死闘漢中

 

序、小競り合い

 

牛金は二千の兵を連れて、山中を疾駆していた。

整備が進んでいるとはいえ、山道である。与えられた名馬であっても、簡単に踏破はさせてくれない。昼なお暗い山の中を、無言で牛金は行く。着いてくる兵士達は良く訓練されているとはいえ、不安が顔に貼り付いていることを否めなかった。

統治しにくい土地だと言うことは、事前に聞かされていた。

だが、まさかこれほどとは思っていなかった。

此処は漢中。少し前まで、張魯が治めていた土地。

入り組んだ山ばかりで、小さな村が点在し、それが寄り集まって出来ていた政権が、漢中の張魯の王国だった。混乱の極みにあった土地としては西涼なども挙げられるが、此処は根本的にそれとは違う。

戦いの音が聞こえてきた。

「抜刀! 暴徒を取り押さえよ!」

矢が放たれる音や、投石機が唸る音さえしている。これはもう、暴徒という次元の存在ではない。

だが、それでも。どうにか被害を最小限に抑えなければならない所が、難しいのだ。

山を覆っている、森を抜ける。

小さな村を、攻める軍勢。しかし、その軍勢もまた、みすぼらしい装備をしている。

信じがたい話だが、これは村同士による小競り合い。漢中では日常的に繰り広げられている悪夢なのだ。

曹操軍二千を見るや、攻め手の連中はさっと散り始める。本当に訓練を受けていないのかと、呆れてしまうほどだ。いや、訓練を受けた兵士は幾らでも混じっているだろう。元からの漢中の民もそうであるし、戦慣れした西涼の傭兵も大勢帰化しているのだ。

「出来るだけ捕らえよ」

「分かりました」

副官に一千を任せ、攻め手を追わせる。

自身は消火活動を手伝わせつつ、攻撃を受けていた村を見回る。防御は彼方此方で破られていたが、とてもではないが落ちそうにはなかった。

長老を呼びに行かせる。

周囲の村人達は、明らかに牛金と、その軍勢を歓迎していなかった。挑発的な行動を取った若者をその場で取り押さえた兵士が、村人達に取り囲まれる。一喝して追い払いながら、牛金は舌打ちしていた。

「武装解除! 急げ!」

叫ぶ。兵士達が走り回り、村人達から、武器を取り上げていく。

だがこの連中は、武器を取り上げれば、鋤や鍬を使ってでも殺し合うことだろう。呼び出した長老は、最初から実に反抗的な目をしていた。

「武器を返してくれ」

「駄目だ。 何か争い事があるのなら、漢寧にある役所に届け出よ」

「何日も山道を歩いてか? そんな事をしている内に、村は丸焼きにされてしまうわ」

「だったら軍が駐留する。 これだけの騒ぎを起こしておいて、無事で済むと思うなよ」

連れて行かせる。もちろん、攻め手の村もただでは済ませない。

入り口でもみ合いが起こった。長老を連れて行こうとした兵士達に、村人が飛び掛かったのだ。

その村人達も取り押さえさせる。怪我人は、どうにか出ずに済んだ。

「五百は此処にしばらく駐留」

「分かりました」

中隊長達に指示を出すと、牛金は帰路についた。ため息しか出ない。

張魯という中心があり、五斗米道という共通言語があって、ようやく漢中は平和になることが出来た。その話は、既に聞かされていた。

だが、これほどまでに酷い状態だとは、赴任するまで思っても見なかった。

今では些細なことで村同士が殺し合う、地獄絵図。

元々まとまっていた芯を抜かれると、人間はこうも愚かな自我と欲望を剥き出しにするものなのか。そう牛金は戦慄してしまう。

副官の使いが来た。向こうも村を抑えたという。兵の半数を残して帰還するように言い残すと、牛金は四半減した兵を連れて、屯所に戻る。五万も連れてこられている兵士達の半分は、今やこうして各地の村々に駐屯している状態だ。張?(コウ)もいい加減嫌気が差してきているらしく、酒の量が増えているという。

不意に風の音がした。

矢をつかみ取り、折り捨てる。兵士達が殺気立つ。

「くせ者だ! 捕らえよ!」

「気をつけろ」

注意を促すが、流石に戦慣れした兵士達だ。すぐに藪の中から、下手人を捕らえてきた。何と、子供だった。手には狩猟用の弓がある。

子供は、まるで噛みつきそうな様子であった。縛り上げ、取り押さえた兵士達も辟易している。

「出ていけっ! 曹操の犬っ!」

「貴様っ!」

「止せ」

子供を殴ろうとした兵士を制止する。しかし、自身を暗殺しようとした人間を、放置する訳にもいかない。

下手に連れて行くと、曹操軍が子供を拉致したとか、滅茶苦茶な噂が流れ出しかねないのも、難しい所だ。牛金は下馬すると、腰をかがめて、視線を落とした。

「子供、名前は」

「将軍が聞いておられる!」

「黙っておれ。 私も貧しい家の出身でな。 幼い頃は稲を刈ったり、虫を追いかけ回したりして過ごしたものだ。 お前達と何も代わりはせん」

そう言うと、子供は少しだけ表情を緩めた。

名前をもう一度聞くと、翠と言った。まあ、この年では、まだ名と字など貰ってはいないだろう。

「どうして、こんな事をした」

「それはこっちの台詞だ! お前達がこなければ、張魯様がいれば、漢中は平和だったんだ!」

「それは違うな。 漢中は既に崩壊しつつあった。 内部では佐慈なる怪人物が跳梁跋扈し、軍勢は西涼出身の人間ばかりになり、益州との紛争は拡大していた。 我々が攻め込まなければ、いずれ劉備に落とされていただろう」

「知るかそんなの! 漢中返せ! 平和な漢中を戻せ!」

無言で剣を抜いた牛金を見て、流石に子供が青ざめる。兵士達は首を刎ねるのかと思い、子供を押さえつけた。

剣を振り上げる。

ひっと、子供が悲鳴を上げた。

次の瞬間、牛金の剣が、子供を縛った縄を両断していた。

「次は許さんぞ」

「……」

「平和に関しては、すぐには来ないだろう。 だが、時間を掛けて、我らも平和を作っていくつもりだ。 だから、しばらく待っていて欲しい」

子供はしばらく信じ切れないという表情で牛金を見ていたが、やがて山の中に消えていった。

不満そうに、副官が言う。

「良かったのですか」

「構わぬ。 それに、不満を言う子供を殺すような軍の将にはなりたくないからな」

それだけ言うと、牛金は馬に跨り、また帰路を進み始めた。

漢中では、間もなく激しい戦いが始まるという。益州の整備をそろそろ劉備が終えるからで、侵入する軍勢は十万を超えている可能性があるという。

それに対して、漢中は整備が進まない。要塞化するようにと曹操は言っていたが、村々がこの有様である。小規模な反乱まで起こり始めている有様で、とてもではないが、このままでは戦にならなかった。

漢寧に着くと、軍の司令部に顔を出す。物々しい警備が敷かれているのでどうしたのだろうと思ったら、夏候淵と曹洪が来ていた。

張?(コウ)は今、南の国境で防衛線となる砦を複数構築中なので、この場にはいない。夏候淵も曹洪も実戦経験は少なく、曹操の親族だという理由だけで地方軍の長官になっているような男達だ。

下に付けられている司馬懿と揚修が、彼らの補助をして、実質的に軍を統率しているのである。

「牛金か、遅かったな」

「もはや村々の諍いは、小競り合いの段階を越えております。 今回も小規模な戦が起こっておりまして、両方の村に駐屯軍を残して参りました」

「大げさな。 武器だけ取り上げてくれば良かったものを」

曹洪が言う。

曹洪はここのところ蓄財に目の色を変えているという話で、ますます戦から離れているという。正常な感覚も鈍り始めているのかも知れなかった。この間、曹操が公昇任を果たした時に行われた武芸大会でも一番武勇で劣っていたというし、既に体を鍛えるようなことも無くなっているのかも知れない。

夏候淵は机を指で叩いていた。此方は曹洪とは別の意味で危なっかしい。

「劉備が来るなら、その首を取る機会もあるという事だ。 多少の争い事など気にすることはない。 むしろ、手柄をあげる機会が増えて良い事ではないか」

「現在の状況では、そもそも迎撃作戦そのものが取れません。 下手をすると、各地の村が一斉に蜂起して、補給線を遮断されかねませんので」

「大げさなことを言う。 多寡が村人ではないか」

「この近辺の村には、西涼の傭兵も大勢帰化しています。 彼らの戦闘能力は、精鋭の我が軍にそう引けを取りません。 その上、どの村も戦慣れしていて、中原の平穏を取り戻した村とは根本的に違っています」

二人の甘い認識に釘を刺すと、まあまあと揚修が言い出した。仲裁することで、周囲に恩を売ろうというのだろう。

不快きわまりないが、何しろ曹植の教育係だ。黙り込むほかない。

「確かに牛金将軍の言うとおり、村々の治安悪化は目に余ります。 駐屯軍を置いても、撤退するやいなやすぐに諍いが始まるようですし、何かしら対策を立てなければならないでしょう」

「それはどういう策か」

「はい。 見通しの良いこれらの地点に、繋ぎ狼煙の台を作り、それぞれに毎日交代で兵を駐屯させるのです」

なるほど、知恵者を気取るだけある。確かに面白い策だ。

見通しの良い山々に見張り台を作れば、村の者達も動きづらくなる。狼煙台そのものを砦にすることで、迅速な兵の出動も可能になるだろう。

だがそれは、村の者達にとっては、常に監視されると言うことを意味してはいないだろうか。

かといっても、牛金にもそれを凌ぐ名案など思い至らない。思い至らないのであれば、反論は許されないことだ。

結局、その案に不安を抱えつつも、賛成する他無かった。

「それにしても張魯め、良くもこのような統治しにくい土地を見事治めていたものですな」

「確かに」

「それぞれの村が、それぞれに独立した国を気取っている。 それが良くないのです」

不意に、場に新しい声が割り込む。

否、それは違う。今まで黙っていた男が、急に存在感をあらわにしたのだ。

狼顧の相と呼ばれる異相の持ち主。揚修と共に、漢中に派遣された二人の参謀の一。

名門中の名門司馬家の次男。司馬懿。

まだ若い男だが、眼光は異様に鋭い。以前、牛金は、張?(コウ)に言われたことがある。

この男には、気をつけるようにと。

「山多いこの地形では、仕方がないのではありませんか」

「そう。 その地理的な事実が、彼らに甘えを作ってしまっている。 故に五斗米道などと言う淫祠邪教が、この地にはびこることになった。 そしてその「共通言語」を用いなければ、土地の統一は保つことが出来なかった」

実際には、五斗米道を淫祠邪教というのは酷のような気もする。生け贄を捧げる訳でもなく、国益を損なう訳でもないので、黙認されているのが実情だ。村人達も、心のよりどころとして、五斗米道を大事にしている。

政務に関しても、殆ど五斗米道とは切り離されていたと、牛金は報告を受けている。恐らく張魯は、他の土地であれば普通の統治を行い、普通に成果を上げられる男なのだろう。優秀な君主では間違いなくある男だ。

しかし、司馬懿はそれを、悪意のある目で見ているような気がする。

不安が、牛金の背中を駆け上がった。

「一つ、この土地を治める方法がございまする。 少々荒っぽいやり方ではありますが」

「それは何か」

「土地の住民を、移動させるのです」

冷酷な参謀は言う。

このような狭く入り組んだ土地にいるから、住民達は愚かな争いを繰り返す。それならば、何処か適当に平野を開いて、そちらに住民を根こそぎ移住させてしまえば良いのである、と。

もちろんすぐに行う訳ではない。

劉備軍を撃退し終え、状況が安定してから行うのだ。

「我らは圧倒的な軍事力を有しております。 それを利用せぬ手はありますまい」

「……」

曹洪と夏候淵が顔を見合わせる。揚修は涼しい顔で、茶を飲んでいた。

やはり此奴は危険だ。

それをこの時。牛金は、はっきり自覚していた。

 

1、長江のほとりにて

 

堂々たる大軍勢が、長江を下っている。

曹操が率いる軍勢は十五万。近隣のあらゆる戦力をかき集めた規模である、ようにも見えた。

実際には、実働戦力は五万程度。残りはあぶれ者や浮浪者などを許昌周辺、さらには西涼、司隷などで募集してきた者達だ。移動しながら訓練を進めている手腕は流石だが、兵力としてはとても計上できない。これに、合肥に駐留している五万が加わる。結果、二十万という空前の軍勢が、長江に並んでいた。

だが、実働戦力はその半数であり、しかも水軍が少ない。

それを、小高い丘から見下ろしながら、林は看破していた。

「なるほど。 我らが曹魏公は、今回勝つ気がないな」

「と、言いますると」

「長江を渡って敵を攻めるには、水軍が少なすぎる。 ましてや江東は、四家に牛耳られているとはいえ、腐敗はまだ民衆の不満を爆発させるほどでもない。 力攻めしても落ちぬだろうよ。 だから、今は攻めてきた江東の軍勢を叩き、単純に国力を削ぎ、追い返すことに終始する。 それが曹操様の戦略という訳だ」

孫権は今回、荊州方面の司令官である呂蒙まで動員して、守りに来ている。いわゆる攻勢防御という奴で、その動員規模は江東としては限界に近いものだ。

しかし、去年の合肥での完敗で、著しく江東の国力は削がれた。

それに対して曹操軍は、充分に余裕を持って軍勢を繰り出してきている。今回動員された兵の内、合肥周辺の者達は屯田に従事しており、国力強化に著しい成果を上げていた。多分今回曹操が連れてきている兵士達も、防衛線近辺に配置され、屯田を行う予定なのだろう。

