一つの時代の終わり

 

序、袁紹の意地

 

既に、歩くことも出来なくなりながらも。袁紹は、鬼気迫る表情で、戦場を見つめていた。

官渡の戦いでの大敗から数ヶ月。己の全てを費やして兵力を集めた袁紹は、再び官渡にて、曹操と対峙していた。兵力は二十万。曹操軍を未だ凌いでおり、決して兵の質でも劣ってはいなかった。

沮授は前の戦いで戦死し、田豊は帰ってみれば既に謀殺されていた。牢の中で事故死したと聞かされているが、そのような嘘が通じる訳がない。どうせ逢紀辺りの陰謀で殺されたのだ。

周囲では、侍医達が忙しく歩き回っている。

寝台は枕の部分を高くしてあって、横になりながらも戦場を見ることが可能だ。馬車は相変わらず巨大で、揺れが少ないように工夫されている。そうまでして、半死人の袁紹が戦場まで出張らなければならないのだ。本来なら、息子達に指揮を任せてゆっくりしていられるのに。

己の運命を呪うことには、もう飽きた。

あとは最後の最後まで、あがくだけだ。

軍勢が動き始める。曹操軍は十二万ほど。以前と違って、兵力の差は倍以内に収まっている。それだけではない。敵軍には、張?(コウ)と高覧がいることが、既に分かっていた。裏切り者の、恥知らずめと、最初は罵った。だが調べてみると、あまりにも不公正な扱いが二将を苦しめていた。

だから、今はもう良い。恨んではいない。

ただ、勝つこと。それだけが、袁紹の脳裏にあった。

兵力差が縮まっていることもあり、味方の諸将も真剣そのものの表情だ。

陣立てに問題はない。袁紹は、側に控えている逢紀に命令を下した。

「全軍、攻撃開始せよ」

「は。 攻撃を開始させます」

逢紀が馬車の外に指示を出すと、銅鑼の音が鳴り響き始めた。全軍がゆっくり進み始める。

張?(コウ)と高覧の離脱によって、味方の騎兵戦力は大幅に削がれた。しかし、鳥丸族から援軍は送られてきているし、まだまだ曹操軍を充分に上回っている。

前線が、接触した。

「馬車を、進めよ」

「しかし、危険です」

「もう儂の命はいつまで保つか分からん! 良いから、馬車を進めるのだ!」

逢紀が青ざめた顔で外に指示を出して、馬車が動き始める。鬨の声が聞こえてくる。殺気が飛び交う戦場の臭い。飛び交う矢と、怒号が、袁紹の心を僅かに昔に引き戻してくれた。

「右翼の守りが薄い。 兵を補強せよ」

「はい」

逢紀は陰険で低脳な男だが、身近に置いてみて、使い方が分かった。

この男、間近で監視して指示さえしておけば、それなりにまともに動けるのだ。むしろ単独で放っておくと、ろくでもない策ばかりを巡らせる。それに関しては郭図も同じようで、育て方を間違ってしまったとしか言いようがない。むしろ、袁紹が衰えたから、この男も釣られてしまったのだろう。

それにしても、死の直前になって、こんな事が分かるとは。どれだけ不遇な人生だったのかと思うと、苦笑さえ浮かんでしまう。

味方は的確に、敵を押し続けている。兵力差もあるし、何より士気が高い。今回戦場に投入している兵士達は、いずれも袁紹が鍛えた古参の部隊ばかりである。それに、袁紹が長くないことは、危険を承知で既に兵士達にも知らせてある。

今までは、何処か兵士達と一体になって戦っている感が、袁紹にはなかった。

だが、今は違う。皆が戦友であり、曹操を供に打ち倒す同士であった。

敵が撤退を始める。じっくり眺めるが、まだ士気と余力を残した上で退いている。前線の指揮官達は食いつきかけるが、袁紹は叱咤する。

「追撃するな! 逆撃の態勢を整えておる!」

咳き込み、抑えた手に血が付いていた。

だが、これしきでは屈しない。自分の命と引き替えにでも、袁紹は必ず曹操を倒すつもりであった。

 

撤退を終えた自軍を見て、曹操は腕組みしていた。被害は決して小さくない。敵との損害差も、徐々に埋まり始めている。

ある程度予想はしていた。だが袁紹が、此処まで死期の間際に伸びるとは、想定外だった。袁紹のことを侮ってはいなかった曹操でさえ驚かされているのである。他の諸将は、面食らっているのがよく分かった。

「前衛の楽進隊、被害が大きいです。 次の戦闘では、後方に下がらせていただきたいと、楽進将軍より伝令です」

「やむをえんな。 張繍隊と代わらせよ」

兵力差は二倍を切っているとはいえ、味方の損害は日に日に大きくなっている。

このままだと、後方を警戒させるために残してある貴重な残存部隊までも、前線に投入しなければならなくなる。

袁紹は、最後の命を燃やし尽くして、曹操と戦おうとしていて。曹操は、それに応じきれずにいたのだ。

「虎痴よ」

「何でしょうか、曹操様」

「そなたなら、瀕死の、巣を守ろうとする虎を仕留めなければならぬ時、どうする」

「人数を揃えるか、時間を掛けます」

その通りだ。だが、今はそのどちらも不足している。

そして、悪いことが起こりつつある。郭嘉がなにやら病に罹ったらしく、毎日顔色を悪くして、咳き込んでいるのだ。

袁紹の呪いが自軍を蝕んでいるのではないか。そんな迷信的な恐怖まで、曹操は感じ始めていた。

「賭けに出るしかないか」

「賭、ですか」

「虎痴よ。 危険な戦いになる。 余の回りだけは、必ず守るようにせよ」

「分かりました」

ぺこりと一礼した許?(チョ)から視線を外すと、曹操は僅かな供を伴って、周囲を見て回る。

適当な平原が近くには幾つかある。

その一つで、決戦を行うつもりであった。

一刻以上考え込んだ後、ようやく曹操は、口の端に笑みを浮かべていた。

「名付けて、十面埋伏の陣、とするか」

「どのような陣ですか」

「いや、敷く陣の話ではない。 あの平原そのものを、陣として、袁紹ではなくその周囲の将を相手に戦うのだ」

手負いの虎が手強いのなら。

その虎は相手にせず、遠巻きに矢を撃ち込みながら、巣穴を抑えてしまえば良い。そうすれば、虎は行き場が無くなり、あっという間に捕らえることが出来るだろう。

そう、曹操は説明すると。自分が建てたえげつない作戦を、部下達に説明し始めたのであった。

 

1、袁紹墜つ

 

じりじりと後退する曹操軍を追って、袁紹軍はかなり広い平原に出ていた。

倉亭と呼ばれる土地である。様様な理由から未だ開発は進んでいないが、土地は良く肥えていて、後に大穀倉地帯に生まれ変わることが出来るであろう場所であった。黄河の水を引き込めば、一気に肥沃な田畑を増やすことが出来るだろう。

昔は荒れ地であったらしいのだが、今は黄河の流れが近付いていて、豊かに耕せる可能性が出てきたと言うことである。漢王朝の無能もあるが、この辺りは群雄の勢力境界でもあり、それが故に手を出しづらいと言うこともあった。

「これは、危険だな」

「といいますと」

「見て分からぬか。 曹操は野戦が得意な将だ。 この平原、野戦を行うのにもってこいの場所であろう。 恐らく奴は、我が軍を引き込んで、一気に決戦を行うつもりなのであろう」

此処までは、袁紹も読むことが出来た。

沮授や田豊が生きていたら、同じ結論を述べたことだろう。

曹操は賭けに出てきた。これは、袁紹としては望む所だ。問題は、どのような賭けに出てきたか、それを読むことが出来れば。

「逢紀。 諸将を集めよ。 曹操軍の戦略を読む」

「分かりましてございまする。 きっとご子息達が、見事な策を建ててくださるでしょう」

「あやつらには期待しておらぬ」

追い払うような動作をして、さっさと逢紀を行かせる。実際問題、袁紹は既に、諸将にも息子達にも、一切期待していなかった。相談しようとも思っておらず、道具として使う事だけを意図していた。

だから、かも知れない。究極の孤独の中にいると、却って周囲が見えてくる。

疑心暗鬼は消えた。

無理もない。そもそも、誰も信用していないのだから。

諸将が集まってきた。建国の功臣達はかなり減ったが、それでもその辺りの群雄よりも遙かに優秀な顔ぶれである。

そう、顔ぶれだ。

いずれも、ただ道具として使えばいい。

末端の兵士達は、袁紹の宝だ。供に戦ってきたという感覚がある。だが、此奴らに限っては、道具としてだけ扱えば良かった。

「では、皆曹操の動きをどう見るか、述べよ」

「では、私が」

最初に挙手したのは、跡継ぎとして認めた袁尚であった。鼻を膨らませて、袁譚を見て、勝ち誇っている。

一応見栄えだけは良い奴なのだが、脳みそはその辺の土と大差ない。

「曹操軍は、野戦にて決戦を挑んでくるつもりでしょう。 我が軍の兵力は約倍。 堂々と、正面から迎え撃てば良いかと思いまする」

「それは逢紀辺りの入れ知恵か」

見る間に真っ青になり、袁尚が一歩下がった。どうやら図星であったらしい。

代わりに前に出たのは、袁譚であった。郭図と審配を配下にしているこの男も、今や巻き返そうと必死だ。必死だが、まるで頭脳も能力も向上してはいない。武勇だけはどうにか兵卒よりはましな程度に備えているが、まともに計算も出来ない頭脳で、戦略はあまりに酷すぎて実用にはとても堪えない。

「私は、やはり大きな罠があると思います」

「どういった罠か」

「それは、恐らく、あれでしょう。 我が軍を勝ちに驕らせ、兵糧を焼くとか」

「同じ手を、曹操が何度も使うか! それに兵糧を、二度と焼かせはせぬわ! 袁尚も大概阿呆だが、貴様はそれ以下だ!」

恐縮した様子で、袁譚も下がる。寝台の上でぎりぎりと歯を噛みながら、袁紹は不甲斐ない部下共を見据えた。

「他に意見は」

「兵力差を補うには、やはり夜襲かと」

挙手したのは郭図であった。それに関しては、袁紹も同意見である。

問題は、曹操が、ただの夜襲など仕掛けてくる訳がないと言うことだ。

「夜襲に関しては、儂も同意見だ。 だが、それだけでは、曹操のもくろみを読むことは出来ないだろう」

「もう一段、策があると言うことですね」

「その通りだ。 ただ、曹操のことだ。 そうやって考えすぎた所を、突いてくるかも知れぬな。 念のために確認しておくが、後方は指示通りにしてあるな」

「兵糧備蓄基地に関してであれば、完璧な防備を施しています。 曹操軍が奇襲を掛けてきても、破ることは不可能です」

「……そうか。 ならば、恐らく勝負は今夜当たりだろう」

今回は、曹操も兵糧を蓄えてきている。多少此方に比べると少ない様子だが、それでも即座に戦線が維持できなくなる程ではないだろう。

しばし意見を交換させたが、目立って良いものは出なかった。

最後に挙手したのは、まだ若い将軍であった。袁紹も名前は覚えていないが、確か公孫賛軍の易京を落とす時に活躍して、将軍に昇格した。

「お前は、何という名前であったか」

「郭淮と申します」

細くて骨っぽい男である。目ばかり大きくて、何だか頼りなさげだ。だが、この男、乱戦の中で確実な戦功を上げ続け、庶民出身なのにこの若さで将軍にまで上り詰めた。もう少しすれば、張?(コウ)と並ぶ地位まで上がることが出来たかも知れない。

経歴はよく分からないのだが、能力的にはなかなかのものだ。袁紹は頷くと、発言を許した。

「聞こうか。 意見を述べてみよ」

「はい。 曹操軍の狙いは、見え見えの夜襲を仕掛けることにあると、拙者は思います」

「ほう?」

「見え見えの夜襲を仕掛けることによって、その後に仕掛ける罠を隠蔽することが、目的ではないのでしょうか」

具体的にその罠とは、と郭淮は視線を子息達に向ける。

「推測の域を出ないのですが、跡取りである袁尚様を討ち取ることではないかと」

「何だと! 巫山戯るな!」

「黙れ。 ふむ、なるほど、確かにそれは考えられる。 羊の配下達の生き残りの中から、腕利きの者を袁尚の周囲に配置せよ。 しかし、あの貪欲な曹操が、それだけで満足するだろうか」

袁紹は、まだ何処か引っかかるものを感じていた。

だが、それでも。

他に戦略はなかった。

「夜襲はある。 ほぼ確実だ。 各将は、油断するな」

言い聞かせると、袁紹は目を閉じた。疲れが極限を超えてしまっているためか。或いは、死の間際にある興奮のためか。

目をつぶっても、眠ることはなくなっていた。

その代わり、疲れが取れることも、無くなっていた。

 

曹操は、出陣の準備を整えた全軍の前にいた。

時は既に夜半。夜襲を行うのは基本的に早朝と相場が決まっているから、動くには少し早い時間である。だが、それはあくまで、夜明けが疲労の頂点に達する時間帯だからと言う理由からであって、絶対の法則ではない。むしろ、曹操のような熟練の指揮官が敢えて法則を意図的に破ることにより、有効な罠として機能する。

