雄星落つる前の輝き
序、官都前哨戦
曹操は、顔良の陣をじっくりと検分した。従えている張遼は、その様子を興味深そうに見つめていた。楽進は最前線で戦闘の準備を整え続けているし、韓浩は周囲を見回って、どう屯田すればよいか考えている様子だ。
いずれもが、主体的に自分のやるべき事をしている。曹操は彼らの動きを見て、充分に満足した。
更に彼を満足させたのは、愛馬に積んでいる新しい鞍だ。何とこの鞍は、曹操の背丈を更に高く見せる効果があるのだ。多分最近少し背が伸びたに違いないと考えている曹操としては、この鞍は嬉しい発掘だった。実際乗ってみて、これほど気分が良い鞍は他にない。家臣達が自分を見る目が、楽しくて仕方がなかった。
「ところで、曹操様」
「何かな、徐晃」
「その変な鞍、いつも思っていたのですが、乗りづらくありませぬか」
「馬鹿を言うな。 これほど余にあった鞍は他にないわ」
徐晃の発言を一蹴。背が高く見えることを嫉妬したのだろうと好意的に解釈して、そのまま曹操は敵陣の検分を続けた。
一通り見終わった後、大いに頷く。
「見事な陣よ。 袁紹などに仕えたのが、本当に惜しい男だ」
「手強い敵です」
「引き抜くことは、やはり難しいか」
「難しいでしょう。 苦楽を共にした主君です。 千金を積もうが、袁紹を裏切ることはないでしょう」
張遼が言う。
彼にしても、呂布を裏切ったのは、様々なのっぴきならない事情があったからだ。袁紹は最近耄碌してきているようだが、しかし悪逆ではないし、部下達を思いやる優しさも持っている。
欠点が無く、全体的に優れているのが袁紹だ。曹操ほどの器は無いかも知れないが、しかし決して凡百に劣る君主ではない。英雄の中でも、一つぬきんでた才と知略と勇気を持つ、時代を代表する人間の一人であることは間違いない所であった。
顔良は、其処に惚れ込んだ。苦楽を共にして、生きてきた。
だから、今、強大な壁として、曹操に立ちふさがっている。
「うむ。 やむを得ぬか」
「しかし、どうなさるつもりですか。 顔良は武勇も優れていて、そう簡単に仕留められる相手ではありませぬ」
「分かっている。 だから、関羽よ。 そなたの出番という訳だ」
関羽はむっつりと頷く。
曹操はもう一度敵陣を見据える。顔良は確かに強いという話だ。だが、関羽と張飛に比べればどうか。
呂布亡き後、間違いなく最強と呼べる武人は、この二人のどちらかだろう。許?(チョ)が育てば分からないが、今現在、二人に対抗できる武人を揃えるのはとても難しい。顔良と文醜が二人がかりなら或いは分からないが、一対一であれば。
後は、顔良と関羽の間に、道を造ってやれば良い。
「ふむ、策が決まった」
曹操が手を叩く。謀臣達が集まってきた。
彼らに策を披露すると、半分は驚き、もう半分は呆れた。
「酷い策ですな」
「だが、だからこそに効果的だ」
にやりと曹操は程cに返すと、馬首を返して、自軍陣地へと向かった。
既に曹操が来たことは、暗黙の了解になっている。細作がいなくても、敵が察知するのは時間の問題だろう。
袁紹は本隊を引き連れて渡河作戦の準備を進めているはずだが、曹操の倍という大軍勢だ。どうしても準備には時間を取られる。曹操の本隊もまだ到着には時間が掛かるが、それはそれである。
今は、手持ちの戦力で顔良だけを潰せれば、それでよい。
陣に戻ると、曹操は参謀達に、作戦の詳細を詰めさせる。勝負は、今晩であった。
顔良は言いしれぬ不安を感じて、天幕の中を歩き回っていた。
世間がどういっているかは知らないが、顔良は歴戦の勇者である。故に、戦場の勘は持っているし、危険を避ける力もまたしかり。しばらく天幕の中を歩き回っていると、部下が飛び込んできた。
「ご注進です、顔良将軍」
「どうした」
「敵がおかしな動きを始めています」
詳細を聞く前に、顔良は天幕を飛び出す。そして猿のように櫓に這い上がった。この辺り、歴戦を重ねているだけのことはある。未だ身体能力に衰えはなく、そればかりか磨き抜かれてさえいる。
櫓の上から敵陣を見渡す。そうすると、慌ただしく上がる炊煙が見えた。攻撃を仕掛けて来るつもりと言うことだ。
それに、不可解なことがある。前面に展開している敵は三万程度の筈だが、その内の約二万が陣を出て、此方に向けて兵を揃えているのだ。
櫓を降りると、顔良は諸将を集めた。作戦会議をしなければならないだろう。即席で、だ。
大軍の場合、こういう時に後手に回らざるを得ないのが面倒である。顔良自身は、少数の精鋭を率いて戦うのが、やはり性に合っていた。
最初に声を挙げたのは、郭図だった。
「なんだあれは。 どういうつもりだ」
「此方は十万。 堂々と構えていれば良いではないですか」
応えたのは審配。二人とも、袁紹軍の重鎮だが、顔良はあまり好いていなかった。権力闘争に熱心な連中であり、また戦略の視野も狭かったからだ。ただし、戦術の手腕はなかなか二人とも優れている。
二人は顔良に付けられている両翼である。両翼だが、決して仲がよいとは言えない。頭の痛い話であった。
「劉備殿はどう思われる」
不意に話を振ったのは高覧だった。若い将だが、張?(コウ)と並んで、顔良が一目おく男である。
袁紹軍の将達も、一斉に劉備を見た。
皆、劉備を間近で見て、その能力の高さは知っている。戦場を知らない文官の中には、戦下手とかほざく輩もいるようだが、とんでもない話である。充分に一流に入る用兵を行う男だ。一目置かざるを得ない。
「そうですな。 私としては、本隊の到着を待つべきかと思います」
「それはまた、随分消極的な話ですな」
「曹操は策略の名人で、しかも彼の側には中華でも最強を謳われる細作の林がついています。 どれだけ慎重に事を進めても、臆病と言うことはないでしょう。 今は大将軍の本隊を待ち、補給を整えてから、一気に敵を押しつぶすべきでは」
顔良の意思と、その意見は一致した。流石に劉備。歴戦の武将である。
しかし、他の将達は、こぞって反対した。特に郭図は絶対反対の姿勢を、終始崩さなかった。
元々郭図は文官上がりで、能力を買われて武官に転身した男である。優秀だが、机上の理論を重要視しすぎるきらいがあって、顔良も時々変な古書からの引用をして来るので辟易していた。学問が無いので、反論できないからである。
「これだけの戦力があるのです。 堂々と構えて入れば、三分の一の敵は勝手に崩れること疑いありません」
「本当に三分の一なのでしょうか」
「劉備殿、それはどういう事か」
「炊煙が不自然です。 実は密かに増強が続けられていたという可能性は」
「それこそ、曹操の得意な詐術でしょう。 恐るるには足りません」
そうだそうだと、郭図と閥を同じとする連中が唱和した。このままだと、連中だけで勝手に出撃しかねない。
それも手の一つかと思った顔良だが、咳払いした。
やはり、袁紹から借りている大事な兵士達を、無為に死なせる訳にはいかなかった。
「良し、出る」
「そう来なくては」
「正し、兵力は五万。 劉備殿のいうように、敵は兵数を誤魔化している可能性があるから、様子を見る。 一当てして、敵の戦力を見極めてから引く。 本格的な交戦は其処からだ」
郭図は不満そうだが引き下がった。審配はにやにやしながら、事の推移を見守っていた。この男、戦場での能力と袁紹に対する忠義は確かなのだが、同僚達とそりが合わないこと著しすぎる。困った話であった。
兎に角、部下を纏めると、顔良は陣を出た。劉備を残したのは、いざというときの冷静な判断を期待してのことだ。張?(コウ)を付けておいたから、多分監視が甘くなることはないだろう。
五万の兵は凸字陣を組んだまま、ゆっくり前進する。
曹操軍は全く動かない。しかし、距離が二百歩を切った瞬間。
突然、銅鑼を叩き鳴らし、全力で突進を開始した。
面食らった顔良だが、すぐに応戦させる。膨大な矢を敵陣に放たせるが、敵も当然撃ち返してきた。射撃戦が続く中、不意に敵の後方、野戦陣から一軍が飛び出した。千五百ほどだろうか。
「あれは、騎馬隊か」
「たかが知れた小勢です。 放っておきましょう」
「たわけ、あの動きを見ろ! 鳥丸の精鋭騎兵にも劣らぬ! 楽進か張繍の精鋭騎兵部隊だろう。 備えよ! 陣に食い込まれたら、一気に蹂躙されるぞ!」
まるで蛇のように鋭い動きを見せながら、左翼に騎馬隊が回り込んでくる。同時に正面の敵部隊は、凸字陣に一瞬で陣形を再編すると、目を剥く顔良軍に全力での突撃を開始した。
一瞬の判断の遅れ。
しかし、敵にはそれで充分だった。
前衛が接触し、崩されかける。更に急激に方向転換した騎馬隊が、その乱れに食い込んできて、一気に陣を噛み破った。
だが、流石に顔良も歴戦の将ではない。最精鋭を率いて前線に出ると、声をからして部下達を叱咤した。
「崩れるな! 我此処にあり!」
「顔良将軍だ!」
部下達が沸き立ち、一気に押し返しに掛かる。敵の騎馬隊を揉み出すようにして陣からたたき出すと、攻勢を掛けてきた敵の正面に、猛烈な反撃を浴びせた。顔良は正面に立つと、敵将に一騎打ちを挑む。徐晃であった。
冷静な若武者だと聞いていたが、随分前まで出てきている。首は貰ったと、顔良は叫んだ。
「徐晃将軍か! 覚悟!」
「おおっ! 顔良将軍、お相手いたす! 掛かってきませい!」
「その心意気や良し! 行くぞ!」
激しい一撃を、大上段から叩きつける。
互いに、武器は長柄の大斧。二合、三合、激しい火花を散らして、二人の武将は戦い会う。だが、七合を超えた辺りから、徐晃の斧が乱れ始める。
顔良の経験が、徐晃の才能を上回っているのだ。激しいぶつかり合いの中、それでも汗をとばして、徐晃は顔良の滝のような猛攻を凌ぐ。鋭い一撃が降ってくるが、斧を盾にして防いだ。顔良は舌打ちすると、馬を体当たりさせる。組み討ちに持ち込もうとする態勢だが、徐晃は乗らなかった。手綱を見事に捌いて、致命的な一撃を避けきってみせる。徐晃が押されていたが、即座に討ち取られるという程でもない。やがて馬首を巡らせ、不意に撤退に移った。顔良は冷静に周囲を見て、曹操軍が妙な動きをしていないことを確認。味方が追いついてくるのを待ってから、追撃に移った。
曹操軍は押しまくられて、三里も下がった。野戦陣まで追い込まれ、戸を閉ざして逃げ込んだ。しばらく顔良は陣の周囲を見て回ったが、敵の一部が背後に回り込んでいる様子もない。
しばしして、顔良は撤退を決めた。
「良し、一度引く」
「顔良将軍!」
「かまわぬ。 敵にそれなりの損害は与えた。 そして、敵は此方より少ない。 損害が出れば出るほど、力の差は開くのだ」
不満げに言う郭図を押さえ込むと、顔良は兵に退却の銅鑼を鳴らせた。もちろん、油断をしていない。最後衛に自身の親衛隊を置いて、油断無く敵の追撃に備えている。撤退開始して、しばらくしてから。
ようやく、自軍の陣が見えてきた。もちろん、陥落している様子など無い。
「今日は我が軍の勝ちだったようですな」
「最後まで油断するな」
「東より敵影!」
そら来たと、顔良が思った瞬間。自陣から盛大に火が上がる。更に、東より、今までとは比較にならない圧力で、敵の騎兵が攻め込んできた。
陣の方は、劉備らに任せるしかない。それにしても追撃してくるならともかく、いきなり横っ腹から来るとは。ひょっとすると、今日の戦自体、この部隊を隠密起動させるための囮だったのかも知れない。
「ひるむな! 迎撃だ! 弓隊、敵を近づけさせるな!」
冷静に迎撃の指示を出した顔良は、秩序を取り戻した味方が、弓隊を並べるのを見た。しかし、その瞬間。
最後衛にいた顔良と親衛隊は、孤立していたのだ。
赤い馬に乗って、接近して来る騎馬武者が一人。言いしれぬ予感を感じた顔良は、部下を叱咤。
「備えさせよ!」
「敵はたかが一騎ですが?」
「いやな予感がする! 絶対に、近づけ……何ッ!?」
騎兵が、突然。神速の加速を見せたのだ。
あの赤い馬は、まさか。
そして、それに跨る、やたら大きな騎馬武者は。長い髭が、風にたなびいているのが見えてくる。
顔良は、絶叫していた。
「いかん、周囲を固めよ! 諸将は散れッ!」
「な、何事ですか!」
「あれは関羽だ! 天下無双の武者である事を忘れたか! まともに当たっても、死骸を増やすだけだぞ!」
蒼白になった郭図が、転がるようにして逃げ始める。審配もそれと一緒に下がらせた。撤退戦の指揮を執らせるためだ。高覧にも下がらせ、どうにか軍の壊滅だけは避ける。そして自身は、少しでも関羽を食い止めるべく、密集隊形を作るように味方に指示を出す。しかし、指示が行き届く前に、加速した時は致命的な段階にまで進んでいた。
顔は棗のごとしと言われる関羽が、すぐ側まで迫ってきていた。馬上で手にしている巨大な青龍円月刀が、ぎらぎらと光っているのが見える。
もう少し陣の内側にいれば、流石の関羽も、顔良まで届かなかっただろう。だが曹操は恐らく、顔良の性格を全て読み切った上で、その陣容を戦いながら操作できるように動いてきたのだ。
関羽が、ついに乗り込んできた。
槍を揃えて迎撃に掛かる雑兵達が、片っ端から斬り倒される。水車のように振り回される青龍円月刀が、兵士達をなますのように切り裂き、首を空へ舞い上げた。呂布の威容ほどではないが、それに近い。見る間に、関羽は迫ってくる。
「顔良!」
関羽が吠え猛った。兵士達が蒼白になり、硬直してしまう。それでも立ち向かおうとする勇気のある僅かな兵士達を無常に踏み砕きながら、関羽が迫ってくる。
「何処だ! 何処にいる!」
「将軍!お逃げください!」
「部隊の再編が先だ! そなたも、指示通り、さっさと味方を逃がせ!」