国が健全な状態にある場合、力攻めでは落ちないことが多い。国力に大きな差があっても、だ。

国は民が望んだ時に滅びると、ずっと昔。林の学問の師匠である盧植は言ったものだ。実感はしているが、あまり気にはしていない。

林にとって大事なのは、今も昔も変わらないのだ。

「此処は他の細作部隊に任せて、漢中に行くぞ」

「は。 しかし、よろしいのですか」

「結果が分かりきっている上に、他の細作が展開しているのに、わざわざ私の分析が必要だというのか? んン?」

ぐちゃりと、鈍い音がした。

林の手には、いつの間にか今反論しようとした細作の首が握られていた。大量の鮮血を噴きだし、前のめりに斃れる細作。他の部下達は、俯いたまま、林の下知を待っていた。曹操の派遣した部下は、諸葛亮の罠にはまって全滅してしまっている。半減はしているが、今残っている部下は、昔からの、精神を完璧に把握しているものばかりだ。

そして、今殺したのは。最後に残っていた、洗脳が済んでいない男であった。

「よし、五名だけ残れ。 今から言うとおりに、曹操様に報告書を提出するように」

「はい」

「残りは私と共に漢中だ。 諸葛亮によって兵力は削られたが、彼処の土地は知り尽くしている。 今度は返り討ちにしてくれるわ。 ……そういえば、佐慈の奴はどうした」

「姿を消したようにございます。 許昌近辺に潜入したという噂もありますが、何を企んでいるのやら」

林は腕組みした。

益州での大暴れはとても楽しかった。曹操は警戒して、林以外の細作組織を更に拡大しているようだが、それは別に構わない。今、諸葛亮と渡り合えるのは、林の有している細作組織だけだからだ。

逆に言えば、諸葛亮さえ無事なら、林は殺されない。

更に言えば、天下統一がなるまで、曹操が林を殺すことはあり得ない。

しかしながら、細作の中で最強とは言っても、得体が知れない存在はやはり排除する方がよい。

人外をも超えた存在に。そう願いながらも。いやだからこそに。林は、慎重さを、近年著しく増していた。

「十名、許昌に極秘潜入。 佐慈を捕捉せよ。 殺す必要はないが、動向は監視するように。 曹操様には悟られるなよ」

「は」

十名が、姿を消す。

懐から笛を取り出すと、吹く。

周囲の茂みから、林の飼い犬たちが、ぞろぞろ出てきた。

「よーしよしよしよし。 よしよしよしよし」

満面の笑みを浮かべると、林は可愛い犬たちの頭を撫でる。

その時だけは、大陸最凶最悪の邪神も、可愛らしい童女のように見えるのだった。

 

居巣。

長江のほとりにある、合肥にほど近い拠点である。

其処に曹操は、五万の機動部隊と共に司令部を作っていた。

今回の目的は、懲りずに攻め込もうとしている江東の軍勢に対する威嚇である。そのため、許昌からいつも留守番役をさせている夏候惇を連れてきている他、既に一線を離れた老将や、名は知られているが実際に腕は立たないような男を、散々連れてきている。

江東の軍勢は合肥での打撃から立ち直れておらず、その戦力は三万程度。長江を渡ってくれば機動軍だけでも粉砕が可能だが、今はただ、向こうの神経を削るためだけに、駐屯を続けていた。

また、今回は江東の水軍の実力を図るのも目的の一つになっている。

現在、長江の各地には転々と拠点がある。いずれも合肥と放射状に街路を整備し、連結している頑強な城塞だ。居巣もその一つだが、此処は二千ほどの水軍、四隻の闘艦を有し、水上基地としても機能している。もちろん江東の軍勢は何度かちょっかいをかけてきているが、曹操は相手にしないように厳命していた。

湖そのものを要塞化している居巣の司令部は、湖北の一角にある、城塞に作られている。曹操がいるのはその三階で、石造りの窓から湖を一望することが出来た。ちょっとじめじめするのが玉に瑕だが、見晴らしも良く、作戦指揮も執りやすい。夜襲に対する早期警戒も、此処から出来るのが良いので、曹操は気に入っていた。

水面がきらきら光り、行き来する軍船までもが輝いているかのようである。眼を細めてそれらを見つめていた曹操は、頭を切り換えて林からの報告書を見る。江東の軍勢の動きを、非常に緻密に読んでおり、唸らされた。

許?(チョ)が不安そうに言うのは、林を好ましく思っていないからだろう。曹操だって好きではないが、しかし能力は圧倒的に優れている。方面軍司令官のような、補佐が着けばどうにでもなる部署は忠誠心が高い身内に任せたい所だが、細作のような個人の能力がものをいう部署に関しては、やはり絶対的な能力主義を取らざるを得ない。

「化け物めは、仕事をしておりますか」

「見事な仕事ぶりだ。 育成している他の細作部隊では、まだまだ奴の仕事をとても真似できぬな」

「不愉快な話にございます」

「思うに、これから人材はどんどん小粒になっていく。 乱世が収束していくからで、それだけ地獄のような状況に揉まれて強くなった者が減るからだ。 林はひょっとすると、最後の怪物として、歴史の闇に蠢き続けるかも知れないな」

曹操が手を挙げると、許?(チョ)が新しい竹簡をすぐに渡してくれる。

さらさらと筆を走らせ、手を叩く。侍従が来たので、何処に持っていくか指示を出し、すぐに次の竹簡に。

そして、別部隊からの報告書にも目を通した。

去年のことだが。

江東と劉備は、小競り合いを起こしている。丁度曹操が漢中を攻略していた頃の事だ。

江東が荊州の領有権を主張し、「劉備に貸してやっている」などとほざいているのは周知の事実である。実際劉備は一時期江東に従属同盟していた訳であるが、しかしながら現状では既に江東に匹敵する領土を有し、歴とした独立勢力となっている。

この辺りは劉備のしたたかさである。いつの間にか劉備は、江東など必要とせずに立脚できる勢力を手に入れていたのだ。それどころか、曹操が掴んだ所によると、諸葛亮はかなり古くから四家に手を回して、好き勝手に動かしている形跡があるという。以前から噂は聞いていたが、今回はそれがほぼ確実になった。

だが、江東側にも魯粛という優秀な男がいる。彼は劉備が(江東から見て)好き勝手するのを許さず、強硬手段に出た。

丁度徐晃に備えていた関羽の背後を突き、荊州南部に軍を派遣したのである。流石に陸戦で経験を積んできただけ有り、魯粛の軍勢は呂蒙、陸孫らと連携し、幾つかの城を陥落させることに成功した。

これに対し関羽は押さえを後方において、徐晃を牽制しつつ、劉備に支援を要請。劉備も軍を率いて駆けつけ、あわや一触即発の事態にまで発展した。荊州方面に江東が派遣している兵力は五万と、合肥方面よりも今や多い。それに対して劉備軍は関羽と劉備で合計四万五千ほどの兵力を動員し、にらみ合いが続いた。

結局、両軍は兵を引いた。その詳しい内幕が、報告書には書かれていた。

幕を引いたのは、幕を上げた魯粛だった。魯粛は関羽と劉備の下を訪れると、江東の窮状を説明。それと同時に、四家の手が着いていない領地として、どうしても荊州の何郡かが欲しいのだと説明したのだという。

しかし劉備としても、漢中侵攻のために兵力と国力が欲しいと言うことで、荊州を丸ごと譲り渡す訳にはいかない。

かといって、江東と劉備がいがみ合っていては、共倒れになるだけである。

協議の結果、何郡かを江東側に引き渡すことで、話は決着したらしい。ゆすり取ったも同じだが、その辺りは魯粛の手腕もあり、何より江夏時代の借りを返すという事もあったのだろう。

それらの細かい経緯が、報告書には書かれていた。一通り読み終わると、曹操は肩を叩く。そして、寝台に横になった。

「許?(チョ)、済まんがちと頭痛が酷い。 水袋を」

「直ちに」

冷たい、井戸の深い部分から取れた水を詰めた革袋を額に当てて、しばらく頭を冷やす。頭を稼働させているから、ではない。時々不意の頭痛が襲ってくるのだ。昔から傾向はあったが、最近は特に酷い。こうして頭を冷やさないと、頭が内側から粉砕されそうな気さえしてしまう。

ぼんやりと、天井を見つめる。

「虎痴」

「如何なさいましたか」

「もう余は十年と保つまい。 はっきり言うと、余の死後に、色々と策動する輩がいよう」

「あの化け物とかですか」

違うと、曹操は呟くように言った。

それでも、許?(チョ)は精確に聞き取ってくれる。

「確かに林めは恐ろしいが、この場合は気にしなくて良い。 あれは怪物だが、もっと恐ろしいのは権力を得ている存在だ。 曹丕が無能なことが、余の心残り。 曹丕につけ込み、様々な悪事を為そうとする輩が必ず出る」

何人かは、殺してから冥府に行くと、曹操は宣言した。

本当は、人を殺すのは嫌だとも。大のために小を斬り捨て、国家のために犠牲を容認してきた曹操であるが、これは仕方がないことなのだとも。そう呟いた後、頭の水袋を抑えて、乾いた笑みを零す。

「情けない愚痴を言うようになったものだ」

「俺の前であれば、幾らでも言ってください」

「すまん。 焼き菓子が食べたい」

「用意してございます」

寝台の横に、山盛りの焼き菓子。そう言えば、料理人を連れてきてあるのだった。

横になったまま、二つ、三つと口にする。茘枝入りのとても美味しい焼き菓子で、しばらくすると気分も良くなってきた。

すっかり温くなってしまった水袋をどかすと、起きる。

そして伸びをしながら、ぼやいた。

「何だか、余の人生とは何だったのだろう。 天下統一は出来ぬし、ささやかな望みである背を伸ばすことも、出来そうにない」

「弱気になってはなりませぬ。 確かに殿は背が低いですが、最近は少しマシになったようにも見えまするぞ」

「お前らしくもない嘘を言うものだ」

そう告げると、許?(チョ)はなぜか照れたので、内心で大きく歎息した。自分で嘘だと白状してしまってどうするのだ。

だが、この真面目さが、曹操には心地よかった。

親族よりも許?(チョ)を信頼しているのは。自分に対する絶対的な忠誠を、こう言う時に感じられるからなのだ。

「虎痴よ、さっきの話の続きだが」

「はい」

「曹丕が即位した後だが、曹植、曹彰の二人には、特に気をつけよ」

一時期曹操がかわいがった三男の曹植は、未だに内心では権力への欲望を滾らせている。詩の才能はあるのだが、それ以外はいずれもが小粒で、残念ながら使い物にならない。曹丕が政治に特化してそれなりの才能があるのと比べると、やはり君主には向いていない男だ。しかも揚修などの取り巻きが甘やかしているから始末に負えない。

次男の曹彰は武勇が優れていて、戦の才能に関してだけなら、曹操の息子の中で一番優れている。しかし此方は兎に角頭が悪く、猪突猛進で、自分の実力を見極めずに前進してしまう悪癖がある。

何度か戦に連れて行ったのだが、そのため戦死しかけたことが二回あった。小国の王、または勇者として異民族に崇拝されているので騎馬隊の指揮官としては良いのだが。何にしても、残念ながら統一王朝の礎石になれる男ではない。しかも此方も権力欲は中途半端に強いので、タチが悪かった。

「この二人は、余の死後、佞臣達に担ぎ出されて乱を起こそうとする可能性がある。 その場合は、躊躇するな。 そなたの手で、殺してくれ」

「曹操様。 それでよいのですか」

「そなたにしか頼めぬのだ、虎痴よ」

「……分かりました。 貴方のためなら、この虎痴、死ぬ事も厭いませぬ。 もちろん、手を血泥に染めることも」

頷くと、曹操はもう一度横になった。

医師が来たので、診察させる。頭痛は幸い治まってきている。しかし、医師は余りよい顔をしなかった。

「少し静養なされませ」

「そうもいかん。 余が怠けていたら、この国は滅んでしまう」

「それは分かりますが、貴方の下には綺羅星のごとく名将達が集っているではありませぬか。 彼らを少しは信用して、国務の一部を任せるべきです」

「ふふむ、医師は正論を言うな。 余の背を伸ばしてくれたら、言うことを聞いても良いぞ」

医師はご冗談をと言うと、退出した。

冗談ではなかったのだが、仕方がない。新しい水袋を許?(チョ)が用意してくれたので、額に載せてもう少し休むことにする。

「曹昂が、生きていてくれたらな」

呟く。

許?(チョ)は何も言わなかった。

 

呂蒙は腕組みして、曹操軍の動向を見つめていた。

荊州には陸遜を残してきた。この間の小競り合いで、関羽の癖を見た陸遜は、熱心にその用兵を研究している。一部隊を率いさせると無類の強さを誇る関羽だが、軍団を率いての大規模戦の経験はそれほど積んでいない。必ずや、付けいる隙があるはずであった。

居巣にいる曹操から離れて、何カ所かで曹操軍は陣を構築している。繰り返される小競り合いは一進一退。陣を築く所に攻撃して小さな勝利を得たが、敵は何しろ数が多い。とてもではないが、その程度で追い払える相手ではなかった。どうせ史書には大勝利とか適当なことが書かれるのだろうが、知ったことではない。

不意に咳き込む。

肺が焼けるように熱い。

周囲の武骨な部下達は、ただの咳だと思っているようだが、違う。口を押さえていた掌を見ると、血が点々と飛んでいた。

血を、誰にも見られないように拭う。

関羽を倒すまで、この体が保つだろうか。そう呂蒙は思ったが、誰にも打ち明ける相手はいない。周瑜亡き後、その悲願を果たすのは呂蒙と陸遜しかいない。そして、陸遜はまだ若い。経験も浅く、このようなことを告げたら、どんな風に道を誤るか分からなかった。それだけではない。ただでさえ圧倒的な大軍と対峙している状況で、兵士達の士気を削ぐようなことは、出来るだけ避けなければならないのだ。

