知将激突

 

序、英雄を辞めた男

 

馬超は引退してから、じっくり自分のことを考えるようになり始めていた。

西涼で、血みどろの争いを繰り返していた若年の頃からは、ありえないほど人格も丸くなった。実の父にさえ危険視された馬超の燃えたぎる心も、家族を殆ど失い、そして信じるべきだと考えた劉備が豹変するのを見て、いつのまにかすっかり冷め切ってしまった観がある。

漢中の山々を、愛馬に跨って、今日も見て回る。

蜀漢の将軍として活躍している従兄弟の馬岱に、既に軍権も家督も譲ってある。だから、気楽なものだった。

もちろん、武芸については今でも鍛錬を怠っていない。ただでさえ治安の良い蜀漢である。馬超の武勇はあまりにも強力すぎて、使いどころが無いほどであった。

漢中で一番高い山の、頂に上がる。

まるで絵の中の光景だった。山々を覆う白濁の霧。鳥の声は何処までも響き渡る、澄んだ空気。

空を流れる雲でさえもが、清潔すぎるように思える。

かって、無数の村が好き勝手に覇権を競った結果、道の教えを使わなければ納められなかったこの土地。それも何度かの戦乱で踏み荒らされた結果、すっかり諸葛亮の法治主義によって納められている。張魯は今、魏で幸せに過ごしているのだろうかと、馬超はふと思ってしまった。良くしたもので、張魯も死んだという事にして、魏の裏の仕事に就いていると風の噂で聞いている。

手にした槍を立てると、何度か馬上で振り回した。

行き場のない武勇。

燃え上がる所のない心。

良いのだろうか、このまま朽ち果てても。

趙雲は黙々と、英雄として武勇を見せ続けているという。馬超は。ただこのまま、腕が腐っていくのを、待っていて良いのか。

槍を繰り出す。

かって、周囲を憎んだこともあった。だが、今では権力闘争を繰り返した西涼の愚物どもも、人間だったのだと思えてきている。

何度も、槍で虚空を抉る。

敵がいない。戦うべき相手がいない。馬超は、結局抜き身の剣なのだと、こんな時に思い知らされる。

山を下りる途中、遠くで虎の声がした。

気にもならない。そのまま山を下りて、麓の村へ。ふと気付くと、二千ほどの軍勢が、殆ど音も立てず、北上している所だった。旗印は馬。馬岱かと思ったが、微妙に旗印の意匠が違っている。

馬忠だなと、馬超は判断した。呉将ではない。南蛮の統治に力を発揮した武将で、近年北伐に時々参加していると聞いている。南蛮の情勢が張疑の尽力で安定してきたからだとも。

今回は四万程度の兵を動員すると、馬超は聞いた。そうなると、蜀漢としては一年半ほどの間に、連続して三回も総力戦規模の軍勢を出すことになる。もしもこれで成果を上げられなければ、流石に蜀漢の国力もかなり危険な状態になるだろう。諸葛亮が如何に内政の達人と言っても、ものには限度があるのだ。

馬超に気付いた馬忠が、抱拳礼をしてきた。馬超も頷いて、それに返答する。風のように、北に去っていく二千の軍。此処まで訓練された兵は、流石の馬超もあまり記憶にない。西涼の猛者達でさえ、此処までの部隊との交戦経験はないだろう。

他の武将達とも会えるかも知れないと一瞬だけ思ったが、止める。既に現役を退いてしまった自分に、一体何が出来るのだろうか。

今更、蜀漢に敵対しようとは思わない。

かといって、隠遁を気取るのも、性に合わない。

激しすぎる気性が、かっては西涼の乱の原因となったことを、今では馬超も自覚している。それを繰り返してしまっては、本末転倒だと言うことも。馬岱は、当時の馬超のことを、今どう思っているのだろうか。

山を登っていくと、?(ホウ)柔が待っていてくれた。弟の徳は今だ魏に捕らえられたまま、牢獄にいると噂を聞いている。一度細作が接触したそうだが、もう戦の日々に戻る気はないと言っていたそうである。

「馬超様。 蜀漢軍が、出撃していくのをごらんでしたか」

「ああ。 見事に鍛え上げられた軍勢だった。 西涼の軍も皆がああであったら、民は苦しまずに済んだのだろうか」

「いや、それは違いますぞ。 どうしようもない状況が、あれだけの精鋭を作り上げたのです。 西涼にいたころの馬超様とは、周囲の環境が違っていた。 ただ、それだけにございます」

「そうか」

?(ホウ)柔はおべっかを使うような男ではない。心からの言葉だと受け取って、そのまま二人で山を下りる。

隠遁生活を送っている馬超は、馬岱に譲り渡す形で、家臣もあらかた失った。馬岱はいまだ軍属に残っているので、側にいるのはもうこの男だけだ。蜀漢からは何度も復帰の依頼が来ているが、それももう受ける気はない。

かといって、やはり腐っていくのも嫌だ。

麓に降りて、幾つかの村を通りながら、南下していく。政は上手く行っているようだが、流石に三度目の北伐で税が厳しくなっていると、不満の声が上がり始めている様子だ。?(ホウ)柔は茶屋で酒を飲んでいたが、馬超はそんな気にはなれなかった。というよりも、もう体が酒を欲しがっていないのだ。

漢中を出て、蜀漢にはいる。

そこで、思いがけない相手に出会うことになった。

小さな村で、興行師が芸を見せている。いわゆる時代や合戦を扱った劇をしているもので、今は長坂で趙雲が劉禅を抱いて曹操軍を突破するものが扱われていた。趙雲を演じているのは、水の滴るような美青年である。一方、立ちはだかる曹操を演じているのは、見覚えがある顔だった。

趙雲が曹操の軍勢を突破する様子を見て、馬超は眼を細めた。噂には聞いているが、興行師が演じているのを見ると、英雄としての血が騒ぐ。現在、黄巾党の乱の時代から生き残っている武人の中で、現役なのは趙雲だけだ。一世代上の男であり、馬超としても尊敬するべき相手であった。

観客は惜しみない拍手を送る。

?(ホウ)柔も無邪気に拍手をしていた。

馬超は頃合いを見計らって、劇が行われていた舞台の裏側に回る。其処では、予想通りの男が、待っていた。向こうも気付いていたのだろう。

「関平。 久し振りだな」

「今は関索と名乗っております。 馬超様も、ご壮健の様子で何よりです」

「俺も既に現役を引退した身だ。 流石に壮健とはいかぬさ」

笑い合う。

関索はすっかり大人の風格を身につけていた。荊州を旅していると馬超は聞いていたが、このような一座の長となっていたとは。ただし、完全に自由の身とは行かない様子である。視線を感じる。

多分、諸葛亮の細作が、一座に何人か混じっているのだろう。

?(ホウ)柔と一緒に、奥に通して貰う。酒を出されたが、それは辞退した。二言三言話している内に、馬超から切り出す。

「何か、成果はあったか」

「はい。 此処では話すことが出来ないようなことも。 一つはっきりしたのは、現在の江東、いや呉ですな。 呉を牛耳っている四家は、明確な悪だと言うことです。 かって西涼を支配していた豪族達よりも、更に悪辣な存在だと言えるでしょう」

「それほどか」

「はい。 彼らによる山越の迫害は、言語を絶するものとなっています。 一座にも何名か、呉から救出してきた山越の民がおりますが、彼らのことを思うと、一刻でも早く呉を滅ぼさなければならないと思います」

関索は言い切った。

面白いのは、父の敵だと言い出さないことだろう。関索は恐らく、もう呂蒙や陸遜に、憎悪を感じていないのだろうか。それは成長したのだと、馬超は内心で思った。

荊州を見て回れば、陸遜の人となりは理解できるはずだ。馬超も噂に聞くだけだが、陸遜は決して卑劣な男ではなく、三国どこでも武人として恥ずかしくない功績を挙げられるほどの存在だという。蜀漢に諸葛亮がいて、呉には陸遜がいる。魏にはかって綺羅星のごとく人材がいたが、その中でも張?(コウ)はまだまだ諸葛亮に対抗できる人材だろう。つまり、陸遜を父の敵だと憎むのは簡単だが、それは器が小さいという事である。むしろ偉大な敵手として、尊敬するくらいが、一段階上の男になるには必要なことだろう。

「何か、良い方策は思いつきそうか」

「今の所は。 ただ、呉を滅ぼすのに有意な情報を仕入れては、蜀漢や魏の細作達に流してはいます。 お気づきでしょうが、この一座にも、蜀漢と魏の細作がそれぞれ混じっております」

「魏の細作もいるのか」

「先ほど、酒を運んできた若い娘がそうです。 残りの者達は、山越の奴隷民です。 一度、奴隷商人の隊商を襲って、彼らを救出したことがありまして」

恥ずかしそうに、関索が頭を掻いた。そうなると、呉ではお尋ね者にされる可能性もある訳だ。結構危ない橋を渡っているのだなと、馬超は思った。

演目の中には関羽と劉備を扱ったものもあり、これも人気があるという。ただし、関索は関羽を絶対に演じないそうである。これは、父を演じるほど、関索がまだ男として成熟していないから、というのが理由だそうだ。

「馬超様は、今何を」

「何もしていない」

「何と、貴方ほどのお方が」

「情けない話だが、今の諸葛亮を見ていて、俺は何をするべきなのかわからなくなってしまってな。 かっては腐敗や権力闘争を大いに憎んだ時機もあった。 腐敗が産む、弱者への虐待を憎悪した時機だってあった。 だが、南蛮や北伐戦線での実際の状況を見ていると、それもわからなくなってきた」

関索も、その矛盾は感じていたのだろう。馬超の言葉を聞くと、流石に黙り込んでしまった。

呉で、今行われている山越狩りは、確かに悪だ。四家は許すことが出来ない存在だと言うことにも、全面的に同意できる。

しかし、蜀漢も大小の差はあれど、似たようなことをしている。国家という存在は、恐らくそういった悪を内部に醸造する要素を保っているのだろう。

それを我慢できる人間は、我慢している。だが、我慢できないという声をあげることは、決して恥ではないはずだ。

しばし、気まずい沈黙が続いた。

だが、また関索から話し始めた。

「それで、これから馬超様は、どうなさるのです」

「お前を見ていて、思いついたことがある。 俺に出来るかどうかはわからないが、やってみようと思う」

「そうですか」

「ああ。 俺はこれから魏に出向く」

武力をもった戦いではない。別の方向で、戦うためだ。

そう、立ち上がりながら、馬超は言った。

 

1、陳倉陥落

 

陳倉城では、?(カク)昭が病に伏せていた。

前回の北伐で、不屈の闘志で蜀漢の猛攻から陳倉を守りきった?(カク)昭だったが、やはり頑健さにも限界があった。そもそも、曹操の時代からたたき上げとして各地で戦績をあげてきた男である。年齢的な問題もあった。

二回目の北伐で蜀漢軍が退いてから、?(カク)昭は病床から起き上がれなくなっていた。?(カク)昭の激励によって激戦を生き抜いた兵士達は彼の病を悲しんだが、こればかりはどうにもできない。医師の話によると、そもそもこの病気は、十年も前から?(カク)昭の体に巣くっていたという。だが、それが此処しばらくの激務と、なにより蜀漢との戦いによる強烈な体への負担によって、一気に活性化したのだという。

それも、今までは常識外の精神力で保たせていたと言うが。しかし、蜀漢が退いた結果、不死身にも思えた?(カク)昭にも、ついに限界が来てしまった、ということだった。

?(カク)昭は病床から起き上がれず、時々血を吐いた。

うわごとのように繰り返す。

蜀漢はまた攻めてくる。そうなったら、陳倉を守る者は誰もいない。

時々起きては、鎧をもて、剣をとれと叫ぶ。それを必死に医師達が取り押さえ、兵士達がそれを聞いて悲しむのだった。

そして、?(カク)昭は言う。

「ケ艾を、連れてきて欲しい」

伝令が飛んだ。そして、ケ艾がその話を聞いたのは、年が変わって一月ほど経った時のことであった。

長安にいたケ艾が、無言で毎日軍務に励んでいた。如何に陣の隙を見抜く力があると言っても、本人の武勇や馬術が未熟では、自軍に合わせた動きがどうしても出来ない。男女の性差による力の差はあるが、それでも最低限、ついて行けるくらいの動きは出来ないと、話にならなかった。

蜀漢の趙雲には、戦場で並の兵士よりも遙かに優れた武勇を発揮する妻がいると、ケ艾も聞いている。女だから出来ないというのは、言い訳にもならない。実際、それだけの実績をあげている同性の人間がいるのである。

毎日体をいじめ抜いて、帰宅しては寝台で寝る。

目が醒めたら体を洗って、力が出るように工夫させた食事を取って、後は朝から晩まで走り回る。

そうして毎日過ごしていたからか。ケ艾は最初話を理解できず、ぼんやりしていた脳が覚醒するまで、三十秒ほど掛かってしまった。

だから、むしろ伝令が、ケ艾の剣幕に驚いたくらいである。

「?(カク)昭将軍がっ!?」

「は、はい! ケ艾将軍を、出来ればすぐに呼んできて欲しいと言うことです」

「わかりましたっ!」

隣の部屋に走ろうとして、すっころぶ。唖然とした伝令の前で、兵士達がさっとケ艾を助け起こした。

なぜか彼らは、安心したようにケ艾を見ていた。

「ふえー。 痛いですー」

「ケ艾将軍、鎧と剣をお持ちしました」

「ありがとうございますー。 陳倉にこれから向かいますから、常備軍五百ほどに、すぐ出られるよう声を掛けておいてください」

「わかりました」

さっと兵士達が散る。自室にはいると、鎧に着替えた。いつもの訓練用のものではない筈なのに、しばらく体を鍛えていたからか、随分軽く感じられた。剣を抜く。振るってみる。此方も、あまり重くはなかった。

だが、他の兵士達はみなこれくらい出来るのだと思うと、まだまだだと感じてしまう。それに、牛金の死は、今だ脳裏に焼き付いている。蜀漢軍に対する憎悪よりも、自分の不甲斐なさに対する怒りが、ケ艾の心を焼いていた。

