揺れる大船

 

序、上陸

 

誰にも歓迎されないことを周瑜は想定していたが、まさかこれほどだとは思っていなかった。兵士達には散々言い聞かせてはいるが、山越から強制的に得た者も多い。今後、更に摩擦が増えることは容易に予想された。

江夏より上陸した周瑜軍が見たのは、兎に角、憎悪に次ぐ憎悪だった。

民は徹底的に江東の軍勢を憎みきっている。子供までもが、江東から来た軍勢に、敵意を剥き出しにしていた。

当たり前の話である。

江東が、江夏の民に何をしてきたか。

黄祖が圧倒的な能力を発揮して、江東から江夏を護りきってきた。だが、全ての民が、完璧に護られた訳ではない。

多くの民が兵士として徴収され、四家と江東のためにと押し寄せてくる山越を中心とした軍勢と死闘を続けた。血涙を流し、屍を葬り。彼らの家族は、血の海に沈んでいった。もちろん、逃げ遅れて兵士に陵辱された者もいたことだろう。

兵士達は占領軍の横暴さを発揮して各地で既に問題を起こし始めており、摩擦が発火を産むのは時間の問題にも思えた。周瑜は一旦劉備の軍勢と合流すると、武将達を集めて、口を酸っぱくして言い聞かせなければならなかった。

野戦陣の天幕で、武将達の顔を見回しながら。今や江東の西方軍総司令官となっている周瑜は、告げる。

「皆には、もう一度理解して貰わなければならない事がある」

「荊州の制圧作戦について、ですか」

「そうだ。 良いか、江東の土地は肥えている。 だがそれだけでは、どうしても曹操や、そのほかの勢力には対抗できない」

荊州は、と周瑜は一度言葉を切った。

凶猛な朱桓や、温厚な程普が見つめる中、周瑜は続ける。

「荊州は、今やこの国に残った最後の宝石だ。 多くの知識人が住み、民も多く、土地さえも肥えている。 だから我らは、その豊かさを奪うのではない。 手に入れ、馴染まなければならないのだ」

「略奪するのではいけないと言うことですか」

「そうだ。 唯でさえ我らは、荊州の民から多くの憎しみを受けている。 略奪で一時の富を得ることが出来るかも知れないが、長期的に見れば失うものの方が多い。 もしも曹操が完璧に荊州を手に入れ、民がその味方になったらどうなると思う」

困惑しきった顔を、諸将が向け合う。

今までは、黄祖という分かり易い敵がいた。奴を殺すことだけを考えていれば良かった。荊州に入れば、略奪し放題だと息巻いている将までもがいたのだ。周瑜も、戦意を維持させるために、敢えてそれらには眼をつぶっていた。

だが、もうそれでは通用しない。

「民の我らを見る目を見たか」

「反乱など、叩きつぶせば良いでしょう」

「たわけが」

朱桓の強硬意見を、周瑜は一蹴した。朱桓も、周瑜が相手でなければ、剣を抜いていたかも知れない。だが周瑜の言葉だから、朱桓も顔を真っ赤にしつつも、黙って聞いてい

「さっき、荊州の人口がどれだけ多いか話したはずだ。 今連れてきている軍勢など、本格的に反乱を起こされたら、瞬く間に飲み込まれてしまう。 更に曹操の軍勢も、それに併せて攻勢を仕掛けてくるだろう」

「しかし、荊州の軟弱な豚どもなど、我らから搾取されるだけの存在です!」

「そんな風に考えていたから、今まで我らは黄祖に勝てなかったのだ!」

若いが故に、皆の意見も代表していると言えた朱桓の言葉を、周瑜は退けた。これは他の将軍達にも聞かせなければならなかった。

そもそも、である。

江東は政権の開祖がほとんど賊同然であったこともあり、しかも今は四家という中華でも最悪の連中が支配していることもある。倫理観念が完全に崩壊している地域でもあって、このままでは勢力の拡大など望めない。

孫権には後で言い聞かせる必要があるとしても、部下の将軍達には、今、此処で。きちんと理解させなければならなかった。

征服はする。

だが搾取した時、民は黙っていない。

山越のように強引に力で押さえつけ、暴虐と供に搾取しても、数が違いすぎるから押さえ込める相手とは違うのだ。中華の民は、流民となることを経験し、したたかになっている。勝てる相手には牙を剥くし、勝てない場合はさっさとその土地を離れてしまう。

荊州は豊かだが、民がいなければ何ら意味はない。

「しかもこれから相手にする曹操軍は、黄祖より強い。 そう考えて、事に当たれ」

そう軍議を締めくくる。不満そうにしていた諸将だが、その表情は翌日には青ざめることとなっていた。

荊州の南郡に侵攻した周瑜軍は、今までに見たことも聞いたこともない強固な防御陣に打ち当たる事となったのである。

 

襄陽に詰めていた徐晃は、南郡で周瑜との抗戦が開始されたという報告を受けて、顔を上げた。

手には鍬。

周囲には耕された畑。植えたのは麦を中心とした様々な作物だ。

「敵の規模は」

「歩兵四万、騎兵一万という所です」

南郡には今江陵の守備を任された曹仁が詰めていて、牛金という若手の将が援軍として派遣されている。兵力は五千ほどだが、堅固な城であるし、物資も充分に蓄えられている。すぐの援軍は必要ないだろう。

劉備軍はと言うと、二万ほどで現在南部の霊陵を攻めており、かなり優勢に戦いを進めているという。此方が下手に援軍を送ると、関羽当たりが襄陽に攻め込んでくる可能性があり、油断は出来ない。

屯田を進めて、兵士達には自給自足の尊さを教える一方で、徐晃は民を手なづけることに腐心していた。もとより徐晃も農民の出身である。彼らの苦しい暮らしと、立場は分からないでもないのだ。

だから、まずは自分たちが恐ろしい存在ではないことから、民に示さなければならなかった。

「戦線の縮小は仕方がないことだと、曹仁に伝えてくれ」

「南郡の放棄も辞さないと、言うことでしょうか」

「そうだ。 襄陽さえ守りきれれば、荊州に楔を残すことが出来る。 今は味方の兵力も足りないし、何より荊州全体を維持するのは無理がある。 むしろ江東に捨て札を引かせてしまった方がやりやすいかも知れない。 水軍の整備が進まない以上、今攻勢に出るのは賢くない。 しばらくはただ守れ」

伝令が去るのを見届けると、徐晃は舌打ちした。

嫌な気配を感じたからだ。

「これは徐晃将軍。 何をしておいでですか?」

「林か。 見ての通り、畑を耕している」

いつの間にか、林が後ろに立っていた。

曹操が林に命じたのだ。敵をどれだけ殺しても良いから、荊州における諜報の絶対優位を確保せよと。

今まで荊州に派遣されていた曹操麾下の細作部隊は全員が引き上げ、代わりに林の部下達が今は入り込んでいる。当然彼らの指揮権は徐晃にゆだねられていた。

「そんなもの、部下に任せておけばいいものを」

「それでは意味がない。 農民達に、我ら武人が同じ人間だと言うことを、しっかり見せておくことに意味がある」

「そうなのですか?」

「それよりもだ。 頼んでおいたことは、こなしているだろうな」

振り返ると、林は手に何人かの生首を掴んで、まるで童女のように無邪気な笑みを浮かべていた。

言うまでもない、と言うことか。

于禁が調べた所による、董卓の残党勢力による細作集団は、荊州でとんでもなく深い所まで根を張っている。林は流石に強く、早速彼らの勢力を削ぎに掛かっているが、それでも簡単に事は片付かないだろう。

「襄陽だけでも、百人以上の細作が入り込んでいます。 ごみ掃除が楽しいですよ」

「……味方の被害も大きいと聞いているが」

「この手の戦いは我慢比べですから。 まあ、私が一人生き残れば、組織なんて何度でも再生可能ですから、ご心配なさらず」

「鬼畜が」

最高のほめ言葉だというと、林は首を残して去っていった。

手を叩いて部下を呼ぶ。部下は残された血みどろの生首を見て、流石にぎょっとした様子であった。

「こ、これは!」

「あの邪神が残していったものだ。 丁重に葬ってやれ」

そして、その邪神を活用しなければ、荊州の維持は難しいという所が、不愉快きわまりなかった。

畑を今日も耕す徐晃の顔は、晴れることがない。

 

1、南郡攻防戦

 

曹仁は十倍に達する敵を、城壁から見下ろしていた。人間の背丈の八倍近い高さを誇る分厚い城壁は頑丈きわまりなく、何処に出しても恥ずかしくない防御力を持つ。豊かな荊州らしく、設備は兎に角立派であった。城壁に使われている瓦の類も、とても新しく、頑強である。田舎の城では、雑草が生えてしまっている事も珍しくはないのだが。

江陵を守るためには、必要な出城である南郡。江東は江夏を通れるようになったことを良いことに、好き勝手な軍勢で押し寄せている。噂によると、合肥に対する攻撃計画もあるとかで、身の程を知れと罵ってやりたい所であった。

曹仁の隣に立った牛金は、思わず眼を細めていた。見渡す限り敵である。しかも凶猛そうで、戦意も高い。民衆の避難は完了しているが、逃げ遅れた者はどんな目に遭わされるか全く見当がつかないだろう。

「援軍は来ない、という事だな」

「はい」

牛金がそう言うと、曹仁は肩を振るわせていた。どうやら笑っているらしい。大きく歎息すると、牛金は城壁から降りる。曹仁は良くも悪くも凡庸な将軍で、精神的にも脆い部分が多い。

城内には物資がたっぷりあり、城壁も分厚い。城攻めが下手な江東の軍勢などでは、まともに戦えば何年でも持ちこたえられるだろう。そう牛金が尊敬する徐晃は言っていたのだが、曹仁は敵の軍勢に腰が引けてしまっている。何とも情けない話であった。

まだ、敵は攻めてきていない。

攻城兵器の構築に手間取っているらしかった。

噂通り、陸戦の経験は足りていない。鼻を鳴らすと、牛金は自分の部隊の所へ戻るべく、城の内部に戻った。城壁の内側では、民衆が不安そうに行き交っている。江東の軍勢が攻めてきているのに、守るのがよりにもよって曹操軍だから、皆怖がっているのだろう。

牛金はまだ若い。三十になっておらず、曹操軍では曹一族を除くともっとも若い将軍の一人である。

特別優秀で眼をかけられているかというと、そうでもない。ただ、上層部の評価として、冷静さには定評があるとか聞いている。どっちにしても、下っ端の将軍である牛金に、上の判断はよく分からない。ただ戦うだけだ。

牛金は元々豪族の五男で、家を継ぐ望みもなく、養ってもらえるほど実家は豊かでもなく。結局他に方法が無く、曹操に仕官した。若いころから実家の内部での骨肉の争いを目撃し続けていたからか、あまり人間に対して期待を抱いておらず、それが戦場での冷静な判断につながっている。

最近婚約もした。だが、相手は名家の人間でも金持ちでもない。同じくらいの貧乏豪族の息女で、親が持ってきた縁談である。その上今河北にいるので、会う事も出来ない。もっとも、愛情があるかと言われれば疑問を感じてしまう程度の相手なので、別にどうでもよかった。

そう言えば、張遼将軍は奴隷出身の娘を正室にしているとか、牛金は聞いたことがあった。眼が見えないらしいのだが、非常に仲むつまじい夫婦であるらしい。羨ましいなと思いながら、牛金は自室に。

竹簡が並べられている。下っ端と言っても、二百五十の兵を率いる指揮官なのだ。色々とこなさなければならないことは多く、処理しなければならない書類もある。幾つかに目を通し終えると、椅子にもたれかかって休む。

曹仁の指揮下で各地を転戦してきたが、他の将軍の部隊に比べると明らかに動きが鈍い。最近では満寵将軍や郭淮将軍と言った優れた若手が出てきているのに、そう言った所へ配属されない不運を感じてしまう。

しばらく眼を閉じていたら、どたどたと足音。どうやら敵が動き始めたらしい。

起きだして、外に出る。太陽の様子から、三刻くらいは過ぎている様子であった。

外では喚声が響き始めていた。伝令が牛金を見つけると、走り寄ってくる。抱拳礼をしてから、伝令は言う。

「出撃の準備をお願いいたします」

「徐晃将軍は、守りに徹しろと言っていた筈だが」

「曹仁様の判断です。 敵の動きが鈍いので、隙を突けるという話です」

知らないぞと牛金は思った。

曹仁が二線級の将官でありながら、このような危険地帯に残されたのは、徐晃の優れた判断力と、曹仁が曹操の言うことを良く効く男だと判断されていたからだろうに。それがこのような命令違反を独自判断で犯してしまったら、どのような叱責をされるか。

それに、敵の動きが鈍いと言っても、兵力は十倍である。更に集団戦は苦手かも知れないが、敵の主力は軍事奴隷として狩ってきた山越だ。彼らの身体能力は高く、決して侮れる存在ではない。

しかし、既に出撃は決まったらしく、他の将軍達も部下を纏め始めている。牛金と曹仁とでは立場が違いすぎる。諫言しても、多分通らないだろう。

城壁を登る敵の喚声が、城内まで響いてくる。

城壁を越えて火矢が撃ち込まれてくるが、数はそれほど多くない。密度もまばらで、それほど猛烈な攻撃だとは思えなかった。

もとより南郡は完全な包囲が難しい城で、増援を比較的簡単に入れられる。だから徐晃は増援を断ったのだろうが。曹仁はそれを理解できていないのかも知れないなと、牛金は思った。

五百の突入部隊が用意される。

正門の裏に集合。騎兵を主力として、一撃離脱を行うと、曹仁から説明があった。うんざりした顔を見合わせたのは、牛金だけではない。外には五百の百倍が控えている訳で、失敗したら損害が大きくなりすぎる。敵にとって五百くらいの損害はどうでも良くても、味方にとってはそうではないのだ。

曹純が曹仁に歩み寄っていく。

彼は凡将揃いの曹操の一族の中では比較的まともで、曹仁の弟に当たる人物である。虎豹騎の士官としても功績があり、実戦経験もそれなりに積んでいる。ひょっとしたら止めてくれるかも知れないと牛金は思ったが、逆の方向へ事態は転がった。

「兄上」

「どうした、曹純」

「私が指揮官として出ます。 敵を蹴散らしたら、兄上も続いてください」

「その意気や良し!」

曹仁の顔がぱっと明るくなる。相当に鬱屈していたらしいなと、牛金は思った。どちらにしても、これで更に事態は悪化した。下手に全面攻撃を仕掛けて失敗したら、兵を損じるどころか、南郡が落とされかねない。

もはや、事態は止められそうにない。

だが、それでも、意見をしなければならなかった。兵士達の命を預かっている身の、義務として。

「曹仁将軍」

「牛金、何か」

「やはり出撃はおやめください。 我が軍にとって五百は貴重なる精鋭。 もしも失敗した場合、取り返しがつきませぬ」

「失敗しないように、私が着いていくのだ。 案ずることはない」

自信満々に曹純は言うが、牛金は知っている。この間の劉備との戦いで、部下が暴走した挙げ句、捕らえた劉備の娘達は取り替えされてしまったことを。曹仁はそんな曹純を非常に信頼していて、当然牛金の提案は却下された。

