師の時代にはまだそれも確実ではなかったが、王俊、母丘険、諸葛誕らの乱に加えて、蜀漢討伐におけるケ艾、鐘会の退場によって、それは完全な未来となった。
そして今、来るべき未来が来たのである。
歯がみする者もいた。だが、司馬一族の権勢は絶対だった。
この禅譲という行動には、一応の儀礼的作業が必要になる。皇帝というものを秦の始皇帝が名乗ってから、あまり回数を経ていないのに、それが絶対であるかのようになっているのだから、前例とはいい加減である。ましてや、皇帝の地位を奪うという行為は、曹丕がほぼ最初である。それなのに、司馬一族も天下に己の正当性を示すために、その前例に従わなければならなかった。
皇帝の地位を得る者は、すなわち「力づくで」奪い取ったのではないと示さなくてはならない。そのためには、皇帝が権力の委譲を申し出て、それを臣下が「嫌々ながらも」受け取るという構図を作らなければならない。つまり二回にわたって委譲の申し出を断り、三回目に「仕方が無く」皇帝の座を受け取るのである。
天下万民の一人として司馬一族の野心を知らぬ者などいないというのに、とんだ茶番劇である。だが、それら一連の作業を行う司馬炎は、とても嬉しそうで、なおかつ満ち足りた表情をしていた。
洛陽の、宮殿近くの街路。遠くから茶番を見ていた陳式は、少し呆れた。
劉備が即位する時も、色々と面倒な手順は踏んでいた。それも茶番に近いものではあった。だがこれはどういう事なのだろう。誰もが知っている茶番劇だというのに、司馬一族は嬉々として醜悪な喜劇を演じている。民が誰も知っていないと思っているのだろうか。或いは後世のために正当性を示そうとしているのだろうか。おかしな話である。
いずれにしても、この儀式を喜んでいるのは司馬炎と、その側近の中でも頭が悪い連中だけである。万歳、万歳と叫ぶ兵士達の後ろをさっと陳式は通り抜ける。兵士達は知らないようだが、既に報告は届いている。
林配下の細作が、動き始めているのだ。
賈充が味方についてから、色々と分かってきたことがある。それは、必ずしも林の配下は一枚岩ではないと言うことだ。
曹操の時代くらいまで、林は非常に警戒されていて、部下もごく少数しか任されていなかったという。
これが急激に膨張し始めたのは、司馬一族の時代から。それまでの戦果を評価したというのは表向きの話。裏側では、賈充が言っていたように、あまりにも便利な林を、重宝して使っている内に、権力を伸ばしてしまったというのが実情であるらしい。
そしていつの間にか、裏側から糸を引くように、操られてしまうようになった、と言うことか。
もっとも、司馬炎の即位の状況から言って、完全に林の操作下という訳でもないようである。それに、司馬炎は俗物だが、見た感じちゃんと自分の意思を持っている。ある程度巧く行かない部分とも妥協しながら、林は己の天下統一作業を進めていた、という事なのだろう。
その辺りを鑑みると、邪悪な林にも人間味を感じてしまうので面白い。
だが、奴を生かしておいては、この文明そのものが崩壊してしまう。特にケ忠が陳覧や姜維と推察した通りの状況になりつつある今、林を逃がす訳にはいかなかった。
街路を抜けて、宮殿の裏口に。其処では既に、姜維が待っていた。
「陳式将軍。 司馬炎は」
「得意満面だったよ」
「そうですか」
苦々しげに、姜維は笑った。複雑な気分なのだろう。結果として魏に利するような行動をしているのだから。
関索はもう興味がないようで、青竜刀を無心に磨いている。講談を行う一座を経営して中華を回っていると言うことで、当然役者になる時は演技もするが。しかし普段は、到って寡黙である。昔はこうではなかったらしいので、年老いてから性格が変わったのだろう。或いは世界を知ったことで、心が練られたのかも知れない。
新王朝は「晋」と名付けられる予定だそうである。既にあらゆる準備が整っているようだが、兵士達の万歳の唱和とは裏腹に、喜んでいる民が見受けられないのが面白い。馬超とは別口で、政治腐敗を批判する集団も出てき始めているという。竹林の七賢とあだ名されているそうだ。
「ふっ、七賢か」
「晋王朝とかいう新しい王朝そのものが茶番なのだから、当然のことでしょう。 此処で誰も批判の言葉を挙げない方がおかしいのだと思います」
姜維は陳式と接する時、以前と同じ、柔らかい口調に戻っていた。もう大将軍ではないし、今までは権威づけのために必死になって威厳を作ろうとしていた部分があったのだという。
陳式は既に賈充が話を通した門番に案内されて、宮中にはいる。質素で実用的だった蜀漢の王宮に比べると、やたらと豪勢で、くらくらするほど俗悪な作りになっている。
「これは、曹叡皇帝が晩年作った宮殿を改装したもののようです」
「晩年は愚行を重ねたと聞いているが、これでは確かに民も怨嗟の声を挙げるな」
「正確には、曹叡陛下の行動ではない」
不意に、第三者の声。現役時代のものらしい、近衛の鎧を着た許儀が、いつの間にか側に立っていた。かって彼の部下だったらしい近衛兵達も、周囲に集まってきている。
「陛下は幼い頃から激務に携わらなければならず、様々な問題もあって、心の中にもう一人の自分が住んでしまっていたのだ。 晩年はそのもう一人を抑えることが出来ず、数々の愚行が実施に移されてしまった」
「そう、だったのか」
「そうだ。 魏の恥だとは思うが、陛下の名誉のためにも、それだけは知っていて欲しい」
「ん、悪かった。 不意に愚行に走ったと言うから妙だとは思っていたが、そのような事情もあったのだな」
許儀の苦い表情から言っても、まだ裏には何枚か事情がありそうだが、それで話を切る。
既に細作部隊も集まってきている。林の配下も、此方の動きをそろそろ察知するだろう。
後宮近くに、ケ忠は先に潜り込んでいた。この辺りからは警備が厳しくなり、賈充による買収もあまり効果がなくなってくる。しかも賈充と対立する部分もある参謀集団の王基がこの辺の警備を統括している部分もあり、面倒ごとになると厄介だ。
「既に、敵は動き始めています」
「司馬炎は好色な男だと聞いている。 皇帝即位の儀式を済ませたら、すぐに後宮に来るだろう。 其処を林は狙うはずだ、だったな」
まだ若かった曹奐は、お情け代わりに後宮だけは与えられていた。曹髦よりも貧しい規模であったが、一応皇后と、後何名かの妻がいた。もっともそれだけしか規模がなかったので、縮小運営を余儀なくされていた。
その結果、後宮は警備だけをする部屋が無駄に増えており、それらは倉庫代わりに扱われているという状況であった。だから其処に、司馬炎は屋敷に囲っている何名かの寵姫を始めとした、国中の美女を集めるつもりだという。
司馬昭に比べると陰湿さが少ないが、代わりに頭の悪さが目立つ男だ。欲望が豪放なのは結構だが、それが国政を乱すようでは全てが破滅してしまう。そして今、この男の他に、司馬一族を纏め上げる人材はいないのだ。
「より醜悪な邪神よりも、眼前の汚物を選ばなければならないとは。 何だか悲しくなってくる話だ」
「言うな」
陳泰に、陳式が釘を刺した。
戦場での用兵ぶりから分かってはいたが、陳泰はかなり熱い心の持ち主だ。だから曹髦の最後に絶望し、魏を捨てる覚悟を決めた。片足を悪くした元凶である蜀漢軍出身の陳式と一時的に組んでいるのも、己の熱い心に従った結果なのだろう。
外では乱痴気騒ぎが続いている。曹奐は下座に据えられて、司馬炎に酌をさせられていると言うことであった。
やがて、夕刻になると、宴もたけなわになってくる。後宮の辺りが、俄に騒がしくなってきた。司馬炎が、お気に入りの女達を詰め込んでおくようにとでも、部下に命じたのだろう。
着飾った女達がぞろぞろとやってくる。雰囲気は様々で、背の高い者低い者、中には西域の出身らしい金髪碧眼の娘もいた。司馬炎が好色家であり、女の人格よりも容姿で選別しているのは、中に入っていく様々な様態を持つ女達を見るだけで明らかである。仏門にいる許儀が、手を合わせて仏に何か祈っていた。煩悩を払うためかも知れない。
警備も騒がしくなり、だがやがて静かになった。
