赤壁の闇

 

序、軍師

 

劉備が連れてきたその男は、すらりとした長身で、いわゆる羽扇を手にしていた。美男子というよりも、造作が若々しく、目に強い光が宿っている。

軍議の席で、新しい部下を劉備が紹介することは、これが初めてではない。陳到が劉備の配下になってから、四度、いや五度以上あったかも知れない。ただ、少し驚いたのは。いずれの将軍達も百戦錬磨で、死線をくぐってきた者ばかりだというのに、その男は彼らに挨拶をする時も堂々としていて、臆する所がなかった。

無謀でただ頭が悪いだけなのかという疑念は、すぐに消えた。

馬鹿者に出来る物腰ではない。この男は、多分己の能力に相応しい自信を備えているのだろう。

「諸葛亮です。 このたび、劉備将軍にお引き立ていただきました。 以後よろしくお願いいたします」

「よろしく」

陳到も一礼した。

少し前に、徐庶の恐るべき能力を見たばかりである。徐庶が自分以上だというこの諸葛亮がいかほどの力の持ち主か、楽しみであった。

早速、軍議が開始される。

今回の議題は、もちろん曹操軍の動きについてだ。ハン城に出ている趙雲が、既に急報を伝えてきていた。

曹操軍は、二十万を超える大軍であると。

先鋒は楽進で、既に宛を出発している。経験の浅い夏候惇やら曹仁ならともかく、楽進は歴戦の猛者であり、しかも補佐にあの賈?(ク)を連れている。仕掛ける隙など見あたらない。

しかも先鋒だけで、兵力は五万。この間の勝利によって多少増強はされたとはいえ、味方の兵力は一万弱。とても勝負になる状況ではなかった。

此方の兵士達には精鋭が揃っているが、河北での死闘を制した楽進軍もそれは同じ。しかも、今回敵軍には鳥丸族の凶猛な戦士達が多く加わっていると言うことで、野戦ではさらなる苦戦を覚悟しなければならない。

更に今。問題となっている事が、一つあった。

劉備が、それを最初の議題として皆に投げかける。

「どうやら荊州では、曹操に対して降伏するべきだと主張する派閥が、力を持ち始めているらしい」

「劉表将軍は、いかなる発言を」

関羽に対して、劉備は首を横に振る。

「劉表どのは、公式には発表されていないが、危篤状態だ。 既に意識を保つことも出来ない状況であるらしい。 蔡瑁将軍が、かろうじて周囲を纏めて、秩序を保っている状況なのだが。 それも瓦解するのは、時間の問題だな」

あれほど憎み合った蔡瑁だというのに、今はその指導力が頼りという訳だ。情けない話である。

劉備もこう急に劉表政権が瓦解に向かってしまうと、手の撃ちようがないという風情である。既に劉表政権内に、文官の伊籍を始めとする親劉備派は多く確保している。彼らを決起させるのも、難しくはないだろう。

しかし今は、親曹操派の数があまりにも増えすぎている。今まで劉表の忠臣面をしていた連中までもが、次々と袖を返し始めている状況なのである。もしも無理に決起を起こすと、曹操軍が到着した時には、荊州は真っ二つに割れて争乱になっている可能性さえある。それは多分、内部が緊張状態にあるよりも、酷い結果を産むだろう。

それにしても、これらの凄まじい状況の変化は、如何なる原因からか。

「林か、或いは」

「それもあるでしょうが、曹操のことです。 河北では軍事攻勢に出る一方、荊州では謀略を張り巡らせるのに余念がなかった、と言うことなのでは」

それが一番しっくり来る。

しかし、だ。どうも腑に落ちない。陳到は、もっと大きな、得体が知れないどす黒いものが、裏で動いているのではないかと思ってしまった。もちろん袁煕だって河北で指をくわえていた訳でもないだろうし、他の勢力の干渉だってあったはずだ。そうそう都合良く、荊州で謀略を進められるものなのだろうか。

陳到は、凡才ではあるが。

しかし、歴戦という点で、陳到はこの場の誰にも負けていない自負がある。妙な警告が、ずっと胸の奥でちりちりと燻っていた。

あの諸葛亮という男、本当に信頼できるのか。

劉備が信頼しているのだ。自分よりも遙かに優れた人材鑑定眼のある劉備が、である。である以上、疑う必要はない。しかし、どうも引っかかるのだ。あの男がもし陰謀の中心にいる場合。ひょっとして、手の撃ちようが無くなるのではないかとさえ思えてくる。

軍議が進む中、劉備が諸葛亮に意見を求めた。

彼は堂々と、とんでもない事を言い出した。

「幾つか策がございます」

「申してみよ」

「一つは、荊州に南下する策にございます。 まず劉備様には精鋭を率いていただき、混乱している襄陽に入ることで、劉表将軍を抑えます。 そして混乱の元になっている何名かの将軍を斬り、荊州を抑えるのです。 此処新野に五千の兵を残しておけば、一月で片がつきましょう」

以降は、十万の兵を抑えている強みを最大限に生かし、江東と連合するもよし、新野で決戦を挑むも良し。そう諸葛亮は言った。

策としては、確かに悪くない。

だが、五千の兵はほぼ生き残ることが出来ないだろう。関羽や張飛が指揮をしていても、かなり難しい。

「他の策は」

「第二の策としては、新野に伏兵を敷き、攻め込んできた敵を撃退してから撤退。 襄陽に入り、荊州を抑えます。 曹操に一度勝つことを既成事実として、荊州をそのまま乗っ取ってしまうのです」

「しかし、簡単に勝てるのか。 敵は曹操軍の中でも、随一と言っても良い歴戦の楽進だぞ。 しかも兵は五万に達している」

「その通りだ。 楽進は派手じゃねえが、並の将じゃねえぞ」

慎重論を陳震が出すと、張飛もそれに同意した。歴戦の猛将、というよりもこの大陸でも名の知れた男である張飛でさえも認めざるを得ないほどに、楽進は手強い相手なのである。

陳到も挙手すると、疑念を口に出してみる。

「見事な用兵を見せてくれた徐庶の事もあるし、貴殿の評価を違える訳ではないが、しかし皆も不安なのだ。 その策を採る場合の、具体的な作戦案はあるのか」

「火を使います」

諸葛亮は、その後、聞くも恐ろしい火計の詳細について提案した。陳到も思わず鼻白んでしまう。このような策をさらりと提案できるとは。

誰もが青ざめる中、劉備だけが冷静を保っていた。

「他に、策は」

「第三の策といたしましては、北上して、宛から出撃してきた楽進を叩きます。 同時に江東の孫政権に書状を送り、徐州へ進撃させます。 楽進を撃破する策に関しては、第二の策で示した火計を用いますが」

諸葛亮の口調は、あくまで淡々としている。

まるで、幾万の兵を焼き殺すことさえ。何とも思っていないかのように。

この時、陳到の中で。諸葛亮という男の評価が、確実に変わった。

 

軍議が終わった後、慌ただしく事態が動き始める。

結局、一度楽進隊と交戦してから、襄陽に移動するという事に決まったからである。諸葛亮の作戦案が、採用されたのだ。作戦としては、釈然としない部分もあったが、細部にわたる作り込みや、それ以上に有効な策が出なかったこともある。流石に徐庶が絶賛する男であった。

楽進隊は凄まじい速度で宛から進撃してきており、ハン城と新野を使っての大規模な罠に誘い込むためには、民を早めに避難させなければならない。五千の実戦部隊が迎撃を整える間、陳到が率いる三千が、民の避難を誘導する作業を担当する事となった。

毎度の事ながら、率いる兵力だけは多いが、作業内容は雑用も同然である。もちろん新兵達はあらかた陳到の下に配属され、避難誘導の手伝いをすることとなった。襄陽に着いてきたいという民と、新野に残りたいという人間をまず分ける。新野に残りたい人間は、周囲の山へと避難誘導を行い、戦が終わるまで其処で待機させる。不安にならないように、新兵の中で、戦意が低い者を案内に残すこととした。と言っても、劉備の支持が凄まじいため、そんな事を望む兵士はほんの一握りだったが。

むしろ、若者の中には、この機にと、兵士になりたがる者が続出するほどであった。

辺りの山からは柴があらかた切り出され、新野に運ばれていく。ハン城では、趙雲が今頃、時間稼ぎのための作業をしているはずだ。趙雲の所にも、かなりえげつない指示が出ていたが、まあ勝利のためには仕方のない部分もあった。

楽進は優秀な武将だ。生半可な小細工では、その足を止めることは出来ない。

避難民の第一陣を進発させる。既に襄陽とは話がついているが、はっきりいって襄陽に逃げても安全が保証される見込みはない。楽進を手際よく叩ければ良いのだが、そうでなければ、避難民は騎馬隊の蹄鉄に蹂躙されることとなる。

第二陣が出る。船が足りないという連絡が来た。漁師達に金品を渡して、彼らの船も使って民衆を輸送する。連続しての輸送は昼夜を問わずに行われた。同時に、新野で敵を迎撃する準備も整った。

第三陣を送り出す。

民衆に付けていたのは、関羽の息子の関平と、廖化を始めとする若手の武将達だ。陳震もそちらに回したのは、引率の意味もある。

先に襄陽に送り込んでおいた魏延は、かなり血の気が多い報告ばかりしてきている。荊州は簡単に乗っ取れるとか、連絡があればすぐに反対派を皆殺しにするとか。劉備もあまり無茶はしないようにと言っているのだが、それでも魏延の若々しさでは済まされない残虐性は、既に表に溢れ始めているのかも知れなかった。

護衛の兵とともに民衆が脱出を果たす。

最後は、味方の兵士達が脱出する準備を整えなければならない。

漁師達は幸い、皆劉備に心服している。僅かな軍船と、彼らの船を使えば、曹操軍と一戦交えた後にも、引き上げることは難しくなかった。

やがて、本隊からの伝令が来る。

「陳到将軍」

「準備が整ったか」

「はい。 楽進隊は、ハン城近辺でで大きな被害を出しながらも、此方の防衛線を突破、進撃を続けています」

「分かった。 後は、作戦通りという訳だな」

分かってはいたことだ。勝つためには仕方がないのだと。

陳到は、三千の部下とともに、新野には向かわず、近辺の山に分散して潜む。

後は、ハン城が丸ごと燃え上がるのを、待つだけであった。

苦難の末に取った城である。愛着がないと言ったら嘘になる。

だが、それでも。国家百年の計を思えば、致し方のないことだと、己に言い聞かせて、陳到は心を落ち着かせるのであった。

 

1、火計

 

趙雲の防衛線は、恐ろしいまでに強固だった。

歴戦に歴戦を重ねてきた楽進である。五万の圧倒的大兵力を持って、二千程度の敵を踏みにじるのは造作もない。しかしそれは、相手が初陣の若造であったり、戦も知らない文官であった場合の話だ。

趙雲は二千の兵を完璧に活用し、楽進の出鼻をくじき、踏み砕き、前衛に大きな被害を出し、それでいながら自軍の被害を殆ど出させなかった。楽進も、敵の総兵力が一万を超えていることを知っているとはいえ、此処まで好き勝手をさせて、平静ではいられなかった。

参謀としてついている賈?(ク)が、馬の手綱を取る。

「楽進将軍」

「分かっている」

楽進の眼前には、今回初陣だった若い武将の亡骸が転がっている。趙雲の槍で一刺しにされたのだ。一瞬の出来事であり、部下達も止める暇がなかったという。

既に、損害は一千を越えている。縦横無尽の敵の用兵、一体どういう事なのか。

「思うに、これは趙雲の用兵ではありますまい」

「というと、夏候惇らを蹴散らした謎の敵か」

「恐らくは。 調べによると、趙雲は武勇こそ優れていますが、軍を率いるのに向いている男ではありません。 先に優れた作戦を授けられて、それに基づいて我らを振り回しているというのが正しいでしょう」

無言で、楽進は手綱を引いた。

大きな被害を出しはしたが、前線は確実に進めた。事実、ハン城は既に眼前である。ただし、いやな予感がしてならない。

偵察部隊を派遣すると、その予感は現実のものとなった。

「申し上げます」

「如何したか」

「ハン城はもぬけの殻です。 その上、内部は徹底的に破壊され尽くしています」

「……」

額に青筋が浮き上がるのを感じた。

確かにハン城は、護るのに適した城ではない。しかし、今までの防衛作戦が、全て嫌がらせのためだったのだと判明すれば、流石に不快極まる。なおかつ、城がもぬけの殻と言うことは、劉備が住民の懐柔に、完璧に成功していることも意味する。

そして、なぜか、まだいやな予感が収まらなかった。

「先発隊に調査させよ。 徹底的にだ。 それまで、本隊は城の側に陣を張る。 何かあっても対応できるように備えておけ」

「趙雲が奇襲を仕掛けてくるかも知れないと言うことですか」

「それもある。 だが、奴の用兵ではないという以上、何か罠がある可能性も高い」

「分かりました。 重々注意いたします」

三千ほどの兵士が、ハン城に乗り込む。いずれも隠密戦をこなす敵との訓練を積んできた、特務部隊の面々だ。何か起こっても対応はしやすい。賈?(ク)は腕組みして、その様子をじっと見つめていた。

ほどなく、起こった事のために。

三千の兵士は、一人残らず、生きて帰ることが出来なくなった。

城が。

丸ごと吹き飛んだのである。

唖然とする楽進の前で、炎の塊と化したハン城が燃え落ちていく。特殊訓練を受けた精鋭は、もちろんあの中だ。助けようがない。むしろ、今逃げ出さないと、楽進までもが危ない。

幸いにも。慎重な布陣が功を奏して、趙雲の奇襲を受けることはなかった。

だが、緒戦でいきなり四千もの兵を失ってしまった楽進は、歯がみしながら、後続の増援を待たされることとなったのである。

馬上で新野を眺める楽進に、賈?(ク)が馬を寄せた。

「夏候惇将軍が敗れたのも、偶然ではありませぬな。 多分これは硝煙と硫黄を用いた火計でしょうが、尋常な有様ではないものです」

「敵は魔神か。 或いは邪神か」

「人間ではございましょう。 ただ、生半可な人間ではないのも事実ではありましょうが」

歯を噛むと、楽進は俯く。

この年になっても、このような屈辱を味わうことになるとは。歴戦を積んできたというのは、錯覚であったとしか思えない。

兎に角、今は部下達を纏めることだ。

大きな被害は出した。しかし、負けた訳ではない。

 

楽進隊は大きな被害を出しつつも、隊を乱さず、致命傷には到らなかった。

趙雲からの報告を受けた劉備は、大きく頷いた。

「それでは、襄陽へ撤退するべきだな」

「仰せのままに」

諸葛亮は何も言わず、あたまを下げた。

作戦の途中で、この男は言ったのだ。今全軍で攻撃を仕掛ければ、敵の先鋒を壊滅させることが出来ると。

事実、それは出来たかも知れない。しかし、劉備は其処までの作戦は採らなかった。

陳到としては、ハン城の戦略的有効性を封じるのと、敵の足を止めるために、あれだけの凄まじい策を採った事が不満だった。確かに効果は絶大で、あの歴戦の楽進が、文字通りのきりきり舞いをさせられた。

