傾く大国

 

序、暗闘の裏で

 

闇を駆ける影有り。

筋肉質な肢体は、漢人のものではない。二の腕には山越の大人であることを示す雄偉な入れ墨があり、なおかつそれは返り血に塗れていた。

行く手を、数人が塞ぐ。

その全てを、短時間で斬り伏せると、影は、鳳は走る。

建業の闇の中を。

水路は闇色の水を湛え、今は誰も船を動かしていない。星明かりの下、動き回っているのは警邏の兵士達と、鳳のような闇の住人ばかりであった。

かって、魏と蜀漢が激しくぶつかり合うその裏で、自分だけ傷つかず呉は国力を伸ばし続けてきた。

建業は水運を利して発展を続け、人口は一時期洛陽に迫ったことさえある。多くの荊州からの流民が、流れ込んだことも、その原因の一つだ。だが、呉という国家が、それだけ発展していたという事の証であった。

その発展は、呉南部の民族山越からの搾取によって支えられていた。夜ごと繰り広げられるどんちゃん騒ぎを見て、鳳は怒りとどす黒い憎悪を燃え立たせたものである。それは、呉の実質的な支配者である四家の結束が崩壊するまで続いた。

今は。

今の建業は。

もはや、闇の都としか言いようがなかった。

皇太子の死は、果たして切っ掛けだったのだろうか。瞬時に崩壊した四家の連携が、呉の全てを混乱させている。どうにか建業は朱異将軍の強力な軍事力で治安が保たれているが、周辺の都市にまでその力は及んでいない。

それに、朱異将軍は有能であっても、力には限界がある。今日のように、鳳が動き回れるのが、その証拠だ。

目的の場所に、着く。

四家の一つ、張家の本家。その前だ。

山越に対する虐待、呉の民に対する搾取によって巨大化したその屋敷は、さながら王侯の宮殿を思わせる規模だ。しかし今はしんとしていて、まるで人の気配がない。外を見張っている警備の兵士も、どこか生気が無く、やる気も感じられなかった。

屋敷の周囲は、延々と城壁がごとき分厚い土塀に囲まれている。その影に潜り込んだ鳳は、中の気配があまりにも少ないので舌打ちした。やはり、何だか罪悪感を感じてしまう。自分がしていることに対する不審と罪悪感は、此処のところ大きくなる一方だ。あの林に対する不審とともに、それは育っているような気もした。

以前から目を付けていた土塀の一角。崩れている場所から、素早く中に潜り込む。警邏に見つかると面倒だと思っていたが、屋敷の警備はもはや気にもしていなかった。

屋敷の中に入ると、人気のない場所を伝って、奥へ。

厨房らしき場所はあったが、其処もがらんとしている。人気どころか、料理した痕跡すら掃除しきれていない。警備以前の問題で、管理さえいい加減だった。これでは毒も入れたい放題である。

厨房から奥へ。

途中、誰にも出会うことはなかった。たまに外で対峙する凶手は、それぞれがもはやいい加減に動いているとしか思えない。ただし、山越と見るや襲ってくるので、面倒ではあった。

息を殺しながら、深奥へ。

用心棒の一人さえいない屋敷の奥へ潜り込んでいく。それはさながら、巨大な怪物の体内に潜り込んでいく作業のようだった。生理的な嫌悪感が、全身をなで回す。このような所、仕事でなければ絶対に来たくはない。

ふと、壁にあるものに目がとまった。

月明かりの中、それが浮かび上がる。最初、何か理解できなかった。

理解できた瞬間、全身の怒りが、血管の中を駆け回っていた。

それは、生首を加工したものだった。腐敗しないように蜜蝋で固め、上から綺麗に化粧している。山越のまだ幼い娘のものだ。

屋敷の主の、下劣な嗜好による産物であることは、疑いのない所である。思わずその凄惨な代物から目を背けると、鳳は拳を固めた。化け物屋敷だと言うことは、既に分かっていたではないか。今更、初陣の小僧でもあるまいし、何を逡巡する。

数年で、斬った四家の関係者は、もはや数も知れない。

呉が崩壊に瀕しているのは、肌で感じている。態勢を整え直し、ますます強大になりつつある魏との格差も理解している。

それが、こんな形で存在しているのを見せられると、全身を怒りと悲しみが駆けめぐる。弱者は、強者の玩具ではないのだ。

闇を走る。

最奥に到着した。辺りに人の気配は極小だ。誰もが寝静まっているのだろう。この巨大な屋敷も、今や管理する人間が減った、がらんどうの空洞に過ぎない。

当主の部屋に、いた。今、張家の裏を取り仕切っている、張機だ。皺だらけの老人で、威厳も何もなく、大きく口を開けて寝ている。隣で裸に剥かれてに寝ているのは、妻だろうか。幼ささえ残った漢人の娘で、全身に歯形の跡があった。寝ていると言うよりも、気絶しているような雰囲気であった。

ゲスが。

無言で、老怪の胸に、刃を突き立てる。悲鳴残さず、張家の怪物は息絶えた。

権力闘争で互いにつぶし合う形で、既に朱家、陸家の当主も命を落としている。更に張家がそれに加わったことで、今後呉の政治的な混乱が加速するのは間違いない。自分がしたことは大きい。そう胸を張ることが出来ないのが、悔しかった。

そのまま、惨劇の場を、鳳は去る。

帰り際に、蜜蝋漬けにされた首を持って帰る。何処に持ち込んで良いものかわからなかったので、死後の安息を得られると喧伝している、腐屠の寺に持ち込むことにした。実直そうな中年の僧は、無惨な生首を見ると流石に眉をひそめたが、死後の安息を与えて欲しいと言うと、喜んで引き受けてくれた。

荼毘に付される生首。

上がる煙を見送り、鳳は思う。

一体このような異常な沙汰が、何時まで続くのだろうと。

 

毎日、曹芳が重くなってくるのを感じる。着実に成長している証拠だ。

許儀は、今までにないほどに緊張して周囲を見張りながら、曹芳の遊び相手になっていた。凡庸な曹芳は、己が決して賢くないことを、何処か心の奥底で理解しているらしい。基本的に引っ込み思案で、自分から動くことは滅多になかった。惰弱者と影で嘲笑う声もあるようだが、安定した国家の皇帝としては悪くない。問題は、あまりにも幼すぎるという事だ。

「許儀、父上の話をして」

「よいですとも」

膝に乗った曹芳に、曹叡の話をせがまれる。

今でも、曹叡のことを思うと、心が痛む。

曹叡は、英明な君主だった。体は弱かったが、頭脳だけなら曹操にもそうは劣らなかったかも知れない。

だが、心が体同様、あまり強いとは言えなかった。

ずっと寂しい環境で育ったこともあるだろう。必死に自立しようとあがく心の裏で、恐らくは蠢いていたのだろう。歪んだ許儀に対する思慕心が。それはねじくれた恋慕に近い感情となり、やがてもう一人の人格が産まれてしまった。

許儀は、それに気付けなかった。

否、気付いた所で、どうにか出来ただろうか。

少なくとも、もう一つの人格を、邪険にしてはならなかったのだろうと、今は思っている。何しろ、許儀に構って欲しいという思考から産まれた人格だったのだから。それに気付けず、曹叡は寿命を縮めてしまった。心労によって、内臓をかなり痛めてしまったのだろう。

心は通じていると思っていた。

それなのに、このような形で、曹叡の死に関わってしまった。悔やんでも悔やみきれない。誰にも明かせない事だった。曹叡が死ぬ時まで、それに気付けなかった許儀は、自分を愚か者だと思っていた。

だから、せめて正直でいようとも思う。

曹芳に、曹叡の話をする。偉大な父上の話よりも、人間としての父の話を、曹芳は聞きたがった。だから、それに沿って、人間としての曹叡の話を。目を輝かせて聞いていた曹芳だが、文官の足音を聞いて顔を上げた、

まだ、判子を押す程度のことしか出来ないが、それでも今から政務には携わらなければならない。

「行ってくる」

「許儀めは、いつでも陛下の側でお守りいたしております」

「ありがとう」

ぱたぱたと走る曹芳が転ばないように、ゆっくり側を歩く。

奥の間では、司馬懿が曹爽と共に待っていた。最近、曹爽は取り巻き達におだてられて、ますます好き勝手なことをしている。司馬懿はそれを黙認しつつも、政務に関しては一歩も譲らず、結果魏の国政はきちんと運営されていた。多分強欲な曹爽も、政務に関しては司馬懿の主張を通した方がよいと、本能的に悟っているのだろう。

司馬懿は曹芳に、しばらくつきっきりで印の押し方を指導していた。愛情の籠もった指導で、見ていて目を思わず細めてしまう。世間的には、許儀も孫がいてもおかしくない年になっている。司馬懿に到っては、実の息子や孫達に邪険にされていると言うこともあるのだろう。

老人が孫をかわいがるというのは、よく聞く話である。司馬懿も、本能には逆らえないと言うことだ。

しばし印を押し、そして書類を決裁する。いずれも魏の最高機密書類ばかりであり、印は玉爾であるが故に押し直しが利かない。時々はらはらもしたが、曹芳は何とか最後までやり遂げた。

でも、其処で幼い精神には限界が来たようで、眠りそうになる。すぐに女官が来て、寝室に連れて行った。護衛の武人が、数人着いていく。

許儀は残った。二人に、現況報告があるからだ。

「許儀将軍。 陛下にお変わりはないか」

「すくすくと、健やかに成長しております」

「それは何よりだ」

本当に嬉しそうに司馬懿が言う。

周囲からは大狸と思われている人物だが、意外に根は素直で、心優しい所もあることを、許儀は知っている。曹叡への忠義は本物だったし、今だって心底から曹芳の未来を案じている。

それに対して曹爽は、明らかにしらけた目でやりとりを見つめていた。この男にしてみれば、皇帝など誰でもよく、自分の権力さえ保全できればそれで良いというのだろう。曹真はさぞ冥界で嘆いているに違いない。軍才はなく、政務の才もなく。歪んだ権力欲と、己の自己愛だけが、曹爽の中にはあった。

「警備の方は万全であろうな」

「可能な限りの万全を尽くしております」

「ふん……」

「曹爽どの。 許儀将軍は、文帝の頃からずっと宮中を守り続けた実績がありますし、何ら問題はありますまい。 此処は信頼のお心を見せてあげるがよろしかろうと思います」

鼻を鳴らした曹爽は、適当に話を切り上げると、ずかずかと部屋を出て行った。一応最高決済にはこうやって顔を出すが、それ以外の政務には、殆ど感心を見せないとも聞いている。

「やれやれ、大将軍には困ったものだな」

「宰相どのからみてもそうですか」

「そうとも。 だが、あれでも曹真様の息子であるし、最も高位に就いている魏の皇族でもある。 だから、あまり邪険には出来ん。 難しい所だな」

司馬懿の話によると、魏は皇族の力があまりにも弱すぎるという。

独立政権としての力を認めてしまうような国家は、それで衰退するそうなのだが、しかし弱すぎるのも考え物で、強力な家臣による専横を許しやすくなると言う。

「世間的には、私もその専横をしている人間に見えるだろう」

「宰相どのは、滅私奉公をなされているではないですか」

「というよりも、家庭に居場所がないから、仕事に逃げているという所かな」

からからと笑った司馬懿。

とてもではないが、笑うことは出来なかった。

許儀も同じだ。一応結婚はしていて、子供もいる。だが妻との関係は冷え切っていて、娘は目もあわせてくれない。

不意に、司馬懿が真面目な表情になる。

「以前頼んだことは、進めてくれているか」

「はい。 宮中の戦力として、千名余。 いざというときは、命に替えて陛下をお守りする所存です」

「うむ。 私の行動に荷担する必要はない。 あくまで陛下に何か間違いがないように、見張ってくれればそれで良い」

もちろんいざというときは、蜀漢に曹芳を亡命させなければならない。その時のための隠し通路も、既に準備は整っていた。

「呉は今、大変な混乱下にある。 当分侵攻は警戒しなくても良いが、蜀漢はちょっと状況が微妙になりつつあるな」

「と、言いますると」

「どうやら董允の命が危ないらしくてな。 董允が死ぬと、恐らく費偉が跡を継ぐ。 しかしあれは敵が多い男で、暗殺される可能性がある。 もしも費偉が早く死ぬとなると、姜維辺りが全権を握り、魏に攻勢を仕掛けてくる可能性が出てくる」

