美周朗の影

 

序、悲報

 

雨が降る中、葬儀が執り行われていた。

陳到は喪服のまま、参列している。葬儀に参列しているのは、いずれも劉備軍の重鎮ばかりである。関羽も張飛も、一様に悲しみで目を濡らしていた。彼らにも、今回の死者は、なじみ深い人物であった。

かって、黄巾党の乱が起こった時に、青年や壮年だった者達も、既に老境へと掛かり始めている。

それを象徴するように、そろそろ生を使い果たし、倒れる将達も出始めていた。

江東では、動乱初期に活躍した猛将、太史慈が既に命を落としている。

曹操陣営でも、年を取れば病気に対する抵抗力を喪失するためか。曹操の一族である曹純が病に倒れ、呆気なく世を去っていた。襄陽に引き上げてからは自責に駆られていたという噂もあり、憤死だったのかも知れない。

そして劉備軍でも。

劉備を長く支えてきていた、糜夫人が。ついに身罷ったのである。

もとより、長坂の死闘で心身に大きな傷を受けていた夫人は、ここのところ体調を崩しがちであった。そして、ついにこの春、命を落としたのだった。

陳到としても、温厚な性格の糜夫人は好ましい相手であった。劉備軍で彼女を嫌っている者など、まずいないと言っても良いだろう。誰にも愛された糜夫人の死は、劉備も流石に応えたらしく。ここ数日は、ふさぎ込んでいた。

葬儀が終わり、棺が燃やされると、ようやく一段落ついた。

葬儀を滞りなく取り仕切った諸葛亮を一瞥すると、陳到は一旦休憩所に引き上げる。若手の将達に混じり、魏延が先にいた。隣に座ると、煙草を吹かしている魏延に、声を掛ける。

「どうした。 不機嫌そうだな」

「ええ」

「何かあったか」

「確かに劉備将軍の正妻という事もありますし、盛大な葬儀が行われるのは正しい事でしょう。 しかし、それは今、ある程度余裕だという証拠です。 俺はもっと戦がある世を望みたい」

ぎらついた野心を煙と共にふかす魏延。

確かに劉備軍が荊州の南全部を制圧して、状況が安定してから。しばらく大規模な戦は起こっていない。着実に地盤を固めて兵力を増やしている劉備軍には、孫権も荊州の曹操軍も迂闊に手を出せず、平和らしきものが訪れていた。

だがそんなものは、すぐに吹き飛ぶ程度のものでしかない。

周囲に聞こえないように声を落とすと、陳到は言う。そろそろ、魏延には聞かせておいても良いころだったからだ。

「近々、益州に出兵が行われるという噂がある」

「本当ですか」

「もしそうなれば、そなたは先に益州に侵入し、敵地で活動して貰うことになるのだろうな。 いずれにしても、戦を望むなら、少し待て。 劉備様は、用意してくださるだろう」

魏延は気付いただろうか。自嘲気味な、陳到の言葉に。

魏延は大喜びで席を立つと、しらけた視線を受けながら、意気揚々と休憩室を出て行った。

外に出ると、まだ雨が降り注いでいる。その中で、武官達を引き連れて、来ている男がいた。

厳しい表情をした、恰幅の良い男だ。見覚えがある。

孫権の配下で、陸上戦の名人と言われる魯粛である。一緒にいるのは、少し雰囲気が鋭い男と、目に知性の光がある若者であった。若者と言っても、既に三十は超えているだろうが。

魯粛は此方に気付くと、軽く一礼してきた。此方も例をしたが、近付いてくるので内心舌打ちする。

「貴方が劉備軍でも勇者と知られる陳到どのか」

「いえ、私は勇者どころか、ただの凡庸な男に過ぎませぬ」

「何を馬鹿な。 あの趙雲殿に継ぐとかいわれるお方の謙遜にしては、少し過ぎますな」

魯粛はそう言うと、後ろの二人を挨拶させる。

「挨拶しろ、呂蒙、陸遜」

「呂蒙にございます。 以後よろしく」

「陸遜です。 よろしくお願いいたします」

呂蒙という男は、若干荒々しい印象を受ける。若いころは孫堅や孫策に従って暴れ回ったような男なのかも知れない。

それに対して陸遜は多分士大夫の出身だ。全体的に毛並みが良く、対応が丁寧である。魯粛は声を掛けてきた伊籍に頷くと、二人に対して鋭い視線を投げた。

呂蒙が側に連れている者は朱桓と名乗る。二人ほどの地位では無いが、有望視されているのだろう。魯粛は、朱桓には声を掛けなかった。まだ戦力として数えていないのだろう。

「二人とも、良い機会だ。 陳到将軍と話して、陸戦のなんたるかを教えて貰え。 朱桓も話を聞いていくと良いだろう」

「分かりました」

二人とも、見たところ江東の将官だ。そのまま立ち話というのも失礼に当たるだろう。出来れば関羽か張飛に押しつけたい所だが、二人とも何処か別の所にいるらしく、見あたらない。

途中、糜竺を見かけたので、呼び止める。適当な休憩所がないか聞くと、後ろの二人を見て様子を悟ったらしく、親切に案内してくれた。非常に誠実な糜竺は、こういう時にとても頼りになる。

奥の方に、中級以上の士官が屯している場所があった。丁度趙雲とジャヤがいた。ジャヤは中華式の喪服が、少し着心地悪そうだった。

「おお、陳到将軍」

「二人に紹介しておこう。 此方、呂蒙将軍。 此方は陸遜将軍だ」

助かったと内心呟くと、陳到は二人に趙雲を紹介して、座る。

だが、二人が興味津々だったのは、なぜか陳到だった。並ぶべき者無き勇者と呼ばれるのは、むしろ趙雲なのだが。

「陳到将軍は、どれほどの戦歴を積んでおられるのか」

「なぜ私に!? そ、そうだな。 二十年と少し、かな」

「我々は、陸上戦と言えば孫策様の時代以来、殆ど経験がないのです。 或いは南部の山越に対する討伐くらいしか経験を積んでおりませんで」

呂蒙がそう恥ずかしそうに言うと、ジャヤが眉を跳ね上げた。だが、趙雲が肘で小突いて、黙らせる。

ジャヤにとって、山越を「討伐」というのが面白くないことくらいはよく分かる。だから陳到も、敢えて事を荒立てるような真似は避けた。

「やはり軍学書などはお読みになっておられるのですか」

「私はそれほど博学ではなくて、ほとんどは経験から、だな。 ただ軍学書が分かる知識層がいると、いろいろ心強いことも多い。 だから最近は、学者を呼んで講義をさせていることもある」

実は、自主的に始めたことではない。

諸葛亮が、荊州の知識層との人脈を使って、武将達に教育を最近開始したのである。陳到もその煽りで、教育を受けることになってしまった。大変面倒くさくて辟易していたのだが、実際軍学書はそれなりに役に立つ知識を載せていることも多く、最近は少しずつ楽しくはなってきていた。

「なるほど、やはりものをいうのは経験か」

「そのようですね」

二人はしきりになにやら頷きあっている。小首を傾げている陳到に、人なつっこい笑顔を呂蒙が浮かべた。

「いや、何。 実は周瑜将軍は、かなりの博学なのです。 それなのに陸上戦ではあなた方に及ばないことを自分でも認めておられまして。 どうしてか、その辺の理由を知りたかったのです」

「周瑜将軍なら、すぐに私などは追い越されるだろうに」

「いやいや、色々と此方でも調べさせていただきましたが、貴方の陸上戦に関する手腕は、多分我々の誰よりも優れていると思います。 それで無学というのであれば、やはりものをいうのは実戦経験なのだなと思う訳です」

「そんなものか」

いまいち陳到には自覚が無い。

やがて魯粛が呼びに来て、二人は戻っていった。

趙雲は厳しい目で二人の背中を見つめていた。

「あの二人、やがて劉備様に対する、非常に危険な敵になるな」

「そうなのですかな?」

「ああ。 多分私に話し掛けなかったのは、指揮官としてより手強い陳到どのの対策を立てたかったからだろう」

茶を飲み干すと、趙雲はその場を離れる。

陳到も少し後味が悪い感触を覚えていた。

その少し後、江東より打診があり、驚かされることとなる。

江東は、劉備に妻を世話したいと言い出したのである。

 

1、関羽と徐晃

 

早朝から、陳到は伝令によってたたき起こされ、江陵に登城させられることとなった。やはり妻も娘も、汚物でも見るかのように陳到を見ていた。もう諦めているので、どうでも良かった。

流石に膨大な物資が蓄えられていただけあり、戦略上の重要拠点として構築された江陵の城は堅固である。それは逆に言えば、内部がとても歩きにくいという事も意味している。武官達の城は城壁近くであり、内城までもかなり遠い。

眠い目を擦りながら、石畳を踏んで歩いていると、糜竺と一緒になった。妹を失ったばかりだというのに、誠実な文官は気丈な様子である。

「おはようございます、陳到将軍」

「これはこれは。 おはようございます」

「この時間に会議とは、何か困ったことが起きたのでしょうな」

「まあ、大体は予想が付きますが」

糜竺も頷く。まあ、誰が言うまでもなく、江東が次に打ってくる手は見え透いていた。

登城して、狭い上に入り組んでいる城の中を歩く。空気がよどんでいて、風通しも最悪である。会議室に出ると、半分くらい集まっていた。劉備の後ろには、すでに諸葛亮が立っていて、羽扇を揺らしている。おいおい集まってきた将官達は、皆眠そうだった。

皆が集まった所で、諸葛亮が議題を話し始める。

孫権の妹を、劉備に輿入れさせたいという話が来た。故に、早速御前での会議が開かれることとなったのである。

誰が言うまでもなく、それは明白な政略結婚であった。

もとより江東にとって、曹操に対する防波堤として重要な劉備勢力。だが、その動きは江東の制御下には無く、独自の行動を十分可能にするだけの実力を蓄えてもいた。少し前から江東は劉備に対して「貸し与えている土地の返還」を求め始めていたが、諸葛亮と外交担当の孫乾がその「正統な要求」を阻み続けていた。

故に、江東は。

劉備を江東の「王族」とする事により、制御をしやすくしようと考えた訳である。

「全く、殿の喪がまだ明けぬ内から、失敬な話ですな」

最初にそう言ったのは関羽であった。戦術家として優れた手腕を持ち、戦略家としても充実した力量を有する張飛は、それをやんわりたしなめる。

「兄貴、とは言っても、流石に江東と曹操を同時に相手にするのは厳しいぞ」

「分かっている。 だがこれは、人としての問題だ。 連中には倫理や義というものがないと見える」

「形式上は我々が従属しているわけですから、あまり制御不能の存在になられると困る、というのが本音なのでしょう」

それに、もとより江東はあの悪名高い四家によって実質支配されているのである。連中の采配によって孫策が殺されたらしいと言う噂も最近入ってきた。今回の件が四家の差し金かは分からないが、どちらにしても一度倫理観念が崩壊すると、それに歯止めは掛けられないのだろうと、陳到は思う。

いずれにしても、対応はしっかりしなければならない。何しろ、政略結婚とはいえ、断れば孫権に大きな恥を掻かせることとなるのだから。

「それで、兄上。 どうなさるのですか」

「受けようと思う」

「正気ですか」

「色々と考えた末のことだ。 私はこれから江東に赴き、孫権将軍の妹御を妻に迎えることとする。 それに伴い、同時に二つほど、皆にしてもらう事がある」

劉備が立ち上がる。

多分この会議の前に、諸葛亮と打ち合わせをしていたのだろう。つまりこれは意見交換の場などではなく、策を説明するためだけに設けられた席という訳だ。

色々巫山戯ているが、広域戦略を的確に構築できるのが諸葛亮だけだという現状を考えると、仕方がない話ではある。不愉快ではあるが、我慢する他無い。

「まず一つは、指揮系統の統一だ」

劉備が促すと、名目上の軍司令官である劉埼が前に出た。

病弱だが善良な青年は、少しためらった後、言った。

「皆、聞いて欲しい。 私はこれから、病死しようと思う」

「それは……穏やかではありませんな」

関羽の呟きに、劉埼は乾いた笑みを浮かべた。陳到には、大体話が読めた。

要するに、劉埼は己の力量が、劉備に遙か及ばないことを知っているのだ。だから、二重構造の傀儡になるくらいなら、別の路を選びたい、という訳なのだろう。

更に、荊州太守劉表の長男であった劉埼を擁していたことで、劉備には大義名分も足かせも出来ていた。荊州を抑えた今、劉埼は足かせにしかならない存在になっている。それにこれから劉備が荊州を離れれば、劉埼の存在は危険ともなる。

関羽の発言に、多少口ごもりながらも、劉埼は言い終えた。内容は、陳到が大体予想したとおりであった。

「故に、私は病死することとする。 病死後の名は陳式とするつもりだ。 皆、よろしく頼む」

「うむ、立派な覚悟です、劉埼様。 そこで、陳到将軍。 劉埼様を任せる。 君の手で、立派な将軍に育て上げてもらえないだろうか」

「……分かりました」

これは、難事だ。

病死を装い、一から始めるとはいえ、相手は上司の元上司だ。かなり気を使うことになる。

それに娘も息子も教育に失敗した陳到が、今更また子供を育てる羽目になるとは。あまりぞっとしない事態であった。

「もう一つについては、私がいない間の荊州防衛戦略について、だ。 現在、我が軍は荊州の南部全域を抑えている。 これだけの範囲を統括できる将は、正直な話。 曹操軍には五名か六名を計上できるが、我が軍には一人しか居ない」