正門が、開く。

大きく歎息した牛金は。だが覚悟を決め、ぎょっとしている敵の海へ、真っ先に躍り込んでいった。

 

戦況を見ていた周瑜は、いかんと呟いていた。

周囲の将軍達も騒ぎ始める。敵が正門をいきなり開いて、突撃してきたのである。しかもその勢いは鋭く、正門付近に屯していた味方は見る間に踏みにじられ、衝車には火を掛けられた。

突き崩された味方が、味方の陣に押し込まれ、更に混乱が拡大する。その中、騎馬隊を中心とした敵は縦横無尽に暴れ回り、味方の混乱は拡大するばかりであった。

丁奉が出る。

彼は魏で言う李典に似た万能型の将校で、武芸も学問もそこそこに出来る。猛烈な突撃を仕掛けてくる牛の旗印に、丁奉は猛然と突撃。押されながらも、その勢いを若干減らすことに成功した。

其処に、後ろへ朱桓が回り込む。よしと呟いた瞬間、正門が開き、敵が更に出撃してきた。

「敵、およそ五千! 突撃してきます!」

「よく見ろ! 二千もいないわ!」

いい加減な報告をする伝令に、周瑜はおもわずかっとなって怒鳴ってしまった。籠城している敵が五千なのに、そんな兵力が出撃してくるはずもない。

むしろその報告で、味方が混乱に陥る。攻撃の主力となっていた程普隊は陣形の見直しを始め、城壁から離れ始める。朱桓は驚いて包囲を解き、その隙に牛の旗印はさっさと引き上げてしまった。

二千の敵は悠々と退き、外には味方の死骸ばかりがうち捨てられていた。江夏より手強い可能性が高いと言い聞かせておいたのに、この体たらくである。周瑜は思わず顔を押さえて呻いていた。

「損害、死傷三千!」

「一旦陣を引け。 攻撃部隊を再編成する。 敵はこの機に乗じて、奇襲を仕掛けてくる可能性が高い。 皆、充分に注意せよ」

言い聞かせると、周瑜は自分の天幕に戻った。

周瑜は元から太りやすい体質で、それが故に周囲からは美しくて特だと言われてきた。だが同時にとても痩せやすい体質でもあって、食べないとすぐに体が軽くなってしまう。

自分の魅力の多くに、美しいという要素があることを、周瑜は知っている。だから、天幕の中にはいつも油っぽい料理や肉を用意させておいて、暇な時はそれを囓るようにしていた。

骨付きの肉をしゃぶっていると、程普が天幕に入ってくる。しばらく口を動かしていた周瑜は、そのまま向かいに座るように促す。むっとするような油の臭いに、江東の宿将は流石に眉をひそめていた。

「あまり良くない報告があります」

「何かな、程普将軍」

「江東で、孫権様が合肥に攻撃を掛ける準備を進めております。 兵力は十万などと言っておりますが、実際には三万程度。 それも、四家の軍勢を中心とする予定のようです」

確かに良くない報告だ。二方向から攻勢に出るなど、正気ではない。全面攻撃を仕掛ける時などには成功例もあるが、それも事前に緻密な案を練って、指揮官それぞれが把握をしていた場合に限る。

それに気になるのは、江東での利権にこだわっていた四家が、今更どうしてそんな事を考えたか、と言うことだ。わざわざ三万もの兵を出すなど、今までの四家としては考えられない。何か企んでいるとしか思えなかった。

不意に、咳払いの音。

天幕の奥に、今までいなかった人間がいた。腕組みして、支柱に背中を預けているその小柄な娘は、確か見覚えがある。顔立ちからして漢人ではないから、印象に残っていたのだ。剣に手を掛ける程普を制すると、もぐもぐと八回噛んで、肉を飲み込んでから、周瑜は油に塗れた口を開いた。

「何者か。 劉備の細作か」

「シャネスという」

「噂には聞いたことがある。 林を相手に、長年戦ってきたという凄腕だな。 私は劉備の同盟者の筈だが、何用かね」

シャネスは周瑜を見ても、美に見ほれることがない様子で、冷たい眼で見つめてきていた。この辺り、新鮮な反応で面白い。大体の女は、周瑜のでっぷり太った美貌を見ると、黄色い喚声を上げるものと相場が決まっていたからである。

シャネスは懐から竹簡を出すと、周瑜に直接手渡した。非公式の文書である。今、劉備が江東と敵対しても利益はないから、あまり危険な内容ではないだろう。そう思っていたのだが。

思わず周瑜は、内容を読んで咳き込んでいた。

「こ、これは」

「見ての通りだ。 我が軍には残念ながら経済力と地盤が足りない。 あなた方江東、いや違うな。 孫権と四家に不満を持つ人間には諜報力が足りない。 だから、互いに長所を貸し合おうという話だ」

「……確かにありがたい話だが」

「四家を叩きつぶしたいのだろう? それには残念だが、江東出身の人材だけでは駄目だろうな。 外部から来た人間を使わないと、あの強固な闇を打ち破るのは難しい」

そう言いながらも、シャネスは何処か嫌そうな雰囲気だった。

ひょっとすると、まだ何か深い闇があるのかも知れない。

思い当たる節は、確かにある。

曹操が侵攻してから、荊州では不可解な事ばかりが起こった。あの疫病を筆頭に、あまりにも曹操にとって都合が悪いことばかりが起こりすぎた。あれは人為的な謀略だったのではないかという説は早くから囁かれていた。「輝かしい勝利」を喧伝したい江東は、四家主導の下事実をねじ曲げて史書に有りもしない英雄物語を書き散らしていたが、周瑜から見ればお笑いも良い所であった。むしろ曹操の侵攻にどうすればいいか頭を捻っていた身としては、侮辱でさえあると思ってしまった。

シャネスは劉備の影としてずっと動いてきた人間だし、裏の事情を見知っていてもおかしくはない。

そして、今の反応からして。多分、その巨大な裏に、シャネスは心ならず関わっているのだろう。

「それで、劉備どのの求める条件とは」

「我が軍は、荊州南部を制圧した後、益州に進出する。 それを邪魔しないで欲しい」

周瑜は思わず息を呑んだ。

かって、周瑜や魯粛は、天下二分の計という案を考えたことがある。荊州、益州、漢中を制圧することで、河北と中原を抑えている曹操に対抗するというものだ。曹操は圧倒的な地盤と軍事力を持っており、正面からの戦闘では勝ち目がない。拮抗できる勢力を作り上げた後、じっくりと持久戦に持ち込み、敵の隙を待つしかないと考えた結果、この策が出たのである。

しかし。

まさか、それを考えていた存在が、他にもいたとは。

「悪いが、即座の返事は控えさせていただく」

「反四家派の皆と協議してから、返事をいただきたい。 もっとも、時間は有限だが」

「どういう意味だ」

「貴方の体のことだ、周瑜。 見たところ、かなり美を維持するのに無理をしているだろう。 そのままだと早死にするぞ」

今度こそ、周瑜は息が止まると思った。

だが、言い返そうとした時には、既にシャネスの姿はなかった。大きく歎息した程普が、再び椅子に腰掛けながら言った。

「噂には聞いていましたが、恐ろしい輩のようですな。 敵には回したくない相手です」

「あの林と戦い続けたのだ。 人間離れもしよう」

「それで、どうするのです。 私から見ても、劉備からの提案は、魅力的に思えましたが」

「南郡を制圧したら、魯粛、張昭、張紘らを集めて協議する。 これは私だけで決めて良い問題ではない」

正確には、上手く行けばあの四家を一気に粉砕できる好機でもある。確かにシャネスの言うとおり、外部から来た細作集団を用いれば、何処に息が掛かっているか知れたものではない江東の勢力よりも、遙かに効率よく四家を消すことが出来るだろう。

四家さえ消せば、江東は一気に躍進できるのだ。

陣の立て直しが終わったという報告が来た。再び無理をして油っぽい骨付き肉を口にねじ込むと、周瑜は立ち上がった。

全然食べることが楽しくない。昔は楽しかった食事が、今では苦行になりつつある。

馬車に乗ると、周瑜は陣立てを見た。問題ない。攻城兵器も、代わりのものが来ていて、いつでも攻撃可能な状態であった。南郡の城を包囲し、何処までも規則的に兵士達が陣を作っている様子は、何処か獲物に集る蟻の群れを思わせた。

色とりどりの旗は、最初と配置を換えている。丁奉と朱桓は最前線に出て、程普と甘寧はやや中衛に下がっている。周瑜の軍勢はかなり前に出ていた。これは作戦の指揮を執りやすくするために敢えて危険を冒したためだ。

「今度は奇襲を許すな。 全軍、攻撃開始!」

「殺っ!」

兵士達が唱和し、一斉に城へと殺到し始める。

勢いが最初よりも強いのは、二千程度の敵に良いように引っかき回されたことを、誰もが恥じているからだろう。それだけではなく、末端の兵士達には、勝たなければ給金が出ないという現実的な問題もある。山越の兵士達に到っては、勝たなければ故郷の家族達がどのような目に会わされるか分からないという事情もある。

城壁に、次々に雲梯がとりつく。同時に、敵の反撃が開始された。降り注ぐ膨大な矢が、梯子を登る兵士達を一方的に射貫く。下からも反撃をしているが、これほど壁が高い城との交戦経験は無い兵士が多く、ばたばたと射倒される味方の姿が目立った。

雲梯が倒され、兵士達が逃げ出してくる。城から放たれた火矢が投石機を直撃。見る間に燃え上がった高価な攻城兵器が、哀れ炭とかした。

阿鼻叫喚のさなか、城壁の上に目を凝らす。

曹仁がいた。

ひょっとすると、今南郡に、徐晃はいないかも知れない。そうなると、江陵と南郡を遮断することで、敵の動揺を誘うことが出来るかも知れなかった。

南郡は包囲しづらい城で、現在も何カ所か敵に逃げ道を作ってしまっている。後方が湖と山になっているのがその要因だ。

もし周瑜が徐晃であれば、襄陽で指揮を執るか、南郡で戦況を直接見る。後者でないとすると、前者しか考えられない。

やはり、後方遮断には意味がある。そう周瑜は判断した。

「これ、誰か」

「此処に」

跪いた伝令に、即座に竹簡に命令を書いて手渡す。渡させる相手は甘寧と徐盛。どちらも熟練した、有能な指揮官である。若い丁奉と朱桓よりも、冷静かつ的確な判断が期待できる。

甘寧は陸路を、徐盛は水路を遮断させる。そこで味噌になるのだが、一箇所だけはわざと開けておいて、逃げられそうな雰囲気を作る。

徐晃ならともかく、前線に曹仁しか来ていないのなら、これで相当な揺さぶりを掛けられるはずだ。曹仁も侮れる相手ではないが、この間の不必要な勝ちで精神が乱れている可能性が高い。美味くすれば、一気に崩すことが出来るだろう。

すぐに、甘寧と徐盛が動き出す。

周瑜は自らも親衛隊を少し前に進めて、じっくり相手の様子を伺った。

 

甘寧と徐盛の部隊が、露骨に退路を遮断に掛かったのを見て、曹仁が見る間に青ざめていくのが、牛金には分かった。

下手に勝ってしまったのが、却って良くなかった様子である。敵が南郡への包囲を完全なものにしようと動いているのは丸わかりで、江陵との物資流通を遮断されるかも知れない状況は、確かに勝ちに心を揺らしてしまった曹仁を慌てさせるに充分な状況であっただろう。

ただでさえ焦っている曹仁である。

もはや、部下の諫言など、聞くはずもなかった。

「まずいな。 甘寧と徐盛の軍勢を叩かねば、我らは敵中に孤立する」

「孤立しても問題はありません。 籠城は数年単位で続けられます。 その間に徐晃将軍が必ずや援軍に来てくれましょう」

そう呟いたが、曹仁には届いていないだろう。城壁から乗り出して敵の様子を見つめていた曹仁は、一人の世界の中で、何かぶつぶつ呟き続けていた。このままだと、精神を病んでしまうかも知れない。

思えば、徐晃と曹仁というのは、不幸な組み合わせであったのかも知れない。今や中華でも知らぬ者がない武人である徐晃と、曹操の一族でありながら凡将としての名しか知られていない曹仁。実力は徐晃が上、地位は曹仁が上という、非常に危険な天秤の上に、二人は立っている。

幸い徐晃は野心とは無縁の人間だが、曹仁は気が気ではないのだろうか。

「牛金。 そなたに兵一千を任せる。 甘寧を奇襲せよ」

「は。 私でよろしいのですか」

「この間の突撃戦は見事であった。 それを評価するのだ。 すぐに奇襲作戦に取りかかれ」

無益だなと、牛金は思った。甘寧はこの辺りの土地を知り尽くしている男である。奇襲など、成功するはずもない。

むしろ、今だからこそ、狙えることもあるかも知れなかった。

「曹仁将軍。 私めに策がございます」

「ほう。 何だ、申してみよ」

「周瑜を今なら、討ち取れるかも知れませぬ」

どのみち、曹仁がこの様子では、城を取られるのは規定の未来と考えた方がよいだろう。それならば。毒を食らわば皿まで、という奴であった。

 

周瑜は腕組みして戦況を見つめていた。一晩で結果が出るとは思えないが、甘寧と徐盛の事だ。奇襲をいなすくらいは造作もないだろう。どちらにも兵は三千ずつ与えている。兵力的にも、敵を追い払うには充分な戦力である。

周瑜は一旦天幕に戻ろうとして。

そして、不意に叩きならされる銅鑼に振り向いた。敵が出撃してきたらしい。

徐盛と甘寧は、流石に城の向こう側と言うこともあって、もう見えない。戦況を確認するには伝令に頼るしかないが、それでは遅すぎる。幸い、近くに小高い丘がある。其処でなら、戦況を確認できる。

「移動するぞ。 護衛せよ」

「危険ではありませんか」

「此方には敵の十倍の兵力がいるのだから、それを活用せよ。 危険ももちろんあるから、念入りに護衛せよ」

そう言うと、周泰が頷き、近衛を連れて周囲を固めた。寡黙で、真面目な男である。元が侠客だとはとても思えないその立派な行動は、甘寧とは対照的だった。甘寧は名声欲も虚栄心も強いので、兎に角上とも下とも対立しがちなのだ。

少し小高い山に上がる。

戦況がよく見えた。一千ほどの兵が、案の定甘寧軍の横腹を着いていた。指揮しているのは、多分曹純だろう。結構動きは鋭く、甘寧軍もそれなりに苦戦している、ふりをきちんとして見せていた。

「良し、韓当に連絡。 奇襲部隊を追い散らさせ……」

ずぶりと、何処か他人事のような音がした。

気がつくと、体がぐらりと傾いていた。どこか遠くから、声が飛んできた。地面に体が押しつけられる。馬車の中に乗っていたのでは無かったか。それなのに、どうして地面に叩きつけられているのか。

