禍々しき胎動

 

序、魏の斜陽

 

司馬懿の側近である王濬は、不安に自室を歩き回っていた。司馬懿が仮病を使って引きこもっていた時も、側で守り続けた忠臣である彼は。例えば曹芳を守っている許儀のように、司馬懿の部屋の前に自室を構えて、刺客にいつも備えていた。

隣の部屋で、音も聞こえてくるようにしてあるので、わかる。

司馬懿が、毎夜苦しそうにしているのである。

息が時々止まったり、呻いて起きることもある。既に老境に入っている司馬懿は、女を必要とするようなこともないから、勘違いはしなくても良いのだが。しかし、王濬の隣の部屋に寝ている医師共々、気の休まる暇がなかった。

今、魏は曹爽による搾取からの回復が、出来ずにいる状態にある。

少し前にも、様々な困窮から、王俊と呼ばれる将軍が反乱を起こした。魏の皇族である曹彪を担いでの大規模なもので、なおかつ王俊が車騎将軍という高位にあった将軍と言うこともあり、かなりの騒ぎになりかけた。

老骨に鞭打って、司馬懿はそれを鎮圧した。だが、それ以来、司馬懿の消耗は目に見えて激しくなった。

医師は既に、余命は幾ばくもないと告げてきている。

王濬は知っている。世間では著しく評判が悪い司馬懿だが、本当は子供を愛する、茶目っ気のある老人だと言うことを。

ちょっと曹叡に対する忠義が偏執的で、実は隠し倉庫に「曹叡様人形」という掌大の曹叡の像を山ほど保管してお着替えをさせて楽しんだりもしているのだが、そんなものは些細なことである。

天下を盗む気なら、幾らでも好機はあった。

だが、司馬懿はそれをしていないのだ。

ひときわ苦しそうな声が上がったので、医師を起こす。隣室で寝ている司馬懿は、全身にびっしり汗を掻き、うめき続けていた。

「お、王濬」

「どうしました、丞相」

「む、胸が苦しい。 どうやら私は、楽には死ねぬらしい」

「お気を確かに。 まだ死ねぬと言っておられるではありませんか」

そう叱責しつつ、医師に対処させる。

痛み止めを飲ませると、司馬懿は少し楽になったようで、目尻の涙を拭いながら虚空を見つめた。

「また、私は世迷い言を呟いていたか」

「誰でも、苦しみに遭えば迷います。 私も、それは同じです」

「王濬、おぬしは私が苦しい時にも、よく仕えてくれたな。 本当に、本当にすまぬ」

司馬懿は、体だけではない。心もどんどん弱くなってきている。

元々、諸葛亮の策を見て取り乱したりもする、弱い部分はある人だった。だが、病気によってどんどん気力を失っていく姿は、とても痛々しい。

時々、曹芳が司馬懿の病状を見に来る。それが何よりの薬になるようなのだが、限界があった。

「曹芳様は、陛下は元気にしておられるか」

「それはもう。 すくすくとお育ちになり、そろそろ後宮をと言う話も出始めておりまする」

「そうか。 もう少し、もう少し私が生きなければな」

もう、遅いかも知れない。

司馬懿の一族は、おぞましい専横の網を、魏に拡げつつある。それは曹爽が拡げたものよりも、陰湿で悪辣であった。

賄賂を、すぐに求めはしない。

しかし、司馬一族に対して貢献したものか、或いは司馬一族以外には、地位を与えないのである。

古くから存在する司馬一族は、中華全土にその根を拡げている。諸葛一族よりもさらに人脈は広く、田家よりも今や資金は潤沢。そして、曹爽が開けてしまった穴に、滑り込んだ者達。

曹爽が魏に作った傷は、司馬一族にとってはシロアリの孔も同然だった。司馬一族という害虫は其処に潜り込むと、今や思う様に全土を侵食し始めたのである。王濬も、既に家族を人質に取られ、身動きが出来ない状態だった。

司馬懿を殺せと言う命令も、来るかも知れない。

その時は自害して果てる覚悟だった。それだけは、絶対に出来ない。いつそんな指示が司馬師や司馬昭から来るのではないかと思うと、恐ろしくてならない。

彼らは司馬懿が毛嫌いしているように、けだものも同じだ。実の親であろうと、邪魔だと考えたら、即座に殺しに来るだろう。

司馬懿の権力も、蚕食されている。

病気により、どうしても作業が滞るようになってきたからだ。今は、歴戦の士であり魏のために尽くしてきた司馬懿という存在感が、どうにか司馬一族を押さえ込んでいる。だが、それもいつまで保つかどうか。邪魔だと思われたら最後かも知れないと思うと、王濬は気が気ではなかった。

武人として大敵と戦うのは本望だ。

実戦経験もある。蜀漢の軍勢と、まだ髭も生えぬうちから何度か戦った。敵は恐ろしかったが、しかし心は躍った。

今は違う。

ただ、得体の知れない闇と未来に、悲しみばかりが募るのだった。

「どうした、王濬。 悲しげな顔をして」

「いえ、何でもありません」

「……文官には人材がいないが、武官にはまだまだ優秀な者達がいる。 今あげる者達を覚えておいて欲しい」

不意に、司馬懿はそんな事を言い出した。王濬は頷くと、すぐに筆と竹簡を用意する。外に控えていた侍従が、すぐに墨を擦ってくれた。

「荊州にいる羊枯。 奴は多少癖が強いが、とても優秀だ。 そして若手の社預。 これはケ艾に預けてあるが、将来は相当な武将に育つこと間違いない。 必ずや、出世できるように路を拓いてやれ」

「はい。 必ずや」

「そしてそなた、王濬。 私が死んだら、西部戦線に行くように、既に指示はしてあるから、心おきなく働け。 ケ艾とそなたが連携すれば、蜀漢は必ず倒せる。 ただし、姜維が蜀漢中枢から排斥されるまで、進撃はするな。 蜀漢を滅ぼすには、武官と文官の対立が起こる必要がある」

これは、事実上の遺言ではないのか。そう思ったが、王濬はただ無心に筆を動かした。後ろでは、侍従もそれに習っている。司馬懿は喉が弱くなっているので、声を聞き取れていない可能性があるからだ。

「ケ艾は言うまでもないな。 多少足下が、特に戦以外の点では留守になっている事が多いから、皆で支えてやれ。 そして陳泰。 ちと真面目すぎるのが問題だが、優秀きわまりない若者だ」

「はい。 お二人には、様々なことを教わりました」

「うむ。 後は郭淮。 もう年だが、姜維を防ぎきるくらいなら充分にやってくれるだろう。 武帝の時代から、魏軍の一線で働いていた男だ。 そなたも、西部戦線に行ったら、色々と教えて貰え」

「……はい」

司馬懿は咳き込む。痰に血が混じっているのが見えた。頑健だった司馬懿も、もう痩せ果てている。体も限界に近い。凡庸な身で、天才達と渡り合ってきた無理が出てきているのだ。

しかしながら、それでも。司馬懿の目に宿る炎は衰えていない。曹叡に忠義を尽くしきり、曹芳を守る事に命を賭けている男は。何度か咳払いをした後に、頭を振った。

「鐘会は使うな。 あれは典型的な学者馬鹿の上に、野心が強すぎる。 特に司令官としては、絶対に使ってはならん」

「心得ました。 しかし、もし司馬師様や司馬昭様が使うようにと指示してきたら、どういたしましょうか」

「その場合は、これを開けて読め。 鐘会は、昔からあのドラ息子どもに接触して、様々にすり寄ってきた。 下手をすると、益州の攻略に起用されるかも知れぬ。 その場合、大変なことが起こるだろう。 他にも何名かに、個別の指示を出してある。 悲劇を、防いで欲しい」

小さな巾着を渡されたので、黄金の袋のように恭しく受け取る。

なぜだか王濬は、涙がこぼれるのを感じた。

様態が安定してきたので、一旦隣の部屋に下がる。流石に数日殆ど寝ていないので、目眩がした。

護衛の兵士が、抱拳礼をした。彼も、司馬懿に世話を受けた数少ない一人だ。

「王濬どの、お休みください。 ここは交代で、丞相を見守りましょう」

「私は、怖いのだ」

「怖い、ですか。 貴方ほどの、歴戦の勇士がですか」

「今の会話が、丞相との最後のやりとりになってしまうのではないかと思うと、恐ろしくて眠れぬ。 それに、丞相が魏の忠臣だった事を、誰が覚えていられるのか、不安でならないのだ」

頭を振る。この魏は、もう司馬一族に乗っ取られるのが確定なのかも知れない。しかしそうなると、司馬懿は王朝の開祖として祭り上げられ、その人格は全て為政者に都合良くねじ曲げられてしまうだろう。

そして、王濬は知っている。今の中華は、あらゆる点で無理が来すぎている。

司馬一族の王朝は、長続きしないだろう。その時、司馬懿は、今度は否定される側に回るはずだ。悪逆の徒として蔑まれ、功績も全て否定されるかも知れない。そんな事は、王濬には耐えられなかった。

「王濬どのは、あまりにも頭が良すぎるのではありませぬか」

「そのようなことを言われても嬉しくはない」

「いえ、此処では褒めているのではありませぬ。 先が見えすぎると、時に悲しいこともある、と言っているのです」

改めて兵士を見た。王濬よりだいぶ年上の、壱世代上の熟練兵士。だからこそに、言う言葉には重みがあった。

「分かった。 休む。 何かあったら、起こしてくれ」

「分かっております」

例え未来が無くとも。王濬は、最後まで司馬懿に忠義を尽くしたいと思っている。それが、滅びにつながっているとしても。

だが、数日後。

司馬懿は、死んだ。

 

1、発火擁州

 

郭淮が、擁州刺史王経の報告書を見て、額に青筋を浮き上がらせていた。ケ艾が反射的に首をすくめたのは、滅多に怒らない温厚な郭淮だからこそ、キレた時の噴火が凄まじいと知っていたからである。

王経は司馬一族ではなく、むしろ曹爽寄りだった男である。擁州刺史になれたのだから、それなりの手腕の持ち主ではあったのだが。残念ながら気が小さく、軍才も皆無に等しかった。

元より擁州刺史には、軍才は期待されていない。雑多な民族が往来する擁州を纏め上げる政治力と、勇猛な騎馬兵を長安の守備部隊に提供する経済力が要求される。昔は何名か勇猛な太守もいたのだが、蜀漢との戦闘で戦死したり、或いは大敗したりで、更迭が続いて、不思議と今のような風潮が出来た。

だから、ただ大人しくしてくれてさえいれば良かったのだ。

しかし、王経は恐らく、更迭を恐れたのだろう。故に、無茶なことをしてしまったのだ。

武都、陰平への攻撃である。

兵力は三万。同地の守備兵力は一万程度と言うこともあり、簡単に勝てると思ったのだろう。

その結果は、見るも無惨な敗北であった。陳式の巧みな用兵に振り回された王経は、七千近い兵を失い、愛用の馬まで失って、這々の体で逃げ帰った。それだけならともかく、敗北を散々言い訳した報告書を送ってきたのである。

「小利口なだけの男だと知ってはいた。 だが、有害な事までするようでは、流石に看過出来んな」

「郭淮将軍、お茶をどうぞ」

「……余計なことはせんでもいい」

呆れた様子で言いながらも、ケ艾が茶を出すと、郭淮は少し表情を緩めた。郭淮とは、陳泰と一緒に、諸葛亮と戦った仲である。あの頃に比べるとケ艾も陳泰も年を取り、郭淮は老境に入ってしまった。

ケ艾の家にいた?(カク)昭の事を思い出す。あの人も、色々と文句を言いながらも、結局ケ艾の善意を理解してはくれていた。郭淮もそれは同じである。茶を飲み干すと、大きく嘆息する。

「確かに、今王経を斬り捨てる訳にはいかんな」

「はい。 丞相の意向ですから」

「まったく、丞相も苦労為されているな。 俗物の一族を持つと大変だ」

郭淮が肩をすくめたので、ケ艾も眉尻を下げて苦笑した。

王経を斬り捨てない理由。それは、司馬一族の権力浸透を防ぐためだ。擁州刺史にまで司馬一族が赴任してきたら、ますます西部戦線は動きづらくなるし、悪しき流れを加速してしまう。

司馬懿は必死に一族に抗っている。司馬懿の部下として、苦楽を共にしてきた郭淮やケ艾にしてみれば、その邪魔をしてはいけない。司馬一族が完全に魏を掌握した時、曹芳は殺されるかも知れないのだ。

陳泰が来た。手には何か竹簡をぶら下げている。

「前線から伝令が来ました」

「む、蜀漢が動いたのか」

「はい。 姜維が一万五千を率いて、漢中から出てきました。 陳式もその後詰めとして、動く様子を見せています」

姜維は優れた武将だ。一万五千という寡兵で出てきたのは、恐らく様子見をかねての事だろう。

今、魏では政情の混乱が続いている。司馬懿は体調を崩しているし、司馬一族の専横は酷くなるばかり。そして各地で、曹爽の圧政で生じた歪みが、反乱の芽としてうずき始めているのだ。

姜維は恐らく、それを見極めに出てきたのだろう。

「どうしますか」

「王経に二万を率いさせ、先鋒として当てる。 このほかに、徐質に一万を率いさせ、後詰めとする。 私は四万、ケ艾は一万、陳泰は五千。 この本隊を率いて、姜維が王経に気を取られている隙に、漢中を伺うふりをして見せる」