「これより、袁紹軍を、わが十面埋伏の陣に誘い込む」

今回、相手にするのは袁紹軍ではない。

その周囲にいる連中。そう、特に袁譚や袁尚である。

今の袁紹は、はっきりいって手強い相手だ。死を見据え、それに向けて覚悟を決めて、己の全てを賭けて立ち向かおうとしている。元は凡人かも知れないが、今や曹操でさえ油断すると危ない危険な敵となっている。

だから、敢えてそれは避ける。

これは戦だ。遊戯ではない。多くの将兵の命が掛かっている。だから、全力で、最も楽に勝てる方法を探さなければならないのだ。

周囲の松明が煌々と将兵の顔を照らしている。いずれも戦意を滾らせており、これからしなければならない大虐殺に、心を馳せている。

「張?(コウ)。 張遼」

二人の将が、前に出た。

降伏し、曹操に忠誠を誓ったばかりの張?(コウ)。そして、今や曹操軍でも重鎮といえる張遼。

張?(コウ)がまず最初に突入して、敵を挑発する。其処に張遼が、如何にも袁尚を狙ったかのように突撃をする。

そして、逃げる。

誘うのは袁紹ではない。袁尚と、袁譚と、その配下の武将達だ。

「敵の数は多い。 捕まったら死ぬぞ。 振り向く暇もない。 分かっているな!」

「殺っ!」

「よし、ならば行け! 袁紹の河北政権は、古い時代の象徴だ。 新しい時代を作るために叩きつぶし、そして未来への礎とする!」

実際は、違う。

袁紹は確かに漢王朝最大の名門の跡取りであったが、別に政治が古くさかった訳でもないし、頭が固かった訳でもない。

ただそうやって煽ることで、兵士達の士気を高めているだけだ。

張遼と張?(コウ)が、それぞれ愛馬に跨る。張?(コウ)は己に相応しい待遇をして貰っていると考えているようで、意気充分であった。かっての味方と戦うことに、あまり抵抗はないらしい。それは、かって自分を低く評価した主君と、嘲った同僚達だからだという。

私怨を忘れない男だ。気をつけなければならないだろう。

出発する張遼軍と、張?(コウ)軍。同時に、他の将達も動き始めた。

既に林に命じて、袁紹軍の細作達を狩り出し始めている。闇に紛れて動き出した曹操軍は、袁紹軍には捕捉されていない。

「さて、どれだけ敵を削れるか」

野戦陣の櫓に登った曹操は、敵陣の松明を見ながら呟いた。この陣は、すぐに放棄することになるから、中はがらがらだ。兵糧の類も、殆ど置いていない。

伝令が、櫓の下で声を張り上げる。

「張?(コウ)将軍が、仕掛けた模様です」

「うむ。 監視を続けよ」

曹操は、視線を外さない。

敵陣の松明が、乱れ始めていた。

喚声が、徐々に大きくなってくる。袁紹が立て直す前に、前線を混乱させきることが出来れば、曹操に勝ちの目が出てくる。長期戦になれば勝ちと言っても、今の袁紹は危険だ。この戦いで、致命的な打撃を与えておかなければ、安心できない。

張?(コウ)は俸禄を要求するだけあって、見事な動きを見せていた。進んでは退き、ひいては進み、袁尚軍を見事に翻弄している。敵陣の中でも手強い所は敢えて避けて、無能な将ばかりを叩いているのも、かって知る存在だから出来ることだろう。

「見事な動きですな」

「情報を知っているからと言うのもあるが、確かに見事だ」

郭嘉に応える。分厚く毛布を羽織っている郭嘉は、頷くと、櫓を降りていった。許?(チョ)がそれにつきそう。曹操から見ても不安なほどに、郭嘉は衰弱していた。憎まれ口を殆どきかない郭嘉は新鮮だが、それだけ弱っているのだと思うと、襟を正さざるを得ない。しばし、櫓から見ていると、今度は張遼隊が突入する。

隙があれば袁尚を討ち取ってしまっても構わないと、張遼には言ってある。かって呂布の下で勇名を馳せた張遼らしい獰猛な突撃で、敵陣の松明が乱れに乱れ、迎撃に大わらわなのが、遠くからも見て取れた。

とは言っても、今は敵にそれほど大きな打撃を与えている訳ではない。多少の兵力は削ることが出来たかも知れないが、機動力を武器にかき回しているだけで、実際には相手が僅かに混乱しているくらいである。

此処に総攻撃を仕掛けても、大した戦果は上げられないだろう。

「そろそろ、陣を引き払う準備だ」

櫓をおりながら、部下達に告げる。松明はそのまま。兵糧も、如何にもさっき逃げ出しましたとでもいうように、ばらばらに散らしておく。許?(チョ)が言われたままに、槍やら斧やらの武具類を散らかしていた。がしゃん、どしゃんと、凄い音がした。他の兵士達も、豪快な許?(チョ)のばらまきぶりを見て、派手に矢やら槍やらを、辺りにばらまいていた。

程cが小走りで来る。相変わらず見上げるような大男で、側に立たれて曹操はちょっと不安になった。

「曹操様。 味方の配置、終わりましてございまする」

「うむ。 では、陣を引き払う! 殿軍はそなたに任せる。 如何にも無様に逃げ出したという風を装え」

「分かっております」

あたまを下げる程cを尻目に、曹操は親衛隊を連れて、本陣から後退した。

この間の戦いで多くを失ったため、親衛隊は人数をかなり減らし、結果入れ替えることになった。虎豹騎と呼ばれる精鋭部隊と統合することも一時期は考えたのだが、結局別とし、戦の中で功績を挙げた者達を抜擢して配置することとした。

これは、俸禄対策でもある。

官渡での大戦で、功績を挙げた兵は多い。その全てに相応に報いるのは当然のことだが、現実問題として、報いるのが難しい状況も出てくる。

そのために、出世後の受け皿として、親衛隊という立場を強化する必要が、曹操にはあったのだ。

もちろん戦闘では常に投入することで、ある程度の消耗も図らなければならない。それに有能であれば、将官に抜擢する必要も出てくる。

宮中で権力闘争を繰り返す、弱体化して腐敗した親衛隊など、曹操の作る国には必要ない。必要なのは、豊富な実戦に鍛え上げられた、実際に鋭い戦闘能力を持つ、国の柱石としての存在なのだ。

後ろの山に移ると、曹操は許?(チョ)に手伝って貰って、灌木に登った。以前はするすると登れたのだが、流石に最近は年である。まだ壮年とは言っても、木登りをするには少し酷になり始めている。

闇の中で、袁紹の親衛隊が動き始めているのが見えた。張?(コウ)、張遼の騎兵部隊が、さほど敵をかき回せなくなってきている。

そろそろ、潮時だ。

「程cに、退き鐘を打たせよ」

「はっ!」

親衛隊が駆けだしていく。やがて、本陣を預からせている程c隊が、激しく退き鐘を打ち鳴らし始めた。

さて、ここからが本番だ。

闇夜に紛れ、張遼、張?(コウ)隊が引き上げ始める。

そして、烈火のように袁尚隊が反撃を開始し、地面を揺らしながら追撃を開始していた。十万を超える追撃軍が、騎兵隊を襲う。二将は必死に逃げているが、遅れた者は瞬く間に人の津波にのみこまれ、押しつぶされてしまうだろう。

膨大な矢が飛ぶ音がする。曳光の役割を果たす火矢も混じっていて、闇夜に蛍が舞うように、小さな明かりの群れを造り出す。張遼軍の騎兵が一人、撃ち落とされる。落馬すれば、もちろん運命は明らかだ。一瞬で踏みにじられてしまう。

来た。二隊が、曹操軍本隊の野戦陣に逃げ込む。

敵は勢いを殺さず、そのまま突入してきた。

袁紹が退き鐘を叩きならしているが、もう遅い。木から飛び降りつつ、曹操は声の限り叫んでいた。

「良し、全軍、袁尚の小童に、戦というものを教えてやれ!」

 

いかんと、袁紹が思った時には、もう遅かった。

張?(コウ)の夜襲によって頭に血を上らせた袁尚は、その後自らの命を狙うように強襲を仕掛けてきた張遼に更に心をかき乱された様子であった。袁紹が冷静に投入した増援によって二将が撃退された時には、それを追って、無秩序な進撃を開始していたのだ。

「引き鐘だ! 急いで打たせよ!」

「は、はい!」

逢紀が馬車から飛び出し、退き鐘を打たせる。鋭い金属音が戦場に響き渡る。

だが、袁尚軍だけではない。それに追従する将達も、皆追撃に加わってしまっていた。それだけではなく、袁譚の軍勢や、高幹の軍勢までもが、闇夜を疾走している。興奮した彼らは、退き鐘など耳にも入っていない様子であった。

「まずい。 伝令を飛ばせ!」

「す、すぐにでも」

もう遅いか。袁紹がそう思った時には、曹操軍が、動き出していた。

野戦陣に突入した味方は。一瞬後、自分が包囲されていることに気付いただろう。曹操は本陣をわざと空にし、その周囲全てに味方を潜ませるという恐るべき策略を用いたのだ。それが、遠くから戦場を俯瞰している袁紹にはよく分かった。

伸びきった味方の先頭部隊が、揉み砕かれ、見事に蹂躙された。

混乱する味方が、端から打ち砕かれていく。混乱が全軍に波及していくのが分かった。

袁紹は咳き込む。大量に血が出始めていた。

どうやら、終わりの時らしい。目を閉じると、袁紹は言った。

「親衛隊を集めよ。 どうやら、最後の時が来たらしい」

「大将軍閣下!」

「放っておけば味方は全滅だ。 儂の最後の仕事は、それを防ぐ事よ」

馬車から降りようとするが、それは侍医達に止められた。その侍医達に、てづから褒美を渡しながら、袁紹は全員の顔を見回す。最後に、彼らのことを覚えておこうと思ったからである。

思えば、この侍医達だけは、本当に袁紹の身を案じていたのかも知れなかった。

「今まで世話になった。 儂の少ない寿命を延ばしてくれたこと、礼を言うぞ」

「何を言われます。 生き延びてくださいませ」

「いや、儂はもうだめだ。 せめて最後は、馬鹿な息子どもの命だけは守らねばならないのだ。 気は進まないがな。 これを機に、奴らが性根を入れ替えてくれれば良いのだが、それも難しかろう」

だが、と袁紹は言葉を切り、大きく息を吐いた。

どのみち、袁紹は将としての責務を果たさなければならない。これは私戦ではないのだ。二つの勢力が、存亡を賭けて争っている、人間という種族の業そのものなのだ。だから、袁紹は、最後に責任を取らなければならない。

自分を信じてついてきた者達を、一人でも多く、救うために。

よろよろと袁紹が立ち上がったので、侍医達が目を剥いた。多分、もう袁紹は、立つことも出来ない体なのだろう。

背の低い馬が用意されてきた。それで充分だ。

家臣達が、袁紹を馬上に押し上げる。指揮剣を手にする。ずいぶんと、重く感じてしまった。

「敵は、味方を追撃してくる。 その先頭を、叩き返す」

「意地を、見せるのですね」

「それだけではない。 敵の追撃速度を遅らせることで、味方をそれだけ多く逃がすことも出来る」

逃げてくる味方が、ちらほら見え始めた。袁尚がいる。兜を失い、髪を振り乱して、泡を吹きながら馬に鞭をくれている。他の将も、似たような状況だ。敵は勢いを増していて、その先頭には、曹操が見えた。

良いだろう。曹操。

この儂の最後の姿、目に焼き付けるがいい。

袁紹は剣を高々と振り上げた。どこからか、信じられないほどの力が沸き上がってくる。回りを囲む近衛兵達は、袁紹に古くから仕えてきた者達ばかりだ。皆落涙しているのは、なぜなのだろう。

「総員、死兵となれ! 敵の先頭部隊を、叩きつぶす!」

「殺っ!」

全員が、一斉に叫び声を上げた。

まばらに逃げてくる味方を押し返すように、袁紹を囲んだ五千ほどの兵が、敵に突撃を開始する。

 

曹操は思わず手綱を引いていた。

敵の中に、やたら頑強な部隊が、突如として出現したのだ。徐晃の軍勢をはじき返し、張遼軍を追い返し、今また張?(コウ)の軍勢を粉砕した。たかが五千ほどなのに、凄まじい気迫を放ち、ゆっくり進んでさえ来ている。

「既に大勢は決している! 死兵を相手にせず、狩りやすい相手を仕留めよ!」

「曹操様!」

許?(チョ)が警戒の声を挙げる。

敵陣から飛んできた矢が、曹操の兜に当たり、ぐわんと凄い音がした。落馬しかけるが、許?(チョ)に支えられて立て直す。

目の前が真っ赤になった。これほどの屈辱、いつぶりか。

「おのれっ! 許してはおかんぞ!」

曹操も近衛兵を集めると、敵陣に突撃を開始する。側に許?(チョ)がいるとは言え、これほど短絡的な行動は久方ぶりである。怒りを刺激されたのはなぜか。袁紹を侮っていたつもりはない。だが、なぜか今の矢は、曹操の怒りを痛烈に刺激したのだ。

敵陣に乗り込み、激しい戦いが始まった。敵は恐るべき粘りを見せ、たかが五千が数万の兵に匹敵する活躍を見せる。変幻自在の用兵は、曹操をも時に驚かせ、翻弄さえした。田豊が戦場に戻ってきたのか。一瞬、曹操はそう考えた。だが、違う。

