守りたい理由

 

序、冀州の落日

 

冀州。

河北屈指の豊かな州であり、人口も農業生産力も、他の三州を圧倒している。故に袁紹が最初に狙い、そして手に入れることで飛躍することになった土地であった。

袁紹はこの土地にある?(ギョウ)を中心として、己の覇道を進めようとした。幽州の公孫賛との死闘を制した後は并州、青州も手に入れ、太守や抵抗勢力を追い出して、己の領土を盤石のものとした。冀州を中心にして作り上げられた河北の態勢は強固であり、すでに曹操軍の侵入を二年以上にわたって防いでいる。既に二年目の冬が過ぎ、春が訪れようとしていた。

冀州第二の拠点である、冀州城は、曹操軍の激しい攻撃に傷つきながらも、いまだ無事であった。当然である。この近辺には、袁煕軍に残った最後の名将、審配が直接指揮を執っていたからだ。

三度目の攻撃も効果が上がらず、馬上で曹操は舌打ちした。腕組みする曹操に、馬を寄せてくるのは張繍である。伊達男で知られる張繍なのに、兜は煤で汚れ、鎧にも矢が突き立ったままだ。

「曹操様。 被害が増える一方にございます。 一度陣を立て直した方がよろしいかと」

「うむ。 しかし審配め、野戦ではまるで脅威に感じなかったのだが、籠城戦になるとまるで水を得た魚よ」

堅城は今まで、曹操も何度となく攻めてきた。しかし今回相手にしている審配は、まるでものが違う。叩いてみるが、まるで鉄に当たったように跳ね返されてしまう印象なのだ。攻める手だてが見つからない。

また、攻城兵器類などの技術力でも、敵は味方を明らかに凌いでいる。幾つかの城を落とす過程で技術者を捕縛はしたのだが、まだまだ到底追いつくには到らない。歯車一つを取ってみても、技術に差がありすぎるのだ。今は戦術で勝っているから良いが、ちょっとしたことで大敗北につながりかねないと思うと、薄ら寒い。

ただし、曹操も、何も手を打っていない訳ではない。

現在、冀州城攻略にかかっている兵力は十一万。近辺で補充したり、青州からの流民を取り込んだりして曹操軍の規模は拡大しており、これでも充分に別の軍を派遣する余裕がある。

そして、その青州が、別の意味でも役に立っていた。

「袁譚の愚物めが、どれだけ動けるか。 見物とさせて貰うか」

曹操はそう言って、一旦距離を取らせた。冀州城は悠々と修復を始める。敵は兵糧だけではなく、士気でもまだまだ余裕がある。力攻めをすると、負けるのは此方だ。むしろ長期戦による城内の疲弊を狙った方がよい。

周辺には、落とした砦が幾つもある。その一つまで引き上げると、曹操は補給線を遮断するように指示を出し、悠々と構えることにした。

近辺で屯田を行っている韓浩のおかげで、兵糧の心配はない。逆に敵は、長期戦になると、兵員が不足し始めるだろう。なにしろ本拠地である冀州がこの有様なのだ。既に冀州の三割は、曹操の手に落ちている。冀州城を制圧すれば、それが五割になるだろう。

人口でも生産力でも袁煕の基盤となっている冀州を落とせば、曹操軍による河北の侵攻作戦は一気に進展することになる。

だから、多少の危険は承知で、推し進めなければならなかった。

砦の上まで上がってみる。小さな砦一つでも、冀州の技術力は高く、石組みはしっかりしていて、足下にも安心感があった。空が近い気がする。それだけ、組まれている城壁が高いのである。

一つの理由としては、強力な騎兵を有する北方の騎馬民族達に対応するという意味もある。それだけ、彼らの脅威は大きいのだ。今はたまたま内部分裂や他の理由で中華は脅かされてはいないが。

側には許?(チョ)が控えている。それを確認してから、曹操は独り言を言った。

「雄大な眺めよ。 早く余のものとして、平穏を呼びたいものだ」

「平穏が来ると良いのですが」

「余が生きている内にこの中華を支配することが出来れば、当分は、そうさな、二百年くらいは安心できるだろう」

だが、曹丕が跡を継いだ場合は、かなり微妙だなと、曹操は割り切り始めている。それでも、出来る限りのことはしなければならなかった。鮮卑も鳥丸も、いつまでも大人しくはしてくれないだろうから、だ。

ふと、思い出した男の事がある。色々とすれ違いの結果、ついに不倶戴天の敵となってしまった、劉備のことであった。

「劉備が余と同じくらいの地盤を持って生まれていたら、同じ結果になったかも知れぬが、世とは無常なものよの」

「劉備将軍は、確かに優れた力をお持ちのようです」

「お前にとっては、関羽の主君だからな。 思い入れも深かろう」

「曹操様も、かなりこだわっておいでのようです」

ずばり指摘されて、曹操は苦笑した。その通りだからだ。

河北の土地を劉備が手に入れていたら。きっと、曹操の寿命が尽きるまでに、劉備を倒すことは出来なかっただろう。

世間一般の評価とは裏腹に、劉備は優れた男だ。人望を集める力に関しては、恐らくは曹操以上だろう。軍才に関しても、超はつかないにしても、まず一流どころの実力は充分に持っている。

惜しいなと、曹操は思った。

そして、己が天運に恵まれていることを、空を見ながら強く感じた。

 

天運に見放されていると、袁煕は思った。冀州城を審配に任せ、自身は?(ギョウ)で全体的な指揮を執っていた袁煕の下に、伝令が飛び込んできたからだ。

血相を変えたその伝令は、執務室に飛び込んでくると、無念そうに言った。

「も、申し上げます!」

「如何したか」

「幽州城に、袁譚様の軍勢が攻め寄せました! 数、およそ二万三千!」

思わず立ち上がった袁煕は、歯がみしていた。袁譚は、確かに曹操に降伏した。だが、いくら何でも、此処まで魂を売るようなマネに出るとは、思っていなかったのだ。

今まで?(ギョウ)で募兵し、冀州城に送り込んで、審配の手で曹操を撃退させていた。確かに冀州を食い荒らされてはいたが、それで充分に戦えていたのだ。だが、幽州に袁譚が本気で攻め込んできたとなると、それも過去の話となる。

并州、幽州で必死に兵の調練を行っている高幹には、此方への増援ではなく、袁譚の撃退を命じなければならなくなる。そうすれば、兵力がただでさえ消耗している状況で、さらなる苦戦になるのは必至だ。

天を、思わず仰いでしまう。

窓の外に広がる天は、嫌みなほどに青く晴れ渡っていた。

「高幹に伝令を飛ばせ。 訓練中の兵を引き連れて、袁譚軍を防ぐのだ」

「分かりました。 直ちに」

借りが大きくなることを承知で、鳥丸族に救援を頼む必要が生じてくるかも知れない。狭い土地よりも、彼らは金品を要求してくるだろう。それも、膨大な金品を、だ。今、河北が守勢に転じていることを、鳥丸も敏感に感じ取っているはず。下手をすると、大規模な反乱を起こされる可能性もあった。

部屋を歩き回る。頼みの綱の審配は、前線で指揮を執っている。袁煕の側には、誰もいなかった。

「袁譚は、兄は何を考えているのか」

呟く。もちろん、答えなどはない。

 

袁譚は、側に郭図を従え、幽州城を見つめていた。

この城は、血塗られた運命に彩られていた。最初に仁君と湛えられた劉虞を殺して、公孫賛が奪った。劉虞はあまりにも優しすぎる男で、戦を根本的に理解していなかった。誰もが傷つくのを好まず、乱の原因となった公孫賛だけを倒して戦いを終わらせようとした。

その非現実的な理想は、歴戦で鍛えられた公孫賛に踏みにじられてしまった。美しい華が無粋な戦車に踏みにじられるような光景であったのだろうかと、袁譚は思う。当時のことを知る兵士に話を聞いても口をつぐむばかりで、教えて等くれはしない。

そして今、袁紹が奪ったこの城は、兄弟げんかの矢面に立っている。

城を囲む兵士達の士気は、著しく低い。当然の話だ。

出兵は、曹操の指示なのだから。

河北の内輪もめどころか、曹操に荷担しているも同じである。その上、曹操はこうも言ったのだ。

城は落とせなくても良いと。

つまり、戦略的な押さえとしてだけ、出兵をすることを要求されている。

袁煕の戦略では、幽州は後方安全地帯だった。それを袁譚が脅かすことで、曹操はより多くの兵を、安心して冀州に送り込むことが出来る。そして袁煕は多くの兵を、後方の守りに割かなければならないのだ。

舌打ちが漏れる。

兄弟達は、どいつもこいつも、大嫌いだった。

自分を認めてくれなかった父も、好きではなかった。

それなのに、今直線的に、父の遺産を滅茶苦茶にしようとしている自分に気付くと、袁譚は忸怩たるものを感じてしまう。馬上で、何度も袁譚は爪を噛んでいた。爪の欠片を、吐き捨てる。それには血が混じっていた。

「俺は、どうすればいいのだ」

「袁譚様、今は雌伏の時のございます」

郭図が甘い言葉を吐く。

それはかってと違い、全く心地よくなかった。

「幸い、城を無理に攻めろとは言われておりません。 此処は距離を保ったまま、包囲を続け、時々小競り合いをするだけで充分でしょう」

「そうだな。 そのように取りはからえ」

「御明断、お流石にございます。 今は兵力を温存し、後に備えましょう」

郭図が下がる。袁譚は、この行動が、袁家そのものを滅びに向かわせることを知っていた。だから、より心苦しかった。

幽州城には五千程度の敵しかいない。しかも今、袁煕の軍勢はあらかた冀州に出払っており、并州にも幽州にも、増援を出す余裕はないだろう。出せてもせいぜい五千か、六千か。

今頃、高幹が必死に兵を集めているのは間違いない。その兵は、本来は冀州を守るために繰り出される筈だった者達だ。それが、こんなくだらない小競り合いで、命を落とそうとしている。

父が凄い形相で睨んでいるような気がして、袁譚は憂鬱になった。怖いとは思わない。自分としても、父に言いたいことは山ほどあるからだ。

だが、流石に、父が築いたものを崩そうとしている事に気付いてしまうと。袁譚も、悲しみを覚えてしまう。

結局、袁譚は中途半端に善良な存在なのかも知れない。

それは、不幸なことなのだろうと、袁譚は自分自身を嘲弄した。何しろ、見本のような善人であった劉虞は、乱世でどのような末路を迎えたか。そして、奇しくも、その末路を迎えた場所は、眼前の幽州城だった。

死んでしまえば楽になるのだろうか。

そんな事を、袁譚は考え始めていた。

 

1、西涼の錦

 

あの男は、野望の塊のようだと、常に噂される将軍がいた。

未だに卓絶した勢力が現れず、混沌の中にある西涼。その一部の長である西涼太守、馬騰。その馬騰の息子である、馬超こそ、噂の主であった。

豹頭狗体と呼ばれる、しなやかな筋肉の持ち主である馬超は、馬騰軍閥の中でも若くして最強を誇る武将であり、その軍事的な才能は父以上とも言われている。その馬超が、西涼城の中を歩いてくると、誰もがはっとしてひれ伏す。姿が美しいからではない。恐ろしいからだと、馬超は知っている。

馬超はまだ若いというのに、平時でさえ全身から血の臭いにも似た殺気を放っている。戦が常日頃身近にある西涼では、殺気の意味を知らない人間など何処にもいない。女官達もそれは同じだ。

誰もが、視線の中に恐れを含ませている。

だから、馬超はもう、既にそれらに慣れていた。

今日呼ばれたのは他でもない。曹操の伝令が来たからだ。今のところ友好的な関係を保っている曹操だが、実際には非常に敏感で、非常に発火しやすいものである。いつ戦になってもおかしくはなく、曹操からの使者が来た場合、常に西涼の重要人物が集まることとなった。

名目上、西涼の太守である馬騰は。例え一軍閥に過ぎないとしても、こういう時は場を取り仕切る義務がある。

城内の奥、広間に出ると、馬超は無数の視線に晒された。好意的な視線など、ただの一つもない。

此処に集う西涼の諸将の誰もが、血で血を洗う抗争を生き残ってきた化け狸達であり、いずれもが馬超に一度ならず泡を吹かされているからだ。兵士達と違うのは、恐怖よりも、憎悪が強いことくらいだろう。

「馬超、今参りました」

「うむ。 韓遂はまだか」

「韓遂めは此処に」

馬超に遅れて、広間に入ってきたのは。血の臭いがしそうな鎧を着込んだ、大柄な老人であった。顔には凄い向かい傷があり、蓄えた髭は自信満々に反り返っている。現在、西涼で馬騰と並ぶ勢力を持つ、姦雄。裏切りと根回しの達人であり、それが故に西涼随一の知者と言われている男。韓遂であった。

時流を見る目に長けており、常に勝ち組にいるという曰く付きの男である。誰からも信頼されていないにもかかわらず魔法のように勢力を維持するために、揶揄を込めて仙人と呼ばれることもあった。

