絡まり合う糸と死

 

序、袁譚の困惑

 

最初袁譚は、家臣が言っている事の意味が理解できなかった。

だから、足を運ぶことにした。郭図も半信半疑ではありながら、ついてくる。四百ほどの護衛の兵士に守られて、それでも袁譚は首を捻りながら、道を急いだ。馬を寄せてくる郭図は、豆鉄砲を浴びた鳩のような表情をしていた。

「袁譚様、罠の可能性がございます。 お気を付けて」

「分かっている。 それにしても、一体どういう事だ」

手にしている六角棒を何度か振り回す。兵士達があわててわっと離れて、すぐに戻ってきた。袁譚の腕力は強く、当たれば冗談では済まないのだ。武芸が下手な袁譚は、腕力が強くても、あまり上手に棒を制御できない。

兵士達と同じように器用に逃れていた郭図も戻ってくる。

考え込んでいた袁譚は、やがてそれが捕らえてあるという、廃村についた。

ここしばらく、廃村が急激に増え始めたのだ。夜陰に紛れて、住民が離散してしまう。そして、彼らは群れを成して、河南に向かっている。特に中原、許昌に向かう者が多いという報告も受けていた。

馬を下りる。体格が良い袁譚に相応しい、雄大な馬だ。だが袁譚に似て気性が荒く、馬番はいつも青あざを作っていた。郭図も器用に馬から下りると、並んで歩き出す。

その牢は、廃屋の一つを改造して作ったのだという。

松明を持った兵士が、何名か其処にはいた。袁譚の姿を見ると、拝礼して下がる。袁譚は大股で松明を一本受け取ると、牢に顔を寄せた。廃屋を半分切り崩したその牢には、鉄の棒が植え込んでおり、虎でも破れないような頑強さだ。

牢の奥の方。汚物まみれのそれが、投げ込まれた肉を囓っていた。

光を寄せると、犬のように唸る。酷い臭いが鼻を刺したので、袁譚は思わず呻いていた。

「何だ、糞尿か」

「どうやらもう、便所に排泄をする知恵さえ失っている様子でして。 全て垂れ流しにしています。 掃除するべきなのか、困っている所でして」

それを捕らえたという小隊長は、勤勉そうな若者だった。頭を掻きながら言う善良そうな若者を一瞥すると、袁譚は牢に顔を寄せる。動物そのものの有様で、それが顔を上げた。

髭だらけ。汚物だらけ。髪は乱れきっていて、明らかにシラミが湧いている。油でてかてかしている髪が、松明の光を反射した。

うなり声。

黄色い歯を剥き、肉を庇うようにしているそれは、間違いない。

袁尚であった。

思わず、袁譚は腰が抜けそうになっていた。なんだこれは。一体、何が起こったというのか。夢でも見ているのか。

あれほど呪った袁尚であったのに。

どうして、気が触れて、こんな所にいるのだ。

「お、お前、何処でこれを捕らえたのだ」

「は、はい。 山に芝刈りに入っていましたら、突然河を流れてきまして。 部下達と拾うと、人間でしたが、気が触れていたようでしたので」

「分かった、そうか。 これは他言無用だ。 お前の給金は五倍に上げてやる。 代わりに、この村を、何があっても死守しろ。 これも殺さずに、飼っておけ」

「分かりましてございまする」

純朴そうな小隊長は、給料が上がったことを素直に喜んでいる様子であった。

袁譚は、吐き気がするような臭いを立てている袁尚から離れると、村を出た。早足で郭図がついてくる。

「あれは間違いなく袁尚様です。 殺さずとも良いのですか」

「よく分からん。 肉を食ってやりたいほど嫌いだったのに、あのような姿を見てみると、哀れみを感じてしまう」

「お流石にございます。 後世で袁譚様は仁君として湛えられることでしょう」

「……だと良いのだがな」

馬に跨る。何だか、妙な気分だった。胸がざわざわした。

不思議と、凶熱が冷めてきた。あの袁尚を叩きつぶし、殺すことだけが袁譚の生き甲斐だった。それが不意に奪われてしまったような印象である。やっと踏破した山の上ががらんどうで、美人もいなければ宝物もなく、景色も大したことはなかった。そんな状況に出くわしたかのようであった。

袁尚があんな所にいると言うことは、冀州はどうなっているのか。袁尚軍が動いているという報告も聞いていない。酒を飲んで寝台に横になる。女を呼ぼうかと宦官が気を利かせてくれたが、手を振って追い払った。

酩酊した頭で、袁尚のことを考える。

憎んでも憎みきれない奴だったのに。今の彼奴は、そんな価値さえも無い相手だ。餌を与えなければ勝手に死ぬ。女達もあれを見て、きゃあきゃあ黄色い声で騒ぐようなことはないだろう。

何が起こったかは、別にどうでも良い。

分かっているのは、あの袁尚は、既に廃人になってしまったと言うこと。

これから袁譚はどうすればいいのだろうか。曹操を憎むのは、難しい。嫌いな相手だが、別に憎むほどでもない。

気がつくと、朝になっていた。

袁譚は、己がとても空虚な気分であることを、今更ながら気付いていた。

 

1、曹操軍出撃

 

曹操は、満を持して許昌を出た。従える軍勢は十二万。しかも、後方の恐れは一切無い状況である。更に言えば、戦気が充分に熟すのを見計らっての出陣であった。

勢力境界では、いずれも問題がないことを確認している。江東は荊州に掛かりっきりであるし、宛より南の劉表軍は侵出傾向を持たない。汝南はこの間大掃除が完了して、全く問題がない。長安の西には危険な西涼の諸勢力が控えているが、連中は現在、基本的に曹操に対して友好的だ。もっとも、隙があればいつでも攻め込んでくるだろうが。

更に、敵の内情についても、情報収拾は欠かしていない。

曹操は積極的に河北からの流出人員を受け容れている他、林からの情報もこまめに確認している。袁尚が既に袁譚の所にいて、その発狂した無惨な姿を見た袁譚がやる気を無くしていることまで知っている。当初の戦略としては、黎陽を落とす。その後袁尚の影武者を立てて実権を握っている袁煕の軍勢を叩き、その次に袁譚を叩きつぶす。袁譚を滅ぼしたら、袁煕にとどめを刺すことになる。

ただし、河北は袁紹が念入りに地盤を築いた事もあり、簡単に席巻できる場所ではない。

とりあえず、橋頭堡となる黎陽城を確保しつつ、兵力を送り込んでいく。一度の出兵で、全てを陥落させられるとは、曹操も考えていなかった。

黄河には既に船が並べられている。先遣隊は既に対岸に渡りきっており、曹操のいる中軍が渡りきると、進撃の準備が整う。この状態はかなり危ないのだが、敵影は近くにないことが確認されている。だから、曹操は油断無く陣を組みながらも、若干気を緩めていた。

曹操が乗り込む船は、闘艦の中でもかなり巨大なものだ。全体的には半月を黄河に浮かべたようで、船首には龍を象った彫刻がついている。帆船としても航行可能な他、水夫達が櫂をこいでも進むことが出来る。あまり水軍には詳しくない曹操だが、それでも長江近辺の出身者を集め、何処に出しても恥ずかしくない船を造らせたつもりである。

船は巨大で、馬ごと乗り込むことが出来る。曹操は愛馬の飛電を引っ張って船上に出ると、甲板を見回して感心した。

「おう、美しい船だ」

「戦にも充分耐えることが可能にございます」

そう、毛介という将軍が自慢げに説明した。長江近辺に住む人間のように、水虎(河童)のような環境で育った人間ではないのだが、そこそこ水に慣れた男で、しかも器用だ。今回も確かに見事に水軍を作って見せた。船の縁は赤く縁取られており、色とりどりの旗がはためいている。

「ただ、揺れるのだけはどうにもなりません。 墜ちると危険ですから、気をつけてください」

「うむ、分かった。 この船の名前は何か」

「まだ付けてはおりませぬ。 曹操様がおつけくださいませ」

「そうか。 ならば余の願いを込めて、長身と名付けるとするか」

なぜか固まった毛介を前に、曹操は呟く。許?(チョ)は無言のまま、その場に佇んでいた。

「よろしくな、長身。 余とともに河北を落とし、天下統一のきっかけを作ろう」

もちろん長身は応えない。

だが、曹操は、それで満足であった。

ご満悦のまま、指揮所になっている中央の構造物へ。長身の間中には小柄な櫓が組まれていて、中には比較的静かで穏やかな環境が整えられている。其処を重点的に守るように、縁には大型の弩が幾つか設置されている他、小型の投石機まで据え付けられていた。兵士が三百人ほどで動かすだけあり、頑強な作りである。

揺れも、毛介が言っていたほど酷くはなかった。自室の安楽椅子に腰掛けると、曹操はついてきていた若い侍女を呼んだ。

侍女は侍女だが、この娘は林の組織に警戒している曹操が、ルーの組織の残党を組織している過程で育てている護衛である。同じような護衛が結構いて、中には羊の組織の残党も含まれていた。劉備の所にいるシャネスほどの腕前は無いが、それでも結構使える細作が含まれている。もう少し組織が大きくなったら、林の組織と並列で立ち上げ、好き勝手をさせないように相互監視をさせるつもりだ。それくらいしておかないと、林は危険すぎて迂闊に使えない。

「これ、肩を揉め」

「分かりました」

「何か、曹丕の周辺に動きは。 曹植は」

「曹丕様は、先鋒を立派に率いておられる様子です。 曹植様は後陣におられますが、周囲にいる取り巻き達に、不満を零しておられるとか」

曹操は鼻を鳴らした。やはり、曹丕を跡継ぎにしておいて、正解であったらしい。

曹植は、曹丕を跡継ぎに正式指名してから、狭量な所が目立つようになり始めている。それだけではない。取り巻きの一人に揚修という曹植と幼なじみの若者がいるのだが、此奴が余計なことばかりを吹き込んでいる。

特に曹操が頭に来たのは、曹操の質問に対する模範回答集のようなものを、揚修が作っていたことである。

こざかしい回答例ばかりが載っていて、曹操は見て思わず呻いてしまった。揚修は秀才として知られる男だが、以前から知識をひけらかす所があり、その模範回答集にも、曹操が喜ぶような答えばかりが書き連ねられていたのである。

曹植はそれを取り上げられてからと言うもの、曹操の質問に対して、曹丕と大して代わらない答えしか出せないようになっている。それが、曹操の怒りを更に煽っている要因であった。

「確かに余が、あまりかまってやらなかったのにも原因がある。 しかし、どうして袁紹と言い余と言い、子には苦労させられるのだろうな。 全く、腹立たしすぎて、むしろ笑いがこみ上げてくるわ」

娘は細作としては有能だが、肩を揉むのはあまり上手ではなかった。

許?(チョ)が側でじっと見ているのは、林だけではなく、細作そのものが嫌いだからだろう。

娘を下がらせると、ぶらんぶらんと足を揺らしながら、曹操は許?(チョ)を仰ぎ見た。

「虎痴、そなた、そろそろ結婚せよ」

「曹操様が仰るのなら、そういたしまする」

「うむ。 実はな、曹丕にも、そなたのように信頼できる男を側に付けてやりたい。 賈?(ク)が教育係にはなっているが、友人はいない様子でな。 あれが余の跡を継いでこの国を背負うころには、信頼できる護衛を側に置いてやりたいのだ」

分かっていない様子なので、曹操は付け加える。お前の子供を、その候補の一人としたいのだと。

それでやっと事情を理解した許?(チョ)は、しばらく嬉しそうにだらしなく笑った。

「しかし、相手はどういたしましょうか」

「余が用意してやる。 それとも、気になる娘でもいるか」

「いえ、あまり興味がございませぬで」

「お前はそう言う奴だ。 都の若い連中のように、衆道に興味がある訳でもないようだし、欲が少ないというのは良いことだ。 余はいかん。 どうも欲が多すぎて、損をすることが多い」

それは曹操の本音である。許?(チョ)の無欲な所が、曹操には羨ましくてならなかった。もしもこう無欲でいられたら、自分に掛かる金を、かなり削減が出来るであろうからだ。

ただ、欲がなさ過ぎるのも困る。許?(チョ)はその気になれば、一生女を断ってでも生活できるかも知れない。だが、それでは許?(チョ)の強さを、後世に継ぐことが出来ない。

或いは仙人のような存在に、許?(チョ)はなれるのかもしれない。だがそれでは、曹操が困るのであった。

「おなごの好みとかはあるか、虎痴よ。 そなたは余の功臣だ。 我が儘は幾らでも聞くぞ」

「よく分かりませぬ。 あまり酷い女でなければ」

「そうか。 ならば最高の美女を用意してやろう。 もちろん、側室を抱えるのも良い」

苦笑した曹操は、安楽椅子から降りると、肩を掴んで自分で揉んだ。

船が黄河を渡りきった。接舷して、降りる。黄河の向かいは流石に広大であり、だが若干荒涼としていた。

先鋒にはいつものように楽進がいて、他に李典が付けてある。そして、曹操が連れてきた韓浩が、辺りをしきりに見回していた。

「韓浩、如何したか」

「はい。 この辺り、屯田には適した地形だなと思いまして。 河北を制圧いたしましたら、是非一師(軍)をお貸しくださいませ。 豊かな土地に生まれ変わらせて見せましょう」

「そうだな。 そなたに任せるとしよう」

韓浩が子供のように目を光らせている。屯田の達人であり、曹操政権の重鎮であるこの男が、このような所を見せるのは珍しい。

やがて、後陣が到着したころには、野戦陣地の構築が開始されていた。

袁煕の軍勢は姿を見せない。

予想以上に、敵の混乱は大きい様子であった。

後陣には、徐晃と張遼もいる。

張遼は規模を拡大している楽進の騎馬隊の一部と、精鋭を編成している虎豹騎の中から更に精鋭を選抜した部隊を任せていて、打撃集団として一流の実力を備えさせている。

徐晃はその粘り強い性質を更に活かせるように、青州兵の中から忠誠心の高い者達を選抜し、更に全軍の中から選りすぐった兵士達を任せている。

今まで、兄弟げんかを煽っていただけではない。曹操は頑強な河北を落とすべく、入念な準備を続けていたのである。

黄河の向こうに残してある部隊の指揮を執らせているのは于禁である。手堅い男であるし、危険性は少ない。

大体、十二万の軍勢が勢揃いした。

これから、敵の本拠地である冀州に乗り込む。

現在、袁煕が動かせる兵は、大体十万前後と推察されている。袁譚が動かせるのは六万程度だから、もしも背後を突かれると面倒だが、その可能性は低い。袁尚を発見してから、袁譚が気力を失っている一部始終は掴んでいるし、それに于禁を残してあるのも対応させるためだ。于禁の軍二万が、もし袁譚が下手な動きを見せるようなら、一気に青州に殴り込みを掛ける態勢を取っている。

