吹きすさぶ狂風

 

序、立ち回る影

 

上庸の守備を任されていた孟達は、これ以上は無理だと感じていた。劉備の侵攻作戦が開始された矢先ではあったが、もはや耐えられる状況ではなかったのだ。

孟達は、法正、張松らとともに、いち早く劉備と通じ、蜀漢の建国に一役買った立役者の一人である。それからも漢中や各地で転戦してきたが、いまいち評価は高くなかった。数年前からは、上庸に駐屯し、長安と宛の等距離で睨みを利かせている所だった。もっとも、兵力が少なすぎて、侵攻作戦は無理だったが。

部屋の中を歩き回る。

上庸は堅城だ。外は分厚い堀に守られ、二万の民が中にいる。ほぼ同数の兵が守りを固めており、その気になれば十万の敵兵の攻撃にも耐えることが出来る。だが、問題は外にはない。

城壁の上に出る。古参の将校達が来た。

「今日も荒れております」

「そうか」

大きく歎息した。

荒れているのは他でもない。劉封である。劉備の子の一人であり、一時期は跡継ぎにと言う話もあった人物だ。

だが、情報収集を怠り、関羽を死なせたことが響き、兵を削減された挙げ句、既に跡継ぎの候補からは外されてしまっている。その煽りを食って、劉封は荒れた。そして、怒りの矛先は孟達に向いていた。

少し前に、自慢の楽隊を取り上げられた。軍の指揮については自信もあった孟達だが、これは趣味として育成していた部隊で、各地で高い評価を受けていた。兵士達の慰問にもなるし、手塩に掛けた部隊だったのだ。それなのに、劉封は理不尽な理由で取り上げたのだった。

それだけではない。

数え上げればきりがない。

既に、魏からは、裏切れば厚遇するという連絡が来ている。劉備を蜀に入れたことに関しては、後悔していない。

しかし、もう今の蜀で、特に劉封と組まされることに関しては限界だった。

元々乱世に生きてきている男である。そうなると、孟達の思考は早かった。古参の部下達を見回すと、言った。

「劉封を討ち取れるか」

「既に準備は整っております」

最年長の申耽があたまを下げると、他の部下達もおおむね同意した。

元々申耽は非常に意地汚い所がある男で、それが故に劉備に嫌われ、上庸に送られたという経緯がある。今も将校の財力を背景に街で好き勝手をしているため、部下達にも民にも嫌われていた。汚れ役をやらせるには丁度いい。もっとも、申耽も己の性質はよく理解しているようで、積極的に汚れることを厭わなかった。

兵士達が動き出す。

劉封もすぐに気付いた。城内では激しい乱戦が始まった。

孟達はいつでも逃げられるように退路を確保したまま、様子を見守る。姑息な戦い方だが、だから今まで生き残ってこられたのだと、孟達は思っている。此方の兵力が多いとはいえ、劉封はそれなりの勇将だ。申耽では少し荷が重いかも知れない。そう思っていた、矢先だった。

城外に不意に魏軍がわき出した。ずっと伏兵をしていたらしい。まるで気付かなかった。

全身に粟が生じるのを、孟達は感じていた。しかも、伏兵の武将はどうやら徐晃である。これでは、劉封に勝ち目など無い。味方が城門を開け、徐晃軍を招き入れた時、戦いは終わった。

劉封軍は我先に逃げ出していく。その中に劉封の姿。孟達は無言で弓矢を手にすると、弦を引いた。

矢が飛ぶ。兜にはじき返された。劉封は気絶したようだが、それを旗本達が守り、さっさと逃げ出していく。徐晃軍は追撃しない。舌打ちすると、孟達は城壁を降りた。どう徐晃に言い訳するか、今の内に考えておかなければならなかった。そもそも言い訳が通用するかどうかは、今は考えない。

すぐに城内での掃討戦は終わった。

徐晃は非常に不機嫌そうな顔で、孟達を待っていた。用兵を見ていればわかるが、真面目で融通が利かない輩らしい。内心、鼻で笑う。

いつの間にか孟達は、真面目に生きている連中を、全てくだらない輩だと思うように成り果てていた。

劉封は死ぬだろう。今の劉備が、劉封に対面して、許す訳がないからだ。

そして孟達は死なない。徐晃は生真面目だから、必ず曹丕の所まで、孟達を連れて行くだろうからだ。そして信賞必罰の観点からも、上庸陥落の原因となった孟達が、殺される訳もない。ましてや魏は建国したばかりで、内情を安定させるためにも、信賞必罰を確実にしなければならないのである。

跪くと、唾を吐くようにして徐晃は言った。

「よく顔を出せたものだな」

「はて、何のことでございましょう」

「……ふん」

どうやら口を利くのも嫌、らしい。それは助かった。

孟達も、徐晃のような輩は大嫌いだ。反吐が出るし、何時馬鹿にするかもわからない。命の恩人だ等という思考はない。そんな風に考えては、この乱世で生きてはいけないからだ。

それに取り入る相手は、老いて先がない徐晃などではなく、曹丕のほうが適切であった。

そのまま許昌に護送されながら、孟達は思う。真面目に生きる輩など、全て呪われて死ねばよいのだと。

 

劉備が主力を率いて益州を出る寸前に、敗軍を率いた劉封が現れた。護衛をしていた陳到は、何という悪い状況で現れたものだと、歎息せざるを得なかった。実際、劉備は劉封と聞いただけで眉を跳ね上げる。今や劉備は、露骨に憎悪を顔に出すようになっていた。かってのふくやかな様子はもう無い。露出した狂気が、劉備の全身を覆い尽くしている有様である。

すぐに劉封は縛り上げられた。

諸葛亮は、益州を出る所までは一緒に来ると言うことで、陣の中にいる。項垂れている劉封は劉備を父と呼んだが、恐らくは彼が望んでいたような応えはなかった。死刑宣告だけがあった。

「お前には失望した」

「面目次第もございません」

「斬れ」

流石に兵士達もためらうが、劉備が剣を抜いて歩み出ようとするのを見て、本気であることを悟る。

すぐに劉封は首を刎ねられた。最後まで、劉封は何も言わず、項垂れ続けていた。

上庸は重要な拠点だ。美味くすれば、益州から一気に宛や長安を奇襲するための、拠点にもなり得た。少々距離はあったが、中間守備地点として、これ以上の場所はなかったとも言える。

劉備は何も言わず、永安まで進軍した。そして、其処にある白帝城に入る。事前に入っていた李厳の八千を上庸の備えに残すと、劉備は四万全てを率いて、荊州に南下を開始した。

陳到は此処までだった。此処で、後ろぞなえとして、兵站と後方の守りを担当する。陳式と廖化が前線に出て行くのを、見守るしかない。二人は最後に兵を纏めて出て行く。見送る陳到に、陳式はあたまを下げた。

「それでは、義父上、行って参ります」

「陛下をお守りしてくれ。 それと、必ずお前自身も無事で戻れ」

廖化はそれを聞くと、目頭を押さえた。

はてさて、悲劇は何処まで連なるのか。まだ続くのか。

それはほぼ確実だろう。陳到はそう思い、四万の友軍が見えなくなってから、大きく歎息したのだった。

 

1、劉備軍猛撃

 

武陵を中心として防衛線を張っていた藩璋は、劉備軍出現の報告を部下から聞き、すぐに兵を率いて出陣した。任されている戦力は三万。その中核は、彼が鍛えた一万によって為されている。

藩璋は陳武の副官をしていた男である。用兵も部隊も建国の功臣である陳武のものを引き継いでおり、今まで少なからぬ実績を上げてきている。此処しばらくは荊州での魏軍との小競り合いで経験と軍功をあげ、その中で一万も鍛え上げた。藩璋はこの直属部隊に絶対の自信を持っていた。

部下達に粗末な格好をさせているが、藩璋自身はきらびやかな鎧を身につけている。

四家に賄賂を欠かしたことがない藩璋は、自分が失脚することは絶対にないと思っていた。しかも今回は、弱将と噂される劉備が相手である。歴戦を重ねた藩璋が敗れることなど、万が一にもあり得なかった。

徐盛は縦深陣に引き込むようにと通達してきているが、知ったことではない。

此処で劉備を撃破してしまえば、功績は独り占めできるのだ。それでも、作戦のことを無視はせず、率いていったのは、直営の一万だけ。後は防衛線の堅守を命じて、藩璋は意気揚々と劉備軍の前に布陣した。

敵の陣を見て、藩璋は一笑に付した。

「田舎者の山猿風情が、何を血迷ったか。 おかしくも皇帝などを名乗ったと思ったら、今度はあんな陣立てで、よくも俺と戦おうと思ったものだ」

「藩璋将軍、徐盛将軍のご指示もあります。 一当てして引きましょう」

「そんな必要はないな。 あのような雑魚ども、機動戦で引っかき回して、一戦にて決着を付けてくれる」

副官の慎重論を、一蹴した。一万の中でも、特に精鋭だと思っている騎馬隊一千を直接率いて、藩璋は突出する。劉備軍は雑多な備えで、動こうとはしない。猛烈な勢いで敵に迫りながら、藩璋は勝利を確信した。

次の瞬間。

何が起こったか、藩璋は理解できなかった。

あり得ないほどの速度で劉備軍が展開。即座に雑多な陣が、堅陣へと姿を変えたのである。

唖然とした藩璋の騎馬隊に、左右から飛び出した騎馬隊が躍り掛かる。それぞれ、関、張の旗を掲げていた。

まるで閃光が降りかかるようだと藩璋が思った瞬間、彼の敗退は決まった。騎馬隊は水を掛けられた砂糖細工のように一瞬で崩壊。精鋭一万は、過去の遺物と化した。見る間に踏みにじられ、打ち砕かれ、全滅していく味方を尻目に、必死に藩璋は馬に鞭をくれる。劉備軍は山津波のように、その背後から無言で追い来た。恐怖のあまり、藩璋は絶叫する。誰だ、誰だ。一体前にいるのは、誰なのだ。

劉備は、弱将ではなかったのか。

何だあの軍の動きは。何度か小競り合いをした徐晃の軍勢も強い圧力を持っていたが、下手をするとそれ以上ではないのか。

武陵がいつの間にか陥落していた。更に藩璋は逃げた。防衛線は瞬く間に食い破られた。訳がわからない。どうして、武陵が陥落したのか。渇いた喉がひりつく。何が起こっているのか、理解できない。

やっと朱桓の軍勢と合流した時。

三万の兵は、何と一万五千まで減っていた。

自慢の精鋭一万は、二千程度しか残っていなかった。その上全てが負傷しており、もはや戦える状態にはなかった。

完全に恐怖で我を見失った藩璋は、暴れ出した所を取り押さえられた。気がつくと、徐盛が目の前にいて、縛られ寝転がされている自分を見つめていた。

「じょ、徐盛将軍」

「藩璋。 大丈夫か」

「私は、一体」

「なぜ、堅守に徹しなかった」

頭がはっきりしてきた。徐々に、記憶もしっかりしてくる。なぜ負けたのかも、鮮烈に記憶に刻まれていた。劉備は弱将だと聞いていたし、陣立ても無様で、簡単に崩せると思った。そう応えると、徐盛は顔を真っ赤にした。

既に老いている徐盛だが、その迫力は凄まじい。

今まで自分が四家の傘に守られながら、如何に楽な戦をしてきたか、藩璋はこの瞬間に思い知っていた。

「たわけっ! 我が命令を守らず、一万五千を死なせ、防衛線を崩壊させた貴様に、用兵を語る資格などあるかっ! お前はしばらく山越討伐に回す。 貴重なる兵一万五千を失った罪は重い」

「……申し訳、ありません」

「陳武将軍から受け継いだ精鋭も、殆ど死なせてしまいおって。 何という事をしてくれたのだ」

今頃になって、藩璋は気付く。己がしでかした失敗の大きさに。

下手をすると、江東は滅ぶのではないのか。その恐怖が全身を満たす中、藩璋は後方の陣へと、引きずられるようにして搬送されていった。

 

藩璋の敗残兵を纏めていた江陵の朱桓は、殆ど間をおかず攻め込んできた劉備軍が放つ気迫を城壁の上から見て、息を呑んでいた。

周瑜の時代から戦場を駆け回り、既に若手と呼ばれる年代を卒業している朱桓だが、戦慄は今でも感じることがある。四家の息が掛かっている藩璋が不抜けた戦をしているのとは違い、徐晃との小競り合いには常に重要な局面で参加していることもあって、敵の実力は肌で感じることが出来るのだ。

かって、朱桓は四家に推されていたこともあった。

だがいつ頃からか、四家は朱桓を危険視するようになり、援助を止めた。それ以降は、実力で立身しなければならなかった。

周瑜の思想は、その過程でしっかり身に刻みつけられた。

だから、この戦は負ける訳にはいかないのである。

「奇襲を仕掛ける隙はないな」

呟く。

朱桓は果敢な奇襲戦を得意とする将であり、自分の長所も理解している。しかし、得意とする奇襲戦にはとても持ち込めないと、陣立てを見て朱桓は理解していた。劉備軍が放っている気迫は、既に鬼気の域にまで達している。

武陵方面から、部下が戻ってきた。傷だらけで、顔にも酷い向かい傷を受けている。跪いた彼に、朱桓は出来るだけ声を押し殺して聞く。

「武陵はどうであった」

「どうやら五鶏蛮による大規模な反乱があった模様です。 守兵は全滅しています」

「なるほど、それでか」

外から攻められたのではなく、内側からの攻撃を受けたという訳だ。

そう言えば五鶏蛮の王であったシャマカは、劉備とともに行動していたはずだ。だが、今では五鶏蛮は親江東派と親劉備派で割れている。その辺りを突けば、反撃の糸口が掴めるかも知れない。

