哄笑する邪悪

 

序、渡河作戦

 

長大な野戦陣が、黄河の北岸に張られている。その中にひときわ巨大な天幕があり、少し前から大将軍を名乗るようになった袁紹は腕組みして、渡河作戦の推移を見守っていた。

今回、曹操が決戦兵力として、十五万から二十万の兵を用意してきているのは分かっている。これに対して、袁紹は約二倍である三十万の兵を準備し、なおかつまだまだ兵力の備蓄には余裕があった。

しかし、である。

速攻を得意とする曹操軍は、全く動く様子を見せず。黄河の対岸にて、分厚い野戦陣を展開し、沈黙を続けている。既に黄河の対岸にて、陣の構築を始めている顔良が、不気味だと報告を返してきていた。

ふと袁紹が側を見ると、咳の音がした。

「これは、申し訳ありません。 わしとしたことが」

「羊か。 陣の中に直接で向いてくるとは珍しいな」

「ほほほ、どうやらもう体がまともに動く時間が限られているようでしてな。 最後のご挨拶に参りましたわ」

羊はまた一つ咳き込んだ。うさんくさそうに、文醜がその様子をにらみ付けている。文醜は武人らしく、裏の仕事をする細作のことは嫌っていた。袁紹が死んだら、こういった小さな諍いが、大きな争いに発展しかねないと思うと、気が重かった。

「曹操側に、動きはあるか」

「どうやら、それがおかしな事に、水を打ったように静かでしてな。 或いは曹操は、どこかに別働隊を派遣しているのかも知れませんぞ」

「ふむ、そうなると、恐らくは……徐州か」

連携を取り始めている劉備は、徐州に孤立した状態だ。状況次第では曹操の背中を討つことも可能な態勢だが、しかし。曹操がそれを見逃すほど甘い男かというと、答えは否であろう。

羊も様子を探れないと言うことは、多分あの林が配下の細作達を押さえ込んでいるのだろう。そして、恐らくは。

「死ぬ気か、羊よ」

「ほほほ、気付かれましたか。 最後のご奉公を、させていただきまする」

「林は、最強最悪の細作だぞ。 無駄死にになりはしないか」

「何、この老骨も、最強を謳われた事がありましてな。 相打ちくらいには、持ち込んで見せまする」

咳き込むと、羊は一つ微笑んだ。

そういえば、羊も袁紹と同じく、跡継ぎに恵まれないと嘆いていたのだった。大丈夫なのだろうかと心配したのだが、細作の組織にまで、袁紹は構っている余裕がない。

不安は感じた。

だが、それでも。

羊は既に姿を消していて、声を掛ける時間は残っていなかった。

袁紹自身も、馬鹿息子達の中から、誰を選ぶか、決め切れていない。話に聞くと、劉表も同じように、息子達には恵まれていないのだという。同情を覚えると同時に、いつまで自分の時間があるのか、恐怖さえ感じるようになり始めていた。

手を見る。

震えの頻度が、酷くなり始めていた。

「袁紹様、どうしました。 お化けなど周囲にはいませんぞ」

「お前のそのたわけな発言が、今は心地よくさえある。 だが、もう儂には、ほとんど時間がないかも知れん」

よく分からないと言った表情で、文醜は小首を傾げていた。未だに四則演算も出来ないというこの文醜だが、しかし得難い男であることに違いはない。忠誠心に嘘はないし、何より武力だけなら他の誰にも勝っている。

「もしも、曹操がいないのであれば」

「その時は、袁紹様が天下統一を果たせていたでしょう」

「そうだな。 しかし今は、官都の話をしている。 ひょっとすると、曹操が官都にいないのであれば、好機であるやも知れん」

渡河作戦を実施すると、そう言おうとした瞬間。

予想もしなかった事態が、袁紹の身に降りかかっていた。

 

物見櫓の上から、袁紹軍先発隊の顔良軍の状況を見ていた郭嘉は、思わず指を鳴らしていた。

徐晃が走り寄ってくる。

「渡河作戦を実施しようとしていた袁紹軍が、行軍を停止したという報告が入った」

「くくくく、予想通りだ」

「何か仕掛けたのか」

「うむ。 林の配下の細作を使い、二つほど奴らの背後に罠を仕込んでやった」

一つは、袁紹軍に押さえ込まれていた鳥丸族である。遊牧民であり、袁紹軍の騎馬隊を担ってもいる鳥丸だが、その戦闘力を警戒した袁紹は、常に監視を怠らない状況である。それが故に扱いも厳しく、不満が蓄積しているという報告を、郭嘉は受けていた。

もう一つは、袁紹軍内部の不満分子である。

今、袁紹軍は内部で二つの勢力に別れていて、それぞれが陰湿な争いを繰り広げている。どちらも跡継ぎが長男になるか三男になるかで大きな賭をしており、既に譲れない状態なのが実情だ。

袁紹が若かったころにはこのような争いもなかったのだが、年老いて判断力が鈍り始めてから、このような事になり始めた。案の定、足下は不安要素だらけで、引っかき回すのは難しくなかった。

しかも彼らは、旧公孫賛勢力と結びついていることが分かり始めている。その上、この間曹操に降伏した黒山賊の残党もそれに参加しているので、火種は充分に育ち揚がっていたのだ。

そして、郭嘉のえげつなさは、それだけではなかった。

櫓の梯子を下りる郭嘉を、徐晃は呆れ気味に見守っていた。冷静で沈着なこの男も、郭嘉の陰謀のえげつなさには閉口気味であった。

「最初の罠は、鳥丸族の蜂起の兆候ありというもの。 二つ目は、旧公孫賛派の家臣達の、謀反の兆候ありというもの。 それらに加えて、今回袁紹の息子が寝込んでいるらしいから、それをねたにしてやったわ」

「えげつない男だ」

「袁紹は、息子の病が心配で動けない。 どうだ、徐晃。 このような噂を流されて、なおも袁紹の下につく武人がいようか。 いや、いまい。 ふ、ふはははは、はーっはっはっははっははは!」

郭嘉は反語を使って喋ってみせると、手を叩いて大爆笑した。真っ青になっている兵士達がその周囲で少し遅れて笑い始めた。そうしないと、後で何をされるか分からないからだ。

敵は、動こうとしない。

もちろん此方から仕掛けたら、敵も渡河作戦を実施して、増援を送り込んでくる事だろう。それを考えると、仕掛ける訳にはいかない。だが、今するべきは、曹操が徐州を落とすまでの時間稼ぎだ。郭嘉の策は、充分に功を奏した。

「それにしても、林という細作の有能な事よ。 使いがいがある」

「私は、奴を好かん。 目の奥に秘めている邪悪が深すぎる」

「そんなものは関係ない。利用しているだけなのだからな」

もう一つ、郭嘉は笑った。

徐晃は、それに合わせて、大きく歎息した。

現在、新しく配下に加わった張繍、張遼。それに古株の楽進を連れて、曹操は電撃的な徐州攻略戦を実施している。そろそろ袁紹の所に、救援要請が届くころだろう。劉備は決して無能ではない。

だが、郭嘉の謀略により、袁紹は動きたくても動けない。あまりこういうやり方を、徐晃は好いていなかったが、しかし今は正面を気にしていれば良いので、その点は楽だとも言えた。

「これはお二方」

「于禁将軍」

「これはこれは」

上品な口ひげを整えた于禁がやってきた。温厚な性格と紳士的な行動から、折衝役を務めることが多くなり始めている于禁は、重要な情報を持ってくることが多いので、徐晃は少し緊張した。

「実は、林から警戒の伝令が飛んできました」

「ほう?」

「袁紹の細作を束ねている羊が、近々死ぬそうです。 死ぬ前に、大きな攻勢を仕掛けてくる可能性が高いだろうと」

「ふむ、細作などに遅れは取らぬが、しかし面倒なことに代わりはないな」

正面からの戦いで、徐晃は細作に遅れを取ることはないだろう。彼らの真骨頂は、裏口、影、闇からの奇襲だ。想像もつかない方法で襲いかかってくる彼らを、どうやって撃退するかは、頭を悩ませる所である。

「兎に角、ゆめゆめ油断なされますな」

「分かっている。 于禁将軍も、お気を付けて」

いやな予感は、加速していく。

そしてそれは、後に現実のものとなった。

 

1、汝南へ

 

紀霊が気がつくと、木を背に、座り込んでいた。体中が痛いが、感覚がある。思わず、天を仰いでしまった。

何が起こったのかは、分かっている。

徐州で、劉備に敗れた後。荒れ狂うようにして戦っていた。関羽か張飛にあって、せめて華々しく散りたい。そう思ってもいたのだが、敗残兵と本気で戦うつもりが無かったらしい劉備は、すぐに追撃戦に移り、紀霊を相手にはしなかったのである。

戦い抜いて、そして。

いつのまにか、こんな事になっていた。

こうなってしまうと、自害するしかないかとも思ったが。しかし、シャネスという細作の言葉も気になる。それに、妻子のこともある。命を投げ出すようなことは、出来ればしたくなかった。

立ち上がって、そして。近くの街で鎧を売り払って当面の旅費を作ると、紀霊は当てもなく歩き始めた。家族のことはあるが、今更どの面下げて会いに行けようか。そう思うと、足は自然と、西に向いていた。

今まで袁家に従って、中原や司隷の辺りは旅をしたことがある。しかし益州や西涼は行ったことがない。むしろ、その辺りを目にしてみたいとも思っていた。

忠義という枷が外れてから、紀霊はむしろ気が楽になるのを感じていたかも知れない。

しばらく徐州をふらついて、気がつくと状況が激変していた。どうやら徐州を劉備が乗っ取り、曹操が討伐軍を差し向けたらしかった。

率いる軍もいない紀霊は、一武人として、その様子を見守ることにしていた。

 

徐州城の劉備の部屋。質素で、飾り気がない其処で、陳到は思わず、劉備に聞き返していた。

「何ですと」

「家族を、汝南に避難させる。 その後、荊州に向かわせる」

「この徐州を、捨てると仰せですか」

「そうだ。 もとより、乗せられてしまった反乱だ。 だから、此方としても、最初から負けることは想定しておかなければならない」

呻いた陳到は、しかし。指示通りにしなければならないとも思った。実際問題、家族の身を考えるのならば、そうするしかないのである。そして、乗せられた反乱だというのも、事実だった。

劉備も最初から独立を考えてはいた。そう、重臣達には、常々語っていた。

しかし、それには時期が早いとも言っていた。

もとより徐州は守りにくい土地であり、多くの兵を養うのも難しい。そして、何より。曹操の率いる軍勢は、恐ろしく強い。関羽と張飛がいても、簡単には撃退できないほどに、である。

「分かりました。 そしてその役を、私がすれば良いのですね」

「そうだ。 関羽と張飛は側にいて貰わないと困る。 かといって、優秀な指揮官は限られている。 だから、頼む」

「分かりました」

「もう一つ。 汝南に、地盤を築いていて欲しい。 これから私は袁紹の所に向かって、皆の家族から曹操の注意を逸らすつもりだ。 いずれ袁紹に何かしらの事を言って汝南には向かうが、その時に裸一貫では心苦しいものもある。 だから、頼めないか」

劉備の言葉は切実で、そして心苦しくもあった。

陳到は汝南へ、即日向かった。率いる兵は五千。これは、古参の劉備軍、全てであった。劉備はと言うと、曹操から徐州を奪う時に手に入れた兵だけをつれて、形式上だけ各地を固めていた。これは時間稼ぎのためだろう。

本格的な抵抗も、する気はないと言っていた。

そして、徐州には、陳登と陳珪を残すそうである。彼らは、徐州のことを知り尽くしている上に、ある程度有能だ。だから、曹操も無碍には扱わないだろうし、むしろ徐州を任せるだろう。

其処まで読んでいた劉備には感心したが。しかし、それでもどうしようもないこの乱世に、少し陳到はうんざりし始めていた。

五千の兵を引きいて、陳到はまず汝南へと向かった。徐州からほど近い上に、南部は未だ無政府地帯で、曹操の手も及んではいない。穀倉地帯として魅力的な場所なのだが、地形が入り組みすぎていて、なかなか統治が及ばないのだ。その上袁術が無能な統治を続けていたので、民の心も荒れ果てている。

五千の兵士達には、現地で偽装するための、農民の服などを支給してある。当面は無人になった村に入るか、或いは山賊をしながら、勢力を拡げるつもりだ。山賊と言っても、民を苦しめるのは性に合わないから、曹操軍だけを襲うつもりだが。

案の定だが、妻はいい顔をしなかった。馬車に揺られて、二人の子供をあやしながら、妻は口を尖らせる。

「折角都で豊かな生活が出来たのに、劉備という人は何を考えているんですか! 反乱なんか起こしたりして、気が知れません」

「そういうな。 今回は、劉備将軍のせいではないのだ。 都で悪巧みをしていた連中がいてな。 そやつらの手によって、劉備将軍は反乱に追い込まれたのだ」

「どうでしょうね。 きっと一緒に悪巧みをしていたのに違いないわ」

「いい加減にしろ!」

滅多に怒らない陳到が声を荒げたので、流石に妻も黙り込んだ。

子供達も呆然として、陳到を見ている。

「皆のことを心配したから、早めに私に汝南へ行くようにと、劉備将軍は言ってくださったのだ。 その恩も考えようとせず、そのような寝言をほざいていると、この場に放り出していくぞ」

