曹操、東奔西走

 

序、再起失敗

 

馬超が、傷つき痛めつけられて、漢中に戻ってきた。西涼で、残存勢力を纏めていた所を、駐屯軍に襲われたのだ。連れて行った兵の内、三分の一も生きて帰ることは出来なかった。馬超でなければ、確実に全滅していただろう。

何しろ、一万程度の軍勢で漢中に帰還しようとしていた所、韓浩、夏候淵を中心とした十万を超える軍勢に追撃を受けたのだ。夏候淵はどうと言うこともない相手だが、韓浩はまるで役者が違う。徹底的に追い詰められ、ろくに食料も口に入れていなかった馬超軍は、文字通り壊滅させられた。

それでも、続々と西涼から漢中に、敗残兵は入り込み続けている。今回も連れて行った三千は壊滅したが、途中適宜漢中に送り込んでいた兵力は無事である。既に漢中は二万の兵力増強を果たしており、更にそれは増える気配であった。

疲れ切った馬超は、馬上で鎧に突き刺さった矢を引き抜いた。皮膚に浅く刺さっていただけとはいえ、痛い事に代わりはない。歎息する馬超に、馬岱が馬を寄せてきた。

「大丈夫ですか」

「ああ。 だが俺は、寿命を著しく縮めてしまっているかも知れん」

様々なしがらみが、馬超の心を苦しめている。

既に都で、父と弟達が処刑されたという報告は上がっていた。馬超が反乱を起こしたのだから当然だ。こうなることは分かりきっていたし、曹操もそうしなければ示しがつかないのだとはいえ、心には重く罪悪感がのしかかる。

「韓遂の弱体化が著しいというのが、せめてもの救いでしょうか」

「ああ。 あの男はもう終わりだな」

西涼は、それに伴って、多少はマシになるだろう。

ここ一年ほどで、曹操は西涼に兵力を入れて、片っ端から改革を行っていた。有力豪族から私兵を取り上げ、民衆に田畑を提供し、隠されていた豪族達の財産を没収した。それに伴って反乱も彼方此方で起こった。韓遂もそれを主導していたらしい。

しかし、もとより継戦能力を喪失していた上に、酷い飢餓に見舞われていた西涼軍である。圧倒的な曹操の軍勢には為す術がなかった。

今回馬超はそれに乗じて旧部下達を集めるべく、漢中から西涼に出て活動していた。

運良く西涼刺史になっていた男を討ち取ることは出来たが、曹操軍の援軍が来てからは、まるで何も出来なかった。

狩りで獣を追い立てるかのように、曹操軍は馬超の軍勢を蹴散らした。

馬超がどれだけ戦おうが、圧倒的な物量の前には、何も出来なかった。

山道にはいる。

すぐ後ろで、傷ついた騎兵が落馬した。慌てて馬超が抱き起こすが、男は既に事切れていた。十代の頃から供に戦場を駆けた古株だったのに。西涼でもない、こんな山の奥で死ぬことになるとは。

馬超は乱暴に涙を拭うと、呟く。

「すまん」

西涼は、間もなく平和になる。

韓遂が死ねば、ほぼ確実に平和になる。

だが、こうやって死んでいく者達は、無駄死にではないのか。犬死になのではないのか。それを問う相手は、何処にもいない。

馬超は再び馬に跨る。この馬も、無数に矢を受けていて、かってほど速くは走れなくなっている。

ほどなく、山の間に、巨大な関が見えてきた。

陽平関。漢中に守りの要にして、徹底的に防備が強化された砦。

既に関の前には、漢中軍が布陣し、馬超を待っていた。先頭にいるのは、張衛が益州に出陣している間、留守居を預かっている揚昂である。揚松の一族で、欲望の権化であると噂される当主と違い、責任感がある真面目な男だ。もっとも、馬超が以前一度見た揚松は、噂通りの小物ではなく、かなり腹に大きなものを抱えているように見えたが。

揚昂が抱拳礼をしてきたので、応じる。

「馬超将軍、よくぞご無事で」

「無様な姿を晒してしまった。 負傷兵の手当を頼めるだろうか」

「直ちに。 曹操軍の追撃はありませんか」

「それは問題ない。 曹操はまだ西涼の支配権を確立しきっていない。 此処まで追撃してくる可能性はない」

今は、と馬超は最後に付け加えた。

曹操のことだ。西涼を完璧に抑えたら、圧倒的な大軍を動員して、漢中に攻め込んでくることだろう。

だが、この漢中は、兎に角地形が狭い。

それ自体が、非常に防衛に有利だ。大軍は身動きが取れず、逆に少数での攪乱戦は著しい効果を示すだろう。

下手に攻勢に出たりしなければ、漢中は支えることがそう難しくはない。漢中に入ってみて分かったが、此処は土地が豊かで、兵糧も多く蓄えられ、高い潜在能力を持つ。変な色気さえ出さなければ、数年単位で曹操の猛攻をしのげる土地だ。

陽平関を抜けて、漢中にはいる。

土は青々としていて、山には木々が生い茂り、険しい崖からは滝の水が迸っている。鳥や獣も多く、豊かに耕された畑の匂いがする。傷ついた軍勢が物欲しそうに見るのは、多分物資ではない。漢中に入ってから、西涼の兵士達は、一度も飢えを覚えていない。彼らが悔しげに見つめるのは、平和だ。

漢中の首都は漢寧と言い、山々に囲まれた豊かな土地を持つ平野である。複数の小川が流れ込み、民の生活は非常に豊かだ。傷ついた軍勢は、其処では如何にも浮いた存在だった。

民を動揺させるのも問題だと思った馬超は、傷ついた兵士達と供に、漢寧の郊外に布陣した。

兵士達の手当は、手厚く行われた。監視役の揚白という将校が、ぬかりなく手配を進めてくれたからだ。漢中は土地が肥えているからか、皆の心がとても温かいように思える。少なくとも、末端の民や、下級の文官や武官はそうだろう。西涼を大乱に落とし込み、曹操の足を止めようとした謀略の担い手だとは、信じられない時もある。

二日後、驚いたことに。張魯が自ら、忍びで馬超の陣に来た。

しかも、揚松と、益州から戻ってきたばかりの張衛を連れていた。

忍んではいたが、その佇まいは堂々としていて。馬超は思わず抱拳礼をしていた。誇り高い彼らしくもない行動だったが、馬岱も、?(ホウ)兄弟もそれを咎めはしなかった。三人を天幕に招く。散らかっている中を兵士達に片付けさせると、馬超は張魯を上座に招いた。

「どうぞ、張魯どの」

「うむ」

「して、今日は何用です」

「まず最初に、私は君に謝らなければならぬ」

あたまを下げられたので、馬超は少し驚いた。

「西涼の、件ですか」

「そうだ。 私は漢中を守るため、君たちを汚らしく下劣な陰謀で犠牲にした。 申し訳ないことをしたと思っている」

「いずれにしろ、西涼は破綻していたでしょう。 俺が韓遂を殺すか、それとも武装した流民となった兵士達を連れて長安になだれ込むか、西涼に残った選択肢はあまり多くありませんでした。 貴方は後者の後押しを下に過ぎない。 それに、漢中を守るためには仕方がなかったのです。 気になされますな」

「そうか。 馬超将軍は大器を備えているな。 私はこの漢中を何十年と治めてきたというのに、恥ずかしい限りだ」

張魯が髭まみれの口で微笑む。

この男は、何というか宗教家らしくない。元々無数の村が乱立する漢中を纏めるために、五斗米道という教えを共通の言語として使用していたという話は、この間聞いた。教祖というのは、張魯の本質ではないのかも知れない。この男の本質は、慈愛の心をもった名君なのだろう。

それは、精神論や神秘主義に走り、現実逃避を統治の手段とする宗教家とは、根本的に違う存在だ。

「馬超将軍。 もう一つ、頼みたいことがある」

「何でしょうか」

「今、益州で、劉備が戦っていることは知っていると思う」

二年ほど前、益州の劉璋が、漢中侵攻軍に対する防衛戦力として、劉備を呼んだことは馬超も知っている。

その劉備が少し前に、劉璋と決裂。今、益州内部で、壮絶な死闘を演じていた。元々強力な劉備軍は次々に拠点を落としていたが、張任を始めとする益州の名将達は遊撃戦で対抗し、補給線を叩くことで劉備軍を苦しめていた。劉備軍は戦慣れした猛将達が揃ってはいたが、どうも今回のような侵略戦は若干勝手が違うらしく、益州戦では苦労している様子である。

「劉備を、見極めてきてもらえないだろうか」

「劉備を、ですか」

「そうだ。 もしも劉備が、君が信頼するに値すると思えるほどの男であったのならば、私にそう知らせて欲しい」

張魯は言う。

漢中を守るために、涼州、益州、荊州を手に入れ、曹操に対抗するつもりだったと。

しかし西涼が予想以上に速く陥落し、曹操軍を支えられる見込みはなくなった。いずれ漢中は、曹操軍に飲み込まれるだろう。

「私は迷っている。 曹操の庇護下で、民の安寧を守るか。 或いは、劉備こそが、民の安寧を作ってくれるのか。 かっての劉備であれば、私は益州攻略戦略を早々に諦め、劉備に裏から協力して、さっさと連合政権を作っていたかも知れない。 しかし、益州に侵入する少し前から、劉備は様子がおかしい。 だから、魑魅魍魎達の中で育ち、戦いの中で生きてきた君に、劉備を見極めて欲しいのだ。 もしも劉備が問題のない男であれば、私は劉備に降りたい」

「張魯どの」

「漢中の軍事力は、君のおかげで倍増した。 曹操軍にも、すぐに屈する事はないだろうが、しかし時間は限られている。 頼めるだろうか。 なし崩しに、曹操に降ることだけは避けたいのだ」

「分かりました。 ああ、何と惜しいことか。 張魯殿、貴方が漢中ではなく、西涼の盟主であれば。 俺は今頃、何も考えずに武を振るうことが出来たでしょうに」

馬超は、心から言った。

多分張魯の言葉に嘘はない。両腕と頼む二人を連れてきていることからも、それは事実なのだろう。

「頼むぞ、馬超将軍。 君には何もしてやれなかった」

「いえ、我らを受け容れ、食料と治療をいただけただけでも充分です。 兵士達を休ませ次第、すぐにでも益州に向かいます」

恨みは、もう無かった。

馬超は心晴れやかに、三人を見送る。

そして、感じた。

生まれて初めて、何かを守れそうだと。

 

1、死闘益州

 

敵の軍勢を発見。山中で一隊の指揮を執っていた陳到は、全軍に声を殺すように手で指示。さっと沈黙した五千の兵は、まるで蛇のように敵軍の背後から忍び寄る。

経験の浅い兵が多く、敵は全く気付かない。

陳到が指揮剣を振るう。

五千の兵は、一糸乱れぬ動きで、敵に躍り掛かった。

そして、千程度の敵兵を、為す術無く逃げまどう暇もなく叩きつぶし、誰もいない山中を血に染めたのだった。

それは、戦闘と呼べるものでさえ無かったかも知れない。苦々しげに、陳式が呟いた。

「これで、殆ど全部でしょうか」

「そうだな」

陳到は、自らも敵を斬った剣を振るって血を落とすと、進軍を命じる。

平和と惰眠を貪っていた益州は、混乱と殺戮の渦に落ちていた。

今まで劉備が漢中からの侵攻軍を食い止めることで、保たれた平和が。その劉備が、不意に劉璋に対して牙を剥いたことにより、一気に崩壊したのである。

既に益州の半分の城は劉備の手に陥落。三路に別れて進軍している劉備軍は、各地で劉璋の軍勢を蹴散らして進撃を続けていた。劉璋軍の将軍には、そもそも劉璋に不満を持つものが多く、中には城ごと劉備軍に降伏する例さえも出始めていた。

荊州の戦略的安定と戦況の優勢を見た劉備は、荊州から趙雲と張飛を呼び寄せ、さらなる攻撃の強化を図った。

壊滅していく益州防衛部隊の中で、二人の将軍だけが、必死の抵抗を続けていた。

一人は厳顔。

もう一人は、張任であった。

現在、その張任が布陣している絡城の背後へ、陳到は五千の部隊を率いて回ろうとしている。配置されている敵の遊撃部隊を逐一潰しながら、である。絡城にいる敵軍の規模は一万を既に切っており、このまま押し切れば勝てるようにも思える。

だが、少し前。

絡城を攻めていた軍師の鳳統が流れ矢に当たってあまりにもあっさりと命を落としており、陳到には慎重すぎるほどの行動が、劉備によって命令されていた。他にも黄忠が一万五千を率いて正面から敵を攻撃しており、更に現在山間部で遊撃戦をしている厳顔を追っている張飛も、戦いが終わり次第此方に合流する予定であった。

ほどなく、絡城の背後にある山に出た。

既に日は暮れ始めている。絡城が丸見えになる非常によい位置で、しかも此方は死角になっていて見えにくい。

「よし、陳式。 すぐに黄忠どのの部隊に伝令を。 此処からなら、敵の動きが手に取るように分かる」

「分かりました。 直ちに」

「廖化は此処で私と待機。 黄忠どのが絡城への攻撃を開始したら、息を合わせて総攻撃に移る。 更に、敵の増援が現れた場合は、これを殲滅する」

陳式が五百の兵を引き連れて、黄忠の所へ向かう。

敵に見つからないように、五千は山の中に、分散して布陣させる。もちろん炊煙を立てるなどもってのほかなので、此処からは焼かなくても食べられる保存食を中心として、飢えを凌ぐこととなる。

張任は城を中心に、かなり大胆な遊撃戦を行っている。さっきの一千もその一環であろうか。話によると、軍師が流れ矢に当たったのも、その遊撃部隊による攻撃が原因であったらしい。

これからはそれを封じられるので多少は楽だが。しかしもし此方が発見されると、敵が思い切った軍勢で仕掛けてくる可能性もあり、あまりうかうかはしていられなかった。茂みや木の陰を利用して、防御施設も作らせる。敵に音が届かないように工作をしなければならないので、かなり気を使った。

作業は夜通しで行われ、ほどなく簡易野戦陣が出来た。これならば、五割り増しの兵に攻撃されても、しばらくは耐えられる。見つけた洞窟は既に調べさせ、中には虎も熊もいないことは確認した。その中にはいると、陳到は廖化を呼ぶ。

「何か変わったことはあったか」

「特に何も。 敵陣も静かなものです」

「静かすぎると、敵は城の外に出撃している可能性もある。 それを忘れず、監視を続けよ。 何かあったらすぐに知らせるのだ」

「分かりました」

廖化を洞窟から出すと、陳到はごろりと横になった。

ひんやりした闇の中が気持ちよい。目を閉じていると、まるで何も外では戦が起こっていないかのように思えてくる。

最近、陳到は疲れを感じるのが早くなってきていた。

年を取ったのだ。それも無理がない話だ。しかし、江夏にいた頃と比べると、兎に角疲れが来るのが早く、抜けるのも遅いのだ。ひょっとすると、もう自分は老人なのではないかと、思えてさえ来る。

目が醒めると、外はまだ夜。

そして、ひんやりしているにも関わらず、全身にびっしりと汗を掻いていた。

体を起こし、剣に手を伸ばしたのは、人の気配を感じたからだ。闇の中で浮かび上がるように立っている影一つ。

剣から手を離す。シャネスだった。

「シャネスか。 どうした」

「気配の察知が遅れているぞ。 どうした」

「どうもこうもない。 最近疲れが来るのが早くてな。 恐らくは、私が老人になってしまっているからだろう」

「何を馬鹿な。 今まで無理をして体を鍛えていたから、その反動が来ているのではないのか。 この戦いが終わったら、休暇でも貰うと良い」

益州での戦いが終わったら、次は漢中だ。漢中が終わったら、荊州での戦線に戻るか、或いは北上作戦に参加することになるだろう。休む暇など捻出できるかどうか。苦笑いする陳到に気付いたか、シャネスは咳払いした。

「それはそうと、気をつけて欲しいことがある」

「どうかしたのか」

「どうやら林が、益州に侵入したらしい。 奴を監視していた班から、確信は持てないがそういう状況が推定されるという報告があった」

「それは確かか」

林は、まだ仕留められていない。

実はこの間、諸葛亮によって林の配下百名以上が、一斉に殺された。よくは分からないのだが、大規模な罠に落とし込まれたらしく、趙雲の一隊が叩きつぶしたそうである。細作は所詮闇に生きるもの。まともな軍勢にぶつかっても、勝てる訳がない。そして諸葛亮のやり口は容赦が無く、荊州で暴れていた細作の半数以上が一気に倒されたらしい。

しかし、死骸の中に、林の姿はなかった。

曹操軍の細作部隊の規模から言っても、それは大きな損害だったはず。損害を埋めるためにも、荊州に林は貼り付いているべきだと思うのだが。あの怪物的な輩は、一体何を目論んでいるのか。

「やはり劉璋軍に肩入れしているのか」

「それならば、対処もしやすい。 この間の軍師の死が、もし奴の策略だとすると、あまり此方に余裕はないと言うことになる」

「なるほど、不可解な事だとは思ったが」

鳳統は慎重な男で、急な遭遇戦で流れ矢に当たったというのは、確かに妙な話であった。そして、林が来ているとなると、恐ろしい想像も出来てしまう。

「まさか、味方の中に潜り込んでいるのか」

「可能性は捨てきれない。 今全力で調査中だ」

「急いでくれ。 此方でも、注意は最大限に払うつもりだ」

頷くと、シャネスは闇に消える。

少し考え込んでから、陳到は洞窟を出る。廖化は外で、茂みの影に張った天幕の中で寝転けていた。軽く肩を揺すって起こす。まだ夜明けも来ておらず、周囲は真っ暗である。廖化も流石に訓練された軍人らしく、肩を揺すられると即座に跳ね起きた。