曹操は安心して、前進することが出来るのだった。もちろん、罠を含めながら。

「「まずは」冀州城だな」

十二万に達する大軍勢が、静かに進み始める。

その威容は曹操を充分に満足させるものであり、鳥たちでさえ恐れて鋭鋒を避けるかのようだった。

 

2、黎陽の戦い

 

冀州城。執務室にて腕組みする袁煕の左右には、審配と逢紀が侍っていた。不安そうにしている逢紀と違い、審配は傲然として、まるで動じていない。執務室に伝令が入ってきても、それは同じだった。

「曹操軍、冀州に入りました! 兵、十万強!」

「分かった。 下がって良い」

兵がいなくなると、審配は袁煕に向き直る。もとより守勢の達人である。袁煕としても、頼りになることこの上ない男だ。自分を幼いころから見守ってくれていた男と言うこともあり、安心感は抜群であった。

「まず、前線基地に兵力を配備。 曹操は野戦の名手で、現在味方に正面から対抗できる将はおりませぬ。 正面からの決戦は避け、敵の消耗を狙いましょう」

「それが正しいな。 問題があるとすれば」

「はい。 袁譚の動きにございまする」

どうやら、袁尚が袁譚の手に渡ったらしいことは、袁煕でも掴んでいる。しかし妙なのは、袁譚が動く様子は全くないと言うことだ。

袁譚の軍勢は増強を続け、現在六万から六万八千。それに対して、冀州にいる袁煕の軍勢が大体四万五千、幽州にいる軍勢が二万八千。并州にも三万が控えている。冀州に兵力を集中させないのには、考えがあってのことだ。だがそれも、青州に控えている袁譚が集中的な攻撃を仕掛けてくると、面倒なことになりかねない。

「兄は何を考えているのだ」

「もとより袁譚様は、とても本能に忠実な方でありましたから。 恐らく論理的な思考は、郭図に任せきりなのでしょう」

「そうなると、まず郭図を相手にしなければならないと言うことか。 我らに対して、どのような面倒な要求をして来るものか」

郭図は優秀な男だが、目先の利益に食いつく所があり、その弁舌ほどに能力は振るわないのが事実である。曹操と同盟を進めているのも郭図で、最終的な戦略が見えていないとしか思えなかった。或いは、青州だけを好き勝手に出来れば、満足なのかも知れない。

袁譚の配下には、他にも王修という優秀な男がいるが、彼は郭図に完全に頭を押さえ込まれており、まともに活躍が出来ない状態である。辛評と呼ばれる将軍もいるのだが、この男は寝技の達人で、今まで幾度となく態度を変えており、信頼性が薄い。それでいて、郭図と同じ程度に地位を保っている。

彼らの綱引きの上に、袁譚という本能の怪物が控えている。袁譚も、言われているほど無能ではない。事実青州はしっかり収まっているのだ。あくまで、内部に向けて外に出ないなら、という条件がつくのだが。

どう郭図をなだめるか、皆で額を併せて話し合う。

伝令が、また飛び込んできた。曹操軍の動向を探らせている者だ。

「曹操軍、進路を変えました。 冀州城ではなく、黎陽に向かっています!」

審配が立ち上がった。珍しく動揺している雰囲気である。

「なるほど、そう来たか」

「どういうことか、審配」

「黎陽は袁譚様の領土ではありますが、我が軍との緩衝地帯です。 曹操は、兄弟の仲を更に悪化させるべく、手を打ってきたと言うことです」

重要拠点の黎陽は、袁尚と袁譚の争いの舞台ともなった場所で、戦略的にも大きな意味を持つ土地である。袁煕の領土ではないが、袁譚の下にいる家臣達が動揺するのは必至であった。

袁尚が事実上脱落したことで、兄弟げんかは収まっていた。それなのに、曹操は一度収まったものを、拡大して再生産させようとしている。その悪辣な陰謀には、思わずため息が出てくるほどだ。

「恐らく、袁譚様は援軍を要求してくるでしょう。 ここは援軍を出すべきにございまする」

「ふむ、そうか。 逢紀、そなたはどう見る」

「同感です」

「ならば、お前が援軍として赴け。 三万の兵を与える。 審配、幽州と并州から兵を輸送して、冀州城の守りを補強せよ。 ?(ギョウ)にて徴兵を進め、全軍の補強も怠るな」

すらすらと命令を下す。逢紀は何名かの将を連れて、黎陽に向かった。袁譚側の主将も、それをすんなり受け容れてくれた。

さて、次はどう出るか。曹操の戦略が、未だ袁煕には見えなかった。

 

黎陽に向かった偵察部隊が引き返してくる。敵の行動は、予想以上に迅速であった。少なくとも袁煕は、曹操の侵略に充分備えていたと言うことだ。

曹操は馬上にて報告を聞く。

「黎陽城には、袁譚、袁尚の軍勢、およそ三万八千が籠城しております」

「ふむ、逢紀が出てきたか」

「もとより余計なことばかりを考える男にございます。 締め付けて、動揺を誘いましょう」

側に控えていた賈?(ク)が言う。程cもおおむね同意した。

先鋒にいる楽進は、既に攻撃の指示を今か今かと待ち受けている状態だ。同盟を申し込んできていた袁譚の軍勢は少なからず動揺している様子だが、援軍として駆けつけてきていた袁煕の軍勢は士気がとても高い。袁煕がよく彼らを統率していると言うことなのだろう。

惜しい話だと、曹操は思った。

袁煕は目立たない人物だったが、この状況を見る限り無能ではない。少なくとも兄や弟よりずっとましだ。袁家の古い体質もあるのだろうが、早めに袁紹が後継を据えていれば、充分に将軍として役に立つことが出来ただろう男である。

それが様々な問題の結果、袁尚の影武者を立てて裏から状況を操るという、二重構造の長にならざるを得なかった。それが著しく袁煕の力を削いでいる。袁紹が袁尚当たりをさっさと後継としていて、更に袁煕がその下で早くから軍勢を任され、袁譚と一緒に曹操に挑んできていたら。

こうも簡単に、曹操は黎陽を攻めることなど出来なかっただろう。河北を落とすころには、寿命が尽きてしまっていたかも知れない。

今、歴史のもしもを探っても仕方がないことだ。君主である以上、曹操は現実だけを見て、考えなければならない。

曹操は頭を切り換え終えると、周囲にとどろく声で命令した。

「楽進隊に通達。 攻撃を開始せよ!」

「攻撃開始!」

銅鑼が叩き鳴らされる。

一丸となって攻撃を開始する楽進隊を支援すべく、他の軍勢も動き始めていた。曹操の本隊も進み始める。

黎陽城は堅固な城だが、最大の弱点は、敵の意思統一が出来ていないと言うことだ。土地を抑えているのは袁譚の武将であるのに対し、最大の戦力をもって城に入っているのは袁煕の配下である逢紀である。その上逢紀は人望が薄く、兵士達は彼のことを信用していない。

前線では、弩の矢が飛び交い始めていた。攻城兵器が前に進み、盾を構えた兵士達が障害物を取り除いている。投石機が唸り、巨岩を敵の内部に放り込み始めた。城壁にぶつかった岩が、瓦とぶつかり合い、雷が直撃したような轟音を立てる。

城側の兵士達も反撃を開始する。曹操は楽進隊の動きを見ながら、後方に指示を出した。

「南門が薄い。 攻撃を集中せよ」

「はい。 敵兵が少ないようには見えませんが」

「わからんか。 どうやら袁譚の部隊は、南門だけを守っている。 そういう守備範囲になっているのだろう」

つまり、それだけ連携が取りにくいと言うことだ。

納得した伝令が飛んでいき、すぐに南門へ攻撃が集中された。投石機が四台動き出す。他の門に対しての動きは牽制と監視だけになった。

案の定、敵は指揮系統が統一されていないことを露呈し、見る間に慌て始める。本来なら増援を出すなり牽制をするなりすればよいのに、南門への防御を補助する形跡がまるで見られない。

多分今頃、逢紀と袁譚の配下が押し問答をしているのだろうと、曹操はほくそ笑んだ。

「衝車!」

「はい! 衝車、出します!」

衝車が動き出す。それを見て、敵も必死に抵抗をしてくる。だが、最前線に貼り付いている楽進配下の徐栄式騎馬隊が、機動力を駆使して走り回りながら、矢を叩き込み続けていて、簡単に組織的な反撃はできずにいた。

衝車が、傲然と動き出す。

破城槌と一体化しているこの攻城兵器は、衝撃力によって城門を打ち砕く。木によって枠組みは作られているが、燃えにくいように泥を塗られていて、また頑強な兵を選抜して運ばせる。兵士を守らせるための傘状の構造もついていて、安全性は高い。ただし、基本的に消耗品だ。

敵兵が、不意に東門を開いて、出撃してきた。激しく包囲側ともみ合った末に、城内に戻る。東門に貼り付いている徐晃は冷静な指揮を行い、ほころびを見せなかった。続いて西門。此方は張遼だが、同じく隙は見せない。

じりじりと締め上げられていく城側も、反撃を強くしてくる。投石機の一つが炎上し始める。城側が放った投石機からの油壺が命中したのだ。わっと兵士達が逃げる中、松明となった投石機はすぐに炭となった。

城壁の上にある敵側の小型投石機は、なかなかの精度だ。技術力に関して、河北は侮れないものがある。

「敵の技術者を捕らえたら、殺すな。 余の前に引き立てよ」

「は。 じきじきに拷問なさるのですか?」

「違う。 配下にする。 どうやらあの投石機にしても、余の所にあるものよりも精度が上だ。 優秀な人材は、どんどん引き立てて行く」

伝令達が命令を伝えに、各隊に飛ぶ。

衝車が南門についた。敵が必至に矢を浴びせているが、無慈悲に槌が動き出し、城門に打ち付けられる。

火花が散り、城門が拉げる。

曹操はほくそ笑む。敵の動きが鈍いのに救われている。このままだと、数日中に、この堅固な城を落とせるかも知れなかった。落とせれば、それでいい。落とせなくても、他に大きな目的がある。

「敵の増援が現れる様子は」

「今のところ、ありません」

「監視を続けよ。 この黎陽は敵にとって重要な拠点だ。 もしも余であれば、主力を率いて救出に来る所だが」

袁煕は三万という思い切った増援を出してきている。幽州や并州にはまだ余裕がある事も分かっているし、?(ギョウ)で急いで兵を集めもしている様子だ。ひょっとすると、二万か三万程度の兵を率いて、現れるかも知れない。

ただ、その時はその時だ。ある程度優秀と言っても、所詮は若造。野戦に持ち込めば、一日で木っ端微塵に打ち砕く自信が、曹操にはあった。

衝車が一旦後退し始める。かなりの数の矢を生やして、動きが悪くなってきたからだ。城門の上に集まっている敵兵に、味方の投石機が、熱した油の入った壺を放り投げ続ける。敵兵が纏めて火だるまになり、悲鳴を上げて墜ちてきた。

楽進隊がまた波状攻撃を仕掛ける。

攻撃は夜になっても、入れ替わり立ち替わり続けた。

以前宛城を攻めて失敗したとき、偽撃転殺という策を試したことがある。要するに、集中攻撃をしていた地点に敵を集め、手薄になった箇所を一気に攻略する、陽動の一種だ。その時はまだ敵だった賈?(ク)の冷静な指揮で失敗したが、今回はどうか。今まで幾つかの城を落とした実績もある策だし、試してみる価値はある。

「賈?(ク)はいるか」

「ここにおります」

善良そうな笑みを浮かべる謀臣が、気配もなく、側にいた。許?(チョ)が欠伸をしているので、周囲に危険はないと言うことだ。よくしたもので、周囲の兵士達も、許?(チョ)の様子を見て気を抜いている。

「曹丕に、偽撃転殺の計を教えよ」

「もう少し、敵将の動きを見極めさせていただきますか」

「慎重な事よな。 余を破っただけのことはあるわ。 好きなようにせよ」

拝礼すると、賈?(ク)は馬を駆って、後方に飛んでいった。曹丕はまだ後陣に控えていて、攻撃には参加していない。

動くとしたら夜半か。

そろそろ、敵には充分な打撃を与えていると、曹操は判断した。

「よし、一旦後退せよ。 三刻ほど休め」

指示を出し、陣を下がらせる。敵は、出撃して、追って来ようとしたが。徐晃も張遼も隙を見せず、結局出来なかった。

 

曹操軍が後退していくのを見て、逢紀はやれやれと歎息していた。これで、やっと一息付ける。

南門に足を運んだのは、守備場所の交代を行う交渉をするためだ。そう、この城の主将は、袁譚の配下である。兵は逢紀の方が多く率いていて、しかし主将は袁譚の配下。非常に不安定な状態であり、敵が狙ってくるとしたら其処以外にない。だから、指示を出すのではなくて、交渉をしなければならないのだ。

余計なことを考えすぎると言われている逢紀だが、当然死ぬのは嫌だ。今更曹操が逢紀を受け容れるとは思えないし、袁譚だって同じだ。特に袁譚は何を考えているのかさっぱり分からない所が多く、不信感が強い。袁尚につき、袁煕の説得を聞いて配下になったのも、それが要因の一つだ。あれを飼い慣らせるのは郭図くらいだろうと、逢紀は思っていた。

袁譚の配下である辛評は、不機嫌そうに頬杖をついて、城壁の上にある小型の砦の中にいた。何回か投石機の岩が直撃したが、構造は崩れていない。念入りに袁紹が補強しただけあり、頑強だ。

「逢紀将軍。 何用か」

「守備場所を交代しましょう。 このままでは、南門は墜ちまする」

「そんな事は分かっている! 我が軍を馬鹿にしているのか、貴様は」

「いきなりそれですか。 冷静に話し合いましょう。 今日の攻撃だけで、貴方の兵は一割近く消耗しているのです。 敵の主力が、明らかに南門を狙っているのは、我らの間隙を縫うためであること、疑いの余地もありません」

吠え猛った辛評は、そう冷静に逢紀が説いても、納得した様子がなかった。頑迷で、愚かで、どうしようもない男だ。文官をしている弟は、それなりに優秀だという話を、逢紀は聞いているのだが。