若い武将達は怪訝な顔をした。一万五千を迎え撃つに、八万五千もの軍勢を動員するのを、妙だと思ったのかも知れない。無理もない話である。彼らは、諸葛亮がいたころの、蜀漢軍の凄まじさを知らないのだから。

郭淮が、王経を先鋒としたのは少し気になる。挙手すると、郭淮は破顔した。既に歯は半分ほどしか残っていない。

「どうした、ケ艾将軍。 王経を先鋒にしたことか」

「はい。 今回の失態を見ても、王経は軽率な将軍です。 堅守させるにしても、姜維の挑発に簡単に乗りそうな気がするのですが」

「それは別段問題がない。 なぜなら、王経も、除質も、敗退することを前提として配置するからだ」

「ああ、なるほど」

「ケ艾将軍、どういう事なのでしょうか」

若い将軍である社預が疑念を呈する。勉強家であり、ケ艾より十歳ほど若いこの男は、わからないことについては何でも理解できるまで食いついてくる。例え面倒くさがられても、である。

その性格から嫌われることも多かったのを、ケ艾が司馬懿のすすめで引き受けて、直営の部下として教育した。実戦がある度に、真綿が水を吸い込むように戦のやり方を吸収していくので、ケ艾としても非常に頼りになる部下である。

「この地図を見てください。 この地形も」

「はい」

「王経刺史と、除質将軍が、こう布陣するとします。 姜維軍が出てきて、この辺りに布陣します」

指先で地図をなぞって、説明していく。他の将軍達も、火が出そうな熱い視線を、地図上に注いでいた。

ケ艾の、地形を読む能力に関しては、既に周囲で有名になっている。ただ、言葉が聞き取りづらいとよく言われる。吃音じゃないかという陰口も聞いたことがある。実際それは本当らしいので、ケ艾は苦笑いするしかない。

「姜維軍が攻めるとしたら、どうしますか」

「一旦引いて、敵、王経刺史の軍勢を引きずり出しますが」

「その通りです。 それで、こう動きます」

徐々に、社預の目に理解が宿り始めた。他の武将達も、やがてなるほどと頷く。

そう。王経達の撤退路を、郭淮は見込んでいるのだ。そこで、逆送する形で、一気に敵の退路をふさぎに走る。

姜維は途中で気付いて、撤退に掛かるだろう。それだけで充分である。

別に、蜀漢軍を此処で滅ぼす必要はない。今回は追い払うだけで良いのだから。

「しかし、王経刺史は納得しますでしょうか」

「しないだろうから、しなかった時の事を想定して作戦を立てているのです。 もしも納得した場合は、姜維は堅固な防御陣に阻まれて、力攻めをせざるを得なくなります」

そうなれば、蜀漢軍は凡将を相手に大きな被害を出すことになる。姜維がその程度の男であれば、此方としても願ったりである。もっとも、何度か直接刃を交えたことのあるケ艾は、そのような甘い希望的観測を抱いてはいなかったが。

郭淮が立ち上がる。

「よし、出撃する。 恐らくはこれで勝てるだろうが、努々油断するな」

 

陳式は、小走りで来る廖化を見て、思わず微笑んでいた。廖化も、陳式を見つけて、大きく手を振ってくる。

「おおーい! 陳式!」

「廖化! 久し振りだな!」

肩をたたき合う。

しばらく会っていないうちに、お互い年を取ってしまった。廖化の髭には白い物が混じり始めていたし、多分陳式もそれは同じだろう。

「どうだ、そちらは変わりないか」

「見ての通りだ。 すっかり老けてしまった」

「老けたくらいでは良いではないか」

廖化は寂しげに言う。

とりあえず、陣立てを済ませることとした。先鋒の姜維軍は、既に陣を敷き終えているのである。

無難に陣を敷く。というのも、奇抜な陣を敷く必要がないからだ。

前方にある敵、王経の軍勢は、谷を取り囲むようにして陣を張っている。谷そのものを要害化するような布陣であり、更に後方には増援が一万ほど控えていると、諸葛亮の細君から連絡が来ている。細作部隊の本部が武都、陰平に来たことで、随分諜報はやりやすくなった。

廖化も陣を敷き終えて、約二万が戦闘態勢を整えた。姜維軍一万五千、陳式軍五千というのが内幕である。

敵は前方に布陣している擁州刺史王経の軍勢が二万。その後ろに、徐質将軍の一万がいる。どちらも三流の武将であり、事実陳式は小競り合いで一蹴したこともある。ただ、問題は。味方も著しく能力が落ちている、という点だ。

味方の宿将は、陳式の他には張翼くらいしかいない。寡黙で実直な王平は既に没し、人望の人呉懿も然り。南蛮で睨みを利かせている張疑はまだ存命だが、相当な高齢になってしまっており、馬忠は既にこの世を去った。

姜維が率いている武将には若い者もいるが、とてもではないが諸葛亮の率いていた頃とは比較にならない程度の能力しかない。劉備が率いていた頃の、全盛期の蜀漢軍とは、更に比べられない。

陣形をくみ上げるのも、早いとはいえない。姜維の能力でどうにか保ってはいるが、ただそれだけだった。

軽く、偵察に行く。そして戻ってくると、廖化が待っていた。

天幕の中で、熱い茶を入れてくれる。こういう心配りが、とても嬉しかった。流石にライリは連れてきていないのである。

「勝てると思うか」

「難しいな」

茶を飲み干すと、陳式は素直に思った所を言った。

というのも、敵陣を見てきた所、兵士達の能力が、以前とは比較にならないほど上がっているのである。

恐らく訓練方法に、蜀漢式の良い部分を徹底的に取り入れたのだろう。兵士の能力に差が無くなってくると、後は用兵の才能で補うしかない。だが、姜維の軍才は、はっきりいって諸葛亮には遠く及ばない。ましてや敵にはケ艾がいる。ケ艾の実力は姜維と同等か、それ以上だろうと陳式は見ていた。

それを見抜いている費偉からも釘を刺されていて、一万五千程度の出兵しか許されなかったのである。陳式の部隊も、費偉からの指示で、半数の出撃だけが認められた、そんな状態である。

姜維の陣から来た若武者が抱拳礼をする。

「陳式将軍、廖化将軍」

「む、そなたは」

「傅僉(セン)と申します。 姜維将軍がお呼びですので、本陣へ来ていただきたく」

「うむ」

骨太な若者だ。女の子に受けなさそうな、いわゆる美をあまり感じない、武骨な武人らしい武人である。愛想もあまりなく、ただ武骨そのものであった。しかし文弱に墜ちたと思っていた蜀漢軍に、こんな昔気質の武人が残っていたとは、驚きであった。

「あれは傅?(トウ)将軍の息子よ」

「おお、あれが」

「蜀漢では珍しい、気骨ある若者よ。 姜維もかわいがっている」

自分のことのように嬉しそうに、廖化は言った。陳式も優れた若者の存在を知って、少し嬉しくなった。かって、陳式も文弱そのものだったから、こういう若者は見ていて嬉しくなる。

本陣に出向く。満面の笑みで天幕にはいると、姜維が偉そうにふんぞり返っていた。諸葛亮の後継と言うことで期待されてきた若者だが、総司令官としてこう偉そうにしているのを見ると、ちょっと冷水を浴びたように思える。

座るように促され、着席する。周囲には高齢な武将が目立ち、特に高翔は軍議中に居眠りを始めそうだった。

「今回、出陣した訳だが」

姜維はいきなり本題に入った。しかも、経歴も戦歴も上の武将達を、傲然と睥睨している。

この若者が天才的な素質を持っていることは、誰もが知っている。しかし、今この態度を見て、気分が良くなったものはいるだろうかと、陳式はちょっと心配してしまった。

「二つほど、大きな情報が手に入った」

「大きな情報とは」

陳式が代表して言うと、姜維は此方を見もせずに、指を鳴らした。ちょっともったいを付けすぎである。

しかしながら、不快感を興味が上回る。傅僉(セン)が恭しく持ってきた竹簡には、面白いことが書かれていたのである。

「まず一つは、司馬懿が死んだ」

「何ッ!」

「それは、本当ですか」

「うむ。 まだ魏では秘匿しているが、少し前に死んだようだ。 前線の魏軍将兵は、動きからして知らぬかもな」

姜維は不敵に笑う。

司馬懿亡き今、我に対抗できる魏軍将兵は無しと。それは大いに陳式から言わせれば疑問の残る言葉であったが、此処では敢えて黙っていた。姜維はいい気になったまま、更に続ける。

「もう一つ。 魏の将軍、夏候覇が謀反を起こそうとしている」

「夏候覇が?」

皆が顔を見合わせる。当然の話で、夏候覇は魏の皇族の中でも、次代の総司令官を嘱望されていた若き将軍である。今はもう若くはないが、曹爽の次に大将軍となり、蜀漢に立ちふさがるのは彼ではないかと想定されていたのだ。

大した用兵の才は持たないが、識見や人望と言う点では、曹真にそうそう劣らない人物と、蜀漢でも警戒されていた。総司令官として、優秀な部下が支えれば非常に面倒な相手になった可能性がある将軍である。

「司馬一族の専横はますます酷くなり、夏候覇はこのままでは居場所が無くなると言われていた。 しかも司馬懿の死によって、司馬一族の専横を抑える者がいなくなった」

「それは、どういう事ですか?」

「知らぬようだから教えてやろう。 司馬懿は魏への忠義を優先し、一族を押さえ込んでいたのだ。 曹爽が死んだ跡、司馬懿が簒奪しなかったのは、それが理由よ」

童子に講釈するかのように、姜維は言う。

どうしてこの男は、こうも傲慢になってしまったのか。陳式は見ていて、少し哀れみを感じてしまった。

ひょっとすると、費偉による圧迫と、思い通りにならぬ現実で、心が歪んでしまったのかも知れない。誰もが白雪のように何時までも美しくはいられないとは言え、あの清廉だった姜維の変貌に、陳式は戦慄も感じる。自分もいずれこうなるのかも知れないと思うと、恐怖にもそれは転化し得た。

「それで、具体的な戦略は」

「王経は陳式、貴殿に任せる。 私は郭淮を殺す」

姜維は三千の兵を残すと、残りの主力で郭淮の軍に横撃を加えるつもりだという。陳式よりも、先に廖化がそれに反応した。

「少しまたれい。 いくら何でも、三千で、三万を抑えよと仰るは流石に無茶ではあるまいか」

「陳式将軍であれば可能でありましょう」

「それは、諸葛丞相がいた頃の話です。 現在、敵と味方の兵士の力はかなり差が縮まっており、兵器も魏は長足の進歩を遂げています」

連弩も、既に蜀漢の専売特許ではない。

魏の発明家馬均により、諸葛亮が開発したものほどではないにしても、相当に殺傷力が高い連弩が開発されている。これは実際に、北方の騎馬民族の反乱鎮圧に投入され、圧倒的な制圧力を見せつけたと、陳式の下にも報告が来ている。

相手が凡将といえども、十倍の差は流石に支えがたい。少数の精鋭を率いて、諸葛亮麾下で猛威を振るった陳式も、自身の力だけでそれを為していた訳ではない。諸葛亮の卓越した総指揮があってこそ、成し遂げ得た事なのだ。

「これは陳式将軍とも思えぬ弱気な言葉だな。 いずれにしても、軍を率いる私の決定だという事を忘れて貰っては困る。 従って貰うぞ」

「無理だと言っております」

「ならば軍令に従って、処罰せねばならんな」

憤然と立ち上がったのは廖化で、陳式はむしろ呆れて、大きく嘆息した。姜維が冷ややかな目で見つめる中、陳式は立ち上がると、抱拳礼をする。

「わかりました。 謹んでご命令をお受けいたします」

「わかればよい」

「その代わり、具体的な作戦行動については、私の好きにさせて貰いますが、よろしいですか」

「構わぬ」

姜維はにやにやと、陳式の顔を見つめていた。

ひょっとしたら。陳式を邪魔だと思い、此処で排除してしまうつもりなのではないか。まさか其処までではないと思いたい所だが、不安は募る。

諸葛亮は恐ろしく頭の良い人物ではあったが、利にならない事はしなかった。姜維はどうも、感情を理性に優先させそうな気がして不安が残る。

陳式は軍議が終わると、天幕の外に出た。良くなっていた機嫌は、氷点下まで落ち込んでしまっていた。

「陳式、俺が残ろうか」

「いや、王経程度が相手なら、三千でどうにかなる。 徐質もどのような奴かは知っているから、特に問題はない。 問題はそんな事ではなくて、被害が大きくなることだな」

それは、困る。

圧倒的な回復力を持つ魏に比べて、蜀漢はとにかく損害を補填しにくいのだ。姜維は何を考えているのかよくわからないが、味方が一の被害を出したら、敵は十の被害を出さなければ釣り合いが取れないのである。

ましてや陳式の主力となっているのは、武都、陰平の少数民族達の部隊である。彼らは自由を保障した陳式のために、文字通り命を賭けて戦ってくれている。そんな彼らを、捨て石のように扱うことだけは出来なかった。

高翔が来た。老い果てた彼は、困り切った顔で、陳式にまず謝り始めた。

「すまんのう、陳式どの。 姜維将軍は、普段はとてもお優しい方なのじゃが。 無礼は許して欲しい」

「……成都の方でも、芳しくない噂があると聞いていますが」

「そうじゃのう。 時々勘気を発して、兵士を打擲なさったりするが、でも信じて欲しいのじゃ。 あのお方は、諸葛亮丞相の、愛弟子なのだと」

「それは分かっております」

高翔は元々さほど誇り高い男という訳でもなく、絵に描いたような凡将だった。これといった取り柄もなく、蜀漢軍の中では目立たなかった。だが、このように衰えてしまったのを見ると、此方がむしろ恐縮してしまう。