「あ、あなた、ごめんなさい」

「分かればいい」

分かってくれればいいのだ。不満も、大概のことは聞く。自分の悪口だって、受け容れよう。無能なのは事実だからだ。

だが、劉備への悪口は許せない。今までは我慢もしてきたが、人格を否定するような発言に関しては、流石に勘弁ならなかった。妻としても、不満があるのは分かってはいた。だがだからといって、許せることとそうではないことがあるのだ。

次に言ったら離縁すると言うと、流石に妻も蒼白になる。当然の話で、元は農民に過ぎない妻に、再婚の相手などいないし、いたとしても陳到よりましな相手であるはずがないのだ。

汝南に着くと、自分の立場を理解したか、流石に妻も以降は大人しくなった。

権力にものを言わせて黙らせたようで気分が悪くはあったが、それ以上に、劉備を馬鹿にされることは許せなかった。それに、劉備を馬鹿にすると言うことは、今まで陳到がしてきたことを、全て否定すると言うことではないか。

まず最初にするべきは、周囲の山賊の状況を調査すること。そして、彼らを糾合できないか、試みることであった。それと同時に、劉備と、家臣達の安全も確保しなければならない。

部下達を散らせ、自分でも彼方此方を歩き回る。丁度いい廃村があったので、其処に劉備や重臣達の家族を置くことで、安全は確保した。他にも幾つかの廃村を見つけた。汝南は屯田が始まっているらしいのだが、南部は未だに混沌たる有様で、曹操の手も入っていないらしい。曹操としても、手が回らないというのが実情なのだろう。それに、ある程度体力のある者達は、皆北に向かって、曹操の領地に組み込まれている。既にこの辺りの農村は、廃墟と言って良い状況であった。

賊の状況も分かってくる。汝南にいる賊達は、いずれも黄巾党の生き残りである。ただし、この間の曹操の討伐により、顔役であった何儀が死んだことで、統率を取るものは存在していない。ただし脅かす民もいないので、皆大人しいものであった。

部下達が集めてきた情報を、少しずつ整理していく。そうすると、劉僻という男と、?(キョウ)都と呼ばれる男達が、残存勢力を指揮しているという事も分かってきた。分かっては来たが、しかし。その残存勢力とやらも、集めてせいぜい一千程度で、しかも敗残兵ばかりであり、とてもではないが兵力として数えられない代物だと言うこともはっきりしてきた。

そうなると、これからが問題だ。

もとより、曹操とある程度対抗しなければならないのである。荊州に最終的に逃れるとしても、つなぎにもならないようでは意味がない。それに、袁紹と同盟して行動していくのであれば、最低でも曹操軍の一部隊程度は引きつけられなければ駄目だ。戦略的に価値がなければ、今の時代、どの群雄も見向きもしないのだ。

今回、陳到には糜兄弟が付けられている。名家の出身者である彼らには、苛烈な曹操軍による追撃を耐えるのが難しいからだろうという、劉備の判断からである。同じように孫乾も此方に回される予定だったのだが、彼に関しては外交手腕を期待されて、劉備の元に残された。

一月ほどかけて、まず劉僻らを手元に招いて、配下にした。彼らも曹操には怯えきっていたから、共同戦線を張ろうという話には、一も二もなく飛びついてきたのだ。こうして、五千の兵は六千少しになったが、しかし。これを訓練して、ある程度使えるようにするまでは、大変だった。

元々ガラが悪い連中であり、組織的な行動など身につけたこともない。一応黄巾党と名乗っていた時期もあったようだが、張角とは会ったこともないどころか、組織的につながりもないような連中ばかりで、もちろん思想や理想も受け継いでいない。陳到は数ヶ月掛けて彼らを訓練するのと同時に、さらなる兵力の増強を図ることにした。幸いなことに、兵糧だけはある。問題は武器だが、これに関しては、陳到には宛があった。

田家。国譲の実家である。

最近ようやく黄河を闇商人が渡るようになり、田家などの大手商家と、更に個人経営の小型商家が蠢き始めていた。それに合わせて、管理が甘い袁紹の軍から、物資の流出が始まっているという。それをどうにかして手に入れられれば。部下を走らせて、状況を探らせる。少しずつ、準備は整い始めていた。

そうこうする内に、北の情報が伝わってきた。

案の定、劉備軍は曹操軍に完敗。軍は木っ端微塵に打ち砕かれ、幹部達は行方も知れないと言うことであった。

 

自分の軍勢を打ち砕いた劉備軍が、蹂躙されていく。紀霊は山の上からそれを見て、大きく歎息した。

上には上がいる。

あれほどの精鋭だった劉備軍でも、こうも簡単に打ち砕かれるのであれば。雑兵同然だった袁術軍では、歯が立たないのも当然なのかも知れなかった。

曹操軍は疾風のように現れると、まずいきなり徐州の中央部に割り込み、徐州城、小沛、それに下丕の連絡線を遮断した。そして曹操自らが率いているらしい機動軍が疾風のように、三つの拠点をそれぞれ攻略していったのである。

劉備軍は戦意も低く、二度、三度と反撃をしたら、そのまま散り散りに逃げるか、降伏してしまった。劉備自身は北へ、張飛は南へ。そして関羽は厳重に包囲されて、どうやら降伏したらしかった。

今、紀霊が見ているのは、残存勢力狩りである。基本的に二線級の相手ばかりさせられている夏候惇が、はりきって生き残った劉備軍を叩きつぶしていたが、勝てて当然の相手である。見ていて苛立ちばかりが募ってきた。

腕組みすると、紀霊はこれからどうしようか、真剣に悩む。

最初は西へ行こうと思った。しかし、曹操軍のこの強さは、尋常ではない。このまま曹操によって、中華は一気に併呑されてしまうのではないかと思えてくる。それは、決して妄想ではないだろう。

袁紹も強い。袁術とは比較にならないほど才気を持っていたから、袁家の嫡流を継ぐことが出来たのだ。

だが、曹操は別格だと、今の戦いを見ていて分かった。劉備も袁紹も、いずれも時代を代表するような英傑達だ。しかし、曹操に比べてしまうと、その姿も霞んでしまう。敵ながら、天晴れという他無かった。

「驚いた。 生きていたのか」

「シャネスであったか」

振り返ると、右手で肩の傷を抑えたシャネスがいた。左手には、血にまみれた剣を手にしていて、滴が滴っている。

どうやら曹操軍から逃げてきて、たまたま出くわしたらしい。もう戦う理由もないし、殺気も感じなかった。

「大丈夫か?」

「ああ。 それと、私に手傷を負わせたのは、曹操軍ではない」

考えを先読みされたようでちょっと驚いたが、考えてみれば論理的に思考を進めれば誰でも思いつく程度のことだ。

すぐにその場を離れようとするので、慌てて後を追った。不審そうに振り返るシャネスを、ひょいと抱え上げる。

「何をする」

「手傷を負った相手を、放っておけるか。 ましてお前には、色々と恩もある」

「妻子がいる人間がする行動か」

「下心なんぞないわ。 お前みたいな洗濯板相手に興味が湧くか」

そう言うと、頭をごつんと殴られた。

しばらく潜伏するのに使っていた、山奥の村に連れて行く。典型的な廃村だが、井戸もまだ生きていて、生活するには適切な設備が整っている。紀霊はシャネスを廃屋の一つに匿うと、自身は一つだけ売らなかった大長刀を手にして、外に出た。

家の中から、着替えをする音がする。手当くらいは出来るといっていたので、それを尊重することにした。

忠義という、今までの支えが抜けてから、しばらくは目的が何もなかった。

だからこそに、何かをしようと思うと、それが逆に楽しいのかも知れなかった。

「着替えは済んだ」

「そうか。 しばらく休んでいろ。 私が此処で見張りをする」

「……真面目な奴だな」

「お前に言われたくはない」

似たもの同士だから、反発するのかも知れなかった。

外に殺気はない。じっと周囲の気配を伺っていると、奥でシャネスが言った。

「今回の敗北は、予定の通りだった。 しかし、予定通りにはいかない部分があったのだ」

「というと」

「曹操の速攻だ。 もとより曹操は恐ろしい男だが、それにしてもあの速攻は異常すぎたとしか思えん。 それで私は調べていたのだが、どうやら我が軍の配置は、林の手によって、全て筒抜けだったようだ」

「林というと、あの最強最悪の細作か」

そうだと、悔しそうにシャネスは言った。

紀霊も聞いたことがあるくらいだから、林の恐ろしさは相当なものなのだろう。噂によると、戦乱で死んだ英傑達の何人かは、戦死ではなく、林によって屠られたのではないかという話である。

「私は部下達を先に待避させると、林に戦いを挑んだ。 だが、この有様だ」

「生きているだけ良かったではないか」

「……少しは腕も上げたつもりだったのに。 これでは、命を落とした部下達に、申し訳がたたん」

この辺りは、所詮は年若い娘という所か。

紀霊も、娘には随分手を焼かされた。だから、シャネスの扱いは、少しは分かる。しばらく放って置いた方が良いと思い、外を見回ってくると言い残して、村の外に出た。

しばらく、無心に長刀を素振りする。

こうしてみていると、袁術への忠義が如何に空虚だったのか、今の年になって分かってくる気がする。袁術自身についての友情は未だに感じているが、しかしそれでも、やはり忠義を取り違えていたとしか思えない。

シャネスの劉備に対する忠誠は、全く紀霊のものとは別質だ。話していて、そうだとしか思えなかった。

素振りを続ける。全身が汗ばんできた時。後ろから気配がした。

どうやらかなり時間が経っていたらしい。

「ありがとう。 世話になった」

「借りを返しただけだ」

「そうか。 良ければ、汝南に向かってくれないか。 今、そちらで陳到将軍が、劉備将軍のために、地盤作りをしている。 人材は、一人でも必要なはずだ」

「私は袁術軍にいた男だが、それでもいいのか」

振り返ると、もうシャネスはいなかった。

何か幻でも見たのだろうと思うことにして、しばらく長刀を振るう。

そして、一段落した所で。

言われたとおり、南に向かうことにした。徐州の壊滅を直接見届けたのだから、それも良い手みやげになるだろう。

それに、劉備ならともかく。曹操に従う気は、流石に紀霊にも起こらなかった。多分仕官しても、曹操は能力的に劣る紀霊になど見向きもしないだろうし、何より若干の嫌悪感がある。

無言で、足を進めた。不安感はあるが、それでも動かないよりはましだった。

山を下りると、既に周辺の村々は、治安を回復し始めていた。シャネスが言ったとおり、この負けが予想されていたものだとすると、負けたと言うよりも、明け渡したというのが近かったのかも知れない。混乱も最小限で済んだようで、街を見て回ると、治安も回復しているのがよく分かった。

曹操軍はあまり高圧的に振る舞うこともなく、陳登と陳珪を統治者に据えて、軍事的な監視として張遼を置いたのだと、酒場で小耳に挟んだ。それならば、民も安心するだろう。陳親子は元々徐州の出身で、しかも自分の土地のことを最優先で考える者達だ。そして張遼も、徐州の駐屯経験がある。上手に統治を補助することが出来るだろう。

そのまま徒歩で徐州を抜けた。南の山岳地帯にさしかかるころには、曹操軍と袁紹軍が小競り合いを始めたと、耳にはいるようになり始めていた。

袁紹軍の軍事力は、曹操軍に二倍する。

袁術軍が袁紹軍に加わっていたら、その格差は更に開いていただろう。

北では歴史の渦が怒濤の波濤になっているにもかかわらず。紀霊は未だ、己が何を為すべきかも分からず、ただ茫洋と彷徨い続けていた。

 

黄河を渡るのは、どう見ても袁紹軍の軍船であった。しかも袁紹直接指揮にあるかのように、袁の旗さえも掲げている。

「子龍、この船は、敵に攻撃されないのか」

「迅速に行動すれば問題ないだろう。 ただ、何度も敵の見張りに見つかると、怪しまれるだろうな」

船縁から面白そうに黄河を覗いていたジャヤが、目を輝かせて言う。正直な話もてあまし気味だが、自分を頼ってくる子供を無碍にも出来ない。趙雲は困ったものだと思いながら、好きなようにさせていた。

潜伏から三ヶ月。公孫賛軍の残党狩りが一段落した。

公孫一族の内、戦えそうなものはあらかた袁紹軍に下ってその配下になり、或いは更に東の遼東の地まで逃れて、其処にいる公孫賛の遠縁、公孫度の庇護下に入った。公孫度は公孫賛とは仲が悪かった上に、袁紹と同盟を結んでいる。これ以上の捜索は、曹操との決戦を控えている以上、やぶ蛇になりかねない。

そう判断したのだろうと、国譲は笑顔で言った。

もとよりえげつない策謀で田家を一気に立て直したと聞いている男である。用意はいちいち良く、手際も恐ろしい。幼いころから劉備の配下で鍛えられたと言うこともあるだろうが、乱世と言うことを差し引いても、大したしたたかさであった。

