孤独と別れ
序、闇のまた闇
董白の夫、諸葛亮の前には、山と書類が積み上げられている。竹簡に書き記された無数の情報は、どれも緻密で精確で、調べてみてもとても文句を付ける余地のない出来である。だから、補助しかできない。
簡単な仕事は、全て董白が引き継いでいる。細作達の統率も、である。
しかし、それ以外のことは。諸葛亮が全てやっている。殆ど蜀漢の朝廷は諸葛亮自身にも等しいというのに、ろくに文官も使っていないのだ。
この間、馬謖を処刑した時に。夫が、冷たい目でなにやら申し開きをしている馬謖を見つめていた。それを、側で董白は見ていた。
婚姻を結んだ時からそうだったが、夫はある程度能力のある人間しか信頼しない節がある。つまり董白は信頼されているわけだが、それにしてもこれは極端すぎる。確かに人口が少ない蜀漢が、諸葛亮の手によって支えられているのは事実。夫の卓越した能力を、十全に活用するには、この方法が最良なのも事実だろう。
だが、このままでは。
夫は数年と保たずに、死んでしまうかも知れない。
既に董白は若くない。この間やっと長男が産まれたが、それも奇跡的な確率だったと、医師は言っていた。その前にいた養子の長男は既に病死してしまっていて、今では諸葛亮の後を引き継げる人間など存在しない。
どの文官も。
どの将軍も。
いずれもが、力不足だ。
手を叩く。細作が来たので、書類を引き渡す。どれにも宛先が書かれていて、他の人間には伝わらない情報も多く記されている。諸葛亮の脳内でのみ、蜀漢軍は結びついている。だから、魏はその動きを察知できない。
だから、常識外の機動を行える。
ただし、諸葛亮の寿命と引き替えに、だ。
既に丸二日半、夫は筆を動かし続けていた。細作達に指示を出し終えて、天幕に戻ってきた董白は、とうとう咳払いした。
「あなた。 孔明」
「如何しましたか」
「既に二日半です。 少しお休みになられないと」
「後半刻ほどで片がつきます。 今書いている書類が終わったら、三刻ほど休むことにします」
これだ。それだけ働いて、三刻しか休まないというか。
最前線で活動している魏延や陳式よりも、更に凄まじい稼働状態にある夫の脳が、沸騰してしまわないか、董白は不安でならなかった。
武勇で人間を越えていた存在と言えば、あの呂布だが。
夫の場合は、知性で人知を超越してしまっている。そしてそれは、呂布同様、確実に命と引き替えにもたらされた異能だった。
「少し私に仕事を多めに廻すか、費偉か蒋?(ショウエン)どのを、連れてくるべきです」
「どちらの能力も、加味する限りだいぶ時間的な遅延を招きます。 今、私の構築している縦深陣地に敵を誘い込むには、二人の能力では不足です。 董允でもそれは同じでしょう」
いずれも諸葛亮が育て上げた有能な文官達だ。軍内には、馬謖がいなくなっても、補給関係の任務に長けた揚儀と、知識豊富な趙直、?(ショ)周などがいる。だが、彼らも、夫は信用できないという。
前線での細かい判断事態は、将軍達にゆだねている。
だが、それ以外の全ては、夫の掌の上にあるのだ。
そして夫は、一度決めたら、てこでも動きはしない。董白も頑固だと昔から言われていたが、夫はその比ではない。恐らく例え死んだとしても、考えを越えることはないだろう。緻密すぎるが故に、夫は何時か破れる時が来るかも知れない。
予定通り、半刻の仕事が終わると、諸葛亮は寝台に転がり、眠り始めた。
その時には董白の仕事もなくなっていた。
この戦いは、完勝に終わらない方が良いのかも知れないと、董白は思い始めた。もし完全に勝ってしまうと、夫は更に無理をするだろう。それでは、長安を落とした頃には、夫の命も尽きてしまうかも知れない。
しかし、わざと負けるような工作をすることも間違っている。董白は、眠り始めた夫を見つめた後、何度目かのため息をついた。
外に出る。
最小限の人間しかいないから、優れた料理人も陣営にはいない。魏軍は司令官級の側には、必ず優秀な料理人を侍らせていると言うから、羨ましい話だ。今この陣にいるのは、現地で調達した老料理人だけである。もちろん妙なことをしないように監視はついているが、それくらいなら成都から信用できる料理人を連れてくればいいのに共思う。しかし、経費の面で難しいと、夫は一蹴してしまった。
「何事ですか、董白様」
「精力がつく料理を、出来るだけ多めに。 夫は三刻ほど眠りますので、その時間に合わせて」
「わかりました。 しかし眠る時間まで完璧に制御するとは、諸葛亮丞相とは、とてもお忙しい方ですね」
そうでなければ、これだけの巨大な陰謀を運営できないのだ。
そして、夫以外の誰に、これほどの巨大な作戦を構築できるだろうか。江東でも今細作達が、必死に情報操作と運営を行っている。その結果、魏の戦力は大幅に削り取られ、夫の作戦が成功するための下地になろうとしているのだ。
天を見上げる。
民のための国をと、昔思った。そのためにはどのような事でもすると。
大叔父の暴政を間近で見て、鮮卑の恨みを血統に伝え続けた曾祖母の憎しみに満ちた瞳を見上げて育った董白は。
今、また静かな無力感を感じていた。
曹真の陣は、徐々に南下を続けていた。
蜀漢軍を、現在陳倉に籠もった軍勢が食い止めている。特に抜擢された?(カク)昭の働きは見事で、十倍近い蜀漢軍を、見事に防ぎ続けているという。
しかし、此処で籠もっているケ艾から、妙な報告が上がってきたのである。
「陳倉を包囲している兵力は、一万だと?」
「はい。 ケ艾将軍の報告では、一万から二万前後という所だと言うことです」
「つまり、各地に展開している兵が一万だとしても、最低でも五千以上は行方がわからないということだな」
細作は頷くと、姿を消した。
気になる。
今の細作が、確か林の配下の老練な男だという事もだ。曹操の遺言で、林には注意するようにと、曹真も言われている。奴は有能だが、兎に角何を考えているのかわからない所がある。
つまり、蜀漢の軍勢は一万程度で、一万五千以上が何処かに消えているという可能性もあるという事だ。
蜀漢軍の一万五千は、味方の五万以上に雄に匹敵する。前回の戦闘で、十万が一万に振り回された事実を考えると、それ以上だと考えても良いかも知れない。長安を一気に直撃されるという事は考えなくても良いが、奇襲を受けた場合、支えきれるかわからない。
曹真は手を叩いて、伝令を呼ぶ。そして考え込んだ後、宿将達に加えて、若手の武将達も集めた。
天幕には、すぐに錚々たる面々が集まった。
その中でもひときわ目立つのが、前回の戦闘で個人的武勇を発揮し、抜擢された王双である。背丈は八尺以上もあり、全身は筋肉の塊だ。鬼のような形相で、団子のような巨大な鼻と、荒々しさばかり目立つ髭が見るからに恐ろしい。王桓という弟も優秀な武人だそうだが、この男の武勇はずば抜けている。
巨大な長刀を振るうだけではなく、流星槌という暗器も使いこなす、技巧派としての側面も持ち合わせていた。この流星槌は袖に隠す小型の鉄球で、遠心力を利用して鎧をも砕く。
前回の戦闘では、一人で十人もの敵兵を斬ったという。あの精鋭の蜀漢軍の中で、それだけ大暴れしたのだ。なかなか得難い勇者であった。
今回はその働きを考慮され、前線の武将として参戦している。
曹真は皆を見回すと、早速軍議を始めた。
「蜀漢軍は陳倉で足止めされているが、どうやら最低でも五千、最悪では一万五千ほどの戦力が行方不明になっている。 長安は守りを固めているが、この一万五千の動向次第では、味方が非常に危険になる可能性もある。 何か意見はあるか」
「もしも一万五千が全て伏兵になっているとすると、南下は危険かと思いまする。 しかし、如何に頑強な陳倉といえども、あまり長期にわたって蜀漢軍の猛攻を防ぐのは難しいかと思います」
そう発言したのは牛金だった。曹真も同意である。
張?(コウ)が率いている別働隊五万は、多分単独で諸葛亮の伏兵に対応できる戦闘能力があるだろう。問題は此方の七万だ。陳倉を囲んでいる一万はどうにか出来るとしても、もし一万五千が全て向かってきた場合、正面からならともかく、奇襲を受けるとかなり危ないと思える。
兵士の練度が全く違っているからだ。
「それならば、拙者が援軍五千ほどを率いて、急行しましょうか」
「いや、そなたは単独で行動してはならぬ」
「なぜです。 これでも、武勇には自信があります。 敵の動きを誘う囮としてなら、機能すると思いますが」
自信満々に王双が言ったので、曹真は内心歎息した。
この男は、勇将だが単独で使ってはならない男だと、今再確認できた。この間の蜀漢軍との戦闘で、味方がどれだけ派手に崩されたか、覚えていないというのか。五千の軍勢など、それこそ一撃で粉砕され、援軍が到着するまで保たないだろう。
例え、率いているのが王双だとしてもだ。
最近、曹真は自分の健康に自信が持てなくなってきている。医師は過労だと言っているのだが、しかし。
諸葛亮と対抗するには、とにかく仕事量を増やすしかない。元の頭の出来が違うのは、此処しばらくの戦いで分かりきっているからだ。
「それでは、これではどうでしょうか。 王双を先鋒として、牛金将軍が伏兵を連れて一万五千で支援。 更にその背後から、味方が全軍で進むのです」
「なるほど、先鋒を全軍で支援しながら進むという訳か」
「はい。 それに、もし敵が応じてこない場合は、陳倉を囲んでいる敵を、一気に殲滅してしまいましょう。 如何に蜀漢の精鋭といえど、内と外から包囲されて、耐えられるものではありますまい。 しかも一撃を加えるのは、王双将軍の先鋒です」
司馬懿の提案に、牛金が難しそうな顔をした。だが郭淮も王朗もそれに賛意を示し、陳泰や夏候覇もおおむね賛成した。
とにかく、このままだと、敵は西涼の至近にまで迫りかねない。
「張?(コウ)将軍にも、南進を進めるように提案すべきです。 両翼から一気に南進すれば、諸葛亮といえども、簡単には対応できないでしょう。 もし陳倉にいる敵が一万程度だとしても、敵の三割に達しているはずで、もしも巧く張?(コウ)将軍が漢中を突く態勢を見せれば、諸葛亮も動きを限定されるはずです」
「いや、危険な気がする。 それは確かに手堅いが、しかし予想できる範囲内での行動だ」
「牛金将軍、それでは代案は」
「すぐには思いつかないが、何か、諸葛亮でも想像できないような行動をする部隊が必要になるのではないだろうか」
司馬懿は鼻で笑う。
牛金は腕組みしたまま、むっつりと黙り込んだ。
曹真は歎息した。たたき上げの軍人と、名門出身の参謀では、仲が悪くなるのも仕方がない話だ。よくしたもので、蜀漢でも揚儀と魏延が非常に仲が悪いことで知られているとか。
司馬懿の提案に、聞くべき点があるのは事実だ。
しかし、牛金の意見も捨てる訳にはいかない。曹真も長年鞍を並べて一緒に戦ってきた牛金の実力は、良く知っている。特に実務面から、諸葛亮の恐ろしさを一番理解しているのは、牛金だとも言えるだろう。
それに、曹操に連れられて戦場を疾駆していた曹真だからこそに、牛金の提案の意味がよくわかる。敵に読まれている作戦ほど、危険なものは存在しない。
「分かった。 大体は意見を取り入れるとして、作戦に一部修正を加える」
「曹真将軍?」
「まず、先鋒は王双で五千。 その後ろに司馬懿が付け。 数は五千」
「ははっ」
司馬懿が深々とあたまを下げた。その目には、一瞬だけ憎悪が閃いていた。それを見逃さない曹真ではなかったが、敢えて何も言わなかった。
曹真自身は二万を率いて、更にその後ろにつく。そして牛金には八千を率いて貰い、遊軍として行動して貰う。
「遊軍ですか」
「そうだ。 諸葛亮がもし罠を張るとしたら、味方を誘い込んでの包囲攻撃になるのではないかと思う。 其処で牛金将軍には、本隊の後方を隠密で前進して欲しい。 そして、もしも諸葛亮の罠に味方が填るようであったら、救出して貰えないだろうか」
「わかりました。 この命に替えて」
「念を入れて、郭淮将軍にも、八千を率いて本隊の側に控えて貰いたい。 陳泰、夏候覇将軍は残りの部隊を率いて、諸葛亮の本隊を探索。 見つけ次第、戦況は気にせず総力で突っ込んで貰いたい」
御意と、若い二人の将軍は声を弾ませた。重要な仕事だと言うことは、すぐに理解できたのだろう。
諸葛亮の首を今回取る。
曹真は決意した。時に本隊が全滅したとしても、布石として諸葛亮を討ち取れる状態を作り上げたのだ。
「如何に諸葛亮が神算鬼謀を誇ろうとも、流石に本人の武勇に関しては万夫不当とはいくまい。 接近してしまいさえすれば、一気に討ち取ることが出来るだろう」
曹真はそう言って、皆を鼓舞した。
分かっていたのかも知れない。この作戦が、かなり危険なものだと言うことは。諸葛亮がちらつかせている伏兵をどうにかしなければ、味方が勝つことはおぼつかない。本隊に二万を残したのも、いざというときに一気に殲滅されるのを避けるためだ。
陳倉には、諸葛亮がいないことは既に分かっている。
つまり残りの二万五千の中にいるはずで、蜀漢の戦力的に、もし曹真の軍勢と総力戦をするならば、諸葛亮の直属部隊も出てこざるを得ない。そうなれば、必ず若手達の部隊も意味を持ってくる。
曹真、必殺の布陣であった。
全軍が動き出す。