関羽が呼ばれて、立ち上がった。

確かにその通りだ。だが、正直な話。陳到は、関羽では力不足ではないかと思った。

武芸、戦術に関しては全く問題がない。軍を率いての戦で、関羽に勝てる将はあまり多くない。名将がきら星のごとく輝く曹操軍でも、曹操自身、張遼と徐晃、それに楽進がどうにか渡り合えるか、という所であろうか。于禁は前線で剣を振るうような激戦には向いていないし、知勇ともに備えている張?(コウ)は関羽と戦うには絶対的に経験が足りない。まずこの四人以外は、関羽には敵し得ないと考えて間違いない。この中で徐晃は今荊州にいるので厄介だが、こちらには補佐として諸葛亮もおり、何より曹操軍は今守勢に徹している。攻撃を警戒しなくても大丈夫であろう。

しかし、対外戦略を含む政務を計上するとどうか。

これを計上してしまうと、関羽は非常に脆い。知識はあるのだが、もとより性格が政務や外交に向いていないのである。その上関羽は士大夫を馬鹿にする傾向があるので、同僚からも嫌われる事が多い。劉備軍は荊州で多くの人材を得たが、その多くは士大夫階級なのだ。新野時代の武将達はいずれも関羽を尊敬しているが、その後軍が五倍以上に拡大する過程で、異分子は多く混ざり込んできた。

陳到が見回すだけでも、関羽と不仲の将はかなりの数がいる。士仁という男もそうだし、近年劉備が一門に迎え入れた劉封という若い将もそうだ。どちらも無能とはほど遠い人物だけに、陳到はいつもはらはらさせられる。

「諸葛亮。 弟を補佐して欲しい」

「御意にございまする。 馬良将軍を更に補佐に付けたいのですが、よろしいですか」

「うむ、軍師の良きように。 趙雲将軍」

「はい」

趙雲が立ち上がる。ジャヤは形式上趙雲の部下という扱いなので、こういう上級将校だけが緊急に集められる軍議には参加しないことも多い。趙雲自身が、尊敬を集めていても、そもそも上級士官としては最下層に位置するのだ。

「将軍は、私の護衛をして欲しい。 江東は魔境と言っても良い場所だ。 何が何時起こってもおかしくない。 此処は是非趙雲将軍に頼みたいのだ」

「分かりました。 この老骨に変えましても、殿をお守りいたしまする」

「すまぬ、頼む。 それで、だが。 残念な話だが、今回に限っては奥方はおいていくと良いのではないだろうか」

劉備が言うと、趙雲はすっと眼を細めて、表情を硬化させた。

というのも、この間ジャヤがついに懐妊したのである。あの忌まわしい珪陽攻略戦から時もそう経ってはおらず、この辺りは運命の皮肉を感じさせる。ただ、懐妊したと言っても、体が動かなくなってくるまではまだ時間もある。

「それほどの長丁場になる、という事でしょうか」

「そうだ。 下手をすると、一年以上向こうに行かなければならなくなるかも知れん」

「……分かりました。 殿の仰せのままに」

其処までの長丁場だと、確かに懐妊中のジャヤは重荷になる。やむを得ない話ではあった。

幾つか細かい打ち合わせが行われる。総司令官に関羽を据えて、東の守りは張飛に、西に黄忠が入る。魏延は早速益州に潜入し、既に内応を約束している益州の文官、武官である法正、孟達、張松らと連絡を取り、本隊が到着し次第遊撃戦を行う事となった。此方も年単位の長丁場となる。どうも寡黙な魏延はこの手の黙々とこなす任務に天性の素質があるらしく、気味悪がられながらも確実に仕事をこなしていた。

黄忠は益州侵攻部隊の訓練を行いながら、機会を待つこととなった。この部隊に、陳到も加わることとなっている。特に陳到は、新兵達の訓練を任されることとなった。黄忠は精鋭部隊を、山岳戦に備えて鍛え上げることとなる。益州は極端な山岳地帯で、その後の漢中攻略戦を考慮すると、その訓練は必要不可欠なのである。

現在七万を少し超えている軍勢の割り振りが決まると、会議は終了した。

これからが忙しくなる。陳到は家族とともに武陵に移動して、其処で陳式と名前を変えた劉埼を一人前の将軍として鍛え上げなければならない。まだ若いが非常に貧弱な上、色々と立場的にも難しい。困難な任務であった。

一旦自宅に戻ろうとする陳到に、少し頼りない足取りで劉埼が着いてきた。それにしても細い。まるで年若い娘のような体型である。

「陳到将軍、これからよろしく頼む。 私のことは新参の将軍だと思って、びしびしと鍛えて欲しい」

「分かりました。 ただ、その体型では、まず軍を指揮するよりも、体を鍛えていただく方が先になるかと思います」

「そうだな。 私の体が弱いのも、そもそも鍛えていないのが色々と良くないと、医師に何度か言われた。 将軍のように、私も逞しくなれるだろうか」

「それは劉埼様次第だと思います」

基本的に学問でもそうだが、進歩しようという意思がなければ、どんな訓練でも無駄に終わることが多い。

その点、劉埼は期待できる。もちろんいきなり一軍を任せるのは無茶だから、じっくり鍛えていくことになるだろう。

劉埼は自宅まで着いてきた。形式的には、陳到着きの新人士官という形で、最初から訓練することとなる。

もちろん身分を隠しているとはいえ、相手は劉埼だ。だから、家族にも失礼がないようにさせなければならなかった。

早朝から出かけていた陳到に、家族の目は相変わらず冷たかった。妻は劉埼を見るなり、開口一番に言う。

「あなた、誰ですかその若い方は」

「これからうちで面倒を見ることになった陳式だ。 よろしく頼む」

「まあ。 面倒を見ると言われても、犬や猫ではないでしょうに」

「この方はとても高貴な出だ。 だから、うちで面倒を見るとは言ったが、実質上は逗留していただく事になる。 失礼があったら一家全員が路頭に迷う可能性もある。 お前達も! 気を使え!」

不意にいつも静かな陳到が大声を出したので、娘も息子も驚いたようだった。

劉埼はずっと恐縮していた。

 

襄陽に来た早馬を見て、牛金はすぐに何か大きな事件があったのだと悟った。

その日、牛金は襄陽城の城壁から、原野を見つめていた。荊州最大のこの都市は、今や曹操軍にとっての最前線となってしまっている。だから、下級将校である牛金は、いつも敵の奇襲に備えて、兵士達を監督しなければならなかった。

この間の江陵攻略戦で周瑜を負傷させた牛金は、下級将校とは言っても、作戦成功を評価され、千名の兵士を統率する立場に昇格している。曹仁はハン城に後退し、最前線の襄陽で軍を指揮する徐晃の指揮下に入ったことで、功績を立てる可能性も増えてきていた。城壁の上から、今度は襄陽の城内に視線を移す。

劉備軍による荊州南部の電撃的攻略が成功したため、荊州の情勢は安定した。民が流民化することもなく、最近では経済活動も活発になってきている。早馬を見ても民は動揺する気配がなかったので、牛金は少しだけ安心した。

伝令が城壁を上がってくる。

「牛金将軍」

「どうした」

「徐晃将軍がお呼びです。 郊外の畑までおいでください」

「承知した」

相変わらずだなと、牛金は呟く。

徐晃は民を安心させるためだと称して、常に畑を耕している。確かに体も鍛えられるのだろうが、命令を受けに行く時は面倒で仕方がない。曹操軍を代表する名将の一人で、指揮能力も人格も間違いなく尊敬できる人物なのだが。こういう所だけは、牛金には理解しがたかった。

城壁を降りると、城門近くにある厩舎に向かう。常時二千頭ほどの軍馬が用意されている此処は、ちょっとした牧場になっている。こんなものが丸ごと内包されているのだから、襄陽の規模が分かろうというものだ。もちろん普段は城の外で走り回らせているのだが、今は厩舎に常時五百が入れられていて、有事に備えてある。

牧場の周囲には木の柵があり、動物の匂いがした。周囲には溝が掘ってあり、汚物は外の堀に流れるようにも工夫されている。草がまばらに生えている牧場へ早足で急ぐ。時々、馬を引いた士官とすれ違う。城内では、伝令以外は馬を走らせてはいけない決まりとなっているのだ。

指揮官に支給されている木札を入り口の屯所で見せて、中に。栗毛の大柄な馬を借りて、外に出た。かなり我が強い馬で、手綱を引くと二度三度と力強く抵抗した。面倒だが、しかし足自体はとても速そうだった。

城門の外まで引いて出ると、跨る。

鞭をくれると、予想通り風のように走った。徐晃の所まで、これならひとっ飛びである。辺りには、何処までも畑が広がっていた。他の州では考えられないような、豊かな光景である。

徐晃がいる村に着いた。流石にすぐ隣に大型の軍基地があるが、村そのものはごくごく牧歌的である。徐晃はこういう村を回りながら屯田をし、そして耕し終えた畑を民に供与して回っている。だから、二ヶ月くらいに一度、駐屯地を変えるのである。

下馬して、徐晃を探す。兵士達が青ざめていた。

「どうしたのだ。 徐晃将軍に何かあったか」

「ああ、これは牛金将軍。 実は、また例の「健康体操」とかいうものを始めてしまわれまして」

「またか」

牛金もうんざりしたが、呼ばれた以上でないわけには行かない。

徐晃は常に五千の最精鋭と行動を共にしているのだが、彼らの全員が恐れている。徐晃の健康体操に巻き込まれることを。

気配を出来る限り消すと、徐晃がいる畑を除く。柵の影からこっそり顔を出して、徐晃を確認。

なにやらがに股にして、腕を円上に振るい上げたり下げたりしている。立ち位置をずらして、頭に手を付けるようにして体をかがめたりと、怪しげな動きをしていた。かと思うと、両手を揃えて足下にぐっと向けたりと、意味がよく分からない。

「其処に、いるのは、誰か」

「牛金にございます」

「おお、牛金か。 お前も此方に来い」

流石は歴戦の名将である。こっそり隠れていたにも関わらず、気付かれてしまった。見れば、同じように逃げ損ねた何名かの兵士や将校が、徐晃と同じようにうねうね体を動かしていた。滂沱の涙にくれながら。

しかし恥ずかしい動きである。最後は両手両足を揃えてぴょんぴょん跳ね、それで締めとなったのが救いか。

「うーむ、足りぬ。 この動作の後に、もう一つくらい何か動きが入れば、しっかりしまるのだがな……」

「ま、まだ動きを追加するのですか!?」

「お、おやめください徐晃将軍! 我らの羞恥心が限界です!」

「何を言うか。 健康になるのなら、恥ずかしいことなど何もないぞ」

泣きながら言う兵士達の発言をあっさり流すと、実にすがすがしい表情で、きらきら輝く汗を徐晃が拭う。牛金はそのあまりにも異次元的なやりとりを、ぼんやり見つめることしかできなかった。

腰に手を当てながらよく冷えた井戸水を飲み干すと、徐晃はやっと本題に入ってくれる。

「さて、他にも四名ほど下級将校に声を掛けてあるのだが、お前が最初か」

「如何なる用事にございましょうか」

「何、これから劉備軍に一当てする。 兵力は五千。 私が直に率いる。 お前達はそれぞれ一千を率いて、指揮の補助に当たって貰うぞ」

さらりと、あまりにもさらりと言われたので、牛金は思わず息を呑んでいた。

現在、荊州防衛部隊は多少増強されて五万五千という所だが、劉備軍は既に七万を大きく超えており、もう二ヶ月もあれば八万に達するという試算も出ている。もちろん兵力は幾つかの拠点に分散しているとはいえ、五千でどうにかできる相手ではない。ましてや、敵には徐晃でも迂闊に手を出せないような猛将が、ごろごろといるのだ。

「お言葉ですが、どのような戦略的意図があってのことなのでしょうか」

「知りたいか」

「是非」

「ふむ、そうか」

徐晃は鍬を手にすると、手近な地面を耕し始める。

周囲は美しい畦になっており、付け焼き刃の技ではとても出来ない事がよく分かる。

噂には聞いていた。徐晃は士大夫ではなく、農民階級の出身であると。この見事な畑を見ると、それが事実なのだとよく分かる。

「実は劉備が、孫権の招きに応じて江東に向かったという情報が来ている。 もしもそうなら、恐らく関羽が後を任されているはずだ」

「本当でございますか」

「間違いない。 其処で我らは、劉備がいない場合の関羽の戦力について、探りを入れる必要がある」

本格的な交戦を挑む訳ではないと、徐晃は言う。

五千の兵力は若手の将官の中でも、厳選された面子を選び、一撃離脱戦を行うという。狙うのは、江陵近くにある敵の出城。ここのところ、敵にゆるみが見えているそうだ。

「もしも可能なら、此処を落とす」

「しかし、維持は出来るのでしょうか」

「目的は、関羽の能力と癖を確認することだ。 兵の出動までに掛かる時間や、用兵の進め方、それにどのような陣を張るか。 関羽はいずれ倒さなければならない相手だ。 研究をしておかなければならん」

もちろん、無駄に兵力を損じるようなことがあってはならない。だから騎兵を中心として、一撃離脱戦を主体とするという。ただ、砦を攻める事もあるので、二千は攻城兵器を専門に扱う部隊を当てると言うことであった。ただ、戦略上の目的もあるので、攻城兵器は古いものだけを持っていき、作戦が失敗しそうな場合は焼却廃棄するという。

牛金は話を聞き終えると、少なからず驚かされていた。

曹仁とはまるで違う。

関羽を相手の戦闘を想定していると言うことは、かなり長期先までの戦略を見越していると言うことだ。もちろん今回敵の動きが鈍いようであれば、曹操に打診して、一気に荊州に攻め込む事もあり得るのだろう。

曹操の配下で優れた将軍は五人いると聞いていた。張遼、楽進、徐晃、于禁、それに張?(コウ)。確かに徐晃は、名将が揃う曹操軍でも恥ずかしくない、超一流の将官であるらしかった。

ほどなく、他の士官達も揃う。

それを見届けると、徐晃は一旦天幕に入り、泥と汚れを落として出てきた。

既に外には五千の兵が整列している。驚くべき展開の速さである。

「よし、それでは出撃する」

牛金は、高揚する心を、抑えるのに必死になっていた。

 

