燃える陳倉

 

序、姜家軍

 

捕らえられた魏の人間が、次々と蜀漢に後送されていく。殆どは軍属の人間だが、中には魏でお尋ね者となっている連中や、異民族として搾取されている者達もいた。蜀漢でも大して扱いは変わらないだろうに、不憫なことだと、陳式は思った。

最前線にいる陳式の部隊は、相変わらず一万。減っても増えてもいない。増援として、現地の志願兵を少し加えたが、これは戦力として陳式も考えていない。だから実質的には、九千五百くらいで戦うことになる。

敵陣に動きはない。

完全に守りに入ったまま、此方の動きを伺っている様子であった。

陳式の軍勢は、近くの古城を占拠して、それを中心に戦線を展開している。敵は八万ほどが健在で、まともにぶつかり合えばかなり厳しい戦況になる。それなのに敵が動かないのは、陳式の背後にいる諸葛亮の本隊を警戒しての事だった。

架空の戦力で敵を騙しながら、更に出来れば戦線を進めなければならない。

それが陳式の部隊に与えられている、難しい任務であった。

諸葛亮の本隊は、趙雲の部隊も加えて、再び何処かに消えてしまっている。長安を狙っているのか、或いは敵の背後に回ろうとしているのか。陳式には、知らされてさえいなかった。

そう言う意味では、此処が最前線かもわからないことになる。

連絡は今や、細作を使ってだけ行われていた。ひょっとすると、殆どの武将に、そもそも諸葛亮の居場所はわからないのかも知れなかった。

古城の城壁の上から、敵陣を見る。

敵も、此処に来て完全に隙を消してきた。下手に攻撃を仕掛ければ、味方を失うだけである。

だから新兵達を鍛えながらも、陳式は動けなかった。

「陳式将軍」

「どうした」

「妙な一団を捕らえました。 姜家軍と名乗っております」

「姜家軍?」

地方の自治的な事を行っている軍勢には、家族単位でまとまっているため、某家軍と呼称している存在がたまにある。曹操に降伏した黒山賊の張燕は、対外的には張家軍と名乗っていたらしい。

その例を出すまでもなく、殆どが山賊や食い詰め者の集まりである。破落戸が適当な理由を付けて貧民から金銭を巻き上げる口実にしている事も多く、しかしながら戦乱の初期には、こういった小勢力を如何に取り込むかが戦争の重要事となった。

「連れてこい」

「はい」

自身も城壁を降りる。丁度そろそろ夜が来る時間帯だ。厄介事は早めに片付けてしまうに限る。

連れてこられた連中は、山賊そのものだった。ただ、全身から放っている気配が若干違う。どうやら指揮官らしい若者は、妙に鋭い目つきをしていた。武装解除こそされているが、縄を打たれていないのも、堂々とした態度が故か。

「私が蜀漢の将軍、陳式だ」

「姜家軍の将、姜維と申します」

抱拳礼は非常に綺麗で、何処かの御曹司か、何か毛並みの良い存在であることを陳式は感じ取った。それにしても、恐らくは十代であろうこの若者が、荒くれの一団を率いているとは驚きである。

そのまま城の奥に通す。一緒に来ていた二百名ほどには、老幼も多く。食料を分けてやるように、陳式は手配した。これは、超小規模ではあるが、武装した流民であるかも知れない。

奥に通して話を聞く。何でも彼らは天水で太守の馬尊に召し出され、蜀漢迎撃軍の一翼を担う予定だったのだという。といっても、規模は見ての通りだから、せいぜい予備兵力程度であったが。

しかし、此処で手違いが生じた、らしい。

というのも、姜維は推測ですが、と言葉を切ったからだ。

「馬尊将軍が、どうやら更迭されたらしいのです。 不意に我らは城の外に閉め出され、何もかもがわからなくなりました」

「それは酷い話だな」

「はい。 飢える者も出始めて、此方に参りました。 ただ、天水に家族を残しているものや、脱出に失敗した者もいます。 もしも天水を攻略した際には、家族を助け出していただけると助かります」

姜維は深々とあたまを下げた。その残してきた家族というものの中には、姜維の年老いた母も混じっているのだとか。母には良い思い出がないが、姜維の様子からして、大事な家族であるという事は伺えた。それならば、同情も感情移入も出来る。

それから話を聞く。

姜維は地元の名士の子であり、幼い頃から厳しく躾けられ、かなり高度な学問を学んでいるという。武芸についても自信があると、姜維は言った。陳式は立ち会ってみたが、確かにもの凄い使い手だ。十代の若造ながら、歴戦の武人達が手も足も出ない。これは、もの凄い逸材かも知れない。少なくとも、個人の武芸がそう優れている訳でもない陳式ではとてもかないそうになかった。

一通り武人達との立ち会いを終わらせると、陳式は満足して頷いた。

「分かった。 貴殿らについては、全てを認めよう」

「有難うございます」

「ただし、此処は見ての通り最前線だ。 貴殿らをそのまま置いておく訳にはいかぬからな。 護衛を付けて、蜀漢の領土内に待避して貰うことになる」

丁度、五百名ほどの部隊を、魏延軍と入れ替える予定になっていた。各地を転戦している魏延の軍勢は、北伐が開始されてから、何度か漢中に戻っているらしい。それを利用して、兵士達を戻し、長期戦の疲弊を緩和しているのだ。

陳式は細作を手配すると、天水に向かわせる。姜維は何度か礼をすると、魏延軍との交代要員達に護衛されながら、後方へ移動していった。

数日の対峙が、随分長く感じられた。姜維という若者、とても強い光を目に秘めていた。相当な才能の持ち主のようだが、しかし強い狂気も秘めているように、陳式には感じられた。

裏も含めて、全てを探る必要があった。

数日後、細作が戻ってきた。敵は全く動く気配がない。

「どうであった」

「はい。 どうやら姜維の言うとおり、馬尊は更迭された模様です。 密かに捕らえられ、後方に移送されているとか」

「そうか」

実はこの男、諸葛亮に言われて、連絡を取っていた相手であった。内通者だったのである。

細作が言うには、後釜に納まった男は非常に猜疑心が強い小男で、怪しそうな家臣は根こそぎ馬尊ともども後方に移送してしまったという。その過程で、多分姜家軍も目を付けられたのだろう。まとめて外に追い出されてしまった、という訳だ。

「そうなると、姜維の家族が危ないな」

「既に居場所は掴みました。 他の姜家軍の家族も、大体は居場所を掴んでおります」

「よし、細作を動員して救出に当たれ。 此方でも、援護は出来るだけする」

「わかりました。 直ちに取りかかります」

どうやら、また一戦しなければならないらしい。

少しばかり、憂鬱であった。

 

前線の一つ。牛金が寄っている出城の城壁の上を、腕組みしたまま士載は行き来していた。

兵士達も不安げに彼女の奇行を見つめている。牛金も少し不安になってきたので、声を掛けた。

「何をしている、士載」

「あ、牛金将軍。 ちょっと考え事をしていました」

不意に我に返った様子で、士載はにへらと笑う。そのまま城壁の内側に降りると、天幕にとてとてと走り込んだ。

牛金がついていくと、士載は天幕の中で焼き菓子を貪り食っていた。将校扱いになっているので、料理人がたまに贅沢をさせてくれるのだ。士載は料理は良いから焼き菓子だけ作ってくれと無茶を言い、曹操様のようだと彼らを呆れさせていた。

「何をしている」

「ふみはへん。 ほうふんが、はりなふて」

「糖分が足りないのか」

こくこくと士載は頷きながらも、食べる手を止めない。

大きく歎息はしたが、しかしこの娘ッ子が、糖分を思考の手助けにしていることは、牛金も知っている。

しばらくして満面の笑みで焼き菓子を食べ終えた士載は、不意に真面目な顔になった。

「どうしても理解できません」

「いきなりそれか」

「はい。 敵陣の様子をしばらく観察したのですが、妙に薄いんです。 攻撃を誘っているのかと最初は思ったんですが」

士載が陣を見る目は確かである。これに関しては。牛金も自分より優れていることを認めている。

しかしながら、広域戦略に関しては、まだ未熟な点もある。ひらめきに関しては凄まじいと思うのだが、まだまだ足りない部分が時々出てくるのも、否定しがたい点であった。牛金はしばし考え込んだ後、言う。

「つまり、前面に展開している一万が敵の総力ではないのかと、お前は言うのか」

「確信は持てません。 だから、ずっと悩んでました」

「正直でお前は面白いな」

思わず破顔してしまう。士載もにこにこ笑った。

天幕を出る。五百ほどの兵を整列させた。

「何処へ行くんですか」

「ずっとにらみ合うのも芸がない。 少し攻撃を仕掛けてみる。 陳式の様子次第では、それが本当かどうかわかるだろう」

「気をつけてください。 陳式将軍は、隙も小さくて、とても手強い相手です」

「言われるまでもない」

馬に鞭をくれると、城を出た。

皆が警戒しているのは、敵一万の後方に、主力が伏兵していることだ。今、味方は増強されて約十万が存在しているが、敵が三万もいたら、正面からは勝てないかも知れないと、曹真は判断している。牛金もそれは同意見だ。蜀漢の軍勢は、尋常ならざる練度で鍛え上げられている。

しかしながら、諸葛亮はそれを逆手にとって、一万で十万を釘付けにしているかも知れない。そうなると、敵の主力によって、長安が奇襲されるかも知れないのだ。長安にも張?(コウ)と主力部隊が駐屯しているが、敵の動きがわからなければ、奇襲が成功してしまう可能性もある。

たかが一万。

しかしその一万が、魏軍十万を釘付けにしてしまっている。更に、長安の十万までもが、自由に動けずにいる。蜀漢の兵士の練度はあるとしても、戦略家としての諸葛亮は、とても恐るべき相手だ。

五百の兵士達が走り出す。

牛金は思い出す。駆け出しの若造だった頃を。最近は数千、下手をすると数万の軍を率いてばかりだったので、この感覚は忘れていた。五百くらいの兵士を率いていると、時に何とも言えない一体感があるのだ。

敵陣がある城の少し前で、山にはいる。其処からは隠密行動になる。敵の斥候がいることは当然想定の上だ。深入りはしすぎない。

蜀漢の情報戦の巧みさについては、牛金も良く知っている。連中が抱えている細作部隊は、相当な数と練度を誇っている。魏の細作部隊は、悪名高い林を除くと、数だけは多いが、どうしても練度では劣ってしまっているのが実情だ。

林の中を静かに進む。これは、大物見である。

だから、いつ危険な目に会うかも知れない。それを想定しながら、一歩ずつ、敵陣に近付いた。

やがて、敵城が見えてきた。と言っても、少し前までは魏の城だった。

「絵図面にない備えが見えます」

「当然だ。 増強はしてきているのだろうな」

此方が城の図面を抑えているから、弱点を知っているのは当然敵も想定しているだろう。魏軍は曹操の代に、相当細かく整備されている。だから、城一つを取っても、非常に精密な地図が軍中央に集められているのだ。

しばらく城の周囲を観察。仕掛ける隙を探す。

兵士の一人が小首を傾げた。古参の、経験が深い兵士である。

「城の周囲に、ぽつぽつと貧しい身なりの者達が見えます」

「蜀漢は、移住する人間を求めていると聞いている。 その者達ではないか」

「いえ、どうも武装している様子です。 弩を持っている者が見えます」

「む、弩か」

言うまでもなく、弩は高級な武器だ。庶民も護衛用に武器を持つことは多いが、多くは剣や柳刀、気が利いている場合でもせいぜい槍か鉾だ。弩は構造が複雑な上に取り扱いが難しく、訓練がなければ使いこなせない。

もう少し、近付く。

木の上に登ってみると、牛金にも見えてきた。数は二百から三百。丁度移動する準備を整えているようだ。

「地方軍崩れでしょうか」

「かも知れん。 馬尊を移動させる時などに、混乱があったと聞いている。 その時に、魏軍を離れた者達もいる可能性はある」

「しかしそうなると、我が軍の機密が漏れてしまっていないでしょうか」

「何が言いたい」

副官の言葉には、歯にものが詰まったような響きがあった。

しかも、牛金は非常にいやな予感がした。

「先に回り込んで、殲滅するべきではないでしょうか」

「馬鹿なことを言うな。 よく見ろ。 殆どは腰の曲がった老人や、子供ばかりではないか。 あのような者達を殺したら、魏軍の名折れだぞ。 賊と何が違うというのか」

「ですが、時には心を鬼にする必要もあります」

「今はその時ではない!」

一喝して、副官を黙らせる。有能な男だが、時に冷酷になりすぎる。牛金は軍人であり、汚い仕事をすることだってある。以前は断腸の思いで、先帝の言うままに、曹植に虐待を加えたこともあった。

だが。あのように貧しい武装流民を攻撃したのでは、何か最後の一線を越えてしまうような気がしてならない。軍人としてと言うよりも、人としての最後の誇りを、地に捨ててしまう気がする。

敵の備えはどうなっているか。もう少し、牛金は近付く。

「ふむ、やはり一万以上はいそうにないな。 もしも伏兵がいるとすると、更に後方か」

「伏兵がいない場合には、どういたしましょうか」

「その時は、十万の数を生かして、敵を押しつぶす。 あのような小さな城だ。 如何に精鋭が詰めていても、力押しすれば必ず落とすことが出来る」

それからしばらく牛金は敵の城の周囲を偵察したが、仕掛ける隙は存在しなかった。

だが、大物見の成果はあって、今まで細作がもたらしてきたよりも、ぐっと精密な情報を、直接手に入れることが出来た。危険ではあるが、古来より戦術判断能力を持つ指揮官による物見は、大きな成果を上げることが多いのだ。

