小さな男の小さな終わり
序、紀霊
自宅にすごすご戻ってきた紀霊は、何度も大きなため息をついた。茶が運ばれてきて、そのまま口にしてしまい、舌を火傷しかけて、やっと正気に戻ったが。すぐにまた、忘我の彼方に没してしまった。
今日も、袁術に会うことは出来なかった。
無謀な、徐州侵攻作戦。しかもその作戦は、徐州を突っ切って、袁紹の所まで行くことを目的としているという。つまり、淮南にいる袁術軍が、根こそぎ引っ越しをするようなものだ。
間には、曹操軍の精鋭が控えている。その上、彼らは呂布をついに倒して意気が揚がっているのだ。とてもではないが、淮南の雑兵同然の戦力では、太刀打ちできない。それに、そんな長距離遠征を行える物資とてないのだ。
既に、民間からの徴発は、限界を超えている。これ以上の増税は、民衆の大規模反乱と、国の死を招く。それくらい、文官ではない紀霊にだって分かるのに。ここのところの袁術は、常軌を逸しているとしか思えなかった。
噂は流れている。袁術は既に人事不省の状態にあり、実権は張勲か、或いは他の袁一族が握っているのではないかと。その可能性は高いと、紀霊は考えていた。袁術は愚かだが、無能であっても邪悪ではなく、残虐でもない。確かに宮殿建設のために民を苦しめ、無謀な徐州攻略作戦を立案したが、此処までの邪悪ではなかった。
紀家は、代々袁家に使えてきた、武門の一族である。その歴史は古く、五代前には既に仕えていたことがはっきりしている。強大な権力を持つ袁家の懐刀として、様々な軍事任務で活躍し、名を高めてきた存在だ。
紀霊は袁術と幼なじみで、子供の頃はよく遊んだ。身分の差というものがあったから、物心つく頃には引き離されてしまったが、最初の友は袁術だった。愚かで感情制御が苦手な少年だったが、それでも人間らしい所は多くあった。
宴会の時、博識で貧しい少年が、食物を親のために無心するのを、袁術が見逃した事がある。
それが、些細な余裕から来る行動だと、紀霊は知っていた。だが、袁術は変わっていなかったと、影で喜んだものである。
弱くて愚かな男。
だが、それでも守る価値はある。そのはずだった。
いつの間にか、夜になっていた。また明日面会を申し込もうと思いながら、紀霊は庭に出た。使用人を減らして切り詰めているため、庭は荒れ放題だ。荒れているのが分かっていても、どうしていいか紀霊には分からなかった。だから途方に暮れて立ちつくしていると、後ろに気配があった。
「何やつか」
「劉備の配下、シャネスという」
勇ましい言葉だが、現れたのは筋骨隆々の大男ではなく、妙齢の娘だった。西域の血が入っているらしく、肌が白く、目が青い。ただ、かなり鍛えているらしく、相当な腕前であることが伺えた。
劉備の配下に知り合いはいないし、何より敵対勢力だ。だから、紀霊は最初から構えを解かなかった。
「劉備の配下が、何用か」
「我が主君に仕えぬか、話を聞きに来た」
「巫山戯るな。 今は見逃すが、次に現れたら容赦なく斬るぞ」
「情けない男だな。 忠義を完全に取り違えている」
あまりにも核心を突く言葉に、紀霊は思わず一瞬、息をすることを忘れてしまっていた。何が分かると言おうとしたが、言葉は出てこなかった。
絶望が、紀霊の全身を包む。
分かっているのだ。指摘されなくても。
今の袁術は、もはや忠義を捧げるに値しないと。連日の面会依頼など、時間の無駄に過ぎないと。
「だ、黙れ」
「民は袁術の暴政のせいで、塗炭の苦しみに喘いでいる。 それを助長するのが、忠義だというつもりか」
「お、おのれ」
「今回は帰る。 だが、次に下らん答えを返すようなら、斬る」
シャネスは闇に溶けるように消えた。紀霊は、別に戦っても負けるとは思わなかったが、しかし更に絶望が深くなるのを感じていた。
日頃高まる袁術の悪評。まるで闇から産まれた悪鬼のような評判。
違うと、紀霊は言いたかった。確かに袁術は小物だが、そこまでいわれるような存在ではない。
まるで主体性のない妖怪か何かのように言われている袁術は、人間だ。息だってするし、食事もする。心優しい部分だってある。欲望に負けやすいが、それも人間としての一面の筈だ。
「あと一回、あと一回だ」
紀霊は呟く。その日は、一睡も出来なかった。
翌朝、早朝から紀霊は出仕した。やる気のない兵士達が行き来して、出兵の準備が整えられているのが分かる。殆どの兵士達は、酷い装備だった。中には使えそうにない槍や剣を支給されている物もいる。弩に到っては、殆ど無いに等しい状態であった。
騎兵に対する高い制圧能力を持つ弩は、平原戦の主力兵装だ。しかも騎兵の比率が低い淮南の兵団では、弱点を補うために重要な武器の筈。ざっと部隊を見回して、これでは絶望的だと思った紀霊は、見かけた張勲に詰め寄った。
「張勲将軍!」
「おお、紀霊将軍か。 如何した」
「どうもこうもない! 予定の弩配備率に、到底達していない。 曹操の騎馬隊は、あの徐栄軍を参考にしている強力なものだ。 予定の配備率でも戦闘は厳しい物になるのが確実なのに、これではとても勝ち目はないぞ!」
「そう言われても、私の決めたことではないでな」
仮面の下から、張勲はそう悲しそうに言った。老いた声が、より悲しげに響いている。
「これも、陛下のご命令でして。 我が無敵の軍団であれば、気合いで克服できるであろうと」
「なっ……」
「無論私もお止めしたのですが、聞く耳は持っていただけず。 そればかりか、お乗りになる龍車の飾りに更に金を掛けるようにと言われてな」
嘘だと、叫びたくなる。
しかし最近、袁術の側に侍ることを許されているのは、張勲だけだ。もしそれが本当だとすると、袁術はもはや、紀霊が知っている存在ではない。化け物以外の何者でもないと言うことなのか。
「紀霊将軍」
「な、何か」
「人は、変わるのだ」
精神に致命傷を受けた紀霊は、数歩下がると、もう何処を歩いているのか自分でも分からないまま、宮中を彷徨いた。
鈴の音がした。周囲に侍従も兵士もおらず、きらびやかに、しかし無秩序に飾り立てられた宮殿は、いつの間にかがらんとした異空間になっているかのようだった。これでも、寿春にいた時はまだ良かった。しかしこの宮殿はどうだ。秩序も何もなく、まるで鳥か何かが無作為に集めてきた輝き物を、巣ではなく地面か何かにばらまいたような有様ではないか。
また、鈴の音がした。
そのまま、奥へ。咎める兵士も侍従もいない。
まるで音がない空間にも思えた。
廊下は塵が積もっており、掃除した形跡もない。そればかりか、残っている足跡そのものが、殆ど無い印象であった。
不意に、前に人影。シャネスだった。
「き、さま」
「見せたいものがある」
発作的に剣に手を掛けていたが、シャネスの表情に気圧され、そのまま着いていく。
妙な威圧感が娘には備わっていて、逆らえる雰囲気ではなかったのだ。それに、この異常な状況を自分の目で確認して、ただ面会許可だのを申し込むばかりだった事に恥じているという事もあった。
「見張りはどうしたのだ。 まさかお前が」
「馬鹿を言うな。 紀霊、貴方が一番分かっているはずだ」
「ずっとこうなのか」
「半月ほどまえからな。 もう後宮の女達も、一人も残っていない。 一部はどこかの誰かに、人身売買業者へ妾奴隷として売り飛ばされたようだな。 それ以外の、内情を知っている者や侍従達に関しては、見ろ」
シャネスが顎で杓って見せた先には、血の飛んだ跡があった。高さや血痕の状態から言って、殺されたのは最近、せいぜい半月前。しかも殺されたのは、かなりの人数だ。相当な手練れが殺ったらしく、殆ど拡散していなかった。
皆殺し、という訳だ。
「何が、起こったのだ。 袁術陛下は!」
「慌てるな。 今、会わせてやる」
角を曲がる。
柱ばかりが立派で、辺りには腐臭があった。いやな予感がしたので、小走りになる。シャネスが振り返ると、頷いた。
其処には幕が掛かっていて、奥が見えないようになっていた。
誰かが、一段高い所に寝かされている。身動きしたようだったので、紀霊は少しだけ安心した。
「紀霊に、ございます」
「あ、えう、う、ああああ」
意味不明のうなり声。シャネスは其処で腕組みしたまま立っている。紀霊は、全身の汗腺が開くのを感じた。
「失礼します! 陛下!」
飛び込んで、幕を捲る。
そして、紀霊は絶叫していた。
屋敷に戻った紀霊は、頭を抱えて呆然としていた。
奥に、いたのは。
もはや目も見えず、耳も聞こえず、そればかりか正気さえ保っていない、人間の残骸だったのだ。
一応食事だけは与えられているようだったが、排泄物はそのままにされていた。服は脱がされており、辺りには無惨な排泄物が散らばり、蠅が集っていた。ウジ虫が蠢いているのを見て、紀霊は絶望の悲鳴を上げたのだ。
その袁術を担いで、裏口から出てきた。
そして今、奥の部屋で、侍女達に世話をさせている。あまりにも悪臭が酷いので、彼女らは一様に嫌な顔をしていた。
袁術は、意識は保っているようだ。しかし、もう、言葉を発したり、意思を示したり出来る状態にない。これは、どういう事か。張勲に、ずっとだまされていたと言うことなのか。
そういえば、袁術の狂乱は、奴が現れてから更に加速したような気がする。
有能な奴であった。だからこそに、だまされていたのかも知れなかった。
「細作、頼みがある」
「シャネスだ」
「自己主張の強い細作だな。 シャネス、頼む。 袁術陛下を、何処か遠くの山の奥にでも連れて行って欲しい。 それで、匿ってもらえないか」
報酬として、紀霊は家宝にしている宝剣を出した。何代か前の袁家当主に頂いた、歴代に伝わる家宝である。
「此処にいる使用人達も、一緒に連れて行って欲しい」
「どういうつもりだ」
「もう、袁術陛下は見ての通り、哀れな病人だ。 回復する見込みもないだろうし、とても長く生きられるとは思えん。 無害な老人を救うと思って、助けてやってはくれまいか」
「……それで、お前はどうするつもりだ」
決まっている。
こんな巫山戯た真似をしてくれた奴に、礼をしなければならない。
袁術は愚かな君主だったかも知れない。しかし、此処まで汚物を擦り付けるほどの罪を犯した存在だったのか。
違うと、紀霊は言いたい。確かに昏君であったかも知れない。乱世で昏君である事は、大罪であるかも知れない。
しかし、このように、してもいない悪事まで押しつけられ、人格の全てを否定されるようなことが、あって良いものか。裏で糸を引いていたのは、奴に間違いない。何があっても、奴だけは討ち果たさなければならない。
「死ぬつもりだな」
「他に方法がない」
「……お前達武将という連中は、どうしてどいつもこいつもそうなのだ。 何故、生きることを考えようとはしない」
「私は、尽くすべき忠義を尽くさず、民を苦しめ続け、なおかつ君側の姦に気付くことも出来なかった。 今、私だけが、張勲を打ち倒せる可能性がある。 だから、止めないで欲しい」
分かってはいる。これが自己満足に近い行動だと言うことは。
だが、誰かがやらなければならない。
このまま張勲を生かしておいたら、さらなる害悪が、全てを飲み込んでいく事は間違いないからだ。
すっと、宝剣を突っ返される。
「これは、お前が使え。 袁術は、そのまま引き取ってやる」
「そうか。 頼むぞ」
「分かっている」
何処に隠れていたのか。シャネスが指を鳴らすと、十人くらいの細作が、わらわらと屋敷に入ってきた。
そして、使用人達を指示して、そそくさと屋敷を出て行く。
跡は、紀霊だけが残った。
宝剣を抜く。素晴らしい光が、辺りに満ちた。何度か素振りしてから、ずっと一緒に戦ってきた鎧を着込む。そして表に出ると、ずっと仕えていた、古株の兵士達が集まっていた。
どこから聞きつけてきたのか。しかし、涙を隠すのに、苦労しなければならなかった。
「お前達、いいのだな」
「紀霊将軍には、私の老いた母の薬代にと、給金を増やしていただきました」
「私は戦場で二度も助けていただきました」
「我ら一同、最後まで紀霊将軍の側にあります!」
鬨の声を揚げる。
そして、紀霊は、張勲の屋敷にまっすぐ向かった。
張勲は、帰宅途中、不意に林に進路を塞がれた。林はにやにやとしているが、あまり良くないことが起こったのは明らかであった。
「どうした」
「何、些細なことです。 袁術が外に連れ出されたようですよ」
「ほう。 して、誰が」
「さあ。 其処までは」
林はそう言うが、張勲には分かった。この女は、おもしろがって犯人を隠している。圧倒的な狂気と陰謀の中で生きてきた張勲は、呼吸も同然に邪悪を巡らせることが出来る。そう言う意味で、林とは極めて近しい。だから分かりもする。
考えられる相手がいるとしたら、曹操か、或いは劉備の配下だろう。目的だが、これは分からない。既に意識がない男を外に連れ出して、どうするつもりか。これが袁術だなどと主張しても、誰も信じはしないだろう。長い病気生活で、食事だけをしていたという袁術は、窶れきっているからだ。
其処で、結論した。
連れ出すか、その手引きをしたのは劉備あたりの配下。そして連れ込んだ先は、多分袁術に唯一の忠誠を誓っている男。紀霊辺りの屋敷だろう。
「そうか、紀霊か」
「おお、流石は王允様。 鋭い判断ですねえ」
「抜かすな、邪神。 そうなると、ある程度の兵力は揃えなければなるまいな。 紀霊もそろそろ邪魔になっていた所だ。 消してしまうか」
