星墜ちた後の大地

 

序、両腕の末路

 

魏延は、何が起こったのか、最初理解できなかった。

漢中の中央部。小さな平原を抜けている所だった。丁度休憩しようと、部下達に対して、振り返った瞬間である。

馬岱が指揮剣を振り上げると、麾下の兵士達が一斉に槍を向けてきたのだ。漢中に戻り、これから成都に向かおうとしていた矢先のことであった。

歴戦を経てきた魏延である。危険な目にも、何度も遭ってきた。

だが、万を超える自分の部下が、ことごとく裏切るなどと言うことは、流石に未知の経験であった。

「貴様らっ! 俺を誰だと思っている!」

魏延は吠えた。

たたき上げで地位を伸ばしてきた。小隊長からこつこつと出世して、ついに蜀漢を代表する将軍にまで上り詰めた。それだけではない。将軍という地位に限定すれば、既に三国随一だと、魏延は自負している。戦術面では、陳式でさえ自分に及ばないと考えているし、ケ艾は経験が足りない。陸遜は手強そうだが、それでも勝てると思っていた。

しかし、しかしである。

この想像を超える事態に、魏延は虚勢を張る以上のことは出来なかった。長年生死を共にし、苦楽を分かち合った旗本達さえ、魏延の側から離れ、周囲の包囲に加わっているのだ。

馬岱が前に出てくる。左右には、捕縛用の熊手を揃えた屈強の兵士達が揃っていた。いずれもが、魏延が鍛え上げた歴戦の猛者達である。その戦闘能力は、他ならぬ魏延自身が一番よくわかっていた。

「魏延将軍。 貴方を解任いたします」

「か、解任だと! なぜだ!」

「貴方は、丞相に提出なさいましたね。 北伐続行の提案を」

「応っ! そうだ! 丞相がいなくとも、儂がいれば司馬懿など苦もなく蹴散らせる!」

傲然と胸を張る。既に魏延の息子達までもが、敵側に加わっているのに。

長い間、勝ち戦しかしてこなかった魏延である。だからこそに。その傲慢は、自分でも気付かないほどにふくれあがっていたのかも知れなかった。

「丞相の遺言をお忘れですか」

「あんなもの、気の迷いだ! もう一押しすれば、魏は潰せた!

「やはり、そうですか」

馬岱は大きく歎息すると、指を鳴らす。

魏延はその場で押し包まれ、熊手によって馬からたたき落とされ、群がる兵士達に武器を奪い取られ、地面に組み伏せられていた。

逃げるどころの話ではない。実戦装備は既に解いてしまっていたし、腰には剣しかなかったのだ。馬もいつも跨っている駿馬ではなく、ゆっくり行く時に跨るものだった。

自分を見下ろす無数の目が、狂信に満ちていることに、魏延は気付いた。

これは。

諸葛亮の命令を聞く時の目だ。

部下達も、いざというときは諸葛亮の言うことを、魏延の命令に優先するように、訓練されていたと言うことか。

そして諸葛亮の威光は、死した今もまだ健在。恐らくは、この国が滅びるまで、健在であり続ける。

それはもはや、人間の影響力ではない。人間離れしている知性の持ち主だと思っていたが、これは常軌を逸している。

年甲斐もなく、歯の根が合わなくなってきた。

「わ、儂を、殺すのか」

「いえ、貴方には、別の方法で役に立っていただきましょう。 貴方自身は、逃げまどった挙げ句、私に斬り殺されたという事になってもらいます」

縛り上げられ、引き立てられる。檻車に入れられた。

息子達まで、それを冷ややかな目で見つめている。魏延は絶望した。

 

ほぼ同時刻。

撤退する軍勢のほぼ中央で、分厚く味方に守られながら兵糧の計算をしていた揚義は、突然天幕に乱入してきた姜維によって取り押さえられていた。悲鳴を上げてもがいていた揚義は、兵士達が自分を冷ややかな目で見つめているのに気付いて、漏らしそうになった。

「お、お前達、何のつもりだ! 私は揚義だぞ!」

「知っております」

姜維の声は低く抑えられていて、これから処刑する相手に掛けるかのようだった。

元々坊ちゃん育ちの揚義は、殆ど泥にまみれたこともない。初めて蜀の桟道を渡った時には、ちびりそうになった位なのである。陣中で軍令違反の武将が処刑されたのを見た時は、吐いたくらいだった。

しかし、自分の能力に対しては、高い評価をしていた。今や自分以上の人材は、蜀漢にはいないとさえ考えていた。

だから、今や諸葛亮の後継者は自分しかいないと考えていたところである。それを疑ってさえもいなかったし、後継者になれば諸葛亮の人望は全て手に入れられるとさえ思っていた。故に、いきなり組み伏せられたのは。まさに青天の霹靂。

泣きそうになる揚義に、姜維は竹簡を拡げて見せた。

「此方は、魏延将軍の罪をでっち上げる書状ですな。 既に部下が抑えました」

「ふ、巫山戯るなっ! 魏延はどうせ謀反を起こすに決まっている!」

「誰に対する謀反ですか。 あのお方は、先帝陛下に深く忠誠を誓っていて、蜀漢以外に我が国はないと断言しておられましたが」

「むろん、私だ! 丞相亡き今、私こそが蜀漢なのだぞ! 平凡で凡庸な元陛下に、国政など回せるか! 後方でぬくぬくとしていた??(ショウエン)や董允ごときに、この国を任せられるか!」

真実を抉ってやったつもりだったのに。

しかし、姜維は指を鳴らす。兵士達が、揚義を縛り上げた。縄目がきつくて、今度こそ揚義は悲鳴を上げていた。

「丞相の遺言をお伝えしましょう。 私と羅憲にのみ、伝えられていた遺言です」

「そ、そんなものが」

目の前に竹簡を突きつけられる。其処には、確かに諸葛亮の文字で、記されていた。丞相の印まで、竹簡の隅に押されている。

竹簡には、こうあった。

揚義と魏延は、諸葛亮の死後、必ず傲慢になり、己の功績を誇ることだろう。あまつさえ、互いに派閥を作り合って、蜀漢を分裂させる危険さえある。

故に、権力を奪い、軟禁せよ。

魏延は一旦地位を奪い、様子を見て別名で復職させよ。今まで泥を啜って生きてきた男故、それで反省するだろう。

しかし揚義は今まで苦労を知らず生きてきた故、多少叱責しても反省などしまい。故に、全ての権力を奪い、庶民に落とせ。どのみち、魏延を謀殺しようとして、必ず襤褸を出す。その証拠を押さえよ。

読んでいる内に、揚義は歯の根が合わなくなってきた。

全て、洞察されていたのだ。

何もかも、丞相には見透かされていた。魏延を排除しようと目論むことも、蜀漢王朝を乗っ取ろうとする事さえも。

そして、揚義には誰一人と味方しようとしないと言うことも。

子飼いのつもりで、目をかけてやった兵士達さえもが、揚義を冷たい目で見つめている。現に、揚義に縄を掛けたのは、腹心としてこれから重用しようと思っていた、長年の部下だった。

「わ、私を庶民にして、魏に対抗できると思っているのか!?」

「ご心配なく。 攻め込みさえしなければ、充分に対抗できます。 丞相が鍛えた蜀漢の精鋭に、磨き抜いた国力は、一朝一夕でどうにかなるような代物ではございませぬ」

それ以上反論できず、揚義は俯いた。

多分魏延も、今頃同じ目に遭っているのだろうなと、揚義は思った。

 

蜀漢の新しい人事が発表されたのは、諸葛亮の国葬が終わった後のことである。

新しい丞相には??(ショウエン)が就任した。彼は内政面で、諸葛亮に様々な事を教わっていた人物で、軍事的な才能はないがそこそこの俊才である。これを、酒癖は悪いが能力に関しては優れている費偉と、能力は凡庸だが生真面目で仕事を必ずこなしてみせる董允が補佐する。

軍は呉懿が纏め、漢中には王平。武都、陰平には陳式が入り、永安は向寵が引き続き固める。張疑と馬忠は南蛮方面を纏め、引き続き呉との外交はケ芝が担当することになった。

人事は全て、諸葛亮が生前決めていたとおり、粛々と執り行われた。

陳式も武都、陰平は部下に任せて、諸葛亮の国葬に参加した。魏も六万の軍を失った直後である。流石に即座の攻撃を仕掛けてくる余裕はないし、この機に家族を任地に連れて行く必要もあったからである。

ただ、長男の陳寿だけは残していく。

この間成人した陳寿は、文官として優秀な人物で、将来の国政参加を期待されている。若干金に汚い所があるが、汚職とは無縁であるし、期待されるだけの仕事は出来ると陳式は考えていた。

定軍山まで劉禅は出向き、其処で全ての葬儀が行われた。軍に加えて、文官達も各地の最低限残さなければならない人員以外は殆どが参加。さらには、周辺の住民も、殆どが定軍山に集まっていた。

蜀漢の住民は、皆泣いていた。人望と言うよりも、その凄まじい影響力が突然消えた事による衝撃が、誰もの心を覆っていたのである。

陳式も、哭礼では泣いた。

あれほど疑念を感じていた相手だというのに。自分でも不思議だった。

「父上」

「うん?」

陳寿の言葉に、陳式は顔を上げた。

気がつくと、其処は宿だった。葬儀が終わった後、連れてきた五百ほどの兵と共に、任地に戻る途中だったのである。陳寿は、漢中の北端まで見送りたいとか言っていた。それを思い出しながら、涙を擦る。

そう言えば、葬儀が終わった後、どうやって帰ったか、あまり覚えていない。それだけ精神への打撃が大きかったと言うことだ。諸葛亮が死んだ直後は、あまり衝撃はなかったのに。いざ葬儀が終わってみると、これほど精神への打撃が大きかった。不思議な話である。

「私は下っ端だったので、諸葛亮という人とは、最後まで面識を持つことがありませんでした。 どういうお方だったのですか」

「お前が感じたとおりの相手だ」

「しかし、どうも人間の話を聞いているようには思えなかったのです」

「だから、そう言うお方だったよ。 特に蜀漢の実権を握った後は、本当に何処かが神がかってしまっていたな。 だから、寿命を縮めたのだろう」

陳寿は、そんな人間がいる訳がないと言った。

君子は怪力乱心を語らないとも。

そう言えば、陳寿は昔からそう言う所のある子供だった。南蛮は野蛮で、迷信がまかり通っているから嫌いだとか。庶民の祭は、淫祠邪教と何ら代わりが無いだとか。周囲の白い目を受けながらも、自説を変えることのない子供だった。

「しかしな、寿。 私は確かにあの人の下で、神業に等しい戦闘指揮を実際に見てきたのだ。 特に最後の戦いでは、四万六千で十七万を越える敵兵を、しかも守備陣地によっている敵兵を壊滅寸前まで追い込んだ。 正面決戦で、だ。 実際にそれを見てきている人間を前に、嘘だと言われても困る」

「そんな事は信じられないと言っているんです。 私はたとえ父上が言ったことでも、自分の考えを曲げる気はありません」

流石に少しうんざりしたが、しかしこの頑固さは、文官としては必要だろう。汚職さえしなければ、蜀漢を支える柱石に、いずれなってくれるはずだ。

陳寿は口を尖らせて、不平を口にした。

「父上は、私が嫌いだから、そんな嘘をつくのですか?」

「寿よ。 覚えておくがいい。 お前の信じることだけが、事実ではない」

「そんな事はありません」

「お前は賢いが、もう少し識見を拡げた方が良いかもしれないな。 もしも何かの真実を知りたいというのなら、実際にその出来事があった場所に、足を運ぶのが良いかも知れんぞ」

それ以上、陳寿は反論しなかった。

もしも、諸葛亮が無能だったのなら。のこのこ北伐に出てきた所で、司馬懿に討ち取られていただろう。多少臆病な所はあったようだが、司馬懿の用兵は確かで、速攻にも計略にも強い。それは直接刃を交えた陳式だからこそ、良く知っている。

その司馬懿が、ヤドカリのように陣に籠もって、諸葛亮には為す術を知らなかった。それだけで、充分な意味を持っているのだと、陳式は考えている。

妻と陳式以外の子らを連れて、そのまま蜀の桟道を行く。ひょっとするとこれが最後かも知れないと思った。これから魏は勢力を盛り返すだろうし、蜀漢は逆に休眠状態にはいる。もしも真っ先に攻撃されるとしたら、魏に撃ち込まれた楔である武都、陰平だろうからだ。

しかし、最早この土地は、陳式にとって第二の故郷。自分を慕ってくれる民のためにも、必ずや守りきらなければならなかった。

それに、細作達の拠点としても、活用が必要となる土地である。歴戦を重ね、もはや蜀漢の宿将となった陳式以外の誰が、此処を守ることが出来ようか。

任地に到着。民が諸手を挙げて迎えてくれたのが。

陳式には、何より嬉しかった。

 

1、荊州の矮小なる動乱

 

諸葛亮が死した翌年。

荊州のほころびが、いよいよ決定的になってきた。

元々南北で魏呉が分割統治し、何度となく国境紛争を行ってきた土地である。兵力にものをいわせて守りを固めてきた魏に対し、呉は柱石にして至宝である名将陸遜を配置して、守備に当たってきた。

だが、長年の政情不安で民はこの土地を続々と離れて、屯田で豊かさを保っている魏に次々と流れていく傾向にあった。

これに対して呉が、正確には四家が取った国策が拙かった。

今まで奴隷として酷使してきた山越の民を荊州の荒れ地に送り込み、一種の屯田をさせたのである。一種のというのは、それは半農半兵の屯田ではなく、あくまで奴隷労働としての作業だったからだ。

