果ての劫火
序、近付く終わり
生真面目な青年だった。だからこそ、耐えられなかったのだろう。あまりにも悪辣に魏を貪る、司馬一族の行動が。
四代皇帝、曹髦。
洛陽に戻った司馬昭が、最初に殺した相手だった。
宮殿が燃えている。その炎に顔を赤く照らさせながら、傲然と床几に座す司馬昭。
皇帝を殺した理由は簡単である。数百人ほどの同志を集め、司馬昭を排除することを目論んでいた。だから、先手を打って殺した。曹髦は自ら剣を振るって戦ったが、数の暴力にはどうやっても対応できなかった。
戦闘は、一刻と掛からず終わった。
賈充が首を捧げ持っていくと、司馬昭は鼻を鳴らす。皇帝を殺したことなど、もはやこの男は何とも思っていない。忠義など欠片も有していないし、自分の判断が間違っているなどとは考えもしないからだ。
天上天下に、我より尊き者無し。それが、恐らく司馬昭の本音であろう。
「汚い首よ。 まだ若いというのに、私に逆らうとは、愚かな奴だ」
「数百人ほど、同志を募っていたようです。 如何しますか」
「一匹残らず捕らえよ。 もちろん処罰は三族に到るまで皆殺しだな。 おお、そうそう、忘れていた」
さながら、食後に茶を所望するかのように、司馬昭は言う。首を掲げたまま、無表情で賈充はそれを聞いていた。
司馬昭の残虐性は、ますます酷くなっている。そして気付いていない。自分の息子が、後ろで剣を振り上げている事に。もちろん比喩的な意味ではあるが。
「皇帝弑逆は一応後世に覚えが悪いな。 私が犯人だと言うことは史書には残すな」
「それでは、この件は如何いたしましょう」
「適当に犯人をでっち上げて、それを処刑せよ。 ああ、そうだ。 お前がいい」
司馬昭が視線で指したのは、この間司馬昭の前で転んでしまった男だった。成済という、冴えない武人だ。見る間に顔をくしゃくしゃにする成済に、もう司馬昭は一瞥もくれなかった。
「適当にそれらしい話もでっち上げておけ。 如何にも後世の馬鹿な歴史学者が信じそうな話をな」
「お任せください」
「ふん、歴史か。 くだらん」
何度か司馬昭は咳き込むと、屋敷に戻っていった。賈充は、その歩みがおかしいことを、敏感に見抜いていた。あれは病によるものだろうが、多分それだけではないはずだ。
のっそりと、司馬炎が立ち上がる。
司馬昭の息子で、働き盛りの逞しい男である。筋骨隆々としていて、如何にも精力絶倫そうな脂ぎった顔の持ち主だ。一見すると健康的な快男児にも見えるのだが、ただ、目が良くない。ぎらつく目は、権力を渇望し、全てを飲み込もうとする、巨大な虎を思わせるものだった。
司馬炎も歩み去った後。賈充は残った部下達に指示を出していく。成済は這い蹲って命乞いをしていたが、他の部下達が去ってから、嘆息して告げる。
「すまん。 許してくれ。 どうにもできぬ」
「後生、後生にございます! 私は何もしておりませぬ! ましてや皇帝陛下を殺すなど、そんな それで三族皆殺しなど、あまりにございます! 私には、年老いた母も、まだ幼い娘もおります!」
「……林どの」
ふっと、賈充の脇に影が現れた。それは童女の姿をした邪神。林である。口の端をつり上げた林は、何事か理解できず固まる成済の顔を覗き込んで、にこりと笑った。
「私に何用ですか?」
「一つ、頼みたいことがありましてな」
「ほう?」
「貴殿、司馬炎様に、司馬昭様の暗殺を依頼されておりますな」
林は笑顔を崩さない。賈充は、なおもそれに続けた。
皮肉屋の賈充も、流石にこの件に関しては、我慢の限度を超えていた。このような連中が、天下を統一しようとしているのを、黙ってみている訳にはいかないのだ。
「この男の家族達は、私が何とかします。 貴殿は、この男を使って、暗殺を成し遂げてもらえませぬかな」
「ふうん。 貴方は現実主義者だと思っていたのですが、ね」
「私の父は生真面目な男でしてね。 魏に仕え、評価されて、将軍としてはかなりの高位にまで上り詰めました。 だからこそに私は、こんなひねくれた性格に育ってしまったわけですが」
言葉を切ると、賈充は見つめる。司馬昭と、司馬炎が去った方角を。
もはや救う余地のない、たしなめても聞くはずもない、権力の怪物達の、歩み去った先を。
「それでも、美学程度は持ち合わせておりますから」
「一矢を報いるつもりだと。 ふふん、それは面白い」
「見ていればわかるのですが、貴方は面白い事が大好きでしょう?」
この林も、司馬一族に負けず劣らずの化け物だ。邪神と影で呼ばれているそうだが、それも頷けるほどのとんでもない輩である。
だが、だからこそ。司馬一族に一矢を報いるには、それくらいで丁度良い。
少し考えていた林は、小さく頷いた。納得してくれたらしかった。
「まあ、確かに楽しそうだし、いいでしょう。 私も少し最近は退屈でしたし、余興が増えるのも乙な話です。 しかし、貴方に司馬一族への忠義は無いのですか?」
「ありません。 正確には、向こうが求めておりませんし、求める資格もないでしょう、彼らには」
「……なるほど、確かにそうだ」
けらけらと笑うと、林は消える。成済の姿もいつの間にか無い。林が連れて行ったのかも知れなかった。
賈充は知っている。司馬一族は、忠誠など求めてはいない。
彼らが要求しているのは、絶対服従だ。何しろ司馬一族にとって、他の人間など、犬以下でしかない。それこそ、対等な人間だなどと、考えたこともないだろう。古き名家の中に巣くった澱みが、最大限に凝り固まり、闇となった存在。
それが、今の司馬一族であった。
相手を人間だと思っていない者は、忠誠など当然要求しない。奴隷は欲しても、家臣は欲しがらない。
宮殿は全焼した。消火活動は行われず、ただ延焼だけは防がれた。
どうせ司馬一族が、自分用の新しい宮殿を造るのだから、もはや傀儡の曹一族に宮殿など必要ない。そういう考えなのだろう。
ほどなく、新しい皇帝である曹奐が即位させられる。
だがその即位式は恐ろしく地味であり、重臣も殆ど参列しなかった。誰もが司馬一族の権勢を恐れたのである。そして司馬一族でさえ、殆どが皇帝の即位を見に行きさえしなかった。
もはや、司馬一族は、己の野望を隠そうとさえしていなかった。
天下は統一されるだろう。
だが、司馬一族は決して長くはない。
即位式に列席した賈充は、周囲の散々たる有様を見て、そう確信していた。問題はその後だが、多分賈充の次の世代になるだろう。
そしてきっとその時には、司馬一族の悪行を全て担っていた悪臣として、自分がやり玉に挙げられている。そう思うと、賈充は乾いた笑いが止まらなかった。
1、一筋の光
陳式の下には、次々絶望的な報告が届いていた。
魏軍が長安に集結を始めている。数はおよそ二十万。鐘会の十五万。それにケ艾の三万。諸葛緒の二万。他にも何名かの将軍が、兵を訓練、編成している様子であった。間違いなく、蜀漢攻略のための軍勢である。
陳泰はいない。
少し前に足を悪くしてから洛陽に行っていたのだが、それからの足取りが掴めないらしい。どうやら、消息を絶っている様子だ。魏では死んだ事にしたらしいのだが、もはや蜀漢の情報網では、具体的な内容までは掴めなかった。
同じような人物として、許儀がいる。
曹一族への忠臣という話であったから、今回の一件は辛かっただろう。失踪し、行方も掴めないらしい。替え玉を立てて、指揮官の一人に名前を連ねさせてはいるそうなのだが。魏はもはや、とことんまで腐ったと言うことなのだろう。
何度も成都に緊急の知らせは送っている。
だが、返事は一切無い。おおかた、黄皓辺りが握り潰しているのだろう。かろうじてケ艾と渡り合える姜維は一万程度の兵しか掌握していないし、もはや蜀漢の命運は尽きたと言って良かった。
避難誘導は、既にあらかた終わっている。多くの兵士達も、それに付き添わせた。西の国々に向かった彼らは自力で身を立てて貰う他無いが、此処に残るよりはマシだ。蜀漢に戻りたいという将兵も多かった。彼らも好きにさせた。
最終的に、武都、陰平に残ったのは兵二千ほど。最初は漢中に撤退して、姜維と合流することも考えた。
だが、最後までこの地に残りたいという少数民族達が、武都の城に避難してきている。彼らは一様にして、魏の支配を快く思っていない。保護を求めてくる彼らを、陳式は見捨てることが出来なかった。
土地にこだわることを身勝手だと、憤る兵士達もいた。だが、流民の悲惨な現実を知っている陳式は、其処まで割り切ることが出来なかった。
最後の書類を纏めていると、部屋に来たのは、黄夫人。諸葛亮の細君だった。
もうだいぶ老いてはいるが、足腰はしっかりしている。夫よりずっと長生きした、蜀漢の情報戦の祖は、扇子で口を隠す独特の動作をこの年まで変えていない。それが不思議な雰囲気を、今まで保ち続けていた要因であった。
「陳式将軍」
「如何なさいましたか」
「私は、瞻の息子を何名か連れて、西に行きます。 細作部隊も、主力は向こうへ連れて行くこととします」
そうか。ついにこの時が来たか。
立ち上がり、抱拳礼する陳式に、黄月英は眼を細めた。
「お互い、年を取りましたね。 夫と私は子に恵まれませんでしたが、瞻は多くの子をもうけました。 諸葛の家が消えることはありません」
「それは、良かった。 今だから言いますが、貴方は、おそらく私の初恋の相手であったかと思います。 結局路は交わることがありませんでしたが、最後の数年を共に過ごすことが出来て、幸せでした」
「知っていましたよ。 それでもなお、最後まで尽くしてくれて有難う」
沈黙が、綿のように間を飛ぶ。
もの悲しいが、お互いに、もはや老いすぎた。ふっと小さく笑うと、黄月英は、大事なことを話してくれる。
「私の本名、貴方には教えておきましょう。 他には墓の下にいる夫や、数名しか知りません。 かっての部下も、もう殆どは鬼籍に入っていますから」
「伺いましょう」
「董白、と言います」
「……そう、だったのですか」
何処かで、聞いたことがある。あの暴虐の魔王董卓がかわいがっていたという、孫娘の名前だ。黄家の娘ではないと知ってはいたが、正体を知ると意外だった。
間もなく此処は包囲される。十万、いや十五万を超える軍勢が、行きがけの駄賃にと攻め潰しに来る。今まで、散々煮え湯を飲まされた陳式の軍勢だ。完膚無きまでに蹂躙しなければ、怖くて蜀漢に攻め込めないだろう。
兵力差は、実に七十五倍。漢の中興を成し遂げた光武帝でも此処にいなければ、とても凌ぐことなど出来ない。
しかも籠城の選択肢はない。この城に残った少数民族達は皆老いている者ばかりなのだ。彼らを守るためには、出て戦わなければならなかった。
董白を、見送る。裏門で、屈強な従者達を連れた董白は、一度振り返った。
「そうそう。 最後に伝えておきましょう。 私達は、ウィグルと名乗るつもりです」
「ウィグル」
「正確には、既に存在する一族です。 商売をしながら中華の西を彷徨っている小さな部族ですが、盗賊同然の連中で、内部は腐りきっていました。 それを少し前に、先行していた曹芳達と共同して、乗っ取ることに成功しました。 馬超の作り上げた情報網。 そして関索が張り巡らせた、民の心。 そして漢民族外に作り上げた私の、いえ、私の孫達の組織が、いずれ全てを支配するものとなるでしょう」
強烈な野心的言葉だと陳式は思った。この人は民のことは考えているが、それだけではない。
若い頃には交州にいたとも聞いている。
董卓の孫娘というなら、様々な地獄も見てきただろう。そうだ、あの呂布と顔を合わせたことがあったかも知れない。
この人は、影の英雄だ。恐らくは、最後に残った。
林は、あれは違う。怪物だ。この人は影、あれは闇。似ているが、きっと大きく違うものだろう。
「そして、貴方は何を求めるのですか」
「民が平穏に暮らせる世界を」
「いずれその理想は歪むと思います。 世代が代われば、必ず」
「そうですね。 しかし、私は貴方と同じく、あきらめが悪いのです。 最後まで、あがいて見せましょう」
そう言って、董白は去った。
西に消える彼女の姿を見送る。そして、陳式は、大きく嘆息した。
あの年にして、なんたる野心。なんたる滾る心。それを見ていて、思い出してしまったことがある。
そうだ。まだやるべき事が残っていた。
細作組織から聞いている。司馬一族の暴虐を。しかし、どうも様子がおかしいのだ。彼らは、自分が賢いと錯覚する愚劣な集団に過ぎない。能力も精々並。それなのに、どうしてか大陸の統一に王手を掛けている。
それは、なぜか。
黒幕がいるからだ。
司馬一族を滅ぼすのは、難しいかも知れない。しかし、その黒幕。邪神窮奇、林だけは、絶対に許す訳にはいかなかった。
董白は、まだ希望を捨てていない。未来に、自分なりの形で、光を作ろうとしているのだ。老いたとはいえ、まだ董白より若い陳式が、此処で屈する訳にはいかなかった。
「どうやら、死ぬ訳にはいかなくなったな」
「陳式将軍……!」
「細作はまだ何名か残っているな。 ケ艾と連絡を取りたい。 それと、羅憲、いや奴は駄目だ。 細作部隊は向寵どのに任して、軍人に特化している。 死んだと言うことにして影から対呉戦線細作部隊の指揮をしている向寵どのの方が良いだろう。 すぐに連絡を取れ。 兵士達はすぐに城を出ろ。 残ると言っている少数民族の民達は、全員で手分けして、強引に連れ出して、各地の山に隠せ。 隠れ里というものは、交通がなければ成立しやすいからな。 ある程度の人数がいれば、維持も容易だ」
全てを指示し終えると、陳式は自らも急いで城を出る。
手には、天をも貫く、曹操が作らせた宝剣がある。例え相手が邪神でも、陳到に鍛えられ、後はこの年まで練りに練った剣技と、この宝があれば。
城の中にある物資には油を掛けさせる。更に、とっておきのものをばらまいた。硫黄と、硝石である。
その作業が終わった所で、敵が来た。予想通り、十五万。いや、十七万から十八万という所だ。隣山まで撤退した陳式は、数十名の部下と共に、敵の姿を見下ろしていた。
「何という大軍……!」
「かって私は、諸葛丞相の配下の一将として、四万五千の兵力で、あの規模の軍勢のしく守備陣地に正面から攻め込み、壊滅寸前まで追い込んだわ。 恐れることなど無い」
「!! う、噂には聞いていましたが、ほ、本当のことだったのですか!」
「信じていなかったのか? しかも敵の指揮官は、あの司馬懿だったのだがな。 諸葛丞相は、勝つことは出来なかったかも知れぬ。 しかし、この時代最高の天才にて、用兵家であったよ」
くつくつと笑う。
鐘の旗を掲げた敵兵が、城を囲んでいく。鐘会の軍勢だ。そして、城壁にとりつき、中に入り込み始めた所を見計らい。
連弩を改良した、長距離攻撃型の大型弩から、火矢を武都城に撃ち込ませた。
後は、城が丸ごと吹き飛ぶのを、見つめるだけだった。
奇しくもそれは。蜀漢を影から支え続けた義父が、武人としての生命を半ば絶たれた時と、同じ光景だった。
蜀漢攻略軍は、出だしからいきなり躓くことになった。
陰平城はがらあきで、攻略も簡単だった。問題は武都城だ。攻め込み、奪い取ったと思った瞬間。いきなり、根こそぎ消し飛んだのである。
あまりの火力に、若々しい将軍鐘会の兜が吹き飛んだほどだった。
鐘会は名族の出で、司馬一族とも関係が深く、若くしてこの大軍勢を任されているほどの男だ。総司令官はケ艾だが、率いている兵力は鐘会の方が多い。諸葛緒の兵力も事実上鐘会の配下も同然だった。
今まで、一度も挫折など味わったことがない若き将。
軍事だけではない。政務も詩も文学も哲学談義でさえも、誰にも負けたことがなかった。あの何晏にさえ、とっさの文学談義で勝ったことがある位なのだ。この攻城戦だって、陣形にしても、指揮にしても、何一つ間違っている筈がなかった。あらゆる兵法書を暗記している鐘会である。間違える可能性など皆無だ。
それなのに。
唖然とする鐘会に、髪の毛をちりちりにした伝令が駆け寄ってきた。彼も兜を飛ばされていたのだ。
「突入した部隊は全滅です! 損害は四千を超えています!」
「よ、四千、だと!」
「更に、城の中に誰かがいた形跡はありません! さっさと逃げ出していた模様です!」
つまり、敵には一兵も被害が出ていないと言うことだ。奇声を上げた鐘会は、殆ど間をおかず、天に向けて絶叫した。
ケ艾が来た。形だけとはいえ司令官だから、礼を尽くさなければならない。抱拳礼をする鐘会を、冷たい目でケ艾は一瞥していた。
「陰平城の様子から、罠があるのは感じていました。 見事に引っかかりましたね」
「こ、このような卑劣な!」
「戦いは殺し合いです。 足下を掬われた方が悪い。 まして貴方は、日頃から自分が天才だと思っている節があった様子。 少し反省した方が良いでしょう」