だが、それも二度は通じないだろう。

新野に運び込んである爆薬の類はどう使うのか。少し不安だった。

「全軍、脱出の準備が整いました」

「よし、では襄陽に向かう」

劉備はしばし、七年を過ごした新野を見つめていたが、視線を逸らすと、以降は二度と振り返らなかった。

陳到もそれに続くと、小型の闘艦に乗り込む。皮肉にも、これは状況を見た蔡瑁が用意してくれたものだ。

最後に残った趙雲が、此処での攪乱を担当した後引き上げる。楽進隊も此方の撤退は見ているだろうが、今までの攪乱戦の凄まじさを経験している以上、安易に追撃は出来ない。それを考えれば、孔明の策は何一つ無駄がない、理想的なものにも思える。

船縁で、陳到は歎息した。

分からない。

ハン城から上がる煙は、此処からも目視できる。

だが、どうしてか。勝利に、まるで心は躍らなかった。

海のように広い長江と言っても、この辺りの川幅はさほどでもなく、渡るのにそれほど時間は掛からない。対岸では既に張飛の率いる主力が待っていた。劉備が最初に降りるが、張飛は浮かない顔である。

「どうした、何かあったのか」

「兄者、どうやら劉表が死んだらしい」

それはまた、最悪の状況だ。

今までかろうじて内紛が表面化しなかったのも、劉表が昏睡状態とはいえ生きていたからだ。蔡瑁の事だから、死亡発表を伸ばして混乱をある程度抑えようとはするだろうが、しかしそれにも限界がある。

「劉備様、襄陽を早めに抑えた方がよろしいかと思います」

「そうだな。 襄陽近辺にいる避難民の事もある。 急いで行動した方が良いだろう」

荊州の民は、曹操のことを知らない。悪鬼のごとく嫌っている者もいる。徐州などでの悪名が、あまりにも痛烈に広まっているからだ。

実際問題、戦に勝った兵士は、略奪も暴行も行う。貧しい兵士の中には、戦場での略奪を目当てに参戦している者も少なくない。屯田兵が主体の曹操軍でも、それに代わりはないだろう。

そう言う意味もあるし、何より劉備の圧倒的な求心力もある。いずれにしても、劉備の戦略は民を主体に、というものだ。それを護るためには、民を見捨てる訳にはいかないのである。

それが分かっていても、陳到はなおも不安だ。

あの諸葛亮という男の立てる戦略は、あまりにも危険な気がしてならないのだ。

「劉備様。 私が殿軍となりますので、お先に襄陽へ。 逃げ遅れた民も、私が引率します」

「分かった。 陳到将軍、くれぐれも、気をつけてな」

「はい。 張飛将軍もお連れください。 殿軍は私だけで充分ですから」

頷くと、劉備は張飛を連れて襄陽に向かう。これで、何かあっても被害は最小限に抑えることが出来るだろう。

新野に残した僅かな部下の中に、造反の可能性がありそうな者達をまぜておいた。だから、多分そちらは心配しなくても良い。周囲に斥候を出す。敵の別働隊よりも、逃げ遅れた民を収容するためだ。多分、そんな状態になっている者はいないとは思うが、念のためである。

兵を出していると、傍らに気配。シャネスだった。

「陳到将軍」

「如何したか」

「実は、襄陽の中で、おかしな事が起こっている。 早めに貴殿の耳には入れておきたかった」

「なぜ、私に」

先に言うのなら、張飛や関羽ではないのか。

しかし、シャネスの表情は切実だ。そればかりか、周囲を真剣に伺っているようでもある。これほどこの腕利きの細作が周囲を気にしているというのは、尋常なことではない。だから、あまり問い詰めることもなく、陳到は続きを待った。

「もちろん、劉備将軍や、張飛将軍にも、後で説明はする。 しかしな」

「分かった。 それで、どうおかしいのだ」

「蔡瑁将軍が、心変わりをして、降伏に急に傾いた。 それも、かなり不自然にだ。 私の知る限り、曹操の細作は、今までも荊州には大勢は入り込んでは来ていた。 彼らの工作の可能性も考えられた。 だが蔡瑁将軍は、悪い意味で非常に頭がいい男だ。 今更になって、急に態度を変えるというのはおかしい」

「では、劉備将軍が危険ではないのか」

それはないと、シャネスが言う。

確かに周囲には張飛がいるし、何より襄陽には、先に魏延が入り込んでいる。魏延は徹底抗戦派を纏めているはずで、彼らが劉備を旗頭として仰ぐのは必然だ。それに、江夏には、親劉備派の筆頭である劉埼が、荊州の精鋭を率いて駐屯している。

危険は小さい。だが、何かが引っかかる。

「シャネス、貴殿ほどの細作が、何をそんなに怯えている」

「……すまぬ。 私は仕事に戻る」

シャネスの気配が消える。陳到は、大きく歎息した。

迷子になっていた避難民が、ぽつぽつと見つかり始める。中には親とはぐれた子供もいて、陳到は見つかって良かったと思った。将来如何に生意気になると分かりきっていても、子供は可愛いものだし、こんな状態ではぐれてしまうと、助かる見込みはない。

子供はまた産めばよいという時代なのだ。

子供を探しに来る親などいないのである。

ある程度辺りを探した後、襄陽に向かう。シャネスが何に怯えていたのかが気になる。不安を抱えたまま、陳到は軍勢を何波かに分けて、襄陽に向かわせる。自身の軍勢は最後の最後まで残して、趙雲の負担をいざというときには減らせるように工夫した。

ほどなく、夜が来る。

同時に、趙雲が引き上げてきた。

趙雲の話によると、楽進隊は既に兵力の補充を完了。少数の部隊を新野に派遣して、状況を確認しているという。

「火はつけなくても良いのか」

「問題ないそうです。 軍師どのによると、危険物を敢えて残しておく事により、敵の警戒と進軍の鈍化を誘えるとか」

「ふん、確かにあの大爆発の後だ。 それは慎重になるだろうさ」

「確かに私も、あれについては感心できませんでした。 しかし、あの疾風のような行軍速度を誇る曹操軍が、確実に足止めされ、大きな被害も出しているのです。 我らのためには、確実になっています」

同意すると、夜闇に乗じて引き上げる。

既に敵の本隊は宛に到着しているという報告もある。急いで襄陽の混乱を収めないと、最悪の事態になりかねない。

襄陽から、時々伝令が来る。

何と襄陽は籠城の体勢に入り、劉備軍と一戦交える気配だという。

これに対して潜入組の魏延がついに一戦やらかし、内部では激しい戦闘が行われていると言うことだ。

軍勢が幾らいても足りない状況である。

報告を受けてから、陳到は趙雲を先に行かせ、率いている軍勢の内二千五百も先に行かせる事とした。

陳到の周囲には、五百のみが残る。これで、却って動きやすくなった。

夜闇の中、ぽつんと五百の軍勢がいる。孤独の中、絶対的な自由も産まれた。

「陳到将軍、これからどうするのですか」

不安げに副官が言う。

周囲にいる兵士達は、皆古くから陳到と一緒にいる、信頼できる者達である。だから、言っても良いだろう。

「お前はおかしいと思わないか」

「確かに、色々と妙なことばかり起こっておりますが」

「それもこれも、あの諸葛亮と徐庶が来てからだ。 来てすぐに、奴を信頼するのは危険すぎる」

危険性は大きいが、殿軍として控えることで、状況を俯瞰的に観察することが出来る。もちろん曹操軍により怒濤の追撃も防がなければならないから、大変ではあるが。

「徐庶どのはあれほどみごとな采配を見せてくれました。 その徐庶どのが信頼しているお方だから、劉備様も信頼しているのではないのですか」

「だから不安なのだ。 奴は頭が良すぎる。 少し接しただけでも、尋常ではない事がすぐに分かった。 一体何を企んでいるか、しっかり見極めないと、危険すぎる」

劉備の信頼と、此処は話が別だ。

今の時点で。

陳到は、諸葛亮を、一切信頼しないことにした。

 

曹操は精鋭二万を率いて、既にハン城(正確にはその跡地)に到着していた。楽進軍の苦戦を聞いて、早めに自分の眼で状況を確認したかったからである。側には許?(チョ)を始めとした精鋭に加え、林の配下も多く配置している。奇襲を受けた時に対応するための構えだ。

話には聞いていたが、凄まじい惨状である。周囲の焦げ臭い臭いが吐き気を誘う。

しばし周囲を確認してから、曹操は舌打ちした。

「これは硫黄と硝石によるものだな」

「はい。 新野にも、似たような仕掛けが多数施されておりました」

程cが応じる。荀ケも、同じ見解を見せた。

曹操は腕組みすると、すぐに結論を出していた。

「なるほど、此処で足止めをし、なおかつ時間を稼ぐための工夫か」

賈?(ク)が着いていたから、被害は四千程度で済んだのだとも言える。いずれにしても、敵は生半可な相手ではない。腰を据えて掛からないと危ないだろう。

楽進が来た。跪こうとする部下を、右手で制する。

「ああ、構わん。 状況は余も今確認した」

「申し訳ございませぬ」

「何、お前に出来なければ、他の誰でも結果は同じだ。 それよりも、新野の方はどうなっている」

「今、危険物を運び出している所ですが、今少し時間が掛かりまする」

頷くと、曹操は手を叩く。

細作達が、闇に紛れて現れる。彼らが礼をするのも待たず、曹操は指示を飛ばした。今は形式よりも時間が大事だ。

「周囲を探れ。 今、ちょっとした火気が、大惨事を招く状況だ。 敵は斥候一人とて見逃すなよ」

細作達が消えると、曹操はもう一度考え込んだ。思わず腰の袋から、背が伸びるか伸びないかよく分からない焼き菓子を掴みだして、口に突っ込んでいた。がりがりと噛み砕いていると、荀ケが、顔を覗き込むようにして聞いてくる。

「何か気になることがあるのですか」

「おかしい」

「といいますと」

「今、荊州が混乱しているのは分かっている。 劉備が、護民を戦略としている事もよく分かっている。 だが、何か腑に落ちん」

何だか、もっと巨大な闇か悪が、荊州に蠢いているような気がするのだ。

今まで、曹操は劉備と何度となく刃を交えてきた。側に置いて、語らったこともある。だからこそだろう、何か違和感を感じるのだ。

確かに奴は、必要となれば如何なる手も平然と採る男であった。だが、あの火薬による戦術は、あまりにも奴らしくないのである。だとすると、それを吹き込んだ者がいる。新しく来た軍師とやらがそうなのか。

撤去作業は、夜通し行われた。

そして、それが終わったころには、およそ八万の兵が、出撃可能な状態となっていた。

徹夜での作業と言うこともあり、半数は休息させた状態で、である。曹操軍の進撃が如何に速いかは、これで明らかだ。出撃可能な状態を見て、曹操も焼き菓子を頬張りながら、満足した。

「うむ。 思わず余もうれしさのあまり背が伸びそうだ」

「伸びないかと思います」

「虎痴、そなたは容赦がないのう。 でも、まだ余は諦めぬぞ。 きっと背を伸ばす方法は、まだあるはずだからな」

がりがりと焼き菓子を噛みながら、曹操はちょっと油でべたべた気味な指揮剣を振るった。

八万の軍勢が、用意された軍船に分譲して、長江を渡り始める。曹操は、少し下流で密かに建造させていた闘艦に乗り込むと、少しだけがっかりした。

敵影が無いからである。

荊州の水軍は、江東の水軍を凌ぐ規模である。訓練不足が目立つようだが、兵力と物資に関してはかなり多いと聞いていた。故に、戦う時にはかなり手強いだろうと、何度か軍議を開いて対策まで練っていたのだ。

しかし、ごらんの有様である。曹操は船の縁でぼやいてしまった。

「荊州水軍の迎撃は無しか。 かなり苦労することを想定していたのだが」

「荊州の内部は抗戦と降伏で混乱していると聞いています。 それが故に、でしょう」

「まともに余に立ち向かったのは外様の劉備だけと言うことか。 奴が実に効果的に時間を稼いだというのに、荊州の者達はこの有様とは。 情けない話であるな。 誰か一人でも、命を賭けて余に抗おうという者はいないのか」

「難しいでしょう。 黄祖が生きていたならまだ話は別であったのかも知れませんが、奴は体調を崩していた所を周瑜と戦い、流れ矢に当たって命を落としています。 蔡瑁はもとより、劉表と黄祖の折衝および、諸将のまとめをしていた男で、実戦経験が殆どありません」

すらすらと荀ケが言う。儒者だけであって、流石の記憶力だ。

この時代、儒者が求められるのは、膨大な資料の丸暗記である。故に実際に政務で使える儒者は限られてくる。大儒者である孔融が役立たずな事実が、その現実をよく示している。

使える数少ない儒者である荀ケは、曹操でも恐れ入るほどの記憶力を発揮し、実務を実に上手に回す。こういった戦時でも、記憶力を武器として、様々な提案をする。だから重宝しているのだ。

「ならばやむを得ぬか。 しかしそれにしても、平和によって弱体化してしまった軍とは無惨だな」

ぼやきながら上陸した。

相変わらず、敵影は無し。

劉備の軍勢も、影も形もない。既に襄陽にまで引き上げていると言うことだろう。

曹操は上陸すると、周囲を見回した。

「おお。 素晴らしい土地だな」

何と肥えた土地か。荒野が基本になってしまっている中原とはまるで違う。土地は豊かで、雑草も青々としており、何より畑がみずみずしい。民は見あたらないが、それは仕方がないことだ。

この分だと、中原よりも人口は遙かに多いことだろう。

平和だと言うことが、どれだけ価値のあることなのか、よく分かる。劉表は、この光景を維持したくて、外征を控えたのだろう。

そして民はその庇護の下で、豊かな生活を謳歌した、というわけだ。

曹操の隣で、許?(チョ)も眼を丸くしている。他の将達も、あまりに豊かな荊州の実情を見て、動揺を隠せない様子であった。

「良し、此処に野戦陣を張る。 軍船を活用し、味方の上陸を支援させよ」

「分かりました」

「楽進、五万の軍を進めて、襄陽を直撃せよ。 敵が混乱している今なら、一気に敵を蹂躙することが出来るだろう。 于禁は二万を率いて、楽進の後続に付け。 敵には謎の軍師が着いている。 どんな奸策を巡らすか分からんから、注意せよ」

「しかし、それでは曹操様の周囲が手薄になりませぬか」

問題ないと、曹操は于禁の慎重論を一蹴した。

敵が来るとしても、前からだ。後方からは、続々と援軍が到着している状態である。すぐに二万の兵が渡河の準備を終える。そしてその後ろには、十万が続いている。

何より今曹操の周囲にいる一万は、歴戦の武者達である。いわゆる虎豹騎と呼ばれる精鋭で、文句なしにこの大陸でも最強最大の部隊だ。これを短時間に突き崩せる将など、呂布亡き今存在しない。

野戦陣が急速に構築される中、曹操は腰の袋に手をやり、焼き菓子が無いのでがっかりして眉を下げた。手持ちぶさたになってしまい、そわそわして周囲を見る曹操に気付いたか、さっと料理人が代わりを出してくる。

「曹操様、代わりは此方に」

「おお、すまぬな。 背が伸びるように工夫はしているか」

「え? あ、ああと、はい」

「何だ、工夫は出来ていないのか。 まあ美味いから良いがな。 というか、最近はこれがないと始まらぬのでな」

凄くがっかりしている曹操を、今回から参戦している若き俊英、司馬懿が、珍獣でも見るような目で見つめていた。

程なく、中軍の二万が渡河してくる。率いているのは徐晃で、曹操が一万しか周囲に兵を配置していないのを見て、流石に危機感を感じたらしい。無言で周囲に野戦陣を構築し、何があっても対応できるように備え始めた。