だが、それと部下達を守ることに関しては、別の問題であった。

「連弩を、少し多めに廻していただけませんか」

「そうじゃのう。 姜維将軍に、話はしてみる」

「お願いいたします」

よろよろと、高翔は本幕に戻っていった。あれでは覚えているか不安だ。廖化は大きく嘆息すると、頼もしいことを言い出した。

「うちの部隊の中から、選りすぐりの精鋭を貸す。 使ってやってくれ」

「ありがとう。 少しはこれでマシになる」

「うちからも、精鋭を貸そう」

いつの間にか隣にいた張翼も、同じ事を言ってくれた。口ひげを蓄えた張翼に、深々と礼をする。

だが、それで終わりだった。姜維は連弩の貸与を許可しなかったのである。主力決戦に必要だからと言う理由であった。

陳式は、三千に加えて、七十三の兵を得たが。それで三万に対抗しなければならなくなってしまった。

 

王経は、自分の天幕で震えていた。

彼が擁州の太守になったのは、諸葛亮が五丈原で死んだ直後である。更に、統治を評価されて刺史に出世。軍務は郭淮やたまにくるケ艾が片付けてくれたし、特に何ら苦労もせずに、人生を歩んできた。

分かってはいた。いつ蜀漢が攻めてくるかも知れないという事は。

魏が傾きかけているという事も。

だが、平穏すぎる人生を送ってきたからか、あまりにも実感が伴わなかったのだ。郭淮も、あまりくどくど言うこともなかったし、ケ艾もそれは同じだった。むしろ二人のことは嫌いではなかったから、積極的に自由な行動を任せて、やりたいようにやってもらっていた。

おかしくなったのは、司馬一族による専横が始まった頃である。

我関せずと中央の政争に興味を見せなかった王経は、多分自分が粛正の対象になることはないだろう、と思っていた。

だから、司馬師からの密使が来た時には、飛び上がるほどに驚いた。

司馬師はこう言っていたのである。

「郭淮、陳泰、ケ艾の権力を掣肘せよ。 戦いがあった場合は、お前がまず前線に出るように」

子供のような年の司馬師に好き勝手を言われて王経も流石にむっとしたが、逆らえば何をされるかわからない。司馬師の残虐さは、地方にいる王経も聞き及んでいたからである。噂によると、邪魔だと判断したら、親でも殺すような輩だというではないか。

慌てた王経は、陳式への攻撃を独断で敢行。三倍の兵力を備えていたというのに、一戦で木っ端微塵に粉砕されてしまった。

そして、今である。

実際に軍権を握っている郭淮に、勝てるからとおだてられて、防御陣を敷き、いそいそと敵を待ち受けているのだった。

しかし、怖い。

今更ながらに、諸葛亮がいた時代の、蜀漢軍の無茶苦茶な噂を思い出す。四万ちょっとで十万以上の防御陣を正面から打ち破ったとか、あまりにも非現実的なので笑い話として聞き流していた。

しかし陳式に、一万程度で三万を打ち砕かれてみて、その噂があながち嘘ではなかったのではないかと思ってしまうと。やはり恐怖は後から後からせり上がり、心を痛めつけるのだった。

顔を上げたのは、どかどかと軍人達が無粋な足音で迫ってくるのを感じたからである。何かあったのだろう。

正直逃げたい位だが、そうも言ってはいられない。州刺史なのだ。一番高位の人間なのだ。王経は、自分が無能であることは分かっていた。だからこそに、無能なりに堂々としていようと思っていた。

表情を整えると、出来るだけふんぞり返って天幕を出る。そして、血相を変えている軍人どもを睥睨した。

「王刺史!」

「如何したか」

「敵が後退を開始しました! 郭淮将軍が、背後を突いたのかも知れません

「出撃を! 武勲を立てる好機です!」

郭淮は、出撃するなとは、言わなかった。場合によっては出撃して、敵とも戦って良いという事だ。しかしながら、そう言われてみても。どうも、裏に作為的なものを感じてしまうのだ。

不安を感じたが、王経は敢えて表情を引き締める。

刺史になる時に、一族から言われたことがある。頂点に立つからには、堂々としていろと。不安を顔に出すと、皆が怖がると。そして戦場では、その僅かな恐怖がほころびとなって、全軍崩壊の切っ掛けになるとも。

負けるのは嫌だ。戦うのは怖いが、出来るだけ、何とかしたかった。

大柄な男が来る。

徐質。後方を任せている将軍だ。非常に筋骨逞しく、武芸に関しても図抜けている男である。夜叉のようで恐ろしいと王経は思っていたが、顔には出さない。鎧の中だけで震えながら、除質を見上げる。

「おお、除質将軍。 如何したか」

「敵が撤退を開始したとか。 追撃の先鋒は、私に任せていただけませんか」

「……ふむ」

「刺史は、後ろからついてきてください。 前線での判断は、私達実務を知る将軍が努めるべきかと思いますが」

正論である。徐質は猛将として名高く、実戦経験もある。王経が前線で判断するよりも、そっちの方が良いだろう。

「分かった。 何かあったら、すぐに使者を出して欲しい。 私は後から着いていくことにしよう」

「おお、物わかりが良くて助かります」

さらりと失礼なことを良いながらも、徐質は破顔した。そして黒い大きな馬に跨ると、巨大な戦斧を片手に、一万の手勢とともに陣を出て行く。

王経の配下達が苦々しげにそれを見守る中、手を叩いた。

「よし、我らも出撃だ」

「先鋒を譲ってしまうとは」

「君らの中に、除質将軍よりすぐれた武人がいるのかね」

そう言われると、流石に戦意過剰な部下達も、口をつぐまざるを得なかった。

二千ほどの兵を陣に残し、一万八千で、徐質の後を追う。

そして、追撃は。

すぐに立ち往生することとなった。

 

高山らしい、背が低い林の中。周囲には獣もおらず、空を舞う鳥も少ない。そんな絶好の環境の中、丁寧に兵を伏せていた陳式は、何度か出ようとする部下を抑えた。

前を傲然と駆けているのは、徐質の精鋭一万である。五千が揃っていればどうにかなっただろうが、三千で、戦意豊富な所を正面から戦うのは得策ではない。

一万が通り過ぎる。

そして、王経の軍勢が来た。それも、先鋒は見逃す。やがて、若干頼りなげな王経が姿を見せた時、陳式は立ち上がっていた。

「よし、懸かれっ!」

「応っ!」

少数民族部隊の精鋭達と、各武将が置いていってくれた歴戦の猛者達が立ち上がり、怒濤のごとく躍り掛かる。少数民族部隊の隊長は、相変わらず二丁斧の肌が黒い男が務めている。彼は髭が白くなり始めているが、鋼鉄のような筋肉はまるで衰えておらず、敵に飛び込むや否や、斧を振るって周囲に殺戮の嵐を巻き起こした。

陳式は騎馬隊を率いて突貫すると、真っ正面から敵を蹂躙する。一直線に伸びていたこともあり、敵は瞬時に大混乱に陥った。中軍を踏みにじり、五百ほどの別働隊に敵の後ろぞなえを踏みにじらせる。そして、混乱した敵を、一気に前衛、さらには徐質軍に向けて追い立てた。

「王経を探せ!」

「させるかああっ!」

武将が、気合いの声を張り上げて躍り掛かってくる。

目の醒めるような武芸を用いる若者であった。流石に三国全盛の頃の猛者達に比べると見劣りするが、一合刃を交えて、思わず陳式も唸ったほどである。跨る駿馬も毛づやが素晴らしく、相当に期待されている若武者であることは一目瞭然であった。間近で見たが、まだ二十歳にもなっていないだろう。

再び、馬蹄が迫ってくる。長刀を振るい、乱戦の中迎え撃つ。二合、三合と刃を交える内、陳式も血がたぎってきた。応と叫ぶと、今度は此方から仕掛ける。十七合を交えたところで、拮抗した武芸の若者に吠え懸かる。

「若造、名は!」

「魏の文俶!」

「応、そなたがか! 我が蜀漢の、趙雲将軍の再来と聞いている。 見事な腕よ! 私は蜀漢の陳式だ」

「貴方が、蜀漢の宿将か。 確かに素晴らしい腕だ」

どっと、敵味方がなだれ込んでくる。どうやら異変に気付いた徐質軍が戻ってきたらしい。予想よりも早いが、しかし。陳式が銅鑼を叩きならさせると、乱戦状態の味方の他に、更に隠してあった千が姿を見せる。

その全員が、連弩を押していた。

怒濤のごとく、鉄の矢が魏軍に降り注ぐ。慌てた徐質が撤退にかかろうとするが、その前衛の半数が瞬時に骸と化した。喚声を上げる味方が、敵を一気に押し込んでいく。敗走から潰走に移る敵。文俶も形勢不利と見て、馬首を返す。

「勝負は預けておくぞ!」

「うむ、いつでも来るがいい」

眼を細めて、陳式は逃げる若武者を見送った。あのような若者が、味方にもっと多くいれば。

腐敗した上に老朽化が激しい蜀漢軍を思うと、陳式は情けなくさえ思ってしまった。諸葛亮は信じ切れない相手だったが、それでも蜀漢のことを思っていたのは間違いない。きっと、定軍山で嘆いていることだろう。

一気に敵を追い立て、およそ七千ほどの敵を斬った。壊滅的な損害を与えたと言っても良い。

敵陣も奪取し、味方に勝ち鬨を上げさせる。味方も二百ほどを失っていたが、この戦線ではまず勝利と言って良かっただろう。ただし、王経も徐質も、残念ながら取り逃がしていた。

「大勝利です、陳式将軍!」

「見事な働きだった。 だが、敵はまだ大多数が残っている。 姜維将軍が襲撃しに行った敵本隊の動向次第では、此処に孤立する可能性もある。 油断せず、周囲に斥候を放ち、状況の確認に努めよ」

「ははっ!」

「良いか、深追いはするな。 敵の兵士達は、以前より遙かに強くなっているし、さっき私が戦った文俶のような優れた若者もいる。 努々無駄に命を散らすなよ」

身軽な少数民族の者達が、まるで剽悍な豹のように山野に散っていく。彼らは戦闘能力が高いだけではなく、五感も優れていて、斥候としては得がたい人材だ。彼らの忠義を得られていることを、陳式はとても嬉しく思っている。そして、だからこそに、彼らを守らねばとも思う。

ほどなく、斥候が帰ってきた。

「敵部隊、十五里ほど下がり、東にある要塞に逃げ込みました。 補給をして、態勢を立て直しています」

「そうか。 それは捨て置いていい。 敵本隊は」

「それが、姜維将軍の本隊と、激烈なる死闘を繰り返しており、いまだ勝ち負けははっきりわかりません」

「そうか。 助勢に向かった方が良さそうだな」

二刻だけ兵士達に休息を与える。陳式自身も、愛馬に飼い葉を与え、汗を拭き取ってやった。

「すまんな。 もう一働きしてくれ」

 

敵無き野を驀進していたケ艾は、不意に全軍を停止させる。進撃路の地形が、地図と微妙に違うのに気付いたからである。

陳泰が、足を止めたケ艾に気付いて、単騎で来た。

「あ、陳泰。 どうしたの?」

「どうしたの、ではない! 兵は神速を尊ぶというに、何をしている!」

「いや、ちょっと進撃は見合わせた方が良いみたいだよ。 ほら、あの辺り、ちょっと見て」

ケ艾が指し示すと、陳泰だけではなく、王桓や社預もそちらを見た。

山の麓から、怪しい気配が漂い来ている。地図ではどうと言うこともない地形だったのだが、実際に見ると伏兵がいてもおかしくない状況だ。それも、万を超える、である。

「む、確かに良くない地形のようだが」

「今、郭淮将軍にも使者を出してる。 ちょっと一旦斥候を出して、様子を見よう」

「しかし、敵に此方の進撃を見抜かれたらどうする」

「此処にいる部隊だけでも、正面決戦は可能だから、そんなに心配はしないで。 むしろ後ろから奇襲される方があぶな……」

矢の音。

ケ艾をとっさに庇った王桓が、長刀を振るって矢をたたき落とす。流石に見事な熟練の技だ。

どうやら、早速奇襲を受けてしまったようだった。

「全軍円陣! 敵はどんなに数を出しても、二万を越えません! 状況を見て、冷静に対応します!」

どっと、敵の騎兵がなだれ込んでくる。驚いたのは、馬上の彼らが、弩を手にしていることだ。蜀漢軍は馬上で扱える携帯式の弩を開発していたらしい。恐らく、今回初めて実戦投入する兵器だろう。

陳泰軍も、すぐに集まってきて、円陣を組む。怒濤のような敵騎兵の猛攻を、どうにか凌ぎきると、今度は歩兵が迫ってきた。敵将は廖化らしい。手強い相手である。張翼の部隊も、廖化と連合して、猛烈な突撃を仕掛けてきた。

「野戦陣を! 柵を出して、敵を防ぎます! 守勢に徹し、味方の援軍を待ちなさい」

「伝令! 郭淮将軍の部隊も、猛攻を受けています!」

「ならば好機!」

ざっとケ艾が見た所、此方に攻撃を仕掛けている敵は八千程度。残り一万くらいが、郭淮軍に攻撃を仕掛けていると言うことになる。

それは即ち、敵の奇襲部隊は味方の半数程度と言うことだ。態勢さえ立て直せば、一気に押しつぶせる。更に言えば、郭淮の方は敵の三倍くらいはいるはずで、守りきりさえすれば味方の勝ちだ。