じっくり追撃を警戒しながら、自軍へと戻る。

四半日が過ぎていたが、充分な成果はあった。陣に戻った直後、伝令が飛び込んできた。

「牛金将軍」

「如何したか」

「曹真将軍がお呼びです。 軍議を開くとの事です」

「分かった」

軍議となると、曹真も判断したと言うことだろう。十万をいつまでも釘付けにして置く訳には行かない。

遅かれ早かれ、牛金が総司令官であったとしても、似たような判断はしていただろう。損害は出すかも知れない。だが、これ以上、敵を進ませる訳にはいかなかった。

 

姜維という若者を送り出すと、他の貧しい姜家軍の兵士達も、順次後送していく。敵の細作が混じっている可能性もあるから、慎重に動かなければならなかった。いずれにしても、敵もそろそろ痺れをきらす頃だ。場合によっては、全軍が撤退をしなければならなくなる可能性もある。

「戦況は、どうなっているのでしょうか」

「それはわからん。 だが、我が軍が敵十万を、此処に釘付けにしている意味は大きい」

「はあ、そうなのでしょうか」

「そうでなければ、長安には今頃二十万の敵が集結して、此方は手も足も出なかっただろう。 今は敵も半減していて、場合によっては長安を陥落させる事が出来るかも知れぬからな」

納得いかない様子の副官に言うと、陳式は城壁の上から、敵陣を見つめた。諸葛亮の考えは読めない。或いは更に此方の戦線の戦力を削り取ることにより、まず西涼を落とすつもりなのかも知れない。

いくら何でも、陳式を使い捨てにすることはないとは思う。だが、警戒はするべきであった。

動きが活発になってきている。そろそろ、仕掛けてくる頃だろうか。陳式が敵将であっても、いい加減動く頃である。十万の戦略的な意味は大きい。何しろ、数だけならば蜀漢軍が総力で動いたにも匹敵するのである。その上、此処で身動きできないというのは、遊兵を作るも同じであるからだ。

戦略上、遊兵を作ることは、最悪の策となる。どんな将校の端くれでも、最初に教わることだ。

そして、初歩だからこそ。戦では大きな意味を持ってくる。曹真ほどの熟練した敵将が、それを知らぬ訳もない。

後方の味方の動きを、少しでも教えてくれていれば。連携して、更に高度な戦略的機動が出来るのだが。一体他の部隊は、何処で何をしているのだろうか。時々、陳式は不安になる事もある。

「今晩あたり、仕掛けてくるな」

「夜襲でしょうか」

「そうだ。 私であっても、そうするだろう」

「わかりました。 すぐに備えます」

鷹揚に部下に頷くと、陳式は、姜家軍の捜索を更に急がせるように、細作達に指示を飛ばした。

敵も、精神的な疲弊は小さくないはずだ。

神経戦は、まだ続いている。

 

1、街亭の神経戦

 

周囲に点々と散らばっているのは、西の民達であった。無惨に隊商は火をあげており、生き残りは一人も居ない。眼が青い子供が、虚空を睨んだまま、息絶えている。キョウと呼ばれる国家を築いている者達で、中華には及ばぬ共、相当に広大な領土を納めている者達である。

彼らを惨殺したのは、当然指示があったからだ。

惨殺者である林は、柳刀を振るって血を落とす。ざっと五十人は殺したか。人外の域に達していると言っても、この人数を殺し付くすは骨であった。

幼い頃、体を強くするために無茶苦茶に摂取した秘薬の悪影響で、年を取らない異常な体質になっている林は、既に実年齢では中年を越えつつあるのに、見かけだけは童女のままである。ただしその目には最上級の邪悪が宿り、心はどんな醜怪な老人でもこれよりは濁っていまいと思える闇に充ち満ちていた。

部下達が現れる。柳刀に飛んだ血を舐め取ると、林は言う。

「死体をばらまいておけ。 金品は強奪」

「わかりました」

「この人数を、こんな短時間で」

呟いたのは、司馬懿から回された新しい部下だ。既に六十人を超える部下が回されてきている。

しかし、使い物になりそうなのは数人に過ぎず、今はふるいに掛けている。流石に殺す訳にはいかないので、使えないのは戻しつつ、どんどん新しいのを招いている所だ。今ぼやいたのは、新しく入ってきた若い部下である。気は弱いが、腕はなかなかのものだ。

応えることはせず、そのまま南下。

山道を、まるで風のように走る。これについてこられない部下は、必要ない。これも、ふるいの一つなのだ。

やがて、林は小さな山の中腹に着いた。

南では、長大な防衛線を引いていた曹真が、動き出していた。十万の軍勢が攻勢に出る。なかなかの光景である。

それに対し、蜀漢の軍勢は動かない。城外に布陣しているが、まるで敵の動きが見えていないかのように、進みも引きもしなかった。

「蜀漢軍は、なぜ動かないのでしょうか」

「それが威嚇になるからだ」

「威嚇、ですか」

「曹真はこの間、裏を掻かれて負けている。 だから今回も、敵に裏があることを警戒している。 といっても、誰が将でもそうだろうが」

敢えて悠然としていることで、蜀漢の軍勢は十倍に達する敵を威圧し、精神的にたじろがせてさえいる。

もっとも、これほどのことは。相当な胆力がないと出来ないだろう。

実に面白い輩だ。いずれ殺したくなった。

そのまま曹真は行動を停止した。十万による軍勢を総活用し、敵の足下を掬いに掛かったのだ。何しろ十万である。前に布陣しているだけで、柔な心の持ち主であれば、心が折れてしまう。

曹真は数を活用することで、蜀漢軍が被っている化けの皮を、引きはがそうとしている。蜀漢軍は確かに強い。だが、いくら何でも、十倍の戦力と五分に戦えるほどではないのだ。しかしながら、蜀漢軍が伏兵をしていたら、全てが台無しになる。その辺りには、どう曹真は備えているのか。

「ほう、偽兵か」

林は呟く。

曹真は、どうやら軍勢を水増ししているらしい。実際に出撃しているのは、七万から八万と見た。というのも、後衛の四万ほどの動きが、すこぶる悪いのである。あれは旗を多めに立てているだけの、偽兵力である可能性が高い。

さて、これは狐と狸の化かし合いである。

どうやら久し振りに面白い戦いが見られそうだ。しかも諸葛亮も曹真も、そして司馬懿も。戦いの跡のことまで考えて、激甚な刃を交えている。

やがて、じりじりしたにらみ合い耐えられなくなったのは。

曹真軍の、前衛であった。

 

長安を、張?(コウ)が出発する。引き連れているのは司馬懿だけだ。後の諸将は、皆曹真の所にいる。

そろそろ、潮時であった。

それは張?(コウ)も感じていたし、司馬懿も進言してきていた。恐らく諸葛亮の軍勢は、長安を近くで狙ってきている。だからこの鍛え抜いた精鋭一万を使い、街亭を今押さえ込めば。

一気に蜀漢軍の、全てを打ち砕くことが出来る。

山の中を走る。蜀漢軍の凄まじい精鋭ぶりは聞いているが、この一万だけなら、連中の最精鋭にも劣らぬ力を持っているという自信が、張?(コウ)にはある。長年鍛え上げ、生死と苦楽を共にしてきた者達だ。自信と経験は、張?(コウ)も共有するものであり、誇りと名誉は共に分かちあう存在であった。

山の中で小休止し、干し飯を湯に入れ、すぐに腹に掻き込む。

既に老境に入り始めている張?(コウ)だが、まだまだ並の兵士よりも遙かに速く、鋭く動くことが出来る。食事を済ませ、一刻だけ休むと、すぐに動き出す。これは速さの勝負だ。

もしも諸葛亮が此方の動きを察知したら、一も二もなく街亭に精鋭を送り込んでくるだろう。その上で、長安に主力を叩きつけ、奇襲で落としに掛かってくるに違いない。もしそうなれば、魏は終わりだ。恐らく呼応した江東も攻め込んでくるし、何より西涼の民が大反乱を起こし、馬超の大流民軍を思わせる雑多な大軍が、物資と共に長安に流れ込んでくるかも知れない。

西涼の民は、ぐっと豊かになった。それが故に、以前と違い、既に群雄割拠に等しい無秩序状態ではない。

既に札付きの姦雄だった韓遂もそういった争いの中で無為に命を散らし、その幹部達も手なづけられるか、各地の太守としてとばされてしまっている。今では太守同士の小競り合いも、ほぼ起こらない状況だ。砂漠化している地域に、植林をする動きさえ、始まっているほどなのである。

しかし鮮卑をはじめとする異民族は多くが入り込んできているし、あぶれ者の類も少なくはないのだ。もしもそう言った連中を中心に、諸葛亮が反乱を煽ったら。決して面白い結果にはならないだろう。

山の中を疾走する。

やがて、兵士が戻ってきた。十年以上斥候をしている、熟練の男だ。

「申し上げます」

「うむ」

「街亭に敵影! 数、およそ五千!」

「何ッ!」

悲痛な声をあげたのは、張?(コウ)ではなく。司馬懿の方だった。全軍の参謀として、その報告はあまりにも絶望的だったからだろう。

「流石は諸葛亮だ。 此方の動きを読んでいたか」

「い、いかん! 張?(コウ)将軍、すぐに長安に引き返しましょう!」

「落ち着け。 まずは街亭の様子を見てからだ」

この状況下、もしも諸葛亮に捕捉されていたら、長安に急いで引き返してもどうしようもない。

逆に言えば、兵力差を上手くいかして、街亭を制圧さえ出来れば。まだまだ、魏軍に活路はあるのだ。

すぐに斥候を五倍に増やし、街亭を探らせる。

そわそわしている司馬懿は視線が定まらず、ときどきぐうるりと首を後ろに回したりもしていた。兵士達が時々気味悪がって噂している。顧狼の相という特異体質だそうだが、確かにはじめて見ると気味が悪い。

「司馬懿、落ち着け」

「は、はい。 落ち着くために、首をいつもより余計に回しております」

「そうか。 しかしそれをやると、兵士達が落ち着かなくなる。 他の方法で落ち着いてみてはどうか」

「ですが、もし手柄を立てずに帰ろうものなら、妻に何をされるかわかりませぬ。 そう考えると、恐ろしくて」

噴き出しそうになった。怜悧なことで知られている司馬懿にも、面白おかしい弱点があったものだ。そういえば相当に気が強い妻だと聞いているが、司馬懿も家庭では大人しくて居場所がないことを感じている、普通の父親なのかも知れない。

張?(コウ)は落ち着いていた。散々修羅場を潜ってきたから、この程度のことであれば、今更心も騒がない。しばしぼんやりと空を見つめる。林の中では、虫たちが声を揃えて、己の命を主張している。それは何処か、争いが何時までも絶えない、人間達の世をせせら笑っているようにも思えた。

斥候達が戻ってきた。

その報告を聞いて、張?(コウ)は思わず眉をひそめていた。

「山の上に布陣している、だと」

「はい。 敵将の旗印は馬。 恐らく馬謖かと思われます」

「ふむ、諸葛亮の子飼いと聞いているが、何か意図があってのことか。 罠の可能性はあるまいな」

周囲に伏兵はいないと、斥候は口を揃えていた。

曹真の所に配置している兵士達と、此処の斥候達は練度が違う。間もなく、途轍もない邪悪な気配。

振り返ると、童女にも見える闇そのものが、側に佇んで、何事もなかったかのように焼き菓子を頬張っていた。

「ふむ、流石は先々帝が愛した焼き菓子。 美味ですね」

「貴様、林」

「二つほど、情報を持って参りましたよ。 どちらも貴方にとっては喜ばしいはずです」

林は、剣に手を掛けた張?(コウ)に、見向きもせず言う。

一つ目の情報とは、曹真軍の敗退である。

曹真軍は少し前に、また敗退したという。一万の陳式軍の背後には、六千の騎馬隊が伏兵していて、痺れを切らして動いた曹真軍の前衛を、横殴りに襲ったそうである。後は酷い混乱の中、一万ほどの戦死者を出して、曹真軍は防衛線まで兵を下げざるを得なくなった。これに関しては、まだ魏軍の誰も知らず、長安まで届いてもいない情報だそうである。

「それの何処が吉報だ!」

「いや、続けてくれ」

叫んだ副官を、張?(コウ)は制止した。確かに吉報だからだ。

諸葛亮の本隊はともかく、その騎馬隊は曹真軍のいる、天水方面にいるということだ。それはすなわち、敵の兵力の半数ほどはそちらにいると言うことで、多分長安を攻略する戦力は今だ整っていない。

林はにやりと笑うと、二つ目の情報だと言って、街亭の様子について教えてくれた。

やはり馬謖と呼ばれる将は、山頂にのみ布陣しているという。もともと天然の要塞とも言える街亭は、崖多く山多く、それらの隘路を巧く防げば、まさに鉄壁の要塞となる。五千の戦力がそれをしていれば、今頃此方に打つ手はなかった。

敵の内一千、王平の率いる部隊だけは、麓にいると言うが、それだけではとても足りない。

「罠ではないのでしょうか」

「いや、それはないな」

副官に、張?(コウ)は断言して返した。

司馬懿も同意している。張?(コウ)には、山頂に布陣した武将の心が、分かったのだ。

「見るがよい。 この辺りの隘路に我々が現れたとして、隊列は伸びきる。 そこを逆落としすれば、一気に私の首を取れる、というような事なのだろう」

「馬鹿な。 机上の空論です」

「ところが、敵将はそう思わなかった。 恐らく軍学はよく学んでいても、実戦経験が少ない男なのだろう。 だから、手柄を求めて、敢えて危険な賭に出た」

その武将はまだ相当若いのだろうなと、張?(コウ)は思った。蜀漢の若い武将には優秀な者も多いと聞いているが、そればかりではないらしい。少なくとも、今山頂に布陣している輩は、経験の浅いひよっこだ。

「街亭は貰ったぞ。 蜀漢軍は、これで撤退せざるをえん」

張?(コウ)は目に覇気を宿らせた。司馬懿も馬に跨ると、早くも突撃を仕掛ける準備を始めている。

手を叩いて、諸将を集める。敵が間違いに気付く前に、一気に打ち倒さなければならない。諸葛亮が今回は相手なのだ。奴の本隊は姿を見せていないし、もし攻略が遅れれば、味方は全滅する可能性もある。