暗い。

赤い。

手を伸ばそうとするが、動かない。

ちかちかして、目が開けられない。

頭の中がかき混ぜられたように、まるで思考が定まらない。

ふと、小喬が目の前に。いつものように、冷たい目で周瑜を見ていた。政略結婚で娶った妻は、最後まで周瑜に心を開いてくれなかった。それは、孫策に嫁いだ大喬も同じであった。

「済まなかったな、小喬」

赤壁の少し前に、小喬は病死した。

息子が一人だけいたが、あまり賢くはない。最後まで周瑜は妻を愛していたが、妻は周瑜を毛嫌いして、金づるとしか考えていなかった。周家も名家であったが、喬家も同じ。だからこそに政略結婚の話も持ち上がったのだが。やはり、政略結婚では、夫婦のどちらも不幸になってしまうのかも知れなかった。

意識が、徐々にはっきりしてきた。

手で掴んだ先に、布があった。あったのはよいが、妙に感触が弱い。あまり強く握れない印象だ。

「周瑜提督!」

「その声は、程普将軍、か」

随分弱々しい声で、自分でも驚いた。

体を起こそうとするが、止められる。正確には、止められた気配があった。殆ど何も触られた感触がないのである。

眼がちかちかする。ゆっくり周囲を見回していく。

天幕にいるらしい。周囲には、諸将がいた。一番近くで心配そうに覗き込んでいる程普の隣には、どうしてか魯粛がいた。

それで、気付く。

多分、数日、下手をするともっと経過してしまっている。

「毒矢を、提督は受けたのです。 二週間、生死の境を彷徨いました」

「南郡は」

「……陥落しました。 反乱が何時起こるか分からないので、江陵への進出は出来ない状況です」

誰が喋っているのか分からなかった。どうやら程普らしかった。どうしてか口調は歯切れがとても悪い。ひょっとして、まだ南郡は落ちていないのではないのか。

そう言えば、思い出す。

周瑜が南郡攻略に出向く前、劉備と約束をしたのだ。もしも苦戦するようなら、南郡を取ってしまって構わないと。確かめなければならない。程普は、怪我をした周瑜を気遣って、嘘をついたのではないのか。

程普は、程普は何処だ。

周囲の顔と名前が一致しない。

ふと気付くと、夜になっていた。全身にびっしり汗を掻いていて、下着も脱がされているようだった。糞尿が垂れ流しになっているのだろう。息をするのが、妙に苦しい。それに、右腕が、嫌に熱かった。

「あ、熱い」

呟いたのか、叫んだのか、それも分からなかった。

ふと気付くと、周囲にまた諸将が集まっていた。泣いている者までいた。

「どうした」

「周瑜提督!」

朱桓が泣きながら叫ぶ。

分からない。まさか、このくらいのことで、危篤になっていたというのか。不意に目が醒めてきた。全身が痛い。それだけではなく、ひりひりと夏の直射に当てられているかのように熱い。

「か、鏡を」

「周瑜どの。 鏡は見ない方が良いでしょう」

「いいから、鏡を。 私がどうなってしまっているのか、見たい」

魯粛が、手鏡をと言うと、すぐに兵士が飛んできた。

手鏡が、かざされる。

そして、周瑜は、見てしまった。

蒼白になり、痩躯となってしまった自分の姿を。

「な、なな、な! こ、これが、これが私なのか! まるで女ではないか!」

顎は尖り、睫毛が長い。唇は桜桃を思わせる。肌はつやつやとしていて、男と女の顔を合わせて二で割ったような、実に軟弱な面が其処にはあった。

これでは美しくない。

美しいからこそ、兵士達は周瑜に着いてくるのだ。

もっと太らなければならない。この様子では体も痩せてしまっていることだろう。腹は四段。顎は三重。それでこそ、兵士達が憧れる美しい姿だ。それを維持するために、周瑜はとても努力していた。

美の基準は、現実に即している。太っているというのは、そのまま生活が豊かであることを意味している。武勇に優れて筋肉の塊のような姿か、或いは脂ぎって太っているか。乱世でもてるのはこのどちらか、である。今は乱世だ。周瑜は武芸に自信がないから、すなわち美しくなるには太らなければいけないのである。

そして周瑜は体質的に、食べないとすぐ痩せてしまうのだ。これほど痩せるのは、一体どれほど食べずにいたからなのか。

「食事を! 出来るだけ油が多い奴をだ!」

「し、しかし! 医師からは、野菜類を多く、少しずつ食べるようにと強く言われております。 事実粥もそうしておりました」

「そんな食事では痩せてしまうではないか! 美しい姿では無くなってしまう!」

美しくなくなる。それだけで、周瑜は今までぼんやりとしていた頭が一気に冴え渡るのを感じていた。

それから周瑜は、食べて食べて食べまくった。

体が見る間に回復すると同時に、傷が酷く痛んだ。しかし、ある程度元に戻って兵士達の前に出ると。彼らは喚声と供に、周瑜を出迎えてくれたのだった。痛む傷を抑えながら、周瑜はまだ足りないと口の中で呟く。

もっと美しく、太らなければならない。

妄執が、周瑜の中で渦巻き続けていた。

天幕に戻ると、医師が待っていた。口うるさく野菜を食べるように言う医師に適当に頷くと、周瑜は程普に聞く。

「南郡は、劉備軍の手に落ちたのだな」

「……」

「良いのだ。 真実を頼む」

「その通りにございます。 我が軍が苦戦するのを、劉備はどうやら先に見抜いていた様子でして。 その上彼の指揮する部隊は、練度にしても士気にしても、我が軍とは比較になりませんでした」

歎息した。口約束とはいえ、国の上層にいる人間同士の話なのだ。こればかりはどうしようもない。

江陵も、この様子では絶望的だろう。

荊州の東の幾つかの郡は落とした。いずれも江東とは比較にならないほど豊かで、人口も多い。此処を上手に活用していけば、江東の国力は何倍にも跳ね上がるだろう。だから、今はもう、それでよい。

「陸遜を呼べ」

「は、直ちに」

周瑜はこの時、決めていた。

陸上戦に習熟した指揮官を育てなければならない、と。

 

2、劉備猛攻

 

周瑜が曹操軍を相手に苦戦しているのを横目に、隙を突いて南郡を奪い取った劉備は、江陵も続けて落とし、更に猛烈な進撃を開始していた。もとより荊州の精鋭部隊を手に入れている上に、配下の兵力も半分以上は温存しているのである。また、長坂の戦いで大敗したと言っても、主要幹部は一人も失っておらず、むしろ旧劉表軍の中から伊籍を始めとする文官達を手に入れており、むしろ以前よりも勢力は増していた、といえる。

南郡攻略の少し前に。まず劉備軍は荊州の南西、霊陵に襲いかかった。

先に曹操軍に降伏した霊陵には、劉度という男が赴任していた。これは劉表の一族であり、毒にも害にもならない人物で、いわゆる捨て石である。荊州の兵士達の内、劉備と内通している可能性が高い兵士達もまとめて劉度に押しつけられており、その意味でも勝ち目は最初から無かった、とも言えた。

刑道栄なる侠客出身の男が僅かに交戦をしたが、手も足も出ずに張飛に討ち取られ、瞬く間に霊陵は陥落。劉度は以降、劉備の配下として活動することとなった。

続けて劉備は、江陵を落としてから、荊州の西の果てである武陵にも兵を進め、張飛を指揮官として、瞬く間に其処を蹂躙。武陵の太守であった金旋は、張飛を相手に勇敢な戦いを見せたものの、兵力差は四倍であり、しかも兵士達は皆離反して劉備に寝返ってしまった。

金旋は中朗将にまで出世した人物であり、荊州南部の押さえを期待されていた男である。曹操への忠誠心も強く、戦歴もそれなりに積み重ねており、ただの将ではなかった。にもかかわらず此処まで一方的な戦いになったのは、張飛がそれだけ優れた指揮官であることと、兵士達が皆劉備に内通していたことが大きかった。

武陵を落とされた後、金旋は少数の兵を連れて脱出を測り、襄陽を目指した。しかし、道中の民は、既に曹操を長坂の虐殺から、敵だと認識していた。

落ち武者狩りに遭い、金旋は敢えなく討ち取られてしまった。

続けて、荊州最南端に位置する珪陽に、趙雲と陳到が兵を進めた。

珪陽に駐屯している兵は三千。それに対して、二人が指揮している兵は、一万を超えていた。

 

趙雲は武勇の将ではあっても、指揮官には基本的に向いていない。学問もないし、何より後方でじっとしていることを由としないのである。

故に陳到が兵の指揮を受け持ち、趙雲はジャヤと供に前線で戦う。軍議では、誰が言い出すまでもなく、その形式で戦闘が行われることが決定されていた。

珪陽は元々南の交州に近く、漢民族以外の民も多く暮らしている。此処の指揮官を任されている趙範は、どうせ裏切られるならと、荊州出身の兵士達を遠ざけ、五鶏蛮と呼ばれる現地の異民族達を配下に組み入れて、主力として編成していた。言うまでもなく、南方出身の五鶏蛮は勇敢な者が多く、優れた戦士の素質を持つ手強い相手である。元の三千の兵に加え、彼ら二千が配下として入っており、珪陽の頑強さもあって力押しでは勝利が難しい状況に、一見思えた。

丘の上に天幕を張って敵を見下ろした陳到は、趙雲を呼ぶ。

攻略には、趙雲の力が必要不可欠だと考えたからである。

本来、敵から丸見えになる丘の上は、天幕を張るのに適当ではない。丘の上に上がってきた趙雲は、やはり最初にそれを口にした。

「陳到どの。 涼しい場所だが、本陣を張るのには向いていないようだ」

「それは分かっている。 敢えて、此処に張っているのだ」

「何か策があるのか」

「うむ」

あまり好ましくないことなのだが。あの諸葛亮が、策を指示してきている。その一つが、これであった。

陳到としては、あまりにも小汚い策のように思えて、あまり気が進まない。だが、それでも簡単に勝てるのは事実だ。武人の誇りと大勢の命を天秤に掛けるのなら、後者を優先するのが当然の話である。

「趙雲どのは、まず敵に攻撃を仕掛けて、派手に負けていただきたい」

「なるほど、それで敵を此処まで引っ張り込む訳か」

「そうだ。 迷信深い五鶏蛮の兵士達は、漢民族の兵士達よりも、更に変異を恐れることだろう。 彼らさえ崩せば、簡単に珪陽は落とすことができる」

問題はその後だ。

劉備は珪陽の民を虐げず、指揮をしている趙範も出来るだけ生かして捕らえるようにと告げてきている。これは仁君であることを周囲に示すために必要なことだ。ただでさえ金旋は死なせてしまっている状況である。これ以上、大きな犠牲は出したくないのだろう。劉備の根源的な戦略にも、それは関わってくるからだ。

だが、五鶏蛮を兵力として編成していることからも分かるように、趙範は一筋縄でいく相手ではない。金旋を荊州南部のまとめ役として残したというのなら、趙範は影で動く陰謀担当として、だろう。

「分かった。 そちらは、私に任せて貰おう」

「大丈夫か、趙雲どの」

「問題ない。 行くぞ、ジャヤ」

「心得た。 わざと負けて、此処まで敵を引きずり込めば良いのだな」

夫婦の仲は相変わらず良い。陳到もこんな風に、戦場をともに駆ける妻がいたならば、少しは夫婦仲が冷えずに済んだのかも知れないと思ってしまう。長坂の死闘をずぶとく生き残った妻は、今も陳到に対して、帰れば冷たい視線を向け、嫌みばかりを言う毎日であった。

趙雲が妻と一緒に五百の兵を引き連れて出撃した所で、陳到はすぐに兵の配置を変える。丘の上には鎧を着せた案山子だけを残し、他の兵士達は周囲の林や森に分散して潜ませた。天幕の中には、硫黄と硝石を中心に配合した、強烈な発火効果を持つ、諸葛亮が考案した薬剤を配置。いざというときには火矢を放ち、爆発させるのである。

珪陽周囲に布陣している敵は、五千。城の守りを捨てて、全軍で出てきたのは、恐らく裏切りを警戒しているからだろう。乱戦になってしまえば、裏切るも何も無いという訳だ。この辺りも、趙範の狡猾さを感じさせる。 

趙雲が、接敵した。最初激しく暴れ回った趙雲は、罠ではないかと警戒する敵の中を縦横無尽に暴れ回る。敵将も一人か二人、馬上からたたき落とした様子であった。そのまま先鋒を駆け抜け、第二陣を貫き、敵の本陣寸前を迂回して戻ってくる。血煙を巻きながら駆け抜けるその姿は、まるで魔神だ。

士気が低い兵が中心とは言え、大した武勇である。しかし年がそろそろ老境に掛かってくる事もある。あまり長期の戦いは望ましくないだろう。それに、彼が連れていた五百は、同じような武勇を見せられるはずもなく、徐々に遅れ始めていた。

「よし、そろそろ引き上げてくるぞ」

「総員、攻撃用意!」

全員が構えを取る中、陳到は伏せる。やがて、後退に移った趙雲を、敵が追い始めた。主に五鶏蛮の部隊が中心となっている様子だ。それを見て、陳到は違和感を覚えた。どうも様子がおかしいのである。

荊州兵の部隊は、混乱はしていたが、陣を立て直すとそのままの位置から動かない。そればかりか、突出する五鶏蛮を、そのまま放置している。

これは罠だ。

「罠だ! 鼓を叩きならせ!」

「し、しかし敵に援軍や余剰兵力がいるとは思えません!」

副官として連れてきた廖化が馬鹿なことをほざいたので、たわけと一喝。直属の兵力二千を連れて、飛び出す。五鶏蛮の兵士達は、突然増援が出てきたので、泡を食った様子だ。横撃して壊乱させ、趙雲の隊と挟み撃ちにする。周囲を取り囲むと、流石に勇敢な五鶏蛮の兵士達も、円陣を組んで決死の覚悟で目を剥いた。

「降伏せよ。 そうすれば何もしない」

呼びかけても返事がない。三度目に呼びかけると、貧しい装飾の鎧を着た大柄な男が、のそりと敵陣から現れた。

ぼうぼうの顎髭を蓄えており、見るからに強そうである。雰囲気は猛獣に似ていて、兵士達の間から恐怖の声が上がった。だが、喋ったのは漢の言葉である。

「あんたが、劉備の将か」

「そうだ。 私は陳到。 貴殿は」

「シャマカ」

部下達を殺さないのならば降伏すると言ったので、陳到はそれを受け容れた。彼の配下の五鶏蛮は入れ墨をした逞しい男達ばかりであったが、主君の命令には素直に従い、武器を捨てる。

好ましい素直な行動である。嘘と奸計がまかり通る漢人の世界よりも、むしろ彼らの暮らす場所の方が良いかもしれないと、陳到は思ってしまった。

同時に、他の部下達にも伏兵を解除させる。更に多数の兵が突然現れたので、沙摩柯も驚いた様子であった。隣の廖化が不安げに言う。

「良いのですか。 諸葛亮どのの策であったのに」

「戦場では状況が刻一刻と変わる。 説明をすれば、分かってくれるであろうよ」

確かに見事な策だった。作戦通りに進めれば確実に勝つことも出来ただろう。

だが戦況がおかしかったし、何も最初の作戦案にこだわりすぎることもない。敵がどう動くかを予想するのは結構だが、戦術に柔軟性を欠けば確実に負ける。戦場を駆け回って生きてきた陳到は、それを良く知っていた。