屋敷に張勲は急ぐ。林は一礼すると、すっと姿を消した。ここしばらく顔を見せていなかったと思ったら、気味の悪い輩である。
馬車を使って屋敷に戻る。水路が張り巡らされていた寿春と違い、此処は移動が不便で仕方がない。まあ、それももう少しの辛抱だ。そろそろ袁術にはあらゆる悪を押しつけた挙げ句に消えて貰う。
暴政は散々敷いて貰ったし、それ以外にも悪評のタネは山ほど用意した。
袁術は幼児を常食していた。
これは買い取ってきた奴隷を軟らかく煮込んで、犬どもに喰わせることで、証拠の骨をたくさん集めておいた。
袁術は玉爾をさもしい悪事に使い、女官達に高位の権限を与えていた。
これも、適当に殺した女官の服などに、玉爾らしき印の跡を散々残して、それらしい書類も用意した。
狂気の域に達している悪事の数々は、袁術が滅ぶと同時に、世に出回る。
それは袁術という男の破滅を意味し、漢王朝に逆らった者の姿と末路を、歴史に焼き付けるのだ。
屋敷に戻ると、タチの悪い破落戸達が集まっていた。いつも荒事のために飼っている連中である。彼らは張勲の手足となり、「袁術の悪事」を偽造するために、散々働いてきた手足だ。
もちろん、あまり長く生かしておくつもりはない。用事が済んだら皆殺しである。
「これは張勲の旦那。 どうしました」
「殺しをやって貰う」
「ひひっ、大歓迎でさ。 で、どいつで?」
舌なめずりした男は、幼児や女性を殺して切り刻むのが大好きな狂人だ。他のも、大体似たようなものである。まともな将軍は、もうほぼ残っていない。紀霊を除いて皆逃げてしまい、今いるのは袁術の一族と、現実が理解できていない三流以下の無能達ばかりだ。だから、こんな連中が、手足として必要となる。
「で、誰を」
「紀霊だ」
「へ?」
「紀霊を殺せ。 報酬はいつもの七倍。 ただ、奴は放っておけば此処に現れるだろうから、迎え撃つだけで良い」
明らかな困惑が、破落戸どもの顔に浮かぶ。
それはそうだ。紀霊は豪傑と言っても良い武勇を持ち、今まで彼らが殺してきた、抵抗も出来ないような相手とは違う。もちろん、張勲は彼らの心理を知り尽くしている。だから、破格の報酬を出したのだ。
「それと、紀霊の屋敷は後で好きなようにしても構わん」
「ほ、本当ですかい」
「家財道具から、使用人の女まで、全員だ。 そう言えば紀霊には、妙齢の娘もいたな」
「ひひひひっ! お任せくだせえ」
人間が一番知恵を働かせるのは、欲の皮を突っ張らせた時だ。
一人を呼んで、張勲は奥へ誘う。そして、自分の仮面の予備を被せると、席に着かせた。
「お前は此処に座っているだけで構わん。 もちろん、報酬も予定通りくれてやる」
「本当ですかい」
「本当だ」
既に破落戸達が、守りを固め始めている。
紀霊が反逆を起こすにしても、軍を動員している時間はない。もしそんな事をしている暇があったら、張勲が更に大勢の軍を集めてしまうからだ。だから、少人数で、直接張勲を狙ってくるのは、ほぼ間違いない。
だから、此処で用済みの屑どもと、相打ちになって貰う。
張勲はというと、屋敷の裏手に出た。其処で今まで育ててきた細作達が、待っていた。影のように、裏の山に潜り込む。淮南は水の多い地域だが、それでも低標高の山はいくらかあって、その一つを張勲の屋敷は背負っていた。
中腹に出ると、すぐに戦が始まった。
手をかざして、高みの見物をする。紀霊軍が突入した屋敷は、瞬く間に阿鼻叫喚の巷と化した。紀霊軍は数が少ないが、しかしいずれもが精鋭で、数倍の破落戸どもを相手に、互角以上の戦いを見せているようだった。
屋敷に火が回り始める。これだけ派手にやってくれると、丁度いい。何しろ、紀霊を反逆の門で、容赦なく罰する事が出来る。いや、紀霊にはもっと悲惨な罪を背負って貰うとしよう。漢王朝に逆らい、帝位を僭称した袁術のような邪悪には、忠臣などいてはいけないのだから。
差し出された桃を囓る内に、戦いは終わった。どうやら生き残ったのは、紀霊の部下数名であったらしい。此方も細作を出して、残りの兵士どもを紀霊もろとも皆殺しにするか。そう考えて、動こうとした瞬間。
全身に、痺れが走った。
「な、にっ!」
振り返ると、其処には。
無言で此方を見つめる細作達と、それにシャネスがいた。シャネスのことは知っている。劉備の配下として、近年名を上げ始めている細作だ。
「き、きさま……!」
「人間などどうでもいいと思っている貴様だから、部下の細作が入れ替わっていることに気付かなかったな。 その毒は、飲んだらもう助からん」
「お、の、れ! 劉備の配下でありながら、儂を害することが、どのような意味を持つか、わからんか!」
張勲、いや王允の顔から、仮面が外れた。
シャネスが顔をゆがめたのは、見てしまったからだろう。既に人間を精神的に超越してしまい、人外の何者かと化してしまっている、王允の素顔を。
「儂こそ、漢王朝、最後にして、最高の忠臣! 袁術を此処で無様に殺すことにより、漢王朝に逆らう者の末路を見せつけ、民の心を引き戻す事が、出来る! 劉の姓を持ち、漢王朝の復興を旗印にする劉備が、その程度の事も、分からぬ、か!」
「分からぬのは貴様だ! そのようなことのために、あれだけの悪事を重ねて来たというのか! お前は、袁術がただの小猿だとしたら、疫病神の王だ! 紀霊が命を賭けてでも、貴様を討とうとした意味が分かった。 そして仮に漢王朝が復興することがあっても、貴様のやり方では、絶対に、あり得ぬ!」
「げはっ!」
張勲が、大量に吐血する。視界が歪み初めて、手を地面に突いてしまった。剣をシャネスが抜く。だが、王允は、屈しない。
屈する訳には、行かないのだ。
歴史を動かし続けてきた者の自負として。
「わ、儂には、これしか方法がなかった! 長安の実権を握った時、儂は更に世を混乱させるばかりだった! だから、儂は悟ったのだ! 儂は闇よりしか、世を動かせないのだと! だから儂は、闇の王として、だがそれでも、漢王朝の、繁栄を!」
「民の意思無き繁栄など、反動での滅亡を招くだけ! 貴様の行動は、漢王朝をさらなる滅亡に、導くだけだ!」
「小鳥が、囀りおる」
視界が暗くなってきた。
間違っていない。自分に出来る最高を、王允は尽くしてきた。そして、充分な汚物を、袁術に塗り込むことに成功した。
漢は正統。漢こそ正義。
後の歴史に、王允の思想はすり込まれるだろう。王允こそが正義だったのだと、誰もが言うようになる。
笑い声が聞こえた。それはむしろ優しい声。
手を伸ばした先に、見える。自分を迎えに来てくれた、漢の皇帝達が。
だが、届かない。
見ると、体に、無数の黒い手が絡みついていた。皇帝達が、遠くに離れていく。いやだ、いやだ。私は、漢のために。漢のために、手を汚してきたのだ。
否。お前は、邪悪を楽しんでいた。
鋭く響き渡る声が、王允を打ち据える。振り返ると、其処には。鬼達を従え、更に恐ろしい表情を浮かべた、閻魔がいた。燃え上がる焔。巨大な釜。其処にあるのは、ああなんということか。地獄ではないか。
黒い手は、亡者達のものだった。もがくが、どうにもならない。
気付く。閻魔の脇には、拷問を受けながらも毅然としている董俊と、呂布がいる。彼らの何とすっきりした顔をしている事か。己の為すべき事を、全て成してきたという顔だ。
それを見ると、王允も少し落ち着いてきた。
そして、鬼達に閻魔の前に退き据えられた時には、すっかりいつもの王允に戻っていた。
「良かろう。 儂を裁くがよい!」
「不貞不貞しき輩よ。 ならば罪を素直に受けよ」
閻魔は恐ろしい笑顔を浮かべる。しかし、王允はそれに、さらなる邪悪な笑顔で応えたのだった。
おぞましい笑顔を浮かべた張勲の死骸を前にして、紀霊は大きく歎息した。死ぬつもりであったのだが、生き残ってしまった。
屋敷の中からは、袁術の罪として用意するつもりであっただろう、目を背けたくなる悪逆の証拠が山と見つかったからだ。張勲という男は、精神が破綻していたとしか思えない。だが、その行動は何処か必死で、真摯でもあった。
シャネスはもういない。この行動が、なにやら巨大な敵を作ることだと言っていた。死ぬなともう一度言われたが。しかし、正直これから、どうして良いのか分からなかった。袁術は逃がした。もう長くは生きられないだろうが、これ以上張勲に汚されることもない。ただ、後は安らかに生きて欲しかった。
生き残った部下達が集まってきた。あまり多くはなかったが、誰もが成し遂げた顔をしていた。
「これから、如何いたしましょうか」
「お前達は、主立った将を連れて、孫策の元へ行け。 孫策の所ではあまり良い扱いは受けないだろうが、かっての同僚もいる。 曹操の所に行くよりはましだろう。 それが無理そうな者は、荊州を目指せ。 多くの人間が集まるあの場所であれば、とけ込むのも難しくないはずだ」
「紀霊将軍は」
「そうだな。 ……袁家の者達を連れて、袁紹様の所を目指す。 もう、あのお方しか、袁術様の家族を守ってくださる方はいないだろう」
それは、嘘。
激しく対立し、代理戦争を繰り返した袁紹と袁術である。今更保護を願い出た所で、受けてくれるはずがない。
紀霊は、混乱を最小限まで抑える方法を採るつもりだった。
「そなたらは早く行け。 儂は、まだやることが多い」
「しかし、我らは紀霊将軍とともに」
「もうこれだけしてくれれば充分だ。 新しい天地にて生きよ」
一人一人に、残る金品を分け与える。彼らはどうやら、紀霊が死ぬつもりであることに、気付いたようだった。
彼らと別れる。どうしても着いていくと言い張った最年長の男も、紀霊があたまを下げると、涙を流しながら一緒に去っていった。後は、ある程度編成が行われた北進軍を揃えて、徐州に侵攻するだけだ。
袁術の一族は、屑のような連中ばかりだ。利権を貪り、能力はなく、そればかりか時流を見る目にさえ不足している。
この者達は、袁術に寄生して、その体から漏れる肉汁を啜っていた。張勲はそれなりに目的を持って袁術を操っていたようだが、この連中は違う。ただ惰眠を貪り、民衆を痛めつけていただけだ。
袁術もそれは同じだ。だが、袁術は充分すぎるほどのえん罪を受けた。今後、その名前は悪と無能の代名詞として受け継がれていくだろう。だからもういい。ただし、残った者達にも、きちんとした罰は受けて貰う。
徐州に侵攻を開始したのは、それから二月後。
ただ一度の戦いで、袁術軍は数分の一の筈の劉備軍によって木っ端微塵に打ち砕かれ、敗れ去った。戦いの結果、袁術の側で惰眠を貪り続けた豚の一族は全滅した。殆どはその場で戦死し、残りは捕らえられ、曹操に引き渡されて、拷問の末に死んだ。
紀霊は乱戦の中、戦死したという噂がある。
だが、その末路を見た者は、何処にもいなかった。
1、荊州に育つ闇の子
義理の父である黄承玄の屋敷で目を覚ました董白は、朝の光に気付いて、目を何度か擦った。
慎ましいが、良く整った屋敷。交州の拠点とは、大きな差がある。向こうは兎に角暑かったので、家の隙間が多くて、しかし湿気はどうしようもなかった。此方は幾分か過ごしやすく、そして湿気も少ない。
顔を洗って、髪の毛を整える。鏡に自らを映して、おかしな所がないかを確認。
妙齢に成長した董白の、水準を充分に越える美貌が其処に映っていた。母に似たのだ。董俊が狂気の愛情を抱いていた、母に。
鈴を鳴らす。音もなく、細作が数名、前に跪いていた。董白は、祖父や大叔父とは違い、笑顔で彼らに接した。
「夜勤お疲れ様です。 何か変わったことは」
「は。 報告書がまとまりましたので、此方に」
「分かりました。 目を通しておきましょう」
報告書と書かれた竹簡の束は四つ。河北、徐州、中原、それに漢中。いずれも、一月ごとに作らせ、そして急を要する情報は毎日確認させている。董俊が残した組織は、董白が育てて来た。そして今、河北の羊と、中原の林がつぶし合っている中、確実に勢力を伸ばしつつあった。
机に着くと、さっと目を通していく。河北はいよいよ袁紹の勝利が確定しつつあり、徐州ではついに袁術が滅びた。だが、実際に喧伝される状況とは随分異なっていることも、董白は把握していた。中原では、林の組織が、シャネスの組織をあしらいつつ、羊の組織と全面戦争を開始している。曹操は宛城にまた戦を仕掛けて、敗退。漢中は董卓の滅亡で失った勢力を回復し、今度は徐州を狙っている。
揚州の情報は、張度から入ってくるから問題ない。あの老醜な怪物は、しかし董俊や王允に比べると幼児も同然で、董白には簡単に操ることが出来た。そして交州と荊州に関しては。実際に自分の目で確認しているので、此方もまた、わざわざ報告書を作らせることもなかった。それに、荊州に関しては。娘を失って消沈していた黄家に潜り込んだことで、特に情報は必要なくなっている。何しろ黄家は、劉表の正妻も出している、荊州の名門中の名門なのだから。そしてその組織力は、既に董白が根こそぎ掌握してしまっていた。
報告書に目を通し終えた。肩を叩いて、小さく歎息。音もなく現れた細作が茶を差し出したので、一啜りする。
権力と学力に胡座をかいた義父はまだ起きてこない。怠惰は乱世では罪悪だが、此処ではそれも忘れられているかのようであった。
