矮小化していく世界

 

序、望まれる不幸

 

姜維が拝謁した劉禅は、若干肥満体ではあったが、それなりの威厳がある人物であった。諸葛亮に全てを任せていただけの軟弱者と陰口をたたく勢力もあるようだが、実際にはそれなりに度量がある人物であることは、人事の様子を見ていればわかる。狭量な皇帝であれば、諸葛亮に嫉妬して勢力争いをしたり、或いは反発して魏を利したりしていただろう。この男は、有能ではないかも知れないが。しかし自身でそれを理解しているという点で、凡百ではなかった。

「そなたが、姜維将軍か」

「ははっ」

「亡き丞相から、そなたの話は聞いている。 才気煥発なる若者と言うことで、朕も顔を見るのが楽しみであった」

胸が熱くなる。そんな風に、諸葛亮が自分のことを評価してくれていたなんて。

それが或いは計算の上であったとしても、姜維は嬉しかった。故郷を捨て、心を病んでしまった母に尽くしながら、それでも今日まで頑張ってきた。諸葛亮に学問を教えて貰い、その凄まじき知性に感動し、或いは戦慄しながらも。これほど嬉しかったことが、今まであっただろうか。

劉禅の側には、目つきの鋭い女性がいる。皇后、張夫人だ。あの豪傑張益徳の娘であり、そして不思議なことに、夏候一族の血も引いている。張飛の妻が、あの夏候一族の出身なのだ。

不思議な形で、蜀漢と魏はつながっている。思えば重臣の中にも、魏を離れて蜀漢についた者も僅かながらいる。もちろん呉も同じ。諸葛亮の兄である諸葛謹は呉の重臣だし、他にも蜀漢の関係者は少なくない。

「残念ながら、我が軍の主力を努めている将軍達は、皆老いておる。 王平や呉懿も既に中年を過ぎているし、向寵や陳式ももはや若くはない。 丞相が育てた人材も、皆年と共に衰えてしまった。 羅憲とそなたは、蜀漢の未来を担いうる星だ。 朕にとっても宝とも言える」

「あ、ありがたきお言葉にございます」

「期待しておる。 励みおれ」

拝礼して、劉禅の前から下がった。

元々さほど豊かとは言えない蜀漢である。首都である成都の宮城も、さほどの規模ではない。歩いていると、すぐに出てしまった。成都の街そのものはそれなりに栄えているが、代わりに貴族と呼べる者達は、あまり贅沢をしていない。費偉はそれなりに酒宴などを開いていると聞くが、それも他の国の貴族や高官に比べればささやかなものだろう。

蜀漢は、殆どの国力を軍と政務に廻しているから、個人に贅沢をする余地がないのだ。噂に聞くと、劉禅はたまに繕い物をしているという。妻にならったのだそうだ。もちろん、表に出てくる話ではないが。

姜維は厩舎から馬を引き出し、そして思う存分郊外を駆け回った。馬場を使う手もあるのだが、今は人気のない路を走り回りたかったのである。空を見上げて、そして思いだす。

諸葛亮は言っていた。

自分が死んだら、しばらく眠ったような時を過ごすように、戦略を指示してある。

これは魏を油断させ、内部分裂を起こさせるためだと。

魏は若い皇帝が続き、しかも皇族の権力が著しく弱い。このため、いずれ強力な家臣に乗っ取られる可能性があるという。

かといって、魏の武将達の忠誠が低い訳ではない。曹操に引き立てられ、何世代にもわたって恩を受けている者も少なくない。そう言った者達が、新しい覇者に簡単に従う訳もない。

大乱が、起こる。

其処を突き、魏の国土を侵食せよ。

姜維の役割は、それまで蜀漢の兵の質を維持し、兵器類を整備し、いざとなればいつでも出撃できるようにしておく事だ。細作部隊は羅憲と向寵が引き継いだ。向寵は呉方面の任務を担当。羅憲は魏方面を担当する。

走り回って興奮を冷ますと、姜維は練兵場に出た。

蜀漢の人口は百万。戸籍上だけでその数があり、山野に伏せている人数を合わせるともう二割くらい増えると言われている。この人数だと、総力戦態勢で、十万弱程度の兵力しか動員できない。

漢中に三万、呉に備えて永安に三万。成都近辺に四万というのが内訳になる。更に、武都、陰平では、この他に一万程度を陳式が養ってくれている。といっても、もしも武都、陰平を失陥した場合、流れ込んできた兵を養う余裕は、蜀漢にはないだろう。

更に言えば、十万の兵が常時いる訳ではない。漢中の三万は常備兵だが、永安の三万は、実質上は一万五千。残りの一万五千は、予備役扱いとして、屯田に従事している。田畑を余らせておくことで、人口の伸び代を造る必要があるからだ。同じようにして、益州近辺に常駐しているのも一万程度である。諸葛亮が鍛えた精鋭といえども、機械ではなく人間である。普段は食事をするし、手が空いている時には農作業をさせれば効率的だ。やはり三万程度は予備役として、戦がない時はそれぞれの生活に従事しているのだった。

逆に言えば、成都近辺の一万がどうしているのかというと、南蛮その他に対する備えである。馬忠、張疑が独自に編成している部隊が南蛮で民の治安を守っているが、これは蜀漢独自の編成をしている訳ではなく、兵力としては若干心許ない。魏兵とは五分くらいには戦えるだろうが、それ以上の戦力としては期待できない。そして、彼らがいなくなれば南蛮は蜂起する可能性がある。それを抑えるためにも、さらには漢中や永安に何かあった時のためにも、切り札としての一万が必要なのだ。

練兵場には、董允が出てきていた。蜀漢の文官としては三番目に当たるこの男は、黙々と己の仕事をこなすと言う点で、とても信頼できる。今日は兵士達の視察をするのと同時に、無駄がないかを確認しに来ている様子であった。

「董允どの」

「おう、姜維将軍か」

「視察、お疲れ様です」

「そうさな。 丞相がいた頃は、このような視察など一切必要なかったのだが。 やはりあの方の仕事を分散してみると、どれだけ凄まじい代物だったのかよくわかるというものだ」

董允がぼやきながら、兵士達の訓練風景を見つめる。

兵士達が走り回り、飛び回る。身体能力を上げるための訓練で、諸葛亮の考えで導入された。越えるべき目標が設定されており、それが上がることによって、給金の上昇に直結する。

弓を引いている兵士達も真剣だ。矢は無駄に出来ないし、的にどう当たったかと言うことが、これまた給金に直結する。歴戦の兵士の中には、百人を倒したとか、百五十人を倒したとか豪語している者もいる。記録上では、百七十三人を倒した者がいるが、これは攻城戦で梯子を蹴倒して二十人以上を落とした戦果が複数入っているためもある。殆どは眉唾だろうと、姜維は思っていた。かっての豪傑達には、この程度の戦果を上げたものなどごろごろいたのだろうが、今ではすっかり兵士達までもが矮小化してしまっているのである。

噂によると、魏もこの訓練法を取り入れているという。兵の質を維持するだけでは、今後は勝てないのかも知れない。しかしながら、これをどう工夫するかとなると、新しい案が思いつかないのも悲しい所であった。

部下を連れて見回っていた董允は、なにやら竹簡に書き留め続けていたが、やがて頷く。

「ふむ、無駄はないようだな。 姜維将軍、これからも引き締めを頼む」

「分かりました」

「噂によると、魏の曹爽がまた攻め寄せてくるというが、本当か」

「恐らくは。 ただ、王平将軍が油断無く漢中を固めておりますので、まず負けることはないでしょう」

曹爽は必死だ。軍才がないのに、自分の地位を固めるために、どうにか戦功を立てようとして、あがき続けている。

しかし皇帝曹叡が、彼の独走を許していない。出兵にこぎ着けたとしても、前回よりずっと兵力は少ないだろうと、姜維は見ていた。

訓練を一通り見て回る。これと思わされる兵士はいない。殆どが横並びで、ついに戦争を知らない世代が出始めている。魏も同じように兵士の弱体化に苦しんだのだろうなと思うと、姜維は親近感を感じてしまった。戦乱は悪だが、それによって人間が強くなるのも、また事実なのだ。

訓練を切り上げると、酒場に。

羅憲がいたので、向かいの席に座った。同じく諸葛亮に将来を嘱望された者同士と言うこともある。姜維は若い頃から姜家軍を率いるという経験をしてきたが、羅憲の経歴はよくわからない。本人も、あまり話したがらなかった。

「今日も訓練だけか」

「陛下に拝謁してきた。 期待していると、言っていただけたよ」

「おう、それは良かったな。 報われたではないか」

「うむ……」

少し強めの麦酒を頼む。羅憲はもう顔を赤くしていた。少し早い段階から、かなり痛飲しているらしい。羅憲は食に関して少し意地汚い所があって、時々姜維は苦笑させられることがあった。

しばらくがつがつと肉と野菜の炒め物を貪り食う羅憲を見つめていた姜維だが、不意に話を振ってみる。

「魏の情勢はどうなっている」

「どうもこうもない。 細作の元締めである月英様が、引き締めを図っていてな。 要所にしか、人員を投入できん」

月英とは、諸葛亮の妻であった方だ。本名は違うという噂もあるのだが、姓としては実家の黄、名を月英と名乗っている。諸葛亮の右腕として彼を支え続けた知恵者であり、細作部隊をずっと統率してきた。噂によると、諸葛亮と婚姻する前から、独自の人脈と財産をもち、細作の部隊を制御していたという。

蜀漢の細作部隊は、彼女が全て握っていると言っても良い。羅憲にしても向寵にしても、その権力の一部を借りているに過ぎないのだ。

既に老境に入っている月英だが、見かけ若々しく、諸葛亮の残した子を育てながら、立派に責務をこなしている。

しかしながら、羅憲はその堅実さに、反発を覚えることもあるようだ。

「このままでは、蜀漢はこの狭い土地に閉じこめられたまま、老いさらばえてしまうわ」

「しかし、丞相が亡き今、攻勢に出ても勝ち目はないぞ」

「それは分かっている。 だから細作達を使って、魏に大乱を起こせば」

「無理を言うな。 あの林という化け物が、ほぼ勢力を回復していると聞いている。 我が国の細作部隊が如何に優秀であっても、軍の支援無しに攻勢に出るのは、まさに自殺行為だ」

羅憲は口をつぐむ。

こんな時に正論を聞きたくないという風情だった。

しばらく気まずい沈黙が続いたが、やがて羅憲は大きくため息をついた。

「せっかく、好機だというのにな」

「何がだ」

「実は、魏の皇帝が、死に瀕しているらしい。 まだ確定情報ではないのだがな」

「本当か」

思わず姜維は周囲を見回していた。

敵ながら、曹叡は英明の君主と聞いている。魏の民にとっては不幸な話だ。

大乱を望んでいる筈なのに、姜維はそう素直に考えてしまった。

「曹叡は心を病んでいると聞いている。 それに関連したことなのだろうか」

「さてな。 ただ、曹叡は元々からだが弱かったという話だ。 心に病を抱えていなくても、あまり長生きは出来なかったのかも知れぬ」

「……」

姜維は、人の死を願うことで得られる幸福とは何なのだろうと思った。

曹叡は体が弱く、周囲に愛されている青年だ。もちろん人間である以上悪いことだって考えるだろうが、皆が支えることで、魏の柱石となっているとも言える。激務で体をすり減らしてはいるだろうが、それは仕方がないことだ。

思えば、諸葛亮も激務により命を縮めたのだった。それを思うと、人の国家とは何なのだろうと思ってしまう。

更に言えば、今更漢王朝の復興など望んでいる人間などいない。

この間の公孫淵の乱などを例に出すまでもなく、漢王朝の腐敗体質は、まだ地方には残っている。だがそれが人を幸せにすることはない。腐敗した政治体制は、腐りきった人脈しか産まないのだ。

中央の政治が腐れば、かっての政治体制にも意味が出てくる。だが今のところ、腐敗しているのは四家に牛耳られている呉くらいであり、魏や蜀漢の政治体制に腐敗は少ない。漢王朝の復興には、残念ながら意義が少ないのだ。

姜維は、蜀漢を愛している。

しかし、漢王朝には、どうしても愛情を抱くことは出来なかった。

「ところで、新しい世代の武将達を、どうにか育てなければならないな」

「ああ。 我らが年老いた時、蜀漢に人材無しと言われる事態だけは避けなければならん」

「既に呉ではその事態が顕在化しつつある。 陸遜が、人材がいないとぼやいていると、細作から知らせがあったそうだ」

「陸遜も苦労しているようだな」

呉を代表する名将だというのに、報われない男である。

姜維は、世の中には報われることが多いなと思い、酒を飲む。自分は今日報われた。だが、世の中には。

報われぬ人間の方が圧倒的に多いのかも知れなかった。

 