船には武器の類の他にも、馬が何頭か乗せられている。ジャヤは遊牧民の出身らしく馬を見立てることが出来て、それによって儲けることが出来た国譲が、譲ってくれたのだ。額に白い点がある馬をジャヤはお気に入りで、バアトルと名前をつけてかわいがっていた。馬の方も、驚くほどジャヤには正直に従っていたから、これは天性のものだろう。

一方、本人が出来ると言っていた馬術と弓術は平均的で、まあその辺の兵士よりは少しはマシという程度であった。弓術に関しては、動物を狙っての狩りであれば見事な技を見せられそうであったが、人間を討つとなると難しそうである。

用心棒として、途中二度、破落戸を趙雲は討った。その時ジャヤには見せたくなかったのだが、彼女は大喜びしていた。人が死ぬのを見て大喜びするのは良くないと思ったのだが、彼女の民族では、敵を屠ることが出来る勇者は立派な存在で、それを夫に出来るというのは幸せなことなのだという。

夫だのなんだのはちょっと困った話だが、そう言われると怒るのも難しくなってしまう。結局、趙雲は、尻尾を振ってまとわりついてくる子犬のようなこの子供との距離を、未だに測りかねていた。

「ところで、子龍。 この大きな川を渡った後は、どうするのだ」

「まず徐州を南下して、汝南にはいる。 国譲が教えてくれた所によると、劉備軍は四散して、その一部が汝南に集っているらしい。 だから、少しでも助けになれるように、其処へ足を運んでおく」

「兵が足りないと言うことは、ジャヤも活躍できるか」

「もう少し腕を上げないと駄目だ。 今の技量では、弓矢も、四回に一回程度しか当たらないではないか」

そう指摘すると、ジャヤは頬を膨らませた。だが、それも仕方がない。趙雲は武将という柄ではなく、戦場では単騎での活躍を中心とすることになる。そうなると、ジャヤを守ることは出来ないし、足手まといになられると自分まで死ぬことになる。

意外と、この子の望むように妻として、さっさと子供でも作れば大人しくなるかも知れないと思ったが。しかし、ジャヤを見る限り、まだ気の早い話である。趙雲には特定の女性もいないし、作る暇もなかった。もちろん縁談など起こったこともない。流れ者なのだから仕方がないが、まあこれも運命かも知れなかった。

「黄河の端が見えてきた」

「見るのは初めてか」

「うん! ジャヤは、初めてだ」

笑顔を見ていると、なおさらに困惑する。こんな子供が、戦うことを厭わずに、なおかつそれを好んでいるのだから。

結局の所、趙雲は、価値観の狭間で苦しんでいるのかも知れない。

「まず喋り方を変えないといかんな。 此処からは、敵地になる。 目立つとすぐに捕まってしまうぞ」

「分かっている。 出来るだけ、子龍みたいに喋る」

「そうしてくれ」

黄河の岸に、着いた。黄土色の地面に荷を下ろす。荷馬車には、主に塩を積み込んでいるのだが、その下に武器類は隠している。ある程度の軍資金も、である。

もちろん趙雲だけがこれを引っ張っていくのではない。国譲が信頼している手代達が運ぶ。趙雲は護衛の一人なのだ。ジャヤも護衛の一人だと主張している。まあ、弓矢に関しては一応その辺の兵士より上なので、そう主張することも、不可能ではなかった。

徐州に入ると、予想以上に状況は安定していた。兵士の姿はかなり多く見られたのだが、治安は回復しているし、賊の類の話も聞かない。何でも、小規模の豪族や賊を、今回の遠征に合わせて、曹操は根こそぎ刈り取ったのだそうである。それで混沌としていた徐州と青州の状況は一気に安定し、戦乱が完全に終わったことを、民に感じさせているそうだ。

それに、徐州での虐殺は、陶謙の陰謀によるものだったのだと、噂も流れている。曹操が流しているのかは分からないが、それがある程度の安定に関係しているのも事実であった。

彼方此方興味津々で見つめているジャヤを引っ張るようにして、徐州を抜ける。下丕を通り過ぎたころには、すっかり季節が変わっていた。地面も黄土色から濃い茶色に変わりつつあり、黄河の近辺ではないことを伺わせてくれる。

途中、二度馬を変えた。最初の馬は今までの戦闘によって疲弊が激しくて、もう戦場を駆けられそうになかったから。二度目の馬は、逆に少し力が余りすぎていたので、荷物運びをさせた方が良かったからだ。力も速さも、ジャヤに選ばせた三度目の馬が、一番しっくりきた。

山を登るのも、馬のままで大丈夫なのは、趙雲とジャヤだけだった。馬術だけなら、この隊商で趙雲に継ぐ腕前のジャヤは、薄い胸を張って自慢げだ。

「良い馬だろう、子龍」

「ああ、これだけは確かだな」

「そうではない。 馬術もだ。 それに、弓だって、いずれ子龍の助けになれるくらい、上手になってみせる」

そう言うジャヤが、毎晩寝る前に訓練をしていることを、趙雲は知っていた。

見守るには、そろそろ大きくなりすぎるかも知れない。

汝南の山岳地帯に入りながら、趙雲はそう思った。

 

紀霊が陳到の山塞を見つけた時、どっと疲れを感じた。

というのも、あまりにも巧みに偽装していて、山の中の木々に隠されていたからだ。これでは、予備知識がなければ、とても見つけることなど出来はしなかった。陳到という男、地味であまり特徴がないと聞いていたが。なかなかどうして、こういう仕事を着実にやらせれば、相当に有能である。少なくとも、袁術軍には、陳到より優秀な男などいなかっただろう。

裏口から近付いても仕方がないので、正門から行く。曲がりくねった道は、山塞から丸見えであり、しかも弓矢を四方八方から受ける作りになっている。これでは、数倍の軍勢を連れてきても、簡単には落とせないだろう。

「止まれ! 何者だ!」

「我は義によってあなた方に加わりたいと思ってきた者だ! 陳到将軍に会わせて欲しい!」

しばらく、沈黙が続く。いきなり矢を射かけられてもおかしくない。しばしの緊張の後、返事がきた。

「良いだろう! 入れ!」

偽名は幾つか考えてきたが、当分は一兵卒として戦おうと紀霊は思っている。

だから、今までの将軍であったことは忘れる。

全ては、新しく。此処から、また歩むつもりであった。

山塞に入ると、隊商がいた。丁度ついさっき着いたばかりらしい。もの凄い実力を持っていることが確実な武人に、子供がまとわりついて、楽しそうになにやら話している。武人は迷惑そうな顔をしていたが、追い払わない所を見ると、まんざらではないのかも知れない。

外部の補強はかなりしっかりしているが、山塞内部の作りは甘さが目立ち、火をかけられると、すぐ燃え落ちそうだった。粗末だが、中には一般人もいて、兵士達を助けている様子だ。

一番奥には、政務を執るらしい大きな建物があったが、案内されたのはその隣だった。その隣にある掘っ立て小屋に、この山塞の司令官らしき男がいた。気難しそうな男で、笑顔を浮かべる所が想像できない。まあ、それは紀霊も同じだが。

「私が陳到だ。 我が軍に加わりたいと言うことだが」

そう、生真面目そうに、男は言った。

 

2、関羽降伏

 

闇の中に、死屍が累々と転がっていた。

転がっているのは、殆どが河北から来た、羊の部下。そして死体の山の中、柳刀に着いた血を舐め取っている若い娘からは、尋常ならざる殺気が零れていた。羊は咳払いをすると、部下達を手で制する。そして、自らは、二刀を同時に抜いて、八の字に構えた。

「何時かは決着を付けなければと思っていたが、随分と殺伐とした形になったなあ、小娘よ」

「そう言われましても、当然の結実ですし、仕方がないですよ。 さて、ご老体には、そろそろご退場願いましょうか」

笑顔のまま、小娘、林はそう言った。

折角捕捉できたのに。部下達から引きはがして、大勢で襲撃することが出来たというのに。その部下達も、羊の配下で随一の腕利き達を揃えてきたというのに。

呂布に単独で戦いを挑み、殺されなかったという話は聞いていた。しかしまさか、これほどまでに腕を上げていたとは。

まだ、体が動く内に、来て良かった。

そう羊は思い、口の端をつり上げる。

人生最後の敵として、申し分のない相手であった。

林は確かに多くの部下を屠ったが、しかし単独で孤立している。この時のために、ずっと準備をしてきたのだ。もはや林が最強の細作に育ちあがっていることは、様々な情報からも確実だった。だからこそに、今倒しておかなければならなかった。今ならば、まだ人の手で屠れる。

しかし、此処で生き残らせたら。

この大陸の歴史は、闇に落ちるかも知れなかった。

「秦、張。 左右から仕掛けろ」

「はっ。 羊大人は」

「儂は正面から仕掛ける」

「ほう? 相打ち狙いですか。 判断としては、間違っていないですね。 流石ですね、羊大人。 しかし、あまり楽しくありません」

ほざけと、羊は吠えた。

老人の中で、今までの人生が、高速で回り始めていた。

 

劉勝らが駆けつけた時には、勝負は終わっていた。

辺りは死屍累々。その中で立ちつくしているのは、林ただ一人のみであった。その右手には、老人の襤褸雑巾のようになった亡骸だけがぶら下がっている。無惨な状態で、首は取れかけ、内臓は殆ど引きずり出されて、胃の内容物が辺りにまき散らされていた。戦場を駆け回り続けた劉勝だが、此処まで濃い血の臭いを嗅いだのは、初めてのことであった。

周囲の死骸達も、似たような有様である。思わず息を呑む林の部下達の中で、ただ一人。菖だけが、けらけらと笑った。

「けきゃきゃきゃきゃきゃ! 殺した! みんな殺しちゃった! 菖も、二匹殺して、喉を割いたよ! けけけけけけけ!」

「五月蠅い。 少し黙れ」

林から発せられたどす低い声に、流石に菖も黙り込む。

そして、誰もが気付く。林が、いつも巫山戯ている残虐な殺人鬼である邪神が。心底から、怒っているのだ。

死体を直上に放り投げる。四丈も飛んだ。

それに空中で追いつくと、林は文字通りの八つ裂きにして、辺りに残骸をばらまいた。血の海の中降り立った林の顔面には、大きな向かい傷が付けられていた。それだけではない。何カ所も、鋭い傷跡が残されていた。

ぶるぶると、林が震える。それは怒りの発露。

「典偉にさえ、無傷で勝ったこの私に! あのような老いぼれが傷を付けた。 あのような、老いぼれが! 老いぼれ、老いぼれ! 老いぼれめがあああああっ!」

それは、咆吼ではない。

邪神が、辺りに怒りをまき散らしていた。歴戦の強者である劉勝でさえ怯えきっている中、顔の向かい傷から溢れる血を布で巻いて抑えた林は、ゆっくり歩み出す。ずちゃり、ずちゃりと。臓物と血を踏む音がした。

そもそもこの戦いは、羊にずっと振り回され通しであった。

最初、黄河を渡ろうとしていた時に。羊の部下達が、不意に急襲をかけてきた。気がつくと、劉勝らは林と引き離されて、神出鬼没の羊軍と戦い続けた。総合力は五分かも知れないが、規模から言えば向こうが上だ。湯水のように人材を投入してくる消耗戦で、必死に菖を庇いながら、劉勝は戦い続けた。

多くの味方を失いながらも、林を追った劉勝は、多くの敵に阻まれた。中には、袁紹麾下の、正規軍までいた。

そしてどうにか敵を突破して、小舟に分譲して黄河を渡り、林に追いついて。

この地獄に遭遇したのである。

林は顎をしゃくると、皆に船に乗るように促した。中規模の軍船で、中は血の海だった。林が皆殺しにしたのだろう。五十人近く、訓練を受けた兵士が乗っていたはずなのだが。大陸を代表する豪傑達に比べると、正面からの戦闘では勝てないかも知れない。しかし、既に林の実力は人間の範疇を超え始めている。その事実には、間違いがなかった。

「掃除をしろ。 私は寝ている。 起こしたら殺すぞ」

無言で部下達は頷く。林はさっさと南岸に船を向かわせるように指示すると、船長が使っていたらしい一番良い部屋に引き上げていった。もっとも、その中も血の海であろう事が伺えたが。

誰もが無言のまま、大きな音を立てないように掃除を続けた。肉塊を集めては、黄河に捨てて。血だらけの壁や床を丹念に拭き取って、どうしても目立つ場所に関しては、家具を移すことで隠した。

そして、血の臭いだけはどうにもならないから、芳香を放つ何種かの葉を撒くことによって、中和した。

海のような黄河だから、渡るのには随分時間が掛かった。黄河と長江。二つの巨大な川は、この土地の歴史を左右してきた重要な存在だ。それに無作為に死体を投げ込み続けていて。ふと、劉勝は虚しくなり始めていた。

もとより劉勝は、漢民族ではない。鮮卑出身の、戦闘能力を董卓に買われた人間だ。董卓政権が壊滅してからは、林の配下に移ったが、何時の間にか中華に骨を埋める覚悟までし出していた。

側でつまらなそうに唇を尖らせている、心が壊れてしまった娘も、何とかしてやりたい。不思議な話であった。合理主義が全てを支配する戦場を駆け回ってきた男が、このような甘いことを考えているのだから。