途中で、西涼から来た増援も加えて、戦力は八万五千までふくれあがった。西涼の兵士達は予備兵力として本隊に加えたので、曹真の直属は二万から三万を超える戦力にまで増加した。
西涼の軍勢は韓徳という将軍が率いていた。やはり遊牧騎馬民族の者達が多く、彼らは忠誠心を期待できない。ただし、戦闘能力に関しては、そこそこ見るべき所があるから、前衛に据える。
陳倉まで百里まで迫った。
しかし、今だ諸葛亮の軍勢は、姿を見せなかった。
王双の部隊と、陳倉を囲んでいる戦力が激突したと、曹真の元に情報が入ったのは、まもなくのことであった。
1、悪夢の追撃戦
陳倉城は傷ついていた。
蜀漢軍は容赦のない猛攻を加え続けてきており、無傷とは言い難い状態だった。士載と一緒に入った三千五百も、既に二割が失われている。諸葛亮が持ち込んできた攻城兵器の猛攻は凄まじく、撃退し続けながらも、犠牲は大きくならざるを得なかった。
それでも、?(カク)昭の冷静な指揮で、味方は秩序を保っている。それだけが、救いだった。
「お風呂に入りたい」
士載がぼやく。
周囲の兵士達は、皆傷ついていた。二交代で休ませているが、それも敵の本格的な攻撃が始まると駆り出さざるを得ない。何しろ敵は昼夜問わずに、不意に猛烈な攻撃を仕掛けてきては引くという、心理的な圧力を加え続けてきている。眠りそうになると、途端に総攻撃を仕掛けてくるので、おちおち休んでもいられなかった。
?(カク)昭がいる櫓も、何度か投石機から放たれた巨岩の直撃を受けた。それでも?(カク)昭が無事だったのは、歴戦の猛者が見せる強運であろうか。
鎧の埃を払って、城壁の上に。
何名か護衛がついてきた。
「ケ艾将軍、どちらへ」
「うん。 敵兵の布陣を見るの」
「お供いたします」
疲れたり余裕が無くなってくると、つい女言葉が出てしまう。最近では兵士達も士載の性別を完全に周知にしているらしいが、あまり危険は感じない。
戦場では、男女の交わりは汚れとされるため、どんな悪辣な将軍でも異性を連れ込むことはない。そう言う意味で士載は結構危ない立場にいるのだが、周囲の忠誠心が高い兵士達は、士載を守ることを考えても好きなようにしようとは思わない様子だった。その辺り、士載は嬉しいし、彼らのために何とかしようとも思う。
城壁の上に出る。
山々を覆うように、敵の軍勢が見えた。殆どは偽の陣とはいえ、見事な威容である。点々と散らばっているのは、味方が焼き払った敵攻城兵器の残骸だ。連日の激戦でかなりの数を潰したが、まだまだ敵には余裕がある。
敵の主力となっている陳式の軍勢は、相変わらず見事な布陣をしていた。疲れているのは向こうも同じだろうに、全く陣を乱してはいない。
だが。
士載は眼を細めた。
様子がおかしいのだ。
しばらく敵陣を観察する。一見すると、まだまだ意気は揚々としている。敵の士気も落ちていない。
だが、一刻ほど敵を観察して。ついに士載は看破した。
「?(カク)昭将軍に連絡。 敵は恐らく、間もなく引きます」
「えっ! 本当ですか」
兵士達の間に生気が戻る。だが、士載は首を横に振った。それを見て、兵士達も、それが良い意味での撤退ではないと悟る。
王桓が咳払いする。連日の激戦だというのに、この剛気な若武者は、全く衰える所が見えなかった。
「戦術的もしくは戦略的な撤退であって、逃げる訳ではない、という事ですか」
「はい。 恐らくは」
「もしもそうなると、陳倉を囮として戦略を立てている、味方が危ないのでは無いのでしょうか」
「その場合、王桓さん。 貴方のお兄さんが、一番危ないと思います」
流石に、王桓が顔色を変えた。
王桓の兄の王双は、前回の戦いで負けっ放しの味方の中、珍しく功績を挙げたことで、着目された。今回先鋒を務めるとしたら、まず間違いなく王双になるだろう。
士載が見た所、蜀漢は諸葛亮の指揮の下で、陳倉が囮になっていることを逆手に取った策略を仕掛けてくるような気がする。それがどのようなものかはわからないが、先鋒や中軍が真っ先に狙われるのは確実であった。しかも、他の部隊と孤立させられた上に、包囲されて叩かれることだろう。
戦場で最も恐ろしいのは混乱だと、士載は知っている。
一度兵士達に混乱が波及すると、後は地獄絵図だ。一部隊が混乱すると、それが他にも伝播して、ついに全軍潰走に到ってしまう例もある。だから先鋒には勇将が配置されるのである。
?(カク)昭が来た。長身で筋肉質の老人は、危なげなく城壁の上を護衛達と歩いてくるが、流石に髪や髭に若干の乱れが生じていた。どんなに猛々しいたたき上げの軍人と言っても、この連日の猛攻だし、何より年だ。疲弊するのも無理はない。
「如何したか、ケ艾将軍」
「はい。 主要な将を集めてもらえませんか」
「何かあったか」
「はい。 敵が戦術的な撤退を図る可能性が高いです。 しかも、恐らくは味方を誘引して、殲滅する戦略上の目的のために、です」
眉を跳ね上げた?(カク)昭。
此処しばらくの攻防で、?(カク)昭はどうやら嬉しいことに、士載の陣を読む能力を信頼してくれたらしい。しかも韓浩将軍の手ほどきで、士載は軍学を色々と学ばせてもらっている。その辺りも、たたき上げで勉学をする暇など無かった?(カク)昭は、貴重だと考えてくれているらしい。色々と光栄な話であった。
?(カク)昭はすぐに軍議を招集してくれた。
護衛として、士載は王桓を伴う。王桓は抱拳礼をして、大げさに感謝してくれた。兄のことが心配なのだろう。
?(カク)昭は、自分と同じたたき上げの軍人や、士載と一緒に戦場を渡り歩いてきた若手の精鋭達を見回しながら言う。軍議に出ると、流石は?(カク)昭は歴戦の将である。威厳が疲弊を圧倒する。
「話は聞いていると思うが、ケ艾将軍の見たところ、敵は戦略的な目的で、近々戦術的に撤退する。 ケ艾将軍の戦術判断能力について、儂は信用する。 もしも、敵が擬似的な撤退をして味方を誘引するとしたばあい、我が軍に出来ることについて、皆に意見を求めたい」
「即刻、斥候を出して敵の動向を探るべきです」
何名かが、すぐに挙手してそう言った。士載もそれには同意である。?(カク)昭は即決でその意見を入れた。
だが、問題はその先であった。
「それで、敵を捕捉できた場合ですが、如何なさいますか?(カク)昭将軍」
「叩けるなら叩く」
「しかし、もしもこの陳倉を落とされたら。 蜀漢は、絶好の補給拠点を手に入れることになります。 ただでさえ、魏の領内に、蜀漢軍は無数の協力集落や、拠点を作り始めているという報告があります。 陳倉を落とされたら、この近辺の州郡は、ことごとく諸葛亮の魔手に落ちるのではないのでしょうか」
王桓が言う。血を吐きそうな表情だった。
?(カク)昭にも、彼が王双の弟だという事情は告げてある。腕組みした?(カク)昭は、しばし目を閉じてから、頷く。
「もしも敵が味方を殲滅している様子がわかったとして、援軍を出さなければ、それは魏軍の恥になるだろう。 しかし、忘れてならないのは、我らの目的が、そもそもこの陳倉を守り抜き、蜀漢の戦略的な意図をくじくと言う事だ」
「……」
誰もが俯く。
此処に来た時に、全員がその覚悟を決めている。そもそも玉砕する可能性が高いことは、皆に告げてある。士気が高い精鋭を選んだのもそのためだ。
しかしながら、だからといって味方が玉砕しているのを呆然と眺めやるばかりでは。皆の心を支える最後の砦となっている、誇りを打ち砕くことになってしまうだろう。
「だから、苦戦する味方を見たとしても、あまり大規模な増援は出せない。 それは覚悟して欲しい」
「はい」
「ケ艾将軍。 儂が連れてきた、五百の精鋭を預ける。 貴殿の直属である百騎とともに、何時でも出られるように準備を整えて貰いたい」
「わかりました」
軍議は解散になる。
士載は再び、城壁の上に出た。山々の連なる峰の向こう。遠くで、煙が上がっている。あれは炊煙などではなく、恐らくは細作が使う狼煙だろう。蜀漢軍が、作戦行動を開始した可能性が高い。
手を叩いて、細作を呼ぶ。
「すぐに敵の動きを調べてください。 斥候も出します」
「わかりました。 すぐに出ます」
陳式の軍勢は、予想通り動きを見せない。
既に陣は空も同然になっている可能性も、決して低くはなかった。
陳倉に籠もった魏の精鋭と死闘を演じていた陳式だったが、やはり予想通り。唐突に、諸葛亮から不可解な命令が来た。
戦略的な意図はわかっている。
魏軍を誘引して、縦深陣の中で一気に殲滅する。
魏軍がそれを読んでいたとしても、どうにもならない状況を作り上げるのが、諸葛亮の凄まじい所だ。それに関しては、今までの作戦立案を見ている限り、信頼感がある。だが、受けた命令は、部下達も小首を傾げるような代物だった。
「これから二千の兵を王双の先鋒にぶつけて、わざと負けて逃げ散れ!?」
「はい。 それと本隊は陣を焼き払い、東六里に移動。七刻後、其処に現れる王双の軍を奇襲し、王双の首を取るようにとの事です」
「ちょっとまて。 王双は東六里の地点を、必ず通るのか」
「はい。 丞相直下の細作が、囮部隊の誘引をいたします」
それにしても、東六里とは。
地図を拡げさせて、それでようやく納得が行った。攻城兵器の他に、試作品のある武器を持ち込んできているのだが、それを使う時が来たという訳だ。王双は相当な武勇を誇るそうだが、これの前には手も足も出ないだろう。
「分かった。 しかし、囮部隊の指揮は、私が直接執る。 羅憲、本隊の指揮を頼む」
「わかりました」
「よろしいのですか、陳式殿」
「我が軍は敵に対して、著しく兵力が少ない。 下手をすると大きな損害を出す任務に関しては、将官が直接責任を持つのが当然だ。 私の父であっても、恐らく同じ結論を出すことだろう」
副将になっている羅憲は、陳式の事をにやにやしながら見ていた。気に入らない所のある男だが、諸葛亮が直接育てた若者の一人だけあって、兎に角優秀だ。何も教えることが無いくらいである。
他にもこの間の戦役で降伏した姜家軍の姜維が、めきめきと頭角を伸ばしていると聞く。蜀漢にも、若くて有能な将はいる。魏だけの専売特許ではないという事である。
諸葛亮の伝令が下がると、早速陳式は準備を始めた。周囲に指示を出していく陳式に、羅憲は言う。
「そういえば、陳倉の敵はどうするのでしょうか」
「陣を燃やすことで足止めするのだろう。 それ以上は知るか」
「投げやりですな」
「仕方がないさ。 丞相の戦略は、丞相しかしらん。 我ら下っ端の将軍は、その操り人形に徹するしかない」
羅憲に八千を任せて、先に行かせる。攻城兵器は解体させると、すぐに諸葛亮の配下らしい数百の特務部隊が、何処かに運んでいった。陳式は二千を率いると、すぐに陳倉の周囲にある自軍の陣に油を念入りに掛ける。もしも陳倉から兵が出てくるようだったら、すぐに火を掛けるように、最近成都から来た増援の部隊に指示。
残すこの部隊は、南蛮から連れだした忠誠度の低い部隊だ。だが、彼らの指揮をしている将軍は、成都で教育を受けている野心の強い男である。だから下手な漢人よりも、しっかり任務をこなす。
向かい傷が凄惨な、肌の黒い大男は、話を聞き終えると挙手した。
「火を掛けた後は如何いたしましょうか」
「陳倉にいる敵は、非常に強力だ。 戦おうとせずに、すぐに引け。 合流地点は、陳倉南の十七里。 追撃を受けないように、訓練通りばらばらに散って、現地で合流するようにな」
「わかりました」
其処は、隠している補給地点の一つである。それほど重要度は高くないので、ばれても大した痛手にはならない。それなりに良くできる男と言っても、まだまだ信頼度から言って、こういう扱いしかできないのが辛い所ではある。
他にも幾つか細かい指示を出していく。
さて、動くか。そう思った瞬間、陳倉城の方が俄に騒がしくなった。
「む、気付いていたか」
「敵将は相当に切れるようですね。 これだけの猛攻に耐え抜いただけのことはあります」
「放っておけ。 私が敵将だったら、この城を取られる事を警戒して、多分まずは周囲を斥候する。 今、周囲は丞相が最大限の細作を動員して警戒しているはずで、こっちの動きはまず掴まれない。 それに、敵の本隊が身の程知らずにも城を出てくるようなら好都合だ。 一撃で粉砕してくれるわ」
「なるほど。 お流石にございます」
羅憲のおべっかはどうでも良い。
陳式は、動きを見せている陳倉を放って置いて、すぐに全軍を指定通り動かし始めた。敵は出てこない。
間もなく、陳倉を囲んでいた一万は、それぞれの作戦行動を開始した。
驀進する王双軍五千。
王双は武勇に自信を持っていたし、魏軍の先鋒を任されたことで、舞い上がっていた。いや、少し違う。ついにこの時が来たと、心の奥では涙を流していた。
そもそも王家は、古くから曹操に仕えた家柄である。しかし、その前途は順風とは言い難かった。
祖父の王忠の時代にはこれといった功績を残すことが出来ず、三流の将軍として一生を送った。若い頃から時に人肉まで食べなければならないような苦境に立たされたこともあったのに、生涯武将としての芽は出なかった。戦歴も芳しくなく、才能はないがしかし忠誠心だけは評価され、数あわせに使われることばかりが多かった。周囲の将軍達からも、王忠は笑い話の種として扱われ、無能と言えば王忠などとまで言われることもあった。能力が不足していることを自覚している王忠は、酒に時々逃げながらも、必死に任務をこなして生きた。十五年前に、祖父は、戦場に出たい、手柄が欲しいと呟きながら逝った。