江陵の守兵は二万五千にまでふくれあがっている。負傷兵が多いとはいえ、この状況ならば敵の猛攻をある程度は支えることが可能だ。さて、劉備はどう出るか。腕組みして見つめていた朱桓の耳に、さらなる凶報が届いた。

左翼に展開していた韓当軍、およそ二万が、伏兵を見破られ、劉備軍の猛烈な攻撃を受けているというのである。

目前にいる四万は偽兵か。そう悟った朱桓は、即座に叫んでいた。

「馬を引け! 出撃する!」

 

猛将韓当は孫堅時代からの宿将であり、既に程普が引退して一線を離れた今、昔を知る数少ない人物である。黄蓋と同年代でもある彼は、この戦いを最後に引退する予定だったのだが、どうやらそれどころでは無くなったらしかった。

伏兵をしていた所を、不意に関と旗を掲げた騎兵に、奇襲を受けたのである。敵の規模は三千ほどだったが、その練度が異常だった。圧力も凄まじく、二万の兵は見る間に追い散らされていく。

矢が降り注ぐ中、韓当は愛馬に飛び乗った。

「総員、儂に続け!」

即座に五千ほどの兵がまとまり、猛烈な突撃を仕掛けてくる関の旗の騎兵とぶつかり合う。僅かに勢いを食い止めたと思った瞬間、北にさらなる軍勢がわき出した。劉という旗印。兵力は一万程度。

なだれ込んでくる。二方向からの熾烈な攻撃に晒された韓当軍は、じりじりと下がる。騎馬隊は丁々発止の激突を繰り返したが、その過程でばたばたとたたき落とされた。兵の質が違う。士気も違いすぎる。

韓当は他の将と違い、劉備を侮ってはいなかったが。しかし兵士達は違った。

噂と違う劉備軍の実力に恐れを成し始めていて、悲鳴を上げながら蹲ってしまうような者もいた。それらを叱咤しながら、必死に韓当は撤退を指揮する。自身の直属である千五百を駆使して、戦場を駆け回り、騎馬隊による蹂躙をどうにか食い止めつつ、敵主力の攻撃から味方を遠ざけていた。

しかし、それにも限界がある。

いつのまにか、韓当の軍勢は三百を割り込んでいた。二万の内一万ほどは逃がすことが出来たが、残りは既に潰走状態で、壊滅させられつつある。最早これまでかと韓当は思った。

「儂が、囮になるしかあるまい」

「韓当将軍!」

「情けない声を出すでないわ! こんな老いた皺だらけの首、いつでもくれてやるつもりでいた。 主力決戦用の戦力が壊滅するのと儂の首一つなど、比べる意味もない!」

韓の旗を、立てさせる。敵は凄まじい勢いで、殺到してきた。

剣を振るう。衰えたなと思いつつ、敵を一人、二人と斬っていく。だが、勢いが凄まじい。剣がはじき飛ばされた。肩に矢が突き刺さる。見えた。関の旗の下に、鋭い目をした若い武将がいた。

見覚えがある。

関平。関羽の長男だ。副将として、関羽の次男である関興を連れている様子だ。奴の用兵の才なら知れていると思い、考え直す。ひょっとすると、これは王甫による指揮ではないのか。

また、ぶつかり合う。

見る間に、三百の直営が討ち減らされていく。その時、東からの圧力。朱の旗。朱桓が率いる五千ほどが、劉備軍本隊を奇襲したのだ。

劉備軍は冷静にそれを受け止めるが、包囲しかけていた残存戦力が逃れるのにはそれで充分だった。韓当も声をからすと、一気に撤退にはいる。付き従う兵は、わずか十名ほどだった。

数十里下がって、やっと兵を纏める。

損害は五千を超えていた。特に韓当が長く鍛え上げてきた直営は全滅状態で、実質的な損害は計り知れなかった。

撤退してきた朱桓も大きな被害を受けていた。朱桓自身も、何本か体に矢を受けている。手当をさせている所に訪れた朱桓は、蒼白だった。

「韓当将軍、ご無事でしたか」

「面目ない。 多くの若者を死なせ、無様に生き残ってしまった」

「何を言われますか。 貴方に死なれては、反撃の糸口が掴めなくなる所でした。 此方も撤退寸前に、張の旗を掲げた騎馬隊に奇襲を受け、大きな被害を出しました」

驚く。かっては若々しさと荒々しさが混在していた朱桓が、これほどまでに理知的に喋れるようになるとは。

応急措置を済ませると、江陵に戻る。敵はすぐに合流したようだが、それ以上の動きを察知することは出来なかった。情報戦で、完全に敵は此方の上を行っている。江東の細作は非常に脆弱で、噂によると四家は諸葛亮に操作されているというようなものまであるのだ。

いずれにしても、このままでは点在している部隊が各個撃破されるだけである。

江陵の城壁の上に上がると、難しい顔で、朱桓が腕組みしていた。

「朱桓」

「韓当将軍」

「如何した。 何かあったか」

「はい。 江陵を捨てるように、という命令が来ております。 劉備を南郡にまで誘い込む必要があると」

韓当は腕組みした。確かに、それが良いかもしれない。敵に情報が筒抜けになっているという懸念もあるし、何よりもそうすることで、劉備軍の兵站線を無理に延ばすことが出来る。

現在の劉備軍に、荊州全土を制圧するほどの兵力は存在しない。想定外の兵力を失っているが、そうすることで劉備軍を縦深陣の奥に引きずり込むことも可能だ。

「勝つには、それでもまだたりんな。 徐盛将軍も、それを知っていることだろう」

「と、いいますると」

「陸遜だ。 劉備皇帝に勝つには、奴の助力が必要だ。 どうにかして、徐盛将軍がそれを決断してくれれば良いのだが」

周瑜、呂蒙と受け継がれてきた江東の叡智。それを現在に継承しているのは、陸遜だけだ。

そう韓当が語ると、朱桓は大きく頷いたのだった。

 

江陵で、劉備軍は北上してきたシャマカの軍勢と合流した。兵の中には、馬良の姿もあった。

事前に馬良は、シャマカと共に、武陵に潜り込んでいたのである。こうも見事な藩璋軍の壊滅は、事前の念入りな準備があってのことだった。更に江陵も奪取。劉備軍は、一気に荊州の江東領を、半分ほど奪い取っていた。

しかし、危ないと王甫は思う。

まず江陵も武陵も、敵は兵糧を一切残していない。情報戦で敵の上を行っているとはいえ、兵士達は飯を食わなければ力も出ない。

そして、もう一つ。大きな懸念が、王甫にはあった。

城内を歩き回って気付くのだが、住民が劉備軍を歓迎していないのだ。一切、である。

かって劉備軍が来ると言えば、民衆は熱狂的に歓迎した。その一例が、新野から脱出する際に、大勢の民衆が劉備を慕って着いてきたという事である。あれを例に出すまでもなく、劉備は常に民のことを考えていたから、慕われていた。

だが、民は気付いている。

劉備が、関羽同様、おかしくなりつつあることに。

かっての劉備だったら、武陵を制圧した時、五鶏蛮の全てが我先にと駆けつけたことだろう。

だが今は。馬良もかなり苦労したとぼやいていたほどだ。住民も、劉備軍に非好意的な視線を向けてきている。そして、それをただ一人。劉備だけが気付いていなかった。

珪陽方面に出ていた斥候が戻ってくる。腕組みしている王甫の前に、続々と敵の動向が寄せられ始めていた。

「敵の伏兵およそ二万を発見いたしました」

「しかしながら、既に撤退を開始。 南郡にいる徐盛軍主力と、合流する動きを見せております」

「敵は軽騎兵と歩兵を主力としており、これから追撃しても、追いつくのは不可能かと思われまする」

頷くと、それらを報告書に纏めて、劉備の所へ持っていく。

後方は今のところ安全だ。だが、伏兵の左翼二万の動きからして、敵は此方に情報が筒抜けになっていることを前提に動き始めた可能性が高くなっている。此処はこの辺りで一旦進撃を中止し、民の慰撫に努めるべきではないかと、王甫は思い始めていた。ただでさえ、味方は兵力が不足しているのだ。敵の二万以上を討ち取っているとはいえ、江東の軍勢はまだ十万以上が健在であることは、ほぼ間違いなかった。それに対して、味方は合流したシャマカの軍勢を加えても、せいぜい四万とちょっとなのである。

しかし、劉備はその王甫の言葉を聞いても、終始無言だった。

そして、馮習に言う。

「これから、南郡にいる敵に攻撃を仕掛ける。 作戦案を立てよ」

「陛下!」

「今、味方は勢いに乗り、敵は此方を恐れ始めている。 此処で攻めに出なければ、いつ戦うというか」

「城下を見て回りましたが、民は皆、陛下を歓迎しておりません。 このままでは、守勢に転じた途端、味方は崩壊に追いやられる可能性がございます」

それに、今までのたやすい勝利は、敵が此方を侮ってくれていたというのが一番大きい。藩璋にしてもそうだ。本来はさほど手腕が劣る男ではない。奴が大まじめに防衛線の維持に徹していたら、こうも簡単に江陵まで抜くことはできなかっただろう。

だが、劉備は王甫の言葉を聞いてくれない。

そればかりか、民のことにも、関心を示さなかった。

劉備の前から退出すると、王甫はかってなじみだった酒場に向かった。すっかり今では廃墟になってしまっていた。

民が、江陵を離れ始めている。

劉備による侵攻は、彼らの耳にも届いていたと言うことだ。そして今は、民にとって、恐怖の象徴となっている。

別の、かろうじて開いている酒場に出る。其処ではシャマカが、面白くも無さそうに酒を飲んでいた。取り巻きらしい五鶏蛮の勇者達の姿も見られる。シャマカは不機嫌そうで、部下達は不満を顔にありありと湛えていた。

「王甫どの」

「シャマカ様、このじいさま、知り合いですか」

「俺の同僚だ」

席を勧めてくれたので、座る。居心地がとても悪い。店主が持ってきた酒に、シャマカの部下がけちをつけ始めたので、更に空気が悪くなった。

「どうしたのだ。 不機嫌そうだが」

「どうもこうも。 劉備様は何て言うか、民のことをもっと考えてくださっているという話だったのに。 何だか江東の軍勢の方が、まだマシに見えてさ」

「命がけの戦いに対する、報酬は出ている。 だが、部下達は生粋の戦士だ。 わかってしまうのだろうな。 自分たちが道具とみなされていると」

「面目次第もない」

義兄弟を失ってから、劉備が復讐の鬼と化してしまったことを告げると、流石に彼らも同情の色を浮かべた。だが、それも戦士であればわかる話であって、民に理解を求めるのは、とても難しいだろう。

「反対派の連中にも、今の話は伝えてみる。 だが、道具扱いが続くと、それも抑えられなくなってくるぜ」

「わかっている。 陛下の変貌には、我らも心を痛めているのだ。 仇を討とうにも、既に病死してしまっているしな」

「江東を滅ぼすまで怒りはおさまらねえってか? しかし、多寡が四万で、荊州を滅ぼすのはともかく、江東まで攻め込めるのか?」

今の劉備ならやりかねないことだった。

旧関羽軍の兵士達が、今ではそっくり江東の軍勢に紛れ込んでしまっている。彼らも、恐怖から必死になって抵抗することは疑いない。

今は、勝っている。

しかし、それが何時まで続くかは、王甫もわからなかった。

しばしして。

出陣が決まったことを、部下が伝えに来た。

 

2、鈍り始める進撃

 

劉備軍の進撃が続く。南郡の途中にある江東の出城は、次々に陥落していった。

徐盛は閉じこもった貝のごとく動きを止め、途中の拠点を放棄。武陵に続いて、珪陽、霊陵も次々と陥落。劉備軍が襄陽には見向きもしなかった事もあり、一気に追い込まれているように見え始めていた。

しかしながら、江東の軍勢の中に、劉備軍に寝返ろうという者は、一人も居なかった。

徐盛は南郡の執務室で、じっと黙って椅子に座っていた。

そうすることで、部下達を落ち着けることが出来ると、知っていたからだ。司令官が右往左往するようでは、部下達が動揺する。こう言う時だからこそ、じっと黙って、手本を示さなければならなかった。

左翼に配置していた朱然らの二万が美味く撤退を完了したことで、江陵の軍勢は十万に達した。これならば、精強な劉備軍を相手に、主力決戦を挑むことも可能である。問題は敵の補給経路だ。それを潰すことが出来れば、一気に勝利を掴むことも夢ではない。

それにしても、幸いにもだが。

事前に武陵での反乱があるかも知れないと陸遜に聞いていたことで、早めに珪陽の二万を引き上げることが出来た。陸遜の復帰については強く孫権に訴えているのだが、それもまだ達成できていない。

どたどたと足音。

朱桓と、それに朱然だった。

「徐盛将軍」

「如何したか」

「敵が現れました。 城外十二から十三里の地点に布陣しています。 兵力は、およそ三万五千!」

「今なら、野戦で一気に撃破も可能です」

五千は後方の守りに残しているとして、現実的な数字である。これに対して、味方はおよそ十万の兵を野戦に繰り出すことが出来る。特に、珪陽の伏兵を担当していた朱然は、部下が無傷であるためか強気であった。

守るべきか。

いや、此処は出るべきか。

敵を押し返せれば、それだけで勝負は決まる。劉備軍が民の信頼を失っているという報告は、既に徐盛の所まで上がってきている。敵には継戦能力がないと判断して問題ないだろう。

