曹操の死

 

序、瞬きの時

 

許昌に戻ってきて、牛金は最初に空気が違うことに気がついた。大通りを慌ただしく軍が行き交い、兵士達の一人に到るまで蒼白になっている。しかも軍は実戦装備で、いつでも戦闘が出来る編成を為されていた。ちらほらと、曹操軍を支える大物将軍の顔も散見できる。

強行軍で許昌まで戻ってきたから、何も知らない。

曹真がいた。一足先に、許昌に戻っていたのだ。牛金が馬を下りると、曹真も気付いて、手を振ってくる。

「おお、牛金将軍」

「曹真どの。 これは如何為されたか」

少し前まで、関羽の侵攻に呼応した大規模な反乱が許昌近辺で起こっていた。だがそれも、曹操の冷静な対応によって沈静化したはずである。劉備が攻めてきたのであれば、荊州や漢中が騒ぎになるだろうし、その辺りから帰還してきていた牛金にも戻るように指示があるはずである。許昌が先に騒ぎになるのはおかしい。

最後の可能性としては江東だが、此方は合肥に張遼がいることもあって、簡単に侵攻など仕掛けては来られない。大体、連中の戦略は堅守であって、攻撃ではない。つまり、それら以外の突発的事態が発生したと言うことだ。

一応最初は屋敷に戻るつもりだったのだが、それどころでは無さそうである。

「何が起こったもない。 曹操様が、倒れられたのです」

「何……!?」

「大声を出されるな。 まだ意識はあるようだが、医師の話によると、相当危ない状態らしいですな。 幸い、主な将軍達には、既に遺言が配られていたという話なのですが、いつ身罷られてもおかしくないとか」

「そんな」

曹操は、牛金にとっても恩人でもある。

能力を評価して、貧しい下級豪族出身であるにも関わらず、抜擢してくれた。各地で戦績をあげ、若手の希望と呼ばれるようになったが、それも全て曹操のおかげなのだ。曹丕が最初から君主であったら、このようには行かなかっただろう。

唖然としていたが、曹真の咳払いで我に返る。

「とりあえず、現在曹操様が病床から、指揮系統の再編を行っているので、牛金将軍にもすぐ指示が出ることでしょう」

「そうでしたか」

「今は軍に顔を出して、指示を受けられた方が良いでしょう。 疲れている所、申し訳ないないのですが」

紳士的に応えてくれた曹真に一礼すると、連れてきた部隊は、一旦それぞれの屋敷や家に帰させる。そして自身は、僅かな供回りと共に、軍本部へ向かった。翠も一緒に屋敷に戻させた。疲れているだろうし、これは大人の話だからだ。

本部に出ると、荊州から一旦戻ってきていた曹仁がいた。驚いたのは、髪にも髭にも白いものが増えていて、まるで老人のようだった事である。それだけ関羽による猛攻が凄まじかったことを意味している。側にいる満寵は悠然としている。やはり、あの戦いの功労者は、この男なのだろう。

牛金を見つけると、満寵が声を掛けてきた。

「牛金将軍」

「満寵将軍、状況をご説明ください」

「うむ、現在、問題になっているのは、曹操様の次男である曹彰様と、三男である曹植様の去就だ」

やはりそうかと、牛金は思った。

跡継ぎである曹丕と、この二人の仲が著しく悪いことは、有名なのだ。特に曹植は、後ろ楯を次々に潰され、漢中攻略戦では頼みにしていた揚修が曹操の手で処刑されている。今後、下手をすると破れかぶれの反逆をする可能性もあり、皆が緊張していた。

曹彰は単純な軍事指揮官としては非常に優れた人物だが、戦略眼には欠け、政務に関する能力は更に不足している。故に、曹操が前々から跡継ぎにはしないと明言している。

いずれにしても、二人は曹操の魏王就任と同時に公となっており、権力も財力もそれなりにある。

ただし、曹操は袁紹や劉表の破滅の過程を見ているからか、二人に独立して動けるだけの戦力は与えていない。私財をなげうっても、集められるのは質が低い兵をせいぜい二万という所だ。仮に反乱を起こしても、短時間で鎮圧されるのが確実である。彼らが劉備や孫権と手を組むことを、諸将は恐れている。反乱発生と同時に劉備と孫権が侵攻してきた時に備え、皆が走り回っていると言っても良い。

「曹丕様は」

「既に動きを開始している。 曹彰様の周囲にいる武将達には、夏候惇将軍がついて、何時反乱を起こしても抑えられるようにしている。 曹植様については、今郭淮が派閥の武将達の抑えに向かっている所だ。 曹仁将軍と、曹洪将軍もこれから加勢に向かう所であるらしい」

「私は」

「君は若手の期待株として、曹操様に目をかけられていたな」

意味ありげな言葉である。そうやって目をかけて貰っていたのは嬉しいのだが、他の武将に言われると、やはり不安も感じてしまう。

「実は、君に折り入って頼みたいことがある」

「私に、ですか」

「そうだ。 実はな」

「其処からは、私が説明しよう」

のそりと、足音がした。振り返ると、韓浩だ。思わず抱拳礼をする。

韓浩と言えば、魏の屯田を一手に背負い、国力を跳ね上げた功労者中の功労者である。最近では涼州の状況安定に一役買い、土地の整備を大体終えて、戻ってきた所であった。一族の韓徳が西涼では守りを固めており、ようやく引退できると呟いているという。

既に韓浩は老いていた。そもそも、曹操軍の初期からいる老練の武将である。曹操が今老いて死のうとしている今、彼だけが若いという訳もない。

韓浩は、無口な人物で、いつも黙々と仕事をこなしてきた。曹操の前では必要なことは良く喋っていたが、同僚や部下に対しては、無言で仕事をすることを要求する人物でもあった。一部の武官は農民と彼を呼んで侮蔑していたが、牛金は韓浩の偉大な業績を良く知っている。

韓浩は、子供を連れていた。十四才だと説明してくれた。しかしながら、丁度翠と同じくらいの年に見える。

「士載、挨拶せよ」

「し、士載、です」

気が弱そうな返事である。目にはそれなりに意思力の光があるのだが、何というか抜けている雰囲気がある。それに、若干吃音の毛があるようだ。

「この子は」

「ケ(トウ)士載だ。 汝南で、部下をしている者が見いだした。 古くからの我が国の民ではなく、荊州からの移民の子でな。 抜けているようだが、私が見た所、才能はかなりのものがあるぞ。 其処で、次代の柱石となりうる貴官に預けようと思う」

「よ、よろしくお願いします」

ぺこりとあたまを下げようとしたが、勢い余って前にすっころんでしまう。

しんとした周囲だが、韓浩は無言で士載という少年を立たせてやった。

今の様子から見て武芸はまるで出来ないらしい。まあ、別に名将が武芸の達人であるという必要性は何処にもない。韓浩がわざわざ太鼓判を押す位なのだから、相当に頭が切れるのだろう。それで充分だ。

おでこを打って押さえている様子は、実年齢よりもかなり幼く見える。顔自体も中性的で、于禁を思わせた。だが曹操も、その知性や戦場での活躍ぶりからは考えられない奇行を重ねていた人物ではなかったか。天才とは得てして不安定なものだと、牛金は自身を納得させた。

「わかりました。 責任を持って、この国の次代の名将として育て上げましょう」

「か、韓浩将軍、あの」

「どうした、士載」

「い、今まで、ありがとうございますた!」

やはりかなり吃音は酷いらしい。周囲からくすくすと笑いが上がっているが、牛金は気にしない。

曹操はいつも言っていた。若手に人材がいないと。

牛金は知っている。自分が、名将と呼ばれるほどの存在ではないと。五将といわれた張遼、楽進、徐晃、張?(コウ)、于禁らの、誰にも遠く及ばないと。彼らには一歩劣るであろう、韓浩や張繍にも勝てる気はしない。だからこそに、例え更に次の世代を担う存在としてでも、名将を育てなければならないのだ。

緊張でがちがちになっている士載とやらに、副官を付けて、屋敷に送らせる。韓浩は咳払いを何度かすると、周囲を見回した。

「許昌に関しては、私が守備を担当する。 西涼から連れてきた五万が守備に当たるから、例え何が攻めてきても簡単には落とさせん。 心配はしなくても良い」

「心強い話にございます」

「牛金、そなたは五千を任せる。 遊撃部隊として、曹植、曹彰、両太子の護衛を担当して欲しい」

一気に、背筋に緊張が走るのを感じた。

護衛というのは名ばかりである。実際には、監視役兼、必要に応じて暗殺もこなす役である。

当然のように邪魔が入る可能性や、牛金自身への暗殺も警戒する必要がある。あの士載という子や、翠の事も気にしなければならない。強力な関羽の軍勢や、これからありうる猛り狂った劉備の直属軍との死闘よりも、厳しい任務になるのかも知れない。

「わかりました。 命に代えても、成し遂げます」

「うむ。 これが私の、最後の大仕事になるだろう」

韓浩は何度か咳き込むと、副官に支えられながら、軍の本営奥に向かって歩いていった。既に足腰がかなり弱っているらしい。屯田の将として、歩き回り、土地を耕し、それが故に衰えが来るのも早かったのだろう。

抱拳礼して、皆で韓浩を見送る。

この国は、まだ滅びない。誰もが、それについては、心配していないように牛金には思えた。

 

曹操は目を開けた。

意識ははっきりしている。少し前に倒れて、寝台に運び込まれたのだ。頭の中に、何かできもののようなものがあるらしいと、医師には聞かされている。もう長くは保たないであろうという事も。

大体、予想通りの寿命と言うことになるのだろう。

関羽の呪いだと、騒いでいる者達もいる。だが、それはないと、曹操は知っていた。関羽は最後に、武人としての誇り高き己を取り戻していた。呪いなどを、あり得る筈もなかった。

側にはずっと許?(チョ)が控えている。だから、曹操は安心して愚痴をこぼすことも出来るし、寝ることも出来た。信頼できる部下が誰もおらず、疑心暗鬼の塊になる独裁者も多いと聞いているが、この点だけは、曹操は幸せだと自認していた。

「虎痴よ。 幾つか頼みたいことがある」

「何事でしょうか」

既に遺言はしてある。細かい部分の調整も、曹丕と済ませた。陰気な跡取りは、曹操の言葉を逐一聞いては、側に控えさせていた賈?(カク)や夏候惇と打ち合わせを続けていた。そうやって誠実な振りをすることで、最後に不興を買わないようにしていたのだろう。あまり褒められた所のある男ではないが、それでもいじらしくはあった。

だから、遺言に関する話ではない。

葬儀についての話だ。

既に曹操は、少し前から自分の墓を作らせている。ただし、質素なものばかり、七十箇所以上に、である。

これは一部の将しか知らないことだ。曹丕にも、他の子達にも一切教えてはいない。

「余が死んだら、七番の墓にさっさと埋葬せよ。 余のたからと一緒にだ」

「は。 わかりましてございまする」

「すまぬな、虎痴。 不出来な長男だが、頼むぞ」

「その返事なら、もう四度目にございますが。 この許?(チョ)、貴方には果てしないほどの恩を受けました。 何があろうと、曹家の鬼となり、加護するつもりにございます」

そうだったと、曹操は呟くと、苦笑した。

身を起こすことも、もはや出来なくなってきている。ぼんやりしていると、数日すっ飛ぶことも珍しくない。

これが、死か。

そう思うと、今まで死に追いやってきた者達の顔も浮かぶ。さぞや曹操を恨んでいる者もいるだろう。

ふと、目が醒めた。隣で腕組みしている許?(チョ)が、目を閉じていた。多分、疲れ果てて眠っているのだろう。医師達がばたばたと走り回っている。もう、時間はないのだろうなと、曹操は思った。

頭の中の塊が、今までになく存在感を主張している。脳を突き破ってやるという悪意を、周囲に振りまいているかのようだ。

「虎痴」

「曹操様?」

「一つ、忘れていた。 林のことだ」

遺言に、林のことは含めていない。如何に超常的な力を持つとは言え、細作一人のことだ。遺言に残すほどのことでもないと、今までは考えていた。

しかし、眠っている間に、ふとした疑念が浮かぶ。

もしも、である。

林と、諸葛亮と、それに今は逃げているが佐慈と。

裏で全てがつながっていたら、どうなるのだろうかと。

現在、林の組織は連戦で疲弊しており、増強も人員補充も許していないため、かっての規模とは比較にならないほど弱体化している。ただし林自身の異常な戦闘能力は健在で、周囲からは危惧の声も上がっていた。しかも悪いことに、曹丕には人を見る目がない。

「曹丕が林の兵力を増強しようとするかも知れん。 その時は、排除して欲しい」

「林めをですか」

「そうだ。 奴のことだ、曹丕に取り入るくらいのことは簡単にしてみせるだろう。 そしてもしも奴が中華の実権を握ったら、この国どころか、この文明が終わる。 あれは有能だが、力を持ってはいけない存在だ。 天下統一のためには必要かも知れないが、平穏を維持するには存在してはならない鬼の子だ」

「わかりました。 この命に代えても」

どれほどの闇を林が抱えているかは、曹操にさえ見当がつかない。

生まれついての異常者であることは確かなのだろうが、しかしこの乱世が此処まで奴を巨大にしてしまったのも事実だ。

不安なことは、まだある。

林と諸葛亮が結びつくことだ。今回、関羽を討伐する際に、林と諸葛亮の組織はどうも裏で協力していた節がある。確信は持ててはいないのだが、もしそうだとすると、諸葛亮の死後辺りに、とんでもない事態につながりかねない。

諸葛亮自身が林に操られることはないだろう。その後が怖いのだ。皮肉な話だが、この点曹操は諸葛亮を信頼さえしていた。

「虎痴よ、余は死後までそなたに迷惑を掛けるようだ。 いざというときには、頼むぞ」

許?(チョ)が頷くのを見ると、曹操は満足した。

目を閉じると、見えてくる。

張?(バク)らと一緒に馬鹿なことをした少年時代。女の子の気を引こうとして音楽をしたり、犬に追いかけられて木に登って逃げたり。如何に悪さをするかに知恵を働かせたり、今にもまして馬鹿なことをしていた。

背が伸びないのに悩んだのもこの頃からだ。他では知恵が回るのに、このことに関してだけは愚直になり、どんなことでも試した。若い頃は手が出なかったから、大人になってから変な薬ばかり熱心に集めた。健康器具の類も散々買い集めた。

背を伸ばしたかった。

他は何でも努力すれば出来たから、余計にその思いが強くなったのかも知れない。武術でも学問でも、努力すればするだけ身についたのに、これだけはどうしようもなかったのが、悔しさに拍車を掛けていたのだろう。

気がつくと大人になっていた。

目を開ける。

曹丕がいた。咳き込んで、体を起こして貰う。もう、自力で立つことも出来なくなっていた。

「曹丕か」

「父上、曹丕、参上いたしました」

「今後の戦略について、理解しているか」

曹丕は頷くと、つらつらと述べ始めた。

「江東はただ防ぐのみでよい。 荊州、揚州、いずれも堅守。 特に襄陽と合肥には名将を配置すること。 長安には宰相か、それに準ずる人材をおく。 涼州の戦力と連携しながら、劉備の攻撃を防げ」