「それに、わざわざ心配してくれなくても、問題など無い」

「どうしてですか」

「今、袁譚様が、一万の軍勢を率いて此方に向かっている」

それは危険だ。于禁が国境付近に兵を展開して、攻め入る態勢を作っている。そう言うと、辛評は目を剥いた。どうやら袁譚軍では、于禁軍の動きを掴んでいなかったらしい。とんでもない迂闊さだ。

とにかく、今袁譚が青州を離れると、破滅を呼ぶだけだと説明。やっと不満げながらも、辛評は話を聞いてくれた。すぐに伝令を走らせてくれたが、外は十万を超える大軍だ。多少の暗号で誤魔化しているとはいえ、青州までたどり着けるかどうか。

「とにかく、南門は此方で守ります。 明日は休んで疲弊を取り去り、明後日以降、また南門を守っていただけませんか」

「我が軍は其処まで柔ではない!」

「ならば、せめて援軍だけでも入れさせてもらえませんか」

「くどい!」

辛評はそう言うと、部下を呼ぶそぶりを見せたので、しぶしぶ逢紀は引き下がった。もしも血を見ることになったら、この城は敵が攻めるよりも早く陥落してしまう。

櫓の周囲では、兵士達が必死の修復作業に取りかかっている。もちろん夜通しの作業だ。少しでも補修を進めておかないと、何時陥落するか分からないのである。兵士達の邪魔にならないように城壁の端を歩いていた逢紀は、歎息した。

どうして、こうなってしまったのだろうと。

逢紀はもとより、何進将軍が生きていたころからの古株だ。袁紹に仕えたのも早く、冀州を落とす際には主要な活躍もした。

だが、抑えられない野心が、いつも逢紀を駆り立ててきた。

野望が腹の奧で蠢く度に、他の将達を陥れた。その筆頭格である田豊は恐らく、袁紹と一緒に、手ぐすね引いて地獄で待っていることだろう。袁紹は晩年、逢紀をずっと側に置いていた。馬鹿なことをしないように見張るためだと、血の気のない顔で言う袁紹を、ずっと逢紀は恐れていた。

どうしても、抑えられないのだ。野心という怪物を。

身の程をわきまえぬ野心は、己の体を焼いてしまうことは分かっている。だが、出世のためとなると、どんな悪知恵でも実行に移してしまう。恨みも散々買ってきた。本当は、そんな人生は送りたくなかった。

後悔ばかりの人生が、逢紀の歩いてきた道だ。

道を振り返ると、無数の亡者が逢紀を睨んでいる。

気付く。眠っていたらしい。寝間着に着替える時間など無い。外に出ると、既に喚声が響き始めていた。どうやら曹操が、攻撃を開始したらしい。まだ早朝だというのに、疲れを知らないとしか思えない。

すぐに、麾下の将軍達を集めた。

「状況はどうなっておる」

「敵は相変わらず南門に攻撃を集中しています。 味方の投石機が既に二台潰され、城壁を登る敵の高さが増す一方にございます」

「やむを得ん。 外側の城壁は、放棄することも視野に入れるか」

不意に喚声が沸き上がる。今までよりずっと大きい声だった。

「どうした!」

「に、西門に、不意に敵が攻撃を集中してきました! 数は三万以上! 猛烈な攻撃で、戦線が崩されつつあります!」

「すぐに援軍を投入しろ! 押し返せ!」

叫びながらも、逢紀も西門へ向かう。西からの喚声は凄まじく、城内にも二度三度と巨大な石が放り込まれてきた。火矢も多く、民間人を狩りだして消火活動もしているが、追いつかなくなりつつある。

城門が恐ろしい音を立てているのは、衝車を使っているからだろう。曹操軍の指揮官が精鋭揃いであることは何度も戦って知っているが、しかしこの速さはどうだ。城壁に登った兵士が、ばらばらと落とされてくる。どの兵士も矢を受けていて、地面で頭を砕いて即死だった。

飛んでくる火矢が熱い。逢紀は周囲を固めている近衛兵も被害を受けているのを確認しながらも、自ら城壁に登る。謀臣よりの逢紀だが、それなりの戦闘訓練も受けていて、槍はある程度使える。

城壁に上がると、敵の気配が恐ろしく近かった。矢が蝗のように飛んでくる。城壁の影に隠れながら、忙しく走り回っている兵士達の様子を確認。負傷者を運ぼうとしているが、手が足りていない。

「増援はまだか!」

「今、来ました!」

城壁を上がってくるのは、五千ほどの兵だ。北門、東門から割いた部隊である。心機一転、一気に押し返そうとした瞬間である。不意に敵は引き始め、潮が引くように距離を取ってしまった。

明らかに、此方の動きが読まれている。

誰か内部に裏切り者がいるのではないのか。そう勘ぐった瞬間、今度は東門から、どっと喚声が上がった。起こったことを理解する前に、伝令が飛び出してきた。

「ご注進! 今度は東門が、尋常ならざる圧力を受けています!」

「今の増援を、すぐに東門へ! 西門の部隊は、負傷者の救出と、門の修復を急げ!」

歯がみした逢紀は、何もかもを疑い始めていた。

もとより、疑い深い性格である。このような証拠を見せられると、誰か味方が裏切っているのではないかと思ってしまう。ましてや逢紀は、今まで散々恨みを買ってきているのだ。後ろから何時刺されてもおかしくないのである。

だが、こんな時に。そう思ってしまう。

後悔だらけの人生に、また一つ後悔が加わる。逢紀は東門へ急ぎながら、誰が裏切ったのか、忙しく思惑を巡らせていた。

 

城門の上から、チカチカと光が瞬いた。徐晃は頷くと、兵を引かせる。

裏切り者、ではない。城に潜り込んだ林が、繋ぎ狼煙の要領で、鏡を使って通信してきているのだ。何人かが要所に隠れ、兵の動きを見ては、光で合図をしてきている。もちろんあまり複雑な情報は引き出せないが、逢紀は相当に焦っていて、兵の動きは丸わかりである。

「今度は北門か。 忙しい話だな」

独語すると、攻撃は副将に任せて、自身は精鋭を率いて北門に。既に張遼が攻撃の準備を整えていた。楽進はわざと攻撃の手を緩めながら、南門で待機状態である。城側も焦っているようだが、攻め手も負担が大きい戦いだ。もしも敵が、守将の下に意思統一されていて、なおかつ冷静な人物だったら。被害を増やすのは、むしろ味方だったに違いない。だが、敵はそうではない。

だから、弱点を徹底的に突くのだ。

北門に、三万の兵が終結する。唯の三万ではなく、主力部隊といっても良い精鋭達だ。指揮を執っているのは曹丕で、賈?(ク)が隣で進言をしている。こうやって先に跡継ぎをはっきりさせておくことで、後の混乱を避けようとしている曹操の行動には、頭が下がるばかりであった。

「攻撃開始!」

曹丕が叫ぶ。若干時間差はあるが、それで兵士達が動き出す。叩きならされる銅鑼が、皆の戦意を高めた。運ばれていく攻城兵器は既に砂と泥まみれだが、兵士達の血をなおも吸いたいと言っているかのように、車輪が軋みを上げていた。

即座に猛攻が開始される。今まで貼り付いていた部隊も、それを見て戦意を奮い立たせた。まるで動じず、氷のような目で見つめている曹丕。賈?(ク)が進言する度に頷いては、指示を出している。

ふと気付く。ずいぶんと反応が鈍いのは、戦場の空気を理解できていないのではないのだろうか、と。

最前線で駒を並べて指揮を執りながら、徐晃は張遼に話し掛けてみる。

「張遼将軍」

「如何した、徐晃殿」

「いや、曹丕殿は、ひょっとして戦の才が不足しているのではないのかと思ってな」

「その可能性は高そうだ。 昨日から指揮を見ているが、どうも鈍い。 賈?(ク)殿の指揮が的確だから救われているが、もしも全軍を率いた場合は、大敗の原因を作りかねないな」

仮にも曹操の嫡男に対して言いたい放題だが、昔からこの国では、言で士大夫を殺さずと言う風潮がある。ある程度の暴言は許されるのが常で、それが自由な議論と思想の発達を産んできた。もっとも、混乱期には、それが国の力を著しく削いでしまうこともままあったのだが。

衝車が突進していく。今日の攻撃だけで、既に三台を失っている。後方から続々と代わりが届くとはいえ、衝車は安い兵器ではない。苦しい生活の中で苦労してきた徐晃は、もったいないと呟いていた。

丸太が城壁に叩きつけられ、激しい破砕音が響く。拉げる扉だが、一撃で打ち砕かれる程ではない。

扉を、手をかざして見ながら、徐晃は呟いた。

「さて、そろそろ城側も反撃に出てくるかな」

「いや、曹操様の話では、一旦この辺りで攻撃を中止するそうだ」

「なるほど、内紛を誘うという訳か」

張遼はかって猪武者であったが、近年は急速に知恵を身につけてきている。まるで山の奥で育ち、人間の猟師に追い立てられ続けた虎のようである。学習した知恵により、時に人間を返り討ちにもする虎は、とても賢い動物だ。もっとも、そこまで生き残れる虎は滅多にいない。殆どは馬鹿な内に狩り立てられてしまう。

張遼も、それに近い存在になりつつあるのかも知れなかった。

城壁の上で、光が瞬く。

林の奴はきちんと仕事をしている。あの小娘を好いている人間は一人もいないだろうに、しかし重要な仕事をしていることは誰もが認めている。不愉快な話であった。

張遼が手綱を引く。

「さて、指示通り引くとするか」

「分かった。 味方の疲弊も決して小さくはない。 もしも此処で大規模な敵の援軍が現れると、面倒なことになりかねないからな」

徐晃と張遼の隊は、さっと北門から距離を取った。北門に這い上がってきたらしい敵の精鋭は疲れ切っていて、潮が引くように下がる二隊を見て、更に疲弊の色を濃くした様子であった。

今日の攻撃は此処までである。まだ日は高いが、そうせよとの命令だ。

内部での不信感を煽り、そして不意に攻撃を集中することで、南門を落とす。それが、今回の作戦の趣旨だと言うことである。納得も出来るし、合理的だとも判断できる。以前は曹操が宛城攻めで失敗した作戦だが、今回は打ち破った賈?(ク)が味方についている。弱点も充分に補強できている筈であった。

包囲を崩さないまま、一旦徐晃は自陣に戻った。

兵士達は相当に疲れている。三交代で休憩に入るように命令すると、自身は近衛を連れて、陣を見て回った。

相手が曹操であっても、戦術的に間違った判断をした場合、徐晃は独自に動くつもりだ。しかし今回、曹操は袁煕と袁譚の間に亀裂を作ることを目的として、この城攻めを行っている。事実それは上手く行っていて、徐晃が下手な行動を起こせば、逆効果になるだろう。

今頃逢紀は、城内に裏切り者が出たのではないかと、気が気ではないはずだ。実際裏切り者も飼ってはいるのだが、それはまだ使う予定にない。使うのは、辛評と、逢紀の間に、決定的な亀裂が出来てからである。

それに、城が落とせるようなら、落としてしまって良いと曹操は言っている。賈?(ク)が進めている偽撃転殺のこともあるし、今後のことを考えるとなかなか楽しみであった。

一通り見回りが終わってから自身の天幕に入り、少し眠る。元々徐晃は農民の出身だ。多少の厳しい環境くらい何でもない。すぐに眠りについて、最初から決めていたとおり、二刻半で目を覚ます。

目を覚ますと、寝間着のまま、外に出る。朝露が草に光っている、良い朝だ。兵士達も、徐晃が寝間着のまま出てきたので、慌てて敬礼した。

「良し、そなたら。 体操をするか」

「た、体操ですか!?」

「うむ。 気持ちが良いぞ」

まだ農民として健在な父と、怪我をして引退した武人の兄は、徐晃に時々体操を教えてくれた。健康に良いという事で、今でも時々続けている。洛陽の戦いで、あれほどの苦境ながら生き残ったのも、この体操があったからかも知れないと、徐晃は考えていた。

まず両手を高々と上げて、体の横をゆっくりと下ろす。それを何回か繰り返してから、次の態勢に移る。

続けて手を交差させるようにして振り、同時に屈伸する。更に体を左右に捻り、ぐっと仰ぐようにのけぞった。

兵士達はあまり上手に出来ていない。これは良くない傾向である。体操をしっかり教え込まなければならないかも知れないと、徐晃は思った。

「な、何をしているのだ、徐晃将軍」

「おお、張遼、どの! 楽しい、ぞ。 やって、みるか」

珍獣でも見たような顔をしている張遼を見て、なぜか兵士達が一斉に真っ赤になって恥ずかしがる。徐晃は別に恥ずかしくないので、ひょいひょいと跳躍した。出来るだけ高く飛ぶことが、体を温めるこつだ。

最後に手を揃えて、深呼吸。

一通り体操が終わってから、徐晃は汗が輝く音を聞いたような気がした。

すがすがしい朝が、此処にあった。

「うむ! 元気になった!」

「いつも冷静なおぬしに、そのような奇癖があったとは驚きだ」

「何を言うか。 父と、兄が教えてくれた、立派な体操だ。 張遼どのもやってみるとよいぞ。 すばらしさがよく分かる」

「そ、それはまたの機会にさせてもらおう。 それよりも、だ。 どうやら曹操様が、また攻撃を開始するらしい。 出来るだけ準備を進めておいた方がよいぞ」

冷たい水をがぶのみすると、徐晃はきらきら輝く汗を拭い、自軍に陣ぶれを出した。

なぜか、この日以来。早朝、徐晃に近付く兵士はいなくなった。

 

周囲を分厚く近衛に囲まれ、馬上にて陰気な顔で爪を噛んでいる曹丕の側で。賈?(ク)は状況の分析を続けていた。

現時点では有利である。

頑強な城の守りに阻まれているとはいえ、味方よりも敵の被害の方がずっと多い。これは敵が二頭態勢を取っていて、しかも兵力が多い逢紀が立場的に下という、非常に不安定な状況にあるからだ。敵は連携が取れておれず、場所によっては足を引っ張り合ってさえいる。

残念ながら、曹丕を側で見ていて、この男に軍才がないことはよく分かった。兵を率いさせても犬死にさせるだけだ。才がない以上、如何に鍛えても無駄だろう。虎の子は、残念ながら猫だった。

しかしながら、曹丕の時代には、司令官自身が有能である必要性は薄くなってくる。周囲の将軍達が優れていれば良いという事になってくるはずで、賈?(ク)はそれほど、曹丕の事を心配してはいなかった。

