南への導火線

 

序、遊牧の地

 

 

林は馬上で眼を細め、その光景を見つめた。

一面の茶色い草原。

身を切るような寒気。

草原にて馬を育て、その機動力を持って生活する者達。立ち並ぶ折りたたみ式の住居。全てが、同じ土地にとどまらない生活を支えるために出来ている。服は分厚く、そして馬上で構えている弓はとても大きい。

定住しない民であるが故に、遊牧民と呼ばれる彼らは。決して文明的に劣った存在ではない。むしろ農耕民とは別方向に進化した、一種の社会形態に暮らす、新しい人類だとも言える。

多くの人口を養えないから、その社会形態が発展した。

中華とは違う文明。それが、彼らの生活なのである。

多くの人間が集まらないため、文化の進歩は確かに遅い。だが、個々の能力は恐ろしく屈強で、視力は漢人とは比較にもならないほどである。弓は女子供に到るまで達者で、馬術に関しては誰もが究めている。漢民族の武将達の馬術など、此処では鼻で笑われる程度の水準でしかない。

それらを事前の情報として、林は知っていた。何度か、西涼のような、中華文明と遊牧文明が交わっている場所に足を運んだこともある。

だが、本物の遊牧民は、やはり何味か違っていた。

林は此処に乗り込むに当たって、劉勝とそれにもう一人、幽州で雇い入れた鳥丸族出身の男を連れていた。劉勝にも聞いていたのだが、兎に角まるで常識が通用しない土地だからである。

まず最初に確認した事実は、目印が存在しないということだ。

草原に出てしまうと、全く目印が存在しないため、開けた場所で迷子になると言う恐ろしい事態に発展する。夜を待って星を読めば定方向に進むことも出来るが、知識がなければ凍死する事になる。

常識も、全てが異なっている。

一見放し飼いにされているような馬などにも全て持ち主がいて、それに手を付けることは宣戦布告を意味する。

複数に別れている遊牧民達も、これらの役割については常識を一致させている。あり得ないほどに広大な原野を見つめていると、漢人こそが異邦なのではないかと思えてしまうほどである。

林が思った以上に、遊牧民達は己の人生を思うまま生きている。

ただし、此処でも、中華と同じ現象が起こっている。

「人間が、多すぎる」

「はあ?」

「独り言だ」

ぽかんと口を開けた劉勝に、林は顔も向けずに応えた。

そう。あまりにも人間が多すぎるのだ。

多分、世界全土で同じ現象が起こっているのだろう。理由は大体見当がつく。あまりにも、人間は生物的に強力すぎるからだ。恐らく人間を効率よく倒せる存在と言えば、病気くらいしか存在しない。その病気にしても、人間全てを殺し尽くすのは難しいだろう。しかもあまりにも早く増えすぎるのだから、始末に負えない。

鳥丸の民達も、漢に兵士として仲間を輸出しないと生きていけないのである。鳥丸に限らず遊牧民族では女性の社会的地位が高く、小規模な遊牧民族の中には女性の族長も存在しているという。だから、漢人のように、女性を商品として売り飛ばすと言うことはあまり考えないようだ。もちろん、無いとは言えないのだろうが。

馬に鞭をくれて、ゆっくり前にいる集団に近付いていく。

相手も少し前から、此方には気付いていた。家族単位でまとまっている典型的な遊牧民集団であり、若い男が何名か出てくる。

いずれも顔立ちからして漢人とは違う。当然、此方が漢人だとすぐに見抜いたようであった。

「其処で止まれ」

鋭い声がした。林は鼻で笑うと、そのまま進む。

どのみち、此処で林と出会ってしまったのが、彼らの運の尽きである。遊牧民は、確かに家族単位で行動しているかも知れない。

だが、それが故に。

全員が一度に拘束され、そして殺されてしまえば、何も外部に情報を発することが出来ないのだ。

馬から林が下りるのを見て、若者達は口の端をつり上げた。そのまま止まるとでも思ったからだろう。

だが、次の瞬間。

彼らの喉には、短刀が突き刺さっていた。

「お前は、逃げようとする奴を殺せ」

「心得ました」

劉勝の返事があった時には、既に林は走り出していた。

そして何事かと顔を上げる鳥丸族の民達を、片っ端から殺し、切り裂き、笑いながら血しぶきを上げた。殺した中には、生後数ヶ月かと思われる赤子もいた。

二三人、馬に乗って逃れようとした者もいた。だが、劉勝が馬上から矢を放ち、容赦なく射落とす。事前に集落の回りを見て、地形を確認していたから出来ることだった。

程なくして、作業は終わった。

目的は、彼らの衣服を剥ぐこと。ただそれだけである。

丁度背丈のあった娘の死骸があったので、服を剥がして着替える。劉勝も着替えた。側で、案内役は腰を抜かして震え上がっていた。

鳥丸の言葉で、悪魔だと、林の事を指していったのが分かった。

だから、柳刀に着いた血を拭いながら、歩み寄り。訂正する。

「違う。 私は邪神。 邪神窮奇だ」

「キュウ、キ?」

「そうだ。 その邪神から言っておく。 もしも逆らえば、こうなるからそう思え」

指を鳴らす。

野原の向こうから駆け寄ってきたのは、十頭前後のわんこ達である。大きさも色もばらばらだが、統制はとても取れており、みんな林の前で一斉にお座りをする。あまりのかわいらしさに胸がいっぱいになった林は、皆の頭をなで、ほっぺを舐められたりしながら思う存分スキンシップを図った。

「よーしよしよしよしよし。 いい子だ! ではお前ら、食事にしろ!」

そう林が命じた途端。

わんこ達は、愛くるしい姿をかなぐり捨て、猛獣としての本性を剥き出しにした。

手近な子供の死骸にわんこ達が躍り掛かり、見る間に骨にしてしまう。引き裂き、飲み込み、食いちぎり。内臓を引っ張り出して、鮮血の中転げ回る。

まだ食い足りない様子だったので、幼児の死骸も餌とする。ぎゃんぎゃんと、興奮したわんこ達は尻尾を振るいながら人間の死骸を貪り食った。血の臭いが、林にはとても心地よい。食欲が増進して仕方がない。

腰を抜かした男は、小便を漏らしていた。

林は、その肩を叩いて言った。

「お前には、この可愛いわんこ達の世話を任せてやろう」

男は泣き笑いのような情けない顔をすると、その場で失神した。林は手を叩いて、わんこ達を集めると、男の臭いを嗅がせる。そして、命じた。

「逃げようとしたら、その場で喰い殺せ」

忠実な林の僕達は、わんわんと可憐に吠えて、尻尾を振った。

 

鳥丸族の族長トウトンは、十万に達する一族を引き連れて、袁煕との合流地点である柳城へと向かっていた。

仁だの義だのによる行動ではない。

袁煕は、并州の割譲を約束してきたからだ。

并州はそれほど豊かな土地ではない。だが、鳥丸族が支配する極寒の原野に比べれば、さながら天国も同然の環境である。曹操に味方しても、并州は得られない。それならば、鳥丸族の圧倒的な戦闘力を利用して、并州を奪う方が、より良い。

そう族長会議で決まったから、今彼は一族総出で南下しているのであった。

十万と言っても、戦闘要員は二万五千ほどである。以前の戦いでほぼ同数を貸し出していたから、今回の戦いでも負けると、後が無くなってしまう。事実、幽州、青州での死闘で、鳥丸族は大きな打撃を受けており、曹操に着くべきなのではないかと提唱する長老も少なくはなかったのだ。

だが、そのいずれもが、不可解な死を遂げて。結局、遠征が決まった。

兵士達の中には、漢人への怒りを滾らせている者もいる。

遊牧民の悪しき伝統だが、基本的に逆らった相手には容赦しない。これは徹底的な暴力を加えることによって、抑止効果を得るためだ。曹操を殺し、その配下も皆殺しにすると、息巻いている兵士も少なくはない。

だが、そんな事が出来はしないと、トウトンは分かっていた。

一時的に、曹操を撃退できるかも知れない。しかし、幽州、青州での死闘から生き残った兵士達の話は聞いている。

曹操は強いし、抱えている兵士達の質も恐ろしく高い。騎馬隊は此方に勝るとも劣らない練度を有しているし、数々の詐術も操るという。

若い側近が、馬を寄せてきた。

「袁煕殿の軍勢は、四万程度という話です。 我が軍が加われば、戦闘要員だけで六万を超えます」

「そうか」

「そうなれば、曹操軍が十万程度で寄せてきた所で、充分に撃退できるでしょう」

「そうだな」

呆れたので、トウトンはそうとだけ応えていた。

公孫賛に撃退されて以降、袁紹と同盟を結んだため、漢人の恐ろしさを理解していない若い兵士が実に増えた。確かに公孫賛との戦闘は一世代前の話になるから無理もないのだが、それにしても楽観的に過ぎる。

傭兵業をして、戻ってきた兵士達が、主に楽観論の出所である。十年くらい前、彼らは軟弱な袁紹軍の兵士を見て、一人で三人を蹴散らせるなどと言って笑っていた。確かに袁紹の軍勢であれば(しかも、袁紹の優れた指揮能力を無視し、なおかつ集団戦術を考慮しない場合に限るが)そうだったかもしれない。

しかし、曹操の軍勢はものがちがう。

曹操自身の指揮能力も恐ろしく高い。今回は、全力で戦ったとして、撃退するのが精一杯だろうと、トウトンは踏んでいた。

やがて、柳城が見えてきた。

遼西は漢民族の土地としては最北の一角であり、既に并州、幽州を維持できなくなった袁煕が寄る最後の拠点である。規模は騎馬民族を阻み続けた拠点と言うこともあり、かなり大きい。

外で整列していた兵士達は、確かに四万ほど。うち一万ほどは、以前トウトンが貸し出した騎馬軍団である。つまり、それ以外の兵士は戦死するか、四散するか、曹操に捕虜にされてしまったと言うことだ。

慄然とする。この恐るべき事態と事実を見ても、楽観論を並べる部下達が、ある意味羨ましくもあり、腹立たしくもあった。

馬を下りて、袁煕と抱拳礼をしあう。

袁煕は一時期老人のように窶れ果てたという話であったが、今ではある程度まで回復していた。しかし働きづめであったらしく、相当に疲労しきった顔であったが。隣には影武者の袁尚もいるが、別にそれはどうでもよい。

「良く来てくださった、トウトン王」

「袁煕殿も、苦闘の連続であったようだな」

「お恥ずかしながら、ついに幽州、并州も曹操に奪われてしまいました」

良く持ちこたえたと言えるだろう。それでも、一年程度しか防げなかった。并州を任せていた高幹も、既に戦死している。擬似的に降伏したり後ろから引っかき回したりして長く粘ってくれはしたが、結局曹操軍の怒濤がごとき猛攻は支えきれず、更に民を味方に付けることも出来ず。周囲の豪族達にもそっぽを向かれ、鮮卑や他の騎馬民族との連携にも失敗し、敗退する運命を変えることは出来なかった。しかも、荊州に逃れようとした高幹を殺したのは、かっての部下だった。

曹操軍の圧倒的な破壊力は、言語を絶していた。幽州の国境線を突破すると、ある程度の休養時間をおいたとはいえ、瞬く間に全土を蹂躙したのである。その間、トウトンは気前よく援軍を出し続けたが、文字通り焼け石に水であった。

そしてついに、遼西まで曹操軍は来た。

兵士達は分かっていない。曹操は、鳥丸族を本気で叩きつぶすつもりだ。此処を落とされたら、鳥丸族は曹操に屈服せざるを得なくなる。今や曹操の実力は、鮮卑と鳥丸が連合しても歯が立たないほどにふくれあがっていると、中華に放っている細作達から報告は受けている。それなのに、どうして危機感を抱かないのか。部下達に憤りを覚えてしまうトウトンであった。

柳城の中に案内される。

連れてきた一族達は、めいめい外の平原にパオを貼り始めた。

文字通り山海の珍味が振る舞われて、兵士達はそれを大いに満足しながら腹に入れる。馬乳酒よりも遙かに美味い酒も振る舞われ、トウトンは大いに飲んだ。

丸二日、馬鹿騒ぎを続けた後、トウトンは城を出て、平原を見つめた。

これが最後かも知れない。そう思うと、美味い酒、山海の珍味も、乙なものであった。

「トウトン王」

「袁煕どのか。 如何した」

「曹操軍が、この柳城に迫っているという報告がありました。 戦闘準備を整えていただきたく」

頷くと、トウトンは部下達を呼び、作戦を授ける。

曹操軍は強い。だが、トウトンは油断していない。

騎馬民族の恐ろしさを見せつけ、漢人の土地を手に入れる、これは好機だ。絶対に負ける訳にはいかなかった。

あまり知られてはいないことだが、遊牧民は、殆どの場合苦しい生活をしていて、己の境遇に満足していない。漢民族が独占している豊かな土地を手に入れることは悲願であり、部下達の希望でもあった。

人間が住める限界の土地なのだ。

子供もたくさん作るが、それはそれだけ多く死ぬからである。漢民族は内輪もめで殆どが死ぬようだが、遊牧の民は環境によって多くの同胞を失うのである。

彼方此方で、角笛の音が響き始める。

同時に戦闘要員が皆起きだし、心身を戦闘時のものに切り替える。

彼らの油断は、トウトンの指揮で補えばいい。少なくともこの原野は、遊牧民がもっとも戦いやすい場所だ。

曹操に遅れを取る気はなかった。

 

細作から、林の報告を受けとった曹操は、馬上で頷くと、竹簡をしまって懐に入れた。

鳥丸族による援軍は実戦兵力にして二万五千。

今まで幽州、并州での戦闘で多くを消耗している事もあり、なおかつ鳥丸族が連れてくる非戦闘員も数に入れていたことが要因であるだろう。十万という数字は、過大報告であったと言うことだ。