江陵の周辺で、新兵一万を訓練していた陳到は、伝令を受けて愕然とした。最近建築したばかりの出城が、敵の猛攻を受けているという。

現在江陵には関羽と二万五千の兵が詰めており、このうち常備兵は一万程度である。江陵には同じく二万ほどがいるが、此方も常備兵は一万。しかも戻らないと、兵を動かすことは出来ない。

陳式と名を変えた劉埼は、激しい訓練にも耐えて、必死に着いてきている。今回は、巻き込めないだろう。

「陳式将軍」

「はい!」

「すぐに武陵に赴き、黄忠将軍に急を告げて欲しい」

「分かりました!」

五百の兵を連れた劉埼が、武陵に急ぐ。南郡には張飛がいるが、伝令を出しても間に合わないだろう。

もちろん、武陵を空にする訳にも行かない。期待できる増援は五千ほどだ。もしも曹操軍が出てくるとなると、最悪で四万程度の兵力になる可能性がある。関羽の出方次第では、出城を見捨てることになるかも知れない。

陳到自身は、一万の新兵を連れて急ぐ。新兵と言っても、流民などから集っているから、戦闘経験が全くないわけではない。一応の集団行動と、作戦遂行は出来るように仕込んだ。もう少し武器が扱えるようになっていればよりよかったのだが、予備戦力としてなら活用も可能であろう。

高速機動用の長蛇陣に編成して、急ぐ。

「それにしても、この状況での敵の出現。 劉備様の江東行きがばれてしまっているのでしょうか」

「可能性は高いな。 それにしてもシャネスが敵の出撃を察知できないとは、林による情報の攪乱かも知れん」

廖化が聞いてきたので、一番危なげない答えを返す。

ほどなく、戦の煙が見えてきた。

敵は、思ったよりも遙かに少ない。兵力は五千程度であろう。それに対して関羽軍は、既に同数が出撃し、激しく刃を交えている様子であった。

敵を観察する。兵力は五千だが、その内の三千は騎馬隊。関羽軍も同数の騎馬隊を繰り出しているが、戦況は五分か、やや劣勢である。関羽の直属部隊と、王甫の率いる部隊は善戦しているが、他の隊が押されっぱなしであった。特に牛という旗印を掲げた敵は、見事な動きを見せている。

「恐らく敵の最精鋭らしいな」

「しかし解せません。 五千程度で、江陵を落とせるとでも思っているのでしょうか」

「陽動という可能性もあるが」

すぐに後方に伝令を飛ばす。そして陳到自身は、判断を下す。

「北上して陣を組め! 敵の退路を脅かす!」

「分かりました!」

見たところ、敵は騎馬隊が中心の上に、相当に練度が高い。当初から遊撃として活用するつもりであったが、まともにぶつかり合っても損害を増やすだけであるのが分かったから、戦略を更に過剰な方向に修正する。だから、多少汚いが、退路を断つことだけに専念することとした。

敵は此方の動きに気付いた。

激しい騎馬隊同士の戦闘が、不意に終結する。関羽の一軍を突破した敵が、向きを変えると、それに習って他の部隊も撤退を開始したのである。その中に、大きな長柄斧を抱えた敵将を見た。あれは白焔斧。

徐晃だ。まさか、直接出てきていたとは。

敵はまるで最初から存在しなかったかのように、消えていた。

関羽軍と合流する。どうにか追い払うことは出来たが、この戦は負けだ。敵に良いように振り回され、被害も多く出している。下級の将校も、二人戦死していた。被害は敵の三倍以上、下手をすると四倍近く出ているだろう。

誇り高い関羽も、流石にこれには応えた様子であった。

「陳到将軍、助かった。 もう少し後れていたら、味方の一部は崩されていたかも知れない」

「関羽将軍の部隊は、それに王甫どのの部隊は見事な動きをしていましたな」

他の隊は。糜芳と士仁。それに関平か。関平は勇敢に戦っていたようだが、残念ながら父には武勇では遠く及ばず、指揮能力に関しても千以上の兵を率いるには決定的に力量が足りていない様子であった。後者は経験不足から来るものであろう。

糜芳は熟練した指揮官だから、言い訳は出来ない。士仁も荊州で経験を積んできたはずだし、今回のことはかなり後に尾を引くだろう。

「直属の機動部隊の編成を見直した方がよいかも知れませんな」

そう言うと、恥じたように糜芳と士仁が顔を下げた。関羽も赤い顔を更に赤くして、陳到の言葉に恥じ入っているようであった。

関平とは同年代と言うこともあって仲も良い廖化が、慌てた様子で言った。

「ま、まあ。 敵は追い払うことも出来たのですし」

「だと良いがな」

伝令が来る。諸葛亮が視察に来るというものであった。

見る間に、糜芳と士仁が真っ青になった。二人とも諸葛亮を苦手にしているのだろう。普段から関羽を恨んでいると言うこともあって、この敗戦がどう響くのか、恐ろしくて仕方がない様子である。

こういう時、劉備という調整役であり主君でもある存在が、如何に偉大かよく分かる。今回の戦も、劉備がいれば、関羽が慣れない複合軍団を率いて苦労することもなかったのかも知れない。

諸葛亮が来た。同時に、軽騎兵を率いて黄忠も駆けつけてくる。兵力は三千ほどだった。

「む、どうやら終わってしまったようじゃのう」

「幸い、敵の兵力が少なかったものですから」

「皆、揃っているようですね。 それでは、状況を説明して貰いましょうか」

諸葛亮が、馬を進めてくる。馬上で長身の諸葛亮が浮かべている笑みは、それこそ地獄の王が浮かべているものに酷似しているように思えた。

 

一昼夜の死闘を経て襄陽に戻ってきた徐晃は、改めて被害を調べさせていた。牛金の部隊は、千騎のうち二十七騎を失い、四十八騎が負傷していた。負傷者は全員が帰還しているが、重傷者も三名出ている。

急あしらえの部隊にしては、良い機動だった。牛金は、己の力を全開で出す感触を初めて味わっていたかも知れない。まだ興奮が冷めず、意味もなく剣に触れたり、離したりし続けていた。自分はこれほどに指揮が出来たのか。優れた敵と、渡り合えたのか。そう思うと、高揚は収まりそうになかった。

他の指揮官達も、皆戦果は見事だった。

「味方は全体で二百六騎を失ったか。 敵はその三倍半ほどを失っていたようだが」

「徐晃将軍! 味方の大勝利です!」

そう叫んだのは郭淮だった。同じく彼も、兵を率いて出撃に加わっていたのだ。他にも曹操が肝いりの若手武将、曹真も加わっていた。曹純の率いていた部隊を引き継いだ、曹尚もいる。若手の俊英が、ことごとく集められていたのだ。

徐晃は腕組みをする。表情は厳しく、結果に満足していないのは一目瞭然である。

「いや、やはり関羽は侮れんな」

「しかし、味方は終始優勢でありました」

「それは私が関羽の部隊を抑えていたからだ。 それに曹真、そなたの部隊が王甫という指揮官の部隊を抑えていたからでもある」

確かに、被害の六割は、二人の隊から出ていた。関羽は兎に角危険で、近寄る騎兵は片っ端から斬り倒されていた。短い交戦時間だったにもかかわらず、関羽だけで三十騎以上は斬り倒していたかも知れない。王甫という男も相当な使い手で、短い間に十騎が次々と斬り伏せられた。

「敵の出動も早かった。 しばらくは、下手に仕掛けない方が良さそうだな」

「今回の結果を見る限り、同数での戦闘であれば、充分に勝機があるかと思えましたが」

「いや、今回の戦の勝因は、敵との力量差と言うよりも、関羽と配下の将達の連携が巧く取れていなかったことにある。 事実経験が浅い将官ではなく、劉備軍の宿将である陳到が出てきてからは、戦闘の経過は一方的ではなくなったことを忘れてはならん。 まあ、関羽の様子から言って、劉備が江東に出払っているのはほぼ間違いなさそうだな。 それが確認できれば充分だ」

曹真の楽観論に釘を刺すと、徐晃は一旦部隊を解散した。兵士達は軍基地に戻り、自身は畑に戻って、何事もなかったかのように耕し始める。

今、襄陽には曹操軍の若手の中でも、有望な者達が集められている。何人かは牛金同様、襄陽に屋敷を与えられていて、親交もある。だから牛金は、前から酒をたまに飲み交わしたりしている曹真と一緒に帰ることとした。

曹真は曹操の一族だから、同年代の将軍であっても、必然的に敬語で接しなければならない。だが、曹真は少し年上にも関わらず気さくに接してくれるので、それがとても心地よい。

「牛金将軍は、今回の戦で何か手応えを感じましたか」

「はい。 正直、曹仁将軍の下では力を発揮できた感触がまるでなかったのですが、徐晃将軍の下では全然違います」

「それでも貴方は、周瑜の狙撃を成功させた。 いずれ曹操様のために、柱石になって活躍するのでしょうね」

「いや、お恥ずかしい。 そこまでの器が私にあれば良いのですが」

不意に、曹真が真面目な顔になる。

「ところで、今回の戦をどう思いましたか」

「徐晃将軍の優秀さを間近で見ることが出来て幸せとか、そう言う話ではなく、ですか」

「……これはあくまで予想なのですが。 もしあのまま戦いが推移していたら、我々は負けていたかも知れない。 そうは思いませんか」

それはどういう事だと言い返そうとして、思い出す。

そういえば、そもそも徐晃は退路を確保してから戦うような、堅実かつ慎重な用兵を主体とする将軍である。今回の戦には勝てたからあまり気にしていなかったが、確かにいつもの徐晃にしては妙な用兵であった。

それに、関羽の戦闘能力の凄まじさは、本当にあれで全てだったのだろうか。徐晃軍でも、関羽とまともに交戦していたら保たなかったかも知れない状況だったのである。

「私は、徐晃将軍が、関羽を倒すことだけに執心したように見えた」

「関羽を、倒すことだけに」

「これから荊州の劉備軍が侵攻を進めるとしたら、益州だろうと私は思う。 その時、留守になる荊州を任されるのは、ほぼ間違いなく関羽だろう。 そう、以前徐晃将軍は言っておられたのです」

言われてみれば。今回の作戦には、関羽の「現在の」能力を確認することが主題に置かれていたような気がする。劉備軍には名将がそれなりにいるのに、なぜ関羽だけに的を絞っているのか、分からない部分はあった。

「つまり、劉備と関羽を切り離した場合に、関羽を倒せる策を練るために、今回の出兵が為されたと」

「内緒ですよ」

口に指を当てて、しっと曹真は音を立てた。

茶目っ気のある行動よりも、むしろ。牛金は武者震いを覚えてしまった。

あの関羽を、仕留めることが出来るかも知れない。そうなれば、末代まで自分の名前は残ることになるだろう。

名が残ることよりも、今は一人の武人として。

この時代を代表する名将を倒せるかも知れない、その戦に参加できるかも知れない。ただそれが嬉しかった。

 

2、劉備再婚

 

江夏から船を出して、まずは柴桑に向かう。

護衛と称して、現在中華最強を誇る周瑜の水軍が、劉備の乗る闘艦を前後左右から取り囲んでいた。趙雲は闘艦の甲板を歩き回りながら、何かあったらの時に備えて、神経を張っていた。

船には魯粛も乗り込んでいる。江東の重鎮であり、富豪でもある魯粛は、自分にも他人にも厳しい言動が目立つ大人の男だ。話によると、孫権も接する時はかなり気を使うという。大陸に武名をとどろかせる趙雲にも、臆せず魯粛は話し掛けてくる。

「趙雲将軍は、江東は初めてですかな」

「はい。 若いころは彼方此方を旅したものですが、長江の南は荊州しか足を運んだことがありません」

「そうですか。 確かに孫策様が統一するまで、江東は危険な地域でしたからな。 将軍のような豪傑でも、あまり魅力は感じませんでしたか」

「というよりも、わざわざ足を運ぶような、豪傑英雄の類の話を聞かなかったのが一番の理由です」

さりげない悪意をかわしつつ、会話を進める。

実際、江東は土地こそ豊かだったが、孫策が統一するまで、これといった人物はほとんど出なかった。豪族も群小の者達ばかりで、現在曹操に仕えている王朗がかろうじて名士と呼べる存在か。その王朗も、元々あまり戦向けの人材ではなく、孫策に叩きつぶされて追い出された程度の存在に過ぎない。しかもそれも、四家の利権にとって邪魔だったから、孫策が差し向けられた、というのが実情のようだ。

現在江東を好き勝手にしている四家の筆頭達が、では怪物的な存在かというと、そうでもないらしい。彼らは江東に張り巡らせた闇の人脈を駆使して、傀儡としての孫権を好き勝手に操作してはいるが、大望はなく、己の利益だけを前面に考えている節がある。彼らは私兵だけでも三万を超え、圧倒的な資金力を持っているが故に、江東を好き勝手に壟断しているのだ。決して怪物的な実力を持っているからではない。彼らは、極端な力を持った俗物なのだ。故に怪物のように見えてしまっている。

