最強であるが故に

 

序、袁術

 

徐州に派遣した軍勢が、呂布に打ち砕かれて、すごすご逃げ帰ってきた。敵が三分の一以下の貧弱な戦力でありながら、無様に破れた醜態は確かに見苦しいものがあった。袁術は目立って機嫌が悪くなり、周囲に当たり散らしていた。

軍議の席でも、それは同じだ。蒼白になっている将軍達を睥睨しながら、怒気の塊となった袁術は、ただ吠え狂っていた。

それを静かに見つめていたのは、張勲である。

そもそも、劉備が追い払われた徐州に、袁術が出兵しようと言い出したのが、事の始まりだった。

反対する家臣達は多かったが、しかし袁術は反論されると途端に喚きだし、自ら剣を振るって暴れ出したのである。取り押さえようとした兵士何名かが怪我をして、それでようやく事は収まった、かに見えた。

だが決死の覚悟で反論した揚奉が、それを面白く思うはずもない。

彼は同僚の韓遷と一緒になり、徐州侵攻を開始した袁術軍の本隊を、いきなり裏切って背後から急襲したのだった。

もとより質が低い、寄せ集めの兵団である。そうなってしまうと、統率も秩序もあったものではなかった。袁術軍は呂布軍の姿を見ることもなく壊滅し、寿春に逃げ帰った。その無様さを諸侯は笑ったと言うが、無理もない話である。敵を見る前に内紛で壊滅した遠征軍など、史上そうそう見ることもないからだ。

もっとも、この戦力と兵の質では、噂に聞く呂布軍に勝てたかどうかは微妙だが。

少し前に、ついに即位して皇帝を名乗った袁術は、ここのところ威厳を身につけるどころか、自制心を一秒ごとに失う有様だった。今も黄色の衣を翻し、目を血走らせて、吠え猛っている。

「今一度、呂布を討ち果たすぞ!」

将軍達は、無言。討とうにも、出兵など出来ないからだ。

ここのところ、袁術は湯水のように金を使っていた。宮殿を矢継ぎ早に建て、皇帝即位の儀式を行い、様々な皇帝の道具を作らせた。金など幾らあっても足りず、しかも民から巻き上げた事によって、国内の疲弊は限界に達している。

既に流民になり始めた民が、荊州、徐州、それに揚州を目指して、落ち始めているという報告も出ていた。

張勲は内心ほくそ笑んでいた。

これで良い。袁術の狂態と暴政は、流民が十倍にも二十倍にも水増ししてばらまいてくれる。既に、諸侯に対しても、動くように仕掛けた。後は、袁術が無様に死ねば、張勲の目的は達成される。

誰もが知ることになるだろう。

漢をおいて、皇帝を名乗ることなど許されない。

名乗るような連中は、無様な暴政を敷いた挙げ句、滅亡するのだと。

民が苦しもうが死のうが、張勲には知ったことではない。漢王朝が発展するだけが、張勲の望み。その栄光が天に届くのであれば、民など死に絶えても構わない。

そう、王允であった男は考えていた。

軍議の場に、どたどたと乱入してくる足音。将軍達が顔を上げると、血走った目つきの伝令兵が入ってきた。

「陛下! 伝令にございます!」

「何だ!」

「曹操が出兵しました! 兵は約七万! まっすぐこの城を目指しています!」

「おのれ、小童め! 返り討ちにしてくれるわ!」

余程錯乱の度が酷いのか、袁術は同年代の曹操を小童呼ばわりした。この様子だと、続く報告に、精神が耐えられないかも知れない。これらの出兵は、張勲が仕掛けたのだが、どのみち同じ結果にはなっていただろう。

伝令は狂乱する袁術に、恐れながらといい、更に付け加えた。

「出兵したのは、曹操だけではございませぬ」

「何だと!?」

「徐州より、呂布。 揚州より、孫策、それに予州に駐屯していた劉備の軍までもが、この寿春に向かっておりまする! 兵は合計して、十万を超えます」

「お、おのれ、おのれ……! 恩知らずと、謀反人ども、め……!」

赤黒い顔で唸っていた袁術は、呻くとへなへなと椅子に倒れ込んでしまった。

元々自制など知らない男だ。こうなってしまえば、そのまま脳がやられてしまう可能性もある。挫折どころか苦労も知らないような良家の坊ちゃんに、この境遇はさぞや応えたことだろう。

仮面の下で、張勲は医師を呼びながら、笑っていた。

無様に滅びつつある、袁術の姿を。

 

1、寿春の落日

 

