流星雨の夜

 

序、黄昏時の一幕

 

シャネスは小首を傾げながら、古くからの部下達と共に、漢中で仕事を続けていた。諸葛亮の配下の細作達と合流してから、意味不明の命令を受けることはしょっちゅうであったが、いずれも後になってみると意味がある任務ばかりであった。

だから、部下達は、諸葛亮を信じ切ってしまっている。

董白についても、それは同じだ。諸葛亮の陰に隠れてはいるが、膨大な金を隠し持ち、闇の人脈を握っている董白の任務は常に意味不明に思えるが、後になってくると重要な布石となるものばかりであった。

そして今回は、董白からの、直接の任務であった。

シャネスの配下には、三十名ほどの細作が着いて、今漢中を飛び回っている。いずれもが、劉備を歓迎して沈静化した村々を周り、林の配下をあぶり出すものばかりである。しかし、半年以上もこの任務を続けて、既にめぼしい輩は既に刈り尽くしている。以前佐慈という男が淫祠邪教の種をまき散らしていたようだが、その残り香も、既に漢中からは一掃済みなのだが。

なぜ、漢中攻略が終わって半年以上経っている今になって、急に大規模な掃討戦が行われることになったのか。

林本人は、今江東方面に出向いて、そちらで董白が作った闇の人脈と交戦中だと聞いている。

ならば、林に次ぐと言われる手腕を持つシャネスが、手下の大半を率いて漢中で任務をするのも、おかしな話であった。

漢寧に戻り、一旦展開していた細作達を戻す。

漢中での死闘でかなり数は減らしているが、いずれもが歴戦の猛者達ばかりだ。部下の質で言えば、林の配下にも劣らない。一人も欠けていないことを確認すると、シャネスは皆に聞く。

「成果は」

「南部の村で、今だ佐慈の息が掛かった者達が、麻畑を拡げようとしておりました。 既に駐屯軍の陳式将軍に連絡済みです」

「そうか」

「我らが動員されたのは、それが目的だったのでしょうか」

不審げにいう部下達に、シャネスは分からないとしか、応えようがなかった。

漢寧の司令部は、現在空だ。というのも、新しく漢中の太守に命じられた魏延は、自ら少数の精鋭を率いて、長安にいるからである。恐らく張飛が命じられるだろうと言われていた漢中太守を引き継いだだけ有り、流石に魏延は積極的だ。己の能力を全て生かし、長安を落とすための準備を着実に進めている。

だから、司令部に入ったシャネスは、旧漢中軍から抜擢された王平将軍と、最初に出くわすことになった。

現在、漢中の駐屯軍は、陳到将軍を中心にして、若手の指揮官達で纏められている。陳式、廖化の二将の他、新しく抜擢された王平、それに旧益州軍の呉班、呉懿将軍らが交代で各地を守備していた。特に呉懿将軍は、劉備に第二夫人を提供した事もあって、かなり重要な立場になっている人物であった。旧益州軍で最上位にいたこの将軍は非常に穏和で思慮深く、誰からも慕われている。確かに政略結婚ではあるが、誰もが認める皆が幸せになる方法でもあった。

王平将軍は漢中駐屯軍の中では新参だが、しかし有能なことで知られている。少し気難しいが、ずっと下級将校として戦場を駆け回り生き残ってきた男で、立場的には魏延と近いかも知れない。近年は曹操軍の下級将校として漢寧にいたのだが、一連の戦闘の中で退路を失った兵士達を纏め、降伏した。その一連の見事な動きを評価され、劉備に抜擢されたのである。一気に地位が上がったこともあり、評価されたことが嬉しかったのだろう。以降は、劉備に忠義を尽くしている様子である。

ただ、庶民から一兵卒になり、連戦の中で地位を上げてきた人物なので、文字が読めない。今も、部下に口述筆記させながら、竹簡に命令書を書かせていた。気配を感じ取る能力は高く、すぐにシャネスに気付く。

「細作どのか」

「シャネスだ」

「シャネスどの。 何か成果はあったのか」

「いや、ない。 佐慈の残党が網に掛かったが、この規模での内偵にしては些細な成果に過ぎん」

王平はそれを聞くと、すぐに仕事に戻った。此方には興味を全く見せない。大した仕事人間ぶりである。

或いは、劉備への忠誠を、こういう形で示そうとしているのかも知れない。いずれにしても、シャネスが出る幕ではなかった。

外に出ると、何処で戻ったのを聞きつけたか、諸葛亮の配下である細作が待っていた。

この間、定軍山で林を迎え撃った、山越出身の女細作である。名前は一定しておらず、今は竹と名乗っている様子だ。とんでもない怪力で、単純な武力であればシャネスを凌ぐかも知れない。何しろあの林と正面から渡り合い、生き残るほどの使い手だ。並々ならぬ相手であることは間違いない。

竹簡を渡される。命令書だった。

「ご苦労であったな」

「別に」

竹が消えた後には、何も残らない。

もうお前の時代は終わったと言われたような気がして、シャネスは少し憮然としてしまった。

竹簡を開くと、幾つかの指示がある。いずれにしても、漢中関連の任務だ。何かいやな予感が、胸の中で疼くのを、シャネスは感じていた。

 

諸葛亮の部屋に入った董白は、口元を扇で隠した。

何か、夫が始めたことに、気付いたからだ。

夫婦になってかなり時間も経つ。最近では董白も、夫が何か大きな仕事をする時には、気配が読めるようになっていた。諸葛亮も董白に気配を読まれていることに気付いているようで、隠し事はあまりしない。

一心不乱に竹簡に向かっていた諸葛亮が顔を上げる。執務机の上には、無数の竹簡が束となっていた。殆どは仕事上の書類だが、中には細作達に収拾させた、闇の情報も含まれている。

「白。 そちらを見てください」

「ほう、これはこの間の」

竹簡には、羽とだけ書かれている。

荊州に展開している部隊で、関羽に関する情報を扱っている書類には、この文字が書かれているのだ。そしてここのところ、羽の文字が振られた竹簡は、増える一方であった。もちろん中身は暗号化されているが、董白は暗号の解読方法を最初から頭に叩き込んでいる。意味不明にも思える文字の羅列を、即座に解読して、内容を把握していった。

少し前になるのだが。

劉備の妻であった孫夫人が、帰国した。

以前の荊州での小競り合い以降、劉備と江東の中は急速に冷え始めている。決定打になったのは、魯粛の死だ。建国の英雄であるかの人物も、とうとう年には勝てなかった。孫策の挙兵以来江東を支え続けた魯粛が死ぬと、江東の国政はますます混乱し始め、戦略にも方向性が定まらなくなりつつある。

外交を一手に背負っていた魯粛の死後、江東は四家にますます深く牛耳られ、それに反発する勢力が、強硬な外交を主張し始めている。特に荊州方面は、四家から独立している勢力ともなっていて、不穏な動きが見て取れた。

問題は其処ではない。別にそんな事は良いのである。四家は諸葛亮が派遣している細作達によってかなり深い部分まで把握、操作されている。歴代の当主はいずれも金の亡者達で、操りやすいことこの上なかった。

別に問題はある。

それは、関羽だった。

法正が死んだ今、元々広域戦略を任されていた諸葛亮は、参謀としての役割も任され始めている。それが故に各地の武将達にも指示を出しているのだが、一人だけ、まともに言うことを聞かない男がいるのである。

それこそが関羽。荊州方面の軍事を劉備に任されている、劉備軍の最重鎮。劉備の義弟にて、恐らく一部隊を率いての戦闘に関しては中華随一の実力者。

だが、軍団を率いての戦闘に関しては経験が足りないし、政治関連にも手腕が足りていない。だから、諸葛亮は、様々に細かい指示を与えているのだが。関羽はまるで話を聞こうとせず、諸葛亮が構想する未来の形を乱そうとばかりしていた。

「完全に制御不能ですね」

「ええ。 劉備様から声を掛けさせても、話を聞こうとしません。 思うに、関羽将軍は、あまりに大きくなりすぎてしまったのでしょう。 武人としても大陸を代表するお方でありますし、過剰にふくれあがった自信が、己の欠点を見る目を潰してしまった、という所でしょうね」

たまに、それはあることだ。

偉大すぎる功績を挙げた将軍や君主が不意に傲慢になったというような記述は、史書を見れば、枚挙に暇がない。

元々関羽は士大夫階級の人間を馬鹿にしている傾向があり、将軍や文官達の間では評判が著しく悪い。その上、このまま行くと、下手をすると関羽の子孫の代には、荊州は独立勢力となってしまう可能性もある。

「それで、あなた。 どうなさるのです」

「白。 貴方なら、分かっているでしょう」

「……やむを得ない、と言うことですか」

「四家の手綱は此方が握っています。 荊州を失うことには、さほど損もありません」

さらりと、諸葛亮が言い放つ。董白は眼を細めて、夫の様子を見守った。

この時。

劉備軍の柱石として、その軍事を支え続けた男の。運命が決まったのだった。

 

1、関羽の闇

 

益州では、式典が大々的に行われていた。漢中に駐屯していた曹操を打ち払ったこともある。それにより、劉備が漢中王を名乗ったからである。

曹操が少し前に魏王を名乗ったので、それに対抗したと言うこともある。一応献帝の許可は得ているという事になっているが、事実上は、自称に過ぎなかった。

漢中攻略戦後、関羽、張飛、黄忠、馬超の四将は、その抜群の功績を称えられて、それぞれ前将軍、右将軍、後将軍、左将軍に任命された。

文官の費詩が、やれやれと呟く。きらびやかな式典の最中のことである。

「関羽将軍は黄忠将軍と同格になることを不快だと言っていましたが、何という浅慮な」

「それは本当か」

「はい。 関羽将軍はここのところ妙に誇りばかり高くなられましてな。 以前にも増して、部下に辛く当たることが多くなっているようなのです。 江東の事を配慮しない外交姿勢も取っておられて、正直不安です」

費詩はすこし前、荊州に、関羽に前将軍の印綬を授けるため出向いた。その時、馬超や張飛はともかく、黄忠と同格というのは不快だと叫んだ所をたしなめたという経緯がある。

関羽のことを良く思っていないのかと思ったのだが、話を聞くとどうもそうではないらしい。他にも同様の話が複数の筋から上がってきているからだ。荊州を離れていた数年で、関羽に一体何があったのか。黄忠と互角に戦って、その武勇を認めたのは、他ならぬ関羽ではなかったのか。

式典が終わった後、陳到は劉備の所に出向く。劉備も当然列席していて、非常に上機嫌であった。この場にいる馬超、張飛、黄忠にも直接声を掛けては、印綬を手渡している。漢中王を名乗ったことについては正直思う所もあるのだが、それは今、敢えて指摘せずにおくことにする。

「おお、陳到将軍か」

「劉備様、お願いがございます」

「何か」

「関羽将軍の様子が少しおかしいようなのです。 荊州に、様子を見に行きたいのですが、よろしいでしょうか」

劉備は最近足腰が悪くなり始めているようで、呉夫人に支えられている。まだ非常に若い呉夫人は、丁度懐妊したばかりだというのに、祖父のような年の夫をかいがいしく支えていた。

劉備も関羽がおかしいことは聞いているはずだ。しばらく腕組みして唸っていた劉備だが、やがて呉夫人が柔らかな布を取りだし、夫の額を拭い始めた。仲むつまじい事で、とても羨ましい。

孫婦人も気だてが悪い訳ではないのだが、気が強いためか、こうもかいがいしい行動は一度も見せず、下女にやらせていた。それは多分貴婦人として育てられたからなのだろうが、やはり劉備としては思う所もあったのかも知れない。

「分かった。 ただ、関羽は誇り高い男だ。 直接そのようなことを言ってはならぬぞ」

「分かっております。 陳式と廖化を連れて行きます」

後、汝南時代からの知り合いである王甫の様子も見に行きたい所であった。丁度、今回は良い機会であろう。

兵は二千ほどだけ連れて行く。漢中の守備に幾らでも必要な状況であるし、何より軍事作戦を行うために赴く訳ではないからだ。長江を軍船に分譲して降るのだが、流れが速くて難儀した。酔いそうである。

「これは、荊州に進むのは良いが、引くのは大変そうだな」

「周瑜将軍が益州に侵攻できなかったのも、この厳しい川の流れが一因かも知れません」

「そう、だな」

陳式に応える。

陳式は昨年、戦いのさなか崖から落ちた。幸い大きな怪我は無かったが、劉備はそれを聞いて心配したらしい。妻を娶るようにいい、半ば強引に式を挙げさせた。正妻には益州の名族である劉巴の孫娘を。そして以前から、かいがいしく陳式の世話をしてきた穏やかな性格の下女を、側室にさせた。

一度に二人も妻を娶る事で、陳式も困惑したのか。流石に色々苦労しているようである。幸い妻同士での諍いは起こっていない様子だが、時々仕事に打ち込んで、家庭に帰りたがらないような雰囲気も見せる。

家庭に対してもはや苦手意識しかない陳到は、それに具体的な助言が出来なかった。情けない話である。

川を下り、武陵に着く。

荊州中央部分を抑えている関羽がいる江陵には、此処から北上する必要がある。船から馬や物資、それに輿を下ろさせる。最近は歩くのにも杖がいる。輿に乗るのも苦労する有様で、忸怩たる思いを抱いてしまう。

廖化が、不意に余計なことを言った。

「陳到将軍は、妾を置かれないのですか?」

「必要ない。 流石にもう家庭は持ちたくないし、それに関係するごたごたもごめんこうむる。 養子としては陳式がいるし、もはや何もいらぬよ」

「家庭は必要ないというのですか。 陳生様は、如何するのです」

「どうしようもあるまい」

徐晃は名将であり、自分にも他人にも厳しい性格だと聞いている。そう言う意味では交渉の余地はあるかも知れないが、今はまだ息子の居場所についても確定情報がない。荊州に行った後、何か交渉の糸口でもあればよいのだが。

江陵に向けて北上する途中、無数の小さな砦のようなものを見た。山に最低一つ、街道にもそれぞれ少なからず設置されているようであった。近付いてみると、塔のようにも見える。