見た。

分厚く囲まれた敵の中に、袁紹。指揮剣を振り上げている。

喚声がぶつかり合い、肉弾戦が続く中、曹操は吠え猛った。

「余は、曹操! この地の歴史を、支配する者なり!」

「我は袁紹! 地道に、ただ地道に天下を目指す者である!」

半死人とは思えない、袁紹の力強い返答。曹操は全身の血が沸騰し、怒りに代わっていくのを感じた。

ぎりぎりと、歯を噛む。

瀕死の袁紹が、最後の輝きを放っているのは分かる。それはむしろ尊敬すべき事だとも。しかしながら、それが曹操と全く違う理念に基づき、道をふさごうとしている今。尊敬から怒りへと、曹操の魂は天秤の上で揺れ動かされていた。

「仕留めろ! 殺せ!」

激しい言葉が、曹操の喉からほとばしり出た。

困惑する周囲を抑えるように、最初に行動したのは許?(チョ)だった。何と曹操を担ぎ上げると、近くの川に疾走し始めたのだ。近衛兵同士が激しい戦闘を繰り広げている中、指揮官達は度肝を抜かれた。

やがて、黄河が見えてきた。

曹操は、その中に放り込まれていた。

いつか、こんな事があったような気がする。

そうだ。典偉が生きていた時。戦に敗れた曹操を、川に投げ込んでくれたのだ。その時は、曹操から依頼したような気がした。

水面から顔を出す。浅い所に放り込んでくれたらしく、どうにか足がついた。

「虎痴よ、何をするか」

「こうすれば、頭が冷えるかと思いました」

「……そうだな。 頭が冷えたが、体も冷えたわ」

見ると、敵との死闘は佳境にさしかかっている。

まるで巨大な獣のように動く袁紹の部隊は、曹操の近衛兵さえも蹴散らして、更に傲然と前進を始めていた。あの中にいたら、曹操も命を脅かされていたかも知れない。曹操は水を滴らせながら黄河より上がると、許?(チョ)が連れてきた愛馬に跨った。

じっと、袁紹軍を見つめる。

怒りは刺激された。炎のように吹き上がる怒りの中、手負いの虎のように荒れ狂った。

それは、袁紹の最後の光に刺激されたからだろう。燃え立つ心を前にして、曹操の心もまた、油を注がれた火となったのである。

敵の六割方は仕留めた。完全勝利と言っても良い。

これ以上欲をかけば、あの死兵に更に損害を増やされるだろう。殲滅するのは可能だろうが、味方の大物将官にも死者が出るかも知れない。

それに、冷静に思考を巡らせてみると。

此処で河北の跡継ぎとなる袁尚を仕留めてしまうと、却って相手がまとまる可能性がある。袁紹の親族は纏めて生かしておいて、袁紹の死後に、せいぜい大規模な内乱を起こして貰うのが良い。

そうすれば、というよりもそうしなければ、曹操が生きている内に、河北を制圧するのは不可能だろう。

周囲に近衛兵が集まってきた。彼らも興奮しすぎて、全身の傷を苦にしていない様子だった。曹操は自分の状況と同じだと自嘲すると、部下達に命じた。

「良し、引き鐘だ」

「よろしいのですか」

「袁紹の意地、見届けたであろう。 この戦は我らの勝ちだ。 最後に、勝ちを帳消しにしては意味が無かろう」

不思議と、静かな気分だった。

この時曹操は、袁紹と洛陽にいたころの事を思い出していた。

あの頃から、袁紹は凡人だった。ただし、手強い凡人であった。

しかし、今はどうか。

今の袁紹は、凡人だとか、天才だとか、そういった枠を超えた存在になっているように思えた。

敵軍が退いていく。

多分、もう袁紹は生きていないだろうなと、曹操は思っていた。

 

袁紹は、燃え尽きた。

朝日を見ながら、袁紹は剣を取り落としていた。鎧が、血に染まっている。こんなに大量の血、どこから出てきたのかと思えるほどの量だった。己が吐いたのだと分かっていても、何処か他人事のようだった。

周囲の部下達が、皆泣いている。

全滅を免れた味方が、退いていった敵を見つめていた。

「そうか。 儂は」

袁紹は最後に、笑みを浮かべていた。

「曹操に、勝ったのだな」

不意に、辺りが光に包まれる。

体が楽になった。死んだのだなと、袁紹は理解していた。

後の世で、自分は曹操に逆らった稀代の愚将として評価されるのだろうと、袁紹は思った。しかし、それでもいい。

河北に覇を唱え、曹操と二度にわたって戦い、負けはしたものの、領土への侵入を防ぐことが出来たのだ。

生きた。

生きて、時代を駆け抜けた。

そして、例え無能だとしても、息子達に財産を継ぐことが出来た。

未だ、曹操よりも河北の軍事力は上だ。息子達では曹操に勝てないのは分かりきっている。だが、それでも、自分に出来ることは全て生きている内にしたのだ。曹操を倒せなかったのは、それが己の本分であったからだろう。

周囲には多くの群雄達がいた。

いずれも晴れやかな顔をしていた。

時代を生きた者達の中に、袁紹は加わることが出来た。

「見届けさせて貰うぞ。 この後の時代を」

彼らの真ん中に座ると、袁紹は思い出す。

かって、曹操は友だったと言うことを。今まで、忘れていた。

そして、思い出すと、不思議な懐かしさを感じた。

 

2、汝南集結

 

五千の兵を百以上の集団に分割し、青州近辺の海岸線を南下することで曹操の領土を抜けた劉備が、汝南に辿り着いた。

既に官渡で袁紹が敗北したという話は、劉備の所にも届いている。汝南の険しい山を越えながら、劉備は今後の戦略について、袁紹軍からついてきた陳震と相談していた。陳震は袁紹軍に強い不満を感じていた男の一人で、劉備が誘うと簡単についてきた。能力的には悪くなく、充分に一軍を任せることが出来る。

「汝南は土地こそ豊かだし、守るのも難しくはないが。 外に進出するのには、向いていない土地だな」

「やはりそう見ますか。 我が先祖も汝南の豪族だったのですが、袁家に拾われなければ、此処でのたれ死にしていたでしょう。 土地は豊かでも、此処は一つの完結した空間にすぎません。 広がりがないのです」

「やはり、永住の地ではないか」

既に斥候が出て調査を行った結果、陳到のいる砦は分かっている。

砦には関羽も張飛も、甘もいるという。それどころか、袁紹の所にいた趙雲も加わってくれていると言うことで、行くのが今から楽しみであった。

劉備は、幼いころから苦労を続けてきた。

もとより劉という姓を持つだけあり、地元の名士の出身である。ただし、彼の父母が名士だった訳ではない。家族に名士がいたと言うだけの話で、漢王朝の祖である劉高祖の血を引いているかは、劉備自身も分からない。もっとも、彼が先祖と自称している人物は、百人以上も子孫を残したと言うことで有名であり、仮に血を引いていても、大したものではないだろう。

それは、劉備自身も分かっている。

そして、貧乏であったからこそ。民の苦しみも分かる。

幼いころは、野心ばかりが先行していた。皇帝が乗る車に何時か乗ってやると嘯いてみたり、気宇だけは高かった。叔父が出してくれた学費で留学して、かの盧植先生に師事して、ある程度の学問を身につけてみると。己の卑小さがよく分かって、大言壮語するのは止めた。

逆に、都に出たことで、貧富の差を目の当たりにし、気宇は内部に向かうようになっていった。

この国は、変えなければならない。

そう思っている内に、黄巾党が蜂起して。劉備は苦悩の中で、張飛と関羽と出会った。

張飛は同じように世を憂うる若者だった。荒くれ達を連れて、黄巾党と戦うのだと言っては、暴れていた。事実、黄巾党の兵士を何人も斬っていた。故に、黄巾党から賞金をかけられて。追われている所を匿って、縁が産まれた。

関羽はより泥臭い出会い方をした。

義人として知られている関羽だが、昔は相当に危険な商売をしていた。塩の密売である。

この国では、塩は国有財産であり、密売は死罪である。それなのに、塩の密売が絶えないのは、国が掛ける税が高すぎるからだ。

関羽は民衆のためにと、安く闇の塩を売りさばいていて。その商売から官憲に追われて、劉備が匿うことになった。

そうやって結びついた縁は多い。

実家を飛び出してきた国譲もそうだし、地元の破落戸達の元締めをしていた簡雍もそうだ。

あらゆる種類のお尋ね者や、世間とそりが合わない者達が、劉備の側に集まった。

だからこそに、劉備は皆を集めて議論した。国をよくするにはどうしたらよいのか。何度も何度も議論した。殴り合いになりかけたこともあった。夜通し語り合い、皆兄弟以上の存在になった。関羽が言った。まずは、この乱を治めなければならないと。張飛が言った。黄巾党は、叩きつぶさなければならないと。

黄巾党の乱の背後には、党固の禁に発する、宦官と外戚が深く絡んだ、漢王朝の政治的な党争があることは、関羽が教えてくれた。そして、民衆の我慢も、限界に来ていることも。そしてその闘争に巻き込まれ、不当な評価を受け続けた者達が、黄巾党を立ち上げたと言うことも。

単に貧しいから民衆が蜂起したというのではない。

腐りきった漢王朝の権力闘争に民衆が巻き込まれ、それに飢餓が加わったから、乱が拡大したのだ。

だから、新しい世を作る。

宦官や外戚のためではない。民衆のための。

誰もがそれに賛成して。あらゆる種類の資金が投入されて、義勇軍が結成されたのである。

懐かしい話だ。

今でも、志は代わっていない。ただし、力への渇望は強くなった。汚い手も、使うことに抵抗を覚えないようになった。

だが、根幹は代わっていない。代わっていないのだと、劉備は何度も自分に言い聞かせていた。

山頂に出ると、中華を見渡すことが出来る。霧が掛かった山水の向こうには、徐州がある。彼を受け容れてくれた土地。そして、だまし取った場所でもある。善政は、皆の助けを借りて敷いた。民は慕ってくれた。

だが、守りきれなかった。

力が足りないのだ。劉備は曹操と同じ時代に産まれてしまった。せめて同じ時代にいたのが、袁紹だけならば、対抗も出来ただろうに。曹操の成長速度は、あまりにも早すぎる。名家の出身で、強大な地盤を持っていた、袁紹でさえ追いつけないほどに。

辺りを見回していると、光が反射するのが見えた。

合図だ。山の中腹に、陳到達が来ていると言うことだ。

「私が守れる人数は、決して多くはない。 だが、守れる限りは、守ってみせるぞ」

口には出さず呟くと、劉備は煌めく光に向けて歩き出す。

陳震と、僅かな供だけが、それに続いた。

 

劉備と関羽と張飛が輪になって、再会を喜び合っている。張飛は滅多に見せない涙を、滂沱のごとく流していた。

陳到はそれを少し離れた所から眺めながら、ようやく負担が小さくなると、内心で歎息していた。劉備の経営能力は陳到より遙かに上だ。これからは降格さえするが、しばらくは多少生活に余裕も出てくることだろう。

また、劉備が連れてきた五千が合流することにより、汝南に集った戦力は一万を超えた。これでどうにか、曹操とある程度まともに戦えるだろう。正面からの戦闘は難しいが、分散しての攪乱戦なら十分に可能だ。

執務室に引っ込むと、陳到は劉備に其処を明け渡すべく、整理を始めた。

まがりなりにも一国一城の主だった訳だが、終わってみると、正直柄でもなかったというのが素直な感想である。いずれ劉備が巨大な勢力圏を作り上げた時、一国一城を任されたら、この時の経験を巧く活かせるかも知れないが、しかし今は重荷が肩から下りたという印象しかなかった。

思い出したので、手を叩く。側近として仕えてくれていた兵士が執務室に来た。

「お呼びでしょうか、陳到将軍」

「うむ。 今夜は酒宴になるから、とっておきの酒を出しておいてくれ。 それと、我が軍の名簿もあらかた出しておくように」

「分かりました」

少し不満そうな目を兵士がしているので、問いただししてみる。そうすると、意外な事を言い出す。

「将軍は、これでよろしいのですか?」

「どういう意味か」

「言葉通りの意味です。 折角一国一城の主になることが出来たのに、今までただ逃亡生活だけをしていた主君が帰ってきたら、何事も言わずにその座を明け渡してしまってもよろしいのですか。 劉備様が、仕えるに値する人物だと言うことは、長年の経験から知っています。 ですが、陳到将軍は、あまりにも無欲すぎるのではないでしょうか」

「……滅多なことを言うな。 それは謀反を示唆しているように聞こえるぞ」

一礼すると、兵士は出て行った。

そういえば、妻も似たようなことを言っていた気がする。しばらくは大人しくしていた妻だが、最近同じような文句を言い出したのである。

劉備を非難する訳ではないから黙って聞き流していたが、どうやら似たような印象を受ける者は、一人ではなかったという訳だ。しかし、今褒美を寄こせと言っても、無理に決まっている。劉備が大勢力を構築した後に、まとめて要求するしかないだろう。

不安が、ないと言ったら嘘になる。

あの曹操が燎原の火となって中華に巨大な勢力圏を構築している現状、それに如何に大器とはいえど、何処まで劉備が食い込むことが出来るのか。見ていて不安になってくる。しかしながら、劉備なら必ずやり遂げられるとも思うし。何より、曹操よりもずっと民衆のことを考えてくれているという実感はある。

権力者層に対してはどれだけ汚い陰謀を駆使しても、民衆に対する下劣な策謀は行使しない。今まで見ていて、劉備はそう言う男であった。徐州をすんなり明け渡したのも、その辺りが理由であった。