「林さま、何であんなに怒ってたんだろ」

「顔に傷を付けられたからだろう。 まあ、あまり深い傷ではなかったから、そう目立つこともなかろう」

「けけけけけ、そうなんだ。 でも、いい気味かも。 無敵とか思ってたみたいだし、一度は痛い目にあった方が良いんじゃないかな」

「……そうだな。 獲物を仕留められなかったことは、今までにも何度かあったようだが、しっかり挫折を味わうことも、あの人には重要なのかも知れないな」

意外に菖がまともなことを言ったので、つい劉勝もそれに応じてしまった。

黄河の対岸は、まだ見えてこない。

 

下丕を除く徐州を制圧し終えた曹操は、劉備軍があらかじめこの地にこだわらないことを悟っていた。だから中枢を粉みじんに砕いてからは、無益な抵抗をしないように、それぞれを蹴散らすようにして、徐州の制圧を急がせた。

すんなり下った陳親子には思う所もあったが、彼らなりに徐州の事を思っていることは、曹操にも分かる。それに、利害が一致する限り、彼らは裏切ることがないだろう。だから、任せてしまっても問題ない。

徐州城に入った曹操は、手狭な執務室に移ると、蝋燭の明かりの下、各地に散った部下からの報告を纏めていた。下丕の陥落を見届け、机上での仕事を済ませたら、さっさと官都に出向くつもりである。袁紹との戦いは、まず間違いなく長期戦になる。一度や二度の戦いではとても終わらず、今の内に、鋭気を蓄えておかなければならなかった。

いくらかの報告を読み終える。下丕でまだ戦闘が続いているが、それは関羽が逃げ遅れたからだ。関羽は優秀な男で、張飛と並んで是非配下にしたい存在である。もし捕らえることが出来れば、どうにかして説得してみたいと、曹操は思っていた。斬るにはあまりにも惜しい男だ。

手を叩く。

「林はいるか」

「はい。 此処に」

天井から声がする。許?(チョ)は腕を上げているが、またその裏を掻いたらしい。大したものである。

「羊との戦いで傷を受けたそうだな。 大丈夫か」

「問題ありません。 それよりも、如何いたしましたか」

「一つ、頼みたいことがある」

現在、懸念事項はない。

唯一問題になりそうなのは、境を接している南の呉だが。曹操が見た所、呉の状況は落ち着いている。四家による支配は上手く行っていて、それに反発している周瑜や孫策は、手も足も出ない状況だ。四家にとって重要なのは保身と荊州なので、気にする必要はない。利害が食い合っていないからだ。

それに、四家にとって、そろそろ孫策は邪魔になってきている所だろう。放って置いても、内側で殺し合うのは目に見えている。孫策が簡単に殺されるとも思えないが、実質的に権力を握っている四家がそう思えば。

とてもではないが、生き残ることなど出来ないだろう。

だから、林は、別のことに使う。

「余は関羽を配下にしたいと思っている。 殺さないようにして、捕らえる方法は、此方でどうにかする。 そなたは、関羽が此方に従えるように、情報を整えて欲しい」

「それはまた、ずいぶんと物好きなことですね。 あの義人として名高い関羽が、劉備を滅ぼした貴方に従うと思いますか?」

「思わない。 だから、搦め手の方法を探しているのだ」

「なるほど、それは私を最大限に評価してくれていると言うことですね。 とても嬉しいことです」

すっと、林の気配が消えた。

気のせいだろうか。何か嫌な殺気を身に纏っていた。

許?(チョ)が部屋に飛び込んでくる。基本的にこの男は、知らない城ではいつも借りてきた猫のように辺りを伺い続けている。それなのに林はその上を行った。まだまだ、追いつけないだろう。

「曹操様。 あの化け物が、また現れたのですか」

「うむ。 しかし、扱い方さえ間違えなければ、問題のない相手だ。 そなたもそう、きりきりするでない」

「しかし、奴には嫌な臭いがあるのです」

「分かっておる。 それよりも、虎痴よ。 更に腕を磨け。 奴はそなたの上を、まだ行っているようだぞ」

むっと口をつぐむと、許?(チョ)は頷いて、部屋を出て行った。許?(チョ)はきっと林を超える使い手になってくれる。何より真面目で真摯で、それに曹操を守ることに生き甲斐を感じているようだからだ。

頼もしい男であるが、しかし。天下を速やかに統一するには、まだまだ人材が足りないのだ。関羽は是非欲しい。それが、曹操の本音であった。

典偉も、曹昂もいなくなってしまった現在。曹操の人材収集熱は、更に加速するばかりであった。

「典偉、お前が側にいてくれればな。 曹昂、お前が生きていてくれれば」

呟く。

涙は出ない。

しかし、ため息は漏れた。

徐州城での仕事を済ませると、張遼から早馬が来た。

どうやら、下丕を守っている関羽は、未だに降伏しないらしい。此処は、林の謀略が、頼りになる所であった。

 

下丕城にまで精鋭を率いて曹操が急行すると、張遼の軍勢は、敵とのにらみ合いを続けている所であった。

敵の兵力は二千に達しない上に、しかも戦意が薄い。それなのに、どうして関羽は踏ん張っている。それがよく分からなかった。昨日までは。

劉備の基本戦略は、曹操にも読めていた。この徐州は放棄して、拠点を移すつもりだ。戦略的には、どう頑張っても徐州は維持できない。曹操と敵対状態に入ってしまった以上、劉備が取る手は、二つしかない。袁紹を利用するか、曹操が目を付けていない地域に勢力を作るか。

その両方を、恐らく劉備は同時に進めてくる。だが、関羽の行動は、そのどちらにも含まれていないのだ。

その理由が分からなかったから、悩んだ。単に不覚を取っただけなのか、或いは何かしらの戦略があるのか。人材に目がない曹操の性癖を利用して、最強の暗殺者を側に偲ばせようとしているのか。その場合は関羽は死ぬことになるだろうが、或いは関羽自身がそれを望んだのかも知れない。

結論を出すのを、しばし曹操はためらった。だが、今は違う。林が持ってきた確度の高い情報があるから、それを元に戦略を練ることが出来る。攻城の準備を終えている張遼が、長考している曹操を興味深そうに見ていた。

「曹操様、関羽を捕まえるのは、難しいです」

「虎痴よ、分かっている」

「そうか。 流石は曹操様です」

許?(チョ)がそう言ったので、張遼は始め唖然として、次いでくすくすと笑った。どうやら本音から、阿呆としか思えぬ事を言っていることに、気付いたからだろう。許?(チョ)はぼんやりとしている。多分危険がないために、気を抜いているからだろう。頭を掻いている動作が、とても虎に良く似ていた。

やがて、曹操は結論した。珍しく、四半刻も考え込んでいた。

「張遼。 関羽に降伏勧告」

「よろしいのですか」

「余の見たところ、関羽は恐らく、逃げ遅れた劉備の関係者を抱え込んでいる。 だから、逃げるのに間に合わなかったのだろう」

「なるほど。 それならば、降伏勧告も受け容れるかも知れませんな」

それにしても、入念に逃げ遅れるのを防いだだろうに、どうして劉備ともあろうものがこのような失態を侵したのか。林の情報を聞いた時、最初は信じられなかった。いずれにしても、理由は関羽を捕らえてみれば分かることであった。

長く考え込んだのは、関羽が降伏する可能性を吟味していたからだ。

張遼は自ら軍使を買って出ると、曹操がさらさらとしたためた手紙を懐に抱き、一騎、下丕に向かって駆けだした。大した胆力である。昔から関羽を尊敬していたという張遼のことだから、この任務はむしろ気が急いて仕方がないのかも知れなかった。

下丕城はあの呂布がたてこもった堅城であり、力攻めをしても簡単に落とせはしない。袁紹軍と長期的なにらみ合いをしている曹操には時間がないことも考えると、張遼の責任は大きいと言えた。

程なく、下丕城に張遼がたどり着いた。

許?(チョ)が獲物を狙う虎のように、目を見開いて下丕を見つめている。折角手に入れたばかりの張遼を無駄死にさせてしまわないか、曹操も少し不安だったが、やがて大きく息を吐いて、胸をなで下ろした。

下丕城が開門したのである。意図は、明らかだった。

張遼には、関羽が降伏すれば、城内にいる劉備の関係者に手出しはしないことを書いた手紙を持たせていた。

やはり、関羽は義の男だった。

己の恥よりも、家族より大事な劉備の、一族を優先したのだから。

下丕に馬を進める。関羽は城門の下、両目を閉じて、胡座をかいて座っていた。好きにしろとでも言わんばかりの行動である。馬を進めると、不安そうに許?(チョ)が見ている中、曹操は語りかけた。

「関羽よ、見事な武人ぶりである。 安易に死を選ばず、主君のために生きたその姿、感服したぞ」

「……曹操どの。 一体何処から、情報を仕入れたのか」

「それは教える訳には行かぬ。 だが、男である以上、二言はあるまいな」

「一つだけ、条件が」

関羽は胡座をかいたまま、馬上の曹操を見据えた。曹操も冷や汗を掻くほど、その視線は鋭かった。

「兄者が見つかり次第、帰還させていただくが、良いか」

「……ふむ、良いだろう」

曹操は、そう答えた。

理由は、それまでに関羽を心服させてしまえばいいと、思ったからである。

そしてその自信も、曹操にはあった。

恐らく劉備は生きているだろう事は、曹操にも分かっていた。しかし今は乱世であり、主君は何度も変えるのが当たり前の時代だ。関羽ほどではないが、勇気ある武人として知られる張遼でさえ、曹操が七度目の主君だ。しかも彼は積極的な裏切りを働いて、そうなった訳ではない。呂布の行動が彼を追い詰めたのだ。義人でさえ、裏切らなければ生きていけない。そういう、狂った時代なのだ。

そして、主君が家臣を選ぶだけではない。家臣も、主君を選ぶ権利がある。

関羽は名高い義人だが、しかし劉備を選ぶだけが忠義ではない。忠義を捧げるに相応しい相手が曹操だと思わせれば良いのである。

今まで、陳宮と張兄弟以外に、裏切った相手がいない曹操は、主君としての自分に自信を持っていた。背丈や格好に自信が持てない事は、これとは別の問題である。大陸でも指折りの猛者達が自分の下に集っていることからも、客観的にその点が優れている事は、間違いなかった。

関羽が下丕城の奥に案内してくれる。

其処には、劉備夫人らしい人物がいた。そして、どうして避難できなかったのか、理由がよく分かった。

甘夫人と呼ばれている彼女は、どうやら産後の肥立ちがとても悪いらしく、青ざめていた。逃げなかったのではない。逃げられなかったのだ。下手に厳しい逃避行に連れて行けば、確実に命を落としていただろう。

側には安らかに眠っている赤子がいる。ただし、女の子の様子であった。この時代、子供の価値は著しく低く、特に病気や何かですぐに死んでしまう幼子は非常に簡単に見捨てられやすい。飢饉の時には、食料にされることさえある。

だが、関羽は命を賭けて守った。

これぞまさに天下の義人が故の行動であったのだろう。

部屋を出る。曹操は、感動した。

「最高の医師を用意しよう。 余に誓って、死なせはせぬ」

「お願いいたします」

「それにしてもあの甘夫人、余をずっとにらみ付けておった。 まともに体も動かないだろうに、大した胆力よ。 英雄の妻に相応しい女であるな」

曹操は軍を一旦許昌に戻し、官都でにらみ合いを続けている軍も少し下がらせた。袁紹も、郭嘉が先導したらしい背後の反乱に手を焼かされていたようで、同じように軍を僅かに引かせる。

こうして、不思議な小康状態が、両軍の間に訪れたのであった。

 

許昌に戻ると、曹操はとても上機嫌になったので、部下達が揃って不安がった。曹操が良い感情を周囲に見せることは滅多になく、いつも不機嫌そうにしていて、或いは叱責する。許?(チョ)から見ても、確かにいつも気難しそうに見える人だ。嬉しそうなのは、朝変な薬を飲んだり靴を履いたりして、鏡に自分を映して、背が伸びたとか伸びないとか言っている時位なのだ。

それに慣れているからか、とても嬉しそうににこにこしている曹操は、部下達にとって途轍もなく恐ろしい存在に映ったようだった。しかし許?(チョ)にしてみれば、心底から曹操が喜んでいるのがよく分かったから、自分も嬉しかった。

やはり、好きな人物が嬉しそうにしていると、嬉しいものなのだ。

子供のころには、好きな相手が困ることばかりしていたような気もする。それは、猿の群れを見ていて、理由が分かった。要するに、自分がえらいことを示して、相手を屈服させたいという心理から来ている行動だった。

大人になってからは、好きな相手には喜んで欲しいと思うようになった。だから今は、大恩人でもあり全てに優先する相手でもある曹操が、とても嬉しそうにしていることが、許?(チョ)の幸せだった。

関羽が守ったという劉備の妻は、順調に回復しているという。何度か自害を計ったようだが、それを関羽が食い止めたらしい。結局、今までずっと忙しくて結婚の機会もなかった許?(チョ)には、妻というものがどういう存在かよく分からないのだが、それでも劉備とその妻の間に、深い絆がある事はよく分かる。