天幕に戻ると、敵の配置を再確認。

この方面の敵指揮官はどうやら曹仁らしい。周辺の配置には甘さも目立つ。荊州に徐晃が釘付けになっていることが救いで、付けいる隙も其処にあった。張?(コウ)は漢中に、合肥に張遼が貼り付いている状況である。後面倒なのは于禁と楽進だが、どちらもこの戦線にはいない様子であった。

若手の将軍達が連れ立ってきた。朱桓を筆頭に、血の気の多い将ばかりである。

「呂蒙将軍」

「どうした」

「こうにらみ合ってばかりでは、埒が明きません。 是非、我らに攻撃を仕掛ける許可をお与えください」

「ならん」

即答すると、朱桓は顔を真っ赤にした。

この男は若い頃から気が短かったが、三十にさしかかった今でも、それに代わりはない。むしろますます悪化している傾向があり、時々狂気じみた発作のような怒りを見せる時がある。

戦の才はある。

しかし、とても扱いづらい男だった。周瑜が生きていれば、簡単に御したのだろうが、今はかの人も黄泉の下に行ってしまった。

「我が軍は先の勝利で意気上がっています! 偵察によると、敵は二十万といえど新兵が多く、精鋭はごく僅かな様子です。 全面攻撃を仕掛ければ、必ず襤褸を出すはずです!」

「まず第一に、敵は新兵が多いといえど、精鋭だけで十万に達している。 第二に、楽進、于禁ら曹操軍の柱石とも言える名将らの姿が確認できん。 連中の率いる精鋭は、我が軍の半数で倍の活躍をするぞ。 第三に、我が軍は全戦線でも六万程度しかいない状態で、しかもその半数は荊州方面の兵を無理矢理引き抜いて出てきている。 下手に損害を出すと、荊州まで失陥する可能性がある。 荊州方面には、五万を超える兵を擁する徐晃が控えていることを忘れるな」

順序立てて説明すると、朱桓は口をつぐんだ。

若い将達はまだ納得していないようで、口々に言う。

「しかし呂蒙将軍! にらみ合いでは埒が明かないのも事実です!」

「戦わせてください! 我らは敵を倒したいのです!」

「だから今斥候を出し、敵の動きを探らせている。 今相手にしている曹操は、山で機動遊撃戦を仕掛けてくる山越とは訳が違うぞ。 一瞬でも隙を見せたら、其処に全軍をねじ込まれると思え」

「分かりました。 それでは、私に大物見をさせていただけませんでしょうか」

大物見。早い話が将校斥候である。戦術眼がある将校が斥候を行うことで、戦術的、場合によっては戦略的に敵を分析し、大きく戦況を動かすことが出来る。しかしながら当然のように危険も大きい。

特に朱桓のように血の気が多い男に、この作戦行動は危険すぎる。

しかし、これ以上駄目だ駄目だと言うと、この男、若手の将校と勝手な突撃でも開始しかねない。しかも朱桓は孫権と懇意にしていて、多少のことでは処罰されないほどの人脈を持っている。

以前かんしゃくに任せて無為な殺生をした時さえも、許されたほどなのだ。

実際には孫権にはそれほどの権限がない。いざというとき、孫権の存在を引きずり落とすための鎖として、四家が飼っている存在なのではないかと、呂蒙は思っていた。

「それはならんが、仕方がない。 敵将曹仁の陣に隙があるのは事実だ。 攻撃を仕掛けてみて、様子を見る」

「分かりました。 そう来なくては」

「ただし、曹仁の配下には優秀な参謀も多数着いている。 普通に攻撃を仕掛けたのでは、失敗するのは確実だ」

其処で、呂蒙が二千を率いて、居巣の曹操軍直営を牽制。それで敵の注意が逸れた隙に、朱桓が五千を率いて曹仁の軍の背後を奇襲。更に三千を若手の諸将が率いて、敵陣の前に伏せ、奇襲を仕掛ける。

曹仁の軍勢が打ち砕かれれば、敵は陣を張り直さなければならない。

そうなれば、更に隙も大きくなるはずだ。

念入りに、朱桓には作戦の詳細を伝えた。朱桓は血の気は多いが、周瑜に鍛えられた若手の希望でもある。作戦を理解せずに動いたり、血の気に任せて行軍したりと言ったことは、流石にしないだろう。

水軍の旗艦に乗り込むと、呂蒙は夜の内に陣を出た。長江を下って、曹操のいる居巣を目指す。

そして半日もしない内に。急報を受けて、慌てて引き返すことになった。

 

五千を率いて進軍していた楽進は、朱桓、呂蒙が陣を出た所で、指揮剣を振り上げた。

残念だが、此処は楽進の勝ちだ。呂蒙は良い作戦を建てたが、絶対に勝てない。

情報戦で、江東はあまりにも遅れている。曹操軍ではあの林をはじめとして、多くの細作を飼っており、諸葛亮と謎の人物が作り上げた荊州細作部隊にも互角の戦いを挑めているほどである。

だから、呂蒙の陣の動きは、残念ながら筒抜けだ。

楽進の周囲に殺気が沸き上がり、どっと呂蒙の陣に襲いかかる。鍛えに鍛え上げられた楽進直参の旗本は、鳥丸、鮮卑、兇奴などの異民族から、国内の百戦錬磨の兵士達に加え、青州兵の精鋭までも引き抜いて作られた最強の部隊である。

騎馬と歩兵が混合だから張遼の部隊には及ばないが、先陣としての突破能力に関しては、張飛の率いる部隊に勝るとも劣らないと自負している。

それに対して、呂蒙の半減した陣は隙だらけで、守りも甘い。楽進軍はいずれも布を噛んでおり、敵は至近に迫られるまで、その接近に気付けなかった。

「焼き払え! 兵糧を一粒も残しておくな!」

どのみち、山越から搾取した兵糧だ。遠慮などする必要はない。

まず敵陣の柵を跳び越えた歩兵達が、内側から引きずり倒す。同時に騎馬隊が突入し、迎撃に出てきた敵軍を文字通り蹂躙し尽くした。騎兵達は火矢を装備しており、天幕も食糧倉庫も、片っ端から焼き尽くす。楽進は騎馬隊の先頭に立ち、敵の血の気が多そうな若い将校を見つけては、次々に斬り伏せた。

陣の全てが、紅蓮の炎に包まれていく。

こういった陣では、兵糧は穴の中に入れることで火攻めに強くする工夫はしているものなのだが、それでも油を掛けて火をつけたのである。ひとたまりもない。

呂蒙の副官らしい将を見つけた。無言で馬を寄せると、一刀で首を跳ね飛ばす。ほどなく、銅鑼が叩き鳴らされた。斥候が、敵が此方の奇襲に気付いたことを知らせてきたのだ。楽進は冷静に、周囲に呼びかける。

「よし、戦果は充分だ! 引け!」

攻め込んだ時と殆ど同じ速度で、味方が潮のように引いていく。

この短時間で、敵を三千以上斬った。此方にとって三千は大した損害ではないが、敵に対してはそうではない。その上、貴重な兵糧は丸焼きだ。すでに焼きめしにもならないような有様である。

負傷者も抱え上げて、撤退完了。

味方の損害は、百騎もいなかった。

伏兵していた丘から見下ろす。慌てて戻ってきた敵将が見える。朱桓とか言う男だ。勇敢な男だという話だが、戦略的にはまだまだである。

「叩きのめしますか」

「放っておけ。 奇襲が成功したのだから充分だ。 此処で戦って、被害を増やすことなどない」

間もなく、呂蒙の闘艦も戻ってきた。

敵兵の損害は壊滅的という段階ではない。だが、兵糧が焼かれた上に、作戦の裏を完全に掻かれ、なおかつ遊軍としてこれから楽進を警戒しなければならない。その上、今失った三千は、周瑜が鍛え上げ、呂蒙に受け継がれた江東の最精鋭だ。中には孫権時代からの旗本も多く混じっているだろう。

実際には、一万以上を失ったに等しい。

楽進は自軍を率いて、さっさと引き上げる。隠しておいた軍船を使って長江の支流を流れるように進み、居巣に。

司令部に出た頃には、数日が経っていた。

丁度その間に連絡があり、曹操は闘艦数隻で艦隊を組んで出かけたことが分かっていた。司令部で待っていたのは賈?(ク)である。

「楽進将軍。 見事な戦いぶりでした」

「情報戦で上を行っただけだ。 敵の戦闘能力は、なかなか高かった。 もしも雑兵だったら、奇襲で全滅させることが出来ていただろう」

「いえいえ、逆に言えば、楽進将軍でなかったら奇襲で効果を上げることも出来ず、そればかりか後から来た朱桓隊に攻撃され、大きな被害を出していたことは疑いありません」

にこにこしながら賈?(ク)が言う。

それにしても此奴は。まさか曹操の従兄弟である曹仁を囮にするとは。もちろん事前に、曹仁には知らせてあった。だが、あまりにも選ばない手段に、時々背筋が寒くなる。

不意に、賈?(ク)が笑顔で竹簡を差し出してくる。

「何か」

「曹操様からです。 主要な将軍には、この機会に配ってしまうようです」

「どういう意味か」

「見れば分かります」

有無を言わさぬ口調であったので、流石の楽進も鼻白む。笑顔の賈?(ク)が見守る中竹簡を開き、そして歎息した。

最後まで、曹操には苦労させられるらしい。

主君として、これ以上有能な男はいないだろう。だが、真面目で常識人な張遼がいつも嘆いているように、その奇行には最後まで精神を痛めつけられそうだった。

「分かった。 曹操様が偵察から帰ってきたら、私から意見する」

「よろしくお願いいたします」

ぺこりとあたまを下げる賈?(ク)は大嫌いだが、この点だけは同情してしまう。良くしたもので、賈?(ク)も楽進に同情しているようであった。

数日後、戻ってきた曹操は、実に嬉しそうに楽進に言う。

「おお、楽進! 奇襲ご苦労であったな。 いつもながら見事な戦果を上げたと報告を受けているぞ」

「そのことなのですが」

「それよりも楽進。 長江の南側を一通り見て回ったが、江東の水上防備はなかなかのものだ。 あれを攻めるのは骨だな。 江東が腐敗した後、全面攻撃を仕掛けて多方向からの圧力を加えつつ、首都を一気に落とすのが戦略としては良さそうだ。 何世代後になるかは分からんが、余には実行できぬだろうな」

いずれにしても、孫権は優秀な男だ。息子に是非欲しい。曹操はそう締めくくった。

無邪気すぎるその笑顔に、楽進は反論を封じられる。何処かで悟ってしまったのかも知れない。

曹操が、既に迫り来る寿命に対して、腹をくくったのだと。

楽進は、曹操が意気揚々と自室に引き上げていくのを、見送ることしかできなかった。長年仕えてきたからこそ、分かるのだ。今、下手な言葉を掛けるのは、あまりにも気の毒だと。

曹操から主要な武将に配られたのは、遺言状だった。

 

2、陳到の苦悩

 

陳到は馬に乗って指揮を執りたかったのだが、許可されなかった。それに、劉備に諭されたこともある。

不満はあったが、それでも飲み込まざるを得なかった。

輿に乗ったまま、陳到は手をかざして戦況を見る。馬超と張飛に率いられた先鋒一万は、曹洪軍五万に苦戦していた。兵の質では曹洪軍など問題にならないほど両将の部隊は高いのだが、しかし相手の数が多すぎる。

機動戦を挑むにしても、あまりにも条件が悪い。漢中の地形については、事前に亡命してきた細作達から聞かされ、詳細な地図も造ってはいたのだが。どうやら敵も、それは同じらしかった。

「先鋒の撤退を援護する。 陳式」

「はい」

「五千を率いて、曹洪軍の横腹を突け。 廖化はおなじく五千を率いて、牛金が出てきたら押さえ込め。 倒そうとは考えなくても良い」

「分かりました」

二人はそれぞれ五千を率い、出撃していく。

しばし戦況を見つめていると、馬超がまず撤退し、敵の本隊をあしらいながら張飛が引き上げてきた。曹洪軍は、陳式が的確に牽制の一撃を与えて黙らせる。追撃を仕掛けようとしてきた牛金の動きは鋭かったが、ほぼ同数を有する廖化が押さえ込み、被害を最小限に減らした。

戻ってきた部隊を収容しながら、陳到は逆撃の態勢を整える。此方は坂の上で、しかも訓練が行き届いた戦力である。それを見て取った敵将曹洪は、しばらく様子を見たあと、しずしずと引き上げていった。

敵が引き上げたので、此方も引き上げることとする。今回に関しては、敵が漢中の国境を越えてきたから、迎撃に出たのだ。侵攻する準備は整えて出てきていないし、追撃しても被害を増やすだけであった。

輿に、張飛が馬を寄せてきた。

「助かったぜ。 有難うな」

「いえ。 それにしても、敵の動きが活発になってきていますね」

「そうだな。 荊州の方も一段落したみてえだし、兄貴が出てきて全軍での総攻撃があるかも知れねえ」

そうなると、漢中に駐屯している曹操軍と、全面戦争になるのだろう。

漢中には曹洪軍だけで五万、夏候淵が三万以上を率いて駐屯している。それに対して、劉備軍は十万程度しか動かせない。

曹操軍は幾らでも援軍が期待できる上に、いざとなったら曹操自身が相当な軍勢を率いて直接乗り込んでくるだろう。

曹操軍の圧倒的な物量は知り尽くしているとはいえ、今回も厳しい戦いになるのは確実だ。それを考えると、あまり楽観的ではいられなかった。

葭萌関に戻る。続々と兵糧が集結しつつあり、倉庫には入りきらず、外の野戦陣に蓄積され始めている。有り余る兵糧の管理を任されているのは李厳。益州の将軍だった男で、優秀な人物である。