韓遂が馬騰に次ぐ第二位の席に着くと、不満げな視線が集中する。だが、面と向かって文句を言う者は、誰もいなかった。馬騰でさえ、正面から対立することは避けるほどの男なのである。

馬超が第三位の席に着く。

それと同時に、合議が始まった。

「今回の合議の議題は、二つ。 一つは知っての通り、曹操の件だ。 曹操は、以前の情報の見返りとして、并州の圧迫を要求してきている」

以前の情報。

それは鮮卑族の侵入情報である。袁煕の工作により、西涼を通って長安を攻撃しようとしている鮮卑族がいることが伝えられたのだ。もちろん西涼としては、黙って素通りを見逃す訳にはいかない。

もちろん、彼らと一緒になって、長安を攻撃するという選択肢もあった。

だが、同じように合議を行った結果、それは退けられた。

西涼は、鮮卑に対する防波堤だ。此処が鮮卑に抑えられると、漢王朝は、いや漢民族は一気に危地に陥る。もちろんしたたかで実利主義な西涼の諸侯である。そうであってもいっこうに構わないとも考えるが、しかし。今はそれによる不利益の方が大きいと、誰もが判断したのだ。それに、曹操を敵に回すと、最終的な利益につながらないと言う点では、皆が一致した。

そうして、馬超が先頭に立って、侵入をしようとした鮮卑の軍勢を蹴散らしたのである。

しかし今、并州にいる高幹を叩くという点では、誰もが難色を示すのが明らかであった。高幹は袁紹の一族達の中では、異民族対策の熟練者であり、有力者が誰で、どれほどの軍勢を率いているかというようなことを、全て把握している。鮮卑だけなら手に負えるが、鳥丸や匈奴も集められ、それを漢民族の軍事知識で組織化した場合の破壊力は想像を絶する。高幹にはそこまでの力はないだろうが、人間、追い詰められれば何をしでかすかは分からない。

馬超が不安を感じたように、他の諸侯らも乗り気ではないようであった。

最初に、馬騰が発言する。皆を先導するためだ。

「高幹の手腕は平均的だが、并州を掌握はしており、反対するような勢力もいない。 統治者としてはまず有能な男で、隙もない。 もしも曹操の言うように攻撃を仕掛けると、下手をすると手痛い打撃を受ける可能性があるぞ」

「それだけではないだろう、馬騰どの。 奴は鮮卑の顔役とも通じていて、最近は鳥丸からかなりの騎兵を雇い入れている。 当然対曹操の戦線に投入するつもりの兵力だろうが、それを此方に向けられると面倒だぞ」

「情報によると、面白いことが分かっています」

不意に挙手したのは、揚秋という男だ。諸侯の中でも知恵者と知られていて、韓遂が懐刀にしている人物である。

「実は、現在袁譚によって幽州が攻撃されています。 曹操の指示によるもののようです」

「それがどうかしたか」

「まず第一に、これは曹操にとって大規模な戦略の一環と言うことです。 碁や将棋でもそうですが、基本は連携しての一斉攻撃です。 冀州の攻略に手を焼いているという事もあるのでしょう」

つまり、下手な返答をすると、曹操の心証を著しく損ねるという訳だ。

諸侯の中に、曹操と直接あった者は馬騰しかいない。馬騰は何度か都に足を運んで、その時に曹操と顔を合わせている。皆が馬騰に注目する中、揚秋は更に言った。

「第二に、曹操が期待しているのは、我々に牽制になる事です。 何も并州の兵と、本気で交戦しろと言っている訳ではないのかと思われます」

「ふむ、曹操としては、一定期間并州の注意を引きつければ、それで良いと言うことか」

「そうなるかと思います」

「ふん、消極的な話だ。 この機会に、并州を落とすくらいのことを考えれば良いというものを」

馬超が不満をそのまま吐露したので、皆が一斉に青ざめる。

この座で、馬超を恐れ憎まない者などいない。それだけ馬超の武勇が、圧倒的だと言うことだ。

百戦百勝とまではいかないが、馬超が率いた騎馬隊に勝てる軍など、西涼には存在しない。幼いころの小競り合いで不覚を取ったことはあるが、今の馬超は若くして西涼最強の猛将だ。あの呂布と比肩するとまで言う者もいるほどで、馬超としても、強敵との戦いは望む所だと思っていた。

「馬超、これは西涼の存続に関わる話だ。 今少し、慎重に議論すべきだろう」

「そのようなお考えだから、曹操につけ込まれるのではありませんか? 今は曹操は、我らまで狩りだして冀州を攻略している状況です。 この機会に、一気に并州、幽州を併呑すれば、青州もおまけに転がり込んでくるでしょう。 そうなれば、西涼と河北から、一気に曹操を圧迫することも可能です」

「それは現実的ではありませんな」

馬超の意見を、陰湿に否定したのは韓遂だった。古株の諸侯であり、馬騰でさえ顔色を伺わなければならない韓遂の意見を、馬超が覆すのは難しかった。

「確かに馬超どのは西涼最強の猛将ですが、それでもこの中華は広い。 曹操の配下にはいにしえの名将達にも劣らぬ猛将がごろごろといるという話ではないですか。 それに、并州、幽州を如何に短期間で制圧しても、戦線が伸びきってしまう。 曹操軍に、対抗できるとは思えませんな」

「正論かと思えます」

揚秋がこざかしげに追従したので、無言で馬超は剣に手を掛けていた。蒼白になって後ずさる揚秋と、慌てて止めに入る旗本達。馬超は馬騰まで止めに入る雰囲気を感じたので、舌打ちして剣から手を離した。

ほっとした様子で、馬騰が言う。老いたなと、馬超は父のことを悲しく思った。かって、董卓がいなくなった西涼を纏め上げた豪腕は皺に覆われ、力も弱くなってきている。だから、韓遂のような姦物にもつけ込まれるのだ。

「どちらにしても、今兵力を損じるのは望ましくない。 それに、漢中のこともある」

「漢中の導師とやらの話ですか」

「奴はただの宗教指導者ではない。 今後連携していくことで、巧くすれば漢中を通って、益州を制圧することが出来る可能性もある。 今後連携を密にしていくためにも、つけ込まれないように、兵力を蓄える必要がある」

導師。不可解な奴だが、奴の作り上げた流通網で、確かに西涼は潤い始めている。兵を多く蓄えられるようにもなってきていた。

馬超も、気力だけで戦が出来ると考えるほど愚かではない。精神論を振りかざしても、出来ることなど多寡が知れているのだ。

「分かりました。 ただし、兵は私が率います」

「馬超どのが」

「そして、?(ホウ)柔、?(ホウ)徳の兄弟を貸していただきましょう」

皆が顔を見合わせた。

?(ホウ)兄弟は、西涼が誇る騎将で、ずっと馬超と戦歴を供にしている猛者である。兄は知略に優れ、弟は武勇に優れている。ただし、兄が武勇に劣っていると言うこともなく、弟の知略も頼もしい。つまり、兄弟揃って知勇兼備の猛者達である。

馬超が両翼として頼むこの二人は、最近遠ざけられがちだった。馬騰や韓遂が、馬超に力を保たせまいとして行っているのは明らかである。

だが、今回の件で、馬超はその悪しき風習を、打ち払うつもりでいた。

「よろしいですな。 この二人がいれば、牽制でも制圧でも、思いのままにやってみせましょう」

「……分かった。 良いだろう」

最初に馬騰が折れた。韓遂も、忌々しげに、良いだろうと言った。

 

馬超が西涼城を出ると、既に騎馬隊は勢揃いしていた。

何処までも乾いた平原が続く西涼は、騎馬隊を動かすのに最適な地である。馬自体を養うのは更に北の草原地帯が望ましいが、その辺りは鮮卑の領土だ。だから、鮮卑には漢の珍しいものを送り、馬と交換するのである。そしてこの近辺では、西から入ってきた巨大な寒血馬が珍しくもなく、馬超が乗っているのもそれである。

遊牧民出身者が多いこともあり、中原の騎馬隊とは、根本的に西涼の騎馬隊は質が異なる。この西涼式を巧みに取り入れた徐栄のやり方が、中原でも受け容れられていると馬超は聞いている。だが、西涼でも名をとどろかせた徐栄ならともかく、奴の後継者達の騎馬隊と、戦って負けるとは思わなかった。

騎兵達に、今度の目的地は并州だと告げる。

たかが陽動で、兵を一人でも死なせたくはない。ただし、もしも敵が仕掛けてくるようなら、徹底的に打ち破る。馬超は騎兵達の先頭に立って、まずは東に向かう。伝令を先に走らせたのは、?(ホウ)兄弟と合流するためだ。

現在馬超軍は五千ほどで、兄弟の騎馬隊と合流すると七千ほどになる。このうち騎兵は千五百。ただし、並の千五百ではない。また、歩兵達も、騎兵との連携戦闘に習熟していて、何より抜群に経験が豊富だった。

修羅の土地と言って良い場所。それが西涼なのだ。

馬超が最初に人間を殺したのは十歳の時。そして、それが珍しくもない土地こそ、西涼なのである。

中原でも流民になった民は様々に悲惨な経験をする。だが、西涼では、あらゆる住民が等しく悲惨な環境を乗り越えて生きている。だから、強いのである。

?(ホウ)兄弟の軍勢が見えてきた。痩せていて、鋭い眼光の兄、柔と。大柄で、如何にも逞しい弟、徳。二人が同時に馬を下りると、抱拳礼をした。

「お久しぶりです、馬超将軍」

「うむ、一緒に戦えて光栄だ」

「馬休将軍、馬鉄将軍は」

「今回は大した任務にはならないと言うことだからな。 戦列からは外された」

柔が舌打ちして、馬超は苦笑した。

馬騰でさえ、最近は馬超の権力を削ぎに掛かっていることは、誰もが知っていることなのだ。それだけ馬超は危険視されているのである。小首を傾げている徳に、柔が説明する。そうすると、柔は手にしている大長刀を、地面に突き刺した。顔を夜叉のように、真っ赤にしてゆがめている。

「おのれ! 父でありながら、子を信用せぬというのか!」

「落ち着け、徳。 それだけ、馬超様の武勇がずば抜けていると言うことだ」

「しかし、しかしだ。 兄者、これはあんまりではないか」

「お前が怒ることではない。 それに、この西涼が、あまりにも複雑怪奇な群雄達の集う魔境であるのも確かだ。 あらゆる汚い手を使ってでも、纏め上げようとしている父上が、苦労しているのも事実だ」

馬超がそう言うと、徳は俯いて、納得してくれたようだった。

更に、千二百ほどの騎兵が現れる。従兄弟の馬岱が率いる部隊であった。これは予想外の援軍である。

馬岱は、まだ顔に幼ささえ残しているが、優秀な武将である。馬超もそうだが、鮮卑の血を強く引いていて、馬術だけなら馬超以上に巧みであった。性格は竹を割ったように単純であり、馬超を義兄上と慕ってくれる、珍しい男である。

「あーにーうえー!」

今日も満面の笑みで、馬上で手を振っていた。

馬を寄せてきた馬岱は、ぎこちなく抱拳礼をする。戦場に出る事は多くとも、礼儀作法についてはまだまだ勉強中なのだ。

「馬岱、父上の命を受けて、ただいま参りました」

「これは心強い」

徳はそう言うが、柔は渋い顔である。多分見抜いているのだろう。馬岱が、許可など得ずに飛び出してきたことを。それを庇うことで馬超は更に周囲の心証を悪くすることを、である。

だが、実際問題、馬超以外に、馬騰の跡を継げる人間などいない。それは韓遂でさえ認めている。

更に言えば、馬超は操作できるような人間ではない。文字通りの猛獣である。

今更、人望とやらを気にしてはいられない。

馬超は、己の覇道を行く。ただ、それだけであった。

合計して八千を少し超えた部隊は、并州への境へと急ぐ。既に敵も、此方の動きを察知していると考えるのが自然だ。いつ奇襲を受けても不思議ではないから、自然と皆の口数は減り始めていた。

やがて、最前線地帯である、砦に到着した。

中原の砦と比べると規模は小さく、石や瓦を積み上げて作った城壁も低い。見張り台は高く作られているが、そのほかは殆どが馬を養い、兵士達を休ませるためだけの空間である。攻城兵器など持ち込まれたら、たちまち城壁を崩されてしまうだろう。

いつも五百程度の兵しか詰めていない小さな砦である。八千を超える兵が詰めかければ、中身はぱんぱんになる。

馬超は、敢えて派手に偵察を行うように、連れてきた隊長達に指示。それが陽動のためでもある。奇襲が目的ではない。軍勢が来ていることを、出来るだけ分かり易く敵に知らせることが目的なのだ。

「私が、ひとっ走り行ってきましょうか」

「徳、お前は駄目だ」

「兄者、何故だ」

「今回の作戦目的を理解しているか。 いいか、今回の目的は、并州の軍勢を引きつけることであって、并州を落とすことではないし、軍を破ることでもない。 だから、張り切らなくても良いのだ」

