終焉への階段
序、おもちゃ箱
紅蓮の焔が、全てを焼き焦がしていく。鳳が知る全てを。屋敷も、仲間も。そして、部下達も。
唖然として立ちつくす鳳の前に、ゆったりと現れるそいつは。右手を血に染めて、左手に剣を手にしていた。右手がなぜ血に染まっているか。それは、今もぎ取ったばかりらしい生首を手にしているからであった。
やはり、懸念は正しかったのだ。
「林……っ!」
「おやあ? 貴方がいないからどうしたと思っていたら。 外に出ていたんですねえ」
童女の姿をした悪鬼、林の口から、おぞましい敬語が漏れ出る。
奴の部下から、聞いたことがあった。林は二つの事態に直面した場合、敬語を用いる。一つは立場的に上の相手と接している場合。これは流石に林も、単独で全中華を敵に回す訳にはいかない、と言うことなのだろう。
そしてもう一つ。殺し合いをする時、相手に対して、である。
ひゅっと風の音が鳴り、林の左手の剣が一閃。すると、冗談のように、今まで剣にこびりついていた血痕が落ちていた。右手の生首も、いつの間にか無くなっている。
犬のように態勢を低くし、鳳は戦闘態勢にはいる。林はそれに対して、まるで自然体のままである。
「なぜ、皆を殺した!」
「皆を?」
「そうだ! ここしばらくで、呉にあった山越の組織が、片っ端から潰された! 一部は諸葛格配下の特務部隊によるものだったが、大半は貴様だな! 今、確信した!」
「何か勘違いしているようなので、教えておきましょう」
林の口からは、膨大な邪悪が漏れ出ているにもかかわらず。表情は決して醜く歪んではいなかった。むしろ童女が、面白い玩具を見つけた時のように、純真でただひたすら楽しそうだった。
そうだ。この人外の怪物は、ただおもしろがっているのだ。己の手が巻き起こす、殺戮と破壊を。だからこそに人外。だからこそに、誰もがこの化け物を、邪神窮奇そのものだと認識する。
「私は、使い終わった玩具を片付けているだけです。 自分が作った玩具ですし、壊すのも自由ですよね?」
「人命が、玩具だというか!」
「玩具ですよ、私、この邪神窮奇にとってはね。 控えよ下郎。 お前ごときが、この邪神と対等の立場で口を利いて良いとでも思っているのか?」
反射的に避けなければ、多分その時点で終わっていただろう。
鳳が一瞬前までいた地点が、縦に、真っ二つに地面ごと引き裂かれていた。林が残像を残して跳躍し、剣で切り裂いたのだ。
なんたる技。そのまま、地面を滑るように鳳に迫り来る林は、口の端に純粋な笑みを浮かべ続けていた。
切り上げられる一撃を防ぐ。かろうじて。あんな細くて短い腕なのに、まるで丸太を直接受け止めているような衝撃が全身に走る。駄目だ、勝てない。鳳はそう判断すると、鋭く地面を踏みしめる。
同時に、林が一瞬だけ、動きを止めた。
飛び退く。やはり、相当に老獪なだけあって、未知の技術には反応する。今のは踏み込みを利して、全身の力を一点に叩き込む技の準備動作。あれを直撃させれば、如何に化け物といえども、ただでは済まない。
切り札の一つだったが、死ぬよりもまだ提示してしまった方がマシだ。林の底知れぬ実力を知ることが出来ただけでも、今は良しとしなければならない。あれは伝説の英雄、関羽や張飛、或いは呂布でも連れてこなければとてもどうにか出来る相手ではない。今は退いて、仇を討つ機会をうかがうべきだった。
地面に煙を大量にばらまく薬剤を投げつけると、そのまま脇目もふらずに逃げる。途中、林の部下に何度か道をふさがれたが、いずれもすれ違い様に打ち倒した。
しばらく殺気は追いすがってきたが、長江に飛び込むと、それも無くなった。
泳ぎ、ひたすら水の中を逃げた。
対岸まで逃げると、流石に意識を失う。それでも自力で息を吹き返し、もがくようにして、北へ。
林を打ち倒すためには、一人では無理だ。
あらゆる手を使ってでも奴は倒さなければならない。だが、それには、同志がいる。
闇の中で歩きながら、鳳はそれを痛感していた。
1、蜀漢の斜陽
陳式は、怒気を放つ姜維を、醒めた目で見つめていた。
いきなりの出兵である。しかも冬の直前。普段ならあり得ない話であるが、どうしてこのようなことになったか、聞いて納得した。
姜維を抑えていた費偉が、不意に暗殺されたのである。新年の祝いの席で、郭循なる男に刺されたという事であった。
この男はその場で膾に斬り殺されたのだが、刃物には毒が塗られており、費偉はその才能を闇に葬られてしまった。そして、抑える者がいなくなった姜維は、漢中の防衛部隊までも動員して、しかも冬の直前という補給を完全に無視した時機に出撃してきたのであった。
不意を突かれた王経は散々に叩きのめされ、敗走。谷間は死骸で埋まった。更に迎撃に出てきた徐質は、思わぬ軍勢の前に立ち往生し、大量の矢を浴びて戦死。此処までは、景気よく勝つことが出来た。
だが、この時間を利用して。態勢を立て直したケ艾が出てくると、全く進めなくなってしまったのである。
ケ艾は完璧としか言いようがない防御陣を築き、更に遊撃軍として陳泰が一万五千を率いて、攻撃しか考えない姜維の側面と背後を常に脅かし続けた。廖化が対応を申し出たが姜維は許さず、何度も丘の上に築かれたケ艾の陣に攻撃しようとしては、おびただしい損害を出すばかりだった。
「ケ艾の卑怯者! 臆病者め!」
「戦略としては当然かと思いますが」
「黙れッ!」
醒めた陳式の発言に振り返り、姜維は流石に黙り込む。
張翼も廖化も、決して好意的な視線ではなかったからだ。既に馬岱は引退しており、姜維の味方をする武将は傅僉くらいしかいない。しかも傅僉だけでは、とてもではないが軍勢は動かないのだ。
既に味方は二千五百を失っている。遠征軍は五万という無茶な規模であり、損害は全体から見れば軽微だが、しかしこれ以上の損害を出すと軍の士気が維持できなくなってくるだろう。更に言えば、緒戦と第二戦はともかくとして、ケ艾軍の精鋭には、殆ど損害らしい損害を与えていないのだ。
魏軍の回復力から考えて、十倍の損害を敵に与えなければ、釣り合いが取れない。姜維はそれを忘れているとしか思えなかった。
「姜維将軍、撤退いたしましょう」
「貴様、軍令違反で首を飛ばされたいか!」
「どうぞお好きなように。 しかしこれ以上攻撃をしても成果が上がるとは思えませんし、武都、陰平は誰が守るのですか」
「……っ!」
姜維もそれを聞くと、流石に剣から手を離す。陳式は大きく嘆息すると、廖化に頷きながら、あきらめを口にした。此処は、誰かが犠牲にならなければならないのだ。
ケ艾軍は力を温存している上、今は冬である。補給路は陳泰に脅かされており、なおかつ味方は疲れ切っている。しかも、ケ艾軍の精鋭は、いつでも出撃できる状態にあるという、最悪の条件がそろい踏みしていた。
「殿軍は私が努めます。 私の軍が一万ほど健在として、これが全て殿軍になれば、少しは持ちこたえられましょう。 その隙に、残りの軍を、どうにかして漢中に撤退させてください」
「貴様、私に戦略を指示するつもりか!」
「ならば、もっと良い案があるのですか? それを提示していただきたい」
「貴様、覚えておれよ!」
姜維は目を血走らせ、吐き捨てた。大きく嘆息する。
この男、一度負け始めると精神の立て直しが利かないらしい。一度や二度失敗しても新しい手を次から次へ見せてくれた諸葛亮とは、分かってはいたが器が違いすぎる。この辺が、不世出の天才と、小利口な小才子の決定的な違いなのだろう。
廖化が姜維を宥めながら連れて行く。張翼が抱拳礼をして、後に続いた。
陳式は自陣に戻ると、部下達を見回す。この間の戦で手に入れた三郡の城を全て活用し、なおかつ使い捨てるくらいの気持ちでないと、とてもではないが守りきれる状況ではなかった。
「残っている食料を、今の内に全て食べておけ。 これからかなり厳しい状況になる」
「はあ、負け戦ですか」
「珍しいですね。 陳式将軍がついていたのに、あの姜維って若造、情けないにも程があらあ」
軽口を叩く部下達に苦笑する。彼らは陳式と同じく、歴戦の強者達だ。そして皆が陳式を慕ってくれている。
だから、一人でも多く。武都、陰平に逃がさなければならない。
既に陳泰が動き出している。まずは奴を叩き、それからケ艾の本隊に対処する。姜維軍の本隊と連携して、相互補助しながら撤退できれば完璧なのだが、残念ながら其処まで連携できるほど姜維に指揮手腕はない。今回の戦いでより露骨になったが、姜維は単独での戦場では見事な指揮を見せるが、複数の戦場を見据えて動けない。諸葛亮より二回りは小粒なのだ。
陳式は精鋭部隊を集める。二丁斧の、大柄な男は、今回の厳しさを肌で感じているようだった。
「まず陳泰の遊撃軍を叩く」
「陳泰の遊撃軍は二万はいるって聞いてます。 姜維って野郎にも、少しは押しつけなくて良いんですかい?」
「どうにかしなければならん。 その後、ケ艾軍の本隊を足止めして引く」
「敵の本隊は十万だそうですぜ。 ケ艾軍そのものは三万程度らしいっすが、それでもかなり厳しいと思いやすが」
それも、どうにかしなければならない。
三郡の備蓄物資、それに連弩を全て使い捨てる気持ちで動かなければならないだろう。
幸い、情報網は味方に利がある。この近辺には、昔から蜀漢に協力している民も多いし、細作部隊の本部が武都、陰平に移っているという事もある。作戦を指示している内に、夏候覇が来た。
去年、亡命してきた魏の皇族は、意外に気取らない性格で、其処が陳式としても嫌いではなかった。
「陳式将軍」
「どうした、夏候覇どの」
「私の部隊も、殿軍に加えてもらえないだろうか」
「よろしいですが、厳しい戦いになりますぞ」
この貴公子は、張飛の妻が夏候一族出身と言うことを頼りに、蜀漢に亡命してきた。張飛の妻が夏候一族と言うことは、劉禅の妻が張飛の娘である事を考えると、蜀漢の皇族の親類となる。
夏候一族の出身者と言うことで一時期は警戒する向きもあったのだが、気取らない性格と心優しい夏候覇の人間性もあって、すぐに彼は蜀漢に受け容れられた。それに司馬一族が共通の敵という点で、蜀漢と利害関係が一致していた、と言うこともあった。
現在、夏候覇は、同じように蜀漢に亡命してきた兵を中心に、二千ほどの戦力を預かっている。姜維とは正直仲が冷えているようだが、戦闘指揮はまずまずの水準で、下手と言うほどでもない。
今は百人でも増援が欲しい状態だ。陳式としても、願ったりの状況であった。
味方が撤退し始める。同時に、細作部隊が、陳泰の動きを捕捉した。
騎兵を中心とした陳泰の軍は、かなりの機動力で動き回っている。そして、既に此方の撤退には勘づいている模様だった。陳式としては、それならば打つ手が限定されてきて実にやりやすい。
陳泰は優秀な武将だ。
だからこそ、それを逆利用するのである。
「夏候覇将軍には、先鋒をお願いしたいのだが、よろしいだろうか」
「任せてくだされ」
「うむ。 それでは我が軍は一度南下し、この地点で敵を待ち伏せる」
そうして陳式が指さしたのは、渓谷に沿って小川が流れ落ちる、静かな潺だった。
陳泰は増援を加えた二万を連れて、全速力で西に進んでいた。
撹乱戦術のために、蜀漢軍の兵糧庫や武器庫、さらには協力者がいる村を何度となく叩いた。いずれもかってだったら考えられないことだが、魏軍は細作の数を四倍に増やしており、今では情報戦でも優位を得始めている。というよりも、敵の細作部隊が、どういう訳かやる気を無くしているように思えるのだ。
今、陳泰は姜維の本隊を直撃するべく、西に回り込もうとしていた。その機動はするどく、今までの合戦で得た経験と知識を全て活用して、全力で臨んでいた。
知っている。
ケ艾が、今非常に難しい立場に立たされていることを。先代皇帝である曹芳を、それに現在の皇帝である曹髦を人質に取られ、彼らの命が惜しければ全力で働くようにと強制されているのだ。
司馬一族は昔から気に入らなかった。司馬懿は好きだったが、その家族達の俗物ぶりには、吐き気さえ感じていたのだ。
今、ケ艾が苦しんでいるのを見ると、陳泰も黙ってはいられない。今ならわかるが、ケ艾のことを、陳泰は好きだったのだ。いや、今でも好きだ。結局妻として娶ることは出来なかった。社会的に、子供を成せない妻は不要品だからである。だが、それでも。陳泰は、ケ艾のために何かをしたいと思っている。
だから、全力で掛ける。獣でさえ躊躇する、山奥の路無き路を。
山を一つ越えて、小休止にした。谷の下であり、周囲を警戒しやすい。竈を兵士達が作り始めた。だが、その瞬間だった。
膨大な連弩の矢が、陳泰軍の横腹を食い破るようにして、降り注いできたのである。
銅鑼が叩き鳴らされるが、その銅鑼を連弩の矢が貫通、吹き飛ばした。陳泰は声を張り上げる。
「奇襲だ! 全軍戦闘態勢!」
「敵、突入してきます!」
「迎え撃て!」
叫びつつも、陳泰は愛馬に飛び乗っている。敵の旗は、何と夏候。つまり、夏候覇という訳か。
連弩は凄まじい兵器だが、現在は魏も生産を進めているばかりか、小型の弩に関しては性能面で追いつきつつある。それに対応戦術も訓練の一つに入っており、被害を最小限に抑えられるようにもなってきた。
連弩は非常に強力だが連射が効かず、しかも多方向に放つことができない。敵が正者を始めたら、正面から逃れればかなり被害を軽減することが出来る。夏候覇の部隊と、味方が激しく噛み合う中、しかし陳泰は、正面から馬蹄の響きを聞いた。
鋭く翻る陳の旗。そして、雑多な武装の恐ろしく士気が高い一団。
「陳式軍です!」
陳泰はそのまま無言で、最精鋭を連れて敵の真っ正面からぶつかり合う。二丁斧を振り回す黒い肌の男が、凄まじい勢いで味方を蹴散らしながら迫ってきた。二丁斧が振り回される度に、兵士の首が腕が吹き飛ぶ。槍で受け止めることも出来ず、兜ごと唐竹に割られてしまう騎兵も多い。
「どけどけえっ! 陳泰! 出て来やがれーっ!」
全身を真っ赤に染めながら、男が吠える。見ると、既に中年を過ぎている様子だ。背中には李と一文字だけ書かれた粗末な、しかし大量の返り血を浴びた旗を背負っている。その威圧感に、思わず味方が下がりかける。
だが、陳泰は無言で兵力を補充し、矢を浴びせ、必死に敵の浸透を防ぎ続けた。連射される矢に流石に閉口したか、男の突撃が鈍る。その隙に陳泰は部下達を纏め上げ、一気に後退させた。
追撃が凄まじい。逃げ遅れた兵士を、精鋭の本隊を駆使して庇いながら逃げる。敵は一万ほどだが、流石に陳式軍である。相当な精鋭で、追撃の途中かなりの数が討たれた。だが、とって返しては打撃を与え、矢もかなり無駄に消耗させた。
どうにか追撃を振り切る。
味方は三千ほどを喪失。負傷者を含めると、動ける兵士はかなり少なくなる。敵の損害は三百から四百だろうと、陳泰は見た。
副官をしている将校が、青い顔で歩み寄ってきた。司馬一族が監視代わりに付けている、張継という男だ。頬が痩けている長身の男で、武芸も学問もそつなく出来るが、陳泰に言わせれば全てが足りなかった。
「手痛い打撃を受けました。 後退して、ケ艾様の本隊と合流しましょう」
「いや、まて。 この状況で、陳式があれほどの猛攻を仕掛けてきたのには、理由があるはずだ。 負傷者は後送。 だが無傷の部隊は、このまま敵の中を潜行する」
「敵本隊に捕捉されたら、全滅いたしますぞ!」
「今こそが、敵の本隊に痛撃を与える好機だ。 姜維は戦略的な視点の欠ける男で、単独での戦場では強いが補給を軽視する悪癖がある。 陳式も冷遇されて相当に参っている様子だし、これだけの猛攻を仕掛けてきたのは、殿軍とされている可能性が高い」