それに、三万五千を相手に、十万を有しながら出撃しなかったとなると、それは兵士達の士気にも関わってくる。この仕事は、侮られたら終わりなのだ。

徐盛は決断した。まだ陸遜は復帰できていないが、やるしかない。陸遜も、布陣の不備を指摘した後、長期戦に持ち込むべきだと言っていた。既に敵は寡兵で、充分に味方の陣の奥にまで攻め込んできている。今、攻勢に出るべきだった。

「良し、出撃する」

いざとなったら、南郡に逃げ込めばいい。

歴戦の徐盛の中でも、その甘えが、無かったとは言えなかった。

 

丘の上から、戦場を見つめる影が二つ。

一人は馬上の牛金。もう一人は、驢馬に跨った士載だった。馬術が下手な士載は、大人しい驢馬に跨ってのんびり行くのが好きなようで、暇さえあれば驢馬に乗っている。あまりにも平和すぎる容姿なので、その状態だと敵にも警戒されない。

既に江東と劉備が前面衝突に入った事は、魏も掴んでいた。襄陽には徐晃が五万を連れて布陣しており、慎重に劉備軍の出方をうかがっている状態であった。牛金はそんな中、徐晃に申し出で、敢えて少数での偵察を行っていたのである。これは、士載を育てる意味もあった。

今のところ、戦況は兵力差が三倍以上あるにも関わらず、劉備軍が圧倒的に有利。今も十万と三万五千の対峙が始まっているが、どう転ぶかはわからない。

牛金から見ても、劉備軍が放つ気迫は凄まじい。それに対して、江東の軍勢は二度も負けたにも関わらず、まだ大軍を有している事に対する驕りが抜けない様子である。これは、この会戦も勝敗はわからないなと思いながら、牛金は傍らの士載に、視線を向けずに言う。

「士載、どう見る」

「ええと」

士載は、じっと両軍を見つめていた。

少し前に聞いたのだが、この若者は、戦場を陣形にして、頭の中で再構成しているらしい。一人一人が点になり、それが集まって陣となって、動き回ることで勝敗を決定づけているという。非常に独創的な頭であり、実際にどのように動いているかは、牛金には見当も着かない。

しばらく考え込んでから、士載は言う。

「この戦いは、劉備軍が勝ちます。 一方的に」

「この戦いは、だと?」

「はい。 最終的には敗れると思います」

なるほど。其処まで見越していたか。

士載が言うと同時に、劉備軍が動き出した。鶴翼に展開した徐盛の軍勢は、それを包もうと前進を開始。錐の陣の劉備軍はゆっくり進み始めて、矢を互いに放ち始める。徐々に距離が詰まっていき、それが二里ほどになった瞬間、戦場が劇的に動いた。

「徐盛軍の左翼が破られます」

士載が言うか言わないかの瞬間。飛び出した劉備軍の騎馬隊。関の旗を掲げている。じっと目を凝らす。関平と関興が指揮をしているように見えるが、実情は違うなと、牛金は判断した。

あれは多分、王甫が指揮を執っている。あの老練さ、猛烈な攻撃は、見覚えがある。何度も刃を交えてきたから間違いない。

徐盛の軍からも騎馬隊が出てきたが、その横腹を、張の旗を掲げた騎馬隊が食い破る。此方も動きが鋭すぎる。張飛の息子の張苞が指揮を執っているように見せているが、多分違う誰かが動かしていると見た。

徐盛軍の左翼は朱然が指揮している。熟達の指揮官だが、関の旗を掲げた騎馬隊の破壊力は凄まじく、瞬時に前線が食い破られた。更に滅茶苦茶に敵騎馬隊を蹂躙した張の騎馬隊がそれに続き、一気に徐盛軍の内部に貫き入る。そして劉備軍の歩兵部隊は、さっきまでの緩やかな歩みが嘘のように、一丸となって徐盛軍に突入した。

徐盛はそれでも二度、揉み返した。

騎馬隊による突撃もいなしてみせる。だが、朱然隊が耐えられない。潰走状態になり、朱然自身も矢を受けて落馬。それを助けようとした将官がばたばたと騎馬隊の突撃にあって打ち倒された。

大長刀を振るって暴れているのは関興か。何度か刃を交えてみた関平は、残念ながら平凡な武将だが、関興は天才肌だと聞いたことがあった。確かに凄まじい武勇だ。だが、父には及ばないなと、牛金は思った。確かに技は優れているようだが、父のような圧迫感というか、威圧感のようなものが無いのである。

猛烈な攻撃に晒されながらも、必死の反撃を見せている徐盛軍。既に三倍の兵力差は、生かせない状況に陥っている。特に朱桓の軍勢は、押され続ける中、必死に秩序を維持しながら反撃を試みている。それも、劉備の直営部隊が突撃を開始すると、脆くも打ち砕かれてしまう。

ついに、徐盛軍が力尽きて引き始めた。

全面攻撃を仕掛けていた劉備軍も、其処で一旦停止する。深追いをしなくても勝てるという訳だ。

徐盛軍も全面潰走には到らず、どうにか陣を立て直した。

しかしこの短時間で、一万を超える犠牲を出している。ざっと見た感じ、一万三千から五千という所だ。平野は死骸が点々としていて、凄まじい有様である。此処まで血の臭いが漂い来るほどの光景であった。

それに対して、劉備軍の犠牲は千に達していないだろう。劉備軍の一方的な完勝である。誰が見ても、そう判断するだろう。

「三倍の兵を相手に、凄まじい戦いぶりだな。 劉備が勝ち戦に恵まれなかったのは、単に相手が悪かったからだと、これを見てもはっきりわかる。 このまま、劉備が勝ち進むか、士載」

「いえ、難しいと思います。 劉備陛下の軍勢は、不利になっています」

「ほう?」

じっと劉備軍を、士載は見つめていた。

その瞳は時々、吸い込まれそうな深さを湛えることがある。

壊滅的な打撃を受けた朱然の兵が下がる。代わりに、城から新手が出てきて、陣を補強し始めた。

其処には。

陸の旗が翻っていた。

「陸遜が出てきたか」

舌なめずりをする。陸遜軍は二万に達している様子だ。騎馬隊が三千ほど。残りは歩兵という編成である。かなり騎馬隊が多く、機動力に優れた編成だと言える。

しばし、にらみ合いが続く。

徐盛軍はその隙に負傷者を後送していた。これで大体八万対三万五千の戦いになった。兵力差は縮んだが、陸遜の軍勢には隙が見あたらない。劉備軍も迂闊には動けない様子である。

やがて、劉備軍が野戦陣を張り始める。

それを見届けた徐盛軍は、後退を開始。そのまま、南郡の城に逃げ込んだ。

劉備は追撃しなかった。

「ふむ、関羽の死の一因となった陸遜を追わなかったか。 何か策があるのかな」

今度は、士載は応えなかった。無視しているのではない。じっと腕組みして考え込んでいる。思考を全開で働かせているらしい。実に将来が楽しみだと、牛金は思った。この若者が、いずれ魏の全軍を率いたら、蜀漢も江東も、滅ぼすことは難しくないだろう。

「一度襄陽に戻る」

「え? もう少し見ていたいです」

「駄目だ。 劉備軍が斥候を出し始めた。 捕捉されたら、私でもお前を守りきれないぞ」

そういうと、渋々士載は従う。

やがてその場には、誰もいなくなった。

 

陸遜が復帰したのを知ると、徐盛はようやく歎息した。

劉備軍の凄まじい猛攻は、今まで徐盛が見た誰の指揮よりも恐ろしかった。徐盛自身の陣も打ち砕かれ、古参の旗本が多く矢を浴びて戦死している。正面からの戦いでは、陸遜がいても勝てないだろうと、徐盛ははっきり悟っていた。

朱然は重傷を受けて、後送。必死の嘆願と何より四家の後押しで前線に戻ってきた藩璋も、今回怪我の上塗りをしてしまい、毒矢を受けて左腕を切り落とす事になってしまった。今後は腕一本での指揮をするか、引退をするか、どちらかを選ぶことになるだろう。

敵軍は陣が伸びきっているとはいえ、その戦闘能力にかげりはない。それに対して、味方は既に三万以上を失い、ほぼ同数の負傷者が出てしまっている。今回陸遜が連れているのは、恐らく江東の本土から来た援軍だ。更に二万ほどの予備部隊がいるが、それを含めても、劉備軍をどうにか出来るか。

悩んでいる徐盛の部屋に、陸遜が来た。

「おお、陸遜」

「徐盛将軍。 有難うございます」

陸遜は万感の思いを込めた表情で、抱拳礼をした。徐盛も頷いて、それを受けた。

今回徐盛は、軟禁同然だった陸遜を復帰させるために、あらゆる苦労をした。四家に嫌々ながらも付け届けをしたし、張昭や孫権とも連絡をとり、さらには田家とまで情報のやりとりをした。

払った代償は大きかったが、二万の兵と、陸遜の復帰を短時間で引き出せたのは、張昭の尽力と、徐盛の苦闘が実った結果である。

これで勝てると思うほど徐盛は頭が湧いてはいなかったが、それでも勝機が出てきたのは事実である。

「早速だが陸遜、意見を聞きたい。 どうすれば劉備軍を押し返せる」

「私の部隊で、後方攪乱を仕掛けます。 徐盛将軍は南郡を放棄して、陸口まで退いてください」

「なるほど、敵の戦線を更に伸ばし、劉備軍の補給を遮断するのか」

「いえ、其処までは敵も読んでいると思います。 故に、敵の動きを一旦此処で停止させるために、露骨な誘因作戦に出るのです。 そもそもこの戦、私には四家と諸葛亮が裏で糸を引いているとしか思えないのです」

陸遜の言葉に、徐盛は愕然とした。

陸遜は言う。

「そもそもこの戦の面子をご覧ください。 四家の端に連なる私と四家子飼いの藩璋将軍は別として、殆どの参戦者は四家に縁が遠い者ばかりです。 徐盛将軍は言うまでもありませんし、朱桓将軍は以前四家が目を付けていましたが、最近では周瑜将軍との関係を問題視されて、遠ざけられていました。 劉備軍の面子も、劉備皇帝を一として、よく見えれば諸葛亮が実権を握るのに邪魔な者ばかりが揃っている上、実戦経験が豊富な馬超や趙雲は参戦していません。 何より、劉備軍の中堅として、誰よりも手堅い陳到が来ていません」

「お互い邪魔な者を、根こそぎにしようとしているのか。 互いを相打ちにさせることで」

「邪推ですが、その要素はあると思います。 特に護衛の達人で、劉備の長男を長坂で守りきった趙雲が来ていないのも、それを如実に示しているかと」

「なんということだ」

拳を机に叩きつける徐盛。

ひょっとすると、狂気に陥っている劉備はともかく、蜀漢は既に闇に包まれているのではないのか。

そうこうする内に、凶報が到来した。

引退して江陵の近くに住んでいた甘寧が、殺されたのである。

 

林が木の上から見つめていたのは、小さな村だ。

江陵の近くの山岳地帯にあるその村は、戦いから逃れた民達が住まう秘境とも言える場所であり、山深い地形も手伝って、周囲とは隔絶されている。故に、その男。甘寧が隠棲するには丁度良かったのかも知れない。

だから、林も探すのを苦労させられた。

甘寧は劉備が益州に攻撃を開始した直後辺りから体調を崩し始めていた。もとより侠客として、長年苦闘を続けた体は、医師が見ると青ざめるほどがたが来ていた。体にある無数の傷も、彼の人生が苦労続きであったことを示していたと言える。

元々林が調べた所によると、甘寧は東州兵の生き残りだ。

漢末。今をさかのぼること、ずっと昔。

劉焉が益州に独立国家を作ろうと目論んだ時、他州から己の軍事力として連れ込んだ戦力。それが、東州兵である。彼らと益州在住の人間の対立は根深く、現在も劉備配下では、隠然とした争いがあるという。

甘寧は最初こそ益州にいたが、やがて軍での生活が嫌になったか、脱走して侠客になった。各地で暴れながら荊州に出向き、其処で劉表に拾われた。黄祖の配下となって、江夏で江東の軍勢を防ぎ続けた。

だが、元が札付きの侠客である。

足が地に着いた生き方は、結局出来なかったらしい。江東の誘いに乗って裏切ったのも、待遇が不満だったと言うよりも、単に野心を刺激されたからだろうと、林は思っている。

生き残るためなら、どんなことでもする男。

両手を血に染めて、闇の人生を送り続けてきた人物だ。人殺しをはじめとして、あらゆる悪行に手を染めている。武将としても大成はしているが、それ以上に膨大な恨みを買ってきた男でもある。

だからだろうか。

体が衰えたと知ると、甘寧は癒しを求めたらしい。

自分がしてきた事に対する罪悪感を今更ながらに感じたのかも知れない。

この辺り、林にはよくわからない。幼い頃から摂取し続けた無数の薬物のせいで、体の成長も、それ以上に心の変化も無いからだ。ただ、今は甘寧を利用する。それだけを為すつもりだった。

今後のために、それが必要だからだ。

甘寧が、小さな庵から出てきた。

引退をしても、何人か子飼いの部下は、甘寧に着いてきたらしい。だがそれも、すぐに散ってしまった。暴力と恐怖で部下を引きつけていた甘寧は、それを手放した時、何も残らなかった、という事である。

庵から出てきた甘寧は、驚くほど小さかった。あれが長江を縦横に暴れ回った侠客の、老いた姿なのか。少し林も驚かされていた。

甘寧はそのまま、老いた使用人達と、畑を耕し始めた。側には若い娘がいる。腹が大きいのは、甘寧の子を孕んでいるからか。少し見て、違うと林は判断。肌を重ねた人間同士の独特のつながりが無いからだ。一緒に出てきた中年男性は、甘寧の末子か。その男の子なのかも知れない。

