最後の星、墜つ

 

序、粛正

 

魏の重鎮である張?(コウ)を討ち取ったにもかかわらず、即座に蜀漢軍が撤退した不可解な事態について、呉だけではなく、魏も調査を進めていた。司馬懿が行った離間の策によるものらしいという噂は流れてきていたが、当の司馬懿自身が小首を傾げるほどに、あまりにも鮮やかに策が決まりすぎたからである。

調査を進めていたのは、張魯と揚松。魏軍に潜り込んでいる張衛は今回調査に加わっていないが、いずれにしても魏の裏で諜報を進めている二人が、総力をあげて情報収集を行っていたと言っても良い。

何しろ、情報収集に不便な幽州から、わざわざ一時的に洛陽に移ってきたくらいである。細作部隊の本部もそれに伴い洛陽に移転。蜀漢に近い上庸の支部の人員を五倍に増やし、荊州方面からも細作を送り込んで、様々な情報を調査した。

曹叡が自ら許儀を連れて張魯の所を訪れたのは、調査を始めてから数日後である。流石に曹操と槍を交えた張魯も、若き皇帝の大胆な行動に驚かされた。

拝礼する張魯に、少し体は弱いようだが、聡明な皇帝は言う。

「狭苦しい所に押し込めてしまってすまないな。 祖父と争った英雄である貴方を」

「いえ、滅相もない。 今では太祖様との戦いは、夢の向こうのように思えてしまっております」

「そうか」

揚松がてきぱきと茶を出す。

今では名前も忘れ去られた腹心である。世間的には、佞臣の見本とされ、処刑されたとされた揚松。今でも張魯の側で忠実に仕えている揚松の真の姿を知る者など、もはや何処にもいない。

それでも、仕えてくれている忠実な男は、茶を出し終えると、側に控えた。

茶をすすりながら、曹叡は、張魯が使っている小さな商家の奥にある母屋を見回しながら言った。

「報告書は見せて貰った。 蜀漢の李平が粛正されたという事だが」

「はい。 どうやらそれに関しては間違いない様子です。 諸葛亮の作戦遂行は、今回恐ろしく上手く行っておりました。 司馬懿将軍も、失礼ながら追い詰められており、下手をすると二十万の軍勢も木の葉のように吹き散らされていたでしょう」

「それを考えると、敵ながら諸葛亮は哀れではあるな。 それに、その怒りも知れようと言うものだ。 だが不可解なのは、どうして李平が其処まで意味不明な行動を取って、粛正されたかと言うことだ」

林を使って、李平を操ったと言うことは、既に調べがついている。

だが林も、如何に人間離れしていると言っても、鬼神の技が仕える訳ではない。李平を釣った何かしらの甘い餌があるはずなのだ。

こんな事を調べるのも、魏の内部から同じ事をされないようにするためである。二杯目の茶に手を出す曹叡に、揚松が茶菓子を出した。焼き菓子ではなくて、甘い果実を磨り潰して、柔らかい生地で包んだ生菓子だ。最近田家が開発して、世間に出回り始めている高級品である。

「おお、これはまた美味そうだな。 いただくぞ」

曹叡が無邪気な子供みたいな表情で、しばし生菓子を頬張る。半円形に整えられた菓子は、兎に角甘く、おなご達に大人気だという。曹叡も甘いものは好きな様子で、しばし政務の話は途切れた。

指を舐めると、曹叡は茶を飲み干す。

「それで、何か分かったと言うことだが」

「はい。 実は李平は、どうも諸葛亮を追い落とそうとする一派の頂点に担ぎ出されていた可能性が高いようなのです」

「馬鹿な、そのような者達がいるというのか。 蜀漢の人口と国力では、魏と対抗するのに、諸葛亮の能力は必要不可欠だ。 如何なる国家戦略を採ろうと、それに代わりはないだろうに」

曹叡はむしろ同情するように、そう言った。事実同情しているのかも知れなかった。この心優しい皇帝に、人間の暗部を語り聞かせるのは、流石に張魯も心が咎めた。道の教えを使って、争い絶えぬ漢中に平和をもたらした時も、張魯は何度も人間の暗部に苦悩した。その時既に張魯は大人だった。

まだ幼ささえ残した曹叡が、このような闇に触れるのは、とても悲しいことなのかも知れない。だが、張魯は僅かにためらった後、話をする。曹叡は君主として、此処に来ている。それならば、子供として扱うべきではない。

「現在、蜀漢には益州派閥と荊州派閥という、大きな二派の権力階層があります。 言うまでもなく諸葛亮は別格ですが、元々益州にあった劉璋政権に劉備政権が荊州から乗り込んできて、制圧したというのが、今の蜀漢の成立です。 その後、荊州は戦乱の土地と化したこともあり、多くの知識人達が荊州から益州に移り住みました。 その過程で、二つの派閥の争いも、激化しました」

「確かに魏でも、権力階層や知識階層は、妙な派閥を作って、他と争う傾向があるな」

魏でも最近、名門諸葛家の諸葛誕という若者や、漢の大将軍だった何進の子孫である何晏という男らが、周囲に影響力を及ぼし、妙な権力団体を作り上げたことがある。その時は曹叡がそのようなことはしないようにと通達を出したが、あくまでそれは氷山の一角。水面下では権力構造の複雑かは、魏の課題の一つとなっていると、司馬懿に上奏を受けたことがあった。

「それらの派閥の内、どうも益州派の過激派の中には、荊州から来た人間達を侵略者だと忌む傾向がありまして。 この一部が、どうも諸葛亮を罷免し、益州出身の人間を丞相に据えようとしていた節があります」

「愚かな。 諸葛亮だからこそ、我が魏と蜀が戦えていたのだ。 もしも諸葛亮が蜀漢にいなければ、とっくに成都は我が軍によって落とされていただろう」

「その通りにございます。 しかしながら、過激な思想に心を奪われると、目の前も見えなくなる事があるのです。 そのもの達は或いは、劉備による益州侵略で、家族を失ったり、地位を奪われたりしたのかも知れません。 しかし劉備が益州に入らなければ、とっくにかの土地は魏によって落とされていたでしょう。 痛ましい話にございます」

心しようと、曹叡は言う。

たまたま、張魯は心を鍛える機会があったから、耐え抜くことが出来た。だが、人間の心は簡単に壊れてしまうのだ。

漢中にも、そう言う者は多くいた。

「李平はそのような者達に担ぎ出され、さらには林に心を誘導され、諸葛亮に勝てると思いこんでいたようです。 しかし諸葛亮が戻ってくると、瞬く間に反対派を根こそぎにしてしまい、李平も現実を見せつけられてすぐに降伏しました。 重臣が数名処刑され、李平自身は流刑に。 しかし、陰謀に荷担していなかった李平の嫡男である李豊が、その後を継いで、兵糧輸送を監督することになった模様です」

「そうか。 大体事情はわかった。 随分細かく調べてくれて、分かり易かった。 礼を言うぞ」

「いえ、私に出来るのは、これくらいにございます」

「そなたが仕えてくれていて良かった。 一刻も早く、この中華に平穏なる時をもたらしたいと、朕は願っている。 これからも中華の平穏と安定のために、力を貸して欲しい」

胸が詰まる。漢中だけの平和と安定を考えて、魏に対して情報戦争を散々挑んだ張魯に、そのような言葉を掛けてくれるとは。

年を経たせいか、涙腺が随分脆くなってしまった。

涙を擦ると、この命果てるまでと、張魯は誓った。

まだ若いが、曹叡は確実に君主の器だ。自分とは違う。

今こそ、中華は。平和に向かうことが出来るのかも知れなかった。

 

馬超は西涼に来ていた。

何もかもが、昔とは違う。吹きすさぶ風ばかりだった荒野には、今や水が引かれ、豊かな田畑が出来、多くの民が働き始めていた。

鮮卑やキョウの民もいる。

そして何よりも。彼らの顔には、笑みがあったのである。

馬を寄せてきた?(ホウ)柔が、唸るようにして言った。

「魏の国政は上手く行っているようですな。 民の生活には平穏と豊かさがあり、我らの時代とは偉い違いです」

「その通りだ。 だが、この時代は長く続かないかも知れぬ」

「と言いますると」

「彼らはあくまで管理されているに過ぎぬからだ」

確かに民は明るい。だが、その働きには明確な決まり事があり、役人達がかなり細かい所まで指導している。その役人達も、明確な国家戦略に基づいて、畑を作り、水を引いているのだ。

少し離れてみると、その管理された様子が明らかだ。ある一角は豊かになっているのに、別の一角は荒野のまま。全体的に見れば、非常に豊かになってきているのは間違いない。少なくとも賊が出たり、異民族に脅かされることはないだろう。

だが、これは魏の上層部が全体的に見て清廉であり、政が上手く行っている事による豊かさだ。今は有能な人間達が国を動かしているから良いが、そうでなくなれば、この国は一気に腐敗し堕落していくことだろう。

蜀漢にも、同じ事が言える。諸葛亮が造り出した数々の法律と仕組みは、蜀漢を強くし、国内を安定させた。

皇帝である劉禅はそれをよく理解しているから、敢えて諸葛亮に全権を与えて、何もせず見守っている。諸葛亮もそれを受けて、全力で蜀漢のために働いている。一度馬超は諸葛亮の家に出向いたことがあるが、少し豊かな農家程度の規模しかなかった。一応妾も一人囲っているのだが、これは諸葛亮の妻がもう子供を産めそうにないという事で、劉禅が付けた者だという。

だが、この諸葛亮がいなくなれば、どうなるのか。

呉に関しては、一度見てきた。まさに歎息しか出なかった。完全に腐敗しきっている。幸い、現在は軍にまで腐敗は及ばず、荊州に駐屯している陸遜らが必死に自浄作用を働かせているようだが、それもいつまで保つか。張昭をはじめとする有能な政治家達がいなくなれば、完全に四家が好き勝手にするようになり、もはや国家の命運は尽きるだろう。陸遜も、いつまでもそれに抵抗し切れまい。ましてや四家出身の陸遜は、下手をすると外様以上に、腐敗官吏に憎まれているのだ。

いずれにしても、どの国にも欠点がある。

だから、馬超は考えを読まれていることを承知で、出てきたのだ。

驢馬に跨った老人が一人、此方に来た。馬超を見ると、老人は一声うめき、下馬した。抱拳礼をされたので、同じようにして返す。老人は涙を流していた。

「おお。 まさか貴方に、此処で出会えるとは」

「そなたの顔には覚えがある。 何者であったか」

「はい。 馬騰様に仕えていた、侍従の一人にございます。 血気盛んな馬超様に、何度も胆を冷やしました」

「そうか、そうであったな」

馬超も眼を細める。

記憶の中にあるこの老人は、まだ髪も黒く、腰も曲がっていなかった。今はすっかり老いて枯れ果てていた。

老人を引き合わせてくれたのは、先に入っていた細作達である。

馬超の目的は、知識の源泉である古老達、知識人達の間に、出来るだけ大きな情報、思想の網を作ること。それは、未来への布石。蜀漢、魏、呉の全てが滅びても、余程の天変地異でも無い限り、人が絶えることはない。

だから、人の間に網を作るのだ。

もしも権力が腐敗したり、大きな危機が訪れた時に、防波堤となるための、知識の網を。

最初これを思いついたのは、漢中で人々がつながるために、道の教えを用いていたことからだ。道はむしろ無知なる者達に対する救いを提供した。だが、知識ある者達の求めるものは、やはりなんといっても知だ。

諸葛亮にこの話をした時、面白いと返事をくれた。

多分、馬超がもはや蜀漢にも魏にも敵意も善意も無いことを、見抜いてのことだろう。

その上で、諸葛亮は馬超が使えると思ったのだ。だから細作の一部を貸してまで、その行動を後押ししてくれた。

古老の家にはいる。かって若き頃、馬超は村々の者達と多く交わるため、貧村にも頻繁に足を運んだ。その頃に比べると、ぐっと生活水準が上がっている。家には茣蓙があり、竈も古くない。鍋も、割れていないものが掛かっていた。そのほかにも、かっては考えられない備品が多数あった。

家自体も広い。馬超と大柄な?(ホウ)柔が、円座を組めるほどだった。

「馬超様は、どうしてこのような場所に」

「最早俺は戦を好まぬ。 だが、それは武具を使っての戦の話だ」

「ふむ、あれだけ猛々しかった馬超様が」

「そうだな、俺としても不思議だ。 かっての俺が今の俺を見たら、腰抜けだと思うかも知れん。 だが多くの戦を見て、俺も思う所があった。 どのような偉大な英雄が築きあげたとしても、国の寿命は決して無限ではない。 多くの兵士達が命を流して戦場で散っていっても、決してそれが未来を産む訳ではない」

戦いそのものは、きっと無駄にはならないだろう。

だが、それも。きちんと伝えることが出来れば、の話だ。

「俺は賢者達の間を周り、未来のために網を作っている。 洛陽では既に、七賢と呼ばれる男達と交流を結んできた。 辺境の賢者達も、望むのであれば他の地域の賢人と会えるように、最大限の努力をしている」

「それは、素晴らしいことです。 このじいやも、その賢者達に」

「ああ。 お前は昔から、西涼では並ぶ者のない知恵者だった。 今になって思えば、戦だ戦だと叫いている若者達の間で、唯一冷静だったな。 俺も昔はお前を蔑ずんだ事もあったが、今になってみれば恥ずかしいことであった」

孫らしい娘が茶を運んできたので、ありがたく貰う。

昔では、湯でさえ出てくるのが希だった。

「若様がそのようなことを仰るとは。 このじいやは、何時死んでも惜しくありませぬ」

「死んで貰っては困る。 長生きして、周りの者達にその知恵を授けてくれい。 決して腐るでないぞ」

「わかりました」

連絡方法を書いて渡すと、村を出る。

小走りでついてきた?(ホウ)柔が、追いつきながら、何度か振り返っていた。

「私も同感です。 若様の今の姿を見れば、西涼の死んでいった若者達も、皆が喜ぶでしょう」

「そのようなことはない。 俺は戦い以外の事の大切さに、気付くことが遅すぎた。 むしろ今やっとこのようなことをしているのが、恥ずかしくてならぬ」

足を止めると、南を見た。蜀漢に残してきた馬岱は、巧くやっているだろうか。

諸葛亮は、己の目的のためなら手段を選ばない所がある。国を巧く運営するためなら、不穏分子は容赦なく殺す。

少し前に、南蛮で反乱が起きたと聞いた。諸葛亮に粛正された者達が、破れかぶれになって乱を起こしたのだ。しかし張疑によく統率された南蛮の王達は反乱には一切荷担しようとせず、乱はすぐに収まり、首謀者達は皆殺しにされたという。張疑が出るまでもなく、反乱軍は自壊したような状況であったらしい。

多分、馬騰の時代であっても、西涼は諸葛亮の手でならば問題なく治められていたのだろう。今の魏以上に巧く収まっていたのはほぼ確実だ。

だが、諸葛亮の眼は全土に届き、逆らおうものなら確実に粛正される路が待っている。そして、諸葛亮の後を引き継ぐ為政者次第では、一気に地獄がその口を開けることだろう。現に今の蜀漢に、型破りな者はいないという。武人も文官も小粒な男ばかりで、そつなく諸葛亮の命令をこなせる者ばかりだそうだ。