狼煙台だ。

「なるほど、繋ぎ狼煙か」

「昨年の漢中で、曹操軍が使っていたものを取り入れたようです。 迅速かつ確実に、後方からの攻撃を防ぐことが出来ます」

「……果たしてそうだろうか」

「弱点はあるかと思いますが、性能さえ過信しなければ大丈夫でしょう」

兵を進める。途中、何度か関所で足止めされた。ざっと見ただけだが、かなり兵が増やされているように見える。

荊州だけで、十万を超える軍勢がいるかも知れない。砦などに満ちている兵士を見て、陳到はそう思った。

話に聞いた所によると、曹操軍は兵士を増やしすぎて困っているとも言う。此方でも同じ失敗をしないように、関羽に釘を刺さなければならないのかも知れなかった。

数日間の旅を経て、江陵に着く。関羽は外で調練を繰り返していた。

関羽は曹操軍と慢性的な交戦を続けている。ここのところは、徐晃の代わりに荊州に来た楽進と、一進一退の小競り合いが頻発していた。曹操軍を代表する猛将である楽進と互角に戦える将軍は関羽や張飛など、劉備軍でも数が少ない。そう言う意味で、猛烈な調練を繰り返すのは正しい姿勢であるとも言える。

だが、しかしである。

関羽は陳到が到着したのに、直接出迎えにも来なかった。将官に対する対応ではない。一応応接間に通されたが、対応に来たのは馬良である。馬良はその高名な白い眉尻を下げて、最初に平身低頭した。以前身内が陳到に迷惑を掛けたこともあり、二度目の恥である。まるで針の筵に座っているかのような表情であった。

「非礼なことになってしまい、申し訳ありませぬ」

「いや、馬良どの。 頭をお上げくだされ」

顔を見合わせる廖化と陳式。この様子では、噂は本当なのかも知れない。

一応宴席も用意されたが、陳到は酒を断った。医師に止められているのだ。戦場に出ることさえ止めた方が良いと言われている位なのである。

しかし、陳到がいなくなれば、劉備軍の人材はかなり寂しいことになる。劉備が医師を説得して、陳到を引退させないようにしているのである。陳到としても、主君の厚意に応えて、身を慎まなければならなかった。

山海の珍味は豪華であったが、どうも気が入っていない宴席であった。こういう席では専門の女官が踊るものなのだが、まるで息が合っていない。まるで、何かに怯えきっているかのようである。

廖化が欠伸をしていたので、咳払い。悪戯を見つけられた子供のように廖化が首をすくめた。

やがて、席に王甫が来た。

王甫はめっきり老け込んでいた。腕前は衰えていないようなのだが、何だか心労に蝕まれているかのようである。一応、今のところ地位は互角なので、丁寧に出る。周囲に人がいない時であれば、普通に話したい所だが、流石に今はそれも難しい。

「お久しぶりです、陳到将軍」

「王甫将軍も、つつがないですかな」

「私はどうにも」

王甫が言う。髪にはかなり白いものが増えていた。最も、それは陳到も同じだ。

楽団が音楽を間違えたらしく、更に宴がしらける。陳到は味がしない料理を口に運びながら、聞いてみる。

「この有様は、やはり関羽将軍ですか」

「……」

王甫は優れた将だが、嘘をつけない。黙り込んだ所から見て、恐らくは図星だと言うことなのだろう。

元々出自がよく分からないが、その誠実さで地位を築いてきた男だ。追い詰めるのも気の毒に思えたので、陳到は話題を変えた。

「ずっと益州と漢中を転戦していたのでよく分からないのですが、此方の状況はどんな感触ですか」

「曹操軍とは互角。 ただ、楽進隊は今度徐晃、于禁と交代するらしく、隙が出来ます」

「ふむ、方面軍の司令官は曹仁でしたな。 奴は凡将だが、確か満寵という優秀な参謀が着いていたはず」

「剃刀のような頭脳というのとは少し違うのですが、兎に角粘り強い男です。 かなり手強い奴であることは間違いないのですが」

関羽は侮ること著しいという。

どうやら、陳到の懸念は、杞憂ではなかったらしかった。

向き直ると、居住まいを正して、陳到は言った。

「関羽将軍に、会わせていただきたい」

「……実は、既に関羽将軍には、陳到将軍が会いに来ていることを、伝えてあるのです」

流石に、それは。陳到も思わず鼻白んでしまった。直接的に怒ったのは、廖化だった。

「それはあまりにも非道ではありませんか」

宴席も騒ぎに気付いて、しんとしてしまう。廖化は特に、関羽に憧れていると常々発言していたこともある。

憧れていた、理想の名将のあまりにも想定外の愚行に、余計に腹が立ったのだろう。

馬良が慌てて飛んできた。そして、コメツキムシのようにあたまを下げた。廖化は怒りが収まらない様子で馬良を見ていたが、やがて床を蹴って宴席を出て行った。慌てて後を追おうとした陳式に、後ろから声を掛ける。

「廖化が無茶をしないように見張っておけ」

「はい」

飛んでいく陳式。大きく歎息すると、陳到は部下の兵士を呼んで、立たせて貰う。杖を突くと、かつんと虚しい音がした。

「私は確かに、戦争で疲弊して、もう馬にも乗れぬ。 だが恥ずかしくない程度の武勲を積んできたつもりだ。 関羽将軍は、私を塵芥のごとき雑兵とでも考えている、という事なのか」

「……陳到将軍」

「もう一度、関羽将軍に、陳到が会いたがっていると伝えて欲しい。 明日の朝一番にだぞ」

元々農民の出身だ。若い頃から、散々侮辱は受けて育った。

だが、それを言うなら、士大夫を憎んで止まない関羽だって、同じ事なのではないのか。

関羽が塩の闇商人の出身であることは、劉備軍では誰でも知っている事だ。貧しい上に影のある出自を跳ね返すように、関羽は凄まじい努力の結果、今の名声を得たのである。だから皆関羽には敬意を払ってきたし、関羽も兵卒に対しては我が身のことのように愛情を注ぎ、忠誠を得てきたのではなかったのか。

何より義理を重んじることにより、劉備軍を代表する武将としての名を、恥を、汚さないようにしてきたのではなかったのか。

その全てを、陳到はこの夜。疑わしく思ってしまった。

 

関羽は翌朝、ようやく面会に応じてくれた。

最初にあって驚かされたのは、座ったまま陳到を王甫に案内させたことである。まるで王侯が、庶民と面会する時のような行動であった。

どうしたのだ。一体何があったのだ。

陳到も、寡黙だが義理堅い関羽は好きだった。しかし、益州、漢中に転戦している内に、何処かでおかしくなってしまったとしか思えない。

苦虫をかみつぶしながら、向かいの席に座る。

関羽は昔からの赤ら顔で、一言も発しようとはせず、むっつりと黙り込んでいた。希なほどの体格を誇る関羽である。それならば、圧倒的な威圧感を感じてもおかしくはないのだろうが。

それなのに、どうしたことか。以前に比べて、威圧感も小さく感じてしまうのだった。せいぜい、小柄な猫が毛を逆立てているようにしか感じない。とてもではないが、虎が威嚇しているようには思えなかった。

「調練があるのだがな、陳到」

「関羽将軍。 確かに私は貴方より格下の将軍だが、此処までの扱いを受けるいわれはないぞ」

「偉そうな口を利くではないか。 そのような姿になって、なおも軍務にしがみついているくせに。 さっさと引退してはどうなのだ」

唖然とした。むしろ後ろで憤然としたのは廖化である。だが、陳到は廖化を制止した。此処で喧嘩別れになってしまっては意味がない。

咳払いすると、露骨に嫌悪の視線を向けてきている関羽に、向き直る。

「関羽将軍。 荊州を劉備様に任された時に、指示された戦略をお忘れか」

「忘れてはおらぬ」

「北は曹操を防ぎ、東は孫権と和す。 守っていないようにお見受けするが」

「貴様のようなひよっこに何が分かる」

馬鹿にしきった声。そして、自分を過信しすぎた言葉。声には悪意がふんだんに混じり込んでおり、かっての関羽としては考えられない応対であった。

怒るな。そう言い聞かせながら、陳到はなおも続ける。

「一体どう為されたのです。 かっての貴方ならとても考えられない事ばかりだ。 孫権と和していると言いながら、この間縁談の使者をけんもほろろに追い返したそうではないですか。 それだけではなく、幾つかの郡には、明らかに貴方に恨みを抱いている将を配置している。 これでは、曹操との戦いになった時、いつ裏を掻かれるか知れたものではありませんぞ」

「孫権の小僧など何することがあろう。 ましてや呂蒙や陸遜など、この儂の相手になるものか。 仮に奇襲を受けたとしても、背後には繋ぎ狼煙の備えもある。 簡単に突破などさせぬわ」

「その呂蒙程度に、奇襲を受け、幾つかの城を失陥したことをもうお忘れか。 あの時も、劉備将軍が救援に出なければ、どうなっていたかわからなかったでしょうに」

憤然と関羽が立ち上がった。剣環が居丈高になる。何と、関羽は、剣に手を掛けているではないか。

怒りより先に、唖然としてしまう。関平が馬良と一緒になって慌てて関羽を止めるが、振り払われてしまった。怪力だけは昔のままだ。関羽は真っ赤な顔を、更に怒りで濃く染めていた。そしてなにやら喚き散らすと、足音も高く、奥の部屋に戻って行ってしまった。

残った王甫に、廖化が食ってかかった。

「い、いったいあれは何ですか! か、関羽将軍は、あんなに傲慢ではなかったはずです!」

激情からか、廖化の目からは涙がこぼれ落ちていた。陳到は、ため息しか出ない。

「二年ほど前からだ」

「え?」

「あなた方が漢中を攻略している際に、関羽将軍は、どうも病を得たらしいのだ。 医師によると、尿に糖がまざる病気であるらしくてな。 それ以来、どうも私には、関羽将軍が怒りっぽくなっているようにしか見えぬ」

廖化に、王甫はそう応えた。言葉には押し殺しきれぬ悔悟がにじみ出ていた。

医師は、関羽の豹変と病気に関連があるかは分からないと言っているそうである。しかし、王甫は知勇優れた熟練の将だ。劉備軍に参加する前も、歴戦の武将として活動していた可能性が非常に高い。それに、正体も、陳到には思い当たる節がある。どちらにしても、その観察眼には、相当な信頼が置ける。

「実は、以前似たような症状を目にしたことがある」

「王甫将軍、聞かせてくれまいか」

「はい。 あまりこういう事は言いたくないのですが、以前の主君が、権力を得た途端に、豹変して傲慢になったことがありました。 関羽将軍の場合、病で何かしらの変化があった所に、年齢をお重ねになったこと、それに歴戦を重ねて、この中華を代表する武将になったと自負されてしまったこと。 それらが要因かと思えます」

「なるほど、頷ける話だ」

これは劉備に直接話して貰わないと、どうにもならないだろう。それだけではない。相手を油断するというのは、一番危険な状態だ。陳到が見た所、呂蒙も陸遜も、ここのところ用兵に長じる事著しい。このままでは、確実に関羽は寝首を掻かれることになる。

ましてや客観的にものを見られなくなっている今の関羽では、なおさらだ。

「このままにはしておけぬな」

「陳到将軍」

「私はすぐ益州に戻り、漢中王に関羽将軍の現状について申し上げるつもりだ。 私が説得しても、関羽将軍は聞く耳など持たぬだろう。 このままでは、多くの兵士達を死なせるだけではなく、荊州を失陥する事になりかねない」

流石に其処までの事態に発展するかは分からないが、徐晃や楽進相手にこの傲慢病が出てしまえば、勝てる戦いも勝てなくなる。

陳到は席を立つと、廖化と陳式を促し、江陵を離れた。

輿を出来るだけ急がせる。現状が分かった今、多少無理してでも、益州には一刻も早く戻らなければならなかった。

 

2、荊州動乱

 

呂蒙は咳き込んだ。部下達には隠しているが、最近肺が痛くて仕方がない。その上、時々妙に体が熱くもなる。医師には何度か忍びで診察を受けたが、いずれもが首を横に振り、長くはないというばかりであった。

呂蒙はまだ四十台後半。武将としては働き盛りの年代だ。

甘寧も、近頃調子がおかしいと聞いている。黄巾党の乱の時代に生きた男達が、徐々に老いで、或いは病で消えていく。それが、時代が流れることだと分かっていても。少しばかり早く、呂蒙に終わりが来ただけだと知っていても。悔しかった。

北を見る。関羽が配置した、繋ぎ狼煙の備えが、傲然と立ち並んでいる。

あれでは、とてもではないが、攻略の隙はない。ただし、それは狼煙が、きちんと機能した場合だ。

呼んでいた陸遜が来た。

かっては若手の希望と言われた陸遜だが、すでに分別のつく大人になっている。用兵についても、関羽のやり方を既に徹底的に研究し、その手腕も把握しきっていた。既に、関羽を倒せる自信も、身につきつつある。

「陸遜、来たか」

「呂蒙将軍、如何なさいましたか」

「実は、ある筋……隠しても仕方がないな。 四家からの情報だ。 関羽が近々、襄陽にいる曹仁に攻撃を仕掛けるらしい」

陸遜は他ならぬその四家の出身なのだが、聞かされていなかったのだろう。情報を聞いて、眉をひそめた。

今、荊州には楽進も徐晃もいない。徐晃は荊州に向かっているという話だが、それも到着まで今しばらく掛かるだろう。確かに、襄陽を攻略し、曹操軍に打撃を与えうる好機だとも言える。

しかも今まで潜入させている情報によると、関羽は既に多くの細作を独自に育成しており、許昌周辺に放っているという。関羽が攻撃を開始すると同時に彼らが何かしらの行動を起こすのではないかと、分析は済んでいた。

「だが、この作戦は、最初は成功するが最終的には失敗するだろうと、俺は見ている」

「同感です。 確かに緒戦は曹仁が相手だから勝てましょうが、曹操軍が本気になって反撃に出たら、今の関羽ではひとたまりもありますまい」

「その通りだ。 どうも関羽はここのところ、傲慢になりすぎている節がある。 敵が弱体化しているのだから喜ぶべきなのかも知れないが、複雑だな」

後方の都市に、明らかに関羽を憎んでいる武将を配置しているのがその証拠だ。そして、既に傲慢は、破滅の蕾を着け始めている。それが花開いた時。関羽は、己の失敗を悔いることになるだろう。