同じく三流の将軍だった父はそんな祖父の悲しい姿を見て育ったからか、また自分に才能がないことを悟っていたからか。王双、王桓の兄弟を、徹底的に鍛え上げた。高名な学者達に付けて学問を学ばせ、武芸者を家に招いてはあらゆる武技を仕込ませた。もちろん三流どころの将軍の家で、そんな事をしていれば生活も苦しくなる。
だが、父は自分の食事や鎧の繕いを削ってまでも、王双と王桓のために、学費を作ってくれたのである。
無理がたたって、五年前に父は死んだ。
家督を継いだ王双は、誓ったものである。必ず王の家の名を、天下にとどろかせると。
だから、魏軍の先鋒になることが出来たという現実は、長年の、三代にわたる悲願を果たすことが出来たという意味で、あまりにも大きいことだった。
それが判断力を鈍らせてしまったのも。致し方がない事であったのかも知れない。
「王双将軍。 少し進軍が早すぎるようにも思えます」
「黙れ! 陳倉には俺の弟もいる! このまま蜀漢軍への接触が遅れたら、弟の命が危ないかも知れん! それに、お前達も、手柄を立てられなくなるぞ」
「しかし、後続である司馬懿将軍との連携が取れないと、我が軍は孤立することになるのではありませんか」
「司馬懿と言えば、速攻を売りにしている男ではないか。 よもや、新参である我らよりも、行軍が遅いと言うことはあるまい」
副官に吐き捨てると、王双は更に南へと驀進した。電光石火の進軍に、兵士達はよくついてくる。だが汗は既に滝のように流れており、疲弊で息を乱している者もいた。少し、進軍速度を落とし、休憩を取る。
気が逸っているのは、わかる。
だが、今が。今こそが。王家の名をあげる、千載一遇の機会なのだ。此処で働かなければ、祖父も父も報われないだろう。
そして、見つける。
二千ほどの敵が、北上している。行軍は確かに早いが、此方に気付いておらず、陣形もまともに整えてはいなかった。
勝機。王双はそう見た。
これでも二十を越える戦に参加して、一兵卒から成り上がってきたのである。戦場の空気くらいなら読める。
今突撃すれば、あの二千は瞬時に蹴散らすことが出来る。そう、王双は判断し、部下達に命令した。
「全員突撃! あの部隊を、まずは血祭りに上げる!」
兵士達の間に、さざ波のように不安が広がる。だから、その不安を払うために、王双は自ら先頭に立ち、突撃を開始したのだった。
敵兵が見る間に迫ってくる。
急襲を予期していなかったか、ぎょっとした様子の敵兵の中に躍り込むと、王双は縦横無尽に刃を振るった。敵将らしい男が出てくる。貧相な男だった。
「おのれ、何やつだ!」
「魏の将軍、王双! 見参!」
激しく刃を打ち合う。そうこうする内に、五千の味方がどっと戦場になだれ込んできた。敵が押されてさがり始める。蜀漢の精鋭と言っても、二倍以上の相手に奇襲されれば、こんなものだ。
やがて総崩れになる。敵将はよく頑張っていたが、さっと踵を返す。懐の下から流星槌を出して投げつけるが、振り向き様に奴が振るった長刀にたたき落とされていた。ふと、不安が脳裏をよぎる。あの地味な男、何処かで見たような気がしたのだ。
「王双将軍!」
「追撃だ! 敵を逃がすな! 陳倉城まで一気に出るぞ!」
「しかし、敵が陳倉方面へ逃げなかったら、どうするのですか」
「そんな事はあり得ん! それに、いざというときは、この軍勢で陳倉に逃げ込めば、敵はずっと背後を脅かされ続けることになる!」
陳倉にいる味方は三千数百が健在として、五千の兵が入れば、諸葛亮の全軍の猛攻にもしばらくは耐え抜けるだろう。情報通り包囲軍が一万程度であったのなら、もはや攻略はかなわぬという事にもなる。
王双は逃げまどう敵を追い回しながら、山の中を走る。
味方に脱落者が出始めていた。
そして。
気がつくと山を抜け。平野に出ていた。そして、その眼前に、どうしたことか、一万近い敵兵が、整然と陣を組んでいたのである。
しかもこの平野、見覚えがある。陳倉よりずっと東にある、司馬懿が主力決戦の場と考えていた場所の一つだ。図られたと悟った時には、既に遅かった。
後方より奇襲。脱落した兵士達は、後方から現れた一千ほどの兵士達に猛攻を受け、手も足も出ない状態に陥っているらしかった。しかも前方の敵は鶴翼に陣を組み替え、まるで此方を飲み込もうとする大魚のように、静かに迫りつつある。
「王双将軍、撤退を! このままでは、全滅します!」
「退路は既にない! 前方の敵を突破し、陳倉に脱出する! 遅れたら死ぬぞ! 全員、俺に続け!」
王双は声をからして味方を叱咤すると、自ら長刀を振るい、愛馬を繰って敵陣に躍り込む態勢に入る。
敵陣の旗は陳。それで思い出す。あの地味な男、今年の夏の戦役で、一万で味方の十万を二度にわたって破った陳式だったのか。それでは強い訳である。歯がみしながらも、王双は吠える。そして、敵陣と百歩ほどまで接近した時。
敵軍の前衛に、何か訳がわからないものが設置されているのに気付いた。
それは弩のようにも見えるが、ずっと大型で、何より横に広い。何だろうあれは。非常に危険なものの気がする。本能があれを避けるべきだと警告してきていた。しかし、だが。最早前を突破する以外に、兵士達も、自分も、生き残る道など無いのだ。
「おおおおおおおおっ! どけええええええっ!」
絶叫した王双は、気付く。
愛馬の首が、消し飛んでいる。
自分の腹にも、まるで城の建築に使う鉄棒のような巨大な矢が、三本も突き刺さっている。
周囲は阿鼻叫喚。首が無くなった兵士が、その場で倒れる。騎兵は針鼠のようになって、地面に転がっている。馬も。逃げまどう兵士達は、即死していない者に限られていた。一瞬で、五千が壊滅したのである。
地面に押し付けられた。違う。全身の力が抜けて、首を失った愛馬から、たたき落とされたのだ。
唸りを上げて飛んでくる巨大な矢が、生き残った味方を見る間に殺傷していく。何だ、あれは。手を伸ばした先に、跪いている副官が見えた。
「こ、この事を、後方に伝えよ」
「わかりました。 命に替えて」
「頼む」
副官が走り出す。それを見届けた王双は、大量に吐血。まずい。武術をやっていた身だ。自分が死ぬかどうかはすぐにわかる。もはや助かる見込みはない。見る間に視界が暗くなっていく。
王桓。呟く。自分より武芸が劣るが、しかしとても賢い、自慢の弟。あいつならきっと、無様な自分に代わって、王の家の名を高めてくれる。名誉欲が目的ではない。祖母や母のような、苦しい生活をしてきた王家の人間が。馬鹿にされず、胸を張って生きられるように、ただしたかったのだ。
最後に、王双は見た。
光だった。
司馬懿は前方の異常に気付いた。王双の部隊が、敵の小部隊と接触、粉砕して追撃中という報告を受けてから、すぐにいやな予感を覚えたのだ。
伝令が来る。しかも後陣からだ。背中に肩に矢を生やしていて、瀕死の状態だった。
慌てて開封する。
事態は、予想の最悪を極めていた。
後方の幾つかの部隊が、敵の奇襲を受けて混乱。更に、中軍は敵の中央に入り込んでしまったらしく、曹真は奇襲部隊に対応するのに手一杯だという。
更に、前衛の王双は行方も知れない状態である。魏の精鋭五千が、為す術無く消え去るとは思えないが、しかし。
馬上で、司馬懿は考えを巡らせる。
諸葛亮の目的は何だ。長安の直撃ではないのか。或いは、戦略的にすぐれた識見を持つ曹真の抹殺か。
そのどちらにも、陳倉の攻略は必要不可欠だ。
牛金や郭淮は何をしている。苛立ちと共に、司馬懿は呻いた。もしも、王双が敵に壊滅させられていたら。今度標的になるのは、司馬懿の部隊だ。このような事態を防ぐために、柔軟に動ける陳泰や夏候覇の軍も用意しているのだろうに、これでは右往左往するばかりで、ものの役には立たないだろう。
「作戦は失敗だ。 曹真将軍の所まで撤退する!」
「しかし、陳倉は」
「諦める。 もしも生き残れたら、表彰でもなんでもしてやればいい」
冷酷に言い切った司馬懿に、兵士達は悪魔か何かでも見るかのような視線をぶつけてきた。吠える。
「言うとおりにしろ! このままだと、味方は全滅するぞ!」
それで、やっと兵士達は動き出す。
司馬懿は五千を一つに纏めると、曹真がいる方へ一心不乱に走らせた。途中、味方の軍勢が敵に襲われている音が彼方此方でした。後衛も叩かれているようだし、このままだと本格的に危ない。張?(コウ)の軍勢は遠すぎて、援軍として期待できない。
曹真の軍勢。見えたと思った瞬間、司馬懿は背筋に寒気を感じた。
「いかん! 曹真将軍の陣に逃げ込め!」
後ろを見ずに、司馬懿は馬を走らせる。後方から、圧倒的な殺気。恐らく、万を超える敵軍勢が、怒濤のように迫り来ている。山々に木霊するのは、恐らくは味方の悲鳴ばかり。此処まで悲惨なことになるとは。
唇を噛む。
これでは、帰ってから、また妻に折檻されてしまうだろう。その恐ろしい様子を思い浮かべて青ざめる司馬懿の肩先を、矢が掠めた。振り返る。魏の旗。蜀漢の、魏延軍だろう。まさか此処で、魏延を直接投入してくるとは。
曹真の周囲には、かろうじて五万程度が集まっていた。
だが、その混乱は著しい。司馬懿も麾下の戦力を大きく削られながら必死に曹真の陣に逃げ込む。
陣に入り込むと、顔のすぐ側を矢が掠めた。既に陣の内外で、激烈な死闘が開始されている。曹真が、早足で駆け寄ってきた。郭淮もいるが、負傷していた。
「司馬懿、無事か」
「どうにか。 王双は」
「今、生き残った部下から連絡が来た。 王双は戦死だ。 蜀漢軍は、新しい強力な弩を開発したらしい。 平野に引きずり出された王双軍は、鶴翼からの斉射を受けて、一瞬で壊滅したそうだ」
「何と。 王双ほどの豪傑が」
あれほどの豪傑が、一瞬で討ち取られたというのか。
震えが足から登り上がってくる。外では魏延がしきりに挑発の攻撃を繰り返しているが、味方は応じず、守り一辺倒になっていた。
そうこうする内に、どうにか敗残兵が集まってくる。
陳泰と夏候覇も、したたかに叩きのめされていた。全体で、損害は二万五千を越えるのではないかと、司馬懿は思った。負傷兵の数を考えると、殆ど壊滅という状況だ。諸葛亮の罠は、魏軍全体を完全に絡め取ったのだ。
全体の状況を確認しながら、損害を計上していた司馬懿は気付く。牛金の姿が見えない。曹真は指揮を続けていたが、その顔には疲弊が色濃かった。
「曹真将軍、牛金どのは」
「牛金は、私の軍勢が壊滅するのを防ぐべく、最後まで趙雲軍の鋭鋒に立ちはだかり続けて、結果今では行方も知れぬ。 戦死した所を見たという者と、趙雲と一騎打ちしている所を見たという兵士がいるが、まだ生死はわからぬと言うのが現状だ」
「そうですか。 あの牛金将軍が」
「今、斥候を出している。 あの歴戦の猛者が、簡単に戦死するとは思えん」
曹真はそう言って、不意に咳き込んだ。医師が青ざめて飛んでくる。そして、天幕に連れて行った。
郭淮が、大きく歎息する。
「曹真将軍は、さっきも血を吐かれたのです」
「そんな。 今曹真将軍に倒れられたら、この軍勢は全滅するぞ」
「医師の話によると、絶対安静だという事です。 司馬懿将軍、今いる将軍の中で、貴方が一番高位にいる。 曹真将軍の負担を小さくするためにも、味方の指揮を執っていただけないでしょうか」
周囲にいる陳泰や夏候覇も、同じ意見のようだった。疲弊した様子の王朗も、それに反駁する気はない様子である。
曹真の天幕に赴く。
これは好機だと囁く悪魔の声と、それどころではないから速く逃げるべきだという現実主義の声が、司馬懿の中で戦っていた。
実際、味方の秩序が失われたら、却って逃げる好機が産まれてくる。十万の軍勢は全滅するかも知れないが、張?(コウ)の率いる五万がまだ無事だし、長安にもほぼ同数が控えている。仮に諸葛亮が西涼を全て落としたとしても、簡単には攻略できない。長安の主将が夏候楙だった時代ならともかく、今では知勇優れた張?(コウ)が優秀な部下達を配置しており、その防衛能力は非常に高い。
呼吸を整えると、司馬懿は計算を終えた。
此処は、賭けに出るべきだ。生き残ることはどのみち出来る。というか、味方を全滅させて生き残っても、どのみち家で妻に殺されるだろう。妻の折檻には殺意が籠もっている。息子達も味方に付けているし、生きて帰っても其処で死ぬことになるだろう。
天幕にはいると、曹真が呻いていた。顔色は悪く、血を吐いた後が胸に残っている。痛ましい姿だ。
医師が司馬懿を見る。あまり好意的な視線ではない。
「何用ですかな」
「曹真将軍の御様態は」
「見ての通りです。 しばらくは絶対安静にしなければ」
「そうも言っておられぬ。 外には蜀漢屈指の猛将魏延がいて、断続的な攻撃を仕掛けてきている。 そこで、曹真将軍に、一時的に指揮権を譲渡していただきたいと、思いましてな」
曹真が此方を見た。口を拭ったのは、血を取ろうとしたのだろう。曹操にかわいがられて、彼方此方の戦場を走り回ってきた古豪だ。だが、しかし。既にその寿命は、長年の無理がたたって尽きかけているのかも知れなかった。
「司馬懿」
「ははっ」