曹叡は今日も熱を出して、床に伏せっていた。

部屋の外をうろうろと歩きながら、許儀は胃が焼けるような思いを味わい続けていた。曹叡の体調は、ここのところ悪くなる一方だ。

子供は、いる。何人かの寵姫が、男子も産んでくれた。曹叡はさほど好色な人間ではなかったが、皇族として血統を残すという責務についてはどうにか果たしてくれた。しかし、である。

二代だけならともかく、三代にわたって経験が足りない皇帝が即位したら、魏の政治は確実に乱れるだろう。

今はいい。司馬懿は癖が強いが忠臣だし、そのほかの老臣達も曹叡の英明を知っている。曹叡は体こそ弱いが頭脳は祖父譲りで、政務でも大きな失態をしたことはない。無駄に宮殿を建てる悪癖が出始めているが、それも恐らく曹叡の責任ではない。許儀が憎んで止まない、曹叡の中にいるもう一人の趣味だ。

しかし、司馬懿の一族が無駄飯食いの権力亡者達であることは、許儀も知っている。それに、重臣達が政務を廻してきた時間が、あまりにも長くなりすぎた。もしもの事が今起こってしまうと、魏は大変なことになる。

医師が、曹叡の部屋から出てきた。

「医師どの、陛下は」

「よくありませんな」

一刀両断である。詳しい話は、重臣達の前でするという。

既に奥の間には、司馬懿を筆頭とする重臣達が集まっていた。司馬懿は特に酷い取り乱しようで、だらだらと汗を流し、五度も厠に立つという有様であった。護衛からその報告を受けていた許儀は、さもありなんと思う。司馬懿の曹叡に対する忠義が偏執的なことは、許儀も知っている。それは恋いこがれる乙女が、その愛情を爆発させたような姿だと言うことも。

許儀と医師が姿を見せると、司馬懿は飛び上がりそうになった。真っ白になっている頭をかきむしりながら言う。

「きょ、許儀将軍っ! へ、へへへ、陛下、陛下はっ!」

「ご説明いたしましょう」

医師が、弟子に人体の絵図を持ってこさせる。主流となっている気などの流れが書き込まれたものではなく、内臓などの配置が単純に書かれているだけのものだ。

この老医師は、主流となりつつある気による人体調整などの考えを真っ向から否定していることで有名であり、故に名医とも呼ばれている。実績のある男であるが故に、その表情の曇りが、絶望的な事態をよく示していた。

仏頂面をしている曹爽が、逆に内心では大喜びしているのが、許儀には手に取るように分かった。不快だが、不快きわまりないが、仕方がない。

「元々陛下は心が二つあるという異常な状況から、体に負担が大きく掛かっておりました」

「しかし、最近はよくなりつつあるという話であったぞ」

「それが、諸葛亮の死後、急速に病が悪化したのです。 恐らく、魏にとって最強最悪の敵の死が、心の弱体化につながったのでしょう。 その分、悪しき心が強くなり、表に出ようとして、結果からだが弱ってしまった」

「なんということだ! おお、陛下! 私が代わりになるのなら、いくらでも! いくらでも苦しみなど厭いはせぬのにぃ!」

司馬懿が机に突っ伏した。黴が生えそうなほどに落ち込んでいる。

許儀だって泣きたいくらいである。司馬懿の苦悩は、よくわかった。

医師は淡々と説明する。特に肝臓への負担が非常に大きくなっているという。そして、このまま病状が悪化すると、まず三年と保たないだろうとも。

曹爽が挙手した。

「ならば、我ら重臣で、陛下の負担を減らさなければなるまい」

「それは、曹爽将軍。 貴方が陛下の責務を肩代わりすると言うことか」

食ってかかる陳群。だが、意外な所から、曹爽の味方が現れる。それは普段曹爽が目の仇にしている司馬懿であった。

「そうだな。 少しでも陛下の負担を減らすには、それしかないだろう」

「司馬懿将軍!?」

「曹爽どの。 しかしながら、貴方だけに負荷を分散するわけにはいかぬ。 なぜなら、陛下は皆の陛下であるからだ! 私にとって陛下が星で光で命で太陽であるように! 魏の民皆にとって、陛下は愛の象徴なのだ!」

何だかとんでもないことを言ったような気がするが、まあそれは別にいい。一瞬だけ持ち上げて地面に叩きつけた司馬懿のやり方に、他の重臣達もみな何度か頷いた。

曹爽は唖然とした後、口をつぐむ。元々、この手の権力闘争の才能ばかり突出している男である。軍務では司馬懿に到底及ばず、政務に関しても大した能力は持っていない。もしも司馬懿がへそを曲げて、その結果魏が傾いたりしたら本末転倒だと分かっているのだろう。

其処からは司馬懿が主導して、曹叡の負荷分散について決まった。最悪の場合、印だけを、短時間押して貰うだけになるかもしれない。しかし曹叡はあれで誇り高い男であり、そのようなあり方を許容しないだろう。其処はどうにか許儀が説得するしかない。

寝室の側に出る。

既に後宮は機能していない。曹叡がこのような状況なのだから当然だ。元々曹叡の後宮は、体が弱いこともあり慎ましい規模であったが、今後は更に寂しくなるだろうことは、疑いなかった。

「許儀、許儀は、いる、か」

「此処におります」

すぐに部屋にはいる。曹叡は熱っぽい視線で、虚空を見上げていた。

「朕は、死ぬのか」

「死なせませぬ」

「そなたは忠勇きわまりない。 兄のように思えて、ずっと心強かった。 朕が女であったなら、そなたの妻にと願ったほどだろう」

何だか、悲しい言葉だった。

そして、気付く。まさか、曹叡の女としての人格は。

「陛下、弱気になってはなりませぬ。 まだ跡継ぎたる公子は幼のうございます。 弱気にならず、生きようとしてくださいませ。 陛下が生きていただけなければ、魏は傾きまする」

「分かっておる。 だが、苦しくてかなわぬ。 それでも生きてきたが、朕はここのところ、苦しくて仕方がないのだ。 朕の中におるあの悪しきものが、朕を食い破ろうとしているのが、よくわかるのだ」

曹叡の呼吸が乱れる。

許儀の家庭はあまり温かくない。仕事仕事で、顧みることがなかったのだから当然だろう。いっそのこと弟に跡を継がせようとも思っているのだが、その場合は曹叡の護衛からも降りなければならない。だから、当主を続けている。

だから、曹叡が苦しんでいるのを見ると、心が締め付けられるようだ。

司馬懿の偏執的な愛情とはまた別に、許儀は忠義の全てを曹叡に捧げていた。守りきれなかった曹丕の代わりにというのも、最初はあった。

だが今では、曹叡を守ることが、許儀の全てだ。

「陛下には、太祖曹操様や、父君である曹丕様がついております。 悪しき病魔などには、負けはしませぬ」

「……父上は、朕を嫌っておった」

「最後の瞬間には、嫌っていませんでした」

曹丕と曹叡の確執は、許儀も知っている。

元々曹叡は、曹丕が略奪婚した袁煕の妻が産んだ子供である。故に、袁煕の子なのではないかという噂が昔からつきまとっていた。曹丕は努力で力を必死に伸ばしたのに対し、曹叡は典型的な天才肌だった。

それらのこともあって、曹丕は曹叡を、確かに憎んでいた。

だが病に斃れて、曹丕は代わった。最後の瞬間には、曹叡を憎んではいなかった。

「そなたが言うのだ。 間違いないのか」

「間違いございませぬ」

「そうか……」

安心して、曹叡は眠りに落ちた。

外に出ると、医師が待っていた。

「許儀将軍。 貴方も少しは休みなされませ」

「そうはいかん。 司馬懿将軍が、陛下のことを自分の全てだと言っていただろう。 私の忠義も、司馬懿将軍に負けてはいないつもりだ」

「それはわかります。 貴方たちを見ていると、さながら仲の良い親子か兄弟のようで微笑ましい。 だから、それが故に。 貴方は此処で倒れてはならないのです」

医師に診察される。内臓系に、負担が掛かりすぎていると言われた。

隣の部屋で休むことにする。護衛達の休憩時間も、少し増やすことにした。

歴史とは、なんと皮肉なのだろう。

陰湿だった曹丕も、善良で純真な曹叡も。病と寿命には勝てないというのか。自分のような、護衛しか能がないような男が、生き残ってしまって良いのか。

苦悩には、誰も応えてくれない。

その晩も、曹叡は持ちこたえた。

だが愛すべき主君が、一日ごとに弱っているのが、許儀には感じ取れるのだった。

 

1、英雄無き世界

 

その時は、あまりにもあっさり訪れた。

早朝、曹叡が大量に吐血。侍医が駆けつけた時には、既に椀に数杯の血を吐いていて、辺りは血の海だった。前日から尿や便に血が混じっており、食欲もなく。寝ずの番をしていた医師達も、もはやこれでは手の施しようがなかった。

許儀はそれでも、外で刺客を防ぐべく守り続けた。

だが、昼過ぎ。

曹叡は、痩けた頬を侍臣に向けた。

「重臣達を」

「わかりました」

思わず自裁しようとした許儀を、曹叡が止める。

「そなたは最高の仕事をしてくれた。 朕の心の支えにもなってくれた。 そなたがいなければ、朕はもっとずっと苦しい人生を送っていただろう」

「陛下!」

「どうやら朕はもう駄目らしい。 そなたが言うとおり、魏の未来が心配でならぬ。 口惜しい」

はらはらと落涙する曹叡。それだけでも、膨大な命の残り香を費やしている様子であった。

部屋に飛び込んできた司馬懿が、頭を床にたたきつけそうな勢いで平伏した。数日間寝ていなかったらしく、目の周りにはどす黒い隈が残っている。司馬懿は曹叡の体調がおかしくなってから、ずっと走り回っていた。

少し前に荊州南部で呉の軽い侵攻があったのだが、それを自ら出向いて蹴散らし、蹂躙して壊滅させた。呉の軍勢も、まさか司馬懿が直接で向いてくるとは思わず、度肝を抜かれていたという。そして息つく暇もなく戻ってくると、軍の再編成を行い、各地の守りを万全に固めた。

正に鬼神のごとき働きだった。

陛下のために、陛下のためにとずっと司馬懿は充血した目で呟いていたという。体も布で拭いていないようで、もちろん風呂にも入っていないらしい。部下達も気味悪がって距離を置いていたが、それも愛情の成せる技なのだろう。

「し、司馬懿、参りましてございまするっ!」

「司馬懿か。 良く来てくれた」

「陛下のおられるところであれば! この司馬懿、黄帝の庭だろうが冥府の奥底であろうが、鳳凰よりも早く参りまする!」

「それは心強い。 だが、そなたに死んで貰っては困る」

曹叡はぴしゃりと言った。

他の重臣達も集まってくる。そして、司馬懿の後ろに並んで拝礼した。

「朕の跡継ぎは曹芳とする」

曹叡の後宮は慎ましく、子供もあまり多くない。その中で最年長なのが曹芳だ。才気煥発とは言えないが、穏やかで誰にも好かれる心の持ち主である。才能は引き継がなかったが、曹叡の心優しい部分と容姿は引き継いだという訳だ。

曹芳については、曹叡の子ではないという噂もある。だが、許儀は知っている。曹芳は、間違いなく曹叡の子だ。

後で司馬懿には伝えるが、ちょっと面倒な事情がある。それだけだ。

司馬懿が顔を上げる。どす黒く隈が目の周りを覆っており、涙を流していた。

「恐れながら! 曹芳様はまだ若干にすぎます! このままでは、家臣の専横を招きかねません! まだ生きてくださいませ、陛下!」

「だからこそ、そなたに頼みたい。 奸臣達から、曹芳を守ってもらえないだろうか」

「……っ!」

司馬懿は頭を何度も床にたたきつけると、周囲が引いているのも無視して叫んだ。今の魏に忠臣はいても、曹叡に此処まで個人的な熱狂的感情を抱く者はそういない。

許儀はその一人であるという自負がある。だから、少し司馬懿のことを見直した。

「この司馬懿ある限り! 曹芳様には、魔王だろうが邪神だろうが、奸臣だろうが、指一本触れさせませぬ!」

顔を上げた司馬懿の額には血が伝っていた。あまりにも床に頭をぶつけすぎたからである。

頷くと、曹叡は事切れた。

齢は34。まだまだこれからという時の、夭折であった。

 

葬儀が行われる。

茫然自失としているものの数はあまり多くない。曹叡の体は弱く、今までも体調を崩すことが多かった。むしろよくも今日まで保ったものだという声の方が強かったくらいなのである。

国を挙げての盛大な葬儀だが、何処か心はこもっていなかった。

本気で泣いているのは司馬懿や、後宮の女官達。彼女らには、あまり派手な遊びはしないながらも、穏やかで心優しい曹叡は心の潤いになっていたらしい。幼なじみの女官もおり、彼女らの評判は基本的に良かった。