それに、敵が半減したのは事実である。

「降伏勧告の使者を、もう一度送れ。 此方の損害はほぼ皆無、敵は既に半減。 美味くすれば降伏するかも知れん」

「分かりました。 直ちに」

陳到は事務的に作業をさせた。どうもいやな予感がぬぐえない。廖化は伊籍を使者として出すと言ったので、好きなようにさせた。以前は外交を一身に担当していた孫乾は今、より重要度が大きい江東との連絡を任されており、この場にはいないのである。

伊籍は親劉備派の筆頭だった男で、文官としての確かな能力を持ち、信頼感がある。陰険な男だという風評もあるようだが、陳到は其処まで卑劣な輩だとは感じていなかった。丁度降伏勧告などの事務作業のために陣にいたのである。活用するのは吝かではなかった。

だが、趙範があっさり降伏を受け容れた瞬間、いやな予感は最高潮に達した。何か、裏で大きな闇が蠢いているような気がしてならなかったのである。

 

珪陽城は地方の城としてはかなり大きく、中にいる民も少なくない様子であった。ただし、城門を潜った瞬間、陳到は眼を細めて、警戒心が疼くのを感じてしまっていた。

「城の雰囲気がおかしいな」

「陳到将軍もそう思われるか」

趙雲が辺りを見回す。

既に敵兵は武装解除を済ませているのだが、何か隠し弾があるのかも知れない。廖化を呼ぶと、陳到は申しつけた。

「兵士達に、油断しないように言っておけ。 特に夜襲には厳重に警戒しろ。 城の外にも半数を残して、奇襲に対して重々に警戒させよ」

「分かりました」

「シャマカはどうしている」

「城の外で静かにしています。 蛮族だと言うことで暴れることを予想したのですが、特にそのようなこともなく」

確かに恐ろしげな男であったが、目には知性の光があったし、部下達を思いやる優しい心も持っている様子であった。城に入りたがらないのには、何か理由があるのかも知れない。彼を馬鹿にする部下には、陳到は叱責して、態度を改めさせていた。

手綱を引いて、馬を止める。

内城の入り口で、平伏するようにして、趙範が待っていたからだ。石畳が敷かれた辺りは嫌みなまでに清められていて、香しい匂いまで立ちこめている。降伏を受け容れた時に陣でも会ったが、中年の趙範は痩せていて、感情の読めない男であった。浮かべている笑顔が、シャマカの誠実で素朴な表情と裏腹の、漢人の悪しき点ばかりを象徴しているように思えてしまう。えらの張った顔が、それをなおさらに助長していた。顔だけで相手を判断するのは愚の骨頂だが、どうしても今回ばかりは生理的な不快感が先に立つ。

「ようこそおいでくださいました。 趙雲将軍、陳到将軍」

形式的には趙雲の方が上だと言うことも、調べ上げているらしい。不愉快きわまりない話だが、相当に用意周到だ。やはり簡単にどうにかできる相手ではない。さっさと捕らえて、劉備の所に連れて行った方が良いかもしれないと、陳到は思った。

最初に下馬したのは趙雲であった。

「仰々しい出迎えだな」

「田舎城ですが、出来る限りの贅を尽くさせていただきました」

此方を伺っている民の表情が暗い。この城は確かに田舎にしては妙に豪華だ。絞り上げた税を、横領しているのかも知れない。

趙雲が辺りを見回した後、剣から手を離した。危険がないと言うことなのだろう。

念のために、シャネスの部下となっている諸葛亮の子飼いを何人か城の中に放つ。何かあった時には、対応してくれるだろう。

内城の中にはいる。あまり豪華な美術品は見あたらなかったが、代わりに壁や床が丁寧に磨き上げられていて、非常に清潔感が強い。戦闘を想定している作りとはなっていないようで、見渡しが妙によい。使っている木材も、かなり高級なものばかりの様子である。窓枠までもが、磨き抜かれていた。

これは清潔を通り越して、神経質な雰囲気だ。そう、埃一つ積もっていない壁際の壺をみて、陳到は思った。人が六人並んで歩けるほど広い廊下は、咳をするのもはばかられるほどに、磨かれていた。

一番奥の応接室に出る。

やはり、妙なほどに豪華な装飾が並べられていた。

「妙に豪華だな」

「許昌より私が持ち込んだものが半分ほど。 残りは珪陽の領主が蓄えていたものを、拝借させていただいたものにございます」

曹操によって首をすげ替えられたという訳だ。許昌で文官なり武官なりをしていたというのであれば、半分の豪勢さは理解できる。しかし、珪陽には余程の暴君がいたのだろうか。

陳到は、劉備の配下達と違い、荊州での人脈構成にあまり関わっていない。劉備はどうやら陳到に、その方面での期待を一切していなかったらしく、任務を与えなかった。陳到も自分が人脈作りを苦手としていることくらい把握していたので、それには疑問を抱かなかった。

だが逆に言えば、荊州の情報に疎くなったと言うことも意味する。

一緒に着いてきている伊籍に、さりげなく聞いてみる。

「伊籍どの。 前の珪陽太守は、そんなにも浪費が酷かったのか」

「いえ、そのような話は聞いておりません。 むしろ誠実な人柄で知られていたということでしたが」

ならば、なおさら分からない。文官の中でもかなり上位にいた伊籍は情報通で、悪癖や風評は知り尽くしていた。二度ほど、劉備に対する暗殺計画を報告してくれて、シャネスが対応して事なきを得たほどなのである。

趙範が酒池肉林の宴を始める。趙雲は少しだけ酒を飲んだが、それで止めた。陳到も同じ対応をする。此処で泥酔したら、何をされるか知れたものではないからだ。護衛の兵士達にも、それは言い含めている。

やがて、宴もたけなわになってくると、やたらと美しい女が進み出てきた。丁度女として円熟している雰囲気で、実に化粧映えしている。趙範が手を引いて、満面の笑顔で紹介する。

「此方は私の兄嫁にございまする。 ささ、姉上。 趙雲どのに、陳到どのにもお酌をなされい」

「いえいえ、もう充分にいただいておりまする」

すげなく断る趙雲。陳到は少し心が動いたが、しかし女には苦労させられ通しという事もあって、警戒心の方が先に立つ。ましてや陳到は娘にも息子にも苦労させられているので、なおさらだ。

しばらく女は趙雲にまとわりついていたが、相手にしてもらえないので、陳到の方に来た。困り果てて、廖化に預ける。これ以上家庭がこじれたらたまったものではない。逆に女慣れしていないらしい廖化はどぎまぎしながら対応して、真っ赤になっていて可愛らしかった。

しばらくすると、趙範が女を連れて行った。

「何を企んでいるのやら」

「さて。 何でしょうかな」

「それにしても兄嫁を客に侍らせるとは」

今、ジャヤは外の警備に当たっているが、この状況を見たらどのようなことになるか。腕が立つだけあって、気性が激しい娘である。趙雲を愛しているのは傍目からも分かるのだが、その分嫉妬心も強い。妻になってからは特にその傾向が強かった。

どぎまぎする陳到の隣で、伊籍は涼しい顔をして飲んでいた。この程度の謀略には慣れているのかも知れなかった。

「おおかたあの女を、趙雲殿の妻にでも推薦して、劉備政権内で人脈を作るつもりなのかも知れませんな」

「まさか。 兄嫁だぞ。 その上、同姓ではないか」

同姓不犯。中華にある禁忌の一つで、同姓の人間どうしては結婚をしない方が望ましいというものである。

もちろん近親交配による生物的な弱体化を避けるための知恵に、理由を後から追加したものである。豪族の中には、政略結婚のためにあれこれ策を弄してこの禁忌を無効化する者もいるようだ。だが、それでも。実際の兄弟姉妹での交配は、忌み嫌われる傾向にあるのが事実だ。

実際、姓があまり多くない中華では、同姓の人間が幾らでもいる。宮廷に権力を持っているような豪族になってくると、同姓不犯などと言ってはいられない場合もあるのかも知れない。

趙範が戻ってきた。趙雲の前に座ると、神妙な顔つきで喋り始める。

「如何でしたか。 美しいでございましょう」

「ああ、そうだな」

「実は兄は少し前に無くなりまして。 姉上は未亡人となってしまっているのでございまする。 流行病でした」

趙範は兄のお涙頂戴話を始める。趙雲は神妙に聞いていたが、陳到には狙いが見え透いていた。

やがて、趙範が切り出す。

「不幸なおなごにございます。 そこで、趙雲将軍。 貴方と私は同じ出身地という事もありますし、これも何かの縁。 是非姉上を娶っていただけませんでしょうか」

「断る」

即答であった。

だが、趙範は表情を変えることもない。そればかりか、趙雲にすり寄ると、耳になにやら囁き始める。

陳到は修羅場になることを感じて、廖化を肘で小突く。もふもふ料理を食べていた廖化は、自分には関係ないことだろうと思っていたらしく、露骨に驚いていた。

「ろ、ろうしたのれすか」

「引き上げの準備だ」

がしゃんと、鋭い音がした。

陳到はとっさに避けたが、廖化は避け損ねて、飛んできた食膳をまともに頭から食らっていた。

趙雲の老い始めている武人の顔に、凄絶な怒りが浮かんでいた。

大股で部屋を出て行った趙雲を、ぽかんとした様子で、趙範が見送っていた。なぜ趙雲が怒ったのか分かっていない様子だったので、陳到はたまりかねて教えてやる。

「おおかた、異民族の女などより、漢民族の正室を得た方が良いとでも趙雲どのに言ったのだろう。 違うか、趙範どの」

「な、何か拙いことでも言ったのでしょうか」

「趙雲どのの妻はな。 北平にいたころから都合十年も一緒に趙雲どのに献身的な愛情を捧げてきたのだ。 趙雲どののためならどんなことでもしていたし、一緒にいたいと強く願ってもいた。 趙雲どのも、不器用な男にもかかわらず、そんな妻に心底からの愛情を返している。 あんなに強い絆で結びついている夫婦はそうそうおらんだろうよ。 はっきり言って、私としても羨ましいくらいだ」

「ば、馬鹿な。 異民族の女など、猿も同然ではないか。 性欲のはけ口以外の何者でもないだろう。 そ、それに、世間体もある。 漢民族の女を正室にした方が、何もかもが得ではないか」

下劣な本性を出した趙範に、流石に廖化が顔色を変える。廖化はジャヤと同年代で、訓練でも競い合っている仲だ。武芸でも弓の技でも一進一退で、それだけに男女の枠関係無しの友情を築いてもいる。それだけに、今の言葉は聞きづてならなかったのだろう。

陳到は残っていた酒を飲み干すと、帰るぞと言った。

それを見て、顔色を変えた趙範が追いすがってくる。

「そ、そんな! 待ってください!」

「劉備将軍の下で出世したいのなら、能力を見せるか、必死に働け。 人脈を作るだけで出世できると思ったら大間違いだ」

「無情にございます! 何なら、貴方でも! 姉を貰ってやっていただけませんか!」

「悪いが、私は若いころからずっと悪妻に泣かされ続けていてな。 正直もう妻はこれ以上いらんというのが本音だ」

妾でも構わないとか言い出したので、振り払う。顔面から趙範は床に着地した。何となく、シャマカがこの男を嫌っている理由が分かった。

多分、この男は。邪魔な五鶏蛮を、今回の戦いに乗じて、根こそぎ皆殺しにするつもりだったのだろう。

文化は違うかも知れないが、人間であることに代わりはない。趙雲の良好な家庭を見ている限り、愛情とやらが産まれることも間違いない。陳到は愛情とかいうものを感じたことも見たこともないが、多分それはあるのだろう。

それが分からない趙範は、信用できない。内城を出ながら、陳到はそう結論していた。

程なく、諸葛亮が率いる五千ほどが珪陽に来た。

これでもはや趙範には乗ずる隙もなかった。

呆然とへたり込んでいる趙範は、何処か哀れであった。

異様に清潔な城は、神経質なだけの、偏見と陰謀の館だった。

 

戦況の推移を説明すると、諸葛亮は別に機嫌を損ねるでもなく、むしろ涼やかな笑みを浮かべていた。

「それで問題ありません。 むしろ柔軟な判断、流石は歴戦の将という所です」

「そう言っていただけると助かります」

劉備が高く評価して、諸葛亮が既に軍師となっている。立場的には上なので、敬語を使わなければならない所が厄介だ。向こうも気を使って敬語を使ってくれるので、それが少しありがたかった。

それで、諸葛亮がわざわざ来たというのは、どうしてなのか。それを聞くと、諸葛亮は関羽に並ぶほどの背丈で、ゆったり歩き回りながら言った。

「一つには、五鶏蛮と珪陽軍の武装解除のためです。 五鶏蛮については、馬良将軍を慰撫に当てて、やがて戦力として計上します」

馬良は荊州の名士の一人で、兄弟が揃って俊英であることで知られている。最近劉備の配下に入った文官で、眉毛だけが白いという異相である。白眉もっとも良しという言葉は、俊英揃いの馬家の中でも、馬良が最も優れていることを示している言葉なのである。

誠実な性格で、信頼できる人間である。不思議と諸葛亮と仲がよい様子であり、人間とはよく分からないとも思う。

諸葛亮は言う。江東や曹操が勢力を増しているのも、漢民族以外の勢力を巧みに自軍に取り込んでいるからだ、という。曹操であれば鳥丸族の吸収が騎馬兵団の相当な強化につながっているし、江東で言えば山越に対して人狩りをすることで、兵力を補充している。だから劉備陣営でも、同じ事をして、勢力を強化していく、との事であった。

「もう一つには、駐屯軍として交代に参りました。 これから陳到将軍は、関羽将軍とともに、長沙を攻略していただきます」

「長沙を」

長沙は、荊州の東の端であり、かって孫堅が領主をしていたこともある土地である。

豊かとは言えないが、それなりに人材は多く、また周辺には賊も多く出没している。あまり治安がよいとは言えず、統治者の実力が試される土地だ。

かって孫堅は、そこを力で支配した。それは長沙という土地を収めるのに、最も適した方法の一つであっただろう。

今は曹操が捨て石に残していった韓玄という男が領主を務めている。これはかの韓浩将軍の不肖の兄で、最近まで遊び歩いていたのだが、ようやく家族に説得されて身を固めた、という状況らしい。

韓玄も、やり方は孫堅に近い。ただし、孫堅が優れた本人の力を頼みにしていたのに対し、韓玄は兵の数によって統治を実行していた。それは兵士達が暴虐を振るう下地にもなり、まだ統治が始まって時も浅いというのに、かなり評判は悪いという。

「なぜ関羽将軍が?」

「関羽将軍であれば、難しい土地の統治も、問題なくできる、という判断からです。 ただ、関羽将軍は政務、得に外交関係が苦手な様子ですから、珪陽が落ち着いたら馬良どのを補佐に付けようと考えています」