夜は予想通り宴会になった。関羽と張飛に加え、趙雲がその下に加わっている。趙雲は予想通り愛想があまり良くなく、四角い顔に大きな口を真一文字に結んで、黙々と酒を飲んでいた。張飛が時々絡んでいたが、非常に生真面目に応じているので、やがて辟易して張飛の方が離れてしまった。あの酒乱の張飛を軽くいなすのだから、大したものである。年齢も、だいぶ劉備より上の様子だ。

陳到は劉備に酒を注ぎに行った。陳到の妻も宴会の裏方として料理を作ってはいる。最近はだいぶ腕が上がって、客に出せるものを作れるようになってきているので、今日は安心して裏を任せることが出来ていた。

「おお、陳到将軍」

「どうぞ、ご一献」

「うむ。 苦労を掛けたな。 いずれ、必ず苦労には報いさせて貰うぞ」

劉備は陳到の差し出した美酒を、豪快に煽った。劉備自身も年を重ねて、最近は貫禄がついてきている。酒を飲む姿も、一つの絵になるほどに、「決まって」いた。

わいわいと騒いでいる隅の席の方に、ちょこんと座っている男は、この間加わった王甫だ。張飛が一度酒を注ぎに行って、驚いたような顔をしていたのだが。その後、二言三言話した後、何事もなかったかのようにうち解けていた。ひょっとすると、張飛の知る人物であったのかも知れない。陳到にはあまり関係のないことだが。

張飛や関羽にもついで回った後、最後に彼の所にも行く。

「一献どうだろうか」

「いただきましょう」

杯を快く受けてくれた王甫と、しばし向かい合って静かに飲む。死線をくぐってきた者同士という点で、代わりはないらしい。無言で飲んでいても、それくらいのことは分かる。雰囲気が、唯の農民や武人、ましてや山賊とは違うのだ。

先に口を開いたのは、王甫だった。

「劉備将軍に、これからは統治を明け渡すのですな」

「そうなる。 ようやく肩の荷が下りた」

「見事な統治でありました。 民衆も、貴方のような方が上にいてくれたら、楽な生活が出来るでしょうに」

「そうなのか。 よく分からん。 私は元農民で、彼らのことを知っている。 ただ、それだけだ」

それが貴重なことなのですと、王甫は言う。

珍しく、それから政について語り合ってしまった。気がつくと夜半。すっかり酔いが回り、宴会が終わったころには、皆したたかに酔いつぶれてしまっていた。

まだ曹操が攻め込んでくる可能性はない。だが、醜態だなと、陳到は思った。何の気無しに櫓に上がってみる。開発が進んでいない汝南は、夜になると星明かりしかない世界になる。

星明かりの世界をこの世とすると、太陽は曹操、月は劉備という所だろうか。陳到はずっと格が落ちる。柄杓星の一つか、もっと小さな星だろう。

だが、この乱世を生きていることに違いはない。

明日からは、いつ曹操が攻め込んできても大丈夫なように、準備を整えなければならない。袁紹が破れたという話は、陳到も聞いている。あの強大な袁紹のことだから、簡単に曹操も勝つことはできなかっただろう。しかし、曹操の動きはまるで疾風だ。予想では、数ヶ月もしないうちに汝南に圧倒的大軍で攻め込んでくるだろうと、糜竺や孫乾が揃って口にしていた。陳到もそう思う。

つまり、この憩いの時は、すぐに終わってしまうだろう。

少し酔いが醒めてきたので、裏の訓練場に出る。

ひゅん、ひゅんと音がした。

ジャヤが、弓を引いていたのだ。長足の進歩を遂げており、今まじめにやりあったら、何とか勝てる程度の差しかない。しばらく政務に力を注いでいたから、差を詰められてしまった。

陳到が訓練所に出ると、ジャヤがちらりと此方を見た。

遊牧民は、骨格からして漢民族とは違う。男は筋肉が多くついているし、女はどちらかというと少し背が高い。農耕民族である漢民族は、どうしても背丈が低くなりがちだから、生物的な差異を感じてしまう。

だが混血が可能なのは言うまでもないことだし、国境付近ではそうやって生まれた子供も多く存在している。

「腕を上げたな」

「上げなければ、子龍の嫁になれない」

「それなら必死になるのも当然か」

笑うことはしない。何だか、分かるような気がするからだ。

まだ子供と言っていられるのは、後数年である。ただし、趙雲は既に結構年を取っているから、ジャヤが美しく成長したころには、老人に片足を突っ込んでしまっているかも知れない。

陳到が、弓を引く。

隣で、ジャヤも弓を引いた。

飽きっぽい娘だと最初は思っていたのだが、訓練を欠かさずこつこつすることで、既にどの兵士よりも弓の腕前は上だ。陳到が最初に矢を放つと、的の中央に着き立つ。距離は五十歩。

ジャヤは同じ距離から、矢を放った。

僅かに、中心を逸れた矢が、的に突き刺さっていた。

「後、半寸であったな」

「むむ。 さっきは当たったのに」

「私と違って、お前はまだ多くの時を持っている。 趙雲殿も、お前が腕を上げるくらいまでの間なら、待ってくれるだろう」

頬を膨らませると、ジャヤは訓練場を後にした。

さて、追いつかれてしまうのもしゃくだ。そう思った陳到は、大人げなく、夜半まで矢の訓練を続けていた。

そして、此処しばらくの遅れを取り戻した。

 

劉備が到着したことで、汝南は一気に活気づいた。

徐州から、劉備をしたって集まる武人や民が増え始めたこともある。また、周辺にまだ残っていた黄巾党残党の山賊達は、こぞって劉備の下に参集した。現金な連中である。陳到の時には、集まろうともしなかったのに。

軍の総合的な訓練は張飛が進め、政務は文官達が担当した。部隊編成は関羽。精鋭部隊の訓練は趙雲だった。陳到はというと、いつものように経験が浅い兵の部隊を任されたので、その訓練を行うことになった。

慣れているから、そう難しくもない。殆ど何の技術もない連中を並べると、陳到は彼らの前を横切るように歩きながら、声を張り上げた。

「厳しい戦いが待っている! 逃げるのなら、今の内だ! 物資を盗まなければ、止めはしない!」

これは本当のことだ。

陳到でさえ、これから攻め込んでくる曹操に勝てるとは思っていない。長期戦に持ち込むことは出来るだろうが、それは劉備が望まないだろう。ただでさえ復興が進んでいない汝南が、更に踏み荒らされることになるからだ。

「此処で学ぶのは、乱世で生きる術だと心得よ! そう割り切って、無理だと思えば逃げるのだ。 そうすれば、何かを後の世に残せるかも知れない!」

緊張した面持ちで、兵士達は聞いている。

何も、発言する者はいなかった。

総兵力は既に一万五千に達している。不思議な話である。徐州で劉備が率いていた兵力と、これはあまり差がなかった。汝南という土地が豊かだと言うこともあるのだが、本当に惜しい話だ。

曹操がいなければ。

そして、汝南というこの土地が、こうも閉じた場所でなければ。

「よし! 槍を取れ! 戦場ではまず飛び道具! 次に槍! 剣など余程の近接戦闘でしか役にたたん! お前達には、これから槍と弓を徹底的に仕込む! 素質がある者は将官にも抜擢する! それぞれ、励むように!」

「応!」

新兵達が、ようやく応えた。

陳到はまず槍を振るって、手本を見せる。二千ほどの新兵達はそれに習い、槍を振るい始めた。

槍は先に鋭い刃物がついた棒だ。つまり突き刺すだけではなく、切ることも、薙ぐことも出来る。特に侮りがたいのが薙ぐことで、相手の動きを効果的に制限することが出来る。力が足りなければ意味がないが、ある程度の訓練をすれば補うことも可能だ。

まずは、秩序から、兵士達に教えていく。

体を鍛えて力を付け、合図を覚えさせる。二週間もする内に、兵士達は合図だけは覚えてきたが、急に体力が増す訳でもない。走り込みをさせて、肉類を食べさせ、兎に角力がつくように修練を重ねた。

一月もすると、兵士達は見るからに変わってきた。

もとより、山野が何処までも広がっている汝南の土地である。厳しい環境には事欠かない。槍を振るい、剣を振るう。そして、弓矢の訓練。物資は国譲が流してくれているが、それでも不足がちな物資を、どうにかやりくりしていく。時には山の枯れ木から、弓矢を自作もした。

職人も、僅かながらいた。彼らには目が回るほど忙しく働いて貰うことになった。劉備は毎日訓練場だけではなくあちこちを見回り、兵士達に声を掛けて回っていた。陳到は、こうして兵士達を慈しむことが出来る劉備を見ると、安心する。そして、いつまでも劉備でいてほしいとも思う。

きっとそれは難しいことだ。特に乱世で生きている以上、変わらない者の方が珍しい。

だが、陳到が今まで戦ってきた意味を亡くさないためにも。劉備は、そのままでいてほしかった。

兵士達に、実戦経験を積ませなければならない。

そう考え始めていた時には。劉備が来てから、一月半が経過していた。

 

天気がよい日を見繕い、陳到は山に出て、狩りを始めた。連れて行く兵士は五十名ほど。皆、新兵の中では見込みがある者達ばかりだ。

ジャヤも連れて行ったのだが、山での狩りは苦手そうだった。当然の話である。何処までも平原が広がっている地域と山深い場所では、何もかもが違って当然だからだ。

鹿を狙って速射したはいいが、矢を外したジャヤがぼやく。矢は途中にある木に当たり、小刻みに上下に揺れ続けていた。

「狭苦しい」

「仕方がないことだ」

「馬に乗って獲物を追い、矢を放つのが狩りの醍醐味だというのに。 これでは、獲物と正面から向かい合ってしまうではないか」

「そうならないように、背後から迫る。 ある程度近付いたら矢を放って仕留める」

兵士達がにやにやしている。所詮子供だと思っているのだろう。

残念ながら、ジャヤは遊牧民として生まれ育った。農耕民である漢民族とは、根本的な戦闘練度が違っている。だから、分かっていない兵士達に、細かく解説してやる。

ジャヤが心配しているのは、熊や虎といった危険性が大きい獲物と、至近から向き合ってしまうことだ。もちろん汝南にも、そういう危険な獲物はいる。だから、ジャヤは文句をいっているのだ。

単独で虎と正面から出会ってしまったらどうする。そう言われると、兵士達は皆蒼白になった。

ましてや平原ではないから、馬を用いての機動戦術が仕えない。こういった場所では、主に訓練した猟犬と人数を使って、罠で猛獣に対処することになる。

「丁度良い機会だ。 虎を狩る」

近所で、大型の虎の目撃例が出ていたこともある。兵士達の根性をたたき直すには丁度良い機会だろう。

張飛の所に伝令を飛ばして、慣れた兵士を何人か回して貰う。

兵士が戻ってくる。何と、趙雲が来ていた。

「陳到殿。 話は聞いた。 私が手伝おう」

「よろしいのか。 貴方のような豪傑に出向いて貰っても」

「なに、死人が出そうになった時の保険だ。 私自身は、直接手を出す気はない」

兵士達の中には王甫もいた。彼は兵士達にてきぱきと指示を飛ばして、自身も手を動かし始める。やはり、どこかで指揮を執っていた経験があると見た。指摘はしないが、ほぼ確実だろう。

罠を幾つか作っていく。落とし穴の下に竹槍を複数入れ、表面を草で覆う。常時は引っかからないから、穴に追い込むのだ。

更に、猟犬を五頭。虎刈りの経験があるのも、二頭いた。

軽く鹿でも狩るのかと思っていた兵士達は、困惑しきっていた。だが、それでいい。これから虎などとは問題にならない怪物、曹操と戦うのだから。

「良し、虎刈りを始める。 班は三つに分ける。 一班は私が指揮する」

虎を発見し、追い立てるのが一班の仕事。待ち伏せして、虎を仕留めるのが二班と三班の仕事となる。

趙雲はジャヤと一緒に二班に。王甫は三班に入って貰った。十七人の兵士達を率いて山奥に踏入ながら、陳到は言い聞かせる。

「言うまでもないことだが、虎の力は人間とは比較にならない。 一対一で戦おうとは思うな。 一対一で戦って勝てるのは、張飛殿や関羽殿、趙雲殿のような、特別な存在だけだ」

そう、彼らは特別なのだ。天賦の才に恵まれて、人一倍の体格も持っている。

だから、武器さえ渡しておけば、虎と戦っても勝てるかも知れない。否、勝てるだろう。

だが、普通の兵士達はそうではない。細心の注意を払って、虎を探さなければならない。そうしなければ、いずれ近隣の住民が犠牲になる。

猟犬の一頭が吠え始めた。

どうやら、近くにいるらしい。

虎に罪はないが、残念ながら人間の縄張りに近く棲みすぎた。これから、刈り取らせて貰う。

陳到は兵士達に、気合いを入れるように叫ぶと、自らも槍を握った。

 

喚声が上がる。虎を見つけたらしい。勢子の声が沸き上がり、陳到が指揮をしている様子が手に取るように分かった。陳到は地味だが、とても手堅い良い将だと趙雲は思っている。忠誠度も申し分ないし、本人はどう考えているか分からないが、曹操の所でも充分に一線級の将官として活躍できるだろう。