「うむ、良くできたな。 下手に欲を出すでないぞ。 ただ、敵の腐敗と弱体化を待つだけで良いのだ。 下手に攻撃を仕掛ければ、それだけ無為に国力を消耗することになるのだからな」

「はい」

「軍事攻撃は避けて、内部からの腐敗を煽れ。 特にねらい目は、四家だ。 連中を利権でつり上げよ。 江東さえ潰すことが出来れば、一気に天下は統一に傾く。 或いは、劉備の戦力を守勢に徹して消耗させるのも良い。 兎に角、どちらかを確実に弱体化させ、潰していくのだ」

手を伸ばそうとするが、それさえも困難になりつつある。曹丕は手を取るが、目の奥には暗い光があった。

陰気で嫌いな息子だった。曹昂が生きていればと、何度も、何十度も思わされた。

だが、子供達に恵まれなかった袁紹や劉表が見たら絶対に怒るだろう。お前の息子は、優秀だと。

最後の最後で袁譚も袁尚も粘りを見せた。袁煕に到っては、裏側から曹操と謀略戦まで繰り広げて見せた。

だが、野心が皆強すぎた。

曹丕は、よく我慢した。

そうだなと、曹操は呟いた。早めに跡継ぎとして指名して、良かったのだなと、繰り返し、言い聞かせるように呟く。

そうしないと、安心できなかったのかも知れない。

「焼き菓子が食べたいのう」

「すぐに用意いたします」

「口惜しい話だ。 結局、余の背は伸びることがなかった」

一礼すると、曹丕はその場を後にする。

多分、これが最後の光だろうと、曹操は思う。左右を探して、許?(チョ)を見つけた。虎痴よ。そう呼びかけようとしたが、もう声は出なかった。

許?(チョ)が泣いている。虎が泣いているようだと、曹操は思った。

気付くと、周囲には。

かって命を落とした部下達が、傅いていた。

典偉がいる。曹昂もいた。郭嘉も、程cも、戯志才も、荀ケも荀攸も、夏候淵も。名将、凡将の区別無く、傅いていた。

それだけではない。無数に並ぶ影は。

袁紹がいた。

関羽もいる。劉表も。呂布や董俊までもいる。

「千年を超える英雄曹操。 とうとう、この日が来てしまったな」

「ただ残念だ。 そなたの生き様を黄泉の下から見ているだけで楽しかった。 そなたと同じ時代に生きることが出来て、光栄に思うぞ」

不覚にも、自身も涙を零してしまった。

今、自分の死で、一つの時代が終わったことを、曹操は知ったのだった。

「まるで、ひとときの夢のようであったな」

曹操はなぜか手元にあった焼き菓子を頬張りながら、そう思った。

そして、死しても。背だけは伸びなかった。

 

1,落後争乱

 

曹操死す。

ついにそれが事実となった。盛大に国葬が執り行われ、敵対していた益州や江東でさえも、慄然とした空気に包まれていた。

袁紹や劉備など、天下統一が可能であったほどの英傑と同じ時代に生きながら、ついに天下の形勢を決定づけたほどの英雄。中華の三分の二までもを手中に抑え、圧倒的な国力を誇る国を成立させた立役者。

それでいながら私生活面では異様に子供っぽい所があり、焼き菓子を好物とし、相当に凝っていた。また背を伸ばすことに執心していた。妙な薬を買い集めたり、変な器具で体を伸ばそうとしたり、奇行は晩年まで絶えることがなかった。

英傑の死だ。

そう、曹操の屋敷の屋根から葬式を見つめながら、林は思った。

殺せなかった。最後まで。

それに殺した所で、この国が傾くことはなかった。曹操は用心深く手を打ち、不慮の死に備えていたからだ。

今は、時を待つ。

曹操は林に関して、何かしらの遺言を残している可能性が高い。今動けば、中華が総出で林を殺しに来るかも知れず、そうなれば流石に生き残れない。例え、人外の域に到達していたとしても、だ。

ぼんやりと、運ばれていく空の棺を見つめる。側で白々しく泣いているのは曹丕だった。曹丕は曹操よりだいぶ器量が劣る。演技も下手で、嘘泣きをしているのが遠くからでも丸わかりだ。

猿芝居に呆れて口を押さえる。欠伸が出て仕方がない。

「林大人」

「どうした」

「早速、問題が起きたようです」

背後から聞こえてきた部下の声に、口の端をつり上げる。別に林は何もしていないが、曹操の息子達はとても仲が悪かった。三男の曹植と長男である曹丕の対立は見ていて楽しかった。次男の曹彰も気性が激しく、曹丕とは言い争いをよくしていた。殺し合いはしない程度の分別は持ち合わせていたが、それ以上でも以下でもなかった。良く世間で言う家族の絆などと言うものは、彼らの間には存在しない。血統などと言うものが如何にいい加減な存在か、これだけでもよくわかる。

不仲な息子達。確実な、国の火種。しかし、曹操はそれを見越していた。

だから、曹植にも曹彰にも力を与えなかった。もしも袁紹のように、子らに均等に領土を分配していたら、混乱はこんな程度では済まなかっただろう。

極論すれば、曹操は彼らを一切信用していなかった。

だからこそに、破滅を免れたのである。

曹操は頭が面白い所があったが、馬鹿ではなかった。それは、この事態を見ていれば明らかである。逆に、曹操の息子達は、その知性をまるで引き継ぐことがなかった。曹植は詩の才能だけを引き継いだが、そんなものは、乱世では何ら役に立たないのである。

「それで、暴発したのは曹植か、曹彰か」

「両方です。 曹植は曹丕に不満を持つ家臣達を集め始めていて、曹彰は家臣の扇動に失敗、直営である二万ほどの軍勢と共に、許昌に出発した模様です」

「曹丕に情報を流してやれ」

部下に振り返ると、意外そうな顔をしていた。

「何だ、不服か」

「いえ」

「わかっていないようだから言っておく。 私は別に破滅願望を持っている訳ではないのだぞ」

単に、混沌を楽しんでいるだけだ。

口には出さず、林はそう思った。

数日が経過する。

生ぬるすぎる日々が、ただ流れていく。

許昌の周囲は要塞化されており、既に韓浩が布陣している。夏候惇や曹仁、曹洪も迎撃の準備を始めている様子であった。夏候惇らはともかくとして、韓浩が五万の兵で堅陣を敷いた場合、短時間でそれを崩せる将は現在中華に存在しない。猛将とされている曹彰も、例外ではない。

欠伸をしながら、毎日状況を見守る。

林としては、有力な武将達こそ、もし反乱を起こしたら面白いことになると考えている。だが、張遼をはじめとする曹操の武将達は、いずれも立場を堅守する構えを見せており、比較的新参の文聘にいたるまでもが、それに賛同している。曹操は己の死期を、ほぼ完璧に洞察していた。その結果、此処までの堅固な態勢が作り上げられたのだ。

林の部下達は彼方此方を探っているが、曹彰と曹植が興した混乱以外、ほころびは一切無し。前線も静かで、劉備も江東も、戦闘を仕掛ける様子もなかった。曹操という時代を代表する男が死んだというのに、あまりにも静かすぎる。

部下の一人が戻ってきた。

張魯を探らせていた男だ。張魯と揚松、それに張衛が、独自の動きをしていることはわかっている。それが曹操に命じられてのことだと言うことは大体見当がついていたが、この混乱で真相が暴けるかと思ったのだ。

「張魯はどうしている」

「それが、静かなものです。 張衛は相変わらず行方不明。 揚松に至っては、弟と一緒に畑を耕している始末です」

「一時期の劉備を思わせるな」

「恐らく、意図は真逆かと思われます。 張魯は曹操の作った細作勢力から情報を受け続けている様子で、何かしらの一端を担っているのはほぼ確実です」

部下を下がらせると、林は起き上がった。

許昌郊外では、曹彰と韓浩の軍勢がにらみ合っている。だが、形勢は明らかだ。曹彰が勝てる見込みは、万が一もない。仮に韓浩を曹彰が撃破できたとしても、まだまだ許昌は無傷で残っていて、内外には夏候惇、曹仁らが率いる数万の兵もいる。それに今はまだ動いていないが、宛には徐晃も控えている。曹彰では何をやっても勝ち目がない。

分かりきった勝負に、興味はなかった。

それにしても、曹操が死んでからと言うもの、歴史の動きが遅滞化してしまったかのようである。

「良し、それは私が直接見に行く。 お前達は諸将の間を周り、様子を探っておけ」

「わかりました」

多分、火種の類は存在しないだろう。だが、それでも、今のうちに布石を打っておいて損はない。

林は散る部下達を確認すると、河北に向かう。

張魯は幽州にいる。長く劉備が公孫賛の配下として過ごした土地で、近年では後方生産地域として、貧しい土地に積極的に屯田が行われ、主に青州から人間が流れ込んでいる。それに伴って人口は倍増。といっても、漢末の人口には、それでも及びもつかないのだが。

既に人間は世代が代わり、公孫賛や袁紹の名を知らない者も出始めている。北にある易京に立ち寄ると、何と整備が進んでいた。過剰な城壁がそぎ落とされ、物資の中継地点として、少しずつ整えられている。主に冀州からの物資を、幽州、并州に輸送するために、誰かが改造したのだ。

一瞬張魯かとも思ったのだが、違った。

翻っている旗は、田。それで、見当がついた。

「なるほど、田豫か」

かって劉備の配下として活躍した田豫だ。仕官したとは聞いていたが、なるほど、経済力の増強に努めるべく動いているという訳だ。貧しい幽州だが、このままだと数年で別の土地のように生まれ変わるかも知れない。

易京の中に潜り込んでも見たが、非常に良く整備されている。田豫自身はというと、奥に妹と一緒に住み込んで、物資輸送の指揮を執っている様子だ。田家の人間も総力で動いているようで、まるで城の中ではなく、巨大な商家を思わせる。

一番奥に、田豫はいた。屋根裏に潜り込んで、様子を探る。この辺りは平穏そのもので、警備も緩い。ただし、北方では鳥丸族の過激派が時々暴れる様子で、兵士達は最低限の実戦を経験はしているようだ。訓練も行き届いているのは、総力戦になれば前線に駆り出されるからだろう。

竹簡をせっせと書いていた田豫は、側に仏頂面で控えている妹に手渡しながら言った。

「鳥丸族がまた不満を述べてきているね。 派遣している役人を交代させよう」

「よろしいのですか」

「その権限があるのだから、活用させて貰うだけさ」

既に四十代に達しているはずなのに、田豫はとても若々しい。二十代後半でも通じるかも知れない。

仕事も精力的で、実に使えそうだ。曹操が無理矢理に出仕させた訳である。ただし、田家を操作しながら、これだけの仕事をしたら体が保たないだろう。寿命は著しく縮むことがほぼ疑いない。

外に出た。

今度は張魯の所に行く。周囲を見るが、かっては風物詩だった車を引く貧しい民の群れは見かけない。農民は畑を耕し、商人達は売買に精を出している。兵士達も彼らを虐げることなく、役人もおごることはない様子だ。

忌々しいことに、曹操が作り上げたこの国が、末端に到るまで健全な証拠だ。

腐敗した時代に育った人間としては、肩身が狭い。腐敗が当たり前の世界に生まれると、役人や兵士が腐敗しているのは当然のように考えてもしまうのだが、実情はこの通りだ。上がしっかりしているだけで、国は健全になる。

流民は、既に落ち着き始めている。

曹操、劉備、江東。この三つが、それぞれ勢力を安定させたからだ。劉備が今積極的に動く構えを見せているから、荊州近辺ではまた民が流れ始めるかも知れないが、それ以外は静かなものである。

あまり良くない傾向である。民には暮らしやすいかも知れないが、林にとっては毒の空気が蔓延しているようなものだ。この辺りでは、既に林はいない方がよい存在になりつつある。

この空気が許昌か?(ギョウ)にまで伝播し、曹家の人間が勘違いした時、林は総力での攻撃に晒されるかも知れない。まあ、その時はその時だ。江東でも諸葛亮でも、林の腕を買おうという奴は幾らでもいるだろう。

街を歩くが、破落戸の類はほぼ見かけない。裏通りに出ても、それは同じだった。

二度、細作が林を見た。見えるように歩いているのだから当然だ。まさか林が此処にいるとは思っていなかったからか、小首を傾げて歩き去っていく。首をちょん切ろうかと思ったが、止めた。この様子だと、細作組織の統率も、しっかり引き継がれているはずだ。林がちょっかいを出せば、すぐにばれるだろう。

易京を出て、数日掛けて平原に南下する。

不快なことに、賊の一人も出なかった。

殺しが出来ないと、どうも喉が渇いて仕方がない。しかし、途中、江東の細作を見つけたので、捕縛。嬉々として拷問してあらかた情報を引き出そうとしたが、ちょっと歯を抜いただけで発狂してしまったので、頭に来て八つ裂きにして河に捨てた。何という軟弱さか。もとより諸葛亮に四家を握られているとはいえ、此処まで脆弱だと苛立ちも募る。

ため息が漏れた。

殺しがしたい。

 

ふと禍々しい気配を感じたので、揚松が注意を促すと、書見をしていた張魯は顔を上げた。

此処は、幽州の平原。その外れにある、小さな武家屋敷の一角である。その更に片隅にある庵に、張魯は根を生やしたようにして住んでいるのだ。

揚松はとっさに剣に手を掛けていた。細作を扱い続けた揚松である。気配くらいは察知することが出来る。

それは、いつの間にか。天井から逆さにぶら下がっていた。

天井からぶら下がっているのは、童女に見えた。だが、気配が違う。邪神の類であることを感じて、正体を即座に特定。

「貴様、林だな」

「おや、流石は漢中の細作を裏から束ねていただけのことはある。 老いても腕は衰えていないようですね」

「巫山戯るな。 貴様、我らに用はないはずだ」

「待て」

張魯が、揚松を静止した。静かな声だが、威厳はいささかも衰えていない。

かって、無数の村が群居する漢中の法となることで、其処を纏め上げた名君は。五斗米道を信じることを封じられ、曹操の配下となった今でも。その心には、微塵の劣化もなかった。

「林とやら。 貴殿の噂は聞いておる。 いずれもあまり褒められたものではなかったが、目にしてみるとよくわかる。 貴殿は邪悪そのものだな」

「これは光栄です、張魯将軍」

「何をしに来た。 私とそなたでは、管轄が違っているはずだ。 それに、私を暗殺する理由は無いはずだが」

「そう邪険にしないでくださいな。 丁度私も色々と混乱の中にいましてね。 退屈していたこともありまして、遊びに来たのではないですか」

張魯は大きく歎息すると、揚松に竹簡を渡す。

林は少し驚いて、周囲を見回す。気付いていなかったのかも知れない。

この庵は、それ自体が倉庫になっている。膨大な竹簡が格納されていて、壁にも床にも、河北の情勢を示す情報が満載されているのだ。

特に鳥丸に関する情報は、許昌以上のものがある。

曹操は、張魯に言ったのだ。

内部の安定を図るため、影から状況を見守るものが必要になると。張衛は武力でそれをする。揚松は細作を使う。そして、張魯は民を慰撫する。平和な時代には、乱世とは別の人材が必要になる。

