沈み行く河北

 

序、用済みの猟犬

 

冀州を完全に制圧した曹操軍は、勢力を倍増させ、もはや河北の軍勢が束になっても追い出すことの出来ない規模にまでふくれあがっていた。

降伏した兵も吸収した結果、冀州だけで十万を超える兵がおり、許昌を中心に更に十万。各地に五万以上が点在しており、兵力は韓浩の屯田策によって更にふくれあがりつつある。また、兵の質自体も、訓練が繰り返された結果、何処の諸侯にも劣らぬものと代わり始めていた。

圧倒的な曹操軍は、更に戦力を増しつつある。

それに対して、青州の袁譚は、落ちる一方であった。

もとより青州は、数々の乱で踏みにじられ、土地は荒れに荒れている。更に、此処に来て、比較的暮らしやすい統治を行っている曹操が、冀州まで勢力を伸ばしてきたという情報が、彼らの耳にまで届いているのだ。

もとより戦に継ぐ戦で重税を課されている民は、こぞって逃散を開始。冀州や?(エン)州に逃げ込んでは、曹操の庇護を受けるようになっていた。

それだけではない。幽州の戦況は泥沼化も良い所で、何度攻め込んでもいっこうに埒が明かなかった。袁譚の数少ない兵力は、攻め込む度に消耗するばかりで、有力な将軍達も、もう殆ど残っていない。

そんな折のことである。

現在、袁譚が本拠地にしているのは、豊かな土地を持ち、青州で唯一と言って良いほどに大規模な都市である南皮だ。側には青州城もあり、攻防経済ともに重要な拠点である。其処に駆け込んできた伝令。背中からは、数本の矢を生やしている。

まるで上手く行かない幽州攻略戦に疲れ、酒を飲んでいた袁譚は。その伝令から、絶望的な報告を受けていた。

曹操が、袁譚を討伐すると言い出したのである。

それだけではない。既に曹操軍の先鋒は、青州に入り込んでいると言うことであった。

すぐに、青州城は大混乱に陥った。

辛兄弟は曹操に獲られてしまい、今では向こうの家臣も同じである。それだけではない。今の青州程度の戦力で、単独で曹操と戦える訳がない。降伏した相手を攻める曹操を非難しようにも、残念ながら袁譚には叩けば出る埃が幾らでもあったのだ。

郭図が小走りで来る。軍議の席には、主要な将軍達が集まっていた。かって河北を制した袁紹の育てた将軍は、もう一握りも残っていない。あらかた戦死するか、或いは曹操に引き抜かれてしまった。

青い顔を机に並べているのは、誰も彼も、経験が浅い二線級の将軍ばかり。いずれもが、家柄ばかり立派な、何の能もない惰弱者ばかりであった。袁譚がその筆頭なのは、自身でも理解している。

いつからか。

袁譚は、己を自嘲するようになっていた。

郭図が席に着いたので、軍議を始める。最初に発言したのは、一番若い将軍であった。

「そもそも、一体どうして、曹操様がいきなり攻め込んできたのでしょう」

「様をとれ」

「し、しかし」

「曹操にとって、我らは用済みになった。 そう言うことだ」

袁譚が吐き捨てると、皆が黙り込む。有名なことわざにもある。狩りが終われば弓はしまわれ、猟犬は煮られ食べられてしまう。それが、現実にも起こっただけだ。今なら、異様なほど明晰に理解できる。

曹操は、冀州攻略のために、戦略上の一石として袁譚を利用した。そして、もしも今後も使えるようなら、生かしておくことも考えたのだろう。

だが袁譚は、曹操に媚態も尽くさなければ、裏で裏切る準備までしていた。

それらは、曹操に筒抜けになっていた。だから、処分されることとなったのだ。

郭図が咳払いをすると、周囲を見回す。

「こうなったら、仕方がありません。 幽州から兵を撤退させ、長期戦に持ち込みます」

「しかし、援軍の当てはあるのですか」

籠城は、基本的に援軍が来る場合に、意味を持って来る戦略だ。

今の青州は、曹操を敵に回した場合、周囲には敵しかいない。

その上曹操は、青州に充分な人脈を作っているはずで、なおかつ地理にも通じていることだろう。

早馬が来る。

国境にいた呂兄弟が、裏切ったという報告であった。

その後も、軍議の最中だというのに、早馬は続々と来た。

どれもこれも。各地の守備についていた将軍が、裏切ったというものばかりであった。

 

入念な準備がものをいい、曹操軍は無人の野を行くがごとく、荒野を驀進していた。もとより青州は、曹操軍の中核を為す青州兵が故郷である。その地理はさながら曹操の掌の上にあるも同じ。

快調に馬を飛ばす曹操は、しかし油断はしていない。

宛の攻略戦で、油断から一度、策を練りすぎて今一度。手痛く敗退した曹操は、戦では完全に敵を屈服させるか殲滅するまで、絶対に油断しないと心に決めていた。そうでなければ、己の油断で死なせてしまった曹昂と典偉に申し訳が立たないからだ。

案内を努めているのは、以前から気脈を通じていた呂兄弟である。もちろん林を事前に派遣して、監視することを忘れてはいない。曹操は手綱を右手で操りながら、左手を腰に伸ばして、この間から愛用している「背が伸びる」焼き菓子を乱暴に引っ掴み、口に運ぶ。もぐもぐと食べる曹操は、周囲を見回して、許?(チョ)を探した。信頼する護衛は、すぐ後ろについてきていた。

「如何いたしましたか」

「うむ。 あまりにも上手く行きすぎるからな。 お前から見てどうだ。 危険は感じるか」

「今のところは感じませぬ」

「そうか。 お前の勘は頼りになるとはいえ、そればかりに頼っていてもいかんな」

曹操は一旦軍を停止すると、降伏した将達を先鋒に集めて、素早く再編成を掛けた。既に此処は青州の奥深くである。袁譚の本拠地である南皮はほど近い。

林の配下の者が、側に跪く。

「袁譚軍は、勢力の集結を図っている模様です」

「ふむ、そうか。 それならば、一気に兵を進めるべきか」

以降、曹操は、先以上の速度で、軍を進めた。

そして三日後には、南皮を包囲したのである。

今回曹操が動員した兵力は七万五千。冀州には袁煕への押さえとして、三万五千を残してある。

呂兄弟らの軍勢は、一万五千。現在、南皮に籠もっている敵の戦力は、二万から二万二千と推定されていた。

あまり多いようには思えないが、そもそも今青州からは多くの民間人が脱出し始めており、兵士の中にも厭戦気分に陥っている者が少なくない。勝ち組である曹操について、命だけは守ろうと考える兵士は少なくないのだ。

そして、それは乱世では恥ずかしいことではない。特に末端の兵士は、そうやって柔軟に考えないと、生きていけないのである。

意地だ大儀だと、余計なことを考えなければならないのは、将や武人達だ。

南皮は流石に頑強な城で、袁紹が最前線として考えていただけのことはある。城壁は高く、堀は深い。二重構造になってはいないようだが、かなり攻めるのは手間になりそうだった。

降伏した将達を呼び寄せる。その中には、辛評、辛?(ピ)の兄弟もいた。特に辛評は袁譚の側近であったというのに、何も恥じる様子がない。何だか、曹操は、袁譚に同情心さえ覚えてきた。

「何か、城に弱点はないか」

「東門の周辺の守りが弱めになっております。 以前洪水になった時に、地盤が緩んだことがありまして」

「そうか、ならば辛評。 お前が降伏した将達を引き連れて、東門を攻めよ。 余は南門、楽進は北門、徐晃は西門だ。 曹洪、西門。 曹仁、南門。 韓浩、そなたは東門の支援に回れ」

青州兵を抑えている韓浩を東に回すのは、降伏した将達が裏切った時に、即応させるためだ。曹操の配下の中でも戦上手である韓浩を回すことで、彼らの裏切りを監視させることもたやすい。特に辛評は全く信用できないので、これは保険と言うよりも安全策であった。

城門に馬を寄せると、若い敵将が姿を見せた。曹操に対して抱拳礼をすると、なにやら喋り始める。

「曹操様! おん自らの遠征、お疲れ様にございまする」

「何、大した手間ではないわ。 袁譚はどうした」

「今、曹操様をお出迎えする準備を整えている状態にございます」

「そうはいっても、待ちきれぬでな。 すぐに攻め込ませて貰うぞ」

若い将は悔しそうに顔をゆがめる。曹操は左右に、攻撃を開始するように命じた。

もはや河北には、曹操に対抗できる将など、存在はしていなかった。

もちろん、城内にも、裏切りを期待できる将が何人か残っている。曹操は林の活躍に期待しながら、城攻めを開始させた。

 

1、逃げ延びる者、残る者

 

曹操軍の猛攻が開始された。

袁譚は自室で、ぼんやりと空を見つめる。どうしてこうなったのか、よく分からない。これも報いなのだろうかと思うと、それも仕方がないかと思えた。袁譚は、袁紹の遺産を食いつぶすような真似ばかりしてきたからである。

巨大な石が撃ち込まれた音がする。投石機を、曹操は既に運び込んできていると言うことだ。基本的に攻城兵器は移動が遅く、輸送には苦労するものだが、曹操軍は展開が恐ろしく早い。

南皮の城は、簡単に落ちるような脆い作りにはなっていない。だが、それでも、曹操軍を相手にするには力不足かも知れない。

袁譚は既に、己の命を諦めていた。

不思議と、心も静かだ。自分の悪事が、報いを呼ぶ時が来たと、考え始めてもいた。思えば、父の怒りを誘うような行為ばかりをしてきた。父にも責任はあった。だが袁譚の失敗は、それ以上に大きかった。

袁家の直系は、これから曹操に根絶やしにされることだろう。もし生き延びる路があるとしたら、交州か、或いは鳥丸の地にでも逃げるしかない。一応、既に手は打ってある。誰にも、口にはしていないが。

郭図が来た。

「袁譚様」

「どうした」

「曹操軍の動きに、隙が見えます。 どうやら東門に、降伏した我が軍の将を集めているようです」

鉄砲玉扱いされている将達が、不満を漏らしていると言うことだろう。

勝手な連中だ。そんな事なら、最初から裏切らなければよいものを。合計九万の曹操軍も、一万五千ほどは戦力として考えていないという訳だ。

自嘲するようになってから、袁譚は妙に頭が冴える。

「ならば、郭図。 お前に八千の兵を任せる。 東門から出撃して、敵を押し返せ。 ある程度叩いたら、すぐに引き返してこい」

「分かりましてございまする」

「せめて、一泡だけでも吹かせてやるか」

袁譚もまた、立ち上がる。

どのみち、増援が来る可能性はない。曹操が何かの理由で、撤退する可能性も著しく低い。

それならば、此処は意地を見せて、せめて後の世に名を残すだけであった。

袁譚は城壁の上に出た。見回す限りが曹操軍である。敵は、青州を埋め尽くすほどの数であった。しかしこの三倍の兵力を、父は動員していたのだ。そう思うと、やるせなくなってくる。それに曹操は、この数倍の黄巾党軍を撃退して、今の地位を築いたというではないか。

圧倒的な威圧感だが、恐ろしくもなければ、引く気もしない。矢が飛んできたので、剣で切り払う。

頭が冴えてきている。

それと一緒に、体も良く動くようになっていた。

前線で指揮を執っている若い将軍を見つけたので、歩み寄る。鎧から矢を生やしながらも、奮戦していた。

「袁譚将軍」

「此処は任せる」

「将軍は、どちらに」

「郭図と連携して、敵を叩きに出る」

すぐに五千ほどの兵を集めた。曹操は、西門を攻めている徐晃、曹洪の背後にいる。徐晃は冷静で手強い相手だが、曹洪なら充分に手に負える。出るのは、郭図と連携しての事になる。敵の意識がずれた一瞬を狙う。

袁譚は、意識を研ぎ澄ませた。

そして、味方の喚声を聞くと、声を張り上げた。

「開門! 出撃する!」

 

郭図は、何も思い残すことはないと考えていた。

少し前。この出撃が決まり、孤児達の顔を見に行こうと思っていた時の事である。

袁譚が、郭図の屋敷に来た。別人のようにすっきりした顔をしていた。今まで弟たちへの憎悪で歪みきっていた顔は、何かを悟ったかのように晴れやかだった。それも驚かされたが、それよりも。何と傲慢の権化であった袁譚は、最初に、郭図に謝ったのである。

「すまぬ。 俺は愚かな君主だった」

「急にどうしたのです」

「目が醒めたのだ。 結局の所、俺は狂気を周囲に振りまいていたに過ぎん。 その結果、回りの全てを不幸にしてしまった」

郭図の孤児達を、逃がす方法があるという。

それを聞いて、郭図は、息を呑んだ。絶対に知られていないと思っていたからだ。

郭図にとって、袁譚を始めとして、周囲の全ては利用すべき相手に過ぎなかった。しかし、素直にあたまを下げている袁譚を見て、違う感情もこみ上げてきていた。周囲も今まで郭図を利用するばかりであったのに。