ゆっくりした時間の中で、甘寧は無心になって、畑を耕している。

平和そのものの姿だ。劉備が軍勢を率いて荊州に攻め込んできているとは、とても思えない。

周囲に湧いたのは細作の気配。

シャネスが、至近にいた。

「林、貴様」

「何か?」

シャネスは殺気を全身から滾らせているが、林はそれこそどうでも良い。何しろ、今は戦う理由がないからである。

シャネスが此処に来たのは、諸葛亮の命令だ。

それにしてもシャネスは、老けたものだ。

元々西域の血が入っているからか、子供を産んでいなくても、そろそろいい年であることが露骨にわかってくる。数年前までは大人びた美しい女であったが、今は衰えが見え始めているのだ。腕の方はまだまだ衰えてはいないようだが、しかしそれもいつまで保つか。

林は今でも腕を上げ続けている。今後は、力の差が更に開いていくだろう。

「早く書類をいただきたいのですが」

「これだ。 持っていけ」

「……ふむ、確かに。 甘寧は其処にいます。 始末するならば今ですよ」

シャネスは不快そうに視線を背けると、部下共々消える。林は懐に入れた書類の中身を、すぐに頭に叩き込んだ。

甘寧の居場所を教えたのは、契約の一端だ。もう一つ、諸葛亮に頼まれている事がある。それについては、もう少し時間が掛かる。その見返りとして、林は結構面白い情報を仕入れることが出来たのだ。

「さてと、見物しますか」

林が見ている下で、騒ぎが起こり始める。

劉備軍の一団、一千ほどが、村に入ってきたのだ。もとより小さな村である。防衛設備の類も脆弱だ。しかも秘境と言って良い森の中にあるからか、殆ど軍による襲撃を警戒していなかったらしい。

兵士達の中にいるのは、呉班だ。劉備軍の士官の中では若手で、かなり荒っぽい性格である。抵抗しようとした村人を容赦なく殴り倒すと、呉班は言う。

「此処に、呉軍の細作が潜んでいるという情報がある! 抵抗しなければ、乱暴はしない!」

高圧的そのものの声に、反発が上がり掛かる。だが劉備軍は精鋭だ。とても訓練を受けていない村人が立ち向かえるものではない。兵士達には、仮にも荊州の民に対する狼藉に不満を持っている者もいるようだが、多くは益州出身だ。

すぐに兵士達が村に散り、乱暴に捜索を始めた。若者を男女関係為しに引っ立て、家の戸口を壊し、麦の穂を踏みしだいた。抗議する村長はその場で殴り倒され、呉班は鬼の形相で辺りを睥睨している。恐怖に竦む民。機転が利きそうな連中は、さっさと逃げだそうとしたが、兵士は一人も見逃さなかった。

老人や子供を守ることさえしないのは、弱者が生け贄になっている間に逃げられるからだ。それが乱世で剥き出しになる人間の本性である。しかし乱世であるからこそ、兵士達もそれを良く知っている。故に誰も逃がさない。

実に面白い見せ物である。比較的士気が高い劉備軍でも、殺気立てばこうなる。舌なめずりしながら、林はひとしきり、面白い寸劇を楽しむ。

だが。

一人、運命に立ち向かおうとする者がいた。

「其処の若造。 一体これは何の狼藉だ」

「なんだ貴様は」

進み出たのは、甘寧だった。

きっと甘寧は、自分がしてきたことを、今更ながらに見せられたのだろう。

兵士の一人が取り押さえようとするが、手もなく放り投げられる。甘寧は目に炎を湛えていた。かっての自分を見る目は、殺意と怒りに滾っていた。

「捕らえよ! 取り調べる!」

さっと兵士達が甘寧を取り囲む。その中に一人、叫ぶ者がいた。

「ああっ! この男は!」

「知っているのか」

「甘寧です! 以前、一度見たことがあります!」

終わったなと、林は笑い混じりに呟く。この状況で、呉班に甘寧を見逃す理由など、何一つ無い。

「貴様か。 江東の細作をこの辺りでのさばらせていたのは」

「違うと言っても、どうせ聞き入れまい。 早く掛かってこい、若造。 それとも怖くて、部下の後ろに隠れていないと震えが隠せないか」

「挑発は高くつくぞ、老人」

呉班が挑発に乗る。その隙に、甘寧の長男らしい男が、声を張り上げた。

「今だ、みんな逃げろ!」

瞬時に、その場に混乱が生じた。

破れかぶれになった農民が、兵士達に躍り掛かる。数からして違うが、それでも混乱の中、逃げ出す者が出始める。呉班は無言で剣を抜くと、大上段に構えた。甘寧も、腰から小さな剣を抜きはなっていた。

林が見た所、甘寧はもう剣を振るのがやっとという状況だ。かって豪傑として、戦場で鬼神のごとく暴れ回っていた面影は残っていない。全身の筋肉は、恐らく内臓の病から来る負担によって衰えきっている。そして力が掛かる足の指も何本か使い物にならない状態になっている様子だ。

対して呉班は、若く、何よりも無情なまでに強い。実力は十二分に、軍を率いる将に相応しいものだ。若い頃の甘寧でも、簡単には勝てないだろう。

混沌の中、己の最後の意地を掛けようとしている老人と、若き血潮を煮えたぎらせている呉班が、ともに動いた。

一合目、かろうじて甘寧がはじき返す。

顔を歪めたのは、多分想像以上に体が衰えていたからだろう。容赦なく振るわれた呉班の剣が、甘寧の左腕を、即座に斬りとばしていた。甘寧の細い腕から、血が噴き出す。更に、顔を割ろうと、剣を振り下ろす呉班。

だが、その瞬間、体当たりするようにして、甘寧が捨て身の特攻を仕掛けていた。

かろうじて剣を刺されるのだけは避けた呉班だが、脇腹を大きく切り裂かれ、鮮血が噴き出す。怒りに顔を歪めた呉班が、背中から甘寧を容赦なく斬った。地面に倒れた甘寧はしばし痙攣していたが、やがて笑みを浮かべて果てた。

辺りの混乱の中、甘寧の孫を宿しているらしい娘は逃げおおせていた。

呉班が吠える。兵士達は走り回り、村の中を探し回っていた。だが、細作など此処にはいない。

当たり前だ。

林が、そういう情報をでっち上げたのだから。

「これが、全てを滅茶苦茶にすると言うことですよ、張飛」

自分が殺せなかった豪傑に向けて、既にこの世の住人ではない男に、林はそう呟いていた。

江東は平和に隠遁していた甘寧の死で奮い立つ。

それだけではない。民はこの凶行を決して忘れない。逃げ延びた者達は、周囲に喧伝するだろう。劉備の名は、これで地に落ちると言っても良い。

今までは人望が、黒い噂をかき消してきた。同じようなことがあっても、きっと情報は拡散しなかったに違いない。

しかし狂気に囚われた劉備は、民を思いやる心を失ってしまっている。故に、破滅的な情報が拡散するのは、即座だろう。情報は抑えられない。精鋭とはいえ、兵士の数が足りなすぎるのだ。

しばし、林は笑った。

血塗られた宴が繰り広げられた村を肴に。

 

江東の軍勢は、南郡を放棄。

同時に、陸遜軍が南部の五鶏蛮部隊に対して攻撃を開始。一進一退の戦いを開始したという情報が、王甫の元に届いていた。確認されている陸遜軍はおよそ二万。徐盛の軍勢は、八万を今だ超えていて、更に予備部隊が二万ほどいることが確実である。

報告を纏めて、王甫は劉備の所に出向く。なにやら、いやな予感が加速しっぱなしであった。

この間の呉班の失態と言い、軍が破滅に向かっているとしか思えない。天幕の中にはいると、劉備は黙々と、肉を囓っていた。目は完全に据わっていて、前を見てもいない。老いた虎が、周囲を気にすることもなく、兎を囓っている。王甫はそんな風に思った。

紀霊だった頃、王甫は己の主君が落ちていく様を見た。

劉備はそれとは違っているが、やはり闇に引きずられている。悲しいことだ。だが、今度こそ。破滅は避けたい。避けなければならないのだ。

「陛下。 王甫にございます」

「聞こえておる。 何か」

「陸遜軍が珪陽に出現。 籠城中の五鶏蛮部隊と激しく交戦しております。 シャマカ殿からは、援軍を求める使者が来ております」

「そうか」

無関心な声。

背中に、戦慄が走る。だが、敢えて何も言わない。

「徐盛軍は南郡を放棄。 陸口まで後退する姿勢を見せています」

「ならば、叩くのはそちらだな。 すぐに軍議を開け」

軍議を開いてくれるだけ、まだマシとも言える。王甫はもう撤退するべきだという言葉を、何度も飲み込まざるを得なかった。

陣は既にかなり長くなっている。四万程度の戦力で、十万を超える江東の軍勢と渡り合ったのだから、当然である。勝ち続けてはいるが、逆にそれが故に陣は伸びに伸びている。もしも前線を何処かで突破されたら、一気に補給を寸断されることになる。

魏は動く様子がない。襄陽には五万を超える軍勢と徐晃が常駐しているが、奴は静観の構えを崩していない。

もう一つ問題がある。

江東の軍勢は、撤退する場所で、物資を麦一粒も残していないのである。最初の方に叩いた藩璋や韓当の軍は物資を置いて逃げていったが、それも今では消費し尽くした。それに、後方の守備に五千を当てているため、味方は三万五千に目減りしている。

敵の全軍を一箇所に集め、主力決戦でも行わない限り、この状況は打破できない。

打破できないのなら、機動力を野押している内に撤退するべきである。或いは、後方から大胆な援軍を投入して占領を確固たるものとするか、或いは民を味方に付けるべきだ。

そう、説明するべきなのだが。劉備が話を聞きそうにない。

珪陽でシャマカの補助をしている馬良がせめて此処にいてくれれば、話は別なのだが。

軍議が開かれた。

関平と関興、それに張苞の三人は、鋭気を養っている風があって、まだ良い。

問題は馮習と張南だ。二人はまだ若すぎる上に、経験が足りないのに総指揮官となってしまった。そして陳到が事前に王甫に漏らしたことであるのだが、馮習は劉備が言うこと以上のことは一切出来ていない。戦いでは良い動きをしているが、劉備の暴走を止めることは出来そうになかった。

会議が始まると、早速劉備は、全軍での徐盛軍攻撃を提言した。

部下の話を聞く態勢を作ってはいるが、それはどうか。王甫は少し悩んだ末に、言う。

「陛下、既に戦況は、攻勢の限界点に来ております」

「これ以上は勝てないと言いたいのか」

「まず補給線が長すぎまする。 その上、この間の不祥事で、民の間に我が軍に対する不信感が、急激に広がりつつありまする。 このままでは、我が軍は負けます。 それも、再起不能な段階までです」

呉班が項垂れ、劉備が眉根を寄せ始める。

若手の武将達が青ざめる中、王甫はこれきりだと思いながら、直言を続けた。

「この王甫、主力決戦の機会を作って見せまする。 ただし、それに勝ちましたら、即座に江東に講和を申し込みください」

「我が軍が負けるというのは聞きづてならぬ」

「事実を申しております。 勝てるとしたら、あと一回。 今、一番懸念しているのは、現在が五月と言うことです。 あと一月もすれば、この中華で最も乾燥している季節である、六月が参りまする。 そうなれば、火計が最大の猛威を振るいます」

しかも複数の関係者から、今年の六月は異常乾燥が来る可能性が高いという報告が来ていると、王甫は指摘した。

もしも劉備軍を壊滅させるのならば、複数の陣に対する一斉攻撃が最適である。補給線を焼き払い、指揮系統を潰すことが出来るからだ。

それを可能とするのが、異常乾燥という気象的条件。そして、何よりも住民の協力である。

既に後者については、江東の軍勢の手に落ちつつある。

劉備を、じっと見つめて、王甫は説明し終える。

緊張に、全身の水分が汗となって流れるかと思った。

劉備が立ち上がる。その目には、相変わらず狂気が宿っている。それに気付いた時、王甫は決める。

死に場所を、此処にすると。

「わかった。 次の主力決戦で、陸遜を討ち取る。 それで、朕の遠征は終了とする」

「お聞き入れいただき、有難うございます」

あたまは下げたが、王甫は絶望の中にいた。劉備はわかっていない。そればかりか、嘘もついている。

劉備は、もし次の決戦で勝つことが出来ても、陸遜が生き残ったら、絶対に対陣を続けると言い出すはずだ。

軍議が終わってから、王甫は関平と張苞を呼び出す。二人はいぶかしげにしていた。関平は特に、ずっと関羽麾下で王甫と組んでいたからか、王甫が焦っているのに気付いていたのかも知れない。

自分の天幕で、王甫は二人と会った。既に真夜中であり、蝋燭には虫が寄ってきていて、時々焼け死ぬ。自軍の未来を思って、王甫はなお歎息した。

「どうしたのですか、王甫将軍」

「二人とも、覚悟を決めて欲しい。 この戦いは負ける」

「そんな。 陛下が言うとおり、有利に進んでいるではありませんか」

そう言ったのは張苞だ。

この若者は武芸に関しては天才的だが、戦略的な眼が不足している。戦場という限定的な空間に限ってさえも、だ。張飛を幾分か小型にしたような印象である。そういえば、気性も張飛に比べると穏やかで、逆に劉備の前では多弁になる傾向がある。