豚に群がる蠅の群れだな。そう、曹操に従って馬を進めながら、郭嘉は呟いていた。

寿春にて、皇帝を僭称した袁術は、成なる王朝を立てた。もちろんその行動は諸侯の反発を呼び、今討伐軍が漢王朝によって編成され、向かっている。表向きは、そう言う話だ。しかし、実情は違う。

本音では、皆袁術が抑えている、南陽の豊かな土地が欲しいのである。

討伐軍の内、最大の戦力を有する曹操は、七万に達する軍勢を動かしていた。袁紹は北兵で公孫賛と死闘を繰り広げており、介入してくる余裕がない。宛にいる張繍も、この間の戦いで勝ったとはいえ、許昌や洛陽に侵攻してくる兵力的な余裕など持ち合わせてはいない。

問題は呂布だが、奴はどういう訳か、一も二もなく討伐を受けた。この行動だけが、郭嘉には不可解だった。曹操の所に亡命してきて、今は予州で兵の訓練をしている劉備も、中軍で兵を進めているが、此方は南陽に領地をもらえることを期待しているのであろう。

いずれにしても、老いて身動きが出来なくなった袁術という豚は、既に頭がまともに働かなくなってきている。

放っておけば、その肉は他の者達に奪われてしまう。

だから、さっさと先に奪い取る。

それが、軍を進めている者達に、共通した思惑だ。曹操の場合は、献帝を抱えている訳だから、多少政治的な意図はあるが、大した違いはない。

もちろん郭嘉は見抜いている。この出兵を煽った何者かが裏にいることを。しかし、その何者かは、理解していない。この大陸が今どこに向かうべきかを。上手く行くのであれば、その何者かも、この出兵で片付けておきたいものだと、郭嘉は考えていた。

「郭嘉よ」

「はい、曹操様」

さっと馬を進める。曹操の隣にいる許?(チョ)が、うさんくさそうに郭嘉を見た。この素朴な農民は、郭嘉をどこかで敵視しているらしい。女をとっかえひっかえして遊んでいる所が気にくわないのかも知れない。

「既に、先鋒から報告があった。 この先は飢饉も同然の有様だそうだ」

「さもありなん、というところでしょう。 袁術は己の贅沢を支えるために、民に大きな犠牲を強い、流民が大量に発生していると言うことですから」

「その通りだ。 その流民を、早めに取り込み、洛陽と許昌に流し込め。 その役割とやり方は、全てお前に任せる」

はっと、郭嘉はあたまを下げた。

これは良い任務だ。己の権力を飛躍的に強化することが出来る上に、軍事力も増やすことが出来る。己の能力に自信を持っている郭嘉は、これを必ずやり遂げることが出来ると今から確信していた。

郭嘉は、近年曹操に仕えた人物であり、郷里ではあまり人望が無かった。

確かに途轍もなく頭がよいのだが、性格が最悪だったからである。女と見れば見境無く手を出そうとするし、名士だろうが高名な食客だろうが、馬鹿にしきっていた。自分以外の人間は全て馬鹿だと考えていたし、今もそれに違いはない。だから、誰にも嫌われた。家族にさえ、用事がなければ口を利かれることがなかった。

そして彼自身も、馬鹿を軽蔑していた。つまり世界中で自分以外の殆どの人間を軽蔑していたので、壁は大きくなる一方だった。

曹操に仕えているのも、仕えてやっていると、最初は考えていたほどだ。

考えが変わったのは、宛城攻略戦の後。嫡男と腹心を失った曹操が、地力で、しかも短時間で立ち直るのを見てからであった。

この男は、凄まじい強靱かつ柔軟な精神を持っている。頭の出来も、郭嘉よりも若干上かも知れない。

そう思うと、自然と頭が下がるようになっていた。

今でも、曹操以外の同僚は、皆馬鹿だと考えている郭嘉である。戯志才のことだけはある程度認めている郭嘉だが、それもせいぜい同格でしかない。彼が本当の意味であたまを下げるに値すると考えているのは、上にも下にも曹操のみであった。

その曹操の下でのし上がる。郭嘉をこれほど奮い立たせる理由があっただろうか。

曹操は典偉を失ってからというもの、少し鋭利さが増したような気がする。これは子供っぽい所があった曹操が、甘えられる人間を失ったからではないかと、郭嘉は推察していた。だが、逆にそれが故、郭嘉には都合が良い。かっての典偉の位置に納まるのは無理だろうが、しかし権力を短期間に増すことも出来るからだ。

