炎の先に
序、ひとときの平和と
鄧艾は喪服で、葬式に参列していた。
曹真の葬式である。
その穏和な人柄で誰にも好かれた曹真だったが、諸葛亮との凄まじい戦いの中で体調を崩し、前回の北伐では総大将として名前を貸していただけだった。すでに起き上がれず、口もきけない状態だった曹真だったが。鄧艾が見舞いに行くと、微笑んだり、手を伸ばそうとしてきた。
若干ふくよかだった曹真だったが、それも見る間に痩せていって、あまりにも気の毒だった。
そして先月。
季節の変わり目に。曹真は、ついに帰らぬ人となった。
死後に聞かされたのだが、鄧艾が父とも思っていた牛金と曹真は、個人的な交友があったそうである。二人きりの時は対等な立場で口を利いたりするほどに仲が良かったそうで、そう思うと余計にやるせない。
哭礼が終わると、周囲は流れ解散となる。
曹真の人柄か。哭くのが儀礼的になってしまうような葬儀もあるなか、周囲では本当に泣きくれている人物の姿が目立っていた。同格の武将達もそうだが、何よりその部下達は、みな悲しんでいた。
骨張った顔の郭淮が特に顔をぐしゃぐしゃにしていた。長いつきあいだったと言うし、無理もない事だ。鄧艾も目を何度か擦った。英傑と言うには無理があったかも知れないが、それでも曹真は、魏の柱石だったことに、間違いはなかった。
ぼんやりと前を見つめている?(カク)昭の前で、鄧艾は柔らかく話し掛けた。
「帰りましょう、?(カク)昭将軍」
「おお、そうであったな。 帰るか」
気の毒に、?(カク)昭は呆けが始まっている。今まで無理をしすぎていたのに、鄧艾の家で不意にゆっくり暮らせるようになったからだろう。反動に脳がついていけなかったのだ。時々飲み物を零したり、ご飯を続けて何度も食べたり。徘徊する事も、たまにあった。
だが、それでも時々は不意に頭にさえが戻る。そして、鄧艾に、とてもためになる話をしてくれるのだった。
鄧艾は子供を産めないと言っても女であることに代わりはないから、どうしても男の思考は理解できない部分が多い。?(カク)昭は男の考え方について、鄧艾に色々と教えてくれた。それらはどれもがとても参考になった。部下達を纏めるためにも、その知識は必要なことだった。
侍従が手を貸してくれて、?(カク)昭を一緒に立たせる。まだ杖を使わずとも歩くことが出来る?(カク)昭だが、医師はもう三年と保たないだろうと言っている。?(カク)昭の旧部下が時々屋敷を訪れては、見舞いに来てくれるのが、鄧艾には自分のことのように嬉しい。だが、?(カク)昭自身は、どう思っているのだろうか。
「鄧艾や」
「何ですか」
「今のは、誰の葬儀であったのかなあ」
「曹真将軍です」
目を剥いた?(カク)昭は、大きく歎息すると、そうかと一言だけ呟いた。涙を流し始める。男が泣くのは、余程の時だけだと、鄧艾は聞かされていた。だから、何も言わずに、隣を歩いた。
屋敷が見えてくる。?(カク)昭の歩みに合わせて、何度か休みながらだったから、帰りは少し遅くなってしまった。
明日からまた調練やら何やらで忙しくなる。諸葛亮はしばらく蜀漢から出てこないかも知れないが、その間に少しでも兵の質の差を縮めなければならないのだ。?(カク)昭は最近寝入るのも早くて、屋敷に着くとすぐに眠ってしまった。
喪服から着替えると、外に出る。そして、剣を振った。
どうしても巧くならない。
それでも、命を賭けて戦い、自分を守ってくれる部下達のためにも。少しでもましにならなければならなかった。
山越の少年鳳は、山の斜面に作っている隠し畑から、毒草を摘んで持ち帰ってきた。わざわざ畑で、山に住む者であれば絶対に近付かない毒草を、多量に栽培しているのだ。普通に地面から生えてくる毒草に、肥料をやって、水をやって、しかも他の雑草を引き抜いて競争者を減らしているのである。
作物よりも大量に出来るほどであった。
毒草は一見するとただの草だが、葉っぱの青い縁が特徴で、形は少しまむしに似ている。それを摘む。摘む時に、特に茎から出る汁に触らないように気をつけないといけない。摘むのにさえ熟練の技がいる、危険な毒草なのだ。
山の裾野にある、小屋にはいる。見かけはただの炭焼き小屋だが、それは入り口だけである。何と中は殆どが地下室になっていて、酒の材料となる薬を作るための設備が所狭しと並べられていた。
既に仲間が五人、此処に詰めている。鳳は合い言葉を言って地下にはいると、毒草を積み込んだ籠を下ろした。
この「支部」の指揮官は寡黙な中年男性で、しかし不器用に優しい。鳳くらいの年の子供がいたらしいと、以前聞いたことがある。
「首尾は」
「上々です」
鳳も、言葉少なく返す。彼の気持ちは、痛いほどわかる。
鳳を弟のようにかわいがってくれていた先輩が、少し前に死んだ。呉の兵が面白半分に暴力を加えてなぶり殺しにしたのだ。しかも死骸は犬猫と同じ扱いでゴミために処理され、手を下した呉兵達は何らおとがめさえなかった。大勢の人間が見ていたというのに。
他の土地では、奴隷の社会的地位はそれなりに高いらしいと、鳳は聞いている。だが、呉では、特に山越奴隷は話が別だ。この国は山越から搾取することで成り立っているからである。
倒さなければならないのだ。呉は。
死んでいった同胞達のためにも。
不快なほど生い茂った毒草の葉を、二抱えもある大鍋で煮込む。朽ちた道場から持ってきた鼎をそのまま使っている。上には大げさな排気口がある。煮込んでいる時の蒸気は絶対に吸わないように、周囲から言われているため、それを考慮した措置だ。鳳の村は特に山に詳しい者が多くて、幼い頃から鳳も毒草の特徴について様々に聞かされていた。
今になって思うと、門外不出の秘伝もあった。
それらを隠す必要性は一切無く。鳳は山越の敵である呉を滅ぼすため、情報を全て仲間と共有することにしていた。
本拠地である洞窟の他にも、鳳の仲間達は各地にいる。軍に潜り込んでいる者達は「土竜」、特に水軍にいる者達は「鰐」と影で呼称されていた。街に入り込んでいる奴隷の者達は「蛇」、高官の側にいる者達は、特に危険な任務であるので、「玉」。そして後方で、呉を滅ぼすための魔酒を造り続けている鳳らは、「鎧」だった。
このほかに、身体能力が特に優れている者達は、「剣」として、あの得体が知れない女、林に直接訓練を受けている。剣はもの凄く強い。一度訓練風景を見たことがあるが、驚かされることがしばしばだった。人間はこれほどまでに強くなれるのかと、感心したほどである。
鳳が葉を鍋で煮込んでいる間に、他の仲間が茎を刻んで、焼いている。このほかにも三十を超える工程を経て、魔の酒の原液とも言える薬が完成するのだ。
捕らえてある漢人の捕虜で、毎度魔の酒の効能は実験している。最初はあまりにも美味しいらしく、機嫌が良くしている彼らだが、いずれ酒がなければ身動きも出来ないようになってくる。性格は凶暴になり、体は不健康に。そして一月も酒を与えた頃には、一日酒を飲まないと発狂死するほどに酷い依存症になる。
毎日酒を飲んでいると、今度は中毒になっていく。そして気がついた時には、体の内臓がことごとく破壊され、脳もおかしくなる。やがて待っている末路は、全身から血を拭きだし、発狂して無惨に死んでいくのだ。
最近、これは凄まじい勢いで、呉の高官達に広まり始めている。元々四家の絶対支配が凄まじい、爛熟した呉の状態に、この酒の魔的魅力は最適だった。腐りきった高官達はこの酒をこぞって買い求め、そして中毒になっている。分かっているだけでも十五人、今中毒になっている高官がいた。その中には、鳳の村を焼き尽くした外道、藩璋も混じっていた。
目立って成果が出ると嬉しい。出来れば呉から漢人を全部追い払いたいくらいである。だが、組織の協力者には漢人も多く、彼らとは共存を考えなければならない。まだ若い内から、鳳は政治の現実を目の当たりにすることで、人間の闇そのものを、直視しているに等しかった。
「良し、今日はもう上がっていいぞ」
「わかりました」
指揮官の言葉に甘えて、鍋の状態を仲間に引き継ぐ。そして、小屋の地下に広がっている巨大な空間の隅にある、休憩所に。外から光が差し込む作りになっている其処には、粗末な寝台が並べられていて、疲れ果てた皆が泥のように眠るのだ。
今も同僚達が五人、前後不覚に眠りこけていた。男も女も関係ない。女が欲しい場合は、外で買うようにと厳命されていて、魔の酒の収益金も皆に配られている。だから、意外にも、皆の服装はそれなりに豊かだった。女の仲間の中には、かなり高級な衣服を田家から買い取り、着飾っている者もいる。
魔の酒は、玉が販売する。いずれも、呉の高官にしか売らない。
この富は、山越を虐げ続けた者達から、正統に奪い取ったものなのだ。そう、鳳は考えていた。
眠りについて、夢を見る。
呉が追い出された江東。山越がのびのびと暮らすことが出来る土地。
点在する村は豊かな実りを謳歌し、鳳も適齢期に婚姻。そして、子供に囲まれて、幸せな生活を送るのだ。
敵はたまに現れる虎くらいで、それも村が総出で追い払うのは難しくない。平和な、日常が。其処にはあった。
目を覚ますと、暗い小屋の屋根が見えた。
現実が其処にある。
起き出す。指揮官は隣で眠っていて、副官が今は魔薬の作成を指示していた。鳳が起き出すと、指揮官より若干若い副官は破顔した。彼女はどうやら指揮官に気があるらしく、早く呉を潰して一緒になりたいと時々言っていた。
「もう少し、寝ていてもいいのよ」
「大丈夫です。 呉を潰すためならと思うと、体が熱くなります」
「それでは、鍋の状態を見て。 鳳、貴方が一番上手に、鍋の行程をこなせるみたいだから」
頷くと、鍋に取り掛かる。
これによって、山越を虐げてきた呉の高官が、自業自得の死を遂げていくのだと思うと、気合いも入る。
しかし、ふと気付く。
結局、自分たちは、呉の高官と同じ事をしているのではないのか。これは殺しのための仕事だ。仇を討つことに酔って、気がつくと血まみれになっているのは、味方も同じなのではないのか。
しばし悩んだが、手は止めない。
今、鳳に出来るのは、これだけだった。
後悔できる奴は幸せだ。まだ、手元に何かが残っているのだから。
もはや鳳の手には、何一つ残っていなかった。
1,三年の平和
三回の総力戦で国力を著しく消耗した蜀漢は、武都、陰平は維持したまま一旦漢中に主力を引き上げた。それを聞いて、呉軍も図ったように行動を停止。今まで呉軍が合肥を脅かすことが出来ていたのは、実に二十万に達する魏の主力を、蜀漢軍が引きつけていたからである。
激しい戦いで戦力を消耗し尽くした魏軍も、一旦長安まで防衛線を下げると、其処で兵力の再編成に移った。
不思議な話だが。中華に存在していた三国が、同時に平和に突入したのである。
そんな中、一人だけ漢中に戻らなかった蜀漢軍の将軍がいる。
陳式であった。
兵士達の訓練を見終わった後、陳式は山に登る。足腰を鍛えるためだ。決して足腰を鍛えるのを怠らなかった義父の陳到が、晩年は戦傷に泣かされ、自分では歩くことも出来なくなった。そのことを考えて、自分なりにしている鍛錬だった。愛馬は手綱を持って、引いて歩く。愛馬も陳式のことは信頼してくれていて、無言で山に登り、その後をついてきてくれる。
頂上に着くと、辺りは墨を流したような、美しい光景だった。
白と黒を起点に、世界の全てが表現されている。
この辺りは漢民族よりも、少数民族の方が圧倒的に多い。西にはキョウの大国家が存在しており、兵力は五万とも十万とも言われる。北にいる鮮卑とは冷戦状態だと聞いているが、時々血みどろの争いをしているようである。そして何より、彼らは豊かな土地を求めている。中華に隙があればいつでも侵入してくるだろう。
陳式の軍勢は一万。二千でここに入って、其処まで現地の民を徴募して増強したのだ。十万程度の蜀漢軍を考えると、著しく多い数だと言える。魏では戦略的価値が低いとされるこの土地を巧く利して、諸葛亮が出してきた指示だった。
山を登ってくる影がある。
キョウよりも更に西の土地から来た者達の中に混じっていた、白い肌と、焦げ茶の髪を持つ娘だ。瞳は濃い青。若い頃のシャネスを思い出して、はじめて見た時にははっとしたものである。背も高い。
白色の肌の者達は、漢民族に比べて身体能力も高く、おなごでも背が高くなる傾向があるのだと、この間シャネスに聞いた。
この娘、ライリも同じだ。背丈は陳式とあまり変わらない。もっとも、陳式は幼いころ体が弱かったから、その分もあるだろう。ライリは漢民族との混血だそうだが、結局西の民の父に育てられ、その風習を受け継いだという。
「陳式将軍。 また山登りですか」
「ああ。 足腰を鍛えておかなければ、いざというときに役に立てぬからな」
父は、それでも蜀漢のために、役立っていた。
しかし陳式はまだ未熟だ。しっかり足腰を鍛えておいて、いざというときに備えなければならなかった。
「それで、何かあったのか」
「苗族の者達が、賊に悩まされていると訴えがありました」
「分かった。 すぐに退治しよう」
この辺りの治安は、著しく悪い。それに悩まされているのは、どの民族も同じ事だ。だから、陳式が対処しなければならない。前に此処にいた魏の郡太守は、漢人の安全しか守ろうとせず、著しくそれが結果的に治安を損ねた。
よくしたもので、賊は殆どが漢人である。奴隷として少数民族の者達を売り飛ばすために、賊と結託している商人までいる。しかも連中には、魏に対して、蜀漢が「民」を著しく侵害していると訴えている者がいるという。あきれ果てた話であった。魏もそれを受けて軍を動かす様子はないと言うが。
山を下りる途中で、殺気を感じた。虎ではない。
ライリを手で制して、剣を抜く。そして、木の陰に隠れながら、殺気の方へ。どうやら、賊が放った凶手(暗殺者)らしい。しかし、大した腕前ではないらしい。賊ごときが、雇える相手としては妥当だろう。
いた。茂みに隠れている。数は三人。
陳式を見失って、右往左往している。そこへ、陳式は突然渇を浴びせた。驚き、立ち上がる三人に間を詰めると、即座に一人の首を刎ねとばした。そして二人目を切り下げると、三人目は悲鳴を上げて尻餅をついた。