副官はまだ納得していない様子だったので、陳泰はすぐに軍の再編成を開始させながら、昨日まで襲った敵陣について説明して、それから結論した。
「諸葛亮が蜀漢軍を率いていた頃は、これらの陣に奇襲を仕掛けるなど、とてもではないが成し得ないことだった。 だが出来た。 姜維は自分の力を過信するあまり、補給を軽視しているのだ。 そして、部下達の力も」
「しかし、それは諸葛亮も同じだったのでは」
「諸葛亮は違う。 奴はその人外にまで到達していた圧倒的な能力で、欠点を補填していた。 姜維は幾ら優れていても、所詮一人の人間だ。 諸葛亮のような、度が外れた存在ではない。 だから隙も出来るし、傲慢にもなる」
副官以外の、古くからいる部下全員が陳泰に同意した、
頷くと、陳泰は一万二千まで目減りした軍を、高速機動出来るように再編した。
「陳式は恐らく、本隊に突入を仕掛けてくる。 流石に無事では済まないだろう。 消耗した所を、我が軍で叩く」
「敵の本隊は逃げてしまうのでは」
「陳式軍を叩きのめせば、追いつける。 それどころか、武都、陰平も一気に奪還できるだろう」
我々はむしろ敵を追い詰めたのだと、陳泰は部下達に、力強く言った。
失敗したと、馬上で陳式は思った。
陳泰の軍勢に大きな打撃は与えた、事実死者は二千を下回らないだろうし、編成にも時間が掛かるはずだ。
だが、敵はこれで気付いたはずだ。陳式の狙いが、むしろ追撃に入ろうとしたケ艾の本隊を奇襲することだと。もっと徹底的に打撃を与えていれば、気付く暇も与えず敵の本隊を強襲できたはずだ。だが流石は陳泰、相当に指揮手腕を磨いてきている。この分だと、数年以内に追い越されるかも知れない。
まだ策が破れた訳ではない。だが、予定していた以上に早く総力戦に持ち込む必要がある。ケ艾の首を、一気にとってしまうくらいの覚悟で挑まなければならないだろう。既に味方は追撃され始めている。
兵を彼方此方に分散し、陳式は五千の手勢と共に、高所に登った。
下では、張翼が後陣を指揮して、巧くケ艾の追撃をいなしている。だが多勢に無勢の上、何しろ引きながらの戦闘である。ケ艾も容赦のない攻撃で張翼の戦力を削り取っており、食料をろくに取れず疲弊している兵士達はばたばたと倒れていた。
姜維が本隊を先に進め、その盾になる形で張翼は頑張っている。廖化が不意に突入し、ケ艾の先鋒を蹴散らした。先鋒の武将も討ち取ったようである。だが、ケ艾は廖化の部隊を引きずり込むと、一気に退路を断って包囲に掛かった。まるで生き物のように蠢くあの陣、諸葛亮の用兵を思わせる。あれほど凄まじくはないが。
更に味方は下がり、敵が進む。
そして雪が降り始めた。好機と、陳式は呟く。高所で生活している者が多い陳式の精鋭にとって、これは願ったりの状況だ。
狼煙を上げる。
敵が、即座に反応した。ただし同時に、味方も攻撃態勢にはいる。
ケ艾の約十万が、縦深陣の中に入り込んだ。逆落としを掛ける。同時に三箇所から、二千が一斉に敵軍に突入した。
張翼と廖化が、弾かれたように兵を動かし、戦場から離脱する。ケ艾は反対に陣を円に縮め、防御態勢にはいる。だが、全身に血を浴びて興奮している陳式麾下の精鋭は、槍衾を力づくで粉砕し、一気に敵中に斬り込んだ。
陳式もその中に混じり、分厚い敵陣を無理矢理突破に掛かった。
圧力が凄まじい。そのまま押しつぶされそうだ。最前列で戦っている李は、既に何本も矢を浴びながら、鬼神の勇を振るっていた。だが、それにも限界がある。見知った顔が、何名も倒れていく。
歯をかみしめる。
そして、ついに敵中枢に。見えた。王桓だ。
「おおおおおっ! どけえええっ!」
「通さぬっ!」
王桓と、ぶつかり合った。馬までもが激しく嘶き、闘気をぶつけ合う。炎のように渦巻く戦気が、周囲から陳式と王桓を隔離した。
三十合ほど刃を交え、そして弾かれたように離れる。見えた。ケ艾。
馬上で立ち上がった李が、奇声を上げながら飛び掛かった。躍り出た騎兵が、槍を繰り出す。その頭を叩き割りながらも、李は深々と槍に貫かれていた。
それでも、李は斧を投げつける。
ケ艾の前に立ちはだかった近衛が、体で斧を受け止めて、半ば千切れながら倒れた。無数の槍が李の全身に突き刺さり、鮮血が吹き上がる。吠え猛った陳式は、自らも槍を投げた。
投擲した槍が、ケ艾の馬の首に突き刺さる。
投げ出されるケ艾を見ると、剣を引き抜き、陳式は叫んだ。
「ケ艾、討ち取ったりぃ!」
敵陣が乱れる中、引き金を鳴らさせる。一気に敵の中を駆けめぐり、踏みにじって抜ける。だが、すぐに敵は圧力を取り戻し、逃げ遅れた味方はばたばたと討たれた。
李を始め、千近くを失っていた。逃げる陳式の軍勢を、若干秩序を乱しながらも、敵が怒濤のごとく追ってくる。ケ艾は討ち取れていないかも知れない。だが、勢いに乗った敵は、やはり用兵が雑だった。
剣を振り上げる。
既に山間に伏せていた兵士達が、一斉に連弩の矢を浴びせかけた。更に大岩や、巨木を落とす。罠に掛かった敵の先鋒は、降り注ぐ巨岩に潰され、木に砕かれ、連弩の矢を浴びて串刺しになった。
其処に反転して、押し返す。流石に潰走した敵だが、すぐに別の部隊が追いすがってくる。陳式は退路に火を放たせると、制圧していた三郡に残してあった物資を全て武都、陰平に移し、城に油を撒いて火をつけた。
敵が動きを止めた。
ざっと五千前後は討ち取っただろう。
だが、味方は手練れを含め、千五百からを失い、連弩も幾らか焼き払うことになってしまった。兵糧も全て回収できたとは言い難い。また、張翼、廖化もそれぞれ千以上は兵を失っただろう。
しかもその兵士達は、いずれも歴戦の、蜀漢の歴史を生き残ってきた猛者ばかりだ。蜀漢の強精を支えてきた者達だったと言っても良い。
武都に引き上げるのと同時に、ケ艾も引いた。姜維が魏から奪った三郡は、綺麗に取り返されてしまった。その上、兵力の約一割を失っての撤退である。
蜀漢軍にとって、痛恨の敗戦だった。
落馬はした。だが、いつもながらの強運で、そう大した怪我はしなかった。
ケ艾は敵より多くの兵を失いはしたものの、明らかな勝利を収めて、長安に凱旋した。凱旋して最初にやることは、既に皇帝の位を剥奪された、曹芳の様子を見に行くことだった。
曹芳は皇妃達と一緒に、小さな屋敷に慎ましく暮らしていた。まだ若いというのに、まるで世捨て人のような生活である。司馬一族からは申し訳程度の物資しか送られず、結果として自分でも畑を耕さなければ生きていけない。ケ艾が自分の俸給から一部を裂いて送っていたが、それでもどうにもならない状態だった。何かにつけて、司馬一族が付けた監視要員が、持って行ってしまうからである。
力を付けないように、定期的に経済力を削いでいるのは明白である。もしも抵抗しようものなら、殺されてしまうことも。
曹芳を連れて、蜀漢に亡命するという手もある。だが、ケ艾が三万程度の兵を連れて蜀漢に亡命したとしても、滅びの運命は今や変えられない。弱体化した蜀漢と、既に立ち直るのが難しい呉では、束になっても魏、いや司馬一族には勝てないからだ。
だから、司馬一族に屈することで、生きていくしかない。
悔しいが、それしかない。抵抗できそうな勢力は、次々に集められては潰されている。政治家も軍人も。それに荷担しているケ艾は、悔しくてならなかった。
屋敷と言うにはあまりにも小さな家にはいると、水を撒いているかっての皇妃が出迎えてくれた。夫ともども、まだ若い。
「ケ艾将軍、戦はおわったのですか」
「はい。 どうにか、勝つことが出来ました」
「そうですか」
返事はほろ苦い。当然のことだろう。彼女にしてみれば、むしろ蜀漢が勝った方が嬉しかったのではないのか。
だが、蜀漢が勝っても、それは一時的なことだ。あまりにも国力が違いすぎるし、何より姜維の器が小さい。今になって思えば、諸葛亮が世に出るのはあまりにも遅すぎた。曹操と同年代に産まれていれば、きっと大きく歴史は変わっていたはずだ。或いはケ艾もその配下として、今はのんびり武人として生きることが出来ていたのかも知れない。いや、あの諸葛亮の事だから、規則規則で息苦しかっただろうか。
いずれにしても、こんな悪意と闇に満ちた帝国の一員として、苦しむことはなかっただろう。
奥に、曹芳はいた。
慎ましく生活していたのに、姦淫が故に退位させられたとか歴史書に書かれている青年は、それを恨んでいる様子もなく、黙々と写本をしていた。ケ艾が来ると顔を上げる。髭を上品に整えていて、何処に出しても恥ずかしくない貴人としての姿だった。
「ケ艾将軍」
「陛下。 ご不自由はありませんか」
「大丈夫だ。 そなたも許儀も、色々良くしてくれる。 妻達も尽くしてくれるでな」
寂しそうに曹芳は言った。
恨んでいない筈がないのに。せめて誇りだけでも保とうと毅然としているその姿は、悲しいものがある。恨んで良いのである。憎んで良いのである。即位した時には、既に詰んだも同じ状態だった。それなのに、青年は精一杯の努力をしていた。学問も余念がなかったし、浪費もしなかった。司馬懿に支えられて、必死に背伸びしながら、大国を背負おうとしていた。
その報いがこれだ。ケ艾は曹芳を見ると、いつも胸が詰まるのを感じてしまう。
平然としている曹芳は、誰もの想像よりも、ずっと強い人であったのかも知れない。だが、もはやこの人が、歴史の表舞台に出ることはないのだった。
「もしも苦しい、辛いことがあったら、いつでも言ってください。 私が、どうにかいたしますから」
「いや、そなたは無理をするな。 そなたほどの名将が、余がごとき世捨て人のために、命を捨ててはならぬ。 許儀も自由に生きるようにと、以前言ったことがあるが、それはそなたも同じだ。 歴史上の名将として、名を残すことだけを考えよ」
「陛下」
「私は、色々な人に支えられるばかりだった。 この期に及んで、重しにはなりたくないのだ。 分かって欲しい」
皇妃が茶を出してくれる。
曹芳は表情を崩すと、世間話をせがんだ。ケ艾は思い出すと、王濬が面白いだじゃれを色々知っていることや、開発していることを教えた。
「今度、連れてきます。 生真面目な王濬だけに、だじゃれはとても破壊力が強くて、面白いのです」
「そうか、それは楽しみだな」
「陛下の気晴らしになると思いますよ」
「そなたも気晴らしになったようだな」
頷く。やはりこの人は、英明だったが故に。司馬師に恐れられたのだろう。
しばらく話し込んでいたら、いつの間にか夕刻になってしまった。名残惜しいが、あまり長居をするとあらぬ勘違いをされる。曹芳が湯を点じて、それを受けて戻る。次も出来るだけは早く来ると言うと、曹芳は静かに笑った。
陣に戻ると、急報の使者。しかも二人である。
「どうしたのですか?」
「司馬師様が亡くなられました」
「! それは、本当ですか」
「はい。 目の下の瘤が避けて、目玉が飛び出してしまったそうです。 大量に出血し、医師でも手の施しようがなかったそうで。 今朝、命を落とされたとか」
やはり、長くはないという話は事実だったと言うことだ。兵士の話によると、司馬師は苦しみ抜いて死んだという。医師を集めよ、腕が良い医師を集めよ、余を助けよと絶叫しながら、寝台の上でのたうち回っていたそうだ。
自業自得とも言える最後だが、それにはまだ続きがあった。
「しかし、医師は殆ど派遣されなかったそうです」
「それは、どういうことですか」
「はい。 噂なのですが、司馬昭様の指示であったとか」
なるほど。影のように付き従っていた司馬昭にとって、能力的にも殆ど同じ兄は、邪魔だったと言うことだ。司馬懿を見殺しにした司馬師は、今度は弟によって見殺しにされたということか。
修羅の路というも生ぬるい、おぞましき一族の業である。やはり何かの間違いだったのかも知れない。司馬一族が、天下の中心に躍り出てしまったのは。司馬懿がずっと気を揉んでいたのも、今ならよくわかる。
じっと控えていたもう一人の兵士が顔を上げる。彼も、深刻そうな情報を持ってきたのだろう。確認すると、兵士は恭しく書状を差し出した。
「寿春に潜り込んでいる細作からです。 諸葛誕将軍が、呉と結託し、裏切る姿勢を見せているそうです。 しかも今度は、駐屯軍を根こそぎ抱き込んで、呉の援軍も併せて十万に達する大軍勢になる可能性があるとか」
これは、好機かも知れない。
呉の弱体化した軍勢とはいえ、まずますの能力を持つ諸葛誕軍と併せて最大で十万。長安にも十二万。ただこれは司馬一族の監視がきつく、もし謀反を起こすとしても、三万程度しか呼応しないだろう。巧く長安を制圧できたとして、蜀漢軍と手を結ぶとしても、精々七万くらいか。
それに対し、司馬一族は河北だけで二十万、中原にもほぼ同数を有している。予備役の兵を含めると、更に十万を計上できるだろう。しかも兵の質は、大して代わりがない。諸葛誕は軍人であっても有能な政治家ではないし、姜維に到っては今回の戦いで器の小ささを露呈してしまった。
恐らく司馬一族は、不満分子を寿春に集めて、意図的に潰しに掛かっているのだ。鎮圧のために、入念な準備をしていることは疑いない。長安の監視の厳しさから言っても、いざというときは曹芳を人質に取られる事も想定しなければならないだろう。しかも今よりも、遙かに露骨な形で、だ。
反乱を起こしても、勝てない。
残念ながら、そう結論せざるを得なかった。
屋敷にどかどかと陳泰が来た。多分諸葛誕の反乱について、聞きつけてきたのだろう。陳泰も不満を強く持っている人間だ。ケ艾が抑えていなければ、夏候覇のように反乱を起こしていたかも知れない。
兵士達を下がらせる。どちらもケ艾と長年苦楽を共にしている忠臣だが、此処は二人きりになりたいからだ。
「士載、話は聞いていると思う。 司馬師は死んだばかりだし、これはまたとない好機ではないのか」
「いや、無理かな。 現状の司馬一族は、玄伯が思ってるよりも、ずっと、ずーっと強いよ。 諸葛誕将軍も、可哀想だけれど、きっと反乱は上手く行かないね」
「呉からは、亡命していた文鈞、文俶親子も来るという話だ。 それでも勝てないか」
「無理。 元々呉軍は非常に弱体化しているし、それにこの反乱自体が、多分計画尽くのものなんだと思う。 諸葛誕将軍は生け贄にされたんだよ。 それで多分、玄伯も同じように狙われてると思う」
ぎりぎりと歯を噛んだ陳泰は、拳を机に叩きつけた。
畜生と呟く。畜生道に落ちてしまえと言う意味である。
「悔しいと思うけど、我慢して。 それに司馬一族は天下を取るだろうけど、きっと長続きはしないよ」
「何でそんな事が分かる」
「だって、一族の中でさえ殺し合うのが習慣になってるんだもの。 他の人達を虐待することなんか、何とも思ってないんだよ。 天下取っても、すぐに内乱が始まるだろうね」
酷い話である。
ただし、それでも数十年は保つかも知れない。その間の平和は、大きな価値がある。むしろ統一が長引く方が、文明に与える打撃は大きい可能性もある。
民に聞けば、十人が十人、こう応えるだろう。
早く平和な国にして欲しいと。
戦争の度に増税があるし、行き来も不便だ。総力戦態勢に移行すれば、働き手が彼方此方からどんどん引き抜かれもする。ケ艾は民からはそれほど嫌われていないようだが、それでも時々恨みの視線を感じることもある。多くの麾下の兵士達は、今まで死んでいったからだ。
「近々、蜀漢が又攻めてくると思う」
「何だと。 この間敗れたばかりだぞ」
「諸葛誕将軍に呼応して、反逆する将軍を見込んでの事だろうね。 此処で叩けば、蜀漢の滅亡は更に早くなる。 そうすれば、統一も近くなる」
もしも司馬一族を倒すなら、隙を突くしかない。