「李厳、兵糧の様子は」

「現時点で、十万の兵が一年半ほど戦える量が揃っています。 後この三分の一ほど届いたら、劉備様が出撃なさると報告を受けています」

「良し、油断せぬようにしてくれ」

関にはいると、先に引き上げていた馬超と、それに法正が待っていた。シャネスが堂々と席に着いていたので驚く。相変わらず腕組みした彼女は、仏頂面で、当然のように茶をすすっていた。

歴史の表に出せることはないとしても、シャネスの劉備軍に対する貢献度は、歴戦の武将達に勝るとも劣らない。この頃糜竺や簡雍のように一線を引く武将が出始めている中、現役で活躍しているという点でも、シャネスは重要な存在だ。もう若いとは言い難い状態になりつつあるが、歴戦の中で体を鍛えているからか。下手な婦人よりもずっと若く見えるのは、皮肉なのかも知れない。

法正はここのところ、めっきり窶れた。目の下に隈を作っているし、言動も時々おかしくなる。精神も不安定で、かんしゃくを起こして兵士を切ったり、かって自分に不利益な行動をした同僚に難癖を付けて処刑したりと、呆れた言動が目立った。

しかし益州攻略の立役者であり、その功績はとても大きい。同じ立役者の一人である張松が益州戦の末期に裏切りが露呈して斬られてしまい、また同士であった孟達が最前線に出ていることを考えると、その権勢は揺るぎない。諸葛亮より地位が高いくらいなのである。あまりその辺に文句を言うことも出来なかった。

漢中侵攻作戦について、あれこれと議論する。その中で、法正が、目を血走らせながら、地図の一点を指す。

「此処が、定軍山です」

「曹操軍の兵糧が蓄積されているという話だな」

「はい。 此処を落とせば、勝負は決まると思います」

既に、あらかたの戦略は決まっている。

張飛と馬超は、今回同様、攪乱戦を担当することになる。陳到は劉備と共に本隊の指揮を執り、黄忠は魏延と連携して、定軍山方面の行動を担当。

予想される敵の抵抗は凄まじいが、幸いなことに、漢中の民は曹操軍を快く思っていない。

その報告は各所から入ってきているので、ほぼ間違いのない所であった。

不意に、馬超がシャネスに訪ねる。

「ところで、張魯どのの行方は分からないだろうか」

「河北方面に連れて行かれ、近々州牧になると言う話を聞いている。 恐らくは并州ではないかと思う」

「そうか、無事なのだな。 それに漢中にはいないか」

「張魯には世話になったそうだな。 戦わずに済むのは嬉しいか」

嬉しいと、馬超は素直に応える。えらそうなシャネスの喋り方にも不快感を示していないのは、混乱の中で失った妻に似ているからだと、少し前に陳到は聞かされた。

益州から林の部隊はまるで最初から存在しなかったかのように消えたが、今では漢中で手ぐすね引いて待ちかまえているのは、ほぼ間違いない所だ。対林用に、何名か山越から選抜した優秀な細作を今回は連れてきているという話だが。陳到は不安である。あの化け物を相手に、何処まで通用するか。

もっとも、今回は諸葛亮も奥方と一緒に参軍するという。諸葛亮はあまり好きではないが、その手腕は陳到も認めている。細作関連の備えに関しては、あまり心配しなくても良さそうであった。

他にも幾つかの話題が出たが、目新しい話はない。

それでも、会議が終わると、夜中になっていた。

葭萌関の奥には陳到の個室も与えられていて、医師が待ちかまえている。すぐに横にさせられ、死ぬほど苦い漢方薬を飲まされる。医師は、戦に参加したばかりか、会議で遅くまで話し合ったことを、良く思っていないようであった。

「会議では、重要な話題が出たのですか」

「いや、あまり重要な話題は多くなかった」

「それならば、代理をお建てください。 劉備様も、そうするようにと仰っていたではありませんか」

「分かった。 そうであったな」

それを出されると弱い。それに、医師は陳式や廖化も味方に付けている。会議には彼らを代理で出せと、時々言うほどなのだ。

がらがらと車輪の音がするのは、荷駄が到着しているからだろう。

益州の備蓄食糧はかなりの量に達しており、益州そのものを城と見立てて籠城すれば、百万余の民を十年以上養うことが可能だと試算が出ている。かなり林に荒らされてはいたが、民の慰撫にも努めており、そう長い時を掛けずに益州は漢中、荊州を両翼とした中継地点として、見事な動きを見せるはずだ。

「陳到将軍!」

「分かった分かった。 仕事のことは忘れる」

医師に怒られたので、寝る。体は正直で、一度寝込んでしまうと、もう朝まで目覚めなかった。

 

翌日はだいぶ気分も良く、朝に薬を飲むと、医師に出歩くことを許された。

朝の光の中歩くと、気分がよい。泥沼の状態になっている夫婦の関係や、これから漢中で壮絶な殺し合いをしなければならないことを、綺麗に忘れることが出来る。

部隊の調練をしていた馬超が、此方に気付いて馬を寄せてくる。松葉杖を突きながら、陳到もゆっくり歩み寄った。

「陳到将軍。 この間は助かりました」

「いえいえ。 私には馬超将軍のような正面突破能力も、張飛将軍のような戦の才能もありませぬから。 あのような事しかできません」

「それが出来る男こそ、必要なのです」

馬超は親ほど年が離れているからか、陳到に敬語を使ってくれる。

陳到も馬超がかっては貴公子であったことを尊重して、丁寧に応じていた。

下馬した馬超は、訓練を見て欲しいと言った。早朝から訓練をしているのは、この間の国境紛争であまり部下がよい動きを出来なかったからだろう。涼しい顔をしているが、実際は誇りを傷つけられて、内心腸が煮えくりかえっているという訳だ。そこで、陳到の用兵を取り入れたいのだろう。

陳到としても、あまり激しい動きは出来ないが、訓練を見るくらいなら異存はない。

歩いて、丘に出た。

馬超は馬を引いていたが、それは多分西域から入ってきた汗血馬だ。兎に角体格が大きく、気性も荒そうである。これを乗りこなしている人物と言えば、そう言えば曹操軍の張?(コウ)もそうだと聞いたことがある。

丘の上から見下ろす。

馬超の率いている軍勢は、兎に角荒削りなのが見て取れた。陣形も乱れがちだし、雰囲気的にも雑だ。しかし、これに馬超が入ると、途端に軍が一団と化すのが面白い。これは単純に、中原で流行っているような軍学を、馬超が知らないことが原因だろう。馬超は実戦のみで己を鍛え上げてきた男だ。だから、軍学の権化であるような曹操でさえ、苦戦させられた。

馬超は部隊を二つに分ける。

一つを馬超が率い、もう一つは馬岱が率いた。馬岱は馬超の倍の軍勢を率いたが、見た瞬間、勝負は明らかだった。

突進を開始する馬超軍。

馬岱も軍を率いて迎撃に掛かったが、瞬く間に蹴散らされた。中央突破した馬超軍は反転、一気に残りを叩きのめす。

ほんの僅かな訓練で、馬超は馬岱の軍勢を掃討し終えていた。

馬岱と一緒に、馬超が丘の上に上がってくる。馬超は殆ど汗も掻いていなかった。?(ホウ)柔はずっと馬超の側に控えていて、一言も喋らなかった。

「どうでしたかな、陳到将軍」

「これは見た感じなのですが、馬超将軍は隅々まで目が届く規模の軍勢を率いて、それを最精鋭として活用するのが一番良いのではありませぬかな」

「ほう。 私は大軍を率いるのには向いていないと」

「恐らくは。 見てください。 馬超将軍が離れた途端、あの有様です。 それなのに、実戦では彼らのような雑兵でも、実力以上の実力を発揮して、馬超将軍の下、命を賭けて敵を倒す」

指さす先の馬超軍は、規律も何もなく、もうだらけ始めている。だが、彼らが西涼の地獄を生き抜いて、今また馬超最後の精鋭として生きている存在であることは、間違いのない所なのだ。

腕組みした馬超は、別に怒った様子もない。

曹操に負けたことで、馬超は知ったのだろう。己の用兵には、足りないものがあるのだと。だから士大夫出身でもない陳到のような男に、これだけ言われても、真摯に聞く姿勢が出来ているのだ。

「なるほど、最精鋭を率いての機動戦か。 確かに堅苦しい大軍を率いての戦は、私の性に合わないのかも知れん」

「あくまで一参考意見です」

「おや、とても参考になった。 私よりも遙かに戦歴が長い貴方には、これからも世話になりそうだ」

一礼すると、陳到は葭萌関に引き上げる。

荷駄はまだまだひっきりなしに到着している。この様子だと、一両日中には、漢中に大規模な侵攻作戦が実行できるかも知れなかった。

陽平関に戻ると、シャネスが難しい顔をして待っていた。

「陳到将軍。 少し良くない知らせがある」

「妻子のことか」

無言で、シャネスは頷いた。

妻は少し前、首をくくりかけた。不倫がばれたためである。彼女と遊び半分に不倫していた馬家の大物が、明らかに保身のために自分を見捨てたと、気付いたこともあったのだろう。

発見が速かったため使用人に止められたが、当然騒ぎになった。

劉備がすぐに介入し、馬家は公式に謝罪。当主は交代して、馬良になった。あまり表沙汰には出来ない醜聞は、それで一旦落ち着いた。陳到が、張飛、関羽らにつぐ将軍としては、重鎮として重要な存在だと劉備がこれで認めた、という事も意味していた。

いずれにしても、事が落ち着くと。益州に移ってきた妻は、陳到を見るなり詰った。貴方が悪いのだと。

どうやら子供達も、妻に賛成のようだった。

そして、陳到も、それには異存はなかった。

「ならば、そなたを離縁すればよいのか」

そう言うと、陳到の妻は青ざめた。

彼女も流石に分かっているのだろう。これだけの醜聞が表沙汰になった今、離縁などされたら、生きてはいけないと言うことを。

口をつぐむ妻に、頭を掻きながら、陳到は言った。

「確かに、私はずっと戦場を駆け回ってきた。 あの村の反乱で、名前を変えて以降、ずっと、脇目もふらずにだ。 そなたを見てやれなかったのは事実だし、子供達を育てもしなかったのも確かなことだ。 それが溝を作ってしまったことに関しては、私に全面的な瑕疵がある」

「私の人生を返して!」

「……だがな」

妻の勝手な言葉に、陳到も流石に言い返さるを得ない。

「そなたらを養うという点では、私は父として夫としての責務は果たしてきた。 だが、そなたが望むことをしてやれなかったのは事実だ。 だが、私の妻にならなければ、今頃そなたは良くて?(エン)州か冀州辺りで、貧しい農民の妻として生きていたか、或いはのたれ死んでいただろう。 その美しい服も豊かな食事も、私の稼ぎで得られたことを、忘れてはいかん。 益州で、荊州で、豊かで静かな生活を出来たのも、私の稼ぎがあってのことなのだぞ」

子供達も、それを聞くと口をつぐんだ。

陳到は、竹簡を出す。それは益州の外れに、家を用意すること。ある程度の生活費を出すこと。それを明言する内容であった。

「もはや、一緒に暮らすことも出来まい。 家と使用人を用意してある。 其処で静かに暮らせ。 ただし世間体もあるから、男を作るようなことは控えよ。 もしも不倫するようなことがあったら、その時はもう私も庇い切れん」

妻は唾を吐きかけたいような顔をしていたが、竹簡をひったくると、葭萌関を出て行った。娘と息子はその場に残る。残るように、陳到が言ったからだ。

「そなたらも放っておいてすまぬな」

「今更、貴方に父としてなど期待していません」

そう冷たく言ったのは娘であった。まるで汚物でも見るかのように、陳到を見ている。そう見られて当然だと、陳到は思っていた。

頷くと、陳到は言う。

「ああ。 分かっている。 だから、そなたらには、これを用意した」

娘には、見合いの手配だ。

相手は張飛の息子の張苞。武勇に優れた男であり、今だ妻を迎えていない。張飛に話を持ちかけた所、大歓迎だと喜んでいた。

「真面目で誠実な青年だ。 多少豪快な所はあるが、お前を愛してくれるのは間違いないだろう」

「……」

「嫌なら断っても良い。 他にも何人か、見合いの相手は用意した。 ただし、そなたもそろそろ適齢期を過ぎる。 早めに相手を選ぶようにな」

この時代。

余程才覚に優れてでもいない限り、女性には社会進出の路がない。また、自由に恋愛すると言うことだって出来ない。親が決めた相手と結婚するのが普通である。だから、出来るだけまともな相手を用意することだけが、陳到に出来ることだった。

娘はしばらく口をつぐんでいた。まだ、特定の相手がいないことは、既に調査済みである。恥を忍んで、シャネスに聞いたのだ。

娘は張苞の竹簡をひったくると、出て行った。使用人を一人付ける。そして、婚礼の儀は任せた。使用人も、あまり陳到のことは良く思っていないらしい。一礼すると、そそくさと娘の後を追った。

最後に息子だ。

怠け者の息子だが、通わせていた塾の講師によると、なかなか才覚自体は優れているという。少し軍に入れるには遅いが、良い手がある。

「そなたには、養子の話を用意した」

「養子?」

「私の顔などもはや見たくもあるまい。 違うか?」

じっと、醒めた目で息子は陳到を見る。

だが、あまりにも積んできた場数が違いすぎる。足腰が不自由であっても、こんな不抜けた息子相手に不覚を取ることなどあり得ない。圧倒的な気迫の差が、息子の視線を、先に逸らさせた。