趙雲の所まで、吠え猛る虎の声が聞こえてきた。側にいるジャヤが、矢をつがえたまま、弓を構えている。いつ虎が出てきても、対応できる構えだ。

趙雲は槍をたてたまま、微動だにせず様子を伺う。いつもは子龍子龍と五月蠅いジャヤが、別人のように鋭い目つきで獲物を狙っており、邪魔をするのも悪いと思ったからだ。

子供はすぐに大人になる。

女の子は特にそうだ。

それは知っていたつもりであったが。ジャヤは子供時代を放り捨ててきたように、大人になろうとしている。

それが恋慕の情によることは分かっている。ジャヤは嘘をつかない。惚れられているのも、良く知っている。

しかし、他にもっとまともな男に惚れれば良かっただろうにと、趙雲は思ってしまうのだ。

結局趙雲は武人であり、それ以上でも以下でもない。妻を守るよりも国を優先し、子を守るよりも民を慈しまなければならない。主君の命令であれば、家族にさえ手を掛けなければならない時もある。

それは決して妻にとって良い夫ではないはずだ。

陳到夫婦を見ていると、特にそう思うのだ。我が儘放題だった妻が最近大人しくなったと陳到は喜んでいるが、違う。陳到の妻は大人しくなったふりをしているだけで、実際は別の男を物色し始めている。もっとも、教養もない農民出身の、しかも子を二人も産んでいる女に興味を抱く男は少ないだろうから、彼女の希望が叶うかは分からない。

現実的な女の考えることは、安定と平穏。これ以外の何でもない。武門に産まれ教育されると別の思想を持つようになる場合もあるが、それはそれだ。

喚声が近付いてくる。ぎりぎりと、ジャヤが握る矢が音を立てた。

犬の咆吼。一匹が返り討ちにあったらしく、鋭い悲鳴が上がった。弓矢を放つ音。

「行ったぞ!」

「構えろ!」

王甫が叫び、自らも高価そうな長刀を手にする。

同時に、茂みを割って、虎が飛び出した。大きい。人間の五倍から六倍は体重がありそうな、逞しい虎だ。既に全身に矢を受けており、血に染まっている。更に左目に矢を受けていて、血を噴きだし続けていた。

吠える虎。猟犬が一斉に襲いかかる。訓練を受けた猟犬は、虎を恐れない。だから、消耗率も激しい。

ジャヤが矢を放つ。耳の下に突き刺さった。他の兵士達も矢を放つ。鎧通しを付けている矢が、二本、三本と虎の毛皮に食い込んでいく。咆吼をあげる虎に、前後左右から猟犬が襲いかかり、噛みつき、肉を引き裂いた。

こうしてみると、人間という生物が、他の動物を如何に上回っているかがよく分かる。一体一体では脆弱でも、数と戦術が揃えばこの通りだ。虎は伝承に出てくるものを除けば、最強の肉食動物の一つだろうに。為す術無く、人間の手で駆逐されていく。

苦し紛れに吠えた虎が、ジャヤに突進していく。更に矢をつがえたジャヤが放ち、眉間に突き立った。ギャッと、鋭い悲鳴を上げて、虎が方向を変える。更に後ろ足に矢が突き刺さり、竿立ちになった。逃げようとするが、勢子に阻まれて方向を変える。追い込まれた先は、最初に作った落とし穴だった。

落とし穴に追い込まれた虎が、血をしぶきながら墜ちていく。

肉を貫く槍の音。

断末魔の悲鳴が上がった。

「よし、引き上げろ」

命令を下しながらも、趙雲は周囲に気を配った。

虎はつがいで生活することがある生物で、知能も高い。もし今殺した虎のつがいが側に潜んでいると、襲いかかってくる可能性がある。他の兵士達は気付いていないからこそ、趙雲が警戒しなければならなかった。

王甫が汗を拭きながら腰掛けようとしていたので、歩み寄る。年は趙雲と同じくらいか。

「まだ、油断するのは早かろう」

「そうか、つがいか」

「そう言うことだ。 これだけ派手に殺したのだ。 つがいの虎がいれば、飛び出してくるだろう」

王甫が立ち上がり、周囲の兵士達を呼び集める。趙雲は虎を穴から引き上げようと歩き出したジャヤの側に、歩み寄り掛けて。

反射的に、槍を構えていた。

茂みから、虎が飛び出してくる。殺気も何もなく、兎に角突然のことであった。ジャヤが気付くより先に、趙雲が槍を振るって、至近に突きつける。吠えた虎が、飛び掛かってくる目標を、趙雲に切り替えた。

さっきの虎よりも若干小柄だが、それでも充分に大きい虎だ。今の内に仕留めておかないと、将来大きな害を呼ぶことだろう。それに、もし子供がいたりすると、更に被害が大きくなることも予想される。

激しい刺突を虎の眉間に。恐るべき反射神経で、虎が飛び退く。周囲では気付いた勢子達が、わっと飛び退いて、武器を構えた。趙雲は虎に歩み寄りながら、殺気をぶつけた。

吠える。

爪を振りかざして、腕を振り下ろしてくる。

槍を退きながら回転させ、鼻先で振り上げる。一歩退いた虎に向け、体を半回転させ捻りながら、刺突。横に飛び退く。身体能力が、人間とは根本的に違うのだ。そのまま、間を詰めてくる。そこで、石突きで、顎を跳ね上げた。

パンと、鋭い音。虎が一瞬だけひるんだ所で、態勢を低くし、飛び上がるようにして、槍ごと跳躍。

喉を、深々と刺し貫いていた。

一瞬でも遅れていれば、頭を腕の一撃で吹き飛ばされていただろう。

着地すると、趙雲は崩れ落ちた虎を見た。頭に矢が突き刺さっている。今の一瞬で、ジャヤが放っていたらしい。残念ながら急所は逸れていたが、他のどの兵よりもましな活躍であったと評価できる。

毛皮は分厚く、肉は固かった。

虎殺しは、簡単なことではない。大きく歎息すると、茂みを見た。丁度陳到が来る所であった。

「趙雲どの。 虎を一人で倒されたのか」

「何とか。 貴殿こそ、怪我はないか」

「此方は先手を打てたから、怪我人もいない。 近所の住民達に、虎の皮と肉はわけてやろう。 少しは感謝されると良いのだが」

「そう、だな」

ジャヤは少し思う所があったようで、死骸から視線を背けていた。

虎が夫婦であったことに気付いて、悲しんでいるのかも知れないと、趙雲は思った。

 

河北が一段落したことで、林は主力を引き上げていた。かなり兵力も消耗したことだし、今後は若手を育成しなければならない。羊の部下達は徹底抗戦の構えを崩していないし、皆殺ししかないだろう。劉備の所のシャネスは既に部隊を壊滅させているし、孫権の所は別の連中が根を張っている。

許昌をふらつき、饅頭を物色しながら、林は同時に使えそうな奴隷がいないか、見て回っていた。

この時代、奴隷は普通に売られているものである。

戦に負けた地域の民を奴隷として捕獲し売りさばくことを認めている群雄もいるし、生活が厳しくて子供を売り払う親も少なくない。どっちにしても、犠牲になるのは弱者である。だから、都合がよい。

細作として鍛え上げるには、世間を敵視しているくらいが丁度良いのだ。

半分発狂している菖や、漢民族そのものを敵視している劉勝。どっちも使える細作である。そういったどこかが壊れていたり、社会から廃絶されている人間こそ、闇の中で新しい世界を造ることが出来る。

そして、この土地そのものを玩具として滅茶苦茶にしたいと思っている林にとって、都合がよい道具となるのだ。

奴隷市を見て回る。今林は良家のお嬢様風の格好をして、護衛として何名か武人らしい格好をさせた部下を連れている。今、林の組織は三分の一に規模を縮小してしまっているから、これから拡大しなければならない。羊の組織との死闘が、それだけ凄まじかったという事だ。

「使えそうな奴隷はいますか」

「この辺で売られている奴隷はどれも駄目だな。 どいつもこいつも、世間に対する憎悪が足りん。 まあ、鍛えればそこそこの細作には出来そうだが、もっとこう、世間そのものに対する、焼け付くような憎悪を持った目をしている奴が欲しいな」

山越か鳥丸辺り出身の奴隷なら、良さそうなのが期待できるのだが。そう呟いて、どんどん裏道に入っていく。普通の人間なら躊躇するような場所が、却って林には心地よいのだ。

途中財布を二度スられそうになったので、逆にスリ返した上に、脇腹に刃物を突き刺してやった。やったのはどちらも子供だが、そんなのは知ったことではない。闇の王にスリなど仕掛ける方が悪いのだ。

最も治安の悪い地域に到達。よどんだ空気が、実に心地よい。曹操は有能な君主だが、少し前まで袁紹との総力戦態勢にあった訳だし、凝りはどうしても産まれてくる。そうすると、こういった場所はどうしても生じるのだ。

この辺りまで来ると、林に近付いてくる者は逆に減る。

林と、連れている人間が放つ禍々しい気配を感じ取るからだろう。良家のお嬢風の格好が、却ってそれに拍車を掛けている。

やがて、許昌のもっとも闇深い界隈に出た。

男娼を買える店が辺りには建ち並び、明らかに精神がおかしくなっている娼婦が立っている。破落戸が徒党を組んで歩き回り、襤褸を着た子供が店の間の狭い空間に座り込んで、じっと空を大きく飛び出した目で見つめていた。腐臭が漂い、よく太った蠅が飛んでいる。喧嘩で簡単に人が死ぬ場所でもあり、蠅は腐敗した人肉で育つ。

何度か行われた都市開発の度に、手を変え品を変え時には場所さえも変えて生き残ってきた暗黒街だ。曹操の尽力で、どんどん規模を縮小してはいるが、まだまだ平然と生き残っている。これは、河北が統一されるまでは、消えることはないだろう。河北が統一されれば、流石に曹操も本腰を入れて民政に乗り出すだろうから、この辺りも綺麗になるに違いない。

だから、逆に、林には今が好機だった。

この辺りで売られている奴隷は、流石にどすが効いている。四肢を失っているものや、明らかに性奴隷の目的で売られている半裸の子供など。中には精神が壊れてしまっているらしい全裸の女に鎖を付けて、売っている店さえある。なかなかに見込みがありそうなのが、散見された。

大の男でも躊躇しそうな店でも、林は堂々と入り込んでいく。中には割り符がいるような店もあるが、林は顔を見せるだけで大丈夫だ。上客だからである。曹操から渡された報酬で、金は有り余っている。

あらゆる闇の店に足を運びながら、林は目を付けた奴隷を、片っ端から買い込んでいく。最後に入ったのは、この近辺の闇の顔役達が集う酒店だ。軽く酒を注文して、部下達にも一杯だけ飲ませてやる。自身も点心を頼んで軽く一献開けていると、片眼を失っている奴隷市の主人が、揉み手をして愛想を振りまいてきた。

「これはこれは。 いつも有難うございます」

「いつも質がよい奴隷を揃えていて感心だ。 これからも商売に励め。 もっとも、曹操様の逆鱗に触れぬ程度にな」

「ありがたきお言葉にて」

会話を切ると、林は部下の一人に奴隷の受け取りを任せる。一度舐めたことをしてくれた奴隷市の主人を丸焼きにして吊してやってからと言うもの、この界隈は林の領土も同然だ。破落戸の類の中にも使えるのが時々混じっているので、林の組織に売らせている。

闇の街を離れたころには、夜になっていた。流石に少し疲れたので、肩を叩きながら歩いていると、部下が話し掛けてきた。

「林大人。 丁度良い奴隷は見つかりましたか」

「流石にあの辺りで取れる奴隷はなかなかと言う所だ。 まあ、鍛えれば使い物になるだろう」

今日は十五人買い取った。今二十五人訓練中だが、このうち半分は使い物にならないので、雑用か、後方支援だ。本当に役に立たないのは人知れず消してしまうのだが、それは買い取り資金がもったいないので、出来るだけ控えるようにはしている。

拠点に戻ると、曹操の直属である細作が待っていた。ルーの配下だった古株だ。そこそこの腕前を持っているので、林でも油断できない面倒な相手である。

「これはこれは。 どういたしましたか」

「曹操様がお呼びだ。 出来るだけ早く来て欲しい」

「分かりました。 すぐにお伺いいたしましょう」

袁紹が死んだ今、曹操の実力は、かっての董俊さえ凌いでいる。

いずれ殺して、さらなる世の混乱を招くとしても、今はその時期ではない。側近である細作には、ある程度媚態を見せておかなければならなかった。

奴隷の訓練と配置は部下達に任せておいて、林は早速許昌の宮殿に出向く。曹操のじきじきの命令であるから、正面からだ。細作は所詮影に生きるもの。林を見た曹操の部下達は、誰もが良い顔をしなかった。

特に龍を見た虎のような顔をしている許?(チョ)は、いつでも飛び掛かってきそうだった。

曹操の部屋に、正面からはいる。曹操はなにやら怪しげな椅子に座って、腕を上下させていた。見ると脇の部分を竹の格子が掴むようになっていて、腕で掴んでいる棒を上下に動かすことにより、体を伸ばす効果がある様子だ。

なるほど。背を伸ばすための工夫を、薬に頼らず始めているという訳だ。あれだけ色々試して駄目なのに、恐るべき前向きさである。

「おお。 来た、か」

「林、参上いたしました」

腕を上下させながら喋っている曹操は、言葉がとぎれとぎれになる。ふんふんと荒い鼻息をつきながら、曹操は命じてくる。

「汝南を探って参れ」

「河北はよろしいのですか」

「あれは、放って、おく方が良い。 余の脅威を、感じ、なくなった瞬間、袁紹の息子どもは、内紛、を始めるだろう。 其処に、つけ込む。 今、は、まだ、河北の力は、余の力を、凌いでおるが、それを悟らせてはならぬのだ。 はふう。 疲れるのう」

