動き始める最後の星

 

序、水上要塞

 

合肥周辺に展開している張遼、楽進の軍勢は、既に五万にまで増強されていた。それが故に、近年は江東の攻撃もなかったというのに。兵士達は露骨に不満を顔に貼り付けたまま、調練を繰り返していた。

荊州戦線と揚州戦線を行き来している楽進の軍勢に、特に不満は大きい。何しろ、皆は言い含められているからだ。曹操の遺言を。

江東に対しては、攻撃を仕掛けるな。

攻撃を仕掛けられた場合のみ、応戦せよ。

理由は二つある。

一つは、水軍力において、江東の軍勢は確実に魏の上を行っていると言うこと。兵力の問題ではなく、練度の話である。そして水軍での戦いでは、この練度が戦いの帰趨を決めるのである。古来より経験の浅い水軍が、少数の敵に敗れた例は枚挙に暇がない。

もう一つは、江東は昔からとても守勢に強いと言うことだ。

つい先日の、劉備による親征に耐え抜いたように、江東の軍勢は貧弱であっても、守りに関しては別の存在のような力を発揮する。そして今は、陸遜による荊州防衛体制と、徐盛による揚州防衛体制が見事に機能している。負傷したが故に、血の気が少なくなった徐盛は、以前より数段手強くなったと、楽進は見ていた。

ひとしきり訓練を見終わった後、楽進は張遼の陣に赴く。

何だか、とても動きが悪かったからである。

陣屋で、張遼は咳き込んでいた。顔は蒼白になり、頬は痩けてしまっている。背中をさすっている副官が、楽進を見て慌てて敬礼した。

「楽進将軍」

「どうした、その有様は」

「少し前から、張遼将軍は体調を崩されておりまして。 医師の話によると、とても前線に出られるような状態ではないと言うことなのですが」

なんということだ。

呂布の時代から戦場を駆け抜けてきた猛将も、年には勝てない。年を取れば、些細な病が致命的な事態につながる。

楽進だって、それは同じだ。

いつ身罷ってもおかしくない。武人として戦場で死にたいとは思うが、それも果たせないかも知れない。時々、胸が不意に痛くなることがあるのだ。まだ倒れたことはないが、馬に乗って前線に出るのは控えた方が良いと、医師に強くいわれている。今回だって、事実上引退していた所を、四年ぶりに前線に出てきたのである。四年前に引退し、公式文書には死んだと記させていたほどなのだ。

しかも張遼と楽進は、子供にろくなのがいないという点でも共通している。張遼の息子の張虎は猪武者で、兎に角頭が悪い。楽進の息子の楽?(チン)は逆に過剰に臆病で、とても先陣を張れるような人間ではなかった。

張遼に肩を貸して、本陣まで一緒に歩く。仲が良かったとは言えない間柄だが、こうなると哀れだ。楽進も、いつこうなるか、知れたものではないと言うこともある。

ほどなく、本陣に。

十万を超える兵が勢揃いしていた。今回、事実上の指揮官は張遼となるが、これでは先行きが思いやられる。楽進が代わりに総司令官になろうかとも思ったのだが、今更それを言い出しても仕方がない。

天幕では、曹丕が待っていた。他にも、名前も知らないような若造の将軍が、大勢詰めていた。

「おお、楽進将軍。 張遼将軍」

「陛下。 早速なのですが、先帝の遺言を破り、江東に攻撃を仕掛けようという意図は何処にあるのでしょうか」

楽進が直球での直言を放った。楽進は曹操にも遠慮したことがない。焼き菓子ばかり食っている曹操に、苦言を言ったことさえもある。

周囲の侍臣達が青ざめる中、一人牛金は平然としていた。徐晃が期待していると言うだけのことはある。そんな中、曹丕は何を言うかとばかりに、自信深げに応えた。

「江東は、劉備の攻撃で大きな打撃を受けている。 倒すなら今だ」

「江東の底力を侮ってはなりません。 荊州方面の軍勢は確かに打撃を受けていますが、まだまだ無傷の部隊が幾つもあります。 それに、経済力に関しても、江東は侮りがたいものを持っています」

特に水軍は、この間の劉備軍との戦いで、打撃らしい打撃を受けていない。今回は、それが一番問題なのだと、楽進は指摘した。

ぐうの音も出ない様子で、曹丕が黙り込む。

賈?(ク)が何度か咳き込みつつも、主君をある程度庇うように言った。

「長年荊州近辺で転戦している楽進将軍には、敵に乗じる隙に思い当たる節はありませぬかな」

「ありません」

「ほう?」

「今、荊州には陸遜がいます。 陸遜は徐晃将軍に匹敵するほどの戦上手で、しかも民からも慕われています。 長江戦線は更に絶望的です。 我が軍は水軍を数だけは揃えたようですが、とても敵の水上防衛線を突破できる練度には達していません」

ずばずばと現実を指摘し終えると、曹丕は真っ赤になって俯いてしまった。賈?(ク)はむしろそれを楽進に言わせたかったのだろう。頷くと、着席していた。長安方面から着陣したばかりの張?(コウ)は、楽進と同意見のようで、黙って頷いてくれた。

陳群や華?(キン)も、楽進に対して直接偉そうな口を利くほどの権限は持っていない。司馬懿は曹真、それに郭淮などと共に長安方面に出ている状況である。曹休に到っては楽進の子飼いで、視線を向けるだけで口をつぐむ有様であった。

こうなると色々と面倒だと言うことは聞いている。張遼が、激しく咳き込んだので、慌ててそちらを見た。

「陛下。 この張遼めの、最後の願いにございます」

「何だ、張遼将軍」

「今回の戦ですが、攻撃は荊州方面に主眼を置き、こちらは主力を配置しているように見せかけて、陽動だけにしてくださいませ」

「これだけの軍勢を、陽動だけに使うというのか」

張遼は、何度も咳き込みながら言う。

今回、軍船をはじめとする物資を、各地の拠点に蓄えることが出来ただけでも、軍勢を連れてきた意味がある。また、長年合肥に駐屯していた兵士達を、交代させて、故郷に返してやりもしたい。

そう張遼が言うと、流石に曹丕も周りを見回した。

十万の兵の中には、何年どころか、十年以上も合肥で苦しい戦いを続けている者もいるのだ。それを、今更ながらに思い出したのだろう。

楽進が見た所、曹丕は決して暗愚ではない。真面目すぎるので、余裕がないことは確かだ。だが、気付くことさえ出来れば、それに対して心を砕くことも出来るのである。やがて、大きく曹丕は歎息した。

「わかった、良いだろう。 曹仁、徐晃と協力し、五万で江東の勢力を削り取れ」

「御意にございます」

「曹休、そなたは曹仁に付け。 他の諸将は、張遼、楽進と共に、合肥に展開。 朕の周囲を守れ」

すっかり老い衰えた曹仁が、何名かの若手を連れて出て行く。牛金も、今回は曹仁に付けられた。

天幕の外で、小柄で危なっかしい雰囲気の若者が、牛金に何か話している。あれはひょっとすると、女か。そういえば、韓浩が引退前に、牛金に預けたというやたら優秀なおなごがいると、楽進も聞いた。それではないのだろうか。

張遼が咳払いしたので、振り返る。

「すまんな。 引退していた所を、わざわざ出てきてくれて」

「貴様のことは気に入らなかったが、この状況ではそうも言ってはいられん。 だが、俺は流石にこの体だ。 もう戦えはせんぞ」

「分かっているさ」

「それに、もうお前も前線での指揮は無理だろう。 今後はどうするつもりだ」

司令官に曹休を据え、参謀として満寵を置くと張遼は言った。楽進としても文句がない。的確な人材配置である。

凡将曹仁を支え、関羽の猛攻を凌ぎきった満寵は有能だ。関羽より数段落ちる江東の軍勢など、苦もなく追い返してみせるだろう。かなり年も取り始めているが、それでも楽進達に比べればぐっと若いし、何より壮健な所が強みである。まだ二十年は現役を張れることだろう。

しかし、曹休は曹仁よりも更に小粒な将軍だ。若手の中ではまだ使える方だが、とてもではないが皇族だからと言って甘く査定する訳にはいかない。満寵の負担も更に大きくなるから、誰か優秀な若手をもう一人くらい付けたい所だ。

「牛金の所にいたのは、あれは女か」

「どうやらそのようだな。 ただ、幼い頃に病を得て、子を成せんそうだ」

「それは不憫だな」

「代わりに、その土地における最良の陣立てを一瞬で見抜くという能力を持っているらしくてな。 頭も相当に切れるらしい。 ただ、普段はぼんやりしてばかりで、方向音痴で、何もない所で転ぶそうだが」

何だか聞いていて不安になってくるが、韓浩が見込んだのなら大丈夫だろう。

その韓浩も、半年ほど前に死んだ。家族や、彼が育てた家臣達に囲まれての、大往生だった。

曹丕が天幕を出て行くと、いよいよ中は張遼と楽進だけになった。手を叩いて、副官を呼び、茶を入れさせる。

「曹操様の好きだった焼き菓子だ。 食べるか」

「貰おう。 私が食べるのではなく、妻が好物なのだ」

「仲むつまじくて羨ましいことだ」

「何の。 最初からそうだった訳ではないわ。 長年かけて、愛情をはぐくんだのよ」

笑い会う。

何処かで、気付いていたのだろう。多分年齢が原因で、もう会うことはないのだと。戦が原因だったら、きっと良いのだが、そうも行かないだろう。

魏はとてつもない大帝国になりつつある。高位の将軍になればなるほど、戦死は今後あり得ない事になっていくだろう。

程なく、曹仁が率いる五万が、荊州に向かって動き始めた。

張?(コウ)が率いる三万がそれに続く。更にそれに付随して、諸将が率いる三万も荊州へ向かった。

今再び、荊州は大軍による攻撃で、踏み荒らされようとしていた。

 

1、江東の守り

 

徐盛は緊張していた。

敵の大水軍が寄せてくると、報告があったからである。恐らくは威力偵察であろうが、油断すれば水塞に攻め込んでくるのは確実であった。

今、此方はとても戦える状態ではない。

少し前に、水害があったのだ。しかも十数年に一度という規模であった。軍民共に被害は甚大。要塞の備えはことごとく流され、多くの軍船が大破、沈没した。かろうじて見てくれだけは整えたが、水害によって多くの人材を失い、兵士も足りない状況である。その上、この間の劉備との戦いで、兵士は多く損失したばかりで、とても補充など出来る状態になかった。

四家はもったいぶって、援軍を出す様子もない。しかも連中の領地だけは、既に復旧が終わっているともいう。

仕方がないので、徐盛は備えにわら人形を多く立て、鎧を着せて兵力を誤魔化していた。曹丕の軍勢はただ威力偵察をするだけだろうと判断していたからこそ、出来たことだ。もし攻め込まれたら、ひとたまりもなく軍は崩壊してしまう。

徐盛はこの間の戦で数本の矢を受けたが、元々体の頑健さには自信がある。流石にまだ馬には乗れないが、水塞の指揮くらいならどうにでもなる。

「見えました!」

兵士の声と共に、どよめきが上がった。

超大型の旗艦を中心として、闘艦だけで三十隻はいる。敵は小型船なども含めると、千隻を超えているだろう。乗せている人員は三万から四万という所か。

しかも張遼が水軍の統率に優れた人材を見繕っていて、有能な人材が集まっていると聞いている。確かに水軍の動きは、昔日よりも、ずっと良くなっている様子だ。その上船にも工夫が見られる。以前は木でそのまま作っていたが、火除けの仕組みが随所に見られる。斥候から話は聞いていたが、実際に近くで見ると、以前とは比較にならないほどに、優れた水軍だ。

かって、曹操軍は旧荊州軍閥の水軍をそのまま利用していた。

だが今では、既に独自の人材を投入して、魏そのものによる水軍を作り上げていると言うことだ。もちろん文聘などの旧荊州軍の人材も、水軍の創設には携わっただろう。だがそれ以上に、魏の水軍力は上がっている。

このままだと、何十年か先には追い越されるなと、徐盛は思った。味方は水上戦の機会が減っている上に、水上戦では勝てるとおごりきっている。訓練は確かに重ねているが、それでも何時かは驕りが現実を凌駕してしまうだろう。

今は、まだ大丈夫だ。

あの大船団にも、水上での戦でなら勝てる。

「水軍の様子は」

「既に出動準備が出来ています」

「うむ」

腕組みしたまま、徐盛は動かない。下手に騒ぐと、兵士達を不安にさせる。こう言う時は、必要なこと以外は喋らないに限る。それで、威厳を出すことが出来るのだ。

不可思議な話である。

多弁になると、人間は威厳を失う。動き回ると、落ち着きがないように思われる。

どちらも、人間を動物から知性ある存在に変えるため、必要不可欠な事だというのに。

「敵、近付いてきます!」

「覆いを取れ」

兵士達が走り回り、要塞の各所に掛けていた布を取り去っていく。

敵に、動揺が広がるのが分かった。

布の下には、多数のわら人形を潜ませていたのである。いずれにも鎧を着せている。敵から見れば、巨大な水上要塞に、更に増援が現れたように見えることだろう。

もとより威力偵察のつもりで、真っ正面から此方の備えに寄せてきているのだ。戦意は低い。

程なく、旗艦らしい敵の闘艦が、艦首を返すのが見えた。

兵士達から喚声が上がる。追撃をしたいという声があったが、制止した。

「敵は陸上戦では我らよりも遙かに上を行く。 水上戦でも、敵はあの兵力だ。 簡単に打撃を与えることはできないと考えた方が良いだろう」

「しかし、あの規模の水軍を、放って置いても良いのですか」

「今は此方も備えが出来ていないと言うことだ。 いずれこの水塞が復旧したら、目に物を見せてやればいい」

もっとも。

その時は、当然魏もそれなりの準備を整えているだろうなと、徐盛は内心で呟いていた。

少し後で、長江の北岸に伏せていた兵力の一部が、奇襲を勝手に仕掛けたという報告があった。一時は敵の本陣にまで火が迫ったと言うことだが、結局大した打撃を与えることは出来なかった。