牛金は、やはり父だったのだ。

今でこそ戯けているように見えるケ艾だが、幼い頃はつらかった。大病になっても放置されていたし、それどころか兄弟に移らないようにと隔離された。かろうじて生き残ってみれば、子供が産めない女だと罵られ、実の親にさえ邪魔者扱いされた。

韓浩に拾われなければ、確実にのたれ死にしていただろう。

韓浩のところで、やっとケ艾は人になることが出来たのだと言える。のんびりした生活の中で、地が出てきた。それを韓浩は咎めなかったし、のびのびと育ててくれた。でもそれは、似たような境遇の子供達と一緒にという形だった。祖父ではあっても、父ではなかった。

だから、牛金は、初めてケ艾が得た父だった。

血はつながっていなかったが、父だったのだ。

そしてその父を、守れなかった。ケ艾は心の中に、闇を抱えてしまった。そして今もそれは、晴れる気配がない。

せめて、父の願いだった、平和だけはどうにかして叶えたい。

蜀漢を攻略することが出来れば、一気に天下は統一に傾く。それはケ艾にとって、義務だった。

着替えが終わったので外に出る。伝令はすでに陳倉に戻った後だった。

庭に出ると、兵士達が勢揃いしている。王桓がその先頭に立っていた。

既に将軍になっているケ艾には、補佐役の文官が一人付けられている。壬俊という若い男で、嫌みな奴だが、事務処理能力は非常に優れている。しらけた目でケ艾を見る壬俊に、ケ艾は最初に命令を出した。

「ごめんなさい。 これから陳倉に出かけます。 一刻を争うので、張?(コウ)将軍と司馬懿将軍に、謝っておいてください」

「それはまた、ずいぶんと急かつ、いい加減なご命令ですな」

「ごめんなさい。 じゃ、お願いしますっ」

「謝られても困ります」

周囲の武官達が、殺意を込めた目で壬俊を見ているが、動じていない。なかなかに胆が据わった奴である。だからケ艾としても、この男の嫌みを涼風として聞き流し、文官として使っているのだ。

王桓はもう、兄の死から立ち直っているようだ。この辺り、男の子だなあと、ケ艾は思う。

「陳倉まで、どれくらい時間が掛かりますか」

「そうですね、一週間はかからないと思います。 まして今は精鋭、しかも五百だけの兵ですので」

「わかりました。 王桓さんは、先に出て途中の村に寄り、補給物資の手配をお願いいたします。 後、山賊の類が出ないかどうかも確認しておいてください」

「御意」

さっそうと王桓が馬に跨ると、人馬一体の妙技を見せつけ、風のように陣を出て行った。真似をして乗ってみようとしたケ艾であったが、多少の訓練で出来るようになるような底が浅い技ではない。馬は大人しくしていてくれたのだが。

「ふぎゃっ!」

無理な挙動が禍して、足が攣りかける。

しばらくの無理が祟ったのだろう。我慢して乗った後、軍靴を脱いで、親指を逸らしてどうにか攣りを解消した。しばらく兵士達は見て見ぬふりをしてくれたのが、ちょっと恥ずかしかった。

靴をはき直した頃には、兵士達はみんな整列していた。

この間の北伐で、結局ケ艾が救出した人間は数千に達した。陳倉を守りきったことも合わせて、ケ艾は三千の兵を正式に任されることになった。もちろん、蜀漢軍を迎撃する時には、更に兵が増やされることになる。

だが、ケ艾自身は、一万くらいの兵が一番扱いやすそうだと考えていた。もしも地位が上がる事があっても、今後は直参を一万程度にして、他の部隊は配下や副将に任せて指揮させたい所である。

「よし、陳倉へ急ぎます!」

「応っ!」

兵士達と共に、ケ艾は駆けだした。?(カク)昭まで、無為に失う訳にはいかなかった。長安の城門を抜けて、街道に出る。しかし此処から西には無法地帯も多い。かって、始皇帝が天下を統一した時、この地域は国家の礎だった。しかし今になってみてみると、水の便は悪いし、土地は痩せている。山ばかりだし、行き来も不便である。

だが、韓浩は言った。

故に、秦の兵士達は強かったのだと。

魏の新兵達の中には、既に戦を経験したことがない世代も混じっている。曹操によって統一されるのがあまりにも早かったためだ。中原や河北の民には、戦を知らない者も出始めている。

蜀漢や江東の兵士に苦戦するのも、無理はなかった。

どんなに馬をとばしても、王桓に追いつく様子はない。途中の村々では、既に報告を受けた村人達が、補給物資を用意してくれていた。時には馬上から受け取りつつ、そのまま報奨金を渡す。孫子も言っているが、兵糧を現地調達する場合は、倍額であっても買い取るのが吉である。民を敵に回しては、戦では勝てないのだ。

蜀漢が侵攻してきているという話は、まだ上がっていない。だが、いやな予感は、どれだけ馬をとばしても消えなかった。

 

ケ艾がいなくなった陣屋を影から伺っていたのは、陳泰であった。ここのところずっと苛々している陳泰に、従者はやきもきし通しであった。

「ケ艾め、また勝手な行動をしおって」

ぶつぶつ呟きながらも、陳泰は敢えて上層部に報告はしなかった。それに、馬に乗り損ねて足を攣ったりしているケ艾を見て、何処かで安心してしまっていたのも事実である。むしろ従者達が安心した様子でいるので、陳泰は問いただした。

「おい、貴様ら。 なぜ安心している」

「それは、御主君様が、機嫌が良さそうですので」

「俺の機嫌が?」

「はい。 ケ艾将軍を見ている時、ずっと幸せそうにしていましたし」

噴き出した陳泰は、どう反応して良いのかわからずに、しばらく無言でいた。屋敷に戻ってからも、自席について書類作成を行っていたが、しばしして頭をかき回す。

なぜだ。

なぜあの脳天気で阿呆なケ艾は、いちいち陳泰の心をかき乱すのだ。

酒を持てと従者に言おうとしたが、止める。まだ昼間で、軍務は終わっていないのだ。書類を作り終えても、暇なら兵士の訓練でも、武芸の鍛錬でも、やることはそれこそ幾らでもある。

部屋の中を意味無く歩き回った挙げ句、気がつくと部屋の外から、郭淮に面白そうに見られていた。

「か、郭淮将軍! いつから其処に!」

「いや、訓練でもと思って呼びに来たのだが、何だか面白いことになっているのう」

「お、面白いとは!」

「まるで恋する乙女のようで、実に微笑ましい」

そのまま固まった陳泰を放置して、からからと笑いながら郭淮は出て行った。我に返った陳泰は後を追う。何としても誤解を解かなければならなかった。

「か、郭淮将軍! 訓練をお願いいたします」

「おう、良い心がけだ。 お前達の年代では、ケ艾がどうしても頭二つ抜けておるからなあ。 この機会に、少しでも差を縮めておくのが吉だろう」

「頭二つ分、ですか!?」

「おうよ。 あの牛金の秘蔵っ子だけのことはある。 一万の兵を与えたら、諸葛亮の精鋭一万と良い勝負をするのではないかと、私は思っている」

諸葛亮の精鋭と良い勝負とは。陳泰は悔しいが、とてもではないが諸葛亮に勝てる気はしない。あの悪魔じみた用兵は、人間業とはとても思えないのだ。単純な用兵でもそれである。戦略面で、諸葛亮に対抗できる存在がいるなどとは、考えられなかった。

外に出て、常備軍二千をそれぞれ郭淮と自分に半々で分ける。まずは五分の状態から勝負してみるのだ。鶴翼に陣を組んだ郭淮に対して、陳泰は魚鱗。突破をするか、包囲されるかの状況だ。

突撃を開始する。

一度目の突進が、軽くいなされる。郭淮の陣は粘り強く、とてもではないが突破できるしろものではなかった。二度目の突進もいなされ、陣頭指揮での三度目の突進で敵の一部が崩れかけたかと思った瞬間、まるで獲物を狙う鷺のように、郭淮の陣が翼を拡げた。しまったと思った時には、既に敵の動きは止めようがない状況だった。

瞬時に包み込まれ、後は一方的に叩かれた。

二度目の訓練では、陳泰が千二百、郭淮が八百を率いた。

結果は今回も同じだった。五割増しの兵力だというのに、陳泰は左右に振り回され、本陣に接近するどころではなかった。

昼過ぎに、一旦休憩を取る。

汗みずくになっている陳泰に対して、郭淮はまだまだ余裕がある様子であった。

水を飲み干す。郭淮が上機嫌で来た。

「お前の用兵はとても気持ちが良いな。 性格がはっきり表れているわ」

「喜んで良いのか、怒るべきなのか、よくわかりません」

「無論喜ぶべき事だ。 下手に小手先の用兵を繰り出すよりも、よっぽど兵士達もよく動くし、なにより味方としても連携しやすい。 もう少し思い切りを持って兵士達を動かせば、更に良くなるだろうな」

「心します」

軽く雑談をした後、いきなり郭淮が場に爆弾を投下する。

「それにしてもお前のような生真面目な坊ちゃん育ちが、草の根から出てきたケ艾に、ああも真摯な恋心を抱くとはのう」

「こ、恋心っ!? ち、違います! 違いますぞそれは!」

「何、照れんでもいい。 いや、むしろそれが青春の青い果実という奴か。 ははは、微笑ましい」

兵士達もにやにやとしながら此方を見ていたので、真っ赤になった陳泰は、どう反応して良いのかわからなかった。

郭淮もにこにこしていたが、不意に真面目な顔になる。

「こんなご時世だ。 いつ諸葛亮の指揮する蜀漢の獰猛な兵士との戦闘で命を落とすか、誰にもわからん。 だから、お前のようなみずみずしい若者の、微笑ましい恋心を、誰もが楽しみたいのだよ」

「そんな事を、言われましても」

よく見れば。

周囲の兵士達は、皆陳泰より年上の者達ばかりだ。

新兵はいずれも若い者が多いが、此処にいるのは歴戦の精鋭だという事もあるだろう。彼らの多くは屯田兵で、妻も子もいる。それなのに、戦場で命を散らせていかなければならないのだ。

死体も五体満足で家族の元に帰ることが出来れば良い方で、首を取られることも多いし、火計などにあってしまえばどれが誰だかわからなくもなる。

そう言われてしまえば。陳泰も、それ以上の反論は出来なかった。

「そういえばケ艾のお嬢ちゃんは何処に行ったのかな」

「わかりません。 急に手勢を率いて、長安を出て行きましたが。 あの様子から行って、上層部の指示ではないでしょう」

「ふむ、気になるな。 西に行ったとすると、ひょっとすると?(カク)昭の陳倉で何かあったのかも知れん」

「?(カク)昭将軍の」

?(カク)昭は、たたき上げと言うこともあって名門出身の将軍には嫌っている者もいるようだが、陳泰にとっては素直に尊敬できる相手だった。軍人というのはあああるべきだとさえ思ってもいる。

そう言われてしまうと、落ち着かない。不安で心も騒ぐ。

「国境付近に展開している細作達からは、まだ急報は来ていない。 だが何か間違いがあってはいかんな」

「?(カク)昭将軍にもしもの事があったら、蜀漢は怒濤のように侵攻してくるのではないのでしょうか」

「ああ、その通りだ。 今長安ですぐ動ける常備軍は二万という所か。 私が少し張?(コウ)将軍に話をしてくるから、お前は此処で待っていてくれるか」

「わかりました」

郭淮はすぐに馬に跨ると、長安の宮城に行く。

すぐに動けるといっても、急ぐとしたら騎兵を中心にするべきか。いや、山が多い地域で、騎兵は却って足手まといになる事もある。歩兵の中でも、長安近辺の山深い地域で育った者達を選抜すると動きやすい。

すぐに手を叩いて、中級指揮官達を集め、兵士を纏めさせる。

郭淮が戻ってきた。司馬懿と、張?(コウ)が一緒にいたので、抱拳礼をする。司馬懿は気難しそうに鼻を鳴らした。

「ケ艾から、連絡は来ている。 ?(カク)昭に急に呼ばれたから、あの小娘め、向かったとか抜かしておったわ」

「と言うことは、個人的な理由と言うことですか」

「いや、そうとも言い切れん。 いずれにいても、?(カク)昭は国家の功臣だ。 これを理由に、ケ艾を罰するわけにもいかんだろう。 むしろ、慎重に動きを見極めるべきだろうな」

張?(コウ)はそう言うと、咳き込んだ。

既に張?(コウ)の年は七十に迫ろうとしている。髭も白くなり、最近は目が霞むこともあるという。

黄巾党の乱から生きている時代の生き証人も。すでに、老いには勝てない状況だ。蜀漢にいる趙雲も、恐らくその点では代わりがないだろう。陳泰は戦慄する。兵士達に慕われている張?(コウ)がいなくなったら、長安方面の軍事は、司馬懿が一手に握ることになる。

それは、きっと、堅苦しい時代の幕開けを意味している。

「陳泰」

「はい」

「そなたは二千を率いて、陳倉に向かってくれるか。 何かあったらすぐに対応できるように、此方でも出動準備を整えておく」

「わかりました。 直ちに向かいまする」

既に兵は集まっていたので、その場で即座に出撃することが出来た。

ケ艾を追う。途中の村々では補給物資が用意よく集められていたので、進撃に苦労することもなかった。普段は阿呆のくせに、こういった手際の恐ろしいまでの良さを見ていると、やはり郭淮の言うとおり、ケ艾は頭二つ分同年代の中では抜けた存在なのではないかと思えてくる。

でも、陳泰は負ける気など無い。

武人として育ち、今は軍人になっている。そして陳泰も夏候覇もケ艾も若い。それならば、今後の成長次第で、どうなるかはわからないのだ。天才が早熟だという話も良く聞くし、凡才が天才を破ったという伝承もしかり。

陳泰だって、父に陳群という筋金入りの政治家がいるのだ。

単純な才覚では、その辺の誰よりも優れているはずだ。

山を駆ける。

まだ、ケ艾の背は見えない。

 