不意に、右翼に非常に強い圧力。陳泰が守っている地点だ。見ると、姜の旗。陳泰はよく支えているが、見る間に陣が崩されていく。流石に姜維。以前刃を交えた時も手強い相手だったが、ここ十数年でぐっと力を増しているようだった。

「近衛兵、私に続いてください!」

「ケ艾将軍!」

「今、陳泰将軍の部隊が崩されると、全軍は一気に崩壊します! 社預将軍は、私の後詰めを! どのように挑発されても、攻勢に出てはいけません!」

「わかりました!」

返事も半ばに、ケ艾は飛び出す。三千がそれに続いた。

陳泰軍は必死の防戦を続けているが、ついに姜維がその半ばまでを蹂躙する。その横腹に、ケ艾は無言で突っ込んだ。姜維も即座に対応、二匹の大蛇が絡み合うようにして、猛烈な死闘が開始される。

ケ艾は舌を巻いた。陣に隙が殆ど見あたらない。あくまで少数の兵を率いた場合という条件がつくにしても、この点だけは諸葛亮に匹敵する用兵かも知れない。だが、惜しいかな。全体の支配力というか、圧倒的な威圧感は、どうしても師には及ばない。

態勢を立て直した陳泰が、姜維に対して反撃に出る。

同時に、今までの猛攻が嘘だったように、敵の軍勢は引き始めた。そして、味方が追撃をしようとする間もなく、一瞬でかき消えてしまったのであった。

狐に摘まれたような顔をしている王桓が、鎧の肩当てに刺さった矢を抜きながら、馬を寄せてきた。

「追撃は」

「無用です。 今は郭淮将軍と合流しましょう」

「伝令です!」

血相を変えた兵士が来た。何本も体に矢を受けていて、深刻な状態であることがわかる。

「王経刺史の軍勢、壊滅しました! 東に逃れて、態勢を立て直しています!」

「何と。 恐らく少数しか伏兵は用意できなかったでしょうに。 その部隊に、王経刺史は負けたのですか」

「敵は非常に巧みな奇襲で、此方の横腹を突いてきました。 徐質将軍、王経刺史は何とか全滅を免れましたが、防御陣を失い、態勢を立て直しています」

流石にむっとする。

出て負けることは想定していたが、相手が姜維の全軍であるだろうと思っていた。姜維軍が此方に主力を向けてきた時、王経の軍は背後を突いてくれることも若干だが期待したのだ。

だが、抑えに残しただろう少数の伏兵に壊滅させられるとは。恐らくその巧みな用兵からいって、指揮官は多分陳式だろうが、それにしても情けない。

更に、凶報が来る。

「ケ艾将軍! すぐに本陣へ来てください!」

いやな予感を覚えたケ艾は、社預と陳泰に跡を任せて、王桓と本陣へ。本陣の辺りは派手に煙が上がっていて、相当な猛攻を受けたことが一目でわかった。

天幕にはいると、いやな予感は現実になっていた。

寝かされている郭淮は、肩にも足にも矢を受けていた。しかも、弩の大きく鋭い矢である。傷口は相当に深いようだった。その上、郭淮は、既に老齢なのだ。

「おお、ケ艾将軍か」

「郭淮将軍!」

「そう騒ぐな。 もう私は長く無さそうだ」

骨張った顔の、魏の宿将は。どこか安らかにも見えた。

戦いの中、かなり強引に、騎兵の一団が突撃を仕掛けてきたという。そしてその隙に、連弩隊が本隊に矢の雨を浴びせてきたそうだ。郭淮が負傷するのを見て、敵は即座に引いたと言うことだった。

「今回は、姜維はただ私を殺すためだけに、攻撃を仕掛けてきていたらしいな。 動きですぐに分かったよ」

「……姜維自身があまりにもあっさり引いたから、おかしいとは思いましたが」

「思うに、私のように無能であってもお前達を纏める人間が、奴にとっては邪魔だったのだろう。 ケ艾。 これからは、西部戦線はお前が纏めよ。 蜀漢は、どのみちもう長くはないだろう。 既に成都では宦官が好き勝手をし始めているようだし、兵士の力もかってほど差がある訳ではない。 その上、姜維は兵士にかなり無理をさせる男だ。 それも、今度は奴を止められる者が、誰も、ごほっ!」

咳き込んだ郭淮に、副官が水を飲ませる。

ゆっくり辺りを見回すと、郭淮は続けた。

「此処には、他に誰もいないな」

「はい」

「ならば、伝えておこう。 司馬懿丞相が、亡くなったそうだ」

王桓も、ケ艾も、全身が凍り付くような感触を覚えていた。

あの司馬懿が。ちょっぴり偏執的な部分はあったが、誰よりも魏を案じて、曹芳のことを大事に思っていた司馬懿が。死んだというのか。

もう、長くはないとは聞かされてはいた。しかし、何処かであの人は死なないと思いこんでしまっていた。

打ちのめされるケ艾に、郭淮は手を伸ばしてくる。

「司馬懿丞相が家族と対立していたことは知っているな」

「はい。 ご家族も、司馬懿丞相を快く思っていなかった様子です。 恩知らずな話ですが」

「ああ。 司馬一族を一代で復興したも同じであったのにな。 そして、今後、お前の立場はかなり難しいものとなる。 西部方面の軍事を任せるのも、そなたの地位を少しでも安定させるためだ」

皺だらけの郭淮の手は震えていた。きっと、こんな任務を任せたくはないと思っているのだろうか。

ケ艾も、涙がこぼれてくるのを感じた。

「陛下のことも、頼みたい。 色々押しつけてしまって、すまぬな」

「どうして、私なんかに」

「お前のことを、皆が好きだからだ。 皆がそなたのことを大事に思っている。 お前が皆のことを大事に思っているようにな」

まだ何か言いたそうにしていた郭淮の手が墜ちた。意識を失ったらしかった。

医師の話によると、すぐに死ぬようなことはないらしい。だが、もう馬に乗るのも、戦場に出るのも不可能だと言うことだった。

姜維のことは、別に今まで嫌いではなかった。戦場での事だ。牛金が死んだ時だって、割り切ることは出来た。

だが、いつまでこんな事が続くのか。それを思うと、憎悪より先に悲しみが湧いてきてしまう。

郭淮は言った。蜀漢の終わりは近いと。しかも、このままなら。自分で、蜀漢を滅ぼして、天下を太平に出来るかも知れない。

それには、例えどんなことをしても。という覚悟が必要なのかも知れなかった。

涙を乱暴に擦る。

天幕から出て、報告を聞く。蜀漢軍は、三つの郡を制圧したという。魏軍はそれだけ戦線を下げたが、しかし兵の損失はさほど多くない。むしろ蜀漢軍が戦線を拡げただけ、此方が有利になる。

「次は、勝ちます」

皆の前で、ケ艾は、そう宣言した。

 

2、二宮の結末

 

孫権は、連日処刑の命令を下していた。

四家を始末した後は、その残り香を呉から消すために。兎に角、四家の息が掛かり、好き勝手をしていた連中を、片っ端から殺していたのである。見本のような恐怖政治であった。

しかしながら、孫権に言わせれば、四家がしいていた悪夢の圧政に比べれば軽いものであった。

兎に角、大勢が死んだ。孫権が命を降して殺した中には、皇太子も含まれていた。

だから、孫権は乱心したのではないかと噂が立った。別にそれで良いと、玉座の上で孫権は思っていた。四家は孫権が墓の下に一緒に連れて行くのである。亡者がどれだけ待っていて、冥府で全身が引きちぎられるとしても悔いはない。

孫権が好きだった者達は、皆四家の陰謀によって殺されたようなものだ。兄の孫策を始めとして、近年では陸遜にいたるまで。少し前に、陸抗が参内した時に、恨みに満ちた視線を向けてきたことを、孫権は忘れていない。

あれは、受けた当然の恨みだった。

血の粛清も、そろそろ片がつきそうである。ようやく、呉に残っていた四家の残存勢力も、あらかた洗い終えた。後は何名かを処刑すれば、全てが片付く。呉の国力は一気に衰退したが、それも仕方がない。呉が生き残るには、大規模な外科手術が必要だった、からである。

ふと気がつくと、玉座の下で、呂壱が平伏していた。

「どうした、呂壱」

「本日は、最後のお勤めをしに参りました」

ぼんやりとしていた意識が、一気に覚醒する。

孫権の粛正における、汚れ役を一手に引き受けてくれたこの男は。最後に汚れを全てひっかぶり、死ぬと宣言していた。確かに、もう粛正は終盤に来ている。呂壱の出番は、終わったのだとも言えた。

だが、この男は。ある意味で、孫権に仕えた中でも指折りの忠臣である。四家との孤独で残虐な戦いに勝てたのも、長らく準備してくれていた張昭ら反対勢力、長年耐えてくれた陸遜達、それにこの男がいたからなのだ。

確かにこのままだと、孫家はあらゆる悪罵を受け、民の信望を失いきって、歴史の闇に沈むだろう。四家が実質的に廻していたこの呉には、孫家という新しい象徴が必要になってくる。

呂壱は、死ななければならないのだ。

「呂壱、長年の努め、ご苦労であったな」

「何の。 陛下のために粉骨砕身できるのであれば、この呂壱。 例え闇に落ちようとも、悔いはございませぬ」

一瞬だけ儚げにほほえんだ呂壱は、だがすぐに邪悪な表情を作った。普段から、悪を一身に集めるため、可能な限り俗物としての行動をしていたこの男は。既に、誰が見ても悪であるとわかるように、表情からして普段の自身を律していたのである。

孫権は、涙を拭う。

既に孫権も老齢だ。七十に達しようとしている年を考えると、涙腺は緩んで仕方がないのかも知れない。だが、これから歴史上の悪人として唾棄され続ける忠臣のことを思うと、どうしても泣かざるを得なかった。

「そなたの忠義、朕は忘れぬ。 忘れぬぞ」

「それだけで、呂壱めは幸せにございます。 既に準備は整えてございますが故に、出来るだけ私の悪事を強調し、無様に叫く所を殺してくださいませ」

「うむ、そなたの望むようにしてやる。 してやるぞ」

拝礼すると、呂壱は出て行った。代わりに、朱異が入ってくる。朱異も、呂壱の背中を見て、思う所がある様子であった。

「陛下。 処罰対象に、諸葛格が含まれていないようですが」

「あの男は、頭が良すぎる所が欠点だが、呉には必要な人材だ。 野心を抑えて置きさえすれば、必ず役に立つ。 だから、そなたが律せよ」

「わかりました。 可能な限り」

孫権はそれだけ言い終えると、玉座にて、深いため息をついていた。

やっと、これで終わったのだ。

翌日、呂壱の処刑が行われた。孫権を、そして二人の皇太子、孫覇、孫和をそそのかしていた黒幕として。

呂壱は邪悪な表情を作り、犬のように吠えながら、観客に悪意をぶちまけていた。見下ろしている孫権は、出来るだけ軽蔑する表情を作るように心がけながら、涙を抑えるのに必死にならざるを得なかった。

どうして、人間の社会は、こうも未熟なのだろう。

呂壱は、孫権のために。いや、呉のために、悪を引き受けてくれたのだ。それなのに、皇帝である孫権は、どうして全く報いてやることが出来なかったのだろう。

刑刀が振り下ろされ、呂壱の首が落ちた。

天を向けて、孫権は呻く。他に数名の処刑が執り行われて、やっと全てに決着がついた。

心身の整理が着いてから最初に孫権がしたのは、孫策への墓参りであった。形だけ立派に作られた孫策の墓。小覇王などという恥ずかしいあだ名も、四家が考え出した。そして、邪魔だと見なされ、四家に消された。

墳墓の周囲は整えられていて、階段で上ることが出来る。墓前にまで到着すると、従者達も下がらせる。兄と二人きりになると、もう真っ白になってしまった髭を撫でながら、孫権は言う。

「兄上。 やっと、仇を討つことができました」

言い終えると、咳き込んでしまった。妙に胸が苦しい。少し前から、医師にあまり無理はしないように言われている。

多分、もう自分も長くはないだろう。

呂壱だけに、悪名は背負わせない。あまり頼もしいとは言えない後続達だが、それでも四家の重荷が外れただけ、少しはマシになると信じる。いや、信じたい。だから、孫権は、あらゆる強引な手段を使って、四家を潰したのだ。

「近いうちに、そちらに参ります。 孫権に出来るのは、此処まででした。 呉の人材が枯渇している今、未来は決して明るくないかも知れませんが。 しかし、もはや漢王朝の邪悪な残り香である四家は存在しません。 呉の若者達次第で、未来は切り開くことが出来るでしょう」

兄が好きだった酒を、墓に供える。

そして、少し苦労して階段を下りる。全てをやり遂げたかと思った瞬間。孫権の意識は、墜ちていた。

気がつくと、寝台に寝かされていた。

「時間は、どれほど経った」

「二ヶ月ほどにございます」

「それほどか」

苦笑が零れた。

孫権は周囲に集まっている部下達を見回すと、力を失いつつある目に、最後の光を宿した。

「皇太子達を呼んでくれ。 跡継ぎを発表する」

「陛下!」

「わからぬか。 朕の意識も、そう長くは明晰さを保ってはいられぬ。 頭がはっきりしている内に、遺言を残したいのだ」

ああ、陸遜が生きていれば。陸抗は優秀な若者だが、まだ経験が足りない。決定的に。戦争だけは出来るだろうが、国を背負って立つには若すぎる。

成人した一族達と、朱異。それに、諸葛格、呂拠、騰胤などが、枕元に揃った。いずれも四家の壊滅後、台頭してきた者達だ。唯一違うのが諸葛格。この男、四家の争いの中を平然と泳ぎ渡り、怪物的な嗅覚を発揮して生き残った。