敵の水軍も火攻めには備えていて、小型船を数隻燃やしただけだった。

 

牛金は麾下の一万を、全力で駆け回らせていた。

戦況は一進一退。かろうじて味方が有利だが、荊州を一気に席巻するのは不可能だろう。江東の軍勢は、陸遜の指揮下で、良く此方の大軍を防ぎ抜いている。守りに徹しながら、時々奇襲を掛けてきて、補給線を何度か焼かれた。

特に朱桓は奇襲が見事だ。朱桓の主力部隊とぶつかっている曹仁軍は、小競り合いで千名程度の損害を出したという報告が出ている。

この戦いでの最大の被害がそれなのだから、数万同士のぶつかり合いにしては、非常に大人しい。牛金も主力決戦どころか、伏兵をどう追い払うかに終始していて、到着した時には敵は何処にもいないという事態ばかりが繰り返し起こっていた。

また、敵に逃げられた。

原野には、敵の影も形もない。少し前まで攻撃されていた荷駄は物資をある程度焼かれたが、全滅はしていなかった。

「守備部隊の隊長は」

「此方にございます」

鎧に矢を受けた男が、蒼白な顔で跪いていた。

どうにか敵の奇襲は追い払ったのである。兵糧も全て焼かれた訳ではない。杜恕という若い将軍は、それでも謙虚な様子で自分の失敗について冷静に述べたので、牛金は好感を持った。

杜恕によると、襲撃を掛けてきたのは五千ほどの朱桓軍だったという。曹仁軍が奇襲によって大きな打撃を受けた隙を突いて、前線に出てきたと言うことだろう。動きは非常に早かったと言うことで、抜け道や裏道にも通じていることがよくわかる。

ぽくぽくと脳天気そうな音とともに、士載が馬を寄せてきた。しばらく陣を見つめていたが、すっと指を虚空に動かす。杜恕が小首を傾げた。

「あれは、誰ですか?」

「まあ、見ていろ」

「ええと、敵はそちらから来て、こっちへ抜けた。 それから、あちらに向けて走り去っていった。 兵力は五千から五千二百。 正しいでしょうか」

度肝を抜かれた様子で、杜恕が士載を見ていた。報告もしていないのに、なぜ分かったのか不思議だったのだろう。

「士載、敵を捕捉できそうか」

「追いつくだけなら、可能かと。 敵の機動力から言って殲滅は無理ですが、奇襲を仕掛けて、張?(コウ)将軍のいる方へ追い立てることだけなら充分です」

「よし、荷駄と曹仁軍の仇を討ってやる」

馬に飛び乗ると、牛金は士載の言うとおりに、兵を動かす。

一刻ほど、全力で兵を走らせた頃だろうか。

丘の下に見えた。休憩中の朱桓軍だ。朱然軍の荷駄と合流して、補給を受けている様子である。

口の端をつり上げると、牛金は指揮剣を抜いた。

此方は一万。敵は五千。荷駄は二千ほど。

しかも捕捉されていないと思い、油断しきっている。

「全員、突撃開始! 敵の荷駄を焼き払え!」

「殺っ!」

兵士達が唱和し、丘を全力で駆け下り始めた。

少し士載が遅れているのが見えたが、奴には特に腕利きの護衛を付けている。あの頭脳は今後も非常に有用だ。絶対に失ってはならない。

敵が、逆落としを掛けてきている此方に気付く。

慌てて陣を立て直そうとする所に、まず矢の雨を降らせた。朱然が見える。しかし、朱桓の対応が早い。

「荷駄を逃がせ!」

「させるか! 火矢を浴びせよ!」

激突しながら、牛金は叫ぶ。敵兵を右に左に切り伏せ、向かって来る敵兵を拝み討ちに斬り倒した。炎が上がり始める。少し遅れて突入した部隊が、火矢を次々に放つ。朱桓は良い動きをしているが、奇襲部隊は敵の倍で、しかも勢いに乗っている。

荷駄を引くのは軍馬でも一線を離れたり、足が遅いものばかりだ。訓練を受けていない馬も多く、火を怖がって、走り回る馬も多い。それが被害を拡大していく。火に怯えた馬に、踏みつぶされる敵兵が、悲鳴を上げて絶命した。

荷駄が逃れ始める。

だが、不意に士載が率いる部隊がその前に出て、火矢を放った。

朱桓が対応しようとするが、其処は牛金がさせない。混乱の中、激しい乱戦が続き、やがて抵抗を諦めた朱桓は朱然を先に逃がし、自分も遅れて陣を離脱していった。撤退の手際は鮮やかで、追撃する隙など無かった。ただし、荷駄は全焼である。

最後の士載の動きが見事だった。先頭の荷駄から先に潰し、後方の荷駄の退路を確実に断った。敵の動きを読み切っているからこそ、出来ることだっただろう。

「ふむ、流石に見事だな」

「牛金しょうぐーん!」

気が抜けた声で手を振っている士載を見て、牛金は噴き出した。

顔が煤だらけである。ついでに兜に火がついている。

「やりました! 荷駄、燃やしましたー!」

「分かったから! 兜! 兜っ!」

「兜がどうしまし……ひゃあっ! 熱い! 熱いです!」

慌てて護衛が兜を布ではたいて火を消す。大きく歎息した牛金に、苦笑しながら副将をしていた若い武将が言った。

「手が掛かる子供ですな」

「だが、あれが今後の魏の命運を握る。 荷駄を燃やした手際も見事であっただろう」

「確かに」

そうは応えたが、内心牛金もおかしくて仕方がなかった。

やっと兜の火を消し止めた士載は、恥ずかしそうに照れ笑いをしていた。

 

執務室で、忙しく陸遜は竹簡を整理していた。荊州方面の総司令官になってから、どうも机上での仕事が多く回されて困る。中には明らかに自分の担当ではないと思えるものまで混じっていて、四家の嫌がらせが行われているのは明らかだ。

陸遜は既に、四家からは敵視されている。元が分家筋であるし、近年の行動は、連中の神経を逆なでしてばかりいるからだろう。今後、荊州は何かあった場合、容赦なく蜥蜴の尻尾よろしく斬られることだろう。もちろん、そんな運命に易々と甘んじる気は無いが。

一段落したので、肩を叩く。

戦況は、比較的安定してきた。

主力の曹仁軍が、軍の被害よりも主に物資を燃やされたことにより、一旦荊州方面の戦況は沈静化したからである。

朱桓による奇襲は各地で効果を上げていたが、魏軍による反撃も猛烈で、特に牛金によって、朱桓軍の物資が燃やされたことが、決め手になった。江東の物資は、魏に比べるとやはりかなり量が劣るのである。

まともに戦っても勝ち目は薄い。だから、主に機動戦で敵の物資を叩く。陸遜の戦略は図に辺り、各地で劣勢だった江東軍だが、魏軍の進軍もとまりつつある。既に一部の敵は、撤退の動きも見せ始めていた。

それだけに、朱桓が叩かれた事は大きい。

責任を感じてか、陸遜が駐屯している南郡に、朱桓は出頭してきた。執務室に入ってきた朱桓は、まだ鎧に刺さった矢も抜いていなかった。

「都督。 申し訳ありません」

「既に報告書は読ませて貰った。 そなたはむしろ良い働きをした。 他の将であったら、朱然を死なせていただろう」

「しかし、荷駄は焼き払われてしまいました」

朱桓は戦略眼もある程度備え始めている。若い頃は頭が悪いただの戦闘屋だったが、近年一皮も二皮も剥けてきた。呂蒙を思わせる成長である。ただ、家庭環境では粗暴なようで、時々良くない報告が陸遜の下にもとどく。故に、荷駄を焼かれたことを悔やんでいるのだろう。

朱桓の敗退の意味は、荷駄が焼かれただけではない。朱桓の機動部隊はそれで補給を失い、機動力を喪失。一旦珪陽まで下がり、其処で今は補給を受ける体勢に入っている。朱然の部隊は再編成を始めているし、二線級の部隊ばかりが前線に出ては、魏軍に蹴散らされていた。

揚州では、徐盛が曹丕の大艦隊をどうにか追い返したと言うが、それも実際は敵が威力偵察をしていたからに過ぎず、徐盛の報告書を見る限り、魏の水軍はどんどん力を付けている。味方の水軍はそれに対して、実戦経験を積む機会を減らしており、その内敵に追い越されるかも知れない。

「いずれにしても、そろそろ軍だけでは対処が難しくなってきている頃だ。 しかしながら、今回に限っては、魏軍のことは心配しなくても良い」

「何か、情報を掴んだのですか」

「忌々しい筋からだが」

張遼が、近いうちに死ぬ。

四家からの情報と言うことになっているが、実際にはあの諸葛亮からの情報だろうと、陸遜は考えていた。

魏の宿将である張遼は、江東方面の総司令官として、長年合肥を守り続けてきた。孫権は蛇蝎のように嫌いぬいていて、何時か殺してやろうと思っていたようだが、その試みの全てが失敗してきた。張遼は本人の武勇も優れているだけではなく、非常に頭も良く、簡単な策略でどうこうできる相手ではなかったのだ。

しかし、その張遼も近々死ぬ。恐らくは病によるものだろうと、報告書にはあった。

「そうなると、戦いは痛み分けと言うことですか」

「そうなるな」

「追撃は」

「無理だ。 敵には楽進も徐晃も、それに張?(コウ)も来ている」

この三人が、悔しいことにいずれもが陸遜に匹敵するほどの戦上手だ。両国の力の差を、痛感せざるを得ない。攪乱でどうにか誤魔化しているのが現実で、むしろ不利なのは此方である。

多分この辺りで、敵は関羽に捕虜にされ、今江東で虜囚の身を囲っている于禁辺りの解放を求めてくるだろう。それが達成されれば、魏としても一応の形は整う。江東としても、最早捕らえておくことに意味がない于禁を使って、戦争を終わらせる絶好の機会でもあった。

朱桓を下がらせると、陸遜は一旦外に出た。

報告にあった、牛金の配下の若い武将が気になる。まだ将校だろうとは思うが、まるで朱然の動きを読んでいるかのように、五百の兵を動かし、荷駄を見事に焼き払ったという。旗にはケ(トウ)とあったそうだが、聞き覚えがない。名家の子息だったらある程度情報は入ってくるのに、陸遜が知らないのだから、民間や貧困層から抜擢された人材だと言うことだろう。

魏にはまだまだ、新しい人材が育つ余地があると言うことだ。

それに比べて、此方はどうか。将軍達の老齢化は目を覆うばかりであり、若手の武将にはこれといった人材がいない。

城壁の上から、荊州の広い大地を見回す。

民は今のところ、どうにか江東を見捨てずにいてくれる。だが、このまま戦乱が続けば、江東は容赦なく見捨てられるだろう。昔のように大規模な流民は出ていないが、知識層や富裕層は、どんどん荊州を離れて、許昌や洛陽に逃げている。何しろ、安全だから、である。

いずれ、江東も蜀漢も、魏に飲み込まれるだろう。

だが、それはさせてはならない。

周瑜の夢を、呂蒙の思いを、陸遜は忘れてはいない。天下を統一する。今は夢物語であっても。必ず成し遂げなければならないことであった。

 

陣中で、張遼が倒れた。

盲目の彼の妻はそれからずっと付き従っていて、献身的な介護を続けていたが。ついに、張遼は四日後、帰らぬ人となった。

張遼は遺言で、撤退を進言。

流石に曹丕も、それには逆らうことが出来なかった。

あの魔王呂布と一緒に戦場を駆け回り、曹操軍の一翼として何度も戦況を左右した猛将であったのに。最後は戦場とはいえ、愛する妻を傍らに、静かに寝台の上で逝った。少し前の奇襲で矢を受けたという噂もあったが、そのようなことも別になく。単純に老齢と、全身の病が死の要因であった。医師達はもちろん全力を尽くしたが、張遼の病は快癒することがなかった。

葬儀は粛々と執り行われた。江都と呼ばれる場所が張遼最期の地となったが、流石に彼を憎んでいたという孫権でさえ、陣を下げて無言での弔意を示していた。もっとも、これには二度と張遼を恐れなくても良いという、安心から来る行動もあったのかも知れない。それだけ、張遼の存在感は大きかったのだ。

牛金も、士載を連れて葬儀に出た。荊州での戦闘が落ち着いたので、出る余裕が出来たのだ。不謹慎な話ではあるが、運が良かったと言える。荊州での朱桓との戦いが、一日でもずれていたら。多分、葬儀には出られなかっただろう。

張遼の亡骸はとても穏やかで、盲目の妻もだいぶ落ち着いていた。鴛鴦夫婦として知られていたが、それが故に、死を受け入れることも難しくはなかったのかも知れない。喪主は張遼の長男である張虎が務めていたが、無様な行動が多く、周囲についている張遼の部下達は、何度も眉をひそめていた。

喪服にもたもた着替えた士載が、張遼との対面を済ませてきた。

「張遼将軍、安らかなお顔でした」

「不思議なものだな」

「はい?」

「江東でも魏でも知らぬ者のない勇者であるのに、あのように静かに逝くことが出来るというのは、だ。 もちろん私は戦場で散りたいと思っているが、あのような死に方も悪くはないのだなと、思えてしまって困惑している」