ただ、安心する訳にも行かない。トウトンが直接出てきたと言うことは、鳥丸族の最精鋭を連れているという事である。実戦兵力は、漢民族の兵士にして十万分の活躍をすると判断をした方が良いかも知れない。

もっとも。

集団戦を知らない連中の軍勢だ。如何に基礎能力が高くても、曹操は負けるつもりはなかった。

敵から十六里ほど離れた地点に野戦陣を張らせる。もちろん荷駄は多くの物資を持ってきているし、何より兵士達の訓練は、このところしっかり積ませていたから充分だ。幽州国境を抜いてからは楽な戦も多く、熟練兵を失うことは減り、結果として曹操軍の精鋭はますます増えることになった。

丸太が運ばれ、番号通りに組み立てられる。縄で縛られ、馬防柵が並べられ、堀が急速に掘られていく。

敵は主力が騎馬兵だ。だから、盾と、馬防柵は絶対に必要になる。

馬防柵の内側に並べられる盾。大型の投石機が組み立てられる。馬を火で驚かせるため、着火した油入りの壺を投擲するためのものだ。火矢もこれに併せて使うことになる。

天幕が張られる。皮を使った頑丈なもので、鳥丸族が使う強力な弓から放たれる矢からも、内部の人間を守ることが可能だ。かなり重い型の天幕だが、苦労して運んできただけの事はある。事前の準備でも、十分な効果を示していた。

陣の外では、騎馬隊が忙しく走り回っている。張遼と徐晃は、いつ鳥丸族の精鋭騎馬軍団が攻め込んできても対応できるように、片時も油断せずに原野を見張っていた。まるで車輪を回すようなその動きは、どの方角からの奇襲にも対応できるものである。

後続部隊が続々と陣に入り、物資が充実していく。荷駄から下ろされた陣の部品はその場で必要な箇所に運ばれ、組み立てられていった。曹操は先に作られた櫓からそれを眺めているだけで良かった。

やがて、陣が完成した。既に空には星が瞬いている。

隙が無かったためか、敵は仕掛けては来なかった。

松明を持った歩兵を伴って、曹操は陣を見て回る。文句の付けようがない完璧な出来であり、何度も曹操は頷いた。

指揮を執ったのは、曹丕である。曹丕を呼ぶと、夜だからか、陰気な息子は更に暗い顔をしていた。

「見事だ。 良くも此処までの陣を作り上げたな」

「……」

「賈?(ク)の助言を聞いたことは、恥じることではない。 部下を使いこなすことこそ、君主の仕事だ。 お前は賈?(ク)をきちんと使いこなし、この陣を構築することに成功した。 見事であったぞ」

曹丕は陰鬱な顔でありがたき幸せとか言うと、陣に戻っていった。相変わらずである。喜んでいるのかそうでないのか、さっぱり分からない。

そして、いつの間にか、背は追い越されてしまっていた。

焼き菓子の袋に、思わず手をやる。この焼き菓子はとても美味しいし、思考を纏めるのにも役立つが、やはり背を伸ばす効果はさっぱり認められなかった。そろそろ、新しいものを試す時期であるかも知れない。最近は忙しくて、殆ど仕事以外のことを出来なかったから、背が伸びる方法も探せなかった。悔しい話である。

天幕に一度戻ると、曹操は主要幹部を集めた。

今回は冀州から出撃した兵十万を主力に、幽州から二万ほど動員している。幸い、青州に比べると幽州は傷が浅く、比較的短時間での復旧が見込めていた。并州は現在韓浩が屯田を行っている。

この国は、韓浩が進めている屯田で、民を定住させることで、再生していくのだ。

農業生産力が上がれば、人口も増える。屯田兵を帰農させて、社会の仕組みを平常に戻すことも出来る。そうやって基礎部分を再生すれば、多くの民も周辺に定住し、やがて大型都市を支える基盤となる。

そしてそれを完遂するには、統一後の脅威となりうる鳥丸、鮮卑などの北方騎馬民族に、決定的な打撃を与えておく必要があるのだった。出来れば膝下にねじ伏せるのが好ましい。今は対応が出来る。しかし平和な時代に彼らが攻め込んできて、対処できる将がどれだけいるだろうか。

曹操は、揃った諸将を見回す。

彼らなら、強力な遊牧民の騎馬兵にも対処が出来る。

「さて、一日休んだ後、柳城に決戦を仕掛ける。 何か策は」

「事前の打ち合わせ通り、まずはトウトンを討ち取るのがよろしいかと思います」

挙手したのは張遼である。彼の騎馬隊は、幽州、并州で何度となく遭遇した鳥丸族との死闘で鍛え上げられ、既に練度では劣らないものとなっている。ただし弓の腕や馬に関してはどうにもならない部分もあり、完全に互角かと言うと難しいとしか言いようがない。それは徐晃の軍勢も同じ事だ。ただし、集団戦の習熟に関しては、まるで勝負にならないほど上なので、総合力では問題がない。

ただ、敵は王が直々に出てきていることもあり、士気も高い。今までと同じと考えてぶつかる訳にはいかないだろう。

「他に意見は」

「トウトンを生け捕りに出来ないでしょうか」

そう言いだしたのは程cである。荀ケもそれに同調する。

「異敵の存在とはいえ、王は王。 高祖劉邦も、彼らには敬意を払ったという歴史的事実もございます」

「あれは考え無しに相手を侮りきった高祖が出かけていった所を、袋だたきにされたに過ぎぬ。 ただ、敬意を払うという点については、余も同意だ」

「はい。 生かして捕らえて忠誠を誓わせれば、今後、彼らを従わせ易くなりましょう」

「それに従わぬようであれば、連れて帰ってしまえば、人質として活用も出来るというわけだな」

皮肉っぽく李典が言ったので、荀ケは顔を真っ赤にした。

根が儒学者である荀ケは、優秀な民政家で官僚であるが、過剰に儒教的道徳を気にしすぎるのが弱点である。曹操も、李典には同意だ。それくらい現実主義を詰めて考えるようでなければ、国など治められない。

「良し、トウトンについては、捕らえられるようなら捕らえる、で大丈夫であろう。 具体的な作戦について、であるが」

専門職の部下が、机上に敵の布陣を並べていく。木の駒を使って、敵陣を再現していく形式のものだ。

皆火が出るほどに机の上を見つめていた。

敵は柳城に歩兵部隊を置き、騎馬隊を城外に展開している。騎馬隊の機動力で此方を攪乱しつつ、歩兵隊が密集態勢での突撃を隙を見て仕掛けてくるという作戦と見た。

しかし、袁煕はかなりの戦上手である。それはこの場にいる全員が認めている。見え見えの作戦を採るかどうか。

しかも此処は遼西。鳥丸族の故郷である場所に近く、草原がとても広い。目印が付けにくく、どこから敵が襲撃してくるかがわかりにくい。大きく迂回した敵が、後方に回り込んでくる事は充分にあり得るのだ。

「敵の総兵力は六万から六万五千と聞いておりましたが」

「騎馬隊の兵力は十万と考えた方が良いかも知れん。 林からの報告でも、敵はかなりの精鋭となっている」

「鳥丸王が率いてくる精鋭ですから、確かにそれが妥当です。 しかしそうなってくると、多少厄介ですな」

既に敵に潜り込んでいる林の報告は信頼性が高い。

誰もが林を嫌っているのに、その腕に関しては認めているのだから、面白かった。

幾つかの作戦案が出された。

徐晃が出した、もっとも手堅い策と。張遼が出した、とても攻撃的な策が、曹操の脳裏に残った。

状況に応じてどちらかを使うことに決めて、軍議は解散となる。

曹操は自分の天幕に戻ると、専門の部下を呼んで、腰と肩を揉ませた。最近体が少し重く感じるのだ。年が年だから仕方がないと言うこともあるが、戦の時にしっかり動けないようでは、話にならない。

普段は侍女にやらせるのだが、戦陣では基本的に女性を連れ込めない。これは伝統的な事なので、曹操も守らなければならなかった。

任せているだけあって、まだ若い部下はしっかり揉む。

「うむ、うむ。 そこだ。 しっかり揉めい」

曹操は体が軽くなるのを感じながら、久し振りに充実した気分を味わっていた。

決戦前夜は、とても静かに過ぎていった。

 

1、柳城の戦い

 

早朝。

林の部下が、敵が動き出す気配ありと、伝えてきた。

物見櫓にいる兵士達は、炊煙の存在を認識していない。曹操は鎧を着込みながら、鳥丸族が必ずしも戦の前に飯を食べるかは分からないと、思った。考えてみれば、漢民族とは何もかもが違うのだ。戦の作法も違っている可能性が高い。或いは、袁煕当たりに入れ知恵されたかも知れない。

「全軍、警戒を最大限にせよ! 騎馬隊は、いつでも出撃できるように準備!」

曹操が声を張り上げる。

朝は全身が切り刻まれるかのように寒く、そして霧がうっすらと出ている。想像以上の悪条件だ。あまり戦が上手ではなかった漢の高祖が、この地で袋だたきにされたのも無理はない。

曹操は、事前に準備をして出てきている。

兵士達には防寒装備を徹底して支給しているし、弓矢の配備率も高くしている。特に弩はいつもの倍近くを配備している状態だ。これは、騎馬隊に対してもっとも有効な武器だからである。

野戦陣から、張遼、徐晃の騎馬隊が出撃する。

弩を兵士達が準備する。曹操が一言命令を下すだけで、兵士達は一体となって動く。ここのところの勝ち戦で自信をつけたと言うこともあるが、それ以上にしっかりと全軍に訓練が行き渡っているのだ。

敵は、まだ見えない。

不吉な太陽が、地平から徐々に登り始めている。

霧の中、まるで魔王がごとく存在感を示す太陽に勇気づけられたかのように。地面が揺れ始めた。

誰もが悟る。

騎馬隊が、来る。

不意に、一本の矢が飛んできた。

曹操の側に立っていた許?(チョ)が、構えをとる。危険がそれだけ大きいと言うことだ。

不意にとどろき始める馬蹄の響き。

霧を食い破るようにして、敵の大騎馬軍団が、姿を見せた。

 

朝霧を見て、トウトンは出撃を決めた。

何度か袁煕と作戦の調整はしたが、結局の所、曹操を如何に討ち取るかが主題となっていた。そして、この朝霧である。

朝霧内での戦闘など、幾らでもこなしたことがある。この辺りの原野は初めて来たが、しかし原野での戦闘に関しては、漢民族などに遅れは取らない。

集団戦の技術では、確かに負けているかも知れない。

しかし原野での遭遇戦であれば。乱戦に持ち込めば。

袁煕が来た。出撃準備をしていることに気付いたらしい。険しい顔の袁煕は、馬を寄せて来るなり言った。

「どうしたのです、トウトン王」

「みよ、霧だ。 我らは天候に味方されたぞ」

「曹操も、此方が遭遇戦に持ち込もうとすることは読むでしょう。 下手に動くと危険です」

「そう言っていては、戦には勝てぬ。 原野での乱戦に持ち込めば、多少の兵力差などものの数ではないことは分かろう」

部下達の中には、袁煕を侮りきっている者も少なくない。トウトンは彼らの驕りを戒めながら、袁煕の顔も立てなければならない。トウトンの軍勢だけで曹操を倒せる訳がないことくらいは、熟知しているのだ。

鳥丸族は、漢民族の文明を多く取り入れている。だからトウトンはその強大さを知っている。傭兵として騎馬兵を大勢派遣していると言うこともあるが、何よりその経済力の凄まじさをかいま見て、彼らと戦うにはある程度漢の土地を手に入れなければならないという結論に達してもいる。

それを為すためには、漢人の協力は必要不可欠だ。

もしも後の世に、遊牧民達が中華を制圧することが出来たとしたら。

それは、漢民族の中に協力者を作り、腐敗に乗じて攻め込むしかない。そうトウトンは考えていた。

「袁煕将軍。 余も、曹操の強大さは良く知っている。 だからこそ、今しかないのだ」

「あまりにも無謀です」

「霧が晴れれば、曹操は全軍で押し出してくるだろう。 そうなれば、勝ち目は無くなるぞ」

「その時にこそ、たるみが出ます。 曹操は基本的に恐ろしいほどの集中力を持っていますが、勝ったと思った瞬間隙が出来る男です。 それを何度か間近で見ています」

そう言われると、確かに霧の中での戦闘よりも、一旦正面からの戦闘に持ち込み、敵を油断させる方がよいかも知れないと思えてくる。

袁煕は、確かに曹操と戦い続け、その手の内を見てきているのだ。しばらく一緒にいて分かったが、袁煕の指揮能力は高く、戦術眼も優れている。単に戦って生き残った騎兵とは随分状況が異なる。

「それならば、まず囮の部隊が攻撃を仕掛け、敵が追ってきた所を本隊が叩く。 これでどうだ」

「霧を活用するのでしたら、それしかないかも知れません。 しかし、同士討ちを防ぐ方法に関して、工夫する必要があります」

「それなら、馬で分かる」

鳥丸族の馬と、漢民族の使う馬では、まるで別物だ。

漢民族と鳥丸族の視力も、根本的な段階で異なっている。中には鳥丸族以上の異常な視力の持ち主もいるかも知れないが、それはそれである。殆どの兵士は、狩りで反射神経も鍛え抜かれている。