「陳到将軍、敵襲ですか」

「いや、違う。 耳に入れておこうと思ってな。 どうやら林が益州に入ってきているらしい。 注意を払ってくれ」

流石に廖化が蒼白になる。

劉備軍にとって、林は最悪の敵の一人である。曹操という圧倒的な存在がいるからといって、忘れてはならない危険な敵として、誰もが認識している。実際、不可解な死を遂げた劉備軍幹部の中には、林に暗殺されたのではないかと思われる者が何名かいるのだ。

「分かりました。 兵士達には、最大限に警戒させます」

「それだけではない。 ある程度、作戦が敵に筒抜けになっている可能性を考慮する必要が出てきている。 もしも張任がこの陣に全力で攻め込んできても対処できるように、少し陣形を変えておく必要がある」

もし陳到が林だったら。

張任に情報を流して、各個撃破をさせるだろう。そう考えた陳到は、陳式が戻ってくるのを待って、朝の内に陣形を入れ替えた。

 

闇の中、浮かび上がる複数の影。

林と、配下の細作達である。

今までもおかしな言動が多かった林だが、劉勝が不可解な死を遂げてからと言うもの、更に拍車が掛かっている。細作の中には曹操軍の直属二個部隊に移動したがるものも出始めていて、林はそれを咎めることもなく許していた。

その、世間などどうでも良いという態度そのものが、部下達を更に恐れさせている。感情を殺す訓練を受けた細作と言っても、どうしても人間的な欲望そのものを消すことは不可能に近い。林の、一般的な欲望からかけ離れた行動の数々は、部下達の目には魔物のそれに映るのであろう。

それを知った上で、林は敢えて放置していた。

林は、陳到の軍勢を見下ろしていた。空を飛んでいたのではない。

すぐ側にある、とても普通の人間では入れないような岩山の影から、敵を見下ろしていたのだ。配下の細作達にも、同じ事を強要させていた。

敵がシャネスの情報により、林を警戒し始めたことは、すぐに分かった。

だが、林の目的は、劉備軍の撃滅ではない。別の所にあった。

「陳到も、所詮はただの軍人か」

「あ、あの、林大人?」

「見ろ、あの無様な陣立てを。 張任に奇襲を受けても対応できるように組み替えておるわ。 私が奴の位置を張任に教えるとでも考えているのだろう」

「……」

鈍い部下達が顔を見合わせる。なぜそうしないのだろうとでも考えているのは、一目瞭然だ。

頭に来たので、首の一つ二つ落としてやろうかと思ったが、勘弁してやる。

荊州で、部下達が諸葛亮に大規模駆除された事は林も知っている。如何にも今までの林なら確実に引っかかっただろう罠を用意され、それに落とし込まれたのだ。劉勝を殺して、人外のさらなる先を目指すと誓っていなければ、危なかっただろう。

だが、もはや林は、今までの林ではない。

人間の理屈など、林には鼻で笑う程度のものでしかないのだ。

「もう少し、張任には頑張って貰うとするか」

「何をなさるおつもりですか」

「簡単なことだ。 陳到の戦力を少し削いでおく」

黄忠は達人であり、林では簡単に近付くことが出来ない。しかも弓の腕も凄まじく、下手に仕掛ければ射落とされてしまうだろう。

だが、陳到は違う。

軍人としては優秀だが、武人としては水準の域を出ていない。その気になれば、林でも暗殺は可能だ。

だが、此処で殺すのに意味はない。

林の、目的は。

益州に、火種を作っておくこと。

劉備が益州、荊州、漢中に到る強大な地方政権を作り上げたとしても、内部に火種があれば、簡単に崩壊しうる。その足がかりを、先に作っておくことなのだ。

そのためには、益州の民に、劉備に対する憎悪と恨みを植え付ける必要がある。劉備による益州攻略など、順調にいけば二年程度でどうにかなってしまう程度のものに過ぎない。それを長引かせ、民間人への被害を増やし、劉備軍の戦力を削っておく。

もっとも、それも曹操のためではない。

いずれ、曹操が死んだ時。

再び大陸を大乱に落とし込む、下準備を整えるためだ。

殺せ。減らせ。大地から消えよ。

それが、林が人間に対して掛ける言葉だ。

この大陸は林のおもちゃ箱だ。そして、玩具は遊び尽くしたら、たたき壊して河に捨てるものだと相場が決まっている。

林が飽きるまで嬲り倒したら。人間など、滅べばよいのである。

もちろん、そんな楽しい考えを、他人と共有する気などさらさらない。

「一人、張任の陣に。 飼っている文官に、情報を流せ」

そう言って、竹簡を手渡す。

内容は、陳到の陣の位置ではない。

報告に使っている路の位置と、その頻度についての情報であった。

「さて、此方はこれでもう少し長引くな。 問題は張飛と厳顔だが」

「厳顔は巴城で、未だ張飛に対する抵抗を続けています。 戦況は張飛が押し気味のようで、そろそろ陥落するかと」

「そちらも、一つ手を打っておくか」

林はさらりと竹簡に筆を走らせると、部下に手渡し、厳顔の下に向かわせる。

現在、林は法正を薬物で己の膝下に入れている。完全に中毒になっている法正は、劉備軍より先に林に様々な情報を提供するようになっており、極めて都合良く情報が手にはいるようになっていた。

それを使い、林は戦いを長引かせ、民への被害を大きくするように、大きくするようにと動いている。

己の邪悪な策謀を、いずれ実現させるために。

 

陳到はいやな予感が的中したのを悟った。

情報を伝達するために出した伝令が、いつまで経っても戻ってこないのである。此方の居場所が掴まれたかどうかまでは定かではない。しかし、もしも黄忠の陣との連絡が取れなくなると、いずれ補給が尽きて、山中で立ち往生することになる。

「張任は有能な男ですな。 あの一千のように、相当数の偵察部隊を派遣していると考えるべきなのでしょう」

「いや、そうとも限らん」

廖化の意見に、陳到は頭を振った。

その偵察隊を大規模に殲滅した直後である。張任が同じ失敗を何度もするとはとても思えない。何度か一緒に馬を並べた陳到には分かる。あれは相当に慎重で有能な武将である。だが、逆に、それが故に武人としての思考回路を強く持っているとも言える。あくまで兵を使ってどのように敵を撃退するかを考えるはずでもあった。

戦略的な見地から言っても、張任は今、無駄に動くべきではなく、成都からの援軍を待つべきなのである。

「そうなると、林でしょうか」

「林といわずとも、細作や、或いは内部に紛れ込んだ敵の手による情報漏洩の可能性はあるな。 今の状況は、見た目よりも遙かに危険だ。 一旦戻るか、黄忠どのがどう出るかを図るか、だが」

「黄忠将軍ならば信頼できます。 必ずや、我らを助けるべく動いてくれるはずです」

「そう、だな」

まだ劉備軍に入って日も浅いが、黄忠は既に多くの将から信頼を勝ち取っている。廖化も祖父のような年の黄忠を慕っているようで、よくジャヤと一緒になって矢の訓練を見て貰っているようだ。

陳式を呼んで、もう一度伝令が行く路の情報を聞き直す。しかし、もう一度聞いても、普通に動く分では敵に察知される可能性は低い。陳到は、決断を迫られる。数秒考え込んでから、陳到は決めた。

「良し、黄忠どのが近く敵城へ総攻撃を開始するはずだ。 その機会を待つ」

「よろしいのですか」

「構わん。 そもそも我らは敵への総攻撃と、援軍の遮断のために来ているのだ。 此処で弱気になって戻っても、益州の平定が遅れるだけだ。 平定が遅れれば遅れるほど、苦しむ民は多くなる」

そう、陳到は敢えて強弁した。

いずれ益州は、劉備が統一しなければ、曹操によって奪われていただろう。

そう言う理屈で、今劉備は戦を起こしている。だが、それは所詮劉備の理屈に過ぎない。

荊州は激戦地と言うこともあるし、益州は劉備にとって初めて根拠地になりうる土地だ。それも、益州の民にとっては、歓迎すべき事なのだろうか。

民の中には、劉備を歓迎する声も多い。それだけ今までの益州統治が上手く行っていなかったのである。しかし、かといって、命を賭けて劉璋を守る者達も出てきてはいるのだ。益州の人間達の、総意とは言い難い部分とてある。

黄忠は、未だ敵に仕掛ける様子がない。

緊張する兵士達の中で、陳到は一人落ち着いて、様子を見つめていた。

否。落ち着いたフリをして、兵士達が不安になるのを防いでいた。

やがて、昼を少し過ぎた所で。黄忠軍の陣から、炊煙が上がり始める。同時に張任軍も、一気に騒がしくなった。

「よし、総員、出撃準備!」

本当は、誰よりも安心しながら、陳到は指示を出す。

一気に陣が活性化した。

如何に林が邪悪な陰謀を巡らそうと、時の、歴史の流れには勝てないことを、思い知らせてやる。

そう内心で呟く陳到は、見る。

絡城の正面で、攻め込んだ黄忠軍が、激しく張任軍と戦い始めたことを。

「我が軍は敵の搦め手を叩く! 弓隊はこの位置から、城内に火矢を撃ち込め! 歩兵部隊は搦め手に回り、直接突破を図る!」

弓隊は、陳式に任せる。先鋒は廖化を付ける。陳到は中軍とともに、陣に構えて、戦況を見守る。

山を駆け下りる廖化軍一千が、絡城の搦め手にとりついた。

敵が不意に出撃してきた。数は大体同じくらいだろう。激しいもみ合いになる戦況を見つめていた陳到は、気付く。

敵の中に、張任がいる。

どうして、あんな中途半端な兵力で出撃してくる。しかも、その部隊を張任が率いている。混乱する思考を縫うように、陳式が叫んだ。

「陳到将軍! 好機です! 全軍で押し出しましょう!」

「いや、待て」

「どうしてですか! 今なら張任将軍を討ち取ることが出来ます!」

「……いや、様子がおかしい。 廖化に伝令! 戦線を維持!」

張任は優れた将軍だ。こんな初歩的な失敗をわざわざ犯すはずもない。不安げに周囲を見回していた陳式が、あっと叫ぶ。

吊られて視線を移す。

その先には。どうやら木の上に隠れていたらしい、狙撃手の姿があった。それも、かなりの数である。

どうやら此方の動きは読まれ、伏兵がいたらしい。大きく歎息すると、陳到は命令をとばした。

「陳式将軍!」

「はい!」

「一千を率いて、あの伏兵を背後から蹴散らせ! その後に、廖化に合流! 敵を一気に押しつぶせ!」

陳式が駆けだしていく。残る味方は三千。陳到は腕組みして戦況を見守る。あの伏兵も罠で、更に罠が仕込まれている可能性も捨てきれなかったからである。

絡城正門は、黄忠が激しく攻め立てている。黄忠の攻めにはまるで無駄が無く、張任がいない城は支えきれない様子だ。多分そろそろ正門が落ちるだろう。派手に煙も上がっており、消火が追いついていないことも見て取れる。

この機会に攻めるべきではないか。そう本能が訴えかけてくる。あの様子では、城の中にはもうまともな戦力が残っていない可能性も高い。しかしもしも城の中に主力を誘い込み、一気に覆滅する罠だったとしたら。

張任軍の伏兵が、陳式の軍勢に蹴散らされる。無様に後ろを取られた敵は、城の中に逃げ込もうとする。其処を廖化が横撃、敵の数を削り取る。

ついに廖化隊の一部が、敵を突破。乱戦のまま、絡城になだれ込んだ。

此処に来て、ついに陳到も判断する。

「突撃! 一気に絡城を落とす!」

罠があったら、噛み破る。

斜面を駆け下り、まだ作戦指揮を執っている張任軍を一気に粉砕。敵もろとも、絡城になだれ込む。

敵の抵抗は弱い。

だが、まだいやな予感が消えない。陳到は辺りを慎重に確認しながら突き進み、敵の守りを一つ一つ破りながら城の奥へ奥へと入り込んでいく。

その時、視界の隅で、何かが煌めいて。

気がつくと、横たえられていた。

「陳到将軍!」

声が聞こえる。

どうやら、趙雲の声らしかった。

「趙雲将軍。 どうして此処に」

「お気を確かに! 陳到将軍! 私は陳式です!」

「おや、劉埼様。 このような所で……」

不安そうに陳到を見下ろす無数の影。

やがて、意識が、徐々にはっきりしていた。

体を起こそうとして、呻く。何か光ったような気がして、それからの記憶がない。全身が酷く痛い。

見れば、他の将達も酷く傷ついている様子だった。

「やはり、罠だったか」

「分かりません。 分かっているのは、絡城の中枢部が、いきなり消し飛んだという事だけです。 張任将軍は捕らえましたが、知らない分からないと言い続けています」

ぐらりと視界が歪む。次に気がつくと、天幕の寝台に寝かされていた。

どたどたと周囲が走り回っている。陳到が目を覚ましたことに気付くと、兵士が外に飛んでいく。

そして、黄忠が来た。

「酷い目にあったのう。 陳到将軍」

「黄忠将軍、見苦しい姿をお見せしました」

「いや、そなたが慎重に事を運んだから、被害は最小限で済んだのじゃよ。 もっとも、民の被害はそうもいかなかったがのう」

どうも自分は相当酷い状態であるらしいと、陳到は思った。

医師が側に貼り付いて、血だらけの布を捨てているのが見えた。五体が満足なのか、不安になってしまう。

「民の、被害とは」

「どうもおかしな事になっていてのう」

黄忠が腕組みして、小首を傾げる。

そもそも絡城は、中華としては珍しい完全な要塞型の城で、他とは違って都市と一体化していない。これは益州の険しい地形も関係していて、中に大型の都市を抱えるほどの環境が周囲に無かったのである。

だから中に籠もっている兵士達を叩きつぶせば、城の攻略は達成できる、そのはずだった。

だが戦後調べてみて分かったのだが、どうやら城の中には多くの民が連れ込まれていたらしい。なぜそのようなことになったのかは、今黄忠が調査の最中なのだという。

「周辺の村に住んでいた民が、兵士達に追われて城に逃げ込んだ可能性はありませんか」

「いや、その可能性は低い。 この周辺の村は抑えているし、むしろ我が軍を歓迎する風潮が強かった。 民の生き残りがいれば良いのだが、何しろ体の破片が見つかっている、というような状況でのう」

「何と惨い」

「兵士達に話は聞いているのだが、此方もまるで要領をえん状況での。 中には何か妙な薬物でも飲まされたのか、まともに会話が出来ん奴まで混じっておる。 名将として知られていた張任さえも同じような状況でな。 それに、被害も最小限に抑えたとはいえ、絡城の兵糧も丸ごと焼かれてしまったし、補給がないととても前進できる状態にない。 しばらくは張飛将軍が厳顔を倒すのを待つしかないだろうな」

一体、益州で何が起こっている。

仮に林がこれらの凶行に関わっているとしたら、奴は何だ。細作の域を超えた、化け物になっているとしか思えない。

「兎に角、陳到将軍。 貴殿は一月くらい、絶対安静じゃ。 体を鍛えることもいかんという話だからの」

「分かりました。 しかし、私は随分衰えてしまったのでしょうか。 何だかからだが重くて仕方がないのです」

「年を取れば誰でもそうなる。 儂は若い頃から戦場を潜ってきたから、この年でもまだある程度動きはするがのう。 そなたくらいの鍛え方だと、戦場を走り回るのが難しくなって来る頃じゃ。 そろそろ、後方から指揮を執るように、部下達を教育しておくのが良いかも知れんぞ」

「検討してみます」

黄忠は老人と言われることを著しく嫌っていて、烈火のごとく怒るという話を聞いたことがあったが。このように、弱みを晒してくれるとは、意外だった。陳到のことを認めてくれたのかも知れない。

ゆっくり寝て、陳到は体を休めた。

結局絡城で、劉備軍は陳到に併せるように、一月半も足踏みしていた。

 

2、揺れる心

 

夜道を急ぐのは輿である。馬に乗れなくなった武将などが移動手段として使うものであり、陳到は医師に強くいわれて渋々とそれに乗っていた。

張飛軍と一緒の進軍だから、あまり不安はない。戦慣れした張飛の軍勢は、荊州や益州と言わず、中華でも最強の精鋭部隊の一つだ。他に並べられる存在と言えば、張遼の騎兵隊や、徐晃の部隊くらいであろう。曹操の直下にある虎豹騎でさえ一歩及ばないか。

輿から顔を出して、今どこを走っているのかを確認。側を併走していた廖化に、聞いてみる。

「廖化、今どの辺りだ」

「間もなく、馬超が布陣している葭萌関近辺にございます」

「そうか」

漢中の備えである葭萌関には、かって劉表軍に属し、曹操に降伏することを良しとしなかった霍峻が詰めている。非常に怜悧な武将で、残忍である反面戦上手で、少数で多数の敵を食い止めるのが得意だった。今も馬超の二万を相手に、二千程度の手兵で、一歩も引いていないという。

だが、何時までも持たないことは明白である。

そもそも、何故に、不意に馬超が攻め込んできたのか。それはよく分からないが、恐らくは劉璋が援軍を漢中に要求したのかと思われる。

振り返る。

成都を囲む劉備軍は、水も漏らさぬ鉄壁の布陣を、崩そうとはしていなかった。

巴に籠もっていた厳顔は降伏。綿竹を代表する各地要塞はあらかた陥落。劉璋の長男である劉循が必死の抵抗をしていた普城も、猛攻の末に陥落。既に、劉備軍の勝利は、疑いのない所に来ていた。

