残された者達の浪費

 

序、河北の動乱

 

袁紹が統一したことで、ようやく平和が訪れた河北。

昔から、この土地は豊かではあったが、動乱が絶えなかった。漢民族より遙かに強大な戦闘能力を持つ遊牧騎馬民族達の領土に境を接していることもあり、巨大な軍事力が与えられる諸侯が多く。故に、対立や諍いも絶えなかったのだ。

それも、袁紹の手によって統一がされ、ようやく民は平穏を甘受していたのだが。しかし彼らは既に、新しく袁紹の跡をついだ袁尚に、見切りを付け始めていた。

無能なのだ。とにかく、どうしようもなかった。

もとよりあった人望も、顔が良いという事から起因しただけのものであった。

後を継いでみると、我が儘で、欲張りで、どうしようもない男であった。

家臣達の妻を召し上げる。己ばかり金銭を蓄える。佞臣を侍らせ、忠臣を遠ざける。とにかく、昏君(ばかとの)と呼ばれる人間がやることは、あらゆるものに手を出していた。宦官を侍らせ、彼らの言うことばかり聞いているという悪評も、巷に流れ始めていた。しかも昼間から酒を飲み、政務にも出てこない事が多いのだという。

あの袁術や董卓でさえ、もう少しはマシだったのではないか。誰もがそんな言葉を囁くようになっていた。

そして、彼の兄である袁譚は、独立の動きを見せ始めていた。

袁尚は最初、青州にある袁譚の領土を取り上げようとしたのだ。だが、袁譚は徹底抗戦の構えを見せ、領土の召し上げを拒んだ。結果、袁尚は曹操の侵攻を恐れて、その領土を取り上げる事を断念した。

だが、袁譚にしてみれば、そのような経緯など関係ない。よりにもよって弟に、領土を取り上げられそうになったという、恨みだけが残ることになった。

最近は、袁譚は、曹操に使者を派遣して、積極的に同盟工作を行っているのだという。あまりにも稚拙すぎるやり方故、民間にも情報がだだ漏れになっていた。

それらの情報は、既に河北の大富豪、田家の元にも届いていた。

 

田豫は複数の情報筋から、袁家の内部分裂の兆しについて、情報を得ていた。いずれも最初は確度が低かったのだが。最近は取引先からだけではなく、いわゆる憂国の徒と呼ばれる過激派が暗躍するようになり始めており、彼らの情報を掴むことによって、噂が嘘ではないことを悟り始めていた。

家臣団の分裂も著しい。

かって袁尚を推していた家臣の中にも、今は袁譚派に切り替えている者もいて、混乱は凄まじい。田豫でさえ、紆余曲折の挙げ句袁尚派に属した審配や袁譚派の巨頭となっている郭図と言った大物の動向はどうにか理解できているが、きな臭い動きをしている呂翔将軍や、更に騎馬民族に備えている者達の動向などは、もはや掴み切れていなかった。

このような情勢である。武器は、飛ぶように売れた。個人でも買う者が多かったし、袁尚や袁譚もそれぞれが独自に買い取りを打診してきた。鍛冶は総力で動かしており、在庫が溜まる様子など無かった。

しかし、富は隠しておかなければ危なかった。

今日も、田豫は客に応対していた。彼は袁尚の所を離れ、曹操の所へ行く途中だと言っていた。

大きな目と骨張った顔が特徴の若武者である。郭淮という名前であった。

田豫は彼らのような、優秀な武人に気前よく金品を渡しては、情報を受け取っていた。そのため、河北を離れる武人達は、こぞって田豫の所を訪れるようになっていたのである。

既にいい年なのに、まるで汚れを知らない少年のような容姿であることも、客の警戒を削ぐ材料の一つになっていた。田豫はあらゆる意味からも、今や人間関係の達人的な存在であった。

「郭淮どのは、やはり曹操様の所に仕官するのですか」

「そのつもりだ」

「ならば、私から融資いたしましょう。 ただし、その代わり」

「分かっている。 貴方に、ある程度の情報は提供しよう。 国の機密になるような事は教えられぬが、な」

田豫は頷くと、妹に命じて、まとまった額を郭淮に持たせてやった。帰ろうというそぶりを見せたので、使用人を呼ぶ。

「湯を点ぜよ」

「分かりました」

「いや、田豫どの。 すまなかった。 この恩は、いずれ必ず」

「期待しております」

入り口まで、郭淮を送っていく。郭淮は何度も申し訳なさそうに、田豫にあたまを下げていた。その行動に嘘がないことを、しっかり田豫は見抜いていた。この郭淮という男、頭はとても良いのだが、正直な所がある。

今回も、出会い頭に郭淮は、面白いことを言った。

噂を聞いてきた。黄河を渡る金が足りないので、融資して欲しいと。

将軍をやっていた郭淮だが、家族を養うので実情は一杯一杯であったらしい。その家族と、抱えている家臣達ごと黄河を渡るとなると、確かに船を丸ごと借り切るくらいではないと駄目だ。

袁尚の政権になってから、郭淮は「無能だから」という理由で、降格された。実情は、袁尚に賄賂を差し出さなかったのと、美貌の妹を後宮に収めなかったのが原因であったらしい。それらの情報を掴んでいた田豫は、笑顔で融資の申し出に応じたのだった。

どのみち、袁尚政権は近いうちに瓦解する。十年と保つ事はないだろう。

次に来るのは間違いなく曹操の政権であり、その際には、郭淮や、他の将達にも恩を売っていたことが意味を持ってくるのだ。

劉備には恩を感じている。だが、同時に、生きるための努力も欠かさない。

それが、戦乱の世界を生き抜いてきた田豫が持つ、顔に似合わぬしたたかさであった。もちろん劉備も、それを怒るようなことはないだろう。そういった信頼感がある。いずれ劉備がこの大陸を接見した時、田豫はまた仕えられると良いなと思っていた。

門から戻ってくると、毒舌家の妹が、呆れたように田豫を見つめていた。やりとりの一部始終を目撃していたらしい。

「また、あのような馬の骨に大金を渡して」

「馬の骨なものか。 郭淮どのは、保守的な袁紹軍で、庶民出身でありながら、あの若さで将軍にまでのし上がった傑物だよ。 いずれ必ずのし上がるから、融資しておいて損はないさ」

「本当に?」

「人を見る目は、劉備様に教わっている。 心配するな」

妹の肩を叩くと、田豫は奥に。今日だけで、あと三十人ほど面会しなければならない。ちょっと肩が凝るが、それも仕方のないことだ。

妹には以前苦労を掛けた負い目があるから、小言は聞くようにしている。どちらにしても、まだまだ田家には力も富も足りない。本来は利敵行為とされるような行動を取ってしまっているのは事実で、何かあった時のために、力を蓄えるのは当然のことであった。

深夜、やっと面会が終わった。

郭淮の他には、袁尚政権のお偉方が何人かと、後はどうしようもない金をたかりに来ただけの破落戸ばかりであった。六人には丁重にお帰り願い、後は適当にあしらった。

仕事が終わったので、裏の仕事に掛かる。

儲けの一部を、また劉備の所に流すのだ。

既に劉備の連絡は来ていた。シャネスが直接、荊州に逃れ、今では新野と呼ばれる前線基地に駐屯していると知らせてきたのだ。武具類をそちらに送ることは、既に何度かやっている。

手を叩くと、顔に向かい傷がある、凄みのある老人が部屋に入ってきた。

かって羊に仕えていた熟練の細作だ。

既に袁尚の政権に見切りを付けていて、田豫に自ら雇われに来た。既に袁尚の細作組織では、怪物同然である林に為す術が無いらしく、無駄に死にたくないという理由もあったようだ。

腕が良いので、田豫は重宝して使っていた。

「お呼びですか、田豫様」

「うん。 また、劉備様の所に、武器を届けようと思っている。 手伝ってくれるかな」

「仰せのままに。 曹操の領土も、最近は突破が難しくないので、林にさえ気をつければ、どうとでもなるでしょう」

「油断はしないようにしてね。 毎回、結構薄氷踏む思いをしているんだから」

礼をすると、細作は下がる。

それにしても、一個人がこの男のような優れた細作を使えるようになっている時点で、既に袁尚政権は末期にさしかかっているのかも知れない。そう思うと、哀れでもあり、滑稽でもあった。

様々な裏の帳簿を付ける。表の商売は妹に任せきりだが、向こうは特に問題も発生していないから、田豫が口を挟むことはしない。文句ばかり言う妹だが、田豫を信頼もしてくれてはいるようなので、其処だけは心強かった。

そういえば、そろそろ田豫もいい年だ。妹も結婚するのには少し年を重ねすぎているし、それは田豫も同じ事。

妻を迎えなければならないのだが、適当な相手がいない。昔、女に非常にもてた田豫だが、田家の当主になってからは、逆に周囲は女日照りとなっていた。

「さて、どうしたものかな」

独り言を呟く。

気がつくと、眠り込んでしまっていた。

 

目が醒めた田豫は、買っている細作の一人が、自分に毛布を掛けていることに気付いた。もういい年をした、髭を蓄えた逞しいおじさんの細作である。どうせなら美女の細作が良かったとか、適当なことを考えつつ、田豫は声を掛ける。

「寝てないよ。 今起きた」

「重要な情報が入りましたので、執務室に入らせていただきました」

「重要というと、何?」

「ついに、戦が始まりました。 袁尚が、袁譚に戦を仕掛けましてございまする」

一瞬で眠気が消し飛んだ。

商売の好機だと言うこともあるが、それ以上に。ついに、河北の袁尚政権が滅ぶ時がやってきた。

一ヶ月や二ヶ月では滅ばないだろう。袁紹が作り上げた地盤の強固さは、尋常ではないからだ。

だが、これで滅亡は決まった。曹操が事故死でもしない限り、確実である。

「袁譚はどう対応している」

「郭図将軍に兵を任せて、すぐに迎撃に出ました。 袁尚軍の先鋒は、郭図軍に粉砕されて、大きな被害を出したようです」

「やれやれ、あの郭図に敗れるようなら、大概だね」

「審配将軍は城の守りを任されているようで、前線に出ておりません。 恐らくは、袁尚に警戒されているのでしょう」

審配にも複雑な事情があることを、田豫は掴んでいる。

それにしても、袁紹が死んだら、一年もせずにこれだ。袁紹は常日頃から息子達の不出来を嘆いていたという話だが、無理もない。曹操であれば、適当な武将を養子にして、粛正していたかも知れない。

「すぐに曹操が攻め込んでくるだろうな。 その時に、我々も備えておいたほうが良さそうだ」

侍女を呼び、妹を起こしに行かせる。

曹操の所に、まだそれほど太い人脈は用意していない。せっかく此処まで大きくした店も、荒れ狂う軍にはそのまま蹂躙されてしまう可能性がある。今の内に、幾つか打っておかなければならない手があった。

居間に出ると、妹も不機嫌そうな顔をして起き出してきた所であった。細作が何名か、集まってくる。いずれも、羊の所から離れた細作達だ。皆良い腕をしている。

「すぐに袁尚、袁譚の軍勢を調査して、戦の経緯、規模、詳細に調査してきて欲しい」

「分かりました。 直ちに」

細作達が散る。妹は欠伸をしていたが、やがて田豫を睨んだ。

「また、戦ですか」

「僕が仕掛けた訳じゃないし、煽ってもいないよ。 ただ、来るべき時が来た。 それだけだよ」

こうして、重職を独占し、要職を兼任し続けてきた袁一族は滅びるだろう。

袁紹は最後に、命を燃やし尽くしてまで、一族を守ったと聞く。

もし息子達がその心を理解して、団結していれば、こんな事態は来なかっただろう。だが、彼らは己の欲望を優先して、破滅への坂を転がり落ちることを選んでしまった。完全に、自業自得だ。

それに巻き込まれて、大勢の人が死ぬだろう。

また、民も苦しむに違いない。

曹操が河北を制圧すれば、ある程度は落ち着くだろう。今は内輪もめで力を落としている騎馬民族達が侵入でもしてこない限りは、安寧が続くはずである。

これから五年か、或いは六年か。

争乱が続くのは、ほぼ確実であった。田豫はその時に備え、あらゆる準備を欠かさないのであった。

 

1、兄弟の血戦と、その裏で

 

陣頭で、馬上の袁譚は、じっと敵陣を睨んでいた。手には巨大な六角棍がある。単純な腕力だけなら、彼は相当に強く。昨日も群がる敵兵を、何人も粉々に打ち砕いた。

そのたびに、袁譚は打ち砕いた兵士の顔を、袁尚と脳内ですり替えることにより。快感を得ていた。

袁譚は、弟の袁尚を憎んでいた。

必ず殺し、その肉を貪り食ってやると明言するほどに、である。

この時代、憎んだ相手の肉を喰らうことは、復讐の達成と考えられていた。故に食人を示唆する発言は頻繁に飛び交い、実際仇を討った場合、相手の肉の一部を喰うこともままあった。有名な実例としては、漢の高祖の妻である呂后が、功臣の一人を粛正した際に、諸侯にその塩漬け肉を送り喰うように強制したというものがある。猟奇的な行動ではなく、憎しみを共有するようにと言う意思表示であった。

郭図が馬を寄せてくる。袁紹の重臣であった郭図は、ずっと自分を支えてくれた功臣である。だから、いつも憎悪に顔を歪ませていた袁譚も、信頼していた。

「袁譚様。 敵兵の駆逐、終わりましてございまする」

「そうか。 捕虜はどうした」

「つないでありますが、此処は是非お許しなさいませ。 そうすることで、貴方の慈悲深さを、兵士達は讃えることでしょう」

「袁尚の下郎につくことを選択した時点で許し難い。 下らぬ連中だ。 生かしておく必要性を認めない。 皆殺しにせよ」

郭図は露骨に媚びる笑顔を作りながら、ゆっくり袁譚の考えを誘導していく。田豊や沮綬に能力的に劣りながら、袁紹の下で出世した郭図は、こういった人心掌握術の達人であった。袁譚もそれは知っている。だが、それでも心を許してしまうほど、郭図は話術が巧みであった。

「まあまあ、お気持ちは分かります。 しかし、此処でお慈悲を示すことにより、暴政を敷く暗君袁尚と貴方の差を、兵士達に見せることも出来ましょう。 そうなれば、皆が認めます。 貴方の方が、袁尚よりも上だと」