著しくそれが拙かったのは、治安が定まらず、逃げようと思えば逃げられる荊州で、それを行った、という事だろう。

陸遜は襄陽の近くに陣を張り、天幕の中でうろうろと歩き回っていた。落ち着かない。この年になっても、やはり四家に命令されるまま、「賊」を討伐するのは気が進まない。

今、彼が討伐するべく標的を定めているのは、彭旦と呼ばれる男である。といっても、実際には賊ではない。

あまりに不当な扱いを受け続け、多く死んでいく仲間達を見かねて、魏に逃げ出した武装流民である。彼らが魏に入るまえに皆殺しにしろ。それが、四家からの命令であった。

陸遜があまりにも言うことを聞かないためか、最近四家は卑劣な手に出た。陸遜の家族を殆ど軟禁状態におき、逆らう度に一人ずつ殺すと直接的に言ってきたのである。孫権は所詮四家の御輿に過ぎず、彼らの暴挙に為す術がなかった。それに、諸葛亮が死んでからと言うもの、不意に四家は力を増している。何かの枷が取れたかのように、暴走を開始しているのだ。陸遜が傍流とはいえ四家の一族だと言うことも、すっかり彼らは忘れているのか、或いは身内だからこそ憎いのかも知れない。

陸遜も年を取って、随分気が弱くなってきている。家族を一人ずつ殺すと言われてしまうと、流石に抵抗できない。人質の中には、まだ四歳の女児もいるのだ。しかし、逃げ出した民を殺すのも気が進まない。山越を人間扱いしない四家の卑劣かつ邪悪なやり方にも、ほとほと嫌気が差していた。

朱桓が天幕に入ってくる。

「賊の戦力は、まだ二千ほどが健在です」

「まだそんなにいるのか」

大きく歎息した。

彭旦は勇猛な男で、自分を盾にして、一人でも多くを魏の領土に逃がそうとしている。今までは地下組織を使ってそれを為そうとしていたのだが、四家の締め付けが厳しくなり、ついにこんな無理な方法を採ったのだ。

人材がいない呉としては、彼のような人物を賊として討伐しなければならないのは、本当に悲しいことだ。有能な者は皆魏に逃げてしまうか、或いは賊となってしまう。残るのは四家に都合がよい木偶ばかり。そして四家は、自分に忠実な者ほど、「史実」に有能な名将だったとか記述するのだった。

「交渉は進んでいるか」

「頑として受け付けません。 此方としては、討伐したという実績だけあれば良いと、何度も言っているのですが」

つまりそれは、首謀者の首さえ差し出せば許してやる。見逃してやるという交渉だ。陸遜は実際問題、山越の民を憎んではいない。同情さえしていた。

それは朱桓も同じ筈だ。少しでも人間の心があるのなら、今の呉における山越の扱いを、まともだと思う訳がないのである。

「山越の民が、どのような事をさせられているか、お前も知っているだろう。 彭旦は彼らの一人でも、余さず救いたいという事なのだろうな」

「羨ましい生き方です」

朱桓が悔しそうに顔を歪めた。彼も陸遜同様、腐りきった四家にはほとほと愛想を尽かしている一人であった。

そもそも孫策が四家に担がれて江東を「制圧」した時から、この悲劇は始まっていたのかも知れない。漢王朝の最も腐った部分が凝縮した国家。一種の、漢王朝の腐敗部分の亡命政権。

それが、唾棄すべき四家の本性だった。

そして多くの領民や忠臣、孫家そのものまでもを食い物にしながら、この怪物は肥え太っているのだった。

「もう一度、交渉せよ。 それによって、彼らが一人でも逃げられるように、時間を稼げ」

「それが、実は少し南に、逃げ遅れた流民が五百ほどいるようなのです。 彭旦は彼らが逃げる時間を稼ぐために、頑張っているようでして。 二千の山越民達も、此処で死ぬ覚悟を決めているようです。 逃げ遅れた民は、斥候の話では、老幼ばかりと言うことでして」

「なんたることか」

陸遜はどっと疲れて、椅子に崩れた。

しばらくぼんやりとしていたが、こうではいけない。

諸葛亮が死んだことで、多分陸遜に対抗できる人間は、魏の司馬懿だけになった。だから気が抜けて良いというものではないだろう。

更に言えば、この陣にも四家子飼いの武将が大勢混じっている。彼らには陸遜が裏でしている山越の救済行動など、知ったことではない。逃げ出した山越は、殺していいと非情なる達しが出ているのだ。

ただでさえ、魏相手に戦績を稼ぐのが難しくなりつつある時勢である。出世のために、彼らが奴隷と蔑む山越を殺すことをためらう理由など、欠片もない。同じ存在だなどと思っていないし、考える必要もない相手に、人間は際限なく残虐になれるのだ。

陸遜は立ち上がると、大きく歎息した。

「やむをえんな」

「如何なさるのです」

「彭旦は殺す。 そうしなければ、多分四家は見せしめとして、山越の民を大勢無意味に殺すだろう。 覚悟は決めているだろうし、気の毒だが死んで貰わなければならん」

「他はどうするのですか」

それには、手は一つしかない。

今襄陽では、二人の魏将が軽いもめ事を起こしている。

文休という男がいる。かって荊州軍閥に仕えていた文聘の息子であり、養子でありながらそつなくまとまった能力を持つ良将だ。彼は徐晃から面々と引き継がれてきた荊州方面軍の将軍として、立派に勤め上げている。黄祖の再来という声もあるほどで、知勇に優れた堅固な男だ。もちろん此処で言う黄祖の再来というのは、呉がでっち上げた愚将としての黄祖ではなく、十年以上も江夏に江東の軍勢を寄せ付けなかった、不落の名将としての、である。

江夏にも、良将がいる。此方は逮式という男で、多少武に傾きがちだが、充分な経験とまずまずの武勇を持つ男だ。江夏は今も昔も荊州の重要拠点であり、特に魏軍にとっては水軍の基地がある重要な場所だ。陸遜も何回か刃を交えてきた相手であり、簡単には勝てない力量の持ち主である。

ところが、この二人が。どうしたことか、仲が非常に悪いのである。

「この二人に離間策をかけ、魏の国境を混乱させる。 既に細作は放っているから、その気になれば明日には効果が出る」

「なるほど、そう言うことですか」

抱拳礼をして、朱桓は出ていった。意図を汲んでくれたのだ。嬉しい限りである。

翌日には、効果が早速現れた。江夏の守備が混乱しているというのである。文休と逮式の不仲は知られているが、それが原因で逮式が呉に降伏するとか言う噂が流れ始めたのだ。正確には、陸遜が襄陽でその噂をばらまいたのだが。

魏軍五万が江夏に殺到し、襄陽にも増援が来た。俄に騒然となる国境地帯。陸遜も、「激突に備えて」兵を動かさなければならなかった。

作ってやった時間は二刻だけだ。いくら四家に首根っこを押さえられているとはいえ、荊州方面に来ている呉将は馬鹿ではない。それなりに実戦経験も積んでいるし、戦気を読む力も持っている。

山越の民が逃げ出し、魏との国境に向かったことを聞いて、陸遜はほっとした。

にらみ合いは短時間だけ続いた。どうやら不運な逮式は罷免されたようだが、それは諦めて貰うしかない。現在荊州の太守をしている揚肇の指導力不足が原因だ。

決死の覚悟で残っていた二千の山越の民は、五百まで減っていた。もはや、これ以上は、見逃せなかった。

「賊を殲滅するというのに、なんと心が進まぬ事か」

「……」

兵を進めながら馬上で呟く陸遜に、朱桓は終始無言だった。

その日の内に、陸遜は彭旦の首を取った。

最後まで、雄々しく戦った彭旦は、指揮を執る陸遜の顔を見て、雄叫びを上げた。あれは感謝の意味だったのかも知れないと朱桓は言ったが、とてもそうは思えなかった。魏の国境近くまで逃げ延びていた山越の民達を逃がすため、五百の勇者達は全員が戦死した。

陸遜は、何のために戦っているのか、わからなくなりつつあった。

四家はあまりにも強大になりすぎた。最早倒すことなどかなわぬ化け物のような存在になってしまったのだ。

それに対して、反四家の勢力は、本当に矮小化してしまった。今や陸遜と張昭の他には、目立った者で数名がいるくらいである。近年、ついに最後の硬骨漢であった虞翻も、交州送りにされた。

周瑜から始まり、呂蒙に受け継がれたこの戦いも。陸遜の代で、潰えようとしているのかも知れない。

諸葛亮だったら、どうこの状況と戦うのだろうか。ふと、ついに刃を交えることがなかった蜀漢の守護神のことを陸遜は考えてしまった。

しかし、わかるはずもなく。

その日、陸遜は。浴びるほど酒を飲んだ。

 

襄陽。

徐晃が守り通し、次代の武将達に引き継いだ荊州の要。荊州方面軍十万の規模は維持され続けており、屯田で兵士は体を鍛え、呉軍との小競り合いで戦闘経験も維持している。

もはや呉も魏も、戦略的価値が著しく失われた荊州を、意地で取り合っているに等しい。どちらも泥沼に突っ込んでしまった足をどう引き抜くかで思案を続けている内に、腰まで沈んでしまったような有様だ。しかも互いにつかみ合いの喧嘩をしていたので、もがいても深みにはまるだけという最悪の状況である。

魏軍十万、呉軍七万が、荊州で遊兵になっているのだ。それどころか、呉の不世出の名将である陸遜が荊州に貼り付きっぱなしなのである。魏も優秀な武将が、何名も荊州に送られたまま、出られずにいる。これがどれだけ両軍の損失になっているかは、言うまでもないことであろう。

襄陽はそれでも、中華屈指の大都市の座を維持し続けていた。人口は減ったが、それでも繁栄は続いているし、人口は今だ二十万を越えている。城壁は三重で、深い堀と強力な櫓に守られ、常時五万の兵が常駐。内部の都市も水運を利して栄えており、季節には色とりどりの衣装を着た街人達が、豊かな実りを祝って祭る。

宮城もそれなりに大きく、かって劉表が作り上げた壮麗な装飾も建築美も、そのままに残されていた。庭に植えられている珍樹奇花の数々には専門の世話係が就き、そんなものを用意できる魏の人材豊富さを誇るかのようである。

だが、その美しい庭を。

ずっと不機嫌そうに、荊州太守である揚肇が歩き回っていた。

揚肇は皇室の末端に連なる男で、曹の名字こそは持たないが、一応名門の当主である。能力も劣悪ではなく、武将達の補佐があればどうにか荊州を守れる程度の力量は有していた。夏候覇と同じように、象徴としての司令官を期待された人物である。まだ若いのに、髭を妙に蓄えていて、しかも偉そうに反らしてさえいる。この髭の手入れに、毎日一刻を掛けているという噂だ。

側で彼の様子を見ていた羊枯は、大きな欠伸をしそうになって、必死にこらえた。

羊枯は最近才覚を買われて、十代で将校に抜擢された、魏の若き期待株である。似たような存在に、少し年上のケ艾がいる。手始めに羊枯が派遣されたのが荊州であり、その仕事と言えば揚肇のお守りだった。

揚肇は魏の皇室に連なる身として、何もしないことをしなければならない立場にあった。羊枯は知っている。髭の手入れに一刻という噂が、事実であることを。それくらい仕事がないのである。殆どの仕事は、優秀な将軍達や、お着きの文官がやってしまう。むしろ揚肇はでんと構えて、何事にも動揺しないようなふりをし続ける、ただそれだけを求められていた。印でさえ、専門の文官が押しているのだ。

羊枯は揚肇の側で、司令官とはどうあるべきか学ぶように言われて此処に来ていた。しかし、実際には。揚肇が無駄な浪費をしようとしたり、汚職をしたりするのを監視するために派遣されたのである。数日側に仕えてみて、それがよくわかった。

ずっと同じところで円を描くようにして歩き回っていた揚肇は、本当に不機嫌そうに鼻を鳴らした。無理もない。勝手に陸遜にそそのかされて仲違いをした(と揚肇は信じている)文休と逮式のせいで、詰問状が届いてしまったからである。曹叡は相当に怒っているようで、逮式のような優秀な軍人を罷免するとは何事だと、激烈な口調で揚肇を罵っていたという。

曹叡は羊枯から見ても非情に優秀な君主だが、諸葛亮が死んでから、精神に均衡を欠き始めたという噂がある。最大の敵が死んで気が緩んだのではないかとか、様々な憶測が飛び交っているが、真相は知らない。いずれにしても、揚肇が著しく機嫌を損ねて、不機嫌なまま歩き回っている。それだけが、眼前の事実だった。

「羊枯」

「はい」

揚肇が、ゆっくり振り向く。その表情は、憤怒に満ちていた。

揚肇は女のような容姿だと言われる曹叡と違って、顔立ちも随分厳つい。それに妙な趣味の髭が拍車を掛けてしまっている。

「呉の腐れ外道どもが、馬鹿どもを利用したせいで、なぜ俺が怒られなければならんのか、言ってみろ。 お前は確か、魏の英才教育によって抜擢された将来有望な若造だとか聞いているが、ならばわかるのか」

「……」

流石に、即座の返答はためらわれた。

英才だ有望だのというのは、もちろんやっかみからくる言葉である。揚肇は知っている。自分が木偶に過ぎず、能力でも荊州に駐屯している将軍達に遠く及ばないことを。だから、黄祖の再来と言われる文休や勇将として名高い逮式を馬鹿どもなどと悪し様に言い、将来を嘱望されている羊枯に屁理屈紛いの因縁を付けている。

しばし考え込んだ後、羊枯は手を打った。ぽんと、いい音が響く。

この音は、羊枯がこっそり自慢にしている事なのだ。

「どうした、応えてみよ」

「こんな時こそ、気分を変えましょう」

「ああん?」

「良いですか、揚太守。 貴方に期待しているからこそ、陛下は叱責の手紙を寄こしたのです。 もしも貴方に期待できないのであれば、陛下はそのようなものを寄こさず、ただ罷免を告げてこられたでしょう」