「先陣は私が努める。 二千で街亭の麓を夜半に進み、一気に抑える」

「山頂の敵は四千ですが」

「二千で抑えられる」

張?(コウ)は別に誇るでもなく言った。これでも率いているのは、長らく張?(コウ)と生死を共にしている兵士達だ。

しかも今回の場合、敵の攻撃を、ただの一回だけ支えればいい。経験の浅い若造ごときに、遅れを取る事はない。陳式や趙雲だったら話は別だったかも知れないが、奴らだったらそもそも、山頂に陣を張るような真似はしないだろう。

「司馬懿は中軍を率いて、私の後に続け。 敵の勢いを私が食い止めたら、一気に追い打ちを掛けよ」

「承知いたしました」

興奮気味の顔で、司馬懿が言った。これで帰っても、妻に折檻されずにすむと思うと、嬉しいのかも知れない。続けて、更に部下の名を呼ぶ。

「陳泰、夏候覇」

「はい」

「此処におりまする」

まだ若々しい二人の武将が、揃って立った。牛金や郭淮より新しい世代の、魏の誇る輝かしき若虎達である。

夏候覇は夏候淵の次男で、今では家督を継いでいる。優秀な弟たちと一緒に褒め称えられているが、張?(コウ)が見る所、軍才は中の上くらいである。皇族に曹休をはじめとして小粒な武将しかいないので、持ち上げる大将が必要だと言うことだろう。かって曹操が裏切る恐れがないため重用した、曹仁や曹洪と似たような存在であり、父である夏候淵とも立場は酷似している。

ただし、戦場で張?(コウ)が鍛え抜いてきたから、並の将軍以上くらいには指揮が出来るようになっている。

一方、陳泰は若いながら、本物の名将の魂を持つ男だ。父は文官の陳群だが、肝いりの名門という以上に、その才能は素晴らしい。張?(コウ)も、この若者ならばと、牛金や郭淮の跡を任せられると思えるほどの人材であった。ただし、少し生真面目すぎるのが問題で、特に同世代の最有力候補である士載の非常識きわまりないぶっ飛んだ言動にはいつも苦言を呈しているのを見かける。

いずれにしても、士載や陳泰を例に出すまでもなく、魏は人材の宝庫だ。人口だけではなく、それが蜀漢に対する最大の強みだと、張?(コウ)は思っている。

「二人はそれぞれ一千を率いて、王平を押さえ込め。 奴は手強いぞ。 倍の兵力があるからとはいえ、油断は絶対にするな」

「はい!」

「わかりました。 必ずや押さえ込んで見せまする」

雄々しく夏候覇が、年に似合わぬ分別で陳泰が応える。これで勝てる。それでも張?(コウ)は、油断をしない。更に手を打つ。

「長安に伝令。 諸葛亮が奇襲を仕掛けてくる可能性がある。 一万を出して、大々的に斥候をせよ」

「守りが薄くなりませんか」

「早期警戒をさせるのだ。 長安にはまだ八万の兵がいる。 諸葛亮の本隊は、せいぜい一万数千。 鉄壁の防備を持つ長安を、すぐに攻略は出来ん。 それで、諸葛亮が如何に姦策を巡らせても勝てる」

とはいっても、諸葛亮が即応して、街亭になだれ込んできたら危なくなるのは張?(コウ)だ。これは時間との勝負になる。

まず三日。

そう、張?(コウ)は判断した。

夕刻、前進を開始。そのまま、全速力で街亭に、三方向からなだれ込んだ。

王平の部隊には、即座に二千の陳泰、夏候覇が当たる。そして疾風のような速度で、一気に張?(コウ)は、街亭の中枢を押さえ込んでいた。

馬謖が愕然としているのが、張?(コウ)には分かった。

諸葛亮は人を見る目が無いらしいと、張?(コウ)は思った。後ろから悠々と来た司馬懿が、谷の入り口や隘路に、容赦なく堅陣を築き上げていく。

見れば谷の底には、多くの荷駄が行き来した跡が残されていた。これほどの要地である。先に抑えていた諸葛亮の戦略眼にはただただ敬服するばかりである。問題は、余人が彼の能力について行けなかったことだ。

分厚い防御陣が出来る。陣の前には藁を大量に積み、油を掛けていた。逆落としなど、封じる策は幾らでもあるのだ。これも戦場経験豊富な、張?(コウ)だから捻り出せる策である。

司馬懿がご機嫌な面持ちで歩み寄ってきた。

「後方は完全に遮断しました。 これならば、一気に敵を揉み潰せまする」

「司馬懿、それは私の能力を測っているつもりか?」

「いえ、そのような」

「今は眼前の馬謖とか言う経験が浅い小僧を締め上げるだけでいい。 後ろにはしっかり警戒しろ。 諸葛亮の率いている精鋭に奇襲を受けたら、流石に私が鍛え上げた精鋭でも危ない」

下がった司馬懿には目もくれず、張?(コウ)は山頂に目をやった。

やがて、耐えかねたか。馬謖は山を駆け下り始めた。

「火を準備しろ」

冷徹な命令を、張?(コウ)は下していた。

 

焦りが、全身を支配していた。

手柄がないのである。

諸葛亮に評価されているのは、馬謖も知っていた。名門の出だし、何より学問が出来る。どんな立派な論文でもお手の物だ。古今の学術書など、殆どそらんじることが出来る。諸葛亮が望む、秩序ある民のための国に、馬謖は居場所があると思っていた。

だが、しかし。近年、彼はあまりにも前線に出ることが出来なかった。

地味なだけの陳式は、今でも十倍の敵と張り合うという名誉な役割を果たしている。あの名将曹真とまともに渡り合っているというのだから凄まじい。馬謖だって、同じ場所にいたなら、それ以上に働ける。

それなのに、この地味な役割はどうだと、馬謖は街亭に来た時に思った。四方は山ばかりであり、とても千軍の命運を握る場所とは思えない。王平は黙々と諸葛亮の指示通り陣をくみ上げ始めたが、それを見て馬謖は言ったのだ。

山頂に布陣すると。

普段寡黙な王平は、別人のようにしつこく反対した。だが、隘路にもし敵が来たら、逆落としを掛けて蹴散らせばいいと強弁して退けた。

手柄が、欲しいのだ。

敵が来ても、此方の備えを見て逃げ帰るようでは意味がない。此処で引き込んで、叩かなければ行けないのだ。

だが。

馬謖の予想を超えた動きを、敵はした。

瞬時に王平の部隊を押さえ込むと、懐に堅陣を敷いてきたのだ。あの動き、味方の最精鋭にも匹敵する。旗印を見て納得である。張?(コウ)。黄巾党の乱の時代から生き残っている、古豪中の古豪。味方で言えば、趙雲のような武将だ。

もはや逆落としどころではないことは、何処かで分かっていた。

だが、此処で張?(コウ)の首をとればとも、つい思ってしまった。

二倍の敵と互角以上に戦いながら、王平が撤退の旗を振ってくる。だが、馬謖は無視した。敵が布陣していない方向に全力で逃げれば、兵の多くを逃がすことが出来たかも知れないのに、それも考慮しなかった。

噂に、聞いたことがあった。

劉備は今際に、諸葛亮に対して、馬謖を使うなと言ったという。彼奴は口ばかりが先行して、能力を遙かに超えたことをやろうとするから、結局は味方に大きな害をもたらすだろう、と。

それを聞いた時、先帝劉備に、凄絶な憎悪を馬謖は感じた。

だが、今。焦りの中で、ふと悟ってしまう。

劉備はこの事態を、今際だからこそに、予測できていたのではないのかと。

逆落としを掛けようとした瞬間、山の麓が明るくなった。敵が火攻めを仕掛けてきたのは明らかだった。矢を放たせる。だが、数が足りない。敵も、遠矢は相手にせず、盾で悠々と防いでいるようだった。

副官が、馬のくつわを取った。

「馬謖将軍、撤退を。 今なら王平将軍と相互支援して、被害を最小限まで減らすことが可能です」

「黙れ……!」

更に何か言おうとした副官が、蒼白になって黙り込む。馬謖が剣を抜いて、切っ先を向けたからだ。

「突撃だ! 敵将の首を取れば、一気に形勢を逆転できる!」

「しかし火の中に!」

「そのようなもの、岩でも転がしてやれ! 早くしろ!」

慌てた兵士達は岩を転がしに掛かるが、その岩も。殆ど火のところでとまってしまう。余程強固に、敵は火の周囲を固めているらしかった。向こうも岩で防御施設を組んでいると見て良いだろう。

馬謖の将としての部分が叫ぶ。負けだ。速く逃げろと。

しかし人としての部分は叫いた。嫌だ。此処で退きたくないと。

だが。その激しい葛藤も。途中で打ち切られた。

不意に馬から引きずり下ろされたのだ。そして無表情の副官が、代わりに馬謖の馬に跨った。口には猿轡を噛まされ、後ろ手に縛り上げられる。やったのは兵士達だ。あまりにも鮮やかな手並みに、馬謖は抵抗する暇もなかった。

「全員、引き上げるぞ。 丞相が仰った通りになったな」

その時。

馬謖は、己が諸葛亮に全ての行動を見透かされていたことを悟った。

自軍が勝手に動き始める。馬謖が指揮するよりも、明らかに早い。この副官は、一体何者だ。

山の後ろに出るようにして、火をむしろ盾に使って迂回。王平の軍もそれを見ると、若い敵将達をあしらいながら合流してきた。

既に馬謖は、馬の脇に吊されている状態だ。無表情のまま馬を走らせる副官は、いつのまにか王平に並んでいた。敵の追撃は激しいが、王平は冷静かつ確実にそれをいなしていく。

やがて、敵の追撃隊は見えなくなった。

「丞相の予想通りになったな、羅憲」

「はい。 どうやらこの馬謖、先帝の言うとおり、早めに処分すべき人材のようです」

震えが止まらない。

今や名誉欲などは、何処か遠くに飛び去ってしまっていた。

 

王平の鮮やかな撤退を見終えると、張?(コウ)は大きく歎息した。

どうやら一杯食わされたらしいことに気付いたからだ。

馬謖とやらを追い払ってから周囲を検分したが、何のことはない。千でも、その気になれば時間を充分に稼げる布陣は可能である。そうなると、王平ほどの男が、それをしなかった理由はただ一つ。

見定めるためだったのだろう。馬謖という男を。

そしてそれは、諸葛亮の指示であったに違いない。

司馬懿が、二千ほどの兵が追撃を続けていると報告してきた。張?(コウ)は周囲を見回りながら、司馬懿を見もせずに応える。

「追撃を止めさせよ」

「は、はい? なぜですか、張?(コウ)将軍」

「良くこの辺りの陣立てを見よ。 王平という男、あれだけの用兵を可能としながら、敢えてそれをしておらん。 多分我々は担がれたのだろう」

司馬懿はそれに気付くと、ようやく蒼白になった。

しかし、諸葛亮が一万数千程度の戦力で孤立しているのは間違いのない所である。張?(コウ)としても、どうにかその本隊を奇襲したい。

「こうして考えると、曹真の所に貼り付いていた陳式も、恐らくは壮大な陽動であったのだな」

「しかし、敵は長安を落とすつもりだったのでは」

「過去形では無かろう。 敵は損害も少なく、そればかりか多くの民、降兵を拉致して蜀漢に戻ろうとしている。 兵糧も、そう多くは失っていまい」

恐らく今年中に、また出てくるだろう。

そう、張?(コウ)は見ていた。

 

曹真の追撃を振り切った陳式は、ようやく味方本隊と合流していた。敵は追撃に及び腰だったので、殆ど損害は出していない。それは、本隊も同様の様子であった。

最後尾についた趙雲が戻ってくる。ジャヤは不満そうだった。遊撃で走り回ったのに、戦う機会が無かったのだという。

蜀漢軍に、将軍の死者は一人も居なかった。ただし、かなりの激戦になった馬謖の隊は、千を超える犠牲を出していた。

三万数千の兵はまたまとまると、漢中に戻り始める。行きより数が多いのは、捕らえた兵士や、移住を望む民を護送しているからだ。諸葛亮は負けたというのに涼しい顔である。陳式は思う。ひょっとしてこれも、全て予想の内だったのではないかと。それに、負けたと言っても。

蜀漢は、恐らく魏の国内に、必要な分の楔を打ち込んだのだろう。

酒宴が始まる。殆ど物資の類も失っていないし、むしろ魏軍のを略奪さえしているから、酒に到るまで豊富だ。一兵卒にまで酒が配られ、しばし空気が緩んだ。

陳式が見て回る限り、どの兵士達の顔にも疲弊が少ない。あれだけの大軍と戦ってきたのに、結局致命的な敗北が一度もなかったからだろう。かといって、蜀漢の国力では、これ以上兵力を増やせる状況にはない。魏から連れてきた民は、南蛮に送り、そちらを開拓するのに使うのだと、諸葛亮は言っているという。

何だか、気の毒な話である。江東ほど悪辣ではないが、やっていることはそれに近い気がしてきた。

後軍にいたが故に、結局一番最初に漢中に戻ってきた廖化が、徳利を持ってきた。陳到軍出身の将校や参謀も集めて、車座を組んで飲み始める。他にも、旧関羽軍の将軍や、趙雲も集まってきた。最初に徳利から酒を注いでくれた廖化は、眉をひそめながら言った。