霧から飛び出した味方を誤射するようなことはないだろう。

それらを説明しても、なおも袁煕は難しい顔をしていた。確かに袁煕の懸念もよく分かる。

しかし、此処は。一度勝つことで、味方を鼓舞しなければならない。

或いは負けることで、敵の恐ろしさを示し、味方を引き締めなければならない。

「心配であれば、袁煕殿は柳城を守っていただきたい。 それでどうか」

「分かりました。 しかし貴方の騎馬隊が、曹操を撃退するための切り札なのです。 生きて帰ってきてください」

「無論だ。 このトウトン、戦をこなした数だけなら、曹操にも負けぬ。 一度や二度の戦で、死ぬほど柔ではない」

結局、袁煕はそれで折れた。二万五千の兵の内、五千を率いてトウトンは陣を出た。

敵の位置は既に分かっている。鳥丸族の視力は漢人とは比較にもならない。だから、彼らよりも遙かに遠くから、精確に相手の存在と位置を把握できる。

霧の中で、五千の軍勢は、四列縦隊となって進んだ。三列目にいるトウトンは、ますます濃くなる霧の中でほくそ笑む。美味くすれば、曹操を仕留めることが出来るかも知れない。仮に上手く行かなくても、撤退は用意だ。

敵陣が見える。

そこで、余裕が吹き飛んだ。

並べられた馬防柵に、堅固きわまりない盾の群れ。その上敵の騎馬隊の立派なこと。出る前に馬の質がどうこうと話をしたが、まるで鳥丸族が使っている馬と代わらない。散々鳥丸族の騎馬隊を倒して馬を奪ったと言うこともあるのだろうが、あれほどのものを揃えてくるとは思わなかった。

もとより此方が率いているのは、城攻めという概念がない軍でもある。あの強力な野戦陣に攻め掛かれば、損害ばかり増やすことになる。一旦軍を止めると、トウトンは腕組みをして考え込む。

歴戦の戦士達も、それを見て、ようやく相手が尋常ではないことに気付いた様子であった。

「よし、一当てして引くぞ」

「それだけでよろしいのですか」

「まず、敵の力量を見極める。 敵騎馬隊に打撃を加えた後、霧を利用して本陣に戻る」

トウトンは英雄として、その輝かしい戦歴で一族を纏めてきた人間である。

故に、曹操軍や袁煕を馬鹿にしている者達も、トウトンの判断を馬鹿にすることはないし、許されていない。

「ハッ!」

鋭い声と共に、愛馬に鞭をくれる。同時に角笛が吹き鳴らされ、突撃が開始された。

五千の軍勢が、霧の中。一丸となって動き始める。太陽を見て、全員が方角を認識しているので、迷うこともない。それに、この霧はあと一刻もあれば晴れる。それまでに、一撃して撤退する必要がある。

突撃を開始すると、即座に敵も動き始めた。野戦陣から騎馬隊が出てくる。その早さ、なかなかに侮りがたい。敵将が一声掛けると、密集陣形をとって、突入してきた。数は一万五千、いやそれ以上はいる。

ぶつかり合った。

激しいぶつかり合いになる。流石に一対一では勝てるが、敵は一人が押さえ込んでいる間に、もう一人が槍を突き込んで来るというような作戦を、遠慮無く使ってくる。味方の数が少ない事が、こうなると不利に働く。

個人戦がものをいう上に、激しい機動となる騎馬戦では、トウトン自身も敵の刃に晒されることとなる。周囲の側近達もしかり。ばたばたと倒される味方を見て、トウトンは敵を切り払いながら目を剥いた。切り払う敵の雑兵も、とてもではないが手を抜けるような相手ではない。

敵将らしい輩と、一瞬だけすれ違う。凄まじい武勇の持ち主で、長く戦い続ければ、どうなるか分からなかった。

一度相手の陣を抜けて、迂回しながらもう一度。損害は味方の方が少ないようだが、しかし比率から考えればどうか。むしろ、慄然とするほどの被害を出しているのではないか。敵はもう一隊が野戦陣から出撃してきた。此方も殆ど同じ練度だ。ぶつかり合い、愕然とする。手応えが大きい。これは本当に、漢人の騎馬隊か。

二隊の敵騎馬隊は見事な連携を見せ、ぐるりと回り込んでくる。トウトンの部下達も、もはや余裕は消し飛んでいた。また、ぶつかり合う。数の差だけ、味方が不利になりつつある。

それだけではない。野戦陣からとんでもないものが降ってきた。

「火の玉だ!」

叫び声とともに、爆発が巻き起こる。吹っ飛んだ騎兵の側で、横転した馬に押しつぶされて、兵士が悲鳴を上げる。恐慌状態に陥るのは馬だけではない。人間もだ。また、火の玉が降ってきて、周囲が火に包まれる。

もとより、迷信が強く心に根ざしている鳥丸の民である。トウトンは何かしらの兵器によるものだと理解できたが、兵士達はそうではないと即座に判断。その上、敵は霧の中にこんな無差別攻撃を仕掛けてきている。と言うことは、何かしらの方法で、敵味方を見分けていると言うことだ。恐慌状態に陥った兵士達が、散り散りになる前に、決断しなければならなかった。

「いかん、引け!  引けッ!」

角笛が吹き鳴らされる。

それを幸いと、味方が逃げ散り始める。散るのは大丈夫だ。皆方角は把握しているし、じきに霧も晴れる。本陣に戻れないようなうっかりものは出ないだろう。もっとも、捕虜になる兵士が出るか出ないかは分からないが。

トウトン自身も、側近達数十騎に守られて、戦場を離れた。

徐々に霧が晴れると同時に、味方が集結してくる。ざっと数えてみるが、四百騎以上を瞬時に失っていた。負傷者もかなり多く、継戦能力を失っている兵士達も、少なからず出ている様子だ。

柳城で待っていた残りの兵力は、戻ってきた部隊の惨状を見て、慄然としていた。トウトンは一旦城にはいると、袁煕を探した。いない。

「袁煕殿は」

「城壁の上に。 曹操軍の追撃を警戒しております」

「そうか」

馬で高速機動するのには慣れているが、高い所に登るのはあまり経験がない。城壁の上に上がると、少し緊張する。歴戦の猛者である自信はあるトウトンだが、こういう所は初経験だ。

「袁煕殿。 此処におられたか」

「無事でしたか、トウトン王」

袁煕は安心したように駆け寄ってきた。

走り方など、まだ若さが伺えて羨ましい。歴戦で威厳を身につけていても、こういう所では若さが出る辺り、結局育ちがよいと言うことなのだろう。

「すまぬな、敗れてしまった。 だが、ある程度分かったこともある」

「そうでしたか。 とにかく、今は休養を。 恐らく曹操軍は、近く攻め込んでくることでしょう」

そう言われると、慄然としてしまう。

敵の連携は、見事すぎるほどに取れていた。あれが攻め込んでくるのである。しかも騎馬隊だけではなく、歩兵部隊や、あの火が出る兵器も動員してくるに違いない。

味方の動揺を抑えるためにも、早めにあの兵器の正体を突き止めておく必要があった。

「そう言えば、霧の中で火の玉が飛んできた。 何か心当たりはないか」

「ああ、それは投石機で、火をつけた油壺を投げてきたのでしょう」

「投石機だと」

「はい。 攻城戦ではよく使われる手です。 霧の中では、さぞ恐ろしかった事でしょうが、正体さえ分かれば、命中率もそれほど高くありませんので、恐れることはないでしょう」

何だ、投石機だったのか。それなら、トウトンも見たことがある。

それにしても。曹操は此方の心理的な弱点を良く把握している。恐ろしい相手だと言うことは理解していたが、トウトンの想像以上であったかも知れない。

「此処からは慎重にいかなければならんな」

「そう思っていただけただけで、まずは充分です」

袁煕の言葉に、トウトンは頷いていた。

 

霧が晴れてくる。

曹操は物見櫓の上から、満足して味方の戦果を確認していた。鳥丸族の騎馬兵団は叩きのめされ、辺りに点々と死骸が散らばっている。味方も被害を出したが、損害比率で考えれば微々たるものだ。

この辺りで霧が出ることは、林の情報で、既に把握していた。そのため、幾つも戦闘では工夫を凝らしていたのである。

まず騎馬兵は赤い鎧で統一させた。これにより、多少霧で見えにくくても、敵味方の識別は可能になる。

そして投石機による爆撃だが、これが上手く行くように、そもそも味方は投石機の射程距離内に入らないように命じておいたのだ。これで誤爆は防ぐことが出来た。張遼と徐晃なら、騎馬隊をむざむざ誤爆範囲内に入れることもなく、作戦は丁寧に実行され、大きな戦果を上げたのである。

まあ、こんなものは所詮小手調べだ。

次は油断していない敵本隊との交戦となる。歩兵との連携も重要になってくるし、張遼や徐晃の負担はより大きくなってくる。于禁や韓浩が率いている歩兵部隊も、油断すれば一瞬で敵に蹂躙されてしまうことを考えると、運用が難しい。また、敵の柳城に対する策も必要になってくるだろう。

曹操は櫓を降りると、愛馬に跨った。この間引退した絶影の息子だ。父より若干足は遅いが、その代わり性格が大人しくて、乗りやすい馬である。名前は、父のものを継がせている。

「よし、全軍、出撃する!」

鬨の声が上がる。

十万を超える兵が、霧が晴れ、朝露に濡れた原野を進み始める。

恐ろしく寒い場所だ。朝露が、早くも凍り始めている。茶色の原野がきらきらと輝いているのは美しいが、地面を踏む度に霜が潰れる音がするので、それが故に若干冷ややかな感触を覚えてしまう。

「酷い土地ですな」

「うむ、確かにそうだな。 だが、作物を育てるには適していないと言うだけで、人間は暮らしている。 我らとは違う生活形式と言うだけで、別に劣っているというわけでもなかろう」

馬を寄せてきた程cにそう応えると、曹操は改めて原野を見る。

遊牧民達は、漢民族に対する敵意を抱き、攻撃の意思を緩めない。やはり、この土地で暮らしていくのは苦しいと言うことだろう。如何に暮らしていく方法を確立しているとしても、だ。

とにかく、今はまず鳥丸を討伐することだ。

十万を超える軍勢が一丸となって進む。多くはなっている偵察兵は、敵が柳城周辺に陣を張っていることを、報告してきている。そして、距離が三里を割ったころ、伝令が駆け込んできた。

「敵が、動き始めました!」

「うむ。 如何様にして動いている」

「騎馬隊がまず進発。 此方の兵力はおよそ四万! 歩兵約二万五千は、相変わらず柳城周辺に陣を張っております!」

「ほう。 騎馬兵の機動力を駆使して、此方に戦いを挑むつもりという訳だな」

しかも、柳城という補給基地を十全に活用しつつ、という訳だ。

流石に袁煕。曹操もこれはうかうかしていられない。部下に欲しいほどである。実際此処まで追い詰めはしたが、既にその能力は充分に磨き抜かれている。広域戦略も見事にこなしているし、戦の総指揮でも手腕は問題ない。惜しいことに、天が彼に味方をしなかったというだけである。本当にもったいない話であった。

すぐに歩兵に円陣を組ませ、馬防柵を用意させる。既にくみ上げてある投石機は中心に据え、全方位に対応できるように設置させた。騎馬隊はその左右に一隊ずつ。右に張遼、左に徐晃を配置した。

歩兵の先陣は韓浩に、中軍は于禁に。後衛は何名かの将に、分担して任せる。曹操は陣の中心に居座ると、まずは戦況をと思った。いきなり許?(チョ)に掴み上げられて、肩車をされたのにはびっくりである。

「おう。 許?(チョ)よ、どうしたのか」

「これなら多少は見やすいかと」

「そうか、そうだな。 しかしちょっぴりだが、恥ずかしいぞ」

「一時の恥は、勝利にてお雪ぎください」

正論のようでどこかずれた許?(チョ)の理論が炸裂したので、曹操は少し困ってしまった。周囲の兵士達は、見て見ぬふりをしている。それが余計に恥ずかしかった。

どちらにしても、よく見えるのは事実だ。

「敵が接近してきているな。 歩兵隊の前衛は、弩を構えよ。 騎馬隊は、歩兵隊の弩の射程距離内に、敵を誘い込むか押し込め」

弩の装備率に関しては、今回は常識外の水準にまで高めている。かなり出費が痛かったが、それもこれも、鳥丸族の最精鋭騎馬隊を相手にするためだ。弩ほど騎馬隊を容易に打ち倒せる武器も存在しない。

ただし、陣に斬り込まれてしまうと機能もしないので、万能でもなければ無敵でもない。運用を間違わないように、曹操が指示をしっかりしなければならなかった。手をかざして状況をしっかり見極める。

敵鳥丸の騎馬隊は、二万ずつ二隊に別れている。

それに対して、此方は張遼、徐晃の騎馬隊が、それぞれ一万五千ずつである。質から言っても数から言っても、少々厳しい戦闘となる。ただし、どちらも既に名将と言って良い段階にまで育ち上がっている。必ずや、曹操の期待通りの動きを見せてくれるはずであった。

問題は、昨日の件を敵が警戒しすぎていないか、ということである。

もしも歩兵の陣に無理に突っ込んでくるようなら、その場で弩の雨を浴びせて、叩きつぶしてやるだけだ。此方には馬防柵も充分に用意してある。

しかし、騎馬隊の撃退だけに終始されると、此方も身動きが取れなくなる。鳥丸の騎馬隊を相手に、歩兵だけで勝てると思うほど、曹操も楽天的ではない。あくまで騎馬隊との連携が上手く行ってこそ、意味があるのだ。

徐晃と張遼の騎馬隊が、動き出した。

加速を開始し、最高速にまで移行。敵もそれに併せて、加速を始めた。

やがて四匹の大蛇が絡み合うように、敵味方合計して四隊の騎馬隊が、激しくぶつかり合い始めた。

 

徐晃は馬を走らせながら、徐栄の教えを思い出していた。もう一人の父とも言えるかの人は、騎馬隊の指揮について教えてくれる時、必ず言った。

「騎馬隊の戦闘では、基本的に戦術は限られてくる。 それは、馬の速さが、人間の速さを超越しているためだ。 水軍での戦闘でも、恐らく陸上戦とはまるで違う戦術が要求されるだろうが。 騎馬隊での戦闘でも、それは同じ事だ」