「牛金を私の後に据えたかったが、今の状況では他に適任もいない。 そなたが、指揮を執って、味方の秩序を回復せよ。 一旦秩序さえ回復すれば、陳倉が味方の手にある以上、流石の諸葛亮も長期戦は出来まい。 敵は多分、此方をある程度痛めつけた時点で、撤退に入るはずだ。 追撃は考えず、陳倉の味方と合流して、敵の撤退を見届ける方向で作戦を進展させよ」
「わかりましてございまする」
流石に曹真の判断は、この期に及んでも的確であった。
指揮官の剣と印を受け取る。
天幕を出ると、思わず歎息した。これならば、家に帰っても、妻に殺されることはないだろう。
そして、ここからが大変だ。
出来れば牛金を救出し、なおかつ短期で決着を付けようとする諸葛亮の猛攻を、どうにかして凌がなければならない。
課題は、あまりにも多かった。
既に無事な諸将は集まっていた。司馬懿は皆を見回すと、言った。
「味方で無事な戦力は、ここに五万。 まだ周囲では、逃げ切れずにいる戦力が二万から三万程度はいると思われる。 彼らを救出すれば、我らはまだ蜀漢に対して、数で圧倒的優位に立つことが出来る」
「しかし、二倍程度で、諸葛亮の精鋭を抑えられるでしょうか」
「牛金を救出すれば、多分可能だろう。 それに敵は長期戦が出来ない。 此処が踏ん張りどころだ」
陳泰が前に出て、抱拳礼をした。威勢が良い若者だ。
「私が決死隊を率いて、周囲の味方を救出して回ります」
「私も出ます」
「よし、陳泰、夏候覇、そなたらに任せる。 しかし、魏延と趙雲をどうにかせなばならんだろうな」
「趙雲はわかりませんが、魏延はこの私が」
郭淮が、決死の覚悟を顔に湛えていた。
司馬懿は頷くと、一万を彼ら三人に割り振る。郭淮は魏延とぶつかり、時間を稼ぐ。陳泰と夏候覇は、派手に動き回って、味方の救出を行う。司馬懿は細作を周囲に放ち、敵の動きをどうにか掴む。
さて、諸葛亮がどう動くか。
山深い土地の中で、司馬懿と諸葛亮の知恵比べが、今始まった。
2、蜀漢軍撤収
牛金は肩に突き刺さった矢を乱暴に引き抜く。趙雲の側にいた、あの女が放った矢だ。噂によると、趙雲の妻だとか。戦場に出てきているだけあって、流石になかなかいい腕をしている。
周囲の味方は既に半数を切ったか。乱れた呼吸を整えながら、牛金は周囲の把握に努めていった。
暗い山の中である。
四半数は戦死し、残りは逃げ散ったり、行方不明になった。四千は今、山の中で孤立し、必死の防御陣を組んでいる。外では数も知れない趙雲の軍勢が、散発的な攻撃を仕掛けてきている。今のところ小康状態だが、いつ攻撃が再開されるか、わからなかった。
思えば、上手く行かないだろうとは思っていたのである。しかしまさかここまで徹底的に叩きのめされるとは予想外だった。諸葛亮は此方の動きどころか、どの将軍がどう動くかまで、完璧に洞察していたとしか思えない。
「士載は、無事だろうか」
思わず口に出して呟いてしまった。周囲の兵士達は一瞬だけ牛金を見たが、それ以上の反応はなかった。
愛馬は疲れ切っていて、牛金を乗せているのも辛そうだった。それだけではない。大きな傷も腹に受けている。趙雲と一騎打ちして、どうにか乱戦に紛れて逃れたが、その時に矢を浴びたのだ。趙雲の妻によるものだ。速射で牛金の肩だけではなく、その馬までいるとは。なかなかに神がかった射手である。
馬から下りると、矢を引き抜く。
よく訓練されている軍馬は悲鳴を上げることもなく、じっと耐えていた。首を抱いて背中を撫でてやる。血と汗が凄まじい。
「すまぬな。 水もやれん」
馬は応えない。だが、牛金を気遣っている事は感じた。休むように指示を出して、自身は木を背中に座り込む。空には無数の星が瞬いており、とても美しい。幾つかの星座を目で追いながら、ふと思った。
牛金の家に生まれたのが、士載だったら。親子のように、あの星がどうのこうのと、教えたりしたのだろうか。
いや、それはないだろうと、牛金は考え直す。戦場をずっと駆け回っていた牛金だ。妻とは性行為以外の行動ではほとんど顔も合わせなかったし、妾とさえそれは同じだ。子供達だって、牛金のことはまず間違いなく嫌っているだろう。成人しても文官になると長男は言っているようだが、さもありなん。
たまたま士載を子供のようにかわいがることが出来たのは、幼い頃から軍属にいたという、特殊な条件があっての事だった。多分、蜀漢や江東の武将達も、同じような苦労はしているのではないかと、牛金は思う。
副官が来た。酷い怪我をしているが、何とか立って歩くことは出来そうだ。被害を調べさせていた副官は、抱拳礼をすると、絶望的な状況を報告してくれる。
「どうにか剣を振るえるのは、半数という所です」
「そうか、二千がせいぜいか」
その二千で、あの趙雲の猛攻から味方を庇いつつ、本隊と合流しなければならないのである。趙雲は将軍としてはさほど優れてはいないが、兎に角本人の武勇が常識離れしている。数合渡り合っただけの牛金だが、長期戦になっていたら確実に討ち取られていただろう事は、間違いなかった。
しばし考え込む。
此処は、焦った方が負けだ。
「二交代で、兵士達に食事を取らせろ。 ただし、火は使うな」
「わかりました」
「それが終わったら、二交代で二刻ずつ休め。 士官は三交代で。 私は最後にそれぞれ休むことにする」
兵士達は最初、すぐには動こうとしなかったが、将校達が率先して休むのを見て緊張をとき始めた。
牛金は自ら槍を保って陣の外縁を歩き回る。趙雲が仕掛けてくるとしたら、この瞬間だろうと思ったからだ。だが、趙雲は、意外にも動く様子がなかった。
食事が終わる。牛金も、野草を煮詰めて固形にしたものを口にした。非常に不味いが、栄養だけは豊富な非常食である。こういう時のために、各人に配られているのである。慣れていないと、口に入れただけで吐き出すような代物だ。
それでも、慣れてしまえば食べられるし、その後眠ることも出来る。
愛馬も木の側で休んでいた。牛金はいつでもまたがれるように、その側の地面に転がる。しかし寒さは相変わらずだ。今年は雪が降るほどではないが、それでもこの格好で眠るのはかなり厳しい。兵士達は身を寄せ合って眠っている者も多い。たき火だけはしないように伝えてあるが、酷く気の毒であった。
起きだしてきても、何も状況は変わらない。手を揉んで、僅かな暖を取る。
仕掛けてくるのなら、夜明けかも知れない。牛金はそう思った。立ち上がってから、槍を何度か振るう。肩に刺さった矢は浅くなかったが、筋力を削り落とすほどではなく、何とか雑兵をなぎ払うくらいは出来るだろう。
増援は来ないと思って間違いない。
夜はあっという間に明け、陽が昇ってきた。趙雲はまだ仕掛けてこない。なぜだろうと思った、その瞬間だった。
あまりにも自然に、陣の一角を乗り越えて、趙雲が陣に入り込んできた。
既に老境に入っている筈なのに、趙雲の武威は凄まじい。何事かと慌てる暇もなく、周囲の兵士達が右へ左へなぎ倒される。どっとなだれ込んでくる蜀兵。数は二千、いや三千はいるだろう。
夜明けを警戒していた味方が、緊張を解きかけた、その瞬間を狙われた。
敵は気力充分である。この様子からして、此方の動きを読んで、じっくりこの時間を待っていたのだろう。
牛金も愛馬に跨ると、前線に躍り出る。槍を振り回し、魏兵をなぎ倒している趙雲に、体ごとぶつかっていく。
「魏の将、牛金! 一手手合わせ願う!」
「ほう、満身創痍な有様で、この趙雲に挑むか! 意気や良し、来い!」
気合いの声をあげて、一の槍を叩き込む。しかし、趙雲は余裕をもってそれを受け止め、二、三と、凄まじい突きをくれた。
防ぐのが見る間に手一杯になる。馬の疲弊も酷い。じりじりと下がる牛金は、声を張り上げた。
「今の内に、下がれ!」
「し、しかし何処へ!」
「趙雲軍が来た方だ! 敵を無理矢理突破して、抜けろ!」
予想通り趙雲以外の兵士達の動きは、さほど鋭くない。副官が決死の覚悟で突破を行い、奇襲を仕掛けてきた敵の間を抜ける。それに、千、千五百くらいは続いただろうか。馬が嘶き、牛金を跳ね落とす。そして、横倒しに倒れた。
馬の首に、矢が突き刺さっていた。
「ジャヤ!」
「子龍、私じゃない!」
趙雲の妻が、怒りに満ちた声をあげた。そういえば、趙雲の妻は、さっき牛金が逃げ出してから狙撃をしてきた。今は趙雲と戦っている最中であった。それにしても、ジャヤとはどんな字を書くのか。或いは鮮卑か鳥丸の出身者なのか。
気がつくと、周囲を敵兵に囲まれていた。
味方は半数ちょっとは脱出できたか。充分な戦果だ。槍は折れてしまっていて、倒れた愛馬は既に死んでいた。趙雲は冷たい目で、槍を牛金に向けてきている。
「殺せ」
「無為な殺生をしても仕方があるまい。 捕らえよ」
「ははっ!」
兵士達が飛びついてくる。手慣れた動作で、即座に縛り上げられた。
歯がみするが、もうどうにもならない。縄というものは想像以上に頑強な代物で、多少小手先で工夫した程度で解けるようなものではないのだ。無理矢理引き起こされる。突破されたにも関わらず平然としている趙雲軍を見て、いやな予感が加速した。魏延や趙雲、関興に張苞、陳式は活発に動いているのが確認できているが、王平、張翼、廖化などの動きは掴めていない。後方の陣を襲ったのはどうも呉懿と呉班らしいので、この三人が率いている三千から五千程度の兵力がどう動いているか次第では、せっかく突破した戦力は、その場で潰されてしまいかねない。
ジャヤと呼ばれた趙雲の妻が、鋭い声をあげた。若い兵士の胸ぐらを掴みあげている。
「貴様か! 子龍の一騎打ちに水を差したのは!」
「し、しかし、趙雲将軍もお年ですし」
「たわけ! 勝てる相手かそうでないか見分けもつかない分際で、余計な横やりを入れるな!」
殴打にまでは到らなかったが、しかし激しい性格である。兵士は這々の体で逃げていった。
歩かされながら、牛金は趙雲に話し掛ける。
「随分激しい性格の妻だな」
「長年連れ添った仲だ。 酸いも甘いも知り尽くしている間柄だから、問題を感じたことは無いな」
「そうか。 羨ましいことだ」
檻車が用意されていた。非常に頑強な作りで、入れられたらまず脱出は不可能だろう。遠くで、戦の声がしている。
「あれは、脱出した私の部下が、お前達の伏兵にでも襲われているのか」
「さてな。 はっきりいってわからん」
「どういう事だ。 貴方は蜀漢の重鎮だろう」
趙雲はぎろりと牛金を睨んだが、それだけだった。
後ろの兵士が槍の石突きでつつこうとしたのは制止したが、乱暴な扱いそのものは止めさせる気がなかったようである。
「檻に入れっ!」
「分かった分かった。 しかし縄目が痛くてな」
兵士が何か反論しようとした、その瞬間だった。
そののど頸に、矢が突き刺さっていた。
山の中は、蜀漢軍だらけにも見えた。だが、士載は隠密先行する味方を指揮しながら、気付いていた。
個々の部隊は、それぞれ自分が何の目的で動いているか、理解していない。
だから、あまりにも緻密な動きながら、何処かがぎこちないのである。
指揮をしているのは、恐らく諸葛亮だろう。すなわち、まるでこの一帯が、諸葛亮の体内になっているかのようだ。それでは味方が苦戦するのも当然だが、しかし長時間は戦えないのも無理はない。
補給という問題以上に、あまりにも時間が経ちすぎると、当初の目的から戦場が移行しすぎる。
だから、ある程度で敵は引き上げなければならないのだ。
味方は六百。それが幸いしている。敵は此方には気付かない。いずれもが、諸葛亮の指示で、曹真軍本隊を撃滅するのに必死だからだ。後は細作が諸葛亮に此方の動きを報告し、それが将軍達に指示という形で伝わる時間差を利用して、味方を可能な限り救出すればいい。
既に五百以上の兵を救って、陳倉に届けている。だが、それももうそろそろ厳しいだろう。細作には当然発見されているだろうし、敵の迎撃部隊が出てくるのも時間の問題だ。発見されたら、六百の兵など、ひとたまりもなく全滅させられてしまう。
「ケ艾将軍」
「何?」
「斥候が、趙雲軍を発見しました。 今、牛金将軍の部隊を壊滅させて、首実検に入っている様子です」
ぞくりと、背中に悪寒を感じた。それは多分、怒りから来るものと、絶望が半々だっただろう。すぐに報告してきた兵についていく。王桓が青い顔をしたままついてくる。さっき彼は、兄の死を確認したばかりだった。陳式軍によって全滅させられた王双軍の亡骸は、平野一面に広がっていた。
兵士に連れられて、山の上に。
どうやら、牛金は乱戦の中打撃を受け、防御陣を組んで援軍の到着を待ったらしかった。しかし敵に捕捉され、壊滅させられた。既に殲滅戦も終わり、陣は完全に趙雲軍の手に落ちている。
しかし、隙がある。
趙雲という男は、現時点における個人の武勇に関してはそれこそ三国随一という噂だが、しかし将軍としてはさほど手腕が優れていないという。陣立てを見る限り、その噂は本当だとわかる。
「仕掛けます」
周囲に集まってきた兵士達に、そう告げる。
敵は殲滅戦の成功で気が緩んでいる。趙雲自身はそうではなくても、兵士達の間には、はっきり油断が見て取れた。ひょっとすると、趙雲の首を取れるかも知れない。王桓ならどうか。ちらりと見る。王桓は、敵陣をじっと見つめていた。どうやら視線の先に、趙雲がいるらしい。緊張しているせいか、女言葉よりも、敬語が出た。
「趙雲に、勝てますか?」