「養子って、誰のだよ」

「何人か候補がいる。 何しろ乱世だ。 嫡男や跡継ぎを失っている武将も、結構多くてな」

その筆頭は黄忠だ。黄忠は壮健な人物だが、嫡男の黄射は既に命を落としていて、跡継ぎになる人物がいない。

戦場では凄まじい働きを見せる老人だけに惜しいと皆が考えていて、今回養子を提案すると渋々ながら受けてくれた。他にも何名か、跡継ぎを亡くしてしまっている武将が、陳到からの提案を受けてくれている。

逆に陳到は、陳式を養子にするつもりである。

もちろん、陳到の息子が嫌がるのであれば、話を白紙にする用意もある。

「そんなの、急には決められねえよ」

「今すぐ決めなくてもいい。 だが、黄忠どのはお年を召されているし、あまりぐうたらさせておく余裕も今後はない。 数日内には決めてくれ」

「……あんたって、本当に勝手だよな」

「ならば、私の下を離れて、自分で路を拓くか? お前の生活は、私の稼ぎに支えられていることを忘れるな。 お前が好きに生きたいというのなら止める気はないが、それは今の生活を意味してはいないぞ」

舌打ちすると、息子は出て行く。

余程特殊な技能でも有していないと無理な娘と違って、息子はこの世界でも、立身できる要素がある。しかも若いのだ。家でぐうたらしているのは、流石に許せることではない。他の武家では、誰もが息子を若い頃から戦場に出して、活躍させて経験を積ませている。陳到だけが、息子を育て損なったように思えて、恥ずかしくなることだってあるのだ。しかし、息子の言い分も分かる。

数日後、息子は失踪した。

使用人の、若い娘と駆け落ちしたらしい。

それならばそれで良いと、陳到は追っ手を出すのを控えさせた。別に曹操の所に行っても構わない。そんな甲斐性があるとは思えないが、それだけ独立した行動を出来るのなら、もう陳到としても未練はなかった。

そう言う経緯で、妻子とのことは陳到も精算することが出来た。

だが、妻と子のことである。簡単に割り切るのは難しい。

「奥方は静かに暮らしているし、娘どのも張苞どのとの婚約を承知為された。 問題は息子の陳生どのだ」

「何かしでかしたのか」

「どうやら荊州方面に出て、徐晃の配下に捕らえられたらしい。 今尋問されているようだ」

「……あれは、何も軍事機密は知らないし、放って置いても殺されるようなことはないだろう。 私の息子だと吐いてしまえば別だが」

「悪いことに、それを知っている者が敵にいたようでな」

頭を振る。

駆け落ちまでしたのだ。この時代、使用人は一種の財産扱いで、それを考えると、もはやどうにもならないと言えた。

「助けられる見込みはあるか」

「優先順位はさほど高くは出来ないが、どうにかしてみる」

「一緒に逃げた使用人は」

「元々曹操軍の間諜で、売り飛ばしたのはその娘だ」

ため息が漏れてしまった。

医師が来て、横になるように言われたので、少し休むことにする。

目を閉じると、眠ってしまった。シャネスに頼みはしたが、今回の件は息子の自業自得だ。あの年になれば、場合によっては軍閥の長に収まっていることさえある。そう言う意味で、息子は才覚が足りなかったのだろう。

何処にでもある悲劇だ。

妻は自分を呪うかも知れない。だが、それも仕方がないことだった。

目を覚ますと、劉備がいた。

「陳到将軍。 大丈夫か」

「はい。 出陣の準備が整ったのですか」

「うむ。 いよいよ漢中に攻め込む」

軍勢は約十万。益州は後方をほぼ心配しなくても良いと言うこともあり、荊州方面軍の五万を除いて、ほぼあらかたの軍勢が連れて行かれることになる。

曹操軍は八万強の軍が守備についており、しかも長期戦になれば十万を超える軍勢が援軍として駆けつける可能性が高い。

厳しい戦いになる。此方にも張飛、馬超、黄忠などの名将がいるが、敵にも張?(コウ)がいるのだ。

劉備の後ろには趙雲とジャヤの姿もある。文字通り、総力戦という訳だ。

望む所だ。

もう家族を持つ気はない。陳式を、劉埼を養子にするのも、家族ごっこをするためではない。陳到が育て上げた部隊の引き継ぎを、上手に行うためだ。それに、家族などと、どう接して良いかもよく分からない。

シャネスに頼んだことを振り切るためにも。

今、陳到は、戦の鬼にならなければならなかった。

 

3、漢中炎上

 

漢中に作り上げられた繋ぎ狼煙の備えが、一斉に稼働した。

住民がしらけた目で見つめる中、牛金は悟る。ついに、劉備軍が動き出したと言うことを。

ほどなく、伝令が、漢寧に飛び込んできた。

「劉備軍が、漢中に侵入してきました!」

「数は?」

「およそ十万! 中軍には、劉の旗が翻っています!」

劉備が直接出てきての親征。そうなると、先鋒は張飛や馬超、中軍には陳到や黄忠も出てくるだろう。これに対抗できるのは張?(コウ)しかいない。曹洪や夏候淵では力不足だ。

すぐに司令部に出向く。既に其処は蜂の巣を叩いたような騒ぎになっていた。

殺気だった夏候淵が、取り巻きを率いて出て行く。腕組みしている曹洪は、それを止めようとはしなかった。

「如何したのです」

「どうもこうもない。 魏公は守備に徹するようにと言ってきているのに、夏候淵どのは敵の頭を叩きたいなどと仰ってな」

「なんと。 敵は劉備が直接出てくるほどの態勢で此方に向かってきています。 夏候淵どのでは、とてもではないが歯が立ちません」

「そんな事は分かっている! だが、それをどうも夏候淵どのは、理解できていないようでな。 それに私と夏候淵どのはほぼ同格。 止めることなど出来はせん」

どうなろうと知ったことかと、曹洪は吐き捨てた。

それほど仲が悪いという話は聞いたことがないが、そもそも同格の上に、率いている兵力がほぼ五分という状況である。対立が生じてしまうのは、仕方がないことなのかも知れなかった。

しかし曹操は、そんな彼らに、敢えて此処の防備を任せた。

理由は分からない。分かっているのは、二人が協調しなければ、漢中は守れないと言うことだ。

牛金は早足で夏候淵を追いかけながら、諫言する。

「夏候淵将軍。 お聞きください」

「聞く耳もたぬ!」

「此処は曹洪将軍と協調すべきです! 相手は百戦錬磨の劉備が直接率いてきているほどの精鋭! まともにぶつかっても勝ち目はありません! 漢中の地形を利用して、敵の鋭鋒を避け、補給を脅かし、機動戦に徹するべきです」

足を止めた夏候淵が振り向く。

鬼のような形相だった。

「劉備が来ていると言うことは、討ち取る事さえ出来れば、一気に益州の軍勢を壊滅させられると言うことだ。 それに私が預かっているのは、曹操軍の精鋭。 決して敵より質が劣ることはない!」

「劣るのは……」

目を血走らせている夏候淵を前に、それを言ってしまって良いのか。相手は曹操の血族である。しばし迷ったが、それでも牛金は諫言した。

「劣るのは、兵力と、それに指揮官の質にございます」

「貴様っ!」

剣を抜いたのは、夏候淵ではなく、その取り巻き達だった。夏候淵は蒼白になり、足も止めて立ちつくしていた。

夏候淵の取り巻き達は、いずれも牛金と同世代か、それより若い者達ばかりだ。いずれも毛並みがよい士大夫出身で、中には実戦経験が無い者までいる。夏候淵も、二線級とはいえ、曹操軍で死闘をくぐり抜け続けた男だ。劉備が率いる怪物的な豪傑達に、このような青瓢箪の群れを率いて、勝てる訳がないとは分かっているだろうに。

「昨年の小競り合いで、我が軍は劉備の派遣してきた呉蘭と雷銅を討ち取っている。 奇襲作戦こそ、我が本領。 本陣の位置さえ掴むことが出来れば、必ずや劉備も討ち取ることが出来る」

その前に、張?(コウ)が張飛の攻撃によって壊滅的な打撃を受けて、漢中の南部にある巴を喪失したことを、夏候淵は忘れてしまっているようだった。曹操軍の名将である張?(コウ)でさえ、張飛には軍略で一歩及ばないのだ。夏候淵が総力戦態勢の劉備軍に、及ぶはずもないことは、明白であった。

「呉蘭も雷銅も、どちらも劉備軍としては下の下に位置する将軍にございます。 しかもどちらも目先の利益に目が眩み、自滅したに過ぎません。 今度迫っている相手は、あまりにも格が違いすぎまする」

「おのれ、この貧乏豪族の小せがれがっ!」

「黙れ実戦も知らぬ青瓢箪!」

取り巻きに、牛金が一喝。その迫力は、彼らに剣を取り落とさせるに、充分であった。

大きく深呼吸すると、牛金は、最後だと思って諫言する。

「兎に角、夏候淵将軍。 今は一旦漢寧に兵を集中し、前線にいる張?(コウ)将軍と連携しながら、敵の様子を見て、補給線の遮断と、敵の分断を中心に戦闘を進めるべきにございます。 お聞き入れくださいませ」

「聞く耳もたぬ」

夏候淵が、大股で漢寧の城門を出て行く。取り巻き達は、牛金に深い憎悪が籠もった視線を向けていたが、やがて主君を追って小走りで去った。

牛金は、張?(コウ)麾下として、現在五千を有している。主君の元にこの凶報を伝えるべきかと思ったのだが。その時間はなかった。

丁度、夏候淵が出撃した翌日である。

繋ぎ狼煙から、次々に煙が上がる。

かけ足で、曹洪が出てくるのが見えた。

「牛金! た、大変だ!」

「如何なさいましたか」

「陽平関に、劉備軍が襲来した! しかも兵員は五万強! このままでは、漢中を保持するどころではない! 下手をすると我が軍は、敵中に取り残されることになる!」

息を呑む。陽平漢は漢中の要も良い所で、此処を落とされると漢中は両断されるも同じである。

しかもこれほどの速度で陽平関に攻め込んでくるとは。劉備軍は、相当に詳しく漢中の地形を知っているとしか思えない。

「武都(漢中の西の果て)方面から、司令部を移動する処置を執りましょう。 陽平関の東にも、まだ幾つか漢中の拠点はございます。 陽平関の救援が間に合わないようであれば、まず全軍を武都に移動し、其処から東に、或いは北へ逃れればどうにかなるかと思いますが」

「う、うむ、そうか」

司馬懿や揚修は間が悪いことに、丁度陽平関の東で拠点の構築にいそしんでいる所だ。というよりも、劉備軍の進撃が異常なのである。やはり、漢中の張魯軍の残党が、力を貸しているのだろう。

もしくは馬超か。馬超は一時期漢中で客将として活躍していた。その時、漢中の地形を全て把握していてもおかしくない。

慌ただしく漢寧から軍勢が出発し始める。狼煙台の周囲は大混乱しているようで、明らかにおかしな狼煙が多数上がっていた。ひょっとすると、異変を察知した村人達が、一斉に反旗を翻し始めたのかも知れない。

「各地の村に駐屯している部隊に、連絡。 漢寧に退却。 もしもそれが出来ないようならば、武都まで逃げろ」

「分かりました!」

伝令が散り始める。しかし、この無数の村が集合することにより、一つの国となっているという、漢中の特異な構造が、あまりにも不利に働いている。伝令は三人一組としたが、一体どれだけ生き延びられるのか、分からなかった。

「私は殿軍となって、各地の村に散っている兵士達を集めます。 曹洪将軍は、退路を確保してください」

「分かっておる。 それにしても、このような時に、陽平関に大規模攻撃とは」

心底悔しそうに、曹洪が言う。

悔しいのは、牛金も同じであった。

 

電撃的に漢中の中央を突破した劉備軍と本隊は、以前の戦いから修復がしきれておらず、駐屯する戦力も少ない陽平関に、容赦ない攻撃を仕掛けていた。

一度安全地帯だと認識してしまうと、どうしても人間は気が緩む。陽平関の指揮官もそれは同じであったらしく、突如現れた劉備軍の猛攻に為す術無く、援軍を求めるのがやっとであった。

攻城兵器を持ち込む余裕はなかったが、しかし兵の数が元々多い上に、元漢中の細作達が道案内したことで、敵は完全に混乱している。夏候淵は張飛、馬超の陽動に振り回されて漢中南部を右往左往しており、曹洪軍は泡を食って武都へ撤退を開始したことが、既に斥候の手によって判明していた。

劉備の隣で指揮を執りながら、陳到は思う。

これで、一息付けるのか。

或いは、戦禍は更に拡大するのではないのか。

不安は大きい。劉備が変わってしまったのか、そうでないのか、まだよく分からないのである。劉備が天下を取れば、民衆を中心とした戦略を維持して、住みやすい国になるのではないのかという期待はある。

だが一方で、劉備が豹変して、暴君になるのではないかという不安は、近年大きくなる一方であった。

また一つ、敵の砦が陥落。

既に半分以上の拠点が、劉備の手に落ちていた。周辺の村々はそろって劉備に対する協力を申し出ている。気味が悪いほどの順調さである。残る拠点も味方が圧倒的に有利であり、既に戦況は決まったも同然であった。

「劉備様」

「うむ、陳到。 如何したか」

「私は後方の警戒に入ります。 攻め手は黄忠将軍だけで充分でしょう」

「確かに、敵の援軍が現れてもおかしくない時分だ。 一万を預けるから、警戒を密にせよ」

頷くと、陳到は輿を出させた。輿を担いでいる兵士達は皆忠誠度が高く、それが故に申し訳なく思ってしまう。

医師は、絶望だと言っている。爆発に巻き込まれた時、破片が入ったらしいのだ。しかもそれは肉の中で毒を出し続けているという。

無理に摘出するには、体力が足りないと言うことであった。

いずれ、足を切り落とさなければならないかも知れないと、医師は言う。

これも、家庭を顧みなかった事に対する罪なのかも知れなかった。

一万の兵を纏めると、陳到はそのうち八千を選抜。彼らを五人ずつの組に分けた。そして、四方八方に散らせる。一人ずつには狼煙を持たせており、何かあったら着火させる。近場を偵察させる兵士には、小型の銅鑼を渡した。