幸せそうにしている曹操を、更に幸せにしよう。そう思った許?(チョ)は、曹操をしっかり護衛すると同時に、更に技を磨いた。そして、ある程度技を磨いた所で、曹操が色々な贈り物をしたり献帝に直接引き合わせたりしていた関羽の所に、会いに行った。

関羽は劉備という弱小勢力の一武将でありながら、その圧倒的な武勇が噂になっており、既に曹操の部下の中でも友情を結んでいる者達がいるという。関羽より一回り年下の徐晃はその一人で、兄や師匠のように慕って、暇さえあれば関羽の所に出かけている。張遼も同じで、時々出かけては、武術の話をしているようだった。

許?(チョ)が面会に行くと、先に徐晃が来ているようだった。徐晃は許?(チョ)を見ると、笑顔で手を振ってきた。戦場では恐ろしいほど落ち着いた用兵をすると曹操が言っていた男だが、普段には人なつっこい部分もある。

「おお、虎候どの」

「徐晃殿。 え、ええと。 邪魔だっただろうか」

「何の。 関羽どのも、今退屈していた所だと言っていたから、問題ないだろう」

「そうだな。 後一人くらい増えた所で、別に問題はない」

少し尊大な言い方だと思ったが、徐晃はにこにこしていた。どうやら碁を打っていたらしいのだが、関羽が常に優勢であったようだ。徐晃の碁の腕前は相当なものだと聞いているから、これは関羽が更に強いと言うことなのだろう。

「それで許?(チョ)どの、何をしにこれらたのか」

「え、ええと。 俺は、もっと強くなりたい。 だから、腕を見て欲しい」

「ほう」

「我が軍随一の猛者と、関羽どのの勝負か。 これは楽しみだ」

碁の手を休めて、徐晃が立ち上がる。関羽もすぐにやる気になってくれて、従者を呼び、訓練用の長刀を持ち出した。軽い木で作られている上に、先端部分が軟らかくなっていて、殴っても致命傷になりにくい。ただし、本気で殴ればそれなりに怪我はするので、気をつけなければならない。

許?(チョ)も同じ武器を受け取った。

「ほう。 これは」

「私と同じ武器で立ち会うか」

「是非。 俺は、曹操様を守るために、力を付けたいのです」

「その意気や良し。 天は違えど、その心意気、共感するに値する。 全力で来られよ」

関羽が仁王立ちして、待ち受ける。

許?(チョ)は大上段に長刀を構えたが、その圧倒的な気迫に、生唾を飲み込んでいた。呂布に立ち向かった時と同等か。いや、あれほどではないにしても、とんでもない圧力で、下がりそうになるのを必死にこらえなければならなかった。

それでも、気合いとともに進み出て、上段からの一撃を見舞った。

それがはじき返される。

気がつくと、喉に刃が突きつけられていた。

呼吸を整える。冷や汗が滝のように、全身から噴き出していた。呂布と戦った時ほどではないが、緊張した。

そして、あの時、呂布が許?(チョ)を見逃した理由が分かった。相手にするまでもないと思ったからだ。

まだ未熟。それが、痛いほどよく分かった。

「ま、参りました」

「いや、あの気迫に向かって撃ち込んでくるとは、流石だ。 以前呂布と戦うのを見ていたが、素晴らしい胆力だな。 それにその強力、凄まじい。 力では、私の弟である張飛よりも上かも知れん」

「あ、ありがとうございます」

それからしばらく、関羽に指導をして貰った。許?(チョ)はもとより強い相手に嫉妬は感じないし、何より関羽は単純に尊敬できる武人だ。

しばし無心のまま、刃を振るう。一撃事にはじき返され、その全てがのど元に帰って来た。勝てない。素直に認めることで、許?(チョ)はますます関羽を尊敬した。気がつくと、一刻以上も経っていた。

「凄いです。 まるで、動きが読めません」

「いや、そなたの力も恐ろしい。 これだけ打ち合っていながら、まるで疲れを感じぬとは、大した男だ。 曹操を守るのに相応しい武人だな」

そう言ってもらえると、許?(チョ)には感無量だった。曹操をこれで、また少し力強く守ることが出来る。そう思うと、散々叩きのめされた今日も、未来への大きな一歩だと思えた。

上機嫌で屋敷に戻る。普段曹操につきっきりである許?(チョ)は、与えられている屋敷に、殆ど帰ることがない。だから、許?(チョ)が満面の笑みで帰ってくると、使用人達はみな困惑した顔を見合わせた。

ゆっくり動く最年長の使用人が、庭を掃いていた。許?(チョ)は綺麗になった庭に陣取ると、訓練用の棍棒を持ってこさせる。関羽が褒めてくれた力を、更に磨くためだ。そして、関羽の技にも対抗できるように、更に早く動けなければならない。

「今日は、夕食も、此処で取る。 だから、持ってきて欲しい」

「わ、分かりました」

遠巻きにしている使用人達が、ひそひそと話し合っている。

だが、その囁きさえもが、許?(チョ)には気持ちが良かった。

 

上機嫌の許?(チョ)と、徐晃が帰るのを、影から見つめていた者がいる。

背中に劉備の娘を背負った、甘夫人であった。

幼いころからの夢を、劉備の妻になると言う形で叶えた彼女であったのに。最近は笑顔が消えてしまったかのようである。関羽は客達を送り届けると、甘に気付いて、歩み寄ってきた。

「お体は大丈夫ですか」

「はい。 どうにか」

「良い医者を手配してくれたようですな。 後は、全てこの関羽めにお任せください」

「私が自害していたら、将軍は逃れられたのでしょうか」

もとよりとても自己主張が少ない甘は、口数も少ない。この辺りは明るく陽気な糜夫人と真逆である。背中の娘が泣き出したので、慌てて甘は抱き上げて、揺すった。関羽は大きく歎息すると、言った。

「殿はどうやら、子が出来にくい体質のようです。 ですから、跡継ぎになれるかどうかは別として、子は大事にしてください。 それに、貴方がそのようでは、この関羽が命を張ってお守りした意味がございませぬ」

「……そうでしたね」

「今は、ただ力をお蓄えください。 殿は必ずやこの関羽が助け出します故」

徐晃や許?(チョ)に、天が違うといつも関羽は言っている。それを甘も聞いている。関羽ほどの武人が、それを嘘で言うはずがない。それは、痛いほどに甘は分かっている。だが、今は乱世だ。親子兄弟での殺し合いが、日常的に発生する世なのだ。

使用人が飛び込んできた。何と、曹操が直接来たという。

曹操は小柄な男だが、劉備と同等か、それ以上の目の光を秘めている。甘は小さく一礼すると、さっと屋敷の奥へ隠れた。彼は強烈な野心を全身からはなっていて、関羽を自分のものにしようといつも目論んでいた。

それが、甘には分かる。

だから、不安なのだ。劉備は恐ろしい男を敵に回している。そして関羽も、充分に魅力的な主君として思うことが出来る曹操を、側に考えることが出来てしまっている。

平穏な一生は、劉備に惚れた時に、既に諦めた。

だが、せめてこの子は、平穏に暮らさせてあげたいと、甘は思っている。だから、関羽には節を曲げないで欲しいのだ。

関羽が節を曲げた時に。この子は殺されてしまうのだろうから。

乱世で、子供の命は価値が低い。消耗品として考えられ、次にまた産めばいいとさえ言われる。

でも、体があまり丈夫ではないからか。一人目の子である娘が、甘には可愛くて仕方がなかった。

夕刻になると、曹操も帰った。なにやら美しい娘を、何人か残していた。

関羽が多少酒の入った顔で、彼女らを紹介する。一様に、不機嫌そうな顔をしていた。

「曹操どのから賜りました。 侍女にでもしてやってください。 賜り物ですので、失礼があったら即座に申しつけていただきたい。 場合によっては首でも刎ねます」

「そうですか」

どうやら娘達は、曹操が関羽を手なづけるために、選び抜いた許昌の美女達であったらしい。

気の毒なことだと思いながらも、甘は胸をなで下ろしていた。どうやら、しばらくの間、娘は命を落とさずに済みそうだった。

もとより娘達は美しいだけではなく、細作としての訓練も受けている様子であった。シャネスを時々側で見ていたから、それはよく分かる。しかし普通の細作程度では、関羽を出し抜くのはとても難しい。

だから、甘は遠慮無く、彼女らをこき使うことにした。

一日一日が、生きた心地のしない日ばかりが続く。そんなある日、急報を告げる早馬が、甘のいる屋敷の前を通り過ぎていった。関羽がすぐに武装して、表を伺ってくる。四人の美女達も、さっと表情を変え、色めきだっていた。

甘は娘を背負ったまま、表に出てみる。人だかりが出来はじめていた。早馬が通りすぎた後を、比較的マシな格好をしている許昌の民達が、口々に噂している。袁紹が本格的に攻め込んできたのだろう、いや嫌方角が違うから呉だろうと、言いたい放題であった。

「奥方。 様子を見て参ります」

「気をつけて」

甘は泣き始めた娘をあやしながら、屋敷の奥に戻る。遠くで馬が嘶いたので、出兵で、関羽も連れ出されるのではないかと、不安を感じてしまった。

だが、結果は違っていた。関羽が戻っては来たが、戦場で湛えているような凶猛な気を纏っていなかったので、それが分かった。

「何があったのですか」

「はい。 呉の孫策将軍が、死んだようです」

「まあ、まだお若いのに」

「若すぎる死です。 しかし、呉は実際の所、実権を孫一族ではなく、四家と呼ばれる強大な豪族達が握っています。 ですから、呉そのものは揺るがないでしょう」

それもまた酷い話だと甘は思ったが、敢えて口にはしなかった。殺さなければ殺されるのは、今の時代の摂理。それは同じ政権に所属していても変わらない。河北の袁紹政権では、既に内輪もめが始まっているとか言う話もあるではないか。

「夫は、無事なのでしょうか」

「今、八方手を尽くしております。 せめてシャネスと連絡が取れれば、少しはましにもなるのですが」

関羽は大きく歎息した。

関羽も、妻とはぐれてしまっている。義理とはいえ、兄弟達とも。そして、仲間全てとも。それを考えると、責めるのは気の毒だった。

 

3、小覇王の死

 

四家からの命令が来て、孫策はまたかと舌打ちした。

荊州への出兵を許して貰う代わりに、呉にいる四家に都合が悪い存在を、反乱の名の下に潰さなければならない。中には無実の者も多く、孫策に忠義を誓っているものだって少なくない。

酒の量は、目立って増えていた。

最近は便に血が混じるようにもなってきている。侍医は酒を控えるようにと、孫策に言ってきている。だが、四家の傀儡に過ぎない自分の状況、妻でさえ四家の手配した監視役だという現状を鑑みると、酒でも飲まなければやっていられなかった。

結局袁術の道具に過ぎず、いつも苦々しい顔をしていた父のことが、最近よく思い出される。孫家の人間は、傀儡として生きる定めなのだろうか。

世間的に孫策は愛妻家とされているが、実際には四家の後ろ楯がある妻に、側室をもてないように圧力を掛けられている。その上、どうやら妻は子供が産めない体質らしく、どれだけ交わっても懐妊する気配がなかった。仕方がないので、既に色々手を回して、弟の孫権がいざというときには政権を継ぐようにしている。四家に気取られぬように必死に集めた重臣達にも、それは言い含めてあった。

気乗りはしないが、出兵はしなければならない。

今の力では、とてもではないが、四家には逆らえないのだ。

今回の相手は、山越とも通じているらしく、元々孫策に忠誠を誓っていない男であった。その上勢力も小さく、多少は討伐する気も楽だ。

鎧を侍女達に着せさせて、剣を帯びる。相手の規模から言って、近衛だけで充分である。すぐに出陣しようとした孫策を、呼び止める者がいた。気を利かせて侍女達が下がる。周瑜であった。

美しい姿をしている周瑜は、重い体でどすどすと足音をたて、腹の肉をたぷんたぷんと揺らしながら歩いてくる。顎は二重から三重になりかけていた。最近まで前線の軍事基地でこの間黄祖に木っ端微塵に砕かれた軍の再編成をしていたので、会うのは三ヶ月ぶりだ。その間に、また美しく太ったようである。

「おーい、伯符」

「おお、公勤か。 ますます美しくなったな」

「そう面と向かって言われると恥ずかしいじゃないか。 それよりも、また反乱の討伐だって?」

「ああ、気が進まないが。 さっさと片付けてくる」

周瑜はすっと眼を細めた。顔中の汗を拭いながら、言う。幼なじみである周瑜は、二人だけの時は、かなり辛辣なことも口にする。

「気をつけてくれよ。 君の代わりは、何処にもいないのだからな」

「何を言うか、今更」

「目の下に、隈ができてる。 酒を飲み過ぎなんじゃないか」

「ああ、ここのところ眠れなくてな」

鏡を見てみると、確かに酷い隈ができていた。

しかし、四家の命令である以上、孫策が出向かなければならない。他の将達の中にも、気を使って出てくれると言っている者もいる。

しかし、孫策にとって、これは義務だった。傀儡であるのは事実。そして、操り主の命令のまま、残虐な命令を下さなければ、この国が立ちゆかないのも確かな事なのだ。だからこそに。