むしろ曹丕は、政務の方に才能があると思える。

陰湿で粘着質な性格も、そちらに向けば良い方向へ作用するに違いない。賈?(ク)は経験則から、そう考えていた。

前線に出ていた張繍が戻っていた。相も変わらず、騎馬隊は見事な動きを見せている。曹丕は陰湿な目でじっと張繍を見ていたが、やがて顎をしゃくった。報告をするように、という事だろう。

馬から下り、いい音を立てて抱拳礼をすると、張繍は報告を始める。

「敵軍に打撃を与えております。 このまま敵に加える圧力を調節していけば、敵内部に混乱を起こさせるのは難しくないでしょう」

「分かった。 父上の話によると、今日はこれで攻撃も中止だそうだ。 適当に戻って休め」

ねぎらいの言葉にあたまを下げると、張繍は自陣に戻っていった。

間接的に考えて、張繍は曹丕の大恩人である。曹昂が生きていたら、とてもではないが曹丕は跡継ぎになどなれなかったのだ。それを考えれば、感謝をしても当然であろうに、どうも曹丕には、そういった人間的な感情が不足しているようであった。逆に感情過多なのが曹植で、最近はそれを詩にぶつけて、傑作を幾つも生み出している様子である。

「曹丕様、一度戻りましょう」

「うむ」

「包囲を継続せよ! 三交代で、休憩を行え!」

兵士達に指示を出すと、賈?(ク)は曹丕を伴って、陣に戻る。そうすると、曹操が直接来ていた。隣には許?(チョ)を伴っており、厳しい表情をしている。

「曹丕、戦ぶりを見せて貰った。 悪くはないが、もう少し、部下を使いこなせ」

曹丕はむっつりと黙り込んでいて、曹操に促されて報告を始めた。若干たどたどしい所はあったが、要点は一応掴んでいた。

曹操は顎髭を弄って話を聞いていたが、やがて小さくため息をついた。曹昂が生きていれば、と思っているのだろう。曹昂は確かに戦の才でも人望でも申し分が無く、弾けるような知性には恵まれていなかったかも知れないが、誰からも愛される人柄だった。曹丕には、残念ながら、それが決定的に欠けている。

「分かった。 現状の作戦を継続せよ。 賈?(ク)、偽撃転殺にはこだわるな。 隙があったら落とせ。 ただし、敵を皆殺しにはせず、逃がせ」

「分かっております」

「丕よ、後で賈?(ク)に、今の余が言った言葉の意味を聞いておけ」

曹丕はじっと俯いて話を聞いていた。

その表情には、父への憧憬もなければ、憎悪も浮かんではいなかった。

曹操がいなくなると、曹丕は天幕に引き上げようとした。賈?(ク)は流石に側に歩み寄り、小声で言う。

「よろしいのですか」

「面倒くさい」

「そういわずに。 そのようなことばかり言っておられると、曹植様に、跡継ぎの座を取られてしまいますよ」

「……あの野郎、いずれ殺してやる」

確かにそれは、解決策の一つではあるかも知れない。

しかし、破滅的であったし、何とも乱暴であった。

どうやら、敵だけではなく、味方にも内部に凝りがある様子だ。袁譚や袁煕も大変だなと思いながら、賈?(ク)は曹丕をなだめるのだった。

 

3、惰眠と平穏

 

諸葛亮が珍しく出かけていくというので、董白は自身も出かけることにした。無論夫とは別の方向に、である。

未だ子供が出来る気配はないが、それでも夫婦それなりに仲むつまじく義務は果たしている。そして、互いを利用し合うという点でも、この夫婦はさながら化け狐と老狸のごとくであった。

隙さえあれば、董白の育ててきた細作組織は、諸葛亮に取られてしまうだろう。一部の権限を貸してはいるのだが、少し油断するとすぐ根こそぎ持って行かれてしまうだろう、この緊張感が心地よい。

緊張感は、精神を鍛える。

諸葛亮が向かったのは、荊州の北部。どうやら劉備に目を付けているらしく、本格的に探りを入れ始めているらしい。数人の細作を貸してやっているのだが、かなり細かい所まで調べている。

それに対して、董白は荊州の西に向かっていた。

益州と境を接するその辺りは緩衝地帯となっている。対外進出の野望を持たない劉表と劉璋の国境地点なので、平和そのものの地域だ。一応城も幾つかあるのだが、どれも牧歌的な雰囲気で、しかも防御はざる同然である。周囲で暮らしている農民達も、平和を謳歌しているようであった。

確かに、それは正しい事である。

しかし今は乱世だ。曹操は河北を制圧したら、一気に南下して天下統一を狙ってくるだろう。そうなればこの辺りも蹂躙されて、また民は苦しむ事になる。

これは平和ではなく、惰眠なのかも知れなかった。

今回此方に来たのは、益州の人材を探らせるためである。益州にも、荊州と同じようにかなりの人数が流れ込んできている。いずれも戦乱を避けてのことだが、無能で知られる劉璋の悪政や、彼が私兵としている東州兵の暴虐など、見かけほど平穏ではない益州の上、何より行く手が恐ろしく険しい。尻込みしてこの辺りにとどまる者や、漢中で引き返してしまう流民も多い。

だから、情報を集めるには、もってこいだった。

それに、新人の細作達を鍛えるのにも、絶好の環境であった。

懇意にさせて貰っている商家の一つにはいる。質素に見えるが、実は河北の田家が経営している店の一つだ。扱っているのは主に武器類である。また、情報も豊富に扱っているので、董白は重宝していた。

中にはいると、如何にも人畜無害そうな人物が現れる。だがこの男、元侠客で、五人を斬って故郷にはいられなくなったという札付きだ。笑顔は洗練されていて、田家で鍛えられたのだとよく分かる。

「これは董白様。 良い茶が入っております」

「ありがとう。 いただきましょう」

茶というのは隠語で、情報のことだ。連れてきた細作達が後ろに並んで、警戒する中。董白は居間に通された。

対林用に育てている山越の娘が、鼻を鳴らした。気に入らないらしい。褐色の肌をした健康的な体つきの彼女は、近年目立って背が高くなり、筋肉質になってきている。未だ漢語を上手に喋れず、片言になるのが可愛らしい。話によると、他の異民族関係者も似たようなもので、流ちょうに喋っていた呂布は例外だという話である。妙にえらそうになったりする者もいるそうだ。

「どうしたの?」

「この店、嘘だらけでいや」

「嘘だらけ?」

「笑顔嘘。 店の中身も嘘ばかり」

良い着眼点をしている。なぜ嘘が必要なのかを説明したが、娘はあまり納得しなかった。嘘は嫌いなのだという。しかし戦いは好きだというので、難儀な話である。役には立ちそうだが。

店主が戻ってきた。相変わらず、良く調整された笑顔を浮かべていた。

「それで、今日の茶なのですが、これくらいになります」

「少し高いですね。 まけていただけますか」

「ご冗談を。 此方も命がけで集めてきた品にございます」

しばらく、無言での競り合いが続いた。元侠客だっただけの事はあり、ちょっとやそっとで引くような男ではない。しばし考え込んだ後、男は言った。

「それでは、河北の新しい茶をおまけいたします。 それで如何でしょうか」

「ふむ、河北産の茶ですか。 内容にも寄りますが」

「それでは、半金でそちらの情報をお先にお教えいたします。 それで、残りもお買い上げいただけるか、判断していただきたいのです」

董白はしばし考え込んだ後、白い指を一本立てた。一割まけろと言う意味だ。

笑顔を浮かべていた男は、しばししてから、あたまを下げる。

「分かりました。 それで手を打ちましょう」

「交渉成立です。 河北のは良いから、まずは益州のから」

董白が手を打つと、細作部隊の長が進み出て、金の入った袋を男に渡す。男は頷くと、奥から竹簡を出してきた。

さっと目を通す。

まず益州だが、劉璋の政治に異を唱える者が増え始めている。しかしその一方で、先代の劉焉に恩を受けた家臣団は、結束を強め、憂国の意思を強めているという。

中でも張松と呼ばれる文官はかなりの暗躍を行っているらしく、積極的に周囲の勢力の人材を調べて回っているという。これに同調しているのが法正という男だ。かなりのひねくれ者だが頭は確かで、益州内部に、徐々に闇の人脈を拡げているということだ。

そして、もう一人。

国境地帯の警備をしている孟達という男がくせ者である。

この男、益州に乱あれと常に唱えている危険人物で、野心も強く、黒い噂が幾らでもあるという。益州に侵攻するのであれば、利益で釣っておけば、後々役に立つ可能性が高い男だ。ただし危険だから、いずれ排除することも考えなければならないだろう。

そして河北の情報である。

河北では、黎陽城の周辺で動きが起こっていた。

曹操が少し前に撤退した黎陽城の近辺では、なんと韓浩が屯田を始めている。そればかりか、複数の出城を構築し始め、歯がみしている袁譚軍を目の前に軍事調練まで開始しているという。

何とか城を守りきった袁譚だが、城の外に駐屯している曹操軍五万に反撃する力はなく、しかも曹操軍は成功させた屯田によって、無尽蔵の兵糧を運び込み続けている。人員は意気盛んで、交代人員が毎月のように許昌から到着していると言うことだ。

しかも、曹操が予想したとおり、城に居座っている袁尚(というか、袁煕だが)の軍勢と、袁譚の軍勢は、毎日のように小競り合いを繰り返しており、いつ血を見てもおかしくない状態だという。

ほぼ間違いなく、黎陽城は墜ちる。それも、恐らくは年内に、だろう。

曹操との同盟を進めていた袁譚は、袁尚軍に向けて多くの兵を振り分けていたという。今必死に再編成を進めている所だろうが、黎陽城に割く戦力も足りていない状況で、曹操軍を防げる訳がない。

大体の情報は、董白が掴んでいるものと共通していた。揉み手をしている主人に、艶然と董白は笑みを浮かべた。

「充分な質です。 これからもお願いいたします」

「へ、へ。 これはどうも。 今後ともごひいきに」

「帰りますよ」

「あ、これ! 湯を点ぜよ!」

一瞬だけ地を出した店主が、慌てて使用人を呼ぶ。董白は適当に切り上げると、帰りの馬車に乗った。

細作としての組織を維持するために、様々な裏の商売にも手を出している董白である。それらの殆どは、民のためにならないものだ。民のためという題目があるが、時々自分を見失いそうにもなる。

そう言う時は、こういう闇の業者の所に顔を出すことで、己のことを再確認する。そして、思い出すのだ。曾祖母の悪行を。一族が犯してきた、闇のことを。

帰り道、民の平和な歌声を聞く。

少し、元気が出た気がした。

 

黎陽城の全面に展開していた曹操軍は、どうにか後退してはくれた。しかし敵兵の規模は五万を超えていて、しかも屯田を始めている。長期戦に備えているのは明らかであり、しかも砦まで最近では築き始めていた。

このままでは、黎陽城は墜ちる。

逢紀は己の体が恐怖に包まれるのを感じていた。増援部隊の内一万五千は既に冀州城に帰してしまったし、逆に袁譚軍は増強が続けられている。近いうちに袁譚が乗り込んでくると言う話もあり、そうなるととても抑えられる自信はなかった。

城攻めが行われた、最後の日。

曹操軍は、突如として南門へ、今までで最大規模の攻撃を仕掛けてきた。辛評の苛烈な戦いぶりも、潰えるかと思えるほどの猛攻だった。いわゆる偽撃転殺だと言うことに逢紀は気付いたが、何度増援を申し出ても、辛評は首を縦に振らなかった。

その内、城門が破られそうになった。

辛評は奇策に出た。内側の城壁から持ってきていた石材類を、城門に積み上げたのだ。衝車によって砕かれた城門の奥に、土砂が積まれているのを見て、曹操軍は呆れた。城としての戦略価値を奪う行為だったからだ。

結局辛評の軍勢は半数以上を失いながらも、どうにか城の陥落だけは避けた。

避けはしたが、城内の亀裂は致命的な段階まで進行してしまった。援軍を拒否した辛評を責めた逢紀に対し、帰ってきたのは曹操と通じているのではないかという疑念だったのである。曹操がこれを見越していたのは明らかだったが、逢紀にはもはやどうにも出来なかった。

一旦、黎陽城を離れようかと、何度か考えもした。

しかしそうなると、袁煕によって任された事を達成できなくなる。そうなれば、信任が厚い審配との大きな差がつくのは明白だ。それに黎陽城を落とされると、曹操軍は冀州内における補給基地を手に入れたことになり、青州、冀州に対して、容赦ない攻撃を加えることが出来るようになる。しかも両軍の勢いからして、奪回するのは、ほぼ不可能となるだろう。

逢紀は酒量が増えた。

部下達は、それを見て、ますますやる気を無くした。

どんよりとした酔いの中、逢紀は足音を聞く。とても高い足音であった。

部屋にいきなり入ってくる。侍従が突き飛ばされて、怯えながら部屋の奥に蹲った。逢紀が顔を上げると、なんと袁譚であった。

「逢紀、何を酔っておるか!」

「袁譚様、これは」

「黙れ! 辛評から話は聞いている! 貴様が曹操と通じ、敵に有利な情報ばかり流し、あまつさえこの城を乗っ取ろうと考えていたことはもはや明白だ!」

そういって、袁譚が目配せをすると、もはや人間の残骸としか言いようがないほどに壊された部下の一人が、床に転がされた。拷問を受けたのは明らかだった。そして、拷問の結果、言われるままに様々なことを「自白」してしまったのだろう。

辛評の差し金だ。

暗澹たる気持ちとなった。

これでは、この城は落ちる。袁煕の戦略は、瓦解してしまう。

醒めていく酔いの中、見る。袁譚が何か喚きながら、剣を抜いていた。こうなってしまうと、もう袁譚は何も話を聞かない。それは、今までの事でよく分かっている。そのような男だから、周囲から人も離れていったのだと。

「せめて、俺の手で手打ちにしてくれる。 何か、言い残すことはあるか、叛将」

「分かりました。 どうせ何を言っても聞く耳は持たないでしょうから、一つだけ言わせていただきます」

「ほう」

「この昏君! 畜生道に墜ちよ!」

次の瞬間、逢紀の首は、袁譚が振るった剣によって、胴体と切り離されていた。

 