袁譚は今、純粋な気持ちで、郭図に打ち明けに来ているのだ。

「曹操の裏切りのおかげで、何もかもがすっきりした。 結局俺は、自分の愚かさを認めることが出来ずにいただけなのだな」

「殿は、充分以上に優れた君主でした。 ただ、不幸にも、同じ時代に曹操がいた。 それだけです」

「そう言ってくれると嬉しいな。 だが、俺は君主だ。 だから、結果が全てだ」

袁譚はそう言うと、子供達を逃がす方法について、告げてくれた。

しばらく沈黙していた郭図は、最後の奉公に、恐らく生まれて初めての忠義を掛けることを、決めた。

子供達の顔は、出撃前に見てきた。

皆、自分と同じように、不幸な生い立ちの子供達だ。だが、必ずやこの中華の未来を作り上げてくれると、郭図は信じていた。

彼らのためなら、矢も石も怖くない。

もちろん、曹操軍など、木偶の群れも同じであった。

「開門!」

八千の兵の先頭に立った郭図は、命令を出す。

静かに、東門が開いていく。そして、ぎょっとした様子で、かって袁譚に使えていた兵士達が、此方を見るのが分かった。戦意が振るわない向こうと違い、此方は全員が死兵である。

勝てる。

そう確信した郭図は、声を張り上げた。

「突撃!」

策士として知られる郭図としては、あまりにも単純な命令である。だが、八千の兵は、むしろそれが故に、勢いを増した。

「殺!」

「行け! 懸かれー!」

雄叫びが上がる。城より突撃を開始した八千の兵は、一つの火の玉となり、まず辛評の部隊に躍り掛かる。もとより戦意が薄い上、不義理ばかり繰り返し、しかも負けが混んでいる辛評の軍勢は士気が著しく低い。ほんの二押しで、紙でも破るように打ち砕くことが出来た。

そのまま突撃。

曹操軍の名将として知られる韓浩が出てくるが、関係ない。辛評、呂兄弟らの裏切り者達の軍勢を、韓浩の部隊に押し込んでやる。そうすることで、混乱が波及し、どんな強兵も烏合の衆と化すのだ。

それを、知識だけで知っていた郭図だが。

実際にやってみて、そのあまりに絶大な効果に、笑みがこぼれるのを止められなかった。

「押せー! 懸かれー!」

雄叫びに混じり、郭図はただただ部下達をけしかける。

猛攻の中、しかし韓浩が早速陣を立て直した。逃げ込んでくる不甲斐ないもと袁譚軍の兵士達を、青州兵が片っ端から斬り捨てているのが見えた。判断としては正しい。逃げるに逃げられなくなった辛評らの軍勢は、踏みとどまり、決死の抵抗を開始する。

同時に、袁譚が出撃したのが分かった。

引き金を打たせようと思ったが、やめる。

此処は、郭図が粘らなければならない。袁譚が、曹操を討ち取る時間を稼ぐためにも。

態勢を立て直す暇を与える訳にはいかない。

前線で、ただ郭図は荒れ狂いながらも、同時に冷静に状況を見ていた。

混乱の中、立て直そうとしているのは、辛兄弟の陣である。辛?(ピ)は一旦兵を引いて、部隊の再編成を使用としている。辛評はというと、下がることも出来ずに、声をからして喚きながら、必死にその場に踏みとどまろうとしている。

ならば。

「総員、辛評の陣に突撃! 踏みにじれ!」

「殺!」

兵士達も、もとより辛評の事はよく思っていない。

だから、戦意が滾る。火に油を注いだかのように。見る間に、五千ほどの辛評軍は、猛り狂った八千の兵に飲み込まれ、溶けるように消えていった。

辛評を見つけた。

郭図は叫びながら、剣を振り下ろす。兜に半ばまで食い込む。

鮮血を拭き上げながら、辛評が落馬した。兵士達がわっと群がって、八つ裂きにしてしまう。

二万といえど、こうなると敵は混乱するばかりだ。

しかし、韓浩軍約一万は、既に態勢を整えていた。

銅鑼が鳴り響く。

そして、韓浩軍が動き出す。圧倒的な圧力で、勝ちに驕った郭図軍の先鋒を、文字通り打ち砕いた。

殿は。

郭図は一気に敗勢に陥り行く戦況を見て、袁譚の方を見た。

向こうは、まだ決死の突撃の最中だ。それならば。だというのなら。まだ、郭図は、引く訳にはいかない。

「此処が正念場ぞ! 全員、私とともに死ね!」

郭図は、名将ではなかった。

慈悲深い訳でもなく、兵士達に慕われることもなかった。それどころか、愚将の部類に入っただろう。

だが、今は。

自分が守り育ててきた孤児達と、最後の最後で自分を頼り、認めてくれた袁譚のために。全てを擲ち、戦う男だった。

そして、兵士達もそれを悟り、己の全てを燃やしてついてきてくれている。

最精鋭を纏めると、郭図は青州兵一万の中に、自らを先頭として突入する。流石に面食らった青州兵を蹴散らし、一気に押し返す。だが分厚い韓浩の陣容は、少し押した程度で、崩せるような代物ではなかった。

無常なる、力の差。

それでも、郭図は諦めない。

全身を返り血で真っ赤に染めながら、剣を振るう。

戦とは。こうも楽しいものだったのか。戦場には多く出てきたはずなのに、今頃郭図はそんな事に気付いていた。

韓浩が、見えた。

さっと、敵が陣立てを変える。

同時に、圧力が弱くなった。今が押す好機か。いや、引くべきか。

郭図の判断は、引くべきだった。しかし、まだ袁譚が引いていない。それならば、押すしかなかった。

敵陣が、左右から殺到してくる。

だが、その勢いさえ押し返しながら、郭図は馬を走らせる。

馬の首に、次々に矢が突き刺さる。

自分の体にも。

既に味方は半壊状態に陥っていた。だが、それでも、逃げようという兵士は、ただの一人も居ない。

ついに、馬が足を折る。

郭図は立ち上がると、槍で突きかかってきた兵士を、唐竹に斬り伏せた。

そして、前後左右から、数十の槍が迫ってくるのを見て、むしろ爽快な気分になって笑った。

時間は、充分に稼げた。

あの子達は、必ず逃げ延びることが出来る。

今はただ。それだけが嬉しい。

全身に突き刺さる槍。それでも、郭図は笑い続けていた。

自分を理解してくれた者達のために、死ぬことが出来たのだから。

 

袁譚は、馬を駆けさせた。

郭図は、袁譚の期待以上の活躍をしてくれた。ならば、袁譚も、その忠義に相応しい男ぶりを見せなければならないだろう。

不意に出撃してきた袁譚軍に、徐晃軍は非常に冷静な対応を見せた。猛攻を綺麗に受け止めつつ、一部隊を迂回させて、城壁を狙ってきたのである。更に曹洪隊は猛攻を続ける袁譚軍の脇腹を突く動きを見せていた。

しかし、この時。袁譚は、異様に頭が冴え渡っていた。

兵の主力を徐晃に向かわせ、自身は突進してくる曹洪隊に、最精鋭を率いて突撃したのである。

楽に脇を突けると思っていた曹洪軍は面くらい、陣列を崩す。また、城門に向かっていた徐晃隊は、城壁の上に現れた弓隊が、猛烈な横撃を浴びせ、半壊させる。

一気に、曹洪軍を突破。袁譚の軍勢が、曹操の本隊を見つけた。

袁譚は、笑みを浮かべた。

そして、馬に全力で鞭をくれる。

ついてくる兵士は二千足らず。後は圧倒的な数を誇る曹操軍の海の中で、各自が乱戦に巻き込まれている。

だが、それでも。

袁譚は曹操の首を狙う。

曹操軍本隊が気付く。控えとしてついていた于禁隊が、さっと前に出てきた。壁になるつもりだ。袁譚は全軍を錐の陣に切り替えると、速度を変えず、十倍を超える敵軍の中に、雄叫びを上げて突進した。

于禁は曹操軍の中でも名の知れた名将。その指揮する陣は堅牢で、まるで長城が連なっているかのようだ。

蝗のように矢が飛んで来る。払い落とし、切り落としながら、袁譚は歓喜の声を挙げた。叫ぶ。

曹操。

何処にいる。

斬り伏せる。殴り倒す。血を拭いて、馬が倒れた。すぐに、側にいた騎兵を引きずり落として、馬を奪い取った。槍が脇腹に刺さった。気にせず、敵兵の頭蓋を、兜ごと斬り割る。

敵は。

槍を揃えて、無数の兵士が迫ってくる。味方はどうした。振り返るが、もう殆ど残っていない。

ならば、最後に。

せめて、誇りを敵の目に。焼き付けてやる。

顔に、矢が突き刺さった。血がしぶくが、もう袁譚は感じていなかった。前に、前に。奪った馬の首に、矢が突き刺さる。前に何か現れる。剣を持った、曹洪であった。

「袁譚将軍。 愚物と言われた貴方であったのに、見事な戦いであった」

「どけ!」

そのまま、突進する。剣を振り下ろすが、受け止められる。二合、三合、刃を交えるうちに。気付く。左腕は、左腕はどうした。

曹洪の剣が振り下ろされて、袁譚の肩に食い込む。それで、やっと気付く。そうだ。さっき敵を強引に突破する際に、切り落とされたのだ。大量の血がばらまかれる中、袁譚は見た。

曹洪の後ろで、堂々と立ちつくしている曹操を。

剣を、投げつける。

躍り出た許?(チョ)が、剣をたたき落とした。此処までか。曹洪の剣が、心臓に達すると同時に。辺りが光に包まれた。

見ると、前に袁紹がいた。申し訳なくて、顔を見ることが出来ない。

袁紹は。憎んでも憎みきれない父は。光の中で、厳しい顔で袁譚を見つめていた。

「どうやら儂は、お前の能力を見損ねていたらしい」

「父上」

「結果は無惨であったが、袁尚よりも、お前を選ぶべきであったかもしれんな。 最後の戦いだけは、見事であった」

あたまを下げた袁譚に、それ以上袁紹は、何も言わなかった。

ただ、袁譚は、涙を流し続けていた。

 

南皮が開城するのを見届けると、曹操は自分の肩を何度か叩いた。袁譚の予想以上の奮戦で、味方の被害も大きい。辛評の戦死は正直どうでもよいが、他の部隊の被害は気になる。

とりあえず、旧袁譚軍の部隊は、皆徐晃の配下に編成する。袁煕軍は張遼配下に編成しようと思っているので、とりあえず暫定的な処置だ。

城内に入ってみると、其処は以外にも静かだった。攻城戦が、僅か数日で決着したからかも知れない。兵士達にも略奪は控えさせる。と言うよりも、此処まで綺麗に城の明け渡しが住んでしまうと、ガラが悪い青州兵にも、悪事に手を出す暇がない。

南皮の城と周辺を、曹操は二日がかりで見て回った。

そして、結論する。側にいる程cと賈?(ク)に、意見を聞くつもりでもあって、独り言を呟く。

「人口は多いが、疲弊が激しすぎるな。 僅かな都市を除けば、殆どが廃墟だ。 あれだけの流民が出ていたのだから、ある程度は覚悟はしていたが、酷すぎる」

「同感にございます」

「荀ケどのを回して、民政に注力させるべきかと。 しばらくは徴兵も控えて、民政の安定を図るのが先かと思われます。 冀州に流れ込んできている流民も、韓浩どのに命じて、戻させるべきでしょう」

程cと賈?(ク)が口々に言う。郭嘉だったら、どう言っただろうと、曹操は思う。もうあの男は、床から起き出すことも出来ず、頭を働かせることも無いのだ。予想より持ちこたえたが、もう今年を越すことは出来ないだろうと、医師は言っていた。

実際、曹操が見て回った村の中には、幾つも廃村になってしまっているものがあった。大きな南皮の城下町にも、開き家が目立った。中には餓死者を放置している空き家までもが存在していた。

それだけ、民の力が落ちていると言うことだ。

「余の考えも、大体同じだ。 しかし此処まで疲弊が激しいとは」

「長く続いた戦乱という事もあります。 しかし、それでも西涼よりはましだという話ですので」

「嘆かわしい事だ」

曹操は頭を振る。

人口が減れば、最終的に中華そのものの力が衰える。

そうなれば、今まで中華の圧倒的な人口と経済力に圧迫されてきた周辺諸国が、黙っているはずがない。

叩ける内に叩いておかないと、危ないかも知れなかった。

「守備隊だけを残して、青州はしばらく民政に注力。 許昌から荀ケと、奴の配下の文官を呼んで、早速対処に当たらせよ」

「御意」

「一旦冀州に戻る。 幽州に攻め込むのは、それからだ」

同じ荒れ果てていると言っても、冀州の方が青州よりも随分ましだ。ただ、弱体化している今の袁煕ならば、わざわざ新しく兵を増やさなくても、押しつぶすことは出来そうだった。

だが、油断は禁物である。

あの審配があれほど入れ込んでいたのである。それに、油断が危険な事態を招くのは、いつも変わりない。今回も、曹操の視界に入る所まで、袁譚は来ていたのだ。今までは、環境が悪かっただけで、実際に袁紹の息子達は、そう能力的に劣る存在では無かったのかも知れない。袁煕がそれなりの戦略的手腕を見せ、曹操と渡り合っていた事から考えても、師匠が良ければ化けたのだろう。

袁家は古い一族だった。権力闘争はまるで凝りに住まうボウフラの踊りのように行われ、袁紹でさえその手綱を引き切れていなかった。袁紹が唯一犯した失敗は権力の引き継ぎで、それさえ上手く行っていれば。曹操も、こう簡単に河北を攻められなかった可能性が高い。それを考えると、敵ながらつくづく惜しかった。

