血塗られた西涼

 

序、馬超

 

渇き果てた大地に精気はなく。

点在する小村には、生命の気配は残されていない。

男は皆軍に入っている。そうでもないと、生活できないからだ。

女子供は近くの山で細々と暮らす。そうでもしないと、略奪され、何をされるか分からないからだ。

荒れ果てた土地と、それ以上に渇き果てた心の土地。

それが、今馬超が立っている、西涼だった。

もはや、この土地で、民の生活と安寧を維持するのは不可能。侵入し続ける鮮卑や兇奴の民により、治安は悪化する一方。最近では、とうとう土地の古老達からも、貧しすぎる状況に耐えかねる声が上がり始めている。

そんな状況の中、ついに耐えられなくなった馬超の父馬騰は。

豊かな都へ、隠居と称して逃げた。

全ての責任は、馬超に押しつけられた。

もはや路は一つしかない。他の州を略奪し、民に富を分け与えること。そして貧民を軍としてそのまま連れ、他の州に移動してしまうこと。今までは西涼の内部で互いに略奪し合っていたが、もはやその物資もないのだ。

遊牧民達の生活と同じ方法のみが、皆を生かす。それは決して、漢人としては褒められる方法ではない。

だが、それでなければ。もはや、死を待つばかりの民を、救うことなど出来なかった。

もし曹操に敵対すれば、馬騰達は殺されるだろう。それさえ見越して、父は隠居したことは疑いがない。馬超が曹操に敵対しないと言うことを手みやげに、安全を買ったのである。

狂気に落ち、責任を放棄していたとはいえ、父は父だ。心が痛まぬ訳もない。だが。

「やるしか、ないのか」

呟く。

振り返る。

其処には。十万に達する、西涼の軍勢が勢揃いしていた。

足並みなど揃うはずもない。利権で吊った韓遂や他の諸侯達は、隙さえあれば曹操に鞍替えするだろう。

一族でさえ信用できない。唯一信用できそうなのは、子飼いの部下である?(ホウ)兄弟と、従兄弟の馬岱くらいである。

だが、それでも戦わなければならない。

馬超が、西涼を事実上支配しているのに、代わりはないのだから。

「御大将!」

「分かっている。 全軍、進軍を開始せよ!」

馬超が逞しい愛馬の上で声を張り上げると、一斉に喚声がとどろいた。血に飢えた兵士達が、新しい獲物を求めて、一斉に咆吼する。

まず、目指すは長安だ。

長安を略奪すれば、飢えた兵士達を、ある程度活性化させることも出来る。

今、馬超が率いているのは、武装した流民だ。彼らは飢えており、下手をすれば人肉を喰わなければならなくなる一歩前の段階にまで来ている。だから、馬超は彼らを導き、救わなければならない。

例え、相手が今や中華最強の、曹操であっても。

馬岱が馬を寄せて来た。

「長安を守る将、鐘?(ヨウ)はかなりの名将です。 如何して攻略いたしますか」

「とりあえず、長安の近くまで進軍する。 その過程で策を練るしかあるまい」

西涼軍は騎兵を中心とした編成だ。騎兵が三万五千、歩兵が七万という所である。常識外に騎兵が多いが、これは異民族が多数流入しており、半ば彼らが軍事を担っているからである。

攻城兵器などと言う気が利いたものは存在しない。

董卓によって徹底的に踏みにじられたとはいえ、現在は曹操に抑えられ、復興しつつある長安は分厚い城壁を備えた手強い都市である。そして長安を攻略するには、その前に鉄壁の要塞地帯である憧関を落とさなければならなかった。

そもそも、今回の戦では、出撃分の兵糧しかない。撤退はない。敵の城を落とし、徹底的に略奪しなければ、食事さえ得られないのだ。自分が率いている部隊が、巨大な蝗も同然だと思うと、馬超は必ずしも喜べない。

父が逃げたのも、仕方がない部分はある。

この地獄というも生ぬるい西涼で、全く信用できない韓遂や他の一族達を相手に、いつ寝首を掻かれてもおかしくない戦いを続けるのか。豊かで平穏な許昌にて、のんびりと暮らすのか。

後者を選ぶ気持ちも、馬超には分かる。

だが、許すことは出来なかった。

進軍を続ける。

やがて、憧関が見えてきた。

「敵の迎撃戦力、姿が見えません」

「よし、敵の準備が整う前に、全力で憧関を陥落させる!」

馬超は峻烈な命令を下し、全軍が一斉に動き始めた。

 

長安の守備を任されていた鐘?(ヨウ)は、作戦通りに事が進んでいるのを見て、ほくそ笑んでいた。

城壁の上で、長い髭を扱きながら、鐘?(ヨウ)は呟く。

「この長安は、私が再建したのだ。 お前達の窮状も理解は出来るがな。 好き勝手に蹂躙などさせて溜まるか」

そう呟く彼は、まだ若い。髭は蓄えているが、白髪は交じっておらず、動作もきびきびとしていた。

鐘?(ヨウ)は、元々歴代漢王朝に仕えてきた生粋の官吏で、乱世が始まった後も献帝に付き従って行動していた者達の一人である。やがて李?(カク)と郭の専横の後に、献帝が揚奉の手で長安を脱出した際、徐晃らと一緒に献帝を守って洛陽にまで脱出した経歴の持ち主だ。

徐晃らと一緒に曹操に仕えた鐘?(ヨウ)だが、その時には既に、献帝に、いや漢王朝に見切りを付けていた。民を救うには曹操に従うしかない。そう考えて、むしろ積極的に、曹操の文官、参謀としての行動を開始した。

曹操軍で参謀は多くの人材がいる。その中でも二線級ではあったが頭角を伸ばした鐘?(ヨウ)は、着実に出世し、自分の足場を固めることとなる。

やがて河北で転戦した後に、鐘?(ヨウ)は長安に戻ってきた。そしてかって知ったるこの街を任されるに到った。もちろん現在の長安はさほど価値のある拠点ではなかったが、愛する街の復興を任されるというのは、とても鐘?(ヨウ)にとって名誉なことだった。曹操に対する忠義が揺るぎないものとなるのを感じながら、鐘?(ヨウ)は復興に尽力し、その身の全てを捧げた。

完全に焼け野原になっていた長安の再建はやりがいのある仕事であり、人生そのものであった。

城壁を立て直し、散り散りになっていた住民を誘致した。韓浩と相談して屯田を始め、形になった田畑を住民に貸与した。水の便が悪いのは分かっていたから、工夫して灌漑を進めて、やがて曹操に高く評価されるようになった。

人口は五万を少し超える所まで復興している。

この街は、今や鐘?(ヨウ)そのもの。誰にも、この街を侵略することを許しはしない。もちろん、苦悩の末に攻めて来た馬超であろうが、それは同じだ。

憧関に残してある捨て石の部隊から、伝令が飛んできた。

「敵の数は、十万二千から十万七千というところです。 騎馬隊が一に、歩兵が二と言った編成です。 騎馬隊はいずれも剽悍で、攻撃はとても鋭い様子です。 特に騎射は非常に巧みでして」

「流石は西涼。 平原での戦闘では、無類の戦闘能力を誇りそうだな」

「如何なさいますか」

「かねてからの指示通りに動け。 今の連中は蝗も同じだ。 逃げ遅れれば、一瞬で骨まで食い尽くされるぞ」

それは比喩ではなく、文字通りのことだ。連中がもはやにっちもさっちもいかなくなり、全てを略奪するために攻め込んできているのは間違いのない所であった。

やがて、憧関から煙が上がり始める。

撤退してきた部隊は、被害を最小限に抑えてはいたが。それでも、相当数を失っていた。敗残兵を受け容れながら、鐘?(ヨウ)は原野の向こうで勝ち鬨を上げているだろう西涼軍に呟いていた。

「さて、錦馬超。 お手並み拝見といこうか」

既に、あらゆる布石は、済ませてあった。だから、鐘?(ヨウ)は悠然と構えていられる。

 

憧関を陥落させた。沸き立つ周囲と違い、馬超は眉をひそめていた。

脆すぎるのだ。

確かに高い城壁を利用して、敵は熾烈な抵抗を見せた。強引な城攻めで、味方は少なくない被害を出した。だが、妙に手応えがない。馬超は、これでも歴戦を経てきた男だ。だから、肌で戦場の微妙な変化を感じることが出来る。

案の定、食料庫に向かっていた馬岱が、血相を変えて戻ってくる。

「馬超将軍!」

「どうした」

「兵糧は、欠片もありません。 掃除までされて、引き払われています!」

「すぐ行く」

馬超は大股で食料庫に急ぐ。

延々と続く要塞地帯である憧関の、最も奥まった地点に、食料庫はあった。嶮岨な山と山の間に蜘蛛の糸のように張り巡らされた城壁の、更に一番奥である。それはさながら、穴蔵に巣を作った蜘蛛が獲物を蓄えている場所のようでもあった。

だが、その貯蔵庫は。馬岱が言ったとおり、見事に空であった。

しばし見つめた後、馬超は腕組みする。?(ホウ)兄弟の弟、徳が歩み寄ってくる。

「馬超様。 これは、罠ではありませんか」

「罠だと」

「はい。 まさかとは思いますが、長安の周辺の村々も、このような状態なのでは」

あり得る話であった。

もしもこの蜂起が誘発されたものであったとしたら、曹操は全ての兵糧を周辺の村から引き上げ、住民の避難を終えているかも知れない。もしそうであれば、出撃分の兵糧しか用意していない遠征軍は、敵地で立ち往生してしまうだろう。

「すぐに五百ずつの偵察隊を各地に派遣。 曹操軍の動向と、村々の様子を探らせよ」

「分かりました。 直ちに」

城壁の上に出る。

幸いにも、遠くに見える長安は、人の気配がある。まだ人口は五万程度だという話ではあるが、それでもこの軍勢が一息付けるくらいの兵糧は蓄えられているだろう。

それにしても、董卓は一体どれだけこの司隷地方を食い荒らしたというのか。

偏執的な悪意さえ、感じてしまうほどである。

ありったけの兵糧は持ってきた。だから、継戦能力はまだある。

だが、もしも負けたら。もう後はない。

「曹操軍の本隊が来る前に、長安を陥落させる。 敵の兵力はどの程度か」

「長安の人口が五万と言うことを考えて、五千から一万という所でしょうか」

「それならば、充分に正面から押しつぶせるな。 偵察を終えたら、すぐにでも攻略に取りかかる。 時間は一刻が惜しい。 敵に態勢を立て直す暇を与えるな」

もしも、罠が張られていても、無類の機動力を誇る西涼の軍勢であれば、噛み破るのは決して難しくないはず。

そう自分に言い聞かせ、馬超は不安を振り払った。

 

1、砂塵の攻防

 

馬上にて焼き菓子を頬張りながら、曹操は長安を見つめていた。

十万を超える西涼の軍勢が、文字通り十重二十重に長安を取り囲んでいる。その圧倒的な物量には、感嘆さえ覚えてしまう。

「ふむ。 これほど見事な軍勢が、今だこの中華に存在していたとはな」

今回、わざわざ合肥から楽進を引き抜いて連れてきているのは、念のためを考えて、である。

そしてどうやら、その保険は無駄ではなかったらしいと、敵の陣立てを見つめながら曹操は考えていた。

西涼が予想通り発火して、すぐに曹操は動いた。軍勢は二十万弱。継戦能力が無く、寄せ集めであろう西涼の軍勢を蹂躙するには、充分なはずの兵力であった。

しかし、曹操は顧みて思う。少し足りなかったのではないかと。

錦馬超とあだ名される若き西涼の盟主は、騎兵を中心とした大軍勢を、見事に統率している。部下に欲しいほどの陣立てだ。

また焼き菓子を口に入れる。脳が糖分を欲して仕方がない。

程cを荊州に派遣し、代わりに賈?(ク)を今回は連れてきている。実戦にもっとも慣れている参謀に、曹操はそれとなく聞いてみた。

「賈?(ク)よ、どう見る」

「正面からの戦闘は避けるのが賢明かと。 敵には鮮卑の騎兵も多く、しかも飢えておりまする」

「我が軍の兵糧を狙い、全力で押し込んでくるという訳か。 ふむ、なるほど。 それは危険だな。 一度勢いを削ぐことを考えなければなるまい」

既に野戦陣は構築済みだが、下手をすると一気に押し込まれる可能性がある。味方の騎兵は鳥丸族を中心に精鋭を揃えているとはいえ、合肥から張遼を連れてきている訳ではなく、やはり全体的に若干決定打に掛ける。楽進がいるが、もう一人信頼できる名将を連れてきたかった。しかし合肥の守りが薄くなるし、それ以上は望めない。張繍が騎兵を率いて控えてくれてはいるが、やはりもう一手欲しい所だ。

一度、曹操は本陣に引き上げる。

長安には事前に二万五千の兵と、三年間籠城できるだけの兵糧を入れてある。もとより強固に補修されている長安は、三十万の軍勢の包囲にさえ耐える。ましてや長安を知り尽くしている鐘?(ヨウ)が守備についている。簡単に落とされることはないだろう。

本幕に入ると、幾つか新しい器具が並べられていた。一つは寝台に似ていて、これに寝て取っ手を引くことで、背骨を刺激することが出来るのだ。そして背骨を刺激することにより、背を高くすることが出来るのである。