姜維は優れた能力を持つ。何度か司馬懿から話を聞いているが、用兵の才能に関しては飛び抜けていて、ケ艾に匹敵するほどだという。

今は、勝てる。

しかし、何年か経ったらわからない。ケ艾は互角に戦えるだろうが、夏候覇ではとても力が足りない。郭淮や陳泰はどうにか戦えるか、という所だろうと、司馬懿は言った。

「蜀漢は精鋭を揃えてくるだろうし、十万では心許ない。 魏としては、西部戦線に十五万程度の兵力を用意するまで、もう少し力を蓄えたい所なのだ」

「陛下が若すぎるのが問題ですね」

「そうだ。 大きな軍勢を動かすには、陛下は若すぎる。 私が率いて出て行けば、絶対に後ろでろくでもない軋轢が起こる」

総司令官として曹爽が出て行けば、最悪の事態になるだろうと、司馬懿は呟いた。

西涼を失陥でもしたら、魏の屋台骨は一気に揺るぎかねない。

曹叡の頃は、魏にも優秀な文官が大勢いた。曹操の時代に比べるとだいぶ質は落ちていたが、それでも司馬懿の後方支援を充分に出来るだけの人材が揃っていたのだ。

平和は人材の質を落とす。皮肉にも、司馬懿による必死の防衛が、魏の底力を弱くしたのだ。

「そうなると、やはり」

「うむ。 大将軍がもう少し自重していてくれれば、このような手は取らずとも良かったのだが」

決行は、近い。

この時、許儀は血なまぐさい宴から、曹芳を絶対に守ることを、自身に誓った。

 

1、仮病と歪んだ心

 

司馬懿が長年の功績から、大傅に任命された。

それを聞いた時、魏に大乱が起こることを予想した者は、それほど多くはなかった。

大傅とは、そもそも何か。

この職業は、一応職務上最高の地位を持つ存在である。ただし、仕事の内容が、皇帝の教育、ただそれだけにある。

軍事権、政治権は一切ない。

一種の名誉職であった。

洛陽近辺で知恵者達の情報網を構築していた馬超は、それを聞いて、最初に陳宮の所に向かった。どうも、いやな予感がしたからである。

陳宮は洛陽郊外の小さな庵で、静かに暮らしていた。下女達が食事の準備をするのを横目に、近くの山で取ってきた猪を渡しながら、馬超は聞く。既に寝台から起き上がれない陳宮は、頭脳だけは明晰なままだ。

「ふむ、それは本当ですか」

「何か、心当たりが」

「……魏はこれで終わりでしょうな」

下女が持ってきた茶を飲み干し、陳宮は遠くを見るようにして呟く。

「魏が終わりとは」

「要するに、曹爽が権力を握りに来たのです。 しかしながら、彼の周りには、残念ながら俗物と無能者しかいません。 それに、司馬懿があっさり身を引いたのも、充分に追い落とせる自信があるからでしょう」

「なるほど」

「この国は、司馬一族の持ち物になることでしょうな。 司馬懿は皇室に忠義を抱いているようですが、子孫達はそうではありますまい。 数十年としない内に、魏の皇室は、司馬一族に乗っ取られることでしょう」

?(ホウ)柔が、少し遅れてきた。情報網から、色々な情報を持ってきてくれたのだ。

曹爽を内心で怖がっている曹芳が、このような申し出を受けたのには、側近達の説得が影にあった。特に何晏という男が、その中心を担っていた。

「何晏は、曹芳を、司馬懿が喜ぶと言って説得したようです」

「ほう?」

「それに曹芳も、司馬懿を深く慕っている故、直接教育係をしてくれるという言葉に、心を動かされたのでしょう」

「下劣な。 子供をだまして権力を得たも同じではないか! このような詐欺紛いの行為を行う輩が、政が如何なるものかなどとほざいているというのか!」

馬超は吐き捨てた。

魏のことを、決して嫌いでは無くなっていたのに。こういう下劣な駆け引きを見ていると、そのまま宮殿に乗り込んでいって、皆殺しにしてやりたくなる。

血の騒ぎを抑えると、馬超は咳払いした。

「そのような下劣なまかり通るようでは、国は本当に終わりですな」

「そうですな。 幼い皇帝をだまして、好きなようにして。 とても人道に反する行いだと言えましょう」

「どうにかして、このような下劣を食い止められませぬか」

「いずれ曹爽一派は滅び去るでしょう。 しかし司馬懿の周囲にいる人材が、逆に清廉だと言うこともありません。 事態は、刻々と悪くなっていきましょうな。 いずれ魏の政務は、呉よりも酷い汚濁と化すでしょう」

それが時代の流れというのか。

分かってはいた。良くない時代が来ることに備えて、賢者達の人脈をつなぐことを考えたのだから。

しかし、陳宮と話していることで、より近くに、破滅的な事態を感じられるようになってきた。

「わかりました。 より一層、多くの賢者達との語らいの場を用意するよう、粉骨砕身いたしましょう。 せめて未来への可能性を作るためにも」

「うむ、頼みますぞ、馬超どの」

庵を出る。

既に陳宮は相当に衰えていて、もう次に来る時は会えないかも知れないと、家族には言われていた。遅くなってから出来た娘は来る度に美しくなっていて、陳宮に世話になった恩を返す意味もあって、良い男を紹介してあげたいとも思う。

既に馬超自身は、年老いたこともあり、若い娘に気をそらされることもなくなってきていた。もしも男を紹介するなら、関索と名乗っている関平の息子だろうかと、馬超は思った。

馬に跨ると、司馬懿の屋敷を見る。

今、もっとも歴史を能動的に動かしているあの男も、もう年だ。曹爽を葬ることが出来ても、それ以上は難しいだろう。

既に、この世界に、英雄はいない。

それを思い知りながら、馬超は黄昏の洛陽で、馬を走らせた。

 

司馬懿はしばらく考え込んだ後、病気になることとした。

一族は不平轟々である。どうして司馬懿の権力が引きはがされたのに、黙っていなければいけないのかと、連日のように突き上げる手紙が来る。大物とされる一族の老獪達も代わる代わる屋敷に訪れては、司馬懿を口を揃えて罵った。

惰弱者。

軟弱者。

好き勝手な言葉を垂れ流す一族に、司馬懿はもう関心がなかった。司馬懿が地位を築いたのは、蜀漢との死闘を経てからだ。この地位が欲しいのなら、諸葛亮と戦って、生き残って見せろと言いたかった。

だが、言っても無駄である。

連中の脳内では、長安に迫れなかった諸葛亮は無能者で、司馬懿は何もしなくても勝てたという事になっているからである。誰が行っても諸葛亮などでは楽勝だっただろうとか、偉そうに吹いている者までいた。そして司馬一族が天下を取ったら、それが史実として記録されるに違いなかった。

馬鹿馬鹿しくて、やっていられない。呉も史書には嘘ばかり記していていたようだが、魏もその轍を踏むのだろうか。

寝台でふて寝する。数年はこれを辛抱しなければならないのは辛いが、仕方ない。曹芳を守るためには、他に方法がないのだ。曹叡との誓いを守るためにも、何が何でも曹芳だけは救わなければならなかった。

ふと、気付くと林がにやにやして見守っていた。

「ふて腐れていますね」

「ふん、この状況で、ふて腐れない筈がないだろう」

「なら、私が皆殺しにしてきましょうか?」

さらりと林が言う。

顔を見ると、目は全く笑っていなかった。司馬懿は大きく嘆息すると、そんな事はしなくて良いと、化け物に釘を刺した。

「それよりも、呉で随分派手に暴れているようだな。 あまりやり過ぎるなよ」

「適当に国力を削いでいるだけですよ。 そうそう、陸遜も近々失脚するでしょうね」

「何……!?」

「四家内部の対立が、混沌を増した結果ですよ。 四家の裏側を仕切っていた当主達が根こそぎ死んだようでしてね。 その後釜を争っている連中が、どうやら陸遜を邪魔者と見なしたようでして。 失脚だけではなく、恐らく投獄されるでしょう。 その先は、証言を引き出すと称して、さぞや凄惨な拷問に晒されることでしょうね。 或いは、事故を装って消されるかも知れません」

くすくすと、林は嗤う。不快感を痛烈に刺激された司馬懿は、しばらく視線を彷徨わせていたが、半身を起こした。

そして、腰に痛みを感じて、呻いてしまった。

もう年だ。病気を装っているとは行っても、毎日散歩くらいはしないと体が衰えて仕方がない。林に手伝って貰って立ち上がる。林はにやにやしながら、司馬懿が立つ手伝いをしてくれた。散歩に出ると屋敷の人間達に伝えて、庭に。林は誰にも姿を見せないまま、着いてきていた。

「陸遜も、そんな事で自分が死ぬとは、思っていなかっただろうな」

「まだ、死んだ訳ではありませんが、無念さはよくわかりますよ」

何を巫山戯たことを言っているのかと、司馬懿は吐き気を覚えた。この化け物が、目的のためならどんな下劣なことでも平気ですることを、司馬懿は知っている。斬り捨てるとしたらそろそろだろう。

しかし、今魏が呉を押さえ込んでおけるのも、この化け物の力があってのことだ。国力の差から言っても、やり合った所で負けるとは思わないが、しかしずっと状況は悪くなっていただろう。

「引き続き、呉の内偵を続けよ」

「はあ。 しかし、曹爽派や、貴方の一族はよろしいのですか?」

「かまわん。 あんな連中、わざわざお前を使うほどの相手でもないわ」

指を鳴らすと、何名か腕利きの護衛が現れる。

共に戦場を駆けめぐった武人達である。曹爽に対しての政治的な反撃を企てるための手足として、前々から用意していた者達だ。

彼らは上手に司馬懿の周囲を警護し、家族の横暴からもある程度守ってくれている。流石の妻も、屈強な彼らが司馬懿の周囲を見張っている時にまで、手をだそうとはしなかった。

「必要な時は、この者達に手を下して貰う。 曹爽派などは、私の手腕云々の前に、一押しすれば瓦解する」

「ふ……ん。 なるほど。 わかりました。 私は、呉の内偵に力を注ぐとします」

林の気配が消える。

司馬懿は大きく嘆息した。

「お前達、技を磨いておけ」

「わかりました」

「あの化け物を、いざというときには」

頷くと、司馬懿は屋敷に戻る。

仮病を使っている以上、あまり大っぴらに出歩く訳にはいかなかった。

 

顔色の悪い男が、都をいそいそと歩いていた。周囲の女性からは、熱っぽい視線が送られている。実際、男の顔は、彼女らの嗜好に充分満足するだけの造作であった。

男の名は何晏。

後漢の大将軍だった、何進の一族の者である。幼子の頃に曹操にかわいがられていて、魏の皇族とも近い。まだ三十代後半と、世間的に見れば「若造」であった。しかし名声は既にとどろくばかりであり、その影響力は大きく、曹爽の懐刀として睨みを利かせている男であった。

万能の才人として知られる何晏は、高級官僚の子息達が集まる詩会や学会に顔を出しては、常に鋭い知性を発揮して、若者達の頭目と賞されていた。同じように才気煥発で知られる者としては、名門諸葛一族の出身である諸葛誕がいるが、彼は軍人として注力しており、最近は文化面で何晏に代わりうる存在は出ていない。うら若きご婦人達にも何晏は人気で、派手な女遊びと金遣いで、高い評判を得ていたのである。名門貴族や力のある豪族が集まる会で、金離れの良さは、それ即ち名声に直結するのだった。

曹叡の時代までは、このような集まりは禁止されていた。極端な能力主義が採用されていた魏では、名声はこれ即ち実績によって得なければならなかった。しかし、今や時代は変わった。公孫淵の乱以降、目立った反乱も敵の侵入も減り、文官も武官も功績を立てる機会を著しく失ったからである。

川の水が腐敗し始めると、住む魚も変わる。

かっては能力にものをいわせ、場合によっては賄賂を取るような、例えば郭嘉のような男が幅を利かせていた。

今では政治闘争を政治と勘違いし、有力者の間の人脈を生かして名声を築く男が、幅を利かせ始めていた。例えば、何晏のような、である。何晏と同世代では、鐘会という男がいる。この男は学閥の集まりに顔を出しては、いつも小難しい論文を出して、歓心を買っているのだった。

住んでいる所が違うので、何晏と鐘会はぶつかり合うことがない。だが、どちらも互いを邪魔としているのは明白。鐘会は司馬一族に媚びを売っており、何晏は曹爽の懐刀。いつか何かしらの形で決着を付けなければならないと、何晏は思っていた。