一旦冀州に引き上げると、曹操は部隊を再編成する。

袁譚の必死の反撃で大きな打撃を受けたとはいえ、吸収した戦力はそれ以上である。そして袁譚軍との壮絶な死闘により、袁煕軍は外征する余裕など存在しない。

故に、曹操は。

冀州を自分の根拠地とすべく、ゆっくりと構えているだけで良かった。

 

2、荊州の揺らぎ

 

どうも、劉表の体調が良くないらしい。

新野で月一回行われる定例会議で、複数の劉備配下が、その情報を持ち込んだ。劉備自身を始めとして、である。

陳到は、劉表が凡君と言われながらも、荊州を見事に守り抜いてきたことを良く知っている。江東の孫政権は、江夏に指一本触れることが出来ないでいるし、攻め込む度にこてんぱんに叩きのめされて帰っている。それも、劉表と黄祖の連携が上手く行っているからだ。

それが失われるとなると。豊かな土地を持つ荊州は、曹操に簡単に攻め落とされてしまうかも知れない。

良くしたもので、既に荊州では、権力闘争が激化する傾向にあるという。蔡瑁が必死に纏めに懸かっているが、特に辺境地域の諸侯が好き勝手なことを言い始めており、ほころびは日に日に大きくなっていると言うことであった。

一通り話が終わると、解散になる。

荊州内での人脈作成は、かなり上手く行っている。劉備の人脈は、既にかなり深い所まで食い込み始めていて、それに対する暗闘も開始されていた。シャネスが劉備の側に常に着いているのは、護衛が必要だからだ。

だが、陳到にはそれが嫌になりはじめていた。

劉備が荊州を、出来るだけ民衆の血を流さず乗っ取るには、それが一番なのも分かっている。劉表が死んだ跡、多分荊州を劉備が抑えれば、曹操にも江東にも対抗できることも、理解している。

荊州の豊かさは、他の州の比ではないからだ。北にある冀州でさえ、荊州には二歩ほど及ばないだろう。

劉備の理想を実現するためには、荊州が必要なのだ。劉備を慕ってついてきている人々を守るためにも。

迷いを晴らすには、動くに限る。

外に出て、兵士達の訓練を見ることにした陳到の肩を、張飛が叩いた。振り返ると、張飛は虎髭だらけの顔を、難しそうにしていた。

「如何なさいましたか」

「いや、ちょっと思い詰めているように見えてな。 良い酒があるんだが、飲むか」

「そうですな。 今晩いただきましょう」

「分かった。 兄者も連れて行く」

そうして、張飛は、関羽も劉備も連れてきた。

護衛としてシャネスもついてきている。シャネスは部下を育てる暇もないとぼやいていて、最近は更に小言が増えている様子だ。張飛はと言うと、少し前に妻を娶って、子供が出来てから、妙に丸くなった気配がある。親しい人間以外の前では、絶対本音など見せはしないが。

小さな新野の城であるし、陳到の屋敷は決して大きくない。

体が大きい関羽と張飛が入ると、それだけで一杯一杯になってしまう雰囲気がある。妻が料理を出しているが、にこりともしなかった。娘と息子は、顔を見せもしない。

妻は最近静かにしているが、どうも周囲に妙な噂がある。金を持ち出して、若い男を漁っているというのだ。娘は妻に手なづけられているし、息子は怠け者であまり将として有望でない。家族の未来は、陳到にとってあまり考えたくないところであった。

しばらく世間話が続くが、しかし。不意に、劉備が妙なことを言い出した。

「軍師が欲しいな」

「今、探しているのでは無いのですか」

「うむ。 実は、目星を付けている人間は、既に何名かいる。 だがどれもこれも、学閥やら政治的地位がどうやらで、面倒くさいのが多くてな」

また、知識だけあっても経験がまるで不足している者や、経験を積んでいてもそれが実戦に結びつかない者などが、多くいるというのだ。

現在、劉備軍は調練を繰り返して、かなりの精鋭になっている。元々汝南の山賊だったような連中も、別人のように精悍になって、引き締まった体と心の持ち主となって訓練に従事している。

だが、それだけでは、曹操軍には勝てない。

もちろん、天下も統一できないだろう。

「そこで、知識人達の中に顔が利く、司馬徽と呼ばれる人物と接触したのだがな、どうもこれが偏屈な男で、なかなか腹を割ろうとしない。 まだ若いのに、知識人達の間で顔役として通っているだけのことはある。 かなりの狸よ」

「何だか、目的を見失いかけてはいませんか」

酒が入るから、辛らつな言葉も出てくる。まして陳到は、最近家庭環境が良くないこともあって、不満が鬱屈していた。

劉備は怒るようなこともなく、軽く笑うと言った。

「そうさな。 私も腿に肉がついてきてしまっている。 大儀を大事にし、民のための国を作るという根源戦略に代わりはないが、このまま行くと、ただ手段を選ばぬだけの邪悪な男になりはててしまうかも知れぬ」

「その時は、俺が止める」

「張飛、良く言った」

張飛と関羽が仲良くじゃれている。シャネスは仏頂面のまま立ちつくしていて、酒を飲もうという気配もなかった。

そういえば、シャネスは既に二十歳になっているはずだ。

「シャネス、酒は飲まぬのか」

「護衛の任務がある」

「そうか、それは残念だ」

一蹴されたので、陳到は少し傷ついた。劉備が誘っても飲まないくらいだから、陳到の言葉など、聞くはずもなかった。

酒が更に入ってくる。意識が曖昧になってくると、各人がどんどん危険な所に突っ込み始める。

「そういえば、陳到将軍。 奥方と上手く行っていないそうだな」

「良くない噂があるのは事実です。 まあ、私も若いころから戦ばかりで、あまり構ってやらなかったですから」

「そうか。 でも俺の嫁は、凄くいい女だけどなあ」

「結婚した時は、誰もがそうです」

張飛がぐうの音も出ない顔をした。関羽が豪快に笑う。劉備もそろそろ深酔いして顔を真っ赤にしていたが、不意に話に首を突っ込んでくる。

「女は怖いぞ。 いっそのこと、しっかりした政治的知識と感覚を持った、冷酷非情な女が軍師であったら、最強かも知れん」

「兄者も、妻には苦労させられているのか」

「おうとも。 甘も糜も、裏で結託しておってなあ。 ちょっと私が不自然な行動をすると、次の日には家族全員が知っておる。 彼奴らには、嘘は通じん」

「それは怖い。 古来どんな英雄も、妻を恐れない者はいないと聞いたことがありますが」

関羽まで、馬鹿話に乗っている。

呆れたように、シャネスが一つ歎息した。生真面目な彼女には、承服しがたい話なのだろう。

「しかし、そうなると。 現実問題として、軍師はどうしますか」

「今、一番有望だと思っている若者がいるのだが、偏屈な男でな。 蔡家と黄家両方に人脈があるというのに、劉表どのの下について働こうとしておらん。 余程の才人と聞いてはいるが」

「或いは余程の怠け者なのか」

「いや、それは無かろう。 まあ、近いうちに、直接会いに行ってみるつもりではある」

そう言うと、劉備は関羽と張飛を促して、席を立った。

三人を送ると、シャネスが脇腹を肘で打つ。しらけた目で、陳到を見ていた。

「貴方はもう少し真面目な人だと思っていた」

「すまん。 だが、男には、羽目を外したくなる時もある」

「奥方と上手く行っていない様子だが、もう少し構ってあげてはどうなのだ。 それだけで、随分変わると思うが」

「そうか。  試してみる」

シャネスは此方を一瞥すると、劉備を追って闇に消える。

あの娘も、よく分からない。陳到は酔いに塗れた頭を振ると、どうしたものかと思いながら、寝室へ向かう。

妻はとっくの昔に寝転けていた。

 

城壁の上から、陳到は歩兵部隊の訓練を見ていた。二つに分かれたどちらの軍勢も、良い動きをしているが。しかしながら、白い旗は乱れがちである。赤い旗を掲げている方が、どう見ても有利だ。

ここしばらく、将官に抜擢した二人の男が、めざましい活躍を見せている。

一人は魏延。小隊長から抜擢したのだが、かっての動きが嘘のように鋭い指揮をしている。趙雲の見立ては正しかったと言うことだ。

赤い旗を掲げた部隊の指揮をしているのはその魏延である。その副官に王甫がついている。一兵卒でよいと言っていたのだが、最近劉備が将校に出世させた。やはり見立ては正しく、見事な補佐役を務めていて、魏延軍は素晴らしい動きをしていた。

もう一人の優秀な男は、廖化という。白い旗を掲げている軍の、中級将校をしている。

此方も優秀な男だが、少し寡黙すぎて考えていることが分かりづらい。不思議とその点で、シャネスと気が合うようである。年齢的にも結構近いことがあり、二人で時々歩いている所を見かける者がいるようだ。

廖化は全体的に優れた能力の持ち主で、特に判断力が良い。

白い旗を掲げている部隊の指揮を執っているのは陳震だが、器用貧乏なこの男の補佐を良くして、軍の崩壊を見事に防いでいる。魏延は途中から、廖化の部隊を集中攻撃させているが、それでも良く凌いでいた。

やがて、白い旗が倒れた。

迂回して本営を直撃した王甫の部隊が、陳震の兜を獲ったのだ。太鼓を鳴らし、訓練の終了を告げる。

城壁の上に上がってきた陳震は悔しそうだった。

「私も、老いたと言うことなのでしょうか」

「何、陳震どのは武官としても文官としても問題のない能力を有しておられる。 若い天才が台頭してきたことを、むしろ喜びましょう」

遅れて城壁に上がってきた魏延は、嬉しくも何とも無さそうだった。むっつりと黙り込んでいて、まるで負けたかのようである。

「どうした。 魏延」

「訓練で勝っても」

「ふむ、実戦で武勲を立てたいか」

「はい」

廖化は魏延の様子を、面白そうに見送った。あれだけ激しく刃を交えた相手だというのに、余裕が伺えて面白い。廖化はまだ若いが、殆ど口を利かない。戦勝の報告にも、はいといいえだけで応えていた。

やがて、訓練が終わる。

陳到自身は、魏延と何度か訓練で刃を交えて、そのいずれでも勝っている。ただし、伸びが凄まじいので、いずれ追い越されるだろう。魏延は優秀な将だ。張飛や関羽と比べても、素質の面では遜色がない。武勇に関しては趙雲にだいぶ劣るが、それでも充分に一流の域には達している。武芸に関しては、既に陳到より一枚上手だ。

「陳到将軍」

「どうした」

声を掛けてきたのは、何と廖化である。これには陳到だけではなく、他の将軍達も驚いていた。中には廖化の声を、初めて聞いた者までいるようである。

「魏延将軍と先ほど相談したのですが、我々にも総合的な指揮を執る訓練をさせていただきたく」

「なるほど、軍の規模が拡大した時のことを想定するか」

「はい」

荊州を落とせば、軍の規模は一気に十倍になる。現在、劉表政権が混乱している現状を鑑みるに、その可能性もゼロではない。

ただし、所詮は捕らぬ狸の皮算用でもある。あまり大々的にそれを行うと、荊州軍閥に警戒される可能性もあった。

しばし考え込んだ後、陳到は許可を出す。

「分かった。 良いだろう」

「ありがたき幸せ。 それで、陳到将軍。 せっかくなので、奥様とお子様達と、お出かけなされてはどうでしょうか」

「何? ……さてはお前。 魏延だけではなく、シャネスとも話したか」

廖化はにこにことするだけで応えない。

まあ、確かにシャネスの言葉にも一理ある。今まであらゆる局面で、陳到は仕事ばかりしてきた。

不平ばかり言っている妻も、それに対して不満を述べているだけの可能性もある。悪妻だと言ってしまえばそれだけだが、確かに仕事しかせず家庭を顧みなかった陳到にも、責任はあった。

或いはシャネスも妻と結託しているのではないかと陳到は疑ったが、そこまで考えるのはゲスの勘ぐりであろう。

「分かった。 たまには、休日をのんびり過ごしてくるとするか」

襄陽に出るには、少し時間が足りない。ただ、新野の街を散策するくらいなら、大丈夫だろう。

新野も田舎ではあるが、襄陽に近いこともあり、物資は大いに揃っている。

それに、多少忙しくなるが、襄陽に出かけることも無理ではなかった。

自宅に帰ると、妻は冷たい視線で陳到を迎えた。娘もである。

たまには出かけるかと言うと、最初は目を白黒させていた。やはりシャネスと妻が結託しているというようなことは無い様子であった。

「どういう風の吹き回しですか」

「部下達が、たまには家族を思いやってくれと、時間をくれたのだ」

「……そうですか」

妻が娘を急かして、出かける準備をする。

まあ、たまにはこういう日も良いだろうと、陳到は思った。

 

襄陽まで結局無理に足を運んだので、帰ってきたのは夜中となった。

妻も久し振りに機嫌が良さそうにしていたので、陳到はある程度安心した。悪い噂が幾らでもあるので、不安は感じていたのだ。

現在では、陳到の方が、遙かに妻より立場が上である。社会的地位も、将軍と呼んで何の差し支えもない段階に来ているし、側室をとることだって難しくはない。基本的にあまり多くの妻を娶らない劉備軍でも、劉備以外で側室を持っている将軍は幾人もいるのである。