その合理的な説明が気に入ったので、買っておいた。

さっそく寝台に寝て、取っ手を引く。ちょっとというかかなり弓なりにされて、ぎりぎりと危険な音がした。痛いけれど、歯を食いしばって我慢する。

「むぐぎぐぐ! 虎痴よ、少し痛いな!」

「危険な音がしておりますぞ。 あまり無理はなさらないよう」

「大丈夫、ふぐっ! むむむ、一寸の背丈は、千金に勝る! がんばれ、がんばるのだ余よ!」

自分に言い聞かせながら、ちょっと無理して背中を伸ばす。痛くて涙が出そうだったが、我慢した。

しばらく取っ手を引いての運動を続けて、ようやく終えた時には汗みずくになっていた。立ち上がろうとして、少しふらついてしまう。結構体に負担が大きい作業であるらしい。荒い呼吸を整えながら、器具から降りる。侍従がふきんを差し出してきたので、ありがたく受け取って顔と首を拭いた。

「何事も、楽には行かぬな。 さて、敵に動きはあったか」

「いえ。 包囲を崩した様子はありません」

「なるほど、長安を餌に、余を平原におびき寄せるつもりか。 ふふん、若造なりに、それなりに知恵は回るか」

そう呟いたのは、平原での正面決戦なら危険だが、知略を用いた戦いに限定すれば、充分に余裕があるからだ。

確かに西涼の戦に次ぐ戦で鍛え上げられ、鮮卑や兇奴の騎馬民族が入ってきている軍勢は、非常に強力だ。

だが、此方はそれに対して、二年近くもしっかり備えをしているのである。寄せ集めの二十万であれば危険であったかも知れないが、残念ながらそうではない。鳥丸族の兵士達からもしっかり話を聞いて、騎馬隊に対する訓練も積ませてある。

何よりも、最新型の軍事兵器を、多く持ち込んでいる。今回の戦は、それらの実験も兼ねているのだ。

更に言えば、鳥丸族を中心とした騎馬隊が、どれだけ実用に耐えるかも、今回確認する。相手は丁度良いことに、鳥丸族と勢力を二分する鮮卑を中心とした戦力だ。これならば申し分のない相手である。

この騎馬隊が実用に耐えると確認できれば、荊州に投入、一気に劉備と江東の勢力を追い落とす。豪傑が多少敵にいようが関係ない。圧倒的な圧力で、一気に押しつぶしてしまえるだろう。

もちろん、戦い方を間違えれば、危険な事態に陥る。兵力も足りなくなる。

だが、曹操は、歴戦を経てきている錬磨の将は。わざわざそのような戦い方を、選ぶ気など無かった。

西涼の軍勢が、物資の不足から、やむにやまれず出てきていることは既に細作達の報告で分かっている。

つまり、平原での正面決戦戦力という一要素さえ除けば。あらゆる意味で、戦略的には負ける要素があり得ない。

問題は、敵将である馬超の力量だ。修羅の土地である西涼の総帥であるから、相当な手腕の持ち主であることは間違いない。韓遂を始めとする古狸達を御している事からも、手を抜ける相手ではないだろう。

厄介なのは、騎馬隊の戦闘では、指揮官の武勇がものをいう比率がとても高い、と言うことだ。

張繍は有能な指揮官だが、馬超を相手にさせるとどうか。もちろん万全の準備は戦闘前に行うが、不安は小さくない。一旦天幕を出ると、曹操は、手を叩いて部下達を呼んだ。

「馬超の実力を見たい。 誰か、軽く仕掛けて参れ」

「分かりました。 それでは、私が」

「韓浩か。 よし、牛金、そなたもつけ。 韓浩が歩兵二万五千、牛金は騎馬隊五千を率いて、今晩敵陣北東から夜襲を掛けよ。 分かっていると思うが、これは様子見だ。 くれぐれも無理はするでないぞ」

 

長安は動きを見せない。

馬超軍が包囲を完成させてから、敵はまるで動きを見せず、不気味でさえあった。周囲の村々には既に猫の子一匹どころか麦の穂一つさえも落ちておらず、兵士達には不安と怒りが広がりつつある。

長安の守りは、予想を遙かに超えて堅かった。そればかりか、駐屯している守備隊は、明らかに二万を超える規模で、攻めても攻めても埒が明かない有様だ。漢の首都からは早々に外れたとはいえ、高祖劉邦が最初に都にした土地である。その堅固さは、折り紙付きであった。

そして、東には。ついに曹操軍約二十万が出現していた。

?(ホウ)兄弟が、東を睨む。知謀優れた兄柔。武勇優れた弟徳。どちらもが、まるで双子のように、険しい目つきで敵陣を見つめていた。

「どうやら、我らは罠にはめられたようです」

「うむ。 しかもこの状況、相当に前から準備をしていたようだな」

「どうせ、韓遂辺りでしょう。 何なら今すぐにでも首を切り取ってきますが」

血の気が多い徳が、早速物騒なことを言い出した。馬超は右手を挙げて制すると、柔に向き直る。

「柔、敵が打ってくる手は読めるか」

「まずは様子見を仕掛けてくるかと思います。 具体的に何を仕掛けてくるかまでは分かりませんが。 いずれにしても、少数部隊での、威力偵察になるでしょう」

「どう対応するべきだと思う」

知性の泉のような柔は、少し考え込んだ後に、見事な策をひねり出す。

この兄弟は、馬超の至宝だ。

「わざと無様な対応をして、敵の油断を誘う手が一つ。 しかしこの場合、敵が本気で突っ込んできた場合、大きな被害を出します。 しっかりと敵を迎撃して、敵に本腰を入れさせる手が一つ。 此方は、敵の動きを押さえ込み、慎重にさせることで、動きやすくなります」

「わざとであっても、無様に動くのは性に合わん。 全力で叩いて、奴らに此方の実力を思い知らせるぞ」

「分かりました。 直ちに部隊を配置します」

馬超は馬岱を誘い、少し陣から離れた。

曹操軍の様子を見に行くのである。陣立てや準備は?(ホウ)兄弟に任せておいて、敵の実情を探ることで、今後の戦いをやりやすくするのだ。

二人とも跨っているのは、西涼でも上位に入る駿馬だ。それに、大物見には慣れている。馬超は荒野を駆け、二人で走る。乾いた大地を蹴る馬の蹄が、規則的な音を立て、心地がよい。

敵陣が見えてくる。

連なる城壁のようで、柵も堀も凄い備えである。偵察隊は城のようだったと言っていたが、誇張は全くない。これでは、偵察隊が度肝を抜かれ、尻尾を巻いて逃げ帰るのも無理はない。

中原の軟弱な兵だと侮っていた部分は、もはや綺麗に消え去っていた。

小高い丘に出て、敵の死角から陣を観察。ざっと見た感触では、隙は全く見つけられなかった。

「敵陣で、牛という旗の陣から炊煙が上がっているな」

「恐らく牛金でしょう。 最近曹操軍で頭角を現している猛将だと聞いています。 若いながらも、荊州の激戦地で経験を積んでおり、将来の曹操軍を担う人材の一人とみなされているとか」

「そうか。 だが、まだ西涼の軍勢と戦うには早いな」

鞭をくれると、馬超は自陣へ戻る。

そして藪で鹿を狙う虎のように、夜の到来を待った。

天幕で、寝台に寝ころびながら、馬超は干し肉をしゃぶる。これは将官に許される特権ではない。口に肉の味を入れておくことで、闘争本能を刺激するのだ。干し肉と言っても、これは食用に適するものではない。肉の味だけを抽出している、普段ならとても食べられないような代物だ。

寝転がっていても、横に剣は置いている。

今までも、暗殺者に狙われたことなど、それこそ両手の指で数え切れないほどある。韓遂の放った細作がその半数ほどだが、いずれも斬り倒して送り主に返してやった。出陣してからも、時々殺気を感じる。いざというときには馬超を殺して、自分が西涼の実権を握るつもりなのだろう。

日が暮れる。

西涼ほど寒くはないが、夜は気候が厳しい。

だからこそ、目が冴える。

唯でさえ味方は、兵糧不足に苦しんでいる状態だ。長安が落とせないのであれば、敵の本隊を蹴散らす他無い。

やがて、備えていた味方から、狼煙が上がる音がした。

 

韓浩軍の騎馬隊として五千を率いていた牛金は、敵陣にまるで乱れがないので舌を巻いた。今まで曹操軍の若手将軍として、散々調練をしてきた。荊州では徹底的に徐晃に鍛え上げられたし、中華でも上位に入る名将である関羽の軍と戦う機会もあった。周瑜に毒矢を浴びせたのも、牛金自慢の戦歴である。

しかし、その牛金をしても。今見つめている、闇夜に浮かび上がる敵陣は、難攻不落に見えていた。

西涼と言えば、中華でももっとも辺境、最貧困地域だという認識があった。だが、それが故にか。兵は強くなり、その性質も凶猛になる。少なくとも、この戦力で仕掛けられる相手ではない。

「韓浩将軍」

「分かっている。 これは、仕掛けると、仕掛けるだけ兵を失うな」

韓浩は馬上から敵陣を見つめていた。三万の軍は一丸となったまま、ゆっくりと闇の中を移動する。途中、一見すると隙らしき場所も何カ所か見受けられた。しかし、それらはよく見ると、罠になっているのが見て取れた。

敵は馬超軍を北に、南を韓遂を始めとする軍勢が雑多に固めているらしい。東西はそれぞれ、馬超の配下達が陣を張っていて、内部にある長安と、外に来ている曹操軍に、それぞれ備えている。

面白いのは、それぞれが固まった集団とかしていて、個別に動いていると言うことだ。つまり十万五千ほどの西涼軍は、四つの軍集団に別れていると考えても良い。いずれ、切り崩しを図るのであれば、此処を突くのが正道であろう。

周囲を見回った後、韓浩が引き上げの合図を出した。

軽く一当てしてこいと言う曹操の命令であったが、当てても被害が出るだけだと分かった以上、馬鹿正直に命令に従うこともない。ましてや此処は、上司である韓浩の判断である。間違っていたとしても、牛金の責任ではない。

全軍がさがり始めた、次の瞬間。

不意に、銅鑼が叩き鳴らされた。更に、狼煙が上がる。

「全軍撤退! 味方の野戦陣に逃げ込め!」

即応した韓浩が叫ぶ。敵が此方を察知したのは間違いない。此処は一目散に逃げ、そして敵の深追いを誘うのが常道だ。敵を深追いさせれば、隊列が伸びきった所で、味方の全軍をもって捻り潰すことが出来る。

ざっと逃げ出す味方。敵は一万ほどが陣から飛び出し、疾風のように追ってくる。闇の中、その数は何倍にも見えた。恐らくは、敵軍そのものが放っている非常識な殺気が、精神的な圧力を生じさせているのだろう。

「敵の頭を叩きます!」

「無理をするな!」

韓浩の声が、遠ざかっていく。

牛金は騎馬隊の先頭に立つと、全軍を迂回させ、敵の正面に襲いかかる。もちろん敵も受けて立つ構えである。

凄まじ勢いで、互いに吸い寄せられるようにして、二つの軍は距離を縮め。

そして、火花が出るような激突を果たした。

吹っ飛ぶ兵士。左右に敵をなぎ払いながら、牛金は突進する。徐晃や張遼ほどの腕前ではないが、これでも若手の士官の中では相当に武芸を鍛えている。しかし、敵の圧力が強い。一人一人の兵士が、痩せてはいるが、いずれも相当に鍛え上げられている。

両軍が弾かれるようにして、離れた。

そのまま旋回して、味方の後を追う。牛金は追いついてきた副官に叫ぶ。

「どれほどやられた!?」

「三百騎ほどです!」

今の一瞬で、それだけ倒されたか。敵はどれくらい斃れたのだろう。牛金は舌打ちすると、全力で味方を追う。敵は怒濤の勢いで、地響きを立てながら追撃をしてきていた。あの様子だと、被害は殆ど無かったのか。

韓浩隊が見えてきた。また、もう少し時間を稼がなければならないだろう。旋回しようとした瞬間、横から猛烈な勢いで突進してきた部隊がある。錐状に陣形を整えたその軍勢には、張の旗が翻っていた。

張繍の軍勢だ。

数は二万。勢いも、圧力も、牛金の騎馬隊とはまるで違った。

流石に曹操を二度も撃退した古豪である。その指揮は凄まじく、追撃を仕掛けてきた敵の先頭部隊を一瞬で粉砕、逃げ遅れてきた味方を収容すると、牛金の部隊を守るように退却を開始した。

悔しいが、まだまだ勝てる相手ではない。

本陣に戻ると、既に韓浩が待っていた。見ると、肩当てに矢が二本突き刺さっている。兜にも、矢が掠った跡があった。

「如何なさいましたか」

「馬超が五百ほどで伏兵していてな。 かなり危なかった。 奴め、出来るぞ」

実直なことを買われている筈の韓浩なのに、不思議とどこかが楽しそうだった。

敵が引き上げたと、伝令が告げてくる。とりあえず、戦術上の目的は達成できた。曹操が呼んでいると言うことなので、韓浩とともに本陣へ急ぐ。さっきまで乗っていた馬は、尻に三本も矢を受けていて、馬医者の手当てが必要と言うことで後送されていった。だから、新しく厩舎から軍馬が供給されている。今まで乗っていた馬は癖が強かったが、それが故に乗りこなすのが楽しかったのに。残念であった。

駒を並べて、戦闘の経緯について色々聞く。流石に韓浩は歴戦の名将だけ有り、すらすらと分かり易く応えてくれた。徐晃や張遼のように常に前線で活躍してきた訳ではないが、しかし後方を確実に守り、そして曹操の最期の盾として活躍してきた男だ。非常に手堅く、話は面白かった。