曹操も、徐晃の判断は信頼している。

だから、黙って好きなようにやらせていた。

 

2、荊州崩壊

 

言によって士大夫を殺さず。

孔子出現以降の、中華文明の伝統である。

自由な言論を許す一方で、多くの弊害をもたらしてきた風習でもあった。ただ、当時の文明としては著しく先進的な風習であり、それは高く評価するべき事であっただろう。儒家の思想が浸透した結果産まれた伝統でもあった。

もちろん政務は独裁が基本であった。だが、一種の民主的風習であったのも事実。遠くはギリシャに根付いた民主主義同様、この土地にも、公平な発言を許す風習があったのは興味深い事である。

しかし。

その悪しき面が、今荊州の首都、襄陽にて噴出していた。

蔡瑁の眼前で、文官と武官がにらみ合っている。既に曹操軍が渡河を成功させ、劉備軍が襄陽の城下に押し寄せているという連絡が来ているのに、である。文官の多くは、曹操への降伏を主張。武官の殆どは、それに反対する状況であった。ついさっきまで、襄陽の一角が反乱軍によって大混乱に陥った際も、武官達は鎮圧に動こうとしなかったほどである。幸い文聘らの将軍が鎮圧を成功させたが、造反勢力を率いていた男はどこかに消えてしまった。

軍事力で武官が文官を恫喝することは難しい。劉表がずっと作り上げてきた、言論の自由が許される風潮が、そうさせていた。かといって、文官が無理に降伏を主張しても、武官達はそれを良しとしない。

笑顔でまだ幼い新君主劉綜の側に侍っていた蔡瑁だが、内心ではうんざりしていた。劉綜に到っては、時々皆に落ち着くよう声を掛けてはいるのだが、完全に幼い君主を舐めきっている文官達は、その言葉を慎もうとはしなかった。

武力によって言論を封殺するのは、確かに野蛮で非道なことなのかも知れない。

しかし、あらゆる言論が許されると勘違いして、こんな状況でも自説を曲げようとしない文官達を見て、蔡瑁は笑顔を作ってはいても、内心は穏やかではなかった。それにしても、この短期間で、どうしてこうも状況が悪化したのか。そればかりが気になる。一体誰が、裏で動いたのか。

荊州の人脈は、あらかた蔡瑁の掌の内にあった。その確信はある。

しかし、である。いつ頃か、それが闇の中に埋もれ始めた。劉表が危篤状態になったころには、もはや誰がどういう意図で動いているのか、全く分からなくなりつつあった。

最初は曹操の細作、特に名高い林による工作ではないかと、蔡瑁は思った。

しかし今では、そうではないと思っている。それにしては、曹操軍の動きが、あまりにもおかしいからだ。

手を叩くと、流石に周囲の耳目が集まる。

静かになるのを見計らい、蔡瑁は皆を見回した。

「もはやどうにもならんな。 降伏する」

「蔡瑁将軍!」

武官の何名かが、金切り声を上げた。蔡瑁は冷静に、彼らをなだめた。

「これで戦になると思うか。 文官達は根こそぎ降伏に傾き、劉綜様の声を聞こうとさえしない」

流石に其処まで露骨に言われると、恥じ入る者も出た。何名かは、さっと宮廷から姿をくらます。その中に、親劉備派筆頭である伊籍が混じっているのを見て、蔡瑁は安心した。劉備は大嫌いだが、この乱世を生きた武人として、ある程度の心理的同調は感じる相手である。だから、これで良いと思ったのだ。

「すまんな。 劉備殿、許せ」

内心で呟く。荊州を最大限護るには、こうするしかないのである。

この状況で徹底抗戦して、どれだけ持ちこたえられるというのか。劉備に任せるにしても、文官達は多分積極的に全てを曹操に売り渡そうとするだろう。

そして無為に抵抗すれば、豊かな荊州と、そこで暮らす民は、曹操に踏みにじられることとなるのだ。

意地を通しても、意味がない以上。今、するべき事は決まっていた。

劉綜が不安そうに、蔡瑁の顔を見上げた。

「蔡瑁、降伏するのか」

「やむを得ません。 見ての通りの事態です。 この状況になっても文官達は我を通すばかりで、武官達は具体的な迎撃策も出せていません。 全てを劉備どのに任せるとしても、今の状況では難しいでしょう」

それでも徹底抗戦だと叫ぶ武官達もいた。

兵士の中にも、親劉備派は多い。彼らの気持ちも、分からないではない。

「貴公らには任せたいことがある」

「と、いいますると」

「今、魏延という劉備の配下が襄陽に来ている。 彼と一緒に、劉備と合流して欲しいのだ。 兵士の中で、劉備を慕うものも連れて行って欲しい」

「し、しかし」

この襄陽は、残念ながら護るに向いていない。その上、内部ががたがたの状態では、曹操の精鋭を前にひとたまりもない。百戦錬磨の劉備が来ても、それは同じだ。ついでに言えば、蔡瑁は把握している。その魏延こそが、先の反乱劇の糸を引いていた男であろうと。危険分子は外に出してしまわなければならない。いっそ、それを建設的に利用しようとする所が、蔡瑁のしたたかな所であった。

急いで書状を二通したためる。

一つは夏口にいる守備隊の将に対するもの。もう一つは、江夏の劉埼に対するものだ。

「ついでに、これも持っていって欲しい。 荊州が生き残るための手段は、惜しまぬつもりだ」

「これは」

「劉備将軍に渡せば分かる」

文官達が内容を知ろうとしているようだが、教えて等やらない。

それが、蔡瑁の、せめてもの抵抗であった。

三万五千の駐留部隊の内、五千が襄陽を去った。劉備もこの状況を見て、どうにもならないと思ったのだろう。民間人を避難させつつ、自分も江陵を目指して引き上げていった。江陵は土地が豊かで膨大な物資を蓄積している重要拠点である。其処まで逃げ込めば、曹操に対して、ある程度の抵抗も出来るに違いなかった。

劉備軍と、彼を慕う民が去って、半日後。

曹操軍が、襄陽に押し寄せた。

 

楽進から、襄陽の占領の報告を受けた曹操は、愛馬絶影に跨りながら、思考を巡らせていた。

状況から考えて、確かに降伏は荊州に対する一番傷が浅い。

泥を被るのを我慢できるのならば。確かに、正しい判断であった。

「気に入りませんな」

徐晃が呟く。それに対して、許?(チョ)が反論した。

「しかし、無駄に抵抗しても、農民は苦しい思いをするだけだ」

「それはそうだが。 蔡瑁という男、武人の誇りはないのか」

「俺は、蔡瑁という男を嫌いになれない。 結局、蔡瑁の考えが、一番農民への被害が小さいからだ」

「虎痴、お前は武人となっても、心は農民なのだな。 それでよい。 余の周囲には、様々な人材が集まるのが望ましい」

農民出身でも、もう思考が武人となっている徐晃。あくまで農民出身であり、いざというときは農民としての思考が前に出てくる許?(チョ)。どちらも曹操としては参考になる考え方の持ち主であり、大事なことに違いはない。

蔡瑁は恐らく、後々の時代まで嫌われるだろう。劉備が後の時代には、ほぼ確実に神格化されるであろう事とは対照的だ。多分人格面まで否定され、その存在は悪そのものとされる事は疑いない。

曹操軍が、襄陽に着く。

既に武装解除は終了しており、楽進と于禁の部隊が、周囲で油断無く展開していた。

抱拳礼をする楽進に、馬上から問いかける。

「蔡瑁はどうしている」

「降伏を主張していた文官達より先に、蔡瑁と会うのですか?」

「そやつらに関しては、徹底的に背後関係を洗え。 拷問に掛けても構わん。 まずは蔡瑁に話を聞きたい」

「分かりました」

すぐに楽進が蔡瑁を連れてくる。襄陽の城の中で話を聞こうかと一瞬思った曹操だが、内部はまだ危険がある可能性も否定できない。細作部隊を派遣して調べさせてはいるが、どうもきな臭い。外で、馬上で話を聞くのが安全であった。

許?(チョ)が油断無く周囲に眼を光らせる。蔡瑁は地面に座り、抱拳礼をした。

「そなたが蔡瑁か」

「はい」

「妙に諂わないところは評価できるな。 それにしても、長年劉表と黄祖とお前で、荊州を支え続けた功労者だというのに、降伏の判断は早かったが。 理由を聞かせてはもらえぬかな」

「それは、曹操様も知っての通り、とても戦える状態ではなかったからです。 せめて劉備将軍との連携が出来ていれば、そして文官達が不意に降伏を主張しださなければ、こういう事態にはならなかったのでしょうが」

本当に悔しそうに言ったので、曹操はむしろ感心した。こういう、変に自分を飾らない男は嫌いではない。曹操の好みを知った上でこう行動している可能性もあるが、多分無い。曹操は長年嘘をつく相手を見てきて、対応にも慣れている。どんなに上手に嘘をついていても、見抜く自信があった。

手を叩いて于禁を呼ぶ。中性的な容貌を持つ腹心は、すぐに駆けつけてきた。

「于禁よ、蔡瑁を護衛しろ。 危険がないように、念入りに監視するように」

「分かりましてございまする」

「お前は使えそうだ。 後で我が軍の官職をくれてやるから、せいぜい励むようにな」

一礼すると、蔡瑁はそれ以上は喋ることもなく、于禁に連れて行かれた。

気の毒な男である。元々調整役というのは、汚れ仕事をすることが多い。彼もあのへらへらした笑顔を浮かべながら、ひたすら嫌われてきたのだろう。そして今後の歴史でも、存在そのものを嫌われることになるのだろう。

それでも、蔡瑁は降伏を選んだ。

それは、曹操にとっても、評価できることであった。

「さて、劉備だが、どうしたものかな」

「現在調べた所、劉備軍は二派に別れて進軍しています。 本隊約一万二千は、避難民達を連れて江陵に。 約二千は、関羽が率いて、夏口に向かっている模様です。 このほかにも少数が遊撃に当たっているようですが、数は微々たるもので、恐れるに値しません」

江陵と言えば、物資の集積基地だ。劉備の軍勢が其処の物資を手に入れると、かなり面倒なことになる。

ただし、問題が一つあるとすると、劉備が連れている避難民達だ。

彼らを蹂躙しなければ、劉備軍に剣は届かないだろう。

ただでさえ悪評が積み重なっている曹操軍である。此処で、これからの天下の要になるであろう荊州で、さらなる悪評を積むと。今後の天下統一に、影響が出かねない。天下統一後に、各地で反乱が起こって秩序が崩壊などと言う事態だけは避けたい。

悪評を覚悟の上で、一気に病根を絶つか。或いは劉備に使者を出して、民への犠牲を減らす方法を提案させるか。

続々と、曹操軍は襄陽に集結している。その中で、曹操は、今だ結論を出せずにいた。

後衛の一部である張遼隊が来た。そういえば、今回鳥丸族の精鋭部隊を取り込んだ張遼軍の、実戦を兼ねた訓練をしてみたいとも思っていたのだった。

張遼を呼ぶと、忠実な猛将はすぐに来た。

「何事にございましょうか」

「うむ。 劉備が流民を引き連れて、江陵に向かっている。 お前のことだから、既に聞いているか」

「はい。 厄介な状況ですな」

「ああ、とても厄介だ。 我が軍は徐州での「前科」があるから、此処でまた流民を蹂躙すると、とんでもない悪名を背負いかねん。 そこでお前は、劉備軍の先に回り込んで、奴とその軍だけを殲滅して貰いたい」

難しい注文だ。

その上、鳥丸族の戦士達は荒々しく、非戦闘員でも容赦なく馬蹄に掛けるだろう。彼らを制御するのは、途轍もなく難しい難事業だ。

だが、張遼は頷く。

「分かりました。 やって見せまする」

「うむ。 曹純、そなたも張遼を補佐せよ。 曹洪、そなたは観軍だ。 鳥丸族に言い聞かせて、出来るだけ民への被害を減らせ」

凡庸な従兄弟と一族に、そう命令を出す。

襄陽については、楽進にそのまま抑えさせる。曹操は、徐晃を呼ぶと、告げた。冷静な徐晃にだからこそ、任せられる作業がある。

「そなたは江陵にそのまま向かい、城を落とせ。 もし張遼がし損じた場合には、そなたがその失敗を補填するのだ」

「分かりました」

「分かっていると思うが、危険な仕事だ。 あり得ないが、もしも張遼が劉備に敗退した場合、そなたの退路は無くなることになる。 細心の注意を払え」

徐晃は、曹操が驚かされるほどに慎重な用兵をする男だ。彼に任せておけば、張遼が万一に失敗した場合にも、劉備の足止めは充分に出来る。

更に、幾つか手を打っておく。

「楽進隊の内、二万を余の直属に。 余自身は、劉備を直接追撃する」

「曹操様自身が、直接、ですか!?」

「そうだ。 なにやら世間一般では劉備が愚将のように噂されているが、とんでもない話だ。 奴は余が直接相手をするのに相応しいほどの用兵家だ。 お前達では、確実に遅れを取ることになるぞ」

もっとも、今回の曹操は、単に後ろから追撃して、敵に圧力を掛けることだけが目的だ。もちろん反転迎撃を図ってくれば、その場で叩きつぶしてやるだけだが。

率いるは、虎豹騎と併せて三万。

更に念のため、曹操は張?(コウ)とその部隊を連れて行くことにした。言うまでもなく、歴戦の猛将であり、河北で手に入れたもっとも得難い男だ。これで兵力は四万を超える。

腰の袋に手をやって、充分に焼き菓子が入っている事を確認。少し甘みが強いのは、蜂蜜を多めに入れさせているからだ。色々と不安要素があるから、その最大である劉備を、率先して叩きつぶすのだ。

「曹操様」

「虎痴よ、どうした」

「何を焦っておいでですか」

「お前には隠しごとが出来んな」

苦笑すると、曹操は一つ深呼吸して、焦りを沈めるべく努力した。

もしもこの荊州攻略に失敗したら、曹操が生きている間に天下は統一できない可能性が高い。

しかし、此処で焦って失敗しては、本末転倒だ。

加速する混沌が、曹操を焦らせているのは事実。腰の袋に手をやると、曹操は焼き菓子を頬張った。

 

襄陽が降伏した事は、すぐに劉備の耳にも届いていた。

民間人達の避難を優先して行軍していたため、今だ江陵には到達できていない。しかも、悪い情報が、次々に続けて届いていた。

少し遅れて劉備軍の殿軍を努めていた陳到も、伝令が行き交っているのは見ていた。もちろん情報も、少しずつ入ってくる。

「曹操軍が追撃を開始しています。 総兵力は十万を超えている様子です」

「最悪の展開だな」

陳到は思わずぼやいていた。

劉備軍の本隊は、まだまだ江陵からほど遠い。それに対して、敵は騎兵を中心にした編成で揃え、徹底的な蹂躙を狙ってくること疑いなかった。味方はかき集めても一万二千程度しかいない。それの八倍以上の敵が、騎兵を中心に追撃してくるのだ。

まさに絶体絶命と言える。

対抗策は幾つかある。だが、そのいずれもが、有効だとは思えなかった。

あの軍師はどうしている。そう思った瞬間に、誰かが来る。魏延だった。

「陳到将軍」

「魏延か。 どうした」

「私は配下を連れて、荊州南部に向かいます」

妙な話だ。今、そのようなことをしてどうなるというのか。

思い当たるのは、あの諸葛亮の指示と言うことだろうか。今、この状況で、兵を削ることに何か意味があるのか。しかし、劉備が納得していると言うことは、何かしらの重要な戦略的な目的があるのだろう。