陳倉についた。ケ艾は汗みずくで、他の兵士達も同じだった。

ケ艾が来たことに気付くと、兵士達は喚声を上げる。此処の守備兵の中には、前回の戦いからずっと駐屯を続けている者も少なくない。ケ艾は恐縮して、ぺこぺこあたまを下げながら、奥へ。

?(カク)昭の副官が待っていた。予想よりずっと早かったと、破顔しながら案内してくれる。

陳倉は元々戦闘のことだけを考えて作られた要塞施設だ。中は非常に武骨で、飾り気の一つもない。多分戦争が終わってからも、女官の一人も入っていないのだろう。中の空気は相変わらず息苦しくて、更に言えば雑然としていた。

「男の人の城ですね」

「そうでなければ、この間の戦に耐えられなかったでしょう」

「……多分このままでも、次の攻勢には保たないと思います」

副官が唖然とするが、ケ艾は首を横に振った。

前回の戦いに比べて、陳倉の備えはあまり強化されておらず、変化もない。このままだと、この城は諸葛亮の指揮によって、二三日で落ちるだろう。一万の兵が詰めていても、結果は変わらないはずだ。

城壁を抜けて、兵士達が努めている居住区を通り過ぎると、もう司令部だ。大型の城塞施設だと内城というものを設置している場合が多いが、陳倉は急あしらえなので、城壁は一枚だけである。ただしそれは分厚く、とても高い。それに対して、司令部はちょっと大きな武家屋敷程度の規模しかない。

城壁の上に幾つか作られている櫓の方が指揮所としてはマシ。そう?(カク)昭が考えたのも、当然の話である。城は基本的に中に入られたら終わりだが、陳倉の危うさは改めてみると明らかだ。

屋敷の中で、?(カク)昭は寝台に寝かされていた。

あれほど豪壮な老人だったのに、今では頬が痩けてしまっている。抱拳礼をしたケ艾に、陳倉を守り抜いた名将は、震える手を伸ばしてきた。

「おお、ケ艾将軍」

「?(カク)昭将軍、ご無事ですか」

「見ての通りだ。 もうもたんようだ」

笑おうとして?(カク)昭は失敗し、咳き込んだ。医師が慌ててつくが、?(カク)昭は追い払った。

「もう良い。 どうせ今更何をしても、もう儂は助からぬわ。 それより、今、ケ艾将軍に後のことを全て任せてしまう」

「そんな、?(カク)昭将軍」

「儂も武勲を立てよう、未来を造ろうと躍起になって、必死に働いて。 気がついたら、この年で、体もぼろぼろになっておった。 ようやく、ずっと夢にまで見ていた将軍になってみればこの有様だ。 情けなくて涙が出るわ」

また、?(カク)昭が咳き込む。

陳倉で戦っていた時、走り回って指示を飛ばしていたケ艾と違って、?(カク)昭は兵士達にただ威圧的に睨みを利かせていた。

だが、その圧倒的な威圧感が、兵士達の士気を最後まで保ったのだ。

戦い方の形にはいろいろあることを、?(カク)昭は教えてくれた。それに、ケ艾の見抜いた蜀漢軍の動きについても、最初に信じて、皆を纏め上げてくれた。

恩人なのだ。それなのに。

「ケ艾将軍。 幾つか、頼んでおきたいことがある」

「どうして、私なんですか?」

また、まただ。

近しい人が、また消えてしまう。

だからだろうか。たわけたことを、聞き返してしまった。何度か咳き込んでから、?(カク)昭はしわがれ始めた声で言う。

「まず、この陳倉は、貴殿ももう知っているとおり、守り切れん。 それならば、先に破壊して、蜀漢軍の中間補給基地にされないようにした方が良いだろう。 既に張?(コウ)将軍に渡す書類は書かせておいた。 貴殿がこれを持っていくことで、陳倉の放棄は許可されるだろう」

「わかりました。 命に替えても」

「もう一つは、兵士どものことだ。 彼らを出来るだけ多く、陳倉から連れ出して欲しい」

なぜ、そんな事を?(カク)昭が言うのか。

意味を悟ったケ艾は、涙腺が緩むのを感じた。そんな、そんな事は。許してはいけない。でも、?(カク)昭は人生の最後に、成し遂げようとしている。

悩む。

だが、ケ艾は、やはり看過できなかった。

「?(カク)昭将軍も、一緒に城を出ましょう」

「そうはいかん。 此処に儂がいないと知ったら、蜀漢軍はすぐにでも押し寄せてくるだろう。 城を破壊し終わるまで、儂は此処にいる必要がある」

「駄目です。 城の破壊は、私が皆を指揮すれば、数日以内にでも終わらせることが出来るはずです。 将軍を見捨てる事なんて、出来ません」

侍医や従者がわからないと顔に書いているので、ケ艾は声を出来るだけ押し殺しながら言った。

「硝石や硫黄をつかって、自分ごと、場合によっては蜀漢軍ごと、城を道連れに命を断つおつもりだったんですね」

「なっ!? ほ、本当ですか、?(カク)昭将軍!」

「それ以外に、蜀漢軍の侵攻を食い止める手だてがなかったでな。 しかし、流石は儂が見込んだだけのことはある。 見抜かれてしまったか」

?(カク)昭が破顔した。

でも、それは死に行くものの笑顔であった。

「私を呼んだのは、どうしてですか? 手紙を持たせるだけなら、他の将軍でも良かったはずです」

「出来るだけ兵士どもを、儂の意地につきあわせたくなかった。 それだけだ。 一緒に戦ったお前さんの言葉なら、意固地な兵士どもも聞き入れるだろうと思ったからのう」

「?(カク)昭将軍……」

「儂はずっと将校どまりで、やっとこの年になって将軍になれた。 最後に一花咲かせたいのだが、叶えてもらえぬか」

ケ艾は目を乱暴に擦って、涙を落とす。

嫌だ。

こんな形で、また大事な人を失いたくない。それに、最後の一花というのも、他に方法があるかも知れないではないか。

「多分、両立できるはずです」

「ほう?」

「私が、すぐに策を考えます。 だから、どうか短慮に走らないでください」

医師に目配せすると、すぐにケ艾は外に出た。

城壁の上に出て、周囲の地形を観察。何度も何度も見た地形だ。しかしその時には、陳式が陣を張っていたし、それ以外にも敵がどう伏兵をしているかばかり考えていた。今回は、敵を攪乱することが主要な目的となる上に、陳倉を破壊し、味方が無事に撤退する時間を稼がなければならない。

戦略上の目標が、根本的に違うのだ。だから、もう一度念入りに観察しなければならなかった。

医師が来た。

「先ほどは、?(カク)昭様の無茶を止めていただき、有難うございます」

「?(カク)昭将軍は、大丈夫ですか」

「正直よくありません。 陳倉での、敵軍との戦いで、精根を使い果たされてしまったのだと思います。 しかしながら、正直な話、今すぐ死ぬと言うほど酷い状態ではないのも事実です」

ならば、なおさら何とかしなければならないだろう。

五百の兵を連れて、周囲の山を見守る。もし?(カク)昭の病気が蜀漢に伝わったとして、敵が戦力を編成して此処まで出てくるのに、半月は掛かるはずだ。敵の諜報網は恐ろしく優秀だから、あまり時間はないと思った方が良いかも知れない。

やがて、一つの川が、ケ艾の目にとまった。

それはさほど大きくはないが、幾つかの橋は朽ちかけており、住民の利用がない事が伺える。武都、陰平辺りの住民は、西涼や司隷に非難させているのだから当然だ。つまり、住民の迷惑はあまり考えなくても良い。

下流に出る。

狭い川が、入り組むように流れている。土地も乾いていて、吸水性は著しく低い。かって秦の時代に作られたらしい堤防の名残もあって、利用すればさらに工期を短縮できそうである。

丁度いい地形だった。

周囲に人影。千程度の兵力。手を振ったのは、殺気を感じなかったからだ。

「わ、陳泰将軍だー! お手伝いに来てくれたんですか?」

「貴様、ケ艾っ! なぜ断りもなく、こんな所に出兵している! 張?(コウ)将軍も司馬懿将軍も、かんかんに怒っておられたぞ!」

「ええー? 壬俊さんに、頼んでおいたのにぃ」

「で、貴様は、こんなところで何をしているのだ!」

「ええと、この川をこの辺りでせき止めます。 丁度いいので、陳泰将軍も手伝ってください」

ぽかんと口を開けた陳泰は、なぜだかケ艾には理解できなかったのだが。怒り出した。

でも、手伝ってくれたので、思ったより早く、作業が終了した。

陳泰はずっとぶつぶつ文句を言っていたが、結局ケ艾のために一緒に仕事をしてくれた。だからケ艾は、陳倉に戻った頃にはしばらく見せなかった笑顔を、周囲に振りまいていた。

 

進軍を続けていた廖化の軍勢の前に、数名の人影が現れる。

今、蛍と名乗っている山越出身の女細作をはじめとした、精鋭の細作部隊であった。林に備えて、諸葛亮がこの辺りに放っている連中である。

「廖化将軍」

「何用か」

廖化は細作が嫌いだ。この間、牛金との戦いに水を差されてから、ますます嫌いになった。

戦は地獄である。だからこそに、廖化のような武人が華々しく武勇を振るって、少しでも華を備えなければならない。

それなのに彼奴らは、華の究極である一騎打ちに水を差した。しかも牛金は、決死の覚悟で、千五百の廖化軍の中央に飛び込んできた。それほどの男を、無惨に効率優先で殺した細作達に、今後も廖化は良い感情をもてないだろう。

それを見透かした上でだろうか、蛍は冷笑を口の端に閃かせながら、言う。

「敵が川の堰を作りました。 上流では水流が滅茶苦茶に乱れ始めていて、このまま進軍するのは危険です」

「何っ。 地図を」

部下に地図を出させると、蛍はその上に指を走らせながら説明してくる。確かに滅茶苦茶な乱れようで、このままいくと何処で鉄砲水に襲われるか分かったものではない。

すぐに後方に伝令を飛ばしながら、廖化は舌打ちした。

?(カク)昭が病気で伏せっているという話を聞いて、勇んで飛び出してきた形になるのに。もちろんこれは敵の妨害なのだろうが、味な真似をする。そう言えば陳倉の戦いの時、妙に動きが良い部隊がいた。ケとかいう旗印をしていて、以前からちょくちょく味方の前に顔を出してきている相手だった。

奴かも知れない。そう思うと、廖化は武者震いした。

「敵が待ち伏せしている可能性もある。 斥候を放ち、上流を入念に探れ。 まだ大軍は出ていないだろうから、敵の抵抗を排除したら、まず川の流れを元に戻すことから始めるぞ」

訓練された兵士達はすぐに散る。後続の馬岱軍が追いついてきた時には、川にどのような細工がされたのか、流れが何処まで異常なのかが、はっきり分かってきた。

敵の布陣も大体分かった。川向こうで、此方を監視しているのが千五百ほどいる。陳倉には三千と少しが籠城しているようなので、およそ半分ほどだろう。或いは、援軍かも知れない。

「やれやれ、水攻めか。 いにしえの韓信のようだな」

騎兵を率いている馬岱は、面倒くさそうに言った。馬超とあまり似ていないこの男は、最近老けるのが早く、性格も急速に円くなってきている。以前のような荒々しさは影を潜め、すっかり穏やかな男になりつつあった。

馬岱の騎馬隊千をぶつければ、敵を一瞬で打ち砕ける自信はある。だが、廖化が与えられている命令は、陳倉への道を造ることだ。二千五百程度で、陳倉を陥落させられるとは、流石の廖化も思っていない。後ろから陳式が率いてくる精鋭が、その役割を果たす。この周辺に潜んでいる蜀漢の協力者達も、それを手伝う。

ほどなく、修復すべき地点を、特定し終えた。

同時に、伝令が来た。

諸葛亮からの指示であった。

 

敵発見。その報告を受けた時には、既にケ艾は陳倉に引き上げた後だった。

川の流れを滅茶苦茶にするのに、二日かかった。陳倉に蓄えられていた硫黄と硝石まで使って、強引に流れを変えたのだ。修復にはさぞ時間が掛かるだろう。更に、陳泰には千を率いて、そのまま敵の監視を続けて貰った。陳倉に駐屯していた五百も出して、それに加わって貰った。

?(カク)昭は寝台で苦しそうにしていた。やはり、蜀漢軍が迫っていることが、心労になっていたのだ。

「王桓さん、お願いします」

「わかりました。 力自慢の者、何名か手伝え」

「おう、何をする」

「?(カク)昭将軍のために、寝台を格納できる車を用意しました」

車と言っても、馬で引くものだ。龍車というのは皇帝専用のものだが、この近辺にも揺れが少なくなるような工夫をした車は出回っている。贅沢品だが。

これは西涼近くにある街から急いで此処まで持ってきたもので、定価の倍出して買ってきて貰ったのだ。田家が扱っている品で、既に買い取る金持ちは決まっていたらしいのだが、無理を言って譲って貰った。寝台ごと?(カク)昭を運び出す。?(カク)昭は目を白黒させていたが、しかし。馬車に乗せられると、何も文句を言わなくなった。

「出来るだけ揺らさないようにお願いいたします」

「分かっている」

医師に言葉少なく応えた王桓が鞭をくれて、馬車を出した。護衛についているのは、いずれも屈強の、歴戦の猛者ばかりだ。

残る兵士達には、分散して硫黄と硝石を仕掛けさせる。

陳倉は前の戦いでかなり傷ついていて、修復したと言っても、弱点になっている場所は何カ所もある。

「急いでください。 蜀漢軍が迫っています」

「えっ? 敵は川に阻まれているのでは」

「諸葛亮が、その程度で進軍を抑えられる相手に思えますか。 あれは敵の先鋒を防ぐためのものにすぎません。 すぐに敵本隊は、何かしらの方法で、陳倉に迫ってくるはずです。 ?(カク)昭将軍を逃がすためにも、急いで」