「分かりました。 すぐに汝南に向かいます」

一礼しつつ、内心では舌打ち。

曹操は衰える気配がない。今はまだまだ、討つことはできないだろう。

不思議な話なのだが、ある種の英雄には、細作が手を出せない。これはどういう訳かよく分からないのだが、不思議と手を出せないのだ。

今の曹操は、まさにその不思議と手を出せない状態である。もう少し衰えないと、このまま殺せず終わるだろう。それは何とも口惜しい。ある程度状況が落ち着いたら、堕落させるために手を打ちたい所だ。

途中、郭嘉を見かけた。激しく咳き込んでいて、程cに支えられている。あの咳、間違いなく肺の病、それもかなり重いものだ。後数年も保たないだろう。

曹操の強大な力も、無限ではない。

部下達が死ぬことにより、少しずつ削がれていく。

多分河北は労せずに曹操の手に落ちるだろうが、その後はどうか。巨大化しすぎて、慢心しない人間など存在しない。英雄であっても、それは同じ事だ。

曹操がどう堕落するか、或いはさせるか。今から楽しみであった。

拠点に戻ると、林は数名を見繕い、汝南に向かうことを告げる。

部下達は既に林の操り人形だ。逆らおうという者は、一人も居なかった。

汝南にはシャネスがいるし、話によると最近荊州の方に巨大な細作組織が出来つつあるという。

すっかり弱体化した河北よりも、そちらの方が、幾分暇つぶしになりそうだった。

 

3、死闘汝南

 

何時か来るとは分かりきっていたが。それは予想通り、大地を蹂躙しながらやってきた。山頂で偵察をしていた兵士達が、汝南の劉備軍砦に逃げ帰ってきた時、陳到はそれを知った。曹操の大軍勢が、汝南に侵攻してきたのは、劉備が砦にたどり着いて三ヶ月後のことであった。

袁紹亡き今、既に曹操を凌ぐ兵力を動員できる群雄は存在しない。河北の袁家は、袁紹が死んだ途端に内紛を始めて、南に干渉するどころでは無くなっている。曹操は満を持して、邪魔きわまりない劉備を全力で潰しに来たのである。

軍勢は最低でも五万と予想されていたが、経験の浅い兵士達はあまりの大軍を目にしたことで混乱に陥っており、正確な数は分からなかった。陳到は要領を得ない彼らの発言に舌打ちすると、熟練した兵士達を連れて、自ら大物見に出る。

山に潜みながら、曹操軍の様子を確認。

元々、汝南北部は既に曹操軍のものとなっていた。駐屯するには問題ない環境が整っていると言える。進軍することに関しても、それは同じだ。曹操軍の動きは、陳到から見ても、恐ろしいほど早かった。

敵は歩兵が中心。曹洪と韓浩の旗が見える。曹仁、李典、それに徐晃も来ているようだ。楽進、張遼は恐らく河北に備えているのだろう。新参の張?(コウ)と高覧の旗印も見えた。

「五万はくだらないですな」

「八万から九万という所だ。 予想よりも遙かに多い」

しかも面倒なことに、戦上手な韓浩と徐晃が来ている。張?(コウ)もかなり侮りがたいという話だ。しかもこの様子から見て、曹操が自身で出てきているだろう。

籠城しても、勝ち目はない。陳到はそう判断した。

すぐに砦に戻る。劉備は武装して出てきていた。味方の兵力は一万六千という所である。しかし質が敵と雲泥であり、とても勝ち目はない。何とか機動戦に持ち込めれば良いのだが、それも難しい状況だ。

既に重臣達の妻子は、荊州近くまで逃れている。兵士達の中にも、不安な顔をしている者達が少なくなかった。

「陳到。 状況は」

「敵は九万。 主な将だけでも、韓浩、徐晃、それに曹操自身が来ています。 二線級の将もいますが、曹操自身が統率していることもあり、隙はまるで見あたりません」

「なるほど、長期戦に持ち込むのは難しいな」

韓浩は汝南でも屯田を進めており、地形を熟知している。その上、まず退路を確保してから戦うような慎重きわまりない徐晃が敵にいる。曹操は手を抜く気が一切無いと言うことだ。劉備をこれほど評価している男は、中華全土で曹操だけかも知れない。

「一撃して、出鼻をくじく。 それから、攪乱戦に持ち込む」

「当初の戦略通りですが、上手く行くでしょうか」

「やるしかない。 他に手がない」

張飛が頷くと、最初に砦を出て行った。劉備が続き、一緒に陳到も新兵達を纏めて出る。最後に出たのは関羽であった。

趙雲の側にジャヤはいない。どうやら、先に逃がした非戦闘員や文官達の護衛として派遣したらしい。ジャヤは最後までごねていたが、趙雲がどうにか説得して、行かせたようだ。ただし、何か約束をさせられたらしい。陳到は側では見ていなかったので、よく分からない。

劉備の側に、趙雲と精鋭部隊が着く。それだけで、安心感が何割も増した。

茂みから声がして、シャネスが出てきた。顔は蒼白になっている。

「劉備様」

「どうした、シャネス」

「非常に良くない状況だ。 林が、精鋭を連れて出張ってきている」

「押さえ込めるか」

「難しい。 今いる人数では、どうにもならないかも知れない」

シャネスはかなり腕を上げている。徐州での部隊壊滅を、それだけ悔しく考えていたという事だろう。

しかしその彼女をもってしても、今の怪物じみた林を相手にするのは、難しいという事なのか。実際陳到も、林に関しては化け物同然の噂しか聞かない。最近では、人肉を好んで喰らうとか言う噂も流れてきている。奴ならやりかねないと思ってしまう辺りに、林の異常性があるとも言える。

「砦に対する攪乱に、気をつける必要があるな」

「暗殺は考慮しなくても大丈夫ですか」

「それは問題ない。 趙雲が側にいる」

そう劉備が即答したので、趙雲は少しだけ嬉しそうにした。

ほどなく、張飛軍から伝令が飛んできた。

「前衛が敵と接触! 斥候を排除しながら、布陣を開始しています!」

「我らも急ぐぞ」

劉備が愛馬に鞭をくれ、山道を急ぐ。シャネスはいつの間にか、側から消えていた。

陳到も急ぐ。山奥に暮らしながらも、武具を磨いてきたのはこの日のためだ。勝ち目のない戦いを、劉備がどう落とすか。それが今の興味の対象であった。

山の中腹に布陣していた張飛軍と合流。

この辺りの山は水が豊富で、とりあえず水に関しては問題にしなくても良い。山に布陣するべき時に、一番気をつけなければならないのは乾燥だ。もちろん百戦錬磨の劉備はそれをしっかり把握していて、油断もしていなかった。

曹操軍は麓から少し離れた所に展開する。そのまま包囲するのではなく、何部隊かに分けて、此方の出方を見る様子だ。ござんなれとでも言っているかのようである。陳到は、劉備の側で、寡黙なまま槍を握っている趙雲を見た。

「流石に手慣れていますな」

「これだけの数の戦をこなせば。 誰でもそうなります」

「いやいや。 私は、今でも戦が怖い時がありますぞ」

「ならば、それだけ貴方が慎重だと言うことです」

劉備が右手を挙げる。趙雲に、小声でささやきかけた。

「すまぬが、敵と一騎打ちをしてきてくれないか」

「出鼻をくじくため、でしょうか」

「その通りだ。  関羽と張飛には、軍勢を率いる仕事がある。 そなたにしか頼めぬ」

「いえ、光栄です。 武人として、先陣を承るのは名誉の極み」

趙雲は本当に嬉しそうにそう言うと、山を駆け下りていった。劉備が銅鑼を叩きならさせる。

趙雲は女性のような柔和な男ではなく、大柄で、兎に角ごつい。眉毛は太く、顔は四角く、武神像のような趣を讃えている男である。ただし、乱世では、そういった男の方がもてる事もある。ジャヤの場合は、趙雲が強いから、夫に迎えるのは名誉なことだと言っているが。あれは、本音から惚れての行動だろう。それは例外としても、趙雲の男ぶりは、陳到から見てもほれぼれするばかりであった。

武芸もせいぜい中の上。学問もろくに出来ない。

それを考えると、やはり陳到は、凡人として産まれてしまったことを、歯がゆく思う。

「陳到、趙雲をどう思う」

「素晴らしい武人かと。 男と産まれたのなら、ああなりたいものです」

「いや、いや。 趙雲は、陳到の事を羨ましいと、以前一度漏らしていたぞ」

「まさか」

笑って流そうとしたが、劉備が嘘をつく理由を、陳到は見いだせなかった。

曹操軍からも、一騎。誰かが飛び出してくる。あの血の気が多そうな男は、確か張?(コウ)であろうか。

奇しくも、河北出身の二人が、いきなり刃を交えることになるとは。この汝南の戦、数奇な運命に彩られているようだった。

 

山を下りてきた武者一人。槍をしごいて構えるその姿は、かっての呂布を思わせる、圧倒的な戦意に満ちていた。

もちろん呂布ほどではないが、それに近い実力を感じる。関羽、張飛に続いて、恐るべき将が劉備軍に加わった様子であった。

「我は劉備軍将、趙雲! 字は子龍! 我の相手を出来るものが、曹操軍にいるか!」

叫びが曹操軍にとどろく。曹操は眼を細めて、武者ぶりをみやった。全員で押し包んで殺すのは簡単だが、そんな事をすれば兵士達は士気を著しく下げるだろう。それに、あの心意気、受けてやるのが武人というものだ。

「ふむ、なかなかの男よ。 誰か、我こそはと言う者はいないか」

「拙者が!」

荒々しく声を張り上げたのは、張?(コウ)だった。どうやら因縁のある相手らしい。

「張?(コウ)。 勝てるか」

「勝たねばなりませぬ!」

「因縁があるか」

「お恥ずかしながら! 昔、袁紹軍にいたころから、何度か刃を交えた相手にございまする。 公孫賛の配下にいたあの趙雲に、拙者はついに勝つことが出来ませんでした!」

曹操の配下に入ってから、張?(コウ)はやたらとはきはき喋るようになっていた。女官達は、五月蠅くて嫌だと不満を漏らしているらしい。曹操は元気があって良いではないかと思うのだが。人の心とは、やはり分からぬ部分も多いものである。

「分かった。 だが、無理をするな」

「そのようなお言葉を掛けていただき、光栄の極みにございまする! では、ごめん!」

張?(コウ)もまた、槍をしごく。そして、この間曹操が与えた斑の黒馬を駆って、趙雲に向け、距離を詰めていった。

武人同士の一騎打ちの場合、名乗りやら罵倒やらが発生することが多い。だが、因縁があるというのに、二人の間の空気は意外にも穏やかだった。

「おお、貴様は張?(コウ)ではないか。 袁紹軍を離れて、曹操軍に入ったと聞いていた。 元気にしていたか」

「おかげさまで! 貴方に借りを返すまでは、死ねぬ!」

「そうか。 どちらにしても、人生に目標があるというのは、良いことだ」

「そう思う! では行くぞ!」

張?(コウ)が、まず仕掛けた。人馬一体となり、助走から鋭い突きを趙雲に見舞う。だが、趙雲は軽くそれを槍で捌くと、手綱を使わず足だけで馬を操りながら、見事に張?(コウ)の斜め後ろに回り込んだ。

速い。曹操は、舌を巻いていた。

張飛が力、関羽が技だとすると、趙雲は速さだ。まるで稲妻のような男だと、曹操は評していた。

辛くも振り返った張?(コウ)が、趙雲の槍を受け止める。そして槍を振るって薙ぎに行くが、余裕を持って趙雲が受け止める。張?(コウ)も相当な使い手だが、趙雲は更にその上を行く。数合槍を交えただけで、力の差は明らかだった。

趙雲の槍は、残像さえ残しながら、張?(コウ)の槍に迫る。防ぐのが精一杯の張?(コウ)に対して、趙雲のそれは、必死の反撃を防ぎながら、なおかつ鋭い突きを繰り出す余裕に満ちていた。

張?(コウ)の兜を、趙雲の槍が掠める。

だが、張?(コウ)も、其処で反撃に出た。馬を急激に寄せると、組み討ちに持ち込もうとしたのである。

兵士達が、わっと喚声を上げる。飛びついてきた張?(コウ)に、趙雲がとっさの肩当てを浴びせたからだ。火花が散るような激突。趙雲が、喉を狙って、一瞬速く突きを繰り出す。辛くも態勢を立て直した張?(コウ)は、馬に背に飛びつくようにして、一撃を凌いでいた。

槍を手元に引き戻した趙雲が、軽く距離を取る。

腕力だけなら、張?(コウ)が上だと言うことだろう。組み討ちなら、張?(コウ)にも勝ち目があると言うことだ。

額の汗を拭う張?(コウ)。顔は真っ赤に紅潮している。

「腕を上げたな」

「貴方は、衰える気配もない! だが、いつまでも若い私だと思うな!」

一声上げると、張?(コウ)は槍を横に構えて突入した。なるほど、槍は趙雲の刺突を防ぐためだけに使い、組み討ちに持ち込むことだけを考えているという訳だ。趙雲は馬首を返すと、張?(コウ)の火が出るような突入を、そのままいなす態勢に入った。一瞬だけ、張?(コウ)が迷う。