高覧の尻を叩くようにして、他の将の後を追わせる。見たところ、どうにか味方は秩序を保ちながら後退を続けている。これで、敗北はしても、壊滅は避けることが出来ることだろう。
殺気。
振り返ると、関羽が青龍円月刀を振るい、血を落としていた。
その圧力、とてもではないが、抵抗できる代物ではない。顔良も腕には自信があるが、しかし。一対一で、とても勝てる相手ではなかった。
「見事だ。 この状況で、良くも味方の壊滅を食い止めたな」
「その馬が何だかは分からないが、逃げ切れそうにもなかったからな。 一つ、面白いことを教えておこう、関羽」
大上段に、斧を構える。
せめて、一太刀は浴びせて、味方が逃げる時間を稼がなければならない。
だから、最初から、相打ち狙いで行く。
「劉備は、我が軍にいるぞ」
「そうか。 だが、それでも私は、お前を討たなければならん。 曹操どのには、兄者の妻子の面倒を見てくれた恩がある。 それを返さなければならぬからな」
それ以上、言葉は必要なかった。
そして、恐らく、関羽の手に掛かる袁紹軍の将は、自分一人で済む。そう思えば、少しは気も楽になった。
「行くぞ!」
「参れ!」
馬腹を蹴り、顔良と関羽は同時に加速した。
振り下ろした斧を、中途で迎撃される。一撃で、何という重みか。顔良が、斜め下から、関羽の首を刎ねようと斧を振るい上げた瞬間。
巨大な青龍円月刀の刃が。
顔良の首を、既に空に舞い上げていた。
顔良の首を拾って悠々と帰還した関羽を、満面の笑みで曹操は迎えた。その耳に、駆け寄った伝令が何か囁く。すると、曹操は見る間に蒼白になった。
「関羽将軍、見事であった。 敵は一時撤退した。 味方も少し下がらせて、軍の再編を行う予定だ」
「曹操どの。 実は」
「関羽将軍には、許昌に戻っていただきたい。 余も、陣の再編成を済ませたら、また一度許昌へ戻るでな」
会話を強引に切ると、曹操は己の天幕に引き上げていった。
関羽は血だらけの手を布で拭くと、大きく歎息する。劉備の立場はこれできっと悪くなるだろう。しかし、それでも、義に生きる以上、恩は返さなければならなかった。
袁紹軍は被害を最小限に抑えて、撤退。曹操軍は増強しながら、しかし一時後退し、此方も再編成に移った。関羽は一度許昌に戻され、曹操も少し遅れて許昌に戻ってきた。また、静かな、だが何時発火してもおかしくないにらみ合いが始まった。
1、汝南再起
汝南。
山深いこの土地の中で、今急速に勢力を拡大しつつあったのが、劉備から地盤の構築を任され、軍の整備を頼まれた陳到であった。
山の中に作られた要塞は確実に大きくなり、急速に設備を充実させている。陳到は毎日彼方此方を駆け回っては兵士達を監督し、訓練を続け、戦いの準備を整えていた。劉備の軍の名が知れ渡ると、集まってくるあぶれ者や、志願してくる兵士も現れ始め。今は、六千五百まで、兵は増えていた。
兵力を増やすだけではない。陳到は着実に兵を整えつつも、劉備との連絡を取ろうと試み続けていた。
少し前に、シャネスの部下が何人か、纏めて汝南に来た。徐州が落ちた時、軍の被害は最小限に済ませることが出来たが、シャネスの率いる細作達は文字通り壊滅してしまった。だから、少しでも生き残りがいたのは、嬉しい話であった。
彼らの話によると、シャネスは林と直接戦ったという。それならば残念だが、生きている可能性は低いと言わざるを得ない。それに、傷ついている所を悪いのだが、早速シャネスの部下達にも働いて貰わなければならなかった。
陳到は彼らを半分に分けた。
傷が浅い者は、そのまま細作として活動して貰う。最も優先する行動は、なんといっても劉備の捜索である。どうも袁紹の所に逃れた可能性が高いようなので、そちらを調べて貰う事になる。場合によっては、羊の組織との連携を取る必要もあるだろう。
もう一つは、細作の育成である。此方は傷が深く、もう戦場に立てないような者達を当てた。
元山賊だった連中には、闇の中を駆け回る方が、槍を揃えて敵に立ち向かうよりも得意な者もいる。そう言った者達の素質を見極めさせては、陳到は訓練させ、失った戦力を少しでも補填しようとしていた。
既に劉備軍の幹部は、あらかた汝南に集結している。後集まっていないのは、孫乾と、張飛くらいである。公孫賛の所から来てくれた趙雲はとても頼りになる武勇の持ち主であるし、加わってくれた兵卒の中には優れた武人も少なくない。中でも、最近まで山賊をしていたという王甫という男は、既に中年だが、ずば抜けた武芸を持ち、すぐに一線で活躍してくれそうだった。周囲の山賊達が、これほどの男だというのに見たことがないとほざくのが気になるのだが、まあそれは別に良い。有能ならば、気にすることではなかった。今は猫の手でも借りたいのだから。
やることが多すぎて、陳到は充実していたが、しかし疲労も酷かった。妻はこの間叱ってから、黙々と妻としての責任を果たしてくれるようになったので、少しは負担も減ったが。それだけではどうにもならない部分も多かった。
肩を叩く。
年のせいか、肩こりが酷い。娘が揉んでくれたのだが、力が弱いので、あまり効果はなかった。気持ちだけ、受け取っておく。
最近、老け込み方が早くなってきているような気がする。
趙雲が連れてきたジャヤとい小娘と弓を競ったのだが、短時間で相手が成長するのに、思わず目を見張ってしまった。昔だったら、卓越した相手の技に驚くことはあっても、成長に度肝を抜かれることはなかった。
それを思うと、奮起せざるを得ない。
訓練場に出ると、兵士達が集まっていた。趙雲が見込みのありそうな若者達に、槍の使い方を教えている。王甫はその隣で、長刀を振るっていた。そう言えばこの男、現れた時やたら立派な長刀を持っていた。家伝の品だという話だが、それにしても妙な話であった。
ジャヤが弓を引いている。それを見ると、力が湧いてきた。
疲れているのは分かるが、努力だ。昔から、努力を重ねることで、陳到はようやく周囲の将達と肩を並べてきた。張飛や関羽に努力で及ぶとは思わないが、一兵卒に負けるようでは、軍を率いることなど出来ない。
だから、ジャヤと並んで、訓練を始めた。
兵士達が固唾を飲んで見守る中、交互に矢を放っていく。ジャヤはやがて、口を尖らせて怒った。
「どうしてだ。 どうして追いつけない。 私は、決して手など抜いていないし、努力もしているぞ」
「こ、こらジャヤ! 陳到どの、失礼いたした」
「いや、よい。 なぜ追いつけないか。 それは、私が、お前以上に努力を続けているからだ」
むうっと膨れて、長弓をジャヤが引く。
鳥丸の出身らしいのだが、かなり腕力が強い。弓の腕前に限れば、一般の兵士よりもかなり出来る。
矢をジャヤが離すと、ストンといい音を立てて、的の中心に命中。的まで四十歩離れているから、かなりの進歩だ。更にもう一矢。今度は、的の中心から、二寸ほど離れた場所に当たった。
今度は陳到が矢を引く。
以前よりかなり腕が上がっている。四十歩なら百発百中の所まで来ている。しかし、ここからが加速度的に難しくなる。百歩離れて的に百発百中だった呂布が如何に桁違いの怪物だったかは、自分で弓を鍛錬してみればよく分かった。
連続して、的の中心に矢が当たるのを見て、兵士達が興奮した声を挙げた。元が山賊上がりの者も多い。こうやって技を見せておかないと、侮られる危険がある。弓を下ろすと、肩を少し動かして、体内の筋肉を調整した。やっぱりジャヤは口を尖らせる。
「まだ努力が足りないのか。 悔しい」
「それほど努力してどうする。 私は必要だからしているだけだ」
「私だってそうだ。 子龍はもっと腕を上げないと、私を妻として認めてくれないだろうからな」
ジャヤが放った矢は、少し外れて、後ろの薪藁に突き刺さった。
兵士達がにやにやしている中、趙雲は少しうんざりした様子で、槍を振るう速度を速めている。嫌がっているようには見えないから、むしろ困った末の照れ隠しなのだろう。意外と不器用な男である。
訓練を終えると、机上での作業が待っている。糜兄弟にも任せているのだが、それを全てという訳にはいかない。重要な決済は全部陳到でやらなければならないし、何よりも判断が難しい事も多い。文官達を集めて夜中まで会議になることも多く、訓練を趙雲に任せっきりにしてしまうことも多かった。結果、負けたくないので、訓練の残りは夜中にやる事になる。疲れる訳だった。
書類等の整理を終えると、大きく伸びをする。
自室で転がろうかと思ったが、まだ子供相手に負けたくないから、弓の修行をすることにした。ただし疲労が酷いのも確かなので、山で取ってきた桃を煮詰めたものを口にする。とても甘いので、疲労が一気に吹っ飛ぶのだ。
しばらく無心に桃を噛んでいると、外で喚声が上がった。
何かあったのかと、弓を手に出る。多くの兵士達が喜びの声を挙げる中、立っていた男は。
張飛だった。
「おお、張飛将軍」
「陳到か! おお、みなも無事で! 良かった、良かった!」
乞食のようにみすぼらしい格好だった張飛は、陳到を見ると男泣きしながら抱きついてきた。締め潰されて折りたたまれるかと思ったが、我慢して笑顔を浮かべる。しばし泣いていた張飛は、目を擦りながら事情を話してくれた。
小沛を守っていた張飛は、最初予定通り、西に一旦出てから、汝南に向かう予定だったのだという。
しかし曹操軍の動きが急で、ことごとく退路を防がれてしまった。徐州は曹操軍が作った繋ぎ狼煙の仕組みで、とても通れる場所ではなくなっているのだという。
酒が飲みたいと言ったので、陳到は今日の修練を諦めて、趙雲や、他の幹部達を誘って奥の部屋に。本当はあまりよろしくないのだが、今日は張飛が帰ってきた事もあるから、お祝いだ。
今砦にいる面々は殆ど酒をたしなむこともないし、備蓄も元々無い。今ある分は、皆で米を発酵させて作り上げた酒で、兎に角度数が低い。その代わりとても甘いので、最近溜まっていた疲れを取るには丁度良かった。
「孫乾どのは見かけませんでしたか」
「彼奴は徐州に潜伏して、少しずつ南下してみると言っていた。 顔も利くようだし、そろそろ来られるんじゃねえかな。 それにしても、陳到。 おめえすげえな。 俺だったら、此処まで緻密に、汝南での勢力を強化できなかっただろうよ」
「光栄です」
「これからも、俺はお前のやり方に口はださねえ。 軍を率いるのだけは俺がやってもいいけど、特に砦の方は全部任せたいんだが、いいか」
陳到としても、それは嬉しい話だ。
軍を率いることに関しては、張飛が行う方がずっと良い。用兵は張飛の方が遙かに陳到よりも上だし、何よりこの地でも上から数えた方が早い猛将だ。兵士達の士気も変わってくるし、敵の戦意もそれだけ鈍る。
そして、陳到自身の負担も、それだけ減るのだ。言うことはなかった。
「めでたい。 薄い酒だが、もっと良いのはないのか」
「一樽だけ、国譲が送ってくれたものが。 ただ、これは関羽どのと、殿が揃ってから飲みましょう」
「ああ。 関羽の兄貴も、追い詰められて曹操に降伏したとか言う話を聞いたが、多分何かの理由があるんだろう。 劉備兄貴がここに来れば、きっと駆けつけてくるはずだ」
張飛の、関羽に対する信頼が伺える言葉だった。この一見粗雑な男が、劉備の前では口数が減ったり、義兄弟達を信頼していたり、とても繊細な心遣いを出来る一面を持つことを、陳到は知っている。
薄い酒だから、酔うこともなかった。
ただし、ぐっすり眠ることが出来た。
翌日から、軍の編成は張飛に、訓練は趙雲に任せる事にしたから、陳到の負担はかなり減ることになった。
黙々と兵の整備と兵糧の確保、それに各地との情報接続を続ける。後は外交の名人である孫乾と、細作の長であるシャネスが揃えば、ある程度の行動が可能になってくる。今、許昌にいるらしいという噂のある関羽とも、連絡が取れるかも知れない。
張飛が来たという話を聞くと、汝南南部に分散していた黄巾党残党は、こぞって集まってきた。彼らは豊富な兵糧を持っていたから、補給に関しては気にする必要が無くなったのも事実である。
ただし、もし曹操が急襲を仕掛けてきたら、持ちこたえられないのも事実である。
そこで、陳到は闇夜に乗じて、備蓄分の兵糧の幾らかを、南部の山岳地帯、黄巾党の残党達が寄っていた幾つかの拠点に移した。此処は荊州にも近く、地盤としては申し分のない場所である。攻めるのも難しく、逆に守るのはとてもたやすい土地でもあった。
張飛の配下の兵士達と、それに警戒が厳しくて辿り着くことが出来なかった者達も、続々と集まり始めていた。その中には、じっくり時間を掛けて此処まで来た孫乾も混じっていたので、これでようやく外交が出来る状態が整ったとも言える。
兵はいつのまにか八千を超えていた。
充分に一群雄としての力が、汝南南部に整いつつあった。
闇を駆けるシャネスは、時々痛む体を叱咤しながら、許昌の関羽宅を目指していた。
林は今、河北に掛かりっきりであると、複数筋からの情報を得ている。部下達の内、生き残りは皆汝南に向かわせたから、支援は一切期待できない。ましてや今の許昌には、曹操に対する反対勢力も存在していないのだ。董承の一件以来、根こそぎにされてしまっていて、もはや曹操の一族配下以外に、住む場所のない都であった。
それが故に非常に夜は治安が良く、逆にそのため兵士達も油断している。闇を駆けるシャネスは、あまり殺気を感じることもなく、進むことが出来ていた。
やがて、見つける。
関羽の屋敷の周囲は、流石に警備が厳重である。曹操としても、関羽が暗殺されることではなく。関羽が外に情報を発信することを、恐れているのだろう。そうシャネスは見て取った。