曹操は言った。お前達は。漢中だけのためではなく。天下のために、力を振るうべきなのではないのか。

自身がしてきたことを否定されたのではなかった。もっと大きく羽ばたくべきだと、曹操は評価してくれたのだ。

民のために何が出来るのか、見つめ直してみたかった。揚松もそれは同じだった。

今、漢中は張魯の手にはない。だが、新しい土地で、張魯は以前よりも、一回り大きくなったように、揚松には思えていた。

「乱世が終わるまで、後三世代か、四世代掛かるかも知れない。 しかしその負担は、確実に減らすことが出来る」

「……」

「私はこの中華を平和にしたいのだ。 お前と違ってな」

林が眼を細める。

庵が燃え上がるほどの殺気が放たれた。揚松は流石に息を呑む。多くの腕利きと接してきた揚松だが、これほどの使い手とこの距離で相対するのは初めてだった。だが、それでも張魯を守らなければならない。

張魯の前に出る。

いざというときは、差し違えてでも。剣に手を掛ける。低い態勢で、剣を鞘の中で滑らせる技を放つ態勢に入った。これならば、初撃さえ放てれば、それなりの手傷を負わせることが出来る。

にらみ合いは、七拍。

最初に引いたのは、林だった。

鼻を鳴らすと、化け物は天井裏に引っ込む。途端に、溶けるようにして周囲に充満していた殺気が消えた。

「まあいいでしょう。 貴方のような人間がいた方が、私としても退屈せずに済む」

「覚えておけ、邪神窮奇。 この国を、中華を、お前の好きなようにはさせぬ」

「張魯、その首いずれ貰い受けますよ。 そして揚松。 私の殺気に良く耐えた。 褒めてやろう」

気配も消える。

思わず、腰砕けに、床に倒れ込んでいた。

動悸が乱れる。細作の中には、闇を抱え込んだ者も多かった。邪悪そのものの存在もいた。

だが、あれは何だ。まるで化け物だ。邪神を自ら名乗っていると言うことだが、それも過大な言葉ではない。昔から百人の細作を超える力を持つとか言われてはいたが、奴が本気になったら、一体どれだけの惨禍が生まれ出るのか。

「張魯様、ご無事ですか」

「ああ。 私よりも、揚松。 お前は」

「少し休めば大丈夫です。 我ながら、衰えました」

苦笑してしまった。動悸が整うまで、しばらく時間が掛かった。

張魯は、すぐに机に向かい、書類を書き始めた。この胆力。これぞ、我が主。揚松は快く思うと同時に、この人を何としても守り抜くと決めた。

外に出ると、数人の細作が集まっていた。いずれも、漢中が陥落した時、どうしても張魯と揚松に着いてくると聞かなかった者達だ。

「揚松様、何事ですか」

「邪神が来た」

「あの林ですか。 ご無事でしたか」

「一応同じ勢力の味方同士だ。 気にする必要はない。 お前達も何かあったら、すぐに私に知らせよ」

酷な話だが、今は早期警戒くらいしか、することがない。

歎息して、空を見上げる。国力を上げるのは田豫の仕事。だが、国を安定させるのは揚松の仕事。

どうやら死ぬまで、この仕事からは離れられないらしかった。

 

何名か、地方の将軍達の様子を確認した後、林は許昌に戻った。途中、中継ぎでの報告は受けていたが、何事も実見出来るものはそうするに限る。報告の通り、既に勝負はついていた。曹彰の軍勢は撤退を開始しており、指揮官の姿は無かった。

農民に偽装して、軍の側を通り過ぎる。兵の質は著しく良くない。曹彰には二線級の部隊があてがわれており、主な任務は国内の反乱勢力や、異民族の鎮圧である。かってこれらの仕事は曹仁、曹洪、夏候淵や夏候惇などの、一族が行っていた。今は若手である曹彰が担当している。代わりに彼ら一族は、地方軍の司令官となり、部下達を使う立場になっていた。

許昌にはいると、既に状況は落ち着いていた。普段通りの取引が開始されており、物流も普通に戻っている。韓浩の軍勢も、既に解体され始めているようだ。韓浩自身はどうしているのか。それよりも、今は決着がどうついたか、それを確認する必要がある。もっとも、分かりきってはいたが。

拠点の一つであるあばら屋に。

連戦で減ってはいるが、部下はまだまだいる。いずれも百戦錬磨の強者達だ。

「戻った。 状況を知らせよ」

「は。 曹彰様は司徒である華?(キン)の説得を受け、私軍を解体。 曹操様の亡骸と対面した模様です」

「華?(キン)か」

「はい」

曹操軍の参謀としては、荀ケや荀攸に続く存在として見られていた人物である。ひらめきは無いが、公平な人柄として知られていて、民政家としての手腕を期待されている。今回は上に立つ人物が賈?(ク)くらいしかいない状況になったため、司徒という重役に就任した。

最初の大仕事が上手く行ったことで、さぞ安心していることだろう。華?(キン)は既に六十を超えているはずで、年齢的には曹操と同年代である。やっと此処まで登ってきたという感も強いだろうし、今更失敗はしたくなかったはずだ。元々、一時期袁術に仕えていたと言うこともあり、同年代の古株達にはどうしても出世で遅れを取っていた。今こそ、好機だと考えていることだろう。

「それで、曹彰は」

「それが、宮廷から出てきません。 暗殺された可能性もあります」

「ほう。 曹丕め、曹操が死んだ途端、馬脚を現したか」

「少し前に、替え玉らしい若い将が宮廷に入っていたという報告もありました。 可能性は決して低くはないかと」

少し考え込んだ後、林はにやりと笑みを浮かべていた。

「よし、そなたらは曹植の周囲に着け。 奴は近々曹丕に潰される。 その時に、証拠を提出するのだ」

「既に、充分な証拠が揃っておりますが」

「更に念を入れる」

「わかりました」

部下達が皆あばら屋を出て行く。林自身は、宮廷に歩いていった。

宮廷は厳しく警備されているが、曹操の時代から何度となく潜り込んでいる場所である。許?(チョ)が最近は五月蠅く巡回しているが、今日はその姿もない。女官の格好に着替えて、屋根裏部屋に潜り込む。

血の臭いがした。

どうやら、予想通りの展開になっているらしい。遠くで、剣戟の音。怒号が交錯している。流石は黄髭児と呼ばれ、素手で猛獣と戦えると言われた男だ。簡単に暗殺には屈せず、逃げ回っているという事なのだろう。

天井裏を這い、現地に向かう。途中、点々としているのは兵士達の死骸だ。いずれも一刀で斬り倒されている。血が飛び散り、壁や床には傷も残っていた。猛獣は死期を悟り、出来るだけ自分の痕跡を周囲に残そうとしている。女官や文官の姿はない。ばらされると不味いから、曹丕が巧く遠ざけたのだろう。

この様子からして、華?(キン)は恐らく暗殺には関与していないだろう。

雄叫びが聞こえた。気配もかなり近い。

見つけた。

宮廷の一室で、巧く狭い部屋を上手に使って、籠城している。既に曹彰は一人になっていた。辺りには体に矢を生やした、曹彰の部下らしい護衛の武人の亡骸が点々としている。いずれもあまり体を鍛えているようには見えない。曹操は有能な人材が曹彰、曹植の周囲に集まらないように徹底した管理をしていた。その結果だろう。

この時に備えていたか、曹彰は分厚い鎧を着込んでいた。しかしそれにも、何本か矢が突き刺さっている。元々勇猛と言われても、歴史を動かしてきた豪傑達に比べればぐっと劣る程度の腕しかない男だ。既に疲弊が酷く、多勢に無勢だった。

「どうした! その程度か!」

曹彰が吠える。曹丕もいる。兵士達の分厚い壁の向こうで、じっと佇んでいる。

目には深い闇があった。それは曹操が持っていた権力の渇望に似ていたが、それとは真逆の性質を秘めていた。なるほど、これでは跡継ぎにするのに躊躇するはずである。曹昂が生きていればと曹操は何度となくぼやいていたが、無理もない。

その曹昂を殺した林としては、愉快でたまらない展開であった。

さて、どうするか。

逃がすことは、出来る。曹彰は気付いていないが、この部屋の隅には隠し通路がある。曹操がいざというときに備えて作らせたものだ。曹彰を逃がせば、多分暗殺され掛かったことを声高に喧伝するだろう。そうなれば、ある程度は混乱が見込める。

数秒迷った末に、林は決断した。

ふわりと、音もなく曹彰の背後に降りる。

そして振り向いた瞬間、首に柳刀を突き刺していた。

血の泡を吹きながらも、それでも剣を振り上げたことだけは褒めてやる。そのまま刀を引き抜くと、勢いよく横に振るう。吹き飛んだ曹彰の首は鞠のように飛び、遠巻きにしていた兵士達の側まで転がっていった。

兵士達に姿は見せていない。

そのまま、天井裏に戻る。曹丕の側にいた許?(チョ)だけが、林に気付いていた様子であった。大量の鮮血が亡骸から噴き出し、部屋を朱に染めていく。曹丕が忌々しげに吐き捨てた。

「愚弟が。 手間を掛けさせおって。 しかし、今のはなんだ」

許?(チョ)はじっと林のいる方を睨んでいた。

おお怖い怖いと、笑いを含みながら、林は呟いていた。

 

曹植を捕縛する兵士達が許昌を出立したのは、曹彰を暗殺して二日後の事である。指揮官は牛金で、兵力は三万五千。殆どの戦力は、韓浩軍だ。許儀の側で、父である許?(チョ)と曹丕はずっとぴりぴりしていた。

自分よりだいぶ年上だが、曹丕は長いつきあいであると言うこともあるし、不遇時代にずっと護衛を務めていたと言うこともある。愚痴を聞いたこともあったし、うんと幼い時には一緒に剣の修行をしたこともあった。

曹丕は幼い頃はとても孤独で、弟の曹植に周囲が媚びを売ることもあって、同年代の友達は恐ろしく少なかった。そんな中、数少ない友人である許儀は、曹操が押してくれたこともあって、曹丕にとっては心の支えになれていた、らしい。そう何度か酒の席で聞かされたことがある。だからからか、曹丕は、ある程度は許儀の話を聞いてくれる。全然話を聞いてくれないとぼやく文官達が、たまに許儀に取りなしを求めてくることもあるくらいなのである。

しかし、意固地になると、曹丕は例え相手が許儀でも話は聞いてくれない。特に、不遇時代に曹植に取り入っていたような文官が相手の場合は、有能でもなかなか話を聞こうとしない。この辺り、曹操よりずっと器が小さいと思ってしまう。心に傷があるのはわかっているが、それでも平然としていた曹操と比べると、と許儀も思ってしまうのだ。曹丕が最後に話を聞くのはただ一人。幼い頃からずっと味方をしてくれた、父だけだ。しかし、父は滅多に何かを曹丕に言うことはない。

武芸は磨いてきている。並の武人であれば、片手で相手に出来る自信はある。

だが、それでも、こう言う所で父に及ばないと、許儀は強く感じてしまう。虎痴と曹操に呼ばれていたように、家でもぼんやりしていることの多い父だが、戦場や、危険のある場所での勇猛さは比類ない。今でも、とても武芸では勝ち目がないだろう。

「曹丕様」

「わかっておる。 もう、殺しはせぬ」

許?(チョ)の言葉に、曹丕は苦虫をかみつぶしたかのように言った。この言い方は、不機嫌だが言うことを聞く時のものだと、最近はわかるようになってきた。

許儀は曹彰をどうするか、会議をずっと横で聞いていたから、結論については異論はなかった。曹彰はありとあらゆる点で、曹丕と対立していた。性格が根本的に合わなかったのだろう。このまま生かしておけば、国の病になるのが目に見えていた。

最後まで許?(チョ)は反対した。それでも賈?(ク)が仕方がないと言うと、折れた。許?(チョ)は賈?(ク)の知謀と、曹操に対する忠義を認めていた。それに、賈?(ク)は曹丕を太子に立て、他の兄弟の権限を制限するように曹操に進言もした人物である。その判断は信頼できると考えているようだった。

曹彰を宮廷に招いて、惨劇は行われた。

曹彰は強かったが、得体の知れない影に首を飛ばされるのを、確かに許儀は見た。林だと、許?(チョ)が呟くのも。

恐るべき闇が、宮廷には蠢いている。だから、それから曹丕を守らなければならないと、強く思う。曹丕は武芸があまり得意ではなく、戦争の指揮も評判が低い。いざというときには、兄のように育った曹丕を守るのは自分だ。そう許儀は思っている。

「仲礼」

「は、どういたしましたか」

字を呼ばれたので、抱拳礼をする。曹丕はやはり不機嫌そうだった。

「焼き菓子を持ってこい」

「わかりました。 すぐに」

今は側に父がいるから、危険はない。だが、一応目礼を交わして奥に。

料理人達は、曹操と同じくらい焼き菓子が好きな曹丕のために、いつも焼き菓子を補充している。曹丕は曹操に比べて、かなり苦みを利かせた焼き菓子が好きなようで、味付けは繊細にならざるを得ないという。

「曹丕様の焼き菓子は出来ているか」

「はい、皿の上に」

「うむ。 毒味」

すぐに侍従が飛んできて、毒味。皿の焼き菓子の中から幾つかを選び、口に運ぶ。問題なしと判断し、許儀は曹丕の所に焼き菓子を運んでいった。ちなみに許儀自身は、焼き菓子が苦手だ。美味しいとは思うのだが、積極的に食べたいとは思わない。何より家での生活がとても質素なので、高級品はどうしても尻込みしてしまうのだ。曹操などの王侯から見れば質素な食べ物でも、庶民から見ればとても高級な品なのだ。

曹操はあまり浪費が酷くなかったが、この焼き菓子と、後は怪しげな背を伸ばす道具とやらにだけは、普通の豪族の道楽並に金を掛けていたという。許?(チョ)は今でも家に帰ると農民並みの生活で満足してしまうので、必然的に許儀もそれに習ってしまう。そして習慣は、骨の髄にしみこんでいる。

焼き菓子は曹操のものより、少し大きめに作ってあり、芳香も強めである。よくわからないのだが、何かの果実の皮を煎じたものを入れているらしい。曹操の時から料理長をしている男が焼いただけ有り、完璧な出来だ。曹丕は焼き菓子を見ると、途端に顔を無邪気にほころばせた。周囲に誰もいないことを確認してから、もくもくと食べ始める。本当に嬉しそうな表情なので、安心する。