「そうか。 俺が袁尚よりも上だと、認めるのか」

「認めますとも」

「そうか。 それならば、まあいいだろう」

良い気分になった袁譚は、捕虜を許してやるようにと、考えを改めた。

そうだ。それこそが、重要なのだ。あり得て良いはずがない。

ただ、兄が弟に劣ると言うだけではない。何しろ、あの袁尚は。

袁家の秘中の秘。それを知る切っ掛けは、遙か幼い日のことだ。確信は、最初無かった。だが、大きくなるにつれて、疑念は大きくなっていった。

結論を出したのは、五年前のことだ。

袁尚と袁譚は母が違う。有力豪族にはよくあることなのだが、袁譚は妾腹で、袁尚は正妻の子だ。次男も同じである。故に、袁尚が跡を継いだという事情もある。

しかし、袁尚の母は非常に意地汚い女であり、袁譚が知るだけでも、五人以上の男と密通していた。袁紹が年老いてからは特に酷くなったが、若いころも時々性欲の赴くまま、浮気を重ねていたようである。

そして、袁尚が出来たのだ。

証拠はない。だが、袁尚の父と思われる男を、捕らえて、拷問した時。その目が、袁尚にそっくりであることに、袁譚は気付いたのだ。

これは、揺すれる。

そう思って、父に注進した。だが、袁紹は、聞く耳を持ってくれなかった。

思えばあの時からだ。恨みが骨髄染みるようになったのは。よくしたもので、袁尚も自分の弱みを握られたことに気付いたか、袁譚を憎悪するようになっていった。何度か、喧嘩もした。殴り合いになると、袁譚が優勢だったが。武器を使わせると、袁尚の方が上手だった。

それを思うと、腸に据えかねるようだ。何でもこざかしい弟め。奴は不倶戴天の敵だ。奴の母もろともに殺して、内臓を喰らってやる。

そして、自分が上なのだと、証明しなければならなかった。

父の名を辱めないためにも。

改めて前方を見る。敵は前衛を粉砕されたとはいえ、中軍は無事。しかも、中軍だけで、味方よりだいぶ数が多い。卑劣にも、以前から戦の準備をしていたのは間違いなかった。袁譚もこの時に備えてはいたが、どうやら敵の方が狡猾であったらしい。

郭図が戻ってきた。

「袁譚様。 ここは一つ、急進して、敵の中軍を直接叩きましょう」

「それで勝てるか」

「はい。 今は、敵が合流しておらず、だいぶ頭数が足りていません。 今ならば、各個撃破の好機にございます」

「ふむ、そうか。 ならば急進して、袁尚めの首を上げる好機であるか」

わざわざ郭図に同じ言葉を返すと、袁譚はご機嫌になって、鼻の穴を膨らませた。

さあ、もう少しだ。河北は自分のものとなり、袁尚めは自業自得の滅亡を遂げる。そして、河北を統一した後は、同盟を結んだふりをしてやっている曹操を滅ぼし、一気に天下を統一する。

袁家が、新しい王朝を建て、自分は皇帝になるのだ。

袁譚は一つ高笑いをすると、全軍を率いて前進する。まさか少数でありながら、直接攻撃を仕掛けてくるとは思っていなかったらしい敵の動きは鈍かった。猛烈な突撃で、敵は少なからぬ被害を受けていった。

袁尚軍を蹂躙しながら、袁譚は六角棍を振り回し、笑った。

次は貴様の番だ。そう吠えながら。

 

丘の上から状況を見ていた林は、にやにやを抑えるのに苦労しなければならなかった。

阿呆と馬鹿が噛み合っている。それにつきあわされる河北の民の嘆きが、林の所まで漂ってくる。

悲鳴。絶望。悲しみ。そして断末魔。

それらが、林には、とてつもなく甘美だった。

涎を拭うと、遠目を凝らす。袁譚軍は、進撃が鈍い袁尚軍の頭を叩くと、一気に蹂躙し始めた。

そもそも、この無意味かつ腑抜けた戦は。青州に領土を持つ袁譚に対して、并州、冀州の兵を率いて袁尚が攻め込んだのが事の始まりであった。兵力差はざっと二倍半。誰が見ても、袁尚の勝利は明らかであっただろう。それに、もとよりこの兄弟は恐ろしいほどに仲が悪く、いずれ関係が破綻するのが目に見えていた。

誰もが、袁譚の破滅を予想した。中には、一月もしないうちに袁譚が滅びるだろうと予見していた者までいた。

だが、しかしである。

袁譚は袁紹が死んでからと言うもの、袁尚を蛇蝎のように憎むようになり。その用兵は、かっての惰弱なものとは一変して、火のような激しさを得ていたのだ。それに、もとより青州は、曹操が青州兵を得たことからも分かるように、人口が多く、何より兵が強い。それに対して、土地が豊かな冀州の兵士を中心とした袁尚軍は、想像以上に惰弱で、両者の力の差は明らかであった。

高をくくっていた袁尚軍は敗戦を続け、今本軍までもが蹂躙されようとしている。

郭図と言えば、決して有能ではない参謀なのに。袁尚側にいる逢紀も審配も、今回の戦では参戦していない。故に、それでも充分勝てる様子であった。

「それにしても、低次元な争いですねえ。 無意味に血が流れ、民が苦しむ。 全く私好みな展開です」

林は口中で、人知れずつぶやく。

そして、劉勝を招くと、背中からさかさかと登って肩の上に立った。

肩の上に立っても全く揺れないのは、林が持つ異常なまでの身体能力が、平衡感覚を極限まで鍛え上げているからだ。手をかざして見ていた林は、やがて退屈してしまったので、劉勝の肩から飛び降りた。

「つまらん。 もう勝負がついた」

「どうしたのです」

「喚き散らしていた袁尚が、部下達に抱えられて、後方に下がった。 それを見て、兵士達も逃げ出したわ」

ざっと、袁尚の大軍が崩れ始める。それを追いに追い、したたかに袁譚は敵をたたいた。しかし、それらは、皆曹操の思うつぼという所である。

何しろ、勝った方も負けた方も、河北の兵なのだ。

曹操が侵攻する時に邪魔な河北の強兵は、こうして片っ端から同士討ちで失われていくのである。

袁紹の「忘れ形見」である、馬鹿兄弟のおかげで。

曹操と渡り合えていた袁紹が、如何に有能だったのかは、この戦の経緯を見ていてもよく分かる。袁紹が生きている間は、河北に他者の軍が入る余地はなく、そればかりか家臣達も圧倒的な豪腕で纏め上げられていた。家臣団は袁紹の晩年に派閥抗争をしてはいたが、それでも主の意思を妨げることは出来なかった。

凡人ではあったかも知れない。しかし、最強の凡人だったのだ。

遠目も使える部下達によって、戦場の戦死者を集計させる。袁譚は郭図の進言で追撃を控えたようで、一割半ほどの被害を出した袁尚の軍勢は、国境まで退いた様子である。

「結果を曹操様に知らせよ。 袁譚軍二万は、袁尚軍五万を撃破。 双方併せて、約八千の戦死者が出た」

「分かりましてございまする」

闇に消えた部下を視線だけで追うと、林は戦場に出ることにした。

戦場には、袁尚が乗ってきた豪奢な馬車が脱輪して放棄されていた。袁譚軍の兵士達も、既に引き上げてしまっている。今回の戦闘で、袁尚の勢力はかなり削られたが、それでもまだ袁譚よりは上だ。だから、袁譚としても、あまり兵を削ぐような真似はしたくないのだろう。正確には郭図だろうが。

中を覗くと、大きな鏡があった。

そういえば、聞いたことがある。

美容に気を使っているという袁尚は、最近化粧に凝っているという。まあ、宮中の貴族などには、たまにある事だ。

だが、武人としては、珍しいを通り越して異常である。

ひょっとすると、自分の美貌に絶対的な自信を持っていて、それが一線を越えてしまったのかも知れない。

父がいない間は押さえ込まれていた異常が、袁譚も、袁尚も、噴出しつつあるのだとしたら。これはとても面白い。

一旦、部下達の所に戻る。戦利品として、馬車の中にあった大きな鏡は、担いで持って帰ってきていた。地面で苦しみ、呻いていた負傷兵がいたので、おもしろ半分に何人か殺して、首を切り落として持っていくことも忘れない。

鏡を地面に突き刺すと、林は自分を映し、色々体を捻ったりして見た。

十代半ばのころから、全く変わっていない姿が其処にある。様々な禁忌の薬を投与し続けた結果だ。最強の戦闘能力を得た代わりに、全く成長しないという異常を同時に受けてしまった。この様子だと、子供も生まれないかも知れない。老けないのはそれでありがたいのだが。

「劉勝」

「はい。 林大人」

「これから私は、袁尚の所を探る。 お前達は袁譚を探り、細かい調査結果を、曹操様に報告せよ」

「分かりました」

もう羊はいないし、こいつらだけでも諜報は大丈夫だろう。

唯一面倒くさいのが、袁尚の所にいる審配だ。あの男は防御戦の専門家で、城の構造もかなり凝ったものとしている。細作対策も進めていて、放っておくと面倒なことになる可能性も高い。

林が自ら、早めに状況を調査しておく必要があった。

 

敗軍を纏めて冀州に帰還した袁尚は、自分では美しいと思っている顔をゆがめにゆがめ、夜叉のような顔で咆吼していた。自室で荒れ狂う袁尚の側には、真っ二つに切り裂かれた執務机がある。

そして、おれ砕けた剣も、散らばっていた。

暴れるのは初めてではないのだ。

「おのれ、袁譚!」

袁尚が吠える。侍従や侍女達は、既に周囲にいない。

怒り狂った袁尚は、文字通り何をするか分からないからだ。実際、些細なことで斬られた侍女も、一人や二人ではない。後宮にいる后達でさえ、最近では袁尚をおそれている節があった。

それらの事情を、宦官達から袁尚は知っている。

だから、怒りにまかせて、また何人も斬る。いつしか袁尚の名前は、恐怖の代名詞となり始めていた。

民が自分を暴君を呼び始めていることを、袁尚は知っている。だからこそに、余計に怒りはふくれあがるのだ。

ひとしきり大暴れした後、袁尚は手を叩く。

観念した様子で、年老いた侍従が現れて、あたまを下げる。袁尚は床に唾を吐くと、辺りを片付けるように命じて、自分は新しい剣を手に、外に出た。

なぜ、こう上手く行かない。

どうして、誰もが従おうとしない。

袁尚は叫く。

そして、そのたびに周囲が離れていくのを感じて、更に吠えるのだ。

袁尚は、父の死に様を見て、それなりに思う所があった。必ずや河北を纏めて、曹操を倒さなければと思った。

しかし、そのためには袁譚が邪魔だった。

袁譚は、武勇では袁尚には劣るが、腕力や戦の才では勝っていた。はっきりいって、兄弟でそう力の差はないのだ。それは分かっている。だから、どうにか仲良くしようとも、努力はした。だが、自分を蛇蝎のように憎んでいる袁譚は、影で戦の準備までしている始末だった。

しかもどこから仕入れたのか、袁尚が不義の子だなどと考えてもいるようであった。

袁尚の母に悪い噂があるのは事実だ。一種の病気と言っても良い。実際、不義の相手を捕らえて、斬首したこともある。だが、それでも。袁尚までもが不義の子などとは、あり得ない話であった。

しばらく(といっても二ヶ月程度だが)努力を続けた袁尚だが、それも長くは続かなかった。

もとより、母に甘やかされ、何もかも与えられ続けた袁尚である。家臣達に始まり、玩具、武具、馬、それに友人達まで。その全てが、袁尚を肯定し続けた。自制心など、続きようもなかったのだ。

しばらく庭をうろうろと歩き回ったが、手頃な相手は見つからなかった。

以前飼っていた犬も猫も鳥も、皆かんしゃくに任せて斬り殺してしまった。侍女や侍従も、何人殺したか分からない。兎に角、自分を馬鹿にしている雰囲気を持った相手は、どうしても許せなかった。

しばらく彷徨いている内に、頭も冷えてきた。

不思議と、手を叩いて呼んだ場合、侍従を斬ろうという気は起こらない。斬るのが楽しくて、斬っているのではない。心が抑えられなくて、斬ってしまうのだ。

先ほどの老いた侍従が来る。ひょっとすると、この老人なら、袁尚に斬られないとでも周囲が思っているのかも知れなかった。

「何事でございましょう」

「腹が減った。 食事を用意せよ」

「かしこまりました」

老侍従が、何か目配せする。

何だろうと、思った次の瞬間である。

不意に、袁尚は網を掛けられていた。

 

「ほう、これはこれは」

敗走する袁尚軍を追って冀州城に潜り込んだ林は、屋根裏で腹ばいになりながら下を見ていた所、面白い光景に遭遇して、わくわくしていた。どうやら、曹操も林も予想もしない方向に、事態は動いているらしい。

網を掛けられた袁尚が、侍従達に棒でよってたかって殴られて、気絶した。歎息すると、老侍従は引きずっていくように周囲の者達に指示。そして、奥から現れた二人に、抱拳礼をしていた。

一人は袁煕。袁尚の兄であり、袁紹から後継者として指名されなかった、影の薄い男である。主体性のない行動ばかり取る人物であり、袁紹からもあまり期待されていなかった人物だ。

そして、その隣にいるのは。

袁譚派と袁尚派を揺れ動きながらも、ついに袁尚についたはずの男。

守戦の達人と言われる河北の残り少ない名将、審配であった。現在、林が河北で唯一警戒している存在である。

「上手く行ったようですな」

「替え玉の用意は万全か」

「はい。 それはもう。 ぬかりなく」

そして、袁煕に応えて奥から出てきたのは。何と、袁尚の相続をずっと支援し続けてきた男。河北の知将、逢紀であった。沮綬や田豊に比べると見劣りがするが、決して能力的に惰弱な訳ではない。有能な将である。一人にしておくと馬鹿な失敗ばかりするようだが、今は袁煕に頭を完全に抑えられている様子であった。

見ただけで、大体事情が分かった。

袁煕は、この機会をずっと狙っていたのだ。父に嫌われて、相続がならないことは明白。それならば、袁尚の人望が地に落ちた機会を狙い、彼の腹心達を取り込み、そして一気に政権を乗っ取る。

ひょっとすると、審配辺りは、最初から袁煕の部下だったのかも知れない。寡黙で実直だと噂されていた審配が、こうも寝技ばかり見せていたので、おかしいと思ってはいたのだ。