義父が起きてきたのは、董白が目覚めてから、一刻半以上も過ぎてからである。董白が机に向かって報告書を読んでいるのを見た義父は、内容もろくに確認せずに喜ぶと、のろのろと朝の準備をして、己の私塾に出て行った。教えている内容は、既に董白も目を通したが、簡単すぎたのでもうとっくに把握しきってしまった。
荊州に俊英が集まりつつある。
それは知識人の間では、有名な話であった。曹操も興味を示したと言うほどだから、その度合いが伺える。董白はそれを実際に目にして、嘘ではないことを知っていた。義父の経営している私塾のように内容が簡単な所もあるが、幾つか高度な学問をしている場所もある。そして何名かの若者については、董白も目を付けていた。
孫家の侵攻をものともせず、繁栄を続ける荊州。凡庸だと噂されるが、実は鋭い観察眼で領民を繁栄に導いている劉表。残虐で姑息だと噂されるが、軍を把握し、複雑な情勢を一枚岩に保っている蔡瑁。そして、短気で無能だと噂されてはいるが、実際には孫策の攻撃を退け、領内には一歩も入れさせぬ活躍をしている黄祖。この三人が揃う限り、荊州は鉄壁であった。
戦乱を避けて民が集まるのも当然であったあろう。この荊州は、中華で最後に残った安全な場所と言っても良いのだから。
漢中との紛争が開始され、国境を侵す侵さないと吠え合っている益州。もとよりきな臭い揚州や河北。未だ小規模群雄の壮絶な死闘が繰り返されている涼州とは、根本的に状況が異なっている。
だから、董卓の孫娘である董白が、名前を変えて潜伏するには絶好の状況であった。
既に妙齢に成長していた董白は、祖父が残した闇の組織を、ある程度引き継いでいた。その政治的能力についても、開花させていた。交州に潜伏していた時に、それは磨き抜かれた。彼の地を支配していた士一族に巧く取り入り、情報を引き出していく内に。董俊が育てた熟練の細作達が目を見張るほどに、董白は成長した。
そして今は、充分に組織を運営し、情報を整理しつつ、適切な手を打っていけるまでになっていた。
鈴を鳴らす。使用人に扮した細作が現れたので、用件を告げる。
「馬車を。 諸葛家に向かいます」
「分かりました」
諸葛。この地に逃れてきた名家の一つ。
そして、董白が今もっとも着目している、優秀な若者がいる家であった。
再三にわたって劉表が仕官を求めているのに動かないその若者は、亮。字を、孔明と言った。
諸葛亮。
そのものこそ、董白が見込んだ、この地の歴史を穏やかかつ民が静かに暮らせる方向に正す事が出来る、唯一の存在であった。
馬車に揺られている間に、後ろから追いついてきた者がいる。飼っている細作の一人であった。
「お嬢」
「如何いたしました」
「公孫賛が、滅びました」
「詳しい状況を」
馬車を止めて、細作を乗せる。馬は、車に連結した。
諸葛家は郊外の、しかもかなり山深い所に位置しており、辿り着くまでにまだかなり時間が掛かる。
状況を把握し、新たな戦略を練るには丁度良い時間があった。
燃え落ちる易京の巨大要塞を前にして、袁紹は腕組みしていた。髪には白いものが多く増えており、周囲の部下達のように、彼はあまり喜ぶことが出来なかった。勝つことは出来た。
しかし、あまりにも時間が掛かりすぎたのだ。
中原の曹操は、充分な準備を整えてしまっている。袁術は滅び、そして張繍も滅びまでそう時間がない。劉表もあまり曹操を圧迫することが出来るとは思えず、涼州からの援軍は期待できない。
これからは、曹操との長い戦いが始まるだろう。
それなのに。
袁紹はじっと手を見た。震えが止まらない。臆病風に吹かれたのではなく、少し前からこうなのだ。体がおかしくなってきているのは、間違いなかった。侍医には、あと十年保たないだろうとも宣告されている。
北平の雄公孫賛。白馬将軍と呼ばれ、国境紛争で名を上げた彼の滅亡は、必然であったとも言える。人望無く、兵力無く。だが、それでも良く耐えたのだと言えるだろう。
圧倒的な袁紹軍の猛攻に、公孫賛は長く耐えてきた。
公孫賛は攻めには弱いが、守りには卓越していた。領内の住民も、決して公孫賛を好いていなかったにもかかわらず、袁紹軍の波状攻撃にびくともしなかったのは、その才能の殆どが防御戦に向けられていたからである。
何度かの国境紛争で、地力の差で押されていた公孫賛は、巨大な要塞地帯を建築することで、袁紹に抵抗した。国境での紛争では押し続けていたが、攻めきれず敗退すると言うことを繰り返していた袁紹は、これには随分神経を削られた。
それでも、長年をかけて、一つずつ要塞を攻略していく事で。公孫賛を、少しずつ袁紹は追い詰めていった。幸いというか不幸というか、公孫賛の領土は狭く、なおかつ病的に疑い深いその性質が禍して離反する者も多く。そればかりか、有能な者を雇っても、それが当然と思って感謝しないだろうなどと嘯いて凡庸な者ばかりを取り立てていたから、公孫賛の未来は明らかだった。
やがて、易京と呼ばれる巨大要塞まで、公孫賛は追い詰められたのである。
しかし、ここからが大変であった。
易京は、築城の名手であった公孫賛が全精力を傾けて作った巨大要塞であり、しかも各地の城と連結し、内部には民から絞り上げた膨大な兵糧を蓄えているという、どうにも攻めようが無い圧倒的な要塞だったのである。
何度か仕掛けてみたが、まるで歯が立たず、被害を増やすばかりだった。しかも公孫賛は此方の疲弊を確実に見抜いて、的確に追撃を行ってくる。粘り強い袁紹も、すっかりこれには困り果ててしまった。
「袁紹様。 鵞鳥の油揚げが出来ましてございまする」
「うむ、貰おうか」
野戦陣地とはいえ、勝った直後だ。ある程度の贅沢は許される。袁紹は基本的に贅沢をしがちな性格ではあったが、攻城戦のさなかは兵士達の事を気にして、粗食に耐える事くらいは考えられる度量を持ち合わせていた。だが、今日は少し状況が違う。何しろ、易京が落ちたのだ。兵士達も、しばらくは戦がないと喜んでいる。彼らを少しでも頑張らせるためにも、袁紹はある程度の贅沢をさせるように、糧食係に命じていた。この料理も、それに伴うものである。
天幕にはいると、噎せるような油の臭いがする。長男と次男、それに三男が待っていたが、互いに視線を合わせようともしない。彼らは声だけは揃えて言った。
「父上、戦勝おめでとうございまする」
「うむ。 本日の料理は、何進将軍が作り上げたとても美味なるものだ。 戦勝の記念に、皆に披露いたす。 味わって喰え」
「ははっ。 それでは」
長男の袁譚が最初に進み出て、杯を掲げた。
ふと見ると、諸将は皆、長男か、次男と三男の所にそれぞれ別れるようにして集まっていた。これはいかんと袁紹は思う。体が衰えるのに反比例するように、権力闘争が加速し始めている。
元々、河北の政権は、袁紹の豪腕によって作り上げられた。
豊かだがまとまりが無く、豪族が割拠していた土地に、圧倒的な経済力と軍事力を背景に、袁紹は乗り込んだ。そして、公孫賛以外の豪族を瞬く間に平らげていった。その過程で配下になった者もいるにはいる。
だが、袁紹の配下にいるのは、良く言えばその名声を慕って集まった。悪く言えば勝ち馬に乗ろうとしてやってきた、忠誠心が低い将が多かった。しかももとより名家である袁一族には、凝りのように腐敗が溜まっていて、少なからぬ無能な宿老を、不自然ではないように粛正もしなければならなかった。
燃え上がる易京の中からは、既に公孫賛と妻子の死骸が見つかっている。そして、今回の最大の功労者は、田豊だった。昔から袁紹の懐刀として活躍してきた知将は、今回恐るべき策を立てた。そして、見事に易京を落としたのである。
ただ、当の本人は肩身が狭そうである。
無理もない話だ。今、袁紹の配下は、長男派と、次男三男派に割れている。田豊はそのどちらにも所属しておらず、故に最大の功労者であるというのに誰からも白眼視されていた。今、袁紹に忠誠を誓っているのは、正直田豊と、文醜、顔良くらいしかいない。猛将達は良いにしても、己の危うい立場に、田豊は心を痛めている様子であった。
酒を注ぎに、次々と派閥に属する諸将が来る。田豊は彼らから露骨に遠ざけられていて、肩身が狭そうである。袁紹は酒を注ぎに来ないかなと思ったのだが、無理そうだった。全く、せっかくの何進将軍の料理が、不味くなりそうである。
まだ、袁紹が生きている内はいい。いや、そうとも言い切れなくなってきた。
最近袁紹は、自制心に自信が持てなくなってきている。判断を誤ることも、若い頃に比べて増えてきていた。目眩がすると、何時の間にか剣に手を掛けていたり、怒鳴っていたりすることが良くあるのだ。
夜中、びっしり寝汗を掻いていた事もあった。若い頃には、絶対にあり得ないことだった。
曹操が羨ましいと思う。体が小さいかの男は頑健で、袁紹よりずっと若い。才能の差は、かってはさほどでもなかった。今は、かなり開いてしまっているような気がする。老いが、差を開く要因となってしまったのだ。
優秀な家臣は、向こうに劣らず多い。それなのに、どうしてこうも苛立ちばかりが募るのか。間近に迫った死という現実ほど、袁紹を苦しめ、視界を狭める要因は無かった。
「すまぬ。 風に当たってくる」
「小用ですかな」
「たわけ。 風に当たってくるだけだ」
鵞鳥の皮を囓っていても全く味がしなかった。あれほどの安らぎを感じた美味であったのに。空気にそぐわない文醜の寝言が、むしろ今は心地よい。無言で顔良は大斧をひっさげてついてきた。忠臣だが、顔良一人ではどうにもならない所まで、家臣団の分裂は広がってしまっている。
外に出ると、逢紀が待っていた。次男三男派の筆頭でありながら、最も優れた謀臣である彼を、袁紹はどう扱って良いのか分からなかった。
「袁紹様」
「どうした。 また跡継ぎの話か」
「は。 この権力闘争も、袁紹様が跡継ぎを早めにお決めなされば、決着がつく話にございまする」
「そう簡単にいくか。 知っておろう。 はっきり言うが、どちらも次代を継ぎ、曹操に対抗できる器では無いわ」
それが故に、袁紹は跡継ぎを決めていなかった。家臣達もああだこうだと意見を言い合っているが、結局の所、どう権力を保持するかで躍起になっているだけだ。国家百年の計が、見えていないのである。
袁紹には、それが見えている。曹操には更によく見えているだろう。
袁紹は、怖いのだ。霞みつつある視界が。よりよく先が見えているだろう曹操が。悲しいのだ。優れてはいるのに、意見を纏められず、先を見ようとしない家臣達が。此処に来て、袁家がため込んできた凝りが、一気に毒素を噴き出している印象がある。もう二十年。いや、十年あれば。
曹操に勝てさえすれば、次代はどうにでもなる。
しかし、曹操を倒せなければ。確実に袁家は滅び去ることだろう。
もちろん、袁紹も我が子は可愛い。だがそれ以上に、国家の計を見据えることが出来るから、苦悩しているのだった。
逢紀を下がらせると、顔良が側に来て、囁いた。
「もはや、猶予はありますまい。 私にはどうすればいいのか分かりませぬが、逢紀将軍の言葉通り、さっさと跡継ぎを決めないと、大変なことになりましょう」
「どちらもが盆暗だとしてもか」
「そうです。 多少盆暗であっても、私と文醜が支えます。 跡継ぎさえきちんと袁紹様の頭がはっきりしている内に決めていただければ、不満を述べている審配将軍や、郭図将軍も従いましょう」
分かっている。分かっているのだ。
だが、袁紹は、決断できなかった。
かってはあれほどに、優れた決断を、すぐに出来ていたというのに。
いや、かっても決断はすぐには出来なかった。しかし、優れた決断は出来ていた。だから河北を統一し、公孫賛を滅ぼすことが出来たのだ。時間は掛かったとしても。
しかし、今は。
その自信も、亡くなりつつあった。
易京の火が消えたのは、翌日のことであった。降伏したり首を刎ねた敵将を検分していた袁紹は、ふと一つの名前に目を止めた。
「趙雲、か」
「はい。 軍を率いる才には恵まれないようでしたが、優れた使い手でした。 陣頭に奴が出てくると、何度も猛者が討ち取られ、味方は戦慄したものです。 私も戦ってみたかったのですが、ついぞ機会がありませんでした」
少し恥ずかしそうに言う顔良。文醜は小首を傾げている。多分、その名前を認識さえしていないのだろう。
「それで、行方不明か」
「実は、袁紹が易京に籠もる少し前から、出奔したという噂がありました。 戦場では見かけなくなっておりましたので」
「そうか。 惜しい武者を逃したな。 曹操の所に行ったのだろうか」
「実は、劉備と仲が良かったという噂がございます。 そうなりますと、曹操の所と言うよりも、汝南当たりで再起を図りそうな雰囲気です」
その劉備が、袁紹と連絡を取り始めている。
徐州での蜂起が失敗したとしても、汝南当たりで攪乱戦をやらせる計画があり、その時は一緒に戦うことになるのかも知れなかった。
参謀達を呼ぶ。仲は良くないにしても、皆戦場を駆け抜け、優れた知識を持つ者達だ。手腕にしても、曹操軍の名将達に劣らないと、袁紹は自負している。
「兎に角、今は地固めだ。 曹操が張繍を降したら、決戦が始まる。 兵を整え、兵糧を整備しておけ」
「ははっ!」
参謀達が散る。
今は、まだ袁紹が生きているから良い。
もっと生きたい。ただ、袁紹はそう願い続けていた。