いずれもシャネスからの情報だが、今まで見聞きした江東の実情を鑑みるに、あながち誇大でもなさそうである。

「そうですか。 では、貴方は驚かれるでしょう。 今、江東には無数の英雄豪傑が集っているのですから」

「有名な所ですと、荊州を離れて江東に移った甘寧将軍、それに大乱戦の中で孫権どのを守ったという周泰将軍。 それにその巨躯で知られる董襲将軍、辺りでしょうか」

「おお、流石にお詳しい。 ご自身が豪傑だけに、同類には目がありませんな」

空気が僅かに柔らかくなった。

帆が風をはらんで、船を東へと推し進めている。それにしても雄大なる長江である。船の下に、巨大な影が見えた。人間の倍以上はありそうである。

「鰐ですよ」

「おお、あれが」

「人間を襲うことは滅多にありません。 まあ、わざわざ側を挑発的に泳いだりしたら、噛みつかれても知りませんが」

「動物は、身体の能力で殆どの人間を凌いでいます。 道具がなければ、人間は同じ大きさの動物には、まず勝てない。 だから、敢えて水中で、そのような無茶はしませんよ」

鰐が悠然と泳ぐ横を、艦隊が通り過ぎる。

後半日もあれば、柴桑に着くだろうか。

甲板に、劉備が上がってきた。一礼して離れた魯粛が、劉備と話に行く。趙雲は、連れてきている細作達を呼び集めた。シャネスは来ていないが、腕利きばかり十人ほどが一緒に来ている。現地に潜入している数は知らないが、噂によると百人を軽く超えているとも言う。彼らと連絡を取り合いながら、劉備を一緒に守ることとなる。

時々、動きが遅い闘艦から、小型の艦船が出入りしては、長江をさかのぼったり下ったりしている。これは江東も同じである。細作はそれに乗り、情報を集めたり拡散したりしているのだ。

「何か新しい情報はあったか」

「はい。 どうやら四家と周瑜らの間で、今回の件に関して齟齬が生じているようです」

「ほう」

細作の話によると、四家はあくまで劉備との友好を深めることにより、人材、物資の流通を促進しようと考えているらしい。

もちろんその利益は四家が独占するという訳で、江東のためではない。彼らは基本的に縄張りの維持にしか興味がない。荊州を得ることよりも、それによる利益を確定することの方が興味のあることなのだろう。

一方周瑜らは、別のことを目論んでいるそうだ。

「周瑜は孫権の一族として劉備様を制御することにより、益州攻略作戦の補給を担当させようと目論んでいる模様です」

「益州攻略作戦だと」

「はい。 例の天下二分の計によるものかと思われます」

「なるほど、な」

周瑜はこの間の南郡攻略戦で、毒矢を受けたという。それからも精力的に曹操軍に対して攻撃を繰り返しており、かろうじて一進一退の戦況を維持していた。といっても、襄陽にはまるで近づける気配が無く、徐晃もあまり本腰で相手にしている様子がないが。

いずれにしても、劉備軍の支配地域を併せれば、周瑜は一気に艦隊を益州に送り込むことが可能である。問題はその後で、嶮岨を極める益州を、平野戦でさえ苦手な江東の軍勢がどう攻略するか。確かに周瑜が陣頭指揮を執り、劉備軍が全面的にそれを後押しすれば、可能なのかも知れない。

しかし、いくら何でも少し無茶な気がする。戦線が横に伸びすぎるし、何よりも周瑜がそれほど江東を離れてしまっては、いざ曹操が攻め込んできた時に対応が出来るのかどうか。

兎に角、長く伸びがちな補給線を維持するという意味でも、周瑜としては頭が痛い問題である。故に、安全を確保するための手を打っておきたいのだろう。

「分かった。 諸葛亮軍師に、それらの報告をしておけ」

「既に情報は届けております。 趙雲将軍もお気を付けください」

細作達が散る。

趙雲が再び劉備に視線を戻すと、さっき話題に上がった甘寧が、魯粛と一緒に話し掛けている所であった。

「関羽と是非一度お話ください。 元侠客同士、話も合うことでしょう」

「おお、関羽どのと話す機会を設けていただけるか。 それはありがたい」

からからと甘寧は笑っている。

大侠客として知られた男だけあって、全身から鬼気に近い気迫を放っている。図体もでかく、四角い顔には凄い向かい傷があった。弓の腕が相当に立つという話だが、長刀を使って馬上での戦闘もこなすという。非常に野心的な男で、黄祖の下ではその希望が叶えられず、江東に走ったという。

さっと見ただけでも、相当に強い。単純な武技でなら勝てる自信はあるが、戦闘指揮もこなせるようなので、将軍としてはこの男の方が遙かに上だ。近寄っていくと、甘寧の方でも趙雲に気付いた。

「おお、貴方は、 槍を使わせると天下一という、趙雲どのか」

「非才の身には過分な言われよう、お恥ずかしい事です。 貴方が、水上戦に名を馳せる大侠客甘寧どのですな」

「此方こそ、名高き趙雲どのにそう言われると、とても恥ずかしい」

素朴に顔を赤らめて頭を掻く甘寧。大狸的な人物を想像していたのだが、思ったよりもずっと素朴な男であるらしい。ただ、素朴であることと野心的であることは、並立するのである。様々な人間を見てきた趙雲は、それを知っている。

船室に移り、酒を飲むことになった。徳利の酒では足りないだろうと言うことで、江東の闘艦から酒の樽が運び込まれる。

「これは何度も湧かして作った強力な酒でしてな。 兎に角酔いますぞ」

「ほう、それは興味深い」

そう言いながらも、趙雲は指を鳴らして、細作の監視を手配した。酒にはある程度耐性がある自信があるが、それほど強烈な酒であると、不覚を取る可能性もある。甘寧ほどの男が飲みたいと言ってきているのである。断るのは失礼に当たるし、かといって護衛の任務もおろそかには出来ない。故の処置であった。

玉杯に酒が汲まれる。確かに口に入れると、強烈な酩酊感が一瞬で全身を駆けめぐった。全身が浮き上がるようである。一口だけで、何杯も強めの酒を呷ったかのような酩酊だ。正直に劉備が言う。

「これは恐ろしく強い酒ですな」

「不思議な話で、南に行けば行くほど度数が上がります。 山越の更に南で暮らしている者達は、更に強い酒を口にしているとか」

「それは凄い」

船は揺れる。

すぐに上機嫌になった劉備達が寝入るまで、趙雲は我慢して起きていた。

 

巨大な港湾軍事基地である柴桑に着くと、其処から陸路となった。劉備のために馬車が用意されたのだが。劉備は連れてきていた愛馬に跨り、先を急ぐこととした。事実劉備は若々しくて、騎乗での旅を苦にしていない。一時期は馬に乗らなくなって肉が太ももについたことを嘆いたりしていたが、今ではそれもない。

江東に入って気付いたのは、しばらく敵の侵入がないからか、街が良く整備されていると言うことだ。街道も石畳が丁寧に敷かれていて、馬を進めても殆ど苦にならない。長江の岸には多くあった屯所も、内陸に入ると殆ど見かけなくなった。

なるほど、これは確かに四家の者達が保持したがる訳である。

民が使っている言葉には、二通りあるようだ。漢人と、もう一つ。山越の言葉だろう。彼らは奴隷として使われていて、漢人の劉備を見る目には、恨みが籠もっている様子であった。

細作達に話を聞いた所によると、四家は私軍を主に動かして、兵を南部に進め、其処で山越に対する人狩りを行っているという。女子供は民に奴隷として売り飛ばし、若い男は軍隊でこき使う、というわけだ。

あまり褒められた行動ではないなと、趙雲は思った。ジャヤがこの現状を見たら何というか。連れてこなくて良かったかも知れない。

何度か宿場に留まる。劉備が連れてきた二百ほどの兵は、常に五千以上の江東の軍勢に囲まれ、非常に息苦しかった。甘寧も劉備と楽しく話していたが、実際に殺せと言われたら、躊躇無く襲いかかってくるだろう。

いざというときは、趙雲の命に代えても劉備を逃がさなければならない。

数日の旅を終えると、路が露骨に広くなった。行き交う人々も数を増し、何より勢いが違う。

遠くから、商売をしている声が聞こえる。

「もうすぐ、建業につきます」

案内の若い将、朱桓が言った。かなり凶猛そうな男だが、趙雲は何度か見かけたことがあった。陳到に陸上戦について話を陸遜と一緒に聞いていた男だと、思い出した時には。建業の分厚い城壁と、巨大な港湾が見えていた。

「これは凄い」

劉備が素直な賛辞を口にすると、朱桓が、自分が褒められたかのように表情をほころばせた。

街の規模は在りし日の洛陽や、現在の襄陽には及ばないが、それに近い規模である。朱桓によると十七万の人間が暮らしており、今も人口が増え続けているという。江東全体では百六十万ほどの人間がいると言うことで、潜在力の高さが伺える。

建業にはいると、その繁栄が目に焼き付けられることとなった。露天には豊富な商品が並び、商用船がひっきりなしに港から出入りしている。かっての荊州と同じか、それ以上の発展である。現在、劉備を通すためか主要道には規制が掛かっているようだが、それ以外の路は人でごった返すほどに喧噪で充ち満ちていた。

ただ、江東では、建業に経済機能を集中しているから、他の都市も似たような発展をしているとなると話は別になるだろう。劉備は馬を止めると、高級士官や豪族を対象としているらしい、大型の商家に入っていった。

気付く。商家には、田と書かれている。しかもその特徴的な文字は、国譲の筆に間違いなかった。趙雲はあまり顔を合わせたことがないが、張飛や陳到が懐かしげに話していたし、文字も見たことがあるから間違いない。田豫という名を持つその男が、今劉備軍にいたらだいぶ負担が軽減されるだろうにと、趙雲は思ってしまう。

後に付いてはいると、商品は非常に豊富だった。飾り物から武具の類まで、目映いばかりに光を放っている。もとより田舎暮らしが長く、質素な生活ばかりしていた劉備にとっては、まるで天井の光景かも知れない。

眼を細めて感心したようにそれらを見つめていた劉備は、貴人の来襲におののく店主に、気さくに語りかけた。

「あ、貴方は! 劉皇叔! こ、こここのようなひなびた店に、ようこそいらっさいますた!」

「何、そう緊張せずともよい」

緊張のあまり、まだ若い店主は舌をもつれさせている。どうして一目で劉備と見破ったのか趙雲は不安になったが、敢えて指摘しない。ひょっとすると、細作組織と噛んでいる人間かも知れないからだ。

劉備は優しい笑顔で彼を諭すと、周囲を見回す。

「この店は、田豫の作ったものなのかな」

「は、はい! 正確には田豫が基礎的な仕組みを作り、様々な州にて同じやり方で商売をしているものとなっています! 鎖式と、田豫は呼んでおります!」

「そうか。 田豫も故郷で頑張っておるのだな。 もしも田豫に手紙を届けられるのであれば、店に劉備が来たと書いて送ってくれ。 また会える日が来ると嬉しいとも」

「名高き劉皇叔にそう言っていただけるとは! こ、光栄であります!」

気の毒なほど上がっている店主を余所に、劉備は色々と買いあさり始めた。張飛用にと大長刀を。関羽用にと非常に大柄な絹の着物を。そして、趙雲には、馬をあしらった髪飾りをくれた。

「そなたにだ。 奥方へあげると良いだろう」

「これは、もったいないことにございます」

「日頃の忠節からすれば、少なすぎるほどだ。 これからも励んでくれ」

目頭が熱くなった。劉備の行動は、周囲の全ての人々を幸せにする。もちろん今劉備が使った金は民の税なのだが、この程度の浪費であれば民も許してくれるだろう。

朱桓が羨ましそうに劉備を見ていた。店を出た所で話し掛けられる。

「劉備どのは、いつもああなのですか」

「ああ、というと」

「その。 部下のために、心からというか、なんというか」

「だから、劉備様の下には多くの英雄豪傑が集まる」

だが、それにも最近違和感が生じている。陳到の不安も、趙雲には分からないでもないのである。

ただし、それをわざわざ此処で言うことはない。朱桓を行動させた劉備の行動は、昔と変わっていない。

今はそれで良かった。

劉備は相変わらず愛馬に跨っているが、買ったものは江東が無理矢理用意して押しつけてきた馬車に、せっかくだから積み込む。趙雲は、貰った髪飾りを大事に懐にしまい込むと、先導して馬を進めた。

長い大通りの左右には、あらゆる店が建ち並んでいる。劉備は一応お忍びなのだが、まるで年頃の童女のように、興味津々だった。

「趙雲! これは凄いな。 許昌に足を運んだかのようだ。 襄陽でも、此処まで店の種類は豊富ではなかったぞ」

「どうしました、殿」

「何だか心が浮かれるのう。 何というか、開放感がある」

そのようなことを劉備が言うとは意外だった。

朱桓はすっかり劉備に好感を抱いたようで、終始にこにこしている。感情が熱しやすそうな男だが、それだけに好意も非常に分かり易く抱くようだ。この辺りは、海千山千の荊州の文官達と違って、趙雲としても好感を持てる所だった。

内城に着く。

此処からは宮殿を想定している作りになっていて、馬を下りなければならない。若干雑然としている所はあったが、全体的に良くできている。ただ、趙雲が見た所、どうもいずれ宮廷に発展させようとしている節があり、それは少し不遜にも思えた。

奥で、孫権が待っていた。

多分、孫権自身に山越の血が入っているのだろう。目は青く、髭は紫色である。そして全体的に胴が驚異的に長く、足が短かった。手が妙に長いのは劉備も異相だが、孫権の場合は手は普通の長さなので、立っているとそれが余計に目立つ。

まだ若いが、それなりに威厳はある。ただし、目が良くない。何だか世の中の全てが気に入らないような、そんな目をしていた。四家によって国政を好き勝手にされているからだろうかと、趙雲は少し心配した。

「劉備にございます」

「遠路はるばるとご苦労であったな」

孫権は鷹揚だった。一応、劉備が従属同盟をしているのだから、仕方がないことなのかも知れない。

軽く一言二言触れてから、劉備は奥に行く。此処からは趙雲だけが護衛をすることになる。今回、劉備に同行した将軍は趙雲だけなので、兵士達をまとめるのはこの間降伏した長沙の士官をしていた揚齢という若い男になる。

「揚齢、何があるか分からないから、油断はするな」

「心得ました」

「兵士達は必ず三人一組で行動すること。 何かあったら、事前に渡してある鈴を使って細作を呼べ。 彼らも宮中に侵入しているはずだ。 シャネスのような使い手はいないかも知れないが、急場くらいはしのげるだろう」