満面の笑みで食べ終えてから、曹丕は不満を口にした。

「まだまだだな」

照れ隠しなのかはよくわからない。だが、言葉通りの意味ではないことを、許儀はわかるようになってきている。

「もう一皿出来ていましたが」

「ほ、本当か!? う、げふんげふん。 仕方がないな、喰ってやってもいいから、すぐ、今すぐもってこい」

「食べた後は歯をお磨きください。 後は、太るので、あと一皿だけですよ」

「わ、わかっておる! 食べねば無駄になってしまうから、食べてやるだけなのだからな!」

機嫌が良くなってくると、曹丕は面白くなる。

ずっと側に控えている許?(チョ)は、ぼんやりと虚空を見つめていた。あの様子では、周囲に危険はないと言うことなのだろう。

現在、曹丕と対抗できそうな一族は、曹植が残るのみである。

早くこの血なまぐさい宴が終わると良いなと、許儀は思った。終われば、曹丕は面白おかしい男になるのだろうから。

 

牛金が、曹植を引っ立ててきた。牛金は寡黙な男であるし、兎に角容赦がない連行であった。檻車に乗せられている曹植は項垂れていて、彼方此方には傷も見受けられた。曹植が集めた家臣達は、もっと手荒に連行されていた。

士載は檻車の隣で馬を進めながら、何だか可哀想だなと思った。まだ成人していない士載は、何一つすることを許されていない。韓浩に言われて、牛金の側について。良くして貰ってはいるが、時々これでいいのかなあと思う。

「子供」

曹植の声だ。横を見ると、曹植がじっと此方を見ていた。

一応は従軍経験もあるらしいのだが、細くてひ弱な人だ。偉大なる英雄曹操の、詩の才能だけを受け継いだと噂される人物。目には強い野心の光があり、それが故にこんな事になったのだ。

韓浩は、とても士載に良くしてくれた。牛金も、色々教えてくれる。

手習いはとても楽しい。実はもっと楽しいこともあるのだが、それはいつも出来る訳ではない。

いずれにしても、このまま行くと、野心とは無縁ではいられない世界に入ってしまう。農民として一生を過ごす道もある。だが、もうそれは出来ない。

「僕のことですか?」

「そうだ。 名前は」

「士載と申します。 ケ(トウ)士載です」

「そうか。 少し聞き取りにくいが」

吃音の毛があるらしいことは、士載も知っている。だが、何度やっても治せなかった。ちょっと恥ずかしくなって頭を掻くと、曹植は呆れたようだった。

「別に褒めておらん」

「あ、すみません」

ぺこりとあたまを下げて、落馬しかける。曹植は噴き出しそうになったが、どうにか持ちこたえたようだった。ますます恥ずかしい。

「見ていたが、何とも鈍そうだな。 牛金と言えば若手の期待株とも言われる猛将なのに、どうしてお前のようなのを従者にしている」

「わかりません。 韓浩将軍が、僕には才能があるっておっしゃって。 それで、牛金さんも、色々お世話してくれます」

「ふん、才能か」

「良くして貰って嬉しいので、頑張ってます」

へへへと恥ずかしくて笑うと、曹植は冷たい光を口元に閃かせていた。この辺り、例え虜囚に落ちても、英雄の息子と言う訳だ。

「才能などというものは、限られた者にしか与えられん。 例えば、私のような、な」

「曹植様は、才能があるのですか?」

「そうだ。 詩の才能。 政務の才能。 軍務の才能。 いずれも、兄曹丕を上回っている」

周囲の兵士達が、むしろぎょっとした様子でやりとりを見た。分厚く周りを囲んでいる兵士達は、何時何があっても良いように備えているのだから当然だ。曹植が暴れてもこの檻がどうにかなることは無いだろうが、周囲からその残党が押しかけてくる可能性は否定できないのだ。

牛金の手によって、曹彰侵攻の隙を突いて集められていた曹植の軍勢は壊滅した。三万五千の圧倒的戦力で、文字通り押しつぶされたのだ。主立った家臣達も、抵抗した者は殺され、そうでないものも捕らえられた。牛金はずっと嫌そうな顔をしていた。戦場で強敵と戦うことこそが、我が喜びだといつも言っている男である。無理もない話なのかも知れない。

「羨ましいです。 僕は才能があんまりないから、いつも勉強ばっかりしてます」

「ふん、才能がない人間は、どれだけ努力しても無駄だ」

「それは、どうでしょうか」

「何?」

曹植の目つきが露骨に変わった。

何だか、気が滅入る。この人は、きっと今まで何一つ不自由なく生きてきたのだろう。だから、他人に、ましてや子供に反論される事など、考えてもいないのだ。

「牛金将軍は、いつも私は平凡だと言っています。 でも、曹植様に勝てました」

「そ、それは、長男と言うだけで跡継ぎになったあの男が! 軍勢を与えたからだ!」

「あの呂布将軍は、虎牢関の戦いで、もの凄い数の兵士を少数で蹂躙したって聞いています。 例え敵の軍勢が多くても、味方の指揮官が優れていれば、逆転は可能です」

蒼白になった曹植が、黙り込んだ。

可哀想だったかなと、士載は思った。だから、それ以上は言わなかった。

やがて、行列は許昌に着いた。民は不安げに曹植を見つめている。

「みんな、不安なんです。 曹植様が、馬鹿なことをしないかって」

「何が馬鹿なことだ! ただ先に生まれただけで長男になったあのような屑、私が地位を奪い取って何が悪い! ただ、ただ先に産まれただけだぞ! しかも曹昂兄上が死んだから、跡継ぎになれたようなものだ! 頭は悪く、武芸は無く、戦の才も無い! そんな屑に、なぜ私が従わなければならん!」

「いえ、貴方は捕らえられて当然であったかと思います」

牛金だった。どうやら、直接連行しに来たらしい。いつの間にか、檻車は宮廷の前に来ていた。

厳しく武装した兵士達が、手ぐすね引いている。汚れきった曹植は、目に狂気を宿していた。

「貴方に政務の才はありません。 もしあれば、曹操様は曹丕様より貴方を抜擢していたでしょう。 或いはそうでなくても、政務に触れる地位に就けていたに違いありません」

「お、おのれっ! 下郎!」

「そして、貴方には戦の才もない。 もしあれば、私に易々と奇襲を許したりはしなかったでしょう。 貴方の立場が如何に危険かは、少し考えればわかることですから」

「ふ、ふざけおってえっ!」

血を吐きそうな様子で、曹植が激高した。

だが、兵士達は暴れようとする細い体を易々と押さえ込み、連れて行く。慌ててそれを追おうとして、士載は転びそうになってつんのめり、そのまま結局すっころんだ。

鼻を押さえて立ち上がる。牛金が、更に辛らつな言葉を浴びせ続けていた。

「貴方には詩の才能はあるかも知れません。 しかし、それ以上でも以下でもない。 そして野心は、貴方の能力には大きすぎた。 だから、身を滅ぼすことになったのです」

「こ、殺す! 貴様、殺してやる!」

「残念ながら、貴方はもう殺す立場にはなれません。 殺される立場になるのです」

意味不明の絶叫を、曹植があげた。

更にとどめの言葉を浴びせようとした牛金の鎧の袖を、思わず士載は掴んでいた。

「も、もうやめてください。 可哀想です」

「これも命令だ」

「でも、酷いです。 これ以上は、あんまりです」

心を微塵に砕かれた曹植の慟哭が、痛いほどに士載にはわかった。

だが、牛金は、今だ厳しい表情を緩めようとはしていなかった。命令というのは本当だろう。だが、同時に。きっと、牛金は、曹植に何か思う所があったのだろう。

兵士達が一斉に傅く。そして牛金は曹植の頭を鷲掴みにして、地面にひれ伏させた。遅れて士載も傅いた。

曹丕が、来たのだ。

今まで、二度だけ士載は、曹丕に会ったことがある。どちらも冷たい雰囲気を感じて、亀のように首をすくめたものだ。今回もそれに代わりはない。曹植を見る目は、まるで汚物でも目にしているかのようだ。

「おお、曹植。 無様な姿だな」

「おのれ、この屑っ!」

鋭い音がして、曹植が絶叫した。牛金が無表情のまま、曹植の顔面を床にたたきつけたのだ。

既に曹植が、そのような言動を許される状況にはない。

曹丕はきっと、この事態を完璧に読んでいたのだろう。だから、牛金にはあらかじめ指示が与えられていた。

牛金は全く表情を変えない。士載とは、まるで戦場経験が違うのだから、肝の据わり方も凄い。その気になれば、感情でも表情でも消せるのだ。

咳き込んだ曹植を、曹丕は容赦なく言葉の暴力で打ち据えた。

「屑はお前だ。 母上がお前を殺すなと泣きついてこなければ、今頃貴様など、八つ裂きにして犬の餌にしている所だ」

「お、のれ」

「お前の権限は全て取り上げる。 これからは、捨て扶持としてえさ代だけは与えてやるから、感謝しろ」

頭を即座に下げなかった曹植の顔面を、牛金が更に床にたたきつけた。あまりにも酷いと思って、士載は目を背けた。

それにしてもこの残虐さ、常軌を逸している。

幼い頃、曹丕は曹植を跡継ぎにすると言う流れの中、周囲は孤独になり、苦労したとか聞いている。その時の深い恨みが、今噴出しているという訳だ。曹植も、幼い頃からずっと好き勝手をしていたのに、今になって思い通りにならないことが、闇につながっているのだろう。

さっき曹植が見せた慟哭は心が動いた。だが、今のやりとりについては微妙だ。農民として育った士載は、それがどれほど辛いことなのか、よくわからない。あの慟哭の表情からも、曹植がどれくらいの悲しみを感じているかはわかるが、同じ立場になったらどうなるかについては理解できない。

幼い頃は兄弟達と一緒に流民として各地を流れていて、食べるものも着るものもいつも一緒だった。山賊に追いかけられ、軍に追い回され、怖い目にも何度も会った。韓浩と始めて出会った時、趣味をしているのを見つけられた。それからだ。こんな世界に踏み込むことになったのは。

陰湿な陰謀が飛び交う世界を怖いとは思わない。

ただ、其処に暮らす人達は気の毒だなと、感じてしまう。

「ただ、先に生まれた、だけで」

「ほう? ならばやってみるか? お前がぬくぬくとおだてられて、詩ばかりに現を抜かしている間に、私は剣を振るい、書見をし、政務に携わってきた。 お前が酒ばかり飲んでいる間に、人脈を作り、決断し、彼方此方を見て回ってきた。 今やお前など、私の足下にも及ばん」

残念だが、曹丕の言うとおりだ。

ただし、曹丕よりも苦労をしている人間など、それこそ幾らでもいる。劉備や孫権に比べれば、曹丕など雛も同然。牛金から見た士載のように見えることだろう。そして悲しい話だが、曹植は確実に曹丕よりも下だ。

才能はあるのかも知れない。

しかし、それを磨くのを怠った結果だ。

「そもそも貴様は……!」

「もうおやめください」

「許?(チョ)!」

曹丕が更に不満を述べようとしたが、割って入った許?(チョ)が、首を横に振った。それを見て、流石の曹丕も口をつぐむ。噂は本当だったのだ。曹丕も、許?(チョ)にだけは頭が上がらない。

「曹植様。 貴方が謀反を試みていたのは、無数の証拠から明らかです。 本来なら、首を刎ねられてもおかしくないほどの罪状なのですぞ」

「し、しかしこの国は」

「曹操様が、曹丕様を跡取りと決められたのです。 曹操様がどれだけの苦渋の末、そう判断されたか、どうして理解しないのです。 それに、曹操様の苦悩の決断を、否となさるのならば。 この許?(チョ)、例え悪鬼となろうとも、貴方を地獄の果てまででも追い詰め、滅ぼすでしょう」

戦慄した曹植が震え始める。許?(チョ)の表情には妥協がない。

関羽が死んだ今、この中華でも有数の豪傑が、怒りを湛えて至近で見つめているのである。とても曹植では対抗できるものではなかった。

やがて項垂れた曹植は、引きずられるように連れて行かれた。曹丕は大きく歎息すると、きびすを返して宮廷に戻っていく。兵士達も散り始める。許?(チョ)は牛金の肩を叩くと、目に同情の光を湛えていた。

「すまんな。 汚れ役を任せてしまった」

「いえ。 この程度は」

「護送は別の武将に任せる。 そなたは、ゆっくり休むと良い」

「……」

一礼すると、牛金は士載を伴って、屋敷に戻る。

終始、牛金は無言だった。

屋敷には翠が待っていた。じっと自分を見上げる翠に、牛金は何も応えなかった。だから、代わりに士載が応えた。

「何かあったのか?」

「うん。 ちょっと辛いことがあったんだ」

「怒られたとか?」

「違うよ。 酷い仕事だったの」

翠はそう言われると、流石にそれ以上は何も聞かなかった。

士載は勉強しようと思った。勉強をすれば、少しは気が紛れる。ふと、牛金の部屋を覗く。珍しく、痛飲しているようだった。

背中が孤独だった。

 

2、漢滅亡

 

荊州を離れ、洛陽に戻ってきた徐晃は、殆ど休む暇もなく、宮廷に呼び出された。

曹彰、曹植の問題が片付き、やっと曹丕の治世が安定し始めた矢先である。大重鎮である徐晃が呼び出されるのは、何か大きな問題が発生したとしか思えなかった。或いは、徐晃に何か関係のあることなのか。

曹丕は奥の部屋にいた。一心不乱に政務に取りかかり、周囲には竹簡が山のように積み上げられている。

曹操に比べて素質は劣っているが、仕事量を増やすことで対応しているのが見て取れる。この辺り、曹植よりも曹丕が優れている良い証拠だろう。曹植だったら部下に丸投げして、自身は詩でも書いていたに違いない。

許?(チョ)はぼんやりしていて、特に危険がないことは見て取れた。徐晃は安心して、抱拳礼をする。

「徐晃、ただいま参上いたしました」

「うむ。 少し話しておきたいことがあってな」

曹丕は竹簡に筆を走らせながら、顔も上げずに言う。面影には、曹操を思わせる部分もあるが、全体的にはやはり小粒だ。

「皇帝に、即位しようと思う」

「……それで、なぜ私に?」

「そなたは献帝に忠義を誓っていると聞いている。 だから、献帝の処遇は、そなたに任せようと思ってな」

来るべき時が来た。曹操も、恐らくこうなるだろう事は予測していた。

だから、その死の直前には、徐晃にも言ったのだ。献帝を頼むと。

徐栄に育てられた昔から、徐晃は聡明な献帝に仕えてきた。曹操に仕えるのも、献帝を決して蔑ろにしないという条件を付けてのことだった。今も忠義は揺らいでいない。

だが、その忠義は、皇帝である献帝に捧げているものではない。聡明で、敢えて身を引くことを選んだ献帝の心に捧げたのだ。今もそれに代わりはない。だから、献帝が生きる道があるのなら、それを徐晃は選ぶ。帝位にはこだわらない。

「わかりました。 それでは陛下に一度お会いしたいのですが、よろしいですか」

「うむ、好きにせい。 即位の時にごねられると困るから、説得もしておいてくれるか」

「献帝はそのようなお方ではありません」

すっと眼を細めて言うと、曹丕は口をつぐんで、そわそわと辺りを見回した。

許?(チョ)が咳払いをしたのは、なぜだろう。曹丕はそれでやっと居住まいを直すことが出来たのだと、後から気付いた。

衰えを感じて、頭を振る。既に徐晃も良い年だ。少し前に引退した張繍を見まいに行って、それを実感してしまった。白髪の老人。衰えきった男が、其処で余生を過ごしていたのだ。彼はもう耄碌まで始まってしまっていた。