覇王と呼ぶに相応しい存在が出れば、それでよい。

だが、曹操による統一がならなかった今、それも望めない。虎視眈々と中華を伺う複数の異民族勢力の事もある。

いずれ、この中華は再び大乱に墜ちる。

その時のため、馬超は救済の網を作っておかなければならなかった。

細作が、一人来た。そして、耳打ちする。

「洛陽近辺で、面白い噂を仕入れました」

「いかなる噂か」

「はい。 実は呂布の参謀だった男が、最近釈放されたそうなのです。 既に老境に入っており、無害だろうと判断されたからだとか」

「呂布の、参謀?」

馬超から見れば、一世代以上年上の相手だ。もちろん中華最強の名を恣にした魔王として、その存在は知っている。だが、呂布の参謀だと言われても、ぴんと来ないのが実情である。

「面白そうだ。 会ってみよう」

「既に約束は取り付けてございます」

「うむ。 相手の名は」

「陳宮というそうです」

それならば聞いたことがある。だが、まさか生きていたとは、驚きであった。

ずっと曹操に対する反骨を胸に抱き続けて、牢の中で生き延びたのだろうか。それならば、様々な話が聞けそうだった。

 

洛陽に向かう馬超を見下ろす影が二つ。

一つは林。

既に齢は五十を越えているにもかかわらず、まるで年を取る様子がない。幼い頃に、身体強化のために滅茶苦茶に摂取した薬品類の副作用だ。だが、精神の方の崩壊もまた著しい。

古参の部下達も、林の事は分からないと、周囲で噂しているという。まあ、林としてはどうでも良いことだ。この中華を滅茶苦茶にしてもてあそぶことが出来れば、それで良いのだから。最近は、思考の中に潜んでいる闇が、自分でも嗤えてくるくらいに血を求めてくる。たまに国境などに出かけては、村一つを丸ごと皆殺しにしたりもするのだが、林の仕業だと発覚させたことは一度もない。

もう一つの影は、一見すると腰の曲がった老人に見える。

だが、眼光が尋常ではない。

彼の名は、今は佐慈。かっては董承と呼ばれたこともある。漢中で独自の宗教勢力を作り、闇の薬を作成し、多くの人間を死と快楽の縁に追いやった男だ。天下を今だ求めているその眼は、馬超の背中に負の感情を視線として投擲し続けていた。

「不快な男だ。 民など愚かな存在で、そのまま愚かであればいい。 薬物でも情報でも何でも良いから、それで縛り上げ、管理するのが正しいやり方だ。 それを、古老の知識をつなげて、最終的な強さに結びつけようだと?」

「くくくくくく、まあいいではありませんか」

佐慈が吐き捨てる横で、林は嗤う。

この後の結果が、林には手に取るようにわかったからだ。もしも予見が外れるのなら、それはそれで構わない。

いずれにしても、馬超は絶望することになるだろう。林も、董承であり佐慈である男とは、同じ意見を共有していた。

佐慈は眼にぎらついた野望を、今だ滾らせている。多分この男の野心は、命果てるまで尽きることがないのだろう。それはそれで面白い。だから、その行動を見逃している。司馬懿に黙った上で、である。

「ところで、佐慈どの。 あの話は本当なのでしょうね」

「ああ、間違いない。 諸葛亮は死ぬ。 多分、数年以内だ」

「ほう」

「奴の侍医に接触した儂の信者がいる。 奴の話によると、諸葛亮は過労から体を壊しがちだったが、ついに肺を病んだらしい。 恐らくはもう、長くはいきられないだろうと言うことだ」

それは、重畳と呟くと同時に、何処かで寂しさを林は感じていた。

あの諸葛亮は、唯一林と対抗できそうな相手だった。それが死ぬとなると。

いや、殺してやりたい。

林の中で、殺戮者としての本能が蠢く。奴の周囲を固めている細作どもは面倒だが、此処で諸葛亮を殺せれば、歴史を一気に負の方向へ動かすことが出来るだろう。

統一など糞くらえである。人間など群小の国家に別れ、滅びるまで殺し合いを続けていればよいのである。それが林の掌の上なら、なお良い。そしてその予兆は、既に中華辺境から漂い始めている。

にやりと林は嗤い、口元を抑えた。

佐慈はそれをしらけた眼で見ていた。

「司馬懿に、今の情報を売るのか」

「ええ。 もっとも、あの盆暗にこの情報を生かせるかはわかりませんが」

「好きにせい」

老人とは思えない機敏な動きで、佐慈が消える。

林は少し言いすぎたかと思った。司馬懿は玩具としては面白い部類にはいるし、盆暗と言うには能力も高い。

いずれにしても、終焉が近いのは確かだ。

後は、呉か。

呉は合肥に散発的な攻撃を加えているが、満寵の守りは鉄壁を誇り、全くよせつけていない。荊州も陸遜と何名かの魏将達がにらみ合いを続けており、此方も状況は全く動いていないと言っても良いだろう。

「さて、詰めと行きましょうか」

林は呟くと、姿を消す。

既に三国の終焉は。彼女の脳内にて、完成されていた。

 

1、五度目の北伐

 

陳式は武都で、政務中に、成都で起こった政変について聞いた。李平の粛正と、南蛮での蜂起、それに鎮圧である。

武都の民からの訴えを机上に並べて、吟味をしていた陳式は、歎息する。

ついにこの日が来てしまったかと、陳式は思った。

前回、二ヶ月ほど成都に戻ったことがあった。陳到の墓参りと、政務と軍務のために戻ったのだが、その時に成都の不穏な空気を感じたのである。

誰もが、諸葛亮が蜀漢に必要なことを知っている。

だが、誰もが、ついていけないと思い始めているのだ。

今回の件は、氷山の一角に過ぎない。あまりにも能力が高い諸葛亮に管理される蜀漢に、それを嫌忌する空気が産まれ始めていたのだ。

陳式は諸葛亮が苦手だ。陳到も苦手だったようだが、最近その思考が写り込んだように、不信感が強くなってきている。

諸葛亮が、蜀漢最強の指揮官で、守護神と言って良い政治家であることは分かっている。だがそれでも、不満は鬱屈する。他にましな人材がいればと思う人間も出てくるだろうし、何より大きいのは、諸葛亮の北伐によって魏軍が蜀漢内に一切侵入できない状況が作られ続けている結果、戦の恐怖を忘れる存在が出始めてしまっているという事だ。

戦の恐ろしさを一度忘れると、人の戦闘能力は著しく低下する。

劉埼だった自身がそうだからよくわかる。陳式と名を変えて、体を鍛えに鍛えて、それでもまだ戦乱と政情不安の中で育った義父には及ばないという自覚がある。

ふと気付くと、執務室の入り口に、ライリがいた。

「陳式将軍」

「どうした」

「また戦ですか?」

「どうしてそう思う」

陳式が険しい顔をしていたと、ライリは言う。陳式は首を横に振ると、今回は違うと応えた。

妙に安心した様子で、ライリが用件にはいる。

「西の隊商達が、礼を言いに来ています。 治安が安定して、安心して魏に行けるようになったと」

「そうか、それは何よりだな」

陳式は方針として、税を取らずに、西の国々と中華を行き来する隊商を通している。最初反対意見も出たのだが、実際にやってみると効果は絶大だった。何しろ税を払う必要がないので、商人達が皆武都、陰平を通るのである。その結果、商人達の落とす金によって、周辺の経済は著しく潤った。

諸葛亮が最初提案してきたことだ。半信半疑でやってみたら、効果があまりに絶大なので、陳式の方が驚いてしまったほどである。こうして得た富を、半分は蓄え、残りは桟道を通して漢中に送っている。

蜀漢の経済力も、回復したという報告が入っている。もとより北伐での人的被害は最小限に抑えられているし、今回の件で、諸葛亮に対する反抗勢力も一掃された。過激派が全滅したというのが大きい。

撤兵することになり、諸葛亮は無念だったはずだ。だが、それでも、彼が得たものは、見かけ以上に大きかったのだろう。

さっきまだ戦はないとライリに応えたが、この様子では、近いうちに本当に北伐があるかも知れない。そして今回は、呉にも出兵させて、全力での攻撃が行われるかも知れなかった。

「彼らに会っていただけませんか。 礼をしたいという事ですから」

「分かった、良いだろう。 ただ、あまり時間は採れぬが」

陳式としても、暗い話ばかりだと気が滅入る。この間の北伐では、魏延と揚義の対立が著しく、何度も陣中で衝突する姿が見られた。揚義は理論家で様々な知識を持っている男だが、それに対して魏延は戦場と実務で地位を伸ばしてきた。名家と貧民、武人と文官という根本的な違いもあり、二人の仲は著しく悪い。一度などは魏延が剣を抜こうとした所を、陳式と廖化が体を張って止めたことさえあった。

夜、商人達と会った。

質素な屋敷の中で、十人ほどで円座を組む。珍しい酒と肴を出したが、ひょっとすると商人達にはありふれているのかも知れない。

彼らは血のような色の酒と、様々な干し肉類を出してきた。中には元の動物が一目でわかるものもあり、流石に戦場を駆けめぐってきた陳式も驚かされた。

商人達の中でも中心となっているのはターバンという布を頭に巻いている者達で、通訳がついて色々と話してくれた。インドや更に西の国々まで、彼らは行くという。そして、中華からは絹を持っていくのだそうだ。

「険しい旅であろう」

「それはもう。 私も通訳として途中まで行きましたが、何名もの隊商が途中で命を落とします。 賊は多く、場合によっては悪徳官吏によって、無為に命が奪われるようなこともあります。 絹の道の護衛と言えば、腕利きの中の腕利きしか務まりません。 私も多少は槍を使えますが、何度も危ない場面がありました」

だから、陳式のやり方には助けられている。此処は田舎なのに、賊も出なくて通りやすいと、通訳は言う。

陳式はそう言われても、喜べなかった。

「私のやり方は、本国の諸葛丞相によって指示されたものだ。 もし良ければ、そちらにも寄っていっていただきたいな」

「今度、是非寄らせていただきます。 蜀漢の絹については、西方にも名がとどろいております故」

そう追従されたが、陳式はにこりと返すだけであった。あまりこういう社交儀礼に、大笑いするような真似は得意ではないのだ。

「ところで、陳式将軍は、蜀漢の出身ではないと聞きましたが」

「正確には、荊州の出だな」

「荊州については、伺ったことがあります。 戦乱が続いているというのが、とても残念ですが」

「そうだな。 前にいた劉表という君主が、荊州を一気に豊かにした。 そのため、多くの人が流れ込んで、戦略的な価値が生まれた。 そして、それを奪い合う過程で、多くの血が流れたのだ」

劉表は。

父は、決して愚かな君主ではなかったと、陳式は思っている。

基本的な遠交近攻策は理解していたし、むしろ曹操と戦うことにも積極的だった。呉による情報宣伝によって愚劣だったようにされているが、実際には違う。むしろ、水準よりずっと優れた君主だっただろうと、思っている。

だが、その傑出したが故に。今、荊州は血の海になっている。蜀漢が手を引いた後も、日常的に魏と呉がぶつかり合っており、小競り合いに民は苦しみ続けている。

「早く中華が統一されると、我らも商売がしやすくなるのですが」

「まだしばらくは、統一の日は来ないだろう」

「是非将軍には、その時中華の軍事を担っていただきたいものです」

「そう、だな」

適当にあしらうと、酒宴を切り上げた。商人達が何か小声で話していた。後でライリに聞いた所によると、しみったれた屋敷だとか、不味い料理だとか言っていたらしい。苦笑しか浮かばなかった。

陳式としては、文化交流を働くでもない相手が、どう此方の悪口を言おうと知ったことではない。

ただ、この貧しい土地に、少しでも金を落としてくれれば、それで良かった。

数日後。

北伐の開始と、軍の出動の命令が来た。

ライリが悲しげに眉をひそめたが、こればかりはどうにもならない。陳式は兵を引き連れて、出撃することとなった。

今回は、一万一千に達する兵力を率いて出ることになる。諸葛亮の体調が良くないと言うこともあり、全力での出撃になるだろう。

これが最後かも知れない。

そう思い、陳式は武都を出た。多くの民が見送ってくれたのが、救いだった。

 

李平の息子である李豊は、父ほどではないが有能な男で、兵糧の収集も滞りなく行われた。

それにより、ついに蜀漢軍は、五度目の北伐を可能としたのである。

諸葛亮は最初の北伐の際、出師(出陣のこと)の表と呼ばれる名文を記して、劉禅に己の決意とこれからの国家戦略を奏上した。今もその決意は変わっていない。

変わったのは、年齢だった。

廖化が見る所、諸葛亮は老い始めている。既に年は五十代の半ばであり、健康的にも無理が出始めている。体は比較的大柄で頑健に見えるのだが、何しろ諸葛亮のこなしている激務は尋常ではない。

最近は董白が無理に負荷分散をさせているようだが、廖化から言わせればあまりにも遅すぎた。諸葛亮は既に肺に病を得てしまっているようで、それもどんどん酷くなりつつある様子である。

多分、諸葛亮もそれを自身で理解している。

故に、今回は最後の決戦という趣で、全力を尽くすつもりだろう。

蜀漢軍は今回、三万五千という所である。これに陳式の一万一千が加わり、四万六千が出撃することになる。

それだけではなく、呉も出陣する。孫権自らが、三十万と自称する軍勢を率いて出ることになっていた。

もちろんそんな数を、呉が動員できる訳がない。

実際には二万五千から三万五千というところで、それも合肥方面に、申し訳程度に出陣するだけである。ただ、諸葛亮も元々呉には期待していないようで、少しでも敵の戦力を引きつけられればそれでよいと思っている様子であった。

廖化自身は二千五百を率いる。ただし、今回は、出陣前に訃報が二つ重なった。

一つは関興である。

関興は前回の北伐時には既に体調を崩していたが、この北伐の少し前に命を落とした。病名はよくわからないが、元々からだがあまり頑丈ではなかったらしく、騎馬隊での激しい戦闘で随分体内を痛めていたらしい。

もう一つは張苞。

此方は、前回の北伐時、受けた小さな傷から破傷風に罹ってしまった。そして、それの発覚が剰りにも遅かった。

破傷風は非常に危険な病気で、移ることさえないが、悪化すると死ぬことも多い。張苞は名医が処方を尽くしたようだが、それでも助からなかった。

関興には陳式からすれば義理の従兄弟になる子がいたし、張苞は文官として弟が宮中に入っているから、家が絶えることはない。だが、英雄の子らがこんな時機に命を落とすのは、悪夢だとしか思えない事態であった。

馬岱が騎馬隊を受け継ぐことになり、六千。そして漢中の守りには、一万八千を率いて呉懿がつくことになった。ただ、呉懿は今回、手勢を率いて出陣する。呉の戦線にいる向寵は動かす訳にはいかないし、南蛮の統治を行っている張疑についてもしかり。今回は、念のために馬忠も南蛮に残していくという事であった。