もしも、歴史が代わる時があるとすれば。

遊牧民達の手に、長距離からの精密な狙撃が可能となる、強力な弩が渡った時だろうと、徐栄は話していた。もしもそうなれば、彼らの異様な視力の良さも相まって、勝てる軍隊は存在しなくなるだろうとも。

確かにその通りである。

やがて、騎馬隊が最大戦速に達した。

今回、幽州で予備部隊を率いている張繍も、騎馬隊の指揮は巧い。しかしこれに関しては、徐晃は結局勝てないと思っていた張繍よりも上である自信がある。腿で馬の胴を強く挟んで意思を伝えながら、徐晃は愛用の白焔斧を振るい上げる。

怒濤のごとく馬蹄が近付いてくる。

霜を蹴散らしながら迫り来る鳥丸の騎馬隊。作戦は事前に頭に叩き込んでいるが、しかし。最初だけでも、全力でぶつかり合いたかった。

接敵の瞬間。

斧を振り下ろす。

先頭の敵兵の頭が砕け、吹っ飛ぶ。右に左に斧を振り回し、次々と敵の頭を砕きながら、一旦敵陣を抜ける。張遼隊も同じようにして、敵を突破していた。

迂回して、敵も味方もお互い、敵の背後に回ろうとする。

流石に鳥丸族の騎馬隊だ。展開も機動も恐ろしく早い。血を滴らせた斧を振るって、朝霜が美しい大地に赤をまき散らすと、徐晃はわざと味方に速度を落とさせた。これ幸いと、一隊が後背にすがりついてくる。

その瞬間。

本隊歩兵部隊が放った弩の雨が、一斉に彼らの側面を襲った。

針鼠のようになって倒れる鳥丸族の兵。あの機動のまずさからいって、多分トウトン王がいるのはもう一隊だろう。張遼はそれを見て取ると、反転して、まともな力によるぶつかり合いを挑む。時間を稼いでくれるという訳だ。逆に言えば、時間稼ぎしか出来ない事になる。

徐晃は混乱している敵が、無理矢理に歩兵部隊から離れて、軍を再編成している所に、全力で突貫した。

騎馬隊の勝負は、一瞬で決まる。

速度を落としていた敵部隊の兵士達が、ばたばた倒れていく。まさか漢人の騎馬隊に、此処まで踏みにじられるとは思ってもいなかっただろう。残念ながら漢人だけの騎馬隊ではない。

鮮卑族の傭兵が多く入っている、強力なものだ。

張繍の騎馬隊も一部混じっているのである。しかも漢人が得意とする集団戦術を徹底的に叩き込んでいる上、鮮卑族の戦士達は、鳥丸族を憎むこと著しい。

一旦敵軍を抜けると、敵はもう態勢を立て直して、追いすがり始めていた。この辺り、流石に練度が違う。

大きく迂回して、敵の正面を叩きに走る。

この時、徐晃の騎馬隊は、扇を拡げるように、或いは大蛇が兎に襲いかかるように、一気に隊列を横に拡げていた。

敵もその狙いに気付き、縦列での突撃を試みる。だが、陣容の厚さを見て取って、即座に一点突破に切り替えてきた。

一番薄い所を狙って、彼らが突撃してくる。

徐晃は、わざと抜かせた。

なぜなら。

彼らが一番薄いと判断した方向には。

味方の歩兵部隊が、弩の弾幕を張り、なおかつ投石機での油壺爆撃の準備を整えて、待ちかまえていたからである。

逃げ遅れた敵を踏み砕きながら、徐晃はほくそ笑む。

どうやら、勝負はあった様子である。

だが、トウトン王はまだ無事だ。敵の残党も、減りつつあるとはいえ、まだ殲滅は出来ていない。

張遼の騎馬隊も、敵を抑えるのが難しくなりつつあるようだ。

「よし、一気に主力に、敵の残りを押し込め!」

徐晃が先頭に立って、敵の残党を叩きつぶしに入る。

まだまだ、戦況は予断を許さない。

 

味方にとって、やや有利に戦況は運んでいる。

トウトン王は、長年世代を超えながら連れ添った愛馬を疾走させながら、それでも敵の粘り強い動きに舌を巻いていた。騎馬戦をこれほどこなせる漢人がいるとは。しかも少しでも油断すると、待ちかまえる歩兵の弓の前に、此方を誘い込もうとしてくる。

敵の騎馬隊の質は、此方に比べると若干劣る。数も少ない。

しかし、これほどまでに粘るとは。また追いすがってくる。味方の様子は。そう思い、もう一隊を見て愕然とした。

既に、半減していて、一気に追い込まれているではないか。

そうか、損害を考えず、勝負を挑んできたのはこのためであったのか。

一旦、角笛を吹かせる。兵を引いて、態勢を立て直す。兎に角、味方との連携をこうもとりづらくては、勝負にならない。

逆に言えば、此処で敵を巧く味方の弓隊の射程に誘い込めれば、一気に反撃の糸口を掴むことも出来る。

角笛を聞いて、味方が逃げ出す。

敵は不快なことに、追撃を仕掛けてこない。ぴたりと兵の進撃を止めて、距離を保ったまま此方の様子を見ている。一旦集結した兵の数を数えさせる。出撃時、四万を超えていた騎馬隊は、三万弱にまで目減りしていた。

殆どが、敵の本隊に引きつけられた時、大量の矢を浴びせられて出た被害だ。しかもひるんだ所で集中攻撃を浴び、多くを倒されたという。

「漢人は卑怯だ!」

若い鳥丸族が、悔しそうに叫んだ。彼の兄たちは、矢を大量に浴び、針鼠のようになって倒されたという。

基本的に、遊牧民は巨大な血族集団だ。だから戦闘時は連携を強く持つことが出来るし、何よりも団結力も強い。逆にいえば、敵対した相手は全面降伏を拒んだ場合皆殺しにしなければ勝利とはならない訳で、その辺りもまた、漢人との溝を作ることにつながっているのである。漢人も相当に残虐だが、遊牧民の場合は家族も含めて皆殺しだから、やはり感覚の差は致命的なところで食い違っている。

「此処は戦場だ!」

トウトンが声を張り上げると、味方はしんとした。

勝つためには、いかなる事もしなければならない。

義だの卑怯だのとほざいていて、負けたらどうなるか。味方は皆殺しにされ、家族や幼い子供らも死ぬことになるのだ。

それを指摘すると、若者達は悔しそうに俯く。

もう一隊の指揮を任せていた腹心は、一斉射撃を受けた時に戦死していた。惜しい男だったが、漢人を侮っていた。此処からは、トウトンが全軍を指揮し、一丸となって、しかも袁煕と連携しながら敵と当たらなければならないだろう。

「次からは、余が全軍を指揮する」

鳥丸族は、決して歴史が長い一族ではない。

一代でここまで巨大化したのも、トウトンがしっかり鍛え上げ、あまたの戦に勝ち残ってきたからだ。

この戦いでも、負ける訳にはいかない。漢人の土地を少しでも取ることが出来れば、それで一気に鳥丸族の勢力は広がる。経済力も高まり、多くの民も養うことが出来るようになる。

そう演説すると、鳥丸族の戦士達の目にも、戦意が戻り始める。

確かに、欲もある。

だが、それ以上に。誰もが感じているのだ。今の生活が苦しく、もっと豊かな生活をしたいと。

袁煕に雇われた兵士達は、皆戻ってくると、考えられないほど豊かな生活をしていたことを皆に話した。食べ物は旨く、温かく、何より金をたくさんもらえる。敵は弱く、簡単に稼げる。

それらの中には嘘も多かった。

だが、魅力的な真実も含まれていたのだ。

敵は、動く様子を見せない。天候から言って、またしばらくすると霧が出る。夜半からは、一寸先も見えない状態になるだろう。

城下に貼ったパオの所まで戻り、一旦休息するべき。そうトウトンは判断して、味方にそう指示を出した。

 

勝ったとはいえ、張遼隊はそれなりに大きな被害を出していた。敵騎馬隊は二割以上の被害を出したが、その性質上残りは無事と考えても良い。味方も数百騎を落とされていた。練度の低い兵が特に被害を多く出していて、その中には新兵も少なからず混じっていた。

一旦味方を整列させた曹操は、張遼隊の補充を命じる。勝ちつつあるし、敵には大きな被害を出させているが、しかし。それでも、油断できる状態ではない。一度敵が歩兵隊に突っ込んできたら、多分立て直しもならずに全滅する。

「敵の生き残りを集めよ」

高速機動戦であったから、落馬したり、負傷した敵は置いて行かれている。この辺り、防御戦であった方が有利だ。地面で呻いていたり、逃げようとした所を捕らえられた兵士達が集められてくる。

ぎらぎらと敵意を目に輝かせている彼らに、曹操は上から語りかけた。これは、彼らが漢民族を舐めきっているからだ。

「場合によっては生かしておいてやる」

案の定、醒めた反応が返ってきた。

曹操は鼻で笑うと、拷問専門の役人を、何名か連れてこさせる。

最初の数人は、殺しても良いから、一番過激な拷問を行えと命じておいた。しばらくすると、やせ我慢する余裕もなくなり、悲鳴が上がり始める。縛り上げられ、身動きも出来ない負傷兵達の間に、恐怖が蔓延していく瞬間を待つ。

同時に鼎を準備させ、油を注いで、火をつける。

その上に滑車を使って、捕虜の一人を吊す。煮立ち始めた油が、香ばしい臭いを立てる

そういえば、何進は油っぽい料理が好きだったなと、曹操は思った。しかし、これからの事を考えると、胸が痛む。

残酷だが、仕方のないことだ。そうしなければ、もっと多く、敵味方の犠牲が出るのだから。

「これから、質問をしていく。 もしも嘘を言ったり、逆らったりしたら、お前達ではなく、お前達の仲間が、油で煮られて死んでいくことになる」

「卑怯者!」

誰かが、一人叫ぶ。曹操は指を鳴らした。

悲鳴を上げながら、油の中に落下した捕虜が、瞬時に天麩羅になる。次の捕虜が吊される。

彼らは、捕虜どもの家族であり同胞だ。

それを理解している上で、曹操はあえて魔王となっていた。此処は残虐さを使いこなさなければ行けない場面であったからだ。敵兵の憎悪が、徐々に恐怖へとすり替わっていく。圧倒的な曹操の残虐さが、敵兵の心を容赦なく打ち砕いていく。

「まず、これからの天気についてだ。 今晩から明日朝に掛けての天気を聞こう」

もう二人ほど落とすと、捕虜達はだいぶ大人しくなり、口も滑らかになった。明日に掛けての天候と、敵の編成、袁煕軍の様子などを、順番に聞いていく。曹操はある程度必要な情報を引き出すと、指を二回鳴らした。

捕虜達が檻車に入れられて、連れて行かれる。

許?(チョ)が、人間の天麩羅の臭いが漂う周囲に、眉をひそめていた。

「仕方がないこととはいえ、酷い話です」

「心配するな。 鳥丸族を絶滅させるようなことはしない。 河北での死闘も、そろそろ終わりにする」

時には恐怖を用いなければならないこともある。悲しい話だが、人間とはそう言う生物だ。優しさや思いやりを理解できる人間は極めて少ないし、何よりも自分の思想を絶対視して、他を全て馬鹿だと考えるような輩がどれだけ多いことか。

そんな人間をしっかり統率するためにも、恐怖による支配は有効なのだ。長年政務に携わってきた曹操は、それを良く知っている。

捕虜達からは必要な情報を仕入れた。

林からも、充分な情報が入っている。

次で、勝負を付ける。これ以上河北での戦乱を拡げないためにも、曹操はそう誓った。

 

2、袁家滅亡

 

闇同然の霧の中。最初、何が起こったのか、理解できる者はいなかった。

まさか、この霧の中動いてくるとは、鳥丸族の王、トウトンさえも考えてはいなかったからである。

だから、気がついた時には。

既に手遅れになっていた。

いきなり、奇怪な音を立てて飛来したのは、油を満載した壺であった。それが次々と着弾。遅れて、火矢が飛んでくる。

トウトンが天幕から飛び出した時には。

陣は大混乱に陥り、火の海と化していた。

「陛下! 敵が霧の中から、攻めて参りました!」

「落ち着け! 敵は少数だ! 不慣れな余所の人間が、霧の中を大軍で移動できる訳がない!」

「北の陣に敵襲!」

トウトンの甘い希望的観測を、伝令が見事に打ち砕く。

蒼白になるトウトンの耳に、馬蹄の音が響き来ていた。

 

曹操は、二万程度の部隊を展開して、柳城の側にまで来ていた。夜の内に移動させ、霧の中を苦労しながら進んだのである。

もちろん、通常の方法では、濃霧の中など移動できる訳がない。

そこで曹操は、兵力を絞り、各人に明かりを持たせ、それを使って移動したのである。そして霧の中でもある程度の方角が判断できる鮮卑出身の兵士に方角を判断させ、歩数で距離を測りながら、柳城の側まで進んだのであった。

もちろん、それらは先発隊が行い、本隊はその残した目印に沿って移動したのである。

柳城の側まで来て、敵の陣を確認した曹操は、思わずため息をついていた。我ながら、よくも上手く行ったというべきである。

すぐに伝令を走らせ、残りの部隊も呼び寄せる。そして呼ぶ間に、主力は敵を囲むようにして展開。

投石機と火矢の準備を済ませた。

夜間中掛かって、作業の準備を終えて。そして、早朝。

霧が最も濃くなった辺りを見計らい、曹操は既に先導などで行動をしていた林を呼び寄せた。

林からは血の臭いがした。多分霧に乗じて、敵を殺したり切り刻んだりしていたのだろう。

「お呼びでしょうか」

「これより、攻撃を開始する。 お前は部下を伝令に紛れ込ませ、敵を混乱させよ。 派手な情報を可能な限りばらまけ」

「承りました」

林がにやりと口の端をつり上げる。

伝令に化けると言うことは、元の人間を消すと言うことだ。林は鳥丸族の格好をしていたが、多分この様子では、既に相当数の部下を紛れ込ませているのだろう。元の人間と入れ替わる形で。