それにしてもこれは、面白すぎる。

曹操に報告したら何というか、今から楽しみであった。

いや、ひょっとすると。

郭図とも、袁煕はつながっているのではないだろうか。もしそうなってくると、河北は一気に袁煕によって併呑され、曹操にとって面白くない事態が到来するかも知れない。

屋根裏を離れて、冀州城を出る。

歩きながら思惑を巡らせる。仮に袁煕が河北の君主となっても、血みどろの争いが続くから、林としては面白い。曹操は絶対の主君でもないし、いざとなったら袁煕についても良いのだ。もとより林はこの中華の統一やら秩序やらは望んでいない。

望んでいるのは、この中華を思いのままに、滅茶苦茶にすることなのだから。快楽を満たす、ただそのためだけに。

ただし、袁煕の器量はしっかり見極めておく必要がある。

曹操を裏切るにしても、機会が重要だ。ただでさえ、林は曹操に警戒されている。下手に裏切れば、首が飛ぶことになるだろう。いくら何でも、もし曹操が統一政権を作ってしまったら、逃げようがない。細作はあくまで影に生きる存在であり、表側から排除されたら、どうにもならないのだ。ただでさえ恨みを散々買っている林である。ひとたまりもなく狩り出されてしまうだろう。

しばらく熟考を重ねる必要があるだろう。

一旦河北を離れて、曹操の所に戻る事に、林は決めた。

曹操も、袁紹より若いとはいえ、その寿命は無限ではない。そして、曹操の跡継ぎは、決して万能とは言えない曹丕だ。奴さえ抑えてしまえば、どうとでもなる。陰険な性格で人望も薄いから、首根っこを押さえる機会は幾らでもあるというものだ。

冀州を離れ、黄河を渡る。

これで、河北では「兄弟げんか」が止むことになるのか。

或いは。

曹操の出方を考えながら、林は抑えてある渡し守の船に乗り、黄河に揺られ始めていた。

 

2、江東の実情

 

碧眼紫髭。

現在、江東を支配している男、孫権を表す言葉である。山越の血を濃く引いている孫権は、目が青く、髭に紫味が掛かっている。背は比較的高く、漢人に比べると、筋骨も逞しかった。

だがその健康的な肉体も。酒に塗れていては意味がない。

今孫権は、自室の執務机で、強烈な地酒を片手に、したたかに酔っていた。

孫権は酒が好きだった。

江東の支配者が、孫策から孫権に代わって三年。孫権はまだ若いのに、二張とよばれる張昭、張紘に支えられながら大過なく政務を行い、軍事では周瑜に全権を任せ、巧く国を回している。

そう、表向きには見えていた。

実際は違う。

孫策が死んでから、四家はますますその力を増し、江東にて巨大な権力を構築している。既に孫権は両手両足を彼らに掴まれているという状況であり、一挙一動を監視されていた。それによる精神的な疲弊は凄まじいものがあり、酒に頼らなければ生活できなかったのだ。それは、今も代わりがない。

昨日も、有能な家臣が、四家に難癖を付けられて、殺された。

孫権が育て上げ、いずれは近衛にと考えていた男だ。孫権が権力を握りすぎないようにするための、四家による謀略である事は疑うまでもなかった。落涙しながら、酒を呷る孫権。そうして、暗君だと思わせておく方が良かった。

侍従が、部屋に入ってきたらしい。

いや、違う。顔を鬼神像のようにゆがめた張昭であった。

「昼間から、何を飲んでおられるか!」

「やかましい。 飲まずにやっていられるか」

部屋を出て行くように手で追い払うが、張昭は出て行かない。

もとより張昭は、政務において卓越した力を示す、江東の孫政権における柱石だ。あの四家でさえ、その有能さを理解していて、下手に手を出そうとしない人物である。民政において、張昭の右に出る者などいない。多分、中華中を探しても、一人居るかいないかだろう。

しかも、今は孫権の後見人を兼ねている状況である。

孫権も、苦虫をかみつぶしながら、ぼんやりと張昭を見上げた。

「それで、ろうしたのら」

「水と濡らした布巾を。 目を覚ましていただく」

「ちょ、よせ、らめろ、らめるんら!」

もがくが、屈強な男達に、左右から取り押さえられた。酒も取り上げられてしまう。

そして濡らした布巾で顔を拭かれた。もがいている内に、張昭に覗き込まれる。

「まだ目が醒めないようですな」

「ひ、ひろい、ぞ! いくらなんれも!」

「桶」

冷酷に張昭が言ったので、孫権も流石に青ざめる。

筋骨逞しい力士達が運んできたのは、風呂のように巨大な桶である。其処に、なみなみと水が注がれる。

そして、足を掴まれ、逆さにぶら下げられた孫権は、頭からそれに突っ込まれた。

したたかに水を飲んだころ、ようやく足から引き上げて貰う。全身ずぶ濡れであった。そして、酒など、とっくの昔に抜けていた。

「ぶはあっ! げほっ! がほっ!」

「着替えを持て」

「ちょ、張昭っ!? 殺す気か!」

「殿はまだ酔っておられる。 力づくで着替えさせよ」

抗議の声も届かない。逞しい男達に服をひんむかれ、着替えさせられる。もはや、孫政権の長である威厳など、何処にもなかった。

着替えが終了。

むっつり不機嫌になった孫権は、そのまま執務の場に出される。

周瑜が、「美しい」からだを揺らして、待っていた。孫策が死んでからというもの、周瑜は貫禄を備えるようになったが。相変わらず陸上戦は不得手で、江夏にて兵を率いている黄祖に何度やっても歯が立たなかった。ただし、これは陸上戦の名手と言われている魯粛でも同じだったし、最近の黄祖は一種の凄みさえ持ち始めていたので、誰も責めることはなかった。

「張昭殿、お疲れ様にございます」

「殿が酔っておられたので、苦労しましたぞ」

「お、おまえらなあ」

抗議の声を挙げるが、届かない。

それに、元々頭の上がらない者達だ。

周瑜、張昭、張紘、それに魯粛。この四人は、四家でさえ江東の発展を主眼に置くと、排除できない超が付くほどの国家的重席である。いずれもいにしえの賢人達と比べても恥ずかしくない能力の持ち主であり、特に二張の民政における手腕はずば抜けている。意見が対立した場合、孫権も譲らなければならないことがしばしあるほどだ。

「それで、一体何のようだ」

「荊州の甘寧を覚えておられますでしょうか」

「知っている。 あの侠客だな」

如何に平穏な荊州といえど。丁度孫権や曹操のような敵がいる以上、それに備える軍事力は必要になってくる。

だから、様々な侠客や、戦慣れした傭兵などは厚遇される傾向がある。

劉備が最近荊州に入ったが、それを聞いて一気に孫権は緊張したものである。様々な方向から調査した結果、現在新野と呼ばれる対曹操の前線基地に配属された事が分かり、どうにか緊張は緩和された。

もとより、荊州は対外進出の傾向がないだけで、軍事力は江東を遙かに凌いでいる。だからこそに、攻勢に出てはいても、その一挙一動を気にしなければならないのだ。もちろん、軍事力を為している主要な将軍は、全て孫権も把握している。

甘寧は侠客として有名な人物で、湖賊や河賊にも睨みが利く、土地の大物である。近年は荊州で軍事力の一翼を担っていたのだが、どうやら黄祖と折り合いが悪いらしく、孫権は積極的に内応を呼びかけていた。作業は、周瑜に一任していたのだが。

「どうやら、細作からの速報では、甘寧が内応に応じた模様です。 細作の話によると、荊州での待遇に不満を持つ二千ほどの兵と供に、降伏してくる算段だとか」

「ほう、それは心強いな」

甘寧の麾下にいるのは荒くればかりで、周瑜も毎度随分手を焼かされていた。それが此方に丸ごと寝返るとなると、ついに念願の、江夏攻略がなるかも知れない。

既に大小7回の攻略軍を編成して、戦いを挑み。そのいずれもが完膚無きまでの敗北を喫している。黄祖、そのいずれもが奴にしてやられていた。文字通り鉄の壁として鎮座している黄祖さえ叩きつぶせば、荊州を得て、天下を狙って飛翔できるかも知れないのだ。

荊州を取ることが出来れば、孫政権の軍事力、経済力は一気に倍増する。四家ももちろん食い込んでくるだろうが、巧く動けば、奴らに先んじて、権益を吸い上げられる可能性がある。

そうすれば。

兄を惨殺したあの畜生どもを、この世から葬ることが出来るかも知れないのだ。

「張昭、軍事力に関してはどうだ」

「去年の山越征伐が上手く行き、かなり余裕が出来ています。 四万から五万は動員できましょう」

「そんなにか」

それは、実に心強かった。

現在、荊州の軍事力は十万を軽く超えている。それだけ経済力、人口供にずば抜けていると言うことだ。河北、曹操に次ぐ、第三位の動員戦力を誇っている群雄こそ、荊州の劉表なのだ。

それに対して江東の孫政権は、南部にいる山越と呼ばれる民族に常に反乱の兆しがあり、彼らを抑えるために常に兵を動員しなければならない他、四家という最大の危険因子が内部にある。

中華の国境地帯は、基本的に漢民族に敵意を抱く異民族達が群雄割拠している。彼らは例外なく漢民族より身体能力が高く、すぐれた軍事技術を持っているのだ。当然の話で、生活環境が著しく厳しく、故に生物的に鍛えに鍛え抜かれているからだ。古今の英雄の中には、呂布を始めとして、彼ら異民族の出身であったり、或いは血を引いている例が珍しくもない。

漢民族は、優れた文化と組織力、何より圧倒的な数で渡り合っては来た。だが、何時の時代も、手を焼かされていることに代わりはない。

この状態で曹操が南下してきたら、ひとたまりもなく孫政権は滅ぼされてしまうだろう。それについては、意見が一致する所であった。

「江夏にいる黄祖の手勢は今二万という所です。 精鋭の上に敵には援軍が期待できますが、その代わり今回は甘寧の軍勢が内部からの攪乱をしてくれる可能性が高い。 その攪乱に乗じることが出来れば」

「五万の動員で、落とせるか」

「やってみましょう。 黄祖さえ、甘寧が押さえ込んでくれれば、どうにかなるかも知れません」

援軍として、三万は来ることが間違いない。不利と見れば、さらなる大軍が現れるだろう。時間との勝負になってくる。

軍の質は味方が上とは言っても、敵は強大な江夏城塞を手にしており、その防御能力は尋常なものではない。防御戦に特化して鍛え上げられている黄祖の配下達も、かなり手強い。

だが、それでも敵の守りを抜かなければならない。

江東の、未来のためにも。

 

黄祖は、自室を歩き回っていた。

若いころから戦場を駆け回ってきた彼は、気難しく、無能な将軍だと世間一般には思われている。

しかし、彼が赴任してから、江夏は孫堅を計算尽くで縦深陣に引きずり込んだ時以外、失陥していない。いずれの陸戦でも圧倒的な勝利を収め、勝ってきたのは、黄祖の手腕があったからだ。

江東の孫政権は毎度勝ったとか江夏を落としたとか喧伝しているが、放っておけば良いと思っている。不出来な息子に悩まされ、冷え切った家庭環境に苦しみ、無能な部下達と、決して仲が良くない上司。

いずれもが、黄祖を孤独な檻に追い込んで行くには、充分であった。

評価は、してもらっている。

実際、劉表は黄祖を評価してくれているし、陰険なことで知られる蔡瑁も、彼に対する降格人事はしたことがない。

だが、満足をしたこともない。いつもいつも、冷たい視線と冷徹な嘲笑が、黄祖を苦しめてきた。

若いころは美しく太っていた黄祖だが、最近は肉がたるみ始めている。髭にも髪にも白いものが増えてきていて、それが余計に黄祖を苛立たせる要因となっていた。周囲の評価をますます気にしなくなってきている黄祖は、もはや独自の世界を江夏に築き、それでどうにか立脚できている状態であった。

自室をぐるぐる歩き回る奇行も、最近は増える一方である。以前抱えていた林以降、ろくな質の細作を雇えないことも、黄祖の苛立ちを加速する要因となっていた。情報が遅いのである。

まあ、それでも。

かっぱに等しい周瑜や、まだまだ経験が足りない魯粛程度に、破れる気はさらさら無かったが。

部屋に、小さな足音が入り込んできた。ますます不機嫌になった黄祖は、それでも抱拳礼をする。なぜなら、相手は劉表の嫡男にして、いずれ荊州を継ぐ劉埼だったからだ。体は弱いが頭脳は明晰で、見たところ指揮能力や判断力も悪くない。だが、貧弱で脆弱なので、黄祖は決して好いてはいなかった。

「これは劉埼様。 如何いたしましたか」

「おお、黄祖将軍。 あの孫権が五万もの兵で、この江夏に寄せてくるつもりだと聞いている。 江夏には二万程度しか兵がいない。 備えは大丈夫か」

「敵は五万という話ですが、それだけなら問題はありません。 正面攻撃三倍則と言いましてな。 城攻めには三倍から五倍、時には十倍以上の戦力が必要になってくるものなのです」

ましてや、陸上戦に不得手な孫家の軍勢など、十倍来ても江夏は墜ちませぬ。そう言い切った黄祖であったが。しかし、と言葉を切って、続ける。

愚将といわれている黄祖だが、悪評と能力は全く関係がない。猜疑心の強い性格が、こういう時には強みになる。

部下を誰一人信用しておらず、手を抜くこともないために。あらゆる謀略に対して、敏感に反応できるのだ。

「しかし、問題がございます。 恐らくは、敵は何かしらの策を持って、この江夏に挑んでくる事でしょう」

「策か。 どのようなものだろうか」

「恐らくは内応でしょう。 この祖めが守る江夏要塞を落とすには、それしか手がありませぬ故」

既に、其処まで黄祖は読み切っていた。戦は将棋や碁のように、定石がある。それらを考えていくと、消去法で、それしか残らないのである。

今まで、孫家はあらゆる戦術で、江夏を攻め立ててきた。攻城兵器も、あらゆる種類を使い、力押しにしても、戦術は城攻めに用いるあらゆるものを試してきた。その全てを防ぎ抜いた黄祖に対して。取る手は、それしか残っていないのだ。