今回、姜維と羅憲が、それぞれ千ずつを率いて、諸葛亮の近衛となっている。魏延は一万を率いて主力。残りは王平、張翼、高翔等の武将達が分散して率いることになる。いずれも優秀な兵士達であり、武将が仮に平凡であっても、それなりの成果を上げることが出来るはずであった。

木牛流馬により、高速での進軍が可能となった蜀漢軍は、瞬く間に桟道を越えて、陳式の軍勢と合流。四万六千は一丸となり、対応が遅れた魏軍の前線を次々に陥落させた。そして、五丈原に布陣したのである。

進軍、陣立て。歴戦を経た廖化から見ても、いずれも何ら問題がない。諸葛亮は諸将を集めると、多少顔色が悪い様子であったが、言う。

「今回で、長安を落とす」

「わかりました」

「敵将には最早張?(コウ)もおらず、若造ばかりです。 司馬懿は軍事的には凡庸に過ぎず、丞相の敵ではありません」

追従に、諸葛亮は応じない。

ただ、淡々と指示を出していく。

魏軍が布陣したのは、それから少ししてのこと。十五万の軍勢を堂々と押し出してきたのは、どういう心境の変化か。

敵の全線に渡る戦力は、二十七万。更に、魏帝曹叡が自ら十万を率いて呉に向かったと聞いて、全軍は戦慄した。

確かに、今回の戦いは。容易ならざる事になりそうであった。

「前回も大軍だったが、今回は二十七万だと。 我が軍の六倍か」

「前面に展開してきた十五万の動きも速い。 今までと違って、簡単には仕掛けられないだろうな」

陳式と、自分の戦慄を共有し合う。

長安に五万がいるとしても、敵の内七万は自由に動ける状態なのである。もしもそれらが一丸となって背後を突いてきたら、味方は負ける。

もちろん、今までの隠密機動によって、此方の恐ろしさは見せつけているから、単純な作戦は採らないだろう。

それにしても、である。

敵が何かしらの戦略的布石を打ってきたのは、露骨な兵士の質の変化から言っても明らかだ。流石に蜀漢軍兵士ほどの力量はない様子だが、それでも今までのような一方的な戦いは、もう出来ないだろう。

つまり、六倍の兵力差が、もろにでてきたと言うことだ。それを諸葛亮はひっくり返せるのか。

偵察に出ていた張翼が戻ってきた。

「敵の反応が鋭い。 もう少しで見つかる所だった」

「そうか、やはり容易ではないな」

「諸葛丞相はどう考えているのだろうか」

魏延が腕組みして唸る。

今回布陣している五丈原は、非常に補給がやりやすく、さらには大軍勢で決戦もしやすい。魏軍が乗ってくれば、一気に殲滅する自信が諸葛亮にはあるのだろう。だが、今までの作戦も、いずれも必殺の気合いをもって臨んでいたはずだ。それなのに、結局成果を上げることは出来なかった。

「諸葛丞相のせいではあるまい」

皆の心を読んだかのように、王平が言う。

高翔も頷いた。

「同感だ。 魏の人材が豊富で、司馬懿以外にも一線級の武将が多数いることが、此方の苦戦の要因だろう」

「思えば馬謖の失敗が痛恨だった」

「しかし、それを今言っても仕方があるまい。 それに、長安さえ落とせば、一気に勝ちの眼は出てくるではないか」

魏延はずっと黙り込んでいたが、やがて本陣に出かけていった。

 

2、東西魏風

 

ケ艾は大あくびをした。敵が仕掛ける気がないのが、一目でわかったからである。

最前線で一万を率いることになったケ艾。彼女の情報により、魏軍は飛躍的に強くなった。蜀漢軍の兵士から聞き出した訓練法を大々的に取り入れた結果、実戦経験はともかくとして、どの兵士も身体能力を以前とは比較にならないほど高めることに成功したからである。

そして、張?(コウ)の部隊の中核を為していた精鋭を、ケ艾の配下に組み入れることが出来た。彼らの戦闘能力はとても高く、ケ艾が配下として鍛え上げてきた部隊よりも、実力は明らかに上だった。彼らをしっかり活用できれば、陳式の率いている最精鋭とも、五分の戦いが出来るだろう。

そして今回は、鳥丸出身の二万が、軍列に加わっている。

長らく平和だった、魏の内部に移住した鳥丸とは違う。彼らは北方の鳥丸族の土地で、他の異民族達と小競り合いを繰り返してきた、生粋の戦士だ。司馬懿が并州の太守に話を通して、廻して貰った精鋭なのである。

荒々しい男達だが、彼らは司馬懿の周囲を直接固めている。指揮を執っているのは、同じく河北出身の郭淮である。知将として名高い郭淮の配下として鳥丸族の精鋭が入ったことで、その戦闘能力は飛躍的に強化されたとも言える。

そのほかにも、前回の戦いでケ艾が見た、蜀漢軍の強烈な秘密兵器である大型の連発式弩に対する備えもある。馬均によって開発させた大型の盾で、一回の射撃にどうにか耐えられる程度の性能しかないが、それでも今までの受けたら壊滅という状況よりも、遙かにマシだ。馬均は大型の連発式弩を此方でも開発できるように調整していると言うことで、もしも達成できれば、敵の優位は大いに揺らぐことだろう。

もう一つ大あくび。怪我から復帰した王桓が咳払いした。

「ケ艾将軍」

「あ、ごめんなさい」

欠伸をかみ殺して、眼を擦る。昼寝したいと思ったが、もう少し周囲を調べたい。この辺りの地形は以前調べたことがあり、地図にしてあるのだが。しかし二年前のことなので、彼方此方が微妙に変わっているのだ。こういった変化が、実戦では命取りになりやすいのである。

林の中を抜けて、平原の近くにまで出る。

五丈原は非常に広い平原で、敵味方合わせて二十万が激突するには適した戦場である。小さな川が流れていて、林や草原もあり、まるでこの世界の縮図のように美しい土地でもある。

ただ周囲が山に囲まれていて、此処にはいること自体が困難であるため、あまり活用はされてこなかった、というだけの事だ。

向こうに敵の本隊が布陣している。ざっと見た所、今回は、と言うよりも今の時点では、まだ敵は得意の兵力ごまかしを行っていない。訓練によって味方の戦力は大幅に増しているとはいえ、まだまだ力の差は大きい。二倍くらいの兵力であれば、敵は余裕で撃退してみせるだろうとケ艾は思っている。

つまり、二万か三万くらい敵兵が出てくれば、他戦線の戦力は撃破される可能性がある。あまり味方はその点でも、絶対的優位にいるとは言い難かった。

手をかざして敵陣を見つめているケ艾に、王桓が言う。

「そろそろ引き上げましょう。 敵に気付かれたら危険です」

「ん、もう気付かれてます」

流石に周囲が騒然とする。

敵はとっくに気付いている。多分陳式だろうが、櫓からこっちをじっと見ているのだ。ただ、この距離なら追いつかれない。もちろん伏兵が迫っている可能性もあるから、あまり楽観視は出来ないが。

「大丈夫、まだ追いつかれません」

「引き上げましょう」

「もう少し、見たいのですけれど」

「引き上げましょう」

有無を言わさぬ雰囲気だったので、ケ艾はがっかりしながらも、一旦陣に引き上げることにした。王桓はこう言う時は、絶対に引かないのである。そして王桓のやる気を削げば、戦いでは危なくなる。

天幕の中で兜を脱いで、鎧を外す。

家に残してきた?(カク)昭が心配だ。呆けがますます進行してきていて、正気でいる時間も減ってきている。しかし、時々とても有意義な事を話してくれる。筋肉質だった体も、今はすっかり痩せてしまっていた。

寝台でごろりと横になると、ぼんやり考える。

戦争なんか無ければ、みんなあんな風に、ゆっくり老いていくことが出来るのに。

ケ艾は、多分家で邪魔者扱いされながら、生きていくことになったのだろう。だが、それでも。戦争で大勢無為に人が死んでいくよりも、ずっとマシだったような気がする。ぼんやりしている内に、いつの間にか寝入っていた。気がつくと、夕刻になっていた。此処しばらくの激務で、疲れが溜まっていたらしい。

外に出ると、肌寒い。この間お給金で買った毛皮の外套を羽織ろうかと思ったが、兵士達はもっと寒い格好をしていることを考えて我慢する。多分この辺りも、諸葛亮の計算に入っているのだろう。兵士達はこのような環境では、著しく士気を減じる。例え、訓練を続けてきているとしても、だ。

陣を見回る。今のところ、ほころびの類はない。

四万六千の敵がどう攻めてくるかが、課題だ。減りはしたが、まだまだ好戦的な魏将は少なくない。彼らを宥めるために、司馬懿が苦労しているのを、ケ艾は知っている。夜になると、軍議の知らせが来た。王桓と一緒に、軍議に出る。既に将校にまで出世している王桓だが、まだ将軍達しか出られない軍議には出席できない。代わりに、天幕の外で周囲を見張って貰うのである。

席に着くと、司馬懿が青い顔をしていた。

ひょっとすると、部下達だけではなく、実家からも戦えと催促されているのかも知れない。彼の実家に、著しくガラが悪い連中が揃っていることは、既に周知となっている。司馬の八達とか八俊とか言われているが、実際には朗と懿以外は無駄飯食いの寄生虫、等という歌が洛陽で流行っているくらいである。

軍議が始まると、早速名門出の若い将軍が発言した。

「現在、陛下が呉に対して出兵を開始しています。 それに合わせて、我らも大攻勢に出るべきかと思います」

「同感! 敵はこの部隊のたった三分の一、しかもそれで全軍です! 一気に押しつぶしましょう」

「ならん」

司馬懿は静かに、だが確実にそう言った。

今回から蜀漢との戦闘に出てきている将軍の中には、諸葛亮の恐ろしさを知らない者も少なくない。実際、司馬懿も張?(コウ)も、諸葛亮との正面決戦では勝った事がないと言っても良い。一度馬謖という若造を叩きのめしたことはあるが、もしその場にいたのが諸葛亮だったら、勝ち目はなかっただろう。

郭淮が挙手する。

「もしも諸葛亮が仕掛けてくるとしたら、やはり陽動による撹乱戦術ではないでしょうか」

「それを逆手に取れば」

「ならん。 兎に角、絶対に動くな。 動きさえしなければ、この陣は敗れることがない」

それに関しては同感である。

この堅陣ならば、諸葛亮の戦術が如何に巧みであっても、数と数の勝負になってくる。長城のように連なった陣の内部は、複雑な構造になっており、多少夜襲や奇襲を受けたくらいで、全体は揺らがない。

今までの戦いで、散々諸葛亮に酷い目に遭わされた魏軍は、当然その用兵を徹底的に研究している。蜀漢軍が有している兵器群に関しても、である。その結果、組まれた陣だ。例え諸葛亮でも、正面からは絶対に突破はさせない。

しかし、それが味方を閉じこめる檻のように見えて、手柄を立てたくてうずうずしている名門出身の若い将達には不満なのだろう。ケ艾もまだまだ若いし、陳泰もそれは同じなのだが、彼らよりずっと若い頃から戦場に出て、指揮を執り、兵士達と暮らしてきている。だから、彼らの気持ちは何となく洞察することが出来る。

陳泰も腕組みして、面白く無さそうにしていた。

司馬懿は突き上げに耐えていたが、やがて言う。

「まず第一に、こういった高地での蜀漢軍は、数の三倍から四倍の活躍をする。 今まで張?(コウ)将軍を一とする宿将が、何度となく諸葛亮の戦術に煮え湯を飲まされてきたことを忘れたか。 お前達は曹真将軍や、張?(コウ)将軍よりも自分が優れているとでも言うつもりか」

「あの時とは事情が違います」

「その通りです。 味方はこの戦線だけで十五万に達していて、総勢で二十七万という大軍です。 それに対して、敵は全戦線でも四万六千。 押せば勝てるはずです」

「勝てん」

司馬懿は断言する。流石に鼻白んだ諸将に、郭淮が言う。

「私が敵が陽動を仕掛けてくるかも知れないと言ったのは、だから守りを固めようという意図からだ。 私も大将軍と、同じ意見だ」

「郭淮将軍まで」

「私もです」

ケ艾も挙手する。

既に一万を率いているケ艾を、馬鹿にする将軍はいない。若いながらも歴戦を重ねてきたし、それに普段はぼんやりしていても、兵士達も慕ってくれている。前のように侮られることは減ってきた。侮られることは何でもないのだが、それによって指示を受け付けない者もいて、それが頭痛の種だった。最近は反抗的な態度を取る部下が減ったので、ケ艾も嬉しい。

「あくまで戦場に限定されて、の話ですが。 今まで私が見る限り、諸葛亮の本領は、戦術にあります。 多少兵力が敵に勝っていても、簡単に勝てるとは思わない方がよろしいでしょう」

「し、しかし」

「とにかくならん」

司馬懿が締めて、軍議が終わった。不平満々の将軍達は、かなり数が多い。陳泰がむすっとしていたので、話し掛けてみる。

「陳泰、どうしたの?」

「俺も本音から言えば戦いたい。 だが、お前も反対なのだな」

「うん。 だって勝ち目ないもの」

「そこまで断言するか」

事実である。諸葛亮に正面から戦術を挑んで、勝てる将などこの世に存在しない。これは断言しても良い。陸遜でさえ二枚か三枚及ばないだろう。敵との兵力差が二倍以上離れていても、である。

諸葛亮は天才だ。

だが、だからこそ勝ち目もある。彼の手が及ばない、戦術以外の部分で、物量を武器に戦えばよいのである。

曹真が編み出してくれたこの戦い方を堅守することで、どうにか魏軍は、不世出の英雄を相手に、戦いを挑むことが出来ている。恐らく諸葛亮はその最後まで不敗だろう。だがそれでも、最終的に勝つのは魏軍だ。

それで良いはずである。

「しかし、そのような消極的な考え方で、本当によいのか。 武人としての誇りはないのか」

「陳泰の言うこともわかるけど、でも武人としての誇りと兵士達の命を天秤に掛けると、どうしても後者を優先しなければならないといけない、と思うよ」

「貴様は、どうしてそうなのだ!」

「だってわかるもん。 みんな命がけで戦場に来てるのも、家族をやしなったり、生活をするためなんだよ。 武人としての誇りも重要だけど、みんなが生きて家に帰ることは、もっと重要だよ」

多分、陳泰は名門出身だからわからないのだろう。土にまみれて、実際に国を支えている人達のことは。

しばし見つめると、陳泰はなぜか顔を赤くして視線を逸らした。そしてずかずかと自陣に戻っていってしまった。

 

張球、孫礼ら近衛の将軍を率いた魏帝曹叡が、十万の軍勢を引き連れて、徐州を南下していく。軍にいる許儀は、久し振りに戦場に出ることと、何より若々しい曹叡の戦姿に心ときめかせていた。老臣の中には、目頭を押さえている者までいる。

体が弱く、おなごのような容姿であることもあって、曹叡を侮る声は多かった。しかし、今軍は全く問題なく運営され、小賢しくも諸葛亮の攻撃に合わせて北上してきた呉の軍勢を迎え撃つべく、一糸乱れぬ行進を見せている。無能な指揮官の下では、露骨に士気が下がるものだが、それもない。