相変わらず鬼畜をそのまま人間としたような輩だが、有能だ。乱世では、有能な奴をしっかり使っていくことで、生き残ることが出来る。そして早く乱世を終わらせれば終わらせるほど、国は発展し、無為に死ぬ人間も減ることとなるのだ。

最終的に林は処分しなければならない人間だが。今はとにかく、使っていくしかない。問題は曹丕が此奴を使いこなせるか、だが。

今は、考えても仕方のないことであった。

包囲が整う。曹操は伝令を使って、周囲に連絡をした。

「位置が分かると言っても、同士討ちを裂けるためにも、無為に突撃を仕掛けるな。 最初は投石機で敵陣に油を撃ち込み、火矢を放って、混乱させる。 その後、陣を飛び出してくる敵を仕留めることに終始しろ。 繰り返すが、敵陣に突入はせず、現状での位置を堅守せよ」

各将に連絡が行き渡った所で、曹操は攻撃を開始させた。

投石機が唸り、一抱えもある油入りの壺を投擲し始める。狙いは多少いい加減でも構わない。兎に角派手に敵陣に降り注げば、それでよいのだ。

続けて、火矢が撃ち込まれ始める。

敵陣が、地獄絵図になる。

其処に、林が攪乱を仕掛ける。

さて、袁煕が出てくるまでに、どれだけ敵の士気をくじけるか。曹操はありったけの火矢を叩き込ませながら、腰に結びつけていた焼き菓子をまさぐって、口に放り入れた。噛み砕きながら、呟く。

「これが背の伸びる薬であったら、余はどれだけ幸せなことか」

敵陣で悲鳴と喚声が響き始める。

降り注ぐ矢の中で、敵がどういう動きをするか。曹操はある程度見切っていた。もちろん完璧にそれが正しいかは分からないが、大まかな所では判断が可能だ。無理に飛び出してくるようなら、それはそれで面白い。同士討ちを誘発できる。

敵陣の混乱は、見たところ意外に小さい。トウトンが如何に優秀な指揮能力を持っているかが、これだけでもよく分かる。続けざまに油の入った壺を投擲し続けている投石機だが、流石に軋みが目立つようになってきていた。

「よし、油はもう良い。 火矢を撃ち込むことに終始せよ」

「わかりました」

兵士達が戦術を切り替える。

東や西の陣から、敵の突撃音が聞こえてくるが、散発的だ。既に馬防柵は用意させているし、何より中から来る奴は全部敵だ。的にしてしまえば良いのである。既に味方はあらかた戦闘配置についているし、もはや展開は一方的であった。

霧が晴れてくると、惨状が露わになってくる。

敵の中で、半数ほどは柳城に逃げ込むことで命脈を保った様子だ。

城の外には驚くほどの敵の死骸が転がっていた。兵士が多いが、一般人もかなりいる様子である。当然、相当同士討ちも発生しただろう。しまったと、曹操は呟く。民間人まで殺戮するつもりはなかったのだが。

しかし、過ぎてしまったことを悔いても仕方がない。

黒こげになった死骸が点々としている柳城の周囲は凄まじい有様である。敵は城に立てこもって、息を殺している状態だ。戦闘要員の内、無事なのは三万程度だろうと、曹操は当たりを付けた。しかもその半分は、籠城になれていない騎兵だ。

どうやら、勝ったらしい。

「騎馬隊を、原野で戦わせないようにして葬る。 見事な策ですな」

「……そうだな」

曹操は賈?(ク)の言葉に頷きながら、若干の疲労を感じていた。

攻城戦を開始させる前に、使者を出す。

降伏勧告であった。

 

城の中に逃げ込んできた鳥丸族の兵士達やその家族を見て、袁煕は愕然としていた。

もはや戦える状態ではない。

騎馬隊の強みを完全に潰されたばかりか、地の利まで逆に利用され、更に兵力の大半まで、一瞬にして粉砕されてしまったのである。トウトン王が早めに対処したから、この程度の被害で済んだ。最悪、対処が遅かった場合には、全滅してしまった可能性さえあるほどであった。

鳥丸族の兵士達は、皆勇敢だというのに。

霧の向こうから一方的に、しかも得体の知れない武器で攻撃されたと言うこともあって、恐怖に震え上がってしまっている者達も多かった。何より炎の舌が、周囲を舐め尽くす光景に関しては、確かに恐れられる要因ともなる。

慄然としている袁煕の所に。敗れてもまだ威厳を残していたトウトンが、歩み寄ってきた。

「袁煕殿」

「災難でありましたな、トウトン王」

「何という凄まじきことか。 あのような戦いが、漢では日常的に行われているのか」

「とんでもない。 霧の中を強行軍で進み、奇襲を精確に仕掛けるなど。 我が国の歴史にも、そうそうはありませぬ」

そうか、とトウトンは呟いた。その顔には、絶望が色濃く貼り付いていた。

このトウトン王は、殆ど裸一貫の状態から、鳥丸を巨大化させ、勢力を屈指のものとした英雄だ。こなしてきた戦は百ではきかないだろう。それでもなお、曹操には勝てないというのか。

もちろん、天の時や人の和が、曹操に味方をしている部分もあるだろう。

幽州が落ちた時、曹操に内通者が大勢出た。その最大たるものが商家の田一族で、後でずっと前から背信行為を続けていたことが分かった。それを聞いて、袁煕は裏切りものを責める気にはなれなかった。もはや仕方がないことであったからだ。

「ともかく、これでは戦闘など出来ませぬ」

「この城では、曹操は防げぬか」

「現状では。 そもそも小城で補修も完全ではない上に、兵士達が怯えきってしまっているのが事実です。 これでは、相手が曹操でなくても、防ぎきることなど出来はしないでしょう」

頭を垂れるトウトン王。側近達の間には、むせび泣く者達もいた。

彼らを全滅させる訳にはいかない。選択肢を作るのが、袁煕の仕事であった。

「トウトン王」

「何か」

「これから、我が軍が敵の一角を突破し、脱出します」

騎馬隊の機動力を駆使し、ともに脱出すれば、民間人の半分は逃がせるかも知れないと、袁煕は説明した。

問題はその前、或いは後である。

「我らはその後、遼東に向かいます。 王は北に向かえば、再起が可能でありましょう」

「王である私に、鼠のように逃げろと言うのか」

「もちろん、その選択肢もございます。 私は、陛下に選択肢を作るだけです」

袁煕は一旦言葉を切ってから、続けた。

「曹操の武将になれば、或いは漢に領土が得られるかも知れませぬ。 曹操は現実主義者で、極端な能力主義者ですから」

「ぶ、無礼なっ!」

トウトンの側近が、剣に手を掛ける。しかし裂帛と言うにはほど遠く、何とも力弱い怒号であった。

最早其処には、やせ我慢しか存在しない。

そして、やせ我慢で人を死なせる訳にはいかないのだ。

「私は、遼東で死ぬことになるでしょう。 だから、兵士達は脱出成功後に解散させる事とします。 その後、彼らの残党が貴方を頼るかも知れません。 その時は、よろしくお願いいたします」

「袁煕殿、そなたは」

「此処で、戦いは終わらせましょう。 あの霧を強引に抜けて奇襲を仕掛けてきた気迫を見抜けなかった時点で、我らの負けだったのです」

袁煕は、最後に言った。

「私は、出来るだけ無様に死ぬ必要があります。 河北の、袁家の終わりを、皆に印象づけるためです。 貴方にはそのような責任も義理も義務もない。 だから、好きなようにしてください」

トウトン王を残し、袁煕は城の中庭に出た。

既に、出陣の準備は整っている。兵士達は、これから何を命じられるのか、大体悟っているようであった。

「これから、敵陣を突破する。 ただし、その後は自由行動とする。 曹操軍に下るなり、トウトン王に着いていくなり、好きにするがよい」

「袁煕様は! 袁煕様はどうなさるのです!」

悲鳴のような声が飛んできた。声の主は、ずっと着いてきてくれた、若い将の一人であった。

彼も幽州での死闘の結果、右目を失ってしまっている。それでも着いてきてくれた彼に、最早袁煕は報いる術を持たなかった。

また、袁尚の影武者もまだいる。

既に袁尚本人は、猿同然になってしまった上に、曹操の庇護を受けているという報告が来ている。ただその袁尚と容貌が似ていると言うだけで、悲惨な戦場を引きずり回され、君主ごっこをさせられた不幸な青年。彼の正体は、没落した豪族の三男坊である。下級将校として頑張っていた所を、不幸にも見いだされてしまったのだ。

彼に謝ろうと思った袁煕だったが、袁尚の影武者は、にこりと笑った。

「楽しい経験をさせて貰いました、袁煕様。 この雷安、貴方と最後まで一緒に生きましょう」

「愚かなことを言うな。 これから我らは、出来るだけ情けない方法で死ななければならないのだぞ。 民を失望させ、曹操に支配されて良かったと思わせるためにだ。 後世には、愚名だけが残ることになる」

「後世の評価など何でしょう。 我らは我らとして戦場を駆けめぐり、生きました。 私はそれで充分です」

袁煕は、思わず涙を零していた。

嗚呼、天は無常なり。

皆から視線を逸らすと、袁煕は指揮剣を抜いて、天に向け高々と振り上げた。

「総員、これから曹操軍を突破する!」

兵士達が喚声を上げる。

東西南北、どちらを見ても敵の海だ。此処は敢えて、南を開ける。兵士達の負担を小さくするためである。

伝令が戻ってきた。

「トウトン王は、降伏を選ばれる様子です」

「そうか。 ならば、十名ほど城に残ってくれ。 曹操に降伏する時に、目録を作る必要がある」

「袁煕様!」

「そなたら、残れ」

袁煕が選んだのは、初陣であったり、まだ経験が浅い下士官達だった。それと一緒に、目に着いた若い兵士達も、皆その場に残していく。

南門を開けた。

曹操軍は、流石に面食らった様子であった。

袁煕は高笑いしながら、敵の海の中に突入した。これが、最後の戦いだ。

私の戦いを見よ。

今、此処にいる者だけでもいい。私の戦いを、目に焼き付けるがいい。

敵を突破した袁煕は、なおも笑い続けていた。

行く先には死と闇しかない。

だが、その先には、民の生がある。為政者として、これほど満足できる結果があろうか。

この瞬間。

河北に覇を唱えた袁家は、滅びた。

それを知った上でなお、袁煕は笑い続けていた。

 

董白の元に来た伝令が、二つ、重要な情報を持ってきた。

一つは、ついに袁煕が滅亡したというものだ。

遼東に逃れた袁煕と袁尚は、独立勢力である公孫康に招き入れられた。そして、騙し討ちにあって、部下達はその場で皆殺し。そして二人は土の上に座らされ、首を刎ねられた、という事であった。

情けない逸話が幾つも伝わってきている。袁尚が命乞いをしたり、地面は寒いから茣蓙を敷いてくれとほざいたり。

いずれにしても、これで河北は、曹操の手に落ちた。

トウトン王は、曹操に降伏した後、行方が分からないという。曹操に仕えることになったのか、密かに首を刎ねられたのか。よく分からない。ただ分かっているのは、鳥丸族は殆どが騎馬隊として再編成され、更に一族郎党に到るまで曹操の配下となったという事であった。

今後、曹操軍には、鮮卑の傭兵だけではなく、鳥丸族までもが含まれることになる。その騎馬隊の戦闘能力は、とても群小の群雄が立ち向かえるものでは無くなることだろう。今までも充分に強力であったが、既にその戦力は、一群雄に許される規模を越えているとも言える。

袁煕の滅亡と同時に入ってきた河北の情勢は、それだけである。

まずは河北の情勢を見届けると、董白は側にいる夫に言った。

「袁煕は、わざと無様な死を遂げたようですね」

「河北の混乱を、手早く収めるためでしょう。 気の毒な話です」

「負けを認めて、民がいち早く曹操に降伏するように、敢えて道化を演じた、と。 不器用で哀れで、後世に汚名を残しても、現在の民の事を優先する。 何ともまた、もったいない人間を亡くしたものですね」

意見はぴたりと一致していた。

しかし、である。二人とも、何処か冷気が声に混じっていた。

確かに民のためには、苦渋の決断だし、見事な判断だとも言える。

だがそれを言うなら、幽州を落とされた時点で降伏していれば、もっと損害は小さくなったのだ。

次の報告を受ける。細作は頭を垂れると、恭しく竹簡を差し出した。

「曹操軍は河北から大挙引き返し、兵力の再編成を行っています。 その一環か、曹仁が率いるおよそ二万が、宛を越え、ハン城まで来ております」

「他の将は」

「李典が補佐に着いております」

そうなると、実質上の司令官は李典だ。

曹仁は、曹操の従兄弟という以外に取り柄のない将官で、勇猛だと言うことにされているが、実際にはそれほど大したこともない。曹操としては、将官の裏切りを防ぐために肉親を要所に配置しなければならず、そのため駆り出されている人物の一人だ。同じような将官には曹洪や夏候惇、夏候淵がいる。

幼なじみの盟友に裏切られ、部下にも裏切られた曹操は、安定した政権を作るため、無能な肉親を重用しなければならないという弱点を抱えてしまっている。二流の猪武者に過ぎない曹仁が、重要な立場を任されているのは、その辺りが原因だ。

「近々李典は出兵を図ることでしょう」

「分かりました。 そのように心得て、監視いたします」

細作が消えた。

董白は肩を叩きながら、窓を開ける。草廬に光が差し込んできた。諸葛亮が長身に腕組みして、なにやら考え込んでいる。

「林との対決についてですか」

「その通りです。 これからあの狂鬼が荊州か漢中に全力を投入してくるのは間違いない所ですから」

現在、董白の組織は、充分に充実した。だが曹操は林の組織の他にもう一つ細作組織を立ち上げ、そちらと並行しての運用を始めている。林だけならどうにかなるかも知れないが、もう一つの組織が介入してきたら、対応は難しいかも知れない。