洛陽の町外れ。

小さな屋敷にはいる。それは、何晏の愛人と噂される女が、住んでいるという屋敷であった。

その噂は、ある意味では間違っていなかったかも知れない。

屋敷の中は、がらんどうであった。其処には無数の、得体が知れない匂いを放つ鉱石が山積みされていた。どれも柔らかい鉱物で、特定の地方でしか取れない。大勢いる肌が黒い使用人達が、それを忙しく磨り潰しては混ぜ合わせている。

五石散。

精神を高揚させる、魔の薬であった。

「できばえはどうか」

「上々にございます」

けたけたと、現れた老人が笑う。もう口の中に歯も残っていないような、枯れ木のような男である。

佐慈と、男は名乗っている。

そして何晏は、にやりと笑い返した。

これぞ、派手な遊びを繰り返す何晏の財源。高級官僚や豪族達の間で、爆発的に広まりつつある、邪悪なるモノ。快楽をもたらし、不老不死さえ実現するという噂のある、闇の薬であった。常習性があり、一度吸うと止められなくなる。そして、徐々に何晏の奴隷となっていくのだ。

既に曹爽は、何晏の懐の中にある。彼は重度の中毒者で、家ではこれを常時吸っているほどであった。

曹爽を操り人形にするのに、何晏は随分長い時を掛けた。

学閥内で名を広めた。広めるのにも、在野の売れない詩人達をかき集めて、彼らに詩を次々書かせた。在野の清貧な学者達をかき集め、儒学と老荘思想を会わせた小難しい思想を作らせたりもした。詩会の内容については、事前に金さえ使えば簡単に調べることが出来たし、そうすれば「自作の詩」や「自作の文学」を簡単に披露することが出来たのである。学閥の流行もしっかり掴み、如何にも受けいれられそうな説を出すことで、一躍名声をかっ攫いもした。最悪の俗物が、清貧思想を唱えているという矛盾も、実は要因が此処にあった。

全ては、何氏の栄光を取り戻すため。

何晏は、自身も中毒者である。できあがった五石散を口に含むと、一気に飲み下す。大量に飲むと害があるのだが、知ったことではない。何晏は自分を特別だと信じ切っていた。だから、薬を飲もうが火遊びをしようが大丈夫なのである。

幼い頃、曹操にかわいがられた。

その時に、お前は偉くなると、何度も言われた。天下随一の曹操にそう言われたのだ。他にもかわいがられていた幼子はいたが、何晏は利発さを褒められていた事もあって、それが人生を通しての誇りとなった。

しかし、曹丕の代となると、不意に閑職に追いやられ、十年以上も屈辱を抱えて生きることになった。

人間は急激に環境が変わると、心も歪む。何晏もその一人であった。幼い頃、下手にかわいがられ、誇り高く育ったことが禍した。

気がつけば何晏は、邪悪そのものの大人に成り果てていた。曹操に褒められた利発さは、権力を得ることと、他人を追い落とすためだけに発揮されるようになっていた。

今や、何晏は、洛陽の闇そのもの。

歪んでしまった若者は、闇の中で、おぞましい策略を練りながら、機会を待っていたのである。

魏を乗っ取る、機会を。

「佐慈よ、それで計画は順調か」

「ひひひひ、順調にございます」

「司馬懿は既に閑職に追いやり、子飼いの部下からも引きはがした。 後はお前が、洛陽中の貴族をことごとく懐柔すれば、全てが私のものとなる」

己の欲望を、何晏は否定していない。だから魔薬を平気で吸うし、ばらまきもする。

そして、他人が傷つくことを、何とも思っていなかった。

気分が良くなってきたので、奥に行く。

魔薬を与えて、飼育している女が其処には何人もいるのだった。

 

奧へ行き、女と交わり始めた何晏を見送ると、佐慈は鼻を鳴らした。

かって董承だった男は、もう百才近くになっている。それでもその怪物的な野心は未だ衰えていない。

周囲で働いているのは、林が連れてきた山越の民達。

彼らは、呉を潰す事を条件として、このような汚れ仕事に従事していた。別に、それ自体は問題ない。いずれにしろ、呉は潰すのだから。

いよいよ、この機会が来た。

以前は失敗した。だが、司馬懿くらいしか人材がいなくなっている今の魏ならば、佐慈の手で容易に乗っ取ることが出来る。

頭が良いと思いこんでいる阿呆ほど、扱いやすい存在はいないのだ。まさか何晏の後ろに、更に佐慈が控えていると、気付く者などいはしないだろう。勘が鋭い者の中には、何晏の資金源を疑っている輩もいるようだが、そんな連中は何晏に言ってすぐ消してしまう。

百年の闇を生きてきた佐慈にとって、何晏など、可愛い子猫に過ぎなかった。

「ご機嫌ですね、佐慈」

「林か」

振り返ると、腕組みした林がいた。

知っている。林が、司馬一族の掌握に力を注いでいることは。その目的は、よくわからない。魏を乗っ取ろうとしているとは、どうにも思えないのだ。

咳き込む。

最近、流石に体がおかしくなってきている。数々の秘宝邪薬で引き延ばしてきた命も、そろそろ限界なのかも知れなかった。

「どうですか、玩具の様子は」

「ふん、扱い易すぎて張り合いがないわ。 だが、最後に一花を咲かせるには、丁度良い土壌だわい」

笑おうとして失敗する。

もう、其処まで体は衰えてしまっていた。

だが、このままでは死ねない。魔王董卓と同じ血を引くものとして、一度は頂点に立ちたいのだ。

「一度は、儂に天下を寄こせ。 その後、好き勝手にさせてやる」

「分かっていますよ。 私は自分で言うのも何ですが、邪悪そのものの存在。 しかしながら、貴方のような偉大な先達には、敬意を払うつもりでいます」

「そうしてくれ」

気も、少しずつ弱くなってきている。漢中を良いように引っかき回していた頃とは、精神の充実も、肉体の強度もまるで違ってしまっているのだ。何かあると心は弱気になる。それを必死に、野心で支えていた。

既に体の中はずたずたである。五石散を口に含んで、無理矢理飲み下す。これを快楽のために使える若者どもが、不快でならなかった。佐慈はこれを飲むと、全身が焼け付くように痛むのだ。だがそれでも、命長らえるために、飲み続けなければならなかった。

天下を取りたい。

全てを支配したい。

それが、身勝手な欲望だと言うことくらいは分かっている。しかしそれを言うなら、英雄と呼ばれる人種は、皆佐慈の同類ではないか。

女を抱いて満足した何晏が戻ってきた。あらゆる性の遊戯を楽しんだ結果、まともな女では満足できなくなっている何晏である。薬で女に暗示を与えて、自分好みの人格に改造してから抱いている様子だ。吐き気がするほど醜悪な輩。佐慈から見ても、どうしようもないゲスである。

「よく調整してあるな。 なかなか満足行けたぞ。 褒美だ」

「ありがたき幸せにございまする」

何晏から投げ与えられた黄金を、いそいそと懐にしまい込む。

それを優越感と共に見下ろしていた何晏が、内心では滑稽きわまりなかった。

 

2、陸遜の死

 

孫権は、その計画を聞いた時、必死に抵抗した。

しかし、どうすることも出来なかった。既にあまりにも緻密な罠が用意されていたのである。国主でさえ、無理にそれを翻せば、四家主導の大反乱が起きかねなかった。

朱異が血相を変えて飛び込んできたのが、最初の一幕であった。

「陛下! 陛下はどちらにおわす!」

「朱異か」

ただならぬ事が起こったと感じた孫権は、剣を持って出た。護衛も顔色を変えて、すぐに小走りで集まってくる。周囲に人の壁が作られる中、現れた朱異は片膝を着いた。

「陛下、ここにおいででしたか」

「何があった」

「丞相が! 謀反を企んでいるという事にされ掛かっております!」

仰天した孫権は、至近に稲妻が墜ちたような衝撃を味わっていた。思わず剣を取り落としそうになる。

そうだ。思えば、陸遜は四家の連中に、敵視されていた。今では裏切り者扱いされているはずであった。

内部ががらんどうで大混乱し、当主を次々失っているとはいえ、四家は四家。国内の軍事、経済を多く握る、怪物的な連合体である。連中の暗い情念が、陸遜への憎悪という形で一致したら。

前から、その恐怖はあった。だから、陸遜の周りには、敢えて手練れを裏から派遣させていたのだ。

だが、まさかこんな手を使ってくるとは。長年くだらない陰謀劇を間近で見てきたはずなのに、つい失念してしまっていた。孫権、一生の不覚であった。

「どうしてそれが発覚した」

「建業の街を騒がす侠客達を捕らえた所、その中の一人がこの計画を知っておりましたので、調査しました。 どうやら陸家の首脳部が、この計画を提案し、他の四家もこれに乗った模様です」

「何と。 よりにもよって、陸家が黒幕か」

思わず、天を仰ぐ。

四家が壊滅的な状況になりつつある今、彼らにとって裏切り者である陸遜が狙われるのは、もはや確定事項だったと言うことか。それにしても、この下劣さはどうか。「裏切り者」に対する憎悪とは、こうも醜いものだというのか、

「どの程度、進んでいる」

「もはや抜き差しなりませぬ。 もっともらしい証拠も、様々に揃ってしまっているようでございます」

「陸遜はそのようなことをする男ではないと、朕が言った所で、無駄であろうな」

無理に陸遜を庇えば、四家は呉から離脱しかねない。そうなれば、態勢を立て直しつつある魏が、大挙して攻め込んでくるだろう。魏の水軍は、近年もはや呉の水軍に全く引けを取らぬ技量を身につけてしまっていると、陸遜から報告が来ている。長年魏は呉を攻略するため散々工夫を凝らしてきていて、それが実を結んだのだ。領土を守ることと、栄華を貪ることしか興味を示してこなかった呉とは、其処に決定的な違いがあった。

更にもう一つ大きな問題がある。四家が主導で進めている、皇太子達の並列化である。孫覇と孫和は互角の権力を得てしまっており、孫権でも容易には手出しが出来なくなっている。自分の子孫達だから、可愛くないはずがない。だが呉という国家そのものを揺るがしかねないというのなら、心を鬼にしなければならなかった。

「朱異、頼みがある」

「なんなりと、ご申しつけください」

「陸遜はもう救えぬとして、陸抗だけは守らなければならぬ。 荊州に魏の兵力の多くを引きつけられているのも、陸遜のおかげだ。 かろうじて陸抗だけが、その困難な任務を引き継ぐことが出来るだろう」

朱異はじっと聞いていた。

朱異がさっき話した所によると、陸一族は、陸遜を一族郎党皆殺しにするつもりだ。反逆罪として陸遜の名誉を奪って殺し、そればかりか家族も家来もことごとく殺し尽くすつもりであろう。

それだけ連中の憎悪は深いと言うことだ。

陸遜は、もはや救うことがかなわない。無理に救えば、呉が崩壊してしまう。

しかし、陸遜の一族に関しては、救う手が一つだけある。

孫権は、己が陸抗から徹底的に憎まれることを覚悟した。そして後の世から、暗君としてそしられることも。

晩年の孫権は酒色に溺れ、判断力を無くし、呉が崩壊する原因を作った。

そう魏辺りの史書に記されるであろう事を思うと、憂鬱になる。だが、犠牲を最小限にして、呉を守る事が出来るのならば。

「陸遜を、捕らえよ」

「! く、詳しくお聞かせ願いませんか」

「良いか、このままでは、四家によって陸遜謀反の証拠が山と提出される。 そうなれば、陸遜だけではなく、その一族も皆殺しにしなければならなくなる。 その状況を打開する方法は、一つしかない」

「丞相一人に、全ての責任を被せること、ですか」

孫権は、落涙した。

劉備や曹操よりも一世代年下とはいえ、既に老境に入っている身だ。体も心も弱くなってきてしまっている。

悪鬼となれと言い聞かせても、なかなか上手くは行かない。

「機先を制するしかない。 今しか、ないのだ」

「じょ、丞相は! 劉備皇帝の大侵攻から呉を守り抜き、それから数十年にわたって荊州で魏軍の目を引きつけ、互角以上の戦いをしてきた、大功労者にございます! せめて、せめてその名誉を、守ることは出来ないのですか! 呉は丞相がいたからこそ、存在できたも同然なのですぞ!」

「朕も悔しい! 悔しくてならぬ!」

ぎりぎりと、孫権は歯を噛んだ。周囲の近衛達も、皆泣き始めている。

朱異は天に向けて一つ絶叫した。父よりも冷静な若武者だが、感情はやはり激することもある。

そして、それは孫権も同じだった。

朱異が宮廷を飛び出す。その背中を見つめながら、孫権は血を吐くようにして言った。

「ゆるせ。 無力な朕を、許してくれ」

 