対して関平は、腕組みをしたまま、王甫の話を聞いている。天才肌の関興に比べて凡才ぶりが目立つ関平だが、その分動きはいつも慎重である。それに作戦指揮はここ一年で、恐ろしく上達した。

「勝っているのは今だけだ。 私がこれから主力決戦の機会を作る。 それにも勝てるだろうが、陸遜を討ち取れなければまずい。 その後に対陣が長引くと、確実に負けるだろうな。 さっきも言ったとおり、戦線が伸びすぎている上に、我らは荊州の民を敵に回してしまった。 このままだと、火攻めで全滅させられるぞ」

「火攻めと、わかっていても、ですか」

「わかっていてもだ。 我が軍は数が少なすぎる。 とてもではないが、この長い戦線を、守りきることは出来ん」

そこで、と言葉を切り、王甫は二人が話を聞く態勢を作った。

「張苞将軍。 そなたは関興と協力して、六月になったら陛下を白帝城まで逃がして欲しい。 その時には、儂が殿軍となって、敵を食い止める」

「わかりました。 命に代えて」

これで、劉備は逃げられるだろう。漢軍の壊滅も、どうにか防ぐことが出来る。

そして、もう一つ。突き止めておかなければならないことがある。

「関平将軍。 貴方には一つ、頼みたいことがある」

「何でしょうか」

「うむ。 この戦、裏で何か途轍もない闇が蠢いているような気がしている。 この戦に限らず、ずっと前からだが、今回は特にそれが顕著だ。 だから身分と名前を隠して、荊州を探ってはもらえないだろうか」

当然のことながら、危険な仕事になる。関平はかなり腕を上げてきてはいるが、それでも上手く行くかどうか。

いずれにしても、次の主力決戦をどうにかしてからだ。

「わかりました。 私も以前から、父の死には疑念を抱いておりました。 次の決戦で陸遜を仕留められなかった時には、関索と名前を変え、この荊州を探索して回ることとします」

「うむ」

二人を帰す。

陳到がいれば、少しは楽になるのだがと、王甫は歎息した。

そして、陸遜ではなく、徐盛を誘引するための策の、詰めに入った。

 

陸口へ向け後退中の徐盛軍の元に、情報がもたらされた。劉備軍が確保した南郡を放棄。珪陽も放棄して、一気に江陵まで下がったという。途中の陣もうち捨ててあり、更に五鶏蛮の軍勢も混乱が見られると言うことであった。

今までの強攻が嘘のような転進である。

徐盛は一旦後退を止め、軍議を開いて諸将に意見を聞く。早速挙手したのは朱桓であった。

「罠であると思います」

「同感です。 罠でありましょう」

丁奉もそれに同意した。丁奉は元々中堅どころの指揮官だった男だが、近年めまぐるしく地位を押し上げてきている。その内軍の総司令官になるのではないかと、言われているほどの出世ぶりだ。当然影には四家が見え隠れている。

多分、今回急に丁奉が指揮権を拡大されたのは、陸遜を抑えるためなのだろう。四家らしいやり口である。

「ただ、罠であったとしても、南郡は抑え直した方が良いと思います。 もしも劉備軍がそのまま無傷で撤退を完了したら、我が軍の威勢は地に落ち、兵士達もやる気を無くすことでしょう」

そう言うのは孫桓である。孫家から出た若手で、指揮能力は中の下という所だ。だが、孫家の顔を立てるため、人数あわせのために将軍をしている。経験が足りなすぎるので、補佐として何名か熟練の将校が着いている。だが、会議では経験の差を少しでも埋めようと、必死に頑張っている努力家だ。

「陸遜との連携も必要となってくるな」

「一旦珪陽と南郡を回復して、それから考えるべきではないのか」

丁奉の意見に賛成する、何名かの将軍達。

腕組みして考えていた徐盛は、決断した。

「これは罠だ。 そこで、その裏を掻く。 丁奉」

「はい」

「そなたは一万五千を率い、南郡を制圧せよ。 朱桓。 そなたは二万で、南郡の北に伏兵。 我が軍主力六万八千は珪陽に南下して、陸遜の軍勢と合流する」

 

三手に別れた徐盛軍のことは、即座に王甫の所に届いていた。

予想通りの行動である。

徐盛は既に、情報が筒抜けになっていることに気付いている。だから、囮として四万弱を南郡に配置し、自身は本命の陸遜と動く事を考えたのだ。敵の情報さえ入っていれば、長年の戦場経験で、これくらいは判断できる。伊達に無能な袁術の下で、長年苦労していた訳ではないのだ。

そこで、まず動く。

王甫が布陣しているのは、南郡の南にある、小高い丘。珪陽と南郡の中間地点である。率いている兵は一万。軽騎兵を中心とした精鋭だ。

敵が姿を見せる。

予想通り、六万以上。七万近い。急いでいるからか、陣形は縦に伸びていた。

指揮剣を振り上げる。

そして、敵が丘の真下に来たところで、振り下ろした。

「突撃!」

馬蹄が、全てをかき消す。突如天から降り注いだ矢の雨に、徐盛軍がおののく中、三尖刀と呼ばれる大長刀を振るい、王甫は突入した。

先頭の兵士を無言で斬り伏せ、騎馬隊と共に中央を突破する。更に反転して、徐盛の本隊に躍り掛かった。敵の旗本を次々に切り伏せ、必死に守りを固めようとする徐盛に迫る。蒼白になった徐盛が後退を指示しようとするが、遅い。

駆け抜け様に、一閃。

舌打ちしたのは、腕が鈍ったことを痛感したからだ。一撃は、徐盛の首を飛ばすつもりで、一瞬遅かった。兜だけが、宙に舞っていた。

「良し、退けっ!」

敵の中枢を食い破ると、今度は一転、総撤退に移る。神経を逆なでされた敵は、我先に追撃を開始した。陸遜の軍にもわかるように、派手に火矢を放って、引き返しては追撃隊の先頭を何度も叩いて、暴れ回る。

今頃南郡の方も、関平の率いる三千が奇襲を仕掛けている頃だろう。

一見すると、袋の内側に味方が絞られていくようにも見える。だから、敵は躊躇無く追撃を開始する。十万を超える軍勢の追撃である。大地を揺らし、まるで地震が来たかのようであった。

途中、わざと撤退速度を鈍らせ、敵の追撃を誘う。特に孫桓の軍勢が、綺麗に食いついてくる。適当にあしらいながら退き、誘導していく。陸遜の軍勢が見えたので、一斉反転。真っ正面から襲いかかる。

激突。

刃がぶつかり合うような激しさであった。

激突し合って、互いに通り抜ける。流石に強い。陸遜の姿は見えなかった。

「ふむ、流石にやるな」

「そろそろ予定地点です!」

「よし、全軍反転! 敵の迎撃を開始する!」

徐盛軍、朱桓軍、それに丁奉軍と陸遜軍が、それぞれ四方から、一点に迫り来る。

そしてその外側に。

劉備は既に、必殺の態勢で布陣していた。

 

3、苦い勝利と惨めな敗北

 

押しつつもうとしていた先鋒が、逆に押し包まれた。

徐盛軍の中軍にいた韓当は、それを悟った。

孫桓と丁奉の軍勢が、突入してきた劉備軍によって、文字通り粉砕されたのである。

伸びきった追撃軍は、横殴りの一撃に脆く、朱桓の手腕を持ってしても再編は不可能だった。そのまま追撃から撤退に移ろうとした二軍を、劉備軍は容赦なく押し込む。瞬時に秩序は崩壊した上、元の兵の質が根本的に違う。よく統率されていると言っても、こう言う時には、やはり山越から無理に徴発している兵だと言うことが出てしまう。怒濤のように敗兵が、徐盛軍になだれ込んできた。

新しい兜を被っている徐盛は、全軍に迎撃の指示を出しているようだが。しかし、遅い。

劉備軍を食い止めようと出てきた陸遜の直営部隊は、王甫にまとわりつかれ、何も出来ずにいる。

一見すると、劉備軍は徐盛の本隊を潰しに掛かっているようにも見える。面倒な陸遜を王甫の精鋭が抑え、残りは槌を何度も振り下ろすようにして、本隊を痛めつけていた。孫桓の軍勢は既に兵力の殆どを失い、朱桓の兵に合流しようと潰走を続けている。丁奉は必死に支えようとしているが、もとよりこの男は四家のお目付役代わりに、陸遜の監視役として来ているのだ。本人の戦意が低く、当てにならない。

また、衝撃が来た。必死に陣を組んで敵の浸透を防ごうとしている韓当だが、不意にその脳裏に、敵の本当の狙いが閃いた。

「いかん!」

「韓当将軍!?」

「すぐに伝令を出せ! このままだと、陸遜の部隊が全滅する!」

徐盛が円陣を組もうとしている所に、また関の旗を掲げた騎兵が突っ込む。まとまろうとしていた丁奉の軍勢が踏みにじられ、突破されて反対側に抜けられた。更に其処へ、劉備の本陣が猛攻を仕掛ける。徐盛は必死の指揮を続けているが、このままでは損害が増すばかりで、間もなく本隊の秩序は保てなくなる。

陸遜が、強引に王甫の攻撃を振り切り、本隊の救援に出ようとする。

駄目だ。韓当が叫ぼうとしたが、しかしもう遅い。代わりに、韓当は己が指揮する一万に、号令を降していた。

陸遜が、再び徐盛の本隊に突入しようとしていた張の旗を掲げる騎馬隊の、後ろを取る。徐盛軍にも騎馬隊はいるが、既に支離滅裂の状態で、軍の形を為していない。陸遜軍が一気に形勢を逆転させるかと思えた瞬間。

劉備の精鋭が、獲物を捕らえる蟷螂のように動き。

更に、関と張の旗を掲げた騎馬隊も、一気に反転。陸遜の本隊を押し包んだのである。

王甫軍が、代わりに徐盛の本隊に突っ込む。

江東の軍勢は、完全に手の内を読まれていたのだ。

韓当が軍を疾駆させる。

陸遜の二万は見る間に討ち減らされる。逃げようにも無理だ。捕らえた飛蝗を蟷螂が貪り食うように、右から左から前後から、秩序だった攻撃を一方的に浴び、逃げる暇さえも与えられない。

食いちぎられるようにして減っていく陸遜の軍勢を、救えるのは今、韓当の軍しかいなかった。

 

何という獰猛な攻撃だと、陸遜は呟いていた。

引きちぎるという比喩が正しい。完全に囲まれ、対応しようとした背中を次々撃ち抜かれる。兵士達はもはや抵抗能力を失い、右往左往するばかりだった。其処を劉備の鍛えた精鋭が、容赦なく打ち倒していく。

乗せられてしまった。わかっていたのに。

周瑜と呂蒙に詫びる。願いは、果たせそうにもないと。

覚悟を決めた瞬間、関の旗が乱れる。一万ほどの韓当軍が、無理矢理王甫の突撃を振り切り、突入してきたのである。

「今だ、全軍、脱出!」

陸遜が絶叫。肩に矢が突き刺さるが、気にしない。陸遜軍は一気に隙間を抜け、代わりに韓当軍が敵の真ん中に取り残された。袋だたきにされて、戦場で溶けるようにして消滅していく韓当軍を、救うことは出来なかった。

本隊と合流。焦燥しきった徐盛が、本陣で出迎えてくれた。徐盛は陸遜を見るなり、血を吐くように叫ぶ。

「すまん!」

「今は撤退を! 敵が無視した南郡に、退いて態勢を立て直します!」

「朱桓! 殿軍を任せるぞ!」

茫然自失していた徐盛が自分を取り戻し、指揮に取りかかる。

激しい劉備軍の攻勢はまだ続く。何度も本陣まで迫られたが、韓当の必死の抵抗がどうにか功を奏して、全軍壊滅だけはどうにか免れた。

夕刻。

敗残兵を纏めて、南郡に戻った陸遜は。城の中庭で、敗残兵の収容と、全軍の立て直しに努めていた。これから数日は眠れないかも知れない。そして、その途中で、恐るべき損害を聞かされていた。

「損害、およそ三万五千から四万。 戦死者だけでその数で、本隊は壊滅状態です」

「韓当将軍は」

「……どうにか、命は取り留められましたが」

担架に乗せられ、韓当が運ばれてくる。

左腕を失い、矢を二本受けていた。劉備軍が、最後に撤退に転じた陸遜を追ったので、命を取り留めたのだ。だが、それもそう長くは保ちそうにない。

眼をつぶっていた韓当は、陸遜が側に駆け寄ると、右手を伸ばしてきた。そして、泥だらけの力強い手を、陸遜は落涙しながら掴んだ。

言葉はなかった。

韓当は満足しきった表情で眼を閉じた。

どうにか生きてはいるが、もう歩くことは出来ないだろうと、医師は言う。麾下の軍勢も全滅状態で、一万余の内、生き残れたのは何と数百に過ぎなかった。天を仰ぐ陸遜の肩を、徐盛が叩いた。徐盛も矢を三本受けていて、とても指揮が出来る状態にない。

「陸遜」

「はい」

「負傷した私に代わり、お前が全軍の指揮を執れ。 今の劉備皇帝は、血に飢えた獣以外の何者でもない。 奴から荊州の民と、江東の民を守ってくれ」

「承知、いたしました」

最初は、復讐心からだったのだろう。

不幸な成り行きが最初だったことは陸遜も認める。だが、劉備軍の凶行の数々は、もはや許す訳にはいかない。劉備は確実に精神を病んでしまっている。その狂気は、今や全軍に伝染している。

しかし、それもこれまでだ。劉備軍は、既に攻勢の限界点に達している。

ここからが、反撃の時間だった。

 