本陣に着いたので、馬を下りる。

曹操は既に起きだしていて、寝間着のまま天幕の中でなにやら焼き菓子を食べていた。いつももふもふしている奴だろう。鼻に甘い香りがつく。側に立っている許?(チョ)は、油断無く周囲に目を光らせていた。

曹操は目ざとく此方に気付き、油でべとべとの手で招いてくる。

「おお、戻ったか。 天幕に入れ」

「それでは、失礼いたします」

「失礼いたします」

抱拳礼をして、天幕に。

中は妙に温かい。外の寒さとの差が激しくて、思わずくしゃみをしそうになった。部屋の隅で、炭を焚いているらしい。

曹操が長机の前に座るように促したので、言われたままに動く。韓浩が隣で説明を始め、全て終わると、曹操は腕組みした。

一代でこれだけの版図を築いた人物だというのに、側で見るとまるで子供のような動作が多い。恐縮しながらも、牛金は時々内心で小首を傾げてしまう。だが、この男が、河北を七年で統一し、天下を平穏に向け一気に傾けたのは事実なのだ。

「ふむ、予想以上に手強い相手のようだな」

「張繍将軍の援軍が遅れていれば、更に被害は増えていたかと思われます。 様子見はもう充分と考え、次からは本腰を入れて動くべきかと」

「そうだな。 牛金、そなたはどう見た」

「敵騎馬隊の機動力は脅威です。 圧力も凄まじく、私が訓練した騎馬隊よりも、数段上を行っておりました」

張繍の騎馬隊は、正面からでも対抗が出来そうだった。徐晃や張遼の騎馬隊でも同じ事が可能だろう。しかし、牛金の騎馬隊では、同数とかち合った場合、恐らく徐々に押されていくことだろう事も戦ってみてすぐに理解できた。

馬の質が違うと言うこともあるが、何より戦意が決定的に異なっている。今になって思うと、戦っている敵兵の目は血走っていて、獲物を求める狼のようであった。放っておくと、人肉でも喰いかねない雰囲気だったあの目を思い出し、震えを感じてしまう。

「ふむ、冷静に分析は出来ているようだな」

「将来有望な若者にございます」

「あ、ありがとうございます」

「牛金よ、これだけは覚えておけ。 敵の実力を、精確に図ることが出来ただけで、今回は充分だ。 分かっていると思うが、強力な敵の長所をわざわざ生かした戦い方をする必要など無い。 敵の騎馬隊が強力なのは分かりきっていた。 だからその機動力を、次からは徹底的に封殺する」

確かに、それが一番正しい戦い方だ。

曹操の前から退出する。韓浩に肩を叩かれた。

「見事な受け答えであった。 曹操様も、お前のような若武者が現れてくれて、喜んでいたぞ」

「ありがたき幸せにございます」

「早速、敵の騎馬隊を叩きつぶす準備に取りかかる。 あれを使う準備は出来ているな」

「滞りなく」

騎馬隊には、ある決定的な弱点がある。それをこれから、徹底的に叩くことになる。

それはある意味、卑怯な事なのかも知れない。だが、正義を通して多くの命を失うか。卑怯であっても、最小限の犠牲で済ませるか。選ぶとしたら、牛金は後者を選択する。そうすることで、故郷に帰ることが出来る兵士は多くなるのだから。

自陣に戻る。

そして、投石機の準備を開始させた。

これを使って、敵陣に爆薬を叩き込むことで、騎馬隊を無力化できる。馬は知らない物音に非常に弱く、簡単に混乱させることが出来るのだ。実際、河北の戦いでは、これで鳥丸の騎馬隊を沈黙させることも出来た。

しかし、これを使えるだろうか。不安が残る。馬超は有能な男のようだ。此方が平野戦が出来ないように動けば、当然対策をしてくるだろう。

黙々と、牛金は準備をする。どのような状況になっても、対応できるように。

 

馬超は決意した。

まず、曹操軍の主力を叩く。

長安には押さえとして一万を残す。一万と言っても、いずれも騎馬隊であり、長安に控えている歩兵であれば二万程度充分に抑えることが出来る。野戦用に陣形を組み直す十万弱の軍勢を見つめながら、馬超は状況の分析を進めていた。

昨晩の攻撃で、曹操軍は相当に良い動きを見せた。

損害で言えば敵の方が多かったが、しかし深追いした部隊は大きな被害を受け、それに騎馬隊同士の戦いでの損害も、決して小さくはなかった。中原の騎馬隊にしては動きが良すぎると思っていたら、鮮卑の騎兵から、鳥丸族が敵に混じっていたという報告を受けた。それならば、納得も出来る。

決戦は平原で行う。それ以外はあり得ない。

長安の東は大きな河が流れており、しかも荒野が何処までも広がっている。かっては豊かな穀倉地帯だったのだが、黄巾党による乱以降、耕す者はいなくなり、暴虐の君主が多く出て、このような有様と化してしまった。曹操の配下の韓浩が必死に屯田をしているというが、とてもではないが全土には手が回りきらないのだろう。

敵が姿を見せる。

方陣を敷いている敵は、非常に分厚い陣容であった。曹操はかなり後ろの方にいるらしく、旗は見えない。彼方此方に柵も植えてあり、此方の出方を悠然と見ている感触だ。馬超は指揮剣を振るい、錐の陣を組ませる。もちろん敵を中央突破し、背面から各個撃破するのだ。

曹操軍は全く動かない。それが、余計に不安を煽る。

距離が徐々に詰まる中、馬超はいやな予感が更に大きくなるのを感じた。

「此方から動くのは拙いな」

「馬超将軍?」

「敵は相当に周到な準備をして出てきている。 それならば、むしろ遭遇戦を仕掛けた方が戦いやすい」

幸いにもと言うべきか。

現在馬超の率いている十万は、根拠地さえない流民の大軍だ。それならば、それなりに、独創的な戦術が打てる。もはや補給がないと言うことを、逆手に仕えるという訳だ。

「全軍、北上! 曹操軍を無視し、後方の弘農を狙う!」

「し、しかし! それでは、敵の攻撃を背中に受けることになります! 背後からあの大軍の攻撃を受けたら、全滅するのでは!?」

「振り切れ。 我らは西涼の軍勢! 中華最速の部隊である!」

馬超の指示で、銅鑼が叩き鳴らされた。

そして、全軍が不意に一丸となり、北上を開始する。

唖然とした曹操軍は、流石に即応しかねた。

そして彼らが騎馬隊を陣から飛び出させた時、馬超は勝機を見た。

 

「いかん!」

敵の急激な機動を見て、思わず牛金は叫んでいた。いきなり敵は全軍が一つとなり、弘農のある北へと進み始めたのである。

弘農は長安同様に董卓に荒らされた都市であり、現在復興の途上にある。洛陽と長安の中継地点として重要な都市であり、長安の復興に伴って規模を回復してきた場所だ。もちろん重要拠点の一つであるから守備兵は置いてあるが、馬超軍全てがいきなり現れたら、対応は難しいだろう。都市は徹底的に蹂躙され、焼き尽くされ、民は一人も生き残ることが出来ないかも知れない。

何しろ今の馬超軍は、飢えた蝗も恐れ入る連中なのだ。

歩兵も交えているというのに、馬超軍は凄まじい速さで、陣の側を駆け抜けていく。銅鑼が叩き鳴らされた。攻撃を開始しろと言う合図だ。これでは投石機による攪乱どころではない。牛金の悪い予想が的中してしまった。張繍軍がまず飛び出し、牛金もそれに続く。敵の最後衛を捕捉。一気に踏みにじるが、敵陣の密度が著しく薄い。

「逃がすな! 踏みにじれ!」

本隊も、動き始めている。

敵を追いながら蹴散らすが、騎馬隊はなかなか見えてこない。それだけ動きが速いと言うことだ。弘農の民は三万程度。もし西涼軍に襲われたらひとたまりもない。歯を噛んで、馬に鞭をくれる。

不意に、敵が途切れる。

目の前には、広大な黄河の支流があった。

何処へ消えた。

そう思った瞬間、味方が銅鑼を叩き鳴らしていた。

「敵は後方に回った! 曹操様の本隊が襲われている!」

「何だとっ!」

「してやられましたな」

あまり仲が良くない副官が呟く。嘲弄がその笑いには含まれていた。

敵の狙いは、本隊の備えを崩させることにあったのだ。そのために、此処まで大胆な機動に出るとは。

更に、敵の歩兵達が不意に秩序を取り戻し、長く伸びきった味方の騎馬隊に襲いかかり始めた。

牛金は、曹操の救援に赴くどころか、身を守ることに注力しなければならなくなり始めていた。

「騎馬隊、それぞれの隊ごとにまとまれ! 敵の歩兵は相手にするな! 立ちふさがろうとする敵だけを蹴散らせ!」

激しく銅鑼が叩き鳴らされる。その音が不意に途切れた。敵の歩兵が、中枢まで入り込んでいると言うことだ。

騎兵に備えて長く作られている槍が、敵には支給されている。多分騎兵が中心となる西涼だからこそ、普及が進んでいる槍なのだろう。混乱している味方は、戟の形状も兼ねているその長槍で、次々とたたき落とされた。

更に、敵の騎馬隊の一部が不意に戻ってきて、乱戦を挑んでくる。流石に敵は少数だが、一騎一騎がとても強い。

「兎に角集まれ! 敵は少数だ! 少数で戦おうとするな!」

声を張り上げる牛金は、悟る。

ひょっとするとこれは、彼が生まれて初めて味わう、負け戦かも知れなかった。

 

敵を追撃していて、やはり黄河の岸にたどり着いていた曹操は、不意に馬蹄の響きを聞いた。味方のものではない。しかも、相当な数だ。

「曹操様!」

「うむ、虎痴よ。 備えは任せるぞ」

まさか歴戦の自分が、このような策にまんまと引っかかるとは。

疑似退却に吊られて引き延ばされた味方は、各地で敵と激しい戦いをしていることだろう。敵は弘農を狙うと見せかけて、味方の備えを崩すつもりだったのだ。馬超という男、流石に歴戦を積み上げていると、曹操は感心してしまった。

敵の剽悍な、しかも最精鋭と思われる騎馬隊が突撃してくる。薄くなっている味方の陣営は、次々に抜かれた。そんな中、虎を模した兜をしている若い将が、真っ先に躍り出てくる。その速さ、まさに疾風を思わせるものであった。

「曹操ーっ!」

叫び声、まるで虎のごとし。曹操は、呂布のことを思い出して、身震いした。

凄まじい武勇だ。許?(チョ)が馬に跨ると、飛び出す。

そして、敵と正面からぶつかり合った。

「どけええっ!」

「どかぬ!」

あれは、馬超だ。誰に言われるまでもなく、曹操は悟っていた。

馬超の槍の一撃を、許?(チョ)がはじき返す。逆に叩きつけた一撃を、馬超は余裕を持って回避。馬術を駆使して許?(チョ)をかわそうとするが、許?(チョ)は何と馬の尻尾を掴み、強引に引き寄せた。舌打ちした馬超は、竿立ちになる愛馬を巧く御して、許?(チョ)に鋭い突きをくれる。

それを、許?(チョ)は脇に挟んで受け止めた。

「おおおおおおっ!」

「せいあっ!」

槍が、折れる。とんでもない腕力の攻防だ。槍を折った許?(チョ)も、それを受け止めた馬超も、いずれも劣らない。何という使い手か。

そして両雄は、折れた槍同士をもって、凄まじい死闘を演じていた。龍や虎でさえ、その側を避けるのではないか。そう曹操は思ってしまった。

やがて、味方が集結してくる。特に張繍隊の勢いは凄まじく、それを見た馬超は舌打ちすると、許?(チョ)と距離を取りながら叫ぶ。

「噂に聞く虎侯とは、そなたのことか!」

「ああ。 だがその名を呼んで良いのは、この世で曹操様だけだ! お前は許?(チョ)と呼べ!」

「そうか、誇り高き戦士なのだな。 その魂の輝きや良し! この馬超、貴様との再戦の機会を待っているぞ!」

馬超が馬首を返し、さっと引き上げていく。

それと同時に、敵も引き上げを開始。瞬く間に本陣は静かになっていった。

本陣の防衛を苦しい中進めていた韓浩が戻ってくる。肩当てには、矢が何本か刺さったままで、どれだけ凄まじい戦いだったかが一目で分かる。

「ご無事でしたか、曹操様」

「うむ。 余は無事だ。 許?(チョ)と、そなたらが守ってくれたからな」

その許?(チョ)はと言うと、既に危険が去ったからか、ぼんやりと虚空を見つめている。あの様子であれば、周囲にもう危険はないだろう。

張繍は苦笑すると、曹操の側で下馬した。

「完全にしてやられましたな」

「味方を纏めよ。 これは、一筋縄ではいかんぞ」

味方の被害は五千を超えているという。一回の戦闘で受けた被害としては、著しく甚大だ。それに対して敵は、千以下の被害しか出していない様子だ。

戻ってきた牛金の話によると、追撃をしている時に敵を結構蹴散らしはしたという。そうなると、陣の密度を薄くしたり、敵の襲撃をいなす術を、一兵卒に到るまでが体に叩き込んでいるのかも知れない。恐るべき相手であった。

賈?(ク)を呼ぶ。要領よく乱戦中は隠れていた軍師は、既に夜になりつつある空を見つめながら言った。

「私の、出番と言うことは。 あらゆる手段を用いても構わない、ということですな」

「出来れば馬超というあの男は配下に加えたかったが、残念ながらそうもいくまい。 あれは野生の虎だ。 飼い慣らすことなど出来ぬ。 手負いにしてしまうと、なお危険だから、此処で仕留めてしまわなければ」