陽平関は漢寧に伸びる太い街路を抱えており、前後の路を行けば、いずれ長安と益州にたどり着ける。もっとも、治安が最悪の現状、そのような路を無事に行ける保証はない。路の左右には伏兵が出来る余地が幾らでもあり、敵が何時其処から現れても不思議ではない。何より、陳到らもその森の中に身を伏せながら、敵を突破したのだ。

周囲は二千ほどの兵に守らせているが、敵がどれほどの軍勢で奇襲を掛けてくるかはわからない。だから、じっと息を殺して、様子を見守っていた。

ほどなく、銅鑼が叩きならされる。

一気に陣が緊張した。

銅鑼の叩き方に、暗号を施してある。側にいる副官が、すぐに暗号を解読した。

「敵の数は約一万。 指揮官は張?(コウ)です」

「すぐに斥候を纏めろ。 張?(コウ)のことだ、速攻を仕掛けてくるぞ」

本陣で、戦鼓が叩きならされる。それに伴い、偵察兵がすぐに駆け戻ってきた。兵が五千に達した頃、張?(コウ)がどっと兵を率いて仕掛けてくる。行軍速度は、やはり尋常なものではなかった。

前衛に激しく挑み掛かってくる張?(コウ)軍。勢いは凄まじく、たちまち先鋒が突破された。だが、味方は次々に集まってくる。陳到は陳式と廖化に二千ずつ率いさせ、左右に散らせた。

張?(コウ)が見える。

汗血馬に跨り、大きな槍を手にしていた。その性火のごとしと言われる猛将が、その全力を掛けて挑んできている。

陳到の心が燃え上がった。

相手は息子のように年が離れた相手だ。だがしかし、曹操の下で鍛えに鍛え上げられ、大陸でも十指に入る名将になった男なのである。もしも奴を退けることが出来れば、陳到は、生きていた意味があるのかも知れない。

家族と心を通じることが出来なくても。

人生を台無しにしても。

陳到は指揮剣を振り挙げ、叫んだ。

「輿を前に出せ!」

「危険です!」

「今が勝負時だ! 敵の攻勢も限界が近い! 一気に揉み潰せ!」

陳到が叫ぶと、流石に兵士達も必死の表情になった。張?(コウ)の猛烈な攻撃を凌ぎながら、それでも前に進み出る。

夜叉のような形相となった張?(コウ)が、槍を振るい、右に左に陳到の部下をなぎ払っていた。だが、その周囲にいる敵兵が、徐々に倒れ始める。勢いも消え、やがて完全に止まった。

左右から、陳式と廖化が突入したこともある。

それ以上に、張?(コウ)も悟ったのだろう。今の状況で、無理が危険だと言うことに。

「よしっ! 押しつぶせ!」

声を掛けると、攻守が逆転した。しかし、流石は張?(コウ)である。鋭い指揮でさっと軍を纏めると、まるで掌から砂がこぼれ落ちるようにして、撤退に転じた。追撃の隙などまるでない。

ざっと見た所、被害は味方の方が大きい。兵力が五分だったのだ。これが歴然たる、現実であった。

じっと、陳到は、張?(コウ)が逃げていった先を見つめていた。

やはり、何ら自分の人生に意味はなかったのではないか。そう思えてしまう。輿の中で、いつの間にか。

陳到は、吐血していた。

 

張?(コウ)の奇襲を陳到が引き受けたことにより、陽平関は陥落。

黄忠が最後の砦を落とした時には、既に夕刻になっていた。

混乱する夏候淵軍は、反撃を開始した張飛、馬超の軍勢によって蹴散らされ、定軍山を目指して撤退。曹洪の軍勢は武都に撤収し、殿軍を努めていた牛金の部隊も、間もなく残兵を収容し、武都を指して落ちのびていった。

陽平関の奇襲作戦は、かって益州の劉璋軍に所属していた黄権が立案した作戦であったが、こうして見事に、一気に漢中の形勢を確定させた。

陳式は、それでも沈鬱な表情をしていた。

斃れた陳到が、まだ目覚めないからである。軍医の話によると、急な行軍による疲労よりも、精神的な打撃の方が大きかったのではないか、と言うことであった。

兵士達も皆不安がっているが、事情を知っている陳式は、より憂鬱にならざるを得ない。あまりにも悲惨な陳到の家庭状況を、知ってしまっているからである。陳到の家庭は崩壊したも同然で、息子に到っては荊州で消息を絶ってしまっているのだ。

陳式は養子の話を受けたが、それで陳到の気が休まったとはとても思えない。

巴、益州との補給路の確保を部下に命じながら、陳式は陽平関の上に出た。何処までも広がる漢中の大地が一望できる。殆どが山ばかりで、夕刻を過ぎるとまるで闇の地であった。

「劉埼様、何を見ておいでですか」

「廖化将軍。 その名は止めていただけませんか」

「二人きりなのです。 何を遠慮することがありますか」

確かに、上がってきた廖化の他に、兵士はいなかった。

廖化の口調から言って、陳到はまだ目を覚まさないのだろう。明日辺り、陳式が兵を率いて、漢寧を攻略することが決まっている。敵は一旦主力を武都に移動したので、攻略にはさほど手間が掛からないだろうとは予測されてはいるが、張?(コウ)の動きがよく分からないので、安全でもなかった。

「陳到将軍は、本当にお労しいことですね」

「ご家族のことですか。 確かに、惨いことです」

廖化はこの間妻を迎えたばかりのようだが、関係は良好のようである。仕事ばかりしている点で、廖化は陳到とあまり代わりがないので、そう言う意味では人間的な相性が、陳到とその妻では致命的に合っていなかったのだろう。

多分、農村での生活ならば、それでもまだ良かったはずだ。

悪いことに、陳到の妻は、夫が殆どいない上に、欲望を刺激される環境に長いこと身を置いてしまった。

それが、夫婦関係に、致命的な罅を入れてしまった、と言うことなのだろう。

陳式は、父である劉表の、冷え切った閨房の争いを直に目にしている。義理の母に暗殺され掛かったことさえあった。

不思議なことに、今青州の太守をしている弟の劉綜との関係は、別に冷え切ってもいなかったし、険悪でもなかった。この辺りからも、幾ら言葉を尽くしても埋められない人間的な相性の溝というものは、感じてしまうのだ。

「しかしながら、陳到将軍は、我らが死ぬのを、その身で防いでくださったのです。 今こそ、我らが支えて上げなければならないでしょう」

「その通りだと、私も思います」

「我らにとって、陳到将軍は父も同じです。 とにかく、一刻も早く経験を積んで、楽にさせてあげたいものです」

頷くと、陳到は廖化と一緒に陽平関の中に。

一番大きな部屋が司令部となっており、劉備は既に彼方此方へ手を回し始めていた。細作が忙しく出入りしている。丁度、シャネスと正面から出くわした。

「シャネスどの」

「陳式将軍か」

「如何なさいましたか」

「如何もなにもない。 各地の村が、既に内応を約束していてな。 曹操軍が圧政を敷いていたと言うこともないだろうに、次々に此方になびいている。 あまりにも不自然だから、裏を取っている所だ」

シャネスは陳式よりもだいぶ年上と言うこともあり、劉備軍の重鎮でもあるから、如何に女性であっても陳式には目上の存在となる。珍しい話である。

部屋から、山越の者らしい大柄で色黒な女性の細作が出てきた。非常に優れた武力の持ち主らしく、既に曹操軍の細作を十人以上仕留めているという。林相手の戦闘を考慮して鍛えられたと言うことだが、陳式ではとても勝てそうになかった。

女性細作は陳式を一瞥すると、さっさと出て行く。武芸が出来ない男に興味はない。そんな雰囲気が露骨に出ていた。

「分かり易い方ですね」

「無礼は気にしないでやって欲しい。 己の欲を押し殺して、今まで頑張ってきた娘なのだ」

「分かっています。 陳到将軍の件もありますし、不幸なおなごとは世から絶えぬものですね」

「……」

すっと、シャネスは消えた。気配を消して去ったのだろうが、あまりにも見事すぎて、消えたようにしか思えなかった。

司令部にはいると、劉備が諸手を挙げて出迎えてくれた。無邪気な笑顔で、陳式の肩を抱いて座らせてくれる。その場にいるのが殆ど事情を知る者ばかりという事も大きいのだろう。

「劉備様。 漢寧の攻略には、是非私をお願いいたします」

「まだ張?(コウ)が捕捉できておらぬで、危険だが。 大丈夫か」

「陳到将軍の負担を少しでも減らしたいのです」

「……分かった。 ならば、魏延、孟達、劉封の部隊とともに行動して欲しい」

「御意にございまする」

そうなると、魏延の指揮下にはいると言うことになる。

魏延は先に漢中に潜入して、村々を周り、曹操軍に対する反攻作戦の指揮を執っていたのだと、劉備が教えてくれた。それにしてもあまりにも村々の反応が異常なので、シャネスが見て回っているのだろう。益州攻略戦の時のような事があってはならないのだ。

軍勢は合計で一万二千。魏延は実質戦力を率いていない状態だから、その主力として動かなければならなくなるだろう。

「陳到将軍を見舞ってから、すぐに出かけるといたします」

「うむ。 陳到将軍も不幸なことだ。 確かに家庭を顧みる暇がなかったかも知れないが、婦人もああもかたくなにならなくても良いものなのにな」

「私はまだ若いので分かりませぬが、どの女子もああなのでしょうか」

「そうさな。 私は三人しか妻を娶ったことがないから偉そうなことは言えぬが、側にいて欲しいと考えるのは女子の本能のように思える。 だが、己のことばかりを考える女子ばかりではないとも言えるな」

ちなみに劉備の三人という妻の数は、君主としては決定的に少ない部類にはいる。嫡男がかなり遅く産まれたのもそれが理由で、今も孫婦人しか妻がいない状況だ。

陳式が下がろうとすると、呼び止められる。

「早めに妻を娶ると良いだろう。 何なら、私から都合するが」

「有難うございます」

一礼して、部屋を出た。

もし妻を娶るのなら、ある程度心が通じた相手が良いなと、陳式は思った。

一晩休んで外に出ると、魏延が待っていた。半裸で水浸しなのは、風呂に入って今までの垢を落としていたからだという。目に強い負の力を秘めた男は、作戦の概要を聞くと、鼻を鳴らした。

「なるほど、劉備様は俺のことをよく理解してくれているようだ。 実に嬉しいな」

「魏延将軍?」

「俺は劉備様に仕えることが出来て光栄だ。 一兵卒から成り上がることが出来たのも、あの方のおかげだしな」

口調だけ聞いていると馬鹿にしているようにも見えるのだが、その実本心から感謝しているらしい。

荒々しく傷だらけの鎧を身に纏うと、魏延は愛馬に跨る。騾馬である。頑丈なことがお気に入りなのだとか。

「俺は兵の出自など気にしない。 将も同じだ。 全員、振り落とされずに着いてこい」

魏延が宣言する。そして、凄まじい勢いで、進軍を開始した。

流石に漢中に潜伏していただけのことはある。路は一切間違えず、最短距離で漢寧に向かう。途中、敵残党に遭遇する度に、無茶苦茶に蹂躙。実に荒っぽい用兵で、時々陳式は首をすくめた。

途中、細作と何度か出くわす。潜入任務をいつもこなしているからか、魏延は細作達と、独自の情報網を形成しているようである。

「漢寧から、既に張?(コウ)は姿を消しております。 敵の司令部も、すでに移動を完了した模様」

「張?(コウ)は何処に消えたか」

「今、張飛将軍が斥候を出して追っておりますが、今だ姿は確認できておりません」

「ふん、面倒だな。 お前達も、気合いを入れて探せ」

細作が消える。

魏延が剣を振り上げ、小休止を宣言した。陳式は進軍を止めると、まず周囲を確認させてから、慎重に陣を張る。陳到に教わったことであった。

「陳式将軍」

「はい」

「そなたは千を率いて、漢寧を偵察して欲しい」

「分かりましてございまする」

陣の構築は廖化に任せ、騎兵ばかり選抜して陳式はすぐに陣を出た。

出てすぐに、いやな予感を感じたのはなぜだろう。

ともかく、陳式は山道を駆ける。警戒を怠らないようにと、自分に言い聞かせながら。

 

陳到は嫌な胸騒ぎを覚えて飛び起きた。鎧を脱がされ、白衣に着替えさせられていた。

そうだ。

輿の中で血を吐いてからの記憶がない。

周囲を見回す。医師が飛んできた。なにやらばたばたと騒ぎがあるのは、なぜなのだろうか。

「陳到将軍、これを飲んでください」

「なんだこれは」

差し出された椀には、白湯のようなものが盛られている。酷い匂いがした。

いずれにしても薬であろう。一気に飲み干した。とても苦かったが、どうにか飲み干すことが出来た。

体が温まってくる。

全身が、沸き立つようだった。それでいて、不思議と心は落ち着いてくる。

「落ち着いてお聞きください、陳到将軍」

「今の薬で落ち着いた。 案ずるな。 私も戦の野を渡ってきた男だ。 多少のことで、心を乱しはせぬ」

「……陳式将軍が、張?(コウ)の軍勢に襲われ、行方不明になりました。 魏延将軍によって張?(コウ)軍は打ち払われましたが、軍勢は瞬時に三割を失い、多くが谷底に落ちました」