「いえ、無理です。 あの男、乱世の生き残りというに相応しい実力。 老いたようですが、それでも俺では勝てそうにありません」
「そうですか」
もう二千兵がいれば、趙雲を数で押し包んで倒せただろう。少し悔しいが、現状はこれで我慢するしかない。
それにしても、乱世に名を馳せた豪傑達とは、どれだけ人間離れしているというのか。王桓は相当な使い手だが、彼をもってしても勝てないと言わしめるとは。
口に布を含ませる。馬にも杯を噛ませた。
そして、陣の北に回り込む。此方からの奇襲を仕掛け、一気に南に抜けるのだ。後は陳倉まで、一気に逃げ込む。
いつ、他の諸葛亮軍が現れるかわからない。
「趙雲軍の中枢を一撃して、撤退する過程で、もしも牛金将軍を発見できたら、救出します」
「わかりました」
「総員、突撃開始!」
六百の兵が一丸となり、突撃を開始する。崩れた防御陣に突貫。柵を乗り越えて中に乗り込むと、ぎょっとした趙雲軍の兵士達が見えた。先鋒の王桓が、無言で突き伏せる。そのまま、敵中枢をなぎ倒しながら一気に抜ける。
趙雲が来た。
「魏の武人、王桓! 一手所望いたす!」
「若武者が、威勢が良いな!」
口を大きく開けた趙雲。相当な老人にも見えるが、王桓の言葉は確かだった。二合だけで、王桓は見る間に乱れ始める。馬術も槍の腕も、まるで次元が違う。側を駆け抜けながら、士載は牛金を探した。
いた。
側に、蜀漢の兵が倒れている。縄で縛られた牛金は、馬を探しているようだった。
「牛金しょうぐーん!」
「士載か!」
副官がさっと馬を下り、牛金に貸す。手の縄を斬り、馬の上に押し上げた。周囲では、混乱が収まりつつある。
音もなく近付いてきた騎兵。慌てて反応したのは、数名の護衛だった。
鋭い斬撃に、一人が斬り伏せられる。なんと、女の武人だ。
「し損ねたかっ!」
「撤退! 敵の中枢は一撃しました! 全員、陳倉に向け離脱!」
わっと味方が逃げ崩れる。王桓も趙雲との戦いを諦め、さっと逃げに入った。他にも若干だけ、救出できた味方がいたようだが。しかし、これは失敗だったかも知れない。
趙雲軍を抜ける。十七名が欠けていた。そして、立ちはだかる影。
廖の旗を掲げている。数は千五百以上。どうやら、趙雲軍の側に、伏兵していたらしかった。
後ろからは、二千を越える趙雲軍が迫っている。
前後共に隙はない。しかも、味方は強引な突破戦で少なからず兵を損失している。これまでかと、士載は思った。
槍を取られる。
牛金だった。
「私が、突破口を開く。 あの陣を抜ければ、もう陳倉まで行ける」
「牛金将軍!」
「立派になったな、士載、いやケ艾。 陳倉での見事な守備については、兵士達に聞いている。 親代わりとして、鼻が高いぞ」
頭を乱暴に兜の上から撫でられた。涙がこぼれてきた。
牛金は、死ぬ気だ。
「私のような無能な男でも、最後には父になれるのだな。 誇り高いことだ」
「い、いやですっ! 生きて、生きてください! 私が、敵陣の隙を見つけて」
「隙などあるか。 いや、それはだれかが作らなければならない。 そしてそれは、未来あるお前ではなく、私の仕事なのだ」
静かだった。
他の兵士達も、泣いていた。
牛金が槍を高々と掲げる。山の中だから、むしろ逆に、声はよく響いた。
「私は魏の将、牛金っ! 私の首を取れるものなら取って見ろ、蜀漢の腰抜けどもめ!」
「い、いかないで、逝かないでよ!」
「さらばだ、ケ艾。 父はもう行くぞ。 子は成せぬとも、生きて歴史に名を残せ」
牛金が馬腹を蹴る。
手を伸ばそうとするが、王桓に抑えられた。
「今は、貴方の仕事を。 ケ艾将軍」
何も、言い返すことが出来なかった。
心地いい。
無数に飛んでくる矢を見つめて、牛金はそう思った。全身から力が沸き上がってくる。まるで、夜叉か羅刹が体内に宿ったかのようだ。
吠える。
槍を振り回して、矢をたたき落とす。無数に迫る廖化の麾下軍勢。千五百以上。まっすぐ、其処へ突っ込んでいく。
先頭の一人を、突き落とした。槍を振るい、右に一人を払い落とす。左に二人目をたたき落とす。正面の一人を突き殺した時、脇腹に痛み。槍が突き刺さっていた。
なんの。笑みさえ浮かぶ。
そして、加速する思考の中、縦横無尽に槍を振るった。
叫ぶ。
生きている。
いや、今まで生きた。
家庭は無いに等しかった。だが、最後の数年。阿呆ではあっても、非常に優れたケ艾と、理想的な親子関係を構築できたと思う。
全身に、次々矢が突き刺さってくる。
だが、痛みなど感じない。意識が、既に肉体を超越し始めているのだと分かった。
ケ艾。我が子よ。呼びかける。聞こえる訳などないのに。せめて父に、その勇姿を見せて欲しい。また、呟いていた。
廖化が見えた。蜀漢の猛将は牛金を見ると、自ら槍を振るって突きかかってきた。激しく打ち合う。体が早く動く。いつもよりもずっとだ。十合、二十合。火花を散らし、刃をかわす。
「おおおおおおっ!」
「せああああっ!」
吠えたけりながらも、見る。
廖化軍の陣の一角を、ケ艾の軍勢が突破していく。おおと、牛金は呟いていた。見事だ。殆ど兵を失わず、突破作戦を成功させた。既に自分の手腕を、確実に越えている。これならば、これならば。
同時に。
前後左右から突き出された槍が、牛金の体を貫いていた。鎧を貫いた槍の穂先は、内臓を縦横無尽に傷つけ、切り裂いた。致命傷だった。
「貴様ら! 男同士の戦いに、水を差すかっ!」
どうやら、兵士達の中に細作が混じっているらしい。廖化が猛り狂うが、彼らは涼しい顔であった。
いつのまにか。闇が光に置き換わる。
牛金は、見た。
ケ艾が魏の大将軍となり、蜀漢を滅ぼす姿を。何年先かはわからない。だが、あのものは、確実に歴史に名を残すのだ。
槍が引き抜かれるのが、どうしてか分かった。
失われる意識の中で、牛金は。己が生きた証を、確かに愛娘の未来に感じていた。
肩すかしとはこのことだと、報告を聞きながら司馬懿は歯ぎしりをしていた。
決死隊が帰ってきて、ことごとく伝えてくる。
今まで自分たちを包囲し、破滅の縁に追い込もうとしていた蜀漢軍は、影も形もない。反応は、兵士達と将官達で正反対になった。兵士達は意味がわからない様子で小首を傾げていた。将官達はあまりの屈辱に青ざめていた。
特に酷い被害を出したのは、味方の盾になる形で壊滅した牛金の部隊と、それに先鋒の王双。この二つの部隊では、合わせても千弱程度しか生存者がいなかった。曹真の本隊、司馬懿の別働隊なども大きな被害を出しており、西涼から駆けつけていた韓徳の増援部隊はほぼ壊滅。韓徳自身も武勇を発揮する暇もなく負傷し、西涼に後送されることが決まっていた。
天幕で横たわっていた曹真に、司馬懿は拝礼して報告する。何も出来なかった。全滅は食い止めたが、それだけだった。
「最終的な損害は、三万を超えました」
「口惜しいか、司馬懿将軍」
「はい。 何とも」
「だが、それでいい。 それに、今回の一件で、諸葛亮への対応策が分かってきた気がする」
曹真の顔色はどす黒い。
王双と、何より牛金の戦死を聞いてから、曹真の病状は致命的な段階にまで悪化した。恐らくもう保たないだろうと、医師は言っている。曹真は今年の蜀漢軍に対する防衛戦でこそ大きな被害を出したが、それ以外では大きな功績を挙げ続けてきた魏の功臣だ。その実績は、お坊ちゃま育ちだった曹休よりも遙かに大きく、とくに戦略的な識見に関しては、当代随一と言って良かった。
諸葛亮に、殺されたも同然だ。
そう思うと、司馬懿の中で黒い怒りが渦巻く。
自分の出世を考える心と、引き立ててくれた曹真に対する恩義が、ぶつかり合う。それは白と黒の渦となって、司馬懿の心を痛めつけるのだった。妻は惰弱だとか脆弱だとか言うかも知れないが、司馬懿は苦しいのだ。
「司馬懿将軍」
「はい」
「諸葛亮と戦おうと思うな。 奴には、勝たなくていい。 ただ、負けなければいいのだ」
「……それは、私に屈辱を味わい続けろという事でしょうか」
曹真は頷く。
司馬懿も、それは何処かで分かっていた。今回も、諸葛亮に勝とうとしてしまったから、手の内を全て読まれたのだ。そして、全軍の三割近い兵を失うという、破滅的な敗北を味わうことになってしまった。
「誇りを捨てよ。 見栄も外聞も考えるな。 それで、やっと諸葛亮と戦える下地が整うだろう」
「し、しかし部下達が納得しますでしょうか」
「納得させよ」
曹真はぴしゃりと言い終えると、虚空を見つめた。
既に、現実と幻の境が、曖昧になりつつあるようだった。
「牛金どの。 すまぬ。 私の指揮が到らぬせいで、そなたをそのような姿にしてしまいましたな」
曹真は、牛金と立場を越えた友情をはぐくみ、二人きりの時は敬語で接していたと司馬懿は聞いている。
流石に目頭を押さえて、その場を下がる。そして、主だった武将達を集めた。
「諸葛亮、許すまじ! 是非復讐戦を!」
そう叫んだのは、曹真に大きな恩を受けていた陳泰だった。夏候覇も同じく、隣で血涙を流している。
郭淮はただ沈痛だった。曹真も牛金も同じ年代の相手であり、ともに戦場を駆け抜けた仲間である。それを一度に二人も失うことになったのだ。知勇の均衡が取れた郭淮は、知将曹真と、猛将牛金の間に立ち、渋い活躍を続けてきた男だ。だが、今はその冷静さも失われ、ただ悲しみに支配されていた。
翌日、陳倉に駐屯していた?(カク)昭が、ケ艾とともにきた。兵力は一万にふくれあがっていた。敗残兵を根こそぎ吸収してきたらしい。喜ばしいことでは、確かにあった。
ただ。
二人とも、雰囲気が変わっていた。
?(カク)昭は老いが進行していた。髪も髭もすっかり真っ白になり、豪壮だった雰囲気に衰えが目立つ。
ケ艾は今までのぽやっとした雰囲気が消えている。口元を引き結び、目には強い光が宿っていた。相変わらずのんびりとしているのだが、何処か心の奥底に強い闇を抱え込んだらしいと、司馬懿は見た。無理もない話である。父親も同然だったという牛金を、目の前で失ったというのだから。
「二人とも、よく生きて戻った」
「申し訳ありませぬ。 結局何も出来なかったように思えます」
「いや、それは違うぞ?(カク)昭。 何も出来なかったのは我らの方だ。 結局諸葛亮に戦略を逆手に取られ、味方を多く失ってしまった。 口惜しいことだ」
力なく言う?(カク)昭。三万もの味方を失ったことは、当然聞かされているのだろう。陳倉の様子を聞いて、司馬懿は大きく歎息した。もう、城そのものも使い物になりそうにはなかった。
「ケ艾も、ご苦労であったな。 活躍については聞いている」
「いえ、私は何もしていません。 私のことは良いですから、父を手厚く葬ってあげてください」
「分かっている」
ケ艾は牛金のことを父と言った。
流石に普段からケ艾を敵視している陳泰も、目頭を押さえていた。司馬懿はどちらかと言えば牛金が嫌いだったが、心まで木石である訳ではない。それに、男そのものの死を遂げた牛金に関しては、色々と思う所もあった。
嫉妬を感じることはあっても、それで相手を貶めようとは思わない。今はただ、冥福を祈るばかりであった。
陳倉で、張?(コウ)軍と合流。張?(コウ)も精鋭五万を率いて急行してくれていたようだが、戦場には間に合わなかった。三万の犠牲が出たと報告すると、魏の宿将は大きく歎息した。
「そうか、三万も失ったか」
「今年だけで、対蜀漢、対江東、合わせて十万近い兵を失いました。 このまま蜀漢の侵攻が続くと、下手をすると西涼を失陥しかねません」
「そうだな。 私からも、陛下に申し上げておく。 陛下は幼いが聡明なお方だ。 この事態を受けて、適切な対応をしてくださるだろう」
拝礼する。
司馬懿の権力は、恐らくこれで拡大することになるだろう。妻は喜ぶだろうが、気は重い。
何しろ、あの諸葛亮と。これからは、まともにぶつかり合うことになるのだろうから。
陳式は撤退する味方を、ある意味唖然として見つめていた。
行動の限界点に立っていたのはわかる。あのまま無茶な用兵が続かなかったこともである。
だが、今回は江東まで引っ張り出して、広域戦略を展開していたのではなかったのか。こんなに簡単に引いてしまって良かったのか。既に敵は合計しても十万を切っている。このまま押せば、勝てたのではないのか。
納得いかない陳式は、軍がひとまとまりになったところで、諸葛亮の陣屋を訪れた。これほどの無茶かつ壮大な戦略を実施した男の陣にしては、其処はあまりにも粗末だった。途中視線を感じたのは、多数放たれている細作達によるものだったのだろう。
陣屋に踏み込んで、最初に出迎えたのは諸葛亮の細君であった。相変わらず扇子か何かで口元を隠している。容姿はよくわからないが、目元を見る限り、噂のような醜女とはほど遠い事は見て取れた。
「何用ですか、陳式将軍」
「撤退と聞いて、来ました。 納得が行きませぬ」
「……実は、魏延将軍もさっき来ました。 貴方で二人目です。 まあ、貴方ならば、良いでしょう」
奥に通される。意味がわからず、天幕に入った陳式は、絶句していた。
目を閉じたまま、諸葛亮が伏せっている。呼吸は落ち着いているようだが、周囲の医師達の様子からして、尋常ならざる事態が起こったのは明らかだった。
「こ、これは」
「今回の広域戦略が、全て夫の頭から出ていたことは、貴方くらいの将官なら理解していると思います。 その結果が、これです」
「丞相は」