それには、まず天下を統一しなければならなかった。
司馬昭の力量は、司馬師と殆ど変わらないという話である。性格の陰険さや、自己中心的な考え方も、らしい。そんな性格をしていれば、天下を統一すればかならず淫欲に溺れ、隙を作る。
天下統一の過程で、大勢恨みを持つ者達も出るだろう。
民の声が怨嗟に満ち、多くの恨みが司馬一族に集まる時。討つなら、その機しかなかった。
「今は我慢して。 我慢我慢」
「……」
じっと見つめると、陳泰はついっと視線を背ける。
何だか昔に戻ったみたいで、少しだけ楽しかった。
2、諸葛誕の乱
母丘険の代わりに寿春に赴任した諸葛誕は、愕然としていた。
かって袁術が作り上げた帝国の首都であり、その滅亡後も栄華を誇っていた都市。対呉戦線の物資輸送中間点としても活躍し、多くの民が行き交っていた大都市。許昌や洛陽には劣るものの、何処に出しても恥ずかしくない規模の都市であったのに。
民の目が死んでいる。
行き交う物資が著しく少ない。
市場の活気の無さは、一体どうしたことなのか。
母丘険の乱が原因ではないことは明らかだった。母丘険は努めて民を虐げないように兵士達に厳命していたし、籠城も出来ずにケ艾に敗れたからだ。司馬師が破ったことになっているが、そんなのは勝者がねつ造した寝言に過ぎない。
しばらく寿春を見て回った後、諸葛誕は部下達を集めた。そして、ほぼ同じ報告を受けた。
「山間には賊まで出るそうです。 討伐軍は弱腰かつ弱体化が著しく、それに勢いづいた賊は日ごとに規模を拡大しているとか」
「各地の反乱勢力の残党が、追い立てられるように寿春に集まっているとも聞いております。 流れ込む民の中にも、四肢を欠損している者が多いですが、いずれも反乱勢力に荷担したりさせられたりしていた者達のようです」
「ううむ、それはどういう事なのか」
諸葛誕は唸るが、部下達も小首を傾げるばかりであった。
諸葛誕は三万の兵を任されたが、すぐにそれでは足りないことに気付いた。何しろ毎晩のように賊が跋扈し、寿春の外に出ると無法地帯も同然だったからである。
寿春の守備兵五千は動かせないとして、残りの二万五千は、諸葛誕自身が率いて毎晩彼方此方を走り回ることとなった。何しろ軍の補給物資でさえ、賊が狙ってくる程なのである。小さな村などはひっきりなしに賊の攻撃を受けたり、中には村が丸ごと賊になってしまっているような場所さえもあった。
小都市の被害も尋常ではなく、毎日のように諸葛誕の下には書状が届いた。当然一緒に連れてきた文官達の仕事は過負荷状態になり、悲鳴が殺到した。
「とても手に負えません! 毎晩のように殺人事件が発生し、その頻度も地域も滅茶苦茶です。 役人でさえ、賊に荷担しているとしか思えない者が大勢います!」
「税どころではありません。 賊の中には独立勢力を気取っている者もおり、税を勝手に取り立てている始末です。 役人の中には袖の下を貰い、そのような連中を推挙してくる輩までいます」
「ううむ、おのれ」
諸葛誕は、それでも連日連夜駆け回った。洛陽に十万の援軍を要求したが、即座に断られた時も、絶望しなかった。
三万では無理だと判断し、私兵を集め始めたのは、赴任して二月後。
一応征東将軍の地位は持っているのである。ある程度の自ままは許される立場にある。司馬一族に目を付けられるかも知れないが、今の寿春の有様を見ていて、放っておくことは出来なかった。
しばらくして、楽進の息子である楽?(リン)が訪ねてきた。
この男、魏の宿将にて建国の名将である楽進と比べると二回りも手腕が劣り、しかも蓄財に強欲で、恨まれること著しかった。若い頃はそうでもなかったらしいのだが、年老いてからは司馬一族と通じ、露骨に残虐な本性を見せるようになってきていた。
不快な相手だが、建国の宿将の息子である。無碍にする訳にも行かず、諸葛誕は会うことにした。
「ほう。 ずいぶんとせせこましい城ですな」
居間に通されると、いきなり楽?(リン)はそう言った。こめかみに青筋が浮き上がるのを諸葛誕は感じたが、努めて笑顔を作って振る舞う。ただ、元の顔があばただらけでごついので、気味悪がられたかも知れないが。
「見ての通り、赴任したばかりにて、戦乱の傷跡も修復されておりませぬでな。 民の暮らしを優先しなければなりませぬゆえ」
「民など、搾取すれば良いだろう」
「これはご冗談を。 今や賊が大勢出ているが故、連日連夜討伐に出なければなりませぬで、苦闘が続いておりまする」
曹休、満寵の跡を継いで合肥に赴任した楽?(リン)は、弱体化した呉が攻めてこないのを良いことに、連日遊びほうけているという。こんな奴を相手に下手に出なければならないのは腹立たしいが、我慢するしかない。
散々飲み食いした後、楽?(リン)は帰っていった。何をしに来たのか、その時はわからなかった。
一月ほどして、呉が攻め込んできた。
兵力は一万。長江を渡り、威力偵察代わりに近くの村に火をつけていった。その時、たまたま諸葛誕は賊の討伐のために寿春を出たばかりであった。三万の兵の内、七割は彼方此方に分散して派遣しており、手元には九千しかいない。
だが、呉軍は油断しきっているはずだと、諸葛誕は判断した。理由は幾つかあるが、武将達には説明しない。
馬に跨ると、即座に軽騎兵と歩兵を分ける。
「騎兵がまず、略奪をしている呉軍に突入する。 敵が混乱した所で、歩兵が蹂躙する」
「殺っ!」
「うむ! 全軍、私に続け!」
馬腹を蹴り、加速。
布陣している呉軍の上にで、其処から一気に逆落としを掛けた。案の定油断しきっていた呉軍は見事に中央突破を許し、騎兵はそのまま蹂躙。歩兵が来た頃には、陣形も何もなく、潰走に移っていた。
「一人も逃がすでないぞ! 徹底的に叩け!」
「わかりました!」
「二千は村の消火! 村人の救助に当たれ!」
といっても、したたかな村人どもは、きっと自力で何とかするだろう。兵士達が民を守るという行動を示すことで、呉軍とは違うことを見せるためだけの行為である。
それは、諸葛誕の誇りにもつながっていた。
諸葛誕は名門の出であり、誇りを強く意識して大人になった。今でも誇りに関しては、人一倍有しているつもりである。
司馬一族の走狗となっているだけで、忸怩たるものを覚えているのである。このまま屑のような軍人になってしまったら、先祖に顔向けできない。自ら剣を振るって呉軍を踏みにじり、蹴散らしながら、全身に返り血を浴びた諸葛誕は絶叫した。
これが私だ。
誇りある武人だ。
やがて、呉軍は壊滅した。生存者は二千もいないだろう。船に分乗して逃げていく呉軍を見て、自分も返り血に染まった副官が言う。
「良いのですか、追わなくても」
「水上は奴らの独壇場だ。 今では力の差も無くなっているが、深追いだけは避けた方が良い。 何、略奪していた屑どもは、皆討ち果たしてやった。 これで充分だろう」
「ははっ。 民も征東将軍に感謝しているはずです」
「……捕虜に尋問したいことがある。 掃討戦の際に、何匹か捕らえておけ」
あまりにも綺麗に奇襲が決まったことに、諸葛誕は疑惑を確信に変えていた。
今日、本当はもう少し早く賊の討伐に出るはずだったのである。それが、幾つかの問題が発生したために遅れた。それが故に、呉軍に素早く対応できた。もし予定通りに事が進んでいたのなら、諸葛誕は賊軍の砦攻略に掛かりっきりで、呉軍は悠々と略奪を終え、河賊同然に戦利品を引っ提げて引き上げていただろう。
山越への搾取が沈静化した途端これである。呉軍の腐敗体質には怖気が走るが、それよりも問題なのは、どうして呉軍がこんなに丁度いいタイミングで、揚州に攻め上がってきたかと言うことだ。
考えられる結論は一つしかない。内通者がいると言うことだ。
それも、かなり質が悪い。
一番可能性が高いのは楽?(リン)だ。だが功臣の子孫である奴を疑う真似まではしたくない。誰かが呉に情報を流したのは間違いないのだが、確信を得るために何かしらの調査をしておきたいのだ。
だが、諸葛誕の側には、細作の類はいない。
細作は基本、洛陽にその本部を置き、林が統括している。あの化け物が無数の細作を国中、そして呉や蜀漢までに派遣しているのだ。一部の細作を戦時に貸し出されることはあるが、今はそうではない。
かって闇の世界には、無数の細作組織があったという。だが乱世の中でそれらは消され打ち砕かれ、今残っているのは蜀漢の細作組織と、魏の細作組織のみ。呉のものはこの間謎の壊滅を遂げ、再建さえままならぬ状態だという。
ならば、自身で罠を張るしかない。
戦いが終わって、数日後。諸葛誕は楽?(リン)を招いた。既に捕らえた捕虜から、幾つかの証言は得ている。
不審そうな顔をして来た楽?(リン)は、居間にいる諸葛誕が、いきなり剣を抜いたので蒼白になった。
「何の真似だ! 征東将軍!」
「このたびは我が寿春を良くも呉に売り渡してくれましたな」
「し、知らん! 何のことだ!」
「捕らえた呉の捕虜が白状いたしました。 ああ、そうそう。 不埒な呉軍は、逃げる前にあらかた叩きつぶしてやりました」
居間に荷車が入ってくる。
それは、切り落とした呉軍兵士の生首を満載したものだった。悲鳴を上げた楽?(リン)が後ずさる。ゆっくり、諸葛誕は歩み寄る。
「覚悟はよろしいですな」
「ま、待て、待てッ! 儂を恨むのは筋違いだ!」
自分が犯人と認めながら、楽?(リン)は阿呆なことを言い出す。どうせ、何を言うつもりなのかは分かっている。
「こ、この件は、根が深い! 儂はただ最終確認を行うために派遣されただけだ!」
「最終確認とは」
「そ、それは」
「知らぬのなら、貴方の部下から話を聞くまでのこと。 どうせ貴方の能力では、陰謀も部下に任せっきりでしょう」
部下達は、既に隣室に捕らえてある。小便を漏らした楽?(リン)は、無様に泣きながら、洗いざらい喋り始めた。
そもそもこの件は、司馬昭と呉の孫?(リン)の密約で成っていたことなのだという。
呉は混乱状態にある。孫権が死んだ後は、皇族や重臣での争いが続いて、暗殺が横行していた。
最初に実権を握ったのは諸葛謹の息子である諸葛格だったが、彼は一瞬の油断を突かれて、孫静の孫である孫峻に殺された。祝いの席で油断した所に、軍を率いて乗り込んできた孫峻に殺されたのである。しかし孫峻が善人かというととんでもない話で、諸葛格の利権を全て強奪すると、後は魏が混乱しているのを良いことに、邪悪の限りを尽くした。皇帝を支えよと言う孫権の遺言など、誰もが無視していた。守ろうとしたものも、諸葛格か孫峻によって、皆殺しにされてしまった。
専横の限りを尽くした孫峻が死ぬと、従兄弟の孫?(リン)が実権を握った。孫?(リン)の暴虐は従兄弟に輪を掛けて凄まじく、孫権が後事を託した孫亮はすでに皇帝を廃嫡され、孫休が彼の手で皇帝にされている。
魏も滅茶苦茶な状態だが、呉もそれに輪を掛けて凄まじい有様なのだ。
四家が健在だった頃の方がまだマシだったという声も聞かれるほどである。孫権は後事を託す相手を間違えたのだ。陸遜達の願いは、俗物の子孫達によって、見るも無惨に踏みにじられてしまったのである。
呉軍の弱体化はその中で著しく、魏軍への投降も相次いでいる。
孫?(リン)の噂は、そのような有様だから諸葛誕も聞いていた。恐らくは、自分が司馬一族に利用されていることもわからず、動いているのだろう。
あきれ果てた諸葛誕の前で、楽?(リン)は見るも情けない泣訴を始めた。
「な、なあ、殺さないでくれ。 もしも許してくれるのなら、合肥の軍勢もそなたに加勢させる。 もっと出世できるように、便宜も計らう」
「ゲスが……。 父祖にどのような顔をして会いに行くつもりか」
「ひいっ!」
情けない悲鳴を上げた楽?(リン)の首を跳ね飛ばす。
司馬昭の狙いは明らかだ。こうやって諸葛誕を挑発して、謀反を起こさせること。呉に近い場所に据えたのも、謀反を起こしやすいようにし向けたからだろう。そして賊ばかり出るのも、まとめてゴミを燃やすように、不満分子を一気に一掃するつもりなのだ。
部下達が居間に入ってきた。凄惨な有様を見て、声を呑む。
仮にも諸葛誕軍の一員として、連日連夜戦ってきた者だ。彼らは死や血を恐れたのではない。楽?(リン)を殺したという、魏への反逆行為を恐れたのだ。
「諸葛誕将軍……」
「呉に使者を送れ。 援軍の要求だ。 私は呉に降伏する。 寿春ごとな」
「わ、わかりました」
「楽?(リン)の部下共は全て斬れ!」
迷いを払うように、諸葛誕は命じた。部下達はそれを寸分違わず実行した。
賈充が来て、抱拳礼をした。宰相として執務をしていた司馬昭が顔を上げると、相変わらず人を小馬鹿にした表情を浮かべる。
「諸葛誕将軍が、楽?(リン)どのを殺しました」
「ふん、そうなると司徒就任を拒んだ件も含めて、決定的だな」
司馬昭は賈充が大嫌いだ。あの嫌みが二言目には飛び出す言や、周囲の空気を読まない行動。そして何より、この間散々苦しめた末に死を笑ってやった兄の司馬師に、何だかんだでべったりしていたことなど。
司馬師は父も嫌いだったが、実はその裏で兄も嫌い抜いていた。実力も大して変わらないのに、少し早く産まれたと言うだけで名望を独占していた兄。全てが二番手で、いつも悔しい思いをしていた。母はそんな格差を、むしろ煽った。憎悪こそが力を育てると、本気で思っている様子だった。
だから、司馬昭も、それに応えて、兄を憎んだ。だから、賈充も大嫌いになった。
だが、兄よりも器が大きい所を見せたいとも、常日頃から思っていた。それ故に、兄が嫌っていた賈充を、重く用いている。知恵袋としては古くから司馬一族に仕えている王基という男もいるが、これは実は少し勝手が違う。
王基は集団の別名なのだ。司馬一族が囲っている食客の中から、知恵者を複数集めて、それを王基という名前で使用している。しかも考え方が違う者達をいつも纏めて王基にしているのが巧い仕掛けで、それによって連中は充分な策をひねり出す。
時間がない時は賈充に相談し、時間がある時は王基を使う。それが司馬一族のやり方だった。全てを一人でやっていたか、或いは部下達に公開して意見を募っていた父は馬鹿だったと、司馬昭は思っている。
秘密など、自分だけが知っていればいいのだ。
その点では、兄も阿呆だったと司馬昭は考えている。兄は取り巻き達に知恵を出させるのを好んだ。王基も使っていたが、取り巻き達に意見を出させて、それで無駄に時間を使うことが多かった。
司馬昭は、取り巻きなど最初から信用していない。忠誠心でも、能力でもだ。
兄に勝てなかったかも知れない。
だから、兄を越えるのだ。兄の失敗を繰り返さないことで。
司馬昭はぎらついた野心で、周囲の全てを睥睨していた。諸葛誕を生け贄として殺すのもその一環だ。もう二段階、支配を完璧にする策は仕込んである。王基に練らせたものだ。だがそれを発動するのは、もう少し後になるだろう。
「それにしても、よろしいのですか? 諸葛誕将軍は有能な男です。 殺してしまっては、もったいないような気もするのですが」
「もう有能な男など、必要ない」
「はあ、そうなのですか」
「司馬一族だけが、中華を支配するために、他の家の有能な男など必要ない。 必要なのは、従順に言うことを聞く犬だけだ」
もう呉は放って置いても崩壊する。孫権の願いも虚しく、子孫どもは愚劣極まる権力闘争で、勝手に破滅の坂を転がり落ちている。
蜀漢も腐敗が酷い。姜維の暴走をもう少し煽ってやれば、勝手に自壊する。其処を攻めれば、簡単に叩きつぶすことが出来るだろう。
蜀漢に関しては、ただ滅ぼすのではなく、一段階必要な手順を踏む。まあ、それは別に此処ではどうでも良い。