郭図は、冷静に場の動きを見ていた。

逢紀は気付いていない様子だったが、ずっと郭図は袁譚の斜め後ろに控えていて、状況を観察していたのである。

そして、結論は出た。逢紀は、別に裏切って等いなかったのだろうと。これはえん罪であり、袁譚は無為に有能な人材を殺してしまったのだ。

しかし、それでなお。郭図はほくそ笑む。

全て計算通りだからだ。

袁煕がもし袁譚勢力との合体工作をして、それが成功した場合。郭図の権力は、現状と比べて著しく墜ちることになる。両翼と言われている辛評は見ての通り将器にはほど遠い男で、この黎陽城で使い捨てにしてしまえば、残る大物は郭図だけになる。

最初、郭図は袁煕との合体工作に賛成していたのだ。

しかし、最近考えが変わった。袁煕は調べれば調べるほど、簡単に操れる君主ではないのだ。

今、郭図が考えているのは、袁譚を操りながら、まず曹操に臣従し、隙を見て曹操を殺すという策であった。

曹操さえ殺してしまえば、後はどうにでもなる。もちろん曹操は簡単に殺せるような相手ではないが、奴は時々とんでもなく単純な失敗を犯すことがある。それにつけ込むことさえ出来れば、充分に可能なことであろう。

「おのれ! 俺が、俺の何処が昏君だ! 許せん!」

吠えながら、袁譚は剣を振るい、逢紀の死骸をずたずたに切り刻んでいた。その狂態を見て、兵士達がますます心を離すのに、気付いていないのだ。郭図はこれでいいと思う。ますます操りやすくなるからだ。

面倒な王修は直言ばかりするので、袁譚に嫌われ、最近では近づけさせてももらえない状況だ。

一時期、袁尚の変わり果てた姿を見て、袁譚は大人しくなってしまった。それで不安もあったのだが、逢紀が死に際に馬鹿なことを言ってくれたおかげで、また操りやすい袁譚に戻った。これで袁譚は、袁煕を憎むようになり。また性格に問題があるとはいえ大事な腹心だった逢紀を殺された袁煕も、袁譚の行動を、決して許しはしないだろう。

「さて、袁煕将軍の派遣してきた一万五千ですが、どうしたしますか」

「追い出せ! この不埒者の首ももたせてな!」

跡は任せると吐き捨てると、袁譚は大股で血まみれの部屋を出て行った。

さて、袁譚は近々この城を失うだろう。連れてきた一万を加えても、今城には二万の兵しかいない。

それは更に袁譚を追い詰め、郭図への異存を強くすることにつながる。ますます専横を振るうことが出来るようになるから、一石二鳥。いや、辛評の権力を更に削ぐことが出来るから、一石三鳥か。

袁譚が大股で城を出ると、愛馬に跨った。

本当に操作しやすい男だ。郭図は袁譚の本拠である青州城へ戻る途上、更に操作しやすくなるように、耳に甘言を吹き込んだ。

「今回の苦戦も、きっと逢紀が曹操軍に情報を流していたからでしょう」

「むう、そうか。 そうかもしれんな」

「今後は、更に軍備を増強なさると良いかと思います。 曹操よりも先に、袁煕めを倒さなければならないかも知れませんから」

「……考えておく」

妙に歯切れが悪い。しかし此処で追求を強めても、逆に疑惑を持たせてしまうかも知れない。

青州城に着くと、袁譚は自室に引きこもってしまった。

郭図が意図した行動ではない。袁譚はもっとこう、荒れ狂って、周囲の家臣達を恐れさせるようでないと困る。

とにかく、部屋に引きこもってしまった袁譚を引きずり出しても仕方がないから、郭図は一旦自宅に戻ることとした。

自宅は客の誰もが驚くほど質素で、ほとんど私物を蓄えていない。この辺りは、蓄財の癖がある審配とは正反対である。鈴を鳴らすと、子供達が来た。いずれも戦災孤児ばかりだ。男の子も、女の子もいる。一番大きな子供は、そろそろ成人するころだ。

一番大きい子供が、他を代表して言った。

「郭図様、お帰りなさい!」

「うむ、今帰ったぞ」

郭図自身が、戦災孤児だ。一族の殆どを黄巾党の乱で失い、放浪している所を袁紹に野良犬のように拾われた。

子供達の頭を撫でながら、郭図は思う。

あの時の無念を、絶対に忘れない。

どのような事をしてでも、権力を得てやるのだ。

もとよりあの黄巾党の乱も、無能な漢王朝の悪政によるものだ。宦官と外戚の争いを放置したことによって、多くの文化人が無意味に粛正され、その一部は悪政で疲弊した民衆と結びついて、大規模な反乱を起こした。

自分が権力を得たら、同じ事は二度とさせない。

子供達と戯れて充分に英気を養った郭図は。寝台に転がると、明日から如何にして袁譚を効率よく操作するか、考え始めたのであった。

 

逢紀が惨殺されて、袁煕は憤った。その場で大軍勢を編成して、青州に攻め込もうとまで言い放った程である。

これを引き留めたのは審配であった。

「落ち着かれませ、袁煕様」

「し、しかし袁譚め! 兄とはいえ、何という無体なことを!」

「分かっております。 しかし、此処で乗せられてしまえば、曹操の思うつぼにございまする」

そう言い聞かせると、袁煕は黙り込む。

昔から、袁煕は審配の言うことだけは良く聞いた。きっと、孤独であった子供時代の、心の傷が影響しているのだろう。しかし審配は、あまり袁煕を操作して、権力を得ようとは思わない。蓄財にはあれほど興味があるのに、である。

「分かった。 今回の件は、目をつぶろう。 しかし、場合によっては、袁譚が攻め込んで来かねないが」

「防ぐのは、私にお任せください。 それよりもです。 黎陽城が墜ちることになったら、恐らく青州も無事では済みません。 あの城は戦略上の要所で、もし陥落すると、曹操は僅かな守備部隊だけを此方に備える目的で残させて、大軍を一気に青州に投入することが出来ます」

その上、曹操は黄巾党の残党討伐で、青州の地形を熟知している。袁譚の軍勢は、逆に青州の民から歓迎されていない上に、余所の州の出身者が多い。元々、袁紹によって振り分けられて、袁譚についているだけの兵も少なくはないのだ。曹操が攻め込んだら、ひとたまりもなく打ち破られてしまうだろう。袁尚に比べて戦が上手かも知れないが、袁譚と曹操では手腕が違いすぎる。

そして、青州が墜ちたら、次は冀州か幽州だ。并州まで曹操の手が伸びたら、その時にはもう袁家は滅ぶ寸前であるといえた。

「どうすればよい」

「また、黎陽城に援軍を送る必要があるかも知れません」

「し、しかし、袁譚が聞き入れるだろうか」

「此処は心苦しい所ですが、何とか説得するしかありませぬ。 説客を選抜して、袁譚の所に送り込む他ありませぬ。 そして、私の考える所、この件には郭図が暗躍しているように思えてなりません」

郭図と審配の確執は有名だが、それだけで言っているのではない。どうも、最近郭図が、せっかく進んでいた合体工作を邪魔しているようにしか思えない節が見えてきたからである。

鮮卑に対する工作も、進めている所だ。ただしこれに関しては、曹操は西涼の諸侯を動かしているので、簡単にはいかないかも知れない。今并州にいる高幹に命じて西涼の諸侯の切り崩しを進めている所だが、曹操の投入している金額は大きく、なおかつ暗躍している細作組織の規模が違っている。苦戦しているという報告を、受けるばかりだ。

幾つかあった問題を協議すると、もう夜中になってしまった。

袁煕は肩を叩きながら、寝室に引っ込む。

審配も、ここ数日寝ていないことを思い出して、自宅に戻ることとした。

蓄財を進めている彼の家は、周囲の将軍宅に比べても抜群に大きい。帰り着くと、使用人達が、審配を出迎えた。

審配はもとより袁家に使えてきた武門の家柄で、一族の多くが袁家の高官となっている。しかしながら殆どがろくでもない能力しか持ち合わせておらず、権力闘争にしか興味のない無能者ばかりだ。

審配がしっかりしなければ、袁煕だけではない。審家そのものが、滅んでしまうことになるだろう。

まず風呂に入ってしっかり体を休めると、食事もそこそこに、寝台に潜り込む。

今まで気を張っていたから眠くはなかったが、自宅に戻ってしまうとそうはいかない。しっかり洗濯してある温かい布団に潜り込むと、すぐに睡魔が審配を襲った。

目が醒めると、もう翌日。

疲労はまだ完全に回復したとは言えないが、今は一刻一秒が惜しい。

大きく伸びをすると、屋敷を出る。

今度はいつ帰ってくるか分からない。屋敷の中にある宝物の一つでも持ってきて、肌身離さず持っておけば良かったと、審配は考えていた。

 

黎陽城の前に展開している曹操軍五万の指揮を任されているのは、名目上は曹丕である。しかし軍才に乏しい曹丕では、堅城として曹操軍の攻撃を凌ぎきった黎陽城を落とすのは難しい。

そのため、賈?(ク)が付けられていた。

兵の殆どは屯田に従事しており、戦乱で荒れ果てた土地を耕して、時には畦を作って水を引き込んでもいた。

後数年で見事な田畑に生まれ変わるだろう土地を横目に、賈?(ク)は曹丕に言う。

「そろそろ、城攻めの好機にございます」

馬上で、視察に参加していた曹丕は、陰気な目で賈?(ク)を見つめた。曹丕は嫡男になってからも、この陰気な所が治らない。かって曹植派だった部下に陰湿な虐めを行い、見かねた曹操が直属の部下にして助けたこともある。その時も曹操に怒られたのだが、反省している様子はなかった。

張繍が戻ってくる。張遼と並ぶ騎馬隊の将として活躍している張繍は、今丁度脂がのりきっている。漲っている力を見ると、どう見ても張繍の方が、この部隊の指揮官に見える。実際前線指揮をしているのは、張繍だった。

張繍は陰気な目をしている曹丕に、馬を下りて抱拳礼をする。曹丕は応えない。

「曹丕様。 敵は疲弊し、内部でも疑心暗鬼が横行している様子です。 攻めるならば、今が好機にございます」

「……」

「曹丕様、私も賛成です。 この城を落とせば、曹丕様の戦歴は更に箔がついて、曹植様の及ぶ所ではなくなるでしょう」

そう、少しあざといかとも思いながら、賈?(ク)はおだててみた。

曹丕はまるで彫像になってしまったかのように動かなかったが、面倒くさそうに対応はしてくれた。

「分かった。 攻めよ」

「は。 では、張繍将軍」

「うむ。 行って参るぞ」

張繍が声を掛けると、兵士達が一斉に進み始めた。

味方の兵力は五万。しかもこの場にいるのは四万五千ほどだ。残りは韓浩に従って、周囲に屯田のため散らばっている。張繍を見送りながら、賈?(ク)は思う所が色々とあった。

「曹丕様、少しはねぎらいのお言葉を。 優れた指揮官であり、軍歴も貴方より長い将軍です。 敬意を払い、技を盗もうとしてみては」

「そうだな」

「部下達も、不安に思っております。 考えてみてください」

あまり追い打ちを掛けるとやぶ蛇になるから、その辺にしておいた。曹丕はそれから、一言も喋らず、張繍の城攻めを見ていた。

袁尚ではなく袁煕の軍勢が引き上げてから、黎陽城の守りは明らかに劣化している。指揮系統が統一されたのは良いのだが、その代わり士気が下がった様子である。鋭い張繍の攻めに、反応する守兵の動きがとても鈍い。

張繍が、南門に攻撃を集中し始めた。城内に撃ち込まれた火矢が、効果的に敵の戦意を削いでいるのが、目に見えて分かった。城内が燃え始めている。水の備蓄はあるはずだが、怪我人が出続ければ消火速度も遅くなる。

やがて、陽が落ちたので、張繍軍は攻撃を停止した。

充分な戦果が挙がった。城内の敵兵は、もう疲弊の極に達している。それに対して味方は意気が上がる一方だ。

夜、宴会になった。天幕の中に、主要な将が集まり、軽く歓談する。曹丕は相変わらずむっつりと黙っていたが、やがて張繍を呼び寄せた。

「父上と戦った時と、今と、どちらが楽だ」

「今かと。 正直、城内にいる敵は、曹操様とは比較さえ出来ませぬ」

「そうか」

「しかし、手を抜くつもりはありません。 このままなら、一月以内に、あの城を陥落させることが出来ましょう」

既に、包囲の一角はわざと開け始めている。敵兵がそれをみて、少数ずつ脱出し始めているのも分かっていた。

そして、もう一つ、味方には吉報があった。

「袁譚の領土から抜け出してきている流民どもは、増えているか」

「日増しに。 韓浩将軍が屯田兵の手伝いをさせて、使えそうな者はそのまま味方に引き入れています」

「ふん。 調子が良い連中だ」

「みな、生きるのに必死なのです」

冷酷な言葉に、賈?(ク)は懸念を抱く。曹丕は苦労を知らない。曹操は若いころから既に権力を確保していて、曹丕はその下でぬくぬくと育った。だから、という事もあるだろう。

生きるために放浪しなければならない流民の苦労など知らないのだ。

一度、酷い目にあった方がよいのかも知れないと、賈?(ク)は考えていた。

早朝、賈?(ク)は早起きして、細作達から報告を聞く。

夜、兵の脱出が更に増えたという報告があった。中には、情報を持って降伏してくる兵士までが出始めているという。

どうやら、この城はもう落ちる。

そう、賈?(ク)は確信した。

 

4、陥落、そして

 

黎陽城から脱出した辛評の軍勢は、一万強にまで目減りしていた。戦闘による疲弊も大きいのだが、それ以上に脱出した兵士達の数がとても多かった。兵糧や馬を盗んで逃げる兵士も多く、それが致命的なまでに士気を引き下げていたのだ。

あらゆる責任を逢紀に押しつけて言い逃れをしてきた辛評も、逢紀がいないのに、事態が悪化する状況を座視できなくなったのだろう。そう、張繍は分析した。

愚かな男だと、張繍は思う。

一国一城の主となったのだから、責任は全て自分にある。

そうでなければ、どの兵士が、命を預けようと考えるだろうか。

追撃の許可が出た。四千の軽騎兵だけを率いて、張繍は野を駆ける。徐栄に教わった事の全てを動員して、疾駆する。

ほどなく、隊列も整えず、ばらばらに逃げている敵の姿が目に入った。

城の制圧は賈?(ク)に任せてしまって大丈夫だ。如何に曹丕に軍才が無くとも、城に残った敗残兵ごときに遅れを取る賈?(ク)ではないだろう。

「追撃する! 敵を一兵たりとも、生かして帰すな!」

「殺っ!」

叫びが木霊した。

もとより、剽悍な鮮卑族も多く含んでいる騎馬隊である。一度戦いになると、その獰猛さは言語を絶する。わっと逃げ散る敵を、そのまま押しつぶしに掛かる。馬蹄に掛けられ、吹っ飛ぶ敵兵には目もくれない。