背筋がざわめく。

剣に手を掛け、振り向くと。其処には、闇そのものがいた。

見かけは童女に見える。だが薄ら笑いを浮かべているその身に纏う気の凶なること、尋常ではない。

「噂には聞いたことがあるぞ。 曹操軍が飼っている、最強最悪の細作、林だな」

「どうやら名乗る必要はないようですね。 時間の無駄が省けて重畳です」

陸遜が息を呑む。周囲の血の臭い。

周りに配置していた護衛達が、どのような目にあったのかは言うまでもないことだ。それも、選りすぐりの腕利き達だったのに、声を出すことさえかなわなかった。噂通りの、いや噂以上の化け物だと、認める他無い。

「それで、何をしに来た」

「関羽狩りに、招待をしに」

「関羽、狩り!?」

ぞわりと、呂蒙の背に、悪寒が走る。さっき走ったものとはまるで密度が違う。

この化け物は、関羽を尊敬するどころか、狩りの獲物くらいにしか考えていない。そして、それは恐らく、己の快楽だけのために、暴虐を為そうとしている。

しかも、悔しいことに。

利権で吊られてしまっている。その上、呂蒙は今、一つ決め手を欠いている。

そのままでも、関羽は敗れるだろう。しかし、一回敗れるくらいは、別に何でもないのだ。

取り返しがつかないほどの敗北をさせて、一気に討ち取る。そのほかに、関羽を倒せる術はない。

そして、曹操軍の闇に潜み、細作の技を極めきっている林の提案は。周瑜の悲願を果たすために、この上もないほどに役立つのだ。

「呂蒙将軍!」

陸遜が怒声を張り上げる。だが、林は涼しい顔である。象が子犬に吠えられているような表情だ。

「なりませぬ! このような化け物の言うことを聞いては!」

「それは無情というものですよ、陸遜将軍」

「な、なんだとっ!」

「何しろ、そこの呂蒙将軍は、もうそれほど時を残していない。 時々妙な咳をしているのは知っていますね。 その咳と一緒に、血を吐いていることを、知っていますか?」

秘め事を暴露されたことよりも、恐怖がより先に立つ。なぜだ、なぜ知っている。

林は抜き身の剣をぶら下げていた。体の影に剣を隠していたのだ。あまりにも圧倒的な殺気により、気付くことが出来なかった。呼吸が乱れてくる。陸遜が、情けないほど顔を歪めた。

「駄目です! 呂蒙将軍!」

「は、話を」

「話を?」

「話を聞かせて貰いたい、林。 貴様ほどの細作が、このような所に来ていると言うことは、曹操軍も決め手を欠いているのだろう? 関羽は傲慢になって弱体化しているとはいえ、この大陸を代表する武人で、下手な虎よりも危険な使い手だ。 徐晃か于禁か分からぬが、関羽を仕留めるために、あらゆる手を尽くしたいのだろう? お、俺も、それは同じだ。 奴を、奴さえ倒せば」

咳き込む。

血が出た。それと一緒に、命もこぼれ落ちる。ああと、陸遜が嘆いた。血涙を流しそうな表情をしていた。

林は闇そのものの笑みを浮かべると、剣をしまう。そして、懐から、小さな袋を取りだした。

それが、とても禍々しいものだと、どうしてか一目で分かった。

「これは私が開発した、様々な植物より抽出せし闇の薬です。 一時的に能力を極限まで引き出すことが出来ます」

「闇の薬、だと」

「もちろん、副作用は甚大。 今の貴方では、まず死は免れないでしょう。 使いたいならご自由に。 もちろん捨てるのも自由ですよ。 それと、これも残しておきましょう」

いつのまにか、林は消えていた。机の上に薬と、竹簡と、戦慄だけを残して。

陸遜は激高して机の上の薬を捨てようとしたが、呂蒙は止める。そして、静かに落涙した。

「恐ろしい奴だ。 俺の心の弱みに、滑るようにして入り込んでくる」

「それが分かっていて、なぜ奴の好きなようにさせていたのです!」

「それは、奴の言うとおり。 俺にはもう、時間が残っていないからだ」

天を仰ぐ。周瑜のことを思い出してしまう。

周瑜も、死ぬ間際は、自棄になっていた。己の誇りの根源である容姿を維持しようとして、周囲の制止を振り切って、脂身ばかり食べていた。あの日を、昨日のように思い出せる。

あの時は、周瑜の気持ちが分からなかった。

だが、死を間近にして、呂蒙は今更ながらに、周瑜の焦燥と、悲しみが理解できた。闇へ足を踏み入れようとしながらも、呂蒙は忘れていない。己が何をするべきなのかを。何が出来るのかを。

魯粛も死んだ今、呂蒙は周瑜の残した夢を、やり遂げなければならないのだ。

「陸遜」

「はい」

「関羽を殺せば、後世から一身に悪名を背負うことになるだろう。 それは、俺が墓の下まで持っていく。 お前は江東の希望として、光だけを背負え」

「……」

呂蒙は、机の上に残された闇の薬を手にする。

そして、竹簡を開いた。

 

漢中で敗退した曹操軍の残存勢力を収容した徐晃は、長安を抜け、宛にまで達していた。配下の中には、手ひどい怪我をした牛金も混じっていた。まだ若いだけ有り、行軍をしながらも、牛金の怪我は回復に向かっていた。

兵力は五万。漢中守備隊の残存勢力の内、半数は長安と西涼に振り分けられた。元から連れていた兵力に、わずかな精鋭を足した兵力がこれである。

荊州には、于禁がおよそ四万を連れて先行している。その後を追っての行軍であった。

張?(コウ)は西涼に残ったし、楽進は揚州へ向かったので、今荊州に支援に向かえるのは徐晃だけである。関羽を抑えられるのも、だ。

曹操には当然勝算があっての事だろう。だが、曹仁に関羽が抑えられる訳もなく、急がなければならなかった。

天気が悪い。

此処近年、まれに見るほどの天候の悪さだ。雨ばかり降り注いでいて、各地で河が氾濫している。

こういう日には、作物のことを心配してしまうのは、徐晃が元農民で、その本能が骨の髄までしみこんでいるからだ。宛城の郊外に陣を張るよう指示しながら、徐晃は畑を見守った。屯田によって作られ、農民達に引き渡された畑は、曹操軍にとっての宝でもあるのだ。

しばらく畑を見回った後、士官の宿舎に。牛金の様子を確認しに行くのだ。

若手の中で最も有望な男だと、曹操に太鼓判を押されているほどの将である。怪我を悪化させたりして死なせたら、一生の不覚である。徐晃も曹操が言うように、若手の武将が小粒になってきているのは感じている。優秀な将は、何としても確保して、未来に活躍して貰わなければならない。

牛金は医師に横になるように言われて、少し窮屈そうだった。徐晃が寝室まで行くと、流石に恐縮して起きようとしたが、そのままで良いと制止して、みやげの果実を置く。鼻歌交じりに自分でリンゴを剥こうとしたら、それは駄目だと侍女達が持って行ってしまった。手持ちぶさたになってしまったので、そわそわする。

「ははは、牛金。 もてもてだな」

「何を言われますか。 それよりも、見舞いなどに来ていただき、有難うございます」

「それこそ何を言うか、だ。 漢中での奮戦は聞いているぞ。 あの苦境から、よく生きて帰ったな」

恥ずかしそうに、牛金は恐縮して見せた。

定軍山での壊滅的敗北から、味方を武都へ逃がした牛金は、漢中が完全制圧された後、退路もろくにない中、ほとんど単騎で包囲を突破して来た。麾下の戦力は半数を失っていたが、その勇気に感心した曹操は、虎豹騎の中から精鋭を選りすぐり、損失分を埋め合わせた。

だから五千ほどと言っても、牛金の麾下戦力は非常に精強である。行軍中に動きを見たが、徐晃も唸らせるほどであった。

侍女達に混じって、肌が浅黒い娘が働いている。漢中で縁があったとかで、牛金と一緒に着いてきたらしい。翠というらしいのだが、一見すると男にも見える。髪を短く切りそろえているからで、愛嬌の欠片もない。

牛金は妻と不仲だと聞いているが、妾にするつもりなのだろうか。まあ、その辺りを追求するのは、野暮というものだ。

「しかしこう雨ばかり続くと、体操もできぬな」

「はあ、まあ」

「体操は良いぞ。 健康になる。 私は体操を続けたおかげで、この年まで病知らずだからな。 ははははは」

引きつった笑みを浮かべている牛金に、不意に徐晃は真面目な表情で続けた。

「さて、真面目な話をしようか。 今回の戦いは厳しい。 関羽と直接戦うことになるかも知れぬから、怪我は早めに治しておけ」

「分かりました。 医師の言うことを聞いて、出来るだけ早く何とかいたします」

「うむ。 それにしても、関羽はどうしてしまったのだ。 許昌にいた頃は、張遼将軍や、許?(チョ)将軍と一緒に出向いて、碁を打ったりしたのだ。 あの頃は男気があり、民にも慕われる名将であったのだがな」

徐晃の下には、信じられない話が次々飛び込んできている。

関羽は任侠肌の人物で、士大夫は馬鹿にしていたが民や部下にはとても優しく、慕われていた。しかし、それは過去形になりつつある。

荊州の各地では、軍備の増強と、増税による不満が高まっているという。そればかりか、些細な罪で民を罰したり、兵士達に過酷な労役を課すことが増えてきているというのだ。知識層が益州や中原に逃れ出ていることもあって、まだ具体的な非難をする人間は出てきていないが、それも時間の問題だろうと、徐晃は見ていた。

「機会があれば、話してみたいものだ。 もっとも、このままでは、関羽にとってもう時間は残されていないのかもしれぬが」

「粥が出来たぞー。 早く食べろ、怪我人」

「ははは、どうやら私は邪魔なようだな」

「す、翠!」

「よい。 私はそろそろ行く」

翠とやらが無遠慮に言ったので、徐晃は苦笑いしながら席を立つことにした。

外に出ると、他の将達の屋敷も回ることにする。同じく漢中戦で悲惨な撤退を経験した曹休も、一回り大きくなったような気がした。いずれにしても、小粒だと思われた若手達も、成長していることが確認できたのだ。それで充分であった。

まだ雨は降りつづいている。

于禁の部隊が洪水に巻き込まれないか、徐晃は少し心配になった。

 

関羽の速攻は、強烈だった。

今まで荊州に徐晃や楽進がいたから、同数の兵力でもどうにかなっていたのである。完全に隙を突かれた曹仁軍は一撃で粉砕され、瞬く間に襄陽を失陥。更に新野も落とされ、ハン城まで一気に後退させられた。

曹仁はどうにか軍の壊滅だけは免れたが、一万以上の死者を出し、荊州の大部分を失陥したことで意気消沈。それに対して、関羽は降伏した兵も併せ、七万の大軍を展開して、曹仁を追い詰めに掛かっていた。

それだけではない。

関羽の猛攻により、曹操による統治に不満を持っていた者達が、許昌周辺で暴れ始めたのだ。能力主義の曹操軍の下では、特に血が濃い一族でもなければ、出世は約束されない。例え功臣の子息であっても、それは同じだ。

張繍の次男も反乱に加わっていた。張繍は恥じて首を刎ねて欲しいと曹操に申し出たが、曹操は笑って許した。

しかし、反乱を起こした者達を、許す訳にはいかなかった。

丁度許昌に出ていた曹操は、峻烈な命令を下した。

「まず、荊州に向かっている于禁、徐晃に連絡。 関羽軍に総力をもって当たれ。 ハン城より北へは、絶対に進ませるな。 余も遅れて出向く」

「はっ」

伝令が飛び出していく。

側では、許?(チョ)がいつもより緊張した面持ちで、料理人を呼んでいる。焼き菓子が切れたのだ。焼き菓子をしばし無心で頬張った後、曹操は許?(チョ)に言う。

「虎痴も少し喰え。 うまいぞ」

「確かに、以前より少し美味しくなっておりますな」

「堅く焼くだけが美味さではない。 しっとり柔らかく焼いたことが、美味さのきもなのだぞ。 余と虎痴だけの秘密だ」

周囲には侍従もいるのに、しーと言いながら曹操はそんな事をほざいた。許?(チョ)は大まじめに頷くと、話題を変える。

「ところで、曹丕様なのですが」

「そなたの息子を側に置いて、頑張っているようだな。 反乱分子を的確に狩りだしているようだ」

「陰湿な作戦の方が得意なのでしょうか」

「ふふ、そうだな」

曹操に、そんな事を直接言える。それこそが、許?(チョ)の強みであり、求められていることでもある。だから、曹操も笑って続ける。

「ただ、反乱を起こしている連中の影に、なにやらおかしな存在が見え隠れしているようだな。 それは流石に、曹丕では手に負えまい」

「林の配下も少し許昌に潜り込んで諜報をしているようです。 そろそろ、斬った方が良いのではありませんか」

「そういうな。 あれにはまだ使い道があるし、奴以上の細作がいない以上斬る訳にもいかん。 ただ、何かしらの方法で、釘は刺さねばなるまいな」

佐慈。

それが、闇に蠢いているものの名だと、曹操は知っている。

実は細作部隊が既にその正体は突き止めている。漢中で妙な宗教団体を作り、張魯の王国を崩壊に導いた原因の一つだという。何処の何者かはまだ分かっていないが、あの益州を大混乱に陥れた麻薬の出所が奴だと言うことははっきりしている。いずれにしても、放置は出来ない相手だ。

既に髭も髪も白くなっている張繍が、執務室に来た。手には、血のついた剣をぶら下げている。

「曹操様、けじめは付けましてございまする」

「息子を、その手で討ち果たしたのか」

「はい。 最期まで、愚かな男でした」

張繍は落涙した。かって、曹操を二度までも追い詰めた男。徐晃と兄弟のように徐栄に育てられ、その俊才を愛された男は。もう、すっかり老い込んでしまっていた。若い内に精力を使い果たしたからか。老いるのも早かった、と言うことなのだろうか。