武官の中にも、曹叡に感謝している者はいる。

体こそ弱かったが、曹叡は非常に的確な戦略を駆使して、外敵を退け続けた。諸葛亮に対する物量防御の指示や、呉への対応の的確さに加え、あの孟達の乱を小規模な段階で押さえ込むことが出来たのも、曹叡の判断が合ってのことである。司馬懿の適用がなければ、孟達の乱は今よりもっと大きな被害を、魏にもたらしていた可能性も高い。

ただし、民の評価は半々というところであった。

皆、英明の君主という点では一致している。女性的な容姿をしていたと言うことで、女性達には親近感を持たせる要因となっていた。

しかしながら、晩年の無意味な宮殿建築により、官民は多少の疲弊を味わっていた。曹叡は貧民救済策としてこれを打ちだしたのだが、この法の隙を突いて一部官憲が不正を働き、人身売買紛いの事まで行われた。これが騒ぎになり、民の間に大きな不信感が、魏に対して生じる原因となった。

多少の失策はあった。特に晩年、負の人格による攻撃が強まってから、その傾向は強くなった。

棺の側にて、許儀は思う。

賛否はある。だが、誰もが若き皇帝の存在感を認めていたのだと。

そして誰もが、失策を感じながらも、暴君だとは思っていなかったと。

洛陽の大通りを棺が練り歩き、墓に葬られる。そう言えば、曹操の時代から、魏皇族の墓はあまり目立たない。父祖曹操に到っては、どれが本物の墓かわからない有様であった。曹叡も皇族にしては墓がごく小さい。これは伝統なのかも知れない。

墓に棺が治められると、やっと乱痴気騒ぎも一段落した。

許儀は司馬懿に呼ばれ、その個人的な屋敷に向かった。

司馬懿は地位とは裏腹に、ごく小さな屋敷しか持っていない。普通彼くらいの高官になると、妾を雇うために豪華な屋敷を建築したりと、贅沢をする傾向がある。司馬懿の場合は噂になっている悪妻に財布を握られていると言うこともあり、政務のために必要な程度の家しかない。

曹芳の護衛については、配下の護衛集団に任せてある。曹叡の遺言もあり、護衛集団については、特に処罰もされていない。彼らは相変わらずこの国最強の集団であり、武芸もしっかり仕込んである。あの林でさえ、簡単には曹芳の側には寄ることができないだろう。

司馬懿は酒を飲んでいたようで、机に突っ伏していた。目には隈があり、年甲斐もなく、泣いていたようだった。

泣きたいのは許儀も同じである。

しばし気まずい沈黙が流れたが、司馬懿は立ち上がると、向かいの席に座るように促してくれた。

「すまなかったな、許儀将軍。 取り乱してしまって」

「いえ、先帝陛下も、あのように芯からの忠義を受けて、幸せでありましょう」

「……私を唯一認めてくれたのが、先帝陛下だった。 私にとって、あのお方は何よりも貴重な存在だった」

再び湿っぽくなる司馬懿だが、乱暴に目を擦って涙を払う。そして、もう精神的な態勢を立て直していた。

この辺りは、何度となく死線をくぐり、髪が真っ白になっても今だ大地に立っている男の凄みであろう。

「それで、話とは」

「新しい皇帝陛下についてです」

「うむ。 なにやら、先帝陛下の御子ではないという噂がある様子だの」

「はい。 それは真実ではないのですが、少し込み入った事情がございまして」

司馬懿はこの件については信用できる。

はっきり言うが、許儀は魏に対しての忠義がある訳ではない。曹一族に対する忠義のみがある。

極論すれば、皇帝ではなくなっても、許儀は彼らを守るつもりだ。その身に変えても。そしてもしも皇帝ではないことが幸せだというのであれば、一緒にどんな辛酸でも舐めるつもりである。

権力が幸せではないことは、曹丕と曹植の争いを見て、許儀も思い知った。ましてや幼い皇帝が心身共に受ける負担については、曹叡で身に染みた。

あの心の闇も、きっと皇帝などにならなければ。顕在化することはなかったのだろう。そう思うと、悔しくてならない。

「ご家族にも、他言無用にございます」

「うむ、それは大丈夫だ。 私の家族が俗物だと言うことはしっておろう。 妻も子供達も、私は信頼しておらん。 連中に何かを打ち明けることなどない」

「安心いたしました」

許儀は辺りを探り、誰もいないことを確認すると。

声を落とした。

「実は、曹芳陛下は、粛正された曹彰様の、娘の子なのです」

「ほう?」

司馬懿が眼を細めた。

曹彰は曹操の息子の一人で、黄髭児と呼ばれた猛将である。腕力が強く、猛獣とも素手で戦えるとさえ言われていた。しかし曹丕が皇帝になる際に反発したのが仇となり、粛正を受けた。

結局、追放という形で報道されたが、実は林に殺された。あの時の恐ろしい光景は、今でも許儀の目に焼き付いている。前々から弟を良く思っていなかった曹丕の考えもあり、曹彰は墓も作ってもらえず、宮殿の片隅にある無縁墓地に葬られている。

その一族も大半が粛正されたのだが、一部が生き残っていたのである。そして、後宮に入り、子をなすことになったのだった。

皮肉な話だが、彼女は自分の父親について知らなかった。何でも母親の身分が非常に低いらしく、曹彰が面白半分に手を付けた結果、出来た子らしい。そういう事情から、親についても良い感情は持っていない様子であった。

ちなみに現状では、曹彰の一族がほぼ全滅していることもあり、皇太后としては問題視されていない。問題されているのは、長年の中華の伝統である。

「しかし曹彰様の娘御となると、従兄弟同士か。 それも同姓不犯の原則に反してしまうな」

「だから、問題なのです」

「うむ」

そう。同姓不犯とは、近親交配による生物弱体を防ぐために、中華文明圏で守られてきた原則である。実際には従兄弟同士であるから問題は小さいし(赤の他人よりは生物的な弱体が出る可能性がぐっと大きいが)、何より曹芳の母は既に曹の姓を捨てているのだが、もしも世間に知られればただではすまない。

臑に傷など、誰でも持っている。

だが、まだ幼い新皇帝が、それを持っているのが問題なのだ。現在、曹芳の後ろ楯になっているのは、司馬懿と、権力を握ろうと虎視眈々としている曹爽である。忠臣だった父とは似ても似つかぬ俗物である曹爽は、曹一族の繁栄よりも、自分の栄華のみを考えている。その上、曹爽はお世辞にも有能とは言いがたい男である。彼が実権を握れば、魏は終わりだ。

「それを知っているのは」

「女官達が数名。 彼女らの内、口が軽い者は既に暇を出して故郷に帰らせてあります」

「ふむ、他には」

「文官、宦官の中にも何名か。 忠誠心が低い者については、此方で口封じをいたしますが、今のところ全員が忠誠篤い者だけです」

司馬懿は腕組みしてしばし考え込んでいたが、やがて頷いた。

「林の奴を、こんな時のために動かすか」

「さらなる情報の洗い出しですか」

「そうだ。 念のために、奴にも探らせよう。 いけ好かない輩だが、こういう時に使ってこその細作だ」

「あの者は危険です。 ただでさえ兵力を回復していると聞いていますのに、このような魏王朝の重大事に関わらせても良いのでしょうか」

他に人材がいないと、司馬懿は悔しそうに言った。

曹操の時代には、林の独走を抑えるために、優秀な細作を多数雇い入れていたという。しかし時代が流れ、蜀漢や呉の脅威も薄れた今、優秀な細作は数をどんどん減らしている。特に魏の細作は、質の劣化が著しい。どうにか質を保っているらしい蜀漢の細作部隊が羨ましいことである。

「いずれにしても、よく私に話してくれた。 曹芳陛下の身柄については、私が絶対に保証しよう」

「しかし問題なのは、貴方のご子息についてなのですが」

「あれらにも、手出しはさせん。 だが、今後、私の健康がおかしくなった時には、どうなるか。 それが問題だな」

曹爽を掣肘できたとして、その後に来る権力階層は、曹一族を侵害する可能性が著しく高い。司馬懿の一族は、嬉々として権力の独占を図りに掛かるだろう。魏の皇族は権力が著しく弱く、それが此処で徒になってくる。

ひょっとすると、諸葛亮はこれを見越していたのかも知れない。

だから、もう一押しだった北伐を停止させ、蜀漢は冬眠状態に入ったのかも知れない。そう思うと、許儀は背中に薄ら寒いものが走るのを感じた。死してなお、諸葛亮は歴史に生き残り、魏に徒なそうとしている。

一旦宮廷に戻る。後始末を済ませると、許儀は項垂れている老医と、護衛部隊を見回した。

「これから、曹芳陛下の護衛に入る」

「ははっ!」

「良いか、今は敵の細作よりも、味方の刺客が怖い状況だ。 陛下が口に入れる全てのものに気を配れ。 玩具の類にも、毒が塗られている可能性が決して低くはない。 それらの全てを確認し、身を挺して陛下を守れ」

「わかりました!」

かって、曹丕は年の離れた兄、曹叡は逆に弟だった。

今度守らなければならない曹芳は、幼い息子も同然である。許儀の年を考えると、孫になるかも知れない。

二度、守れなかった。

三度目は、絶対に守らなければならない。

許儀は全ての覚悟を決めると、幼い皇帝を見つめた。

「許儀、肩車をしてたもれ」

「応。 許儀めの肩は高うございますぞ」

皇帝を抱き上げると、黄色い声をあげて笑った。

己の運命も知らない、幼子を守らなければ、魏に未来はなかった。

 

司馬懿はしばし考え込んだ後、ケ艾を呼んだ。

子飼いの部下の内、信頼できるのは郭淮と生真面目な陳泰。それにケ艾である。特にケ艾は圧倒的な武勲に加え、司馬懿以上の用兵の才を持つ逸材だ。ぽやっとした所もある娘だが、ケ忠を育て始めてから随分しっかりしてきた。最近では、子連れで街を歩いている様子も見かけることがあるという。

微笑ましい光景だ。それを邪魔しなければならないのは、司馬懿にとってもつらかった。

ケ艾はすぐに屋敷に来た。鎧を身につけているのは、戦場暮らしが長いので、その方が慣れているからだという。相変わらず武芸は不得手で、しかもあの性格だというのに。世の中は不思議である。

「ケ艾、参りました」

「うむ、そなたに頼みたいことがある」

情報の拡散は、出来るだけ避けたい。

だから、展開するのは、郭淮と陳泰、それにケ艾だけにする。

皇帝の話を終えると、ケ艾はしばし頷いていた。ケ艾は、前々から曹叡に対する司馬懿の並ならぬ思いを知っていながら、それを茶化さなかった数少ない一人だ。性格的にも、陰口を言うような奴ではない。これだけの才能を持ちながら、純粋で無垢。

だから、司馬懿も信頼している。

馬鹿にされ続けて必死に這い上がった司馬懿は、悪意に敏感だ。

「わかりました。 幼い陛下をもり立てる重要な仕事、お受けいたします」

「うむ。 曹爽派の連中には、絶対に知られないようにせよ。 奴らに知られたら、陛下は退位させられかねん」

「退位だけなら、問題もないような気がしますが」

「そうさな、陛下の幸せを考えると、確かにそれはそうだ。 だが、本人は密かに消されて、替え玉が隠居生活を送るという可能性も否定できん」

かって、曹彰がそのような目にあった。

そして、曹爽派は、それをやりかねない連中であった。

「話は聞いています。 先帝陛下に、陛下の身を任されたとか」

「うむ。 先帝陛下は、私の全てだった。 だから、その最期の約束は、絶対に守り抜かねばならん」

ケ艾は頷く。

この娘は戦以外に関しては筋金入りのおっとり屋で阿呆だが、馬鹿ではない。司馬懿が嘘をついていないことを察してくれたことだろう。

後は陳泰と郭淮だが、連絡はケ艾に任せればよい。

そして、最大の問題は、一族だった。

連中は司馬懿の死後、魏を乗っ取りに掛かる可能性が著しく高い。どうにかして奴らを抑えなければ、司馬懿は死後、曹叡に顔向けが出来なくなるだろう。曹叡に踏んで貰ったりするのは鼻血が出るほど興奮するが、嫌われるのは嫌だ。

いっそ、曹爽に先んじさせて、様子を見て追い落とすか。

そう、司馬懿は考え始めていた。

しばらく考え込んだ後、決める。

曹爽を、潰すと。

曹爽は権力闘争と陰謀にはそれなりの実力があるが、兎に角頭が悪い。頭が悪そうに見えて本質的な部分では切れるケ艾とは対照的だ。こういった連中は、一度油断するととことん周囲が見えなくなる。

だから、追い落とす方が、簡単に打ち倒せる。

それに、今の状態だと、「罪もない」曹爽という事になる。どうせあの手の連中は、権力を握れば暴走するに決まっているのだ。その時、幾らでも罪を犯すことは間違いのないことであった。