しばし様子を伺って、敵の隙を確認する。
兵士達は三交代で見張りをしているらしく、油断も少ない。この辺りは流石に曹操軍である。他で緩んでいる場所があっても、精鋭はその名が相応しい練度をきちんと維持しているという訳だ。
ましてや、今は河北といつまた戦闘が開始されてもおかしくない状況である。警戒するのは当然であった。
近くに廃屋を見つけたので、其処を拠点に。一日がかりで、じっくり中の様子を伺う。林配下の細作も少しはいるようだが、いずれもシャネスで充分に手に負える相手ばかりだ。むしろ、この軟禁同然の状態で、甘夫人の状況が気になって仕方がない。
一晩待って、警備の状況を把握した。
一眠りした後、行動開始。布を噛んで、息が漏れないようにした後、兵士達の警戒が薄い南側に回り込む。
高い塀が聳え立っている南側は、確かに一見すると隙がない。しかしながら、そう言った所にこそ、むしろ隙があるものなのだ。
鈎縄を取り出すと、塀に引っかける。音がしないように工夫してある品である。壁を蹴って、するりと登り上がる。一連の作業を終えるまで、瞬き二つほども掛からなかった。だが、これでも。まだ奴には届かない。
塀を内側に降りると、兵士の気配はなくなった。
庭石や木に隠れながら、奥へ。
夜泣きの声がする。多分、甘夫人の産んだ娘だろう。産後の肥立ちが悪かったらしく、関羽は彼女を庇って捕らえられた。その分、後の世では活躍してくれれば良い。関羽としても、そう望んでいるだろう。
甘夫人に挨拶している暇はない。
屋根に上がったシャネスは、周囲を見回す。闇の中、気配は無し。
関羽はまだ寝ていない様子だ。母屋に向かう。
もし、この場に林がいたら。そう思うと、冷や汗も流れる。
しかし、奴はいない。
そう言い聞かせながら、母屋の側に。がらがらと窓が開いて、無愛想な顔の、関羽が顔を出した。
「久しいな、シャネス」
「気付いていたのなら、もっと早くに声を掛けてくれても良いではないか」
「相変わらずの物言いだな。 兎に角、生きていてくれて良かった」
中にはいるように促されたので、そのまま窓枠を飛び越える。一応、誰にも見られてはいない。
関羽は小さな明かりを頼りに、書物を読んでいた様子であった。かなり古い竹簡で、何度も読み直したのが一目で分かる。よく見ると、春秋左史伝であった。
「此処に来たと言うことは、義兄上が生きていたと言うことか」
「何だ、知らなかったのか。 袁紹軍に世話になっている。 もっとも、立場がかなり微妙なようだが」
「いや、実は知ってはいた。 だが、確信が持てない状況であったのでな」
既に河北に潜り込み、劉備の様子は確認済みである。
顔良を失った袁紹軍は、文醜を先鋒に据えて、陣を整え直していた。曹操軍は少し後退して、攻撃を誘う態勢を見せており、にらみ合いが続いている。文醜の周囲にいる文官や参謀達が、揃って顔良の仇を討とうと叫んでいる文醜を抑えているようだった。
「そうか。 それは、文醜は既に死んだようなものだな」
「気の毒に。 貴方や、張飛だって、同じ状況になれば狂乱するのではないか」
「それは、そうだろうな。 そう言われてみれば、確かに哀れな話だ」
「貴方は……」
少し前からシャネスは感じていた。
関羽は、大きくなりすぎたのかも知れない。確かに義人としてこの大陸に名を知られ、武勇でも並ぶ者は数えるほどしかいない男。そして、一軍を率いて戦っても、その戦闘能力はぬきんでている。
しかし、いつからか、関羽は傲慢になり始めていた。
親しい相手に対しては、別に構わない。甘夫人にも優しく接しているようだし、劉備や張飛を思いやる心も本物だ。
しかし、それ以外には、どうか。
まるで虎のように構えているように、シャネスには思えていた。
「早死にしそうだ、貴方は」
「どういう意味だ」
「言葉通りの意味だ。 あまり他人を侮るな」
「これは、まさか二回りも年下の子供に、そんな事を言われるとは思わなかったわ」
関羽は少し意地の悪い笑い方をした。
咳払いすると、シャネスは本題にはいる。今まで、目的もなくぶらぶらしていた訳ではない。
汝南にも足を運ばず、駆け回っていたのは。目的があってのことだ。
「劉備将軍からの、伝令だ」
「何だ」
「河北を抑えるのは難しそうだと言うことだ。 劉備将軍を警戒している勢力が多く、袁紹も疑っている。 中枢に潜り込んで、跡目を抑えるのは無理だろうと仰っていた」
「ふむ、そうか。 河北にもそれなりに出来る者は多いと言うことだな」
河北の強大な勢力を抑えれば、曹操と対抗できる。
それに、河北には、劉備の知人である勢力も少なくはないのだ。今より遙かに楽に、曹操と戦えることだろう。
しかし、それはどうも出来そうにない。
「そこで、汝南で合流したいという事だった」
「しかし、汝南では将来性がないぞ。 土地は豊かかも知れんが、曹操の勢力を防ぐには貧弱すぎる」
「分かっている。 だから、力を蓄えて、荊州に出るつもりらしい」
「ふむ、やはりそれしかないか」
関羽が頷く。シャネスは眼を細めて関羽を見つめた。この場にいない劉備が言ったとおりの行動をしている。この辺り、単純な義兄弟と言うよりも、遙かに深い絆を感じてしまう。
シャネスは、最後まで姉のことがよく分からなかった。
その行動原理も、それに思考回路も。実際の姉妹でさえそうなのだ。それなのに、家族以上の絆を作っている関羽と劉備を見ていると、羨ましいと思ってしまった。
「分かった。 曹操どのに受けた恩も、既に返した。 だから、機会を見て、汝南へ向かうことにする」
「しかし、曹操は貴方を手放すのか」
「場合によっては、敵を千人斬ったとしても帰る。 ただその場合、奥方とお嬢様は、そなたに頼むかも知れん」
甘夫人は既に充分回復し、外を歩けるほどになっている。それに、関羽と一緒に降伏した従者が五十人ほどいて、彼らを連れて行けば、それなりに周囲を守ることも可能だ。もちろん彼らの中に、劉備の下を離れる者はいない。それは劉備の持つ人間的魅力が如何に大きいかを示していた。
関羽の側を離れると、次は汝南に向かわなければならない。
シャネスは痛む傷と、疲れた体に鞭打って、関羽宅を離れ、許昌を跡にした。
後は、劉備が如何にして、河北を離れるか、だった。
再び官都が騒がしくなった。文醜が五万余の兵を率いて、前線に乗り出してきたからである。
義兄弟である顔良を討たれた文醜は、元から少なかった自制心を空の彼方にとばしてしまったようであった。要請を受け、新たに編成された二万の軍を追加して、およそ五万で戦場を訪れた曹操は、敵陣から迸る殺気を見て苦笑していた。
「これは、顔良の時よりも楽だな」
「どうやら、その様子にて」
「余が考えるまでもあるまい。 そなた達、作戦を立てよ」
曹操はそう言って、荀ケらに指揮を任せ、自身は天幕に引っ込んだ。顔良と文醜と田豊を殺せば、袁紹政権は崩壊する。その内顔良は既に果て、田豊に関しても、様々な策謀が進展している。
後は、文醜だ。
それにしても、袁紹は良く片腕を手放す気になったものだと、曹操は思った。後ろがごたごたしているとはいえ、自分が出てくれば良いものを。或いは、余計な進言をしている者がいるのか、それとも病気がそれだけ酷い状態なのかも知れない。
天幕で曹操は、いそいそと新しい靴を取り出して、履いた。これは背を高く見せるだけではなく、今までより更に歩く時の負担が小さい。今までの靴は走るのが少し難しかったのだが、今度のものは長時間でなければ、走ることもそう大変ではなかった。
しばし鏡に自分を映してご満悦になった曹操は、天幕を出る。ぼんやりと許?(チョ)が空を見ていた。
「どうした、虎痴」
「あ、雨が降りそうだなと思いましたので」
「ほう?」
空は晴れている。だが、許?(チョ)は何か感じたのかも知れなかった。
理由を聞いてみると、関節が不自然に痛むのだという。そういえば、そんな話はどこかで聞いた。
「それを荀ケらに伝えてやれ。 余の指示だと言うことも忘れるな」
「はい」
のてのてと歩いていく許?(チョ)を見送ると、曹操は自身、虎豹騎と名付けた精鋭部隊を引き連れて、少し小高い丘に上がった。
文醜軍五万余は、突撃型の錐陣を敷いていて、何か機会があれば突入してこようとしている。勢いは確かに凄まじく、作戦を誤れば味方の大損害は避けられない所だ。さて、荀ケらは、どんな作戦を立てていることか。
程なくして、早馬が来た。
大体曹操が予想したとおりの作戦を、荀ケは立てた。現在、袁紹軍の切り崩しを進めさせている郭嘉は後方だが、それでも充分である。曹操としても、文句のない作戦であった。ただ、もう少し捻りがあると面白かったなあとは思った。
まあ、文醜軍の勢いを殺すには、充分な作戦である。
それに、見たところ、敵は連携も取れていない。文醜という男は確かに勇猛で勇敢であると聞いているが、どうやら冷静な顔良とくんでこそ、その本領は発揮できた人物であるらしい。軍学にはかなっているが、それ以外見るべき所がない敵陣を検分する限り、そうとしか曹操には思えなかった。
「良し、文醜を討ち取れ」
冷徹な号令を降す。
曹操軍が、獲物を狩るべく、動き出した。
文醜は、軍の最前線で、大長刀を構えたまま、馬上で微動だにしなかった。
目は充血していて、心は殺意のみに埋め尽くされている。既に他の人間の言葉など、耳に入らない状態だった。
顔良。
我が兄よ。
何度も、呟いてしまう。
顔良と文醜は、同時期に袁紹に仕えた。二人とも、それほど優れた名門の出ではなく、家格は高くなかったが。しかし、袁紹によって引き立てて貰った。董卓が暴政を敷いていたころには、袁紹の専属として、その側を常に守った。
文醜は、自分の頭が悪いことを理解していた。
だから袁紹はいつも文醜の言葉に呆れていた。それを取りなしてくれたのは、いつも顔良だった。だから、顔良には、頭が上がらなかった。
苦楽をずっと共にしてきた。
北平からの撤退戦でも、怒濤のように追撃してくる公孫賛軍を、二人で迎え撃った。易京の巨大要塞も、二人で攻略するべく、必死に指揮をした。一緒の釜でいつも食事をしたし、最後まで袁紹に仕えようとも誓い合った。
それなのに。どうして先に逝ってしまったのだ。
敵陣をにらみ付ける。側に馬を寄せてきたのは、劉備であった。
「文醜将軍」
「なんだ、劉備殿か。 便所であれば、此処にはないぞ」
「貴方はいつも楽しいことを口に為されますな。 幸い便所に用はありません。 それよりも、軍を下げた方が良いかと思われます」
にらみ付けるが、劉備は笑顔を崩さない。他の将とこの男は違うと、この一事だけでもよく分かる。
「俺は、兄貴の仇を討たなければならない」
「分かっています。 しかし、顔良殿も、貴方が戦死されたら、悲しむでしょう」
「何だと」
「曹操軍は、貴方が攻撃を仕掛けてくることを恐らく察知しています。 此処は袁紹殿の本隊が来るまで、攻撃を控えて、敵の挑発に乗らないようにするのが肝心です」
よりにもよって、戦うなと言い出した。
文醜はぎりぎりと歯を噛んだ。周囲の兵士達が、さっと退いたのは、恐怖を感じたからだろう。
文醜の顔は鬼のようだと良く言われる。顔良も整った顔立ちとは言われなかったが、文醜のそれは更に凄い。それは戦士の証である。無数の向かい傷によって覆われた、戦う男の顔。もとより恐ろしいと言われていた文醜の顔は、それで更に凄みを増しているのだ。
だが、劉備は動じなかった。
配下に、伝説的な猛者がいるからかも知れない。
「もう一度提案します。 此処は、こらえてください」
「うぎぎぐぐ。 し、しかし、兄者は」
「袁紹将軍も、それを望んでおいででしょう。 そう仰っていたではないですか」
そう言われると、文醜は弱かった。
阿呆な自分を、武勇を理由に引き立ててくれた大恩人なのだ。顔良と一緒に、袁紹のために全てを擲とうと誓い合った相手。
しばし腕組みして、文醜は決めた。
「分かった。 出来るだけ、此処はおさえる」
「そうですか。 それはよいことです」
「ただし、曹操軍が攻撃を仕掛けてきたら、抑え切れん」
劉備は眉をひそめたが、拝礼して後方に下がっていった。
文醜も、陣を下げる。敵は、追撃してくる様子さえなかったが、それでも殺気を全軍に漲らせていた。
頭が悪いからか、文醜はその分勘が働く。
多分、曹操軍は仕掛けてくる。その時には、木っ端微塵に打ち砕いてやる。
鋭く尖った犬歯をかみしめ、文醜は誓う。必ず、義兄の敵を討つことを。
手の震えが止まらず難儀していた袁紹は、劉備からの早馬と聞いて、更に機嫌を悪くした。
恐らくは曹操の差し金らしい小規模な反乱が頻発しており、袁紹は迂闊に本拠から動けなかった。息子達は既に袁紹の死を規定のものとして蠢いており、権力闘争を加速させるばかりだった。
中でも三男は酷く、曹操を侮りきっていて、そればかりか他の兄弟も同じように考えていた。母が甘やかしすぎたのも原因だが、袁紹があまり構ってやらなかったのも要因の一つといえる。
自分は、構われずとも強く育った。
その考えが、良くなかったのだと気付いた時には、既に遅かった。
兎に角、客将とはいえ、信頼できないとはいえ、劉備を無碍に扱う事は出来ない。袁紹はどうにか立ち上がると、執務室に向かう。それだけの行動に、ずいぶんな苦労を必要としてしまった。
執務室に行くと、伝令が拝礼した。書簡を受け取り、拡げてみる。
文醜のことについて書かれていた。やはり、顔良の仇を討とうと、躍起になっているらしい。袁紹だって、その気持ちは分かる。ずっと側で支えてくれた良将である。血を吐きそうなほどに苦悩し、多分それでまた残り少ない寿命を縮めてしまった。