体が弱く、気も弱い劉埼は、身震いした。

「恐ろしい話だ。 大丈夫か、黄祖」

「お任せくださいませ。 内応の恐るべき所は、信頼を逆手に取ると言うことにあります故に。 この祖、部下に基本的に、心を許してはおりませぬ。 それにこの江夏要塞、門の一つや二つを破られた程度では墜ちませぬので、心配なさらずに」

「そ、そうか。 心強いぞ」

「全てお任せを。 劉埼様は、いずれ荊州を指揮することを考え、今回はこの城に籠もって、戦場をしっかり見ておかれるとよろしいでしょう」

ようやく安心した様子で、劉埼は出て行った。

問題は此処からだ。誰が裏切るのか、しっかり目星を付けておかなければならない。

けちで知られる陰険な蔡瑁は部下にも劉表にも嫌われている男である。黄祖のような重鎮ではない場合、降格人事は頻繁に行われるし、それに不満を持っている部下は多い。実際、劉備が来てからは、願い出てその部下に移った者も少なくはないのである。

細作の働きが悪いと言うことで、嘆いているのはその点であった。

孫家の軍勢など、別に何時攻めてきても対応できる。周瑜と同じで、連中の軍勢は河童も同然。無理に水上戦でも挑まない限り、確実に勝てる。ただ、劉埼にはああいったが、どうしても裏切られた時の配置によっては、面倒なことになりかねない。

そう、黄祖は、次期当主である劉埼でさえ信頼していないのだ。だから、本当のことは話さなかった。

しばらくまた自室をぐるぐると歩き回る。気に入らない奴だったが、それでも林は黄祖から見ても不愉快なほどに有能だった。奴がこの場にいれば、さっさと造反者を割り出してきただろうに。

細作が一人来た。やっとだ。

「どうだ、何か部下達に動きはあったか」

「一人、動きがおかしい者を割り出しました」

陰気な顔をした女は、そう言って声を低くした。周囲を見回してから、黄祖に言う。

「甘寧将軍にございます」

「あの腐れ侠客か。 ふん、確かに奴なら、いつ裏切ってもおかしくはないか」

腕組みをする。

甘寧は荊州が抱えている、数少ない水上戦の名手である。だが侠客の出身者らしく過剰に野心的でもあり、それが故に黄祖も他の部下以上に信頼していなかった。実際、黄祖は戦いに勝つ度に、身銭を切ってある程度褒美をくれてやっていたのである。その苦労を理解しようともしない甘寧には、ほとほと嫌気も差してきていたのだ。よくしたもので、甘寧も事情を見ようともしないで、黄祖をけちだとか罵っているらしい。まあ、どうでも良いことだが。

実際問題として、甘寧が裏切るとすると、弊害が大きい。水軍提督として、まともな指揮手腕を持つのは、他に文聘くらいしかいない。彼はまだ経験不足だから、甘寧が裏切るとなると、後継を今の内に育てておく必要があるだろう。蘇飛という甘寧より古株の指揮官もいるが、これはさほど有能ではなく、人望で部下を引っ張っていく型の男だ。

「甘寧を部下と引き離して、東の砦に移せ」

「よろしいのですか。 大事な前線基地ですが」

「戦の最中に、背後から襲われるよりはマシだ。 細作の部隊も動員し、奴が裏切るそぶりを見せたら、即座に殺せ」

「分かりましてございまする」

すっと、細作が消えた。

林に比べると、やはりだいぶ劣る。

甘寧を試す意味でも、今回はわざと配置換えをする。もしも心にやましい所があるのなら、すぐに何か行動を起こすだろう。それに、もとより奴は水上戦の巧みな男だ。出来るだけ水に近い場所に置いておいた方が良い。

やっとぐるぐる歩き回るのを止めると、黄祖は自席に着いた。

手を叩いて侍従を呼び出すと、後は浴びるほど茶を飲んだ。

そして眠れなくなった。

 

前線基地である長江のほとり、巨大水上要塞柴桑にて軍を整えた周瑜の所に、急報が届いた。甘寧からであった。

矢傷を受けた伝令は、蒼白になっており、本当に急な行動だったことが伺えた。手紙を受け取ると、侠客であったらしい伝令は、そのまま息絶えてしまった。血染めの竹簡を開いて、思わず周瑜は呻いていた。

「これは。 なんということだ」

「如何なさいましたか」

呂蒙に対して、周瑜は竹簡を見せる。そして、腕組みをした。

甘寧からによると、造反行動がばれたという。最前線の基地に、部下達と引き離されて配置され、細作に監視されて身動きが取れないというのだ。

荊州の政権は、劉表と蔡瑁と黄祖の連携によって保たれている。

暗君とも言われる劉表は実際には政務の達人だし、黄巾党の討伐でも大きな功績を挙げている。軍事的にも政治的にも間違いなく有能な君主であり、それを自慢しないだけだ。対外進出の傾向はないが、それも何らかの戦略に基づいているのかも知れない。

陰険だと言われる蔡瑁は、神経質なまでに隅々まで目を光らせている。今回の反乱発覚も、それが原因の一つであろう。

そして、短気で無能だと言われている黄祖は、世間一般での評価と裏腹に有能で緻密だ。それを、改めて思い知らされてしまう。

呂蒙は魯粛につくことで、近年目立って学問を身につけてきている。周瑜も頼りに出来るほどに、である。ただし、まだまだ少し経験が足りない。

「今回の戦は、中止いたしますか」

「それはならん。 もし此処で出兵を中止したら、せっかく敵に撒いた不審のタネを、自分で刈り取ってしまう事になる」

しかし、力攻めしても、甘寧は裏切る機会を得られないだろう。

かといって、せっかく揃えた兵士達を、無駄死にさせる訳にも行かない。

それに、五万の兵を出すのは、相当な出費を国庫に強いる。それは四家の力をますます相対的に強くすることも意味している。

この五万で、一気に四家を滅ぼし、首を取るのはどうか。一瞬だけ周瑜はそれを考えたが、止める。もとより水上戦を主眼に置いた編成だ。陸上戦を得意としている四家の軍勢を刃を交えるのは難しい。軍の中には、多く四家の間諜も混じっている。今の周瑜の実力では、連中を出し抜くのは難しい。

悩ましい所であった。

「やむを得ぬ。 江夏に様子見の攻撃を仕掛けて、勝利を主張するしかあるまい」

「また、そのような主体的ではない内容で、茶を濁すのですか」

「他に方法がない。 もちろん、敵に隙が見えるようなら一気に江夏を落とす。 その戦力も、ある」

敵将、黄祖の壁だけが問題だった。

「呂蒙。 周泰、韓当、黄蓋、徐盛らの各将軍を呼んでくれ。 程普将軍もだ」

「重鎮とも言える方々ですが、よろしいのですか」

「今回は、本気だ。 相手に隙を見せないために、或いは隙を突くために、全力で江夏に向かう」

黄祖は百戦錬磨の名将である。水上戦にあまり人材が多くないとはいえ、此方の戦意が薄いことを知ったら、猛烈な反撃を効果的に仕掛けてくる可能性も高い。そうなると、せっかく訓練した五万の兵の多くを死なせることになるだろう。

仮に様子見しかできないとしても、本気で挑まなければ危なかった。

 

動きの鈍い細作に苛立ちながらも、黄祖は己の頭の中で、的確に状況を分析し続けていた。

周瑜は恐らく、誰かしらの反乱勢力が、此方に察知されたことに気付いた。

それを、妙に陣容が強化された敵の陣営を見て、黄祖は洞察していた。周瑜は恐らく、兵を引くことも出来ず、かといって進むことも出来ず。恐らく、様子見だけを仕掛けて、引き上げるつもりに違いなかった。

重鎮を連れてくるのは、此方に隙がないか伺うためであろう。

そうはいくか。黄祖は口中にて呟いていた。

伝令を呼ぶ。そして、さらさらと書をしたためた。黄祖は字がとても乱暴で、もの凄いくせ字である。噂によると、劉表の所には、黄祖の字を解読する役割を任されている役人がいるという。もちろん、兼務で、だが。それにしても、不愉快である。

いつも不機嫌そうだと、黄祖は言われる。

違う。

不機嫌そうなのではない。実際に不機嫌なのだ。

「これを蔡瑁将軍に。 作戦指示は、したためてある」

「分かりました」

黄祖を嫌っているらしい伝令が、そそくさと退出していく。死ねと、黄祖は内心で呟いていた。追加で蔡瑁の陰険野郎も死ねと内心で呟きながら、黄祖は更に策を進める。部下がある程度動かなくても、勝てるようにしておかなければならない。

蔡瑁が仮に指示通りに動けば、周瑜に此処で引導を渡すことが出来る。

動かなくても、勝てるように、手を回しておかなければならない。周瑜さえ殺しておけば、孫家の人材は致命的な打撃を受ける。甘寧は既に動きを封じてある。他の将に裏切り者がいても大丈夫なように、黄祖は念入りに作戦を考案した。

やがて、周瑜の軍勢が動き出したという報告があった。

敵の兵力は五万から五万五千。孫権が出せる侵攻軍としては最大規模の兵力であり、周瑜が本気であることがよく分かる。

逆に言えば。

周瑜を殺し、江東の軍勢を壊滅させる、これ以上ない好機とも言えた。

軍の配置を進めながら、茶を探す。無い。どうやら備蓄が切れたらしい。叫んだり叫いたりするのは大人げないので、机の上にある鐘を鳴らした。そそくさと侍従がやってきたので、高圧的に言う。

「茶がないぞ!」

「も、申し訳ございませぬ! すぐに補充いたします!」

「儂にとって茶は心の燃料だ! もし茶が無くなったせいで戦に負けたら、貴様に責任を取って貰うからな!」

結局大人げないことを言いながら、黄祖は更に苛立ちを募らせ、代わりの茶を待った。

そしてその日も、茶を飲み過ぎて眠れなくなった。

翌朝、目を血走らせ、早朝から城壁の上を歩き回っていた黄祖の元に、細作が現れる。今日は人相が薄い、長身の男であった。

「ご報告申し上げます」

「うむ」

「周瑜軍五万、全軍が船に分乗し、桑柴を出立いたしました」

「分かった。 出来るだけ目を離すな」

腕組みして、海のように広い長江の向こうを見る。敵は数日以内に、江夏に押し寄せてくるだろう。前線の砦からは、既に無理な抵抗を試みず、陥落しそうになったら引き上げるように伝えてある。

伝令も来た。急いで襄陽から引き返してきたらしい。

珍しく紙で包装してある高価な竹簡を受け取ると、黄祖は中に目を通した。陰険な蔡瑁らしい、細い字が内部で躍っていた。

鼻を鳴らしたのは。

どうやらこの戦、勝ったと確信したからである。

「勝ったな」

「は、はあ。 そうなのですか」

伝令を指先で追い払うと、黄祖は久し振りに、少しだけ機嫌が良くなるのを感じた。

周瑜の首を取れるかは、まだ分からない。だが、この戦に関しては、既に勝ったも同然であった。

一つ、意地が悪いことを思いついた。伝令を呼び戻す。

そして、竹簡を渡した。

甘寧当てのものであった。

 

周瑜は船の上で、いやな予感が増幅していくのを感じていた。

何だか危険な気がする。水上戦では絶対の自信がある周瑜だが、今回ばかりは、船に乗っていても気分がまるで晴れなかった。

甲板をうろうろする。

この時代、最大級の艦船は、闘艦と呼ばれる。

周瑜が乗っている闘艦は、同時に江東の孫政権の旗艦でもあり、最先端の技術が惜しみなくつぎ込まれていた。実験的な様々な技術を取り入れている他、船体の命とも言える竜骨にも最高の素材を使っている。火矢を防ぐために、甲板にも皮が張ってあり、それで少してらてらと輝いていた。

縁に出た周瑜は、落ち着きがないことを自覚した。主将が落ち着きを無くしていては、兵士達も不安がる。自室に引き上げると、鈴を鳴らす。すぐに呂蒙が来た。

「どういたしましたか、都督」

「退路を準備しておいてくれ」

「戦う前から、退路を、ですか」

「そうだ。 黄蓋将軍を、後詰めとして残す。 どうもいやな予感がしてならぬ」

江夏は、非常に広い湾であり、多くの軍艦を展開することが出来る。

そのために、荊州の玄関口として、孫策も周瑜も攻略に血道を上げてきた。もちろん撤退する時も有利で、散り散りに逃げれば敵を容易に撒くことが出来る。

出来るのだが。

やはり、いやな予感がしてならない。先に退路を確保する部隊を用意しないと危ない。そう、長年の周瑜の戦闘経験が告げていたのだった。これはもはや理屈ではなく、理論でさえない。

黄祖は非常に気が短く気むずかしいと聞いているが、逆にそれは緻密な理論家だという事も意味しているはずだ。細作を神経質なまでに多く使い、情報を徹底的に吟味して仕掛けてきている。情報戦では此方も負けてはいないのだが、黄祖の奴は此方に対して著しく少ない情報でも、正解を導き出してくる。ある意味怪物じみていた。

そんな相手だからこそ。勘で動くのは、重要なのかも知れない。そう周瑜は、今更に思い始めていた。

「間もなく、江夏の岸が見えます!」

「敵の迎撃戦力は!」

「見あたりません! 我が軍に恐れを成したのかと!」

たわけと、周瑜は叫んだ。

敵は此方に一度も負けていないのだ。勝手にこっちが歴史書に勝ったとか江夏を占拠したとか、嘘を並べ立てているだけなのである。それなのに、兵士達は悪い意味で、黄祖を侮ってしまっている。経験の浅い兵士達は特にそうだ。

水上を埋め尽くす小型艦船が岸に着く。さっと広がって、異常がないことを確認した後、兵員輸送用の快足大型艇が接舷。

上陸作戦の指揮を執っているのは韓当将軍だ。孫堅時代からの古株で、流石に手慣れたものであった。

野戦陣地が構築される。此方は呂蒙と朱桓に指揮を任せている。山越との戦闘経験を元に、出来るだけ素早い行動を繰り返している。周瑜の旗艦が接舷したころには、野戦陣は大体形を整えていた。

上陸すると、走舸が近付いてきた。走舸は二人こぎの小型快速艇であり、偵察や機動戦闘に用いる。乗っているのは黄蓋だ。

黄蓋も、韓当や程普と同じ、孫堅時代からの古株である。骨っぽい韓当に比べると、非常に筋肉質な老人で、それでもまだまだ若い兵よりずっと優れた腕力と気力を有している。全身は向かい傷だらけで、声は雷のように大きく、周瑜もそうそう頭が上がらない、重鎮であった。