其処に、趙雲が、突きをくれた。

「引き鐘だ」

「はっ!」

側に控えていた韓浩が、鐘を鳴らさせた。

張?(コウ)は趙雲のいかづちのような槍を弾くと、撤退に移った。趙雲は、それを追おうとはしなかった。貫禄が、残念ながらまだ違う。しかし何年か先ならば。そう、曹操は見ていて思った。

戻ってきた張?(コウ)は、悔しそうに項垂れた。曹操はしばしその様子を見ていたが、ねぎらいの言葉を掛けることにした。

「まだまだだな。 だが、将来を予感させる戦いであった」

「無念にございます」

「将来、勝て。 見ていた所、趙雲は武人としては超一流の男だが、指揮官としてはお前の方が優れているはずだ」

張?(コウ)を下がらせる。そして、軍を進めて、敵との距離を少しずつ詰める。

兵士達の士気はあまり高くない。誰がどう見ても、今の一騎打ちは趙雲の勝ちだったからだ。

だが、曹操には、別方面からの勝算があった。

山の中腹に布陣している敵の旗印を、許?(チョ)が手をかざしてみている。曹操は相手の狙いが大体読めたので、口の端をつり上げていた。

「虎痴。 敵の先鋒は張飛だな」

「はい」

「一当てしたら退くぞ。 出来るだけ被害は抑えなければならん」

「何か、策があるのですか」

もちろんあるに決まっている。

そして、その鍵を握るのは、許?(チョ)であった。

 

陳到は山の上から戦況を見ていた。

張飛軍は、敵をぎりぎりまで引きつけ、一気に反撃に出た。押しつぶすように敵の先鋒を打ち砕くと、さっと戻って陣を張り直す。敵は追撃する隙を見つけられず、一旦距離を取り直し、にらみ合いに戻った。

勝ち、と考えるべきだろうか。

いや、何かがおかしい。曹操が、工夫もない戦を仕掛ける訳がない。

「様子がおかしいな」

「やはり、そう思われますか」

「そうだ。 あの曹操が、工夫もしない力押しの戦をする訳がない。 汝南に侵攻してきているのも、河北の心配が無くなったからで、時間が無限にある訳ではない。 そうなると、恐らくは策だな」

そうなると、やはり本拠への奇襲か、補給路の寸断だろう。家族のみについては心配しなくても大丈夫なのが、この際の、唯一の救いであった。

張飛軍は敵の先鋒を釘付けにするためにも動けない。劉備は伝令を呼ぶと、すぐに指示を与えた。

「関羽を砦に戻せ。 我が軍の半数を斥候とし、周囲の砦に敵がいないか確認させよ」

「分かりました」

すぐに伝令が動き、本隊が散り散りに偵察を開始する。もちろん集結する際の合図も、既に決まっている。

曹操軍に比べると若干動きもぎこちないが、それでも戦闘が可能な状況にまでは、鍛え上げてあるのだ。

すぐに伝令が飛び込んできた。

「曹操軍に、動きが見えます」

「どうした」

「それが、前衛が兵力を増強しています! 張飛将軍の部隊に、猛烈な攻撃を仕掛けています!」

「分かった。 陳到、すまぬが増援に回って欲しい」

劉備に一礼すると、陳到は新兵達を連れて、すぐに前衛に出る。張飛の率いる三千ほどは、曹操軍約三万と、地の利を生かしながら猛烈な死闘を演じていた。張飛軍に割り込み、矢を放たせる。曹操軍はまるで海のような有様で、放つだけ矢が当たった。

「放て! 矢がある限りだ!」

曹操軍は退かない。雄叫びを上げて、張飛が突入するが、さっとそれを避けるだけで、すぐに反撃に転じてくる。陳到は精鋭を連れて曹操軍の前衛を駆逐しながら、馬を張飛に寄せた。

「張飛将軍!」

「陳到か! 戦況は!」

「今、劉備将軍が後方に兵を回しております! 奇襲を受けても、すぐに軍が瓦解するようなことはないでしょう!」

「それは正しい判断だな! 流石は兄者だ!」

張飛が蛇矛を振り回して、群がってくる曹操軍の兵士をなぎ倒す。だが、蛇矛から逃れた敵兵はさっと距離を取って、すぐに組織的な行動に移る。この粘り、この分厚い陣容、ただ者ではない。

「敵将は誰ですか」

「韓浩だな」

「なるほど、分厚く粘り強い訳ですね」

「そうだな。 兎に角、戦いづらい相手だ!」

曹操軍において、屯田を一手に取り仕切っている古参の将である。粘り強く、時に勇敢な用兵をすると聞いていたが、噂通りだ。ふと気になったので、迫ってくる敵兵を突き伏せながら、陳到は叫ぶ。

「許?(チョ)は、見かけましたか!?」

「いや、見ていない!」

「そうなると危険ですな!」

許?(チョ)は。

同じ村出身の、あの木訥な若者は。今は曹操の下にいる。

許昌で何度か顔を合わせて話し込みもしたが、曹操に対する忠誠は絶対で、揺らぐものではなかった。

じりじりと押され、中腹まで下がる。

其処で、張飛が精鋭を固めて、一気に反撃に出た。追撃してきていた青州兵をなぎ倒しながら、張飛が驀進するが。いつの間にか彼は、十字砲火の焦点に追い込まれていた。圧倒的な弩の矢風を浴びて、危地に陥りかける張飛。横から陳到が冷静に突撃を仕掛けて敵陣を食い破り、被害を減らす。

僅かに敵が退く。

だが、味方は既に、三百を失っていた。敵も千近くを戦死させているだろうが、被害の比率から言えば、味方の方が大きい。

「許?(チョ)がいないと、なぜ危険なのだ」

「あの男は、汝南でずっと過ごしていました。 地形は熟知しているはずです。 ましてやあやつは、虎のように、或いはそれ以上に勘が働くのです。 精鋭を連れて動き回られると、何をされるか」

「……そうなると、確かに危険だが」

張飛が見下ろす下には、更に増強されていく曹操軍がいる。既に数は四万を超えているだろう。

対して此方は、張飛軍と陳到軍を併せて六千五百程度である。如何に坂の上という地の利があっても、安易に退ける状況ではない。

不意に見えた。韓の旗だ。

だが、張飛は舌打ちだけして、動かなかった。

「さっきもあの旗を潰したんだが、韓浩はいなかった。 多分罠だ」

「それでも、仕掛けたくなる心理を巧みに利用していますな」

「くそっ! こうも数の差が無ければなあ。 せめて俺だけで一万くらいの兵がいれば、多少は状況もましになるものを」

「無い袖は振れません。  何とかしましょう」

張飛がぼやくようでは、兵士達にも不安が広がる。ただでさえ敵は五倍を超えているのである。

此方から動かないと見るや、敵が動き出した。

まるで山が崩れるかのような凄まじい軍靴の音とともに、怒濤の進撃を仕掛けてくる。兵士達が槍を揃えて接近してくる威圧感は凄まじい。張飛は最前線に立つと、部下を叱咤して、ぎりぎりまで引きつけさせた。

不意に、敵が二手に分かれる。いや、陣が割れた。

そして現れたのは、張?(コウ)と、如何にも精鋭と分かる武人百騎ほどであった。

「張飛将軍! 私は、曹操軍の将、張?(コウ)である!」

「おお、さっき趙雲に踏みにじられた奴だな!」

「その通りだ! 貴方と一騎打ちをしたい! 受けていただけるか!」

「望む所だ! 趙雲相手にあれだけ持ちこたえた奴だものな! 俺にすぐに殺されるなよ、若造!」

同時に、どっと敵兵が押し寄せてくる。張飛は蛇矛を振り回し、一つの火の玉となって敵に突進していく。

こうなると、張飛を止めることは難しい。

陳到が指揮を引き継ぎ、津波のように押し寄せる敵を、食い止めなければならなかった。

まだ、退き太鼓や鐘は鳴っていない。

兎に角、後ろ以外は全て敵である。しかも、後ろに回り込まれないように、味方を動かさなければならない。坂の上という利点を生かすのも、かなり難しい。

槍が折れた。

敵将らしい若者と渡り合い、喉を貫いた瞬間のことであった。

「槍!」

叫びながら、弓を引いて、矢を放つ。三矢まで速射して、二人の敵兵を倒した。兵士が差し出してきた槍をひったくると、肩に矢を生やしながらも突っ込んできた騎兵の顔面を貫き通す。

流石に息が上がってきた。もう若くはないのだ。

黄巾党が大反乱を起こして、既に二十年近い。あのころは無理も利いたが、最近はそれも難しくなりつつある。

繰り出された剣をはじき返して、槍を旋回させ、後ろに回った一騎を貫き、引き抜きつつ石突きで前の一騎をたたき落とす。怒濤の地響きと供に、敵の増援は次から次へと押し寄せてきた。

張飛は張?(コウ)と、精鋭百騎と一人で渡り合っている。怪物的な武力だが、しかしそれが限界だ。周囲に目を向けられていない。陳到は六千を割り込みかけている味方を叱咤しながら、どうにか陣を維持し、総力戦を継続した。

敵の前衛が、突如退く。

そして、無傷かつ気力充分な後衛が前に出てきた。

此方を休ませるつもりは一切無いらしい。馬上にいる徐晃が、大斧を振るい上げるのが見えた。

「殺っ!」

殺気を迸らせた徐晃隊が突入してきた。

その圧力は、今までの比ではないように感じられた。

夕刻、ようやく曹操軍は後退した。闇の中に紛れて、被害を確認する。

既に、無事な兵は四千程度にまで落ち込んでいた。敵兵は三千以上を失ったようだが、まだまだ余裕が充分にある。此方はそれに対して、戦死者だけで五百五十。負傷者を後送しているが、明日も同じような戦いが続くと、早早に戦線が崩壊するだろう。

「陳到、無事か」

「張飛将軍。 どうしました」

「まずいぞ。 砦に行った伝令がもどらねえ。 多分、もう本陣はやられてるな」

全身に返り血を浴びている張飛が、不安を目に讃えている。虎髭を蓄えたこの豪傑でも、怖いことはあるのだと思った。

「早めに動きましょうか」

「それが良い」

負傷兵の後送を中止。送るだけ、死ぬだけだ。

闇に紛れて、後退に掛かる。更に被害が増えたら、各自自由行動で、荊州を目指すことになる。

劉備の話だと、孫乾を派遣して、既に劉表と話はついているという。荊州軍閥の長である劉表は、東の守りには黄祖という優秀な将を抱えているが、北にはこれといった防波堤になる将を持たず、劉備を売り込むことに成功したらしい。荊州まで逃げれば、どうにかなる。

敵は、少なくとも敵陣に動きは見えない。

今の内に、出来る限り下がらなければならなかった。

 

曹操は少数の精鋭とともに、落とした劉備軍の本陣に足を踏み入れていた。

この辺りは、許?(チョ)にとって庭も同然である。黄巾党の残党を自称する何儀を始めとする山賊達相手に、ずっと立ち回り続けたのだから当然だ。だから、抜け道、裏道、なんでも通り放題であった。

許?(チョ)は複雑な顔をしている。陳到がいると聞いてから、ずっとだ。ただ、今まで陳到の旗との交戦はなく、それで少しほっとしていたようでもあった。

砦に関羽が戻ってくる前に、曹操は兵を忍び込ませていた。そして、林による攪乱と同時に、一気に兵をなだれ込ませた。劉備軍と関羽軍も、途中で奇襲を仕掛けて、今は散り散りになっている。地の利がある上に、奇襲を仕掛けたのだから当然の結果である。

この戦、曹操の勝ちであった。

劉備が兵を散らして、機動戦に持ち込んでくれば、もっと苦戦する可能性もあった。だが劉備は最初から汝南に固執しておらず、故に勝負があっさり決まったのだとも、曹操は分析していた。

「案外呆気なかったな」

「はい」

何処か上の空の様子の許?(チョ)に苦笑すると、曹操は劉備が使っていたらしい執務室に入った。

小さい空間だが、よく整備されている。陳到が先に使い、劉備が後から入ってきたという。二人とも生真面目な性格だから、丁寧に扱っていたのだろう。机は磨かれているかのようで、殆ど汚れもなかった。

「みなで、仲良くする事は出来ないのでしょうか」

「どうした、虎痴よ」

「陳到兄貴は、俺より年上で、村の兄貴分で、ちょっと口うるさいけど、凄く世話になった人です。 悪い人じゃないのに、今は仲良くできる様子が、想像できません」

「それは確かに悲劇だ。 だから、一刻も早く、この乱世を終結させなければならないな」

乱世は人を狂わせる。

曹操も、狂った一人だ。だが、やはり秩序が、その全てを終わらせもする。

かって、曹操は人相見に自分を判断して貰ったことがある。

人相見とは、近年はやりの職業で、曹操は大金を積んで一番高名な人相見に会ってきた。彼が言うには、曹操は乱世では英雄になり、治世では能臣になるということであった。この判断には相当なおべっかが入っていることを自覚しつつも、曹操はそんなものだろうと納得もしていた。