陸遜は血相を変えた朱異が天幕に飛び込んでくるのを見て、何が起こったのか大体察することが出来た。

覚悟は、していた。

丞相となってから、改革の準備を進めていた。四家と差し違える覚悟で、である。それが大体軌道に乗った今、もはや何時死んでもおかしくない状況だった。

陸抗が、慌てて剣に手を掛けようとする。

だが、それを制した。

「よせ、陸抗」

「しかし、父上!」

「朱異、話を聞かせて欲しい。 今、此処には私と陸抗、それに信頼できる部下しかいない。 四家の息が掛かった者は遠ざけてある」

「……お許し、ください」

はらはらと落涙しながら、朱異は語る。

孫権が言った、全てを。

陸遜は立ち上がると、天幕の外に出た。其処は荊州。此処で命を落とした周瑜と、呂蒙の墓も近くにある。

もはや戦略的魅力など微塵もないこの土地だが、魏軍の主力を引きつけているという意味で、陸遜とその軍勢にはいる価値がある。そして孫権は、陸遜の一族や家臣達を守るために、非情の決断をしたのだ。

「墓参りをさせてもらえぬか」

「お急ぎを」

「分かっている」

「父上っ!」

陸抗が、目を充血させて吠えた。部下達も、剣を抜いて朱異に斬りかかりそうな目をしていた。

「もはや、このような国に、義理を尽くす必要などございませぬ! 父上がなければ、呉などとっくに滅びていたことは間違いなし! それなのにくだらぬ嫉妬に駆られ、その功績の全てを否定し、武人としての名誉まで奪おうとしているこの国に! なぜ尽くす必要がありましょう!」

「確かに、呉は腐っている。 だが、暮らしている民はまだ腐りきってはおらぬ。 それだけでも、命を賭けて守る価値がある。 そうは思わぬか」

武人としての心よりも、守るべき民の命の方が大事だ。

そう、陸遜は息子を諭した。

墓を回って、最後の別れの挨拶をする。冥府で周瑜も呂蒙も悲しんでいてくれるだろうか。或いは怒ってくれるだろうか。

船が来た。大元帥の旗を掲げた、水軍の旗艦。最新鋭の大型闘艦だ。と言っても、最近は魏軍も同程度の性能を持つ闘艦を幾らでも開発していると聞いている。

「縄を掛けるのは忍びありません。 ご自分でお乗りいただけますか」

「うむ」

「朱異! 貴様っ!」

「よせ! 朱異にはなんら罪がないことくらい、お前にもわかるだろう!」

水際で、朱異に斬りかかろうとした陸抗を、もう一度陸遜は諭した。

そして二人の肩を交互に叩く。

「呉を、任せたぞ。 二人で力を合わせて、私の代わりに、呉を守ってくれ」

「父上!」

「朱異は、必ず四家を滅ぼしてくれ。 私が投獄されれば、連中は必ず勝ち誇って隙を見せる。 其処を、軍によって叩きつぶすのだ。 陸抗は何があっても荊州を守れ。 荊州を守りきれなければ、呉も滅びると知れ」

二人の有望な若者が頷くのを見ると、陸遜は目を背けて、涙を拭った。

これが最後だと思い、もう一度、偉大なる先達に呼びかける。

陸遜は、未来を疑ってはいなかった。

 

流石に丞相と言うこともあり、陸遜はいきなり投獄されても、拷問される訳ではなかった。それどころか、将官の入れられる待遇がよい牢が用意されていた。呉南部にある小さな城を改装したもので、権力闘争に敗れた皇族などの、特別な人間を収容する施設であった。

この手の牢獄は、本来処刑場と同じである。

拷問によって、拷問をする側に都合がよい情報を「引き出し」、もしも自白しなくても「獄死」で片付けることが出来る。そんな状況だというのに、孫権がこれだけの好待遇を用意したという点でも、陸遜が無実であることは明らかだった。

二度、獄卒が脱獄を進めてきた。

どちらも陸遜の配下として戦ったことのある兵士だったらしいのだが、申し出は断った。命がけでそのような事を進めてくる忠臣を、こんな事で失う訳にはいかなかったからだ。陸遜は筆と竹簡を要求すると、孫子や呉子、春秋左氏伝などを写本して連日を過ごした。暗殺者が来る訳でもなく、拷問もされなかった。

今まで忙しかったことが、むしろ嘘のようである。牢からは出してはもらえなかったが、大体のものは差し入れされた。好物の魚の揚げ物を注文すると、翌日には山のように届いたほどであった。

死を覚悟したこともあるだろう。全てが夢のように思えた。陸遜は、人生最後の安らぎだと思って、それらを楽しむことにした。

一月ほど、過ぎた頃だろうか。

不意に、牢が騒がしくなった。喧噪が、徐々に酷くなってくる。

下の方で、戦いの音もし始めた。何か大きな出来事があったのは、間違いなかった。最後の時が来たことを、陸遜は悟った。

「丞相!」

血相を変えた兵士が飛び出してくる。肩には矢を生やしていた。

「お逃げください!」

「何があった」

「四家の息が掛かった将軍が来ました! 丞相を引き渡せと喚き散らしています! 防ごうとしたのですが、いきなり斬りかかって来まして!」

「早く逃げよ。 私は此処に残る」

陸遜は、死ななければならないのだ。

そうしなければ、四家は隙を見せない。今、泥沼の内部闘争をしているとしても、暗殺で多くの人間を失っているとしても、四家は総体として未だ呉最強の存在だ。叩きつぶすには、余程大きな隙を作らなければならない。

そのためには、陸遜が死ななければならない。それが、絶対条件なのだ。

兵士はまだ残ると言って牢を開けようとしたが、いきなり後ろから斬り倒された。そして、狂犬のような目をした男が、牢の前に立った。手には、血が滴る刀をぶら下げていた。

「り、陸遜、丞相か」

「お前は、藩璋か」

「は、藩璋、お、俺のな、名前か」

十年も前に、死んだと聞かされていた。事実葬儀にも出たのだが。そういえばこの男を見掛けたという噂は、彼方此方で聞かされていた。

しかし、これは生きているとは、言い難いのかも知れなかった。

藩璋は白目を剥いており、口の端からは涎を垂れ流していた。そういえば、酒に溺れておかしくなったという噂は聞いていた。だが、この様子では、酒の毒にやられたとは、とても思えない。

もっとおぞましい何かに、脳を好き勝手された。そうとしか見えなかった。

「に、逃げ、ろ。 俺には、もう、ど、どうに、もでき、ん」

「哀れな。 待っていろ。 今、楽にしてやる」

牢を開けて、藩璋が入ってくる。

陸遜は振り下ろされた剣を、体で止めると、そのまま奪い取った。

そのまま、一息に藩璋の首を跳ね飛ばす。

すっ飛んだ藩璋の首は、何処か安らぎに満ちているようにも見えた。

鎧も着ていない体で剣を受けた。肩口から胸に抜けた剣は、肩胛骨から肋骨を何本かへし折っており、もはやとても戦える状態ではなかった。

だが、戦える状態であっても。陸遜は、抗うつもりはもう無かった。続いて、どかどかと牢に入ってきた兵士達が、無言で陸遜に槍を繰りだしてきた。陸遜は抵抗せず、無数の槍にそのまま貫かれた。

大量に吐血しながら、陸遜は思う。

四家を、せめて道連れに出来て、良かったと。

 

陸遜が、ついに謀殺されてしまった。

四家にもすぐには掴めない場所に幽閉していたのだが、勘づかれてしまったのだ。しかも世間的には既に死んでいるはずの藩璋を使っての、暗殺に近いやり方であったという。それを聞いたとき、孫権はもはや神も仏もこの世にはいないと思った。

だから、人間の手で、少しでも良い未来を得られるようにしなければならない。

「朱異!」

「ははっ!」

抱拳礼をする朱異の目には、炎が宿っていた。

「今が好機だ。 江東の全軍をそなたに任せる。 四家に連なる連中を、ことごとく捕らえよ。 官位を得ていない者達も、全てだ」

「わかりました」

「呂壱!」

「はい」

陰気な男が立ち上がる。此方にも、指示を出す必要があった。

「そなたはかねてから用意していた、四家の者どもの罪の証拠を用意しておけ。 連中を粛正するのに必要となる」

「わかりました。 しかし、よろしいのですね?」

四家から実権を奪い去ることにより、呉は最低でも五年は立ち直れないという試算が、既に出されていた。内臓の大部分と、筋肉の殆どを撤去してしまうも同然なのだから、無理もない事である。

その上、これで権力闘争が終わる訳ではない。四家にこびへつらっていた連中も処分するには、一気呵成の行動が必要になる。一度にそれをやっては、呉は本当に崩壊してしまうことだろう。

だから、まだ五年、掛かるのだ。

しかし、時間は陸遜が作ってくれた。一秒とて、無駄には出来ない。

「かまわん。 朕が四家を地獄に連れて行く」

「わかりました、 この呂壱めも、お供いたしましょう」

「すまぬな」

「うだつが上がらない私のような小役人を引き立てていただいて、本当に感謝しております。 後の世に佞臣として名を残すとしても悔いはございませぬ。 いかなる汚れ仕事をも押しつけくださいませ。 そして私の悪名が天下にとどろききったところで斬り捨てていただければ、孫家は生き延びることが出来ましょう」

呂壱は淡々と言うが、目には強い決意の光があった。

四家によって編纂されている歴史は嘘だらけだ。黄祖との戦いは毎度勝ったことにされているし、山越からの搾取についてもぼかされている。一体どれだけの忠臣、名臣が彼らの暴虐に泣かされてきたかわからない。

漢王朝の残した癌。

今こそ、それを打ち砕き、滅ぼす時であった。

朱異が、行動を開始する。

そして翌日から、今まで皇帝孫権でさえ立ち入れなかった四家の中枢に、兵士達が土足で踏み込み始めた。しかも、今までとは比較にならない規模で、である。

陸遜の暗殺に成功したことで、完全に油断していた四家中枢は脆かった。というよりも、やはり張りぼてに過ぎなかったという事なのだろう。警備兵どころか、兵士達の指揮系統さえいい加減で、踏み込んだ朱異は殆ど抵抗を受けずに目的の者達を取り押さえた。悪鬼羅刹のように恐れられていた者達の、あまりにも情けない実情だった。

捕らえてきた老人達は、どれもこれもが孫権の見たことのない顔ばかりであった。多くの山越の奴隷が屋敷に囚われていて、中には目を覆わんばかりの非道に晒されている者達も含まれていた。

孫権は捕らえた四家中枢の人間達を、宮城の中庭に集めると、片っ端から斬らせた。側には馬車を待機させている。死体を運搬するためのものだ。

まだ現状を理解していないらしい老人達が、同胞が片っ端から殺されるのを見て、強気にぎゃあぎゃあと吠える。

「貴様! このようなことをして、無事で済むと思っているのか!」

「思ってはおらぬ。 呉が滅びるか、貴様らが滅びるかの二択だ。 それならば、貴様らを滅ぼすことを朕は選んだ」

「笑止! 我らがいなくて、呉を保てるものか!」

「それでも、今やらねばならぬ。 国が分裂し、内部から崩壊するよりはましなのでな」

抗議する老人を斬り捨てさせる。徐々に、彼らも青ざめてきた。

朱異は無表情で、孫権が指示する者を、次々と斬り伏せていった。目には怒りというも生やさしい、煉獄の炎が宿っていた。

また、別の老人が吠える。

「この恩知らず! 孫家などと言う傀儡一族出身のくせに、皇帝にしてやった恩を忘れおって! 陸遜といい貴様と言い、本当に人間か! 犬でも恩は感じるし、飼ってやればなつくというものを!」

「傀儡にも心があると知れ」

再び、斬り捨てさせる。命乞いをする者もいたが、関係ない。とにかく一人も残さず、殺させた。

片っ端から斬り捨てた死体は、馬車に乗せて、郊外に纏めて捨てた。野犬がそれらを喰って増えないように兵士達の見張りを置いた。しかし悪臭が凄まじかったので、火をつけて纏めて燃やしてしまった。

煙は、数日間にわたって、立ち上り続けた。

こうして、呉の黒幕となっていた四家は、事実上滅びた。

あまりにも、あっけなく。

歴史の闇から、歴史の闇へ。

 