そう言われると、兵士達は俄然目の色が変わった。

おっかないおっさんであっても、誰もが慕っている相手なのだ。兵士達は急速に仕事を済ませて、後は火をつけるだけになった。

ケ艾は全員を城の外に出させて、さらには陳泰にも撤退するように伝令を飛ばす。そして、火を掛けさせようとする瞬間だった。

西の方に、殺気を感じた。

次の瞬間、山が崩れ始めていた。

本当に、山がまるごと崩れると言うのが正しい規模であった。もの凄い大きさの岩が、冗談のように転がり落ちてくる。銅鑼を叩きならさせた。撤退の合図だ。兵士達は最早我先に、散り散りに逃げ出す。

陳倉が、土砂に飲み込まれる。

爆発など、する暇もなかった。

五百の兵に守られて、近くの山中に逃げ込んだケ艾は、全身冷や汗だらけになっていた。流石は諸葛亮だ。最後で、ケ艾の一枚上を行ってきた。此処からは退却戦である。いかなる手を用いても、この情報を長安に伝えなければならない。

武都、陰平の辺りは諦めるしかないだろう。今回こそ、完全に敵の手に落ちる。陳倉が無力化された上に、この近辺に諸葛亮の協力者が増えているのは、ケ艾も聞かされている。既に此処は、敵地になったのだ。

この戦力では、防衛線を張るどころではない。

「全軍、長安まで撤退します」

三千ほどの兵を率いて、ケ艾は脇目もふらず、長安に逃げ帰った。

途中陳泰と合流した。陳泰の部隊は追撃を受けて二百ほどの被害を出していたが、どうにか逃げ延びることが出来ていた。

 

2、激戦北伐

 

陳倉を土砂で押しつぶす。

少し前から、諸葛亮が準備していた策だった。

陳式は、あまりの光景に唖然としていた。少し前から、細作を放って諸葛亮が陳倉の裏山について調べさせていたのは知っていた。だが、まさか山を丸ごと崩して、陳倉を粉砕するためだったとは。

硫黄と硝石を相当な量使ったようだが、それでも山を丸ごと崩すなど、尋常なことではない。尋常ではないが、陳倉を完全に無力化することが出来た事は大きい。これで、この一帯は完全に蜀漢の領地になったと言っても良かった。

諸葛亮の指示で、最初から陳式は川の上流を渡っていた。下流でケ艾が何かしているのには気付いていたが、敢えて放置したのは、先に作戦を実施するためであった。作戦自体は諸葛亮が育てている細作や工兵が行ったので、陳式がやったのは彼らを護衛し、物資を運ぶだけだった。

だが、まさかそれが、このような結果を産むとは。

陳倉はもはや跡形もない。土砂が完全に押しつぶし、洗い流してしまった。その光景はさながら地獄。

人間のすることとは思えなかった。

一旦周囲が落ち着くと、陳式は陣を張る。この周辺には既に慣れているし、何処に陣を張ればいいかも知り尽くしている。やがて、陳泰の部隊を追い払った廖化の軍勢が、馬岱軍とともに合流してきた。

呆然としたのは、廖化も同じだった。

「何という有様だ」

「諸葛丞相の策は、本当に人間離れしているな」

「恐らく千年の後には、神格化された丞相が語られるのだろうな。 それにしても、恐るべき事だ」

馬岱が身震いした。

そのまま、続々と合流してくる軍勢が、周囲に展開する。

その中には、見慣れない部隊も混じっていた。キョウと呼ばれる、西方の民族達からなる傭兵集団である。どうやって丞相が彼らを口説き落としたのかはよくわからないのだが、五千の彼らが合流することにより、蜀漢軍は今回、四万の動員を可能としていた。武都、陰平周辺に張り巡らされた補給網も、それを支えている。

ただし、兵の質は低くないとはいえ、彼らはあくまで陽動用の戦力である。蜀漢軍の統一された行軍にはとてもついていけないし、何より隠密機動の訓練も受けていない。いざというときには容赦なく見捨てられるのだろうなと思うと、陳式は彼らのことを不憫に感じてしまった。

一旦陳倉周辺で、四万の軍勢が勢揃いする。

温存されていた趙雲の最精鋭が布陣を終えると、諸葛亮が姿を見せた。今回も、細君が側にいる。この間の北伐で、彼女が見せた辣腕を考えると当然の話で、誰も文句を言う者はいなかった。

今回から不思議なことに、諸葛亮は四輪車に乗り、羽扇を左右の兵士達に担がせ、不思議な佇まいを造り出していた。仙人のような衣装を長身に着こなしていることもあり、何だか浮世離れして見える。

実際、さっきの常識離れした作戦を見た後だと、効果は絶大だった。諸葛亮が人間だと知っている陳式でさえ、寒気を覚えたほどである。主要な武将達と天幕に入り、皆を見回しながら諸葛亮が言うと、全軍にさざ波のような戦慄が波及した。

「皆、よくやってくれたな。 前回蜀漢軍の悲願を砕いた陳倉を落とすことが出来たのは、皆の迅速な行動のおかげだ」

「いえ、丞相の知略のおかげにございまする」

魏延がそう言う。声には恐怖が少なからず含まれていた。

魏延も、あまりの惨状に、魂を抜かれたようになっている一人だった。陳倉にいた?(カク)昭は、これではひとたまりもなかっただろう。あれほど知勇に優れた武将が、一兵も指揮することなく消えたのである。生死はわからないが、陳倉が潰れたこともあり、最早蜀漢軍に立ちはだかることは出来ないだろう。

「さて、武都と陰平だが、これからキョウ族の部隊に任せることにする。 陳式将軍は二千を率いて彼らを監督し、蜀漢の威光を示して欲しい」

「わかりました」

「恐らく敵は郭淮が先鋒を率いて出てくるだろう。 曹真は重病の身と聞くが、それでも総指揮では恐らく出てくるだろうな。 まだ司馬懿と張?(コウ)の二頭態勢は巧く機能してはおらぬ。 其処で、此処を叩く」

地図が拡げられる。

郭淮の予想侵攻路と、曹真が連れてくるだろう本隊の移動予想経路が書かれていた。郭淮軍は恐らく三万前後、ただしこれは歴戦の猛者を集めた精鋭になるだろう。その背後から、曹真が率いる十二万前後が恐らく出てくるはずだ。

更に、今回魏は西涼から援軍を出してくることが予想され、合計で敵の戦力は二十万に達することが推定された。

二十万。これは曹操が荊州を落とす時に連れて行った戦力に匹敵するほどの数である。その上、補給経路も整っており、しかも魏の内部での戦いになる。

更に言えば、蜀漢軍はどれほど集めても十万程度しかいない。国家総動員の倍の戦力を、魏は余裕を持って繰り出そうとしてきているのだ。人口四百万を軽くこえ、しかも戸籍外に多くの人間を有している魏だから出来ることであった。

「二十万、ですか」

「しかし、恐れることはない。 今回、敵は大部分の兵を、守りに使ってくるだろう」

「五倍の戦力を有しながら、ですか?」

「いや、無理もない。 今まで蜀漢軍の戦闘能力を見ている魏軍としては、当然の判断だろう」

趙雲が何度か咳き込みながら言う。

頬が痩けていて、隣に据わっているジャヤが時々心配そうに汗を拭っていた。陳式も不安に感じてしまう。

そんなとき、発言したのは、ずっと黙っていた王平だった。

「先ほど、丞相は二頭態勢の隙を突く、と言われましたが」

「うむ。 張?(コウ)と司馬懿では、性格に差がありすぎる。 司馬懿は堅実かつ基本を積み重ねていく男だが、張?(コウ)は果敢な戦闘を得意とする闘将だ。 現状では司馬懿が若干上の地位を持つようだが、張?(コウ)も侮れない地位と戦歴の持ち主となっている」

実際、張?(コウ)の方が、用兵の手腕が上なのは、此処にいる全員共通の認識であるだろう。

彼らを纏められる曹真は、重病でもうまともな指揮が執れない状況にある。司馬懿は張?(コウ)に頼らなければ、蜀漢を撃退できない。しかし張?(コウ)としてみれば、若輩の司馬懿の指揮を受けなければならないのは、不快だろう。

「其処で、今回はわざと漢中方面に隙を作りながら進軍する」

「敵の攻勢を誘うのですか」

「そうだ。 そもそも、此方の戦力は四万程度。 しかも漢中ががら空きとなれば、闘将である張?(コウ)は黙ってはおられまい。 罠だと分かっていても、兵を動かさなければならない。 なぜか」

兵士達の士気に関わるからだ。

二十万の軍勢がいながら、四万の、しかも隙を見せている兵を相手に殻に籠もっていて、兵士達の士気が保てるか。そう言われると、誰もが納得せざるを得ない。

今回、江東の呉が兵を動かしていないこともあり、諸葛亮の知略は冴えに冴えている。しかももし諸葛亮が大勝すれば、嬉々として呉の軍勢は魏に攻め込むだろう。もっともそれは、蜀漢が敗退すれば呉の矛先は此方に向くことも意味しているが。

「既に曹真は死に体だが、この戦でとどめを刺す。 今度こそ、長安を落とすぞ」

諸葛亮がそう言うと、全員抱拳礼をして立ち上がった。

士気は、高い。

諸葛亮に対する恐怖が、皆にあるとしても。

 

長安に、十万を超える兵が集結、元から駐屯していた十一万と合流した。そして、司馬懿の指揮の下、動き始めていた。

曹真は今回、名目上は総司令官と言うことになっているが、既に身動きも出来ないほどに酷い病状である。彼の下に張?(コウ)と司馬懿がついて左右から補佐し、実戦軍の指揮官としては郭淮が当たることになっていた。

とりあえず、蜀漢の押さえとして、郭淮が三万を率いて出撃することに決まった。この三万は魏軍の最精鋭であり、主に蜀漢軍に対する防衛線構築に従事する。ケ艾と陳泰も、この部隊にそれぞれ三千を率いて加わることとなった。その後、十二万を率いて、司馬懿が出ることになったのだが。

早速、問題が噴出し始めていた。

張?(コウ)が、司馬懿の作戦案に待ったを掛けたのである。

司馬懿は今回、皇帝曹叡から特に厳命されている。それに、曹真の指示もある。諸葛亮とは戦わない。それが、今回の魏軍の大方針であった。諸葛亮に異常なまでに鍛え上げられている蜀漢軍の実力は、前回二回の北伐で、魏軍上層部も嫌と言うほどに知らされている。

だが、それが故に、張?(コウ)は言う。此処で一度しっかり勝ちを収めないと、兵士達は無為に蜀漢軍を恐れるようになると。

曹叡に特に厳命されているとはいえ、司馬懿はまだ正式に大将軍に任命されたわけではない。それに対し、張?(コウ)は将軍の中でも特に地位が高い征西将軍だ。出撃間近に司馬懿と張?(コウ)の意見が対立していると聞いたケ艾は、思わず頭を抱えていた。恐れていたことが、現実になったからである。

出撃は二日後。既に長安は、各地から集められた屯田兵でごった返している。その中には新兵も少なからず混じっており、諸葛亮の魔的な噂が彼らの間で恐怖を生んでいた。こんな状態で、上層部が仲違いしていては、勝てる戦いも勝てなくなる。

曹叡は恐らく、張?(コウ)に勅命を出すだろう。司馬懿も、最終的にはそうしなければならなくなる。

だが、張?(コウ)は曹操の時代から仕える闘将の中の闘将であり、曹叡とて無理に言うことを聞かせる訳にはいかない。それだけ、膨大な功績を挙げた男なのである。しかも、決して張?(コウ)が言っているのは、間違いではないのである。

これだけ集められた兵士達だが、それほど高給を得ている訳でもない。かっては画期的な貧民救済策であり、荒れ果てた国土を一気に復活させた屯田制度も、勢力の安定によって徐々に古いものになりつつある。鍛え抜かれた兵士達ばかりとはとても言えず、喰うために戦場に出てきている者も多い。

彼らにしてみれば、諸葛亮のような恐ろしい相手と、手柄を立てる機会もないのに死にものぐるいで戦うなど、ぞっとしないだろう。中には、敵前逃亡を図る兵士達も、出てくるかも知れない。

困り果てたケ艾は、?(カク)昭の所に相談に赴く。

陳倉から救出した?(カク)昭は、今は医師がつきっきりで、ケ艾の屋敷にいた。もとよりたたき上げで、仕事一筋だった?(カク)昭には、残すような家も、家族もいなかった。だから、ケ艾が頼んで屋敷にいて貰っている。?(カク)昭はケ艾の願いを聞いてくれていて、家にお爺ちゃんがいるようでとても嬉しかった。

で、今日はお爺ちゃんに、相談に行く訳である。陳泰がそうすると言ったケ艾を見て何か意見しかけたが、結局沈黙を保った。よくわからない。

?(カク)昭は縁側でひなたぼっこをしていた。重責から解放されて、体も健康に向かっていると医師は言っていた。だが、咳はまだ時々出ているし、かってほどの豪壮さはない。

「?(カク)昭しょうぐーん!」

「おお、ケ艾か。 どうした」

手を振ってぱたぱたケ艾が走り寄ると、?(カク)昭は随分柔らかくなった雰囲気で応じてくれた。かって雷喝で兵士達を恐れさせた鬼将軍は、今は穏和な老人になろうとしている。時々笑顔までも浮かべるようになっているほどである。

侍従に茶を出させて、二人でしばし和む。

夏になろうとしている空気が気持ち良い。空を飛んでいる小鳥の群れは、囀りを天高く響かせていた。

しばし、憩いのひとときが流れる。

だが、怪訝そうに眉を?(カク)昭がひそめた。

「で、何か儂に用があるのではないのか」

「あ、そうだ。 忘れてました!」

「これ。 部下の前でそれでは、侮られるぞ」

「えへへー。 ごめんなさい。 牛金将軍にも、そんな風に怒られました」

頭を掻くケ艾を、?(カク)昭はあきれ果ててみていた。

「これではあの剛気な牛金将軍も、苦労しただろう」

「もう、苦労ばかり掛けてしまいました」

少し、湿っぽくなってしまう。だが、此処で立ち止まっていたら、牛金将軍に怒られてしまうだろう。

顔を上げると、ケ艾は聞いてみる。何か良い案は無いものか。

対立する張?(コウ)と司馬懿。そして確実に、その隙を諸葛亮は突いてくる。陳倉城の末路を聞いた後である。どのような驚くべき策を諸葛亮が繰り出してくるか、わからない。だから、出来る限り人間に出来る最高の備えを、しておかなければならなかった。