不思議と、士載には本音で喋ることが出来る。

妻も妾も、いずれも心を許すことなど出来ない相手だ。だからこそに、士載へそう接することが出来る自分には、違和感を感じてしまうのかも知れない。子供達でさえ、事情に変化はない。

しばらく考え込んでいた士載だが、頷く。

「わかりました。 私が、どうにか天下を平和にします」

「お、これは頼もしい言葉だな」

「本気です」

からからと牛金は笑ったが、しかし。この娘ッ子であれば、本当に出来るかも知れないと、心の何処かでは思ってもいた。吃音癖はあるし、良く迷子になるし、甘いものばかり食べているし、筋金入りの阿呆だが。しかし、戦場での働きと、敵の動きを洞察する能力に関しては凄まじいものがある。

士載を残して、天幕に。曹丕が、撤退の指示を出すためだけの軍議だが、それでも無いよりは良い。

どうやら、この戦線に限っては、だが。

しばらくは、平穏が訪れるのかも知れなかった。

 

だが、その願いは、翌年完全に打ち砕かれることとなった。

 

2、曹丕の絶望

 

つまらん。

林は曹丕を見て、最初にそう思った。

曹操から全てを受け継いだ凡人。天才であった親の影を追うことしかできない男。

それについては、別に構わない。むしろ曹操の息子として、影に生きていた頃の曹丕は、それなりに面白かった。内部にぎらついた鬱屈を抱えていて、それが何時爆発するかわからないような闇とつながっていた。

ちょっとつついてやれば、何もかも壊すために大暴れする。そんな雰囲気があって、実に楽しかったのだ。

だが今の曹丕はどうしたことか。見ていて、さっぱり面白くないのである。

洛陽の闇に紛れて歩きながら、林はどうも何もする気力が起きなかった。天下を引っかき回すにしても、今の曹丕は相手にするには不足すぎる。かといって、暗殺するのも何だか楽しくない。

家族のように、許?(チョ)と、その息子の許儀を中心に、小さくまとまってしまっている。

取り巻きもいる。

だが、取り巻きに関しては、許?(チョ)が徹底的に目を光らせている。司馬懿、それに陳群、呉質と朱鑠はいずれも曹丕が側に侍らせている家臣達だが、いずれも有能で、しかも個人的野心が小さい。司馬懿については危険視する者もいるようなのだが、許?(チョ)が近年、許儀に任せるように進言した細作部隊が頭を押さえ込んでおり、何も出来ないのが現状だ。

それに関しては林も同じだ。既に十名程度にまですり減らされている林の細作部隊は、徹底的な監視を受けている。殆ど身動きも出来ない状態だが、それに関しては不自由を感じてはいない。

身動きできないのは部隊だけで、自身はあまり関係ないからだ。

当てもなくふらついた後、司馬懿の屋敷に出向く。最近、この男と遊ぶのが、楽しくなってきていた。

司馬懿は面白くも無さそうに酒を飲んでいる。林が来ても、不快そうな顔に、代わりはなかった。

どす黒い性格をしている妻のこともあって、司馬懿は家庭に居場所を見いだしていない節がある。家に帰れば出世がどうの誰はどう出世しているのと罵られ、息子達は完全に妻の味方という状態が続いているからだろう。

こういう鬱屈が、闇を育てる。

そして司馬懿や、その家族には、その素質が充分にあった。

天井から林がぶら下がると、酒を噴き出した司馬懿だが、すぐに口元を拭う。こういう小動物的な反応も、林が司馬懿をおもしろがる要員の一つになっていた。一時期林に対抗しようと独自に細作を雇ったりして動いていたが、それを全部ぶっ殺してやってからは、対抗しようという気も失せたか、妙な形で対等な関係に収まっている。

「何だ、林か。 一体何をしに来た」

「聞きましたよ。 また奥さんに折檻されたそうですね」

「う、五月蠅い」

司馬懿が、真っ正面から林を見ていた顔を、ぐるうりと音を立てて後ろに向ける。狼顧の相という特殊な体質で、そのまま真後ろを向ける男なのだ。顔を背ける時も、そう大げさに動くので、見ていて実に面白い。昔は此処まで酷くはなかったのだが、妻に宴会芸として覚えるように強要された結果、出来るようになったそうである。ある意味、不幸な輩なのかも知れない。それが見ていて楽しいのだが。

「貴方ほどの男なら、従順な女の二人や三人、簡単に私財で囲えるでしょうに」

「あれでも妻は、非常に賢いし、息子達も何だかんだで有能に育っている。 金に任せて囲った妾では、あれほどの賢い子らはつくれん」

そして、この案外な真面目さ。

この男は周囲を憎んではいても、主家への憎悪を感じてはいないようだし、根本的な所で真面目なのだ。それは安全弁がないことも意味している。長年、様々な人間を観察してきたから知っている。溜まりに溜まった憎悪が、こういう男の中では、思いも掛けない形で鬱屈していくのだ。

司馬懿の顔には、大きな張り手の後が、紅葉の形になって残っている。妻は小柄な女性だそうだが、武芸も出来るし頭も良い。良くしたもので、巨大な知性と闇を抱えている諸葛亮とこういう点でも境遇は似ているのかも知れなかった。

「ところで、曹丕がまた江東攻略を考えているようですね」

「何で知っている」

「本人の書いた書類を、直接盗み見たからですよ。 許?(チョ)も最近衰え始めていて、忍び込むにも張り合いがありませんでね」

「文書官は更迭だな。 全く、こんな化け物に好き勝手させおって」

天井から降りると、びくりと司馬懿は身を震わせた。今、その気になれば林が瞬きの間に、その全身を微塵に切り刻めることを、ようやく思い出したのかも知れない。

「な、何だ」

「別に? それで、出陣の規模は十万と聞いていますが、荊州を狙ってのことですか?」

「貴様、戦略の知識もあるのだから、私に確認しなくてもわかることだろう。 陸遜は手強いが、先年、今年の連続の戦役で、荊州の民はかなり疲弊している。 江東の経済力も衰え始めているし、山越の締め付けも限界が近い」

「というのは、魏の定説にすぎませんがね」

江東では、四家がまだまだ完全に健在だ。連中の私兵だけで、既に四万五千にも達している有様である。

更に、山越の間に植民している四家の関係者達は、強引な政策で租税を絞り上げていて、連中の私財はうなるような貯蓄を見せている。山越の民は嘆いているようだが、四家にとっては関係ないことだ。山越など、蟻も同然だと考えているからだろう。

「傷つくのは反四家、肥え太るのは四家のみ。 それも、計算済みだ」

「腐りきった四家に、完全に江東を支配させるための布石だと?」

「そうだ。 事実、この間徐盛が引退し、いよいよ陸遜と一緒に戦える武将がいなくなってきている。 丁奉と諸葛謹が江東方面に出てきているが、丁奉は戦よりもむしろ政争が得意だし、諸葛謹に到っては元が文官だ。 大した戦の手腕はない」

「しかし、連年十万規模の兵力を動員している魏も、疲弊は大きいのではないのですか?」

口をつぐんだのは、痛い所を突かれたからだろう。

弄れば弄るほど面白い奴だ。

林は遊んでいるだけではない。この辺りでしっかり指摘しておかないと、諸葛亮の思うとおりに全てが動いてしまうからだ。

このまま魏が江東との総力戦に突入した場合、軍才がない曹丕では、それこそ泥沼の戦いになってしまう。場合によっては長安や荊州の軍まで駆り出されることになり、諸葛亮が安心して涼州で好き勝手を出来る事態が到来するだろう。

諸葛亮は、曹操以来の逸材だ。

協力して動くのは、状況次第では吝かではないのだが、天下を取られては困る。曹操が生きている時と同じく、まともには動けなくなってしまうだろう。

許?(チョ)が衰え始めた今が好機だ。林としては、今の内に力を取り戻しておきたい。

「そこで、提案があります」

「貴様の配下を増やせとでもいうのか」

「それは司馬懿、貴方の配下を私の配下に付けるという形で。 その代わりと言っては何ですが、此方からも協力をしてあげましょう」

「貴様の協力など」

笑い捨てようとして、司馬懿は失敗した。

魏の宮廷にも平然と忍び込み、政務の書類までのぞき見できる林の実力。それと司馬懿の知能が加われば。

元々司馬懿は、野心の持ち主だ。

頬の腫れ跡を触りながら、司馬懿は考えておくと言った。

林は気配を感じたので、さっと天井裏に引っ込む。ばたんと凄い音がして、部屋に入ってきたのは。張夫人。司馬懿の妻だった。

幼い容姿をしているが、全身から黒い気のようなものを放っている。それを見て、司馬懿は露骨に怯えた。

「ひいっ! わ、私は、酒を飲んでいただけだぞ!」

「あなたっ! また女を連れ込もうとしましたわね! この部屋、女の匂いがしますわ!」

「ご、誤解だ! 私は女など、連れ込んでは……い、いや、あの」

「私の目を見ても、まだ嘘が言えますかしらっ!」

その後は、目を見る暇さえもなく、問答無用の折檻が始まった。激しいびんたの音。しかも往復である。挙げ句司馬懿の尻を叩き始めた張夫人の勇姿を見送ると、林は屋敷を後にした。

「どうしてあなたはそうなんですの! この出世の機会にお酒なんか飲み倒して! 魏の皇帝を傀儡にして、権力を握るくらい、今の貴方なら出来るはずですわ!」

「こ、声が大きい!」

「声も大きくなるってものですわ!」

楽しい折檻が行われている音が、屋敷から離れる林の耳にも届いていた。

 

曹丕の仕事量が、以前より更に増えてきていた。

許?(チョ)が少し前から体調を崩していることもあって、許儀にはどうして良いのかわからない部分も多い。

曹丕自身の事ならば、わかることも多い。というか、大体はわかる。曹丕自身はとても単純で真面目で、心に余裕さえあれば面白い男だ。だが、いざ政務や軍務が絡んでくると、許儀にはどうにも出来なくなる部分が多いのだ。

許?(チョ)には、それがどうにか出来た。

軍内部にも大きな信頼と人脈を持っていたからだ。

木訥な許?(チョ)は、周囲の同僚達皆から愛されていたと、許儀は聞いている。既に鬼籍に入っている張遼とは親交が深かったと言うし、関羽とも交流があったという。いずれも曹操のために全てを捧げる姿勢については誰もが評価していて、口べたなのに愛されていたと言うではないか。

許儀は、どうなのだろう。

まず人脈がない。

軍功もない。

だから、何をどうして良いのか、わからないことも多い。困り果てて、嘆く日が、近年は増える一方だった。

自分を見上げる視線。気付くと、曹丕の長男である、叡だった。

叡はとても面白い性格をしている曹丕とは違って、もの凄く素直で分かり易い子供である。とても聡明ではあるのだが、悪意が殆ど感じられない言動と、善意を前面に出す性格で、周囲皆に好かれている。ただ、きんきらきんな贅沢品がちょっと好きな所があって、其処は皆に困った目で見られていた。

許儀は成長しきってからは、周囲の武官よりも更に頭一つ大きくなった。だから、叡に軍衣の裾を掴まれても、腰にも届かない。

曹丕の正妻は元々袁煕の妻だった女だ。美貌で知られていて、それを叡も受け継いでいた。女の子のようにも見えるが、一応男の子である。それは、風呂に入れたこともあるので、許儀は知っている。

「許儀、父上、どうして遊んでくれないの?」

「今、陛下はとてもお忙しいのです。 陛下が忙しく働いているから、この国は平和なのですよ」

「でも、また江東の孫家と戦に行くんでしょう? 僕、戦は嫌い」

そう言って、叡は目をまた潤ませた。

「叡様も、もうすぐ字をいただくお年にございます。 そうなりましたら、戦場に一緒に出ることが出来ましょう」

「本当?」

「本当にございます。 この許儀めが、約束いたしましょう」

ぱっと叡の表情が明るくなった。子供が笑っているのは、いつも見ていて楽しいものだ。

肩車をせがまれたので、肩に載せて宮中をのし歩く。

魏の宮廷は、少しずつ贅沢になってきている。曹操が生きていた頃は、兎に角質実剛健を全面が多い、贅沢品は最小限だったと、許儀は聞いている。だが今は、許儀の目から見ても、不要ではないかと思える贅沢品が、確実に増えてきていた。

中庭には美しい池があり、色とりどりの魚が泳いでいて、朱塗りの橋が架かっている。そこをまたぐと、きゃっきゃっと黄色い声をあげて、叡は喜んだ。でも、本当は曹丕にこうして欲しかったのだろう。そう思うと、許儀の心は痛んだ。

女官達とすれ違う。彼女らも、叡には好意的な視線を向けていた。叡も笑顔で応じているが、多分曹丕と一緒にいたかったはずだ。それを思うと、やはり心からは笑うことが出来なかった。