揚齢に言い聞かせると、劉備を追う。

打ち合わせをする宮殿の奥には、武装した女官が目立った。鎧までは着ていないが、長刀を手にして巡回している姿が目立つ。服装も質素で、いずれ宮廷にしようとしている建物の中で暮らす者としては、妙に浮いていた。

「これは、珍しい光景ですな」

「妹が宦官を嫌っていてな。 下級の女官達に、代わりの仕事をさせている。 この辺りまで、仕事のためにも出てくるから、ちょっとした風物詩だ」

「それはそれは」

孫権は足がとても短いため、ちょっと歩き方がよちよちしていた。だが、別に足が遅い訳ではないし、武芸もそれなりに出来るようだ。趙雲が見た所、上半身をかなり鍛えている様子だから、ひょっとすると弓を得意とするのかも知れない。

奥の間に入る。十歩四方ほどの広さで、意外に此処だけは質素だった。むしろ武骨でさえある。中央に椅子と机だけが置かれていて、劉備と孫権は其処に向かい合って座った。

「妹はすぐに来る」

「分かりました」

趙雲は、部屋からでない。

 

南郡近くの出城に駐屯していた周瑜は、天幕の中で、必死に脂身を貪り喰っていた。

駄目だ。このままでは痩せてしまう。

そう思うと、どれだけ医者に止められても、脂身を断つことは出来なかった。

手を油だらけにして、周瑜は目を血走らせ、脂身を貪り食う。その鬼気迫る様子に、兵士達は皆青ざめていた。

「脂身ぃいいいいい! 脂身はまだかああああああ!」

目を光らせて、周瑜は吠える。料理人が新しい脂身の焼き肉を持ってくると、もの凄い勢いで口に運び、咀嚼して飲み込む。

毒矢を受けた肩がいたい。だが、それでもなお、肉を食べなければならない。まだ腹は二段にしかなっていないし、顎に到っては割れてもいないのだ。

天幕に誰か入ってきた。振り返ると、張昭だった。

「何をしておいでか、周瑜将軍」

「おお、張昭どの。 お恥ずかしい。 兵士達を率いるにはあまりにも姿が貧相になっていたので、慌てて美しくなっていたのだ」

「相変わらず、力を入れる所がおかしいのう。 それで、だ。 劉備は予定通り罠に入ったようだが、そちらは、大丈夫か」

「あまり、好ましくない」

周瑜は、江東の政務を一身に背負い、なおかつ宿老でもある張昭から、悔しげに顔を背けた。

準備自体は、出来ている。

現在制圧した荊州各地に、五万の兵と、水軍を集結させている。後は補給さえ確保できれば、一気に長江を遡航して、益州に攻め込むことが可能だ。劉備軍が邪魔をする恐れさえなければ、実現可能なのである。

今回の罠は、劉備と諸葛亮を引き離す事が第一弾の罠である。現在劉備軍で広域戦略を担当している諸葛亮は確かに優秀な男だが、奴が辣腕を振るえるのは、劉備が後ろ楯になっているからである。周瑜の策を読むくらいのことはやってくるかも知れないが、読めた所で何も出来ないはずである。

もう一つ、今回の策には狙いがある。

どうも信用できない劉備の首に、鈴を付けるのだ。そのために政略結婚として孫権の妹を送り込み、なおかつ大規模な諜報団を付ける、というものである。

孫権は表向き妹をかわいがっているように見えるが、実際は違う。今回劉備に輿入れするのは数多くいる異母妹の一人であり、性格的にも孫権とはあわない。しかも妾腹なので、殆ど愛着はない様子だ。周瑜が策を提案した時に、あっさり了承を出したことからも、それは明らかである。

問題は四家だが、劉備を監視する事自体は、四家も同意を示している。周瑜の益州攻略作戦自体はまだ四家に知られる訳にはいかないが、作戦を進めることに、今後支障が出ることはないだろう。

問題は、益州の地形だ。

益州の兵はそれほど強くないかも知れないが、江東の兵は水上戦しか出来ないものも多く、山岳地帯での死闘に何処まで耐えられるか分からない。五万の兵を高速で動かし、一気に益州の州都である成都を落とし、劉璋を降伏させなければ、作戦は確実に失敗する。五万の兵は山の中で立ち往生し、進むことも引くことも出来なくなり、包囲されて殲滅されることだろう。

だから、周瑜は兵士達を鼓舞するためにも。

美しく、太っていなければならないのだ。

また脂身に手を伸ばす周瑜を見て、張昭は大きく歎息した。

「そんな事をしていると、寿命を縮めるぞ」

「美しくならなければ、兵士達は着いてこない。 ただでさえここのところ、少し食事量を減らしただけで痩せてしまうのだ。 気を抜くと戻してしまう事もあるし、たくさん食べておかなければ」

「今のそなたを乱暴に扱うと、ころっと逝ってしまいそうだからのう。 孫権様は、多少乱暴に扱っても壊れそうにないのだが」

恐ろしいことをさらりと言うと、張昭は懐から竹簡を出す。

少し前に、周瑜が頼んでいた物資の資料である。

さっと目を通す。

もしも益州に五万で攻め込んだ場合。そして、四家の息が掛からない部署から輸送物資を運び込んだとして、継戦能力はどれほどになるか。それらを詳細に書き連ねた資料である。

結果は、あまり芳しくなかった。

四家が最も早く動いた場合、継戦能力はわずか半年。しかも物資をことごとく無事に、益州に運び込めた場合である。

もしも四家の動きが鈍かった場合でも、継戦能力は一年半程度。しかも益州の民の恨みを買う訳にもいかないから、現地で略奪をするのは好ましくない。敵の物資を首尾良く奪えたとしても、二年以上は戦えないだろう。

山岳地帯での組織的な抵抗を見せる敵との戦闘経験がない江東の兵士達を連れて行くのだ。三年は覚悟しなければならないと、周瑜は考えていた。それなのに。

竹簡が震えている。周瑜は、己が絶望を感じているのを知った。

「これほどに、四家が軍需物資を抑えているとは」

「正直な話、儂ももう少し状況はマシだと思っていたのだがな。 こうなったら、多少無理をしてでも、早めに諸葛亮らと連携して、四家の連中を排除するしかないかも知れんぞ」

「今は時期がまずい」

現在、合肥への孫権自らの攻撃計画が動いており、これには四家の兵力が大きく絡んでいる。

逆に言えば、孫権の直属部隊が四家の私兵を大きく取り込んでいるという事になり、もしも此処で急激に四家を排除すると。孫権の直属部隊は、戦わずして壊滅してしまうのである。

合肥は長江以北における楔にも等しい重要拠点で、いつまでも放置しておく訳にはいかない。もしも此処で孫権軍直営攻撃部隊が壊滅してしまうと、再建には数年かかる。その間に曹操は、合肥を鉄壁に変えてしまうだろう。

「張昭どの。 出来るだけ、四家の力を削いで欲しい」

「それは常にやっておる。 そなたは、益州攻略作戦のために、少し静養せよ」

「それも難しい。 実は、これは劉備の細作からもたらされた情報なのだが、曹操が西涼を屈服させるべく、動き始めたという情報がある」

つまり、曹操は漢中を潰す気になったという訳だ。西涼を完全に抑えれば、躊躇無く漢中に侵攻できる。そして漢中が落ちれば、そう時間も掛からずに、益州も陥落することだろう。

曹操軍は、陸上戦に関しては江東の軍勢とは比較にならない戦闘能力を持ち、しかも動員戦力が大きい。更に言えば、八十万前後の人口を持つ益州まで制圧されると、文字通り手が付けられなくなる。上流を抑えられてしまうとそれだけで不利になるのだ。ましてや、曹操の軍勢は、予備役も動員した総力で実数五十万を超えているという計算もあり、江東の五倍を超過している。常備兵だけでも、確実に二十五万は超えているのだ。

もう、あまり益州攻略作戦に、躊躇している暇はない。

「とにかく、私に何かあった場合は、殿を頼みますぞ」

「馬鹿なことを言うな。 兎に角、今は焦ると寿命を縮めるだけだ。 益州攻略作戦は、陸上戦が得意な魯粛に任せる手もあるし、いっそのこと劉備にやらせてしまうと言う方法もある。 その場合は、益州を取ったのだから、荊州を返せと要求すればいい」

そんな無茶な要求が通るかどうかは分からないと周瑜は反論しようとしたが、不意に全身に走った痛みに机に突っ伏してしまい、気がつくと寝台に寝かされていた。

また、体が軽くなっている。

そして、張昭は。何処にもいなくなっていた。

あの毒矢が、致命的だった。あれさえ受けなければ、こんなに心を乱されることもなく、脂身ばかり食べなくても良かったのに。心に余裕が無くなれば、初歩的な策でさえ失敗する。単純な指揮でさえ、間違うことがある。

既に周瑜は三十代の半ば。

歴戦の指揮官としての誇りと、どうにもならない苛立ちが、心身を苛み続けていた。

体全体が痛い。

黄祖は結局倒せなかった。江東の二線級の相手ばかりを倒してきた。曹操も、疫病がああ都合良く流行らなければ、撃退は難しかっただろう。

周瑜の強みは、結局なんだったのか。名将と呼ばれる相手に、陸上戦で勝ったことは殆ど無い。後の世に脚色される名誉など、偽物だ。孫策に対する忠義だけは、誰にも負けない自信がある。

だが、それも故人に対するもの。孫策が、もっと長生きしていれば。

「ああ、伯符。 僕は、君に生きていて欲しかったと、これほど強く思ったことはない」

嘆きが漏れた。まるで女子供のように。戦争に殆ど出たことがない素人のように。初陣の小僧のように。

どこかで、周瑜はこの時。あきらめを感じてしまっていたかも知れない。

念のために。

魯粛にむけて、遺言を残しておこうと思い、周瑜は筆を執った。

竹簡に大体の内容を書き終えて、安心した周瑜は。寝台から立ち上がり。

そして、見慣れぬ影を見た。

「誰だ」

誰何する。

周囲には、血の臭いが立ちこめている。護衛の姿が見えない。周瑜は前線で自ら剣を振るうことさえ少ないが、若いころから修羅場を潜り続けた男だ。だから、危機については勘も働く。剣を抜いて、兵士を呼ぶ。

だが、兵士が駆けつけてくる前に。

影は、疾風のように動いていた。

伯符。

その名を呟く。顔が、脳裏に浮かぶ。

胸に刃が突き刺さった時、周瑜は見た。地獄で待っていてくれた、盟友を。

ああ、伯符よ。僕は、ずっと君に会いたかったのだ。そう言うと、孫策は、静かに微笑んで、比翼の友として、周瑜を迎えてくれた。

自分を見ると、あまり美しくなかった。痩せてしまっている。ああと嘆く周瑜に、孫策は、友は言ってくれた。

「君の価値は、姿形が美しいことだけなのか。 それは違う。 君の忠義が、そのひたむきな生き方が、君の価値なのだ」

何年ぶりなのだろう。落涙するのは。

光の中に溶け行きながら、周瑜は思う。友が、いて良かったと。

 

3、混乱する江東と……

 

林が昼間に、人前で直接徐晃の前に現れることは滅多にない。これから体操をしようと思っていた徐晃は、生首を両手にぶら下げてもいない林が現れたのを見て、何か大事が起こったことを悟った。

「どうした、昼間から」

「お人払いをお願いします」

徐晃は周囲の兵士達に、畑を耕すようにと命じると、作業小屋に入った。

からからと水車が回っている。外には親衛隊の兵士だけである。

「何があった」

「周瑜が死にました。 暗殺です」

林は出来る限り表情を消しているが、それでもありありと不審が顔に浮かんでいた。つまり、殺したのは此奴ではないと言うことだ。

それにしても、周瑜が。

陸上戦はあまり得手ではなかったが、江東を支えた名将であった。もとより、社会の最下層から実力で這い上がってきた徐晃は、敵に対する礼儀を欠かさない。徐栄に教えられたように、惜しい男を亡くしたとしばし黙祷。目を開けると、詳しい話を林に促す。

林は腑に落ちない様子で、淡々と言う。全てを舐めきり、己の殺戮本能だけに従っているかのようなこの娘にも、分からない事はあるらしかった。それだけ、状況が不可解なのだろう。

「少し前から周瑜の近辺がきな臭かったので、監視をしていたのです。 三日ほど前ですが、不意に数人の細作が、周瑜の天幕に押し入りました。 周瑜はそれらに問答無用に殺されました。 後を付けて捕獲し、尋問してみたのですが、諸葛亮率いる荊州の連中ではなかったように思えます。 結局口を割らずに死にました」

「何だと」

「しかも、周瑜の近辺を固めていた魯粛の兵が、指揮官からして連中の動きを明らかに見逃していました。 それどころか、張昭の動きも妙で、周瑜が脂身の食べ過ぎで体調を崩して昏倒すると、何があるのか分かっているかのように天幕を離れていました。 江東に潜入させている部下の話によると、張紘も此処のところ変な動きを見せていたというのですが」

まさか。それは。

江東には権力階層の深い闇があると、徐晃も聞いている。四家と、それに対立する者達の溝はかなり深いという。

ひょっとして、今回はその闇に、周瑜が飲み込まれたと言うことなのか。

或いは何か、更に深い闇があるというのか。

話を聞いている限り、魯粛も張昭も、そればかりか張紘までも、暗殺に関わっているとしか思えない。或いは、その側近や、上級指揮官に、暗殺に関与できるほどの大物がいると言うことなのか。しかし彼らは四家に対する最大級の派閥であったはず。その筆頭の周瑜が、なぜこの状況で殺されるのだ。

「細作達は大した腕ではありませんでしたが、薬物で完全に精神を壊されていた模様です」

「そうか。 曹操様に、腕利きを付けて、すぐに今の情報を流せ。 下手をすると、江東の権力階層が、近く激変する可能性が高い。 それと、直ちに江東に細作の人員を多く回せ。 事件の全容を調べ上げよ」