徳は不満げだ。

だが、代わりに怒ってくれたので、馬超は少し嬉しかった。

二日ほど、砦で過ごす。夜は斬るように寒いので、兵士達は寄り添って眠る。面白いのは、この近辺では遊牧民の風習も多く取り込んでいるので、だいぶ中原と違う光景が見られると言うことだ。

例えば、遊牧民達の間では、漢民族よりも女性の地位がだいぶ高い。これは儒教思想の悪い面が、漢民族内部での女性の地位を下げているためだ。兵士達の間でも、腕利きの女性が見られる。

それでいて、何も問題が起こらないのは、戦場で性行為をすることが汚れにつながるという思想で、一致しているからだ。兵営の恋というような言葉もあるが、それは非戦時の話である。

逆に言うと、戦場で天幕に異性を連れ込んでいるような将は、兵士達の信頼も失うことになる。

馬超は既に妻を娶り、子供も一人居る。

だが、性欲を自粛できるという点では、既に立派な大人だ。子供の兵士達も、その点では既に戦場での流儀を身につけている。ただし、戦場以外での行動については、自由に認められている。

戦争が始まる前後に、色町がにぎわうのは、それが故だ。

馬超自身も、自室で毛布にくるまって眠りながら、交代で威力偵察を続ける味方の指揮を執り続けた。

敵は二日目から動き始めた。

三日目の夜になると、布陣がはっきりしてきた。

 

二千七百の騎馬隊が、方陣を組んで敵を見据える。残りの歩兵達は、少し離れた所で、槍を構えて油断せず相手の動きを見ていた。

并州の軍勢二万が、押し寄せてきたのだ。

まさか、これほど大胆に敵が動くとは、予想外であった。高幹という男、噂よりもずっと短絡的なのかも知れない。或いは、戦をしばらくしていなくて、血に飢えていたのかも知れなかった。

まさか、訓練のつもりではないだろう。

「敵の兵力は此方の三倍近いですが、如何いたしますか」

「そうだな。 まずは一当てして様子を見るか」

「しかし、今回は陽動なのでは」

「向こうが無茶な動きを見せたのだから、仕方があるまい。 いずれにしても、一当てしたら、砦に戻る。 もちろん、負けてやるつもりなどない」

既に、西涼城に伝令は出してある。

出来るだけ馬騰には精確な事実を伝えたが、韓遂辺りが曲解しないかが不安だ。馬超は馬上で、入念に敵の動きを観察する。此方から、仕掛けるつもりはない。ただし、動くようなら、徹底的に叩いて、目を此方に引きつけさせる。

野戦は、西涼の軍勢にとって、十八番だ。

「敵が、動き始めました!」

「うむ」

馬超は見据える。敵は平均的な鶴翼を三重に仕立てて進んできている。簡単には突破させない構えだ。また、鳥丸族の騎馬兵も、かなりの数が参加している様子だ。鳥丸は、この中華で鮮卑と並んで活躍している騎馬民族である。当然のことながら、強い対抗意識を感じてしまう。

なぜなら、鮮卑と鳥丸では、不倶戴天の敵同士だからだ。祖父の代から争い続けている仇敵であり、今までどれだけの血を流しあったか知れない。

鳥丸は袁紹と公孫賛によって討伐され、今ではかなり勢力を減じている。鮮卑はそれに対して、中華に潜り込むことで同一化を果たしつつあり、その勢力は飛躍的に大きくなってきていた。

代理戦争として考えると、非常に面白い一戦だ。

手綱を握り混む。汗が、手綱にしみこんでいく。愛馬は嘶きもせず、ただ馬超が突撃の指示を出す瞬間を待ちかまえていた。

「引きつけよ」

「全軍そのまま!」

指示が行き渡る。これが訓練のなっていない部隊であれば、圧倒的な敵勢が押し寄せる様子に、尻込みしてしまう所だ。だが、馬超の率いているこの部隊は、百戦錬磨の、恐らく現在中華における最強の騎馬隊だ。何を恐れることがあろうか。

敵兵が徐々に速度を上げ始める。馬上で弓を構えている兵士の姿も、散見されるようになり始めていた。

馬超は、まだ動かない。敵兵の馬蹄が、凄まじい音を立てている。自身のように、平原が揺らされ、そして此処まで威容がとどろく。しかし馬超にしてみれば、張り子の虎も同然であった。

既に、馬超は敵の騎馬隊の練度を見切っていた。歩兵の練度など、もはや此方に比べるもおこがましい。

ほどなく、馬超は指揮剣を振り上げた。

「よし、かかれっ!」

全軍が一丸となって動き出す。加速すると、敵との差は歴然。蒼白になった敵の顔が見る間に接近してくる。馬超は自ら最前線に躍り出ると、降り注ぐ矢を切り払いながら、敵陣を食い破るように突入した。

ぐわんと、凄い音がしたのは、激突の瞬間だけ。

後は悲鳴だけ。

猛烈な突破を見せた馬超の部隊に対し、鳥丸族がまず戦意を喪失した。他の敵部隊も慌てて四散し、高幹の隊だけが剥き出しになる。?(ホウ)兄弟が突入し、徳が敵将を自ら討ち取ったようだった。

馬超は適当な所で追撃を切り上げさせる。

勢いと言い、まとまりと言い、袁煕が抱えている鳥丸族の騎馬隊が、練度でも戦力でも此方に及ばないことはよく分かった。これならば、次からは馬超の部隊だけで対処が可能だろう。高幹がもっと多数の敵を引き連れてくる可能性は、今の段階ではない。曹操の相手だけで手一杯だからだ。

不可思議なのは、なぜわざわざ積極的に出てきたか、という事である。それだけが、馬超には分からなかった。

「義兄上!」

「おう、馬岱。 武勲を上げたか」

馬を寄せてきた馬岱は、派手に返り血を浴びていた。三人の鳥丸兵を討ち取ったのだという。武勲を上げたのは良いことだが、返り血を浴びるようではまだまだだ。剣の名手になると、返り血など浴びずに敵を屠る。

味方の損害は百騎を超えない。それに対して、敵は千以上を失っていた。継戦能力を残してはいるが、しばらくこの辺に近寄ることはないだろう。まず大勝利と言って良い状況で、しかも今後はこの近辺に駐屯するだけで、并州の目を過剰に引きつけることが可能である。

だが、馬超の勝利は、喜ばれなかった。

馬騰から、翌日、早速厳しい叱責が届いたのである。

「陽動で良いと言ったのに、なぜ下手に敵を挑発した!」

そう竹簡には書かれていた。

馬超は、大きく歎息した。どうやら西涼には、馬超の味方は、殆どいない様子であった。?(ホウ)兄弟と、馬岱を除くと、数えるほどしかいないかも知れない。弟たちは馬超のことをあまり好いてはいないようだし、家臣達もそれは同じだ。

西涼にて名をとどろかせる馬超。その雄偉なる姿から、錦馬超と呼ばれる事もある。

しかし錦は血に染まっている。

そして、誰も恐れて近付いては来ない錦であった。

 

2、審配の意地

 

曹操軍はますます増強され、冀州に入り込んできていた。

冀州城は既に周囲の支城をことごとく落とされており、流石の審配も進退窮まる状況にあった。既に袁煕は幽州に引き上げさせ、袁譚の対処に全力を挙げさせている。冀州の民は離散を続けており、もはや兵の補充も難しい状態が続いていた。

冀州最大の都市であり、袁紹が作り上げた?(ギョウ)でさえ、既に支城の幾つかが陥落している状況である。兵力の不足が目立つ味方に対して、曹操軍は流民を片っ端から受け容れ、兵力を増強する一方である。しかも経済力も高めており、もはや河北の力を凌いでいるのは明らかであった。

冀州城には、二万。?(ギョウ)には三万五千の兵がいるが、曹操軍は十三万を超える兵を周囲に展開しており、しかも既に冀州城と?(ギョウ)の間は寸断されつつある。このままだと二万を無為に戦死させることになる。それを分かった上で、曹操は敢えて支城の幾つかを残しているのだった。

冀州城の城壁の上を歩き回り、今日も審配は敵の配置を確認する。曹操軍の楽進はまるで隙がない男で、確実に此方を圧迫してくる。流石に精鋭で知られる曹操軍の、しかも先鋒を常に務める男だ。

今日も、乗じるべき隙は一切無かった。

そろそろ、決断するべき時だと、審配は考える。もはや冀州城を維持するのは、不可能に等しかった。

甥の審栄が城壁の上に上がってくる。気弱な男で、審配の無能な親族達の一人だ。

「叔父上。 今日も、敵を撃退する策は出来ませぬか」

「たわけが。 曹操軍の兵力を見て、どうして撃退できると思う。 奴らを撃退できるとしたら、曹操の背後で何か問題が起こった時くらいだろう」

その可能性は極めて低いから、曹操は自身が河北に出てきているのだ。

曹操自身が今どこにいるのかは分からないが、いずれにしても、冀州にいるのは間違いない。不安そうにしている審栄を一瞥すると、審配は言った。

「明日、冀州城からの脱出作戦を開始する」

「脱出すると言っても、何処へ行くのですか」

「?(ギョウ)だ。 厳しい戦いになるが、もはや他に方法がない」

問題は城下の民をどうするか、だ。これは連れて行く訳にも行かないので、難しい判断を迫られる所だ。

審配としては、誰か信頼できる将を一人残し、民ごと降伏させるつもりだ。もとより曹操軍は士気が高く、降伏した城の民を害するようなことはしない。審配がいないのであれば、なおさらだろう。かっては逆らった城の民草を皆殺しにするような暴君も存在はしていた。楚の項羽などが典型例だ。しかし、現在では、そのようなことをすれば、民も兵士も心を離れさせてしまう。

妙な話ではあるが、其処は曹操を信頼して、民を任せる他無かった。

しかし、兵士だけのことを考えるのもおかしい。審配は部下達を集めると、皆の顔を見回しながら言う。

「現在、この冀州城に備蓄されている兵糧と金品はどれだけある」

「はっ。 兵糧が五十七万石、金銭がほぼ同量にございます」

「よし、それを全てまだ城で頑張ってくれている民に配ってしまえ」

これで、退路を断つと同時に、体を軽くする。

若い将の一人の肩を叩く。彼は何を命じられるか悟って、涙を流し始めていた。

「まだお前は結婚もしていなかったな。 すまぬが、この城に残り、曹操軍に降伏して欲しい」

「審配将軍! 是非私も、連れて行っていただきたい!」

「ならん! ここから先は、私や、袁紹様に仕えた者達の、意地が多く含まれてくる戦いだ。 他にも、まだ若い兵士達は全員置いていく。 皆を纏めて、河北の恥とならぬように、堂々と降伏してくれ。 お前なら、私の顔に泥を塗らずに堂々たる降伏をしてくれると、信じているぞ」

若い将はついに泣き出した。他の将達も、もらい泣きをしている者が少なくない。

長い籠城戦で傷ついた冀州城は放棄。これから、?(ギョウ)へと撤退する。各地の支城に配っている兵力も同時に回収。追撃戦で失う戦力のことも考えると、?(ギョウ)には主力である五万程度が籠もることが出来るだろう。蓄積している兵糧を考えれば、それでも数年は持ちこたえられる。

後は、如何に曹操軍の隙を突くか、だった。

 

曹操は楽進の報告を受けて、慌てて前線に出てきた。冀州城の様子が、確かにおかしい。

審配が直接指揮を執っていた冀州城は、度重なる波状攻撃にびくともせず、まるで鉄壁だった。戦上手の楽進が、手に負えないとぼやいていたほどである。それなのに、なぜ急に撤退したのか。

確かに戦略的に追い詰めてはいた。しかし、曹操としては、もう少し粘るかと思っていたのである。

殆ど人気がない様子で、城壁の上も静かだ。訝しむ曹操の前で、城門が開く。許?(チョ)がぼんやりしているのを見て、曹操は危険がないことを確認した。腰の袋に入れている、今度こそ効くに違いないと思っている背が伸びる薬を口にしながら(なんと、焼いた点心の形態を取る薬である。 普通に美味しいので、曹操はここのところ常に持ち歩いているのだった)、曹操は様子を見守る。

現れたのは、若い将軍一人だった。

曹操を見ると、無念そうに歯を食いしばりながらも、丸腰で歩み寄ってくる。兵士達が殺気立ち、槍を向ける中、若い男は叫ぶように言った。

「冀州城、降伏いたします!」

「楽進。 特務部隊を中に突入させよ。 本当に降伏したのか確認するのだ。 武装解除も行わせよ」

「御意」

言葉短く楽進が応えた。

楽進麾下の精鋭が、城に突入していく。曹操は馬上で薬を頬張りながら様子を見ていた。許?(チョ)が、声を掛けてくる。

「美味しそうな点心ですな」

「うむ。 お前も食べるか、虎痴よ」

「いただきましょう」

この点心は、小麦の粉に砂糖を混ぜて、焼いて作ってある。香ばしい上に歯ごたえが良く、かりかりしていてやみつきになる。背が伸びるという話だが、そういえばそれは最近娶った若い側室が抜かしているのだった。故郷に伝わる薬だとか。