立ち上る人間を焼く煙の香ばしさに、林は思わず眼を細めていた。周囲に控えていた古参の部下の、一人が言った。

「よろしかったのですか」

「何がだ」

「せっかく掌握した四家であったのに」

「お前は戦略というものを分かっていないな」

部下に、冷ややかな目を向ける。

林にしてみれば、この行動は笑止だった。四家の戦力を失えば、呉はもはや魏に対抗できないのである。その上、軍事的には陸抗、朱異と言った人材がまだ残ってはいるが、政治的に使える人間はいない。

若手には諸葛格という優れた頭脳の持ち主がいるが、奴は野心が強すぎて、呉には有害な存在だ。優秀ではあっても、次代を担える存在ではない。何かしらの切っ掛けで、後ろから刺されて死ぬだろう。

この後、呉がまとまることはない。纏められる人間が一人も居ないからだ。

がらんどうの怪物とはいえ、四家という巨大な存在によって、呉は支えられていた。それがいきなり消滅すれば、残るのはその体に集っていた蚤虱だけだ。

これで、呉が滅亡する下地は整った。

次は、蜀漢。

そして魏も、いつでも潰せるように準備は整いつつある。

全てが終わった時、この大陸に訪れるのは、想像を絶する混沌。そしてその中心には、邪神窮奇である林がいるのだ。

「さて、次は蜀漢ですね。 例の輩は準備してありますか?」

「ぬかりなく」

部下が示す先には、平伏している二人の男がいた。

一人は目つき鋭く、気配が異常に薄い。此方の男は郭循。暗殺を生業としている男であり、今までも多くの四家要人を屠り去っていた。ただしやり口が残虐すぎるので、朱異に嫌われ、放逐された所を林が拾ったのだ。

もう一人は黄皓。幼い頃に生殖器を切除された、宦官だ。

兎に角あらゆる遊びの技能を身につけており、心の隙に潜り込む能力に関しては他の追随を許さない。呉でその軽薄さを孫権に嫌われ、進退窮まっていた所を林が拾った。もっとも、拾う前は名前が違ったが。

「郭循」

「はい」

「お前は劉禅を暗殺するか、もしくは費偉を殺せ」

「わかりました。 この命に替えて」

郭循は薬物で暗示を与えてある。自分は魏の刺客で、国を守るために敵を殺してきたのだと思っている。

実際には呉出身なのだから、これは面白い。林としても、何処まで人の記憶をいじれるのか、実験したくて此処までのことをしたのだ。

腕前の方はなかなか優れていて、周囲にとけ込み、表から近付いて敵を刺すことに関しては林も一目置くほどである。問題は董白が率いている細作部隊だが、これも今は外に目を向けていて、内情には疎くなりつつある。

続いて黄皓に向けて、林は命令を下した。

「お前は蜀漢の宮廷を腐敗させよ。 もしも郭循が劉禅を殺せなかった場合は、奴がとことん無気力になるようにし向けるのだ。 もしも劉禅を殺せた場合は、后妃どもに取り入り、跡継ぎ問題を引き起こさせよ」

「わかりましてございまする」

この仕込みに、林は十年を費やした。

侵入させる経路や、それに人材の育成。曹操の時代に失った兵力は全て回復し、今や林こそが、この中華の闇の支配者である。董白でさえ、いや全盛期の諸葛亮でさえ、ここまでの影響力は有していないだろう。

そしてその影響力は。

全てを滅茶苦茶にするためだけに。

林が面白おかしく全てを引っかき回すためだけに、使われるのだ。

「もはやこの世に英雄はおらぬ。 英雄がいれば私に対抗できもしただろうが、それなき今、この世は我がものだ。 民草は踏みにじるためだけにある! 王は嘲笑うためだけにいる! 全てを焼き尽くし、食い尽くし、滅ぼし、蹂躙し! 私こそが、闇からこの文明を支配陵辱する!」

林は嗤う。

部下達は、恐怖の視線を、その全身に投げかけていた。

 

3、魏の黄昏

 

司馬懿が仮病で屋敷に引きこもり始めてから、魏は一気に傾き始めていた。

行動の掣肘が一気に外れた曹爽が、好き勝手に振る舞うようになり始めたのである。正確には曹爽と言うよりも、彼を裏から操っている者達が、であったが。

その筆頭が何晏。そして、彼に続くのが桓範。他にもまだ若い文官や武官が曹爽にすりより、独自の派閥を形成して、人事を好きにし始めていた。

その人事が公平であれば、誰も文句は言わなかっただろう。

しかしそれは残念ながら、不公平そのものだった。

連日、曹爽の屋敷に馬車が向かう。何晏や桓範の屋敷も同じである。

積み上げられた財宝、宝物。そして山海の珍味。

今や如何に連中の関心を買うかが、出世の糸口となってしまっていた。

屋敷の二階から、がらがらと行く馬車を見つめている司馬懿。予想はしていた。だが、ここまで俗物丸出しのやり口で動き出すとは思っていなかった。曹爽が権力を得たら、善良で有能な男になる可能性も想定していた。その場合は、素直に身を引こうとも考えていたのである。

しかし、現実は、これだ。

既に地方を中心にして、反乱分子が燻り始めているという。あれだけの財宝、普通のやり方で用意できるはずがない。自分の領地の税を上げ、悪徳商人と結託して、民を痛めつけに痛めつけて、ようやく得られる規模の宝物だ。

二階に上がってくる音。

二人分の足音だ。

一応寝台に腰掛ける。手を叩いて、侍女を呼んだ。首の辺りを拭かせている内に、戸が開いて、寝室に二人が入ってくる。

一人は、ケ艾。

随分時は経ったが、それでも容姿は若々しい。多分生来の性質に加えて、子供を産んでいないからだろう。隣にいる子供は、多分ケ艾の養子だろう。あの公孫淵の息子だった子供だ。今やケ艾との親子関係は理想的だと言う。鎧を着ていないケ艾は、息子の頭を撫で撫でしながら、笑みを浮かべる。

「お久しぶりです、丞相」

「うむ、元気そうで何よりだ」

侍女が椅子を用意して、ケ艾が腰掛ける。忠は退屈そうにしていたので、侍女が連れて行った。

茶が出される。司馬懿とケ艾は、しばし茶をすすって落ち着いた。

「予想以上の有様に、驚きました。 このままでは魏は滅びますね」

「ああ、間違いないところだ。 実は、去年の末に、李勝が私の様子を見に来た」

「あの腰巾着がですか?」

李勝は曹爽の腰巾着の一人で、何ら功績がないのに、曹爽と古くからの仲だという理由だけで出世した男である。司馬懿から見ても、どうしてこの男が重職に就いているのか、どうしても理解できなかった。

李勝は、司馬懿の様子を探りに来て、そして見事にだまされた。

「儂がちょっと呆けた振りをして見せたら、ころっとだまされてのう。 それから、曹爽の行動が、更に派手になりおったわ」

「それは痛快ですが、そろそろ洒落になりませんね。 このままだと、魏は失血死してしまいます」

「その通りだ。 曹真大将軍には本当に申し訳ないが、もう魏のためにも、我慢はしていられないな」

司馬懿は立ち上がる。

完全に相手が油断している、今が好機だ。

「来月半ば、曹爽が一族総出で狩りに出る。 腰巾着達も皆連れて、だ。 曹爽にとっては、「政治的」な狩りのつもりで、阿諛追従をする者達も全員参加する事だろう。 その時、決行する」

ケ艾が眼を細めた。

陳泰も、既に洛陽に来ている。夏候覇だけは、恐らく乗りそうもなかったので、長安に。今は郭淮の監視下だ。

「曹芳陛下は」

「陳泰に任せられるか」

「多分、大丈夫でしょう。 洛陽の街は、私が制圧します」

「うむ。 私は子飼いの部下達を連れて、宮殿を抑える。 門を制圧した後は、陛下を救出して、一気に曹爽を滅ぼす」

問題は、その後だ。

今度は司馬一族が、曹爽の専横に取って代わる事だけは、どうにか避けなければならない。

しかし短期間で此処まで曹爽が魏を食い荒らすとは、思っていなかった。かなりの人間が曹爽に同調しており、既に魏は傾き始めている。司馬一族以外に、この隙間を埋められる人間的集団がいないのも事実。

もたついていると、隙を突いて蜀漢が侵入してくるだろう。ケ艾なら防いでくれるはずと言っても、やはり不安は残る。

「ケ艾。 以前頼んだことだが」

「分かっています。 いざというときは、陛下を連れて、蜀漢に亡命しろ、でしたね」

「うむ。 今回、曹爽があまりにも手ひどく魏を食い荒らしすぎたせいで、政権を奪還した時には、司馬一族を要職に就けざるを得なくなった。 私の目が黒いうちには好き勝手はさせないが、しかしそれも後何年持つか」

司馬懿は咳き込んだ。

年の割には健康と言っても、限度がある。あと十年も生きられないだろうと、冷静に司馬懿は分析していた。

そして司馬一族は、皇帝に敬意など払っていない。

「司馬の一族は、曹家よりずっと古い名門で、それが故に曹家を内心見下している連中も少なくない。 その上その中心となっている妻からしてあの性格だ。 ケ艾、頼むぞ」

ケ艾は頷く。

司馬懿は手を叩いて、侍女を呼んだ。侍女はケ忠もつれてきた。

「おとなのはなし、おわった?」

「うん。 司馬懿お爺ちゃんと、何をして遊ぶ?」

「おはなし、してほしい」

「おお、そうかそうか。 それでは、曹叡陛下の話をしてやろうかのう」

孫がこんなに可愛かったら良かったのに。

司馬懿は、ケ艾の義理の息子を、眼を細めて見つめた。

 

曹爽は、内心では司馬懿を恐れていた。

一応、曹爽も西部戦線に参加したことがある。そして、蜀漢軍の、凄まじい強さを直接目にした。

その蜀漢軍を、司馬懿は押し返した。正確に言うと数を頼りに守りきったという所だが、どちらにしても曹爽が及ぶ相手ではない。曹爽が司令官だったら、例え三十万の軍勢であっても、蹴散らされていたかも知れない。

如何に腰巾着達が、司馬懿は老いぼれたとか、病気だと言っても、不安で仕方がなかった。だから力を蓄えるためにも、賄賂を積極的に受け取ったのだ。自分の言うことを聞く人間を少しでも増やしておけば、いざというときに応対できると思ったからである。

同じ曹一族だというのに、曹芳はいつまで経っても曹爽になつかない。

今回も狩りに連れ出したは良いが、曹爽と目をあわそうともせず、話し掛けなければ会話もしなかった。

司馬懿さえ死ねば、天下は自分のものだ。

そうすれば、脅かされることもなくなる。

自分に言い聞かせながら、曹爽は狩りを続ける。鹿を仕留め、猪を射止め、そして山に出かけて虎を捕った。虎はその場で捌いて内蔵類を捕りだし、肉は精力をつけるために燻製にした。

追従がその間ひっきりなしに飛んできたが、曹爽の耳には入らなかった。

皇帝は連れ出している。

司馬懿が、病的な忠誠を皇室に抱いているのは、曹爽も知っている。いわば人質である。これならば、絶対に大丈夫だと、曹爽は考えていた。もちろん、見張りは厳重にさせていた。

不安要素だった許儀は、宮中に置き去りにしている。

信頼できる部下だけで固めているから、何ら問題はない。そのはずだった。

野営して、仕留めた鹿を皆で食べている時。

それらの考えが、粉みじんに粉砕された。

血相を変えた兵士が飛び込んでくる。遠くから、喧噪が聞こえた。

「ご注進です!」

「どうした!」

「陳の旗を掲げた敵が来襲! 陛下を強奪し、護衛の者達を蹴散らしております!」

「何だとっ!?」

陳と言うと、ひょっとすると陳泰か。

曹爽も知っている、有能な将軍だ。西部戦線でも、諸葛亮の軍勢を相手に、まがりなりにも戦えていた数少ない一人である。奴が攻め込んできたというのか。一体何時、どのようにして。

「お、押し包め! 逃がすな!」

おろおろしている腰巾着達に怒鳴ると、曹爽自身は愛馬に跨る。そして、呻いていた。

天幕の辺りは、既に火が回り始めている。点々と散らばっている死骸は、殆ど一太刀で斬り伏せられていた。

まるで戦慣れの度合いが違うのだ。

陳泰の軍勢は二千ほどか。もはや撤退に移っている。味方の兵士は呆然としていたり、右往左往していたりで、まるでものの役に立たないのが見て取れた。歯ぎしりした曹爽は、更に伝令の兵士が駆け寄ってきたのを見て、青ざめる。