曹操は声もなかった。自身も最近は老いてきているからだろうか。

人間は、経験した痛みしか理解できないのかも知れない。

「軍務には、戻れそうか」

「いえ、近々引退させていただきたく」

「そうか。 そなたは最初こそ余の大きな妨げとなったが、後には大きな力になってくれたな。 忘れぬ。 そなたの功績は、余が死ぬまで」

一礼すると、張繍は執務室を出て行った。代わりに、劉曄が部屋に入ってくる。まだ若いというのに、この男は冷徹さにおいて賈?(ク)に迫るかも知れない。静かな目の奥に、大きな闇が蠢いているのが分かる。

「反乱の処理、大体終了いたしました」

「おお、早いな」

「中心点を潰しただけにございます。 佐慈という輩は許昌から逃亡いたしました。 後始末は、幾つか案を用意いたしました」

恭しく竹簡を差し出される。策の中には、献帝に責任を被せ、この機に退位させる、等というものもあった。もちろん即座に曹操は選択肢から外した。献帝は世間で言われているような愚物ではない。己が出しゃばることで乱が長引くことを知り、曹操に全てを託した先見の持ち主だ。男同士の約束もした。曹操は、約束を破りはしない。

曹操は策の中から、反乱首謀者の処刑だけを選んだ。といっても、張繍が己の息子を斬ってきたように、だいたいの処置はもう終わっている。後は小規模な反乱を、あらかた潰してしまえばよいだけだ。

「良し、出るぞ」

「後はお任せください」

「うむ。 関羽を、此処で葬る」

許昌周辺の軍勢、更に河北で燻っている十万余を動員する。

関羽は欲しかった。だが、今や、それは過去形となった。

もはや関羽は歴史に残る武将だ。劉備の右腕として、末代まで語り継がれるだろう。故に、曹操が、どうにか出来る相手ではなくなった。

輿を使おうかとも思ったが、考えを改める。

老いはしたが、そこまで衰えては、いなかった。

「馬車に、余の宝を詰め込むことを忘れるな。 万が一があってはならぬから、持っていくのだ」

「分かりました」

ぶら下がるための鉄棒や、背骨を伸ばす器具類を、大事に大事に侍従達に運ばせる。

曹操は、まだまだ枯れてはいない。だから、暇な時には背を伸ばす努力をしようとも思う。

それは、例え死の足音が近付いてきていても。変わることのない、曹操の本能であった。

 

3、狭まる包囲

 

雨は止まず、ハン城周辺は湖のような状態になりつつあった。関羽は周囲を十重二十重に囲み、激しい攻撃を繰り返したが、曹仁の参謀の満寵はこれをよく防いで、兵力の浸透を阻み続けた。

満寵は中堅どころの将軍としてずっと曹操に仕え続けてきた男で、かっては諜報をしたり、土いじりをしたりと、様々な任務に従事したことがある。幅広い経験が、こう言う時には生きてくる。

曹仁も、自分が軍才に欠けていることは理解していた。だから、満寵の言うことを良く聞いて、ハン城を守る兵士達が不安にならないように、どっしりと構えていた。

それを確認した林は、するすると雨に濡れた杉の大木を降りる。服が濡れるが、別にそんな事はどうでも良い。

手を払って水を落としながら、林は己が撒いた種が確実に実を結んでいくのに、笑みを押し殺すのがやっとだった。周囲に集合している部下達に、林は布で顔を拭きながら言う。

「さて、此処にいる皆は分かっていると思うが、関羽には此処で今少し調子に乗って貰わなければならん」

「分かっております。 それでこそ、より大きな罠にはまる、と言うことですな」

「そうだ。 今、于禁が率いる七軍が此方に接近している。 丁度いいから、生け贄になって貰うとするか」

于禁の、中性的な顔立ちを思い出す。口ひげを蓄えているのに、どこか女性的な魅力もある、不思議な男だ。

于禁は曹操軍の名将の一人だが、前線で戦うよりも、後方支援や中間援護を得意としている武将である。それに並々ならぬ実績を蓄えているから、曹操に深く信頼されているのだ。

今、于禁には董衡、董超という参謀が着いているが、これらは若手で、あまり優秀だという話は聞かない。実戦部隊の指揮官として、?(ホウ)徳がいる。これは漢中で降伏した馬超の旧部下という話なのだが、どうもおかしい。?(ホウ)兄弟と言えば馬超の股肱で、生死を誓い合った仲だと聞いている。妙なきな臭さがあるのも事実だ。

「于禁を罠にはめることは、さほど難しくない。 問題は、この?(ホウ)徳だな」

「知勇に優れた将ですが、血の気が多いとも聞いています」

「それも含めて、確認が必要だ。 私が見てくるから、お前達は于禁と関羽の軍勢を見張れ」

部下達が散る。

代わりに。

良く肌を焼いた、長身の女が現れた。

少し前に刃をかわした相手だが、別に憎んでも恨んでもいない。諸葛亮が林を殺すために鍛え上げたという、山越出身の女。良い腕なので、部下に欲しいくらいである。

今回、これほどまでに迅速に、林が動けたのには理由がある。

諸葛亮が、背後から支援していたからだ。

事実、今までは面倒きわまりなかった奴の部下が、今回は殆ど動いていない。動いてはいるが、林がいる方面には展開していない。奴がなぜこんな事をしているかは、よく分からない。考えられるのは、諸葛亮が構想する態勢に、関羽が不要だ、という事だろうか。

「これが、此方の動きとなる」

「有難うございます。 諸葛亮によろしく」

「……」

唾棄しそうな表情を女は浮かべていたが、やがて姿を消した。

 

益州に入った陳到は、出来るだけ成都に急ぐように、周囲に促していた。

いやな予感が止まらないのだ。極端に傲慢になった関羽は、良く思い起こせば変な点も多々あった。早く劉備に知らせて対応をしなければ、取り返しがつかない事態になるような気がしてならない。

しかも、益州に入った頃から、凄まじい雨が降り始めている。このままだと、荊州と益州は、雨で分断されかねなかった。

輿は山を急ぐ。揺れることは別にどうでも良い。

ただ、このままでは、この国が滅ぶ。その懸念だけが重く、陳到の両肩にのしかかっていた。

荊州をもし失陥すれば、劉備軍はとてもではないが曹操軍に太刀打ちできない。諸葛亮が如何に優れた国家戦略を打ち出そうと、それに代わりはないだろう。例え英雄に及ばないとしても、歴戦の武将であるが故、陳到はその判断を疑わない。そして今、関羽は味方からさえ孤立しつつある。

「すまんが、急いでくれ。 出来る限りだ」

「分かりました」

輿を担ぐ兵士達に頼む。兵士達も、陳到の苦境は良く知っているのか、同情的な声をあげてくれた。嬉しいが、同時に悲しくもある。

兵士達と一緒に戦っているのではない。彼らに甘えているように思えてならなかった。

益州の険しい地形にも、路はある。劉璋の父である劉焉が作り上げた軍用道路を、整備したのだ。だから、輿であっても移動は楽だ。逆に言えば、もしも荊州を落とされた場合、永安辺りに防衛線を築かないと、一気に益州まで落とされる可能性がある。

雨が輿の中にまで飛び込んでくる。

すぐ側を疾駆する陳式。随分逞しくなったものだと思う。

「関羽将軍は、どうして傲慢になってしまわれたのでしょう」

「わからん。 それも含めて、漢中王に聞くしかない」

「わかるのでしょうか」

「わかるさ。 漢中王と張飛将軍、関羽将軍は、兄弟よりもずっと深い絆で結びついておられる。 例え何があったとしても、その事実だけには間違いも嘘もない」

多分劉備は、例え関羽が悪鬼の類になろうと味方をするだろう。そして路を違えてしまったら、命を変えてでも引き戻すことが出来るだろう。

ふと、そこで思い当たる。

もしも、劉備も変わってしまっていたとしたら。

ずっと、劉備が変わってしまったのではないかと、恐怖していたのではなかったか。

輿を担ぐ兵が交代しながら、成都への道を急ぐ。雷が落ちた。至近だ。

だが、首をすくめたのは、その轟音に、ではない。

誰も信じられ亡くなりつつある、自分にであった。

やっと成都に着いた時には、兵士達は皆疲れ切っていた。元からの自軍と合流させ、休息に入らせる。自身は陳式と廖化に支えられながら、宮廷に急いだ。雨は益州、荊州の全域で降り注いでいるようで、急速に進められている漢中王の宮殿建設も、流石に一時手が止まっている様子だ。

何事かと振り返る大工達や、誰何する兵士達を押しのけて急ぐ。陳到の血相を変えた様子を見ると、流石に兵士達も行く手を遮りはしなかった。

劉備は、かって劉璋が使っていた宮殿にいた。益州の規模にしては大きく、如何に劉璋が浪費をしていたか、よくわかる宮殿だった。一部は既に閉鎖されており、劉備も生活をつつましくしている様子だ。

劉備も漢中王を名乗りはしたが、民を中心にすると言う主戦略だけは変えていない。

雨に濡れたまま、大股で宮殿を行く。

やがて、奥の間にて、劉備を見つけた。劉備は、雨に濡れたまま、血相を変えている陳到を見て、流石に面食らった様子だった。丁度向かいには、諸葛亮がいて、碁を打っている所らしかった。政務の類は、諸葛亮が相当に整理しているらしく、劉備にはある程度余裕がある様子だ。

「おお、如何したか、陳到将軍」

「一大事にございます。 お人払いを」

「此処には私と諸葛亮だけだが」

「……わかりました」

促されるまま、座る。諸葛亮は涼しい笑みを浮かべ続けていた。

座るのにも、難儀するようになりつつある。陳式に手伝って貰って、侍従が用意した席に着く。侍従達が下がると、劉備も流石に居住まいを正した。

「荊州で、何かあったのか」

「はい。 関羽将軍は、恐ろしく傲慢になっておられました。 部下達も怯えきっており、民も関羽将軍から心が離れつつあります」

「何だと」

もとより、関羽には傲慢な部分があった。士大夫に対する態度には、特にそれが露骨に現れる傾向があり、劉備は何度か関羽に注意していた。

だが、流石に今回のは度が違う。

「帰る途中に聞き込みをしていたのですが、武陵近辺では、五鶏蛮達も反乱に動き始めているようです。 シャマカも抑えるのが難しくなりつつあるとか」

「むむ、それは不味いな」

「その上、独自で曹操軍への攻撃を計画している様子です。 しかも、背後には、関羽将軍に対する忠誠心が低い武将達を配置した上で、です。 関羽将軍は、恐らく強くなりすぎてしまったのでしょう。 周囲が明らかに見えなくなっています」

このままだと、荊州を失陥する事になるでしょう。そう締めくくると、流石の劉備も青くなった。

荊州を失陥すれば、ただでさえ誇り高い関羽のことだ。例え生き残ったとしても、後々のしこりを残すことは間違いない。それは、漢中王になったばかりの劉備の配下達の結束を、大いに乱すことになるだろう。

「わかった。 近々、私が直接関羽の所に赴き、諭すとしよう」

「お願いいたします。 このままでは、誰もが不幸になりますがゆえ」

「……」

諸葛亮は、ずっと黙っていたが、一手を打つ。

もとより知恵者で知られる諸葛亮である。劉備ではとても勝ち目がない様子だったが、その一手で勝負があったらしい。中押しすると、劉備は立ち上がり、出兵するようにと、周囲に声を張り上げた。

良かったと、陳到は思った。

此処でまで絶望を味わっていたら、陳到は思わず自害してしまったかも知れない。

退出すると、自身の屋敷に戻る。医師が飛び込んできた。廖化が呼んでいたらしい。

医師はあれこれ陳到の体に触ると、難しい表情を作った。

「無茶をなさいましたな」

「国家の一大事だった。 無茶をするしかなかったのだ」

「しばらくは絶対安静です。 陳式将軍、廖化将軍、陳到将軍はしばらく、輿でも外に出してはいけません。 私が決めた時間の通りに日光を浴びて、消化が良いものを食べて、薬を飲んで、体を休めるように見張ってください」

「それほどに悪いのですか」

医師は断言する。

このまま無理をすると、後三年も保たないと。

具体的な時間を提示されたのは初めてだ。呻いた陳到は、大きく歎息する。

残る時間の少なさと、それ以上に、己の不甲斐なさに。

 

雨がますます激しくなる中、于禁軍はついに関羽軍と激突した。

ハン城を囲んでいる不利な体勢にも関わらず、関羽軍の抵抗は凄まじく、精鋭を揃えた七軍が押し返される。傘を差して山頂からその様子を見つめていた林は、結論を出していた。

やはり、于禁を捨て駒にして正解であった、と。

激しい激突は二刻に渡って続いたが、結局于禁は関羽を崩せず、ハン城の包囲も健在なままである。しかも山々には水が異常なほど満ちてきており、土の保水力を明らかに超え始めていた。

関羽の布陣から見て、林にはその狙いが明らかに読めた。

于禁軍を率いている董衡、董超は用兵からみてそれに気付いていない。所詮名家出身の坊ちゃん将軍か。中軍に控えている?(ホウ)徳は気付いているようで、しきりに于禁に食ってかかって、陣を移すように進言していた。于禁も優れた武将だ。多分、今の状況には、気付いているのだろう。陣形を変え始めていた。

だが、其処で関羽率いる精鋭が動き出す。ハン城包囲に加わっていなかった一万ほどが、怒濤のように于禁軍の本隊に襲いかかった。絶妙の状況での攻撃。その上、関羽軍の強さは圧倒的で、布陣しかけていた于禁軍は片端から崩され、徐々に引いていく。見事だと林が思ったのは、関羽が一軍を率いての動きだ。徐晃や楽進と一進一退を繰り広げたことはある。于禁では、やはり二歩ほど及ばないか。

激しいぶつかり合いの末、大きな被害を出した于禁軍は後退しかけたが、其処で不意に関羽が兵を引く。

「傲慢になって弱体化していても、一軍を率いさせれば、やはり中華一の男だな」

「そうですか?」

「良いから見ていろ」

猛然と、董衡、董超が関羽軍を追い始めた。それが、陣を変え始めていた于禁軍本隊を大いに乱す。?(ホウ)徳が怒号を響かせるが、手柄を求めたか、兵士達の一部が暴走、一気に混乱が波及していく。