曹叡が乗っている大型の馬車は、天子が乗るものであり、「龍車」と呼ばれる。曹叡のものは、もしも周囲に敵兵が群がっても撃退できるように、小さな櫓ほどもある規模のものであり、場合によっては前線に出ることさえも出来る。

許儀は馬で周囲を見回り、時々龍車の中に入って曹叡の様子を確認した。曹叡は無理をしすぎないようにと、文官達に口を酸っぱくして言われ、ある程度の負荷分散もしている。許儀が見る所、思ったほど疲弊は酷くないので、安心した。

「許儀、どうした」

「見回りに来ました」

「この辺りは味方の勢力圏だ。 敵はおるまい」

「いえ、その油断は危険にございます。 前々回の対蜀漢戦でも、大将軍司馬懿は味方の勢力圏で、諸葛亮の奇襲を受けて大きな被害を出しましてございまする」

そう正論で指摘すると、曹叡は破顔した。

だいぶ背も伸びてきたが、まだまだやせ形で、容姿はおなごのようである。ただし最近は武芸もするようになってきて、健康な生活を心がけているためか、腕力も昔ほど貧弱では無くなってきていた。

ただ、やはり油断すると「彼女」が出てくる。そうなると何をしでかすかわからないので、気は抜けなかった。

「そうか、そうだな」

「いざというときは、私が身を挺して陛下をお守りいたします。 陛下は此処で、どんと構えておいでください」

「分かっている。 そなたがいるから、朕は此処で安心して政務を行える」

嬉しい言葉だった。

しかし、既に肌寒い。一旦外に出ると、陛下が体を冷やさないように、ついてきている侍従に指示。自身は先鋒の将軍達と話して、敵の状況を仕入れた。

今回敵は、孫権が直接指揮して、前線に出てきている。蜀漢の攻勢に合わせて、合肥を落としたいというのは本音なのだろう。

だが、合肥には満寵がいて、駐屯兵力も充分である。敵の兵力は恐らく合肥方面に展開している二万に加え、孫権が率いて出てくる実数三万程度だが、此方は合肥だけで五万。更に、曹叡が率いる十万が加わる。もちろん荊州方面に展開している陸遜が支援のために動くだろうが、それでも充分な戦力差が見込める所だ。

しかし、少数で常に魏軍を翻弄し続けた諸葛亮を例に出すまでもなく、敵を侮るのは危険だ。今から気合いを入れて臨まなければならなかった。

 

孫権は苦虫をかみつぶしていた。

合肥方面に出撃してきたまでは良かった。だが、まさか魏帝が直接出てくるとは、予想の範囲外だった。

しかも敵は近衛を中心に十万だという。はっきり言って、勝負になる兵力ではなかった。

この間ついに身罷った徐盛を例に出すまでもなく、味方の人材は著しく減りつつある。荊州には陸遜、朱桓がいるが、それ以外は小粒な武将ばかりだ。理由は簡単。四家が、自分に反抗的な武官を、根こそぎ粛正してしまったからである。

今や軍には、特に揚州方面の軍には、四家の息が掛かった者しかいない。

そしてその地位は、如何に四家に対して媚態を尽くしているかで決まってしまっているのだ。

軍の指揮を執っているのは丁奉。能力的には悪くないが、しかし蜀漢との死闘で鍛え上げられた魏の武将達と比べると、だいぶ劣るというのが、孫権の素直な感想だ。韓当も長年の疲弊が祟ってもう戦場には出られないし、程普も少し前に老衰死した。藩璋は血の気が多いばかりで戦術戦略が無く、部下達も破落戸同然である。呂範は近年荊州南部に回った。多分、揚州の状況に嫌気が差したのだろう。

そして兵の質も問題だ。

無茶な山越狩りで兵力を増やしてきているが、それでも限界がある。漢人に対してあまりにも山越の兵力を増やしすぎると反逆される可能性もあるし、何より彼らは漢人を快く思っていない。このため守勢に回ると非常に脆く、勝ち戦でもあまり積極的に戦おうとはしなかった。

二重苦、三重苦を抱えた中での出兵である。

それでも、孫権が直接出てきていることで、最低限の士気は保たれていた。だが、既に兵士達の間には、敵が三倍の戦力で押し寄せてくると言う噂が流れ始めている。これでは、味方が戦わずに潰走してしまう可能性さえあった。

良いことが、無い訳でもない。

近年荊州の南にある交州を制圧することに成功した。元々人口は少ないが、民は反抗的で、なおかつ強い。兎に角治めにくい土地で、どうにか制圧に成功したというのが正しい。これにより、多少呉の経済力は増している。全力であれば、二十万程度の出兵も可能だろう。

そして、東の海に浮かぶ幾つかの島を制圧すれば、更に二万程度兵を増やせるだろうという試算も出てきている。山越からの搾取が限界になってきている今、これらの方策で、どうにか魏との力の差を埋めなければならなかった。

合肥方面の軍勢と合流。どうにか味方は五万にふくれあがった。水軍も呼び寄せて、更に一万。しかし、これで合わせて六万。

ほどなく、敵の先鋒が姿を見せる。噂通り、兵力は十万。蜀漢方面にも大軍を派遣しているという噂だが、それにしても凄まじい国力だ。魏と呉を同時に相手にして、それぞれを圧倒できるだけの物資と国力が、魏には備わっている。

しかも、孫権が見た所、曹叡の軍才はなかなかのものだ。戦下手だった父曹丕とは違い、どこでどうすれば勝てるのか、本能的に悟っている節がある。陣形も堂々たるもので、奇をてらうことなく、正面から数で押しつぶしに来る体勢に入っていた。

「此方も陣を敷け」

「しかし、陛下」

「黙って言うとおりにしろ!」

ついどなり、部下を萎縮させてしまった。

近年、妙に怒りっぽくなっている。この間部下が持ち込んだやたらと旨い酒を飲み始めてからである。しかも異様に後に引く味で、なかなか止められない。

とりあえず、水軍を後方に、味方は陣を敷いた。

それが遅くて、孫権はまた怒鳴ってしまった。

 

軍議は騒然とした。

近衛の兵士達を前にして、曹叡は驚くべき提案を行ったのである。

「奇襲を行う、ですか」

「そうだ」

孫礼が立ち上がる。河北出身の彼は近衛の兵の中でもとびきり勇猛で知られているが、元は文官の出身である。多方面に優れた才能を持つ人物であり、用兵に関しても優秀だ。魏の人材が、如何に層が厚いかを、示している男でもある。万能の秀才という言葉が、これほど似合う男もいないだろう。

太守、刺史には彼のような男がごろごろしている。魏はそれだけ豊富な人材を抱えているのだ。

「陛下、それならば、正面からの奇襲よりも、敵後方への奇襲が効果的かも知れませぬ」

「ふむ、申してみよ」

「敵の水軍の一部が後方で訓練をしておりますが、細作の報告によりますと、勢力圏にいるということで油断しきっている様子です。 これを叩けば、敵は動揺すること疑いありませぬ」

「なるほど、孫礼の言や良し!」

曹叡が立ち上がると、他の武将達も皆昂揚を顔に湛えて立ち上がった。魏軍は、これから攻勢に出る。

そして許儀は、涙がこぼれるのをこらえるのに、必死になっていた。これぞ、我が主君の晴れ姿だからだ。

「張球」

「はい」

まだ若い将軍である張球が立ち上がる。彼は名門出ではなく、苦学して成り上がってきた男だ。能力は全体的に小粒だが、そのねばり強い性格には定評がある。

「お前は五千を率いて孫権の本陣を夜襲せよ」

「わかりましてございまする」

「良いか、これは敵の眼を引きつけるのが目的だ。 それ以上のことは一切考えずに、ただ攪乱だけを続けよ」

頷いた張球に続いて、曹叡は他の武将にも指示を出していく。

「孫礼は、今話題に上がった敵水軍を叩け。 兵力は二万。 良いか、容赦なく、徹底的に焼き尽くせ。 呉の主力は水軍で、しかもそれなら魏に勝てるという驕りがある。 その鼻柱を徹底的に折り砕いて、目に物を見せてやれ」

「ははっ!」

孫礼が歓喜の声をあげた。無理もない。

苦学してきたと言うことで、散々悲惨な生活を経験しているという噂である。この晴れ舞台を用意して貰って、嬉しいのだろう。

更に満寵にも指示が出される。既に老境に掛かっているが、怪物的な精力で合肥を守り続けた宿将は、曹叡の成長を許儀同様、心から喜んでいる様子であった。

「そなたは四万を率い、張球による敵水軍の奇襲にあわせて、敵の本隊を東から徹底的に叩け。 出来れば水軍との連携を遮断して、敵陣に出来るだけ派手に火を掛けよ」

「わかりましてございまする」

「孫権を此処で討ち取れば、一気に呉を滅ぼすことも可能だ。 皆の者、全力を尽くし、敵を屠り去れ!」

「応っ!」

諸将が立ち上がる。

抱拳礼をしながら、ついに許儀はこらえられなくなり、涙を流していた。

勇んで諸将は飛び出していく。涙を乱暴に拭いながら、許儀は戦況を、曹叡のすぐ側で見つめた。

侍従が温かい外套を曹叡に掛ける。無用と曹叡は言うが、許儀は敢えて言った。

「戦場では気が昂ぶります。 後への負担を避けるためにも、此処は外套を羽織りください」

「そうか。 分かった」

南で、火の手が上がる。軍事調練をしていた敵の水軍に、孫礼が火を掛けたのだ。明々と燃え上がる呉の軍船。

そういえば、呉がしきりに宣伝している「赤壁の戦い」では、魏軍の水軍があのように燃やされたとか言う話だ。大嘘である。これ以上の攻勢が難しいと判断した太祖曹操が、敵に捕獲されるのを避けるため、船に火を放って撤退しただけだ。

「良し、張球による奇襲は成功したようだな」

「お見事な用兵にございます」

「許儀、そなたが追従を言うとは」

「いえ、本心にございます。 父君も太祖様も、きっとお喜びにございます」

これは冗談でも何でもなく、本音からの言葉だ。許儀の言葉を聞いて、涙を流している侍従も少なくなかった。

程なく、満寵の猛攻が開始され、敵は明らかに怯み始めた。曹叡は馬に跨ると、指揮剣を振るった。

黄金作りの太刀が、夜の闇の中、煌々と光を放った。

「総員、突撃せよ! 敵を合肥近辺から追い払え!」

全軍の兵士達が、雄叫びを上げた。

 

諸葛亮の元に、呉軍の敗退が伝わった。流石に青ざめた諸葛亮は、拳を机に叩きつけていた。

此処まで激する諸葛亮を見るのは珍しいなと、陳式は思った。

呉軍は壊滅的な打撃を受け、合肥近辺から一掃されたという。しかも今回は水軍をあらかた燃やされるという悲惨な敗退によって、軍の半数近くが脱出し遅れて討ち取られるか降伏するかしたそうである。

孫権は幹部達とどうにか江東に逃げ延びたが、しばらくは攻勢どころではなく、守りを固めるのが精一杯だと言うことであった。それはそうだろう。蜀漢の倍程度の兵力動員を可能としていると言っても、魏軍はそれ以上である。その圧倒的戦力差を生かして、徹底的な攻撃を仕掛けられたのだ。全滅しなかっただけでも幸運だと思わなければならないくらいである。

だが、それにしても。もう少しましに戦えなかったかという諸葛亮の怒りは、陳式にも十分理解できる。敵が大規模な増援を繰り出してくるくらい、予想の範疇だっただろう。孫権も、老い始めているという事なのだろうか。

「敵は動かぬか」

「全く、動く様子を見せません」

「丞相、攻撃を仕掛けましょう。 このままでは、呉を叩いた十万が敵に加わるのではないのでしょうか」

揚義が寝言をほざいたので、魏延が鼻で笑った。

「馬鹿か貴様は」

「な、何ですと! 如何に魏延将軍が蜀漢の宿将であろうと、言葉が過ぎましょうぞ!」

「よせ、揚義」

「し、しかし丞相!」

陳式は歎息すると天幕を出た。このままだと、諸葛亮に何かあったら、あの二人は確実に血を見ることだろう。

廖化が前線から戻ってきた。

「どうだ、廖化」

「うんともすんとも言わんな。 いろんな悪口を部下に言わせてみたが。 血の気が多そうな武将もいるが、しっかり司馬懿に押さえ込まれている印象だ」

「司馬懿は諸葛丞相には及ばないにしても、やはり無能とはとても言えぬな」

「ああ。 今まで丞相が見せてきた、戦術の妙技が、今は逆に足かせになってしまっているわ。 もしも此処で丞相以外の指揮官が蜀漢軍を率いているのなら、敵はのこのこ出てくるだろうに」

心底残念そうに廖化が言った。

魏は今までの戦いで、多くの将兵を失っている。曹真を一として、王双、張?(コウ)、牛金、それに王朗など。いずれも魏を支えてきた一線級、或いは二線級にしてもその上位の武将ばかりだ。

だからこそに、魏は諸葛亮を恐れている。

そしてそれが故に。正面に展開しているだけでも三倍の兵力であっても、下手に出てくることはないのだ。

「敵陣に隙は」

「それもないな。 例のケ某だったか」

「ケ艾らしい」

「そうそう、ケ艾だ。 奴がしっかり全陣を見張っているんだろう」

既に細作達によって、ケ艾がどうやら地形を読む能力を持っているらしいと言う事は、蜀漢でもつかんでいる。陣を的確に張ったり隙を見抜いたりするのも、それに起因しているという事も。

ケ艾自身はおっとりした面白い女らしいのだが、軍属にいる理由はよくわからない。或いは、何か体に決定的な欠陥があるのか、或いは上層部にいる軍人と人間的なつながりがあったのか。いずれにしても、面倒な相手だ。

さっきの揚義がほざいたようなことはまずあり得ないが、戦いがあまりにも長期になれば、それも冗談では無くなってくる。魏軍の底力は流石に尋常ではない。これだけの大軍を動かして、まだ息切れする様子がないのだから。

「どうにか一回勝って、味方の勢いを増したいのだが」

「それは難しい。 あの堅陣に無理な攻撃を仕掛けても、被害を増やすだけだ」

陳式や廖化では、どうしても良い知恵は出ない。

程なく、天幕から、揚義が現れた。手に大きな贈り物を持っている。

「なんだそれは」

「諸葛丞相から、司馬懿への送りものです。 必ず諸将の前で開けるように、との事です」

陳式と廖化は顔を見合わせる。

なにやら、いやな予感がする。諸葛亮は陳式や廖化以上に焦っているのではないのか。そう、思えてしまった。

 

3、迫り来る足音

 

司馬懿は、あまりのことに呆然としていた。

目の前で開けられた諸葛亮からの贈り物には、女物の衣服が一式入っていたのである。化粧道具まで添えられている有様だ。しかも、一人きりの時に見せられたのではない。周囲に諸将がいる所を狙って、ケ芝は贈り物を披露したのだった。