馬車が、ついに楼中についた。諸葛亮が、小さな庵を構えている土地である。河北の状況を聞き終えた董白は、細作を下がらせると、護衛の武人数名のみを連れて、馬車を降りた。これでも、独立してからは武術を学んでいるから、多少の暴漢くらいになら遅れを取ることはないのだが、念には念を、である。扇子を拡げて顔を隠したまま、畦を歩き始める。もとよりさほど豪華な着物ではない。汚れることには慣れているし、泥が靴につくことなど気にはならなかった。
董白は今黄月英と名乗っている。いつもは顔を隠すように歩いているので、醜女だと噂されているようだが、そんなものは知ったことではない。必要なのは、確度の高い噂だけである。社交界にも一切でないので不気味がられているようだが、そんなものは代わりに義妹が出ているからいい。劉表に嫁いでいる姉に関しては、一目で阿呆と見抜いたので、それ以来興味を喪失していた。
辺りは山深く、畑が多い。山に虹が架かっているのは、昨日雨が降ったからだろう。
今まで、董白が目を付けた相手は何人かいた。だが、何度か顔を合わせた諸葛亮が、最も有望だった。この男を夫にして、国家百年の計を練りながら、平穏な社会を目指す。それが一番良さそうだと、董白は判断していた。
庵が見えてくる。
規則正しい農作業の音がしていた。働いているのは、諸葛均。亮の弟である。まだみずみずしい若者だが、董白からすれば、あまり興味のない人物であった。能力的には兄の十分の一というところで、多少の仕事はこなせるが、それ以上でも以下でもなかった。国には必要な無数の凡人で、それ以外の何者でもない。
「ああ、月英姉様」
「姉様はやめなさいと言っているでしょう。 亮はいますか」
「兄上なら、いつも通りぐうたらです。 水鏡先生の私塾に顔を出して帰ってきてから、ずっと眠っています」
水鏡先生。本名司馬徽。
曹操、劉備ら群雄より僅かに年下であるが、優れた見識を持つ、この地を代表する知識人の一人である。よしよしと常に口にすることが有名で、場所によっては「よしよし先生」等と呼ばれてもいる人物である。奇癖はあるが教師としての手腕は確かで、明らかに黄家の私塾よりも、教えている学問の次元は上。それが故に、董白もたまに男装して顔を出し、其処で亮を見つけた。
一目で男装を見破った上に、他の男とは理解力も判断の速さも違った。ただし、あまりにも鋭すぎる頭が故に、司馬徽の私塾でも、物足りない様子だった。何名か優秀な人物は亮を認めていたが、それ以外は疎んでいる様子があったのだが、本人はまるで気にもしてない様子であった。象が蚊に集られても、痛くもかゆくもないという所なのだろう。
話をしてみると、元は徐州の方にいたという。
そして、様々な苦難の末に、ようやく荊州に逃れてきたが。しかし、雌伏することを、決して好んではいない様子であった。
別に単に遊びに来た訳ではない。
亮が考えている、国家戦略に興味があるのだ。
もしも平穏な国を実現してくれるのなら、別に曹操でも袁紹でも良いと董白は考えている。だが彼らは既存の権益に依存していたり、或いは苛烈すぎる思想が己どころか民も国も焼いてしまったりと、董白から見ればあまり期待は出来ない。仮に中華を統一できたとしても、すぐに滅亡してしまうのではないかと睨んでいた。その点では、四家に牛耳られている呉も同じだといえる。
しかし、それ以外の道が、もしあるとしたら。
それは孔明の脳裏にあるのではないかと、董白は思っていた。
残念ながら、様々な学問はしたが、董白は裏方の人間だ。交州の権力に網を張っていく内に、それがよく分かった。網を張り巡らせることは出来るが、民を安んじることはどうやっても出来ない。
しかし、大叔父の暴虐を見て育った董白は。同じ道を辿りたくはなかった。
例え、流れる血が確実に暴虐の闇につながっているとしても。
庵を除くと、図体のでかい若者が、ごろんと横になって寝息を立てていた。いつもは才気煥発という言葉が相応しい若者だが、しかし脳の消耗もその分激しいようで、暇な時は昼寝ばかりしている。それでいながら、起きている間は、常人の何倍もの効率で作業をこなすのだから、不思議な人物である。
たたき起こそうと思ったが、別に今日は急ぎの仕事もない。それに、幾つか目を通しておきたい資料もある。
離れに案内して貰うと、均が茶を出してくれた。礼を言うと、すぐに脳裏から弟のことは追い払い、細作達の報告書を拡げて目を通す。数刻もした頃か。ようやく亮が起き出してきた。
亮は董白と同年代だが、一歳だけ年下である。だからか、敬語を使って常に接してくる。周囲にはなかなかいない型の、珍しい人間であった。
立っている亮はやはり図体が途轍もなくでかく、体さえ鍛えれば充分に武人として通用しそうだと思えた。座っても、少し窮屈そうである。
「申し訳ございません。 起こしていただければ良かったものを」
「そうしようと思ったのですが、どのみちすることがありましたから」
少し前から、亮は董白が巨大な闇の情報網を作り上げている事に気付いている。そして、それを、董白は別に危機だとは思っていなかった。この男は、安易な密告などするような小物ではない。理屈でものを考えるから、利用し合うには、丁度良い相手だった。
軽く世間話などをした後、今回の用件に移る。
「ところで、亮様」
「何でしょうか」
「貴方は、民の平穏を築き上げるに、何か良策をお持ちですか」
「ふむ、難しい所ですね。 民政については私も独学を続けておりますが、やはり民の安寧を考えるのであれば、天下を統一すること。 それがならなければ、拮抗した勢力による安定した時代を創造すること。 現実的に可能性が高いものを考えるのならば、それが一番でしょう」
しかし、現在はそれにはつながらない。そう亮は言い切った。
袁紹と曹操は、一触即発の状況。呉は荊州が隣にいるため、とてもではないが介入する余裕がない。このままだと極限まで巨大化した曹操が、中華を易々と飲み込むことだろう。そう言い終えてから、亮は苦笑した。
「しかし、曹操が天下を統一しても、その政権は長続きしないでしょう」
「なぜですか」
「曹操の政権は、曹操一人の手によって支えられているからです。 彼はあまりにも図抜けた巨人であるが故に、天下を取った後は、その両腕で全てを抱え込むことになるのでしょう。 そうなってしまった後、曹操が死んだら。 天下はすぐに大乱に落ちることでしょうね」
その点で、無能だった劉邦は幸運だったと、亮は言った。確かに死後に混乱は起こったが、優秀な家臣団が育っていたから、すぐに収束した。王蒙が現れるまで平穏は続き、偉大なる光武帝が現れるまでの充分なつなぎになった。そう結論づける。
それだけで、この男が漢王朝に対する尊敬など備えていないことは明らかだった。ただ、現実的にどうすればよいかだけを考えている。そして、己の弁を、それに沿って幾らでも変えることが出来る。
この男は、冷徹な現実主義者である。その頭脳は、ただ現実だけを見据えて、回転を続けている。
それが故に、ああでもないこうでもないと現実を伴わない理論を並べ立てる儒者達や書生、それに曲学阿世な寝言ばかり並べている若者達とは、そりが合わないのだ。董白としても都合が良い相手だった。
「ならば、この土地に安寧をもたらせるのは」
「現時点では難しい所ですね。 仁君で知られた劉虞殿が生きていれば、もり立てて行くことも考えられたのですが、彼は公孫賛の手に掛かって果てました。 今のところ、誰も彼もが帯に短したすきに長しというところで、これと言った人材はいない。 それが素直な印象です」
この辺りも、董白と見解が一致している。
強いて言うならば、各地で傭兵業のようなことをしながら、人望を集めている劉備であろうかと、亮は言った。
劉備の名前は董白も当然知っているが、亮が着目していたのは驚きであった。
「あの方は、貴方と同じ現実主義者かと思いましたが」
「もちろん、その通りです。 しかし、それでいながら、根幹の戦略には民を据えている人物でもあると分析をしています」
「興味深い話ですね」
「貴方が抱えている情報網に少し触れさせていただければ、更に詳しい分析が可能になるでしょう」
踏み込んできた。
董白の情報網の全容を、この男が掴んでいるとは思えない。
それを渡した時、董白を用済みとして消しに掛かる可能性もある。交州で、海千山千の老獪な怪物達と渡り合っていた董白は、安易な判断が即座の死につながることを、十重に理解していた。
「すぐに回答は出来ませんが」
「ならば、貴方を妻に娶ったら、情報網を使わせていただけますか?」
艶然と微笑むと、董白は一度会話を切った。
なるほど、それも手の一つ。もとより目を付けていた相手である。それに、口だけ立派な輩と違い、実際に頭が恐ろしく切れることも確認している。自分が作り上げてきた情報網を貸し与えるには、充分な才覚を有しているとも言えた。
後何人か、確度の低い候補を見繕った後、董白は結論を出そうと思っている。義理の父が持ってくる良家の若者との縁談など眼中にない。意識が向くとしたら、この国を変える能力を持つ者だけだ。
一旦楼中の庵を辞して、馬車に乗る。細作が一人、闇に溶けるようにして待っていた。
「首尾は如何でしたか」
「上々という所ですね。 なかなかの若者です。 私が輿入れするとしたら、恐らくはあの者でしょう」
「それは我ら一同、長年の責務が果たされた気がします」
「凶猛だった祖父の下にいながら、忠義を尽くしてくれたそなた達には、必ずや報いさせていただきます。 しかし、それはまだ先のこと。 亮を夫に迎えても、この中華が平穏になる訳ではありませんから」
結婚して、子孫を後に継ぐことは、董白にとって節目でしかない。
歴史の勝者になることは、興味がない。
敗者になっても、別に構わない。
ただ、この世に、平穏が訪れれば、それで良い。この文明圏にしか、董白の小さな手は伸びないだろう。
だが、出来るだけのことは、するつもりであった。
馬車が帰路を行く。
亮は他の求婚者と違い、董白の知性だけを見ていた。容姿など、別に董白にとっても、さほど重要ではない。
それだけが、重要だった。
2、山奥に蠢く闇
小柄な男が、いそいそと動き回っていた。
宮殿と言うには、あまりにも小さな館。山間に建てられた、砦の中の一室である。棚には多くの竹簡が並べられ、男はそれに目を通しては、整理分類し、竹簡に記して主君の採決を待つ。
此処は漢中。
山深い土地ながら、良く肥えている。そのため、古来より多くの逸話が残ってきた。高祖劉邦が蜂起した後、漢中を抑えたことにより、一気に経済基盤を手にしたことは有名である。また、非常に険しい道を辿らないとたどり着けない巴蜀の地の、玄関ともなっている場所でもあった。
この土地に覇を唱えていた勢力は、他とは一風変わっている。宗教団体である。
五斗米道と言うのが、その名であった。
実際には、宗教団体と言うよりも、農民の自治組織であるという点の方が大きい集団である。怪しげな思想は確かにあるのだが、それ以上に、農民達が相互扶助して暮らしていくための仕組みが、漢中では整っていた。搾取する支配社会層は、現時点では未だ出ていない。そればかりか、道行く旅人達にも食料が振る舞われ、さながら乱世の中にある穏やかな泉を思わせるような場所であった。
表向きは、である。
実際は違う。
もとより漢中は、漢民族以外の民が多く暮らしている、混沌の地であった。地形は入り組み、無数の小勢力が乱立し、小さな村がそれぞれ砦となって、互いの動向に目を光らせていた。
其処に、五斗米道が入り込んだのである。
暴力と陰謀の嵐の中に、それは一つの翻訳装置として働いた。しのぎを削っていた無数の村々は、見事な役割を果たした翻訳装置を歓迎した。農民である彼らは想像以上にしたたかであり、最初から信仰による救いなど微塵も期待していなかったのである。
やがて、団結を果たした農民達は、自らの手で領主を漢中からたたき出した。そして、自分たちの土地として、漢中を収め始めたのである。
問題は、漢王朝による圧迫であった。農民達はそれぞれの村から特殊な技能を持つ人間を持ち寄り、各地に放った。大小の小競り合いで鍛えられた彼らは、平和呆けした漢王朝の密偵などものともせず、各地で暗躍を重ねていった。
そして、いつの間にか。
巨大な闇の王国が、漢中にできあがっていたのだ。
規模が拡大すれば、組織には長も現れる。現在、教祖として漢中を支配しているのは、張魯。そしてその下で、政務を取り仕切っているのが、揚松という男であった。
揚松は、いわゆる嫌われ役であった。
「揚松様」
「如何したか」
「張魯様がお呼びです」
「分かった。 すぐに行く」
丁度、整理も一段落した所であった。自らの肩を叩きながら、揚松は歩く。たかが知れた規模の屋敷だから、すぐに主君達が待つ部屋には到着できてしまう。歩く途中も、兵士や文官達は、皆揚松に憎しみの視線を向けてきていた。これで良い。
揚松は、漢中において、全ての悪の根源と呼ばれる男である。
賄賂は全て揚松が取っていることになっている。えん罪や無駄も、全て揚松が原因という事になっている。
それだけではない。戦争に負けた場合は、揚松が情報を流したからだと言われる程なのである。
なぜ此処までするか。それは、漢中の団結のためだ。
揚松という悪が存在することにより、漢中は張魯を中核にまとまることが出来る。五斗米道という信仰だけでは、やはり民はまとまりきらないと、数年前に張魯が決断し、悪を揚松が買ってて出たのだ。