「ご注進です!」

「今度は何だ!」

「洛陽が陥落しました! いつの間にか潜り込んでいたケ艾の軍勢、およそ十万による攻撃だと言うことです!」

「じゅ、十万っ!?」

ケ艾は、陳泰以上の手腕を持つ奴だ。

どうやら女らしいのだが、そんな事は今は関係ない。曹爽の周囲を固めているのは、精々二万程度。しかも、実戦経験が著しく乏しく、戦意も低い。その上、切り札の皇帝は今奪われてしまった。

全てが崩壊していくのを、曹爽は感じた。

「終わりだ……」

「何を言われます!」

「我らの味方は、地方にも大勢おります! 此処は一旦都を離れ、河北か中原にて態勢を立て直しましょう」

「たわけが! 公孫淵の末路を、お前達は忘れたか!」

現実を指摘すると、誰もが押し黙った。

あの時、司馬懿はたった四万を率いて、その倍とも三倍とも噂された公孫淵の軍勢を、瞬時に粉砕した。しかも後から話を聞くと、実戦部隊は一万程度で、後は包囲して勝手に相手を自滅する方向へ追い込んだのだという。

一万で、六万とも八万とも言われる公孫淵軍を粉砕したその将軍こそ、ケ艾だ。

そしてケ艾は今、洛陽を抑え、十万の兵で此方を飲み込もうと伺っているのである。

青ざめているのは曹爽だけではない。

今まであらゆる好き勝手をし、退廃と背徳を恣にしてきた何晏も、揉み手と諂いでひたすら曹爽の機嫌を伺ってきた桓範も。等しく血の気を失った顔を並べていた。

「此処に諸葛亮でもいない限り、もはや勝ち目はない。 そればかりか、逃げ道さえもないわ」

「大将軍」

「何だ!」

おそるおそる手を挙げたのは、痩せた小男である。

確か名前は賈充。陰気な顔で笑う男で、しかしやたらと頭が切れるので側に置いていたのだ。

曹爽も、諂う者ばかりを側に置いていては拙いと言うことくらいは分かっていた。だから、本当に頭がよい奴を、嫌だなとは思いつつも何名かは側に置いていた。

賈充は西部戦線でも参謀として従軍したことがあり、能力面では問題がないと、曹爽は思っていた。丁度部下にして欲しいといってきたので、側に置いていたのだ。

「今、大将軍には、幾つかの路がございます」

「路とは」

「一つは逃げることです。 軍事機密を持って、呉か蜀漢に逃亡すれば、向こうではそれなりに厚遇してくれましょう」

「……他の路は」

流石にそれはいやだった。

曹爽も、自分が凡庸であることは理解している。だが、それでも、太祖曹操と同じ血が体を流れているという誇りがある。

魏を売ると言うことだけは出来なかった。

「もう一つの路は、戦うことにございます」

「無理だと言っている」

「本当にそうでしょうか」

賈充は、鼠のような歯を剥きだして、卑屈に笑った。

この気色の悪い笑みが、曹爽は大嫌いだった。だが、頭がよいことは分かっているから、側に置いていたのだ。

今、それが役立った。しかし、気味が悪いことに代わりはなかった。

「敵は十万などと称していますが、そのような軍勢が、一度に、突然に湧く訳がございません。 私の知る限り、司馬懿の息が掛かった武将などを糾合して、精々一度に集められるのは一万から一万二千。 それも、忠誠度が高いのは恐らく許儀の数百と、ケ艾が潜入させた三千、陳泰が襲撃に使ってきた二千程度でしょう」

「何が言いたい」

「つまり、敵には守りを固めたり奇襲をする兵力はあっても、追撃を行う力は無いと言うことです。 長安なり弘農なり許昌なりに引き、態勢を立て直せば、充分に戦うことが可能でしょう」

それは、とても論理的な言葉だった。

家臣達の中には、生き返ったように顔色が戻った者もいた。

だが、曹爽は首を振った。

「無理だ。 例え敵に十倍する兵力があっても、勝てる訳がない」

「どうしてでしょうか」

「此方には、私に追従する連中はいても、実戦で鍛え上げた戦の専門家が、一人も居ないからだ」

不思議と、曹爽の頭は冴え渡っていた。

その程度のことが、どうしてわからないのか。取り巻きどもの無能さが、今になってはっきり分かってくる。

御輿に担ぎ上げられて、調子に乗っていた自分の愚かさ加減も。

更に言えば、司馬懿の行動にも、理があるように思えてきた。この佞臣どもが、自分に媚びを売るために、何をしてきたか。恐らく地方では、既に怨嗟の声が天を突き始めているのではないのか。

司馬懿は、こうしようと思えば、いつでも出来たはずだ。

今までしなかったのは、曹爽の愚かさを見定めるのが目的だったのではないのか。

そして曹爽は。

最悪の意味で、司馬懿の予想を裏切ってしまった。

かって、司馬懿は曹爽に随分よくしてくれた。曹真の世話になったからだと言っていた。曹爽も、司馬懿を慕っていたような気がする。

いつからだろう。全てがおかしくなってしまったのは。

「他に、手はないか」

「ならば、潔く降伏を」

「大将軍! そのような弱気な策を容れてはなりませぬ!」

何晏が叫く。

桓範も反対した。

だが、曹爽は首を振った。

「お前達が抗戦を叫ぶのは、自分の身が可愛いからだろう。 だが、はっきり言うが、お前達程度では、司馬懿にはどうやっても勝てぬ」

「そんな事は……!」

顔を真っ赤にして、何晏が反論しようとする。だが、もはやその目にも、狂気以外の要素は残っていなかった。

思えば、この自信過剰な男に持ち上げられたのが、全ての失敗の元だった。

しかし、不思議なこともある。この何ら裏付けのない、薄っぺらな学者馬鹿の、何処にこれほど自分の路を誤らせる部分があったのだろう。

何だか、皆で質が悪い悪夢でも見せられていたかのようだった。

桓範が、半狂乱になって叫ぶ。それを、賈充が押さえ込む。

「降伏すれば、我らは皆殺しにされましょう!」

「いえ、大人しく暮らせば、司馬懿も其処までのことはしないはずです」

「……」

曹爽は、無言で剣を捨てた。

多分、桓範の言葉が正しいはずだ。

だが、もう曹爽は疲れ果てていた。

 

ぎゅっと馬の背にしがみついている曹芳は、陳泰が思ったよりずっと幼い子供だった。だが、悲鳴を上げる様子もなかった事だけは、感嘆に値した。

掠う時、近衛は周囲に一人も居なかった。曹爽が如何に許儀を危険視していたか、これだけでもよくわかる。周囲を固めていたのは質が悪い破落戸ばかりで、さぞや怖かったことだろう。

一度、馬を止める。既に、敵の追撃の可能性はなかった。洛陽は目の前であり、何かあったら逃げ込むことも出来る。

「朕を、何処に連れて行くつもりだ」

「司馬懿丞相の所にございます」

「爺やが待っているのか」

「はい」

良かったと、曹芳は呟く。嘘をついているようには、陳泰には見えなかった。

理由を聞いてみると、不思議なことを言い出す。

「爺やは、朕を嫌いになったかと思っていた」

「それはあり得ませぬ。 司馬懿丞相は、誰よりも陛下の事を愛しておられます」

「でも、大傅に任じてから、朕に会いに来てくれなくなってしまった」

「それは……」

悩ましい所だった。

仮にも皇族の一人である曹爽を、此処で論破してしまって良いものなのか。生真面目な陳泰は悩んだのだ。

だが、曹芳は、意外な聡明さを見せてくれた。

「曹爽と、仲が悪いのが原因なのか」

「陛下、気付いておられたのですか」

「何となくは分かっていた。 爺やは、曹爽を必死に抑えていた。 曹爽も、多分爺やを邪魔だと思っていたのだろう。 そうか、朕は爺やが喜ぶと思って、悲しむことをしてしまったのだな」

心底残念そうに嘆息する曹芳。

陳泰は、忠誠心を刺激されて、努めて優しくいたわりの声を掛ける。

「何の、司馬懿丞相は、陛下のことを今でも愛しておられます。 さあ、すぐに司馬懿丞相の下に戻り、また一緒に暮らしましょう」

「おお、そうだな。 曹爽はどうなる」

「国政の壟断著しく、無罪とは行きますまい。 洛陽の街は、私が見ないたった数年で、著しく貧富の差が拡大しました。 曹爽大将軍もそうですが、その取り巻き達が、片っ端から賄賂を絞り上げた結果にございます。 地方都市は更に酷い有様で、民は皆苦しんでおります」

「朕は暗君だな。 そのような者達をのさばらせてしまったことを、許せ」

無言で陳泰は馬を走らせた。

城門で、ケ艾が出迎えてくれた。

既に陳泰も妻を迎え、子供達もいる。ケ艾も養子とはいえ子供を作り、幸せな家庭を築いていた。

もはや道が交わることがない相手ではある。だが、一緒に戦ってきた戦友であるという接点は、まだ残っていた。

「お疲れ様ー! 陳泰、大丈夫だった?」

「見ての通りだ。 陛下を救出してきた」

「わ、大変」

慌てて抱拳礼をするケ艾の慌てぶりはおかしくて、曹芳はくすくすと笑った。赤面するケ艾に、馬から下りながら、曹芳が言う。

「勇将ケ艾、出迎えご苦労であった」

「私のような者の名前を覚えていただいて、光栄にございます」

「三国にとどろく汝の名、朕が覚えぬ訳にはいかぬ。 司馬懿の下に、案内してもらえるだろうか」

「此方にございます」

曹芳は毅然と胸を張り、歩き出した。

許儀は良い教育をしているのだなと、その後ろ姿を、眼を細めて陳泰は見守った。

 

隣を歩く曹芳は、ケ忠と同じくらいの背丈である。だが、発育はずっと早いようだった。無理もないことである。環境が環境だし、早熟にならざるを得ないのだろう。無茶な年で子作りをさせられ、寿命を縮めてしまう例もあると聞いている。

「ケ艾は、あのような喋り方をすることもあるのか」

「あれは地です。 親しい者とは、ああやって喋る事もあります」

「陳泰とは親しいのか」

「私が子供の頃から、武勲を競い合った仲です。 何だかいつも私に突っかかって来たのですが、いつのまにか仲良くなっていました」

てへへーと頭を掻く。可愛い子供が相手と言うことか、ついついこういう動作が出てしまった。

ケ艾は子供が好きだ。

大人と違って嘘がない。嘘がない分残酷であったりもするが、それでもこの純白さは、見ていて眩しい。子供を産めないという決定的な欠陥があったとしても、この辺りはケ艾の女の部分なのかも知れなかった。

一旦宮廷に。

許儀が腕組みをして仏頂面で立っていた。昔は若かったような気もするが、今では筋肉で全身を覆い、豊富な口ひげを蓄えて、如何にも武将然とした面構えになっている。腕の方も相当だと聞いている。

「許儀!」

「陛下! ご無事でございましたか」

だが、その鬼のような大男が、曹芳を見ると破顔するのだから面白い。

きゃっきゃっと黄色い声で喜んでいる様子からも、曹芳が如何に許儀を慕っているのかは、一目瞭然であった。

「ケ艾将軍、陳泰将軍は」

「四門の警備に当たっています。 曹爽派が、無茶な攻撃に出る可能性もありますので」

「そうか。 ならば、早めに丞相と対策を練らなければならないな」

「それがよろしいでしょう」

よく見ると、近衛の兵士達も、皆曹芳が帰ってきたことを、とても喜んでいた。

許儀と彼らは一心同体も同じなのだろう。部下達と陛下を守るという点で心を通じ合わせ、今まで不祥事を避けてきた、と言うことか。まるで父親、いや孫のいる祖父のような心配りだ。

司馬一族も、続々と駆けつけている。ふんぞり返って偉そうに指示しているのは、司馬師。司馬懿の息子だ。多少は頭が切れるようだが、それ以上に権力欲が強すぎるので、ちょっとケ艾は苦手だった。その隣には、司馬昭もいる。

今回、ケ艾は司馬師の命令で軍勢を動かした、という事になっている。だが実際司馬師は自宅でふんぞり返っていただけで、名前を貸していただけだ。ケ艾にしてみても、資金援助以上のものを受けた覚えはない。