効くかどうかは分からないが、今まで星の数ほども背が伸びる方法を試してきた曹操だ。今更、ダメ元である。食べた後は歯を磨くようにも言われているので、必ずそうしていた。実際、甘くて美味しいので、体力回復にはもってこいだった。頭も冴える。背が伸びているかはよく分からなかったが。

「なるほど、これは美味しいですな」

「食べた後は歯を磨けよ」

「分かりました」

「曹操様! 敵の降伏を確認いたしました!」

楽進隊の将校が戻ってくる。曹操は頷くと、まずは張繍と楽進の部隊を入れて、火計の類がないか念入りに確認させた。丸一日かけて調べさせる。その間、張遼と徐晃の部隊を周囲に派遣させ、敵がおかしな動きをしていないか、しっかり確認もさせた。

敵が、冀州城そのものを撒き餌にして、味方を誘い込もうとしている可能性はない。張遼も徐晃も、翌日にはそう報告してきていた。それで曹操は、やっと冀州城に入城する。先に入っていた楽進が、冀州城の執務室で曹操を出迎えた。まるで新品同然に、磨き上げられている。

「おう。 これは快適なことだ」

「審配の指示であったようです。 恥にならぬように、堂々と降伏せよと」

「審配という男、個人的な蓄財癖があり、権力闘争にも熱心であったとか聞いているが、防御戦の将としてはまことに天晴れな男よ。 敵にしておくのがもったいないわ」

城の金庫を調べていた将が戻ってくる。蒼白になっていた。

曹操は、その結果に、大体予想が付いていた。

「も、申し上げます。 金庫が空となっています。 兵糧庫も同じです」

「おおかた、我が軍に渡さないように、民に配ってしまったのだろう。 面白い男よ」

「如何いたしますか。 民から回収いたしますか」

「捨て置け。 審配の見事な籠城戦につきあい、逃げ出しもせずに最後まで頑張った民草だ。 余もそのような誇り高い者達から、略奪者の汚名は着たくないからな」

曹操は、大いに笑い、剛腹な所を見せた。しかしながら曹操は、同時に現実主義者でもあった。

城には張繍だけを残すと、他の将を率いて冀州城を出る。周囲の支城は、敵が放棄した後で占拠させている。残る冀州の最大拠点は、?(ギョウ)のみ。この勢いを利して、一気に落とさなければいけなかった。

 

?(ギョウ)に撤退を終えた審配は、ようやく一息ついていた。

曹操軍が気付く前に、さっさと撤退した。成功するかは微妙だったが、どうにか上手く行った。金だの兵糧だのを運んでいたら、まず間違いなく気付かれ、追いつかれていただろう。

とりあえず、これで?(ギョウ)に駐屯している兵力は、五万を超えた。五千ほどは支城に配り直し、更に余った分は幽州へ送った。

兵糧については、数年籠城できる分が充分備わっている。

曹操軍を食い止めて、その間に他の問題を片付けていく他無い。袁煕が、それをしっかり成し遂げてくれると、審配は信じていた。

?(ギョウ)は二重構造を採用している強固な都で、分厚い城壁は河北最強である。冀州城も高い防御能力を備えていたが、?(ギョウ)のそれは段違いだ。しかも民の数も多く、城内だけで二十五万を超えている。

文字通り河北の中心として栄えてきた都なのだ。規模は許昌以上である。

城壁の上を回り、周囲の状況をくまなく確認する。部下達から受けていた報告以上に、粗が幾つか見つかった。すぐに工兵を手配して修理をさせながら、審配は腕組みする。曹操がどう出てくるか、考えていたのだ。

曹操は野戦の名手であり、激しい戦闘を繰り広げる。自身が最前線に出てくることも珍しくない。だがしかし、城攻めに関しては打って変わって慎重な用兵を行う。これは、城攻めに自信がないことが原因だろうと、審配は分析していた。

それならば、城攻めに曹操自身を引きずり出せば、倒せるかも知れない。

城壁の上から、地平線の異変に気付く。どうやら曹操は、すぐさま追撃を仕掛けてきたらしい。少し城にはいるのが遅れたら、大変なことになっていた。

周囲を走り回る兵士達。審配は落ち着いた声で、指示を飛ばした。

「すぐに攻めてくることはないだろう。 此方も準備を整えよ」

「分かりました」

「叔父上、夜襲を仕掛けてはどうでしょうか」

「引きずり込んだ敵を、疲弊させた所でたたくという訳か」

審栄にしてはまともな作戦である。軍事学の基礎にもかなっている。

だが、それが故に却下する。

「駄目だな。 夜襲はしない」

「なぜですか、叔父上!」

「お前が考えつくことを、曹操が考えつかないとでも思っているのか。 夜襲に出たら最後、網に掛かった小鳥も同然に打ち砕かれるのが落ちだ」

実際、曹操はそうやって何度か夜襲を撃退した実績がある。あれだけの急速な侵攻を仕掛けてきたのには、当然勝てるという裏付けがあるはずだ。

今、審配がするべきは、出来るだけ兵力を温存しながら、曹操軍の侵攻を遅らせること。青州の袁譚をどうにか出来れば、まだまだ幽州からは援軍を送り込むことが出来るのだ。その戦略から考えると、夜襲で多少の戦果を誇るのは愚策。やるとしたら、数年ほど曹操を引きずり回して、疲弊させた後だ。

不満そうに黙り込んだ審栄。

そもそもこの甥には、人脈以外の全てが不足している。今回はようやく平均点の提案が出来たが、それでは困るのだ。

曹操軍は満ち潮のように現れて、?(ギョウ)の周辺を囲み始めた。支城の幾つかと連携しながら、これから激しい戦いをしていくことになる。?(ギョウ)の民に関しては、逃がしている暇がない。

此方の兵力は五万。曹操軍は十二万から十二万五千という所だろう。

充分以上に、良い勝負が出来るはずだった。

 

翌日から、曹操軍の攻撃が開始された。ゆっくり休んで英気を養った曹操軍は、後方より攻城兵器を輸送しながら、まず小手調べの攻撃を仕掛けてきたことになる。

無数に飛来する弩の矢が、唸りを上げて城壁の上に揃う兵士達に襲いかかる。城壁に突き刺さる矢、跳ね返される矢、億を超える蝗の飛来音のようであった。

敵はまず騎兵による斉射から開始したことになる。もちろん火矢も混ぜ込んでいる。城の側を高速で起動しながら矢を叩き込んでくる騎兵の指揮官は、もちろん楽進だ。審配は城壁にもたれて伏せたまま、兵士達に息を殺すように指示をしていた。

城内は火矢の処理に大わらわだ。若者を狩りだして、皆を火矢の処理に当たらせている。水は幸いたっぷりある。負傷者が増えていくが、死者は抑えることが出来ていた。

楽進の騎馬隊が離れていく。

代わりに、張遼の騎馬隊が出てきた。矢を撃ち込んでくる勢いは、さっき以上だ。審配は兵士達に、落ち着くように声を掛けて回った。矢の備蓄も無限ではないのである。ましてや火矢はかなりの物資を消耗する武具である。そういつまでも放てる代物ではない。

夕刻まで耐える。

途端に、攻撃がぴたりと止んだ。

曹操軍は夜になると、補給をすることに専念しだした。部隊を三つに分けて、交代させながら休息している。

夜襲をまた審栄が提案してきたが、却下。これは非常に効率的に休憩を取っていることからして、長期戦の構えだ。もちろん、夜襲に対してもほぼ万全と言って良いほどに備えている。?(ギョウ)を落とすために、どれだけの物資をつぎ込むことも厭わないと言うことなのだろう。

曹操は全力で審配に挑んできている。

そう思うと、ぞくぞくした。武者震いである。

審配も、この時代に生きる武将だ。曹操が本気で挑んできていると言うことがどういう意味を持つか、良く理解している。そして、それに勝てば、後の歴史を支配する存在になると言うことも。

心地よい興奮が、審配の全身を満たしていた。

翌日から、審配は痛烈な反撃を開始した。

 

楽進が気がつくと、突如目の前が火の海と化していた。

騎馬隊での一撃離脱攻撃を仕掛けようとした瞬間である。矢をつがえようとした手を、慌てて手綱に伸ばす。先頭の数騎はもろに炎に突っ込み、残りも竿立ちになって、落馬しそうになる兵が相次いだ。

動きを、先読みされたのだと、気付く。

即座に膨大な矢が降り注いできた。鍛え上げてきた楽進の騎馬隊が、ばたばたと打ち倒される。

楽進は即座に矢を打ち返し、城壁の上から敵兵が落ちてきた。だが、楽進一人が如何に頑張っても詮無きこと。すぐに味方が支援を始めるが、その時には、騎馬隊の被害は一割近くにまで達していた。

「いかん、引け! 引けッ!」

常に先鋒を務めてきた楽進だ。負けを何度も経験したことはある。

馬首を返して手本を示すと、味方もそれに従った。当然敵も、簡単に逃がしてはくれない。頭を抑えられた騎馬隊は途轍もなく脆いと、楽進は自ら証明してしまった。どうにか引き上げて来た時には、兵の一割五分を失い、同数を負傷させていた。

被害を確認している楽進の下へ、曹操が馬を進めてくる。

「見事にやられたな、楽進」

「は。 言い訳できませぬ」

「いや、そなたが駄目なら、張遼でも徐晃でも同じであっただろう。 審配め、どうして手強いのか、今日ようやく分かったわ」

楽進にも分かった。

審配は、恐ろしくすぐれた先読みの力を手にしているのだ。

超常的な力ではない。長年の戦場経験が培った、理論的なものであろう。ただ、その記憶があまりにも圧倒的なので、誰にも追従の余地がないというだけだ。

河北に残った最後の名将とは、良く言ったものである。

幸い、既に冀州城攻略戦で使用した攻城兵器の部隊も、此方に向かっている。もちろん専門家を引き連れて、だ。曹操は楽進が育て上げた騎兵の様子を見終えると、静かに言った。

「明日からは歩兵で攻める。 騎兵では被害を増やす一方だ」

「分かりました。 歩兵を主体に、前線に出ます」

「頼むぞ。 一筋縄ではいかない相手だ。 お前には無用かも知れぬが、くれぐれも油断だけはするな」

頷くと、楽進は一万ほどの歩兵部隊の指揮を任された。

任された後で、無事だった騎兵部隊を連れ、矢の射程範囲外から、城を見て回る。そうすると、今日の攻防の間に、地形がかなり変わっていた。

城内から、邪魔な岩や木材などを、投石機で出してきたらしい。非常に多くのゴミや岩が、城外に積み上がっていた。

一見すると歩兵が身を隠すのに良さそうだが、積まれているのは城門の近辺が中心である。これはつまり、攻城兵器を通すのに、人力での障害排除が必要になってくると言うことだ。

また、先に手を打たれたことになる。

「これは、一筋縄ではいかんぞ」

「はい。 恐ろしい相手です」

「今まで、野戦の名手とは何度も戦ってきた。 戦略上の強敵とも刃を交えてきた。 だが審配は、戦術の名手だ。 これまでにない、緊張を戦闘で強いられる。 そなたらも、覚悟をしておけ」

それにしても、と楽進は思った。

袁煕の一体何に、此処までの信念を支える鍵があるのだろう。

袁煕は確かに平均よりは優れた君主で、曹操とある程度は渡り合うほどの力を持っている。

だが、袁煕など。若いころから曹操に仕え、背丈を異様に気にする悪癖はありながらも、他はほぼ全てが完璧な主君を見てきている楽進からすれば。まるで子供に等しい存在に過ぎない。

審配は乱世に生きてきた将の筈だ。現実主義者である事は疑いない。信念よりもまず先に現実。理想を掲げている劉備でさえそうなのだろうと、楽進は確信している。それならば、なぜ審配は、これほどの手腕を袁煕ごときの下で振るっているのか。

ひょっとすると、其処に乗じるべき隙があるのかも知れなかった。

一旦陣地に引き上げた後、配属されてきた歩兵の将校達を集める。皆、熟練した手腕を持つ猛者達だ。

今日見てきたことを告げると、彼らの顔は引き締まる。

楽進は、出来るだけ彼らを死なせたくはないと思った。

「まず、城攻めに当たって、意見を聞きたい」

「被害が増えるのを承知で、まずは敵の造り出した障害を排除するしかないかと思います」

挙手した若い将がそう言った。郭淮と呼ばれる男で、河北からの降将だ。なぜ河北が手放したのかよく分からない有能な男で、骨張った目の大きい顔が印象に残る。

他にも何名かの将校が、その意見を支持した。楽進は腕組みすると、支援部隊と、瓦礫の撤去部隊を分ける。

「味方は火矢で支援しながら、瓦礫をどける。 それから投石機を使うか、衝車を突っ込ませるか、どちらかだが」

「いやな予感がします」

そういって挙手したのは、曹真。

曹操の従兄弟に当たる若武者で、歩兵の将校を努めていることが多い。曹操の一族にはあまり優れた人間がいないが、曹真だけは有能である。曹操も目をかけていて、主要な武将の下に付けて修行をさせ続けていた。