「命には別状無い、という事です。 しかし、しばらくは内政に注力して貰うつもりです」
蜀漢は、事実上諸葛亮が全てを担っている国家だ。そして噂によると、江東の四家も、諸葛亮によって全てを握られていると聞く。
中華の半分を全て把握し、駒のように動かして。今回、少なからぬ成果を上げた。このまま後半年意識が保てば、魏は滅びていたかも知れない。
しかし、諸葛亮も人間だったと言うことだ。如何に常人離れしていても、その頭脳には限界もあれば出来ないこともあった。
これ以上は二の句を告げず、陳式は天幕を出た。姜維がいて、抱拳礼をされる。まだ若いというのに、分別のついた男だ。
「今回は見事な用兵、お疲れ様でした。 勉強にさせていただきます」
「ああ。 姜維どのも、一軍を率いて活躍したと聞いている」
「一軍と言っても、二百程度の兵です。 夏候覇の部隊を急襲して三百ほどの損害を与えましたが、大局には影響がありませんでした」
そう涼しい顔で言う姜維。確か夏候覇の率いる兵は一万を超えていた筈で、それに二百の兵で損害を与えたのである。充分に見事な用兵だと言えた。諸葛亮が、目をかける訳である。
見ると、魏延の部隊が先鋒になって、撤退を開始している。今回の戦役では、味方の損害は千を超えていない。その損害の殆どが陳倉攻めによるものであった。しかしながら、戦略的には寸土も得ていないという事で、敗退と言っても良いのかも知れない状況であった。
いや、これは敗退だと陳式は思う。
これだけ広域での戦略を展開していたのである。魏の軍勢を江東に多く引きつけていたし、有能なことで知られる牛金は戦死したらしいと言う報告が入っている。それだけではなく、曹真も体調を崩していて、もう命が危ないらしい。魏の先鋒である王双も討ち取ったし、その精鋭五千も全滅させた。
それなのに、寸土も得られていないのだ。
「何だか、悔しい話だな」
「私には複雑です」
姜維は苦笑いをした。
彼の母は、細作部隊が救出して、とっくに蜀に移っている。故郷の者達も、それは同じだろう。
だが、既に母は年老いていて、精神に変調をきたしているという。自分が魏にまだいると思いこんでいて、姜維のことが認識できないらしい。そして時々、姜維に帰ってきて欲しいという手紙を出しているとか。
実際、魏に戻せば、正気に戻る可能性が高いと、医師も言っているという。だが、今回の結果で、それはかなわぬ事となった。
「殿軍は私が努める。 姜維どのは、丞相を守って、漢中に引き上げて欲しい」
「わかりました。 ご武運を」
「何、今回に関しては楽な仕事だ。 余程の事がなければ、魏軍は追撃してはこんよ」
陳式は、北の空を見上げた。
帰ってからどう父に報告しよう。今から、そればかりが脳裏をよぎっていた。
3、許儀の憂鬱
血相を変えた許儀が部屋に飛び込んだので、女官達はひいっと分かり易く悲鳴を上げた。周囲を見回しながら、許儀は押し殺した声で言った。
「陛下は」
「きょ、今日はまだ来ておられませぬ」
「そうか。 騒がせて悪かった」
大股で部屋を出る。許儀は苛立ちを隠せなかった。
曹叡は普段とても聡明な少年だ。少しずつ大人になりつつある現在でも、その評価に変化はない。
しかしここのところ、妙な言動が時々見られるようになってきたのだ。
女官達が変な事を教えたのではないかと最初勘ぐったのだが、どうも違うらしい。曹叡の中には、二人の心が住んでいるとしか思えなかった。しかも、どうやら「二人目」は派手好きで放蕩な、女らしいのである。
集まってきた兵士達も、曹叡は見あたらないと言った。大きく歎息すると、許儀は探索範囲を拡げさせる。後宮に兵士を入らせる訳にはいかないので、こう言う時には武術を納めた女官を使う。許儀が直接武術を仕込んだ女官もいる。彼女らは、下手な兵士より余程腕が立つ。
結局、曹叡は昼少し前に見つかった。
後宮の庭木に登って、焼き菓子を食べていた所を女官が見つけた。許儀が出向くと、曹叡は面倒くさそうに言う。
「何だ、もう見つかっちゃったの?」
「陛下、その木からお降りください。 許儀は情けのうございます」
「あーはいはい。 毎日毎日、よくもまあ滅私奉公できるよね。 あー鬱陶しい」
普段の曹叡からは考えられない台詞である。許儀が無言で長刀を振るい、空中に投げ出された所を受け止める。
地面に下ろした時には、曹叡は普段の聡明な少年に戻っていた。
「あ、許儀」
「お戻りですか、陛下」
「ごめん。 また、彼女が表に出ていたんだね」
「……」
幼い頃から曹叡を守り抜いてきた許儀である。嘘をついているかそうでないかくらいの区別はつく。
そのまま、執務室に連れて行く。重臣達はほっとした後、執務室の外に出て、許儀に食ってかかった。
「陛下をご教育為されるのも、許儀、おぬしの仕事であろう」
「大傅(皇帝の教育係)どのが高齢である事もある。 しっかりしてもらわないと困るぞ」
「面目次第もございませぬ」
司馬懿はじっと黙っていた。彼は少し前に戻ってきて、体調を完全に崩した曹真を見舞った後、曹叡に拝謁する機会をうかがっていた。今日の午前中にそれをするつもりだったので、余計腹立たしいのだろう。
既に程c、郭嘉、魏志才、荀ケや荀攸などは、とうにこの世を去っている。そして曹操の参謀を務めた最後の知恵者である賈?(ク)が少し前に亡くなってから、曹操時代の二線級、三線級だった参謀達が、魏の重職を占めている。彼らは有能ではあるが、昔に比べるとどうしても質が落ちる点が否めない。今も彼らは魏の国よりも、自分の体面を重んじる節があり、許儀は少し苦手だった。
「しかし陛下は、普段こそご聡明なのに、どうして時々こうも突飛になられるのか」
「陛下も普通の子供だと言うことです。 思うに、陛下はあまりにも聡明すぎる上に真面目すぎるのでしょう。 その分、心には強く闇が溜まるのかと思います」
臆することなく言うと、重臣達は押し黙る。いざというときには、一歩も引かない許儀の性格と、許家が果たしてきた重職を思い出したからだろう。
司馬懿がようやく口を開く。
「まだ陛下は幼いこともある。 酒や女に逃げることも出来ないだろうし、何か気晴らしになるようなことを許儀将軍、そなたが見つけてやってはくれぬか」
「わかりました。 女官達にそれは任せていたのですが、私からも探してみます」
「頼むぞ。 それと、私からの拝謁の機会を、出来るだけ早く作って欲しい」
「そちらも善処いたします」
司馬懿が場を纏めてくれたので、やっと状況は落ち着いた。執務室にはいると、既に曹叡は大帝国の君主として恥ずかしくない居住まいに戻り、せっせと書類を片付け始めていた。
側には何名かの学者が控えていて、曹叡の質問には逐一応えている。曹叡は政治的な問題などにもかなり鋭い指摘をしてくるようになってきていて、彼らも舌を巻くことが多いようだった。
許儀としてもこの辺りは鼻が高い。
しかし、曹叡はその過程で、かなり無理をしている。それも、否めない事実であった。実際問題、心に二人目の人間が宿るなどと言うのは、尋常なことではない。似たような事例は許儀も聞いたことがあるが、そもそもこれは余程幼少期に苦しい目に会っている者が発症する病だとか。
「許儀、僕の代わりに怒られていたんだね」
「お気になさらず、陛下。 これも私の仕事にございます」
「すまない。 僕の心が弱いから、彼女に好き勝手をさせてしまっている。 できるだけ抑えようとしているのだが」
抑えようとすればするほど、抑圧の象徴であるもう一人の曹叡は、力が強くなるだろう。人格が完全に交代したら、魏という国は終わりだ。
元々この国は、君主が真面目で有能であることを前提に成り立っている。今もそれは同じである。実際の政務を取り仕切っているのは重臣達だが、彼らも曹叡が皇帝として相応しいことは一致した見解を見せており、故に権力闘争も最小限で済んでいる。
権力闘争の毒素が表に出てこないから、将軍達の士気も高い。末端の兵士達も、魏という国の存在を確かなものとして認めている。
だが、皇帝が堕落したら、それらの事も過去の栄光に成り果ててしまうだろう。
許儀は部屋を出る。女官達が、隣室に心配した様子で集まっていた。色々と憶測で話し合っている彼女たちは苦手だ。同情されても、具体的な案を出せる訳ではなく、無駄な話をする時間も多い。
国政に強い造詣を保つ女性もいる。だが残念ながら、現在後宮にそのような人物はいないようだった。
一旦自室に戻ると、寝台に腰掛けて歎息する。泊まり込む仕事も非常に多いので、事実上此処が許儀の家と言って良かった。これから曹叡は出征することも出てくるだろうし、そんなときくらいしか、外に出られなくなるかも知れない。
少し仮眠を取ってから、戻る。警備の者達も、交代しながら仮眠を取らせておいた。報告を聞くが、特に何もない。腕が鈍らないように、休憩時間を使って技を磨いておくように言っておく。
外に出ると、既に夜になっていた。
曹叡はまだ仕事をしている。流石にもう止めさせておいた方が良いだろう。
「陛下」
「許儀か。 もう夜みたいだね」
「そろそろお休みください」
「そうはいかないよ。 もう一人の僕が、随分時間を浪費してしまったみたいだし、仕事も溜まっているんだ」
何だか哀れだ。発育があまり良くない曹叡は女の子のような容姿であり、実際宮廷の女官達にも、きちんと子孫を残せるのか不安だという声が上がり始めている。そんな事はないと言いたいのだが、もう一人の曹叡が心の中に住んでしまっていることもある。今後、何が起こっても不思議ではなかった。
だから、無理にでも休ませなければならない。
「陛下が休まなければ、下々も休めませぬ。 幸いにも、急を要する仕事は既に片付いている様子です。 今はお休みください」
「許儀、そうか。 分かった」
背負おうかと言ったが、曹叡は自分で歩くと言った。この子は父に疎んじられていた事もあり、甘えることも方法も知らない。
兄のように育った許儀は、武芸や男らしい遊びだったら教えることが出来る。だが、それらで、この精神的な負担をどうにか出来るとは思えなかった。
曹操はそれを自力でどうにかしていた。
曹丕は嗜虐的な言動で、それを晴らしていた。
曹叡は恐らく、心の中のもう一人が、闇の中でそれを貪り喰うことで、精神の均衡をどうにか保っている。
まだ幼いから、酒も女も発散の手段としては考えられない。
それが、魏にとって、最大の問題点であった。
曹叡は余程疲れていたらしく、こてんと寝台に転がると、そのまま寝転けてしまった。風邪を引かないように布団を掛けると、許儀はふと良いことを思いついた。影武者を、仕立てるのはどうだろうか。
仕事に関しては、重臣を何名か見繕って、代行させる。最重要の任務だけを曹叡にさせて執務の経験を積ませ、それ以外は影武者に印を押させるのだ。それで、大人になるまでなら、どうにか耐えられるかも知れない。
しかし、それをやるには重臣達の協力が必要だ。特に司馬懿は今後のことを考えると、味方に付けておかなければならないだろう。
しかし、曹操が司馬懿を重用しなかったと言うことが気になる。
こう言う時、孤独な事が徒になる。後宮の女官達は頼りにならないし、宦官はもっと役に立たないだろう。司馬懿以外に優秀な武官がいればいいのだが、しかしどうしたものか。
時間は悩んでいる間に、あっという間に過ぎていった。
何も対策は出来なかったが、その間も曹叡のことはしっかり護衛する。だが、何か策を練らなければならないと思う心は、容赦なく許儀の心を痛めつけていった。
夕刻から、やっと司馬懿と曹叡の面会を行うことが出来た。郭淮、陳泰、夏候覇、ケ艾を連れて現れた司馬懿は北伐における諸葛亮の凄まじさを目に焼き付けていたらしく、その人間離れした知略について、蕩々と語った。
そして、顔を上げる。
目には、炎が宿っていた。
「恐ろしき男諸葛亮ですが、この司馬懿、奴の弱点を見つけましてございまする」
「弱点とは」
「奴は、武と知という点が違いますが、楚の覇王と同類の人種かと思われまする」
「項羽とか」
曹叡も、項羽の名前くらいは知っている。というよりも、項羽と言えば、幼い子供が最初は誰しも憧れる人物だ。その点では、曹叡も代わりはないと言うことである。
項羽。
漢が成立する以前の、楚漢戦争時代の、楚の若き英雄王である。あまりにも圧倒的に強く、当時の英雄豪傑達がどれだけ束になって掛かっても、ついに武勇で彼を退けることが出来なかった。倒れる時も、百五十を越える兵士達を、孤立無援の、しかも疲弊しきった徒歩の状態から倒したと言うから凄まじい。近年で言えば関羽や張飛が束になって、やっと勝負が出来るという次元の武人であろう。
司馬懿は言う。
「項羽は、あまりにも強い男でした。 しかし、大きな欠点をもっておりました」
「残虐であることか」
項羽には残虐性の強い点があり、特に感情を激した時は、まるで悪鬼のごとく無抵抗の民を殺すこともあった。その異常な残虐性が、項羽が一時は取った天下を維持できなかった大きな理由であった。
だが、司馬懿は違うと、首を振る。
「それは欠点としては、致命的なものではありませぬ。 項羽の欠点は、何よりも、自分が有能すぎるが故に、部下の誰をも使うことが出来なかったという事にありまする」
「それが、欠点だというのか」
「はい。 致命的な欠点にございます」