同時に、関羽軍が包囲の一部を崩す。そして、雨の中、狼煙が上がった。

怒濤が、辺りを満たす。

焼き菓子を口に入れながら、林はほくそ笑む。素晴らしい。周囲にみちる阿鼻叫喚。悲鳴と苦鳴が、あまりにも心地よくて、絶頂に達しそうだ。

この瞬間。

上流に回り込んでいた関羽軍が、堰を切り、一気に大量の土砂が于禁軍に襲いかかったのである。

董衡、董超の率いる主力は、まるで川に落ちた蟻の群れのような有様となった。董衡が悲鳴を上げながら押し流されていく。董超はそれを見て、必死に助けようとしたが、しがみついていた木から落ちて流れていった。

「兄者ーっ! た、たすけ、助けてくれーっ!」

「董超っ! い、いま、今助け……!」

悲鳴を上げながら流れていく二人だが、すぐにそれも怒濤の轟音にかき消された。鎧を着ている上にこの土砂混じりの乱流である。ひとたまりもない。

二人とも、川の底で腐って、魚の餌だ。

必死に泳ごうとする兵士が、河に飲まれる。それを助けようとした同僚も。高所には無数の兵が殺到し、先に逃げ込んだ兵士が、後から来たものを斬り倒す。同士討ちが起こり、狭い土地を争って必死にもがき合う兵士達は、あまりにも甘美。また一人、蹴落とされた兵士が、川に流されていく。

数万が一瞬で水死し、更に残りが、今も生き残ろうとして、同胞を殺しまくる。

その流血の宴は、小さな土地を巡って争う、人間社会の縮図にも思える。そして、これこそが。これこそが、林が理想とする世界だ。

殺し、潰し、弱者を踏みにじり、強者をなぶり殺し、林だけが全てを好き勝手にする。逆らう奴は殺し、従う奴も面白半分に殺し、使える奴も使った後に殺し、使えない奴はその場で殺す。殺す殺す殺す殺すただひたすらに、己の快楽のためだけに。

思わず笑みがこぼれる。

童女のように無垢な笑みが。

「素晴らしい」

思わず呟く林を見て、部下達が一歩退く。

残った焼き菓子を全て口に放り込むと、今の大洪水で水浸しになったハン城の状況を見つめる。残念だが、もう少し曹仁には活躍して貰わなければならないだろう。このままだと、関羽が勝ってしまう。

それでは、困るのだ。

林だけではなく、多くの人間が。

関羽軍はあらかじめ高所に避難し、地獄絵図を傍観。そして二日後、水が引き始めた所を見計らい、船を集め、生き残った于禁軍の掃討を開始した。

その掃討は情け容赦ないものであった。

降伏することが許された兵士は、一割にも満たなかっただろう。于禁はその中に入っていたが、?(ホウ)徳は含まれていなかった。

精鋭を誇った第七軍は、文字通り消滅した。

 

?(ホウ)徳は一人、山の中を走っていた。

いや、違う。彼の名は、?(ホウ)徳ではない。本物の?(ホウ)徳はついに馬超への忠義を貫いて、今だ獄舎にいる。

彼の本当の名は、張衛。

揚松と兄張魯と共に漢中を支配していた、張衛の今の姿が、?(ホウ)徳であった。

このような偽装をしたのには、幾つか理由がある。だが、それを今は考えている余裕も暇もない。

雨粒を払い、張衛は走る。既に馬は潰れてしまったので、己の足で。闇の中を、ひたすらに駆ける。激しい雷雨は、少しはましにはなったが、それでも何時土砂崩れを誘発してもおかしくはない。

関羽軍の追撃は激しかった。

生き残ることが出来たのは、張衛だけだろう。多くの兵士が死んだ。誰も、救うことが出来なかった。

雨に濡れた木に背中を預け、やっと一休みをする。

呼吸を整えていると。宛の方から、多数の軍馬が来る気配がした。

徐晃の軍勢だ。

よろよろと進み出る。兵士達に誰何されたので、曹操から渡されている割り符を出す。それの重要性に気付いたか、すぐに徐晃の所に、兵士達が飛んでいった。

徐晃軍は流石に精強だ。于禁が敗れたことに気付いただろうに、動揺している気配はない。参謀として、司馬懿を。若手の将校の内、牛金と郭淮を連れているようであった。曹真も、一軍を率いて参加しているようだ。

宛辺りで、多分曹操が派遣した前衛と合流したのだろう。軍の規模は八万を超えている。しかも、関羽と直接ぶつかり合える実力を持った八万だ。

徐晃の所に通される。

徐晃は、天幕の中で、なにやら怪しい動きをしている所であった。体操とかいうらしい。参謀達も全員それにつきあわされ、一緒にうねうね動いていた。不気味である。特に司馬懿は、得意の首曲げ術を十全に発揮して、立ったまま真後ろを向いたりして見せていた。牛金は恥ずかしそうで、郭淮はあまりの羞恥からか血涙を流している。曹真は巧く逃げたようで、その場にはいなかった。

左右に体を、交互に捻りながら、徐晃が言う。

「おお、災難であったようだな。 于禁将軍は」

「恐らく関羽に捕らえられたと思われます」

「悔しいが、流石だな。 悪いが、そなたら、体操が終わり次第外せ」

一瞬だけ、徐晃の顔に深い怒りと悲しみが浮かんだが、それもすぐにかき消えた。超人的な精神力で押さえ込んだのだ。ひょいひょいと跳躍し終え、手を揃えて真上に。そして体の横を通り抜けるようにして下ろす。それを四回繰り返して、体操とやらは終わったらしい。徐晃はご機嫌な微笑みを湛え、柔らかい布で汗を拭きながら、腰を下ろす。実際には于禁の事で腸が煮えくりかえっているだろうに、器用な男である。

「よっこらせ、と。 うむ、体操をするとみるみる体が健康になるのがわかって素晴らしいな。 さて、張衛、いや今は?(ホウ)徳だったな。 関羽軍の状況と、味方の敗因を聞かせて欲しい」

「はい」

張衛は、曹操に、観軍と呼ばれる役割を命じられていた。

これは、将軍の一人として、軍を内部から観察する役割を持った仕事である。張衛はそれによって常に前線で将軍として動きながらも、何をしてでも生き残り、情報を持ち帰らなければならない。張衛が持ち帰った情報は、徐晃や楽進と言った最高位の将軍達に引き渡され、そして揚松に集められる。揚松はそれを、細作達を統括する任務を請け負った張魯に回し、最終的に曹操に分析結果が回されるのだ。

独立性が高く、強力な軍団が複数生じたため、作られた任務である。曹操軍であるからこそ、必要な職でもあった。

名前を次々に変えなければならない。

それでありながら、死んではならないのである。過酷な任務であった。

だが、曹操は認めてくれた。兄の手腕を。築いてきたものを。だから、張衛は忠義を尽くそうと思う。例え、己がどのような姿になったとしても、である。

今までも、細作の中に、似たような仕事をしている者はいた。しかしそれらはあくまで一兵卒である。軍師や参謀も報告書として戦闘の経緯について連絡する義務があるが、それともまた違う。

影の視点から、より詳細な報告をしなければならない。それだけに、生半可な武将に出来ることではない。

評価されているのはわかっている。しかし、負担は心身ともに大きかった。

「関羽軍はまず于禁将軍の軍勢を追い返すと、董衡、董超の軍勢に狙いを定めました」

「ふむ、それで」

「水害に巻き込もうとしているのはわかったので、于禁将軍と本隊を移動させている最中に、攻撃を受けました。 誘い込まれた両将に押し込まれるようにして、我が軍は水害のまっただ中に。 そして、壊滅と相成りました」

「なるほどな。 それで、関羽軍の精鋭と思える一万ほどだが、どれくらいの副将を付けていた」

関の旗しかなかったと応えると、徐晃は腕組みをした。

そしてしばらく考え込んだ後に立ち上がった。一瞬だけ、徐晃の目には、猛々しい怒りと昂揚が宿っていた。

「よし、勝てるぞ」

応えず、張衛は天幕を出た。多分徐晃は、関羽を孤立させ、他の武将を叩いていく策に出るつもりなのだろう。

関羽は確かに一軍を率いると、著しい実力を発揮する。

だが、一万を一軍に編成するのは、あまりにも極端すぎる。多分他の武将は皆押さえくらいにしか考えていないのだろう。事実、ハン城を包囲するのに部下を使っていたが、その間洪水を避けるくらいしか彼らは動かなかった。

そのまま張衛は与えられた天幕に入り、肉を食った。寝台に横になると、そのまま落ちてしまう。

二刻ほど眠ると、目が醒めた。

既に陣払いが始まっており、徐晃は精鋭を率いて出た後だった。後衛を任された郭淮も、出発に掛かっている。

彼らと共に戦えないのが辛い所だ。

これから、張衛は曹操の所に、戦況の報告に赴かなければならないのだから。

まだ、張魯が何を考えているか、読み切れない部分はある。

だが、張衛は、兄が従った曹操に、これからも影から従うつもりでいた。

 

何度も、呂蒙は出撃しようと思った。

しかし、そのたびに、己を押さえ込んだ。

関羽軍が有利な内に出撃するのは駄目だ。恐らく、忠誠心が低い留守番部隊も、内応には応じないだろう。特に今は、関羽が于禁を討ち破って意気上がっている状態だ。時を、待たねばならなかった。

歩き回りながら、何度も懐に手をやる。

林から渡された薬が、それには入っているのだ。

既に試した。軍用犬に少し与えてみたのだが、いつもより遙かに優れた運動能力と、頭脳のキレを見せた。しかしながら、薬が切れると途端に身動きが取れなくなり、数日で死んだ。

使えば、死ぬ。

だから、使う時を、選ばなければならない。

斥候は多数放っている。しかし、彼らの情報は何とも遅い。繋ぎ狼煙の備えのせいで、大きく荊州を迂回するか、長江を使って行き来しなければならないからだ。焦燥ばかり募り、何度も血を吐いた。

だが、まだまだ、斃れる訳にはいかなかった。

何度、天幕の中を歩き回っただろう。

飛び込んできた陸遜が、血相を変えているのを見て、呂蒙はついに来るべき時が来たのを悟った。

「呂蒙将軍!」

「如何したか」

「徐晃軍が、関羽軍と激突しました。 戦況はほぼ五分。 関羽はこの時のことを考えていたのでしょう。 己の機動部隊を十全に駆使し、他の部隊は全て守りに徹しさせて、まずはハン城を落とすつもりのようです」

戦略的には、正しい判断だ。ただし、局地的な戦略としては、だが。

広域の戦略で言えば、今こそが好機である。この機を逃せば、周瑜の悲願が達成されることはない。もちろん曹操軍とも連携して動く必要がある。だが、それについては、心配はなかった。

「どうやら、決断をしたようですね」

「やはり見ていたのだな」

「その落ち着きがない様子、まるで盛りのついた猫のようで、見ていて実に面白かったですよ」

陸遜の背後からした声が、気配を伴う。思わず剣に手を掛けた陸遜が飛び退く。

影の中から現れたような林が、にやりと笑みを浮かべた。この化け物は、何を目論んでいるのかわからない。だが、今は此奴が、戦況の鍵を握っていた。

「我が軍は、四日後に関羽軍に総攻撃を開始する。 徐晃将軍に、伝えて貰いたい」

「了解しました。 しかし、つなぎ狼煙の網はどう突破するつもりですか」

「それなら問題ない。 既に策は考えてある」

それに、それだけではない。もう手は打ってある。後は何時決行するか、それだけであった。

問題は江東だ。四家の連中が今回の件についてどう考えるか、だが。

それについても、既に解決済みである。これについては、呂蒙がどうこうしたわけではない。四家が呂蒙の行動を全面的に認める書状を出してくると言う不可解なことが起こったのだが、多分何か裏で大きな闇が蠢いているのだろう。ただ、それは今はどうでもいい。

周瑜の悲願を果たす。それだけが、今、呂蒙が為すべき事だった。

林が消えると、呂蒙は手を叩いて、伝令を呼ぶ。

「孫権様に伝えよ。 我、関羽軍と交戦開始。 ただちに援軍を率いて、此方に来られたしと」

「おおっ! わかりました!」

古株の兵士は、きっと周瑜の悲願を果たしたいと考えていてくれたのだろう。武者震いをすると、天幕を飛び出していった。

呂蒙は剣を抜くと、何度か振るう。そして、目を閉じると、呟いた。

「周瑜都督。 俺は間もなく、貴方の元へ参ります。 ただし、関羽とその一党を伴うこととします」

「呂蒙将軍!」

「情けない声を出すな。 俺は間もなく死ぬ。 しかしその後は、そなたに全てを任せたい。 周瑜都督の悲願は、この俺が必ずや果たす。 そなたは、それを守り抜き、後に伝えきるのだ」

落涙しながら、陸遜が頷く。

天幕から出ると、呂蒙は全軍に出撃を命じた。咳き込み、血が出る。だが、その苦い味こそが、勝利をもたらすと、今呂蒙は確信していた。

 

激しく降りしきる雨の中、徐晃は馬に鞭をくれる。既に最初一万連れていた麾下の精鋭は、八千強まで目減りしていた。他の部隊は善戦を続けてはいる。だが、この苦闘、恐らく人生で最も厳しい戦の一つであろう。

荊州で関羽と何度となく激突したが、今回の関羽は、あまりにも手強い。山道で、ひたすらぶつかり合いを続けながら、徐晃は思う。この強さが、関羽がおかしくなった理由なのではないかと。

一瞬の差で、坂の上を確保。しかし、敵は速度を落とさない。

「敵、突撃してきます!」

「押し返せっ!」

此方は坂の上に陣取っているというのに、まるで鉄の塊でも叩きつけられているかのような圧力だ。先頭にいる関羽は、赤い大柄な馬に跨り、長刀を持って突入してくる。その眼光は、歴戦の兵士達をもひるませる。

激突。

もみ合いの中、右左に徐晃軍の精鋭を斬り倒しながら、関羽が前に出てくる。

白焔斧を振るい、徐晃が出た。振り下ろす一撃、切り上げる一撃、ぶつかり合う。豪雨の中、閃光が走り、火花が散った。五合、六合、打ち合う。徐々に押される。関羽もいい年だというのに、凄まじい圧力だ。