せめて、自分の手で、汚れを取り除きたい。

血を浴びることで、責任としたい。それが、孫策の考えだった。いずれ四家は潰す。だが、まだ力が足りないのだ。今のままでは、四家に逆らおうとしていることを察知されるだけで、消されてしまうだろう。

「油断だけは、しないようにな。 伯符」

「分かっている」

そう言って手を振ると、孫策は外に出た。

日差しが眩しい。目の下に隈ができていると言われたが、確かに全身の疲労感が酷い。これは少し休んだ方が良いかもしれなかった。

外に近衛兵達が整列している。彼らは孫策が若干弱々しいのを見て小首を傾げた。だから、孫策は咳払いすると、覇気を声に乗せた。

「これより、反乱軍を討伐に向かう!」

「おおっ!」

勇ましい声が上がるが、彼らの内どれだけが、その言葉を信じているか。

誰よりも、孫策自身が、己の正義を信じていないのだ。心服してくれている部下は、それなりに増えてきている。しかし父の時代からの家臣達は、いずれも四家に首輪を付けられてしまっている。若い家臣達は視野が狭く、信頼できるほど育っているのは陸遜と呂蒙くらいしかいない。

建業の街を出る。湿地帯が広がっていて、未だ開発が進んでいるとは言い難い。行軍する部隊の中央で、愛馬に揺られながら、孫策は上の空だった。疲労が思考を曇らせ、焦りと不安が意識を散漫にしていた。

数日間かけて、討伐を行う相手の元に出向く。

途中、鹿の群れを見つけたので、仕留めて兵士達に分けた。自分は野戦食で我慢したのは、闘志を高めるためだ。袁術の所にいた時に比べれば、まだマシだ。そう思わなければ、更にだらけてしまう。

孫策も戦士である。相手が格下でも、油断すればどんな事故が起こるか分からない。それを、漠然と悟っていたのだ。如何に、上の空になっていたとしても。

夜襲に備えて、堅固な陣が張られる。孫策は部下達に見張りを任せて、早めに休むことにした。

孫策用の天幕は、目立つ大きなものである。これは孫策がそれなりに伊達な嗜好があり、贅沢が出来る所では身を飾りたいと考えていたからである。昔はそうでもなかったのだが、袁術のところで苦労したからか、最近は華美な意匠を好むようになっていた。周瑜に二度苦言を呈されたが、こればかりは譲っていない。周瑜もそれなりに派手好きであるからだ。ただし、孫策の方が、掛ける金が二桁違っていた。

天幕の中は大きいだけあり、快適な状況である。床には虎の皮が敷かれ、寝台も軟らかく大きい。いずれも東西の名品を集めた。寝台に腰掛けると、孫策は眠気に襲われる。やっと眠れるのだから、妙な話である。結局孫策は、戦場に生きる男なのかも知れない。

そして、寝台に横になった途端。

全身を、激痛が貫いていた。

寝台の下に、誰かが潜んでいたのだ。背中を刺されたのは間違いなかった。絶叫すると、同時に近衛達が天幕に入り込んできた。

そして、先頭に立っていた男が、いきなり拝み撃ちに斬りつけてきた。かろうじて頭と首を斬られるのは避けた。しかし、肩から腹に掛けて、深々と切り裂かれていた。

「我が主君の恨み、思い知ったか!」

近衛が、自らも切り刻まれながら、そう叫んでいた。寝台に潜んでいたのは、なんと子供であった。子供も、容赦なく近衛に首を刎ねられた。

せっかくの名品珍品は血に染まり。

孫策も、呻きながら、寝台に崩れ伏していた。

酷い怪我を受けたことは、今までに何度もある。しかしながら、此処までの深傷は初めてであった。

意識がもうろうとする。周囲がばたばたと騒いでいるのが分かった。浮いたり沈んだり、引っ張られたり運ばれたり。そんな夢を見た。夢と現実の区別がつかなくなりつつあった。血を吐いたのが分かった。

内臓が痛い。骨も痛い。肉も酷く痛い。

周瑜の声がする。ぼんやりと何かが見えた。押さえつけられた。激痛が全身に走る。思わず絶叫していたが、抑えるのを止めない。暴れようとする。そして気付いた。殆ど、体に力が残っていないことに。

絶望した。

そして、不意に、意識がはっきりしてきた。

側で、周瑜が覗き込んでいた。妻は、いなかった。

「公勤……」

「伯符! 意識が、意識が戻ったか!」

「何が、起こった……」

体中が痛いのに代わりはない。そして、なんということか。今まで綿のように軽やかだった体が、鉛でも詰め込んだかのように重いではないか。手を持ち上げようとするが、抵抗があった。

どうやら、寝台に縛り付けられているらしかった。

周瑜が手を叩いて、侍医を呼ぶ。すぐに駆けていった使用人を見送ると、周瑜は顔を寄せてきた。

「許貢を覚えているか」

「ああ。 反乱を起こして、俺が討伐した」

「……彼の食客の仕業だった。 恩を受けた相手を、濡れ衣をかけて殺したお前を許せなかったのだろう」

「……そうだな。 受けるべき報いを、受けたと言うことだな」

鈍っている頭でも、分かる。

多分、四家に察知されたのだ。或いは、四家が支配するに、孫策がそろそろ邪魔になってきたと言うことだったのだろう。

だから、幾らでもいる、孫策に恨みを持っている人間を、手引きした。

もちろん、許貢を無実の罪で殺した点については、孫策にも思う所がある。そして、恨みを買うのも、当然だという自覚がある。

涙がこぼれてきた。

このまま死ぬのだろうか。そうなると、今までの人生は、全て誰かの掌の上だったと言うことになる。

幼いころは袁術の。そしてそれからは四家の。

妻でさえ、四家の指定した政略結婚の相手だった。孫権を後継者にすることだって、四家の了解を得なければならなかった。

何が江東の小覇王だ。あまりに情けない虚名の実体に、孫策は死を間近にして、改めて落涙していた。

「伯符、傷が痛むのか」

「大丈夫だ。 痛くて泣いているのではない」

「分かる。 侍医の話によると、絶対安静にすれば、治る傷だそうだ。 しばらくは静養に努めるんだ」

反乱は、私が討伐しておいた。周瑜はそうも言った。

やはり情けなくて、孫策はもう一つ落涙した。

侍医が来る。四家の息が掛かっていない男だが、連中の手は何処にでも伸びている。一介の侍医の、家族を人質に取るくらいは、平然と行ってみせるだろう。

周瑜が家臣の顔に戻ると、脇にどく。侍医は白い髭を胸まで伸ばしている男で、腕はそれなりに確かだ。

「酷い傷を受けましたな」

「仕方がないことだ。 それで、俺は治るのか」

「難しい所です。 傷はどうにか急所を外れてはいましたが、しかし毒が仕込まれていました。 特に背中の傷の方は、いつ死んでもおかしくない状態でした」

若い生命力で、どうにか今までは持ち応えていたという。そして、今は小康状態まで戻ってきているそうだ。

しかしながら、絶対安静であることに代わりはないらしい。しばらくは政務も外出も控え、部下達に全てを任せるように。そう侍医は言った。

意識が再び混濁してきた。

昔のことを思い出す。父孫堅が生きていたころのこと。

長沙は貧しかったが、しかし平和な時もあった。父と一緒に体を鍛えるのは楽しかったし、荒くれの家臣達とともに武芸を学ぶのはもっと好きだった。

幼いころから、戦場も駆け回った。肩に矢を受けた時は、酷く痛かった。泣くなと父に叱責されて、歯を噛んで耐えた。周瑜はあの頃から良く太っていた。太り方が美しかったので、女には良くもてた。それに対して孫策は筋肉質で、女達は周瑜の方が良いと、いつも言っていた。

ぼんやりと、別の顔が浮かんでくる。

孫権だった。

体を起こそうとして止められる。どうやら、現実らしい。

「兄上、仲謀にございます」

「うむ、良く来たな」

「随分うなされておいででした。 辛い夢でも見ましたか」

そう言って、孫権は寝台の側に腰を下ろした。

仲謀は父と同じく、山越の血が強く出ている男で、筋骨逞しく、そして背が高い。目は若干青く、髭は紫色がかっていた。

その割に武術では劣る所があり、戦場での駆け引きも苦手としている。代わりに勉学は良くできるので、若いころから父にそればかりさせられていた。最近は張昭と張紘を始めとする文官達に鍛えられて、ますます政務をしっかりこなしていた。

「先に、言っておく。 余はもう助からぬ可能性がある。 もし死んだ場合は、お前が跡を継げ」

「兄上!」

「張昭と、張紘を。 それに魯粛もだ。 周瑜には既に話してある」

すぐに孫権が、文官をとりまとめている二人を呼びに言った。更に魯粛も呼ばれる。

現れたのは、気難しそうな老人。そして、対照的に優しそうな丸っこい老人だ。張昭は飄々としている上に気難しく、孫権とは師弟ではあったがとても仲が悪かった。張紘は穏和な人柄だが、自分が決めたことはてこでも曲げない強さを持っている。

精悍な中年男性が、遅れて部屋に入ってくる。髭を蓄えたこの男性は魯粛。挙兵のころからずっと世話になっている男だ。元は富豪で、出兵の資金をある程度出してくれた上、無心に仕えてくれている。剛直と言う言葉は相応しい男だが、しかし拡大傾向は一切無く、戦略では孫策と対立しがちであった。ただし、意見が一致しなくても、孫策は魯粛に敬意を払うことを常に忘れなかった。

「そなたらに、告げておくことがある」

「何事でしょうか」

最初に口を開いたのは張昭だ。気難しいこの老人は、政務においては孫策に次ぐ第二位の地位を持つ。軍事における周瑜のような存在である。もちろん、表向きは、の話であるのだが。

「跡継ぎの話だ。 どうやら俺は助からぬかも知れん。 俺が死んだ場合は、孫権に跡を継がせる。 皆、それを心得ておいてくれ」

「そう弱気になりますな。 侍医の話では、助かる可能性の方が高いそうではないですか」

「あくまでも、万が一のことだ。 皆、此処で誓って欲しい」

張昭は大きく歎息すると、頷いた。張紘も魯粛もである。

張紘が福々しい顔に、悲しみを湛えて、そして言った。

「しかし、殿がもし亡くなられると、今後が大変ですな」

「張紘どの」

「今だから言うのだ。 我らの結束を高めて、対処していこう」

温厚な張紘だからこそ、その発言には重みがあった。張昭は大きく頷いて了承し、魯粛もそれに習った。

孫権が部屋にはいると、孫策は手近に招いた。

「皆、そなたが跡を継ぐことを了承してくれた。 良いか、皆家臣とはいえ、孫家の柱石として支えてくれた者達で、皆器量はいにしえの名臣達にも勝る。 彼らが従ってくれることを誇りに思い、常に志を尊重せよ」

「兄上、そう気弱にならずに」

「お前も国主になる男だ。 現実的にものを判断せよ。 余が死ぬかは分からぬが、死んだ場合には、そなたが全てを継ぐのだ。 いいか、奴らの、良いようにはさせるな。 泥を啜ってでも生き残り、必ず奴らを討ち滅ぼせ」

具体的な名前は出さなかったが、孫権にはそれが誰かは分かったはずだ。深々とあたまを下げる孫権。そして、孫権は張昭らに振り向く。

三人が拝礼をするのを見届ける。

いつの間にか、また意識を失っていた。

全身にびっしり汗を掻いていた。侍従がせっせと汗を拭っていたが、妻の姿は何処にも見えない。もとより孫策を愛しているとはとても思えなかったし、実際政略結婚だから仕方がなかったが。此処まで露骨だと、苦笑してしまう。

体中が熱い。やがてそれは、熱いでは済まないほど酷くなってきた。四家に言われるまま、殺してきた者達の憎悪が、全身を焼いているようだった。

四家からの使者が来た。枕元に立つと、小声で囁くように言う。

「孫権を勝手に跡継ぎにしたようだな。 どういうつもりか」

「時間がなかった。 他に適任もいない」

「それに関しては、四家の皆様も認めている。 しかし、そなたを許さないという点でも、一致している」

使者の後ろには、蒼白になった侍医がいた。

何をされたのかは、大体分かる。そして、孫策は静かに笑った。

「好きなようにせい」

「そうする。 お前はこれから、正気さえ保てず、苦しみながら死んでいくのだ」

医師が、なにやら傷に塗り込み始めた。

飛び上がるような激痛が全身を襲う。だが、逃げることは出来なかった。

 

部屋の外から、孫策に対する四家の凶行をうかがっていた魯粛は、腸が煮えくりかえるのを、必死に押さえ込んでいた。

魯粛はもとより、地元の名家の出身である。多くの金銀を蓄え、腕利きの食客を何名も有していた。孫策の挙兵が行われた時、四家によって下につくように言われた。周瑜が来て、勧誘されたと表向きにはされているが、実際にはその前から取引が成立していたのである。