?(カク)昭はしばし考え込んだ後に言う。

「そうさな。 どちらも言っていることは正しく、それが故に大きな隙が出来るというのであれば、確かに結論は出ないだろう」

「でも、また諸葛亮に隙を突かれたら、我が軍は一気に壊滅しかねません」

「その通りだ。 前回も十万の軍勢が壊滅寸前まで追い込まれたと聞いている。 諸葛亮相手に隙を見せたら、我が軍は全滅すると思って事を進めなければならん」

茶をすすった後、?(カク)昭は庭に降りてきた雀を見つめた。

医師が薬を持ってきたので、口にしながら、?(カク)昭は考え込んでくれた。

「若者同士であれば、納得するまで殴り合わせるのも良いのだが、今はどちらも分別のついた大人だ。 そのような訳にはいかんだろう」

「ず、随分過激な方法ですね」

「儂も若い頃は、同僚と納得が行くまで殴り合いをしたものだ。 お前さん達おなごは、暴力を使わなくても解決できるようで、羨ましいとは思うぞ」

「えー? なんて反応したらいいのか、よくわかりません」

からからと笑うと、?(カク)昭は茶を一気に飲み干した。

そして、庭木の先端部分を見つめて、言う。

「隙を作らないようにするためには、全てを一本化するのではなく、切り離す事が必要になるだろう」

「つまり、防衛線を構築する部隊と、決戦用の野戦戦力を分けると」

「いや、それでは兵力の逐次投入につながってしまう。 だから、恐らくは敵の思うつぼだ」

豪壮。

荒々しい老人。

そんな印象があった?(カク)昭だが、じっくり腰を据えて話してみると、吃驚するほど知的なのに驚かされる。

きっとこの人は、おっかない自分の容姿も利用して、部下達を纏めていたのだろう。むしろしたたかな人だったと言うことだ。もちろんそれが全てではなく、今話してくれているように誠実で真面目な部分も大きい。

「お前さんの判断力を、儂は信頼する。 本音では張?(コウ)将軍の意見を通したい所だが、正しい方に賭けてみるとして、一度、張?(コウ)将軍に負けて貰うしかないのかも知れんな」

「兵士達を出来るだけ死なさないようには出来ませんか」

「それなら、良い案がある」

頷くと、ケ艾は案を頭に叩き込んだ。

屋敷を出ると、伝令が走り寄ってきた。汗水漬くで、彼方此方を回っていたのだと一目でわかる。

「ケ艾将軍、軍議です。 すぐ宮城にお越しください」

「待ってました!」

「はあ?」

「いや、何でもないです」

口を押さえたケ艾は、兵士に取り繕うと、足取りが軽くなっているのに気付いて時々改めたりしながら宮城に向かう。案の定、周囲の空気は最悪である。その中に、いきなり満面の笑顔のケ艾が現れたので、他の将軍達は唖然としていた。

心配げに王桓が近寄ってきて耳打ちする。背が違いすぎるので、腰を曲げながら。

「ケ艾将軍、何か悪いものでも食べましたか。 こんな空気の中で、そんなに笑顔を浮かべて」

「え? 何で?」

「ケ艾、貴様又何かしでかすつもりか!」

近寄ってきた陳泰が、なぜか王桓に敵意剥き出しの視線を向けながら、変なことを言う。小首を傾げながら、席に着く。既に張?(コウ)も司馬懿もケ艾を見ていて、不気味そうに構えていた。

?(カク)昭の案は実に良い。この意地っ張りな二人を納得させるには充分だろう。

急の軍議が始まる。

殆どの主な将軍は揃っている。ケ艾の機嫌も良くなるものである。このような場で納得させられれば、張?(コウ)も文句は言わなくなるだろう。

労少なくして功多し。たまにはこのようなことがあっても良いはずであった。

 

細作が、続々と姜維の前を通り過ぎて、諸葛亮の天幕に入っていく。

諸葛亮の側で修行中の姜維は、聞かされていた。細作を束ねるのは、諸葛亮の細君の仕事。そしてそれは、非常に高度な情報網の構築につながり、蜀漢軍の著しい行軍速度向上につながっている。

実際に側で見ていると、蜀漢軍は兎に角動きが速い。魏軍では考えられない速度で進撃し、疲れも見せずに優れた戦闘能力を発揮する。いずれの兵士達も鍛えに鍛え抜かれていて、一人で魏軍の兵士なら三人は相手に出来そうな猛者ばかりだ。

だが、諸葛亮の進軍は、不意に止まっていた。

どうやら、北に現れた郭淮が原因であるらしかった。

細作達が天幕を出た後、姜維は他の将達と一緒に呼ばれた。諸葛亮が、机上に地図を拡げたまま、いつになく深刻そうに言った。

「不意に、魏軍が行動を改めた」

「なんと」

「郭淮を先手に、防衛線の構築だけに全軍を投入している。 わざと作った隙には、まったく食いついてくる様子が見えない」

それならばそれで、敵の士気が落ちるのを待てばよいように、姜維には思えた。

武都、陰平を陥落させた陳式は、現地で兵を募集しており、既に二千以上の増強が行われているという。南蛮から蜀漢が得ている富が今回は豊富に使われており、その結果がわかりやすい形で出ているのだ。今後馬岱の騎馬隊をその中に含め、一気に西涼を突く計画が出始めているほどだ。

敵が長大な防衛線を引くというのなら、思うつぼである。その隙を突いて、一気に西涼を落とし、馬岱で豪族達を籠絡させればいい。そうすれば蜀漢軍は五万に達する軍勢を短時間で増強できるだろう。成功すれば二正面作戦が可能になり、敵の防衛線の背後から奇襲を仕掛けることも出来る。陳式の実績と力量から考えるに、充分に実現可能な作戦の筈だ。

だが、姜維はそう思ったが。諸葛亮の表情を見る限り、その偉大なる脳内では、別の計算が動いている様子である。

「しかし、丞相。 此方の偵察隊の報告では、自称四十万という敵の軍勢が、漢中に向けて動き出したという事でしたが」

「四十万などとは大嘘、実数は三千前後。 今までにも何度となく面倒な動きを見せている、ケの旗を掲げている部隊だ。 恐らくは、此方が作戦を読んでいることを看破されたな。 今後は敵の知性が、ある程度此方の策を見抜けると思い、それを前提とした判断をしなければならん」

それが、諸葛亮の苦悩の原因だったか。姜維は妙に納得して、話を聞く。

諸葛亮は陳式の代理としてきている副官に、武都、陰平の完全な制圧と領地化を指示。屯田をして、異民族達との融和と戦力化を図るように指示した。この二郡は非常に地理的な条件が悪く、簡単に魏から侵入することもできない。以前は放棄していたが、今回は戦力の増強を充分に図れているという事もあり、維持が可能であった。更に言えば、この近辺にいる異民族は魏に対する好印象を持っていないこともある。

「王平、張翼」

「はい」

「そなたらは漢中の手前に、千を率いて布陣。 ケの旗印の敵を牽制せよ」

「お言葉ですが、三千程度で漢中を落とせはしませぬ。 守備兵だけで二万を越えておりますし、放置しても問題はないかと思えますが」

王平に、諸葛亮は冷たい視線を向ける。

「そんな事は問題にしていない。 これだけの事を成した相手がわからぬ以上、直接漢中を見せるのは危険すぎる。 絶対に食い止めよ。 細作も展開して、裏から私も情報の拡散を防ぎに当たる」

「わかりました。 丞相の深慮を知らず、出すぎた意見を申しました」

「いや、良い」

諸葛亮の余裕ある視線は、知恵無き童子を見るかのようだった。時々、あんな視線を姜維も受けることがある。

思うに諸葛亮は、あまりにも頭が良すぎて、対等の知性を持つ存在に出会ったことがないのだろう。細君は相当に切れるという話だが、それでも諸葛亮の前に出ると、月の前の蛍に過ぎない。

この偉大な知性を前にして、姜維は己の躍進を確信できる。魏にいても、同格の武将は幾らでも将来出てくるだろう。だが、諸葛亮の知性を少しでも己のものに出来れば。姜維は確実に歴史に名を刻むことが出来る。

ほくそ笑んでいる姜維は、己の思惑を諸葛亮が読んでいることくらいは想定済みである。利害関係が一致しているから、諸葛亮は己を排除する気がない。そう判断しているから、平然としているのだ。

幼い頃から姜家軍をまとめてきたのだ。これくらい現実的な思考をすることは、姜維には朝飯前であった。

「私は一万を率いて、郭淮を叩く」

「敵は魏の最精鋭三万という話ですが、一万で問題ありませんか」

「魏の最精鋭など、私から見れば塵芥に等しい。 守りに入ると面倒だから、一万を連れて行くだけだ」

そう言い切る諸葛亮の目には、狂気も何もない。ただ、事実を淡々と告げているだけであった。

実際、諸葛亮の直接指揮する一万であれば、郭淮の三万程度、簡単に押さえ込むことが出来るだろう。姜維は背中に冷や汗が流れるのを自覚しながら、状況の推移を見守っていた。

「残りの部隊は、敵の防衛線の周囲で相手を挑発し続けよ。 敵の士気を落とすことで、出撃して来ざるを得ない状況を造り出す」

「わかりました。 もしも大挙して出撃してきた場合には」

「その時は、既に策を用意してある。 安心して、敵を抑えにかかれ」

抱拳礼した諸将が出ていく。姜維は最後まで残って、書き物をしている諸葛亮を後ろから見つめていた。

浮世離れしていると言うよりも、精神的に超人的存在といっても良い。

それが、国力四倍、兵力七倍の魏を自在に振り回している諸葛亮の凄みなのだと、見ていて思える。

もしも諸葛亮に追いつくつもりであれば、仙人にでもなる気で己を磨かなければ無理だろう。それくらい、諸葛亮は大きな存在になりつつある。姜維は己を仙人と化すのは不可能そうだなと思いつつ、どうにかその格差を埋め、将来は歴史に名を残したいものだと、静かに思った。

諸葛亮の指揮で、一旦狂いかけた計画は即座に再構築され、又動き始めている。姜維は挙手すると、提案をしてみた。

「丞相。 私に五百の兵を預けていただけませんか」

「五百で如何するつもりか」

「ケの旗印を抱える敵部隊の、力量をみとうございます」

「ふむ、そうか」

諸葛亮も多分、己の弟子と敵の新星を比べてみたくなったのだろう。

頷くと、五百と言わず、千の兵を貸し出してくれた。

 

主に擁州全般に、長大な防衛線が張られた。武都、陰平の北にある天水にも五千の兵が入り、敵の監視に入る。此処を抜かれたら西涼だが、他の戦線も突破されると拙い場所ばかりだ。

ケ艾は三千を率いて、漢中手前で布陣していた。北に向かった郭淮とは別行動になってしまったが、これは覚悟の上である。諸葛亮は押さえだけ向けてくるだろうと思っていたが、事実その通りになったので、ケ艾は何処か油断していたのかも知れない。

油断した理由は他にもある。

?(カク)昭が提案してくれた策が、見事に図に当たったからである。

早速軍議で対立した司馬懿と張?(コウ)に対して、ケ艾は挙手したのである。それならば、百分の一の兵力で模擬戦を行ってみてはどうかと。

その結果、張?(コウ)が率いていた兵は、諸葛亮の兵を模した司馬懿の軍に壊滅させられた。司馬懿の自説は妙な形で裏付けられることになり、流石に張?(コウ)も男に二言はないと言い放って後は文句を言わなくなったのである。

司馬懿はケ艾を後で呼んで、感謝の言葉をくれたが、目の奥にちらつく殺意をケ艾は見逃さなかった。たまに通りすがりの男に性欲の混じった嫌な視線を向けられることがあるが、あれとはまた別である。

司馬懿は、ケ艾を危険視し始めているのかも知れなかった。

偵察に行っていた王桓が、陣に戻ってきた。

「ケ艾将軍。 敵は動きを見せませんが、このままでよろしいですか」

「だいじょぶです。 ただし、奇襲にだけは気をつけてください」

「分かっています。 我らは三千で突出していて、奇襲を受けたら甚だ危険だということですね?」

「……」

何かが違う。そうではない。

そもそも、一旦突出したら、すぐに引き上げる予定だったのだ。事前に四十万などと情報を流しはしたが、既にこっちの実戦力は敵に伝わっている筈。諸葛亮ほどの敵将が、ケ艾ごときに押さえの兵を置いていること自体が異常なのである。しかも王平も張翼も、歴戦の武将だ。どちらもどの魏将と比べても恥ずかしくない実力者であり、ケ艾ごときひよっこを抑えるために使うような良将ではない。

しばらく辺りをうろうろしたり、焼き菓子を頬張ったり、逆立ちしたり、蟻の巣を観察していたケ艾だが。やがて、不意に立ち上がる。

「偵察しましょう」

「それは大物見ということですか。 危険です、おやめください」

「いや、敵陣じゃなくて、周囲の地形です。 何かいやな予感がしてなりませんから」

王桓は不安そうにしていて、とうとうついてくると言い出した。

いやな予感がしているケ艾は、別にそれを止めなかった。

五百の兵を率いて、山深い周囲を探るべく繰り出す。地図にない地形が結構あって、それを逐一ケ艾は覚えていった。この辺りで乱戦になったら、必ず役に立つはずだからだ。元々、これはケ艾の趣味である。地形を見て、それを地図に起こす。

その趣味が高じて、地形に応じてどんな陣を敷けばいいのか、一目でわかるようになった。更にそれが進展していく内に、陣の動きや、敵の行動が読めるようになっていった。陣そのものの隙を読めるのも、要するに相手を「地形」と見なしているからである。