「いやな予感とは」

「審配は、此方の動きを先読みして行動していました。 今回も、何かしらの先手を打つ行動に出るのではないでしょうか。 更にその先を行くことで、被害を減らすことが出来そうなのですが」

「しかし、その先読みしている行動が分からぬ」

程cと賈?(ク)を連れてきて貰うが、二人とももう少し戦場を見たいと言った。敵は巨大都市を内包する?(ギョウ)だ。物資は内部生産が可能で、しかも外から黄河の支流を使い、運ぶことも出来る。

徐晃が来た。四万ほどの兵と供に、攻勢を支援する。

二人で様々に話し合いをする。だが、結局、結論は出なかった。

だが、早朝。五万の兵を揃えて南門に布陣した楽進は。その恐るべき手を知ることになった。

 

楽進は朝霧の中、眉をひそめていた。

妙な臭いがするのだ。

それに、積み上げられている瓦礫や岩が、朝露と言うには妙に濡れすぎている。

兵士達が、早速盾を構え、瓦礫に駆け寄る。後ろには衝車と投石機が控えていて、いつでも出られるようにしている態勢だ。

臭いの正体が分からない。何か、嗅ぎ慣れたような気がするのだが。

やがて、全身が総毛立つ。

何の臭いか、思い出したからだ。

「全軍、下がれ、下がれーっ!」

閃光が、視界を覆い隠す。楽進は思わず地面に身を投げ出し、一瞬後、己の愛馬が首を無くして転がっているのに気付いていた。

この臭いは、硫黄に硝石。

爆発的な燃焼を引き起こす時に使う薬品だ。

頭を振りながら立ち上がる。目の前は火の海だった。瓦礫を退けに掛かっていた兵士達は全滅だ。木っ端微塵に吹き飛んでしまった。歯ぎしりするが、今更そうしても遅い。

さっきの臭いは、最初には感じなかったものだ。夜の内に、用意していたと言うことだろう。此方がまず瓦礫をどけに掛かることを予想し、先に手を打っていたのだ。今更分かっても仕方がない。

「曹真は!」

「何とか無事です」

よろけながら立ち上がる若者の額には、だが大きな傷が残ってしまっていた。

被害は、ざっと数千に達している。そして、敵はこの機会を、見逃さなかった。

城の門が開く。審配麾下の精鋭部隊が、突入してくる。楽進は立ち上がると、声をからして叫んだ。

「集まれ! 散るな!」

徐晃の部隊は。見回すと、異常に気付いて、此方に近付いてきていた。これならば、何とかなる。

剣を抜いて立ち上がる。親衛隊の内、無事だった連中が集まってきた。

河北の兵が、槍を揃えて突きかかってくる。楽進は真っ赤な己の鎧に飛んできた血と煤を払いながら、前に出た。

「全員、私と供に、此処で死ね!」

「殺っ!」

部下達が唱和する中、楽進は前に出る。此処で持ちこたえれば、負傷兵達を充分に救出することが可能だ。突きかかってきた敵兵と、もみ合いになる。炎の中見えたのは恐らく審配だ。楽進の中で、戦意が炎となって燃え上がった。

前に出る。炎に向けて進む。

敵は顔に恐怖さえ湛えた。全く気にせず進んでくる楽進が、鬼神にでも見えたのかも知れない。審配だけは冷静だが、敵の兵士達は逃げ腰になる。そうこうする内に、徐晃が兵を揃えて突入してきた。

審配が指揮杖を振り、さっと城の中に引っ込む。

楽進は立ちつくしたまま、気付く。左の耳が、聞こえない。

「楽進どの!」

「大丈夫だ。 それよりも、負傷者を早く救出しろ。 私としたことが、このような」

よりにもよって、二度にわたって敵に機先を制されるとは。

もちろん、こんな派手な戦術を何度も仕える訳がない。備蓄している物資も、相当量を消費したはずだ。

歯ぎしりしつつ、楽進は後退の指揮を執る。被害は、実に二割を超えていた。

このままではすまさん。数々の戦を勝利に飾ってきた楽進の誇りが、何度も同じ失敗をしないと、誓いを立てさせていた。

 

腕組みして敵の様子を見ていた審配は、やはりそう簡単にはいかないことを悟った。帯を締め直す。

もしも士気が低い軍であれば、あのままなし崩しに叩きつぶすことが出来た。だが楽進は一瞬で兵の二割を失いながらも態勢を立て直し、味方の到着まで凌いで見せたばかりか、微速で前進さえして見せた。

その凄まじい有様に、兵士達は完全に恐怖していた。

もしも楽進の軍勢を打ち崩すとしたら、もっと大規模な戦術が必要だ。だが、このような目くらまし、そう何度も通用しはしないだろう。

伝令が来た。何か起こったか。

「審配将軍。 袁煕様より連絡にございます」

「何かあったか」

「并州で、西涼の軍勢に、高幹将軍が敗れました。 引き続き二万の敵軍が国境に駐屯しており、并州からの援軍は、あまり期待できそうにありません」

「幽州は」

幽州に関しては、どうにか五分の戦況だという。つまり、当分援軍の到来はないと言うことだ。

頭を振ると、審配は頭を切り換える。すぐには結果が出なくとも、いずれ袁煕は結果を出してくれる。

幼いころから、袁煕は目立たない少年だった。兄や弟が派手な性格をしていたからか、袁煕は陰に隠れて、吹けば飛ぶような存在感しかなかった。だが、教育係だった審配は知っていた。

兄や弟よりも、ずっと袁煕の方が、高い潜在力を秘めていることを。

やがて袁家の権力闘争は加速し、袁煕は審配に相談してきた。相談を受けた審配は、一計を案じた。

袁尚に従う振りをしていればよい。いずれ襤褸を出す。其処を乗っ取るのだ。

その通りに袁煕は実行し、上手く行った。

問題は、曹操の実力が、審配の想像をも超えていたことだ。味方の態勢が整う前に陰謀を駆使され、袁譚を切り離された。そして今、河北は、中華の北半分全てから猛攻を浴びているような状況だ。

だが、それでも。

袁煕なら何とか出来る。

そう信じているから、審配は死力を尽くす。?(ギョウ)を守り抜くことで、審配は、己の子だとも思っている袁煕を、栄光の座へ付けるのだ。腐りきった審家の栄光など、どうでもいい。

己を慕い、生き甲斐をくれた袁煕の未来。

それだけが、審配の欲しいものであった。

「敵軍の様子は」

「損害を補填しながら、軍を再編成しています。 支城への攻撃が、散発的に続いている状況です」

「罠だな。 曹操軍の様子を更によく調べろ」

曹操の性格から言って、多少の被害程度で、後手に回るはずがない。

ならば打ってくる手を次々潰していけば、いずれ隙が見える。ただ、その隙が、審配にはあまりにも遠く感じられる。

翌日から、曹操軍の各所に、土盛りが見え始めた。後方に運ばれていく荷駄の中にも、明らかに重量が過剰なものが見え始めている。

手が読めた。

曹操軍は、袁紹が易京を落とす時に使った手を、そのまま使ってくるつもりだ。しかしあの手は、読まれてしまえば意味がない。曹操は念入りに隠してはいたが、残念ながらあの作戦の陣頭指揮を執ったのは審配なのだ。弱点も知り尽くしている。

審配は城壁の内側に堀を掘らせ、其処に水を引き込ませた。

翌日。水が一気に引き、その後少し前を置いて、敵の溺死体が、大量に浮かんできた。審配はほくそ笑む。

しかし、曹操軍の攻勢は、まだまだ止む気配を見せない。

曹操が直接部隊を率いて攻撃を開始したのは、その翌日から。全部の門に対して、間断無い猛攻が加えられ、攻城兵器も交えた圧倒的な軍勢が押し寄せる。

唇をなめ回すと、審配は獅子王の挑戦を受けて立つ。

野戦の達人と、防御戦の名手が、此処に全力で激突した。

 

3、古都の闇で

 

前衛が下がる。被害が予想を超えて大きい。曹操は苛立ちながら、次の攻撃に備えていた部隊を、分厚く、背丈の五倍ほども高さがある城壁にけしかけさせる。

審配に小手先の戦術は無駄だとよく分かった。だから、力でねじ伏せに掛かる。?(ギョウ)に籠もるは五万、味方は十三万という所だが、兵の質を加味すれば落とすのは決して難しくない。

そう思っていたのだが。審配の防御はまさに鉄壁。

敵が他の将であれば、とうに?(ギョウ)は陥落していたこと、間違いなかった。

「敵の疲弊を誘え! あらゆる箇所から連続して攻め立てよ!」

曹操が叫ぶ。城壁の周囲には、焼け落ちた攻城兵器の残骸が山となっている。

この城を落とせば、冀州は曹操の手に落ちる。そうすれば、曹操の力は更に強大になる。もう一つ、審配を捕らえるか殺せば、袁煕の両腕はもがれたも同然だ。此処が、勝負所なのだ。

城に梯子を運んでいた兵士達に、敵からの矢が降り注ぐ。審配の指示は的確を極めており、攻城兵器は近付くことさえ出来なかった。火だるまになった梯子を放棄して逃げ散る兵士達の背中にも、容赦なく矢が降り注いだ。

投石機が唸り、敵に油壺を浴びせる。一瞬後に城壁が火の海になり、敵がばらばらと墜ちてくる。

敵にも多大な被害を強いてはいる。だが、味方の被害の方が大きく、曹操は歯がみしていた。

「このままでは、城が落ちたころには、我が軍も壊滅してしまうわ」

「まこと、堅固な要塞にて」

「こんな要塞など、本来はものの数ではない。 手強いのは審配よ」

程cに応えると、曹操は賈?(ク)がいる左翼を見た。曹丕が指揮を執っている左翼は、良く動いていて、間断無い攻撃を敵に加え続けている。支城の方はどうなっているのか。腕組みしていた曹操の所に、やっと吉報が来た。

「ご注進にございます!」

「うむ」

「東にあった出城を制圧いたしました! 朱霊将軍が守備についております!」

朱霊はどういうわけか、曹操が毛嫌いしている男である。何というか、生理的に好かないのだ。ただし有能な男であり、曹操はそれだけを評価して使っていた。酒の席などでは、絶対に目を合わせなかったが。

少しずつ、敵の継戦能力を削ぐべく、出城への攻撃が進んでいる。残す出城はあと二つ。うち一人は、落とせば幽州との連絡を絶つことが出来る。だが此処には五千の兵が詰めており、攻めている韓浩も苦労している様子であった。

また、敵の投石機が唸り、味方の投石機が一台潰される。炎の柱になった投石機からばらばらと逃げ散る味方の醜態は、曹操をして鼻白ませるに充分であった。

「おのれ、こうも被害が多くてはたまらぬ」

「此処は我慢のしどころにございます」

「分かっておる! しかし何というか、不愉快な話だ!」

曹操は馬上で、焼き菓子をほおばった。

最近気付いたのだが、この焼き菓子、背が伸びるかはともかくとして曹操の好みに実にあっている。そのため、苛々した時は食べるととても落ち着くのである。家臣達もそれを感じ取っており、専属の料理人を用意して、様々な味付けの焼き菓子を用意させている有様だ。

まあ、曹操としては悪くない。実際美味しいし、食べても太らない体質だからだ。

「うむ、落ち着いてきた!」

「曹操様、俺にも一つ」

「おお、虎痴か。 美味いぞ、一つと言わずたんと食え」

「いただきます」

許?(チョ)が巨大な手を伸ばして、曹操の愛馬の鞍に結びつけられた焼き菓子の袋をむんずと掴む。次の瞬間には、拳大の袋に入っていた焼き菓子が、全て許?(チョ)の口の中に消えていた。ばりばり音を立てて食べる許?(チョ)を見て、曹操はとても和んだ。

「うむ、見事な喰いっぷりよ。 鴻門の会の樊?(カイ)を思わせる」

「俺は、生肉を食べるのは苦手です。 食べるのなら、直前に仕留めた奴にしないと危ないです」

「わはははは、もののたとえだ」

乾いた笑い声を周囲の部下達が上げた。

心機一転した所で、曹操は城壁を見つめた。少し、別の手を試してみるのも良いかも知れない。

程cに振り返ると、曹操は悪辣な陰謀を口に出した。

「辛評は来ているな」

「はい。 連れてきております」

袁譚の股肱であった辛評は、青州が降伏した際に、人質として曹操の所に来た。といっても呆れ果てた事に、曹操にすぐに媚びを売って従う様子を見せたので、青州の情報を引き出す代わりに側に置いてやっている。