歯を食いしばり、前に出る。下がろうとした瞬間に、斬られる。それが分かりきっているから、強気に出る。吠え、刃を振り下ろす。五十合を超えた頃か、不意に関羽が下がる。しかし、追撃の余裕など無い。

肩で息を整えながら、周囲に指示。

水源を再奪取し、敵の布陣を確認した徐晃は、じりじりと前線を進めつつあった。関羽軍には自軍の精鋭を当てつつ、他の部隊で圧迫する。王甫がかなり手強いが、曹真と牛金の部隊を当て、二人がかりで抑えさせた。

兵力はほぼ互角。

それなのに、押されているように思えるのは、どうしてなのだろう。

「関羽軍が東に移動しています! 曹休隊を狙っているようです!」

「追うぞ! 曹休ではとても支え切れん!」

休む暇もない。とても六十手前の老人とは思えない機動力だ。

今陣取っている拠点は、後続の部隊に任せる。負傷者を置き、兵を雨の中疾駆させた。氷雨の中だというのに、体が燃えるように熱い。見えた。関羽軍が、森の中を移動している。

どういう訳か、今回敵の諜報部隊は、動きが鈍い。

情報戦では、上を行くことが出来ている。その割には、于禁の動きが鈍かったことが気になる。やはり、何かおかしな動きが、闇であるとしか思えない。

陣を拡げて、坂の上から関羽軍に躍り掛かる。

関羽軍は即座に矢の陣形に組み替え、突入してきた。凄まじい鋭鋒を迎え撃つ。また、関羽が、無数の騎兵を斬り捨てながら迫ってきた。徐晃が吠え、暴風雨にも似た破壊的圧力を受け止めた。だが、それも無理が出てきた。息が乱れてきたのが自分でもわかる。六合、それで限界だった。

振り下ろされた青竜刀が、浅く鎧を切り裂く。一瞬、木の枝が青竜刀にぶつかり、その威力を弱めたのだ。

関羽も疲れていたと言うことだ。普段ならあり得ない事である。

好機と思ったが、体が動かない。関羽は舌打ちすると、兵を下げる。

「命拾いしたな、徐晃」

「さ、流石だ」

「お前と儂では格が違う。 ほざくな」

慄然とする。関羽が身を翻し去るのを見送りながら、徐晃は負傷者の手当を命じ、呼吸を整えながら呟く。

関羽が見せたそれは、誇りではない。

傲慢だった。

「やはり、変わったのだな、貴方は」

「徐晃将軍?」

「何でもない。 この雨だ、風邪を引かぬように処置をせよ。 温めた湯と粥を全軍に配れ。 水害にも気をつけよ。 于禁軍の二の舞になってはならぬ」

関羽の直属軍も、流石に一時下がったようだ。

激しい戦いで、味方は前線をかなり進めることに成功した。王甫にかなり苦戦していた牛金と曹真も、結局敵の浸透を阻むことには成功している。関平をはじめとする他の武将相手には、かなり有利に戦いを進めることも出来ていた。

于禁がもう少し持ちこたえてくれれば、一気に戦況を変えることも出来ただろう。しかし、今更それを言っても仕方がない。後は楽進と、曹操の主力が何時到着するかだ。関羽単体を抑えるのには無理があっても、此方には物量という最大の武器がある。更に、楽進と二人がかりであれば、関羽を仕留めることも出来る可能性がある。

報告に牛金が来たので、ついでに聞いておく。

「曹仁どのは無事か」

「満寵将軍が、良く補佐をされているようです。 まだ城が落ちた形跡はありません」

「よし、どうにかハン城の救援は間に合いそうだな」

「さて、それはどうでしょうね」

突如割り込む第三者の声。

林だった。

徐晃が振り向くと、林は机の上に腰掛け、焼き菓子を頬張っていた。ますます人間離れしてきている林は、徐晃を見てにやりと笑った。

「今は、ハン城の救援などよりも、関羽を仕留める好機ですよ」

「話を聞かせて貰おうか」

剣に手を掛ける牛金を制止すると、徐晃は言った。

 

4、渦の中心

 

破滅の時が始まった。

王甫はそれを肌で感じていた。

突如、後方の拠点が失陥。糜芳、士仁らの主将が、呂蒙に寝返ったのである。繋ぎ狼煙の備えも役に立たなかった。混乱する情報の中、王甫が知ったのは、恐るべき力業であった。

何と、狼煙の側に潜んでいた兵士達が、同時に全ての狼煙を襲ったというのだ。

糜芳と士仁は少し前から呂蒙に通じていたらしく、隠し狼煙の位置まで筒抜けになっていたようだ。

降りしきる雨の中、関羽は流石に愕然としていた。無言で黙り込んでいる。真っ赤な顔が、更に赤黒くなっているのはなぜだろう。関羽なりに、恥じているという事なのだろうか。

もたもたしている時間はない。前には徐晃軍の精鋭。更にその後ろには、曹操軍本隊と、楽進軍が迫っている。後方には呂蒙の軍勢。それだけではない。問題はこの雨だ。長江を降ることはとても出来そうにない。

つまり、援軍は来られないと言うことだ。

王甫も、もう年だ。紀霊だった頃の経験がものをいい、結局劉備軍でも地位を高めてしまった。一兵卒として死にたかったのだが、どうもそうもいかないらしい。袁術の家族達は無事だろうかと思う。山奥に逃げた彼らは、今頃実力もないのに皇帝を名乗った愚か者の子孫だと言うことを、忘れてしまっているかも知れない。だが、それでいい。

紀霊は因果応報とか言う思想は信じていない。個人に対して、それが適応されるのはよいだろう。だが子孫に対して報いが残されるというような思想は、単なる集団私刑の正当化に過ぎない。そんなものは、犬の餌にでもなればよいと思っている。

頭を切り換えると、王甫は、関羽に進言する。

「関羽将軍、一旦襄陽に引き上げましょう。 今であれば、間に合うはずです」

関羽は、じろりと王甫を見た。

何も言わないので、もう一度同じ事を言う。そうすると、いきなり関羽が、青竜刀を振り上げる。

「貴様ごときが、この儂に意見するか、下郎っ!」

「何とでも言いなさるとよろしいでしょう。 しかし、今撤退をしなければ、味方は全滅いたしますぞ!」

至近に落雷。

誰かが言わなければならないことを、今王甫は言った。関羽は、目に狂気を宿らせている。まるで、雷を、呼び寄せたのは関羽であるかのようだった。

しばしの衝突が続く。関羽を抑えようとする部下は、一人も居ない。そうしようとして、斬られたものまでが実在したからだ。民も、今では関羽に怯えきってしまっている。関羽を怒らせて、農民が一人惨殺されてからだった。

「一刻を争いまする!」

「黙れッ!」

吠えながらも、関羽は動けない。それで、王甫は悟る。

ひょっとして関羽は。今、途轍もない恐怖に体を包まれてしまっているのではないのか、と。

関羽は痛みに強い。以前、腕に毒矢を受けた時、碁を打ちながら、眉一つ動かさずに医師に治療させたことがある。むしろ周囲が青ざめる中、関羽は終始平然としていて、碁でも複雑な読み合いに勝利していた位だ。

胆力だって同じ事である。戦場を若い頃から駆け回り、数多くの死線をくぐってきた男なのだ。常人など比較にならない胆力が備わっているのは、実際に王甫も目にしてきている。

それなのに、関羽のこの様子が、恐怖によるものだとしたら。

一体何を、関羽はこれほどまでに恐れているというのか。

関羽が青竜刀を下ろした。周囲がむしろほっとする中、関羽は周囲に指示を出す。まるで、焼けばちだった。

「襄陽へ撤退するぞ。 殿軍は儂が努める。 先鋒は王甫」

「わかりました、直ちに」

しずしずと、全軍が動き出す。奪い取ったばかりの襄陽なら、撤退にも時間は掛からないだろう。

如何に呂蒙が速攻を仕掛けてきていたとしても、今なら間に合う可能性は高かった。

徐晃軍との死闘を行った直後である。兵士達は疲れ切っている。特に関羽の直営部隊は激しく疲弊しているはずで、殿軍を本当に努められるのか、不安でならなかった。だが、それでも、関羽は前言を翻したりはしないだろう。

長雨で、既に長江は川幅をだいぶ拡げている。いつ何処で洪水が起こってもおかしくない状態だ。

襄陽は長江の支流が側にあるだけに、危険度は高い。そう言う意味でも、不慮の事故を避けるために、急いで撤退しなければならなかった。

王甫は最精鋭を選抜すると、急いで襄陽に向かう。

呂蒙軍が五万、徐晃の軍勢が七万。楽進軍と、曹操の本隊が併せて十万として、合計すると二十万と少し。しかし、味方も七万程度が存在している。

もしも襄陽に立てこもることが出来れば。劉備の援軍が到着するまで、持ちこたえることが出来るだろう。仮に江東と曹操軍が同盟を組んでいたとしても、そこまで高度な連携など、出来る訳がないからだ。

ハン城の包囲を解くと、急いで王甫は撤退を開始した。

徐晃軍が猛烈な追撃を掛けてきていることは、想像に難くない。どれだけ関羽の直営部隊がそれを防げるかが、撤退の胆となっていた。

 

江陵、南郡、それに長沙、霊陵、武陵、珪陽を全て手中にしたことを確認した呂蒙は、一息ついていた。最大の目標であった襄陽と、前線基地である江夏には、既に曹操軍が入っている。もはや手が出せる状況にはなかった。

別働隊である、楽進の隊による制圧であった。

徐晃軍と関羽軍が激突したことを見て取った楽進は、自身精鋭を率いて山道を南下、隙を見て一気に二つの拠点を奪い取ったらしい。既に夏口も楽進の隊が攻めており、陥落は時間の問題と言うことであった。

今は、荊州の南半分を奪うことが出来たと言うことで、満足するべきであったのかも知れない。

少なくとも、今曹操を敵に回していては、関羽を逃がす可能性が非常に大きかった。

全身が、焼け付くように痛い。

体が、限界を訴えてきているのだ。電撃的な各拠点の攻略戦と、関羽の裏を掻いた一撃によって、体の負荷も限界に達してしまっていたらしい。無理もない話である。関羽の圧力を今まで耐えてきただけでも、上出来なのかも知れなかった。

陸遜が、天幕に飛び込んでくる。

「呂蒙将軍、朗報です」

「如何したか」

「関羽軍は撤退を開始しました。 襄陽に潜んでいた楽進軍と王甫軍が激突し、王甫は死闘の末に敗退。 混乱の中、関羽は西に退路を変更。 合流した楽進軍と徐晃軍による追撃が始まっています」

「よし、わかった。 我が軍は、更に西に回り込むぞ」

今は長江が大増水を起こしているから、劉備軍に背後を突かれる恐れはない。むしろ、関羽は長江もその支流も避けて進まなければならず、かなり敗走の経路は特定することが出来る。

もしも、関羽を逃がしたら。

劉備軍は関羽を先鋒にして、怒濤のごとく攻め寄せてくるだろう。その時には傲慢さを失った関羽が、的確な猛攻を仕掛けてくることは間違いなく、支えきれない可能性が高い。今しか、好機はないのだ。

咳き込み、盛大に血を吐いた。

気がつくと、寝台に横たえられていた。陸遜はいない。側にいた朱桓に、聞く。

「陸遜、は」

「既に、関羽を倒すべく、直営の精鋭を率いて陣を出られました」

「そうか。 では、我が軍も急いで後を追え」

「はい」

朱桓が目尻を拭う。今まで、気付いてもいなかったのかも知れない。呂蒙の不調に。

呂蒙は懐を探ると、林の薬を出す。

今、これを飲む時だった。

もはや呂蒙には、時間が残っていない。毒物など、飲もうが飲むまいが同じである。どうせ少ない時間であるのなら。最大限に活用するべきであった。

全軍が動き出す。

最近劉備軍の古参である陳到は輿に乗って移動していると聞いているが、呂蒙も同じ事をした。

薬を体に入れてから、頭が異常に冴えて来た。関羽の逃走経路が、頭の中に描いた地図に、閃光のように提示されている。今まで覚えた兵法の数々が、どうやって関羽を倒せばよいのか、適切に告げてくる。

孫子が、体に宿ったかのようであった。

斥候を出し、関羽の逃走先を的確に塞いでいく。読み通り、関羽軍からの脱落が酷い。追撃による打撃よりも、兵士達は関羽が負けたと言うことで、これ幸いと逃げ出しているようだった。

乱世で兵士は基本的に薄情だが、これは度を超している。数年。たった数年で、かって兵士達に武神として信仰され、その全てを捧げられていた名将は、此処まで落ちてしまったのだ。

関羽軍の本隊が五千前後まで目減りした時。

麦城という小さな古城に、関羽は逃げ込んだ。既に、総兵力は、二万を切っていた。

そして陸遜と呂蒙が麦城を包囲した時には。

その兵力は、一万を割り込んでいたのである。

雨が降り注ぐ中、関羽は既に、退路を完全に喪失していた。

 

襄陽を陥落させた楽進と合流し、、新野を落とした徐晃は、曹操の本隊を出迎えていた。と言っても、曹操は機動力に優れた二万程度を連れてきたのみであった。徐晃軍、楽進軍を併せて、十万程度にしか達しない。此処に曹仁の敗残兵を加えて、十三万という所である。

本来なら荊州を攻略するには少し心許ない戦力だが、今はこれで充分だ。

馬から下りた曹操は、早速新しい焼き菓子を頬張り、侍従に背を伸ばす道具を運ばせながら、徐晃に聞く。

「掃討戦はどうなっている」

「それが、驚くほど簡単に進んでおります。 兵士達は愚か、民もが既に関羽を見放していたようでして」

「どういう事か」

「今、詳しく調べております。 ただ、どうも関羽は士大夫だけではなく、民にまで乱暴で傲慢になっていたようなのです」

眉をひそめる曹操。

かって、許昌で関羽と接したのなら、とても信じられないことだ。少なくとも昔の関羽は、他人に厳しかったが、それ以上に自分に厳しい男だった。民を思いやる心だって、人一倍持っていた。