しかし、文字通り、休日はたった一日だけのものとなった。

帰ると、劉備からの使者が待っていたのである。抱拳礼をする使者を見て、妻は顔を強張らせた。

「陳到将軍」

「如何したか」

「実は、荊州南部の珪陽にて、反乱が発生いたしまして。 関羽将軍、張飛将軍と一緒に、陳到将軍も出て欲しいと、劉備様より指示が出ております」

「分かった。 すぐに準備をする」

いそいそと出陣の準備を始める陳到と、妻は冷たいまなざしでみていた。

やはり陳到は、何処まで行っても仕事人間なのかも知れなかった。

 

丘の上から、戦況を見ている董白は。周囲を囲んでいる細作達に、扇子で口元を隠しながら聞いてみた。

「貴方たちから見て、どう思いますか」

「血がたぎる」

即答したのは、山越出身の娘である。

確かに、反乱軍を蹴散らしている張飛の働きぶりは凄まじい。既に中年の域に懸かっているのに、まるで老いを感じさせない。その凄まじい武勇は、さながら悪鬼羅刹が天から降り立ったのようであった。

反乱は、交州からの干渉を後ろ楯に開始された。交州の士一族は、もとより独立王国も同然の勢力である。平和呆けした荊州の混乱を知って、手を出そうとしても不思議ではない。その先兵とも言える反乱軍であったのだが。

わずか二千ほどの新兵で現れた劉備軍を侮り、襲いかかったのが運の尽きであった。

偽りの退却をした陳到に引きずられて、気がついた時には後方を遮断され、張飛軍の突入を許していた。後はごらんの有様である。主将は趙雲に、副将は張飛に一刀両断にされ、残党は一方的に蹴散らされ、踏みにじられていた。

銅鑼が鳴る。

敗残兵達が、集められた。逃げる暇もなく、彼らは盆地の中央に追い込まれる。青い顔をしている彼らの前に進み出たのは、劉備であった。

「皆殺しにするつもりでしょうか」

「いや、違います。 あれは、将来のために、種まきをするつもりでしょう」

劉備がなにやら話し掛けると、生き残った兵士達は皆武器を捨てた。劉備は笑顔のまま、彼らに話し掛けている。敗残兵達の顔に、生気が戻った。

確かに主要な敵は既に死んでいるので、一般の兵卒に罪はないとも言える。くつくつと、董白は笑った。

「なるほど。 劉備という人物が、大体分かりました」

「偽善者という判断でよろしいでしょうか」

「いや、戦略として義と民衆を主体に、という事なのでしょう。 現実主義を基本戦略としている曹操とは、其処が正反対です」

それが恐ろしい所だと、董白は呟く。

つまり、曹操が天下の英傑であることは理解していて、それに対抗するために、己の信念を戦略として利用していると言うことなのだ。

事実、知識層の中で、儒学を必ずしも尊重しない曹操は評判が悪い。その筆頭であり、孔子の子孫である孔融は、今こそ曹操の配下ではあるが、いずれ粛正されるのではないかとさえ言われている。

そういった層を取り込み、劉備が得意とする民衆の支持吸収を更に進めていけば。或いは曹操に対して、いずれ活路が見えるかも知れない。

「利用、できそうでしょうか」

「利害関係の調整がつけば」

ぱしりと、音を立てて扇子を閉じる。

とりあえず、世間一般で言われているような戦下手でも、ただ己の利益だけ考えている偽善者でもないことは、これではっきりした。劉備は予想以上の大物だ。それに、自分の目で確認する限り、利害関係の調整がつきそうな相手でもある。

結局この世は、全て利害関係で成立している。もはや小娘でもない董白は、それを熟知していた。むしろそうでない思考方法をする人間はぶれが多く、接するのも利用するのも難しいし、危険が大きい。

ごく希に、揺るがぬ信念を持つような人間もいる。

だが、そう言う人間は、社会的に異端だ。極端な上層まで行くか、或いは排斥されて終わるか、どちらかしかない。いずれにしても例外中の例外であり、こういう場合は考慮の対象外であった。

「一旦戻りましょう」

「はい。 董白さま」

江東の方は、引っかき回しが充分に功を奏している。武勲を立てられず、江夏を制圧できず兵ばかり消耗している周瑜も焦りを感じているようで、そろそろ足下をすくう事が出来そうであった。

ほどなく、劉備は荊州の反乱を、ほとんど被害を出さないまま制圧した。

それが、荊州内部での権力闘争を、更に加速させていくことになる。

 

3、血戦袁煕

 

青州を完全に制圧した曹操が動き出した。

何時か動き出すのは分かりきっていたから、ついに、というよりもやはりという感が強い。兵力も当然のように十万を超えていて、涼州の軍勢を抑えるために大きな兵を割かなければならない幽州の動員戦力を、大きく凌いでいた。

その上袁煕は、己の親とも言えた審配を失っている。

誰もが、曹操軍の圧勝だろうと、予想する中。

思わぬ苦戦が、曹操軍に降りかかることとなった。

 

長らく続いた袁譚との抗争で兵力を減らしている袁煕軍は、幽州、并州を併せて、やっと七万程度と推察されている。しかも涼州に備えて并州に三万を残しているため、野戦用の兵力は四万にすぎない。各地に守備隊を残すとなると、更にその兵力は削られることとなる。

これに対し曹操軍は十三万を冀州から出発させ、更に青州に三万を配置した。青州に袁煕が不意の攻撃を仕掛けてきても充分に押し返せる戦力であり、なおかつ敵軍全てが一つの城に籠もっても力で押し切れる兵力差である。

戦の専門家でなくても、勝利を確約するような、そんな状態であった。

それなのに、

曹操は、今歯がみしている。

原因は、まるで幽州そのものが要塞化されたかのような、延々と連なる防御網にあった。国境地帯からして、まるで攻め入る隙が見あたらないのである。かって幽州にいた公孫賛が築いたという巨大要塞易京を、曹操は思い出した。ひょっとすると、易京を研究し、曹操の襲来に備えていたのかも知れない。

しかし、そうなると妙である。これだけの防衛施設を構築していながら、なぜ袁譚ごときと、泥沼の戦いをしていたのか。

城壁に攻め懸かる部下を見ているが、どうも戦況は良くない。冀州戦の生き残りである兵士達から、袁煕はしっかり此方の戦術を聞き出して、対抗策を練っているらしい。防御施設はどれも堅固で、攻城兵器の技術は相変わらず此方よりも高い。しばし戦況を見ていた曹操だが、やがて指揮剣を振るった。

「一旦引き上げよ」

「は。 ただちに」

銅鑼が叩き鳴らされ、兵士達が城壁から離れる。

まだ幽州に入って三つめの城だというのに、この堅固さはどうしたことか。一月以内に幽州を落とせるかと考えていた曹操だが、とんでもない話である。波状攻撃を仕掛けて、一年以内に落とせるかどうか。

最初に落とした城でさえ、千以上の被害を出した。このままだと、幽州を落とすだけで、数万の兵が死にかねない。

もちろん、それは曹操としても、望ましくはなかった。現実主義者であるからこそ、曹操は兵士の大切さを知っている。兵士を如何に効率よく死なせるかが、乱世を勝ち抜くこつだと考えているからこそ、この状況は看過できなかった。

味方が陣を敷き直す。手を叩いて、伝令を招く。

「林を呼べ」

「ただちに」

林は冀州戦で見事な手柄を立てたが、今回の戦では敢えて使っていない。林の配下の半数は涼州に、残りの更に半分は漢中を探らせており、林自身と僅かな配下だけを、側に置いていた。

幽州を探らせているのは、現在育成中の細作組織である。ただ、やはり育成中ということもあり、まだまだ腕は未熟。肝心な所では、林を使わざるを得ない所が実に腹立たしい話である。

林は相も変わらず、影のように現れた。噂によると、邪神窮奇を自称しているそうだが、それも無理がない。許?(チョ)でさえ対応しきれないこの怪物ぶりをみていると、若い娘の姿をしているこの女が、本当に邪神なのではないかと、曹操にさえ思えてくる。いつまで経っても、姿が変わらない不気味さもあって、部下達の間では忌避よりも恐怖が先立つようになりつつある様子だ。

「ただいま参りました」

「うむ。 青州と、幽州の国境地帯を調べてきて欲しい」

「分かりました」

林の口元に冷笑がひらめくのを、曹操は見逃さなかった。気付いたのだろう。攻めあぐねており、戦略の転換を曹操が図っていることに。袁譚が攻め込めたくらいである。青州からなら、幽州に攻め込むのは難しくない可能性がある。

それに、今までの要塞の堅固さから言って、敵の兵力が妙に多い気がするのだ。今まで叩きに叩いてきた袁煕軍は、既に半減しているはずで、しかも幽州はさほど豊かな土地ではない。兵力の補充だって、難しいはずなのだ。

翌日から、猛攻を再開する。

そうして、二ヶ月攻めて。もう一つだけ、城を落とすことは出来た。

だが、それが限界だった。

被害も大きく、物資の消耗も深刻となり、曹操は一旦冀州に引き上げて、兵力の再編成を行う必要に迫られたのである。

すっかり安定を取り戻した?(ギョウ)は、許昌以上の繁栄を見せつつある。しかし民は曹操に心服しているとは言い難く、馬上の曹操は彼らの冷たい視線にちょっと肩身が狭かった。

一旦館に引き上げて、執務室にはいると、林の配下である劉勝が待っていた。抱拳礼をする大柄な男は、むっつりと黙り込んでいて、曹操が席に着くと喋り始める。

「林大人からの伝言にございます」

「うむ、聞こうか」

「幽州に、鳥丸族の王?(トウ)頓らが入り込んでいます。 騎馬兵二万を始めとして、かなりの増援が為されている模様です」

思わず曹操は、口に含みかけた茶を噴き出していた。

そうだ。確かに幽州、并州では限界があった。しかし、密かに鳥丸族に増援を頼めば、かなりの兵力を水増しすることが可能なのだ。こんな簡単なことに気付かなかった自分に、非常に苛立ちを感じてしまう。

やはり、どこかに油断があったらしい。

中華の戦とはいえ、人間は周辺各国にも多く存在している。董俊も、鮮卑から多くの兵を雇い入れ、屈強な騎馬隊を編成していたのだ。似たようなことを、他人が思いつかぬ訳がない。

もちろん袁煕は、かなりのつけを支払わされることになるだろう。曹操もこの討伐の後、鳥丸と戦わなければならぬ事はほぼ確実だ。まあ、それに関しては構わない。どちらにしても、叩くのは規定事項であったからだ。

「青州方面の守りについては、どうなっている」

「調べた感じでは、冀州本面に比べて若干手薄ではありますが、同じように要塞化されていて、屈強なことに代わりはありません」

「……そうか」

青州から回り込めば、それだけ補給線は長くなり、隙も突かれやすくなる。ましてや鳥丸族が味方をしているとなると、青州の守りがかなり心許ない。大規模な増援が必要になってくるだろう。

懸念はまだある。西涼の諸侯を、何時まで味方に付けていられるか分からない。連中が曹操に敵対すると、并州の兵力を、袁煕は根こそぎ幽州に回すことが可能になってくる。そうなってくると、曹操軍と野戦での決戦が可能なほどに兵が充実するだろう。もちろんその状態で守りに徹されると、幽州を落とすだけで数年は掛かること疑いない。負けるとは、思わないが。しかし、曹操の寿命が、全土の統一前に尽きてしまうかも知れないし、江東や荊州の形勢が大きく変わる可能性もある。

事実、江東はこの間から徐州にもちょっかいを出し始めている。陳登が毎度撃退をしているが、それでも鬱陶しいことに代わりはない。さっさと河北を片付けて追い散らさないと、面倒なことにもなりかねない。

此処は、考え時だ。

大きな損害を出しても一気に敵を片付けるか、それとも持久戦覚悟で挑むか。

劉勝を下がらせた後、曹操はまる一晩じっくり考えて。そして、結論を出した。

 

幽州の倉亭に陣を張っていた袁煕は、前線からの報告に愕然としていた。

大きな損害を出して撤退したはずの曹操軍が、再び押し寄せてきたというのである。数はやはり十万を超えていた。

曹操軍の損害は、継戦不可能なほどではないにしても、相当なものであったはず。更に、青州にも三万の援軍が追加されたという報告も入っており、一体どれだけの兵が動員されているのか、全貌がすぐには掴めなかった。

更に、混乱を生じさせる伝令が、次々に袁煕の所へ届く。

「幽州国境に現れた曹操軍は、およそ十五万! 曹操自身が率いている模様です!」

「青州の兵力は、六万五千を超えました! 更に増員が続いている模様です!」

すでに、曹操軍の兵力は二十万を超えているという試算も出てはいた。しかし、もし報告通りの兵力が展開しているとなると、南はがら空きの筈である。最近は小規模とはいえ徐州で江東との紛争が勃発しており、許昌近辺にはそれなりの大兵力が駐屯しているはず。一体これだけの兵力を、どこから都合したというのか。

審配ならどう判断するだろうか。そう袁煕は思う。

青州国境には一万、幽州国境には五万の兵を配置してある。強固な要塞地帯である幽州国境は、二十万の兵が攻め込んできても陥落させることは難しいだろう。問題は青州国境だ。

審配は、防御戦のイロハを袁煕に叩き込んでくれた。

防御戦は変幻自在を旨とする。主力を引きつけながら、敵の補給線を脅かし、なおかつ枝葉のごとく張り巡らせた防衛網を駆使して敵を翻弄する。?(ギョウ)で審配が見せた圧倒的な防衛戦は、彼にとって余技に過ぎない。