「軍勢を南下させよ。 敵は義勇兵も含めて、十万くらいになりそうだそうだな」
「それでは、予定どおり味方は二十万を用意します。 主力の将軍は、あらかた動員いたします。 兵は河北から十二万、中原の各州から八万。 更に虎豹騎も」
「ああ、それでいい。 さっさと進めよ」
もちろん、短時間でこんな兵力を用意できる訳がない。諸葛誕を反乱に駆り立てる計画そのものが、一年以上も前から準備されていた。兵力の移動も、その頃から行われていたのである。元は母丘険の乱をこの規模で起こさせる予定だったのだが、奴はあまりにも簡単に負けたので、ついでに邪魔な諸葛誕も使って第二次作戦が実施されたという訳だ。
寿春は捨て石だ。此処にいた母丘険を磨り潰した時と同じように、魏全体から見てあまり捨てても惜しくない土地を使用した。
民など死ぬまで働いていればいい。どうせ多少頭が良い動物と同じだ。支配者の糧となり、さっさと朽ち果てればよいのである。
司馬昭は、本気でそう考えていた。
「しかし、味方には大した将軍がおりません。 しかも兵力差は二倍程度で、寿春を力攻めするのは難しゅうございますが」
「干殺しにせよ」
「はあ?」
「周辺の住民を根こそぎ寿春に追い込み、後は包囲せよ。 その後は適当に降伏すれば許すとでも言って、適当に内部の瓦解を誘え。 もっとも、本当に許してやる必要など無いがな」
何、これも天下太平のために必要な犠牲だ。
そう言って、司馬昭はからからと笑った。
朱異から見てかなりずさんな計画ではあったが、諸葛誕が元々ずば抜けて優秀なだけあり、反乱は大規模なものとなった。
しかしこの反乱は茶番劇だ。
この計画が事前から明らかに仕組まれていた証拠に、あまりにも早い魏軍の動きがあるだろう。実数二十数万という大軍勢が、諸葛誕が反乱を起こすやいなや、怒濤のごとく南下したのである。
その動きは、腐敗した呉軍よりも遙かに速かった。どうにか寿春城内に入ることが出来たのは文鈞、文俶親子だけ。
朱異は、城外にて、黒い海のような敵を見て愕然としていた。
そもそも、今回の反乱そのものが、色々とおかしかったのである。
繰り返される呉内部での内紛で嫌気がさしていた朱異だった。四家を倒した以降は兵権も剥奪され、一将軍に戻っていたのだが、もはや正義も何もあったものではない状態だった。孫権が死んだ後の凄まじい混沌と邪悪は、とても墓前で報告できるものではない。四家を滅ぼした事自体は間違っていないと今でも断言できる。しかしながら、その後を任された者達の無能さは、自分も含めて、嫌気がさすほどだった。
陸抗は荊州で必死に魏軍を防いでいるが、以前と違って、やっとの事で持ちこたえていると言った様子である。最近荊州軍の司令官になった敵将羊枯は優秀だが紳士的な男だと聞く。陸抗が羨ましい。荊州に行きたい。何度もそう思ってしまった。
何しろ今回、朱異が出兵と同時にやらされたのは。孫?(リン)が気に入らない相手を粛正することだったのである。しかも粛正する相手は、孫一族の出身者で、特に大きな罪を犯してもいない男だった。
朱異は彼を密かに逃がしたが、その粛正行動自体で時間が取られてしまい、結局寿春城に入ることが出来なかった。もっとも、入ることが出来たとしても。
この敵軍の凄まじい偉容を前にして、何かが出来ただろうか。
朱異の手持ちは三万。近くには丁奉の二万もいるが、此方は頼りにならない。近年の丁奉は武人としての心をすっかり何処かに置き去りにしてしまい、自分の保身しか考えなくなっている。勝ち目がないと思ったら、絶対に兵を動かしたりはしない男になってしまったのだ。
「朱異将軍、此処はどういたしましょうか」
「隙をうかがうしかない。 少し陣を下げる」
我ながら情けないと、朱異は思った。父に合わせる顔がない。
それにしても司馬一族のこの凄まじい力はどうしたことか。もはや呉と蜀漢が連携しても、司馬一族には勝てないのかも知れなかった。
諸葛誕の反乱を聞いて、すぐに姜維が出撃した。
当然陳式も出兵を要求された。損害はまるで回復していないのに、である。書状をもつ手が震える。床にたたきつけたくなったが、ライリが心配そうに見ているのを見て、止めた。
「陳式将軍」
「すまん。 何でもない」
「今回は、出兵どころではないのでは」
「ああ、それは分かっている」
前回の戦いから、兎に角時が開いていない。損害を補填するどころか、まだ負傷者を治療しているのが精一杯という有様なのである。蜀漢軍の本隊も同じ筈だ。やっとじわじわと増えてきていた蜀漢の人口も、姜維が無茶な侵攻作戦を繰り返せば、あっという間に減ってしまうだろう。
武都を通る商人達も不安がっている。西域への入り口を、もっと北に出来ないかと相談してくる者までいるほどだ。つまり、蜀漢軍を離れて、魏に降伏して、その辺りの便宜を図って欲しいというのである。
だが、それだけは出来ない。
義父陳到に、顔向けが出来ない事だけは、したくなかった。
「出兵できるとして、兵力は五千程度か」
「はい。 負傷者を除くと、そのくらいが限界かと思われます」
今回は、少数民族で構成した精鋭部隊を動員できないのが、特にいたい。彼らの突破戦力がないと、陳式軍の戦力は大幅に目減りする。それを考えると、今回の戦での戦力は、三分の一だと思う方が良いかも知れなかった。
「すまん、ライリ。 一つ頼まれてくれないか」
「何でしょうか」
「少数民族達を、西に逃がす準備を始めて欲しい。 私が死ねば、この二郡は落ち、魏の支配下に入る。 最初は良いかもしれないが、司馬一族の政治は、恐らく長期を経ずして破綻する。 その時に少数民族達を待っているのは、圧政による破滅か、圧倒的な軍勢による蹂躙だろう。 だから、武都、陰平が陥落した時には、西の地に彼らを逃がすしかない」
「そんな。 陳式将軍」
頭を振る。
姜維では、司馬一族に勝てない。正義も悪もこの世にはない。あるかも知れないが、今生きている人間が、それに勝つことは出来ない。
司馬一族には、いずれ必ず天誅が下るだろう。だがそれまでに生きている者達は、散々苦労することになる。それを陳式は、少しでも緩和したかった。
「今回の戦で、また我が軍は負ける可能性が高い。 そうなると、流石にもうこの二郡も支えられなくなる。 もちろん負ける気はないが、姜維将軍の好戦的な性格からして、今回勝つことが出来ても、また無茶な出兵を繰り返すだろう。 だから」
「いやです!」
不意に抱きつかれた。
涙を零しながら、ライリを陳式を見上げる。
だが、妻子がいる陳式は、その心に応えることが出来なかった。そっと押し返す。
「すまんな。 私が独り身で、年老いていなければ。 お前の心を受けることも出来たであろうに」
泣き崩れるライリを置いて、陳式は部屋を出た。
城の外には、既に指揮官達が勢揃いしていた。
「これから、出撃する」
「おおっ!」
誰の顔にも、悲壮感は微塵もなかった。
無論、陳式の顔にも。
姜維は三万五千に達する兵を連れて、漢中を出てきた。これに陳式の五千が加わり、四万である。
しかし、予想通りの事態が起こっていた。
陳式を迎えた廖化が、自軍を一瞥する。前回の死闘で、辛くも本隊を救ったが、廖化隊の打撃は小さくなかった。失われた人材は新兵で補充するしか無く、しかもあまりにも出撃間隔が短かったから、充分な訓練も出来なかったのだ。
蜀漢軍の強みはその精強さにあったのに。廖化が視線で指した新兵達は、殆ど軍組織としてのまともな動きも出来ない有様であった。
「これでも昼夜兼業で鍛えたのだが、体を壊す者まで出てな。 どうにか作戦行動と、槍だけは使えるようには仕込んだが」
「馬鹿な、これでは敵の軍勢に抗しきれんぞ」
「一応、切り札はある」
廖化が視線を向けた先には、黒い肌の猛敢な兵士達がいた。南蛮出身の兵士達である。出身地が故に忠誠度を不安視され、今まで前線に投入されることがなかった者達だ。そして何より、彼らの中に混じって、馬上で周囲を睥睨している者に、陳式は見覚えがあった。
魏延だ。
死んだと言うことにされて、南蛮の統治に廻されたと聞いていたが。まさかこんな形で、前線に戻ってくるとは。
「一応、表向きは張疑という事になっている」
「しかし張疑将軍は、どちらかと言えば折衝と政務が得意で、あまり実戦は得意ではないはずだ。 今更南蛮から引っ張り出したと言うことにしても、敵が恐れるか」
「だから遊撃部隊として用いるつもりらしい。 まあ、新兵達よりもましな動きは出来るだろうよ。 問題は、作戦行動に関してと、この気候だな」
南蛮の気候に慣れた兵士達には、この地の極寒は応えるだろう。先陣が長引くと大変なことになる可能性が高い。
更に言えば、複雑な作戦行動を何処まで理解できるかが不安だ。南蛮の民が知能劣弱などと言うのが、偏見であることを陳式は知っている。同じように知能劣弱とされている少数民族達と長年にわたって接してきて、彼らが漢人と全く変わらないことを、経験で学習しているからだ。問題なのは、南蛮兵達が集団での会戦を経験していないことと、それに応じた訓練を受けていないことなのだ。
陳式が見た所、新兵は一万ほど。南蛮軍が五千ほど。熟練兵は二万という所だ。南蛮兵の戦闘能力は相当期待できるとしても、今までのように倍、三倍の敵と五分に渡り合うのは難しい。
諸葛亮だったら、出撃は許さなかっただろう。
「陳式将軍、廖化将軍。 姜維大将軍がお呼びです」
「……分かった。 すぐに行く」
不満を叩きつけようにも、既に出撃してしまっている。
それに諸葛誕の乱に、魏が二十万を越える軍勢を出しているのも事実なのだ。もしもケ艾を打ち破ることが出来れば、一気に擁州、涼州を制圧できる可能性もある。
問題は、そうした所で、涼州の民は今の蜀漢軍など受け容れないだろうという事実なのだが。
姜維がそれを理解しているとは、陳式には思えなかった。
天幕に行くと、姜維はどす黒く目の下に隈を作っていた。少し前に成都に乗り込み、直接黄皓を斬ろうとしたらしい。だが、劉禅の裾に隠れた黄皓に、流石に剣を向ける訳にはいかず。劉禅も、この程度の者相手に、お前が本気で怒ることもないと宥めたので、姜維は渋々下がったそうだ。
だが、この間の敗戦により、姜維を憎む声は何も佞臣だけからではなくなりつつある。
諸葛亮の息子である諸葛瞻は反姜維の声を公然と挙げ始めている。向寵は静観を保っているが、彼は引退した身で、公式には異民族の討伐で命を落としたことになっている。細作を統べるためにした処置だが、今回はそれが裏目に出た。今向寵の跡を継いで白帝城を守っているのは閻宇という将軍で、この男は軍人としてはまずまずだが兎に角主体性が全くない。黄皓がこの男をしきりに押し、姜維の後釜に据えようとしているという噂もあった。
そのような中で、姜維の心労は端から見ても十重二十重になっている。このままでは、その内血を吐いて倒れてしまうかも知れなかった。
全員が揃った所で、姜維は仰々しく皆を見る。目は血走っていて、威厳より鬼相を感じてしまう。
「それでは、軍議を始める」
「早速ですが、今回は利無し。 撤兵すべきかと考えます」
いきなり陳式が言ったので、流石に姜維も面食らったようだった。廖化でさえもが、唖然としている。
「なぜ陳式将軍は、そのようなことを言うのか」
「今回は勝てる要素がございません。 確かに諸葛誕の乱は起こっていますが、魏軍は長安に十万を超える兵を集結させております。 それに対して味方は新兵が多く、前回の戦の傷が癒えておりません。 敵はそれに対して熟練兵を増やし、既に兵の質でも我が軍に並んでおります」
「おのれ、貴様」
「しかも此処で負ければ、魏に撃ち込んだ楔である武都、陰平が一気に攻略される可能性があります。 更に言えば、姜維将軍と敵将ケ艾に、さほど用兵手腕での差があるとは思えません。 緻密な作戦を建てて出てきているのであればまだしも、このようなずさんな出兵で、勝てる訳がないかと思いますが」
言い切ると、姜維は青ざめたまま黙り込んだ。温厚なことで知られる張翼や、盟友である廖化でさえ困り果てて視線を泳がせている。
陳式は、今回死ぬと決めている。
だからこそに、もはや遠慮をする気はなかった。
「そもそも今回の出兵における戦略的目標は何処にあるのですか」
「長安の奪取だ」
「それにしては兵力が不足している。 涼州を制圧すると言うほうが、まだ現実味があります」
「しかし、涼州の雑多な民は、既に我らの侵攻を歓迎していない。 魏が長年平和を作り上げて、経済的にも豊かな地域にしてしまったからだ。 今更我らが進駐した所で、何とも思わないだろう」
意外だ。それに気付いているとは思わなかった。
攻撃一辺倒の男だと思ったが、多少は頭も働いていたのか。或いはこの間の敗戦で、少しは学んだのかも知れない。
「ならば、具体的な作戦は」
「それは敵の動きを見ることになる。 ケ艾さえ打ち破れば、敵にはもう大した将はいない。 充分に長安を奪取できる可能性がある」
「かっての我が軍であれば、或いはその言葉も正しかったやも知れませぬ。 しかし新兵多く、南蛮の兵士達を引っ張り出してきて戦力の補填をしている我が軍に、そんな力がありましょうか」
姜維は応えなかった。
しばらく続いた沈黙の中、やっと口を開いたのは、張疑。魏延だった。
「魏から、投降者が何名か出てくる事が確定している」
「ほう」
「司馬一族の圧政が故だ。 最悪、彼らを受け容れて、引き上げるだけというのも手だ」
極めて曖昧な戦略上の目標だ。
だが、長安を攻略するなどと言う実力が全くともなわない途方もない野望よりは、ずっとましなのかも知れなかった。
3、忠臣無惨
諸葛誕は城壁の上から魏軍を見下ろす。長い間計略を練っていたのだろう。魏軍の攻撃は、あまりにも計画的過ぎるものだった。
まず寿春に諸葛誕が立てこもるやいなや、五万の軍勢が何処とも無く現れた。後で確認したが、どうやら徐州に既に配置されていて、寿春の状況を見て予定通り出撃してきたものらしい。それを先鋒に十万の本隊が到着。呉から来た文鈞、文俶親子が一万五千を連れて入城した時には、敵の数は二十万を越えていた。
このほかに朱異の援軍も来るはずだったのだが、恐らくは虎豹騎に遮られてしまい、入れないのだろう。未だ姿を見せていない。結果として、城内の戦力はおよそ七万五千。そして、周囲の村や小さな街の民は魏軍に追い立てられ、寿春に続々と入場してきた。人口は既に三十万を超えている。
いわゆる干殺しである。予想通りの展開だった。
これを予想して、少し前に合肥に押し入り、兵糧は根こそぎ回収してきたのである。呉の一部軍人と楽?(リン)が裏で癒着していたというのなら、それを逆利用するまでの事。呉軍もその辺りを追求されると藪蛇だし、何より今は利害が一致している。呉で実権を握っている孫?(リン)の事は考えなくても良いだろう。
城外にいる二十万以上の兵士達は、まるで黒い海である。ただし、寿春には攻撃を仕掛けてきていない。力攻めをしても落ちないことは目に見えているからである。諸葛誕は、兵士達の訓練を続けながら、まずは待つ。
最初相当に血が上っていた頭も、今はだいぶ落ち着いている。今西では蜀漢が攻め込んでいるはずで、魏は三十万を越える兵力を動員しているはずだ。籠城が長引けば、必ずやほころびが出てくる。
此方も相当な苦労を覚悟しなければならないが、包囲網の外には、呉軍でも有数の実力を持つ朱異と陸抗がいるはずで、見た目ほど状況は悪くない。兵糧の問題はある程度解決しているし、見た目ほど事態は酷くなかった。
「諸葛誕」