兵士が駆け寄ってくる。抱拳礼をする兵士の口元は、引き結ばれていた。

「許儀将軍」

「如何したか」

「江東への出兵の日時が決まりました。 曹丕様も前線に出られますので、許儀将軍も近衛軍と一緒にご出陣とのことです」

「そうか。 分かった」

叡が、ぎゅっと頭を掴んでくるのが分かった。腰をかがめて、肩から下ろすと、許儀は出来るだけ優しい笑顔を作って、叡の肩を叩く。

「それでは、許儀めは、皇帝陛下と、悪しき者達を退治して参ります」

「そのような嘘は言わずとも良い。 分かっている。 江東は多くの人が集まった集団以下でも、以上でもないのであろう」

時々、はっとするほど大人っぽい表情を、叡は見せる。だが、それも時々に過ぎない。

許儀は手を引いて、せめて曹丕に別れを言おうと言った。頷くと、叡もしっかり自分の足で歩いてついてくる。

柔らかい手だ。一応狩りには出たことはあるが、戦場で育った世代から見れば、女のような手であろう。

曹丕の執務室に出た。蒼白な顔で、許?(チョ)が立ちつくしている。最近の痩せ方はかなり酷く、時々許儀も心配になる。許?(チョ)は許儀を見ると、低い声で言った。

「また、林が忍び込んだようだ」

「本当ですか」

「今のところ、陛下をどうこうしようという気は無いようだが、油断するな。 俺ももう年だからな。 一応腕利きを育ててはいるが、林が本気になったら、奴らではどうにもできない部分もある。 お前も、今の内に、もっともっと腕を磨いておけ」

許?(チョ)は執務室に通してくれた。曹丕は一心不乱に筆を動かして、竹簡に向かっている所であった。

料理人を呼んで、焼き菓子を出させる。曹丕ははっとして、顔を上げた。

「許儀か。 いつから其処にいた」

「父上、私もいます」

「叡……」

流石に、曹丕も申し訳なさそうな顔をする。心なしか、曹丕の目の下には、隈もできてきているようだった。

「焼き菓子を作りました。 ここのところ、焼き菓子さえも食べていないでしょう。 少しお休みください」

「う、うむ。 しかし歯を磨く時間も惜しい状況でな」

「そうは思えません。 この際はっきりさせておきますが、江東への攻撃計画を中断し、曹操様の定めた戦略を守るだけで、時間は捻出できるのかと思います」

そう指摘すると、曹丕は顔を赤黒く染めた。

実際、江東攻略戦は上手く行っていない。戦況は何処でも有利だし、駐屯軍の徐晃は陸遜と互角以上の戦いをしている。

だが、大規模な戦力を動員して攻撃を仕掛けても、決して領土が劇的に広がる訳ではない。十万以上の戦力を出したというのに、城を一つか二つ落としておしまい、という事態が続出していた。

しかも江東は、荊州を防波堤と考えているのか、落とされたらまた城を建てるという具合で守りを固め、逆侵攻を仕掛けてくる様子もなく。最終的な結論としては、まるで埒が明かなかった。もちろん徐晃は良い戦いぶりを見せているし、江東側の疲弊も決して小さくない。だが、守勢にはいると、やはり江東は強いのだと認めざるをえない。

「だ、だが、これは朕が……」

不意に、反論しようとした曹丕が、机に突っ伏した。

飛んできた医師が脈を診て、そして目の裏を確認する。飛びついた叡を、優しく宥めながら抱き留める。

まずい。

何か、とんでもないことが起ころうとしている。それを許儀は、はっきりと悟っていた。部屋に飛び込んできた許?(チョ)が、状況を見て、冷静に指示を飛ばし始める。

「重臣を集めよ。 遠征は中止だ」

「わかりました。 すぐにも」

「典医、これはどういう事だ」

 しばらく難しい顔をして、医師は小首を捻っていた。ずっと曹丕の側に付き従っていた、熟練の医師だ。すぐに資料が取り寄せられる。日々の生活状況や、脈などに到るまで記された、重要なものだ。

そうこうしている内に、曹丕を運ぶ準備が整った。不意に、腕組みしたまま、医師が言う。

「少し前から、陛下が妙な咳をしていたのはご存じでしょうか」

そういえば。許儀が思い出すだけでも何回か、激しく咳き込んでいた。

担架に乗せられ、曹丕が運ばれていく。泣きながら叡がそれに付き添い、別室へ向かった。

「労咳か何かか」

「いえ、肺炎になっていたようなのです。 それが、更に悪い病につながった様子でございます」

「馬鹿な。 肺炎だとしたら、もっと激しく咳が出てもおかしくない。 まさか、それを精神力でねじ伏せていたのか」

「はい。 恐らくは、意地があったのでしょう。 江東の軍勢に局地戦では勝ち続けていても、全体的には微々たる戦果しか上げられないといつも嘆いておりましたし、結果肺炎になったなどと知られたら、どのように重臣達に己の計画の不備を指摘されるかという、悔しさのようなものがあったのかと思われます」

何と馬鹿なと、許儀は呟いていた。

確かに曹丕は意地っ張りで、己の感情を示すのがとても下手だ。大好きな焼き菓子を見ても、曹操のように嬉しそうには出来なかったし、美味しい美味しいとも喜ぶ様子を外に見せなかった。

だが、それがこのような、悪い意味での我慢につながってしまうとは。

病室に飛び込む。既に手当が始まっているようだが、曹丕の具合は、良いとはとても言い難い状況にあった。

許?(チョ)が大きく歎息する。

「仲礼」

「はい」

「これから俺が、重臣達を纏めて後のことを取り仕切る。 曹操様に申し訳が立たないが、後の事だけはどうにかしなければならぬからな。 お前は叡皇太子についていろ」

それは、つまり。

これから、曹丕が急逝することを、睨んでの行動と言うことか。

徐晃と張?(コウ)は、それぞれ東西の守りの要だから、連れ出す訳にはいかないとして。

司馬懿を筆頭とする謀臣達は、集めなければならないだろう。

曹丕の在位は、わずか数年だ。精力的に働いたというのに、これでは報われない。漢王朝を簒奪したという、ただでさえ悪名が伴う立場なのだ。しかも曹丕は、あまり知られていない人間からは、兎に角悪く見られがちな人間だった。

曹丕様は、と許儀は叫びたかった。

決して悪人ではなかった。

心に余裕がなかったのと、生真面目すぎる性格から、鬼面を持って周囲を脅すように見えていただけなのだ。

叡は泣いていた。父の運命を悟ったのだろう。女官達も、どうして良いかわからない様子だった。

「許儀様」

「何があるかわからない。 腕利きを集めよ。 そなたらも、武芸の心得がある者だけが、部屋にいよ」

それを聞いて、彼女らも流石に青ざめた。何名か、武芸を仕込まれている者だけが、その場に残った。

「許儀、父上を助けてくれ」

「今、医師達が全力を尽くしております」

「そうか。 許儀にも、どうにも出来ないのか」

「この場に神や仙がいても、どうにも出来ませぬ。 今は許儀が側におります故、何が現れようと、叡様はお守りいたします」

曹丕を、守れなかった。

意地っ張りな性格を知っていたのに。心に余裕があれば、とても面白い人だと、自分だけが知っていたのだろうか。

曹丕は詩人でもあった。曹植ほどではないにしても、その才能は凡百の詩人達に比べれば、遙かに確かだった。

曹丕は政治家としてはとても優れていた。陳群が纏めた九品官人法を採用し、役人の登用をとても潤滑かつ合理的なものにした。

だが曹植に対する冷酷な振る舞いばかりが、このままでは後世に残ってしまう。曹丕は焦りと我慢から、己の寿命を著しく縮めてしまったのだ。泣いている叡を強く抱きしめながら、許儀は強い後悔に身を包まれていた。痛恨とはこのことであった。

それから眠れない時間が続いた。

許?(チョ)が来たのは、二日後のことだ。父ながら、流石の豪傑である。徹夜をしただろうに、まるで平然としている。

「後のことは決まった。 叡皇太子が、もしもの時は跡取りとなる」

「父上」

「俺の跡継ぎも、今決めておく。 お前は今後も、曹家の鬼となって、皇帝陛下を守り奉れ」

「わかりました。 この命に代えて」

許?(チョ)は微笑むと、すっと消えた。その場からかき消えたのである。

ああ、父も、死んだのだ。

その時、許儀は悟っていた。

 

手元に焼き菓子が、山盛りになっていた。

周囲は真っ暗である。

曹丕は、此処は何処だろうと思った。周囲は妙に肌寒く、人の気配がしない。それなのに、どうしてか手元にある焼き菓子は見えた。

建物の中だろうか。しかしそれにしては、足下が地面のようだ。

仕事をしようかと、曹丕は思った。そうだ、曹操に少しでも追いつきたい。弟を虐待しただけの冷血漢と、後世から罵られたくなかった。自分が生きた証を、世の中に少しでも残したかった。

だから、敢えて父の指示した戦略にも背いた。

背いて、無理をしてでも、それを成功させようとしてきたのだ。

「誰かいないか」

とにかく、仕事をするには明かりだ。そう思って、周囲に声を掛ける。

だが、誰も現れない。

足音一つしない。

「朕は曹丕であるぞ。 朕を放って置いて、皆何処へ行ったのだ」

「皆がお前を放って置いたのではない。 お前が、皆を顧みなかったのだ」

不意に、懐かしい声がした。

曹丕が顔を上げると、其処には厳しい顔をした曹操が立っていた。どちらかと言えば変な父だった。厳しいと言うよりも、何を考えているか、わからない男だった。

それなのに、今は。

激怒していることが、曹丕にはよくわかった。

多分、自分が産まれて始めてみる、激怒する父の姿であっただろう。

「どうして、そんな命の削り方をした、曹丕」

「そ、それは。 父上を、越えたかったからです」

「たわけ。 余は、そなたのために道を造っておいたではないか。 それを無視して、許儀のような忠臣の諫めも聞かず暴走して。 挙げ句、死に瀕している。 それでは、お前の人生は何だったのだ」

曹操が顔を背ける。

何も、言い返すことが出来なかった。

言いたいことは、曹丕にもあった。悔しかったのだ。何もかもが決められ、戦略さえも自分で好きに出来ない生活が。

江東が蜀漢との激戦で弱り果てるのを見た時、好機だと思った。此処で江東を落とせば、父を越えられると、曹丕は思ってしまったのだ。

「わ、私は」

「皇帝であろう。 自分のことは朕といえ」

「朕は! 貴方を越えたかった! 自分の足で、歩きたかった!」

「愚かな。 余は、そなたに歩き方くらい、教えるべきであった」

曹操が乱暴に目を擦った。

不意に、闇の中に気配。それは、許?(チョ)だった。それを見て、むしろ悲痛な声をあげたのは、曹操だった。

「虎痴!」

「曹操様。 この許?(チョ)、最後の力を振り絞り、曹丕様の跡を全て纏めておきましたぞ。 これで、魏が滅ぶことはありませぬ」

「そなたのような豪傑を、そのように使ってしまったか。 すまぬ」

「この許?(チョ)めは、曹家の鬼にございます」

曹操は、曹丕に向き直ると、少しだけ表情を緩めた。

「何か、思う所はないか、曹丕」

「……」

「少し、時間をやろう。 お前が歩き方を間違えたせいで悲しませた者達に、せめて詫びてくるが良い」

ふっと、辺りが明るくなった。

全身にぐっしょり汗を掻いていた曹丕は、目を開ける。

寝台の上だった。

全身が焼け付くように痛い。これは、生の痛みか。いや、生が死に置き換わる痛みだろう。

今のは、夢か、幻だったのか。いや、違う。曹操はきっと、本当に曹丕の側に来ていたのだ。

側には、許儀がいた。許儀は天井や壁にも気を配っているようだったが、曹丕が目覚めるのに気付くと、はっとした様子で此方を見た。

「陛下!」

「許儀か。 父上と、許?(チョ)に会った。 跡を全て決めてくれたというのは、本当のことか」

「はい。 数日全く寝ないで重臣達を招集し、会議を行い、時には脅したりもして、彼ら全員に誓約書を書かせてくれました。 元々父は体を悪くしていましたから、無理がたたり。 気がつくと、家で机に突っ伏したまま、冷たくなっていたそうです」

許儀が乱暴に目を擦る。

弟分は泣いていた。多分、世の中で唯一、曹丕を理解してくれていた男だ。いや、違う。きっと曹操も、曹丕のことは理解してくれていたのだ。

歩き方を、間違えてしまった。

意地を張るばかりに、全てを自分で抱え込んでしまった。

我慢も、変な形でしてしまった。周囲に少しでも訴えれば、こんな事態は避けられたはずだったのに。

曹操の怒りが、少しだけ、わかる気がした。

妙に頭は冴えている。許?(チョ)が、自分の全てを擲って、跡を整備してくれたのだ。せめて、するべき事はしなければならない。

「叡を呼んでくれるか」

「父上、叡は此処におりまする」

「少し早いが、お前はこれから大人だ。 曹叡とこれからは名乗るように」

手を伸ばして、曹叡の頭を撫でる。女のように整った顔立ちの曹丕の息子は、まだ幼い。曹丕が如何に若くして、無為な死を迎えようとしているか、これだけでも明らかだった。江東の地盤を揺るがせるどころか、無理をして父が作り上げた魏の骨格を台無しにしてしまいかねなかった事に、今更ながら曹丕は悔恨する。

だから、自分を罰する意味でも言った。

「墓などいらぬ。 葬儀もいらぬ。 朕は、父上が作り、許?(チョ)が守ったこの魏を、今度は代わりに守ろう。 洛陽に、塚を作れ。 そこで朕は、逆賊どもが跳梁跋扈しないように、全てを見張る」

「わかりました、父上。 だから、お気を確かに」

「しっかりした受け答えが出来るようになってきたな、曹叡。 許儀は朕の弟分だ、何かあったら奴を頼れ。 それと、朕が大事にしてきた重臣達は、皆そなたに預けるから、こき使え。 しかし、連中に間違っても過大な権力は与えるな。 今になってわかるが、あやつらは皆相当な野心家ばかりだ。 変に権力を与えると、必ずやこの魏を乗っ取られると知れ」