「分かりました。 数日以内に、敵を屠る必殺の策を練りまする」

賈?(ク)は相変わらず、心優しそうな笑みを浮かべていた。

実際この男は、策略を練っている時以外は思いやりもあり、家族との関係も良好だという。近くの孤児院に投資もしていたり、暇な時は子供達に学問を教えていたりもするという。

それなのに、謀略に関するえげつなさは、曹操も刮目するほどだ。

人間とは分からないものだなと、野戦陣に戻りながら、曹操は呟く。兎に角、馬超だけは。

もったいないが、仕方がない。曹操は大きく歎息すると、腰の焼き菓子袋をまさぐった。

 

2、西涼の闇

 

激しい乱戦の中、一部の部隊が、曹操軍の糧食を奪取。十万の軍勢から見ればほんの僅かではあったが、兵糧を手に入れることが出来た。

飢餓難民に等しい西涼軍は、これでようやく一息つくことが出来た。実際に弘農を襲撃できていれば、更に一月は生活が出来ただろう。中原に殴り込むことが出来れば、もっと長く軍を維持できるはずである。そのためには洛陽を陥落させなければならない、のだが。それは流石に難しいだろう。

長安の包囲部隊とも合流。得た食料を分ける。いずれも、西涼の糧食とは比較にならない量と味で、兵士達は餓鬼のようにがっついていた。米の質さえもが根本的に違っている。これほど美味しい米は、西涼では豪族の長でさえ口に出来ないだろう。それを一兵卒までもが普通のことのように食べているのだ。

韓浩という男が屯田を行い、曹操軍を支えていることは知っている。その仕組みが少しでも分かれば。食べていて、そう悔しく思う。

「中原の連中は、何とも良いものを口にしておりますな」

「いや、西涼とて、本来此処まで貧しい土地ではなかった。 漢の無能な政治が、此処まで酷い状態に、西涼を落としてしまったのだ」

?(ホウ)柔にそう応えると、馬超は馬岱に後を任せて、韓遂の陣に赴く。

今まで、韓遂が蓄えていた食料を、かなり供給して貰っていた。その礼を言いに行かなければならないのだ。

嫌いな相手でも、こういった時は筋を通さなければならなかった。

韓遂の陣は、先の激戦でも殆ど被害を受けていない。馬超の軍勢にばかり戦わせ、自分は高みの見物をしていたのだ。韓遂とは、昔からこういう男である。西涼で主に裏方に徹し、権力を影から握ることばかりに終始してきた。韓遂に暗殺された西涼の顔役は二十人を超えるとさえ言われている。

あらゆる悪名をその身に吸い付けながらも、なおも権力を保つ化け物。江東には四家という怪物的な連中がいると聞いているが、西涼における癌がこの韓遂だ。

馬超のものよりも更に豪勢な天幕に入る。豚のように太った老人が、酒杯を傾けていた。韓遂だ。

まずは、兵糧提供の礼を言う。この男が、兵士達が苦しむのを横目に、毎日贅沢をしているのは知っている。その上で礼を言わなければならないのは、本当に心苦しい。だが、しなければならない。

鷹揚に頷くと、韓遂は社交辞令を切り上げて、世間話に切り替えてきた。

「馬超将軍。 流石の手際に、この老体、感心の言葉もありませぬぞ」

「二度は通じぬ手だ。 曹操の用兵も恐ろしい。 もしも盆百の指揮官であれば、あのまま討ち取れていただろう」

「そうか。 馬超将軍は慎重だな。 若いにも関わらず、大したものよ」

駆けつけ三杯と差し出されたので、受ける。

戦勝だから、少しの酒くらいならまあ許しても良いだろう。まさか、この状況で不意に暗殺を謀ることもないだろうから、一気に飲み干す。

韓遂の取り巻き達が拍手をした。いずれも西涼の有力豪族達だ。

「馬超将軍は、曹操の本陣まで攻め入ったとか。 さぞや漢王朝を専横する曹賊も、胆を冷やしたことでしょう」

「曹操の部下は優秀だ。 混乱の中で、秩序を取り戻す速度も早かった。 それに、曹操の側には、許?(チョ)という男がいた。 軽く戦ってみたが、奴の実力は、俺にも匹敵するだろうな」

「許?(チョ)?」

「虎侯だ。 本名は許?(チョ)と言うらしい」

その名前は西涼でも知られている。

曹操の側にいた、二人の護衛。典偉と虎侯。典偉は張繍との戦いで、曹操を守って命を落とした。しかし残った虎侯は、今でも曹操を守り、鉄壁にして最期の防壁となっているという。

今では武勇を磨き抜き、あの関羽や張飛とも武勇を争えるとか、西涼では噂が流れている。馬超はその許?(チョ)と戦ってみて、己の武勇がまだまだ天下一ではないと言うことを知った。

「それにしても、今後の戦略はどうなさるので」

「中原に乱入できれば話が楽なのだが、どちらにしても曹操軍の本隊を叩かないとならないだろうな。 連中が保有している兵糧は膨大で、今回奪取できた分だけでも、数週間は我が軍を支えることが出来る」

「おお、それはそれは」

諸侯の目が輝く。どれだけ自分の私的な懐に入れられるかを、計算しているのだろう。兵士達の飢えを解消できることを喜んではいないのだ。嘆かわしい話だが。西涼に凱旋して、食料を飢餓民達に分けることなど、考えてさえもいない。

西涼は腐りきっている。

いち早く乱世に突入した土地であったのに。漢王朝時代の、最も悪い伝統が、西涼では生き続けてしまっている。

流血と暴力をもっても、簡単には改革などできない。

酒を飲みながら、馬超は思う。いっそのこと、曹操によってこの汚物どもが皆殺しにされてしまえば、むしろ西涼の民は安らかに生きられるのではないのだろうかと。西涼の腐敗は、外部からでなければ修正が効かないだろう。

西涼の腐敗に、曹操は責任がない。

馬超は別に、曹操に憎悪はない。同盟を組んで、連携して動いたことさえある。

もちろん負けてやるつもりはないが。もし負けた時は、曹操であれば、西涼をまともに修めてくれるのではないのかと、期待を感じてしまった。

ある程度で切り上げて、天幕を出る。

寒空の下、空きっ腹を抱えて戦っている兵士達に、酔っている姿など、恥ずかしくて見せられなかった。

自陣に戻ると、馬岱が天幕で待っていた。何かあったのだ。

「どうした、馬岱」

「お人払いを」

剽軽な馬岱が、深刻な表情をしている。それに、転がっている死骸についても気になる。何があったのか。

馬超は言われたまま、手を叩いて外の護衛達を下がらせる。此処にいるのは馬岱だけで、特に何も問題はない。馬超は、細作ごときに遅れを取る存在ではない。

「どうしたのだ、馬岱。 この死骸は何だ」

「はい。 韓遂の配下の一人、馬玩の陣に出入りしているのを見つけました。 口は割らなかったのですが、恐らくは漢中の細作ではないかと」

漢中の勢力が、西涼に干渉していることは、馬超も知っている。食糧支援をある程度受けてもいるし、韓遂やその配下達に様々な政治的干渉も行ってきていることも、である。だが、こうして細作という生々しい証拠を見てしまうと、口をつぐんでしまう。

懐を探るが、書状の類は持っていない。恐らくは、口述筆記の類で情報を持ち歩いていたのだろう。

「とにかく、これだけで連中を糾弾は出来ないな」

「分かっています。 問題はこれだけではありませんで。 実は先ほど、鮮卑出身の戦士が一人、急を知らせてくれたのです。 どうやら韓遂の領土だけに、漢中から膨大な食料が輸送されているらしくて」

「何だと」

「漢中は不作で、今回はそれが原因で出兵せざるを得なかったのですが。 その主張が、根本的に崩れることになります」

それに、韓遂の領地だけに兵糧が輸送されている、というのも解せない。どういう目的で、漢中はそのようなことをしているのか。

巨大な陰謀が、どこかで蠢いている。西涼は、その出汁にされているのではないのだろうか。そう、馬超の脳裏で、理解が閃光となって瞬いていた。

もしも、それに韓遂らが、根本から関わっているとしたら。

曹操が殺してくれたら、等と言うまでもなく。自分から、連中を殺さなければならないのかも知れなかった。

西涼を修める主の、最低限の義務として。

 

ついに西涼軍が進撃を開始したことは、それを裏から煽った漢中でも掴んでいた。揚松は早速張魯の宮廷に早朝裏口から出資して、秘密の会議を持った。

張魯はあまり嬉しそうではなかった。漢中を維持するためとはいえ、西涼の民を苦しめるのは事実なのである。それに、益州では、ついに恐るべき事態が発生していた。劉璋が援軍を求めた結果、ついにあの男が出てきたのである。

張衛が、苦々しげに報告する。

「劉備軍は、予想以上に強力です。 とてもではありませんが、我が軍の戦力だけでは、突破は出来そうにありません」

「西涼で、我らはとても罪深い時間稼ぎをしている。 馬超を焚きつけて、作った時間は有限だ。 どうにかならないのか、張衛、揚松」

「劉備軍の干渉を抑えるには、荊州で乱を起こすしかありません。 しかし、もはや河北で消耗した我が漢中の細作の戦力では。 ただでさえ、荊州には謎の強力な細作集団が割拠しており、情報を集めるだけでも一苦労している状況でして」

揚松が血を吐くようにして言うと、張魯は大きく歎息した。

状況は、加速度的に悪くなってきている。西涼という泥沼に曹操は足を突っ込むことになったが、それも数年程度しか時間を稼げないだろう。今、裏から韓遂に支援をしているのは、馬超軍が敗退した後のための布石だ。

曹操軍が如何に強力な兵をもって西涼に進駐しても、彼の地は無数の豪族が割拠する魔境である。簡単に秩序は作れないし、むしろ討伐するよりも多くの人命と物資を浪費する結果にもつながる。

しかし、この支援も、時間稼ぎにしかならないことは分かりきっている。

兵糧は豊富にあるが、人材があまりにも少ないのだ。馬超を手に入れることが出来れば、益州での戦闘も多少は楽になるかも知れない。しかし、馬超は愚か者でもなければ、檻につながれてじっとしているような輩でもない。

「劉備と交渉の余地はないか」

「それは、恐らく曹操と交渉するよりも難しいかと思います。 劉備が考えているのは、我らと同じく、曹操と対抗するための領土獲得。 現在西涼に曹操がかかりっきりになっている間に、益州を落としてしまわなければ、劉備に活路はありません。 それに、益州だけでは足りず、当然漢中にも手を伸ばしてくるでしょう」

「我らと共存の路はない、と言うことか」

「残念ながら」

張魯は歎息した。

この人が、本当に善良な存在なのだと、揚松は知っている。だからこそに、このどす黒い陰謀を実施することには心を痛めているのだ。

揚松は、話を変えることとした。

「ところで、国内ではびこっている例の宗教団体ですが」

「何か新しいことが分かったか」

「はい。 教主と呼ばれる男は、どうやら漢中の外から訪れたようです。 最近では佐慈と名乗っているとか。 韓遂の所にも独自の情報網を作り上げているらしく、蠢動が最近ますます強くなってきています」

ここのところ、その政治力は表にも強い影響を及ぼし始めている。

張魯の前で行われる、村々の代表を集めての会議の際にも、その存在が強く見えてくるようになり始めていた。争いが絶えなかった小村達の共通言語として五斗米道を作り上げたのに、それが漢中を足下から崩そうとしている。

「暗殺は、最後の手段としたい。 細作の中にも、奴に心酔している者達がかなり多い現状だ」

「はい。 しかし、向こうは勢力を伸ばしているのを良いことに、此方との交渉をしようともしない状況でありまして」

「どうにか交渉に持ち込め。 悔しいが、政治的な地位を用意する選択肢も、今の内に考えなければならぬかも知れん。 とにかく、今内乱を起こすことだけは絶対に避けなければならん」

その通りだ。そしてその状況を利用して、佐慈は勢力を漢中内にて伸ばしている。度し難い、許し難いやり方であった。

会議が終わると、揚松は自宅にこっそりと戻った。

細作は来ていない。益州に主力を投入しているが、もはや伝令にも事欠くようになり始めているのだ。

漢中の落日は近いかも知れない。

竹簡を拡げて、情報を整理する。

最悪の状況になった時、するべき事は二つある。

一つは、張魯を無事に生き延びさせること。曹操が張魯を殺すようであれば、身分を変えて、落ち延びさせなければならない。

もう一つは、漢中を戦場にしないこと。

もしも曹操が侵攻してきた場合には、勝ち目があるか無いかを早めに見極めて、迅速に行動しなければならないだろう。

その場合、全ての悪を背負う覚悟が、揚松にはあった。

国を壟断し、私物化していた悪逆の臣。漢中陥落の、元凶。そう言った存在に自分がなることで、民の不満が少しでも逸らせるのなら。何より、張魯の名誉を守れるのであれば。易いことであった。

そもそもこの漢中は、小さな村々が連合することで出来た、民の国だ。

そして民がもっとも分かり易い象徴として選んだのが張魯。にもかかわらず、張魯はずっと漢中の民のことだけを考えて動いてきてくれた。

それならば、張魯のために死ぬ男が、揚松であっても良いではないか。

無表情で、薄暗い部屋で。揚松は、茶をすすりながら、決意をしていた。

 