しかし、四家に対する忠誠など無い。

むしろ、この腐敗した世を維持しようとしている存在こそ四家だと、魯粛は考えていた。そう言う意味では、宦官や外戚と同じ、罪深き存在だとも。

そんな連中に、人生を好きなようにされた孫策。彼は終始、縄でつながれ、鞭で打たれる虎だった。

そして今、少し逆らったと言うだけで、なぶり殺しの目に会おうとしている。

止められない。

四家を倒すことも出来ない。

今はただ、時間を掛けて力を蓄えなければならなかった。

出仕すると、孫権が政務を執り始めていた。相当に精神的な重圧が大きいらしく、真っ青になっている。

無理もない。実際には政務を執ると言っても、あらかた四家の指示通りに動かなければならないのだ。そして下手なことをすれば、簡単に首をすげ替えられてしまう。

孫権ももう子供がいるいい年をした大人だが、逆に言えば、別に傀儡は彼でなくても良いことになる。そして、孫策を殺したのも、四家である可能性が濃厚だ。あのような所に、暗殺者が簡単に忍び込める訳がない。誰かが手引きしたのは疑いなく、呉が安定していた方が望ましい曹操や、大して苦にもしていない荊州ではあり得ない以上、それが四家である可能性は著しく高いのだ。

「孫権様」

「どうした」

手元に、竹簡を差し出す。そして、読んだらすぐに焼き捨てるようにとも言った。

中身は、秘密の符丁である。いざ決断する時の合図や、意思を伝えたい時の暗号など。昨日のうちに、幾つか考えておいた。

それで、早速一つ。

「孫策様が、四家によって殺されようとしておりまする。 貴方を独断で後継に据えたことが、彼らの逆鱗に触れた様子です」

「お、おのれ」

「今はお耐えください。 いずれ四家の者達には、目に物をくれてやりましょう」

「その通りだ。 この無念、忘れぬ。 忘れぬぞ」

兄を深く尊敬していた孫権は、落涙した。

もちろん表向きは全く別の会話である。孫権が落涙したのは若干不自然だったが、巧くこなすことが出来て、魯粛は安心した。

屋敷に戻ると、呂蒙と陸遜が待っていた。陸遜は四家の末子でありながら、その専横を快く思っていない一人だ。いずれ連中に反旗を翻す際には、心を共にする同志でもある。朱桓もその一人なのだが、彼はまだ若い。手近には、なかなかいてくれなかった。

彼らにも、符丁を渡しておく。陸遜はすぐに内容を理解した。呂蒙は苦労しながらも、どうにか飲み込んだ。

「孫策様の無念、忘れるな。 そなたら」

「はい。 鬼畜四家、討たねばなりませぬ」

「え、ええと。 同感です」

「奴らは必ずや、この国の害になる。 今はこの国を建てるために必要な存在だが、いずれ皆殺しにしなければ、国家百年の害悪となって、呉そのものを食い散らかし、発展を阻害するだろう。 あらゆる手を選んではおられぬ。 どうやってでも、殺す方法を皆で考えていくぞ」

三人で、大きく頷いた。

符丁は張昭や張紘にも渡しておく必要がある。もちろん、周瑜にも、である。

どのみち、まだ現在は、力が足りない。下手に放棄しても、四家の力を増すだけで、無駄に命を落とすだけだ。

急使が来たのは、二日後。魯粛はそれを聞いて、復讐の念を更に強くした。

孫策の様態が、急変したのだ。

 

孫策は立ち上がれるようになっていた。しかし目の下にはどす黒い隈を作り、手に剣を持って、ぶつぶつ呟きながら部屋中を歩き回っていた。

周囲の光景が歪んでいる。壁から無数の手足が生えていて、目が床にも天井にも大量に着いていた。

どの目も、見覚えがある。孫策が殺してきた者達だ。

「うあ、おあ、えあああああ」

うめき声が上がる。

いずれも、無念の声だ。どうして殺した。どうして命を絶った。そう言っているのが、孫策には分かった。

仕方がなかったのだ。

そう反論しても、死んだ人間は生き返ることがない。彼らには彼らだけの人生があり、築いて来たものや、家族があったのだ。それを、四家が言うまま、孫策は蹂躙したのである。

壁から、床から、無念の形相で、血まみれの人間が生えてきた。全員が裸で、筋肉が腕や足やらに露出していて、内臓をはみ出させている者もいた。男も女もいた。老人も、まだ幼い子供もいた。

剣を振ろうとするが、一斉にしがみつかれる。

そして、全身に歯を立てられた。

肉を、肌を食いちぎられる。首も食いちぎられて、頭が地面に転がった。血だらけの赤ん坊が張ってきて、頭を囓り始める。体を食い荒らされる様子を見て、脳みそをはみ出させながら、孫策は絶叫した。

飛び起きると、其処は寝台。

全身にびっしり汗を掻いていて、爪には血が食い込んでいた。胸には吐血の跡が残っている。

死ね。

声が聞こえた、

四家の処方した薬物が、既に五感をも蝕んでいた。既に、現実と幻想の区別もつかなくなりつつある。

呼吸を整えようとするが、不意に息が出来なくなった。

見ると、どこからか生えていた血まみれの手が、首を絞めていた。悲鳴を上げようとするが、それも出来ない。うめき、手をかきむしる。そうすると、絶叫が揚がった。ざまあみろと思ったが。

それはよく見ると、粥を飲ませようとしていた、使用人の手だった。

「す、すまぬ」

「孫策様」

「本当に済まぬ。 幻覚が見えていて、正気ではいられないのだ。 そなたも、俺からは出来るだけ離れよ。 斬り倒してしまうかも知れぬ」

あたまを下げて、そそくさと下がる使用人。

その後頭部に、げたげたと笑う別の顔が着いていた。舌は長く伸びて、床を楽しそうに舐め取っている。

不意に、部屋に生首が飛び込んできた。

それぞれが人間よりも大きく、酷く腐敗していて、目玉が濁り、歯茎が露出している。逃れようとする孫策を嘲笑うように、生首は孫策を丸呑みにし、噛み砕いた。全身が粉々に砕け、腐汁と混じり合うのが分かった。幻覚だ。そう言い聞かせても、その苦痛だけは本当だった。

気がつくと夜になっていた。爪にはまた血が食い込んでいる。誰かを引っ掻いたか、自分をかきむしかったか。

そして、寝間着には、吐瀉物の跡があった。もう、使用人達も、おそれて近づけぬらしい。

早めに孫権に跡を継がせることを告げられて良かった。そう孫策は思う。

四家は傀儡である孫策の判断に怒りを示したようだが、これは人生最後の、そして唯一かも知れない、己の意思からの行動だ。例え地獄に堕ちようが、恐怖に苛まれようが、悔いはない。

悔いだけは、なかった。

いつのまにか、老人の手が、全身を掴んでいた。

四家のものだと、分かった。

「そ、んさく。 おまえは、じごく、まで、われらが、つれていく」

「じごくで、も、おまえ、は、われらに、こき、つかわれ、るのだ」

そう言われると、却って滑稽だった。

四家の者達は、日陰者だ。来てはいけない場所に、這い上がってしまった闇の一族だ。それなのに、光を独占しようとしている。それだけではなく、闇までも。だから、全てがおかしくなる。

不意に、幻覚が晴れた。

孫権が、沈痛な面持ちで、側に立っていた。

「鏡を見せよ」

「兄上!」

「良いから見せよ」

侍従の一人が、大きな鏡を孫策に向けた。

其処には精悍だった男の姿など、最早何処にもなく。やせこけ、衰えきった、無惨な残骸だけが残っていた。

もう長くはないことを、孫策は悟る。それなのに、妙に頭は冴えきっていた。

「孫権よ。 周瑜を頼れ。 彼奴は、俺の幼なじみで盟友だ。 政務のことは張昭に、軍務のことは周瑜に相談せよ」

「はい、兄上」

「二人はいるか」

周瑜はいないという。小さな反乱を、孫策の代わりに鎮圧に行っているそうだ。恐らく、最後の最後まで、四家の嫌がらせである。あまりにも不快で、思わず孫策は舌打ちしていた。

「畜生。 鬼畜どもめ」

「兄上」

「最後くらい言わせよ。 あの鬼畜どもは、絶対に俺が地獄から呪い殺す。 俺が死んだからと言って、安心できると思ったら大間違いだ」

そして、孫策は、今まで四家の言うままに殺してしまった「反乱勢力」の者達に詫びて、落涙した。

俺が弱かったばかりに、救えなかった。許して欲しい。

何度かそう呟く。孫権が、顔を拭いた。弟だけしか、側にはいない様子だった。

「周瑜はいないか」

「兄上」

「そうだったな。 もう俺の脳は、さっき自分で口にしたことも、覚えてはいないらしい」

苦笑すると、横になった。

気がつくと、孫権は側にいなかった。代わりに、張昭がいた。

気難しい老人だったが、四家の目を盗んで、いろいろしてくれた。反乱勢力の者達の家族を匿ったり、余所に逃がしたり。孫権には何名か養子がいるが、彼らの素性を隠したのも張昭である。

孫策を殺した許貢の息子も、実は孫権の養子になっている。暗殺者達は、それを知らなかったのだろう。

もちろん、暗殺者達を責めるのはかど違いだ。

「君から見て、孫権はどうだ」

「難しい所にございます。 政務の才能はありますが、何より自分を押さえ込みすぎる所がございます。 故に酒が入ると、とても酷い壊れ方をしますし、時々子供のようなだだをこねまする」

「ははは、君と似た所があるのだな」

「否定はいたしません。 今後も難しい所がありますが、補佐は貴方の遺言もありますから、欠かしません」

大きく頷くと、孫策は満足して目を閉じた。

さっきまでの不快感はもう無い。ひょっとすると、薬が抜けたのかも知れなかった。体も少しずつ、軽くなってきている。それが死に近付いていることだと分かっても、孫策は気分が良かった。

ふと気付くと、光の中にいた。

意外に地獄も悪くないなと、孫策は思った。

向こうにいるのは、父孫堅だ。それだけではない。何と、あれほど憎々しげな顔をしていた袁術も、妙に晴れやかな顔をして、隣に立っていた。晴れやかな顔をしていると、別人のように、印象が違う。

「策! どうした、こんなに早く」

「四家の者達の策略にはめられました。 父上、申し訳ありません」

「そうか。 我らは結局籠の鳥なのだな。 だが、後継者に恵まれ、良かった」

「はい、父上」

光の中、父と袁術に歩み寄る。

袁術も、幼いころにたまに見せてくれた、優しい男の顔に戻っていた。

色々と、昔の話をする。

ただ穏やかな時間が、其処にはあった。

 

董白が目を覚ましたのは、壁を叩く音があったからである。呉を探りに行っていた細作が、戻ってきたのだ。

そして、今は夜中。大体、何が起こったのかはそれだけで見当が付いた。

「何事です」

「はい。 孫策が死にました」

「予想通りですね。 後継は?」

「孫権が正式に。 政務の補佐は張昭、軍務の補佐は周瑜に決まりましてございまする」

そろそろ諸葛亮との婚姻が控えているこの時期に、またきな臭くなってきた。義父の高いびきが聞こえる。無能ではあるが、諸葛亮の有能さだけは理解している義父だから、婚姻については喜んでいた。だから、いびきもとても幸せそうだった。

「このまま、四家は操作を続けるように。 まだまだ、呉には孫家を中心にまとまられては困ります」

「分かりました。 そして北の方ですが、劉備軍は完全に徐州から駆逐され、曹操軍は主力を揃えて官都に向かった様子です」

「そちらも、目を離さないようにしてください」

細作は壁の向こうで分かりましたと言うと、闇に気配を消した。

董白は目が醒めてしまったので、起き出して、机に向かう。最近孫子に注釈を付けるのが趣味になってきていて、昨日も寝る前、その作業に没頭していたのだ。話によると、曹操も同じように孫子に注釈を付けることを趣味としているという。あの英雄と同じ趣味をもてたのは光栄である。

昨日は諸葛亮と、自分の付けた注釈を巡って、随分と子供っぽい議論をしてしまった。あの明晰な男も、時に子供のように熱くなるので面白い。いずれ社会の中心に躍り出た時には、落ち着いて貰いたいものだ。しかし、子供のまま大人になってしまった典型である曹操の姿を見ていると、それでも良いのかも知れないと思えてしまう。

一刻ほど筆を走らせると、孫子をしまう。

そして今度は、細作達への指示書を作り始めた。

手を叩くと、一人、細作が降りてくる。最近山越の人買いから手に入れた、身体能力の高い娘だ。育ちあがれば、林に対抗できるかも知れないと思い、期待している。ただ、まだ片言が多くて、それが故に潜入任務には向いていなかった。

物心ついて親に売られたからか、世間を憎むこと著しい。それが最大の欠点で、まだ忠誠度は期待できないのが問題だ。いずれ、何かしらの形で、恩を売っていかなければならないだろう。

「何事でスか、お嬢サま」

「これを趙と揚に」

「分かりました」

背の高い娘は、すっと音を立てて天井に戻ると、そのまま気配を消した。もちろん、まだ董白は彼女に信用されていない。長い時間を掛けて、ゆっくり信頼を勝ち得ていかなければならないだろう。

董白の紡ぐ闇の組織は、更に勢力を拡大しつつある。既に荊州は完全に抑え、呉の四家もある程度操作し、各地の闇にも食い込み始めていた。

肩を叩くと、董白はまた寝台に潜り込む。

頭の中には、陰謀と、それに基づく未来像。個人の欲望は、殆どはいる余地がなかった。

 

4、前哨戦

 