王甫は憂鬱になっていた。勝利の立役者であるにも関わらず、全てが予見通りになってしまったからである。

大勝利ではあった。疑似撤退に吊られて集結した敵十万余のうち、三万五千から四万二千ほどを討ち取ったのである。戦史に残るほどの完全勝利であったことに間違いはない。しかも劉備軍の損害は、あれほどの規模の乱戦ながら一千程度にすぎなかった。

だが、領土を寸土でさえ得られた訳ではない。その上、残存兵を陸遜が立て直した。

そして、後方に残していた二万ほどの戦力を投入。五万程度のまとまった兵力をもって、堅陣を敷いたのである。更に、二万程度の援軍を、江東が派遣してくる気配があるという。

王甫が恐れていた事態が到来していた。元より優れた能力を持つ陸遜が敷いた防御陣にはまるで隙が無く、仕掛ける機が見あたらなかったのである。徐盛は攻撃を考慮した陣立てをしていたから、まだ攻める手だてが残っていた。これに対して陸遜は、完全に防御のみを考えた陣立てをしている。更に言えば、劉備は撤退するべきだという意見を、予想通り聞いてはくれなかった。

「今、朕の軍勢は勢いに乗っている。 此処で退くというのは下策でしかない」

そう、一蹴された。

火計の危険性についても、聞き入れてはくれなかった。

そして、ついに六月が来てしまったのである。

空気の異常乾燥が始まった。

この時期は空気が異常乾燥するものだが、今年は度を超していると、王甫は思った。太陽が焼け付くような熱を、空から投擲してくる。

更に、住民の不満は、更に高まり始めていた。

五鶏蛮の中でも内紛が始まり、シャマカも手を焼いているという報告が入り始めている。既に退却戦の事を関平と張苞に頼んでいるとはいえ、味方が壊滅していく様を、みすみす見逃すことは出来ない。

一度受け容れられなかったとは言え、もはや黙っていることは出来なかった。

本陣に出向く。馮習が、血相を変えて歩いてくる王甫を見て、流石に顔を強張らせた。

「王甫将軍」

「陛下はいるか」

「それが、少し前から眠っておられまして」

「昼間だぞ」

言葉の歯切れが悪い。何かあったことを、王甫は即座に悟った。

制止する馮習は既に眼中にない。確か側に関興が着いているはずだ。呼ぶ。

関羽麾下でともに戦った仲でもあるし、関興は王甫の事を慕ってくれてもいる。すぐに飛んできた関興は、蒼白になっていた。周囲には兵士達が何事かと集まり始めていた。

衆目が集まるとまずいから、場所を移す。馮習は項垂れるばかりであった。

「何があった」

「陛下が、倒れられたのです」

「何だとっ!」

「はい。 医師によると、感情が激した状態が長く続きすぎて、脳に何か異常が出たのではないかと」

同じだと、王甫は呟く。

袁術も思えば、感情が激しすぎた結果、倒れてしまったのだった。あちらは元々心の弱い主君であったが、劉備も同じ事になってしまうとは。

呪われているとしか思えない。頭を振って、どうにかして平静を取り戻そうとする。だが、なかなか動悸は収まってくれなかった。

「陛下は、意識がないのか」

「意識はあるのですが、朦朧としておられます」

「そうか。 どうやら大勢は決まったようだな」

もはや戦にならない。

この状態で火攻めをされたら、確実に味方は全滅する。今の内に撤退することだけが、少しでも多くの兵士を救える手段だった。

すぐに馮習の所に行く。張南や他の若い武将達も集まり始めていた。

「軍議だ」

「しかし、陛下が」

「急げ。 陛下には、良くなってから私が話す。 その時に首を刎ねられても、私の責任でいい」

それでもまごついている馮習を一喝。

強引に軍議を開始させた。

 

陸遜の所に、劉備が倒れたという情報が入ってきた。

出所は住民だ。陣の様子がおかしいと、江東の斥候に知らせてきた者が何名かいたと言う。それほどまでに、劉備軍の信望は落ち始めているのだ。

丁度、諸葛謹の率いる二万が増援として到着した所である。今こそ、反撃に打って出る時であった。

すぐに諸将を集める。

この状態でも、まともにぶつかり合ってはかなり厳しい。だから火攻めを用いる事を諸将に告げる。

そして、今は。気候が陸遜に味方してくれていた。

「現在、敵は大まかに、四つに分かれている」

陸遜が指を地図上に走らせる。

一つは黄権の率いる水軍だ。これは兵力も少なく、魏の南下と江東の水軍を防ぐ目的だけで、長江に駐屯している。

もう一つは珪陽近辺にいる五鶏蛮の軍。

そしてもう一つは、劉備軍本隊。

最後は益州からずっと伸びている、敵の兵站だ。

「これらが密接に連携して、我が軍を追い詰めている。 逆に言えば、これらの連結を斬ることによって、敵は瓦解する。 今までは劉備が健在で、その機動部隊の動きが素早すぎてそれも出来なかった。 しかし今では、敵の情報源以上のものを、我らが得ている」

それは、住民達による情報だと、陸遜は皆の顔を見回しながら言った。

負傷して後退した藩璋と韓当の顔がない。酷い怪我をしている将も多数いる。名のある武将も、何名も戦死した。

だが、今陸遜は、敵を追い返す所まで、王手を掛けている。

劉備を討ち取れるかどうかはわからない。荊州は江東のものだなどと、最初から考えていない。

陸遜は受け継いだのだ。天下を統一したいという、周瑜と、呂蒙の願いを。

それも劉備は同じだったはず。それなのに今、劉備は復讐心に囚われて、鬼と化してしまっている。

負ける訳にはいかなかった。

万感は武将達に伝わっただろうか。陸遜は自信がなかったが、それでも作戦を続ける。

「私が機動部隊一万を率いて、各地に火を放つ。 敵が混乱したら、攻撃を開始。 敵の前面に出ようとはするな。 逃げ遅れた敵を葬り去る形で、追撃に徹せよ」

武将達が立ち上がる。

勝機は、今しかない。

 

軍議は紛糾したが、どうにか撤退で決まった。既に兵站は限界に近い状態で、なおかつ占領も無理が来始めていたからである。

かっては住民が劉備軍の味方となっていた。関羽が統治していた時、江東の奇襲で失陥した城もあったが、すぐに放棄された。住民が江東の軍勢を歓迎せず、何度も反乱が起こったからである。

今は劉備軍が、同じ状況に晒されつつある。募兵しても、荊州は混乱が続いた結果住民が他州に脱出して減りつつあり、思ったように新兵が集まらないことは容易に見て取れた。

遅すぎる撤退が開始される。劉備を五千ほどが護衛して、先に後退。

王甫は一万を率いて、最後衛として残った。

死ぬとしても、若い武将は出来るだけ生き残らせてやりたい。そう思う王甫だ。敵本隊に隙は見せず、部下達にも緊張を持続するように指示をしていた。

撤退開始から、二日。

不意に、彼方此方の山から火が上がった。

兵站の途中の陣が、一斉に火を噴き始めたのだ。五十箇所以上あった陣屋の内、四十箇所以上からである。

江東の軍勢だけで出来ることではない。住民が、一斉に反旗を翻したのは確実であった。

「どうやら、我が軍の命運は尽きたな」

前面から、怒濤の勢いで敵が現れる。闇夜に浮かぶ無数の松明。陸遜は恐らく攪乱に徹しているはずだ。そうなると、五万から六万という所か。

ただでさえ不利な追撃戦でこれである。

しかし、王甫は不敵に笑ってさえいた。

「皆、聞け!」

一万の直営部隊に吠える。

劉備は有能な君主だった。最後の数年を除けば、着いてきて良かったと信じさせてくれる男だった。

劉備は晩節を汚してしまったと、王甫は思う。

だが、それでも。今まで、夢を見せてくれた分くらいの、恩義は返したい。

新しい希望を与えてくれた恩くらいは、働きたい。

既に年老いた身だ。名誉や宝物はもういらない。今、欲しいのは。自分ではない者達の、未来だった。

「これから、敵を食い止める! 我らの働きが優れているほど、味方は多く逃げられる!」

迫り来る敵の戦力を見たところ、本隊の追撃に掛かっているのは陸遜くらいだ。五鶏蛮の造反勢力も追撃に加わる可能性があるが、本隊にまでは届かないだろう。黄権は位置的に逃げるのが難しい。どうにか、自力で何とかして貰うしかない。

他の部隊は、王甫の部隊をまず血祭りに上げ、それから本隊をと思っているのだろう。ちゃんちゃらおかしいとはこのことだ。

「いや、食い止めるのではない! 我らに数を頼みに襲いかかることがどれほど愚かか、思い知らせてやれ!」

喚声が爆発した。

関羽の配下だった精鋭を中心に、この一年、王甫が鍛えに鍛えた精鋭だ。この中には張飛の軍も混じっている。

一万という数に限定すれば、この大陸でも屈指の精鋭。魏にもこれほど動ける部隊は、徐晃と張遼の部隊くらいしかいないだろう。張?(コウ)の部隊とも、五分に渡り合える自信がある。

使い捨てにする気など無い。

若い者を守り抜き、そしてこの隊の者達も、生かして帰すのだ。

敵が迫り来る。指揮剣を振り上げた王甫が、一息に振り下ろした。

一万が一丸となって、突入を開始する。

前衛に見えるのは、朱桓。八千ほどの兵を率いている。さて、突き崩してやるかと、王甫が思った瞬間だった。

他の隊が、ぱっと散る。

そして、決死の覚悟の朱桓隊だけが、突入してきた。

鼻を鳴らした王甫は、指揮剣で風を切った。そして、人馬一体となって、突入する。

激しいぶつかり合い。

江東の軍勢でも、精鋭を集めたのだろう。堅い木を切ったような手応えがあった。貫通は出来ずに、弾きあう。多くの敵兵を撃ち落としたが、秩序を失わせるまでには行かない。再び反転し、今度は朱桓の部隊を追う。向こうはさっと陣を丸めて、包もうとしてきた。矢を浴びせてくる。

払いのけながら、突撃。今度は食い破った。

敵の他の部隊が、どんどん激戦の場から逃れていく。王甫はからからと笑う。やはり陸遜は強い。王甫では勝てなかったか。

だが、この王甫に背を向けたことを、後悔させてやる。

「まずはこの小生意気な蠅を叩きつぶす! 全軍、朱桓の首を取れ!」

全身火の玉のような気迫を放ちながら、王甫が先頭になって、朱桓隊に突撃する。朱桓も決死の覚悟で、王甫を止めに掛かった。

 

陳式は、息を呑んだ。

全てが火の海に見えた。陣が燃えている。逃げる先、行く先で、住民達が蜂起して、槍や粗末な剣で襲いかかってきた。

劉備の部隊は、必死に路を拓いている。既に陸遜の部隊が後衛と接触、激しい戦いが開始されていた。夜闇に紛れて逃げようとするも、なかなか上手く行かない。今までの勝機が失われていくのを、陳式は感じていた。

不意に、左に二千ほどの兵。

シャマカの部隊だった。

かなり兵を減らしているが、それでも増援として駆けつけたのだ。荒々しいシャマカの顔は、血まみれだった。頭を怪我しているらしい。

「シャマカどの!」

「陳式将軍か!」

血の混じった汗を振り払い、シャマカが荒れ狂う。さっと、辺りの兵士達が散る。代わりに、陸遜が来た。必死に馮習が防いでいるが、動きが鈍い。王甫が言っていたとおり、やはり劉備の指示通りにしか動けていない。いざ自分の本当の意味での指揮権が回ってきてしまうと、どうにもならないのか。

激しい陸遜軍の猛攻を凌ぎながら、陳式は撤退を支援する。馮習、それに張南の損害が酷い。二千を率いている黄権の部隊は、とても救援できそうになかった。呉班は責任を感じているのか、最前衛で路を拓こうと血戦を続けている。中軍後方に着いた陳式は、必死に飛んでくる矢を防ぎながら、負傷者を守り、撤退を指揮する。

陸遜の猛攻は容赦がない。今までの鬱憤を晴らすかのような凄まじさだ。

激しい乱戦の仲、ついに、張南の陣が崩れた。乱れる軍に、火の粉が容赦なく降りかかる。燃え上がった陣を無理矢理押し通り、山の中を走り、何時飛び出してくるか全くわからない敵を警戒しながら、ただ走る。

江陵を越えた。益州が見えてきた。

張南は、既に戦死したという報告が来ている。最後まで踏みとどまり、十本以上の矢を受けて死んだという。馮習も、一千まで討ち減らされた兵とともに、最後まで残ると吠えた。劉備の指揮がなければ何も出来ない自分を痛感したからだろうか。

二日間、殆ど休まず駆けている。

喉が渇く。眼が回る。

ふと顔を上げると、敵の一軍、三千はいる。しかも、陸の旗が翻っていた。

馮習は。

もはや秩序を失った味方が、我先に小舟に掴まって、長江をさかのぼる。もう少し逃れれば、益州だ。馮習の姿はない。朝になっているが、その姿は見えなかった。

「馬良どのは」

無言で、シャマカが剣を抜く。

突撃してくる、三千ほどの陸遜軍。その後方には、更に数万の敵の姿も見える。あれに追いつかれたら、終わりだ。

不意に、陸遜の部隊が乱れる。

馮習だ。体中に矢を生やした馮習が、千ほどで、陸遜軍本隊を横殴りに襲ったのだ。

 