曹操軍が動き出す。二十万の兵を、そのまま押し出す。

平原を埋め尽くすほどの数だが、西涼軍は前回の勝利で自信をつけた。臆することなく、そのまま鶴翼陣を組んで押し出してきた。三分の一を占める強力な騎兵部隊は、血に飢えて、今か今かと攻撃開始の銅鑼を待ち望んでいる様子である。

曹操は前回に比べて、本陣をより前に出している。陣形は方陣から魚鱗に切り替え、敵の突撃をいなす態勢をより強く整えていた。

「さて、どうでる。 西涼の錦」

呟きながら、曹操は焼き菓子を噛み砕いた。手に油がついてべたべたになってきたので、思わず舐める。隣にいた牛金が、まるで白黒の熊でも見たかのように、曹操の奇行を見つめていた。

曹操も牛金に気付いたので、焼き菓子の袋を抑える。

「欲しいのか?」

「え? い、いえ。 いりません」

「そのように物欲しそうな顔をしなくても大丈夫だぞ。 料理人! 牛金にも焼き菓子を用意してやれ!」

「分かりました!」

すぐに料理人が焼き菓子を持ってきた。

目を白黒させていた牛金から視線を外すと、曹操は腕組みした。敵は鶴翼を組んでいる。と言うことは、包囲戦を目論んでいるということだ。

平原戦では、包囲が成功すれば、その瞬間に勝負が決まる。だが、此方の方が兵力は倍である。簡単に包囲など成功はさせない。それは敵も分かっているとは思うのだ。なぜに危険が大きい鶴翼を選んだのか。

やはり兵糧が、極端に少ないのかも知れない。

「賈?(ク)よ。 そなたの言葉通り、やはり敵には兵糧が少ないか」

「はい。 兵糧だけではなく、恐らくは人の和も」

「錦馬超も、配下や同盟者には恵まれぬか。 惜しい話よ。 せめて西涼が、此処まで荒れ果てていなければ、余と張り合うことも出来ただろうに」

「曹操はいるかーっ!」

不意に、怒号がとどろいた。

前線から、伝令が飛んでくる。蒼白になっていた。

「曹操様!」

「あの声は、馬超だな」

「はい。 騎馬隊の最前列に出てきていて、何か叫んでいます」

「ふむ、面白そうだ。 虎痴、供をせい。 楽進、敵の攻撃に備えよ。 戦闘が開始したら、もう様子見は必要ない。 徹底的に蹂躙せよ」

無言で楽進が頷くと、先陣に移動した。魚鱗が鶴翼と相対する場合、敵の陣を分断すれば一気に有利になる。しかも鶴翼は横一線で陣列が薄いから、それは容易だ。楽進ほどの戦巧者ならば、苦もなくやり遂げてみせるだろう。

曹操は虎豹騎の精鋭と供に、陣頭に出る。側には曹真、郭淮などの、若手の期待馬を連れてきている。これは、馬超の猛気を彼らに見せておくことで、後に幅が出るようにと思ったからである。

若い内に名将と戦い、その姿を見ておけば、年を取ってから深みが出てくる。曹操も若いころ徐栄に踏みにじられて、随分考えることも多かった。張繍に負けたことで、驕りがもたらす大きな失敗も知ることが出来た。

馬超が見えた。

許?(チョ)が辺りに目を配っている。狙撃手を警戒しているのだろう。

「曹操、これで貴様を見るのは二度目か」

「うむ。 西涼の錦馬超よ、見事な武者ぶりだ」

馬超の背後には、既に報告があった馬岱と、その腹心らしい?(ホウ)兄弟の姿があった。逆に言えば、それしかいない。やはり、馬超は人の和に恵まれていない様子だ。馬超の周囲にいるのは、初歩の数学も分かりそうにない、野卑な連中ばかり。それ自体は悪いことではないが、人材の種類が少ないことは一目で分かる。

「漢王朝を専横する貴様に、そのようなことを言われても嬉しくはないな」

「何を馬鹿な。 心にもないことを言うでないわ」

「……貴様は、西涼を落として何を企む。 貴様がかねてから西涼を狙っていることは、分かっていた! このあまりにも準備よく用意された軍勢そのものが、その証拠であろうが!」

「西涼を狙っていたのは事実だが、それだけを目的としていた訳ではない。 広域戦略上、西涼は絶対に必要な土地であったというだけのこと。 それに、西涼をそなたはどうにか出来たのか。 腐敗しきり、凝りが溜まったこの土地をどうにかするには、外部からの圧倒的な力を輸入するしかないと、そなたも理解できているのではないのか」

馬超が眼を細めて、槍を掲げあげた。

どうやら、分かっていても、戦うしか路はない。そう言っている様子であった。

許?(チョ)が前に出る。敵の戦意は本物だという事であろう。

「曹操様、お下がりください」

「うむ。 虎痴よ、あの若造の目を覚まさせてやれ」

「承知いたしました」

馬超と許?(チョ)が、同時に手綱を引く。

馬術では馬超が上。戦闘技術でも、若干馬超が上という所だろう。しかし許?(チョ)は一旦戦闘にはいると集中力が凄まじく、何より腕力が卓越している。馬超との総合的な戦闘能力には、些細な差しかない。

そして、その程度の差であれば、戦闘の度に結果が変わる。

達人同士の戦闘を、曹操は何度か目にしたことがある。呂布のように、人間の領域を踏み越えていない限り、達人の域に到っている使い手同士の戦いには、運が大きな要素として関わってくる。

そして、簡単に勝負がつくこともないのだ。

鋭い叫びと供に、許?(チョ)と馬超が激突する。

同時に、曹操が指揮権を振り下ろした。楽進が突撃を開始。敵も、それに併せて動き始めていた。

曹操を追い越すように、まず騎馬隊が突撃。無数の矢が天を覆い、敵味方に降り注いだ。凄まじい圧力で、前線同士が接触する。

楽進隊が、まず敵の一軍を踏みにじった。流石に戦闘能力が違う。若干背が低いが、楽進の指揮は猛烈で、分厚い西涼軍の陣をこじあけるようにして貫いていく。敵はそれに対して、若干突撃速度を落とし、穴を補強に掛かった。其処に、曹操は指揮剣を振るった。

「よし、今だ。 敵の陣形が乱れた。 牛金、郭淮、曹真、隙に潜り込み、敵陣を撃ち貫け! 後方に突破したら、敵陣を徹底的に攪乱せよ!」

「はっ!」

「韓浩は、隙が出来た敵を圧迫し、全軍を押し戻せ。 一気に今日、勝負を付けるぞ!」

どっと、曹操軍が動き出す。

馬超が前線に出てきたのは、まさに好機だった。奴の指揮能力が高いのは分かりきっている。だから、許?(チョ)の相手をさせておけば心配ない。

馬超も危地を察したようだが、どうにも出来ない。むしろその隙に攻勢に出た許?(チョ)が、一気に馬超を押し込み始めた。それが更に敵の混乱を加速する。

張繍も暴れ回っているが、何より本気を出した楽進隊の破壊力は凄まじい。流石に曹操軍の中でも、常に先頭を切ってきた猛将の中の猛将だ。西涼の凶猛な騎馬軍団を、当たるを幸いに蹴散らし、踏みにじる。その形相は夜叉のようであり、迷信深い西涼の兵士達を混乱させるに充分であった。

そして、間隙が出来はじめる。

牛金が最初に、五千を率いて馬玩の陣を突破。そのまま敵陣を攪乱し始める。後方での攪乱を受けると、鶴翼は脆い。所々がほころび、散り散りに砕け始める。

そうなってしまうと、兵の質よりも兵力の差がもろに出て、その日の戦は夕刻までにおわった。

味方の被害は二千五百ほど。それに対して、西涼の軍勢は、八千弱を失っていた。

 

牛金は敵を攪乱する過程で、何名か捕虜を得ていた。

戦闘の最終局面で、敵はまるで一体化したような動きを見せ、するりと味方の攻勢をすり抜けた。そして長安を包囲していた部隊と合流し、憧関まで引いた。

長安の包囲は解け、解放された都市に、曹操軍は入城する。そして長期間の包囲に耐えた二万五千の軍勢と合流することに成功したのである。

流石に長時間天幕で過ごしたことに疲れたか、曹操は早めに宮城に入り、奥の間で休んでいるという。牛金は捕虜を尋問するべきか迷ったのだが、曹操が起きだしてきてからでも良いかと考え直し、外に出た。

長安は、荒れ果てていた。

話には聞いていたが、漢王朝初期の都は、もはや何処にもない。

まず大通りからして、荒れ地と化している。左右に立ち並ぶ家には廃墟が目立ち、市場も夜になると真っ暗だ。許昌とは大違いである。洛陽も未だ復興途上だが、此処の有様は、いくら何でも酷すぎた。

夜に市場がにぎわっていない理由は、治安が悪いからだ。今は二十万の軍勢が来ているから良いが、夜は盗賊が群れを成して横行しているに違いない。それも、悪人が集まっているから、等という理由からではない。

この様子では、物資もろくに入ってきていないのだ。

誰も食べることが出来ないのである。

だから、食べるために盗む。奪う。

はやく長安を立て直すには、路を整備し、畑を作り、市場に警備兵を置いて、民が安心して暮らせるようにしなければならない。

そしてそれを為すのは、乱世では軍人の仕事でもあるのだ。

副官が来た。牛金も若いが、副官は更に若い。ただ、士大夫のかなり良い家の出らしく、時々陰口を言っているらしい男である。何回か牛金の副官は替わったのだが、その中でもっとも気に入らない男でもあった。

「酷い有様ですな」

「ああ。 早く復興しなければならん」

「何、良いではありませんか。 いずれこの国の中心は、許昌と?(ギョウ)に移るのですから」

「本気で言っているのか、貴様」

副官はへらへらと笑う態勢を崩さなかった。本気で言っていると言うことだ。

呆れた。

曹操は出身で地位を与えるような男ではない。このような輩は、放って置いても没落していくだろう。

話を切ると、牛金は宿舎に戻る。この様子では、女も買えないだろう。実家に残してある妻との関係はますます冷え切っていて、牛金は二人囲っている妾の所に通う毎日だった。もっとも、妻にも好き勝手に振る舞って良いとある程度の小遣いも渡しているので、離縁という話は出ていない。一応、長男もいる。妾は性欲発散の関係と割り切っていて、当人達もそれを受け容れていた。あまり好ましいことではないのかも知れないが、牛金は世間で言う愛というようなものもよく分からない、それ以外の路は知らない。

士官用に、一応屋敷が手配された。

といっても、あばら屋も同然で、天幕で寝る方がマシにも思える代物だった。

兵士達や此処に暮らす民は、更に酷い生活を強いられているのだ。贅沢は言えない。それに、明日からはまた馬超の率いる精悍な西涼軍と戦うことになる。

埃まみれの部屋であったが。

牛金は住めば極楽と自分に呟いて、そのまま眠った。

 

3、崩壊

 

賈?(ク)の前から、一刻ほど前までは人間だった肉塊が運び出されていく。

両手を血だらけにした賈?(ク)は、桶で手を洗いながら、後ろに立っている曹操に言った。

「聞いての通りにございます」

「うむ」

曹操は苦虫をかみつぶしながら頷いた。他の捕虜達が蒼白になっている中、ただ一人、賈?(ク)だけが笑みを浮かべ続けていた。孤児院の優しい先生であると同時に、必要とあれば手段を選ばない、曹操軍最強の策士。そのやり口は、兎に角徹底していた。

賈?(ク)はわざと捕虜達を同時に引きだし、他の者が見ている前で、反抗的な男を解体して見せたのだ。しかも生きたまま、である。反抗的に叫べば叫ぶほど血みどろの肉塊になる仲間を見ていた捕虜達は、賈?(ク)の言葉にすぐに素直になった。そして話し始めた。西涼軍の内情を。

馬超軍と韓遂ら諸侯の諍い。

物資の不平等。韓遂は馬超を裏から操作していて、同盟者などとはとても呼べはしないと言うこと。

その韓遂の元には、どうやら漢中から物資が密かに援助されているらしい、という事。

一度一人がしゃべり出すと、すぐにぎゃあぎゃあと醜い喧嘩が始まった。兵士達は助かりたいことも、互いの敵意を刺激されたこともあったのだろう。言わなくても良いような事までも、どんどん積極的にしゃべってくれた。

そして今、充分と判断した賈?(ク)が、死骸を片付けさせたのである。

曹操は主要な武将達を天幕に集める。賈?(ク)は着替えて、血の臭いがしない新しい衣服を纏ってから軍議に来た。兎に角、色々な情報が出てきた以上、比較的簡単に敵の軍勢は崩すことができる。

曹操が上座に着く。偵察に出てくれている楽進が最後に来て、主要な将は一通りが揃った。

「敵は憧関に籠もっていて、兵力の再編成を進めている様子です。 出撃はまだしばらく先でしょう」

「ふむ、そうだろうな。 先の会戦で、一割近い兵力を失ったのだ。 立て直すことが出来ても、戦闘能力のある兵は七万程度であろう。 この戦、貰ったぞ、と言いたい所だが」

曹操は言葉を切ると、諸将を見回した。

追従するような将は、この場に存在を許していない。現実的に戦いを考えることが出来る者だけを、置いている。

「馬超は想像以上に手強い将です。 どうにかして確実に仕留めないと、危険かと思われまする」

「牛金に賛成です」

牛金の言葉に、曹真が同意した。

若手の将は血気盛んだと相場が決まっているが、彼らであっても正面には立ちたくないほどに、馬超の勢いは凄まじかったと言うことである。前回の戦いで勝てたのは、許?(チョ)によって馬超を指揮から切り離したからである。二度と同じ手は通用しないだろう。そこで。賈?(ク)の出番となる。