劉備軍の戦略を支えていたのは、人望だ。関羽はその一翼を担っていたはず。

徐晃が老婆を連れてくる。南郡で鍛冶屋をしていた息子を斬られた、気の毒な老人である。曹操は腰を落として、視線を合わせて話を聞き始めた。

「私は魏王曹操だ。 ばあさまは、関羽をどうして憎んでいるのかな」

「おお、魏王様。 かって、関羽様はとてもお優しい方でした。 それが、ここ数年、とても乱暴になられて。 息子は関羽様にと、武器を納めたのですが。 その出来が気に入らないと、あの恐ろしい刃で」

「そうか。 あの関羽がな」

「きっと、邪神トウテツが乗り移ったに違いないです。 恐ろしや恐ろしや」

それは酷い話だ。確かに国に納める武器であれば、それなりの品質が要求されるのは当然のこと。だが、事前に審査くらいはするし、出来が悪ければ別の人間に納品させる事になる。気に入らないからいきなり斬首というのはあり得ない。しかも、関羽が自ら手を下したというのか。

他にも、何名か連れてくる。納品した服の柄が気に入らないとかで、関羽に兄を斬り殺されたという商家の娘がいた。些細なことで、棒で百叩きにされた兵士もいた。糜芳やら士仁やらと会う事は出来ないが、彼らも相当な恐怖を関羽に感じていたのだろう。

何名かの証人を見送った後、徐晃が吐き捨てる。曹操も腕組みして、苦い表情を湛えていた。

「これでは、まるでいにしえの暴君です」

「その通りだ。 だが、徐晃。 このような話を知っているか。 名君として始まり、暴君となった君主は、実に多い」

「そういえば、幾つか例があると、徐栄将軍に教わりました」

「うむ。 不老不死を求めた結果国政が疎かになったり、心の疲弊からか酒食に耽溺したり、英明の君主がおかしくなる例は歴史上幾つもある。 関羽はどうして、暴君になろうとしているのだ。 病か? それとも心の問題か? いずれにしても、中華を代表する猛将が、このようなことになるとはな」

曹操の目に悲しみが湛えられていることを、徐晃は見逃さなかった。

無理もない話だ。かって、あれほど欲した男である。闇に落ちて、嬉しい訳もないという事か。

「関羽は今、麦城で江東の軍勢に包囲されています」

「わかった。 ならば我らは軍の再編成だ。 劉備が攻め込んできた時に備え、連れてきた兵を再配置する」

もはや関羽の命運は尽きた。そう曹操は言っている。

それに気付くと、徐晃も涙がこぼれるのを止められなかった。

 

麦城は小さな古城であった。一応の城壁はあるが、百年は使われた形跡がない。恐らく、王莽の大乱の時代に、作られたものであろう。それも実戦は経験せずに、廃棄された雰囲気が濃厚である。

どうにか此処に逃げ込んだ時、関羽軍はまだ二万を有していた。

だが、翌日の朝には、既に兵力は半減。更に兵士達は、次々に逃げ出しつつある。古くから関羽に仕えている忠誠心が高い五千を除いて、もう兵士達に、戦意らしいものは残っていなかった。

民に慕われ、兵士達の結束の中成立していた関羽軍が、こうも脆い壊滅を遂げるとは。草むした城壁の上を歩きながら、王甫は歎息する。紀霊から王甫になったとき、確かに民の支持を受ける劉備軍を見た。民のために戦うことで、己の罪を削ぎたいとも思った。

それなのに、今。民から見放され、兵士達からも恨まれた軍で、王甫は最期を向かえようとしている。

今度こそ、死ねるのだろうか。

そう呟く。

城壁の上に、関平が上がってきた。焦燥しきっている。追撃戦の時に、肩に矢を受けて、腕が巧く上がらないらしい。結局、この青年は武勇でも用兵でも父に遠く及ばなかった。容姿も、あまり今の関羽に似ていない。少し前までは、面影があるように思えたのだが、不思議だった。

「王甫将軍」

「わかった。 すぐに行く」

諸葛亮の誇る細作軍団は、この窮状を劉備に伝えているのだろうか。

そう思い、ふと気付く。

なぜ、連中は根拠地である荊州で、よりにもよって稚拙な情報網しか持たない江東の呂蒙に遅れを取ったのか。

林が来ているのならなおさら、多くの手下を配備していたことは間違いないだろうに。この情報戦での遅れは何か。

首を振ってその思考を止める。今は、味方を疑うよりも、敵を討たなければならない時であった。

麦城の中は、廃墟も同然である。床にも壁にも雑草が生えており、虫が飛び交っている。野営しているのと同じだ。彼方此方に点々としている血の跡。脱走しようとした兵を、関羽の親衛隊が斬り殺している音が、毎晩聞こえる。もちろん、逃げる兵士も黙ってやられてはいない。此方を包囲している呂蒙と陸遜が動かないのは、放って置いても此方が自滅するからだ。

兵が少ない上に、兵糧までもがないのである。とてもではないが、籠城など出来る状況にはなかった。

関羽は一番奥で佇んでいた。

追撃戦の時、代わる代わる追いすがる徐晃と楽進を撃退し続け、全身に怪我をしていた。包帯が痛々しい。既に、常人なら死んでいるかも知れない。しかし関羽は、最期の輝きを放っていた。

むしろ、若い頃の威厳が、戻ったかのようだった。

「王甫か」

「関羽将軍、お労しい姿にございます」

「良い。 自業自得だ」

静かに、関羽はそう言った。

周囲では、関羽の部下達が皆泣いている。一足早く先に逃れた馬良だけがこの場にはいないが、いたらきっと涙していただろう。

関羽が部下に酒を配る。僅かな貯蓄物資だ。つまり、此処にもう籠もる気がないことを、示している。

「いつ頃からだろうか。 そうだな、医師に尿に糖が混じる病気だと、伝えられた頃からだろうか。 不意に、頭の中が真っ赤になって、自分を抑えられないようになってきたのだ。 自分でも、傲慢になってきていることがわかって、儂は怖かった。 酒を飲んで逃げようともしたが、飲めば飲むほど酷くなっていった。 張飛や黄忠が、どんどん手柄を立てているというのを聞いて、焦ったのも、それに拍車を掛けた。 いつの間にか、自分でも、手の施しようがない所まで、落ちてしまっていた」

関羽は静かに、己の罪を語る。

「ここ数年、儂は闇の中にいた。 黄巾党の乱の前後から、世を憂いて塩の密売から義勇軍に鞍替えし、兄者達と部隊を結成して、民のためだけに生きようと誓っていたのに、今はどうだ。 守るべき民を斬ったり、兵に酷いことばかりをしてしまった。 儂が間違っていた。 儂は己の愚かさが故に滅ぶ。 このまま皆を巻き添えにして死んでは、儂は一緒に戦い死んできた同志達に、顔向けが出来ぬ」

「関羽将軍!」

「そなたらは生き延びよ。 血路は、儂が開く。 だから生き延びて、劉備兄者に伝えて欲しい。 関羽が如何に愚かな死を遂げたかを。 仇など討とうとせず、今後の包括的な戦略を練って欲しいと」

関羽は、あまりにも静かだった。

泣きくれる関平は、最期まで関羽と共にいると叫んだ。だが、関羽は首を横に振った。跡継ぎとしては他にも関興がいる。彼は今益州にいるから、今此処で関羽が死んでも、関の家が断絶することはない。にもかかわらず、関羽は長男の殉死を拒んだ。恐らくは、それが関羽なりの息子に対する愛情だったのだろう。

「食料を、全て配れ。 幸い雨は晴れてきている。 まず上庸に向けて突破する」

漢中と荊州の中間点にある拠点、上庸。現在、上庸には劉封と孟達が駐屯しており、兵力は二万を超えている。

途中幾つか長江の支流があるが、今は雨が止んでおり、突破が可能だ。ただし、今いる五千の内、半分も逃げきれはしないだろう。

兵士達はみんな残りたいと言い出した。殆どは、関羽を見捨てず、最期まで付き従う覚悟の者達である。負傷者も多いが、それでも、彼らの意思は堅かった。それが故に、関羽は彼らに、殉死を許さなかった。

「そなたらは、漢中王にとっても宝だ。 だから一人でも多く生き残り、天下統一、万民の安寧のために戦って欲しい」

王甫はあたまを下げる。

最後の瞬間だけであっても、関羽は元に戻ってくれた。それで、充分であった。

 

呂蒙は、関羽の動きを読んでいた。

突破に掛かってくるとしたら、恐らく今夜。それも、上庸を目指して、突破を図ってくるだろうと。

もたもたしていると、劉備が大軍を連れて現れる。雨が止んだ今、関羽を仕留める時間はもうあまり残されていない。

だから、最も信頼できる部下の陸遜を、上庸周辺に伏兵として配置した。上庸の主将である劉封は劉備の養子だが、関羽と折り合いがあまり良く無い。兵を進めてくることは考えにくく、逃げ込まれさえしなければ、充分に仕留めることが可能だ。もっとも、上庸は非常に堅固な上に蓄えも多い城で、逃げ込まれたらまず劉備の援軍が到着するまでに仕留めきれない。

麦城の中は妙に活気づいている。

多分、末期の酒のつもりなのだろう。それを止めるのは野暮だと思ったから、呂蒙は伏兵をして待つ。或いは、伏兵がいても、突破できる自信があるのかも知れない。だが、今の呂蒙は、時間と引き替えに人間を超えている。例え関羽が英雄であろうとも、突破などさせはしない。

麦城の門が開く。

全軍が緊張する中、呂蒙は吠え猛った。

「逃がすな! 関羽だけを狙え!」

敵が一丸となり、飛び出してくる。巨体を誇る関羽が、最前衛にいるのはどういう事か。網を用意させる。更に、馬の足を狙う短い槍もだ。だが、関羽と殆ど一緒に現れた王甫が、大量の矢を浴びせかけてくる。ばたばたと斃れる兵士達。其処へ、関羽が、青龍円月刀を振りかぶって躍り掛かった。

人馬一体。振り上げられた槍を、関羽の馬が全てかわす。驚愕の声が、敵味方から上がった。

振り上げられた刃が、月の光を怜悧に反射。呂蒙が一瞬目を閉じると、爆発するような絶叫と悲鳴が周囲に満ちた。

関羽が、斬る。殺す。倒す。

それは、大量虐殺だというのに。どこか幻想的であった。

極端すぎる暴力であるが故に、逆に美を呼んでしまうのかも知れない。

関羽の巨大なその腕が、青龍円月刀を振り回す度に。兵士達の首がすっ飛び、腕が消し飛び、血しぶきがまき散らされた。そうして作られた孔に、王甫の軍勢がつっこみ、包囲を食い破る。抵抗が止むと、すぐに関羽は次の部隊に突撃し、一人で百人を蹴散らす有様であった。

かって曹操の重臣である荀ケが、関羽と張飛は一人で一万の兵に匹敵すると、戦慄した事があるという。

呂蒙はその言葉があながち嘘でもないことを、間近で見せつけられた。

山越の忠誠度が低い兵士達は、関羽の凄まじい強さを見て、逃げ腰になってしまう。其処を王甫の猛烈な突撃で、散々に蹴散らされる。見る間に三枚目の陣が抜かれ、四枚目の陣に食い込まれた。

「味方の犠牲を気にするな! 矢を放て! 網を浴びせよ!」

呂蒙は、それでも臆することがない。

林の薬によって加速させられた思考が、次々に最善手を生み出す。関羽の前に兵力を移動させ、王甫の軍には次々新手をぶつける。人間の肉そのものを壁にして、関羽の移動を阻む。激しい殺し合いの中、徐々に関羽の動きは鈍ってくる。確実に、そして着実に。被害は大きい。だが、仕留められる。

右手を挙げる。用意していた最精鋭に、攻撃の準備をさせる。

そして、関羽が一瞬だけ、後ろに下がろうとした瞬間。突撃を開始させた。

「今だ、仕留めよ!」

大量に吐血して、側の武将に支えられる。よく見ると、朱桓だった。

「後はお任せを! お下がりください!」

「ならん! 関羽は今、俺でないと仕留められん!」

何かが、叩きつぶされるような音。

見ると、精鋭部隊の先頭が、文字通り吹っ飛んでいた。下がろうとしていた関羽が一転、前に出てきたのだ。既に十本以上の矢を浴びているというのに、その凄まじい有様に、まるで衰えはない。その口元が笑っているのに、呂蒙は気付いた。見えるはずのない距離なのに、見えたのだ。

まさか、謀られたか。

いや。人間の能力から考えて、あり得ない。

例え相手が武神の域に到達しているとしても、である。呂蒙は叫び、指揮を続ける。精鋭部隊は瞬く間に数を減らしながらも、関羽にぶつかり、怪我を着実に増やしていく。

だが。

王甫の部隊が、ついに包囲を突破した。

兵士達が、次々に包囲を抜けていく。陸遜の部隊も動き出すが、王甫はもう一人の関羽のように暴れ狂い、陸遜軍を蹴散らし、ついに此方も突破する。敵が逃げる。逃げ散る。呂蒙は舌打ちした。

「逃げる敵には構うな! 関羽を、関羽だけを狙え!」

味方に構わず、斉射。悲鳴を上げて斃れる味方の兵士の中、立ちつくす関羽。既に二十を越える矢を受け、三十箇所以上の傷を受けている。視界の隅で、見えた。王甫に引きずられるようにして、包囲を突破していく関平。父の名を叫んでいるようだが、知ったことではない。

関羽が、大量の矢を浴びながらも、突っ込んでくる。そして、また味方に接触。赤い霧が発生したようだった。蹴散らされる味方は、抵抗の暇もなく斬り伏せられ、吹っ飛び、肉塊と化してしまう。

矢を浴びせながら、呂蒙は冷静な指揮を続ける。関羽と共に戦おうという僅かに残った敵の戦意も凄まじいが、それ以上にどうだ、あの姿は。傲慢に弱体化していた哀れな男の影は、もはや無い。其処にいるのは、全盛期の輝きを取り戻した、雄々しい武神そのものであった。