此奴を、上手に使う。

辛評はすぐに来た。曹操に対して、痴態を尽くして媚びを売る様子に、許?(チョ)が不快感を見せる。

「曹操様、辛評めにございまする」

「おう、来たか。 そなた、審配の家族の審栄とは知り合いであったな」

「はい、良く知っております」

「ならば、奴を裏切らせる手だてを考えよ」

おろおろと周囲を見回す辛評。許?(チョ)が苛立って剣を抜こうとしたが、曹操は右手を挙げて止めた。

「もとよりそなたのような小人を、余は好んでおらぬ。 だが、もしもこの策を上手くいかせることが出来たら、弟もろとも引き立ててやることを、考えてやらぬでもない」

「わ、分かりました。 直ちに」

こそこそと、辛評が陣の奥に引っ込んでいく。

以前逢紀と対立した時には強硬な意見と態度で軍の秩序を乱しに乱したという札付きの男だが、さっきの態度と来たら、まるで腐った宦官だ。強い者にはとことん弱い男なのであろう。反吐が出る小物だ。

祖父が宦官であった曹操は、未だにこの手の人物には生理的な嫌悪感を感じてしまう。祖父はそれなりに立派な人物だったが、それが故に、腐敗宦官はもっとも曹操が嫌う相手であった。

やがて、辛評が弟を連れてきた。

此方は非常に優秀な男で、文官としてはまず一級と言って良い手腕を持っており、充分な業績を上げていることも確認している。辛?(ピ)という弟は、曹操に対して恭しくあたまを下げた。

「審栄将軍を裏切らせろと言うことですが、それでよろしいでしょうか」

「うむ」

「実は、審栄将軍は、審配将軍と上手く行っておりません。 元々審家には審配将軍くらいしか人材がおらず、彼は無能な家族を軽蔑しきっています。 審栄将軍は誇りばかり高い男で、それを疎んでいます」

立て板に水を流すような説明である。元々兄とは違って冷遇されており、人質にされる際も嫌々ながらだったと言うが、それだけでも袁譚の見る目がないことがよく分かる。権力志向の兄とは違い、単純に能力が高い弟だ。曹操は大きく頷くと、兄を追い払い、弟の話だけを聞くことにした。

 

審配は曹操軍の動きを見ながら、殆ど不眠不休で指揮に当たっていた。数日前から、血尿が出るようになってきている。目の下にも、大きな隈ができていた。曹操軍に大きな被害を与え続ける心労は尋常ではなく、身体へも大きな負担が来ていたのだ。

もちろん。兵士達の士気も、振るわない。

まず袁煕からの援軍が来ない事が大きい。まだ幽州での戦況が安定していないのが、その理由だ。袁譚も自分が利用されていることは分かっているのだろうに、積極的に河北の破滅になることばかりしている。ただ、袁煕よりだいぶ戦が上手な袁譚を撃退できないにしても五分の戦いをしているのだから、袁煕を責める訳にもいかなかった。

補給に関しても、少しずつ厳しくなり続けている。兵糧は大丈夫だが、矢や油等が減り始めていた。生産を消費が大きく上回っているためだ。ただの包囲戦なら、此処まで凄まじい消耗はあり得ない。もちろんそれらは城内の民にも負担を強いる訳で、二十万を超える彼らが一斉に反意を示したら、五万の兵では抑えきれない可能性がある。

実際、殺気だった兵士達と、不満を述べる民の小競り合いが、始まるようになってきていた。

とくに困るのが、袁尚様にといって、書状が届くことだ。

既に袁尚が青州のどこかにいて、此処にいるのは影武者だと言うことは、民衆には知られていないのだから。

少し壁により掛かった途端に、一刻ほど寝てしまう。

そんな事が何度か合った。曹操軍も恐らく審配を疲弊させるためだろう。間断なく攻撃を続け、攻撃しない時も常に鬨の声を上げ続けていた。

鎧を着たまま、城壁を見回る。

空気がおかしくなっている。兵士達も疲弊の極みにあり、完全に殺気立っていた。

休憩は、させている。だが、それが追いつかなくなりつつあるのだ。

兵士達も、審配を見ると、申し訳なさそうに殺気だった目を伏せる。城壁の外にいる曹操軍は、今は距離を置いているが、いつまた攻め込んでくるか、分からない状況だ。

「審配将軍!」

ふらふらした様子で、伝令兵が来た。審配が心配するほどに、足下がおかしい。何とか抱拳礼して跪くと、兵士は何度か噛んだ。もとより伝令は、戦術眼のあるある程度の熟練兵がなる事が多く、決して使い走りではない。そんな熟練兵が、これほど疲弊してしまっているのだ。他の兵士達の惨状は目を覆うばかりであった。

曹操軍の圧力に耐え始めてから四ヶ月。

既に、援軍がいないと、審配でも危ない状況になりつつある。他の軍なら二年でも三年でも耐えてみる自信があるが、この敵はものが違いすぎた。

「如何したか」

「はい。 青州の辛?(ピ)将軍が来ておられます」

「ほう」

辛評は不倶戴天の敵だと公言してはばからない相手だが、辛?(ピ)に関しては、さほど敵対意識もない。有能な男であり、兄とも反駁していた。敵の敵は味方という訳ではないが、審配ともさほど対立はしていない。

用件は読めているが、話を聞くくらいなら良いだろう。それに、兵士達に休息を取らせる事も出来る。

どの時代でもそうだが。軍の使いが来ている時には、攻城は緩めるのが基本的な不文律である。

「よし、全軍、最低限の見張りを残して休め。 辛?(ピ)は私の部屋に通せ」

「分かりましてございまする」

「お前も、奴を案内したらすぐに休め」

審配は言い残すと、客を応対する内城の東館に向かう。その途中で街の様子を見たが、民も兵士達同様、気の毒なほど疲弊していた。

当然、それを辛?(ピ)も見ることになる。不快な話だが、仕方がない。奴が来ている間だけでも、兵士達をじっくり休ませなければならなかった。

東館は二階建てで、赤い瓦を葺いてあり、壁は真っ白。普段は風流な植木が多数庭にあるのだが、今は殆どない。職人も兵士として狩りだしているからだ。広さは二百四十歩四方ほどで、一階が応接施設になっている。二階は客用の宿泊施設だ。豪奢な建物だが、それは客を迎えるためである。実際、袁紹が此処にいたころは、毎日使われ続けてきた。

今では、ごく希に使われるだけ。使用人の仕事は、掃除だけという日も珍しくない。戦時下だから、当然だ。

豪奢な東館を見上げながら、二日程度は時間を稼げるかと、審配は思った。もちろん曹操が、死間として辛?(ピ)を派遣してきた可能性もある。兵士達は休ませつつも、近衛の者達には、万全の警備をさせなければならなかった。気の毒な話である。

今をときめく曹操軍らしく、辛?(ピ)が豪奢な馬車に乗ってやってきた。不愉快きわまりないが、正面から堂々と迎える。

軍使を殺さないのは戦場の法である。ただし、それを敢えて破ることで、味方の士気を高めるやり方もある。

だから、軍使とは、命がけの仕事なのだ。

辛?(ピ)が馬車を降りて、抱拳礼をする。審配もそれに応えた。

裏切った相手という意識は、あまりない。兄の行動によって、裏切らされたという事で、同情さえしてしまう。油断はしていないが。

「審配将軍は、ご機嫌麗しゅう」

「そんなでもない。 とりあえず、まずは馳走でも味わってくれ。 山海の珍味を用意させた」

これは、時間を稼ぐためである。だから、まず交渉という風には進めない。山海の珍味という点に関しては嘘ではない。ただし、民の疲弊を考えると、何度も贅沢はしていられない。審配も、ここのところは食事を半分に減らしている位なのだ。

何進が作ったという料理法に沿って、作られた料理が並べられている。無能として知られた男だが、味に関する感覚だけは確かで、袁紹は自身でもそれを愛し、客にも振る舞った。事実安らぐ上にとても美味い。

今日は肉を詰めたタケノコの料理である。タケノコは時季がはずれているので、乾燥させて保存したものを用いる。肉は鹿のものだ。調理方法がよいので、保存材料を用いていてもとても美味しい。

腹が減っている上に、疲れていることもあって、審配は接待をしながらも、自身がっぷり腹に料理を詰め込んだ。

使者達がすっかりくつろいだ所で、酒を出させる。

そして自分は用があると言って、外に出た。

羊の部隊の生き残りである細作が待っていた。

「林の配下はいません。 奴が来ている様子もありません」

「そうか。 しかし、全員の動きから目を離すな」

「は」

「交渉は明日から行う。 兵士達も、その間にゆっくり休ませなければならんな」

審配は自室へ歩く。ふと、途中で審栄にすれ違った。

ばつが悪そうに視線をそらせたので、胸ぐらを掴む。審配はこの甥を、頭から信用していなかった。

「今、目を逸らしたな。 何を隠している」

「ご、誤解です! 叔父上、お許しください!」

「……ふん」

離してやると、油虫のように逃げていった。

審配の一族は、屑ばかりであった。

 

腕組みして、柱の影から審配と審栄のやりとりを見つめていた者がいる。

何のことはない。八ヶ月も前からこの?(ギョウ)に侵入し、潜伏を続けていた林であった。羊の配下が警戒している中を忍び込んだのではない。警戒し始めたころには、とっくに城に入り込んでいたのである。もとより壊滅させてやった羊の組織の残党では、外側に気を配る余裕はあっても、既に内部に入り込んでいる林をどうこうできるほどの手腕はなかった。

多少窮屈ではあったが、元々暗い所とか狭い所は嫌いではない。人殺しの次くらいに好きである。ただ、この侵入が曹操の命令であるという点だけが、少しだけ不愉快であった。しかも、殆ど単独での侵入である。劉勝や菖は連れてきていない。古参の側近を、何名か帯同しているだけであった。

そもそも今回の作戦は、曹操の大規模戦略の一環である。曹操が林をこの城に潜入させる戦略を、冀州城攻略の時点で立てていたのだ。審配が冀州城を放棄して、より強力な?(ギョウ)に立てこもり、袁煕の増援を待つことを、曹操は見越していた。だから、事前に切り札として、林を送り込んだのである。

一つ気になるのは、曹操が林の組織とほぼ同等の規模を持つ細作組織を育て始めていると言うことである。林はこんな状態だから、?(ギョウ)の外と連絡が取りづらい。もちろん数ヶ月先までを見込んで計画を立て、戦略を実行させてはいるが。しかし、こう籠城が長引くと、面倒であった。

部下達を促して、東館へ向かう。幾つか任されている作戦を、実行に移す時が来たからだ。

東館の周辺は流石に警備が厳重で、近付きにくい。と一見思える。

しかし近付く必要はない。窓から、鏡で合図をしてきていた。光を読んで、内容を把握した。

「審栄を、辛?(ピ)に接触させろ、か。 面倒な指示だ」

「林大人、如何なさいますか」

「今晩しか機会はないな。 審栄はお前達に任せる。 私は辛?(ピ)を外に連れ出す」

光に対し、了解と返す。

そして、林は審栄の所に急いだ。

顔の古傷が痛む。羊を殺した時に受けた向かい傷は、綺麗に消えたのだが、どうしてか痛みだけが残っている。任務に差し障るほどではないのだが、楽しく殺している時に痛むことが多い。

怨念など無い。

邪神を自称する林であるのに、そういう現実的な思考も出来る。

しかし、それでありながら、不意に痛む傷も事実である。痛みを飼い慣らしてきた林としては、どうしても不意に来るこの苦痛だけは、面倒きわまりない相手だった。羊は死んだと言い聞かせていても、どうしても痛みは消えない。痛みと一緒に飼い慣らしてきたはずの恐怖が、疼くことさえもある。

思考を元に戻す。

頭を切り換えて、任務に集中する。

審栄はもう二年も前に、曹操に内通を約束している。審配の事を昔から嫌いだったらしく、裏切る機会ばかりうかがっていたようだ。もっとも、審配自身が、審家全体から嫌われているらしい。故に審栄の意思と言うよりも、審家そのものが審配を裏切ろうとしているのだとも言える。

本当に愚かな連中である。審配がいなければ、審家などとっくに滅んでいたと理解できていないのだ。単に気に入らないから裏切る。そんな幼稚な思考しか出来ない輩が敵の重臣だと聞いて、曹操はさぞや笑ったことだろう。林も大笑いさせて貰った。

此方は何度となく接触しているから、連れてくるだけでよい。

問題は監視が厳しい辛?(ピ)である。東館の周囲を見て回り、警備を確認。六人、細作がいる。

此奴らを皆殺しにするのは簡単だが、問題はその後だ。当然相互監視態勢を取っているはずで、一人でも死ねば審配が本腰を入れて警備を始めるだろう。そうなると、もはや侵入の機会どころか、撤退さえ難しくなる。

つまり、細作達に気付かれないように、辛?(ピ)と接触しなければならないのだ。

宴会が続いている。中からは、楽しそうな笑い声が聞こえた。だが、どこか殺気が籠もっているのは、部下が紛れ込んでいるからだろう。

東館の調査は、一月ほどかけて行った。その過程で、二箇所ほど、外に連れ出せる可能性がある道を見つけている。その内一箇所は、細作達が塞いでいた。もう一箇所も視界の範囲内にある。