もちろん、その名は末代まで貶められることを覚悟の上で。
孤児である所を拾って貰い、飢え死に寸前だった生活を一変させてくれた漢中の五斗米道政権は、揚松の全てなのだ。だから、五斗米道の発展のためであれば、揚松は例え蛇蝎と呼ばれようと、骨を誰一人拾わなくとも、耐える自信があった。
張魯の前に出る。
周囲にずらりと並んでいるのは、祭司。ただし、宗教的な代表者と言うよりも、漢中に多く存在する村々の、代表者達である。事実宗教的な儀式はさわり程度にしか行われず、政治的な話ばかりが行われる傾向にある。
それらを影で調整するのも、揚松の仕事だった。
無数の敵意の中、揚松は歩き、そそくさと卑屈そうに笑顔さえ浮かべてみせる。嫌われるための動作を、揚松は徹底的に研究した。忠誠も揺るぎない。だから、如何に世間に罵られようと、それを完遂できる。
張魯の左隣に立つ。軍事面の司令官をしている張衛も、政治的な戦略を認識している一人だ。だから、人前では、如何にも揚松を憎んでいるように行動してくれる。また、時代の政務を担うと期待されている閻甫の風よけ役としても、揚松という「邪悪」は、重要な存在であった。
張魯が顎をしゃくると、ぴたりと周囲の喧噪が止む。
二代目として、漢中を取り仕切る張魯は、常人離れした貫禄を身につけていた。風よけの揚松が全ての汚れを受け付けていることもあり、その清廉な雰囲気は比類無く、揺るぎもしない。
「それでは、報告を聞こう」
政務が始まった。
二刻ほどに渡り、村の長達が順番に報告を始める。それらを、的確に張魯は吸収し、分析し、判断して決断していった。
事前に竹簡で報告は行われ、それは整理された上で、張魯に揚がっている。だからこそに、決断には実は一晩の時間がある訳なのだが、一見すると即断しているようにも見える。もっとも、一晩で此処まで正確な判断を下せる人間はそう多くはないのだが。
一通り、報告が終わると、張衛が前に進み出た。
益州を支配している劉障は、漢中政権を目の仇にしている。それに備えるための、軍事力強化が彼の提案議題であった。
「漢中の軍事力は、益州に比べると若干劣っている。 もちろん地の利もあり、また平和慣れした益州の軍勢では、我が軍を簡単に破るのも難しい。 だが、兵力は多いに越したことはないし、何よりもより多くの兵を養える下地も、漢中には整っている。 兵としての役を果たす民を増やして貰いたい」
「張衛将軍、私は反対です。 その、何かと物事には金がかかりますでな。 確かに米は余っておりますが、それだけでは何とも」
「黙れ、拝金主義者っ!」
揉み手をする揚松に、張衛が吠える。
事前の、打ち合わせ通りだった。
一通り話が終わり、村の代表達が変えると、代わりに影のような男達が入ってくる。彼らこそ、各地の村から集められた特殊異能者集団。強力に鍛え上げられた、漢中の誇る精鋭細作部隊である。
彼らが入ってくると、張衛は一歩下がり、逆に揚松が前に出る。
此処からは、大人の時間だ。
「報告を」
「はっ。 河北にはこれといって大きな動きがありません。 ただし、幾つかの点で進展はあります。 袁紹は着々と軍備を整え、既に青州では曹操と小競り合いが始まっています。 また、袁紹は大将軍と名乗り始めた模様です」
「なるほど、かっての上司であった何進に習うか」
言葉遣いも、さっきまでとはまるで違う揚松。細作組織を育て上げたのは張魯だが、その主体的な操作を任されているのは揚松である。彼らには、彼らへの接し方がある。張衛はあまり裏手の仕事は得意ではないので、揚松が一任されているのだ。
「はっ。 現在では軍事、経済ともに、大きく曹操を凌いでおります。 ただ……」
「懸念事項があるか」
「はい。 羊が肺に死の病を患ったようでして、どうも後数年も保たない様子です」
「そうなると、ますますあの林が増長するな。 危険きわまりない娘だが、奴はどうしている」
漢中では、林の動向も逐一掴んでいた。既に奴に対抗できる細作は中華には存在しないので、動向を掴んでおかないと、危険きわまりないのだ。
それは、最精鋭とも言われる、漢中の細作であっても例外ではない。奴が漢中に乗り込んできたら、総力戦を挑まないとならないだろう。だから、事前に足取りは掴んでおく必要があるのだ。
漢中の情報網は幅広い。各国の首脳にまで、その手は食い込んでいる。
「どうやら、曹操に接触を目論んでいる様子です」
「何。 林と曹操が結びついた時、その危険性は言語を絶するな。 曹操は、奴が典偉を殺し、曹昂をも殺したことを知らぬのだったな」
「は。 情報を流す準備を整えますか」
「ふむ、しかし曹操のことだ。 例えそれを知ったとしても、林が有能だと知れば使う可能性が高いな。 何をするにも危険な相手だな。 油断せぬように見張れ」
あたまを下げた細作が下がると、今度は別方面の監視を続けていた女が進み出る。彼女は揚州の四家に部下を潜り込ませており、自身は張度の側近をしていた。
「揚州ですが、呉はまた黄祖に破れました。 二万の兵を動員しましたが、完全に陽動に引っかかり、水陸から挟撃を受けて壊滅しました。 孫策は戦死を免れましたが、兵の二割近くを失っての撤退です」
「相も変わらず無様な。 それで勝利と喧伝するのだから、呆れた話だな」
「今回の戦でも、高名な大将が何名か戦死しております。 周瑜も苦々しく思っているようですが、四家は出兵を繰り返す姿勢を止めていません」
つまり、当分呉は荊州に掛かりっきりだ。黄祖が死ぬまで、荊州は絶対に安泰だろう。唯一まともに陸上戦が出来る魯粛は、そもそも担当方面が違っている。それに熟練した手腕を持つ黄祖は、魯粛よりもかなり戦が上手い。魯粛が出てきても、呉には荊州を落とすことは出来ない。
続けて、漢王朝の中枢に潜り込んでいる小柄な男が進み出た。
「そちらはどうだ」
「は。 こちらでは、大きな動きがございます。 董承が、曹操を暗殺するべく、動き出しております」
「ほう。 さては王允の後ろ楯を失って、焦り始めたな」
「どうやらそのようでして。 引退して許昌に来ている馬騰や、劉備にも声を掛けて回っているようです。 計画を打ち明けてはいないようですが、宮廷闘争的な地固めのつもりなのでしょう。 献帝は知ってはいるようなのですが、無視して、積極的な行動を避けております」
献帝が、実はかなり頭がよいことは、漢中ではかなり前から把握している。かの人物は、おのれが動けば動くほど、世を混乱させるだけだと知っている。それ故に、木偶としての皇帝の責務を必死に果たそうとしている。それを理解して、曹操も敬意を払って対応しているのだ。
多分曹操も、董承の行動は掴んでいるのだろう。
恐らく、許昌に献帝を目当てに集まったダニを、この気に一気に叩きつぶすつもりなのは間違いない。
「監視を続けよ。 ただし、董承が成功しそうならば、邪魔せよ」
「は。 しかし、よろしいのですか」
揚松より先に、張魯が応える。全権を与えられていると言っても、張魯はきちんと、要所で的確な判断を下す。故に、揚松は安心して全幅の信頼を捧げることが出来るのだ。この人は、決して群雄に劣る器ではないという、人間的な確信が、揚松が抱く忠誠の源泉となっている。
「構わぬ。 董承よりは、まだ曹操の方がましだ」
董承が、長安脱出の際にどのような凶行を行ったかは、既に調べがついている。奴は董卓の最も後ろ暗い部分を色濃く受け継いだ男だ。その残虐性に関しては、董卓に匹敵するかも知れない。
西涼の情報も入ってきた。相変わらずの混沌の中、馬騰の息子である馬超が一歩ぬきんでた才能を発揮している様子である。血みどろの混沌の中で育ち揚がった馬超は、さぞ凶猛な若者となることであろう。
仕事が一段落すると、被害報告に入った。
「河北に出ていた部隊の内、五名が倒されました。 羊は死に際に不安要素を一つでも取り除こうと考えているらしく、此方に対する攻勢を強めています。 林に対しても、かなり大胆な攻勢に出ているようです」
「そうか。 補充はすぐに回す。 気をつけて、対処に当たれ」
「中原でも被害は甚大です。 今月は三名だけですが、いずれもが林に殺されて、首を晒されています。 いずれの者も、優れた使い手で、修練を怠ったことなど一度もなかったというのに、です。 彼奴は化け物です」
分かっている。だが、それでも部下を送り出さなければならないのが辛い所だ。
一通り報告が済むと、揚松は肩を叩いた。愚かでひ弱な自分。細作達の主である、闇の眷属である自分。そして張魯の忠臣であり、国を憂うる男としての自分。いくつもの自分を短時間で使い分けなければならないので、とても神経を使う。
張魯が手を叩くと、使用人達が山海の珍味を持って入ってきた。定期連絡の際に、国を支えている細作達のために、特別に催される贅沢だ。なお、張魯や揚松は一切口にしない。揚松が密かにしていると噂されている贅沢は、こうして人知れぬ闇の者達を、ねぎらうために消費されているのだ。
「今回もご苦労だった。 道の国であり、民の国でもある漢中を支えるため、これからも頑張って欲しい」
張魯がそう言ってあたまを下げると、揚松、張衛もそれに習った。
一通り任務を終えると、揚松は愚か者の顔に戻った。時には内部を疑うこともしなければならない揚松は、いつも相手を油断させるため、俗物で愚かな屑のような人間を演じ続けている。演じている時には、心身共になりきっていて、賄賂を貰って喜んでいる所も時々わざと見せていた。
仮面を被り続ける人生は、決して楽なものではなかった。
自宅に戻ったのは深夜。
明日も早朝から働かなければならない。場合によっては、夜中にたたき起こされて、細作の報告を聞かなければならない日もある。
体力に恵まれている訳ではない揚松は、だから民達が想像しているような、酒池肉林とは全く縁がない。帰り着くと、すぐに眠りについてしまう。賄賂やらを消費させているのは、家に待機させている影武者の弟である。奴にはことさら賄賂を派手に消費させ、揚松の警戒心をそぎ落とすように努力させている。
風呂にはいると、疲労から、すぐに眠くなった。
家に理解者などいない。張魯だけが、自分を理解してくれれば良い。
揚松は、完全な滅私奉公をしていた。
翌朝。揚松が目覚めると、机の上に報告書が幾つか増えていた。さっと目を通す。中には、気になるものが幾つかあった。
公孫賛の配下に、趙雲という優秀な武人がいた。確か劉備より少し年上で、もう若武者とは言えない年代の人物である。槍を取らせれば天下無双と名高く、事実素晴らしい腕前で、戦場を疾駆してきた本物の戦士だ。
曹操も噂を聞いて探させているらしく、袁紹は手を焼かされたが故に血眼になって追っているという。もちろん羊の部下達もそれは同じであろう。かっては宦官や外戚の間を渡り歩き、毛の配下として技を磨き続け、力を蓄え続けた羊。あれほどしたたかな老人だったのに、死を目前にすると、こうも人が変わると言うことが分かると、興味深い。そういう事情からも、特に羊は、命がけで、最後の奉公と意気込んでいるだろう。
その趙雲が、どうやら河北に潜伏して、渡河の機会をうかがっているらしいのだ。
趙雲は、関羽や張飛にそうそう劣らぬ武勇を持つ、歴史を代表する武人になりうる存在だ。用兵の才は無いようだが、単純な武に専念できる分、ひょっとすると彼らよりも戦闘能力では勝るかも知れない。
だから、文字通りの一騎当千。その名を聞くだけで、敵兵に戦慄をもたらすことが出来る可能性がある、戦略的な武を持つ人物の一人である。
今日の提案で、監視の強化が必要だと、揚松は判断。それを決めると、目を擦りながら、朝食に出た。
影武者である弟に、今日の仕事について説明。不自然がないように騒ぐのも、それはそれで大変なのだ。弟はいい。愚か者と、真面目な官僚の仮面二枚だけを切り替えればいいのだから。
揚松は、四枚、下手をすると五枚以上の仮面を切り替えながら、生きている。
だからが故か。その心に溜まる闇も、濃度は尋常ではなかった。
出仕してからも、情報が入り続ける。そして、趙雲に対する詳細な報告が入ったのは。午前中の仕事が終わり、これから張魯と、闇の仕事に入ろうとした、直前のことであった。
趙雲は、ただひたすらに戦い続けた。
劣勢の公孫賛軍にいながら、ただひたすらに武を磨き続けた。
心の奥底で、主君は劉備と決めていた。しかしその劉備も、中原で地盤を確保しきれずにいた。
いつか再開する日までに。最高の武人となる。
そう決めて、猜疑心の塊である公孫賛の下で、苦労を重ねながらも、戦い続けてきたのだ。
どれだけ敵将を討ち取っても、敵兵を蹴散らしても。公孫賛は様様な理由で、趙雲の出世をさせなかった。一武人としての戦いが性に合っている趙雲はそれに文句を言うことは無かったが、周囲の有望な武人達は、みな失望して袁紹に下るか、或いは公孫賛の下を離れていった。
大望があっての行動ではない。大望など、誰にもない。
ただ己の出世のみを考えている、そればかりの連中であると思えば気も晴れたが。しかし乱世で己を貫くことの難しさを、趙雲は嫌と言うほど思い知らされていた。
易京に立てこもるようになってから、趙雲は公孫賛に、一つの提案をした。既にめぼしい武将は皆公孫賛の下を離れるか、或いは戦死してしまっていたから、趙雲は一武人であるにもかかわらず、地位が上がっていた。妙な話であった。だから、発言も許されたのである。