自分の部隊に戻ると、夕暮れの滞陣を待って中隊長、大隊長達を集める。部下達に嫌われていることを郭嘉は知っている。だから、義とか人情とかで動かそうとは考えない。分かり易い利益で釣り、それで仕事をさせるのだ。

「曹操様より、命令があった。 袁術の領地から流出している民を出来るだけ集めて、洛陽と許昌に送り込め、という事だ」

「戦の最中に、そのようなことをしている暇がありましょうか」

「戦ならすぐ終わる。 私が仕入れた情報によると、もう袁術軍はまともに機能しておらぬ。 ましてや味方は十万で、敵は烏合の衆だ」

「烏合の衆という点では、味方も同じかと。 我が軍が主力となってはいますが、呂布軍と孫策軍は、著しく兵の質が低く、前線で略奪を繰り返しているようです」

冷ややかに言う部下に、郭嘉は苦笑した。確かにその点では、味方も烏合の衆とは言えるだろう。

連中は郭嘉に対して深い反発心を抱えている。無理もない話で、彼らは知っているのだ。郭嘉が自分を馬鹿にしきっていることを。だから、足りない頭を使って、どうにか鼻を明かしてやろうと四苦八苦している。

「心配するな。 敵から攻撃を受けて作戦が失敗した場合は、私の責任にすればいい」

「二言はありませんな」

「ああ。 ただし、作戦行動に遅れが出たら、責任は取って貰うからな」

解散し、連中を帰らせる。すぐに伝令を呼んで、後衛の韓浩に連絡を付けて貰う。

韓浩も、郭嘉を嫌っている将軍の一人だ。郭嘉の尊大な所が気に入らないらしい。郭嘉にしてみれば、そんな事はそれこそどうでも良い。役に立ってくれれば、それでいい。以上のことは望んでいない。

「夜分に何かな、郭嘉どの」

「今回は韓浩将軍に、お力を借りたいと思いましてな」

「ほう? 知謀溢れる郭嘉どのが、儂のような凡人に、一体何を?」

拒絶がにじみ出ている韓浩の言葉だが、これは既に想定済みだ。韓浩は、郭嘉からすると、典型的な軽蔑の対象で、分かり合おうとも思わない。凡人のくせに、馬鹿みたいに努力を重ねて実績を上げるような輩は、天才で手を抜くことしか考えていない郭嘉にとっては、唾棄すべき敵で、絶対に分かり合えない相手だ。

しかし、曹操のためという理由があれば、協力をすることも可能。

韓浩とは相容れない関係ではあるが、互いに利用し合うという条件に限定すれば、曹操の下で共存することも出来るのだ。

「韓浩殿の育てられた屯田の専門家を、何名か貸していただきたい」

「ほう?」

「このたび曹操様は、袁術の領地から流出する民を洛陽および許昌に配置して、一気に都を復旧するおつもりでいられる。 その作業のためには、韓浩殿の育てられた人材が最適なのです。 そこで何名か、手の空いている者を貸していただきたいのですが」

韓浩はじっと郭嘉を見つめていたが、やがて小さく歎息した。

この男は郭嘉を敵視しているが、曹操に対する忠誠心は認めてくれている。それに、韓浩にはもう一つ、弱みがある。

部下思いなのだ。

郭嘉のことは信頼していなくても。自分が育て上げ、苦楽を共にしてきた部下達の事は心から信頼している。それが、郭嘉からしてみれば滑稽きわまりなく、敵意と殺意さえ感じるこの韓浩という男の真実だ。

全く信頼できる人間がいない郭嘉にしてみれば、羨ましい部分もある。だが、それをうらやむくらいなら、仕事に生かした方がましだ。そして、一気に地位を高めて、曹操のために短い余生を役立てる。

生き急いでいる郭嘉という男の願いは、其処にあった。

「分かった。 曹操様に確認してから、部下の手配の準備をする」

「よろしくお願いいたしまする。 私に何か後ろ暗いことがあったら、即座に訴え出ていただいても結構。 ただし、現場の責任者のせいで仕事が遅れる場合には、厳罰に処させていただきます故」

「好きにしろ。 ただし儂が育てた部下を無為に殺しでもしたら、その時は曹操様がなんといおうが、貴様の首を刎ね飛ばしてやるからな」

韓浩は大股で天幕を出ていった。

結構冷や汗ものの会話だった。温厚な韓浩だが、怒ると恐ろしいことに関しては、諸将の見解が一致している。さっきの言葉を実行するのは間違いないところで、奴の部下はある程度慎重に扱わなければならない。