やがて結論を、袁煕は出した。

「曹操軍は、幽州からではなく、恐らく青州から本隊を送り込んでくるつもりだ」

「しかし、それでは補給線が伸びきるのでは無いでしょうか」

「その通りだ。 それを覚悟で、恐らく軽騎兵を中心に精鋭を送り込んでくる。 曹操自身が囮になり、此方の注意を冀州国境に引きつけるつもりだろう」

部下達は、なるほどと頷くばかりだった。

既に袁煕の下には、経験の浅い将軍しか残っていない。しかも、才覚のある人物は、皆袁尚の時に出て行ってしまった。弟の無能を嘆くことよりも、貴重な時間を作ってくれた審配と、彼を死なせてしまった自分の罪を償うために、袁煕が頑張らなければならなかった。

「青州国境から、五千の兵を割く。 決戦兵力に、これを加える」

「鳥丸族の軍勢と併せて、四万ほどになります」

現在、冀州国境に熟練兵はあらかた配置しており、青州国境は半分が新兵という状態である。残った熟練兵の全てを引き抜く。

これは賭だ。

「黄河の支流の一つを下り、青州に、現在曹操軍が急行している、その背後を襲う」

「しかし、曹操は冀州国境にいますが」

「分からぬか。 恐らく、曹操の影武者だ。 本人は青州に向かっていると見た」

全軍出撃。声を張り上げると、兵士達が喚声を上げた。

兄は粗暴だった。

弟は愚かだった。

父は平凡だった。

袁煕は、そのいずれでもない自分を、審配に見いだされた。

曹操に、野戦では及ばない。知恵比べでも、多分勝てないだろう。だから、全力での奇襲を仕掛ける。

仮に負けても、冀州の国境は鉄壁だ。抜かれる事はない。あの偏執狂であった公孫賛が徹底的に作り上げた防衛網を再構築し、弱点を補強したものだ。簡単に敗れるような代物ではない。

残った有力な将軍達も、みなそちらに配置してある。

「奇襲部隊の指揮は誰が執るのですか」

「もちろん私がとる」

出来れば、曹操の首は、袁煕自身の手で取りたい。

曹操は完璧な策だと、自信を持っているはずだ。審配に言われて曹操を研究したことで、袁煕は知った。曹操という男、勝ちに近付くと、油断する悪癖があると。

この戦い、曹操の弱点を突くものとなる。

必殺の気合いを入れると、袁煕は鳥丸の精鋭騎馬兵団とともに、密かに青州へと向かった。

 

曹操は冀州にいない。青州突破戦の指揮を執るため、姿を隠して青州に来ている。

「恐らく、袁煕はそう考えるだろうな」

曹操は青州に向かいながら、そう呟いていた。

そう。曹操は、青州に別働隊とともに向かっていた。

袁煕が、此処まで曹操の動きを読むことを、想定した上で、である。

既に林に念入りな調査はさせている。やはり袁煕は相当に頭が切れる男に成長している。そして、審配を死なせた事に対する大きな罪悪感に苦しみ、己の全てを擲ってでも勝とうと考えている。

だから、少しばかり情報を流してやれば、必ず勝機に食いついてくる。

問題は此処からだ。多分袁煕が連れてくるのは、戦い慣れした鳥丸の精鋭騎馬兵団であり、その戦闘力と練度は徐栄の騎馬隊に迫るだろう。官都以来まともな敵と交戦していない此方の精鋭騎馬隊では、同数で遅れを取るかも知れない。

そこで、曹操は。ある悪辣な罠を仕込んで、進軍しながら袁煕の到来を待っていた。

側にいるのは、荀ケと許?(チョ)。今回の作戦に関して、青州で民政を担当させている荀ケに、久し振りに実戦参加して貰うこととした。もちろん、作戦上必要だと言うこともある。

今回、進撃させている軍勢の実数と対外発表数には大きな違いもある。冀州には、実際の倍ほどを申告させて進撃させてもいる。これは旗や非戦闘員の動員によってごまかしを行っている状態である。一方青州には、三万ではなく、九万近い軍勢が進んでいる状態であった。此方も旗の数や、主力部隊を分散させて進撃させて、対処を行っている。

「許?(チョ)、まだ危険は感じぬか」

「未だ」

曹操が馬上で冗談めかして聞くが、許?(チョ)は大まじめに応えた。

乾いた荒野が何処までも広がる荒れ果てた青州が、また戦場になろうとしている。地面には、民の嘆きと血がしみこんだ荒れ地だけ。空には瞬く星空だけ。山があればはげ上がり、河があれば濁っている。村は廃墟とかし、僅かに残った民は気力を無くしてしまっている。

韓浩の屯田策により、国境から少しずつ国力が回復し始めている。また、荀ケの大胆な民政によって、民の負担も小さくなりつつある。

だが、今は。

青州は、未だ復興しているとは、言い難い土地であった。

だから曹操は、此処を決戦場として選ぶ。血を吸い込んだ大地であるならば。これ以上どれだけ血を追加しても、同じ事だからだ。

更に言えば、この青州では、袁煕の政権は決して良く思われていない。いざというときに、袁煕に対する落ち武者狩りも期待できる。最も、落ち武者狩りをするような人間が、殆どいないのが問題なのだが。

辺りに放っている伝令達が戻ってくる。もちろん目視では間に合わないので、繋ぎ狼煙を使って情報を伝達させている。

「曹操様、袁煕軍が現れました! 数、およそ三万五千!」

「向かう先は」

「先鋒である張遼隊に向かっております!」

掛かった。曹操はそう呟くと、全軍に戦闘態勢を取らせる。

同時に、地面の底から蝗がわき出すようにして、およそ六万の軍勢が、青州に出現した。

そう。

曹操は、確かに青州に向かっていた。

しかしただ向かっていたのではない。三万の張遼軍を先鋒に立たせ、自身は雑兵達と一緒に、分散させた無数の小部隊として潜んでいたのである。しかも張遼軍には、最精鋭と言って良い精鋭騎馬隊を編成している。

まもなく、荒野の向こうで、鋭い雄叫びの声がとどろき始めた。

 

黄河の支流を南下して、青州に入り。伝令達がとても間に合わない速度で、袁煕は驀進。ついに、先行していた鳥丸の伝令が発見した曹操軍。

曹操軍の背後を捕らえた。

その時、袁煕は己が勝てるかも知れないと錯覚し、乾いた唇をなめ回すと、馬に鞭をくれた。

勝てるかも知れない。いや、勝てる。最大戦速で進み続けていた袁煕は、馬上で確かにそう確信した。しかし、しかしである。確かに背後を一撃した瞬間、猛烈な違和感を感じていた。

どっと崩れながらも、敵は即座に態勢を立て直した。そればかりか、驚くべき機動を見せて、時計回りに反転迎撃してくる。騎馬隊には鳥丸の将校が多く、彼らに迎撃を任せながら、袁煕は精鋭を率いて、曹操を探した。

曹操も、旗を立てているようなことはないだろうと、分かってはいる。まして今は夜だ。旗が見えなくとも、何ら不思議はない。

いやな予感とともに、不安が増幅されていくのを感じる。

敵の中軍と思われる場所に斬り込む。激しく切り結び、敵を斬り倒す。雑兵までもが、戦慣れていて、とても強い。袁煕は髪を振り乱し、声をからして叫びながら、それでも敵中に食い込む。

審配。見ていてくれ。

私は、武士として恥ずかしくない戦いをする。

袁煕は叫びながら、更に進む。立ちはだかる大柄な敵兵を、拝み撃ちに切り伏せた。激しいもみ合いの中、立派な装束の敵将を発見。名乗りを上げて、打ち掛かる。だが、相手は軽くせせら笑うと、袁煕の長刀を、軽々と槍で受け止めて見せた。

「軽いな」

「曹操は何処か!」

親衛隊が、周囲で戦いを繰り広げている。血戦と呼ぶに相応しい状況であり、既に陣も何もあったものではない。

そんな中、敵兵は袁煕の長刀を軽々防ぎ、或いは受け止めながら、応えない。ただただ、不敵である。

歴戦の将らしいその男は、ふと月明かりに照らされて、赤い鎧を露出する。そして、その正体に気付いた袁煕は、思わず戦慄していた。

張遼。

曹操軍の中でも、最強を誇る驍将の一人。

あの呂布の下で散々に鍛え抜かれた名将であり、曹操も重用している、この大陸でも上位に入る強者である。袁煕の腕では、とても討ち取ることなど出来るはずもない。

「良い攻めだが、しかし。 曹操様の足下にも及ばぬ!」

激しい槍の突き返しによって、長刀を跳ね上げられる。喉を突かれると思った瞬間、近衛兵の一人が張遼に体当たりして、捨て身の血戦を挑んだ。僅かに出来た時間。それだけで、袁煕は全てを察するに充分だった。

まずい。

これは罠だ。

曹操自身も野戦の名将だが、此処まで騎馬隊の指揮に通じている訳ではないはず。ならばこれは囮で、本隊は曹操に率いられて、別の所にいる。

狼煙が上がる。

曹操軍の総攻撃合図に間違いなかった。

しかし、袁煕も此処で終わるつもりはなかった。即応する。

「敵を突破し、北に抜ける!」

「分かりました!」

張遼に肩を突かれながらも、どうにか生き残った近衛の部下が叫び、合図。兵士の一人が汗をとばしながら銅鑼を叩き鳴らす。同時に、騎馬隊が一斉に北に向かって抜け始めた。敵はもちろん追撃を開始する。しかもかなり余裕を持って、並行追撃を延々と仕掛けてきた。

袁煕は最後尾に自らを配置すると、とって返しては戦い、すぐに逃げ、死闘の中で味方を一人でも多く逃がす努力をした。

その甲斐あって、青州国境の要塞地帯に逃げ込んだ時には、損害は一割に抑えることがどうにか出来た。

敗北という事実に、代わりはなかったが。

しかし、まだまだ充分に巻き返しは可能だ。曹操軍の根本的な戦略は、この被害のおかげで、理解は出来たのだから。

青州国境の要塞地帯の要になっている城にはいると、袁煕は指揮官達を集めた。いずれも頼りにならないから、しっかり作戦を説明していかなければならない。

かって、最大の勢力だった袁家。中華の三分の二に影響力を持ったことさえあったのに。今では人材不足に苦しみ、袁煕は袁尚の影武者を御輿にして、孤独な戦いを続けなければならなかった。

「曹操は此方を主体に攻め込んでくる。 これから、二つの作戦を同時に実行する」

経験の浅い将軍達は、良く事態が飲み込めていない様子であった。

 

曹操は、袁煕の予想以上の動きに舌打ちしていた。

張遼の騎馬隊が、決して無様な動きをした訳ではない。だが、曹操の本隊が押し寄せた時には、既に袁煕軍は逃走を完了し、しかも被害を追撃戦だというのに最小限に抑えていたのである。

将器に関しても、指揮手腕に関しても。

既に、父を凌いでいるかも知れなかった。

惜しい。本当に惜しいと曹操は思う。もしも袁紹が早めに跡継ぎを決め、息子達の争いを押さえ込み、その優秀な家臣団を引き継いでいたら。きっと曹操は、その人生が終わるまで、河北との闘争に掛かりっきりになってしまっていただろう。

だが現実は残酷だ。

既に河北にはまともな将軍が残っておらず、二正面作戦は出来ようにない状態にある。曹操は、陣をくみ直した味方を見回すと、集まってきた指揮官達に告げる。

「これから北上して、青州国境の要塞地帯に攻め掛かる」

「曹操様、しかし。 補給路が延びきっており、危険です。 その上、敵の守りは堅固で、簡単に突破できる可能性もありません」

そう正面から述べ立てたのは張遼だった。徐晃もそれに習う。

曹操は頷く。その意見が欲しかったのだ。

「もちろんそれは理解している。 よって、そうやって城攻めを行わせるのは、青州の守備に当たっていた三万と、連れてきた中の三万だけだ」

「残りの三万については」

「恐らく、敵は補給を突きに来る。 それを叩くために、遊撃を行う」

もう一つ、敵の行動の可能性として、要塞地帯への攻撃に入った本隊の背後を突くか、青州の諸城を電撃的に攻略に掛かるかというものがあるだろう。或いは両方を行ってくるかも知れない。

だが悲しいかな、袁煕は一人しか居ない。もしも指揮を執るとしたら、繊細な判断が求められる、補給路の切断だけだろう。騎馬隊を率いるのにしても、鳥丸族の将軍達では、確かに戦いは出来るだろうが、補給物資の奪い合いに血道を上げかねない。

「そうなりますと、袁煕が曹操様を仕留めようとするように、此方も袁煕を狙っていくという事でしょうか」

「いや、此方の目的としては、青州の防衛線を突破する事となる」

袁煕は優秀な将だが、奴は所詮一人に過ぎない。それよりも、奴が活動するための地盤となっている、幽州を抑えてしまうのが一番手っ取り早い。

青州のこの荒れようから察するに、幽州も酷い状態であることに疑いはない。

早めに決着を付けないと、せっかく手に入れた河北を再生するために、国力の殆どをつぎ込むという、本末転倒な事態になりかねない。

長引くことは想定していた。だが、此処までの惨状になるとは、曹操も考えていなかったのである。

「次で、袁煕を仕留める。 仮に仕留められなくても、幽州国境は突破する」

徐州に配置した陳登は予想以上の指揮を見せてくれているが、それでもいつまでも寡兵で江東の侵攻を防げないだろう。気付かれてはならないのだ。今回の作戦のために、許昌に駐屯させている主力の半分を引き抜いて出撃させていることは。