いつの間にか後ろに回り込んでいたライリが、首筋に棒を叩き込んで気絶させる。相当な練度で棒術を会得していて、陳式としても見ていて驚かされる。手慣れた動作で縛り上げていくライリを見つめながらも、陳式は油断無く周囲に気を配った。
他に仲間は無し。ライリがぼやくように言う。
「陳式将軍。 しばらく、単独での行動は控えてください」
「そうだな。 そうするか」
「それにしても、この連中は」
「恐らく、漢人の恥知らずが、逆恨みして雇った者達だろう。 その生き残りから尋問するか」
山を下りる。これほど美しい山なのに、人間は何と醜いことか。
ライリは平然と職務をこなしていたが、多分彼女もこんな醜い人間の様子を、ずっと見続けてきたのだろう。やるせない話であった。
軍営に戻る。副官が賊を見て、呆れたように歎息した。副官と言っても将軍待遇で、しかもこの武都に赴任してきてから付けられた人物である。魏の?(カク)昭を思わせるたたき上げの人物で、陳式よりもずっと年上だ。彼も、ライリ同様、陳式に単独行動を控えるように常に小言を言う一人だった。
「だから、単独行動は控えなさいと、いつも言っているではありませんか」
「分かっている。 まだ生かしてあるから、すぐに背後関係を洗え」
「手配します。 それと、賊の討伐の件についてですが」
「すぐに出る。 私が指揮を執るぞ。 徹底的に叩きのめす」
此処の賊は、生活が苦しくて賊になっているのではない。政治が腐っていて、抗議の意味で賊になっているのでもない。
少数民族を虐げ、金品を巻き上げるために賊になっているのだ。此処からたたき出された魏の兵士や官僚の残党も、相当数が賊に加わっている。そう言う意味もあって、徹底的に叩いておかなければならなかった。
蜀漢から来る文官の中には、賊は漢人だから手心を加えるようにとかほざく者もいるが、陳式は一切容赦しないことにしている。屑の恨みを買うことなど何でもない。そんな事よりも、民の恨みを受ける方が、ずっと辛いことだった。
賊はその日の内に皆殺しにして、首謀者は全員さらし首にした。いかめしく柵を立て、山塞に立てこもっていた賊だったが、歴戦の陳式からすれば児戯に等しい作りの要塞だった。瞬時に弱点を見抜き、攻略。賊の長は、漢人の俺を殺すのかなどとほざいていたが、陳式は一顧だにせず首をたたき落とした。他の首謀者は哀願を始めたが、皆同じ運命にたたき落としてやった。
囚われていた苗族の者達は全員解放して、家族の所に返してやった。彼らは泣いて感謝する者と、まだ陳式を警戒している者に別れていた。漢人に酷い目に遭わされたのだから、無理もない話である。今後もこうして、少しずつ努力をしていかなければならないだろう。
民族に関係なく、悪しき賊はこのように処す。陳式は高札を立てると、蜀漢本土に賊を討伐した旨を伝えたのだった。
陳式の報告書を受け取った諸葛亮は、その全てに目を通し終えると、ふむと呟いていた。同じような立場にいる張疑は、全く逆の方針で民から慕われている。二人のやり方は違うが、どちらも民から慕われているという点では、代わりがなかった。
南蛮に派遣している張疑は、現地の少数民族達と深く交わる事で、融和的な統治を行っている。まだ若い男だが、場合によっては全裸になって密林に入り、民との生活を行うこともあるという。
賊に対する対処も融和的だ。まずは使者を派遣して話を聞き、落ち度がある場合は政務を改めるやり方を取っている。凶悪な賊の場合は、逆に張疑のやり方が厳しいほどで、徹底的に追求して滅ぼす。しかしどうしようもない状況で賊になっている者に関しては、胸襟を開いて語り合い、場合によっては無罪にして軍に加えるようなこともしている様子であった。
張疑はそのやり方で、地元の民からは一種の神として尊敬されている様子である。未開地域と言うこともあり、実在の存在と神格の差が、極めて曖昧なのだ。だがそれは微笑ましい事であるし、むしろ下手にすれている漢人よりも、諸葛亮にしてみればずっと好感が持てる事であった。
陳式はとにかく厳格で、平穏に暮らしている民のことを第一に考えている。賊には容赦しないやり方を徹底しているが、領民には慕われていて、兵士の徴募に応じる者もかなり多いという。これは、陳到の影響によるものだろう。陳到は腐敗官吏に泣かされ、一時期賊になった事がある。自分が厳格である事で、賊になる民を減らそうと言う行為は、諸葛亮としても理解できる内容であった。
諸葛亮は。冷酷厳格に振る舞っているが、それは己の欲望を叶えるためではない。陳式へ、指示の書類を書く。更に兵力を増強し、魏との決戦に備えるようにと言うものであった。同時に、情報収集に長けた者を送る手配も始める。陳式はどうも、今のところ武都と陰平の事しか考えていない様子がある。最終的には魏を滅ぼすことを考えると、今魏の中に買っている徐庶と、内部を放浪している関索、馬超だけでは足りない。国境線が曖昧である武都、陰平にいる陳式こそが、今後の鍵を握ると言っても過言ではなかった。
ある程度筆を進めた所で、気配。妻のものだった。
少し前に産まれた子を背負っている。一度も甘い顔を見せたことはないが、自分の血を分けた息子だと思うと、諸葛亮も愛着を感じる。
「あなた。 茶をお持ちしました」
「うむ、その辺りにおいてくれ」
「政務が終わったら、少し休んでください。 出来れば、この子とも遊んで上げてほしいのです」
「そうだな。 考えておこう」
次の書類に取りかかる。
幼い頃、諸葛亮は徐州にいた。陶謙による圧政と、曹操との戦いの中で、多くの民が死んでいった。
幼い諸葛亮の目に焼き付いたのは、燎原を焼き尽くす炎だった。それは男も女も関係為しに皆殺しにし、屍は野に晒され、人間の尊厳は極限まで奪われるのだった。陶謙も曹操も、今でも憎んでいる。
流民として放浪しながら、諸葛亮は誓ったのだ。
無能な君主がいるから、このような事態が起こるのであれば。誰か、有能な者が立ち、世を治めればいい。
そして有能な君主がいないのであれば、補佐役がそれを補えば良い。
最初、諸葛亮は君主として立身しようと思った。荊州に辿り着き、親戚の伝手を頼って司馬徽の門下に入った。頭角を現す中で諸葛亮が悟ったのは、自分に君主の才能はないという事だった。
ならば、参謀になる他無い。
そして、劉備と巡り会ったのだ。
劉備は有能だとは言い難い部分も所々にあったが、まず民を第一にという戦略を掲げている所が、諸葛亮の目的と合致していた。魏は曹操の国家と言うこともあったし、全体を第一にと考えていたので、其処が諸葛亮の戦略とは合致しなかった。
誰にも言わないが。
まだ今でも、幼い時のことは夢に見ることがある。
あれを二度と繰り返させない。それが諸葛亮の、生涯の目的だ。それを達するためであれば、諸葛亮は悪鬼にでも魔にでもなるつもりであった。民に魔王が必要なのであれば、自分がそうなろうとも思っている。
民は、単独ではどうしようもない弱者だ。諸葛亮は本気でそう思っている。
そう思うに到るには、もちろん理由がある。流民となって諸葛亮は放浪したことがあるから、人間の本性を幼い頃から見せつけられてきた。
普段優しいおばさんが、鬼のような形相で、我が子から僅かな干し肉の切れを強奪するのを見た。
日頃真面目な男が、弱り切った女性から、財布を盗んで逃げるのを見た。
民は弱い者なのだ。その心は、ちょっとした切っ掛けで、簡単に壊れ、闇に落ちてしまう。
だから、強い者が導いてやらなければならない。
そしてそれは理想的な君主であり、その参謀であるべきであった。
故に諸葛亮は、参謀である。君主が駄目なら、自分が全てを背負えば良いのである。全ての民に安寧を。それが諸葛亮の、生涯の願い。地獄を見てきたから本気で思える、唯一の誓い。
それが得られるのであれば、諸葛亮は闇に魂を売ることだって、魔王になることだって、出来るのだった。
もちろん、後世に名を残したいという欲求もある。
だがそれ以上に、諸葛亮の精神的な燃料となっているのは。純真すぎる、その圧倒的信念であった。
陳式への手紙を書き終えた。
さらなる兵力増強を、というものだ。あと半年ほどで、諸葛亮はまた出兵する。既に消耗した国力は完全に回復し、以前を上回ってさえいる。動員兵力は、蜀本土から三万五千ほど。そして陳式は一万ほどを連れて、合流できるはずだった。陳式は山賊の討伐や、時々侵入してくるキョウや西涼の軍勢と小競り合いを繰り返しており、兵は相当に練度が上がっている。
四万五千の兵。その上、今回は諸葛亮の手に、切り札があった。
今度こそ長安を陥落させる。そうすれば、西涼をも落とすことが出来、強力な鮮卑の騎兵部隊を手に入れることが可能となる。そうなれば、平和で弱体化しつつある魏の鳥丸族騎馬隊など、塵芥のように蹴散らすことが出来るだろう。
魏の天下は、長くは維持できないと、諸葛亮は分析していた。それは全体のためにと言う思想が、最終的には官僚を利すだけだと思っているからである。古来、民を軽視して長続きした王朝など存在しない。秦がその最たる例であろう。
だから、此処で倒さなければならないのだ。
手を叩いて、細作を呼ぶ。そして書類を手渡した。
肌が浅黒い山越の娘は、書類を受け取ると、無言で姿を消す。
妻がため息をついたので、手を休める。まあ、四半刻くらいなら、休憩しても大丈夫だろう。
「分かった。 少し休む」
「そうしてください。 それと、この子を少しあやしてくださいな」
「分かっている」
息子、思遠は少ししゃべり出すのが遅く、何度か心配もした。だが、それ以外の部分ではそれなりに利発な部分も多く、総じて見ると平均以上の能力はありそうだ。高い高いとしてやると、一応喜ぶ。しかし普段は、寡黙に黙り込んでいることが多く、他の子供のように黄色い声で騒ぎ回るような事もなかった。
だが、それでも愛情は感じる。呉にいる兄、謹に、以前子供が可愛くて仕方がないという手紙を送ってしまったことがある。後から文面を思い出してみると、少し恥ずかしかったかも知れない。
ひとしきり息子と戯れた後は、深夜まで作業を続けた。
そして眠った後は。早朝から出仕し、また仕事をした。
戦機は着実に熟し始めている。今回、狙うのは長安を伺う重要拠点、祁山であった。
2、司馬一族の闇
政務を終えて、自宅に帰ってきた司馬懿は、さらなる憂鬱に襲われていた。
曹真の後を引き継いで大将軍になった。なったのは良いのだが、武官達の突き上げが凄まじいのだ。誰もが手柄を立てたいと、司馬懿に詰め寄ってくる。対呉戦線は膠着状態で、名将陸遜は荊州で魏の諸将と一進一退。合肥では体調を崩した曹休の代わりに、満寵ががっちり守りを固めており、新しい軍勢が入る隙など無い。
故に将軍達は、異民族や賊の討伐くらいでしか、実戦経験を積めず、手柄も立てられない。まして近年では大きな反乱や大規模な賊も出ておらず、手柄を立てる機会など無いに等しかった。
其処で、司馬懿に突き上げが来る。
蜀漢を攻略しようという意見が、連日のように投書されてくるのだ。しかも軍議を開けば、蜀漢を先に攻略すべきだ、武都と陰平を取り返せと、きいきい猿のようにほざく者が後を絶たなかった。
彼らを毎回論破する度に、司馬懿は、胸の内に隠している大将軍の印綬を撫でて落ち着く。曹叡様がくださった印綬だ。私を認めてくれた証なのだ。そう思うと、少し心が温かくなる。
だが、それ以外に、司馬懿の安らぎなど無いに等しい。
元々司馬家は名門だった。少し前までは落ちぶれていたが、必死の宣伝工作の結果、司馬懿の兄弟は皆優秀で、八達と呼ばれているなどという「既成事実」が作られ始めている。事実温厚な人格で知られている長男の司馬朗に関してはある程度優秀だが、他は司馬懿の人脈に群がってきている二流三流ばかりだ。曹操が生きていた時代には、そう大した出世が出来なかったことからも、噂が虚名に過ぎないことは明らかである。
その「優秀な兄弟」達を、最悪なことに妻が手名付けている。それだけではない。息子達も、彼らと結託しているのだ。
最近彼女らの野心は膨らむ一方で、顔を合わせれば今度は宰相を目指せとか、好き勝手なことばかり言ってくる。場合によっては、曹叡を殺して、実権を握れ等と露骨に言ってくることさえあった。
司馬懿に、曹叡を裏切る気はさらさらない。
世の中の全てが気に入らなかった。だが、曹叡は司馬懿を認めて、全面的に行動を許可してくれたのだ。前回の北伐でも、諸葛亮を押し戻したことを評価してくれたし、とにかく分かってくれている主君である。
それなのに妻と来たら。
自室で、寝台に突っ伏してぼんやりとする。
若い相手なのだから、籠絡するのは簡単だろうとか。
場合によっては、林を使って暗殺してしまえとか。
不穏当すぎる。そして、他の司馬一族も、彼女の危険な思想にすっかり染まりきり、権力を如何に奪取するか、虎視眈々と狙っている有様だった。
何度も、ため息が出る。
だがそれでも、仕事をしなければならなかった。
中華では、成功者は、他の一族を養わなければならないという思想が古くからある。司馬懿は成功者であり、一族、つまり「家」の代表として全てを背負わなければならない立場にあった。それは温厚であるが故に、結局爆発的な出世を遂げられなかった兄にも共通しているのだが、今や朗より次男の懿の方が、司馬一族内での責は大きかった。
逆に言えば、だからこそに。
危険思想に染まった一族の突き上げさえも、司馬懿は受け止めなければならないのだ。何しろ、一族の代表なのだから。
今日も帰ってきたら、一族が総出で揃っていて、妻になにやら話を吹き込まれていた。もちろん息子達はすっかり妻の手駒だ。そして司馬懿は散々彼ら全員から説教された。野心が足りないとか、もっと強く権力を得ようとするべきだとか。もはや返答する気力もなかったので、ハイハイと頷いていたら、妻に本気でぶん殴られて、縛り上げられて吊され、鞭で叩かれた。