諸葛亮が、見上げるような長身の右手に持った羽扇で自分の顔を仰ぎながら、東の空を見つめる。

「今の内に、江東の孫政権の調整をしておきましょう」

「過大評価されがちな周瑜に、ある程度の戦力が行くようにすると?」

「そう言うことです。 それと、もう一つ。 曹操軍を撃退するには、あるものが必要になります」

圧倒的な物量を誇る上に、精鋭な曹操軍を追い返すには、尋常な戦術では不可能だ。戦略上の不利をひっくり返すのに、少々の戦術では埒が明かない。

火計が現実的だが、多分それだけでは撃退できないだろう。

「まさか」

「そう言うことです」

董白の夫は、にこりともせず。東の空を見つめ続けていた。

 

3、劉備躍進

 

劉備の所に、ふらりと迷い込んできた男がいる。

徐庶。

寒門、いわゆる単家の出身者であり、最初は誰もその実力を信用していなかった。しかし、彼は司馬徽が推薦した男であり、劉備がしばらく見た後重用するようにと周囲に指示を出したので、誰もがそれに従った。劉備の人材鑑定に疑いを持つ者は、少なくとも新野には誰一人としていない。

徐庶は磨いだ刃のような雰囲気のある男で、普段はにこにこしているが、時々目の奥に鋭い闇が宿る。陳到から見ればかなりの若造だが、気迫と言い、身につけている威厳と言い、既に並の武将よりは上に思える男である。一緒に温泉に行った張飛の話によると、かなりの向かい傷が体にあったそうで、ひょっとすると一時期侠客をしていたのかも知れない。

その程度であれば、別に今時何処にでもいる存在である。やはり劉備が認めただけあり、作戦立案をさせてみると、歴戦の関羽や張飛でさえ舌を巻く有様である。すぐに徐庶は、劉備配下の中で、自分の立ち位置を確保した。

もとよりあまり自己主張しないこともあり、徐庶は恨みや憎しみを買うこともあまりなかった。この辺り、あくが強い人間の多い劉備配下の中では、非常に貴重な存在だとも言える。

陳到にしてみれば、もとよりあまり社会的な上層を目指していないと言うこともあり、上に誰が着こうとあまり気にならなかった。

気になるようになり始めたのは、徐庶が立案した作戦によって、攻め込んできた曹仁軍が粉砕されてからである。

 

曹仁軍約二万が押し寄せたのは、徐庶が劉備軍陣営に入ってから、四ヶ月ほど経った時である。

実際には曹仁軍と言うよりも李典軍というのが正しい。御輿として担がれている曹仁の側に、実質的な指揮を執っている李典が控えている。曹仁は真面目な性格が故に、李典の悪癖である汚職をしないように監視だけをしている状況だと、シャネスから報告が来ていた。

いずれにしても、二万である。しかも張繍が整備した巨大な経済都市である宛が後方に控えており、補給の点でも問題がない。

劉備軍は八千で、ここ数年増減していない。しかも現在、江夏に今までにない大軍勢で周瑜が押し寄せてきており、その上黄祖が体調を崩していることもあって、荊州は厳戒態勢に入っている。それらの情報を掴み、援軍が来られないことを前提に攻め込んできているのは間違いなかった。

続々と入ってくる報告を聞いて、城壁の上で敵軍がいる北を向いていた劉備が頷く。

「敵ながら戦略的に見て完璧な、正しい判断だ。 李典という男、賄賂を好むという悪癖があるらしいが、作戦立案能力は低くないようだな」

「新野を落とせば、戦略的に、荊州に対する楔を打ち込むことも出来ます」

関羽が隣で言う。陳到は黙って、ただ出撃の号令だけを待っていた。隣でうずうずしている張飛も、同じ様子だ。

其処へ、徐庶が来た。細い体をしているが、やはり侠客らしい、鋭く軽妙な動きが目立つ。一流とまでは行かないだろうが、それでも普通の兵士よりも明らかに腕が立つだろう事は、見て取ることが出来る。

「おお、徐庶。 作戦は練ることが出来たか」

「ぬかりなく。 早速、皆様方には出撃していただきとうございます」

「良し、腕が鳴るぜ!」

張飛が真っ先に下へ掛けだしていった。陳到も無言でそれに従う。

城の守りに五百ほどを残して、残りの七千五百が出撃する。もはや援軍を待つ状況ではないし、期待も出来ない。独力で、三倍弱の相手を撃退しなければならなかった。それも完膚無きまでに、である。

曹操軍が河北を制圧したことは、陳到の耳にも届いている。最初は反乱が起こる兆しもあったらしいのだが、袁尚、袁煕が情けない死に方をしたという噂が流れてからは収まったらしい。多分二人とも、あまりにも無様な死に方を敢えてすることで、これ以上の混乱を防ぎたかったのだろう。悲しい話である。

だから、曹操は今後、荊州の攻略に全力をつぎ込んでくる。故に、この先兵とも言える敵を粉砕するのに、手間取ってはいられなかった。

陳到も、二千五百の歩兵を率いて外に出る。精鋭は関羽と張飛が率い、主力は劉備が率いる。その中で、二千五百を任されるのだから、陳到が信頼を得ていることはよく分かる。それは、陳到にとっても嬉しいことであった。

ほどなく、新野北の平原に両軍は布陣した。

敵は当然のように鶴翼の陣を張った。

これは鶴が翼を拡げたように、横一線、或いは若干斜めに囲むような張り方をする陣形の事である。野戦では相手を囲めば勝ちが確定するため、それを最初から狙っている陣形となる。もちろん一箇所でも貫かれれば一気に本陣が危機に晒されるため、危険性も大きい。ただし、敵は今回三倍弱の戦力を用意してきている。必勝の自信があるからこそ、鶴翼を敷いたのであろう。

徐庶はしばらく敵陣を見つめていたが、やがて趙雲を呼ぶ。

趙雲は百ほどの精鋭を率いていた。その傍らには、この間正式に妻となったジャヤの姿もある。すらりと背が伸びきったジャヤの顔からはもはや幼さが消え、精悍で美しい女に成長していた。喋り方が変に仰々しい所は、まだ変わってはいなかったが。

「趙雲将軍。 あの一角を攻めていただきたい。 単独で」

「百騎で二万に突入せよと!」

「最後まで話を聞いていただきたい。 あの位置には、李典がおります」

「なぜ、断言できる」

剣呑に眉をひそめたジャヤに、徐庶は言う。何でも、敵陣の様子を見る限り、情報連絡の伝達網が、其処を中心に伸びているという。丁寧にごまかしをしているが、それはほぼ確実で、突き崩せば一気に敵陣を粉砕できると言うことであった。

劉備は頷くと、他の部隊はどうするべきかと聞いた。陳到も聞きたい。

「他の部隊は、全てが銅鑼を鳴らして、突撃する準備をしているようにだけ見せてください。 機会を見て私が合図をいたします。 その時に、全軍一丸となって、まっすぐ敵を突けば勝つことが出来ます」

「ふむ、なるほどな。 分かった」

張飛や関羽は若干半信半疑の様子であった。だが、陳到は黙々と陣に下がり、お手並みを拝見することとした。

趙雲隊が動き出す。規模は小さいが、練度と戦歴では大陸屈指の部隊だ。やがて、趙雲を先頭に、まるで一匹の鹿のように駆けだした。敵が動揺する一瞬の隙を突き、至近まで肉薄。そして、前衛を踏みにじり、敵中に突入していた。

あまりのことに、敵は弓矢を放って反撃する暇もなかった。

敵陣が、わっと乱れる。どうやら、徐庶の説明したとおり、趙雲の突入した地点に、事実上の総司令官である李典がいたらしい。曹仁など所詮二線級の将官に過ぎず、一度混乱してしまえば立て直しなど出来ない。

徐庶が旗を振った。

全軍が、突撃を開始する。まず関羽と張飛が率いる一千余が、猛烈な勢いで突入。敵を正面から撃砕しに掛かる。魔王のごとく暴れ回る関羽と張飛に続いて、劉備の本隊が突撃。そしてそれを補助すべく、陳到の部隊も敵陣を砕きに掛かった。

後は、一方的な戦いになった。

もとより練度がまるで違う。宛に配属されていたのは、河北で死闘を繰り返した曹操軍の主力ではなく、許昌で後方の守りについていた二線級の連中である。凄まじい訓練を繰り返していた新野の劉備軍とは、まるで実力が違っている。

確かに兵力は三倍だったかも知れない。しかし一丸となっている劉備軍と、練度も足りない寄せ集めである曹仁軍では、ありとあらゆるものが違いすぎた。

一刻もすると、勝負はついた。

曹仁はかろうじて軍をハン城まで引き上げたが、なんと一刻の戦闘で、三千を超える兵を失っていた。

曹操軍は今までに何度となく手ひどい敗北をしている。しかし正面からの決戦で、此処まで一方的な敗北をした例はあまりなく、あるとしても策にはめられた場合が殆どだ。

一旦陣を引いた劉備軍は、それに対してほとんど被害もない。

血を大量に浴びて帰ってきた張飛は上機嫌であった。趙雲の側に着いていたジャヤも、矢を放って六人、敵を倒したという。いつ頃からか陳到と張り合うのを止めたので、つまらなくなってしまったが。まあ、腕前は英雄豪傑に及ばなくとも、上の上という所なので、充分に戦場では自分を守れる。

野戦陣の中で、早速酒を持ち出そうとする張飛。陳到も兜を脱ごうとしたが、徐庶が来て、にこやかな笑顔でそれを制止する。

「皆様、まだ戦はおわっておりませぬぞ」

「あれだけの被害が出たというのに、か」

実際、李典軍にいた旧袁尚軍の呂兄弟は、兄が張飛に唐竹割にされ、弟は一撃で趙雲に串刺しにされている。兵の損害は一割半にも達し、まず壊滅と言って良い状況だ。

「だからこそです。 三分の一の敵を相手に、わずか一刻で壊滅などと言う事を、計算高い李典が許容する訳もありません。 恐らく残存兵力を整えて、夜襲を仕掛けてくるつもりでしょう」

確かに、それはあり得る話だ。

敵の残存戦力は一万程度と考えても、夜襲を仕掛けるには充分な戦力だ。まだ此方よりもだいぶ多いし、練度は低くても武装は充分に備えているだろうからだ。今や河北を抑え、更に目の上のたんこぶだった鳥丸族を自軍に組み入れた曹操は、背後の心配なく、膨大な物資を前線に投入できるのだ。

「分かった。 すぐに対応策を練らねばなるまい」

「そう慌てずとも大丈夫です。 関羽将軍は、一千を率いて、今からハン城に向かってください。 今やあの城はがら空きも同然です。 簡単に陥落させられるでしょう」

「分かった」

「張飛将軍は、陣を放棄。 兵士達を、陣の背後に伏せて、敵が夜襲を仕掛けてきたら、即座に攻め込んでください。 劉備様と趙雲将軍は、それぞれ左右に伏せ、張飛将軍が突入したら、続けて陣に突入。 粉砕してください。 逃げ道を塞がないように注意して、敵を背後から追撃することを忘れずに」

すらすらと、徐庶が作戦を並べていく。

広域戦略の出来る人間が欲しいと、劉備は以前から言っていた。だが、この作戦立案能力はいかなる事か。今まで劉備軍は百戦をこなしてきたが、それが全て幻であったかのように思えてくる。

此奴は何者かと、一瞬だけ陳到は思った。

続いて、陳到にも指示が来る。

「陳到将軍は、二千五百と他の諸将を率いて、ハン城の途中にあるこの山に伏せてください。 逃げてきた敵を見かけたら、先頭を逃がした後、後方から追撃を仕掛けてください」

「承知した」

「これで、敵を壊滅できるでしょう。 捕らえた敵は武装解除して、逃がすなり劉表どのに送るなり、好きにすると良いかと思われます」

「それは、戦いが終わってから考えよう。 全軍、徐庶の指示通りに動け!」

「おうよ!」

張飛さえもが、既に徐庶の実力を認めている様子であった。魏延は無言で二百の兵を率いて、出発の準備をしている。陳到は彼らの様子を見ながら、自身も出撃した。無言で着いてきていた王甫が、ぼそりと言う。

「あれは一体、何者なのでしょう」

「さてな。 歴戦の勇士である貴方でも、恐ろしく感じるか」

「……」

自分は一介の武芸者だとか名乗っているからか、王甫はむっつりと黙り込んでしまった。やはりこの男、元は歴戦の将だったのだろう。

徐庶の指示した場所に布陣する。伏兵して、夜半まで待つと、徐庶が言ったとおりに、敵が出撃してきた。兵力は一万二千程度といった所だ。この様子だと、ハン城の守備部隊まで狩りだしてきたのだろう。徐庶の読み通りになったという訳だ。

そして、その後も、予想通りの展開となった。

燃え上がる陣から命からがら逃げてきた敵兵は、五千を割り込んでいた。

指示通り、まず先頭は見逃す。これは必死の抵抗を防ぐための処置だ。

そして、敵が大勢逃げて来はじめたころを見計らい、陳到は部下達に号令を降した。

「よし、今だ。 徹底的に敵を打ち砕け」

「殺っ!」

味方の兵士達が、絶叫した。

今までの鬱憤を晴らすかのように。後背を晒した敵を、陳到の軍勢は徹底的に蹂躙したのだった。

曹操軍の支隊に勝ったことは今までに何度かある。

だが、此処まで気持ちの良い勝利は初めてであった。

 