さて、曹爽を潰す場合、追い落としには宮中との密接な連携が必要になってくる。何しろ相手は末端とはいえ皇族である。魏では皇族の権力が弱いが、人望という点で、皇族を倒すのはそれなりに勇気がいることである。二の足を踏む連中も出てくるだろうし、育てた部下達も、しっかり手綱を握っておかなければならない。

更に言えば、すぐに動かせる部隊も必要になる。洛陽を制圧するには、最低でも数千の兵士は必要だった。宮中の制圧に関しては、許儀に任せてしまえる。しかし、奴が率いているのは精鋭といえど精々数百。残りは司馬懿が見繕わなければならないだろう。

具体的な案を頭の中で固める。家族にはもちろん相談などしない。連中は曹爽と同じ孔の狢だ。いざというときには、一緒に墓に連れて行かなければならないだろう。

覚悟を決めた所で、気付く。

曹叡は悲しむ。

曹爽は阿呆といえども、曹叡が後事を託した者の一人なのだ。権力闘争で葬らなければならないのは、とても残念なことである。しかし、曹芳を守るには他に方法がない。だが、曹叡が悲しげな目で見ているような気がして、司馬懿は頭を抱えた。

司馬懿はありありと想像できる。背中に白い翼を生やした曹叡が、悲しそうに自分を見下ろす姿を。それは司馬懿にとっては、何よりもこたえることだった。

「へ、陛下ッ! そのような目で、私を見ないでくだされ!」

「だ、大将軍!?」

「おおっ! そ、そうか。 そなたがいたのを忘れていた!」

「大丈夫ですか?」

思わず叫んだ司馬懿に、ケ艾が不安そうに言った。この娘が他人の行動にこのような反応を返すのは珍しい。自分がその一人になってしまうのは、何だか不思議な気分だった。咳払いしようとして、咳き込みすぎる。茶を持ってきてくれたが、あまりにも温すぎた。そういえば、ケ艾は猫舌なのだった。

温すぎる茶をすすっている内に、頭も冷えてきた。

「ケ艾。 しばらく私は雌伏の時に入ろうと思う。 一族の説得は難しいとは思うのだが、曹爽の出方を見極めるにも、これが最善だ」

「油断を誘うつもりですか」

「そうだ。 もしも曹爽が本格的に権力の独占を狙ってくるようならば、其処で反曹爽派を糾合して、奴を潰す。 残念だが、それしかあるまい」

「先帝陛下は、悲しむでしょうね」

司馬懿は血を吐きそうな表情で頷いた。

だが、ケ艾は反対しなかった。

「わかりました。 私は長安戦線に戻りますが、誰か信頼できる人間を何名か此方に廻すことにします」

「うむ。 王桓は、駄目か。 あれがいないと、そなたの部隊は実践面での戦闘能力を随分減退させるな」

「はい。 王桓はどうしてか私みたいなのにも忠義を尽くしてくれますから」

「どうしてかは分かりきっているような気がするが、まあいい。 私の方でも、何名か真面目そうな将軍に声を掛けておく。 もしも洛陽の維持に失敗した場合、そなたが曹芳陛下を守って、蜀漢に亡命して欲しい。 その場合は、何があっても曹芳陛下を、長安まで脱出させる」

心得ましたと、ケ艾が抱拳礼をした。

蜀漢と魏では水と油に見えるが、実は皇族同士が親戚という意外な姻戚関係がある。張飛の妻が夏候一族出身で、その娘が今皇后をしているからである。今後その不思議な姻戚関係は、権力闘争に敗れた魏の皇族が、亡命のために使うことになるかも知れない。

そして、最大の問題となる一族を、どう掣肘するか。連中は下手をすると、曹爽と結びつきかねない。そうなると、司馬懿は一族から粛正される可能性さえがあるのだった。

考え込んだ後、司馬懿は良い案を思いついた。

それは諸刃の剣ともなる案であった。だが、他にもはや手はなかった。

 

参内した司馬懿は、まだ幼い曹芳に拝謁する。曹芳は幼いし凡庸だが、しかし最低限の知識は身につけているらしく、玉座の上から司馬懿を招いてくれた。

「司馬懿、近う」

「ははっ!」

曹叡の面影がある曹芳に頼りにされるのは、悪い気分ではない。曹爽が苦々しげに見つめる中、玉座に歩み寄る。許儀は普段と同じく、油断無く司馬懿の行動を見つめていた。

「陛下。 お願いしたき儀がございます」

「何じゃ。 そなたは魏の柱石。 何でも申してみよ」

「はい。 私に、丞相の地位をいただきたく」

「丞相か」

俄に周囲が騒然とする。曹爽は眉根を跳ね上げていた。

問題は、此処からだ。

「もし私が丞相になりますと、今過分な権力を得ている一族は、増長しかねませぬ。 そこで、私が丞相になる代わりに、一族は皆退官するという形で如何でしょう」

「ふむ、そなたは賢いな」

「いえ、私など。 諸葛亮に比べれば、盆暗に過ぎませぬ」

何処で覚えたのか、曹芳は卑下するでないなどと、ありがたい言葉を司馬懿にくれた。ざわつく廷臣達に、許儀が雷喝を浴びせた。

「陛下の御前である! 静まれい!」

威圧感抜群の声に、群臣が黙り込む。

ありがたいと思いながら、司馬懿は曹芳の前から下がった。

そして、司馬懿の望み通りの事態となった。

丞相に就任した司馬懿と引き替えに、その一族は全員が退官したのである。こうして、一気に事態は動き始めたのだった。

英雄無き時代。

しかし、その権力闘争は、以前と何ら激しさという点にて代わりがなかった。

 

2、続く暗闘

 

魏の曹叡が死んだ直後。呉でも、大きな事件が起こっていた。

孫権の長男であり、将来を嘱望されていた皇太子、孫登が急死したのである。

俄に、呉は騒然となった。

孫登は長男と言うだけではなく、温厚で才能もあり、まずまずの軍才も有している人物であった。何より問題だったのは、四家が彼を抱き込んでおり、他の皇太子から権力を奪っていた、と言うことにある。

四家にしてみれば、仕立てた傀儡の糸が、いきなり切れてしまうのに等しい事態であったのだろう。混乱も当然であった。

孫登の死そのものが、不可解な話だ。近年酒好きになったという噂はあったが、しかしそれが死因に結びつくとは思えないし、何よりも急すぎるのだ。大体皇太子という事もあり、宮廷の腕利き医師も着いている。それなのに、いきなりの死と言うこともあって、様々な憶測が飛び交った。

粗末な武都城の櫓で、遠くを見つめている陳式の下にも、もちろん情報は届いていた。

陳寿の他の家族は、全員が任地に来ている。軍の訓練も欠かしたことはない。だから、毎日が緊張に満ちている、そのはずだったのだが。

ライリが来る。通訳をまかせることもあり、最近は仕事が多くなる一方だった。あらぬ噂も立つようだが、陳式は気にしていない。妾もとっていないので、いっそライリを妾にと言う声もある位なのだが。当の本人にその気がないようなので、陳式はその話題をあまり振らない。

有能な部下。それで良かった。

「呉の方に行っていた商人が、陳式将軍のお耳に入れたいことがあると」

「分かった。 すぐに行く」

櫓を降りる。小さな城と言っても常時二千の兵が詰めており、周辺の砦の戦力と合わせると三千を超える。戦になると一万二千の動員が可能だ。

商人は宮城の奥に控えていた。白色人種の男達で、以前来た印度の者達とは人種が違う。ローマの民かと思ったが、それよりずっと北の民族だと言うことだった。

しばし、通訳を介して話す。

「蜀漢の絹も、今度購入させていただきたく」

「何度か交易で我が国を潤してくれたら、紹介状を書こう」

「わかりました。 その時は是非」

流石に海千山千の連中相手に、ほいほいと言うことを聞く訳にはいかない。

しばし駆け引きを続けて、その後歓談に移った。酒が入ってくると、口も当然軽くなる。商人は言う。

「呉は、酷い有様でした」

「ほう。 それはなぜに」

「どうも、四家が分裂し始めたようなのです」

なるほど、それは混乱に拍車が掛かるだろう。

呉の四家は、文字通り四つの、影の支配者と言っても過言ではない強力な土豪だ。私兵だけでも三万を超える戦力を持ち、山越を虐げることで膨大な富を蓄えている。今まではその四家が連合することで、呉を裏から牛耳ってきた。

しかし、孫登の死で、その連合か崩れたのだとすると。あまり、蜀漢にとっても、良い事態ではなかった。

「前々から四家を憎んでいたのでは」

「憎んでいたさ。 あのような外道どもが繁栄することを、誰が望むか。 だが、呉が滅んだら、次は蜀漢だ。 魏の攻撃を、蜀漢だけで支えられると思うか。 屑であろうと、必要な存在はいる。 戦略を考えると、なおさらだ」

ライリに返す。もちろんその時は、この武都、陰平も、圧倒的な戦力の魏軍によって蹂躙されるだろう。

陳式は守らなければならないのだ。兵士達だけではなく、民も。特に此処には、魏によって迫害された少数民族が多くいる。彼らの居場所は、多分蜀漢にもない。

蜀漢が、魏に撃ち込んだ楔。

それが故に、戦略的価値が低くても、魏にとっては目障りな土地だ。現に今までにも、何度か小規模な攻撃は受けている。そのたびに叩きつぶして、大きな損害を与えてやっているが。

「四家の混乱の影で、商品も高騰が続いています。 我らからすれば、踏んだり蹴ったりです」

「その商品は、蜀漢では売れぬのか」

「蜀漢と呉では、民の味の好みが違います。 味の好みだけではなく、着るものや、何よりも持っている金品の量も。 商品とは適切な相手にしか売れません。 高すぎても、安すぎても駄目なのです。 高官達もそれは同じで、思うようにいきません。 今回は赤字です」

「そうか。 気の毒な話ではあるな」

同情はしているが、本気で入れ込んでしまうと足下を掬われるのが、この世界だ。もちろんある程度の補助はしてやるが、生計は自分で立てて貰わなければならない。

それにしても、西方に続く路から見放されたら、呉は滅ぶのではないかと思ってしまう。文化の交流線というだけではなく、この路は人々の通る光なのだ。呉は単独で立国しているが、内部の矛盾は拡大する一方である。迫害されている山越達も限界だろう。このままだと、近いうちに破滅が待っているかも知れない。

商人達が引き上げる。城壁の上に登ると、何名かの細作が姿を見せた。一人、深傷を負っている様子だ。

「何かあったか」

「呉に残っていた同胞達の消息が途絶えました」

「そうか。 恐らくは、奴か」

「はい。 間違いなく」

林。

あの化け物は、どうやら呉を、既に手中に収めたらしかった。

 

林は、目の前の獲物に舌なめずりしていた。

人間ではない。最近では、腕が上がりすぎて、人間では斬りがいが無くなってしまったのである。

虎だ。

それも、子連れの。最強の力を発揮する虎を前にして、林は愛用の双剣を構えていた。

虎はその気高い顔を歪めて、飛び掛かる態勢で唸っている。だが、林は気にもせず、近付いていく。

かって、呂布を殺せなかった。

張飛も殺せなかった。

諸葛亮にも、刃は届かなかった。

だが、この、最強の人間をも凌駕するだろう虎を殺せれば。そう思っていたのだが。

至近で見ると、随分手応えがない。

それだけ武器を持った人間の達人が強いと言うことか。いや、違う。多分腕力では、呂布だってこの虎には及ばないだろう。技術力だって、年中生きるために敵を殺している虎に比べれば、稚拙なはずだ。

ならば、なぜこの虎は。呂布を殺せなかった程度の林に、怯えている。

そして、林もまた、虎に恐怖を感じていないのか。

歎息。

一気に萎えた。

「鬱陶しいので消えなさい、縞々の畜生。 さもないと、その子供もろとも、喰ってしまいますよ」

びくりと、一瞬虎は身を震わせたが。

林が背中を向けたのを見ると、子供を咥え、闇の中に消えていった。

空には満月が一つ。煌々と輝く魔性の権化。光に照らされながら、林は跪いた部下達に振り返った。

「報告を」

「規模を減らしていたこともあり、四家を操作していた董白の細作は葬ることが出来ました」

「しっかり操作経路は抑えてあります。 諸葛亮ほどの操作ができるかどうかは……残念ながら不可能でしょうが」

「まあ、それでよいか。 上出来だ」

不甲斐ない部下共だ。年老いて引退した者もいる。

その中で、林だけが。

一人背も伸びず、心も変わらず。ただひたすら邪悪なまま、歴史を嘲笑うように存在している。

実際だったら、既に白髪の老婆。いや、既に命無くし、燃されて埋められているだろう年だ。それなのに林は、童女にしか見えない。実際肌はみずみずしく、内臓にも無理は出ていない。筋肉も、若き頃の質を維持し、衰える気配もない。