どんな地形にも、登りやすい場所や通りやすい場所がある。それと同じで、どんなに堅固に見える陣でも、かならず隙があるものなのだ。

しかし、それもわからなくなってきている。

陳式の指揮している軍勢は、驚くほど隙が少なかった。諸葛亮に到ってはどんな有様なのか、見てみないと少しわからない。

もしも、隙が全く無かったら。

兵の質の差から言っても、瞬時に押しつぶされてしまうだろう。

しかし、そんな陣形を、人間が敷けるとは思えない。だが、諸葛亮の展開している戦略は、間近で見ると背筋に寒気が走るものばかりだ。ひょっとすると、奴ならやりかねないと思えてしまう。

それが、諸葛亮の恐ろしさなのかも知れなかった。

ひとしきり、周囲の地形を見て回る。この辺りは森林地帯で、しかも今はまだ夏本番ではない。涼しいが故に、長時間の戦闘が可能だが、しかしながら非常に戦闘の展開が難しい。

出来れば此処では戦いたくないなと、ケ艾が思った、その矢先だった。

王桓が剣を振るい、飛来した矢をたたき落とした。次々飛んでくる矢。何が起きたかは、明々白々であった。

周囲に沸き上がる気配。驚くほど近い。

「陣へ撤退!」

ケ艾が指示を飛ばして、兵士達の退却をさせようとするが、沸き上がった敵の気配は凄まじい勢いで前に回り込んできた。そのまま、前衛同士が接触する。

敵の数はおよそ千か。此方はその半数で、しかも練度が違う。見る間に追い込まれる前衛を見て、ケ艾は精鋭を引き連れて自ら突っ込む。敵はかなり動きが鋭いが、しかし経験不足が見て取れる。

隙を見つけた。

そのまま、最精鋭と共にねじ込む。何度か押すと、敵軍はわっと崩れた。左右に崩れた混乱を利用して、味方を逃がす。剣を振るって戦っていた王桓が叫んだ。

「お先に! 殿軍は私が!」

「お願い!」

弾かれたように包囲を飛び出す。敵将が見えた。若い。ケ艾よりも更に若い印象である。途中、迫る敵を、周囲の兵士が散らしてくれる。僅かな時間の交戦だったが、かなり危なかった。

王桓は何とか生還したが、被害は四十人を越えていた。それに対して、敵はその半数という所だろう。

旗印が気になる。姜という将が敵にいるとは聞いていない。

あの若さから行って、諸葛亮の秘蔵っ子かも知れなかった。そう言う意味では、韓浩や牛金の秘蔵っ子である自分と同じという訳だ。ちょっと敵将に親近感が湧いた。

鎧に刺さった矢を抜きながら、王桓が言う。

「何か収穫はありましたか」

「うん。 今の敵は、多分諸葛亮の秘蔵っ子か、或いは蜀漢皇室のゆかりの者だね。 それも、ただの力試しで挑んできたんだと思う」

「力試し?」

「そう。 私、もう蜀漢に警戒され始めてるのかも。 だとすると、ちょっと今後は動きにくくなるかなあ」

偵察の効果は、充分にあった。

一旦この場には千ほどの戦力を残し、ケ艾は戻る。この陣は、多少の攻撃ではびくともしないように組んである。今回の偵察で、それを更に完璧にすることが出来た。数が少ない蜀漢軍を、多少なりとも此処に引きつけておければ、ケ艾の仕事は充分だろう。

戻る途中で、一度だけケ艾は振り向いた。

さっきの敵将が、妙に気に掛かっていた。

 

蜀漢軍の動きを、司馬懿は念入りに調べていた。

張?(コウ)はどうにか納得させることが出来た。しかし、守勢に徹すると言っても、何しろ相手は諸葛亮である。どれだけ慎重に行動しても、しすぎると言うことはない。防御陣の配置を徹底的に検証し、何度も洗い直し。模擬戦を繰り返して弱点を補強しても、なおも安心は出来なかった。

前々回も、前回もそうだ。

諸葛亮は四万にも満たない小勢で、十五万を越える魏軍を縦横無尽に振り回し、しかも終始戦況を優勢に保っていた。後の世で「諸葛亮は長安を陥落させられなかった」「だから無能だ」などとほざく阿呆が出るかも知れないが、まさに愚物でしかない。もしも諸葛亮が無能で低脳だったら、攻め寄せた時点で討ち取ることが出来ている。

今回、西涼方面では、幾つか仕込みをしてある。もしも敵が攻め込んできたら、幾つかの少数部族に、武都と陰平で破壊工作をさせる予定なのだ。もちろん諸葛亮のことだから、これくらいは見抜いている可能性が高い。しかし、蜀漢が露骨な罠を仕掛けてきて此方の動きを探っているように、此方も罠は布石として残しておきたかった。

少し前に、郭淮が接敵したという報告が入った。案の定相当苦戦しているらしいが、どうにか幾つかの要塞地帯を点々としながら応戦を続けている。それでいい。多少の苦戦程度であれば、司馬懿としては上々の結果だ。

張?(コウ)が執務室に入ってきた。難しい顔をしている。

「司馬懿、戦況はどうか」

「難しい所です。 郭淮将軍は押されていて、敵の攻勢をどうにか凌いでいる、という状況だと報告がありました」

「三万で、一万を抑えきれぬか」

「そのほかの部隊は、敵の出現を報告してきません。 敵の軍勢は四万程度として、一万八千ほどはどうにか居場所を把握できているのですが、残り二万以上が行方不明になっている状態では、今後何が起こることか」

まただ。情報戦で先を行かれている。そしてこの、居場所不明の軍勢が、いつも味方に大きな被害をもたらすのだ。今回も諸葛亮は、得意の隠密機動作戦に出てきたことになる。しかも、毎度その手口は違っているように、今回も趣向を凝らしてくるだろう。

もちろん、何が起こっても対応できるように、司馬懿は準備を進めてきた。

各地の要塞は単独で二年は持ちこたえられるように食糧を備蓄させているし、連絡が無い場合には籠城するように指示をしてある。いずれの要塞にも歴戦の武将を配置して、経験が浅いが故の失敗はしないように備えた。

更に、それぞれの要塞を定期的に細作が行き来し、情報をやりとりする。

擁州と涼州にかけて展開されている二重の防衛線は、それぞれが緊密に情報をやりとりし、なおかつ単独でも容易には落ちぬ点が線で結ばれた状態になっているのだ。

これで、かって漢の高祖がやったように蛹路と呼ばれる塹壕通路でも使えば完璧なのかも知れない。しかしそれをやるほどには、時間も金も掛けられなかった。

完璧とは言い難いが、それに近い状態。

しかしそれでも、諸葛亮は隙を突いてくるように思えてくる。

有り体に言えば、司馬懿は諸葛亮を恐れていた。今でも、その恐怖に代わりはない。奴の知謀は人間を越えてしまっている。それをついて倒そうとしているとはいえ、虎の檻に手を突っ込むような行為に等しいのだ。出来れば戦わずに済ませることが出来ればと思うが、蜀漢と魏に同盟などあり得ない。

「諸葛亮の策が読めないという事については、確かに困ったものだ。 だがな、兵士達は、案の定不満を漏らし始めている。 このままだと、士気を保てなくなるぞ」

「分かっております。 此方から仕掛けるのは論外ですが、敵が仕掛けてきた時には、反撃が必要となるかも知れません」

「その場合は、私が出る」

確かに、闘将張?(コウ)が率いる部隊なら、諸葛亮の軍勢と互角に戦えるかも知れない。

「それと、そなたも前線に出た方が良いだろう。 兵士達の中には、そなたを悪し様に言う者も出始めている様子だ」

「わかりました。 長安からでは、指揮が執りにくいと感じていた所です。 諸葛亮と直接戦うためにも、郭淮の増援として出向くことにします」

「それが良いだろう。 思えばそなたも、直属を率いて諸葛亮と直接対決はしたことがあるまい。 今回は良い機会だ。 諸葛亮とそなたとの知恵比べ、期待して見せて貰うぞ」

張?(コウ)が執務室を出て行った。

司馬懿は大きく歎息すると、立ち上がり、椅子を蹴飛ばす。張?(コウ)を尊敬していない訳ではないが、此方の神経を逆なですること著しすぎる。確かに魏建国の功臣の一人だが、司馬懿には今後邪魔になる相手だとしか思えなかった。

しかしながら、張?(コウ)はもう相当な高齢だ。いずれ我慢していれば、勝手にぽっくりと逝ってくれるだろう。今は我慢だ。我慢して、時が来るのを待つべきであろう。

少し前から、司馬懿は医師に胃薬を調合させている。そうでもしないと、胃に穴が開きそうだからだ。結果を出さないと、家で女房に何をされるか知れたものではない。子供達は司馬懿を舐めきっていてなおかつ権力欲を剥き出しにしているし、どうにかしないと家族全員が共倒れになる。しかも名家出身の妻のおかげで、ある程度司馬懿は出世できたという側面もある。楚漢時代からの名門と言っても、曹操の時代には散々落ちぶれていた司馬の家なのだ。単独の手腕で立脚できると思うほど、司馬懿の頭はおめでたくなかった。

不意に後ろに気配。

首だけで振り返ると、其処には林が腕組みして、天井から逆さにぶら下がっていた。

「随分不機嫌なようですね」

「見てわからんか。 それよりも、最近は呉でごそごそ動き回っていたとか聞いているが、何をしていた」

「なあに、四家に蹂躙されている山越の民が気の毒ですから。 ちょっと遊んであげているだけですよ」

「貴様が言うと、悪い意味にしか感じ取れぬ。 それで、遊びとやらの成果はあったのか」

林が指を鳴らす。

部屋に、窓から入り口から、無表情な男達が入ってきた。

一目でわかる。林が非人道的な訓練を施した細作達だ。いずれも若いが、目には強い闇を湛えていて、身体能力も常識外れの域にまで高まっているようだ。

「彼らを貸し与えましょう。 私が鍛えた者達です」

「……貴様、何を考えている」

「何、困っている時に手下を分けてくれましたからね。 その恩返しという事ですよ」

「分かった。 林、諸葛亮の動向を探れ。 今はそれでいい」

一瞬だけ視線を外した隙に、もう林はその場にいなかった。

ただし、山越出身らしい細作達はその場に残っている。それが、あの化け物が此処にいたという照明だった。

床に唾を吐きたくなったが、我慢する。

「馬を引け! 三万で出る。 郭淮に合流するぞ!」

長安の城内を早足で歩きながら、司馬懿は叫んだ。

 

一通り武都、陰平の慰安が終わった陳式は、五千にふくれあがった軍勢を率いて、諸葛亮の本隊に合流していた。新たに徴募した七千の内、三千はある程度鍛えて、充分に戦えるように仕込んである。もちろん正規軍に比べるとだいぶ見劣りするが、今後は武都、陰平から七千の兵の出陣を見込めると思うと、かなり大きい。蜀漢軍は全体で十万程度しか存在しないからだ。

ただ、此処で陳式が呼び戻されるのはどういう判断か。諸葛亮はすぐ天水、しいては西涼に攻め込む気はないらしく、そう言う命令を下してきたのだった。

来る途中、陳式は敵陣の状況を、地図で確認した。兎に角分厚く手堅く陣が敷かれていて、勝つことは全く考えていない。蜀漢軍を長期戦に引きずり込んで、手堅く守ることだけを重視した陣だった。

つまらない布陣だと副将は言ったが、それは違う。

敵は此方の弱点である補給を突いてきたと言うことだ。豊富な物資を生かすには、一番良い戦い方である。しかも魏の国力であれば、これだけの長大な防衛線も、過負荷無く運営することが出来る。

かって秦が多数の人命を無為に費やして構築した万里の長城とは違う。現実的に意味がある、長大な防壁なのだ。

諸葛亮の陣に到着する。一万の兵は殆ど消耗していない。郭淮が山間の要塞を中心に布陣しているのとにらみ合う形で、野戦陣を敷いていた。敵は三万と此方の三倍の戦力を有しながら、要塞に立てこもって守りに徹している。

これでは、流石に手の出しようがなかった。

陣に赴くと、諸葛亮は書き物をしていた。側にあの細君はいない。何処かで別の任務に従事しているのかも知れなかった。

「陳式か」

「はい。 ただいま到着いたしました」

侍従が茶を出してくる。諸葛亮は顔を上げず、陳式の方を見ようともしなかった。書き物に集中しながら、しかしそれでも話し掛けてくる。

「そなたは今の状況を如何に思うか」

「戦況は決して良くないかと思います。 敵は此方の弱点を、知り尽くしているとしか思えません」

「その通りだ。 だが、戦況は今だ我が手の上にある。 分厚く隙がないように思える敵の防御陣だが、一箇所だけ重大な孔があるのだ」

返答はしない。諸葛亮が、陳式の意見など求めていないのは分かっているからだ。

と言うよりも、この人にとっては、自分以外の全てが駒なのだろう。何しろ、対等な存在など今までいなかったのだ。あまりにも知能が優れすぎているが故の、悲劇なのかも知れなかった。

「それは、長安と漢中を結ぶ直線距離だ」

「お言葉ですが、理解できません。 もっとも分厚く敵陣が敷かれているように思えるのですが」

「其処が隙になる。 しかも、長安は今、がら空きも同然。 その上士気を保つために、司馬懿が前線に出てきた。 まもなく三万が増援として、眼前の要塞に到着することだろう。 そこで陳式」

初めて、諸葛亮が顔を上げた。

恐らく戦況の全てを把握し、様々な対応戦術を練り込んでいるであろう脳。それに直結する眼球が、異様な光を放っているのを、陳式は感じた。比喩通りの意味ではないが、目には人間離れした力が宿っている。

「そなたは姜維の千を加えて、この間道を通り、司馬懿の増援を直接襲撃せよ」

「この間道は狭過ぎはしませんか。 逆に伏兵を受けたら、進むも引くもならず、全滅すると思います」

「六千が一度通るだけなら問題ない。 細作部隊が、最大限の警戒もしている。 一撃を浴びせて、司馬懿を討ち取ったら、すぐに戻ってくるように」

「司馬懿は用心深い男です。 討ち取れなかったら、如何いたしましょう」

その場合にも、策は考えてあると、諸葛亮は言い切った。

今までの諸葛亮の策にもよくわからない部分は多かったが、今回は何か危険な気がする。不安なのだ。

ひょっとして、自分を使い捨てにして、勝つつもりなのではないかと、陳式は疑いの心を抱く。だが、軍人である以上、言われたことはこなさなければならない。こんな時、義父だったらどうしたのだろうと、陳式は思う。だが、陣を出た時には、既に迷いを払っていた。