多分後の歴史書には、司馬師が何時行動したかも、誰もがわからなかったとか書かれるのだろうと思うと憂鬱である。それはそうだろう。実際に動いていなかったのだから。

近衛に守られるようにして、奥に司馬懿がいた。

時々咳き込みながらも、軍図上で、何度か指を動かして、集まってきた旧部下達に指示を出している。縮尺の大きな地図で、これから反乱の類が起こったらどう対処するかを、指示しているのだろう。

「司馬懿!」

「おおっ! 陛下!」

駆け寄ってきた曹芳を、司馬懿が抱き留める。喜色満面とはこのことだ。

司馬懿は涙さえも流していた。恐怖に駆られながらも、必死に諸葛亮の魔神を思わせる軍勢から、魏を守りきった男が。この程度で涙するのだから、やはり年によって人間は衰えるのだろう。

「何処か怪我はしておりませぬか」

「大丈夫じゃ。 陳泰が、怪我をせぬよう気をつけて運んでくれた」

「そうでしたか。 陳泰は生真面目な男である故、心配はしていませんでしたが」

「それよりも司馬懿。 曹爽はどうするのじゃ」

さっと、周囲の将軍達の表情が曇る。

ケ艾が咳払いして、他の武将達を見回す。司馬懿も表情を切り替えると、言った。

「降伏勧告の使者は準備できているか」

「はい。 すぐにでも出られます」

「何晏辺りが余計な知恵を授ける前に、さっさと曹爽を降伏させる。 急いで事を治めないと、乱が魏全体に波及する可能性がある。 さっきまで指示していたように、反乱が起こってもそう簡単にこの国は揺るがぬが、それでも混乱は早く収まった方がよい」

「曹爽を、殺さずにいてくれるか」

司馬懿は一瞬苦しそうに表情を歪めた。

ケ艾にしてみても、曹爽がこのまま降伏し、大人しくしているとは思えない。ましてや政略に関してそれなりの手腕を持っている司馬懿にしてみれば、それは明々白々という所なのだろう。

恩義のある曹真に対する裏切りだと言うことで、血を吐くような思いで、今回の行動を起こした司馬懿である。その上、曹叡の面影がある曹芳に嘘をついて嫌われでもしたら、立ち直れまい。

「司馬懿? どうしたのじゃ」

「出来る限り、努力はいたします」

「殺さねばならぬのか」

「曹爽様は、大将軍は、魏を私物化し、様々な悪行を行いました。 直ちに処刑しなければならないというほどではありませんが、官職は剥奪し、軍権も取り上げなければならないでしょう。 そして、もしもこれから自宅で大人しくしていただけるのであれば、これ以上の罰を受けて貰う事はない、と思われます」

曹芳は凡庸だと言うことだったが、司馬懿の言うことをきちんと理解できている様子であった。

ケ艾は胸が痛む。

幼い頃から、このような血なまぐさい有様を目にして育って、将来歪まないかと。

いざというときは、曹芳を連れて亡命して欲しいと言われているケ艾だ。せめてこの子が大人になるくらいまでは、周囲の悪逆から守って上げたいと思っている。それは司馬懿や許儀も同じの筈なのに。

しばらく曹芳は考えていた。

だが、緊張の中で、毅然と顔を上げた。

「分かった。 曹爽が降伏してきたら、朕からも言い聞かせよう」

「流石は陛下にございます」

「いざというときは、曹爽を殺さねばならぬか」

「兵家の常にございます」

曹芳は、それ以上何も言わなかった。幼い子供だというのに、立派な姿だった。凡庸と言われているが、これはひょっとすると、父に迫るかも知れない。

司馬懿も感心したようで、許儀に連れられて、後宮に引き上げる曹芳を、眼を細めて見守っていた。

「流石は先帝陛下の御子だ。 とても子供とは思えぬ」

「内では許儀将軍が。 外では私が。 命に替えてもお守りいたします」

「うむ、頼むぞ」

一瞬だけ、ケ艾は殺気を感じた。

だが、振り返らない。誰からの殺気かは、大体分かっていたから、である。

 

曹爽は、その日の内に軍勢を解体し、洛陽の正門に出頭した。

逃走を図った曹爽の腰巾着もいたが、すぐに秩序を取り戻した洛陽の軍勢が彼らを追跡、殆どは数日以内に捕縛された。何とか逃げ延びた者もいたが、呉にしても蜀漢にしてもあまり使いどころがない連中であり、完全に飼い殺しの目に会うこととなった。

一番の元凶であった何晏は、女装して逃げていた所を、あっさり取り押さえられた。五石散が切れて発作が起こり、それを怪しまれたのである。しかも暴れたので、その場で兵士に斬られてしまった。

顔の造作が美しかっただけに、無念の形相は凄まじく。晒された首を見て、恐怖しない者はいなかったという。

堂々とした態度で出頭した曹爽は縄を掛けられることもなく、皇帝の前に案内された。あの俗物がと、司馬懿は驚かされた。曹真の名を辱めてばかりだった曹爽だったのに、いざ出頭してくると、まるで憑き物が落ちたかのように晴れやかな表情をしていた。

「大将軍の地位は、返上いたします」

「分かった。 しばらくは謹慎しておるが良い」

「寛大な処置、ありがたき幸せにございます」

一礼すると、曹爽は弟たちと一緒に宮殿を出て行く。司馬懿は眼を細めて、その様子を見守った。

天晴れだと思ったからである。

「見事な引き際であったな、司馬懿」

「はい。 最初からあのような態度でいてくれれば、私もこのようなことはせずとも済んだのですが」

「全ては過ぎたことだ。 あの様子であれば、もはや専横の心配はないだろう。 殺さないでやってくれるか」

「しばらく謹慎をして貰って、様子を見てから、とした方がよろしゅうございます。 この方針でよろしいでしょうか」

曹芳は、それでよいと言ってくれた。この子も、一気に覚醒した観がある。司馬懿は安心して、献策をすることが出来た。

少し上機嫌のまま、自身も宮廷を出る。また、地位は丞相に戻っていた。このような乱暴な解決をしたためというのが名目だが、実質上には最高位への復帰と言っても良い。自室の手前で、自分の肩を叩きながら歩いていた司馬懿は、暗い目をした長男に、行く手を遮られた。

元より仲がよい親子ではない。司馬懿は若干の不快感を湛えながら、前を塞ぐ長男に、遠回しな非難を投げかける。

「どうした、師。 私に何用か」

「なぜ曹爽を殺しませぬ」

「何……?」

ずいぶんと直球で乱暴なことを言う。

司馬懿も最初はそうするべきだと考えていた。だが、曹爽には情状酌量の余地が生じてきている。あの堂々とした態度を見て、それを感じられないのは、やはり実戦を知らぬが故なのか。

「奴を生かしておけば、司馬一族のためになりませぬ」

「私は司馬一族のために生きているのではない。 曹芳陛下のために生きているのだ」

「それは一族への反逆ととってもよろしいか」

「控えよ!」

自分でも信じられないほど、大きな声を出していた。

周囲の兵士達が注目する。だが、いつの間にか現れていた司馬昭も含め、司馬師は一歩も引こうとはしなかった。

そもそもこの息子が、司馬懿は大嫌いであった。

幼い頃は、そうでもなかった。だが母に手なづけられ、自分を侮ること著しく。拷問をされる司馬懿を見て、影でくすくす笑っていたことさえある。

それらも含め、息子への不審は根強い。よくしたもので、権力を奪われてからの、息子の自分を見る目には殺意さえ籠もっているのを、司馬懿は知っていた。

「口を開けば一族一族。 蓄財と政争しか取り柄がない貴様に国政の何がわかる!」

「申されましたな。 後悔召されるな」

「誰が後悔などするか。 私の目の色が黒いうちは、お前達に好き勝手などさせはせぬからな! さっさと去れ、このどら息子が!」

無言で、司馬師も司馬昭もその場から消える。

何度か呼吸を整えていた司馬懿は、急に胸が苦しくなるのを感じて、目を剥いた。

年甲斐もなく、怒りすぎてしまったかも知れない。慌てて駆け寄ってきたのは、ケ艾だった。

「大丈夫ですか、丞相」

「う、うむ。 大丈夫だ、まだ、死ねはせぬ」

あのどら息子にも、地位を与えなければならない。曹爽一派の放逐により、魏に出来た孔はあまりにも大きいのだ。

だが、それは権力を与えることも意味している。司馬懿がしっかり手綱を握らなければ、連中はたちまち先ほどまでの曹爽と同じ権力の亡者と化して、魏を貪り尽くすだろう。そしてその時には、もはやケ艾や陳泰では、止めることは出来ない。この国は、間違いなく滅びる。天下統一くらいまでなら保つかも知れないが、それ以降は確実に滅びへ突き進む。

「私は死なぬ。 しかし、もしもという時は」

悲痛な言葉に、ケ艾は頷く。

曹芳は、とてもよい子だ。あのようなけだものどもに、好きにさせる訳にはいかない。絶対に、守り抜かなければならなかった。

 

4、そして伸び上がる闇

 

俄に西涼や擁州が騒がしくなったと、細作部隊が知らせてきた。陳式は本国に警戒の使者を飛ばし、同時に状況の分析に入った。

現在、陳式が抑えている武都、陰平には、一万二千の兵がいる。既に限界動員数に近く、質を保つだけで精一杯だ。本国の援軍を併せると、五万程度の兵で敵に対抗することが可能となる。

魏軍はしばらく戦をしていなかったが、それは蜀漢軍も同じ。既に一番若い世代には、戦を知らぬ者も出始めていた。

武都城に主な武将を集める。まだ敵が攻めてくるとは決まった訳ではない。だが、今の内に対策を練っておく必要があった。

若い武将が、挙手する。姜維と何かと対立することが多い、胡済いう武将だ。名門出身でかなりの地位に上り詰めており、そのためかたたき上げで諸葛亮の子飼いである姜維とは、対立することが多かった。かっての魏延と揚義の関係に近いかも知れない。

「魏が攻め込んでくるとしたら、それはどの程度の戦力になりましょうか」

「難しい所だ。 今、呉は非常に弱体化していて、魏に攻め込むどころではなくなっている。 しかしながら、司馬一族による政権奪取の混乱もある。 もしも攻め込んでくるとしても、十万を超えることはないだろう」

「十万、ですか」

「十万であれば問題はない。 ケ艾が出てくると面倒だが、それでも撃退は難しくないだろう」

陳式が断言すると、若い武将達は顔を見合わせた。

彼らは知らないのだ。諸葛亮による北伐の凄まじい戦果を。陳式も既に、中年を過ぎ始めている。彼らから見れば老人に思えるのかも知れないと考えると、少し悲しくもあった。

「それで戦略としては、堅守となりましょうか」

「そうだな。 魏の後方で反乱が起これば、それに乗じて攻め込むという選択肢もあるのだが、正直難しいだろうな。 魏の国力は、既に蜀漢の八倍から十倍に達しているという報告もある。 生半可な攻撃では、びくともしないだろう」

「五倍から十倍、ですか」

「そうだ。 人間も多いし、経済力も凄まじい。 呉が衰退しきっている今、我らだけでそれを食い止めなければならない。 皆、並ならぬ覚悟が必要になる。 努々油断せぬようにな」

軍議を解散する。

城壁の上に上がると、ライリが来た。深刻なことがあったらしく、顔色を曇らせている。

「どうした」

「はい。 どうやら、成都が混乱し始めています。 皇帝陛下が、黄皓なる宦官を重用し始めた模様でして」

「宦官だと」

「はい。 費偉様が横暴を抑えている様子なのですが、しかし元より国政のことなどわからぬ宦官。 後宮で影響力を伸ばし、子飼いの人間を好き勝手な地位に就けようとしているようでして」

思わず天を仰ぐ。

劉禅はそれほど愚劣な君主ではなかったはずだが、しばらく成都を離れている間に、何があったのか。

ショウエンや董允が死んでから、確かに内政面で力を発揮できる人材は減ってきた。諸葛亮の息子の諸葛瞻は若い頃は期待されたが、やはり父ほどの才能は無く、良い文官、良い武将止まりである。羅憲は呉方面の諜報で手一杯であり、姜維は漢中で軍を練る以上の権限がない。向寵は軍にしか興味がないようだし、張翼、王平は既に老いてしまった。

多くの文官は小粒か、或いは学者肌の非実務派ばかりだ。陳式の息子の陳寿が何よりそうなのだ。歴史を記したり、儀礼を滞りなく進めるには良いかもしれないが、実際の民の生活を向上させるには何一つ役立たない。