次は夏候惇だ。無能で、縁故だけで曹操に仕えている男だと、郭嘉は蔑視している。ただし、その人望を巧く使って、人間関係の接着剤になっている男だ。李典と楽進は仲が悪いが、夏候惇が間に巧くはいることで、人間関係を丁寧に調節している。

今回は、それを利用する。

夏候惇は格上の将校になるから、直接陣に足を運ばなければならない。郭嘉を毛嫌いしている護衛達と一緒に、陣へ赴く。仮にも将校である郭嘉を、嫌っていても無碍には出来ないから、番兵は渋々という感じで取り次いでくれた。

天幕に通される。夏候惇は頭が悪いことを補うためか、曹操の真似をしているのか、遅くまで報告に目を通している様子であった。辺りに散らばっている竹簡には、各所の陣の名が入っている。

「おう、郭嘉か。 こんな夜分にどうした」

「実は、夏候惇将軍にお願いがありまして」

「聞こう。 といっても貴殿のことだから、人間関係を取り持って欲しいというのだろう」

「お恥ずかしながら、その通りにございます」

頭の悪いと郭嘉が考えている夏候惇が即座にこんなことを言い出すのも、初めてではないからだ。

何度か郭嘉は、夏候惇に人間関係の取り持ちを頼みに行っている。そして夏候惇は、そうやって人間関係の修復をすることだけを曹操に期待されて、そして実行している。だから、良いのである。

それに、夏候惇は珍しく、郭嘉を嫌っていない将校でもある。

「それで、今回は誰だ」

「趙融どのを」

「む、趙融か」

趙融は少し前から曹操に誓っている人物であり、いわゆる地元の名士である。

軍事的な才能はないのだが、金持ちで、人脈が兎に角広い。そのため、曹操に人材発掘の任務を任されており、また本人もその仕事が好きらしく、せっせと作業をしていた。于禁や郭嘉を紹介したのも、趙融である。ただし、趙融は、郭嘉のことを著しく嫌っている様子であるのだが。

何しろ曹操に紹介した時、郭嘉のことを、人格的に大いに問題があるとほざいたくらいである。

「して、趙融に何をして貰うつもりか」

「何名か、頭が良さそうなのを回して貰おうと考えています」

「貴殿が、頭が良さそうだと思う人間など、曹操様の配下にも殆どおるまい。 それはいくら何でも、少し無茶な話ではないのか」

「ですから、趙融どのの思う、頭が良さそうな人間でも別に構わないのです。 私も、其処までの期待はしておりませぬ」

郭嘉の自信ありげな発言に、夏候惇は鼻白んだ様子だ。郭嘉のことを嫌っていないのと、信頼しているのは別の問題になる。夏候惇は、どうも郭嘉の忠誠心を疑っている節があり、以前それを生意気にも忠告してきたことがあった。夏候惇ごときが、自分に忠告するなど百年早いと思っている郭嘉である。著しく不快感を刺激されはしたが、しかしそれでも役立てるために、笑って受け入れたのだった。

「分かった。 趙融に話しておく」

「ありがたき幸せにて」

「しかしだな、郭嘉。 その毒がある物言いを何とかせい。 今はまだ儂が間に立って関係を取り持てるが、それにも限界があるぞ。 いつか後ろから刺されないためにも、少しは他人を尊重せよ」

「ご忠告、身に染み入ります。 それでは」

天幕を出る。笑顔を保っていたが、郭嘉は腸が煮えくりかえりそうだった。

またしても、自分に説教するとは。あの男ごとき、掃いて捨てるほどいる、凡人ではないか。

この国は、天才だけが動かしていけばいいのだ。

曹操や自分のような、選ばれた人間だけが、民を支配し、繁栄を享受すればいい。

凡人は支配されていれば良いのである。

郭嘉は、誰にも心を開かない。それはきっと、誰もの心を理解できてしまい、その下劣な下心と、あまりにもくだらない中身を知ってしまっているからだ。

天才は、孤独であった。

 

曹操の陣の一角。

天幕の影に、闇がいた。

今回の戦いで、張勲を殺さず、もう少し活用しようと考えている林である。曹操には勝たせるつもりだが、張勲にはもう少し長い間生きていて貰わないと困るのだ。色々と手を考えるために、曹操の陣を探りに来たのだが。

思っても見ない楽しそうな獲物を発見してしまったので、林はほくそ笑んでいた。

陳宮にしてもそうなのだが、自分を天才だと考えている人種ほど、扱いやすい存在はない。そう言った連中は基本的に周辺の人間関係が極めて希薄なのだ。突っ張っている振りをしても、実のところは他人との関係に飢えている。それが、共通した特徴である。