本当に、若いままなのだ。ただし、年を取ることもない。

化け物だから。

自分を邪神窮奇だと、最近林は本気で信じるようになっていた。それが、幼い頃に散々摂取した薬のせいだと知っていても。後天的な化け物がいても良いではないか。仙人でさえ、仙丹と呼ばれる霊薬によって天に昇るのだ。

山越達の秘密酒製造工場を見学した後、一旦建業に。

其処は既に、林の住処も同然。

四家の壮絶な仲間割れによる争いが、凶手同士による相手勢力要人の暗殺合戦という形で、始まっていた。

こういう状況だと、優れた部下を育てるにはもってこいである。それに、互いの勢力を争わせるには、誤解が一番だ。

まだ若い細作を多数連れていた林は、彼らに命じる。

「夜の街に散り、凶手を見つけ次第狩れ。 一人頭、五人を目標とする」

「ははっ! わかりました!」

「所詮凶手だ。 手傷など負うことは許さん。 出来るだけ効率的に殺せ」

気配が消える。

さて、林も楽しむとするか。

そう思い、林は現在丞相を努めている四家の表向き筆頭、顧擁の屋敷に乗り込むこととした。

案の定、周囲は凶手だらけである。路を歩いている通行人の振りをして、無数の凶手が彷徨き回っている。顧擁を殺すために来ている連中と、逆にそれを撃退するために集まっている者達だ。

一匹ずつ適当に見繕いながら、路地裏に引きずり込んで、喉をかっ切る。

或いは茂みに引っぱりこみ、生きたまま首を切り落とした。

殺すのは、互いに半々の比率で。姿を見せないように、昼間に七人、夜に十一人を狩った。

そして雇い主の屋敷の前に、それぞれの死骸を隙を見て放り出し、後は成り行きに任せるだけだった。

不和と争いは、林の大好物。

そして、愉悦だった。

 

なぜ、こんなに急に上手く行かなくなったのだろう。

呉の丞相、顧擁は、頭を抱えて自分の屋敷に閉じこもっていた。

四家の表向き筆頭であり、その実質的な権力者達に後押しも受けていた顧擁は、張昭の後を引き継ぐ形で丞相となった。それは反四家勢力の消滅を意味し、いよいよ呉での専横は約束されたかに思えた。実際、しばらくは我が身の春を謳歌することが出来たのだ。

だが。

不意に、四家内部で、利権による争いが表面化したのである。

荊州での権益を独占している陸家と、表だった権力を独占している顧家の争いが、表面化したのだ。

張家と朱家の内紛も勃発。更に孫登の死による政治的混乱が、それに拍車を掛けた。既にもはや四家内部の蜜月関係は露と消え、仁義なき殺し合いが始まっていた。

もとより四家は、闇から呉を支配してきた者達である。いざ仲間割れが始まると、その凄まじさは言語を絶した。

連日互いに雇った凶手が、街に死骸を積み重ねている状況である。今日だけで、顧擁の凶手が、十七人も殺されたという報告もあった。要人の暗殺も相次いでいて、とても外に出られる状態ではなくなっていた。

既に南部の幾つかの州では、軍同士がにらみ合いを始めているという報告さえ合った。表向きは皇太子を立てての行動だが、実質上は四家通しのいがみ合いであることは、子供の目にもわかることである。

孫権の使者が来た。

今まで馬鹿にしきっていた相手なのに、今はすがりたくさえなっていた。

「丞相。 陛下が、出仕せよとの事です」

「う、うむ」

孫権は傀儡だ。だが、今の顧擁は後ろ楯も失った、宙ぶらりんな状態である。実際に表に出てきている四家の人間には、陸遜や朱桓も含め、四家中枢の権力層から外れている者も多い。張昭でさえそうだ。四家は姻戚関係を駆使して、張昭を取り込もうと図った。だが、結局上手く行かなかった。

四家の外れ者達。彼らに共通しているのは、四家などに頼らず生きていけるほどに、とても有能だと言うこと。陸遜に到っては、魏や呉でも頂点に近い地位まで行けるほどだ。

顧擁は。あまり、能力に自信がなかった。今の事態を見ると、なおさらだった。

海千山千の連中との交渉を続けてきた自信は、この一連の争いの中で、粉みじんに砕かれてしまっていた。

護衛を山ほど付けて、馬車で出る。宮廷に出仕すると、ひそひそ声が、どうしても耳を打った。

どの面下げて此処に来られたのか。

一体どういう神経をしているのか。

顧擁だって、そう思う。だが、今は。どんなことでもして、まず自分の身から守りたかった。

孫権は玉座で憔悴しているように見えた。最愛の跡継ぎを失ったのだから、当然だとも言えた。

「ようやく来たか。 何をしていた」

「そ、その。 今建業は大変危険な状況にありまして」

「それをどうにかするのが貴様の仕事であろう。 丞相の肩書きは飾りか」

「い、いえ。 そのような」

平伏しながら、顧擁は震えを感じていた。

今まで人形と馬鹿にしていた相手から、このような威圧感を感じるとは。今まで自分は、虎の威を借る狐だったのだろうか。孫権をそうだと思っていたのに。

「まず、南部での争いを解決せよ。 朕にこのようなことを言わせるな」

「時間が掛かると思います。 何しろ」

「四家の内部闘争が関与しているから、か?」

孫権の声には苛立ちを通り過ぎて、殺気までもが混じり込んでいた。顧擁は泣きたくなった。なぜ自分がこのような目に遭わなければならないのか。

既に老境に入っている顧擁だが、四家の実権は更に年老いた怪物的な当主達が握っている。彼は飾りだ。そして、今までも、これからもそうだと思ってきたのに。不意に彼らが頼りにならないと分かった今、絶望に掴まれていた。

「建業については、朱桓に任せるか」

「朱桓将軍、ですか」

「そうだ。 今、魏も皇帝が代わったばかりで、荊州での小競り合いに兵を追加してくる余裕はないだろう。 だから、朱桓を呼び戻し、荊州で経験を積んだ部隊に治安の回復を任せる。 凶手どもが散々彷徨いているようだが、訓練を受けた軍の敵ではない」

「確かに、仰る通りにございます」

確かに朱桓は荒々しいが、実績もある将軍だ。陸遜の配下に入ってからは、その性質もだいぶ大人しくなり、四家との軋轢も減っていると聞いている。

しかし、任せてしまって大丈夫なのか。

「そなたは四家の連中と話を付けよ。 さもなければ罷免する」

もはや、反論が許される状況ではなかった。四家が空中分解したも同然の今、傀儡だったはずの孫権は、勝手に立ち上がり、動き回ろうとしている。

不安になった顧擁は一旦宮廷を出ると、顧家の本家に向かう。

現在の顧家当主は、顧同という男である。顧擁も直接顔を見たことはない。怪物的な四家当主の中でも更に老獪で、人間ではないという噂まである男だ。顧擁も御簾越しに指示を貰うことはあっても、どんな相手かはわからない。

四家の裏の勢力は、どれもがこんな連中である。当人同士は面識があるのだろうが、表の権力者達は幾層にも重なった裏権力から、糸で操られているも同然なのだ。

今更ながらそれを嫌って反四家の側に回った陸遜や朱桓が羨ましくなってきた。そして、憎たらしくも。

顧家の屋敷に出向く。

空気は相変わらず異様だった。周囲では血の臭いさえする。入り込んだ凶手達が、護衛と血みどろの殺し合いをしているのだろう。だが、流石に顧擁もこの状態で、一人で出向く訳ではない。大勢の護衛を連れて屋敷にはいると、周囲の気配も消えた。この人数を相手に、手を出せないと判断したからだろう。

中はしんとしていて、誰もいないかのようだった。たまに見かける使用人も、何かに怯えたように物静かである。案内に出てきた老侍従が、顧擁を見てやれやれと言う風に歎息した。いつも、取り次ぎを担当している嫌みな男だ。

「何用でございましょう」

「私は丞相なのだが。 何かな、その物言いは」

「貴方など、所詮顧家では下っ端にございましょう。 今日は当主様はお忙しゅうございます。 お帰りください」

「……」

苛立ちが限界に来ていた顧擁は、指を鳴らした。丞相府直属の兵士達が、老侍従を取り押さえる。丞相府直属と言うことで、荊州や合肥で戦闘経験を積んだ猛者ばかりだ。その上手加減を知らない。

老人は見る間に取り押さえられ、苦しそうに悲鳴を上げた。

顧擁は今まで入ることも許されなかった奥に、ずかずかと入り込む。もう後戻りは出来ないが、どうでも良かった。朱桓が見たら拍手喝采するかも知れない。陸遜はずっとこうしたかったのだろう。

孫策は、四家上層部に暗殺されたという説もある。

その無念が、こんな形で、あっさり顧擁を奥に通したのかも知れなかった。

最奥。御簾を通して、いつも命令を聞いた場所に出た。周りに人の気配はない。兵士達は不気味がって、槍を構えていた。何が出てきても平気なように。顧擁は鼻を鳴らすと、叫んだ。

「顧同どの! 当主殿、出てこられい!」

返事はない。

ついに我慢できなくなった顧擁は、兵士達に吠える。

「探せ! 探し出せ!」

「ははっ!」

兵士達が散った。そして、辺りから悲鳴が上がり始めた。

女官を突き飛ばし、侍従が縛り上げられる。何という快感か。この年になるまで使いっ走りとして扱われ、今まで全く頭が上がらなかった相手に、こうも簡単に反逆できるとは。いや、まて。

今まで呉は。ひょっとすると、まったく主体性がない相手に対して、ただ怯えていただけではないのか。

漢王朝もこのような存在に支配され、結果空洞化して、黄巾党の乱による壊滅で全てが終わったのではないのか。

いや、そんなはずはない。

顧家は四家の中でも権力が大きく、私兵は八千を超える。いざというときには助力を仰ぐべく、孫権さえ平身低頭していた程の相手だ。しかし、その割りには、この手応えの無さはどうしたことだろう。

やがて、兵士の一人が戻ってきた。

青ざめていた兵士に耳打ちされて、顔を上げた顧擁は、早足で着いていった。他の何名かの兵士も顧擁に着いてくる。

一番奥の廊下に、隠し戸があった。回転式の戸の奥に、それはあった。

机にもたれかかるようにして、顧同は死んでいた。しかも、死んでから明らかに二週間以上が警戒している。鼻を押さえる顧擁の後ろから、声がした。

「ああ、見てしまったのですね」

「き、貴様、これを知っていたのか!」

机の上には、徳利が林立している。

この匂い、覚えがある。今爆発的に流行しているという酒だ。腐敗臭と混じり合ったその匂いは、嘔吐感を呼び起こすに充分だった。この酒は、顧擁も愛好しているのだ。今、それを後悔し始めていた。

戸を閉める。この空間は異様すぎる。

老侍従は、へらへらと笑いながら、それを見ていた。

「これは顧家への反逆ですぞ」

「ふん、知るか! 当主が死んだ今、私が顧家の代表であろう!」

「愚かな。 あの死骸一つが、顧家の全てだとお思いか」

眉をひそめる顧擁の前で、老人は突然血を吐いて、前のめりに倒れた。兵士が確かめると、死んでいた。

気味が悪すぎる。

一体此処で、何が起こっているのか。

得体が知れない化け物の屋敷に踏み込んでしまって、逃げられずに右往左往している。顧擁はそんな自分に気付いて、困惑を隠せなかった。

「一旦、引き上げるぞ」

「しかし、これらの死骸は」

「放っておけ!」

触るのも嫌だし、見たことはすぐに忘れたかった。

屋敷に戻る。いつもよりぐっと厳重に警備を固めさせた。床下にも天井裏にも化け物が潜んでいるかのような気がして、顧擁は気が気ではなかった。

気がつくと、あの酒を飲んでいた。

浴びるように、何杯も。何杯も。

ふと、気付くと。

目の前に、腐り果てた老人の死骸が立っていた。

顧同。

不気味な、顧家の、死んだはずの男。

笑みを浮かべるその死骸が、手を伸ばしてくる。

顧擁は、声にならない絶叫をあげていた。

 

荊州の軍事的状況を纏めて、孫権への報告書を作成していた陸遜の元に、突然伝令が飛び込んできた。血相を変えた様子からして、何かとんでもないことが起こったのは明らかであった。