今此処で反対しても仕方がない。だから、苦虫をかみつぶしながらも、激励する。

「そうか、気をつけてな」

「貴方も、陳到将軍」

魏延は一礼すると、荊州南部、長沙に向かって駆けていった。

陳到の部下達に、不安が広がっていく。業を煮やした陳到は、副官に指揮を任せると、自身劉備の陣へ急いだ。

ある程度距離を置くことで、諸葛亮の采配が見られるかと思っていたのだが、不可解なことばかり起こる。むしろ混沌が加速されているようにしか思えない。

馬を走らせると、流民の群ればかりが眼に着く。いずれもが新野にいたり、襄陽にいた貧民ばかりだ。戦乱を避けて荊州に来たというのに、また大きな戦乱に巻き込まれつつある、不幸な民の群れ。

彼らをどう遇するかが、今後の勝利に大きく関係してくると言っても過言ではない。諸葛亮という男、彼らをどうするつもりなのか。

途轍もなくいやな予感がする。

まさかとは思うが。

本陣が見えてきた。劉備は一旦軍を止め、避難民を先に行かせることに終始していた。近くの山などに避難民を振り分け、必死に足を速くしようともしているようなのだが、追いついていない様子である。

陳到を見ると、劉備は手を振ってきた。脳天気なものである。

「劉備様」

「陳到将軍か。 如何した」

「それは此方の台詞です。 曹操軍十万以上が、追撃の体勢に入っていることは、聞いているのでしょう」

「うむ、それは分かっているのだが。 この様子では、どうにもならん。 まずは避難民を周囲の山里などに振り分けて、曹操軍の手から逃れさせなければならん」

妙な違和感を感じた。

劉備は、こんなにおっとりした男だったか。

そういえば、あの男。諸葛亮がいない。奴は何処に行ったというのか。

「諸葛亮は」

「江夏に向かった。 劉埼どのから援軍を借りてくる予定だ」

「まさか、逃げたのでは」

「それはない。 妻を此処に置いている」

そういえば、諸葛亮は不器量な妻を深く愛しているのだとか、聞いたことがある。顔は見たことがない。というよりも、本当に不器量なのか、疑う声もあるとか聞いている。

諸葛亮は人間味を感じない男だが、妻に対する愛情があるならば、確かに逃げたりはしないだろう。

口をつぐむと、劉備はやはりおっとりした様子で言った。

「陳到将軍は、敵の追撃に備えてもらえぬか」

「もちろんそのつもりです。 しかし、私はあらかたの軍勢を、避難民の誘導に振り分けてしまっていますので」

「そう言うと思った。 其処で、陳到将軍には、襄陽で我が軍に着いてきた五千のうち、二千を任せたい。 二千五百で、追撃を阻止して欲しいのだ」

「……分かりました。 ただ、もし私が曹操軍の指揮官であれば、先回りして頭を叩くと思います。 張飛将軍と、趙雲将軍に、注意を促してください」

諸葛亮もそう言っていたと、劉備はにこにこしながら言った。

やはりおかしい。劉備は精悍で、部下達の規範となるような男だった。

一旦自軍に引き上げると、話通り二千が回されていた。ざっと見るが、練度はお世辞にも高いとは言えず、敵の猛烈な追撃を防ぐには工夫がいる。

彼方此方を見回した後、陳到が眼を付けたのは、長坂という地形であった。

長江の支流が一つ、平原を横切っている。草深く、林もあり、身を隠すには適切な地形である。平原には草が多く、戦術的にも活用が可能な地形だ。

張飛にも伝令を飛ばす。

陳到は、此処で伏兵をすることにした。

民間人の避難が後どれくらいで終わるかは分からない。部隊を四つに分けて、陳到は一番危険度が大きい所に伏せる。この様子だと、江陵を抑えるのは諦めた方が良いかも知れなかった。

伏せていると、伝令が来た。

「張遼軍と思われる騎兵が、大きく東を迂回して、南下しています。 徐晃軍も西を迂回して、南下している模様です」

「やはり頭を抑えに来たな。 味方はどうしている」

「張飛将軍が、迎撃の準備を整えています。 しかし、避難民の誘導がまだ終わっておらず、本隊は戦える状況にありません」

「そうなると、我が軍二千五百と、張飛将軍の三千五百で、どうにか十万を抑えなければならない、ということか」

もとより趙雲は個人の武勇こそ優れているが、集団戦の指揮には向いていない。戦場では大暴れしてくれるだろうが、戦況を変えることは期待できない。関羽は今此処にはいないし、他の将官達は避難民の誘導で手一杯だ。

「曹操軍が後方に現れました! 数、およそ三万、いや四万を超えています! しかも曹操自らが、虎豹騎を率いている模様です!」

絶望的な報告に、陳到は思わず天を仰ぐ。

後方からの露骨な追撃は、多分精神的な圧力を加えるためのものだろう。恐らく本命は、前方から来る張遼軍。ただし、曹操のことだ。殿軍に隙があったら、容赦なく蹂躙に掛かってくるだろう。

しかし此方も、戦術の振るいがいがある土地を抑えた。

時間だけなら、稼げる。

 

丘の上。

細作数名に護られて、その女は状況を見つめていた。

董白。

口元を扇子で隠した彼女は、にんまりと笑む。

全て、予定通りに進んでいたからだ。

北から追撃してきた曹操軍本隊を、陳到率いる二千五百が抑えに掛かる。そして頭を抑えに来た張遼軍を、張飛率いる三千五百が抑えに掛かっていた。いずれも十倍以上の敵を相手にして、かなり厳しい情勢だが。

夫とともに計画した、予定通りの状況である。

必要なのは、劉備軍が奮戦することだ。ただ奮戦するのではない。民を護って、奮戦すること。

そして、曹操軍が、この荊州でも悪名をとどろかせること。

造り出した混沌の中で、曹操はもがく。二十万だろうが、三十万だろうが、如何に兵を連れてきていても、これだけの数の民を敵に回して、統治など旨く行きっこないのである。手の打ちようが無くなった所で、粉砕する。

後は劉備を籠絡するのを、夫がもう少し完璧にこなせば。

全ては、計画通りに進むだろう。

南で、戦闘が始まった。

鳥丸族の精鋭部隊を中心とした張遼軍が、怒濤のごとく張飛軍に攻め掛かる。それに対して、張飛軍は一旦兵を引き、そして不意に反撃に転じた。路が著しく狭く、左右に大きな長江の支流が流れている。回り込むことも、突破も難しい状況だ。

猪突していた鳥丸族の指揮官が、張飛に串刺しにされる。撤退もままならず、混乱する部隊を、張飛が思う存分蹴散らしていた。

流石は劉備の下で名を上げた猛将だ。

大きな被害を出した張遼軍先鋒が後退する。劉備軍は局地戦での勝利を重ねてはいる。しかし、全体での状況を見ると、ますます絶望的な地点に追い込まれつつある。

劉備軍は、一旦周囲の山に避難民を誘導するのを諦めたらしい。東へ、緩慢に移動を開始した。まだ十万を超える流民を抱えている状況であり、動きは著しく遅い。此処を好機と見たか、張遼軍が東に回り込み始める。

そして、それに釣られて張飛軍の主力が動いた瞬間。

張遼は精鋭を率いて、南の重要地点を突破に掛かった。

「ほう。 流石は張遼。 見事ですね」

「お嬢様。 如何なさいますか」

「捨て置きなさい」

董白は、位置を僅かにずらす。戦闘に巻き込まれると、流石に危ないからだ。

張飛軍は、張遼軍と激しい戦闘を開始した。張飛の暴れぶりは凄まじく、隘路を最大限に活用し、右に左に敵をなぎ払っている。かっての呂布を思わせる凄まじい武勇に、さしもの張遼軍の猛者達もひるんでいた。そしてひるんだ男から、片っ端から張飛の蛇矛に掛かっていく。

ついに、張遼軍の中級指揮官が、張飛の蛇矛に貫かれた。鮮血が吹き上がり、兵士達が怯えた声を挙げる。その隙に下がろうとする張飛だが、そうは張遼もさせない。押しては引き、ひいては押して、張飛を逃がさない。

そしてそうこうしている内に、張遼軍の主力が、劉備軍の横腹に食い込んでいた。

多勢に無勢。

如何に張飛が優れた武勇を発揮しても、圧倒的多数を的確に生かしている敵には、手の打ちようがないのである。

陳到も奮戦しているが、何しろ相手は曹操と精鋭虎豹騎である。熟練した戦術家である陳到だが、それでも敵の浸透を阻むので精一杯の様子だ。伏兵しやすい地形と、奇襲しやすい状況を最大限に活用してはいるが、何とか相手の進撃を抑えるのが精一杯で、それももう長時間は持たない。

劉備軍は、張遼軍を、一度は追い散らす。

しかし、二度目の突撃を受けると、ついに崩れ始めた。

わっと流民達が逃げ出し、それが混乱を加速させる。ひとたび逃げ始めた流民達は、周囲に混乱を波及させ、それは軍の秩序崩壊も招いた。血に飢えた鳥丸族達は、逃げる民を見て、殺戮本能を全開にする。そうなると、もはや張遼が如何に頑張っても、歯止めは効かない。

民に襲いかかろうとする鳥丸族の騎兵達に、横殴りに矢が浴びせられた。次々と落馬していく騎兵達。劉備が直属の精鋭を率いて、反撃に出たのだ。略奪と殺戮に眼が眩んでいた鳥丸族の騎兵達は秩序を失い、一気に突き崩される。張遼はそれを見て僅かに躊躇したようだが、それでも劉備隊に襲いかかった。激しいもみ合いが行われ、時間が吹き飛ぶようにして流れていく。

劉備の用兵は流石に見事で、張遼も簡単には突破できない様子だ。流民達が逃げまどう中、僅かに残っている兵士達が、彼らを必死に先導し、戦場から遠ざけていた。張遼隊が突撃しようとする横腹に、突入したのは、ついに敵を振り切った張飛の部隊であった。大きな損害を出しつつも、張飛は精鋭の騎馬隊を纏め上げたのである。

巨大な槌が一撃したかのように、瞬時に張遼の精鋭がばたばたと落馬していく。張飛は既に全身が返り血で真っ赤に染まっていたが、それでもまだ疲れる様子はなく、馬上で蛇矛を振り回していた。

大乱戦が続き、やがて夜が来た。

だが、曹操は追撃の手を緩めない。此処が劉備を仕留める正念場だと、恐らく決めているのだろう。既に流民達を何度か暴兵が蹂躙しているのだが、最早止めようとはしていない。被害による悪評よりも敵の殲滅を優先しているという訳だ。切り替えが実に早い。

重畳。それでこそ、曹操。それでこそ、狙い通り。

「お嬢様、此方をお使いください」

「ありがとう」

細作が白馬を連れてきたので、董白は跨ると、また移動する。冷静に状況を見ているから、安全な場所がどこかくらいは判断できる。

曹操軍は、更に増援を追加していた。後続の部隊が、次々に追撃部隊に加わっているらしい。既に総規模は十二万を超えている様子だ。これに対し、劉備軍は必死の反撃を行っているが、既に一万前後にまで討ち減らされている。流民も逃げまどうばかりで、曹操軍の方に向かってしまう者達までいた。もちろん、次の瞬間には、蝗のように飛来する矢で串刺しにされてしまう。

阿鼻叫喚の地獄の中、劉備軍は突破口を開いた。次々に逃げ出していく流民達。もう、彼らを庇っている暇も余裕もないらしく、劉備軍は総力での反撃に出ていた。血戦を続けていた張遼隊が一時退き、曹純と曹洪がそれに代わる。更に、夕刻辺りから追撃に参加していた曹仁隊も、それに加わった。どれも二線級の部隊だが、とにかく数が多い上に、疲労が少ない。

ついに、陳到隊が崩れ始めた。

「陳到将軍が限界の様子です」

「まあ、無理もない話です。 むしろ凡将である彼としては、よく頑張ったと言えるのでは無いでしょうか」

くすくすと董白が笑うと、引きつった笑みを細作達が浮かべた。

そういえば、いつからだろう。

人の死に、悲しみを覚えなくなっていた。

細作達を使い、最終的に民のための国を作る目的で、闇を操ってきた。

今回の荊州の混乱も、董白が夫と示し合わせ、荊州内に張り巡らせた闇の人脈を一打ちした結果である。

乱入した曹純隊が、非戦闘員を虐殺し始める。

劉備は民間人を先に逃げさせて、自分の家族や武将達の家族を後回しにした。それが致命的な損害を招く。

曹純隊の一部が、劉備の家族が乗る馬車を捕捉したのである。

 

乱戦の中、趙雲は魔王となって暴れ狂っていた。振るう槍は一閃ごとに敵の喉や胸板を貫き、落馬した相手を見もせず次と渡り合っている。矢が次々飛んでいるのは、趙雲の側で、ジャヤが放っているからだ。趙雲の後ろに回ろうとする騎兵は、次々ジャヤの矢に撃ち落とされた。

「どれだけいるのだ! きりがない!」

「ぼやくな」

趙雲が敵将を見つけ、一息に突き伏せる。夏候一族の将だったらしく、敵は露骨に怯み、追撃の速度が落ちた。その隙に、さっと馬首を返す。追ってくる敵を、二騎、三騎と、ジャヤが撃ち落とした。

陳到と張り合ったおかげか、もはやジャヤの腕前は、何処に出しても恥ずかしくないほどのものとなっていた。夫ながら鼻が高い。充分に背中を任せることが出来る。ただし、表情は硬い。敵の主力に、同胞である鳥丸族が多く混じっているからだろう。

やはり、まだ若い娘なのだ。脆い部分はある。趙雲が、其処は補助してやらなければならない。

「子龍! 追いつかれる!」

無言でとって返し、また敵を突き伏せた。

槍が折れた。敵兵に腕を伸ばして馬から引きずり落としつつ、新しく槍を奪う。そしてそれを振り回し、次々敵をたたき落とした。既に四本目の槍だ。鎧は肩の辺りまで、返り血で染まっていた。

「流石に面倒だな」

「どれだけ押し寄せてくるのか」

ジャヤが呻く。既に周囲に、味方は殆どいなかった。趙雲はもとより個人戦を得意とするから、昔からこういう状況はよくあった。だが、此処まで敵が強いことや、味方が不利な状況は、そう何度もなかった。

伝令が駆け寄ってくる。鎧には、何本も矢が刺さっていた。

「趙雲将軍!」

「どうした!」

「曹純軍の一部が、劉備将軍の家族が乗られた馬車を襲撃しました!」

「分かった! すぐに向かう!」

乱戦である。こういう事もありうると、分かってはいた。

もはや、此処に構ってはいられない。全速力で馬をとばす。既に星しか頼れる明かりは無く、馬もその快足を鈍らせがちであった。ジャヤが併走してくる。

「矢を受けていたのか」

「大丈夫だ。 急所は外している」

ジャヤの鎧に、血が滲んでいた。確かに急所は外している様子だが、しかし。これでは、長くは戦えないだろう。

まだ子を孕んでも産んでもいないジャヤだが、怪我をすると母となった時、子に影響があるかも知れない。呻くと、趙雲は愛馬を急がせた。前から喚声が響いてくる。どうやら曹純隊が、狼藉の限りを尽くしているらしい。