だから、目を逸らさなければならない。

林は既に、屋敷内で働いている侍従の一人を買収して、衣装を貰っていた。下働きの衣装に着替えると、中に入り込む。そして天井裏に潜り込んで、部下が来るのを待った。

護衛として入り込んでいる劉勝を発見。小石をぶつけて、呼ぶ。

厠に立つ振りをして、劉勝が持ち場を離れた。細作達が注目していたが、劉勝が瓦にはいると、流石に意識を逸らす。天井を這って、劉勝の上に。劉勝は小便をし始めていたが、関係無しに話し掛ける。

「遅かったな」

「林大人は、驚きの早さです」

「先に伝えておく。 裏切りを目論んでいるのは審栄だ。 審配と上手く行っていない審家の代表として、今は行動している」

「あんな青二才が、ですか? 末期も末期ですね」

減らず口をたたいた劉勝が、小便を出来るだけ長くしようと苦労している。林は幾つか事象を伝えておく。頷いた劉勝は、一刻後に決行する事に同意して、厠を出た。辛?(ピ)はどうしているかと思ってみると、酒を飲む振りをしながら、実際は全く酔っていない様子であった。

油断できない奴だ。

外に一旦出ると、犬猫を集める。陽動に使うのである。

その中に一匹、暇つぶしに育てておいた犬を混ぜる。三十種類ほどの命令をこなすことが出来るように仕込んでおいた犬で、他の犬を統率することも可能だ。尻尾を振っている黒いむく犬の頭をなでなですると、林は耳元に命令を囁く。複雑な文法は理解できないが、命令を順番に、指定した通りの時間にこなすことは可能だ。

鳳と名付けた犬は、吠えることもしない。林は命令を飲み込んだことを確認すると、手から餌を与えながら、首の下の犬の急所をなでなでした。

「よーしよしよしよしよし。 よしよしよしよし」

必要なスキンシップだと言い聞かせての行動なのだが、どうしてか頬が緩む。はっと我に返ると、犬猫を離す。それを、鳳が統率して、東館の方へ向かった。林は小さな手を握ったり開いたりする。

そして、ふと気付く。

何だか、今、普通の娘っこみたいに振る舞っていたと。

自己制御できない状況は好ましくない。しかし、鳳と過ごしていて楽しかったのも事実である。

頭を振って、思考を追い払う。

そして、任務に集中した。

そろそろ夕刻だ。細作達も視界が塞がれがちになってくる。狙う一瞬は、沈み行く太陽の光が、彼らの視界を眩ませる時だ。

東館の茂みに隠れて、機会を待つ。

既に劉勝は辛?(ピ)に合図を送り終えたらしく、隙を見て鏡の光を送ってきていた。影武者の準備も出来ているという。

それらなば。

指を鳴らすと同時に、鳳が不意に現れた。そして他の犬猫と一緒に、細作達にじゃれつく。困惑する細作達の隙を見て、劉勝が辛?(ピ)に合図。林が手招きするまま、辛?(ピ)は茂みに駆け込んできた。

細作達は怖い顔で鳳を追い払い、他の犬猫も同じ目に遭わせていた。にゃーにゃー鳴く子猫には流石に蹴りを出すことが出来ないようだったが、鳳は容赦なく蹴っていたので、ちょっと林は頭に来た。後で殺すことにする。

茂みと壁際を伝って、東館を出た。途中、下男の格好に着替えて貰った。着替えながら、辛?(ピ)は言った。

「貴方が林か。 噂には聞いていたが、見事な手際だ」

「なあに、人間を少し止めているだけですよ」

「そうか。 その割には、犬猫を見る目には、人間らしい光があったが」

「無駄話は其処まで。 審栄将軍がお待ちです」

まだまだだなと、林は思った。こんなシロウトに、隙を見抜かれるようではおしまいだ。もっと鍛えなければならないだろう。

父母を超えたと思っていた。

様々な薬品の影響で、年を取らなくなった体。人間を殺すことを何とも思わない精神。多少の豪傑程度なら、確実に殺せる実力。

それらは備えた。

だが、まだ精神は、人間を超えていない。

審栄は、部下達が茶屋に連れ出していた。審家の息が掛かっている場所で、少し前から拠点にしている。店主は殺して井戸に沈めて、今は林が薬物で洗脳した店主が代わりに仕事をしていた。

此処に来てから、なかなか殺しが出来なくて、苛々していた。だからついかっとして殺ってしまったが、反省はしていない。

審栄が辛?(ピ)に抱拳礼をする。

林は給仕の振りをして茶を二人に出すと、会談が長引かないようにと、釘を刺して一旦茶屋を出た。

そろそろ、世界は闇に閉ざされる。

今日は珍しく、外から戦いの音が響いてこなかった。

 

4、忠烈無惨

 

辛?(ピ)と交渉を済ませて、外にたたき出すと。曹操軍は早速待ちかまえていたように、波状攻撃を再開した。というか、向こうも休んでいたという点では同じだ。ただし審配自身はここ二日で体力をしっかり回復して、気力を充分に充填していた。

曹操軍は二日の間に、屯田兵として鍛えていた兵を二万も増員していた様子である。敵の兵力はこれで十五万。味方の三倍にふくれあがった。攻撃は更に苛烈を加えてきており、審配も時々心配になった。

南門に、敵が集中している。敵は巨大な移動式の櫓である井蘭を組んできていた。

井蘭は高さが成人男子の七倍ほどもあり、その頂点に巨大な弩を備え付けている。それが四つ、南門に対して、間断無い攻撃を加えていた。味方の投石機が油壺を投げつけて焼き払おうとしているが、上手く行かない。敵の投石機による援護攻撃が凄まじく、簡単には近づけなかったのだ。

しかも、井蘭に気を取られている間に、猛牛のような勢いで衝車が接近してきていた。必死に防いでいる兵士達が、敵の援護攻撃によってばたばたと倒されていく。城門に直撃。地震のような揺れが、城壁の上にいる審配にまで伝わってきた。審配は鍛え上げた反射神経で転倒を避けつつ、叫ぶ。

「攻撃を集中しろ!」

兵士達が走り回り、次々に投石機が唸りを上げる。ついに井蘭の一つが火だるまになり、敵の火力に隙が出来た。門を不意に開かせ、騎兵を突出させる。衝車の周囲にいる歩兵を掃討させ、即座に火を放たせた。

敵が押し寄せてくる前に、さっと城門の中に戻らせる。

敵も味方も、被害は鰻登りである。

だが、負けない。負ける訳には、いかないのだ。

「幽州の援軍はまだでしょうか!」

部下が叫ぶ。疲弊の色が濃い。

今日一日だけで、昨日までの安らぎが吹っ飛ぶような猛攻が続いていた。審配はまだ平気だが、兵士達の動揺は大きい。

「おちつけ! 曹操が何か仕掛けてくるとしたら、恐らく数日以内だ! 気を張れ!」

声を殺して、審配は叱責。

援軍は来ないかも知れない。

だがその時は、単独で支えぬくだけであった。

心が折れそうになる時、審配は袁煕が幼いころのことを思い出す。無能な家族に囲まれ、心が荒みきっていた審配の支えになったのは、誰あらん袁煕であった。

家族の中で孤立しているという点も共通していた。だから、袁煕に審配は己の全てを注ぎ込んだのだ。

袁煕こそ、我が宝。我が命。

主君となった今も、それに代わりはない。忠義と同時に、己と境遇の似た袁煕は、息子でもあった。

「必ずや、守り通してみせる」

審配は、己自身に誓う。

この?(ギョウ)が墜ちれば、もはや河北に勝ち目はなくなる。それだけは、己の命に掛けても、阻止しなければならなかった。

 

辛?(ピ)からの報告を受けた曹操は、腕組みして考え込んでいた。

審栄の裏切りについては、約束を取り付けた。城門を開かせる約束もした。

しかし、一手足りない気がするのだ。

圧力は、加え続けている。審配が今まで味わったこともないだろう猛攻を、一週間続けているのだ。攻守が代われば、曹操だって耐えられるか分からない。それほどの圧力を、確かに加えてきた。

審配さえいなければ、こんな城、即座に落とせる。

だが、その審配を、どうにかして排除する方法が思いつかない。

審配は審家そのものに不審を抱かれているという。何というか、旧態依然の無能な豪族にありがちなことだ。そうなってくると、審配自身が、どうやって己の忠義を維持しているのか、或いはそれが誰に向いているのかが、気になる所である。

多分審配は、今回の和平の使者が罠であることに気付いている。

ならば、そのまま策を実行に移した場合、失敗する可能性が高い。

後一手、後一手なのだ。

審配は、押し続けても、精神で負けて倒れるような男ではない。何か横から、搦め手からの一撃が、あと一つ必要なのだ。

「曹操様」

「程cか、如何した」

「はい。 林の所から得た情報を分析していたら、面白い情報が出て参りました」

「申してみよ」

程cが頷き、話し始める。

確かに、それは面白い情報であった。

「なるほど、そうか。 袁煕の教育係であったのか」

「はい。 もとより審配は、袁煕を袁家の跡取りにするためだけに、動いていたのでしょう。 それで、あの男らしからぬ腹芸の数々に説明がつきます」

「そうか。 哀れな男よ。 無能な家族に囲まれ、きっと育てた袁煕しか、誇れるものがいなかったのだろうな。 袁煕を己の息子のように思っているに違いない。 それならば、この壮烈なまでの防御戦にも理解が湧く」

そう思うと、曹操も少し悲しみが分かる。

曹昂に先立たれ、戦下手で性格が陰湿な曹丕が跡取りになってしまった。曹昂が生きていればと、何度嘆いたことか。曹丕の政務に関する才能は、或いは曹昂に迫るかも知れないが、兎に角人望がない。もし曹操が志半ばで死んだ場合、曹家が天下を統一するのは不可能だろうと、すでに諦めかけていた。

審配は惜しい。だが、降伏はしないだろう。

そして、曹操は。己を嫌悪するような策を、思いついたのであった。

「審配は、忠烈な男よ。 だが乱世では、そんな男こそ早く死ぬのかも知れん」

「御意。 故に、早く乱世を終わらせましょうぞ」

「そうだな。 今は野望が飛翔する時でもあるが、それ以上の犠牲が大きすぎるわ」

程cに頷くと、曹操は細作を呼ぶ。

彼らは曹操が書き記した竹簡を持ち、四方に散った。

 

曹操軍の猛攻が開始されて一週間が経過した。

既に損害は三千を超えており、城内には負傷者が溢れていた。民も疲弊が激しく、食料以外の生活物資が不足してきており、状況はますます困難になってきている。兵を民間から補給すること自体は可能だが、それらは新兵として歴戦の曹操軍とまともに戦うことになる上、物資が幽州から送られてくる可能性が無い以上士気も極めて低い。

これほど激しい城攻めは経験したことがない。

しかし、審配一人であれば。必ず支えきってみせる自信もあった。

事実これだけの激戦を繰り広げながらも、城門の一つも抜かせてはいない。分厚い城壁二枚の内側に街がある、いわゆる二重構造になっている?(ギョウ)だが、未だに外城でさえ健在で、曹操軍を一歩も中には入れていなかった。曹操軍の被害も、どんどん増えている。

だが、全体的に見て、此方が劣勢なのは間違いない。

何か危険な一手が打たれれば、全体が崩れる可能性がある。

それに備えて、ここ数日は気を張っていたのだ。例えば、いきなり門が内側から開かれるとか。

しかし、審配が念入りに見回ったせいか、そのような事態は発生していない。

また、諸将の中にも、裏切りを働こうというものはいない様子であった。

分からない。てっきり城内の不満分子に、裏切りを働かせるとばかり思っていたのだ。しかしながら、曹操は何も仕掛けてこない。この状況、例え策があると分かって備えていても、それなりの打撃は与えられるのに、だ。

今、曹操が求めているのは突破口の筈だ。

敵の数は増強されて十五万。もしも一箇所でも突破されれば、一気に此方の形勢は不利になる。

曹操は今、あらゆる攻め手を模索しているはずだ。

城を守ることに関しては、審配はそこらの相手に負けない自信はある。しかし、広域の戦略に関しては、曹操の足元にも及ばないという自覚も持っている。

さあ、曹操は何をしてくる。

疲弊した頭脳では、それを読み切るのは、難しかった。

一旦自室に引き上げて、二刻ほど休む。もちろん、状況に変化があった場合は、すぐに呼ぶように部下達には告げてある。そして、部屋の周囲は、信頼している近衛で固めた。何かあっても、対処は難しくない。

自室と言っても、外壁のすぐ内側にある屋敷の一室だ。庭には曹操軍が撃ち込んできた岩が転がっており、天井も幾らか破れている。審配の部屋の近くにも直撃弾があったが、気にしていない。