少なくとも、対外的には。そう言うことになっている。

上陸してきた黄蓋は、大股に周瑜に歩み寄ってきた。相変わらず逞しい筋肉で、鎧が内側から弾けそうである。一礼した周瑜に、実に力強く抱拳礼をする。そして軽く社交辞令を済ますと、いきなり本題に入ってきた。

「都督。 儂が後詰めとは、どういう事か」

「実は今回、敵の動きが妙なのです」

「ほう」

「敵の戦略が見えない以上、全軍で攻撃を仕掛けるのは危険です。 歴戦の勇者である黄蓋将軍に後詰めとなっていただくことで、いざというときの危険を避ける必要があると思いまして」

黄蓋は湖賊だった男で、孫堅の古い親友でもある。単純な男だが、嘘にだまされるような阿呆ではない。周瑜も最初から、周囲を確認した上で、本当のことを言わなければならなかった。

厳しい性格である黄蓋は、惰弱な作戦を許さない。そんな腑抜けた作戦に、儂を使うつもりかと、罵倒されたことさえもある。江東を代表する、おっかない頑固親父が、黄蓋の正体だ。将軍だけではなく、兵卒達にも恐れられている。

だから、周瑜も緊張した。

「分かった。 確かに都督の言うとおりだ。 黄祖は侮れる相手ではない」

「分かっていただけましたか」

「何を言うか。 儂はいつも正しい作戦には、理解を示しておろう」

豪快に笑うと、黄蓋は引き上げていった。これで、どうにか全滅は避けられる。周瑜は安心した。

周瑜が上陸した後も、続々と大小の艦船が江夏に接舷し、兵士達を吐き出している。既に兵力は三万を超え、四万に迫ろうとしていた。展開の速さは、訓練を続けてきただけのことはある。

黄蓋は古くから鍛え上げている二千の精鋭を率いて、水上に残っての早期警戒を始めた。今でも気が若い黄蓋は走舸を愛用し、休憩のためにしか闘艦を使用しない。その辺りが、若い兵士達にも恐れられつつも人気のある所以であった。

陣がくみ終わったのを見ると、周瑜は早速周囲の砦を攻撃するように指示を出す。

まだ、敵の迎撃部隊は、姿を見せていない。それが余計に、不気味であった。

 

周瑜の軍勢が攻撃を開始した報告は、既に黄祖の所にも来ている。

指揮所にしている執務室から出て、黄祖は江夏要塞の城壁に登り、腕組みをして向こうで蟻のように動いている周瑜軍を見つめていた。五万という大軍でありながら、流石に訓練を重ねたのか、良い動きをしている。砦を攻める動きには隙が無く、奇襲部隊を出して仕掛ける事も出来そうになかった。

どちらにしても、まだ此方の手は隠しておく方がよい。

肩で息をつきながら、劉埼が城壁の上に上がってきた。顔中汗だらけで、本当に体力がないのだと、見て分かる。

「黄祖、将軍。 もう、はじ、ま、ったの、か」

「見ての通りです。 敵は三箇所の砦に、攻撃を開始しております。 後二刻ほど交戦した後、砦の兵士達は引き上げさせる予定です」

「緻密だな。 それも作戦の内か」

「はい。 多少作戦に変更が生じても、我が軍の勝利は揺らぎません」

嘘は言っていない。

城壁の上には、砦城の防衛構造物が幾つかある。中にはそれなりに広い空間があり、銃座から敵を見回すことも可能だ。劉埼を其処に案内し、茶を用意させる。黄祖の分に関しては、最初から大量に置いてあるので問題ない。

向かい合って座ると、茶を飲む。劉埼は細いだけあって、食だけではなく、茶まで殆ど飲まない様子であった。

「黄祖将軍は、どうしてそのように茶を飲むのか」

「それは、茶こそ我が思考の源泉にて、活力の元だからにございます」

「そうか。 明確に、そのようなものがあるというのは羨ましい」

「ならば、作りなさいませ。 劉埼様は、この国の跡継ぎにございまする。 そのお体は、貴方一人のものではありますまい」

決してこの国のことは好いてはいないのに、そんな事を黄祖は言った。

寂しそうに微笑むと、劉埼はもう一杯の茶を飲み干した。控えている侍従が、手慣れた動作で、茶を注ぐ。

伝令が駆け込んできた。

「前線の砦の兵士達、後退いたしました。 敵は砦にはいると、火を放っています」

「ふん、それでは引っかかるな。 まずは嫌がらせの第一弾だ」

黄祖がそう嘲笑うと同時に、大音響がとどろいた。

砦には、硫黄や硝石なども燃えやすい物資を、大量に隠しておいたのだ。もし火などつけようものなら、周囲のかなりが派手に吹っ飛ぶように、である。

劉埼はびっくりして、茶を取り落としそうになっていた。

江夏要塞まで、びりびりと揺れている。少し遅れて、他の砦も一斉に吹っ飛んだ。さて、敵はどれくらいの被害を出したか。偵察に出ていた下級の将校が、沈鬱な面持ちで部屋に入ってきた。

「砦の周囲の敵、およそ二千。 消し飛びましてございまする」

「まずは上々よな。 次の段階へ移れ」

黄祖は我ながら冷酷だなと思いつつも、駒を先に進める。周瑜は今のところ、黄祖の予想を超える動きを出来ていない。

 

周瑜が反射的に伏せたのと同時に、野戦陣地が揺動した。

何が起こった。

顔を上げると、目に入ったのは、巨大な火柱だった。

砦が、丸ごと吹っ飛んだのだと、それを見てようやく事態を理解していた。

すぐに、状況を確認させる。

三つの砦が、殆ど同時に吹き飛んでいた。二つの砦に攻め込んでいた部隊は全滅。指揮官も戦死どころか、粉々に消し飛んで、遺骸の部品さえも見つからなかった。早めに砦を落とし、敵兵の追撃をしていた朱桓の部隊だけが、どうにか生き残っていた。と言っても、八百ほどの兵の内、かろうじて生き延びたのは三十名しかいなかった。

火の粉と一緒に、人間の消し炭が降ってくる。耳をやられてしまって、地面でもがいている兵士も少なくなかった。

もちろん、砦を使うどころではない。

黄祖の高笑いが聞こえるかのようで、周瑜は無念に歯ぎしりしていた。砦にいた兵士達は、悠々と引き上げてしまっている。

「お、おのれ!」

「被害、約二千二百! 一度後退して立て直しを!」

沈鬱な部下の声に、周瑜は剣を抜き、近くにあった天幕の柱を斬り捨てていた。普段温厚な周瑜も、一度怒りに囚われると、感情の制御が利かなくなることがある。かっては抑えられたのに、最近はどうもそれが難しくなりつつあった。

激しすぎて、貧血になり、倒れかける。

慌てて周囲の兵士達に支えられた周瑜は、負傷者の後送と、部隊の再編成を命じる。丸二日がそれには掛かった。一師団がいきなり戦闘開始と同時に消滅したに等しい。いつも江夏攻めは被害が大きいが、今回はそれ以上に酷い戦闘になることが、予見されてしまった。

翌朝、江夏城へと進撃する。

何度も攻めた城だ。孫堅の時代には落としたこともある。恐れることはないと、周瑜は自分に言い聞かせた。だが、毎年のように城壁が強化され、兵員が増強され、ますます攻めづらくなっているのも事実である。その分厚い城壁を見るだけで、昨日の砦攻めの惨状を見た兵士達は尻込みをする。だが、周瑜は、それでも彼らを死地に駆り立てなければならなかった。

城の前の地面は、どういう訳かぬかるんでいる。調べてみると、河口に注ぐ流れの一部を、強引に引き込んでいるらしい。攻城兵器がまともに動かないと、悲鳴に近い声が上がり始めていた。馬を寄せてきた呂蒙が、彼らを代表して言った。

「まず、地面を均しましょう。 これでは城攻めどころではありません」

「そなたの言うとおりだ。 準備に取りかからせ……」

「後方より伝令です! 敵の軽騎兵が、後衛に火矢を放っています!」

その、地面を均す工兵部隊への、嫌がらせ攻撃という訳だ。すぐに反撃するように命じたが、伝令が到着するころには、軽騎兵はとっくに引き上げてしまっていた。

陣を張ろうにも、辺りは一帯全てがぬかるみである。

兵士達の士気がどんどん下がっていくのが、周瑜には嫌と言うほど分かった。その上敵は悠々と江夏の城に構えていられるのである。

翌日も、軽騎兵による突発的な攻撃が続いた。

攻撃の下準備は、遅々として進まず。そればかりか、補給路まで脅かされる始末であった。

もとより、五万という動員数が、江東の動員能力から考えてあまりにも多すぎるのである。ただでさえ兵糧は乏しいのに、補給路まで脅かされては。状況は絶望的とも言えた。

やむを得ず、周瑜は兵士達を人夫として、土木工事を開始するが、そうするのを見計らい、城から大胆な攻撃を仕掛けてきた。

そして反撃の態勢を整えると、敵はさっさと引き上げてしまう。

攻め手が水を用いることは、古今に例がある。しかし、まさか守り手が水をこうも効果的に用いてくるとは。

完全に、黄祖に手を読まれている。

周瑜は歯がみしたが、もはやどうにもならなかった。

荊州を攻めるのに、江夏以外からと言う選択肢は、無い。いずれも補給線が伸びきるか、或いは航路も道路も整備されていない。整備するとなると、それこそ平和な時代に、数十年を掛けなければならないだろう。

江夏の壁は、高く厚い。

周瑜は、自らの軍勢を殿軍として、夜陰に乗じて撤退を開始した。これ以上は、被害を拡大するだけだと判断したからだ。

 

不意に、歩き回っていた黄祖が、足を止めた。それを不思議そうに、兵卒達が見つめる。

無能な連中だ。黄祖が足を止めたのなら、何かあると判断すれば良いものを。訳が分からないという風情で、きょとんとしている。

「さて、撤退するとしたら、今晩あたりだな」

「我が軍が、撤退するのですか」

「たわけ! 敵がだ!」

フ抜けたことをほざいた下級士官を怒鳴りつける。どうしてこの状況で、味方が撤退するという話が出てくるのか。頭のあまりの悪さに、黄祖は噴火しそうだった。

幾つかの指示を出すと、部下達が動き始める。事前に、敵の手は読み切っている。だから、個別には訳が分からない命令を、部下達には分散して出してあった。その命令の何番を実行しろと言うだけで、軍は動く。

互いに、内容を理解していなくても、だ。

無能な上に信用できない部下達を使うために、黄祖が造り出した秘密こそ、この複合型暗号であった。暗号の内容は、黄祖の頭の中身のみに収まっている。侍従や直属の武官も信用していない黄祖にとって、唯一頼りになるのが、己の脳みそだった。この戦いは、江東の軍勢と、黄祖一人の諍いであったのかも知れない。

少なくとも、黄祖以外の荊州軍は、己がどうやって動いた結果、敵が打撃を受けているのか、理解できていないだろう。

慌ただしく歩き回る兵士達の波を抜けるようにして、劉埼が来た。人混みを避けて歩くのが結構上手い。とっさの判断力に優れているのかも知れないと、黄祖は思った。

伝令は江夏を巣に急ぐ燕のような勢いで飛び出していった。ここからが見物だ。江東の軍勢を壊滅させ、周瑜を一気に討ち取る。それが成せずとも、敵の半ばを討ち取り、生かして帰しはしない。

手心を加える必要など無い。敵は江夏の軍兵は一人残らず殺すとまで明言しているのだ。それだけ江東の恨みが、この土地に集中しているのだとも言える。だが、黄祖からしてみれば、自分の土地を肥やすために、他の土地を犠牲にしようとしているだけのこと。そのような理屈は、此方から見ればちゃんちゃらおかしい。だから、粉砕する。完膚無きまでに、徹底的に。

周瑜は優秀な男だ。部下に欲しいほどに、判断も正しい。用兵も間違っていない。不得手な陸上戦だというのに、である。

ただ、此処は黄祖の庭で、しかも偏執的なまでに周囲を信用せず、情報を集め続けていた。その差が出た。それだけだ。

多分、黄祖が死ぬくらいまでは、荊州は大丈夫だろう。劉表と、蔡瑁と、黄祖の連携が上手く行っている限り、この土地が墜ちることはない。多少の裏切りが出ても、それに代わりはない。

黄祖は衰えを自覚している。時々様子を見に行く劉表もだ。二人とも、後十年、保たないだろう。だが、それまでであれば。この国を保つことは出来る。保てる間に、国は更に富むことだろう。

黄祖は何もかもが嫌いだが、唯一嫌いではないものもある。

それは、穏やかな、市井の雰囲気であった。

焼き石の城壁を降りると、約一万五千の兵が、隊列を揃えていた。

これから、歴史に残る大追撃戦を開始する。

そして、江東の軍勢は、船に乗るまでもなく、壊滅するのだ。それだけではない。船に乗っても、彼らは逃げられない。

黄祖は自らも愛馬に跨ると、城門を開くように告げる。既に外は暗くなっていて。ぬかるんでいる地面の上にのたうっているはずの敵兵は、数を四半減させていた。

味方は泥の上でも素早く行動できるように、履き物の裏に藁を敷かせたものを特別に全軍に配備している。そして、騎兵は。既に別の場所に待機していて、攻撃の機会を、今か今かと待っていた。

敵は予想通り、ぎょっとした様子であった。

その心までもが、既に黄祖の手の内にある。馬に鞭をくれると、黄祖は吠え猛った。今こそ、その巨大な悪龍のような鬱憤を、竜巻として爆発させる時であった。

「殺れっ! 皆殺しだ!」

「殺っ!」

兵士達が、己の中に潜む獣の本能を、爆発させた。

 

周瑜の軍勢が、怒濤のごとくなだれ込んできた黄祖の追撃軍に飲み込まれる。敵の勢いは、まるで氾濫を起こした黄河のごときである。周瑜はしばし必死の防衛戦を指揮していたが、彼の気力を、部下達も共有してはくれなかった。孫堅時代からの旗本達が、ばたばたと倒れていく。無論一般の兵士達に到っては、民家の雑草のように、儚く切り裂かれ、散っていく。