だから、簡単に心に滑り込むことが出来るし、操ることも難しくない。

天才だと自分を思いこんでいる人間は、操作されていると気付くのにも遅い。絶対の自信を持っているが故、である。

取り出した柳刀を舐める。この間典偉の命を奪い、なおも英雄達の血を啜りたがっている妖刀は、さながら林にとっての分身だ。孫堅もこの刀で殺した。他にもあまたの英雄が、林に、その操る刀に殺されたがっている。

すっと、陣を後にする。

集結場所は、呂布の陣の近くだ。高順と張遼、それに陳宮を除くと、呂布軍に大した人材はいない。だから、集まるのにも都合が良い。

廃屋にはいる。途中、おもしろ半分に殺してきた見張りの兵士の首を、林は右手に捧げ持っていた。

生首を机の上に載せると、林は最上座に着く。

「さて、報告を聞こうか」

「はっ。 林大人。 袁術軍は迎撃の戦力を整えようとしていますが、上手く行っていない様子です。 どうやら、袁術が倒れたのは、ほぼ間違いない様子でして」

「ふむ、そうなると、現在実質的に権力を握っているのは張勲か」

「はい。 ただかの御仁は、何かを裏から操るのは得意なようですが、いざ自分が実権を握りますと」

くすくすと、声が漏れた。最近配下に加えた、心が壊れた娘だ。

短時間で恐ろしいほどに腕を上げたのだが、どうも自律的な意思の提示が出来ないらしい。

正体は、林しか知らない。

これは、曹昂の婚約者だった、菖である。名前もそのままで呼ばせている。

自分がおもしろ半分に殺した曹昂の婚約者を、自らの手で飼う。これほど心をぞくぞくさせてくれる遊びがあろうか。ちょっと気を抜くと、後ろから刺されて殺されるかも知れないと思うと、更に楽しくて仕方がない。

「どうした、菖」

「袁術様はぁ、すっかり壊れてしまったの。 私、見てきて、確認したわ」

「ほう。 そうか」

「刺してもつねっても、びくりともしなかったの。 ただ生きて、食べて、息をしているだけ。 私と、同じ。 うふ、あははは、ひははははは」

にやにやを押し殺すのに苦労している林と裏腹に、部下共は怯えきっていた。狂気ほど、まっとうな人間を恐れさせるものはないのだが、林にはそれがまた面白い。何しろ一番狂っている自分からすれば、菖の狂気など子猫も同然だからだ。

劉勝が咳払いすると、菖を庇うようにしていった。この大男は、どうやら菖に同情を感じているらしい節がある。

「このたびは、わざわざ我らが干渉しなくても、林大人の思うようにいくのではありませんか?」

「その通りだ。 だが、敵には張勲がいる」

張勲を好きなように動かすのだけはまずい。なぜならば、奴は林や董俊と同格の働きをした、闇に属する者だからだ。

油断しすぎれば、必ず反撃される。そうして死んでは面白くない。

どうせ死ぬのなら、強敵と覇を競った挙げ句に、滅び去る方が面白いではないか。

「奴は最近、細作の育成にも力を入れているようだ。 表向き協力する態勢を崩さないようにしながら、まだ監視を怠るな」

「はっ」

「では、解散」

すっと、皆の気配が闇に消える。菖は劉勝に連れて行かれた様子だ。

林は伽石を出すと、強い血の臭いを放っている生首の前で、柳刀を磨いだ。自らを殺した武具を目の前で磨がれる生首の無念やいかほどかと思うと、面白すぎて絶頂に達しそうだった。

桁違いの悪意は、さらなる獲物を求めている。林はまだまだ、この程度の混沌で満足するほど、初ではない。

幼い容姿のまま、既に成人していた林だが、人間離れした修練のためか、あまり見かけが変わっていない。このまま年を取っていくと、やがて妖怪や魔物と呼ばれる存在に、本当になってしまうのかも知れない。

しかし、林が見てきた怪物は、実のところ人間の中にこそ住み着いていた。だから、林も本物の邪神になるよりも、そういった人中の邪神となりたいものだと考えている。真に恐ろしいのは、神話の怪物なのではない。

一晩ゆっくり寝てから、寿春へ。予想通り、其処は想像以上の混乱に包まれていた。

途中、同盟勢力の羊大人の部下と出会ったので、軽く会釈する。既に羊の組織と、林の組織は、実力的に拮抗する所まで来ている。いずれ雌雄を決しなければいけないかも知れないが、それまでは情報を交換し合う中だ。