一瞬の隙を突かれた。陸遜の至近まで、矢が飛んできた。馮習の最後の抵抗は凄まじい。一気に中枢まで迫ってくる。

腐っても、劉備が見込んだ若者か。

不意に、圧力。本陣が崩れる。陸遜は、これも運命かと、死を覚悟した。

副官が飛び出し、矢を浴びて落馬した。即死だ。陸遜を守る旗本が、次々に倒される。損害を無視して突っ込んでくる馮習の眼には、狂気が宿っていた。

一瞬の虚脱から、しかし立ち直る。狂気に、狂気にだけは負けない。兵を散らしすぎたかと舌打ちして、陸遜は必死に周囲の味方を呼び集める。徐々に押し返していく。傷口に刺さった針を揉み出すようにして、馮習の残存兵をはじき出した。

シャマカの部隊が立ちふさがる。戦力は二千を越えていない。一気に錐に陣を組み替え、陸遜は突撃を開始した。残る敵のうち、組織的に動けそうなのはシャマカだけだ。これさえ潰せば、劉備軍の主力を撃滅できる。

「かかれえ−っ!」

陸遜は、喉の奥から、声を絞り出していた。

二千と数千がぶつかり合う。だが、疲労度が違いすぎる。見る間に、シャマカの軍は崩れていく。視界の隅で、追いついてきた味方が、馮習の軍を踏みつぶすのが見えた。馮習も力尽き、兵士達の海に飲まれる。渡河している敵軍は必死に船を往復させているが、まだ一万は残っている。あの一万だけでも。

シャマカが見えた。

巨躯を仁王立ちさせ、手に持った鉄の弾のような武具を振り回し、片っ端から江東兵の頭を叩きつぶしている。脳漿を浴びながら、それ以上に無数の矢を浴びながら立ちつくす姿は、まるで鬼神だ。

剣を抜いた陸遜が、自ら馬をとばす。旗本達が、必死に押しとどめようとした。

「危険です! 陸遜将軍!」

「もう少しだ! もう少しで、劉備を討ち取れる!」

劉備はまだいる。陸遜は確信していた。そうでなければ、シャマカが、馮習が、あれほど命を張る理由がないのだ。

狂気に落ちた皇帝。

民を狂気の犠牲にして、虐げている男。

そんな輩でも、かって築いた人徳がある。それが兵士達を縛っているのは間違いないのだ。

進め、進めと、声をからす。

冷静な知将だと知られていた陸遜は、己の闘争本能の全てを剥き出しにして、絶叫し続けた。

シャマカの軍勢が、徐々に動いていた。そうか、劉備への道を遮ろうとしているのか。陸遜が馬首を傾けて、一気に主力をシャマカの軍勢に叩きつける。まるで鬼神のように立ちつくしていたシャマカの体に、十本以上の矢が同時に突き刺さった。ついに、髪を振り乱し、吠え猛っていた巨漢が、仰向けに倒れる。

今だ。

陸遜は、己の全てを賭けて、前進を命じようとして、後ろから抱き留められた。

「何をする!」

「側背から敵襲です!」

振り返る。

其処には、王の旗が、高々と翻っていた。

シャマカは、これを狙っていたのか。気付いた時には、既に遅かった。

追い詰めた劉備軍に、最後の猛攻を仕掛けている陸遜軍約六万。その横っ腹に、七千にまで減少した王甫軍が、全速力で突っ込む。

既に、戦闘は泥沼化して久しい。双方とも気力を振り絞って戦っている状況で、この奇襲は大きかった。

一気に軍中央を貫かれた陸遜軍は、たまらず陣形を崩す。その機に、残っていた劉備軍は、一気に船を寄せて、敗残兵を収容。撤退していった。小舟まで負傷兵で満載して、である。

王甫軍はそのまま、上庸方面へと駆け抜ける。あちらは孟達の造反によって魏領の筈だが。

いや、違う。

今は魏領でも、益州の一部だ。恐らくは、抜け道を知っているのだろう。

そして。

王甫の背後を守るように、五千ほどの新手が現れる。狭い道に、堅固な陣を組んでいるその旗は、陳。更に、趙の旗も見えた。

「陳到軍です! 趙雲もいるようです!」

叫んだ兵士が、いきなり喉に矢を生やした。常識外の遠距離から放たれた矢が、正確無比に貫いたのだ。

趙雲の側にいる士官が放ったのに間違いなかった。小柄だが、ひょっとすると女か。

疲れ果てた兵士達は、我先にさがり始める。たかが、五千。五千だというのに。

歯ぎしりする陸遜。馬さえもが進んでくれない。

趙雲は確かに、張飛や許?(チョ)に匹敵する豪傑だ。だが、既にかなりの老齢だ。多人数で押し包めば、必ず討ち取れる。だが、今は。疲れ切っている兵士達の心理が、それをさせなかった。

「我は趙雲! 漢の将軍である! 我を恐れぬ者は、何人がかりでも良い! 掛かってくるがよい!」

大音声という言葉、そのものであった。大地を振るわせるような趙雲の声を聞くだけで、剣を取り落とす兵士達さえいた。無理もない話だ。江東の兵士達は、殆どが無理矢理に徴発された山越の民である。陸遜は項垂れると、引き金を打たせた。

荊州は完全に取り戻したのだ。これ以上損害を出す訳には行かなかった。

江陵まで引き上げた。兵士の誰もが泥まみれだった。二交代で休ませながら、自身は執務室でやっと腰を下ろす。士官達にも休憩を命じる。残務を整理してから、やっと寝たのは、六刻も後のことであった。

副官が報告を持ってきたのは、翌日のことだった。劉備軍はその半数を失った。敵の損害は一万七千から八千。特に五鶏蛮の部隊は全滅に等しい損害を受けている。併せて二万前後が戦死していた。

敵の指揮官の内、将軍級では馬良が戦死。五鶏蛮同士のいざこざの中で、後ろから刺されたのだという。有能な文官であったのに、無惨な話であった。

続いて戦死者として確認された人間が読み上げられる。馮習、張南。この二人は最後まで撤退を支援し続けた。張南はあまりに多くの矢を受けて針鼠のようになっていて、死んでも剣を離さなかったという。劉備に見いだされた若手の士官は、最後まで忠義に殉じたのだ。

馮習も死んでいた。侵攻軍の指揮官をしていたこの若者は、結局劉備の傀儡に過ぎなかった。主体的な作戦指示は一つもなく、いずれも劉備の言葉を忠実に実行するだけだったという。だが、その最後は武人に相応しいものだった。馮習も最後まで踏みとどまり、怒濤のように迫る呉軍の中で力尽きるまで暴れた果てに死んだ。

どちらも首は切り離さず、その場に葬ってやれと、陸遜は命じた。

五鶏蛮は攻守共に壊滅状態になっていた。シャマカが劉備軍の増援に駆けつけたのは、親江東勢力を壊滅させたからである。五鶏蛮の王だった男は、つかの間の夢をくれた劉備に、最後は殉じていた。

此方も塚を作って、丁重に葬らせた。あれほど手こずらされた相手だというのに、不思議と憎悪は湧いてこなかった。

長江に展開していた黄権の水軍は、一部が脱出に成功。劉備軍を大小の軍船に搭載して、益州に撤退する手助けをした。しかし黄権自身は、丁奉が指揮した水軍に行く手を遮られ、進退窮まって襄陽の徐晃に降伏したという。

戦いは終わったが、損害は甚大である。

益州に侵攻すべきだという声もあった。

だが、陸遜はそう言う部下達を一手に集めると、城壁の上から、味方の様子を見せた。

呻かない者はいなかった。

韓当は既に立ち上がることが出来ず、藩璋も片手を失っている。名のある武将も、十名以上が戦死していた。甘寧も、この戦いで死んだようなものだ。そして甘寧の死で、やっと味方は奮い立つことが出来た。

「我が軍は今回、十四万余の兵を動員した。 戦死者はその中でも、六万七千を超えている有様だ。 敵は四万余を動員して、二万弱を失った。 兵力の損害比率から言えば勝ちとは言える。 特に戦略面では完全に我らの勝ちだ。 だが、魏も我らの敵であると言うことを、忘れるな」

誰も反論しない。

今回、江東にとっては総力戦に等しい規模の戦闘であり、損害も尋常ではなかった。しばらく江東では、山越に対する人狩りで糊口を凌ぐのだろうと思うと、陸遜はやるせない。

何が討伐だ。

何が勝利だ。

どうせ江東の史書には、劉備軍を一蹴したかのように書かれるのだろう。馬鹿馬鹿しい話である。それならば、魏を抑えた上で、なおかつ益州に余力を駆って侵攻できているはずだ。

確かに劉備軍は大きな損害を出して撤退した。

だが、この戦いで、寸土も得ていないのは、江東も同じなのだ。また、荊州は壊滅的な打撃を受けており、とてもではないが逆侵攻する余力などありはしない。

ほどなく。

江東から、陸遜を荊州方面の総司令官にすると言う指示が来た。

何もかもが遅すぎる。

天を仰いで、陸遜は歎息していた。

 

全てを見届けた牛金は、士載と一緒に曹丕の元に出向いていた。

途中、徐晃の所に寄り、捕虜になった黄権と面会した。黄権は強い光を眼に秘めた男で、部下達の事を思いやる優しさも秘めているようだった。惜しい男を劉備は失ったものである。

その劉備自身も、どうやら倒れたらしいと、風の噂に聞いている。

白帝城から動かないのも、動けないから、らしかった。どうやら相当に体調が悪いのは、間違いないのだろう。

許昌に着いたのは、荊州での大戦から、半月ほど経ってのことであった。

曹丕とは公式に面会せず、私室で直接顔を合わせることになった。士載は難しい顔をしていた。曹丕がどうやら苦手らしい。

私室は、書類の山だった。丸められた竹簡が積み上げられており、片付ける端から新しいものがおかれていく。どうやら、曹操との才能の差を、仕事量で埋めようとしているのは、本当らしい。

側には護衛をしている許儀が控えている。許?(チョ)は部屋の外で、全体の護衛を指揮しているようだった。

「牛金、士載、まかり越しましてございまする」

「うむ。 劉備が負けたそうだな」

「はい。 しかし江東も大きな打撃を受け、とても益州に侵攻を仕掛ける余力は残っておりませんでした」

曹丕は顔を上げた。

今回の戦で、三国の平衡は崩れるだろうと、曹丕は予言していた。その通りの展開になったわけで、少し満足そうだった。不謹慎な話だが、今まで誰にも認められなかった曹丕である。こう言ったことでも、嬉しく感じてしまうのだろう。

「朕の見たとおりであっただろう。 劉備は戦下手だ。 あの陣立ては、戦を知るものが敷くものではないわ」

「いえ、それは違います」

士載が即答。牛金は内心歎息しながらも、続けさせた。

「何が違うのか」

「直接ぼ……ええと、私は劉備の陣を見てきました。 陣立てに問題は無く、少数を補う深みのある良い陣立てでした」

「しかし、敗れたではないか」

「それは、空気が異常乾燥したのと、民の心を離れさせてしまったからです。 劉備軍は三倍を超える江東の軍勢と、終始互角以上の勝負をしていました」

その通りである。

もしも、十年前の劉備であったら。江東は一気に荊州を失陥していただろう。それが、牛金の結論だった。

天の時、地の利、人の和と言う。この三つが揃えば、戦には勝つことが出来る。

劉備は六月の乾燥という天の時に見放され、民に見捨てられるという形で人の和も失った。見事な陣立てという地の利は得ていたが、それだけではどうにもならなかったのだ。それに対して江東は陸遜の下で武将達がまとまる形で人の和を得て、民も味方に付けていた。そして、火計を使うことで、天の時を最大限に生かしたのである。

劉備の指揮能力が陸遜に劣っていた訳ではない。

劉備の心が、劣化していたのが敗因だったのだ。

そう牛金から説明すると、曹丕は腕組みして唸った。あまり不快に感じている様子はなかった。ほっとする。

「そうか。 ならば、朕も人の和を更に強めなければならぬかも知れぬな」

曹丕は手を振って、追い出すような仕草をした。下がれという意味だ。

士載を連れて、許昌の街に出る。間もなく首都機能は洛陽に移ると言うことで、馬車の行き来が激しい。首都が洛陽になるとはいえ、許昌の規模が代わる訳ではないので、それだけ国内で物資と金銭の流通が活発になると言うことだ。

露天の類もたくさん出ている。魏がどれだけ豊かか、これだけでも明らかだ。

「何か甘いものでも食べていくか?」

「良いんですか?」

「ああ。 長旅であったし、それくらいはな」

目を輝かせた士載が飛び出そうとしたので、慌てて襟を掴んで引っ張り戻す。

この若者はとんでもない方向音痴で、眼を離すとすぐ迷子になるのである。流民として各地を放浪していた時、よく生き残れたものだと、牛金は何度も思った。一度は泣きながらふらふらしている所を、兵士達に保護されて戻ってきた。

「ふえー。 何でですか!? お預けですか?」

「誰か部下か上司がいない時、一人で行動するな! お前を捜すのにどれだけ苦労するかわかっているのか」

「ご、ごめんなさい」

「まあいい。 で、何が食べたい」

ため息をつきながらも、牛金は思う。

この娘っ子が、多分乱世を終わらせる鍵になる。だから、皆で見守っていかなければならないのだと。

 

4、戦の後、残された者

 

王甫は、上庸近くの山に登り、白帝城を見下ろしていた。

劉備は無事に逃げることが出来た。以前頼んでいたとおり、張苞がやってくれたのである。そして関平は戦の中、軍を離れた。関索と今後は名前を変え、独自の諜報活動に従事してくれるだろう。