「分かりました。 直ちに」

林がかき消えるのを見送ると、徐晃は作業小屋の外に。伝令の一人に、竹簡を渡した。

「襄陽に向かい、すぐに陳琳を呼んで参れ」

「分かりました」

陳琳は大文章家として知られており、官都の際には曹操に対する檄文を起草した有名人である。今は曹操に仕え、襄陽で文官として働いている。

周瑜に対する哀悼の書を、徐晃は江東に出そうと思っていた。

正式なものではないにしても、相手は国家の柱石である。その辺りの文章家に起草させるには失礼に当たるだろう。

同時に、伝令達を呼び集め、各地の守備隊に警戒命令を発する。

多分無いだろうが。この機会に、劉備軍が動く可能性もある。襄陽が隙を見せたら、どうなるか知れたものではなかった。

 

林は江夏の拠点に移ると、部下を集めた。其処はかって甘寧が詰めていた屋敷で、一時期は劉備達が利用していたこともある。しかし現在は廃屋になり、鼠と鴉が住処にしている場所である。

既に、細作達が集まっていた。数はもう50人を超えている。闇の中に潜む無数の気配は、林の下知を待っていた。

正直今回の件については、狐に摘まれたようで、どう反応して良いか、林にも分からなかった。

周瑜を殺したいという欲求は、確かにあった。というよりも、林にとって英雄とは、皆面白半分に殺す相手以外の何者でもない。

先にそれをされてしまったと言うことで、確かに一時は頭に来た。

だが、頭が冷えてしまうと。訳が分からないという本音の方が、より強く出てきたのだ。

部下達も、はじめて見る林の様子に、とまどっているようだった。曹操から消耗した分の埋め合わせは毎度来ている。そのため、林が育てた部下の比率は、比較してどんどん下がっていることも、不安を醸成する一因になっていたのかも知れない。

「林大人」

「うん? ああ、そうだったな。 これから、江東に一中隊を派遣する。 既に派遣してある二小隊と連携して、調査に当たれ」

「は」

あたまを下げたのは劉勝だ。咳払いして、林は指先で劉勝を招く。

「お前は荊州だ。 江東は細作組織も貧弱で、今回はお前が行くほどではない。 激戦地の荊州で、お前は働いて貰う」

「……分かりました」

「菖の事なら心配するな」

悔しそうに俯く劉勝を見て、林は嗜虐心を刺激される。

完全に精神崩壊している菖は、劉勝の好意をどう思っているのだろうか。下手をすると、相手を人間とさえ認識していないのかも知れない。

多分、劉勝はそれでも良いのだろう。

美しい愛とやらに、林は笑いを押し殺すのに苦労する。

なぜなら。その結末は。

一中隊を江東に送り出すと、林は咳払いする。まだ周囲には、多くの部下達が残っていた。

「お前達は劉勝とともに諸葛亮の周囲を探れ」

「分かりました。 しかし奴の周囲は、特に守りが堅く」

「そんな事は承知の上だ。 私が直接陽動で動いてやるから心配するな」

林は知っている。既に諸葛亮は、林を殺すために網を張り始めている。

いずれそんなものは正面から打ち破ってやるが、今回は目的が別だ。諸葛亮の周囲で動いてやることによって、相手がどう出るかを見届ける必要がある。

確かに周瑜を殺したのは、荊州系の細作ではなかった。ほぼ間違いなく、四家が派遣した者達だろう。

しかし、何かがおかしい。

もっと深い闇が、この暗殺事件にはある。それを林は理解しているからこそ、真相を知りたいと思うのである。

多分江東の歴史には、病死と記されるであろう周瑜。

林は舌なめずりしながら、その闇に迫ろうとしていた。

 

劉備を護衛していた趙雲は、露骨に江東の空気が変わったことを、真っ先に掴んでいた。別に誰に言われるでもない。肌で感じる、という奴である。これでも長年旅をして、苦労を重ねていないのだ。本当に危険な場合は、本能でそれを察知する事が出来る。

揚齢を呼ぶ。真面目な若い士官は、すぐに飛んできた。

「如何なさいましたか」

「荊州に戻る準備をしろ」

「分かりました。 すぐにでも」

「江東の兵士達には悟られるな。 場合によっては強行突破になる」

頷くと、揚齢は駆けだしていく。それを見届けると、趙雲は劉備の所に出向く。

現在劉備は、内城の一角に、宮殿を与えられ、妻と一緒に住んでいる。劉備の妻となった孫尚香はまだ十代であったが、三倍も年が上の夫を嫌がる様子もなく、ごく仲むつまじく生活していた。

それを強制的に中断させる訳だから、気が咎める。ましてやぐっと年下の結婚したばかりの妻というのは、趙雲も同じ状況にある。劉備の気持ちは、痛いほどよく分かるのである。

宮殿は妙に豪華で、劉備に対する戦略が、いわゆる愚民化であるのは間違いのない所であった。もとより乱世を質素に生きてきた劉備である。豪華で安楽な生活をさせれば、あっという間に堕落して飼い慣らせると踏んでいるのだろう。

実際問題、辺境を転戦してきた将が、こういった策略で堕落させられる事はよくあると、どこかで趙雲も聞いたことがある。実際ここのところ劉備は酒が増えていて、歓迎と称して代わる代わるやってくる江東の将達と毎晩のように飲み明かしていた。

奥の間に行くと、劉備がいた。

向かいには、新妻が座っている。

孫尚香は小柄な女で、目つきが鋭く、かなりやせ形の体型をしている。弓腰姫と言われているのは、武芸を得意とすると同時に、その細い体つきを揶揄されているからだとも言われている。

劉備は少し太ったようで、福福しくなっていた。最初は劉備に厳しい目を向けていた孫尚香も、すっかりその様子を眼を細め見つめている。ただ、劉備の気配だけは衰えていない。毎日それだけが気がかりだったが、どうにか今は無事だ。

「劉備様」

「何かあったか」

「はい。 具体的に何があったかはまだ細作達が知らせては来ないのですが。 すぐに此処を離れる準備をなさった方がよろしいかと」

「……尚香、そなたはどうする」

劉備は即座に表情を変えた。そしてそんな夫の様子を、妻も頼もしげに見ているようだった。

「私は既に嫁いだ身にございまする。 どこまでもお供いたします」

「そうか。 趙雲、では細作達に招集を掛け、情報を集めさせよ。 それがはっきりし次第、すぐに此処を離れる」

「分かりました」

安心して、趙雲は宮殿を出る方へ向かう。

廊下の左右を見れば、目映いばかりの財宝ばかり。劉備がこの間、国譲の店で買ったものなど霞んでしまうような品ばかりだ。連日の酒宴で出されるのも、山海の珍味ばかり。こんな環境では、劉備でさえ衰え飼い慣らされてしまうだろう。

今回、シャネスは来ていないが、かなりの熟練した細作が着いてきてくれている。老練な男は、廊下の隅、影になる場所で待っていた。

「状況は分かったか」

「はい。 周瑜が死んだようです。 しかもどうやら暗殺されたようでして」

「確かか、それは」

「はい。 それで、四家の者達が権力闘争で己の覇権を確実にしようと、今まで去就が明らかでなかった中級、下級の将校達に、陰謀攻勢を掛けているようです。 それに乗じて、曹操の細作達が入ってきており、かなりの混乱が生じております」

それは由々しき事態だ。

そもそも今回の婚礼も、四家と、反四家の権力闘争の中で、様々な綱引きが行われて成立しているのである。このまま江東にいたら、どのような難事に巻き込まれるか、知れたものではない。

状況を告げると、孫尚香は流石に口を押さえていた。劉備がまだ十代の妻の肩に手を当て、慰める。

「周瑜が! 暗殺だなんて!」

「有能であったが故に、敵も多かった御仁だ。 とにかく、義兄上に、荊州への帰還許可をもらいに行くぞ。 今は急いで安全地帯に逃れないと、何が起こるか分からない」

「お急ぎください」

夫人の嘆きから言っても、どれだけ周瑜がこの国に重要な人材だったかがよく分かる。

劉備の宮殿を出て、孫権のいる宮殿へ移る。案の定そこも大混乱していて、殺気だった兵士が駆け回っていた。

趙雲が邪魔そうな兵士を視線で威圧しながら歩く。やがて、厳しい表情で周囲に指示を飛ばしている孫権を見つけた。相当に立腹しているようだが、劉備を見て更に表情が険しくなる。

「劉備、何用か」

「単刀直入に申し上げます。 荊州に引き上げまする」

「何ッ!?」

「何が起こったかは、私も既に聞いております。 この機会を、曹操が見過ごすとは思えません。 荊州には現在徐晃が五万五千の兵を率いて常駐していますが、この機に攻勢を掛けてくる可能性がありますので」

正論である。多分歩きながら考えたのだろうが、反論の余地がない。

ぎりぎりと歯がみしていた孫権は、ついと視線を背けた。相当に子供っぽい人物なのだなと、見ていて趙雲は思った。

孫権は青筋を額に浮かべながらも、通行許可証を書いた。これで通行許可は出た。後は孫権の気が変わる前に、さっさと江東を離れるだけである。

外に出ると、既に兵士達は集合していた。揚齢が敬礼する。

「趙雲将軍、撤退の準備、整いましてございまする」

「よし、ではまず一隊は先行して、闘艦に残してある留守部隊と連絡。 二隊は殿を護衛しながら、柴桑まで移動。 残り一隊は私とともに、殿軍を努める。 先鋒は揚齢が務めよ」

「分かりました!」

揚齢が一小隊を連れて先行する。

趙雲は馬車に乗った孫夫人と劉備を促して、中軍として行かせた。そして自身はそのすぐ後ろに立ち、周囲を視線で威圧しながら馬を進める。

あれほど歩きやすかった石畳が、全て死地に思えてくる。

兎に角、江夏まで逃れれば、後は安全だ。現在江夏には張飛が二万とともに駐屯しており、曹操軍の主力が攻撃してきても簡単に陥落はしない。ただ、劉備があまり長時間留守にしていると、どんな不測の事態が起こるか分からない。

隊形を保ったまま急ぐ。途中、甘寧の部隊が誰何してきたが、劉備が事情を話して通行証を出すと、あっさり通してくれた。甘寧自身は内心舌打ちしているようだが、孫権が直接書いた通行許可証である。通さない訳にはいかない。

急ぐ。

状況が何時変わるか分からない。

場合によっては、強行突破もしなければならない。

趙雲は戦場にいるのと変わらない精神状態を保ちながら、ひたすら荊州への路を急いだ。

 

許昌で曹操は、着実に戦略の下固めをしていた。

西涼から隠居するべく一族を引き連れてきた馬騰を許昌にて抑える事に成功。西涼の攻略における足がかりを着実に進めていた曹操は。荊州で起こった周瑜の死に、思わず筆を取り落としていた。

慌てて辺りを探して、焼き菓子を掴む。落ち着く時には、まずこれを頬張るに限る。しばし無心に菓子を頬張り、気がつくと次の菓子を探して手を右往左往させていた。我に返った曹操は、手を叩いて部下達を呼ぶ。

真っ先に部屋に入ってきたのは許?(チョ)だった。

「曹操様、如何なさいましたか」

「まず第一に、焼き菓子が切れてしまった。 料理人に新しいのを作らせてくれ。 これがないと頭があまり働かなくてな」

「分かりました。 直ちに」

「もう一つは、荀ケと荀攸を呼んでくれ。 そうだ、程cにも声を掛けてくれ」

頷くと、許?(チョ)が出て行く。すぐにばたばたと兵士達が走り回り、女官が山盛りに焼き菓子を持ってきた。焼き立てで香ばしい。口に入れると蜂蜜の甘みが一杯に広がって、とても幸せである。

頬に手を当ててしばし焼き菓子を堪能していると、参謀達が来た。少し前に許昌に戻ってきている程cもその中にいる。賈?(ク)がいれば完璧なのだが、流石にそれは望みすぎであろう。そこで、焼き菓子の皿を机の隅に追いやって、姿勢を改める。既に糖分はたっぷり取っているので、事務作業をする状態から、創造的な行動をする形態に、思考が入れ替わっている。

「おお、来たか」

「何事にございますか」

「周瑜が死んだ。 どうやら暗殺らしい。 あの林の奴が不可解に感じるほど、意味が分からない状態での暗殺であったようだ」

「そうなりますと、主に荊州での状況が、一変する可能性がありますな」

そう最初に切り出したのは程cだった。長身のこの軍師は、昔からまず実戦論を口にする。

数値上でそれを確実にするのが、記憶力に優れた荀ケ。そして机上で様々な提案をするのが荀攸。競争が厳しい曹操軍の参謀達の中で、彼らはきちんと棲み分けしている。

「現在、荊州で攻勢に出るのは下策だ。 守備隊の増援を送るとして、此方の懐具合はどうなっている」

「現在、西涼に備えた兵が十二万ほど許昌と周辺に。 更に七万五千が、韓浩将軍の手によって出撃可能な状態になっています」

「しかしあまり兵を割きすぎると、合肥、西涼への備えが難しくなるのでは」

荀ケがすらすらと現状の戦力を述べ、荀攸が捕捉する。

曹操は頷くと、まずは第一手を口にした。

「まずは江東に弔問の使者を出せ。 周瑜は配下に加えたいほどの将だった。 多分徐晃が非公式の使者をもう出しているだろうから、それとは別経路からな。 襄陽には、そう言えば陳琳がいたか。 それに負けないような名文家を探して、弔問文を記載させよ」