見える。

劉備の家族が乗った馬車が横転し、周囲で兵士達がぎゃあぎゃあと叫んでいた。

「下郎どもが!」

趙雲は絶叫すると、殺意の塊となり、突撃した。一方的な殺戮を楽しんでいた曹純軍の兵士達は、一瞬にして粉砕され、右に左になぎ倒される。手応えなど、まるでなかった。笑止なばかり無様な壊滅を遂げた曹純の一部隊を踏みにじると、趙雲は周囲を見回す。点々とする下郎どもの死骸の中、ジャヤが、既に馬車に駆け寄って中に声を掛けていた。

「誰かいるか! 無事か!?」

「どうだ」

「誰かいる」

小さな呻き声が聞こえた。趙雲は無言で下馬すると、馬車に力を込めて持ち上げた。小さな体のジャヤがさっと潜り込むと、中にいる影を引っ張り出す。どうにか意識はあるようだが、苦しそうだった。

糜夫人だった。他には誰もいないのか。もう一度ジャヤが明かりを手に馬車の中に入るが、すぐに出てきて、首を横に振った。馬車を下ろす。元々構造的に無理が来ていた馬車は、完膚無きまでに崩壊した。

美貌の甘夫人に対して、心優しい糜夫人は、どちらも劉備にとって大事な女性だ。趙雲は歎息すると、一つ頷いた。

「甘夫人と、お世継ぎは」

「馬車が一度留まって、その時逃げ出しました。 私は娘達と一緒に、此処に隠れていたのですが」

いないと言うことは、連れて行かれたと言うことか。

シャネスが、馬車の上に着地する。かなり傷を受けているようだが、まだ動ける様子だ。多分、連れて行かれた娘達二人の居場所を探っていたのだろう。

「私はそちらを担当する」

「分かった。 ジャヤ、そなたは糜夫人を連れて、劉備様の元へ」

「子龍! 私は戦士だ! 確かに不覚は取ったが、まだ戦える!」

「だから頼むのだ。 必ずや、糜夫人を送り届けてくれ。 信頼できる戦士であるそなただからこそ、頼む」

ジャヤが俯く。

趙雲の側で戦えない悲しみと、戦士としても認めてくれている喜びと。二つの心を、抑えきれずにいるのであろう。

ジャヤは素早く糜夫人を愛馬に乗せ上げると、自分も飛び乗り、一声掛けて東へ去る。劉備軍本隊と合流できれば、まだどうにでもなる。

シャネスは頬をごしごしと手の甲で擦っていた。

「諸葛亮の連れてきた細作どもはどうしている」

「分からない。 ただ、時々曹操の細作と、激しくぶつかり合っているようだ。 しかも、五分以上に」

「五分以上、だと」

「本当だ。 連中、本当に強いぞ」

ならば、どうしてこのような失態を犯したのか。

シャネスは顔を趙雲の視線からそらすとかき消える。趙雲は、敵が追いついてきたのを見ると、素早く愛馬に跨り、闇を駆けた。

空には星だけ。

周囲は阿鼻叫喚。虫たちでさえ眠る時間だというのに、人間どもだけは殺し合いに興じている。何というどうしようもない生き物だと、趙雲は自嘲した。自分のその一人なのだから。だが、武人であると言うことに、誇りも持っている。だから、今はその誇りを胸に、平原を駆ける。

陳到も張飛も頑張っているが、しかしあまりにも数が違いすぎる。時々出くわすのは、敵の部隊ばかりだ。片っ端から突き伏せ、打ち崩し、追い払う。敵将もたまに見かけるが、流石に守りが堅い。時々は趙雲も避けていかなければならなかった。

走れば走るほど、戦いになる。体力がどんどん奪われていく。傷も増える。いつ、大きな傷を受けてしまうかも、分からなかった。

聞き覚えのある鈍い悲鳴。馬を寄せると、簡雍だった。丁度敵将の槍を受けて、落馬した所である。もとより簡雍は武勇の将ではない。だから、勝ち誇っている敵将は何処か滑稽だった。護衛の兵士達も連れているが、趙雲には関係ない。

そのまま突貫。どうやら李典配下の将であったらしい。兵士達は趙雲を見てわっと逃げ散り、敵将は趙雲と戦おうともせず逃げ出す。簡雍は、月明かりの中、趙雲を見て仰天したようだった。

「助かった。 しかし趙雲、そなた」

「私がどうかしたか」

「真っ赤だ。 全身」

ああ、そうか。

それで、敵が逃げ出したのか。

そういえば、鎧からしたたり落ちているのは返り血か。この様子では、多分臓物や何かも浴びていることだろう。

血の臭いも、完全に麻痺してしまっていた。

戦場の英雄の、飾らぬ姿がこれであった。

だが、何かを感じ入っている暇はない。今は一刻も早く、甘夫人と嫡子の安全を確保しなければならないのだ。

「甘夫人を見かけなかったか、簡雍どの」

「見た。 しかし……」

「何かあったか」

「ああ。 先ほど、少し先の古寺に逃げ込むのを見た。 だから儂は、敵兵の眼を引こうと、此処で頑張っていたのだ。 所詮武芸など学んでもいない老いぼれだから、この様であったがな」

妙に歯切れが悪い。まさか、致命傷でも受けていたか。

趙雲は東の方角を教えると、生き残って集まってきた兵士達に簡雍を任せ、自身はその古寺とやらに急ぐ。胸騒ぎがしてならない。

周囲の喚声は、徐々に小さくなってきている。味方が掃討され、組織戦が難しくなってきているのだ。陳到と張飛の頑張りにも限界がある。ましてや、混乱する流民達を抱えている劉備軍本隊は、何処までがんばれるというのか。

入り組んだ荒れ地の中を走り回り、見つけた。

古寺は、血の臭いがした。兵士が何名か立てこもっていたようで、趙雲が境内にはいると飛び出してきた。見覚えのある顔が散見できる。

「趙雲将軍!」

「奥方は無事か」

「あ、あちらに」

一番年かさの兵士が、歯切れ悪く、奥を指さした。

馬を下りると、趙雲は走る。避難民達が、返り血で真っ赤に染まっている趙雲を、化け物でも見るかのように見つめた。後を着いてくる兵士に、趙雲は言った。

「これから、恐らく敵の追撃が、私に集中する。 お前達は避難民を連れ、南に逃げよ」

「しかし、劉備様は、東に向かわれたのでは」

「避難民を安全圏に送り届けてから、その後のことを考えるのだ。 劉備様を追うなり、離散するなり、そなた達の好きなようにせよ」

「我らの主は、劉備様を置いて他にありません!」

若い兵士が、血を吐くようにして言う。彼には見覚えがある。汝南で山賊をしていて、劉備の配下に入ってから、徐々に人間らしくなってきた男だ。頷くと、肩に手を置き、皆を頼むと趙雲は言った。

寺の奥にはいる。やはり血の臭いが酷い。

明かりを入れて、そして見た。

甘夫人が、奥で横になっている。そして、皆が口をつぐんだ理由が、よく分かった。

脇腹に、矢を受けている。

どう見ても、致命傷だった。

甘夫人は、幽州のころから劉備を支えてきた、陰の立て役者の一人だ。使用人として使え、妻になってからは劉備の心を支え続けた。出身の階級が低かったため、側室としてであったが、糜夫人とともによく劉備の支えになっていたのを、趙雲も知っている。

口惜しさに、趙雲は呻いていた。

甘夫人は、顔を上げると、蒼白なまま手を伸ばしてくる。

「趙雲将軍」

「甘夫人!」

「息子を、阿斗を頼みます。 其処に、おりますから」

無造作に側に置かれている包み。中には、こんな時にも安らかに眠っている、劉備の嫡男の姿があった。

趙雲が阿斗を抱え上げた時。

既に生命の限界を超えていたらしい甘夫人は、もう動かなくなっていた。

もとより、体が強い人ではなかった。それでも、趙雲が来るまで、耐えてくれたのだ。その驚異的な精神力は、武将達になんらひけを取るものではなかった。

周囲で、兵士達が泣いている。彼らを責めることは出来ない。実際、将官である簡雍でさえどうにも出来なかったのだ。趙雲は、兵士達に言って甘夫人を葬らせる。簡単な土葬しか出来なかったが、野ざらしにしていく訳にはいかなかった。

涙を乱暴に拭うと、最年長の兵士が叫ぶ。

「趙雲将軍、せめて後ろを護らせてください!」

「ならん。 人数は出来るだけ絞らなければ、敵の注意を引いてしまう。 私が東に突破するから、すぐに避難民を連れて南へ行くのだ」

「し、しかし」

「私のことなら心配するな。 この趙雲、老いたりといえど関羽どの、張飛どの以外に遅れを取る相手無し! ましてや今は、甘夫人の加護もある! 例え羅刹や夜叉が襲い来ようと、必ずや退けてみせる!」

馬に跨る。

よくしたもので、既に古寺の周囲には、敵が集まり始めていた。

趙雲は手始めに彼らを蹂躙すると、東に向け、殺戮と破壊の矢となって、飛ぶように駆け始めた。

 

3、東へ

 

夜通しの戦も、徐々に曹操軍が有利になりつつある。十二万に達する軍勢で、終夜の追撃戦を続けていた曹操軍も、そろそろ掃討戦に移りつつあった。

頑強に抵抗した陳到軍も、もはや散り散りである。まだそれでも一部が抵抗を続けているが、戦線は確実に下がっている。張飛軍もそれは同じで、味方の被害は増えているが、それ以上に敵の損害比率は大きくなりつつあった。

新手を次々に繰り出しながら、曹操は欠伸をかみ殺す。流石にこう激しい戦を夜中続けると、年齢的なこともあり、疲弊が著しい。時々焼き菓子を頬張って疲弊を緩和しているのだが、それも追いつかなくなりつつあった。しかし大っぴらに欠伸をしているようでは、周囲で死闘を繰り広げている部下達を馬鹿にするも同然である。だから、必死に眠くないふりを装わなければならなかった。

ただ、生理反応までは我慢できない。

「小便をしてくる。 何かあったら、後ろから声を掛けてくれ」

「分かりました」

近くに、敵が伏せておらず、周囲に敵がいない草むらは確保してある。

曹操は小便をしようとその草むらに歩み寄り、気付く。遠くで、味方の掲げている松明が、不意に乱れたのだ。

誰かが、猛烈な突破戦を仕掛けている。小便をするのを忘れて、闇の中を走り抜けているだろう敵の殺気を、曹操は感じ取っていた。凄まじい使い手が、暴れ回っている。味方の不甲斐なさよりも、敵の鋭さの方に興味が動く。

小便を済ませると、絶影に跨り直す。周囲も、謎の勇者に、気付き始めている様子であった。

「なにやら、敵の勇者が、我が軍の陣を突破に掛かっているようだな」

「すぐに確認いたします」

曹洪が走り出す。

張遼隊に混じって戦っていた曹洪も、今は曹操軍本隊に合流していたのだ。それだけ乱戦の推移が激しく、猛烈な追撃戦だったという事である。

曹洪はすぐに帰ってきた。そうこうしている内にも、味方の乱れは更に加速していた。日中ではなく、夜間だと言うことが、蹂躙を許している理由でもある。もしも日中であれば、ああも好き勝手はさせず、味方は上手に敵を包んでいただろう。

「分かりました! 敵は趙雲! 字を子龍という者らしいです」

「ほう。 公孫賛の配下で活躍し、劉備軍でも勇者としてならした男だな」

「こうしてみると、凄まじい武勇です」

「うむ、敵ながらほれぼれする腕前よ」

許?(チョ)が淡々と言ったので、曹操も同意して頷いた。周囲が戦慄している中で、曹操は忙しく焼き菓子の袋に手を突っ込みながら言う。

「欲しいな」

「焼き菓子ならば、今追加を焼いております」

「そうではない、虎痴。 趙雲という男、是非捕らえて余の幕下に加えたい」

「それは難しいかと思われます」

今まで黙っていた張遼は言う。趙雲という男、武人という文字が人間となったような存在であり、捕らえても配下に下る可能性はないだろうとも。

別に、張遼に言われるまでもなく、そんな事は分かっている。だが、其処でも無理を通したいのが、曹操の立場だ。人材は幾らでも欲しいし、敵の勢力は削れる時に削っておきたいのである。

「それならば別にそれでよい。 劉備の配下に、あのような武人がいなくなるだけでも、ある程度余には良いことだ。 更に言えば、関羽の時の失敗は二度と繰り返さぬ。 どんな武人でも、余の下に屈させてみせようぞ」

「そこまでいうのでしたら」

張遼は、周囲の部下達に声を掛けると、真っ先に平原を駆け下りていった。恐らく、自分が直接出ることで、少しでも被害を減らすためなのだろう。

曹操は自身も虎豹騎を連れて、少し前進する。

丁度趙雲は東へ抜けようと、窪地を全力で駆けている。味方は松明を掲げていて、動きが一目瞭然だ。趙雲は薄い盾を撃ち抜く弩を思わせる勢いで、それに対して混乱する味方は褒められたものではなかった。

張遼が仕掛ける。無数の松明が、闇夜を食い破る大蛇のように蠢いた。

趙雲は流石に正面からの戦いを避けたようで、松明の群れが蛇行しながら東に行く。張遼は多分先頭にいるのだろう。松明が何度となく乱れ、闇夜に舞った。遠くから見ていると美しいが、明かりの下で血戦が繰り広げられていると思うと、楽しむことは出来ない。

手に汗握る追撃戦。曹操も心を躍らされる中、事件が起こる。

不意に、先頭の松明が落ちたのだ。

「ああっ!」

「張遼将軍が!?」

「いかん、すぐに確認せよ!」

曹操も流石に慌てた。すぐに伝令が来て、張遼は無事だと連絡が来た時には、思わず天を仰いでため息をついてしまった。ただし趙雲の槍を受けて落馬しており、すぐに前線には立てないという。

「よ、良かった」

「諦めませぬか。 捕らえるなどと、簡単に言える相手ではありませぬ」

「しかし、許?(チョ)。 そのまま見逃すにはあまりにも惜しい大魚だぞ」

「このままでは、張遼将軍だけではなく、もっと多くの人材を失いかねません」

許?(チョ)がそう言うと、流石に曹操もめげざるを得ない。しばらく腕組みして、虚空に向けてぶちぶち文句をごねたが、許?(チョ)の厳しい表情に代わりはなかった。時々表情を伺ったが、許?(チョ)は口を引き結んだままである。

程cが咳払いする。

「今、前線の兵士達から連絡がございました」

「如何したか」

「張飛、陳到が合流、劉備軍本隊が態勢を立て直し、東で決戦を挑む態勢を整えつつあります」

其処に趙雲が逃げ込むと、かなり面倒なことになりそうである。

それに、趙雲が今更無理な突破戦を挑んできていることも気になる。曹操は大きくため息をついた。

「やむをえんな。 手段は選ぶな。 捕らえられたら重畳、それがかなわねば殺せ」

「分かりましてございまする」

闇に控えていた、騎馬隊の指揮官達が頷く。

そして、馬蹄をとどろかせ、坂を下って加速し始めた。

 

敵の雰囲気が変わった。

鎧の下に阿斗を抱え込んだ趙雲は、肌でそれを感じ取っていた。今までは捕縛しようとしていた所に、殺気が加わっている。逃がすくらいなら殺せと、曹操が命令を下したのは疑いない所である。