しかし、此処で漢中からの強力な横やりがあった。

馬超が率いる二万が、不意に益州に乱入してきたのである。

故に、今陳到は、張飛と、降伏した厳顔とともに、葭萌関に向かっているのであった。

輿の中で目を閉じていると、壁を叩く音。顔を出すと、張飛だった。

「大丈夫か、陳到」

「体はあまり痛んでいません。 ただ、どうも馬ではなく輿というのは落ち着かないですね」

「お前を今失う訳にはいかないからな。 気持ち悪いかも知れないが、我慢してくれ」

「張飛将軍にそう言っていただけると光栄です」

雨が降り出した。

しかも、すぐに雹でも降っているかのような大雨になる。一度進軍を停止して、森の中で野戦陣を張る。葭萌関に到着したはいいが、強力な馬超軍を相手に疲れ切ってしまっているのでは、話にならない。最悪の場合、葭萌関を突破した馬超軍と、遭遇戦になる事も想定しなければならないのだ。

輿は流石に水漏れしないが、兵士達はそう言ってもいられない。前は同じように雨に濡れ、同じように寒い中我慢していたのに、自分だけこれでは不公平に思えて、忸怩たるものを感じてしまう。

輿を降りようと戸に手を掛けると、慌てて陳式が飛んできた。

「おやめください、陳到将軍」

「……」

相手が元は劉埼である事を考えると、あまり強気にも出られない。渋々輿の中に戻るが、元々陳到は農民出身で、兵士達とともにあることで、彼らの信頼を勝ち得てきたと自負している。それなのに、怪我をしているとはいえ、一人だけ輿で移動というのも、納得が行かない所であった。

雨が上がるまで、針の筵に座っているかのような気分であった。

体は確かに思うように動かない。しかし、敵と命を張って戦っている上、雨ざらしになっている兵士達がもっと辛いのは言うまでもないことだ。

雨が上がった後、兵士達を一刻ほど休ませる。それから、再度進軍を開始。霍峻の負担を小さくしなければならないし、ある程度無理をしなければ強行軍など務まらない。輿を引いているのは兵士達であることを考えると、余計陳到の心は痛んだ。

ようやく葭萌関についたのは、翌日の昼であった。

陳到は胃に穴が開くかと思ってしまった。

葭萌関は陥落していなかった。猛烈な攻撃を受けて、山と山の間に蜘蛛の巣のように張られている要塞地帯は火を噴いてはいたが、未だ敵の蹂躙は許していない状況であった。そして二万五千に達する援軍の到着を見て、馬超は一旦兵を引いて、布陣をしなおしていた。

一息ついた関の中に、張飛と一緒にはいる。

普通に歩くのでさえ、医師は良い顔をしない。其処まで酷い怪我だったのかと一度ぼやいたのだが、生きていたのが不思議だと返されてしまい、ぐうの音も出なかった。今でも回復しきっておらず、疲れると不意に意識が飛んでしまうことがある。

関の中は荒れ果てていた。一部は敵兵が乱入したらしく、壁に燃え後や、突き刺さった槍や剣の破片があった。床も血の跡が生々しく残り、焦げ臭い。

関の奥では、霍峻が待っていた。

霍峻は曹操軍の楽進を思わせる小柄な人物で、いつも目の下に隈を作っている。体が弱いらしく、一騎打ちの類は苦手だそうだ。逆に言えば、それであるが故に、あらゆる手を使って敵に勝ち、そしてどのような状況でも生き残る術に特化する事になったのかも知れない。

「遅れてすまなかったな、霍峻」

「いえ、助かりました」

「それで、馬超の様子はどうだ」

「それが不思議なことを言っておりまして。 劉備様に会わせろと、初日に吠えておりました。 それ以降は、特に何も動きを見せることはなく、関へ攻撃を繰り返していた状況でして」

張飛と顔を見合わせる。確かに妙な話である。

馬超と言えば、地獄の代名詞とも言われる西涼を治めていたことでも有名な男だ。今は漢中の一武将になっているとはいえ、低く扱って良い相手ではない。

「じゃあ、俺が一当てして、話を聞いてみるか」

「無理をなさらず。 張飛将軍」

「わはははは、お前に言われたくはねえ。 冗談はさておき、流石に犬死にするわけにはいかねえからな。 無茶はしねえさ」

張飛が意外なことを言い出したので、霍峻が目を剥いた。陳到は連れてきた一万を連れて、関の上に登る。階段を上がるのが多少苦痛を伴ったが、文句は言っていられない。

上から見回して、関の弱点に兵力を補強。更に今後のことを考えて、防御施設も追加しておく。敵の布陣も確認。全く問題がない。流石は、西涼の錦と言われた男である。

さて、西涼の錦は、こんな戦況が確定している状況で、なぜわざわざ現れた。

それを、陳到は見極めなければならなかった。

 

腕組みした馬超は、劉備の援軍二万五千を、じっと見つめていた。

今回、残念なことに?(ホウ)徳は側にいない。普段頑健なあの男は、今回の出兵に限って重病を得てしまい、漢中で床に伏せっている。馬超への忠義は何があっても揺るがないと確信しているので、心配はしていない。

だが、?(ホウ)兄弟は、やはり二人揃っての兄弟なのだと、馬超は思う。事実、益州に攻め込んでから、兄の柔はどうも精彩を欠いている。

それに、馬超も、二人が側にいないと不安を感じてしまう。なんといっても、西涼を離れた後、残った数少ない直属なのだ。若い頃から艱難辛苦を供にしている二人は、兄弟に近い存在なのである。

「劉備は来ていないようです」

「まずは様子見として、張飛と陳到を送ってきたと言うことなのだろう」

内心がっかりしながらも、馬岱の言葉に応える。劉備は優れた君主と聞いていた。馬超が直接出てきたのを聞いて、何かすぐに反応を返すと思っていたのだが、流石に其処までは望めないか。

兎に角、布陣をし直して、相手の出方を待つ。

葭萌関を一気に落とせるようなら、落とすつもりでいた。漢中からの侵攻に備えて、良将を守りに置いていたことは評価できる。それに、現れた張飛という男は、中華に名を知らしめている猛将の中の猛将であり、劉備の義兄弟だとも言うではないか。むしろ今は劉備が取る最良の手とも考えられるし、馬超としては機嫌を直すべきなのではとも思った。

色々と思惑を巡らせている内に、反応があった。

葭萌関から、張飛が二千ほどを引き連れて出撃してきたのである。

「馬岱」

「はい」

「奴の腕が噂通りか、一当てしてこい」

「分かりました。 直ちに」

馬超には及ばないにしても、馬岱も相当な使い手だ。相手が噂だけの男であれば、一刀で斬り伏せてみせることだろう。

馬超自身は少し離れて様子を見守る。

馬岱が、敵の先頭にいる張飛に名乗る。張飛は部下達を下がらせると、噂に名高い蛇矛を振り回し、馬岱に突きかかった。

一合目はどうにか受けた馬岱だが、二合目で、石突きでもろにたたき落とされていた。凄まじい強力である。少し前に戦った許?(チョ)に迫るのではないか。その上、技量に関しては、更にその上を行くと見た。

むずむずと、馬超の中の闘争本能が疼く。

「馬超様」

「分かっている」

?(ホウ)柔にたしなめられる。以前、許?(チョ)に一騎打ちを挑まれ、曹操に結果敗れたことを忘れている訳ではない。

戦わない、手はない。

かといって、周囲をおろそかにはしない。

張飛は馬岱を討ち取らなかった。そればかりか、部下達が助けて馬に乗せ、引き上げるのを、無言で見守っていた。

戻ってきた馬岱が、石突きで叩かれた腹を押さえていた。真っ青になっている。鎧は罅が入っていて、馬超の前に来た時点で真っ二つに割れてしまった。鎧の下には基本的に薄着しか付けない。馬岱の腹筋は、青黒く痣が出来ていた。

「す、凄まじい使い手でした」

「見ていた。 お前が弱い訳ではない」

「面目ありません」

「馬岱の手当を。 柔、そなたは全軍を率い、敵の伏兵や攻勢に備えよ。 いざというときは、俺を置いて逃げてしまっても構わん。 部下達の命を最優先せよ」

返答を聞く前に、馬超は駆けだした。同時に、張飛が馬に鞭をくれた。

張飛が見る間に迫ってくる。まれに見る巨漢である張飛は、全身を岩のような筋肉で覆い、人間としての極限を極めたような肉体を作り上げている。手にしている蛇矛は非常に長い。武勇だけなら、あの関羽も凌ぐという話だから、その凄まじさがよく分かる。

「俺は西涼の馬超! 貴様が噂に聞く燕人張飛か!」

「おう、確かに俺が張飛だ。 確かに燕の出身だが、そんなご大層な呼び方じゃなくても良いぜ。 で、お前が西涼の錦と噂される男か」

「うむ。 一つ問う。 劉備はなぜ、平穏だった益州をこうも乱す」

漢中も益州に攻め込んではいたが、馬超が関与していた訳ではない。

勝手な言葉にも思えるが、馬超自身としては筋が通っている。それに、馬超は張魯の依頼だけではなく、本心からも劉備の心を覗いてみたかった。義兄弟だという張飛であれば、恐らくはそれが可能だろう。

これ以上、俺を失望させないでくれ。そう馬超は願いながら問う。

張飛は豪快に頭を掻きながら、言った。こんな戦場だというのに、張飛は兜も被ってきていない。

「そんな事を言われてもな。 今は乱世で、曹操に対抗するためには益州が必要だし、何より益州の民は劉璋の悪政に苦しんでるからな。 まあ、色々と理由はあると思うが、それにしても、何だ。 兄者の心を知りたいのか」

「ああ」

「なら、会わせてやろうか?」

「……会えるのか?」

罠を考えるのは、どうしても本能的な行動だ。西涼では、相手の行動の全てに罠があると考えなければ、生き残ることが出来なかった。張飛は裏表が無さそうな人間だが、劉備がどうかは分からない。

張飛の言っていることは筋が通っているが、やはり劉備に直接聞きたいという欲求が、馬超の中では大きい。

警戒している馬超に気付いたか、張飛は蛇矛を下ろした。

「分かった。 何だか事情がありそうだな。 でも張魯はいいのか。 張魯の命令で、出兵してきているんじゃないのか」

「それも併せて話したい。 だが、劉備どのの誠意を見たい。 俺もいろいろあって臆病になっていてな。 流石に一人で、味方とは信用しきれない相手の陣地奥まで、踏み込んでいく勇気はないのだ」

「何だ、しようがねえなあ。 まあ、お前が色々な目にあったってのは、俺も聞いてるからよ。 分かった。 どうにかしてみる。 俺達は葭萌関から兵をうごかさねえから、お前達も少し陣を下げてくれないか」

「心得た」

馬超は胸をなで下ろす。

張飛については、凶暴な猛将だという話ばかり聞いていた。会話が成立しないような相手であることも、想定はしていたのだ。だが、話してみると、大丈夫そうである。多少頭は足りないようだが、悪気もなく、男気はある、普通の男だ。これならば、充分に取引も会話も出来る。

自陣に戻る。柔が不安げにしていた。弟がいなくて頭脳のさえが明らかに落ちている柔は、心配性気味になっていた。

「全く、無茶なことを。 胆が冷えました」

「すまんな。 しかし張飛という男、思ったよりもずっと話せる武人だった。 此処で劉備を待つ。 ただし、奇襲は徹底的に警戒しろ」

「分かりました。 張飛という男は信用できても、他の劉備軍の将は違うという訳ですな」

「そうだ。 これ以上、戦以外のところで損はしたくないからな」

張魯があたまを下げた時のことを、馬超は思い出す。

曹操のことは恨んでいないが、張魯は名君と呼んでよい男だった。もしもどちらを選ぶとなれば、馬超は張魯のことを助けたい。

劉備が張魯を救える男なのか、否か。此処で見極めなければならない。

もちろん、馬超を呼びつけるようなら問題外だ。さっさと漢中に戻って、劉備は信頼に値しないと報告するだけである。その後については分からない。どうにかして、漢中を守るのか、或いは。

悩んでいる間に、夜が来た。此方の方が、若干西涼よりも過ごしやすい。寒くないし、気候も穏やかだからだ。

天幕にはいると、馬超は馬乳酒を呷った。

あまり美味しくはないが。懐かしい故郷の味がした。

 

張飛の話を聞いた陳到は、思わず小首を傾げていた。馬超の目的を読もうと、梯子を登って城壁の影から敵陣を念入りに観察していたのに、その足下の梯子をいきなり外されてしまったような感覚であった。

「俺は今から、兄者を呼んでくる」

「信用できるのですか?」

「馬超はな。 ただし、他の奴はどうかはわからねえ。 張魯が後ろで何を企んでいるかも、結構気になる所でな。 敵陣の監視と、奇襲を防ぐためにも、陳到。 あんたに、後ろの守りは任せたい」

それに、と、張飛は敢えて言葉を切った。

陳到も、張飛の懸念には、思い当たる点があった。

「とりあえず、俺の部下は此処にあらかた残していく」

「分かりました。 何があっても、葭萌関は守り抜いて見せます」

「怪我人にこんな事をさせて悪いな。 ……林の外道には気をつけろ。 腕利きの護衛も残していくから大丈夫だとは思うが、油断だけはするなよ」

張飛は長男と、僅かな供だけを連れて、すぐに葭萌関を出て行く。

林に襲われる危険だったら、張飛もあるのではないかと思ったのだが。まあ、張飛であれば撃退は造作もないだろう。

不意に目眩を感じて、気がつくと周囲が真っ暗になっていた。周囲の騒ぎが耳の中で反響する。陳到は城壁から落ちかけていたらしい。慌てて側にいた陳式が、陳到を支えながら、血相を変えていた。

「大丈夫ですか!?」

「大丈夫だ。 霍峻、霍峻はいるか」

「私なら此処に。 失礼ですが、場所を変えた方がよいのではありませんか? 兵士達も心配しています」

「そう、だな」

顔色が非常に悪い霍峻に心配されるようでは、世も末だ。慌てて医師が飛んできて、脈を測り始める。表情は終始暗かった。

寝台にくくりつけられた。しばらくは絶対安静という事らしい。長く白い髭を持つ痩せた医師は、唾を飛ばしながら怒った。

「貴方の体は、長年の無理が祟って、ぼろぼろになっているのです。 しばらくは歩かず、消化の良いものだけを食べてください」

「そうは言っても、兵士達は命を張っているのに、私だけ楽は出来ん」

「貴方が死んだら、兵士達は烏合の衆になってしまうのではないのですか。 劉備様にも、貴方に無理をさせないようにと、口を酸っぱくして言われています。 兎に角、しばらくは絶対安静です」

そう言われると弱い。困った陳到は、慌てて駆けつけてきていた廖化を手招きした。

「医者殿はこう言っておられる。 すまんが、何か敵に動きがあったら、すぐに知らせてくれ」

「分かりました」

「陳式。 そなたは見晴らしの良い部屋を見つけてくれないか。 絶対安静と言うことだから、その部屋にせめて移して欲しい。 如何に不覚を取っていても、敵の、いや、敵とは限らないのか。 馬超軍の動きだけは、しっかりこの目で追っておきたい」

「今は仕事の事をお忘れください!」

医師が怒り出したので、困り果てた陳到は、陳式に任せたと言って部屋を追い出した。

確かに兵士達の間にも不安が広がる可能性が高い。今はじっとしている方が良いのかも知れない。

それにしても、と。目を閉じて、考える。どうして張任はあのような事をしたのか。それとも、これも林辺りの陰謀なのか。そうだとすると、奴はひょっとして、成都の中枢にまで勢力を張っているのではないのか。

巴で厳顔を降伏させた張飛の話によると、そちらの戦線でも色々おかしいことがあったという。幸い厳顔は高い指揮能力と理性の持ち主で、勝てないと判断した時点で張飛に降伏してくれたらしいのだが。張任のように、武人としての意地を優先していたら、どうなったか分からない、かも知れない。

牢につながれている張任は、シャネスの配下が厳重に見張っているが、未だに何も喋らないという。余程武人にとって屈辱的なことがあったのか、それとも。陳到も何回か面会に行ったのだが、日常会話以上のことはしてくれなかった。

ぼんやりしていると、枕元に人影が。

シャネスだった。

「怪我をしたと聞いた。 酷い様子だな」

「うむ。 不覚だった」

「いや、おかげで兵士達の被害が最小限に済んだとも聞いている。 お前らしい事だ」

相変わらずえらそうな喋り方である。

寝台に腰掛けると、シャネスは陳到とは目をあわさないまま、続ける。

「二つ、知らせておくことがある」

「わざわざ来たと言うことは、良くない知らせか」

「そうだ」

シャネスには珍しく、少しためらう様子があった。

「まず第一に奥方だが、どうも少し前から荊州の名族である馬家の大物と不倫関係にあるらしい」

「物好きだな」

「そうだ。 奥方は舞い上がっていて気付かないようだが、相手は物好きで、単におもしろがって関係を続けているだけのようだ」

正直な話、妻にも相手にも同情してしまう。

陳到より若いとはいえ、妻は既に四十代で、今の感覚では老婆に片足を突っ込みかけている。器量がよい訳でもないし、気だてがよい訳でも、気品がある訳でもない。しかも世間的には差別される農民の出だ。