兵士達に、悩んでいる姿を見せる訳にはいかないからだ。

指定された間道は細く、谷間の間を縫うような、非常に危険な場所だった。もしも敵に察知されたら一巻の終わりである。また、引き際も非常に難しい。此方は奇襲する兵が六千程度。敵は兵の質が低いとはいえ、まず一級といえる指揮手腕を持つ司馬懿が率いる三万である。

失敗したら全滅する。その覚悟で挑まなければならなかった。

狭い路には灌木が茂っており、馬を通すだけで一苦労だった。愛馬を宥めながら、せまい路を行く。地元の漁師でさえ通りそうにない、恐ろしい路である。熊や虎が出ただけで、大きな被害が出そうであった。路も暗く、狭い通路だというのに、迷いそうである。

道案内を努めたのは、諸葛亮が買収したという地元の人間だったが、怯えきった雰囲気が痛々しかった。或いは家族を人質に取られているのかも知れない。路を抜けると、金を渡してその辺に待機するようにと指示。といっても、放って置いてもこの様子では逃げないだろうが。

伏せる。兵士達も、口に布を噛ませる。

辺りは鬱蒼とした茂みが何処までも広がる低木林で、伏兵には絶好の地形であった。しかも魏としては自分の勢力圏だという油断が生じる。諸葛亮は大体昼を一刻ほど過ぎた頃に司馬懿が現れるだろうと言っていた。

息を殺して待つ。兵士達も慣れていて、すでに気配は周囲から完全に消失していた。

やがて、諸葛亮が言ったとおりに、司馬懿の軍勢が現れた。事前に幹部達に伝達してある。先頭部分は逃し、敢えて中腹を食い破るのだ。しばしの沈黙の後、司馬懿が見えた。油断はしていないようだが、此方には気付いていない。

布を外すと、陳式は口笛を吹いた。

茂みに高く響き渡る口笛が、殺戮の合図だった。

兵士達が一斉に立ち上がり、敵に躍り掛かる。完全に不意を突かれた司馬懿は、見るも哀れなほど狼狽し、真後ろを向いたりしていた。噂に聞いたが、本当に首が真後ろを向くのだなと、愛馬に飛び乗りながら陳式は思った。

騎兵の先頭に立ち、一気に敵の中腹を食い破る。分断した所で、敵の先鋒に主力を集中して、一気に蹴散らす。そして騎馬隊三百は反転、敵の中枢に突っ込み、思う存分引っかき回した。

時間との勝負だ。手当たり次第に敵をなぎ払いながら、突撃し、敵の注意を逸らす。西にある敵の要塞から、不意に火が上がる。ひょっとすると諸葛亮による支援攻撃か。叫び、立ちふさがろうとした敵の若武者を、一刀に切り伏せた。

「おおおっ! どけえっ!」

全身血みどろになりながら、走る。劉埼だった頃、自分がこんな陣頭の闘将になると、誰が予想していただろう。右に左に混乱する敵をなぎ払う。そして、頃合いを見て中軍に突進。必死に逃げる司馬懿を捕捉。

素早く弓に替え、矢をつがえる。そして放った。

護衛が身をもって司馬懿を庇い、落馬して倒れる。二矢。三矢。同じように、次々と護衛が倒れる。

司馬懿は交戦を完全に諦めて、逃げに徹している。途中、兜を捨てていくのを見た。あまりにも誇りを捨てた行動だが、元は文官である。武人としての誇りなど、最初から考慮に入れていないのかも知れない。流石に其処までされると、特徴を喪失したために、追うのは難しい。

敵の四割近くは討ち取った。一万以上の戦死者が敵には出た訳で、完全勝利である。敵が態勢を立て直すと、それでもかなり危ない。味方の被害は三百を超えていない。陳式は口笛を吹き鳴らすと、味方を集め、撤退に移った。

司馬懿は討ち取れなかった。

だが、敵は要塞も大混乱に陥っていて、緒戦で一万を超える損害を出した。決して意義のない戦いではなかった。

間道を通って、一旦戻る。案内をしてくれた地元の人間に、もう半金を渡す。間道を通る時、態勢を立て直した敵が何時追撃してくるかとびくびくしてしまうのは、決して恥ずかしいことではないはずであった。

「完全勝利ですな、陳式将軍」

「この戦場ではな」

「はあ、そんなものですか」

「そうだ。 敵の要塞に打撃を与えたと言うことに、より大きな戦略的意味がある」

最盛期の蜀漢軍に比べると、今の軍勢は二枚も三枚も劣る。それは誰もが否めないだろう。

諸葛亮が実権を握り、実戦指揮官として関羽や張飛がいたら、今のような台詞は出てこなかっただろう。

趙雲は古豪で三国随一の武人だが、あくまで一武人であって、指揮官としてそうそう優れている訳ではない。関興も張苞も、父には到底及ばぬ程度の力量しか備えておらず、せいぜい二人で一人前という所だ。盆百の将とは比較にならないほど優れているが、それでもかっての戦乱を駆けめぐった英雄達とは違いすぎる。

王平や張翼は優秀な武将だが、それもせいぜい優秀止まりである。

撤退戦の最後尾につきながら、陳式はこの蜀漢軍を見て、陳到が何を言うだろうかと思ってしまった。

どうにか危険地帯を抜ける。此処が一番危ないと陳式は思ったので、最後尾に精鋭を集め、警戒。

案の定。二千ほどの敵が現れて、後背を伺ってきた。旗印は陳とある。

「あれは陳泰かと思われます」

「ほう。 同じ陳姓の相手か」

中華では、同姓不犯という教えがあるとおり、姓には特別な思い入れと思想がある。だがこの場合、それはあくまで感傷的な意味しか持たなかった。

しばしにらみ合いを続けるが、奇襲を察知された時点で、敵に勝ち目はない。

陳式としても部隊の損害には余裕があるし、噂に聞く若き俊英を此処で討ち取れれば、言うこともない。

だから、相手がさっと引き上げだした時には、むしろ残念に思えてしまった。

「追わないのですか」

「追わん」

副官に言い捨てると、陳式は以降、一言も喋らず、陣に戻った。

 

要塞に命からがら逃げ込んだ司馬懿は、大きな被害を出した要塞の有様に目を剥いていた。此処まで完璧に情報と此方の行軍を読まれているとは。もはや、援軍を出すという行為自体が危ないと思うしかないのかも知れなかった。

かろうじて要塞を守りきった郭淮は、疲弊の色が濃かった。三分の一の敵に奇襲を受けたというのに、この有様である。司馬懿が連れてきた三万も、一万以上の被害を出し、しばらくはものの役に立たないだろう。運んできた物資も、あらかた焼き払われてしまった。

軍議を開く。せめてもの反撃をと出て行った陳泰も、成果を上げられず、項垂れていた。彼らをこのような不名誉な目に遭わせてしまったのは司馬懿だ。そう思うと、司馬懿は忸怩たる思いを感じてしまう。

憎むべきは諸葛亮だが。

しかし、要塞は守りきったのだ。

防衛線を少し後退させても、あまり痛くはない。むしろ、此処でこれ以上の損害を出すことが、長大な防衛線そのものの崩壊につながる恐れもあった。

それらを説明し終える。

挙手したのは、郭淮だった。

「司馬懿将軍。 むしろ此処は、踏みとどまるべきかと思います」

「なぜそう思う」

「それがしの見たところ、諸葛亮は無為に今回、此方の戦力を削り取ったのだとは思えないという事です。 もしも我が軍がこの痛手にこだわりすぎて、この方面に目線を集中したら、その隙に他が襲われるかも知れません」

「何……!?」

言われてみれば確かにその通りだ。

郭淮の後ろに、一瞬司馬懿は曹真の姿を見た。この緻密な戦略判断、確かに曹真を思わせるものである。

それに、諸葛亮は知能活動を全て一人でやっているのが弱みだと、分かっていたではないか。此処で司馬懿は、敢えて周囲からの意見募集をするのも、良策の一つであるはずだった。

「他に意見は」

「私も、郭淮将軍の意見に賛成です」

挙手したのは、陳泰だった。今回、損害の中一人冷静に動き回り、敵の奇襲をかろうじて防ぎ抜く原動力になったという。そればかりか、防衛線の後二千を引き抜いて、司馬懿を奇襲した敵部隊の正体が陳式の軍勢だったことまでも見抜いている。この若者の意見は、軽視できなかった。

陳泰は他の諸将の顔を見回した後、言う。

「私が見た所、陳式も諸葛亮の意図は理解していなかったように思えます。 以前の軍議で出ていたように、諸葛亮が一人で全ての頭脳活動を行っている証拠かと。 それである以上、方針を堅守し、敵の消耗を誘うのが上策です」

「つまり、此処が踏ん張りどころだという訳だな」

「はい。 此処で退いていては、敵は勢いづくどころか、さらなる策を繰り出してくる可能性が高いかと」

腕組みした司馬懿。確かに、それは聞くべき意見だった。

手を挙げるのは、中堅の将軍。費曜という男だった。

「この要塞は、簡単には落ちませぬ。 此処はどっしり構えて、他の戦線で敵の動きがないか、注視するべきかと思います」

「ふむ、皆の意見は大体それで決まっているようだな」

其処で、反対意見も出る。いずれも武闘派の武将ばかりで、逆に敵に奇襲を仕掛けるべきだというものが多かった。

だが、司馬懿はそれを却下する。

「我が軍が敵に唯一勝っているのが、将の質だ。 だが、眼前にいる諸葛亮の能力は、魏が誇る皆をも遙かに凌いでいる。 だから、此処はあくまで根比べだ。 単純な数と腕力では、諸葛亮を上回る。 それを活用して、敵に勝つぞ」

我ながら消極的だと、司馬懿も思う。

だが、此処で耐えなければ。勝利は無かった。

もし、諸葛亮が狙うとしたら。

それに気付いて、司馬懿は全身が総毛立つのを感じた。

「す、す、すぐに伝令を呼べ! 今すぐ! ありったけだ!」

絶叫が、要塞内にとどろいた。

 

趙雲は、魏延と共に長安付近の山岳地帯に潜んでいた。下には谷があり、周囲は鬱蒼とした森。そして、遠くには、長安の影が見えていた。

北で、諸葛亮が郭淮に大勝したという情報は、既に入ってきている。というよりも、諸葛亮が士気を揚げるために、皆に知らせたというのが正しいのだろう。

しかしながら、趙雲は不安そうにしているジャヤを見て、あまり実際の状況が良くないのを感じる。鳥丸出身のジャヤは、こう言う時、勘で状況を察知する能力に、著しく優れているのだ。

斥候に出ていた魏延が戻ってきた。

「どうだった、魏延将軍」

「よくありませんな。 長安は張?(コウ)ががちがちに固めていて、蟻が入る隙も見あたりません」

立場的には魏延の方が上だが、この男、趙雲に対しては敬語で接してくる。理由はよくわからない。一度聞いてみようとは思っていたのだが、ついに機会がなかった。もう趙雲の体は、酒を受け付けないほど衰えが着始めている。もはや聞く事もないだろう。

しばし、周囲の状況について話し合う。

諸葛亮の話によると、長安は間もなくがら空きになると言う。曹真を名目上の総司令官に、張?(コウ)が五万前後で出てくるだろうという事であった。俄には信じがたい話だが、もしも張?(コウ)が本気で出てきたら、恐らく総力戦になるだろう。此処にいる兵は、蜀漢の有力な将軍があらかたと、二万二千という所である。張?(コウ)軍五万が相手なら、不足のない所だ。

そして張?(コウ)軍を打ち砕けば、長安は一気に陥落させられる。敵は総崩れになり、一気に蜀漢軍は擁州、涼州を席巻出来るだろう。敵の総兵力の三割近くも奪うことが出来るはずだ。

だが、そう上手く行くのか。

諸葛亮の人間離れした知略は、趙雲も認めている。色々と人間離れした者達を、乱世の中で見てきた趙雲だから、そう言う存在がいることも分かっている。

だが、敵は諸葛亮の人間の部分を突いてくるはず。

一人で勝てないのなら、二人で、三人で掛かってくるだろう。諸葛亮の読みが、それに対抗しきれるのか。

確かに諸葛亮は、恐らく今、この国で最も頭が良い人間だろう。だが、何十倍という頭の良さではないはずだ。

ふと、魏延がにやにやしているのを見つけて、話を振る。

「ところで、魏延どの」

「何ですかな」

「もしも今、張?(コウ)が全軍を率いて出撃してきたら、どうします」

「それはもちろん、総力を挙げて討ち取ります」

不敵な笑みを魏延が浮かべる。

元々この男は、小隊長から武勲を重ねて成り上がってきた、本物のたたき上げだ。魏で言うと?(カク)昭のような存在であり、故に現在知勇の均衡が蜀漢で最も取れている武将となっている。

だが、そのたたき上げの路を支えてきたのは、野心であることは否めない。

漢中太守に就任してからも、魏延は何度となく長安陥落作戦を、中央に提案してきている。長安の事なら何でも知っていると、魏延は自負さえしているほどだ。実際、その知識の豊富さは凄まじく、一月前に就任した倉庫の万人の名前と特徴まで把握している。