「分かりましてございまする」

「次は、そうだな」

焼き菓子を頬張り、噛み砕く。

最近はかりかりしているものだけではなく、しっとりした食感の焼き菓子を料理人が作ってきていて、なかなかに面白い。しばしもごもごして咀嚼した後、曹操は指示を続ける。

「荊州への増援は、今回は見送る。 その代わり予備兵の内一万を、宛に送り、有事に備えさせよ。 韓浩には、その分の予備兵を補充させることも忘れないようにな」

「は。 直ちに」

「周瑜暗殺の真相については、多分徐晃が割り出しを開始しているだろう。 だからそれは此方からわざわざ手を出さなくても良い。 ただ、徐晃に使者を出して、それとなく話だけは聞いておけ」

他にも幾つかの細かい手を指示し終えると、曹操は一息ついて、伸びをした。許?(チョ)がぼんやりしているから、今はあまり危険がないという事でもある。一人側に残した程cに、耳を掻きながら聞いてみる。

「曹丕は、今どうしていたか」

「河北で、新しい都の整備が佳境でございましょう」

「そうだったな」

かって袁紹が整備した?(ギョウ)は、その経済力でも規模でも、許昌を凌ぐ存在となっている。

現在は前線に近い許昌にとどまることが多いが、政権が安定したら、そちらに首都機能を移すのも悪くない。いずれにしても、当分洛陽に首都を移動させるのは論外だ。まだそちらはかっての半分も復興していない。

問題は、献帝を中心とした旧漢の勢力だ。

献帝自身は、問題ない。かの御仁はかなり賢く、自分が下手に動くと、それだけで乱を誘発すると理解している。既に漢の大儀などというものが、存在していないという事も。今更漢の時代に天下を戻しても、良いことなど一つもないのである。

漢の無能な政治により、党固の禁を始めとする粛正劇が起こり、飢饉には何ら有効な手が打てず、外戚と宦官に国政は牛耳られ、そしてこの乱世が幕を開けた。

献帝は、それを理解している。

だが、それを理解していない人間が、結構多いのだ。

驚くべき事に、あの荀ケもその一人である。儒教思想的には、皇帝は敬うべき存在であり、曹操の行動は不敬だというのである。何度か生真面目な荀ケは、涙を流しながら曹操に諫言しに来た。そのたびに曹操はうんざりして現実論で荀ケを諭したのだが、儒教思想が根底にある彼はどうしても納得してくれない。

儒教にとって現在聖人とも言える孔子の子孫、孔融に関しては全く脅威ではない。

ただし、有能で使える荀ケが、思想と忠義の板挟みになって苦悩していることに関しては困る。

面白いのは、献帝自身に忠義を誓っている徐晃は、曹操に何ら文句を言わないという事だ。これは政治的な面では献帝に関与を許さずとも、生活的な面では不自由がないように配慮しているから、かも知れない。

何にしても、儒者とはとても面倒だ。

「あまりやりたくはないが、近いうちに粛正をしなければならなくなる、かも知れんな」

「?(ギョウ)へ首都機能を移すのであれば、確かに許昌で癌となっている者達を、排除する必要が出てくるかも知れませぬな。 しかし、皇后の伏一族のような小規模勢力ならまだ良いのですが」

「ああ、荀ケについては、どうにか説得しなければなるまい。 あの男も、とても頭がよいのに、儒教というものが根底にあると、どうしても視界が歪んでしまうらしい。 困った話だ」

しかし、かといって。許?(チョ)のように、曹操への忠義を己の揺るぎない信念としてくれている男もいる。許?(チョ)はいざとなったら、全てを擲って曹操に尽くすだろう。それを考えると、一概に思想や信念を否定は出来ない。

程cも下がらせると、側には許?(チョ)だけが残った。曹操は竹簡を出して、指示用の文書を書き始めた。

それにしても、思想とは厄介なものだなと。曹操は内心で呟いていた。

「そう言えば、虎痴。 そなたの息子も、そろそろ成人する時期か」

「曹操様のおかげにて。 俺に似てあまり頭の良い子ではありませんが、武芸だけは出来まする」

「そうか。 では曹丕の近衛として、余が取り立ててやろう。 曹丕が心を許せる側近になると良いのだが」

「良く言い聞かせまする」

許?(チョ)の妻は、結局現在に至るまで一人だけである。曹操が世話したのは、本人の希望通りあまり家柄的にも派手ではなく、性格的なものを重視した娘であった。少し頭は足りないのだが、気だてはよいし夫のことを信頼しているようで、家庭環境は非常に良好なようである。

林の調査では、周瑜は表向き鴛鴦夫婦のように見えて、裏ではそうでもなかったという。周瑜は妻を愛していたが、一方の妻は最後まで周瑜に心を開く様子もなく、夫の財力を良いことに遊び歩いていたとか。

周瑜は、それでも妻に不満がなかったという。

何だかやりきれない話だなと、曹操は呟いていた。

 

4、真相と、後始末

 

劉備軍が秩序を取り戻したという報告を聞いても、徐晃は驚かなかった。

状況が状況である。仮に何かしらの理由で荊州を離れていたとしても、劉備が急いで帰還したであろう事は、別に調べなくても分かる。畑を耕しながら、林の報告を待つだけで良かった。

弔問の使者も出したし、江東もそれを受け容れてくれた。出来れば周瑜は正面から叩きつぶしたい相手だったのだが、それも今となっては仕方がない話だ。

周瑜が死んでから、一月後。

林が、寝所に現れた。

 

風呂に入って寝ようとしていた徐晃は、寝所に先客がいるのに気付いた。剣に手を掛けるが、相手が林だと知って、手を離す。

奴は天井から逆さにぶら下がっていた。蝙蝠のようである。多分天井板に、足を引っかけているのだろう。

「どうした」

「真相が掴めた、とは言い難いのですが。 中間報告をしにまいりました」

とは言っても、林自身が来たのである。大きな進展があったのは間違いない所なのであろう。

机に向かって座ると、墨を擦る。徐晃の行動を見た林は、報告を始めた。

「まず四家ですが、いずれの筆頭も暗殺には関わっていません」

「ほう。 それは意外だな」

「孫権は激怒して暗殺の実行犯を捜させていたようなのですが、どうも反四家の方にも暗殺の指示を出した人間はいないようです。 ただ……」

「何か気になることがあるか」

実は、既に江東での混乱は、収束しつつあるのだという。

犯人が見つかった、もしくは処断された可能性が高い、という事なのだろう。それとも、生け贄に誰か適当な人間が当てられたのかも知れない。

「そこで、少し前から、江東で処刑、投獄された人間を調べてまいりました。 殺人犯などの、露骨に違うものは除いてあります」

徐晃の斜め上から、竹簡が差し出される。

受け取って振り向くと、既に林は天井に戻っていた。相変わらず化け物同然の機動である。

さっと目を通す。

その中に、気になるものがあった。

「これは、商人か。 大型の商家だな。 それも、四人、だと」

「そのもの達は、既に三族もろとも処断されています。 不可解ではありますが、事件への関連性は低いとは考えていたのですが、処断された理由は分かりません。 或いは、劉備に情報を流していたのではないかとでも分析していたのですけれども、違うような気がします」

「この者達が扱っていた商品は」

林の答えを聞いて、徐晃の脳裏に雷光が閃く。

なるほど。そう言うことだったのか。

大体、事件の裏にあったものは分かった。それは、とてもおぞましい、そして悲しい話であった。

「もう調査はしなくても良い。 真相が分かった」

「本当ですか」

「ああ。 別に話しても構わないだろうから、教えてやろう。 周瑜は、江東という国家そのものに殺されたのだ」

 

「周瑜は、江東という、国家そのものに殺されただと!?」

劉備が上げた声に、陳到は思わず眉を跳ね上げていた。

江陵での、軍議の最中での話である。

諸葛亮の発言に、劉備が立ち上がったのだ。どうやら奴は、既にシャネスらを使って、周瑜暗殺の真相を掴んでいるらしかった。

荊州出身の将には、周瑜に敵意を抱いているものも多い。彼らも興味深そうに、劉埼が名前を変えて引退して後に主君となった存在を見つめていた。

劉備が怒っているのは、妻に義理立てしてのことだろう。現時点で、劉備軍と周瑜に敵対関係はないし、その死を喜ぶ理由もない。少なくとも表向きにはそうだ。だから、劉備は此処で、怒らなければならない。

そう。

劉備は。君主として求められるべきことを、そのままやっているのだ。

陳到はその自然な「演技」に、憤りを感じてしまう。どんどん劉備が、何処か遠くに行ってしまうような気がしてならなかった。多分諸葛亮と示し合わせているのだろう。間違いのない所であった。

「諸葛亮どの。 具体的に、それはどういう事なのか」

若干自分の声がしらけていることを、陳到は自覚している。純真に劉備の言葉に聞き入っている張飛が、若干不快そうに眉をひそめた。だが、張飛と陳到は長年戦場をともに駆けてきた連帯感があり、即座への激発へはつながらない。

関羽も、陳到に続いて、説明を求める。

「軍師どの。 詳しく聞かせていただけないでしょうか」

「分かりました」

長身の諸葛亮は、羽扇を翻しながら、優雅に言う。

その動作にわざとらしさは微塵もない。ただ、計算され尽くした、完璧さだけがあった。

「シャネスのもたらした情報によると、江東では四名の商人が三族皆殺しの目にあっております。 これが暗殺者を駆った面子と考えて間違いありません」

「商人、だと?」

「はい。 四家の配下であり、山越の奴隷を専門に扱う商人です」

その場にいる全員の表情が強張る。

異民族奴隷は、社会を支える重要な要素となっている。だが、四家の息が掛かったこの連中の凶悪さは、誰もが知る所なのだ。

そして、ある程度の戦略を知る人間は、それ以上に恐るべき意味を悟っていた。例えば、関羽は。

「まさか、江東は南進政策を進めるために、天下二分の計を進める周瑜を処分したというのか!?」

「流石は関羽将軍。 見事な推察です」

「兄者、どういう事なのだ」

関羽に代わり、諸葛亮が羽扇を翻すと、侍従達が何かを持ってきた。

下にころがついていて、大きな竹簡が掛けられている掲示板。其処には、中華の地図が吊るされていた。

「現在、曹操は中原と河北を抑え、中華最強の勢力を誇っています。 これに対抗すべく、私が提案したのが。 皆様も知っての通り、江東、それに荊州と巴蜀の三勢力を並立させ、安定を保つべしと言う天下三分の計です。 ところが、私の前に、江東でも似たような考えに到ったものが何名かいました。 魯粛、それに周瑜、後から江東に参入した甘寧などがそうです」

諸葛亮は江東から荊州、益州、漢中をなぞり、長江南岸を中心とした巨大な勢力をその場にいる全員に示す。

確かにこの広大な版図であれば、即座に曹操に敗れないだけの実力を得ることが出来るだろう。

しかし。

有力豪族「四家」によって影から実質支配されている江東には、もう一つの国家戦略が、今では生じていたのである。

「それが、南進政策」

諸葛亮は、江東から更に南の地域。まだ地図も整備されていない、未開拓の原野を、大きく羽扇でなぞった。

士一族が支配している交州も含む其処は、漢人が住まない、群小の国家が乱立する地域である。

「現在、江東が得ている富の多くは、これらの地域に対する侵攻で、山越を「討伐」することによって得られているのです。 労働力も物資もそして富も、草でも刈るように手に入れることが出来る。 それは、曹操と正面切って戦うよりも、遙かにたやすい」

「ちょっと待て、軍師! それじゃあ、確かに金は手にはいるかも知れないけどよ、天下はどうするんだよ」

「其処に、齟齬が生じてしまったのだ」

関羽が、張飛に言う。

その言葉は沈鬱で、強い怒りにも満ちていた。

「此処で、我らが事件を理解するには、固定観念を捨てなければならないということです」

「固定観念?」

「そう。 何も、天下が統一されなくても、人間は生きていける。 独立勢力さえ維持すれば、豊かな生活が出来る。 いや、むしろ安全で豊かに暮らすには、周瑜の推進する天下二分の計は、それに続く天下統一は、むしろ邪魔だと言うことなのでしょうね」

「なんっ、だとおっ! 天下が、邪魔だと! 巫山戯るな! 万民の苦労を、血涙を、何だと思っていやがるんだっ!」

張飛が烈火のごとく吠え猛るが、それに対する反応は意外と冷ややかだった。同調したのは趙雲や黄忠くらいである。陳到は、頭には来た。だが、しかし。どこか、頭が冷えてしまっていた。

劉備の様子に対しての怒りの方が、上回ってしまっていたから、かも知れない。

「恐らく、江東では。 本気で天下を統一しようと考えている最後の大物が、周瑜となってしまっていたのでしょう。 豊かな富を産む南進政策に胡座をかいてしまっている四家だけではなく、反四家の者達も、南進政策によって安定する江東という現実に、心を傾けてしまった」

「だから、周瑜は邪魔になった、と言うことなのだな」

「積極的に、暗殺計画を立てることはしなかったでしょう。 ただ、誰もが、暗殺計画を簡単に察知できる立場にいながら。 その全てを「見逃すべく」動いた、という事です」

「それで、江東という国家が、周瑜を殺したというのか」

「正確には、周瑜が本気で成し遂げようとしていた天下二分の計と、その後の天下統一構想を、ですが」

江東は天下を捨てた。

もちろん荊州や揚州で曹操と抗争を続けるだろうが、それは侵入を防ぐための戦術的防御のためだ。戦略としては現状維持。南進政策での富の蓄積。それを至上命題としていくのだろう。

説明が終わると、鉛のように冷たく重い沈黙が辺りを支配した。

陳到は、やりきれないと思った。

 