そう直球で事実を告げると、流石に揚肇も胆が冷えたようだった。

しばらく口をつぐんでいたが、羊枯に振り返った時には、目には再び敵意が炎となって燃え上がっていた。

「ああ、そうか。 それで、俺はどうすればいい」

「此処は内外の著名な詩人を集めて、詩会と行きましょう。 昔に比べて数は減っていますが、それでも五指に余る著名な詩人が来るでしょう。 ひとえに、揚太守の人望が故です。 戦乱で心が荒れている武将達にも、これで潤いが与えられるでしょう」

「……そうか。 そうだな」

実際には、詩人が集まる理由は、揚肇の人望ではなく、報償が目当てだ。この手の詩会というものは、著名人を集めることがそれだけ権力を示す示威活動になる。それを知っているから、州刺史や太守ともなると、大勢の詩人がやってくる。別に揚肇が有能だからでも、高名だからでもない。肩書きに釣られてくるだけだ。それはわざわざ告げるまでもない事であった。

揚肇はしばらく不機嫌そうにしていたが、やがて近くの岩に腰を落とし、大きな歎息をした。

「準備を、してくれるか」

「はい。 すぐに」

「なあ、羊枯よ。 俺はこのまま、ずっと飼い殺しとして生きていくんだろうな。 人望なんか無いことくらい、俺にも分かっている。 なあ、俺に求められるのは、いざというとき部下の代わりに怒られることなのか。 或いは、俺がしなければならないのは、部下達が失敗した時、許してやることなのだろうか」

そのどちらもだと、羊枯は言おうとしかけて止めた。流石にそれは無情だと思ったからである。

羊枯は詩人達への招待状の手配を済ませると、一旦自分にあてがわれている部屋に戻った。

将来を嘱望されているとか言う話だが、今はまだ将校だ。屋敷も小さく、何より役目が役目なので、殆ど襄陽の宮城内にある自室が家も同然だった。当然のことながら、召使いも置けてはいない。

ごろりと寝台に横になる。休憩を二刻ほど取ることにして、代わりの見張りを揚肇の方に派遣する。面倒なことを言い出したら連絡するように引き継ぐと、目を閉じた。この仕事、休める時に休んでおかないと、体力が持たないのだ。

今までに覚えた学術書や兵法書の事を思い出して、頭の中で復習する。それが一通り終わると、本格的に思考を閉じて寝ようかと思ったのだが、ふとケ艾のことを考えた。

同じような立場のケ艾は、どうしても意識してしまう相手である。

ケ艾は韓浩に拾われ、それから将校になったという。元は農民どころか、戸籍もない流民だったという話だ。

一方羊枯は泰山近辺の名族出身である。といっても、いわゆる地元の名士という奴に過ぎず、魏中枢との人脈もなく。たまたま近所を通りかかった夏候一族の人間に見定められ、学問と仕官を誘われたのだ。

言われるままに着いていって、教育を受けて。いつの間にか頭角を現したと判断されていた。魏は今の時代も実力主義で、まだ髭も生えない内から羊枯はどんどん難しい仕事を任されるようになった。

中央への野望がないと言えば嘘になる。若手の期待株と言われているケ艾や陳泰に勝ちたいという欲求もある。だが、今は言われたままの仕事を、そのままこなそうと思っている。

焦っても仕方がない。それは、父の口癖だ。

何度か、口の中で繰り返す。名族と行っても、地方の名士など、出来ることは知れている。羊家は何代も雌伏を重ねたのだ。今、やっと表に出る機会を得た。此処で焦って、全てを台無しにしては意味がない。

しばらくぼんやりして、そしてきっかり二刻で覚醒した。

顔をはたいて目を覚ますと、外に出る。まだ揚肇は、庭園の石に座って、腕組みしていた。

外套を持ってきて肩から掛ける。風邪でも引かれたら大変だからだ。

「すまんな」

「まだ、何か悩み事ですか」

「悩み事というよりも、何もかもが無常に思えてな。 俺は一体、何のために生きて、何のために此処にいるのだろうと感じてしまった」

「考えすぎです。 まだ揚太守はお若いのですし、なるようになりましょう」

揚肇は羊枯の目を見つめた。

今までに、見たことのない、不思議な目だった。

まだ世の中にはわからないことがたくさんあると、羊枯は思った。

寝室まで揚肇を送り届けると、あの目の意味を考えながら、執務室に。文官達が処理した政務の書類を確認する。羊枯は数字に強く、不正の類は殆ど見抜くことが出来る。一息に数十ある竹簡に目を通し終えると、咳払いの音。

顔を上げると、文休だった。

文休はがりがりに痩せた長身の中年男性で、顎髭を短く刈り込んでおり、しかし髭が伸びるのが早く顎が青みを帯びている。

見るからに不機嫌そうな文休に、出来るだけ笑顔を作りながら、羊枯は応じる。

「文休将軍、如何なさいましたか」

「詩会を開くそうだな」

「はあ、揚太守が相当お疲れの様子ですし、皆様の慰安にもよろしいかと」

「ふん、そんな軟弱な遊びをして、文官にでも阿るつもりか」

文休は前々から羊枯の事が気に入らないらしく、時々この手の難癖を付けてくる。実績があり、能力も優れている将軍だが、あまり度量はないなあと、羊枯は思ってしまう。

「文休将軍は、文官がお嫌いですか?」

「ああ、嫌いだな」

「しかし、後方支援がなければ、軍人は勝てません。 兵糧や軍資金を文官が効率よく廻してくれるから、心おきなく戦えるのではないのですか?」

「奴らはそれをいいことに、好き勝手なことばかり言いおる。 今回だって、もう少しで陸遜をたたきのめせたものを」

文休はこの間、どうしてか出撃してきた陸遜と、半月ほどにらみ合ったのである。陸遜は襄陽の南で陣を敷いていたが、やがて勝手に引いていった。追撃を主張する文休に、文官達はこぞって反対した。それを根に持っているらしい。

だが羊枯に言わせれば、あの場面で追撃していたら、確実に大損害を受けていたはずである。陸遜はそんなに甘い武将ではない。逆撃の準備くらいはしていただろう。

羊枯は、荊州の実権を握ったら、文休を掣肘しなければならないかも知れないと、この時思った。自分の能力を過信していることが、逮式との対立や、無闇な追撃の主張につながっているのなら、なおさらだ。

「文休将軍。 文官達とも理解を深め合うためにも、是非詩会は出てください」

「いやでも出なければならんのだろう。 出るさ」

「何、今回は著名な詩人が多く出場します。 彼らの作る詩は武帝陛下のものほどではないにしても、きっと耳に優しく残りますよ」

「……」

文休は曹操を尊敬しているらしく、武帝の名を出すと腕組みしてそっぽを向いた。

荊州の内情は複雑だ。文官と武官の対立だけではない。火種は他にも転がっている。

今のところ、呉に襄陽が落とされるような事はないだろう。だが、膠着が続けば、いずれどんな間違いが起こるかもわからない。

一旦城壁の上に出る。

夜中でありながら、襄陽の街には明かりが灯り、多くの人間が行き交っている。

さながら闇夜の蛍のようだと、羊枯は思った。

 

2、暗闘

 

ずたずたに傷ついた軍勢が、長安に戻ってきた。

漢中に攻め込んだ、曹爽の軍勢だ。漢中駐屯部隊の王平に翻弄され、費偉の率いる増援によって完膚無きまでに叩きのめされ、すごすごと帰ってきたのである。大軍であったが、狭い山道では身動きが取れず、二割強が生きて帰れなかった。武都、陰平を攻撃した陳泰と郭淮の部隊も敵将陳式の巧みな用兵に翻弄され、寸土も得られず引き上げてきていた。

既に長安では、先に戻っていた中堅どころの将軍の話から、遠征軍の負けっぷりが公然の秘密となっていた。中でも、曹真の息子だというのに、曹爽の用兵のまずさは語りぐさになるほどであった。当然のことながら、曹爽を迎える視線は嘲弄と侮蔑に満ちていた事だろう。

長安で執務に当たっていた司馬懿は、不機嫌そうに戻ってきた曹爽の顔を見ると、出来るだけの笑顔で迎えた。

「曹爽様、このたびは大変でございましたな」

「……」

曹爽は、何も応えなかった。

司馬懿は曹爽の気持ちがよくわかる。家に戻れば、司馬懿も立場的には似たようなものだからである。問題なのは、曹爽が派閥を作って魏での権力を独占しようとか考え始めている事で、それには司馬懿が邪魔だと見なされていると言うことだ。

面倒な話である。司馬懿自身は、大将軍などと言う過分な地位を貰っただけで、充分すぎるくらいに満足なのである。満足していないのは貪欲な一族の者達で、司馬懿からしてみれば彼らの突き上げはうんざりしても、好ましいことなど一度もなかった。

敬愛する曹叡に、大儀であったと言われただけで。恐怖の戦いを乗り越えて良かったと思ったくらいなのである。髪の毛は真っ白になってしまったが、それはもう別に良かった。曹叡に認めて貰えただけで、充分満足だった。

最近では息子の司馬師と司馬昭が、監視役として軍属に入っている。「いまいちやる気がないように見える」司馬懿を監視するための措置らしく、妻の密偵も同然の息子達は、身内らしい残虐な言葉で、常に司馬懿を攻め立てるのだった。

曹爽はむすっとして長安軍の司令官の席に座ると、酒を要求し始めた。司馬懿は止めない。侍臣が二度止めたが、それでも曹爽は頑として態度を変えない。如何に魏の皇族の中では筆頭に近いとはいえ、これではいずれ粛正されるのではないかと、不安に思えてしまう。

だから、派閥に誘われた時、話を蹴ったのだが。

司馬懿は執務室を出ると、外の空気を吸うべく、街に出た。愛用している黒縁の大人しい馬に跨ると、ぽくぽくとのんびり進む。城門で兵士達に敬礼して、軽く外の空気を吸ってくると言い残す。

外ではケ艾が熱心に調練を繰り返している。相変わらずぽやっとしている所があるが、既に局地的な戦闘の指揮で勝てる武将は、少なくとも魏にはいないだろう。訓練場を横目に、僅かな護衛だけを伴ってあぜ道を行く。

長安近辺は荒れ地が広がっているが、それでも近年は屯田によってだいぶ田畑が戻ってきている。兵士達が耕した後は流民に積極的に提供し、彼らを定住させて、戸籍も作る。こういった地道な作業で、中華という文明圏そのものの力を取り戻すのだ。長い戦乱で疲弊したこの文明圏も、諸葛亮と魏の大規模紛争が決着した今、やっと回復に入り始めている。

畦を抜けると、枯れた山々がある。流石に植林はまだ進んでおらず、殺風景な山には命の声もない。前は虎が出ることもあったようだが、近年にはそれもない。虎も獲物を求めて余所に行ったか、或いは餓死してしまったのだろう。

山の頂上まで来た。

護衛の兵士達がいぶかしげに見ているので、司馬懿はそう言えば彼らにも休憩をあげようと思い立った。

「おお、そなたら。 三交代で休むといい。 私はしばらく此処で空気を吸っている」

「空気を、ですか」

「わかりました。 者ども、三交代で休め。 何かあるといけないから、あまり遠くには行くな! 休憩は一刻ずつで、三交代が終わったらもう一交代せよ」

司馬懿は大将軍だから、一応将軍が護衛についてきている。王濬という実直な男で、名門らしくもない生真面目な性格と、すれていない所が司馬懿のお気に入りである。しかし司馬師とは非常に仲が悪い。一方的に司馬師が悪口を広めて貶めているのを時々耳にする。このままだと出世の糸口がないかも知れず、それが気の毒だった。

噂では、王濬は女性にももてるという。少しぽてっとした美しい体型が、もてる秘訣なのだろう。

「王濬、そなたも休んでいて構わないぞ」

「いえ、大将軍。 私は兵士達の後に休みまする」

「そうか。 そなたは真面目だな。 では私は、ゆっくりさせてもらうからな」

まるで最近増えてきた腐屠(仏教)の寺に飾られている像のように仏頂面で立ちつくしている王濬を横目に、司馬懿は愛馬から降りると、持ってきた茣蓙を引いて其処に転がった。

空の雲が流れていく。諸葛亮も、きっとあんな雲を眺めることがあったのだろう。

無粋な馬蹄の音がし始めたのは、まもなくのことだった。この辺りは街道から外れているから、司馬懿に対する使者だろう。しかも、急を要する。

焼き菓子を拡げて、茶を飲みながら頬張り始めた司馬懿に、呆れたように王濬が言う。

「良いのですか、あれは恐らく伝令でしょう」

「まあ、良いではないか。 どうせ遼東の公孫淵辺りが、また騒ぎを起こしたのだろう」

司馬懿は口に焼き菓子を頬張ったまま、王濬に側に座るように言った。

渋々座った王濬に、焼き菓子を勧める。これは曹叡から進めて貰ったちょっと大人の苦みが嬉しい焼き菓子で、それを司馬懿向きに変えてある。小麦粉の分量を変えて、なおかつ焼き方を工夫し、しっとりして甘い口溶けを実現した逸品だ。

武帝曹操が作らせた焼き菓子も食べたのだが、あれはちょっと高級なので、司馬懿は食べるのに気後れしてしまう。これは安くて甘くて美味しいので、司馬懿の頼れるお財布の味方だった。

司馬懿はまだ妻に財布の紐を握られていて、ろくにおやつも食べられないのである。大将軍だというのに。

「美味かろう」

「はあ、まあ」

「武帝陛下は焼き菓子が大好きで、様々な奇行とともに焼き菓子に関する逸話も伝わっているが、最初焼き菓子を食べ始めた切っ掛けは、背を伸ばしたかった、からだそうだ」

「そのようなものなのですか」

曹操に直接面識がある司馬懿の話である。王濬はその頃下級の将校で、曹操は遠くから見たことが何度かある、程度の面識しかないらしい。だから感心した様子で、焼き菓子を眺めていた。