「どうにか、お諫めしなければならないな」

「しかし、既に成都はかなり危険な状態になり始めています。 思い上がった黄皓は、反対派の家臣に凶手を送りつけるような真似までし始めている様子です。 黄月英様も、既に引退を表明し始めておられるとか」

「そうか、無理もない。 既にお年だ」

「誰が、年ですって?」

不意に冷ややかな声がした。

振り返ると、其処にその当人がいた。慌てて抱拳礼をする陳式に対して、諸葛亮の妻であり、既に老境に入っている黄月英は、口元を扇子で隠しながら言う。

「お久しぶりですね、陳式将軍」

「お久しぶりです。 お変わりはなかったでしょうか」

「見ての通りです。 随分老けてしまいました。 夫が生きていた時も、苦労の連続でしたが。 息子の瞻に手が掛からなくなっても、苦労が絶えないというのは、どういう事なのでしょう」

何だか月英は悲しげだった。

自分で言うほど、月英は老けていない。目元の皺は深くなっているが、それでもまだ年の割に若々しい。荊州の時代から、見知らぬ仲でもない。老けたというのなら、それは陳式も同じだ。

跪いているライリに、何か話している。陳式は知らなかったが、二人は結構密接に情報交換をしているらしい。それにしても、こんな急に、蜀漢から離れた飛び地のような場所に来るとは。

「何か、あったのですか」

「まだ確信は持てませんが、どうやら黄皓は魏の間者らしいのです。 それも、林の息が掛かっている可能性が濃厚です」

「何と」

確かに、この時期の不意に台頭してくる宦官。命数を使い果たすと言うには、まだ早すぎる蜀漢という事もある。

確かに、滅びを加速するための間者として、送り込まれた存在である可能性はあった。

「今、林に横やりを入れられては、蜀漢は本当に滅亡します。 私は細作部隊の根拠地を、幾つかに分散する目的で今動いています。 その一つを此処、武都にしようと思っているのですが、陳式将軍は問題ありませんか?」

「大丈夫です。 それなら、いっそ私が黄皓を斬って参りましょうか」

「既に劉禅陛下は、黄皓の言いなりになってしまっている状態です。 しかも、武装解除をしなければならない宮中に黄皓は身を隠しており、足を踏み入れても、斬ることは難しいでしょう」

嘆息。

皇帝を守るための法が、このような所で佞臣をのさばらせる原因になってしまうとは。悲しい話であった。

月英は、遠くを見つめた。何処までも広がる山々と、そして雲。その下には、数百万とも千万とも言われる民が暮らしている。

「もしも、蜀漢が滅びても、民は滅びません。 その時のためにも、私は今、此処に来ています」

「馬超殿との連携ですか」

「ええ。 そのような日が、来ないことを祈るばかりですが」

陳式は、既に絶望を覚え始めていた。

英雄無く、既に統一に傾き始めたこの中華。

しかし、希望は、何処にも見えなかったからである。なぜかはわからない。統一は民の悲願だったはずだ。

それなのに、どうしてこうも、絶望ばかり感じてしまうのだろう。

何か、途轍もない闇が産まれようとしている。そうとしか思えなかった。

 

曹爽が、死んだ。

突然のことだった。自宅で、血を吐いて死んでいるのを、監視中の兵士が見つけたのだ。兄弟達も同じだった。

司馬懿はすぐに事態の調査を命じたが、兵士達は何かに怯えたように二の足を踏み、怒鳴ってやっと動き出す始末だった。余程に恐ろしいものでも見たのか、気になって現場に足を運んでみて、司馬懿は息を呑むことになった。

それは、あまりにも異常な光景だった。

戦場で、散々人の死は見てきた。実際に人を殺す命令を下したこともある。自分で人を斬ったことはないが、それに近い経験はしたこともあった。

だが、こんな風に、異常な死に様は、見たことがなかった。

曹爽は目を見開き、口だけではなく全身から血を噴き出して死んでいたのだ。まるで、何かの恐ろしいものでも見たかのような形相であった。さぞや苦しかったのだろう。胸をかきむしった跡があった。

これでは兵士達が怯える訳である。元々臆病な所のある司馬懿は、全身の震えが止まらなかった。

「い、如何いたしましょう」

「すぐに医師達を当たれ。 このような死に方をする病があるか調べるのだ。 薬を扱う者達もだ。 毒殺の可能性がある」

「わ、わかりました」

司馬懿はすぐに参内する。事の次第を報告しなければならなかった。

降伏してきた時の、曹爽の安らかな顔を思い出す。自害などする訳がない。降伏した後の曹爽は、慎ましく暮らしていて、もはや罰する理由も意味もなかった。それなのに、一体誰が殺したのか。

幼い頃の曹爽は、司馬懿を親のように慕ってくれた時機もあった。

若い頃は、司馬懿の指揮を見て、目を輝かせていることもあった。

年を取ってからは対立したが、司馬懿も曹真の恩は忘れていなかった。だから、降伏して、心を入れ替えてくれた時は、本当に嬉しかったのだ。

曹芳もそれは同じであったらしく、時々司馬懿に、曹爽が元気にしているか、話を聞きたがったりもした。

それなのに。それなのに。

曹芳も、既に話は聞いていた様子で、玉座で愕然としていた。

小走りで走り寄り、平伏した司馬懿を見て、曹芳は眉を曇らせた。玉座の隣では、早朝から厳戒態勢をとってくれていた許儀が、傲然と辺りを睥睨していた。敢えて威圧的に振る舞っているのだ。刺客を避けるために。

「丞相。 これは一体、如何なる事か」

「今、調査中にございます」

「どういう事なのか」

「現場を見て参りましたが、人の死に様とはとても思えませんでした。 何か怪しげな毒を盛られたか、とても珍しい病気なのか。 いずれにしても、刺客に刺された、というような事ではありますまい」

曹芳が、少しだけ顔におびえを湛えたが、すぐに毅然とした態度を取り戻す。

あの一件以来、この少年皇帝は、とても肝が据わった行動を取るようになってきている。司馬懿としても好ましかった。

「宮中で、良くない噂が立ち始めておる」

「私が、曹爽どのを謀殺したとでも言う所でしょうか」

「そうだ。 そなたに限って、そのようなことはないとは、朕は思う。 だがしかし、このような噂が拡散しやすい状況なのは確かだ。 出来るだけ早く、原因を究明せよ」

「わかりました。 身命に変えましても」

何度か咳をした。

ここのところ、ますます喉の様子がおかしくなってきている。体が不意に動かなくなることもあり、体を見せると医師は眉をひそめるばかりだった。

宮廷を出ると、ケ艾がいた。抱拳礼をしたケ艾は、主な部下を殆ど連れていた。右隣には、陳泰もいる。

「蜀漢が、おかしな動きをしています。 姜維将軍が、しきりに軍を調練している様子です。 私達は、精鋭三万を連れて、すぐ長安に向かいたいのですが」

「分かった、そうしてくれ。 恐らく魏で乱が起こるのを、見越しての行動だろう」

「はい。 長安にいる常備兵七万五千と共に、西部戦線は私が守ります。 郭淮将軍にも協力を仰ぎたいのですが」

「よし、そちらは私から書状を出しておこう。 そなたは後方を心配せず、おもうままにふるまえ」

忙しい中だが、司馬懿は眼を細めた。

あのドジで間抜けだったケ艾が、今や西方の、事実の上総司令官だ。そして今のケ艾なら、たとえ諸葛亮でも、簡単には勝てないだろう。

軍司令部に顔を出すと、司馬懿は幾つかの指示を出して、それでやっと一息ついた。陰気な顔の息子が入ってくる。人払いをする動作を見て、司馬懿は眉をひそめた。

「どうした。 何のようか」

「何をしておいでですか、父上」

「貴様」

この息子に、父上などと言われると、虫酸が走る。

だが、表情を変えず、司馬師は言う。

「曹爽を殺したのは父上でしょう? 司馬一族のためになる事をしてくれて、助かったと思いましたのに」

「馬鹿なことを言うな! 違うに決まっているだろう!」

「なぜ、違うのです。 やはり父上は、司馬一族に逆らうおつもりですか」

「巫山戯るな! 貴様こそ、魏を何だと思っているか!」

兵士達を呼ぶ。

司令部で実の親子がにらみ合う異常事態が発生したが、兵士達は困惑して、遠目に見守るばかりであった。

「これは何の騒ぎか!」

「許儀将軍!」

部屋に入ってきたのは、許儀だった。流石の貫禄で、ひと睨みで兵士達の混乱を鎮圧し、司馬懿に咳払いをする。

「何があったのです、宰相」

「……何でもない。 すまぬ、感謝する」

この時。

司馬懿は、一族によって自分が暗殺される可能性を考えてしまった。

息子達の目は、もはや狂犬と同じだ。いつ牙を剥いてもおかしくない息子達を、信用する訳にはいかなかった。

 

林の所に、佐慈の亡骸が運ばれてくる。

何晏と桓範を破滅に追いやった後、曹爽に与えていた秘薬を断ったのだ。そのため、曹爽は死んだ。あまりにも、あっけなかった。曹爽が正気を保っていたのも、その秘薬を知らず摂取していたからだという。だが、それが故に。五石散と秘薬による体の打撃に、耐えられなかったのだ。

手にした天下。

その滅亡。

佐慈はそれらを見届けると、崩れ落ちるようにして死んだという。

天寿は既に尽きていた。

妄執で動いていた体が、それで終焉を迎えた、そう言うことだったのだろう。

佐慈の亡骸はやせ細っていた。林の予想を裏付けるように。

しかしその表情は安らかで、何かの精神的な救済を受けたかのようだった。苦しみ抜いた病人が、死の直前、不意にこのようになることがあると、林は知っている。佐慈も、或いはそうだったのかも知れない。

天下を取りたいという妄念が、老人を突き動かしていた。

そして、その狂った夢は。一時的、限定的とはいえ、かなった。だから、満足したのだろう。

かって、董承と呼ばれた老人は。今はただ、安らかな笑みを浮かべ、この世の理から解放されていた。

佐慈の第一の部下だった男が、林に恭しく書物を差し出した。

「これは?」

「闇を継ぐ者にと。 佐慈様が書き残された、薬物の知識にございます」

「……」

化け物と自認する林でも、こういった事をされると、心が動く。

竹簡を捲ってみると、林も知らない薬の知識が、山ほど書き込まれていた。佐慈が見つけたものや、或いは余所から奪ったものもあったかも知れない。覚える価値は、充分にある書物であった。

目を閉じて、黙祷する。

世の中も、人類も馬鹿にしきっている林だというのに。

今は、ただ故人に哀悼を表したかった。

部下達が、不安そうな顔を並べている。まとめ役をしている男が、声を上擦らせた。

「林大人。 これから、どうなさるのです」

「どうするかは私が決める。 お前達は、ただ私が言うままに動け」

「……」

一礼して、部下達が出て行く。

林も、続いて外に出た。

其処は、洛陽。かって桓範が使っていた屋敷だ。屋敷の主は、既に命を落としている。降伏すればいいものを、逃げようとして兵士に斬られたのだ。何晏は降伏したが、廃人になってしまい、屋敷に幽閉されている。無理もない話である。あれだけ無茶な薬物の摂取を続けていたのだ。

何晏は我欲ばかりのつまらぬ男であったが、奴が政争のために準備した知識人の連携は、不思議な形で後世に残ろうとしている。それは、もはや林には関係のないことだ。別にそれを滅茶苦茶にしようとも思わない。

林が暴れる過程で、勝手に滅びるからだ。

気配を消すと、屋敷の上に。屋根瓦を踏みしめながら、蒼天の下に。林は、ただ一人だけだった。

「ついに、化け物は私だけになってしまったか」

諸葛亮が死に、自分より更に年長だった佐慈がついに死んだことで、この世に怪物は消え去った。

ローマや、或いは未開の土地まで行けば、さらなる化け物がいるかも知れない。

だが、それはいやだ。

林は中華の主として、全てを思うままに蹂躙したいのだから。

「佐慈どの。 一時だけでも、天下がとれて満足であったか?」

返事はない。

人の営みの中に、呟きは流れて消えてしまう。

林は虚しくなって、屋根から降りた。

そしてしばらく思案した後に、手を叩く。

すぐに部下が現れた。

「何事でしょうか」

「司馬懿に、そろそろ死んで貰うとするか。 準備せよ」

「……心得ました」

部下の気配が消える。

林は舌なめずりすると。全てを終わらせるべく、動き出したのだった。

中華が、きしみ始めていた。

統一という名の、破滅に向けて。

 

(続)