それについての返事をしたためる。
「何としても、文醜の独走を止めよ。 顔良に続いて文醜も失ったら、儂は曹操との戦いを始める前に、両腕を無くしてしまう」
切実な一文を書き上げた後、残りを読む。
そちらには、遊撃に移りたいという、劉備からの依頼が書かれていた。
現在、官都は双方の先鋒だけが展開している状況とはいえ、全面戦争に発展するのは時間の問題である。
それに備え、劉備は汝南に転進し、曹操軍の背後をかき回したい。そう書かれていた。
袁紹としても、信用できない劉備を側に置いておくよりも、遊撃として活用するのは吝かではない。
ましてや今、荊州にいる劉表は呉とにらみ合っているために動ける状態に無く、呉を動かすにしても袁術との確執もあるからなかなか上手く行きそうにない。確かに、後方を攪乱できる戦力は、貴重で重要であった。
それに、袁紹の配下には、劉備を警戒している勢力も多い。袁紹自身の考えは、部下にもある程度は伝染していた。
「分かった。 転進を許す。 現在任せている五千を連れて行くように」
さて、どうやって曹操の領土を突っ切るのかが見物だ。官都での決戦が終わった後、役に立たないようなら、それを理由にして処断しても良い。
そう考えていることに気付いて、袁紹は頭を振った。
それまでに、生きている見込みがあるかどうか。あまり周囲には知らせていないが、昨日は食後に嘔吐してしまった。胃が弱り切っていて、受け付けてくれなかったのだ。今まで安らぎをもたらしてくれた何進将軍の料理にも、限界が来ているようだった。
田豊を呼ぼうとして思い出す。
三十人以上の部下達が、告発書を持ってきたのだ。何でも田豊は鳥丸と結託して、反乱を主導していたのだという。
そんな訳がないと袁紹は思ったが、告発書を持ってきたのは、逢紀を始めとする重鎮達で、とても笑い飛ばせる状態ではなかった。だから、しばらくは我慢してくれと言いながら、田豊を取り調べるために牢に入れなければならなかった。何度か伝令を送って、心配しないようにと伝えたが、そうだ。
既に、相談できる人間は、側にいないのだった。
頭を抱えて、机に突っ伏す。
息子達は、自分が一刻も早く死ぬことを望んでいる。
他の家臣達は、曹操を見ず、自分の死によって得られる権力と財力ばかりを見ている。
もう、駄目だ。
そう呟く袁紹は、目の前が真っ暗になるのを感じた。
視界が闇に閉ざされると、恐怖も襲ってくる。もがく。誰かに取り押さえられる。引きずられている。
袁紹は叫いた。そうすると、見えた。
公孫賛。剣を抜き、夜叉のような形相で、袁紹を見ていた。
何進がいる。温厚で心優しい人だったのに、袁紹をまるで虫かなにかのように見下していた。
「だ、誰か! 誰かいないか!」
叫ぶが、どうにもならない。
公孫賛の剣が、脳天に振り下ろされた。
酷い痛みと共に、悪夢が晴れる。突っ伏した瞬間に、どうやら眠ってしまったらしい。此処まで体が衰えていたのかと、戦慄してしまった。
居眠りはまだ良い。一瞬で眠りに落ちて、しかもそれに気付かないとは。これでは、まるで、老い衰えているようだ。鏡を見る。頭は既に真っ白になってしまっていた。
悲鳴を上げて、鏡を取り落とす。
そして、それも夢だったことに気付く。
袁紹は、恐怖に耐えながら、呟く。顔良。文醜。田豊。どうしてだ。どうして、皆遠くに行ってしまったのだ。
儂は、決して優れた君主ではない。才能だって曹操に劣っているし、お前達の助けが必要なのだ。
声は、届かない。
起きているのに、見る悪夢は、まだ続いた。
執務を続けていた陳到は、窓を叩く小さな音に気付いた。
襤褸屋の窓を開ける。其処には、懐かしい顔があった。
「おお、シャネス! 無事であったか」
「すまない。 連絡が遅れてしまった」
相変わらずえらそうな喋り方をする小娘である。入るように促したが、今はとても忙しいと、断られてしまった。
「用件だけを伝える。 関羽将軍と、殿は、近々汝南に向かわれる」
「それは、本当か」
「本当だ。 迎える準備をしていて欲しい」
迎えるというのは、劉備を受け容れるだけではない。その後に攻め込んでくる、曹操軍を抑える事も意味しているのだ。官都に兵力を取られているとはいえ、確実に三万以上は来る。しかも、訓練がしっかり整い、士気も高い三万である。
この三万だけで、他の群雄が保有する五万以上の活躍は確実にするだろう。ましてや、訓練がかろうじて終わった程度の汝南軍では、とても手に負える相手ではない。
「かなり難しい。 兵糧だけは豊富にあるが、籠城に持ち込んでも、袁紹軍が増援を寄こすまで耐えられるかどうか」
「袁紹は、恐らく厄介払い代わりに、劉備将軍を追い払う気だ。 援軍など、期待しない方がいい」
「そうなると、出来るだけ被害を抑えながら退くしかないな」
「判断は任せる。 私はこれから劉備将軍と合流して、此処まで誘導する」
シャネスの気配が消えた。
これで、また大きな問題が一つ増えた。
周囲にどう話すかを考えると、少し頭が痛い。少なくとも、今日は休むべきかと、陳到は思った。
2、官都緒戦
曹操軍は徐々に兵力を増やし、およそ七万を官都に展開していた。それに対して袁紹軍の先鋒はおよそ七万五千。兵力としてはほぼ互角だが、ただし袁紹軍は防御陣地に籠もっている上に兵糧の心配が無く、しかも強大な援軍を期待できる状態である。
曹操軍には、その全てが欠けていた。
全軍を引っ張り出せば、袁紹軍もそれに併せて大軍勢を投入してくるのは間違いない。そして、主力決戦になると、正面からの戦いで曹操が勝つのはとても難しいと予想されていた。
だから、大方の予想では、今回こそ曹操が敗れるだろうとされていたのだが。
その曹操自身は、自信満々であった。
陣を出て、自ら敵の物見をする。周囲にいるのは、許?(チョ)と、僅かな近衛だけ。それに林配下の細作も何名かいるが、これは最初から戦力に数えていない。
曹操は今回の戦いに関しては、勝ちを確信していた。
何しろ、既に顔良は討ち取り、更に田豊は陰謀を用いて追い払った。後に残っているのは血の気が多い文醜。そしてその周囲にいるのは、ある程度の能力はあっても、まったくまとまりがない集団だ。各個撃破するのは難しくない。
ただし、個々には有能な将もいるし、何より袁紹軍は補給力も軍事力も、曹操軍を遙かに凌いでいる。もしも失敗すれば、一気に押しつぶされかねない。そう言う意味では、油断だけは出来ない相手だった。
「さて、文醜をどう仕留めるか、だが」
「兵を進めて討ち取れば良いのではないのですか?」
「虎痴よ、奴はかなりの使い手だ。 そなたをぶつけても、簡単には倒せぬ。 かといって、関羽を連れ出すのも気が引ける」
関羽は、既に曹操に対する恩を返したと思っている節がかなり強い。このままだと、手放すことになるだろう。
劉備が袁紹軍にいることは、既にほぼ確定情報である。最悪、関羽が敵に回ったら、負けになる可能性もある。
今、関羽を止められる将は、残念ながら曹操軍にはいないのだ。
もちろん関羽だけで戦を行う訳ではないが、奴に至近まで迫られた場合、どうにもならない状況になりかねない。そして袁紹軍の豊富な人材を考えると、それはあながち無理ではないのだ。
顔良を仕留めた時のやり方を、向こうが逆用してきたら。それを考えると、背筋に寒気が走ってしまう。
「曹操様」
「むう、荀ケか」
「文醜を討ち取る策が、出来ましてございまする」
荀ケが拝礼して、その策を口にする。
曹操が口の端をつり上げたのは、顔良の時よりも更に卑怯で、しかし単純な手であったからだった。
「お前も儒者でありながら、卑劣な策略を思いつくものよな」
「確かに私は儒の思想を持つ者ですが、此処は戦場でありますが故。 戦場の礼節と、平時の礼節は別のものにございまする」
そう荀ケが言うと、徐晃は眉をひそめた。鼻を鳴らして視線を張遼が逸らす。
徐晃と荀ケは、同じく漢王朝の保全を望む者達だ。董承のような愚物と結託する事さえなかったが、今後はどう動くか分からない。しかし有能なので、曹操としては斬り捨てることは考えていなかった。
張遼は自分の力を評価してくれればそれで良い様子であるし、とても分かり易い。楽進に到っては、自分に全幅の信頼を寄せてくれている。楽進に関しては、能力通りに評価してやれば、今後も裏切ることはないだろう。
袁紹に比べて、曹操の部下達は一丸となっている。
策そのものに、問題はない。曹操は部下達を、策通りに、文醜の陣にけしかけることとした。
防御陣を敷いて本隊の到着を待つ文醜軍の前に、敵軍が現れた。
既に小うるさい劉備はいないし、他の武将達も手柄を立てようと躍起になっている。戦意は滾るかのようであった。
袁紹は本隊の到着を待つようにと言っていた。しかし、敵はもう何度も陣の前に現れては、挑発を繰り返していた。文醜として、兄の敵がそうしているだけで、もはや発狂しそうなほどであった。
天幕の前で、槍を振るっていた文醜は、敵到着の報告を聞いて、歯ぎしりしていた。
「おのれ、曹操軍め」
呟き、何度か槍を振り回す。
単純であるが故に、文醜は素直な性格をしている。そう、袁紹に言われたこともあった。だから、劉備の言うことはよく分かっていた。奴のことは気に入らないが、袁紹の命令であることは確かなのだから。
「文醜将軍。 敵が矢を撃ち込んできています」
「適当に応戦させろ。 相手にする必要はない!」
吠えるように叫ぶと、部下は転がるように逃げていった。どうせ今日も挑発するだけだろう。油断だけはしないようにと部下達には言い聞かせてあるが、こうも後ろ向きな戦が続くと、流石に苛立ちから手元も緩む。
握り混んだ槍の柄がぶれて、地面を叩いてしまった。
槍の穂先が欠けるような事はなかったが、幸先が良いとは言えない。
「義兄上が此処にいたら、このようなことにならなかったものを」
文醜は呻く。
義兄には、あまりにも多くのことを教わった。暴れることしか知らなかった文醜は、袁紹と義兄のおかげで人間になれたと言っても良い。
それなのに、どうして先に逝ってしまったのか。
分からない。どうしても。どうしていいのか。
苦悩する文醜は、周囲の様子がおかしいことに気付いた。曹操軍が、陣の外で何かをしているらしい。
外に飛び出す。
張遼が、前線まで来ているらしかった。
槍を引っつかんで前に出ると、近衛の一人が顔色を変えた。何かあったのは、明らかであった。
「文醜将軍!」
「何があった」
「それが、ご覧ください!」
張遼が、槍先に掲げているそれは。
目の前が、真っ赤になって、思わず立ちつくしていた。
「文醜! 貴様の義兄は、手応えがない男であったぞ!」
張遼の側にいる、良く声の通る男が叫ぶ。同時に、敵陣がどっと沸き立った。嘲笑の声が飛んでくる。
「お、おのれ、卑劣な!」
「お前達は、出るな。 俺だけで出る」
愛馬を駆ると、文醜は陣を一人出た。そして、張遼に呼びかける。
「どうせ卑劣なことをしたのだろう。 兄が、お前などに負けるものか」
「兄が兄なら、弟も弟か。 無能で、見るに愚かだ」
「おお! 俺は愚かだ! だが武勇では、貴様などに負けはせぬ! 来い、張遼っ! 貴様の首、冥府の兄への土産にしてくれるぞ!」
張遼は、来ない。
馬を進めようとした瞬間。
兄に呼び止められたような気がして、一歩下がらせる。張遼が不審そうに、眉をひそめたのが分かった。
「どうした、臆病風に吹かれたか!」
「やめだ。 どうせ罠に決まっている」
陣に引き返そうとする文醜。
その時であった。
陣の背後から、敵の喚声が上がった。一気に火が回り、陣が燃え上がる。振り向くと、今まで遠巻きにしていた敵軍が、一斉に襲いかかってきた。同時に、混乱しながらも、陣から近衛の部隊が飛び出してくる。
「文醜将軍を守れ!」
叫んだ近衛の喉に、弩の矢が突き立った。前後から攻められた文醜軍は大混乱に陥る。それで、気付く。
そうだ。敵の狙いは、正面に注意を引きつけること。
そして、文醜の去就はどうでも良かったのだ。主力を背後に回らせ、陣を後ろから突くことだけが目的だった。
だから、連日意味のない攻撃を繰り返してもいたのだ。
全てが分かってしまった。顔良が乗り移ったかのようだった。歯ぎしりすると、文醜は髪の毛が逆立つような怒りを感じた。おのれ、こうして兄も殺したのか。
「があああああああっ!」
吠え猛った文醜は、馬を躍らせ、真っ正面から敵に突入した。思わぬ逆撃に面食らった敵の先頭部隊を打ち砕き、二陣に突入する。見えた。兄を馬鹿にしていた、声の大きな男。一槍で突き伏せ、空に放り上げる。そして串刺しにして振り回し、敵陣に放り投げた。
「文醜が臆病で無能か、よく見ておくがいい!」
暴れる、吠える、荒れ狂う。
叫んで、槍を繰りだし、突き刺し、貫き、放り投げる。
文醜の猛攻に敵はわっと散り、逃げ回る。張遼を見つけた。臆病者。一声叫ぶと、突きかかった。勢いの中、張遼は一騎打ちを受けて立つ。二合、三合、槍を交えた。
「その程度か!」
「むうっ!?」
怒りにまかせて、張遼の槍をはじき飛ばした。胸板を突こうとしたが、間一髪の所を避けられる。群がってくる雑兵を突き伏せながら、すすめと号令。しかし、帰ってくる声は、殆ど無かった。
振り返る。
既に味方は四分五裂。敵陣は文醜の猛攻を予知して、散らすように布陣し、此方の勢いを殺すことに終始していたらしい。
何と卑劣な。
身震いして、全身に浴びた血を払う。敵がわっと寄ってきた。見渡す限り、全て敵だ。もはや壮観でさえあった。