「お、おのれ」
卑しい貧民出身の分際でと吐き捨てようとしたが、出来なかった。
実際、ケ艾の意見を聞かず、勝手に行動したのは自分なのだ。鐘会の痩せた頬に、どす赤い怒りの色が差す。だが、どうにもならない。
何にしても、武都、陰平の制圧は完成した。陳式と部下共が何処に消えたのかはわからない。だが、西涼から来る駐留部隊が、どうにかするだろう。事前調査では、せいぜい二千程度の兵である。これに対し、駐留のために西涼から来る部隊は、二万五千に達するのだ。
内心では、司馬一族でさえ自分に比べれば劣ると思っている鐘会である。此処は引かなければならなかった。これ以上、自分の経歴に傷を付ける訳にはいかなかったからである。益州さえ制圧してしまえば、その功績は膨大なものとなる。実際、蜀漢の軍勢を打ち破り、歴史に大きな一歩を記すのは、盆暗揃いの司馬一族には無理なのだ。自分のような英雄が出て、初めて成し遂げられる。
ケ艾には無理だ。奴は戦争こそ多少経験を積んでいるかも知れないが、緻密な理論を持つ自分こそが、天下統一には必要な人材なのだ。それにケ艾には、軍上層に人脈もない。誰が奴の功績を認めることがあろうか。
一日の内に、鐘会は兵力の再編成を終えた。他の誰にもこれは真似できないだろうと、鐘会は胸を張った。
そして、ケ艾が先鋒となって漢中になだれ込む、その後ろから。蜀漢を滅ぼすべく、桟道を渡り始めたのである。
漢中の前線が踏みにじられていく。如何に要害の地といえども、蜀漢は数十年にわたって平和だったのだ。殆ど異民族の反乱すらも起こっていないという話である。それでは守備隊が弱体化するのも当然のことだ。
蜀漢軍は緩慢に後退を開始。殆どの武将が降伏する中、張翼、それに廖化だけは兵を率いて剣閣に引き上げた。其処に最初から防衛線を作っていた姜維と合流、およそ二万の兵で壁となった。
漢中は失陥させたが、此処を抜かなければ益州には入れない。
しかし、正面攻撃三倍則である。味方の戦力は、敵の十倍。制圧した漢中の各地に置いた守備隊を考慮しても、充分以上におつりが来る計算だ。
剣閣は文字通り、切り立った剣のような、凄まじい山々の間にある小さな路。
其処に築かれた防衛線は一見強固に見える。実際、視察したケ艾が、眼を細めて呟いていた。
「これは、力攻めでの陥落は無理ですね」
「何を弱気なことを言われる」
「不可能だから不可能と言っています。 兵士達を無駄に死なせるだけです」
「ならば、私にお任せいただきたい! 多少堅固なようですが、分解して桟道を通してきた攻城兵器を用いれば、落とせぬ筈はありません」
ケ艾はじっと鐘会を見た。
相当に年を取ったとはいえ、実際に子供を産んでいないからか、ケ艾はとても若々しい。話によると子を産めない体だとかで、それが故に処分されそうになっていた所を、魏の宿将の一人であった韓浩に拾われたというではないか。
その程度の存在でしかない輩に、このような事を懇願しなければならないとは。相手は文字通りの屑ではないかと、鐘会は内心で、誇りが踏みにじられるのを感じながら、無言で待った。
「わかりました。 ただし、無理な力攻めは控えてください」
「承知」
「社預。 鐘会将軍が、無理をしすぎないように、補助をしてください。 王濬、私の護衛を。 この辺りの地形を、調べることとします」
監視まで付けるというのか、この塵屑風情が。あまりの怒りに、脳の血管が切れるかと思ったが、どうにか我慢する。
そのまま、兵を進めて、剣閣の入り口に布陣。既に漢中は陥落したし、もはや蜀漢は、落ちたも同然であった。
ケ艾は天幕に戻ると、寝台に腰掛けた。
許儀は去った。陳泰もだ。陳泰は宮中に駆けつけると、殺された曹髦の亡骸を抱えて、男泣きに暮れていたという。
生真面目だっただけに、許せなかったのだろう。その後全ての官職を捨てて消えた。公式には、死んだという事にされている。
許儀もほぼ同じ行動を取った。だが、許儀の場合は、より憤りが強く感じられた。曹一族を守ってきたという自負があるからだろう。恐らくあれは、司馬師を殺すつもりだ。もはや、ケ艾には、止めることは出来なかった。
消える前日、許儀はケ艾に言ってくれた。
「曹芳様を逃がしてくれて、感謝している」
「いえ、私は何も出来ませんでした」
「いや、貴方だからこそ出来たことだ。 曹髦様の仇は、私が討つ」
抱拳礼をかわして、許儀は去る。そして、その行方は、もうわからない。
司馬師から伝令が来たのは、直後のことだった。許儀の全経歴を抹殺、なおかつ名誉を汚す罪をでっち上げて、処刑したことにせよという下劣な内容だった。鐘会はそれを寸分違わず実施した。許儀が見落としたせいで鐘会の馬が橋板を踏み抜いたという理由で、許儀を処刑したと、公式に発表したのだった。
鐘会を信用できないのも、この辺りの美学の無さである。誇り高い貴公子だそうだが、知ったことではない。ケ艾が見た所、別に能力が高い訳でもないし、頭がいいとも思えない。あの程度の武将なら、何処にでも転がっている。
司馬一族に媚びを売ったから、高位に上がって来ただけの若者だ。ケ艾にしてみれば、大した価値は見いだせなかった。
彼に比べれば、指揮手腕にしても部下を纏める能力にしても、陳式や陳泰、諸葛誕の方がずっと上である。
天幕の外で、王桓が声を張り上げた。
「鐘会将軍が、攻撃を開始しました」
外に出ると、轟音がとどろいた。多分投石機で、大きな石を投じているのだろう。
馬鹿な話だ。あの堅固な防御陣を、少しでも崩せると思ったのか。
今日一日辺りを見て回ったが、敵陣に一切隙はない。もしも力攻めするのなら、二十万の兵が半数以下になる事を覚悟しなければならないだろう。しかも、それでも落とせるかはわからない。
むしろケ艾は、別の方法で、蜀漢を降伏させようと思っていた。
周囲に誰もいないことを確認すると、ケ艾は口調を変える。
「王桓、お願いがあるんだけど、細作を派遣して、山道を調べて。 この辺りを中心に」
「山を、ですか」
「うん。 多分ね、力攻めしても時間の無駄だと思うんだ。 それで、間道を通って、一気に成都を叩こうと思う」
「正気ですか」
正気、とにまりと微笑んで応える。
それが一番犠牲が少なくて済む方法だ。姜維、廖化、張翼はいずれも優れた将軍だが、それを除くともう蜀漢に実戦経験のある優秀な人物は少ない。羅憲がいるが、あれは白帝城に掛かりっきりで、隙を見て攻め込んで来かねない呉を牽制しなければいけないから、身動きが取れないだろう。
問題は、姜維達が反転迎撃してきた場合だ。味方は挟撃され、全滅する。それを避けるためにも、鐘会には、精々派手に攻撃を続けて貰わなければならない。
「鐘会将軍を、捨て石になさるおつもりですか」
「いや、必要な戦略上の布石だよ。 後は、多分綿竹が障害になるかなあ」
「諸葛瞻将軍ですか」
「うん。 多分それほど優れた力は持っていないと思うけど、最後の決戦が其処になるだろうね。 持久戦を選ばれたら厄介だよ。 一気に叩かないと」
王桓が剣に手を掛けたので、振り向く。何かが来たと言うことだ。
影から現れたのは、顔を布で隠した小柄な男だった。細作だなと、ケ艾は判断した。しかも、恐らくは。蜀漢の。
「何者か」
「陳式将軍からの使者にございます」
「陳式将軍の、ですか」
この間、曹芳を助けて貰う関係で、不思議な縁が出来た。あの状況ならば死んでいないだろうとは思ったが、やはり生きていた訳だ。
恭しく竹簡を差し出してきたので、受け取る。今更せこい真似はしないだろう。さっと、竹簡に目を通す。
どうやら、もう陳式は、蜀漢の滅亡を規定のものとして諦めているらしい。一つはその件で、出来るだけ蜀漢の民を苦しめないように、統一を進めて欲しいと書かれている。
それに関してはケ艾も望む所だ。
問題は、もう一つに関してである。
ケ艾も、司馬一族に黒幕がいることは感じていた。それが林なのかはよくわからない。細作については、ケ艾には人脈がないからだ。ただ、誰か文官が黒幕かというと、違うだろう。
賈充は怪しい部分があるが、あれはただの皮肉屋だ。しかしながら、或いは賈充と林が結託して、裏から司馬一族を操っているという可能性は、ありうる。
最後に、ちょっとぎょっとする、だが頷ける情報が書かれていた。それに関しては、ケ艾は悩んでしまう。
「どうなさいました」
「ん……うん。 分かりました。 明日返事をするから、待っていてもらえますか?」
「それでは。 明日の朝、また」
すっと細作が消える。
咳払いすると、ケ艾は説明を始めた。蜀漢のこと。そして、もう一つは。
「林を殺す、ですか?」
「うん。 彼ら蜀漢の細作によると、林が司馬一族を裏から操っている可能性が高いって言うんだよね」
「あり得る話です。 司馬一族の者達は、言われているほど有能でも主君としての器を備えているわけでもありません。 しかし、時流に乗っているというにしては、あまりにも幸運が働きすぎている感もあります」
「それについて、協力して欲しいって言われてね。 ……そうだね、陳泰と許儀将軍に、協力するように呼びかけてみるか」
実は、連絡先だけは知らされているのである。
手を叩いて、信頼できる兵士を呼ぶ。細作ではないが、伝令としてずっと働いてきた、健脚な男だ。武芸も相当に優れている。
彼にすぐ竹簡を渡す。二つ目の提案については、吝かではない。林という者の極悪非道については、ケ艾も聞いてはいたからだ。
そして、最後の一つが、問題だった。
「司馬一族の判断だと、私、もう邪魔だって思われてるんだって。 鐘会将軍も、多分」
「何ですと」
「だって、諸葛誕将軍だってそうだったでしょ。 司馬一族は、天下に王手を掛けてる」
つまり、司馬一族以外の、有力な競争相手は、根こそぎにしておきたいと言うことだ。
鐘会が今まで処分されなかったのは、多分司馬一族から見ても小物だったからだろう。野心はそれなりに持っているかも知れないが、残念ながら能力も人望も、ことごとくが伴っていない。
司馬一族の天下を作るためには、有能な犬だけが必要と言うことだ。忠実で従順で、待遇に疑問を抱かず、死ぬまで働いて、最後は血反吐を吐いて塵と消える。彼らの屍の上に、司馬一族はただ栄華を築く。
そんなものが、成立するはずがない。
それを司馬一族は理解していない。どんな英雄豪傑も、天下を取れたのは、一つのことを成し遂げたからだ。
人を、ちゃんと使いこなすこと。
司馬一族は、曹一族の作り上げた栄華をただ乗っ取った。そして、それを自分の力と勘違いした。
天下統一に王手も掛けている。
だが、その天下は、長続きしない。ケ艾でなくても、誰でもそれくらいのことはわかる。かといって、今の蜀漢や呉はどうか。同等か、それ以上に腐りきってしまっている。蜀漢は腐食と弱体が著しく、呉は内部がもはや空洞同然だ。
「ならば、ケ艾将軍。 お逃げください。 時間は、私が稼ぎます」
「無理。 少し前から、賈充の十五万が、桟道の北に展開してる。 おかしいとは思ったんだけど、私達を逃がさないための行動だったんだね。 多分十五万の後ろには、更に増援も控えてるだろうし、鐘会将軍の軍勢には、大勢監視役の司馬一族の犬が紛れ込んでいるもの。 逃げられっこないよ」
拳を振るわせる王桓に、ケ艾は寂しく笑みかけた。
「きっとこれも運命だったんだね。 勇気を出して、司馬一族を滅ぼすべきだったのかもしれない。 でも、私にはそれができなかった。 だから、この時が来てしまった」
「死なせはしません」
「え?」
「私が、貴方を死なせはしません。 誰よりも、貴方だけに生きていて欲しい。 ならば、蜀漢を倒した後、独立いたしましょう。 鐘会のような若造、倒すのはさほど難しくありません。 弱体化しているとはいえ、蜀漢軍は総力ならば十万。 鐘会軍の残党と、我が軍を加えれば、十七万前後にはなります。 魏軍を迎え撃つことは不可能ではありません!」
熱っぽく叫ぶ王桓。
ケ艾は首を横に振ると、天幕に戻った。分かってしまうのだ。その反乱が、上手く行くことはないと。
天幕の天井を見つめる。
悪意が全てを覆い尽くす中、一つの星はある。林を倒せば、少しでもその後の世界は、マシになるかも知れない。しかし、司馬一族が仮に瓦解したとして、その後はどうなるのだろう。
以前、聞いたことがある。おぼろげに覚えている、韓浩の言葉だ。
曹操は、統一を急がなければならないと言っていたそうである。理由は、中華周辺の異民族達が、どんどん力を付けているから、という事であった。彼らは中華で傭兵として働き続け、財力もその戦術も身につけてきている。やがて中華に、大挙して押し寄せてくる可能性が高い、というのだ。
鳥丸族の高い戦闘能力はケ艾も知っている。キョウ族や鮮卑族もずば抜けた実力を持っている。
騎馬民族に蹂躙される中華。
其処には、また大量の流民が出て。統一が続くまで、きっと民の嘆きが世を覆うのだろう。
目が醒める。外に出ると、天幕の外でずっと王桓が座り込んだまま眠っていた。昨日のことが気になっていたのだろう。
細作が、音もなく現れる。王桓は跳ね起きると、ケ艾を守るように前に立った。
「決めていただけましたか」
「受けましょう。 その代わり、私の息子を。 ケ忠を、連れて行ってもらえますか」
「……」
「親としての愛情、というだけではありません。 私が此処で絶えるとしても、その全てまで滅ぼされる訳にはいかない、という事です。 司馬一族の暴虐を何処かで食い止めなければならない使命と、何より中華の未来のために。 生き残って欲しい、ということです」
手を叩いて、ケ忠を連れてこさせる。
かって、公孫淵の息子だった子供は。時を経て、やっと元服を迎えていた。ケ艾は戦場に連れて来たくはなかったのだが、家庭でののんびりおっとりぶりを知っているケ忠が、心配したのだ。
母さんを守ると、決意を込めて言う息子だった。
しっかりもので、何でも良くできる。戦の才能については無いが、ケ艾が教え込んだ地形の読み方は、ある程度身につけてくれてはいた。少なくとも、鐘会よりはずっと優れていると、断言できる。自慢の息子だ。
阿呆な自分でも、例えおなかを痛めていなくても。子供は育てられた。だから、せめて。この世界の闇を照らす、一筋の光となって欲しい。
他に腕利きの兵士を、二個小隊ほど用意する。彼らはケ艾とずっと一緒にいた、精鋭中の精鋭。諸葛亮の軍勢と戦ったこともある。皆、達人と言って良いほどの武芸を身につけている、手練れの中の手練れだ。
「何でしょうか、母さ……総司令」
「重要な任務があります。 貴方にしか任せられない任務です」
さっと、ケ忠の顔が強張った。
ケ艾は厳しい表情を崩さないまま、部下達を見つめる。彼らはそれで、己が為すべき事を、悟ってくれた様子だ。
「彼が案内人になります。 これから漢中の山を越えて、洛陽に向かってください。 そこで陳泰おじさんや許儀将軍と合流。 蜀漢の、陳式将軍もいるかも知れません」
「えっ……!?」
「ひょっとすると、呉の精鋭も来ているかも。 目的については、道中で、この人に聞いてください」
「待ってください! 今は蜀漢を滅ぼす重要な任務の最中です! 僕、いや小官は、総司令の側を離れる訳にはいきません! そ、それに逆賊蜀漢や呉の者達と協力するとは、どういう事なのですか」
ずっと昔。ケ艾も、そういう一人称を使っていた気がする。大人になるにつれて、私と自分を言うようになった。
眼を細めて、ケ艾はやっと笑顔を作った。
「お願いします。 貴方にしか、出来ないことです」
「総司令!」
「ケ忠どの。 行きまするぞ」
屈強な部下の一人が、気を利かせてくれた。抱拳礼をする。
「お願いします」
全員が、息を殺して泣いていた。異常な空気を察したか、ケ忠が何か叫ぼうとするが、部下が首筋に手刀を叩き込んで眠らせた。
王桓も、一緒に行って欲しかった。だが、王桓は頑として固辞した。
「私は、何があっても、貴方の側にいて、貴方を守ります」
「……ありがと。 でも、それでいいの? 私の側にいると、多分名誉も経歴も全部消されて、悪逆非道な無能将軍の部下って事にされて、歴史上のさらし者にされちゃうよ」
「構いません。 それに、実は、今少しだけ嬉しく思っています。 陳泰将軍に、今のこの時だけでも、勝っていますから」
「ほえ?」
最後まで、よくわからないことをいう男だった。
だが、満足そうだったので。それ以上は、何も聞かなかった。
太陽が燦々と輝く真っ昼間である。
剣閣にて、廖化は腕組みして、累々たる敵の死骸を見つめていた。既に十三回、敵の攻撃を撃退した。山々に張り巡らせた防衛線は小揺るぎもしない。敵の攻城兵器も、来るだけ全て叩きつぶし、焼き払ってやった。