平時に、そう例えば、光武帝が安定を取り戻した時代にでも生まれていれば。

曹操は残虐な乱世に身を置かずとも、ゆるやかな時間の中で、政務に没頭できていたのかも知れない。

そう思い、時々それが羨ましくもなる。

だが、現実を常に見ていかなければならないのが、曹操の役目でもあった。

砦には、かなりの物資も蓄えられている。しかし抵抗の弱さから言っても、敵の本命は逃げた後というのが正しいだろう。伝令が飛び込んできた。張飛と陳到を引きつけていた、徐晃と韓浩からの報告だ。

「虎痴よ、喜べ。 張飛と陳到は、逃げ延びたそうだ」

「陳到兄貴は、死なずに済みましたか」

ほっとした様子で、許?(チョ)は胸をなで下ろす。

逃がしてしまえば強敵になることは分かりきっているはずなのに。こういった純真な所が、曹操には好ましかった。

曹操には、無い部分だからである。

劉備軍は、とりあえず汝南から追い払う事が出来た。後は屯田兵の部隊を二つ三つ置いて治安を守り、適当に業績を上げている文官を置いて山賊化する民が出ないように管理すればよい。汝南は攻める価値が少ない土地だ。それで充分であろう。もしも江東の孫政権と敵対することになった場合、寿春への援軍を送れるように道を整備しなければならないが、それはまだ考えなくても良い。江東は孫権が跡を継いだばかりで内部がまとまっておらず、拡大策も東の荊州を狙ってのものに絞られているからだ。

具体的に、幾つかの指示を纏めて、竹簡に書き始めた、その矢先であった。

血相を変えた伝令が飛び込んでくる。

「曹操様! 一大事にございます!」

「如何したか」

「敵を追撃していた張?(コウ)、高覧両将軍の部隊が、敵の逆撃を受け、壊滅した模様です! 両将の生死は不明!」

「何……!」

完全勝利に味噌がついたとはこのことだ。

曹操はすぐに徐晃に伝令を飛ばし、張?(コウ)を救うように指示を出した。

 

撤退を進める陳到は、敵の一部隊が追撃してきていることに気付いていた。

劉備との連絡も、既についている。曹操軍の奇襲を受けて本陣は失陥したが、損害は最小限に抑えて退いていた。既に事前に決められていた第二拠点に終結し、順次荊州に撤退中である。負傷兵も、途中からそちらに輸送されていた。

このまま敵を引きずり込むことによって、一気に敵を包囲殲滅する事が可能である。張飛が、馬を寄せてきた。流石に疲労が激しい様子だ。百騎以上の敵と一人で戦い続けたのだから、無理もない話である。

「敵の追撃軍は五千五百って所だな。 どうする」

「中途半端に叩くくらいなら、徹底的に潰しておきましょう。 曹操軍の勢力がこれ以上大きくなるとしても、ある程度の力は削っておきたい所ですから」

「そうだな」

「私が囮になります。 張飛将軍は先に行って、敵を包囲殲滅する準備を整えておいてください」

心得たと言うと、張飛は精鋭の部下達を連れて、闇夜に消えた。

陳到は振り返る。泥のように疲れている部下達は、まだ戦うのかと、うんざりした表情でいる者も少なくなかった。しっかり訓練しておいてこれである。訓練がうまくいっていなかったら、既に殆どが脱落していたかも知れない。

「これから、敵の追撃部隊を叩く。 上手く行けば、一気に壊滅させることが出来るだろう」

「本当ですか?」

「さっきまでも、私は嘘を言っていない」

兵士達は顔を見合わせる。

やがて、事前の訓練通り動く。敵は山の中を急追してきているから、騎馬隊は殆どいない。それぞれが茂みや灌木の影に伏せて、息を殺して待つ。

不意に、敵が現れた。

此方に気付きもせず、盲信してくる。先頭の半分ほどが自陣に入り込んできた所で、陳到は立ち上がった。

「いまだ! かかれっ!」

今度は、前後左右から、味方が襲いかかる番だった。疲れているのも敵は同じ。しかも、数は殆ど互角である。

張?(コウ)軍は見る間に数を減らし始めた。不意を突かれた上に、周囲を囲まれているのだから当然だ。張?(コウ)は燃え上がる心を奮い立たせて、辺りに槍を繰りだしているようだが、何しろ夜闇である。効果は著しく低い。

陳到は弓を引くと、二人、三人と、速射して射倒した。士官ばかり射倒されて、敵の混乱が加速する。そして、適当な所で、陳到は引き鐘を鳴らさせた。

「良し! 退け!」

「おのれ、逃がすかっ!」

後衛の高覧隊が追いついてきたこともあり、張?(コウ)は烈火のごとく怒り狂い、見境無くついてきた。その勢いは凄まじく、そのまま包囲を続けていたら逆に危機に陥ったかも知れない。

だが、残念ながら経験が浅い。

張?(コウ)は見た所、育てば張飛や関羽にも劣らない素質を秘めているようだ。だが、何とも経験が浅いように見受けられる。恐らくは、育った環境が拙かったのだろう。

追撃してくる張?(コウ)隊を引っ張り込む。やがて、張飛が松明を振り回しているのが見えた。味方も追撃に辟易しているが、殆ど脱落者は出していない。何度か踏みとどまっては敵の頭を潰し、またとって返しては足を払う。そして、ついに陳到は、敵を味方の包囲陣の真ん中に、引きずり込むことに成功した。

其処は山々の真ん中で、小さな窪地になってきた。張?(コウ)隊を、砦の入り口で待ちかまえ、次々に押し返す。敵はむきになって突っ込んできた。やがて、それでも将であるからか。張?(コウ)は、罠に気付いた様子であった。

「しまった! 罠だ! 退け、退けっ!」

「押し包め! 一人も生かして逃がすな!」

後方から突入してきた劉備隊、左右から張飛と関羽。鉄の桶がごとき重囲に落ち込んだ張?(コウ)隊は、一転して恐慌に陥った。陳到は大きく息を吐くと、再び弓矢を引き、速射。目についた敵を、片っ端から仕留めていった。

人垣を割って、見事な馬術で飛び出してきた若い将。星明かりに、額から血を流している凄絶な表情が露わになる。高覧だ。

「敵将、勝負っ!」

吠え猛った高覧が、突入してくる。陳到は冷静に矢を放つが、二矢まで防がれ、はじき返された。怒濤のように、山の土を蹴散らしながら突入してくる高覧。

その側頭部を、飛んできた槍が、貫いていた。

駆け寄り、馬上から槍を引き抜いたのは趙雲であった。

「ご無事でしたか、陳到どの」

「助かりました。 趙雲どの」

冷や汗が流れてきた。あのままだと、高覧の槍を浴びて息絶えていたかも知れなかった。張?(コウ)隊は、高覧を失い、混乱の中殲滅されつつある。張?(コウ)はもはやこれまでであると悟ったらしく、精鋭を率いて突破作戦に移っていた。だが百戦錬磨の劉備はそれを許さず、ことごとく退路を塞いでいた。

凄絶な表情を浮かべた張?(コウ)を見つける。趙雲が槍をしごくと、馬を寄せていった。

「張?(コウ)殿、最後の相手をつかまつろう」

「申し出はありがたいが! まだ、私は! 死ぬ訳にはいきませぬ!」

「武士らしい、潔い末路を」

「断る!」

張?(コウ)が退く、趙雲が進む。その時、不意に右手の山から、銅鑼の音がした。劉備の率いている一支隊が崩れる。後ろから、徐の旗印が押し込んできていた。

徐晃の軍勢だ。

この辺りが潮時だと、劉備が判断したのだろう。退却の鐘が鳴らされる。陳到は舌打ちすると、味方を纏めて、撤退に移った。

張?(コウ)は精根尽き果てた様子で、地面を見つめていた。

彼は生き残った。

しかし、これはきっと、後々大きな傷になるだろう。気の毒な話であった。

闇の中、陳到は一度だけ振り返った。

月明かりの下で俯いている張?(コウ)には、時間が必要だろうなと思ったからだ。

 

二日掛けて退くと、荊州の境に出た。山深い徐州と違って、川と平野が何処までも広がっている、開けた土地である。

長江を渡ると、更に広い土地に出る。肥沃で広く、そして空気が何よりも穏やかであった。

陳到が最後の兵を連れて上陸すると、劉備が待っていた。関羽や張飛、趙雲も無事だ。趙雲の側には、やたらご機嫌なジャヤがいた。愛する人が生きていて、嬉しいのだろうかと思ったが、どうも違うようだ。雰囲気から言って、生き残ったら妻にするようにでもいっていたのかも知れない。

まあ、年貢の納め時という奴だ。年の差のある夫婦だが、まあ巧くやっていけることだろう。もっとも、まだ子供のジャヤに、趙雲が手を出すとは思えないので、子供が出来るのはもっと先のことになるだろうが。

「ついてきている味方は」

「一万二千という所でしょう」

離散したり戦死した兵力は、思ったより抑えることが出来た。陳到隊の新兵達も、殆どが生き残る事に成功している。

兵を整列させていると、荊州の劉表軍が出てきた。何とも貧弱そうな連中である。江東の孫政権からの侵略は黄祖将軍が防いでいると言うことだが、それが故に他の地域は平和きわまりないのだろう。

敵将が出てきた。まだ若いが、精悍な印象のある男だ。

「劉備将軍にございますね」

「貴方は」

「私は劉表様の配下である、文聘と申します。 主君の名により、あなた方を出迎えに参りました」

河で鍛えたのだろうか。かなり筋骨逞しい雰囲気のある男である。劉備は丁寧に応じながら、話を進めていた。

これからは、荊州に移動することになる。

そして、十万とも十五万とも言われる兵力を保有する荊州の大軍閥、劉表の世話になる。

此処から、劉備がどう動くのか、陳到にはまだ分からない。

だが、一つ分かっていることは。

まだまだ、状況は予断を許さないと言うことだ。

 

4、河北が向かう先

 

多少の損害は出したが、汝南を完全制圧し、後方の憂いを完璧に取り除いた曹操は、許昌に堂々と帰還した。

袁紹との二度にわたる死闘で大きな被害は出したが、それでも後方の憂いが纏めて消えて無くなったのは大きい。後方に巨大な安全圏が出来たことで、軍事の振り分けを偏らせることが出来、一気に経済を発展させることが出来る。

かって、袁紹が河北で実行しかけたことを、この瞬間、曹操は実現していた。

後は、わざと前線から兵を引いて、袁紹の馬鹿息子達が、殺し合うようにし向けてやればよい。

河北の総合的な軍事力はまだまだ曹操を凌いでいるが、同士討ちで殺し合えば、実に簡単に落とすことが出来るだろう。

許昌の屋敷にはいると、使用人達が曹操を出迎えた。

早速風呂にはいることにして、準備をさせる。息子達はどうしたかと思って呼んでみると、曹丕と曹彰はいるが、曹植はいない。辺りを見回すが、隠れている様子もなかった。

「植はどうした」

陰気にあたまを下げた曹丕に変わって、兄の顔色を伺うようにして、曹彰が説明する。

「実は数日前に、兄上と喧嘩をして、屋敷を飛び出しまして。 今は幼なじみの揚修の所に行っています」

「すぐに呼び戻せ」

「はい。 直ちに」

「いや、お前が行くとややこしくなる。 ……もうよい。 後は余がやる」

あたまを下げた曹丕達を下がらせる。手を叩いて、呼んだのは賈?(ク)である。賈?(ク)には曹丕の教育係も任せている。

風呂にはいるのが遅れてしまう。背を伸ばすあの器具は、風呂でやると効果抜群な気がするのだ。だからすぐに風呂に入りたいのだが、こういう時は政務を優先しなければならないのが面倒くさい。

いらいらと歩き回りながら、侍従に器具を風呂に運んだか聞く。それはもうと侍従が言ったので、少し安心した。

「曹操様。 賈?(ク)にございます」

「おう、やっと来たか」

「曹植さまの事にございますか」

「その通りだ。 このままでは、余の家も袁紹の所と、同じ結果になりかねん。 何か、良い策はないのか」

賈?(ク)は、相変わらず優しそうな笑顔を浮かべていたが、やがて出した結論は、曹操も青ざめるほどの代物であった。

「早めに跡継ぎを決められないのであれば、曹植様を粛正するしか無いでしょう。 殺さないにしても、僻地に遠ざけるくらいの工夫は必要だと思います」

「な、それは確かにそうだが」

「このままだと、曹丕様と曹植様の諍いは、曹操様の死後、国を二つに割るほどのものとなりましょう。 兄弟が仲良く暮らせるなどと言うものは幻想です。 曹操様のように、側室を多く抱えて子をたくさん作られれば、性格が違う子供も多く出てくるものです」

「そうなれば、どうしても致命的に相性が悪い兄弟が現れても、おかしくはない。 そういうわけか」

御意と、賈?(ク)はあたまを下げる。

他の謀臣に話を聞いても、同じ答えを出すだろう。腕組みした曹操は、大きく歎息した。

「分かった。 今の内に、曹丕を跡継ぎとして指名しておこう。 曹植には、その上で言って聞かせれば、殺さずに済むかも知れん」

「ご賢明な判断にございます」

曹操は大きく歎息すると、賈?(ク)に跡を任せて、曹植を呼ばせることとした。

袁紹の気持ちが、いつになくよく分かった。

そして、彼も自分と同じ人間であり、悩みも苦しみもしたと言うことも。

曹操は風呂にはいると、これからの事を思う。

兄弟げんかにつけ込んで、河北を奪い取らなければならない。そして、息子達の兄弟げんかを止めさせるためにも、早めに跡継ぎを決めなければならない。

どちらも憂鬱な、難作業であった。

 

(続)