自分も、年代的には同じなのだと、徐晃は戦慄する。

健康体操で緩和してはいる。だが、それにも限界がある。何時かは老いが、経験を上回ってしまう。その時、自分はどうなるのか。徐晃は少しずつ怖くなってきていた。

顔を上げる。宮廷の中で立ち止まるのも問題だ。

献帝は今、宮廷の奥で慎ましく暮らしている。許昌に来る時は、大体顔を見せている。飼い殺しの人生を選んだにも関わらず充実しているのは、毎日詩作や写本に精力的に取り組んでいるからだろうか。

奥の部屋の手前の廊下にて、曹皇后とすれ違った。薄暗く狭い通路なので、徐晃が先に避けて目礼する。曹皇后も頷くと、そそくさと部屋を出て行った。多分、曹丕の動きを察して、警戒を強めているのだろう。

献帝に敬意を表した曹操が、娘を妻として嫁がせたのだ。以前反乱分子に担ぎ出された伏皇后が失脚して以降、曹皇后はよく献帝を献身的に支えている。徐晃も安心して、夫婦の仲むつまじい様子を見守ることが出来た。

宦官が見張りに着いていたが、徐晃を見て避ける。かなり年配の宦官だ。曹操は殆ど宦官を使わない。かって宮廷に仕えていた者の中で、袁紹による粛正から僅かに生き残った連中が、こうして女官達の世話をしている。

「徐晃か」

「お久しぶりにございます」

部屋の奥から声がしたので、最敬礼をした。

部屋にはいると、竹簡が山と積み上げられている。ざっと見た所、裏紙はされていない。忙しく筆を動かしている献帝は、少し老けたように見えた。

献帝は顔を上げると、徐晃を手招きした。求めに応じて、そのまま部屋の奥に。竹簡を踏まないようにして、膝を突く。抱拳礼をする徐晃に、にこりと献帝は笑みを浮かべた。

「その様子だと、曹丕に朕の事を頼まれたな」

「御意」

「そうだな。 曹操が作り上げたこの国も、そろそろ安定する要素が欲しい所であろうしな。 朕に退位を迫るのも、無理ならぬ事かも知れぬ」

見れば、献帝が使っている硯は、とても質素なものだった。

玉爾によって印を押すこともたまにはあるようだが、それも全て監視の下に行われる。籠の鳥であることを、この人は自ら選択したのだ。天下万民のために。その誇り高さを、徐晃は守りたい。

「陛下が望むのであれば、何処となりと、暮らしやすい土地を用意いたします」

「うむ、それでよい。 謀反など勧めようとしたら、朕は叱責する所だった」

「お戯れを」

「そうさな、既に平和が確立された地域が良い。 河北か中原か。 それらのなかで、比較的慎ましくいきられる場所に骨を埋めたい」

献帝の言葉は、静かだった。徐晃は既に用意しておいた庵のことを提案してみる。少し手直しすれば、隠居するには充分な広さが得られる。曹皇后は着いてくるとして、後使用人が何人か慎ましく暮らすには充分であろう。

「それならば、洛陽の近辺に良い土地がございます。今では屯田によって土地が耕され、農民も戻ってきております」

「そうか。 洛陽の側にて暮らせるか」

「徐晃めも引退した暁には、おそばに仕えさせていただきとうございます」

「まだそなたは若々しいではないか。 引退などと口にしてはならぬ。 天下万民のため、まだ働いてくれ。 朕の分までだ」

さぞや歯がゆかっただろう。徐晃は頷くと、部屋を出た。外では、長刀を持った曹皇后が、じっと廊下の奥を見つめていた。

徐晃に対しても、厳しい表情を崩さない。

「徐晃。 陛下は安全であろうな」

「この徐晃めにおまかせを。 必ずや、陛下は守りきりまする」

「そなたほどの武人がいうならば安心は出来るな。 だが、兄は知っておるかも知れぬが陰湿な男じゃ。 努々油断するでないぞ」

一礼すると、一旦退出した。

外に出ると、肩を叩く。曹丕に報告する前に、新鮮な空気を吸いたかった。献帝は若々しいと言ってくれたが、やはり疲労の蓄積が早い。しばらく肩を揉んで、空気を吸って。気持ちを切り替えてから、曹丕に全てを報告した。

曹丕は、徐晃の提案を、全て受け容れてくれた。

冷酷だと言われる曹丕であっても、利害関係がない相手に対しては、それなりに優しくもなれるのだ。それに献帝は、確か曹丕が幼い頃に、目をかけるように曹操に言っているはず。その辺りも、寛容になる要因だったのだろう。

空を見上げる。

徐栄は、喜んでくれているだろうか。

徐晃は、そう思った。

 

それは、とても静かに行われた。

献帝は退位。

そして、曹丕に禅譲した。

中華全土に衝撃は走ったが、それほど強烈な圧力は生み出さなかった。あまりにも分かりきった事であったからだ。むしろ、ようやく曹家の者が皇帝になるのかと、誰もが思っていた。曹丕の側で事態の全てを目撃した許儀も、それは同じだった。

儀式に沿った禅譲はつつがなく行われた。禅譲は漢を一度は滅ぼした王蒙が造り出した儀式に沿った形となった。曹丕が嫌がるのに、無理矢理献帝が皇帝の位を譲るという方式である。これは非現実的な施策で世を混乱させた王蒙だが、儀式や儀礼などについては詳しく、そのやり方が優れていたからだと、後から司馬懿に聞かされた。

献帝は洛陽側の小さな屋敷に移り住むこととなった。山陽公の地位が与えられて、生活にも苦労しないだけの物資が届けられることとなった。また、徐晃が率いている精鋭のうち、年老いた者達の何名かが、直接献帝の護衛に当たることとなった。これの事情は、後で父に聞かされた。徐晃の献帝に対する忠義を、この時許儀は始めて知ることとなったのである。

新しく立てられた国の号は魏。それはこの国の基盤が、河北に起因している事を示している。国力は劉備の七倍、江東の三倍。それだけの圧倒的な実力を蓄える事が出来たのも、河北四州と中原を抑え、広大な安全地帯を後方に抱えていることに起因しているとも言える。これに対し劉備も江東も、後方安全地帯と呼べる地域は保有していなかったのが現実である。

玉爾は曹丕の手に引き渡されたが、その時に一悶着があった。

曹皇后が、玉爾を受け取りに来た使者に平手打ちをくれたのである。受け取りの使者は華?(キン)であり、言われたままに使い走りをしているに過ぎなかったのだが。彼にとっては不幸なこととなった。

「卑怯者! 恥知らず! 忠義を何と心得るか!」

「曹皇后、そのようなことを私に言われましても」

「黙れ! この変節漢! 兄と一緒に、地獄に堕ちるがいい! 貴様の悪行は史実に記され、幾百年後までも語り継がれることになるだろう! 子孫もろとも、地獄の業火に焼き尽くされよ!」

投げ捨てられた玉爾を広い、這うようにして華?(キン)はその場を離れた。曹丕にありのままを報告したのは、義侠心でも復讐心からでもない。単に、言われたことをそのまま実行したからに過ぎなかっただろう。そう言う噂があった。

頷ける話ではある。華?(キン)はずっと二番手に甘んじてきた男だ。既にかなり年老いてもいる。

だから、経歴に傷は付けたくなかったのだ。それ故に、行動は非常に臆病になってもいた。そう考えると、全てにしっくり来るのだ。

話を聞いた曹丕は一瞬顔をどす黒く歪めた。だが禅譲の後、皇帝の一族に手を掛けることは御法度とされている。如何に皇帝であっても、出来ることには限度がある。

それに、そんな事をしたら、魏の宿将であり、有数の名将である徐晃が黙ってはいないだろう。徐晃が率いる兵力は七万に達しており、その全てが私兵に近いほど主君に篤く忠義を誓っているのである。これが一斉に反乱を起こすか、或いは劉備か江東に軍事機密ごと寝返られでもしたら、この国はかなり危険ことになるだろう。曹植や曹彰の反乱どころの騒ぎではない。

最悪の場合、山陽公となった献帝を強奪され、劉備の下に走られでもしたら、この国は終わる。そして、徐晃にはそれが成し得るのだ。

曹植、曹彰と言った火種を片付けたとはいえ、数年は動けないと、司馬懿ら参謀は曹丕に進言している。それを容れる事を明言している以上、曹丕は下手に動きが取れないのだ。

「相変わらずおてんばな奴め。 それで、あれはどうするつもりか」

「山陽公と生涯を共にすると言っている様子です」

「好きにさせてやれ」

「は」

面倒くさいものが片付いたと、露骨に曹丕の顔には出ていた。兄弟仲だけではなく、兄妹仲も悪かったのだなと、許儀は思った。

しばらく不機嫌そうにしていたので、無言で焼き菓子の皿を差し出す。頬杖をついてぶつぶつ呟いていた曹丕は、ぱっと顔を明るくした。

「おお、気が利くな」

「不機嫌にばかりなると、胃を痛めるという話です」

「ふん、別に不機嫌になどなっておらん。 それに、焼き菓子だって、無駄にするのがもったいないから、食べてやるだけなんだからな」

そう吐き捨てながらも、黙々と曹丕は焼き菓子に没頭し、おかわりまでした。

 

益州でも、曹丕による即位は、比較的穏やかに伝わっていた。というよりも、喜びではなく不安とともに受け容れられていた。

ここのところ、劉備の人が変わってしまったことは、民の間にも伝わっている。それだけではない。宿将である張飛も、まるで若造だった頃の乱暴者に戻ってしまったようだと、噂されていた。

江東を滅ぼすと明言して、既に軍の訓練は開始されている。旧荊州閥の軍勢を中心に、若手の将校が将軍に引き上げられ、劉備自らが采配して激しい訓練に望んでいた。徴兵も厳しく行われ、民力の低下が叫ばれている。そんなさなかの事件である。江東だけでなく、魏にも大規模な攻撃が行われるのではないか。民の間では、それが不安となって、さざ波のように広がっていた。

陳到は不安げにしている武将達に混じって、訓練を見ていた。鬼気迫る有様で、特に劉備の直営部隊は凄まじい動きをしている。あれならば、一度や二度、江東の軍勢を破ることは造作もないだろう。

だが、こう無理に国力を引き上げようとして、その直後のことである。長期戦になれば物資が続かないだろうし、継戦能力もあまり高くないことが容易に伺える。それに今回の戦いには、張飛以外の宿将は参加しないことも明言されている。この辺りは諸葛亮による人事だ。奴が何を考えているのか、陳到にはわからなかった。

訓練を終えて、劉備が戻ってくる。

以前は劉備について、変わってしまったのか、そうでないのか、わからない部分があった。

だが、今は断言できる。

劉備は変わってしまったのだ。

「どうだ陳到将軍。 軍の動きは問題がないか」

「問題ありません。 私の直属部隊でも、勝てないでしょう」

「そうか。 そう言ってもらえると心強いな」

「しかし、継戦能力はないように思えます。 一気に江東を滅ぼすのはとても難しいでしょう」

劉備はそれに応えなかった。周囲にいる若い将軍達も、それに対してどう応じて良いかわからない様子だった。そのまま、劉備は成都の方に戻った。

総司令官に抜擢されている馮習という男は、荊州の名族出身で、今回の呂蒙による電撃的攻略作戦で実家を失い、復讐心に煮えたぎっている。益州、漢中でも実績を上げている男であり、陳到が見た所それなりの軍才はあるようだが、劉備の指示通りに動くことしか出来ていない。

とてもではないが、陸遜に対抗できる器ではない。もし勝つつもりならば、劉備を補佐し、作戦案を立てられるほどの男が必要だ。諸葛亮が実戦の補佐をしても、今回は勝ち目が薄いのである。馮習程度では、先も見えていた。

「馮習、ゆめゆめ油断するな。 劉備様は、頭に血が上っておられる。 お前が冷静にならなければ、遠征軍は全滅するぞ」

「わかっております」

わかっているように、陳到には見えなかった。

遠征軍の規模はほぼ四万。劉備軍の全軍は十万程度だから、その四割が一度に動員されることになる。関羽軍七万が全滅して、劉備軍の力は大きく削がれた。その上此処で四万が失われたら、損害は更に無視できないものとなる。とてもではないが、他の二国に対抗出来はしなくなるだろう。

一旦屋敷に戻る。

途中、陳式と合流した。今回王甫が荊州方面軍の一翼を担い、黄権がそれを補佐する。陳式は王甫と一緒に出撃することが決まっており、関平もそれと一緒に出る。陳到は中継ぎというところで、永安という土地にて後方支援を担当することになっていた。松葉杖を突いて歩く陳到の側で、陳式が軍に関する情報を報告してくる。それらについては問題がなかった。陳式は良く軍を把握していて、編成にも不足はない。

だが、その後、陳式が言った言葉は、陳到の足を止めさせるに充分であった。

「それと、これは軍とは関係がないのですが。 少し前に宮中から戻ってきた王甫将軍の話によると、宮中が、真っ二つに割れています」

「非戦派と、主戦派か」

「それもあるのですが。 劉備様に、皇帝即位を促す勢力がありまして。 彼らの勢いが、日に日に増しています」

「馬鹿な」

漢中王の時は仕方がないと思った。しかし、皇帝即位というのはどうなのだ。

劉備の戦略は、民を第一にというものだ。それが曹操の、国全体をまず主眼においた戦略に対抗するものだという事くらいは分かっている。今後は曹魏に対抗する戦略が求められることも。

だが既に、流民が国中を闊歩する時代は終わっている。そんな状況で皇帝を名乗るのは、何か危険な印象がある。

ただでさえ、今の劉備は民のことが見えていない。

苦しむ民を蔑ろにして、このまま暴走した先には。董卓や袁術のような、暴虐の君主が誕生するのは目に見えていた。

極めて危うい精神状態の劉備を皇帝にするのは、非常に不安なことだ。大義名分が重要なこともあると、陳到は知っている。だがそれ以上に、劉備を根底から崩壊させかねない皇帝の地位は、歓迎できない。

ましてや皇帝の初仕事を、負けると分かりきっている親征にさせることなど、陳到に出来るはずもなかった。

「宮廷に行く。 諫言する」

「お待ちください。 今の劉備様が、諫言を聞くとは思えません」

「それでも、諫言せねばならん!」

「いけません! それはあまりにも危険です! 今の劉備様に、張飛様以外の何者が、諫言することが出来ましょう。 義父上、どうかおやめください」

義父と呼ばれて、流石に体も止まる。陳式は、劉埼だった男は、あまりにも必死だった。だから、心も動いた。

どんどん、この国はおかしな方向へ動き始めている。

関羽の豹変と破滅は、その先駆けに、陳到には思えていた。

一旦屋敷に戻ると、侍従達に体を揉ませる。医師に無理をすると長生きできないと念を押されたこともある。しっかり体を労るようにと、陳式が口を酸っぱくして言っていることもある。