「それで、背は伸びるのですか」

「んな訳がなかろうて。 だが、まあ美味しいから良いではないか。 武帝陛下の背を伸ばそうという苦労が、こんな美味しい焼き菓子を作るきっかけになったし、文化も技術も発達したのだからな」

伝令が来た。馬を宥めて飛び降りると、司馬懿に大股で歩き寄ってくる。

茣蓙を拡げて山の上で焼き菓子を頬張っている司馬懿と王濬を見て、流石の荒肝を誇る伝令も吃驚したようだが、恭しく書を差し出す。

「皇帝陛下からの、勅書にございます」

「陛下からの。 どれ」

焼き菓子の油に塗れた指をいそいそと服の袖で拭うと、裏紙が着いた豪華な竹簡を拡げる。紙は何しろ高級品なので、こう言う時にしか使われないのだ。

内容は予想通りだった。

「公孫淵め、反乱を起こしたか」

「はい。 敵兵は十五万などと称していますが、実質的には六万程度。 しかし、数が相当に多いのは事実です。 朝鮮半島の国家も反乱に荷担する兆しがあり、陛下は事態を重く見られております。 燎原の火が広がる前に、直ちに大将軍に討伐をさせるようにと仰せにございます」

「分かった。 すぐに洛陽に向かう。 そうだな、念のためにケ艾を連れて行く」

ケ艾は長安の守りの要なのではと使者が言い出したが、大丈夫だと言い聞かせて、一旦戻らせる。別に大言壮語ではない。蜀漢が攻めてくる可能性は無いから、そう言っているのだ。

今、蜀漢は、外に出られる状況ではない。諸葛亮の死後、大幅に権力階層が変わって、再編成に大わらわだからだ。今回曹爽が遠征に失敗したように、防衛体制だけはしっかりしているが、外征が出来るようになるまでには最低十年はかかるだろう。

それに万が一蜀漢が攻めてきたとしても、敵に諸葛亮はいないし、長安には郭淮も陳泰もいる。特に郭淮には、近々長安の総司令官を任せようと考えていた。それだけ守将の層が厚いと言うことで、ケ艾を連れて行っても何ら問題はない。曹爽の失敗一つで揺らぐほど、長安の守りは脆弱ではないのである。皮肉な話だが、あまりにも超絶的な存在だった、諸葛亮のおかげである。

長安に戻ると、すぐに二千ほどの精鋭を見繕って、洛陽に向かう。連れて行くのは常備軍、それもケ艾の鍛えた最精鋭ばかりだ。ただ、情報を整理する必要があるから、司馬懿自身は馬車に乗り、次々届く書類全てに目を通していく。馬車を叩く音がした。窓から顔を出してみると、ケ艾だった。

「急に出撃、それも洛陽にと言うことですが、敵は誰ですか」

「公孫淵だ」

「ああ、あの」

「そうだ。 燕王とか名乗り、周囲に軍を進め始めているらしい」

公孫淵。遼東に勢力を残していた公孫氏の末裔で、曹操が河北を制圧する以前に袁紹と激しく戦った公孫賛とは遠縁に当たる人物である。

いわゆる名族の一つであり、漢王朝の生き残りと言っても良い。辺境にて生き延びたという点では、蜀漢に独立王国を作ろうとした劉焉や、交州に独立勢力を築いた士一族、呉の四家に近い存在だとも言える。まだまだ、漢王朝の残滓は、辺境であれば健在なのである。ただし、どれもこれもが腐敗と同衾している、もしくはいたのが、漢王朝の寿命が既に尽きていることをよく示しているが。

公孫淵は遼東という最辺境にいることをいいことに、独立を保ち続けた公孫氏の末裔である。先代の康までは大人しくしていた遼東公孫氏だが、彼が死ぬと、俄に風向きは怪しくなる。性的不能であり、能力も劣っていた嫡子公孫恭の座を、公孫淵が力づくで奪取してから、全てがおかしくなった。

非常に遠い土地であり、討伐も不便であるという戦略的立地が、恐らく公孫淵の野心を刺激したのだろう。彼は朝鮮と勝手に交易をはじめ、更に東の倭国などとも取引をし、巨万の富を蓄える始末だった。魏は彼を苦々しく考えていたのだが、蜀漢や呉と交戦状態が続いていることもあり、なおかつ遠いと言うこともあり。懐柔策を採って、しばらくは放置していた。

しかし、状況は変わった。

諸葛亮が死んだことで、蜀漢の圧力が無くなった。連年数万の兵を戦死させながら必死に守っていた西の戦線に、かなり余裕が産まれたのである。その状況変化を、どうも傲慢に成り果てていた公孫淵は理解できなかったらしい。

少し前に、呉の孫権がいわゆる遠交近攻策として、公孫淵の懐柔を試みた、らしい。この時に公孫淵は呉の使者を斬り捨て、首を魏に送ってきた。その裏で、河北の防衛戦力といざこざを起こし、国境近辺の警備兵に何度か攻撃を仕掛けて打撃を与えている。そして領土を着々と拡げ、討伐に出た将軍を何度か撃破した。

母丘険という若手の猛将が破れたことが、切っ掛けとなった。公孫淵は着々と兵力を蓄え、既に独立勢力も同然となっていた。蓄えすぎた勢力を維持するためにも、公孫淵は河北の豊かな土地を欲したのだろう。

曹叡の話によると、文官達はいずれも遠征に反対しているという。

「討伐するしかないと思うのですが、なぜ文官達は反対を?」

「既に林に調べさせたのだが、どうも二つ理由があるようでな」

一つは、今までと同じく懐柔策を採ることで、戦費を抑えようという一派。これは陳泰の父の陳群をはじめとする、温厚派の考えであるらしい。確かに今まで、諸葛亮との死闘で魏は相当な軍事費と人材を浪費してきた。呉の戦線など温いものであり、蜀漢こそが魏の本当の敵であったのだ。

もう一つは親遼東派、である。

「公孫淵はあれでも名族で、しかも洛陽にも人脈が深い。 今回の件も、相当に洛陽内部に多くの協力者を抱えているらしく、ちょっと脅かしてやれば領土をむしり取れるくらいの計算が合ってのことのようなのだ」

「何というか、悲しいほどに愚かな人ですね」

「うむ。 自分が踏み越えてはならない一線を、乗り越えてしまっていることに気付いていないようだな」

「既に各地の守備隊に声を掛けてありますから、河北で母丘険軍と合流する頃には、四万に達していると思います。 敵は六万と言うことですが、充分に撃破が可能でしょう」

頷くと、司馬懿は戦略を練る。

公孫淵の軍は実数六万といえども、兵糧の蓄えは少なく、装備も劣悪で、訓練も経験も足りない。指揮官にもこれといった人材はいないだろう。懸念されるのは北方の騎馬民族や、凶猛で知られる女真の民が加わっているかということだが、これに関しては林の調査で無いという結論が出ている。であれば、敵は漢民族の、しかも実戦経験もない連中が大半だと言うことだ。

ケ艾が言うとおり、戦っても普通に勝てるだろう。それこそ、諸葛亮の精鋭と戦い、鍛えに鍛えられた二千だけでも、蹴散らすことは難しくないはずだ。しかし、その後どうするかが問題だ。下手に温情を見せても、つけあがった公孫淵が反省することはないだろう。

此処は、出来る限り迅速に事を治めるためにも。火が出るような、迅速な用兵が必要になる。

そう、司馬懿は判断した。

司馬懿は速攻の方が得意だ。諸葛亮を相手に持久戦を選んだのは、まともに戦っても勝ち目がないからである。勝てる相手を潰すのであれば、司馬懿は可能な限り素早い用兵を行う。

「ケ艾よ」

「何でしょうか」

「今回は速攻を採用する。 そなたは先行して、洛陽から主力が最大限の速度で進撃できるように整えよ。 私は陛下の指示を受けて、洛陽から河北へ最大限の速度で進撃してきたかのように見せる」

「なるほど、心理作戦ですか」

ケ艾は理解が早くて助かる。普段のぼんやりしている緩い阿呆ぶりが嘘のように、戦場では冴えている。

今後、魏の中核になることが出来るだろう。郭淮がもし死んだら、次の前線指揮官は、間違いなくこの娘ッ子だ。

「よし、では頼むぞ」

「わかりました! それでは」

ケ艾が麾下の精鋭二千と共に、風のように走り去る。

馬車はそのままの速度を維持し、洛陽に着いた。

洛陽は更に規模が拡大していた。馬車から首を伸ばしてその絢爛な有様と、民衆の力を見つめながら、司馬懿は自分が守ったものの大きさを感じて、胸が一杯になった。もしも公孫淵の反乱が成功したりしたら、この民達はまた流民として各地を彷徨うことになってしまう。やっときた平和なのだ。壊させてはならない。

ただ、ちょっと経済が過熱気味のようにも思えてしまう。特に各地から集められて、次々と立てられている豪華な屋敷類は、ちょっと悪趣味にも思えた。確かに技術の粋が集められてはいるし、豪華絢爛ではあるのだが。しかし、司馬懿の好みではなかった。

経済にはあまり詳しくないのだが、しかし懸念を感じてしまう。

今日は急いでいるので、屋敷には寄らない。丁度兄の朗がいるのだが、挨拶も無しに、そのまま宮城に向かう。謁見をするための準備を侍女達に手伝って貰い、奥へ。大将軍でも、ここから先は剣を持つことは許されない。

出迎えてくれたのは許儀だった。既に立派な武人としての貫禄を備えているこの男は、堂々たる抱拳礼で司馬懿を迎えてくれた。

「大将軍、お早いお越しですな」

「うむ、事態が事態だからな」

「陛下もお喜びです」

「何っ! そ、それは本当か!」

思わず大喜びしてしまった司馬懿を、不思議そうに許儀が見たので、咳払いする。陛下が喜んでいると言うことで、司馬懿は逆立ちしてくるくる回りたいほど舞い上がっていたのだが、それは出来るだけ表に出さないようにする。しかし、実は足取りが不自然に軽くなってしまい、鼻歌まで奏でてしまった。

許儀が怪訝そうに司馬懿を見ていたので、ちょっと赤面したが、まあこれくらいは役得だろう。久し振りに陛下に拝謁できるだけでも喜びであり、しかも相手が喜んでくれるのであれば、もはや言うこともない。久し振りに、ぐるりと首を真後ろに回してみたりもした。

謁見を行う広間に出る。左右に立ち並ぶ侍臣の中には、司馬懿の髪が真っ白なことをくすくす笑う悪趣味な奴もいたが、気にしない。むしろ、この名誉の負傷を陛下に見せることが出来ると思うと、どきどきわくわくだった。

程なく、玉座に曹叡が座る。

拝礼しながらも、司馬懿はちらりと曹叡を見た。

りりしい若者に成長している。髪は長く、冠の中に束ねているようだ。顔立ちが女のようなのが少し気になるが、少し前から妻を娶っているというし、皇帝としての責務はきちんと果たしている。

立派に育って素晴らしいと、司馬懿は額を床に打ち付けそうになった。年甲斐もなく興奮して、自分でも鼻息が荒くなっているのがわかる。

「司馬懿よ、大儀であったな」

「ははっ!」

「諸葛亮との戦で、髪が真っ白になってしまったと聞いていた。 それほどの激戦であったのだな」

「恐れながら、かの者はさながらいにしえの魔神がごとき男でありました。 正直な話、二度と戦いたくありませぬ」

侍臣がざわめくが、構わない。

司馬懿は、陛下の前でだけは、嘘はつかないと決めているのだ。

「そのような恐ろしき相手の進撃を、よく食い止めた。 そして、今度は公孫淵の撃退をそなたに任せようと思うのだが、良いか」

「へ、陛下!」

慌てた声をあげたのは、陳群だった。ほかの文官も何名か、反対意見を述べる。

だが、曹叡が咳払いをすると、皆黙り込んだ。側に立つ許儀は、何かあったら即座にくびり殺そうと、炯々たる眼光を周囲にはなっている。かっての許?(チョ)と体型は随分違うが、しかし雰囲気はもうそっくりだった。

「朕が決めたことだ」

「しかし、かの者の本拠遼東は遠く、大軍を派遣すれば蜀漢や呉に隙を見せることになりかねませぬ」

「故に、司馬懿を呼んだ。 司馬懿、そなたに四万の兵を授ける。 公孫淵を屠ることが可能か」

「四万あれば、充分にございまする」

周囲がどよめく。

これだ。この晴れ舞台を、司馬懿は待っていたのだ。

諸葛亮に比べれば、公孫淵など蟻も同然。それこそ、子供が遊びのさなかに気付かず蹴散らしてしまう程度の相手でしかない。

しかし侍臣達の多くは、それを知らない。彼らの中には、諸葛亮相手に多くの兵を失い続けた司馬懿を罷免すべきだとか言う意見を述べている者さえいるという。ならばお前が代わって前線に来いと何度も思ったものだ。

「大将軍司馬懿よ、今の言葉実に頼もしい。 朕の精鋭である虎豹騎一万を与える。 これに現地の母丘険が集めている一万五千、更に河北の各地の駐屯戦力一万三千、そなたが連れてきた二千を加えて、公孫淵を屠れ」

「ははっ!」

直々の勅命。しかも、具体的な戦略についてまで、認めてくれている。

興奮のあまり鼻血が出そうだった。

しかも事前に送った使者と上手に連携して、曹叡はとっくに準備を整えてくれていたらしい。これだけ緻密な指示も、その日の内に指示書と命令書、印綬が来た。自室でぐるぐる軽やかに歩き回りながら、司馬懿は誰も見ていないと思って舞ってしまった。