その場を離れようとした所で、声を掛けられる。上だ。

何と、羊本人であった。

老いた細作である羊だが、その実力はいまだ健在。負けるとは思わないが、簡単に勝てる相手でもない。すっと飛び降りてきた羊は、近くの全く人が入っていない点心屋を顎で差した。

茶を一杯ずつ飲むと、羊は目の中に、不審な光を宿らせる。

「典偉を殺したのは、お前さんじゃな」

「うふふふふ、さて、それはどうでしょう。 私は確かに、あの一件に関わりましたが」

「お前さん、母親に目が似てきたわ。 先に言っておくが、あまり世を乱そうと計るでないぞ。 確かにある程度世が乱れていた方が、我ら細作には暮らしやすいが、お前さんが求めているのは桁が違いすぎる」

返答はせずに、茶をすする。

馬鹿な老人だ。だから、面白いのだというのに。

それ以上、会話は続かなかった。しかし今のは、事実上の宣戦布告と言っても良いだろう。

分からないのは、何故今の時期に、という事だ。

袁紹は今だ公孫賛と総力戦を続けていて、曹操に構う余裕がない。そろそろ公孫賛が力負けする頃合いだと林は睨んでいるが、そう簡単にはいかないだろう。奴が建築した北平の巨大要塞地帯は、袁紹の率いる精鋭でも、そうそう落とせるものではないからだ。袁紹の配下にいる羊も、公孫賛の細作を叩きつぶすのが主任務の筈で、袁術などに構っている暇はない。ましてや袁紹と袁術は、現在絶縁状態にも等しいのだ。

そうなると、張勲かも知れないなと、林は思った。或いは、シャネス辺りが、裏から手を回したのか。しかしシャネスは政治的な策動が得意ではないはず。そうなると、呉の四家あたりか、あるいはやはり張勲だろう。陳宮と言う可能性は低い。

いずれにしても、今、羊大人の組織とまともに事を構えるのは不味い。奴の組織の規模は、林の組織と同等、背後にある経済力、軍事力を加味すると遙かに上回る。人材の質でも、今の状態では、ようやく戦えるというのが正しい。

此処は引くべきだ。そう、林は素直に判断していた。

翌日から、林の組織は、寿春から影も形も無くなった。まるで、最初から、何も存在していなかったかのように。

 

曹操軍を主力とした十万余の兵が、寿春を包囲した時、既に袁術とその一族は、淮南に逃れていた。

いずれにしても、寿春に立てこもった戦力を潰さなければ、袁術軍は幾らでも再起を可能とする。かなりここのところ戦力を消耗しているとはいえ、淮南に逃れた戦力が約五万、寿春にはまだ二万五千が健在だという報告が出ているからだ。

曹操は腕組みして、馬上で寿春を見つめていた。隣にいる許?(チョ)は、いつ何が現れても対処できるように、周囲に油断無く視線を送っている。実際問題、既に此処は敵地だ。許?(チョ)がまるで借りてきた猫のように、耳を立て、爪を出しているのも当然のことである。

普段はぼんやりしていても、戦場では頼りになる虎。それが曹操が付けた許?(チョ)のあだ名、虎痴につながっている。そして、曹操は、人を見る目だけは確かな自信があった。

しばし考え込んだ後、曹操は側にいた夏候惇に命じた。

「降伏を呼びかけよ」

「は。 しかし、相手は死兵なのではありますまいか」

「死兵なものか。 相手は袁術が見捨てていった兵士達で、忠誠心など殆ど無いような連中ばかりだ。 適当な条件さえ提示してやれば、すぐに降伏してくるだろう」

「分かりました」

もちろん、曹操は、其処まで巧く事が運ぶとは考えていない。

狡猾な袁術のことだ。兵士達の家族を人質にすることくらいは平然としているだろう。しかし、心を揺るがすことも出来るし、なにより降伏勧告をしたという既成事実を作ることも出来る。

容赦のない攻撃をする際に、大義名分になるのが、その事実なのだ。

夏候惇は早速弓の名手を見繕って、城内に矢文を撃ち込ませた。内部の指揮を執っている李豊将軍は、あまり袁術への忠誠が高くないと聞いている。二万五千を丸ごと寝返らせることが出来れば、また曹操の軍事力は大きくなる。

しばしして。

夏候惇が派遣した弓の名手が、戻ってきた。夏候惇に耳打ちしている。なにやら、不穏な空気が漂っていた。

「曹操様」

「如何したか」

「それが、おかしな事に、内部にはまるで気配がないそうです。 兵士達の気配はあるそうなのですが、殺気というか、戦気というか、そういうものが感じられないと」

「いやな予感がするな」

兎に角、降伏勧告はした。攻撃を開始するように、曹操は指揮剣を振り上げる。

まず、楽進隊が、馬を駆りながら、城内に火矢を撃ち込み始める。それに続いて、他の歩兵部隊も攻城兵器を繰り出し、城内に突撃を開始。それを見計らった呂布軍、孫策軍も、攻撃を開始していた。