父である諸葛謹が真面目で実直だったことを考えると、とても信じられない性格である。

「次の皇帝は孫亮とする。 そなたらにて支えよ」

「陛下の仰せのままに」

「うむ。 呉は四家を失ったことで、一気に国力を衰退させた。 奴らは朕が地獄に連れて行くことが出来たが、未来まで連れてくることは出来ぬ。 そなたらが、呉の未来を作るのだ」

孫権の言葉は淡々としていたが、実際は哀訴に近かった。

しかし、それに心を動かされている者がいるのか、不安であった。孫権は、もはや誰も信じられないとも思っていたからである。

ふと気付くと、周囲は光に包まれていた。

兄が、迎えに来てくれたのだと、孫権は悟る。若々しく軽やかになった足どりで、光の中、孫権は歩んでいった。

 

3、夏候覇、母丘険の乱

 

司馬懿が死んだ。

秘匿されていたその情報も、蜀漢軍が撤退すると、即座に魏全土を駆けめぐった。公式発表では病死とされたが、最後まで側に着いていた王濬は口をつぐんでおり、それが却ってあらぬ疑いを拡散した。

司馬一族の専横。

それが、魏に影を落とし始めていることを、誰もが知っている。しかも司馬一族は、賄賂を取らぬと称して、結局一族だけで全てを独占しつつある。優秀な武官や文官は、皆姻戚関係を半ば強引に結ばされ、曹氏でさえ人にあらずと言った強引かつ我が物顔な態度で、大都市を司馬一族が闊歩し始めていた。

有能な人材がもてはやされるのであれば良かっただろう。事実曹操の時は、曹操が専制を行っていても、有能な人材達が魏(当時は漢であったが)をうまく運営していて、民は比較的安寧な生活を送れていた。曹叡の時代までは、その良き伝統が、完全にとはいかずとも、巧く受け継がれていた。

だが、時代は変わった。既に能力よりも血筋がものをいうようになりつつある。

その上、曹爽による圧政が、魏全土を痛めつけていた、その直後と言うこともある。民の不満は爆発寸前にまで沸騰し、既に各地で堤防の堰を切ったかのように、反乱が頻発し始めていた。

皮肉なことに。それら不満の先頭に立ったのは。

追い詰められた、旧権力層の者達と、生真面目に国を想う忠臣達ばかりであった。

それらの事情を、ケ艾は間近で見ているし、聞かされている。何よりも。こういう嫌がらせに近い形で出兵させられると、流石に頭にも来る。のんびり屋であるケ艾だって、怒る時は怒るのだ。

「ケ艾将軍。 まもなく、接敵します」

王桓の声もほろ苦い。ケ艾は無言で頷くと、前に布陣している敵軍を見つめた。

数は三千。味方は二万だから、勝ったも当然だ。名目上の司令官は郭淮になっているが、既に屋敷から出られない状態になっている。だから、事後処理まで含めて、全てケ艾がやらなければならなかった。

笑顔が減ったと、周囲からは言われている。

総司令官になった重責ではないかという噂もされている。だが、違う。

ケ艾は常に自分の速度で物事をこなす。だから、別に西方方面の総司令官になったと事で、別に精神的な苦悩はない。

司馬懿が死ぬや否や、瞬く間に魏の全てを掌握した司馬師と、司馬昭は、ケ艾を目の仇にしている。司馬懿の子飼いだったと言うこともあるが、多分何処かで知ったのだろう。曹芳のことを託されたと。

だから、このような任務も全て押しつけられている。

目の前に広がる敵陣には、こんな旗が翻っていた。

「夏候」

敵は。魏の皇族にして、重鎮。そのまま出世すれば、大将軍にもなれた男。

何度も鞍を並べて戦った武将。夏候覇であった。

能力的にはさほどでもないが、何しろ皇族である。まとめ役である事を期待され、諸葛亮との戦いでも何度も一緒に死線をくぐった。有能ではなかったかも知れないが心優しい人物で、一緒にいて不快感を感じたことはない。

「ケ艾将軍」

「作戦通りに行動してください。 相手が魏の皇族とはいえ、謀反人であることに代わりはありません」

「わかりました」

王桓は、どうやらケ艾の無念を察してくれたようだった。

夏候覇の用兵なら、何度も間近で見ているし、多寡が知れている。一度、全軍を無造作にぶつけるだけで、勝負はついた。元々主力は不平不満に槍を取った農民ばかりである。屯田兵ならともかく、戦の訓練など受けておらず、しかも平和慣れした時代に生きてきた者達ばかりだ。

かっての流民崩れの者達であれば、それなりの修羅場は潜った経験があっただろう。しかし、今ケ艾が蹴散らした者達は、違った。

戦いは、わずか一刻で終わった。

王桓が戻ってくる。いつも怪我をして戻る腹心は、今回に限っては返り血も浴びていなかった。前線に出る事さえなかったのだろう。

「終わりました。 夏候覇どのは、逃走した模様です」

「そうですか。 捨て置きなさい」

「はい。 しかし、よろしいのですか」

「……次の対応があります。 急ぎましょう」

既に夏候覇の軍勢は四分五裂しており、生き残った者達もあらかた降伏した。その上、連れてきている二万の内、殆どはこの州の治安強化のために連れてきた部隊である。わざわざケ艾が指示を出さなくとも、放っておけば司馬師が好き勝手にさせることだろう。

まだ、反乱軍は各地に幾らでも湧いている。その殆どが弱小ばかりだが、叩いておかなければ勢力を拡大し、魏の脅威になりかねない。

ケ艾は馬を走らせる。

決して、正義だとは思えぬ戦いのために。

 

二月も戦い続けた後。ようやく、ケ艾は洛陽に向かい、司馬懿の死を看取った王濬に面会することが出来た。司馬師に呼びつけられて、その合間に、である。

七つの小さな反乱を制圧し、軍を置いてきた後である。鎧に飛んだ返り血を拭う暇さえもなかった。

既にケ艾は、鬼将軍とあだ名を付けられている様子だった。いつ恨みを持った民に刺されるかわからないと言うことで、王桓がずっと側に着いている。何だか悲しいことだなと想うが、今はそれ以外に聞かなければならぬことがあった。

司馬懿が身罷った屋敷は、壊されずに残っていた。王濬も、其処に控えてくれていた。

実直な王濬は、ケ艾を見ると感極まった様子であった。

「ケ艾将軍、ご無事で何よりです」

「王濬将軍も」

侍女が茶を出してくる。いや、粗末な格好をしているが、細君か。多分、あまり贅沢はさせられないのだろう。何しろ、王濬は司馬懿直属だったのだから。

座って茶をすすると、王濬は周囲を確認してから切り出す。

「早速ですが、私をケ艾将軍の幕下に加えていただけませんでしょうか」

「なぜでしょうか」

「此処では人目が多すぎます。 真相を話すにしても、将軍にまで危険が及ぶ可能性がありますから」

「わかりました。 それがよいでしょう」

後は他愛もない話題を、わざと大声で話し合った。王濬は意外にもくだらないだじゃれが好きらしく、免疫がないケ艾は不覚にも大笑いしてしまった。多分隠れている細作達も、それを聞いて安心したことだろう。或いは、何かの暗号かも知れないと、小首を捻りながら司馬師に報告にでも行ったのかも知れない。

しばらく馬鹿な話をした後、司馬師の屋敷に向かう。

それは、さながら王侯を思わせる、豪華な屋敷であった。内部の装飾も豪勢で、中には露骨に皇帝を意識したようなものもあった。

不快だが、我慢する。

この様子では、曹芳はさぞ辛い思いをしていることだろう。

屋敷に出向いてから、三刻も待たされた。

ケ艾は仮にも西部方面の総司令官である。預けられている兵力は少ないが、蜀漢が攻め込んできた時には正面から迎撃しなければならない立場にある。それなのに、この待遇の悪さは、特筆に値した。ただ、司馬一族ではない。それだけの理由で、権力を示すためにくだらない事をする司馬師のことを想い、想わずケ艾は頭痛を覚えてしまった。

やがて、司馬師が出てきた。

父が死んだというのに、まだ若い司馬師は。まるで悲しんでいる様子もなく、平然としていた。

左目の下に、瘤がある。それは以前見た時にもあったのだが、より大きくなっているように見えた。

 

司馬師は細作からの報告を受けて、小首を捻っていた。

林と密かに同盟を結んだのは、少し前のこと。父の隠し弾として活躍してきた林を手中に収め、司馬師は満足にほくそ笑んでいた。だから、その優秀な情報網を得て、何でも出来ると思ったのだが。

ケ艾と王濬の会話は、理解不能だった。天才を自認する司馬師にとって、これは屈辱。不快感を歯ぎしりで抑えながら、しばし会話の内容を解析に懸かる。だが、どうしても理解にはつながらない。

私は天才だ。英雄だ。言い聞かせながら、じっくり解析を続ける。いつの間にか、一刻以上が経過していた。

幼い頃から、母に言われていた。お前達兄弟は英雄だ。天才だ。だからこそ、父がいなくても、生きられる男になれと。

あのように無能な男に依存しなければならない司馬家を、疎ましく想っていた。だから、一族に吊し上げられたり、拷問されたりしているのを見ると、痛快でならなかった。一族のことでさえ、実はどうでも良かった。ただ、権力を得て真面目に働いている奴が酷い目に会うのが、ただ見ていて楽しかったのだ。

いつから、心に闇は巣くっていたのだろう。今としては思い出すことも出来ないが、切っ掛けだけは何となく見当がつく。母は父に輿入れした時、天下を取るのだと息巻いていたという。既に天下の形勢が定まった時機だったというのに、そう公言してはばからないほどだったそうだ。

その強烈すぎる野心が、受け継がれた。

そして、英雄ではない父を見て育ったことが、その歪みに関与した。父は有能だったかも知れないが、英雄ではなく、ただの犬だった。偏執的で、格好良い所が一つもなかった。だからそうはならないと、決めたのだろう。幼い頃には、既に。

誇りが、邪魔をする。だが、司馬師は苛立ちと共に、決断した。手を叩くと、すっと影が現れる。林の配下であり、何ら感情が見えない山越の男だ。

「暗号解析班を呼べ」

「わかりました。 すぐに」

「本当に、これらの言葉は、聞いたとおりに書き写したのだろうな」

「一語一句、間違いございません」

断言する細作を、手を払って追い払う。殺意さえ湧いた。この意味不明な内容は、きっとケ艾と王濬による密談に間違いないのだ。

暗号解読班は、文官を中心に、英明な者達で構成している。その中には、俊英で知られる鐘会もいた。鐘会は兎に角自分が聡明であることを鼻に掛ける嫌な若造だが、実際頭は良いので、司馬師も重宝して使っている。武官なのに文官達の間に混ぜているのは、単に使えると思ったからだ。

ケ艾が屋敷に来たという報告。待たせるように言ってから、司馬師は周囲を見回した。内容を見た鐘会も、小首を捻っている。

「暗号として、解読できそうか」

「この、ガッ、チョーンという訳のわからない発音に、意味はあるのでしょうか。 まるで鳥のような、更に言えばアヒルのような動きをしていると言うことですが、故事成語にこのような言葉はありましたか?」

「いや、それをいうなら、脱風だー! というこの言葉もわかりません。 何かの怪しげな暗号だとしか思えないのですが。 そしてこれを発言しながら王濬は奇怪な表情を作り、ケ艾は笑っていたという事ですが、ううむ、暗殺計画の示唆なのでしょうか」

訳のわからない単語の数々である。司馬師が匙を投げる位だから、暗号解読班も苦戦していた。

そんな中、父の密偵として曹爽派に潜り込み、情報を提供していた賈充が空気を読まない発言をする。

「単に、だじゃれの類だという可能性は」

「そんな訳があるか! 王濬は生真面目な男だと聞いている! きっと裏で司馬師様の権力を脅かす策謀を巡らせているに決まっているであろう!」

「いやあ、この様子だと、皆に好かれているケ艾が暗い顔をしているのを見かねて、王濬が秘蔵のだじゃれを披露したとしか思えないのですが」

賈充の発言は、完全に無視された。司馬師も無視した。そのようなことがあるはずはないと思ったからだ。

肩をすくめる賈充は放って置いて、司馬師は咳払いをした。

「やむを得ん。 とにかく、暗号なら暗号で、そうでないならそうでないで、見極めておく必要がある。 解析を続けよ」

「わかりました。 しかしもしも暗号だとすると、動作や道具まで使っていると言うこともあり、複雑きわまりないものとなります。 この天井に仕込んでおいた桶を落として、転んだ所に、頭に直撃というところなどは、特に意味がわかりません」

「はっはっは、生真面目な男だと聞いていますが、体を張っただじゃれですなあ。 きっと相当前から仕込んでいたのでしょう。 ケ艾将軍は皆に愛されていますからな」

「……」

司馬師がきっとにらみ付けるが、賈充はついと視線を背けてしまった。

気味が悪い男である。卑屈だと思えば不遜、不遜だと思えば従順。父も扱いに苦労したと聞いているが、意味不明さには司馬師も鼻白まされる。

仮にもケ艾は、西方方面軍の総司令官で、夏候覇の乱を鎮圧した功労者でもある。それに、これから任せなければならない仕事もあるため、あまり邪険にも出来なかった。既に三刻近く待たせてしまっている。舌打ちして、司馬師は立ち上がった。