「文鈞どのか。 如何した」
文鈞は呉でも相変わらずの様子で、煙たがられていたらしい。息子の猛将文俶が、申し訳なさそうに謝っている光景もよく見られる。武芸では並び立つかも知れないが、人間性では息子の方がずっと上だ。
生真面目な一方、武人でもある諸葛誕は、文鈞が嫌いではない。ただし、人間としてはあまり近寄りたくはない相手だとも思っていた。
「出撃させてもらえないか。 籠城だけでは退屈だ」
「駄目だ。 今は敵の疲弊を待つ」
「それはいつになるのだ。 敵は二十万を越えていると聞くぞ」
「見ての通り寿春は堅固な城で、多少力攻めを受けた所でびくともせん。 兵糧も豊富に蓄えているし、多少の籠城など怖くはない」
それに魏軍はこれだけの軍勢を繰り出している上に、蜀漢とも交戦をしている筈で、相当な軍費を浪費している。それを考えれば、長期間の籠城は決して無駄にはならない。
更に加えれば、此方が敵の挑発に乗らず、じっとしていれば、敵は必ず油断する。後は呉軍と此方で連携しながら夜襲を繰り返し、敵を疲弊させていけば良い。
「まあ、二年という所だな」
「そんなにか。 腕が鈍ってしまうわ」
「兵士達の訓練を見てやって欲しい。 七万五千とは言っても、まだ兵士になったばかりのような者達も少なくはないのでな。 貴殿の優れた武勇で、是非歴戦の猛者とも渡り合えるように仕上げて欲しい」
「ふん、そうか」
おだてられて機嫌が良くなった文鈞は、ふんぞり返って城壁を降りていった。
途中、城壁を上がってくる副官が、文鈞を一瞥した。彼を含め、殆どの将兵は、家族を呉に送ってある。寿春にいた女子供も、希望する者は呉へ送り届けておいた。もっとも、あまり多くは戦場を脱出させられなかったのだが。
「諸葛誕将軍、あの獣のような男、軍の秩序を乱すこと著しく、苦情が多く寄せられてきております。 良いのですか、放置しておいても」
「一万五千を率いて来てくれた将だ。 我慢せよ」
「しかし、兵士達の士気が、敵よりも早く下がっては意味がないようにも思えます」
「我慢せよ」
我慢強いこの男が、ここまでいうほどである。実際文鈞は何様かと思えるほどに態度がでかく、城内の誰からも嫌われていた。魏でも嫌われ、呉でも嫌われた男だが。やはり寿春でも好かれることはなかった。
以前、同僚だった頃も、遙かに格上だった諸葛誕に対等の口を利いてきたし、噂によると大将軍や宰相にさえも偉そうな喋り方をしたことがあるそうである。多分、異常に誇り高すぎる、生来の病気なのだろう。武芸に関しては超一流であることは誰もが認めているのに、惜しい話である。
一旦、城壁から降りる。
敵もそのまま見ているだけとは思えない。あらゆる戦術で、此方の指揮を削ぎに掛かってくることは確実だ。それを防いでいけば、いずれ敵は負ける。
その時こそ、司馬一族が滅びるのだ。
ケ艾が率いて出てきた軍勢は八万程度。それでも味方の倍であり、以前とは状況が全く違う以上、油断できる戦力ではなかった。
陳式は防御陣の右翼後方にいる。
確かに張疑の言うとおり、投降してきた敵将がいた。兵も数百ほどずつ連れてきている。城ごと投降して、今は敵の包囲に耐えている者もいる。
それらを少しずつ吸収、回収しながら、蜀漢軍は敵と対峙していた。しかしながら、この軍勢を連れて出てきた意味があるのかというと、著しく疑問だった。
姜維は最前線を視察している。諸葛亮の手腕を再現するべく、殆ど休まずに仕事をしているらしい。しかしながら、諸葛亮も凄まじい仕事量で、手数の足り無さを補っていたのである。姜維が真似をした所で、追いつける筈などない。むしろ独走と暴走を招くばかりだとしか、陳式には思えなかった。
陳式は五千の部下が固める陣を何度か見て回ったが、兵士達の士気はこんな戦にもかかわらず低くない。僅かに残っている少数民族の部隊も、陳式を見掛けると好意的に笑いかけてくれる。返事をしながら、申し訳なさで一杯だった。
「敵は、動かぬな」
「あまり対陣が長引くと、兵糧が切れます。 ただでさえ蜀漢軍は、無理な動員で負担が大きいですから」
「うむ、そうだな」
「諸葛丞相が育てた内通者の網も、最近の負け戦で殆ど切れてしまった様子です。 姜維将軍は、諸葛丞相が残してくれた遺産を、殆ど数回の戦いだけで食いつぶしてしまわれた」
悔しそうに副官が言う。
しかしながら、姜維の才能が足りないのは事実だとしても、姜維だけの責任ではないだろう。他に優秀な若手の武将が育ってきていれば、ある程度の負担も回避できたはず。劉禅は政治の腐敗を食い止めることが出来ていないし、老人が未だに最前線に出てきていることがまずいのだ。
そう言う意味では、人材を育成できなかった陳式にも責任はある。
「兎に角、今は可能な限り勝てる確率を上げよう」
「しかし、一月ほど対陣して、降伏してきた敵は精々千名程度です。 これでは、出兵した意味が殆どありません」
「それは違う。 今回出兵し、こうやって真面目に降伏する部隊を回収することで、次も来てくれるという希望が生まれる」
「そのようなものでしょうか」
其処だけは、姜維の行動は正しかった。
それからも対陣が続いた。敵の陽動がないか、しっかり陳式は後方にも目を配っていたが、ケ艾は陣に根が生えたように動かなかった。
しかし、急激に静は動に転じた。
ケ艾は天幕に諸将を集める。陳泰、王濬、社預を始めとする有能な武将達は、ケ艾をいつも支えてくれる。
彼らに向けてケ艾は、ある結論を発した。
「既に蜀漢軍は、相当に弱体化しています。 明日、総攻撃を掛けます」
「一度も刃を交えていないのに、どうしてそのような結論が?」
諸葛諸が不安げな声を発した。それに対して、陳泰が補助をしてくれる。どうしても容姿から侮られがちなケ艾を、最近は会議でも支えてくれる。
昔は会議でも突っかかって来られたので、それが楽しくもあったのだが。どうも最近は、あまり余裕がないせいか、こういう行動には素直に嬉しいと思ってしまう。
「昔の蜀漢軍なら、此方の兵力が数倍でも、正面決戦を挑むような行動が珍しくもなかったし、挑発もしてきた。 今の奴らはがちがちに防御陣を固め、明らかに戦いを避けているのが丸わかりだ」
「そう見せかけているのではありませんか」
「いや、違う。 そう思って、俺も細作を出して調べていた。 敵の内、一万ほどは新兵で、南蛮からの兵も駆りだしている。 つまりこれは、無い袖を触れなくなった、ということだ」
「有難う、陳泰将軍。 つまり、指揮官、兵ともに精強であった蜀漢軍は、既に質的にも我が軍と大して変わらない段階まで落ち込んでいます。 それなら、数が多い此方の方が有利です」
諸葛緒はまだ不安がっていたが、王濬が此処で助け船を出してくれる。
生真面目な男だけに、周囲の評価も高い。それが此処では助けになる。
「更に言えば、蜀漢軍は長大な補給路という、致命的な欠点を抱えています。 木牛流馬という輸送車を使っていますが、それでも補いきれないほどです。 我が軍は、敵にある程度の打撃だけ与えればいいのです。 蜀漢軍はあまりにも早い出征の速度から言っても、相当に打撃が酷く、補給もいい加減になっています。 特に南蛮から来ている部隊は、故郷から相当に遠い戦地で、しかも気候が全く違うので消耗が激しいはずです」
「む……」
「これに対し、蜀漢軍は我が軍に大して大勝利を収めなければなりません。 危険な策を採るか、或いは此方の自滅を待つしかない訳です。 後者はあり得ず、前者も今は取りようがない状況です。 それを考えれば、我が軍は敵に負ける要素がない。 今は、そう結論できます」
「有難うございます、王濬将軍。 私もだいたい同意見です」
大まじめに隣で頷いている社預。こういう若者の期待を裏切らないためにも、ケ艾は負けない。
もちろん、それは曹芳や、皇帝曹髦を守ることにもつながる。ケ艾が必要である以上、司馬一族は、彼らには手を出さない。いや、出せないのだ。
「それで、作戦はどうなさるのです」
「まず、敵を防御陣から引きずり出す必要があります。 如何に衰えているとは言っても、正面から攻撃しては被害を増やすばかりです。 そこで、陳泰将軍」
「はっ!」
威勢良く立ち上がった陳泰に、二万を預ける。
この間の戦いで、陳泰は陳式の別働隊に大きな打撃を与えられた。それが、ケ艾の本隊への直接攻撃も許した原因となった。それを不安視する意見も出たが、ケ艾は一蹴する。
「今回、姜維軍にも陳式の部隊にも、陳泰将軍の軍勢を強襲できる戦力は残っていませんし、仮にそんな兵力を裂けば、私の攻撃に耐えられません。 私は残りの軍勢を全て率いて、連弩の射程外から火矢による間断無い攻撃を仕掛け続けます。 敵陣に隙があったら、一気に斬り込みます」
物量にものを言わせた波状攻撃と、別働隊による心理的圧迫である。もしも姜維が全軍で陳泰を叩きに出たら、一気に挟み撃ちを仕掛けて叩きつぶす。もしも兵を分けるようならば、正面から陣を突破する。
既に蜀漢軍が弱体化しているからこそ、出来る作戦行動であった。
納得して天幕を出て行く諸将を見送りながら、ケ艾は呟く。
「後は諸葛誕将軍がどうでるか、ですね」
散々準備をしていったにもかかわらず、魏軍は寿春を攻めあぐねていると聞いている。このままだと、司馬一族への不満分子が、何かぼやを起こしかねない。
それ自体は良い。もしもぼやが大火になるようならば、その機に乗じて洛陽を一気に陥落させ、司馬一族の中枢を粉砕できる。蜀漢軍と手を結ぶことを考えたっていい。
だが、実際にはそうもいかない。諸葛誕は善戦しているといっても、結局寿春からは一歩も出られずにいるし、呉軍も包囲の外で手を出しかねている状況だ。
今は、全力を尽くしながら、状況の変化に柔軟に対応する。
それしか、ケ艾に出来ることはなかった。
魏軍が動き出したと聞いて、最初に立ち上がったのは張疑だった。
魏延だった彼は、髪も髭ももう真っ白だったが、以前の凄絶なまでの好戦性が未だに僅かながら残っている。南蛮に赴任して、何を見てきたのかはわからない。本物の張疑は相当な人格者であったと聞いているし、彼と一緒に様々なものを見てきたのだとはわかるが、それが意外に穏やかな今の性格に関係しているのは間違いないだろう。
「姜維将軍。 迎撃に出ましょう」
「敵の狙いは挟撃にある。 陳泰に対応できる十分な戦力を出せば、防御陣を正面突破してくるだろう。 かといって陳泰を放置しておけば、陣の後方に回られて、補給線を寸断されかねない」
姜維の読みは正しいと、陳式も思った。陳式もおおむね同意見だからである。
しかしながら、意見が一致したからと言って、どうにかなるというわけでもない。諸葛亮なら、いや以前の蜀漢軍が健在なら、幾らでも手はあった。しかし今や蜀漢軍に出来ることは限られているのだ。
ケ艾はどちらかと言えば後手に回ってから粘り強く戦う将軍である。それが積極的な、此処まで攻撃的な策に出てきたのである。それだけ、強く勝てると確信した、という事なのだろう。
「ならばどういたしますか」
「防御陣に火を放ち、後退する。 後退しながら、陳泰の軍勢を一撃。 敵が態勢を立て直す前に、蜀漢に引き上げる」
「引き上げてしまうのですか」
「これ以上損害を出すと、武都、陰平も維持できなくなる。 そうなってしまえば、我が軍の戦力は、更に目減りする」
意外な反応に、陳式は驚いた。
この間の軍議でがつんと言ったのが、それほど応えたのだろうか。あれほど傲慢だった姜維は、むしろ弱々しく感じるほどになってしまっていた。
或いは、元から姜維はこういう男だったのかも知れない。精一杯背伸びしていた所に、陳式が激しく本音を出した所で、やっと地に戻れた、という所なのだろうか。しかし、そうなると哀れでもある。既に姜維は四十代に入っており、孫がいてもおかしくない年だ。その年まで、鬱屈してきたとなると、抱え込んできた闇は途轍もなく大きいだろう。或いは、其処を諸葛亮に見込まれたのかも知れない。
「わかりました。 先鋒は私に」
「いや、武都、陰平の軍勢は損耗が激しい。 これ以上兵力を損じる訳にはいかない」
姜維が振り向いた先にいたのは、張疑だった。
既にかっての凶猛さよりも、白い髭が目立つようになった男は、頷いた。
「わかりました。 南蛮兵の獰猛さ、敵に見せつけてやりましょう」
「敵将を倒す必要はない。 せめて五千、いや四千。 敵の手を離れ、味方に加わる将兵が出たのなら、少しは望みもあったのだが」
姜維は心底から辛そうに言うと、大きく嘆息した。
張疑は静かに笑っている。
それが死を決意した笑顔だと、陳式は知っていた。
魏延は、名前と地位を剥奪されて、南蛮に流されて。其処で、張疑に預けられた。
南蛮の荒くれ達を不思議な手管で纏めているという人物に、前々から魏延は興味があった。南蛮の猛者達が一目で恐れるような大男なのか、或いは口から産まれてきたような弁達の士なのか。
結論から言えば、どちらも違っていた。
護衛という名の監視の兵士達と一緒に、魏延は息子達と南蛮の奥地に送られた。其処には小さな集落があり、半裸の民が、過酷な密林での生活をしていた。むせかえるような湿気と、生焼けにされるような灼熱の太陽。巨大な植物に、見たこともない獣。数日で困り果てた魏延が強いられたのは、現地の民との生活だった。
長老らしい穏和な老人と、一緒に河に行く。銛を使って魚を捕り、時には鰐も仕留めた。鍛え上げた魏延の強力は生半可な猛獣に引けを取らず、猫科の獰猛な猛獣も魏延の眼光の前には一歩を譲った。
しばらく過ごしている内に、何かがおかしくなってきた。
今まで、魏延は栄達のため、全てを捨ててきた。劉備に仕えると決めて、小隊長から少しずつ出世して、ついに将軍になった時。魏延は嬉しくて、誰も見ていない所で号泣した。ただひたすらに我道を行くと思われた魏延の、それが本当の姿だった。
やがて趙雲も死んだ時。魏延は蜀漢随一の猛将となった。
だがその時、魏延はわからなくなっていたのだ。自分が正しいのか、或いは自分が通ってきた路が正しいのか。
やがて、密林で暮らす内に、思い出してきた。
自分が彼らと同じような民で、一緒に生きているだけの存在だと。気がついた時は愕然とした。自分は英雄で、特別で、恐らく死ぬことだって無いと、本気で思いこんでしまっていたのだ。
愕然とした魏延は、肩を叩かれた。
村の長老。
否、彼こそが。半裸の腰が曲がった老人こそが、張疑だった。
何度か遠目に見たことはあったのだが、あまりにも印象が違いすぎて、やっと気がつくことが出来たのだ。
「彼らは、お前と同じだ。 魏延」
既に帰農し、民に混じり合っている息子達を見ていると、涙が出てきた。
武人だけが、人間ではない。
これは、充実した生き方ではないのか。
そして、それを守る事こそ。武人としてのあり方だったのではないか。
「儂には、もう力がない。 だから魏延。 彼らを守ってくれないか」
「心得ました」
不覚にも、涙を流していた。
それから数日後、張疑は死んだ。老い果てての、大往生であった。蜀漢の官僚達はあまり葬儀には来なかったが、南蛮の民は誰もが悲しみ、廟まで立てた。魏延も悲しんだ。泣いた。気がつけば、劉備が死んだ時よりも、悲しんでいたかも知れない。
魏延は人として産まれ、野心によって武人になった。
だが、今また人に戻ったのだった。
それから、姜維の依頼で、張疑として北伐に出てきた。まだ野心が消えた訳ではない。だがそれ以上に、民をどうにかして守りたいという気持ちの方が、ずっと強くなっていた。だから、弱体化しきった蜀漢軍を見ても、さほど感慨は湧かなかった。かってだったら、野心を満たす好機だとほくそ笑んだだろうに。