「陸遜将軍!」

「如何したか」

「丞相が、顧擁丞相が病死なさいました!」

筆を取り落とす。

四家の傀儡とはいえ、丞相になった男だ。いきなり病死とは。皇太子に続くこの死は、大きな混乱を呉にもたらすこと疑いなかった。

話によると、顧擁は酒を飲んでいる時に、不意に死んでしまったという。とても恐ろしい幻を見たようで、凄まじい形相で果てていたそうだ。

すぐに兵を集める。情報を聞きつければ、魏が攻勢に出る可能性があったからだ。

朱桓が来た。青ざめている。

「一体、本国はどうなっているのです。 孫登皇太子の死に続いて、今度は丞相が命を落とすとは。 その上、新しく皇太子として孫和様が立てられましたが、孫覇様にも同等の権限が与えられているとか。 政治の混乱著しく、何か途轍もないことが起こっているとしか思えませぬ」

「四家が空中分解して、抗争が始まっているとも聞く。 その過程で、謀殺されたのかも知れんな」

「だとすれば、由々しき事態です」

「……そう、だな」

返事が曖昧になったのには理由がある。

むしろ陸遜は、一瞬だがこれは好機ではないかと思ってしまったのだ。

「危険だが、建業の治安維持を努めてくれないか」

「わかりました。 何、大敵に比べれば、建業の虫共など」

「朱桓、一つ言っておく」

向き直ると、陸遜は長年仕えてくれた忠実な部下を諭す。この男は、この年になっても、まだ軽率な所が抜けていないからだ。

「確かに四家は主体性のない化け物のような連中だ。 いや、お前が言うように、虫のようなつまらん連中だと言っても良いかもしれぬ。 だからが故に、恐ろしい部分もあるのだ」

「と、言いますると」

「寄生虫による病死で、豪傑が死ぬこともあるのだ。 例え虫といえど、油断だけはするな。 特に四家を本格的に敵に回すとなると、凶手の類が日夜関係無しに襲ってくるだろう。 武芸では、お前は並大抵の相手には遅れをとらぬ。 だが、食べるもの、飲むものには、特に気を配れ」

「分かっております」

ちょっとむっとした様子で、朱桓は抱拳礼をした。

陸遜は少し悩んだ後に、身辺警護を専門にしていた部下を数名、朱桓に付けることにした。

荊州の状態は安定している。最近は息子の陸抗が育ってきていて、そろそろ将軍を任せられるようになってきた。今までは成長がおっとりしていて不安だったのだが、ここ数年、急に大人らしくなってきたのである。

朱桓の後は陸抗に任せることが出来るだろう。

他の部分は、陸遜がどうにか補うしかない。呉には人材がいないのだ。人材がいないと嘆いていた蜀漢が羨ましくなるほどに。

数少ない細作も、呼び集めた。

「そなたらは、朱桓を助けよ」

「……陸遜将軍」

「何か」

「実は、建業に今、林が来ているという噂がございます」

林かと、陸遜は呟いた。

知っている。あの化け物だ。そうなると、この混乱は、奴の手によるものなのかも知れない。

腕組みした後、陸遜は目を閉じて、しばし考え込む。

頑健さには自信があった肉体も、度重なる苦労の据えに、最近はめっきり弱くなってきてしまっていた。

「分かった。 そなたらは、陛下をお守りせよ」

「承知いたしました」

「朱桓は剛の者だから、簡単に討ち取られるようなことはあるまい。 だが、今呉にはとにかく人材が不足しきっている。 一人でも優秀な人材を失う訳にはいかないのだ」

細作達は頷くと、闇の中に消えた。

天幕の中、一人陸遜は呟く。

「呂蒙将軍。 周瑜都督。 貴方たちから引き継いできたこの重責ですが、今や意味が見いだせなくなりつつあります」

呉の混乱は、自業自得の結果だ。

山越からの搾取。

滅ぼすべき悪の放置。

魏への無意味な侵攻作戦。

国全てで解決すべき問題を解決せず、その結果闇が国を覆い尽くしてしまった。

皇帝の権限など鼻で笑うほどに強大化している四家だが、恐らく内情は空洞も同然だろうと、陸遜は思っている。そしてその空洞の、張り子の怪物によいようにされてしまっているのが、今の呉なのだ。

「この国は、滅ぶべきでは無いのかと、思えてしまいます。 しかし、魏にしても、蜀漢にしても、同じように矛盾は抱えてしまっている。 建国の英雄達は、この英雄無き世界を、一体どういう風に見ているのでしょうか」

答えなど無い。

ある訳もなかった。

漢は高祖劉邦によって作られてから、しばらく混乱が続いた王朝だった。韓信を始めとする建国の功臣達が次々に粛正され、異民族との戦いにも苦しんだ。粛正が一段落した後、やっと国は平和な時を迎えたが、それも一度滅び、光武帝の再建を待つこととなった。だが命脈も尽き果て、大乱の果てに、今の時代になった。

理想の政など、絵空事に過ぎず、今の現状を如何によくするかで妥協していかなければならない。

それは、陸遜も分かっている。何しろ漢を一度滅ぼしたのも、理想の政をしてみたいという欲求だったのだから。

「私はもう若くない。 それなのに、このような迷いにばかり囚われて。 まったく、だめな男ですね」

そう言って貰いたかったのかも知れない。

自嘲は、ただ空に流れる。

敬愛する人達は、もはやこの世にはいない。今いるのは、陸遜と、守らなければならぬ者達だけ。

それが分かっていても。

陸遜は、いまだ迷いを払うことが出来ずにいた。

 

3、崩壊の足音

 

軍勢一万を連れて建業に戻った朱桓は、あまりの有様に愕然としていた。

治安が、完全に崩壊しているのだ。

建業と言えば、魏の洛陽や許昌、?(ギョウ)、蜀漢の成都にも劣らぬ繁栄を遂げた都市だと、呉の民の自慢となっている場所だった。実際水運を利した物資輸送で巨万の富を築いた商人達が多数入り浸り、多くの民が暮らす街。そのはずだった。

だが。

完全に停止した物流。人の流れ。

路の彼方此方には死骸が転がり、燃えている家もある。

街を闊歩しているのは、愚連隊そのものの破落戸達。それに、どうみてもカタギとは思えない強面達。

かって、この国で侠客は幅を利かせた。甘寧などの大物がそうだったし、何より孫堅という男が侠客の大物だったからだ。

だが、それは過去の話。

多くの民にとって存在することそのものが困る侠客は、既に裏に追いやられたはずだった。それなのに、時間が逆流したように、今此処は弱肉強食の世界と化してしまっている。

戦が起こったかのような有様に、朱桓は事態が既に容易ならざるを悟っていた。

「すぐに一隊を宮殿へ! 近衛と連絡を取り、治安の状況を確認せよ!」

「ははっ!」

「二千は私と共に消火活動! 延焼を防げ! 二千は街に散り、暴徒を鎮圧せよ! 残りは治安維持! そうだ、五百を周辺の城へ派遣! 援軍要請だ!」

一万では、とてもではないが足りない。朱桓のような荒武者が、わざわざ呼ばれる訳である。

街に出ている破落戸どもは、圧倒的な戦力ですぐに無力化した。暴れる者は容赦なく斬り、縛り上げて屯所に放り込む。吟味は後回しだ。まずは治安を回復しなければならない。抗議は一切受け付けない。

荒っぽいやり方ではあるが、治安回復はこれが一番だ。多くの都市を攻め落とした経験がある朱桓は良く知っている。こういう場所では、下手に恩情を掛けると、それが命取りになるのだ。

街の治安を回復したら、次は周辺地域だ。街でさえこの有様である。街道も途中酷い状態になっているのを見たが、あれが建業周辺の街にまで拡大したら、呉は本当に終わる。前線は簡単には突破されないだろうが、経済はずたずたになり、全てが壊滅するだろう。軍は経済の裏付け無しには存在できないのだ。

忙しく走り回る。朱桓は自分の屋敷を本部にして、事態収集を始めたのだが。その屋敷までも、軍を連れて踏み込み、破落戸を追い出さなければならないほどだったのだ。中には拐かされてきたらしい娘までいて、朱桓は頭を振った。

「いつから建業は、漢末の洛陽になったのだ」

「近衛の張象将軍を連れて参りました!」

「遅い! 何をしていたか!」

部下は恐縮した態で首をすくめたが、張象は堂々としていた。まだ若い男だが、確か張家の末端に位置する人員で、それで近衛の将軍になったはず。あまり期待はしていなかったのだが、この火事場も同然の状況で堂々としているのを見る限り、能力はそれなりにあるのかも知れない。

「申し訳ございません。 四家出身の者達が、日夜血みどろの抗争を行っておりまして、私兵同士が市街戦まで。 我らも食い止めているのですが、力及ばず」

「……今、動かせる兵は」

「宮中の警備に千。 これは外せません。 何しろ今でさえ、手が足りないほどですので」

何でも、宮中にまで忍び込もうとする破落戸が出始めているという。宮城にも毎日のように不審者の影があるそうだ。

「城門の警備は五百ほどですが、信頼性に欠けます。 殆どが、四家の私兵です」

「なるほど、混乱の拡大も、それで合点がいくわ」

後は、警備を行っている予備役兵などが千五百ほどだそうである。しかし彼らは疲弊が著しく、とても手が足りないと悔しそうに張象は言った。

朱桓は頷くと、張象を手元に留め置く。仕えそうだと思ったからだ。

「宮中には、今の警備を維持するようにと伝えよ。 まずは街の治安から……」

「しゅ、朱桓っ!」

絶叫と共に、駆け寄ってきた男がいた。

頭から血を流しているその老人は、見覚えがある。確か朱家の当主に近しい男だ。朱然の弟だかで、朱家当主の養子になっている。

「な、何をしていた! それに、今何をしている!」

「見てわからぬか! 建業の街の治安を回復し、呉のために働いておる!」

「何を馬鹿な! 今が朱家の危機だとわからぬか! 街のことなど放って置いて、はよう朱家の者達の護衛をし、顧家や陸家の凶手から、当主様を守らぬか!」

「街のことなど、だと?」

指を鳴らすと、男の高貴さなど知らぬ兵士達が、両側から腕を取った。どうやら、陸遜が言うことは、本当らしかった。

「放り出せ」

「はっ!」

「き、貴様! 朱家の恩を忘れたか!」

「貴様らに仇を抱いたことはあっても、恩など受けたことは一度もない! この恥知らずの人妖どもが!」

まだ何か叫いていた男だが、外に放り出されると、待っていたらしい取り巻き達と一目散に逃げていった。

部下達が笑っているのを、朱桓は咎めなかった。

そればかりか、更に峻烈な命令を下す。

「余所から兵が来たら、すぐに朱家の本家を抑えよ」

「ご実家ですが、よろしいのですか」

「この乱を起こしている原因が、連中にあるのは間違いない所だ。 それに、実家だと?」

唾を吐きたくなった。

あのような連中と同一にはならない。朱桓は、そう決めていた。

忙しく指示を出している内に、周囲の州からも兵が集まってくる。二千ほど増えた所で、街道を抑えさせる。急を聞いて駆けつけてきた将軍の中には、あまりの惨状に愕然としている者も多かった。

河岸を守っている丁奉からは、残念ながら救援に出られないという手紙だけが来た。これは仕方がないことなのだが、同時に朱桓は悪意も感じ取ってしまい、憮然とする。部下が、なぜか聞くと、歎息しながら応えた。

「あの丁奉が、このような手紙だけをなぜ送ってくると思う」

「わ、わかりません」

「奴は一歩退いた場所で、勝ち組を見極めるつもりなのさ。 或いは今まで媚びを売っていた四家が壊滅する様を、冷然と見つめているつもりなのかもしれんな」

連日、被害が増える。

片っ端から凶手を捕らえ、彼らから拷問する過程で、四家との関係が次々に明らかになった。中には自分は四家から指示を受けているのだから解放しろと、高圧的に出る者までいた。

朱桓はそれらを片っ端から斬らせ、首を路の脇に積み上げた。

流石に凶手や侠客達も、それを見て昼は大人しくなった。だが、夜の治安は、朱桓が警備を始めてから一月くらいではどうにもならなかった。

兵士達も、単独でいる所を襲われたりして、被害が出始めていた。誘拐された兵士は、大体無惨に殺された姿で発見された。

朱桓は決断すると、息子の朱異を呼んだ。

朱異は既に将軍になっている。今回の件でも、朱桓の右腕として、三千の兵を率いて建業の各地を走り回っていた。若い頃の朱桓を思わせる無鉄砲さはあるが、しかし自分より思慮深いと、父として評価している。