懸念が現実に変わったのは、直後のことであった。

城内になだれ込んだ兵士達が、正門を開ける。曹操はまだ入ろうとしなかったが、主将達が飛び込もうとした、その瞬間である。

「曹操様、い、いけません」

「どうした、虎痴」

許?(チョ)が大きな手を伸ばして、絶影の手綱を掴んだ。行くなと言う意思表示だ。曹操も、許?(チョ)の勘には信頼を寄せているから、馬を止める。そして、声を挙げた。

「全軍、攻撃中止! 一旦後退せよ!」

銅鑼が叩き鳴らされる。慌てて城から飛び出してくる兵士達の後ろから、不意に殺気が沸き上がった。後退する曹操軍を見て、右往左往している孫策軍に、まずそれが襲いかかった。

悲鳴が上がる。

城の奥に隠れていたらしい兵士達が、一斉に現れたのだ。孫策軍の兵士達が、見る間に槍先に掛けられる。曹操は手をかざしてみていたが、その理由が分からない。敵兵は孫策軍の兵士達を片っ端から殺し、混乱している呂布軍にも襲いかかった。

ほどなく、城門が閉じられる。逃げ遅れた兵士達は全滅だった。

呂布軍の指揮を執っている高順は、高台から無言で状況を見つめていた。はて、あの男、どこかで見たことがあるような。小首を傾げている曹操に、楽進が報告してきた。

「今の戦を拝見為されましたか」

「うむ。 精鋭とも思えぬ袁術軍が、恐るべき戦闘力を発揮したな。 どういう事なのだろうか」

「側で見ていたのですが、連中には意思というか、心というものが感じられませんでした

「何……!?」

どのような精鋭でも、負け戦になれば逃げ腰になるし、死だって怖い。鍛え抜いたとしても、彼らの故郷には家族がいることに代わりはないのだから。

だから、精鋭になればなるほど、戦闘時には思考を働かせないようにする訓練を施す場合もある。

しかし、袁術軍にそんな訓練を施した部隊があるとは聞いたことがない。その上、である。敵兵の全てがそのような状態になるとは、いかなる事か。

撤退してきた兵士達を集めて、なおかつ何とか逃げ延びた呂布軍の兵士を借りて来る。そして曹操は彼らから、話を聞くことにした。

そうすると、楽進の発言が、裏付けられることとなった。

「何だか、目がまともじゃありませんでした。 口からは涎も出てましたし、動きもおかしくて」

「俺なんか、槍で相手を刺したんです。 それなのに、平然と起き上がって来て」

「まるで化け物と戦っているようでした」

腕組みをした曹操は、部下達を集める。そして、相談させた。

最初に挙手したのは、戯志才であった。

「恐らく、麻の類の薬物によるものでしょう」

「薬物、だと」

「はい。 麻の類には、幻覚を見せたり、気持ちよくさせたりする薬効がありまして、しかもずっと食べ続けると、心身が壊れてしまう作用があります。 しかもこれが恐ろしいのは、そうなった者は、麻を食べるためなら、どんなことでもするようになる、という事です」

「お、おのれ、卑劣な!」

声を挙げたのは楽進だった。韓浩もその隣で吠える。腕組みしたまま怒気を放っているのは、新参の徐晃であった。

「兵士達をもの扱いしおって! 何が皇帝だ!」

「許せん! そっ首たたき落としてくれる!」

「実は、もう一つ、お耳に入れておきたいことがございます」

徐晃が、怒気を押し殺すのに、必死な様子で挙手した。曹操もあまり穏やかならぬ心境であったが、発言を許す。

徐晃は今回の件でも冷静な撤退戦を指揮し、最後尾に残りながら、結局自らも脱出に成功した。流石は徐栄の愛弟子だと頼もしく思っていた所である。その意見情報であれば、曹操としても大歓迎だ。

「心を壊されているのは、兵士だけでは無いかも知れません」

「何……」

「突入した時、家屋の中に、気力を失って座り込んでいる民を見ました。 食料を与えられていないのかとも思ったのですが、ひょっとすると、心を壊されていたのかも知れません。 場合によっては、彼らも、戦の際には襲いかかってくる可能性があります」