馬家と言えば、馬良の実家だが、名族という奴は何処も腐敗はしているらしい。劉備の幹部である陳到の(しかも不器量な)妻を寝取ったことによって、歪んだ優越感を抱いているのかも知れなかった。

「私が構ってやらなかったのも原因の一つだ。 それとなく、私が知っていることを告げてやってくれ。 それでも行状が改まらなければ、仕方がない。 その場合は離縁するほかないな」

これは、陳到が既に劉備軍でも上位の将軍にいるからである。

一勢力の有力将軍である陳到が、社会的な規範を破った人間を放置するようなことがあれば、確実に社会全体のたがが緩む。それに妻ももういい年の大人だ。自分の行為には、きちんと責任を持って貰わないと困る。

もちろん、馬家に対してもそれなりの行動をする必要があるだろう。馬良には悪いと思う。白眉が高名な彼には、何の責任もないのだから。

「分かった。 そう処置しておく。 しかし、怒らないのだな」

「仕方がないことだ。 私が趙雲のように良い夫であれば、こんな事にはならなかったのかも知れん。 そう思うと、妻も気の毒だ」

次の報告を聞くべく、陳到は促した。

シャネスは咳払いをすると、淡々と続けた。

「もう一つは、幹部に周知していることなのだが。 曹操が魏公になった。 ?(ギョウ)で大規模に公昇進の儀を執り行ったそうで、各地の諸侯が貢ぎ物を差し出しているそうだ」

「ほう」

「兵士達の意気も上がっているそうで、近々漢中に大規模侵攻する可能性も高いと聞いている。 ひょっとすると、馬超がこの時期に、漢中の精鋭と一緒に押し寄せてきたのも、それが原因かも知れんな」

「林が益州で暴れ回っているのも、その下準備か?」

其処までは分からないと、シャネスは言う。諸葛亮も、既に益州内に配下を派遣しているはずだし、それだけ林が脅威を増しているのは事実。一体何が起こっているのか、分からないことが多すぎる。

「江東は、どうなっている」

「どうして江東を気にする」

「曹操ばかりを見ていると、足下を掬われるかも知れない、と思ってな」

「念入りに監視はしている。 今、荊州は我らの支配下にあるも同然。 林が乗り込んできても、好き勝手は出来ないほどだ。 だから、関羽将軍の守りに関しては心配するな」

今の時点では、そうなのだろうか。シャネスが断言しているのだから、ある程度は安心できるのかも知れなかった。

いつの間にか眠っていた。

起きると、側に医師がいた。女官達が何人かせわしなく動き回っていて、下の世話までされているらしかった。正直、顔から火が出そうである。

まだ歩いては駄目だというので、廖化を呼んでもらって、状況を聞いた。馬超は動きを見せていないという。

自分が何も出来ない所で、どんどん歴史が動いている。多分動きを見せていない馬超も、何かの思惑があって、そうしているのだろう。歯がゆい。陳到は、この年になって、初めて焦りを感じた。

いつの間にか眠ってしまっていたらしく、目を開けると、夕刻になっていた。しかも、劉備が寝台を覗き込んでいた。

「陳到将軍。 具合が悪そうだが、大丈夫か」

「劉備様」

「我が軍の柱石である将軍に死なれては困る。 今は他の者達に全てを任せて、ゆっくり休むのだ。 これは命令だぞ」

厳しい言葉だが、劉備の表情は軟らかい。

陳到は無言で涙を流していた。

劉備に対する疑念は、まだ消えない。だが、今は。劉備の昔通りの心遣いが、陳到には嬉しかった。

「奥方のことも、馬超のことも、今は忘れよ。 丁度厳顔も連れてきたし、治療に専念してくれ」

「はい」

ああ、劉備が。ずっとこの劉備ならば良いのに。

そう、陳到は呟いていた。

 

3、益州陥落

 

葭萌関で、劉備と馬超は会見を持つこととなった。馬超が張飛と立ち会ってから、四日後のことである。張飛は昼夜を問わずに、成都まで馬をとばしてくれたのだ。逆に言えば、其処までは完全に劉備の勢力圏になっている、とも言える。

張飛と一緒に、葭萌関の奥にある一室に。外で張飛が見張りをした。石造りの部屋で、中には天井近くに空気穴、それだけしかない。机の上に蝋燭皿があるが、それ以外には椅子しか置いていなかった。

蝋燭に火をともして、向かい合って座る。

劉備は噂通り、耳が大きく、腕が長い男だった。全体的に痩せているが、少し前、荊州にいた頃は体に贅肉がついたことを嘆いていたことがあると聞いている。馬超はしばし、親ほど年が離れている男を観察した後、一礼した。

「本来なら、此処まで足を運んでいただくのは失礼かとも思ったのだが。 申し訳ない」

「いや、勇猛の士たる貴殿に会うためとなれば、この劉備、多少の苦労は厭いませぬぞ」

「ありがたき言葉だ。 では、早速だが、本題に入らせていただきたい」

馬超は、いざというときには、身を守るための手段も講じなければならないと思いつつ、本題に入った。

「貴方は、なぜ益州を侵略した?」

 

?(ギョウ)。

かって袁紹が河北統治の要としていた土地であり、巨大な要塞地帯と、膨大な人口を生かした首都機能を備えている。黄河の支流が豊かな恵みをもたらし、曹操による河北統一がなってからは、多くの民が暮らすようになっていた。知識人、文化人の類も、多数集まってきている。

曹操は中原を屯田によって開拓してきたが、許昌近辺よりも、どうしてもこの?(ギョウ)近辺の方が、人口が現時点では多い。そこで、曹操は権力安定のために公を名乗る際、この地方の呼び名である魏を選んだ。

楚漢戦争の時代には、ろくな業績を残すことがなかった魏だが、現時点で名乗ることにそれほど問題はない。元々曹操の一族は、漢王朝の名臣である曹参の血を引いているというふれこみである。また事実上の実家である夏候氏は、漢の高祖劉邦の、最古参の家臣の一人で、盟友と言っても良い存在であったのだ。

それを考えれば、これだけの勢力を得た今、公への昇進を遮る存在はいなかった。江東でさえ、今回の件に関しては、貢ぎ物を送ってきたくらいである。漢中と劉備の使者だけが、?(ギョウ)には来ていなかった。

?(ギョウ)の内城、その中庭。五万の兵が整列する中、曹操は歩く。

虚しいものだなと、思いながら。

権力の安定のため。具体的には、長男の曹丕の時代になっても、国が分裂しないようにするために、今権力を固定化している。

曹丕がもっと有能なら。

曹操にもっと時間があれば。

こんな茶番を演じなくても良いのにと、歩く。

欠伸をしたくなったが、我慢する。

やがて、袁紹が即位する時のために作らせていた、兵士達を見下ろせる台の上に立つ。五万の兵が布陣している様子は壮観であった。

万歳。万歳。兵士達が、槍を振るって叫ぶ。赤く塗装された鎧を着た虎豹騎が、最前列で一番大きな喚声を上げていた。まるで人の海だ。それが、曹操の指先一つで、好きなように動く。或いは割れて路を造り、或いは集まって波濤となる。心が弱い者であれば、優越感でおかしくなってしまうかも知れなかった。

曹操のすぐ後ろに立っている許?(チョ)は、遠慮無く欠伸をしていた。現在この場にいない張遼、楽進、李典、韓浩、徐晃を除く殆どの将が、その無遠慮な行動を、白い目で見ていた。ただ、それでも。許?(チョ)の危機感知能力は誰もが知っている。苦情を言う者は一人も居ない。

否。曹操に阿る目的で苦情を言うような将は、此処に列席を許されていない。

軍楽隊が、公昇進の祝いに、この日のために作曲した曲を奏であげる。少し鼓が五月蠅いなと曹操は思ったが、黙っていた。この場に周瑜がいたら、遠慮無くそれを指摘していたかも知れない。

空は嫌みなまでに晴れていて、献帝も眩しそうに陽の光を遮っていた。許昌からわざわざ来てくれた献帝は、公に昇進するという話をした時、言ったものだ。

「これで、平和が訪れるのか」

「いえ、余の代では無理でしょう。 曹丕の代、いえその子の代くらい、でしょうか」

「しかし、公への昇進で、大きく平和に近付くのだな。 もし此処で平和が来るのであれば、そなたに皇位など禅譲してしまうのだがな」

「もしもそれで平和が来るのなら、余も受ける所なのですが。 しかし、今はまだ早いのです。 近いうちに王にもなるつもりではありますが、それでも結果は同じでしょう」

献帝は賢い。曹操の言葉の意味を正確に理解してくれた。

やがて、武芸大会が始まる。

騎射を中心として、槍、斧、長柄、剣、戟、矛と、一つずつ競技がこなされていく。一騎打ちも入れたかったのだが、未熟な者がやると死人が出るので、晴れ舞台には相応しくない。

若手の将の内、やはり一歩ぬきんでているのは牛金だ。曹真や郭淮も頑張っているが、武芸という点では、牛金にだいぶ劣る。これはやはり、育ってきた環境が厳しいからだろう。乱世は終結するまでまだだいぶ時間が掛かるだろうが、しかしながら個々の環境で言えば、中原や河北では安定が始まっている。安定した上級豪族の出身になると、本当に武人かと思いたくなるような、青瓢箪も産まれ始めていた。

これは曹操の一族とて笑い事ではない。遅く産まれた曹操の子の中には、武芸が殆ど出来ないような者もいる。妻達には常に鍛えるように言っているのだが、深窓の令嬢として育ったような若い妻には、それを理解できない者もいる。

その点、貧しい家で産まれたという牛金は強い。雑草のような強さが、確実にこう言う所では生きてくる。

最終的に、牛金が若手武将達の中で武芸一位を獲得した。王双という若者も頑張ったが、腕力ばかりで知恵が足りず、経験で牛金に押し切られた。焼き菓子を頬張りたいと思ったが、流石に今日は持ってきていない。そわそわする曹操は、思わず周囲を見回してしまった。中毒気味である。立ちっぱなしと言うこともあり、少し疲れてきた。

「ううむ、焼き菓子が食べたい。 背が伸びる運動がしたい」

「我慢なされませ」

許?(チョ)にたしなめられて、思わずへこんでしまった。ぷうと頬を膨らませたいが、流石に公式の場でそれは出来ない。

牛金に拍手が送られている。曹操も拍手をした後、手元に招いて、この日のために打たせておいた名剣を手渡した。

以前、曹操は二振りの名剣を作らせたことがある。青釘、椅天という名を持つこれらの内、椅天は未だに曹操の腰にある。青釘は既に失われたが、これは戦いを経てのことだから仕方がない。良い武人の手に渡っていればいいのだがと、時々思い出すくらいである。

この二振りほどの傑作ではないが、今牛金に渡したのも、名工の手による金に糸目を付けない業物だ。牛金は手にして一目でその剣の凄まじさを理解したらしく、満面の笑みで何度か振り回していた。

「素晴らしい。 ありがたき幸せにございます」

「うむ」

牛金が下がると、諸将から惜しみない拍手が上がった。

一度休憩する。奥の間に赴くと、山盛りの焼き菓子が丸机に用意されていた。実に香しい菓子を無邪気に頬張る曹操の所に、細作が現れる。林の配下だった。

「曹操様」

「どういたした」

「益州が陥落いたしました。 劉璋は劉備に降伏。 林大人が不和の種を撒いてはいますが、確実に劉備の勢力は拡大しております」

「そうか。 あの者も、相変わらず無体なことをする」

報告は、既に別方向からも聞いている。

林は益州で、膨大な薬物をばらまき、民の何割かを中毒にしたという。それで意のままに操り、劉備軍に生ける屍として襲いかからせ、或いは非人道的な使い方をして、民の中に不和をばらまいたと言うことだ。

かって袁術が治めていた寿春でも、似たような暴虐が行われた事がある。曹操も、武器を持って襲いかかってくる死んだ目をした民の群れには随分苦労させられた。

思えば、あの時の暴虐にも、林か、或いは細作が関わっていたのだろうか。だとしたら、天下統一を果たした後には、必ずや林を殺さなければならないだろう。

曹操の思惑を知ってか知らずか、細作は他にも幾つかの報告を終えると、姿を消した。大きく伸びをして、気分を転換した曹操は、許?(チョ)を振り仰いだ。

「虎痴。 今のそなたなら、林を確実に殺せるか」

「正面からの戦いなら」

「そうか。 今はまだ必要がないが、いずれ必要が生じてくるかも知れん。 正面からと言わず、戦って必ず勝てるように、戦術を練っておいてくれ」

「分かりました」

今の林は、細作百人に匹敵する戦力を持っているだろうと、以前許?(チョ)が言っていた。勝つつもりであれば、許?(チョ)や関羽などの豪傑が立ち向かわないと難しいだろうとも。

もちろん、百人で勝てないのなら千人を動員するだけの話である。こう言う時に備えて、曹操は林の組織を激戦地に投入して弱体化させ、西涼や中原で大規模な細作組織を育成してきたのだ。

林の組織は既に幹部を多く失っており、諸葛亮との全面交戦によって規模も半分以下に落ち込んでいる。このまま、曹操は林の組織を更に激戦地に投入するつもりだ。益州でもかなり消耗したことは間違いないだろうし、いつでも処分できるようにしておく。

逆に言えば、林を制御できるのも、その状態を維持しているからだ。

野心が強い武将のような危険性を、林は持っている。過剰すぎる力を与えれば、必ずや独立に動く。

だから、今後も油断はしない。曹丕にも、そう言い聞かせなければならない。

最悪、曹丕に使いこなせないようだったら。消しておくのも、手の一つかも知れなかった。

焼き菓子を思う存分腹に入れると、暗い思考は一旦切った。

今年は忙しくなる。西涼は大体掃討作戦が終わって、静かになった。疲弊しきった民は、韓浩の屯田策にすがるようにして生き始めていて、逆に言えば反抗勢力などというものが存在し得なくなっている。長安の復旧も進んでいて、来年中には漢中への侵攻作戦を実行できそうであった。

江東が近年合肥に向けて軍事侵攻を計画していると言うから、それに対する備えも必要になるだろう。揚州の住民は、基本的に内陸深くか、或いは都市近辺まで避難させておいた方が良いかも知れない。

考えを進みながら外に出る。

上級将校や、宿将達の武術大会が始まっていた。

若い者達に比べるとどうしても腕力や体力で劣るが、しかし何というか、人間の大きさが違う。誰もが明らかに、若手よりも優れた武芸を発揮し、生き生きと馬を乗り回していた。

曹操の一族は凡将ばかりだが、その中で夏候淵は比較的弓が達者で、猛者達の中で騎射の腕を披露している。曹仁は腕力が強く、長刀を振り回して見事な演舞を見せていた。

しかし、やはり。

今此処にいる中では、張?(コウ)が武芸においても知略においてもずば抜けている。于禁は武芸に劣る部分があるので、どうしてもこういう大会では張?(コウ)に二歩ほど劣る様子が見えた。

最終的に、圧倒的な総合得点を集めて、張?(コウ)が勝ち残る。曹操はあまりにも予想通りの結果に終わったので、曹仁、曹洪、夏候淵、夏候惇ら、身内の将校を集めて叱責した。

「張?(コウ)を見習うように。 そなたらも、これからは方面軍の司令官として動いて貰う可能性があるのだ。 一つでよいから、芸をきわめておくようにな」

「申し訳ございません」

「うむ、反省すれば良い。 今後曹洪は中原、曹仁は荊州、夏候淵は西涼から漢中の方面軍を率いて貰う。 夏候惇は中央で全体の総括を任せることになるだろう。 分かっていると思うが、お前達が優れているのではなく、配下の将軍達が優れている。 彼らと巧くやっていくためにも、一芸は極める。 それが武人としてのたしなみだぞ」

言い聞かせた後、張?(コウ)に褒美を渡す。

少し悩んだのだが、曹操は一頭の馬を引いてこさせた。見かけはあまり良くないのだが、兎に角図体が大きく、足が速い。

「西から来た汗血馬と呼ばれる品種だ。 相当な重装備であっても平然と耐え、体力も優れている。 そなたにつかわそう」

「ありがたき幸せにございます」

「代わりにと言っては何だが、来年辺り予定している漢中攻略戦では、そなたに先鋒を務めて貰う予定だ。 そなたであれば不覚を取ることもあるまいが、期待しておるぞ」

張?(コウ)が感涙を流し、あたまを下げた。

もとより旧袁紹軍の将軍という事もあり、張?(コウ)は優秀であるにも関わらず、周囲の白眼視に晒されがちだった。本当は炎のように熱い心の持ち主であることを、曹操は知っている。

今回の漢中攻略戦には、曹洪、夏候淵も連れて行く。どちらも経験的に不安が残る将校であるから、張?(コウ)は補佐として非常に重要な存在だ。夏候淵が失敗をしても、必ず取り返してくれることだろう。

参謀としては、司馬懿の他、揚修を連れて行く。

曹操は視線を動かして、見つける。彼の三男であり、詩作にしか興味を見せない曹植を。

既に跡継ぎは曹丕を指名しているのだが、曹植は未だ権力への未練を捨てられないようで、揚修を始めとする子飼いの参謀を暗躍させている。このままだと非常に鬱陶しいので、今回思い切って引き離すことにしたのだ。

不遜な行動を取るようなら、漢中で処分してしまうつもりでもあった。

式典が滞りなく終わり、宴が始める。

曹操は献帝を最上座に据えて、自分はその右に座ると。無言のまま、酒を呷り続けていた。

こう言う時、曹操は雄大な戦略を練っていると、家臣達は考える。だが、実際には、曹操はどうやったら背を伸ばせるかと考えていたのだった。

未だに、曹操は。己の低い背を伸ばすことを、諦めていなかった。

 