狙うは辛評の首だ。

それだけ取れば、秩序は完全に崩壊する。

敵陣を真一文字に打ち砕く。時々反撃もあったが、散発的なものに過ぎなかった。何ともろいと、張繍は内心呆れた。曹操軍に勝った時もそうだが、敗軍とはどうしてこうももろく弱いのか。

見えた。辛評だ。

側近とともに、大きな馬に跨り、快足を駆使して逃げている。

西方から来た大型の馬だろう。流石に士官だけあり、良い馬に乗っている。部下に言って、矢を射かけさせる。既に、抵抗を試みる敵部隊はいなくなっていた。

「仕留めよ! 放てー!」

引き絞られた矢が、蝗のように飛ぶ。その内一本が、辛評の肩を後ろから貫いた。だが、流石に落馬しない。ばたばた倒れる護衛達の中、それでも馬首にしがみつくようにして、辛評は逃げ続けていた。もちろん、部下などには一顧たりしていない。

そのあまりに不甲斐ない姿に、張繍も流石に思う所があった。

二度、曹操を破った。最初に破った時、曹操は恐ろしく陳腐な罠に掛かった。だが、それでも、此処まで情けない行為を見せたことはない。

徐栄の下について、戦を学び続けて。故に、戦でするべき事は理解しているつもりだ。それが故に、最低限のことさえしていない相手には、苛立ちも募る。

「待て、腰抜け! 兵士達を苦しめ、責任は他人に押しつけ、自分だけ逃げるつもりか!」

「やかましい!」

意外である。悪口に答えがあった。

しかし、まるで反省する気もない。殺意が頂点に達した張繍は、辛評という将を、最悪の屑として忘れぬ事にした。

張繍は自ら弓を引くと、矢を放つ。一本の閃光となって空を駆けた矢が、辛評の背中に潜り込んだ。呻き声が聞こえる。だが、落馬しない。

そろそろか。そう思った張繍に、副官が馬を寄せてきた。

「そろそろ、青州です!」

「ふん、命拾いしたな。 全軍! 停止せよ! 追撃は此処までだ! 逃げ遅れた敵兵は捕虜にせよ!」

深追いすれば、勝利をひっくり返される可能性も大きい。

歴戦の武将である張繍は、それを良く理解していた。ましてやここから先は、まがりなりにも、敵の領土なのだから。頭を切り換える。許せぬ相手ではあるが、しかし。兵士達の命の方が大事である。

全軍を纏める。被害は七十人だけだった。

それに対して、敵は追撃戦だけで四千を失い、更に二千八百が捕虜となっていた。青州に逃げ帰ることが出来たのは、わずか三千数百という惨状であり、完全勝利と言って間違いなかった。

曹丕の陣へ、凱旋する。

兵士達は喚声を上げていた。

河北の攻略には、下手をすると十年かかるとも言われていた。一年程度で、その足がかりになる黎陽城が落とせたのは、まず僥倖と言って良い所であった。

曹丕は相変わらずむっつり黙っていて、抱拳礼をして報告をするも、あまり嬉しそうにはしなかった。

それが一抹の不安にはなる。

だが、勝ちは勝ち。そして、武勲は武勲。

今まで、曹操が武勲に報いなかった事は一度もない。張繍の任される土地は、以前宛を抑えていた時よりも大きくなる可能性が高い。曹丕の態度が不安だが、それ以外は万々歳と言って良かった。

曹丕が天幕に引っ込んだので、張繍は賈?(ク)に話し掛ける。

「賈?(ク)、どうやら私は、更に先を目指すことが出来そうだ」

「牛後につくより鶏頭になれという言葉もありますが、この判断は正しいかと思います」

「ああ。 徐栄様に、顔向けが出来るかも知れん。 私は、英雄になる」

最初、張繍は降伏したことを、後悔したこともあった。

だが、今は能力を全部発揮することが出来て、幸せである。

徐晃とともに、このまま曹操の下で、英雄への道を駆け上がりたい。そう張繍は思い続けていた。

 

青州に逃げ帰ってきた兵士は、全員が負傷していた。中には、退却の途中で力尽きてしまうものもいて、その悲惨さに青州の民は恐怖さえした。

更に彼らを恐れさせたのが、袁譚による辛評の処罰である。もとより青州の民は、袁譚を残虐な君主で、えこひいきばかりすると認識してしまっている。辛評が無能で、自業自得の敗北をしたことよりも。袁譚の残虐性ばかりが目立っていて、そちらが先立ってしまっていた。

だから、意外にも。辛評が処刑されずに済んだ時。民は驚いた。

それらの事情を、優秀にいる田豫は、逐一掴んでいた。

既に、曹操軍から来た細作も、店に出入りしている状況である。この間に到っては、林が直接店に来た。

もとより田家は曹操へ恭順する意思を示してはいる。更に、曹操軍に人脈を築くことにも腐心している。だが、田豫としても、此処は決断しなければならなかった。下手をすると、そのまま戦火に、店や商品が踏みにじられてしまうだろうから、だ。

腕組みして、田豫は窓の外を見た。

既に、曹操軍が河北に攻め込み始めて、一年以上が経過している。そして今、重要拠点である黎陽城が墜ちたことで、冀州と青州は危地に立った。もちろん、今まで袁家には稼がせて貰ったという恩もある。しかし、そろそろ見切りを付ける所だろう。

鈴を鳴らすと、細作達が現れる。

皆、もう袁家に忠誠がないことは確認済みだ。

全員に小分けして、竹簡を渡す。一人二人が欠けても、現地で暗号と組み合わせることにより、内容を理解できる仕組みになっている。

「これを、曹操に届けて欲しい」

「は。 しかし、曹操の近辺には、あの林が護衛についております。 また、すぐ傍らには、許?(チョ)がおります」

「連中を我らの戦力で突破するのは、著しく難しいです」

「分かっています。 だから、曹操に直接届けるのではないよ」

狙うのは曹丕だと言うと、彼らも納得した。

曹丕は曹操の嫡男である。しかも人望が無く、林の組織でも護衛はしていないことが分かっていた。周辺に腕利きはいるが、それも絶対ではないだろう。

曹操軍の状況は、混沌を究めている河北に比べると、随分分かり易い。田豫の分析だと、曹丕は父がくれたのではない、直属の自分だけの部下を欲しがっている。周囲に対してむっつりと黙り込んでいるのも、それが要因であろう。

だから、直属の部下を提供することを餌にして、手紙を曹操に届けさせる。

曹操も、跡取りの持ってきた手紙を、無碍には出来ない。其処を巧く使って売り込み、曹操の部下としての地位を確保しつつ、将来を見据えた布石にする。

以上の説明をすると、細作達は顔を見合わせた。

「なぜ、貴方のような人が、商人などしているのです」

「貴方は陳平のようだ。 いにしえの大謀略家にも劣らないように見えます」

「そんな大したものじゃないよ。 僕はただ、商人の家に生まれた。 それが気に入らなくて、家を飛び出して、劉備将軍に色々鍛えて貰った。 ただ、それだけだよ」

若干不審がってはいたが、それでも細作達は部屋を出て行った。

肩を叩くと、これが失敗した場合にも備えておかなければならないと思い、田豫は策を巡らせる。

豊富な資金も、無限ではない。

劉備と敵対するつもりは、今後もない。しかしながら、曹操の作る政権の中で生きて行くには、曹操に膝を屈する他無い。

好き嫌いの問題ではないのだ。

生きるか、死ぬかの問題なのである。

平和な世の中では、自分の好き嫌いで、生きる道を決められるかも知れない。乱世でも、英雄と呼ばれる人間であれば、自分の好みや信念で、生きる道を選ぶことが出来るのかも知れない。

しかし、田豫は普通の人間だ。

多少利口かもしれないが、それ以上でも以下でもない。

部屋に妹が入ってきた。幾つかの店の売り上げ集計を頼んでいたのだ。周囲に人がいないことを確認すると、妹はいきなり本題に入った。

「売り上げは上がる一方です。 本当に袁家を斬り捨てるんですか?」

「残念だけど」

「何だかもったいないです。 それに、袁尚様も、最近は乱行がやんで大人しくなっていると言うではないですか」

「それは違う。 今、実際に政権を握っているのは袁煕様だろう。 袁尚様は、影武者だな。 本人は既に消されたか、或いは監禁されているか。 ただ、袁煕様の器もなかなかだけれど、曹操様はその遙か上を行っている。 それだけだよ」

袁煕の素質が低いとは、田豫も思っていない。

だが、劉備のところで、徹底的に鍛えられた人物鑑定目が、告げているのだ。曹操には、どうやっても勝てないと。

妹は、そう説明すると、大きく歎息した。

「劉備将軍に物資を横流ししていることが、ばれないとよいのだけれど」

「……僕にも、譲れない一線は、あるんだよ」

「分かっています。 だから、止めません」

「ありがとう」

少し理解してくれた妹に、素直にあたまを下げる。

まだまだ、予断は許さない状況だ。今後は曹操軍の動きを注意深く見つめながら、店や物資の位置を、適切に変えていく必要があるだろう。

商人には、商人なりの戦い方というものがある。

それは古来から軽蔑もされてきた。

しかし、多くの食えない人間が放浪する時代には、逆に意味も持ってくる。そう信じて、田豫は己の仕事を続けていた。

 

新野。

劉備が劉表から任された前線基地の名が、それであった。

長江を渡った北にある、劉表軍の数少ない拠点の一つ。宛から南下すること数日。少し北には、曹操軍の前線基地が幾つかある。また、南へ行くと、意外に近くに荊州の最重要拠点である襄陽があるので、実際にはかなり重要な防衛拠点である。劉表が、劉備を如何に高く評価しているかが、これでよく分かる。

汝南から脱落もせずついてきた一万二千の兵の内、劉表軍には四千を編成して貰った。小さな新野では、あまり多くの兵を養うことが出来ないし、何より曹操軍を警戒させる訳にはいかないからだ。また、編成して貰ったとはいえ、四千の兵はいずれも劉備に心服しており、各地に散った今も様々な情報をもたらしてくれていた。

八千と多少兵の規模は小さくなったが、陳到にはそれで丁度良かった。あまりの大軍勢だと、巧く動かせるか自信がない。それに今回は、張飛や関羽に加えて、趙雲、それに文官達もいる。汝南の時のように、全権を任されて辟易すると言うこともなく、中堅の士官としてのんびりと己のやり方を貫くことが出来ていた。

新野は長く劉表の前線基地であったが、元々宛の張繍は劉表の配下だったこともあり、著しく防備が劣っていた。まず最初にしなければならないのが掃除であった辺りで、どれだけ貧弱な城であるかが明らかであろう。

城壁も、人間が圧すだけで崩れそうな場所が幾つもあった。城門に到っては何と木製で、火を掛けられたら耐えられそうにない。

民衆は劉備を歓迎してくれていた。また、農民も、中原では考えられないほどに多い状況である。

そして何より、国譲が密かに送ってくれる金品と武具が、助けになっていた。

今日も陳到は、二千の兵を訓練がてらに、城外に出て補修が必要な箇所を確認していた。やはりかなり痛んでいる箇所が多く、雑草が生えている場所さえ散見される。瓦の一種を積み上げた城壁は、熟練者であれば手で登ることが可能でさえあるのだ。あまり悠長に構えている訳にはいかなかった。

城の周囲を一回りする。牧歌的な雰囲気の田畑が何処までも広がっている反面、軍そのものに対する農民達の目は冷たい。無理もない話で、彼らの殆どは、北から逃げてきた流民達を、劉表が受け容れ配置したものなのである。流民となった者達は、誰もが軍の恐怖を身に染みつけてしまっている。恐れるのも無理はなかった。それに、陳到自身がそもそも逃散農民の出だ。彼らの苦悩と苦痛は、嫌と言うほど分かった。

どちらにしても、大量の流民を受け容れることによって、荊州の国力は、一気に高まったのだ。農民の数の多さからも、荊州の持つ桁違いな潜在力がよく分かる。見回りを終えると、陳到は兵士達を整列させる。殆ど新兵はいないので、訓練は基礎ではなく応用が中心となってきていた。

「今日は城攻めの訓練を行う。 本来、城攻めは攻城兵器と、兵士達の連携を密にして行うものだが、残念ながら今我が軍は、攻城兵器を備えていない」

苦笑する者はいない。というのも、此処にいる兵士達の殆どが、汝南から逃げてきた者達ばかりだからだ。誰もが曹操軍による怒濤のような攻めの恐怖を知り尽くしており、それ以外の数少ない新兵達も、流民としての放浪経験を持っている者ばかりだ。戦争は、誰にとっても、遊びではないのである。

「攻城戦は、戦の中でももっとも厳しいものの一つだ。 他には撤退戦も厳しいが、これについては別の機会に訓練を行う。 今日の訓練は、出来るだけ危険がないようにするが、それでも気をつけよ」

城壁の上に、趙雲が現れる。五百ほどの兵士が、弓を構えていた。鏃はついておらず、代わりに丸めた布が付けられていた。布には赤い顔料が塗られており、当たると一目で分かる仕組みである。

もちろん目に当たると危ないので、兵士達には気をつけさせなければならない。

「今日は城壁から降り注ぐ矢を防ぎつつ、攻城兵器を城壁まで付ける訓練をする。 もちろん実戦では、敵が落としてくるのは矢だけではなく、油や石もある。 矢にも、火がついていることがある。 いずれにしても、殺傷力が高く、当たったら無事では済まぬから、心しておくように」

「はい!」

兵士達が唱和した。

攻城兵器を味方が備えていないとはいえ、梯子くらいなら備えている。また、農民達から借りた荷車もある。それを攻城塔に見立てて、石を満載して押すのだ。盾は一応、少し古くなってはいるが、ある。実戦ではこれに泥を塗り、更に火に強くなるようにして使うのである。

「もしも曹操軍の拠点を攻めることになった場合、劉表様の軍勢から、攻城兵器が支給される! それをすぐに使いこなせるようにしておくのも、訓練の一つだ。 よし、それでは事前に打ち合わせていた通りに動け!」