黄祖の追撃は、まさに見本のような手際であった。今まで、その力をためにため、蓄えに蓄えていたのは明らかである。しかも不思議なことに、何処か妙に連携が取れていない。

それで、気付く。

あの、黄祖は、誰も信用していない。全ての糸を引きながら、全体を見渡し、そして己の思うままに戦場を作り上げた。

怪物だ。

周瑜はそう思い、戦慄しながらも、必死に逃げる。部下達も、もはや秩序を為してはいなかった。

「左翼、壊滅! 韓当将軍、生死分かりません!」

「右翼も壊滅! 敵の騎兵隊が、突入してきました! 支えきれず、周泰、徐盛、両将軍、必死に逃走中です!」

「後方に、敵の増援! およそ二万!」

更に絶望的な報告が告げられる。兵士達は、もはや完全に大混乱に陥り、我先に逃げ出していた。

そして、周瑜も揉むような撤退戦を必死にこなしながら、海岸に来て、見た。

長江の、巨大な竜のような体の上で、無数の船が戦闘を行っている。黄蓋の軍勢を押しつぶそうとしているあれは、荊州水軍。練度はあまり高くないが、数は味方を圧倒的に凌いでいる。

「負傷者を船に乗せよ! 急いで撤退する!」

「周瑜将軍は!」

「私は最後まで残る! 急げ! 乗り遅れれば、死ぬぞ!」

周瑜の周囲に、旗本達が分厚い壁を作った。三万を超えている追撃軍が、山津波のような勢いで迫る中、小さくそれでも頑強な堤防となって、勢いを少しでも消す。

船が、出始めた。

だが、その幾つかが、爆発四散した。

黄蓋が防ぎきれなかった敵軍が、猛烈な横撃を仕掛けてきたのだ。練度が低いと言っても、火矢を放つくらいのことは普通に出来る。そして、火矢というものは、ただ火がついているだけの矢ではない。油をたっぷりしみこませた布を矢に巻いて、放っているのだ。殺傷力と燃焼力は、尋常なものではない。

次々に燃え上がる味方の軍船に、兵士達が絶望の声を挙げる。

だが、その時。敵の猛攻が、一瞬緩んだ。

「韓当将軍が無事でした! 生き残りを率いて、必死に水上で敵を食い止めています!」

「いまだ! 急げ! 物資は置いていけ!」

我先にと、兵士達を乗せて船が出航していく。中には兵士を乗せすぎて、転覆してしまう小舟もあった。目も当てられない惨状である。

周瑜は、見た。

敵の先頭に、甘寧がいる。鬼のような形相で、歯を剥きながら、矢を弓につがえていた。

そうしなければ殺される状況を、黄祖に作られたと言うことだろう。周瑜だけではなく、他の兵士達に、その姿を見せつけるように。

矢が、放たれた。

周瑜の側に仕え続けた幕僚が、矢を受けた。若武者が、彼を抱き留めたが、喉を貫いて即死だった。

「都督! 船の準備が出来ました!」

「まだ味方が……くっ!」

もう、周囲は敵の海だった。生きていても、救出するのは不可能であった。

船に乗り、飛んでくる追い風の矢を見つめながら、周瑜は思う。この江夏は、怪物、黄祖の巣と化しつつある。

黄祖はもう若くはない。息子も無能だと聞いているし、後数年で死ぬ。

だが、それまで。

多分江東の孫家は、江夏に足を踏み入れることが出来ないだろう。

そう、周瑜は絶望とともに確信していた。

乱戦の中で兜を失い、顔に大きな向かい傷を作った呂蒙が歩み寄ってきた。

「周都督。 この戦いも、勝利と記すのですか」

「我らは三つの砦を落とした。 それをもって、勝利を喧伝するしかないだろう」

何が勝利だと、周瑜は呟く。だが、史書を記す学者達は、四家に抑えられている。決定権など、周瑜にも、孫権にもないのだ。

傷ついた味方を補充する術が早急に必要となる。

恐らく、近いうちに、山越に対する大規模な攻撃をおこさなければならなかった。

山越との対立の理由の一つが、これだ。兵士が足りない場合、山越に攻撃を仕掛け、男達は兵士として、女子供は奴隷として捕らえるのだ。

黄祖に負ける度、こうやって山越との摩擦が大きくなり、彼らの恨みも膨らんでいく。

周瑜は、絶望とともに、長江の水を見つめた。

 

水軍の動きが鈍くて、敵の一部を取り逃がしたことで、黄祖は更に不機嫌になっていた。自室を歩き回り、侍従達も気味悪がって近寄ってこない。爆発しても、黄祖は剣を振り回したりしない。

ただ、恨みを体の中にため込んでいくだけだ。

味方の被害は千人弱。それに対して、敵の半数は討ち取った。まさに完勝である。もとより、それほど多くの兵力を蓄えている訳でもない江東の、二万五千を討ち取ったのだ。更にそれだけではなく、一万以上を、同時に捕虜にしている。敵のなかで、逃げ帰った兵は一万程度で、しかもその多くが負傷していた。

敵はまだまだ江夏侵略の手を緩める訳にはいかないだろうが、今後は規模を縮小せざるを得ない。仮に江夏を落とされることがあっても、荊州本土に敵の兵が迫ることはまずあり得ない。

だが、周瑜は取り逃がした。

主要な敵将も、殆どが逃げ延びている。

それに奴らには、まだ四家という虎の子の温存勢力がある。四家の兵力だけで四万を軽く超えるという報告もあり、油断は出来ない状況であった。

江夏の城に、蔡瑁が来た。相変わらず陰険が服を着ているような男だ。虫酸が走る笑顔を浮かべながら、蔡瑁はおべっかを使ってくる。

「見事な活躍ぶりであったな、黄祖将軍。 劉表様もお喜びだ」

「いえ、敵将周瑜は取り逃がしてしまいましたので」

「それでも見事な勝利であった。 敵の死骸を始末するのが大変だという事ではないか」

そういって、蔡瑁が嫌みったらしく指を鳴らすと、絹やら玉やら金やらが大量に運び込まれてくる。褒美だという。

荊州は拡大傾向にない。だから、普通の群雄のように、褒美として土地が出ない。地位も、頭打ちになってしまうから、出ない。

代わりに、豊かな金品が褒美に出る。これは他の将も同じ事だ。兵士達にも、充分満足させられる金を支払うことが出来る。

黄祖は殆ど財産をため込んでいない。嫌われている黄祖だが、この点だけは、誰も苦情を言わないそうである。知ったことではない。阿呆どもにいちいち迎合してはいられない。儒教的道徳など糞喰らえだと、黄祖は常に考えている。

あたまを下げて、礼を言う。

出来れば、この戦いを終わらせて欲しい。そう黄祖は思うのだが、それだけは劉表にもどうにもならないだろう。

死ぬまで、江東の連中と、下らぬ諍いを続けなければならない。

そう思うと、黄祖はますます憂鬱になった。

外に出る。

以前、孫堅の無念そうな首を見た時の事が忘れられない。誰にも家族があり、支えなければならない家や国がある。

それを思うと、無邪気に喜んでいる兵士達が腹立たしいし、出世だの何だのとほざいている将軍達も気に入らない。

黄祖の苦しみは。きっと、死ぬまで終わらないのだろう。そんな絶望感が、黄祖の中で育ち始めていた。

 

3、河北乱流

 

相も変わらず賄賂塗れの毎日を装いながら、漢中を実質的に裏から動かしている揚松は、今二つの事に頭を悩ませていた。

一つのことに関しては、解決に進みつつある。その目的のために、漢中には、ひっきりなしに細作達が戻ってきていた。

村々から選抜された精鋭である彼らは、近年兵の補充に熱心だった。状況が安定し、多くの流民が流れ込み続けている荊州と、それに許昌に入り込んでは、奴隷として子供を買って戻る。

容姿が美しい子供には目もくれない。必要なのは、生存力が高く、それでいて個性が薄い子供だ。生存力の高さは戦場で生き抜くために必要となる。そして個性の薄さは、何処にでもとけ込むために重要だ。

こうやって、奴隷を買い取り、村々に配置して、細作として鍛える部隊が半数。董俊と李儒の死によって受けた打撃は、後数年もすれば回復するだろうと、採算は立っていた。これに関しては、問題がない。

今一つは、まるで解決する雰囲気がない。そのもう一つとは、完全に未来の見通しが立たなくなったことである。

少し前まで、曹操が河北を落とすのはほぼ確実と、漢中では判断していた。このため、曹操に対して従属同盟を持ちかけ、最終的にはその庇護下で政権を存続させるべきだと、張松は判断していたのだ。

だが、細作達の報告によると、河北は裏側から袁煕によって支配されつつあるという。

今までまるで目立たなかった袁煕は、既に三男の袁尚を実質上の軟禁状態に置き、影武者を建てているという。

もちろん細作が減少している漢中でも掴んでいるのだ。曹操の下にいる林や、荊州で勢力を順調に拡大している董白は、ほぼ確実に把握しているだろう。特に董白に到っては、近年その細作勢力は、林の組織を凌ぎつつあり、江東の四家を裏から動かしているという分析さえある。

仮に袁煕が河北を纏めた場合、曹操が河北を攻略するのには、二十年掛かるという試算もある。それが実現してしまったら、今度は年齢に追い立てられるのは、曹操の番になるだろう。

しかし、曹操も有能きわまりない男だ。黙って袁煕が河北を纏めるのを、見ているとはとても思えない。混沌とした状況が続いていて、揚松は毎回傾く天秤に、心を悩ませ通しであった。

今日も弟に乱脈な生活を装うように言い聞かせて、こっそり裏口から出る。

いくつもの仮面を使い分けている揚松は、そそくさと張魯の屋敷に急いだ。護衛の細作達が、影から声を掛けてくる。

「袁煕が、どうやら鮮卑を動かし始めたようです。 これに対して、西涼の勢力は、皆反発し、迎撃の動きを始めているとか」

「曹操の仕業か」

「はい。 鮮卑は長安を襲う動きを見せ始めていて、曹操は西涼の支配者達が目を回すような金品を用意して、彼らを迎撃させる方向に動いているようです」

少し前に、曹操は放置されていた長安を制圧した。

領国の経営に自信が出てきたからだろう。後方に巨大な安全圏を抱え、曹操はいつでも動ける状態にあることを示してもいる。

故に、判断は慎重にならざるをえない。長安と漢中は、すぐ近くなのだ。

屋敷の裏口からはいる。使用人に紛れ込んでいる細作が、揚松を奥へ案内した。

いつもは政務の後に、張魯や張衛を交えて話をするのだが、今回は緊急事態だ。鮮卑の件も併せ、幾つか話しておかなければならないことがある。張衛には、既に話を通してある。後は張魯だけだった。

屋敷の奥で、張魯は香を焚き、暗がりで目を閉じて座を組んでいた。

宗教的な儀式ではない。精神集中するために、必要な事なのだ。揚松が抱拳礼をすると、張魯は目を見開いた。

「揚松か。 いかがした」

「幾つか、直接お耳に入れたいことが」

「話して見よ」

「は。 河北の情勢が、ますます混沌を増しております。 袁煕は既に、袁尚の勢力を制圧。 家臣団も、あらかた掌握したようです。 現在、袁譚の勢力内にある協力者達を煽り、合体工作に動き始めています」

張魯が僅かに身じろぎした。揚松は更に言葉を続ける。

「邪魔が入るのを防ぐためでしょうか、袁煕は鮮卑を動かし始めたようです。 長安を襲わせるつもりのようです。 対して曹操は西涼を動かし、迎撃の用意を調え始めています」

「相変わらず動きが速い。 揚松、お前はどう見る」

「少し前までなら、曹操が勝つのは順当だと思っていました。 しかし、もしも河北が袁煕の下にまとまり上がると、曹操の寿命が先に尽きてしまうかも知れません」

「曹操は既に跡取りを決めていると言うが」

確かに、曹操は曹丕を跡取りとして指名している。

しかしこの曹丕、能力はまあまあなのだが、兎に角人望がない。三男の曹植を推す家臣が多いと、揚松も報告を受けていた。

その上、もし曹操が袁煕のもくろみを粉砕して、数年以内に河北を落とした場合。日和見を続けた漢中は、彼の侵攻に晒されることになるだろう。邪魔をするにしても、静観するにしても、難しい状況が到来したと言える。

最上の結果は、決まっている。漢中が独立を保つことだ。

実質上漢中は独立王国であり、内部完結した経済を持つ。しかしそれはとても小さい。閉じてしまった小さな王国は、かって漢王朝の腐敗に乗じて独立した。そして今、かっての漢王朝を遙かに凌ぐ曹操の巨大な帝国の前に、揺れ動いていた。

一番良いのは、曹操に恭順するふりをしつつ、袁煕を支援することだ。だがそれほどの兵力が手元にはない。曹操の下にいるのはあの林なのだ。曹操の様子を伺うだけでも、手練れを多く失っている現状、陰謀など巡らせていては、喪失した戦力が戻る前に、漢中は目を失ってしまう。

やるなら、どちらかしかない。

袁煕を支援するか。

それとも、さっさと曹操に恭順するかだ。

「張魯様、どちらかしか、道はございませぬ」

「……私はただ、この複雑な地形と隔絶した村々の諍いに苦しんできた漢中が、平穏であれば良いのだがな。 それも、今の時代では、望めぬと言うことか」

「曹操の下につけば、ある程度の平穏は約束されましょう。 しかし、いざというときには、兵を出さなければならず、民の負担も大きくなること必至にございます。 かといって、袁煕はいずれ曹操に破れること確実にございます。 曹丕の器量が劣り、曹操政権が内部分裂することを期待するしか、道はなくなります」

「ふむ、それもまた、希望的観測が大きすぎる。 どちらにしても、帯に短く、たすきには長すぎる」

張魯は考え込む。

一度、揚松は退出した。顔を隠して、裏門から出て。屋敷にはいると、弟と交代。さも今まで宴会をしていたように、愚物そのものの行動を始めた。

夜まで空虚な宴を続けた後、自室に戻り、水を浴びて一瞬で酔いを消し飛ばす。

そして細作の長としての顔に戻ると、情報の整理を続けた。自分の仕事は、あくまで情報を集めること。

結論を出すのは、張魯だ。

結論を出しやすいように手助けはする。だが、それ以上は、揚松の仕事ではなかった。

戻ってきた細作から、また手練れが何人か殺されたと聞く。林に対抗できそうな細作を育ててはいるが、やはり被害が大きすぎる。深夜まで作業を続けて、情報を整理。血が滲んだ情報ばかりだ。絶対に、無駄にする訳にはいかない。