視界の全てが、敵の死屍で埋まっていると言っても良い。
だが、味方の疲弊も決して小さくない。何より物資が有限なのが厳しかった。
援軍は、予想通り来ない。
物資も、届きはしなかった。
既に二十回以上、姜維が援軍要請の使者は送った。だが、黄皓が握りつぶしているのは確実だった。恐らく戦功を立てさせる訳にはいかないとでも考えているのだろう。もしも姜維が勢力を盛り返せば、いっきに首を落とされる可能性があるからだ。
更に悪い可能性もある。黄皓は魏の間者で、蜀漢を滅ぼすために動いている可能性もある、ということだ。陳式が以前ぼそりと言ったことがある。廖化にしてみれば、確かに頷ける話だと、首肯できた。
呉は援軍どころか、隙を見て成都を乗っ取りに来かねない有様である。漢中では、もはや組織的抵抗は完全に沈黙してしまっているだろう。
これは、終わったな。
軽く笑うと、廖化は腰に付けていた徳利を外し、酒を呷った。
「廖化将軍、今は敵の目前です」
「何、構わぬ。 お前達も飲め」
顔を見合わせた兵士達だが、廖化が進めるまま、一人が酒瓶を持ってきた。そして飲み始める。
誰も、酔いはしなかった。
「敵は、一体何回攻めてくるのでしょうか」
「さてな。 既に死者は一万二千を超えているだろうが、それでも退く気配はないな」
「補給物資さえくれば、少しはマシに戦えるのに」
呻く兵士。
皆、大木や石を運ぶので、手足を傷だらけにしている。負傷者の手当も、満足に出来てはいない。
連弩は必殺の破壊力を誇るが、それでも敵を食い止めるのが精一杯だ。矢を作るのにも専門の道具と技術者がいるから、あまり派手に放つ訳にもいかない。幸い、剣閣に攻め込んできている敵将はあまり頭が良くない様子だ。数が多ければ勝てると信じて、ひたすら波状攻撃を繰り返してきている。或いは面子や誇りの問題かも知れない。どちらでも同じ事だが。
遠くから、怒濤。また敵が攻め込んできたらしい。
酒を片付けさせる。張翼が小走りできた。
「斥候からの情報だ。 今度の攻撃規模は大きい。 敵の数は五万を超える。 七万に達するかも知れない」
「ふん、十万でも関係ないさ」
何しろ、此処は険しい山々。名前も剣閣である。しかも敵は険しい坂に、貼り付くようにして登ってこなければならないのである。
石を転がしてやるだけで、致命傷になる。伐採した木を転がすと、数十の兵士が一片に転げ落ちていく。もちろん、転がり落ちた兵士が、二度と立ち上がることはない。
廖化は自らも弓を手に取ると、矢を放つ。敵兵は雲霞のようだが、ろくに抵抗も出来ず、ばたばた倒れていった。大岩を三つか四つ転がしてやると、肉塊になった敵兵が血みどろになりながら、転げ落ちていった。
夕刻には、敵は退いた。千以上の損害は、確実に出していた。
だが、味方の疲弊も小さくない。損害は無視できる程度だが、疲労だけはどうにもならないのである。
前線の被害を報告させる。
死者は殆ど出ていない。一方で、柵が何カ所か傷ついていた。落とすための石や、矢が不足し始めている。すぐに補給の手配をしたが、特に矢は不足が深刻だ。その内兵士達は、石を投げて戦わなければならなくなるだろう。
張翼がぼやいた。
「せめて江油城から物資を輸送できれば良いのだが」
「あれはだめだ。 彼処の馬?(パク)は、典型的な坊ちゃん軍人で、まるで話にならん」
一応黄皓に不満は持っているようなのだが、それを表に出すことも出来ず、領地に立てこもっている腰抜けである。
この江油城は、諸葛亮が万一のために備えて作り上げた中継要塞で、物資も豊富に蓄えられている。以前は五千の兵が駐留し、いざというときに備えていたのだが。今では、兵は精々数百という有様である。
それに、状況も理解できていないらしく、剣閣が落ちることはないだろうと高をくくり、防衛の準備もしていないという噂だ。
大体、仮に実情を理解していても。この男では、黄皓に目を付けられるのを恐れ、剣閣に物資を送ることなど出来ないだろう。
しばらく口をつぐんでいた張翼。廖化が代わりに言う。
「そうなると、綿竹の諸葛瞻将軍だが」
「そちらも厳しいな。 一応防備は固め始めているとは聞いているが、それでも物資はまだまだ当分届くことはないだろう」
「諸葛瞻将軍は、軍才も政務の才も不足している様子だからな。 事態を正確には把握できていないのかも知れぬ」
「それもあるだろうが、黄皓が、もはや蜀漢のあらゆる部分を握っていると見るべきなのかも知れないな」
もはや、言葉もないことであった。
毛布や陣屋の類は、幸いある。一万の兵しか預けられなくなった姜維は、この時に備えて、剣閣にて準備を固めていたからだ。黄皓から相当な横やりが入ったという噂もあるが、それでもどうにかこれだけの準備はしてくれた。
「それにしてもこの工夫のない敵の攻撃、やはり陽動なのではないか」
「だとしても、もはやどうにも出来ん」
廖化の言葉に、張翼はもはや何も応えなかった。
社預は呆れて、全てを見ていた。
鐘会の前に、諸葛緒が這い蹲っている。弱みを全て握られている事もあり、彼はもはや鐘会の部下も同然であった。
だから必死に剣閣を攻め立てたのだが、成果どころか、兵を損じるばかりであった。
「また失敗した、だと?」
「お、お許しを!」
二十も年下の小僧にひれ伏して、無様に震える諸葛緒。周囲の武将達は、皆無表情だった。
全員が鐘会の子飼いか、司馬一族の付けた監視役なのだから当然である。一瞥すると、鐘会は吠えた。
「貴様の兵権を取り上げる! 縛り上げよ!」
「お、お許しを! お許しをっ! あのような天嶮、力攻めではどうにもなりませぬ!」
「黙れっ! これからは私が自ら指揮を執る! どのような要害であろうが、叩きつぶしてくれるわ!」
ああ、馬鹿な奴だと、社預は思う。
ケ艾を深く信頼している社預は、司馬一族に対して強い不信感を抱いているし、他の武将達の無能ぶりも肌に染みて知っている。司馬一族によって有能な武将はあらかた粛正されてしまい、今残っているのは殆ど残り滓ばかりだ。諸葛緒はその中でもまだマシな方で、鐘会より実際の指揮能力に関しては高いかも知れない。
更に言えば、鐘会が直接指揮をするなどと言っても、結局動くのは兵士達なのである。前線であの断崖絶壁を登り、岩や巨木をかいくぐって敵陣に迫らなければならないのは、鐘会ではないのだ。
縛り上げられ、連れて行かれた諸葛緒を血走った目で見ていた鐘会は、すぐに辺りに指示を飛ばし始めた。
「崖が邪魔だというなら、埋めてしまえ! 兵士を動員して、岩や土を運ばせろ! 坂を緩やかにするのだ!」
「はい。 ただちに」
「それと、すぐに井蘭をくみ上げよ! 最上部には大型の弩を設置して、長距離から敵陣に火矢を撃ち込ませるのだ! 投石機も、射程距離を伸ばせ! 物資は長安から運ばせるのだ!」
一応、まともそうに見える指示である。だが、実際には机上の空論だ。
まずこの剣閣、多少の土砂を運んだくらいで埋められる場所ではない。更に言えば、攻城兵器の井蘭で長距離からの攻撃を考えているようだが、相手は尋常な高さではない。作った所で、敵からの投石機で破壊されるのが落ちである。投石機の射程を伸ばすと簡単に言うが、それでも相手には簡単には届かないだろう。
案の定、翌日からの戦闘も悲惨なことになった。
必死に兵士達が土砂を運ぶのを嘲笑うように、蜀漢軍が適当に落とす岩が、転がり落ちてくる。それは盾を構えている兵士達を瞬時に粉砕し挽肉にして、なおかつ逃げまどう兵士達を木っ端微塵にした。かなりの高所から落とされた岩は、最初は緩やかでも、兵士達に襲いかかる時には、虎でも怯えて逃げまどうような速さである。多少の盾など、なんら役には立たない。
投石機はただ唸りを上げるばかりで、石は敵陣まで届かず。逆に敵側の投石機は、容易に此方の投石機を粉砕して退ける。
届かないのは、井蘭も同じだった。長距離用の強力な弩は、魏軍でも開発されている。やっとの事で井蘭の上までそれを押し上げても、矢を放ってみれば、敵陣の遙か前にへろへろと落ちてしまう。
額に青筋を浮かべた鐘会は、兵士達を叱責する。
だが、戦況は何も代わることがなかった。
既に被害は二万に達しようとしている。だが鐘会は自分が間違っているとは、考えてもいない様子だった。
見かねて、社預が、軍議で挙手した。
「提案があります」
「何だ!」
「正面から攻めても埒が明きません。 総司令に、判断を仰いでは如何でしょうか」
「黙れッ!」
喚き散らす。手に負えないと、社預は肩をすくめた。
だが丁度その時、天幕にケ艾が入ってくる。王濬も連れていた。
目を血走らせながらも、不快そうに鐘会は抱拳礼をする。それに応じると、ケ艾は諸将を見回した。
「諸葛緒将軍がいないようですが」
「無能で、兵を損じるばかりでしたので、後送しました」
「そうですか」
ケ艾の口の端に、しらけた笑みが浮かぶ。天真爛漫なこの人も、流石にこうも腐りきった人間社会の業を見せられ続けると、やさぐれもするのだろう。それにしても鐘会が他人を無能呼ばわりとは。失笑をこらえるのに苦労する。
この男は、思うに参謀としてならある程度の力はあるのだろう。実際、諸葛誕の乱でも、それなりの作戦立案はしていたという事である。もっとも、勝てるのが確実な戦いで、ただ司馬一族が喜ぶような、えげつない作戦をひねり出していただけだが。
「ざっと見ましたが、作戦があまりにも稚拙すぎます。 数を頼りに押しても、敵陣は落とせないと、以前言ったはずですが」
「敵は疲弊し始めています!」
「二万もの兵士を死なせておいて、何が疲弊ですか。 見たところ、敵陣の一つも陥落していないではないですか」
言葉に詰まり、屈辱に青ざめる鐘会。大きく嘆息すると、ケ艾は言う。
「地図を」
「……」
司馬一族の監視役達は、無言で見ているだけである。鐘会の部下達は、主君を恐れて、何も出来ないでいる。
戦場に最悪の意味での政治闘争を持ち込んでしまっているのだ。これでは、勝てる戦いも勝てない。
いそいそと地図を拡げたのは社預である。本当に無能な連中だと、周囲をせせらわらう事が許されないのが、アホらしくて仕方なかった。
ケ艾が、地図上に指を走らせる。
「これから、私はこの路を通って、益州に直接侵入します。 侵入後は江油城、綿竹と落として、成都へ攻撃を仕掛けます」
「な、そ、そのような! 机上の空論です!」
「いえ、可能です。 実際に通れる所は、既に見てきています」
流石だ。しかもこの路は、剣閣からは索敵が難しく、簡単には察知されない。
運動神経が鈍いとは言っても、ケ艾は何しろ草の根から這い上がってきた武将だ。坊ちゃん育ちで実戦もろくに知らない鐘会とでは、住んでいる世界が違う。当然、立案できる作戦も、幅が異なるのだ。
「貴方では、この作戦への参加は無理でしょう。 麾下の三万だけをつれて、向かうことにします」
「お、おのれ、そのような」
「悔しいと思うのでしたら、剣閣を陥落させてみてください。 もっとも、今の作戦では、百年かかっても落ちることはないでしょう」
剣に手を掛けて立ち上がろうとする鐘会だが、ケ艾の側に控えていた王桓が一歩進み出ると、その戦気に押されてへたり込んでしまった。ぱくぱくと金魚のように口を動かす鐘会に、何か文句があるなら言ってみろと、凄まじい気迫を王桓がぶつけている。
実際、王桓なら。この天幕にいるひ弱な雑魚どもを、一人で制圧できるだろう。
びりびりと凄まじい戦気が天幕を満たす中、やっと鐘会が、蒼白な声を絞り出した。
「な、ならば私はどうしろと」
「敵陣には隙はありません。 しかし、唯一の欠点は、やはり補給路です」
「敵は、自国内ですが」
「蜀漢は既に混乱状態で、内部の腐敗が極限に達しています。 兵士達の証言を聞きましたが、既に敵陣から放たれる弩の矢は、かなり減ってきています。 これは、成都から、剣閣に補給が来ていない証拠です」
社預もそれは気付いていた。
というよりも、社預はむしろ鐘会の反応に呆れた。まさかそれに気付かず、正面突破できると思って波状攻撃を仕掛けていたというのか。
「攻撃をするふりをして、敵を引きつけ、物資を浪費させてください。 そして時々、少数の精鋭で奇襲を仕掛けます。 敵陣を一つでも落とすことが出来れば、後は芋づる式に、攻略が進展するでしょう」
「我らは大軍です! 二万程度の敵に、どうしてそのような、卑怯な戦い方をしなければならないのですか!」
「貴方が血筋や正々堂々にこだわるのは結構ですが、兵士達の命をそれにつきあわせるのはあまり良い趣味ではありません。 兵士達が自主的にそれに従うというのならともかく」
「豚も同然の兵士などに、何の主体的意思があるか! 奴らのような愚民は、我ら高貴なる者達によって、管理統率されていれ……」
パン、と乾いた音がした。
鐘会が、ケ艾によって頬を叩かれ、横転して地面に転がったのだ。平手で、渾身の一撃を見舞ったのである。元よりケ艾はさほど力も強くないが、細くて軟弱な坊やを横転させるには、充分だった。
跳ね起きた鐘会を、容赦なくケ艾は冷たい目で見つめていた。
「血筋、誇り、大いに結構でしょう。 しかしそれらを、貴方の先祖がどうやって作り上げたか、思いだした方が良いと思いますよ。 少なくとも、産まれた時に既に高貴、などと言うことはありません。 漢王朝の高祖劉邦でさえ違ったことは、博識なあなたなら良く知っていますよね?」
「た、叩いたな! この私を、叩いたなあーっ! 雑草ごときが、この高貴なる私を、叩いたなあーっ!」
「叩きました。 態度を改めないというのなら、この場で斬ります」
「お、おのれーっ!」
剣を抜こうとする鐘会だが、反応が剰りにも遅い。瞬時に首筋に王桓が剣を突きつけていた。王濬がケ艾を守るように立ちはだかり、社預もいつでも飛び出せるように準備する。それに対して、司馬一族の監視役達は見ているだけ。鐘会の部下達は、おろおろとしているばかりであった。
主がこれだから、部下も大したことはない。
王濬が咳払いした。温厚な彼の介入で、場はやっと落ち着きを取り戻した。
「それくらいにしてください、鐘会将軍。 それに、貴方が実績を今あげていないのは事実です」
「ぐっ……」
実績が上がらない。そう言う理由で、諸葛緒を罷免したことを、思い出したのだろう。鐘会も、流石に口をつぐんだ。
更に言えば、ケ艾には進んで命を捨てる忠臣が幾らでもいる。王桓はその代表だし、兵士達だって殆どがそうだ。鐘会は無能だが、最低限計算だけは出来る男だ。もし下手にケ艾に逆らうと、何が起こるか分かっているのだろう。
「わ、わかりました。 総司令のお言葉に従います」
「……そうですか。 では、そのように」
ケ艾が三万を連れて、何処とも無く消えたのはその翌日だった。
社預は全てを傍観していた。しかし、これだけは分かった。
これは、ただではすまないなと。
出来れば、ケ艾が死ぬのは見たくない。かの人は、この腐りきった魏王朝司馬政権にはもったいない出来た将軍だ。用兵の才も、人格的にも。そして人望という点においても、全てで、だ。
賈充のおかしな動きと言い、司馬一族が蜀漢で何をしようとしているのかは、大体見当がつく。
だが、それが故に。ケ艾には生き延びて欲しい。いざというときには、介入もする。
それが、社預の決意だった。
一旦攻撃を中止し、酒を浴びるように飲み始める鐘会。
必然的に、その天幕には誰も近付かなくなった。兵士が機嫌を損ねて何名か斬られてからは、その傾向は加速した。
元々線が細い鐘会である。多量の酒などに体が絶えられる訳もない。泥酔しては暴れ、暴れては眠り、起きては又酒を飲む。数日それを繰り返す内に、げっそりやせこけてしまった。
精神の脆さは肉体の更に下であり、酒くらいで立ち直れるようにはとても見えない。兵士達は、鐘会の狂乱にびくびくしながらも、剣閣に自殺同然の攻撃を仕掛けなくても良くなったので、安心している様子であった。
木の上で蜜柑を剥いて食べながら、林は全ての様子を見ていた。側に控えている部下に、ときどき蜜柑の皮だけを渡す。そうすると、部下は新しい蜜柑をさっと差し出してくるのである。
十個ほど食べて満足した林は、手が黄色くなってしまっているのを見てしばし愕然としたが、健康にもいいし、大丈夫ではあろう。
だが、流石にもう蜜柑はいい。今度は茘枝でも食べるかと思いながら、陣を見つめる。
さて、そろそろだろう。
林はそう判断した。
鬱陶しい蜀漢の細作どもは、すでに漢中にいない。大半が何処かに消えたらしいと、報告で聞いている。或いはもうあの雌狐めも、中華に見切りを付けたのかも知れない。賢明な判断である。