曹叡様に叩かれていると思い、必死に耐えた。やがて一族も折檻に加わったが、あまり激しい暴力を振るうと元も子もないと知っている彼らは、適当な所で切り上げていった。にやにや笑っている連中の顔を、司馬懿は心に刻みつけた。許せないが、今はどうにもできなかった。
家制度は、必ずしも悪しきものではない。元々流民が戦乱時に出るように、この国では人間が多すぎる。人間が多くなれば危険も増す。社会は大型化すればするほど、様々な害悪が生じてくるからである。そんな社会で身を守るためには、やはり多くの知恵を結集する必要がある。
家制度は優れた経験を持つ家の長を中心として、知識共有を効率よく図ることが出来るものなのだ。孔子を始めとする偉大なる思想家達が、まず不文律を家制度を中心として考えたのは、それが要因である。
情報がなければ、巨大社会では生きていけないのである。余程優れた個人ならともかく、殆どの人間はそうではない。そして社会を構成しているのは、その「ほとんどの人間」の方なのだから。
しかし。痛む体をさすりながら、司馬懿は思う。
司馬の家は腐りきっている。妻だけが特別なのではない。元々この家は楚漢戦争の前から、王侯だった名門だ。それだけに蓄積している腐敗も尋常な次元ではないと言うことである。
家制度は、情報の蓄積と同時に、腐敗も熟成してしまう大きな欠点を有している。司馬懿はそんな腐敗した汁に群がる蟻どもを、喰わせていかなければならないという、悲しい定めも背負っていた。
家制度が悪いとは思わない。これがないと、生きていけない弱者は大勢いる。社会が崩壊した時、身一つで逃げまどう流民の悲劇を知っているか。巨大社会で、情報を持たない弱者の末路がどんなものか、知っているか。
司馬懿でさえ、知っている。
ぼんやり天井を見つめていると、くすくすけらけらと笑い声。
林に違いなかった。
「笑いたくば笑え、化け物」
「いやいや、貴方も苦労していますね。 腐った名家は散々見てきましたが、貴方の所はまるで別格だ」
「思えば、この家は私が出ない方が良かったのかも知れん。 妻にしてみても、私の相方にならなければ、此処まで腐るようなこともなかっただろう。 もっとも、あの気の強さは、生まれついてのものだろうが」
寝台から身を起こす。
いつの間にか、林が目の前に降り立っていた。化け物ぶりに、ここのところ拍車が掛かっているように思える。
すっと、竹簡を差し出される。
「なんだこれは」
「諸葛亮近辺の情報ですよ。 近々奴は、また北伐を起こすでしょう」
「まて、あれだけ国力を消耗したのにか。 たった三年だぞ」
「蜀漢はもう以前より国力を増しています。 痛手なんぞ、とっくの昔に回復しきっていますよ」
寒気がした。本当に諸葛亮は化け物だ。
太祖曹操でさえ、政治力という点では、多分諸葛亮に及ばないだろう。軍事能力で諸葛亮に勝る者は存在するかも知れないが、多分この時代、政治家として諸葛亮に比肩する存在はない。江東の張昭は相当に優れた手腕の持ち主だが、それでも到底及ばないだろう。
改めて、自分が化け物の前に立ちはだかる凡人なのだと思い知らされる。
「すぐに準備をしなければならんな」
「おや? あれだけ訓練をしていても、まだ足りないと?」
「兵力が足らん。 武都、陰平に既に一万近い動員兵力が備わっていることは、調査済みだ。 次の諸葛亮は、多分四万五千程度の兵力を繰り出してくるはずで、長安に今駐屯している十五万では足りん可能性がある」
明日参内した時に、曹叡に更に兵力増強を頼まなければ危険だ。河北辺りから、遊軍と化している兵力を十万ほど長安に移動してもらえれば、どうにか支えることが出来るかも知れない。
かって、曹操軍を支えた青州兵は、既に過去の存在となった。黄巾党は既に歴史上の存在だし、曹操による恩も無くなったからである。今主力となっているのは各地の屯田兵達だ。それも暇を囲い始めている今、積極的に戦場に出して、少しでも経験を積ませなければならない。そうしなければ、諸葛亮が直接鍛えている蜀漢の獰猛な精鋭を支えることは出来ないだろう。
その晩は、静かに寝て、英気を養った。
明日は家の者達だけではなく、曹叡の周囲にいる文官達とも喧嘩をしなければならない。苦労が絶えることは無さそうだった。
鄧艾は小さく欠伸をしながら、荒れる軍議を見つめていた。
司馬懿が持ち出した、諸葛亮が近々大侵攻を掛けてくると言う情報が、荒れの原因であった。洛陽にいる曹叡の側近が、今日はたまたま長安に何人か来ていて、彼らが司馬懿の提示した情報に噛みついたのである。
「長安および周辺には十五万もの兵力がいる。 それでどうにかするのが、司馬懿。 大将軍たる貴殿の仕事なのではないのか」
「敵は五万にも達しない小勢だというではないか。 どうして魏の精鋭を率いて、それを支えきれないのか」
厳しい質問が次々に飛ぶ。
文官達は年老いているとは言っても、曹操の時代から生きている者達ばかりだ。いずれもが悲惨な戦争を経験しており、ただぬくぬくとしていたばかりの者達ではない。何度か咳き込んでから、王朗が反論する。
「諸葛亮はまさに神域の知を持つ男だ。 その局地戦略の巧みさは尋常ではなく、兵を手足のように動かす手腕も比肩する者がいない。 我が軍は今までどうにか支えることが出来てきたが、それも兵力が敵に比べて著しく多いからで、多少多い程度では勝てないだろう。 それどころか、負けないようにする事でさえ難しい」
「何と気弱な」
「そなたらが無能なだけではないのか」
ずいぶんな言いぐさである。
魏の将軍は、質において蜀漢を上回っている。鄧艾はそれを間近で見ていて、強く感じる。
だが、蜀漢の諸葛亮は、恐らくこの時代最後の星とも言える存在だ。諸葛亮に集約された権力が、蜀漢を強くしている。兵の質に関しては、魏ではとても歯が立たないほどに、である。
挙手したのは張?(コウ)。流石にそれを見て、文官達も黙り込んだ。まだ若い司馬懿と違い、張?(コウ)は古株の文官達を圧倒する威厳と格の持ち主である。でも、その辺りは。恐らく鄧艾の見たところ、年期の差だけではないだろう。
「諸葛亮の恐ろしさは、私も見て良く知っている。 私が直接鍛えた精鋭をもってしても、簡単に勝てる相手ではない」
「張?(コウ)将軍! 貴方ほどの猛者が、そのようなことを仰るのですか」
「事実だからだ。 むしろ大将軍はよくやっている。 私が総指揮をとっても、あまり結果は変わらないだろう」
文官達はひそひそと話し合い、それを見て司馬懿は額に青筋を浮かべていた。
思うに、今後も司馬懿は威厳の類を身につけることは無さそうである。もしもこの神経質な人物が、何かしらの威厳を身につけることがあったら。それは多分存命中ではなく、死後のことではないのだろうかと、ふと鄧艾は思った。
それは恐ろしい想像で、ある意味不忠でもあったから、思考の枠から外す。今、鄧艾は、勝つことだけ考えていれば良かった。
「わかりました。 張?(コウ)将軍が、そう仰るのであれば。 我らとしても、陛下を説得せざるをえますまい」
「此方も、出費が著しく多くなることは把握している。 出来るだけ早く諸葛亮に対する勝利をつかみたいとは考えているから、貴殿らも協力していただきたい」
「わかりました」
文官達は、納得した表情で部屋を出て行った。司馬懿の肩を、張?(コウ)が叩く。何か慰めの言葉を言っているらしい。黴が生えそうなほど落ち込んでいる司馬懿を、周囲の将軍達は複雑な視線で見つめていた。
司馬懿がすぐれた戦略眼と、戦術判断能力を持っていることは、誰もが知っている。
だが、同時に。
誰もが彼を嫌っているのだ。
これほどまでに司馬懿が嫌われる原因は何だろうと、鄧艾は思う。陰湿な性格だろうか。或いは名家の出身であると言うことか。
前回の戦いで、諸葛亮を追い払うことが出来たのは、司馬懿の判断の結果だ。だから、大将軍への就任について、文句を言う者はいなかった。だが、軍議が終わり、部屋を出て行く将軍達の誰もが、司馬懿を快く思っていない。
陳泰が先を歩いていたので、小走りで追いつく。
少し前に、鄧艾の地位は陳泰を上回った。兵士達には敬語で接しているのだが、陳泰に対して敬語で接するのはおかしいと、言ってきた者がいた。それ以来、普通の言葉で喋りかけるようにしている。そうすると不思議と反応が面白いのだ。
ちなみにこのやり方を吹き込んだのは郭淮であった。何でかはよくわからない。
それと、喋るのが苦手で、あまり口調が定まらなかった鄧艾も、最近は意図的にそれを操れるようになってきた。それが楽しいという事情もあった。
だから、ごく親しい相手には普通に喋り掛け、それ以外には敬語。そうして通すようにし始めている。
「ねえねえ、陳泰」
「うわっ! き、貴様何だっ!」
「え? 声をかけただけだけど?」
「そ、そうか」
見つめると陳泰はなぜか顔を真っ赤にして、小走りになる。隣を歩きながら、さっきの話を振ってみた。陳泰はちらちらと此方を見ながら、話してくれる。
「大将軍を、皆が嫌っている?」
「そうでしょ?」
「お、お前は言うことがいちいち直球だな。 確かに、大将軍を好きな者は、あまりいないかもしれないが」
周囲の将軍達が、聞かない振りをしているのが露骨だった。中には、路をそれる者まで出てきている。
鄧艾は少し声を低くすると、陳泰に続けて話し掛ける。
「陳泰は、どうして大将軍が嫌いなの?」
「お、俺は大将軍を嫌って等おらん!」
「じゃ、好き?」
「す、好きって、お前な!」
見る間に真っ赤になる陳泰。理由がよくわからない。
いつの間にか宮城を出ていた。歎息すると、陳泰は言う。
「恐らく、それは俺達と違うから、だろう」
「何が?」
「大将軍は、文官上がりの官僚だ。 しかし此処にいる俺達は、幼い頃からずっと武官としての訓練を受けてきて、戦場で死ぬ覚悟だって出来ている。 それなのに、大将軍になる先を越されて、面白いと思う奴がいるわけがあるまい」
「ふうん。 ありがと、参考になった」
おかしな理論だった。
もしも司馬懿がいなければ、今頃長安は蜀漢の手に落ち、中原は西涼と擁州の軍勢を遭わせた諸葛亮の猛攻を受けていただろう。そうなれば呉も呼応して攻め込んできたであろう事は疑いなく、魏は下手をすると滅亡していたかも知れない。
それなのに、先に出世されたという理由で、司馬懿を嫌うのは。鄧艾には理解できなかった。
調練場に出る。兵士達は鄧艾の顔を見るとぱっと空気が明るくなる。これが嬉しい。しかし、今まで柔らかい口調で話していたのを、近年では敬語に改めている。これは、自分にめりはりをつけるためだ。
隊長達を集めると、空気を一気に暗くする事を告げる。
「蜀漢軍が、攻めてきます」
「何っ! そ、それは本当ですか」
「馬鹿な、奴らの経済的な打撃は相当なものだったはず。 それを、たったの三年で回復したというのですか」
「残念ながら、ほぼ間違いのない事実です。 我が軍は、前三回の諸葛亮との交戦によって、少なからぬ打撃を受けました。 それは、残念ながら、敵に比べて士気も訓練も劣っているからです」
そういうと、隊長達は俯く。だが、此処で致命的なまでに士気を落としてしまっては、戦争が始まる前に、味方は負けてしまう。
この二年と少し。鄧艾は自分なりに、どうしたら諸葛亮に勝てるのか、考えてきた。兵士達の意識を変えるべきだと声高に主張する古参の将軍もいるが、それは違うと思っている。それはあくまで精神の話であって、訓練でどうにかできるものではない。
むしろ蜀漢軍の捕虜から、話を聞く事に、鄧艾は終始していた。つまり、敵の強さを身につけたかったのである。
何度か機会を得て、鄧艾は蜀漢軍の兵士に話を聞くことが出来た。拷問すればいいという同僚もいたが、そうはしなかった。拷問すると、此方に都合がよい話しかしないからだ。それに、残酷なのはいやだった。戦場に立って戦っている鄧艾としては、おかしなことなのかも知れないが。
どの兵士も、鄧艾を見て驚いた。いずれもが侮って掛かってきたので、最初は此方を信頼させることから始めた。やがて、故郷に帰してやるという条件で、少しずつ話を聞くことが出来るようになってきた。
それで、最近分かったことが幾つかある。
「まず訓練ですが、蜀漢軍は特定の線を設けて、それを越える事を訓練の目的としています」
「線、とは」
「例えば、陣の展開は、鼓を幾つ打つまで。 跳躍はこの線まで。 剣は訓練中に三百回まで振れるようにする事、などです」
隊長達は顔を見合わせる。そのような訓練方法は、聞いたことがなかったからだろう。鄧艾も最初は驚いた。
痛恨なのは、これを取り入れる時間があまりないと言うことだ。やっと聞き出せたのがつい先日で、しかもこの大侵攻の知らせである。司馬懿の予想通り後二年時間があれば、兵士達にこの訓練を導入できたのだが。
兵士達の話によると、特定の目標を攻略できることによって、兵士達は報酬を得られるという。給金もそれによって高くなると言うことで、俄然誰もがやる気を出す。
やがて、誰もが水準を越え、最強の兵士達になってくる。それが、蜀漢軍の強さの秘密だった。
「それで、蜀漢軍の兵士達は、あれほど統率されているのですか」
「はい。 もう一つは、彼らは全てが、かっての我々のような屯田兵です。 平時には畑仕事をして、或いは南蛮や漢中北部、西部の開拓作業をしています。 これらの合間に小競り合いが起こることが多く、非常に豊富な実戦経験を積んでいます」
実戦は最高の訓練という言葉があるが、蜀漢軍は地でそれを実行している訳だ。
魏は国内が安定してきた結果、既に平和になりつつある。蜀漢も諸葛亮の内政で相当に国内は充実しているようだが、辺境にはまだまだ不安定な場所がある。其処に兵士達を積極的に投入することで、練度を保ち、なおかつ蜀漢の国力を上げているという訳だ。南蛮の諸国は諸葛亮を恐れているようで、朝貢を欠かさず、それによって国庫は潤っているという。また、実務面では張疑の巧みな統治によって、現地の民の心をつかんでいる様子だ。
いずれにしても、諸葛亮の統治はまるで無駄がない。もしも魏の宰相だったら、間違いなく天下はとっくに太平になっていただろう。