全軍が動き出す。
張疑となった魏延は、その先頭に。後ろには、本物の張疑が我が子のように慈しんできた南蛮の兵士達がいる。彼らは張疑に受けた恩を返すのだと、張り切っていた。そんな彼らを、一人でも多く故郷に帰す。そのためなら、命など惜しくはなかった。
後ろで、防御陣が燃え始めているのがわかる。ケ艾は以前より遙かに用兵の手腕を増しており、手こずると確実に挟撃される。側面に回り込もうとしている陳泰に、一撃で痛打を与え、混乱の中を突破するしかない。
姜維の小僧も、陳式の喝破でまともな判断力を取り戻したようだし、この分ならもう蜀漢に自分は必要ないだろう。
野心のためなら、国をも売りかねなかった自分が、今は滑稽でならなかった。
陳泰の部隊が見える。
思わず感嘆の声が漏れていた。
「ほう。 見事な陣だ」
あれを突破するのは簡単ではない。陳泰は坂を利用して、見事な防御陣を即席で築いている。あれは攻城戦と同じ事になる。一撃どころか、下手な攻撃では一瞬で追い返されて、挟撃の的になるだけだ。
「張疑将軍」
「儂が右翼を突破する。 お前達は儂が開けた穴から敵中に突入、引き鐘が鳴るまで、敵を片っ端から斬り伏せよ。 お前はこれを、後方の陳式に届けよ」
「わかりました。 すぐに」
漢人の副官に応えながら、張疑はさらさらと竹簡にしたため、忠実な南蛮兵に手渡した。彼らは獰猛で欲望に忠実な所もあるが、善良で素直で、漢人よりずっと親しみやすい部分も多い。
最後の野心が燃え上がる。
一花咲かせていくか。
長刀を構えあげると、魏延は白い髭の中の口を、笑みの形に歪めた。どうせ、もう長くはない命だ。医師にも三年は保たないだろうと言われている。腎臓がやられているらしく、小便がおかしな色になってきている。
南蛮の民の中で、ゆっくりと死んでいくのも良かっただろう。
だが、彼らの記憶に残る男として、鮮烈に姿を見せつけていくのも悪くない。本物の張疑のように神になる事は出来ないかも知れない。だが、一瞬だけなら。英雄として、輝ける。南蛮の民の、英雄として。
「気勢を上げよ! 突撃する!」
「オオーッ!」
叫び声も漢人とは違うな。
そう思い、張疑は、心地よい昂揚を味わう。さあ行くぞ、陳泰。俺の最後の相手に相応しいかどうか、見せてくれ。
馬も、南蛮の地で入手した。とにかく大きく、力強い馬だ。きっと今後、農耕用として中華にも広まっていくだろう品種である。西から来たらしいものなのだが、中華では売れずに、南蛮に払い下げられてきたそうだ。それが気に入って、ついつい此処まで乗ってきてしまった。
張疑はその巨大な馬と、まさに一体となって。敵陣に突撃を開始した。
陳泰は、張疑という人物が、南蛮で慕われている有能な執政官であると言うことを聞いていた。だからこそに、その張疑その人が、全軍で押し寄せてきた蜀漢軍の、しかも先頭に立って全力で攻め込んできたと聞いて、思わず右翼方面の戦況を、身を乗り出して見てしまった。
流石に敵の士気は高い。張疑が相当に慕われているという話は聞いていたから、南蛮兵達はそれこそ命を捨てて攻め込んでくるだろうとは予想していた。しかし、これは想像外の事だった。
敵の先頭に立っている張疑は、髭の老人だが、凄まじい武勇を発揮して、柵際で暴れ狂っている。それに呼応するように南蛮兵達も、まるで命がいらないかのような、盲目的で烈火のごとき攻勢に出ていた。張疑も馬も既に数本の矢を浴びているにもかかわらず、引く気配もない。
柵を、馬が蹴り倒した。
どっと敵がなだれ込んでくる。既に傷ついている張疑を守るかのように、である。
「右翼防御陣、突破されました! 敵がなだれ込んできます!」
「押し返すのは難しいな。 後退。 右翼陣は放棄して、中軍と合流。 中軍からは援護をせよ」
「わかりました!」
伝令がすぐに飛ぶ。訓練されている右翼部隊は、敵の攻勢に辟易しながらも下がり、柵の内側に入る。
張疑は此方が完全に守勢に回ったのを見届けると、引く、ような事はなかった。今度は中軍に、麾下の兵と共に突入を仕掛けてくる。大量の矢を浴びせて防ごうとする中軍だが、まだ逃げてくる味方もおり、つい弾幕が薄くなる。
其処を、張疑は強引に突破してきた。
唖然とした副官が呟く。柵が再び蹴倒され、もみ合いの死闘が始まっていた。
「そんな。 むしろ温厚で、知的な男だと聞いていましたが」
「かって、蜀漢にいた黄忠のようだ。 あのような命を省見ない戦い方で、魏軍を何度となく大破したそうだ」
「感心している場合ではありません。 このままでは、味方は大きな被害を出します」
「かまわん。 目的は、敵を引きつけることだ。 このまま乱戦に持ち込めば、むしろ味方が有利になる。 増援を繰り出し、勝ち逃げを許すな」
「はっ!」
伝令が再び飛ぶ。左翼方面は敵の攻撃を巧く防いでいるから、中軍から兵を裂くことになる。
さて、どうか。
陳泰が身を乗り出そうとした、その瞬間だった。
中軍の前衛の柵に、衝撃が走る。
なんと、破城槌が突進してきたのである。しかも、それは炎を付けられ、真っ赤に燃えさかっていた。炎から逃れようとする牛が、それを暴走させている。
見覚えのある光景だ。
五丈原で、諸葛亮が使った戦術である。此方も火を焚けと陳泰が指示をするが、一瞬遅い。
前衛の柵は、食い破られていた。
勢い余って横転した破城槌の後ろから、敵がなだれ込んでくる。陳泰は舌打ちすると、最精鋭を率いて出た。突入してきたのは張翼の部隊であり、流石に相当に手慣れている。迎撃に飛び出して行った兵士達は、張翼が組織的に放たせた矢に、ばたばたと打ち倒された。
だが、陳泰もやられっぱなしではない。騎馬隊を突入させて、敵の先鋒を打ち崩すと、柵際まで押し戻す。激しい戦いの中で、味方はばたばたと倒されたが、敵にも決して少なくない打撃を与えている。特に南蛮兵の猛烈な戦いぶりは凄まじく、陳泰は舌を巻いた。黒い肌をしている南蛮兵達は顔つきも漢人とは違い、悪鬼のように荒れ狂う彼らを見て、恐怖に駆られる兵士も出始めていた。
しかしながら、陳泰の目的は、敵を引きつけ、消耗させることだ。味方の方が被害は多いが、しかし全体的に見れば、戦略的な目標は達成できているとも言える。もう少し敵を引きつければ、ケ艾の本隊が現れる。そろそろ頃合いかと思った瞬間、敵の引き鐘が鳴り響いた。此処だと、陳泰は思った。
「食いつけ! 離れるでないぞ!」
銅鑼が叩き鳴らされた。一丸となって追撃に掛かる味方。だがその先頭に、連弩の猛射を浴びせられる。
完璧な連携だった。第二射をまともに食らった前衛が、壊滅状態になる。其処に、張疑が、残る全ての戦力を、一丸として叩きつけてきた。全身に返り血を浴びて戦う修羅の姿を見て、兵士達が恐怖に逃げまどう。
蜀漢軍本隊がどんどん離れていく。張疑も暴れ回ると、さっと引き始めた。
だが、ケ艾は、そのまま敵を逃がしはしなかった。
側面から、騎馬隊三千。疾風のように、蜀漢軍に襲いかかる。ケ艾が率いる兵、しかも最精鋭だ。
不意を突かれた張疑軍が、一気に蹴散らされる。散り散りになった南蛮兵に目もくれず、ケ艾は蜀漢軍本隊へ、雪崩を打って襲いかかった。更に後方からはおよそ五万の本隊が、怒濤のように攻め寄せてくる。
陳泰は二割を失いながらも、それに合流。
一気に追撃に出ようとした矢先、馬の首に矢が突き刺さった。
張疑。こんな近くまで迫られていたのか。
陳泰は地面に投げ出され、その隙に、馬に足を挟まれていた。骨が粉々に砕けるのを、陳泰は感じた。
ケ艾の猛攻に、張翼軍が突破される。廖化が二重に横陣を連ねて押し返すが、しかし地形の隙を読まれたか、二度目の突撃で突破された。
猛烈なケ艾の突進は、既に狂気さえ孕んでいる。陳式は見た。無表情のまま、卓絶した指揮をするケ艾を。既にその指揮手腕は、残念ながら姜維を越えているとしか、思えなかった。
あまりの圧力に、新兵達が逃げ出す。
彼らを統率していたのは高翔である。老将は必死になってかれた声を張り上げたが、新兵達の恐怖を鎮火させることは出来ず。虚しく怒号は空を抉るのみであった。
更にケ艾の後ろからは、五万が迫っている。
陳泰の動きを止めた張疑が、南蛮兵達を纏めて迫っているが、まだ遠い。それに対して、ケ艾はまるで一つの槍のように自軍を操り、四方八方から突撃を仕掛けてきていた。
出血が増える。蹂躙される新兵を見て、ついに陳式が動こうとした瞬間。姜維が、馬上で剣を振り上げた。
三千の近衛が動く。
そして、ケ艾の部隊に、真っ正面から躍り掛かった。
轟音が巻き起こる。最精鋭同志の死闘である。どちらも一歩も譲らない。強いて言えば、姜維軍の方が兵士が強いが、しかしケ艾の方がやはり指揮手腕において上回っている。結果は、あまりにも完璧なる均衡。陳式は、ケ艾と五分の戦いを始めた姜維を横目に、指揮を引き継いだ。
「兎に角後退せよ! 蜀の桟道まで下がれ!」
陳式は死ぬ気で此処に来た。
だが、何という運命の皮肉か。結局、生きるために指揮をすることになってしまった。姜維はケ艾と丁々発止の勝負をしており、割ってはいる余裕はない。重武装の連弩隊を内側に庇いながら、汗を振り飛ばし、陳式は必死に逃げ散ろうとする新兵達を纏め、後退を続けた。
夕刻、やっと状況は落ち着いた。
魏軍はおよそ七千の損害を出して後退。張疑の活躍が凄まじく、南蛮兵此処にありと敵に見せつける結果となった。
蜀漢軍も死者は三千を超えた。兵力比から見れば五分の勝負だが、残念ながら回復力が違いすぎる。また、完敗だ。そう陳式は冷静に判断していた。
兵を纏める。逃げ散った新兵も大体が集まってきた。姜維の近衛はかなり倒されていたが、それでも全軍崩壊までは到らない。
「千の兵士を得るために、三千以上を失ったか」
そう呟いたのは、高翔だった。普段はそんな事を言う男ではない。
よく見れば、目の焦点が合っていない。蹂躙される新兵達を見て、可哀想に、気が触れてしまったらしかった。元々、孫が可愛い盛りの年頃だし、何より心も体も弱っていた。あの凄惨な光景を見て、ついに耐えきれなくなったのは、仕方がないことだった。
兵士達に、高翔を連れて行かせる。高翔は虚空を見つめて、諸葛亮と会話しているようだった。
陣の外では、張疑が南蛮兵達に囲まれていた。
張疑は長くないことが明らかである。だが、満足そうに皆を見回しながら言う。
「これで、儂は思い残すことがない」
「将軍!」
「皆も良くやってくれた。 これで、魏軍は知った。 南蛮兵の強さを。 南蛮に住む者達の戦闘能力を。 だから、例え蜀漢が滅びたとしても、簡単には南蛮に手を出してくることはなくなるだろう。 お前達は、儂と一緒に、南蛮を守ったのだ」
兵士達が泣いている。
あの魏延が、こんなに丸い性格になるとは。かっては武力で部下達を従えていた鬼将軍は、今や心意気と人望で部下達を纏め上げていた。諸葛亮は此処まで計算していたのだろうか。だとしたら、どうしてこんな事をしたのか。
わからない。あの孤高の男が。
姜維が俯いて、唇を噛んでいる。
今回、少なくとも五千の兵を魏から吸収できると、報告書を出していたらしい。流石に劉禅も、この結果を受けては黙ってはいないだろう。数年は姜維も出征できなくなる可能性が高い。
しかし、そうなれば魏は長安方面の軍備を更に強化するだろう。諸葛誕の反乱がまだ魏の大兵力を引きつけてはいるが、今後はそれもなくなる。国力の差は、今後開いていく一方である事は、確実だった。
一万、いやせめて五千。敵から寝返りが出れば、少しは状況も違ったかも知れない。
しかしそれはもう過ぎたことだった。
桟道を通って、蜀に戻っていく軍勢を、陳式は見送った。諸葛誕の乱が終わってしまえば、多分魏軍は武都、陰平に本格的な攻勢を掛けてくるだろう。
いずれにしても、命が終わる時が、ほんの少しずれただけだった。
戦傷が酷く、帰れないと判断した張疑は残り、三日後に死んだ。部下達に囲まれての、静かな最後だった。
かっては虫が好かない男だったが。その安らかな死に顔を見て、陳式は心から哀悼を捧げた。
諸葛誕の元に、蜀漢軍撤退の報告が来たのは、籠城開始から三ヶ月ほどしての事であった。
姜維は善戦したが、ケ艾はそれ以上に見事な防衛をして見せた。しかしながら陳泰はかなりの深傷を負い、今後は主に後方からの指揮に専念するだろう。それだけが、情報として届いた。
軍議の席で、文鈞が放言する。何かあると必ず放言するので、もうすっかり皆が慣れっこになっていた。暴言文鈞というあだ名が出来ているのを聞いて、諸葛誕は苦笑していたほどである。
「ふん、所詮は諸葛亮の足下にも及ばぬか」
「文鈞どの」
「事実を言ったまでよ」
相変わらず傲慢な態度でふんぞり返ったまま文鈞がいう。申し訳なさそうに文俶が謝って回る様子が、見ていて面白い。
今のところ、籠城に支障は出ていない。兵糧はまだまだ充分にあるし、呉軍は包囲の外で陽動を続けている。むしろ外で包囲網を作っている魏軍の方に、既に乱れが見え始めていた。情報が届くことが、その証拠である。
かって袁術が作らせたらしい地下道が、城外へ延びている。それを利用して、蜀漢軍の細作が情報を運んでくるのだ。蜀漢側から連携を申し出てきてくれた時には、諸葛誕も嬉しかった。敵に乱れがなければ、これさえも実施できなかったのだろうから。
文鈞が机の上に、身を乗り出した。戦意が滾って余って、仕方がない様子だ。目はぎらつき、抑えきれない殺気が周囲に零れている。
「魏軍は乱れ始めていると聞いている。 そろそろ出撃させろ」
「もう少し待て。 今出撃して打撃を与えることは出来るが、そうなると敵は気を引き締め、守りを固めてしまうだろう。 もう少し時間をおいて、敵が完璧に此方を侮ってから、一気に打ち崩す」
「巫山戯るな。 あんな実戦も知らぬような青瓢箪どもが、この俺を侮るのを、黙ってみていろと言うのか」
「そうだ。 その怒りは、最後に一気に爆発させて欲しい」
鼻を鳴らすと、文鈞は勝手に軍議を出て行ってしまった。唖然とする諸将に代わって、文俶が深々とあたまを下げる。
良くできた息子というよりも、そう言う性格なのだろう。
「も、申し訳ありません。 父上は、武勇のやり場が無くて、苛立っているのです」
「分かっている。 これからも引き続き、文鈞殿をおさえてくれ」
「わかりました。 本当に申し訳ありません」
「気にするな。 いざというときに、全力で暴れてくれればそれでいい」
文俶は蜀漢の猛将陳式と引き分けたこともあるという話だし、文鈞はそれに匹敵する武勇の持ち主である。いざというときに、大反抗で役立ってくれれば、何も言うことはないのである。
人間性など、いちいち気にはしていられない。そんなものを気にして人材をえり好みしているようでは、司馬一族と同じだ。
軍議が終わると、城壁の上に。
十重二十重に寿春を包囲している魏軍を、よく観察する。やはり、若干の乱れが、陣に生じ始めていた。
あれがもう少し広がり、夜に見張りをしなくなるようになってくると、夜襲の好機が産まれてくる。そうやって、包囲軍が敗退した例は幾らでもある。あの覇王項羽の叔父であり、初期に楚の実権を握っていた項梁も、そうやって命を落としているのである。
「今夜あたりから、斥候を多めに放て」
「はい」
「敵が、此方が出てこないと判断して、完全に緩みきったら、いよいよ出撃するぞ」
司馬昭は、すっかり怠けきっていたように見えた、はずだ。
賈充の策である。諸葛誕は充分な籠城の準備をしており、そのまま攻めても包囲しても、寿春は落ちない。むしろその内、味方の士気が完全にひからびた所を狙い、総攻撃に出られると、一気に大軍が瓦解しかねない。