だから、何処にでも忍び込み放題だ。
成都では、黄皓が大詰めの行動に入っている。あらゆる情報を握りつぶし、劉禅は愚か殆どの文官武官も事態に気付かないようにしていた。表向きは己の権力を守るためという事になっているが、よく考えてみれば異常だ。保身に長けている人物なら、今が危機だという事くらい認識できる。
勘の鋭い一部の将軍、諸葛瞻や羅憲は独自の動きを始めている。シャネスの夫となっている向寵も、何処かに姿を消したらしいと林は聞いているが、それ以外はもう大体が黄皓の思うままの状態だ。
それらを、林は全て見てきた。
気になるのは、陳式。そして魏の一部の将兵の妙な動きだ。連中が何処に行ったのか、林の配下達が探しているにもかかわらず、未だ発見できない。何名かは返り討ちにあっており、苛立ちが募る。
今、蜀漢で進めている作業は、林の野望を満たすための、大詰めの行動だ。
司馬一族を、もっと増長させなければならない。実力に見合わない結果をもっと出させて、錯覚させなければならないのだ。
鐘会が起きたらしい。
にまりと微笑むと、林は天幕に潜り込んだ。
酒瓶を探して辺りをまさぐる無様な若き貴公子は、林を見て手を止めた。目の下にはどす黒い隈ができており、如何に精神を痛めつけられたかがよくわかる。
何度か目を瞬かせる。
「き、貴様は、確か林……」
「腐っておりますねえ。 鐘会将軍」
「黙れ。 これは、奴が悪いのだ。 ケ艾が、ケ艾めが。 あの下劣な愚民めが、私を叩くのが悪いのだ」
どうやら怒りの後は、悲しみに支配されているらしい。何とも線が細い貴公子様である。正直萎えるが、これでも大事な駒だ。しっかり操らなければならない。司馬一族も、それを期待しているからだ。
ぼろぼろと鐘会は涙を流し始めた。別に張飛に殴られた訳でも無かろうに、一体どれだけ脆い体なのか。
自分が哀れな捨て駒だなどと、鐘会は生涯気付けないだろう。
体以上に、心が弱すぎるのだ。
「あ、あってはならないことなのだ。 私は名門鐘一族の当主にて、若き天才用兵家なのだぞ」
「貴方の怒りは最もです」
「そ、そうか。 そうだな」
あまりにもあっさり乗ってくる。この惰弱な唐変木が。英雄をもてあそんで屈辱の末に殺すのは面白くて仕方がないが、此処までの阿呆を直接操るのはどうもいまいち面白くない。貴様のような滓は、貴様が言う愚民以下の塵だ。そう内心で呟きながら、林はゆっくり鐘会の心に手を伸ばしていく。
二刻ほどして。
天幕から出た林は、満足していた。阿呆を充分に洗脳することが出来たからである。
色々と、吹き込んでやった。鐘会は魏の忠臣であるとか、ケ艾のような愚民を主将に据えたのは司馬一族だとか、この兵力なら司馬一族にも対抗できるとか。蜀漢の民も、自分を諸手を挙げて歓迎してくれるはずだとか。
判断力を無くしている鐘会は、まるで天から降りてきた金の鎖に掴まるようにして、あっさりそれらの言葉を受け容れた。鵜呑みにしたと言っても良い。
人間は精神的な打撃を受けると、隙に簡単に潜り込まれやすい。淫祠邪教の類が、ずっと昔から信者を増やすために行っている手法だ。佐慈にそれを色々聞いている林である。この程度のお坊ちゃまを洗脳するくらいは、お手の物であった。
とりあえず仕込みは済んだ。だが、あまりにも簡単すぎて拍子抜けである。これが名将とか史書に書かれている男なのだから、頭が痛くなる。曹操が生きていた頃は、鐘会などとてもではないが名将などと呼べる男ではなかった。一応の知識はあるが、心身共に脆すぎるし、精々三流の将軍どまりだっただろう。魏呉蜀漢に、あれ以上の将軍など、それこそ幾らでもいた。
昔は良かったと呟くのは老人の証拠だとも聞く。だが、客観的に見て、人物が小振りになってしまっているのは間違いのない事実だ。諸葛亮が生きていれば、蜀漢もこう簡単に追い詰められはしなかっただろう。
陣を出ると、部下が集まってきた。何名かは、ケ艾の動きを把握していた。
「ご注進です。 ケ艾は山間の路を抜け、益州に向かっています。 一月もあれば、山道を突破して、江油城に出るでしょう」
「ふむ。 それに気付いている蜀漢の将は?」
「諸葛瞻が準備を始めていますが、周囲には実戦経験のある武将がほとんどおらず、武器や兵糧を纏めるのにも苦労しているようです」
「蜀漢の命運は尽きたな」
くつくつと、林は嗤った。
姜維にこれを教えてやれば、ケ艾はとりあえず撃退できるだろう。だが失陥した漢中を回復する術などないし、民の心も既に蜀漢を離れている。
蜀漢などどうなっても構わないし、それなら派手に潰して、おもちゃ箱にして遊ぶだけである。林が殺そうと思って果たせなかった諸葛亮の事もある。徹底的に蹂躙して、完膚無きまでに叩きつぶしてやるつもりであった。
部下達に指示を終えると、林は一旦闇に消えた。
もう少し、仕込みには時間が掛かる。
2、ケ艾進撃
また、使者が戻ってきた。黄皓によって、救援依頼が握りつぶされているのは明白だった。
姜維が拳を机に叩きつける。廖化も張翼も、悲痛な面持ちでそれを見ていた。
「もはや、これまでか」
「この剣閣は要害なれど、いつまでも支えられはしません。 眼前の二十万は撃退できるかも知れませんが、敵の兵力はまだまだ大勢後方に控えております」
「それに、あのケ艾が、このような工夫のない戦いをするのもおかしな話です。 やはり、何か裏があるとしか思えません」
姜維はどす黒い顔で、廖化と張翼を見回した。他の武将達も、戦意は旺盛なのに、そのぶつけどころがない。
既に敵の被害は一割を軽く超え、二割に達しようとしている。だが、敵は次々に増援を送り込んできており、攻勢を掛けるどころではない。ただし、敵の兵士達は戦意を喪失しており、それが味方に有利に働いている点は否定できなかった。
「いっそのこと、私が成都に乗り込むか。 この戦況であれば、私が剣閣から抜けた所で、すぐに陥落することもないだろう」
「いえ、ケ艾がそれを狙っている可能性があります。 鐘会はつまらぬ男ですが、ケ艾は歴戦の猛者。 何を仕掛けてくるかわかりません」
「ご注進です!」
兵士が天幕に飛び込んできた。鎧の肩から矢を生やしている。
「敵の奇襲です! 第三陣に、およそ三千の兵が奇襲を仕掛けてきました! 今、味方が応戦中です!」
「張翼、五千の兵を率いて急行せよ。 敵を蹴散らせ。 廖化は同じく五千を率いて、他の陣への奇襲を警戒。 私は他の将達と共に、正面攻撃に備える」
姜維は立ち上がると、すぐに指示をとばした。抱拳礼をして、廖化も張翼も出て行った。
しばらくして、奇襲を撃退したという報告が入る。しかし第三陣はかなり損害が大きく、柵なども殆ど引き倒されてしまっているという。張翼が突貫工事で修復を開始したが、敵は大軍を第三陣の下に集結させており、これから激しい攻撃を仕掛けてくる可能性が予想される。
結局姜維は、一歩も動けなくなってしまった。
奇襲を成功させて、引き上げたのは社預であった。ケ艾の行ったとおり、綿密に周囲を調査し、敵陣に隙が出来るのを待っていたのだ。
鐘会が人事不省に陥ったため、しばらく魏軍は動かず、損害の補填に注力していた。それがゆえに、蜀漢軍にもどうしてもゆるみが出来た。三千を率いて奇襲を行い、敵陣の一つをほぼ壊滅させることに成功した。敵の増援によって被害は受けたが、敵陣の備えは殆ど打ち砕くことに成功。攻勢の好機を作った。
これは、鐘会のためにやったのではない。
そろそろ江油城に到着するであろう、ケ艾を支援するためにやったのである。此方を侮った姜維が、成都に戻りでもしたら面倒なことになる。だから、敵はどうしても、剣閣で釘付けにしておかなければならないのだ。
陣に引き上げると、鐘会が待っていた。
酒に逃げて、とぐろを巻いていた惰弱な貴公子様は、少し雰囲気が変わっていた。凄惨な笑みを浮かべて、社預に言う。
「奇襲、ご苦労であった。 見事な戦果だな」
「恐れ入ります」
「貴様は三千を率いて、敵の隙をうかがえ。 我が軍は損害を与えた陣に攻撃を集中する」
眉をひそめてしまったのは、急に物わかりが良くなって気味が悪いからだ。何か企んでいるとしか思えない。周囲の部下達も、鐘会の変化を気味悪がっている様子であった。一方で、司馬一族の派遣している監視役達は、無言で鐘会を見つめている。この様子だと、連中が一枚噛んでいるのかも知れない。
およそ三万五千が、損害を与えた敵陣の真下に集結した。
長距離用の攻城用大型弩が運ばれてくる。投石機も、である。それらによって、敵陣に猛攻が開始された。
だが、敵の反撃は凄まじく、瞬く間に数千の兵が骸と化す。やはり崖の上にあるという地形的な有利さもあるし、何より敵の戦意が高い。社預は山中に入り込んでは、時々銅鑼を鳴らさせ、鬨の声を上げて、敵を牽制した。だがどうも廖化隊がまるまる対応のために動いている様子で、もはや攻撃を仕掛ける隙はなくなってしまった。
まる二日間の攻撃で、蜀漢軍は陣を守りきった。
だが、鐘会の自信満々な表情は、代わることがなかった。
敵陣の修繕は終わってしまった。櫓も造られ、更に頑強になっている。社預が仕掛けると同時に、もっと鋭く攻撃を仕掛けていれば、ひょっとすれば敵の陣の一つは落とせていたかも知れない。
そうなれば高度が同じ位置から、敵に攻撃を仕掛けることが出来た。ケ艾が言うように、戦況は劇的に良くなっていただろう。
「せっかく、社預将軍が隙を作ったのに」
「言うな。 敵を剣閣に引きつけていられるだけでも、良しとしよう」
姜維による兵が、山を越えている最中のケ艾の軍を奇襲したら。考えるだけでも恐ろしい事態になるだろう。
兎に角、ケ艾の軍が、江油城まで抜ける時間を稼ぐ。
それが、社預の役割だった。
「これから、部隊を十班にわける」
「はい」
「一から八までのそれぞれの班は、三交代で休みながら山の中を移動し、銅鑼を間断なく鳴らせ。 奇襲を敵に警戒させるためだ。 これを、休み無く実施する。 松明を使って、軍が移動しているようにも見せる」
つまり、そうすることによって、敵を休ませず、疲弊させるのだ。
残りの二班には、敵陣を直接伺わせる。隙があれば奇襲を本当に仕掛けさせるためだ。
だが、これらの陽動でも、あまり極端な時間稼ぎは出来ないだろう。
しかし、ケ艾なら必ずやってくれる。そう社預は信じていた。
まさに、翼でもなければ越えられない山道であった。
三万の兵は、まるで崖の間を縫うようにして進んだ。時には縄をつないで、底が見えないほど深い谷底に降りて、偵察もする。水を得るのも一苦労で、毎日十人以上の被害が出た。
人間は逞しい生物で、こんな人外の山奥にも、住んでいる者はいた。
殆どは蜀漢でさえ恐らく把握していない隠れ里の者達で、中にはまだ漢王朝が続いていると思っている者達までいるようだった。蜀漢の存在を知っている村もあったが、いずれもが良くは思っていない様子であった。
彼らに友好的に接し、路を聞き出しながら、ケ艾は南下する。
切り立った山を登り、峠を転がらないようにして下りる。茂みを切り開き、獣道を探して通る。
時々、虎も出た。
元々ケ艾は、それほど体力がある方ではない。だが、苦労によって鍛えられているから、自分が何処まで無理が出来るかはよくわかる。それに体力がないといっても、それは豪傑達に比べて、という話である。
人外の魔境に入り込んでから十日。
やっと、人里が見えてきた。
ひときわ高い山に登ったケ艾は、手をかざして、頷いた。まるで崖に貼り付くようにして首を伸ばして、ケ艾は見極める。
遠くに、粒のように見えている。江油城であった。
ただし、背後には巨大な崖がある。益州へはいる、最後の壁だ。
「見つけた。 江油城だね」
「ケ艾将軍。 そうなると、あの崖が最後の敵、という事になりますな」
「うん。 王桓、悪いけど、あの崖を越える準備を。 最精鋭を三千ほど集めて」
「わかりました」
他の部隊は、流石にあの崖を越えるのは厳しすぎる。本当に、ついたてのような凄まじさなのだ。王桓が鍛え抜いた最精鋭だけが、どうにか成し遂げられるだろう。それでも死人を出すかも知れない。
他の部隊は、江油城から丸見えになる街道を行くしかない。そうなると、如何に平和呆けした江油城の部隊といえども、簡単には通してはくれないだろう。上から矢を放つだけで、ケ艾の精鋭は為す術もなく打ち倒されていくことになる。
幸い、崖の上は江油城をそのまま見下ろせる位置になる。敵に気付かれずに登り切れば、一気に城を陥落させることが出来るだろう。
もちろん、それも今敵が油断しているからだ。
この辺りの民に聞いたのだが、諸葛亮はこの地点からの魏の来襲を予測していて、江油城に相当な兵力を配備していたという。今はすっかり黄皓の手によって兵備が削られてしまったが、昔だったら此処で立ち往生、全員屍を山野に晒すことになってしまっただろう。
もちろん、今でも危険は充分に残っている。姜維の追撃の可能性も捨てきれないし、何より鐘会が血迷う可能性は決して低くない。それに、司馬一族による謀殺は、更に可能性が高い。
兵を集める。二万七千は、江油城に王桓が突入後、一気に街道を突破する。疲弊が酷いので、もしも城から攻撃されれば全滅だ。三千は王桓と共に。力を付けるため、残っている兵糧や干し肉をわけ、二刻ほど休んでから出ることとした。
兵糧は既に尽きかけている。江油城を一気に落とせなければかなり危ない。辺りは山深いから、ある程度の食料は得られるが、戦いになったらかなり難しい局面になる。
本当は少し余裕を持って出てきたのだが、途中で不可解な兵糧の紛失が相次いだのである。鐘会の手の者か、或いは司馬一族による嫌がらせかもしれなかった。
一通り作戦を決めた後、王桓が王濬に抱拳礼をする。
そういえば、逞しい若者だった王桓は、既に深く蓄えた口ひげが似合う、武将然とした好漢となっている。ケ艾も年を取ったが、周囲もそれは同じなのだ。
「王濬将軍。 ケ艾様を、お守りください」
「うむ。 任せてくれ。 此処は景気づけに、とっておきの冗談を披露しよう」
場の空気を察したか、王濬が危険な発言をした。兵士達が蒼白になる。一人だけ、ケ艾は楽しみでわくわくしてしまったが、しかし王桓が咳払いする。
「それは生還してからお願いいたします」
「ええー?」
「ケ艾将軍、残念そうな顔をしないでください」
「だって、王濬将軍の冗談、面白いんですもの」
兵士達は殆どがケ艾の言葉を聞いて固まるばかりだった。或いは、王濬の冗談は、少し時代を先取りしすぎているのかも知れない。
ちょっとこのままだと士気が下がるかと思ったケ艾は、残念だと思いながらも、手を叩く。兵士達が顔を上げて、気を引き締めた。
「では、これから攻撃に入ります。 王桓将軍。 頼みます」
「わかりました。 命に替えて」
三千の兵が、一糸乱れず動き出す。
この江油城さえ越えれば、もはや蜀漢は陥落したも同然だ。
ケ艾は一頭だけ連れてくることが出来た軍馬に跨ると、息を呑んで、ついたてのような崖を登っていく王桓を見つめる。兵士の中には、鎧を脱ぎ捨てて半裸のまま崖を登る者もいた。三千の兵は三つの部隊に別れ、千人ずつ登る。最初の千は、精鋭中の精鋭。彼らなら、必ずやってくれる。
縄を掛け、岩を踏みしめ、彼らは登る。先頭に立って登っているのは、漢中近くの高所で産まれたという兵士である。同じような山ばかりのところで育ったらしく、まるで猿のような機動を見せている。
時々、石を踏み外す兵士がいる。だが、空中に投げ出されるまではいかない。縄をつかって、念入りに崖に足場を作っているからだ。
息を呑む一瞬。
やがて、猿のような男が、一番最初に上まで上り詰めた。すぐに姿を消し、奥の方にある岩に縄を結び始める。それを垂らし、後続が登りやすいようにした。
一人、二人。次々と、がけの上に兵士達が消えていく。王桓も登り切った。今のところ、一人も脱落していない。百人を超え、二百人に達する。千を超えた辺りだっただろうか。第二陣が登り初めた。
第三陣は、既に崖の下で待機している。第一陣が下ろした縄が、風に揺られながらも、確実に兵士達を引き上げていく。
やがて、第二陣も登り終えた。
不意に、兵士の一人が声をあげた。江油城から、煙が上がっているのだ。
「炊煙でしょうか」
「一旦登攀中止! 様子を見ます!」
もしも此処で攻撃されると、相当な苦戦をする可能性もある。まだ王桓の部隊は兵力が揃っていないし、攻撃のための準備も出来ていないからだ。
江油城の警備は弛みきっているという話だが、それでも此方がそれ以上に油断したら負ける。戦とは、そういうものだ。