「この話のより恐るべき点は、技術水準が同一の兵士達を集めている、という点にあります。 我らの部隊が混成に過ぎず、統率も乱れがちなのとは、大きな差です」
「なるほど、より強い仲間意識を抱くという訳ですか」
「そう言うことになります」
「しかし、此方で出来ることは既に限られています。 兵士達の訓練については、次の戦いには間に合うかも知れませんが、編成についてはどうにもなりません。 我が軍は十五万、場合によっては十万の増援が来ることになります。 それを考えますと」
隊長達の顔は暗い。だが、此処までは想定済みだった。
鄧艾はにこりと笑みを浮かべて、彼らの不安を少しでも取り払う。
「全体を揃えるのは無理でしょう。 だから、今回はうちの部隊だけで、それを実践してみます」
「し、しかしそれは、軍の秩序を乱す行為ではありませんか」
「既に大将軍には、許可を貰っています。 今回蜀漢軍と同じやり方で成果を上げることが出来れば、次は全軍の部隊に導入が可能となります。 蜀漢軍が、少数の軍勢を、その訓練方法で最強の精鋭に仕上げたのです。 母集団が大きい我が魏軍で同じ事を実践すれば、恐らく勝ち目が出てきます」
全体的な戦略については、司馬懿にどうにかして貰う。そして此方は、戦術の段階で、諸葛亮を破る算段を練るのだ。
諸葛亮は、単独であまりにも能力が高すぎる。だから、対応しきれないほどの事態が一度に起これば、必ず倒れるだろう。諸葛亮が死にさえすれば、どうにか後のことは対処が出来る。蜀漢をすぐには滅ぼせないかも知れないが、魏の最終的な勝利については確定だろう。
そうなれば、なし崩し的に呉も滅ぼせる。
平和が、来るのだ。
牛金が願っていた、平和が。
すぐに隊長達には、仕事に取りかかって貰った。そして数日後には、司馬懿による大動員令が発令。洛陽、河北から順次到着する新兵十万と合流し、二十五万の軍勢によって、蜀漢軍を押し戻すようにという命令が下された。
鄧艾は今回、最前線である祁山に出向くことになった。兵力は五千。三千を率いる陳泰と同道することになる。他にも三名の将軍が出向くことになり、この方面の防衛戦力は合計三万となる。
他にも要所に兵が配置される。天水には二万。更に各地の要塞に、合計十万が展開し、緊密な連携をすることとなった。
進発を開始する魏軍。
だが、その矢先。
馬を進めている鄧艾に走り寄ってきた伝令が、驚くべき報告をもたらしたのである。
「蜀漢軍、既に祁山に展開! 数、およそ四万五千!」
「えっ!?」
馬鹿な、早すぎる。
蜀漢軍は補給という重大な欠点を抱えている。その上、蜀漢と魏の間には、蜀の桟道と呼ばれる険しい山の上に張り巡らされた木の路があるだけで、其処に軍の食料を通さなければならないのである。
今まで、魏軍が防衛線を容易に引けたのも、此処を通る際の、蜀漢軍の行動鈍化が要因であった。しかし今回は、今までの常識が、完全に破られたことになってしまった。
蜀漢軍が如何に優れた訓練を施されていると言っても、補給を軽視は出来ない。一瞬だけ、既に武都、陰平に展開している陳式軍に食料を少しずつ輸送していたのかと思ったが、そんな動きは報告されていない。魏も大量の細作を放って、蜀漢の動きをしっかり見ているのだ。
兎に角、蜀漢軍は何かしらの方法で、膨大な補給を行えるようになったのだ。
「馬鹿な、蜀漢軍は空でも飛べるというのか」
副官がぼやいた。兵士達に恐怖が広まってはいけないので、咳払いする。
「兎に角、諸葛亮が手強いのは承知しています。 此処は大将軍の指示を待ちましょう」
祁山を取られてしまったことで、当初想定していた防衛計画は破綻してしまった。頬を叩いて頭を切り換える。
今回も、厳しい戦いになるのは、分かりきっていた。此処で心が折れてどうする。
兵士達を一人でも多く生かして故郷に帰すためにも。鄧艾は、此処で踏ん張らなければならなかった。
洛陽。
魏の王宮では、青い顔をした文官達が走り回っていた。
皇帝曹叡は泰然としている。それなのに部下達が慌てきっているのは、あまりにも滑稽だと言えた。
側に控えている許儀がたまりかねて叱責しようとしたが、曹叡が視線をくれた。
ここ二年半で、曹叡はぐっと背が伸びた。そろそろ後宮に女を入れても良いのではないかという話も出始めている。しかし顔は相変わらず女のようであり、男らしさはいまだ宿っていなかったが。
原因は、長安からの急報である。蜀漢軍の凄まじい進行速度に、味方の防衛線構築が上手く行っていないのだ。前線は既に何カ所かが蹂躙され、どうにか兵を纏めた司馬懿は、かろうじて長安の手前に防衛線を引いた状態である。緒戦の敗退で、既に一万以上の兵を失っており、前線の将軍にも戦死者が出ていた。
十万の増援を、即座に送らないと危ない。
今更気付いた文官達が、右往左往しているのである。その光景は、滑稽を通り越して、哀れでさえあった。
彼らの様子を醒めた眼で見つめていた曹叡だが、手を叩く。そして、焼き菓子を持ってこさせた。
焼き菓子を食べ始める曹叡を見て、文官達が青ざめる。
「へ、陛下」
「落ち着け。 長安から、敵が手強いことは報告があったのであろう。 それを侮り、今までどうして増援の編成を遅らせていた」
「そ、それは」
「すぐに兵を長安に。 編成は行軍しながらでかまわん。 今は巧緻よりも拙速を重視し、まず長安に兵を送るのだ。 長安が求めているのは、防衛用の兵力そのものだ。 兵糧も、それに合わせて送れ。 多少計画が稚拙でも、兵糧が届きさえすればかまわん」
「は、はいっ! 直ちに!」
やっと方針が与えられた文官達。彼らが主導して動かすべきだというのに、情けない話である。
それにしても、曹叡の行動は見事だった。何度も許儀は頷いてしまった。
君主たるものは、こうでなくてはならない。文官達は曹叡の指示の下、軍を矢継ぎ早に長安へ送り始めた。河北から来ている兵も、そのまま長安に直行させる。黄河を使って、少しでも移動速度を上げている部隊もあった。
訓練はどうしようかと、ひそひそ話し合っている文官達がいたので、その場で叱責する。
「陛下の話を聞いていなかったのか。 兵は現地で訓練すればいい。 今は、頭数が絶対的に必要なのだ」
「しかし、諸葛亮は恐ろしい男だと聞きます。 訓練もろくにしていない、実戦経験もない河北の兵士達で、ものの役に立つのでしょうか」
「実戦経験が無くとも、弓矢を放つことは出来るし、槍で突くことだって出来る。 城を用いての防衛線では、特にそれが顕著だ。 そしてどんなに鍛えていても、人間は矢を浴びれば簡単に死ぬ。 槍で心臓を突かれれば、呂布や張飛だって息絶える。 人間がその場にいるというだけで、出来ることは多い」
曹叡は何も言わなかった。
文官達が精力的に動き始めたのを見て、一旦曹叡を下がらせる。額に手を当てると、案の定、熱があった。
「陛下、少しお休みなさいませ」
「あの文官達の体たらくを見ただろう。 これで休んでいられるか」
「また彼女に出てこられると厄介です。 今の内に甘いものをとって、心の負担を少し減らしておいてください」
「……そうか、分かった」
この間、老練な医師が入った。心の病にも通じている男で、曹叡の事を相談できるようになったのだ。
彼によると、やはり心の負担が、二人目の人格生成に影響しているという。そしてそれがもたらす先は、摩滅しきった心の死と、それに伴う肉体の滅びだという。やはり一人の体に心が二つあるというのは、不自然すぎる状態なのだそうだ。それに伴う体の負担も尋常ではなく、あまり長生きは出来ないという。
しかし、心が分裂してしまっても、健康的な生活をして、心の負担が小さくなるように心がければ、決して治らないことは無いそうである。ならば、曹叡には言って聞かせて、時には無理を言ってでも休んで貰うつもりであった。
曹叡はそれを分かってくれている。それに、本人としても、疲弊が激しいのは確かなのだろう。
体は大人になってきているが、体力が致命的にない。それなのに、才能はある。そして、全力で頭脳を活用し続けているから、負担があまりにも蓄積してしまっているのだ。
眠り始めた曹叡を見て、ほっと一安心。見張りを呼び集める。
眠ったように見せかけて、もう一人の人格が起きだしてくることがあるからだ。それがないように、さりげなく見張りが曹叡を見ておく。もちろん、暗殺者による悲劇を防ぐ意味も其処にはある。
隣の部屋に、許儀は入ると。鎧を着たまま眠る。
結構太っていた父と違い、許儀は成年になってからもやせ形だ。ただし、体に筋肉を付ける努力を怠っていない。壁に背中を預けたまま眠るのは、曹叡の部屋に何かあった時、すぐ対応するためだ。
今、曹叡が暗殺されたら。魏は崩壊するだろう。
そして、曹丕が死ぬのを止められなかった許儀は、今度こそ己の仕事を、果たしきらなければならなかった。
諸葛亮の軍勢を追い返すのは司馬懿の仕事。
曹叡の心と体を守るのは、許儀の仕事だった。
2、諸葛亮の鬼謀
前線の魏軍は敗走を続けていた。
祁山は重要な前線拠点で、此処を起点に縦横無尽に用兵を展開できる。戦術の自信がある諸葛亮らしい采配であった。此処には一万の守備隊が配置されていたのだが、まるで飢えた虎のように襲いかかった蜀漢軍によって、まるで子兎の群れのように粉砕されてしまった。
敗残兵を庇いながら、三万の鄧艾、陳泰、そのほか諸将の軍勢は陣を張る。どうにか五千くらいは生き残っていそうだが、日に日に逃げ延びてくる兵士達は減っていた。逃げ延びていても、深く傷ついている者が多くて、とても戦力にはなりそうになかった。
周囲は鬱蒼とした森が広がる山岳地帯である。虎も多く、逃げてくる兵士のいくらかは虎の餌食になったようだった。もちろん、虎などより遙かに恐ろしいのが蜀漢軍である。その効率的な敗残兵狩りは容赦なく、逃げてきた兵士達は誰もがその恐怖を語っていたのだった。
三万の部隊は、混成兵団として処理されていて、鄧艾の五千が主力で「最上位将軍」として周りを纏めなければならない。そもそも粘り強い戦いを行うために、指揮系統を分散して編成された部隊だ。だが、守勢ならともかく、このような変則的編成で戦うには、少し無理がある状態ではあった。
対峙開始から、一週間。
小競り合いは、一度も起こらない。周囲の地形を見て回った鄧艾は、大きく歎息した。兵士達が不安そうに見ている。
「鄧艾将軍、如何為されたのですか」
「蜀漢軍の出方が読めません。 この辺りの地形は、どのようにでも戦術を展開できる、非常に面倒な場所です。 もしも無理に諸葛亮に攻撃を仕掛けでもしたら、たちまち彼の戦術に取り込まれて、討ち取られてしまうでしょう」
「恐ろしい話です」
「ええ。 だから、周囲の兵士達にも、無理はしないようにと伝えてください」
陣にはいると、腕組みして何名かの将軍が待っていた。いずれも千から二千程度の兵を率いている。そして鄧艾から見れば父親のような年で、統率するのが難しい相手でもあった。
彼らは戦歴こそ立派だが、あまり用兵に進歩がないため、この年まで下級の将軍にとどまっている。将校よりはましだが、中には名家の出身だと言うだけで此処まで出世した者もいて、鄧艾としては使いこなすことが難しかった。
もちろん、諸葛亮の軍勢とぶつかり合って、勝てる訳がない。敗残兵を収容したら、少し後ろまで来ている司馬懿と張?(コウ)の軍勢三万と合流して、防備を固める以外に道はない。
だが、彼らはそれを知らない。
手柄を立てたいという欲求が、どす黒い霧となって、視界の邪魔をしてしまっているのだ。
「鄧艾将軍。 敵の姿はありましたか」
「いえ。 見かけません。 途中、敗残兵を襲った虎を退治しましたが」
「ほう? 貴方が?」
「いえ、兵士達十名で追い込んで、猟犬を使って仕留めました」
曹操の時代からの宿将で、曹丕の死に前後して亡くなった猛将許?(チョ)は、虎を一人で仕留めたことがあったと聞いたことがある。だが、普通の人間に、それは到底無理だ。鄧艾は特に力が強い訳でもないし、剣の技が凄い訳でもない。だから、人間としての知恵を使って虎を仕留める。それだけだった。
からからと将軍達が笑う。
「何だ、そうでしたか。 それで、一体何をしに外に出ていたのです」
「周囲の地形を調べに」
「こんな時にですか?」
「こんな時だからです」
説明する必要はないと思った。どのみちこの将軍達は、鄧艾のことを侮りきっている。何を言ってもにやにやするばかりで、聞く耳は持たないだろう。
将軍の一人が言う。
「そんな事よりも、敵に一泡吹かせる算段はありませんか」
「手柄が欲しいのですか?」
「当たり前でしょう。 何を言っているのですか。 武人の本懐は大敵と戦い、手柄を立てること以外にありますまい」
一番年かさの男が言う。
中華では、頭頂部を晒すことは最大の恥とされる。兜を被っているから見えないが、この男は以前罪を受けて、頭頂部を晒す刑を受けたことがあるそうだ。その時に見た者の話では、既に見事にはげ上がってしまっているという。
焦りもあるのかも知れない。この様子だと、下級の将軍で一生を終わるのかも知れない。?(カク)昭に、長年将校として過ごすことのつらさを聞いた。周りが出世していくのに、自分だけ取り残されていく悲しさ。
ましてや上にいるのは、自分よりもずっと若い相手なのだ。
能力主義の残酷さが、こう言った所では表に出てくる。そして、鄧艾に、それはどうすることも出来なかった。
「残念ながら戦っても、勝ち目はありません」
「貴方は若くしてそれだけ評価されている将軍だ。 それなのに、策の一つも思いつかないのですか」
「諸葛亮は当代随一の軍略家です。 今まで曹真将軍と張?(コウ)将軍がどれだけ戦略戦術の粋を尽くしても、追い返すのがやっとだったのをお忘れですか。 しかも今回、諸葛亮は最大の問題点であった補給を克服した可能性が非常に高い。 今は少しでも情報を集めて、後方の本隊と合流して長期戦に持ち込む他ありません」
「ふん、ただ策を思いつかないのを誤魔化しているようにしか思えんな」