「曹操様」

「名案が浮かんだか、賈?(ク)よ」

「はい。 二つの策によって、敵を追い詰めまする」

机の上に、地図が拡げられる。

近くにある黄河の支流の上に、賈?(ク)は指を置き、すっと曹操軍がいる長安と馬超軍がいる憧関の間に滑らせた。

「まず第一に、此処に土塁を築いてください」

「土塁、だと。 この辺りの土は砂利が多くて、しかも塩分が含まれている。 つつくだけで簡単に崩れてしまうぞ」

そうぼやいたのは楽進である。

かって、この辺りには穀倉地帯が広がっていた。しかし、灌漑を考え無しに進めた結果、土は痛み、大地は塩辛くなり、水は飲めたものではなくなってしまったのである。

これが漢王朝が、洛陽に都を移した最大の理由だ。大多数の住民を、支えることが出来なくなってしまったのだ、

今では少しずつ再生も進んでいるが、簡単にはいかない。そして、この辺りの土は、そう言う理由もあって、簡単に盛ったくらいでは防壁の用を為さない。かといって、防壁の構築に時間を掛けていては、敵の襲撃で台無しにされてしまうだろう。

「その通り。 ただ土を盛っただけでは、楽進将軍の言うとおりになってしまうでしょう」

「何か策があるのだな」

「はい。 夜の内に、水を掛けてください」

「なるほど、凍らせるのか」

曹操が言うと、賈?(ク)はにんまりと笑みを浮かべた。

そうだ。既に秋も深まり、この近辺では凄絶な寒さが夜を包むようになってきている。例え崩れやすい土塁でも、凍らせることによって、鉄壁の防壁に作り替えることが可能なのだ。

確かに面白い策だが、元が崩れやすい土塁である以上、作れる防御陣地も多寡が知れている。本格的な野戦陣を移すのは難しい。

だが、曹操は、賈?(ク)の狙いが分かった。

「なるほど、迷信深い西涼の兵士達を動揺させるのが目的か」

「流石は曹操様。 その通りにございます。 一夜にしていきなり防壁が出来たら、彼らの動揺はさぞ大きくなることでしょう」

「ふむ、負けたばかりであるし、凶猛ではあっても純朴である以上、このような詐術は有効か」

楽進が腕組みしながら呟く。しかし、不満がありありと顔に出ていた。

常に先陣を切ってきたこの男である。これほどの雄敵を相手にして、小細工で挑まなければならないことが不満なのだろう。仕方がないので、曹操は楽進を側に招いた。

「楽進や、近うよれ」

「曹操様、如何なさいましたか」

「余の焼き菓子を少し分けてやろう。 とても美味しいので忘れがちだが、砂糖をたくさん使っておるでな。 食べた後は歯を磨くのだぞ」

嬉しさがゆえか石化したかのように固まった楽進から視線を逸らすと、曹操は賈?(ク)に続きを促す。気のせいか、他の武将達の多くも固まっているようであった。賈?(ク)は全く動じていない。

「それで、敵を動揺させた所で、どう崩す」

「馬超に分かるように、韓遂に粉を掛けまする。 ただでさえ、西涼軍の勝利がおぼつかなくなっている状況で、計算高い韓遂はどう和平か降伏に持ち込むか、今必死に考えておりましょう。 そしてそれを、馬超も見抜いておるに違いありません」

「なるほど。 元からあった亀裂を、我らで更にひろへてやるわけはは」

焼き菓子を頬張ったので、語尾が変な風になってしまった。曹操はちょっと油まみれになった手の甲で口を拭いながら、策の核心に触れる。

「とどめに、あの情報を馬超に流す訳か」

「はい。 もとより韓遂に不満を感じていた馬超は、必ずや行動を起こすでしょう。 後は草を刈るように、残党を叩きつぶしてやれば良いだけです」

「うむ、見事な策だ。 馬超は哀れだが、此処で死んで貰うしかないか」

惜しい男だと、曹操は思う。本当に殺さなければならないのがもったいない。

あれだけの戦の手腕を見せたのだ。曹操の下で使えば、張遼や徐晃に匹敵する活躍を見せてくれるだろうに。

人材収集欲がうずく。

だが、此処は戦場だ。曹操一人の欲望を通す訳にはいかない。

合理的に考え、そして動く。そうでなければ、兵士達は生きて故郷に帰ることが出来ないのだ。

「曹操様、一つ提案がございます」

「ふむ、牛金。 どうした」

「はい。 その、長安の都の荒廃ぶりは、目を覆うばかりです。 そこで、もしも許していただけるのなら。 この戦が終わったら、私が駐屯したいのですが」

「ほう、この荒れた都を立て直す楽しみを味わいたいというか。 鐘?(ヨウ)はよくやっているが、確かに武官が足りないのは余も感じていた。 ……良いだろう。 ただし、荊州の状況が安定してからだぞ」

若手の将が育つのは、とても喜ばしいことだ。

曹操は馬超のことで陰鬱になっていた心が、晴れるのを感じていた。

 

寝台から跳ね起きた馬超は、闇に剣を振るった。

鋭い悲鳴。上がる血しぶき。

明かりをともすと、其処には兵士が一人屍となって転がっていた。その手には、場違いな懐剣が握られている。しかも剣には、青黒い毒が塗られていた。不快な臭気が鼻をつく。さぞやおぞましい毒なのだろう。

寝所にどやどやと?(ホウ)兄弟が入ってくる。そして、剣の血をぬぐい取る馬超を見て、大きく柔が歎息した。

「また、刺客ですか」

「ああ。 誰の刺客かなど、考えるまでもないわ」

数日前、いきなり憧関の前に、曹操軍の前線基地が出現した。それは土塁を氷で固めており、火矢も通らず、騎馬隊による攻撃でも崩すことが出来なかった。この寒さである。氷はさながら鉄のように固まっていて、土塁と混じり合って刃物でさえ通さないような有様であった。

兵士達は恐怖に落ちた。

曹操が、なにやら怪しげな術を使ったとかほざいた鮮卑の兵が出たのだ。もとより呪術が生活に密着している遊牧民は、迷信深い面を持つ。曹操が成し遂げた一夜による築城という異常事態に、彼らは平静ではいられなかった。

そして、次はこれである。

曹操軍は、韓遂の陣に、露骨に分かり易く矢文を撃ち込み始めている。しかもご丁寧に、韓遂の息が掛かった諸将の陣にも、である。更にとんでもないことがこの状況に判明していた。

韓遂が、兵糧をかなりの量、隠し持っていたのである。漢中から援助されていた以上の量が、韓遂の懐には、最初からあったのだ。

つまり、この遠征は。

最初から仕組まれた茶番だったと言うことだ。

そして、何よりも。漢中は恐らく、この後の泥沼化を狙い、韓遂を支援したのだ。

それらを指摘すると、何かの間違いだとか、韓遂は軍議で主張した。そして、「兵糧を隠していた」男の首をその場で刎ねて、馬超に差し出してきた。しかし、そんな男は、今まで馬超も見たことがなかった。西涼で、ある程度の上級将校は、全て顔も名前も覚えている馬超が、である。そればかりか、?(ホウ)兄弟も、馬岱もそんな男は知らなかった。

適当に、使えない部下を、生け贄として殺したのは明白だと、軍議が終わった後に柔は吠えていた。首を引っこ抜いてこようかと徳が言ったが、馬超は制止した。しかし、その後からである。

毎日のように、馬超の寝所に、刺客が現れるようになったのは。

「最早我慢の限界です。 私に韓遂を斬らせてください」

「俺もです。 差し違えても、奴を殺してきます」

?(ホウ)兄弟が、口々に言った。血の気の多い徳だけではなく、柔までもが、完全に頭に血を上らせている。

馬超だって、我慢の限界だ。いずれ殺さなければならない相手でもある。しかし、此処で韓遂と事を起こせば、曹操を利するだけなのだ。

現在戦闘可能な戦力は七万強。その内二万三千を韓遂が抑えており、諸侯の中でもぬきんでた力を持っている。丸ごとこれに離反されると、残る兵力は五万を切ってしまう。しかも、馬超よりも韓遂にすり寄っている諸侯の軍勢も多い。下手をすると、三万を切る可能性さえある。

其処を曹操に攻撃されたら、最早再起は不可能だ。

かといって、放置しておく訳にもいかない。もとより騎兵を主戦力としている馬超軍は、籠城にも守勢にも向いていない。更に最大の問題として、そもそも兵糧がもうあまり残されていないのである。

憧関の中を歩く。

兵士達のやる気は、確実に削がれ始めている。中には脱走する兵士も出始めている様子で、もはや戦闘可能限界が近付いているのは明らかであった。

一通り状況を見て回った後、馬超は幹部を集めた。

韓遂は、来た。

だが、来ない幹部も、何名かいた。恐らくこれが、まともに戦える最後の機会だと思いつつ、馬超は皆の顔を見回す。

「見ての通り、既に味方の戦力は大幅に削がれてしまっている。 内部では私に刺客を送る者までいて、軍組織として、残念ながらもはや限界が近いと言える」

韓遂は平然としていた。

狸めと内心で呟きながら、馬超は続けた。

「其処で、曹操に、決戦を挑む」

「しかし、どうやって。 憧関の外には土塁が築かれ、騎馬隊の機動力は潰されてしまっているのですぞ。 仮に騎馬隊の機動力を活かせる状況を作っても、土塁の中に逃げ込まれてしまうと、此方では手が出せません」

「その通りだ。 其処で、この憧関を放棄する」

此処で放棄すれば、二度と手に入れることは出来ないだろう。それは分かっていても、馬超に選択肢は残されていなかった。

「曹操軍を無視して、全軍で東に進撃。 長安が落とせそうにないなら、弘農を奪う」

「しかし、それでは退路が無いのでは」

「そうだ。 だからこそ、兵士達も必死になる。 それに、兵糧はどのみち殆ど残されていない。 この賭けに失敗したら、全軍が飢え死にするだけだ。 例え西涼に撤退しようとしたところで、曹操軍は見逃してくれるほど甘くはないだろう。 そなたが隠していた兵糧の所に辿り着く頃には、全軍は消滅しておるわ」

前回使った手と同じだが、敵は防ぐために出撃して来ざるを得ない。其処を叩く。

既に兵力差は三倍以上に開いているが、野戦であればまだ勝機はある。曹操さえ倒せば、まだ勝ちは拾えるのだ。

腕組みして考え込んでいた韓遂は、挙手した。

「分かりました。 ではこの老体が、後詰めを承りましょう」

「……良いだろう」

戦況が悪いようなら、見捨てるための布石という訳か。だが、乱戦の中で裏切られるよりも、その方がマシだ。

作戦は、ごく単純。

全軍が、曹操を殺すことだけを考えて、動く。

 

「馬超は、恐らく曹操様一人を狙ってくることでしょう」

賈?(ク)が断言した。曹操も、それが正しいと判断した。

既に、馬超の手札は殆どが失われている。退路も、その中に含まれている。

そして、部下達の信頼も、である。

韓遂との対立で、既に馬超はその人徳を致命的な段階までに失っていると、細作部隊は報告してきた。荊州で活動している林を呼ばなくても充分な程度に、既に西涼の軍勢は弱体化していると言うことだ。情報戦においても、である。

もとより西涼はあまりにも混沌としすぎているせいか、情報戦について非常に脆弱な節が前々からあった。最近消息を絶った劉勝が以前伝えてきた所によると、漢中の細作組織に、かなり良いようにされている節があったという。

もし、この出兵が誘導されたものだったとすると。

恐らく、漢中が態勢を立て直す時間稼ぎをするために、西涼の戦況を泥沼化させ、其処に曹操を落とし込むつもりだったのだろう。

「不快極まる策略だな」

「ん? 曹操様?」

「そなたのことではない。 もっとも、軍事も弱く、土地も狭い弱小国である漢中に、他に手など無いか。 いずれにしても、このような負の連鎖は、早めに断ち斬ってしまわねばならん」

それに、西涼が泥沼化しているのは、最初から承知の上だ。

今回は、この軍勢を入れて、まず屯田を行う。そして土着の豪族達の力を削ぎながら、土地を耕させ、経済を流通させ、異民族達を傭兵として中原に招き入れる路を造らせる。最終的に西涼そのものを、曹操の膝下に、完璧な形で組み入れる。或いは、その準備を整えさせる。

十年、掛かるかも知れない。

曹操の偏頭痛は、ここのところ頻度を増してきている。

時間がない。時間がないと、体が訴えかけてきているかのように。

だが、無能な曹丕のことを考えると、西涼の状況を整えておかないと、危なくてあの世に行くことも出来ない。それどころか、天下統一があまりに遅れると、この中華は異民族達に蹂躙され、統一の日など永劫来なくなるかも知れない。

「賈?(ク)よ。 馬超を誘い込む罠の作成を任せる」

「それならば、既に」

賈?(ク)が指さした先には、土塁が延々と連なっている。その端に、一箇所だけ崩れた所があった。

昨日、憧関から出撃してきた敵が、一箇所だけ崩すことに成功したのだ。陽の光がよく当たっていて、硬度が落ちていたらしい。

もちろん本来であれば、夜の内に補修してしまうのだが。

「なるほど、あれを利用するか」

「はい。 万が一にも、長安や弘農が危険にさらされることもなくなるでしょう」

流石は賈?(ク)。

悪知恵が働く男だと、曹操は思って、焼き菓子の袋を掴んだ。

 