狙いも計画も、明らかすぎる。ケ艾は固まっている司馬懿が気の毒になったが、あまり着たことがなければ縁もない高級服を見て、ちょっと心が動いていた。

「わ、高級そうな服」

呟いたケ艾の肘を、隣にいた陳泰が小突いた。司馬懿は流石に固まった後怒りに青ざめ、他の武将達は屈辱に震えていた。

わざわざ説明するまでもなく、意図は簡単だ。

そなたはそれでも武人か。六分の一の相手に怯え、陣の中に潜んでいるのでは、いくさを恐れる婦女子と同じではないか。

これは別に婦女子を馬鹿にしている行動ではない。司馬懿という男の、武人としての部分を馬鹿にしたものである。

額に青筋を浮かべた司馬懿は、しばし黙りこくっていた。諸将は目配せしている。合図さえあれば、即座にこの無礼な使者を膾に斬り捨てようと言うことだ。ただ、一人ケ艾だけは、欠伸をしていた。

「貴様、どうしてそうも冷静なのだ」

「だって、展開が見えてるもーん」

司馬懿は引きつった笑顔を使者に向けると、立ち上がった。

手は剣に掛かっていない。そればかりか、どうにか声を抑え、いじらしく必死に震えも押し殺していた。

「こ、これはなかなかに洒落が効いた贈り物であるな。 者ども、せっかく来てくれた使者殿をねぎらう宴を準備せよ」

「大将軍!」

「このような侮辱を受けて、黙っていろというのですか!」

「宴を準備せよっ!」

司馬懿はかなり大きな声で言い、流石に諸将も黙り込んだ。使者としてきたらしいケ芝は、その様子を静かに見つめていた。噂通りの冷静な人物である。呉との外交でも活躍し、趙雲の死後もその部隊を過不足無く運営していると聞くが、なかなかに万能かつ肝が据わった男のようであった。

諸将の不平満々の中、宴が準備される。引きつった顔の諸将の中で、唯一ケ艾だけが満面の笑みを浮かべて、山海の珍味を頬張っていた。隣に座った陳泰が、呆れたように言う。いや、事実呆れていたのだろう。

「お前は屈辱を感じないのか」

「感じないよ」

「お前も武人だろうに」

「武人だけど、でも相手の考えていることが何となくわかれば、それで怒る気にはならなくもなるよ」

出された茶を飲み干す。あまりこういう場で酒は飲みたくない。

ケ艾にしてみれば、諸葛亮が追い詰められてきているのがわかる。司馬懿の軍勢を脅威に感じているのではないだろう。このような手で、「司馬懿以外」の諸将を挑発している事自体が、その証拠である。

補給については、前回蜀漢軍は克服した。

兵力差については、諸葛亮にしてみれば、別に苦でもないのだろう。実際、こうやって出撃を促しているくらいなのだから。

そうなってくると、諸葛亮が焦る理由は何か。

その時、司馬懿がケ芝に質問をした。

「時に諸葛亮どのは、どのような仕事ぶりなのですかな」

「朝は誰よりも早く、夜は誰よりも遅く。 公平無私で、兵士達一人一人の事にまで気を配っておいでです」

「あ、そうか。 なるほど」

司馬懿は流石だ。意図がすぐに読めたケ艾と違い、陳泰はちんぷんかんぷんらしく、小首を捻っていた。

宴がしらけた雰囲気で終わると、翌日ケ芝は手ぶらで帰っていった。

そして諸将を前に、司馬懿は言った。

「持久戦を続ける」

「何と! あれほどの屈辱を受けたというのに、ですか!」

「諸葛亮の健康が、長くは保たないという判断ですね」

「そうだ。 ケ艾の言葉通りだ。 昨日、ケ芝と私の会話を聞いていた者もおろう。 あれの意味は、諸葛亮がどのような生活態度でこの戦場に臨んでいるか、聞き出すための言葉だったのだ」

我が意得たりと、やっと司馬懿が満面の笑みを浮かべる。ずっと気の毒な様子だったので、ケ艾は少しほっとした。

諸葛亮は長身で体も普通よりは頑健だという。

しかし、さっきケ芝が言っていた生活を本当にしているとなると、その生活は激務に次ぐ激務であろう。確かに諸葛亮の能力は常人離れしているし、その生命力が高いのも事実だろう。

だが、人間である以上、限界はあるのだ。

そう言えば以前の蜀侵攻でも、諸葛亮が倒れたのではないかという噂は何度か上がった。考えてみれば当然である。軍を全て動かしているだけではなく、蜀漢の政の大部分までもを、自分で処理しているのだろうから。

それらを司馬懿が説明すると、若い将軍が反抗的に反論する。

「それで、諸葛亮が倒れるのは、何時のことなのですか」

「知らん。 だが、私が倒れるよりは先だろう」

「そのようないい加減なことで、戦に勝てるのですか!?」

「言葉が過ぎようぞ」

郭淮が咳払いすると、手を叩いた。司馬懿の近衛が、その将軍を拘束する。懲罰牢に連れて行くのだ。

司馬懿は咳払いをすると、皆の顔を見回した。

「どうやら、私の命令だと、納得できぬものもいるようだな」

「……」

「ならば、陛下に判断を仰ごう。 丁度呉を叩きのめして、洛陽に凱旋しておられる所であろう。 出撃か否か、陛下の判断であれば、従うのであろうな」

虎の威を借る狐という所だが、上手な使い方でもある。

流石にこれには諸将も何も言うことが出来ず、黙って行方を見守った。

 

廖化と陳式は、一万五千を率いて、司馬懿軍の拠点の一つを急襲。、蹂躙して、ほぼ全滅に近い打撃を与えた。敵の身体能力は以前よりぐっと上がっているようだが、それでも奇襲を仕掛ければこんなものである。

五千ほどいた敵は排除した。要塞も焼き尽くし、物資は全て奪った。

司馬懿軍が戻ってくる前に撤退したが、敵はすぐに補強の兵力を出して、戦線を再構築。また、反撃に出ようという気配もない。徒労感とともに本陣に戻ってきた陳式は、部下達から興味深い話を聞いた。

「陳式将軍。 司馬懿が、詔勅を仰いだそうです」

「ほう?」

「出撃するべきか否か、自分では決められないからと」

部下達に、相手を侮る空気を感じた陳式は、怒るか宥めるか迷ったが、先に廖化が激発した。

「たわけが」

「廖化将軍?」

「そんなもの、時間稼ぎのために決まっているだろう。 司馬懿は曹叡に、恐らく戦うなと言う指示を受けて出てきているはずだ。 部下達を宥める意味もあるだろうが、此方との交戦を遅らせるための時間稼ぎのために、許可を求めているに過ぎんわ」

「その通りだ。 司馬懿は狡猾な男よ。 もちろん魏帝もそれを承知で奴を使っているのだろうが、諸葛丞相より劣っていると言うことで、お前達が侮る理由にはならん。 手強い相手だと、心せよ」

しゅんとした部下達を、慰める意味で、適当に色々と褒めておく。

本陣に向かうと、諸葛亮が四輪車に乗って、天幕から出てくる所だった。周囲を固めている護衛の中に、背の高い山越の娘がいるのを確認。何か重要な情報が入ったのかも知れなかった。

抱拳礼をして、陣を出て行く諸葛亮を見送る。廖化も同じようにしていたが、その後ろ姿が見えなくなってから、ぼやく。

「見たか。 眼の下に、隈ができていた」

「ああ。 無茶な生活をしているらしいからな。 無理もないだろう」

「細君が相当に負荷分散をしているらしいが、それでも足りないらしい。 軍務であれば、我らに一任してくれれば良いものを」

「……ああ、そうだな」

局地戦なら、陳式にも自信はある。ケ艾以外の相手であれば、二倍、三倍程度までなら苦もなく蹴散らしてみせる。

だが、広域の戦略となると、陳式や廖化に判断は無理だ。そして呉があっさり敗退した今、諸葛亮の戦略的負担は嫌が応にも増している。せめて諸葛亮の半分程度の知性でもある人間が、細君以外にもう一人でも周囲にいれば。

揚義は実務家で言われたとおりの計画をこなすことに関しては達人的だが頭が根本的に悪いし、魏延は傲慢で我道を通す所がある。呉懿は温厚で人望篤いが知恵の泉湧くような人間ではない。王平、陳式、廖化はいずれも戦闘屋だ。この中で王平は若干視野が広いが、多分漢中太守以上のことはこなせないだろう。向寵は本人の異様な人間性もあって人望が殆ど無いし、ケ芝は万能だが万軍の指揮官という風情にはない。そして張翼や高翔では経験が足りない。同数の魏軍となら互角以上に戦えるだろうが、それ以上の相手は難しい。

姜維や羅憲は諸葛亮の子飼いとして働いているが、いずれも優れていても、全軍の上に立つのは難しい所がある。若すぎるし、何より歴戦の将軍達が力量を認めていない。姜維に関しては陳式も眼を見張るほどの実力があるが、それでも若年過ぎる事が大きい。

結局、誰にも諸葛亮の補佐は務まらないのだ。

「今の内に休んでおこう」

「そうだな。 いつ、魏との交戦があるかわからん」

兵士達の士気は、保てている。

戦がない時に士気を保つ訓練は、散々してきたからだ。だがそれにしても、こう張り合いがないと、此方が先に鈍ってしまいそうだ。

思えば、諸葛亮は型破りな人材を嫌ってきた。小さな蜀漢の秩序を保つためには仕方がなかった部分もあるのだろうが、廖立のような型破りだが有能な人材は重く用いられず、結局組織から弾き出されてしまった。

三国の情勢が安定してからというもの、荊州から蜀漢に流れ込む人間も減ってしまい、魏ばかりが人口と安定を増している傾向にある。此処でどれだけ戦っても、その流れは変えられないように思えてしまう。

保てていないのは、自分たちの士気ではないのか。

陳式は、そう思えるようになり始めていた。

翌日、また出撃命令が下った。一万を率いて出た陳式は、敵の要塞の一つを半刻ほどで蹂躙。三千を超える敵兵を討ち取ったが、冷静に敵は損害を補強。また、徒労感に包まれながら戻ることになった。

陽動の攻撃が激しく行われる一方で、蜀漢軍は確保した土地で屯田を行い、物資を更に補強しつつ、そう望む住人を蜀漢に送り届けていた。元々蜀漢の協力者はこの辺りの土地に多いし、今も増えているのだろう。

だが、蜀行きを希望する民は、目立って減りつつある。

更にもう一度の出撃で、敵の要塞を粉砕してきた陳式。敵の兵三千ほどを討ち取り、更に多くを負傷させた。出撃してきた一万ほどを野戦で打ち破ったからだ。だが矢は尽き、鎧もかなりが損傷した。人的被害は少ないが、いつまでもこう派手な陽動は続けられない。そればかりか、敵は更に守りを固めてきており、末端に到るまで隙が小さくなり始めていた。

どっしり構えた山を、少しずつ人力で崩しているかのようだ。

疲れて戻ってきた陳式に、軍議で諸葛亮は言った。

「もう良い。 これ以降は、味方も兵力を減ずるだけよ」

「わかりましてございまする」

「丞相、西涼への侵攻をお許しいただけませんか」

馬岱が挙手する。他の武将達も注目する中、馬岱は周囲を見回しつつ、己の意見を披露した。

「今、敵の防衛線は長大に伸びており、天水の突破は難しくありません。 五千の別働隊をいただければ、天水方面の敵を蹂躙し、西涼を手に収めて見せます。 そうすれば、鮮卑の強力な騎馬兵団を膝下に治めることが出来、一気に兵数の差を埋めることが出来ましょう」

「机上の空論だ」

諸葛亮が一蹴した。その眼の下には、隈ができはじめている。

陳式が各地を駆け回って敵を打ち破っている間も、相当な激務を続けていたらしい。噂によると、吐血したとも言う。

「兵糧の問題は解決したが、西涼の軍勢を一気に手に入れても、それを維持するのは流石に難しい。 例え兵が五万増えても、それで短期間に魏を打ち破るのはかなり困難だ」

「丞相、私も馬岱の意見に賛成です。 このままだと、魏は更に増援を繰り出してきて、兵力差は増える一方でしょう。 長安を手に入れてから、労せずして涼州、擁州を手に入れようという戦略については、私も理解しているつもりです。 しかし魏軍がヤドカリのように城や陣に籠もってしまっている今、打開策はやはり後方、敵領地での大規模な攪乱以外に無いと思います」

陳式の意見に、王平も廖化も賛成した。

腕組みして様子を見ていた魏延は、彼には珍しい意見を言った。

「俺は反対だ」

「魏延将軍?」

「確かに今のところ、駐屯軍を養う兵糧は充分にあるが、味方が急激に膨張した場合、それを支えるのは無理だろう。 ましてや、兵糧を今管理しているのが李豊の若造と、無能なそこの盆暗ではな」

「なっ! 無礼でありましょう」

叫いた揚義を視線だけで一蹴すると、魏延は、実は更に強硬な意見を言った。

「丞相、今こそ長安を奇襲すべきかと思います。 前面に展開している敵二十万をどうにかして足止めし、その隙に全軍で長安を奪い取りましょう。 長安の情勢は、兵糧倉庫の役人の名前まで私が把握しています。 今なら、駐屯している兵士も新兵ばかり。 必ずや落とすことが出来ましょう」

「ならん。 司馬懿はこの間のケ芝の報告を聞く限り、かなり成長している。 そう簡単にはいかん。 今は時を待て」

「丞相、貴方にはその時がないのではありませんか」

魏延の指摘に、一瞬だけ諸葛亮は眉をひそめた。

だが、意見を変えることはなかった。

 

要塞が又一つ粉砕され、三千以上の兵力を失った。敵の戦闘能力は流石だ。積極的に動いている敵は一万ほどのようだが、末端の戦線は手も足も出ない。

しかし、魏の諸将は出撃できない。

ついに、勅命が来たからだ。

勅使が恭しく読み上げた紙の書類に書き記された、その帝のありがたい言葉は。平伏する魏将達を打ちのめしたのである。

「司馬懿大将軍は朕の代理にて、全軍を統括するに相応しい賢者である。 諸葛亮と対戦するに、司馬懿以外の男の判断はむしろ有害。 故に、司馬懿の意見を良く聞き、諸将は敵の挑発に乗らぬようにせよ」

若手の将軍達は、血を吐きそうな顔をしていた。外に出て、剣を地面に叩きつけ、へし折った者までいた。

ケ艾は外に出ると、櫓に登る。なぜか陳泰が王桓と一緒についてきた。

「どうしたの?」

「お前こそどうした、急にそんな事をして」

「だって、多分これで状況が動くから」

手をかざして、遠くを見る。蜀漢軍は恐らく、そろそろ痺れを切らす。

多分凡将なら、西涼に侵攻軍を出して、魏の攪乱に移るはずだ。或いは長安の直撃を狙ってくるかも知れない。

しかし司馬懿は、それらの全てに対策を練っている。

例えば西涼に関しては、既に多くの細作が入り込んでいる他、何より民の生活が抜群に安定している。西涼は最早かっての魔境ではない。安定した生活をしている民は、馬岱辺りが如何に扇動しても、簡単に魏に反乱を起こすことはないだろう。鮮卑の騎兵は脅威になるかも知れないが、それも限定的だ。