家族に対して、何も出来なかった陳到だ。

これくらいは、しなければならなかった。

体を揉まれているうちに、眠ってしまったらしい。気付くと外は夜になっていた。居間に出ると、丁度廖化が来ていた。

「陳到将軍。 お体の具合はどうですか」

「ああ、何とかな。 明日、張飛将軍の所に出かけるつもりだ。 供をしてくれないか」

「わかりました。 幸い非番ですので、何とかなるかと思います」

「良い酒が欲しい。 私が飲むのではなく、張飛将軍に渡すものだ」

廖化が使用人を手配して、すぐに買いに行かせる。

成都の街は、十万を超える人口を有する、中華でも指折りの巨大都市だ。戦乱の荊州にあって確実に人口を減らしている襄陽を既に規模では上回っており、許昌や?(ギョウ)につぐ規模を誇っている。江東の建業でもこれほどではない。

だから夜になっても明かりは絶えていない。今の時点では、という断りを付けなければならないのが、悲しい所なのだが。

廖化はすぐに酒を買ってきた。江東の方で出回っている、酒を煮ることによって度数を上げた、強烈なものだ。普通の酒よりも十倍以上は度数が強いようで、少し舐めただけで陳到は顔をしかめた。医者が何を言うか知れたものではない。

自分用には、いつも飲んでいる度数が低めの果実酒を用意する。そこそこに良い味の酒で、安くて美味いので重宝している。もとより酒はあまり飲まない方なので、これで充分なのだ。この酒は、南蛮と言われる南の方からもたらされたものであり、安い上に大量に出回っているので、陳到には嬉しい存在だった。

廖化も、今の状況については、不安を持っているようだ。侍従に酒を注がせると、色々と不満を口にする。

「やはり、劉備様は即位を為されるようです。 魏に対抗するには、自分が漢の正統であることを示す必要があるとか」

「そんなものに何の意味がある。 漢など、とっくの昔に滅んだ王朝で、誰もその復活など望んではいない。 しかも黄巾党の乱は、漢が自ら招いた自業自得の結果だ。 それ以上の混乱も、半分以上は漢の責任ではないか」

皇帝に責任はないと強弁することも出来るかも知れない。しかし、漢に巣くっていた二つの悪逆、宦官と外戚が全てを破滅させたのは間違いない所である。 そして霊帝とその前後の皇帝達は、連中に対してまともな対抗策さえ打てなかった。

劉備には悪いが、漢は滅びて当然の王朝だったのだ。そう、今では思う。

だから、民を救うために行動する所は許せる。逆に言えば、それを大まじめに実行していたから、劉備には深い忠誠心を感じていたのだ。だが、漢王朝を復興して、魏に対抗するという点ではどうしても納得できない。

しかし、今更劉備に反旗を翻すつもりもない。失う家族や名誉も無いとはいえ、ずっと忠義を誓ってきた相手だ。それに、劉備の良い所も間近で散々見てきている。全て理詰めで、否定することなど出来なかった。

客人が来た。

ジャヤを連れた趙雲だった。

ジャヤは二人目を産んだばかりだが、相変わらずすらりとした体型で、腕も衰えていないように見える。趙雲もかなり髪にも髭にも白いものが増えてきているが、それでもやはりこの国を代表する武人に代わりはなかった。

趙雲も、やはり皇帝即位に不安を持っている一人のようであった。廖化が張飛用の酒を買ってきたのを見て、それを悟ったらしい。

かって武術を競い合ったジャヤは、衰えきった陳到を見て、失望を目に湛えた。陳到も、自分の衰えた姿を情けなく思う。

「陳到。 まさか貴方が、其処まで衰えるとは」

「最早走ることも、馬に乗ることも出来ぬ。 腕力も衰えてしまってな。 弓矢を引くことも難しい」

「何と惨い。 貴方ほどの戦士が、そのような。 趙雲、私も、いずれそうなるのだろうか」

「止せ、ジャヤ。 一番辛いのは陳到どのなのだ」

趙雲が首を振ると、ジャヤはそれ以上の言葉を止めた。

無言で、三人で酒を飲む。やはり、劉備が漢中王になった辺りから、全てがおかしくなったというのが、結論であった。廖化が新しい酒を注ぎに来る。趙雲は、それで、やっと本題に入った。

「そういえば、徐晃に囚われたという陳到どのの子息について、確報ではないが情報があったぞ」

「本当か」

「ああ。 徐晃に洗いざらい吐いた後、放逐されて、魏の国内にいるらしい。 今では屯田兵の一人として生活しているそうだ」

「そうか、良かった」

甘ったれたあの息子も、それで少しは性根を入れ替えることだろう。もとより軍事機密の類は何一つ教えていない。不思議な話だが、今の劉備よりも、敵としての徐晃の方が信頼できる。散々苦労させられた相手だというのに、不思議であった。

動悸が乱れてきたので、酒を止める。まともに動かないこの体が口惜しい。こうしている瞬間も、どんどん体が衰えているのが、実感できるのだ。

「魏では軍の配置が大きく変わっている。 魏延の情報によると、長く西涼で屯田をしていた韓浩が引退して、今では張?(コウ)がそれに変わっているらしい」

「厄介だな。 手強い相手だ」

「話によると、韓浩は曹丕の即位前後のごたごたで、最後の活躍をしたそうだ。 許昌を五万の手勢で守備して、治安を完璧に守ったとか。 誰もが引退を惜しんだそうだが、本人が心身の衰えを理由に固辞したそうだ」

「まさに有終の美だ。 武人として最前線で死ぬのも良いが、そう言う終わりも迎えたいものだな」

韓浩の最後の仕事に、憧れてしまっている陳到がいる。既に、まともに剣も触れず弓も引けないからだろうか。

指揮能力に関しては、衰えてはいない自信もある。だが、兵士達はこんな情けない自分を、どう思っているのだろう。

医師が来て、そろそろ寝るようにと言った。

寝台に寝かされて、其処から趙雲達を見送った。はずかしかった。だが、趙雲達は何も言わなかった。ジャヤは露骨に悲しそうに眉をひそめてさえもいた。

ずっと昔。

新野にいた頃、弓矢の成長を競った。

今は腕も引き離され、それどころか弓矢を引くことさえ出来なくなってしまった。

歯がゆかった。

 

翌朝。陳到は輿を用意させて、張飛の陣営に急ぐ事とした。早朝に起き出したので、使用人達も眠そうな目を擦って、準備を整えてくれた。最近、朝が早くなりすぎている。これも、老いから来るものなのだろうか。

張飛の所には、陳式と廖化も着いてきた。輿に乗り込む陳到に、足早に駆け寄ってくる。

「おはようございます。 張飛将軍の所へ、ですか」

「そうだ。 既に使者は出してある。 関羽どののようなことになっていなければ、会ってくれるだろう」

それは希望的観測に過ぎなかった。

以前関羽を諫めた費詩が、この間這々の体で張飛に追い返されたという話を聞いた。張飛は相当に荒れているという。無理もない話だ。関羽が彼にとってどれだけ大きな存在だったかは、わざわざ言わなくても良いほどのことだ。

陳到は劉備の義勇軍に参加したが、その時既に三兄弟は揃っていた。劉備は長兄として関羽と張飛を良く纏め上げていた。粗暴だった張飛も、関羽の言うことはとても良く聞いた。陳到が直に見て、感じてきたことだ。

親子の絆をついに作ることが出来なかった陳到とは違う。劉備と関羽と張飛は、並の家族よりも、ずっと強い絆で結びついていた。

だからこそに、喪失の痛みもとても強かったのだろう。

黄忠の葬儀など、公式の場で顔を合わせた時には、会話もしたし、ある程度平気な風を装っているようにも見えた。

だが、無理をしているのは、長いつきあいだからわかっていた。

途中、簡雍に会った。簡雍は相当に老け込んでいる。少し前に公務から引退して、今は悠々自適の生活を送っているようだが、政務に関しては時々劉備がまだ助言を求めたりもするようだ。

広域戦略を得意とする諸葛亮に対して、簡雍は草の根の情報に詳しい。同じく糜竺もそう言う意味では民政派だが、彼の専門は経済だった。

「おお、陳到。 何処へいくのかね」

「張飛将軍に、頼み事を」

「そうか。 儂も同行するか」

いやといえる雰囲気ではなかった。簡雍は輿の側で、痩せた驢馬をぽくぽくと進める。担いでいるのは釣り竿で、質素な格好もあって、まるで仙人か導師のようであった。

兵士達の中には、簡雍を知らない者もいるらしい。あれは誰だとか、簡雍将軍だろとか、会話しているのが聞こえてきた。今日は軍務ではないし、彼らの気が緩んでいるのは仕方がないことだが。創業の最古参が、そのように兵士達に認識されているのは、とても悲しいことであった。

途中、簡雍が釣り竿を落としかける。慌てて陳式がそれを支えた。かって、したたかさで劉備軍での地位を確保していた男も、もうすっかりただの老人だった。

「やれやれ、儂も耄碌してしまったのう」

「それは私もです。 もう弓も引けません」

「それでも戦場に残っている。 大したもんだよ」

「皆迷惑に思っているでしょう。 情けない話です」

お互いに乾いた笑いが漏れた。どうにもならない衰えが、悔しくて仕方がないのだ。比較的老いが緩やかだったらしい曹操や、老いても並の兵士が束になってもかなわなかった黄忠などのことを思う度に、羨望を感じてしまう。

張飛の陣営は、江東攻略に向けて、凄まじい調練を繰り返していた。今も外で歩兵と騎馬隊が模擬戦闘をしている。とてもそこには入れないので、輿を降りて、まずは約束の話を門番に。陳到を見て頷いた兵士は、陣の方へ駆けていった。

少し待たされる。

簡雍が居眠りしかけたので、軽く揺すった。簡雍はびくに入っている魚を見せてくれた。

「早朝に釣ったのだ。 美味い魚だぞ」

「張飛将軍も喜ぶことでしょう」

「どうかな。 彼奴はそなたの酒の方を喜びそうだ」

奥に通して貰った時は、ほっとした。

だが、それも一瞬に過ぎなかった。

張飛が来た。息を呑んでしまった。

髪は真っ白になり、目の下にはどす黒い隈がある。髭にも白いものが混じり始めていて、それだけではない。天幕に入ってきた瞬間、毒の酒の匂いが、辺り一帯を満たしてしまった。

手には人間の頭ほどもある巨大な徳利を手にしている。其処からは、禍々しいまでの酒の匂いが漂い来ていた。

目は血走っていて、まるで戦場にいるかのようだ。護衛らしい兵士達の顔には青あざも見えた。何が起こっているのか、一瞬陳到は理解できなかった。

「どうした、二人とも。 今は調練中だぞ」

「昨日、使者を出したはずです」

「ああん? ああ、そういえばそうだったな。 すまん。 思い出した」

ぐびりぐびりと、張飛は徳利を煽った。ますます周囲の酒の匂いが強くなる。頭がくらくらしてきた。

やはり、危惧したとおりだった。

「張飛どの。 魚を持ってきたでな。 焼いて喰うか」

「おお、気が利くな、簡雍」

「私も酒を持ってきました。 なかなか手に入らない銘酒です」

「おお、陳到も」

張飛が涙を流しているのを見て、ぎょっとしてしまう。

張飛は涙混じりに、喋り始めた。

「兄貴の仇を、一刻でも早く討ちてえ」

「呂蒙は既に死んでいます」

「わかってらあ。 だから、江東を纏めて焼き滅ぼすのよ。 その後は魏だ。 彼奴らも、皆殺しにしてやる」

酒臭い息を吐き出して、張飛が笑った。笑い声の中には、確実に濃厚な狂気が混じり込んでいた。

駄目だ、話が通じる状態ではない。

酒の毒をどうにか抜かないと、命さえ危ないのではないのか。そうとさえ、思えてくる。

不意に、張飛の表情がしらふに戻った。

「陳到、簡雍」

「はい」

「どうしたのかな」

「俺が、それに劉備兄貴がどうにかなっちまったら、この国を頼む。 情けねえ話だが、もう俺は復讐戦の事しか考えられねえ」

不意に張飛が雄叫びを上げた。

その表情からは、一瞬のしらふはかき消えていた。そのまま天幕を飛び出す。怒鳴り声がした。多分、動きが遅い兵士を叱責しているのだろうが、正気とは思えない叫び声だった。

首を横に振る簡雍。廖化はずっと青ざめて、様子を見守るばかりだった。関羽に続いて張飛がこれである。無理もない話であった。

「駄目だ。 あれが張飛とは思えん。 あいつは侠気があって、兵士達に乱暴なことはあっても、最低限の一線はわきまえている男だったのに」

「簡雍どの」

「すまん。 儂はもう、完全に引退する。 近々張飛どのも劉備様も亡くなられるのは間違いないだろう。 そんな有様を、見ていたくない」

簡雍はふらふらと張飛の天幕を出て行って、それきり戻ってこなかった。

陳到も、天幕を出た。

遠くで、馬に跨った張飛が、目を血走らせて部下達に叱責をとばしている。

兵士達の目に、恐怖以上の怒りが宿り始めているのを、陳到は感じ取っていた。これでは、張飛はそう遠くない未来、滅ぶことになってしまうだろう。この時代、無償の忠誠などと言うものは存在しないのだ。特に兵士達や下級の武将にとっては、己が生きるために必要な相手に着いていくという思想がある。

「一体、この国はどうなってしまうのだ」

別れる寸前、簡雍の老いた両目からは、涙が流れ落ちていた。現実主義者で、したたかに世渡りをしてきた簡雍だというのに。

ぐっと唇を引き結ぶと、陳到は決めた。

後一人、何とか事態を収拾できる可能性がある人間がいる。

出来ればあたまは下げたくない。それどころか、事態の黒幕である可能性さえある男だ。しかしその知謀は、間違いなく三国随一。誇りさえ捨てることが出来れば、これ以上頼ることが出来る男はいないだろう。

男の名は諸葛亮。

今、成都の片隅に、質素な庵を建てて生活している。

その質素な生活が、様々な悪評があっても、諸葛亮の地位に対してけちを付ける者がいない要因ともなっていた。

贈り物の類はまず通用しない。諸葛亮は清廉な生活をしていることで有名で、賄賂など持って出れば投獄されかねない。本人の欲望が気宇壮大過ぎるのか、或いは極端に少ないのか、どちらかだろうと噂されているのだ。

廖化が、決意を決めた陳到を見て、顔を強張らせた。

「陳到将軍、何処へ行くのです」

「諸葛亮の元へ」

「まさか。 諸葛亮どのにあたまを下げるのですか」

「今はもう、他に頼れる存在がいない。 奴が黒幕という可能性さえあるが、それでも何もしないよりは、事態が収拾できる可能性が高い」

陣を出ると、輿に乗り込む。ずっと黙り込んでいた陳式が、悲しげに歎息した。

兵士達に諸葛亮の庵へ向かうように指示をすると、陳到は臍をかんだ。もしも奴が話を聞くとして、どうすれば良いのか。諸葛亮自身に忠誠を誓えば、行動してくれるのだろうか。