早朝、張魯から呼び出しが来た。

張魯は、一晩中考えていたらしい。頬が痩け、目が血走っていた。それは、揚松も同じ事。ここしばらく、まともに寝ていない。

「結論が出た。 張衛も聞け」

「兄上、どのように今後の戦略を進めるのでしょうか」

「曹操と戦う」

揚松は、弾かれたように顔を上げていた。

ついに、この時が来た。

張魯は、目に炎を宿していた。温厚だと言うことで知られている漢中の君主は、己の中の烈火を、燃え立たせていた。

「そのためには、まず袁煕を支援する。 細作の全部隊は、袁煕の支援に全力を向けさせよ。 時間を稼がなければならぬ」

「御意!」

「張衛は軍備の強化だ。 曹操が袁煕と戦っている内に、益州を落とす。 益州の劉璋は、さほどの失策を今まで犯していないとは言え、戦に秀でた男ではない。 軍備を強化して攻め込めば、必ず倒せる。 五年以内に、劉璋を仕留められるだけの軍を用意せよ」

「分かりましてございまする!」

張衛が、揚松に続いて跪く。

漢中は要害の地だ。仮に曹操が攻め込んできても、簡単に落とすことは出来ない。だが、民の被害は大きくなる。

張魯は判断したのだ。その大きな被害よりも、曹操によって漢中が支配されることの方が、弊害が大きいのだと。

判断自体には、問題がない。ただし、幾つか理解を確認しておく必要がある。揚松は顔を上げる。

「曹操と敵対するとなると、林と全面戦争になりまする」

「分かっている。 これまで以上に、暗殺や敵の侵入には気をつけねばなるまい」

「安心しました。 それが分かっておられるようでしたら、何も私は言いますまい」

「うむ。 そなたらも、気をつけよ。 林は怪物じみた細作だと聞く。 部下達の負担は大きくなるが、明確な戦略を今まで打ち出せなかった私にも責任がある」

沈鬱だが、誇りを湛えて、張魯はそう言った。

張魯はそれから、戦略を打ち出す。

まず漢中から益州に進み、豊かな経済力と人口を手に入れる。その後は西涼の諸侯に使者を出して纏め上げ、荊州に侵攻。以上の動作を済ませれば、曹操と五分に戦えるだけの戦力が揃うだろう。

天下を二分するという訳だ。

実は、珍しい説でもなければ、斬新な策でもない。江東では数年前から唱えられており、荊州でも甘寧という高名な大侠客がそれを口にしているという報告がある。もちろん張魯の耳にも揚松から入れており、実現できれば、確かに曹操との正面戦争が出来るだろう。河北以上の兵力が手にはいるという計算も出来ている。

ただし、まずは益州を落とさなければならないが。

それが、難事であった。

「これから、皆には苦難の道を歩んで貰うことになる。 すまぬな」

「お顔をお上げください。 我ら、命を捨てる覚悟など、とうに出来ております」

「俺も同じです、兄上。 ただ、一つ問題があるとすれば、漢中は裏の道には長けておりますが、面と向かって大軍勢を率いた経験のある者がおりませぬ。 どこかで人材を調達しなければなりますまい」

張衛は謙虚にそう言った。会議での血の気の多さと、傲慢不遜さは演技なのだと、こういう所からもよく分かる。

張魯は頷くと、人材の調達も、細作の仕事として命じてくれた。

名誉なことだと揚松は思った。

 

荊州。

楼中と呼ばれる片田舎で、静かに婚礼の儀が上げられ、そして終了した。

嫁いだのは現在黄月英と名乗っている董白。妻を迎えたのは、知る人ぞ知る英才、諸葛亮。

黄家と言えば、劉表の側室を輩出し、蔡瑁の姉を妻にしている、荊州軍閥の要人である。その割には質素な婚礼だったので、周囲の人々は、董白は稀代の不美人なのだろうと噂した。もちろんそれには、諸葛亮の圧倒的な才覚に対するやっかみもあった。

婚礼の儀をささやかに済ませた董白は、夫として適切な男を得たことに満足していた。知能は申し分ないし、根本的な戦略でも一致している。

そして、二人で天下の戦略を練り始めていた。

細作達も、諸葛亮の才覚については理解している。唯一不満そうだったのが、対林用の切り札として育てている山越出身の娘だったが。これは董白を取られたような気がして機嫌が悪いのだと分析できていたから、別に問題視はしていなかった。

一見すると、静かな山奥での、穏やかな暮らし。

だが、江東から漢中に到るまでの多くの謀略が、此処から出ていた。そして、巨大な情報の集積も行われていたのである。

使用人達が、鍬を振るっている音がする。書斎で竹簡を開いて情報を頭に入れていた董白は、すっと眼を細めた。気配を感じたからだ。気配は、察知させた事を確認すると、壁越しに情報を展開する。

「董白様。 江東に行っていた珪が戻って参りました」

「結果はどうでしたか」

「この間の敗戦で大きな打撃を受けた周瑜でしたが、すぐに朱然らを南部国境に派遣しました。 山越を討伐して、兵力の補給を進めております」

「討伐とは、良く言ったものですね。 分かりました。 監視を続けなさい」

江東の孫政権に限らず、漢人と山越は、犬猿の仲だ。原因は幾つもある。

豊かな土地を、人口にものを言わせて漢人が押さえ込んでいること。文化が異なること。そして、戦争がずっと続いていて、殺し合っていると言うことだ。

山越の人間は勇敢で、体も頑強である。ただし、文化の水準は決して高くない。だから、高度に組織化された漢人の大軍には為す術がない。これは鳥丸や鮮卑も同じ事である。もしも歴史が代わるとしたら、彼らが伝統よりも現実を重んじ、漢人の高度な武器や技術を惜しみなく取り込み始めた時だろうと、董白は考えている。

それと、もう一つ。漢人は山越を奴隷として長年使ってきた。それも、主に戦争用として、である。

反乱を起こしているのも事実だが、それを討伐すると同時に、若者達を漢人は捕虜として大量に連れて行く。そして戦争の最前線に立たせるのだ。

時には万を超える「捕虜」を得て、それを兵士に仕立てることもある。

それらを山越が恨んでいない筈がない。実際問題、林の所にいる細作の中にも、そうして江東の漢人達を蛇蝎のように嫌っている者が少なくないのだ。彼らは同胞のためと言って、命令とあれば幾らでも漢人を殺す。むしろ、その命令を望んでさえいる。

巧く手綱を取っていかないと、董白の首も危ない。危険な者達である。

「漢中に関しては、潜り込んだ徐からの報告が全てです。 どうやら益州を制圧し、天下を二分するべく動き始めたようです」

「分かりました。 夫の分析によると、それは不可能であると結論できています。 漢中には残念ながら、それを出来る武人もいませんし、張魯には国内ならともかく、外部に向けた求心力が存在していません」

だが、戦略自体には見るべき所がある。

実際問題、河北を曹操が落とした場合、その戦力は手の出しようがない程までに巨大化する。荊州、益州、涼州、それに漢中の戦力を結集すれば、対抗が出来るかも知れない。それほどに、だ。

夫である諸葛亮も、この説を唱えている。しかし、他とは少し違う点があった。

それは、三すくみの状態をどうにか作り出せないかというものであった。

「涼州に派遣している洪はどうしていますか」

「まだ報告は来ておりません。 想像以上の群雄割拠と混沌の中にあるものと思われまして」

「分かりました。 一刻も早く、報告を纏めるように急かしてください」

「御意」

気配が消える。肩を叩くと、董白は筆を執り、さらさらと竹簡に文字をしたため始めた。

右側の壁の棚には、注を付けた軍学書が、山と収められている。

左側の壁の棚には、今まで纏めた各地の情報だ。多くの部下達が、血と汗を絞り尽くして集めてきたものばかりである。

戸を叩く音。

振り返ると、諸葛亮が部屋に入ってきた。

「また、細作が来たのですか」

「ええ。 漢中と江東に動きがありました」

「ふむ。 江東は黄祖将軍が健在な限りは、考えなくても良いでしょう。 漢中は、後数年は動けまい」

「私もそう思います」

不思議なことに、諸葛亮は結婚してからも、董白と敬語で会話している。妙な夫婦であるが、董白は別に困っている訳でも嫌でもなかったから、そのままでいた。

二人でしばらく政務のことを話し合う。

気がつくと、夜半になっていた。細作が壁を叩いたので、董白は眼を細めた。

「良い。 報告を」

「河北で動きがありました。 袁煕が、袁譚との交渉を進めている所に、曹操からの横やりが入った模様です」

「やはりな。 どのような横やりか」

曹操が林を有している以上、河北の袁煕の動きを掴んでいない筈がない。

曹操としては、袁紹の愚かな息子達に、もっと殺し合って貰わなければ困るのだ。河北を制圧するのは難しくなるし、何より民が袁紹を慕ったままでは拙い。彼の息子達が愚物であることを天下に示し、それで初めて曹操が河北を支配する下地が出来る。虐殺は重ねれば重ねるほど逆効果だ。

「それが、どうやら袁尚が脱出して、袁譚の所に向かった様子でして」

「ほう?」

あのような、良家で甘やかされて育った馬鹿若様に、そんな行動力がある訳がない。確かにそれは、曹操が林を使ってやらせたことだろう。それにしても、これは面白いことになった。笑い事ではないが、奇策である。

状況を知れば、袁煕は全力で袁尚を殺させようと、兵を差し向けるだろう。

林は恐らく、袁尚を袁譚の領土へと向ける。其処に、殺気だった袁煕軍が殺到すれば、どうなるか。

袁譚との致命的な戦いが始まる。

もちろん、袁譚は「袁尚についた」袁煕を許すことはなくなるだろう。

もちろん、袁尚を取り逃がしても同じ事になる。なぜなら。残念ながら、袁譚には袁尚の哀願を聞くような度量が備わっていないからだ。

「流石は曹操。 見事な奇策ですね」

「ええ。 ですが、これで河北の陥落が早まるでしょう。 我らも急いで動かなければなりますまいな」

諸葛亮は戦略を練ると言い残し、自室に引き上げていった。

董白も同じようにしてまた机に戻ると、今後どうやって曹操の勢いを殺し、対抗できる人間を選び出すかの作業に入った。

近々、劉備を見に行こうと董白は思っている。

奴ならば、ひょっとすると。

天下を三すくみの状態にし、民のために立つ国を建てられるかも知れなかった。

 

4、人知れず死す者

 

袁尚は、髪を振り乱して、荒野を走っていた。愛馬など何処にもいない。部下達もだ。ただ泡を吹きながら、走っていた。

訳が分からない。

どうしてこうなったのか、何度考えても理解できない。

大将軍の衣服も、宝剣も無い。粗末な服を一枚羽織っただけで、下着さえ着けていない状態だ。

気がつくと、牢屋の中にいた。どんなに怒鳴っても、兵士はやってこなかった。やっと現れたのは、醜く鞭を持った大男。奴は袁尚を見てもにやにや笑うばかりで。それどころか、何を言っても理解さえ出来ていない様子であった。どうやら、そもそも難しい漢語が理解できないらしいと気がついた時には、その男を侮ってしまっていた。

だが、それが間違いだとすぐに悟った。

大男は、世にもおぞましい拷問を、毎日のように加え始めたのである。もがこうが叫こうが、誰も助けには来なかった。戦場で怪我をしたことはあった。だが、それでも、これほどの痛みは初めての経験であった。

発狂しそうになると、男は手を緩める。そして、少し持ち直してくると、まだ拷問を加える。

与えられる食事は腐臭を放っており、口に入れるだけで吐き戻してしまった。

爪は全て剥がれ、耳は両方とも引きちぎられた。毎日歯を砕かれて抜かれ、そして指も何本か押しつぶされた。

死に瀕していた彼は、気がつくと。冀州城の前に転がっていた。

此処にいたら、殺される。

本能的に悟った袁尚は、逃げ出していた。途中、松明が自分を招くように何度か振るわれて、それについていって。素足のまま、山野を駆けた。なぜか途中には、まともな食料も転がされていた。砂がついていようが多少生であろうが、気にせず貪った。

もう、何も考える余裕さえ無かった。

ただ、逃げる。

全ての気配が怖かった。兎を見て、絶叫さえした。

自分が何処にいるのかなど、とうの昔に分からなくなっている。星の見方は以前教わったが、それも念頭になかった。

人間は、怖い。

例え相手が子供であっても、もはや人間は、恐怖の対象以外の何者でもなかった。

袁尚は、走った。

何から逃げているのかさえ、いつの間にか分からなくなってきていた。

 

袁煕は、袁尚が逃げ出したと聞いて、文字通り飛び上がった。

もとより、冀州は袁尚の支配下にあり、その家臣団の全てを完全に掌握した訳ではない。影武者は立ててはいるが、本人が何かしらの主張をした場合、最悪曹操がそれの後ろ楯になり、行動を起こす可能性もあった。

袁譚の家臣団を切り崩しており、今その三割ほどをようやく籠絡した所であったのに。曹操の陰謀であることは、間違いなかった。

審配が、すぐに執務室に来た。

「袁煕様。 袁尚様が逃げ出したご様子ですが」

「すぐに追撃隊を組織して、殺せ」

「あまりお勧めできません」

「何?」

身を乗り出した袁煕に、古くからの忠臣は、眼を細める。

元々審配は、袁煕の教育係であり、幼いころから親代わりだった人物だ。袁紹に相手にされず、後継者の候補からも早くから外されていた袁煕を構う家臣は、殆どいなかった。当然その子息達も、袁譚や袁尚の取り巻きになることはあっても、袁煕とは目も遭わせないことがままあったほどである。