諸葛亮も其処は同じだと、司馬懿は言った。
今回の攻撃で、蜀漢が撤退した理由はよくわからないが、それまでの過程で、数にして四倍を超えていた魏軍は擬似的な撤退に引きずり込まれ、縦深陣の中で袋だたきにされた。無惨な戦だったが。生存者達の話を纏めると、不思議なことが分かってきた。
どうも蜀漢軍も、己がどうしてその地点に移動するのか、全くわからないという様子で戦っていたのだという。
「それは、つまりどういう事なのだ」
「敵も味方も、諸葛亮の掌の上だけで、戦っていたと言うことにございます」
「何と、諸葛亮とは、それほどに恐るべき相手なのか」
「恐らくは江東も、奴の掌の上で踊っていたに過ぎませぬ。 しかし、逆に其処に私は勝機があると思います」
この戦略構築手腕は、もはや人外の域に達している。しかし諸葛亮は人間である。人間である以上、このような非常識な知略構築や戦略戦が、長続きする訳がない。そう、司馬懿は言い切った。
確かに、それは許儀も同意である。あの曹操でさえ、有能な部下達は多く集めて、それらを活用して天下の三分の二を手中に収めたのだ。自分一人で出来ることには限界がある。それを今、強く感じている所でもある。
だが、司馬懿はそれを逆用するという。
「逆用するとは、どういう事か」
「これは曹真将軍が、命を賭けて編み出してくださった、諸葛亮の対策法です。 要は、諸葛亮と、戦わなければよいのです」
「何と」
「諸葛亮に対して、勝とうと思うから、罠に掛かるのです。 兎に角、魏の領内に防衛拠点を分厚く作り、其処に兵を配置し、一切出て戦おうとせず、諸葛亮の攻撃に対して守るだけとします。 これであれば、如何に諸葛亮が神算鬼謀を巡らせようが、どうにもなりませぬ」
なるほど、合理的な策だと許儀も思う。
ふと、ケ艾と目があった。噂では聞いていたが、おっとりした女でありながら、いろんな事情で軍にいて、高く評価されているという。しかし、ケ艾の目は冷たく闇を湛えていて、おっとりしているようには見えなかった。
「分かった。 諸葛亮がそなたが言うとおりの存在であれば、有効な策であろう」
「流石陛下。 お若いのに、優れた理解力にございます」
「追従はよい。 それで、朕は何をすればいい」
「この策の一番の問題点は、如何にして将軍達を制御するかにありまする。 我が軍は、恐らく諸葛亮軍の十倍下手をするとそれ以上の損害を出しながらも、寸土を巡って争わなければなりませぬ。 そのような戦で、手柄を立てたいと思っているであろう将軍達は納得いたしませぬ。 その時、陛下に勅を出していただきとうございます」
曹叡は厳しい目で司馬懿を見つめていた。
額には汗が浮かんでいる。聡明とはいえ、まだ子供だ。利害や相手の心理を洞察するのには限界がある。ましてや司馬懿は気力体力ともに最も充実している年代で、相当な古狸である。
しばし後、曹叡は大きく歎息した。
「分かった。 そなたらは、異存がないか」
「ありませぬ。 諸葛亮を滅ぼせるのなら、私は鬼にでもなります」
最初に言ったのは、郭淮だった。この間戦死した牛金とは、親友だったという。夏候覇がついで立ち上がった。
「同意いたします。 諸葛亮の用兵は、人間のものとは思えませんでした。 あのような敵を相手にするには、軍全体の結束が必要になりましょう」
「小官も同意いたしまする。 司馬懿将軍のご発言は、まこと理にかなっております故」
「そなたはどうか」
自分より少しだけ年上に見えるケ艾に、曹叡の声は若干好意的要素を含んでいた。
多分、見かけも年も近そうな相手に、心理的な同調を求めたのだろう。だが、ケ艾の声は、低く沈んでいた。
「私は、全面的には同意しかねます」
「何? 理由を申してみよ」
「と、ケ艾」
陳泰が困惑した声をあげたが、じろりと一瞥するだけで、ケ艾は黙らせた。
「諸葛亮が手強い相手で、全体の意思の統一が交戦には必要不可欠だと言うことに関しては、全面的に同意です。 しかし、いちいち勅を出していただいていては、遅すぎます」
「ならば、どうすればよい」
「司馬懿将軍を、曹真将軍の後継として、大将軍に。 そして、対江東の戦線に展開している戦力の何割かを、対蜀戦線にお回しください。 江東など、どのみち欲に狂った四家の飼い犬に過ぎない腑抜けの集まりです。 陸遜でさえ、荊州以外で好き勝手に振る舞うことは出来ません。 兵は山越から強制的に挑発した忠誠心の低い者達ばかりで、あのような連中は、最低限の防衛戦力だけ残しておけば事足ります」
あまりにも辛辣な台詞の数々に、流石に周囲も黙り込んだ。司馬懿でさえ、呆然として目を剥いている。
何度か咳払いをした後で、曹叡は頷く。
「そうか。 確かに理にかなうな」
「ご一考願います」
ケ艾の言葉を受けて、曹叡は頷いたが、やはり残念そうだった。
理解者になってくれそうだったケ艾が、冷たく突き放したのは、聡明な曹叡には一目瞭然だった、からだろう。
皆が下がると、曹叡は熱を出した。すぐに政務を休止し、寝室に下げる。曹叡は弱々しい力でもがいた。
「だ、駄目だ。 今日はまだ、重要な仕事が残っている」
「今はお休みください」
「ならぬ。 朕が仕事をしなければ、民が苦しみ、文官達が困り、悪徳官吏が横行することになる。 お、起こせ。 朕は仕事を」
鳩尾に軽く一発当てて眠らせた。そうしないと、無理に起きだしてでも仕事をしようとするのは目に見えていたからである。
諸葛亮と、曹叡はどこか似ているのかも知れない。悲しいほどに能力が違っているが、多分責任感や何かを成し遂げようという意思で、二人に違いはないはずだ。
曹叡が眠ったのを見届けると、許儀は寝室を出た。
魏は、滅びないだろう。
だが、一人の子供が、今此処で滅んでしまうかも知れない。それは何としても阻止しなければならないと、許儀は思った。
空には星が瞬いている。
闇の中で、小さな光が無数輝いているのを見ると、許儀は曹叡の立場を思い出して、やるせないと感じた。
4、それぞれの抱えるもの
馬上で乱暴に骨付き肉を囓っているその男には、左手がなかった。しかしそれは決して弱さにはつながっていない。男の顔中に走っている向かい傷や、あえて放置されている鎧の傷などとあわせって、むしろ凶暴さや戦歴を分かり易い形で示すものとなっていた。
見るからに軍人という姿をしたその男の周囲には、無数の如何にも凶暴そうな兵士達が控えており、舌なめずりして命令を待っていた。控えている彼らの目はぎらつき、餌を待たされている猟犬を思わせる姿であった。
軍勢の数は、およそ三千。
旗印は、潘。
江東の武臣の一人、古豪とも呼ばれる男。潘璋であった。
蜀漢との戦で左手を失って以降、潘璋は昔と同じく、山越の「討伐」を主な任務とし始めていた。既に今年だけで四つの大きな集落を「討伐」しており、五百人を超える奴隷を獲得。三百人を兵士として送り込み、「反逆者」百名以上を討ち取っていた。
輝かしい「戦果」である。そして今、その戦果が、更に増えようとしていた。
骨だけになった肉を放り捨てると、潘璋は、舌なめずりしながらゆっくり指揮剣を引き抜く。そして、一言だけ言い放った。
「かかれ」
「かかれーっ!」
絶叫と、喚声が上がる。
山に躍り込む藩璋の部下達。既に包囲され、逃げ場も無い山越の村を、後は処理するだけだった。粗末な柵が引き倒され、絶望的な抵抗が一蹴される。後は、ただ狩りが行われるだけだった。
女の悲鳴がしているが、すぐにすすり泣きに変わる。縛られ、連れて行かれる若い者達。老人だけは残してやる。子供も、もちろん逃がさない。裸同然の姿にされた女達の姿も、混じっていた。
縛り上げられ、連れて行かれる山越の若者が叫ぶ。全身に原始的な入れ墨をしている、焦げ茶の肌が目立つ精悍な男だ。
「巫山戯るな! 俺達が何をした!」
「黙れ、蛮族!」
「蛮族は貴様らだ! 平和に暮らしていた我らを捕らえ、売り飛ばし、兵として前線に送り、何が文明人だ! 悪魔! 鬼! 犬畜生っ!」
兵士が若者を殴り倒したので、藩璋も流石に苦言を呈する。
「おいおい、それは売り物だ。 壊れたら困るから、乱暴には扱うなよ」
「ひひひひっ、分かってます、藩璋様」
「でも、女は味見しても良いですよね?」
「まあ、適当にな」
藩璋も、残虐行為を見るのは嫌いではない。むしろ大好きだ。だから、兵士達を止めない。勇んで村の暗がりに散っていく兵士達。
この国は便利だ。漢民族以外の存在は全て人間と見なしていない。だから漢民族に対して行えば狼藉になることも、山越の民に対して行えば軍功となる。
こうして得た奴隷により、江東は栄えている。
噛みつきそうな顔をしている若者を、馬上から見下ろしながら藩璋は言う。
「お前、自分たちが何をしたとかほざいていたな」
「そうだ!」
「我ら江東の側に厚かましくも住んでいた。 それがお前達の罪よ」
絶句した民の顎を蹴り上げて気絶させると、藩璋はひとしきり笑った。
周囲の兵士達もそれにならい、凶暴な笑いを爆発させた。
藩璋は、疼く左手のことを思う。いつ頃からだろうか。残虐さに、歯止めが利かなくなってきたのは。
昔から侠客として、凶暴な性質を恐れられていた。江東に仕官してからも、武勇でいつも周囲を恐れさせていた。
だが、最近は違う。
残虐そのものが、藩璋を形作っているかのようだった。分かっていても止められないのだ。こうして弱者を叩きつぶさないと、頭がどうかなってしまいそうだ。
酒を呷る。最近江東で出回っている、とても美味なる蒸留酒だ。これを飲むと、少しだけ凶暴性が収まる。
しかし、代わりに、酒を止められなくなるのだった。
木の陰から、惨劇を見ていた影がある。少し前に村を離れて、難を逃れた山越の少年だった。名前は鳳という。昔、旅をしていた善良な漢人が付けてくれた名前だ。
鳳少年は、大人になったら蜀漢に行くつもりだった。姉が蜀漢に仕えているという噂を聞いていたからだ。
山越は地獄だ。江東の兵士達に襲われ、女子供、若者、皆連れて行かれてしまう。逆らえば村ごと皆殺しにされる。江東の恐怖政治は、子供である鳳少年の目から見てもおかしかった。
だから、逃れようと思っていた。
だが、しかし。今日のこの有様を見て、考えが変わった。
江東は、滅ぼさなければならない。山越は、そうしないと、何時までも此奴らに搾取され続けるだろう。
江東の将軍達は、皆「山越の討伐」で名をあげるとか、鳳少年は聞いたことがある。千事が万事この有様なのだ。許す訳には、いかなかった。
闇に紛れて走る。
身体能力そのものは、江東の連中よりも上なのだ。鳳少年はまだ成人していないが、江東の普通の兵士より、ずっと体は良く動く。さっきの将軍は、油断しきっているのが見えた。あれを殺すことくらいだったら。
しかし、武器がない。
周りを囲んでいる兵士達の数も多すぎる。
だが、しかし、凶暴な笑顔で酒をかっ喰らっている藩璋を見ていると、鳳少年は理性が沸騰するのを感じた。
飛び出そうとした。その肩を。
誰かが、掴んでいた。
振り向くと、其処には童女としか思えぬ、しかし本能から危険な存在だと認識してしまう者がいた。
にこにこと笑顔を浮かべているのに。体が動かない。
まるで、虎を至近に、素手で立っているようだった。そのまま、もの凄い力で引きずって行かれる。抵抗など、出来なかった。
いつの間にか、洞窟の中にいた。山の中腹だというのに、常識外れな規模の洞窟である。何か異様な匂いがする。すぐにその正体に気付いた。
酒だ。
相当な濃度の蒸留酒である。
洞窟の中は広々とした空間が作られていて、相当な数の山越の民が働いていた。蒸留酒は、酒を繰り返し湧かし、濃度を上げることで完成する。その強烈な度数は、通常発行させた酒の比ではない。
辺りは蒸し暑い。何と、山の熱を利用して、蒸留装置を動かしているようだ。息を呑む鳳は、いつの間にか女に突き飛ばされて、地面に両手を突いていた。周囲の山越の者達が、いつの間にか鳳を見ていた。
「林大人。 この子供は、新入りですか」
「如何にも。 先ほど、藩璋に村を滅ぼされた生き残りだ」
周囲から怒りの声が上がる。此処にいる山越の者達は、皆鳳の同類らしかった。傷だらけの男も多い。戦場に引っ張り出され、強力な蜀漢や魏との戦いで傷ついて脱走した者なのだろうか。女子供もいる。皆、心に傷を受けているようだった。
同じ年くらいの女の子が、いつの間にか側で見ていた。にこりと笑われる。右側の歯が、全部無いようだった。酷く殴られたのかも知れない。年齢からいって、もう歯が生え替わることはないだろう。
「名前は?」
「鳳」
「山越の名前でも、漢人の名前でもないね」
「親切な旅人が付けてくれたんだよ」
手をさしのべられるが、自力で立つ。林という女は漢人のようだし、働いている者にも漢人は少なくない様子だ。
そう言えば、江東の孫政権に反抗を続けている漢人の一派もいるという。そう言う連中も、此処で仕事をしているのかも知れなかった。
「此処は」
「今、此処で作っているのは、孫権を殺し、江東を滅ぼすための切り札だ。 そして孫権を殺した後は、四家の者達もいずれ殺し、我らが自由に生きられる世を作る」
一番年かさの男が言う。
林は腕組みして洞窟の壁に背中を預けたまま、じっと様子を見つめていた。