咳払い。固まる。

天井からぶら下がる林が、面白そうに司馬懿を見ていた。

「な、何だっ! いるならいるといえ!」

「いやあ、実に面白かったので、つい見とれてしまいました。 まあ、このままだともっと面白くなりそうだったから、咳払いしたのですが」

「う、うむ。 確かにはしゃぎすぎたかもしれん」

居住まいを直すと、林も床に降りてきた。ふわりと、羽が着地したように、何も音がしない。

公孫淵について、少し前から司馬懿は探らせていたのだが、流石は林だ。差し出してきた報告書には、なんら問題がない。

ざっと目を通しただけで、公孫淵の状態が、手に取るように分かった。

「これなら、一月もあれば鎮圧が可能だな」

「公孫淵は、自分が皇帝にでもなれると思い上がってしまった家畜にすぎません。 貴方であれば、瞬時に蹂躙が可能でしょう」

「ふん、追従はいらんわ。 そんな事よりも、呉の切り崩しは上手く行っているのだろうな」

「そちらもご心配なく。 しばらくすれば、孫権も私が作った魔の酒の虜となり、主に精神の均衡を崩し始めるでしょう。 諸葛亮が統率していた四家の者達も、押さえがいなくなって暴走を始めています。 陸遜や張昭が必死に押さえ込もうとしていますが、張昭は最近体調を崩しがちで、かんしゃくを起こして家に閉じこもることもありますので」

くすくすと、林は笑った。非常に不快な笑いだと、司馬懿は思った。

林の話によると、公孫淵の関係で、張昭と孫権が対立したことがあったという。最もそれは、実際には四家と張昭の対立であったそうだが。いずれにしても、強引に押し切られる形で、孫権は公孫淵に使者を出してしまった。そしてその使者は、その場で斬られてしまったという。

謝罪するのが孫権になるのが、面白い所だが。不快感を感じたらしい張昭は、屋敷に閉じこもってしまったという。孫権が屋敷まで出向いても張昭は出てくることもなく、困り果てた孫権が張昭の息子達を説得して、やっと屋敷から出させたそうだ。

「張昭も気の毒に」

「呉は事実上四家の持ち物であって、孫権は飾りに過ぎません。 不幸なのは、そんな無能な政権が、有能な軍人を輩出してしまったと言うことでしょう」

「ふん、そうだな。 そうでなければ、とっくに滅んでいただろうに」

司馬懿は林を下がらせると、焼き菓子を乱暴に手にして、口に突っ込んだ。

奴と、林と話していると不快感が募ってならない。

何か、とんでもない相手を利用しているのではないか。利用しているように見えて、実は利用されてしまっているのではないか。

そう思えて、仕方がないのだ。

しばし焼き菓子を噛み砕いていた司馬懿は、自室を出ると。

すぐに河北、遼東へ向かって出立する旨を周囲に伝え、大股で宮殿を出たのだった。

 

河北にて、母丘険、ケ艾の軍勢と合流したのは、実に宮殿を出てから七日目のこと。司馬懿得意の猛烈な行軍によって、あり得ない速度で軍勢は進撃。更に、現地に進みながら編成を済ませたのだ。

この辺り、司馬懿は天才とまで行かなくとも、凡庸な武将とはかなりの開きがある。もっとも、これを可能にしたのは、曹叡によって全権を貰ったという事と、さらには先発していたケ艾の的確な支援物資配備が大きい。

遼東を目前として、司馬懿は軍勢に一日の休暇を与え、兵の疲れを取った。兵士達は休めても、武将はすぐには休めないのが辛い所だ。すぐに本幕に主な武将を集め、状況を聞く。

机の上には、既に布陣図があった。司馬懿が見た所、公孫淵は阿呆だが、陣立てを見る限り、一応の軍才はあるようだ。だがそれが今回は命取りになる。

この辺りの守備を担当していた母丘険が、司馬懿に申し訳なさげに抱拳礼をした。今回の反乱の、直接ではないが、間接的な原因を作ったのが自分だという負い目があるのだろう。彼が公孫淵に敗れなければ、此処まで大事にはならなかったのだ。

「このたびは、お早い出征、痛み入ります」

「何、諸葛亮と戦うのに比べれば、こんな事は何でもない。 それで、まずそなたが知る公孫淵という男を教えて欲しい」

「はあ、人物を、ですか」

「そうだ。 これから私は、出来るだけ早く公孫淵を倒さなければならん。 敵が態勢を立て直す前に一撃して、叩きつぶすのがこの戦における基本戦略だと考えて欲しい。 もし持久戦に持ち込まれると、洛陽にいる文官どもがかなり五月蠅く騒ぎ出す可能性があるからな」

「わかりました」

まだ若いとはいえ、母丘険はずっと河北で軍務に着いていた。いかめしい顔立ちにも、顔を右上から左下に走る鋭い向かい傷にも、その苦労の歴史が伺われる。

公孫淵と言わず、遼東公孫氏は曲がりなりにも歴史ある名門で、かって曹操に袁尚と袁煕を売り渡したことで命脈を保ったとはいえ、それなりの名声を保有し続けている。朝鮮半島の小国との小競り合いや、北方の騎馬民族とも交戦経験が豊富で、決して弱者ではない。だから、河北の軍人であれば、ある程度の知識を持っているのが当然だ。現在は不幸なことになってしまっているが、当主によっては遼東の守りの要になれたかもしれない存在である。

「公孫淵は野望多き男で、幼い頃から欲しいものは手に入れなければ気が済まなかったようです。 少し年上の公孫恭にもまるでひるむことなく喧嘩を売ることがあり、十代半ばの頃には名うての荒武者として知られていました」

「ほう。 それで」

「しかし私が見た所、内心ではとても臆病なようです。 強がって振る舞っているのは、自分より強い者が現れることを恐れているのが原因のようでして。 特に成人してからは、怖い者知らずだった子供時代よりも、ずっと行動が慎重になっています」

「臆病だと言うことは、慎重な行動を取ることにつながる。 それ自体は別によいのだが、公孫淵という男は、どうやら勇気と臆病の均衡が取れていないようだな」

大体、母丘険の話は、林の集めてきた情報と一致する。

更に、天幕に一人の男が入ってきた。

田豫。

既に老人になっているが、河北でずっと有能な商人として名を知られ、曹操の招きに応じて官吏になった男である。若い頃劉備に仕えていたことで有名で、恐ろしいほどに童顔であったと言うが。今はふくよかな老人となっていた。

ふくよかと言っても優れた武人であり文官でもある。この間は、反乱を起こした騎馬民族の村を一瞬で陥落させ、その健在ぶりを見せていた。古豪と言えば、河北では田豫の名をあげるほどなのである。

「おお、来てくれたか。 田豫どの」

「このような枯れた老人に、いかなる用でしょうかな」

「何を言うか、まあ座ってくれ」

司馬懿は、この老人が、周囲に敵意を向けていないことを一目で悟った。自分を認めない周囲に過剰な敵意を抱いてきた司馬懿だからよくわかる。自分を馬鹿にしない相手は、司馬懿にとっては実に好ましい相手なのだ。

てづから座らせると、他の将軍達にも酒を配る。と言っても、体が温まる程度の薄い酒だ。代わりに味はよい。少し皆で酒を飲んでから、司馬懿は話にはいる。

「今回の戦を、私はすぐにおわらせたいと思っている」

「それは、ありがたい話です」

福々しく言う田豫に、少し酒に上気してきた頬を近づけながら、司馬懿は言う。

「いや、いや。 そうではないのだ。 このまま公孫淵の乱が長引けば、周辺の諸民族は、漢民族の天下と安定を疑う。 彼らに魏の武威を示すためにも、更に言えば民の生活を侵さぬためにも、公孫淵には一刻も早く死んで貰わなければならないのだ」

「なるほど。 司馬師将軍は、遠望の持ち主ですな」

「皆が平和に暮らせて、幸せに生きられる国など、存在はしないだろう。 だが、戦が年中続く国よりも、平穏で安定している国の方が幾らでもマシだ。 そのために、私は公孫淵を滅ぼす。 力を貸してもらえぬか」

「……」

じっと、田豫は司馬懿の目を見つめてきた。

深い皺に隠された瞳は、全ての心をまっすぐ射貫いてくるかのようだった。だが、司馬懿に今のところ嘘はない。平和の方が良いと思っているし、それを自分がもたらせば、周囲に馬鹿にされることも無いだろうと考えているからだ。

大体、妻と一族に虐待される事さえ回避できれば、今の環境は司馬懿にとって理想的なのである。一族はまるで飛蝗の群れだし、妻はその中でも特に巨大な人食い化け物飛蝗だが、それでも大将軍である司馬懿がいるからこそ出来る好き勝手なのだ。最近はそれを理解し始めている様子もある。突き上げは相変わらず酷いし、家に帰れば毎度のように吊されたり殴られたり鞭でぶたれたりするが。

「貴方は、深い闇を秘めておいでだ」

「かも知れん。 だが、今嘘は言っていない」

「ふむ、まあいいでしょう。 公孫淵は確かに田家にとっても面倒な相手となりつつありますしな」

田豫は言う。

公孫淵は各地に関所を作り、権益を独占しているという。このため彼とその周辺の佞臣ばかりが肥え太り、民は皆苦しんでいるというのだ。

田家は収益が上がらない中、それでも貧民救済のために走り回っているという。他の大商人とは違い、こういった行動が、田家の名を高める一因となっている。しかしながら、流石に赤字がかさんできており、うんざりしているのだそうだ。

「田家の情報網から、公孫淵を洗った所、やはり家中では反発する勢力も出始めているようです」

「それは、そうだろう。 誰か崩せそうな者はいるか」

「将軍級の人材になると、何名か心当たりがあります。 彼らを焚きつければ、公孫淵の勢力は、一気に崩壊に向かうでしょう」

最も、数日内に公孫淵の軍勢に、壊滅的な打撃を与えれば、ですがと田豫は付け加えた。

「ケ艾」

「はい」

立ち上がったケ艾を見て、母丘険は驚き、田豫は眼を細めた。噂では聞いていたのだろうが、実物を見るのは初めてだからだろう。

美女ではないが、のんびりとした安心できる容姿だ。子を成せない体というのが実に惜しい。

「そなたに一万を預ける。 元の二千に、母丘険を麾下に加えよ。 先発して、敵の先鋒を打ち砕け」

「わかりました」

「私は残りの全戦力で直進し、最短距離を通って敵の本拠を取り囲む。 合流した頃には、もう勝負は決まっているだろう」

将軍達が立ち上がる。

楽な戦だった。

 

敵の実数が一万程度だと聞いた公孫淵は、馬上にて豪快に笑った。周囲の部下達も、全員が追従して笑う。諫言をするような部下も、昔はいた。だが全て殺してしまって、残っているのは忠実な者ばかりだ。

昔から、公孫淵は体が大きかった。

他人のものは、全て奪わなければ気が済まなかった。

最初にその性癖に気付いたのは、弟の玩具を取り上げてからだ。どうということもない木馬の玩具だった。何と無しに取り上げて、弟が泣き始めてから。えもいわれぬ快感が全身を駆けめぐるのを感じたのだった。

それからは、暴力と搾取の人生が始まった。

親は何も言わなかった。むしろ、暴力で他人のものを奪うことを、推奨さえすることもあった。馬に乗って外に出かけては、見かけ次第気に入ったものを奪い取った。特に異民族の者達から奪うのは、とても楽しかった。

その内、公孫淵が姿を見せると、誰もが逃げ散るようになった。その様子がまた、とても快感を刺激した。逃げ遅れた奴を追いかけ回して、斬り殺した時。その断末魔の絶叫を聞いて、初めて公孫淵は性的快感を感じたのだった。

叔父である公孫恭を追い出して、権力を得て。それからも、公孫淵の暴走と暴虐はとまらなかった。

見かけ次第奪い、抵抗する者は殺した。

ところがある日、貧しい身なりの子供が、意気揚々と外に出た公孫淵を見ても恐れなかった。既に人一倍からだが大きかった公孫淵は威嚇してみたが、子供は泣きもせず、暗い目で自分を見つめるばかりだった。

その時。

公孫淵は、初めて気付いた。

自分がむしろ、子供相手に恐怖を感じていることに。

なぜ此奴は俺を恐れない。

どうして逃げ散ろうとしないのか。

今まで、暴力と搾取による人生を送ってきたからか、公孫淵は勝てる相手とそうでない相手を、見分ける能力が、極端に発達していた。この子供は、自分に勝てる要素が一つもないというのに、恐れることがなかった。

「こ、子供っ!」

上擦る声で、公孫淵は絶叫していた。

「なぜ、俺を恐れない!」

子供はにへらと笑うと、目の奥に、闇を湛えて応えた。

「お前みたいな臆病者、何処に恐れる要素がある」

「な、何ッ! この遼東一の勇猛公孫淵を、臆病者だと!」

「勇猛が聞いて呆れる。 お前は猿と同じく、自分の権力を常に確認しないと怖くて仕方がないただの軟弱者だ。 だから自分より強い者との戦いは避ける。 自分より弱い者を探しては、痛めつけて遊ぶ。 全くつまらない滓のような男だな」

気がつくと、子供は眼前から消え失せていた。

全身から冷や汗が流れ続けていた。生唾を飲み込む公孫淵は、その場に立ちつくしていた。

あれは何だったのだ。

童女のように見えたが。あの言葉遣い、とても子供とは思えなかった。

それに、消える一瞬前。公孫淵は感じたのだ。

絶対に勝てない、圧倒的な力の差を。

屋敷に戻った公孫淵は、恐怖に全身が包まれるのを感じた。どれだけ剣を振るってみても、女を抱いてみても、恐怖は消えなかった。

一人っきりになると、恐怖で絶叫し、発狂しそうな体を押さえるのに必死になっていた。

数日すると、公孫淵は軍を纏めさせた。

そして、周囲に、無茶苦茶な進出を開始したのである。最初は異民族を組織的に蹂躙した。そうすると、洛陽に培った人脈の者達が、勝手に戦果として報告してくれた。自分は強いのだと感じることが出来て、少しだけ恐怖は和らいだ。