発言をしたのは、軍議の最中。といっても、がらんとしていて、周囲はまさしく空席だけであった。
「公孫賛将軍」
「何だ。 確か、趙雲だったな」
目の下に隈を作って、公孫賛が言う。
本当に、劉備と同じ師についた人物なのかと、趙雲は内心歎息した。劉備は確かに乱世に生きるものらしいしたたかで残酷な部分も秘めてはいたが、それでも大望はより大きく、部下達にも寛大で、良くその意見も聞いていた。
しかしこの男は。確かに防衛に関しては達人的な手腕を誇ったが、部下を疑うことしかせず、信頼を得る努力もせず。努力無くして信頼を得る方法ばかりを考えていたから、何もかもがおかしくなってしまった。
既に、拠点は易京だけだというのに。
未だ、そのやり方を変える気も見せないのが、ますます趙雲の失望を呼ぶ要因となっていた。
「妻子を、早めに逃がしてはどうでしょうか。 護衛であれば、私が引き受けます」
「巫山戯るな。 その妻子を抱えて、袁紹の所に駆け込むつもりであろう」
「私がそのように思うのであれば、今までにも機会は幾らでもありました。 妻子は責任を持って、劉備将軍の所までお送りいたします。 仁君と名高い劉備将軍の下であれば、安心して余生を送ることも出来ましょう」
「……駄目だ。 信用できん」
公孫賛は、ついに首を縦に振らなかった。
それだけではない。失望したのは、ふと見てしまった光景だった。
公孫賛は、泣きわめく妻を殴打して、子供を足蹴にしていたのである。つまりこの男は、妻子でさえ信用していない。つまり、逃がすのは、情報を漏らすことだと考えているのであった。
ついに、辞表を出すことにした趙雲。同僚達もそれを見て、公孫賛を見限った様子であった。
その決意の数日後、易京は落ちた。辞表を出し、その下を去る暇もなかった。
後になって聞くと。
公孫賛をを見限った将の一人が、袁紹に城の弱点を伝えたこと。それに、袁紹側が、なんと地面の下を掘り進むという奇策によって、ついに易京の分厚い城壁を突破したことが、決め手となった。
闇の中、飛び起きる。最近は鎧を着たまま、寝るのが習慣になっていた。何しろ、明らかに公孫賛の手のものらしい刺客に、何度も襲われたからである。休息の時間など無く、既に若くない肉体には応えるようになっていた。
趙雲は冷静に周囲を見回し。喚声が響いているのを確認。部屋に殺気だった兵士が、飛び込んできた。
「何事か」
「は。 袁紹軍らしき戦力が、城内に突如現れました! 既に火が放たれ、大混乱になっています!」
「そうか。 易京はもう落ちるな」
「……如何いたしましょう」
困惑しきった様子の兵士が、すがるような目を向けてくる。気の毒だなと、趙雲は思った。
誰も信用しない主君の下では、歴戦の兵士達も、こうも自信を失ってしまうのか。
「他の兵士達を連れ、早く逃げよ。 それが出来そうに無ければ、降伏するのだ。 無意味に死んではならん」
「趙雲どのは」
「私には、他にやることがある」
辞表を出すつもりだったとはいえ。しなければならないことはある。
今はまだ君主だ。出来るだけ、救えるだけは救わなければならなかった。
巨大な易京の中を走る。通路には火が回り、煙が充満し始めていた。戦いは一方的で、かつ殆ど発生していない。戦意をなくして、降伏している兵が大多数と言うことなのだろう。
軍靴の音。しかも、かなりの数。槍は狭い通路では使いづらい。腰から、実に苦々しげに、公孫賛が褒美としてくれた剣を抜く。闇の中浮かび上がったのは、袁紹軍の鎧を着た、兵士達だった。
「貴様は!」
「退け」
それだけ言うと、趙雲は飛び掛かり、一刀のもとに首を落としていた。そのまま縦横無尽に剣を振るい、片っ端から斬り伏せる。戦意をなくした兵士達が逃げるのを追わず、そのまま公孫賛の部屋に急いだ。
煙が酷くなり、燃え落ちる板材の音が響き始める。態勢を出来るだけ低くして、走る。
中庭に出た。其処も火が回り始めていて、立ち木が燃えていた。戦いの音がしているが、散発的だ。殆ど敵に制圧されていると言うことだろう。
宮殿に踏み込む。辺りは、無数の死体が散らばっていた。殆ど味方ばかりである。
此処は流石にまだ煙が充満していなかった。袁紹軍の攻撃を、兵力を集結して防ごうとしたのだろう。ただしその命令が上手く行ったとは限らない。むしろ、降伏する兵士達の処理に袁紹軍が手間取り、まだ来ていないのではないかとさえ思わされる。
静まりかえった宮殿の中を歩く。
やがて、不意に。
前から殺気が吹き付けてきた。
とっさに飛び退く。そして、見た。剣を構えたまま、目を血走らせている公孫賛を。剣は既に血塗られていて、目には正気が残っていなかった。
「き、貴様が、貴様が裏切ったのか!」
「公孫賛将軍」
「だ、黙れッ! だ、だまされぬ、だまされぬぞ! み、みなわしを裏切る! か、家族でさえもだ!」
「まさか、ご家族を!」
公孫賛は、ひひひと笑った。そして、口から唾を飛ばしながら叫ぶ。
「そ、そうよ! わしを裏切ったから、皆殺しにしてやった! あ、あの女などは、わしに隠れて、五度も浮気をしおった! 子供らも同罪だ! 皆死をくれてやったわ!」
趙雲は絶望する。きっと、この人は。もう、誰も信用出来はしなかったのだろう。幼子を手に掛けるほどに、その精神は病んでいたのだ。
噂には、聞いたことがある。
元々公孫賛は嫡男ではなく、幼い頃は家の中で邪魔者のように扱われていたのだという。都に勉強に行ったのも、厄介払いに追い払われたのが真相だったそうだ。
そして、元々跡継ぎだった人物が悲惨な事故死を遂げたことで、公孫賛にお鉢が回ってきたことで、不意に公孫賛が跡継ぎとして認められた。妻はその事故死した人物の婚約者だったとかで、終始公孫賛とは仲が悪かったそうである。
誰からも認められず。
故に、誰も認めることが出来なかった。
守りに長けていたのも、それが理由だったのかと思うと、悲しくもあった。
「私が道を開きます故、逃げましょう。 中原を通り、荊州にまで出れば、まだ再起の可能性はございまする」
「だ、黙れっ! 途中で、そいつらのように、わしを袁紹軍に引き渡そうというのであろうが!」
剣を向けてくる。もう、時間がない。剣をたたき落とそうと動いた瞬間。公孫賛は、鳥のような奇怪な叫び声を上げていた。
そして、吠える。
「だが、もうわしは誰にも裏切られぬ! そして、誰にも殺されぬのだ!」
公孫賛は、喉を貫く。全く躊躇がなかったから、剣の先端は、首の後ろにまで貫通した。
そして、前後に大量の鮮血を吹き散らせながら。狂気の笑みを浮かべたまま、公孫賛は倒れたのだった。
大きく歎息した趙雲は、主君の喉に刺さった剣を抜く。そして、少しでもと思い主君の表情を整え、奥の間に。
ずたずたに切り裂かれた妻子の死骸と並べて、公孫賛を横たえた。
「貴方は、決して喜ばないかも知れませんが」
誰にも裏切られず、そして殺されない。断末魔の叫びは、後まで尾を引いて残りそうだった。
周囲を見回す。気配が、まだ一つある。
無言で側にあった机の下に手を突っ込むと、引っ張り出したのは、子供だった。
「ひっ!」
「そなたは、公孫賛の側室の」
怯えているのは、どうやら北方騎馬民族である鳥丸の出身らしい、目の大きな娘だった。公孫賛は妻を始め、誰も信用しなかった。だから側室を子供にしていたという。流石にまだ手は出していなかったようだが。
この娘も、確か鳥丸族から奴隷として買い取り、側室にしたという話だ。さっきの様子からして、趣味ではなく。もはや、子供でもなければ、信用できなかったのだろう。いや、それでさえ、無理になりつつあったのか。
「言葉は分かるか」
「わ、分かる」
「今、この城は落ちようとしている。 私が先導するから、着いてこい。 必ず、逃がしてやる。 名前は?」
「ジャヤ」
よし、では逃げるぞ。そう頭を撫でてから言うと、趙雲は裏口へ急ぐ。この宮殿の地下通路から、外に抜ける道があるのだ。
其処も塞がれていたらおしまいだが、今は賭けるしかない。既に周囲には煙が回り始めており、公孫賛の残存兵を駆逐した袁紹軍の気配も迫りつつある。躊躇などしている余裕はない。
後ろのジャヤが怯えたので、手を引いて進む。必死に握り替えしてくる様子を見て、庇護意欲も沸く。
地下通路を駆け抜け、走り出た先は。
易京の裏手にある山だった。
空は降るような星の群れである。
「私はこのまま中原へ行く。 お前は、鳥丸の地へ帰るがいい」
「無理。 帰れない」
首を横に振る娘を目にして、趙雲は困り果てた。
だが、このまま放って置く訳にも行かない。腕を取って離れようともしない娘を振り払う事も出来ず、仕方なしに趙雲は、そのまま歩き始めたのだった。
それからしばらく、北平の地をふらつくことになった。簡単には黄河を渡れなかったからだ。中原の情報も入っては来たが、どうしようもなかった。
鎧兜と剣を売り払うのは難しくなかった。歩兵用の粗末な鎧兜に替えて、中原へ出る船を探す。易京を出てからは、袁紹軍の追求もさほど厳しくなく、子供の手を引きながらでも、二三回追っ手を切り伏せるだけで良かった。この程度、各地を放浪していた若い頃に比べれば、何でもない。達が悪い任侠に目を付けられて、大勢で襲いかかられたから、火の粉を払うために一つの組織を丸ごと潰したことさえもあった。
やがて、幽州の一角にて、国譲のやっている塩商家を見つけた。まさか、劉備ゆかりの人間と、こんなところで出会えるとは思わなかった。手代にかっての主人の友人だというと、国譲はすぐに会ってくれた。
国譲は相も変わらず若々しく、もういい年の筈なのに、少年のように見えた。笑う時に見せる白い歯が不思議だ。
「ああ、貴方は趙雲さん! ご無事でしたか!」
「うむ、どうにか逃げ延びることが出来た。 此方は公孫賛将軍の側室になったばかりで寡婦になってしまった、気の毒なジャヤだ」
「違う。 ジャヤは、趙雲の嫁で、寡婦ではない」
「ははは、お仲がよろしいようですね」
自分にべったりのジャヤに辟易気味だった趙雲だが、国譲の笑顔を見ていると、昔ちょっとだけ一緒に戦った劉備のことを思い出して、気が和んだ。
「その様子だと、袁紹さんに仕官する気は無いでしょう」
「そうだな。 あのお方は決して無能ではないが、かといって漢王朝を復興できる器であるとは思えん。 それに、もう時間もない様子だし、死ねば相続で争いが起こるのも間違いないだろう。 仕えるのは気が進まないな」
「それなら劉備将軍に仕えて上げてください。 今でも人材を斡旋したり、金品を援助したりしているので、その伝手を使って、紹介させていただきますよ」
「そうだな。 劉備殿であれば」
いずれにしても、黄河を渡ることは当分できそうもないという。袁紹もしばらくは公孫賛の残党狩りと、地固めに忙しいから、が理由だそうだ。確かにそれであれば、黄河の近辺は厳重に見張られるだろう。
ジャヤはどうするか。今の内に、鳥丸に返すか。そう思ったが、それを察したかジャヤは先に言った。
「もう、故郷に、居場所ない。 両親、子供たくさん。 私売らないと、生活できない」
「そうか」
「私、弓矢も馬も出来る。 もっと上手になる。 だから、側に置いて欲しい」
そう言われると、趙雲も困った。
そして、結局、故郷に返しに行くことは出来なかった。
趙雲は河北の商人である田家に世話となり、其処の用心棒をしながら、黄河を渡ろうとしている。その報告に目を通し終わった揚松は、監視を怠らないようにと伝えると、今後の戦略をどうするか、思惑を巡らせ始めた。
曹操の勢力が巨大化するのは別に構わない。だが、漢中を侵略されると困る。
故に、袁紹との戦闘が終わったら、次は南へ目を向けさせる必要がある。そう、揚松は結論していた。
最終的に、漢中は曹操に降伏するとしても、民が安んじればそれで良いのだ。
出仕すると、揚松は愚か者の仮面を被って、再び憎悪を受ける役を引き受け始める。彼にとって、人生は何色もある、賑やかで、そして紛れもない苦行だった。
3、燃え落ちる邪悪の残り香
曹操は憂鬱だった。
少し前、張繍を潰すべく、出兵したのだが。賈?(ク)の見事な戦略と、劉表の援軍に挟撃され、完膚無きまでに敗北してしまったのだ。焦りがあったことは否めない。そろそろ、袁紹との決戦兵力を整えなければならない時期でもあるのだ。それなのに、足下にはまだ火がついたままなのだから。
幸い、将官の戦死者は出なかったが、兵力の消耗は予想以上に大きかった。それだけではない。また一つ、大きな問題が浮上してきていたのである。
「これは、本当なのだな」
「私に、嘘をつく理由がありますか?」
「いや、確かにお前の話には利がある。 それに、利害関係も余と一致している」
自室に音もなく入ってきたその女に、曹操は舌打ちしながら応えた。此奴が、噂に聞いていた、林だと知ったからである。
林。
中華最強最悪の細作と知られ、快楽殺人者であり、その手に掛かった人間はあまただと言う。
そして今、袁紹が率いる羊の細作部隊と、何かしらの理由で激しくぶつかり合っていると言うことは、曹操もルーの残した細作達から聞いていた。目の奥にちらつく邪悪な殺気は、確かに人間離れしている。曹操は権力闘争の過程で、様々な危険人物と相対してきたが、この林はその中でもずば抜けている。比べるとしたら、呂布と、或いは董俊くらいであろうか。