「それにしても、馬謖将軍は無様だったな」

「ああ。 あれだけ丞相に、街亭を要塞化するようにと、口を酸っぱくして言われていたようなのに。 なぜ山頂に布陣するなどと言う愚行を」

「手柄を焦ったのではないのか。 今、取り調べをしていると聞いている」

将軍達が口々に言う中、陳式はその件について黙っていた。趙雲も、静かにしている。その理由は、何となくわかった。

陳式は今回の件に、裏を感じているのだ。

諸葛亮は、劉備が今際に重く用いるなと言っていた馬謖を、敢えて使った。しかも全軍の急所となり、侵攻作戦そのものを諦めなければならなくなるほどの重要地点に、である。殆どの武将が、そこには魏延か呉懿を配置すべきだと言っていたのに。

「馬謖将軍はどうしている」

「牢の中で、なにやら意味がわからないことをほざき続けているとか。 これは罠だとか、自分は填められたのだとか」

「何を馬鹿な。 全て自らの愚行が招いた結果ではないか」

憤りと共に言ったのは廖化である。彼は今回殆ど戦う機会もなかったし、李厳が送ってくる兵糧を前線に輸送するだけで仕事が終わってしまった。陳到や関羽と一緒に戦場を駆けめぐってきた熟練の武将としては、あまりにも憤慨したくなる状況であったのだろうか。陳式は苦笑しながら、趙雲の隣に座った。

「趙雲将軍、どうぞ一献」

「うむ、すまんな」

「趙雲将軍はどう思われますか」

敢えて声を低くする。

ジャヤは気持ちよく酔っていて、此方の話が聞こえていないようである。

「そうさな。 そなたも気付いているとおり、やはり今回の件には、裏がありそうだな」

「そう思われますか。 やはり」

「丞相め。 どうも今回は、最初から敵地に楔を打ち込み、将来の布石にするつもりだけだったように思えてならぬ。 各地の民を連れ去り、降伏した兵士達を連れ去り。 確かに蜀漢の民は数がこれで増えることになるだろうし、南蛮の開発で国力は確かに上がることになるだろうが、それは万民のためといえるのだろうか」

趙雲は難しい顔をしながら、時々胸を押さえていた。

流石に古豪もそろそろ良い年だ。しかも今回の戦いでは、最精鋭を率いて戦場を隅から隅まで駆け回ったとも聞いている。ジャヤが気付いて、すぐに趙雲を天幕に連れて行く。この辺りは、長年連れ添ったが故の愛情から来る行動なのだろう。

陳式は自らも、酒を呷った。

そうしないと、陳到が気の毒でならないと思えたからだ。晩年を除き、劉備は少なくとも、民のためにと言う戦略を掲げ続けていた。それがあの偉大なる曹操に対抗するためだったとしても、それをきちんと守っていた。

諸葛亮はどうなのか。

民政は確かに達人級で、蜀漢で諸葛亮の悪口を言う民など一人も居ない。誰もが暮らしやすくなったと言っている。しかし、何か嫌なものを、裏に感じてしまうのだ。とてつもなくいやな、まるで肌の裏を虫が這っているかのような。

酒宴が終わりに近付いてきた時。陳式の隣に座った者がいる。

シャネスだった。

「シャネスどの。 如何為された」

「引退する。 それを伝えに来た」

言葉少なく、シャネスは言う。確かに、細作として第一線で戦うのと、そろそろ婚姻でもしたいと言っていたのと、両立が効かなくなる年である。此処で婚姻しないと、恐らくもう機会は巡ってこないだろう。

引退するというのなら、既に婚姻相手が決まったのかも知れない。或いは、諸葛亮が何かしらの理由で、シャネスを遠ざけたのか。

「これからはどうなさるのか」

「婚姻する。 相手は向寵だ」

「え!?」

それは驚いた。今まで義父の陳到とそう言う話があったとは、噂で小耳に挟んだことはあった。しかし陳到は結婚に対して非常に強い苦手意識を持っており、気心が知れたシャネスであっても、そう言う態度には出られない様子はあった。それに今はもう、本人が死を待つばかりの老人だと自嘲している。とてもではないが、今更新しい妻を迎える気にもならないのだろう。

しかし、かといって相手が向寵とは。非常に内向的な男であるし、シャネスと接点があるとも聞いていない。或いは、一種の政略結婚なのか。

「そうだ。 政略結婚の一種だ」

「あ、申し訳ない。 しかし、政略結婚とは」

「向寵は、陳式将軍は気付いているかも知れないが、今後対江東の防衛から調略まで、一切合切を任されることになる。 そこで、長年細作として、荊州を走り回っていた私の知識が必要という訳だ」

「なるほど。 しかしシャネス殿は、それでいいのか」

無言でシャネスは酒杯を傾けた。

そして、服の裾を捲ってみせる。腕だけでも、無数の蛇が絡みつくようにして、傷が多数走っていた。

「今更私を妻に迎えるというのも、余程の物好きだけだ。 向寵は何度か会ってみたが、多少変わり者でも私に偏見もないし、困った性癖の持ち主でもない。 話に聞くと、それほど家柄も良くないらしくて、今まで妻を迎える機会もなかったそうだ。 私とも、丁度釣り合いが取れた相手だろう」

「……シャネス殿」

「何、一線から退くだけで、細作を纏める立場として、今後は動くつもりだ。 陳到の世話も、私が手配しておく。 何も心配はするな」

シャネスは、陳式にとって姉のような立場の存在だった。口には出せなかったが、陳到と婚姻して欲しかったなと、何度か思ったこともある。いや、そもそも。ずっと好きだったのかも知れなかった。

だが、それも今更詮無きことだ。

宴がお開きになる。

陳式は、これから降される馬謖への裁きを思い。そして、陳到になんと今回の戦を報告すれば良いのか考え。嫌な気分になったので、天幕に戻ると、後は何も考えずに眠った。やはり、不快感は、最後まで消えなかった。

 

2、魏帝と喧噪

 

牛金は、魏の宮廷の中を歩いていた。すぐ後ろでは、時々遅れたり早足になったりして、士載がついてきている。

今日は大事な日である。だから、二人とも正装であった。

かろうじて蜀漢軍を退けたとはいえ、大きな損害を官民共に出した魏は。早速屯田兵を長安に回し、更にそのなり手を募集。国の立て直しに掛かっていた。国全体が傾くほどではないにしても、数万の兵と民を失ったことは事実なのである。こう言ったことが積み重なれば、最終的に国は滅ぶ。

幸いにも、魏はそれを理解する能力を持つ国主を抱えていた。

若干とはいえ、聡明なことで知られる曹叡である。既にその利発ぶりは内外に知られており、江東も蜀漢も警戒をし始めていた。

激しい戦いの結果を纏めた上申書を、曹叡は全て読んだ。わからない箇所は側に控えている陳群や他の諸将に聞きながら、理解できるまで何度も、である。そうしている曹叡の姿は、幼いながらも、部下達の忠誠心を擽る真摯さに満ちていた。

やがて、曹叡は諸将を纏めて、合議を開いた。それが今日である。精鋭を率いて蜀漢の強力な部隊と戦い続けた牛金は、色々なことを報告する義務があった。だから会議の前に、家で何度も頭の中で会議を開き、発言するべき事を纏めてきていたのである。

厳重な警備の中、部屋につく。不格好な敬礼をした士載を見て、側にいた陳泰が露骨に眉をひそめた。

会議室は、数百人の魏将が入れるほど大きな部屋だが、曹叡が集めたのは、このたびの諸葛亮との戦いに従軍した者ばかりであった。総司令官であった張?(コウ)を筆頭に、曹真、郭淮、牛金、夏候覇、それに司馬懿。少し後ろには、士載と陳泰も控えている。陳泰は相当に士載を意識しているようだが、意識されている側はのほほんとしていて、そもそも敵意に気付いていない様子である。

曹叡の側には、許儀が控えていた。曹丕が死んでからと言うもの、かっては好青年の雰囲気を持っていた男は、むしろ父に似た豪傑然とした姿になってきている。眼光は鋭く、曹叡に害を為す者は絶対に許さないと、全身で気迫を発していた。牛金も、思わず襟を正してしまうほどである。

「これより、会議を始める」

「ははっ」

諸将が、一斉に抱拳礼をした。幾つかの長机が用意されており、上座から順番に座る。一段高い所にいる曹叡は、小柄にも関わらず、少し窮屈そうだった。きっと、諸将と同じ目線で話をしたいのだろう。

「張?(コウ)将軍」

「はい」

「今回は見事な戦いぶりであった。 まずはそなたに褒美を取らせなければなるまい」

「いえ、褒美は結構にございます。 私は何もしておりませぬ」

張?(コウ)は言う。

今回の戦いでは、蜀漢は魏の対応能力を見たに過ぎず、被害を殆ど出していない。撤退したのも、半ば計算尽くだった風が強いのだという。

「そうか、将軍は無欲だな」

「現実を述べただけにございます。 諸葛亮は恐ろしき相手にて、勝利を喧伝するのは構わないのですが、少なくとも此処にいる者は事実を認識し、現実的な対処策を練る必要がありましょう。 それよりも、激闘を生き抜いた勇者達にこそ褒美をご下賜くださいませ」

「うむ、分かっておる。 すぐに手配しよう」

曹叡の応対は随分しっかりしている。できすぎている位である。これは祖父の天才的な素質を、最も強く曹一族の中で引き継いでいるかも知れない。

だが、何処かが危うい。牛金は、そう思った。

「曹真将軍」

「はい」

「そなたは、諸葛亮の精鋭ともっとも激しく刃を交え、押さえ込んだ。 褒美はもちろんのことだが、今後諸葛亮にはどう対抗したら良いと思う。 考えを聞かせよ」

曹真は少し考え込む。

今回、諸葛亮と一番激しく刃を交えたのは、やはり曹真だ。大きな犠牲を出しながらも常識外の実力を持つ陳式、関興、張苞らの精鋭を押さえ込むことに成功している。それだけではなく、諸葛亮本隊の攻撃を受けながらも全面潰走はどうにか防いでいるし、防衛線の維持にも成功している。

大きな被害は出した。

しかし、戦略的に曹真は勝ったのだ。それは誰もが疑うことのない所であった。

「諸葛亮は、二つの弱点を抱えていると見ました」

「二つとは」

「一つは物量にございます。 やはり蜀漢は、如何に精鋭揃いの兵を擁しているとはいえども、人口が百万足らずの国にございまする。 それに対し、我が国は帳簿上の人口だけでも、その四倍を超えております」

「手数を持って勝負せよ、と言うことか」

「はい。 まず諸葛亮が得意とする情報戦を遮断するために、細作部隊のさらなる強化を必要としていると私は思います。 今ひとつは、如何なる精鋭であろうとも、どうしても犠牲を出さざるを得ない状況を、此方にて創設するのです」

なるほどと、牛金は思った。士載が後ろで呟いている。

「攻城戦というわけですか」

「その通りだ。 流石に良く気付く」

「えへー」

本当に嬉しそうに士載が言うので、牛金は咳払いした。場所をわきまえた言動を、まだ士載は出来ない。

曹叡はすぐに対処すると言った。聡明な若き魏の君主は、非常に何もかもが優れている。ひょっとすると、曹丕が皇帝のままだったよりも、此方の方が良かったのかも知れないと、牛金は思った。

しかし其処で愕然とする。

同じように考えたのは、多分牛金だけではない。曹丕は過労死同然だったと牛金は聞いているが、ひょっとしてそうなるようにし向けた者がいるのではないのか。もしいるとしたら、それは誰なのか。

冷たい汗が、背中を伝う。

多分許儀や曹叡ではないだろう。司馬懿も、その可能性は低い。なぜなら、司馬懿は曹丕のおかげで現在の地位にまで上り詰めることが出来たからだ。

「分かった。 戦略上の要所に、強固な城を築き、其処に精鋭と歴戦の忠臣を配置するように取りはからおう。 そして曹真、もう一つの、諸葛亮の弱点とは何か」

「補給にございまする。 蜀漢は諸葛亮の類い希なる手腕によって豊かな国に変貌を遂げてはおりますが、何しろ我が国との間には、漢の高祖も苦労した桟道や獣道同然の隘路が横たわっております。 かってはその道を抑える上庸が敵の手にあったのですが、今はそれも此方が確保しております」

「なるほど、兵糧を運ぶという点で、敵は弱点を抱えているか」

「漢の高祖は、楚の覇王が兵糧に興味を持たず、無造作に扱っていたために勝つことが出来ました。 我々は敵の補給上の弱点を重視し、少なくとも此方の領地では敵が一粒たりとも麦を得られないようにするのが肝心かと思いまする」

曹叡は目を閉じると、分かったと言った。

諸将が顔を見合わせる。非常に理解力が高く、部下の言うことも良く聞いてくれる。誰もが、この皇帝のためならばと思っている事だろう。

挙手した者がいる。司馬懿だった。

「陛下。 私から提案がございまする」

「司馬懿よ、何か」

「上庸にいる孟達は、先帝陛下のお気に入りでした。 しかし此処しばらくはどうも羽振りが良くないために、また蜀漢への復帰を考えている節がございます。 諸葛亮も、既に抜け目なく裏工作を開始している模様です」

周囲がざわつく。牛金も、その噂は聞いたことがあった。

上庸は宛と長安と等距離にあり、しかも隘路や険路を通らなくても軍勢を送り込める要地にある。晩年の劉備の失策の一つで、諸葛亮が此処を抑えていれば、此処まで北伐で補給に苦労することはなかったかも知れない。それに、上庸に駐屯している戦力が多ければ多いほど、魏は蜀漢による攻撃の戦力を、戦略的に削り取ることが出来る。

上庸自体は人口も少なく、土地は貧しい。だが城は堅固で、孟達は異様な保身の才能を発揮して、今だ此処にしがみついている。

おかしな話である。かって、劉璋の無能を嘆き、憂国の意思に任せて国を劉備に譲り渡した男が。今ではかっての劉璋でも嘆くような保身だけに走る人生を送っている。転落というのとは少し違うと思うが。しかし、堕落というのは間違いなさそうである。