「父上、お呼びですか」

「うむ」

朱異は朱桓より少し背が高い。しかし体が細く筋肉のつきも悪いので、武芸では終始自分には及ばないだろうが、信頼できる男である。

「二つほど、決意をした」

「はい」

「一つは、私がもし倒れた時には、お前が建業の治安を回復せよ。 まさか私も、状況が此処まで酷いとは思っていなかった」

陸遜の懸念は正しかったのだ。

これはもはや、内乱に近い。四家を敵に回す可能性があると言われ、ある程度は覚悟していたのだが。確かにこれは何時毒を盛られてもおかしくない。

「父上、そのような弱気な」

「もう一つは、もう少し兵が集まったら、四家の本家を潰す」

朱異が、息を呑むのが分かった。

朱桓だって分かっている。どれだけ腐敗していても、四家は呉そのもの。中身が空洞の化け物であっても、四家こそが、江東の大勢力呉の礎となっている存在なのだ。

それを潰すというのが如何なる意味を持つのか。

「呉は、滅びまするぞ」

「これは賭だ」

朱桓は、息子の不安を蹴飛ばした。

このままでは、どのみち呉は内部分裂し、魏によって各個撃破されるだろう。いや、そもそもそれが、魏の目的なのかも知れない。

考えてみれば、魏の幼い皇帝が即位したばかりに、このような乱が起こるというのがそもそもにおかしいのだ。このまま行けば、呉は魏に手を出すどころではなくなる。そして魏が態勢を整えた頃には、内部はすかすかのズタズタになっているだろう。

「だから、敵のもくろみをくじくためにも、四家を一度屠りさる」

「四家が抱えている軍事力は、呉軍の数割に達します。 荊州どころか、揚州の維持さえ危なくなりますぞ」

「故に、今しかない」

魏が呉に手出しできないという点でも、今は好機なのだ。

それに、朱桓は覚えている。四家を潰すことは、孫策、周瑜、呂蒙、そして陸遜へと引き継がれた呉の悲願なのである。孫策は四家に暗殺され、陸遜は散々苦しめられてきた。今、朱桓が、多少乱暴な手を使ってでも、事は成し遂げなければならなかった。

「明日、陛下に許可を貰ってくる」

「お気を付けください」

「分かっている。 分かっていたつもりだったのだが、これほどの化け物が相手だとは思わなかったわ。 だから、お前に託した。 いざというときは荊州に逃げ込め。 陸遜将軍の側であれば、きっと長らえられよう」

「……」

息子の肩を叩く。

思えば、朱桓は荊州にいて幸せだったのかも知れない。

有能な陸遜の下で、強敵と思う存分戦うことも出来た。様々な英雄の生き死にを、間近で見ることも出来た。

若い頃は周瑜にたしなめられてばかりだった気がする。

呂蒙は、若い頃は兎に角乱暴者で、学がなかったと聞いて驚いた。

そして陸遜は、悩み苦しみ、朱桓と弱さを共有してくれた。決して無敵の存在ではない陸遜を、支えようと何度も思った。

もう、思い残すことは何もない。四家との抗争で死ぬかも知れないが、それでも構わなかった。

酒を息子と飲み交わす。どうしてか、息子は涙を何度も擦った。怒らず、たしなめる。昔だったら怒っただろうと思うと、何処か自分がおかしかった。

翌日、朱桓は護衛を連れて、宮殿に出向いた。

宮殿では、武器を預けなければならない。これは皇帝の身を守るためである。侍臣に剣を渡した、その瞬間だった。

指先に、ちくりと何か痛みが走ったのだ。

眉をひそめたが、侍臣はそのまま下がる。

ふと、視界の隅。

柱の影に、腕組みして横目で此方を見ている小さな影が、見えた気がした。

あれは、何だ。禍々しい姿だった。見直しても、其処にはもう誰もいない。小首を傾げて、朱桓は謁見の間まで向かう。

そして、玉座に着いている、孫権を見て、安心した。

次の瞬間。

視界が、天地逆転した。

床にたたきつけられたのだと、気がつくまで随分時間が掛かった。血を吐いた。何が、何が起こったのか。

全身に痺れが走っている。それだけではない。まるで、巨大な手で床に押しつけられているかのようだ。

毒か。悟ると、不意に意識がはっきりした。

「朱桓っ!」

「陛下、来てはなりませぬ! 毒です! 触るだけで命に関わります!」

「おおっ! なんということだ! 侍医を早う! 早うっ!」

薄れ行く意識の中で。朱桓は、陸遜を見た。

まだ、きっと色々悩んでいるのだろう。微笑み、手を伸ばす。そして、呟いた。

「貴方は、優れた司令官でした。 貴方について行けて、幸せでしたよ」

「朱桓っ!」

「陛下、四家を潰してください。 呉が生き残るには、それしか……」

孫権が、何か叫んでいるらしい。

朱桓はもう何も聞こえないと思いながら、それでも。満足して、目を閉じた。

気がつけば、辺りは光に包まれている。

遠くに見える人影は。懐かしい人達だった。朱桓は顔を上げると、胸を張り、自分は立派に陸遜を補佐したのだと報告に向かった。

 

朱異からの報告を受けた陸遜は、思わず天を仰いで長々と嘆息していた。

ああ。なんと世は無常なり。

朱桓の死は、病死として片付けられるそうである。しかも発覚を避けるため、敢えて死の時機を前倒して史書には載せると言うことであった。もう、言葉も出ない。悪徳の隠蔽と邪悪の横行。四家によって、朱桓は返り討ちにされたのだ。

だが、その悪徳の四家も、今や風前の灯火である。

互いにつぶし合いを続けた結果、無敵かと思えた勢力にもほころびが出始めている。陸遜の家族らも、今はどさくさに紛れて放り出され、荊州に向かっている所だと聞いて安心した。人質の価値が無くなったので消される、等という事態さえ想定していたのだから。

朱桓の死の直後、呉本土から印綬が来た。

顧擁の後釜として、丞相になれと言うことであった。

既に諸葛謹も病死しており、呉に丞相になりうる人材はいない。建業周辺の治安はかろうじて朱異が守ってくれているようだが、それでももはや絶望的な状況なのだろう。四家の連中が、悲鳴を上げて保護を求めるほどに。

実際、これは四家内部での力関係による人事とは思えなかった。

その空白を突いて、孫権が行ったことなのだろう。

「父上、お受けになるのですか」

「ああ」

「無益なことにございます。 もはやこのような国は捨てて、魏なり蜀漢なりに亡命なさっては如何でしょうか」

自分を弟か息子のようにかわいがってくれた朱桓の死を知って、一番怒っていた陸抗がそう言う。

だが、陸遜は応えず、立ち上がって天幕を出た。

荊州の荒れ果てた大地が、其処には広がっていた。かっては天与の地であった此処も、劉表が死に、劉備の手に渡り、それを呉が奪い取ってからは、地獄の別名と変わってしまった。

それでも、陸遜は呉を守らなければならない。

呉に暮らしている、多くの民のためにも。

「私は陛下を裏切らぬ。 孫策様も、周都督も、それに呂蒙将軍も。 大体、今、必死に建業で戦っている朱異を裏切れん。 民もだ」

「しかしこのままでは、父上も殺されてしまうとしか思えません」

「その時は陸抗、お前が荊州を守れ」

「そんな、父上!」

若い怒りを爆発させる陸抗の肩を叩くと、陸遜は長江のほとりまで歩いていった。

海と見まごうばかりの大河は、悠久の歴史の中で、何度も流れを変えてきた。桁違いの水害を何度も引き起こし、そのたびに勢力図も激変してきたのである。

荒れ狂う長江は、今の呉のようだ。

だが、長江が無くなってしまっては、誰もが困るのだ。

「これから、荊州の軍事はそなたに任せる」

「父上、私では未熟が過ぎます」

「補佐はしてやる。 私は丞相として、此処から呉をどうにか守らなければならん」

陸遜は、蒼天の下で、そう決意と共に呟いたのだった。

 

4、悪徳と刃

 

東の海に派遣していた船団が戻ってきた。孫権はそれを聞いても、眉一つ動かさなかった。

四家主導で行われていた人狩りである。

呉の東の海に、小さな島がある。其処には四家が言う蛮人達が住んでいる。

連中を奴隷とし、減りつつある山越の代わりにしようというのが、計画の骨子であった。

戻ってきた船には、数千の哀れな民が乗っていた。彼らは故郷を奪われ、縄でつながれ、奴隷のように、治安を失い回復もままならぬ建業に下ろされた。それに続いて出てきたのは、幽鬼のような顔色をした兵士達。

現地の民達による激烈な抵抗も、もちろん原因の一つである。だが最大の要因は、風土病であった。

兵の九割を失うという、目先の利益に釣られた愚者の、哀れな結末であった。

指揮官は生きて戻ってきたが、十年ほどの空白の間に起こった激変に目を剥いていた。四家は既に絶対ではなくなり、呉の繁栄は過去になろうとしている。朱異は目の下に隈を作りながら建業の治安を守りに掛かっているが、大本である四家首脳部を叩くには、まだまだ兵力が足りない状態であった。

張昭が生きていれば。今の事態で、一気に四家を葬ることも出来ただろうに。

孫権はそう思い、不安げに拝礼する部下を見つめていた。

「それで、何をしに戻って参った」

「ご、ご慈悲を」

「何が慈悲か。 異国の民を害し、貴重なる兵を失い、そんな事をした輩に報いる事など、決まっておろう!」

既にこの男に後ろ楯はいない。

故に強気に出られると言うことが悲しかった。

「首をはねい!」

「ひいっ! 御慈悲を! 御慈悲をっ!」

「外道が……」

それは自分もだと、孫権は思いながら呟いていた。

この馬鹿げた計画を止められなかったのは、自分も同じなのだ。そして今でも、呉南部では山越に対する虐待が続いている。彼らはさぞ孫権を恨んでいるだろう。そして、自分には反論する権利がないのだ。その虐待を、長年にわたってどうすることも出来なかったのだから。

呉の皇帝。

そのご大層な実情が、これだ。

「陸遜はどうしている」

「書状を出してきております」

呂壱という文官が、深々と拝礼した。

この男、大した人物ではないのだが、それが故に四家に属していない。それを孫権が引き立てたのだ。寡黙な男で、他人との話をあまり得意としておらず、非常に誤解を受けやすい。それが故に出世することもなく燻っていたのを、四家の権力が及ばなくなりつつあるのをいいことに、側近に引き上げたのだ。

故に、孫権に対する忠誠心だけは評価できる。実際、寡黙でありながらも、孫権に対する働きだけは本物だった。

「どれ、見せてみよ」

「陛下!」

「黙れ。 見せよ」

四家に属する文官が、悲鳴混じりの声をあげた。かって、どんな公文書も、四家の手を経ず、直接孫権の手に渡ることはなかったのだ。しかしそれも、もはや過去の事だ。孫権は呂壱の手から直接文書を受け取り、ざっと目を通した。

陸遜の文書は、四家の手で改められることを想定してか、暗号で書かれていた。かって反四家の者達は、皆暗号で作った言葉で会話して、来たる日に備えていたという。孫権もそれに加わっていたから、内容については十分に理解できる。

ざっと目を通した後、嘆息した。

陸遜は、朱桓の死を悲しんでいた。

そして、朱異を引き立てること、朱桓が進めていた四家本部壊滅作戦の実行を強く推していた。

魏が態勢を整える前に。

陸遜の言葉は血を吐くようであり、実際相当な損害を覚悟しなければならない。多くの人材を、この大掃除で失うことになるだろう。

四家は空洞の怪物とはいえ、その表面には、呉を支えている部分も大きいのだ。いや、この怪物の存在が、呉を形作っていると言っても良い。だから人間の国家として自立するには、どうしても仕方のない犠牲なのかも知れない。

「朱異に、三万の兵を与える」

「へ、陛下! 恐れながら、朱異は若輩! 戦の経験も少なく、実績もございません!」

そう叫んだのは、陸家筆頭の文官。朱家の文官も、それに賛同する。

ぎゃあぎゃあとやかましい連中の言葉には、耳を傾けない。孫権は呂壱を側に呼び寄せると、印綬を持ってこさせた。

「お聞きください、陛下!」

「黙れ! 貴様らが言う実績というのは、山越を如何に虐待したか、ではないか! 村を焼き払い、女子供を奴隷として売り飛ばし、人狩りをして私腹を肥やすことが、何の功績か!」

「それによって、呉は支えられているのでございます! 漢民族以下の山越から利益を得て、何が悪いのでございましょう!」

「何が漢民族以下か! そなたらの方が、けだもの以下ではないか!」

長年溜まりに溜まった怒りが爆発した孫権は、剣を抜きそうになった。護衛の力士達が取り押さえる。

文官達は青ざめていた。

史書には、晩年の孫権は酒乱し、さらには佞臣を重用したとでも書かれるのだろうか。そう怒りを静めるように懇願する部下の声を聞きながら、孫権は思った。

 

山越の少年鳳は、隠れ家に戻ってくると、後ろ手に戸を閉めた。

既に少年と言うには、無理がある年になってきているかも知れない。体つきは漢人の大人よりも大きくなってきているし、全身の筋肉もみずみずしく、かつしなやかになっている。

武芸も、大人達に教えて貰った。漢人が身につけているものほど洗練されてはいないが、身体能力にものをいわせた戦い方が出来るようにはなってきていた。そして、実戦も豊富に経験した。