呉の使者を斬って魏に首を送ってやった時、恐怖はもっとも薄くなった。自分は呉よりも強い。呉でさえ、自分を好き勝手には出来ない。その事実を確認して、やっと恐怖が消えたかと思った瞬間。

公孫淵は見てしまった。

闇の中から、自分を見つめる、あの子供を。

恐怖が全身にぶり返した。

もとより、自分と対等な相手さえいない公孫淵は、その恐怖をどうしていいのかわからなかった。誰も教えて等くれなかったし、相談する相手などいるはずもなかった。

そして、ついに。

魏に対する反乱を起こした。

計算もあった。蜀による被害が大きい魏は、しばらく大きな戦を避けたがるはずだと。懐柔策を採るだろうと。

だが、計算は外れた。

安心したのは、蜀漢の寡兵相手に苦戦し続けた司馬懿が来たと言うことを、聞いてからだった。司馬懿など、無能の極みの男だと、公孫淵は思っていた。暴力に捧げてきた人生である。戦には、多少の自信もあった。寡兵に負け続けた司馬懿などに、敗れるはずもないと、自分を安心させもしていた。

三万五千を率いて城を出た公孫淵は、一万の敵と幽州の平原にて対峙した。敵の陣形は乱れていて、急行してきて疲れ切っているのが目に見えていた。確かに、敵はせいぜい一万という所だ。しかも指揮官はケなどという知らない旗印と、以前叩きつぶしてやった母丘険。これなら勝てると、無造作に押し出す。

馬上で、公孫淵は笑っていた。

その笑いは、敵が一瞬にしてくさび形に陣形を再編した時、消え失せていた。

展開、陣形の再編の速度が、常軌を逸している。訓練をしているはずの味方が、まるで亀のように見えた。

気がついた時には、一万の敵は尋常ではない速度で突進を開始。味方の先鋒は瞬時に蹴散らされ、第二陣もまるで走り回る牛に踏み荒らされる鼠のように蹂躙されていたのである。

「な、何をしている! 防げ! ふせがんか!」

絶叫する公孫淵。

しかし敵はとまらない。敵が第二陣を撃滅し尽くすと、いつの間にか兵士達が逃げ出し始めていた。公孫淵は喚きながら、目に着く兵士を斬った。だが、それが却って兵士達の逃走を加速した。

気がつくと、周囲には戦意のある者は一人も居なかった。

ケの旗が近付いてくる。先鋒は大柄な男で、口元に髭を蓄えているが、若い。縦横に槍を振り回しながら、突進してくる。

公孫淵は叫くと、一騎打ちを挑んだ。王という旗を背中にさしている男は、受けて立ってきた。

しかし。

二合、三合と打ち合ったところで、公孫淵は悟る。

自分よりも、強い。

それに気付くと、恐怖が全身から、汗になって噴き出していた。

いつのまにか、敵に背中を向けて逃げ出していた。もはや陣形も何も無かった。気がつくと、周囲の兵士は、数百人まで減っていた。

数日掛けて、本拠にたどり着く。

一旦城に籠もって、敵の補給が切れるのを待つ。酒を飲んで戦に敗れた痛みを紛らわしながらそう思った瞬間、伝令が告げてきたのである。

「燕王!」

「何だっ!」

「敵が、城を取り囲みました! 数、およそ三万!」

思わず公孫淵は、杯を取り落としていた。

「ば、馬鹿を言うな! 前線の守りはどうした!」

伝令を殴り倒し、公孫淵は必死に虚勢を張りながら、城壁の上に出る。嘘に違いない。誤報に間違いない。そう思って、公孫淵が見たのは。

城の外を包囲している、司馬の旗印だった。

慌ててついてきた部下達は、どれもこれも小粒だ。当然の話で、忠誠心が低いと見なしたり、諫言したりする者は全て殺すか追い出してしまった。

思い出す。

祖父の代の武将、公孫賛も。そうして滅びたのだと言うことを。

「お、おのれ! 各地の守将達に連絡を取れ! 強引に守りを抜けるか、間道を通ってきたに違いない! 逆に包囲して袋だたきにしてくれるわ!」

「し、しかしどうやってあの包囲を抜けましょう!?」

「知るか! お前達で考えろ!」

喚き散らす公孫淵。

外では、悠然と司馬の旗が翻っていた。

 

ケ艾は悠々と司馬懿の軍勢に合流した。

既に半月が経過している。というのも、敵の主力(といっても、脆弱きわまりない軍勢だったが)を一蹴した後、各地の城を回って、降伏を受け容れて回ったのだ。降伏すれば寛大な処置をすると告げ、実際将兵の殆どを許した。ただし、主将の中には、公孫淵に従って悪事の限りを尽くしていた者達もおり、それらは残念ながら首を刎ねざるを得なかった。

結果、既に公孫淵は居城である楽浪城一つしか勢力を持たぬ存在と化している。それでも燕王と名乗り続け、部下達に暴虐を働き続けているという。哀れすぎて、何だか敵意も削がれてしまった。

司馬懿の陣に出向く。軍は降伏した兵を吸収したため、三万にふくれあがっていた。反抗的な者達は後送したが、それでもこれだけの兵が増えたのだ。殆ど全軍降伏という有様で、今も続々と投降する兵士達は増えている。公孫淵が如何に恐れられ、その裏で恨まれていたかよくわかる。

司馬懿は天幕で無数の竹簡を積み上げて目を通していたが、ケ艾が来るとにこやかに微笑む。髪が真っ白になってから、この大将軍は味方に対する温情を身につけたようだった。

「おう、ケ艾。 見事であったな」

「本当に楽な戦でした。 殆ど戦ってはいません」

「だが、それでも見事であった。 緒戦で敵の主力を粉砕した手腕も、降伏を受け容れて敵を解体した手際も見事であったぞ」

諸葛亮の魔物じみた指揮と、それによって鍛え抜かれた軍勢と戦い続けたのである。弱い者虐めしか経験がないような屑軍隊など、敵になる訳もない。

座って茶をいただく。ちょっと熱すぎた。

「あちっ! ふえー。 あちゅいです」

「おお、すまなかったな。 少し温いのを出せ」

「かしこまりました」

司馬懿が最近近侍に付けている王濬が、茶を入れ直してくれた。今度は熱すぎなかったので、ほっと一息付ける。

「ふー。 ぬくいです」

「そうかそうか。 さて、公孫淵だが、どうやってけりを付けるべきかと思う」

「公孫淵将軍は」

敢えて、将軍とケ艾は言った。彼の正式な魏での官職は将軍だから、である。

何だか気の毒になってきたので、謀反人とか、呼び捨てにするとか、逆賊とかは言いたくなかった。

「哀れなほど愚かな方です。 彼と、彼を増長させた者達は、許す訳にはいかないでしょう」

「私も同じ意見だ。 この近辺は魏の支配が完全に及んでいる訳でもなく、放置すると危険な事態になりかねん。 だが、出来るだけ被害は小さくもしたい」

そこで、と司馬懿は言葉を一度切った。

そして、残酷な提案を、ケ艾にしたのだった。

「奴の恐怖を、徹底的に煽り立てる」

 

3、愚劣なる王の最期

 

慄然とする公孫淵の前で、使者達が怯えきってひれ伏していた。司馬懿から、公孫淵に出した使者ではない。

公孫淵が、司馬懿に出した、和議の使者である。正確には、その従者達だった。

「し、司馬懿大将軍は仰いました。 貴様らは、故事も知らぬようだなと」

「こ、故事、だと?」

「ヒツの戦いの事だそうにございます」

もとより、粗暴な公孫淵は大した学問もしていない。博識な部下も、殆どは公孫淵を嫌がって出奔してしまった。

唯一残っていた老学者が、たどたどしく言った。

「そ、それは恐らく、面従腹背の教訓にございましょう」

「な、なんと」

見透かされたような気がして、公孫淵は椅子になついていた。

既に司馬懿の軍勢は七万までふくれあがっているという報告が来ている。降伏した兵士達を吸収したと言うことで、つまり救援など来ないという訳だ。そして、司馬懿はこうも言っている。

和議など思い上がるな、と。

自分が誰よりも偉い。王と称しているが、いずれ皇帝にでもなる。そう考えていた公孫淵は、現実を今、初めて突きつけられていた。

 

司馬懿の側に控えている老人は王建。しょぼしょぼした目をした、気の弱そうな人物である。

少し前に、田豫から得た情報で、人物はケ艾も把握している。悪辣と言うこともなく、善良と言うこともない。気の弱い、真面目に遼東公孫家に仕えてきた人物である。人物を端的に現すと、有害でも無害でもない、ただの老人だ。

ただこの老人、長い間遼東公孫家と洛陽の名族達の使い走りをしてきていて、それが故に今回の使者に選ばれたのであろう。

司馬懿は。

来た和議の使者達を、根こそぎ抱き込んだのである。

司馬懿は彼らを拘束すると、言い含めたのだった。

「王建どの。 私は出来るだけ実際の被害を少なく、遼東のこの反乱を治めようと思っている」

「は、はあ。 そうなのですか」

「それでだ。 そなたらには一芝居打っていただきたいと考えておってな」

そう司馬懿は、拘束した王建を抱き込んだ。

公孫淵の恐怖を煽り立てるため、徹底的な暴虐を彼に見せつける。そして、反乱の根を断つために、公孫淵にこれ以上もないほどの醜態を晒させて、その後首を刎ねる。

それが、司馬懿の大まかな戦略だった。

王建の従者達は、逃げ帰った振りをして、今頃如何に司馬懿が残虐に振る舞ったかを、主君に告げているだろう。彼らは司馬懿に褒美まで貰っており、実質的に裏切ったも同じである。王建は演技など出来る人間ではないので、こうして天幕に匿われ、公孫淵について司馬懿に様々な話を提供しているのだった。

悪辣かなと、ケ艾も思う。

だが、公孫淵は今までの決して短くない人生を、好き勝手に、しかも傍若無人に振る舞ってきた。彼の両親が甘やかしすぎたのが原因なのか、よくはわからない。貧しい家に生まれたケ艾は、下手をすると間引かれる可能性さえあって、甘やかされるなどという経験は一度もなかったからだ。だがそれは今関係ない。今後、遼東の民が少しでも幸せになるためにも、彼には死んで貰わなければならないと、ケ艾も思っていた。

戦場で顔をちらりと見かけた公孫淵は、本当に己の他に人無しと言った雰囲気であった。あれでは、部下達も可哀想だ。少しでも反省する気があるのならともかく、和議などと言ってきた時点でそれが皆無なのは目に見えている。

狙っているのは、洛陽の人脈を使った平和攻勢、のつもりなのだろう。既にそのような状況ではないことが分かっていない時点で、彼に王の資格はない。彼は、権力を持ってしまったけだものだ。

人を殺すのは嫌だ。でも、仕方がない時もある。今が、その時だった。

「なるほど。 では次に来る使者は衛演というわけだな」

「はい。 若くて頭がいいと、公孫淵将軍が考えているのは、彼以外に無いでしょう」

「どのような人物か」

「公孫淵将軍のお稚児にございます」

「ぶっ!?」

ケ艾が噴き出したので、司馬懿は笑顔のままぐうるりと首を向けて、無言の威圧を掛けてきた。流石に司馬懿の首がぐるりと回るのを見て、王建は腰を抜かしそうになったようだった。

お稚児かと、げんなりした。

同性愛は、貴人の趣味として昔から存在している。ケ艾もそれは知識として知っていたが、現物を見るのは初めてだ。何でも劉備が先祖としている中山靖王の兄弟には男しか愛さなかった輩もいるそうだが、ケ艾には理解できない世界である。まあ、子を産めない女という時点で、ケ艾も世間的には異物なのかも知れない。

「ふむ、では忠誠心は高いのか」

「い、いえ。 実のところ、彼は少し頭が良すぎるようでして、公孫淵将軍を裏切るためにここに来るかも知れません」

「ほう」

司馬懿が眼を細める。今度の使者は、本当に斬るつもりかも知れない。

いずれにしても、公孫淵は自我と自尊心ばかりが肥大化した男だ。もう一押ししてやれば、恐怖のあまり我を失い、無茶な行動に出るだろう。捕らえるとしたら、その場でだ。

既に王桓は、公孫淵が逃げそうな路の全てを抑えている。この楽浪には抜け道もなく、地下道などと言う気が利いたものもないという。強引に騎兵か何かで突破しようとする所を捕らえれば、それで済む。楽な話であった。

翌日、使者が来た。王建の言葉通り、衛演であった。

目つきの鋭い若者で、ちょっと女っぽい顔立ちをしている。多分その辺りが、お稚児にされた理由なのだろう。動作が微妙に女っぽいこともあって、ケ艾は遠目から見ていてげんなりした。

王濬は面白そうに、ケ艾を見ていた。

「爛れた大人の世界は苦手ですか?」

「ええ、何て言うか、ついていけません」

「ははは、貴方は可愛らしい人だ」

「これでも一万を率いる将軍ですけど。 もういいです」

ついと王濬から視線を背ける。自尊心なんか持った覚えはないが、このように馬鹿にされるとちょっと気分も悪い。

使者達は青ざめている中、堂々と振る舞っている衛演は逆に浮いているように見えた。司馬懿は不機嫌そうに応対していたが、やがて指を鳴らす。屈強な武人達が、衛演を左右から取り押さえた。もちろん使者達もだ。