その林が持ち込んだ情報は。董承による反乱の計画表であった。
小柄な女にしか見えない邪悪な塊が持ってきた情報については、以前から曹操も確定情報ではないが、耳にはしていた。董承はもとより邪悪な秘め事をしている男であり、長安から脱出する際の非道の数々は、曹操も聞いている。献帝を助けた功労者としてそれなりに扱ってはいるが、軍才は無いし、陰険な点ばかりが目立つ。
いずれ処分しようと思っていた所だったが、幾つか。気になる名前が載っていたのである。
「この漢左将軍劉備というのは、何の冗談か」
「何の冗談でもありませんが? これは正確に写し取ってきたものです」
「確かに筆跡まで董承に酷似しているし、この花押は劉備のものだ。 他にも、これは馬騰だと? おのれ、貴様」
小柄な女にしか見えない怪物は、笑顔を崩さない。許?(チョ)でさえ気付かなかったような化け物だ。曹操では、その気になれば即座に斬り伏せられるだろう。
劉備は、多分この稚拙で浅はかな反乱には、関与していない。
多分客寄せのために、歴戦の将である劉備が、董承に生け贄として選ばれたのだろう。何人か名前が載っている連中は、現実を見据えることが出来ず、忠義ぶっているばかりの者達だ。そんな連中でも、数が揃えば、それなりの戦力にはなる。
劉備は、献帝に気に入られていた。
一度直接会わせた時は、側に招いて、色々な戦の話などもせがんでいた。劉備は笑顔を崩さないまま、関羽と張飛を紹介し、見事に宴席を盛り上げた。曹操は見事だと思ったが。しかし、それを謀反の言いがかりにされては、たまらないだろう。
「劉備将軍が、この件に関与していないと、考えておられますね?」
「考えていないではなく、関与していない」
「うふふふふ、ではこれはどうです? 董承が、発覚した際の保険として、先に劉備に送り届けていた文書の写しです」
拡げられた竹簡には。
ああ、なんということか。これを拡げた劉備が、目を剥いた様子が想像できる。曹操を討つとか言う血判状に、劉備らしき血判が押されているではないか。
曹操からしてみれば、今の劉備に、謀反を起こす気がないことが一目瞭然である。気がないと言うよりも、意味がない。劉備が危険なことは曹操としても百も承知。だから小沛に押し込め、大きな軍事力を与えず、監視まで付けている。
仮に徐州を奪うことが出来ても、それは長く維持できない。袁紹の戦線とはかなり遠く、連携が極めて難しいからだ。
張繍を降すことがどうにかなりそうなこの時期だが、徐州はまた失陥する可能性が高いなと、曹操はぼやいてしまった。
「それで、是非私を雇っていただきたく」
「そうだな。 卑劣きわまりないことも重々理解したが、確かにお前は使い出があるようだ」
「天下の曹操様にそう言っていただき、光栄です」
「ただし、私の首を簡単にやるとは思うな。 虎痴!」
部屋に飛び込んできた許?(チョ)は、目を怒らせ、全身の毛を逆立てていた。まるで縄張りに入り込んできた別の雄を威嚇するかのような行動であった。
林は振り向くと、にこりと微笑む。
曹操は、恐ろしい奴だと思った。許?(チョ)を相手に、まるで動じていない。此奴を仕留めるには、劉備の所にいる関羽か張飛を連れてこないと無理かも知れない。
「それでは、私は張繍どのの所を探って参ります」
「いや、徐州へ行き、劉備が謀反を起こす時期を確定させよ。 もはや謀反は、この様子では避けられまい」
「かしこまりました」
今まで其処には誰もいなかったかのように。
林の姿は、かき消えていた。
許?(チョ)は剣を鞘に収めると、珍しく髭を逆立てて、興奮して周囲を歩き回った。その動作が虎そっくりだったので、曹操は苦笑した。
「どうした、虎痴」
「はい。 あの女は、化け物だと思いました。 出来るだけ、近寄らない方が良いと、俺は思います」
「案ずるな。 利害が一致している間は、敵対する事もない。 それよりも、この竹簡に乗っている連中を監視するように、ルーが残した細作達に伝達。 怪しい動きをした者は、即座に捕らえるように、程cに連絡しておけ」
「分かりました」
竹簡を大きな手で取ると、許?(チョ)は大股で部屋を出て行った。
林が入ってくることには気付けなかったが、曹操と話し始めてすぐに目を覚ましたのは、流石許?(チョ)だ。もう少し腕を上げれば、きっとあの林からも、曹操を守れるようになるだろう。
林は、噂以上に恐ろしい奴だった。
だが、天下統一に使える人材であることも、事実であることは。顔を合わせてみて、よく分かった。
清濁併せ飲むという言葉がある通り、様々な人材を使いこなせなければ、天下統一など不可能である。
それが、例え人間から片足を踏み外しかけている、邪神に等しい存在であったとしても、だ。
曹操は、目が醒めてしまったので、竹簡を開いて、筆を走らせ始めた。
張繍への、降伏を促す手紙である。宛を落とせば、一気に後方の安全を確保でき、徐州で劉備が反乱を起こしても、鎮圧は容易になる。呉は荊州に掛かりっきりで、此方に目を向ける余裕など無い。
そして、まだ不完全とはいえ、麾下の野戦軍を、袁紹軍に対抗できる決戦兵力として整備しておく必要があった。この編成が難儀である。現在十六万ほどいる戦力の内、殆どを振り分けるとしても、まだ袁紹にはとても対抗できない。かといって、兵だけを増やしても、現在の経済力では養いきれないのだ。
袁紹も公孫賛の残党を整理するので現状は手一杯だから、かろうじて時間だけはある。韓浩に手紙を出し、寿春や他の場所での屯田についても確認しておく。他の文官達の報告にも目を通して、国の経済力について、しっかり把握しておかなければならない。
まだまだ、やることは幾らでもある。
目が醒めてしまった以上、それを片付けてから、曹操は寝るつもりであった。
数日の調査の後。董承の謀反は、ほぼ確定した。
董承は呆れるばかりの、ずさんな計画を立てていた。曹操が登城する隙を狙って暗殺を行おうというのである。確かに宮中では、余程高位の人間や、特別な功績を立てていなければ、武器を帯びることは許されない。
しかし常に許?(チョ)が側にいるし、細作も配備してある。
多少の暗殺者程度では、曹操を討つことなどできない。
しかも買収したと董承が考えている女官や文官達は、人質を取られて従っている者ばかりで、少し脅かしたり、人質を助けてやる約束をすると、すぐに背後関係を洗いざらい吐いた。
今までどうしてこんなずさんな計画が露見しなかったのか。
それは、どうやら背後に、袁術配下の張勲がいたらしいことが、調査の結果分かってきていた。あの得体が知れない陰謀家がいたと言うことは、確かにこれだけ謀反の計画を進められたのも納得できる。
しかし、董承は誤った。
恐らく自分が張勲に操作される、出来が悪い人形程度の存在である事を、忘れてしまったのだろう。
張勲は謎の死を遂げたとか聞いているが、それに伴って、董承は自由になった。
そして今までの感覚で陰謀を進めて、この事態になったと言うことだ。
林は確かに早期発見をしたが、しかし。これは放って置いても露見した可能性が高い。少しばかり早まったかなと、曹操は内心後悔した。
眠る前に巻いた腹巻きのおかげで、体を冷やさずに済んだ。
あれ以来許?(チョ)は曹操が喜ぶと思って、あらゆる動物を仕留めては、腹巻きにしてくれとそのまま持ってくる。そのため、曹操の自室には、鹿やら虎やらの毛皮が所狭しとならび、侍従達がせっせと腹巻きを作っている状態だ。今しているのは、虎の毛皮腹巻きである。これをすると、何だか強くなった気分がして良い。
手を叩くと、音もなく天井からルー配下の細作が降りてきた。
「董承を摘発するのは、少し待つ。 泳がせよ」
「は。 しかし、どうしてでしょうか」
「董承が摘発されれば、追い詰められた劉備が謀反を起こす。 徐州には車仲を残してあるが、多分奴では支えきれないだろう」
まだ、張繍が降伏を確約していない。もうすぐ確約が取れるように、やり手である郭嘉に交渉させているのだが、後一歩という所だ。これさえどうにかなれば。徐州が反乱を起こしても、どうにか対処できる。もしもそれより早く徐州が背いたら、多分袁紹もこの機を逃さず全軍で攻め込んでくるだろう。
もちろん、董承による陰謀が、事故同然に成功しないように、手は事前に打っておく。
「宮中の、細作による警備を倍にしておけ。 董承が買収したと考えている連中には、今まで通り動くようにも伝えておくように」
「分かりました」
「ともかく、後は張繍が下ってからだ。 全く面倒を掛けさせてくれる」
細作を下がらせると、曹操はぶつぶつ文句を良いながら、棚を開けて、秘伝の薬を取り出した。もちろん背が伸びる薬である。
今度は漢方ではなく、なんと遠くは印度から取り寄せた薬である。これならば、きっと効くはずだ。そう思って、死ぬほど苦い毒蛇の黒焼きを、曹操は毎日口にして、鏡の前に立つのだった。
張繍が騎馬軍を率いて、電撃的に許昌を訪れたのは、その二日後のことであった。
堂々と乗り込んできた張繍。側にいる賈?(ク)は、満足げな笑みを浮かべていた。
分かっているのだ、この男には。恐らく最高の条件で、自分たちの戦力を、売りつけることに成功した事に。
曹操は苦虫をかみつぶしていたが、しかし今更約束を違える訳にはいかない。曹操という存在は信義よりも恐怖で知られているが、それでも最低限の約束を守らなければ、それは暴悪に変わる。
それでは、万民は従わないのだ。
魔王呂布が、失敗したように。
「張繍、これより曹操様の配下として、活動させていただきます」
「よくぞ来てくれた。 そなたはこれから、手厚く遇させて貰うぞ」
「ありがたき幸せにございます」
そう言えば、此奴も徐栄の弟子だったという。徐晃が進み出て、二言三言話す。地位的には互角になった二人だ。思うことも、様々にあるのだろう。
「まさかお前と同じ地位になるとは思わなかった」
「私もだ。 曹操様は噂以上に、能力を重んじるようだな」
「そうなると、お前は俺より早く出世しそうだな。 二人して、徐栄将軍の名を、後世に語り継ぐとしようか」
からからと笑い合う二人を置いて、曹操は賈?(ク)を手招きする。
張繍は、中堅どころの指揮官として使いどころがある。むしろ曹操が興味を持っているのは、この男だ。
二度にわたって恐るべき謀略を駆使し、曹操軍を撤退に追い込んだ知将。多分、知将というくくりであれば、現在中華でも屈指の男であろう。郭嘉がかろうじて対抗できるか、否かという所だ。
前にも一度顔を合わせたが、その時も空気のような印象を受ける男だった。今もまるで空気に溶けるように存在感がない。しかし、その笑顔の奥には、邪悪きわまりない策謀があり、周囲を陥れていくのだ。
「そなたは、余の近侍として仕えよ」
「早早のお引き立て、ありがたき幸せにございます」
「違う。 お前のような奴は、放っておくには危険すぎると言うことだ。 しっかりと見極めさせて貰うぞ」
「これはこれは。 お手柔らかにお願いいたします」
あくまで物腰が低い奴だ。
二人を歓待する。酒の席は設けてあり、既に連れてきた兵士達の事は確認させている。于禁が戻ってきて、報告した。既に曹操は酒を飲み始めていて、亡くした曹昂の事を思いながら、二杯目を傾けていた。
「確認して参りました」
「うむ。 どうであったか」
「練度は楽進将軍の騎馬隊に勝るとも劣りません。 流石に、徐栄将軍の直弟子だったというだけのことはあります」
「今後はそれを味方に計上できる。 ただし、裏切らないように、賈?(ク)とは引き離し、監視だけは怠るな」
一礼すると、于禁は下がった。中性的な雰囲気のこの男もまた。どこかつかみ所のない輩であった。
許?(チョ)はいつになく緊張していて、不安そうに周囲を見回している。いつもより少し汗臭い。
「どうした。 汗の臭いが酷いぞ」
「あの化け物がまた来ても、曹操様を守れるように、稽古をしていました」
「そうか。 お前は真面目で、得難い男だ。 これからも、余を守り続けてくれ」
「はい。 ありがとうございます。 それと、この間、家族から手紙が来ました。 今、寿春にいて、大きな畑を耕しているそうです」
そうかと呟くと、曹操はもう一献を傾ける。
許?(チョ)は裏切らない。だから、曹操も裏切らない。韓浩には特に言い含めて、家族を粗末に扱わないように言ってある。村の者達も、それは同じだ。農民に対して恐ろしい人間だと曹操は噂されているようだが、それは徐州の一件が影響している。二度と、あのようなことは起こさせない。
丁度、宴がたけなわになった時。
曹操は、報告を聞いて、顔色を変えた。
「張繍よ」
「はい」
「すまぬが、急用が出来た。 余は席を外すが、楽しんでいってくれ」
「何事ですか」
まあ、仕方がないだろうと曹操は考えて、しっかり理由を聞いてくる張繍に応えることにした。
無理もない話だ。謀殺されてもおかしくない立場なのである。曹操でも、聞き返している事だろう。
「実はな。 余の参謀の一人である戯志才が、危篤に陥っていてな」
「それは、お引き留めして申し訳ありませんでした。 すぐにお行きください」
「うむ。 では、失礼するぞ。 虎痴、こい」
「はい。 曹操様」
今まで、典偉以外に、有用な家臣を失ったことはなかった。