しばらく、長い長い沈黙が続いた。物陰に兵士達はめいめい隠れる。ケ艾はざっとみて、一番安全そうな場所に、首脳部と一緒に隠れた。しばらくすると、上から鏡を使って連絡してきた。光の点滅を、王濬が解読した。
「敵はただ、炊事をしているだけ。 此方に気付いてはいない」
「では、登攀再開。 一気に登り切ってしまってください」
胸をなで下ろす兵士もいるが、安心するのはまだ速い。第三陣が登り始める。かなり速度が上がっているが、こういう時が一番危ない。案の定、途中で空中に一人の兵士が投げ出された。
命綱に救われる兵士だが、しかし振り子のように揺れて、崖に強か叩きつけられる。周囲の兵士達が助け上げるが、相当な重傷だ。骨が折れているかも知れない。やきもきする内に、全員がついに、上まで登り切った。
鏡を使って、光で会話する。
「全員、無事か」
「一人負傷するも、命には別状無し。 二千九百九十九名にて、江油に攻撃をこれから仕掛ける」
「了承」
ついに、時が来た。
三千が、音もなく江油城になだれ込み始める。ケ艾は少し離れて山の上に上がり、戦況を見つめた。
裏山から突如躍り込んできた魏兵を見た江油城の兵士達は、腰をぬかさんばかりに驚き、右往左往する。王桓は真っ先に斬り込むと、怒号をあげてそれだけで敵兵の戦意を打ち砕いた。
敵に、罠無し。ケ艾は判断すると、馬の手綱を引いた。
「此方も、攻撃を開始します」
「わかりました!」
二万七千が、進み始める。この辺りの街道は、漢中に通じている路であり、それが故に江油城は意味を持ってくる。だが、その意味も、内部にあっさり入り込まれた時点で、失われてしまったのだ。
城の中の喚声は、殆ど限定的だ。敵に如何に戦意がないのか、よくわかる。一気に坂を上り終え、包囲をしく。江油城は堅固だが、しかしそれも守っている人間がこれでは、宝の持ち腐れだ。
王濬が顎の下を撫でながら言う。紳士的なこの男は、どんな動作をしても何というか「決まっている」ので不思議だ。それが面白い冗談を言う所が楽しい。
「さて、どうなりますか」
「この戦いは勝ちです」
「おや、珍しい。 貴方が戦も半ばでそのようなことを言うのは、滅多にないことですね」
「そうでしたか?」
王濬と会話している内に、正門が開いた。堀が城の周囲を覆っており、しかも正門は頑強な吊り橋式だ。このような片田舎に、どうしてこんな強固な守りが必要なのか。蜀漢の武将達は、気付くことが出来なかった。諸葛亮の先見の明には恐れ入るが、やはり人間には限界がある。如何に天才であろうとも、未来永劫部下達の心を支配することは出来ないのだ。
少し希望が湧いてくる。司馬一族は早々に破滅するだろうし、その後来る地獄の時代も、決して開けない闇ではない。
ケ艾は、もうあまり長くはいきられないかも知れない。子供さえ産める体なら、既に孫がいてもおかしくない年なのだ。それに、司馬一族はケ艾を殺す気満々である。一瞬でも油断すれば、後ろから首を掻ききられるだろう。
でも、それでも良い。
この時代を生きた。最強の敵とも戦い、武人としての本分も尽くした。そして今、敵国を陥落させる名誉にも預かろうとしている。
自分の時代は、もうすぐ終わる。
それで良いのだ。ケ忠のような、もっと若い世代が、新しい未来を造ることが出来さえすれば。
もっとも、ただで死ぬ気はない。倒すべき敵は倒して、それからだ。
正門から最初に出てきたのは、馬?(パク)だった。荊州の名族、馬家の出身者だが、今では学問もなく武芸も出来ず、ただ血筋があると言うだけの人間達に成り下がってしまっている。
ケ艾に抱拳礼をした馬?(パク)は、悪びれた様子もなかった。
「降伏いたします。 兵士達には、どうか寛大な処置を」
「王濬将軍、内部を調べてください。 王桓将軍は街道を封鎖し、三交代で兵士達に休憩を取らせてください」
すぐに二人が、作業に取りかかる。
置いてきぼりにされた馬?(パク)は、ぽかんとしていた。
「あ、あの。 降伏を」
「決意を良くしてくれましたね。 でも、もっと早く貴方が決断していれば、蜀漢は滅びなかったのではありませんか?」
そう指摘すると、馬?(パク)は流石に恥じて俯いた。
彼の妻はもっと恥じていたようで、翌日、庭木で首をくくっているのが見つかった。凄まじい無念の形相を浮かべていた。
何かしらの技術を持たない女性は、戦乱の時代は悲惨だ。文字通り、子を産む道具としてしか生きられない場合も多い。
だから、せめて心に錦をと思う者もいる。ケ艾だって、運良く韓浩に拾われなければ、牛金に育てられなければ。このような立場で、ある程度選択肢のある人生を送ることなど出来なかっただろう。
「城の片隅に、手厚く葬って上げてください」
馬?(パク)はと見ると、涙一つ浮かべていなかった。
妻とは上手く行っていなかったらしいと後で聞かされる。きっと、馬?(パク)の妻は、国に忠義を尽くした烈女として民の間で伝説となるのだろう。
だが、きっと真相はそんなわかりやすいものではない。せめて心に誇りという名の華を咲かせて破滅に進む時代を生きていた彼女は、夫の降伏で、もはや精神的なよりどころを無くしてしまったのだろう。
簡単な葬儀が終わると、ケ艾は物資を確認させた。充分すぎるほどの量が蓄えられていた。諸葛亮がなぜ此処に物資を蓄えたのか理解せぬ馬?(パク)は、不思議だとずっと思っていたのだろう。
いずれにしても、もはや準備は整った。部下達を見回すと、ケ艾は宣言する。
「二日、休んだら進撃を開始します。 綿竹を、姜維が反転してくる前に、何としても落とします。 出来れば、そのまま成都も」
幕僚の一人、田続には五千の兵を任せる。そして江油城にて待機。
これは、姜維が反転してきた時のための押さえだ。江油城の要害であれば、仮に二万全てが反転してきても、支えるのはそう難しくはないはずだ。
二万五千。これで、蜀漢を落とさなければならない。しかも、出来る限りの短期間で、である。
兵士達の顔には、決死の決意が漲っている。
ケ艾も、彼らに向けて、頷いた。
「長きにわたった、蜀漢との戦いを、これで終わらせます」
「おおーっ!」
爆発する喚声の中、ケ艾は一人、無表情に立ちつくしていた。
向寵がシャネスと共に去ってから、羅憲は出兵の準備をしていた。もちろん行く先は剣閣である。
若い頃からしのぎを削った姜維の危機と言うこともある。だがそれ以上に、羅憲にとっても蜀漢は今や愛すべき国なのだ。既に中年を通り過ぎようとしている羅憲は、熱情に任せて行動するようなことはしない。だが、心に秘めた忠義は、捨てていないつもりであった。
だが、その行く手を阻む出来事が起こってしまった。
最後にと、白帝城を見回っていた羅憲が足を止める。遠くに、無数の船影を見つけたからだ。
軍船、である。旗印は、呉であった。しかも、帥の旗印を掲げた、呉軍の総旗艦までもがいる。
「羅憲将軍!」
「あの船か」
「はい。 細作の報告によると、呉の水軍です! 敵将は陸抗、兵力はおよそ二万七千!」
「ふん、その程度で、先帝の魂が眠るこの白帝城を、永安を奪取できると思うたか」
かっての毒舌は、未だ衰えていない。呉の不敗の名将、陸抗。荊州の総督である羊枯でさえ、正面からの戦いは避けるという噂もあった。
だが、羅憲は恐れていない。陸抗は確かに優れた武将だが、白帝城には五千の精鋭がおり、軍備も兵糧も充分である。五倍程度の敵なら、防ぐのは難しくなかった。
上陸した呉軍が、坂を上がってくる。流石に陸抗が鍛えた部隊だ。揚州の呉軍は腐敗が酷く、もはやまともに機能していないという噂を聞いているが、荊州に関しては最前線と言うこともあって違うという訳だ。
敵は整然と陣を組み、白帝城の周囲に展開した。陸抗が、近衛だけを引き連れて、正門に現れる。
「我らは呉の援軍である! 貴国の危機を見て、馳せ参じた! 是非通していただきたい!」
「無用!」
「なぜ無用か!」
「そなたの、いや呉帝孫休の狙いは明々白々! 魏が成都を落とす前に、先に占領しようという腹であろう!」
羅憲はもう一度、手助け無用と叫んだ。陸抗はそれ以上、何も言おうとはしなかった。
翌日からは、攻城兵器を並べ始めた。陸抗は青ざめて、唇を噛んでいると細作から報告が来る。
分かっているのだろう。二万か三万の兵を派遣しても、益州の恒久的な制圧など、出来る訳がないと。それなのに、行けといわれたら行かなければならない。陸抗は非常に厳しい立場が続いていて、胃薬が手放せないとも聞いている。呉帝孫休は暴虐ではないと聞いているが、それでも苦労が減らないらしい所を見ると、或いはとても無能なのか。孫?(リン)が死んだ後も、呉の状況は改善していないという事なのだろう。
少し同情して、さらには親近感も覚えた。羅憲の主、蜀漢帝劉禅も、善良ではあっても、とても有能とは言い難い人だからだ。ただ、次の皇帝と噂される孫皓は賛否両論で、それが若干羨ましい。蜀漢には硬骨漢はいても、もう有能な皇族などいないからだ。
「それにしても、一万五千が五千まで削減されなければ、一気に蹴散らすことも出来た所を」
「ぼやいても仕方がない。 それに阿呆どもは、じきにその身で愚かさを贖う事になるだろうよ」
兵士達の会話を横で聞き流しながら、内心で羅憲も頷いていた。ケ艾が、黄皓を許す訳がない。それだけが、今唯一の救いと言っても良かった。
翌日から、呉軍の攻撃が開始された。
内乱と蜀漢との戦闘で鍛えられたケ艾の軍勢と違い、平和が続いた呉軍は士気もあまり高くないし、装備している兵器もかなり技術的に遅れている。ただし陸抗軍だけは例外で、今もかなり積極的な攻勢を見せていた。
しかし、兵士達も感じているのだろう。一体何のために、堅固な要塞に命がけで挑んでいるのか、わからないと。
押し寄せてくる兵士達を無言で見つめる。
そして、充分な射程距離に入った所で、城壁に据え付けさせている連弩を斉射させた。
後は、一方的な展開になった。白帝城は、向寵が黙々と物資を蓄え、羅憲がそれを維持してきた場所だ。
半刻ほどの戦闘で、勝負はついた。
呉軍は千以上の死骸を残して、一端撤退。羅憲は兵士を外に出すと、使えそうな連弩の矢を回収させた。物資は少しでも無駄に出来ない。しかしその反面、味方に対する働きかけに関しては、羅憲は諦めていた。
「どうせ無駄だろうが、成都に連絡。 我、東より呉軍の攻撃を受けり」
「はい。 直ちに」
伝令が、西に走る。どうせ援軍など来る訳もないので、ある意味気楽に、羅憲は遠くに布陣し直す呉軍を見つめていた。
此処からは、好き勝手に戦える。
そして、陸抗を撃退できたら、援軍を送らなかった成都の黄皓一派を、皆殺しにしてやれば良かった。
ケ艾の進撃は、まさに急流を下る水のごとき勢いであった。
江油城で物資を補給し、兵士達の疲労を取ってから、そのまま南下。幾つかの城を瞬く間に陥落させ、更に物資を徴集した。
ケ艾も驚いたのは、魏軍に加わりたいという兵士まででてきたと言うことである。それだけ黄皓の圧政に対する不満は大きかったと言うことだ。
見れば農村は枯れ果て、民の表情は暗い。姜維による遠征の影響というのもあるだろうが、役人による搾取が最大の原因だろう。黄皓という輩の悪評は、ケ艾も聞いている。そんな輩が、民のために働こうなどと思う訳がない。
黄皓は、魏を蚕食する司馬一族と同じだ。或いは、司馬一族が蜀漢を滅ぼすために派遣した人間なのかも知れなかった。
半月も掛からず七つの城を陥落させたケ艾は、いよいよ成都を守る要衝、綿竹関に迫った。
予想通り、敵将は諸葛瞻。混乱の中、兵力も一万を集めている。関の上には連弩を並べており、力攻めでは被害が増すばかりである。既に陥落させた城などから、蜀漢の絵図面は入手しているケ艾だが、それが故に、これは力攻めできないと、即座に判断できた。
既に東では、呉と羅憲が戦い始めたという情報も入っている。この様子なら、成都に援軍が入ることは危惧しなくても大丈夫だろう。黄皓の圧政に不満を持っている者も多いだろうし、何より負け戦に荷担したくないと思う武将も出てくるからだ。
連弩の射程外に布陣。軍議で、王濬が最初に発言した。
「さて、如何いたします。 押さえだけ置いて、成都を直撃しますか」
「それは止めた方が良いでしょう。 諸葛瞻は見たところ、噂通り手堅い武将の様子ですし、必ず背後を突かれます」
「それならば、犠牲を度外視して、一気に綿竹を攻め落としますか」
王桓が言う。実際問題、犠牲さえ目をつぶれば出来るだろう。しかしながら、後々のことを考えると、出来るだけ此処での損害は小さく済ませたかった。
「蜀漢の武人達は、著しく戦意が落ちています。 内部から切り崩しは出来ないでしょうか」
「綿竹には、あの諸葛亮の息子である諸葛瞻が来ているくらいだ。 他には張飛の孫の張遵、黄権の子の黄祟、それに李恢の一族である李球ら、士気が高く忠誠心が高い武将達が集まっている。 必ずしも姜維と仲が良かった者ばかりではないが、蜀漢に対する忠義という点では、綿竹の者達は筋金入りだろう」
わいわいと、議論が為される。中には司馬一族の監視役もいるが、そのもの達も珍しく積極的に議論に参加している。当然で、此処で負ければ死しかないからである。
一通り議論が済んだ所で、ケ艾が提案する。
「とにかく、敵の兵力を削ることです。 あの要害では、一万の敵兵が、五万以上の活躍を見せるでしょう」
「ごもっともです。 それで、具体的な策はありますか」
「まず、慌ただしく撤退するように見せかけます。 それと同時に、敵に噂を流してください。 姜維が来て、江油城を奪還したと」
「なるほど」
少しわざとらしいので、先に説得力を増すために、手を打っておく必要がある。
効果的なのは、焦っているように見せかけることだ。
「師纂将軍。 貴方は綿竹の西側から、山越えを図ってください」
「お待ちください。 敵に捕捉されます」
「それが狙いです。 貴方なら、上手に負けることが出来るはず。 如何にも焦って山越えをしようとしているように、見せかけてください。 上手に作業をこなせたら、戦功として認めます」
なるほどと、師纂は呟く。
その後、慌ただしく撤退してみせる訳だ。戦慣れしていない諸葛瞻は、恐らく乗ってくるだろう。
乗ってこなかったら、力攻めしかない。大きな被害を出すだろうが、それでも姜維の精鋭に背後を突かれるよりはずっとマシだ。
翌日、全ての策が動き出す。
予想通りに進む部分と、そうでない場所もある。千五百を預けた師纂は予想以上に鋭い諸葛瞻の奇襲で、兵の四割を失うという大敗を喫し、本当に命からがら逃げ帰ってきた。敵の兵士は思った以上に強いと、判断する他無い。
しかしながら、残念ながら経験が足りない。兵を引くと、敵の内七千ほどが追撃を仕掛けてきた。
しかも戦意が先立って、陣が乱れている。どうやら、諸葛瞻には、戦の才能が無いらしかった。
追撃を諸葛瞻が開始した時。殿軍にはわざと師纂を残し、ケ艾は本隊を率いて、大きく迂回して西に回り込んでいた。
追撃の勢いは凄まじい。
しかし、大局が見えているようには、思えなかった。
「諸葛亮の息子というのが、彼に不幸に働いたのでしょうね」
「しかし、これが戦です」
王濬が、紳士的な口調で、だがきっぱりと言った。陳式の事を思うと、少し気の毒ではある。それに、此処で諸葛瞻を一気に仕留めておかないと、益州本土での戦闘が長引く恐れがある。
そうなれば、被害を受けるのは、誰でもない。
貧しい生活をしている民なのだ。
「王濬将軍、五千を率いて、敵の横腹を突いてください。 王桓将軍は、五千を率いて、綿竹を突く動きを敵に見せるように、戦場を迂回。 私は残りを率いて、敵を背後から奇襲します」
「わかりました。 直ちに」
敵に比べて、遙かに洗練された動きで、ケ艾の部下達が動き出す。
側面を突かれ、しかし諸葛瞻は諦める様子がない。反転してきた師纂を撃退し、大いに暴れ狂う。先陣で暴れているのは、多分張飛の孫の張遵だろう。大柄な青年で、逞しく盛り上がった筋肉は返り血に塗れていた。祖父ほどではないが、なかなかの武勇の若者である。
死なせるのは惜しいが、戦を早くおわらせるためだ。
王桓が、綿竹を突く動きを見せると、流石に戦意に滾った敵も乱れ始めた。ケ艾は敵陣が混乱するのを見計らい、指揮剣を振り上げる。
砂塵が濛々と渦巻く先には、死しかない。
その先にある生を求めて、戦場では誰もが戦っている。其処には理由付けは虚しい。だから、一刻でも早く終わらせなければならない。
「突撃!」
「殺っ!」
荒くれの兵士達が、一斉に唱和した。