異変が起こっている事に、陳式は気付く。関索が青竜刀を手にすると、眼を細めて周囲を見回した。
「……妙だな」
「どうしたのですか」
「入った者が、一人も出てこない。 こう忙しく中に入っている侍女達が多いというのに、これはどういう事か」
「そういえば、妙ですね」
茂みから顔を上げそうになったケ忠のあたまを下げさせる。何も知らない鴨が、後宮近くの庭池に降りてきて、羽を休めた。
一刻もすると、異変は更に加速した。警備の兵が、次々に減っていくのである。しかも、全く騒ぎが起こる様子がない。
「まさか」
「どうやら、そのまさからしいな」
馬超が愛用の大長刀を取り出す。六十斤はありそうな巨大な代物である。関索の青竜刀も大きいが、更に刃が凄まじい。
「此処で騒ぎを起こせば、すぐに事態は発覚するのでは」
「そう簡単にはいきそうもない。 外も見ろ」
そういえば。宴で盛り上がっている外でも、何だか様子がおかしくなっている。最初は酒を飲んで暴れている者でも出ているのかと思ったのだが、違う。暴れ馬が出たとか、牛が暴れているとか、騒ぎが大きなものばかりが聞こえてくる。
ついに、後宮の兵士は、一人も姿が見えなくなった。
宮殿から、司馬炎が出てくる。護衛の武人達もいる。
上機嫌な司馬炎は、したたかに酔っていた。顔を真っ赤にして、酒臭い息を吐き散らしながら、後宮に足を進めている。おかざりの皇帝曹奐から全てを奪い、最後の領土である後宮をも今や征服しようとした、その瞬間。
護衛の武人達が、一斉に倒れ伏す。喉に眉間に、短刀が突き刺さっていた。
「な、何事か!」
煙のように現れた数名の細作が、司馬炎の鳩尾に拳を叩き込む。呻いた司馬炎が、意識を失い、崩れ落ちた。その巨体が、後宮の奥に引きずられていく。
立ち上がった馬超。ケ忠も頷くと、叫んだ。
「行きます! 作戦上の目的は林を倒し、司馬炎を殺させないことです!」
「応!」
その場の全員が唱和する。
既に、後宮は魔の巣窟と化していると考えて、間違いなかった。
許儀が最初に後宮に躍り込む。陳式はそれに続き、足を引きずりながら陳泰が。ケ忠を守りながら姜維が入ると、馬超も。そして、鳳と向黎が続いた。殿軍は関索が努めてくれた。
流石に戦場経験がない陳覧は置いてきたが、これは仕方がないことである。向寵は数名の細作と共に残り、退路の確保に努めることとなった。
警備経験がある許儀が先行して進む。辺りには血が飛び散った跡が点々としており、如何に大規模な殺戮が行われたのか、一目瞭然だった。
角を曲がった瞬間。鳳が飛び出し、鋭く剣を振るった。飛来した短刀が、弾き落とされる。
闇の中から現れたのは、彼と同じ、恐らく山越出身らしい細作達だった。逞しい体つきで、しなやかな筋肉が全身を覆い、肌は浅黒い。戦士として産まれてきたような者達だが、残念ながら目には感情が無い。薬物か何かで洗脳されているのだろう。
「此処は、任せて貰おう」
「いいのか。 林を倒してしまうぞ」
「かまわん。 ただし、必ず倒してくれ」
恐らく、同じようにして生きてきた者達なのだろう。鳳の目は、怒りと、それ以上の悲しみに満ちていた。ケ忠が止めようとしたが、許儀が肩を叩く。
その場に鳳を残し、走る。後宮の中は規模が小さいとはいえ、それでもなかなかに広い。時々、死骸が無造作に放置されていて、無惨な有様にもなっていた。
許儀が足を止めた。
四つ角になっており、十名以上の細作が待ちかまえていたのである。いずれもが手練れだとわかる。もたもた戦っている時間はない。本来なら各個撃破の好機なのだが。無言で出ようとする馬超を、陳泰が止めた。
「此処は、私が残る。 先に行け」
「……私も残る」
陳式は頷くと、自分も此処に残ることとした。馬超が前を塞ぐ数人を蹴散らし、ケ忠と、許儀と一緒に抜ける。姜維が向黎および細作数人と一緒に駆け抜けるのを見届けると、陳泰と背中合わせに立った陳式は、皮肉な笑みを浮かべた。
「まさか貴殿と一緒に戦うことになるとは思わなかったな」
「同感だ」
陳泰が仕込み杖を抜く。
陳式は、天をも貫くと称される曹操の秘宝であった剣、倚天を引き抜くと、目を閉じた。義父陳到に、詫びなければならない。例え大局のためとはいえ、司馬一族を救うことになる行動を取るのだから。
「此処で果てることはない。 追いつくためにも、蹴散らすぞ」
「無論だ。 このような有象無象、冥府への道連れには寂しすぎるわ」
殆ど同時に、床を蹴る。
そして、闇に生きる者達に躍り掛かった。
次に抜けたのは姜維だった。やはり司馬一族のために戦うのは嫌だと言って、向黎と一緒に、追撃を仕掛けてきた敵を防ぐ壁となってくれた。姜維は凄まじい達人だったが、それでも敵の数は数十はいた。
ケ忠は唇を噛む。
あの状況で、生き残れるかはわからない。王桓を始めとして、確かに一騎当千と呼べるような武人はいる。姜維もその一人であることは確かだが、果たして何処までその武芸も通用するか。
部下ではない。同志なのだ。戦場では数百の兵士が瞬く間に死んでいく。それを何処かで当然と思っていた。だが、違う。皆、生きていて、それぞれの人生を送ってきた者達なのだ。
関索も、途中で離れた。無数の矢が飛んで来て、それを水車のように青竜刀を振るって打ち払いながら、先に進むように叫んだのだ。どっと、数十人の細作が襲いかかるのが見えたが、それきりだった。関索なら勝てると思うしかない。
だが、敵は兎に角大勢である。中華にいる細作の内、何割という数が此処に集結しているのかも知れない。何度目の壁か。あまり広くもないはずの後宮で、また敵の抵抗にうち当たる。ずらりとならんだ十数名の細作。その先頭に立っているのは、感情を失ったらしい男だった。身につけている鎧から言って、多分司馬一族の側近だった者だろう。
そういえば。曹髦の殺害を全て押しつけられ、処刑された成済という者がいるらしい。その関係者か、或いは本人かも知れない。
進み出たのは許儀だ。
「恐らく、林がいるのはこの先でしょう。 此処を抜ければ一本道です。 急いでください」
「許儀将軍」
大丈夫。まだ御仏の下に行く気はありません。
敵の中に斬り込んだ、許儀の言葉が、ずっと耳に残り続けた。
既に馬超と二人きりである。
闇の中を、走る。役に立てるかはわからない。だが、せめて、歴史の証人として、その場にはいなければならなかった。
血の臭いが濃くなってくる。本能で理解する。
この先に、いるのだと。
「丹田に力を込めろ。 気圧されたら、一瞬で死ぬぞ」
馬超に頷く。そして、闇の中へ、また一歩を踏み出した。
無数に積み上げた死骸の山。いずれもが、後宮の警備兵や宦官、それに司馬炎の女達であった。皮肉な話で、曹奐の皇妃達は先に彼女らに追い出されたので、林が殺す暇がなかった。今頃曹奐と共に宴で泣いているか、新しく与えられた屋敷という名の襤褸小屋に押し込まれている頃だろう。
配下の細作達は青い顔をしている。古参の者達でさえ、だ。
「何を青ざめている」
「し、しかし」
「私と司馬一族とどちらを恐れる。 私は地獄まででも、お前達を追っていくぞ」
後宮の天井に届かんばかりに積んだ死骸の前で、林は口の端をつり上げた。もっとも忠誠心が高い、というよりも思考能力を奪っている部下達が、司馬炎を引きずってきたからである。
完全に白目を剥いている司馬炎に、井戸水をぶっかける。
皇帝しか着ることを許されない黄色い衣を身に纏っていた司馬炎は、突如天から振って湧いた災厄に、悲鳴を上げた。
「き、きさま、林!」
「こんばんはあ、陛下ぁ。 とても楽しい宴だったようですので、私も血が騒いでしまいました」
「ふ、ふ、巫山戯るなっ! このようなことをして、無事で済むと思っているのか!」
「というか、これが私の目的でしたから」
最初は、闇から中華の全てを操作するつもりだった。
だが、歴史は林にそれを許そうとはしなかった。だから、全てを滅茶苦茶にして、掌の上で転がすことにしたのだ。
英雄は求めるくせに、闇は認めようとしない。そんな歴史に、林は怒りを感じた。だから、全てを滅ぼすために暗躍を続けた。そして司馬一族が、司馬炎以外に人材がなく、しかも全土の権力を掌握しようとしている今。行動を起こしたのである。