曹仁軍の内、生きて宛まで逃げ帰った兵士は千五百程度だと、既に報告に上がってきていた。三千ほどが捕虜になり、劉備は彼らを気前よく解き放ってやった。敵将李典は曹仁とともに逃げ延びることが出来たようだが、その部隊は長い時間を掛けて再編成する必要があるだろう。

鉄棒にぶら下がって背を伸ばすための体操をしていた曹操は、思わず舌打ちしていた。下には柔らかい布が重ねて敷いてあり、落ちても大丈夫なように工夫が為されている。若いころから鍛えている曹操は、身体能力に関しても図抜けてはいるが、しかし許?(チョ)や張遼などに比べるとだいぶ見劣りもする。だから、暗黙の了解で、こういう処置が為されるのである。曹操にしてみれば、甚だ不本意であったが。

曹操は懸垂をしながら、背が伸びるように、背が伸びるようにと呟いた。さっぱり効果が現れないのは、回数が足りないからだろうと言い聞かせながら、頑張る。効果が出もしないのに、既に二十万回を越える懸垂をしているこの辺りの精神力は、尋常なものではない。

側には報告を持ってきた程cが控えている。三ヶ月前、随分命を長らえた郭嘉がついに死んだ。それ以来、程cが賈?(ク)と交代で、側に着いている。許?(チョ)は相変わらず危険がないためか、虚空を見つめてぽかんとしていた。此奴は危険がない時は、いつもこうである。だから良い。

曹操は、程cに話し掛けてみる。ただの気分転換だ。

「ぬん! うむ! 何年か前に夏候惇が于禁とともに劉備に仕掛けて敗れたが、相変わらず腕は落ちていないようだな」

「李典は優れた武将です。 それを手玉に取るとは、恐ろしい相手ですな」

「ぬん! ふむむむ! いずれにしても、戦況の詳細を聞いてからだな。 李典の側に曹仁も付けてあるから、無体な嘘はつかないとは思うが」

一日辺り千回以上も懸垂していると、流石にくたびれ果ててくる。曹操は許?(チョ)に頼んで下ろして貰い、汗を拭いながら、ぼやく。

「なかなか効果が現れんな」

「まあ、体によいようですし、続けても損はないかと」

「それもそうか。 気長に続けるとしよう」

井戸で冷やしておいた山羊の乳を飲み干すと、執務室に戻る。

河北を落としてから、林の部隊は西に向かわせた。漢中と西涼がおかしな動きをしているからである。

林は部下と引き離し、ほぼ単独で荊州に向かわせた。これは嫌がらせもあるのだが、劉備を監視させる目的もある。伝令用に何人か部下も付けてあるが、殺したら死刑にすると告げてあるので、今のところ全員無事である。

そのほかに、今まで国内の不穏分子を探らせていたもう一隊の細作を、荊州に侵入させている。今までに充分な経験を積ませてはいるし、規模も相当な状態にまで育ち上がっているが。話に聞いている、荊州を中心に割拠する謎の細作集団とどこまで渡り合えるかが、課題になってくるだろう。

ほどなく、李典本人が、曹仁に伴われて許昌に戻ってきた。

宛の守備は張繍に任せての事である。項垂れている李典に、曹操は少し考え抜いた後に声を掛けた。

「お前らしくもない敗戦であったそうだな」

「申し訳ございませぬ」

「報告書は見せて貰った。 これを見る限り、責任はお前にあるとは言い難い。 敵の動きはあまりにも洗練されすぎている」

当然、少し前に来た報告書には、全て目を通している。ついでにと言う訳ではないが、たまたま近所に潜伏させていた林に状況は検分させ、報告書はあげさせた。結果、寸分違わない報告だったので、曹操はあまり怒らなかった。もちろん嘘の報告書を上げていたら、李典の首はなくなっていただろう。

これでは、余でも敗れたかも知れないと、曹操は報告書を一打ちした。

李典は有能な将で、今回に限っては仕方のない敗北だと結論した。だから、許すつもりである。安心させるために、曹操は敢えてこういう動作をした。李典がきちんと受け取れるかどうかはよく分からないが。

「一歩間違えば小細工になってしまうような小賢しい用兵を、完成されたものとして運用している。 これをやったのは何者か」

このような細かな作戦立案、現在曹操軍にいる賈?(ク)や荀ケでさえ難しいだろう。兵法を知っている人間でも、此処まで華麗にはやれない。

いにしえの軍師である張良や太公望でもなければ、難しいかも知れない。

いや、或いは。そういった非現実的な伝説的存在を真似、実用的な段階まで引き上げている輩なのかも知れない。

だとすると、対処が厄介だ。

「荊州には、多くの知識層が集まっていると聞いております。 彼らの手によるものなのではないでしょうか」

「頭でっかちの無能な知識人など怖くはない。 こういう事は言いたくはないが、孔融の事を考えても見よ」

儒家の筆頭であり、あの孔子の直系子孫である孔融は、典型的な学者馬鹿である。立派な議論は山ほど残しているが、そのどれもが非現実的で、実行に移せた提言など殆ど存在していない。

今では曹操の庇護下に入っているが、かっては青州の東部で独立勢力を築いていた。無能すぎて、国を維持できなくなり、曹操の所に逃げ込んできたのだ。その後、役に立ったことは唯の一度もない。

そういう連中を見ていても分かるが、知識層などと言う人間の内、まともに役に立つのはほんの一握りだ。だから、今回の華麗な作戦立案は気になる。一体どのような輩が、この作戦を建てたのか。

「実戦を知らぬ者ではあるまい」

「むしろ、実戦を徹底的に研究して、それを知識化している人間なのではありませんか」

程cの言葉を聞いて、曹操は顔を上げる。

学問としては異端の中の異端となるが、そういうものもあるかも知れない。荊州には多くの知識人が逃れていると言うし、劉表は基本的に彼らの行動は黙認している状況である。中には、乱世を収めることを主眼に置き、現実主義を第一とした学問を教えている者がいるかも知れない。

「なるほど、そうか。 あり得るな」

「今までの主流学問は、偉大なる先人の教えを、丸暗記するものでした。 故に記憶力がよい者ばかりがもてはやされ、非現実的な兵法が流行ることが多かったのも事実です」

「偉大なる先人の教えの中には、確かに有意義なものも多いが、役に立たぬものも少なくはないからな」

程cが言う弊害を、曹操も把握している。

大宦官だった祖父は、跡継ぎを必要としたため、曹操の父を養子とした。曹操は祖父に目をかけられ、幼いころから様々な学問を修得したが、いずれもが程cが言うように、殆どが丸暗記だった。

乱世でのし上がってきた武将の殆どが、野人も同様の立場から出世してきたことからも分かるように、今の知識層が持っている知識は、現実的ではない。曹操のようにそれらを取捨選択し、自分に合った形で整理できる人間はあまり多いとは言えず、それが故に現実主義に重みを置いた学問は珍しい部類に入ってくるのだとも言える。

危険だとは思わない。

むしろ、学問としてはなぜ出てこなかったのか、不思議だとさえ思える。

「よし、それも細作に探らせよう。 早速手配せよ。 有用だと思えるのであれば、成果を盗ませ、我が軍の知識層にも浸透させるべく手配するか」

「分かりました。 優れたお考えだと思います。 それで、今回で勝ちに驕った劉備軍に関しては、どうしますか」

「近々荊州を潰すべく、大動員を掛ける。 規模はそうさな、二十万という所だ。 その時、劉表もろとも、纏めて潰す」

河北を潰して一年経っていない。だが、韓浩による屯田策と、今までじっくり荀ケらが進めてきた許昌周辺の経済整備が、これだけの迅速な行動を可能とした。既に死にかけている劉表さえ滅ぼせば、後は江東の孫政権くらいしか、大きな敵はいなくなる。まとまりのない西涼は継戦能力に欠けるし、益州やら漢中やらは路傍の小石に過ぎない。

河北の猛烈な抵抗で、一時期曹操は、自分の代での天下統一を諦めかけた時期もあった。

だが、しかし。今は違う。

高祖劉邦や、光武帝、秦の始皇帝のように、天下を統一できるかも知れない。

曹操はそれでも手を抜かず、徹底的なまでに、準備を進めていた。

 

江夏の守りについていた、黄祖が死んだ。

シャネスがもたらしたその情報を聞いた陳到は驚いた。周囲にいる他の武将達も、皆驚いている。

「信じられん」

呟いたのは張飛である。陳到も同じだ。

以前一度だけ顔を合わせたことがある黄祖は、非常に気難しく、むっつりと黙り込んでいて、ずっと不機嫌そうにしていた。非常に優れた将帥であることは一目で分かり、彼が実質上荊州を東の脅威から守ってきたことも理解できた。

江夏は彼の巣であり、其処を彼以外に侵略できる者がいるとは思えない。

故に、死んだという事が信じられなかったのである。

「周瑜に討ち取られたのか」

「正確には違う。 どうやら壊滅した周瑜軍を追撃している時に、流れ矢に当たったらしい。 元々体が相当に弱っていたらしく、矢傷から病に罹り、そのまま命を落としたそうだ」

シャネスが茶をすすると、皆が慄然とした。

不死身の怪物とも思えた黄祖が、こうもあっさり命を落とすものなのか。

今まで乱世に生きてきて、誰もが人の死を見てきている。自分の手で、人を殺してきた者だってたくさんいる。

だが、それでも。死にそうにないと思える相手はいるものだ。黄祖は、その一人であったのだが。

「江東は黄祖を討ち取ったとか、盛んに宣伝している。 だが実際には、大きな被害を出して引き上げただけというのが実情だ。 黄祖はただ運が悪かっただけだ。 その証拠に、江夏は小揺るぎもしていない。 江夏守備の後任には、劉表の嫡男である、劉埼将軍が着くらしい」

劉埼には実戦経験がない。それどころか、黄祖の代わりになるような将官が、今劉表陣営には一人も居ない。かろうじて才覚では黄祖に並びそうな文聘は、まだまだ経験が不足している。王威もその辺りは同じである。

これは、劉備軍が売り込む好機である。しかも都合が良いことに、劉埼の信頼を得ることに、劉備は成功している。

ただし、北には強力な曹操軍がいて、何時南下してきてもおかしくない。それが懸念事項ではあった。

関羽が腕組みしながら言う。張飛がそれに応えた。

「もしも江夏に誰かが行くとなると、陣容を大幅に強化しないと難しいな。 下手に兵力を削ると、すぐに曹操軍が攻め込んでくる。 かといって、劉表将軍が、兵を此方に回してくれるかどうか」

「劉表将軍は、対外進出を考えない人物であるからな。 兵力の増強は、此方で自前で行う必要があるだろうが」

「仮に行くとしたら、関羽将軍でしょうか。 この中で、黄祖将軍に匹敵する指揮能力と戦歴があるのは、やはり張飛将軍と関羽将軍でしょう。 その中でも、実戦指揮に一番優れている張飛将軍は、やはり劉備将軍の下に残る事になるのではないでしょうか」

そう、陳到が言うと、二人は頷いた。

後は蔡瑁による横やりをどう防ぐかだが。

話し合いをしている内に、劉備が来た。抱拳礼をして向かえ、席に着くのを待つ。劉備はしばし茶を無言で啜っていたが、不意に目を輝かせた。

「吉報だ」

「何か、ありましたか」

「私がかねてから目を付けていた男が、ついに招聘に応じた。 しかも彼は、徐庶の話によると、徐庶以上の才覚を持つとか」

「ほう、それは心強い」

徐庶のあの鮮やかな作戦立案を見た後であるから、関羽も張飛も、嬉しそうにした。やはり我が主君は、人を見る目に関して図抜けていると、陳到も思う。

そして、此処で広域戦略に高い実力を発揮できる人間が配下に入れば、民のためを主眼と置いた国作りが実現するかも知れない。そうなれば、民は安らかに暮らすことが出来る。また、陳到の願う国に、一歩近付いたと言える。

「して、その人物とは」

「姓は諸葛、名は亮」

「ほう、諸葛家の人間ですか」

関羽が言う。陳到も、以前国譲に言われて、聞いたことがあった。

諸葛家は全国に散らばっている家で、いずれの地域でもそれなりの業績を上げている、謎の集団である。江東では諸葛瑾という男が重職を得ているし、曹操の配下でも何名かの諸葛氏が地位を確保している。

素性は謎だが、元は徐州にいたらしく、陶謙による徐州の大乱の際に、彼方此方に拡散したらしい。

その一人が荊州にいてもおかしくはない。

「信頼は、殿が大丈夫というのなら、出来そうですな」

「一応、念のために、しばらくは監視を欠かさずにするつもりだ」

一つ、気になるとすれば。

どうして、この時期に、ということだ。

劉備はこの新野に、六年以上いた。その間ずっと人材を募集していたわけで、応じる気ならば今までにも機会はあったはずだ。それなのに、なぜに今頃になって。それが不可解ではある。

「シャネスは、奴の周辺を探ったのですか?」

「もちろん探らせた。 そうしたら、面白いことが分かった」

「面白いこととは」

劉備が手を叩くと、シャネスが闇からしみ出すようにして現れる。

その背後には。

今まで、見たこともない細作達が、数人立っていた。中には山越出身らしい、黒い肌をした女の細作もいる。シャネスは後ろにいる連中を面白く思っていないようで、ぶすっとしていた。

反射的に剣に手が伸びた陳到だが、張飛も関羽も悠然としているので、腰を落ち着ける。これは、まさか。

「まさか、荊州で暗躍しているという、謎の細作集団」

「その通りだ。  諸葛亮とその妻が首領を努め、今ではあの林の細作集団に匹敵する規模と練度を有しているという話だ」

うさんくさいを通り越して、陰湿な危険さえ感じる。

だが、劉備は信頼すると言った。

それに、これだけの規模の細作集団が配下に入れば。今まで出来なかった情報収集も、円滑に行うことが出来る。あの林にも対抗することが出来るだろう。

なるほど、劉備はこれを見て、危険と利益を天秤に掛けたのか。

もちろん諸葛亮とやらも、その辺りは計算に入れているだろう。これからは狸と狐の化かし合いになる。

「シャネス。 今後は共同して、情報収集と裏工作に当たって欲しい」

「承知」

やはり、あまり心は許せそうにない。

しかし、これで一気に状況が好転し、飛躍に向けて進んだのは事実であった。

 