長安に関しても、何名かの守将は堅守を徹底しており、兵士達の訓練を急速に行っている。例え蜀漢軍が何かの間違いで全軍長安に押し寄せたとしても、一月は耐えることが可能だ。その間に、残る魏軍二十万は、一気に漢中に乱入し、敵国を過去の存在とすることが出来るだろう。もちろん補給を断ち、敵を完全に袋に包むことだって出来る。そうなれば、どのみち勝ちだ。

残る路は、正面からの決戦以外にない。

しかし、諸葛亮は屯田まで行っているという話を聞いている。

司馬懿は諸葛亮に比べれば戦術面で凡将かも知れないが、ついに戦略面で敵の上を行ったのだ。全ての敵の手を封殺した。戦えば負けるかも知れないが、戦わなければ勝てる状況を作り上げたのである。

だからこそに、諸葛亮は動くだろう。状況を変えるために。

「状況が動くと言うことは、まさか正面決戦を挑んでくると言うことですか」

「可能性はあるかも」

「わかりました。 すぐに準備します」

親しいこともあり、王桓にケ艾は敬語を使わず喋っている。もっとも、周囲に兵がいない時だけだが。最初にそうすると王桓は凄く嬉しそうにしたので、よくわからなかったが、ケ艾としても悪い気はしなかった。以降、このささやかな習慣は続けている。

王桓が櫓を急いで降りていった。既に肩の傷の後遺症は、見てもわからないほどに回復している。戦場では以前と全く変わらない働きが出来るだろう。

陳泰は戦術眼がある将軍と言うこともあり、櫓からじっと向こうを見ていたが、不意に言う。

「もしも正面決戦になったら、勝てるか」

「難しいかも」

「そうか。 我が軍の兵士は、敵に対して相当に力の差を埋めたと思っていたのだが」

「諸葛亮の戦術に関する手腕は、それ以上だって事だよ。 流石に、敵が前面から正面攻撃を仕掛けてきたら、どうするんだろう。 応じるしかないのかなあ」

ケ艾は困り果てて、眉尻を下げた。

確かに真っ正面から攻撃を仕掛けてきたら、流石に勅命があったとしても、応戦せざるを得ないだろう。

だが、それは敵の思うつぼだ。諸葛亮の最も得意とする戦術で叩き伏せられるのが関の山である。ケ艾だって、陳式や廖化ならともかく、諸葛亮とまともに渡り合って、どうにか出来るとはとても思えなかった。

銅鑼が叩き鳴らされる。

どうやら、最悪の予想が、当たってしまったらしい。するすると櫓から降りる陳泰の倍も時間を掛けながら、ケ艾は地面に。そして、自分の陣に小走りで戻りながら、どうやって敵を迎撃すべきか、考え始めていた。

 

4、決戦

 

敵軍四万六千、その全軍が司馬懿の陣の前に展開していた。

陣形は円陣の一種らしいのだが、司馬懿も見たことがない陣であった。なにやら迷路のように入り組んでおり、とてもではないが攻め込めるとは思えない。敵の数は五万にも足りないというのに、不可思議な威圧感も感じてしまう。

流石に陣の前に、全軍が展開されたのだ。司馬懿も対応をしなければならなかった。

周囲の陣では、出よう出ようという気迫が滾り始めている。勅命があっても、流石にこの状況である。

それに、攻撃を受けたら、対応をせざるを得ないだろう。

山に沿って築かれた長大な司馬懿の陣は、兵力を利して三重にまで厚みを持たせてあり、例え三十万の敵に猛攻を受けても、簡単には墜ちないようになっている。それなのに、どうしてこう威圧感を感じてしまうのか。

司馬懿は、諸葛亮を恐れている。

そう噂して、嘲笑する将兵がいることを、司馬懿は林から聞かされている。

頭には来るが、残念ながら事実だ。特にこう言う時には、それを感じてしまう。

本陣のひときわ高い櫓から敵陣を見つめながら、司馬懿は恐怖がこみ上げて来るのを、必死に抑えていた。

「逆賊司馬懿はいるか!」

突如大音声が響き渡った。兵士達が動揺する。人間に出せる声ではないからだ。

司馬懿も胆を冷やしたが、よく見ると先鋒の敵が、犀の角笛ににたものを口に当てている。そう言えば、ああやって漏斗のようなものを口に当てると、声を大きくできるのだ。子供の頃に遊んだあれを、より軍事向きに、強力に改造したものなのだろう。

「兵士達が怯えております!」

「敵は漏斗のようなものを使って、声を大きくしている! すぐに伝令を出して、妖術の類ではないと伝えよ!」

「ははっ!」

郭淮が、すぐに伝令を手配した。

だが伝令が走り回る間にも、蜀漢軍の心理攻撃は続いた。

「腑抜けた貴様の、戦を恐れる態度にはあきれ果てたぞ! だが、それも今日までだと信じる! 我が軍は正統なる漢王朝の後継者である劉禅皇帝陛下の命令によって、逆賊を討ちに来ている! 今貴様を屠り、魏などと称する偽王朝の終末を、此処に宣言しようと思う! 反論があるなら、弓矢でするがいい!」

「お、おのれ!」

流石に言いたい放題である敵に、司馬懿も歯がみした。

敵はやんややんやと喚声を上げている。どうやら我慢できなくなったらしい若い将が、二千ほどの兵と共に、陣を出て敵に突きかかる。

だが、その瞬間だった。

敵の一部が、まるで生き物のように動くと、その部隊を取り込んでしまったのである。

後は悲鳴だけが、敵陣の中にて響いていた。助ける暇もない。瞬時に全滅した部隊を見て、味方が戦慄する中、更に声が響く。

「どうした! 逆賊とはいえ、同胞を失って、まだ恐怖に足が竦むか! それでも貴様らは武人か!」

「思い出したぞ。 あれは八門金鎖の陣だ」

郭淮が呟く。でも、それは伝承上の存在で、仙人だとかが敷くものである。

確かそれは、方角ごとに攻め込めば打ち破れたり死んだりするものであり、とてもではないが実用に耐えないと聞いている。既に亡くなった大司馬曹仁が、生前に敷くことが出来たとか聞いているが、それはあくまで噂で、出来たとしても実用性は恐らく無かっただろう。

それに諸葛亮の敷いているあの奇怪な陣は、元の八門陣と同一の存在だとは、とても思えない。恐らく諸葛亮が工夫を凝らして、実用に耐えるように改良を重ねたのだろう。

投石機で、何かが陣に放り込まれてきた。

さっき、激発した若い将の首だった。苦悶と恐怖の表情を顔中に浮かべた血だらけの首に、流石に司馬懿も戦慄した。

「出てはならん! こうなりたいか!」

「我が軍は、死を恐れません!」

「たわけっ! 名誉ある、勇気ある死は恐れるな! このような犬死にを望む者は、勇者ではなくただの愚者だ!」

青ざめながらも吠える若い武将を一喝すると、司馬懿は本陣へ戻ろうとした。

敵は、まだ布陣を解かない。それだけではない。がらがらと、何かが敵陣から出てくる音がした。

「敵が、大型の兵器を持ち出しました!」

「あれは、報告にあった連弩です!」

次々に報告が飛んでくる。

司馬懿は再び櫓に這い上がると、手をかざしてみた。それは台車と一体化しており、従来の弩とは比較にならない大きさの、文字通りの兵器であった。張?(コウ)隊に嵐のように降り注ぎ、その将兵を多数殺傷。更に王双の部隊を全滅させたという、文字通り魏軍にとっては悪夢の兵器である。

それが数十両、押し出してくる。

魏が抱えている発明家の馬均の手で、似たようなものは開発中だ。だが、諸葛亮が造り出したあれは、まだ蜀漢軍しか保有していない、陸上最強の兵器の一つである。動揺する兵士達の上から、敵の声が降り注ぐ。

「恐れて出てくることが出来ないのなら! 此方から行くぞ!」

同時に、連弩の矢が、頭上から降り注いできた。

その密度、それに巨大さ、そして弾速。とてもではないが、生半可な盾や遮蔽物くらいで、どうにか出来る代物ではなかった。

それはさながら、鉄の暴風雨。

馬均が造り出した盾の影に隠れた兵もいたが、全員に行き渡るほどの数もない。それどころか、かなりの改良が加えられていたようで、盾が爆ぜ割れる光景さえ見られた。

なぎ倒される兵士達は、最初何が起こったかわからなかったようだった。櫓が複数の矢に貫かれて傾き、司馬懿が声をからして叱責する。

「遮蔽物の影に逃げ込め! 頭を低くして耐えろ! そう長くは撃ち続けられん!」

「し、しかしこれは……」

泣き言を言いかけた兵士の首がすっ飛んだ。司馬懿の隣にいた兵士だった。流石に亀のように這い蹲った司馬懿は、櫓が傾くのを感じて、ひいっと悲鳴を上げた。ぎぎぎぎと、鈍い音。連弩の矢の破壊力が常識外れにも程があるのだ。

まずい。まずいぞ。

頭を抱えて、司馬懿は呟く。この猛攻、おそらく諸葛亮は、犠牲を厭わずに決定的な勝利を得るつもりだ。司馬懿率いている十五万を叩きつぶせば、残りは各個撃破できるだけではなく、魏軍そのものにも大きな打撃を与えることが出来る。普段の諸葛亮らしくもない拙速な攻撃だが、この圧力、尋常ではない。

敵陣から馬蹄の響き。敵軍が、騎馬隊を繰り出したのだ。まだ連弩による援護射撃が続いている中、そおっと司馬懿は櫓から顔を出した。敵騎馬隊は鈎縄を振り回し、備えの柵に引っかけては、引きずり倒している。弓兵が対応できないのを良いことに、やりたい放題だ。

どっと敵兵がなだれ込んできた。

備えはもはや役に立たない。辛くも死の雨から身を守った兵士達が守ろうとするが、何しろ士気も勢いも違う。司馬懿は銅鑼を叩きならさせると、自分は櫓から飛び出した。やっと、連弩による猛烈な射撃が止んだからだ。

「第二陣に下がれ! 両翼の部隊は斥候を出せ! 敵の伏兵がいる可能性がある!」

「どういう事ですか!?」

「わからんか! この猛烈な正面攻撃を見て、凡将なら引きずり込んで退路を断つことを考えるに決まっている! 下手に動くと罠にはまるぞ! むしろ第二陣以降の戦力を補強して、防げ! 防げっ!」

司馬懿が第二陣に逃げ込むのを見て、必死の抵抗を続けていた部隊が逃げ出す。連弩が届かなかった櫓の兵士達が、必死に弓を引き絞るが、蜀漢兵の動きは獰猛かつ俊敏で、瞬く間に射倒された。

柵の内側に逃げ込むが、首のすぐ横を矢が掠めて、司馬懿はひやりとした。もう追いついてきた敵が、第二陣の関所になだれ込んできた。数は此方が多いが、何しろ敵の実力も練度も此方とは段違いだ。何より、初撃の猛烈さが、圧倒的な勢いを敵に与えていた。

敵が陣の中にまで、投石機を乗り込ませてきた。油の入った壺を投げ込んでくる。陣の各所で火が上がる。やっと組織的な抵抗を始めた味方の士気を、次々に上がる火柱が、粉みじんに打ち砕いていった。

「後方から戦力を補強! まともに戦おうと思うな! 物資は幾ら消耗してもいいから、兎に角押し返せ!」

我ながら投げやりな命令だと自重しながらも、やっと司馬懿は安全圏まで逃れた。既に前衛は完全に蹂躙され尽くし、この短時間での損害だけでも数が知れない。後方から続々とやってくる味方も、消火に負傷者の手当にで大あわてであった。

「連弩隊、進んできます!」

「お、押し返せ! 押し返せっ!」

声が上擦るのを、司馬懿は感じた。諸葛亮は慎重な男だと思っていたが、確か要所では火が出るような用兵をする。

そして今、自分を殺すためだけに、全力で攻撃を仕掛けてきている。そう思うと、司馬懿の体中の水分は、冷や汗になって流れだしそうだった。

滅茶苦茶に兵士達が矢を乱射して、やっと敵の進撃が鈍り始める。だが、第二陣の柵も彼方此方が突破され、各地で原始的な肉弾戦が行われていた。

敵兵の内、最精鋭らしい一万が、荒れ狂う猪のような勢いで殴り込んでくる。多分魏延が率いている部隊だろう。五万以上の兵が束になって、出血を厭わず揉み返す。六倍以上の損害は出している様子だが、それでもどうにか魏延の兵を押し返した。一息つくまでもなく、今度は正面。衝車が、しかも油を掛けられ炎上した衝車が、狂ったように走る牛に引かれて、突進してきたのだ。

それはさながら、燃え上がる巨大な杭。怒れる道の神が、炎の槍を投擲してきたかのようだった。

瞬時に数十の兵士が巻き込まれ、挽肉になり、ついで焼き肉になった。激しい乱戦の中、次々に将軍が戦死していく。郭淮が必死の防戦に努めているが、いつ破られるかもわからなかった。

「伝令です!」

「どうした!」

「独断で敵の後方を遮断しようとした左翼の戦力が、敵の伏兵に最悪の状況で不意を突かれました! 瞬く間に将軍三名が討ち取られ、浮き足だった味方は殲滅されつつあります!」

「だから言わんことか! 此方に余剰戦力無し! 守りきれないようなら、左翼の陣は放棄しろ!」

がらがらと、激しい音がした。

第二陣の中央にあった巨大な櫓が、燃える衝車の直撃を受けたのである。まともに巨大な炎の槍に横腹を食い破られた櫓は、炎を噴き上げながら、崩壊していった。兵士達が青ざめ、逃げ腰になる。

其処に、なだれ込んできたのは。

ケ艾が率いる、一万だった。

 

凄まじい乱戦の中、ケ艾は見た。味方は押しに押され、敵に大きな被害を与えながらも、ついに第二陣を失いつつある。司馬懿を探すが、見つからない。兜だけは、さっき見つけたのだが。

「と、ケ艾っ!」

不意に脇から、悲鳴。

司馬懿だった。髪を振り乱し、体中擦り傷だらけである。しかし取り乱してはいるが、戦意までは失っていない様子であった。

「う、馬を! 反撃に、反撃に出るぞ!」

「今は秩序の回復を。 敵はいつまでも、こんな無茶な攻勢を続けられません。 間もなく引き始めるはずです」

「そ、そうか!? そうだなっ! そ、そういえばそうだっ!」

司馬懿が吠えた。眼は血走り、口からは泡を吹いている。

みっともないほどに恐怖と狂気に満ちた表情だが、まだ心は折れていない。郭淮が、ケ艾を見つけて走り寄ってきた。鎧には何カ所か矢が突き刺さっている。陣頭の猛将ではない郭淮が、これほど傷ついている事に、今回の戦況の厳しさが伺える。