「なるほど。 状況は理解できました」

戦略眼がないという点では、陳到も他の劉備軍将軍と変わらない。所詮は戦争屋だから、言われたままに仕事をするだけだ。関羽が出ると言うことは、まず負けることはないだろう、多分新兵達の訓練を期待されているのだろう。

「分かりました。 すぐに準備に掛かります。 此処に駐屯するのであれば、趙範には気をつけてください」

「話を聞く限りでは、油断できない男のようですね。 しっかり監視させますので、ご安心ください」

丁寧な応対だが、何を考えているか分からない以上、あまり油断は出来ない。趙範のような男とは、むしろ相性が良いかも知れない。

趙雲はそのまま江陵に引き上げると言うことで、軽く挨拶してから、すぐに長沙攻略軍の本部が置かれている江夏に向かう。ジャヤはやはり相当に頭に来ているらしく、珪陽の方を振り返りもしなかった。

「嫌な土地でした」

廖化がぼやく。だが、中華辺境はみなこのような感じかも知れない。

圧倒的多数の漢民族が傲慢に振るまい、彼らを良く思わない異民族達が皆敵意を剥き出しにしている。ふと、思い当たる。ひょっとして諸葛亮は、趙範と裏で手を結んでいて、五鶏蛮を皆殺しにするために、陳到にあのような策を命じたのではないのか。

まさか、流石にあり得ないだろう。

そう呟くと、陳到はもう一度だけ、珪陽に振り向いた。

だが、諸葛亮に、それを確かめる勇気は。流石に陳到にもなかった。

 

3、長沙とその闇

 

陳到は江夏に到着すると、配下の兵士達の編成を開始した。兵は今回と同じく一万。これに関羽が直属として鍛えている三千を加えて、一万三千で長沙の攻略を行う。兵の編成をすることで、嫌な考えを追い払う。仕事をすることで、無心の状態を造り出し、悪しき想像を振り払う。

劉備に着いてきたのは、民のことを第一に考えてくれているからだ。

劉備ならば、きっと異民族に対しても、あの趙範のような卑劣なことはしないだろう。

仮に諸葛亮と趙範が裏で結託していたとしても。劉備が、そのようなことを命じるはずがない。

言い聞かせながら、執務室で仕事をする。気がつくと、数日家に帰っていなかった。家に帰っても居場所はないし、仕事場に住んでしまうのも良い。趙雲は子供が出来ても家庭は円満なのだろうなと思うと、羨ましくて仕方がない。

長沙の攻略が終われば、経済力が一気に跳ね上がる。荊州の半分強を手に入れられるからで、十万程度の兵を養うことが可能だという試算も出ていた。十万の兵を動かせるのであれば、防衛のために半数を使うとしても、益州に五万の兵を派遣することが可能となる。しかし戦乱が長引けば、荊州の民は流民となって、今は安定している中原へと拡散してしまうだろう。それは避けなければならない。

確かに今曹操は守勢に回っているが、此方がそれほど有利という訳ではないのだ。ましてやしばらく戦乱から離れていた荊州の民は、かなり神経過敏になっている。また大きな事件があったら、すぐに誰かが行動を起こすかも知れない。そうなれば、連鎖的に恐怖が爆発して、一気に大事になりかねない。

「よろしいかな」

「関羽将軍」

竹簡を廖化に手渡していると、関羽が執務室に入ってきた。立ち上がって抱拳礼をすると、向かいの席に座って貰う。

関羽と張飛は、諸葛亮を信頼しきっている。新野からの撤退戦で、完璧に近い指揮を見せた事や、その後の展開で見事に生き残った事。更に、曹操を絶体絶命の危地から見事に追い払ったことなどが理由である。何よりこの二人は、劉備の言うことを絶対に疑わない。

だから、関羽には言えない。諸葛亮に疑念を抱いていることは。

「長沙の攻略戦について、作戦を立てたい」

「分かりました。 すぐに軍議を開きます」

「いや、その前に、貴殿と話をしておきたいのだ」

関羽と陳到は連携して戦闘したことも殆ど無く、あまり接点がない。それを懸念した関羽が、共同作戦を前に、一度話をしておきたい、と言うことなのだそうだ。一瞬、諸葛亮の策略ではないかと思ってしまった陳到は、すわこれは孔明の罠かと呟きそうになってしまったが、かろうじて飲み込む。

張飛なら酒盛りという所なのだろうが、関羽は息子に碁盤を持ってこさせた。古くからあるこの遊戯で、関羽は軍内で負け知らずだという。陳到はかなりへたくそで、この間息子にこてんぱんに負けてしまった。ただでさえ駄目な親としての威厳が、更に台無しとなってしまった。

「碁ですか」

「そうだ。 軍事訓練にもなるからな。 これを打ちながら話をしよう」

碁が軍事訓練になるという話は聞いたことがある。陣取り合戦として考案された遊戯だから、だろう。

しかし、一応の指揮経験と自信がある陳到はさっぱりなのだから、何か遊戯としての欠陥があるとしか思えない。

一応遊び方は知っているから、そのまま始める。碁板を置いて、石を並べ始めると、廖化が茶を持ってきてくれた。

「ふむ、噂に聞いていたが、本当に下手だな」

「面目ない」

「九石を置いてやってみよう」

ざっと石を取り去って、最初から。関羽の猛攻は容赦が無く、瞬く間に石を取られていく。それに対して陳到の防御は鈍く、次々と戦線を抜かれた。

関羽は少し呆れたように、石を置く。また多数の石が取られる。

「貴殿の指揮ぶりはいつも安心してみていられるのだが。 碁に関してはまるで駄目だな」

「め、面目ない」

「まあ、適当に打ちながら話そう」

関羽が石を置く速度を落とす。

長沙の話をする。関羽も事前に情報を仕入れていたらしく、面白いことを言い出した。

「長沙を落とす事自体は簡単だ。 魏延が潜入して、工作を進めている」

「魏延が」

「もとより評判が悪い韓玄だ。 魏延は既に、いつでも住民反乱を起こせる状態にまで持ち込んでいるそうだ」

それは楽で良い。何よりも、韓玄の後にマシな政治をすれば、民衆はこれ以上もないほどになついてくれる。

ただ、と関羽は言葉を切る。

「一人、興味がある武人が、敵にいる」

「その武人とは」

「黄忠というそうだ。 年は既に六十に達しているとかで、私よりもだいぶ年上だが、今だ腕は衰えておらず、特に弓の腕前は神がかっているとか」

話によると、その男は荊州だけではなく、各地を放浪しながら用心棒のような仕事をしてきた人物であるらしい。侠客の間では、かなり名が知られた人物だと、関羽は付け加えた。

神がかった弓の腕前に、騎馬戦も相当な腕前だという。腕力も強く、生木を数本纏めてへし折るとか、色々な逸話があるという。それほどの武人であれば、仕官すればとっくに将官になっているような気もするのだが。

或いは、かなり身分が低い一族の出かも知れないと、陳到は思った。

趙範が見せた下劣な反応は、何も一部の人間だけのものではない。中華には、多くの対立と差別が存在している。漢民族と異民族。それに、士大夫と平民というものもある。要するに、豪族などの特権階級と農民達などとの間に横たわる溝が如何に大きいか、という話だ。陳到も、かなり不快な思いをしたことが何度かある。曹操や劉備、或いは既に亡き孫策のように、出身を問わず配下にすると言う人間の方が珍しいのだ。

張飛は平民の出身だが、士大夫には敬意を払って接している。これに対して、関羽は士大夫をとことん馬鹿にする傾向があり、軍の内部で関羽を嫌う士大夫出身者も少なくないという。

多分関羽は、同じような境遇の黄忠に興味を持っているのだろう。そもそも関羽自身が、侠客の世界では名が知れた人物なのだ。

「それで、その武人をどうするのですか」

「侠客らしく、実に義理堅い男だという話でな。 出来れば説得して兄者の下でともに武を競いたいのだが、何か良い策はないだろうか」

「私には、あまり策略は思いつきません。 関羽将軍が誠実に応じて、心を通わせるしかないのでは」

「やはり男と語り合うには、それしかないか」

多分関羽らしい武骨な解釈をしたのに、間違いなかった。

碁盤の上は、既に取り返しがつかない戦況になっている。九個も石を置いてこれなのだから、多分陳到は一生関羽に碁で勝てないだろう。興味がないのだから、そもそも上達のしようもない。

「もう少し石をつなげていった方が良いかもしれんな」

「いや、これだけ力の差があると、そのような言葉だけでは」

やれやれと頭を振ると、関羽は部屋を出て行った。

陳到は碁盤を片付ける関羽の息子関平を見送ると、どうしたものかと腕組みする。今までのやりとりを見ていた廖化が、小首を傾げた。

「どうして悩んでいるのですか?」

「長沙攻略は短期間で済まさなければならないことは、お前も分かっているな」

「はあ、まあ」

「関羽将軍は、黄忠という侠客に興味津々だ。 下手をすると、攻略戦に対決を優先しかねない。 我々としては、どうにかして攻略を早めつつ、黄忠という頑固な老人を、劉備様に下らせなければならない、というわけだ」

いやな予感がすると、陳到は呟いた。最近はこればかりだが、妙に勘が冴えていて、欲当たるのだ。そして、数日後。軍議で。いやな予感は適中した。

関羽は五百だけを率いて突出し、黄忠を見極めたい。だから、後の一万以上は、全部陳到が率いて欲しいと言うのである。

唖然とした陳到は、流石に苦言を呈することにした。

「流石に関羽将軍、それは身勝手なのでは」

「何を言うか。 我が軍にとって柱石となるかも知れん武人と相対するのだぞ。 多数の兵など率いていては、身動きが取りづらくてかなわん」

「そうかも知れませんが、司令官は貴方なのです。 私が一万以上を率いるのでは、流石に兵士達に示しがつきません」

「軍を私物化しているように見える、というわけか」

関羽は士大夫には傲慢だが、兵士達に対してはとても寛大で優しい。彼らに嫌われるのも好んでいない様子だ。

少し意地悪なやり方かとも思ったが、言うことを聞いて貰うにはこれしかない。腕組みして考えていた関羽は、陳到を大きな眼で見つめた。

「分かった。 貴殿の言うとおりだ。 儂が主力を率いるべきだな」

「分かっていただければ幸いです」

「ただ、黄忠という男との対決の場を設けてもよいだろうか。 これは我欲ではなく、軍全体のためでもあるのだ」

「それはなんなりと。 ただし、一騎打ちをするならば、必ず状況を吟味してください」

念入りに釘を刺す。一軍の長が軽率だとか、そう言うことは言わない。

軍団対軍団の戦闘で一騎打ちなど笑いぐさに過ぎないが、それを大まじめにやりつつ、勝ち残ってきたのが関羽や張飛だ。その習熟度は多分現在生きている人間では比肩する存在がいないだろう。かっては呂布という魔王がいたのだが、それも歴史の果ての人間となってしまった。それらの経験を生かして張飛が長坂で十万の敵をにらみ返したことは、もはや伝説となっており、呂布の業績を後で超えるかも知れない。

だから、一騎打ちそのものは止めない。関羽という男の、根幹を成す行動となっているからである。

軍議の席と言うこともあり、陳到に視線が集中する。今更赤面するような子供でもないが、そう言えば軍の中でも古株中の古株なのだと、こういう時に思い知らされる。他の将では、関羽に意見することなど、とても許されないことであるのだとも。ただ、関羽が素直に言うことを聞いてくれたのは。陳到が、関羽が忌み嫌う士大夫出身ではないのが大きいのだろう。

「陳到将軍は、我が軍を基礎から支えてくれてきた功労者だ。 そなたらも敬意を忘れないように」

抱拳礼をされると、流石に照れる。

だが、顔に出すのは避けた。

 

韓玄は怯えきっていた。それが黄忠には手に取るように分かった。

侠客の世界での有名人である黄忠は、ここ二十年ほど、荊州を放浪して様々な君主の下にいた。主人が劉表であった時に孫堅と戦いもしたし、黄祖を主君としていた時には孫策の側近を仕留めたこともあった。その過程で、黄忠は荊州の光と闇を同時に見てきた。豊かな土地は砂糖菓子にも似ていて、集まるのは無能な蟻たちと、それを求めて集う老獪な熊どもであった。

韓玄は光と闇、そのどちらにも属さない。小粒すぎて、光ることも光を吸い込むこともなかった。

此処は、かって孫堅が割拠した長沙。

大型の港と城が一体化している開放的な作りで、現在では地方都市政権にもかかわらず、闘艦を所有している珍しい場所である。城壁は巨大な長江に隣接しており、その上からは果てしない長江の水平線が見える。

雄大で美しい光景だというのに。城壁の上を行ったり来たりぐるぐるしている韓玄のせいで、全てが台無しであった。兵士達も主君の奇行に、困り果ててしまっている様子であった。君主がこうでは、兵士達の士気だって落ちる。それなのに、韓玄は己の恐怖を優先して、態度を改めようとはしなかった。

韓玄は黄忠から見れば息子も同然の年齢である。つまりいい年をした大人であり、見苦しいと一喝してやりたい衝動に何度も駆られた。だが、黄忠は幾つか決めていることがある。主君と決めている間は、絶対の忠誠を尽くすというのも、それであった。

無能な男だが、故に支えてやらなければならないとも思う。

「韓玄様」

「ひいっ! な、なんだ。 黄忠か」

振り返った韓玄は中途半端に太っていて、だというのに顔は妙にやせこけている。ナマズのような髭が顔の左右で揺れていて、不気味さを助長していた。手入れが行き届いているのが、却って不気味に見える要因とかしている。この時代、肥えているというのは豊かであるの同義であって、異性にもてる重要要素となるのだが。韓玄が女にもてたという話は聞いたことがない。多分、太り方が美しくないのだろう。この年になっても、女の心はよく分からない。

「敵が近付いています。 敵将は関羽で、兵力は一万を超えています」

「わ、分かっておる。 だからこうして、作戦を考えておるのだ」

「その前に、まず籠城の指示なり、襄陽への援軍要請なりをしてはどうでしょうか。 このままだと、此方の準備が出来る前に、敵が城に押し寄せてきます」

「しかし外では反乱が起こりそうで、兵士達を城に集める訳にもいかん。 その兵士どもも、信用できる奴は殆どいないのが現状だ」

韓玄の言葉を聞くと、案外何も考えていないのではない、と理解できる。頭も水準以上には良い様子である。

しかし残念ながら、決断力がない。何が起こっているのかは分かるのだが、どうして良いか分からないという様子だ。

話に聞くと、馬鹿息子がやっと身を固める気になって、此処に赴任してきたのだという。弟はあの名将韓浩だと言うから、不幸な話である。兄の威厳も何もあったものではない。黄忠は一人暮らしが長かったから気にすることはなかったが、家に戻っても居場所が無くて辛かっただろう。

そしてやっと仕事を真面目にする気になったら、この有様である。確かに心を乱してしまうのも、仕方がないのかも知れない。

「もしも勝ち目がないと思われるのでしたら、降伏なさいませ。 劉備は仁君と聞いておりますし、命までは取られないでしょう」

「き、貴様、それでも武人か!」

「武人だから、戦に勝てるかどうかは分かります。 我々はいつでも戦で死ぬ覚悟は出来ていますが、貴方はどうなのですか? 武人としての意地を通して死ぬのか、恥を受けても生きる道を選ぶのか。 早めに決めた方がよろしいでしょう」