「孟達とは、不快な男だな」

「陛下のご指示あれば、即座に排除いたします」

「念入りに調査を行え。 そなたの言葉だけで、人を殺す訳には行かぬ」

曹叡は即座に退けた。だが、牛金の知るだけでも、孟達には芳しくない噂が幾らでもある。

荊州にいる徐晃が、そろそろ引退をほのめかす発言をしているという話もあるし、そろそろ孟達は危ないかも知れない。というのも、徐晃は引退時に、魏のためになる事をしたいと、周囲に言っているそうだから、だ。多分本音では献帝のためなのだろうが、魏のためというのも嘘ではないだろう。世話になった徐晃のことだから、よくわかる。多分徐晃は、魏の病になりうる孟達を、行きがけの駄賃に片付けていくはずだ。

「諸葛亮は、またすぐに侵攻してくると思うか」

「まず間違いなく。 諸葛亮は今回の戦で殆ど兵も物資も失っておりませぬ。 そればかりか、我が国の領内に、不審と反乱の芽を撒いていきました。 今年中には、また仕掛けてくる可能性が高いかと思います」

「分かった。 そなたらは引き続き、諸葛亮を防ぐべく兵を鍛錬し、物資を集積せよ」

曹叡が立ち上がり、会議は解散となった。

ぽてぽてと士載がついてくる。

「陛下はとても聡明ですね。 会議がすごく滑らかに動きましたー」

「そうさな。 だが、あまりにも年に対してご聡明が過ぎる。 何かおかしな事にならなければよいのだが」

「といいますと」

「押さえ込んだものは、爆発しやすいということだ。 陛下はまだ子供だというのに、子供らしい感情や心も、みな押さえ込んでしまっているのかも知れん。 もしそうなると、諸葛亮などの障害が無くなった時、それが一気に噴出してしまうかも知れぬ」

士載はよくわからないと言った。この小娘は、殆ど嘘の類をつかないし、欲望とか見栄とかに無縁だから、よくわからないというのも本音だろう。

しかし、貧しい中から這い上がってきた牛金だから、欲望についてはよくわかる。それが如何に重要で、そして恐ろしいかもだ。

牛金は、もう一度会議が行われた部屋に振り返った。

だが、其処にもう人の気配はなかった。

 

許儀は疲れ果てた様子の許儀を、寝室に連れて行った。幼くして皇帝になった曹叡は、まだ妻も迎えていない。寝室はごく静かで、慎ましいものであった。許嫁に関しても、今はまだ決めていない。曹叡が死んでも、まだ曹家の一族は数多くいるし、其処まで急ぐことでもないというのが真実ではある。

庶民の子であれば、親と一緒に過ごしていてもよい年頃である。しかし曹叡の両親は既に亡い。母は政争に巻き込まれて死に、父は過労死した。それはきっと間違いなく悲劇になるはずで、実際曹叡が寂しそうにしているのを、許儀は知っていた。

「何かして遊びますか。 私が相手になりますが」

「すまぬな、許儀。 だが、気を使ってくれなくても大丈夫だ」

「何があろうとも、この許儀、陛下の味方にございます」

「有難う。 祖父には許?(チョ)将軍が、そなたのように仕えてくれていたと聞いている。 朕もそなたがいて嬉しいぞ」

寝台に潜り込んだ曹叡が眠りにつくまで、許儀はじっと見守っていた。

眠りにつくのを見てから、部屋の外に。待機している護衛班を、三交代で見張りに就かせる。いずれも父が見込んだ一騎当千の兵で、日頃更に鍛えさせていることで、腕はいささかも衰えてはいない。

許儀もここのところ、随分腕を上げた。父が死んでから、その魂が乗り移ったかのようだと、周囲が噂しているのを知っている。夜中の肌寒い空気を諸肌に浴びながら、中庭で、一心不乱に剣を振るう。既に多くの達人に技を習った。この間、城に来てくれた徐晃にも、技を見て貰った。

剣の後は、長柄を振るう。しばし無言で、武術を続けて。

全身汗水漬くになった所で、手を叩いた。

「肉を」

「はい」

侍従が肉を持ってくる。徐晃が言うには、健康体操と肉を食べることが、短期間で強くなるこつなのだという。徐晃が行っている怪しげな健康体操は流石に遠慮したい所だが、肉に関しては他の豪傑達も口を揃えている。

運動後の筋肉が、肉を欲しがるのも事実だ。少し多いくらいの肉を急いで貪ると、体が動かなくなるまで、鍛錬を続ける。武術だけではない。城の外を、兵士達の調練もかねて走り回る。眠るのはいつも二刻から三刻くらい。それ以外は全て、強くなるために。許儀の生活は、以前も曹丕のためだけに回っていた。曹丕が死んでからは、それがまだ如何に無駄に満ちていたか、悟ることになった。何しろ、曹丕を救うことが出来なかったのだ。

走り込みが終わったとは、曹叡の部屋に戻る。

護衛の武人達から聴取。怪しい気配は一切無かったという。料理人、典医にも話を聞く。彼らも、おかしな所はないと言ってきていた。

身の回りの世話をしている侍女達にも話を聞く。女に興味を持つように、いろんな世代の侍女を集めている。もしも手が着いたら後宮にはいる訳だから、彼女らは皆必死だ。だがそれ以上に、まだ幼い曹叡の事を心配している侍女も多い。桓という名の、曹叡とおない年の侍女も、その一人だった。

「陛下に変わったことはないか」

「以前よりも、更に笑顔が減ったようにございます。 お仕事が忙しいのは知っていますが、気の毒に見えます」

桓がずばりと言ったので、周囲の者達が眉をひそめた。だが、許儀がそれを庇う。

「いや、このように正しい意見を言ってくれると、私も助かる。 そなたらも重臣達に遠慮することなく、思ったことをそのまま言って欲しい」

「しかし許儀様。 陛下がお疲れなのも、諸葛亮が侵攻してきている現状を考えると、仕方がないことにも思えます」

「そのようなことを言って、先帝が過労死為されたことを忘れたか!」

思わず声を荒げてしまった。蒼白になる周りを見て、許儀も流石に咳払いする。別の侍女が、続いて挙手した。

「我々が遊びに誘っても、陛下は寂しそうに微笑むだけという事も増えて参りました」

「若い内から、おなごとだけ遊んでいても仕方がありますまい。 同年代の子供達を、遊び相手として用意しては」

「分かった。 しかし重臣の子供達では駄目だな。 優秀な子供を見繕って来るように」

重臣の子供達が駄目な理由は、まず間違いなく政争の原因になるからだ。許儀は少し考えた後、曹叡より少し年下の子供にすることにした。もう少し年を取ると、余計な知恵がつくようになってくる。そうなると、親から吹き込まれた知恵を使って、曹叡を籠絡しようとしてくる者が出てきてもおかしくないのである。

おかしな話だった。友達など、自分で作るものだというのに。皇帝となると、そんな自由も無いのである。

許儀の部屋は、曹叡の部屋のすぐ隣に作ってあり、物音があると聞こえる。寝台に鎧のまま横になって、少しだけ寝る。こうやって、一日に少しずつ分散して寝るのである。そうすることで、疲れは最小限だけとる。もっとも、重要行事の前には、ゆっくり休む。これは、何かあった時に対応できるようにするためである。だが、今日は重要な御前軍議が終わったばかりで、特に用事もない。だから、分散して眠ることにする。

しばらく眠っていると、隣の部屋からがさがさと音がし始めた。即座に目が醒める。隣の部屋に行くと、曹叡が桓に手伝って貰いながら、着替えている所だった。もう起きだしているらしい。

「陛下、お目覚めにございますか」

「そなたも頑張っているのに、朕だけが寝転けているわけにはいかぬ」

「陛下、今の陛下には、育つことも仕事にございます。 ゆっくり眠ることで、陛下はまだ育つことが出来ましょう」

「しかし、それだけが朕の仕事ではない。 今回の戦でも、前線の将校達がどれだけ命を落としたことか。 場合によっては親征も出来るように、様々なことを今から知っておかなければならぬ」

曹叡の目に、苛烈な光が宿るのを、許儀は見た。

ひょっとして曹叡は。戦こそが、父を殺したと思っているのではないのか。それをなくすために、無理をしようとしているのではないか。

皇帝として、それは非常に真面目で、喜ぶべき事だ。

だが許儀は。どこかで、何か、止めなければならぬ事だとも思った。

 

陸遜は、久し振りに荊州を離れて、江東に来た。周囲には腕利きを揃え、凶手(暗殺者)に備えている。実際、陸遜は既に四家に敵視されている。いつ暗殺されても、おかしくない状況なのだ。

長江から上陸して最初に驚いたのは、その活気だ。益州でも都のある洛陽や許昌であっても、ここまで野放図な活気はない。荊州や漢中の北で激戦が行われている間、ずっと此処は平和だった。戦争に駆り出されるのは、山越の民ばかり。漢人は平和を謳歌し、むしろそれを貪ってさえいる。

店を回る。奴隷として、やせこけた山越の民が働かされていた。それに対して、漢人はみな豊かな生活をしているのがありありと分かった。店を出た後、陸遜は嘆いた。江東は、あまりにも体制が不平等すぎる。

「これでは、何時か反乱が起こるな」

「しかし、皆豊かに暮らしておりますが」

「それは漢人だけだ。 軍までもが、山越の民によって構成されている。 いずれ彼らは、大きな事態で反旗を翻しかねん。 そうなったら、江東はまるで水を掛けられた砂の山のように、崩れてしまうだろう」

宮城へ出向く。其処も、目を疑うような豪華さだった。

幸いにも。

一番奥で不機嫌そうにしていた孫権だけは、さほど豪華には着飾っていなかった。この宮殿は、四家の見栄によって造られている。そして、彼らの権勢を示してもいるのだ。

唾棄すべき場所だと、陸遜は思った。

孫権も、あまり愉快そうではなかったことだけが救いではあった。

「陸遜、参上いたしました」

「うむ。 実は荊州方面で、大規模な出兵を行うことになった」

「近々徐晃が引退する可能性が高いと聞いていますが、その隙を突く形ですか」

「そうだ。 兵としては五万を増員する。 荊州で今まで奪われた土地を、出来るだけ取り返して欲しい」

また、巫山戯た話である。

今まで陸遜は、猛烈な魏の攻勢から、必死に荊州を守ってきた。荊州の戦略価値が、民が離れることでどんどん失われてきているにも関わらず、である。既にかっての価値は荊州にはない。殆どの知識人や民は、益州や中原に逃れてしまった。魏と江東と劉備が面子や仇を掛けて奪い合った結果、焦土になりつつある土地。それが、今の荊州である。骨ばかりでもう食べる場所もない土地、といった所だ。

それを、五万もの兵を動かして、奪うというのか。

しかも今、荊州には、十万の魏軍が常駐している。徐晃が此処を離れても、優秀な魏将は幾らでもいて、一朝一夕で追い出せる相手ではない。しかも、陸遜が荊州を要塞化しているように、徐晃も同じように荊州を要害化している。ここでの戦は、既に不毛以外の何者でもなくなっている。

もしも一気に魏軍を追い出す手があるとしたら、台風か何かによる大規模災害の隙を突くしかないが、そうなったら此方も大きな被害を確実に出すのは明白である。とてもではないが、攻略する隙など生じないだろう。

それらを説明すると、孫権は大きく歎息した。

「そんな事は、余も分かっておる」

「そうなると、やはり四家の」

「そうだ。 連中め、どうやら余を皇帝に即位させるつもりであるらしくてな」

「今存在する三つの勢力の長全てが皇帝を名乗る事になりますな。 何とも混沌とした状況に思えますが」

今更、皇帝位などに何の意味があるのだろう。そう、思ってしまう。そもそも、江東という国そのものが、日陰に咲くあだ花のような存在だ。それを今更、他の国家と対等という姿勢を打ち出した所で、外交が混乱するのは目に見えている。

「やはり、お前は反対か」

「はい。 四家はこの国の癌そのものです。 いずれ、必ずや滅ぼして見せます」

「……分かった。 下がれ」

多分、この反対意見は、聞き入れられることもないだろう。だが、それでも。

荊州にいるという立地を利用して、反対はする。それが、陸遜の意地というものであった。

荊州に戻る。実家には顔も出さなかった。

長江で揺られていると、人間は小さなものだなと思う。その人間が、皇帝だのと名乗って、何の意味があるのだろうとも。

船室に戻って、酒を呷っているうちに、対岸に着いた。

皇帝に即位した場合、多分国の名前は呉となるだろう。そうなると、陸遜はおそらく大将軍か宰相だろう。くだらない話である。魏ならばある程度は納得がいく話であるが、こんな小国で宰相だの大将軍だのといっても、虚しいだけではないのか。もっともそれは、蜀漢も同じではあろうが。

南群に戻ると、魏軍の配置を調べる。

相変わらず、隙は微塵もなかった。

五万を増員すれば、敵は十万を増員してくる可能性が高い。魏という国は、それだけの事が出来る国力を有しているのである。戸籍にある人間だけでも、江東の倍。さらに、戸籍外の人間を考慮すれば、更に差は開く。

そうなると、速攻で、犠牲を問わずに城を落とすしかない。狙うならば、江陵辺りの幾つかの城だろうか。

悩んでいると、朱桓が来た。

「如何なさいましたか、陸遜将軍」

「五万の兵を動員するから、勢力を拡げろと四家が言ってきてな」

「ならば、彼ら得意の嘘と欺瞞を刺激してやればよいでしょう。 適当に出城を一つか二つ落とせば、連中は如何にも荊州を全て落としたかのように史書に書き散らすことでしょうから、それで充分ではありませんか」

それも虚しい話であった。

だが、兵士達を出来るだけ死なせないようにするためには。それしかないのかも知れなかった。

「ところで、魏では新しい皇帝がとても有能だと聞いています」

「まだ幼いが、相当に切れるようだな。 家臣団も皇帝を持ち上げる形で、巧く機能しているとか。 羨ましい話だ」

「本当に、羨ましい限りです」

朱桓も頷く。こればかりは、もはやどうにもならなかった。

少し前に、陸遜の長男は病死したばかりである。次男はまだ幼く、ようやく立って歩けるようになったという所である。

聡明な子供を、皆で支えている魏。

羨ましいというのは、陸遜と朱桓の間に共通する、嘘偽りない心であった。

 