一万三千の兵が、二方向から攻撃を受けている諸葛瞻軍に、坂の上から加速しつつ襲いかかった。騎馬隊の一撃を敵は受け損ねる。最初に蹂躙されたのは、黄祟の軍勢である。降伏した武将達の話によると、一刻も早く黄皓を排除して、魏に備えて軍備を整えるべきだと、常に発言していた男であったという。黄皓に疎まれて辺境に流されていたが、この事態に見張りを振り切って前線に駆けつけた硬骨の男であったそうだ。
経験の差は残酷だ。忠義の名将として知られた黄権の息子であっても、実戦経験が少なければ、兵士達を良く動かすことは出来ない。瞬時に瓦解した黄祟の軍勢に、ケ艾の部隊が容赦なく躍り込み、敵の残存勢力を刈り取っていく。
「敵の増援です! 綿竹からおよそ二千!」
「王桓将軍に対処させてください!」
「ただちに!」
敵増援は諸葛の旗を掲げている。子だくさんで知られる諸葛瞻の息子だろうか。
先鋒の兵士達が、黄祟に群がる。次々と槍が突き出され、馬上の黄祟の身に穂先が吸い込まれていった。
落馬した黄祟。既にその身は動かない。
「首は取らずに。 後で手厚く葬って上げましょう」
乱戦と言うこともあり、ケ艾は短くそう言うと、更に兵を進める。諸葛瞻はこの土壇場で意外な粘りを見せ、二度にわたってケ艾の部隊を押し返す。だが、その兵力は三倍の敵にもみくちゃにされ、見る間に削り取られていく。
そして、気の毒だが。ケ艾から見れば、隙だらけだった。
二千の直属を率いて、ケ艾が動く。騎馬隊が砂塵を巻き上げ、怒濤の勢いで動く。槍を揃えた騎馬の群れが、諸葛瞻軍の右翼から突入。必死に支えようとした敵を踏み砕き、突破を果たした。
張遵が、王濬の兵の中で、一人戦っているのが見える。
反転して、其処へ。凄絶な表情で、張遵が雄叫びを上げた。既に二三十人は斬っているだろう。だが、ケ艾の精鋭が相手では、流石に彼も荷が重かった。
先頭の数人を斬り伏せる。しかし、後から後から迫る騎兵が、槍を次々に繰りだし、張遵が空中に投げ出された時には、既に肉塊も同然になっていた。
地面に叩きつけられる張遵。
二千は反転すると、王濬と合流し、敵を包囲に掛かった。
まだ、頑強に抵抗する諸葛瞻。援軍は王桓の部隊に撃破され、指揮官もまだ若い首を授けてしまったようだ。だが、それでも粘る。既に三千を割った敵は円陣を組み、必死の抵抗を見せる。
「降伏勧告を」
頷くと、兵士の一人が出る。良く声が通る男だ。
「諸葛瞻将軍! 父の名を辱めない勇戦、見事なり! しかし勝敗は既に決し、残るは血に染まる荒野のみ! 此処は兵士達の事を考え、是非勇気ある決断をなされい!」
「此処で我らが降伏すれば、蜀漢は歴史から嘲笑されることになるだろう! そしてそれは、数百年先まで、蜀漢の民を苦しめることとなる!」
すぐに反論が来た。
納得できる反論ではある。この手の議論に、結局結論はないのだ。正義など人の数だけある。おぞましき独裁政権を作り上げている司馬一族にだって、彼らなりの主張したい自分正義はあるのだろう。
しかし、それでも。ケ艾は、出来るだけ被害を減らしたい。
長きにわたった蜀漢と魏の戦いが、終わろうとしているのだ。その後に来るのが地獄の戦乱だとしても、十年かそこらは平和になる可能性も高い。それに、早く平和になれば、周辺の異民族に対する対応も、万が一にでも出来てしまうかも知れない。司馬一族は今こそ腐りきっているが、或いは次の世代はまともになるかも知れない。
戦乱よりも、平和の方がずっとマシだ。
林さえ除けば。この中華は、まだ平和で発展を謳歌できる可能性が残っているのだ。
「戦乱を長引かせるのは無益です! 諸葛瞻将軍、武人としての誇りを重んじる貴方の心意気はわかります! ですが、一刻も早い平和を! 民のためにも!」
「貴様らに降伏した所で、平和が来るとは信じられぬ! 魏の内情が腐りきっていて、司馬一族に寡占されていることなど、誰の目にも明らかだ! 天下が統一された所で、その平和など何年も保たないだろう!」
「それは私も同感です」
口の中で、思わず呟いてしまった。
だが、それでも。出来れば、有意な人材には、これ以上死んで欲しくないのである。これから確実に来る、闇の時代を、中華が乗り切るためにも。そのためには、少しでも早い平和の到来が不可欠だ。
「どうしても、退くことは出来ませんか?」
「くどい!」
「そうですか」
隣にいる王濬に頷く。銅鑼が鳴らされ、攻撃が再開された。
わざと包囲網を一箇所開けてあるのに、敵は逃げようとしない。多分兵士の中には、諸葛亮と一緒に戦い、蜀漢を守ってきたと自負している者達も、少なくはないのだろう。
激しい戦いは、夜まで続いた。
諸葛瞻の首をあげても、敵は降伏を良しとせず。結局最後の一兵まで戦い抜き、戦場は朱一色に染まった。
これほど戦意が高い軍団は、そうそう見るものではない。黄巾党の最精鋭でさえ、此処までの献身的な戦いをしたかどうか。諸葛亮という人物の威光が未だ衰えず、未来永劫名は残るだろう事を予測して、ケ艾は慄然とした。
「被害は」
「予想以上に大きいです。 味方も千五百以上を失いました」
「わかりました。 明日から綿竹を攻略し、成都を直撃します。 成都には、もう戦える武将は残っていないでしょう。 一気に片を付けます」
蜀漢を背負って立った武将達の精神は、これで滅びたも同然だ。彼らの血筋は未だ残っているが、それは精神とは関係がない。
これで、血みどろの死闘は終わりにしたい。
ケ艾は、心からそう願った。
3、混沌の宴
血に染まった柳剣をぶら下げて、黄皓の屋敷から林は出てきた。
玩具を、全部片付けたのだ。
少し前から、黄皓は林の言いつけにも背くようになり、蜀漢内で暴走を続けていた。林が命じたのは、あくまで蜀漢の態勢を混乱させること。それなのに、黄皓は権力を握り、それを長久化しようとし始めていたのである。
今までは忙しかったので放置していた。黄皓は結果的に蜀漢を弱体化させていたし、駒としては使えたからだ。だが黄皓は、この期に及んで行動を誤った。劉禅を焚きつけて、一刻も早い降伏をさせ。それを提言した人物として、魏の内部で生き残ろうとしたのである。
混乱させる目的であれば、徹底抗戦を主張した挙げ句、無様に負けるのが一番良い。だが、黄皓は、現世での栄華を覚えてしまった。だから、保身に走ろうとした。
林は、それに制裁を加えた。
正確には、部下、黄皓派の人間が集まっているこの屋敷に乗り込み、護衛もろとも皆殺しにしてきた。その中には黄皓派の武人である閻宇や、何名かの高官も混じっていた。まあ、そんな連中は死のうが生きようがどうでもいい。黄皓自身は殺していない。このまま生きていた方が、面白いことになるのは明白だからだ。
林は、剣を振るって血を落とす。周囲に、沸き上がるように部下達が現れた。
「林大人。 二つ、重要なご報告がございます」
「聞こうか」
「洛陽の支部が、少し前に壊滅した模様です。 未だ連絡が取れません。 主要幹部は、殆どが命を落としたかと思われます」
「何ッ!?」
羊と戦っていた頃には、時々あったことだ。しかし、もはや蜀漢の細作部隊でさえも敵し得ないこの状況で、まさか林の組織の、しかも洛陽という中枢が叩かれるとは。思わず敬語で言葉が漏れてしまう。
「舐めた真似をしてくれるものです。 温厚な私も、ちょっと我慢の限界が近いかも知れません」
「ひっ!」
部下は皆知っている。林が敬語で喋るのが、どういう時かを。こうなると、林自身にも時々歯止めが利かなくなる。
肉体は若いままでも、最近時々、特に精神が制御できなくなることがある。咳払いして落ち着くと、林は部下共を見回した。口調は既に元に戻っている。
「……報告を続けよ。 犯人は司馬炎か?」
「いえ、それがどうも全く司馬一族は動いていないようなのです。 もしもあるとすれば、蜀漢の細作部隊の残党か、或いは未知の勢力かと」
今の中華に、林も把握していない未知の勢力。そんなものがあるとは思えない。
敵になりうるものは、全て潰してきた。江東の細作組織や、山越の反政府組織でさえ、邪魔だと思ったら消したほどなのだ。蜀漢の細作組織の無力化は、益州に林が堂々と出入りしていることで明らかだし、訳がわからない。
それに、洛陽には、手練れを三十人から配置していたのだ。此奴らを討ち取れるとなると、関羽や張飛並の達人がいるとしか思えない。
「わかった。 それは私が直接対処する。 それで、もう一つの報告とは」
「姜維が鐘会に降伏の使者を送りました。 今、調整を進めている模様です」
「ふむ、それは予定通りか」
姜維の動きは読めている。恐らくは、鐘会を籠絡し、ケ艾を倒して魏の軍事力を吸収、もう一度蜀漢を蘇らせる気なのだろう。
そして鐘会は名門の出身と言うこともあり、この手の平衡感覚に欠けている部分がある。苦労知らずの貴族のボンボンであり、今まで勝てる戦いにしか駆り出されなかった若造だ。しかも今は、林が色々と吹き込んで、洗脳済みの状態なのである。
これらの状況は、全て事前に予定済みだ。司馬一族が、である。姜維がどれだけ追い詰められているか、鐘会が如何に三流の将帥か、これだけでもよくわかる。
「まあいい。 そちらについては、私がいなくても大丈夫だな。 予定通り、事を進めよ」
「わかりました。 数名を監視に残します」
部下が散開した。
これから、林にはするべき事がある。
一つはある男をこの世から消す。これは雇い主からの依頼だ。
そしてもう一つは、さっき部下達にも説明した、洛陽の異変の解明である。
どうも気になる。闇の世界で、林の名を聞いて恐れない者など、今や存在しないのである。しかも、林が鍛え抜いた精鋭を打ち倒し、留守の洛陽にて好き勝手をするなど。とても正気とは思えない。
何者かは、確認する必要がある。
部下はああいっていたが、司馬一族の仕業という可能性もある。もしその場合は、林を敵に回したことを後悔させてやるだけだが、どうも違う気がしてならないのだ。
林は用心深い。激情に駆られて暴れることもあるが、普段は何度も思考を練り直してから、己の欲望に相応しい世界を造るため、行動する。
今回もそれは同じ。
此処で躓く訳には、いかなかった。
綿竹を陥落させたケ艾は、成都の城壁外に布陣した。既に綿竹に蓄えられた物資は接収済みであり、補給は気にしなくても良い。更に言えば、姜維が降伏に向けて動き出しているという報告も入っていた。此方はあまり信用できない。鐘会を利用して、内側から魏軍を潰すつもりと言う可能性も否定できないからだ。
数日間包囲した後、矢文を撃ち込んで見る。降伏勧告の使者を城内に入れたかったからだ。
「王濬将軍。 ついでといっては何ですが、中の様子も見てきてもらえますか」
「わかりました」
「どうも様子がおかしいのです。 あれほど旺盛な戦意を見せた諸葛瞻を葬った後は、蜀漢軍はろくに動けていません。 ひょっとすると、成都内部で何か大きな出来事が会ったのかも知れません」
「例えば、専横を重ねていた黄皓が死んだとか」
王濬の言葉に、はっと顔を上げる。
「なるほど、可能性はありますね」
諸悪の根源のように言われる宦官だが、実際に悪いのは便利だからと言って危険を考えず使う人間である。しかしながら、黄皓は妙な経路から蜀漢王宮に入り込んだという噂がある。何度も聞いたことがある。司馬一族か林辺りが忍び込ませた密偵だというものだ。
それならば、この事態に誅殺される可能性は低くない。
もっとも、ケ艾は黄皓を捕らえて殺すつもりだ。あまり人を殺すのは気分が良くないが、黄皓のような男だけは、絶対に殺さなければならない。生きているだけで害を及ぼす存在というのは、実在するものなのだ。司馬一族から、殺すなと指示が来たとしても殺す。そうしなければ、蜀漢の民は納得しないだろう。
矢文の返事はすぐに来た。正門が開き、軍使らしき男が出てきたのだ。あれは確か、蜀漢の文官の一人で?(ショ)周という男だ。典型的な学者文官で実務能力は低いと聞いているが、あまり悪い噂は聞かない。恐らく、知識だけを求められて仕官した男なのだろう。諸葛亮の時代からいるという話だが、目立った業績もないという。儀礼の知識や、故事を紐解く時、必要になる人材はいる。そういう男であろう。
?(ショ)周は顔が長くて、白い髭も表情もかなりだらしない。眉毛が非常に太いのがよく目立つ、何だか浮世離れした面相である。一応服装だけは、軍使らしくしっかりしていた。それに、魏軍を見て怯えていない様子から言っても、胆は座っていると見て良いのだろう。それとも、ある種の学者に見られるような、自分の命さえどうでも良いと考えている型の人間なのかも知れなかった。
兵士達に案内され、?(ショ)周は本陣に来た。無遠慮に辺りを見回す様子に、天幕から出ながら、ケ艾は苦笑していた。
ケ艾に気付いた?(ショ)周が、不器用に抱拳礼をしてきたので、返礼する。変わり者のようだが、あまり敵意は感じなかった。
完璧な儀礼的な挨拶に始まる。ちょっと言葉遣いが変で、聞き取りづらい口調だった。この辺り、吃音と言われることがあるケ艾と共通していて、ちょっと親近感が湧いた。側にいる、まだ若い従者の方が、しっかりしている雰囲気である。そういえば、どこか陳式に似ている気がする。
「ケ艾将軍は、ご機嫌麗しゅう」
「ああ、儀礼はその辺で。 本題に移りましょう」
天幕に案内し、客席に座らせる。王濬が書記を務めたのは、あの厳しい山越えをこなせる文官がいなかったからだ。
まるで他人事のように、?(ショ)周は淡々と話を進める。
「それでは、此方が我々の要求を纏めたものとなります」
「拝見しましょう」
竹簡を拡げて、ざっと見る。暗殺を防ぐために、拡げる事自体は兵士がやった。この辺り、面倒な話ではある。
何かあっては大事と王桓が目を光らせる中、ケ艾は内容を読み終える。
劉禅の命の保証。降伏した将兵の寛大な扱い。一通り、予想される基本的な内容が押さえられている。いずれも、ケ艾には異存のない話ばかりであった。問題は、それを保証できる可能性が少ないという点だ。
どのみち、魏はケ艾に難癖を付けて殺すつもりだろう。
その時、これらの約束は、反故にされる可能性が極めて高い。
そして、蜀漢を襲うのは、未曾有の混乱だ。数十年敵の侵入がなかった蜀漢の民は、苦しい時代を味わうことになるだろう。
少しでも、その混乱を緩和しなければ行けなかった。
「わかりました。 幾つか、条件があります」
「何でしょうか」
「まず、蜀漢の皇帝陛下と側近達、それに剣閣で奮戦した姜維将軍以下には、洛陽に移っていただきたく」
「護送すると言うことですか」
王濬に目配せする。少し慌てた様子の王濬は、困り果てて辺りを見回したが、ケ艾の気は変わらない。
「此方からは王濬将軍、それに社預将軍が護衛につきます。 どちらも信頼できる名将です」
「噂はかねがね聞き及んでおります。 お二方の護衛であれば、我が主も安心して身柄を任せることがかないます」
「お聞き入れいただき、有難うございます。 それでは略式で申し訳ないのですが」
竹簡の隅に判を押す。?(ショ)周は特に胸をなで下ろす様子もなく、陳式の面影がある従者と一緒に、成都に引き上げていった。
彼らが陣から消えると、珍しく王濬は取り乱した。
「ケ艾将軍!」
「魏が殺そうと難癖を付けてくるのは、落ち度のある人間だけです。 私はそれから外れることが出来ないでしょう。 しかし、捕虜を護送する立場の人間は違ってきます」
「し、しかし! この王濬、貴方の笑顔を見ることだけが生き甲斐です!」
きょとんとしてしまったが、王濬は意見を変えない。真剣な表情のまま、普段紳士的な男は続ける。
「社預も、王桓将軍もそれは同じの筈! 我ら一同、貴方と死ぬ時死ぬ場所は一緒と決めております!」
「とても嬉しいですけど、でも生きてください。 これから中華は、司馬一族の圧政と、その後の混乱という、二重の苦難に見舞われるはずです。 誰かが生き延びて、民を守らなければなりません」
そのものは、此処にいてはいけない。
魏は蜀漢を、正確には諸葛亮の影響が及んだ土地を、徹底的に蹂躙するつもりだ。多分十年くらい内乱状態にして、抵抗できないように国力をそぎ落とし尽くすつもりだろう。司馬一族が考えそうなことである。
その過程で、ケ艾は殺される。鐘会も、姜維もだ。
だが、それ以外の人間は。出来るだけ巻き込まれて死ぬことを、防ぎたかった。
蜀漢の民の犠牲も、出来るだけ減らしたい。南蛮と漢中に出来るだけ避難できるように、今の内に手を打ちたかった。
王濬の目に涙が浮かぶ。王桓は決意を目に秘めていた。
「この王桓、何があろうと、貴方の側におります」
「意見は、変えてくれませんか」
「こればかりは」
「ケ艾将軍、王桓将軍をおそばに置きください。 私と社預がおそばを離れるのであれば、もはや豪傑王桓将軍以外に、身を守る者は存在しません。 我らからの願いでもあります」