真っ青になって俯く韓玄を残して、黄忠は城壁を降りた。

城内は騒がしくなっている。逃げ出す民がかなり多いようで、無人となっている家が目立った。

ついに荊州からも、逃げ出す民が出始めたかと思うと、黄忠は悲しい。この荊州は、流民達が逃げ込む最後の避難地だった。それなのに、ついに荊州さえもが、安全では亡くなりつつあるというのだ。

武人として戦う過程で、暴虐に踏みにじられる弱者は嫌と言うほど見てきた。

それがまた再現されると思うと、気の毒でならなかった。

「黄忠どの」

「揚齢どのか」

韓玄につけられている士官が声を掛けてきた。下級の将校であり、本来は黄忠が抱拳礼でもしなければならないところなのだが。揚齢は黄忠の戦歴を尊敬しているようで、丁寧に応じてくれるのが嬉しい。

「殿は、何をしておいででしたか」

「悩んで右往左往していたよ。 兵士達もどうして良いのか分からぬ様子で見ていた」

「分かりました。 将校達で、防衛戦の準備を進めます」

「それがよいだろう。 このままでは、敵が来ても城門が開きっぱなしで、兵士達も外で分散していて、良いように蹴散らされるという事にでもなりかねん」

敵より兵力が多ければまだそれでも対応できるかも知れないが、長沙の駐屯兵力は四千を超えない上、忠誠度が極めて低い。敵の戦力は一万二千から三千と予想されており、しかも名将として知られる関羽が率いている。

戦いが長引けば、襄陽から援軍が来る可能性は、ごく少ないながらもある。だから、籠城に賭けるというのは戦略の一つとしては有りだ。だがそれをするなら、食糧も備蓄しなければならないし、敵の戦力を削ぐために水軍の訓練もしておく必要がある。闘艦をせっかく保有しているのだ。使わない手はない。何より、襄陽に決死の使者を出しておく必要があるだろう。

過酷な籠城戦に備えて、するべき事は幾らでもある。若い将校達の決死の行動が、どれだけ実を結ぶか。

黄忠はそれを醒めた眼で見つめていた。どのみち、この戦は負けだ。揚齢のような責任感のある若者を死なせてしまっては気の毒である。それならば出来るだけ自分のような老人が戦の矢面に立って、死ぬ人間を減らしたい。黄忠はそう思う。

韓玄が右往左往している内に、敵は城を囲んだ。

予想通り、兵力は一万を遙かに超えている。豊かな荊州の半分を領しただけ有り、既に劉備軍は五万前後の総兵力を得ているという噂は、本当のようだった。

籠城前に野戦を挑むのは常道だが、これだけ兵力差があると、それどころではない。しかも駐屯軍四千の内、一千ほどは姿を見せていない様子だ。多分逃げ散ったのだろう。無理もない事である。

守りも間隙だらけだが、かろうじて、二ヶ月ほど籠城できる準備だけは整っていた。城壁の上を見回って、どうにもならない所の補修を命じて回っていた黄忠は、揚齢が走り寄ってきたのを見て、何かあった事を悟る。

「黄忠どの」

「如何したのかな」

「殿が!」

泣き出しかねないその様子を見て、黄忠は大体何があったのか、悟った。

どうやら事態は、破滅的な方向にばかり進んでいるようであった。

言われるままに、内城へ。といっても小型の武家屋敷程度の規模しか無く、大した守りも無い。中にはいると、むっと酒の匂いが漂ってきた。壁も床も非常に汚く、中には汚物が投げつけられた跡さえあった。

一番奥に、韓玄がいた。側には侍医もいる。

側には血まみれの剣が転がっていた。韓玄は白目を剥いて、ひくひくと痙攣している。口の端からは泡が零れていた。

「どうした」

「酔った勢いで、自害を試みたようです。 しかし、死にきれなかったようでして。 一命は取り留めました。 じきに眼を覚ますでしょう」

大きく黄忠は歎息してしまった。兄としての沽券を、こんな形でしか示せないとは。哀れきわまりない男だった。

おそらく、もう何十年かして、国状が安定してきたら、無能なこの男にも居場所はあったのかも知れない。それは決して良い意味での居場所ではないが、此処までやさぐれることはなかったのだろう。

だが、今は乱世。

この男には、現世に居場所がなかったのである。

外に出ると、若手の将校達が集まっていた。騒ぎを聞きつけ、熟練した将達も集まり始めている。そのままだと、敵に突貫して無闇な死を選びかねない勢いである。蒼白な顔を並べている彼らに、黄忠は呼びかけた。

「殿は命を取り留めた。 しかし、しばらくは眼を覚まさないだろう」

「そんな!」

「われらはどうなるのだ」

そう呟いたのは、孫堅がいたころから長沙にいたという、年老いた武官であった。韓玄は己の器量を示すためにか、この無能だが忠実な男を抜擢して将官にしていたのである。若いころから賊を相手にしていたと言うだけあって逞しいが、軍略のなんたるかなど知るよしもない男は、見るからに困惑しきっていて、気の毒きわまりなかった。

「武人としての意地を示したい」

揚齢が呟くと、周囲の男達は皆蒼白になる。賛同の意思を示し、眼に炎を宿す若者の横で、それは嫌だと表情に浮かべている熟練した大人達の対比が面白い。

「しかし、劉備どのは仁君であると聞く。 われらが、その、こ、降伏するとしてだ、受け容れてくれるのではないか」

「それでも貴様は武人か!」

「だが、現実問題として、襄陽から援軍も来ない。 しかも相手はあの関羽だぞ。 戦っても、木っ端微塵にされるだけだ! 戦って名を残すどころか、笑い話にもなりやしないぞ」

「だが、それでもわれらは武人だろうが!」

見る間に対立が酷くなっていく。

その中に一人、妙に冷めた眼で立ちつくしている男がいた。最近加わった士官で、魏延とかいう男だ。どうして良いか分からないと言うよりも、むしろ放って置いても自滅するなと、皆を見ているように思えた。

黄忠は、決めた。

「喝!」

鋭く叫ぶと、皆黙り込む。視線が一斉に黄忠に向いた。

「分かった。 まず儂が、関羽とやらの腕を確かめてこよう」

「黄忠どの!」

「それを見て、武人としての誇りを残せる相手かと思ったら、出てきて戦えば良い。 笑い話にもならないだろうと思ったのなら、降伏すればよい。 それでどうかな」

「しかし、貴方は既に六十過ぎ……」

言いかけた士官の襟首を掴むと、黄忠は空中に投げ上げる。三丈も飛んだ男は、内城の濁ったため池に落ちて、面白おかしくぼちゃんとか音を立てた。そのまま浮かんでこないので、兵士達が慌てて池に飛び込んで救助した。

「儂は確かに六十過ぎだが、それでも、お前達より遙かに強いぞ。 まあ、多少は腕に覚えもある。 見ていると良いだろう」

「私も、伴っていただけませんか」

揚齢が言う。他の者達は、尻込みし始めているというのに、見事な覚悟であった。

 

茶番だと、陳到は思った。

長沙の状況は、予想以上に酷い。話に聞く所では、魏延が既に霊陵、珪陽、武陵と一緒に攪乱を進めていたらしいのだが。わざわざそんな事をしなくても、簡単に勝てるのは明白だった。

周囲を囲む。敵から逃げ出してきた千以上の兵士が、降伏を申し込んできたので、彼らの武装解除と後送にむしろ忙しかった程である。敵の二隻ある闘艦も動く気配がなく、そもそも水軍が機能していないのが丸わかりだった。

城壁の上も、遠目で見る限りはかなり酷い。殆ど防備が整っておらず、石や矢の類が蓄えられている様子もない。兵糧だけはそれなりに蓄えられているのだろうが、一押しすれば落ちる城だ。せっかく高い城壁も、宝の持ち腐れである。

「関羽将軍、そのまま攻めますか?」

「いや、少し待て。 黄忠が噂通りの男であれば、多分出てくるだろう」

「そんなものですか」

「そうだ」

訳が分からない話である。多分、侠客豪傑の間でだけ通じるような、暗黙の了解的なものがあるのだろう。

果たして。

関羽の予言は当たった。

正門が開き、二騎出てくる。一騎はとても若い武者で、きらびやかな鎧を身に纏っていた。初陣かも知れない。

もう一騎は老人で、鎧も上物だとは分かるのだが、あまり華美ではない。年相応の、いぶし銀の魅力が遠目にも感じられる人物であった。長く白い顎髭を蓄えており、目元の皺が歴戦の重みを語っているかのようである。

「包囲の維持を頼む」

「分かりました。 全軍、そのまま包囲を維持! 敵の伏兵に備えよ!」

指示を飛ばすが、関羽が戦いたいと言っているのを邪魔しようとする兵卒などいないだろう。それだけ関羽は畏怖を集めているのだ。張飛と違って兵卒に優しいこともあり、関羽は既に敵味方から半分神格化さえされている。

関羽が進み出ると、老将も前に出てくる。気迫は確かに凄まじく、歴戦の猛者であることが見ているだけで分かった。弓の達人と聞いているが、確かに腰には小型の騎乗弓を付けている。あの大きさでは、放っても関羽のような達人に通じるとは思えないのだが。

「貴殿が、名高き黄忠どのか」

「いかにも。 そういう貴方は、歴戦の武人として知られる関羽どのだな」

「おお、拙者の事を知っていたか」

「知らぬ方がおかしいだろう」

からからと黄忠は笑う。妙な話である。見ている方が緊張してしまう。

黄忠は顎髭を扱きながら言うが、眼は鋭い光を湛えたままである。右手に握っている大長刀も、臨戦態勢に入っていて、ゆっくり揺れている。

「劉備殿は仁君だと聞いているが、このような地方都市にそのような大軍勢で、何のようかな」

「曹操が態勢を立て直す前に、荊州を落とす必要がある。 そのためには、この街を制圧する必要がある」

「結局は領土欲ではないか」

「違う。 漢王朝を復興し、民のための国を作るためだ」

堂々とお題目を口にする関羽。多分劉備軍でも、それを信じて行動しているのは古参の者達だけだろう。

陳到は油断無く周囲を見晴らせる。こういう時に、後方から奇襲を受けると非常に危ないからだ。兵士達は皆関羽と黄忠に注目している。年配の兵士ほど、関羽の発言に感動している様子もある。

劉備にずっと着いてきた兵士も、中にはいるのだ。そのような者にとって、関羽は劉備に次ぐ人生の指標なのだ。だからこそ、陳到が気を配らなければならない。卑劣なる不意打ちに備えて。

「それに、降伏勧告の使者は送った。 無茶な戦であるというのなら、それに対して使者を帰し、そちらの主張を述べれば良かったではないか」

「我が主韓玄は、残念ながらそれほどの判断力を有していない。 だが、それでも我が主であることに代わりはない」

「そなたほどの武人が、命を賭ける相手には思えぬが」

「仕える主君には常に忠義を尽くす。 それが儂のやり方でな」

徐々に、空気が帯電していく。

関羽も黄忠も余裕があるが、周囲はそうではない。やはりこの手の人種が考えることは、陳到には理解できない。ただ、理解できないからと言って、賛同は出来ない訳ではない。関羽への信頼もあるから、邪魔が入らないように、慎重に周囲を確認する。

黄忠が手綱を取る。関羽も青龍円月刀を構え上げた。

「結論は、一つと言うことか。 一騎で武を競い、それで白黒付けようか!」

「まだ若いながら、一騎で出てきたことは褒めてやろう。 揚齢、手出し無用!」

「分かりました!」

黄忠が飛び出し、関羽も愛馬に鞭をくれた。

 

長沙近くの丘の上。関羽と黄忠の死闘を見つめている影が複数あった。

林。

それに、その配下達である。

林は久し振りに手応えがある細作組織と戦えて、充実していた。漢中は手練れが揃っていたが、数が少なかったので、面白くなかったのだ。その上戦い方が消極的で、とにかく血が足りなかった。

今は違う。

荊州に跋扈している組織と林の組織は、ほぼ互角の戦闘を維持している。

その過程で林の部下も派手に殺され、林も派手に敵を殺していた。

まだ敵の中枢には迫ることさえ出来ない。多分董俊が抱えていた組織の後継だろうと言うことについては確信が持てているが、中枢に何が潜んでいるかは、林でさえまだ判別が着かないのだ。

「ほう。 流石に関羽。 衰えていないな」

「張飛もそうですが、暗殺するのは難しそうです」

劉勝が言った。

最近この男は、菖を妻に迎えたいとか言い出した。だから、一つ条件を付けて、許可してやった。

条件とは、敵を百人殺すことだ。

荊州に入ってから、既に劉勝は三十七人の敵を殺している。細作が四人、残りは敵側の人間。前も暗殺は専門だったが、この荊州に入ってからの戦況は以前とはまるで状況が違っている。眼が血走ってきており、磨がれた刃のようになっている劉勝は、実に見物であった。

きちんと百人殺せたら、菖をくれてやるつもりではいる。だが、仕事自体はやめさせない。こんなに仕える駒を、捨てる選択肢など無いからだ。

「何、武勇を持って暗殺するだけが能ではないわ。 特に張飛の場合は、周囲から散々恨みを買っている。 被害さえ問わなければ、暗殺自体は可能だ」

「そんなものなのでしょうか」

「そんなものだ」

林は戦場を見つめる。

関羽と黄忠は、いずれ劣らぬ凄まじい激突を繰り広げており、とてもではないが割り込む隙など無い。面白いのは、どちらも一騎打ちで力よりも技巧に頼っている、という事だ。張飛という義弟がいるから、関羽が技を磨き抜いていることは分かる。黄忠という男が面白いのは、明らかに人並み外れた剛力を持っていながら、それより技を優先していること、であろう。

しかし、である。

「既に関羽は五十近い。 黄忠も六十を過ぎている。 趙雲もだいたい五十代半ばというところだろう。 張飛は少し若いが、四十代後半だ。 許?(チョ)ももう四十代にさしかかっている」

「はい?」

「個人的な武勇を誇る武人や、怪物的な能力を持つ英雄達の時代は、間もなく終わると言うことだ。 曹操の配下も、めぼしい武将達はいずれも中年を過ぎ始めている。 若手にも優秀な奴はいるが、いずれも今の世代に比べると一回りは小粒だ」

彼らが死ねば、もはや英雄的な武勇を持つ人間はいなくなるだろう。そう林は予言した。

そもそも、一騎打ちなどというものが、戦で大きな比重を占める事自体がおかしいのである。それは英雄的な時代を作る。だが、混乱から立ち直れば、巨大な人間社会の根底を流れる闇が、世界を動かしていくのである。