袁紹は、ようやく後方で起こった反乱などを鎮圧し終えた。曹操の陰謀であることは間違いない。どうやら羊は林に返り討ちにされたようであるし、不安要素は多かった。羊の組織の後継者は既に決まっているが、まだ十代の若造で、とても信頼できる相手ではなかった。

羊の組織と林の組織は殆ど相打ちになるような形で大打撃を受け合ったようだが、最終的には林が生き残ったことからも分かるように、味方の被害の方が大きい。軍事力では曹操を大きく凌いでいることに違いはないが、しかし苦しい状況に変化はなかった。

袁紹は馬車に乗り、官都へと急ぐ。

馬に乗らないのは、震動が良くないかも知れないと、医師に言われたからだ。馬車の後ろには、医師が何名か控えている。もちろん周囲は油断無く固めさせているが、これではもう、病人も同然だった。

手の震えも、毎日頻度が酷くなってきている。

最近では、酷く咳き込むことも多くなり始めていた。

手を叩いて、兵士を呼ぶ。すぐに騎兵が馬車に近寄ってきた。袁紹の馬車は家が丸ごと動いているような巨大なもので、内側から外を見ることが出来、逆に外からは覗けないようになっている。

窓に顔を近づけてきた兵士に、袁紹は語りかけた。

「田豊はいるか」

「田豊将軍ですか? すぐに、お呼びいたします」

兵士が消える。咳き込む袁紹の背中を、侍従が撫でた。体の衰えも著しい。凡人なりに鍛えては来たのに、今では剣を振るうことが難しい。

しばらく呼吸を整えていると、田豊が来た。構わないからと言って、馬車に乗せる。

馬車に乗り込んできた田豊は、窶れているかのように見えた。このままだと、袁紹より先に命を落としてしまうかも知れない。

「どうした、窶れたな」

「私のことは良いのです。 早く跡継ぎをお決めください」

真っ青な顔色で、田豊にそう言われると、袁紹は苦笑してしまう。

跡継ぎなど、決めようがない。せめて、曹操に一撃を与えてからならば。それならば、まだ可能性はある。

どちらも馬鹿息子なのだ。この国など、とても任せてはおけない。

「そなたなら、どうする」

「幾つか方法はございます。 乱暴なやり方としては、決めた以外のご親族を、ことごとく討ち滅ぼすか。 しかしこれには、事前に入念な準備が必要です。 失敗すれば、謀反を起こされるでしょうから」

「うむ、その通りだ」

「もう一つの方法は、最近死んだ孫策のように、有力家臣を集めて、跡継ぎを認めさせることにございます。 しかしこれは、その跡継ぎが適任でなければなりません。 残念ですが、お二人とも凡庸にて」

長男は野心ばかり強く無能。三男は容姿だけで中身がない。

どちらも、とても曹操に対抗できる器ではない。そう、器ではないのだ。次男には主体性が無く、娘婿の高幹に到っては、日和見主義を常日頃から公言しているほどだ。

ああ、あと十年。あと十年寿命があったのなら。

「袁紹様」

「だ、大事ない。 曹操、なぜ奴がこの時代に産まれてきた。 せめて、劉備だけなら、まだ幾らでも手のうちようがあったというものを」

「その劉備は、近頃亡命してきたようですが、如何なさるのです」

「奴は全く信用できん。 能力は高いようだが、下手をすると内側からこの国を乗っ取られかねん。 徐州の事を思い出すと、背筋に寒気が走るわ」

結局、議論は平行線だった。

田豊が提案したことを、どちらも袁紹は選べなかった。選びたかった。だが、無理だったのだ。

曹操も長男を失っているという。しかし、それにしても、彼の血を引く一族は、それなりに優秀だ。家臣達も漲る曹操の気力に引きずられて、一致団結している。

何もかもが違う。悔しくて、袁紹はため息しか出なかった。

いつの間にか、居眠りさえしていた。慌てて飛び起きるも、侍従が額の汗を拭いていたので、蒼白になる。

其処まで、衰えてしまっていたか。

袁紹は、侍従を追い出すと、もはや取り返しが付かない所まで衰えてしまった自分の体に、歎息するしかなかった。

 

袁紹の衰えを誰よりも感じているのは、顔良だった。

前線基地に展開した十万の軍勢を率いる彼は、長く袁紹軍の先鋒を務めてきた猛将である。袁紹がまだ権力を強く握っていないころからの腹心で、頭が弱い文醜をたしなめながら、いつも主君を守ってきた。

文醜は理解していないようだが、顔良は知っていた。袁紹が衰え、跡継ぎの無能さに頭を痛めている事を。

もう、跡継ぎを指名しなければならない時期だというのに、決断できずにいるのも、ひとえに彼らが無能だからだ。

「顔良将軍」

近付いてきた足音に振り返ると、劉備だった。

家族も部下達も皆はぐれ、一人で河北に辿り着いたと嘯いている。多分嘘だろうと顔良は思っていた。袁紹もそう思っていたようで、監視を顔良に命じてきた。

人格者らしい見かけで、事実周囲の評判は良い。

だが、何処か釈然としないものを顔良は感じていた。この男は、確かに民のことを考えてはいる。しかし、己の目的のためなら、如何なる手段も選ばないのではないか。そんな恐ろしさを覚えるのだ。

「如何為された、劉備どの」

「それが、前線の敵軍が動き始めている様子なのだ。 警戒を強めた方が良いのではないのかな」

「ふむ、そうか。 曹操も徐州を完全に押さえ込んで、これからいよいよ此方に全力を注いでくるという訳だな」

この辺りの判断は間違っていない。

「ならば、そなたに五千の兵を預ける。 軽く様子を見てきてもらえぬか」

「分かりました。 すぐに向かいましょう」

編成を済ませてある軽騎兵部隊を預けると、すぐに劉備は陣を飛び出していった。兵士達も良く統率されて、すぐにその後に付いていく。やはり危険だと、顔良は思った。奴は有能すぎる。

「顔良将軍」

「張?(コウ)か」

振り返ると、若手の将軍である張?(コウ)がいた。ずば抜けた武勇と熱い心の持ち主だが、どうも人付き合いが苦手なようで、周辺との摩擦が絶えないようだった。顔良は若いころから良く指示をして、それで話す機会が多い。彼もまた、劉備を良くは思っていない様子であった。

「二股膏薬が行きましたか」

「毛嫌いしているな。 俺も奴は好かないが、しかし有能だ」

「それは分かっています。 だから、危険なのでしょう」

いつもこの若者は不満ばかりを訴えている。袁紹に対しても不満が大きいようで、もっと扱いを良くして欲しいと、常にぐちぐち呟いている。無理もない話だ。派閥抗争が酷い現状では、顔良や文醜のように初期からでも仕えていない限り、もはや出世の道が無いのである。

同じ不満は、若手の将軍である高覧も抱いているようで、常にぶつぶつ文句ばかりを言っている。不満についてはよく分かる。かといって、派閥抗争をしている諸将が決して無能な訳ではない。それが、頭の痛い所であった。

二人して、櫓に登る。向こうで、戦闘が開始されていた。平原で、五千の劉備軍と、七千ほどの曹操軍がぶつかり合っている。戦況は、劉備に圧倒的に有利だった。相手もかなり良い用兵をしているが、まるで役者が違う。

間もなく、劉備は帰ってきた。前線に出ていた敵を一蹴して、かなりの戦果を上げた様子であった。敵将は徐晃で、かなり戦慣れした男だというのに、流石である。

「敵軍の浸透は抑えました。 ただ、これは局地的な勝利に過ぎません」

「うむ、だが歴戦の勇者、見事な戦いぶりだった」

張?(コウ)も不満なようだが、しかし同意せざるを得ない所だ。実際、劉備の指揮には、文句の付けようがなかったからである。

「俺からも、袁紹様に活躍を伝えておく」

「ありがたき幸せにて」

劉備は一礼すると、自分の天幕に引き上げていった。

あの男、義兄弟達がいて一人前という評価もあるようだが、とんでもない。一人でも、充分に英雄を名乗るに相応しい実力だ。

苦虫をかみつぶしている張?(コウ)の肩を叩くと、顔良は歎息した。

「袁紹様は、もうそろそろ到着為される。 今の件を、報告してきて欲しい」

「分かりました」

「そう嫌そうな顔をするな。 俺だって嫌なんだ」

一礼すると、張?(コウ)は袁紹の所に行く。顔良は腕組みして、曹操の陣を見据えた。苛立ちを押さえるのには、もはや勝つしか道はなかった。

 

徐晃は負けたとはいえ、それなりに軍勢を整備して引き上げてきた。七千の内、被害は三百五十だから、負けと言っても壊滅と言うほどでもない。対して敵は、殆ど被害がない様子であった。

むっつりとしていた徐晃だが、陣に戻った時には、既に表情を元に戻していた。

まっすぐ向かう先は、自分の天幕である。父と兄に手紙を書くつもりなのだ。

曹操には、兄と父にとても良くして貰っている。世話もまめに見て貰っているし、山海の珍味も時々届けて貰っている様子だ。自分の屋敷で面倒を見ても良いと二人には言っているのだが、彼らは農民の方が良いと言って断ってきている。都で続けていたささやかな商売が失敗し、全てを失った今。そして武人としてもやっていけなくなり、何もかもが駄目になった今。二人は、静かに農業をして暮らしたいのだろう。その気持ちは、嫌と言うほど徐晃にも分かる。

「徐晃将軍」

「どうした」

「はい。 曹操様が、ご到着為されました」

筆を置くと、徐晃は立ち上がった。手紙は途中だが、優先順位は曹操が先だ。献帝を守るためにも、彼は行かなければならない。それに、曹操が来るのは、予定ではずっと後の筈。重要な事なのだろう。

曹操は目立つことを避けたのか、非常に地味な格好で来ていた。馬車は使わず、愛馬に直接跨り、鎧も中級将校用のものを使っていた。そして、その背後には。見上げるような、赤ら顔の巨漢がいた。関羽だ。

「これは、予想より早いお着きで。 どうなされたのですか」

「うむ、袁紹軍の内部抗争に関する正式な分析が終了してな。 袁紹軍を崩すには、何名か倒さなければならない将が何人かいる」

分析が終了した。

と言うことは、羊の組織が壊滅したというのは本当だと言うことか。林の組織も大打撃を受けたと聞いているのだが。

或いは、林自身が、直接河北に乗り込んで、諜報を続けたのかも知れない。

「それで、その将とは」

「まずは、前の陣にいる顔良。 そして文醜。 最後に、田豊だ」

「何故、なのでしょうか」

「単純な事よ。 袁紹軍の中で、連中は後継者争いに参加しておらん。 どうも袁紹自身に一番強い忠誠を誓っている、無私な者達であるらしい。 それだけに、袁紹も信頼している様子だ」

袁紹自身よりも、次の世代のことを睨んでいると、曹操は言った。

河北は強大だ。まともに攻めても、落とすのには二十年以上かかるかも知れない。しかし、後継者争いで分裂させれば。十年以内に、陥落させることも無理ではないだろう。そう曹操は言った。

「更に、もう一つ重要なことがある」

「重要な、事ですか」

「そうだ。 袁紹は、間もなく死ぬ。 そうだな、後一年も持たないだろうと言う話だ」

なるほど、それなら今の内に、後継者争いを顕在化させる必要がある。

曹操軍の人材の力と、袁紹軍の数の力を鑑みると、恐らく簡単に勝負は付かないだろう。一度や二度の局地戦では埒が明かないのは明白。そして、袁紹軍の場合、主力決戦の一度や二度に敗れても、再起を図るのは難しくないほどに戦力が充実している。

曹操に続いて、錚々たる顔ぶれが並ぶ。

郭嘉、程c、荀ケ、荀ケの甥である荀攸(ただし荀ケより年上)、それに賈?(ク)ら謀臣に加え、張遼、于禁、韓浩、楽進らを始めとする曹操軍を代表する武臣達。彼らが一堂に会すると、壮観でさえあった。

本気で、顔良を潰すつもりなのだ。それが良く徐晃には分かった。

「顔良は手強いか」

「はい。 まず名将と呼んで間違いない相手かと」

「ならば、総力で当たらなければなるまい。 全軍、準備を整えよ。 顔良を屠るために、総力で当たる!」

顔良と文醜は、袁紹の両腕と聞く。それをもがれた時、彼はどのような顔をするのだろうか。

残酷な話だと、徐晃は思った。

ただ、袁紹が死に、河北が滅びれば。戦はだいぶ減るはずだ。そうなれば、父と兄は農業に専念することも出来るし、老後は彼らの近くでゆっくりと過ごすことも出来るだろう。もちろん、徐栄の言葉も忘れてはいない。英傑として、後の世に名を残したいとも思っている。

様々な悩みが、徐晃の中で渦巻く。

それが、敵を殺さなければ成し得ないと言うことが、とても悲しかった。

軍勢自体の増強は行われない。しかしながら、指揮官が大幅に変わった。最前列には徐晃と張遼が配置され、中衛、後衛にもあり得ないほど豪華な顔ぶれが並ぶ。そして、謀臣達が、策を練り始めた。

顔良を殺し、袁紹を陥れるためだけに。

人間の世は汚れているのだなと、徐晃は思う。

だが、どうにもならなかった。

 

(続)