一旦その場は解散になる。小走りでケ艾は司馬懿に近寄ると、聞いた。

「斬るつもりですか」

「まあ、話を聞いてからだな。 使者達には、衛演は斬ったと言うつもりだが」

「そうですよね」

和議の次は、恭順だとか公孫淵は言い出していた。

この状態で、恭順などあり得るはずもない。明確な謀反を起こし、多くの郡を攻略し、そして勢力を保っている状況ならまだしも、既に兵も国も失っている謀反人なのである。どこまで自尊心ばかり肥大化しているのかと、ケ艾は頭を抱えたくなっていた。

もしもケ艾が司馬懿の立場でも、使者達には衛演は斬ったと伝えているだろう。

だが、司馬懿は更に鮮烈な手を取ると言った。

耳打ちされて、そのように振る舞うようにと言われ。流石にケ艾も眉尻を下げたが、此処は仕方がない。遼東の民には、一刻も早い治安回復が必要なのだ。

使者達が縛り上げられて、連れてこられた。泣いている者までいた。ケ艾は咳払いすると、司馬懿の前で言った。

「貴方たちに、大将軍の言葉を伝えます」

つまり、司馬懿が直接応えるまでもない、という事である。徹底的に圧力を加えるための手だ。

「孫子が言うに、戦には幾つか路があります。 十倍の兵力があるなら囲む。 五倍の兵力があるなら正面から戦う。 二倍の兵力があるなら挟み撃ちにする。 同じ兵力であれば、勝つための工夫を凝らす。 敵より兵力が劣るなら、逃げる。 逃げられないのなら、戦いを避ける工夫をする」

ここまでいって、使者達は既に、何を言われているか理解し始めていた様子であった。

咳払いして、残酷になれ、残酷になれと自分に言い聞かせる。公孫淵を追い詰めるためなのだ。苦しんでいる民を救うためなのだ。

「貴方たちはそれも出来ません。 残された路は、死ぬだけです」

「ひいっ!」

「最初から降伏を申し出ていれば、此処までの事態にはなりませんでした。 それに、あの暴君公孫淵を放置したことについても、司馬懿大将軍はお怒りです。 もしも死を免れたいのであれば、貴方たちがするべき事は、決まっているのではないでしょうか」

司馬懿は何も言わず、使者達を冷然と見下ろしている。

ケ艾は知っている。この人も、家では非常に立場が弱く、奥さんに痛めつけられて、子供達に舐められて、一族からは搾取されていることを。だが、それでも歴戦を重ねてきた人物なのだ。これくらいの威圧感は出せると言うことだ。

転がるように逃げ帰った使者達を見送ると、はあとケ艾は歎息した。それを見て、司馬懿はやっと破顔した。

「ご苦労だったな」

「どうもこう言うのは苦手です。 でも、これで戦いは終わるでしょう」

「公孫淵の事なら、同情は不要。 長年好き勝手をしてきたつけが回ってきたのだ」

どこか自分のことのように、司馬懿は言った。

いずれ自分の一族もそうなると、暗に呟いているかのようだった。

「衛演さんはどうなされたのですか」

「あれは斬った。 公孫淵と結託して、裏でろくでもないことばかりをしていたようでな、民の悪評著しい。 あのような輩は生かしておいても有害なだけだ」

「そうですか」

さっきまで生きていた人が、もういない。

そう思うと、少し寂しかった。

 

公孫淵の顔は土気色になっていた。

逃げ帰ってきた使者達が、司馬懿の言動を包み隠さず、皆が聞いている前で話したからである。

保身には鼻が利く公孫淵である。このままでは、部下達に惨殺される事を、敏感に察知したのだ。

部下達を解散させると、自室にも戻らず、武装したまま外に出た。厩舎に直行。それなりに良い馬を持っているが、どれもこれもが、今回脱出するのには頼りないように思えた。もはや近衛でさえ、信用できない。

不審そうに此方を見る馬役人が、公孫淵を後ろから刺そうとしている。そんな妄想にとりつかれ、悲鳴を上げそうになった。馬の手綱を引いて、外に出る。馬は何か嫌な空気を感じ取ったらしく、嘶いた。その場で剣を抜いて首に突き刺し、殺した。呼吸が乱れる。唖然とした馬役人が、死んだ馬を見下ろし、そして後ずさった。

「な、なんだ貴様!」

顔をくしゃくしゃにした馬役人が、飛び退くと、這うようにして逃げていった。公孫淵は別の馬を引っ張り出し、跨った。馬が怯えているのが分かった。きっと、周囲中に刺客が潜んでいるに違いなかった。

裏門へ。城の中なのに、出来るだけ早く。途中、何度も役人を蹄に掛けそうになったが、気にしていられない。

兵士達が集まってきた。

「燕王! 如何なさいました!」

「これから脱出する! 城内に謀反人がいるからだ!」

「し、しかし外は敵兵だらけです!」

「言うとおりにしろっ! 鳥丸か高句麗まで逃げ込めば、活路はある!」

このままでは、死ぬ。破滅だ。終わりだ。

家族さえ置き去りにしていくつもりだったが、兵士がまだ幼い息子を連れてきた。一度もかわいがったことのない息子だというのに、どうしてか自分を慕ってくる。それを思うと、流石の公孫淵も、心が揺れた。

「せめて、ご子息をお連れ為されませ」

「……」

それでは逃げられなくなると叫びそうになり、しかしこらえた。

近衛の兵が二十人、三十人と集まってくる。そして、裏口を開いた。此処からなら、逃げられるかも知れない。そう公孫淵は思った。

一気に馬を走らせる。

敵がすぐに気付いた。息子が、飛んでくる矢に悲鳴を上げる。屈強な近衛が、必死に息子を抱きかかえて、馬を駆けさせた。

あれを囮にすれば、逃げられるかも知れない。

そう思った、瞬間だった。

ケの旗が翻る。後ろから、あの、一万で三万五千を打ち破った敵将が来る。公孫淵は、なりふり構わず絶叫していた。

あれには、勝てない。

絶対勝てない。

もう前も見ず、馬を滅茶苦茶に走らせた。息子ともはぐれる。いつの間にか、兜も飛んでしまっていた。部下とも、全てはぐれてしまった。

絶叫しながら、走る。剣を滅茶苦茶に振り回し、目の前にいる奴は全て斬ろうとした。だが、脇腹に鈍痛が走り、馬からたたき落とされる。竿立ちになった馬が、鞍に誰も乗せぬまま、走り去っていった。

周り中、自分に向く槍ばかりだった。

「愚かな男だ。 このような者に、遼東の民は苦しめられていたのか」

そう呟いたのは、王の旗をさした、あの男だった。屈強な武人であり、公孫淵はその眼光を浴びて、歯の根が合わなくなるのを感じた。

死ぬ。殺される。

「王桓様。 どうなさいますか、この男」

「縛り上げろ。 どうせ首を刎ねるのだから、多少乱暴に扱っても構わん。 このような男、王として扱う必要もない」

王桓という男に言われて。公孫淵は、自分が死ぬことを、強く感じた。

暴れるが、屈強な兵士達は容赦なく縛り上げる。その時公孫淵は悟る。周囲が、自分が貴人だと言うことで、かなり手加減していたことを。武勇など、本当は殆ど無かったと言うことを。

無駄な抵抗も、すぐに潰えた。

折れた心のまま、引きずって行かれる。周囲に、民がわらわらと現れていた。縛られて引きずられる公孫淵を見て、同情する視線は一つもなかった。子供がいる。以前、公孫淵の心を砕いた、あの童女だ。

にやりと笑う。

どうしてか、童女の声が聞こえた。

「著しく出来が悪い人形でしたが、かろうじて子供騙しの三文劇くらいは演じられましたかねえ。 まあ、多少は役に立ったから、良しとしますか」

「お、お前は」

「さっさと歩け!」

兵士に腰を蹴飛ばされる。

そして視線を向け直した時に。もう、奴はいなかった。

 

城が陥落した。公孫淵が脱出してから、一刻も保たなかった。

司馬懿は降伏してきた文官も武官も全て捕らえさせると、一旦個別に隔離した。そして地元の民からいちいち調書を取り、さらには田豫からも情報を集めた。田豫は商売をしているだけあり、この辺りは相当に詳しかった。それに、田家の手代も何名か来ていて、彼らの情報も、裁きには役立った。

事後処理には一月ほど掛かった。しかし、逆に言えばそれで終わったとも言える。

ケ艾の前を、真っ青になった男が十名ほど連れられていく。公孫淵の暴虐を手助けした者達だ。いずれも首を刎ねられる。

対外的には、十五才以上の男子は皆殺しなどとしている。これは異民族に対する威嚇のためである。今回の反乱の裏には、朝鮮半島の高句麗や鳥丸の過激派が絡んでいたことが分かっている。彼らを怯えさせるには、原始的な恐怖が一番だからだ。

実際には十名程度の処刑で済んで良かったとも言えた。ケ艾は、それでも後味が悪いなと思ったが。

自分を見上げている子供がいる。

公孫淵の息子だ。脩という名をかっては持っていた。無能な父のせいで、本来は処刑される所だったのだが。ケ艾が是非にと引き取ったのである。純真な子供で、暴虐な親のせいで愛情も知らない。ただ此方を頼る視線が、気の毒だった。

新しい名前を与えたが、まだ認識を出来ていない所が痛々しい。この子は、現実を知るにはあまりにも幼すぎたのだ。

「どうしました、忠」

「父上は、どうしたの」

無言で頭を撫でた。幼い頃の記憶は、将来は夢の泡となる。今は忘れてしまうように、願うしかない。

連れて行く。処刑される者達の哀訴は、子供に聞かせるには酷すぎる。それに、早く忠という名前にも慣れて貰わなければならなかった。

王桓に忠を預ける。男に抱かれたこともないのに養子を取ったのは不思議な気分だが、それもまあいい。自分に誰かが救えたのだから、それで良しとするべきであった。

天幕に出る。司馬懿が後処理をしていた。

「ケ艾か」

「もう、あらかた片付きましたか」

「そうだな。 公孫淵の塩漬け首は、既に都にて晒されているそうだ。 都にいた奴の兄の公孫晃も処刑された。 この一件は、これで終了だ」

「そう、ですか」

乱はこれで終結したかも知れない。

だが、本当にこれで良かったのだろうかと、ケ艾は思った。愚かな君主が出る限り、このような悲劇は幾らでも繰り返されるのではないのか。

司馬懿はどう考えているのだろう。

曹叡は。

「母丘険はどうだった」

「用兵の才はそれほどでもありませんが、まずまずの武将です。 武勇はそれなりに優れていますし、何より皇室への忠義が揺るぎないようですね」

「そうか。 それは好ましいことだな」

司馬懿は立ち上がると、外に。処刑を見届けるためだ。

処刑が終わると、作業は一段落した。後は公孫淵に抵抗して罷免されたり、追放された土地の名士を抜擢して、この辺りを治めさせればいい。

小走りで王桓が来る。司馬懿とケ艾の前に跪くと、言う。

「倭国からの使者が来ております」

「ほう? 倭国とな」

「倭国?」

「ああ、朝鮮の更に東にある島国だ。 今だ鬼道による統治を行っていて、民は全身に入れ墨を入れているとか。 蛮国だが土地はとても肥えているそうで、一度文明が入ると後の進歩はかなり凄まじいかも知れぬと言う事だ」

それに、公孫淵の滅亡をいち早く察知する辺り、なかなか侮れぬ連中よと、司馬懿は呟いた。

ケ艾はその辺りの事情はよくわからなかった。

だが、公孫淵の滅亡は、以外に大きな影響を周囲に与えたのかも知れなかった。

 

4、七賢

 

洛陽を最初に訪れた時、馬超は不思議な感覚に襲われた。

これが、夢にまで願った中原なのか。豊かで、西涼の貧しい民を救える約束の地だったのか。

失望。それに、夢が如何に愚かだったのか、悟ってしまっていた。

大地に根ざしたものがない。この土地自体が豊かではないのだ。此処はあくまで、物資と流通の中心地。だから首都になっているのであって、土地自体は決して豊かでも無ければ、民が優れている訳でもない。

此処が真価を発揮するのは、中原が全て同一の勢力の手に収まった時。

だから、曹操が中原を制圧して、やっと洛陽は発展を取り戻したのである。

ざっと辺りを見て回るだけで、馬超はそれを理解した。そしてかって熱病のようにこの土地を求めたことを、軽く後悔していた。

「愚かな時代だったのだな」

「殿?」

「何でもない」

?(ホウ)柔に返すと、馬超は目的の場所へ急ぐ。既に人をやって、会合の準備は終えていた。

集まりの場としたのは、洛陽の郊外にある、小さな酒場である。?(ホウ)柔が見張りに着き、馬超が中にはいると。既に何名かの老人が其処には集まっていた。いずれも六十か七十には達していそうな老人ばかりであった。

「おお、馬超どの」

出迎えてくれたのは、陳老人。

かっては、陳宮と呼ばれていた男だ。一同の中でも特に高齢であるが、まだ知性の方だけは衰えていない。そのほかの老人達も、皆名の知れた賢者ばかりである。ただし、いずれもが権力からは離れた者達ばかりだった。

流石に洛陽と言うこともあり、既に夜で、しかも郊外だというのに、周囲は人が大勢行き来している。他の都市では偉い違いだ。

「流石は洛陽。 大した喧噪ですな」

「何、司隷地方や中原には、このような都市が幾つもあります。 ?(ギョウ)、許昌、洛陽、それに長安。 いずれも、魏の重要な経済基盤ですよ」

「そしてそれらは、生産よりも流通管理によって支えられている。 不思議な話だ。 額に汗して働く農民達よりも、それを管理する役人の方が尊敬され、豊かに生きているのだから」