しばし眠ったが、疲れはまるで取れなかった。

泥のように意識が濁り始めている。何かがおかしいと、審配が気付いて。そして、叫んだ。

「医師を!」

「如何なさいましたか」

「恐らく、何かを盛られた! 急げ!」

胃の中のものを吐き出そうとするが、失敗した。そういえば丸一日、何も食べていないのだった。

それでは、疲弊が溜まるのも、当然かも知れない。

愕然とする。そんな生理的な動作まで忘れていたとは。城壁の方を見る。向こうに、曹操がいる。

いつのまにか、余裕が刮ぎ落とされていた。

まずいと審配は思った。まだ、このまま圧されても、耐える自信はある。耐えきれる。

だが、問題は絡手からの一撃が入った場合だ。

曹操は此方が手を読むことを想定して、全力での攻撃を続けている。そして今、圧力だけで、審配を押し込み、身動きが取れない状態にまで追い込んだ。

もし此処で、横から脇から後ろから、搦め手から攻撃が来たらどうにもならない。もう、精神的にも、限界が近い状態なのだ。

発狂してしまった兵士も少なくない。

「審配将軍! 医師が来ました!」

「わ、分かった」

医師は審配の体を触ったりして色々調べたが、首を横に振った。予想通り、毒など盛られていないというのだろう。

その通りの答えとなった。

「お休みください、審配将軍。 兎に角何かを食べて、ゆっくり眠るのです。 それで、体は回復します」

「外からの喚声が聞こえぬか。 私が指揮を休む時間が多くなればなるほど、部下達の負担が大きくなる!」

声を荒げてしまったので、医師に謝った。

医師は眉根を下げた。年老いた医師の目には、哀れみが浮かんでいた。

「やむを得ん。 お前達、指揮を任せても良いか」

「は、はい」

「食事を持ってこい。 四刻ほど休む」

曹操に、気取られてはならない。気取られてはおしまいだ。

食事を始める。

背中に視線を感じて振り向くが、誰もいない。いるはずがない。審配の胃は、きりきりと音を立てて痛んでいた。

気がつくと寝台の上に転がっていた。

起き出して、外に出ると、まだ夜だ。それなのに、喚声が響き続けている。

そして、大きな音が響き渡った。

 

ついに、審配が隙を見せた。内通している医師から連絡があったのだ。

心身共に限界に追い込んでいたのだと、曹操はその時やっと気付いた。一週間の猛攻で、ようやく其処まで追い込むことが出来たのだ。まるで怪物のような精神力である。

同時に、審栄に内応の指示を出す。

審配は、恐らく武将達だけを警戒していたはずだ。其処が、審配の限界であった。

内応するものは、他にもいたのだ。

武将にではない。?(ギョウ)の民達にである。脱走者は出ていないが、林が時々内部から情報を届けてくる。中には、?(ギョウ)に知人が住んでいるからと、命乞いをかねて曹操に情報を売る者もいた。

それらの情報は、参謀達に分析させている。

そして、審配の側にいる医師が、外部に弱みを抱えていて、握りやすいことが分かったのだ。

後は林の手引きで、審配を休ませる事だけであった。

如何に細かく指示を言い含められていても、残念ながらもはや河北には致命的なまで人材が不足している。

審配の穴を埋めることなど、出来ようもない。

南門が、ついに開いた。審栄と、彼に同調する審家の連中による行動であった。

「ふん、不忠者が」

「曹操様」

「虎痴よ、分かっておる。 余も、このような卑劣な手を取らねば勝てぬとは、墜ちたものだ。 後世で邪悪の権化がごとく言われるかもしれんな」

「甘いものでも食べて、落ち着いてください」

そういって、許?(チョ)が焼き菓子を差し出す。背が伸びる薬。背が伸びる薬。そう言いながら、口に頬張りつつ、指揮剣を振るう。

味方が一斉に南門へ駆け込んでいく。

今まで休息していた部隊まで狩り出し、北、東、西門へも集中攻撃を開始する。

しかし、敵の反撃も、即座に開始された。

まず東門にとりついた兵士達に、城門を開けた敵の決死隊が猛攻を仕掛けてきた。いきなりの反撃に、大きな被害を出したのは、徐晃の部隊である。しかし冷静に徐晃は対応を開始、そのまま反撃を捻り潰した。審配が育てたらしい若手の将官は、もの凄い形相で指揮を続けていたが、十本以上の矢を同時に受けて、落馬。即死した。

西門、南門でも敵の反撃は凄まじい。しかし、全体的な力の差は明らかで、楽進、張遼、いずれも勝利の報告を上げてくる。外城は陥落。

しかし、内城に引き上げることに成功した四万ほどの敵兵は。

今だ、鉄壁の防御を崩してはいなかった。

しかも二千ほどの敵は内城と外城の間にある市街地に潜み、徹底的な反撃を繰り返してくる。どうも、審配もその中に混じっているらしく、しらみつぶしに探そうにも民の数が多すぎて上手く行かなかった。

十万以上の兵を内部に進めながらも、曹操は歯ぎしりした。

このままでは、内城を攻め落とす前に、味方の士気も兵力も兵糧も尽きてしまう。審配はそうこうしている内に、此方の兵力を削るだけ削り取って、内城に引っ込んでしまったらしい。ある点を境に、ぴたりと市街地での抵抗が止んだ。

「審配は名将だ」

曹操も、ついにそう呟いてしまった。

内城を攻めるとなると、市街地に攻城兵器を持ち込むしか無くなってくる。市街地には五万を超える民がいることが分かっており、彼らをどうするかだけでかなり大変だ。基本的に内城は形式だけの場合が多いのだが、この?(ギョウ)に関しては別だと考えた方が良さそうである。

此処で勢いを殺してしまうと、また攻城に数ヶ月が掛かる可能性が出てくる。

敵が動揺している今こそ、一気に攻め落とす好機なのだ。

ふと、気付いて曹操は程cに聞く。

「審栄はどうしている」

「それが、審配と一緒に、内城に戻った様子でして」

「……そうか。 好機だな。 林を呼べ」

静かに曹操が命令を下す。

この苛烈な攻城戦も、ついに終わりの時が来た様子であった。

 

審配は四本の矢を鎧に刺したまま、内城に戻った。

味方の無事な兵力は四万という所だ。審配と一緒に市街地で抵抗していた兵力約二千を加味しても、それが限界である。それに対して、曹操軍はまだ十四万以上が健在であり、もはや兵力では抵抗できる状態にない。

しかし、守らなければならない。

此処で守りきらなければ、袁煕がかってない苦境に立たされるからだ。

裏口を使って城の中にはいると、審配は審栄を探した。恐らく裏切ったのは奴だろうと、検討はついていたからである。周囲にわらわらと兵士達が集まってくる。なにやらいやな予感がした。近衛達も審配と同じ事を感じたらしく、さっと周囲に壁を作る。

「どうした。 お前達」

あまり士気が高い兵士達ではない。いずれも金で雇われた、民間人のようであった。侠客もかなり混じっている。

そしてその中に、審栄がいるのに、審配は気付いた。

「審栄!」

臆病な甥は、身を竦ませる。

そして、引きつった声で叫んだ。

「捕らえよ! 捕らえた者には、千金を与える!」

この裏口の事を知っているのは、審家の一部の人間のみ。どうやら、審栄が裏切っていたのはこれで確定と言うことだ。

審配は血まみれの剣を引き抜くと、雄叫びを上げて突進した。そして脇目もふらずに審栄に向かう。途中、四人を斬り倒し、三箇所鎧に斬りつけられた。槍を揃えて向かってくる敵兵を、近衛達が体を盾にして押し返す。

やがて、引きつった笑顔を浮かべている審栄の至近に迫った。

「この、不忠者がああああっ!」

振り下ろした剣が、審栄の顔を掠める。それだけで軟弱な甥はぎゃっと大げさな悲鳴を上げて、すっころんだ。

「あ、あんただって! あんただって、審家を蔑ろにしていたじゃないか!」

「たわけっ! それは審家が腐敗し、己の利権ばかり考え、権力闘争にばかり終始し、周囲を顧みず、不忠ばかり繰り返していたからだ!」

背中に灼熱。後ろに回っていた敵が、槍で突き刺してきたのだ。

今までの疲弊が、審配の全身を、槍の一撃と供に貫いていた。うめき、ついに膝をつく審配。

しかし、おかしい。他の味方はどうしている。

一緒についてきた連中は、何をしているのだ。この程度の数なら、造反など。ものの数では無いはずなのに。

地面に引き倒され、縛り上げられる。舌を噛もうかと思ったが、猿轡を噛まされてしまった。

無念。

そう呟く。

袁煕の事を思うと、死んでも死にきれない。

無能な甥は、慌てながら、周囲にもたもたと指示を飛ばしている。内城の南門が開き、曹操軍がなだれ込んでくるのが分かった。

そのまま何度か蹴られ、そして無理矢理立たされた審配は、連れて行かれる。曹操軍は内城を制圧していき、味方は抵抗を諦めて次々に降伏している様子であった。もはや、是非も無し。

審配を受け取りに来たのは、夏候淵だった。曹操の親族と言うだけで、何の取り柄もない男である。夏候淵は一瞬だけ審配に同情するそぶりを見せたが、それだけであった。そのまま、ほぼ強引に、曹操の前まで引き立てられる。

曹操は、冷たい目で、座らされた審配を見ていた。

だが、馬を下りると、意外なことを言った。

「審配よ。 余の配下にならぬか」

猿轡を外される。

妙に、気分は静かだった。

「光栄ですが、お断りいたします」

「この乱世を収めるのには、一人でも多くの人材が必要だ。 余は確かに己の野心もあって天下を統一しようと考えているが、しかし平穏をもたらそうとも思っておる。 そなたも協力せよ。 少しでも早く、親子兄弟が殺し合う、この地獄のような時代を終わらせようとは思わぬか」

思う。

だが、それは曹操の下で行うことではない。

袁煕とともに、行うべき事なのだ。

そう述べると、曹操は視線を審配から逸らした。

「そうか。 残念だ」

「北を向くことをお許しください。 主君の方を向いて、死にたいのです」

「……分かった。 好きなようにせよ」

曹操が歩み去る。目を閉じると、審配は。息子とも思う、袁煕の勝利だけを祈った。

 

審配の処刑が終わったことを確認すると、曹操は冀州の完全制圧を内外に表明した。こうして曹操の実力は一気に倍増し、その勢力は他者を圧倒するものとなった。冀州は河北の中心とも言える土地であり、人口でも生産力でも、そして技術力でもずば抜けている。此処を失ったことで、袁家は歴史の中心を争える立場から転げ落ちた。これからは、曹操の時代だ。

だが、曹操の顔は、あまり優れない。

陥落させた?(ギョウ)の内城。審配が使っていた地味な執務室で、曹操はぼんやりと酒を飲んでいた。彼にそうさせるほど、良く審配は戦ったのだ。

許?(チョ)が来た。

肩に巨大な猪を担いでいた。今仕留めてきたらしい。鼻からは鮮血が垂れ墜ち、腹の大きな傷からは内臓がはみ出している。そして何より、足は二本を欠損していた。左手にぶら下げている籠に、山菜のように突っ込まれているのが、残りの足だろう。

「曹操様。 元気が出るものを持って参りました」

「そうか。 いつもすまないな」

「早速皮を剥いで腹巻きを作りましょう。 後、今仕留めてきたばかりなので、内臓は洗うと、生でも食べられます。 以前仰っていた、生肉でも食べられます」

「いや、流石にそこまで余は野性的ではないでな。 美味くても生はいやだ。 きちんと調理してくれ」

凄く残念そうな顔を許?(チョ)がしたので、曹操は頭を抱えそうになった。以前出したたとえ話を覚えているのは良いのだが、こうとんでもない勘違いをされるとたまらない。料理人が呼ばれて、猪を五人がかりで担いでいく。どうにかして曹操を慰めようとしている許?(チョ)は、そわそわしていた。

「そ、そういえば。 曹丕様が、袁煕将軍の側室の一人を略奪したとか聞いています」

「ほう、彼奴がか」

「罪になるのではないのか、少し不安です」

「戦争が終わった後には良くあることだ。 ましてや、貴人の妻子は戦利品として扱われるのが世の常であるからな。 多少のことには目をつぶってやれ」

あざといやり方だが、初めて息子の人間性が分かった気がして、曹操には微笑ましかった。曹操も若いころには、随分無茶をした。それを誇る気はさらさらないが、息子も同じ道を辿っているとなると、それもまた一興か。

ただ、やり過ぎるようなら注意しなければならない。

若いころに無茶をするのと、無茶をしたことを誇るのは全然違うことだ。無茶をしたことを恥として受け止め、後で成長する糧にすればよいのであって、したり顔で自慢する内容ではない。

まあ、勝利にかこつけて袁煕の妻を略奪婚するくらいなら、いいだろう。

「そうですか。 良かったです」

「どうしてお前が喜ぶ」

「曹操様が、息子を失うのを、もう見たくはありません」

そう言われると、曹操も目頭が熱くなるのを感じてしまう。

料理が運ばれてきた。生々しい巨大猪も、料理されれば食欲を誘う肉の塊に過ぎない。運んできた料理人に、曹操は顔を見せないようにしながら言った。

「残りは兵士達に振る舞ってやれ」

「分かりました」

「許?(チョ)よ、今日は飲もう」

「分かりました」

向かい合って座ると、曹操は酒を傾ける。

立場は逆だが、審配と袁煕の気持ちが、分かるような気がした。

 

(続)