いいだろう。
文醜という男の最後を、見せてやろう。
そして兄に、胸を張って会いに行くのだ。卑劣な罠には屈したが、戦士としては最後まで袁紹軍最強であったと。
怒濤のように押し寄せてくる曹操軍の中で、文醜は笑った。周囲を囲まれ、無数の矢を撃ち込まれる。針鼠のようになりながらも、文醜は進む。そして、前を遮ろうとする敵を、片っ端から突き殺した。
敵の目におびえが走る。
この全てが、兄への手みやげだ。語りぐさが増える。曹操軍は、確かに強かったが。しかし、自分の敵ではなかったと。
馬が倒れた。
首に二十本も矢を受けながら、まだ走ってくれていたのだ。
起き上がると、文醜は駆け寄ってきた兵士を斬り伏せた。だが、それが最後の頑張りだった。
周囲全てから同時に繰り出された矢が、文醜の全身を貫く。
最後に、見たのは。
冥府の扉。
満足してあそこに行けると思った時。文醜の意識は、消えていた。
文醜の死骸を、袁紹軍に届けるように曹操は指示。遠くから見ていたが、凄まじい暴れぶりであった。関羽を呼んだ方が良かったかも知れないと、思ってしまった程である。
確実に、百人以上が文醜の手に掛かった。文醜軍も四分五裂して壊滅したが、味方の被害も決して小さくはない。それに文醜以外の袁紹軍幹部は、一人も仕留めることが出来なかった。
戦力の差から言っても、まだまだこのくらいでは勝利とは言えない。
それに、思った以上に善戦した文醜に、敬意を払ったという事もあった。
「恐ろしい相手だったな。 虎痴、お前なら勝てたか」
「分かりません。 ただ、強い敵でした」
「うむ。 そうだ。 だから、敬意を払うこととしよう」
敵陣に送り届ける死骸はきちんと矢を抜き、見栄えも悪くないように整えた。あれだけの矢を受けて、なおも暴れ回っていた文醜を、兵士達は恐れたが。諸将は却ってそれを叱り、しっかり死骸を整えさせていた。
愚かではあったかも知れないが、勇者であることは間違いのない男であった。
そして、喜ばしいことがあったからこそ、曹操は上機嫌であった。
後は、追い払った田豊を殺せば、袁紹の跡は全く恐れることが無くなったのだ。官都で壊滅的な敗北をしない限り、曹操の勝ちは確定だ。強大な袁紹の勢力だが、このまま行くと勝手に自壊する。そしてその後は、曹操が切り取り放題である。
敵陣に、文醜の死骸を届けていた兵士達が戻ってきた。もちろん、偵察も兼ねさせている。
「どうであった、敵陣は」
「数里後退して、後方に構築していた砦に入りました。 兵力は未だ四万以上が健在で、士気も低くはありませんでした」
「なるほど。 そうなると、文醜がいない分、力攻めは難しいな」
一旦引き上げるぞと、曹操は声を掛ける。
まだ主力部隊の調整は終わっていない。袁紹が本軍を連れてきてからが勝負だ。小さな砦を攻略するために、大きな犠牲を出す訳には行かない。
それに、長期戦になればなるほど、有利な状況だ。兵糧の不安はあるが、それ以外はもはや袁紹を恐れる理由がない。
曹操軍が引き上げると、後には血と、死体の痕跡だけが残った。
戦の跡は、鴉の餌場となり。鎧や武具を略奪する民と匪賊だけが、したたかに動き回っていた。
一旦許昌に戻ると、曹操は関羽の面会要請を受けた。ついに、来るべき時が来てしまった。
関羽は功績も建てた。そして、劉備が袁紹軍本隊を離れ、汝南に向かったという報告も受けている。多分、劉備軍の細作か、或いは袁紹の間者当たりが、それを知らせたのだろう。
もはや断る理由がない。曹操は悩んだ末に、自ら許?(チョ)を伴い、関羽の屋敷を訪れることにした。
関羽は屋敷で、徐晃と碁を打っていた。相変わらず徐晃は関羽に対して劣勢で、終始一方的な勝負が展開されていた。曹操が来たことに気付くと、徐晃も関羽も抱拳礼をする。曹操は右手を挙げて楽にして良いと言うと、徐晃の席を借りて、関羽と対面に座ることにした。
「関羽、すまなかったな。 待たせてしまった」
「いえ、此方こそ。 恩には報じさせていただいたとはいえ、非礼をお許しください」
「いや、天下の義人とはそなたのためにある言葉だ。 これからは敵同士になるが、余はそなたを忘れぬぞ」
酒を持ってこさせる。それと、もう一つ。
顔良を討った事に対する、地位としての報償があった。
「これを受け取ってくれ、関羽」
「漢寿亭公の印ですか」
「そうだ。 そなたは嫌かも知れぬが、顔良を討った事へ対する名誉の証だ。 そなたほどの武人であれば、これくらいの名誉を、公式に受けていても恥ずかしくはあるまい」
「……分かりました。 いただきましょう」
関羽は一礼すると、印を受け取ってくれた。
曹操は悔しかった。結局、関羽の心を溶かすことが出来なかった。その自信もあったのに、時間が足りず、状況も彼に味方しなかった。
これはまた挫折を味わってしまったかも知れないと、曹操はちょっとがっかりした。
「すぐに行くのか」
「はい。 すぐにでも」
「そうか。 ならば、通行証も出しておこう」
「よろしいのですか、其処までしても」
関羽の方が恐縮する中、曹操は苦虫をかみつぶしながらも、何処かさわやかな気分を味わっていた。
「良いのだ。 そなたは余とは違う人種だが、その心意気には余も思う所があった。 だが、戦場で会うことになったら、次は容赦せぬぞ」
「それは此方も」
笑い会うと、酒を飲み交わした。
予想通りであったが、関羽は恐るべき酒豪で、とても勝てる気がしなかった。徐晃が気を利かせて、許?(チョ)を連れて席を外してくれる。そのままだと、許?(チョ)は何刻でも側に突っ立っていただろう。
「虎痴は、そなたから見てどうだ」
「必ずや、国の柱石となりましょう」
「そうかそうか。 余もそう思う。 余の腹心に稽古をつけてくれて、感謝する」
しばし、歓談を続けた。政務が幾らでもあるから、何時までも此処にいられないのが、本当に惜しい。
いや、むしろ悔しかった。
翌日、関羽は許昌から去った。
曹操は政務をしながらそれを聞き、そうかとだけ応えていた。
3、決戦官都
袁紹はついに軍を整え、官都に進出していた。その兵力はおおかたの予定通り三十万を超えていた。大地を埋め尽くす大軍勢と言っても良い。地方軍閥としては最大規模の兵力であり、しかもまだ袁紹には余力がある。
だが、袁紹の顔色は冴えない。部下達もそれを見て、不安がっていた。
不安がっている部下達の中に、自分の死を望むものが大勢いることを、袁紹は知っていた。そして、それが近いことは、彼自身が一番よく分かっていた。
既に顔良も文醜もいない。
田豊も陰謀によって、投獄されてしまっている。
もはや彼の味方は、何処にもいない。
場合によっては、暗殺さえ可能性を考慮しなければならなかった。
今回の出兵も、後方での反乱だけが原因で出兵が遅れたのではない。長男と三男が争って、軍の編成が進まなかった事も、大きな要因の一つだ。そうなると、文醜を殺したのは無能な息子どもだと言っても良い。それなのに、連中を粛正する時間も暇もない。
天を呪いながら、袁紹は軍を進めさせる。したり顔の三男が、先鋒として既に文醜軍の残党と合流したという報告が入るが、そうかとしか応えなかった。
昨日、血を吐いた。
体の調子は、更に悪くなってきている。曹操が官都に出てきたと聞いて、むしろほっとしたくらいである。曹操さえ倒してしまえば、ひょっとすれば後はどうにかなるかも知れないからだ。
そんな可能性の低い賭を、この年になってしなければならないのである。
袁紹は、己の運命を、恨まざるを得なかった。
陣立てが終わる。曹操軍は約十七万。味方は三十五万。多少は縮まったが、それでも倍以上の兵力差がある事に違いはない。戦場で対峙する両軍。袁紹は馬車に乗ったまま、首を伸ばして、敵の状況を見つめた。本陣は、敵陣を見やすい、小高い丘の上に置かれているのだ。
「見事なものよ」
「袁尚様の陣がですか?」
「……そうだな」
側にいた家臣が、三男の事を褒める発言をしたので、袁紹はもういいと思って口を閉ざした。
無論彼が褒めたのは、展開している曹操軍の事である。全く無駄がない陣形であり、ほれぼれするほど理にかなっている。三男の陣など、あれに比べればまるで塵芥だ。見かけだけは立派だが、それしかない。
曹操軍が、陣太鼓を叩き鳴らす。
同時に、袁紹の軍勢も、一斉に動き出していた。
どちらも、最初はとてもゆっくりと動き出していた。距離を詰め、矢戦を始める。曹操軍は火力の不足を、素早い機動で補う。それに対して袁紹軍は、兎に角数にものを言わせて、圧倒的な数の矢を降り注がせていた。
しばらく激しい矢の撃ち合いが続いたが、不意に曹操軍の一角が崩れる。袁紹が回り込ませておいた張?(コウ)の部隊が、横腹を突いたのである。じりじりと下がる曹操軍。妙に脆い。
先鋒が前に出ようとするが、袁紹は早鐘を打たせた。それと同時に、味方も全軍が引き始める。曹操軍も距離を取り、再びにらみ合いが始まる。馬車に馬を寄せてきたのは、今や並ぶもの無き勢力を誇る沮授であった。
「如何なさいました。 押せば勝てる状況でしたのに」
「本当にそう思うか。 袁尚が先鋒にいたから、そう言っているのではないのか」
「い、いえ、そのような」
「兎に角、持久戦の準備だ。 曹操軍が下がった分だけ、着実に進め。 連中はあらゆる物資で味方に劣っている。 だから、確実に勝つ方法を進めよ」
そう言えば、その進言は、田豊によるものだったと、袁紹は今更ながら思い出した。しかし、残念ながら、袁紹には時間がない。そして、既に正確な判断も難しくなりつつあった。
田豊がいれば。
そう思いながらも、袁紹は側にいる沮授に聞いてみる。沮授も有能な謀臣だが、家督相続問題にはしっかり噛んでおり、その点だけで袁紹は心から信頼できなかった。
「それは良いのですが、補給は大丈夫でしょうか」
「念入りに守らせているだろう」
「それだけでは不安です。 敵にはあの林がいて、味方は羊を失っています。 もしも林によって鳥巣にある補給路を突き止められると、面白くない事態になるかも知れません」
「そうだな。 淳于瓊を向かわせろ。 防衛体制を強化する方がよい」
淳于瓊は、霊帝が建てた八校尉の一人で、曹操や袁紹の古い同僚である。戦乱の中落ちぶれたとはいえ、袁紹軍の中でも上位の指揮官であり、それなりの軍才もある。実際公孫賛との戦いでは、かなり見事な活躍を何度も見せた。しかしこの男、油断する悪癖があり、あまり防衛には向いていなかった。
それでも袁紹は淳于瓊にした。
なぜなら、此奴よりもましな指揮官が見つからなかったからである。
少し安心した様子で離れようとする沮授に、袁紹は後ろから声を掛けた。
「沮授、お前は最前線に行け」
「どういう事でしょうか」
「言わずとも理解しろ。 お前達が跡継ぎ問題をこじらせたせいで、勝てる戦いも勝てなくなってきているのだ。 この戦いに負けたら死ね」
かってであったら、絶対に出なかったような冷酷な言葉が。いとも自然に、するりと袁紹の口から吐き出されていた。
咳き込む袁紹に一礼すると、沮授は前線に向かう。
恐らくは、死ぬつもりなのだろう。それで良いと、袁紹は思っていた。
味方は一旦態勢を整え直すと、前進する。
小競り合いが続き、それを有利に捌きながら進むこと三日。四里を後退していた曹操軍が、総力での決戦を挑んできた。
叩き鳴らされる銅鑼の音。
曹操は最前線にいた。側には軍を支えている猛将達がいて、特に許?(チョ)の存在は心強い。
敵にも有能な将が多い。それはここ数日の戦いでよく分かった。特に若い将の中では、張?(コウ)がねらい目だ。是非捕らえて配下にしたい所だと、曹操は思った。しかも林が調べてきた所に寄ると、待遇に不満を少なからず抱いているという。
陣が進められる。やがて、両者百歩ほどを置いて、軍は止まった。
先に進み出たのは、曹操だった。まさか僅かな供だけを伴って、本当に曹操が出てくるとは思っていなかったのだろう。敵がどよめく。
「袁紹はいるか!」
しばしの沈黙。
だが、此処で出なければ、袁紹の恥となる。本来であれば危険すぎるから、滅多に無いことなのだが、しかし。兵士達が見ている以上、大勢力の長として、あまり恥ずかしいことは出来ないという事もあった。
ざわめきを切り破るようにして、豪華な装飾をされた馬車が進み出てきた。かなり大きく、家が丸ごと動いているかのような様子だ。四頭だての馬車は、ゆっくり旋回すると、窓から袁紹が顔を出した。
「此処にいるぞ」
「おお、お互いに老けたな。 大将軍」
「ふん、貴様はまだ若いではないか。 それで、戦の前に何事だ」
袁紹は、かなり不快そうだった。かって格下だった曹操に、対等な口を利かれているからだろう。それだけではない。目の下には大きく隈ができていて、全身に疲弊が溜まっているのがよく分かった。
曹操の狙いは、袁紹の状態を直接見ておくこと。それだけである。
そして袁紹が、もはや長くないことは、見てすぐに分かった。つまり、充分な結果を得られたのだ。
だから、もう会話などどうでも良い。適当に進める。
「既に漢王朝の大儀は余にある。 降伏して、余生を全うされよ」
「愚かなことを言うな。 そのような事が出来ると思うてか」
「まあ、無理であろうな。 だが、もしも降伏してくれれば、死なずに済む兵士が大勢でるとは思わぬか」
「思いまする」
隣で許?(チョ)が大まじめに応えたので、曹操は噴き出しそうになった。袁紹も唖然とした後、噂に聞いていただろう許?(チョ)の素直さに、破顔した。
「面白い部下がいるようだな。 木訥だが、信頼できそうだ」
「ああ。 そうだ」