「呉を滅ぼした後即位するのでしたら、それまで待って上げたのですがねえ。 まあ、その時には私も用済み扱いされる可能性がありましたし」
「か、勝手なことをほざくな! 貴様、許しはしないぞ」
「まな板の上の鯉が、何を偉そうに。 さて、晋王朝最初で最後の皇帝陛下を、切り刻んで上げるといたしましょう。 在位一日にも満たない、歴史上最短の皇位として、名が残るかも知れませんね」
くすくすと笑いながら、林は柳剣を抜く。
無様な悲鳴を司馬炎が挙げた、その瞬間。場に、異物の気配が入り込んだ。
「! ほう……」
「林大人?」
「侵入者だ。 後宮の入り口から突入して来た。 全員で押さえ込め」
細作達は動かない。青ざめている者もいる。妙な空気を感じ取った林は、舌打ちした。
まさか、此奴ら。この機に、この土壇場で、寝返る気か。
侵入者は大した数ではない。当然である。
宮殿の外では、陽動部隊が派手に暴れているからだ。最初は小さな騒ぎを繰り返させていたが、今は火をつけさせ、人を殺して廻させている。警備をしている武将も、とっくに命を落としているだろう。
王濬や社預は、洛陽の門の警備に廻されてしまっていて、異変に気付いても部署の違いで駆けつけてくることは出来ない。此奴を切り刻んで脱出する時間は充分にあるはずだ。
事前に、林はそれをしっかり説明した。それなのに、なぜ部下共は動かない。
苛立ちからか、林は敬語で喋り始めていた。
「侵入者は十名ないし二十名。 腕利きが揃っているようですが、勝てない数ではありません。 さっさと行きなさい」
「こ、断ります!」
「何……!?」
「貴方はイカレている! もう、貴方の異常な沙汰に、つきあう事は出来ません!」
こめかみが引きつる。このあほう共は、何をほざいているか理解できているのか。
しかも万一を考えて、この作戦に投入した千名余は、数年以上部下として仕えている者を厳選したのだ。どうして今になって造反を考える。
そろりそろりと逃げようとする司馬炎の腿に、無造作に剣を突き刺した。無様な悲鳴を背に、林は目に炎を燃やした。
「細作は、闇に生きる者。 頭がおかしいのは当然のことです。 私の配下として、数々の汚れ仕事を実施しておきながら、何を今更。 今殺すのは勘弁して上げますから、さっさと行ってきなさい!」
「む、昔から貴方の狂気にはつきあいきれないと思っていました! そして今、貴方が倒される時が来ようとしている! 貴方と一緒に滅びるのは、まっぴらごめんだ!」
「じゃあ、先に死になさい」
林は、闇の疾風そのものと化して、残像を残し跳躍する。
部下共の首を五つ、瞬く間に刎ね終え、着地する。剣を振るって血を落とすと、舌打ち。中枢にいる中級以上の指揮を任せている此奴らでこれでは、他がどうなっているかわかったものではない。
「ひ、ひひひひっ! 無様な事よな、林!」
「貴方ほどではありませんよ」
刺していなかった左の腿も突き刺す。屠殺される豚のような悲鳴を上げた司馬炎が、武人として高い評価を得ている人物だというのが、笑えてくる。
とりあえず両足は動けないようにして、これで獲物は逃げられなくなった。しかし、中枢の部下共が、この機に離反するとは。さっさと此奴を殺して、この場を離脱する方が良さそうだった。
飛び退くことが出来たのは、極限まで磨き抜いた勘が故だろう。林の首があった位置を通過した一撃は、肉にも髪にもかすることはなかった。十歩ほどの距離を飛び退き、着地した林は、見る。
闇の中歩み来る者を。
二人。
一人は、ケ忠。生きているとは分かっていたが、なるほど。此奴が首魁だったか。
そしてもう一人は、大柄な老人だった。見覚えがない。いや、何処かで見たような気がする。
少し考え込み、思い出す。
そうだ、この老人は。
「なるほど、相手は亡霊でしたか。 気付かない訳ですね」
「ふん、邪神が亡霊を恐れるか。 面白い話だ」
いかめしく鎧を着込み、六十斤はあろうかという大長刀を手にしているその男は。
既に死んだはずの男。馬超であった。老いていても、この独特の気配は見覚えがある。そして、今まで林の部下を殺し回った奴の正体も、これで分かってしまった。なるほど、関羽や張飛並みの腕前をこの年まで維持していたという訳だ。
司馬炎は痛みにしくしくと泣いており、逃げられる恐れはない。かといって、殺そうとすれば即座に馬超が長刀を繰り出してくるだろう。
丁度いい。
ずっとずっと昔から、英雄を殺したいと思っていたのだ。それが例え亡霊であっても、林の目的には合致する。
「やっと、夢が叶いそうですよ」
「そうか。 それはよかったな」
気合いの咆吼と共に、馬超が撃ち込んできた。
駆け抜けた閃光の上を跳躍し、天井にぶら下がる。鋭く突き込まれた数撃を、身を捻ってかわしながら、飛ぶ。死体の山の上に着地。ぐちゃりと、いい音がした。
懐から取り出す、数本の飛刀。掌にはいるほどの大きさだが、実は拳大の鉄の塊よりもずっと重い。非常に重くすることで、破壊力を見かけより遙かに高くしている特注品だ。普通の人間では投げることも難しいが、林にとっては小枝も同じである。
既に司馬炎を運んできた細作は、馬超とケ忠の周囲に展開して、激しく刃を交えている。意外だったのは若造だったケ忠だ。善戦して、一人を倒した。馬超は縦横無尽に刃を振るい、次々と細作達を打ち倒している。
だが、所詮は若造。
剣が腕を貫き、呻いて横転するケ忠。馬超は無言で、ケ忠を刺した一人の首を跳ね飛ばした。
馬超が此方を見る寸前、飛刀を放つ。はじき返されるが、その動作を相手が行う間に、間合いを詰めていた。ケ忠を無力化したのは、いざというときに横やりを入れられるのを防ぐためだ。真下からの一撃を、馬超は長刀を振るって防ぎ抜く。足を狙って数度剣を振るうが、いずれもまるで生き物のように動く長刀の柄に防ぎ抜かれた。
降ってくる、流星のような一撃。
飛び退く。床が林の背丈の五倍に渡って砕け飛んだ。
にらみ合う。林は新しい飛刀を懐から出しつつ、ゆっくり間合いを計った。
以前典偉を殺した頃と、林の腕は比較にならない。だがその時とは状況が違う。馬超は十全な状態だし、何より時間の制限が厳しい。外で陽動をしている連中も、いつまでも軍を抑えてはいられないだろう。後宮の異変に気付いて、宴を開いている連中が騒ぎ出す可能性も否定できないのだ。
だが、此処は敢えて持久戦を挑むべきだ。そう林は判断した。
ふわりと、飛刀を投げ上げる。そして、手にしている残り一本で、その全てを馬超に向けて弾いた。変則的な軌跡を抱いて、躍り掛かる飛刀の群れ。呻くと、馬超はその全てを丁寧にはじき返す。ケ忠は腕を押さえて立ち上がっており、柱を利用して林の動きを生意気にも伺っている様子であった。
また、飛刀を取り出す。馬超は鼻を鳴らした。
「どうした、接近戦は怖いか」
「ええ。 流石に西涼の錦を相手に、接近戦で勝負を決める気はありませんよ」
「後ろには通さぬぞ」
馬超の言葉が終わるか否かの内に、林は飛刀を投げはなっていた。難なく弾いてみせる馬超。だが、林は見抜く。
やはり年だ。反応が遅くなってきている。次々に飛刀を投げながら、林は走る。死骸の山を挟んで、林と馬超は激しい攻防を繰り広げながらも、確実に有利不利が確定していく。林は白目を剥いている宦官の死骸を踏みつけながら跳躍、天井を蹴って、馬超の頭上から一撃を叩き込む。
馬超の長刀が、折れた。
踏みとどまり、回し蹴りを叩き込んでくる馬超。紙一重でそれをかわしつつ、床に手を突いて反転跳躍しつつ、飛刀を投げつける。いずれもが、既に人間の反応速度を超えた攻防である。しかしながら、二本になった長刀でそれを弾く馬超。流石である。だが、その額からは滝のように汗が流れ始めている。
貰った。
ふと見ると、司馬炎はケ忠に助けられて、柱の影に逃げ込んでいた。まあ逃がしはしないが、少し面倒くさい。機転が利く若者は嫌いだ。飛刀を更に取り出す林を見て、石突きの着いた方を捨てながら、馬超は苦笑した。
「まるで全身が武器庫だな」
「暗器という奴ですよ。 大体の相手は一瞬で殺せるんですが、私は貴方のような英雄を殺すことに昔から憧れていましてね。 準備は怠らなかった、という事です」