生き残ってしまった。

王甫は、死ぬつもりだったのに。戦いを、生き延びてしまった。

馮習や張南は戦死した。馬良は事故死した。せめてもの救いは、陳式が生き残ったことだろうか。あれを死なせたら、陳到に申し訳が立たない所だった。

既に、王甫は軍を離れた。

義理は全て果たした。それに、これ以上は、刃を振るうことも出来そうになかった。

戦いの中で完全燃焼した王甫は。既に、武人としては死んだのだった。

鎧も売り払って、今は道服を着ている。僅かな蓄えを使って、小さな家と畑を買った。今では僅かな使用人達と、悠々自適の隠退生活である。このまま静かに畑を耕して、歴史とは離れて生きていくつもりである。

それでも、かって自分たちが関わってきた者の生き死にには興味もある。だから、今日は白帝城を見に来たのだ。

人の気配。

シャネスだった。

「王甫どの」

「その名は捨てた。 今の私は王甫でも紀霊でもない。 ただの一人の老人だ」

「それでは呼びにくい」

苦笑された。

そういえば、シャネスもそろそろいい年だ。結婚するにしても、そろそろ限界になる年齢だろう。

互いに年老いたものであった。

「陛下は、どうしておられる」

「少し前に、意識を取り戻した」

「そうか」

「すっかり眼が醒めたらしい。 狂気に陥っていた自分を恥じているようだな。 だが、体の衰えが酷く、もう成都に戻ることはないだろう」

劉備は、あの白帝城で死ぬ訳だ。

白帝城は、荊州から眼と鼻の先である。あの地点に駐屯している劉備を奇襲しないと言うだけでも、江東が受けた打撃の深刻さがよくわかる。後の時代に、江東の歴史書が、どのように苦しい説明を載せるかが、今から王甫には楽しみだった。

少し前に、袁術の遺族に会いに行った。

彼らは山中で畑を耕して、小さな村を作っていた。既に袁術の事は忘れ去っていたようで、子供達はその名前も知らなかった。

それで良い。

劉備は、最後の最後で、正気に戻ることが出来た。

それで良い。

王甫は、己の苦闘が、無駄にならなかった事を知ることが出来た、それだけで満足だった。

「やはり、戻る気はないのか」

「陳到当たりの差し金か」

「そうだ。 陳到将軍は、貴方の実力を惜しんでおられた」

「私のような老人が高位を独占するようでは、どのみち漢は終わりだ。 私はあの戦いで死んだのだ。 今の私は王甫ではない」

身を翻して、自宅に戻る。

シャネスは、追ってこなかった。

戦はおわったのだ。後はただ土にまみれていき、そして最後は土に還りたい。

歴史はまだ動き続けるだろう。だが、王甫だった者の、紀霊だった者の、手が届く範囲では、もはや動かないのだ。

自宅に戻ると、井戸水を汲んで、顔を洗った。

すがすがしい気分だった。

 

陳到は白帝城に、五千を率いて駐屯していた。江東の奇襲は恐らくは無いだろうが、隙を見せればどうなるかわからない。陸遜は優秀な武将で、多分三国でも十指に入る戦上手だ。油断は死に直結する。

見回りを終えて、城の中にはいる。劉備が呼んでいるというので、城の奥にある、劉備の部屋に向かった。

劉備は、寝台で半身を起こし、じっと外を見つめていた。

すっかり寝たきりの老人となってしまった劉備を、呉夫人がかいがいしく世話をしている。朝廷の機能は白帝城に一部移されているが、大体は成都にあり、既に長男である劉禅の下で、政務が動く態勢が作られ始めていた。

「陳到、此処にございまする」

「陳到将軍。 すまなかったな」

「いえ、陛下だけではなく、未来を支える若者を守るためでもありましたから」

「そうか」

劉備は意識もしっかりしていて、時々咳き込む以外には、体を悪くしている様子もない。

ただし、医者の話では、精神の打撃が体に大きな負荷を掛けているらしい。最近では血便も出るようになってきていて、あまり長くは生きられないだろうと言うことであった。

黄巾党の乱の時代を駆け抜けた英傑が、これでまた一人死ぬことになる。頑健だった劉備なのに、年齢はやはり重ねていたと言うことだ。残るは趙雲くらいだろう。魏には何人か生き残りがいるが、いずれも高齢である。特に張遼が、最近体調を崩していると、陳到は風の噂に聞いている。江東に到っては、既に張昭くらいしか、時代の生き証人は存在していない。

そして、陳到も。小粒ながら、その例外に漏れなかった。

歩くのさえ苦労する有様である。劉備の前で、随分時間を掛けて座る。座るだけで、この労力を必要とするのだ。

「朕の人生とは、なんであったのだろう」

「最後の遠征については、失敗でありましたな。 だがそれ以外のことで、気に病まれることはないと思います」

「そうか。 そうなのだろうか」

「歴史は英雄を必要としていました。 曹操というあまりに偉大な存在が太陽として輝いていたが故、月としてある陛下が必要だったのです。 民のためにと言う戦略を立てていた陛下を、私は愚かだとは思いません」

痛烈な、陳到なりの非難だった。

だが、劉備はそれを静かに受け容れてくれたようだった。

「すまん。 諸葛亮と、劉禅を呼んでくれるか」

どうやら、時が来たらしい。

陳到は頷くと、手を叩いて部下達を呼ぶ。飛んできた陳式と廖化に、言い含めた。

「諸葛亮と、馬超将軍、それに魏延将軍。 呉懿将軍と趙雲将軍。 劉禅公子と、その他の公子をそれぞれ呼んできて欲しい」

「わかりました」

「急げ。 あまり時間は残っていない」

若者達が、飛び出していく。

諸葛亮は間に合うだろうが、他はどうかわからない。だが、せめて、死に目にあわせてはやりたかった。

「陳到。 そなたは家庭のことも含めて、苦労させたな」

「陛下の苦労に比べれば、私の苦労など」

「いや、そなたは最後まで心が民と共にあった。 だからこそに、最後に豹変してしまった朕を見るのは辛かっただろう」

嗚呼。

そうだ、この心だ。

若い頃、陳到を信じさせたのは。

最終的に、劉備の配下に着くことを決意させたのは、その戦略だった。だが、結局の所、劉備が嘘偽りなく、皆の心を見ていることには、何処かで気付いていたのかも知れない。

落涙していた。

そうだ。劉備は今、戻ってきてくれたのだ。

「陛下。 戻ってきてくれたのですな」

「そなたが朕のことで、ずっと苦悩していたのは知っていた。 すまなかった。 そなたほどの忠臣を苦しめた朕は、皇帝失格であった」

「そのようなことを仰ってはなりませぬ」

涙が止まらない。どうしたことか。年老いて、涙腺が緩んだのか。何度擦っても、涙は止まってくれなかった。

呉夫人が毛布を掛けて、劉備を寝かせる。医師が来て、診察を始めた。

どうやら、いよいよ良くないらしい。

その晩から、劉備は体調を、完全に崩した。

死が、劉備の側に這い寄り始めたのである。

 

魏延は漢中の守備が忙しく、来られず。これは仕方がないことであった。漢中は今や、曹真、張?(コウ)をはじめとする魏の精鋭に、虎視眈々と狙われているのである。司馬懿の精鋭が増援されるという噂もあり、総司令官である魏延は離れる訳にはいかないのだ。

しかし、そのほかは全員が来ることが出来た。

諸葛亮が来たので、陳到は部屋を出た。そして、部屋の外から、劉備の最後の瞬間を見ることにした。

時代が、終わる。

後の時代には、あまり評価されないかも知れない。だが、曹操が太陽だとすれば、劉備は月だった。激しすぎる炎の太陽に対して、優しい光の持ち主であった。

もちろん其処には計算尽くの部分もあった。

だが、それ以上に。

時代を動かした、英傑だったのだ。

「劉禅、いるか」

「はい」

「これから、諸葛亮はそなたの父も同然だ。 小さな漢が生き残り、天下を目指すには、絶大な力を持つ指導者の下にまとまる必要がある。 そしてそれは、お前にはとてもこなせないことだ」

劉禅は俯いた。

この長子は、非常に温厚で心優しい人物ではあったが、才には致命的に欠けていた。

だが、唯一の長所は、自分が天才だとか、優れているとか、妄想を抱かなかったことにある。

「諸葛亮に全権を預け、天下のために働け。 良いな」

「はい、父上」

「うむ」

劉禅が泣きながら退出する。

代わりに、諸葛亮が沈鬱な面持ちで前に出た。

「諸葛亮。 丞相よ。 そなたには色々と後ろ暗いこともあろう」

「乱世で生きる者でありますが故に」

「わかっておる。 だが、そなたがいたから、朕は此処まで飛躍できたのだ。 恐らくこの戦乱の時代の、最後の星がそなたであろうと、朕は思うておる」

それは事実だ。

少なくともこの戦乱が終わるまでに、諸葛亮を超える人材は、三国の何処にも現れないだろう。

もしも曹操が出なければ、この天下は劉備や袁紹に統一されていただろう。その時にも、諸葛亮は大きな働きをしたこと疑いない。

「そなたの才能は、曹丕に十倍し、陸遜に勝り、孫権などは足下にも及ばぬだろう。 政務の才に関しては間違いなく三国一。 軍才に関しても、そなた以上の人間は、そうそうはいない。 だが、唯一そなたが持っていないものがある」

「何でしょうか」

「人を見る目だ」

諸葛亮が青ざめる。陳到は思う。諸葛亮は、それを劉備に指摘されるとは、思っていなかったのだろう。

劉備が名前を挙げていく。馬謖、という名前が聞こえた。呉班も、呼ばれた中にあった。

それらの人間を使うな。使うとしても、重要な仕事には就けるな。そう、劉備は告げたのだった。

「心します」

「うむ」

重臣達が、一人ずつ劉備に声を掛けられる。

趙雲は、諸葛亮の護衛をするようにと、劉備に直に言われた。最初渋っていたが、頼みを断れる男ではなかった。

漢の皇族となった呉懿は、温厚な人柄で、誰にも好かれる人物だ。劉備は彼を側に呼ぶと、諸葛亮に反発する人間がいたら、間を取りなすように頼んだ。馬超は、成都周辺の軍事を頼まれる。また、西涼に侵攻する際には、騎馬軍団の再編成をして諸葛亮の力になって欲しいとも、劉備に頼まれてもいた。

陳到も呼ばれた。名だたる将の中、陳到は足を引きずって、劉備の前に出る。

跪いた陳到に、劉備は声を掛けた。

「最古参の者で、生き残っているのはそなたと簡雍だけになってしまったな。 田豫にも会いたかったが、それは最早かなわぬか。 簡雍は朕に愛想を尽かし引退してしまったし、もはや側にはそなただけが残っている」

「陛下」

「苦労を掛けた。 陳式と、劉禅を頼む」

手を伸ばしてきたので、掴む。

退出した後も、最後に握った劉備の手の感触が、ずっと残っていた。

 

劉備が顔を上げると、其処には関羽と張飛がいた。

その後ろには黄忠が。?(ホウ)統や法正らの姿もある。

そして、曹操の姿までもがあった。

「そうか。 朕は死んだのか」

歩き出す。

「兄者」

「お疲れ様でしたな、兄者」

張飛と関羽が、口々に言った。

拍手が起こる。時代を生き抜いたことに対する、惜しみのない賛辞。満面の笑顔で歩み寄ってきた曹操が、焼き菓子をくれた。

「そなたとは、一度この菓子を一緒に食いながら、話をしたかった。 許昌にいた時は色々しがらみがあったが、それも今はない。 時代がこのようでなければ、皆で楽しく過ごせたかも知れぬのに、惜しいのう」

「曹操どの」

「もはや此処では、戦う理由も争うこともない。 後世についてでも、ゆっくり語り合うこととしよう」

「わかりました」

見れば、他の群雄達の姿も見える。

頷くと、劉備は。

歴史を代表した英傑の一人は、光の中に歩き出したのだった。

 

蜀漢の皇帝劉備、崩御。

三国を代表した英傑の、最後の一人が散った。その情報は、中華にやはり少なからぬ衝撃をもたらした。

江東はこの機に、蜀漢との同盟を締結。如何に江東が蜀漢との戦いで打撃を受けたか、これだけでも明らかであった。

士載はぼんやりと、馬上で見つめる。南下していく、許昌の軍勢を。兵力はおよそ八万。合肥に展開している戦力五万と合流し、更に荊州では徐晃の七万も動くことになる。いずれにしても、途轍もない大軍だ。

どうして、曹丕が急に江東に攻め込むつもりになったのかはわからない。

だが、わかっていることが、一つあった。

側に翠が来た。馬に跨ったまま、ぼんやりしている士載を見上げて、不審げに言う。

「どうしたの。 牛金さんが呼んでるんじゃないの」

「あ、翠」

「あ、じゃないわよ。 早く行きなさい」

「うん」

翠に言っても、仕方がないことだった。

この戦は負ける。徐晃と張遼が指揮を執ると言っても、勝てない。まず長江を突破しなければならず、なおかつ守りに徹している敵の防衛線を抜かなければならない。

どちらもとても難しい。

何より問題なのは、曹操が江東を攻めるなと遺言を残している事だ。重臣達は、皆曹丕に反発すること疑いなかった。

どうしたら、損害を減らすことが出来るのだろう。

そう思いながら、軍営に急ぐ。

今回、牛金は後将軍に任じられ、一万の兵を任されることになった。正式な上級将軍への就任である。士載はその下で、五百騎を預かる。事実上の、初陣である。

できるだけ、損害を減らしたい。

限られた戦力で、何処までできるのだろうか。

馬上でぼんやりしながら、士載はそんな事を考え続けていた。

陽が、間もなく落ちる。

きっと長江も今頃は赤く染まっているのだろうと、士載は思った。

 

(続)