諸葛亮にしてみても、この国が滅ぶのは好ましくないはずだ。奴が劉備と戦略を同じくしていることは、陳到も知っている。だからこそに、奴はこの国にいるのだ。そうでなければ、今頃魏に潜り込んで、辣腕を振るっていることだろう。

いつの間にか、簡雍はいなかった。そういえば、いなくなったのだと、陳到は今更のように思った。

伝令が来る。

そして陳到を見つけると、慌ただしく下馬した。

「陳到将軍、ご注進です」

「如何したか」

「漢中王が、即位を決められました。 すぐにでも、成都宮廷にお越しください」

目の前が真っ暗になる。

全ては遅かった。

 

3、張飛の死

 

宮廷と言うにはあまりにも質素。だが、基本的な設備が全て揃っている。

かって此処は、漢の皇族の一人である劉焉が、中原の争乱を見ていち早く独立勢力を築き、場合によっては新しい王朝を作ろうとした場所だ。当然即位も視野に入れていたはずで、そのための設備が多々揃っていた。何と、玉爾までもある。複製品だが、完成度は非常に高く、陳到には本物としか思えなかった。

居並ぶ列臣の比較的上位に陳到はいる。多分過分な地位を貰うことになるのだろう。

だが、まるで嬉しくないのはなぜか。

壇上でふんぞり返っている劉備の目に、狂気が宿っているからだろうか。

傲然と佇んでいる諸葛亮が、その側に控えているからだろうか。

国号が、式典の中で発表される。

もちろん、漢であった、

しばらく虚しい式典が続き、ようやく終わったのは深夜だった。疲れ果てて陳到が屋敷に戻る。

寝台に腰掛けると、途端に痛烈な疲労が全身を掴んだ。汗が全身から噴き出してきて、動悸が乱れてくる。目が回る。医師が異変に気付いたらしく、慌てて飛んできた。不味い薬を口元にあてがわれ、必死に飲み干す。

横になると、額を拭われた。服を脱がされて、全身の汗を拭われているらしい。

「わ、私は、どうなったのだ」

「心労が、体を蝕んでいたようです。 しばらくは安静に為されませ」

「いかん。 今、かなり国が危険な状態なのだ。 寝ている訳には」

「私にとっては、貴方という患者を治す方が大事です。 国には諸葛亮様を一とする、若き英傑がいるではありませんか。 彼らにお任せなさい」

その諸葛亮がと、叫ぼうとして、出来なかった。

気がつくと、昼間だった。丸一日寝ていたのか。全身の発汗が酷く、まるで滝にでも打たれたかのようだった。寝台も酷く濡れている。

体を起こして、歩こうとしたが、つんのめりかけた。

ばたばたと忙しく使用人達が走り回っている。何だか、いやな予感がした。

「誰か、いないか」

二度呼びかけても返事無し。三度目で、やっと血相を変えた陳式が来た。

「陳到将軍、お目覚めですか」

「何か、あったのだな」

「はい」

陳式が俯く。それだけで、何が起こったのか、大体わかってしまった。

「張飛将軍が、死んだのだな」

陳式の返事はなかった。

だからこそに、それが真実を言い当てているのだと、陳到は知ってしまった。

天を仰ぐ。

どうやら、運命は、この国を徹底的に見放すつもりらしかった。しかし、嘆いてばかりいられないのも、陳到の辛い立場である。それに、状況次第によっては厳戒態勢を取らねばならない。

場合によっては、即座に江東か魏との交戦さえありうる。使用人を呼び、鎧を身につける。毎年少しずつ軽くなる鎧。これが重くなることは、近年無い。今では、とても実戦には耐えられない、とても薄い鎧に成り下がっていた。

外には兵士達が集まり始めていた。陳式が呼び集めた兵もいる。すぐに輿を担がせる。医師が出立を止めようとしたが、今回ばかりは聞いてはいられない。輿が出て、軍の本部に向かう。当然のことながら、成都は騒然としている様子だった。

漢中方面に馬超が出ているため、この辺りで一番大きな戦力を持っているのは、何と陳到である。馮習、張南らの江東攻略軍は攻撃の編成をされていても治安維持の訓練は受けていないから、兵種として不向きだ。王甫は国境付近にて訓練をしているし、張翼らの諸将は各地に転々と散っている。此処はまず陳到が動かなければならないのである。

軍部に着くと、既に廖化が出てきていた。

「陳到将軍」

「廖化、状況を」

「はい。 張飛将軍は、どうやら身内に暗殺された模様です」

「そう、だろうな」

それ以外に考えられない。関羽を失ったことで、明らかに張飛は精神の均衡を失っていた。

張飛も地獄の戦乱を生き抜いてきた豪傑である。その悲しみは時間が解決したかも知れないが、少なくとも兵士達は、張飛の狂気に耐えられなかった。あの様子では、側近達にも些細なことで暴力を振るっていたことは疑いない。そして、それは当然、常人ならば死を予感させるものであっただろう。

張飛の武勇は人並み外れていた。多分現時点での中華では最強の存在であった事は疑いない。馬超や許?(チョ)でさえ、一歩及ばなかっただろう。それはつまり、その暴力が、既に凶器の域に達していることも意味していた。

あのまま天幕にいたら、陳到や簡雍も、暴力の標的になっていたかも知れなかったのである。

「下手人については調査中ですが、補給を担当していた二人の将校の行方がわからなくなっていて、今所在を確認中です。 恐らくは、江東に逃げ込んだものと思われます」

「他に道もあるまい。 張飛将軍の亡骸は」

「胸を一突きされていました。 しかし、妙なことがございまして」

「というと?」

現場は、明らかに一人分以上の血の海だったという。

中には肉片らしきものもあり、二人の将校もその場で死んだのではないかと思われる節があるらしい。

張飛自身も、泥酔していた所を刺されたようなのだが、しばらくは生きていたようだと、廖化は報告書を書いていた。確かに死体の状況は不自然で、何かと戦って果てたかのようにも思える格好で息絶えていたというのだ。

いずれにしても、これで劉備の狂気は最早手が付けられない所まで行ってしまうだろう。張飛の死を悼むよりも、それによるさらなる悲劇の方が、陳到には苦しく思えるのだった。これから苦しむのは民だ。戦で家族を失い、或いは土地を失う。一番酷い目に会うのは、農民なのだ。

江東はもちろん、そのままでいて良いはずがない。しかし稚拙な侵攻計画は、それを助長させるだけではなく、長期的には負の面しかない。だが今の劉備を、止めることなど出来るはずもなかった。

ほどなく、劉備が来た。

息を呑んだのは、その形相を見たからだ。劉備は、口の端に泡まで浮かべていた。

「陳到将軍」

「陛下」

「また、江東の仕業なのだな」

「現在調査中です。 下手人は、張飛将軍の部下達なのは間違いないのですが」

劉備が絶叫した。周囲の将軍達が、驚いて硬直する中、陳式だけが駆け寄ってその背中を支えた。

張飛の霊がとりついたかのようだった。目はぎらぎらして血走り、あらぬ事を口走っている。既に精神が均衡を保てていないのは間違いない。

無理もない話だ。関羽に続いて、張飛までも失ったのである。並の家族よりずっと深い絆で結びついた刎頸の友であり義兄弟が、みんな遠くへ行ってしまったのだ。走り寄ってきた趙雲が宥めて、担架を呼ぶ。侍従達が担架に乗せて、劉備を運んでいく。趙雲は血を吐きそうな表情をしていた。

「騒がせた。 すまない」

「陛下は大丈夫か」

「大丈夫だが、周囲が危ないな。 兎に角今は、側に剣や槍など置いておくな」

劉備は武勇の大将ではないとはいえ、それなりの武勇はある。当然の話で、歴戦を重ねてきた戦場の勇者だからだ。無能だとか戦の指揮は下手だとか噂が流れているが、とんでもない話である。

この乱世を生き残り、百戦を重ね、傭兵の隊長に近いことをしながら生き残ってきた男なのだ。無能な訳がない。無能だったら、若い内にその辺でのたれ死んでいたことだろう。当然武芸も人並み以上に出来る。

それが、今は逆に危ないのだ。

手を叩いて、ざわつく辺りを鎮める。

「今は治安維持だ。 廖化、張飛将軍の葬儀の手配。 それと、死因についての特定を急げ。 兎に角、結論を急ぐな。 確実に、精確な結果を出せ。 特定が終了したら、作業は文官に引き継げ」

「は。 わかりました」

大物の文官のうち、劉巴は張飛と犬猿の仲だった。そうなると、生真面目で知られる董允辺りが適任だろうか。廖化は若干小粒だが、判断力はいつも確かだ。張飛を辱めるようなことはないだろう。

「陳式。 五千を率いて、成都を巡回。 治安を維持せよ。 厳顔将軍も、同じく五千を率いて、周囲を巡回。 賊の類の跋扈を防げ」

「承知いたしました」

去年頃から、めっきり老け込んだ厳顔も、鷹揚に頷くと軍本部を出て行った。更に陳到は、指示を続ける。

「李厳将軍。 白帝城に、兵八千を率いて出動。 江東の軍勢が奇襲を仕掛けてくる可能性がある。 それを防げ。 これは最精鋭を優先して出動せよ」

「わかりました。 直ちに」

「張苞将軍は」

見回すが、いない。流石に無理があるか。父が死んだのである。目を閉じて、陳到はそのとき始めて、張飛の死を悲しむことが出来た。ずっと昔からの戦友でもあった男だ。悲しくない、訳がない。

「馬忠、張疑の両将軍は、五千を率いて南下。 南蛮の蠢動に備えよ」

「わかりました」

他にも様々な方面に兵を派遣すると、三千程だけが残った。

いずれも二線級の部隊ばかりであり、数あわせくらいにしか使えない。だが、劉備がもし破れかぶれの無茶な行動を取った場合、重要な戦力になってくる。

「残りの三千は、鍛え直しておくか」

「陳到将軍?」

「先を見越してのことだ」

其処で、ようやく陳到は腰を下ろすことが出来た。

医師にこれから散々小言を言われるだろう。だが、それも仕方がないことだった。

のそりと、長身の人物が現れる。顔を上げると、諸葛亮だった。当然のように、劉備の即位に併せて宰相に出世している。

「陳到将軍」

「これは宰相殿」

「挨拶は良い。 まずは見事な指揮でした。 今の時点では、問題点は見あたりません」

上から目線で言われるのも仕方がない。諸葛亮の地位は、今や陳到よりも遙かに上なのだ。

入蜀の頃は、此処までの格差はなかった。だが、?(ホウ)統が死に、法正も命を落とした今、諸葛亮は並ぶ者無き権勢を誇っている。そして劉備が完全におかしくなった現状で、この男以外に、漢を纏められる存在はいないのだ。

「しかし、此処からは私の指揮に入って貰います。 よろしいですね」

「わかりました」

「既に派遣した将軍達を戻すことはありません。 適任ですから。 ただ、廖化の捜査だけは、私が後から代わります」

何だか、いやな予感がした。顔には出さないようにしたが、諸葛亮は指揮を引き継ぐと、てきぱきと動き始めた。

この男は恐ろしく頭がよい上に、とんでもなく有能だ。だが、何処かで信用しきれないものがある。

或いは、何か隠すべき事があったのではないのか。

そう、陳到は思った。

 

「おのれ、どうしてこのようなことに」

林はぶつぶつ悪態をつきながら、闇の中を歩いていた。夜の成都である。一見すると不気味なのに、どうしてか林に兵士達も通行人も気付かない。気付いたとしても、無意識で避けてしまう。

手にしているのは、張達だかなんだかいう男の首を布で包んだものである。あまりにも腹立たしいので、此奴の部下の氾某もろとも、八つ裂きどころか原型が無くなるほど刻み散らしてやった。今頃現場では、ろくな痕跡も見つけられず、困惑していることだろう。それほど千々に砕いてやったのだ。

周囲を、陳式の軍が警備している。陳式の首をこういう風に引っこ抜いても面白そうだが、止めた。

今日は日が悪い。出直すことにするべきだった。

無造作に首を放り投げると、柳刀を振るって粉々に。肉片はどれも飲み水の井戸に落ちた。翌日、肉片を井戸水に見つけた住民が悲鳴を上げるだろう。知ったことではない。むしろ、ざまあみろだ。

成都で、本拠にしている廃屋に。

少し前に腐屠(仏教)の坊主どもが作った寺院だが、すぐに廃れてしまった。仏像も持ち去られ、今では中に林と部下しかいない。盗賊もいたのだが、劉備の配下の軍勢はしっかりしていて、間もなく何処かに姿を消してしまった。捕らえられたのかも知れない。

部下が数名、闇の中から現れる。いずれも激戦の中、超一流まで育ち上がった者達だ。シャネスに対しても、二人がかりでなら良い勝負が出来るだろう。

「林大人、ご首尾は」

「失敗したが成功した」

「はあ?」

「張飛は死んだ」

忌々しげに吐き捨てる林を見て、部下達が少し下がる。本能的に危険を察知したのだろう。

林は、張飛を暗殺しに来ていたのだ。どうやら曹丕は、まず蜀の地に「再興した」漢を徹底的に潰すつもりになったらしい。他にも細作は入り込んでいるが、いずれも諸葛亮配下の細作と、シャネスに踏みにじられている。だが、それ自体が、全て陽動だったのである。

しかしながら、諸葛亮は敢えて林の行動を見逃していたとも言える。その判断は正しかったのだと、今になって思えてきていた。

諸葛亮の思考が、少しずつわかってきているのだ。林には。

「それで、何があったのですか」

「聞きたいか」

部下達の前で、林は腰を下ろす。一人、焼き菓子を持ってきた。それを頬張りながら、林は回想する。

つい、八刻ほど前の事だ。

林は期待に胸を高鳴らせながら、張飛の陣に忍び込んでいた。

林にとって、人を超えることは、重要なことになりつつある。中華の全てを掌握し、それを己の掌の上で転がす。そしておもちゃ箱として、徹底的にもてあそぶ。それを目標としている林には、今や超人への飛翔は絶対不可欠だった。

だから、中華最強の豪傑である張飛の暗殺は、どうにかして成し遂げたかった。これさえ出来れば、許?(チョ)も殺せるし、恐らくは趙雲も。周泰も当然殺れるだろう。そうなれば、この中華の君主全てを、闇に屠ることが出来ると言うことだ。

素晴らしい。何度も口の中で呟き、林は殺気だった陣の中を進む。完全に気配を消しているから、兵士達は例え足音を立てても、林には気付かなかった。流石に歴戦の猛者はそれでも気付くから、林も緊張したが。しかし、この腸が焦がされるような緊張感が、却って気持ちよかった。