「心いたしまする」

何度も、曹叡の頭を撫でた。

短期間。本当に短期間で、命を散らすことになってしまった。即位してから十年も経っていない。父の時代の宿将が、まだ何人か生きているほどに、早すぎる歩みだった。

だが、血は継ぐことが出来た。

国も。

だから、申し訳ないと思いながらも、逝くことだけは出来る。

「父上に叱られてくる。 曹叡、そなたは朕と同じ轍だけは踏むな。 長生きして、無理はせず、確実にこの魏を次代へ継げ」

「はい、父上」

「おう。 朕のような駄目な男を、父と呼んでくれるか」

「叡にとっての父は、貴方一人です」

手を握られた。まだ小さい手だが、握る力は、思っているよりもずっと力強かった。

だんだん、まぶたが落ちてくる。

満足な人生だとは言えなかった。だが、愚かな自分には、これくらいが尺にあっているとも言えた。

大きく、最後に息を吐く。

どうしてだろうか。

父が。曹操が、自分を許しているような気がした。

 

曹丕の葬儀は、本人の希望通り、非常に質素な形で行われた。非常に真面目な本人の人柄を考慮して、無駄な華美は省き、参列者も重臣ばかりだった。

それでも対外的な影響は大きかった。江東は猛烈な曹丕の攻撃に喘いでいた所であったし、ようやく一息ついたことがすぐに細作を通じて伝わってきた。蜀漢は相変わらず南蛮の調整と国内の整備に力をつぎ込んでおり、一見無関心であった。

喪が明けると、すぐに魏は動き出す。三国随一の巨大国家だけあり、休むことは無いようにも思えた。

曹叡は即位すると、すぐに対外戦略を発表した。

まず消耗ばかり大きな対江東戦線は、一旦攻撃を停止。ただし、江東が息を吹き返さないように、荊州駐屯軍と、合肥の戦力そのものは、それぞれ十万ずつを維持する。また、現地司令官の判断により、終始国境は侵犯させ、敵の戦力と気力をそぎ落とす。江東が人材不足なのは、此方も既に掴んでいる。そうやって人的資源を削り取ることで、今後は有利になるはずであった。

そして対蜀漢の戦略だが、これも以前同様、堅守を維持する。攻め込んで兵力を削ることよりも、守って敵の疲弊を待つのが上策と、重臣達もこぞって意見を述べた。曹叡もそれが正しいと主体的に判断して、戦略を決定した。

許儀はそのまま、曹叡の護衛として残ることになった。曹丕は年が離れすぎた兄だが、曹叡は年が離れすぎた弟にも思える。いずれにしても、許儀にとって、守らなければならない相手であることに、代わりはない。

曹叡は即位すると、今までの乳臭さが嘘のように消え。美しさが、凛とした強さに置き換わった。これも曹家の血なのかも知れない。

今度こそ、守り抜かなければならない。

聡明だが、しかしか弱い皇帝の斜め後ろに立ち、周囲に気を配りながら。

許儀は、静かに誓っていた。

己に。

父に。

そして、曹丕に。

新しい魏が始まる。それを、許儀は、曹叡のすぐ後ろで見つめていた。

 

3、草刈りと地ならし

 

益州、そして漢中。

併せた人口は百万弱。

群雄割拠の時代であれば強豪とも呼べた勢力になり得たかも知れない。だが現在、人口四百万を軽く越える魏と、二百万を越える呉が存在する実情では、とてもではないが列強を名乗ることが難しい状況にあった。

しかしながら、劉備死後の益州は。

民が逃げ出すでもなく、物流が停滞するでもなく。むしろ、かってないほどの繁栄が始まり、人口も増え始める傾向にあった。

陳式は成都に出て、それを実際に目で見て驚いた。かって彼が住んでいた江夏や襄陽よりも成都は規模的に大きかったが、やはり山中の僻地と言うこともあって、それほどの繁栄は感じなかった。今は違う。諸葛亮による政策が非常に強力な成果を示し、国家としての態勢が、急速に整備されつつある。

軍事力は人口の問題でさほど多くはないが、経済力は素晴らしい。漢中と益州の行き来は相変わらず難しいのだが、益州内は豊富な道が急速に整備され、物資の行き来が非常に活発になってきている。

そして、豊かになってきている理由は、それだけではない。

肌が浅黒い人々を、多く見かける。彼らは益州の更に南の、南蛮と呼ばれる地域の民だ。いずれも陽気で屈強で、文明未発達地域に割拠する勢力から、様々な理由で成都に出てきている。もちろん兵士としても活動することが多い。

一旦軍営に出て、連れてきた兵士達は散開させる。明日戻る時までは、自由時間だ。給料を持って女を買いに行く者もいるし、酒を飲むものも、営舎に入って寝る者もいる。

陳式自身は、宮城に出仕する。

既に、陳式が元々劉埼と呼ばれていたことを、知る武官も減り始めている。文官もそれは同じだ。結婚して子供も出来た。陳到が、現在五千を率いて白帝城で江東に睨みを利かせている事を、事実上の引退と取る者も多く、それについて陳式はあまり良い気分ではなかった。

城の奥で、廖化に出くわした。今でも一緒の任務をする事が多い廖化である。ともに多くの死線をくぐったこともあり、出会うとつい笑顔が零れてしまう。

「おお、廖化どの」

「陳式どの、久し振りだな」

廖化も長い髭を蓄え始めていて、分別が出始めていた。少し前に子供が出来たとかで、酒を飲みに行くとその話ばかり聞かされる。陳式も子供が出来て可愛いと思う事は多いので、辟易はしながらも、話にはつきあうのだった。

しばらく一緒に歩きながら、話をする。

「南蛮の方面で、馬忠という若い将軍が、頭角を現しているそうだ」

「張疑ではなくて、ですか」

「ああ。 張疑も優れた働きを示しているが、馬忠もなかなかだそうだ」

南蛮では、蜀漢に朝貢して勢力を保とうとする小国と、反発することで国内を纏めようとする勢力に別れているのが現状だ。

これに対して、主に南蛮出身の兵士達を組織して、蜀漢では対処に当たっている。この部隊を指揮して、大きな功績を挙げているのが張疑だ。温厚な人柄で、南蛮の民からも慕われている上に、非常に戦上手だ。特に密林の中で、少数の精鋭を率いて戦うことに関しては、三国随一とも言われている。

馬忠は聞いたことがなかったが、どうやら荊州から来た馬一族の傍流に当たるらしいと、廖化が説明してくれた。そうなると、俊英で知られる馬謖と似たような立場と言えるだろう。

「いずれにしても、丞相の実力は認めざるをえん。 これほどの短期間で、此処まで蜀漢の国力を高めあげるとは」

「南蛮からの朝貢だけで、此処まで国は豊かにはなりますまい。 官吏を多く配置して、隅々まで丞相の威光を届かせていると聞きましたが」

「そうだな。 特に成都では、何をするにも書類が必要になる。 噂によると、丞相はその全てに、必ず目を通しているとか」

信じがたい話だが、普段からの精力的な活動を見ていると、それも事実なのだろうと感じてしまう。

文官達は皆諸葛亮の手足だ。いずれも言われるがままに書類を整備して、提出している。武官も、それを求められる。反発する者も少なくはないのだが、その殆どが閑職に回されるか、階級を落とされてしまう。

魏延はその筆頭で、漢中太守としての実績を武器に諸葛亮に隠然たる反抗を続けてはいるが、面と向かっては逆らえていない。陳到の配下であり、かっての名族である陳式も、目を付けられていると聞いたことがある。

やがて、諸葛亮の執務室に出た。

書類を多く抱えた、美しい小柄な女性が部屋を出て行った。年はそれなりに重ねているようだが、美貌は衰えていない。

「あれは誰ですか?」

「諸葛亮の細君だ」

「ああ、そういえば」

以前、一度だけ見たことがあった。諸葛亮の細君は不器量だと聞いていたが、見ると聞くとでは大違いである。前にちらりと見かけたことはあったが、顔をはっきり見るのは初めてであった。

此方を見向きもしなかったと言うことは、相当に忙しいのだろう。頭が切れると聞いているが、夫の仕事を補助しているのかも知れなかった。

部屋にはいると、諸葛亮は机に向かい、凄まじい速度で筆を動かしていた。机には、竹簡が山となっている。

その側には、もう一つ机が。竹簡があまり積まれていないことからも、それが多分、さっき出て行った諸葛亮の細君の場所なのだろう。

「誰か」

「陳式にございます」

「陳式将軍か。 その辺りに、適当にかけられよ」

廖化は一礼して出て行った。座った陳式は、しばし筆が竹簡の上で踊る音を聞き続けたが、やがて不意に諸葛亮がしゃべり出す。

「陳到将軍は、ご健勝か」

「いえ。 足腰はもう、殆ど使いものになりません。 輿に乗って軍営を見回ることが、以前にも増して多くなっています」

「そうか。 そろそろ、向寵と交代させる時期であるかもしれんな」

向寵は、陳到の育て上げた部下の一人で、陳式よりも更に若い武将である。この間の江東討伐では二千の兵を率いて敵軍を何度となく撃破し、しかも撤退戦では被害を殆ど出さずに引きあげることに成功した。

陳到の後継者としてみなされている人物だが、非常に根暗で、同僚からの受けは良くない。普段も独り言を呟きながら、ふらふら歩いているのを、時々陳式は見かける。しかし冷静着実な指揮手腕と、文句一つ言わずに任務を実行する働きに関して、文句を言う者は誰もいない。

「向寵将軍ですか」

「彼はあまり周囲の評判こそ良くないが、黙々と確実に仕事をこなすことが出来る。 事実、あの江東攻略戦からも、ほとんど被害を出さずに引き上げることが出来ている」

実際、彼の部隊は影のように動き、確実な成果を上げていた。陳式はそれを目撃している訳で、あまり文句は言えなかった。

今後、白帝城の守兵は、江東の動きを睨みつつ、あまり派手に動かないことが求められる。奇襲を受けたら突然闇から湧いて出たかのように対応することが必要となってくるだろう。

そうなると、正統な用兵家である陳到よりも、影から現れたような用兵をする向寵の方が、適任なのかも知れなかった。もちろん、情報収集をしなければならないという点からも、向寵は適任だろう。

諸葛亮の細君が戻ってきた。無言で席に着くと、再び書類の山を片付け始める。手際は鮮やかで、殆ど手が止まることはなかった。今度は諸葛亮が鈴を鳴らし、侍臣が大量の書類を抱えて部屋の外に運んでいく。

「それで、私を呼んだ理由は何でしょうか」

「国力も高まり、国内も劉禅陛下の治世の下、安定を取り戻した。 この辺りで、魏を討伐する」

来た、と陳式は思った。

現在、漢の軍勢は実数にて約十万。江東攻略戦で二万程度を失った痛手は完全に回復し、むしろ以前よりも軍事力は強化されているほどである。人口に関しても、劉備が死んでから、四万程度増えている。

南蛮の諸国の内、非友好的な国に対しては征服戦争を当然のように漢も行っており、丁度江東が山越に対して行っているように、一種の人狩りもしている。あちらほど大規模ではないが、それでも一万程度の兵は、そうやってかり集められた南蛮出身の兵士達だ。いずれも有能で勇敢だが、当然忠誠度は期待できないので、最前線にはとてもではないが投入できない。

同盟を結んでいるとはいえ、江東は油断できる相手ではない。諸葛亮がどう考えているかはわからないが、陳式にはそう思える。だからその備えを考えて、三万から四万は白帝城および、益州に残しておかなければならないだろう。漢中には常時三万が駐屯しているから、益州からは三万程度を出撃させる事が出来る。漢中の防衛戦力を一万として、合計で五万から六万程度を魏に侵攻させることが可能だ。防衛部隊の一万は、南蛮からかり集めた兵を使うとして、漢人だけで侵攻軍を組織するとしても、総力戦で六万が限界だろうと、陳式は思った。

去年、丁度その先手を打つかのように、魏が漢中に侵攻してきた。

これは馬超の即応で撃退に成功したが、不気味な動きを見せたのが上庸の孟達である。李厳が睨みを利かせて対応したが、孟達は三万近い兵を魏に預けられている事もあり、油断できない存在となっている。白帝城の守兵を、五千から二万に強化する必要があるかも知れない。そうなると、南蛮で睨みを利かせている兵か、あるいは成都の守兵から削る必要も出てくるし、場合によっては侵攻軍の戦力を削る必要性も生じてくるだろう。

「侵攻軍の戦力は三万。 まず、武都を制圧することを今回の目的とする」

三万。妥当な数字だろうと、陳式は思った。

実際問題、南蛮では近年孟獲なる人物が暴れ回っており、張疑が対応しているが、油断ならない状況にあるのも事実だ。総力戦をいきなり挑むのも時期的におかしいし、それくらいが妥当な数字だろう。

「武都、ですか」

「そうだ。 その後は北上し、西涼を制圧して、その騎馬兵団を膝下に組み入れる。 長安も、最終的には落とすつもりだ」

「そう、上手く行くでしょうか」

「手は幾つか打ってある。 そして、陳式将軍には、先鋒を務めて貰うつもりだ」

西涼を制圧することが出来れば、確かに漢の戦力は倍増する。しかも、馬超が味方にいる以上、それは難しくないようにも思えた。

だが肝心の馬超が、近年体調を崩していると、陳式は聞いている。馬超ならともかく、その配下の?(ホウ)柔や馬岱で、西涼の荒くれ達を従えられるのだろうか。大いに不安があると、陳式は思った。