前線から戻った陳式が、白帝城から名を変えた永安城に行くと、陳到は眠っていた。以前よりも、更に眠っている時間が増えたという。食も細くなってきており、このまま眠るように亡くなるのではないかと、医師は言っていた。

それも、幸せの一つなのかも知れない。

時々、寝言を言っている事がある。義父は軍を率いて、農民を虐げようとする役人と戦っているらしい。張飛や関羽、劉備も其処にいて、一緒に正義の剣を振るっているようだった。

義父が農民の出身であったことは、陳式も聞いたことがある。士大夫階級の陳式とは、そう言う意味で、元々相容れない存在にも思えた。だが、養子となってからは、特に不自由を感じたこともない。適度な距離を置いてくれるので、それが心地よかったのかも知れなかった。

少なくとも、陳式は、劉表よりも陳到こそが父だったと思っている。

義父の部屋から出ると、外に。丁度、向寵が待っていてくれた。

「陳式将軍」

「向寵将軍、何かお変わりはありませんか」

「特に何も。 江東は魏との小競り合いを始めようとしているが、此方は到って静かなものだ。 その内、此処の兵は削減されるかも知れぬな」

どうもそれはあり得そうもない。

陳式が聞いた話によると、現在上庸にいる孟達の立場が、かなり微妙なことになっているという。下手をすると、近々粛正されるのではないかという話もあり、陳式も援軍として出動させられる可能性が出てきている。

そしてもし上庸に強力な魏軍が駐屯することになったら、永安の守備は削ることには行かなくなる。非常に重要な、益州への侵攻を防ぐ門となるからだ。

向寵が話を聞かされていないのか、或いは陳式を信用していないので、真実を話そうとはしないのか。それはわからない。だが、後者だろうと、陳式は判断した。なぜなら、向寵は諸葛亮に信頼されていると聞いているからだ。

しかし、特に冷たいという雰囲気もない。きっと向寵は、人間関係を乾いたものとして捕らえているのだろう。それは誰に対しても同じで、故に諸葛亮に信頼されているのかも知れなかった。

永安を出る。

既に外では、調練と編成が始まっている。今回失った兵は二千を越えていないが、それを補充しつつ、魏から連れてきた兵士や民を帰農させる。その作業が、各地で行われていたのだ。

姜維という若者は、相当に諸葛亮に気に入られたらしく、今ではすっかり蜀漢軍の一人として認められているという。彼と、彼配下の姜家軍だけはそのまま蜀漢軍に編成され、次の遠征でも従軍する様子であった。

廖化が途中で陳式を見かけて、手を振ってきた。

「陳式。 今戻ったか」

「廖化は」

「俺も今戻った所だ。 どうやら次は俺の部隊も前線に出ることになるらしくてな。 腕が鳴る」

陳式だけではなく、廖化の部隊も前線に出るとなると、かなり次は戦闘能力を重視した編成で出るのだろう。

しかし、今回の戦いで生き残った敵は、当然調練を重ねて、精鋭になっているだろう。同じように戦って勝てるとは思えない。諸葛亮は、その辺りをどう考えているのか、気になる所だ。

酒でも飲みに行こうかと話していた所で、伝令が走り寄ってくる。その時には、陳式は既に相手の用事を悟っていた。

「陳式将軍。 丞相のご命令です」

一時期、諸葛亮は敗戦の責任を取ると言って右大臣になっていたが、すでに丞相に復帰していた。理由は簡単である。諸葛亮以外に、蜀漢を経営できる者など、ただの一人とていないからである。

「兵五千を引き連れて、上庸に向かい、孟達の援軍となるように、とのことです」

「分かった。 すぐに取りかかる」

「上庸か。 そうなると、徐晃が出てくる可能性があるな。 気をつけろ」

「分かっている。 すぐに戻る」

廖化と手を振って別れると、陳式はすぐに調練場に向かった。

其処では、既に返事に備えて、八千余の兵が出動準備を整え終えていた。実際に兵が出陣する時には、様々な準備で一月近く掛かる。だがこれだけの準備が整っていると言うことは、諸葛亮は事態を予想していたのだ。

騎兵千だけを見繕い、すぐに陳式は上庸に向かった。歩兵は副官に任せて、まずは全力で上庸に急行する。もし急いで出ろと言う命令であれば、恐らく相当な危地と言うことだ。まだ上庸が落ちたとは聞いていないが、急いで現地で兵を編成する位でないと間に合わないだろう。

小雨が降り出す。

孟達のような男を救いに行くのは不快だが、これも蜀漢のため。何より、今も夢の中で民のためにと思って戦っている父のためでもある。父は蜀漢に殉じた人生を送り、それ以外の全てを失った。それなのに、義理とはいえ息子である自分が此処で動かなくてどうするというのか。

陳式は、様々な疑問を振り払いながら、馬を走らせた。

雨はやがて本降りになり始めた。

 

これが最後の戦いだと、馬上で徐晃は思った。

既に上庸の城は徐晃の軍勢によって包囲されている。孟達が裏切り、魏に降伏した時と、全く逆の状況である。裏切りを重ね、不実を積み上げた男の、無様な最後には、相応しい舞台であった。

徐晃の仕事は文聘をはじめとする数人の将に引き継いだ。徐晃の水準で軍事を維持できるかはわからないが、誰もが皆何処に出しても恥ずかしくない武将にまで成長している。水軍も順調に強くなってきていて、江東の軍勢を相手に、小競り合いで勝つことも出始めていた。

旗印は、司馬。これは、計略の一端であった。

司馬懿は孟達の裏切りを、以前から予想していた。そこで、最も近い位置に布陣している徐晃に、あらかじめ手紙を出していたのである。

孟達が裏切った時には、司馬の旗を掲げて、戦場に急行せよと。

そうすることで司馬懿が常識外の速度で進軍してきたと思った孟達は混乱し、配下の武将達は隙を見て孟達の首を取るはずだ。恐らく、それは予定通りに進行するだろう。つまり、ただ姿を見せるだけで勝てる。退屈な戦いではあった。

そしてこの退屈な戦いが、徐晃の引退試合となる。

馬上で欠伸をかみ殺している徐晃。とっくの昔に城では煙が上がり始めており、内部で激烈な逃走が開始されているのがわかる。猜疑心の塊になっている孟達は、恐らく最初から反乱に備えていたのだろう。しかしこの状況、とても孟達に勝ち目があるとは思えない。それに、何より。

以前の劉封と今の孟達は、完全に逆の状況だ。

多分これが、因果応報という奴なのであろう。

副将も仕事がないらしく、しばらくそわそわ周囲を見回していた。やがて、困り果てたように、徐晃に言う。

「城内に突入しますか」

「放っておけ。 それよりも、諸葛亮の援軍が現れる可能性が高い。 そちらにしっかり備えよ」

「わかりました」

極端な話、徐晃にしてみれば、どっちが勝っても大差ないのである。孟達が生き残った場合、その場で攻め潰せばいい。孟達が死ねばそれでいい。

これが血なまぐさい戦の世界の最後だと思うと、不思議だ。雄々しく戦って死ぬことにも興味はあったが、今は献帝の下でのんびり暮らすことの方も楽しみになってきている。話によると、献帝は何人かの子供や孫達と、静かな暮らしをしているという。それを守りながら死ぬのも、悪くはなかった。

「それにしても孟達は、一体何がしたかったのでしょうか」

「死にたくなかっただけだろう。 後、己の欲を、少しでも満たしたかった」

「それだけ聞くと、何だか哀れですね」

「そうだな」

その点では徐晃も、いや他の武将達も、皆同じだろう。孟達の場合、あまりにも状況が悪すぎたのかも知れない。劉封との不仲や、この立地条件にある上庸に回されなければ、きっと蜀漢の忠臣として、長生きできたのだろう。

城が静かになった。

城門が開く。出てきたのは、申儀だった。孟達と仲が悪いことで知られていた、癖の強い旗本である。彼が掲げ持っている盆には、さも無念そうな表情を湛えた孟達の首が乗せられていた。

馬上の徐晃に、申儀はさも神妙そうな顔をして跪いていた。

「謀反人孟達を、誅殺いたしました」

「ああ、そうか。 後は適当に対処せよ」

「わかりました」

流石に顔に不平を浮かべた申儀を、徐晃の部下達が即座に取り押さえる。そして三万ほどの兵士が城に突入し、即座に制圧した。申儀が、怒声を放った。

「こ、これはいかなる無礼だ!」

「では聞くが、お前が私の立場だった場合。 お前を信用できるか?」

流石に申儀とその取り巻き達が口をつぐんだ。当然の話である。己の身を翻って見て、信用できる訳がない。裏切りに裏切りを重ねていたのは、孟達だけではない。その部下達も、なのだ。

節義など欠片もない連中が、縛り上げられる。

後の始末は、ゆっくりやってくる司馬懿にでも任せればいい。いずれにしろ、孟達とそう変わらない運命が、彼らを待っているだろう。

「暴れるようなら、首を刎ねろ。 見るのも不快だから連れて行け」

「わかりました」

「蜀漢の援軍は、ついに現れなかったか。 或いは、此方を遠くから確認して、引いたのかも知れぬな」

「いずれにしても、徐晃将軍。 貴方の大勝利にございます」

頷くと、徐晃は部下達に上庸の守りを固めるように指示を出し、五百ほどの直属とともに、その場を離れた。最後に、成長した蜀漢の軍勢と少しだけ戦ってみたかったのだが、それも無理となった。残念な話である。

ここ数年は、戦意が少ない陸遜の軍勢との小競り合いに、ずっと追われていた。陸遜は名将だったが、既に荊州の戦略的価値が失われていたこともあり、どうしても戦意は低く。兵士達を無駄死にさせないためにも、あまり激しい戦いは行えなかった。退屈であった事は、否定できない。

襄陽では、畑ばかり耕していた。既に亡くなった父兄の土地は、息子達に監理させている。健康体操をしながら部下の報告を受け、訓練を行い、たまに陸遜のちょっかいを撃退する。それだけに、随分時間を浪費した気がする。

既に髭は白くなり、髪も同じである。これから、洛陽に向かう。凱旋のためにではない、献帝の側で、余生を送るためだ。史書には、去年病死したと記して貰った。実際に、息子の徐蓋に、既に家督も継いでいる。いずれもが、余生をゆっくり、献帝の下で過ごすために行った処置だ。

帰り道で、司馬懿に会った。一万五千を連れている司馬懿は相変わらず気難しそうな顔をしていたが、徐晃を見ると最敬礼をした。

「徐晃将軍! 長年のお勤め、お疲れ様にございました」

「ああ。 そなたもこれからは大変な立場だな。 諸葛亮は手強いぞ。 心して掛かるようにな」

「全くです。 せめてあの恐るべき男が敵でなければ、私ももう少し楽な仕事が出来るのですが」

「その場合は、とっくに三国は統一されていたことだろう」

馬上で笑い合う。後は仕事上の引き継ぎを少しだけして、別れた。司馬懿の軍勢の兵士達は、皆徐晃に最敬礼をして通り過ぎていった。徐晃は後輩達が行くのを見届けると、蒼天を見つめた。

「あの空だけは、いつも変わらぬな」

兜を脱ぐ。

これで、徐晃の軍人としての時間は終わった。最後までついてくることを選んだ五百と共に、洛陽に。

献帝の屋敷は小さかったので、周囲に畑を耕せるように、荘園を貰っている。五百は献帝の護衛をかねながら、其処で農作業をして余生を送るのだ。精鋭とはいえ、皆年老いた者達ばかりである。献帝を殺す理由も既に魏皇室にはないし、ゆっくりした時間の中で、残りの人生を過ごせそうだった。

洛陽に着いた。

喧噪を極める魏の都の片隅に、かって名ばかりの皇帝だった男の、静かな荘園があった。

赴くと、曹皇后と献帝が、出迎えてくれた。

「徐晃。 とうとうこの日が来てしまったな」

「陛下の言うとおり、英雄として軍人としての生を全うすることが出来ました。 既に武功にしがみつく年でもありませんから、部下達に全ては譲り渡して参りました」

「そうか」

「既に史書には死んだと記された身、陛下は何があってもお守りいたします。 長年ご苦労を掛けてしまい、慚愧に堪えませんが、今後はいつも徐晃がおそばにおりまする」

献帝と見つめ合う。

時代と戦った男同士に通じる、無言の理解が、其処にはあった。

白焔斧を、自宅として確保した小さな東屋の壁に掛ける。己の分身として戦い抜いた武器も、今後は静かに余生を送ることになるだろう。

振り返ると、其処には無限に続くとも思える、畑の畝が広がっていた。

帰ってきたのだと、徐晃は思った。

そしてこの事を笑って許してくれた曹操と、祖父の遺言を守ってくれた曹叡に、感謝した。

 

上庸に五万を超える兵が入っていることを確認した陳式は、兵を纏めると撤退に移った。攻撃しても勝てる見込みは一切無い。徐晃が育てた最精鋭が三万以上に、司馬懿が率いている一万五千である。しかもそれが、要害である上庸に寄っているのだ。それに対して、此方の五千は精鋭ばかりで、全滅させたらどれほどの衝撃を蜀漢に与えるか、わからなかった。

それでも、撤退する際に、必要な情報は大体刮ぎ取っていった。かって孟達の部下だった旗本達は根こそぎ捕らえられ、洛陽に送られたと言うこと。打ち首になるかはわからないが、多分ろくな運命は待っていないだろう。それに、五万余の軍勢は、これから遠征できる状態にはないことも確認した。あくまで速攻を主体とした戦力で、もし攻め込んできても、充分に永安で抑えられる。