張飛に敗れた馬岱ではあったが、今まで伊達に地獄の西涼で生き抜いてきていない。戦闘を考慮しなければ、馬に乗るくらいは出来る。医師に処置をさせた後、しばらく敵の様子を見つめていた。

流石に敵には隙が無く、馬超が油断するなと言った理由もよく分かった。少しでも気を抜くと、奇襲を受けそうで恐ろしい。

しばらく、緊張が続く。

やがて、それは不意に途切れた。馬超が葭萌関から出てきたのだ。

葭萌関から出てきた馬超は、馬岱と?(ホウ)柔の顔を見回すと、開口一番に言った。

劉備に降ると。

顔色は悪く、有無を言わさぬ雰囲気があった。馬岱も?(ホウ)柔も顔を見回せたが、何も言えなかった。

一体劉備と会った時、何があったのか。

馬超は中華でも上位十位には確実に入る武勇の持ち主であり、相当な荒肝の持ち主である。それなのに、劉備と対面して帰ってきてからは、まるで貝のように口を閉ざしてしまっていた。

そのまま、馬超の軍勢は一旦武装解除して、劉備軍に降伏。

二万の兵は、殆どが文句を言うこともなく着いてきた。

皆、馬超を信頼しているのだ。

馬岱も信頼している。だが、何も言わずにこのような行動を取るというのは。馬超が取る行動としては、考えられなかった。しかも馬超はすぐに馬岱に引き離されてしまい、成都に連れて行かれてしまった。

そのまま、葭萌関に馬岱と?(ホウ)柔は軟禁された。

しかも、別々に離されて、である。

一応牢屋ではなくて来賓用の部屋ではあったが。兵士達が多数見張りに着いていて、出歩こうとすると必ず止められた。

一緒に降伏した兵士達は馬超と一緒に連れて行かれたのだが、益州各地の防衛に回されたらしい。それ以上のことは、馬岱の耳には、殆ど何も入ってこなかった。

今まで、西涼でも散々危ない目にあったことはある。単独で敵対勢力の騎兵に追いかけ回されたことだってあるし、どうしても勝てそうにない相手と一対一の状況になってしまった事もあった。それらを生き残ってきたからこそ、馬岱は此処にいる。多少の恐怖など、何でもない。

しかし、今回のは少し違う。

生理的に、恐怖が背骨を這い上がってくるような感触なのだ。

食事も出る。

歩き回ることも出来る。

しかし孤独だ。まるで、いつでも口を閉じることが出来る、巨大な蛇の舌の上に載せられている。そんな感触だった。

夜になっても兵士達の見張りは油断がない。陳到という将軍が相当に鍛え上げているらしく、兵士達の質は、戦闘しかしらないような西涼の者達に全く劣る所がなかった。だから、逃げようにもどうにもならない。

軟禁されてから、四日目。ようやく動きがあった。劉備の配下の、若い士官が挨拶に来たのだ。年齢は馬岱と同じくらいだろう。もう少し若いかも知れない。どちらかというと士大夫にありがちな高慢さが無い、話しやすそうな青年であった。

「廖化と申します。 以後お見知りおきを」

「馬岱です。 此方こそ、よろしくお願いいたします」

向かい合って座る。茶が出た。

女官が給仕をしてくれたのだが、関に女官がいると言うことは状況が落ち着いてきていると言うことだ。戦闘機能しか存在しない関では、平時を除くと男しかいないのが普通である。

「早速ですまないのですが、馬超将軍は」

「今、成都が少し大変なことになっていまして。 しばらくはこうしていただきたいのです」

「大変な、事とは」

「以前、十年ほど前ですか。 袁術という群雄がいたのをご存じですか」

知らない訳がない。実力もないのに皇帝を名乗り、群雄に袋だたきにされて滅びた男だ。一時期は董卓、袁紹と中華を三分していたのに、その凋落の凄まじさは語りぐさにさえなっている。

「それが何か」

「では、寿春攻防戦について聞いたことは」

「いえ、あまり」

「分かりました、其処から説明しましょう。 袁術の拠点であった寿春を曹操が攻めた時、袁術があまりにも不可解な大軍勢を繰り出して、迎撃をしてきた事がありました。 後で分かったのですが、兵士達や民に麻を材料とする薬物が投与されていて、理性が奪われていたのです」

薬物で、理性を奪う。

意味が分からない。なんだそれは。そんな戦術が存在するのか。そもそもそんな事をしたら。

された人間は、どうなってしまうのだ。

「犯人は分からないのですが、どうも袁術はその前後から傀儡化されていたという噂がありまして、闇の人脈から流れ込んだ薬物が、それを為していたらしいのです」

「馬鹿な。 そんなはずは」

「そして、それにつながりがあるらしい人物が、漢中に今いること。 そして、益州でも、その薬物か、その改良品らしきものが、猛威を振るっている事が確認されています」

息を呑む。

戦いとは、槍と、弓と、剣を使って、馬に乗って行うものなのではないのか。

茶碗を掴む手が震えている。馬超も、これを聞かされたのか。

考えたくないが、分かる。自軍にも、既にその薬物が投与されているのではないのか。それだけではない。部下達ならともかく。自分や、馬超や。?(ホウ)柔にも。

「今までも、不可解な事件が何度も起きています。 城の兵士達が知らないうちに、大量の爆薬が運び込まれていたり。 しかもそれを行ったのは、大勢の民で、一人一人が分散して、です。 陳到将軍はそれで危うく消し飛ばされる所でした。 民はいずれもが薬物で理性を奪われ、命令のまま動く道具とかしてしまっていたようです」

「そ、それは人間がやることなのか」

「それをやりうる存在が、今益州に来ていて、しかもそれとつながりがある人物が、漢中にいるのです! 隔離された理由が分かりましたか! しかも、既に薬物が切れておかしくなった兵士達が、多数見つかり始めています! 暗示を与えられ、我が軍の将官を殺すように命じられていたものまでいたことが分かっています! 我らも、周り中がおかしい中、手探りで対応を探しているんです!」

「あ、ああああああ、あああぎゃああああああああっ!」

廖化の言葉で、限界が来てしまった。馬岱は絶叫すると、そのまま卒倒した。

気がつくと、寝台に寝かされていた。全身に嫌な汗を一杯掻いていた。

俺は。

俺は、人間なのか。馬岱は闇に向け、呟く。

しかし、乾いた、切実な、その呟きに。応えはない。

 

趙雲は、劉備を守りながら、成都に入った。

劉璋が降伏したのだ。

長い籠城戦だったが、これで益州は落ちた。馬超が劉備についたというのが、決定的だった、という事であった。

周囲を見回す。荊州でも、これほどの都市を見たことがあっただろうか。巨大な城門を潜ると、地平の果てまで街が広がっている。

成都は巨大な都だ。

人口は実に十五万を超えている。数里に渡って連なる城壁の内側には、山々から流れ込む河が幾つか引き込まれ、雄大な田畑が広がっている。その城壁が実に三重。ただし、城壁そのものはそれほど高くはない。それに、老朽化が目立っていた。

劉璋の父である劉焉は、中華の動乱を悟ると、子飼いの軍事力である東州兵を引き連れて益州に乗り込んだ。強引な改革を進めて権力を確保すると、独立王国の作成に尽力した。

ひょっとして、劉焉は。此処を天下の都にするつもりだったのかも知れない。

益州は、項羽に敗れた漢の高祖が挙兵した土地だ。漢の皇族である劉焉には、その野心が備わっていても不思議ではなかった。

趙雲はジャヤと一緒に騎乗だが、劉備は馬車だ。これは、諸葛亮の提案であった。趙雲も、今回ばかりは賛成した。

「何時何があるか分かりません。 お気を付けてください」

「ああ。 趙雲将軍も」

兵士達は、皆殺気立っている。

籠城している敵を囲んでいる間、不可解なことが幾らでも起こった。

子供が、柵の側に来た。何かと思ったら、周囲の兵士達を巻き込んで、爆発した。

敵の内通者が、城壁の脆い場所を指示してきた。

攻め上ってみたら。その一角の敵が、同士討ちをして全滅していた。

異常なことが立て続けに起こり、兵士達の多くがそれらを目撃している。既に益州に邪悪な呪いが蔓延しているという噂が流れ始めていて、邪神が跋扈しているのだとか声高く主張する者もいた。

趙雲ら将校には、薬物によるものだという連絡が来ている。しかし、一年近く益州で戦い続けた趙雲は、どうもそれでは納得できない部分も多い。迷信を信じる訳ではないが、兵士達が怖がるのもよく分かるのだ。

趙雲の後ろには、武陵を落とした時に劉備軍に加わったシャマカがいる。非常に荒々しい風貌の大男で、腕力だけなら許?(チョ)に迫るかも知れない。趙雲が技を仕込んで、最近ではかなり良い勝負が出来るようになってきていた。

「シャマカ、貴殿はどう思う」

「呪いでは無いというのだろう。 それに、人間の悪意を感じる。 ならば、邪神とか、魔神とかの仕業ではない」

「そうか」

迷信深い五鶏蛮の王だった男だが、意外に理性的な言葉を聞くことが出来て、趙雲は安心した。

延々と続く畑を抜けると、街に出る。街そのものは城壁に覆われていない。これは、きっと行き来の利便を重視したからだろう。所々櫓はあるのだが、焼け落ちているものが目立った。

降伏に立ち会ったのは簡雍なのだが、おかしな状況だったと呟いていた。まだ忠臣は多く残っていたのだが、彼らも降伏することそのものには反対していない様子であったという。

怪奇現象は、劉備軍だけではなく、劉璋軍にも起こっていたのかも知れない。焼け落ちた櫓を見て、趙雲はそう思った。

「子龍、何だか嫌な匂いがしないか」

「私には分からぬが」

「用水路だ。 例の薬が投入されているのではないか?」

ジャヤは鳥丸族の出身と言うこともあり、鼻も耳も目も良い。趙雲は槍を振り上げると、周囲の兵士達に、水は飲まないように指示。兵士達はそれを聞くと、用水路から飛び離れていた。

「林がいる可能性を捨てきれない。 私の側を離れるなよ」

「分かっている。 私も単独では林には勝てそうにないからな」

ジャヤに言い聞かせながら進む。ジャヤも林の話を聞いているからか、素直に従ってくれた。

街には、全体的に精気がなかった。長い籠城に耐えたのだから無理も無いとも言えるが、しかし。櫓と同じように、燃やされた家や、街路が目立った。石畳の間には炭が食い込んでいて、焼けて変形してしまっている箇所もあった。

大通りには人気がない。焼けた家の中で、粗末な格好の子供が膝を抱えて、うつろな目で此方を見ていた。馬車の車軸が時々軋んで、ひやりとさせられる。五千の兵で周囲を守っているとはいえ、何が起こるか分からない。

事実、鳳統は暗殺されてしまった。

後から話を聞くと、どうも鳳統もこの関連で命を落としたらしい。諸葛亮が益州に乗り込んできてからは、徹底した事故対策を重ねたため被害は減ったが、それでも神経は常に削られる。

内城に着いた時、やっと此処まで来たかと、趙雲は肩を回した。

ここからが、本番だ。

城門で、劉璋が拝礼して待っていた。まるまると太った男で、美しいのだが、威厳は欠片もない。美しいと言う点では周瑜と共通している部分もあるが、やはり美は威厳と直結するものではないらしい。今まで父の七光りで益州を治め、優秀な部下達に守られていただけの男。哀れを誘う態度であったが、趙雲は同情しなかった。

劉備が馬車から降り、劉璋の手を取って優しい言葉を掛けている。劉璋は感涙を流しているようだが、多分うれし涙だろう。劉備が処刑をするとは思えない。その間、劉備は完璧な笑顔を保っていた。

陳到が以前、最近の劉備に違和感を感じていると、ぼやいていたのを、趙雲は知っている。

今、劉備は、感情ではなく理性で行動している。

劉璋がもっと早くに降伏していれば。周囲の成都の状況は、少しはマシになったかも知れないのに。

酒池肉林と快楽に溺れず、まともに政務に取り組んでいれば。劉備や漢中に脅かされることもなく、逆に荊州や漢中に進出して、曹操と対抗できる状態を作れていたかも知れないのに。

ただ茫洋と過ごし続けた結果の滅亡だ。本来だったら許せることではないのに。

それでも、劉備は笑っていた。

降伏を受け容れ、趙雲は劉備を護衛して郊外に出る。後は軍の仕事だ。林を探すのももちろんだが、治安回復を行わなければならない。早速各地で蠢き始めている賊を討伐するべく、黄忠が軍を率いて出動している。南蛮の諸国も様子見の兵を出しているから、そちらにも対応をしなければならないだろう。完全に治安が回復し次第、劉備は成都に入って、首都機能を移行する。既に劉備は、完全に独立国家の長だ。

帰る途中、諸葛亮とすれ違う。

奴は相変わらず、涼しい笑顔を浮かべていた。奥方も一緒の様子だ。

此奴は一体、劉備をどうした。

益州で起こったこの悲劇を、ひょっとしたら知っていたのではないのか。

しかし、益州を落とすことが出来たのも、諸葛亮の広域戦略があっての事。それを考えると、趙雲に、諸葛亮を糾弾することは出来なかった。

 

4、漢中炎上

 

揚松の所には、着々と絶望的な情報が流れ込み続けていた。

曹操軍は、ついに西涼を完全に制圧。韓遂を始めとする諸侯は曹操に駆逐されるか完全に牙を抜かれ、屯田策による食料の生産体制確保と人員の流入によって、治安も回復。それに伴い、長安から漢中への進軍路がついに完成してしまったのである。

しかも曹操軍は、十万を超える兵を河北で新たに編成。既に西涼に駐屯している十万の軍勢を支援部隊に、五万から七万の兵を投入して、漢中を攻略してくることが明らかになっていた。

益州に派遣した馬超からは、劉備は信頼できるという連絡が来ていた。しかし、劉備との合体工作には時間が掛かる。どうやらあの林によって益州がかなり手ひどく荒らされていたらしく、益州内の体制立て直しで手一杯であり、漢中に援軍を送る予定など無いという。ただでさえ荊州方面の兵力が不足している状況に陥っているという話もあり、合体工作など時間的に到底不可能であった。あと一年あれば、急ごしらえでも出来たかも知れないのだが。

今は時間を稼がなければならない。

しかし、それには手段も限られていた。国内には、林の息が掛かった佐慈とやらが触手を蠢かせ、多くの村長達が奴に絡め取られてしまっている。結局の所、無数の村々の集合態勢に過ぎない漢中は、如何に彼らのご機嫌を取るかで右往左往せざるを得ない。

決意を決めた揚松は、資料を纏めると、張魯の所に急いだ。

漢寧の夜道を歩いていると、治安が悪くなったことを実感する。以前より空気が悪いし、時々死臭を感じる。賊が多くなり、それの処理が仕切れていない。中には、村が丸ごと賊になってしまっているような例もある。国境付近では、そういう村が幾つもあり、討伐の見通しも立っていなかった。

張魯の屋敷に着く。

最近手入れが露骨に悪くなってきている。これは佐慈になびいている村長が多いからで、彼らからの貢ぎ物が減っているからだ。使用人もそれに伴って削減せざるを得ない状態が続いている。

裏口から屋敷にはいるが、これももう後何回あるか分からないなと、揚松は自嘲した。張魯はまだ起きていて、張衛と一緒に奥の部屋で話すことにする。流石に状況の悪化に張魯も心を痛めているようで、面持ちは沈痛だった。

「揚松よ。 如何したか」

「はい。 曹操軍が、侵攻の準備を整えました。 来年の春には、確実に攻め込んで参りまする」

「そうか。 劉備軍との合体工作は間に合いそうもないな」

「残念ながら。 馬超どのの援軍も、難しい状況でしょう。 陽平関では揚昂が備えておりますが、正直半月も持ちますまい」

その馬超に渡した援軍にも、佐慈の魔の手が伸びていたのだと、後から馬岱の使者に聞かされた。

痛恨というほかない。あの援軍の中には、劉備に密書を渡す役割の兵士も混じっていたのだ。二万の兵は合体工作のための工作資金代わりで、傭兵として西涼から流れ込んできた者達を中心に編成していた。手紙を持たせていた兵は混乱の中行方不明になり、高い確率で情報は林にだだ漏れになった。劉備との連絡接続は随分遅れてしまい、致命的な事態が更に近付いてしまった。

この事態に、張魯も厳しい判断を下した。

細作部隊を国内に戻し、佐慈の勢力を徹底的に駆除に掛かったのだ。

かろうじて、佐慈が作っていた広大な麻畑は焼き払ったが、漢中内部でも既にどれだけの人間が、中毒になって操られているか分かったものではなかった。露骨にこの状態に反発する村長達もいて、細作組織の中でも内応者が毎日何人か狩られている状態である。漢中は、曹操の侵攻がなくとも、劉備との合体工作が遅れれば勝手に崩壊する瀬戸際にまで来ていた。

「愚痴を言うために来た訳ではあるまい。 何か策があるのか」

「はい。 第一に、江東を動かします」

「江東、か」

江東は基本的に、勢力の保持にしか興味がない。

荊州に出ている呂蒙、陸遜による陸戦部隊は、曹操軍に対して攻勢に出ているが、これは積極的に攻撃を仕掛けることで防御とするためだ。曹操軍もそれを分かっていて、荊州を任されている徐晃は軽くあしらうだけだという。