曹操軍が、動き始めたと聞いて、馬超は憧関の城壁に着いている階段を駆け上がった。如何に防御戦が下手だと言っても、まだ敵の三分の一の兵力が此方にはいる。しかも頑強なことで知られる憧関である。簡単に落ちるとは思えない。

高い高い城壁の上から、敵の動きを見下ろす。

曹操は、いた。

馬超の卓越した視力は、確実に曹操の姿と、旗と、それに許?(チョ)の姿を捉えていた。総攻撃の準備を開始した敵は、横に薄く陣を張っている。土塁の中とはいえ、周囲を固める戦力が減っていることに代わりはない。

敵が総攻撃を開始したら、終わりだ。

だが、今であれば。その隙に乗じることも出来る。

問題は分厚い土塁をどうするか、だ。一箇所突破が容易な箇所があるのだが、どうも罠に思えて仕方がない。しかし、敵は着実に総攻撃の準備を進めている。あまり、もたついている時間はなかった。

あの場所からなら、忌々しい土塁を突破できる。突破さえして、白兵戦に持ち込めば。曹操の至近に迫ることは、難しくない。西涼の軍勢は、未だ個々の能力で曹操軍に遅れを取ってはいない。

問題は楽進の精鋭だが、奴は曹操のいる場所から、かなり離れている。全体的に見て、布陣には無理がない。

甘い蜜にも思える敵の間隙。馬超は歩き回りながら、考える。時間が、その足下を、確実に崩していく。

「罠だな」

だが、時間との戦いの中で、ついに馬超は看破した。

曹操の今までの能力を見る限り、あのような隙を見逃す訳がない。何かしらの大きな補修をしてくる事は間違いない。

ならば、それを逆手に取る。

「馬岱を此処に」

「分かりました」

兵士達がすぐに馬岱を呼んでくる。

かなり危険な任務だが、やって貰う他無い。?(ホウ)兄弟は至近で自分を支えて貰うとして、後は韓遂だ。今や奴は、裏切る機会を虎視眈々と狙っていることだろう。この場に現れたら首を刎ねてやりたい所だが。そうも行かないのが不快だ。

「馬超様」

「馬岱か。 お前はこれから五千を率いて、あの地点に攻撃を掛け、曹操の首を狙って欲しい」

「はい。 しかし、あれは罠ではないでしょうか」

「そうだ。 だから、わざと罠に掛かり、敵の動きを誘う。 敵が動いた所を外から叩き、乱戦に持ち込むのだ」

乱戦に持ち込んでしまえば、此方にも勝機は大いにある。

特にあの土塁の周囲には、必殺の罠を仕込んでいる可能性が大いにある。それを突破すれば、逆に曹操の首は指先に掛かっているとも言えた。

「分かりました。 しかし、罠を突破できなかった場合は、どうしましょう」

「その場合は、漢中に逃げるしかあるまい」

「やはり、そうですか」

「悔しいが、漢中に我らを拒む理由はない。 漢中に逃げられそうもなければ、西涼の田舎にでも籠もって、再起を狙う。 漢中の連中は、今回の挙兵を起こす要因になっているのがほぼ間違いないが、それでも他に頼る相手もない」

既に非戦闘員や家族は逃がしてあるが、それもいつまで安全でいられるか。憧関を抜かれて、曹操軍が西涼になだれ込んできたら、どのみち漢中以外に逃げる場所などなくなるだろう。

そしてその漢中も。

曹操が西涼を落とせば、どのみち近々落とされるのは間違いない。

此処で曹操を殺さなければ、いずれにしろ未来はないのだ。

しかし、西涼にとっては、曹操による支配を受ける方が、未来としてはまだマシかも知れない。

少なくとも、西涼に平和は来る。

今、曹操を打ち破って、兵糧を得て。それを西涼に持ち帰った所で、韓遂も、そのほかの諸侯も無事である。まあ、魑魅魍魎による跋扈が開始されるのは間違いなく、民が安らぐ日など来はしないだろう。

かといって、兵士達を無為に死なせる訳にもいかない。

馬岱が出撃する。馬超もそれに併せて、全軍に攻撃準備の指示を出した。

五千の兵は、脇目もふらず。土塁の弱点へと突進する。不意を突かれた敵は、混乱しているように見えた。

同時に。

韓遂軍が、動き出した。

憧関が激しく揺動する。

馬超は、何かあったのだと、即座に悟った。伝令が飛び込んでくる。

「馬超様!」

「どうした!」

「韓遂が、城内で硫黄と硝石の混合物らしいものを爆発させました! 混乱に乗じて、我が軍に襲いかかってきています!」

馬玩を始めとする、韓遂派の諸侯も、一斉に反旗を翻したという報告があった。

そうか、恐らくは。

この状況で裏切るようにと、事前に打ち合わせしていたのだろう。一斉に曹操軍も動きだし、馬岱は完全に包囲された。

乾いた笑いが漏れる。馬超は、側に控えていた?(ホウ)徳に叫んだ。

「徳! 五千を率いて、馬岱を救出!」

「分かりました!」

「柔は俺に続け!」

馬超は大股で歩き出す。まず、韓遂のいる場所を目指す。途中、馬玩の陣に入り込んだ。敵兵と化した馬玩の部下達は、馬超を見ると蒼白になった。

「其処を退け!」

馬超が一喝すると、兵士達はさっと逃げ散る。唖然としている馬玩を見つけた馬超は、無言でその首を跳ね飛ばした。

そうして、馬超は。

次々に、かっての部下達を粛正していった。

周囲に血の嵐を巻き起こしながら、馬超は思う。

この手は、常に血に染まる。若造の頃からそうだった。韓遂らに、西涼の支配者として祭り上げられてからも代わりはなかった。ただひたすらに、殺し、そして奪ってきた。それが宿命であるかのように。

そして、今も。馬超はただ殺し続ける。

斬る。斬り伏せる。矢を切り落とす。向かってきた兵士の首を跳ね飛ばす。前に立つ者は、全て敵。

血しぶきの中、馬超は笑った。

結局、殺すことでしかこの身は保てない。

誰も、生かすことなど出来ない。

曹操軍が、憧関に入り込んできた。

韓遂を殺せなかったのは残念だが、潮時だった。

「総員、漢中へ逃げろ。 俺とは別方向に逃げれば、掴まる可能性も低くなる。 逃げられそうに無ければ、降伏せよ。 一兵卒であれば、曹操に首を刎ねられることもないだろう」

最後の命令を出すと、馬超は愛馬に跨り、憧関を脱出した。

外は曹操軍の海のようであったが。

馬岱と、?(ホウ)兄弟と力を合わせて。馬超は鎧に十本もの矢を受けながらも、悠々と脱出していった。

その跡に残るは、血煙のみ、であった。

 

残敵を掃討し、憧関に入った曹操は、楽進の報告を聞いていた。辺りはまだ血の臭いがする。この辺りは、丁度馬超が西涼の豪族達を自ら八つ裂きにした場所らしい。曹操が入る前は、血の臭いだけでなく、肉片もまだ無数に転がっていたそうだ。

不安そうに跪いているのは、韓遂を始めとする、生き残った西涼軍幹部であった。

既に馬超に従った軍の内二万ほどは打ち倒している。また、裏切った韓遂を始めとする諸侯の軍勢も、馬超との死闘を経た後も、半分ほどは無事であった。それだけ馬超の暴れぶりが凄まじかったと言うことである。

曹操は、此奴らが嫌いだ。

馬超は殺さなければならない相手ではあったが、まっすぐであったし、話していて部下思いなのもよく分かった。

だが此奴らの脳内には、自分の保全しかない。

今回は殺さない。

だが、いずれ皆殺しにしなければならない者達であった。

「曹操様、戦勝おめでとうございます」

開口一番に韓遂が言った。曹操はこの手の輩は見慣れているから、無表情で応じたが、後ろにいる許?(チョ)はかなり怒っているようだった。多分許?(チョ)も、馬超には好意を感じていたのだろう。

「我々一同、馬超の専横に逆らう術が無く。 ようやく曹操様の下、西涼の安全に寄与できると思うと、幸せにございます」

「余の下にはいると言うのであれば、まず幾つかの命令を聞いて貰おうか」

「何なりと」

「そなたらの私兵は、全て預かる」

さっと韓遂達の顔が青ざめた。下郎がと、曹操は内心呟いた。

既に西涼が、新しい兵を徴募できる状態ではないことは、調査により分かっている。降伏した馬超の兵や、武装解除した韓遂軍を見て回ったが、まだ成人を明らかに済ませていない子供もかなり交じっていた。中には向かい傷を受けて、完治している子供までいた。つまりそれは、成人よりずっと前に戦に出て、傷を受けている、と言うことなのだ。

悲惨な戦況下で、子供が戦場に駆り出されるのは、よくあることだ。

だが、此処まで酷い状況は、悲しいというほかない。

「流入している鮮卑や兇奴の者達は、我が軍に編入する。 兵の中にいる女子供は帰農させて、西涼の復旧に当たらせる」

「し、しかしそれでは、治安を維持できませぬ」

「それなら問題ない。 今回連れてきた兵の内、半数を駐屯軍として残していく」

もはや、韓遂らに、西涼の実権は与えない。

西涼太守として、実績と実力のある人物を据えて、最終的には完全に安全地帯として計上できるようにする。

本当なら、この場で処刑してしまいたいくらいの連中だ。今回の乱を起こしたのも、実質上裏で糸を引いていたのは、漢中と韓遂だと分かっているのだから。細作の意味での狸どもであり、生かしておくだけで害になる。

項垂れている韓遂を、兵士達が連れて行く。

「韓浩。 西涼での屯田を進めよ」

「治安が悪すぎるので、すぐには難しいでしょう。 長安近辺から、確実に進めていきながら、耕した土地を民に譲渡していく形になるかと思います。 流民化して司隷に流れ込んでいる民達を西涼に戻らせるには、更に時間が必要となるでしょう」

「うむ。 この西涼の安定化が、そなたにとって一番大きな仕事になるやもしれぬ。 任せても、構わぬか」

「王匡様の下にいた、冴えない将軍だった私を、此処まで引き上げてくださったのは曹操様にございます。 私は曹操様だけを今は主と考えていますし、今後もそれを変えるつもりはございません。 西涼が最後の大仕事だというのであれば、喜んで作業をさせていただく所存です」

韓浩の忠誠に、曹操は胸がいっぱいになる思いであった。韓浩は抱拳礼をすると、いつものように屯田で土地を整備すべく、視察に出かけていった。

韓遂らによって韓浩が殺される事態だけは、絶対に避けなければならない。細作部隊の多くを残していく必要があると思いながら、曹操は賈?(ク)に言った。

「新しく細作の部隊を創設する。 どれくらい時間が掛かるか」

「そうですな。 今までの部隊の中核を引き抜くとしても、二年、三年あれば確実であるかと」

「そうか。 では三年で、林の組織と同等のものを。 今までの細作組織は、西涼に回して、治安の安定化を図らせる。 特に韓浩は絶対に守れ。 韓浩は、我が国の宝ぞ」

「御意にございまする」

これで、後は大丈夫だろう。多少の反乱は起こるかも知れないが、残しておく軍勢と、細作達による情報収集で、充分に押さえ込める。それに何より、漢中攻略の足がかりとするための土地として、整備が可能であろう。

曹操が生きている内に、漢中を領土として取り込めるかは、正直分からない。ただ、張魯とその細作組織は潰しておかないと危ない。曹丕が凡庸であっても、その子が更に盆暗であっても。天下だけは統一できるように、あらゆる布石は打っておかなければならないのだ。

これは一族の名誉とかそういうものではない。

一刻も早く乱世を終わらせるために、必要な措置なのだ。

「それが終わったら、公へ昇進しておくか」

曹操は呟く。

皇帝になる気はない。だが、勢力を安定させるために、最終的に王にまではなっておくつもりであった。

益州は、もう劉備に取られてしまうだろう。諦めるしかない。

しかし、漢中から益州へ容易に侵入できる態勢さえ作っておけば。きっと、天下の騒乱は百年を掛けずに収まるはずだ。

そのまま寝てしまいそうになり、気付く。そう言えば、歯を磨いていなかった。

衰えたなと、曹操は自嘲した。

 

戦場を逃れた馬超は、漢中の近くまで馬を進めていた。

付き従った兵は、五千を超えていないだろう。妻子はどうにか漢中に脱出できたようだが、これは完敗と言って良い状況であった。

再起を図ることは、出来るかも知れない。

しかし、それは何かしらに利用されて、と言うことになるだろう。

「俺は、結局誰かの操り人形と言うことか」

「馬超様」

馬岱が悔しそうに言った。錦と呼ばれたその姿は、敗戦によって萎れているかのようにも見えたかも知れない。

馬超が振り返る。

もはや、馬超以外に頼る者がいない西涼の軍勢が従っている。

彼らの命を守るためにも、馬超は恥を受けなければならなかった。

「一度、漢中に赴こう。 後のことは、その時に考えよう」

部下達の慟哭が聞こえた。

 

4、益州の渦

 

陳到は、布陣した漢中の軍勢二万を見つめていた。

敵は二万と兵力こそ多いが、兎に角戦闘経験が足りないのが丸わかりである。陣立ても稚拙で、勢いばかりが立派だった。武装も不揃いであり、陳到から言わせれば、子供だましも良い所であった。