それに、敵は曹真か、或いはもっと悪い場合には張?(コウ)を司令官として、最低でも八万、下手をすると十万以上の迎撃戦力を繰り出してくるだろう。特に張?(コウ)は、曹操の頃からの古参で、魏でも屈指の名将だ。

厳しい戦いになるのは、確実だった。

「わかりました。 それでは、軍の編成がありますので」

「うむ、貴殿の活躍に魏討伐の成功は掛かっている。 努々油断するな」

一礼して、部屋を出る。

諸葛亮の妻は、最後まで此方を見ようともしなかった。

 

一旦白帝城まで急ぎで戻る。陳到は最近寝ている時間が非常に多くなっていて、あまり直接会うことが出来なかった。

そして諸葛亮の指示は、既に白帝城まで届いているらしい。兵員が一万五千ほど追加されて、向寵が防衛部隊の司令官として、赴任してきていたのだ。向寵は陳到の子飼いと言うこともあり、無礼はなかったが、陳式に対しては話が別だった。

此処には、もう陳式の居場所はない。そう思わされる。部隊の編成からしても、陳式が知らない状態に、全て入れ替えられているのだ。二万もの戦力がいるとはとても思えない静かな布陣だが、その潜在能力はとても大きいことが、外からでも分かった。陳式は陳到仕込みの正統派の用兵が得意だから、こんな布陣はとても出来ない。

陳到は、陳式が顔を見せると、起きてくれた。

もう、医師は長くないと言っている。陳到も、既に死期は悟っているようだ。家族について、時々話すようになっていた。

「陳式か。 良く来てくれたな」

「はい。 これから、魏を討伐する事になりまして」

「そうか。 諸葛亮のことだ、さぞや陰険な策を幾つも用意しているのだろうな」

何度か陳到が咳き込んだので、背中をさする。

周囲を見回してから、陳到が目を光らせる。

「兵の配置が換わったな。 この様子だと、向寵か」

「はい。 丞相が抜擢なさいました。 見た所、闇に潜むような、不思議な布陣をしております。 城の防御設備に関しても、かなりの充実を短期間で見せていて、侮れません」

「変わった用兵をする男だ。 正面切っての戦はあまり得意ではないが、影に潜んで敵を制圧することに関しては目を見張るものがある。 敵に対して密かに備えることも、巧みにこなす。 悔しいが、この件に関しては、諸葛亮の判断は確かだろう」

陳到は外に出たいと言ったので、輿を用意する。

兵士達も、陳到の用兵で長年生き延びてきた者達ばかりだ。だから、何も言わずに、老い衰えた司令官を、腰に乗せて外に連れ出した。

城壁の上に出ると、柔らかい光が差し込んでくる。

劉備が死んだのもこの城だ。その葬儀を、病身から陳到は完璧に取り仕切った。趙雲よりも、更に古参の武将として、陳到はずっと蜀を支えてきた。だが、もうそれも、これで終わりだ。

「私の家族だった者達は、どうしている」

「奥様は二年前に亡くなられました」

「ああ、そうだったな。 最後まで、病床でまで私を罵っていたそうだな」

「酷い話にございます」

陳到の妻は典型的な悪妻だったと、陳式は思う。陳到は仕方がないことだったと寂しそうに笑って許している雰囲気があるが、それに甘えて、いつも罵声を放っていた。陳式の家庭は可もなく不可もない。最近長男が出来たが、可愛いと思ったこともないし、逆に邪魔だとも感じなかった。

「関興の妻になった、娘は」

「今は何人か子供を産んで、正妻として可不可無く」

「そうか。 ならば良かった。 あの馬鹿息子は」

「今ではすっかり帰農して、魏で平穏に暮らしているようです。 噂によると、最近妻を娶ったとか」

陳到からの返事はない。

流石に青ざめて顔を覗き込むが、弱々しくも陳到は笑い返してくれた。

「大丈夫だ。 私はまだ死なぬ」

「そうでなくては困ります。 私にとって、劉表は父とは言えませんでした。 とても有能な君主ではありましたが、家庭のことに関しては、とても冷酷でした。 義父上、貴方こそ、私にとって、父であったと思っています。 貴方には、死んで欲しくない。 これは、本音です」

「そうか、私にも、息子が出来ていたのだな」

遠くを、陳到は見つめた。

そして、輿に据え付けている剣を、手に取った。劉備から下賜された宝剣だ。陳式も側で見ていたのだが、江東攻略戦の少し前、長年の労苦に報いるという事で下賜されたのだ。結果として、これは劉備の形見となってしまった。

劉備は若い頃、戦場で雌雄一対の剣と呼ばれる双剣を振るっていたと、陳式は聞いたことがある。中年以降は自ら前線で戦うこともなくなり、剣を振るうことも無かったそうだ。だが、それでも並の兵士よりはずっと強かったと、近衛の兵からは聞いたことがあった。

陳到もそれなりの武術は納めていたが、益州攻略戦での事故以来、足腰が立たなくなってからは、もう剣を振るうこともない。無惨な話であるが、似たような境遇の兵士はそれこそ幾らでもいる。義父のみが突出して不幸な訳でもないのに、気の毒に感じてしまうのは、相手が家族だからだろうか。

今では、無用の長物だと陳到は言って、宝剣をぐっと差し出した。

剣を握りしめた拳は、陳式が思っているよりも、ずっと力強かった。

「陳式」

「はい」

「これをやる。 もはや、私には不要の剣だ」

「しかしそれは、陳家の宝ではありませんか」

だからこそにやるのだと、陳到は目を光らせる。戦場で指揮を執っている陳到は、凡将だといつも自分を卑下していた。だが、陳式から見て、誰よりも手堅い用兵で、戦場を影ながら支えているように見えていた。

江東での戦いも、最後に陳到がこなければ、味方の被害はずっと増えていただろう。

「家督を、お前に譲る。 受け取れ」

「……そんな、義父上」

「良いから。 そして、家督を継いだからには、必ず生きて戻れ」

不覚にも涙がこぼれる。

剣を受け取り、腰に帯びた。劉家の剣よりも、ずっと重い。かって劉埼であり、今は陳到である男は、そう感じていた。

 

ついに、魏討伐軍が動き出した。

兵員は三万二千。先鋒は陳式であり、参謀として馬謖。そして趙雲と魏延が中軍を固め、張翼が後衛に着く。左右の両翼には王平と呉懿。そして総司令官は、諸葛亮本人であった。後方の指揮は馬超が担当。これは病身で、出征が無理だと諸葛亮が判断したからであった。

しかし、これには不可解な点もあった。陳式が見る所、馬超はどうも諸葛亮と目を併せない所があったのだ。何か裏にあるのではないかと感じてしまう。

漢中で守備兵五千と合流し、国境線を抜ける。魏軍の前線基地も幾つかあったが、いずれも諸葛亮の巧妙な指揮によって、即座に陥落した。実際に働いたのはいつも陳式であったのだが、細作達が持ってくる情報は敵の基地の完璧な弱点までも調べ上げており、落とすのは造作もないことだった。

殆ど兵力の消耗もなく、諸葛亮軍は長安に向けて進撃を続ける。

これに対し。

長安からも、魏軍十万余が出撃したと、報告が入ったのは。漢中を出てから、一月後の事であった。

 

4、魏の火将

 

張?(コウ)が長安への帰途についたのは、楽進の葬儀を終えてからである。蜀漢がついに動き出したという情報を得てのことであり、強行軍になってしまった。

大雨が降り注ぐ中、張?(コウ)は己が育て上げた精鋭を率いて、山道を疾駆した。思い出すのは、楽進のことだ。

張遼の死後、体調を崩していた楽進も、また蛍の火が消えるように命を落としていた。楽進は張遼と並び、曹操軍の主力を張った名将であり、恐らくは戦場での破壊力は張飛や関羽に匹敵するものがあっただろう。張?(コウ)としても、非常に頼りになる同輩であった。

だが、その名将も、近年の老け込み方は尋常ではなく。江東との戦から戻ってからは、自宅に籠もりきりになってしまっていた。張遼の死で、何か感じるものがあったのだろう。或いは、曹操のことを思い出して、それが精神に響いてしまっていたのかも知れない。そして、曹丕の死が、その体にとどめを刺してしまったようだった、

最後に、楽進を見たのは、葬儀の前日だった。

すっかり衰えた楽進は、許昌の大きな屋敷で、静かな時を送っていた。慌てて駆けつけた張?(コウ)を見て、楽進は手を伸ばした。

「おお、張?(コウ)、か」

「楽進どの」

「戦か? 血相を変えて」

「今は、どの戦線も平和そのものです。 私が出ることもありません」

凄く楽進は残念そうな顔をした。大きく歎息したのは、この男が、本当に戦が好きだったからなのだろうか。

「曹操様が戦略として定められたとはいえ、蜀漢にも江東にも積極的に攻め込めぬのは、正直つらいなあ。 すっかり俺も老いさらばえてしまった」

「楽進どの、弱気になられますな」

「張?(コウ)。 跡は任せるぞ。 俺の息子は、まるで役にたたん。 長安方面の守備は、そなたの両肩に掛かっておる」

それから、酒を飲み交わした。

楽進は殆ど飲むことが出来ず、張?(コウ)は屋敷に帰ってから、その衰えを嘆き、一人痛飲した。

そして翌日、楽進の死を知らされたのである。

既に引退していたのに、楽進の葬儀に出た人間は非常に多かった。魏帝曹叡も、龍車と呼ばれる天子専用の車を使って、楽進の葬儀に出席したほどである。棺の中の楽進はとても安らかな様子で、歴戦の猛者が畳の上で死んだ割には、悔いも無さそうだった。曹叡は、祖父の代からの名将の死に泣いてくれた。それだけで、張?(コウ)は救われた気がしたものである。

その翌日には、張?(コウ)は許昌を経った。そして、今山道を走っているのである。

「張?(コウ)将軍!」

「おお、そなたは。 牛金ではないか」

合流してきた軍勢の先頭にいる男を見て、張?(コウ)は顔をほころばせていた。張遼や楽進が己の息子の不出来を嘆く中、台頭してくる有能な若手は多い。人材育成策を前面に出している魏の貪欲な成長政策が、こう言う所で強みになってくる。

牛金は張?(コウ)が見る所、中堅どころではもっとも手堅い男で、若い頃の張?(コウ)と、激しい戦ぶりは良く似ている。兵力さえ預ければ、陸遜とも良い勝負が出来るのではないかと思っているほどだ。麾下は荊州にて、徐晃の下で鍛え抜かれた精鋭で、関羽軍との戦いでも無様を晒すことはなかったという。

長安には曹真も郭淮もいる。牛金と曹真は一緒に戦った中で、連携するにも良いだろう。郭淮に到っては、旧袁紹軍から離れた頃からの知り合いだ。あの当時は尻の青い若造だったが、今の郭淮はなかなかの将に成長している。これは出撃前に、幸先の良い事であった。

牛金の側には、異様に若々しく見える小柄な将がいる。確か牛金が鍛えている、士載という優秀な武将がいると聞いていた。それだろうか。はじめて見ると、女のように見える。そういえば、女ではないかという噂があると、聞いたことがあった。

「くしゅん!」

「士載様!」

「風邪を引かれてはなりませぬ!」

妙に可愛いくしゃみを士載がして、周囲の副官や兵士達が慌てて世話を焼き始める。戦闘指揮以外ではまるで役立たずだとか聞いているが、どうやらその通りらしい。呆れてみている張?(コウ)に気付いたか、牛金が苦笑して馬を寄せてきた。

「あれでも戦場での働きは拙者が保証いたしますので」

「いや、そなただけではなく、多くの者から噂は聞いている。 しかし、あれはおなごではないのか」

「韓浩将軍が見いだしたのです。 幼い頃に大病で、子供を宿せぬ体になってしまって、そこを拾った様子です」

「なるほど、な」

張?(コウ)も、非情の男ではない。乱世が故の悲劇については、心を痛めることも多い。

時代が故に、普通の生き方を出来なくなってしまった者はいる。曹操が何よりも、その筆頭であっただろう。もしも平和な世の中であれば、あの御仁は、英雄などと言う因果な仕事ではなく、平穏無事に楽しい人生を送っていた可能性も低くない。

長安に到着。豪雨の中疾走した兵士達に点呼を取らせ、それから休憩にはいる。脱落者は一人も無し。

強力な蜀漢の精鋭との戦闘に備え、鍛えに鍛えてきた部隊だ。荊州でも江東の軍勢を一蹴している。特に張?(コウ)麾下の一万の戦闘能力は、徐晃軍や、かっての関羽軍にも劣らないと自負している。

長安では、郭淮と、司馬懿が待っていた。既に情報は、司馬懿が集めていて、すぐに軍議を開くことが出来た。

士載という若い士官にも、軍議への出席を許す。牛金の方が嬉しそうにしているのは、よくわからない。家庭の事情が複雑だとか聞いているが、ひょっとして娘に対する情愛なのかも知れなかった。女として愛しているようにはとても見えないからだ。

地図が拡げられた。皆の視線が集中する中、敵の位置を示す駒がおかれる。その中で、街亭と呼ばれる場所に、張?(コウ)は着目した。

長安の南は、非情に険しい山々が連なっている。益州に行くのは、蜀の桟道と言われる、恐ろしく険しい道を越えなければならない。

かって漢の高祖劉邦は、此処に封じ込められた。逆にそれをばねにして、楚の覇王項羽を打ち倒す原動力にしたのだが、同じ歴史を繰り返させてはならない。

魏帝から、張?(コウ)は迎撃軍総司令官の印綬を預かっている。それを諸将に示してから、軍議に入った最初に発言したのは、手堅い曹真であった。曹真は相変わらず口ひげを丁寧に整えており、貴公子然とした風貌に磨きが掛かっている。物腰も柔らかく、牛金や郭淮と同年代の武将としては、まとめ役として良く機能していた。