「残念ながら私は英雄ではないさ。 西涼を守れず、曹操にも勝てず、そして劉備皇帝の天下統一も助けられなかった」
馬超が構えを取り直す。此処からは接近戦だ。暗器は全て、間合いを詰めるためだけに用いる。
「それでも、貴方は英雄ですよ」
「ならば来るがいい」
残像を残して、跳躍。空中で飛刀を全て投げつけつつ、天井を蹴る。そして反転しつつ床を蹴った。床を這うようにして、蜥蜴のように床を蹴って叩いて加速。残像を残して、馬超との間合いをゼロにする。
馬超が、長刀を振り下ろしてくる。
だが、空中からの飛刀を受け止めた時に、目に汗が入ったのを見た。故に、長刀が遅くなっているのを見切っていた。
通り抜け様に、左足を払う。
切り落とすまではいかなかったが、刃は確実に食い込み、肉を切り裂いた。
「むうっ!?」
通り抜けた瞬間、肩に激痛が走る。流石は馬超。今の一瞬に、林の肩を一撃が掠めていたらしい。床に突き刺さった長刀が、蜘蛛の巣状に周囲を砕く。
跳躍。飛刀を投げつける。
怪我を押しながら振り返った馬超が、その全てをはじき返した。
だが、飛刀と一緒に飛び込んだ林が。その手にある柳刀が。
ついに、馬超の体を、貫いていた。
「馬超どの!」
ケ忠の悲痛な絶叫が響き渡る。
快感である。肩口から突き刺した刀は、馬超の背中まで抜けている。致命傷だ。殺した。ついに、林は英雄を殺したのだ。狂気に歪むその口が、一瞬後、驚きに強張った。
馬超は、静かな表情のまま、言い放つ。
「捕まえたぞ、邪神窮奇、いや林っ!」
「は、離せっ!」
体を貫かれて。致命傷を浴びながらも。馬超はその鍛えに鍛え抜いた筋肉で立ちつくし、林の足を太い手でつかんでいた。歴戦の細かい傷と、無数の皺が寄ったその手は、未だ考えられない筋力を発揮していた。
眼前で、馬超が林の凶刃に貫かれていた。
信じられない。幾ら年老いたとはいえ、あの英雄が。
立ちつくすケ忠。全ての敵を打ち倒した陳式は、ようやく此処まで辿り着いていた。
しかし、既にもう戦う余力はない。ケ忠も怪我をしている。しかし、選択肢は存在しなかった。呼吸を整えながら、ケ忠の肩を叩く。
「使え、ケ忠どの」
「陳式将軍!」
渡すのは、倚天。ここに来る途中も、多くの敵を斬ったが、まだ刃こぼれどころか切れ味もまるで衰えていない。曹操が金に糸目を付けず作らせたと言うだけのことはある。まさに無双の宝剣であった。
片膝を着く。老齢に、この激戦は厳しかった。それを見て、ケ忠も、陳式が剣を渡した理由を悟ったようだった。
若きケ忠は乱暴に目を擦ると、歩き出す。
馬超は、致命傷を受けながらも、林を捕らえていた。林は凄絶に顔を歪め、剣を引き抜こうとして失敗した。馬超が、筋肉だけで押さえ込んでいるのだ。懐から飛刀を取りだし、頭を刺す。眉間を深々貫かれても、馬超はなお立ちつくし、林を抑えていた。
「お、おのれえええっ! 亡霊め、離せーっ! この邪神窮奇は、これより空に向けて飛翔する! 混沌たる中華は、全て私のおもちゃ箱であり、えさ箱にもなるのだ!」
「そうは、させない」
林が、ケ忠に向けて、振り返る。
ケ忠は、陳式も、陳泰も。関索も、姜維も、向寵も。そして馬超も、許儀も。向黎も、陳覧も。集った剣、全ての志を、受け継いでくれていた。
目映いほどに光を放つ剣を見て、林の顔が恐怖に歪む。
林が飛刀を取り出すのと、ケ忠が踏み込むのは、ほぼ同時だった。
天井から、床に向けて走る一筋の光。
目映いばかりのそれが収まった時、力尽きた馬超と。遙か遠くまで切りとばされ、柱にぶつかって崩れ落ちる林の姿があった。
終わった。終わったのだ。
陳式は嘆息すると、床で父に、もう一度心中にて謝罪していた。
すっぽ抜けたのか、或いは剣そのものが林を倒したのか。
ケ忠はわからなかった。だが、林の胸中央に突き刺さった倚天は、腐食しているようにも見えた。想像を絶する怪物を斬ったのだとケ忠は知って、数秒、唖然として立ちつくしていた。
「く、くくくくくっ!」
林が、致命傷を受けながらも笑う。柱に走る罅が、少しずつ大きくなっているのが、ケ忠の場所からも見えた。
「私を殺したつもりでしょうが、すぐに後悔する事になりますよ。 その愚物は、呉を滅ぼせばすぐに責務を忘れ、暴政を敷くようになります。 その結果、天下は瞬く間に混沌の渦に飲まれる。 私の掌の上で混乱していた方が、まだマシだと思えるような、ね」
「知っている。 だが、それでも数十年は平和になるはずだ。 それだけでも、今貴様を倒す価値はある」
「数十年も平和になればいいのですが、ね。 く、くくくくくくっ!」
林の体の彼方此方から、炎が上がり始めた。
溶けるように、その小さなからだが燃え落ちていく。邪神の最後を悟って、ケ忠は息を呑んでいた。倚天も、林の体ごと燃え落ちていく。人外の者を斬ったことで、剣の寿命が来たのだろう。
「私は、英雄を殺した! そして、この地の歴史の、闇そのものとなるだろう! 例え史書に残らずとも!」
「例えそうだとしても、英雄達の生き様は民の誇りとなる! それが残る限り、この土地の文明は、全てがお前の思い通りにはならない!」
「抜かせ、小僧! この林! 邪神窮奇となり、この中華を何時までも仇為そう! ふ、ひひひひ、ひひひゃははははははははは!」
ひときわ激しくなる焔。
それが収まった時、既に林の痕跡は、倚天もろとも、地上から消え失せていた。
唖然としている司馬炎を残して、後宮を脱出して。退路を用意してくれていた向寵と一緒に、郊外の隠れ家まで逃れた。
馬超を連れ出せたのは、すぐに許儀が追いついてきてくれたからだ。致命傷を受けていた馬超だが、どうにかまだ生きていた。姜維も向黎も、陳泰も、それに鳳も。数本の矢を受けていた関索も、皆、それぞれの戦いを生き残り、勝ち抜いていた。
全員、汚れを落とす間もなく、馬超の寝台に集まる。泣いているものも少なくなかった。陳式もその一人だ。関羽や張飛とともに戦った、時代を代表する英傑の一人が、此処に、命つきようとしているのだから。
手の施しようがないのは、一目でわかる。医師をと言いかけたケ忠を制止して、馬超は言った。
「ケ忠。 最後の一太刀、見事だった」
「馬超、どの」
「お前になら、任せられる。 私が作った路をついでくれないか」
力強い手で、ケ忠の手を握る。
落涙しながら、若きケ艾の息子は何度も頷いていた。
討ち入り前に聞かされていたのだが、馬超は既に死の覚悟をしていたらしい。陳覧に、路の全ては継いでいるという事であった。
「陳覧、目録をケ忠に。 そして、後見を務めてくれ」
「わかりました。 この命尽きるまで」
「陳式、お前の息子は確か蜀漢が滅んでから、魏に歴史学者として採用されたのだったな」
「ええ。 もっとも御用学者ですから、史書を逸脱した内容や、司馬一族を悪く書くことは出来ないでしょうが」
それが、ほろ苦い。
それに陳寿は、自分で見たものしか信じない男だった。まめな性格をしていたから、調査のために各地を回るだろうが、それでも英雄の逸話は抑えて、自分が現実だと思ったことを書くことだろう。
司馬遷を例に出すまでもなく、優れた歴史家は存在する。だが、必ずしも彼らが、史書として真実を残せるかは、別の話になるのだ。特に現在の王朝の闇を書くことは不可能に近い。
「そう悲観するな。 私が作った路が民のための歴史とすれば、お前の息子の作る歴史は、国のための歴史だ。 どちらも良い所と欠点がある。 補い合っていけばよいのだ」
「馬超将軍」
「息子ともう会うことはないだろうが、何か支えるようなことを考えてやれ」
馬超の息が、少しずつ細くなっていく。
もう齢は九十なのである。この傷を受けて、精神力でこれだけ命を延ばしているだけで凄まじい。並の人間なら、とうに死んでいる所だ。
「姜維。 お前とはあまり面識もなかったが、これからどうするつもりか」
「わかりません。 よりどころが、全て失われてしまいましたから」
「ならば、弱き民のために働いてみよ。 話によると、そなたは元々姜家軍なる地方軍閥の長であったと言うではないか。 その頃のことを思い出してみると良いだろう」