曹操も、河北を攻略するために、かなり無理をしている。

荊州の劉表が、体調が悪くなっているという話は、曹操の耳にも届いている。対外進出を考えていない劉表が死んだ場合、一気に各国の形勢が激変する可能性も高い。今の内に河北をなんとしても潰しておかないと、曹操は枕を高くして眠れないのだ。

劉表の存在は大きい。現在、漢中、西涼につぐ火種である江東の目を引きつけていて、しっかり押さえ込んでくれている。もし劉表が死ぬと、荊州が空白地帯になり、血で血を洗う争いが開始される可能性も高い。そうなると、それが中原まで飛び火してきてもおかしくはないのだ。

「遊撃部隊は、誰が指揮をしますか」

「張遼、徐晃。 お前達で指揮をせよ。 兵には鮮卑出身の者を多く配属するように」

「なるほど、競争心を煽るおつもりですね」

「その通りだ」

犬猿の仲である鮮卑と鳥丸を戦わせることで、一気に決着を付けさせる目的もある。どちらにしても、曹操は世間で思われている程に有利ではない。むしろ此処で決着を付けられなかった場合、一気に中華全土が混乱し、河北を抑えるのに更に十年が掛かってしまう可能性もある。

最終的には袁煕を倒せるだろうが、曹操の寿命も尽きてしまう。そうさせてはならないのだ。

「必ずや、袁煕を仕留めよ」

「分かりました。 最低でも、その機動軍に致命傷を与えて見せまする」

「よし。 路招、そなたは輸送隊の指揮を執れ。 輸送隊はわざと隙だらけにし、しかも荷駄には金品を多く詰めよ」

「分かりました」

言うまでもなく、これは餌だ。荷駄の指揮に二線級である路招を当てるのも、敵の油断を誘うためである。

曹操自身は、幽州国境の要塞攻略に出向く。

もしも後方から奇襲を受けると、かなり厳しい戦闘になることが予想される場所である。だが、曹操の側には許?(チョ)もいるし、今回は他にも猛者を数多く連れてきている。勝つ、自信はあった。

挙手したのは朱霊。一線級の将軍だが、どうも曹操が生理的に肌の合わない男である。普通の将軍なのだが、どうしてか敵意と殺意を感じてしまうのだ。しかし、優秀な指揮官ではあるし、着実に実績も積んでいる。なおかつ、元は袁紹の所にいたのを、曹操を慕って着いてきたという経緯もある。だから、冷遇する訳にもいかず、曹操は苦虫をいつもかみつぶされる相手である。

「問題が一つございます」

「何か、朱霊」

「は。 隙を突かれ青州城および、南皮を敵に制圧され、民衆が一斉に敵に着いた場合は如何なさいますか。 可能性は極小なれど、そうなると曹操様は敵の中央に孤立、救援が来る前に命を落とすことになりかねません」

一気に場が殺気を帯びた。

空気を読まないというか、この辺りの朱霊の遠慮の無さも、曹操の嫌悪を買う要因の一つではある。ただ、朱霊のあらゆる全てが嫌いな曹操にとっては、それこそ海に一滴の水を追加するようなものであるが。

「朱霊将軍、それは」

「我々は正義だの大儀だのの前に、勝つために来ています。 そして勝たなければ、また多くの兵士達が無駄に死ぬのです。 いっそのこと、私が二千でも三千でも率いて、南皮だけでも守りましょうか。 援軍が来るまでの間くらいなら、支えることは出来るでしょう。 それに、伏兵として活用すれば、敵を撤退させられる可能性もあります。 何度か経験がありますし、やってみましょうか」

「……そうか。 それもそうだな」

腸が煮えくりかえりそうである。朱霊の声を聞いているだけで腹が立つのに、こう正論を言われるとなおさらだ。

どうして此処まで頭に来るのかは分からないが、兎に角このままだと、冷静さを欠いてしまうだろう。

「分かった。 二千五百の兵を任せる。 南皮と青州城を守れ。 方法は、好きにして構わない」

「分かりました」

反吐が出そうだった。

朱霊が消えるのを見ると、曹操はどうにか感情を抑えるのに成功した。世間一般ではやりたい放題にしている暴君などと罵られることもあるようだが、そんな事をほざく奴には是非立場を代わってやりたい所である。

この乱世、依怙贔屓や好みでの運用などしていたら、生き残ることは出来ないのだ。

あの董俊でさえ、気に入らない皇甫嵩を運用して、兵力として活用していた。暴君であったあの男でさえ、である。

ましてや曹操は、暴君であってはならないのだ。

息子や、典偉のためにも。

配下を得たら、無能だと思っても、使える部分を見つけて使っていかなければならない。それが君主のするべき事なのである。

そう、曹操が考えていることを知ったら、多分多くの知識人や民は驚くだろうが、別にそれはどうでも良い。

今は、ただ勝つこと。それだけが重要であった。

「良し、林を呼べ」

雨が降り始めた。曹操は馬上で、そう部下達に命じた。

 

曹操軍が動き出す。やはり相当な大軍をもって、青州から幽州国境に迫ってきている。

袁煕は軍を十以上の小集団に分割すると、付近の野山に分散させ、潜ませた。そして自身は、前回の敗戦時と同様の路を使って青州に侵入。信頼できる兵士に斥候をさせて、その動きを探った。

探索網は、敵も拡げていることが推定される。だから、袁煕は出来るだけ高速で移動しながら、敵の位置を探る。曹操自身を狙えないのは悔しい。だが、それが故に。しっかり荷駄を壊滅させなければならない。

青州城、あるいは南皮を落とすという手もある。

しかしながら、民衆は味方をしないだろう。残念ながら兄袁譚が敷いていたのは恐怖政治に近く、袁尚も著しく評判が悪かった。今更袁煕が現れた所で、善政を敷いた曹操に反旗を翻し、味方をする民などいようはずもない。

問題は、味方との連携だ。

それが上手く行けば。恐らく、曹操を仕留めることが出来る。

補給を失って孤立すれば、如何に曹操といえども、その軍を維持することなど、出来ようはずもないのだ。

袁煕は闇を駆ける。

二万五千の騎馬隊が、その後ろに続いた。

伝令が来る。袁煕が足を止めると、多少不揃いながらも、部下達もそれに習った。荒くれ達は、皆統率されると言うことに慣れていない。

「ご報告申し上げます」

「うむ」

「曹操軍、青州国境の要塞地帯に攻撃を開始。 味方は徐々に押し込まれつつあります」

「少し待て。 敵が勝ちを確信しそうなころを見計らい、伏兵に背後を襲わせよ」

頷くと、伝令は闇に消える。

雨が降り始めていて、嫌がった愛馬が身震いして雨の滴をはじき飛ばした。顔を拭って、袁煕は思う。せめて審配がいてくれれば、片方の指揮は任せることが出来るのに。この重要な仕事の片方しか自分で指揮できないという現状が悲しい。

荷駄発見の報告は、少し前に受けた。

しかし、罠の可能性が高い。いや、むしろ曹操だったら、間違いなく罠を仕込んでくるだろう。

だから周囲を念入りに探らせている。敵の伏兵を発見し、位置を特定できれば。荷駄を焼き尽くし、引き上げるつもりであった。

「荷駄は発見できているのです。 さっさと焼き尽くしては」

「間違いなく伏兵がいる。 しかも、荷駄に何か仕掛けがしてある可能性もある」

鳥丸の兵士がなれなれしくも話し掛けてきたので、そう応えた。

どうみても、納得しているようには見えなかった。

ひょっとすると、曹操は荷駄に金品を仕込むくらいのことをしてきているかも知れない。もしもそれが分かったら、作戦そっちのけで、鳥丸の兵士達は、略奪に夢中になってしまうかも知れない。

確か、董承が献帝を連れて長安を脱出する時に使った手だ。

ついに、袁煕は看破した。

「なるほど。 荷駄に金品を仕込み、略奪に夢中になっている所を袋の鼠にすると言う訳か」

「はい?」

「いや、そなたのおかげで、曹操の策が読めた」

それならば、手は打てる。

そして、巧くすれば。曹操を仕留めることも出来るはずであった。

 

要塞攻略戦の指揮を執っていた曹操の元に、伝令が駆け寄る。路招軍の兵士に間違いなかった。

「荷駄に攻撃がありました! 張遼、徐晃、両将軍が対応を開始しております!」

「ふむ。 戦況は」

「敵は荷駄に火を放ち、即座に逃走! 両将軍は、冀州国境へ向かっているその部隊を、追撃中です」

「冀州国境、だと?」

歴戦の指揮官である曹操の脳裏に、危険信号が点灯した。

何かがおかしい。奇襲を済ませたのなら、兵を分散して隠れれば良いのである。それに対抗しやすいように、わざわざ張遼と徐晃、二将に分散した部隊を任せたのだ。雨が降っているこの現状、荷駄に火を放つだけで逃げたというのも少しおかしい。

雷が鳴る。

近くの木に直撃、吹き飛ばした。兵士達が竦む中、曹操は顔を上げた。

「おのれ若造、余の策を見抜いたか!」

「曹操様!?」

「五千を敵城への備えに残し、残りは全て後方へ備えよ! 奇襲が来る! 数は恐らく、五万以上だ!」

半信半疑で、味方が反転展開を開始する中、雷雨に乗じて敵が現れる。確かにその数は、遙かに五万を超えているように見えた。

動揺する味方が打ち砕かれる。曹操は声をからし、指揮を続けた。

「引くな! 此処で退いても全滅するだけだ!」

敵は、恐らく。

五千かそこらの小部隊に、荷駄を襲撃させた。

恐らくは、伏兵を引きつける、ただそれだけのためにである。そして敵本隊は、張遼、徐晃の騎馬隊をやり過ごし、全軍をもって曹操を討ちに来たのだ。曹操の作戦を、完全に読まれた。

今まで、経験したことのない事態ではない。

むしろ、この程度の苦境、何度となく味わってきた。

闇を飲み込むようにして、怒濤のごとく迫り来る袁煕の軍勢。荒々しい鳥丸の雄叫びが、戦場を圧する。曹操軍の前衛は、曹操自身が前に出たことで態勢を立て直したが、激しい戦いの中、次々旗本が倒れていく。

ついに、曹操の本陣まで、敵が来る。

許?(チョ)が大長刀を振るい、片っ端から敵をなぎ払うが、矢まではどうにもならない。曹操の至近を、次々に矢が掠めた。鎧に矢が突き刺さる。敵と味方の数は互角といえど、此方は城攻めを考慮した編成の上、敵に挟まれている。

「曹操様、陣をお下げください!」

「下げる場所など存在しない!」

「ならば、我らが敵を食い止めます! どうかお逃げください!」

「たわけが! もしも此処で逃げたら、余が死ぬまで、河北は落ちん! 此処で袁煕を仕留めるか、後ろの忌々しい要塞を落とさなければ! 中華の平穏は、数百年は来ぬものと知れい!」

それは、決して大げさな言葉ではない。

弱体化を続ける中華を、周辺の異民族達が、座して眺めている訳がない。

激しい乱戦の中、敵の渾身の攻勢が、更に強くなっていく。本陣へ掛かる圧力も勢いを増し、中軍の于禁隊もとても支援が出来ない状態になりつつあった。

もちろん、対策がない訳ではない。

張遼、徐晃が駆けつけてくれば。敵の主力を更に背後から襲うことで、一気に叩くことが出来る。そうなれば、形勢逆転だが。

画餅を食べることは出来ない。

また一本、鎧に矢が突き刺さった。

曹操は舌打ちすると、自ら剣を抜き、雄叫びを上げて迫ってきた鳥丸の騎兵の首をはね飛ばした。そして乱暴に、鞍に付けている袋から、焼き菓子を掴み出すと、口に入れて噛み砕いた。

ばりばりと凄い音がする。

曹操は笑う。こんな時まで、背丈を伸ばしたいと考えてしまう自分の浅ましさに、である。

「余は生きる! 生きて、背を伸ばす!」

周囲の兵士達が呆れたように曹操を見たが、別にそれで良い。完璧な存在であろうなどと、曹操は思っていない。

許?(チョ)が馬を寄せてきた。

そしてその雄大な体躯で、五本、六本と、矢を受け止める。典偉の死を思い出して、曹操は絶叫する。だが、許?(チョ)は退かなかった。

「止せ、虎痴!」

「止めませぬ! この許?(チョ)、曹操様のために! 生きるのです!」

曹操は剣を振り上げ、総員、此処で死ねと吠えた。

全軍の意気が燃え上がる。

押され気味だった前線が、徐々に押し返し始める。

それに伴い、曹操は全軍を徐々に進め始めた。再び、矢が顔を掠める。兜に跳ね返って、鋭い音を立てて、地面に突き刺さった。

「曹操様!」

「案ずるな! それより、敵は押し返され始めたぞ! 一気に叩きつぶせ!」

不意に、敵に乱れが生じる。

理由を知って、曹操は苦虫をかみつぶした。

朱の旗が、敵の後方で攪乱を行っているのが、明けかけた朝の光の中、見えたからだ。

夜通しの死闘の幕を下ろすのは、どうやら曹操が嫌って止まないあの朱霊のようであった。

「朱霊将軍が、三万の兵を連れて救援に来たぞ!」

気の利いた誰かが、好き勝手なことをほざく。まあ、こんな時は、そのような寝言が大きな意味を持ってくる。前衛で、同じようなことを叫ぶ兵士が出始める。見る間に、敵に動揺が広がっていった。