今、魏延は長安を取れる、絶好の好機にいる。

多分この男が、その野心を抱いていることを承知で、諸葛亮は此処に配置した。そして趙雲は、その抑え役とされた。

だが、それだけなのだろうか。

諸葛亮を空恐ろしく感じているのは、多分趙雲だけではない。蜀漢軍の武人が、皆恐れているだろう。

そして、その恐ろしさは周囲にまで波及している。今では、魏延や趙雲も、その掌に載せられているようであった。

敵は、出てこない。

だんだん魏延もじれてきた。

「これは、珍しく丞相の読みが外れたかな」

「何、拙者は漢中太守になってから、十年以上好機を待ち続けてきました。 おびただしい武勲をあげることが出来たのも、待っていたからだと思っております」

「ふむ、貴方らしい」

「趙雲将軍。 私は必ずや、天下随一の武人となります。 その時には、貴方の名前を越えていきたいものです」

じっと趙雲が見つめると、魏延は凶暴に破顔した。ジャヤはそのやりとりを、じっと見つめていた。

思わぬ所で、魏延が趙雲に敬語を使う理由がわかった。なるほど、名声という点で、越えたい相手だったという訳か。

その時。

遠くで、馬蹄の響きがした。

旗印は張。間違いない。張?(コウ)が出てきたのだ。しかも、兵力はおよそ五万。あの様子なら、長安はがら空きである。

「やった! 我が軍は、これで勝ったっ!」

魏延が吠える。目には狂気が宿っていた。二万二千の蜀漢軍は、五万の敵を待ち伏せる。張?(コウ)はよくわからないが、相当に焦っている様子だ。長安と、敵の間を遮断してから攻撃にはいる。あの慌てようなら、確実に上手く行くだろう。

敵が近付いてくる。

長蛇の陣を敷いた張?(コウ)は、なりふり構わぬ様子だ。諸葛亮に、何かとんでもない情報でも掴まされたのかも知れない。敵ながら気の毒な話である。崖の下に、敵が入る。趙雲が合図して、岩を落とそうとした。その瞬間であった。

敵が、不意に止まったのである。

「どうしたっ!」

全身から冷や汗を流して、魏延が叫ぶ。制止した趙雲は、見た。敵の伝令が、張?(コウ)に何か耳打ちしている。敵の先頭にいるのは、ケの旗印の将だ。奴が真っ先に引き返し始めると、混乱しながらも、張?(コウ)軍は向きを変えようとしていた。

設置した連弩も、此処からで届かない。

「いかん! 長安に逃げ込まれるぞ!」

「やむを得ん! 叩けっ!」

完全に上を取った状態から襲いかかりたかったが、最早手段を選んではいられなかった。

趙雲が先頭に立ち、崖を駆け下りる。敵は気付いて反撃に転じるが、もとより勢いが違う。趙雲軍はそのまま一つの槍となり、敵中に躍り込んだ。ケの旗印の敵が、猛烈な反撃をしてくるが、二揉みして蹴散らす。まだまだ、趙雲の相手ではない。

槍を振るい、縦横無尽に敵を斬り伏せる。廖化軍、張翼軍も続いて突入。呉班軍、馬岱軍、呉懿軍も次々に敵中に躍り込んだ。そして、関興と張苞が率いる精鋭が、敵中を一気に切り裂く。

四方八方からの攻撃を受けて、潰走状態に陥りかける敵だが、不意に新手が現れる。

司馬の旗。

司馬懿軍だった。

数は一万程度。なるほど、長安を守るために、後方を無視して突貫してきたのか。防衛線を崩すことになっても、長安を守ろうと判断したのだろう。

敵の先鋒は陳の旗。突入してくる。

流石の新手に、味方も僅かに勢いが鈍る。趙雲は敵の中軍を突っ切り、後衛を踏みにじって、敵を一旦突破した。そのまま迂回して司馬懿軍に突入しようとしたが、思いの外敵の守りが堅い。

張?(コウ)が態勢を立て直したのだ。

一気に押し込んだが、しかし。敵が堅陣をくみ上げ、着実に押し返し始める。敵は魏の名将であり、しかも数は三倍である。司馬懿も下がりながら、味方の敗残兵を吸収し、反撃の態勢を整えつつある。

趙雲は、冷や汗を感じた。

怖い。昔だったら、あり得ないことだ。このまま押せば、多分負ける。それを感じると、どうしても進めなくなってしまう。

これが、老いか。

趙雲は、己の不甲斐なさに、絶叫した。それを見て、敵がひるむ。ジャヤが矢を放ち、此方に突入しようとしていた敵を一人、撃ち落とす。それで、更に敵が下がる。

今までの名声が、趙雲の前から、敵を減らす。

だが、しかし、それでも。体は、進んではくれなかった。

魏延が、攻撃を仕掛けた。錐の陣を組み、敵中に躍り込んだのだ。

流石獰猛なまでの武勇を振るう魏延だが、張?(コウ)が前線に出てくる。そして、二将は刃を交えた。

五十合にわたる、火の粉が飛び散りそうな死闘が始まる。互いに馬術の限りを尽くして敵の背後に回り込みながら、槍を振るって激しく交わる。毒蛇が雌を巡って争う時も、こんな有様だと聞いたことがある。だが、二人の死闘は、いかなる毒蛇も根負けしそうになるほどの、凄まじい有様だった。

七十合を越えた所で、魏延軍が押し返される。流石に不利と感じたか、魏延が馬首を返す。張?(コウ)も既に年で、それを追おうとはしなかった。

敵は、既に堅陣をくみ上げ、長安にいつでも逃げ込める態勢を整えていた。ケの旗の敵はどうか。見ると、無事だ。あの趙雲の猛撃にも損害を最小限にして耐え抜いたらしい。あれは良い武将になる。敵ながら見事な若者がいるものだと、趙雲は感心していた。

胸の様子がおかしい。心臓の動悸が、妙な音を立てている。

目の前が霞む。趙雲は、舌打ちした。

引き始める味方を、引き留めようと思った。一回。あと一回だけ、暴れたかった。

だが。

敵が、見えなくなりつつある。

「子龍っ!」

ジャヤの悲痛な叫び。支えられるのが分かった。

これが、人生最後の大暴れだと、趙雲は知った。もはや、老いに、体は勝てそうになかった。

「趙雲将軍!」

「いや、これでいい。 私は、どうやら戦場で死ぬことが出来そうだ。 出来れば戦死したかったが、そうも行きそうにないな」

魏延の声がした。叫んでいる。

まだ逝かないでくれとか、貴方をまだ越えていないとか。

目を開ける。

味方が撤退している。敵の死骸が、周囲には山と残っていた。敵の被害は、一万、いや更に多いだろう。

だが、味方はついに長安を落とせなかった。戦略的に、この一点だけで、敗北したと言っても良かった。やはり諸葛亮一人の頭脳では、綺羅星の魏将全てには勝てなかったか。趙雲は、少しだけおかしくなって、微笑んだ。

板が運ばれてくる。負傷者を運ぶためのものだ。それが自分を乗せるものだと気付いて、趙雲は人生最後の気を振り絞った。

「巫山戯るなっ! その腐った板を、私の前から退けよ!」

「し、しかし、趙雲将軍っ!」

「ジャヤ、愛しき妻よ、支えてくれ。 どうもこの足が、こんな時に、立てそうにない」

「子龍、こうか」

「そうだ。 おお、あんな小さかったお前が、今では私を支えられるのだな」

ジャヤが、泣いているのが分かった。分かったというのは、見えなかったからだ。

ただ、ずっと持っていた槍を右手に、自分は立っている。それだけが、趙雲には理解できた。

最後の最後で、老いが武勇を邪魔した。

だから、趙雲は死ぬ。

武人でない趙雲は、もはや死人も同じだからだ。

視界が晴れてきた。

陳到がいる。劉備も、関羽も、張飛も。英雄達が、皆待ってくれていた。

雄々しきその姿。しかし振り返ると、其処には誰もいない。

「趙雲。 お前が、時代最後の英雄だ」

「最後まで、生き残ってしまいました」

「いや、最後まで迷惑を掛けてしまったな。 すまなかった」

劉備に肩を叩かれる。

不覚にも趙雲は、涙を流していた。

 

間一髪だった。

司馬懿は馬を三頭も乗り潰し、猛烈な追撃で多くの味方を失いながらも、どうにか敵を振り切り、長安に到着したのだった。伝令達も、腕利きを五十放って、辿り着いたのは二騎だけだったという。如何に諸葛亮が放っていた細作達が、濃密な網を張っていたか、結果を見れば一目瞭然だ。

張?(コウ)は、司馬懿が包囲され、全滅しかけているという情報で、出撃したのだという。実際その報告をしてきた男は、長年仕えていた伝令だったそうで、疑うこともなかったそうだ。

戦慄してしまう。諸葛亮は、そんな所にまで、配下を忍ばせていたのだ。

そして、一瞬の差で、どうにか敗退を食い止めた。そして物量の差から言って、敗退さえしなければ敵を追い返せるのだ。

蜀漢軍は、既に漢中まで引いたという報告が入っている。武都、陰平を制圧仕返そうという部下もいたが、放っておくように指示。今回、敵は四万に達する軍勢を動員した。これは総力戦規模の戦力で、蜀漢の国内は荒れているはずだ。しばらく諸葛亮は、国内の整備に掛かりっきりになる。巧くすれば、五年、いや七年は出てこられないだろう。諸葛亮の無茶な労働量から考えて、その頃には寿命が尽きている可能性も高かった。

諸葛亮が死ねば、後は封じ込めておけば良い。蜀漢の軍は精鋭だが、漢中の近辺を抑えておけば、練度の低い魏軍でも対応が可能だ。そして諸葛亮に頼り切っていたが故に、蜀漢軍はその死後、確実に弱体化する。

「損害は、一連の戦闘で三万を越えました」

「そうか。 三万を失ったか」

司馬懿は大きく歎息した。去年から、魏軍が払った犠牲は途轍もなく大きい。曹真も、諸葛亮を追い払ったという話を聞くと、完全に気力を喪失。寝たきりになり、もはや時間の問題という話であった。

柱石だった曹真を失い、次代の総司令官とも目された牛金も死んだ。魏軍にいた数少ない猛者であった、王双も命を落とした。

だが、司馬懿はまだ生きている。

完全に蜀漢軍が魏の領土から消えてから、司馬懿は曹叡に呼ばれた。曹叡は、いざというときに備えて、更に十万の軍勢を動員する準備をしてくれていたという。国庫への負担が大きすぎると、陳群に文句を言われた。陳泰が、それを見て渋い顔をしていたのが面白い。似たもの同士の親子なのに、仲はあまり良く無さそうだった。

宮廷に上がる。

曹叡はまた少し背が伸びていた。だが、逞しいと言うよりは、やはり女のような貌である。女にはもてるかも知れないが、陣頭には立てそうにない面相であった。

「司馬懿よ、ご苦労であったな」

「陛下のご威光のおかげで、無事悪鬼のごとき諸葛亮を追い返すことが出来ましてございまする」

「嘘を言うな。 諸葛亮も、人間であろう」

無言であたまを下げる。

曹叡は恐ろしく賢い。だが、心があまり頑丈ではないようでもある。最近は二人目の人格が心の中に巣くっていると言うし、あまり長くはいきられないかも知れない。

「曹真から手紙があった。 そなたを、正式に大将軍に推していた」

「過分な、仕事であります」

「そなた以外に、諸葛亮を押し返せる者はいない。 呉の陸遜でも無理だろう。 犠牲を今後も払うことになるだろうが、歯を食いしばって耐え抜け。 期待しておるぞ」

衝撃的な言葉だった。

顔を、あげられなかった。

司馬懿は、今までこの世の何もかもが気に入らなかった。

だが、曹叡は幼いこともあり、多分嘘をついていない。司馬懿は、本当に信頼されているのだ。

家族にさえ信頼されず、部下には舐められ、同僚には侮られ。全てを憎んできた司馬懿は、なにやら魂が抜けるような思いを味わっていた。

どうやって家までたどり着いたか、覚えていない。

妻に折檻される前に、大将軍の印綬を自分の部屋に隠す。そして、頬ずりしながら、司馬懿は満面の笑みを浮かべていた。

曹叡にだったら、折檻されても良かった。

 

4、最後の英雄も消えて

 

ジャヤが、産まれたばかりの子を抱えて、蜀漢を去った。西涼から、鳥丸の地に帰るのだと、彼女は言っていた。

趙雲の後をついだ趙家の兄弟は、母を引き留めたが。しかし父も母を深く愛していた事もあり、二人に止めることは出来なかった。

陳式としても寂しい話である。ジャヤは陳到の年が離れた喧嘩友達で、よく眼前で二人が矢を競っているのを見た。指揮官として権限が増すほどに義父は弓の練習が出来なくなり、その分ジャヤは巧くなって、いつの間にか蜀漢随一の弓上手に成長していた。

懐かしい思い出だ。

ジャヤの側には、馬超がいる。

引退した馬超は、魏に入って、やりたいことがあるのだという。諸葛亮はそれを止めなかった。多分、蜀漢の利益になることなのだろうと、陳式は思った。

「それでは、行く」

「ジャヤどの。 どうか、ご無事で」

「陳式も。 陳到も子龍もいなくなって、この蜀漢も随分寂しくなった。 もう戻ってくることはないが、鳥丸の空から、お前の無事を祈っているぞ」

「俺がジャヤ殿は必ず護衛し抜く。 心配するな」

馬超がそう言うなら心強い。既に年は四十後半の筈だが、それでも万夫不当と言える武芸の持ち主だ。冗談抜きで、賊の百人や二百人なら一人で蹴散らして見せるだろう。

二人が北に旅立っていくのを見送る。

いつの間にか、側に廖化が立っていた。

「ついに、最後の英雄も消えてしまったな」

「そうだ。 これからは、凡人の時代が来るのだろうか」

「そうかも知れん」

廖化は、寂しそうに東を見た。恐らくは関羽のことを思い出しているのだろう。

これから、諸葛亮は国内の整備にはいるという話であった。短期間に三度繰り返された総力戦で、蜀漢は流石に疲弊している。今後の広域戦略もあるし、十全に時間をおく必要があるのだろう。

或いは、細君に押し切られたのかも知れない。

退却の途中だが、珍しく諸葛亮の細君が、夫に食ってかかっているのを見た。このままでは貴方は死んでしまうとか聞こえて、どきりとしたものだ。

諸葛亮も、痛感しているのかも知れない。如何に彼が人間離れした知性を持っていても、一人で勝つのは難しいと。

「あの趙雲どのでさえ、死ぬのだな」

廖化が言ったので、頷いた。

趙雲が死ぬのなら、諸葛亮も死ぬのだ。そして、何時かは自分も。

空の雲は、何処までも流れている。

あの雲も、いずれ消えてしまうのだろうか。

陳式は、そう思った。

 

(続)