そう。

もう少し我慢すれば、林は今よりも更に、力を得ることになる。

今は、曹操という圧倒的な存在によって、林は好き勝手が出来ない。

だが、英雄の時代が終わり、闇が蠢き始める時に。

林の望みである、この中華を徹底的に蹂躙したいという思いは、叶えられるのだ。

だから林は曹操に従っている。そして、我慢できるのである。

黄忠が攻めに出た。既に百二十合は超えているかと思うのだが、凄まじい気迫である。馬を激しく駆って、敵の背後に回ろうと技巧の限りを尽くしながら、長柄の武器をぶつけ合う。関羽の青龍円月刀が陽光を反射し、黄忠の長刀がそれを受けて立つ。鍔迫りが、林の所まで澄んだ音となって伝わってくる。

「おおおっ!」

「せいっ!」

関羽と黄忠が、互いに気迫のこもった一撃をぶつけ合った。

馬が殆ど同時に悲鳴を上げる。二刻近い戦闘を繰り広げたのである。先に疲れてしまうのは仕方がないことであった。

「代わりの馬を!」

関羽が汗みずくになりながら吠える。すぐに別の馬が用意された。

黄忠も別の馬に乗り換える。二人とも、常人ならとっくに限界に来ている中、凄まじい武勇で渡り合っていた。この辺り、精神力が肉体の力を凌駕してしまっているのだろう。恐るべき者達だ。

「それにしても……」

「どうかいたしましたか」

「楽しそうだな。 殺し合いが」

「そう、ですね」

林はほくそ笑むと、部下達を促して、消える。

長沙での調査はほぼ完了している。魏延という男、相当な使い手で、仕掛ける隙が見あたらなかった。だが、それでいい。

劉備軍が、荊州に跋扈する細作集団と、中枢から関わっているという事が分かっただけで充分である。

どうやら荊州での戦いは、更に面白い方向へ進展しそうであった。

 

シャネスは長沙の側、海の上から戦況を見つめていた。民間船に偽装した、劉備軍としては最初の闘艦の上からである。闘艦としては最小規模の軍船であり、火力よりも速度を優先している。いざというときには櫓を左右に着きだして、一気に加速して敵から逃げることが可能だ。もちろんそれを逆用して、敵の中に特攻することも出来る。ちなみに建造したのではなく、江夏に駐屯していた旧荊州軍の軍船を改装したものだ。

林との激しい戦いで、部下を多く失ったが、以前とはまるで状況が違う。まだまだ董白配下の細作は人員、地盤ともに巨大であり、息切れする様子はない。それどころか、新たに調達している人員も多く。林の組織に対して一見五分の戦況だが、水面下ではさらなる兵力の増強まで行っている様子だ。どうやら山越の中から適切な人員を見繕っているらしいのだが、シャネスも細かいことは知らない。

とにかく、資金が違うのである。多分曹操が林に渡している資金よりも潤沢なのではないかと思ってしまう。

荊州の財閥に噛んでいるのはほぼ間違いない。そればかりか、どうやら江東の四家を操っている節さえある様子だ。周瑜には悪いが、四家と反四家の争いは、董白の掌の上で行われている。

それが、シャネスからすれば哀れであった。

遠目から確認する黄忠と関羽の死闘は、決着がつく様子もない。若干関羽の方が総合力で勝っているようだが、黄忠も一歩も引かない。多分、あの段階の達人になってしまうと、武力勝負で決着はつかないのだろう。

小舟が寄せてきた。走何と呼ばれる、急襲用の小型軍船である。

「シャネス様」

「どうした」

「長沙から、林の配下が撤収いたしました」

「そうか。 では我らも監視の要員だけを残して、さっさと撤収するぞ」

部下達が不安げな視線を向けてくる。関羽と黄忠の結末を放って置いて良いかというのであろうか。

咳払いすると、シャネスは吐き捨てる。

「放っておけ。 関羽どのと黄忠のやりとりなど、我らにはどうにも出来ん」

「しかし、よろしいのですか」

「どうにも出来ないと言っている。 陳到将軍も側にいるし、我ら細作が結末を見届けることもないだろう。 さっさと引くぞ」

闘艦が動き始める。最小規模と言っても、流石に大型戦艦だけあって、旋回半径は大きい。長沙にも闘艦はいるし、あまりにも不抜けた機動をしていると思わぬ事故になるかも知れない。

シャネスは苛立ちが押さえられなくて、精神が不安定になっているのを感じていた。戦い自体は良い。若くして死んだ姉のような不真面目な性格をしていない事もあって、何事にも真剣に取りくむシャネスは、今の仕事そのものは嫌っていない。影に生きる者が必要だと考えているから、汚れ仕事をすることにも抵抗はない。

だが、諸葛亮と董白が劉備の配下に入ってから、何かがおかしい。確かに今までにはない戦力を手に入れたし、長期的な戦略も作戦立案も今までとは比較にもならない。だがしかし、劉備の下から何かが失われてしまった。そんな気がするのだ。

今回の荊州南部に対する侵攻も、かっての劉備であればしないような気がする。周瑜軍に対する背信もそうだ。シャネスは劉備にずっと仕えてきたから、違和感は余計に大きかった。

関羽はまだ戦っているようだ。このままだと、日暮れまで戦い続けるかも知れない。

その猛烈な戦いぶりが、むしろシャネスの眼には悲しく映る。ひょっとすると関羽も、今の態勢に違和感を感じているのかも知れないからだ。

闘艦は海のような長江を横切り、そのまま珪陽に。珪陽近くのひなびた港に降りると、其処では諸葛亮が待っていた。何人か長沙に残している細作が、状況が変わったら連絡してくる手はずになっている。

既に空には月が輝いていた。

「シャネス、ご苦労様です。 戦況は」

「林の組織は、長沙から撤退。 被害は此方も敵も同等程度です。 ただ、細作ではない関係者まで、林の組織は狩り出しをしていて、被害は増えています」

「そうですか。 林という女、早めに消さなければなりませんね」

長身の諸葛亮がそういうと、月夜の闇もあって、シャネスでさえぞくりとさせられる。この男が、とても賢いことについて、シャネスは否定しない。問題は、多分この男が賢すぎる事にあるのだろう。

「林の居場所は掴めそうですか」

「それは難しい所です。 奴の身体能力は常人離れしていて、それを活用して各地を飛び回っていますので。 奴の配下を引き抜ければ、行動が読める可能性もあるのですが」

「人員は回しますから、頭を抑えるように。 同時に、切り崩しも進めなさい。 資金については、妻に請求するように。 それと、林に関する資料を集めて、私の所に寄こすように手配しなさい」

諸葛亮は、本気で林を殺すつもりだ。

シャネスは頷くと、部下達に手配。今まで一番長く林と交戦しているシャネスは、多くの資料を手にしている。何度か直接刃を交えて生き残っているのは、シャネスだけだとさえも言われているほどなのだ。だからわざわざ、直接こんな事を言ったのだろう。

シャネスは長沙の方を見つめる。

関羽や陳到は、今後巧くやっていけるのだろうか。それが、不安だった。

一緒に苦境を乗り越えてきたという自負があるから、なおさら不安は大きかった。

 

4、益州へ

 

漢中に竹簡が届いた。昼夜を問わず野を駆けた細作によって、それはもたらされた。

最初に揚松がそれを得て、そして由々しき事態であると悟った。すぐに国の長である張魯と、その弟である張衛に報告しなければならないと考えた揚松は。いつものように表情の仮面を作ると、弟を呼んだ。

「今日は一日中酒色に耽れ。 分かり易いようにな」

「兄者、余程のことがあったのか」

「そうだ。 ひょっとすると、漢中が滅びるかも知れぬ」

それだけで、弟は察してくれた。影武者として姿を似せるために、苦労をしている仲である。かたや睡眠時間も削って漢中を維持するための行動を続け、かたや酒色に耽る振りをして、国の不満を一身に集める。どちらも表には出せない仕事であるが故に、苦労も大きいのだった。

顔を隠して、揚松は張魯の下へ急ぐ。漢中には最近曹操の細作が多数入り込んできており、最近ではあの林までもが暴れ回っていた。どうにか被害は最小限に抑えたが、今のところ死闘は続いており、敵を追い出すどころか戦線の維持で精一杯である。手練れの細作も減る一方で、苦しい状況が続いていた。

張魯は香を焚いて瞑想に耽る宗教的儀式を執り行っていたが、揚松が来たことを使用人を通じて告げると、すぐに切り上げて奥の間に来た。既に張衛は話を聞いて駆けつけてきている。

「如何したか、揚松」

「由々しき事態にございます。 劉備が荊州にて勢力を拡げ、ついに長沙を陥落せしめた模様です。 これで守勢に入っている曹操軍に対しても、対抗できる充分な地盤を彼らは得たことになります」

流石に二人とも青ざめた。

以前から、戦略上の分析は続けていた。劉備が荊州で一定の成果を上げれば、必ず益州に侵攻すると。もしそうなれば、涼州、漢中、益州を制圧して曹操に対抗しようという漢中の根本的な戦略が崩壊してしまう。ただでさえ得体の知れない宗教的勢力が漢中で力を伸ばしている状況である。

「劉備は有能な将だと聞いていたが、これほどに進撃が早いとは」

「有能だと言うこともあるのですが、荊州の知識人層をまるごと味方に付けている雰囲気があります。 もしこれで益州まで落とされると、漢中に勢いを乗せて進撃してくる可能性が極めて高いかと」

「確かに由々しきことだ。 ただでさえ、益州侵攻計画は進展していないというのに」

張衛がぼやいた。

国内が混乱する中、どうにか張衛は益州攻略軍を編成した。数は三万ほどで、弱体化しきった益州の軍勢など簡単に潰せる、そのはずであった。

しかし益州から張任を始めとする何名かの優秀な将官が不意に現れ、侵攻軍を見事に防ぎ抜いている。若い男子を引き抜かれた村々からは怨嗟の声も上がり始めており、家族を失った悲しみから、例の宗教団体に走る者達も増え始めていた。事は深刻で、政治的な綱引きの段階から、国家内に出来てしまった別国家に対する対応まで進み始めている。

その上、涼州に確保している人脈についても、宗教団体が横やりを入れ始めていることが分かっている。このままでは曹操を打倒するどころか、漢中を維持することさえ難しくなりつつあった。

「困ったな。 何か手はないか」

「まず考えられるのは、涼州との合体工作です」

「申してみよ」

「今、涼州では、若者達に支持を受けている馬超と、馬騰、韓遂を始めとする旧勢力の間で反目が出来はじめています」

文字通り、骨肉の争いという奴である。気性の激しい馬超は、すっかり弱気になり、如何に曹操の機嫌を取るか考え始めている親の世代に対して怒りを露わにしているという。血の気の多い若者達や、鮮卑、兇奴を始めとする諸勢力もそれに呼応してきており、そろそろ対立は無視できない段階にまで進んでいるという事だ。

漢中の武器は情報だ。優れた細作達の手により、何処の国よりも早く情報が入る。それを武器に渡り合ってきた。独立を維持してきた。

力は弱いかも知れない。しかし、正確な情報を駆使すれば、打てる手はある。

「現在、かろうじてまとまっている涼州ですが、石を一つ投じるだけで、盛大に爆発する事でしょう。 彼らの怒りの矛先は、ほぼ間違いなく曹操に向きます」

「それで」

「彼らは敗れるでしょう。 そして敗れはしますが、治安は最悪な状態のまま、曹操は泥沼に足を突っ込んだも同然の状態になることでしょう。 そして、其処からかなりの戦力が、漢中に流れ込んでくることを予想できます。 巧くすれば、歴戦の戦上手として知られる馬超を得られるかも知れません」

「しかしそれでは、涼州の民を苦しめることになるではないか」

河北で多くの細作を犠牲にして曹操に対する工作を行わせ、時間を稼がせた張魯であっても。流石に今揚松が提案した残虐な陰謀には尻込みしてしまうようだった。もしもこれを実行すると、文字通り涼州は壊滅することになるだろう。

ただでさえ、涼州から漢中へ流れ込んでくる民は多い。彼らは荒れ地を耕し村々に入って、貴重な労働力になっている。更に言えば、涼州を始めとする各地の情報も仕入れてくれるし、何より益州攻略軍には彼ら歴戦の強者達が多く参加しているのだ。

「教主様、此処は決断の時です」

「河北の戦乱を長引かせることで、既に我らの手は血に染まった。 だが、それでも、今回の件はそれ以上に罪深いのではないか、揚松よ」

「我らが益州を手に入れ、劉備の進出を押さえ込んだ時には、涼州に侵攻することが出来ます。 そうなれば、勝手知ったる我らは、今の混沌とした状況よりも、ずっと適切に涼州を統治することが出来ましょう。 或いは、涼州から逃れてきた者を、そのまま領主に据えても良いかも知れません」

考えさせて欲しいと、張魯は言った。張衛と目配せして、揚松は退出する。

既に日は高く昇っており、街には活気が溢れている。漢中には数少ない街であり、それだけにこの地の繁栄は揚松の誇りだった。例え自分が、それを享受できないとしても。顔を民にさらすことが、すなわち悪徳と取られるとしても。

自宅に戻り、裏口からはいる。

細作が何人か戻ってきていた。

「戦況は」

「よくありません。 どうやら曹操の細作達は、例の宗教団体と連絡を取り始めた様子です。 裏切り者が今後は更に増える事が予想されます」

「そうか。 苦しい所だが、一つ進めて欲しい事がある」

既に頭の中では、まとまっている。

竹簡にさらさらと策を書くと、揚松は最も信頼できる年かさの猿のように小さな男に手渡した。

「馬騰を、狂わせる」

「西涼の、馬騰将軍をですか」

「そうだ。 落とすやり方は任せる。 女でも薬物でも良い。 元々かなり判断力が衰えているかの御仁だ。 息子との無益な緊張状態も長いし、そろそろ精神的に限界が近いだろう。 明確に曹操にすり寄るような行動を見せれば、それでいい。 例えば、隠居して許昌にはいる、とかな」

判断力が衰えている、というところで、揚松は張魯のことを思い出してしまった。敬愛する主君も、その点は同じなのだ。

「分かりました。 直ちに取りかかりますか」

一瞬迷う。

判断力が衰え始めている張魯に変わって、すぐに決断するか。

だが、それは不忠であると、揚松は結論した。漢中は張魯の父が作り上げ、独立を保ってきた。今まで平穏だったのは、外部に対する攻勢の音頭を張魯が取ってきたからだ。後の世でどれほど悪し様に歴史書に載せられるかは、今は気にしても仕方がない。漢中の教主にして平和構築の最大功労者は、間違いなく張魯なのである。

「いや、張魯様の決断を待つ。 準備だけは進めておいてほしい」

「分かりました」

細作達が姿を消す。

今まで、闇に手を染めてきた自分だ。どんな悪徳でも悪名でも受け止める覚悟はあった。

しかし、張魯だけは裏切れない。

それは、揚松の誇りに起因していたからである。

 

夜まで続いた関羽と黄忠の一騎打ちは、結局決着がつかなかった。松明を立てて続けていたのだが、三頭目の馬が疲れ切ってしまった時点で関羽が停戦を提案、黄忠もそれを受け引き上げたのである。

韓玄は夜中過ぎに眼を覚ましたが、既にまともな判断が出来る状態ではなく。汗で全身ずぶ濡れになった黄忠が自室に来ると、怯えた声を挙げるばかりであった。

自殺未遂によって精神を病んでしまったのか、或いは何かしらの理由で精神が壊れてしまったのかは分からない。哀れな男だと黄忠は思うと、彼を使用人達に任せて、指揮官達を集めた。