「呂蒙ーっ!」

関羽が叫ぶ。馬も、既に十本以上の矢を受けていた。一本に到っては額に突き刺さっているかのように見える。だが、それでも馬は動く。関羽の顔にも、矢が突き刺さっている。だが、それでも闘志は衰えていない。

「貴様を、斬る!」

放たれた気迫が、呂蒙の全身をしたたかに打ちのめした。全身の骨が砕けたような感触と共に、内臓が全て駄目になるのがわかった。吐血。胸が真っ赤に染まる。悲鳴が周囲で上がる中、呂蒙は叫んだ。

「はははははは! 良いぞ関羽! 俺はお前に英雄としての格では及ばなかったかも知れんが、それでも! これなら、周瑜様に、恥ずかしくない死に方が出来る! お前と相打ちになるなら、末代までの誉れとなる!」

関羽が、最期の突撃を開始した。

呂蒙の前に立ちはだかったのは、馬忠。司馬として従い来ている、勇猛な男である。しかし、その卓絶した武を持ってしても、関羽を止められるようには思えなかった。むしろ、戦車の前の蟷螂にしか見えない。関羽の側には、逃げ切れなかったのか、或いは逃げなかったのか。文官の趙累もいた。残った五十名ほどが、矢の雨の中、突撃してきた。

趙累が、針鼠のようになって斃れた。

関羽が、いやその馬が、ついに膝を折る。首だけでも十本以上の矢を受けていたのだから、無理もない。わっと、兵士達が襲いかかるが、吹き飛ばされる。地面に倒れた関羽が、青龍円月刀を一振りしたのだ。飛び散る兵士達の体は、粉々に分かたれていた。

手負いの武神が、吠えた。

それだけで、百頭の虎に、吠え掛かられたかのようだった。

数万本に達する矢を浴びせる。関羽の部下達は、その盾になるように、次々針鼠になっていった。関羽が走る。ついに、一人になる。

馬忠が剣を抜き、呂蒙の前に立ちはだかった。もはや、関羽は五十本以上の矢を受けているだろう。それでも、動く。動いて、青龍円月刀を振り下ろす。

馬忠が、斬られた。

否。青龍円月刀が、馬忠の剣を瞬時に両断し、兜の上で止まっていた。

切っ先は、呂蒙に。

立ったまま。武人としてのまま。関羽は、その場で死んでいた。

馬忠が、後ろに倒れた。口から泡を吹いている。髪は真っ白になっていて、意識がない。これでは、長くは生きられないだろう。

そして、呂蒙も、それは同じだった。

感じる。全てが崩壊しつつあるのを。

「敵は、どれくらいが脱出した」

「二千弱かと。 王甫、関平は逃れましたが、趙累は討ち取りました。 馬良は間路から、益州に逃れたようです」

「そうか。 総員、偉大なる武神に敬礼! そなたらが相手にしたは、数百年、或いはもっと後の時代まで、英雄として語られる男だ!」

最期で過ちは犯したが、それを見事に精算した。

命を捨てなければ、とても関羽を倒すことは出来なかっただろう。被害を報告させる。実に関羽だけで、数百の兵を斬っていた。全体での被害は四千を超えており、この僅かな時間に失った兵力としては考えられない数である。しかも、敵より損害の数自体は多いという有様であった。

陸遜の気配。呂蒙は、手を叩いて、あらかじめ侍従に言い含めておいた通りにさせる。すなわち、天幕の中に用意させておいた遺言を渡す。陸遜は涙に震えながら、遺言を受け取った。

普通だったら女々しいと怒る所だが、今は好きなようにさせておいた。

「呂蒙っ!」

孫権の声。霞み始めている視界の中、孫権の姿があった。蒼白になっており、気付く。ひょっとして、孫権は、呂蒙の病を知らなかったのではないかと。

「しっかりせい、呂蒙!」

「お早いお着きにございます。 流石は、兄君孫策様の血を受けたお方にございます」

「馬鹿なことをいうでない。 お前の書状を受け取ってから、一週間も経っているではないか!」

言われて、気付く。

自分は立っていない。寝台に寝かされている。しかも、そのまま、もはや指一本動かすことが出来なかった。

そうか。ひょっとして。最後の瞬間だけ、関羽が主君に会う時間をくれたのかも知れない。この状況である。後世では関羽に呪い殺されたとか噂されるかも知れないなと、呂蒙は思った。笑止である。関羽は、最期まで、男の中の男で有り続けた。かの武神に、呪いなど似合わない。

「て、んまくに、遺言を用意してござい、ます。 お目を、お通し、くださ、い」

「ああ、見た! 見たとも! だから、死ぬな呂蒙!」

「孫権様に其処まで惜しんでいただき、この呂蒙め、光栄の極みにございます。 四家の呪縛から江東が逃れ、周瑜様の悲願が達成される日を、願って、お、り……ます」

不意に、視界が光に満ちた。

すぐ側に、関羽がいた。顎で示された先には、周瑜の姿が。

呂蒙は思わず関羽に抱拳礼をしていた。最早今、関羽は敵ではない。尊敬すべき、武人の中の武人だった。

「関羽どの、すまぬ。 出来れば来世では、味方でありたい」

「そうだな。 貴様の戦いぶりは、儂から見ても見事であった」

熱い涙が流れた。

そして呂蒙は、周瑜に歩み寄ったのだった。

話したいことが幾らでもあった。

しかしまるで感動した子供のように、言葉は出てこなかった。

「見事だった。 江東を代表する武人に成長したな、呂蒙」

周瑜の言葉が、光の中に溶けて消えた。

今はただ、呂蒙は光の中で、満足していた。

 

5、流星雨

 

劉備が卒倒してしまった。

永安の事である。十万に達する援軍を率い、関羽の救援に出た劉備を待っていたのは、早すぎる悲報であった。王甫、関平らによる報告により、関羽の死を告げられて。劉備は絶叫を一つあげると、その場に倒れてしまった。

陳到も、此処まで悲しみを露わにする劉備ははじめて見た。側では、張飛が泣き続けている。陳到はいたたまれなくなり、天幕を出た。医師がばたばたと天幕に駆け込み、劉備を寝台に運んでいる。

もっと、報告が早ければ。

輿などに乗っておらず、若い頃のように馬に乗っていれば。

痛恨の思いで、やっと晴れた空を陳到は見つめる。いつの間にか、趙雲が側にいた。

「気に病まれるな、陳到将軍。 貴方の判断は、何も間違ってはいなかった」

「趙雲将軍」

「それよりも、今回の件、おかしいとは思わなかったか」

「すまぬ、今は何も考えられぬ」

一礼すると、陳到は自分の天幕に戻る。

趙雲の言葉もわかる。確かに今回、おかしな事が多すぎる。情報が到達するのは妙に遅いし、曹操軍と呂蒙軍の動きは逆に速すぎる。あの関羽の軍勢が、此処まで簡単に崩壊したのも、おかしな事であった。

しかしそれも、今は思考が回らなかった。

自陣に着く。天幕にはいると、強壮剤を飲んだ。

全軍が悲しみに暮れる中、陳到は今までにないほどの無力感を味わい、呆然としていた。

 

曹操の所に、関羽の首が届けられた。

厄介払いをしたのは一目瞭然である。劉備が怒り狂って攻めてくることを、江東は予見していたのだろう。そのようなことをするくらいなら、最初から協調路線を進めていけば良かったのだ。

さぞや凄まじい形相をしているだろうと曹操は思ったのだが、実際に酒に漬けられた関羽の首を検分すると、穏やかな表情であった。しかも事前に髭に香料でも仕込んでいたのか、血の臭いよりも芳香が先に立つ。

死を覚悟して、その後が見苦しくないように。関羽は配慮したのだ。己を過信し、傲慢に落ちた男に出来ることではない。

「そうか。 関羽将軍、そなたも最期には、元の武神に戻ることが出来たのだな」

曹操は天を仰いで涙を流した。

許昌でのことが、昨日のように思い出される。

しばしの沈黙の後、部下を呼んだ。

「この首を、劉備の所に返してやれ」

「よろしいのですか」

「ああ。 そして、葬儀の準備だ。 侯待遇で、国葬を行う。 歴史に残る武人が死んだのだぞ。 これくらいは当然だ」

部下達が、関羽の首を運んでいく。大きく歎息すると、曹操は側に控えていた許?(チョ)に言った。

「一つの時代が、これで終わったな」

「そうですな。 関羽将軍には、俺も許昌時代に武術を教えて貰いました。 ただの馬鹿力だった俺に、とても丁寧に、技の数々を教え込んでくれました。 偉大な男を亡くしたものだと思います」

淡々と言う許?(チョ)だが、悲しんでいるのは曹操も感じ取った。

酒を用意させる。あまり許?(チョ)は飲まないのだが、今日だけは別だった。

二人して、痛飲する。

二人とも、関羽のことが好きだった。それが故に、悲しみは天を覆うかのようだった。

 

田豫は、馬上ではっと気付いて空を見上げた。虫の知らせを感じたのだ。

少し前から、田豫は役人となるように、曹操から書状を受け取っている。今までは経歴を隠したりしていたのだが、いよいよ状況が逼迫してきていたのだ。袁紹の時代に何名も、河北から脱出するのを手伝ったことが、却って徒となった。

とうとうどうにもならなくなり、妹に田家を任せて、出仕しようとしていた矢先のことである。

「兄様、どうしたのです」

「……関羽将軍が、亡くなられた」

「ええっ!?」

流石に鉄面皮の妹も、驚いたようだった。

情報を分析する限り、それしかあり得ない。田家の情報網は今だ健在であり、荊州で今関羽が追い詰められていることは田豫も知っている。様々に手を尽くして助けようとはしていたのだが、林の妨害が酷すぎて、どうにもならない状態だった。

関羽は。偉大な男だった。

義勇軍の中で、年が若かった自分に、どれだけ良くしてくれたか。厳しい中にも優しさのある、男の中の男だった。涙を乱暴に拭う。何だか、もう、どうにもならないものである。

「天下は、何処へ流れていくのだろう」

田豫の言葉は、誰にも届かない。ただ、澄み渡った空に、消えた。

これから田豫は、曹操に仕えなければならない。いい加減そうしないと、田家が潰されてしまうだろう。

だが、関羽の事はどう心に決着を付ければ良いのか。

悩みは、尽きなかった。

 

まるで、不幸は重なるかのようだった。

黄忠が、関羽の後を追うように、病を得て命を落としたのである。

車騎将軍として、軍事の最高権の一端を任された張飛も、喪服で葬儀中黙り込んでいた。それだけに、知勇優れた黄忠のあまりにも呆気ない死は衝撃的だったのである。

葬儀の場で、杖を突いた陳到は、慄然としていた。

あの頑健だった黄忠が、このようにあっさり命を落としてしまったのだ。しかも黄忠は、跡取りが早死にしていたから、その家は断絶。劉備も惜しんでいたが、仕方のないことであった。

鏡を見ると、己の衰えがよく分かる。

新野にいた頃は、衰えたと思っても、幾らでも無理が利いていた。最近は少しでも無理をすると、すぐに意識が落ちてしまう。部下達に迷惑を掛けないためにも無理は出来ず、そればかりか気を使う必要さえ生じ始めていた。

黄忠の副官をしていた張著が来た。口元に髭を整えた紳士的な男で、喪主は彼が務めている。何名かに竹簡が配られていて、それは陳到の所にも来た。

「黄忠将軍の、遺言にございます」

「なんと」

「将軍は、死期を悟られていたようにございます。 故に、漢中攻略後、すぐにこれをお書きになられました。 私はこれを預けられ、今日配るよう仰せつかっておりました」

「開けてもよろしいか」

張著が無言で頷いたので、陳到は竹簡を開く。隣では、漢中攻略戦で張飛の副将として活躍していた旧益州軍の厳顔が、同じように竹簡を開いていた。

豪放な老人だったのに、竹簡に記された文字は何処か繊細で、思いやりが籠もったものだった。しかも、一人一人に当てて書いたらしい。生涯現役を標榜していた黄忠である。その生命が尽きるのを悟った時、どんな悲しみを感じたのだろうか。

それは、陳到も例外ではない。

死神の足音は、確実に近付いてきているのを感じるからだ。

読むのが怖かったが、それでも。読み進めなければならなかった。

黄忠の遺言には、陳到が無理をしすぎていること、前線の勤務では充分に功績を挙げたので、そろそろ後方の任務に移った方がよいかも知れないと言うことが、あくまで忠告として記されていた。

跡継ぎがいないので、財産は国に納めるという。と言っても、非常に慎ましい生活をしていた上に、妾もいなかったと言うから、納めるようなものも無いのだと張著がぼやいていたが。葬式の金も、全面的に国庫から出ている。それにも関わらずこの規模だ。どれだけ黄忠が武人として尊敬されていたか、それがよく分かる。

人生に満足しているか。

最後に、そんな言葉が書かれていた。

黄忠は満足したのだという。自分を評価してくれる主君の下で、数々の強敵と戦い、圧倒的な武勲を打ち立てることが出来た。評価され始めるのは確かに遅かったが、最後の十年程だけで、黄忠は今までの不満を払うことが出来たという。

黄忠は若い頃、食客として、各国を回っていたと聞いたことがある。

神域に達しているとも言われた弓の技、優れた武勇を駆使して、重宝はされた。だが、どの群雄も、黄忠を評価しなかった。

曹操だったら或いは、評価していたかも知れない。しかし黄忠と曹操では接点がなかった。だから、乱世に生きてきたにも関わらず、老いるまで誰も評価してくれないという不幸に出会ってしまった。

その不幸が、僅かな年月だけで帳消しになったという。どれだけ黄忠が劉備軍で充実していたかが、よく分かるというものだ。

空を見ると、流星雨が始まっていた。無数の星が落ち始めている。

何かを暗示しているような不安を、陳到は感じた。そういえば、黄巾党の乱前後に活躍した武将達は、皆もういい年だ。関羽の死を切っ掛けに、時代が変わり始めるのかも知れない。

しかし、それはどうしても。

良いことのように、陳到には思えなかった。

足音。振り返ると、劉備がいた。

まるで人相が変わっていた。復讐心に、どす黒く、顔を歪めていた。

「これから、江東を討つ!」

高々と、劉備が宣言する。

破滅が始まるのを、陳到は感じた。

 

(続)