姜維は頷く。
陳泰や向寵、鳳や向黎は、あまり馬超と縁もない。だからか、最後に指名されたのは、許儀だった。
「貴殿の父上は、強かったぞ」
「有難うございます。 最高のほめ言葉です」
「……あの世でも、また刃を交えてみたい。 ふふ、最後の最後に、武人としての性が蘇ってきたわ」
その夜。
馬超は大勢に看取られて、安らかにその激しくも長い命を終えた。
陳式は馬超の死を見届けると、外に出た。
既に洛陽の騒ぎは収まりつつある。後宮で何が起こったかは隠蔽され、史書には記されないだろう。
林が死んだ今、もはや歴史に不確定要素は存在しなくなった。司馬一族が呉を滅ぼすのは確定事項である。空から隕石が降ってきて司馬一族が全員吹き飛ばされでもしない限りは。
皆の戦いは、無駄にはなっていない。
それは分かっている。
だが、蜀漢の将として戦い続けた陳式は、いい知れないむなしさの中にいた。
だが、呉も魏もそれは同じだ。
関索が、遅れて出てくる。
無言で隣に立った関索は、何度か目を擦った。体に刺さった矢は、既に抜かれている。もういい年だというのに、流石に頑健であった。
「陳式どのは、これからどうなされるのです」
「そうさな。 まあ、旅をするのも良いでしょう。 林という邪悪が消えたことで、中華が平穏を少しの間は享受できるでしょうからな」
「ならば、我らときませんか」
少し考えた込んだが、陳式は頷く。
荊州に帰りたい。それに、父の墓にいきたい。
それには、関索の一座といくのが一番だと思ったからだ。
「実は、ケ忠どのにも声を掛けましてな。 少し忙しくなるでしょうが、いずれ一座を継いで貰おうと思っています」
「やれやれ、あの若者、過労死するぞ」
「何、そんな柔な玉ではないでしょう」
笑いあう。
そして、空を見上げた。
父は、陳到は最後まで寡黙に、己の生き方を貫いた。陳式は、結局世の流れには逆らえなかった。だが、それでも、最後の最後に、やるべき事はした。
「荊州と益州を経たら、武都に帰って、其処で死にたいな」
「……」
関索は何も言わない。
それが肯定であることは、わざわざ振り向くまでもなく、分かっていた。
幾万の星が、夜空で輝き続けていた。
4、呉の滅亡
陸抗は寝台ごと外に出して貰った。
長江に反射した日差しが眩しい。もう動かない体にも、それは心地よかった。
遠くに見えるのは晋軍の陣地。既に魏が終わって、随分時が経つ。だが晋に崩壊する兆しはなく、蜀の内乱も沈静化しつつある。蜀に赴任した王濬が善政を敷いていることもあるだろう。
それに比べて荊州は。自分がいなければもっとこの時代は早く終わったのかも知れないと、陸抗は自嘲的に呟くことしきりだった。
陣を見回らせる。
兵士達はこんな老いぼれでも慕ってくれる。それが嬉しく、そして歯がゆくもある。晋側に逃げ出す兵士も武将も極力見逃しはした。だが、それでも鎮圧しなければならない乱もあり、血涙を流しながら対処した。
既に知識人も民の多くも流出した荊州での小競り合いは、戦略的価値を喪失したというのに、未だに続いていた。
揚州では、陸抗が危惧したとおり孫皓が暴政を敷いており、諫言を行った多くの家臣が殺された。陸抗も死を恐れず何度も諫言したが、書簡が握りつぶされるだけだった。
既に体中の痛みは、限界に近い所まで来ている。医師に様態を聞いても応えてくれない程である。去年、ついにたまりかねて反乱を起こした小さな城を、羊枯との知恵比べに競り勝って先に落としたのが、最後の頑張りであったかも知れない。呉側の史書には降伏者数万人などと書かれているが、もちろん嘘だ。呉の軍事力は二十万程度が限界動員数であり、そんな戦力を一箇所の城に駐屯させている訳がない。降伏した小城にいた民も含めての数を、更に水増ししたのである。
呉から離脱しようとする臣民が増えているというのに、孫皓からは攻撃の指示ばかりが届く。襄陽を落とせ、江夏を落とせと、そのような内容ばかりだ。羊枯の守りは鉄壁で、お飾りの主である揚肇との組み合わせも上手くいっており、攻める隙など存在しない。何度も現状を訴える書状を送りはしたが、孫皓は聞き入れて等くれなかった。
二度、病身を押して、直接諫言もした。
だが、玉座にふんぞり返る孫皓は、いつも何かを食べながら陸抗に応じた。何を言っても、考えておくと応えるだけだった。そして、案を採用してくれることなど、一度もなかったのである。
分かってはいたが、その結果病状はさらに悪化した。
若い頃部下にしていたから、知っている。孫皓は決して愚かな男ではない。詩など作らせてみると、かなり皮肉の成分が多いものの、決して出来は悪くない。武芸もそこそこ出来たし、古今の書物も何度か読むだけですらすらと暗誦して見せた。
だが、欲望が強すぎた。
呉は孫策の時代から、四家の傀儡政権だった。逆に言えばそれだけ家臣の力が強かったことを意味する。孫権死後の混乱の時代を経て、ようやく孫家が主導権を得たが。しかしながら、結局の所、独裁政権には向かないのかも知れない。
最初の頃、陸抗は孫皓の暴虐の理由を理解できなかった。
今は何となくわかるようになってきている。要するに孫皓は、皇帝としての絶対権力を確保したいのである。そのために諫言する家臣は殺すし、気に入らない部下も殺す。それによって得られる恐怖で、皇帝としての絶対権力を確保しようと言うことなのであろう。もちろん、その原動力は、強すぎる欲望という訳だ。
この推察が正しいとなると、陸抗の諫言を受け容れない理由も何となくわかる。孫皓は、絶対権力者「皇帝」として、陸抗の意見を聞く訳にはいかないのである。もしそうなれば、絶対者としての立場が揺らいでしまうからだ。
歪んだ信念。その結果の暴政だ。
やっと寝所に戻った陸抗は、部下からの報告書に全て目を通していく。その殆どが、蜀にて大規模な攻撃軍が編成されているものを示唆していた。長江を下る晋の大艦隊が、編成されつつあるのだ。もちろん合肥や荊州からも、相当な規模の攻撃軍が攻め込んでくるだろう。
蜀の状況が安定しつつある今、もはや晋と呉の国力は、三倍以上、いや四倍超まで離れてしまっていると見ても良い。この状況で、暴政を敷き続けることがいかに致命的か。孫皓は強欲なだけではなく頑固な男だ。一度始めたことは引っ込みが着かないのかも知れないが、もはやそれどころではなかった。
指先が震える。病魔が、既に全身を侵している。何時死んでもおかしくない体だ。財産分与は既に済ませたし、もはや怖いものはなかった。筆を執り、諫言を書く。今までにない詳細な内容で、なおかつ厳しい弾劾の文書だった。
このままでは、呉は滅ぶ。
そう締めくくり、部下に持たせる。この人選もかなり悩んだ。諫言を見て激怒した孫皓が、部下に刃を向ける可能性もあったからだ。
だが、どの部下も。笑って、いくことを拒まないと断言した。
馬鹿な部下達だった。
諫言の手紙を出して、翌日。
ふと、枕元を見ると、陸遜が立っているのが見えた。陸抗は微笑むと、手を伸ばす。父は、優しい笑顔で、陸抗を迎え入れてくれた。
偵察に出していた部隊から、呉軍の動きを察知した羊枯は、大きくため息をついた。
執務室で頭を抱える。死んだのだ。陸抗が。敵ながら見事な男だった。そして、例え親友だったとしても敵将にして宿敵である。やることを済ませなければならなかった。
すぐに、益州に使者を出す。既に呉軍よりも数割増しの水軍が新しく編成されている。荊州で編成済みの水軍も加えると、規模は軽く倍以上に達するだろう。
司馬炎は、戦略として呉が腐敗しきるのと、陸抗が死ぬのを待っていた。蜀に手を焼かされたというのが理由らしいのだが、良くはわからない。晋になった直後、洛陽では公式に発表さえされていないが、かなり大きな混乱が起こったとも聞いている。新しく赴任してきた社預にそれを聞いても口をつぐんで応えてくれないので、結局何が起こったのか、羊枯は今も知らなかった。
彼方此方に手紙を出す。面倒くさそうに執務室に顔を出したのは、揚肇だった。すっかり年老いたが、相変わらず不機嫌そうである。曹家の親戚でありながら、生き残ることが出来たというのに。
「羊枯、状況は」