暗号解析班を残して、待合室に。

流石に機嫌が悪そうに頬を膨らませていたケ艾は、司馬師が来ると抱拳礼をした。盗人猛々しい奴と、司馬師は内心で相手を罵る。さっきまで怪しげな密談を王濬としていたくせに、生意気である。

「このたびは、ご愁傷様です」

「うむ。 それで、将軍にはこれから揚州に向かって貰いたい」

「揚州、ですか? 呉に備えよと言うことでしょうか」

「いや、違う。 寿春に配置した母丘険がおかしな動きを見せ始めていてな。 それに備えて貰いたいのだ」

母丘険。

かって河北に配置されていた将軍で、俊英として知られている。確かケ艾とは、公孫淵の討伐で鞍を並べたこともあるはずだ。猛将だが、戦略面では若干稚拙な所があり、それが故に公孫淵に遅れを取った。ただしその後、楽浪に攻め込んできた夷敵の高句麗を撃退することに成功しており、首都まで攻め込んで敵を蹂躙している。単純に戦わせれば、それなりの力を発揮する男なのだ。

しかし、何を間違えたか、この男は魏王朝に忠義を尽くすなどとほざいて、司馬師に敵対する姿勢を見せている。何が忠義か。

「母丘険は、魏王朝に徒なす存在を討つと公言していると聞いております。 それならば、魏王朝への忠義を形で示せば良いのではありませんか」

「馬鹿なことを言うな。 既に命数を使い果たした魏王朝など、情けで存続させてやっているだけのことだ。 曹芳も邪魔になったら退位させる。 もう用はないからな」

事実を指摘してやると、ケ艾はどうしてか青ざめた。怒りを押し殺している様子のケ艾を、どうしても司馬師は理解できなかった。

曹家も簒奪して、天下を取ったのだ。今や天下の主権を手にした司馬一族が、同じ事をして何が悪い。それに関しては、父も同じだ。あの最後まで司馬師を認めようとせず、英雄でもないのに己のやり方を押しつけてきた無能で愚劣な父も。忠義だの忠誠だの平穏だのと、巫山戯た寝言ばかり抜かしていた。

強者が搾取するのは、当然のことだ。弱い方が悪いのだ。だから、力を思う存分使って、弱者は捻り潰し、逆らえないように教育し、搾取して良いのである。故事に出てくる英雄達も、平和をそうして作ったのだと、司馬師は解釈している。それを真似して何が悪い。

それに、ケ艾のことも、元々気に入らない。女なぞ、臥所で子を孕むためだけに存在していると、司馬師は考えている。母もその点は同じで、だから尊敬など微塵もしていない。そんな子を産むためだけの道具が、軍事に政務にしゃしゃり出ていることが、不快でならなかった。

「わかりました。 それでは、一つだけお願いがございます」

「何だ」

「母丘険将軍の起こす可能性が高い反乱を早期に鎮圧したら、曹芳陛下を退位させた時、私に預けていただきたく」

「ふん。 早期に解決できたら、な」

不快な奴だが、ケ艾の実績は認めている。だから、それくらいの取引には応じてやってもいい。ただ、対等に取引など出来る立場にないことくらいは、何処かで思い知らせておかなければならないだろう。

「だが、母丘険の一味は、私が裁く」

「わかりました。 それだけでしょうか」

「そうだ。 退出して良い」

「失礼いたします」

抱拳礼に乱れはない。普段はおっとりしていてドジが多いと聞いているが、緊張している時はきちんと動ける奴なのかも知れなかった。

ケ艾が出て行くと、腰巾着が何名か入ってくる。その中には、賈充も混じっていた。

「明らかに、何か企んでいるように見えますな。 司馬師様が斬りつけられるのではないかと、不安に胸が押しつぶされそうでした」

「いやあ、ケ艾殿の武勇はその辺の兵士以下どころか、よく言って普通のおなご並ですからなあ。 いや、運動神経はかなり鈍い方だと言っておりましたし。 馬術や剣術は長年の訓練でどうにか基礎だけは出来たと言っておりましたが、多分知勇共に優れる司馬師様には、到底及ばないでしょう」

「貴様、巫山戯ているのか!」

「いえいーえ。 側でずっと見ておりましたから、事実でございますよ」

賈充は相変わらず全く周囲と空気を会わせない。いい加減司馬師も苛立ってきたので、全員を纏めて部屋から追い出した。

侍女を呼んで、茶を出させる。思い切り濃い茶だ。

そして、焼き菓子を並べさせる。曹一族の歴代党首が好んだという茶菓子である。口に入れて噛み砕く。甘いのとか苦いのとかがあるが、美味しいとは思わない。曹一族を征服した気分を味わうために食べているのだ。

「ふん、くだらん奴らだ」

司馬師は毒づくと、降らぬ魏王朝にとどめを刺すべく、策謀を巡らし始めた。左目の下の瘤が疼く。何度かなででいると、鋭い痛みが走ったので、司馬師は手近にあった硯を床に投げつけて、叩き割った。

どいつもこいつも。吐き捨てて、欠片を踏みつぶす。凶暴な殺意が、沸き上がって仕方がなかった。

屑のくせに、こう言う時に限って侍従や取り巻きどもは周囲から姿を消している。それが余計に苛立ちを募らせた。

司馬師は剣を抜いて街に飛び出すと、とりあえず最初に目に着いた街の民を、斬り捨てた。今の立場であれば、もみ消しなど簡単である。そもそも民など、司馬師はゴミの一種ぐらいにしか思っていなかった。

死体が八つ裂きになるまで、奇声を上げながら、司馬師は剣を振るい続けた。

 

司馬師の所から退出した後、ケ艾はまっすぐ宮廷に向かった。

既に曹芳は成人し、慎ましい規模ではあるが後宮も作られている。同年代の女子ばかりを集めているという話で、ままごと後宮などと陰口も叩かれているようだが、皇妃達とはおおむね上手く行っているという噂であった。

久し振りにあった許儀は、憔悴しきっていた。

司馬懿が死んだ直後から、後宮の警備などにも口出しが酷くなってきているという噂は聞いていた。このままだと、前線に出されるかも知れないという話もあるという。司馬師が何を考えているか、明白すぎて、吐き気がするほどであった。出来れば王濬だけではなく許儀もケ艾が守りたいが、難しいかも知れない。

「ケ艾どの。 良く来てくれたな」

「許儀将軍。 陛下は?」

「此方だ。 今は政務の最中だから、それが終わってからの面会となる」

司馬師に随分待たされたから、もう夕刻だ。

朝廷という言葉があるように、皇帝としての責務は午前中に行うのが普通である。曹芳はあまり有能でないことを自覚している分、時間と手数でそれを補おうとしている所が見えて、それが逆に痛ましい。司馬師にしてみれば、鬱陶しくて仕方がないことだろう。

「司馬師に邪魔されて、政務など殆ど出来ないのではありませんか?」

「その通りだ。 あまり声を大にして言うではない」

「……ならば、なぜこれほどに時間が?」

「手習いの小僧がやるような仕事と、押印ばかりが押しつけられているのだ。 仕事がしたいのなら、これでもしていろと言わんばかりにな」

まるで子供だ。司馬師は自分を英雄で天才だと思っているようだが、このやり口の下劣さは一体どうしたことか。

天下は統一に向けて、確実に動いている。このままであれば、天下の覇者となるのは、ほぼ間違いなく司馬一族だ。それなのに、どうして天はこのように残忍な仕打ちをするのか。悲しくて、ケ艾はため息しか出なかった。

しばしして、曹芳の政務が終わる。面会すると、曹芳は憔悴しきっていた。周囲には、余計なことを言わないように、監視役らしい役人と宦官が何名も控えていた。司馬一族が魏の実権を握ってから、曹操がほぼ廃止してごく少数だけになっていた宦官が、また増やされたのである。

司馬一族は、漢を成立させた劉氏よりも古い歴史を持つ。故に、漢王朝よりも更に古い時代の腐敗を未だ内部に抱えている。宦官もその一つであることは、間違いなかった。

「ケ艾、参上いたしました」

「おお、ケ艾将軍か。 近うよれ」

五歩ほどの距離まで。こうも監視がきついと、伝えることは難しいかも知れない。許儀に言うとしても、多分曹芳に直接伝えるのは難しいだろう。何か良い案は無いかと思案している内に、曹芳が口にした。

「寿春に出向くと聞いている。 反乱の討伐と言うことだな」

「即座に反乱軍を討伐し、すぐにでも戻りまする」

「うむ。 将軍は、魏の宝だ。 努々無理をして、その身を危険にさらすことがないようにな」

「ありがたきお言葉にございます」

二言、三言と話をする。

その間も、文官達が一語一句余さず記録を続けていた。

此処まで来ると、司馬師は陰湿なのではなく、ただ小心なのではないかと、ケ艾には思えてきた。司馬懿も小心な所のある人だったが、その性質の違いはどうしたことなのだろう。或いは司馬懿も、曹叡の心に感動しなければこういう行動に出ていたのかも知れないと思うと、背筋に寒気が走った。

宮廷から退出する。その間も、ずっと背中に視線を感じていた。司馬師はきっと、天下を取った時には全土にこのような監視網をしくのではないか。そう、ケ艾は思った。

一晩だけ休んだ後、王濬を連れて洛陽を出る。陳泰も社預も、今回は長安付近に駐屯している状態だ。体の良い人質である。司馬師も後から出撃してくると言うことだが、実戦もろくに知らない輩の用兵など当てにならない。

王濬が、行軍中に馬を寄せてきた。やっと、聞くことが出来る。

「それで、この間の件ですが」

「はい。 丞相に関しては、恐らくは病死です。 毒が盛られた形跡はありません」

「しかし、何かあるのですね?」

「実は、丞相をずっと見ていた医師が、不意に引き抜かれたのです。 司馬師様の治療に必要だという名目で」

なるほど、そう言うことか。

司馬師は余程父に長生きして欲しくなかったのだろう。事実、司馬懿は司馬一族の権力を、必死に押さえ込んでいた。曹芳が天下の実権を握るまで、自分が防波堤になるつもりだったのだろう。

だが、司馬師には、それが邪魔だった。あの様子からして、親子の情などあるとはとても思えない。間接的に父を殺すことなど、それこそどうでも良いことだったのだろう。

親子の情。

そんなものが幻想に過ぎないことは、他ならぬケ艾が一番良く知っている。幼い頃、流民だったケ艾は、病気によって子供が産めない体質になったと判明した途端、親に間引かれかけた。

救ってくれたのは、実の親ではない韓浩だった。育ててくれたのも、である。

その親という連中は、ケ艾が立身してから、のうのうと、養ってくれと押しかけてきた。立身したのだから、親を養うのは当然だと。しかも、大勢親族とかいう連中も連れて、である。

牛金が追い払ったと聞いているが、その後の消息は知らない。知りたいとも思わなかった。

だが、司馬懿は。そんな親とは違うはずだ。それともケ艾の親も、身勝手で冷酷な一面の他に、情に厚い側面でもあったのだろうか。

「司馬一族が天下を取った時、中華はどうなるのでしょうか。 司馬師様に面会して、私は不安を感じてしまいました」

「私もです。 どんなに腐敗していても、平和は平和だと、私は思っていました。 しかし、それも今では揺らぎつつあります。 司馬師様が長生きすればするほど、その不安は大きく育つような気がします」

「司馬師様は、恐らく長くありません」

さらりとケ艾が言ったので、慌てて王濬が周囲を見回す。行軍している兵士達は、皆子飼いばかりだ。だから、問題はない。

ケ艾の子飼いの兵士達は、皆司馬師に不安を持っている。長安で育てた部隊も、それは同じだ。だから危険視もされている。

「出がけに医師に聞いたのですが、目の下の瘤、ここ数年で一気に大きく、黒くなっていると伝えると、医師は恐らくそう長くは生きられないでしょうと言っていました。 問題は、司馬師様の跡を継ぐ、他の司馬一族ですが」

「人材がいるとは聞いていません。 野心強く、欲深く、司馬師様の同類だと」

「その子孫達の時代に、天下統一はなるでしょう。 その時には、少しでも腐敗が解消していればいいのですが」

多分無理だろうと思いながらも、ケ艾は言う。

腐敗していても、平和は平和だ。戦乱よりはずっとマシである。洛陽や許昌、?(ギョウ)の繁栄を見ていると、それが真実だとよくわかる。しかし、今より更に司馬一族がおごり高ぶった時、何が起こることになるのか。

恐らくそれは、分裂だ。

司馬一族は今でこそ一枚岩だが、天下を取って各地の権力を独り占めしたら、恐らく内部で利権の奪い合いを始める。そして、以前聞いたことがある。周辺の異民族は、漢民族の内乱に利用された結果、以前とは比較にならないほどに戦の技術を身につけていると。傭兵として活用もされたため、経済力に関しても相当に潤っているはずだ。