「よう来た! 陳泰は!?」

「夏候覇将軍と共に、左翼の守りを固めています。 右翼は出ようとしていますが、どうにか引き留めてきました」

「よし、と、とにかく、今は耐えよ!」

銅鑼を叩きならさせる。司馬懿は馬に飛び乗ると、何度か転げ落ちそうになりながらも、指揮剣を乱暴に引っこ抜いた。怪我をしそうな抜き方だと、ケ艾は思った。元々司馬懿は、ケ艾が言うのも何だが、それほど馬術が達者ではない。何度か馬の上で右往左往しながら、やっと態勢を立て直す。

「全軍、踏みとどまれ! 敵は味方の三分の一! 補給線も長い! そう攻勢は、長くは続けられん!」

叫んだ司馬懿の周囲に、敵の矢が集まってくる。

ケ艾は手綱を引くと、部下達に号令した。

「大将軍を守ってください! 逃げれば大将軍は戦死します!」

「おおっ!」

流石に、そこまでいわれれば、兵士達もなけなしの勇気を振り絞らざるを得ない。

そしてケ艾は経験的に知っている。こういう場所では、先に恐怖した方が負けるのである。臆病になった方が危険なのだ。

がむしゃらになった兵士達が、必死に防戦を開始。

その時。地面を割り砕くような音と共に、敵の一部隊が突進してきた。

陳の旗。陳式の軍勢に、間違いなかった。

あの獰猛な最精鋭五百を先頭に、まるで味方を木の葉のように蹴散らしながら、突入してくる。先頭の五百騎は、全身を朱に染め、まるで悪鬼か羅刹が、血肉を求めて地上に降臨したかのようであった。

両手に斧を持った半裸の巨漢が、吠えながら突進してくる。魏兵は立ちはだかろうとする所を、次々首を刎ねられた。無言で王桓が、精鋭を引き連れて向かう。だが、流石に王桓でも、あの強力な集団を前に、いつまでも持ちこたえられないだろう。

ケ艾は千の近衛を引き連れて突貫、敵の陣の隙を、連続して突いた。だが陳式の部隊は、既に凶暴化して痛みを忘れているかのように、退路を断たれようと、側面を突かれようと、気にせず突進してくる。

乱戦の中、見つける。

いや、見つけられた。

陳式も、他の兵士達同様、全身を返り血に染めながら、悪鬼のように戦っていた。

そして、ケ艾を見つけると、もはや他は一切眼に入れず、突入してきたのである。

 

未だ、悩みは晴れない。

だが、陳式は。それでも戦い続けることを決めていた。

今回の攻勢が、諸葛亮が命を賭したものだと言うことは分かっていた。そして今回が、蜀漢が魏に打ち克つ、最後の機会だと言うことも。

諸葛亮が、手段を選ばぬ男だと言うことは知っている。というよりも、ここ数ヶ月で、嫌と言うほど思い知らされていた。

敵の斥候を自ら拷問し、時には薬物まで投与して、情報を引き出した。この陣の弱点を徹底的に調べ上げた。詐術めいたやり方まで駆使して、敵の恐怖を煽り、前線を強引に突破した。

連弩は既に矢を撃ち尽くしている。

つまり、この勢いは、殆ど虚勢なのだ。だが、それでも、蜀漢の兵士達は奮い立ち、敵に向かって行っている。

今、陳式が全力で悪鬼のように狂わなければ。

皆、犬死にしてしまう。

魏の兵士達にも家族があり、人生がある。だが、より多くの味方を救うためにも、陳式は、敵を殺さなければならなかった。

乱戦の中、守りに入ろうとする敵を、次々にねじ伏せる。暴れ回る魏延の部隊が、だいぶ敵を引き受けてくれていた。敵の右翼を伏兵して撃滅してくれた廖化の部隊が、無言の圧力となってくれているせいで、敵は動きをかなり掣肘されてもいる。よって、陳式は、心おきなく暴れることが出来るのだ。

見つけた。ケ艾だ。

ケの旗を振るい、実に効率よく守りを固めている。あれを打ち砕けば。奴さえ討ち取れば。

精鋭五百には、ケ艾の首を取れば、千金の報償を出し、村の税を百年間免除すると約束している。だから、精鋭達は皆、奮い立った。だが、敵の勇猛な最精鋭が、彼らの前に立ちはだかる。

原始的な肉弾戦を横目に、陳式は自ら長刀を振るい、ケ艾への路を強引にこじ開けに掛かった。前を塞ぐ敵兵を、無理矢理切り伏せ、次々に首を刎ねる。闘志を刺激された部下達と共に、敵陣を真一文字に突破。

敵将の名前を叫ぶ。また、立ちふさがる敵を、一騎たたき落とす。馬上で首を刎ねられた敵は、もんどりうって転げ落ちた。長刀を振り回し、敵の歩兵をなぎ払いながら、更に前に前に。

ケ艾は、逃げない。不貞不貞しいほどに冷静に、迫る陳式を前に指揮を執っていた。敵の忠誠心が高そうな兵士達が、壁になって立ちふさがってくる。陳式の周囲の味方は、乱戦でかなり減りつつあった。だが、それでも。

一丸となってぶつかった。

雄叫びを上げ、陳式は前進。敵の壁を、一枚一枚、ぶち破っていく。これほど強引な用兵は、自分でも初めてだ。敵は冷静に守りを追加しながら、他の指揮をする余裕さえも見せている。

将軍としての器は、奴の方が上か。

そう思えてしまうが、しかし。それでも陳式は、前進を止めない。

ふと、左に殺気。

陳の旗。敵の若き将、陳泰か。乱戦の中、三百ほどを引き連れて、無理矢理戻ってきたらしい。ならば良し。

若干、敵の到達が早い。そう冷静に判断した陳式は、馬首を返すと、吠えた。

「まずは小賢しい小僧を排除する! 全員、続けっ!」

 

一撃を陳式軍に加えた陳泰だが、瞬時に反撃を受け、一気に軍を崩される。陳泰自身も、脇腹に矢を受けて、落馬しかけた。

陳式軍の獰猛さは、群を抜いている。だが、陳泰に構っている暇は、ケ艾にも無かった。矢継ぎ早に援軍を繰り出しながらも、この短時間に急速な再編成を済ませた陳式の軍勢に、ケ艾は舌を巻いていた。

忠義というものの存在を、ケ艾は知っている。

自分だって持っている自負はある。だが、これほどの狂気にも返還しうる忠義を見てしまうと、少し恐怖さえ感じてしまう。

だが、負ける訳にはいかなかった。

陳泰の軍勢が、陳式軍にはじき飛ばされる。陳泰自身は負傷しながらも、どうにか逃れた。時間は稼いでくれた。

ケ艾は、この隙に防備を固め直していた。そして、ござんなれと、陳式の軍勢を正面から受け止める態勢を整え直したのである。

背後には、青ざめた司馬懿がいる。陳式を防ぎきれなければ、味方は負ける。

見えた。諸葛亮の旗。戦慄に、全身が震え上がる。まさか、この大乱戦の中、諸葛亮が前線まで陣を進めてくるとは。それだけ敵は本気だと言うことだ。

敵の動きが、露骨に変わった。

「まずい! 増援が来ないと、支えきれません!」

「どうにか支えよ!」

司馬懿が、後方の全部隊に指示を出して、前線に繰り出し始めた。

総力戦だ。此処を支えきれなければ、全軍が崩壊する。

 

陳式は最初、一万を連れて敵中に突進した。

だが、既に殆どとは乱戦の中ではぐれた。戦死はしていないだろうが、それでもこの乱戦である。纏め上げるのは容易ではなかった。

周囲にいるのは、最精鋭の五百を含めた二千ほど。これに対し、ケ艾は急速に一万を纏め上げ、五段に陣を構えあげていた。陳泰を蹴散らす間に、態勢を整え直したのだ。これほどの手腕、天才というほかない。

しかし、味方が。怒濤のような喚声を上げ始めた。

「丞相が、前線に出てこられたぞ!」

無敵、不敗を誇る諸葛亮が、ついに前線に姿を見せたのだ。

馬謖の失態で、蜀漢軍が負けたことはある。だが、諸葛亮が指揮した戦場で、今まで負けは一度もない。

兵士達の諸葛亮に対する戦術面での信頼は、それこそ信仰に近い。諸葛亮の指揮ならば、絶対に勝てる。兵の一人一人までもが、それを確信しているのだ。そしてそれは、魏の兵士達にとっても逆の意味で同じである。

戦場に翻る諸葛の旗。

魏にも諸葛という姓を持つ軍人や文官は存在している。中華全土に、名族である諸葛家は広がっているからだ。だが蜀漢の旗と共に現れる諸葛の旗は、根本的に意味が違ってしまっている。

敵の兵士達が露骨に逃げ腰になるのが分かった。それはケ艾の部隊も、例外ではなかった。

「全軍、突入する! 背後には、諸葛丞相の援護があるぞ!」

「殺っ!」

兵士達が唱和した。そして、錐を柔らかい木に揉み込むような突撃が始まった。

大地を蹴立てて、陳式の軍勢が敵を蹂躙する。最早剣の光も槍の鋭さも、何らその前を遮ることは出来なかった。各地で行われていた乱戦も、味方有利のまま進み、陳式の部隊も合流し始める。

瞬く間に、第二陣まで突き破る。第三陣が猛烈な抵抗を見せてきた。どうやら、精鋭をさっき防いでいた男が指揮を執っているらしかった。

何度か見たことがある。逞しい若者である。敵ながら、あのような生気溢れる若者を殺すのは偲びがたいものがある。だが、これは戦だ。押し込む。一押し。二押し。敵が、数を生かし切れず、逃げ腰になる。そんな中、若者はどうしても目立った。

二丁斧の少数民族戦士が、雄叫びを上げながら若者に躍り掛かる。一撃、二撃。馬上と徒歩の戦いなのに、戦闘はほぼ互角に見えた。陳式は大弓を引き絞ると、二丁斧の戦士を狙う敵を一息に射貫く。若者が、凄絶な表情を浮かべた。

「俺に譲れっ!」

二本の槍を縦横に振り回していた戦士が、突きかかっていく。二丁斧の戦士は飛び退くと、破れかぶれの突撃を掛けてきた敵兵を、右に左になぎ倒し始めた。若者は既に汗みずくだったが、二本槍の戦士の挑戦を、受けて立つ。火が出るような鍔迫り合いの中、どちらの馬も霧のように闘気を吐いて、いずれ譲らなかった。

敵が押し出してくる。若者を死なせまいと、ケ艾が援軍を繰り出してきたか。四千以上の兵士が、一丸となって突進してくる。

此処が勝負所だ。陳式は一気に軍を密集隊形にすると、敵に叩きつけた。

 

王桓が、落馬するのがケ艾の所からも見えた。

歯を食いしばると、ケ艾は密集隊形になった敵の、弱点を即座に捕捉。見抜いていた。

右翼の僅かに後ろ、隙が見える。

鼓を叩いて、乱戦の中散らせた部隊に指示。諸葛亮の本隊が無言の威圧感で迫ってきていて、動ける状況にないが、それでも動いて貰う。ケ艾自身は、部隊を密集隊形に組み替えると、敵の突撃を真正面から防ぎに掛かった。

喚き合う両軍。魏軍は徐々に東に押し込まれている。既に損害は二万、いや三万を超えているだろうか。それに対して蜀漢軍は、どれほど被害を出しているのかよくわからない。この戦いは、後世には誇れないとケ艾は思った。きっと酷く歴史家達にこき下ろされるのだろう。

ぶつかり合った前衛同士の中で、見えた。王桓が救い出されて、後方に下がっていく。だが、敵精鋭部隊は更に猛気を加え、当たるを幸いにケ艾の部下達を蹴散らし、踏みにじっていく。

だが、その動きが止まる。

どうにか無理をして、五百ほどの部隊が、ケ艾が見抜いた敵の弱点を突いたのだ。

僅かに陣形を崩した敵に、全力を叩きつける。だが陳式はそれでも五分に持ち直すと、逆に押し返してきた。

きた。陳式だ。再び、ケ艾の視界まで近付いてきた。舌を巻く闘志だ。これほどの兵力差、これほどの乱戦の中、また機会を作ってくるとは。

弓を引き絞っている。近衛の一人が立ちふさがり、顔を串刺しにされて落馬した。陳式が次の矢をつがえて、引き絞り始める。ケ艾は歯を食いしばると、叫ぶ。

「今こそ勝負時です! 陳式を討ち取れば、戦いは終わります!」

「後方に敵! 二千ほどが、迂回して司馬懿大将軍の部隊を狙って進撃中!」

振り仰ぐ。其処には、羅と姜の旗が、猛烈な勢いで突進していた。

全軍が崩れようとする中、司馬懿の軍は二千の兵に直撃され、だが。踏みとどまった。敵は騎馬隊が中心の編成のようだが、その勢いは凄まじく、故に一度抜けるとすぐには戻ってこられない。

そして、後陣から二万ほどの増援が飛び出してくる。どうやら司馬懿は、残る全ての軍勢を此処に投入しただけではなく、長安の兵まで裂いたようだった。

新しく投入された二万は、敵を押し返し始める。

乱戦は急速に収束し、陳式の姿も徐々に遠ざかり始めた。

「一息付けそうですね」

部下が言った、次の瞬間だった。

ケ艾の馬の首に、陳式が放った強弓の矢が突き刺さっていた。竿立ちになった馬から、ケ艾は思い切り投げ出され、地面に叩きつけられて意識を失った。

 

一瞬だけだった。

これで勝てると思った司馬懿を嘲笑うように、諸葛亮が軍を進めてくる。二万の増援を盾にしながら、司馬懿は必死に軍を下げた。落馬して気絶したらしいケ艾も、兵士達が運んでくる。

すぐに軍医が診たが、頭は打っていないようで、命に別状はないらしい。だがしかし、一息をつく暇もなかった。

「第三陣まで下がれ! 其処に最終防衛線を引く!」

諸葛亮の陣の動きは、まるで何かの得体が知れない怪物のようだった。不定形に蠢き、近付く魏兵を片っ端から取り込んで粉砕していく。諸葛亮自身が指揮を執ると、こうも怪物的な動きを見せる陣ができあがるのか。

柵の内側に、味方が続々と逃げ込んでくる。逃げ延びられなかった者はことごとく討ち取られていく。撤退を支援するように、馬均が作り上げた最新式の弩を全て繰り出して、矢を惜しまず射させた。流石に敵も鼻白み、下がる。味方の撤退を援護すべく、鳥丸族の騎馬隊を何度か出撃させるが、蜀漢軍の弩兵隊の斉射を浴びて、半分も生きては戻れなかった。

やっと第三陣に主力を引き上げた時には、既に柵の手前まで、敵が迫っていた。後方には連弩の部隊と、投石機も多数見える。戦慄する司馬懿だが、見抜く。

連弩隊は、次の矢を打ってこない。

「全員、堅守! 此処を守りきれば勝てる! 矢を放て! 火矢を浴びせろ!」

敵も猛烈な矢を浴びせてくるが、ただの数の勝負になると、味方に分がある。柵を守るように、声をからして叫びながら、司馬懿は見極める。敵は、この強烈かつ怪物的な攻撃に、全てを賭けてきている。ならば、それを受けない。