4、江東の混乱

 

柴桑に引き上げてきた周瑜の水軍は、負傷者を満載していた。

今回、七万に達する地上軍を動員。その内二万五千は、山越を「討伐」する事によって得た兵士達であった。今までにない圧倒的な動員兵力であり、慎重に進めてついに配下に引きずり込んだ甘寧の活躍もあったが。

しかし、やはり江夏は奪取できず。

黄祖の巧妙な用兵に引きずられて、味方は壊滅。どうにか全滅だけは免れて、柴桑に逃げ帰ってきた。

周瑜の鎧にも、傷が多くついている。戦死者は二万を超え、主力部隊も少なからぬ打撃を受けていた。むっつりと船上で黙り込んでいる周瑜は、味方の地上部隊の動きの鈍さと、こんな状況でも四家の言うまま勝利を喧伝しなければならない不甲斐なさに、内心胃が煮えくりかえる思いを味わっていた。

この国は、四家の私物だ。

江夏に無謀な侵攻を続ける度に、その度合いが酷くなっていく。

今回、黄祖は死んだ。ただし、討ち取ったのではなく、単に流れ矢があたっただけで、偶然の産物である。

江夏は小揺るぎもしていない。

敵の被害は、ほとんど数えるほどしかない。

水軍も戦果を上げるには上げたが、敵のほんの一部の船を沈めた程度だ。敵将を何名か討ち取りもしたが、いずれも名前も残らないような雑魚ばかりである。荊州軍は殆ど無傷のままだ。

周瑜は、船縁を掴んで、歯を噛んだ。

勝てなかった。最後まで、黄祖には勝てなかったのだ。

何が名将だ。江東を統一する際に、周瑜は活躍したが、それは相手がいずれも二線級三線級の相手ばかりだったからに過ぎない。それも、江東に統一政権を作ろうと企んだ四家によって、殆ど八百長同然の戦で勝ち続けたのだ。四家の作った虚名に必要だから、周瑜は名将として持ち上げられている。唯それだけの存在に過ぎないのだ。

暗い顔をしている周瑜の後ろで、咳払い。

今回、陸戦の監督をするために戦闘に参加した、魯粛であった。

「周瑜どの」

「おお、これは。 気付かずすみませぬ」

魯粛は孫権でさえ足を向けて眠れないほどの重鎮である。逆に言えば、彼が参加しても、黄祖はどうにも出来なかった。

四家に対する反乱を目論む同士でもある魯粛は、周瑜を何かと気に掛けてくれる。一回り年上の相手と言うこともあり、周瑜はいつも話す時には緊張した。

「太史慈が病死した事もある。 貴方がそのようなことでは困る」

「すみません。 情けない姿を見せました」

「情けないのは私も同じだ。 黄祖、怪物のような男であったな。 結局我らは、歴史書に嘘を書くことで、自分たちの敗北を誤魔化すことしかできないのだな」

自嘲的に言う魯粛は見事な指揮を見せた。周瑜が舌を巻くほどの用兵であった。

それでも、黄祖には歯が立たなかった。奴の用兵は熟練の度を超しており、先の動きを全て読んでいるかのようだった。経験が浅い荊州の兵士達が、奴の手に掛かると、山越との死闘で鍛え抜かれた江東の兵士達を手玉に取るほどの活躍を見せたのである。

期待されていた勇者である太史慈が、最近流行病であっさり死んでしまったこともある。更に、ついに河北を曹操が攻め落としてしまった。江夏を落としておけば、せめて北に対する対抗策も色々と練られたというものなのに。

敗軍を纏めて、一旦建業に戻る。

建業は急速に発展し、人口も増えている。長江の水の便を利用し、巨大な港をそのまま囲むようにして作られた大規模都市は、周囲の人間達を貪欲に吸い上げ、巨大な経済機能を構築していた。

街もどんどん大きくなってきており、城壁を取り壊しては拡張が続けられている。守りに関しては心許ないように見えるが、現状では心配はない。港湾都市という特徴上、守るのは難しいので、周囲に多くの砦や出城を造ることによって、敵の侵入を防ぐ仕組みを発達させている状態だからだ。それらの出城の守りが堅く、水軍による監視網も機能しているので、今の時点で問題が表面化はしていない。経済的には悪くない状態が続いており、首都建設の作業に関しては、滞りなく進んでいた。

建業の中心部に、孫家の宮殿は造られている。

周瑜は西門で軍を解散させると、供回りとともに其処へ向かった。最近では馬に乗れなくなってきているので、馬車を使う。石畳の上を馬車が行く軽快な音が心地よい。雑然としている辺縁を抜けると、中心部へ。赤い屋根と白磁の壁が美しい。上級将校や豪族達の宮廷の中心に、三度目の増築を終えた孫家の宮殿がある。この辺りまで来ると民の喧噪もなく、寡黙な兵士達が槍を立てて、警備に当たっているだけである。

馬車から降りて、中へ。

長江のほとりにあるからか、この周辺は涼しい。首都とするには申し分のない気候であった。孫家の宮殿周辺は、風が吹き込むように、特に工夫が凝らされている。

「過ごしやすいですな」

「敗戦の身だが、心地よい風だな」

魯粛も、少しだけ機嫌を直してくれた。二人で並んで、謁見の間に出る。

孫権は、顔が赤かった。所詮お飾りに過ぎない上に、全く好転しない戦況。それなのに、四家の言うままに勝利を宣伝して、ただ流れ矢に当たって死んだだけの黄祖を討ち取ったとか、落としてもいない江夏を奪取したとか、歴史書に書かせなければならないのである。機嫌が良くなるはずもない。酒を飲んでいたのだろう。

魯粛ともども、周瑜はありのままの戦況を報告。孫権は酔眼で周瑜と魯粛を見つめていたが、やがてご苦労であったなと、一言だけ呟いた。

孫権の前から退出すると、張昭、張紘らと、軽く酒を飲む。もちろん、酒盛りなどが目的ではない。

四家対策の会合である。

会話も、全てが暗号によるものだ。

席に着くと、早速魯粛がにこやかな顔で物騒な話を始める。

「四家の様子は」

「山越の討伐で得た奴隷を江北に売却して、莫大な利益を得ている。 特に徐州の闇の組織との連携を強めているようだ」

「鬼畜どもが」

「山越の不満も、限界に近付いている。 このままだと、また大規模な反乱が起こりかねないぞ」

無理もない話である。

江東の軍事力の多くは、山越を討伐すると称して、人狩りを行うことで得ている。家族を奪われ、故郷を焼かれて、黙っていられるほど人間は温厚ではない。頻発する反乱の度に、更に加速する討伐という名目の人狩り。最近では山越だけでは足りないから、台湾への「侵攻」も考えているという噂があるほどだ。

四家にとって、山越は人間ではない。奴隷と兵士を供給するために、養殖しているも同然の存在なのだ。

「曹操の様子は」

「早速、四家の懐柔を始めている。 このままでは、江東は、何も出来ないまま曹操に下ることになりかねない」

「表だって反対する訳にもいかないし、難儀なことだ。 周瑜、そなたは何か策が?」

「劉表さえ死ねば、荊州政権と協調路線が取れるかも知れません」

それも勝手な話だ。

劉表は、ただ荊州を守っていただけ。一方的に敵視していたのは江東であり、むしろ恨まれる立場にある。

此処にいる皆は、その矛盾とむなしさを理解できている。江東政権がしたり顔で記している史書とやらのいい加減さもだ。

やがて、茶を飲み干した張昭が、話題を変えた。茶目っ気のある老人なのだが、最近は表情が厳しくなる一方だ。

「曹操のことだ。 もちろん、軍事侵攻の準備も進めていよう」

「かなり露骨に。 兵力は最低でも二十万を超えるという報告があります」

あの袁紹は、三十万を超える兵を官都に投入した。

それに対して見ればだいぶ少ないが、しかしながら相当な数であることに違いはない。今回総力をつぎ込んでも七万がやっとだった江東に比べると、圧倒的な兵力である。荊州の総力を含めるよりもだいぶ多い。

その上、毎度黄祖に叩きのめされていた江東の軍勢と違い、強力な敵との死闘で鍛えに鍛え抜かれている。

「荊州の軍勢は十万前後。 もしも協調が取れれば、曹操と対抗することも不可能ではなくなります。 しかし、あの四家がそれを認めるかどうか。 連中にとって興味がある事と言えば、自分の権力を如何に保持するか。 ただ、それだけです」

周瑜が言うと、魯粛も、張昭も、張紘も押し黙った。

国内の癌にて、最大の戦力が。全てを台無しにしている。連中は己の権力を保持するためであったら、躊躇無く、この国を売るだろう。孫権や周瑜を犠牲にして、自分たちだけが助かることさえ考えるに違いない。

「少し急だが、奴らを排除するか」

張昭が、眼を細めた。温厚な張紘が、やんわりと否定する。

「難しいだろうな。 こうやって会合をしているのも、奴らは掴んでいる可能性があるのだぞ。 暗号は毎度切り替えてはいるが、同士の中に裏切り者がいる可能性もある。 もしもやるとしたら、もっと強力な力を味方に付けなければならん。 しかも、外部に起因する力を、だ」

張紘は内政の達人で、張昭も一目置く人物だ。慎重論が多いのも、それが自分の仕事だと考えているからという節がある。

魯粛は腕組みをすると、唸った。

「やはり、早めに外部勢力、荊州当たりに味方を作らないとならないか」

「もしそうするとなると、だれが良いか」

「劉備」

魯粛がその名前を出す。

一気に、場に緊張が満ちた。

「奴は戦下手だと聞いているが」

「それはない。 どの戦場でも、充分な戦果を上げている。 それに、荊州では、まもなく劉表が死ぬという話も出てきている。 劉表が死んだ後、曹操が侵攻してくるまでの間に、劉備が荊州で大きな力を得る可能性は高い」

劉表はともかく、劉備が相手であれば、利害関係は今のところ存在しない。

そして噂だが、最近荊州を中心に活動している巨大な細作組織を、劉備が掌握したという話がある。もしもそれが真実であれば、あの林の率いる闇の組織に、対抗できるかも知れない。

「分かった。 此方でも、連携の準備を整えます」

「どのみちはっきりしていることは、荊州が単独でも、江東が単独でも、とてもではないが曹操には対抗できないと言うことだ」

張昭が言い終えると、会合は終了する。

今まで何度血涙を飲み込んできたか分からない。だが、もしも外部からの協力を取り付ける事が出来れば。あの忌々しい四家を、滅ぼすことが出来るかも知れない。孫策を死に追いやり、政敵を殺し続けた江東の癌を、ついに闇に葬る事が出来るかも知れないのだ。

周瑜は自宅に戻ると、孫策の遺髪を取り出した。

そして、その日は、遅くまで一人で飲んだ。

かっての友を、一人で悼むために。

 

許昌に集結した軍勢二十万を見下ろすと、曹操は頷いた。

官都の時ほどではないが、まさに地を埋め尽くす大軍勢である。しかもその全てが、曹操が考える最強の編成を行われている。

楚の項羽を相手にしても勝てる軍勢だ。

いよいよ、荊州に侵攻する時が来た。

河北を落としたことで倍増した国力は、この軍勢を危なげなく支えることが出来る。その気になれば、さらに倍の兵力を動員することさえも可能だ。後方を支える参謀達も問題がない。

郭嘉が生きていれば完璧であったのだが。

それを考えても、今は仕方がないことだ。

曹操は絶影に跨る。彼が育て上げてきた部隊に、今は鳥丸族を吸収し、更に騎馬軍団の戦闘能力は増強されていた。平原での戦闘になれば、何処の軍勢が相手でも勝てる。

問題は水軍だが、此方も問題はない。黄河近辺で鍛えられた水軍と、技師を多く技術者として連れて行く。荊州を落とした後、彼らと荊州水軍を使って、一気に江東を蹂躙すれば良い。

後の益州はものの数ではない。漢中など、一月で落とすことが出来るだろう。西涼もそれは同じだ。

「まずは新野を押し通り、劉備を粉砕して、襄陽を攻略する」

部下達を見回し、曹操はそう言った。

張遼、徐晃、于禁、楽進、李典、張?(コウ)らの諸将が力強く頷く。熟練の楽進には先鋒を任せ、左右は徐晃、張遼が固める。徐晃隊と張遼隊には、鳥丸族の騎馬隊を多く加え、大幅に質が強化されている状況だ。

張繍と韓浩は今回、河北に居残る。曹仁、曹洪、夏候惇、夏候淵らの二線級は、中軍で曹操の補助。旗本の指揮を任せるのは、頭角を現しつつある曹真と郭淮。

そして今回から、参謀として。名門中の名門、司馬家から、懿という若者が加わることになった。

朱霊、路招らは後陣を任せる。一族の中から曹純らの若手も動員する。荊州を落とした後、政務を任せるために、文官も多く連れて行くことになる。

都市が一つ、まるごと引っ越しをするような感触だ。

しかし、これが始まりではない。

曹操は既に年だ。もう中年の半ば以降にさしかかってきていて、体の衰えも出始めている。もう後三十年は生きられないだろう。

此処で勝たなければ、天下統一は難しい。

生きている内に天下統一が出来なければ、この中華は乱れに乱れる可能性もある。世間で思われているほど、曹操は有利な状況にはない。ないのだ。

「必ずや、勝つ」

呟くと、曹操は右手を挙げた。

全軍が、一斉に南下を開始する。

今。

歴史に残る大会戦の火ぶたが。

切って落とされた。

 

    (続)