「良くも儂にとって大事だった顔良と文醜を殺してくれたな。 そなたも同じ苦痛を味わえるように、そいつも八つ裂きにしてくれるぞ」
曹操は驚いていた。
袁紹は良くも悪くも凡人で、努力で実力を伸ばしてきた男だ。多くの部下が集ったことからも分かるように、性格はごく無難で、残虐性は無く、冷酷でもなかった。しかし、袁紹は今や、残虐な言葉を平気で口にするようになっていた。
馬車が旋回して、引き返していく。
曹操も引き返しながら、周囲の諸将に告げた。
「あれは、もう本当に長くないな」
「病ですぐに倒れそうな様子には見えませんでしたが」
「そうではない、もうまともな判断が出来そうにないと言うことだ。 袁紹は凡庸だが、それが故に堅実なことが出来る男だった。 だが今の袁紹は、既に焦りと猜疑心の虜になり、まともな判断力を無くしている。 あれならば、以前よりもだいぶ与しやすい」
そして曹操は、自分もいずれああなるのではないかと一抹の不満を感じた。
出来るだけ早めに跡継ぎを決めておかなければならない。そうも思った。
自軍に戻ると同時に、敵が動き出す。山津波のように、鬨の声を上げ、圧倒的な地響きを立てて進んできた。
曹操も指揮剣を振り上げると、全軍に突撃を命じた。
小競り合いではない、本当の決戦が、今此処に開始された。
林は小高い山の上から、袁紹軍と曹操軍の決戦を見つめていた。林の小さな手には、今もぎ取ったばかりの、羊の組織残党の生首が握られていた。
周囲の部下達は、無言で控えている。林がこの間激高してから、部下達は更に大人しくなった。今ではすっかり機嫌も戻っているのだが、そんな事は理解できていない様子だ。別にそれで良い。
両親から教わった。理解者など必要ない。
得体が知れない所を見せておけば、部下は勝手に恐れる。恐怖と暴力で支配するには、その方が丁度良いのだ。
袁紹軍は攻める。
凸字に組んだ陣形が、横一線の鶴翼に組んだ曹操軍を攻め立てる。曹操軍は斜めに陣を上手に移行させながら、袁紹軍の猛撃を凌ぎつつ、右に回り込もうとしている。それに対し、袁紹軍は、鳥丸族で構成されたらしい剽悍な騎馬隊を繰り出した。曹操軍も、楽進麾下の精鋭騎兵部隊を繰り出し、それに対抗する。
激しいぶつかり合いの音と、鮮血の臭いが、此処まで届く。両軍の旗が激しく揺れ、飛び散る血が此処からも見えた。既に両軍の殆どががっぷり四つに組んで戦いを続けており、遊兵は殆どいない。それだけ、戦闘が苛烈だと言うことだ。
張遼隊が、袁紹軍の一角を突破した。それに真横から、張?(コウ)の隊が襲いかかる。激しいもみ合いの末、数で勝る張?(コウ)隊が、敵よりも多くの損害を出しつつも、張遼隊を押し込んだ。
激突の余波は、此処まで届く。
戦気が、炸裂するかのように迫ってくる。林の配下が、おずおずと言った。
「よろしいのですか。 鳥巣に敵の補給地点があることを知らせなくても」
「勝つ方を見極めてからでかまわん」
もとより、曹操の配下になったのは、羊の組織と戦うためだった。
しかし今、もはや林に敵はいない。だから、曹操に付くのも良いが、いっそ袁紹の配下になると言う手もある。
どちらにしても、細作は闇に生きる存在だ。混沌こそが望ましく、光に照らされてしまえばもはやその存在は霞とかして雲散霧消してしまう。だから、混沌を加速できる人間の下にいた方がよい。
曹操はその点不的確にも見えるが、もし覇道をなす直前に彼を暗殺すればと考えれば、ぞくぞくする。
それに対して袁紹は、仮に勝っても国が乱れに乱れるのは目に見えている。
つまり、どちらが勝っても林には損がないのである。
だから、此処は敢えて楽な方に。勝ちそうな勢力に、与すれば良い。それだけで、林は楽しくおかしく殺戮を繰り返すことが出来るのだ。
曹操軍がさがり始める。やはり兵力の差は大きいかに見えた。だが、追おうとした袁紹の三男、袁尚軍が前に出ようとした瞬間、左右から徐晃と李典の部隊が、痛烈な突撃を浴びせていた。
袁尚の至近まで、徐晃が大斧を振るって迫る。近衛が必死に食い止める中、袁尚は部下を囮にして逃げた。かなり顔が整った男だが、その髪は乱れ、顔は夜叉のように歪んでいた。必死になれば、顔が整っていようが関係ない。
崩したその一角を足がかりに、曹操軍が猛烈な反撃に転じる。大地を揺るがす死闘は、既に開始より二刻を数えていたが、いまだ終わる気配はない。
深入りした曹操軍の指揮官である史喚が、矢を受けて落馬する。史喚を庇うように前に出た徐晃が、ここぞと殺到してきた敵軍の猛攻を受け流しつつ、敵将の首を狙う。
「おお。 これは面白い見せ物ですね」
林が呟いたのは、突進してきた張?(コウ)と、徐晃が一騎打ちを始めたからだ。
呂布や関羽、張飛のように、個人の戦闘能力が戦略級の破壊力を備えている場合を除き、滅多なことでは将官同士の一騎打ちは発生しない。ましてや、慎重な性格の徐晃が、自ら仕掛けることは滅多にない。この間は顔良と徐晃が戦ったと聞くが、それは顔良が、自らの武勇を武器としていたからだ。徐晃も張?(コウ)もどちらかと言えば指揮官型の人物で、それが一騎打ちになるのはとても珍しいことだと言えた。
激しい一騎打ちが続き、周囲でもそれに闘志を煽られたかのように、戦闘が加熱していく。林の見たところ、双方の実力は完全に五分。思わず舌なめずりをしてしまった。どちらも八つ裂きにして、ぐちゃぐちゃに内臓を踏みつぶしてみたい感じだ。
大斧を振るって奮迅の攻めを見せるのは、意外にも徐晃。いつも冷静な戦をする男なのに、戦士としてはこんなに熱いところもあるわけだ。それに対して、張?(コウ)は普段の性格とは裏腹な、まるで氷のように静かで精密な戦いを見せている。激しく馬首を返して刃をかわす二人の周囲で、戦いは加熱するばかりであった。
両軍は入り乱れて、火が出るような戦いを続けていた。そんな中、一歩ぬきんでたのは、高覧の部隊である。張遼の騎馬隊を紙一重でかわすと、一丸となって曹操軍中枢に突撃を駆ける。徐晃、楽進、いずれも間に合わない。
小柄な体を伸ばしていた林は、埒が明かないと判断。劉勝に登った。図体がでかい劉勝は、呆然と立ちつくしたまま、頭の上に器用に乗って手をかざす林に呟く。
「あ、あの。 林大人」
「揺らしたら殺すぞ」
その一言で、劉勝はしゃっきり背を伸ばす。
高覧隊は、張?(コウ)隊と同じく、鳥丸族の騎馬兵を中心とした編成らしく、兎に角早い。
しかも、馬上で矢を射ることは非常に難しいにもかかわらず、殆どの兵がそれをこなすようだった。
「画期的な部隊だ。 漢人では、とてもあれは編成できないな」
「鮮卑の者達を使えば、あれに近い部隊は作れます。 しかし、悔しいですが、練度は更に向こうが上のようです」
高速機動をしながら、高覧隊が曹操の本陣に矢の雨を浴びせる。曹操軍も応戦しているが、兎に角早くて捕らえられない。そうこうする内に、数の差が出てきた。前面に展開していた于禁軍が押し戻されていく。
曹操軍は、見事な機動を見せる高覧軍に背後を脅かされ、更に崩れかけるという、最悪の状態に陥りかけていた。このまま軍秩序が崩壊したら、全滅的な打撃を受ける。
だが、此処で韓浩の部隊が躍り出る。屯田兵を中心に編成された韓浩隊は、于禁隊の後詰めとなり、それ自体が分厚い長城となった。しかも青州兵を多く含んでいる韓浩隊は頑健な上に凶猛で、少しの攻撃ではびくともしない。
逢紀、審配らの袁紹軍諸将が攻めあぐねる間に、曹操軍は態勢を立て直す。
いつの間にか、袁紹軍の凸字陣は凹字に崩れ、逆に曹操軍は凸字に陣を構え直していた。
曹操が指揮剣を振るう。
同時に、袁紹も吠え猛った。
「此処が正念場ぞ!」
「死力を振り絞れ! 勝てば褒美は思いのままだ!」
そんな事を口にしているのだろうか。流石の林でも、これだけ離れている山の上からだと、両者の位置を薄ぼんやり確認できるくらいである。両軍がぶつかり合い、更に激突は激しさを増した。
両軍の名だたる侍大将が、次々に戦死していく。
だがどちらも崩れない。袁紹軍が押し込めば、曹操軍は踏みとどまる。喚声を上げながら曹操軍が反撃に出れば、袁紹軍は押さえ込む。
実力は、まさに伯仲。数の差を袁紹軍は生かし切れず、かといって曹操軍も攻めきることは出来なかった。
ついに夕日が山向こうに落ち始めて、凄惨な戦いは終わった。
両軍ともに、一万以上の死者を出しているのはほぼ確実である。曹操軍の方が被害が少ないようだが、もとより袁紹軍は二倍以上である。曹操軍の方が、より大きな損害を受けたというのが正しかった。
「袁紹軍有利、というところでしょうか」
「あはははははは! 死んだ、死んだ! いっぱい死んだ!」
「……見かけは、そうだな」
林はどうも引っかかるものを感じていた。曹操軍は確かに全力を出していたが、何か腑に落ちないのだ。
けらけら笑う菖の頭にげんこつをくれて黙らせると、林は腕組みした。
幼いころに、盧植に付けられ、戦略のなんたるかはしっかり覚え込まされた。もとより敬愛している両親にこの辺りも感謝することしきりである。
しばし考え込んでいた林は、やがて結論を出す。
「なるほど、そう言うことか」
「何か分かりましたか」
「袁紹の陣に忍び込んでくる。 恐らく、結論は間違っていないだろう」
部下達には、鳥巣にある袁紹軍の兵糧備蓄基地の念入りな調査を命じると、林自身は、単身袁紹の陣へ向かう。
夜になると、流石に日中の激戦で疲れ果てたか、袁紹軍の陣に隙は多かった。だから、簡単に忍び込むことが出来た。
柵を越えて中に乗り込み、無数に張られている天幕の影を通るようにして、奥へ奥へ。兵士達の数は多いが、林を捕らえる視線は一つもなかった。これは面白い。帰り際に、二三匹首をもぎ取って帰ることにしようと、林は舌なめずりした。将官は敢えて殺さない。出来るだけ派手に曹操と殺し合って、互いに兵力を損じて欲しいからである。
疲れ切っているだろうに、兵士達は活発に動き回っている。これは、戦の後だから、である。
大勢の兵士達が、死体の処理と、怪我人の手当に大わらわである。ざっと見た所、袁紹軍の内一万二千ほどが戦死し、その三倍ほどが重傷を受けた。結果、袁紹軍は三十万を切った。
負傷者が続々と後送されていく袁紹軍は、かなり火の数が減っている。多分同じ事は、曹操軍でも起こっているだろう。軍医は大わらわで、陣を殺気だった様子で走り回っていた。
特に激戦の中にいた張?(コウ)隊、高覧隊には、精鋭が補充されている様子である。それに対して、後詰めだった郭図軍には余裕があるようで、酒を飲んでいる兵士達の様子も見受けられた。
士気が低い訳ではない。今日損害が小さかったと言うことは、明日先鋒になる可能性が高い、という事である。末期の酒という訳だ。
もとより兵士達にも、故郷には恋人や家族がいる。好きで兵士になる者など、殆どいないのが実情だ。
だからこそ、林にとっては。壊すのが面白い玩具なのである。
国自体を自分のおもちゃ箱にして滅茶苦茶にしたいと考えている林にとって、価値のない人間など存在しない。
どれもこれも、壊して面白い玩具だ。
巡回の兵士達が、油断無く辺りを見回しているすぐ側を、林は音も気配も無く駆け抜ける。草むらの影に潜み、時には天幕にも潜り込んだ。羊の細作軍残党も時々見受けられたが、毒にも害にもならないので放っておく。
林の部隊も大きな損害を受けたが、羊の方はそれ以上だ。使える奴はあらかた死んで、もう経験が浅い細作しか残っていない。
松明の配置を確認。一見隙がないようだが、林から見れば違う。とても可愛らしい、隙だらけな配置であった。
袁紹の本陣に忍び込んだ。
野戦陣の中央にあるからか、袁紹の陣はとても警戒が浅かった。ただし、袁紹自身の天幕は、流石に手練れが揃っていた。
闇に生きる細作は、どうしても正面からの戦いには遅れを取りやすい。地面に這い蹲るようにして、天幕からの音を拾う。
頭を振りながら、沮授が天幕から出てくる。田豊亡き後、袁紹軍の謀略を一手に背負っている男だ。後継者争いでも主導を担っている一人なのに。どうしてか、窶れ果てているように、林には見えた。
一緒に歩いている将が言う。
「袁紹様は、どうなさったのでしょうか。 あんなに怒りっぽくなられて」
「違う。 多分、曹操との戦いで、己の最後の火を、燃やし尽くすつもりなのだろう」
いびきの声が聞こえる。
袁紹は、沮授に怒鳴り散らした後、落ちるようにして眠ってしまったらしい。
なるほど、林の考えは適中していた。
曹操は、袁紹の炎を、より早く燃え尽きさせるつもりなのだ。だから敢えて、本気での消耗戦を挑んだ。
そして袁紹は焦っているが故に、己の全てを燃やし尽くして、それにまともに応じてしまっている。
曹操の方が、既に一枚上手だ。近いうちに、これは袁紹の死が確定するだろう。
林は陣を離れる。
袁紹の顔は見ずとも、その死相は、充分に感じ取っていた。
胸の動悸が速くなるのを感じて、袁紹は飛び起きていた。手の震えは止まらず、視界が揺れている。息苦しく、何度も咳き込んでいた。
侍医が飛び込んできて、苦い薬を飲ませる。背中をさすられている内に、少しだけ楽になった。
「そ、曹操は」
「相変わらず距離を保ったまま、動こうとはしません」
「警戒を続けよ。 奴は野戦の名手だ。 いつ夜襲を仕掛けてきてもおかしくないぞ」
息子達は何処だ。不意に沸き上がってきた怒りに押されるようにして、袁紹は叫んでいた。
慌てたように、天幕に飛び込んでくる馬鹿息子達。
長男の袁譚。次男の袁熙。三男の袁尚。いずれも愚かで、曹操には対抗できそうにない者達ばかりだ。
息子達の馬鹿面を見ると、怒りが更にふくれあがるのを感じた。