「何とかなるでしょう。 一旦攻め込めば、呉軍を一気に蹴散らすことが出来そうです」
「ふん、そうか」
「ただ、陸抗が死んだ直後となると、武将達もまだ団結しているでしょう。 どうせなら孫皓が余計な横やりを入れて、武将達が混乱し始めた辺りを狙って、攻め込むのが最上かと思います」
まず二年から三年。そう羊枯が言うと、揚肇は鼻を鳴らした。
やはり、根本的に興味がない様子であった。
揚肇は昔からこう言う所のある男だったが、天下の形勢が司馬一族に握られてからは、それに拍車が掛かった。時々お飾りの司令官として出てはくれるが、それ以外はずっと不機嫌そうな顔をして庭を弄っている。最近では詩会や酒宴にも、殆ど出てこなくなっている。部下達も不気味がっているが、最近は羊枯も、あの人がとても寂しい心を抱えていることを、理解できるようになってきた。
庭の手入れに戻ってしまった揚肇と入れ替わりに、社預が来る。真面目な若者は、既に陸抗の死を察知していたようだった。
羊枯もここのところ体の衰えが激しい。陸抗の後を追うのもそう遠くはないだろうと思っている。今、心残りなことはただ一つ。
陸抗が友情の証にと送ってくれた銘酒を、死ぬまでに飲み終えることが出来るだろうかという事だ。兎に角美味しい酒なのだが、度数が強すぎるのである。樽一杯を送ってくれたので、飲み干すのに難儀していた。
窓の外から、木を無心に切っている揚肇が見える。整った顔の社預は、皮肉でもなく、ただありのままの感想を口にした。
「相変わらず揚肇将軍は無気力ですね」
「そう言ってくれるな。 あの人も、難しい立場で何十年も苦労してきたのだ」
「それを言うなら、貴方も」
「いやいや、ケ艾の子飼いだった貴殿や王濬の方が大変だっただろう。 蜀から脱出できたのも奇跡に近かったと聞いているぞ」
社預は寂しげに笑った。
この男は、父の代からケ艾に色々助けられていたという。だから軍に仕官した時は、真っ先にケ艾の部下になることを選んだのだとか。そのケ艾が、汚い陰謀に填められて、蜀で死んだ。
恨んでいないはずがないのだ。
それなのに、天下太平のためと歯を食いしばり、晋の家臣であることを続けている。恐らく、感情で動く前に、周囲が見えてしまう男なのだろう。それは悲しいことなのかも知れないと、羊枯は思う。
若い頃は兎に角生意気だった羊枯だが、今は年相応の落ち着きを手に入れている。だから、有望な若者には、未来をつかんで欲しかった。
「そうだ。 二つ、今の内に貴殿に分けておきたいものがある」
「何でしょうか」
「一つは、水軍だ。 貴殿を招いたのは、呉を滅ぼす時に、荊州を一気に陥落させてほしいからだ。 そのためには、呉の水軍を完全に粉砕する必要がある」
益州では、王濬が盛んに水軍の訓練をしている。既に治安は王濬の善政で回復しているし、何よりそもそも晋の水軍に関する技術は、とうに呉を上回っている。そして荊州でも、老いた羊枯ではなく、若い社預が、今の内に水軍を掌握しておけば。
「高く評価していただけるのはありがたいのですが、残念ながら私は水軍の指揮経験がありません」
「貴殿は若い。 今から学べばよい。 私の配下の、優秀な水軍指揮官達も補佐に付ける」
「よろしいのですか、そのようなことをしてしまって」
「構わぬさ」
羊枯は、既に出世などは考えていない。陸抗との戦いが、人生の華だった。力量は完全に互角。勝ったことも負けたこともあった。むしろ、物量で圧倒的な此方に対して、良く陸抗は頑張っていたとも言える。
有望な若者として荊州に送り込まれはしたが、いつの間にか中央に戻るのは嫌になっていた。揚肇は面倒な人間だったが、それさえ我慢すれば荊州はむしろ羊枯には心地が良かったのだ。
今は、此処に骨を埋めたい。そう羊枯は考えている。
ましてや、やり残したことを、有望な若者に託せれば最高ではないか。
「もう一つだが、陸抗がくれた酒があってな。 私一人では、とても飲み切れそうにないのだ。 貴殿とは是非飲み明かしたいと思っていたし、どうだ」
「わかりました、つきあいましょう」
「ケ艾の話を聞かせてくれ。 かの名将を、ずっと側から見てきたそなたの話なら、さながら英雄が其処にいるかのように楽しめよう」
その晩、羊枯はしたたかに飲んだ。酔っても紳士だった社預を見て、本当に羨ましいとも思った。
そして、翌日。
遺言を書き越えた羊枯は、満足して襄陽の城壁に上がった。
遠くに、海のように広がる長江が見える。悠久の時の流れと共にある大河。あの川を巡って、何度も陸抗と戦った。
咳き込んで気がつくと、胸に大量の血が飛び散っていた。
ついに、この時が来たか。気がつくと前のめりに倒れかけ、社預に後ろから抱きかかえられていた。
「羊枯将軍!」
「社預どの。 ケ艾の話、楽しかったよ。 最後に冥土に良いみやげを持って行ける」
また、血を吐いた。大量の鮮血が、血だまりを作っていく。
目を閉じる。陸抗が、遠くから手を振っているのが見えた。また戦おう。気が済むまで相手になってやる。そう笑いながら言っていた。
いつの間にか、体が軽くなっていた。
嬉々として、羊枯は剣を抜き。陸抗と戦うべく、光の中を駆けていった。
羊枯の遺言状はすぐに司馬炎の下に届けられた。
既に呉には人材無く。各地戦線は疲弊の極みにある。
さらには呉帝孫皓は典型的な暴君で、既に民の心は完全に離れている。
呉が頼みとする水軍も、既に弱体化の極みにあり、一戦すれば必ず倒すことが出来る。
それが、要約した内容であった。
賈充はそれを見て、嘆息した。確かにその通りだろう。だが、司馬炎は。今、呉という最後の敵がいるから、最低限の治世を行えているのである。
林に殺されかけて当初は流石に反省もしていた。後宮のアホらしくなる程の規模も縮小して、政務をしっかりやるようにもなった。司馬一族の押さえ込みもしっかりやっているし、それなりにまともな政策も打ち出している。
だが、それも平和になったら終わる。
そして林が多分あの世で高笑いしていることだろうが、もう司馬一族にはまともな人材がいないのである。司馬炎がおかしくなったら、晋どころか中華そのものが一気に崩壊に進むこととなる。
それを、力を付けつつある周辺の異民族達が、見逃すはずもない。
賈充が反対するのを見て、驚く家臣達は多かった。だが、大多数は、この長く続いた戦乱を終わらせると言うことで、意思を一致させていた。
司馬炎は、気力さえ充実していれば、そして敵さえいれば、それなりに働ける皇帝である。それを家臣の誰もが理解していない。
何よりも、司馬一族に逆らえる空気が、既に晋には存在しない。
それが、致命的な事態を招く、決定打となった。
玉座から、司馬炎が立ち上がる。
「よし、では朕は諸将に申し渡す! 晋の全軍をもって、呉を滅ぼせ!」
終わった。中華が。
賈充は嘆息して、未だ何処かで生き延びているだろうケ忠に詫びた。
すぐに大軍勢が整備される。主力となるのは、益州に赴任した王濬の十万。これに社預の七万五千が加わる。合肥からも八万が出撃し、更に寿春からも五万。三十万を越える大軍勢である。
これほどの兵力が動員されたのは、諸葛亮の北伐に対応する時以来である。蜀漢攻略戦でさえ、十八万の兵の後に、分けて十五万を出したのだ。今回は一度に三十万以上を出すことで、一気に呉を屠るのである。
守勢に強い呉だが、もうそれは過去の歴史だ。
現在、呉が動員できる兵力は最大で二十万弱と推定されているが、それも近年は殆ど数通りの働きが出来ない状態にある。唯一陸抗が鍛えた荊州の精鋭だけは話が別だが、陸抗が死んだ途端早速削減が始まっていると言うことで、恐るるにたり無い
勝てる。
だが、それが問題なのだった。
元々、呉を滅ぼすための好機はうかがっていたとは言え、準備は比較的速やかに行われた。益州の王濬が出撃するのと会わせて、全軍が一気に動き始めたのは、司馬炎の大号令があってから二月ほどの事であった。
大水軍の旗艦。ケ艾と名付けたその船上で、王濬は腕組みしていた。
上流から下流へ流れ、敵を討つこと、勢い刃で竹を割るがごとし。そう社預は言い、将兵を鼓舞したという。この破竹の勢いという言葉は、恐らく後世に残ることだろう。良い言葉だと、王濬は思った。