「そうか」

胸騒ぎの正体はこれだったかと、陳到は一人歎息した。

状況から言って、仕方がないことであったのだろう。戦場では、小競り合いであっても簡単に人が死ぬ。それは常に誰かの親兄弟であって、陳到だってそれは例外ではないのだ。今回、たまたま陳到が養子にしたばかりの陳式が不幸にあった。それだけのことに過ぎなかった。

家庭のことではなく、戦場の事であったからか。それからも、心は乱れることがなかった。散々戦場では死を目にしてきたし、覚悟だってしてきたのである。これで心を乱れるようでは、武人失格だと、何処かで言い聞かせていたかも知れない。

それでも。

陳到は、傍らの医師に、弱くなりつつある光を向けた。

「出撃は出来ないか」

「許可できません。 陳到将軍は今、絶対安静の状態です」

「……」

これも、私に対する罰か。

そう、陳到は呟く。そしてそれから二昼夜、針の筵に座るかのような気分を味わうことになった。

陳式が無事に救出され、帰還してきた時。

不思議と、陳到は心が安らかだった。

その代わり、白髪は以前より、倍ほども増えてしまっていた。

崖の途中に引っかかっていたという陳式は、陳到を見て息を呑んでから、心配を掛けて済まなかったと詫びた。

だが、その言葉は。

何処かで、陳到の心には届いていなかった。

 

魏延軍の猛攻により、半日程度で漢寧が陥落。それに伴い、曹操軍は戦線を縮小を余儀なくされ、主に二方向へと撤退を開始していた。

曹洪率いる本隊は武都へ。これは兵力の消耗を避けるためであり、また反撃を伺う態勢を作るためでもあった。

夏候淵率いる別働隊は定軍山へ。

定軍山は漢中の重要拠点であり、各地の拠点を一望できる地点にある。

敗残兵を必死に纏めながら此処に撤退する夏候淵を追うのは、黄忠率いる二万五千。残りの内、二万は武都に備えて陳到が率いた。そして残りの五万五千は、劉備、張飛、馬超が中心となり、漢中の残る拠点をしらみつぶしにしていった。

張?(コウ)の遊撃軍はその絶望的な状況でも必死の抵抗を続けていたが、黄忠軍の巧妙極まる誘い出しによって致命傷を受け、撤退。漢中は、確実に、劉備軍の手に落ちつつあった。

曹操が徐晃軍を中心に、十万の兵を率いて漢中に出向いた時には。

既に、手の施しようがない状態であった。

 

4、夏候淵落つ

 

曹洪に言われて、定軍山に牛金が出向いた時。

既に其処は、黄忠軍による熾烈な包囲を受け、どうしようもない状態に陥っていた。牛金が率いていたのは五千だが、それを十部隊に分け、分散して突入させ、どうにか包囲を突破することは出来た。

だが、黄忠は意図的に包囲を突破させたのだと、作戦が成功してから、牛金は悟ることになった。

定軍山は切り立った険しい山で、攻め上る路は殆ど無く。

逆にそれが故退路も殆ど僅かにしか存在しておらず、殆ど兵力が変わらないにも関わらず、実に包囲が容易な土地だったからである。つまり、牛金の五千を、そのまま閉じこめることが出来るのだ。

五千を纏めて夏候淵の陣に向かいながら、牛金は覚悟する。

これが最後の戦いになるかもしれないと。

ざっと見ただけでも、黄忠は曹操軍の最も優秀な将軍達に、そうそう劣らないほどの手腕を持っている。とてもではないが、夏候淵のかなう相手ではない。

山の中腹まで、夏候淵の防衛陣は存在しなかった。理由はすぐに分かった。隣にある、定軍山より少し大きな山が、既に黄忠の軍に制圧されていたからである。山には法の旗が翻り、どこから持ち込んだのか大型の投石機と攻城用弓が取り付けられていた。山道を行きながら、確認したのは、それらによって破壊されたらしい柵や櫓の跡であった。

陣に辿り着く。

既に、夏候淵軍として此処に逃げ込んでいた夏候尚が出迎えてくれた。奥には曹休と夏候淵の息子である夏候栄もいた。若手参謀の一人である社襲もいるが、彼は夏候尚とは仲が悪いことで有名で、今も視線を合わせようともしていない。

いずれの顔にも、焦燥が色濃く貼り付いている。周囲を見回して、気付く。

「夏候尚どの」

「何か」

「兵糧の蓄えが、殆ど無いようなのですが」

「それが、定軍山に逃げ込んできた直後に、失火があってな。 殆ど兵糧は燃やされてしまったのだ」

歯ぎしりする夏候尚。牛金は愕然とした。

確か、定軍山にも小規模な集落はあったはずだ。流石にもう避難したようなのだが、当然民は地理に詳しい。細作が潜り込むとしたら、彼らの手引きは必要不可欠であっただろう。

こう言う所でも、利いてきている。

曹操軍が、ついに漢中の民を味方に付けられなかったという事実が。

「夏候淵将軍は」

視線だけで、奥の天幕を指されたので、歩く。兵士達は、牛金を制止しようともしなかった。

天幕にはいると、酒の匂いがした。

夏候淵は、相当精神的に参っているようだった。目の下にはどす黒く隈ができ、酒の徳利が天幕の中に乱立している。もの凄く高価そうな玉で出来た杯は、その辺りに放り出されていた。

寝床で、半裸でごろりと横になっている夏候淵を揺さぶる。これでは、兵士達の士気が下がる一方だ。

「夏候淵将軍」

「あー。 だれだ」

「牛金にございます」

「何だ、貴様か」

したたかに酔っている夏候淵は、まるで目の焦点が合っていない。起き上がろうとして、二度失敗する。寝床の側には、吐瀉の跡さえあった。三度目にどうにか半身を起こすと、夏候淵はやっと牛金の存在を認識できたようだった。

目を大げさに擦る夏候淵。

対外的には猛将として喧伝されるこの男は、後方の任務を中心に実施し、親族であるが故に裏切らないと言うことで重宝されてきた。しかしながら、今回劉備軍の速攻によって、敵中に取り残される羽目に陥ってしまった。

それが、全ての不幸の始まりであっただろう。

「脱出の準備をいたしましょう。 このままでは我が軍は、全て飢え死にしてしまいます」

「逃げると言っても、何処に逃げるのだ」

「武都を経由して長安に。 武都には今、曹洪軍も逃げ込み、態勢を立て直しておりますゆえ、数万の兵が駐屯しています。 不幸にも曹操様の本隊と合流するには著しく位置が悪いので、連携しての戦闘は難しいと思いますが、逃げ込みさえすれば、どうにかなるでしょう」

「いやだ」

子供のように、夏候淵が頭を振る。

「しばらく待てば、曹操様が必ず駆けつけてくださる。 まだこの定軍山には、私を始めとして、二万以上の兵がいる」

「すでに陽平関が落ちているのに、どうやって駆けつけるのです。 それと、私が五千を連れてきたので、大体三万が今います。 しかしそれでも、敵にはかなわないでしょう」

「……知らん、知らん! 私は、ただ待つつもりだ」

耳を塞いで、夏候淵が嘆く。

そして、酒瓶に手を出して、一気に直接呷った。まるで水でも飲むかのようだ。もともと酒が強い男ではないだろう。現実逃避のために、酒が必要と言うことだ。

一旦天幕を出た。

外には、夏候尚をはじめとする、夏候淵軍の幹部が集まっていた。

「このままでは我らは全滅するぞ」

「援軍の当ては」

夏候尚と曹休が口々に言う。そんな事は分かっている。だから、牛金は呆れつつも、現状を説明する。

「非常に難しいでしょう。 既に武都方面は、陳到の軍勢が展開しつつあり、網が張られています。 陳到は老練な将軍ですし、もしも撤退するなら、数日以内に行わないと、どうしようもなくなります。 仮に降伏するにしても、多分将官は全員首を刎ねられるでしょうね」

「そ、そんな!」

「降伏など選べるか! どうにかして、敵を突破しなくては」

「それには夏候淵将軍に、死力を振り絞っていただかなければなりますまい。 敵は要所を押さえていて、とてもではないが簡単に突破できる状況にありません。 夏候淵将軍に曹操様から与えられている精鋭を先頭に突入するとして、武都まで抜ける間に半分も生き残れるかどうか」

此処にいるのは、夏候尚や曹休を例に出すこともなく、いずれも実戦より僅かに退いた二線級の武将ばかりである。牛金の言葉に尻込みしているのがありありと見て取れた。こんな時にも、他の将軍との武功の比較や、将来の出世を計算している様子が見て取れるので、流石に牛金も一喝した。

「判断が遅れれば遅れるほど、全滅の可能性が高くなります! それも、このままでは食糧が不足し、我々は戦う力さえもなくなって、いずれ草でも刈るようにして敵に倒されてしまうでしょう! 敵は老練の見本のような黄忠と、多少気が触れているにしても相当な知恵者である法正です! 今、力づくで突破しなければ、この場の全員が死ぬとお心得ください!」

蒼白になって俯いていた将軍達の中で、最初に行動したのは曹休だった。

夏候淵の天幕に飛び込むと、無理に夏候淵を引きずり出す。そして侍従達が、夏候淵に無理矢理鎧を着せた。

血走った目で、下に展開している黄忠軍を睨んだ夏候淵が、小さく悲鳴を上げた。下の方の陣で、火が上がっているのが見えたからだろう。敵が挑発的な攻撃をしているのは、明らかだった。

「う、馬を引け!」

「夏候淵将軍!?」

「見えぬのか! 敵が我が陣を焼き払おうとしている! あのまま放置すれば、我が軍は全て灰になってしまう! 防ぐぞ!」

夏候淵が飛び出す。

慌てて、数百騎があとを追った。

いかんと牛金は思った。多分、これは敵の思うつぼだ。すぐに自身も愛馬に跨り、後を追おうとした瞬間。

空を割くような轟音がとどろいた。

 

漢中に到着していた林は、定軍山近くの山に潜んで、文字通り高みの見物を決め込んでいた。

幸いなことに、曹操が付けた林の首の鈴は全て戦死してしまっていて、今は好き勝手な行動が出来る状態にある。曹操が首の鈴を付け直す前に、出来るだけ曹操軍の勢いを削ぎつつ、処罰されない程度の功績も作っておく。

それが、今の林の目的であった。

おあつらえ向きなことに、定軍山の曹操軍が、今まさに滅び行こうとしている。全滅を防ぎ、首脳部を半分も逃がしてやれば充分だろう。醒めた目で見つめる先で、酒に半分脳をやられているらしい夏候淵が、陣に付けられた火を消そうと、駆け下っていた。

そして。

定軍山隣に陣取っている法正軍が、一斉に攻撃を開始したのである。

圧倒的な弩と投石機の弾幕が、夏候淵と部下達を遮断する。猛烈きわまりないその射撃は正確無比で、夏候淵を追おうとした兵士達と、前線の兵士達を完璧に遮断した。何しろ定軍山は丸見えの状態である。身を隠す場所もなく、前線の一部は既に放棄されたも同然の状態だったのだ。それなのに。夏候淵は状況が見えていない。

所詮は忠誠度だけを評価されてきた、曹操の親族と言うことだ。

「死んだな」

林が呟くと同時だった。狼煙が上がり、陣の側まで上がってきていた黄忠が、高らかに名乗りを上げる。配下の兵士達が手慣れた様子で、まだ必死の覚悟で敵陣の柵際に残っていた兵士達を排除していく。まるで草でも刈るかのようであった。

突入してきた夏候淵の部隊には、殆ど瞬時に乗っ取った櫓から、黄忠の部下が狙撃を浴びせる。弩の命中精度は尋常ではなく、山を降る騎兵達はばたばたと撃ち落とされた。馬上で、黄忠が長刀を構え挙げる。

夏候淵はどす黒い顔色で、黄忠の様子を見守った。

「我は劉備軍の将、黄忠! 一手所望いたす!」

「あ、ああ、うああああ」

「曹操軍の古参とあろう者が、情けない声をあげるものじゃ。 曹操の名を辱めたくなければ、正々堂々戦って死なんか!」

黄忠が一喝。生き残った夏候淵の部下達は、まるで菓子を盗んでしかりつけられた子供のように悲鳴を上げて逃げ散る。夏候淵は剣を腰から抜くと、前に出た。最早、彼に生きる道など存在していなかった。

林は焼き菓子を頬張りながら、それを見物する。助ける気など最初から無い。

この焼き菓子は、曹操のところで製法を盗み見、漢中で手に入れた料理人に作らせたものだ。とても美味しい。

一瞬だけ、黄忠が此方を見た。流石だ。既に普通の細作では束になってもかなわないと自負している林の気配に気付くとは。狙撃を受けてはたまらないから、位置を少しずらす。隣にいる部下に、何気なしに、特に意味はなく聞いてみる。

「焼き菓子、喰うか?」

「いえ、いりません」

「そうか」

残りを全部口に突っ込む。部下は無言を貫いていた。

指笛を吹いておいたのは、念のためだ。保険を掛けて置いて損はない。

見守る中。

黄忠が、夏候淵に仕掛けた。

年齢は二十歳近く離れているはずだが、力の差は歴然であった。一合。どうにか、受け止める夏候淵。しかし、馬術に関しても、武術に関しても、まるで勝負にならないのが、一目で分かった。

しかも夏候淵は、酒を飲んでいる可能性が高い。

「ご愁傷様」

林が呟くと同時に、夏候淵の首は胴から離れていた。僅か三合。黄忠が血にまみれた長刀を振るい上げて雄叫びを上げると、山の周囲から、一斉に喚声が上がった。

こうして、曹操軍の重鎮の一つが落ちた。

同時に、山の裏側から土煙が上がる。牛金を先頭に、敵が撤退を開始したのである。林は焼き菓子の袋を部下に押しつけると、何度か指笛を吹き、細かい指示を出す。そして自身は、疾風のように山を駆け下り始めた。