こんな者達のために、積み上げた全てが台無しになろうとしている。今すぐ、自分の手で斬ってしまいたかったが、それでも我慢した。
「今から、お前達の誰を跡継ぎにするか指名する」
いきなりの事態に、息子達は目を白黒させた。同時に、部下達も全員呼び集めるように言った。
主な部下達が、天幕に集まってくる。
軟らかい羽毛を敷き詰めた寝床に横たわりながらも、袁紹は不快感で一杯だった。どれを跡継ぎに指名しても、似たようなものだからである。どうせ、曹操には勝てない。そう思うだけで、腹立たしくて、胃が沸騰しそうだった。
不意に目の前が真っ赤になり。
気がつくと、天幕には侍医しかいなかった。
「ど、どうしたのだ」
「それが、大量の血をお吐きになり、意識を失われましたので。 みなさま、曹操軍に備えて、自陣に帰られました」
「おの、れ」
咳き込む。
袁紹はもう一度皆を集めるように侍医に吠えたが、寝床に押さえ込まれた。
「なりません。 興奮すると、命に関わります」
「ならば、竹簡と筆を」
情けないと思いながら、横になったまま、袁紹は竹簡に筆を走らせる。視界が霞みっぱなしで、筆も何度も取り落とし掛けた。
思えば、袁紹はずっと真面目に生きてきた。
袁家の傍流に産まれ、将来を嘱望はされていながらも、袁術の下にいずれ付かなければならないとされていた。
運命が変わったのは、黄巾党が起こり、世が乱れ始めてからである。
絶大な力を持つ袁家と言えども、世襲にこだわってはいられなくなった。袁術から家督を奪い取った時には、嬉しくもあったが、何処か不思議でもあった。そして、袁家のために働かねばと言う使命感と同時に、天下への野心も覚え始めた。
だがそれ以上に、何より部下達を喰わせていくことに必死だった。
乱世では、働かない者はあっという間に駆逐される。君主でもそれは同じ事だ。袁紹は全力で勢力を拡大し、今や曹操とこの大陸を二分する所にまで来ている。だが、それは砂上の楼閣。
今、崩れようとしている砂の城は。ただ、霞のように目の前にちらついていた。
大きな喚声が沸き上がる。案の定、曹操軍が夜襲を仕掛けてきたらしい。
寝台から飛び起きようとしたが、侍医達に止められた。
「曹操軍の夜襲だ! 分からぬか!」
「今、ご子息達が対応しております!」
「あのような無能な者達に、曹操軍を打ち負かせるか! 寝間着のままでいい! 馬車を用意せよ! 其処から指揮を執る!」
叫び、寝床を躍り出ようとするが、抑えられる。
やがて、夜襲の音は止まった。血の混じった汗だらけになりながら、天幕に来たのは、張?(コウ)だった。
「大将軍。 どうにか、敵は撃退しました」
「そ、そうか」
喉から、ひゅっ、ひゅっと音がした。それが袁紹の音だと知って、袁紹はさらなる絶望を覚えていた。
もう、駄目だ。
だから、一刻も早く、決着を付けねばならない。
「明日、曹操軍を、屠るぞ」
張?(コウ)は気圧されたように一歩下がったが、抱拳礼をして、天幕を出て行った。
翌日。再び突撃用の凸字陣を組んだ袁紹軍は、全軍で押し出す。袁紹も馬車に乗り、最前線近くまで自分を進めていた。
いやな予感が、収まらないのだ。曹操軍も、兵を進めてくる。その数は、昨日と殆ど変わらないように見えた。
沮授を呼ぶ。ひょろりとした謀臣は、すぐに来た。
「沮授」
「はい。 大将軍」
「妙だ。 曹操軍に、損害が出ている様子がない」
「分かりませんが、擬兵の計かと思われます。 陣立てを工夫することで、軍勢の数を誤認させる技にございまする」
「目的は読めぬか」
すぐに沮綬は、郭図や逢紀らの謀臣を集める。曹操軍に全く動きが見えないので、彼らも若干緩んだ様子でやってきた。袁紹の前で、なにやら議論を始める。非常に楽観的な理論を述べた逢紀に、慎重論を沮授が述べ返す。一つ、気になったことがあったので、袁紹は聞いてみた。
「許攸めはどうした」
許攸は有力な参謀の一人である。ただし最近あまり袁紹の側に顔を出さなかった。許攸の名を出すと、参謀達はぴたりと会話を止める。
「何か、あったのか」
「それが、しばらく前、袁尚様の勘気に触れまして。 陣から出てこない日が続いておりまする」
「何か妙だな。 本当にそれだけか」
それは、霊感とでも呼ぶべきものであったかも知れない。
袁紹は何度か咳き込むと、霞む目を擦りながら命じた。尋常ではなく、いやな予感がしていたからだ。
「許攸を急ぎ呼んで参れ。 場合によっては、縄を付けてくくってこい」
「わ、分かりました」
如何に状況が状況だといえども、袁紹の命令は未だ全てに優先する。だから、近衛兵達は血相を変えて、許攸の陣に飛んでいった。
そして、帰ってきた彼らは、一様に青ざめていた。
「許攸将軍が、見あたりません!」
「そうか。 奴め、曹操にくだりおったな」
「ま、まさか!?」
「そうなると、曹操がなぜ擬兵の計をしているか、だが」
こればかりは、参謀達が早い。特に、沮授が、興奮したように叫んだ。
「恐らくは、我が軍を此処に引きつけるのが目的かと! 狙いは恐らく後方! 許攸が裏切っていたとすると、我が軍の兵糧が危険にございまする!」
「お、おのれ、曹操!」
「敵が撃って出ました!」
太鼓が叩き鳴らされ、陣から敵軍が飛び出してくる。やはりかなり数が減っているようだが、それでも十万はいるように見えた。迎撃に掛かる袁紹軍だが、敵の動きは昨日よりも鋭く、勢いも猛々しかった。
前線が噛み破られる。袁紹の馬車にも、矢が突き刺さった。慌てて馬首を返そうとする郭図を叱咤する。この男は、いざとなったら、主君を置いて逃げようとするのか。それとも、既に袁紹を主君だと考えていないというのか。
「郭図! おのれ、貴様っ!」
「し、しかし、大将軍!」
黙ってこっそりその場を離れようとしている逢紀も叱咤して、その場に釘付けにさせる。唯一人、沮授だけは剣を抜き、冷静に迎撃の指示を飛ばし始めていた。その間も、恐らく張繍麾下かと思われる騎馬隊が、鋭い動きを見せながら、歩兵隊を蹂躙してくる。その鋭さ、かって見た徐栄の騎馬隊に、勝るとも劣らなかった。
「袁紹様! 兵糧庫に援軍をお送りください!」
「分かっている! 張?(コウ)と高覧の騎兵部隊を、すぐに派遣せよ!」
そう思った瞬間、張遼の騎馬隊が大きく味方の陣を迂回し、後方に回ろうとしていた。それを阻止すべく張?(コウ)隊が動く。だが張?(コウ)隊だけでは抑えきれず、高覧隊もそれに加わった。
正面では韓浩と于禁の大軍勢が展開し、袁紹軍の前衛に対し終始互角以上の戦いを見せている。しかし、徐晃、それに楽進の姿は見あたらない。もし兵糧を襲っているとすると、奴らが出ているのか。
楽進の能力は、袁紹も良く知っている。曹操軍でもまず一二を争う勇猛な男で、淳于瓊では少し荷が重いかも知れない。袁紹は怒濤のように迫る曹操軍を必死に捌きながら、どうにか張?(コウ)隊と高覧隊の制御を取り戻す。張遼には鳥丸の部隊をぶつけて、どうにか動きを押さえ込んだ。
数で勝っているというのに、兵と将の質の差が、露骨に出てきている。もちろん敵も不死身ではないから、何時かは攻勢が止まるだろう。その時は一気に数にものを言わせて、叩きつぶすことが可能だ。
「投石機です!」
馬車から顔を出した袁紹は、遠くの敵陣に、油の入った壺を搭載した投石機が登場するのを見た。あれを此方の陣に投げ込んでくるという訳だ。野戦では本来あまり役に立たない武器なのだが、火の付いた油を密集地帯に叩き込んでくれば、それなりの打撃を見込むことが出来るだろう。
「袁紹様、馬車を少し下げまする」
「どうしてだ」
「この馬車は、投石機の射程に入っておりまする! もしもあれが直撃したら、袁紹様をお救いできるか分かりませぬ」
「沮授よ、愚かな事を言うな! そのようなことをしている暇があったら、攻勢に出て投石機を叩きつぶせ! あのような小細工をしてくると言うことは、敵も相当に限界が近いと言うことだ!」
頭が異様に冴えていることを、袁紹は自覚していた。これは、もう本格的に駄目かも知れない。病人が死の前日、不意に元気になったというような話は、袁紹も聞いたことがある。
更に曹操軍の猛攻は続く。不意に張遼隊が陣形を組み替え、真横から突撃を仕掛けてきたのだ。
その勢いは凄まじく、審配の陣が真っ先に突破された。審配は寡黙な指揮を続けて、必死に防衛線の維持に努めているが、それも限界が近い。審配の陣を突破した敵軍の一部は、立ちはだかった逢紀隊に襲いかかり、何倍もの損害を出させながら、一進一退を繰り返している。
それに呼応するようにして、前方の敵は更に勢いを増す。
袁紹は、もう少し鳥巣に援軍を出したかったが。しかし、とてもそれどころではなくなっていた。
降伏してきた許攸は嘯いた。待遇が悪いから、裏切ったと。自分のような天才を冷遇したのだから、滅べばよいと。
曹操は内心思う所があったが、許攸の言う鳥巣の情報は魅力的であった。だから役に立たないと分かった上で許攸を案内役として、鳥巣に向かっていた。連れて行くのは楽進と徐晃。最精鋭を引き連れ、曹操は急いでいた。
馬を走らせながら思う。林は敢えてこの情報を出さずにいたのだろうと。
奴の性根は見え透いている。
だから、この辺りも、利用する材料の一つとして使ってやるつもりだ。
背を高く見せる鞍は、やはり全力で馬を走らせると、尻に悪かった。ずしんずしんと一歩ごとに響く。これは後で、侍女に膏薬を塗らせないと拙いかも知れない。無言でいる曹操に、許?(チョ)が言った。
「曹操様、俺が担いで走りましょうか」
「痛! あ痛! ん、虎痴よ、気を利かせずとも良い。 これによって、余は更に雄偉なる威容を周囲に見せることが出来るのでな! しかし痛! ううむ、これは考え物だ」
「そうなのですか? 俺には、普段とあまり変わらないように見えます」
「何ッ! それは本当か。 おのれ、あの商人め、余をたばかりおったか!」
許?(チョ)が嘘をつかないのは、曹操としても良く知っていることである。この男は嘘をつくどころか、つけないのだ。だから、側に置いておいて、愚痴を言うのには一番良い。下手に知恵が回らない分、とても深い信頼を置くことも出来る。
だからこそに、曹操は不意に目が醒めた。しかし、今さら馬を下りる訳にはいかない所も辛い。鳥巣までは、これで通さなければならないだろう。
しばらく尻が痛いのを我慢しながら走ると、複雑な山岳地帯にさしかかった。辺りは切り立った山が何処までも連なっていて、谷に人間が蟻のように出入りしている。さらには、車輪の回る音が、此処まで届いてきた。
林が、今頃になって現れる。殺気立つ許?(チョ)を右手で制すると、跪く林に言った。
「貴様、わざと鳥巣の事を黙っていたな。 これは高く付くぞ」
「は、情報が確定できずに、お知らせできませんでした。 代わりにはなりませんが、此方を」
恭しく差し出されたのは、鳥巣の詳細な地図であった。敵はどうやら淳于瓊らしい。奴なら、八校尉として面識がある。それなりの手腕を持つ指揮官だが、後方にいると言うこともあり、油断しているだろう。
流石に尻が痛いので、曹操は馬から下りると、鞍を変えさせた。背が伸びて見えないのなら、こんな鞍に用はない。
敵は谷の下に、補給陣地を作っている。蟻の巣を思わせる、途轍もなく巨大で入り組んだ陣地。曹操はすぐに楽進と徐晃と話し合い、どこから攻めるか決める。適当に攻め込んでも、この陣は落ちない。
しかも味方は一万程度しかいない。多分、この陣に詰めている敵は、味方よりも多いだろう。
しばし地形を検分する。やがて、曹操は結論を出した。
「徐晃、北から火攻めをする。 細作どもを連れて、北に回り込み、片っ端から物資に火をつけよ」
「よろしいのですか」
「かまわん。 我が軍も兵糧は少ないが、袁紹軍が更に少ない状態になれば良いのだ」
もったいないが、仕方がない。
楽進は、火が回った所で、騎兵を連れて敵に突入。狙うのは、将官だ。淳于瓊を仕留めることが出来れば上々である。
曹操は近衛を連れて、谷の上に回り込み、遊撃を担当する。敵の陣は巨大だが、それが故に一度火が回れば、手が付けられない状態になる。其処を効果的に叩いていくのだ。
徐晃が林と供に消え、楽進も配置に移る。許?(チョ)を前に、曹操は感心の声を挙げていた。
「それにしても袁紹め。 凡将と噂されているようだが、これだけの備え、なかなか出来るものではないぞ」
「俺には、難しいことは分かりません。 ただ、袁紹という人は、運が悪かったのだと思います」
「ほう」
「同じ時期に曹操様がいました」
尻がかゆくなるから止せと言うと、本当に許?(チョ)は黙った。素直な奴である。
急がないと、袁紹軍の援軍が来る。もしも捕捉される状況によっては、袋だたきにされて殲滅されてしまうだろう。
やがて、北から火が上がり始める。
敵陣が一気に騒がしくなった。
燃え上がった炎は。谷を吹き下ろす風を使い、一気に勢力を拡げていく。流石は専門家だ。見事な火計である。
「林め、怠慢の分はきっちり働きおるわ。 弓兵! あの将を射よ!」
曹操がめぼしい敵将に、次々と矢を放たせる。谷の上から放たれた矢は、面白いように敵将の眉間や喉に突き刺さった。其処へ、楽進が軽騎兵を連れて突入する。敵陣は、大混乱に陥った。
勝ったと思ったが、しかし。
流石に曹操と戦歴を並べる古豪である。一時の混乱から立ち直ると、淳于瓊は反撃に出た。親衛隊を中心として遊撃部隊を編成すると、曹操軍の本隊めがけて、集中攻撃を始めたのである。また、何と煙を盾にすることで楽進隊の突撃をかわしつつ、消火活動までも始めていた。