既に敵は後方から殺到する形になっている。それに対して、愛馬は疲労が酷くなりつつある。

加えて言えば、空がそろそろ白み始めており、いつまでも闇夜を利用して敵を翻弄するのが難しくなりつつある。今までは味方にも盾にもなってくれていた闇だが、今後は丸裸も同然になると言うことだ。

追いすがる馬蹄が荒々しさを増す。鳥丸族の精鋭が、本気で殺しに来た証拠だ。此方も万全の状態であれば大暴れしてみせる自信があるが、懐に阿斗を抱えている上に、逃げる態勢である。追いつかれたらおしまいだ。

鋭い勢いで、前に出てきた騎馬がいる。張?(コウ)麾下の一騎らしい。鉄球を振り回して、動きを封じようとしてきているのが分かった。

鋭い勢いで飛んでくる鉄球を、伏せてかわしながら、槍を繰り出す。喉を貫かれた敵騎は、落馬して果てた。

再び、また一騎前に出ようとする所を、槍を振り回してたたき落とす。右に左に避けて、後ろから飛んでくる槍を受け流す。だが、それでも何度か鎧にかする。叩かれる。全身にじわじわと蓄積していく痛みは、既に我慢が難しい所まで来ていた。

懐で悲鳴に近い鳴き声を上げ始めている阿斗も、いつまで保つか分からない。このままだと息を吸えなくなって、死んでしまうかも知れない。趙雲は一声吠えると、賭けに出た。不意に南へ転進すると、小川を馬術の限りを尽くして飛び越えたのである。

敵も次々と続いてくるが、当然何騎かは失敗して川に落ちた。

僅かに減じた勢いだが、しかし敵も黙ってはいない。矢を放ってくる。数本を撃ち落とすが、鎧にも突き刺さった。二本、三本。急所は外れているが、全身への痛みは、更に倍加していく。

追いついてきた敵を、再びたたき落とす。

無常にも、地平の端から太陽が上がりつつあった。

「趙雲将軍、見参っ! 大人しく縄に付け!」

叫んで追ってきたのは張?(コウ)だった。趙雲は最早笑みを浮かべる余裕もなく、まともに挑戦を受ける気力も残っていなかった。

そもそも馬上での戦闘は、如何に相手の背後に回るかが重要になってくる。背後から追われている状況では、そもそも戦いが成立しないのである。それでも、趙雲は絶倫の武勇を振るって、此処まで走り抜いてきた。

張遼をたたき落とし、敵将も十人以上斬った。だが、たまり果てた疲れが、そろそろ全身に疲労の限界だと告げ初めてもいる。

ただ、ひたすらに走る。張?(コウ)が後ろで何か叫いているが、最早相手にしている暇も余力もなかった。

見えてくる。橋。

橋の上にいる、誰か。

張?(コウ)が、驚いて手綱を引く雰囲気。

どっと押し寄せてくる鳥丸の軍勢が、一斉に弓を引いているのが、分かった。戦闘の果てに、極限まで磨がれた神経が、全力で逃げろと告げてくる。趙雲は、橋へと走りながら、前にいる頼もしき味方へ叫んでいた。

「張飛どの!」

「応っ!」

言葉は、それ以上、不要。

張飛は、全力で、趙雲の背中を護るようにかけ出す。

そして、鳥丸族騎馬隊の中に躍り込むと、周囲全てが敵と言わんばかりに、殺戮と破壊の権化と化した。

それだけではない。

橋の向こうには、ジャヤもいた。きりきりと音を立てて、弓を引き絞るジャヤ。一矢、放つ。追いつこうとしていた敵が、馬上で悲鳴を上げ、落ちるのが分かった。

「子龍! 早く橋を渡れ!」

「すまん! 任せるぞ!」

まだ、懐の阿斗は温かい。動いている気配もある。

背中に何本か刺さっている矢が、今更ながら痛み始める。だが、妻の脇を駆け抜けた趙雲は、張飛と妻が必ずや敵を防ぎ、生還していることを確信できていた。

馬が、悲しく嘶く。そろそろ限界だというのだろう。

周囲に、既に敵影は無い。

趙雲は、甘夫人の最後を思い、大きく歎息した。

味方の兵士達も、無傷な者は殆どいない。手ひどい敗戦である。ただし、さっきの地形を利用すれば、かなりの長時間敵を抑えることが出来るだろう。また、流民の避難も、ほぼ完了している様子だ。逃げるだけなら、支障はないだろう。

劉備を捜す。

先に、陳到を見つけた。

「趙雲将軍! 無事であったか!」

「なんとか、かろうじて。 劉備様は」

「奥にいる」

鎧から阿斗を出すと、何度か揺すった。どうにか生き残った阿斗は、さっきから泣き続けている。乳が欲しいかおしめを濡らしたか、或いは血の臭いが怖いのか、分からないので非常に困る。この年になっても、趙雲は子育てにあまり関わったことがない。ジャヤには子供がまだいないし、戦場ばかり駆け回っていて家庭にいた試しがないからだ。妻帯するのも、ジャヤが初めてなのである。

陳到に伴われて奥へ。陳到は周囲を見回しながら、状況を説明してくれた。

「わずか一晩で、三千を失った。 敵も同数以上の損害を出したようだが、損害比率からすると完全に負けだ。 私の部隊は特に大きな被害を出してしまった」

「いや、あの状況で、それだけの被害で済んだのだ。 見事と言わざるを得ないだろう」

「気休めはいい。 更に言えば、もう一度総攻撃を受けたら、もう支えることは不可能だろう」

確かに、もう一度曹操軍が態勢を立て直して攻撃を仕掛けてきたら、どうにもならない。味方は一瞬で蹴散らされるだけである。

まだ味方は八千を超えている。

しかし、それは軍の残骸に過ぎない。殆どは負傷者であり、継続戦闘能力など有してはいないのである。

兵の一割を失うと敗北と見なすのは、その数倍の負傷者が出るからだ。

凄惨な有様を横目に、趙雲は歩く。虚空に手を伸ばしている阿斗は、やはりぐずり続けていた。

劉備は、いた。

岩に腰掛けて休んでいたが、趙雲を見るとはたと立ち上がり、駆け寄ってきた。白々しく、朝日が周囲を照らす。阿斗は泣きやむ気配もない。

「趙雲将軍! 無事で、無事であったか!」

「も、申し訳ありません」

甘夫人がいない。それで、劉備も事情を悟ったのだろう。

ただ、劉備は跪いた趙雲の前で立っていた。

二人とも、発する言葉など、無かった。

 

橋の上に立つ張飛は、魔神としか思えなかった。

既に百騎以上が屠られている。しかも狭い橋であり、周囲が入り組んでいるので狙撃も出来ない。

曹操軍十万以上が、狭い橋の前で足止めを喰らってしまっているのだ。

もとより張飛は優れた将軍で、作戦指揮能力も高い。武勇でそれ以上に名を知られているが、本来の姿は戦術家であると言える。その張飛が、戦術の全てを捨てて、己を置き石と使うことにより。洪水がごとき曹操軍の追撃を止めてしまっている。

既に三刻以上。

ついに、話を聞いた曹操が前線に出る。

張飛は、疲れた様子も見せず、馬上で蛇矛を構えたままである。時々血の気が多い騎兵が突きかかっていくが、次の瞬間には斬り倒され貫かれて河に没してしまう。河を渡ることが出来る場所は他にもあるのだが、あまりにも遠い上に、路が険しく、奇襲を受ける可能性が高い。

張飛は吠えるようなこともなく、静かに橋の上に居座っていた。

恐らくは、極限まで消耗を抑えているのだ。必要な時だけ動くために。獣のような戦闘本能で体を制御して、それを可能としているのだろう。

「ふむ、困った事だな」

「お下がりください。 張飛の後ろに、狙撃手がいます」

「うむ、あれは鳥丸の女か? 良い腕をしているようだが」

「さっきから、張飛を狙撃しようとした兵が何名か射倒されています。 近付きすぎると危険です」

許?(チョ)がそわそわしているくらいなので、本当に危険なのだろう。もう二歩下がる。

虎豹騎の精鋭でも、どうにも出来ない状態だ。あれさえ突破できれば、劉備軍にはとどめを刺せるのに。全くもって惜しいとしか言いようがない。

この大陸に、曹操は、平和をもたらしたいと考えている。それは力と秩序によるものであって、万民の安らぎとは関係がない。制御され、統率された平和だ。それこそが、大陸の繁栄を産むと、曹操は確信している。

だが、それを力が邪魔しようとしている。

人間としては極限であっても、軍を前にしてはあまりにも貧弱なはずの力が、である。

皮肉な話だ。この国で最大の兵団を従えていた袁紹さえ倒した曹操だというのに。この条件は、あまりにも限定されすぎている。故に、最強の軍団を従えている曹操でさえ、どうにも出来なかった。

見かねて前に出たのは、張?(コウ)であった。許?(チョ)と二人がかりなら、あの魔神をどうにか出来るかも知れない。

ただし、どちらも無事では済まないだろう。命を捨てて掛かっても、どうにか相打ちに持ち込めるかどうか。

「ご決断を、曹操様」

「む、確かに、今はそれしかないのかも知れぬが」

「我らの命、活用してくださいませ」

「……待て」

曹操が右手を挙げる。

歴戦を経てきた、だからが故に。曹操は気付く。やはりどこかがおかしいと。そして、張飛はむしろ、曹操が大きな手札を使い捨てる事を期待しているのだと。多分張飛は、此処で曹操の重要な手札をむしりとって死ぬつもりだ。そう、曹操はついに看破した。そうなると、そんな誘いにわざわざ乗ることはない。

曹操の宝は、何より部下達なのだ。

張?(コウ)も許?(チョ)も、どちらも得難い男である。このような所で使い捨ててはならない。

何より、此処で時間を無駄にすることの意味はない。少し遠回りになっても、大岩があるなら迂回していけば良かったのだ。

「張?(コウ)、工兵を派遣し、上流、下流に何カ所かずつ、橋を架けさせよ」

「しかし、大回りになってしまいますが」

「かまわん。 これ以上、時間を無駄には出来ん。 急げ!」

兵士達が左右に散り始める。曹操は一度張飛を見つめると、聞いてはいないかも知れないと思い無いながらも、呼びかけた。

「関羽からそなたの話は聞いていた。 見事な武勇、感じ入った!」

「……それはありがとうよ」

「そなたの名は、千年先まで、その武勇とともに語り継がれるだろう! 誇るが良いだろう、この曹操とその精鋭を、単騎で追い返したことを!」

張飛は追ってこなかった。橋の上にいるからこそ、大軍を一人で迎撃できていたことは、分かっているのだろう。豪傑ではあるが、やはりこの男は戦術家だった。勝算があったからこそ、この大ばくちに出ていた、という事だったのだろう。

ほどなく、上流下流に三箇所ずつ、急あしらえの橋が造られた。

その時には、橋から張飛の姿は既に亡く、彼がいた橋には火が掛けられていた。

曹操には、もはやどうでも良いことであった。

新しく作った橋を越え、橋頭堡を確保すると、曹操は指揮剣を振るい上げる。

「もはや劉備は瀕死だ! 奴さえ葬れば、もはやこの天下に、曹操の前を遮る用兵家は存在しない!」

「殺っ!」

無数の叫びが唱和する。

そして、哀れな鹿に犬でもけしかけるように。曹操は彼らに対して、進撃を命じた。

たちまち大地が蹂躙の怒濤に晒された。

曹操は第二陣に入ると、追撃態勢に入った味方を支援する。細作達が、この時になって戻ってきた。

馬に併走する細作が、曹操に少し大きな声で言う。

「ご注進です!」

「うむ!」

「江東の孫政権が動き出しました! 兵力はおよそ五万! 柴桑に水軍が集結しつつあります!」

更に報告が続く。

曹操は手綱を緩めながら、眉をますますひそめた。

「江夏、夏口の荊州軍、劉備の指揮下に入った模様です! 併せておよそ四万が、迎撃の態勢を整えつつあります!」

「……併せて九万、いや劉備配下の精鋭の実力を考えるに、現在の余の軍勢とほぼ互角か」

それでも。

まだ逃れ得ていない劉備を捕捉できれば、曹操の天下は確定したとも言える。周瑜はお世辞にも戦上手とは言えず、江夏も夏口も、所詮は荊州の中での精鋭だ。黄祖が生きていればともかく、若造の劉埼程度など、曹操から見ればひよこも同然だ。

劉備さえ仕留めれば。

そう思った曹操は、さらなる追撃の強化を指示。自分も最前線に躍り出ると、絶影を駆って雄叫びを上げた。

「劉備を仕留めよ! 奴さえ倒せば、天下統一はなったも同然だ! 奴の首を取った者は、一兵卒でも将軍にしてやるぞ!」

「曹操様!」

側に馬を寄せてきた程cが、必死に指さす。

曹操は見た。

どこまでも広がり、美しい輝きを見せる長江を。

そして、その岸に到るまで。劉備は存在していなかった。

「張飛が時間を稼いでいる間に、逃げられたようです。 今頃奴は、夏口か江夏にいることでしょう」

「むしろ、後方の拠点の状況が気になります。 隊列も伸びきっていますし、今はこらえる時です。 このままでは、周瑜にさえ遅れを取る可能性があります!」

荀ケも言う。曹操は歯がみした。

どうやら、張飛個人の武勇に、全てを台無しにされてしまったらしい。しかも曹操は、挑発に危うく乗ってしまう所であった。

長江は美しい。自然の、圧倒的なあるべき姿のまま、ただ静かに流れている。

全軍を停止させると、曹操は大きく息を吐き出したのだった。

「やむを得ん。 一旦襄陽まで戻って、再編成を行う。 江陵と、荊州南部の制圧に取りかかれ。 劉備と江東の処理は、その後だ」

黒いもやが、曹操の心を覆っていく。

どうやらこの戦は負けるらしい。そんな自嘲的な予感が、拡大を続けていた。

 

4、赤壁

 

荊州の物資集積地点である江陵の降伏を受け容れた徐晃と、南部地域の制圧を行った韓浩と合流すると、曹操は一旦襄陽に戻った。

宮廷にはいる。あまり華美ではないが、それなりの設備が整っていて、何より作りが大きくて歩きやすい。柱にはそれなりに丁寧な彫刻が施されているし、木張りの床には埃も積もっていない。侍女や侍従の教育も良くできていて、劉表が死んだ跡も、文官達の権力闘争を止めさせてしまえば宮廷は完璧に動く様子であった。

曹操は細作達に徹底的な調査を命じさせた後、主要幹部を引き連れて会議室に入った。

荊州攻略に参戦している幹部は、あらかた既に集まっている。曹操は最上座に着くと、皆の顔を見回した。

連れてきた二十万の兵は、各地に分散させている状態であったし、なにより態勢を整えた劉備は四万を超える兵力を手にしている。江東も去年の黄祖に対する敗北でかなり兵力を消耗していたが、細作の報告によると状況が変わりつつある。今年実行した山越への討伐と称する人狩りでかなり戦力を回復しており、併せて敵の兵力は十万を超えることが予想されていた。

だから、曹操は各地の守備隊のみのを残して、一旦兵力を集結させたのである。

襄陽で王座に着いた曹操は、まず旧荊州政権の整理から行っていた。劉表の跡継ぎであった劉綜は、既に青州へ移動済み。もう少し年を取ったら、青州太守として使い殺しにする予定である。また、何名かの文官と、蔡瑁についてはこれから直属として使うことにして、許昌へ移動させた。