ぼそりと、隅にいた将が言った。憤然としたのは陳泰である。
「貴様っ!」
「陳泰、やめて」
結果として、更に火に油を注いでしまった。
陳泰はそれなりに武勇も優れていて、他の武将達も鼻白む。そして、怒りはむしろ鄧艾に向いた。
「なぜ黙っている! 武人としての誇りはないのか!」
大きく歎息すると、鄧艾はむしろ周囲に向けて、言った。
「諸葛亮を相手に、私に策なんか思いつく訳がありません。 事実ですから、仕方がないことです。 今は少しでも味方の被害を減らすため、諸葛亮とは戦いませんし、挑発にものりません」
話を切り上げると、鄧艾は天幕に戻る。そして、もう一度、地図に起こした周囲の地形を観察した。
諸葛亮は得意の偽装戦略で、兵の一部、もしくは大部分を眼前の祁山から外し、余所に展開している可能性がある。それにしても、鄧艾が正面攻撃を仕掛けてくる可能性は考慮せざるを得ない。
祁山を空にする訳にはいかない。それが蜀漢の弱みだ。
だから、鄧艾は此処で踏ん張る。初歩の戦略を理解して入ればわかることなのに。
?(カク)昭は教えてくれた。
男には、誇りという余計なものがあるのだと。
それは生きるために必要かも知れないが、時に不必要に肥大してしまう。そして場合によっては、自分も周りも焼き尽くしてしまうのだ。
天幕の前に陳泰が来たので、出る。
陳泰はまだ怒っていた。
「さっき、どうして俺を制止した」
「だって、そのままだと、周りの将軍達と喧嘩始めちゃったでしょ? こんなところで、味方どうしで喧嘩してどうするの」
「しかし、貴様なあ」
「いい、こっちは精鋭って言っても、蜀漢軍よりずっと練度でも経験でも劣ってるし、指揮官の質の差も大きいの。 魏の武将は粒ぞろいらしいけど、でも蜀漢軍は経験でそれを大きく凌いできてる。 まともに戦ったら、今中華で勝てる軍は存在しないよ。 だから、兎に角魏は数を集めて、凌ぐしかないの」
正論で論破すると、ちょっと陳泰は悲しそうな顔をした。
庇ってやったのに、と思ったのかも知れない。
とにかく、諸葛亮はまだまだ鄧艾がどうにか出来る相手ではない。亀のように甲羅に閉じこもり、逃げてきた味方を庇いながら、本隊との合流を待つしかなかった。
祁山の頂上付近。
椅子と一体化した兵士に押させる四輪車に乗り、周囲を観察している諸葛亮の少し後ろで、陳式は額に手をかざして敵の様子を見ていた。
良い陣を組んでいる。まるで隙がない相手だ。
多分、諸葛亮も同じ事を考えたのだろう。此方に背中を向けたまま、周囲にわかるように呟く。
「ふむ、堅陣だな」
「攻めるのは難しいかと思います」
陳式が言うと、魏延が反論する。
「いや、あれなら落とせるだろう」
「落とすことは可能でしょう。 しかし、被害は無視できぬ程度に大きくなります。 此処で勝っても、決定的な勝利は得られませんし、慎重に行動する必要があるかと」
魏延の言葉には、馬岱や張苞が賛同した。関興は後ろで黙ってみている。顔色が悪いのはどうしてなのだろう。
腕組みしていた王平が、顎髭を弄りながら言った。
「私は、陳式将軍の言葉に賛成です」
「理由を言ってみよ、王平」
「今回、味方は長期戦に備えていて、しかも補給路をしっかり抑えています。 何も焦る必要はないでしょう。 むしろ魏の方こそ、二十万を越える軍勢を長期で動かしていたら、必ず国力に無理が出てきます」
「その通りだ、王平」
諸葛亮が、車を反転させる。そして、皆の顔を見回しながら言った。
顔には、我が意得たりと書いてある。多分分かり易くするための演出なのだろう。猿にでもわかるように、説明してやっているという雰囲気だ。
「今回の攻勢の骨子は二つ。 今までの攪乱戦略を利用して、敵を分散させる。 そしてもう一つは、私が発明せし木牛流馬により、安定した補給を行い、長期戦でむしろ魏を疲弊させることだ」
木牛流馬。
今、祁山に流れ込んでいる一団が使っているのがそれだ。
正確にはそれは一輪車で、人力で押す荷車である。牛のように四本の足がついていて安定が保たれ、左右に均等に荷を積むことにより、安全かつ確実に荷物を運ぶことが出来る。蜀の桟道を通る時も問題なく食料が運ばれたので、既に有用さは実用済みだった。
元々兵が兵糧を運ぶ時は馬や牛に荷物を運ばせることが多かったが、諸葛亮は既存のものを改良して、更に効率よい荷運びを実現した。これにより、蜀漢は一気に大量の兵糧を輸送できるようになり、補給面での問題を解決したのである。
補給の計画を取り仕切っているのは、文官から諸葛亮が抜擢した揚儀である。この男自身は偏屈で、荊州の名門出身を鼻に掛けるろくでもない男だが、後方支援と計画の遂行能力は卓越している。蜀漢から漢中に兵糧を送り込んでいる李厳と揚儀が連携して、膨大な兵糧は確実に届けられていた。もちろんそれを可能にしたのは、木牛流馬だが。
諸葛亮の鬼謀を聞いて、陳式は流石だと思った。
同じ失敗を二度しないというのは、言葉で言うほど簡単ではない。物事が大きくなるほど、その傾向は強くなる。
諸葛亮は戦略の段階で、それを完璧に実現しているだけではなく、更に上を行っている。心配なのは。
恐らくは、諸葛亮が「ただ一人だけで」全てを成し遂げてしまっている事だろう。
蜀漢は小さい。魏に抵抗するためには、優秀な個人に権力を集中して、全てを解決するしかない。事実そうして難を逃れた国が幾つもあったことを、陳式は学んだことがある。だが、それらの立役者になった異能の者は、難が去るといずれもあっさりと命を落としてしまう。
場合によっては政争で。
時には、まるで役割を果たした蝉のように。
「此処で兵力を消耗することは、陳式が言うように愚行だ。 兵力を削る事自体は、決して無駄にはならないだろう」
「何か策がおありですか」
「現在、眼前に布陣している三万の東端にいる戴陵の陣に、活気があるという報告があった」
魏延が呼ばれて、前に出る。張苞もだった。
「魏延は二千を率いて、戴陵の陣に仕掛け、わざと負けよ」
「は。 わかりました」
「張苞は三千を率いて、側面を奇襲。 陳式は一万を率いて、正面に伏せよ。 どうやら敵陣の総指揮を執っているのは、例の鄧某らしい。 もしも軽率に出てくるようならば、討ち取って蜀漢の禍を排除せよ」
すぐに蜀漢軍が、伝説の怪物シュウのように動き出す。
司馬懿がいない魏軍に、襲いかかるために。
戴陵の部隊が、不意に騒がしくなった。
陳泰はいやな予感を感じて、部下を集める。よくしたもので、鄧艾の部隊も、既に動きを見せ始めていた。
「射手は柵の側に! 騎兵は俺に続け!」
櫓の兵士達が、辺りを見回し、報告をしてくる。やはり戴陵の部隊に、攻勢を掛けている敵がいるようだった。
伝令が即座に来た。王桓だった。どうも此奴は苦手だ。相手もそう思っているらしく、一瞬だけ剣呑な空気が流れる。
「鄧艾将軍より伝令です」
「うむ」
「敵の目的は、擬似的な退却に、味方を誘い込むことにあり。 陣を固めて、絶対に出ないように、との事です」
「……なるほど、そうか、しまった!」
流石は諸葛亮。いきなり味方の急所に、槍を突き込んできた。
集まってきた騎兵に号令し、戴陵の陣に走る。陣は各所で連結されていて、途中で何カ所かの関所を通らなければならなかったが、非常時だから押し通った。
東端の陣が、燃えている。柵が引き倒され、ばたばたと味方が打ち倒されていた。戴陵は必死に防戦していたが、明らかに敵は余裕だ。横から一撃を浴びせるが、軽くいなされる。旗は掲げていないが、この鋭い動き、魏延か馬岱か。
敵が不意にさがり始める。
部下を多く討たれて頭に血が上っている戴陵が、吠え、追いかけ始める。追いつき、手綱をつかもうとした所に、敵将が不意に振り返り、矢を放ってきた。矢は陳泰の愛馬の首に突き刺さり、横転。地面に投げ出される。
「ぐわっ!」
そのまま戴陵は追いかけていってしまった。
まずい。そう思った陳泰は駆け寄ってきた部下達に叫ぶ。
「お前達は陣を固めよ! 他の武将達が、陣を出るのを防げ! 敵の狙いは、恐らく鄧艾将軍の首だ!」
戴陵の率いる二千が、外に飛び出していく。
そして、悲鳴が上がった。
敵の騎馬隊が、戴陵隊を包囲したのだ。
なぜ、このようなことになった。
戴陵は、周囲の状況変化について行けず、唖然としていた。
いきなり陣の一角を破られた。獰猛な攻撃で、見張りも気付く前に、柵が引き倒されていた。突入してきた敵の強さは尋常ではなく、味方はばたばたとなぎ倒され、戴陵は死さえ覚悟した。
だが、不意に敵が引いた。
昔からの側近まで殺されて、確かに頭に血が上っていた。そして気付いた時には周囲を完全に取り囲まれ、無数の矢を射込まれていたのである。為す術無く全滅していく部下達を呆然と見つめながら、自問自答する。
どうしてこんな事になった。
ケチのつけ始めは、先帝の時代だった。曹丕は体を休める事を知らぬ男で、暇が出来たら休む事もしなかった。狩りに出る曹丕を諫めて、そして気付いたら取り押さえられていた。
曹丕の眼には、明らかな狂気が宿っていたのである。
将としてそこそこの実績を上げて、頑張って出世してきていた。その驕りが、何処かに軽率な行動を産んでいたかも知れない。
許?(チョ)が諫めてくれたので、どうにか首を刎ねられることだけはされずに済んだ。だが、頭頂部を晒されるという、最大の屈辱を味わい、しかも将として大幅に降格されてしまった。
それ以来、戴陵は失点を取り戻そうとしては失敗し続けていた。
今回もだ。
敵は明らかに、戴陵の軍勢を四方八方からなぶり殺しにしている。恐らくは、味方が陣を出てくるのを誘発するためだろう。おのれと叫び、敵に馬を寄せる。さっと避けた敵。出てくるのは、まだ若い武将だった。
たった一合で、槍をたたき落とされる。
そして、地面に叩きつけられていた。
「こ、殺せっ!」
「死にたければ勝手に死ね」
敵将は戴陵に目もくれない。絶望し、目の前が真っ黒になる。死の手が全身を掴み、誇りも実績も粉々に砕かれる中、響くのは馬蹄の響きだった。
顔を上げると、敵が切り裂かれていくのが見えた。
鄧の旗だった。
「良し、行くぞ!」
敵将が出てきたのを確認すると、勢いよく陳式は立ち上がっていた。
何度か切り結んだ相手だが、今回を最後とする。あの敵将は非常に優秀だ。蜀漢にも姜維という若者がいるが、多分素質はそれを凌ぐだろう。だから、後の脅威を今の内に排除しなければならない。
張苞隊はさっと散ることで敵の攻勢を受け流し、魏延は下がりながら兵を散らせる。鄧艾の部隊は錐のような陣形のまま、一気に戴陵を救出、下がろうとする。
其処へ、陳式は。
ねらい澄ました完璧な状態から、雪崩のように襲いかかった。
一万の軍勢が、横殴りに鄧艾の軍を襲う。しかし、思った以上に敵は頑強だった。さっと態勢を立て直すと、地形を巧みに利用して、円陣を組んだのである。槍を揃えて迎撃に掛かってくる敵陣に隙はなく、後退しつつある。
陳式は無言で矢を引き絞る。
ジャヤが蜀漢を離れる少し前に、鍛えて貰った。元々軍で矢は必修科目であり、更に技を磨いたのだ。
この時のために鍛えていたと言っても良い。
番えた矢を、引き絞る。
見える。敵将だ。此方の攻撃に被害を出しながらも、的確な撤退戦を演じている。魏延、張苞も猛烈な攻撃を仕掛けているが、下がりながらの指揮は見事だ。だが、故に、目立つ。
指を、矢から放した。
弦が鳴る鋭い音が、何処までも空に響き渡る。はっと気付いた敵将が伏せようとするが、遅い。
だが、敵将の前に屈強な若者が立ちはだかり、肩で矢を受ける。落馬した若者を、周囲の兵士達が必死に馬上に押し上げた。舌打ちした陳式は、最精鋭五百に号令を掛ける。
「突撃だ! 敵将を討ち取るぞ!」
「応っ!」
応じたのは、いずれも少数民族から構成した部隊の者達だ。
彼らは高所で暮らしているため身体能力が漢人よりも高く、しかも戦い慣れしている。蜀漢の精鋭と比べても全く見劣りしない。その上、陳式に命を預けると宣言してくれている者達だ。
半裸を剥き出しにしている者達は、馬上で鉈を両手に構えている。この辺りでは彼らの生活区域よりもかなり暑いらしい。全身に入れ墨があり、それぞれが戦士としての階級を示している。
分厚い毛皮を着込んでいる者達もいる。彼らは長い剣を手にしている。
大斧を手にしている男は徒歩だ。盛り上がった筋肉は鋼鉄のようで、鎧も特注品だ。
不揃いだが、いずれも一騎当千の兵ばかりである。彼らと共に、陳式は、敵将を討ち取るためだけに突入した。
勢いは、まさに烈火。
必死の抵抗を、瞬時に爆砕する。
敵も精鋭で揃えているが、此方は残念ながら根本的な質が違う。人間と猛獣の格闘戦に等しい。大斧が振るわれる度に敵の首がすっ飛び、半裸の者は鉈で滅茶苦茶に敵を切り伏せた。しかも馬上で立ち上がると跳躍し、敵の馬を奪いながら鉈を振り回す。倒した敵の馬は好きにして良いと言ってあるので、非常に張り切っている。
分厚い毛皮の戦士達は、剣を槍のように使って、敵を次々刺し貫いていた。魏軍ははじめて見る相手に右往左往し、凄まじい勢いで迫る彼らに次々斬り伏せられた。敵将はそれでも冷静に指揮を執っていたが、ついに壁を陳式が突破する。
剣を振り上げた。
名乗りは上げない。立ちはだかる護衛を次々に切り伏せ、飛んできた矢を気合いで斬り捨てる。
至近で顔を合わせたのは初めてだ。前から女かと思っていたが、やはり間違いなかった。そんなに美人ではないが、体格的にも女だった。女を斬るのは気が進まないが、しかし此処はやらなければならない。
「その首、貰っ……!」
「させるかあっ!」
横から割り込んできたのは、さっき肩に矢を受けた男だった。切り下ろされた剣を、剣の腹で受け、はじき返す。強力のようだが、やはり矢を受けて力が半減している。七合、渡り合う。味方が乱入してくるが、しかし。その時には既に、敵将は遠くに逃げ去っていた。若き敵武人も逃がしてしまった。
秩序を回復した敵が、陣に逃げ込む。弩を揃えて浴びせてくるので、流石にこれ以上は深追いできない。舌打ちすると、兵士達を下がらせ、纏め上げた。