それにしても、絶大な情報網を誇る諸葛亮の指示での進軍であったのに、遅れるとは。如何なる事があったのか。魏軍の進軍は、極端に早かった事もあるだろう。だが、襄陽近辺で大軍を要していた徐晃が、急行できることは予想の範疇にあったはずだ。それとも、重要な戦略拠点の上庸を使った、何か罠でもあったというのか。

考え込んでいた陳式が危険を察知し顔を上げたのは、長年陳到に鍛え上げられていたから、かも知れない。

馬蹄の音。

丁度、山道から平原にさしかかった所だ。

「全軍展開! 追撃に備えよ!」

銅鑼が叩き鳴らされ、即座に軍勢が展開する。同時に、どっと山を破るようにして、三千ほどの兵が現れる。騎兵を中心とした強力な編成のようだ。旗印は、「ケ」。前回の北伐では何度かみかけたが、いずれも手強い働きを見せていた。

鋭い動きを見せて、突入してくる敵軍を、さっと散開した味方が押し包みに掛かる。此処までは、良かった。

だが、次の瞬間。

敵はまるで獲物を狙う蛇のような動きを見せ、陳式がいる辺りを的確に突いてきたのである。猛烈な速攻だった。慌てて防御に転じた時には、既に左右が崩れかかり、敵の蹂躙を許し掛けていた。

最精鋭を率いて、反撃に出る。だが、敵の動きはまさに変幻自在。右に動こうとすれば出鼻を叩かれ、下がろうとすればそうはさせてくれない。出血が増え始めた所で、不意に敵は踵を返した。蛇が袋の入り口から逃げ出すように、するりと包囲から抜けられてしまう。

その時、見えた。

妙に動きが悪い敵が一人だけ居た。分厚く周囲を護衛が固めていたからよくは見えなかったが、とても小柄だった。ひょっとしたら、女だったかも知れない。

唖然としている副官に、声を張り上げる。

「損害を報告せよ!」

「はい。 歩兵三百二十二、騎馬六十七! 以上です!」

「む、敵は」

「十名を越えていないかと」

完敗である。しかも、蜀漢の最精鋭を率いて、だ。陳式は、自分が軍を率いてから初めて味わった敗戦に愕然としていた。

曹真を相手に一歩も引かなかったと言うことで、何処か油断していたのかも知れない。とにかく、あのケの旗。今後はあれを見たら、最大の警戒をしかなければならないだろう。それくらいに手強い相手であった。

「魏には恐ろしい若手武将がいるな。 何者であろうか」

誰も、それに応えることが出来る者はいなかった。

 

4、陳倉攻防

 

冬。

驢馬の上でくしゃみをした士載は、延々と連なる軍勢を見て、白い息を吐きながら歎息した。今回の戦役は、とても辛い戦いになりそうだった。

蜀漢軍は再び動き出した。兵力は三万五千。前回の北伐を凌ぐ規模である。蜀漢の経済力から考えると、遠征として派遣できる兵力としては、限界に近い。総力戦であれば十万程度の兵を派遣できるはずだが、そうなれば兵の質は落ちるし、各地の守備兵まで動員することになる。もしも敗退した場合蜀漢という国そのものが消えて亡くなるだろう。

そう言う意味では、勝っても局地戦に過ぎず、魏としては迎撃にそれほど大きな被害を出す訳には行かない戦いであった。牛金は、士載を率い、郭淮と共に長安を出発。西涼で兵を調練していた曹真と合流して、十万の軍勢を整えた。そして長安からは、五万の兵を率いて、張?(コウ)、司馬懿らが出撃した。

十五万の大軍だが、これをもってしても蜀漢軍に対する備えは充分、とは言い難い。

魏軍は一つの問題を抱えていた。それは、ここ一番で、急に問題となってきた江東である。

孟達が謀反した直後、不意に荊州で陸遜は攻勢に出た。それに併せて合肥に駐屯していた曹休が大きな打撃を受け、十万の駐屯軍をそれぞれ二万ずつ追加することが決定されたのである。

現在は戦況が維持されているが、永安に思った以上の蜀漢軍が駐屯している事も判明し、上庸に駐屯している兵力は削減が難しい状態になってしまった。結果、魏は併せて七万以上の兵力を、各地の戦線に振り分けざるを得なくなってしまったのだ。

このため、蜀漢に備えて築いた要塞、陳倉には三千五百程度の兵力しか派遣できなくなってしまった。

決死の任務である。

そのため、魏軍は、二つの札を切った。

一つは、陳倉城に派遣する守将である。?(カク)昭というその男は、各地を転戦してきた熟練の武将であり、特に城を守ることに関しては魏随一という名将であった。士載も何度か会ったことがある。冗談を言ったことなど無いような堅物のおじさんで、いつも岩のように黙りこくっている。武芸はさほどでもないようなのだが、とにかく緻密で隙が無くて、兵士達にはおっかない親爺さんとして怖がられている人だ。

もう一つは、士載である。少し前、陳式の軍勢を撃退したことで、ついに士載は一軍を率いる将として認められた。とても恥ずかしいのだが、その「若き英才」が、陳倉に軍を率いて入ることになったのだ。

三千の軍勢は、士載軍である。?(カク)昭は元々たたき上げで、五百程度の兵力しか率いていない。併せて三千五百。陳倉に押し寄せる蜀漢の軍勢は、二万を越えることが予想されていた。

防衛線を構築する曹真軍と別れる所まで、牛金は着いてきてくれた。ずっと厳しい顔だったが、別れ際に顔をほころばせる牛金。

「良し、我が軍は此処までだ。 しっかりやれよ」

「はい! 牛金将軍!」

「お前はもう充分に一人前だ。 陳倉を絶対に守りきれる」

そう言ってもらえると、嬉しかった。捨て石にされている訳ではないと思って、頑張ろうという気も湧いてくる。郭淮や曹真も、士載を笑顔で送ってくれた。ケ艾と、本名で呼んでくれたのは陳泰だった。自分のことを少しは認めてくれたらしいと思って笑ったら、視線を逸らされてしまったので、少し傷ついた。

此処からは強行軍だ。騎兵は可能な限りの荷物を載せ、歩兵達も出来る限り多くの兵糧を担いで走る。先に入城している?(カク)昭は、それなりに兵糧を蓄えてくれているはずだが、戦場ではいつも不測の事態に備えなければならない。

「おかーをこーえたーむこーうはー。 しょくぐんー、うようーよー」

適当に考えた歌を口ずさむ。だが内容が不味いと思って口をつぐんだ。にやにやしている周囲の護衛達。後ろには、長蛇になった三千の軍勢が続いていた。

「続きは歌われないのですか?」

「いやー、だって」

「どうしました」

「恥ずかしいし、それに敵がうようよいたら怖いし」

人差し指をつきあわせて言う士載を、更に周りはにやにや見る。余計に恥ずかしかった。何処まで行っても山ばかりである。まだ敵は此処まで来ていない筈だが、この間の上庸での遭遇戦でも、敵の動きは味方の予想よりずっと速かった。

伝令が来た。というよりも、格好からして細作である。汚れきった鎧は、相当な強行軍で駆けつけてきた事を示していた。

「ケ艾将軍」

「どうしたの?」

「はい。 敵兵が、既に陳倉の南五十里まで迫っております。 規模、およそ二万五千!」

予想よりも多く、そして速い。士載は銅鑼を叩きならさせた。

「全軍、全速で急ぐよ! 後陳倉まで十里くらいだから、頑張って! 敵の伏兵がいる可能性があるから、気をつけて!」

周囲の顔が引き締まる。全速力で士載が馬を走らせると、周りもそれを守るようにして、怒濤の進軍を始める。十里だと、体力の配分を考えずに、全速力で行ける。兎に角今は、何が何でも敵より速く城にはいることだ。

山を越える。更にもう一つ小さな峠を越えると、陳倉城が見えてきた。周囲に堀があり、水を引き込んでいて、城壁は二重になっている。小さいながらも、基本的な部分は全て抑えている堅固な城だ。内部には地下からの攻撃を防ぐために、水路が張り巡らされている。それだけではなく、城壁も普通の城よりもだいぶ高めになっていた。

曹真が突貫工事で作り上げた、対蜀漢軍の切り札である。完成度が高いのも、当然と言えた。

峠を駆け下りる。危なく落馬しそうになったが、護衛の一人が手綱を掴んで落ちないようにしてくれた。城側でも、既に厳戒態勢を敷いている様子だ。虎豹騎出身だという若い士官が、さっと先に出て、叫ぶ。大柄で、鋭い眉毛の持ち主だ。頬には凄い向かい傷がある。

「通行許可証を。 私が先に行って、門を開けさせます」

「うん。 この中」

探し出すのも面倒なので、腰に付けている小袋をそのまま渡す。流石に唖然とした士官だが、そのまま馬を加速させ、一気に坂を駆け下りていった。その有様たるや、真に人馬一体。走る周囲の兵士達からも喚声が上がった。

「おお、速い」

「流石です。 王桓という男ですが、なかなかやりますな」

「豪傑だね」

「はい。 一人で十人の敵兵を相手にすると言う噂です」

そういえば、最近抜擢された王双という猛将が、今回は参戦しているとか、士載も聞いていた。彼は曹真軍にいるそうだが、この男もひょっとするとその一族かも知れない。やがて、王桓が門に辿り着くのが見えた。

城門が開かれる。吊り橋になっている、かなり強固な城門だ。衝車に対応している作りである。

城門を士載が渡りきる。どっと兵士達がそれに続いた。

「急いで! 敵が迫ってる!」

城門の入り口に残った士載が、銅鑼を叩きならさせる。少し遅れていた兵士達も続々と城に駆け込んでいった。最後に、十名ほどが遅れているのが見えた。新兵達だ。倒れそうになっている者もいる。

そして南からは、無情な敵の先鋒が迫っているのが見えた。流石は蜀漢の精鋭である。考えられない行軍速度だ。

飛び出そうとした士載を、王桓が止めた。

「なりません。 力不足による、当然の結果です」

「駄目。 こう言う時見捨てると、兵士達は力を出してくれないよ」

「ならば私が! 我こそと思う者は着いてこい!」

素早く馬の荷を投げ捨てた王桓が、十名ほど騎兵を連れて飛び出す。そして遅れている兵士達を掴みあげると、馬の後ろに乗せた。

そして、蜀漢軍よりも先に、彼らを救って城に駆け込んだのである。

城門が引き上げられる。鎖が、鋭い音を立てながら巻き上げられていった。士載は肩で息をつきながら、王桓に親指を立てた。

「凄い凄い。 後で褒美をあげるからね」

「この戦が終わってからでお願いいたします。 それまでには、さらなる戦功を立てて見せましょう」

王桓は不敵に微笑んで見せた。

 

十名ほどの敵兵が城に駆け込み損ねたが、飛び出してきた騎兵十名ほどが彼らを救出。城に逃げ込んだ。

廖化と先鋒を受けた陳式は、一部始終を見ていた。趙雲が続いており、更に魏延の軍も続々と到着している。兵力は二万五千。そして、諸葛亮の本隊も、間もなく到着した。

陳倉は狭い道にあり、周辺の狭い平野を一望できる場所にある。その上、街亭よりもぐっと蜀漢本土に近く、しかも此処が残っていると補給線を攻撃される可能性もある。敵ながら、見事な位置に築いたものであった。

「手強いな、これは」

「簡単には攻め落とせそうにない」

廖化と意見が一致。まともに攻めても被害が増えるばかりだ。攻城兵器を揃えないと、とてもではないがどうにか出来る状況にはない。城の周りを見て回る。幅が広い堀には水が満々と湛えられ、衝車を使うのは無理だ。城壁も高く、その上城の周囲には岩が転がされていて、車両型の兵器は通るのが極めて難しい。

「衝車を使うには、あの岩をどうにかして、なおかつ堀を埋める必要があるが」

「面倒くさい。 どうにかして攻められないのか」

廖化が気短げに言うので、陳式は苦笑した。確かに、廖化の性格から言って、ちまちました対処は性に合わないだろう。

地面を少し掘り返させてみる。土は非常に硬く、鍬を跳ね返す程だった。これでは、城壁も相当強固だろう。とてもではないが、力攻めをしてどうにか出来る城ではない。投石機の類で岩をぶつけても、城壁はびくともしないだろう。

しばらく見回った後、陳式は結論した。

「駄目だな。 この城を落とすには、十万の兵が一年を掛ける必要がある」

「そんな兵力はいないし、時間もない」

廖化が怒って言うが、どうにも出来ないものはどうにも出来ないのだ。諸葛亮の本陣に出向き、天幕にはいる。既に魏延だけではなく、呉懿も来ていた。

「丞相。 陳倉の守りは非常に強固で、簡単に落とせる城ではありません。 この兵力では、どれだけ攻めても埒が明かないでしょう」

「ふむ、やはりそなた達でもそう見たか」

天幕の中には大型の机があり、地図が拡げられている。いわゆる水攻めも、この地形では難しい。かといって、味方は蜀の桟道を越えてきたのだ。攻城兵器など、ある訳がない。

しかし、である。

諸葛亮が手を叩くと、魏延が頷いて、陳式と廖化を外に連れ出した。

唖然としたのは、陳式であった。

其処には、衝車十台、投石機二十台、雲梯十機など、攻城兵器がずらりと揃っていたのだ。

ざっと見て回るが、精度と言い、大きさと言い、申し分がない。魏の最精鋭が持っている攻城兵器に、いささかも劣らないだろう。

「これは、いかなる方法で持ち込んだのですか」

「簡単なことだ。 前回の戦で、丞相は各地の村々に、種をまいていった。 その収穫の一部が、これだ」

「つまり蜀に内通した村が多数あり、それらに部品を分散して生産させたと」

情報戦が得意な魏延には、簡単な任務だっただろう。なるほど、長安を落とす前の下準備として、魏延は彼方此方を飛び回り、この準備をしていたと言うことだ。

天幕に戻ると、諸葛亮は羽扇を揺らしながら言う。その後ろには、無言のまま、彼の細君が座っている。一緒に来ていると言うことは、今回は彼女にも何かしらの仕事があるのだろう。