周瑜の盛大な葬儀は、もちろん国家をあげて行われた。

江東の重臣達は全員が列席。若くして「病に斃れた」宿将を悼んで、誰もが泣いていた。

実際の所、周瑜は水上戦以外では、江東の統一過程での活躍を除くと、これといった実績は残していない。

しかし孫策の竹馬の友であり、その全てを理解していた盟友であった男の死。盟友と同じく、あまりにも早すぎるその死を、誰もが悼んでいる。

否。

厄介払いできて、喜んでいる。

それを、陸遜は知っていた。

何があったのか理解できていない朱桓と違い、陸遜は状況から分析を終えていた。周瑜が国家によって厄介払いされたも同然の死を迎えたことを。だからこそ。この葬儀では、周瑜の遺族でさえ心から泣いていない中、一人本気で泣きくれていた。

朱桓も泣いていたが、此奴は状況を理解できていない。呂蒙はどうなのだろう。恐らく、周瑜の座を継ぐのは魯粛。その右腕となるのは呂蒙だろう。涙を何度となく拭いながら、周瑜の棺を離れ、そして当てもなくふらついていると。肩を叩かれた。

呂蒙だった。

「大丈夫か。 酷い顔をしているぞ」

「何とか大丈夫です。 呂蒙将軍、実は」

呂蒙は、口に指を当てて、しっと言った。そして、陸遜を、葬儀場から外へ連れ出す。

雨が降っていた。

霧雨だが、今は肌に痛いほど冷たい。草を濡らす雨露の輝きさえもが、今は敵意を込めて陸遜を睨んでいるかのようだった。

「誰もが、この国では天下を望まなくなりつつある。 宿将達でさえ、山越の「討伐」で功績を挙げたものばかりになりつつある。 だから、周瑜都督は殺された」

「知って、おられたのですか」

「俺も呉下の阿蒙と呼ばれたのは、昔の話だ。 今では必死に勉強して、それなりに学も修めているからな」

その学をくれたのは、皮肉にも魯粛だ。

そして、魯粛は。ほぼ確実に、周瑜の死に、積極的ではないにしても、関わっている。そう、陸遜は結論していた。もちろん、この様子では、呂蒙も気付いているだろう。

「俺は何時までもあんたの弟子じゃないって、いつか思い知らせてやるつもりだ」

「呂蒙将軍」

「分かってる。 ただ、今は天下二分を実行に移せる時期じゃない。 いずれ荊州を全部ぶんどることが出来れば、現実味も帯びてくるんだが。 正直な話、劉備も関羽も、今の俺やお前が勝てる相手じゃない。 陸上戦での戦闘経験が違いすぎる」

「彼らに恨みはありませんが、いずれ倒さなければなりません。 周瑜都督の、仇を討つためにも」

良かったと、陸遜は安堵した。朱桓の他にも、同士になってくれそうな者がまだいたのだ。しかも、こんなにも心強い。

しばらくは、曹操と戦うしかない。荊州にいる徐晃も、合肥にいる張遼も、いずれも凄まじい実力を持つ指揮官達だ。彼らと戦いながら経験を積み上げて、いずれ劉備と関羽を打ち破る。

それしか、周瑜の恩に報いる方法はなかった。

こんな無念はないだろう。

国のために尽くしてきた周瑜が、国によって殺されたのだ。それも、民のためなどではなく。奴隷を酷使して得られる歪んだ国益のために、である。

きっと、孫権はどうにも出来ないでいるのだろう。悔しくて、臍をかんでいるのだろう。

許せない。

四家は必ず滅ぼす。

そして、天下を統一する。

言い聞かせながら、陸遜は自らの屋敷に戻る。そして、竹簡に、筆を走らせ始めた。侍女が心配して、陸遜の濡れた頭を拭き始める。勝手にさせておく。

幸いにも陸遜は、傍流とはいえ四家の一角陸家の一族だ。

これからは、もはや手段は選ばない。

あらゆる手を使って、陸遜は大望を果たすつもりであった。

 

5、邪神咆吼

 

荊州南部。

南郡と江陵の間の山道を歩きながら、林は臍をかんでいた。

どうしても、勝てないものは存在している。

邪神と己を嘯く林でもそれは同じである。如何に手練れと言っても、曹操麾下の細作軍団を全て敵に回して、勝てる訳がない。いずれは獣のように狩り立てられ、無様に命を落とす事になるだろう。

今回の件もそうだ。

両親に、盧植に付けられて、一通りの学問は学んだ。戦略のなんたるかは知っているし、戦術についても知識はある。だから今まで、どのような邪悪を積み重ねても、生き残ることが出来たのだ。

だが、今回は。

流石に圧倒的な自信を持つ林も、それを打ち砕かれたような気がしていた。

江東という国家体制そのものの戦略が、周瑜を殺したというのは、流石に理解を超えていた。このままでは、林という存在も、いずれ国家そのものによって消されるのかも知れない。

あの周瑜でさえ、どうにも出来なかったのだ。

林では、なおさらどうにか出来るとは思えなかった。

右手を振るい、柳剣で罪もない木を切り倒す。林の胴ほども太さがある木は、瞬時に両断され、不気味な軋みを立てながら斃れ伏した。

恐らく諸葛亮は、これと同じ規模の陰謀を仕掛けてくる可能性がある。

もしもそうなってしまうと、羊などとは相手が違う。山津波に対抗しようとするも同じで、瞬く間に飲み込まれてしまうだろう。

雷が鳴った。

多分、漢王朝が最盛期のころには。この程度の国家的陰謀は、彼方此方で繰り広げられていたのだろう。

歴代の漢王朝皇帝の中には、早死にした者も少なくない。漢王朝を一度は崩壊させた王奔の例を出すまでもなく、国というものが動き時、押しつぶされる者は少なくない。今までも、曹操の下で、林はそれを見てきたつもりだった。

だが、押しつぶされるのは決して弱者だけではないのだと、今更ながらに知った。

在りし日、盧植は林に良く言ったものだ。

「お前は能力的にも恵まれ、負の意味から歴史の流れを大きく左右する事が出来るかも知れぬ。 しかし、お前も、歴史の濁流には勝てぬ。 例え、人外の域まで踏み込んだとて、それは同じだ」

「同じで、あるものか!」

絶叫。

柳剣を振り下ろし、また罪もない木を両断する。

目に炎を宿した林が振り返る。

其処には、凄絶な表情を浮かべた、劉勝がいた。少し前から、左右の腰に剣を刷いている。

「ご指示通り、漢中関連の引き継ぎは終えました」

「そうでしたか。 ご苦労様でした」

林が敬語で喋っていることに気付いたからか。劉勝は、眉をひそめた。

基本的に林は、目下の人間には横柄に話す。故に。気付いたのかも知れない。林が、今からしようとしている事に。

「漢中で佐慈と名乗り勢力拡大を続けている董承については、此方で見ておきます。 さて、貴方には褒美をあげなければなりませんね」

「……」

少し前に、劉勝は百人の敵を見事屠り去った。

細作は十人ほどだが、その関係者を多く仕留めたことで、少なからず敵に打撃は与えている。

まだ報酬については口にしていなかった。

「菖を、予定通り貴方にくれてやりましょう」

「……彼女は、何処にいる」

長身の、逞しい劉勝が、目に強い光を宿す。

曹昂のかっての許嫁で、心が壊れてしまった娘を捜して、左右に視線を奔らせる。

雷が、至近に落ちた。

林の口の端がつり上がる。闇の中、邪神の口が、三日月を作った。

「あの子なら、もう半年も前に、殺してしまいましたよ」

蒼白になった劉勝が、流石に立ちつくす。

少し前だが、菖は正気を取り戻したらしい。そして、内偵を進めて、知ったのだろう。

林が、婚約者を殺して。そして、典偉をも殺したという事を。

壊れたふりを一年ほど装っていた菖だが、林には見え見えだった。そして、わざと二人きりになり、隙を作ってやった途端。差し違えるつもりで、斬りかかってきた。

面白かった。

思ったより、ずっと腕を上げていた。

最期に菖は、婚約者と典偉。それに、劉勝の名を呟いていた。きっと、劉勝の献身的な行動には、心も動いていたのだろう。

雄叫びが上がる。

血涙を流しながら、劉勝が立ち上がった。

そうだ。

最大まで力を引き出した、鬼神と化した人間を正面から打ち倒せるくらいでなければ、諸葛亮には勝てない。

劉勝を捨てるのはもったいないが、今のままではいずれ追い詰められ、土砂に押しつぶされるように殺される。

周瑜の一件でそれを悟った林は。此処で、敢えて勝負に出たのだ。

「戦いの果てに、背中から串刺しにした時! あの子は曹昂と、典偉の名前「だけ」を呟いていましたねえ。 ふふふふふ、ひひひひひははははは! 貴方は! 最初から! 菖の眼中になど! なかったのですよ!」

「この、外道鬼畜があああっ!」

右手に剣を取ると、劉勝は飛び掛かってきた。

上段からの一撃は、残像を切り裂く。右に跳躍して逃れるが、血涙を流しながら、劉勝は確実に追いすがってきた。鞭のようにしなった蹴りが飛んでくる。足の、本当の何分の一寸か下を、唸りとともに蹴りが通り抜けた。

振り返ると同時に、劉勝は左の腰にある剣を抜刀。投擲してきた。空中ではじき返し、着地。だがその時、劉勝は必殺の間合いにまで、詰め寄ってきていた。

こうだ。これでなければならない。

シャネスも成長しているが、やはり力を引き出すにはこれだ。呂布も最期の時には、高順を守るために曹操にいつも以上の力で突撃した。典偉もあれだけ傷ついていたのに、林の猛攻に対して、善戦した。

再び、劉勝の剣が、残像を真っ二つにした。

だが、林も避けきれず、軽く一撃は肩を掠めていた。

毒の感触。

だが、通じない。

幼いころから体内に入れている無数の薬物が、毒など中和してしまう。かっと、林は口を開けて笑った。

久し振りに、全力を出せる。

「おおおおおっ! 死ね、鬼畜!」

絶叫した劉勝が、横殴りの一撃を放つ。気合いと言い、速度と言い、避けられる代物ではない。

だから、踏み越えた。

すれ違い、柳刀を振るう。そして、頸動脈から噴き出す鮮血を、振り返りながら見つめた。

そう。今の一瞬、横殴りに飛んできた剣を踏み、跳躍して、劉勝の頸動脈を断ったのである。

「菖……。 す……ま、ん」

劉勝の目から、光が消える。

鮮卑から出稼ぎに漢に出て、董俊に雇われ各地を転戦し。そして最期には林の配下として闇を生きた男だったというのに。死に際に呟いたのは、愛する女の名前であった。

そして、事実を告げずに殺したことで、林は最大級の興奮を覚えていた。

面白い。面白すぎる。

柳刀にべっとりついた血を舐めとりながら、林は決意する。

「人外のものであっても、歴史の怒濤に勝てぬと言うのなら!」

至近に落雷。

燃え落ちる劉勝の死骸の側で、林は高笑いした。

「私は、人外をも超えてやろう!」

その宣言をした者は。

もはや、人間ではなかったかも知れない。

林は。大陸最強の細作は。

今、また。闇のさらなる闇に、足を踏み入れていた。

 

長蛇の軍勢が、西に向けて進発していく。陳到はその半ばに、廖化とともにいた。

益州侵攻作戦の準備が、ついに整ったのだ。

拡大を続けていた劉備軍の規模は十万に達し、その訓練も充分な段階に達していた。遠征軍として五万を動員し、なおそれを数年維持するだけの余裕がある。そして懸念される江東は、周瑜が死に魯粛が跡を継いだことにより、荊州での戦線拡大や領土問題を気にしなくても良くなっていた。

陳到が育てた二万五千も、攻略部隊には含まれている。武陵から出陣しながら、陳到はその威容を見つめて感嘆した。かって、これほどの軍勢を劉備軍が率いたことはない。陳到自身も、二万を率いて戦列に加わる。一部は軍船に分譲して、長江をさかのぼり始めている。劉備の側には、長子を出産して体調を取り戻したジャヤと、趙雲が護衛として付き従っていた。

侵攻開始の経緯は、実に速やかに行われた。諸葛亮の策通りに事が進んだのである。

少し前から劉備は、劉璋に援軍の申し出をしていた。

漢中の侵入に悩まされていた劉璋は、劉備による「支援」の申し出を一も二もなく受けた。

軍の主力は、諸葛亮が推薦した鳳統という男が軍師となって率いる。荊州の名家の出身者であり、司馬徽の学閥でも一二を争う優秀な人材だ。劉備もその能力を認めていて、何ら作戦遂行に問題はない。

このほかに黄忠と陳到が作戦指揮を実行する他、既に益州内部の情報を入手済みの魏延と現地で合流する。

更に、追い風となる情報も入ってきている。シャネスによると、西涼が発火寸前の状況だという。曹操が意図的に仕組んだ節もあるようなのだが、少なくとも荊州に、大規模な侵攻は当分無いと考えても良いだろう。しかし、なお荊州に張飛と関羽、何より諸葛亮が残っていることからも、劉備軍の陣容に隙はない。

「腕が鳴りますな」

廖化が嬉しそうに言ったので、鷹揚に頷く。あまり同意したくないが、既に賽は投げられているし、今更何を言っても仕方がない。廖化の隣には陳式もいる。今回は最前線で働いて貰い、最大限の経験を積んで貰うつもりだ。

黄忠は大軍を率いるのが初めての様子だったが、全く問題なく、手足のように使いこなして見せている。元は各地で名の知られた用心棒だったという話だが、あまりにも惜しい。荊州で宿将として用いられていれば、ひょっとすると江東は今頃存在していなかったかも知れない。

劉備の本陣は貫禄の進軍を見せていて、戦力的にも全く不安はない。

戦いには勝てるだろう。だが、その後はどうなのか。

江東は西ではなく、南に進む道を選んだ。

劉備は西に進み、その後に北へ進む事を選択した。

それがよいことなのかは、広域戦略が分からない陳到には判断できない。だが、この山を越えた後、もう引き返すことは出来ないだろう。

振り返ると、荊州の土地が、何処までも広がっている。

既に其処は。

平和な土地ではなく。複数の強豪がひしめく、魔境とかしていた。

 

(続)