魏延の所に戻る。戦果は充分だったが、肝心な所で敵を逃がしてしまった。
「陳式、残念だったな」
「僅かに力及びませんでした」
「いや、あれで倒せなかったのは、仕方がないだろう。 敵将は見事な指揮をしていたし、味方も立派だった。 そなたの指揮している精鋭、素晴らしい働きをしていたな」
部下達が喚声を上げる。漢人が彼らを認めることは滅多にない。だから、余計に嬉しいのだろう。
魏延は、たたき上げで此処まで地位を伸ばした男だ。だから、優秀な部下は眼をかけてかわいがる傾向がある。整列した部下達に、笑顔混じりで言うのも、彼らを可愛いと思っているからだろう。
「お前達も見習え。 あれくらい働ければ、戦場で死ぬ可能性は減るぞ」
「わかりました!」
「うむ、それでは一旦引くか。 敵には二千ほどの損害を与えた。 この短時間としては、充分な戦果だ」
確かにそうだが、しかし。敵将は討ち取れなかった。
陳式はこの時のために、何年も前から準備していたのである。しかし、その努力が不意になってしまった。
悲しくないと言えば嘘になる。
今は、ただ。苦い勝利をかみしめるばかりであった。
陣に戻った鄧艾は、けろりとしていた。至近まで迫られ、もう少しで頭を割られる所だったのに、である。
故に、彼女を馬鹿に仕切っていた将軍達は、逆に恐れおののいていた。
特に危ない所を救われた戴陵は、まるで神でも見るかのような視線に変わっていた。
此処まで、一戦で意識が変わるものなのか。陳泰は感心した後に、戦慄させられる。自分には絶対できないことだ。部下達との信頼関係でさえ、何度も戦に勝つことで、やっと構築してきたのだ。
自分を馬鹿にしている相手を、たった一戦で納得させるなど、絶対に不可能だ。
あるいは、計算してやった事ではないのかも知れない。今回は鄧艾の軍勢も大きな被害を出して、古参の部下も何名か倒されている様子である。王桓は木板に乗せられて、さっき運ばれていった。命に別状はないだろうが、しばらく片腕で戦うことになるかも知れないという事であった。
「見ての通りです。 蜀漢軍の戦闘能力は、味方を遙かに凌いでいます。 下手な行動を取ると、一瞬で全滅すると考えてください」
「確かにそのようですな」
「軽率でした。 以降は自重いたします」
しおらしく戴陵があたまを下げたので、むしろ眉を下げたのは鄧艾だった。だが、特に何も言わなかった。
一旦天幕に戻った鄧艾を、陳泰は追いかけた。
どうしてかは、自分でもわからない。よくやったと言おうと思ったのか、負けて残念だったと慰めようと思ったのか。
天幕の前に行くと、兵士達に遮られる。
「しばらくお外しください」
「何だ、どういう事か」
「今は一人になりたいそうです。 我々の中にも、今回は多くの被害が出ましたから」
何を馬鹿なと陳泰は思った。戦いが起これば、多くの兵士が死ぬのは当然のことだ。そんな弱い心で、指揮官など務まるのか。
しかし、考えてみれば、さっきはそんなそぶりは一切見せなかった。
名門に産まれたから、陳泰は知っている。誰も見ていない所で、変な趣味を持っている人物は実に多い。それは心の弱さがもたらすものであり、決して恥ずべき事ではないはずだ。
太祖曹操も、戦場以外では、妙な振る舞いをして部下達を閉口させたというではないか。
陳泰は納得すると、天幕を背にして歩き出した。
敵の攻撃は、凌ぎきることが出来た。
今は、それで良かった。
翌日、司馬懿の援軍が到着。軍勢は六万までふくれあがった。まだまだ諸葛亮の軍勢とぶつかり合うのは難しい状況であったが、それでも一応の態勢は整ったことになる。後方から続々と物資と援軍が送られてくる状態になり、一息はつくことが出来た。
司馬懿は大きな被害は出したが、どうにか陣を守りきった鄧艾を激励すると、今後一切敵には手を出さないようにと厳命。
本格的なにらみ合いが始まった。
鄧艾と共に、三千の軍勢で威力偵察に出た司馬懿は、それを見せられた。
無数に連なる、異様な形の輸送具が、兵糧を満載して路を埋め尽くしている。路を帰る輸送具も、多数見受けることが出来た。蜀漢へ引き返しているのだろう。
「細作から話は聞いていたが、あれが蜀漢軍の造り出した新しい輸送用の車か」
「人力と言うことで運べる兵糧に限界はあるようですが、しかし蜀漢の桟道を、苦もなく乗り越えることが出来るようです」
「あんなものを造り出す事が出来るとは、何とも厄介な話だ。 王双の部隊を全滅させた不可思議な兵器のこともある。 諸葛亮という男、やはり頭脳面では人間を越えているとしか思えぬ」
司馬懿はぼやくと、引き返すように命じた。
間近で見せられてはっきりしたが、蜀漢軍の異様な行動の速さの原因はあれだ。兵糧の心配がなくなったから、堂々と最大速度で進軍してきたのだ。そして此方が、奪取に動けないことも、見越しているのだろう。
兵を誤魔化し、残りの部隊で遊撃、或いは本隊の奇襲を行う。変幻自在の用兵に散々苦しめられてきたのは魏軍である。祁山に布陣している敵四万五千とて、実数はどれほどか全く見当がつかない。実際には一万五千程度しかあそこにはいなくて、三万以上が何処かに潜んでいるとしたら。
前回の北伐では、危うく長安が直撃される所であった。
今回も、それを考えると、迂闊には動けなかった。
陣に戻る。張?(コウ)が、他の将軍達と一緒に待っていた。張?(コウ)はここのところ、頻繁に咳き込んでいる。戦場に立つこと五十年という男だ。流石に体に無理が出てきていてもおかしくない。
早速軍議を開く。驚くべき事だが、鄧艾に従うことに不平満々だった戴陵達は、態度を一変させていた。戴陵に到っては、危ない所を鄧艾に救われたという話だから無理もないが、人を引きつける部分があるというのは、どうやら本当らしい。
蜀漢の猛将、陳式の獰猛な攻撃を凌ぎきり、包囲されていた味方を救出したともいうし、今後は期待できる若者だろう。
もっとも。
司馬の一族から見れば、敵意を剥き出しにする相手かも知れないが。今、司馬懿自身は。素直に感心していた。
「蜀漢軍の様子を見てきた」
「何か成果はありましたか」
「連中の補給を支えているものについては、この目で確認することが出来た。 今までは持久戦で敵の撤退を待つことが出来たが、今後はそれも難しくなった。 しかも、諸葛亮が何かしら己の負担を減らす方策をもしも編み出していて、それが成功したら。 我が軍は敗れるかも知れん」
周囲がざわつく。無理もない話だ。
今、更に四万の増援が長安を出発している。十万で堅陣を組めば、流石の諸葛亮も簡単には手出しをできないだろう。しかし、前回司馬懿が率いる三万が、味方勢力圏で敵に奇襲を受け、手痛い打撃を受けたという事例もある。
諸葛亮が繰り出す変幻自在の用兵は、味方をこうも縛り付ける。せめて、これが曹操の時代であれば。賈?(ク)や程昱と言った謀臣が前線に出てきていれば、まだ対応のしようもあったというものを。
戦略的には、最終的に毎度勝っている。
だが、これでは、今回も同じように行くとは思えなかった。
挙手したのは夏候覇である。苦労知らずの若者は、脳天気な献策をした。
「敵の補給路を断つべきではないでしょうか」
「どうやって」
「少数の部隊を、細作と共に行動させます。 そして、散発的に、敵の補給路に対する攻撃を仕掛けさせるのです」
「一見すると良い策にも思えるが、敵にはすぐれた細作が多数いることを忘れたか。 潜入した部隊は、一人も生きては帰れぬだろう」
一蹴された夏候覇は、流石に残念そうに眉根を下げて黙り込んだ。
だが、発想自体は悪くないと司馬懿も思う。実際問題、敵の補給をどうにかしなければ、今回は味方が著しく危険なのだ。
続けて挙手したのは、茫洋とした背の高い男だった。確か程武。程昱の長男である。
「それでは、元を叩いてはどうでしょうか」
「具体的に申してみよ」
「はい。 現在蜀漢の兵糧輸送を担当しているのは、歴戦の武将である李厳です。 最近は李平と改名したそうですが、この男、長年前線に出てきておりませぬ。 諸葛亮に評価されて兵糧輸送を担当しているのでしょうが、それでも鬱屈したものを感じているらしいと、報告が入っております」
のんびりした口調であった。
程昱に顔だけは似ているのだが、あまりにも自分の調子で物事を進めすぎるので、周囲に白眼視されている異端の参謀である。父の名を辱めているという者がいる一方で、なかなか侮れないと評価する者もいた。
「なるほど、其処を突くか」
「はい。 蜀漢軍は一枚岩に見えますが、それは諸葛亮が、自分の手足となるように、組織に大鉈を振るっているからにございます。 有能で知られた廖立という男も、既に粛正されているようですし、これを例に挙げるまでもなく諸葛亮に反抗的な態度を取った結果、能力があっても左遷された者は珍しくありません。 前線の者は大体既に整理が終わってしまっているようで、諸葛亮に逆らおうという者はいませんが、後方についてはまだわからない部分があります」
「確かに諸葛亮は、独断専行で恐怖を受けている部分があるようだし、試してみる価値はある。 しかし、蜀漢にまで潜入可能な細作となると」
思い当たるのは、やはり林か。
林が連れてきた山越の感情無き若者達は、細作として非常に優秀だ。戦闘能力も高く、諸葛亮が育て上げた細作部隊にも引けを取らないだろう。だが、相手の心に潜り込むような真似はあまり得意ではない。当然の話で、感情が存在していないのだから。
しかし林は違う。
司馬懿も時々危ないと感じる。奴は他人の心をもてあそぶ達人だ。放っておくと、奴無しではいられなくなるほどに。警戒している司馬懿自身がそうなのだ。恐らく、知らず知らずの間に、奴に魅入られている者は大勢いるだろう。
太祖曹操は、どうにか林を使いこなしていたという。
しかし、司馬懿は、奴を使いこなせるのか。自信は、はっきりいって無い。だが、今はそれでも。勝つために、奴を使いこなさなければならなかった。武器は確かに危険だが、怖がっていては敵を倒すことは出来ないのだ。
「よし、分かった。 そちらは私が直接担当する。 他に、何か意見がある者は」
発言する者はいなかった。
今は、まず頭数を揃えて、諸葛亮の軍勢の攻撃を防ぐべきである。その程度のことは、特に前線の武将なら誰もが分かっているのである。
実は今回、鄧艾に敢えて不満を言いそうな武将を全員率いさせて、出させた。北伐戦線への従軍経験が少なかったり、手柄を立てられずに鬱屈している者達ばかりを選抜したのだ。
鄧艾は期待に応えてくれた。被害を最小限に、連中の意識を見事に変えてくれたのだ。味方は一枚岩とはいかないが、これでどうにか意思を統一することが出来た。
味方が大軍勢で、国に対する負担が大きいのは仕方がない。今は味方の心を一つにして、諸葛亮を防ぎ抜く。
司馬懿に出来るのは、それだけだった。
ふと、張?(コウ)を見ると。腕組みしたまま、うつらうつらとしていた。愕然としてしまう。往年の猛将が、まさか軍議で居眠りをしてしまうとは。呆れるとか怒るとか、ではない。
張?(コウ)は今や、魏軍の中でも精神的な中核とも言える男だ。だが、それでも年には勝てないのだと、これを見ていると思い知らされてしまう。張?(コウ)の地位は、他の誰にも占められないものだ。司馬懿としても、生きていて貰わないと困る相手である。見回せば、張?(コウ)の様子に気付いて、目頭を押さえている武将も少なからずいるようだった。
戦慄は消えない。
今はただ、味方がまとまっていることを、喜ぶ他無かった。
3、焔消ゆ
李厳。
現在は李平と改名した、かって東州兵と呼ばれた、劉焉一族が作り上げた私兵の一員だった男だ。
陽平関の城壁の上に登り、北を見つめる李平の体つきは逞しい。在りし日の黄忠とかなり良い勝負をして、武芸に関しては蜀漢でも上位とさえ言われたほどだ。今でも鍛錬を怠ったことはなく、その辺の兵士達なら十人くらい纏めて相手することが出来る。
益州の出身ではなく、荊州の出身でさえない。既に五十代に年が届こうとしていながら、常に押さえとしてばかり活用されてきた結果、この年まで華々しい功績を挙げることは、ついに一度もなかった。地味ながら活躍している張翼や、抑えと言っても呉に睨みを利かせている向寵を見ていると、嫉妬を通り越して、憎しみさえも感じてしまう。
風が吹きすさぶ。
眼下には、無数に連なる木牛流馬。がたがたと音を立てながら、李平が集めた荷駄隊によって、戦場へ送られていく。
補給の担当であり、兵糧輸送の第一人者という任務が如何に重要かは、しっかり把握している。長年軍人をしてきたのだ。精神論だけでは、戦に勝てないことくらいは分かっている。ましてや蜀漢の兵士は、三国随一の精鋭だ。彼らに報いるためにも、補給を欠かしてはならないというのは絶対条件だった。
だが、戦いたいのだ。
特に好戦的だと思ったことはない。だが、武人として過ごしてきている以上、敵との戦いで腕を振るうのは本懐だ。それなのに、このままでは補給担当だけで人生を終えてしまうかも知れない。
国内は諸葛亮が放った細作が無数におり、侍従や時には妾にまで姿を変えて潜り込んでいる。その情報網は尋常ではなく、全ての壁や床に諸葛亮の眼耳がついていると思って間違いないほどだ。
だから、愚痴を言うことさえ出来ない。
何度も、前線に出たいと、諸葛亮には懇願した。
そのたびに帰ってくる答えは決まっていた。
ならぬ。
そなたは押さえとして得難い人材だ。だから、押さえとしての任務を、私が思うとおりにこなしていればいい。
戦いたい。武人として産まれたからには。そう懇願しても無駄だった。
諸葛亮は恐ろしく頭が良い。以前魏に仕えている他の諸葛一族や、当代でも有名な学者達が、諸葛亮を批判する文書を送りつけてきたことがあるという。李平も中を見せて貰ったが、あまりにも難解すぎる理論で、とてもではないが理解できるものではなかった。
諸葛亮はそれを見て鼻で笑うと、反論の手紙を送り返した。学のある者によると、まさに非の打ちようがない完璧きわまりない内容であり、しかも相手の論点を一刀両断にしていたという。相手の学者の中にはそれを見て絶望、首をくくってしまった者さえもがいるというほどだとか。