兵士達が、さっと持ち場につく。

城壁の上にいる兵士達に、それに併せて旗を振った。趙雲が手を振り返してくる。訓練の開始だ。

さっと盾を持った兵士達が展開して、攻城兵器を守る。

銅鑼を鳴らすと兵士達が進み始めた。城壁の上に展開している兵士達は動かない。しかし、味方がある一線を超えた瞬間。全軍が一つの生き物であったかのように、同時に矢を放った。

盾を構えていた兵士達の何人かが、兜や鎧に矢を受けた。すぐに後方に下がる。代わりの兵士が、盾を構えて前に。攻城兵器にも、何本かの矢が突き刺さる。

城壁の上にいる小柄な兵士が、やたらと腕が良い。矢を放つ度、確実に兵士が減っていく。銅鑼を早く鳴らさせ、対応をさせる。何人か、その兵士の矢が届く範囲内の盾を厚くさせた。それでも、確実に味方の被害は増えていった。

最初の梯子が城壁に着く。

だが、梯子には、かなりの箇所、赤くなってしまっている場所があった。

最後の梯子が城壁に着いた時、兵士達の一割近くが矢を受けていた。

「よし、一旦後退!」

城壁の上に旗を振る。趙雲も頷き、打ち方を止めた。

無事だった兵士達と、そうではなかった兵士達を集めて、それぞれに訓戒する。無事だった兵士の中にも、要領よく立ち回るばかりで、なんら攻城兵器を運ぶのに寄与していなかった者もいたので、そういう輩は厳しく叱った。

また、矢を受けた兵士達の中にも、無謀だったり、盾の持ち方が良くないものもいた。戦場では死んでいた事を説明して、しっかり叱っておく。

最後に、優秀な動きをしていた兵士を褒めた。中には、前回良い動きが出来なかった者もいて、素直に喜んでいた。

訓練が終わった後、何名かの兵士を残す。

いずれも、直接やり方を教えるために残した者達だ。陳到も一緒になって訓練をすることで、少しでも腕を上げて貰う。

陳到はもう、中年にさしかかってきている。体力的にも衰えてきているし、腕力もそうだ。だが新兵の殆どは、陳到よりも更に身体能力が低く、経験で言えば比べものにもならない。武具の技に関しては、比べる対象としてそもそも間違っていると言わざるを得ない者達だ。

兵士達と円座を組んで、陳到は皆を見回す。中には、この反省会の常連になってしまっている兵士もいた。

魏延というその男は、どうも飲み込みが悪い。腕は抜群に良いのだが、どうしても訓練ではいつも悪い動きが目立つのだった。

戦場にも何度か出ている。そのたびに、それなりに武功を立てている。

実戦で力を発揮できる型の男なのかも知れず、説教をしながらも、陳到は時々呼ばなくては良いのではないかとも思う。

「戦場では、多くの兵士達が死ぬ。 兵士達だけではなく、体を張って指揮をする武将達も死ぬ。 其処には、多くの運が絡んでくるのも、事実だ」

だが、と言葉を切る。

「訓練をしっかり積んでおけば、死の確率は著しく減るのも事実。 盾の持ち方一つで、随分怪我をする確率が減る。 次は、更に精進できるように、しておいて貰いたい」

皆の顔を、陳到は覚えておく。

頭が良くない陳到は、配下の全員を覚えることなど出来ない。だが、それでも、少しでも多くの兵を記憶に刻んでおきたいのだ。

趙雲が降りてきた。側に、さっきやたら良い動きをしていた小柄な兵士を伴っていた。正体は分かっている。

兜を脱ぐと、長い髪があふれ出た。ジャヤである。

まだ顔立ちには幼さが残っているが、この娘くらいの年で結婚することは、乱世である以上珍しくもない。環境が厳しくなればなるほど婚姻の年齢は下がる傾向にあるからだ。そろそろ趙雲も子供だと言ってあしらえない状況になってきている。腕もかなり上がってきていて、陳到もうかうかしていると追い抜かれてしまうだろう。

変な話だが、年と性別を超えた強敵であった。

「どうだ、趙雲。 今日は、三十人も仕留めたぞ」

「ああ、見事だった。 ただ、目立ちすぎる。 反撃を受けて死ぬぞ」

「むう、分かっている」

「二人とも、夫婦漫才はその辺にしておいてほしい。 せっかくだから、訓練の締めに加わってくれないだろうか」

夫婦漫才という言葉に不満そうな顔を両者別々に見せたが、それでも話には従ってくれる。

訓練の最後とは、死をイメージすることだ。

死のイメージは圧倒的で、恐怖を伴う。だから、次からは訓練に身も入る。陳到も、弓矢を持って、おもむろに立ち上がった。

私刑にならないように、注意深く行わなければならない。

盾の持ち方を何度か指導してから、至近距離から矢を受けて貰う。

それによって、恐怖でまず体に覚え込ませる。兵士達は皆蒼白になっていたが、矢を受けると尻込みしてしまう者もいた。魏延だけは別で、矢を受けようが槍を貰おうが平然としていた。

訓練が終わった。手を叩いて、陳到は皆に呼びかける。ぐったりとしている兵士が多かった。

「よし、今日は解散とする。 色町に行くなり自宅で寝るなり、好きにして休むと良いだろう」

無言で頷いた魏延が、街の方に向かう。正直な男である。趙雲は、大柄な魏延の背中を見送りながら言った。

「あの男、あまり人望は無さそうだが、実戦では大きな力を発揮できそうだ。 小隊長止まりでは惜しい。 士官に抜擢してはどうか」

「分かりました。 進言してみましょう」

「ジャヤはあの男を好かん。 何だか、雰囲気が嫌だ。 腕がよいのは認めるが」

ぶーぶー文句を言うジャヤは、背も伸びてきていて、そろそろ陳到に並びそうである。男に混じっている上、長身の趙雲と並んでいるから小柄に見えるが、女性としては長身の部類にはいるだろう。

陳到も最近疲労の蓄積が早い。戦時ではないので、ある程度抑えてはいるのだが、ジャヤの成長速度を見ていると、追いつかれたくないと思ってしまうのだ。皆が解散してから、訓練場へ向かう。

其処で夜遅くまで、陳到は弓を引いていた。

 

夜遅く、陳到は訓練場に呼びに来た張飛に伴われて、新野城の執務室に赴く。疲れているなどというのは理由にならない。この時間の呼び出しと言うことは、余程のことが起こったという事だからだ。

既に執務室には、関羽、張飛らの主要幹部と、重臣達が勢揃いしていた。趙雲と並んで席に陳到がつくと、劉備が皆を見回した。

「夜分すまない。 皆に集まって貰ったのは、河北の情勢に変化があったからだ」

「変化とは」

「袁譚が、曹操に降伏した」

劉備の側に控えているシャネスが頷くと、竹簡を出す。それは、国譲からのものに間違いなかった。

「どうやら、曹操軍の圧力に、屈しきれなくなったらしい」

「しかし、降伏したくらいで、無事に済むとは思えません」

「無事に済むさ。 大人しくさえしていればな」

そう言ったのは、張飛だった。意外な発言である。関羽も、それを捕捉するように、意見をする。

「張飛の言うとおりだ。 私は曹操という男を側で見て来たが、あの男は非常に賢い反面、価値判断がはっきりしている。 役に立つか、立たないか。 それだけだ。 袁譚が今後造反行動に出なければ、殺すまではしないだろう。 ただし、造反に出れば、容赦なく叩きつぶして、一族郎党を滅ぼすだろうな」

「いずれにしても、今重要なのは、袁譚の行く末ではない。 河北の攻略を曹操が更に進め、南下して来る時間が早まった、という事だ」

劉備がそう言うと、皆が呻く。

分かってはいた。分かってはいたのだ。

河北を片付けたら、曹操は間違いなく、荊州に攻め込んでくるだろう。それも、十万を最低でも超え、下手をすると二十万を遙か凌駕する大軍で、だ。

その時、矢面に立たされるのは、新野だ。二万や三万の軍勢なら、どうにでもなる。今この新野に駐屯しているのは、関羽や張飛といった歴戦の、しかもこの中華でも五本の指に入る達人達に指揮された歴戦の部隊だ。五万や六万の兵に匹敵するくらいの活躍であれば、充分にする。

問題は、荊州の状況だ。

劉表と蔡瑁、黄祖の連携が上手く行っている荊州は、現時点では鉄壁だ。

ただし、派閥闘争は河北同様広がっていて、このまま行くと劉表が死んだ時、内部崩壊を起こす可能性が高い。特に深刻なのは、病弱だが有能な長男劉埼と、無能だが健康な次男劉綜の争いだ。現在は、蔡瑁の姉が劉綜の母と言うこともあり、次男派の方が、勢いがぐっと強い。

そして困ったことに、どうも蔡瑁は劉備のことを敵視しているらしいのだ。

「蔡瑁は有能な男で、荊州の存続には欠かせない存在だ。 そう言う意味では、江夏を守っている黄祖も同じだが、此方はそれ以上に偏屈で、江夏のことしか興味がない様子でな」

「ふむ、八方ふさがりですな」

「そう言うことだ。 早めに蔡瑁派との確執を取り払うか、劉埼様を嫡男に据えさせるか、どちらかが必要になってくる」

善良で真面目な劉埼は、劉備を頼りにしている様子である。劉綜自身もそうらしいのだが、問題は蔡瑁になる。蔡瑁にしてみれば、長年我慢してきた権力への渇望を、一気に満たす好機だということだろう。

しばしの沈黙が続いた。

陳到は、少し考えた後、挙手する。

「それならば、まず問題にするべきは、二つかと」

「陳到、申してみよ」

「はい。 まず一つは、蔡瑁派との関係を改善すること。 これは劉備様が尽力するしかないかと思います」

「簡単ではないが、そうなるな」

劉備が頷く。実際問題、頑迷な男を納得させるのは、劉備の得意分野である。陳到が出来ることではない。

「もう一つは、江東の孫政権をどうにかすることです。 荊州の軍事力と、我が軍の組織力が合わされば、江東を一気に陥落させるのは、難しいことではないと思うのですが」

「ふむ、なるほど。 確かに、一理ある」

現在、荊州は江東に対して守勢に出ているように思われている部分もあるが、実際には違う。

対外進出の野望がない劉表が、江東への進出を一切考えていないだけのことだ。荊州の西にある益州にしてもそうだし、江東にしてもそう。もしも荊州の潜在能力を用いて進出すれば、落とせない場所ではないのだ。

ただし、それには、劉表の説得が絶対に必要になるだろう。

新参の陳震が挙手した。現実的な考え方をする男であり、手腕は平均的。軍事の才能もあり、あらゆる方面で活躍できる男だ。

「いっそのこと、荊州を乗っ取ってしまうのはどうでしょうか」

「それも手の一つではある。 だが、劉表政権は堅固で、しかも民の信頼を、ある程度かちえている。 そういった政権を乗っ取るのはあまり好ましくない。 我らの目的は、あくまで民のために戦うことだ。 手を汚すことも考えることはあるが、しかし今荊州を乗っ取ることは、あまりにも本末転倒に過ぎる」

「遠回りをなさいますか」

「遠回りであっても、だ。 私の人望を作っている根源が、「民のため」だということを忘れてはいかん」

そう言われると、陳震も引き下がらざるを得ない。

劉備を形作る人徳の根源が失われてしまえば、確かに、もはやその依って立つ土台が無くなってしまうのだ。そうなれば、兵士も多くが離れていってしまうだろう。それに、士気も致命的な段階まで下がってしまう。

劉備の場合、能力的に、搦め手を取ることも出来る。

だが基幹戦略として、民衆のことを第一に、と考えているが故に。多くの民や兵士達から歓迎され、様々な部分で動きやすくもなっている。

良い例が、新野の民衆だ。

兵士達は信頼していなくても、劉備に全面的な信頼を寄せているからこそに、反乱も起こさないのだ。

もちろん、曹操も根源では民のことを考えて、統一を目指しているだろう。だが、彼の場合は、あくまで現実主義、実存主義が前に出ている。劉備はそれを敢えて逆手に取ることで、乱世で己の存在を誇示しているのだ。

逆に言えば、だからこそ劉備は信頼できるとも、陳到は思う。

逃散農民の出だから分かる。根本的に民のためという戦略を頭に置いている劉備は、それに基づいた行動しかしない。最初は、純真に民のためを思って行動しているのだと、陳到は思っていた。それが戦略なのだと気付いた後も、劉備に従う態勢は変えていない。それで、良いのだから。

陳到が劉備の元を離反することがあるとしたら、それは劉備が戦略の転換を行った時だろう。

何か言いたそうにしていた糜芳が、続いて挙手した。

「北にいる曹操の隙を突くことは出来ませんか。 今なら宛を抑えることは、さほど難しくないように思えますが」

「それは難しいな」

関羽が一刀両断。好戦的な張飛でさえ、いい顔をしていない。会議の場を始めとして、劉備の前では無口な張飛に代わって、陳到が口を開く。

「まず、宛の周囲だけでも二万五千の敵がいる。 それに、時間が掛かれば、更に多くの敵が集まってくる。 ついでに言えば、曹操は南を開けているのではない。 開けられるから、留守にしているのだ」

「それは、どうしてでしょうか」

「備えは充分、しかも劉表は北へ進む気配がないし、江東の孫家は、荊州に掛かりっきりだ。 我が軍八千だけで何が出来る。 その上、曹操の大敵である河北は既に分裂状態で、袁譚は既に降伏さえしている。 下手に手を出せば、十万以上の軍勢で即座に攻め込んでくるぞ」

青ざめた糜芳が引き下がる。そう、もしも侵攻作戦を行うつもりなら、荊州の兵力が必要不可欠なのだ。それも一万や二万ではなく、十万程度の兵は最低でも必要になってくるだろう。

色々な意見が出されたが、どれも解決策にはほど遠いものばかりであった。

「長期的な戦略を立てられる人材が足りないな」

劉備が言うと、その場の全員が頷く。

結局はそれなのだ。短期的な戦略は、此処に何人も優秀な将軍がいる。政治面でも外交面でも、実績のある人間がいる。基幹戦略は劉備が立てればいい。だが、国家運営と長期戦略を出来る人間がいない。

シャネスが挙手する。細作とはいえ、影働きでずっと劉備軍を助け続けた彼女は、二十歳そこそこの若さで、幹部並の発言権を得ていた。

「私が、何か探してくるべきでしょうか」

「在野の人材が好ましいが、最悪荊州の劉表政権に不満を持っているものでも良い。 長期的な戦略を立てられる人物が欲しい」

「それは、頭でっかちでは駄目で、実績がある方がよいと」

「実績は問わない。 使えそうだったら、それこそ小僧でも小娘でも構わない。 今はもう、時間がないのだ。 このままでは、この中華は、曹操の圧倒的な力に飲み込まれるだろう」