荊州は長いこと独立政権を維持し、なおかつそれを的確に回していたため、文官、中間管理職は非常に優秀であった。利権さえ取っ払ってしまえば曹操が満足する段階での活用が可能だったほどである。荊州は平和が長すぎた。劉表が平和な時代の統治者としてはあまりにも優秀すぎたのだ。故に文官達はその能力を腐らせ、政争にのめり込んでしまった。

此奴らは曹操が今後きちんと活用していけば良い。

問題は、軍事であった。

「では、徐晃。 報告して欲しい」

「はい。 江陵を落としてみてはっきり分かったのですが、この荊州は恐ろしい状態に陥っています」

「恐ろしい状態とは」

夏候惇が皆を代表して言うと、徐晃は頷いた。

「荊州の兵は十万前後。 我が軍に下った兵が六万、劉備が抑えた兵が四万という所なのですが、この六万の内二万から三万に、劉備の息が掛かっていると思われます」

「何っ!」

「摘発しようにも、数が多く、あまりにも念入りに組み込まれているのでどうにもならない状態です。 恐らく降伏を由としなかった将官の殆どが裏で協力していると思われ、将達を斬った所でなんら解決には結びつきません」

侵攻軍は二十万だが、そのおよそ一割の裏切り者が、内部に潜んでいると言うことだ。

豊かな土地だと思ってみれば、内部は虫食いだらけだったと言うことである。流石に劉備も、七年も惰眠を貪っていた訳ではない、という事だ。

更に悪いことがある。

続いて起立したのは韓浩だった。

「更にもう一つ、悪い話がございます」

「韓浩将軍、それは何か」

「はい。 長坂での戦いで、我が軍が民を無慈悲に虐殺したという情報が流れ始めており、一部では反乱の兆しまで見え始めています。 このままでは、荊州を抑えるだけで精一杯、主力が駐屯を止めたら即座に大火事に発展しかねません」

夏候惇を始め、誰もが押し黙った。

降伏した兵の半分が劉備の間諜に等しく、更に今や中華の何処の州よりも人口が多い荊州で、未曾有の民衆反乱が起こったらどういう事になるか。

更に、夏候淵が皆の心中を代表するようなことを言う。

「とんでもない土地を抱えてしまったな」

「しかし此処を抑えなければ、天下統一はならないぞ」

「だが、劉備と江東もどうにかしなければならない状況だ。 せめて、もう十万の増員はならないのだろうか」

「無茶を言うな。 今回の動員でも、かなり兵站が厳しいのだぞ。 韓浩将軍が進めてくれている屯田がなければ、今の兵力でさえ、維持する事は難しいのに」

わいわいと勝手なことをほざく諸将を、夏候惇がなだめる。

正直な話、曹操も最悪の状態を想定はしていた。相手は劉備だし、七年も荊州に居座っていたのだ。ただ何もせず、日々を送っている訳がないとは思ってもいた。

だがこれは、想像を超える事態である。

まだ、議論は続いている。夏候惇が抑えようとしているが、どうも上手く行っているとはいいがたい。

「兎に角、今は兵の中の裏切り者をあぶり出しながら、少しずつ治安を維持していくしかない」

「だが、それでは江東と劉備を勢いづかせるだけではないのか。 それに降伏した兵を処刑したりすれば、民も不安を抱く。 反乱を起こす連中は更に増える可能性が高いぞ」

「仕方がないことだ」

曹操は今まで、天を駆けるような速度で天下統一に邁進してきた。現にこの荊州攻略作戦も、河北を落としてから、一年しか経っていない状態で実施しているのだ。将軍達の中には、今回の戦いに参加したくないと零す者がいたとも聞いている。今、軍議で、それが苛立ちとなって噴出している感がある。

焼き菓子を頬張って、少し落ち着く。どのみち、二十万に達する軍勢を出撃させているのである。失敗した場合の傷は計り知れない。今までも何度となく敗戦は経験しているが、それでもこれほどの規模の兵団が完敗する所は見たことがない。どれほどの被害が出るのか、想像もつかない。

曹操はけんけんがくがくの議論を見つめながら、思う。

やはり、何かがおかしいと。

林を使うべきだったかと、曹操は一瞬だけ後悔した。今西涼と漢中を探らせている林がいないのは、やはり大きい。細作にはどうしても傑出した能力を持つ者が必要で、漢中に手を焼いたのもそれが原因だった。

いずれにしても、質が足りないのなら、量で補うしかなかった。

幸いにも、曹操の配下は質がとても充実している。大体の仕事はこなせる者が、幾らでもいる。

「于禁」

「はっ」

議論にうんざりしていたらしい于禁が立ち上がり、抱拳礼をする。それと同時に、場が静まりかえった。

「お前は細作達を使い、周辺を調べよ。 何かがおかしい。 それを突き止めよ」

「何か、とは」

「荊州に侵攻してから、何もかもが余に不利なように動いているとは思わぬか。 荊州の民の動きにしても、文官と武官の分裂にしても、劉備を取り逃がしたことにしても、そして今、荊州の維持さえ危うくなっている事についてもだ」

糖分を頭に入れたことで、冴えてきている。

そうだ。いくら何でも、この状況はおかしい。何かとんでもない化け物が、状況を操作しているとしか思えないのだ。だが、曹操は力を持っている。化け物に、やられっぱなしでは済ませない。弱者は超常的な力に怯えるだけ。強者はそれに立ち向かい、打ち砕く。

この中華に、神はいない。

儒の普及と供に、宗教は消えた。民間では五斗米道などの形で残っているが、知識層で神を信じている人間などいない。

だから、曹操は結論する。

化け物とは、人間だ。どんなに優れていても、それは神や妖怪ではない。何かとんでもない輩が、今荊州で動いているのだ。

「分かりました。 必ずや突き止めまする」

「気をつけろ。 敵は林に匹敵する怪物かも知れん」

「それほどの存在ですか」

「今までの状況を考えてもみよ。 余をこれほどに振り回し、好き勝手に状況を動かしている奴がいるとしたら。 それくらいの存在だと考えなければ、釣り合いが取れぬ」

立ち上がる曹操。背は低くとも、歴戦の勇士達を圧倒するに相応しい気迫が、周囲に迸った。

「余はこれより、天下に決戦を挑む!」

「おおっ!」

武将達が立ち上がる。冷静な徐晃までも、眼に熱気を宿している。

当然だ。今此処にいるのは、曹操が率いてきた猛者達。歴戦を供にし、そして今、天下に手を掛けようとしているのだ。

「江東の孫一族を叩きつぶせば、余に対抗できる勢力は存在しなくなる。 荊州で蠢動している連中が動くより早く、江東を降伏させ、天下の帰趨を此処に決める!」

喚声が爆発した。

曹操は、賭けに出た。人生でも、最も大きな。

 

江夏にかろうじて逃げ込んだ劉備は、かねてより交流を作っていた、劉表の息子劉埼と対面することに成功した。陳到は劉備が江夏城の奥に劉埼と行くのを見届けると、自身は一人で外に出た。

劉埼は善良な青年で、荊州の跡継ぎとしては申し分のない素質を備えているように、陳到には思える。体が弱い事が欠点だが、それなりに気力はあり、戦場に出向く勇気も持ち合わせている。事実、黄祖が死んだ跡も江東に対して隙を見せず、江夏を見事に護りきったのだ。

跡継ぎになれなかったのは、劉表の急な昏倒と、荊州政権内での暗闘が原因だ。それを思うと、痛ましくもある。話に聞くと劉綜とは仲も良かったと言うことで、なおさら痛ましい話であった。

外に出て、城壁に上がる。一面の長江。あまりにも巨大すぎる水の流れが、視界の全てを覆っている。鍛えた兵士の何割かは、もうこの光景を見ることが出来ない。

「此処にいたか、陳到どの」

「趙雲将軍か」

二言三言話した後、趙雲が顎をしゃくる。

港には、江東から来た船が停泊していた。龍を象った船首を持つ、威圧的な闘艦であった。

「周瑜が来ているそうだ」

「ほう。 あの美丈夫が、か」

「当然、曹操に対する連合の話をしに来ているのだろう。 私はあまり感心できないが、今は他に方法もない」

本来は船の上に、水軍総司令官であることを示す「帥」の文字がはためくのだろうが、江東と荊州の仲の悪さは尋常ではない。多分どちらが上だの下だのといった下らぬ議論が巻き起こってしまうため、忍びで話をしに来たのだろう。

周瑜自身は部下の心もよく分かる好人物だと聞いているが、陳到は江東が大嫌いである。四家と呼ばれる強力な豪族に支配され、連中の好き勝手に国政が回されていると聞く。周瑜は四家に敵対する立場らしく、その点同情してしまう。

いずれにしても、陳到は単なる戦争屋であって、政治家ではない。話を後で聞かされはするだろうが、判断は劉備や、あの諸葛亮がするのだろう。

ほどなく、城壁の下を劉備が歩いていくのを見た。側にはやたら美しい男がいる。歩く度に肉がたぷんたぷん言いそうな雰囲気である。いや、多分実際たぷんたぷんと言っているに違いない。

「噂通り美しい男だな。 あれが周瑜か」

「あれだけ重そうだと、さぞ女達にはもてることだろう。 音楽にも造型が深いとか聞くし、後噂に聞く所だと血を吐くこともあるとか。 女に受ける要素は満載だな」

「私は好かん。 武芸が出来る男が好みだ。 あれでは頭は良くても、ろくに剣も振れないだろう」

さらりとジャヤが言ったので、陳到は内心肩をすくめた。周瑜への拒絶反応と言うよりも、夫への愛情を語っているに等しい。実に熱い事である。

趙雲とジャヤは、戦乱の中で巡り会ったと、以前酒の席で聞かされた。実質上村の掟の中で夫婦となった陳到と妻とは、根本的に状況が違うという訳だ。親子ほど、或いはそれ以上に年が離れているのに、とても仲むつまじいので、見ていて羨ましくなってくる。陳到の所の、冷え切った夫婦親子の関係を思うと、なおさらだ。

劉備は劉埼を伴って、港まで周瑜を送っていった。その間、夏口に先回りして軍船を用意し、劉備軍が脱出する機会を作った関羽が、側で護衛していた。周瑜の側には、なにやら陰険そうな目つきをした文官が何名かいる。多分あれが、噂に聞く四家の付けた監視役だろう。

やがて、闘艦が港を出た。水軍の技量だけは、確実に江東の方が上だなと、滑らかな動きを見て陳到は思った。

やがて、城壁の上に、張飛が上がってきた。

「やっと帰ったか。 俺はどうも男のくせになよっとした奴ってのは苦手なんだよな」

「そうですか。 四家は気に入らないですが、私としては別に周瑜を嫌う理由がありません。 むしろ上手に連携していけるかも知れないかと」

「そうか。 まあ、確かにそうかも知れないな。 後、美しいのは俺も認める。 さっき話に聞いたが、何と四段腹だそうだぞ」

この時代、肥えていると言うことは美しいと同義である。それは豊かな生活をしていることが眼に見えて分かるからで、現実に根ざした価値観だと言える。武芸が出来る男ももてる。平和な時代には多分痩せていて女と感性が近い男が受けるのかも知れないなと、陳到はふと思ってしまった。

闘艦が見えなくなるころに、劉備に呼ばれた。

江夏城は実用的な要塞であり、かって此処で暮らしていた黄祖の考えを示すように、大規模な司令部に出来る部屋が殆ど存在しない。だから一旦城を出て、城下にある大きな豪族の屋敷を使うことにしていた。ちなみに甘寧という名の持ち主は、少し前に逐電してしまって帰る気配はない。

屋敷にはいると、成金趣味な装飾品の数々が出迎えてくれた。壁も床も、隙を見てはきらきらしたものを敷き詰めている感触だ。屋根の飾りに到るまで、無意味なまでに豪奢である。張飛がぼそりと言った。

「ひょっとして、屋敷の持ち主は侠客上がりかも知れないな」

「そうなのですか」

「以前関羽の兄者と侠客と挨拶して回った事があるんだけどよ、連中って金とか社会的地位を得たりすると、大体例外なくこういう成金趣味な屋敷を建てるんだよ。 違うのは今まで見てきた中じゃ、兄者くらいだな。 この屋敷の奴も、成金趣味の侠客なのかも知れねえ」

「当たりだ、張飛」

奥にある大きな部屋から出てきた関羽が、顎髭を梳きながら言う。

「此処にいた甘寧という男は、大侠客として有名だった男だ。 今は江東にいるという話だから、いずれ刃を交えるかも知れん」

「そっか。 気をつけねえといけねえな」

部屋は広く、劉備軍の幹部が皆はいることが出来た。

長坂の戦いは悲惨な結果に終わったが、主要幹部は全員無事だ。ただし、見たところ、魏延がいない。多分孔明の横で羽扇を揺らしている諸葛亮の策だろう。荊州南部でまだ何かしているという訳だ。

劉備が着くと、全員が抱拳礼をする。最上座に着いた劉備は、皆の顔を見回すと、やはり少し違和感のある穏和な雰囲気で言う。

「先ほど、周瑜どのとの交渉の結果、江東との秘密同盟が成立した」

「曹操との共同戦線を張ることが出来るという訳ですか」

「そうだ。 彼らの水軍は、少し前から、曹操を相手にするべく訓練と出動の準備を整えていた。 今後は共同して作戦に当たることになる」

これで、多少は兵力差を埋められるという訳だ。

糜竺が挙手する。

「それで、江東は何を求めてきたのですか」

「荊州の領有権」

「それは、いくら何でも欲が深すぎるのではないですか」

呆れた声が次々と上がる。陳到も流石に不快だった。

荊州と江東の確執は知っている。江東が、荊州を取ることを悲願としていることも、である。

だがそれにしても、これは欲が深すぎる。

「江東政権は、我らに対して従属同盟を要求してきました。 現時点では、それを受け容れるしかありません。 荊州は我らに対する借地とする予定だそうです」

「借地、ね」

関羽が諸葛亮の言葉に、流石に眉根を寄せた。どうせ四家の要求なのだろうが、この場にいる誰もが腹を立てているのは明々白々であった。

「それで、今後はどうするのです。 敵の兵力は、江東の戦力を加味しても倍以上はいると思われますが」

「それに関しては問題ない。 曹操軍は、間もなく撤退する」

劉備の発言に、流石にその場の全員が固まる。諸葛亮が、となりでにやにやとしている所を見ると、何かとんでもない秘策があると言うことなのか。

そうなってくると。

今までの不可解きわまりない現象の数々も、この男が演出した可能性が出てくる。一体何を企んでいるのか。

徐庶は涼しい顔をして茶を啜っているので、多分諸葛亮の同類だろう。この男も、あまり信用できそうにないと、陳到には思え始めていた。

釈然としないまま、軍議は解散となる。

陳到に求められた指示は、いつもと同じであった。

守りを固めること。新兵を訓練すること。そして、戦線を維持すること。

陳到にはそれしか能と芸がない。だから仕方がないことではある。だが、歴史がこれだけ動いているのに、それに積極的に関わることが出来ないのは、悔しくもあった。

屋敷を出て、めいめい各自の家に戻る。

途中、シャネスを見かけた。

劉備の娘達を乱戦の中見事曹純の手から救出したシャネスだが、帰ってきてからふさぎ込む頻度が増している。声を掛けると、やはり反応は暗かった。

「如何した、シャネスどの」

「陳到将軍か。 すまない、今は時間がない」

シャネスは何か後ろめたい事を抱えている表情をしていた。

いやな予感が、陳到の中で加速する。

やはり、荊州で今、何かとんでもない闇が蠢いているとしか思えなかった。

 