既に根本的な秩序が瓦解した呉では、幾らでも実戦を積む機会があったからである。

拠点と言っても小さなあばら屋だが、奥には無数の気配が息づいている。最近では奴隷商人を襲って、同胞を救出する機会も増えていた。そうして助け出した仲間達は、こうして闇に身を潜めながら、呉を転覆させる機会をうかがっていたのである。

「鳳、成果は?」

「しっかり見てきた。 朱異って将軍が、四家と戦争してる。 昨日は陸家の拠点が抑えられて、大勢の侠客が連れて行かれて、斬られた。 売り飛ばされそうになってた同胞も、解放されていた」

「どういう事だ。 朱異って奴は、四家の一員じゃあないのか」

一人がぼやく。

よくわからないのは、鳳も同じだった。

手を叩く音。

顔を上げると、目の前に童女にしか見えない化け物が立っていた。にこにことしているが、目は全く笑っていない。

「はい、注目」

「林大人」

さっと、周囲が拝礼した。いやだが、鳳もそれに習う。

林というこの女が化け物であることを、鳳は知っている。絶対にろくでもないことを企んでいるとも思っている。

だが、この女が教えてくれた組織戦で、死なずに済む山越の民は随分増えた。今は呉が混乱していることもあって、山や村が襲われることもずっと減ってきている。奴隷として酷使されている山越の民を救える機会も増えた。

それも、林のおかげだ。

しかし、此奴が善意でやっているのではなく、何かの目的の下動いているのも、間違いのない事実であった。

「報告を聞かせてもらえますか」

「はい。 魔の酒についてですが、四家上層だけではなく、今や文官、武官の中級階層にまで広がりつつあります」

「上出来です。 そのまま、販売を続けなさい」

「ははっ!」

この酒についても、随分助かっている。

呉の腐りきった権力階層に復讐するにも使えるし、何より資金源として、これ以上のものはない。

実は田家が、この酒を呉の上層に売りたいと交渉を持ちかけてきている。これについてはまだ交渉の段階だが、中華全土に網を張り巡らせている大商家、田家と結びつくことが出来れば、呉を叩きつぶす大いなる一歩になるはずだった。

しかしこの酒は、恐るべき毒だ。

やはりこれを売って復讐を気取るのは、間違っているとしか、鳳には思えなかった。

「次。 暗殺の成果は」

「はい。 昨日、朱家の跡取り候補を仕留めました。 陸家の者達の仕業に見せかけてあります。 首はこの通り」

机の上に、塩漬けにされた生首が置かれる。無念そうな形相を浮かべた顔は、山越の民を散々苦しめてきた自覚もなく、虚空を睨んでいた。

林はご機嫌な様子で、何度か頷いた。ふと思う。この女、ひょっとすると人が苦しんで死ぬ事自体が嬉しいのではないか。

「素晴らしい。 見事です」

「あ、ありがたき幸せにて」

暗殺をした男は感動に声を震わせていたが、しかしこれも考えてみればおかしい。

混乱に乗じて、敵と同じ事をしているだけはないのか。

鳳の悩みは、集団の心理の中では、流されてしまう。

林は戦果を聞くと、消えた。興奮して周囲の者達は囁き合っている。

「流石は林大人だ。 必要な時には助けてくださるし、指示も的確。 それに、きちんと褒めてくださる」

「俺など、初めて褒めてくださったのが林大人だ。 人間として、扱ってくれているのだな」

「嬉しいことだ」

最近は、鳳より若い同志もいる。先輩として、彼らを導かなければならない事もある。荒事の経験に関しては、同志の中でも上位にはいるほどになってきた。だから、頼られることも多い。

この組織にいる山越の者達は、皆深い傷を心に抱えている。だから、だろう。ちょっと優しくされると、ころっと参ってしまう所がある。それをいいようにされているような気がした。

林は、どうしても信用できない。鳳は、あの童女にしか見えない怪物を、内心で恐れていた。

「おい、鳳」

「何でしょうか」

肩を叩かれて振り返ると、部隊の長だった。禿頭の大男で、しばらく前に魔の酒を造る仕事から、荒事の指揮に鞍替えしている。どうも此方の方が得意なようで、戦果も上々。鳳も、この男の指揮下に入ってから随分戦いやすくなった。

不思議な話で、どうも鳳は親のような年の人からかわいがられる傾向がある。いつも無愛想にしているのに、どうしてよくしてくれるのかよくわからない。ちょっと気を抜くと、すぐ厚意に甘えそうになってしまうので、気を引き締めるのが大変だった。

「これから、また出る」

「わかりました。 任務の内容は」

「奴隷商人に対する「働き」だ」

働き。

早い話が、畜生働きである。

つまり、奴隷商人の家に押し入り、皆殺しにすることだ。家族も子供も関係ない。もちろん、山越の奴隷だけは助けて出る。

少し前までは、奴隷商人達は圧倒的な数の護衛を雇っていて、近付く事さえ出来なかった。しかし建業がこのようになってから、復讐の刃が連中に振り下ろされるようになった。既に名の知れた奴隷商人が五人、首を落とされている。

かって、四家の支援が彼らにはあった。

今、連中は網に入った魚も同じ。奴隷商人どもの悪行を知らない者などいないから、宿にも宿泊を拒否されることがある様子だった。とはいっても、建業に限らず、山越出身の奴隷は呉全般で酷く扱われているのだが。

「待ってください」

「また、家族は殺すな、か」

「商人だけなら、俺が殺ってきます。 畜生働きとなると、無関係な下働きや、幼い子供まで殺すことになります」

「逃げられると色々面倒だ。 それに、助けてやっても家族の仇になるのだぞ」

恨まれてもいい。そう、鳳は言った。

子供や女を殺すのでは、あの山を焼き払いに来た呉の武将達と同じではないか。そうも言った。

禿頭の男は、大きく嘆息した。

「その言葉、他の同志の前ではいうな」

「分かって、います」

「お前は優しい男だが、戦士としては二流だな。 いざというときは、相手が子供でも斬れるようでないと」

「いつか死ぬ、でしたね」

それも覚悟の上だ。

鳳は人間になったのだ。それならば、魂と共に生きたいと思う。人間が唯一他の動物に誇ることが出来るものこそ、魂だと鳳は思っている。その魂は己の中にあり、信念によって輝くとも。

鳳の決意が変わらないのを見て、禿頭の指揮官は折れてくれた。

「分かった。 三刻だけ待つ。 殺れるか」

「行ってきます」

「お前のような有能な同志を失うことだけはしたくない。 絶対に生きて戻れよ」

「はい」

準備を整えると、鳳は闇夜の街に飛び出した。

目的の商人の屋敷は、建業の東の端にある。朱異という将軍が、三万の軍勢を率いて治安維持に当たり始めてから、夜ので歩きは禁止された。侠客や凶手も、これで外を出歩けなくはなったが、兵士達の目が届かぬ所では、未だに阿鼻叫喚が続いている。

路地裏にはいると、蠅の集った死体が転がっていた。まだ若い男だが、袈裟懸けに斬られて、かっと目を剥いて息絶えていた。さぞ苦しんで死んだのだろう。脇を駆け抜ける。物言わぬ目は、じっと空を睨んでいた。

屋敷に着く。

今まで稼いだ金をつぎ込んで、周囲の防備を固めている。堀を作り、周囲は土塀で覆い、櫓まで作られていた。しかし、それは以前偵察したので知っている。仕事をする可能性がある屋敷類は、全て見て回っているのだ。

裏口の近く、一箇所だけ松明の明かりが届かない死角がある。

素早く其処に潜り込む。

土塀に背中を付け、闇と一体化する。呼吸を整え、じっくりと、周囲を探る。

妙だ。中が静かすぎる。

櫓にも、人の気配がない。そればかりか、血の臭いがした。

塀を乗り越えて、中に入り込む。

そして、目を剥いた。

辺りは、既に鮮血の坩堝だった。切り刻まれた死体が、此方にも、彼方にも転がっている。役人が駆けつけていないと言うことは、悲鳴を上げる間もなく皆殺しにされたと言うことだ。

最大限の警戒をしながら、辺りを探る。

血が注いだ壁は、既に異臭を放ち始めている。それにしても、これだけの規模の殺戮を、まるで音を立てずに実行するとは。死骸を検分してみるが、斬り口を見るが、素人の技とはとても思えなかった。

内部犯ではない。

しかし、外部から侵入して、これほどの規模の殺戮を行ったのは、一体誰なのか。その見当がつかない。

屋敷の中も、惨状は同じだった。護衛に雇われたらしい武人の死骸も点々としているが、良くて武器に手を掛けた位で斬られている。しかも斬られた瞬間に事切れている死骸ばかりだった。

牢の中を見るが、商品の山越も、皆殺されていた。

歯を噛む。

これをやった奴は、何者か。同じような仕事をしたことはあるが、ここまで躊躇無く、なんの感情も込めずに殺しが出来るのは、化け物だとしか思えない。

それで、気付く。

まさか、奴か。林なら、確かにこれだけの事も出来るかも知れない。

震えが来る。同時に、物音。

剣を抜いて振り返る。気配がある。歩いていって、棚の一つを開ける。中に膝を抱えて、青ざめている使用人の娘がいた。まだ幼い娘で、髪も結っていない。余程に恐ろしいものを見たらしく、鳳が引っ張り出しても、何の反応もなかった。目にも、感情一つ宿ってはいなかった。

死なせてやろうかと一瞬だけ思ったが、止める。

こんな幼い使用人の娘まで殺したら、それこそ戦士の名折れだ。このような鬼畜ともいえる殺戮を行った輩と、一緒にはなりたくない。

娘を背負うと、鳳は屋敷を飛び出す。

中では奴隷商人の死骸も確認していた。だが、それは別にどうでも良くなっていた。

 

司馬懿は家を出ると、とぼとぼと宮城に向けて歩いていた。

家族の横暴が、ますます酷くなってきている。

息子達は地位を司馬懿に直接要求してくるし、妻は一族を纏めて、好き勝手なことばかりをほざく。もちろん、司馬懿が言うことを聞かなければ、待っているのは暴力だ。縛られ、殴られる。鞭を使われることもあり、最近は拷問の名人とやらが呼ばれることもあった。

家に帰るのは嫌になり始めていた。

しかし、蜀漢も呉も、最近は自分のことで手一杯になっており、外に出てくる余裕がない。蜀漢はショウエンが死に董允が政務の後を引き継いだが、現状維持で手一杯。呉は四家の内部対立が噴出して、下手をすると分裂の危機かという状況である。林が引っかき回しているらしいのだが、遊びすぎだろうとも思う。

すっかり白くなってしまった髪。

諸葛亮との死闘の結果だ。あれからもう何年も経ったというのに、司馬懿は苦悩を続けている。誰も理解者はおらず、戦場以外に居場所はない。しかし、曹叡に曹芳を任された以上、足踏みなどしていられなかった。

曹爽の部下が、洛陽の街路を我が物顔に歩いていた。司馬懿を見ると、流石に遠慮して道を空けるが、あの様子だと民を随分害しているだろう。困ったものである。護衛の武人が、ぼそりと言った。

「曹爽大将軍は、随分羽振りがよいそうです」

「何しろ、曹真どのの息子だからな。 名声がまずある状態だ」

「俺が見た所、曹爽大将軍は無能です。 この間も、蜀漢に攻め込んで、徹底的に叩きのめされたというではないですか」

「ああ、そうだな。 だが、今の魏では、功績よりも親の家柄がものをいうようになってきているのだ。 安定の弊害だな」

家柄というのは、もちろん功績によって得たものも指す。功臣の息子と言うだけで、地位を得られる時代が来つつある。

だが、それは、決して良い事とは言い難い。

宮廷に着いてしまった。

奥に行くと、曹芳が侍女達に遊んで貰っていた。しばらく後宮は使いどころがない。せいぜい皇太后の住居くらいの意味しかない。幼い曹芳は曹叡の面影があり、しかしあまり聡明とは言い難かった。

「陛下」

「おお、司馬懿か」

まとわりついてくる曹芳を抱き上げる。きゃっきゃっと黄色い声をあげて喜んでくれた。

息子達も、幼い頃はこんな風に可愛い時代があったか。いや、無かった。幼い頃から母べったりで、司馬懿は触らせても貰えなかった。くすくす笑いながら、女官達が言った。

「陛下は丞相のことが大好きなのですよ」

「おお、それは嬉しいことです。 老骨に鞭打って来た甲斐がありました」

「司馬懿は二人目の父上じゃ。 もっと朕と遊びに来てたもれ」

「おお、何と。 光栄な言葉か」

年を取ったからか、涙腺が緩んで仕方がない。

司馬懿は誓う。

この子を、自分の目の色が黒いうちは、絶対に守るのだと。

如何に暗闘の嵐が魏に吹き荒れようと。どのような闇が待っていようと。

司馬懿は、曹叡との誓いを、守るつもりだった。

 

(続)