本当に困った。ケ艾は何をしてももう殺されるだろうから、覚悟は出来ている。他は本当に、誰も巻き込みたくない。これは私情ではなく、後の中華のために、である。
もうこの中華が闇に落ちるのは避けられない未来だ。だからこそ、一粒でも多く希望の種はまきたいのに。
でも、どうしてか。嬉しかった。
「わかりました。 しかし、私に殉じることはありません。 天下万民のためにも、生きることを考えてください」
無言で、王桓は抱拳礼をした。
翌日、蜀漢から。条件を受け容れるという使者が来た。ケ艾は幕僚達を率いて、宮殿に入る。
成都の街は若干貧しい雰囲気があったが、良く整備されていて、とても綺麗だった。ごみごみした洛陽に比べると、雰囲気も良い。劉璋は愚かな君主だったと聞いているが、劉焉から続く統治が、決して民を苦しめるばかりではなかったことを感じて、ケ艾は頷いていた。
貧しくても、この国は決して暴君の治世に晒された訳ではなかったのだ。それを考えると、蹂躙するのはとても悲しいことであった。
劉禅は若干太めだったが、目にはそれなりの光がある人物だった。黄皓は場にいない様子である。宦官がこういう席に出張ってくるのも、妙な話ではあるし、それで良いのだろう。それに、見た瞬間王桓に斬るよういうつもりだったし、これで良かった。
抱拳礼をすると、劉禅は堂々と受け答えをした。
「ケ艾にございます」
「そなたがケ艾将軍か。 武名は聞いておる。 朕が劉禅だ」
「陛下こそ、安定した蜀漢の治世という実績については重々伺っております。 それに、成都の街の様子を見て、それが嘘ではないことを実感しました」
「全ては諸葛丞相が作り上げたものだ。 朕は何一つしていない。 それに、このままでは、全てを駄目にしてしまう所だった」
寂しそうに、劉禅は笑った。
そして、側近が恭しく差し出したのは首である。黄皓のものに間違いなかった。
「いつの間にか、我が国はそ奴に牛耳られ、蚕食されてしまっていた。 しかしそれを止められなかったのは、朕の不徳がいたす所だ。 この国は、負けるべくして負けたのだ」
「そのように卑下はなさらないでください。 陛下、それに側近の方々は、これから洛陽に移っていただきますが、命は約束通り保証いたします。 どうか堂々となさっていてください」
「……朕はいい。 諸官の身の保証を頼むぞ」
玉爾が渡される。
ケ艾は恭しくそれを受け取った。
こうして、蜀漢は滅びた。
そして、これが全ての混乱の始まりだった。
姜維が降伏を決めたのは、蜀漢がケ艾に敗れて数日後。成都から使者が到着してからの事であった。
後方がおかしいことは、少し前から廖化も感じていた。だが、散発的な敵の奇襲と陽動作戦に手を焼かされており、とても手を割く訳にはいかなかったのである。姜維自身はだんまりで、何か策があるのかよくわからない状態が続き、兵士達は不安がっていた。
そこに、成都からの使者である。
やっと援軍かと思って出てみれば。あまりのことに、殆どの兵士達が唖然とした後怒り出した。
今までの戦いは何だったのか。
なぜ、早く増援を呼ばなかったのか。ケ艾の軍勢は精鋭といえど、綿竹の軍勢と挟み撃ちにすれば、苦もなく蹴散らせたはずなのである。使者はただ、黄皓が全てを邪魔していたと、繰り返すばかりだった。
「黄皓め!」
絶叫する兵士達の中には、剣を石に叩きつけて砕く者まで出ていた。廖化もやるせなくて何度も嘆息した。だが、何処かおかしいとも思える。張翼も、それは同じようだった。
ともかく、成都からの使者もある。姜維がどう出るかと兵士達は注目したのだが、案外あっさりと姜維は降伏を決めた。
まずは武装解除しなければならない。さらには、兵器類も、鐘会の軍勢に引き渡す。使い込まれた無数の剣、それに諸葛亮が作り上げた連弩。全てが、魏軍に接収されていった。我が物顔に武具類を取り上げていく魏軍。ケ艾の軍勢は紳士的に振る舞っているという話で、この差は何だとぼやきたくなる。
廖化は張翼とも引き離され、檻車に入れられた。食事は一応のものが出たが、益州に比べると味付けが著しく薄い。益州出身ではないとはいえ、廖化がずっと過ごしてきたのは、蜀漢である。塩辛い料理の方が、やはり好みだった。
檻車の中では、やることも少ない。腕組みして目を閉じてじっと時を待つ。場合によってはこのまま殺されることもあるし、考え事をするには丁度良い時間でもあった。食事の時に排泄も行かせてもらえるが、それも当然監視つきである。ゆっくり過ごせなかった。
食事の時には時々張翼と一緒になったが、向こうも似たかよったかの状況らしい。むしろ将校や下級の将軍は気楽らしく、のんびりと過ごしている様子だった。
「姜維将軍が、落ち込んでいたよ」
「何かあったのか」
「傅僉が戦死していたらしい。 さっき、魏軍の将校に聞かされたようだ」
漢中に敵が侵攻してきた時、酷い混乱が続いた。どうにか生き残りと合流するのが精一杯で、とてもではないが行方不明者の安否どころではなかった。
傅僉は要衝である陽安関を守っていたが、味方だったはずの蒋舒の裏切りにあって奮戦の中孤立。多数に囲まれ、そのまま討ち取られてしまったという。無念の形相は凄まじく、蒋舒はその顔を見て卒倒、そのまま息を引き取ったそうだ。
まだ若い、有能な武将だった。廖化も嘆息した。
「そうか。 もう我らには、夢も希望も無いな」
「その姜維将軍から言づてだ」
不意に、張翼が暗号に切り替えた。一見すると何気ない会話のようなのだが、意味が実際とは違ってくる。細作達が使っているものを、少し前に黄夫人から教わったのだ。
「これから私は鐘会を操作し、まず成都を奪還する。 その後は鐘会を殺し、魏軍の不満分子を粛正して、蜀漢を再興する」
「……」
上手く行くとは思えない。混乱を加速するだけなのではないか。
しかし、もはや姜維に会う機会もない。それに、蜀漢にずっと仕えてきた廖化としては、奪還に望みを託したかった。
陳式は戦死したのか。或いは独自の活動をしているのか。それもわからない。
だがあの男のことだ。きっと、何か動いてくれてはいるのだろう。それだけは、信じられた。
翌日の朝。食事の前に、社預が来た。感じがよい青年で、多少口調に毒が籠もったりもするが、基本善良な信頼できる人物である。
「これから、劉禅様や高官の方々ともども、貴方たちを洛陽に護送します」
「好きにしてくれ。 後、食事はもう少し辛くして欲しい」
「わかりました。 そのように計らいます」
生真面目に言われたので、廖化は破顔した。
そのまま、檻車は二台とも、北に進み始めた。途中で、何台かの檻車と合流する。黄皓は乗っていない様子だった。また、劉禅は最大限の敬意を払われ、龍車に近い形の車に檻を付けたものに乗せられていた。
隣になったのは郤(ゲキ)正。有能ではないが気骨のある文官であった男である。
「おお、郤正ではないか」
「廖化将軍、申し訳ありません。 我らがしっかりしていれば、黄皓のような愚物に、壟断は許さなかったのに」
「もういいさ。 その腐れ宦官はどうした」
「屋敷に踏み込んだ所、周囲の人間が皆殺しにされていましてな。 一人でへたり込んでいる所を、近衛兵達が捕らえました。 何を聞いても要領を得ないので、そのまま首を刎ねました」
そうかと、廖化は呟いた。奴が益州の実権を握るようなことがあったら最悪だと思っていただけに、巨大な凶報の中の、唯一の光だった。
「それにしても、そんなにも老け込まれてしまわれて」
「老けた? 俺がか?」
「鏡を、ご覧ください」
郤正が兵士に言うと、すぐに社預が飛んできて、鏡を貸してくれた。
廖化は愕然とする。
戦闘が始まる前と今では、あまりにも自分が違いすぎていた。一気に目的が抜けてしまったというのもあるだろう。だが、これでは、まるで皺だらけの老人ではないか。
いや、ずっと前から廖化は老人だったはずだ。陳式と、お互いに老けたなと笑いあっていたはず。戦いの中で、いつしか自分はまだ若いと思い違いをしてしまっていたのかも知れない。
鏡を取り落とした廖化は、さめざめと泣いた。
「そうか。 俺は、ついにこんなに老けてしまったのだな」
「廖化将軍!」
そのまま、崩れ落ちるようにして、廖化は意識を失った。
ふと気付く。
周囲には、若い頃ずっと仕え続けた、蜀漢の名将達がいた。迎えに来てくれたのだ。
張翼もいる。少し前に死んだのかも知れない。しかし、陳式はいなかった。
「よく頑張ってくれたな、廖化」
関羽に言われて、廖化はくしゃくしゃに破顔して、応と叫んだ。
そして振り返る。
お前は、まだやることが残っているか。
残っているなら、絶対にやり遂げてくれ。そう呟いた。
移送される劉禅らとすれ違うようにして。鐘会は、十五万の兵を連れて、成都になだれ込んだ。
ケ艾の軍勢は一丸になって抵抗しようとしたが、その中に潜んでいた司馬一族の監視役達が一斉に鐘会に寝返り、各地で同士討ちが発生。その隙を突いて、一気に鐘会は、ケ艾軍を制圧した。
静かにケ艾軍が、一兵の犠牲も出さずに降した成都なのに。
今は、もはや血と殺戮の展示会場以外の何者でもなかった。
宮殿には火が掛けられなかったが、凶暴な兵士達は平和に慣れた益州の民を蹂躙。略奪と殺戮の限りを尽くした。ケ艾は一切の略奪を許さなかったのと、それはあまりに対照的だった。
血と、煙の宴。鐘会はそれらに興味を見せず、ただ馬上で、ケ艾はどこだ、ケ艾は何処にいると叫び続けた。
見つけないと安心できないからだ。
鐘会にしてみれば、恐ろしいのはもはやケ艾だけだった。自分を唯一殴った、許し難き卑属なるもの。雑草の分際で、先に成都を落とし、輝かしい経歴に傷を付けたおぞましき悪鬼。
名門の出身なのだ。それだけで、全ての民を塵と同様に扱い、排除して良いのだ。
そう信じている鐘会にとって、ケ艾は許し難き悪そのもの。存在を許しているだけで、自分の全てが否定される異物なのだ。
殺す。殺す。殺す。殺す。
手当たり次第、目につく相手を斬った。返り血を浴びながら、殺した。全部がケ艾に見えたからだ。
恐れおののく蜀漢の民を尻目に、鐘会はケ艾を探す。奴は王桓と一緒に逃げた。他の将校や兵士達も、何を言われても口を割りそうになかった。最後まで抵抗しようとしたのを、王桓と側近達が無理矢理に連れ出したという証言だけが、唯一取れた。
「ケ艾を見つけ出せ! 捕らえたものには、千金を与える!」
喚き散らす鐘会は、既に正気ではなかった。東にそれらしい人物がいたと聞くと、食事中でも飛び出していった。西に逃げたらしいと聞くと、女と交わっている最中でも飛び起きて、素裸のまま出て行こうとした。
半月しても、ケ艾は見つからない。
どうしてだ。なぜ天は、私に逆らうような存在を許す。なぜ私には武勲を認めず、ケ艾のような腐った雑草に名誉を与える。
叫び、吠える。どれだけ酒を飲んでも、収まりは聞かなかった。
不意に気付く。側に、笑顔で姜維が立っていた。
実際に会ってみると、好感が持てる人物であった。自分の言うことは何でも肯定してくれたし、勇気もくれた。この作戦を提案したのは、姜維だった。だから、信頼して、全てを任せた。そうしたら、上手く行った。
「きょ、姜維」
「ケ艾将軍が、見つかりました」
「何だとっ! 捕らえたのか!」
「いえ、偵察部隊が発見した様子です。 返り討ちにされたので、まだ捉えてはいないようです。 しかし包囲を狭めており、捕らえるのは時間の問題でしょう」
涎を垂れ流しながら身を乗り出す鐘会。優しく押し戻すと、姜維は膝元に地図を拡げてくれた。
ケ艾が僅かな兵と一緒に逃げているのは、どうやら綿竹の少し西辺りらしい。この近辺には隠れ里の存在が噂され、深い山の中に、蜀漢の政府でさえ把握していない小集落が幾つかあるという。
「それらに逃げ込まれては厄介です」
「こ、殺す! すぐに兵を集めろ! 私自身が指揮して、奴を殺す、や、やつを殺すのだ!」
剣を探す。
あった。どうしてか、腐臭を放つ女の死骸に突き刺さっていた。
そういえば。今まで鐘会は何をしていたのか。気晴らしに女でも抱こうと思った所までは覚えている。だがその先の記憶がない。
涎を乱暴に拭うと、鎧を兵士に着けさせる。名門出の鐘会は、鎧の身につけ方さえ知らない。
「成都には、今どれほどの兵がいる!」
「七万ほどかと。 残りは各地で、治安維持に当たっています」
「ならば七万を連れて行く! ケ艾を逃がせば、全ては水の泡だ!」
姜維の返答を聞かず、鐘会は馬に飛び乗る。そして軍営に行くと、全ての将軍に、自分と一緒に行くようにと叫んだ。
そして、本当に全軍を連れて、成都を出たのである。
ケ艾。何処だ。コロシテヤル。ヒキサイテヤル。
七万の先頭に立って、鐘会は血走った目で敵を探した。剣を抜いたまま、馬を走らせる。時々笑いがこみ上げてきた。奴を殺せば、私は元に戻れる。輝かしい名門の、高貴なる武人として、歴史に名を残せるのだ。
追撃部隊が見えてきた。およそ二万が山に散り、ケ艾を追跡している。ケ艾は王桓に連れられ、逃げ回っているらしいと、部隊の隊長が言った。
「それで、奴は何処にいる」
「今、探している最中です」
「ぬるい! すぐに見つけ出し、そして殺せ!」
鐘会は、馬上で叫んでいた。
山道の中、ケ艾は王桓の馬に乗せられて、走り回っていた。
麓には無数の松明が動き回っているのが見える。敵兵の数は二万どころか、三万を超えているだろう。
全てが終わると思った時。王桓が包囲を無理矢理突き破って、ケ艾を連れ出したのだ。あの時の王桓は鬼のような形相で、群がる敵を疾風のようになぎ倒した。しかし、武勇には限界がある。
着いてきた兵士達も少しずつ減り、もう残っていない。ついに、先ほど、最後の一人が脱落した。
四回、追っ手を蹴散らした。だがそのたびに、味方も減っていったのだ。
王桓も、深傷を幾つか受けているようだった。
「もう少しです。 この辺りに、隠れ里があると聞いています」
「いつのまに、そんなの聞き出してたの?」
「この時のためにです。 郤正と言う男が教えてくれました」
松明の数は、増えるばかりである。馬が、ついに前足を折った。山越えにも屈しなかった強い馬だったのに。泡を吹いて嘶く馬から下りると、ケ艾は首を撫でながら言った。
「ごめん。 私なんかにつきあわせて」
馬が噛んでくる。愛噛と呼ばれる愛情表現で、馬が滅多にしない行動である。嬉しいが、しかし涙がこぼれてきた。
死ぬのは怖くなかった。
義理の父も同然だった牛金が死んだ時も、怖いとは思わなかった。いろんな人から命を受け継いできたから、死については知っているはずなのに。韓浩も牛金も?(カク)昭も、みんなケ艾を置いて逝ってしまった。だから、どういうものが死かは分かっているはずなのに。
今は、怖い。
受け継ぐ者はいる。ケ忠を、皆がもり立ててくれる。
魏を離れた陳泰も、許儀も。あの子には良くしてくれるはずだ。それが分かっていても、どうしてか怖い。もはやどうしようもない死が、間近に迫っているからかも知れない。いや、それは本当に正しいのだろうか。
ふと、闇の中に、人の痕跡が現れる。地形を読む術に長けたケ艾には、一目でわかった。
着いたらしかった。
百人以上の人間が暮らしている。山間の小さな川を中心として、周囲に畑を作り、麓から見えないようにして。此処は独立した空間だ。人間社会の、小さな単位と言っても良い。
劉備の更に二代前の支配者である劉焉が蜀に入る前から、この土地では混乱があったという。劉焉の前任太守は典型的な暴君であったと言うし、さらには黄巾党の乱の影響もあった。もちろん益州内部でも、小規模な流民は存在した、ということである。
「此処までです。 ケ艾将軍」
「王桓」
振り返ると、王桓は笑みを浮かべていた。
なぜだか、幸せそうに見えた。
「私の全ては、貴方を守ることでした。 きっと王濬も社預も、それは同じです。 そして今、私は貴方を一人で独占している。 これ以上の幸せがありましょうか」
そうか、そうだったのか。
だから、きっと悲しかったのだ。
王桓は、この隠れ里に迷惑を掛けないために、囮になるつもりだ。
「あの二人は、貴方の残したケ忠どのと、志を守ります。 しかし私は、貴方自身を守る名誉を得た。 武人として、これ以上の幸せはありません」
笑顔で送って上げなければならない。
だが、涙が止まらなかった。
「さらばにございます。 魏に残った最後の名将、ケ艾将軍。 もっとも、私にも欲があります。 連中を撃退し、生きて帰ることが出来たのなら。 その時は、子を成せないとしても、夫として私を迎えていただきたい」
「……ばか。 こんな時に、そんなこと」