其処で、油断しているように見せかけて、諸葛誕の軍勢を引きずり出し、叩く。
王基もそれに賛成した。正確には、王基を構成している多くの食客が話し合いの結果、それが良いだろうと結論を出してきたのである。
其処で、城から見える範囲、斥候を出せる範囲に、弱い兵をわざと配置した。連中が名掛けているように見せかけて、むしろその外側では、強力な兵に油断のない監視をさせていたのである。
酒宴をしていた司馬昭は、賈充が来たと聞くと、部下達を下がらせる。
少し酒が残っているが、別にそれは問題なかった。
「どうだ、賈充。 様子は」
「林配下の話によると、城内では文鈞と諸葛誕の対立が深まっているそうです。 常識的な諸葛誕に、いつも好戦的な文鈞が噛みついているとか」
「ふん、狂犬の飼い主は大変だ」
「仰せの通りでして」
そこで、と賈充が切り出す。
司馬昭は、酔眼でそれを聞く。兄と違う。兄と自分は違うのだと、言い聞かせながら。
既に成人している跡継ぎがいながら、司馬一族の業は司馬昭の心に大きな闇を作っている。
「放って置いても諸葛誕は出撃してくるでしょうが、此処で決定的な溝を両者に入れましょう」
「具体的にはどうする」
「細作を使い、文鈞のいる屋敷に、矢文を射込ませます。 司馬昭は文鈞を舐めきっており、毎日酒宴を開いていると。 文鈞を狂犬と呼んでいたと書くのも良いでしょう」
「それは面白いな」
問題は、文鈞が武芸のことしか考えていない、脳みそにまで筋肉が詰まっているような男だ、ということだ。
しかも異常に誇り高いので、自分の社会的な立場など理解していない。
確実に、出撃してくる。そして、悩んだ末に、諸葛誕もそれを止めるために、兵を出してくるだろう。
諸葛誕は頭がいい男で、放っておくと此方の策略に気付く可能性がある。可能性が大きいとは言えないが、文鈞を暴走させることで、その芽を摘んでおくことに、越したことはない。
「よし、実行せよ。 何日で行ける」
「近頃文鈞は、軍議を勝手に抜けるようなことまでしているようです。 数日以内には、行けるでしょう」
「よし、準備をさせよ」
拝礼すると、賈充は天幕を出た。
賈充は天幕を出ると、物陰から現れた林に一礼する。立場的にはほぼ互角なので、敬語で喋るようにしている相手だ。
「聞いての通りです。 手はず通りにお願いします」
「やれやれ、困ったものですねえ」
「え? 何がでしょうか」
「司馬師といい、此処まで簡単に予定通り動いてくれると、張り合いがないという事ですよ」
林は鼻で笑うと、指を鳴らす。
何処に隠れていたのか、二十名ほどの細作が、影から湧くようにして現れた。山越出身らしい者もいるが、いずれも目に感情が一切宿っていない。呉の山越で構成された闇の組織は林が潰したという噂があるが、感情を消した部下については引き続き使っているという事なのだろう。
この化け物が、司馬懿を殺す手伝いをした。
考えてみれば、おかしな話である。丞相に付けられていた医師の身柄など、部下にももちろん家族にも知らされるはずがない。急激な司馬懿の体調悪化もおかしい。情報を探り出してきたのは、此奴なのである。
司馬師についても恐らくそれは同じだ。司馬昭は何度か苦しむ司馬師の姿を見に行って影で笑っていたと言うが、状況は司馬懿の時と酷似している。医師の身柄を誰かが影で調べ上げ、その弱みも握っていたのだとしたら。それは、消極的ながら、一種の暗殺だったのではないのだろうか。
更に言えば、今司馬昭の嫡男である司馬炎が、同じような動きを始めている。
どういうわけか、司馬昭の体調も都合良く悪化し始めている。
賈充は疑っている。林が、司馬一族の有力者を次々と殺して、自分に都合がよい権力態勢を作っているのではないかと。
司馬一族の致命的な欠点は、誰もが「自分が賢い」と思いこんでしまっている事だ。賈充に言わせると、自分が賢いと思いこんでいる輩ほど、操りやすい者はいない。しかも性格に曹操のような遊びの部分が少ないから、誰も彼もが似たような謀略に引っかかりやすいのだろう。
細作達は、いつの間にかいなくなっていた。林は歩き去ろうとしたが、不意に振り返った。
「あ、そうそう。 一つ忘れていました」
「何でしょう」
「曹髦が、宮中で反乱を目論んでいる、という噂があります」
そんな噂は、賈充も初めて聞いた。
曹髦は意欲的な皇帝で、司馬昭と最近は対立することも多い。司馬師と違うと自認している司馬昭は融和策を前面に出しているが、それとも対立することが最近は出始めているようだ。
反乱を計画していても、確かにおかしくはなかった。
おかしな話である。皇帝が部下に対して、反乱を目論むというのだから。
「邪魔なようなら、私が殺してきますが?」
「いや、出来るだけ穏便に、私が始末します。 司馬昭様の耳にも、私から容れておきますので」
「手ぬるいことですねえ」
「司馬昭様は、司馬師様と違うと日頃から仰っていましてな。 あまり過激な提案をすると、却って激怒する事も多いのだ。 他にも仕込みが幾らでもある。 あまり急激な行動は控えてくだされ」
やれやれと肩をすくめた林は、いつの間にかその場から消え去っていた。
自分の天幕に戻ると、賈充は寝台に転がり、大きく嘆息した。
本当に、これで平和が来るのだろうか。
生真面目な軍人だった父賈逵の姿を見て育った賈充は、幼い頃から皮肉屋だった。司馬懿に召し出されて参謀をしていた頃は、その皮肉も出る暇がなかったが。元より失うものもあまり無い身である。司馬師に仕え始めた頃から、冷笑的な性質が自覚するほどに、強く出るようになった。
冷笑は自分にも向けられている。
賈充の妻は、司馬一族を育てた張夫人に勝るとも劣らない悪妻で、兎に角我欲が異常に強い。家庭に居場所は全く感じられず、それが賈充を更に世を斜に見る方向へ動かしてもいた。
「きっと私は、史書に悪の権化として書かれるのだろうな」
呟く。
そして、おかしくなって。一人で笑った。
数日後。賈充の策は、見事に当たった。
額に青筋を浮かべて、勝手に文鈞が出撃してきたのである。しかも規模は数万で、夜襲でさえなかった。文鈞が独走し、それを止めるために文俶も出てきたらしかった。
最初彼らは景気よく暴れ回ったが、入念に準備をしていた主力は、彼らが暴れ回る所に、不意に連弩の矢を浴びせた。密集隊形を取っていたところに降り注いだ連弩の破壊力は凄まじく、一瞬にして立場は逆転、一方的な殺戮が始まった。元々兵力の差は相当に大きいのである。
包囲した文鈞親子の軍勢に、司馬昭は徹底的な攻撃を浴びせた。こうなってしまうと、武勇も何もない。右腕が殆ど千切れかけているにもかかわらず、それでも文鈞はその性質そのものとも言える火のような戦いぶりを見せていたが、それにも限界がある。やがて戦いは、猫が鼠を嬲るも同然の状態になった。
其処に出撃してきた諸葛誕の軍勢が、文鈞軍を救った。包囲陣の一角を突き崩したのである。
諸葛誕の用兵は見事だったが、残念ながらそれも計算済みだった。包囲を破って逃げる文親子を救おうと支援する諸葛誕軍に、賈充は配下の全てをけしかけたのである。
二十万と一万数千の戦い。
例え呂布や諸葛亮が此処にいても、劣勢をひっくり返すのは不可能だっただろう。
痛撃を浴びた諸葛誕は、かろうじて城に戻った。だがその兵力は戦いの中で半減し、既に寿春を守りきれる規模ではなくなっていた。
戦いが始まってから、およそ一年。
包囲は、此処に鉄桶となった。
天幕に出向いた賈充を、司馬昭は満面の笑顔で出迎えた。
「見事であったな。 これで諸葛誕はもはや袋に入った子ネズミよ」
「はい」
返事の際には笑顔を作って応じたが、賈充の中で疑問は膨らむ一方だった。
これで良いのだろうか。
自問自答ばかりが、心の中で大きくなっていった。
諸葛誕は半減した味方を見て、愕然としていた。今までは余裕で寿春を守りきる自信があったのに、傷つき戦意をなくした味方を見て、同じ考えはもはや抱けなかった。寿春の城を維持することさえ、これでは困難である。
文親子は捕らえさせ、投獄した。出撃した経緯は既に聞いているからである。敵は巧い所を突いてきたものだとは思う。しかし、敵の下劣さに今更反吐は出ないが、それ以上に文鈞のアホさ加減に、ほとほと愛想は尽きていた。
数日間、頭を冷やしてから。牢に諸葛誕は向かった。
城の地下に、石造りの堅牢な牢が作られている。敗退の原因を作った文鈞は兵士達にも恨まれていて、諸葛誕が出向くと焦燥しきっていた。頬は痩け、目だけがぎらついている。右腕の連弩の矢が掠った傷は化膿して蛆が湧き、骨まで見えている。もう放って置いても助かりそうにはなかった。だが、此処で諸葛誕は、敢えてこの男を殺さなければならなかった。
右腕が悲惨なことになっているのに、苦痛の声さえ漏らさない所だけは流石だと、諸葛誕は思う。だが、敢えて無表情で、牢から引っ張り出させた。
「俺を殺すか、諸葛誕」
「ああ。 お前のせいで、籠城は失敗した。 万を超える兵士も、命を落とした」
「ふ、ふん。 そんな連中は、弱いから死んだに過ぎん。 しかし俺は、弱いから、こうなったのではないぞ」
「お前は楚の覇王のようだな。 お前の実力は、誰もが認めているさ。 私もお前の実力については、評価している。 だが、お前は、その使い方を間違い、肥大化させた誇りのためだけに浪費したな」
刑場に引っ張り出された文鈞は、不敵に周囲をにらみ付け続けた。刑刀をもった処刑役人が来ても、表情は変わらなかった。
曹操ならば、この男を使いこなせたかも知れない。或いは劉備ならば。
しかし、今の時代、この男を使いこなせる者はいなかった。それが、文鈞の悲劇であった。
「何か、言い残すことは?」
「俺は弱かったから負けたのではない! 天が俺を殺したのだ!」
「同感だ。 では、さらばだ」
諸葛誕が頷くと、文鈞の首が落ちた。
処刑を見届けると、諸葛誕は文俶の牢に向かう。対照的な親子だ。息子については罪もないし、どうにかして救ってやりたかった。
文俶は同情されているのか、比較的牢番にもましに接されているようだった。諸葛誕の顔を見ると、文俶は項垂れた。
「父を、処刑したのですね」
「それが、適切だったからな」
「……私も、そう思います」
文俶が気がついた時には、もうどうにもならなかったのだという。そして、文俶が父に追いついた途端に、連弩の斉射を浴びたと言うことであった。
項垂れている文俶を牢から出してやる。そして、持っていた剣を腰から外して渡した。
「どういう、おつもりですか」
「今晩、裏門を手薄にしておく。 其処から脱出すると良いだろう」
「何と」
「もう、この戦は駄目だ。 私は最後にもう一戦するつもりだが、お前がそれにつきあうことはない。 今降伏すれば、お前でも助けるという題目で、司馬昭はお前を殺さないはずだ」
降伏する人間を増やすための、常套手段である。
此処で文俶が殺されれば、兵士達は必死になる。だが反乱軍の重鎮であった文俶でさえ助けられるのなら。
負け戦で、兵士達は正直だ。そしてそれを、諸葛誕も責める気はない。
「私は、武人として、ありたいのです」
「平和な時代の発想だな、それは。 あの張遼将軍も、主君を七回も変えたと聞いている」
「しかし……」
「死にたいのなら、勝手に死ね。 だがその場合、お前はともかく、お前の一族までもが、史書に悪の将軍の愚かな手先として徹底的に否定されるだろう。 私はもう覚悟が出来ている。 家族も、もういない。 だが、お前はどうなのだ」
呉に亡命した家族のことは、もう諦めている。
正直な話、もはや呉が魏を倒す可能性は絶対にない。蜀漢と一つの国家になったとしても無理だろう。
後の時代の歴史書で、諸葛誕は愚物の代表として書かれること疑いない。諸葛誕自身は別にそれでも良いが、家族には苦労を掛けてしまうことだろう。
そのまま、諸葛誕は牢を出た。
そして主だった部下にも降伏するようにと話をした。
だが、その殆どが。
諸葛誕と、運命を共にすると言って聞かなかった。
文俶に、降伏するという兵や部下を連れて出て行って貰うと、気分はさっぱりした。
こうなったら、最後まで。己の忠義というものを貫く。
それが、諸葛誕の、武人としての締めくくりだった。
4、黄昏色の空
司馬昭のやり方は、徹底していた。
降伏してきた文俶を使い、城に残る兵士達に、降伏を呼びかけるようにし向けたのである。文俶は血涙を流して拒んだが、捕らえられていた家族を目の前で何人かなぶり殺しにされると、折れた。
文俶が姿を見せたことで、寿春の兵士達の士気は致命傷を受けた。
その報告を受けた朱異は、大きく嘆息した。陸抗と連携して、五万で魏軍の背後を突く作戦を進めていたのだが、どうやらそれどころでは無くなってしまったらしかった。既に文鈞の件で、かなりの兵を消耗している。これ以上の兵を失うと、国境の防衛までが危なくなってくる。
包囲を突破して辿り着いた諸葛誕の使者が持ってきた、血に染まった書状が、朱異の決断を促した。
それにはこう書かれていたのである。
「増援無用。 我は此処にて死す」
もはや、世には神も仏もいないとしか思えない。
寿春を伺う長江沿いに陣を構えていた朱異の元に、陸抗が来る。ここのところずっと魏の名将羊枯とにらみ合いを続けていた様子だが、特に疲弊は感じられなかった。
「陸抗将軍、何か異変か」
「撤退を支援しに来た。 残念だが、これ以上の作戦行動は無意味だろう。 此処は引き上げる他無い」
「そう、だな。 無念だ。 諸葛誕は天晴れな名将。 それを見捨てて、もはや存在する価値さえ見いだせない呉を守るために兵を引かなければならぬとは」
陸抗も無念そうにしていた。
孫?(リン)の暴虐は凄まじく、皇帝を退位させたばかりか、最近では荊州の全てを手に独立しようという行動まで起こしているという。かっての四家も欲望の権化だったが、彼らはあくまで呉に根ざした欲望と権力の追求に、己の力を使っていた。ところが、今の呉の権力階層には、もはや良心もたがも存在しない。このまま放っておけば、空中分解するのは時間の問題である。
「それと、もう一つ、連絡がある」
「何だろうか」
「孫?(リン)が、朱異将軍。 貴殿を殺すつもりだ。 今回の敗戦の責任を、全て貴殿に押しつけ、さらには配下も掌握し、それらを手みやげに魏に降るつもりらしい」
「下郎が」
胸くそが悪くなる輩だ。
彼の先祖の孫静は、孫堅の弟で、良く兄を支えた。孫策の後見人としても手腕を振るい、数々の献策で呉軍を助けた。
実権が四家に握られてからも、孫策を支え、孫権の頼みとなり、満足する人生を送った。呉にとっての偉人と言っても良い。
その先祖の偉業を踏みにじり、己の欲望のままに全てを好き勝手にしようとする孫?(リン)は。四家とはまた違う意味で、呉にとっての悪しき病気そのものであった。
しかし問題なのは、今の呉は小物と俗物しかいないという事であろうか。
何しろ古強者の丁奉でさえ、権力の保全と維持に血道を上げているほどなのである。張象のような真面目な忠臣も僅かにはいるが、それらも小粒な能力しか有しておらず、とても国家を支えるような力量はない。
更に皇帝は若年。そして問題なのは、皇族が多すぎる上、その殆どがただ飯食いの穀潰しという事だ。
ただ一人だけ、朱異には皇帝の責務を果たせそうな人間の心当たりがあった。
「今噂の孫皓どのはどう思う。 孫策様の再来と言われているそうだが」
「駄目だな」
「何」
「あれは英明に見えるが、実際は己の欲望を制御できない型の人間だ。 皇帝などにしたら、恐らく最悪の暴君になる。 しかし、他にまともな人材がいないというのも、本当のことなのだが」