そんな中、審配だけは、影で袁煕を助けてくれていた。

学問も武術も教えてくれた。袁紹は認めてくれなかったが、そのどちらも、気付いた時には兄も弟も凌いでいた。

何より、強い自制心と、裏側で糸を引くやり方を教えてくれたのは大きかった。

だから、袁煕は、審配の言うことは注意深く聞く。

「理由を聞かせてくれ」

「恐らくは、曹操の狙いは幾つかあります。 その中で最大のものは、袁尚様を袁譚様の領地に誘導し、追撃隊を誘い込むことかと思われます」

「なるほど、兄上と私での、血みどろの戦いの切っ掛けを作らせるつもりか」

「はい。 更に、これほどの緻密な策です。 裏で動いているのは、ほぼ確実にあの林でしょう。 手抜かりがある筈がありません」

審配は言葉を句切ると、袁煕が理解しているのを確認した上で、手を叩いた。

細作が数名現れる。まだ経験が浅いが、審配がようやく形にした、新しい部隊だ。まだ林と正面から戦うのは難しいが、諜報任務だけなら充分にこなすことが出来る。

「彼らを使い、郭図将軍に情報を流します」

「兄上の手で、袁尚を殺させると言うことか」

「はい。 我らの手を汚していては、曹操の思うつぼですから」

「ふむ。 確かにその方が、危険度が低いが……」

袁煕は不安だった。何しろ相手は曹操である。まだ何か、更に裏があるように思えて仕方がなかった。

だが、軍を派遣するよりも、搦め手を使った方が人員の被害も抑えることが出来る。袁譚も最近は、どうにか心を落ち着けてきてくれている様子である。懐柔するにしても暗殺するにしても、今はまだ準備が足りない。

鮮卑との連携が取れ、曹操と戦える状態が整うまで、まだ大規模に動く訳にはいかなかった。

「しかし、それさえも曹操が策に組み込んでいたら、どうする」

「その策とは、何か思い当たりましょうか。 私には、考えつきませぬ」

「む、そなたに考えつかぬのであれば、逢紀にも無理か。 分かった。 ならば一旦其処までで、策を進めよう」

「御意。 他にも曹操が策を仕掛けてきた時を考えて、対策は万全にしておきます」

審配が退出したので、袁煕は一旦外に出た。厳しく武装して、城の中を見回る。

林は恐ろしい奴だ。拷問係は頭が少しおかしかったが、それでも相当な強者だった。それを苦もなく捻って見せたという。悲鳴さえ上げられず、首と胴を切り離されていたというから、あの手練れを一瞬で殺したと言うことだ。

もちろん、袁煕の周囲には護衛を多く付けている。袁煕自身が殺される可能性は少ないが、部下達までそうやって守れる訳ではない。

もとより、影に生きてきた袁煕だ。影を恐れる訳ではない。

ただ、漠然とした不安は、ずっと心から消えなかった。

 

袁尚は、言葉さえも忘れたように、意味を成さない呻き声を上げながら、山奥を彷徨っていた。

それを見つめる影が一つ。

如何なる闇よりも深く、どのような獣よりも獰猛な気配を湛えている存在。邪悪を一身に具現化したような、孤独な小さな影。

現在、中華にて、間違いなく最強の細作である存在。

林であった。

冀州城の地下牢から助け出したのは、もちろん曹操による指示だ。曹操は、林にこう言った。

「袁尚が壊れる辺りを見計らい、冀州城から助け出せ」

「分かりました。 その後は、袁譚の領地にでも放り込んできましょうか」

「それも面白いが、奴にはもう存在価値がない。 今するべきは、如何にして袁譚と袁煕を争わせるかだ。 袁尚はもうどうせ生きていた所で、人知れず殺されるだけの男にすぎぬからな。 そこで、袁尚は、その辺りに適当に捨ててこい。 それで、わざと狂った姿を見せつけながら、袁譚の領地に誘導せよ」

袁煕の対応を遅らせることがまず目的の一つ。曹操はそう言った。

現在、袁煕は袁譚の家臣団の切り崩しを行っていることが分かっている。郭図を始めとする何人かが、既に応じている状態だ。完全に体を壊した郭嘉を中心とした家臣団が動き回り、恐ろしい速度での切り崩しが行われている。それはまるで、氷山を崩す名工のような光景であった。

曹操が恐ろしいのは、其処で謀略を止めないことだ。

まず袁譚派以外の家臣を引き込み、幾つかの陰謀はわざと露骨に白日に晒させる。そうやって袁譚政権を内部から混乱させる。もとより袁譚は無能な男であり、粗暴なだけで思考回路が極めて貧弱だ。其処を突く。

かって袁紹と戦った時、曹操は袁紹本人との戦を避け、周囲と戦うように努めた。今度はその逆だ。袁紹の家臣団は、個々ではそれなりに優秀な者も少なくない。だが、まとまりがない。まとまりを失わせているのは、間違いなく頂点にいる袁一族だ。袁紹が生きていた内は、それでも何とかなっていた。だが今では、弱点以外のなにものでもなくなっている。

戦では弱い方を叩く。これが常道である。

袁譚に対するえげつない陰謀も、既に動いている。袁煕は思ったより出来るようだが、関係ない。袁譚に足を引っ張らせればよいと、曹操は淡々と言った。

残念ながら、役者が違う。多少優秀な程度の袁煕では、まるで勝負にならないのが目に見えている。せいぜい出来るのは、時間稼ぎ程度だ。

だから、今はまだ曹操についておく。林は呻きながら木の皮を囓っている袁尚から視線を外すと、側に控えていた細作達に向き直った。

「目は離すな。 もし袁譚の兵が現れたら、わざと姿を晒すようにし向けよ。 もしも知己が現れて助けようとしたら殺せ」

「分かりました」

「ふん、絶世の美男子か」

もとより林は男の顔などに全く興味がない。興味があるのは筋肉と戦闘能力だけだ。母のようにいずれ子供を作るとしたら、能力を期待できる子孫が作れるように、林と同じくらい気が狂っていて、戦闘能力でも拮抗している相手が望ましかった。

袁尚はそのいずれも満たしていない。

あれは唯の阿呆だ。だから、林としても、興味はまるで沸かなかった。

一旦部下達と離れ、山頂に出る。いつの間にか、林を脅かせる細作はいなくなってしまった。そればかりか、楽しく殺せそうな豪傑も、減りつつある。時代が大軍対大軍に移り変わりつつあり、個人の武勇が発揮される世界に終焉が訪れようとしている。それは逆説的に言えば、林が力を発揮できる時代の終わりをも意味しているとも言えた。

曹操はいずれ、林だけでは把握しきれないような、巨大な細作組織を作り上げるだろう。

今は曹操についているが、別の奴につかなければならない可能性も出てくる。その時のことも考えて、今はありとあらゆる情報を、徹底的に集めておかなければならなかった。

ふと、山の裾野を見る。

人気のない村があった。闇の中でも林は、星明かりと木々の分布で、それくらい判断が可能なのだ。

闇の中を走り、向かったのは、ただ何となく。別に何か目的があった訳ではない。廃村など、この時代には、幾らでもある。特に西涼や徐州など、混乱が激しかった地域には、無事な村の方が少ないほどである。特に西涼は何度か足を運んでみたが、そのたびに村のと人間の数が目減りしていた。

村に入ってみる。意外と、朽ちたのは最近だ。

家の軒先には、まだ形が残っている鳥の足がぶら下がっていた。鴉の類はいない。血の臭いもない。ざっと見て回ったが、争いの形跡はなかった。

家々の中を見ていくと、殆ど何も残っていなかった。夜盗の類が奪った形跡もない。これは、ひょっとすると。

外に出てみて、確信した。借り入れを終えた跡がある。つまり、全てが計算尽くだと言うことだ。

これが示す事は一つしかない。ついに、この河北でも始まったのだ。

流民。

民が逃げ出す。生きていけないから。暮らしていけないから。

やがて流民は際限なく数を拡大し、時に武装蜂起し、時に都会になだれ込み、一気に国を傾ける。

人間が多すぎる割に豊かな土地が偏っているこの国で、しばしば見られる現象だ。そして流民が出始めると、その国は例外なく滅ぶ。船が事故に遭う時、住み着いている鼠が一斉に逃げ出すという。鼠でさえその程度の勘は働くのである。人間にだって、乱世で暮らしていれば近い能力は備わるのだ。

これは面白くなってきた。

民は袁譚が滅ぶと考え始めた。そして近々、それは袁煕の住む冀州や幽州でも発生し始めるかも知れない。そうなると、袁煕は曹操との抗争どころでは無くなってくる。どう巻き返そうとするか、今から見物であった。

今まで他の村で、同じ状況が発生したという情報はまだ耳に入っていない。となると、この村が恐らく最初か、それに近いものだろう。

林は誰もいなくなった村の中央で、狼煙を焚く。村そのものに対して、哀悼の意を表すかのように。もちろん、部下共を呼び集めるためにも。

ほどなく集まり始めた部下は、例外なく驚いた。

彼らの中心で、林は言った。

「見ての通りだ。 河北の破滅が始まった」

「恐ろしき事にございまする」

「黄河を渡ろうとする人間が、これから増え始めるだろう。 その中に、河北の要人や細作が紛れ込んでいる可能性も高い。 努々油断するな」

河北の国境はあまりにも長大だ。黄河を封鎖すると言っても限度がある。もしも本格的に流民が出始めたら、止める術はない。袁譚のような無能な君主であれば、それはなおさらのことだ。もちろん袁煕であっても、である。

袁譚の勢力圏は殆どが青州にあるが、黄河の北にある一部に関しては、これで壊滅的な打撃を受けるだろう。ましてや別の勢力という自覚がない民も、それに連動して動き出す可能性が高い。

どうやら、曹操の勝利は確定したらしい。

林は、闇の中でほくそ笑んでいた。

 

夜半のことである。曹操は自室で執務を続けていたが、不意にいやな予感を覚えて外に出た。案の定、其処には蒼白な顔で立ちつくしている伝令がいた。

今、袁譚と袁煕とは交戦していない。故に、伝令が来るというのは、余程のことであろうか。

「如何した」

「夜分恐れ入ります。 郭嘉様の屋敷からにございます」

それだけで、曹操は何が起こったのか分かった。すぐに馬を用意させる。許?(チョ)も、慌てて起き出してきた。

僅かな護衛を連れて、許昌を急ぐ。今は待つだけでたわわに実った河北という果実が手に入る時期だというのに。せっかく集めた人材が、どうして失われてしまうのだ。ましてや郭嘉は、戯志才が言い残した逸材である。それなのに。

馬上で歯ぎしりしてしまう。

屋敷にはすぐ着いた。丁度中から、白衣の老人が出てくる。華陀と呼ばれる、評判の名医である。鶴のような印象を受ける、細い人物だ。

「これは、曹操様」

「おお、華陀と言ったな。 郭嘉は、どうなのだ」

「肺の病が、全身に広がり始めてございます。 元々からだが強い方ではございませぬで、もはや手の施しようがございませぬ。 今はただ、痛みを和らげ、意識を保つことだけが出来る事にございます」

「そ、そうか」

華陀は名医だが、それ故に己の限界もよく分かっているという事であろう。曹操は肩を落としながらも、それを悟らせないように颯爽と馬を下りた。背が低いので、あまり颯爽と馬を下りると足をとても強く地面に打ち付けて痛いのだが、今は痛い事などどうでも良い。

屋敷にはいる。どやどやと、護衛達が続いた。

屋敷の中では、浮き名を流した郭嘉らしく、大勢の女達が泣き濡れていた。中にはまだ成人したばかりと思われる女性もいる。この時代、成人していない女性に手を出すことは最大の恥とされ、郭嘉もそれを守っていた。だから、郭嘉はその性を、最後の最後に到るまで保っていたことになる。それなのに子供は少なかったから、郭嘉は子が出来にくい体質であったのだろう。

曹操が来ると、流石に侍従達も顔色を変え、郭嘉の所に案内してくれた。

郭嘉は蒼白なまま、目を血走らせて、床についていた。曹操を見ると体を起こそうとするが、侍従達に止められる。

「良い。 そのままで大丈夫だ」

「も、申し訳ありませぬ」

「飄々としたお前らしくもない。 自分は天才だと確信して、回り全てを馬鹿と考えていた傲慢なお前が、こうも早く倒れるとは。 余も無念だ」

「ほ、本当に。 無念にございまする」

郭嘉の目には涙が伝っていた。不思議と咳が出ていないのは、それだけ死期が近いという事なのだろう。

軽く情報の引き継ぎを行う。その跡、仕事の引き継ぎについても説明は受けた。ただしこの辺りは、既に部下達から話を聞いている。問題がないか確認しただけである。

「何か、望みはあるか。 お前の謀略と政務能力は随分余のために役立った。 ある程度までなら、何でも聞いてやるぞ」

「そうですな。 不思議と今は、女を欲しいとは思いませぬ。 最後に女を抱いたのは三ヶ月ほど前ですが、その時も以前ほどの楽しさは感じませぬで。 美味しいものに関しても、たくさんいただきました。 此方も、あまり欲しいとは思えませぬ。 酒でさえ、今はあまり飲みたくありません」

郭嘉は即物的な男であり、現実主義者だった。同じく現実主義者である曹操が鼻白むほどの、である。

それが、今は何処か仙人のような無欲な風情を湛えている。

「私は、周囲全てが嫌いでした。 愚かで無能で、考えが見え透いていて。 実は女達も嫌いでした。 唯一、自分より頭がよい戯志才と、曹操様は好きでした」

「うむ。 そうか」

「曹操様、天下をお取りください。 不思議と、今はあまり自分のことに望みはございませぬ。 私が大好きだった曹操様が、天下を取ること。 ただそれだけが、この欲おおき男が、最後に辿り着いた望みにございまする」

そう言うと、郭嘉は目を閉じた。意識を失ったらしかった。

外に出ると、華陀がいた。余命はもって三ヶ月。もう立ち上がることも出来ず、跡一月ほどで意識が戻ることも無くなるだろうと、老医は言った。そうかと歎息すると、曹操は郭嘉の家族に面会し、生活を保証する旨を伝えると、自分の屋敷に戻った。

許?(チョ)は最後まで、何も言わなかった。

曹操がこういう時、静かにしていて欲しいのだと、悟っているからだろう。つくづく、良くできた男であった。

曹操は空を仰ぐ。

繁栄している許昌でも、構わず星は瞬いている。美しい星空には、無数の人間の運命が輝いているとも言う。あれらの星の一つが郭嘉などとすれば。いずれ流れ星となって墜ちるのだろうか。

曹操に天文の事は分からない。興味はあるが、今更学ぼうとは思わなかった。

屋敷に戻ると、寝台にごろりと横になる。もう今日は、政務を執ろうとは思わなかった。

「虎痴よ」

「はい。 曹操様」

「酒をたくさん持ってきてくれ。 今日は飲みたい」

すぐに許?(チョ)は、樽ごと酒を持ってきてくれた。その大げさな所が、今の曹操には、とても好ましかった。

 

(続)