知っている。王桓は既に致命傷を受けている。深傷の一つは、内臓に達しているのだ。
だから、彼はこんな事を言っている。
皆に好かれた。陳泰も、ケ艾が好きだったらしいと、今の言葉を聞いたからわかる。だが、ケ艾は、この時代、愛する女としては致命的な、子を産めないという欠陥を抱えてしまっていた。
だからこそに。悲しかったのだろうか。
笑顔を作るのに、どれだけ苦労しただろう。だが、ケ艾は言う。
「うん。 生きて、帰ってきて」
王桓は頷くと、抱拳礼をして、闇に消えた。
ケ艾は目を乱暴に擦ると、既に何事かと騒ぎ始めている隠れ里に向けて、歩き始めたのだった。
闇の中、王桓は跳躍した。最初の餌食は、目に着いた小隊。何事かと槍を構えるまでもなく、片っ端から斬り伏せる。体が軽い。これ以上傷を受けることもなく、全員を斬り倒した。
もう、命は長くない。
だからこそに。鐘会だけでも、殺していく。隠れ里に逃げ込んだ、ケ艾を守るためにも。
司馬一族の陰謀だと言うことは分かっている。明らかに不可思議な兵力配備は、内乱を誘発させるためのものだ。内乱によって旧蜀漢をズタズタに切り裂き、二度と立ち直れないようにすることで、支配を確立。なおかつ、邪魔な者を皆殺しにする。
ケ艾は、劉禅や廖化らをいち早く洛陽に送ることで、被害を少しでも減らしてくれた。これは、反乱勢力に頭目として担ぎ出されるのを防ぐためである。劉禅もそれを理解して、皇子達や皇妃達とともに、檻車の辱めを受けてくれたのだ。
王濬や社預についても、それは同じである。彼らさえ生き残れば。暗黒の時代に、希望だって生まれるのだ。
何もかも、思い通りにはさせない。
また小隊が見える。
闇の中で、獣のように近付くと、先頭の兵を拝み討ちに切り下げる。敵兵の松明に返り血まみれの全身を照らしながら、王桓は淡々と剣を振るう。山の中では、大軍は動きづらい。瞬く間に小隊を始末した王桓は、隊長の死骸から剣を奪い取ると、腰にくくりつけた。更に無事だった槍も、何本か背中に指しておく。
異様な殺気が、麓にある。
あっちに、鐘会がいるのは間違いない。
二つ、小隊を始末して、山を降る。敵兵が、騒ぎ始めたのが分かった。徐々に包囲が下がってくる。兵を分散しすぎて、鐘会が危なくなったことに気付いたのだろうか。
夜が開け始めた。味方だった闇が徐々に消えていく。
見つけることが出来たのは、幸運だったというほかない。
いた。鐘会。
山中で、二百名ほどの護衛に守られてはいるが、血走った目で指揮を執っている。攻撃されることなど考えてもいない。あれなら、殺せる。頷くと、無言で王桓は槍を引き抜いた。朝日が穂先に瞬く。気付かれる前に、仕留める。
踏み込む。
そして、敵が此方を見る前に、槍を投げ放っていた。
無様な悲鳴が上がる。鐘会の胸に突き刺さった槍が、鮮血を天に向けて吹き上げていた。しかし、浅い。残念だが、あれは致命傷ではない。
銅鑼が叩き鳴らされた。無数の兵士が集まってくる。剣を抜いた王桓は、残念と呟く。これで、帰ることは完全に不可能となった。せめて、あの人の側で死にたかったが、まあそれはもういい。
「彼処だ! 討ち取れ!」
無数の兵士が殺到してくる。王桓は自らも叫ぶと、敵の海の中に飛び込んだ。
斬る。斬り伏せる。鮮血に塗れて、王桓は舞う。思い浮かべるのは、ケ艾の笑顔。まだ若い頃から、ずっと好きだった。今でも好きだ。少し年は取りすぎてしまったが、それでも、充分に愛おしい。
十人、二十人、三十人。剣が折れた。一瞬の隙を突き、敵の剣を奪い、また暴れ狂う。槍が刺さる。剣で斬られる。気にしない。むしろ、心地よいくらいだ。
叫び、兵士達を蹴散らす。しかし、更に敵は増えていた。千はいる。これが王桓一人を倒すためだけに集まっていると思うと、快感さえ感じた。
「何のために戦う! もはや貴様一人しか残っていないぞ!」
「戦う理由など、二十年も前から同じだ!」
再び、敵兵の中に躍り込んだ。
今までになく、体が動く。斬り、殺し、叩きつぶし、時には投げさえした。口の端から血が伝っている。全身が灼けるように熱い。だが、まだ倒れない。
見える。倒れている鐘会が、助け起こされようとしている。
「なぜ、其処までして戦うのだ!」
「愛する者の笑顔を、ただ守るため! 俺にとっての武芸は、ただそれだけがある!」
「おのれ、惰弱な!」
「惰弱で結構! 倫理もいらん! 名誉も地位もいらん! 俺が欲しいのは、ただあの人が、ぼんやりして、時々笑っていて、幸せそうにしている、そのひとときだけだ!」
問答を仕掛けてきた敵を斬り伏せる。
同時に、数十の槍が、全身を貫いていた。
足が、ついに止まった。
鐘会が見える。泡を吹き、全身血みどろの王桓を見て、恐怖に引きつっていた。最後だ。最後に、此奴の心を殺していく。
「哀れな男だ。 自分が何の価値もない下郎であることを認めることも出来ず、最後までくだらぬ誇りにしがみつくか」
「ひ……!」
「ケ艾将軍は、貴様よりずっと、比べられぬほど、優れていたわ」
最後の一振りで、体に刺さっていた槍を、全て切り折った。
そして、立ったまま。最後に見たケ艾の笑みを思い出しながら。王桓の意識は、闇に溶けていった。
粗く息をついている鐘会の側に、男が跪く。
今回の遠征軍で主力を勤めた将軍の一人、胡淵であった。正確には彼の父が三万ほどの兵を率いているのだが、実践面で一番暴れ回ったのは、この男である。一見すると好青年然とした顔立ち整った若者であり、男色家に好意を良く持たれるとか聞いている。
「鐘会将軍、ご気分は?」
「わ、わたし、私は。 私は、く、くず、なのか」
「いえ、貴方は有用な道具でした。 頭は悪くはありませんでしたが、それ以上に肥大した誇りが心を押しつぶしていた。 聞いていますよ。 母君に、徹底的な英才教育を施されたとか。 しかも学問に邪魔だと言うことで、友達も与えられず、婚姻も許されなかったそうですね」
此奴は、何を言っている。確かにその通りだが、どうして今、それを言う。
鮮烈な記憶に、母は残っている。外に遊びに行くことも許されず、楽しそうに戯れている同年代の子供は憎悪の対象だった。愚民どもと彼らを罵ることで、寂しい心を何度慰めたかわからない。
胸の傷の痛みに耐えながら、鐘会が見上げた胡淵は、薄く笑っていた。
「これで、貴方の役割は終わりです」
「な、なに……!」
「司馬昭様の御伝言です。 無駄な努力ご苦労。 お前の一族も功績に免じて皆殺しにしてやるから、ありがたく思え、だそうです」
胡淵は笑みを浮かべ続けていた。歯の根があわない。
不意に、腹に鈍痛。剣を突き刺されたのだ。
「ひ、ぎゅ、あぎゃああああああああああっ!」
「面白かったですよ。 いい年なのに背伸びして、出来もしない作戦を必死にこなそうとして、ケ艾将軍に敵意を燃やしている貴方は。 何度影で大笑いさせて貰ったかわかりません。 冥府では、貴方の面白い言動を、先に逝った兵士達がおもしろおかしく喧伝していることでしょう。 楽しみにしていてください」
嫌だ、助けてくれと、鐘会は言ったつもりだった。だが、空気が喉から漏れるばかりだった。
気付く。
周りの兵士達も、皆笑ってみている。知っていたのだ。鐘会が道化に過ぎず、最初から捨て駒だったことを。
致命傷を与えて、興味を失ったからか。胡淵は立ち上がると、周囲に言う。
「よし、予定通りに、成都の姜維を殺し、各地に魏軍の指揮系統が混乱しているという情報を流せ。 反乱を誘発させ、益州の秩序を崩壊させるのだ」
「鐘会の親族はどうしますか」
「皆殺しにせよ。 ああ、蜀漢軍の残党に、引き渡されるような場所に放り出してもいいぞ」
兵士達が爆笑した。
そして、何人かの兵士は、鐘会を踏みつけて、去っていった。
絶望の中、鐘会は腹をかきむしる。おのれ、ゆるさん。コロシテヤル。みんな、滅ぼしてやる。
最後に鐘会が思ったのは。
高笑いする司馬昭の顔だった。
首を絞めようと、手を伸ばす。だが、届かなかった。
鐘会が殺されたという情報が姜維の下に届いた時、既に事態はどうにもならない状態になっていた。
劉禅や、他の高官は逃がすことが出来た。
だがこれでは、もはやどうしようもない。それに、姜維は蜀漢復興のために、劉禅達を見捨てる気でさえいた。その報いかも知れなかった。
既に、身を守る武器もない。兵士達もいない。民は凶暴な魏の兵士達に脅かされ、蜀漢の残党兵力は、各地で蜂起を開始している。
秩序は、崩壊したのだ。
魏よりも呉よりも平和な国であった。特に成都はずっと平穏が続き、時々兵士になる民がでるくらいと言う状況が長く続いていた。
劉禅も暗愚ではあったが暴君ではなかった。黄皓の専横はあったが、それも漢王朝末期の宦官達に比べると、ずっと規模の小さい悪政であった。それに、姜維による軍事偏重に異をとなる文官達も多く、それが黄皓に力を与えていた側面もあったのだ。
諸葛亮の廬に向かう。
せめて、最後に詫びたかった。
だが、それも出来そうにない。
敵兵の姿が見え始めた。姜維の周囲で、喧噪が起こり始める。目を閉じると、姜維は呟く。
「申し訳ありません、丞相。 私は貴方のようにはなれませんでした」
無数の敵兵が、周囲を取り囲む。
「私は姜維だ。 逃げも隠れもせん。 殺すがいい」
辺りを見回し、喝破。兵士達は一瞬臆したが、彼らを割って、堂々たる風格の男が現れる。
見覚えがある。確か。
姜維は微笑むと、覚悟を決めた。
この日、蜀漢は。文字通り滅びた。
4、業の結実
林が司馬昭の屋敷を訪れたのは、鐘会の死が益州から届いた三日後のことであった。
既に益州は混沌の坩堝に落ちており、事態収拾のために賈充が向かっている。といっても、その混乱が仕組まれていたことは、あまりにも早い賈充の動きからも明らかであったが。
執務室にはいると、酒の匂いがした。司馬昭は、酒を片手に、執務をしていたのだった。
「林か。 どうした」
「仕事で来ました」
執務を続けていた司馬昭は、顔を上げる。酔眼が、林の小さな体を見つめた。
洛陽に戻った林が最初にしたのは、自分の組織の本部を壊滅させた犯人捜しであった。確かに報告通り、幾つかに分散しておいた本部は、見事に壊滅していた。死骸は殆ど処分されていたが、血痕などから、どう立ち回りが行われたかは分かった。その一つに、林がなるほどと呟く相手がいたのである。
山越の手練れ、鳳。
なるほど、あれは生きていて、復讐のために動き出したか。面白い話であった。
それに、林の予想は当たっていた。どうも敵には関羽や張飛並の豪傑がいるらしいのである。立ち回りの速度や、あまりにも圧倒的な結果から、それは明らかだった。
今、林は洛陽に戦力を集結しつつある。ここまでコケにしてくれた相手である。生かしておく訳にはいかなかった。
そして、今此処には。別件できている。
司馬昭の酔眼が、徐々に醒めてくる。同時に、恐怖が宰相司馬昭の全身に滾るのが分かった。
林の来ている服が、赤いのではない。赤く染まったことに、気付いたのであろう。
「だ、誰か……!」
「無駄ですよ。 屋敷の人間の内、貴方に忠義を誓いそうなのはみんな殺しました。 残りは、既に撤退済みです」
「き、貴様、狂犬め! このようなことをして、無事で済むと思っているか! 中華全土の司馬一族が、貴様を狙うことになるぞ!」
「ふっ、面白いことを。 司馬師の消極的な暗殺を私に依頼しておいて、良く言ったものですねえ。 そういえば貴方のお兄さんも、実父である司馬懿の消極的な暗殺を私にさせておいて、自分は殺されないだろうと思っていたようですが」
立ち上がり、後ずさろうとする司馬昭。
叫ぼうが、逃げようが無駄だ。今まで好き勝手を重ね続けてきたその顔が、恐怖に歪んだ。
「ま、まさか」
「まさかも何も、依頼主は貴方の息子です。 司馬炎様です」
後ろ手に隠していた剣を前に出し、ぞろりと、着いた血を舐め取る。実に美味。
味付けは司馬昭の恐怖だ。
「貴方たち一族は、実に面白い。 自分だけは常に特別と考え、親兄弟でさえ権力闘争の相手と見なし、如何なる手を使っても全てを奪い取りに掛かる。 今、貴方たちは主流が一本にまとまっているから安定しているだけです。 それをへし折ったらどうなるか、見物だと思いませんか?」
「き、貴様、まさか最初から」
「その通り。 貴方の自分だけは特別で、全てを操れていると思いこんでいるその表情、いつも見物でしたよ。 そして貴方の一族に共通してそうですが、得意の絶頂になっている時に、地獄に突き落としてやると。 とても素敵な表情を浮かべてくれます。 この邪神窮奇でさえ、ついそそられてしまうほどの、ね」
司馬昭が悲鳴を上げる。林はけたけたと笑い始めた。こんな風に笑うのは何時ぶりか。面白くて仕方がない。
無様に這って逃げようとする司馬昭の前に残像を残して回り込むと、まず無造作に剣を振るって、その手の指を全て切断した。まき散らされる指と血。手を見て絶叫する司馬昭に、さらに剣。今度は両足のくるぶしの下を切り落とした。
「あ、そうそう。 さっきあなたに差し入れた酒ですが、私が長年研究した薬物が入っております。 一時的に生命力を強めますが、その後地獄の苦しみが待っているという代物でしてね。 かくいう私も調合してたまに使っているんですが……。 まあ私以外が使ったら、発狂死は免れないでしょうね」
「ひ、ぎ……っ!」
「貴方のような面白い玩具、簡単には殺してあげませんよ。 寸刻みにして、内臓類は無事なまま転がしておいてあげましょう。 失血と激痛の中で、狂気に塗れて死んで逝きなさい」
「た、たすけ、助けてくれ、わ、わたし、は」
今度こそ、林は爆笑した。
今までで、最高の笑顔が作れたかも知れない。
「貴方が、そう頼んだ人を、一人でも救ったんですか? しかもよりにもよって、この私に助命を懇願しますか! あ、ちなみに私、同類であれば何度か助けたことはありますので、あしからず。 それにしても、ねえ。 幸運ですよ、この邪神窮奇が、丹誠を込めて遊んであげるんですから! しかも公権力が私の後ろについている! こんな面白おかしいことが、他にありましょうか!」
不意に饒舌な口を閉じ、わざと司馬昭の後ろを覗き込んでみせる。
「おやあ、母丘険将軍、それに諸葛誕将軍に、それに鐘会将軍ではありませんか! おお、其処には曹髦陛下も! 復讐したい? どうぞどうぞ! 私にそれを阻止する理由がありましょうか! いや、ありません!」
反語で林が締めると、司馬昭が、絶望に満ちた絶叫をあげた。自分や兄が追い詰め殺した者達の幻覚が見えているのは間違いなかった。そこに、嬉々とした林が躍り掛かった。
殺さぬように、生かさぬように、嬲り尽くす。林の血みどろの宴は、四刻に渡って続いた。
全身血まみれになった林が屋敷から出てくると、司馬炎が待っていた。
すぐに後処理専門の部下達が屋敷に。司馬昭は病死で片付けられるだろう。そして、史書には、それが「事実」として記されるのだ。
もう一人、屋敷から出てくる。
それは、見取り図や隠し部屋の類を、全て林に説明した成斉。酷薄な主君によって全てを奪われた彼は、林に喜んで協力した。屋敷にいた武人の半分を打ち倒したのも彼である。林の下で様々な薬物を投与され、憎悪によって人格まで変えた彼は、文字通りの殺戮兵器として、今回の暗殺計画の一端を担ったのだった。
感情を無くした成斉を見て、司馬炎が嫌悪を露わにして呟く。
「ふん、相変わらず良い趣味だ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「約束通り、お前には魏の細作、全部隊を預ける。 蜀漢の抵抗能力を沈黙させたら、呉を潰す。 その時は出来るだけ速やかに動けるように、整備をせよ」
「ありがたき幸せ」
鼻を鳴らすと、大柄で筋肉質な司馬炎は去っていった。
司馬一族は一種の病気だ。権力欲が異常に強すぎるのである。一族同士で殺し合いするのが本能のようになっている。まもなく、最後の曹一族皇帝、曹奐も退位させられ、天下は司馬一族のもので確定するだろう。
だが、さっき司馬昭に言ったとおり。
そこで、軸を砕いてやれば、全てが終わるのだ。
中華は林のおもちゃ箱になる。流民が再び中華を覆い尽くし、騎馬民族が弱者を蹂躙し。そして破壊と殺戮がみちる、林にとっての天国が到来するだろう。
「さて、後はなにやら動いている、最後の邪魔者を消しに掛かりますか」
林は呟くと、指先に飛んだ司馬昭の血を舐め取る。
童女にしか見えないその姿から伸びる影は。どういう訳か、不思議と虎のようにも鳥のようにも見えた。
(続)
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