今、百戦錬磨の曹操軍を相手に押しているのは、挟撃という極めて有利な状況に持ち込んでいるからだ。それが逆に挟撃されては、ひとたまりもなく打ち崩されてしまう。それくらいは、雑兵でも分かる。

敵が崩れ始めた。

無念の表情を浮かべる袁煕の姿が、曹操には見えた。喜ばしいことではなかった。結局戦とは、殺し合いで、つぶし合いなのだから。

敵が崩れ、散り散りになり始めた。一部は青州国境の要塞に逃げ込もうとする。此処に来て、ようやく張遼と徐晃が駆けつけてくるのが分かった。

「よし、後方は張遼と徐晃に任せよ。 此方は一気に敵の要塞を陥落させる」

「しかし、敵を殲滅する好機では」

「もう後方は勝ったも同然! それよりも、要塞を落とすことで、幽州への侵入経路を確保する! それにより、河北の形勢は確定する! そんな事もわからんか!」

第一、要塞側は戦況を理解しておらず、殿軍を努めている五千にまだ攻撃を続けている。今押し返せば、一気に敵の要塞を落とすことが可能だ。

曹操は近衛の精鋭一万ほどに、反転攻勢を命じる。大混乱に陥っている敵は于禁と張遼、徐晃に任せてしまえばいい。そのまま、要塞へ突撃を開始。意表を突かれた敵の経験が浅い指揮を踏み砕きながら、怒濤の勢いで要塞に迫る。

不意に、許?(チョ)が手を伸ばし。

曹操の手綱を掴んだ。

まだ、体に五六本矢が刺さったままで、である。

「どうした、虎痴」

「曹操ーっ!」

絶叫。許?(チョ)が、曹操を庇うように、前に出る。

その肩に、矢が突き刺さった。

鎧を明らかに貫通している。曹操は周囲を見回し、気付いた。五百ほどの騎馬隊が、此方に怒濤のごとく迫ってきている。

乱戦の中を抜け出てきたらしい。先頭を走るのは、兜を失いながらも、狂気を目に宿し、曹操だけを狙ってきている男。間違いない。袁煕だろう。

「仕留めてやる! 曹操ーっ!」

「意気だけは素晴らしい。 だが、しかし! 甘い!」

曹操が手を振ると、親衛隊の皆が一斉に矢を放つ。無数の矢をかいくぐり、袁煕はそれでも迫ってくる。

だが、残念だが。

馬が、彼の気迫にはついて行けなかった。

馬の首に、四本矢が突き刺さり、前のめりに倒れる。それでも袁煕は髪を振り乱して迫ろうとしたが、着いてきた部下に止められた。

そのまま無理矢理馬に乗せられ、引き上げていく。

曹操は、もしもあれが曹丕だったらと思って、歎息してしまった。

「袁紹は、本当に跡継ぎを決めることに関しては、失敗したのう」

「勇敢な若者にございます」

「虎痴よ、肩の矢は大丈夫か」

「この程度で、虎痴めは死にませぬ」

曹操は頷くと、改めて要塞攻略に向けて動く。

そして、混乱している敵を、さながら子兎を射貫くように打ち砕いた。

 

4、河北落陽

 

ついに、曹操軍が来た。

青州国境の要塞地帯が抜かれた結果である。また、その過程で袁煕は三万近い兵を失うという壊滅的な敗北をしており、もはや河北政権は曹操に敗退することが確定したとも言える。

田豫はそれらの情報を、逐一細作達から受け取っていた。

既に幽州は混乱下にある。曹操軍は国境地帯で幾つかの拠点を落とした所で一旦進撃を停止しているが、もはや丸裸になっている幽州に、これから本格的に攻め込んでくるのはほぼ間違いない。先の会戦で、曹操軍も大きな損害を受けたらしいが、その比率から考えれば勝利と言って問題ない。しかも、幽州を守る袁煕の軍勢は、壊滅という状況だ。

幽州から逃げ出す民で、幽州城はごった返していた。もちろん隙を見れば略奪に走るような輩も出没し始めている。用心棒に念入りな警護をさせつつも、田豫は仕事をしている。既に経済が麻痺状態になりかけているのに、それでも、である。

最早幽州城下において、まともに店を開いているのは、田豫の所だけとなりつつあった。

毎日のように、顔役が訪れる。彼らはこれからどうしたらいいのかを、若造である田豫に聞きただし、或いは金を借りて蓄電しようとばかりしていた。幽州から離れようとしている武人もいた。彼らに関しても、田豫は気前よく援助をしてやった。

既に、幽州は鼠が逃げ出す船と化している。

「田大人」

「どうしましたか」

振り向いた先にいたのは、羊の所にいた細作。田豫が飼っている手駒の一人である。

「どうやら、先の会戦に乗じて、林が幽州に入ってきた様子です」

「それは困りましたね」

多分、漢中の細作達を刈り取るためだろう。

河北での戦闘は長引いている。もとより河北の潜在能力が高いこともあるのだが、漢中の細作が多く入り込み、手練れの技で袁煕を助けている事もその理由の一つである。漢中の細作達は決して表には出てこないが、手練れ揃いであり、林も手を焼いている様子だ。ゆえに、今回。根こそぎ皆殺しにするために、もはやこの中華の闇を牛耳る林がわざわざ乗り込んできたと言うことなのだろう。

凄まじい乱戦だったと聞いているが、曹操の冷静さは恐るべきものがある。その状況で、将来の勝利に向けた布石を打っているのだから。

「監視はほぼ不可能です。 近付いただけで、殺されます」

「貴方ほどの手練れでもですか」

「私では、百人いても林に勝てるかどうか」

それでは、呂布並みではないか。いや、多分今言っている台詞は、少し意味が違うのだろう。

林は闇に生きる者。その戦い方は、あくまで影に徹するものである。

「分かりました。 林については、保留しましょう。 迂闊に虎の尾を踏むようなことがあってはなりませんからね。 他には、何か特記事項はありましたか」

「袁煕将軍が、必死に曹操軍迎撃の準備を整えていますが。 どうも遼東の公孫康が、おかしな動きを見せているようです」

袁煕は、漢中の細作達の力を使って、鳥丸を曹操との戦いに引っ張り出した。

そして、半独立国状態である遼東にも、救援の要請をしているらしいと、話は聞いている。

しかし、遼東は公孫賛が精神を病むほど血で血を洗う闘争を繰り返してきたほどの一族、公孫家が収める土地だ。落ち目の袁煕に協力する訳がない。

「公孫家が信用できないことは、袁煕将軍も把握しているでしょう。 そうなると、恐らく現状の情勢から言って、柳城辺りで最後の決戦を挑むでしょうが、その後に何か問題が起こるかも知れませんね」

細作を下がらせると、田豫は少し腕組みをして考え込む。

今まで、曹操との人脈は作ってきた。

それに曹操は、世間で思われているよりもずっと民の事を考えた行動を取っている。幽州に乗り込んできても、いきなり全てを焼き尽くしたり蹂躙するようなことは無いだろう。ただ、早めに、打つべき手は打たなければならなかった。

さっきの男とは、別の細作を呼ぶ。既に手元には、十通ほどの竹簡があった。

「これを郭淮将軍に。 それと」

かって河北にいて、今は曹操軍にいる将軍達へ、竹簡を出しておく。他にも、打つべき手は幾つもある。

最悪の場合、田家の支部を荊州に移すという手もある。

その時には、劉備とまた戦えるかも知れない。それはとても嬉しいことだ。田家のことを考えると、此方にいなければいけない自分を、今でも田豫は歯がゆく思っている。劉備とまた一緒に戦えたら、どれだけ嬉しいか。

しかし、それは最後の手段だ。

河北で巨大な流通網を作っている田家のために、正確には田家に仕える多くの者達のためにも。田豫は、あらゆる手段を尽くさなければならなかった。

 

忠誠心が高い近衛の兵士達に守られて、何とか生きて帰ってきた。

しかし、袁煕は、まるで老人のように窶れ果ててしまっていた。

乾坤一擲の勝負が、及ばなかった。

曹操の策を、読み切りさえした。それなのに、ついに地の力で、曹操に及ばず。そして、打ち倒すことが出来なかったのだ。

あれほどの好機を生かせなかったのだ。最早、勝ち目などあるはずもない。

皆、無駄死にしてしまったのだ。彼らの死は史書に刻まれることさえなく、誰の記憶に残ることもなく。

審配の死さえ、無駄になってしまう。

そう思うと、もはや全身から力が抜けてしまうかのようであった。

寝台で突っ伏して、ぼんやりとしている。耳鳴りのように、倦怠感が全身を揺らしていた。ぐわんぐわんと音がする。戦場の銅鑼か。

いや、自分の脳が、揺らされている音か。

無念の死を遂げた兵士達が、誰にも語り継がれることなく果てる。

それも、自分の力が足りないせいなのだ。

自責と無念が混じり合って、袁煕は何も出来なかった。動く気力さえ湧いてこない。自分が今動かなければならないと、分かっているというのに。

それでも。

袁煕は己を奮い立たせて、立ち上がった。

そして執務室に出る。報告をするべく来ていた兵士達は、皆窶れ果てた袁煕を見て、驚いたようだった。

「え、袁煕将軍」

「報告を聞かせて欲しい」

「し、しかし。 お体は大丈夫なのですか」

「私が聞かなければ、誰が報告を聞く。 ただでさえ敗色が濃い今の状況で、国が麻痺する状態がどれだけ危険か、分かるだろう」

そう言って、机に座る。

若い将軍の一人が、鏡を持ってきた。

「ご覧ください、袁煕将軍」

「どうした、いきなり」

「まずは、此方を」

鏡を言われるままに覗き込んで。

袁煕は絶叫していた。

目の下に隈があるのは当然として、顔中に走っているこの皺は何だ。髪が。髪が、白くなっている。髭も白くなっている。

これは、老人の顔だ。

まだ二十代の袁煕が、此処まで老いぼれてしまったというのか。

あまりの事に、鏡を取り落としそうになる。

「極度の疲労から来る一時的なものかと思われます」

「ば、馬鹿な。 こんな、こんな事が」

「休みなされませ、袁煕将軍。 これでは、幽州が滅ぶ前に、袁煕将軍がお倒れになってしまいます」

「しかし、この報告の山をどうするというのだ! この国は、今曹操の手によって、滅びに瀕しているのだぞ! ごほっ! ごほごほっ!」

咳き込み、手を見て愕然とした。

其処には、血が飛んでいたのだ。

これほどまでに、袁煕の体は打撃を受けていたのか。

壊滅したのは、最後の野戦軍だけではない。袁煕の体も、一緒になって打撃を受けてしまっていたのだ。

「我々が、二日間はどうにかいたします。 その間静養してくださいませ」

「……」

「今、袁煕将軍が亡くなられたら、それこそ河北はおしまいです。 貴方が、河北にとって、最後の希望なのです」

「……分かった」

肩を落とすと、袁煕は寝室に戻る。

粥や、栄養のある食事が運ばれてきた。医師が来て、診察をする。

髪の色はもう戻らないだろうと、医師は言った。ただ、目の隈や、顔の皺に関しては分からないとも。

風呂に入り、ゆっくりするようにとだけ言われる。

袁煕は、それだけでも、絶望的な疲弊を感じていた。

妻達は寄ってさえ来ない。そればかりか、状況に乗じて後宮から逃げ出した側室も何人かいるようだった。

鼠は船の沈没を予見して逃げ出すとか言う話もあるが、まさにそれだ。今は構っている暇もない。機密情報を吹き込むようなこともしなかったし、別に逃げられても痛くもかゆくもない。

それに、逃げた所で、外で夜盗か何かにあって売り飛ばされるのが関の山だ。

寝台の上でぼんやりしていると、全てに対する憎悪が沸き上がってくる。

もはや、袁煕は、肉体より前に、精神が崩壊しつつあった。

 

屋根裏で、燃え尽きた袁煕の様子をほくそ笑みながら見ていたのは林である。その手には、さっきもぎ取ってきた、袁煕の側室の生首があった。

逃げ出した袁煕の側室は、全員が死んだ。

もちろん、林が面白半分に殺したのである。一人は首をちょん切った後、最近飼い慣らしているわんこ達の餌にした。人肉を餌にしておくと、いざというときに活用しやすくて便利なのである。ただし、お肉は食べやすいようにくたくたに煮込んだ後、こだわりの味付けを持って調理し、わんこ達が思わず尻尾を振って喜ぶように林が丹誠を込めて仕上げた。可愛いわんこ達の腹にはいるのだから、それくらいは当然だ。思わず犬を育てる頂点に立つ者達が推奨してしまうほどの味にした自信はある。

他にも毒殺を試した。この毒、いつも林が体を調整するために飲んでいるものなのだが、一般人が飲むと即死することがよく分かって、とても有意義であった。後はわざと夜盗達が大勢いる所に誘導したりと、あらゆる殺しを面白おかしく楽しんだのである。

どうせ、今や袁煕の屋敷はざるも同然の警備である。

忠誠心の高い一部の兵士達を除いて、殆どの兵士達が、いつ逃げ出すかを考えている状況である。もちろん金庫には忠誠心が高い兵士が貼り付いているが、屋敷の備品までは守りきれるはずもない。