陸抗は、孫皓を一時期預かっていたことがあるから、その言葉には信憑性が高い。何だか、がっかりしてしまった。本当に、もはや呉に未来は無いのかも知れない。
二人で、大きく嘆息する。どうにもならない事態であった。呉の上位軍人である二人だが、手を組んでもどうにかなるような状態ではない。もしもどうにかするとしたら、黄巾党の乱のような大動乱で、一度大掃除するくらいの心構えが必要になるだろう。
張角にならなければならないわけだ。残念ながら、朱異にはそんな能力も、覚悟も無かった。
とにかく、兵士達を船に分譲させ、長江を下る。朱異もむざむざ殺される気はない。最悪でも、孫?(リン)だけでも道連れにしていくつもりだ。
呉の腐敗と最後まで戦った父朱桓の事を、朱異は思い出す。
父がきっと影から助けてくれる。そう思うと、少し気分も楽になった。
「いっそ、我らで建業に殴り込むか」
「駄目だ。 そんな事をしても、呉が分裂するだけだ。 孫?(リン)は屑だが、今の皇族にはその同類しかいないのだぞ」
「孫休皇帝も、決して体は強くないからな。 やむを得ぬ。 奴に、孫?(リン)に全ての悪を負い被せて、死んで貰うしかない」
それで、少しでも呉がましになるのなら。
「陸抗どの。 呉を頼むぞ」
朱異が抱拳礼をする。
船上で、夕焼けの赤い光を浴びながら、陸抗は無言でそれに応じた。
諸葛誕は、最後まで自分と一緒にいるという兵士達と共に、北門から出た。
既に籠城を始めてから、年が変わっていた。一年にわたる死闘が、今日終わる。そして、兵士達には、無茶な事を強いてしまった。だが、どうしてもこれだけは譲れなかった。
後世の歴史書には、権力惜しさに反乱を起こしたとか、愚劣で無能だったとか、犬同然の下郎だったとか、好き勝手に書かれるのだろう。自分に関してはそれでもい。だが、兵士達が不憫でならなかった。
勝てる公算は、途中で打ち砕かれた。
だからせめて。一矢だけでも、報いなければならなかったのだ。
兵の数は二千。二千もこんな愚行に着いてきてくれる者がいると思うと、涙が出る。だからこそに、最高の戦いをしなければならない。
門の外には、何事かと驚く魏軍の姿があった。まさかこの数で、出撃してくるとは思わなかったのだろう。
「突撃!」
「殺っ!」
兵士達と、諸葛誕の心が一つになる。そして、巨大な槍そのものとなって、敵軍に突入した。
第一陣を噛み破る。敵将を見掛けたので、長刀一閃。首を宙に飛ばした。血しぶきを横目に、敵陣を踏みにじり、次の敵陣に。此方は更に油断が酷い。一閃、蹂躙しつくと、更に先へ。
見たか。
これが私だ。
これが私の、武人としての最後の姿だ。
目に突く敵を片っ端から斬り伏せながら、諸葛誕は吠える。何処だ。司馬昭は何処だ。怯える敵兵を踏みにじり、更に更に。見えた。司馬の旗だ。其処へ、猛然と、諸葛誕は躍り掛かった。
流石に精鋭が揃っているが、しかし。柵を踏み破り、中に躍り込む。既に何人斬ったかわからない。きっとこんな気分を文鈞も味わっていたのだろうと思うと、笑いがこみ上げてきた。
「佞臣、司馬昭っ! 出てこい! 武人としての心が僅かにでもあるなら、怯えて隠れず、出てくるがいい!」
兵士達に聞こえるように、わざと大声で叫ぶ。
生き残っている部下達が、皆笑った。狂気に満ちた笑いだったが、それで充分だった。
もう、最後だ。既に周囲は真っ黒になるばかりの敵の海。だから、それを徹底的に斬り伏せながら、なおも叫ぶ。
「貴様こそ外道! 貴様こそ反臣! 邪悪の権化たる司馬一族の長め! 貴様が此処で晒した大恥は、史書に記されることが無くとも! 此処で見聞きした全ての兵士が後に伝えていくぞ! 覚えておくがいい! 恥知らずの司馬一族の、愚劣なる長! 逆賊司馬一族の、無能なる愚物っ! 貴様などが、英雄であるものかーっ!」
笑う。
そして、笑いながら叫ぶ。
いつの間にか、味方は全ていなくなっていた。無数の槍が飛んでくる。
諸葛誕は満足した。そして、呟く。
すまなかったな、皆。私に最後までつきあわせてしまって。
胸を貫く感触とともに、全てが真っ白になる。
最後に。魏の皇帝達の姿を、諸葛誕は見た気がした。
気まずい空気の中、司馬昭は立ちつくす。
戦いの中で、全てを聞いていた。
好き勝手なことをほざきまくった諸葛誕と部下どもに、三千を超える兵士が殺され、五千以上が負傷したと、くだらぬ報告が入る。兵士など何万死のうが知ったことではないが、諸葛誕の最後の姿は、目に焼き付いていた。
あれは死んでも、自分に祟り続けるだろう。
そう思うと、体の芯から、恐怖が沸き上がってきた。迷信だと自分に言い聞かせるが、そうすればそうするほど、心の中の諸葛誕は、存在感が大きくなっていった。
諸葛誕の首が運ばれてくる。最後は数十人がかりで槍を突き出し、肉塊になるまで突き伏せてやっと仕留めることが出来たのだ。無言で台に乗せた首を掲げていた賈充から、視線をそらした。
「よい。 晒すために、酒に漬けておけ」
「わかりました。 それにしても、困ったものですな」
兵士達が、あの諸葛誕の啖呵を聞いていたのは事実である。そして、人の口に戸は立てられないのだ。
かといって、あのような輩と一騎打ちなど出来る訳がない。そのようなことをすれば、命を無駄にするだけであった。だが、兵士達はそうは思わないだろう。諸葛誕の言ったとおり、臆病だから、司馬昭は一騎打ちを避けた。そう考えるのが、愚民どもというものなのだから。
いっそ、この場にいた兵士達を皆殺しにするか。そう思ったが、賈充が素早く釘を刺してくる。
「これで、反乱の芽は全て摘み終えました。 これ以上、新たな反乱の芽を作ることもありますまい」
「そう、だな」
「それよりも、洛陽に戻りましょう。 新しい反乱が起こらないようにするためにも」
撤退に掛かる。呉軍は既に影も形もなく、追撃などしようもなかった。
ふと、視線を感じて振り向く。
諸葛誕はもう死んだ。そう知っていたにもかかわらず、どうしてか恐怖は消えることがなかった。
戦いは勝ったのに、どうして自分はこんなに怯えているのだろう。それがわからない。諸葛誕が側でじっと睨んでいるような気がして、何度も辺りを見回す。
夜は最悪だった。寝所にはいると、諸葛誕が必ず枕元に立つのだ。そして、手を首に伸ばしてくる。
飛び起きて、兵士達を呼ぶが、其処には誰もいない。
全身に冷や汗をびっしり掻き、心臓は早鐘のようになる。見かねた賈充が護衛に屈強な武人を付けてくれたが、眠くなってくると、奴が諸葛誕に見えてくる有様だった。
洛陽の屋敷に戻った司馬昭は、名の知られている道士を呼んだ。だが、何をさせても、諸葛誕の亡霊を、追い払うことは出来なかった。
建業に戻ると、朱異はまず屋敷に戻り、身辺の整理をした。
父に託されたこの国である。自分に出来ることは、全てやってきた。そして今、最後の作業をしようとしている。
先に使者を出して、家族は荊州に避難させた。陸抗が、きっと面倒を見てくれるだろう。愚行で死ぬのは、自分と、後は悪逆の臣だけで良いのだ。部下達が不安がり、視線を交わしているのをみた朱異は、建業に入る寸前に、彼ら全員を集めた。
整列した部下達の前で、朱異は宣言する。
「これから、私は呉の悪を滅ぼす」
「悪を、ですか」
「そうだ。 だが、それにお前達を巻き込む訳には行かぬ」
「なぜですか!」
最も忠義を尽くしてくれた男が叫ぶ。揚允という名で、父の時代からの忠臣だ。戦場ではその粘り強い戦いぶりで、なんども朱異を助けてくれた。
呉には減りつつある、粘り強く心優れた男だ。だからこそに、こんなところで失う訳にはいかないのだ。
「これから私は、失敗すれば確実に一族が皆殺しにされる戦いに行く。 だが、私の罪を背負わせる訳にはいかないから、避難させられる家族は、既に手を打った。 そうしていないお前達に、同じ事はさせられぬ」
「私は既に天涯孤独の身です! ご一緒させてください!」
揚允に、ならぬと叫んだ。兵士達が皆、涙を流し始めていた。
誰もが知っている。既にこれは無駄なことなのだと。孫?(リン)を倒した所で、もはや呉が再生する路はないのだと。
だが、呉という国のために命を賭けてきた者達のためにも。此処で、朱異が退く訳にはいかなかった。武人として、呉の将軍として、そして朱桓の息子として。戦わなければならなかった。
正門に兵士達を残し、宮殿に向かう。最後まで着いてきた揚允も、宮殿の入り口で別れた。
「別れは、言いませぬぞ」
「うむ。 良く今まで尽くしてくれた。 この国を見捨てないでくれて、礼を言う」
そして、今持っている金を、全て渡した。震えながらも、揚允は受け取ってくれた。
宮中を歩く。豪奢さばかりが目立ち、もはやかっての心はない。如何に金箔で飾り立てても、中身は腐り果てていた。
影の薄い孫休の前に、傲然と立ちつくしている孫?(リン)。宮中では、剣をもてないと言うことで、油断している。側には丁奉がいた。軽く視線を交わし合う。それで、充分だった。
孫休の前に平伏する。
そして、何か言葉を発しようとした瞬間。それを遮った。
「陛下!」
「な、何か」
「臣異、申し上げたき事がございます!」
そして、告発する。孫?(リン)の悪行の数々。そして許し難き専横の数々。その全てを、並べ立てる。
騒ぎになるが、気にしない。そして、額に青筋を浮かべる孫?(リン)に、不意に走る。剣に手を伸ばす孫?(リン)に、組み付いた。
「死ね、逆賊っ!」
「ひ、ひいっ!」
腕を首に絡みつかせる。元より戦の才もなく、武芸も殆ど治めていないこのような男、どのようにしてでも殺せる。怯えきった孫?(リン)が、剣から手を離した瞬間。
朱異は、その首をへし折っていた。
崩れ落ちる孫?(リン)。その部下達が、四方八方から朱異を刺し貫く。これでいい。後は、丁奉が何とかしてくれるだろう。権力の亡者だが、ある程度は鼻が利く男だ。綺麗に処置をしてくれるに違いなかった。
仰向けに倒れた朱異は、見た。
迎えに来てくれた、父の姿を。
満足して。そして己の戦果を誇るべく、朱異は光の中に歩き始めた。
西に向かう大勢の民。
陳式が、そうさせたのだ。どうしても山に残りたいという一部の者達を除いて、こうやって避難させている。魏が遠からず攻め寄せてくるのは確実であり、こういう方法でしか、陳式にはもう皆を守ることが出来なかった。
商人達を通じて、西に無数にある小国家とは、ある程度の人脈を作っている。彼らを守るために、ある程度の手みやげも用意させた。ライリも彼らに同行させたのは、通訳が必要だと思ったからである。
遠くに来てしまったと、陳式は思う。
自分を家族としてくれた陳到や、その愛するものを守るために、戦ってきた。だが、いつのまにか遠くへ遠くへ来て。既に此処は、荊州でも益州でもない。
少し前に、廖化から書状が来た。
敗戦の責任で、姜維は兵権を殆ど剥奪された。一万程度の兵しか預けられず、剣閣と呼ばれる要害の地に防衛線を築き始めているという。成都では腐敗がますます進行し、黄皓の専横は酷くなる一方だという。
全ては滅ぶ。
漢王朝の復興を、劉備が願っていたかは知らない。だが、劉備は民の平穏を戦略として、それを少なくとも表向きはずっと守り続けた。だから多くの民が、劉備を慕い、蜀漢という国が出来た。
義父陳到、関羽や張飛、趙雲に黄忠、馬超。みな、そのために戦った。
だがその願いも。思いも。今、潰えようとしている。
歴史の闇に、屠られようとしている。
武都城の城壁に上がった陳式は、ふと気付いた。門の辺りに、兵士達が集まっている。誰かが来たらしい。やがて、副官が陳式に駆け寄ってきた。
「陳式将軍。 実は、妙な者が来ています」
「あれか」
「お気づきでしたか。 おかしな話なのですが」
訪問者の名乗りを聞いて、陳式は眉を跳ね上げていた。そのまま城の中を早足で抜け、門にまで出る。
訪問者は一人ではない。二十名ほどの連れを伴っていた。小柄な姿をしたその者に、見覚えがある。
にこりと、笑いかけられた。剣に手を掛けようとした部下を、制する。
「ケ艾将軍だな。 戦場では何度か、遠くから見掛けた」
「戦場以外では、お初にお目に掛かります。 陳式将軍」
若々しいが、それでも少しずつ老い始めているケ艾。その少し後ろに付き従っているのは、何度も陳式の決死の突撃からケ艾を守りきった、王桓だろう。噂によると、王双の弟だというが。
他の者達は、誰だろう。見たことがない。
「この城に何用か」
「実は、彼らを西に逃がしていただきたく」
ケ艾が視線で指したのは、後ろにいた二十名ほど。若い男を中心に、女が数名、そして子供が何名か。他は武人達ばかりだ。いずれも屈強で、相当に腕が立つのが見て取れる。陳式が西に民を逃がしていることをどうやって知ったかは敢えて聞かない。ただ、素性だけが問題だった。
恐らく、陳式の想像が正しければ。
「まさか、そのもの達は。 魏の先帝曹芳どの、それにその奥方と子供達か」
「御明察です。 密かに此処まで連れてくるだけで、少なくない犠牲を払いました」
無言で、陳式は立ちつくしていた。
曹一族の斜陽は、此処まで来ていたのか。それを思い知らされて、愕然とするばかりだった。
曹芳が、抱拳礼をしてくる。陳式もそれに応じた。
「猛将陳式将軍。 そなたの輝ける武名は聞いている。 何度も我が軍の鋭鋒を退け、このケ艾にさえ少なからぬ苦汁をなめさせたとか。 将軍の顔を見ることが出来て、余は幸福だ」
「此方こそ。 貴方の名は、蜀漢でも名君として鳴り響いておりました」
「いや、余がそのような器でないことは、分かっている。 ケ艾の言ったとおりの事を頼みたい。 報酬としては、これを渡そう」
少し悩んだ末に、曹芳は立派な赤い剣を取りだした。
まさか。これは。
「これは、曹家に伝わる秘宝、倚天の剣!」
「余が持っていても、どうせ司馬一族に奪われてしまうだけだ。 それならば、将軍に託したい」
「……よろしいのですか」
「ああ。 余はただ、長く生きたいというのではない。 いつか、司馬一族の闇が中華から払われた時に。 民のために、帰りたいのだ。 本当は世捨て人として、誰にも迷惑を掛けずに静かに生きたかった。 だが、もはや司馬一族の暴虐は、そうして見過ごせる段階ではなくなった。 余は、生きねばならぬ。 そして、語り継がねばならぬのだ」
そのために、今生きる道を選ぶ。
そう、曹芳は言った。
「わかりました。 西に送りましょう。 ただし、資金の援助は出来ませぬ。 向こうでは、自分たちだけで暮らしていただくことになります」
「案ずるな。 田畑の仕事は慣れているし、剣も許儀に随分ならった。 それに、余に最後まで着いてくると言う頼もしき男達もいる」
きっと、曹叡や曹丕、或いは曹操に恩を受けたのだろう。護衛らしい男達は、皆決意に口元を引き締めていた。
ああ。蒼天は既に死んだのだ。そう陳式は思い、彼らを送らせるべく、手はずをした。
皆がいなくなると、ケ艾は帰り際に言う。
「貴方も、早く中華を離れてください。 陳式将軍。 この地は、やがて闇に覆われ、破滅に落ちます」
「それでも最後まであがくのが武人よ。 それは、貴方も同じではないのかな」
ケ艾は、寂しく笑った。
王桓だけを側に、ケ艾は武都を去る。
陳式は、最後の時が近いと、感じた。
それから一月ほど後。細作から、報告があった。
司馬一族がいなくなった曹芳の替え玉を立てた挙げ句、皇帝曹髦を惨殺したということであった。
(続)
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