結果、導き出される結果は。

恐らく、中華史上、最大最悪の戦乱。それは下手をすると、中華という文明が、消滅する可能性さえ孕んでいる、最凶の危機につながるはずであった。

そこまでに人間は愚かではないと、ケ艾は信じたい。だが、急速に司馬一族に傾きつつある形勢を見ると、世をはかなみたくもなってくる。

寿春近郊に到着。

母丘険が反乱を起こしたのは、それから少しして。孫権の死が呉に伝わり、孫亮が新たな皇帝に即位して。そして諸葛格の率いる呉軍と、何度か小競り合いが起こった後であった。

その直前に、許儀が西方の戦線に強引に移転させられ、曹芳が退位させられた。

ケ艾には、もはやどうすることも出来なかった。曹芳の命を守るためにも、反乱軍を撃破しなければならなかった。

 

天幕に諸葛誕が入ると、既に其処には討伐軍の面々があらかた勢揃いしていた。特に最精鋭を率いているケ艾と、その幕僚達は、いつでも会議が出来るように準備を整え終えている様子であった。

「諸葛誕、着到いたしました」

「ケ艾です。 よろしくお願いいたします」

ケ艾は諸葛誕と初体面である。だが、驚くこともなく、抱拳礼をしてきた。

諸葛家は、魏、呉、蜀漢、三国全てにて高官を輩出している名家である。しかしながらあの諸葛亮があまりにも高名であるため、諸葛誕は幼い頃から比較されることが多かった。

それ故に、長身であばたまみれの四角い顔をしているごつい諸葛誕が姿を見せると、誰もが驚くものであった。だが、ケ艾は噂通り自分の速度で物事をこなす輩らしく、特に驚くことも無かった。其処に、諸葛誕は好感を持った。今まで会った連中は、武官にしても文官にしても、まず諸葛亮の印象と違う自分の容姿を見て、それを指摘してきたからである。

既に、机上には地図が拡げられている。

そして、寿春にて氾濫を起こした母丘険の布陣が、緻密に書き込まれていた。

母丘険は長らく河北にいたが、この地に赴任してきてからは対呉戦線で活躍し、何度か諸葛格と刃を交えている。秀才で名高い諸葛格が、一度魏軍を大破しているのを知っている母丘険は正面からの決戦を避け、持久戦に持ち込んで撤退に追い込んだ。この実績を例に挙げるまでもなく、昔より随分手腕を増している。

母丘険軍には、猛将文鈞が協力していた。それだけではない。歴戦の強者である文鈞の息子には、少し前にケ艾が面倒を見たという、文俶がいる。若いながらも、蜀漢の趙雲に並び称される武勇の持ち主で、確かに相当に強い。敵兵は六万と自称しているが、実際には一万八千程度。それに対して、集結している魏軍は、既に五万を超えていた。

二十六万などと自称する司馬師の本隊も南下しつつある。此方の実戦力は六万程度だが、合計すれば十万に達する。母丘険はかなり緻密に反乱計画を立てていたらしいのだが、直前になって不意に情報網が切断され、殆ど単独での挙兵となったという。寿春を抑えるのでさえ、ぎりぎりであったそうだ。

諸葛誕と母丘険は、何度も手柄を争い合った仲である。互いを意識してきた間柄であり、故に魏に反旗を翻したことについては同情せざるを得ない。諸葛誕も、曹芳を強引に退位させた司馬師のやり方には、腸が煮えくりかえるものを感じていたからだ。

ケ艾は、どうなのだろう。

平静を保っているように見えるが、内心は動揺しているのではないのか。しかし、諸葛誕が見る限り、そうは思えなかった。

「反乱が長引くと、諸葛格が出てきます。 彼は優秀な将軍で、抑えるのはあまり簡単ではありません。 兵も三万は連れてくるでしょうし、寿春と連携されると面倒なことになりかねません。 速攻で、敵を瓦解させます」

「何か策が?」

「まず、呉の援軍が来たと、噂を寿春に流します。 それと同時に、主力部隊は南下し、呉軍に備えている振りをしてください。 私は一万を率いて、東の楽嘉に布陣します」

「しかしそれでは、ケ艾将軍が孤立するのではありませんか?」

ケ艾の手腕は、諸葛誕も聞いている。あの諸葛亮と若い頃から渡り合い続け、蜀漢の猛将として知られる陳式と五分に渡り合ってきたという。だが、母丘険を相手に、半数程度の兵力でどうにか出来るものなのか。

ケ艾は静かに微笑むと、ゆっくり地図上に指を走らせた。

「この地形は、一見して何ら工夫のない平原に見えますが、この地点に伏兵出来るくぼみがあります。 五千を此処に伏兵し、母丘険軍の横を突きます。 勝てるかはわかりませんが、進撃を食い止めることくらいは出来るでしょう」

「なるほど。 其処で我らが反転して、一気に寿春を突くのですな」

「その通りです、諸葛誕将軍。 無理をしなくても大丈夫です。 寿春を突くそぶりさえ見せてくれれば、後は我が軍だけでどうにかして見せます」

唸る。鮮やかな策だ。不自然さもないし、主力決戦に母丘険を引きずり出せる狡猾さも見せている。

しかし、このような人材が、どうしてこの程度の兵力しか預けられないのか。十五万程度の兵を与えれば、蜀漢を滅ぼし、余勢を駆って一気に呉も滅ぼせるとしか、諸葛誕には思えなかった。

自立されることを恐れているとしたら、何とも小心なことである。

「王濬、王桓。 それぞれ二千五百を率いて、此処に布陣。 わら人形を使った疑兵の計を用いて、兵力を一万程度に見せてください」

「わかりました。 すぐに」

「社預は私と一緒に、伏兵の指揮です。 敵は恐らく文鈞、文俶が出てきます。 率いたことがあるから手並みは知っていますが、かなり手強い親子です。 間違っても、正面から戦ってはいけません」

「承知いたしました」

ケ艾に心酔しているらしい社預が、若々しい顔に決意を湛えて、力強く抱拳礼した。みずみずしい若さと忠誠心を見て、諸葛誕も思わず眼を細めていた。曹叡が生きていた頃なら、出世できていたかも知れない。もしこの若者が出世できるとしたら、よほどの才覚を見せるか、或いは司馬一族に尻でも娘でも差し出すしかないだろう。皮肉な話であるが。

「別働隊は、諸葛誕将軍。 後は諸葛緒将軍、お任せしてもよろしいでしょうか」

「わかりました。 何なりと」

諸葛緒は誕とは別口の諸葛一族で、血縁はだいぶ遠い。早くから司馬一族に媚びを売っていたから、未だに生き残っているが、あまり能力的には恵まれていない。ただし何しろお金持ちなので、率いている兵だけは多い。いずれにしても、実質的な指揮は、諸葛誕が取ることになるだろう。

天幕を出る。

勝てそうだと、諸葛誕は思った。

そして同時に、惜しいとも。あれほどの知謀、指揮。魏のためだけに働けば、きっと司馬一族も打倒できるだろうにとも。

世は、禍々しい力に覆われようとしている。

諸葛誕は、それを決して良しとはしていなかった。

 

文鈞は猛将であった。息子である文俶から見てもほれぼれするような武芸を持ち、大概の武人が相手なら引けを取ることはなかった。馬上での戦闘は特に巧みで、蜀漢との小競り合いでは何度も名のある武者を討ち取っていた。

だが、人付き合いが極端に下手でもあった。

今回反乱に参加したのも、曹爽派にいたからである。昔から舌禍という言葉の見本のような人物で、軽々しく体制を批判したり悪口を言ったりしたりして、罷免されたり投獄されかかったりしてきた。曹爽の同郷出身であることや、その並外れた武勇を惜しまれたため今まで軍に残っていたが、それもいよいよ危なくなってきたのだ。司馬懿が死んでからと言うもの、特にその傾向は顕著になってきた。

だから、文鈞は母丘険の誘いに乗ったのである。

文俶は、正直忠義について、よくわからない。

強い相手と、己の武勇だけを競えれば良かった。

百年早く産まれていたらと、何度思ったか知れない。呂布、関羽、張飛、趙雲、許?(チョ)、典偉。あの時代には、名だたる猛将豪傑が綺羅星のようにいた。戦うことかなわぬ英雄達と、一度で構わないから刃を交えてみたい。父以外に、自分とまともに戦える相手とほとんど出会ったことのない文俶は、そう常日頃から思っていた。

母丘険の一万を後詰めに、五千の文俶軍は東進を続ける。単独行動を開始したケ艾軍を叩くためである。ケ艾は何度か指揮を受けたが、非常に優秀な将軍だ。罠ではないかと文俶は思ったのだが、父は罠ごと噛み破ると鼻息粗く言った。事実父ならそれも出来るのではないかと、文俶も最後には同意した。

程なく、楽嘉に到着。

敵の数は、話通り約一万。長い横陣を組んで、此方の突撃を待ちかまえている様子であった。

騎馬兵中心の文俶軍は、鳥丸族の戦士を多く抱えており、戦闘能力が著しく高い。倍程度の歩兵であれば、一気に噛み破ることが可能。文鈞はそう判断したらしく、銅鑼が激しく叩きならされる。

突撃の合図だ。

「敵を踏みつぶせ! 突撃だ!」

「殺っ!」

一斉に、兵士達が武具を振り上げ、唱和する。騎兵三千、歩兵二千の機動部隊は、怒濤のごとく敵陣に殺到する。

そして、至近に此方が迫るまで、敵は動かなかった。

おかしい。そう文俶が思った時には、既に全軍は、罠に落ちていた。

文鈞が、敵の第一陣に突っ込む。突破したと思った瞬間、蹴散らしたのがわら人形に過ぎないと気付く。文鈞が流石に馬首を返そうとした瞬間。前後左右から、猛火が文鈞の軍勢を押し包んでいたのである。

悲痛な悲鳴を上げる馬。鳥丸の勇者達も、見えない相手が敵ではどうしようもない。混乱する彼らに、前後左右から矢の雨が襲いかかる。更に、柵の間からは長槍が非情な穂先を繰り出してきた。見え透いた罠にはまりながらも、歴戦の勇者である文鈞は、自力で敵の包囲を突破、一旦後方に退く。

文俶は一旦兵を止め、敵の出方を見にかかる。それが、正解だった。

敵陣から、どっと敵兵が躍り出てくる。数は四千、いや五千か。一旦足を止められた鳥丸族の勇者達に、剽悍な敵兵が襲いかかり、次々馬の足を切った。悲痛な嘶きをあげて、馬が竿立ちになり、或いは横倒しになる。そして、至近から混乱する鳥丸兵に、矢の猛射が浴びせられた。

この練度、並の兵士ではない。歴戦の猛者どもだ。そしてこんな歴戦の兵士達を率いている将軍は、今魏に一人しか居ない。ケ艾である。

「ひるむな! 懸かれっ!」

流石はケ艾。文俶は舌を巻きながらも、馬を走らせ、敵に躍り掛かる。父の軍を混乱させていた敵だが、文俶の援軍が加わると、支えきれずにさがり始める。猛火に包まれる陣で、文俶は槍を振り回して荒れ狂った。

見えた。敵将、王桓だ。

王桓は既に下位の将軍にまで出世しており、名門での文俶に地位では肩を並べている。吠え、躍り掛かる。文俶を見ると、王桓は一騎打ちを受けて立ってきた。槍と長刀がぶつかり合い、火花を散らす。なかなかの強力だが、顔を歪めるのは王桓の方だ。若干、武勇では文俶の方が上か。十合、二十合、三十五合を越えたところで、文俶の繰り出した槍が、王桓の肩を抉って、打ち倒した。

「とどめだ!」

「文俶将軍!」

兵士が悲鳴を上げて、その側頭部に矢が突き刺さる。どっとなだれ込んできた敵とあわせて、跳ね起きた王桓が炎を壁に、此方を包囲に掛かった。舌打ちした文俶は、滅茶苦茶に大暴れしている父に叫んだ。此処は引かないと危ない。

「父上! 背後に回られました!」

「ちいっ! こしゃくな!」

血みどろになって猛戦していた文鈞も、状況に気付くと流石に逃げに掛かった。鳥丸族の精鋭を先頭に、敵を突破する。四百ほどを失っていた。敵も、二百程度を失った様子である。

追撃してくる敵は、馬上にて小型の弩を構えていた。鋭い音と共に、次々に騎兵がたたき落とされる。文俶は時々とって返しては敵の側面を突こうと図ったが、恐らく王濬だろうか、見事な指揮で此方の先を読んで、とても近づけなかった。

それでも、どうにか追撃速度は鈍化させ、主力部隊は脱出させることに成功。文俶は、悠々と母丘険と合流した。

追撃戦で、多くの味方を失った。負傷者を含んで、味方は四千強まで目減りしている。それに対して、敵はほぼ戦力が健在だった。

母丘険は腕組みして、戦いの様子を見ていた。敵は約一万という所か。対して、味方は一万七千が健在である。兵力差は倍。一気に押し出せば勝てそうだが、文鈞でさえそんな事は言い出さなかった。

「一旦後退する。 寿春の様子が気になる」

「同意する。 ケ艾の軍勢は、如何に精鋭といえども一万程度。 我が軍を撃破するよりも、牽制するためか、或いは陽動のために動いた可能性が高い」

相変わらず偉そうな文鈞の喋り方である。我が父ながら、時々心配になる。案の定母丘険は露骨に眉をひそめた。同志とはいえ、母丘険と文鈞では戦歴も地位もあまりにも違うのだ。

「殿軍を任せても構わぬか」

「いいだろう。 ケ艾め、目に物を見せてくれる」

鎧に数本矢を受けていながらも、文鈞は凶暴に微笑む。文俶は、そんな父が更に心配になった。

その不安が適中したのは、母丘険軍が撤退しようと動き始めた、その瞬間である。

ケ艾軍が、一丸となり、怒濤のように動き始めたのである。

 