「我らは林大人の手引きで、此処まで組織を作り上げることが出来た。 そなたも山越が受けている非道は見ているだろう。 手を貸せ。 そして、江東の腐りきった四家と、それに担がれている孫政権を滅ぼそうぞ」
周囲から歓声が上がる。
鳳に、受けないという選択肢はなかった。
まさか、これほどの数の同士がいたとは。そしてこれほどの規模の、反抗勢力と設備が存在していたとは。
此処で働けば、江東を滅ぼす一助となると言うのなら。
鳳は、命が尽きるまででも。この洞窟で働くつもりだった。
「俺も、此処で働きます」
「そうか」
老人と握手をする。
此処での作業がどう江東を滅ぼすことになるのかは、これから見極めればいい。
ただ、今は。江東政権に反抗することから、始めたかった。
前代未聞の事態が起こったことを聞かされて、陸遜は唖然とした。
他の二国に対抗すると称して、孫権が皇帝即位したというのである。今まで、その準備を整えている節は、確かにあった。
だが、まさかこの情勢でそれを実施するとは。
陸遜は報告を受けて、しばし絶句して。それから一人きりになると、乾いた笑いを虚空に漏らしていた。
魏の軍勢は、ここのところ増員されていないといっても、荊州、揚州ともに、江東の軍勢を遙かに凌ぐ兵力が配置されている。まともに戦って、勝てる相手ではないのだ。今までどうにか出来てきたのは、守勢に徹することで、何とか凌いできたという事が正しい。曹休に対してこの間些細な勝利を得ることが出来たが、そんなものは局地戦でのものに過ぎず、戦略的不利には何ら変化がなかった。
それだけではない。荊州の民は戦乱を嫌忌して次々中原や蜀漢に逃げており、江東が必死に手に入れた荊州の戦略的価値は下がる一方である。そもそも最大都市である襄陽はずっと魏が抑えているし、江東は不毛な戦いを続けていたに過ぎないと陸遜は最近考えるようになっていた。
そして、襄陽を取れるかと聞かれたら、首を横に振るしかない。
蜀漢と共同しなければ、とてもではないが魏には対抗できないのである。それを、蜀漢の神経を逆なでするようなことをして。確かに表面上は他の国と対等になるのかも知れないが、陸遜には火種を増やしているようにしか思えなかった。
皇帝を名乗る事自体は、別に良いと思う。そもそも皇帝という特殊な尊称自体が、さほど歴史のあるものでもない。始皇帝が始めてから、数百年程度である。漢の劉邦がそれを中華の支配者のものだとして確立し、漢が権威化したものであって、別に特別なものでも神聖なものでもない。
だが、今は時期が時期だ。
朱桓が天幕に来た。朱桓は、今回の件に関して、狐に摘まれたようだと呟いた。
「訳がわかりません。 どうして今、皇帝即位する必要があるのです」
「魏の圧力が弱まったと、四家が感じているのだろう。 愚かな話だ。 諸葛亮の猛攻に対し、魏が総力での防衛を決意した、というだけの事だ。 むしろ此処で魏を挑発するのではなく、諸葛亮と連携して、効率よく敵の力を削るべきだというのに」
「意味のあることではないと、お考えですか」
「時機が拙い。 蜀漢が涼州を陥落させ、長安を奪取したら、此方でも行動を起こせば良かったのだ。 しかし今、結局諸葛亮は戦略的に敗退し、蜀漢に戻って兵力の再編成を進めている状態で、しかも魏はそれに対する備えをしつつある。 もしも蜀漢が破れでもしたら、一気に大軍勢が江東に流れ込んでくるだろう」
そうしたら、陸遜でもどうしようもないだろう。
何か勘違いをしている者もいるが、曹丕による攻撃で、江東はかなり追い詰められていたのだ。国力の差も兵力の差も、その全てが江東に不利に働いていた。魏の名将徐晃による猛烈な攻撃もあったが、それ以上に経済的な打撃が大きく、一歩でも間違えば、江東は滅んでいた。
それを理解していない世代が四家の中に増えているとしたら、それは由々しき事態であった。
数日して、国号は呉だと連絡があった。これから、味方は呉軍と名乗る事になる訳だ。呉軍か。何だか、あまり工夫のされていない国号だと、陸遜は思った。
もちろん感動などはない。
ただ、陸遜は虚しいとだけ思った。
陳到は目を覚ました。既に体は動かず、死に向かっているのがわかる。ゆっくり、左右を見回した。
ずっと夢を見ていた。
関羽と張飛と劉備と、それに趙雲や陳式と、時代を超えた部下や仲間達と、一緒に悪徳官吏と戦っていた。
村を守るために、武勇を振るう関羽と張飛。
自分はその後ろで、後方支援を続けていた。迫る悪徳官吏の私兵達をなぎ倒し、そして義の旗を揚げる。やがて漢王朝は自分たちの活躍で代わり、民には平和な時が訪れるのだ。村は静かに農作業だけを行えば良くなった。そして自分はまた農業に戻り、多くの子や孫らに囲まれて、静かな余生を送るのだ。
現実と、違う。
だから、夢なのだろう。
あの頃の仲間は、もうみんな生きていない。一番最後まで生きていた簡雍も、最近死んだという連絡があった。憤死に近かったという。張飛の変貌ぶりを見て落胆した後だったから、無理もない事だ。
体を起こしてくれと、側にいた侍従に。
もう、体は衰えきっていて、立つことも出来なかった。だから、寝台ごと、外に運び出して貰う。
「陳式はいるか」
「益州に戻ってきたという報告は聞いています。 間もなく、此方に来られるでしょう」
「そうか。 武勲をあげたか」
「はい。 毎度北伐で、見事に働いているという事です」
それは良かったと陳到が呟くと、侍従も笑った。悲しい笑いだった。既に泣き出している者もいた。
外には蒼天が広がっている。雲は少なく、ただ静かな時が其処にはあった。
向寵が来た。相変わらず何を考えているか、よくわからないこの男は。起きだしてきた陳到を見て、眉を曇らせた。
気付いたのだろう。
もう、陳到の時が、無いことに。
「向寵。 何だか、立派になったな」
「有難うございます。 この永安の守りを任されて、一皮剥けたとしたら嬉しいことです」
「妻を大事にしているか」
「お転婆ですが、家に入ってからは私を立ててくれています。 関係は破綻無く続いておりまする」
シャネスは。
今になると、陳到に気があったのかも知れない。だが、家庭はもうこりごりだった。妻だって、結婚した当初は、陳到のことがどうやら好きだったらしいのだ。関係が決定的に壊れたのは、義勇軍に入ってからである。
寝台のまま、外に出して貰う。医師は侍従に対して、好きなようにさせるようにと、それだけ言った。
永安の城を出て、無数に作られた防御施設を抜けると、平和で牧歌的な光景が何処までも広がっていた。民は静かに暮らしていて、それほど疲弊も酷くない。起きだしてきた時には、諸葛亮の北伐が続いていると聞かされていたが。それも、民にさほどの疲弊をもたらしてはいない様子であった。
民の間には明るい声も聞こえる。
これを、守りたかったのだと、陳到は思った。
「お前が守りたかったのは、これなのか」
いつの間にか、隣にシャネスがいた。陳到はすっかり白くなった髭を、皺だらけになった手で弄りながら応える。
「そうだ。 弱き者が蹂躙されず、民が安らかに暮らせる国が欲しかった」
「ならば、満足か」
「不思議と、そうではない。 私は、この安寧から、生涯弾き出されてしまった。 結局私は、この安寧を守ろうとして戦っていたのか、ただ先帝に忠義を尽くして戦っていたのか、よくわからなくなった」
隣に、いつの間にかシャネスはいなくなっていた。確かに今まではいたのだが。
馬蹄の音。
陳式だ。血相を変えて、走り寄ってくる。周囲の侍従達は、皆青ざめていた。泣いている者もいた。
「義父上!」
「おお、陳式か。 また武勲をあげたそうだな」
「私の武勲などは、些細なものです」
なぜか、陳式の声が遠い。手を伸ばすと、掴まれる。劉埼だった男の手は、戦場を駆けめぐった結果、実に逞しい武人のものに変わっていた。
「この平穏と安寧を、守って欲しい」
「分かっております。 この命に替えても」
「大げさだな。 そして、私のような駄目な生き方でもある」
「義父上は、駄目な生き方などしておりませぬ! 人生を蜀漢の建国に捧げた義父上を、誰が駄目だと言いましょうか!」
陳式の言葉は、血を吐くかのようだった。
だが、陳到は、それが駄目なのだと、呟いた。
気付くと、周囲は光に満ちていた。
見える。
みんないた。
先に逝った皆が、迎えに来てくれていた。
陳到は自分の足で立ち上がる。いつの間にか、鎧をまた身に纏っていた。腰には、劉備から貰った宝剣こそ無かったが。ずっと使ってきた、使い古した剣があった。
そうか。弾き出されはした。だが、村を苦しめていたあの役人を殺した時。既に陳到は、農民ではなくなっていたのかも知れない。
魂からして、農民ではなかったのだとしたら。
この人生は、もう無駄だったとは、言えないのではないのか。
「陳到」
劉備から、名を呼ばれる。
皆から、ついで名を呼ばれた。張飛も関羽もいた。
いつのまにか、悩みは消えていた。皆が迎えに来てくれた、それだけで満足だった。陳到は目を乱暴に擦ると、若返った声で叫んだ。
「応! 陳到、悪徳官吏から民を守るために、また義勇軍に馳せ参じましたぞ!」
光が強くなっていく。
やがて、光の中。英雄達の軍勢は陳到を加え、動き出したのだった。
悪徳官吏を倒すために戦う、史実を越えた存在として。
国葬が執り行われた。
ついに、建国の英雄で趙雲に次ぐ武勲をあげた陳到が、永安で逝ったのだ。
喪主は、陳式。これは義理の息子であったのだから、当然であろう。そして、ついに時代の生き残りになってしまった趙雲は、何ら未練がない様子の陳到が棺の中で安らかな表情を浮かべているのを見て、やるせないと思った。
結局蜀漢も、魏とやっている事は同じだ。
漢中でついに引退を表明した馬超も、それをずっと悩み続けていた。魏から連れてこられる民や降伏した兵士達は、結局の所危険な南蛮に送り込まれ、開拓のために命を張っている。それは蜀漢の国力を高めるためで、民のためではあった。だが、何かが違うとしか、思えないのだ。
陳到はきっと、それを分かっていた。
だが。死の時まで、それを引きずりたくはなかったのだろう。
「子龍」
隣で、喪服のジャヤが見上げていた。おなかの中には、三人目の子がいる。だが、ジャヤは。この子は、趙の家を継がせないと言っていた。いずれ一緒に北の地に行って、騎馬民族として暮らすのだという。
趙雲は、それを止めない。妻は充分以上に蜀漢に尽くしてくれた。最後の子くらい、好きなようにさせてやるのが夫としての度量だった。
「陳到は、見事な武将だったな」
「ああ。 地味かも知れんが、蜀漢に不可欠な男だった」
きっと今頃、先帝や関羽や張飛と一緒に、天界で悪徳官吏と戦っているのだろう。そう言うと、ジャヤは複雑な表情をした。
「それで、良かったのだろうか」
「陳到は、悩みながらも、結局民のために生きた。 それを疑う者など誰もいない。 事実、永安周囲の民の間では、既に独自に祭祀が執り行われているそうだ」
「……」
それ以上、ジャヤは何も言わなかった。
言いたいことはわかる。だが、それはあえて口にすることでもないと、趙雲は思う。
諸葛亮や皇帝劉禅も葬儀には来ていた。それだけ、陳到という男が果たしたことは大きかったと言うことだ。
馬超も来ていたが、既に引退したと言うことで、正式な参加ではなかった。劉備が荊州討伐ですっかり変わり果てた姿になってから、馬超も己の道を見失っている観がある。後は馬岱に引き継がせてはいるが、今やかっての豪壮な英雄の面影は、馬超にはなかった。だが、このまま終わる男では無いとも、趙雲は思う。
驚いたのは、面識がない姜維が来ていたことだ。揚儀などの若手には来ていない者もいたのに。
葬儀が終わると、歓談になった。陳式と交流が深い廖化は、自宅で二人きりで飲むのだと言っていた。趙雲はすっかり体が言うことを聞かなくなっていることもあり、医師には酒を止められている。武人として戦う自信はある。だが、好きなように生活していたら、多分もう体が耐えられないのだという実感もあった。
自宅に戻ると、妻に体を揉んで貰う。
長年の酷使で痛めつけられた体は、もうどうにもならないほどに、傷ついていた。
「私は、陳到の生き様を見て、このように生きられたらと思った」
「子龍、お前は後の世で、神格化されるほどの武人になるだろう。 陳到は人間として生きた。 お前とは、多分道が微妙にずれていたのだろう」
「そうだな。 だが、故に羨ましいとも思ったよ」
老人には、もう酒も女も必要ない。
ジャヤも、今更子を欲しがることはないようだった。多分、今おなかにいる子を、最後の子と決めているのだろう。
ゆっくりと、陳到のことを思いながら夜を過ごしていると、伝令が来た。
理由は分かりきっている。
「北伐がまた行われることが決まりました」
「分かった。 すぐに出る必要があるか」
「いえ。 明日から軍議を始めますので、準備だけはしておいてください」
「そうか。 分かった」
また、北伐か。
趙雲は外に出ると、星を見上げた。
諸葛亮は前回の戦いで、精根を使い果たした。そして魏は、それを見抜いている。
神がかった知性を持つ諸葛亮の、人間の部分を今後攻めてくるだろう。
それをどういなすか。それは、諸葛亮の周囲にいる若者達の手に掛かっていると言っても良かった。
(続)
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