受けないことで、諸葛亮の命を燃やし尽くさせる。

敵の騎馬隊が出てきて、柵に鈎縄を引っかける。味方は泥まみれの兵士達が、必死に柵にすがりついた。弩が飛び交い、敵も味方も倒れる。司馬懿はよしと呟いた。この工夫のない消耗戦なら、このまま行けば。

その時。

司馬懿は、誰かの視線を感じた。

敵陣を見る。其処には四輪車があり、其処に人外の者が座っていた。

腰が抜けそうになる。

あれは、恐らく。あれこそが。

諸葛亮。

見た目は人間だが、放っている気迫というか、眼の光というか、そういうものが既に人間の外にまで行ってしまっている。司馬懿が気圧されるくらいである。兵士達もまた、蒼白になって立ちつくす。

諸葛亮が、羽扇を振るった。

同時に、また炎を纏った衝車が突進してきた。牛は迫り来る炎から逃げようと必死に走り、柵に突進してくる。

「大将軍! 此処を抜かれたら、味方は全滅します!」

「うろたえるなっ! 此方も炎をたけ! 何でも良いから、油を掛けて燃やせ! 早くしろ!」

兵士達が走り回り、辺りの燃えそうなものを何でもかんでも積み上げて油を掛けた。迫る牛に怯えながらも着火。ぼうと、巨大な松明ができあがる。

牛はそれを見て、必死に進路を逸らそうとして、そして横転した。柵の手前で、衝車がぐるりと軌道を変え、横倒しにぶつかってくる。兵士達の悲鳴が轟き渡る中。だが、それでも。

敵衝車は、とまっていた。燃え上がりながら。

その隙に、敵が何カ所かで柵を引き倒していた。なだれ込もうとしてくる敵を、必死に魏兵が押し返す。ばたばたと倒されながらも、体ごとぶつかっていくようにして、押し戻す。

何刻、戦い続けたのだろう。

既に、空は闇に覆われ始めていた。

司馬懿は、頭の血管が切れそうだと思った。顔のすぐ側に、矢が突き刺さる。ついに恐怖が限界に達して、尻餅をついてしまう。這って逃げようとする司馬懿を、必死に助け起こしたのは、郭淮だった。

側に夏候覇もいる。

「見てください!」

「わ、私はまだ、生きているか! く、首は、胴体にまだついているか!?」

「生きています! 早くあちらを見てください!」

司馬懿が、呼吸を整えながら、見る。

敵に蹂躙された第二陣を。

乾いた笑いが漏れ始めていた。敵が、撤退していくのだ。ゆっくり、だが確実に。夏候覇が、間抜けな事後報告をした。

「守り、きりました」

口から垂れている涎を、司馬懿は拭った。兵士が悲鳴を上げた。司馬懿の頭を指さしている。郭淮も夏候覇も、目を剥いてそのまま固まった。

兵士の一人が、手鏡を差し出してくる。

見ると。其処には、真っ白に染まった、自分の髪があった。

「う、ひ、ひひゃははははははははは!」

兵士達が後ずさる中、司馬懿は絶叫した。

負けた。

でも、負けなかった。ついに、守りきったのだ。

味方の損害は、多分五万、いや六万を超えているだろう。壊滅的な状況である。それに対して、死闘であったにもかかわらず、終始戦況を好き勝手に主導していた敵の被害は多分三千か四千程度。十倍以上の被害を、三重に構えた防御陣に寄りながら出した。これが勝ちと言えるか。勝ちの訳がない。

だが、敵はこの陣を抜けず。何より、物資を使い切ったのだ。

「私は! 負けたが、負けなかったぞ!」

司馬懿は天に向けて絶叫した。

発狂したのかも知れないと、兵士達はその姿を見て思ったことだろう。

司馬懿は涙を流しながら、ひたすら嗤った。

己の弱さと、それが故に「負けないこと」が出来た事を。

 

味方が、堂々と引き上げていく。

殿軍を努めたのは陳式だった。撤退とはいえど、敵に十倍から十五倍の損害を与え、徹底的に叩きのめした末での後退である。敵に追撃の余力など無い。しかし、味方にも、もはや矢の一本も残されてはいなかった。

少しすれば、蜀漢本土から補給物資が来る。それに、後退しながら各地の補給地点に蓄えている物資を吸収すれば、少しはましになるだろう。協力者達が潜んでいる村々から送られてくる物資を集めれば、もう一戦くらいは出来るかも知れない。

しかし、長安は落とせないだろう。

敵は五万から六万を失ったと試算が出ているが、西部戦線の敵総勢は二十七万。まだ二十万以上がいて、長安には三万以上が健在である。そして魏には、まだ十万以上の増援を繰り出す能力があるのだ。

「この堅陣を破れるはずがない」と、敵が考えている今だったからこそ、最後の敵を滅ぼす好機だったと言える。そして敵陣を落とせば、物資の補給も出来たのだ。

しかし、全ては潰えた。

兵士達の中には、敵を完膚無きまで叩きのめしたと、無邪気に喜んでいる者達もいた様子だ。だが、陳式は違うと知っている。敵は確かに負けた。しかし、味方は、勝てなかったのだ。

五丈原の陣まで引き上げる。

揚義が損害を数え上げ、味方が失った戦力は、三千四百二十と判明した。あれだけの乱戦では、少なすぎるほどである。与えた損害と受けた被害を考えれば完全勝利だというのに。戦略眼のある将軍達は、皆くらい顔をしていた。陳式の精鋭は、二十三騎を失っていた。彼らもまた、本能で勝てなかったと悟っていた様子だ。

陳式は待機を命じられて、一度自陣に戻った。陳式の部隊はあれほどの乱戦でも被害が少なかったが、主将の考えは部下に伝染するらしい。全体的に、重く沈んでいた。

幹部達を集めて、補給物資が来るまで、やりくりを慎重にするようにと指示。幹部達はぞろぞろ帰っていったが、一人残った男がいた。

五百を纏めている、二丁斧の大柄な男だ。李という姓を持つ彼は、今までの戦いで、弟を失っている。漢人ではなく、肌は非常に黒い。だが、漢の言葉は堪能だった。知能も低くない。

彼は西域から、肌の白い者達と一緒に来たらしい。先祖はローマと呼ばれる国で、奴隷として暮らしていたのだそうだ。

「陳式将軍。 俺達は、負けたんですね」

「どうして、そう思う」

「あれだけ派手に攻撃して、敵を全滅させられなかったし、陣も落とせなかった。 それに。 将軍が、とても悲しそうにしているからでさあ」

「そうだな。 勝ったが、勝てなかった。 負けなかったが、負けた。 結果として、我々は、敵を倒すことが出来なかった」

陳式が悲しむと、李は大きな声で泣き始めた。

李は強い。だが感情が巨大で、子供のような所がある。陳式は彼を宥めると、言う。

「案ずるな。 私が生きている間、お前達を不当な支配に戻しはせん。 例え蜀漢が武都、陰平を維持できなくなっても、私が必ずお前達を守る」

「将軍! 俺の力が足りなくて、すいやせん! 本当にすいやせん!」

「お前は立派に戦った。 何時の時代の勇者が見ても、お前を弱かったとかいう事は絶対にない。 先祖もお前達を誇りにするはずだ」

今は、胸を張っていよう。

そう、陳式は、男を宥めたのだった。

気分を変えようと、天幕を出る。

空は流星雨だった。無数の星が流れていく。何か、象徴的だなと、陳式は思った。

 

5、最後の星が墜ちる時

 

林は闇の中で、剣を振るって血を落とした。

周囲に点々としているのは、蜀漢軍の細作部隊。十人ほどは倒した。質の高い部隊だったが、それでも林の手に掛かればこの通りだ。

周囲には、味方の死骸も点々としている。山越で育ててきた細作も、何名か混じっていた。

部下が来た。そして、耳打ちする。

林は舌打ちすると、全部隊に撤退命令を下す。

殺せなかった。

諸葛亮の負担を大きくするため、その細作部隊を叩きに叩いた。味方もかなり倒されたが、元々此方の数が多いのだ。手に負えない部分は、配下にない部隊に押しつけた。

魏軍の細作部隊は六割ほどを失ったが、蜀漢軍も比率的には四割以上の細作を失ったはずである。戦果としては充分、そのはずだったのに。

結局、ことを為したのは、林ではなかった。

歴史に憎まれていることは承知している。だが、それでも。最後の英雄くらい、自分で殺したかった。

側にあった木を八つ当たりで切り倒す。

刀身についた血と木くずを舐め取ると、林は闇に姿を消した。

 

蜀漢軍の本陣に、主だった将軍達が集められた。しかも、諸葛亮の、本幕の前に、である。

今回の戦いで、最も大きな功績を立てた魏延はふんぞり返っていたし、逆に我こそはもっとも効率よく物資を運用できたと思っているらしい揚義はそれを不快そうに見つめていた。

姜維や羅憲は何かあったのではないかと、不安げに眉を曇らせている。

張翼は呉懿と不安げに小声で会話を交わし、馬岱は魏延の側で腕組みをして、眼を閉じていた。

馬岱は少し前から、諸葛亮に何か指示を出されていた節がある。魏延の直属に付けられて、まるで馬超に仕えるかのように、かいがいしく魏延の世話をしていた。元々魏延はたたき上げと言うこともあり、他人に優しくされるという事を殆ど経験していないらしい。すぐに馬岱に心を許して、自分の用兵の妙だとかを色々語って聞かせているらしかった。

陳式は、何となく呼ばれた理由がわかっていた。分かっていない廖化が、声を低くして語りかけてくる。

「どういう事なのだろう」

「恐らく、とても悲しい話だろう」

「何だ、悲しい話とは」

わからないと顔に書いた廖化が、更に何か言おうとした時。

皆が、視線を集中し。

そして、呻いていた。

最初に出てきたのは、諸葛亮の細君。そしてその後に従っているのは、もはや死人そのものの顔色をした、諸葛亮だった。

無理もない話だ。

あのような人間離れした用兵が、本人に負担を与えない訳がない。恐らく諸葛亮は、司馬懿の粘り強い防戦の最中、力尽きてしまったのだろう。だからこそ、あれだけ押し込んでいても、引き上げたのだ。

物資が尽きていても、諸葛亮の力が残っていたのなら。身一つで打ち破れと指揮を続け、そして結果的には勝っていただろう。長安を落とせたかは、わからないが。魏軍は十五万の軍を失い、一気に傾いていただろう。

「皆の者に、此処で遺言を伝えておく」

「丞相!」

「時間がない。 もう我の言葉を遮るでない」

姜維が泣き始めた。羅憲も唖然としている。

陳式は思わず天を仰いだ。星が、落ち続けている。その中の一つが、諸葛亮なのだろうか。

星が墜ち、時代が、終わる。

諸葛亮は、後任人事を次々と発表していった。面白いのは、魏延も揚義もその中には入っていないと言うことだ。

「今後の戦略は守りを主体とする。 魏が疲弊する隙を突くしか、今は天下統一の望みがない。 内政に力を入れ、国力の充実を図れ。 そして、魏が滅びに瀕した時に、一気に打って出よ」

「もしも、魏が疲弊することがなければ」

「その時は天を恨む他あるまい」

諸葛亮の声は、既に死を悟った者の静かさに満ちていた。

それぞれの武将に、指示が出されていく。相変わらずやきもきしている様子の魏延には、何ら沙汰がない。流石の魏延も、此処で何か言い出す度胸はない様子だ。

「陳式、そなたは武都、陰平を維持せよ。 魏に撃ち込んだ楔は、決して引き抜かせるな」

「わかりました」

「王平は、漢中を死守せよ。 そなたの手腕で、必ず魏の侵攻を防げ。 私の死後、恐らく曹爽辺りが一度侵攻してくるだろうが、それを叩きつぶせばしばらくは平和が来る」

「わかりました」

「分かっておろうが、これは籠もるための守りではない」

その平和の間に、細作を増やし、国力を増し、魏を内側から崩す工作をせよ。それが諸葛亮の指示だった。

内政についても細かい指示が出され、諸葛亮の細君が書き留めていく。そして、天を諸葛亮が仰いだ。

「我が墓は、定軍山に。 我が魂は、常に蜀漢と共にある」

羽扇が、墜ちた。

皆が見守る中。

静かに。あまりにも静かに。

最後の、時代の星が、命の炎を吹き消していた。

いつの間にか、流星雨は止んでいた。諸葛亮の命の輝きが、星々にまで影響を与えていたかのような怪現象は。

諸葛亮亡き今、過去の存在と化していた。

 

誰もが一言も発しない中、最初に言葉を発したのは、諸葛亮の細君だった。

「撤退の準備を」

「……」

逆らう理由はない。

しずしずと、皆が撤退の準備に取りかかった。

殿軍は陳式。陳式は、最後に呼ばれて、あるものを貸し出されたのだった。

貸し出されたものを確認すると、陳式は頷く。そして、いそいそと、諸葛亮の最後の仕掛けを施しに向かった。

 

撤退する蜀軍を追撃していった魏の武将の一人が、魂が抜かれたようになって戻ってきた。

彼は見たのだという。

確かに死んだはずなのに。平然と指揮を執っていたという、諸葛亮の姿を。

それを聞いた司馬懿は、一言だけ呟いた。

「私も、死人の相手は苦手だ」

その後、司馬懿は諸葛亮が五丈原に張った陣を視察に向かった。既に各戦線に振り分けていた兵も、長安に戻している。しかし危険を感じなかったのは、周囲にケ艾と陳泰を配置していたからだろうか。

ケ艾は頭に包帯を巻いていたが、もうぴんぴんしていた。陳泰は矢を二本受けていたが、既に完治している。

一通り、司馬懿は陣を見て回った。

そして、呟く。

「天下の鬼才だな。 諸葛亮に、私は最後まで及ばなかった」

「私も、この陣立てを再現するのは不可能です」

ケ艾の言葉に頷くと、司馬懿は竈の形までもが、工夫が凝らされていることに感嘆した。諸葛亮の意思は、このような細かい所までも支配していたのだ。

だが、しかし。

それが故に、司馬懿は勝つことが出来た。

「私は凡才であるが故に、最強の天才に勝てたのだな」

これからも、それを胸に刻んで生きよう。

髪が真っ白になってしまった司馬懿は、そう思った。

 

諸葛亮が眼を開けると、其処は光だけの世界だった。

孤高。

周囲には、誰もいない。

否。

無数の意識があった。恐らくそれは、神々と呼ばれる存在なのだろう。

「私は、死んだのか」

「そうだ。 お前の知性はあまりにも人間を超越していたが故に。 人間との戦いでは、結局勝つことが出来なかった」

「そうか」

多分黄帝だろう。伝説の存在の言葉にも、諸葛亮はあまり感動は覚えなかった。

諸葛亮が見下ろすと、雲の下に人界があった。

手に取るように見える。今後、どのように推移していくか。

その運命を悟り、諸葛亮は大きく歎息した。

「せめて、我が意思と、忠義だけでも後世に引き継げ」

今頃、定軍山に埋められているだろう己の亡骸の周囲にいる将軍達。彼らが、諸葛亮の意思を感じたか。

それは否だ。

諸葛亮は無常に囚われながらも。

今しばらくは、人を見守ろうと、雲の上にて思った。

 

(続)