各地で呉の防衛線は、次々に噛み破られている。社預が繰り出した軍勢は、荊州の要地を次々に落とし、江陵、武陵、長沙などが既に陥落。諸葛誕の息子である諸葛?(セイ)が奮戦したが、それも衆寡及ばず。
長年、魏と呉が血みどろの奪い合いを続けた荊州は、陥落した。
既に建業は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっているという報告が上がっている。実戦経験のある将軍を殆ど孫皓が「気に入らないから」という理由で処刑してしまったため、戦える者がいないのである。
中でも気の毒な逸話が、目の前に広がっている光景であった。
長江に杭を打ち込み、鎖を並べているのである。王濬の水軍を防ぐ目的で、呉軍が作った仕掛けらしかった。
鎖の太さによっては、効果があったかも知れない。だが、この程度の鎖では、まるで意味がない。それでも、呉の滅亡を印象づけるため、派手な戦術で打ち破ってやる必要があった。
「筏を用意せよ」
「筏に、ございますか」
「そうだ。 筏だけに、すぐに用意するべきじゃなイカダ、なんてな。 はっはっは」
からからと一人笑うのは王濬だけで、うっかりそれを聞いてしまった兵士達は全員が蝋人形のような顔色で固まっていた。
楽しそうに笑ってくれたケ艾の事を思い出して、王濬は少し悲しくなった。
蜀で、ケ艾のことを散々探した。ケ艾の首を挙げたという兵士はいなかったので、ひょっとしたら生きているかとも思ったのだ。
だが、蜀漢滅亡後の益州や漢中は酷い混乱の中にあり、とてもではないが情報など出てこなかった。内乱でズタズタにされた国土に生きる民はそれだけで精一杯で、益州から抜け出そうとする民さえ大勢で始めていたのである。
確かに益州で再度政権が立ち上がる可能性は少ないだろう。司馬一族が健在な内は。
だが、これでは。民は司馬一族への恨みを忘れないに違いない。それが、いずれ彼らの足下を堀り崩し、転倒させるのだ。
幸いなのは、ケ忠とはまだ時々連絡が取れていると言うことだ。爽やかな青年に育ったケ忠は、王濬が考えただじゃれを竹簡で送ると楽しそうに返してくれるので嬉しい。この辺りは親子と言うことだろう。
筏が用意されたので、藁を積ませ、油を掛けさせた。そして着火して、下流に流す。細い鎖はそれで簡単に焼き切れてしまった。
明々と燃え上がる長江の光景は凄まじく、呉の滅亡を予感させるには充分だっただろう。呉の水軍を今までに四回撃破したが、それ以上に今回の効果は大きいはずだ。出来るだけ民を傷つけずに勝ちたいと考えている王濬としては、最善の策であった。
「よし、これでよい。 鎮火し次第、すぐに全軍を前進させよ」
「はっ。 了解しました」
自分が生きている内に司馬一族の滅亡が見られれば嬉しいと、王濬は思う。これはその一歩だ。
中華が乱れることは悲しいと思う。異民族の蹂躙によって、中華が焼き滅ぼされることは、更に悲しい。
だが、しかし。
それ以上に、黙々と働き続けたケ艾に過酷な仕打ちをした司馬一族は許せないのだ。だから、王濬は呉を滅ぼす。司馬炎が死ねば、もう司馬一族に人材はいない。せいぜい後宮にでも足繁く通って、さっさと国を傾けた挙げ句に早死にするがいい。そう、王濬は呟いていた。
ほどなく、さらなる悲劇の報が入る。
呉の武将、陶濬が出撃しようとしたのだが、その配下の武将達が、ことごとく脱走してしまったというのである。元々その軍の主力になっていた張象は、朱桓や陸遜と関係が深かった人物らしく、もはや呉にはついて行けないという考えだったのだろう。戦わずして抵抗軍が壊滅してしまったという話を聞いて、王濬は喜ぶ前に嘆息してしまった。
呉という国は、何だったのだろう。
孫策が快進撃の末に建国したように思われているが、実際は江東の大規模豪族である四家が利権のために示し合わせ、そのような事を演出したのは、今や常識になっている。その後も四家による搾取は続き、山越が特にその被害を受け続けた。
やっと孫権の晩年に四家の影響力を潰すことに成功したが、今度は暴臣悪臣が続けて出た上に専横を繰り返し、国は疲弊。陸抗も不遇の中で生活を続けたという。そして、とどめが今の皇帝孫皓だ。やっと孫家が主導権を得たというのに、先祖達の苦闘を全て台無しにするような暴虐を働き続け、国を傾けてしまった。
ただ、あくまで呉終盤の内部闘争は、上級の家臣同士で行われた、というのが救いかも知れない。建業は非常に良く発展したと言うし、荊州を防波堤にした結果平穏が続いた呉本土は、非常に豊かな耕作地が広がっているとも言う。もしも晋が滅んだら、此処にはまた独立勢力が誕生するかも知れない。
ほどなく、半ばやけくそになって出撃してきた呉の水軍残党を、卵を石に投げつけて砕くかのように叩きつぶした王濬の本隊は、ついに建業近辺に上陸した。
周瑜が丹誠を込めて作った柴桑の水軍要塞も、守る兵士がいないのではどうにもならない。王濬の軍勢によって瞬く間に陥落し、もはや建業を守る部隊は、呉軍には存在しなくなった。
後は、孫皓が降伏すれば全てが終わりだ。
建業を容赦なく包囲する態勢を整えた王濬は、降伏勧告の使者を送ったのだった。
玉座についた孫皓は、目に狂気を湛えていた。降伏勧告の使者を追い返してからは、ますますそれに拍車が掛かっていた。
考えた作戦は、部下のせいで失敗した。お気に入りの武将達はことごとく逃げ散るか戦死してしまい、特に陶濬の軍勢は、戦わずして壊滅するという体たらくだった。陶濬自身はせめてもの意地か、王濬軍に突入して戦死したが、もはやどうにもならない所まで状況は来ていた。
元々、建業は守るために作られた都市ではない。経済活動を重視しているためにむしろ守りは薄く、特に長江に面している部分は、水運を重視するために城壁さえ作られていない。水軍が壊滅した今、長江を我が物顔に行き来するのは晋の水軍ばかりであった。しかも船の規模は、呉軍最大の闘艦よりも大きいものがごろごろしている。
孫策の再来とおだてられて育った孫皓は、自制心を身につけずに成長した。気に入らない相手はその場で殺したし、面白いことをした奴はどんな出自でも出世させてやった。皇帝になってみれば、周囲は気に入らない奴ばかり。しかも無能な者達ばかりだった。これは改革のしがいがあると、孫皓は思った。
だから、片っ端から粛正した。
これも呉のためだ。そう思って、殺せるだけ殺した。宮殿に河を作り、其処に殺した奴を投げ込んだのは、逆らえばこうなるというのを示すためだ。いつしか孫皓を見る目は怯えに統一されており、それが益々嗜虐心を誘った。
悪いのは、全て他人なのだ。
こんな呉にした先祖達が悪い。孫皓を理解しようともせず、ただ利権目当てに皇帝にした周囲が悪い。何より、孫皓を怒らせるような真似ばかりしたり、或いは嗜虐心を刺激するような事ばかりした愚物どもが悪いのだ。
それなのに、どうして亡国の皇帝などと言う不名誉な汚名を着なければならないのか。
孫皓の悪態を反映するように、既に、建業の治安は崩壊している。四家が壊滅した頃も酷い有様だったとかいう話だが、それに匹敵するかも知れない。
殆どの民や武人は逃げだし、王濬に保護を求めている有様だ。その中には、孫皓がかわいがってやった部下も大勢含まれていた。残ったのは無能か屑ばかりで、それも連日連夜仲間割れをして殺し合い、数を減らしている有様だった。
「陛下っ!」
殺気だった声。
玉座の前に、どやどやと集まってきたのは、無能な武将どもだった。縛り上げているのは、岑昏という男だ。孫皓の寵臣であり、その残虐行為を助けてきたという噂がある男だ。
実際にはただの小物で、要領が良いので使ってやっていただけの男である。自身も芳しくない噂は自覚しているようで、孫皓が処刑しようとした男の助命嘆願をしたりと、必死に動いていたが、何分人望がなさ過ぎた。周囲から人が離れていくのに苦しむ様子を、孫皓はいつもおもしろがってみていた。そんな程度の相手である。
「この悪逆の徒を、処刑する許可をいただきたい!」
もう岑昏は応える気力もないらしく、俯いていた。顔は殴られて倍くらいにふくれあがり、何カ所かの骨も折れているようである。