戯志才は有能であり、それ以上に賢い男だった。こんな考えもあるのかと、何度も曹操は頷かされた。曹操にとって、参謀とは、参考になる意見を述べる男の事をさすから、これ以上の参謀はいなかったと言いきっても構わない。
その志才が、逝こうとしている。
少し前から、体調は崩していた。元から、天才が故の薄幸という奴か、体はとても弱い男で、戦場に連れて行くことなど殆ど出来なかった。内政や謀略では力を発揮したが、それ以上の手腕は一度も見たことがない。それでも曹操のためにと、無理をして尽くしてくれたのだ。
現実主義者である曹操も、心が動かない訳がなかった。
志才の屋敷に着くと、この間妻に迎えたばかりの若い女が、泣きはらした目で出迎えてくれた。
「志才の様態は」
「最早どうにもならぬと、お医者様が」
「そうか。 他に誰かは来ているか」
「郭嘉様が。 後は、何名か友人の方々が」
健気な女である。こんな状況だというのに、しっかり受け答えが出来ている。後の面倒は心配するなと心中で呟くと、曹操は奥の間に。
体が弱かった志才には、子供もいなかった。だから、屋敷の中はがらんとしていて、とても寂しい空気だった。
寝室にはいると、先に来ていた郭嘉他が、一斉に礼をした。すでに酒など、頭の中から抜け果てていた。どうして、こう有能な男ばかり、自分の元を早く去るのだ。曹操は、神とやらがいるなら、必ず叩きつぶしてやると誓いながらも、寝台の側に腰を下ろした。
志才は、まだ意識があるようだった。
しかし顔色はどす黒く、もはや余命が長くないのは明らかであった。曹操は首を横に振ると、出来るだけ感情を抑えて、語りかける。
「志才」
「おお、曹操様」
志才は、うっすらと目を開けた。びっしりかいている汗を、寝台の逆側に座った郭嘉が、拭っていた。傲岸不遜、我道驀進の郭嘉でさえ、志才は一目置いていた。志才も後輩である郭嘉をかわいがって、色々良くしてやっていた。合理主義者を気取る郭嘉も、慕う人間が死に瀕して、ようやく情が湧いたのだろう。こみ上げる涙を押さえ込むのに、必死な様子であった。
「張繍が、降伏してきたと聞きました」
「うむ。 これで、宛方面は心配がない。 劉表は進出する気がないだろうから、押さえは最小限の戦力で済む。 後は徐州を片付ければ、袁紹との決戦を行えるぞ」
「決戦になれば、曹操様の勝ちは疑いありません。 河北は後継者他多くの問題を抱えており、勝っても負けてもそれが噴出します。 一度や二度、敗れてもお気になさらず、粘り強く食いついてくださいませ。 そして、袁紹が死ねば、勝ちは、確定……ごほっ!」
「もう良い。 そなたには充分働いて貰った。 家族は余が絶対に面倒を見てやるから、心配するな」
それでも、喋り続ける志才。もう、分かっているのだ。命の灯火が、今にも消えてしまうと。
だから己のやり残したことを、全て終えようとしている。
「私の政務は、其処にいる郭嘉に。 全て、やり遂げてみせるでしょう」
「志才どの!」
「郭嘉。 そなたも、曹操様を困らせるでないぞ。 我道を多少は抑えて、皆と仲良くするようにせい。 それと、女遊びは控えよ。 その内病になるぞ」
「こ、こんな時にそのような」
ついに、郭嘉が泣き出した。後ろでは、許?(チョ)がずっと涙を拭っていた。
「曹操様、貴方は決して、後世では歓迎されないでしょう。 しかし、貴方の築いたものが、必ずや未来を造るはずです」
「うむ。 分かっておる」
それで、最後だった。
志才は、精根尽き果てたか意識を失い。二刻ほどで、永遠に目を閉じた。
大きく歎息すると、曹操は郭嘉を伴って、外に出る。そして、志才が死んで、最初の命令を下すことにした。
「まずは、足下にいる邪魔を潰す。 明日、程cと相談し、董承を殺す算段を取れ」
「ははっ。 即座に」
「ただし、劉備と馬騰については、名前を出すな。 どちらもこの件で、即座に反乱を起こすだろうが、その時間は少しでも遅らせた方が対応はしやすい。 後、袁紹に備えて、先に余は官都に出陣をする。 そなた達は、劉備が反乱を起こした時に備えて、機動軍を準備しておけ。 張繍の騎馬隊を、早速活用することになる」
張繍から騎馬隊を切り離すのにも、丁度良い機会だ。新しく配下にした張遼辺りに、騎馬隊を任せてみるのが一番面白そうである。
屋敷に戻ると、曹操は飲み直すことにした。
側には、許?(チョ)だけを置いた。
翌朝。
漢王朝朝廷は、殺到した兵士達によって蹂躙された。玉座で青ざめている献帝に、曹操の書状を突きつけたのは、郭嘉だった。文官ではあるが、今回は状況が状況だから、鎧を着ている。ただし、もっとも軽量で、薄いものだが。
「申し訳ございません。 謀反人の捜索をさせていただきます」
「そうか。 しかし、なんとも乱暴だな」
「陛下ならおわかりにございましょう。 機会が、やっと巡ってきたのです」
そうかと、献帝は呟いた。
郭嘉には、献帝の考えていることが分かる。
この男は、それなりに頭がよいのに、自分がいるだけで周囲に乱が起こることを憂うという、郭嘉には理解しがたい思考回路を持っている。まあ、それについて軽蔑する気はない。志才にも、そういう思考法を改めろと言われたからだ。
だから、それなりに敬意を払う。戯志才の遺言だ。軽んじる訳には、いかなかった。今回ばかりは、流石に郭嘉も応えていた。あれほどの知性を持つ男に言われたのである。凡百の愚鈍とは言葉の重みが違う。
「危険ですので、避難を」
「いや、朕は此処でよい」
「そうですか。 それでは、近衛の兵士達がお守りいたします」
彼方此方から、金切り声を上げて、文官や、老いた武官が連れ出されていく。その中には、宮中で医師をしている男もいた。腕が良い医師であり、少し惜しいとは思ったが、膿だしは派手にやらないと意味がない。
董承は、なかなか見つからない。ひょっとすると、危険を察知して逃げたのかも知れなかった。
「董承は、もとより凶猛な男だった。 此処しばらくは、特に酷かった。 恐らく申し開きの際は、朕の願いであったとか、漢王朝を専横しているのは曹操だとか、叫ぶことであろう。 疑うのであれば、朕を尋問にかけても構わぬ」
「いえ。 献帝陛下の周囲は、既に曹操様の育てた細作達が探り終えております。 陛下の潔白は証明されておりますので、ご安心を」
「そうか。 抜け目ないな」
そうでなければ、曹操も献帝を殺していたかも知れない。合理主義の塊のような人物である。害の方が勝ると判断したら、献帝を廃人にする位のことはやりかねない。献帝が無力で、敵意がないと分かっているから、曹操は放置しているのだ。
やがて、宮中に董承はいないことが分かった。連座して逮捕された老いた武官は、逆賊と叫んでいた。既に判断力を無くし、漢王朝への忠誠だけを生きる糧にしているような老人である。哀れなことだと、思う者もいるかも知れない。
老人は隙を見て剣を抜こうとしたが、屈強な近衛達に取り押さえられ、呻きながら連れ出されていった。女官の中にも、何名か連れ出されていく者がいる。確か、董承の愛人だと噂されている者達だ。
やがて、宮中は静かになった。竹簡を片手に、逮捕を続けていた曹洪が郭嘉に歩み寄ってきた。
「此方は大体終わったぞ。 お前の方は」
「此方も、問題ありません。 それよりも、董承が何処へ行ったか、突き止める方が先です」
「ああ。 しかしあの老人、董一族の血を引いているだけのことはある。 何時の間に、これだけの勢力を宮中に作り上げたのだ」
寝ぼけた曹洪の言葉に、郭嘉は苦笑をかみ殺すのを苦労しなければならなかった。
曹洪はそこそこの将に成長してきているようだが、それでも一軍を任せるにはとても足りない。時々曹操が零しているが、この状況判断の甘さでは、それも致し方がないだろう。徐晃や楽進、韓浩は、その辺りを理解して、いつ摘発があるかと対処の時期を計っていた位なのに。
董承を見た者がいないか、郭嘉は尋問して回った。捕らえた連中は拷問に掛けることにして、他の文官達は、ある程度手加減して扱わなければならない。ある若い文官が、見たと証言した。
「昨日の晩、後宮からこそこそ出てくるのを見ました」
「何と。 後宮からか」
「はい。 実は、以前から時々後宮に忍び込んでいるのは知っていたのですが、宮中には董承の飼っている草が多いと噂で。 怖くて、なかなか直訴できなかったのです」
「愚かめ。 曹操様に直接訴え出れば良かっただろう」
そう言うと、悔しそうに若い男は俯いた。
何か、話せない事情があるのかも知れない。前だったら軽蔑して終わりだったが、今は少し違う気分だった。
「分かった。 何か事情があるのだな」
「董承が捕らえられたら。 これ以上は」
「分かった。 董承は捕らえる。 だから、その時は洗いざらい吐いて貰うぞ」
苛立ちを押さえながらも、郭嘉の中の全てへの冷笑は、少しずつ消え始めていた。愚物と見下していた連中に対しても、以前ほどの敵意と悪意は感じない。
すぐに細作達を手配。董承の後を追わせる。
もし逃がしたら、とんでもないことになるような気がする。郭嘉は、若干の焦りも感じていた。
董承は、汝南の山中を歩いていた。この辺りで、迎えの人間が、来るはずだった。
少し前、彼に囁いた者がいる。
とっくの昔に、謀略はばれている。今は張繍を片付けるまで、対応を保留されているだけなのだと。
自分の危機に対する嗅覚だけは鋭敏な董承は、その囁きを信じた。そして、今まで同士としていた者達を、あっさり見捨てる判断をした。連絡を取れていない劉備や馬騰までも反乱に加わっているように偽装すると、捜査が始まる前に、さっさと宮中を離れたのである。
とりあえず、目指すのは荊州。
其処で、再起を図る予定であった。
付き従っている腕利きの武人達が、身じろぎする。足を止めたのは、この辺りはまだ山賊が出ることも多いからだ。
すっと音がして、小さな影が現れる。娘。だが、途轍もない闇を、目に秘めていた。
右手には生首。そして、左手には、胴体。どちらも今殺したばかりらしく、鮮血を滴らせていた。
「おお、ようやく現れたか。 それは」
「ああ、貴方に良く似た山賊ですよ。 この辺りには殺しても何ら問題がない害虫がうようよしていますからね、身代わりを捜すのに適切でして」
くすくすと、その女、林は笑った。青ざめる武人達を無視して、董承も笑った。そして、荊州ではなく、西を指さす。
「そのまま宛を抜けて、漢中に向かってください」
「何、漢中だと」
「今、私の配下が、漢中に入り込み始めています。 袁紹の所にいる死に損ないの羊を片付けた後は、曹操が最大勢力になる可能性が高いですから、色々と仕込みをしておく訳です。 貴方には、漢中での仕込みを、先に行って貰いたいのですよ」
「ふん、漢中か。 少し小さな政権だが、このまま滅びるよりはましか。 分かった、そちらに向かうことにする」
女は生首をその辺に置くと、懐から竹簡を取り出した。此処に、既に用意してある名前と地位が書かれているという。目を通す。なかなかの高位だ。張魯という男、有能であれば比較的出自を問わず召し抱えるらしく、それで潜り込むのは容易だったそうだ。
すぐに董承は、西に歩き始める。付き従っていた武人の一人が、ささやきかけてくる。
「良いのですか? あのような得体が知れない邪悪な者を信用しても」
「ふん、信用などしておらん。 利用しているだけよ」
からからと笑うと、董承は夜道を急ぐ。
既に、曹操の勢力圏は抜けていた。此処からは群雄が相争う、無法の世である。故に、董承には、とても都合がよい場所であった。
董承の死骸は、数日後に見つかった。
郭嘉はそれを検分したが、痛みが酷い。追撃に出て、董承を持ち帰った男の話によると、既に息絶えていて、首を井戸に突っ込んでいたという。頭部は山賊か何かに襲われたのか切り離され、井戸に沈んでいたそうだ。格好や持ち物などは董承に間違いなく、郭嘉もこれ以上の追跡を断念せざるを得なかった。
いやな予感が消えない。
やはり、何かとんでもない輩を、逃がしてしまったような気がしてならなかった。
曹操は丞相に就任する。以降は丞相と呼ぶようにと通達があり、やっと此処まで来たかと、郭嘉は思った。曹操は皇帝になる気も無いようなのだが、それでも位人臣を極めるとはこのことである。
そして、董承が死んでから数日後。
劉備が、徐州で反乱を起こした。車仲は逃走を図ったが、蜂起した民衆によって惨殺された。
同時に、袁紹がおよそ十五万の兵を展開、黄河を押し渡り、総力戦が開始された。
既に用意されていた機動軍とともに、郭嘉は出撃する。
今までにない厳しい局面。だが、どうにか董承の処理が終わったことで、背後を気にせずに、曹操は劉備、袁紹と戦うことが出来る。
だが、不安は消せない。董承の代わりに、もっととんでもない輩を、懐に抱え込んでしまった。そんな気がしてならないのだ。
「郭嘉」
「はっ」
不意に曹操から声を掛けられたので、郭嘉は顔を上げた。意外にも、曹操は珍しく笑顔を浮かべていた。
「如何なさいましたか」
「袁紹の相手は、お前と諸将に任せる。 余は張遼と楽進を率いて、一気に劉備を追い落とす。 余が戻るまで、持ちこたえよ」
「分かりましてございまする」
時代は、激動から、滝へと移りつつある。
この流れを、是非戯志才にも見せてやりたかった。そう思うと、郭嘉は、より気を引き締めるのだった。
(続)
|