曹操軍に打撃が行くのは、大いに結構。

しかし曹操軍が負けすぎるのも、あまり好ましくない。

山を駆け下りながら、探す。かって飼い慣らした、もはや用済みの道具を。

剣を抜くのは、見つけたからだ。口を半開きにしたまま、林は生きた疾風となって、山を駆け下りた。

見た。

大型の弩が並ぶ中にいる。法正。駆け抜け様に、左腕上部にある孔を一突き。普段であれば何でもないのだが、この男は薬物漬けにして、散々情報を引き出していた時、様々に体を弄って一部の反射機能を狂わせている。だから、これで充分。

兵士達は、林が通り抜けたことに、気付いていなかった。

だから、白目を剥いた法正が斃れて、始めて騒ぎになった。

部下の細作達も、独自に撤退を開始する。黄忠が気付いた。矢を放ってくる。流石に凄まじい圧力。一本目は切り払ったが、二本目が避けきれない。首を傾けて、致命傷は避ける。

だが、頬を大きく裂かれていた。

「……!」

牛金隊の突撃は熾烈を極め、ついに劉備軍の一角が突破される。大きな犠牲を出しながらも牛金はその場にとどまり、夏候尚の部隊が走り抜けるのを支援していた。黄忠が舌打ちして、味方の指揮に戻ろうとする、その一瞬。

指笛に反応した林の犬たちが、夏候淵の首を、横からかっさらっていた。

「おのれっ!」

黄忠が立て続けに矢を放つ。流石に神域に達すると言われる技である。速射しても精度も威力も凄まじく、矢は容赦なく林の愛犬の首に突き刺さる。だが、次の犬が首をかっさらい、また走り出す。そして、その犬が撃ち抜かれ、次の犬が首を拾って、茂みに駆け込んだ。

愛犬が死んだことを、別に林は何とも思わない。そうするように育てたからだ。生きている間はかわいがる。しかし、死んだ後はただの肉の塊である。

銅鑼が叩き鳴らされた。

周囲に、無数の気配が沸き上がる。

細作の気配だ。

林は山を駆け下りながら、思う。これは、古参の部下共も、相当数を失うだろうなと。諸葛亮が、林の行動を読んでいたのは明らかだ。だが、それが何だというのだ。これくらいの危機を乗り越えられなければ、とてもではないが、この大陸を玩具にして引っかき回すことなど出来ない。

真上に殺気。

横に飛び退く。地面が吹っ飛び、つぶてが体を打つ。煙が晴れると、其処には大長刀にも匹敵する大きさの刃を構えた細作がいた。山越の出身らしい、焦げ茶の肌をした、鋭い目つきの女である。

そう言えば、諸葛亮やその妻が、対林用に人材を育てていると聞いたことがある。これがその完成系か。

面白い。林は両手に剣を抜き持つと、奇声を上げて周囲を囲む細作と、黒い肌の女に躍り掛かった。

 

牛金は、最後尾で、押し寄せる敵の大軍勢を防ぎながら、声をからして叫んでいた。

「持ちこたえろ! 少しでも長く持ちこたえれば、それだけ多く味方を逃がせる!」

率いている五千は、牛金と生死を共にし続けた精鋭だ。牛金を快く思っていない者もいるかも知れないが、一緒に死地を潜り、戦場を渡り、心を通わせてきた事に疑いはない。怒濤のように攻め寄せる敵は恐ろしく強い。その上、黄忠が来たらおしまいだというのは分かっている。牛金の武勇では、黄忠には十合と保たないだろう。

雄叫びを上げ、斬りかかってくる敵の騎兵と切り結ぶ。強い。二合、三合、四合。五合目で、首を跳ね飛ばす。だが、同時に、鎧に何本かの矢が突き刺さった。周囲を見回す。既に、味方の数は限界まで討ち減らされていた。山にはまだ少し味方が残っている。見捨てる訳には、いかない。

味方の士気の問題である。兵士を見捨てたとなると、やはり悪評は広まる。夏候淵の死に様は既に知られてしまっているだろうから、此処は少しでも挽回しなければならないのである。例え危険を冒しても。

「おおおっ! 続けえっ!」

叫ぶと牛金は、張という旗を掲げている敵軍に突進した。僅かな味方がそれに続く。黄忠の副官をしている張著という武将がいる事は知っていた。この粘り強い用兵、張著に間違いないだろう。

右に左に敵を叩きつぶし、剣を振るい、曲がった鉄の塊を投げ捨てる。新しい剣を引き抜くと、敵を斬り伏せ、首を飛ばした。鮮血の雨の中、見える。逃れてきた味方が、どうにか側を駆け抜けていくのを。

もう、限界だ。

「良し、引け、引けッ!」

繰り出された槍を弾きながら、叫ぶ。槍の穂先が鎧に突き刺さり、肌を裂いた。だが強引に槍を引き抜くと、振り回して敵を追い払い、反転。味方は、どうなった。混乱の中、見えてくる。半分以下にまで討ち減らされた、自分の部隊が。

乾いた笑いが漏れてくる。

これでは、撤退戦の時に、どれだけ減らされるのか。

夏候栄の旗が右往左往しているのに気付く。

「夏候栄どの!」

叫んで近付くが、反応がない。馬上の影には、無数の矢が突き刺さっていた。そして、首が既に亡くなっていた。

父の敵を撃とうとしたのだろうか。ぐっと唇を噛む牛金の背中に、矢が二本突き刺さった。鎧で止まったが、痛みが全身を駆けめぐる。絶叫しながら、撤退と叫ぶ。我先に逃げ出す味方。その中で、どうにか三百ほどの兵を纏めると、牛金は何度も敵に突進しては、包囲された味方を救い続けた。

夜になった。

いつの間にか、一人で山道を走っていた。

体中がばらばらになったような痛みが、断続的に襲ってくる。愛馬も足が少しおかしいようで、揺れが酷かった。

呼吸を整え、止まる。

周囲に敵はいない。だが、この様子では、陽平関の南は既に劉備の手に落ちたと考えて間違いないだろう。逃げるとしたら、北しかない。そこから山沿いに武都に出て、どうにか味方と合流できれば。

何本か、刺さったままになっていた矢を抜く。左腕にかなり深く刺さっていて、抜く時酷く痛んだ。

手には既に剣もない。落ち武者狩りにあったらおしまいだ。ただでさえ、漢中の民は、曹操の軍勢を憎んでいるのだ。今頃せっせと落ち武者狩りに励んでいることであろう。

落馬しかけた。しかし、態勢を立て直すほどの余力がなかった。

あっと気がつくと、空に投げ出されていた。

痛みに目を覚ますと、木陰に寝かされていた。見下ろしている小さな影。

翠だった。

「お前は……」

「明日までに消えろよ。 それまでは、黙っててやる」

手当がされていた。馬の方もだ。しかし、礼を言う間もなく、翠は消えていた。

あまり上手な手当ではなかった。だが、それでも。何処か、心に痛みがあった。

 

撤退してきた兵を収容しながら、曹操は腕組みしていた。それだけではない。絶望的な報告が、幾つも届いていた。

最早戦うどころではない。

劉備軍に協力して反旗を翻した漢中の民は、こぞって私財の類を提供。劉備軍を率先して道案内し、既に漢中は一つの巨大な要塞と化していた。定軍山の兵は全滅状態。武都に逃れた兵も、防衛線を構築するので精一杯であった。劉備軍は充分な兵糧と、複雑な地形を盾に、曹操軍を正面からでも搦め手からでも受け止める姿勢を見せ始めていた。

徐晃を前線に派遣し、逃れてくる味方の収容と、敵の防備を見て回らせながら。曹操は、天幕で報告書に目を通し続けていた。側にいた許?(チョ)が不意に毛を逆立てる。

「林か。 どうした」

「曹操様! 血の臭いがします」

「……かまわん、虎痴。 林よ、入れ」

天幕正面から、林が入ってきた。

その手に、鷲掴みにされているものを見て。流石に曹操も、思わず言葉を失っていた。

無能ではあったが、忠実な部下の、変わり果てた姿であった。

「残念ながら、これだけしか持ち帰れませんでした」

歩き来た林が、執務机の上に、それを。夏候淵の生首を置く。多分これを持ったまま、何日も駆けてきたのだろう。

目には獣の光がある。そして、頬には凄惨な傷口が残ったままであった。林は。これは何処かで、人を超えてしまったのかも知れない。深傷を散々負っているようなのに、気にしている気配がない。

しかし曹操は、それを気にするよりも先に、落涙していた。

「妙才。 おお、妙才。 そうか。 そうかあ。 まさかお前が、戦死することになるとはなあ」

「私の部下も半減しました。 諸葛亮の罠にはまりまして。 ただ、その代わりと言ってはなんですが。 法正を殺して来ました。 劉備軍の一流どころの参謀は、これで黄権しかいません」

「……分かった。 下がれ」

林は音もなく消えた。大きく歎息すると、曹操は涙を拭い、手を叩いて侍従を呼ぶ。

おそるおそる天幕に入ってきた侍従は、夏候淵のあまりに変わり果てた姿を見て、女のように無様な悲鳴を上げた。曹操が中原に作り上げた平和は、短時間でこのように惰弱な者達を造り出している。

「手厚く葬って欲しい。 もし劉備軍が胴体を届けてきたら、それも一緒の墓にな」

「わ、分かりました」

「分かっているとは思うが、英雄の首だ。 粗末に扱ったらゆるさん」

侍従を追い出すと、曹操は続いて揚修と司馬懿を呼んだ。どちらにも、戦況の報告書を提出させている。

その中に、気に入らない文言が一つだけあった。

徐晃が戻ってきたので、ついでに同席させる。徐晃は、大体曹操が何をするつもりなのか、分かったようだった。

徐晃には事前に告げてあるのだ。

揚修と、司馬懿が来た。自信満々の揚修と、陰鬱な顔をしている司馬懿が対照的だ。司馬懿はいつもこうだが、揚修は違う。天才を気取る自惚れ屋は、自分がしでかしたことを理解していない。

「二人の報告書は見せて貰った。 途中までは、申し合わせたように内容が一致しているな」

「は」

「分析するまでもないと思いますので」

余計なことを付け加える揚修。曹操はこの時、心の中で、ある書類に判を押していた。

それは。

「だが途中からが違う。 揚修、これは何だ」

「これからの、長安以西の防衛戦略について、でございます」

それは別に良い。先を見通すことについては、参謀の重要な条件だ。荀ケが自殺し、荀攸が合肥の戦線で病死し、この間ついに程cまでもが荊州で病に斃れた。現在優秀な参謀は数を減らしており、劉曄と賈?(ク)くらいしか、相談できる相手がいなくなってきている。

だから、本来参謀は重要だ。

だが、曹操は決断せざるを得なかった。

「防衛の骨子については良い。 長安から漢中に駆けての山道に防衛拠点を多く築くことにより敵の浸透を遅らせ、疲弊させ、長安から援軍を送り込んで押し返す。 これに関しては、余の構想と一致しておる。 だが、問題はその先だ」

「……」

「曹丕をその司令官に当てろとは、どういう意味かな」

「嫡子である曹丕様には、武勲が必要であるかと思われます。 また、対外進出に熱心ではない江東の守りは現状で充分なのに対し、劉備はこれからも強力な兵を引き連れて、漢中を超えて長安を狙って参りましょう。 長安を落とされれば、涼州、擁州は孤立し、敵の手に落ちまする」

大きく歎息した曹操は、徐晃に目配せする。

徐晃は頷くと、揚修が振り返るよりも速く、剣を振るっていた。

すっ飛んだ揚修の首は、どうしてか。最後まで、自分が殺された理由を理解できていないようだった。

長安は、許昌からも、?(ギョウ)からも、あまりに遠い。

もしも曹丕が長安にいる時に曹操が命を落とした場合には。?(ギョウ)にいる曹植が、一番手になるのだ。後継の手綱を握った後は、曹丕との血みどろの戦いが始まることだろう。

その程度のこと、曹操が見抜けないと思っていた。それが、揚修の、愚かさだった。

「すまぬな、揚修。 お前は鶏の肋骨のような男であったな」

「しゃぶると美味しいけれど、食べる所はないというような意味ですかな」

「そうだ」

司馬懿に返す。返り血を浴びながらも、司馬懿は平然と礼をして、天幕を出て行く。徐晃は鼻を鳴らすと、剣を振って血を落とし、鞘に収めた。

「あれも斬っておきましょうか。 今の内に」

「止せ。 あれは使いどころが難しいが、しかし優秀だ。 首に鈴さえ付けておけば、相当に活用が出来る。 曹丕では諸葛亮にとても対抗できないだろうが、奴ならばある程度は出来るであろうしな」

勝つことなど、必要ない。

負けなければ良いのだ。後は、敵が勝手に疲弊してくれる。今や、曹操と、劉備と、孫権は。それほどまでに、力に差があった。曹操が見た所、司馬懿の力量は諸葛亮よりだいぶ下だ。政務では完全に格下だし、戦の才能に関しても若干劣っている。だが、それでも。あの男は、諸葛亮が自分より優れていることに気付いている。それだけで、充分なのだ。

「諸葛亮が生きている間は、劉備の勢力は滅ばないだろうな」

「それだけ、統一が遅れると言うことですか」

「そうだ」

曹操は血だらけの執務机から立ち上がると、外に出た。美味しい焼き菓子を腹一杯ほおばって、今見た事の全てを一時的に忘れると。

周囲で焼き菓子を貪り食う曹操を呆然と見つめるしかなかった諸将に、号令した。

「撤退する。 もはや、漢中を再奪取するのは、現状では不可能だ」

統一は、更に二十年は遅れることになるだろう。

そう、曹操は呟く。

今だ、この中華に、平穏が訪れる日は遠い。

 

(続)