揚齢を始めとする指揮官達は、全員が蒼白になっていた。

本来は彼らが自主的に決めなければならないことだというのに、黄忠が出しゃばらなければならない時点でおかしいのである。だが、それを指摘しても意味がないことであった。

真夜中だというのに、軍人達が顔をつきあわせて、しかも内城の中庭で話をしているのは異様な光景であった。兵士達は松明を掲げたまま、みな欠伸をしている。外では敵が交代で休んでいると思うと、腹立たしくさえある。

「もはや、降伏しかあるまい」

年配の将校がそう言うと、若手達が反論する。

「黄忠どのの戦いぶりをみなかったのですか! あれほどの戦いを黄忠どのがしてくださっているのに、降伏とは! 貴方は本当に武人か!」

「馬鹿を言うな。 我らは武人であると同時に、民を守る義務があるのだぞ」

「しかし、それはあまりにも武人の心を知らぬ行為だ!」

「私も、降伏するべきだと思う」

不意に、醒めた声が響いた。

腕組みして疲れを癒していた黄忠は、声の主に驚いた。揚齢だったからだ。

「よ、揚齢!」

「私は至近で黄忠どのと関羽の戦いを見ていたが、既に武人としての意地は、黄忠どのが見せつけてくれたと思う。 敵の誰もが、長沙を馬鹿にすることはないだろう」

「し、しかし、我らは何も!」

「もう、現実を見よう」

揚齢が、夢を見ている若者達を突き放した。ただでさえ、その夢は血の色をしていて、鉄さびの匂いをしているものなのだ。

唖然としている若者達。

良かったと、胸をなで下ろしている中年の士官達。

黄忠は立ち上がると、彼らを見回した。

「もう、結論はよろしいか」

「降伏に反対の者は」

一番年かさの男が言うと、誰もが沈黙を守った。彼は如何に理由があったとはいえ、韓玄に引き立てられた。それで将校になることが出来た。だから、義理を果たす必要がある。

男が黄忠にあたまを下げる。黄忠も、彼を馬に乗せると、長沙の正門に向けて歩き出した。

韓玄が人事不省に陥った以上、生け贄として、敗戦の責任を負うものが必要になる。

それはこの男と、黄忠だけで良い。

何名かの兵士が走って着いてきた。

「黄忠どの! 私も、私も連れて行ってください!」

「ならん! せっかく犠牲が少数の老人だけで済むのだ! 今は生きて、未来を見よ!」

正門を開けさせる。

外では、敵が松明を並べて待っていた。多分関羽が今後の動きを予想していたのだろう。

松明の向こうに関羽の姿が見えた。

せめて最後まで堂々としていようと、黄忠は思った。

「流石ですな、黄忠どのは」

「まあ、戦場を散々駆け回ってきたからな」

「私はこの年だというのに、足が震えて仕方がありません」

「無理もないことだ。 儂はいつの間にか恐怖という感覚が麻痺してしまったが、そなたの方がまともな反応よ」

敵兵が槍を構える中、黄忠は叫ぶ。

「長沙太守からの降伏の使者として参った! 関羽将軍か、陳到将軍にお目通り願いたい!」

この後、どうなるかは劉備次第だ。

だから、中途半端に希望が出るような発言はしなかった。

黄忠には病弱な息子がいるが、既に安全な場所に避難させている。

目を閉じると、黄忠は大きく息を吐いた。

そして馬を下りて、来るべき時を待った。

 

長沙がほぼ無血で陥落したことを知った劉備は大喜びで、江陵からわざわざ側近達を連れて黄忠を出迎えた程であった。韓玄もきちんと医師を付けて、復帰に向けて面倒を見るという異例の厚遇ぶりである。

陳到も最近は不安が膨らむ一方であったが、こういう姿を見ると、陳到が敬愛した「劉備」が健在であったことを感じて安堵してしまう。

そのまま、江陵の郊外で宴が開かれた。

周囲は秋と言うこともあり、過ごしやすい気候となっている。民草に迷惑を掛けないように畑があるような場所を避け、小高い丘で陣を張って宴席が開かれる。酒もそれなりに出た。

黄忠はずっと黙り込んでいたが、流石に劉備が直接で迎えてくれたのを見ると心も動いたらしい。頑固な老人も、宴に招かれると朗らかに破顔していた。陳到が見たところ、武勇においても戦術判断能力においても、関羽にそう遜色ないほどの武人である。確かに劉備軍の柱石として活躍してくれるだろう。

魏延は裏での任務で経験を積んで、戻ってきた。宴席にはちゃっかり参加していたので、陳到は隣に座って声を掛ける。

「ご苦労であったな、魏延」

「陳到どのも。 転戦、大変でありましたか」

「ああ。 お前は多分私よりも出世するな。 次の世代の劉備軍を率いて、天下を殿に献上してくれ」

むっつりと魏延は頷く。喜んでいるのか、楽しんでいるのか、それもよく分からなかった。

宴席には、劉埼も出ていた。青白い劉表の嫡子は、劉備に頼りきりだ。正確には彼がこの軍の長なのだが、それは名目上のことだと誰もが知っている。劉備は無礼をしないだろうが、彼は聡明だ。誰が何を吹き込むか知れたものではない。

血なまぐさい運命が待ち受けていなければ良いのだがと、陳到は思った。

適当な所で切り上げる。自宅に向けて歩いていると、不意に闇の中から声がした。

「陳到将軍」

「む、シャネスか」

闇の中からにじみ出すように、シャネスが現れる。

思えばこの娘も、そろそろいい年だ。普通であれば子供も大きくなり、家でぬくぬくと過ごしているであろうに。

乱世はまだ終わりを迎える様子もない。安定した最後の土地であった荊州がこの有様になった以上、もはや曹操が抑えた中原くらいしか、安心して過ごせる土地はなさそうであった。

「長沙が落ちたか」

「ああ。 これで殿も、押しも押されぬ一方の雄だな」

「喜んではいられん。 多分、近々益州に侵攻を行うことになるだろう」

「……そうかも知れんな」

もちろん、名目上の宗主国である江東はこれを喜ばないだろう。何か横やりを入れてくるのはほぼ間違いない所だ。

それに、もしも益州に侵攻するのであれば。

やはり、劉備は変わったのだと、考えるしかない。

諸葛亮が軍議で説明してくれた、天下三分の計。

益州、荊州、漢中を制圧することにより、江東を制圧している孫家と、中原、河北を制圧している曹操に対抗するというものだ。一旦状態を安定させてから、様々な策謀を用い、隙を見て敵を少しずつ叩いていく、というのが戦略の骨子であるという。

確かに現実的な戦略である。

荊州は非常に豊かで、戦乱を逃れてきた知識人も多い。益州は人口が比較的多く、土地も肥えている。何より独自の人脈が作られていて、守勢に強い。漢中は無数に集落が点在している土地だが、土地そのものは豊かで、潜在能力は高い。これらを併せれば、天下統一は、可能とは言わずとも可能性は出てくるだろう。

だが、益州の劉璋は愚人であっても暴君ではない。それを攻めるとなれば、やはり劉備は変わったのだと思う。

「実は、既に益州への潜入任務が始まっている。 私は荊州で林と戦うのだが、配下の内、新参の者達は、訓練もかねてあらかた益州行きだ」

「そうか。 劉備様は」

「変わったのだろう」

頷くと、シャネスは闇に消える。

陳到は、星が光る空を見て歎息した。

黄忠の降伏を喜んだのは、多分嘘ではない。

だが諸葛亮が配下に入って、確実に劉備は変わったのだ。

人に戻る途中で、徐庶とすれ違う。徐庶は、にまりと笑みを浮かべた。

「陳到将軍。 お別れにございます」

「急にどうしたのだ」

「実は、母を魏に捕らえられまして。 これから魏に向かって、曹操に仕える事とします」

嘘だなと、即座に陳到は悟った。

多分徐庶は、諸葛亮と示し合わせ、魏で内偵を行うのだろう。危険な任務ではあるが、徐庶にしか出来ないことでもある。

陳到は徐庶を見送ると、やはり痛感した。

劉備軍は。

諸葛亮に、支配されつつあるのだと。

 

5、乱戦の予兆

 

荊州から撤退し、一度許昌まで引いた曹操は、軍の再編成と、経済の活性化に力を入れていた。

屯田は既に韓浩が全土で行っており、既に制度としても確立している。問題は兵力である。既に中華の人口は、調査によると最盛期の七分の一以下にまで減少していた。

これは、実際に七分の一になったのではない。

もちろん戦乱で激しく減少したのは事実だが、それ以上に戸籍が意味を成さなくなったのだ。

原因は流民である。

河北、中原などの安定した土地では、既に民が定住を再開し始めている。だが流民の中には、戦を嫌忌して山中に逃げ込んで独自の生活区域を作ったり、賊と化すものが続出していた。他ならぬ許?(チョ)が前者の代表例である。そう言った者達はことごとく戸籍から逃れていて、曹操にも現在の国力が把握できない状態が続いていた。今までは拙速を旨としていたから、それには目をつぶっていた。

だが今後は、腰を据えなければならない。

凡庸な息子のためにも。

許昌の宮殿は流石に大きく、曹操が揃えた背が伸びる器具や薬品類も備蓄してある。自室に設置してある鉄棒にぶら下がりながら、曹操は激しく懸垂した。側では、ぼんやりと口を開けて許?(チョ)が虚空を見つめていた。

「ふむ! うむ! む! うむ、良い運動だ! 背も伸びそうだ! よし! あと今日は三十回!」

「曹操様。 荀ケ殿が荀攸どのと共に参りました」

「そうか! 此処に通してくれ!」

儒学者の荀ケと、生真面目な荀攸は、基本的に奥の間にはあまり来ない。多分臣下の分を超えた行為だとか考えているからだろう。

賈?(ク)を現在荊州に派遣しているため、この二人が曹操の直参として政務を見ている。どちらも記憶力に恵まれているので、こういう地ならし作業には最適だった。

ただ、二人とも真面目すぎるので、それが問題だった。今日も案の定、二人して鉄棒を見て目玉が飛びださんがばかりに驚く。

「そ、曹操様! 何ですかその怪しげな異蛮の邪具は!」

「い、異蛮っ!? ち、違うぞ。 これは背が伸びるという事で、許昌の商人が持ってきた、素敵な道具なのだ! 余の宝だぞ!」

一瞬の沈黙。

曹操は懸垂を続けながら言う。

「さてはお前達も欲しいのだな! でも駄目だ! これだけはやれん! よし、後十回!」

「そのような怪しげな道具などいりませぬ!」

「荀ケ、それよりもだ。 ご報告することがあるだろう」

「ああ、そうであった。 曹操様。 二つほど、重要な事がございます」

賈?(ク)や程cは洒落が分かったのだが、この二人は真面目すぎて色々面白くないなあと、曹操は内心で呟いてしまう。

だが、二人とも有能なことに代わりはない。

「合肥から急報です。 張遼どのの連絡によると、孫権がおよそ五万の兵にて進撃を開始し、包囲する態勢を整えたとか」

「ほう。 五万か」

合肥には七千程度の兵しかいない。如何に張遼、楽進、李典と熟練の将を揃えていても、まともに戦えば陥落は免れないだろう。これはこの方面の戦線がとても広いからで、一箇所に多数の兵は派遣できないのだ。

「分かった。 余が二十万の兵を引き連れて出向くと、派手に情報を流せ」

「二十万、にございますか」

「無論嘘だが、もとより江東は対外進出に積極的ではない上に、此方の軍勢の実力を見切れていない雰囲気がある。 今回はそれで追い返せるだろう。 合肥には物資を送り、態勢を立て直すように張遼には告げておけ」

「かしこまりました」

懸垂が終わり、許?(チョ)に下ろして貰う。

すぐに料理人が蜂蜜をたっぷり練り込んだ焼き菓子を持ってきた。運動の後にはこれがとても美味しい。

「うむ、美味だ。 背も伸びそうだな」

「そ、曹操様。 そのような奇怪な菓子を召し上がりになるのは、よろしくないかと思います」

「大丈夫だ。 歯も磨いているからな。 それで、二つ目の連絡とは何か」

「はい。 西涼の状況が非常に不安定になってきています」

それを聞くと、焼き菓子を手にして口に運んでいた曹操の手が急停止した。

西涼は鮮卑との混合地帯で、まさに混沌そのものの土地である。今は曹操に友好的な勢力が力を持っているが、もしこれが乱れると、へたをすると十万近い騎馬軍団が攻め込んでくる可能性がある。

もしそうなると、長安は陥落する可能性がある。一線級の指揮官もそちらにはいない。大幅に守備兵の配置を考慮しなければならないだろう。

「ふむ、それは困ったな」

「如何なさいますか」

「漢中、益州、荊州と劉備が抑えることになると、非常に面倒なことになる。 余としては、あまり西涼に長く関わり合う事は避けたいな。 一気に叩きつぶすか、或いは完璧に懐柔するか、どちらかを選びたい所だが」

曹操は、もはや自分の代での天下統一は諦めている。

今問題にしているのは、安定した政権の運用だ。凡庸な曹丕や、恐らく更にそれより器量が劣るであろうその跡継ぎでも天下を覆されないように、今の内に手は打てるだけ打っておかなければならない。

荒療治が必要だと、曹操は判断した。

「よし、幾つかの軍勢を長安に、それと落陽にも移動させよ。 張?(コウ)を指揮官として付ける。 夏候淵も、二線級の部隊をつれて配置させよ。 ただし、あくまで密かに、だが」

「分かりました。 そうですね、一月半ほどで、配置は完了するかと思われます」

「うむ。 同時に、西涼の馬騰を此方に呼び込め。 引退後に富貴を楽しめるとでも誘ってやれ」

最近、馬騰が錯乱気味であることは曹操の耳にも入っている。

馬騰を引き抜くのは、西涼の火種を一気に噴出させるためだ。荊州、合肥では守勢を続ける。代わりに、一気に西涼を片付けて、漢中、益州に攻め込む足がかりを作る。数年は掛かるかも知れないが、それくらいはもう良い。

最近、曹操は頭痛が酷くなっているのを感じている。時には頭が割れるほどに痛む。

あと十年。二十年は、生きられないだろう。だから、自分の寿命を、あと十年として考える。

西涼さえ、しっかり従えれば。擁州もそれに着いてくる。そうすれば、曹操の政権は、完璧な地盤を得て、他の勢力を圧倒できるだろう。

「よし、まずは軍団の移動。 続けては馬騰の引き抜きだ」

「それが、実は」

「何か」

「馬騰のほうから、既に引退と許昌での生活を望む依頼が来ております。 西涼での血で血を洗う死闘に疲れ果てた様子でして」

曹操は、悟る。

何か、大きな力を持つ存在が、裏で蠢いていると。

舌打ちすると、曹操は命じた。

「分かった。 軍の移動を、急がせよ」

命令は粛々と受け止められた。

西涼の大動乱は、間近に迫ってきていた。

 

(続)