益州の脆弱な軍勢と戦い続けていたからだろう。

陳到の側には、益州の名将として知られる張任がいた。

「敵は二万ですが、これだけで大丈夫でしょうか」

「問題ない」

味方は一万。劉璋の援軍を入れても一万二千である。

だが、陳到は緊張もしていなければ、死の覚悟もしてない。この程度の相手であれば、確実に勝てるからだ。

曹操軍の二万と、漢中軍の二万では、戦闘能力に差がありすぎる。張衛という総司令官はなかなかに優秀なようだが、兵士達は練度が低く、中級指揮官達にも人材がいない。これでは、百戦錬磨の劉備軍と渡り合うのは最初から無理であった。

敵が動き出す。

方陣を保ったまま、進んでくる。そのまま数で押しつぶすつもりだろう。陳到は側に控えている陳式と廖化に、事前の作戦通りに動くように指示。二人は馬腹を蹴ると、それぞれ千五百の兵を率いて、敵に突撃していった。

方陣を組んでいた敵は、何度となく苦戦させられている劉備軍に対応すべく、陣を崩して迎撃に入ろうとするが、其処に陳到が指揮杖を振り上げる。

「総員、突撃!」

七千の本隊が動き出す。敵がどうしようか迷った瞬間に、陳式と廖化の別働隊が敵陣に食い込み、内部の防備を噛み荒らし始めていた。其処に、陳到の主力が突入し、敵を粉砕。数里を後退した敵は、致命傷こそ避けたが、砦に立てこもって出てこなくなった。

戦いは僅か半日で決着がついた。何度追い払っても兵力を再整備してくる漢中の軍勢だが、気の毒なほどに実力が伴っていない。

陳到は自陣に戻ると、劉備に抱拳礼をして、戦況を告げた。別方向では、黄忠がさらなる小勢で敵の軍勢を追い払い続けている。いずれにしても、楽な戦だ。鈍ってしまうのではないかと思ってしまう。

「いつもながら、ご苦労であったな。 陳到将軍」

「いえ、このくらいであれば苦労はありません」

「いずれ、必ずや功には報いる。 それまで、しばし我慢して欲しい」

礼をして、劉備の前を退出する。

功よりも、民が安心して暮らせる国を。民主体という戦略の堅持を。それだけを願いたかった。

天幕の外では張任が待っていたので、一緒に酒宴に出る。漢中の脅威が綺麗さっぱり消え去ったので、劉璋は上機嫌らしく、酒を毎回送ってくる。捨ててしまうのももったいないので、軍を幾つかに分け、交代で酒宴を行って消費していた。これは軍師として連れてきている鳳統の策で、益州の人間を油断させるための手であった。

上級士官が黙々と飲んでいる中、陳到と張任も席に着く。酒を軽く飲み交わした後、張任が不意に切り出した。

「益州は、どうなるのでしょうか」

「貴殿のような名将がいるのだから大丈夫だろう」

「いえ、いえ。 私など」

張任は頭を振った。

彼は陳到などと同じく、かなり貧しい家の出であったらしい。この腐敗した益州政権で苦学してのし上がり、重職を得るに到ったという事だから、相当な能力の持ち主である。もちろん、人に言えないような苦労も、散々してきていることは間違いない。陳到と馬が合うのも、同じ苦労をした人間同士、という所が大きいだろう。

「国内では東州兵の横暴があり、南では南蛮の諸国が蠢動し、そして北では漢中の脅威があるというのに、劉璋様はあの通りのお方だ。 私は最後まで忠義を尽くすつもりではあるが、この国はもう長くないのかも知れない」

劉備は着々と、益州攻略を進めている。魏延の内偵も順調で、既に隠されているような軍用路までもが暴かれ始めている状況だ。

陳到も、戦闘における益州軍の癖を見抜くように、劉備と鳳統から指示を受けている。いずれ張任とも戦わなければならなくなることは確実であり、酒を飲み交わしていても、気分は重かった。

張任が下がると、代わりに陳式が来た。

外ではそうも行かないが、二人きりの時には、劉埼である事を考慮して敬語で接している。酒が決して強くない劉埼だが、必死に努力を重ねた結果、体力は人並みの段階にまで来ていた。最近では鎧を着ていても重そうではないし、馬も乗りこなせるようになってきている。ただし、武芸に関しては、まだ一般兵より少しまし、という程度にしか身につけていない。

「どうしました、劉埼様」

「鳳統軍師からの指示だ。 陳到、そろそろ益州攻略を開始するらしい。 準備を整えるように、と言うことだ」

「承知しました。 劉埼様は、大丈夫ですか」

「私は陳到に鍛えて貰っているから平気だ。 山越えも、今ではそれほど苦ではなくなってきた」

劉埼が薄い胸板を嬉しそうに張ったので、噴き出しそうになった。

この青年は、体を鍛えれば結果が伴ってくることが楽しくて仕方がないらしく、何が出来ただの、次は何をしたいだのと、いつも陳到に報告に来る。その無邪気な様子が微笑ましいのと同時に、息子と良い関係を築けていればこうなっていたのかも知れないと、陳到は少し寂しくも思う。

幸い息子も娘も非行にさえ走ることはなかったが、どちらもろくでもない人生を送っていることに間違いない。責任は自分にもある。そう考えると、陳到は、劉埼が可愛いのと同時に、自責の念を覚えてしまうのであった。

「それにしても、平和な時代は、いつ来るのだろうか」

「そうですな。 天下三分の計がなったとして、そこから曹操の軍勢と、それにいずれは江東も崩さなければなりません。 益州と荊州、それに漢中をあわせても、曹操の圧倒的な軍事力は揺るぎません。 それらを総合的に考慮して、最低でも五十年。 下手をすると百年はかかるかも知れませんな」

「それは悲しい話だ。 漢王朝の無能な政治が原因にあるとはいえ、百年も苦しむ民は気の毒でならん」

天幕から二人で出て、益州の大地を見つめる。

ただ山が、何処までも連なる益州の土地。成都周辺には開けた平野もあるのだが、殆どはあまりにも険峻な山々が連なる連峰だ。その高さは、一体どれだけあるのか、見当もつかない。人間の数千倍という規模だろう。

こんな土地でも、人間は住み着き。

そして、殺し合う。

「益州攻略には、どれほど掛かると思う」

「そうですな。 思ったより益州の軍勢は規模が大きく、張任のような名将も少なからずいます。 まず、三年かと」

「そうか、三年も民を苦しめることになるのか」

「一刻も早く戦いを終わらせましょう」

劉埼を元気づけると、陳到はもう一度山を見た。

あの山々を攻略するよりも、今後の戦いは厳しくなるだろう。それに、為政者の全てが、劉埼のように心優しい訳でもない。

百年。それで終わればよいのだが。

その時には、陳到のひ孫の世代になっているだろう。

文明も進展し、様々な武器の類も開発され、戦の様子も様変わりしているかも知れない。

その時も、あの山々は、同じようにそびえ。そして、人間の愚かな営みを冷笑しながら見つめているに違いなかった。

 

成都。

益州の州都であり、混乱が続く中華で安寧を保つ唯一の大都市である。しかし安寧が長く続くと、腐敗が溜まり始めるのもこの国の特色であり、成都もそれの例外ではなかった。成都の夜道を歩いている法正は、先ほどから盗賊が暴れ回っているのか聞こえる怒号と叫びを肴に、手にしている酒瓶を呷っていた。

現在の支配者である劉璋は、益州に暮らす人間全てが認める無能な男である。

先代の劉焉は優秀な君主であった。漢王朝の混乱を見るや中央を離れ、さっさと僻地である益州に引きこもり、独立王国の作成を模索したほどである。事実それによって益州は独自の経済圏を備えた独立国として、いち早く群雄としての存在感をあらわにした。

劉焉は優秀な君主で、強引きわまりないとはいえ確実な政策の数々で、己の覇権を確実なものとした。だが残念なことにその強力な政治力は息子には受け継がれず、また寿命が早く来てしまったこともあって、益州は独立さえ維持できたものの、群雄としては著しく頼りない存在になってしまった。

法正は自宅にたどり着くと、門を何度か叩いた。

自宅と言っても、此処は何名か囲っている妾の一人の家である。そして此処で、同士としている張松、孟達との会合を行うのが常であった。

大通り周辺は、流石に盗賊の跋扈もない。

だが念のために、屋敷には用心棒を何名か置いている。

戸を開けたのは、用心棒だった。赤ら顔の法正は、酒臭い息を用心棒に吐きかけながら言った。

「二人は来ているか」

「既にお待ちです」

「良し。 誰も通すな」

中にはいると、顔を冷水で洗う。

酔いを覚ますと、法正は屋敷に入った。囲っている妾がかいがいしく出迎えたが、今日は残念ながら相手にしている暇がない。適当にあしらって、奥の間に。

奥では、張松と孟達が、碁をしているところであった。

「来たか、法正どの」

「うむ。 遅くなって済まぬ」

碁盤の隣に座る。どうも今日は孟達が有利な様子である。いつもは張松が圧倒的に優勢なことが多いので、珍しいことであった。

孟達も、法正も、益州の出身ではない。

二人とも幼子の頃に、劉焉を慕って他の州から流れ込んできた者達の子孫だ。それが故に、益州の土着の民からは冷たい目で見られ、迫害を受けたことも一度二度ではない。孟達はどうだか知らないが、法正は深い復讐心を胸に燻らせている。いずれ、権力を得たら、仕返しは容赦なく行うつもりであった。

張松は若干猿に似た愛嬌のある顔をしていて、反っ歯である。しかしこの男の博覧強記ぶりは凄まじく、益州を代表する賢人の一人とも言える。孟達は険しい表情をしていて、何もかもを信じていない目をしている。職業軍人だが、抱えている闇は法正よりも大きいかも知れない。同志に加わっているのも、劉璋では出世の路が無いからだと、常々公言しているほどである。

「劉璋の様子はどうかな」

「劉備様を良い感じで信頼しきっている。 そろそろ劉備様も動き出す頃だろうから、丁度良い按配だな」

「楽に進んで結構なことだ」

張松の陣に、孟達が食い込んでいく。しかし、それは罠だった。

一瞬の隙に、張松が形勢を逆転させる。舌打ちした孟達の陣が、見る間に崩されていった。

法正が見た所、孟達は頭がよいが、詰めが甘い所がある。張松は孟達以上に頭がよいのだが、時々妙に大きな隙が出来ることがある。

最悪の場合、斬り捨てることも考えなければならない失態を犯しかねない二人だ。だが、益州の人材は決して多いとは言えず、こんな連中でも活用しなければならないのが、法正の辛い所であった。

「今後のことだが、予定通りに進めて良いな」

「ああ。 孟達と私は早々に劉備様に下り、益州の道案内と内部情報を流す」

「そして私は、此処に残り、攪乱を続ける」

張松が呟きながら、必殺の一手。ついに受けることが出来なくなった孟達は中押し(降参)した。

「兄君はやはり、忠義を尽くすつもりなのか」

「どうやらそのようだ。 あのような無能な君主に忠義を尽くしても、民が苦しむだけだというのに」

「人それぞれの忠義という奴だ。 まあ、俺は張松どのの兄上に同意するつもりはさらさら無いがな」

法正の盛ってきた酒を、孟達が呷る。

孟達に到っては、忠義という概念を理解できているかどうかさえ怪しいと、法正は考えている。だから、他人事のように話を出来るのだろう。

同志であるが、刎頸の友とは言い難い。

それが、この三人の、微妙な関係であった。

「劉備軍は、益州を落とせるだけの力があるようだが。 問題は張任と厳顔だな。 どちらも水準以上の武勇を持つ、面倒くさい将だ。 平野戦ならともかく、益州の地形を利用しての遊撃戦を展開されると、対処が面倒だぞ」

「厳顔は今の態勢に不満を持っているようだが、張任は馬鹿正直の糞真面目だ。 大勢も見切れずに、劉備軍に抵抗をする可能性が高いな」

法正が提案すると、張松が補則する。そして孟達が彼らしい、非常に権力欲まみれの言葉を吐いた。

「面倒な輩よ。 そんな奴が我々の出世を阻み、後世に忠臣として名を残すと思うと反吐が出るわ」

「しかし、奴をどうにかしないと、劉備様の益州攻略が遅れるかも知れん。 腹が立つ相手ではあるが、対策を練らなければならんな」

「刺客は放てそうか」

「張任は武芸も相当だと聞いている。 刺客では無理だろう。 隙を突けば毒殺が出来るかも知れないが、召使いなどを買収するのには時間が掛かるぞ」

徐々に、話は暗い陰謀にすり替わっていく。

やがて、今晩の会合は終了となった。それぞれに用心棒が着いて、自宅へ送り届けられる。法正は一人酒を飲みながら、鼻を鳴らす。

あの二人も、いずれ口封じのために、消す必要が生じてくるだろう。

張松に到っては、簡単に消すことが出来る。家族内に不和があり、それをつけば良いだけのことだ。

孟達は叩けば埃が幾らでも出る。此方も対処は難しくない。

劉備は有能な男だ。必ずや法正を評価して、能力通りに使ってくれるだろう。

だが、その時に。邪魔は少しでも少ない方が良い。

酒を飲み干すと、法正は闇の中、一人笑った。

誰も彼も、法正の踏み台に過ぎないのだ。

やがて益州の実権を手に入れたら、思うままに復讐が出来る。よそ者だという事で、法正を排除しようとした屑どもは、一匹残らず地獄にたたき落としてやる。

ふと、法正が気付くと、闇の中で影が笑っていた。

ふわりと目の前に降り立ったそれは、年若い娘にも見えた。

「何だ、お前は」

影が名乗る。

その名を聞いて、法正は戦慄に全身を掴まれるのを感じた。

 

(続)