「陳式は、一万をもって陳倉城を攻めよ。 攻城兵器はどれだけ潰れても構わぬ。 全力で攻め懸かり、二万五千が総力を挙げているように見せかけよ」

「わかりました」

「他の将は旗を残したまま、この場を離れる。 見ての通り、あの陳倉は簡単に落とせる城ではない。 他の全軍は、撤退に見せかけて魏軍を屠り去るために、これから罠を仕掛けに入る」

諸葛亮の側にいる若武者は姜維だ。姜維はすっかり諸葛亮に飼い慣らされているようで、完全に忠実な僕と化していた。それにしてもあの冷酷な諸葛亮が、己の息子のようにかわいがるとは意外である。ひょっとすると諸葛亮は、冷徹で頭が切れすぎるが故に、孤高なのかも知れない。そう言えば細君も相当に頭がよいようだし、同じ程度に頭がよい人間を求めて止まないのかもしれなかった。

翌日。

諸葛亮ら蜀漢軍本隊は、ことごとくが消え去った。

残された陳式は百人ほどの老兵を使って残された陣を維持しつつ、陳倉城に対する、猛烈な攻撃を開始した。

 

飛来するのは、燃える岩だ。正確には岩ではなくて、藁か何かを丸めて、それに油を掛け、着火したものだろう。

敵の投石機の精度は高い。降り注ぐ火の雨。城壁の上で指揮を執っている士載は、辟易した。

「近付いてくる投石機を狙って、火矢を撃ち込んで。 いい、あれだけ大きな道具になると、動き出すと簡単には止まれないから、動きを読んで火矢を放つ!」

兵士達は士載が指示するまま、矢を放つ。無数の火矢が飛び、敵が盾を構えている中に落ちる。堅固な守りだが、やはり投石機の周囲には隙も出来る。

一つ目の投石機が、燃え上がった。下がり、消火活動に入っている。その隙を突いて、分厚い盾を構えた敵兵士達が、岩の撤去に入っている。城壁の上の兵士達は、矢を次々に放つが、敵の練度も高い。岩をどかす兵と、矢を防ぐ兵が綺麗に分担して、効果的な被害は出せなかった。

「手強いです」

「そうだな」

後ろから、おっかない声。思わず身を竦ませた士載の横に、白い髭を胸元まで蓄えた大柄な老人が立つ。?(カク)昭であった。以前あった時はおじさんだったが、この城で再会した時には老人になっていた。時の流れは無情である。

?(カク)昭が城壁の上に出てくると、一気に場が引き締まる。士載が連れてきた兵士達も、?(カク)昭には強い敬意を持っているようだった。

?(カク)昭は自ら弩を手にすると、鋭い音と共にはなった。老いてはいるが、凄まじい筋肉の盛り上がった腕をしている。たたき上げの軍人らしい険しい表情には、妥協の欠片もなかった。

飛んだ弩の矢が、敵兵の首を後ろから貫く。岩をどかしていた兵士がつんのめるようにして転がった。兵士達の間から、喚声が上がる。

「漠然と矢を放っても当たらん。 どかされるとまずい岩の周囲に群がっている敵兵に、十人二十人で集中して矢を放て。 敵が固まっている場所も効果的だ」

「わかりました!」

それだけ喋ると、?(カク)昭は城門の上にある、櫓に入った。外からは見えないが、中からは外が一望できる。それだけに飛来する火の玉も多く、火矢も多く飛んできていた。床几を据えさせると、?(カク)昭は其処に座り、腕組みした。そして、てこでも動かなくなった。

その威圧感は凄まじく、兵士達は必死の防戦に出る。下手な動きをしたら、?(カク)昭の太い腕で殴られるかも知れないと思うと、必死にもなるのだろう。

負けてはいられない。

士載は城壁の上を走り回って、敵陣を観察。隙がある所を見つけては、矢を集中して放たせた。敵は崩れるが、そのたび鋭い指揮で立ち直る。

夕刻まで、敵の攻撃は続いた。

陽が落ちると、やっと敵は少し引いてくれた。味方は百名程度の被害を出した。敵はそれ以上の被害を出しているだろう。

城壁の上には、分厚い弩の矢が無数に突き刺さっていた。鏃には毒も塗ってある。敵の投石機は二機を燃やしたが、まだまだ多くが健在だ。この堅固な陳倉の防備を持ってすればむしろ有利なはずなのに、敵は相当によく動いている。流石は蜀漢の精鋭と言うべきだろう。

櫓に戻ると、?(カク)昭が周囲に三交代で休憩するように指示を出している所だった。士載が歩み寄ると、ぎろりと鋭い眼光を向けられる。いちいち怖い。状況を説明し終えると、?(カク)昭は腕組みしたまま、外を見つめた。

「流石は蜀の精鋭だな。 儂が相手にしてきた反乱勢力やら異民族の混成部隊やらとはものが違うわ」

「はい。 この兵力差なら、此方が有利な位なのに」

「有利だと? 敵は二万五千ではないのか」

「いえ。 攻め込んできているのは一万程度です」

即答。

士載は見ていた。敵陣はめまぐるしく兵を入れ替えているように見えたが、実際には全体の流れを見る限り、一万程度で完結していた。戦闘に加わっているのは一万だと、士載は断言できる。

更に言えば、外にいる敵兵の内、一万五千ほどは動いていない。動いているように見せているが、明らかに疑兵だ。

「貴様、ケ艾とか言ったな」

「はい」

「どうして、そんな事が分かる」

「私、地形と陣の動きがわかるんですけど、逆にそれしかそれしか能が無くて。 韓浩将軍に拾われた時、それが使えるって言われて、軍人になったんです」

しばらく?(カク)昭はケ艾を見ていたが、やがて視線を逸らす。

「そうなると、味方が危ないな。 細作をとばして情報を流す必要がある」

「あっ、そうでした」

「細作に包囲網を脱させるためにも、明日、出撃して敵の出鼻を叩く必要がある。 行けるか」

「はい。 敵陣の動きに、癖を見つけました。 一回だけなら、少しだけ被害を出させることが出来ると思います」

以前見たことがある癖だった。多分、敵将も同じなのだろう。

陳式だ。

手強い相手だが、奇襲で隙を突くことだけなら、どうにか出来そうだ。そして敵が混乱した隙に、細作が情報を持って、味方へ走るのだ。

?(カク)昭と一緒に、城壁の内側に降りる。三交代で休み始めた味方の内、千ほどを集めて、皆を見回した。

「明日、出撃して、敵の先頭を一撃するよ」

「危険すぎませんか」

「大丈夫。 どうも敵は、一万だけを此処に残して、他の兵は余所に行ってるみたいなの」

王桓に対して受け応えて。しまったと思ったのは、つい女言葉が出てしまったからだ。どうも兵士達と接する時は、地が出やすい。

ぎろりと?(カク)昭に睨まれて、縮み上がる。咳払いした?(カク)昭は、にやにやする兵士達に言った。

「というわけだ。 お前達が信頼するこの小娘将軍の活躍が、我が国の存亡に関わっている。 明日は決死の戦いをしてもらうことになる。 やれるか」

「わかりました。 我ら、命に代えても」

「その意気や良し! 一杯だけ、飲むことを許す。 思い残すことがないようにしておけい!」

一喝すると、?(カク)昭はまた櫓の上に戻っていった。

床几に座ったまま寝るのだという。体力のある老人であった。

 

敵の抵抗は激しく、簡単に城は落ちそうにない。しばらく攻撃を続けて、陳式はそれをはっきり悟っていた。

既に技術士官から、報告を受けている。

穴を掘って敵の城を地下から攻めるのは不可能だと。地盤が固すぎて、とても掘ることが出来ないそうである。残る手は投石機で敵の兵力を削りつつ、隙を見て衝車を突撃させ、城門を破るしかない。その時は、雲梯による支援射撃も必要になってくるだろう。

手が足りない。

そもそも、一万で落とせる城ではないのだ。

諸葛亮が求めているのは、この城の陥落ではない。あくまで敵の目を引きつけておくことだ。実際には疑似撤退により、敵の主力を撃滅することが目的であるらしいし、陳式はもう少し手を抜いても良いのかも知れない。

しかし、敵の情報網に、それが筒抜けになったらと思うと、それもまずい。

多分陳式が此処に残されたのは、生真面目な性格が故だろう。諸葛亮の思うつぼだと思いながらも、落とせもしない城に、陳式は真面目に襲いかからなければならないのだ。

ふと、我に返る。

敵将は相当に切れる人物だ。もしも此方の包囲戦力が一万にすぎないことを見抜いていたら。

しばらく考え込んだ後、陳式は手を叩いて、腕利きの部下数名を呼んだ。

「お前達は、西門に伏せよ。 今日、私が東門を攻めている時に、其処から細作が出てくる可能性が高い。 一人残らず斬るか捕らえよ」

「わかりました」

念のため、細作部隊にも話を伝えておいた方がよいかも知れない。そう思って陳式は合図である鈴を鳴らして、物陰に。其処には、もう既に、何名かの細作が待機していた。恐るべき者達である。

「お呼びですか」

今、鈴と名乗っている山越出身の女細作が、低く押し殺した声で言う。長身の彼女は、年々人間離れしてきているという。林を殺せるとしたら、この女しかいないという噂もあるとか。

「今日、敵が城から細作を脱出させる可能性がある。 一応味方に伏兵はさせたが、それでも失敗するかも知れない。 だから」

「わかりました。 確実に殺します」

目を離した隙に、もうその姿は消えていた。

自陣に戻る。今日も、攻撃で、すること自体は変わらない。違うのは、二千ほどの特別機動部隊を、先に編成してあることだ。

早朝から攻撃を開始する。投石機は着実に敵城に火球を叩き込み、盾を構えた兵に守られながら、周囲の農村からかき集めた人夫が岩を運んでいく。その過程で敵味方に被害が出る。だが、敵はなかなか動きを見せなかった。

昼過ぎ。

陳式が、東門を攻めさせている部隊を下がらせようとした、その瞬間だった。

城門が弾かれるように開かれて、跳ね橋が降りる。そして、千ほどの兵が、猛烈な勢いで突撃を仕掛けてきたのである。

即応した陳式は、二千を率いて、それに真っ正面からぶつかり合った。二度、三度、激しく火花を散らす。敵には優秀な兵が揃っていて、味方の精鋭と互角に渡り合う者も多かった。だが、それでも。兵力差を生かし、一気に押し込む。敵兵を二人、三人と斬り伏せ、一気に敵将に迫る。

小柄な敵将が、至近に見えた。

大きな目の敵将、やはり女か。剣を振り上げ、振り下ろす。寸前、割って入った大柄な男の槍が、陳式の剣をはじき返していた。

「失敗です! 退いてください!」

「させるか! 城門から城内に突撃せよ!」

二合、三合と、敵の武人と渡り合う間に、敵将は陳式から逃れた。膨大な矢が降り注いでくるが、それは此方も同じ事。勝機と見た味方部隊が、城壁の上に矢を山と浴びせる。激戦の中で、敵は味方に猛烈な逆撃を加えてきた。その瞬間、陳式の部隊に、僅かなほころびが出来る。

その隙に、敵はまるで鞠が跳ねるかのような機動で、城に逃げ込んでしまった。

「やむを得ぬ! 引け!」

弩兵に援護させながら、引く。敵の内百五十ほどを討ち取ったが、味方も三十ほどが倒された。この間の借りは返すことが出来ただろう。

さて、細作はどうなったか。

伏せていた兵が、間もなく戻ってきた。手には首をぶら下げている。

「細作らしき者が現れましたので、仕留めました」

「でかした。 だが」

陳式は、どうも引っかかるものを感じていた。

ひょっとすると、敵は他にも、通信手段を持っていたのではないのか。

 

陳倉東の山中。

空から舞い降りてきたのは、白い鳩。そしてその足には、手紙がくくりつけられていた。高級品の紙を使い、重さを減らしたものである。細作達が、とっておきの切り札として使うものだ。

鳩の足から手紙を外した男が、指笛を鳴らす。すぐに十名ほどが、周囲に現れる。

そして全員が手紙を覗き込み、内容を頭に叩き込んだ。

殺気。

降り注ぐ短刀。三人が見る間に倒される。

周囲に現れる影。数は二十。その先頭には、長身の山越出身らしい、焦げ茶色の肌をした女がいた。

「蜀漢の細作!」

「皆殺しだ」

冷酷な宣告が行われる。

細作の一人が、懐から鏡を出す。そして逃げながら、太陽光を反射した。それが終わった時。

細作は追いついてきた女細作に、首を一刀にて跳ね飛ばされていた。

後には沈黙と、静寂だけが残った。

そして、それを見ていた林は、にやりと笑った。

鏡の光は、暗号になっていたのだ。つまり、手紙の内容は、林の頭の中に叩き込まれていた。

距離がありすぎて、女細作、鈴は此方に気付いていない。まだまだ、奴は林には勝てない。

「林大人、如何なさいますか」

「私はこの情報を持って、一旦司馬懿の元に帰る。 お前達は引き続き、諸葛亮軍本隊の監視を続けよ。 それにしても諸葛亮め、陳倉での攻防そのものを囮にして、魏軍を疑似撤退に引き込んで全滅させようとは」

くすくすと笑うと、林は全てを魏には伝えないことにした。

諸葛亮に、天下を取らせる訳にはいかない。

だが、奴をもう少し生かしておいた方が、色々面白くなりそうだ。

この中華をおもちゃ箱にすることは諦めた。だが、全てを滅茶苦茶にするのには、まだまだ戦乱がいる。

曹操が幻視した、無数の異民族が中華に流れ込む地獄絵図。

それを実現させるためには、時が必要なのだった。

 

(続)