張飛の天幕は、事前に十三回忍び込んで、確認している。

林は己の能力を一切過信しない。現実的に見ているからこそ、邪悪なまでに精確な活動が出来る。己の野望に向けて、確実に進むことが出来る。

舌なめずりすると、陣の最深部へ。闇と一つになって、足音もついに消した。口に含んでいる布のため、呼吸音も外に漏れてはいない。

大きないびきが聞こえてきた。張飛だ。

衰えたなと、林は嘲笑した。以前の張飛であれば、この距離まで来れば、寝ていても気付いたのに。

だが、その嘲笑は間違っていた。

張飛のいびきが、止んだのである。そして、起き出す気配。一瞬だけ戦慄。だが、昂揚。そうだ。これでなければならない。仮にも中華最強の豪傑を暗殺するのだ。これくらいの障害があってこそ。そしてそれを乗り越えた時、林は真の邪神に変貌を遂げるのだ。

不意に、周囲にわき出す気配。

細作のものだ。しかも極めて稚拙。これは、諸葛亮配下でも、陽動のために潜り込んでいる友軍でもない。恐らくは、素人。江東で諜報をしているのは、諸葛亮が四家に貸し出している連中だから、違う。

側で、此方を伺っている将校が二人いる。

見たことがあるそれは、顔に大きな傷を作っていた。そうだ。昨日忍び込んだ時、張飛が殴りつけていた者達だった。動きが悪いとか何とかいっていたが、張飛軍の凄まじい機動力は維持されていた。つまり、張飛の狂気が、発散先を求めたのだろう。しかもその二人、確か張達だか氾某だかは、ずっと目の仇にされていた。

張飛が天幕を出てくる。

その殺気、あまりにも凄まじい。

「貴様ら! 何をしているか!」

怒号。同時に、細作達は全身を雷に打たれたようになり、我先に散る。無理もない話である。あの練度で張飛の殺気を浴びて、耐えられる訳がない。

馬鹿二人も逃げようとしたが、ふと林は気付く。周囲の兵士達が、誰も反応していない。

否、違う。

誰もが、見て見ぬふりをしている。

歴戦の兵士達なのに。張飛に対して、此処まで鬱屈が溜まっていたのか。それはそうだ。今の張飛は、最早かっての豪傑ではない。酒毒に脳を侵され、目に着く相手に手当たり次第難癖を付けて暴力を振るう、悪鬼のような存在と化してしまっている。

舌なめずりした林。

張飛は、不意に正気に戻ったようだった。そして、自分が果てしない孤独の中にいることに、気付いたのだろう。はらはらと落涙する。

飛び出したのは、張達だった。

しまったと、林が呟くよりも、張達の動きが速い。流石に張飛が鍛え上げていた男だけのことはある。

狂気は伝染する。

恐らく理不尽に散々こづき回されたからだろう。張達の目には、張飛と同じ、果てしない闇が狂気となって広がっていた。

張達の剣が、張飛の胸に潜り込む。天幕の中に、後ろ向きに張飛が倒れた。

林は確かに聞いていた。張飛は、最後に言った。

すまなかった、と。

自分のしでかしたことに、それで気付いたか。張達が、見る間に青ざめていくのがわかった。

林が闇より姿を見せる。

氾某も、林に気付く。呆然としていた張達も、また涙を流し始めていた。

「お前が、林か」

「そうですよ。 私が林です」

果てしない怒りが、林の胸の内を焦がしていた。

豪傑が、こんな死を迎えるだと。

張飛は、自害したも同然だ。それも、完全に狂気に落ちる前に、である。最後の理性が、張飛を殺した。志よりも、張飛は選んだのだ。豪傑としての名誉を。それによる、速やかなる死を。

仰向けに倒れている張飛の死骸は、安らかな笑みを浮かべていた。

あれだけ狂気に侵されていた男としては、考えられないほど、静かな死に顔だった。それが余計に、林の怒りを煽った。

だから、敬語になる。明らかに格下の相手に対しても。

「殺してくれ」

鼻を鳴らした林は、己の怒りを、完全に解放した。

原型をとどめないほどに二人を切り裂き、赤い霧にしてしまう。そうでもしないと、自分が抑えられそうになかった。

どうしてこうなる。

どうしてこうなった。

柳刀を振り終えると、林は呟く。

張飛は恐らく、林に気付いていた。周囲に一杯いた、賊崩れの細作もどきにもだ。

だからこそ、部下に殺されることを選んだのだろう。せめてもの武人の死を迎えたかったと言うことだ。

張達とやらも、それに気付いた。

だから、逃げようとも抵抗しようともせず、林に討たれたのだ。

狂気だけが残った。

林の中に。張飛と、張達それに氾某の狂気が。

張飛の首を持ち逃げしてやろうかと思ったが、止めた。何だか全てが馬鹿馬鹿しくなってきた。

お前の好きなようにはさせん。

そう、張飛が言っているようにさえ思えた。首を持っていけば、更に虚しくなってしまうような気がした。

張達の首だけはそのまま切り落としていたので、それを手にして陣を抜ける。周囲の兵士達は、皆、関わらないようにと息を殺していた。だから、脱出は極めて容易だった。

騒ぎになるのは、翌朝、別の部隊にいる伝令か何かが到着してからだろう。

其処まで語り終えると、林の周囲の部下達は、更にもう一歩下がっていた。林から溢れるどす黒い殺気が、まるで物質化したかのように、周囲を覆っていた。

「全く、馬鹿にしてくれたものですね」

つい、敬語で喋ってしまう。

歴戦の猛者達が、超一流の細作達が。指一本動かせずにいた。

「そうか。 私に、あくまで歴史を明け渡す気がないというのなら」

林が口の端をつり上げる。

近くの木にとまっていた鳥たちが、ぼとぼとと落ちる。どれも殺気に当てられて、即死していた。

「ならば、おもちゃ箱にする程度では飽き足りませんね。 徹底的に、混乱の縁にたたき落としてやるとしましょう」

林が顔を押さえたのは。

あまりに邪悪に歪んだ顔を周囲に見せたくないという、生物的なメスの本能が働いたからだろうか。

天に向けて、甲高い笑いをあげる。

そして、林は部下達とともに。成都から撤収した。

 

4、始まりが終わる時

 

陸遜は、軟禁同然の状態にあった。

呂蒙が関羽を討ち取った後、すぐに病死したことで、すぐに陸遜がその後を継ぐことが予想されていた。事実陸遜も、それを考えていた。

だが実際に、荊州方面軍の指揮官に就任したのは徐盛であった。有能で老練な指揮官だが、荊州方面の情勢には疎い。そして陸遜は解任された。暫定司令官の座からは降ろされ、一万の歩兵を預けられただけとなった。

何があったかはわからない。

分かりきっているのは。四家の介入があった、と言うことだけだ。

張昭とも連絡が取れなくなっている。そればかりか、付けられた参謀達は、皆四家の息が掛かっている者達ばかりだ。朱桓も近くにいるが、連絡が取れないように、引き離されていた。

そして、明らかな、劉備による親征が、間近に迫っていた。

どうすればいいのか。

今まで関わろうとしなかった政務に、関わるべきなのか。

悩み、苦しんでいる陸遜の天幕に、徐盛が訪れたのは、そんな日のことであった。古くから江東を支えて来た歴戦の武将だが、やはり風土の違いには苦しんでいるようだった。

徐盛はほお骨が出ている面相をしていて、かなりの異相である。武芸はそれほど優れていないが、兎に角手堅い用兵で知られていて、攻撃よりも防御に秀でた部分があった。陸遜も大先輩である徐盛には、常に敬意をもって接していた。

「急に訪れて済まないな」

「いえ、私に何用でしょうか」

「劉備による遠征が迫っているからな。 荊州で歴戦を重ねた貴殿に、話を聞いておきたいと思ったのだ」

温厚な徐盛は、兵士達からも人気がある。陣頭に出る訳ではないのだが、危険地帯にはきちんと身を運ぶし、一般の兵士達の事も思いやる。ただし、徐盛の裏には四家がいる。何か弱みを握られている可能性が高いと、陸遜は思っていた。

「私に、わかることであれば」

「そうか。 劉備は弱将と聞いているが、それは本当か」

「嘘にございます」

即答した。

なぜかはわからないが、劉備は用兵下手だという噂が流れている。これを信じている武将はかなり多い。呉の史書にも採用されている説だ。

だが、劉備の用兵を研究した陸遜は、それが嘘だと言うことを良く知っていた。

「そうか。 では、念には念を入れるべきだな。 劉備は今回、四万による侵攻を計画していると聞いている。 だから我が軍は、十万を展開させ、縦深陣を張る」

机上に地図を拡げた徐盛が、指を走らせる。

第一陣は藩璋の三万。第二陣は朱桓の一万。第三陣は徐盛自身の二万。更に両翼に四万を伏兵する。伏兵を担当するのは何名かの武将で、歴戦の韓当が彼らを監督する。

いずれも歴戦の武将であり、金に汚く粗暴な振る舞いが多いが、それなりの指揮手腕を持つ藩璋と、若手の中では見事に育ち上がった朱桓が防衛に徹して敵を食い止め、その隙に両翼が一気に押し包むという策であった。これだけで敵の倍の戦力を用意しており、予備戦力として徐盛の二万も控えていた。

流石は徐盛である。見事な布陣だ。これ以上の布陣を出来る武将は、そうそういないだろう。江東を支えてきた名将だけはある。

だが、陸遜は勝てないと判断した。

「駄目です。 勝てません」

「何!?」

「私にも二万の兵をお預けいただけませんか。 この布陣には、大きな孔がございます」

「何と。 申してみよ」

流石に不満げに眉を曇らせる徐盛。陸遜は咳払いすると、決定的な欠点について触れ始めた。

 

にこにこ微笑みながら、士載が原野を走り回っている。それを、遠目に牛金は見物していた。

これが、韓浩が士載を見いだした理由だ。

士載は手に棒を持っていて、本当に嬉しそうな、純粋な笑みを浮かべていた。棒は地面を引っ掻き続けており、やがて全体的な形が見えてきた。

「丸太をお願いします」

手を振った士載が、兵士達に指示。陣を立てるために必要な丸太が、彼方此方に植え込まれていく。

馬防柵が立てられると、牛金は思わず唸っていた。

見事な陣立てだ。隙がまるで見あたらない。

どれだけ軍学を勉強しても、どうしても才能が戦争ではものをいってくる。最初士載が韓浩の前でやっていたのは、もっと小規模な陣立てについてであったという。しかし今士載は、でたらめに走り回るように見せて、実は最初から完成図を頭の中に作り上げていたという事だ。

これだけの広さの陣だと、牛金でも陣立てに少し考え込むだろう。

だが、まるで魚が水の中を泳ぐように、士載は陣立てをこなして見せた。

軍の指揮も悪くないことを、牛金は知っている。最初なよっとした士載を馬鹿にしていた兵士達も、その指揮の結果、模擬戦で常勝不敗となり、小規模な反乱鎮圧などで死者無く任務を達成していくのを見て、心を入れ替えた。

今では主君を支えようとしている兵士達が目立つ。

士載は、剣はまるで駄目だが、それには理由がある。牛金にとって、必要なのは有能な後継者だ。指揮官に必要なのは、剣の腕では、必ずしもないのだ。

士載が戻ってくると、牛金は思わず笑みを零していた。

「見事。 次からは敵国相手の実戦に出て貰うぞ」

「はい!」

嬉しそうに士載が応えた。

兵士達と離れて、屋敷に戻る。屋敷にはいると、使用人達が翠と一緒に夕餉の準備をしていた。

先に士載を上がらせると、牛金は自室に戻る。兜を脱ぐまで、へらへらしている士載は危なっかしくて仕方がない。兵士達にも、既に何名かには知られているらしい。士載は非常に慕われているから、兵士達の間から情報が漏れることはないだろう。

あれは、少年ではない。

韓浩によると、幼い頃に大病で子供を作れなくなったらしい。貧しい民に、機能不全の子供を養う余裕など無い。韓浩が引き取らなければ、士載はその才能を無駄に散らせていたかも知れなかった。

女として生きる道は、士載には無いのだ。

子供が重要視されないような社会ならばともかく、三年子供が出来なければ家に帰されるような現在の社会で、士載に居場所はない。だから、韓浩は居場所を作った。牛金がそれを引き継いだ。

何だか、悪くない気分である。子供が出来た時もそれほど嬉しくはなかった。だが、士載がすくすく成長していくのを見ると、考えが変わり始めている自分に気付く。顔も、時々綻んだ。

報告書を読んでいる内に、どたどたと足音。席に着いたまま、振り返る。

「どうした」

「牛金将軍。 急ぎ軍本部にお越しください」

返事は不要。すぐに鎧を着け直し、牛金は屋敷を出る。士載は必要ないだろうかと思ったが、意外にすぐ準備を整えて、後を追ってきた。

時機から言って、多分劉備による侵攻作戦が開始されたのだろう。

「劉備皇帝が、親征を始めたのでしょうか」

「恐らくはな」

士載の言葉に、無表情で頷きながらも。牛金は頼もしい後進が育つのに、心を躍らせていた。

 

曹丕は不機嫌だった。

劉備の親征にひとしきり文句を垂れた後、焼き菓子を許儀に求めてきた。曹丕にしてみれば、劉備軍の進撃により、せっかく作った秩序が潰れるのが気に入らないのである。曹丕は政務の才能に関しては、そこそこにある。即位してからも、次々と的確な政策を繰り出して、国内を安定させていた。

劉備の領土である上庸に仕込んだ罠は、まだ発火する気配がない。だがそれもまもなくだろう。上手く行けば、蜀漢の力は更に削がれることになる。この辺りを見ても、曹丕は間違いなく有能だった。

皿ごと焼き菓子を受け取った許儀が戻ると、曹丕はとてもそわそわしていた。視線は彼方此方を泳いでいて、焼き菓子が楽しみで仕方がない雰囲気である。

「焼き菓子にございます」

「おお、焼き菓子だ」

手を伸ばそうとする曹丕の元から遠ざける。すっと顔が残念そうになる。

近づける。凄く嬉しそうにする。

何度か繰り返すと、曹丕もぷんすか怒り出す。許?(チョ)はぼーっとした様子で、それを見守っていた。

「許儀ぃ! 何をする! 朕は皇帝であるぞ!」

「もう三皿目でございます。 これ以上はいけません」

「わ、わかっておる。 それに食べた後は歯を磨けばよいのだな」

皿を手元に置くと、子供みたいな笑顔でもくもく食べ始める。

曹丕はこれで良いのかも知れない。普段は心の余裕の無さから、いつも不機嫌そうにしていて、手元も誤りやすい。だがこれならば、適度に不満も抜くことが出来る。それに、許儀としても、見ていて面白い。

要するに、曹丕は真面目すぎるのだと、父から聞いた。

だから、これで良い。

焼き菓子を本当に美味しそうに食べ終えると、曹丕は名案を思いついたようだった。

「細作の部隊を、荊州に。 状況次第では、すぐに我が国も動く」

「わかりました。 すぐに参謀達に手配いたします」

「うむ。 うまくすれば、一気にこの混乱の時代を、終わらせることが出来るかも知れぬ」

そう言い終えると、曹丕はまたそわそわしだした。

でも、四皿目は、出さなかった。

 

(続)