その言葉には若干の妬みが籠もってはいたが、嘘ではない。

馬超に言わせれば、実際の戦場で一番偉いのは将軍などではなく、命を賭けて戦う武人達、兵士達だ。

同じく、国の基幹となる農民達はもっと尊敬されるべきである。だが、実際には、「尊い血筋」だとかの人間ばかりがもてはやされる傾向にある。

おかしいことだと、馬超はそれを思っている。

おかしいことだと、言える世界を造りたい。そして、その知識の網を国中に拡げていけば、いずれ意味を持ってくるはずである。

陳宮はかって呂布の参謀だったという。此処にいる老人の中には、曹操に仕えていたり、曹丕の側近だった者達もいる。いずれもが権力闘争の摩擦を嫌い、市井に降りた者達だ。話してみて、知性が劣悪でないことは、馬超も確認していた。

様々な議論をしてみる。いずれも、全く今まで馬超が考えてもいなかった方向から、新鮮な意見が跳んでくる。馬超はついつい楽しくなってしまい、痛飲した。しばし歓談を続けた頃だろうか。

陳宮が杯を置き、馬超を静かに見つめた。

「この国は、一度統一されるでしょう」

「そうだな。 現状から言えば、魏によって統一される可能性が高い。 諸葛亮丞相が生きていれば話は別であったかも知れないが」

「しかし、その統一は恐らく短命に終わります」

ざわりと、周囲の空気が代わる。

「陳老、それはいかなる理由でか」

「腐敗は確かに広がり始めているが、短期間で政権が崩壊するのにつながるとは思えん」

「一つは、周辺の異民族達です」

中華は、あまりにもその力を疲弊させすぎた。

長らく続いた戦乱で、人口は四分の一に激減。漢王朝の最盛期には三千万を越えた人口は、今や八百万前後にまで目減りしているという。戦乱による殺戮だけではなく、飢餓、それに戸籍を外れた人間達もいる。

人口の減少は、地域自体の弱体化も招く。中華の力は、かってと比べものにならないほどに衰えていると、陳宮は言った。

「今まで中華に虐げられてきた周辺の異民族にとって、今はまたとない好機。 もし統一が為されようと為されまいと、必ずや侵入をしてくるでしょう。 しかも、一箇所が侵入を開始すれば、一斉に、です」

「何と恐ろしい。 確かに陳老の言う通りか」

馬超は、その意見を聞いたことがあった。それに、自身でもその可能性は高いと思っていた。

だが、陳宮の言葉には、更に続きがあった。

「そして今の王朝の体質にも、問題があります」

「その問題とは」

「二代皇帝だった曹丕様と、曹植様の確執が原因で、現在の曹家はあまりにも皇族を軽んじすぎています。 これは極端な中央集権化を招き、いずれこれが無理の元になるでしょう。 ひょっとすると魏は近いうちに崩壊し、その後に何かしらの王朝が割拠するかも知れません」

「具体的に説明してもらえないだろうか」

これは興味深い話題だった。

実際問題、馬超は知識の網を作る目的で旅をしてきている。この年になって武芸以外の事に興味がでてきたと言うこともあるが、それ以上に実益を求めてのことである。知恵者達の情報網を作り上げることで、よりこの文明の力を強固にする。いざというときには、対処が出来る民を育てるためにも。

「今の皇帝陛下である曹叡様は聡明ですが、幾分体が弱い。 もしも早世なされた場合には、まだ幼い彼の嫡子が跡を継ぐことになるでしょう。 その場合、もり立てる親族が、魏にはいないのです」

「なるほど、重臣に乗っ取られる可能性がある、ということか」

「はい。 曹爽将軍はかなり上位にいますが、かれでは力量地位ともに不足です。 次の天下は、司馬一族の手に落ちるのではないかと、私は推測しています」

「司馬懿以外は強欲で無能な連中だと聞いたが」

それが恐ろしいのですと陳宮が言うと、他の知恵者達も頷いた。

「怖いのは、武帝曹操の時代に完成されている魏の仕組みを、そのまま司馬一族が乗っ取った場合だ。 天下統一くらいまで上手く行くかも知れないが、その後とんでもない大乱が発生しかねん」

「しかも連中は下手に悪知恵が働くから、今度は皇族の地位を上げて社会の全てを独占しようとするかも知れぬ。 もしもその場合、国全土が再び分裂と混乱によって乱れるかも知れぬな」

「周辺の異民族にとっては、まさに侵攻の好機という訳だ。 恐るべき話よ」

腐屠の信者であるらしい高齢の賢者が、手を合わせた。彼は平和的な思想を強くいつも押し出すのと同時に、戦乱を徹底的に憎んでいる。かって張魯に仕えていたらしい人物なのだが、馬超は見たことがなかった。

陳宮は皆の議論が収まった所で、顔を見回した。

「もしも、無数の異民族が中華に侵入した場合、どう対処しますか」

「武力で打ち払う、は難しそうだな」

「彼らの武力は強大だ。 陳老人、かってそなたが仕えていた呂布の例を出すまでもなく、漢民族よりも元々数段上の相手だと見た方が良さそうだ」

「その通り。 しかし彼らは、あまりにも厳しい環境で暮らしてきているが故に、楽な生活というものを知りません」

彼らを文化的に啓蒙し、むしろ中華そのものとしてしまうべきなのではないのか。

そう、陳宮は提案した。

「なるほど、ただ敵として排斥するのはおかしいと言うことか」

「鮮卑の血を引く馬超どのであれば、知っているはずです。 彼らは人間以外の存在ではなく、漢人と子供も成せれば相互理解も出来る人間です。 ならば、同じ土俵に彼らを上げてしまえばいいのです」

「かって、呂布を御することが出来たのは、貴方だけだったと聞いているが。 その貴方の発言であれば、確かに頷けることだ」

その言葉を聞くと、どうしてか陳宮は少し寂しそうに笑った。

世間一般の評価と、陳宮の実情は、随分違うのかも知れない。そう馬超は思った。

「少し酔った。 席を外す」

馬超は言い残して酒場を出ると、風に当たることにした。

あまりにも壮大なる知恵の網と、それによる情報の遠大なること。かって馬上で武芸を競っていた頃には、想像も出来ない世界だった。

この年になってやっと勉学を始めたのだが、春秋戦国の時代には、既に偉大なる思想家達が百出し、様々な黎明の思想を競っていたという。古人でさえそれなのだ。今の人間が、それに劣るようでどうするのか。

「成果はありましたか」

「俺は、今の年になって、やっと建設的な事に着手できたのかも知れん」

「ご謙遜を。 貴方の武勇が造り出してきたものは、貴方が思っているよりもずっと多いのですよ」

「しかし、いずれもが血と死と殺戮に起因するものだった」

多分、知恵だけでは、なんら力を持たない。個人の持つ知恵というのは、とても微力で弱々しいものなのだ。

かっての西涼がいい例だった。知恵が評価されることなどまず無く、最初にものをいうのは武力だった。

だがそれが招いたのは、地獄同然の泥沼だった。

古老達と称する古狸達が権力にしがみつき、暴力と武力だけが全てを支配していた。暗殺は日常茶飯事で、些細なことですぐに戦が起こった。そして人の命は、綿のように軽く吹き散らされた。

そしてその後に残ったのは、荒野だったのである。

同じ事を、二度と繰り返してはならないのだ。

酒場に戻る。

賢者達は、まだ話し合っていた。

「陳宮どの」

「如何為されましたか」

「今の話を、書に残してくださるか」

「よろしいでしょう。 もはや老弱の身、遠くに出かける事も出来ませぬでな。 私の人生最後の仕事として、書をしたためましょう」

では、私がそれを可能な限り複写しようと、別の老人が言った。彼は達筆で知られていて、しかも速筆だという。

別の老人は、今の会話について、別の地方の賢者に伝えたいと言ってくれた。元々各地を放浪している人物で、地方の情勢にも詳しいという。馬超は頷くと、彼らに向かって言った。

「ありがたい。 知恵の網で、この国を覆う日も、決して遠くは無さそうだ」

「やはり貴方は英雄ですな、馬超どの。 その行動力、社会に不平を述べていたり、知恵を頭の中で練っているだけの我らとは偉い違いだ。 今後も貴方は、知恵者達に力による導きを付けてもらえないだろうか。 これは、既に歴史から弾き出され、全ての力を失った、私達からの願いです」

陳宮があたまを下げると、他の賢者達もそれに習う。

馬超は眼を細めると、心得たと応じたのだった。

 

5、迫る不吉

 

公孫淵の乱を終えて帰ってきた司馬懿は、早速参内して、勝利の報告をした。曹叡は時々咳き込みながらもそれに応じ、説明を全て聞き終えると言った。

「見事であった、司馬懿。 これほどの短期間で大乱を治めたこと、その手柄はまさに古今比類無し」

「ははーっ!」

「抜擢した朕も鼻が高い。 そなたらも、司馬懿大将軍の功績を労うがよい」

司馬懿は天にも昇る気分だった。多分初めて女を抱いた時など、この時の興奮と幸せに比べれば、まるで月と小石くらいの差があっただろう。誰も見ていなければこの場で逆立ちをして回りつつ、首を逆回転させたいくらいであった。

宴会が開始された。無礼講であるが、流石に曹叡に無礼なことをする家臣が出ないように、許儀が見張っている。皇帝の側で飲むことを許されるという最大の名誉を賜った司馬懿はうれしさのあまり飲めもしない量の酒をがばがば口に入れたが、ふと酔いが醒める。許儀が仏頂面で曹叡の側に付き従っていた。だが、その表情がいつもより暗いことを、敏感に司馬懿は感じ取っていた。

曹叡の体に、何かあったのではないか。

そう思うと、全身に戦慄が走った。

曹叡は司馬懿の全てだ。太陽だ。星だ光だ。

曹叡さえ生きていれば、後はどうなってもいい。家族を惨殺しろと命令されれば、鉈を持って実家に飛んでいく。もしも司馬懿の生き肝が曹叡を救う薬だというのなら、この場で首を刎ねられても惜しくはない。呉でも蜀漢でも、曹叡の命が救えるのなら、打ち破って見せよう。諸葛亮がいない今なら、犠牲さえ考えなければ不可能ではない。

思考が暴走しているのに気付いた司馬懿は、頭を振って、冷静さを取り戻す。

酌をしている女官を、酔った振りをして呼び寄せる。そして、酒をつぎ始めた彼女に顔を近づける。知っているのだ。この女官は確か、曹叡にかなり古くから仕えている人物で、かなり根深い後宮の人脈を持っている。

「そなたは確か、蛍であったな」

「はい。 大将軍。 名前を覚えていただいて光栄ですわ」

「うむ、それはいいのだ。 皇帝陛下のご様子がおかしいのだが、何処か健康に優れぬ所でもあるのか」

流石に女官はためらったが、しかし他ならぬ司馬懿の発言である。

後宮でも、司馬懿の曹叡に対する忠義の確かさは有名らしく、彼女らも時々それを肴に笑い話をしているらしい。ちょっとした仕返しのつもりだと思ったのかも知れない。だが、司馬懿の表情が思ったよりも真剣だと思ったからだろう。周囲を見回した後、声を落として応えてくれる。

「此処だけの話ですが、どうもこの間の呉遠征で、体をお崩しになったようなのです」

「何と」

曹丕も同じ事で体調を崩した。その後が問題で、曹丕は真面目すぎる性格から、過労で更に病状を悪化させ、そのまま身罷ってしまった。

今回、曹叡は呉を見事に打ち破ったが、それで体調を崩してしまったのか。風土病などには気をつけるように、徹底的な健康管理をしていたはずなのだが。

許儀が偏執的なまでに気を使っていたのではないかと言うと、蛍は言う。

「許儀将軍はよくやっておられたみたいなのですけども。 ううむ、これは言ってしまって良いものなのか」

「まさか、「彼女」か」

「そこまでご存じでしたか」

それはもう、司馬懿は曹叡のことであれば、何でも知っている。曹叡に関連する書籍や道具類は全て集めている位である。司馬懿の個室には、妻でさえ立ち入らせない。此処だけは、司馬懿の聖域。そして一族も、此処にだけは手出しをさせないようにしていた。

曹叡の中に、彼女と呼ばれる別の人格がいることは知っている。それがかなり背徳的な性格をしていて、好き勝手に振る舞う悪癖があると言うことも。幼い頃から抑圧されて育った曹叡が、心の安全弁として造り出した人格なのだろう。

「その彼女が、どうしてか遠征の後から頻繁に現れるようになりまして。 女官達と遊んでくれるのはよいのですが、派手好きで、遊び好きで、ふと気を許すと彼女が政務の場に出てきてしまっているようなのです」

「それでか」

最近曹叡が、妙に宮殿の構築に凝っていると、司馬懿は聞いている。他にも不老不死の霊薬を求めたりと、かってだったら考えられない愚行を次々にしているという。魏の誇る天才発明家馬均もこれにつきあわされて、霊薬である甘露を作る機械などを作らされ、辟易しているそうだ。

「そなたらも、陛下を諫めなければならぬぞ」

「分かっております。 しかし、彼女は最近とても巧妙に陛下を装うようになってきておりまして。 正直、今彼処におられる陛下が本人なのか、自信が持てませぬ」

「それほどなのか」

「医師によると、複数の心を持つと、それぞれが心の疲弊によって混じり合うこともあるそうなのです。 陛下の人格が、彼女に乗っ取られ掛けている、などという事がなければ良いのですが」

それは、正直嫌だ。

あの綺麗なおててに撫で撫でされたいとか司馬懿は思うことがあるが、中身が曹叡でなければまっぴらごめんである。

改めて、曹叡を見る。

二つの人格が体の中にいることで、相当に無理をしているのだとすれば。許儀にはどうにも出来ないだろう。

やっと、得た何をしても惜しくない主君。

自分の全てを捧げても、何ら悔しいと思わない理想の主君なのに。

司馬懿は誰にも見られないようにして、目を擦った。

髪が白く成り果てて、少し心も弱くなった、のかも知れなかった。

 

(続)