ケ艾は、敵陣の弱点を見抜いていた。一見すると隙がないように見えるのだが、文鈞の周囲が、過剰に攻撃に出ようと殺気を放っている。あの地点を不意に叩くことで、一気に敵を潰走させることが可能だろう。

そして、短時間で敵の殿軍を突破できれば、撤退に移り始めた母丘険軍を強襲できる。そうすれば、ほぼ倍の敵戦力を、一気に壊滅させることが出来るだろう。

銅鑼が叩き鳴らされる中、ケ艾は敵陣を見据える。

全軍が動き出す。馬を駆り、速度を上げながら、ケ艾は指揮剣を振り下ろした。

「突入!」

「殺っ!」

敵は露骨に動揺し、陣が乱れる。一つの杭となったケ艾軍は、馬上弩を乱射しながら文鈞軍に突入、ほころびに食い込むと、左右に食い破った。血しぶきを上げて四散する文鈞の軍勢を追い散らし、抵抗を試みる文俶軍も、数にものを言わせて踏みにじる。文俶は優れた武将だが、こんな状況になってしまえばひとたまりもない。

母丘険が異変に気付く。そして、陣を変更し、魚鱗に変えてきた。混乱する文鈞、文俶軍は放って置いて、一気にケ艾は敵に突入した。

先鋒がぶつかり合う。王濬が声をからして味方を叱咤、一気に敵の第三陣まで食い破った。だが、ここで母丘険が出てきて、王濬を押し返しに掛かる。激しい押し引きの駆け引きの中、態勢を立て直した文俶軍が、後ろから突っ込んできた。

ケ艾は二千の直営を率いると、不意に本隊から離れる。文俶は猛将だが、残念ながら兵の練度が伴っていない。文俶が目を剥くのが見えた。敵の首脳部と、主力の間に楔を打ち込み、一気に引きはがす。そして、本隊と挟むようにして、文俶の軍勢を殲滅に掛かった。

だが、文俶の武勇は、ケ艾の予想を超えていた。

当たるを幸いに、兵士をなぎ払う文俶。確かに趙雲に匹敵すると言われるだけのことはある。凄まじい武勇に、兵士達が道を空ける。文俶が、退却に掛かる。だが、従う部下は殆どいなかった。文鈞も既に、南へ敗走している。

すぐ至近を、文俶が抜けていく。ケ艾と一瞬だけ目があった。火を噴くような目をしていた。

「ケ艾将軍!」

「無事です」

社預が馬を寄せてきた。ケ艾は汗を拭うと、さらなる攻勢を指示。

一進一退の攻防の中、ケ艾の二千が踵を返し、敵の左翼に迫る。其処は若干坂の傾斜がきつく、敵陣が乱れていた。迂回してから、逆落としに掛かる。迎撃に出てきた騎馬隊を蹂躙すると、敵中にケ艾は一気に突っ込んでいた。

二度、敵中を抜ける。

そして三度目にとって返して突入した時。

既に、母丘険の軍勢は、秩序を失い、敗走に入っていた。魚隣は瓦解し、味方の猛攻に踏みにじられている。

母丘険は、逃がす訳にはいかない。

司馬懿に頼まれたのだ。曹芳のことを。

曹芳の命だけは、母丘険の乱を速やかに鎮圧し、なおかつ司馬一族の手柄と言うことにすれば、救ってやると。司馬師は約束した。吐き気がするほど卑劣なやり方だが、他に曹芳を守る手がない。

更に言えば、司馬一族に手柄を譲るためにも、他の武将達に母丘険を捕らえさせる訳にはいかない。司馬師は残虐な注文を付けてきたのだ。

母丘険は、武人らしくない方法で殺すと。

無論、実際に殺す方法などどうでも良い。その名誉を徹底的に奪い、死後に到るまで陵辱するのが、司馬一族の目的なのだ。二度と、逆らうものが出ないようにするためにも。

「母丘険将軍。 許してください」

かって、公孫淵の乱で、一緒に戦った相手である。捕らえたら、一言謝りたいとも思っている。

本当は、司馬一族を倒すのが正しい路なのかも知れない。しかし、統一に向かっているこの中華に、司馬一族が必要なのは間違いない所である。もし司馬一族が崩壊すれば、今の魏はもう立ち直ることもなく。そして、混乱と分裂の中、異民族が大挙して押し寄せてくるだろう。

中華は、既に詰んでいるのかも知れない。

怒濤のごとき追撃戦の中で、ケ艾は母丘険を探す。見つけた。母丘険はケ艾の旗を見ると、側にいた若者に己の兜を投げ渡し、剣を引き抜く。ケ艾の周囲を、近衛が分厚く固めた。

皆、ケ艾と一緒に死線をくぐってきた兵士達だ。

彼らに、こんな汚い路を歩ませてしまうのが、ケ艾には悲しくてならない。武人の心というのはよくわからないが、でも、勇気と武勇が報われる生き方をさせてあげたい。それなのに。ただそれだけのこともさせて上げられない無力な自分に、ケ艾は悲しみを覚えつつ、指揮剣を振った。

「母丘険将軍です。 討ち取ってください!」

「おおおおーっ!」

母丘険は、一人髪を振り乱し、悪鬼の形相で向かってきた。

そして、激しい戦いの中。無数の槍を浴びて絶命した。

最後の言葉はなかった。ケ艾は、呉に逃げるであろう僅かな残存戦力を、静かに見守った。

 

司馬師が軍を率いて寿春に入った時には、全ての戦いは終わっていた。

天幕にはいると、司馬師はまるでゴミでも見るかのようにケ艾を見つめ、そして鼻を鳴らした。

「約束通り、曹芳はお前の保護下に置いてやろう」

「ありがたき幸せにございます」

「ふん、あんな無能な若造の何処がいいのか。 親爺も貴様もよくわからん。 それとも息子のような年の若い男に欲情でもしたか」

「流石にお言葉が過ぎましょう」

ケ艾は無表情で司馬師を見返す。舌打ちすると、司馬師は視線をそらした。

司馬懿の忠義と、ケ艾の思いは違う。司馬懿のものが、曹叡に起因するものであるのなら、多分ケ艾のは母性だ。子供を育てもしたケ艾だから、それはうっすらとわかる。

今の下劣な台詞からも、司馬師がそういった感情を持ち合わせていないのは確かだ。どうして、そうなってしまったのだろう。司馬懿が可哀想だと、ケ艾は思った。

「まあいい。 これからも、我らのために働け。 そうすれば、曹芳は殺さずにおいてやる」

「ありがたき幸せ」

天幕を出る。駆け寄ってきた王濬が、天幕をにらみ付けた。

「ケ艾将軍、何を言われたのですか」

「大丈夫、大したことではありません。 母丘険軍は、一夜にして現れた司馬師様の軍勢に驚き撤退する所を、司馬師様の近衛騎馬兵に襲われて瓦解、壊滅したという事にして、史書には記すそうです」

「何と。 ケ艾将軍は」

「私はたまたま楽嘉に駐屯していた所を、母丘険軍に攻撃された、と言うことにするとかだそうです。 まあ、そう言うことにしておきましょう」

王濬が首を横に振った後、突然面白い顔をした。

「王濬、ペ!」

「あはははは! 何ですかそれ!」

「笑っていただけましたか! ははは、苦労して開発した甲斐がありました」

周囲の兵士達は全員凍り付いている。中には槍を取り落としている者までいた。

普段生真面目男として知られる王濬の、知られざる一面におののいたのだろう。気が少し安らいだケ艾は、天幕に戻ると、焼き菓子でも食べることにした。

長安に戻ったら、曹芳に会いに行こう。そして、新しく傀儡に据えられた曹髦の様子も見に行こう。

既に若くはないケ艾は、自分の肩を叩きながら、そう思った。

 

4、集う知恵の糸

 

河北、幽州に足を運んだ馬超は。配下の者達から聞いていたその庵にたどり着くと、やっと此処まで来たかと嘆息した。そして、久しぶりに会う人物に、どんな言葉を最初に掛けようかと、少しだけ迷った。だが、迷いを笑うように、運命は向こうから訪れる。

庵の戸が開き、その人物と目があった時。馬超は思わず苦笑していた。

「久し振りだな、揚松どの」

「おお、馬超将軍か」

互いに恨みも何もない。そもそも、そのような感情を、最初から抱いたこともなかった。史実とされて、まことしやかに語り継がれていることと、現実は違うものである。

奥に通される。

既に髭も髪も真っ白であったが、その懐かしい人は其処にいた。安楽椅子に腰掛けて、手元で編み物をしていたその人は。皺は深くとも、見間違えることのない顔の持ち主であった。

「おお。 懐かしや。 馬超どの」

「お久しぶりです、張魯どの」

二人とも、歴史的には既に死んだとされている人物である。しばし笑い会う。

張魯の孫であるらしい美しい娘が、茶と焼き菓子を運んできてくれた。焼き菓子は芳香がとても強く、苦みが実に美味い。

「なかなかの味でしょう。 魏武が好んだ焼き菓子ですよ」

「ほう。 曹操も、妙な所のある男であったとは聞いていましたが。 この繊細な味は、若い頃の私では理解できなかったでしょう」

「年老いてから、わかることは意外に多い。 貴方も、それだけ男として磨きが掛かったと言うことですよ」

「違いない。 風流を愛でるのは、良いことだと最近になってようやくわかるようになりました」

からからと笑い会う。

張魯は既に、九十を超えているかも知れない。今まで馬超が会ってきた賢者達の中でも、もっとも高齢だ。しかしながら目はしっかり光を保っており、口元もきちんと意志の力で制御されているのが見えた。

揚松が侍従に、料理の準備をさせている。

「?(ホウ)柔どのは」

「少し前に、旅先で死にました。 山賊から村人を守って戦い、その傷が元で。 私が少し席を外している間の出来事で、痛恨でした。 遺体は西涼に返してあります」

「そうか。 まさに男の中の男、勇敢な武人でしたな。 最後まで貴方に仕えられて、本望だったでしょう」

馬超は、静かに笑った。

そして、質問を返してみる。

「張衛どのは?」

「魏の将軍として、内部監査をしていたのは知っておりますかな」

「噂では聞いておりましたが」

「最近引退して、今ではこの小さな村の医師をしております。 すっかり寡黙になってしまい、民からは石像先生と呼ばれて慕われておりますよ」

それは面白い。張衛はどちらかと言えば熱い心の持ち主だったのに、色々あって、考えも変わったのだろう。

?(ホウ)徳も、少し前に釈放された所を会った。一緒に来るかと誘ったのだが、彼は静かに首を振ると、山で一人になりたいと馬超の側を去っていった。

年老いて死に、或いは病で、もしくは思想的な問題で。馬超の側にいた人達は、一人、又一人と去っていく。馬岱だけが残っているが、もう引退しているというし、会いに行くこともないだろう。

否、もう会ってはいけないような気がする。路は一度違えて、もう交わることはないはずだ。

「それで、此処に来た理由は」

「賢者達の知恵の路を、作るために」

「ほう。 ついに、此処まで来ましたか」

僅かな沈黙が流れた。

張魯は、魏の諜報を相当深く握っていたと聞いている。今では林が好きかってしているようだが、その前は張魯が魏の目であり耳であったのだ。今、こうして会えるのも。事実上張魯が権力を手放し、隠遁に移ったからだとも言える。

でも、知ってはいるだろう。馬超が、魏で何をしていたかは。

「やはり、この中華が、大乱に墜ちた時のために、ですか

「その通りです。 既に亡くなった陳宮どのの予想通り、この魏はどんどんおかしくなってきている。 蜀漢や呉も滅びた後、来るのは司馬一族による短い支配と、その後の致命的な大混乱。 これにほぼ間違いないでしょう」

「私もおおむね同意見です。 ふむ、その時に備えて、賢者達の知恵の路をつなげて、未来を造ると」

腕組みして、張魯は唸った。

既に、百に届こうとしている齢。それを考えると人生最後の冒険となるかも知れない。それを強要しようとしていると思うと、馬超も若干心が咎める。己の正義を何よりも優先していた若い頃と違い、既に馬超は他人の心を踏みにじる痛みを知っていた。

「もはや我らは、歴史の影にいる存在。 生きているとさえ思われていない者達です」

「そう。 だからこそに、今できることをする。 貴方が未だ温存している情報網を使えば、知恵の路を、蜀漢、呉ともつなぐことが出来る。 蜀漢と呉は関索が回って、今路を整備しています。 そして貴方の協力があれば、全ては一つの線につながるのです」

「……」

張魯は、長いこと目をつぶっていた。

その間、馬超は二杯、茶を飲み干した。

一度席を立とうかと思い始めた時。やっと、張魯は応えてくれた。

「わかりました。 もはやこの国の、いやこの文明の壊滅が逃れ得ぬ未来になりつつあるというのであれば。 力を貸しましょう」

「ありがたい。 既にお互い老いましたが、最後まで人としての生を駆け抜けましょうぞ」

馬超が言うと、張魯は殆ど残っていない歯を見せて笑った。

漢中で、共に過ごした二人の。

恐らく、最後の会話であった。

馬超が庵を出ると、揚松があたまを下げる。

「張魯様はとても楽しそうでした。 有難うございます」

「貴方も、幸せそうだ」

それ以上、言葉は必要なかった。

一礼すると。馬超は、未来のために。路をつなぐべく、歩き始めたのだった。

 

(続)