諸葛亮があらゆる点で、特に知恵に関して当代随一の男だと言うことは、李平もいやという程分かっている。部下に見えない所で、頭をかきむしった。だが、人の心を理解しない事著しいその言動も、当代最悪だとおも思っている。
不平と不満は、鬱屈する一方だった。
少し前に、直属の部下が不祥事を起こし、魏に逃走する事件があった。それで、李平の絶望は更に高まっていた。
もう木牛流馬を見たくなかったので、城壁から降りる。部下達は諸葛亮の人形も同じで、規則正しく見張りを続けていた。それを見ていても、うんざりしてしまう。連中のどれだけが、李平に個人的忠誠を誓っているのか。
自室に戻る。
このままでは、このまま老いて死んでしまうかも知れない。蜀漢の功臣である陳到でさえ、最後は寝たきりも同然だったと聞いている。そのようにして死ぬのは、出来れば戦場で死にたいと思っている李平にとって、ぞっとしない未来図だった。
「酒を持て」
「今は任務中ですが」
「かまわん! 酒だ」
部下に怒鳴り散らす。加速度的に気が短くなってきているのが、自分でもよくわかる。軍律違反だが、もう知ったことではない。
築いてきたものなど、大したことはない。
どうなっても良いと思っていた李平は。
ふと、自分を覗き込む顔に気付いていた。
至近にいたのに、まるで気付けなかった。慌てて剣に手を掛けようとするが、天井から逆さにぶら下がっているそいつは、まるで動じている様子がない。
笑っている童女。そう見えた。
「き、き、貴様はっ!」
「私の名前は、林。 どうぞお見知りおきを」
「貴様が……!」
李平は息を呑んだ。
聞いたことがある。中華最強最悪の細作にて、現在闇の世界の王とも呼べる悪鬼。蜀漢の細作部隊が血眼に追っており、多くの敵がいるながらも、あまりにも卓越した能力で追撃をものともせず振り切り続けて来た怪物。
「貴方に、今日は良い話を持って参りました」
眼が合う。視線を、外せなくなる。
全身から流れる冷や汗と裏腹に。李平は既に、闇に魅入られ始めていた。
続々と到着する増援により、司馬懿が直接指揮する魏軍は十万にまでふくれあがっていた。更に後方に三万の遊撃部隊を置き、長安にも五万。各地の要塞に七万の兵が配置されている。
鉄壁とも思える布陣だが、やはり諸葛亮は余裕を崩していない。見抜いているのかも知れない。二十五万の内十万ほどは新兵で、ろくな実戦経験も積んでいないことに。長安は特に酷い状況で、熟練兵は五千ほどしかおらず、殆どは連日の訓練で必死に力量を上げている所だった。
張?(コウ)はいやな予感を覚えていた。
諸葛亮は、今まで主体的に戦場を制御してきた。戦略面で味方はそれに対抗してきたが、それも何処まで出来るかどうか。張?(コウ)自身の体に忍び寄ってきている老いも、恐ろしかった。
最近、槍が重くて仕方がないのだ。
張遼や徐晃が戦場から消えてから、既に魏軍の将軍の質に、昔日ほどの勢いはない。もちろん有望な若手も育っているが、やはり何というか、戦乱の時代を生き抜いてきた者達の凄みが備わっていないと感じてしまう。
それに比べて、諸葛亮は、若いながらもそれを充分に備えている。張?(コウ)ですら、空恐ろしく感じてしまうことが、時々あった。
陣を見回っていると、伝令が来た。軍議の時間らしい。
最近、軍議の間意識を保っているのが難しくなってきている。老いが此処まで体を蝕んだと思うと、悲しくて仕方がなかった。軍議に出向く。郭淮や夏候覇もいるが、王朗の姿がない。側にいる郭淮に聞いてみる。
「おや、王朗はどうした」
「今朝、体調を崩されて、後送されました。 意識もない様子で、医師の話では、脳の血管を切ってしまったのかも知れないと」
「何と」
「恐らく、もう助からないだろうとも」
司馬懿が沈痛な面持ちで言った。
慄然とする。陣頭の将である張?(コウ)から見れば違う人種とはいえ、同年代の男である。その死が他人事ではないのは、当然であった。
程武は茫洋としていて、先輩格の参謀がいなくなったことにも動揺はしていない様子だ。代わりに、賈充という若い男が参謀に加わっている。まるで獲物を狙う猫のような眼をしている男で、虫が好かない若造だ。以前何度か扱いてやったことがあるが、武芸も白打(体術)もまるでものにならなかった。
司馬懿が来ると、軍議が始まる。何か、敵に動きがあったらしかった。
「敵の姿が消えた。 四万五千が、影も形もなく、だ」
司馬懿が言うと、周囲がざわつく。
以前、擬似的な撤退に引きずり込まれて、味方が大打撃を受けたことがある。それ以来、蜀漢軍の撤退を追撃しないというのは不文律であった。
今までの状況を見る限り、諸葛亮が最も得意としているのは奇襲だ。それを考えると、味方の要塞も、危険だと考えるべきであった。
「撤退したか、或いは攻勢のためか。 どちらにしても、油断は出来ぬな」
「張?(コウ)将軍、其処でお願いしたいことがあるのです」
「何か」
「張?(コウ)将軍の率いられる三万は、諸葛亮の精鋭と正面から戦える数少ない戦力かと思えます。 其処で、威力偵察もかねて、敵を探っていただきたいのです」
腕組みする。
司馬懿の言うことも確かに当たっている。それに、老骨の身である。今更死ぬとしても惜しくはない。むしろ戦場で死ぬことが出来れば、これほど嬉しいことは無いとも言える。
「それならば、私も同道させてください」
「私も」
鄧艾が挙手すると、戴陵も抱拳礼をして立ち上がった。
この間命を助けられて以来、戴陵は鄧艾の犬のような有様である。なにやら感じ入る所があるらしく、鄧艾に絶対の忠誠を誓ってしまっている。周囲の揶揄も耳に入っていない。
元々戴陵は、曹丕に諫言してから人生を踏み外した男だ。将軍としてもあまり評価されず、家庭でも散々なことが続いたという。
だから、かも知れない。若き才能を目映いものとして眼に入れた時、何もかもがわからなくなってしまったのだろうか。陳泰が何か言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。
「そうなると、大体三万六千か」
「諸葛亮の軍は、全部で四万五千。 三万六千の戦力は、侮れない筈です」
「うむ。 ならば、もしもそれによって引き出せる兵力次第では、長安の守り以外の前線力を一気に投入し、殲滅に掛かって欲しい」
「それはもう、分かっております」
張?(コウ)も、闇雲に動くのではない。蜀漢軍が抑えられては困る戦略的拠点を、抑えながら進撃することにする。そうすれば、嫌でも敵は出てこざるを得なくなる。
長安は新兵ばかりとはいえ、指揮官は有能な人物が揃っているし、城壁は分厚く、兵糧も相当に蓄え込んでいる。一万から一万五千程度の敵であれば、そう簡単に落とされることはないだろう。
もしも張?(コウ)の迎撃に、敵が三万以上の兵を出してくるようならば。二十万の軍勢を一気に集結させ、押しつぶす好機であった。
戦うなと司馬懿は指示を出しているし、献帝から受けてもいる。だが、これは好機だ。
「ところで、離間の策の方はどうなっている」
「そちらについては、林から連絡が来ています。 李平の籠絡に、成功し始めている様子です」
妙だなと張?(コウ)は思う。
もしそれが本当だとして、撤退したのだとしても、蜀漢軍の後退が早すぎる。やはりこれは、攻勢のためと見るべきではないのか。
「分かった。 ただし、他にも少数の偵察部隊を多数派遣して、諸葛亮の動きを出来るだけ早く察知するべきだ」
「それに関してはぬかりなく」
「それと、この陣についても油断するな。 我らを囮で引きつけて、此方の陣を主力で攻撃してくるくらい、奴は平気でやりかねんぞ」
司馬懿は頷くと、そのために遊撃部隊を此処の戦線に投入すると言った。
それならば、ある程度は安心できるだろう。張?(コウ)は立ち上がると、早速出撃するべく、外に出た。
鄧艾はぽてぽてとついてくる。運動神経はあまり優れていないらしく、歩くのも重心が安定していなかった。
「張?(コウ)将軍、気をつけてください。 敵の精鋭の強さは、折り紙付きです」
「分かっている。 だからお前がついてくるのだろう」
「それもあります。 でも、何だかいやな予感がして。 こういう時の私の予感、当たるんです。 兎に角気をつけてください」
鄧艾の言葉に頷く。
だが、しかし。本音では、張?(コウ)は別のことを考えていた。
もし、此処で死ねるのなら。それも悪くないかも知れない。
敵は最強の存在だ。それに敗れて死ぬのなら。この老骨も、最後まで意味があったと言うことになるではないか。
「死んでは駄目です!」
不意に、鄧艾が叫ぶ。
我に返った張?(コウ)は、そうだなと返すと、愛馬に飛び乗った。
「張?(コウ)を殺す」
軍議で諸葛亮はそう言った。正確には、張?(コウ)と、その精鋭を皆殺しにする、という。
「張?(コウ)は邪魔だ。 老いたりとはいえど、奴の率いる精鋭は、我が軍に抵抗できる数少ない存在となっている。 だから、今回、此処で奴を仕留めてしまうことにする」
諸葛亮の言葉に澱みはない。
現在、恐らく中華でも最高の知性の全てが、張?(コウ)を殺すことだけに向いているのだ。諸葛亮がそう言うのを聞いて、陳式は全身に戦慄が走るのを感じていた。
「それで、具体的にはどうするのですか」
「張?(コウ)は歴戦の武将だ。 今までに此方が取った作戦は、恐らく通用しないだろう。 しかし張?(コウ)は既に老い始め、情報によると軍議では居眠りをすることまであるという。 其処を突く」
まず陳式が精鋭五千を連れて、出陣。この戦力の目的は、一緒に出陣した鄧艾を押さえ込むことだ。鄧艾は前回の戦闘でも、陳式の猛攻を凌ぎきってみせるなど、相当に実力が上がってきている。今回も無視できないと、諸葛亮は判断したのだろう。
主力となるのは、魏延の一万。其処に王平の五千、張翼の五千、呉懿の八千が加わることになる。
残りは諸葛亮が直接率いる。廖化の部隊、姜維の部隊も、此処にはいる。特に廖化は、直営として諸葛亮の指示で、司馬懿が救援に来たら討ち取る役割も果たす、という事であった。
作戦としては、祁山にいなくなった蜀漢軍を探しに来た張?(コウ)に対して、堂々と陣を組んでみせる。
しかも、ほぼ同数の軍勢で、だ。
「それは、張?(コウ)の精鋭と、正面からぶつかるという事ですか」
「そうだ」
「なぜ、そのような危険な策を。 今までは、兵力の消耗を避ける策を中心に進めてこられたのに」
「それは、現在の張?(コウ)の状況を考えてのことだ。 張?(コウ)を確実に討ち取るのは、それが最適だからだ」
諸葛亮が説明するには、敵は決死の覚悟で出てきた。此方の迎撃戦力次第では、戦力を集結して全力での戦いに持ち込もうとしてくるだろう。そのために、踏みとどまろうとする。
討ち取るには、そう考えさせた方が、都合がよい。
揚儀が呼ばれる。そして、諸葛亮麾下にいる、連弩部隊を任された。
連弩は機動が鈍く、激しい戦いには向かない。やはり各将にそれぞれ独立した指示が出され、誰もが全貌を理解しないまま、作戦を遂行するようだった。
諸葛亮は、また誰も信用していない。
そういえば、諸葛亮の細君の姿が見えない。ここのところは軍議に出てきている事も多かったのだが、何処か別で作戦行動に従事しているという事なのだろうか。
魏延達が固まって出陣すると、少し遅れて陳式も出た。馬上で考え込む陳式に、副官が不満げに言った。
「丞相の策は今回も恐ろしく緻密ですが、本当に上手く行くのでしょうか」
「上手く行くだろうさ」
陳式にも、分かっている。
作戦自体は上手く行くだろう。多分張?(コウ)は死ぬ。
だが、魏を滅ぼすと言うことについては、ひょっとすると諸葛亮では駄目なのかも知れない。
五千の兵は、山々の間を縫うようにして進撃し、やがて張?(コウ)の軍勢を捕捉した。敵は予想通り三万六千。そのうち三万が、張?(コウ)が育て上げてきた精鋭らしい。六千ほどが、陳式が潰すべき相手の様子だ。
今回も、少数民族達で構成されている精鋭は連れてきている。彼らは鄧艾とまた戦えると聞いて、勇み立っていた。もちろん要所でぶつけるつもりだ。
張?(コウ)の部隊は、まだ此方に気付いていない。この辺りは練度の差、情報収集能力の差だ。周囲に散っている斥候も、司馬懿の後詰めが現れたという報告は、未だしてきていなかった。
そう言えば、諸葛亮の細君はいない。
ひょっとすると、今回諸葛亮は万全を期すために、全力で細作部隊を活動させているのかも知れなかった。
そうなると、ますます張?(コウ)に逃げ道はないだろう。敵将ながら、陳式は同情してしまった。
程なく、張?(コウ)隊が、魏延の部隊を発見。
交戦に入った。
魏延が待ちかまえている所に、張?(コウ)が現れる。この辺りは高地と言っても平原が広がっていて、中規模戦力が激突するにはもってこいである。ただし空気が薄いので、訓練された兵力であっても、あまり長時間での戦いが出来ない。
数はおよそ三万六千。魏の最精鋭の、堂々たる姿であった。戦歴でも戦闘能力でも、蜀漢軍にそうそう劣らない、数少ない部隊である。
魏延は、趙雲を越えることが出来なかった。だから、馬上でほぞをかむ。張?(コウ)は老い始めているし、此処で討ち取っても結局大して名をあげることにはつながらないだろう。悔しいが、しかし。
今は、やるべき事を成すだけだった。
此処で張?(コウ)が死ねば、確かに魏の宿将は全滅する。その精鋭も滅ぼせば、多分今後のことを考えて、蜀漢がぐっと有利になるはずだ。
先鋒の張翼は凡将だが、それでも兵の質は高い。王平は冷静な男だし、呉懿は部下達全員に慕われている。
魏延が指揮することで、全員の実力を引き出すことが可能だ。心配なのは、関興が騎馬隊の指揮から外されていることである。張苞だけで騎馬隊の指揮をしている状態で、それだけが不安要素だった。
味方は分厚い横列陣を敷いている。
それに対して、張?(コウ)は魚鱗を組んだ。力と力のぶつかり合いを洗濯したと言うことだ。
面白い。