江東にとって、南進政策の方が重要なのだ。周瑜が死んでからは、その傾向が更に強くなっている。というよりも、漢中でも、周瑜は戦略的な齟齬から消されたのではないかという噂が根強く流れていた。

そんな江東を動かすには、余程のことがないと難しい。

「曹操を焦らせるほどとなると、やはり荊州か、或いは合肥か」

「はい。 今回は合肥周辺で反乱を起こさせ、駐屯している張遼の兵力を削り取りまする」「なるほど。 合肥は江東に突きつけられた槍に等しい。 もしも隙がそれで出来れば、一気に侵攻を仕掛ける可能性があるな」

もしも合肥が陥落すると、江東は徐州に大軍を直接送り込むことが可能となる。その場合、曹操も全力で奪還に取りかかるだろう。もっとも、揚州方面の広い防衛線の何処が敗れても、似たような状況が到来するだろうが。

「なるほど、反乱を誘発できる可能性は高いか」

「今、工作部隊を編成し終えた所です。 佐慈配下はあらかた駆除できましたので、しばらくは一般の兵士と政治的な工作でどうにかなるでしょう。 ただ、問題が一つございます」

「漢中国内に、守りにおける細作がいなくなるのか」

「その通りにございます。 もはや人材不足は、其処まで来ておりまして」

張魯は押し黙った。張衛も腕組みして、目を閉じた。

もはや漢中は滅びる。言わなくても、分かることであった。

「最悪の状態を、想定しておいてくれ」

「と言いますると」

「準備が半ばの状態で、曹操軍が攻め込んでくる。 そして漢中を舞台に、泥沼の争いが始まる。 もちろん私や張衛、それにお前は混乱の中で雑兵の手に掛かる」

「そのようなことはさせませぬ!」

大きな声を出してしまった。咳払いする揚松に、張魯は穏やかな目を向けた。

「漢中を統治するための共通言語として作り上げた五斗米道が、民を苦しめる存在とならないようにだけは。 手を打たなければならないな」

「曹操は、劉備と違って現実主義者です。 漢中の民を安んじることはないでしょうが、その代わり特別に差別もしないことでしょう。 どのみち、中華において宗教は今後儒学に押されて衰退することが目に見えています。 それに逆らわないような流れを、今から作っておくべきでしょう」

「……そうか。 そなたに任せる」

張魯の前から、揚松は拝礼して下がった。

夜の内に来たのに、打ち合わせをしている内に朝になっていた。

漢寧を行き来する民の、何と少なくなったことか。市場も賑わいが無く、民は皆よどんだ目をしていた。

揚松は顔を隠して自宅に急ぐ。

今は、如何に悲惨な負けを避けるか。それだけを、考慮しなければならなかった。

 

曹操による侵攻は、揚松が想定していたよりも四ヶ月以上早かった。河北にて編成していた兵力は囮に過ぎず、むしろ西涼の守備兵の交代要員が大半を占めていたのである。

曹操自身は、主力の武将達を率いて西涼に急行すると、其処から七万ほどを引き抜き、更に鮮卑や兇奴の傭兵を加え、八万五千ほどの戦力で、漢中に怒濤のごとくなだれ込んで来たのだった。

揚松が想定していた最大戦力よりも二割以上多い大兵力であり、現在漢中が動員できる全戦力の三倍近い。その上、兵の練度がまるで桁違いである。

もちろん、合肥の反乱工作など、まだ芽を結ぶはずもない。

一万の兵を常駐させている陽平関からは、すぐに援軍の要請が来た。

もはや、張魯と張衛と、影の会合などをする暇もなかった。

すぐに他の家臣達と一緒に、揚松は張魯の前に出た。張衛が、予定通りに、張魯の前で強硬な策を提言する。

「陽平関の周囲には、幾つか抜け道がございます。 此処を通って、山道で伸びきっている曹操軍を叩きます」

「しかし、曹操軍の兵力は八万五千というぞ。 此方は三万程度しかいないのに、どうやって支えるのだ。 一度や二度小さな勝ちを積み重ねた所で、撃退できる状況ではないぞ」

反論が起こる。長老格の村人達は、既に降伏に傾いている様子だった。

佐慈による指示だという事は分かっている。だがそれを、今は指摘する時間的政治的余裕がない。

その上、敵は曹操が自ら出陣してきている上、河北の猛将として名高い張?(コウ)が先鋒を務め、更に重鎮である夏候淵、曹洪が出陣してきている。当然彼らの親衛隊も来ていることは疑いなく、陣容としてもまるで隙がない。西涼で屯田を進めている韓浩も来るかも知れない。

揚松も最悪の事態は想定していたが、曹操はその上を軽く飛び越え、漢中に襲いかかってきたのだ。

揚松が今することは。

自然な滅びを皆に印象づけるための、悪しき存在の象徴としての行動。

つまり、今まで表に出していた印象を、更に加速するための。俗物としての、漢中滅亡の要因としての、悪の親玉としての言動であった。

「お待ちくだされ、張衛どの」

「佞臣め、何用だ」

「ほほほ、そう声を荒げずに。 此処は曹操様に貢ぎ物をお送りして、戦意がないことを示しましょう。 慈悲深いという曹操様であれば、貢ぎ物の内容次第では、兵を引いてくれるかも知れませぬ」

剣を思わず抜く張衛に対し、卑屈に張魯に阿ってみせる。他の将達も、あまりにも露骨すぎる揚松の発言には不快感を示したようだった。

「揚松。 国庫に蓄えられた金銀は、いずれも民より我らが預かっているだけのものに過ぎず、いわば漢中の民のものである。 それを曹操に渡すのは、あまりにも君主の路に外れる行為であろう」

「そうですか。 これは失礼いたしました」

「張衛も剣を収めよ。 今は身内で相噛む状況ではない」

これでいい。卑屈な笑顔を浮かべ続けながら、揚松は思う。後は、揚松のせいで、漢中が滅んだと、誰もが思うようにすれば良い。

逆に逆境の中、正道を貫く家臣も欲しい。若手の文官である閻甫が、挙手した。

「いずれにしても、陽平関に援軍は送らねばなりますまい」

「その通りだ。 張衛。 奇襲策は、まず敵の第一陣を防いでからにするべきであろう」

「分かりました。 一万を率いて、直ちに向かいます」

不平満々という様子で、張衛が出て行く。

これで良い。民の不満は揚松と、それに張衛が。希望の光は閻甫が受けることが出来る。

張衛は戦死すると、既に決めているようだ。揚松は、せいぜい無様に、曹操に惨殺されなければならない。

 

奇襲によって、一回だけ曹操軍を撃退することに、張衛は成功した。名将張?(コウ)に対して、一回だけでも勝つことが出来たのだ。歴史に名が残る金星であるのは間違いない。

だが続いて敵軍を追撃しようとした所で、よく分からない理由から味方が大混乱に陥り、撤退。本当に意味が分からなかった。逃げ出した兵士達の中には、無数の鹿が襲いかかってきた等と言っている者もいた。続く猛攻には耐えることが出来ず、陽平関はあっという間に陥落。張衛にも、味方が混乱した理由が分からない。

或いは、佐慈が薬物を兵士達にばらまいていたのかも知れなかった。

揚昂は自殺しようとした所を、張衛が止めた。二万の防衛軍は、追撃を受ける内に既に半減しており、抵抗など、最早思いも寄らぬ状態になっていた。

燃え落ちる陽平関が、遠くに見える。

まるで、夢のような光景だ。

張魯と、揚松と、一緒にこの国を作り上げた。父が作った基礎を、大いに発展させた。

経済力でも軍事力でも、他の群雄には勝ち目など無かった。だから、情報を得ることで、強みにしようと揚松が言い出した時、活路が開けると思った。

実際、もはや大規模な群雄しか生き残れていないこの時期に。このような小国が存在し得たのも、情報戦で他国を上回っていたからなのだろう。

揚松は、細作の生き残りを、益州に既に向かわせたそうである。

きっと、曹操の統治が上手く行かない場合は、劉備に譲り渡すつもりなのだろう。

闇夜の中、山道を必死に逃げる。松明も付けないから、何度も転んだ。後ろからは、凄まじい馬蹄の響き。やがて、追いついてきた泥だらけの兵士が叫んだ。

「敵の追撃隊です! 数、およそ三万五千!」

「三万、五千か」

張?(コウ)の軍勢だろう。先鋒だというのに、此方の全軍よりも数が多い。もはや、これをひっくり返すのは、あの魔王呂布でも不可能だろう。

「全員、先に行け。 急げ」

「ちょ、張衛様は」

「俺は此処で残る。 何、此処は隘路だ。 多少の時間は稼げるだろう」

籠城のための時間を稼ぐのではない。どのみち、漢寧の城壁は、さほど高くもない。戦慣れした曹操軍の猛攻に、民はとても耐えられない。

見苦しくない降伏の準備を整えるための、時間を稼ぐのだ。

それには、兵士達の無駄死には、必要のない要素だ。

「曹操軍は、漢寧まで直接押し込んでくるはずだ。 周辺の村にいる住民を、手分けして山に避難させろ。 曹操軍は士気が高いから略奪も暴行もしないだろうが、この機に賊が暴れ出す可能性がある。 武人や用心棒が足りなさそうなら、残れ。 漢寧の守りは、考えなくても良い」

「そんな!」

「良いから行け! 時間は、限られている! 俺はそんなに武勇が優れているわけでもないし、あまり時間は稼げないぞ!」

兵士達が、闇の中、我先に駆けだしていく。

馬の首を叩く。

こんな戦いにつきあわせてしまって、すまないと。

豪傑でも、英傑でもない。益州は落とすことが出来なかった。揚松と、張魯と相談して、漢中のような小国を回していくことしかできなかった。

だから、今こそ。

自分を育てて、生かしてくれた漢中という国そのもののために。張衛は命を張る。

数人の兵士が残った。いずれも、古参の兵士達ばかりだ。

「お前達は」

「俺はどうせもう足も弱くて、若い奴らのように村々を回れそうもありやせんから」

「古参の兵士達は、みんな、知っています。 揚松様が憎まれ役を買って出て、張衛様が頭が悪い将軍のフリをして。 それで、漢中が巧く動いてきたことを」

「お前達……」

不覚。涙が出てきた。

馬蹄の音が近付いてくる。谷を駆け上がってくる。弓を背中から下ろすと、張衛は引き絞った。

最初に見えた影に、矢を放つ。

撃ち抜かれた騎兵が倒れる。狭い路に密集することの危険性を感じたか、すぐに敵は一旦足を止め、遠巻きに此方を観察し始めた。

それにしても、凄い数だ。三万五千というのは、本当に暴力的な数値なのだと、張衛は思った。

だが、しかし。例え、どんな軍勢が現れても、こう言う所でものをいうのは武勇だ。

「凄い数ですなあ」

「うむ。 俺などに着いてこなければ、普通に人生を送れたかもしれんのに。 すまないな、お前達」

「何、こういう生き方もありますわ。 それに、張衛様に、漢中はどれだけ助けられたかわからねえし、誰かが一緒に行かなきゃあ、漢中は末代まで恥をさらしましょうよ」

敵が、じりじりと近付いてくる。

槍を構え直すと、張衛は裂帛の気合いを放った。

「俺は漢中の将、張衛! 誰かこの俺の相手になろうと言う者はいるか!」

「私が相手を務めよう」

即答。

進み出てきた影は。曹操軍の中でも無双の名将と名高い、張?(コウ)だった。

まだ若い。張衛よりも、少し若いくらいだろうか。

そして、一目で分かる。

戦っても、とても勝ち目など無いことを。

笑いがこみ上げてくる。このような名将との戦いを、人生の締めくくりに出来るのだ。将として、これ以上の幸せはあろうか。

月の光が、辺りに降り注ぐ中。張衛は、ゆっくりと長刀を抱え上げ、坂道を降りながら張?(コウ)に躍り掛かった。

 

張衛が消息を絶った事で、漢寧は混乱に陥った。

兵士達は民衆の混乱を収束させることだけを任務とされ、防衛は完全に放棄された。むしろ張魯は、兵士達に言ったのである。

「路を掃き清め、倉庫には鍵を掛けよ。 女子供は近くの村々へ避難させるように。 男衆は全員丸腰である事を敵に示せ。 城門には白旗を掲げよ」

「し、しかし、もしも敵が火を掛けたり、無差別に我らを殺そうとしたらどうしましょうか」

可能性はある。

揚松は、曹操が既に漢中の細作組織の詳細を掴んでいることを知っている。

漢中は、曹操の天下統一を散々邪魔した怨敵だとも言える。もしも曹操が二流の君主であったら、怒りにまかせて漢寧を焼き払うかも知れない。

しかし、曹操は二流の君主ではない。

子供っぽい所はあるし、感情にムラも大きいが、圧倒的な能力を持つ、時代を代表する英傑だ。後のことを考え、そのように無益なことはしないだろうと、揚松は判断した。

後は、全ての敗戦の恥を、揚松が引き受ければいい。

兵士達の中には、泣いているものも多かった。張魯が皆を諭している。

やがて、混乱が収まった。

今まで張魯が、皆を纏めてきた。その実績を、誰もが認めたのである。

張魯は君主として必要な印鑑と剣を用意すると、漢寧の城門に向けて歩き出した。馬超の配下であり、病気で益州には出られなかった?(ホウ)徳が戦いたいと言い出したが、張魯は諭して止めさせた。

まるで漢寧全体が葬式のような空気に包まれる中。

圧倒的な。まるで消耗している気配のない曹操軍が来た。数は八万五千。

漢中が終わる時が、今来た。

最後だ。揚松は、張魯に後ろから、声を掛けた。

「それでは、おさらばにございまする」

「お前は、本当によくやってくれた。 それなのに、末代までも汚名を被ろうというその忠義、私は生涯忘れぬ。 例え歴史書に、そなたが悪逆の化身として名を残そうと、私はそなたの忠義によって生を全うする。 何も報いることが出来ぬ私を許して欲しい」

不覚にも。感情を殺す訓練は散々してきたというのに。涙がこぼれていた。

城門に出る。

曹操軍は整列していた。張?(コウ)の側には、縛り上げられ、項垂れている張衛の姿もあった。意識がない様子だが、殺されなかったのか。いや、恐らくは、殺さずとも済むほどに、力量の差があったのだろう。それでも、昏倒させられるまで戦い、意地を通したと言うことか。

両者、向かい合う。周囲のすすり泣きの中佇立する張魯は、毅然として、まるで何かの神像のようだった。

宗教とは違う意味で。張魯は、今人の域を踏み越えていたかも知れない。張?(コウ)は少しためらってから、努めて優しい声を出した様子であった。

「漢中にて善政を敷いた張魯将軍でございますな」

「そう言うそなたは、曹操軍にて雷名をとどろかせる猛将張?(コウ)どのか」

「過分な仰りよう、お恥ずかしい事です。 さて、張魯殿。 その様子を見る限り、降伏、していただけるのですか」

「これ以上の戦いは無益で、民を苦しめるだけである。 曹操様に、お取り次ぎ願いたい」

侍従が、泣き震えながら、印綬と剣を差し出す。

しかし、民から受け取った税を納めた倉庫の鍵だけは、渡そうとしなかった。

 

曹操の下に、戦勝の報告が届いたのは、丁度陽平関に曹操軍本隊が到着した時であった。

掃討戦が終了し、焼けこげた関の匂いを嗅ぎながら一息入れようと、曹操が道ばたの石に腰掛けた瞬間である。長安から山道を急行してきて流石に少し疲れたので、焼き菓子を食べようとした矢先だったので、少し頭に来た。

「何じゃもう。 この焼き菓子は今までと違う香料を練り込み、茘枝の実を練り込んである新しい品で、楽しみにしておったのだぞ」

「し、しかし張?(コウ)様は、急ぎ知らせるようにと」

「わかっとるわかっとる。 そっちが重要なことくらいはな。 しかし余も、背を伸ばしたいし、美味しい菓子は食べたいのだ。 まあ重要な方を優先するとするか」

ぶつぶつ兵士に文句を言いながらも、愛馬に跨る曹操。口には円形に焼いた香ばしい焼き菓子をくわえたままである。

愛馬に跨りつつ、器用に口に焼き菓子を入れた曹操は、それでも流石に思考を切り替える。

「そなた、良く知らせてくれたな。 後で褒美を取らせるぞ」

「ありがたき幸せにございます」

安心したらしい兵士がぺこりと拝礼して、張?(コウ)の所に戻っていった。

陽平関のすぐ先には、野戦陣を張らせている。そちらにはいると、すぐに曹操は中軍、後衛の幹部達を招集した。曹洪、夏候淵と、司馬懿、それに揚修が集まる。今回は牛金と郭淮も連れてきているのだが、二人は先鋒なので此処にはいない。天幕の中で、許?(チョ)を従えた曹操は最上座に着くと、諸将を見回した。

「聞いていると思うが、張魯が降伏した。 印綬と剣を差し出し、しかし倉庫の鍵は出さないという、見事なものであったそうだ」

「ふん。 負け犬が、気取ったものだな」

司馬懿が小声で呟くのを、曹操は聞き逃さなかった。

この男は、楚漢戦争の頃から続く名門司馬家の次男であり、能力は文句の付けようがないのだが、陰湿でひねくれている。以前から噂は聞いていたのだが、今回の遠征で今までにない近い場所で観察して、曹操はそれをはっきりと確信することが出来た。