「現在、諸葛亮の軍勢は、三万二千ほどを確認できております。 全軍では、三万五千から、三万七千に達するかと。 敵は補給に苦労している様子はなく、順調に進軍しております。 既に前線基地の幾つかが落とされました」

「ふむ。 周辺の味方は」

「迎撃態勢を整えておりますが、敵の用兵は巧妙で、何より情報が彼方此方から筒抜けになっている恐れがあります。 幸いにも、敵は非常に堅実な用兵を行っているので、進軍自体はさほど早くはないのですが」

何か、罠ににたものを、張?(コウ)は感じた。

諸葛亮は様々な情報を加味する限り、非常に陰険な陰謀を巡らせる男だ。情報戦を主体として、相手の足下に穴を掘るような戦いをする可能性も高い。

「各地の守将に対する監視を強めよ。 特に、西涼出身の武将達は危ないな」

「と、いいますると」

「内応を仕掛けてくる可能性が高い。 そして、西涼出身の武将の中には、今だ我々を恨んでいる者もいるだろう」

特に冀県周辺を任されている馬尊は危ないなと、張?(コウ)は見た。この男は馬超の遠縁に当たり、若い頃は西涼軍閥の一人として活動を続けていたと聞いている。もしも形勢不利と見れば、すぐに蜀漢に寝返ることだろう。

「それと、もう一つの問題は江東だ」

「やはり、江東からの侵攻も可能性がありますか」

「そうだ。 此方で諸葛亮が勝てば勝つほど、その危険性は高くなる。 恐らくは、諸葛亮の狙いも其処にあるのだろう」

二兎を追えば、一兎も得られない。

今まで江東は守りに徹していて、積極的に攻め込んでくることは滅多になかった。だが、長安方面に魏が主力を集中させれば、それも過去の話になってくるだろう。もしも合肥が抜かれたら、魏は一気に存亡の危機に立たされることになる。今の戦力であれば恐らくはそんな事もないだろうが、油断だけは禁物だった。

しばらく考え込んだ後、張?(コウ)は皆を見回した。

「敵の補給線を突く」

「しかし、敵は油断無く軍を進めてきておりまするが」

「もう少し進ませる。 そして補給線を伸ばした所で、此処をたたく」

そういって、張?(コウ)が指さしたのは、街亭であった。

この街亭という土地、見かけは地味な山に過ぎないが、蜀漢の補給線の全てが側を通っている。此処を急襲して占拠すれば、如何に諸葛亮といえども、撤退せざるを得ない。如何に奴が鬼謀を誇ろうとも、食料がなければ、兵士達は養えないのだ。そして、蜀漢の最大の弱点こそが、補給線の脆弱さだ。

「そうなると、武都は愚か、天水周辺は、全て敵の手に落ちてしまいますが」

「残念だが、やむを得ん。 今は小を捨てて大を取る時だ。 信頼できる守備隊には、徹底抗戦を命じて、時間を稼がせよ。 此方からも援軍と兵糧の支援は怠るな。 それ以外の部隊は、さっさと交代させて、蜀漢に裏切る隙を与えるな。 急げ」

「張?(コウ)将軍」

何だか可愛らしく手を挙げたのは士載だった。

さっと衆目が集まるが、にへらと笑っているのは、肝が据わっているからか。少し言葉は聞き取りづらいが、張?(コウ)は不快には思わなかった。

「何だ、確か士載だったな」

「はい。 ええと、ぼくの思うに、諸葛亮の狙いは長安の直撃にあると思います」

一気に場がざわついた。

確かに、あり得ることだ。天水や武都、それに涼州が落とされるのと、長安が落とされるのでは、意味が違っている。

かってと違い、今の長安は復興して、魏の経済の一翼を担っている。防衛設備も充実しているが、張?(コウ)が見た所、守兵は弛んでいる者が多い様子だ。此処の守備をしているのは夏候楙という男で、夏候惇の長男なのだが、蓄財にしか興味を見せない無能な男である。

魏の一線級の武将は、誰も彼もが子に恵まれていないのだ。

「なるほど、精鋭を率いて長安の直撃を狙ってくるか」

「しかし、長安の長期間の維持など、無理なのではないか」

「いや、可能だ」

郭淮の言葉を、牛金が一蹴する。張?(コウ)もそれに同意だった。

「天水、武都を敵に取られ、なおかつ涼州が大規模な反乱を起こした場合には可能になってくる。 我らは敵中に孤立し、長安は馬超の指示で蜀漢に従った涼州から、大規模な援助物資と軍兵を得られるだろう。 これは、予想以上にまずいかも知れん」

「ならば、敵の進撃速度を、少しでも遅らせなければなりませんな」

牛金が立ち上がり、諸将もそれに続く。

壮絶な持久戦が、これから行われる。それには犠牲も伴うだろう。何しろ相手は精鋭で知られる蜀漢の軍勢だ。それに対して、長安の兵は鈍りきっている。張?(コウ)や牛金の精鋭は何とか対抗が出来るが、長安でぬくぬくとしていた平和呆けした部隊では、とても諸葛亮の猛攻を防ぐことは出来ないだろう。

だから犠牲を度外視して、訓練をかねて戦っていく。

物資は、蜀漢と比較にならないほど豊富だ。だから、それを利して戦う。

「そして、敵を引きつけた所で、街亭を落とす」

「諸葛亮を防ぐ作戦立案に関しては、私が引き受けます」

「それでは、総指揮は私が」

「よし、では曹真。 そなたが武都、陰平方面の指揮を執れ。 参謀は司馬懿、それに程武。 夏候楙も動員して良い。 奴の兵力は、使い殺しにして、使えそうな兵だけを選抜せよ。 私は長安に残り、戦況を判断しながら、街亭に突入する部隊の訓練と、時期を計る」

壮絶な命令が下った。

夏候楙の抱えている戦力と、張?(コウ)が連れてきた兵力を併せると、大体十七万から十八万に達する。各地の守兵を併せれば二十万を越える。諸葛亮の軍勢は三万程度であるのに、その七倍の戦力がありながら、張?(コウ)は勝てないと判断している。そして、他の武将達も、おおむね同じ意見であった。

牛金が先鋒になり、曹真、それに夏候楙が出陣する。夏候楙は状況が分かっていないらしく、七倍の兵力があるのだから勝てると、既に確信しているようだった。

古くからの老将である王朗が、張?(コウ)に嘆く。

「あれが、能力は低くとも皆を纏め上げていた夏候惇将軍の息子とは」

「正確には養子だがな。 子に恵まれなかった夏候惇将軍は、夏候淵将軍の子を養子に貰い受けたのだ。 もっとも、夏候淵将軍の方は、一線級に少し届かない程度の息子が、やたらと多いようだが」

王朗はかって江東で地方郡の太守をしていた男で、今は魏に仕えて参謀をしている。何のことはない、この男も、かっては二線級であった参謀だ。今、魏も一線級の武将は老齢化が著しい。張?(コウ)はまだ前線で戦えるが、次に危ないのは徐晃ではないかと言われている。于禁はこの間、江東からようやく釈放されて帰ってきたが、軍の一線からは退き、今では後方の補給を監督している状態だという。

夏候惇は既に引退して、洛陽の側で畑を耕している。曹仁は江東での戦線で成果を上げられず、引退が近い。曹洪もそれは同じだ。

早く、牛金や郭淮などの優秀な若手を育て上げなければならない。司馬懿は危険だと、張?(コウ)は見ている。奴が全てを握ったら、魏は終わるような気もする。だから、張?(コウ)は焦りも感じていた。

牛金の側にいる士載が、何処まで育ち上がるか。

この戦いで見極めようと、張?(コウ)は思っていた。

 

魏の増援来る。兵力は十三万。

報告が入ると同時に、陳式は布陣を終えていた。此方は各地に兵力を散らしており、今陳式が抱えているのは一万である。背後には関興、張苞が率いる六千の騎馬隊。更に後方には、各地を平定しながら進んでいる諸葛亮の本隊一万が、趙雲と一緒に来ている。

つまりは、後退するか、此処で陣を維持するか、決めなければならなかった。

情報戦に関して、蜀漢は三国随一である。陳式にも手練れが何名か貸し出されていて、すぐに情報が入ってきた。それを聞いて、陳式は耳を疑った。

「敵の指揮官は、夏候楙だと?」

「はい。 間違いありません。 先鋒は夏候楙率いる七万。 その後ろに、曹真が率いる六万が続いています」

「それならば、勝てる」

後方に続いている張苞、関興の援軍を待つまでもない。すぐに伝令を後ろに飛ばすと、趙雲が増援として、五百を率いて急行してきた。趙雲の妻のジャヤもいる。彼女の弓術の腕は、既に蜀漢軍随一だ。非常に頼りになる。

「丞相から、攻撃の許可が降った」

「わかりました。 急いで来ていただいて申し訳ありません」

「何、陳到将軍からそなたのことは頼まれているからな。 ついでだ、偵察もしてきてやろう」

「お言葉に甘えて申し訳ありません。 お願いいたします」

頷くと、趙雲は妻と精鋭とともに、山の中に消えていった。その間、陳式は山の間を縫うようにして、しっかり堅陣をくみ上げていた。

此処はもう天水の間近である。

後幾つかの城を貫けば、西涼は間近。周囲の郡には降伏するものも多く、降兵は武装解除した上で、蜀漢に送り届けている。向こうで屯田兵として働いて貰うのだ。少ない人口を補うための工夫だという。

既に降兵は一万を超えている。多少損害が出ても、既におつりが来る分の事は為していた。民の中にも、蜀漢への移住を進めている段階だ。漢中近くの住民の中には、条件次第ではと応じる者も少なくないという。

しばらくは後方の安全を確保しなければならないから、戦には絶対負けられない。

間もなく、趙雲が帰ってきた。

「陣形だけは立派だが、夏候楙という男、完全に素人だな。 此方の備えの頑強さに、気付いておらぬ」

「敵で、手強そうな武将は」

「曹真の所にいるだろう。 見たところ、一戦で踏みにじれる相手だ」

「……妙ですね」

夏候楙は愚将だが、その後ろにいるのは張?(コウ)だ。何か罠があるとしか思えない。しかし、何しろ此方の総指揮は諸葛亮である。それも、計算に入れているのかも知れなかった。

「とりあえず、夏候楙については、今日中に蹴散らしてしまいましょう」

「そうだな。 確実に勝てる相手は、叩いてしまうに限る。 魏軍も、相当に頭数を減らすことが出来るしな」

とにかく、今は先鋒の敵が突出してきているから、それを叩いてしまうに限る。夏候楙の指揮ぶりからいって、実戦経験もないのだろう。

そのまま、作戦を数分で決める。

そして、蜀漢軍は動き出した。

二千ほどの陳式軍が、不意に山中から躍り出る。七万を超える夏候楙の軍勢は、最初は驚いたが、二千の小勢を見て、余裕を持って陣形を変え、受け止めようとした。

その瞬間。

陳式の率いる精鋭が、一気に加速した。

陣が整う前に、敵の前衛に突入する。陳式自身も長刀を振るって、手当たり次第に敵兵をなぎ払った。突き、打ち抜き、斬り伏せ、そのまま幾つかの陣を突破する。そしていきなり方向を転換し、敵陣の内部を滅茶苦茶にかき回した。

一連の動きで、殆ど損害は出していない。

敵は大混乱に陥り、夏候楙の旗まで乱れ始めた。そこで、不意に馬首を返し、引き上げる。吠える敵将の兜に矢を放ち、わざと跳ね返させたのは、余技からだ。顔を真っ赤にした敵将が、目を血走らせて追いかけてくる。

今度は、攻守が逆転。

逃げまどう陳式の軍を、夏候楙の軍勢が追いかけてくる。途中不意に引き返しては敵の前衛を切り伏せ、そしてまた逃げ、どんどん敵を縦深陣の奥に誘い込んでいった。

やがて、山の真ん中に。敵の七万弱が孤立。

趙雲が旗を振ると同時に、全軍が動き出した。

身動きが取れない山の中で、七万の軍勢は四方八方から叩き伏せられ、逃げまどう他無かった。徹底的に陳式はそれを叩きつぶし、敵将だけでも十名以上を討ち取った。夏候楙は腕利きの護衛がついていたが、別に捕らえる意味もない男である。そのまま尻を叩くようにして、追い払ってやった。

わずか二刻で、勝敗は決した。それからの六刻は、掃討戦だった。

魏軍は二万以上を失い、蜀漢の軍勢に損害はほぼ無かった。

夏候楙は態勢を立て直すことさえ出来ず、敗残兵と共に、曹真の軍に逃げ込んだ。

 

牛金は腕組みして、陳式の軍勢の動きを見つめていた。

見事だ。荊州で戦った時よりも、更に動きが洗練されている。蜀漢の軍勢が全てあの水準だとすると、張?(コウ)の策通りに、敵を食い止めるだけでも一苦労だ。

「強いですね」

「ああ。 多分以前より確実に強くなっている」

「前に荊州で戦ったのですか?」

「そうだ。 あの時は陳到の下にいたから、滅多には戦えなかったがな。 陳到は兎に角手堅く動く敵将で、老練の見本だった。 陳式は、それを完全に身につけたようだ。 今の動きも、見本のような誘因殲滅だった」