だが、そうやって逃げ出した兵士達も、林が玩具にして殺してしまうので、あまり希望は無いとも言えた。

曹操からは、幽州で殺りたい放題にしていいと言われている。

だから、本当に林は、久し振りに己の殺戮本能を前回にして、袁煕の周辺で殺りたい放題に、目に着く相手を片っ端から殺していたのである。

ただ、どうしてか。

袁煕を殺す気にはなれなかった。

昨晩髪を染めてみたり皺が出るように薬を塗りたくったりして悪戯はしたのだが、それだけである。ああ、そういえば口の中も少し切ってみた。多分咳をすると血が出るだろう。まあ、それくらいは可愛い悪戯だ。

それよりも、重要なのは、どうしてこうも隙だらけなのに、殺意が湧いてこないか、という事だ。

袁煕を見つめていると、むしろ気の毒だなと思えてしまう。

黄祖を見ていた時も、同じ感覚があった。あの不器用で、周囲との人脈を築こうとしない男は、その戦の腕だけで生き残ってきた。そして今でも、江東を毎年撃退し続け、江夏に一歩たりとも入れてはいない。

それなのに、周囲からは無能と認識され、多分歴史にも歪んだ形でしか名前を残すことが出来ないだろう。

袁煕も、それは似ている。

目立たないと言うことから父に評価されず、国のためを思って弟から実権を奪い、曹操と戦い続けたが。しかし、相手が強大すぎて、今は心身が精根尽き果ててしまっている。袁煕は林から見ても、充分に有能だ。河北の政権を回していくだけの器量は、充分に有している。

同じ時代に曹操が敵として存在しなければ。

それを思うと、袁煕を殺す気にはなれない。

屋根裏を後にすると、幽州での拠点としているあばら屋に向かう。明かりが全くない夜闇の中、人気のない街を通り過ぎた。周囲を見回しても、本当に誰一人いない。大都市ともなると、農村と違って、夜にも普通は明かりが灯るものなのだが。

元々幽州は人口が決して多くはない土地だが、この寂れ方は異常だ。殆どの家屋敷は無人化してしまっている地区さえもあり、そう言った場所は忍び込み放題であった。幽州城下の、西地区の一角に足を踏み入れる。其処にある、かって武家屋敷だったあばら屋にはいる。既に主だった部下は集結している。

さながら、幽州の闇を集めたような光景であった。

菖はここ数年で美しく成長して、男をたらし込めるようになってきている。短時間であれば、頭がおかしくなっていない演技をすることも可能だ。この辺りは、結局成長が止まっている林から見ればとても羨ましい。

劉勝はその菖をことあるごとに気にしている。まあ、鉄砲玉として使う時にでも、それを餌にすれば良いことだ。

林はいつものように、屋敷でもぎ取った袁煕の側室の首を、机の上に置く。血の臭いが辺りに漂う中、血だらけの手を舐めながら、林は言った。

「漢中の細作について、何か分かったか」

「は、林大人。 どうやら鳥丸の族長との交渉を進めるため、裏で反対派の粛清を行っている様子です。 もう一月もすれば、最悪の場合、鳥丸族の援軍およそ十万ほどが、幽州に乗り込んでくることでしょう。 しかも、族長であるトウトンに引き連れられて、です」

劉勝の返事は実に面白い。

なるほど。そうなってくると、曹操の河北制圧も、まだ後二年か三年はかかりそうだ。しかし、幽州がこのまま維持できるとは思えない。并州とともに、もう一年も持たずに陥落し、戦闘の舞台は遼西に移るように思える。

残念ながら、鳥丸族では曹操には勝てない。騎馬兵十万というと脅威にも聞こえるが、曹操の率いる軍勢は更に洗練されており、しかも戦慣れている。集団戦に習熟していない上、技術的に遅れている騎兵十万程度では、とても対抗できないだろう。

「よし、曹操様に今のことを報告せよ。 しかしそうなると、漢中の細作どもを鳥丸の地まで行って処理しなければならなくなるな」

「鳥丸の地に詳しい人間を捜すにしても、少し手間が掛かりますが」

「かまわん。 道案内だけでも出来る奴を、今の内に確保せよ」

西涼で苦労した経験はあるが、鳥丸族の土地に殴り込みにいくのは初めてだ。実に楽しそうで、わくわくしてしまう。もちろんわんこ達も連れて行く。餌は鳥丸族どもの人肉だ。馬肉も混ぜてやるとしよう。

部下達の中に一人だけ、曹操の派遣した細作がいる。

既に南部地域や中原で活動し始めている連中で、林も知っている手練れが何名か混じっている。既に組織力だけなら林のものと大して代わらない所まで育っていた。流石はこの辺り、曹操である。

小柄で矮躯な彼が、挙手した。目だけが、闇に覆われた小屋の中で、ぎらぎらと輝いている。噂では、中原で連続殺人鬼として知られた男で、曹操に飼い慣らされて細作となったという。

何か弱みでも握られているのか、曹操への忠誠は絶対的で、それだけは林も認めているところであった。

「曹操様のご指示を、忘れないように願います」

「袁煕を監視しつつ、漢中の細作どもを殲滅する。 他に何か必要か」

「曹操様が貴方に求められているのは、総括的な情報です。 誰をどれだけ殺したのかというような事は、あまり重視されていません」

つまらないことをほざくその男は、机上の生首を一瞥する。半分生きている状態で、鋸で切断してやったので、とても素晴らしいほどに苦悶の表情が残っている。林としてはまず満足できる芸術品だ。

それを此奴は喜ばない。

頭に来ることに、曹操は此奴を死なせないようにと、念を入れている。現在の曹操が本気になったら、林も流石に手に負えない。瞬く間に潰されてしまうだろう。いつの間にか曹操は、林を制御する術を学んでいたらしく、両手両足をその糸に絡め取られてしまっていた。

だから、不快だ。事故死に見せかけて、殺してしまえないのだから。

「殺しの許可を得ているとはいえ、それにかまけて仕事を台無しにしないように。 貴方が邪神を名乗る狂犬でありながら、有能であることは曹操様も把握しています。 だから、使ってくださっているのです。 貴方の主人が曹操様であることを忘れないように」

「……承知した」

頷くと、男は消える。

林は天井を向いて、大きく息を吸った。そして、ゆっくり吐く。

顔を下ろした時。

その目には、邪神窮奇を自称するに相応しい闇と殺気が宿っていた。

部下達は壁際になつくようにして、怯えきっている。劉勝や菖でも、それに代わりはない。

「ちょっとばかり、殺してくる」

「お、お気を付けて」

「なあに、訓練が出来ていない兵士を十人ばかり殺してくるだけだ。 若造ばかりだし、首を切り落とす感触も、肉を抉る手応えも楽しかろう。 危険など、欠片もない」

その夜。

林は見回りをしていた運が悪い兵士達を惨殺し。

体を切り刻んで、犬の餌にした。

 

青州に引き上げてきた曹操は、南皮の城にはいると、一息ついていた。

冀州と幽州の国境地帯も制圧した曹操は、いよいよ満を持して幽州への侵攻作戦を回するべく、兵の再編成を行っていた。だが、それは急速にとはいかなかった。

青州の復興は急速に進んでいるが、まだまだ徴兵を行うには難しい。それに対して、安定した状態になっている中原、特に?(エン)州や予州は河北から多くの流民が流れ込み始めていて、その中には兵士になりたがる者も多かった。この辺りは完全に後方安全地帯となっている事もあり、戦に疲れた民にとってはまさに目的の地とも言える場所であったのだ。

ただし、青州、幽州における死闘に次ぐ死闘で曹操軍の消耗も激しく、兵の質が著しく低下したのも事実である。熟練兵の穴は新兵で埋める他無く、前線に出ている指揮官のほぼ全員が、兵の練度を疑問視する連絡をしてきており、曹操としてもそれを無視する訳にはいかなかった。

よって、半数ほどの兵は許昌周辺に配置して訓練を繰り返し、または屯田をさせることにした。

曹操は、そんな中で、鳥丸族が袁煕の味方をするために、十万近く押し寄せるという報告を聞いた。

問題は山積している。

部屋に、許?(チョ)が入ってきた。体に一杯刺さった矢を抜いたので、体中包帯だらけである。

「おう、虎痴か。 傷は痛まぬか」

「この程度、傷とは呼べませぬ。 曹操様こそ、少し休まれては如何でしょうか」

机の上には、竹簡が山積していた。今日だけでも、まだまだ片付けなければならない書類は多い。

「これを片付けないと、まずはいかんな」

「ある程度の仕事は、荀ケどのや、他の方に任せては」

「荀ケは民政家だ。 他の将には、広域戦略を任せることが出来る奴がいない」

許?(チョ)が渋い顔をしたので、曹操は頭をかき回した。

正直すぎるこの男は、嘘をつかない。それでも、どうにかして仕事を減らすべきだと言うのである。

「分かった分かった。 曹丕を鍛えてやらねばならんからな。 少しずつ、そちらに仕事を回すことにしよう。 後は荀ケだけではなく、程cや賈?(ク)も連れてきていることだし、奴らも働かせれば良いことだ」

「その通りです」

「ところで、何をしに来たのか」

「実は、南皮の側で、良い温泉が見つかりました。 万病に効くとか言う話ですので、どうでしょうか」

温泉。そういえば、最近は滅多に足を運んでいない場所だ。

張遼や徐晃も誘って、皆で裸のつきあいというのも乙な所である。後は苦労している韓浩当たりも一緒に連れて行くか。

「ふむ、そうか。 ではそうだな、張遼、徐晃、それに于禁と韓浩辺りも連れて行くとするか」

「分かりました。 すぐに声を掛けてきます」

「朱霊には声を掛けるなよ」

「はい」

許?(チョ)は一瞬考え込むような動作をしたが、すぐに部屋を出て行った。

嘘がつけない男である。

あの様子だと、温泉は朱霊が進めてきたのかも知れなかった。

とことん不愉快な相手だが、曹操のことを思ってくれているのだから、我慢せざるを得なかった。

許?(チョ)と入れ替わりに、若い将軍の一人である郭淮が、部屋に来た。曹真と一緒である。

「如何したか」

「はい。 お人払いを」

なにやら重要な話らしい。

曹操は、内容を聞いて愕然とした。

 

温泉に出かける前に、まさか時間を作って出なければならないとは思わなかった。もちろん護衛として許?(チョ)もつれてきている。馬車の中で、曹操は執務を続けていたが、あまり気乗りはせず、筆も走らなかった。

小さなはげ山に着く。最近まで袁譚軍の残党がいたらしいのだが、この間の会戦の前後で、逃げ散ってしまったらしい。それでも一人か二人は残っていて、その残っていた人間が、連絡をしてきたのだそうだ。

理由は、もはや生活が出来ず、「養うことが出来ないから」だそうであった。

山に到着した。郭淮が先に立って歩きながら言う。

「足場が悪いので、気をつけてください」

「うむ。 許?(チョ)、狙撃や襲撃に注意しろ」

「分かりました」

許?(チョ)は大きな体で曹操を庇うように、周囲を念入りに見回している。まだ包帯は取れていないのに、堅固なことである。まるで砦と一緒に歩いているような感覚になって、曹操は嬉しかった。

山道を登り終えると、小さな廃村に出た。

そこで、みすぼらしい格好の男が、一人で抱拳礼をしていた。まだ若い男だというのに。

「此処に、いるのだな」

「はい。 もはや言葉も分からない状態です。 あまり無体にはしないでください」

応えず、曹操は奥に。

場所はすぐに分かった。廃屋の一つが檻のようになっていて、何者かが閉じこめられている。

髭が生え放題で、全裸。体中が汚物に覆われていて、目だけがぎらぎらとしていた。

排泄物も垂れ流し放題のようである。曹操は大きく歎息すると、呼びかけた。

「袁尚。 無惨な姿になったな」

猿のような奇声が帰ってくる。

袁煕が袁尚の影武者を上に据えていることは分かっていた。袁譚が、袁尚を抑えていることも。いずれも林にやらせたのだから。

しかしこの結果は。この有様は惨すぎる。

自分が遠因に関わっている以上、責任はある。曹操は目を逸らすと、かっての主君をこんな状態になっても守り続けた若い男に言った。

「忠義、ご苦労であったな」

「私は、何もしてやれていません」

「于禁。 適当に世話をする役人を回してやれ。 これでは無害だ」

「分かりました。 これを題材に、袁煕を非難しなくてもよろしいのですか」

頭を振ると、曹操は下山する。

あの若い男は、きっとこの山で一生を終えるのだろう。文字通り猿と化してしまったかっての主君とともに。或いは、袁譚の命令を守っているからなのだろうか。いずれにしても、気の毒な話であった。

「乱世を、早く終わらせなければならんな」

「今は温泉を楽しみましょう」

于禁が少し気の利いたことを言ったので、曹操は少しだけ気が晴れた。

下山すると、皆で温泉に行く。

青みが掛かった湯は多少臭かったが、気持ちよかった。徐晃が奇怪な踊りを披露し、健康体操だとか言ったので、真似してみた。真っ青になって張遼と于禁も一緒になって踊ったが、残念ながら健康になったかどうかはよく分からなかった。

湯に浸かっていると、疲れと一緒に、陰鬱な気持ちも晴れてくる。

早く河北を膝下に収め、天下統一に邁進しよう。そう曹操は思った。

 

(続)