根は悪くないのだが、周囲に悪影響を与える男だ。頭が下手に良いため、余計にタチが悪いとも言える。危険な人材であることには間違いがなく、曹丕には使わないようにと釘を刺す必要があるだろう。

「張魯が堂々と降伏した以上、此方も礼を尽くしてそれを受け容れる必要がある。 司馬懿。 そなたには、それを任せる。 相手に非礼があってはならんぞ」

「分かりましてございまする」

内心では舌打ちしているであろう司馬懿に、敢えてそれを命令する。生きている内に、飼い慣らせるようならそうしておく。無理そうであれば、早めに処分を検討しなければならないだろう。

続いて夏候淵だ。

「夏候淵。 此処漢中は劉備との激戦地になるだろう。 多分奴は、漢中にも相当な数の細作を入れているはずだ。 張魯と劉備が裏で通じている可能性さえある。 だから、遠征軍はそのまま残していく。 そなたは十二分に、敵の襲撃を警戒せよ」

「分かりました」

「曹洪も此処に残していくが、それだけでは不安だ。 何かあったら、張?(コウ)に相談するように」

夏候淵も、己の能力不足はよく理解している。文句を言うこともなく、命令を受け容れた。

最後に揚修だ。

まだ若い参謀だが、曹操はこの男が苦手だった。

昔からこの男は、曹操の考えを見透かしているような所があった。

かって劉表が生きていた頃、曹操の所に、デイコウという非常に口が悪い男が訪れたことがある。非常に優秀な男でもあったのだが、揚修と孔融はその性質を度外視し、能力だけを考慮して曹操に推薦した。

結果、デイコウは宮廷で人間が思いつく限りありとあらゆる暴言の限りを吐いて曹操を辟易させ、荊州との外交をも破綻させるという暴挙に出た。揚修はいったものだ。賄賂を取るような奴でも、優秀であれば推薦しろと言ったのは丞相だと。

曹操はだから、揚修には何も言わなかった。

しかしその後も揚修は、曹植に露骨な肩入れをして、曹操が喜びそうな質問に対する答えを教えるわ、曹操の行動にいちいち注釈を付けて周囲に説明をするわで、他人の心を見透かすこと著しかった。曹操も滅多なことでは無礼な相手に怒ることはないのだが、最近はいい加減本気で頭に来ていた。

もちろん、感情に応じて部下を殺すようなことはしない。

だが、曹植に対する肩入れは内紛の要因にもなるし、あまりこういう言動を放置させておくと部下達が曹操を侮ることにもつながる。そうなってしまうとおしまいだ。いつか、何かしらの処置はしておかなければならないと、曹操は考えていた。

「揚修」

「ははっ」

「そなたは漢中の降伏した将達を集め、使えそうなものを推薦せよ。 張魯と張衛、それに揚松については余が処置を決める」

「分かりました」

目的は、漢中の人材を発掘することではない。

孤立した状態に揚修と曹植を、それぞれ置くことだ。しばらくそれで様子を見て、行状が改まらないなら、考えるしかない。

それに、激戦地に置くことで、揚修の危機対応能力を試すことも出来る。良い所のボンボンが、何処まで地獄の戦場で能力を発揮できるかが見物である。

評定を済ませると、一晩だけ休んで、曹操は漢寧に向かった。

途中の村々が張?(コウ)の軍によって焼き討ちされているようなこともなく、かなり静かだった。しかし村の人間達は近所の山に避難している様子で、漢中側の軍勢が、勝ち目がないと見るや避難誘導に全力を注いだことが伺える。

「ふむ、見事なものだ」

「しかし、此処がまた戦場になるのですな」

「そうだな。 しかしこれだけ入り組み、多くの村が点在する状況だというのに、良くも見事に纏め上げたものだ。 実際の統治には宗教色もなかったと言うし、つくづく惜しい男だな」

許?(チョ)が側にいるから、刺客のことは心配していない。

漢中の山々は、非常に切り立っていて、いずれもが天をも貫くような高さだった。側に控えている文官に、曹操は命令しておく。

「地図の類は、必ず接収せよ。 写しを取って、すぐに許昌と?(ギョウ)に送れ」

「はい」

此処で乱戦になったら、土地勘が必ずやものをいう。

その日の夕刻には、漢寧に入った。陽平関から抵抗も敵の残党による襲撃もなく、非常に快適な旅であった。

張?(コウ)は漢寧の外に陣を張っていた。兵士達が民を虐げないようにと言う配慮である。その陣で張?(コウ)からの報告を一通り受けた後、曹操は天幕にはいる。其処には、漢中を長年経営し続けた、三人が拝礼していた。

張魯は生命力を使い果たしている風情であった。これでは、部下としてやっても、数年しかいきられないかも知れない。張衛もそれは同じである。そして、揚松に到っては、もはや覚悟を決めている風情であった。

「余が曹操である」

「張魯にございます。 此方は、張衛と、揚松です」

「早速であるが、余に長年情報戦だけで張り合ったそなたらの手腕、高く評価しておる」

特に、細作達を率いていた揚松は、重要な存在だ。全ての悪逆を引き受けるような形で、漢中の自然な滅びを演出。民衆の恨みを買うことで、後の沈静化を早くする。そんな役目を、この男は引き受けた。

曹操としては、無視できない人材である。死なせるにはもったいない。

「死なせてくださいませ。 それでこそ、漢中の民は納得いたします。 そもそもこの漢中は、多くの村が乱立し、それを纏めるために、宗教という特定の言語が必要となったのです。 張魯様の父が始めたこの手法は、漢中を纏め上げるのには確かに成功いたしました。 しかし同時に、君主が飾りに過ぎないという欠点も有していたのです」

「そこで張魯は、お前達を両腕として、傀儡政権であることを逆利用し、影から漢中の手綱を取り続けたという訳だな」

そのくらいのことは、調べがついている。

林が接触していた佐慈という男の組織から、漢中の内情はだだ漏れだった。嘘くさい情報も多かったが、曹操くらいになってくると、正しい情報のより分けくらい簡単である。しかし、いつまで経っても本当に背が伸びる器具や手段はなかなか見つからないが、これはどうしてなのかよく分からない。

黙り込んだ揚松に、曹操は顔をせり出し、少し距離を詰めた。

「そなたの漢中への忠義、そして張魯への忠誠、大したものだ。 だが、此処で死んでは犬死にであろう」

「我らは漢中のためだけに人生を捧げてきました。 今、漢中の民を守るためであれば、全ての汚辱を受け、歴史の闇に葬られようとも、悔いはありませぬ」

「ますます天晴れな覚悟よ。 しかし、何とも狭い。 今、天下は麻のように乱れ、恐らく余が生きている内に、収まることはないだろう。 百年先の事を見据え、揚松よ。 そなたの力を、漢中だけではなく、天下万民のために振るっては見ぬか」

「天下、万民のため」

困惑しきった表情を、揚松は浮かべていた。

今までこの男は、漢中を保持するためにありとあらゆる手を使ってきたことだろう。暗殺、情報操作、破壊活動。それは小国が大国に対抗するためには、正しい手段ではあった。しかし、天下万民のためと考えれば、確実に違っている。

「少し考える時間をやろう。 死刑囚の中から、お前に似ている男を適当に見繕い、処刑しておく。 それで、当面民は落ち着くだろう」

「……貴方は、一体何を為そうとしているのです」

「余なりのやり方で、天下に平穏をもたらそうとしておる」

即答し、曹操は三人を都に連れて行くように、張?(コウ)に指示した。

この三人は、揃って初めて意味を成す。そして恐らくは、漢中という土地から離れることで、初めて新しい次元に到達することが出来るはずだ。

曹操は人材を幾らでも欲しいと考えている。

閻甫と言う文官もそれなりに使えそうだが、この三人こそ、此処での最大の収穫だと、曹操は確信していた。

 

漢中を陥落させた。曹操は、急いで要塞化するよう夏候淵に、曹洪には漢中の地形を調査させ劉備軍が攻め込んできた場合には出鼻を叩くように、それぞれ命じた。曹操は、八万強の軍勢をあらかた残し、自身は千ほどの小勢で許昌に戻った。荊州で攻勢の限界点に達した時もそうだったが、曹操は許?(チョ)に絶大な信頼を寄せているので、こういう小規模戦力での高機動を近年多用するようになっていた。今までそれを見越した様々な勢力によって暗殺が計画されたようだが、許?(チョ)はその全てを防ぎきっている。一度などは、毒を差し入れしようとした使用人を、その場で味見もする前に取り押さえたことがあった。

武芸も超一流だが、今の許?(チョ)は危険察知能力に関して、恐らく中華随一の男だ。しかも丁度良い具合に頭が悪く、しかし口が堅いので、曹操は安心して何でも話せるのであった。

許昌に戻ったのは、他でもない。?(ギョウ)はあくまで王都であって、実質上の行政機能は、領土の中心にある許昌に集めてあるからである。

益州を陥落させた劉備は、恐らく一年か二年ほどで漢中に攻め込んでくるだろうと、賈?(ク)は予想していた。曹操も同意見である。つまり、西涼、漢中の二重防衛線に、早めにさらなる強化を加える必要がある、と言うことだ。

まず軍勢だが、更に徴募する必要があるだろう。

漢中の戦線に機動部隊を投入する必要が、近々確実に出てくる。流石に五万を超える軍勢は集められないだろうが、それでも動かし易い所で、三万程度は集めておきたい。既に韓浩に話はしてあるが、彼は難しいと言っていた。

ここのところ、膨張した領土に併せて、曹操は兵を急激に増やしている。それが今まで以上に経済を圧迫しており、各地でその弊害が出ていた。少し兵が経済力に対して多すぎるのだ。

しかしながら、各地の防衛を考えると、兵そのものは決して多くない。それはつまり、中華というこの国そのものが、弱体化し、人間が減ってしまっている、と言うことに他ならない。

荀ケを呼ぼうと思い、曹操は慄然とする。

少し前に、精神を病んでいた荀ケは、漢王朝を壟断する曹操を呪う言葉を残して、首をくくったのだ。

奴ほど数字に強い男は他にいない。

何度も説得はしたのだが、ついに儒教という色眼鏡は、荀ケの思考方法を変えてはくれなかった。

曹操はその死を惜しんだが、最早どうにもならない。代わりに程cを呼んで、相談することにした。

のそりと、曹操より頭一つ以上大きい男はやってくると、何度か咳をした。曹操が挙兵した頃からの参謀である。お互いに年を取り、健康にも自信が無くなってきているのは、仕方がないことであった。それでも、昔同様、近くに立たれると熊に睨まれているような威圧感がある。

「程c、相談したいことがある」

「兵力の増強ですか」

「そうだ。 しかし、経済力から考えて、これ以上の戦力を増強するのには少しばかり無理がある。 何か良い手はないか」

「そうですな。 鳥丸や鮮卑の優秀な兵をもっと雇い入れて、騎馬隊として活用するのはどうでしょうか。 これならば漢民族の若者を徴募することなく、兵士を増やすことが出来まする」

確かにそうだ。

事実今までも、その手でかなり兵を増やしてきている。西涼を陥落させた後、増強したかなりの兵力が、鮮卑と鳥丸から徴募したものだ。彼らは小規模な紛争でその破壊力を見せており、特に江東との国境紛争では、陸戦慣れしていない江東の軍勢を毎度見事な機動力で蹴散らしていた。

しかし、彼らに頼りすぎるのは危険であると、曹操は考えていた。

「あまり彼らに漢民族の戦い方を教えるのは好ましくない。 今はよいが、後何十年もすると、軍は彼らに独占されてしまう可能性もある。 もしそうなった場合、未曾有の惨事が発生しかねん」

「なるほど、確かにそれもそうでございます」

「屯田は大きな成果を上げているようだが、それにも限界があるしな」

「現在、離散していた民を屯田によって引き戻し続けてはおりますが、それもまだまだ時間が掛かりまする。 西涼の危機が去った今、司隷地方の住民をより積極的に戻し、荒れていた街道を整備し、賊を討伐して排除することにより、国内の経済的、人材的動きを活発にして、対処していくしかないかと」

地道だが、確かにそれしか無さそうである。

もとより、国家運営に奇策はない。革新的な技術を活用する方法も確かにあるが、それも基礎があってのことである。

幸いなことに、曹操は劉備、孫権に比べて、著しく広い領地と、多くの人民を有している。つまり潜在能力はとても高い訳で、確かに地道な強化政策が実を結びやすい。程cの言葉も、もっともであった。

「良し、それで行く他無いな」

「お聞き入れくださり、有難うございます」

「しかし、一つ問題がある。 近々合肥に江東が大規模な攻撃を掛けてくる可能性が高いことが判明している。 それに対処するためにも、余直属の機動部隊が必要となってくるのだ。 青州兵はもうあらかた各地に配備してしまっているし、新しく徴兵するのは気が進まぬ。 此方については、何か良い手はないか」

「それならば、一つございまする」

程cの提案は、驚くべきものだった。

確かに兵力不足はそれで多少は回復できる。しかし、留守居役の将軍達には、苦労を掛けることになる。

しばし考え込んだ後、曹操はその案を採用することとした。

無数の思惑が絡み合う中、その年の秋。

江東が、合肥に大規模な攻撃を仕掛けてきた。全ては、曹操が掴んでいる情報通りであった。

 

5、遼が来る

 

十万。

荊州の一部を手に入れ、飛躍的に経済力を高めた江東であっても、最大限の動員兵力と言っても良い。

長江を越えた十万の大軍勢は、領土を拡げるためではない。危険を排除するために、進軍していた。従軍している将軍は、荊州方面に出ている呂蒙、陸遜を除く主要な武将があらかた全員である。

この時合肥の軍勢の多くは、周辺の反乱勢力の掃討に出向いており、七千しか残っていなかった。警告されていたというのに、この体たらくである。張遼は腕組みして、続々と来る絶望的な報告を聞き入れていた。

「敵兵力は、やはり十万。 既に野戦陣を構築し始めています」

城内には、曹操軍でも屈指の名将である楽進と、知性派で知られる李典がいる。しかし、兵が七千しかいない。彼我の戦力差は十五倍近く、とても勝負になる状況ではない。堅固に整備されたこの合肥であっても、耐えられはしないだろう。

この合肥は、江東ののど元に突きつけられた刃にも等しい。

だから、猛烈な攻撃があることは分かりきっていた。

「曹操様の援軍は」

「一月ほど掛かると言うことです。 正規軍を十万程度連れてきてくださるという事なのですが」

「……そうか」

残念ながら、それは難しいだろうと、張遼は思った。

西涼に派兵し、更に漢中にも多くの兵を入れたばかりである。各地の兵力の損耗や、曹操軍の経済力から考えても、流石に十万をいきなり連れてくるのはかなり難しい状況だろう。

曹操はその困難をいつも乗り越えてきてくれたが、しかしいつもいつも同じように奇跡が起こるとは限らない。

城壁から降りる。

楽進と李典は、執務室で不安げに待っていてくれた。

その二人を見るやいなや、張遼は言った。

「出撃する」

 

孫権が自ら出征したという点でも、今回の江東軍出兵は異例であった。

元々孫権は孫策と違い、陣頭の猛将ではない。ある程度弓は出来るが、それも通常の領域を超えておらず、豪傑達の神業には遠く及ばない。得意とするのは四家との利害調整や、有力豪族や家臣達のとりまとめである。

所詮孫家は傀儡に過ぎず、それが故に最高の傀儡であろうとしている男が孫権だ。だからこそ故に、今回の出征は異例であったと言える。一昨年の局地戦でも出ているのだが、それは文字通りの小競り合いで、国家が総力で挑むようなものではなかった。

兵力、十万。圧倒的なその戦力の、総司令官は孫権である。だが実際にそのような兵力を指揮したこともなく、実権は四つの師団に分割されていた。江東の宿将である徐盛、朱然、それにかなり老いたとは言え程普、それに韓当が指揮を執っている。近年まで水軍を率いて活躍していた黄蓋は少し前に天寿を全うして死亡。全軍の参謀として、魯粛が出てきており、実質上の総司令官は彼であった。

そのほかにも朱桓などの若手将校もあらかた出撃しており、諸葛謹などの大物文官達も、補助要員として作戦に参加している。江東を代表する豪傑の董襲は一昨年の小競り合いの最中、水難事後で死んでおり、それだけが惜しい。兵は山越から「徴募」した者達が中心だが、これはもちろん、「討伐」を行った時、人狩り同然で集められた兵士達だ。

近年は諸葛亮側から貸与された技術によって細作の数も少しずつ増え始めていて、既に合肥の軍勢が七千程度だということもはっきり分かっている。今回は、江東にとって厄介な合肥を叩きつぶす、千載一遇の機会。それに対して孫権は、必殺の態勢で臨んでいたと言える。

留守居には張昭が残っているので、そちらも問題がない。

問題があるとすれば。

孫権は斑の愛馬に跨って、不安に駆られながら周囲を見回していた。護衛として貼り付いている周泰が、低く抑えられた声を向けてくる。

「呉主、如何なさいましたか」

「見ろ、味方の油断はどうだ」

確かに、兵力差は十五倍である。

しかし、野戦陣をだらだら組む様子といい、斥候もろくに出していない有様といい、まるでなっていないという他無い。

果敢だった孫策の時代から、時も流れている。荊州での戦闘も、死闘と呼べるようなものでは到底なく、何より実戦から離れている将校も少なくない。流石に上級の指揮官達は孫策の時代から戦場を駆け回っていた者達だが、下級、中級の指揮官には、著しく人材が少なかった。