側で驢馬に乗っている士載に説明してやる。士載は腕組みして小首を傾げていた。この辺りの妙に幼い表情や動作は、何度言っても治らない。兵士達はそれが良いのだと力説していたが。

「今度は、私がいるから、簡単には勝たせないがな」

「いえ、牛金将軍がいても難しいです」

「何?」

「多分敵は、此処で陣を張って、此方を引き留めに掛かるはずです。 敵のあの陣には、全く隙がありません。 攻めるなら、十万以上を連れてこないとむりです。 それも、精鋭の、です」

確かにあの堅固な陣、まるで山に作られた城だ。しかも敵は一万。そしてこれから、最低でも数千は増援が来るだろう。

正面攻撃三倍の法則から、五万程度で抑えようと思っていた牛金だが、士載の言葉を聞いて少し認識を改める。敵は、最初からこれを狙っていたのか。

一旦戻る。

曹真は、三割もの戦力を瞬時に失った夏候楙の醜態を取り繕うのに、苦労していた。同じ魏の皇族という事もある。しかしながら、流石にこれを放置はしておけない。

醜くだらしなく太った夏候楙は敵の汚い罠にはまったとか喚き散らしているが、あれはどう見ても、夏候楙の用兵に責任がある。それにしても、美しくない太り方だ。周瑜はかなり美しく太っていたと言うが、夏候楙はただだらしなく全身に脂肪がついていて、その比率も最悪である。

不意に、夏候楙の軍の中から、特徴のない顔立ちをした中年の将軍が進み出る。そして、曹真に耳打ちした。

はて。何処かで見たような気がするが。思い出せなかった。

「む、それは確かですか」

「ええ」

「わかりました。 では、仕方がありませんね」

頷くと、中年の将軍は消える。誰も、それが誰だかわからないようだった。声も、聞いたことがなかった。だが、壊滅する夏候楙軍の最後尾で、あの将軍の部隊が活躍して、被害をかなり減らしていたのを、牛金は見て確認していた。

ひょっとすると。噂になっている、影の軍監かも知れない。将軍の中に紛れ込んでいて、軍の腐敗を摘発する人物がいるという。正体はよくわからないとか。

「夏候楙将軍」

「な、何かな」

「軍の物資を横流ししていますね。 しかも利益を懐に入れている」

何を馬鹿なと笑い飛ばそうとした夏候楙が、周囲を取り囲んだ憲兵を見て蒼白になる。曹真は大まじめだった。

「悪いが、今の彼は貴方の部下ではない。 皇帝陛下直属の、内部軍監です。 しかも貴方は、彼の活躍で命を落とすことを免れた」

「そ、それは、そんな」

「仮にも貴方は魏の皇族です。 だから、此処で殺すような事はしません。 普通の将軍だったら、即座に打ち首にしている所ですが、皇族であるから助けられることをご理解ください。 しかし、軍権はもう与えられないでしょう」

縄を掛けられた夏候楙は、無様にうろたえて、悲鳴を上げた。多分縛られてから抜ける訓練など、したこともないのだろう。弱々しい腕は逆手に捻り上げられ、檻車に放り込まれる。

曹真は、檻車の前で、いつもにない重苦しい言葉遣いで言った。

「貴方のせいで、二万を越える兵が死んだ。 それを、忘れずに」

「へ、兵士など!」

「これから貴方の食事を運ぶのは兵士達だと忘れずに。 しかも、貴方の指揮で死んだ者達の縁者を周囲に付けることにします」

意味を悟った夏候楙は、泣きそうになった。

だが、曹真は顧みなかった。悲鳴はすぐに遠ざかっていく。曹叡も、こればかりは許しはしないだろう。

戻ってきた曹真は、牛金と郭淮を見回した。

「見苦しいものをお見せいたしました」

「いえ、そんな」

「何処の世にも、腐敗した皇族はおりますな」

袁家のごたごたを間近で見てきた郭淮が、そう歎息する。牛金は返す言葉がなかった。このまま腐敗が浸透すると、魏は危ないかも知れない、そう思ってしまったからだ。幸い、魏は皇族の力がさほど強くない。腐敗は今のところ、最小限に抑えられている。

「お二人には、夏候楙どのが率いていた部隊の再訓練をお願いいたします。 丁度五万弱が生き残っていますが、負傷者一万ほどは後送いたしますので、それぞれ二万ずつ」

「わかりました。 直属の部隊を中核として、鍛え直します」

「お願いいたします。 私は陣を張って、敵の出方をうかがいます。 あの様子では、守りに徹してくるようにも見えますが」

さて、どうなることだろうか。

牛金は、不安が消えないのを感じた。

 

陣を張り終え、細部を確認していた陳式は、いきなり思わぬ人物が到着したことで度肝を抜かれていた。

諸葛亮である。

しかも魏延を側に置き、左右には張苞、関興を伴っていた。

趙雲の副将として、ケ(トウ)芝も彼らに随行していた。趙雲軍の本隊も、彼が連れていた。

ケ(トウ)芝は江東との外交を長年担当していた人物であり、諸葛亮が下級官吏から抜擢した。武勇もそれなりに優れている他、何もかもをそつなくこなすことが出来る。趙雲の側にジャヤがいるならば、ケ(トウ)芝は足下で支えることが出来る人材だ。ただし、かなり年が行っているので、軍での激しい戦いは応えるようだった。

古き時代の豪傑然としたケ(トウ)芝には、雰囲気的なうまがあうためか、趙雲も信頼を寄せている。普段も、精鋭の監理は彼に任せているようだ。陳式も何度か話したことがあるが、不快感を感じたことは一度もない。ただし、非常に生真面目なので、文官とはあまりそりが合わないようだ。ちなみに彼は、後漢最強を誇った雲台二十八将筆頭の末裔だが、妾腹の子孫で、直系ではない。また、ジャヤとは喧嘩友達のようで、良く喧嘩しているのを見かける。

陳式は諸葛亮に対して、まず戦況の報告をした。敵からの奪取物資こそ無いが、二万を越える敵を倒したというと、諸葛亮は重畳と一言だけ呟いた。そういえば、細君を連れてきてはいないようだ。

後方の任務を、全て任せてしまっていると言うことだろう。

「丞相、こちらに来てしまって良かったのですか」

「報告を受ける限り、曹真の軍勢が予想以上に強力だったからな。 それに、夏候楙の軍勢が敵に鍛え上げられても面白くない」

「なるほど、更に叩いておく、と言うことですか」

曹真軍は今だ十万を超える戦力を誇っている。此方は諸葛亮本隊が密かに合流したとはいえ、三万に達しない。しかし、兵の質の差を考えると、充分な戦いが出来るはずだ。

「しかし、一叩きしたら、すぐに私は此処を離れる。 後の曹真への対処は、そなたに任せる」

「承知いたしました」

「それでは、魏延。 そなたに主力を任せる。 作戦は……」

伝えられた作戦は、陳式も仰天するものだった。

物資は確かにある。

可能な戦術でもある。

だが、流石に尻込みしてしまう。

「どうした、陳式将軍。 何か問題があるか」

「いえ、勝てると思います。 しかし、苛烈な作戦ですね」

「曹真は優秀な武将だ。 彼が方面軍を担当してしまうと、今後色々と面倒になってくるだろう。 此処で、一気に仕留めておきたい」

諸葛亮はそう言ったが、表情はいつもと同じだった。

この人が深い闇を秘めているらしいことは、陳式も知っている。だが、それを間近で見たような気がして、少し肌寒かった。

諸葛亮が行くと、ジャヤがぼやく。丁度姉くらいの年に当たるジャヤは、二人子供を産んで分別がついても、昔と変わらない所も多かった。

「子龍、何だか気に入らない作戦だな」

「そうだな。 苛烈な作戦だ。 だが、勝つためには必要かも知れん」

「そうなのだろうか。 そんな風にして勝っても、敵は納得するのか」

「……」

あまり学はないが、それが故に、感情に起因した言葉は、逆に心を打つことも少なくない。

陳式は無言で、精鋭を率いて陣を離れた。

 

牛金の所に、司馬懿が来る。

それを見て、士載が身を強張らせた。誰にも人なつっこい士載なのだが、司馬懿だけは苦手にしている様子だ。

「牛金将軍」

「如何いたしましたか、参謀どの」

「何かいやな予感がする。 警戒をした方が良いと思う」

「それは同感です。 しかし、何が起こるのか」

夜襲への準備は万全に行っている。しかし、昨日の今日である。陳式の軍勢が如何に優れた訓練を施されていても、同じような誘因殲滅策を、行うとは思えない。

かって、夜襲にしっかり警戒をしていながらも、囮の夜襲によって陣を乱され、打撃を与えられた例が存在するという。

それを考えると、夜襲に対しては相手にしないのが一番だ。持ち場を守り、しっかり兵を整える。それだけで充分のような気もする。

司馬懿は一言だけ言うと、さっさと陣を離れた。郭淮の所にも行くらしい。

曹真は有能な武将だ。多寡が知れた夜襲でどうなるとも思えないのだが。逆に言うと、それでも敢えて諸葛亮が何か仕掛けてくるとすれば、それは尋常ならざる策を使い、そのれに伴う異常な結果を産むように思える。

「味方の強固な守りを逆手に使われるとか、でしょうか」

「何か思い当たる節はないのか」

「わかりません。 諸葛亮という人は恐ろしく頭が切れるとか、ぼくも聞いていますし、何かとんでもない策を繰り出してくることを警戒するべきなのかも知れません」

そう言われると、構えてしまう。

いずれにしても、牛金には、夜襲を警戒することしかできなかった。

やがて、それは唐突に来た。

早朝。一眠りして、敢えて早く起きた牛金の耳に届くのは、夜襲の喚声であった。夜襲は基本的に、夜に動いて朝に襲うものだ。そう言う意味で、見本のような夜襲であった。

なぜ朝方に襲うかというと、一番疲れている時間帯だからだ。

伝令が飛んでくる。

「曹真将軍の陣に夜襲です! 規模は五千! 陳式によるものと思われます!」

「守りを固めよ。 曹真将軍の陣と緊密に連携を取れ。 かがり火を増やして、警戒を密にせよ」

寝起きの士載が、目を擦りながらこっちに来る。兵士達が寝間着に温かい布の軍抱を被せたりして、世話を焼いているのが見えた。

「おはようございまふ、ぎゅうきんしょうぐん」

「案の定夜襲が来た。 出来るだけ早く着替えよ」

「わはりまひたー」

危なっかしい足取りで、天幕に戻る士載。このままだと、その場でこてんと転がってまた寝始めそうである。おなごには寝起きに極端に弱い者がいるとか聞いているが、あれもその一人だろうか。

やがて、地響きの音がし始めた。

何だろう。そう思った時には、既に遅かった。

「牛です! 角に、松明を付けた牛の大群が!」

牛金は、思わずその場に固まる自分に気付いていた。

そうか。

敵の狙いは、見え見えの夜襲を敢えて仕掛けることにより。策を警戒した此方を、硬直させることだったのだ。

曹真の陣に、火牛が突進。備えも何もかもを打ち砕きながら、狂気のままに暴れまくる。同時に、牛金の陣にも、背後から殺気。

魏延の軍勢だった。

蜀漢でも数少ない古豪である。その突撃の破壊力は凄まじかった。柵が取り壊され、膨大な火矢が撃ち込まれてくる。郭淮の陣も、関興、張苞によって、猛烈な打撃を受けている様子だ。

支えきれない。曹真の陣も、見れば諸葛亮本隊と、陳式の軍による猛攻を受けている。このままだと、味方は全滅する。

「総員、一旦引け! 引けッ!」

牛金は自ら五千ほどの兵を率いると、怒濤のように迫り来る魏延の軍勢に、真っ正面からぶつかり合った。

流石に力負けして、じりじりと下がる。魏延の軍は兵卒に到るまでが獰猛な殺気を放っており、凄まじい破壊力で押し込んできていた。

魏延。

牛金がその姿を見た時には、至近に迫られていた。

激しく刃を打ち合わせる。二合、三合、五合。戦う内に、総崩れになった味方が逃げ出すのが見えた。

近衛の兵士達が、どうにか敵を押し返す内に、もみ合いになる。そして、離れた。魏延は余裕があったが、此方はそうではない。全身から流れる滝のような汗は、戦況の厳しさを雄弁に語っていた。逃げ出す旧夏候楙軍の兵士達は右往左往するばかりで、味方の秩序だった行動を阻害すること著しかった。士載が纏めて少しずつ逃がしてはいるが、味方の損害は最終的にとんでもないことになりそうだった。

日が上がっても、なおも敵の猛攻は続く。撤退しようとする兵士達は、脱落する度に、容赦なく討たれていった。まるで狩りでもしているかのように、蜀漢軍は容赦なく魏の兵士を打ち倒していく。

そして、三十里を後退して、ようやく曹真は味方を纏めることが出来た。

全軍が、満身創痍だった。

どうにか生き延びた副官が、抱拳礼をする。

「我が軍だけで、死者は三千五百。 全軍では一万七千を失った模様です」

二万の内、三千五百か。

乾いた笑いが零れてきた。士載も無事だったが、軍抱は焦げていた。

「牛金将軍、ご無事でしたか」

「ああ。 どうやら夏候楙将軍を、笑えなくなってしまったようだな」

士載は何も言わなかった。ただ、諸葛亮が使った、此方の心理を徹底的に先読みした作戦について、思いを馳せているようだった。

魏軍は兵を纏めると、更に十里を後退。其処で幾つかの城に兵を分散し、長大な防衛陣を敷いた。

それに対し、蜀漢の軍勢は二十五里を前進。

対峙は、まだ続く。

 

(続)