降り注ぐ矢。
前に出た許?(チョ)が、さっき捨てた鞍を担ぐと、矢を防ぐ。役に立たない鞍だったが、こんな使い道もあったのだ。尻をさすりながら、曹操は指揮を続ける。
「負けるな! 敵の方が苦しい状況だ!」
位置的には有利だが、数は敵の方が多い。一部の敵が迂回路を使ったか、谷を這い上がり、曹操軍本隊に横撃を仕掛けてきた。許?(チョ)が鞍を掴んだまま、大槍を振るって敵兵をなぎ倒す。
近衛兵達を叱咤し、乱戦の中曹操は見る。淳于瓊が、此方を見ていた。
壮絶な表情であった。
同じ地獄の戦乱を生きてきたものとして、思う所はある。かっての同僚でさえある男だ。しかし、容赦する訳にはいかなかった。
「見つけたぞ! 奴を討ち取れ!」
多分、同じ命令が、同時に飛んだはずだ。後は、凄まじい乱打戦になるのが目に見えていた。
楽進軍が、火と煙に敵を追い込みながら、谷中を駆け回る。敵は敵で、煙と炎を器用に盾にしながら、消火活動と、曹操軍の迎撃を同時に進めていた。
其処へ、徐晃の軍勢が乱入する。
火をつけ終わったからだろう。新たに横殴りに叩きつけられる矢の雨に、敵は明らかに怯み始めた。
しかし、味方も無傷ではいられない。
曹操の側で、白刃がひらめく。血しぶきが飛び散り、首を刎ねられた死骸が、真っ逆さまに谷底へ落ちていった。許?(チョ)も、傷が増え始めている。このままでは、致命的な傷を受けるかも知れない。
曹操の頬を矢が掠めた。曹操は剣を抜くと、次の矢を払い落としながら、叫ぶ。
「正念場だ! 全員、此処で余とともに死ね!」
「おおーっ!」
喚声が上がり、最後の気力を振り絞って、近衛の兵士達が戦う。戦意を奮い起こした彼らが突撃する先、ついに力尽きた淳于瓊軍が、谷底に落ちていく。そんな中、崖をいつの間にか這い上がっていた淳于瓊が、自ら血みどろになりながら剣を振るい、曹操を目指して突き進んできていた。
兜は乱戦の中で失ったらしく、髪を振り乱し、鬼の形相である。
八校尉として、同じ釜の食事をしたこともある。何進の作った、魔性の料理であった。あれは美味しかったなと、曹操は一瞬だけ思い出に浸った。だが、それも、戦場の狂気の中で忘れ去る。
許?(チョ)が鞍を投げ捨てた。針鼠のようになっていた鞍が、燃えさかる炎を噴き上げる谷の下に落ちていく。
「曹操ーっ! その首、貰ったーっ!」
淳于瓊が、最後に残った手勢と供に、突進してくる前に、傷だらけの許?(チョ)が立ちはだかった。そして、槍を揃えて、鬼の形相で突撃してくる淳于瓊軍を、片っ端からなぎ倒す。
曹操も、剣を振るい、一人、二人と敵を斬り捨てた。近衛兵達もそれに闘志を刺激され、全身炎となりながら全員が戦う。
淳于瓊が、その隙をついて、曹操の至近まで迫っていた。
だが、恐れはない。
「曹操ーッ!」
叫びながら、淳于瓊は串刺しになっていた。
迂回して、崖を上がってきた楽進の繰り出した槍が、その体を背中から貫いていたのであった。
楽進軍が、残った淳于瓊の部隊を殲滅していく。
燃え上がる焔。袁紹軍の兵糧は、全て焼け落ち、全滅していた。
「態勢を立て直す! 敵の増援が現れたら、規模次第でそれを各個撃破するぞ!」
曹操は手を叩いて、周囲に指示を出す。気がついた。鎧に、三本も矢が突き刺さっていた。どれも鏃が体に食い込むほど深くはなかったが、それでも痛みはあった。許?(チョ)はまだ曹操を守って立ちつくしていたが、座らせる。手当が出来る兵士を呼んで、許?(チョ)を診させた。
「大丈夫です。 致命傷はありません。 しかし、休まないと」
「許?(チョ)、少し休め。 しばらくは余だけで大丈夫だ」
「はい」
ごろんと焼けこげる血肉の臭いがする大地に、許?(チョ)が言われたまま横になったので、楽進は流石に噴き出した。生真面目なこの男が、噴き出すのを、曹操ははじめて見た。
「楽進。 今回はそなたの一番手柄だな」
「いえ、許?(チョ)どのがいなければ、私は間に合わなかったでしょう。 淳于瓊、手強い相手でした」
「うむ。 戦歴でも余に迫る男であったからな。 あの奇襲を受けた段階から立て直すとは、流石であった」
味方の戦死者は八百、負傷者は三千に達していることが分かった。
もう少しで敗北と呼ばれる段階まで被害が増える所だった。敵はおよそ四千を失い、その五倍ほどが秩序を亡くして逃げ散った。
谷の向こうから、馬蹄の響き。どうやら、敵の増援が現れたらしい。
「敵の増援です! 張?(コウ)、高覧の旗が見えます!」
「数は!」
「八千ほど! どうやら、乱戦の中で、無理に兵を割いて出してきたようです!」
「各個撃破の好餌だ。 不意を突いて、残らず討ち取ってしまえ」
やや乱暴な命令を出すと、曹操は自分で指揮をすることもないと考え、許?(チョ)の横に腰を下ろした。
何と剛胆にも、許?(チョ)はいびきをかき始めている。
この男の忠誠に値する主君として、今日は振る舞えただろうか。曹操はそんな事を、考えていた。
傷だらけの伝令が、袁紹の馬車の側に跪いた。
袁紹はぼんやりとした意識の中で、考え得る限り最悪の報告を聞いていた。
「鳥巣の兵糧庫は全滅。 援軍に向かった張?(コウ)、高覧将軍の軍勢も壊滅。 淳于瓊将軍は恐らく戦死。 張?(コウ)、高覧将軍は、敵の捕虜になった模様です」
「お、の、れ」
「袁紹様! いかん、薬湯を!」
胸に熱いもの。
袁紹が気付くと、大量に吐血していたらしい。横に寝かされて、侍医達が走り回っていた。何処か他人事のように袁紹はそれを見ていた。ぐらりぐらりと揺れているのは。馬車が全速力で走っているからだろう。
「一旦、兵を引け」
「既に撤退戦を始めています。 しかし、敵の追撃が厳しく。 味方は、大きな被害を出しているようです」
そうか。
あの鳥巣の守りを撃ち抜かれたか。
流石は曹操。後の世で英雄と讃えられるのは確実であろう男のやることは違う。不思議と、静かに袁紹はそう認めていた。
側に、沮授が立つ。多分生者ではないと、袁紹は思った。
「沮授か。 味方の被害は」
「戦死、約三万八千。 負傷は十万を超えています。 捕虜になった兵も、五万近いかと」
「そうか。 壊滅だな」
「はい。 しかし、再起は可能です」
ぼんやりと、袁紹は礼をして消えていった沮授を見つめていた。そして、代わりに田豊が現れる。
「との。 もはや遅いかも知れませんが、跡継ぎを決めなされ」
跳ね起きる。
周囲には、誰もいない。
侍医達は、袁紹を見ていない。袁紹は、揺れる馬車の中で、孤独に横になっていた。
まだ、まだだ。
もはや体はどうしようもない所まで衰えたかも知れないが、再起は可能だ。沮授が言ったとおりに。
死ぬことは、もう避けられない。
だが、それならば。まだ、最後に一花咲かせてみたいとも思う。跡継ぎに関しては、どうしようもない。ただ、三男の方がまだマシだろうとは思ってはいた。
竹簡と筆を持ってこさせる。そして、さらさらとしたためた。跡継ぎは三男、袁尚と。
はっきりいって、長男の袁譚は使い物にならない男だ。三男もそれに等しい存在だが、人望から考えるとまだ少しはましなようである。だから、こうする。
「これを、?(ギョウ)に戻ったら、発表する。 諸将にも伝えておけ」
そう侍医に手渡すと、袁紹は横になって目を閉じた。
頭だけではなく、体も軽くなりはじめている。これは、ますます死が近いなと、袁紹は思った。
兵糧を失い、撤退する袁紹軍を叩きに叩いた曹操軍は、意気揚々と帰還、する訳にはいかなかった。
確かに袁紹軍には勝った。文句のない大勝利だ。
だが、敵の兵力はもとより二倍以上、しかもかなり余裕がまだあるのだ。すぐに勢力を整え直して、出陣してくるのが明らかだった。
曹操は天幕に戻ると、すぐに横になり、侍従に腰を揉ませた。
「うむうむ、尻の方も揉め」
「俺がやりましょうか」
「いや、お前がやると体が砕けてしまうから駄目だ。 それよりも、次の戦いはすぐにあるぞ。 だから、お前は休め」
曹操は目をつぶりながら、体中を包帯だらけにしている許?(チョ)にそう応えた。許?(チョ)は素直に出て入ったが、天幕の外で横になったので、他の武将達が唖然としていた。曹操を守るつもりなのだろう。
非常識ではあるが、許?(チョ)の実力と忠誠心は誰もが認めている。そして、無私で公平なこともである。許?(チョ)をまたぐ訳にも行かず、横の狭い空間を通って、楽進、于禁、李典、張遼、徐晃、韓浩ら、諸将が天幕に入ってくる。夏候惇、夏候淵ら一族と、曹仁、曹洪らの一族もそれに続いた。えらそうな顔をした許攸もそれに加わっていた。
一同を代表して、夏候惇があたまを下げる。戦の才は無い男だが、まとめ役としては有能だから、こういう行動が許されるのだ。
「戦勝、おめでとうございます」
「まだ早いわ。 袁紹が死ぬまでは、安心できんぞ」
「分かっています。 しかし、袁紹の死期は、もはや間近と報告も入っておりまする」
楽観的な事を言い出したのは、曹真であった。曹操の一族の中では若い将であり、かなり頭脳が明晰で、特に戦略面では驚くべき才を秘めている。曹操は横になったまま、恐縮した顔で腰を揉んでいる侍従をちらりと見やった。
退出していく侍従を見送ると、寝台に腰掛ける。
「袁紹は、死ぬ前に不意に精気を取り戻したようだ。 なかなかに侮れぬぞ」
これは、本音の発言だ。
確かに、断末魔の一瞬、不意に輝きを増すものはいる。乱世に生きてきて、曹操は幾度となくそうやって光り輝いた者を見てきた。袁紹も間違いなくその一人だろう。そして奴は、最後に、曹操に一矢報いてきそうである。
「敵の勢力は、まだ我が軍を上回っていることもある。 兎に角、油断するな。 負傷者は後方に下げ、兵力を整備しろ」
「それに関してなのですが、兵糧に関しても、かなり厳しい状態です。 袁紹軍の捕虜を、後方に回し、屯田兵として活用したいのですが、よろしいでしょうか」
「構わぬ。 そうやって、少しでも田畑を増やせ」
「分かりました。 ただ、一つ問題がございます」
韓浩が言うには、捕虜を直接屯田兵にすると、あらぬ悪評が立つ恐れがあるという。武人としての待遇をしていない上に、降伏しても対応が著しくまずいものになるという事が風潮されるかも知れないという。
「ならば、捕虜は殺してしまったことにせよ。 数は適当にでっち上げればよい」
「それは、多少乱暴ですが、よろしいのですか」
「かまわぬわ。 もとより、河北の兵馬は我が軍の恐ろしさを知らぬ。 それを補う意味でも、一石二鳥の策となろう」
「分かりましてございまする」
一礼すると、韓浩が出て行った。兵糧は、韓浩に任せておけば問題ない。宰相としても充分に活躍できる男である。それに、河北の兵馬は養うには少し多すぎる。彼らの腹を満足させられるように、今の内から韓浩に膨大な兵糧を蓄えさせる必要もあるし、当然の処置である。
その後は、論功行賞に移る。一番手柄は文句なしに楽進。これは淳于瓊を討ち取ったこともあるし、当然のことだ。二番手柄は張遼。兵糧を焼かれ、浮き足だった袁紹軍を徹底的に追撃し、完膚無きまでに大破した功績を称えてのことである。
他にも何名か、めざましい働きをした者を賞していく。そして、満足した様子で、諸将は出ていった。
「曹操様」
最後に、拝礼したのは、許攸だった。
此奴にも、それなりの褒美はくれてやらなければならない。そうしなければ、これから曹操に下ってくる者はいなくなるだろう。
苦虫をかみつぶしながらも、曹操は竹簡を手渡した。
「そなたにも賞は用意してある。 案ずるな」
「当然です。 このたびは、私のおかげで勝てたようなものですからな」
けたけたと、気味が悪い笑い方をした。曹操は内心で失笑しながら、それなりの金品を渡してやった。どのみち、こ奴は用済みだ。機会を見て消してしまうつもりである。優秀ならともかく、袁紹軍の中でも、能力が足りなかったから厚遇されず、それを恨んで曹操に下ってきたような男である。
有能でない奴を、厚遇してやる意味はない。
慎み深ければ、それも良いだろう。だがこの男、さっきの発言にも見られるように、その性質は傲慢にて身の程知らずである。生かしておけば、必ずや曹操軍全体にとって、禍いになることであろう。
部下共が出て行くと、やっと天幕の中は静かになった。
そういえば、曹丕は少し前から出陣させているが、非常に影が薄かった。そろそろ、部下達を纏め上げるような行動を見せて欲しいものである。手を叩いて呼ぶのは、賈?(ク)であった。
賈?(ク)は相変わらず、とても善良そうな笑みを浮かべていた。悪魔的な謀略の達人とは、とても思えないが、しかし。人は見かけによらないし、判断してもいけないものである。
「如何なさいましたか」
「曹丕の教育係をして欲しいと思ってな。 お前なら、それくらいたやすいだろう」
「曹丕様を、跡継ぎとするつもりと言うことでしょうか」
「そう言うことだ。 彼奴は少し暗い所があるが、今の内にしっかり鍛えておけば、余が冥府に行くころには、立派に育っているだろう。 死の間際まで跡継ぎを決めず、結果内部がごたついた袁紹の二の舞にはなりたくないからな」
賈?(ク)が出て行くと、やっと一通りの作業が終わった。
寝台でごろりとなると、今までの疲れがどっと襲ってきた。
休む時には休んでおかなければならない。多分河北を落としたら、内部の敵とも苛烈に戦わなければならなくなってくるからだ。
今の内に、休んでおこう。
目を閉じながら、曹操はそう考えていた。
(続)
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