頷くと、シャネルが下がる。

劉備も、皆を見回した。

「私は早速明日から荊州に向かい、劉表殿と折衝をしてみるつもりだ。 皆もこれから積極的に荊州に足を運び、在野の人材を捜索して貰いたい」

「はっ!」

「陳到、そなただけは此処に残り、新兵を監督し、兵士達を鍛え上げて欲しい。 私は張飛と関羽と供に、襄陽に向かう。 他の皆は、江夏、夏口、江陵、荊州の重要地点を出来るだけ積極的に回り、人材とその情報を集めるのだ」

陳到は、それを聞いて安心した。

もとより、広範囲に人脈を拡げることなど、苦手の骨頂である。自分に出来る速度で、黙々と兵士達を鍛え、城を守る方が性に合っている。次々と出て行く武将達を見送り、内心歎息していた陳到に、最後に出て行こうとしていた劉備が振り返った。

「すまない。 いつもこのようなことばかり任せている」

「劉備様がそのように謝られることではありません。 むしろ私には、これが一番性に合っています」

「そうか」

「それよりも、劉備様こそ、お気を付けください。 百戦錬磨の蔡瑁は、簡単に尻尾を見せたりはしないでしょうから」

劉備は頷くと、部屋を出て行く。

陳到の子供達も、そろそろ成人する。姉は婚姻の相手を見つけてやらなければならないし、弟は軍に入れるか文官にするかを決めなければならない。この場にはいない最初の子だって、生きていれば今頃身の振り方を考えさせなければならなかっただろう。

陳到は、今生きている。

だから、むしろ性にあった仕事が出来ることは、幸せなのだ。

そう陳到は思うと、訓練で疲れた体を起こして、自宅に戻ることにした。

何処か、小さな不安が、残っていた。

 

5、小さな火種

 

漢中にて、兵を募集している。その噂が西涼に流れ込むと、多くの食い詰めたあぶれものが、漢中に流れ込んでいった。もとより西涼は、群雄が割拠する危険な土地。未だに政情が定まらず、多くの小勢力が好き勝手な殺し合いで日夜血を流しあっている場所だ。腕自慢であっても何時死ぬか分からぬ危険な場所。漢中のように安定していると伝わる場所へ、逃れたいというものは少なくないのである。

もとより、群小の村が無数に存在し、それを纏めるために五斗米道という共通言語が必要となった土地である。流れ込んできたよそ者は、すぐに今まで同様各地の村に振り分けられたが、その過程で無数の混乱が発生した。

今までも、多くのよそ者が流れ込んでは来ていた。だが漢中に永住しようとするものはあまり多くなかった上に、ほとんどは従順だった。だが、今度流れ込んできたのは、血で血を洗う抗争が日常となっていたような連中である。兵士として雇う分には構わないのだが、そうでない者達に対する対応には、流石に苦慮せざるを得ない。そして、いつのまにか。

武人達を纏め上げて、成り上がっている不思議な集団が出来ている。そしてその集団は、西涼とも関連を繋ぎ、漢中に巨大な勢力を作り上げつつある。

そんな不穏当な話が、揚松の元に届いていた。

 

夜中、揚松は呼び出され、張魯の下へ向かった。いつもながら、昼間は愚劣な俗物の仮面を被り、夜に辣腕を振るうこの生活は肩が凝る。闇に紛れて漢中城の街を急ぐ張魯は、護衛の細作達に、何度か振り返った。

「分かっていると思うが、気をつけろ」

「はい」

最近、各地の街で、細作への襲撃が相次いでいるのである。いずれも犯人は西涼から流れ込んだ闇の勢力と思われ、検挙された者はいない。細作達には注意するように呼びかけているが、役人に手が伸びる可能性もあり、今は皆が注意していた。

幸い襲撃はなく、漢中城の裏口に辿り着く。

張魯は奥の部屋で、張衛と供に待っていた。明かりに照らされた彫りの深い顔に、強い憂いが浮かんでいる。

「揚松、参上いたしました」

「うむ。 早速だが、それを見て欲しい」

拝礼した揚松が竹簡を手にする。中には、とんでもないことが書かれていた。目を通す内に、顔が引きつっていくのがよく分かる。まこと、漢中にとって、とんでもない話であった。

「漢中に、林の勢力が入り込んでいる!? こ、これは、一体誰から!」

「匿名の投書だが、笑い飛ばす訳にもいかん。 益州攻略のために兵を急いて集めすぎたのかも知れん。 嘘であるなら良いのだが、最近の細作襲撃事件を考えると、あながち笑い飛ばすことも出来ん」

「もしも林当人が来ているのなら、どれだけ被害が出るか分かりません。 屈強の武人が相手ならともかく、細作ならば一人で十人を同時に相手にすると言う化け物じみた輩ですぞ」

思わず興奮して、誰もが分かりきっていることをまくし立ててしまった。

慌てて口の端に飛んでいた泡を拭う。しばし深呼吸して心を落ち着けると、ようやく動悸が戻ってきた。

「揚松よ、落ち着いたか」

「は。 見苦しいものをお見せしました」

「揚松。 軍の編成自体は、苦慮しながらも進んでいる。 益州への国境にも、砦を幾つか建築中だ。 近々、攻め込むことは出来る。 だが、足下は任せたい」

張衛が苦しそうに顔をゆがめて言った。無茶だと分かりつつ、困難を押しつけているという風情だ。

そう言われてしまうと、揚松としても断ることが出来ない。

幾つかの打ち合わせを終えてから、屋敷に戻った。

しかし、簡単に眠ることは出来なかった。表向きの仕事は弟に任せるにしても、今回はものが違う。河北で主力部隊と交戦しているはずの林が漢中に来ている可能性は低いと揚松は考えているのだが、もし奴が本当に此処に来ていたら、対応できる人員など殆どいない。

興奮をどうにか冷ますと、幾つか策を練っておく。もしも林が現れた時に、対応できるように、である。

眠りについたのは、もはや早朝であった。そして、数刻もしないうちに、地力で目を覚ます。

部屋の外に、気配が集まっているのを感じ取ったからだ。

細作部隊を纏めている長の内、河北にいない者達が全員来ていた。河北で対曹操軍の任務に就いている細作の長は四人。今漢中に残り、細作の育成に当たっている者が二人。そして、残りの五人は、怪我をしたり、年を取ったりして、引退した者達だ。

揚松は弟に、いつも通り馬鹿騒ぎをしておくように指示を出すと、自身は一番奥の部屋に入った。細作達と重要な話をするときにのみ使う、防音性能が非常に高い部屋だ。しかも外から入ろうとすれば、丸見えになる構造になっている。そして、脱出路まで完備されている。

此処でならば、余程のことがなければ、誰かに遅れを取ることはない。

鏡だらけの部屋の一角に腰掛けると、他の細作達がぞろぞろと入ってきて、跪いた。頷くと、揚松は皆の顔を見回した。

「既に知っているかと思うが、漢中に林の勢力が入り込んでいるという投書があった」

「実は、覚えがあります」

挙手したのは、二月前に引退した細作である。河北で林と遭遇してしまい、部下達を逃がすために盾となったのだ。その結果、左腕を失い、右目も視力を半減させた。顔には二つ、大きな向かい傷を刻んでいる。

「雷、覚えとは」

「林配下の劉勝という大男が、最近漢中で目撃されています。 林の部下でも、優れた武勇を持つ事で有名な男です」

「それは、まことか。 本当だとすれば、由々しき自体だ。 他に、同様の目撃経験がある者は」

二三、手が上がった。いずれも直接ではないが、劉勝や、他の林配下を目撃したり、中には部下からの交戦報告が上がっているのだという。

どうやら、間違いなさそうだ。林との交戦報告が無いことだけが、救いであろうか。

林自身が来ていないのであれば、どうにかなる部分も多い。奴の部下には優秀な人材が多いとはいえ、手に負える連中ばかりである。やはり、桁違いの戦闘能力を持つ林だけが、対応の鍵であった。

「それでは、目的について、何か心当たりがある者はいないか」

「……実は、私に思い当たる節があります」

「張、申してみよ」

頷いたのは、張と呼ばれる細作部隊の長である。彼女は漢中では珍しい女性細作で、今では一線を退いて後続の育成に当たっている。林と何度か交戦して生き残ったこともあり、漢中では功績を考慮して若くして幹部扱いとしているのだ。

「西涼から流れ込んできた者達が、不穏な動きを見せていることには、心当たりがあるかと思います」

「うむ。 それで」

「現在、彼らを収容している南部の村の一つに、不可思議な動きがあるのです。 どうやら西涼の不満分子と、林の組織が、導師と呼ばれる男を中心に、結束を開始している節がございまして」

「導師、だと」

元々宗教的に立国しているとも言える漢中だが、その実は村々の代表として張魯が立つ、合議制に近い態勢だ。もちろん、五斗米道に基づいた宗教的な統治を望む村の長も何名かいるが、此処まで強烈に宗教臭を感じさせる事件は初めてである。

「その導師という男、五斗米道に基づいた行動を村人達に勧めているため、表向きからは調査が出来ません。 何しろ、何一つ悪いことはしていないのですから」

「確かにそうだ。 面倒なやり口を考えたな」

「はい。 村は今や、独立王国も同然です。 そればかりか、他の村の長達の中からも、導師とやらに意見を聞きにいく者が出始めている有様です」

このままだと、五斗米道として正しいことをしている導師とやらが、大きな影響力を持つようになるのは避けられないだろう。張はそう締めくくった。

他の細作達も、張の言う導師については、思い当たる節があるという。腕組みして、揚松は大きく歎息した。

漢中の統治には、共通の言語が必要不可欠だ。無数の村が乱立し、狭い地形が入り組んでいて、争いが絶えなかった土地だからだ。五斗米道という芯があることによって、初めて漢中は、張魯の下まとまったと言っても良い。

此処で導師という男を始末した場合、その根底が緩んでしまう可能性が高い。それを理解した上で、導師と呼ばれる男は、漢中の権力機構に食い込んできていた。非常に厄介なことであった。

「暗殺は、出来ないか」

「難しいでしょう。 既に村々の長が、導師に心を止せ始めています。 張魯様がなぜ導師を認知しないのかという騒ぎさえ起こりかねない状況です。 彼らにとって、聖人なのでしょう」

「なるほど、下手に暗殺などしたら、暴動に発展しかねないと言うことか」

「はい。 発覚が、あまりにも遅すぎました。 ひょっとすると、林の部下に此方が目を向けている隙に、組織を構築したのかも知れません」

それにしては、あまりにも短時間で事が成せてしまっている。

ひょっとすると、林の組織と、導師とやらはつながっているのではないのか。もしそうだとすると、恐ろしい事であった。

挙手した男がいた。斑と呼ばれる、小柄な男だ。左目を任務で失ったが、未だに現役の細作として活動している。

「実は、細作の間にも、導師に荷担する者が出始めているという噂があります」

恐怖のあまり、場が、水を打ったように静まりかえった。

このままでは、制御が利かなくなるかも知れない。

平和とは言っても、漢中の民も知っているのだ。いつ乱世が、漢中に持ち込まれてもおかしくないことを。だから、神にすがり、その慈悲に救われたいと考える。

宗教による支配が絶対ではないこの中華であっても、それに代わりはない。心弱き民は、何処にでもいる。それを責めていても、始まらないのだ。

「これは、益州への侵攻どころではないぞ」

揚松の呟きは、空に流れていた。

 

漢中の奥地。秘境と言っても良い其処に、今や導師と呼ばれ、周囲の尊敬を一身に集める男がいた。

長く白い髭とふくよかな笑みはまさに天神のよう。厳しい修行に耐え、苦行と供にあれば幸せを得られることを説くその聖人は。

しかし。

董承という、別の名前も持っていたのである。

民衆の間に確実に根を張り巡らせた董承は、ついに表舞台に出てきたのだ。漢中と西涼、しめては益州までも手に入れ、漢王朝を我が手にするために。

かって董承は、曹操の権力を奪うことで、漢王朝の中興の祖として名を残そうとしていた。

しかし、今は少しばかり違う。

四角い台に立ち、ふくよかな笑顔で彼が見つめる先には、まるで木偶人形のようにひれ伏す、無数の民がいるのだ。

今や張魯でさえ、董承の影響力は無視できない。何しろ、五斗米道を何一つ裏切ってはいないのだから。

張魯は理論だけで漢中を抑えられると思っていた。それが大きな間違いだ。

董承は、董俊から引き継いだ狂気をもって、この土地を支配する。もちろん、裏からだ。やがて今構築しつつある西涼の武力を持って曹操の背中を討ち、蜀を平らげ、荊州や長安も制圧して、天下に覇を唱える。

その野望が、聖人を思わせる董承の全身に、油のように漲っていた。

台から降りると、董承は裏に引っ込む。其処では、林の部下が待っていた。劉勝である。

「調子がよいようだな、董承」

「今は佐慈だ」

「どうでもいい。 兎に角、林大人のご命令だ。 謹んで聞け」

この劉勝という男が、林に心服していないことは、董承には分かっていた。乱世で生きるには正直すぎるのだ。所詮は鮮卑出身の出稼ぎ軍人。多少は利口でも、悪知恵の塊である漢人とは比較にならない。

「しばらくは、力を蓄えよと言うことだ。 西涼の軍事力は、まだ育てておく必要がある」

「ほう。 曹操を討つにはまだ早いと」

「そうだ。 今はお前の人脈を駆使して、西涼を纏めにかかれ。 曹操が隙を見せた時に、林大人が指示を出す」

「分かった」

董承がそう言うと、劉勝は唾を吐きそうな表情で、闇に消えた。

鼻で笑うと、董承は手を叩く。張魯や揚松の生ぬるいやり方を気に入らず、董承の私兵となっている細作は多くいる。いわゆる過激派と呼ばれる連中を、董承は非常に巧みに取り込んでいた。

影から現れたのは、斑と呼ばれる小柄な男。揚松の信頼する、だが董承にも忠誠を誓っている二叉だ。

「お呼びですか、佐慈様」

「張魯に、そろそろ圧力を掛ける時だ。 益州に侵攻させる」

斑は頷くと、劉勝の後を追うように、闇に消えた。

しばし高笑いすると、董承は口に出さず、呟く。

天下は、私のものだと。

 

(続)