「これは、私が呆けたら、江東はえらいことになるかも知れぬな」

「不吉なことを言いなさりますな」

「周泰、私が呆けたら、四家の当主どもを容赦なく斬れ。 多分そうしないと、江東という国家そのものが終わることになる」

「考えておきます」

軽く流されたが、周泰の目も笑ってはいなかった。

十万の軍勢は、鈍重に動き出す。一応塊として動いてはいたが、周辺は湿地帯が広がっていて、どうしても隊列は乱れる。中には泥沼に踏み込んでしまい、後から来る兵士達に押されて溺死寸前にまで陥る例さえあった。

中軍にいる甘寧が、頭を抱えて醜態を見つめる。孫権もそうしたい気分である。

魯粛も同じ気分のようで、大きく歎息していた。

「一旦湿地帯を抜けた所で、陣を張り直しましょう」

「それが、賢明だな」

此処で奇襲を受けたら、大損害を受けることになるだろう。孫権も魯粛に同意して、軍勢を進める。

だが。

陣を整える時間など。無かった。

前方で、とんでもない殺気が炸裂した。そう思った時には、既に地獄が始まっていた。

後に幼子にまでその恐怖が伝えられたという、江東にとって最大の屈辱となる大敗北、合肥の合戦の開始である。

 

小高い丘の上で、張遼は群がる江東の大軍勢を見た。前評判通り、数は十万。流石の威容である。

城には李典だけを残した。兵力は五百。

千五百を張遼が率い、残りは楽進。今回は、騎兵だけを率いる張遼が、敵軍に襲いかかり、楽進が二陣としてそれを補助する。

それが、張遼の立てた作戦であった。

もとより、楽進と李典は張遼と仲が悪い。

楽進は曹操の最古参の猛将であり、ずっと曹操を側で支えてきたという自負がある。李典は呂布に父を殺された過去があり、かって呂布の猛将だった張遼のことを、決して快く思っていない。

だから、説得は大変だった。

しかし、これも全て曹操のためと強弁することで、どうにか張遼は、二人を説得することが出来た。

もちろん騎馬隊の司令官として、長年実績を上げてきたと言うことも、二人の名将を従わせる原動力となったのだろう。そして今、張遼は。鳥丸の最精鋭と、自身に長く付き添ってきた古参の部下だけを率いて、丘に布陣していた。

ここから先は、長く降る坂である。そしてその先には、敵の大軍が移動中の湿地帯がある。

土地勘は此方にある。

張遼は、この時。勝ちを確信していた。

「楽進将軍に伝令。 私はこれから、全軍を持って江東の軍勢に殴り込みを掛ける。 そなたもそのまま突撃し、敵を縦横無尽になぎ払え、と伝えよ」

「そ、それで良いのですか」

「見ろ、敵を。 数に驕って油断しきり、隊列は伸びきり、大軍が湿地帯の中で右往左往している。 敵の先鋒を押し込んで混乱を拡大すれば、そのまま一気に殲滅することが可能だ」

伝令が納得して、楽進の陣へ向かう。

残念なのは、今は湿気が強くて、火計が出来ないと言うことか。

これから、六十倍を超える敵に突撃する。武者震いが来た。敵は此方が城に籠もっていると思いこんでおり、騎馬隊への備えとなる馬防柵さえ持ち出していない。もはや、勝利は確実であった。

「総員、敵を倒しても首を取ろうとは考えるな! ただ、斬って斬って斬りまくれ! 曹操様のために、揚州と徐州を守り抜くぞ!」

「殺ッ!」

絶叫がとどろく。

先頭に立ち、張遼は愛馬に鞭をくれた。

合肥には彼の妻がいる。目が不自由だが、心の優しい女だ。呂布に使えていた頃から一緒にいて、気心も知れている。

彼女のことだけを考えて、張遼は一瞬だけ心を空白にして。

そして、坂を駆け下りながら、殺意だけに心を切り替えた。全身が燃え上がるほどの高揚感が、時の流れを加速するかのようである。長刀を振るい上げ、何事かと顔を上げた敵将の首を、いきなり一刀でたたき落とした。

逃げ散る雑兵を馬蹄にかけ、徹底的に蹴散らす。大量の血を浴びながら、張遼は敵を殲滅し、打ち砕き、そして踏みにじった。敵は数が多いからか、それでも油断している様子があったが。第一陣が壊滅し、被害が第二陣に及び、更に指揮官の首がすっ飛ぶのを見て、流石に本腰を入れ始めた。

後方から楽進軍が突撃を開始する。

それに恐れをなした雑兵達が逃げ出し始めると、恐怖が全体に拡大し始める。

無数の矢が飛んでくる中、張遼は返り血で真っ赤になりながら、走る。途中、馬が斃れた。敵将の馬を奪い取り、乗り換える。斬る。刺す。貫く。首を刎ねる。暴れ、暴れ狂い、敵を更に追い立てる。

気勢を上げながら、鳥丸族の戦士達が、走り回る。彼らは騎射を巧みに使い、矢を放とうとする敵兵を片っ端から射貫いた。

「逃げる奴は相手にするな! 戦意のある敵を片っ端からたたけ!」

「殺ッ!」

目を血走らせた騎兵が、敵を蹂躙する。

既に馬までもが返り血で真っ赤だ。その中を、張遼は、ただ走る。そして、刃を振るった。

気がつくと昼になっていた。だが、それでも張遼の勢いは止まらない。後続の楽進隊に歩兵の処理を任せ、更に突進する。幾つめの敵陣を蹂躙したか。ついに、見える。孫の旗が。

「続けええっ!」

張遼が吠え、千五百がそれに続く。

 

一瞬の出来事だった。

前衛が蹴散らされ、壊滅したと同時に、それは始まった。湿地帯に入り込み、身動きが取れなくなっている孫権軍は、片っ端から蹂躙され、各個撃破され、踏みにじられ、沼に追い落とされ、そして叩きつぶされた。

魯粛が指揮をする暇もなかった。

「孫権様、待避を」

「お、おのれ、おのれえええっ!」

無念のあまり、孫権は絶叫する。まさか、七千の敵に、此処まで一方的な戦いを許すとは。馬のくつわを取られた。周泰だった。

「周泰将軍、殿を逃がせ!」

「分かりました。 この身に代えても」

「嫌だっ! 私は、このような屈辱など、甘んじては受け……」

言葉が止まったのは、気がついたからだ。

敵が、見ている。

すぐ側まで、来ている。

そして敵将が。全身を朱に染めた、張の旗を背負う敵将が。孫権のことを見ている。違う、孫権のことだけを見ている。魯粛が叫んだ。

「急げっ! 生き残りたかったら逃げろっ!」

既に、誰もが勝機があるとは思っていない。逃げ散る兵を無視し、張遼はただ一直線に、孫権を狙って追ってきた。無数の矢が飛んでくる。振り返って、何度か騎射したが。しかしそのたびに張遼との距離を縮められるような気がして。心臓が口から飛び出しそうになった。

殺される。追いつかれたら、確実に殺される。

孫権は全身の冷や汗で、水分が無くなりそうだった。

見えてきた。

野戦陣と、浮き橋がある。その先に、江東の旗艦がある。

しかし、浮き橋の間が幾つか抜けていて、孫権は絶望して足を止めそうになった。甘寧が叫ぶ。

「野戦陣に逃げ込めば、騎馬隊は簡単には入り込めません! 彼処まで行ければ!」

「し、しかし!」

「私が食い止めます」

上級将校の陳武が、蒼白な顔で叫ぶ。同時に旗本三千ほどが、気合いの声を挙げて、振り返った。

「陳武!」

「お急ぎを!」

甘寧が逞しい腕で孫権の馬のくつわを引き、引きずるようにして野戦陣に。見れば、徐盛の陣も壊滅、朱然や程普、韓当の陣も支離滅裂であった。だが、堅固に構築したこの野戦陣なら。

必死に、逃げ込む。

そして、甘寧が、陣の戸を閉じさせた。孫権が目を剥いて叫んだ。

「甘寧っ!」

「今は、開けられませぬ! 味方は大敗したと言っても、まだ圧倒的に有利! 敵は攻勢が限界に達した所で引かなければなりませぬ! それまで、お待ちください!」

「し、しかし陳武は!」

陳武は孫策時代からの古参で、最初期からの古豪である。櫓に駆け上った孫権は、見た。陳武の配下が、勢いに乗った張遼軍によって、見るも無惨に壊滅するのを。江東では数少ない精鋭部隊であったのに。

そして、陳武は。名乗りを上げて、悪鬼の化身がごとき張遼に挑み掛かる。体格では五分に見えた。

「俺は陳武! 名高き張遼将軍と見た!」

「我が名を知りながら、なおも挑もうというその意気や良し! 我が軍の赤を、目に焼き付け、冥土へのみやげとせよっ!」

二騎がぶつかり合う。しかし、たった二合だった。

陳武の首が飛ばされるのを見て、孫権はその場に崩れ落ちてしまった。

夕刻になり、張遼は一度引き上げた。

たった一日で、一万二千もの兵が戦死。特に張遼自身は、一人で三百か四百か、とんでもない人数を斬ったことが確実であった。その中には上級将校が三人、それに孫策時代からの宿将である陳武が含まれていたのである。

それから三日は敗戦処理も同然の状態になった。

どうにか態勢は立て直したが、既に兵力は半減している。魯粛の作戦立案には問題がない。全ては全軍に蔓延していた油断が原因であった。

徐盛は戦死こそ免れたが負傷し、後方に下がった。本陣の旗まで倒されていた状況である。命が助かっただけ良かったのかも知れない。魯粛も負傷していて、頭に包帯を巻いていた。

負傷者を後送する指示を出している孫権に、伝令が駆け寄ってきた。

「ご注進にございます」

「如何いたしたか」

「曹操軍が現れました。 数は、およそ十万!」

流石に周囲が凍り付く。

孫権は、血を吐くような表情のまま、絶叫していた。

「おのれ、おのれおのれおのれえええっ!」

合肥城事態は、甘寧に任せた二万に包囲させていたが、堅固で、まるで落ちる様子がないという。

もはや、撤退以外に道はなかった。

しかも、追撃を受けるのは確実で、更に被害が増えるのも確実だった。

「私の軍勢が囮となる。 張遼の軍を引きつけるから、そなたらはその隙に逃げよ」

「なりませぬ。 今の張遼は、鬼神をも凌ぐ存在にございます。 せめて影武者をおたてください」

「それでは見抜かれよう。 急げ」

孫権はそう言うと、近衛の旗本を千五百ほど見繕い、陣を出た。側にいる側近は凌統のみ。他の将は、全て本隊の指揮に回した。

もはや、これ以外に。彼が出来る状況への反抗は存在しなかった。

その後、状況を見て出撃してきた張遼によって、孫権の軍勢は更に叩かれに叩かれたが、本隊はどうにか脱出に成功。しかし、孫権と供に囮を努めた近衛の精鋭達は、殆ど全滅するという無惨な被害を出したのだった。

かろうじて旗艦に辿り着いた孫権は、無事だったが全身に怪我をしていた凌統と、谷利というまだ若い旗本に、自らの鎧に突き刺さった矢を抜かせながら、呟いた。視線の先には、長江の川岸で、悠然と此方を見送る張遼の姿があった。

「覚えていろ。 いずれ、貴様を討ち取ってみせる」

今回の大敗で、また四家に大きな借りを作ることとなる。その憂鬱よりも。屈辱に起因する怒りの方がより強く、孫権の中で燃えさかっていた。

この戦いの後、張遼は江東では鬼神の一種として認識されるようになった。その容姿と強さは尾ひれがついて風潮されるようになり、張遼が来ると言えば、泣く子も黙る程となったという。

 

曹操が到着したのは、張遼による江東軍撃退の、二日後のことであった。

率いているのは四万。しかも、その兵士達を見て、張遼は絶句した。

城門を潜って入ってきた曹操に、張遼は憮然として問いかける。その様子が、曹操には何処かおかしかった。程cの予想通りの反応だったからだ。

「曹操様、援軍有難うございます。 して、この兵士達は」

「見ての通りだ。 許昌周辺の浮浪者、職にあぶれた若者、浪人などだ。 それを進軍しながら訓練してきた」

もとより戦意が低い江東の軍勢である。張遼の堅固な守りで疲弊している所に、「号して」十万の軍勢が来ると知れば、引き上げるのは確実だった。そう自慢げに、得意満面で曹操は言った。それは全くの事実であったが、その兵の質の低さを見た楽進も李典も、あきれ果てていた。

しかし、それでも江東の軍勢を追い払うことが出来たのは事実である。だから、別に構わない。

合肥の軍勢だけでは、結局孫権の軍に数で押し負けていたことは間違いない。曹操の的確な援護がなければ、とてもではないが合肥は守れなかった。

祝勝会が開かれる中、曹操は思う。多分来年も、此処は戦場になる。劉備が漢中からの侵攻を防ぐには、曹操を合肥に引きつけておくのが一番だからだ。諸葛亮による陰謀攻勢はまだ続くだろう。そして気の毒だが、江東は当分それに振り回されるのだろう。

張遼が酒を注ぎに来たので、話し掛けておく。この合肥で酒を飲むのは久し振りで、それが何処か心地よい。

「連れてきた兵は、皆そなたに任せる。 一人前にまでしっかり仕込んでやってくれ」

「は。 しかし、このような詐欺同然の手口で大きな被害を出すことになるとは、江東の将兵は報われませぬな」

「元々江東は、国家戦略として受け身を選んでいる。 である以上、戦史に残るような派手な勝利は実際には得られんだろうよ。 せいぜい侵攻軍を叩いて追い返す、程度のことか。 それを歴史を歪曲して、後世に向けて派手に喧伝する程度だな」

「……そう、ですか」

「彼らはそういう戦略を選んだ。 それだけの事だ」

軍楽隊が入ってくる。目が見えない張遼の細君が、指揮をしているようであった。

奴隷出身だという張遼の細君は、目が見えない代わりに、耳が非常に良いらしい。そのため軍楽隊は少数でありながらかなりの腕前を誇り、確かに曹操が聞いていても実に心地がよい。

それに、西から入ってきたらしい、異国の楽器も彼らは弾きこなしている。なかなかに独創的な楽奏に、その場の皆は聞き惚れていた。

楽奏が終わると、場は惜しみない喚声に包まれた。堅物の楽進までもが顔をほころばせている。曹操は楽隊の一人一人に褒美を渡しながら、その目は異国の楽器に興味津々であった。

「素晴らしい。 どれ、余にも見せてくれぬか」

「魏公であらせられる曹操様も、異国の楽器には興味がおありですか?」

「大ありだ。 そりゃあ余も若い頃は、おなごの気を引こうと色々な楽器を勉強したからの。 当時はおなごの気を簡単に引ける便利な道具であった故に楽器が好きだったが、今では単純に好きな故に見てみたい」

そう素直な言葉を曹操が言うと、上級将校達は皆唖然とした。

くすくすと笑いながら、張遼の奥方は楽器をくれる。弦楽器、打楽器、いずれも中華のものとは違っていた。中でも、貝のような形状の、二つの木片を併せた楽器が曹操の興味を引いた。

「ほう、これは単純にして絶妙な。 何という楽器ぞ」

「カスタネットと言うそうにございます。 このように叩いて音を出すのですが、奥が深い良い楽器にございます」

「どれどれ、こうか。 雲丹、雲丹。 それ雲丹、雲丹」

「お上手にございます」

軽妙にカスタネットを叩いてくねくね躍る曹操を見て、既に上級将校達は石化していた。張遼に到っては血涙を流して自分の世界に逝ってしまっているほどである。そんななか、楽しげなのは張遼の奥方だけであった。

「楽しげなお方ですね、魏公は」

「楽しいかもしれんが、我らは正直胃に穴が開きそうだ」

ぼやく張遼を余所に、曹操は立ち上がる。

「うむ、カスタネットの素晴らしい音により、一句出来たぞ!」

曹操はこの時代を代表する詩人でもある。素早く侍従が竹簡と墨を差し出し、専用の筆を執りだした曹操は、吟じながらさらさらと筆を走らせる。

「鴻雁出塞北、乃在無人郷、挙翅萬餘里、行止自成行……」

それは、故郷に帰りたいと願う一兵士の切実な悲しみと願いを歌い上げた詩であり、その場の誰もが聞き惚れる。

その中、曹操は詩作を終え、筆を止めた。詩の題を却東西門行とし、カスタネットを返しながら、張遼に言う。

「これは製造がそう難しくあるまい。 量産して兵士達に配ってやれ。 乱世の中、悲しい戦いを強いられる兵士達が、少しでも楽しむことが出来よう。 単純な音楽は、誰もが楽しめる良いものである」

「……分かりました」

「うむ? どうした」

「私には、時々貴方が分からなくなります。 しかし、貴方に着いていくことだけが、私の全てです」

そうかと、曹操は一言だけ呟く。

まだまだ、多くの兵士が故郷を離れて死ななければならない。

この時代を終えるには、全体のことを考えた、曹操の戦略が絶対に必要となる。民のことを考える劉備の戦略や、ましてや地方での安寧を考える江東の戦略では、絶対に中華は統一できない。そう、曹操は考えている。

中華の統一が遅れれば、周辺の異民族による介入が始まる可能性も高い。あまり、時間は残されていない。

「漢中を保持さえ出来れば、天下統一は二十年早まるだろう。 後は合肥さえ守り抜けば、同じ程度の年月を稼ぐことが出来る」

曹操は焼き菓子を摘みながら、呟く。

天下統一の構想は、次世代に引き継ぐとしても。未だ曹操の中で、生きた理論として、渦巻き続けていた。

 

(続)