毛介が青い顔をして、襄陽城に入っていく。城の外で、土の質を見ていた徐晃は、気の毒だと思いながらその背中を見送った。

毛介はここのところ、胃に穴が開きそうな顔をしている。

理由は、荊州水軍の再編成を命じられたから、である。

長江北岸で鍛えた水軍と、荊州水軍を合流させた曹操は、それぞれの再編成と訓練を毛介に命じていた。それで判明したのだが、荊州水軍は練度といい武装と言い、とてもではないが江東の水軍と渡り合える状態ではなかったのである。

荊州は黄祖と江夏の要害に、守りを任せきっていた。そのため、このような所にも、弊害が現れていたのだ。

その上、兵士達の中には、何処に裏切り者が潜んでいるか分からない状況である。

徐晃も配下の精鋭を連れて于禁と一緒に全容解明のために動いているが、闇が深すぎて簡単に洗い出しができない。細作達も動いているが、これは数年かかるだろうと、于禁もぼやいていた。

毛介が城から出てくる。手を振ると、真っ青な顔で歩み寄ってきた。

「じょ、徐晃将軍!」

「どうした、ろれつが回っていないぞ」

「ははは、そうでしたか! 本当に! そういえば、空がとても白いですな!」

「分かった。 分かったから、少し休め」

眼を血走らせた毛介は、言動がおかしい。多分精神疲労から来る一時的なものではあろうが、このままだと本格的に病むと思った徐晃は、部下達に毛介を抑えさせると、屋敷に運ばせた。毛介は部下達に空の色とか雲がどうとか話し掛けていて、辟易させていた。

土はこんなに豊かなのに。

たわわに作物は実るだろうに。

どうしてこの荊州は、魔物が住む土地になってしまったのか。

そう思った徐晃は、自ら襄陽城に足を運ぶ。水軍の指揮官としては、他にも適任が何名かいそうである。彼らに負荷を分散させないと、毛介は壊れてしまうだろう。

襄陽城の中では、ばたばたと兵士達が歩き回っていた。

毛介の様子もおかしかったが、城の中も妙だ。ひょっとして、まだ主要幹部にさえ秘匿されている、何かが起こったのか。

兵士達は全面攻撃に向けて沸き立っているのに。

曹操は、最奥の部屋にいた。机に向かって、忙しく筆を走らせている彼の側では、許?(チョ)が血走らせた眼を周囲に向けていた。

「曹操様」

「徐晃か」

「毛介の様子がおかしかったので、参りました。 この様子、何かが起こりましたか」

「……どうやら余は、賭をする前に、勝負の座から降ろされてしまったらしい」

流石に固まった徐晃は、他の将もどやどやと足音を立てて、部屋に来るのを知った。

もはや軍議どころの話ではない。

曹操は立ち上がると、皆にあたまを下げた。度肝を抜かれる諸侯は、例外なく固まってしまう。

「すまぬ。 この戦は負けだ」

「何が起こったのです!」

「まず第一に、疫病が急速に流行しつつある。 特に水軍の兵士達の間で、とんでもない猛威を振るっている状態だ。 まだ秘匿していたが、既に兵の三割にまで感染していて、とても戦闘が出来る状態にない。 今は船を鎖でつないで兵士への負担を減らしているが、言うまでもなくこれは戦闘を行う形態ではない」

思わず、息が止まった。

遠征地で疫病が猛威を振るうのは当然の話で、行軍上の常識と言っても良い。だが、今回水軍は地元荊州のものを活用する方向で動いているのだ。どうしてこのようなことになってしまったのだ。

其処で、思い当たる。

荊州で降伏した兵の半数は、敵に内通していると。

恐らく敵は、その疫病を流行らせる方法を知っているのだ。

「更に問題がある。 先ほど陸口が敵に押さえられたという報告があった。 楽進を向かわせた直後の話だ」

陸口は、江東に攻め込む際に唯一殆ど陸路として活用できる場所だ。この辺りは長江の流れが非常に緩やかで、軍船を使わずとも軍勢を向こう岸に渡すことが出来る。

楽進は五万の兵を持って抑えに向かったはずだが、陸口には大規模な要害が構成されていて、劉備軍が本格的に守りに入るとまず落とせない。此処には三万余の兵が配置されていたのだが、その内一万が反乱を起こした挙げ句、門を内側から開いて劉備軍を受け容れたのだという。

これが昨日の話だ。敗退した守備隊は、二万の内一万以上を失い、敗走しているという。

水軍は活用できず、陸軍だけではどうにも出来ない。更に、曹操は肩を落としながら言う。

「もう一つ、大きな問題が生じている」

「まさか、反乱ですか」

「その通りだ。 どうやら河北で、小規模な反乱が頻発しているらしい。 余が許昌を離れた隙を突いたのだろう。 漢中の細作どもが裏で糸を引いているという話もあるし、戻らなければならないだろうな」

諸将の中には、泣き出す者もいた。

あれだけの気勢を上げた直後だというのに。

いよいよ、天下に手を掛ける時だったというのに。

于禁が抱拳礼をする。

「此方でも、幾つか分かってきたことがございます」

「申してみよ」

「細作部隊と連絡を取り、詳しい情報を集めた所。 どうやら荊州に、司隷地方の訛りがある人間が混ざっているという話がございます。 もとより多くの流民が流れ込んでいる土地故、珍しくもない話だと当初は見逃していたのですが。 どうやら、暗躍している謎の細作達にも、同様の特徴が見られるという報告がございまして」

短時間でよく調べたものだと徐晃が感心している間もなく、場にさらなる衝撃的事実が投じられる。

「敵の異常な規模、高度な連携、それに深く張った根、資金源などから考えまして。 恐らく敵は、董卓が率いていた細作組織の残党かと思われまする。 今だその首領が誰かは判明してはおりませんが」

「……」

まさか。

過去の暴君。中華史上にも名を残すあの男の亡霊が、こんなところで曹操軍に立ちはだかろうとするとは。

実際には、実権を握っていたのは董俊と董卓の母だと言うことは、徐晃も知っている。だが、それは此処で言っても仕方がないことだ。

徐晃も少年のころ、董俊の姿は見たことがある。まるで物語に出てくる魔王のような存在だった。今でも思い出すと震えが来るほどである。その残党が、今になって。

曹操が笑い始めた。

誰も、それには同調しなかった。

曹操の笑いには、あらゆる感情がこもっていた。普通の人間なら、発狂してしまっていたかも知れない。

だが、曹操は。その卓越した精神力で。己を押さえ込んで見せた。

「曹仁、曹洪、徐晃」

「ははっ」

「余は一旦引き返す。 江東攻略のための水軍整備と、後方の安全確保のためだ。 荊州の降伏した兵士達は、南部の郡に全員を振り分けよ。 襄陽を中心に、五万の兵を残すから、守勢に徹するように。 曹仁、曹洪。 守勢に関しては、徐晃に意見を仰ぐように」

難しい立場だ。もとより曹操の一族である曹仁と曹洪は、徐晃からしても軽く扱って良い存在ではない。その上、離反することが確実な南部諸郡を抑えながら、江東と劉備の猛攻を防がなければならないのである。

「張遼、李典、楽進」

「此処に」

「うむ。 そなたらは揚州北の合肥を任せる。 恐らく江東の激しい攻撃があるはずだから、歴戦のそなたらを配置する。 徐州は陳登が護っているが、此処を抜かれたら一気に大軍勢が侵入してくる可能性があり、形勢が厳しい。 絶対に抜かれるなよ」

合肥はかって曹操配下の劉馥が大規模な要塞として整備した。孫策が死んで混乱していた合肥近辺を見事に収め上げた劉馥は隠れた名臣とも呼べる男で、戦はさほど上手ではなかったが、防御戦や統治は卓越していた。

既に劉馥は隠居しているが、彼が作り上げた防衛設備は健在である。其処に歴戦の、大陸でも指折りの名将達が詰めるのである。江東の軍勢など、蹴散らすのは造作もない話であった。

「余はこれより河北の情勢を落ち着かせてから、その後の状況を吟味する。 恐らくは国力を整備してから、一気に江東をまず叩き、その後劉備を屠ることにするだろう。 或いは西涼と漢中を先に叩くかも知れん。 どちらにしても、荊州は後回しだ。 それまでは各自守勢を保ち、無理な攻勢には出ないようにせよ」

「ははっ!」

虚脱から立ち直った将達が、ぞろぞろと出て行く。

徐晃はその中で、曹操に呼び止められた。

「徐晃、そなたには一つこなして欲しいことがある」

「はい」

「一旦余が荊州から離れるのも、最大の人口を持つ荊州で、民が余を敵視してしまったからだ。 そなたは時間を掛けて民を慰撫し、天下統一への布石とせよ。 その年数に関しては、十年、二十年とかかっても構わぬ」

意味を悟った徐晃に、曹操は凄絶な笑みを浮かべた。

「恐らく、余の代での天下統一は無理であろう。 凡庸な曹丕でも天下が取れるように、あらゆる布石を打っておきたい。 そなたにも重要な役を頼みたいのだ。 頼めるだろうか」

「分かりました。 命に代えましても」

曹操の無念や、如何ほどであろうか。

それを察した徐晃は、荊州の情勢を安定させることを心に誓い。

そして、家族を、荊州に呼び寄せる事にした。

此処に骨を埋める。

北に帰っていく十五万の軍勢を見つめながら、徐晃はそう決めていた。

 

5、戦わずして

 

董白の視線の先で燃え落ちるのは、かって荊州水軍が保有していた軍艦である。曹操軍が長江を渡り終えた後、あまった分を根こそぎ焼き払ったのである。敵に捕獲される事を恐れたからだろう。

細作達は、完璧な仕事をしてくれた。林がいたら、此処までの働きは出来なかったかも知れない。だがあの悪鬼は、曹操が警戒するあまり、今は漢中と西涼で大暴れしている。荊州での仕事は本当に楽だったと報告を受けている。

「それにしても、諸葛亮様の知謀は凄まじいですね」

「古来言う、神算鬼謀というのは、これのことでしょう」

配下に応じる董白の口調には、畏怖が少なからず混じっていた。幼いころから悲惨な戦場を見てきた董白である。如何に諸葛亮がやって見せた事が桁違いかは、一目で理解できていた。

それなりに頭が回る自信は、董白にもあった。

だがこの鮮やかすぎる展開を見届けると、もはや言葉もないというのが事実である。

劉備に諸葛亮が仕官する前から、既に策略は始まっていた。

董白が操作している四家に連絡をして、劉備との交渉の場を作る準備。

荊州軍閥の内部腐敗に乗じて、曹操への対策で溝を作らせる。

民に曹操を憎ませるための、数々の布石。

そして曹操が進退窮まった所で、疫病を流行させた挙げ句、陸口を押さえさせる。この地の風土病が流行する仕組みについて諸葛亮が、咳が起因すると知っていたのは驚きであった。更に、飲み水に死骸から絞った血を混ぜさせていたのも悪魔的な知性のさえを感じてしまったが。

かくして、曹操は倍以上の兵力を有しているにもかかわらず、攻勢の限界点に達してしまい、戦う前に引き返さざるを得なくなってしまったのである。

かくして荊州には、何時荊州の兵士達が離反するか不安に怯える曹操軍と、曹操を憎む民だけが残った。

これからが攻勢の時だ。

ただし、曹操は配下の兵力を殆ど消耗していない。幹部が一人も戦死していない事からも分かるように、江東が喧伝している戦術的大勝利などは大嘘だ。逆に言えば、戦略的に撤退に追い込まれた曹操が態勢を立て直すのもかなり早いはずである。早めに荊州を取らないと、今度は此方が滅亡の憂き目に遭うことになるだろう。

「これより、林が荊州に侵入したらどうするか、対策を練ります」

「分かりました」

「進軍と用兵については夫に任せてしまえば大丈夫でしょう。 貴方たちは、林を確実に殺す策を練り上げなさい」

さて、これで曹操が生きている間に、天下が統一される可能性は無くなった。

だが、この後、何処まで劉備が躍進できるか。

董白が願う国は、まだまだ遠い。

一旦自宅に引き上げながら、董白は己の考える国のあり方について、考え始めていた。

 

一旦宛にまで引き上げた後、汝南を経由して合肥に向かう張遼、李典、楽進の軍勢を見送る男の姿があった。宛城の城壁の上から、長蛇の軍勢を見送るその男は、中肉中背で、あまり目立つ姿はしていない。

姓は司馬。名は懿。そして字は仲達。

狼顧の相と呼ばれる、そのまま真後ろ近くまで首が曲がるという特異な性質を持つ男である。まだ若く、年は三十に達していない。

名門司馬家の次男であり、まだ仕官して七年しか経っていないのに、既に将軍位を得ている。ただし今回の戦は、彼の理想とはほど遠い結果に終わってしまっていた。

「諸葛亮。 侮りがたい男だ」

撤退に追い込まれた味方をみつめて、司馬懿は呟く。

彼は途中から、敵の動きを全て理解していた。流民が発生するよう敢えて仕込み、曹操への敵意を民間に植え付けさせた。荊州の政権が駄目だと見るや、わざと内部に混乱を発生させ、そして攻略後の大混乱のきっかけを作った。

司馬懿が諸葛亮の事を知っていたのは、偶然からである。一族の伝手から、荊州に恐ろしい若者がいると知らされていたのだ。だから、今回の一連の事件が、諸葛亮の掌の上で転がされたのだと、自然に知ることが出来た。

曹操は何だかんだで甘い男だ。自分だったら、逆らいそうな奴は皆殺しにしていたのだが、と司馬懿は思う。後に暴君と呼ばれても関係ない。戦は勝った者がちだ。事実、今回の勝利を、さぞ江東は戯劇的に宣伝する事だろう。天下統一後に困るかも知れないが、それは後継者の問題である。

そう。

司馬懿は、いずれ曹氏を追い落とし、自らが天下を握る野望を抱いていた。

背後に禍々しい気配。

振り返ると、林だった。

「これは司馬の懿どの。 お久しゅうございます」

「ふん、狂犬が」

敵意を隠そうともしない司馬懿だが、林はにこにこと笑っている。その理由も、司馬懿は分かっている。

その気になれば、いつでも消せるからだ。

司馬懿としても、別に恐れてはいない。林とは利害関係が食い合っていないし、殺し合う可能性もないからだ。

「荊州に行く所か」

「さて、それはどうでしょうか。 そうそう、土産を一つ」

城壁の上に、どんと置かれたのは、まだ血の臭いが凄まじい生首であった。それは、司馬懿が個人的に使っている細作。かって羊の組織に属していた腕利きだった。流石に背筋に寒気が走る。冷や汗が背中を流れ落ち、体が硬直するのを感じた。

「お前ごときが、この邪神窮奇を侮るのは百年早い」

どす低い声に振り返ると、既に林はいない。

舌打ちした司馬懿は、林を探らせていた男の変わり果てた姿を一瞥だけして、城壁を降りていった。

何もかも気に入らない。

自分より明らかに優れている曹操も、諸葛亮も。

自分がどうにも出来ない林も、それにこの天下も。

いずれ皆、纏めて焼き殺してやる。

無理に仕官させられた過去があり、司馬懿は曹操を恨んでいた。他の曹一族も、皆殺してやりたいと思っている。

全てを憎む知恵者、司馬懿。

その始まりは静かで、そして闇に満ちていた。

 

(続)