馬鹿な連中だと、孫皓は思った。
「勝手にせよ」
「応ッ!」
どやどやと、鞠のように縛り上げた岑昏を引きずっていく武将達。彼らは外でずたずたに岑昏を切り刻み、首を宮殿の中の河に放り捨てたらしかった。それこそどうでも良いことである。
孫皓にとって大事なのは、自分の命だけ。岑昏など、玩具の一つに過ぎなかった。
それよりも、降伏するのはどうにか避けたい所だ。或いは替え玉を立てて逃げるか。しかし、既に王濬の軍勢は、建業を文字通り十重二十重に囲んでいる。長江も同じ事で、魚にでもならない限り逃げられそうになかった。
「まあ、良いか。 面倒くさいし、どうでもいいことだ」
それが、孫皓の、皇帝としての最後の言葉となった。
建業に突入してきた王濬軍が、宮殿に突入。僅かな抵抗を蹴散らし、孫皓の前に現れたからである。
王濬は噂通り紳士的な男で、孫皓にも拝礼をした。皮肉なことに、どの部下の拝礼よりも、心がこもっていた。
「孫皓陛下ですな」
応えず、にやりとだけ笑う。
縛り上げられながらも、孫皓は笑い続けていた。
みんなみんな死んでしまえ。悪いのは俺ではないのだから。
呪いを振りまきながら、呉最後の皇帝は、笑い続けていた。
孫皓を洛陽に送り届ける手はずをした王濬は、万歳の連呼を右から左に聞き流しながら、軍営に戻っていた。
建業の治安を回復する仕事が大変だ。掛け値無しの暴君だった孫皓は、本当に呉を滅茶苦茶にしたのだ。晋軍にも軍規がなっていない部隊はいるが、連中もとてもではないが略奪どころではないのが現状だった。
ひとまず孫皓の財宝を換金して、食料に変え、民に分ける。そうしないと、呉から大量の流民が中原に流れ込むことになる。軍用の食料も、ある程度は民に分けないと餓死者が出てしまう。急いで作業の手配をしていると、社預が天幕に入ってきた。
「おお、社預将軍」
「見事な手柄でありましたな」
社預は王濬より若いが、今は地位が上である。だからお互いに敬語を使うという奇妙な関係になっている。
社預も敵の残党をあらかた平定し、山越の民に歓呼の声で迎えられたという。それだけ呉の軍勢は恨まれていたのだ。
「何もかも、終わりましたな」
「……本当に、これで良かったのでしょうか」
社預の声には、悲しみが籠もっている。
本当だったら、この軍勢はケ艾が率いていただろうと、社預は何度も呟いていたという。そしてケ艾なら、もっと早く呉を滅ぼせただろう、とも。
更に言えば、司馬一族がこれで我が世の春を作ることになる。
王濬は知っている。司馬炎が天下統一をすれば、もう気力を維持できなくなるだろう事を。
天下が混乱に再び落ち、この統一は長続きしないだろう事を。
だが、司馬一族はそれで滅びる。王濬の中にある暗い心が、それを心待ちにしているのだった。
「実は、社預将軍」
「何でしょうか」
「この間、蜀で妙な噂を聞きました。 幾つかある隠れ里に、ケ艾将軍が逃げ込んだかも知れない、というのです」
「! もしそれが本当なら、ケ忠どのに知らせて上げたいものですな」
本当に、と笑いあった。
仕事もあるし、あまり長話もしていられない。そのまま二人とも、軍務に戻る。
王濬は書類の山を片付けると、決めた。
蜀、益州に戻ったら、ケ艾を探してみよう。そしてケ忠が、見事闇の中の闇を討ち果たしたことを、教えてあげるのだ。
それと、とっておきの冗談も色々披露したい。きっとケ艾は笑ってくれるだろうから。
うきうきしてきた王濬は、外に出る。既に真夜中で、星が降るような空が広がっていた。きっとケ艾も、同じ空を見ている。そう思うと、悲しみも少しは癒えるのだった。
呉の滅亡によって、三国の時代は終わりを告げた。
そして、後の時代に西晋と呼ばれる、短い統一王朝の時代が訪れたのである。
終、三国の志
講談を行い、街を回る馬車がいく。一座の人数は三十五名。いずれもが、東西南北中華の様々な地域から集った者達だ。一人として出身が同じ者などおらず、それどころか何処の誰かも定かではない者もいた。座長でさえそうなのだ。役者の中には海千山千の者達ばかりが揃っていた。
先に出ていた、斥候の若者が戻ってきた。鋭い目つきの中年の座長に細作式の礼をすると、斥候は周囲を見回しながら言う。
「この先は、駄目で。 道を変えるしかなさそうでさ」
「軍閥が争いをしているか」
「ええ。 どちらも五千を超える兵力のようでして」
無理をして街に入っても、講演どころではないだろう。だが、座長は決めたことは変えない。
「迂回路を探せ」
「座長」
「探すのだ」
頷くと、斥候は何処とも無く消えた。
晋の天下が脆くも崩壊して十年。既に中原は、無法地帯だ。
英雄達が血涙を流して作り上げた秩序は既に踏みにじられ、特に長江以北は無法の野となっている。無数の小勢力が覇権を争い、自称英雄の残虐な者達が暴れ狂い、流入を続ける騎馬民族達がそれに拍車を掛けた。
食料は麦の一粒に到るまで奪われ、結果流民が大量に発生した。宛もなく彷徨う民は、養ってくれる相手を探し、何処までも荒野を彷徨いつづけたのである。
だが、彼らの目は、決して死んではいなかった。
知っているのだ。この地に、かって偉大な英雄達がいたことを。
桃園にて誓いを立て、義に生きた三人の男。その配下となって、戦場を駆け回った英雄達。
宦官の孫という出自をひっくり返し、大国を一代で築き上げた不世出の英雄。彼が目をかけ手塩に掛けた、大勢の名将達。
流れ苦しみながらもついには一国の長に収まり、どのような苦境にも耐え抜き、結局三国の中で最後まで耐え抜いた一族と、それを支えた武人達。
彼らの血は、自分たちの中を流れている。
そう民は信じ、そして逆境の中でもたくましく生きていた。
そして、何よりも。知恵は失われていない。どのような苦境にあっても、民の中で息づく知恵は、彼らを生かし、希望を与え続けていた。
三国の志は、彼らの中に生きているのだ。
志を伝える一座の長。その名前はケ忠という。
馬超の死を見届けた後。生き残りし英雄達も、みな次々とあの世に旅立っていった。最後に陳式が死んだ。最後は、陳式は自分の祖父にさえ思えるようになっていた。英雄になりきれなかった男の意思を次いだ陳式は。最後に、ケ忠に言ったものである。
「今では、誰もが友に思える。 あの時代を生き抜いた者達は、敵として争うことはあっても、決して心から憎み合ってはいなかったと思う。 私は、あの時代に生きることが出来て、誇りをあの世まで持って行けるよ」
志。それは、まだケ忠の中に残っていた。
それを、少しでも多くの人に伝えなければならなかった。
母とも、再会した。
蜀漢崩壊の中で、やはり生き残っていた。隠れ里に逃げ込んで、それから二十年ほども長らえたのだ。
会うことが出来たのは、王濬のおかげだった。しかし、王濬自身は、母には会えなかった。無常な病の結果である。会った時のためにとたくさん作ってくれたくだらないだじゃれを見て、二人で泣いた。本当に、だじゃれが好きな人だった。
母も、今は生きていない。しかし、その存在は大きかった。ケ忠に出会うことが出来て数年で亡くなったが、一座とともに中華を周りながら、自分の生きた時代を、竹簡に残してくれた。
それらの生きた歴史を、関索の作り上げた無数の物語に織り込んだものが。ケ忠が街々で民に披露している講演なのだ。
斥候が戻ってきた。
少し遠いが、次の街に行けそうだという。
「よし、次の街にも、三国の志を届けにいこう」
「誇りのため、ですか」
「そうだ。 それは生きる希望にもなる」
ケ忠の目に、迷いはない。
多くの三国の英雄達の志を死なせぬためにも。馬超が作り上げた知恵の路と、関索の作った講談による志の伝承を受け継いだケ忠は。
今日も、戦乱に苦しむ民の間をまわり、希望を撒く。
三国の英雄の志は、死んでいない。
例え、統一王朝が無惨に滅び、中華が蹂躙される現在であっても。
それが、未来への路を造ることだと、ケ忠は信じ続けていた。故に、先に進めるのだった。
(暗黒!三国志・完)
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