魏延の血も騒ぐ。
「敵軍、突入してきます!」
「迎え撃て!」
魏延が吠え、両軍がぶつかり合った。
火花を散らすような戦いが始まるが、最初は全く工夫のない押し合いが続いた。両軍共にただぶつかり合うだけで、これと言った工夫された戦術を見せる訳でもない。もちろん張?(コウ)は後方に伝令を飛ばしているだろうから、敵の増援が現れる可能性は低くない。此方の戦力を聞けば、敵は此方が長安を狙う気は今無いと判断する可能性もあり、そうなってくると大胆な兵力を戦場に投入してくる可能性もある。
ただし、諸葛亮が選んだこの辺りは、新兵や練度の低い部隊には、展開も戦闘も難しい難所だ。空気が薄いため、激戦には相当な訓練が必要になってくる。そして、それこそが。諸葛亮の狙いなのかも知れなかった。
徐々に押され始める張翼軍に、王平軍が加勢。一気に押し返す。
張?(コウ)が、此処で不意に前に出てきた。
劇的な変化が生じた。
突然、戦場に敵の軍勢が現れたのである。数は六千。恐らく、鄧艾の後詰めに間違いなかった。しかも現れるや否や、陳式の部隊が横殴りに打撃を加える。激しい乱戦が開始され、収拾がつかなくなり始めた。
魏延自身も馬に鞭をくれると、本隊を前進させる。
さて、此処からどうするのか、
歴戦の武将として、魏延自身にもこの後の展開に興味はあった。だが、それとは関係為しに。
今は、その武勇を、全力で展開するのみであった。
鄧艾は無言で、全軍を戦場に突入させるそぶりを見せた。それに釣られて、やはり伏せていたらしい敵の軍が出てくる。
数はほぼ互角。
兵の質は向こうの方が上だが、此処は環境が厳しい、戦術の展開しがいがある高地だ。素早く辺りの地形を見て、どう陣を動かすかを把握。真横から突っ込んできた敵を、飛石を布で受け止めるようにして防ぎつつ、敵の中枢を見極める。
敵にはあの獰猛な最精鋭がいることがほぼ確実で、此方の中枢を掴まれたら、それで戦闘が終わる。今度は敵も、鄧艾を見逃してはくれないだろう。しかしながら、此方だって、対応を考えてきている。
見えた。
熊のような大柄な男が、両手に持った斧を振り回して、味方をなぎ払いながら迫ってきている。次々と首を飛ばされる味方の兵士だが、鄧艾は冷静に旗を振るわせた。
同時に、伏せていた兵士達が、一斉に弩を乱射する。無数の矢を浴びて針鼠のようになった男が倒れる。敵が僅かにひるんだ所で、他の兵士達も弩を腰から外す。いずれも威力は従来の半分ほどだが、携帯が可能な短距離用の弩だ。
諸葛亮が蜀漢にいるならば、魏にも馬釣という発明家がいる。
今回、二千ほどが実戦投入に間に合った新型の弩を、廻して貰ったのだ。しかもそれを、魏軍きっての狙撃名人達に任せた。成果は見ての通り、上々である。
崩れかける敵だが、それは誘いだと、鄧艾は即座に見抜いた。下がらせる。だが、敵もそれを見越しているように、長弓を外して、それで射掛けて来る。
弩に比べて威力は劣るが、長弓は速射性に優れている。激しい戦いの中で、敵味方が次々に矢を浴びて倒れる中、鄧艾は機会を待つ。やはり練度の差が出て、味方の被害は大きくなっていくが、負けた訳ではない。鄧艾の周辺には、片腕を吊ったままの王桓と、戴陵が控えている。彼らの戦力を巧く活用すれば、勝機は充分にある。
味方の一部が、潰走しかける。其処に、敵が精鋭を投入。僅かに陣が乱れた。
此処が、勝負所だった。
鄧艾自身が前に出るのを見て、無言で王桓が剣を抜く。戴陵がこの間の雪辱と、槍を構えた。
「突入!」
「殺っ!」
兵士達が喚声を上げた。瞬時に五百が楔の形を為し、敵中に躍り込む。
敵の防備を、紙でも貫くように撃ち抜く。蜀漢の精鋭が、冗談のように倒れた。敵将が見える。鬼のような形相で、防戦を指揮している。無言で戴陵が出た。王桓ら親衛隊が、その突撃を補佐する。
敵の精鋭が、味方の一部を打ち崩す。しかし、その部分は最初から後退を予期しており、陣の密度も薄く被害は小さい。戴陵が、ついに敵将に挑み掛かった。二合、三合。火花を散らす。
かって、曹丕に諫言して、それから道を誤ったのだと鄧艾は聞かされた。
鬱屈が溜まっていたからこそ、全てがにくいという言動を取っていたのだとも。
今、戴陵は輝いている。陳式に押され気味だが、しかし。一騎打ちの華々しい部隊に躍り出て、己の全てを賭けて格上の敵将を押さえ込んでいた。
「敵の中枢に攻撃を集中! 今なら打ち砕けます!」
「左より、敵の伏兵! こ、これは! 見たこともない兵器を携えています!」
全身の肌に泡が立つのを感じた。
この状況で出てくる伏兵。しかも見ると、敵は乱戦を急激にふりほどいて、横陣をくみ直している。そして伏兵はずらりと横に並び、車で見たこともないほど巨大な兵器を準備し終えていた。
それは兵士が四人がかりで押している、常識外に巨大な弩であった。動きは鈍いようだが、何と人体ほどもある巨大な矢を、十本も同時に装填している。概念的には昔からある兵器だが、まさか実戦投入できるような代物が存在していたとは。
敵将が、甲高い声で叫んでいる。或いは、文官なのかも知れなかった。
「連弩隊、放てっ!」
矢が、斉射される。
張?(コウ)隊の横腹に、大穴が開いた。一瞬にして、数千の兵士が針鼠になり、或いは引きちぎられて吹っ飛んだのだ。唖然とする味方に対し、士気を盛り返した敵が押し返し始める。
敵が次の矢を装填すると同時に、攻勢に出る。今まで乱戦をしていたのは、単に時間を稼ぐためだと言わんばかりに、魏延の部隊が前に出て、大暴れを始めた。張?(コウ)が最前線に出てそれを防ぎ止め始めるが、しかし勢いも兵の練度も違う。
更に、百ほどの敵兵が、藁を背負って後方に走るのを鄧艾は見た。その意図を悟って、呟く。まずい。
「全軍、このまま一気に押してください! 敵中を突破して、脱出口を作ります!」
「わかりました! 押せ、押せえっ!」
声を張り上げる王桓。汗みずくになりながら必死に陳式を食い止めている戴陵を横目に、更に二押しを加え、ついに敵中を突破した。敵の精鋭は相変わらず大暴れしているが、味方に潜ませた弩隊は少し小高い丘のような地形に陣取り、斉射を浴びせて容易に近づけさせない。敵は中枢が混乱しているので、長弓による反撃も上手く行かない様子であった。
ついに、敵中を抜ける。
陳式が吠え、戴陵を斬り伏せた。真っ向から斬り伏せられながらも、戴陵は満足そうに笑っていた。
ごめんなさいと呟くと、突破した孔に踏みとどまり、叫ぶ。
「撤退を!」
敵の連弩とやらが、傲然と第二射を放った。また数千の命が吹っ飛ぶようにして消え去る。
既に張?(コウ)隊は、壊滅しつつある。それだけではない。後方から猛烈な火の手があがり、今までの退路を遮断していた。
さっき、後方に走った百名ほどの兵士達の仕業に間違いなかった。
鄧艾が、突破口を開いた。
張?(コウ)は、視界が霞むのを感じながら、悟る。これは死ぬ、と。
だが、それでも。少しでも多くの兵士を逃がさなければならなかった。
「進撃路をそのまま下がれ! 敵の主力は、あらかたこの高原に展開している! 今なら、退却は可能だ!」
それを聞いて、張?(コウ)隊が逃げ始める。
魏の中核として活躍してきた精鋭の、無惨な姿。だがこれは、恐らく諸葛亮が、渾身の力を込めてきた罠だ。この者達と、張?(コウ)を殺すためだけに。
司馬懿の援軍は。
いや、それも防がれてしまっているだろう。此処にいる敵は三万ほどで、残りの姿が見えない。そいつらが、増援の到着を防いでいるのは、火を見るよりも明らかだ。
敵の強烈な兵器は、動きが鈍いようで、乱戦になると効果を発揮も出来ない。張?(コウ)は王平隊に突入すると、肉弾戦に持ち込む。負傷者を先に逃がし、一部隊、又一部隊と戦場から逃れさせる。
しかし血しぶきが噴き出すように、味方の損害は一秒ごとに鰻登りに増えていった。また、将軍の戦死が伝えられる。猪突してきた敵がいる。確か、呉班だ。
この状況で猪突してくるとは。見ればなにやら形相は必死だ。或いは閑職に追い込まれている男なのかも知れなかった。
張?(コウ)、自ら出た。
そして、通り抜け様に、一刀で斬り伏せていた。
呉班は無念の形相で、落馬する。敵に僅かな隙。張?(コウ)は声を張り上げる。
「今だ、全軍退却せよ! 敵の居場所さえつかめば、味方の全軍で包囲殲滅が可能だ!」
どっと、雪崩を打つ麾下の兵士達。既に半減しているが、味方はまだ二十数万が健在である。前線に展開している二十万が押し寄せれば、まだまだ充分挽回は可能だ。諸葛亮の詐術が如何ほどであろうとも、だ。
槍が、脇腹に突き刺さる。
呻く。
前後左右、四方八方から飛んできた矢が、動きの止まった張?(コウ)に突き刺さった。
昔から、性格は炎のようだと言われてきた。それこそ、幼い頃からだ。
初陣は黄巾党の乱の頃。まだ十代前半だった。当時から時勢の乱れは明らかで、軍人になっておけと家族には言われた。体は大きく、力も強かったが、流石に戦場には自分よりも体格が良い大人が幾らでもいた。
生き残るための術を身につけなければ、生きていけなかった。
そんな生活をしていたが故に、却って忠義を捧げたい主君には貪欲になった。先祖伝来の主である袁家を離れた時、後悔はした。しかし、それ以上に。曹操に従ったことに、後悔はなかった。
「張?(コウ)」
自分を呼ぶ声。随分若い。
ふと顔を上げると、高覧だった。竹馬の友。ずっと戦場をともに駆けてきた男。だが、趙雲の手に掛かり、討ち取られてしまった。
そうか。
同じ所に来たのか。
周囲が燃えさかっている。己の内から漏れ出た炎が、全てを焼いているかのようだと、張?(コウ)は思った。
「此処は地獄か」
若々しいままの高覧は応えない。
それに比べて、自分は何と老いてしまったことか。少し気恥ずかしくもあった。
「そちらには、曹操様もいるのか」
「ああ。 お前の活躍を、いつも眼を細めて見守っていらしたよ」
「そうか。 ならば、今此処で果てることも悪くはないか。 惜しいのは、若い衆を、少しでも脱出させる手助けにならなかった事くらいかな。 結局、諸葛亮の知略は、こちらの遙か上を行っておったわ」
「お前が恥じることではない。 あれは後の歴史に、知恵の怪物として名前を残すような相手だ。 さあ、後は歴史絵巻を、ただ見守るとしよう。 我らと一緒に」
いつの間にか、周囲は明るく、開けていた。
懐かしい無数の人影が見える。
張?(コウ)は頷くと、若返った体を翻し、皆の所にかけ始めた。
「俺も来た! 皆の所に来たぞ!」
いつの間にか、心までもが、若年の時のように弾んでいた。
4、蒼天の後
張?(コウ)の軍勢は、鄧艾の必死の督戦で全滅こそ免れたが、ほぼ壊滅状態に追い込まれていた。
出撃した三万六千の内、無事に生きて長安に帰ることが出来たのは一万に満たない有様で、その殆どが鄧艾軍だった。張?(コウ)は死んだ。最後まで戦場に踏みとどまり、針鼠のようになりながらも鬼神のように戦い続け、ついに木門道という谷まで味方の撤退を支援。其処で馬上のまま、息絶えていたという。
死骸は必死の覚悟で部下達が持ち帰ってきた。
かろうじて前線に兵を戻し、諸葛亮による第二波攻撃を凌いだ司馬懿だったが、この防戦による被害も大きく、二万を越えた。諸葛亮は再び四万五千を一つに纏め、長安方面に展開していた司馬懿軍を直撃してきたのである。張?(コウ)が時間を稼いでくれなければ、味方はほぼ確実に全滅していただろう。
司馬懿はほぞをかむ。
長期戦が出来るようになった蜀漢軍には、もはや死角はない。
影のように静かに軍を動かし、風よりも早く襲いかかり、炎よりも激しく焼き尽くそうとしてくる。
「もはや、長安から西は、全て放棄せざるを得ないのかも知れぬ」
司馬懿がぼやく。
その憂鬱は、敵軍が再び消え、今度こそ撤退したらしいと聞くまで続いた。
諸葛亮は、むしろ静かな顔をしていた。
不意に、兵糧の補給が絶えたのである。魏の攻撃である可能性は皆無だった。蜀漢の細作網による情報伝達は完璧であり、敵が軍団単位でそれを突破できる可能性は無かったからである。
しかし、兵糧がなければ戦は出来ない。
一旦漢中まで引きに掛かる諸葛亮は、ずっと平静を保っていた。だが、陳式は見た。彼が乗っている四輪車の手すりに、罅が入っているのを。
長身の諸葛亮は、腕力も強いと聞いている。恐らく、相当な怒りが、その罅には籠もっているのだろう。
廖化が不可解そうに馬を寄せてくる。
「陳式、どうして撤退するのだ。 兵糧など、魏軍を打ち破って手に入れれば良いのではないか」
「恐らくそれは無理だろう。 今攻勢を強めれば、司馬懿は長安に逃げ込むだけだ。 そうなれば、兵糧を奪うどころではない」
「この間の戦いで、張?(コウ)が捨て身で時間を稼いだから、攻めきれなかったとは思ったが」
「ああ、見事な男ぶりだった。 武人として産まれたからには、あのような生き方をしてみたいものだ」
実際には、そうではないことを、廖化は知っている。陳式だって、分かっている。劉埼だった頃は、このような武人になれるとは思ってもいなかった。
だが、廖化はそれを指摘しなかった。
途中、不意に懐かしい姿が眼に入った。馬超だった。警戒する兵士達を宥め、槍を下げさせる。馬超は馬を寄せてきた。
「今回の侵攻も、上手くは行かなかったようだな」
「残念ながら」
「後で丞相に伝えておいて欲しい。 此方は、策が進行しつつある。 近いうちに、眼に見える形で成果を出せるだろう、とな」
それだけ言うと、馬超はその場から消える。
陳式は空を見上げた。
結局四度目になる北伐も、撤退という形で幕を下ろした。編成した精鋭達は、まだ物足りなそうにしている。充分に褒美は出したが、戦い足りないのだろうか。
漢中の北で、陳式は本隊と別れて、陰平に戻る。
この土地を更に豊かにして、もっと兵を増やせば、今度こそ勝てるのだろうか。
民のための国が出来るのだろうか。
問いに答える者は、何処にもいなかった。
(続)
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