許せん、と何人かの将が吠え猛った。

曹操は腕組みして、目を閉じた。確かに許し難い事なのだが、しかし何かがおかしいのである。

卑劣な策謀が巡らされたのは事実。兵士や、民の心が壊されたのも事実だろう。

だがしかし、だ。あの袁術に、このように邪悪な策謀が思いつけるものなのだろうか。奴は己のことしか考えていないような下劣な存在だが、これは下劣というよりも、邪悪で残虐な印象を受ける謀略である。

程cが、挙手する。

「曹操様」

「如何したか、程c。 意見があるなら述べてみよ」

「ははっ。 それでは、早速。 何かおかしいとは思いませんか」

「何がおかしいのか、お前の考えを述べてみよ」

他の参謀達も見つめている中、大柄な体を窮屈そうに縮めている程cは、少し辺りをはばかるようにして言った。実際程cは、周囲に細作がいることを、気にしている様子であった。

曹操も、この間の宛城攻略戦で、多くの優秀な細作を失った。今急いで新しい組織を育てている所だが、程cの懸念はよく分かる。

「まず第一に、このような籠城戦に、二万五千もの兵が良く残ったという点です。 袁術の配下は忠誠度など無きに等しく、かろうじてまともな紀霊他数名は、淮南に引き上げてしまっています。 勝ち目のない籠城戦に、残りたがる兵がいましょうか」

「その通りだ。 何故袁術は、捨て石を二万五千も確保できたのだ」

「それに、不可解な点はまだあります。 この寿春は決して守りやすい城ではないとはいえ、敵の戦力は七万を超えており、最盛期には及ばないとはいえかなりの戦力を保持しています。 野戦を行う選択肢もあったでしょうに、何故さっさと逃走を決め込んだのか」

「言われてみれば、まだおかしな事がある。 この地の飢饉だが、儂から言わせると少し不自然なのだ。 本来豊かな土地を、わざと使い潰すようにして衰えさせている。 如何に袁術が愚か者とはいえど、其処までのことをするだろうか」

韓浩が頷きながら言う。他の将達も、曹操が気付いていることを、察し始めた様子だ。鈍い夏候淵や夏候惇までもが、不安げな視線を交わし合っている。粗暴で、知恵が足りない曹仁が、ぼそりと何気なく言う。

「そもそも、そんな危険な薬を、袁術はどうやってあんなに大量の兵士をおかしくするほど用意できたのだ」

「その通り。 それが、この程cめも考える、一番不審な点なのです。 確かに麻は用意しやすい草ですが、何しろ量が量です」

「つまり、程cどのはこういいたいのだな」

郭嘉が、前に身を乗り出す。不敵で、自信に溢れた笑みが口元に浮かんでいた。他の将達は、露骨な敵意を彼に向けている。誰かが、出しゃばりおってと、呟く。だが、郭嘉は気にもしていなかった。

曹操は咳払いすると、意見を述べるように促す。曹操としても、配下が意見を交換し合うと、自分の考えを纏めやすい。

「郭嘉、のべよ」

「は。 程c殿の意見から察するに、この一件は、随分前から準備されていた。 そして、我々は躍らされている。 こうではありませんか」

「……流石は郭嘉どのだな」

温厚で人格者である程cでさえ、郭嘉には好意的な視線を向けてはいない。曹操は内心ため息をついたが、郭嘉は己が嫌われようが憎まれようが、態度を変える様子もない。曹操が言わなければ、陣に平然と女を連れ込むような男である。

「袁術のもくろみではありますまい。 何か、とんでもない邪悪が、世の影で蠢いていて、袁術は、そして曹操様までもが、それに利用されている。 しかし、案ずるには及びませぬ。 この郭嘉いる限り、どのような邪悪な策謀があろうとも、曹操様の覇道を妨げさせはしませぬ」

「もういい、郭嘉。 途中までは良かったのだがな」

ある意味、自分以上の阿呆だと思いながら、曹操は郭嘉の長広舌をちょん切った。そのまま別のものもちょん切ったら、大人しくなるかも知れないなどと下品で酷い事を曹操は考えたが、郭嘉は阿呆で毒があるからこそ天才なのだ。そんな事をすれば、天才的なひらめきまで無くなってしまうだろう。確かに周囲からは嫌われているが、その辺りは曹操なり、或いは夏候惇なりが調整してやればいい。

曹操は他に意見がないのか皆を見回したが、郭嘉が大体を纏めてしまったので、戯志才までもが意見を口にはしなかった。

曹操は立ち上がると、皆を見回す。

「細心の注意を払え。 敵は袁術だけではないかも知れぬ。 諸将は敵兵だけではなく、民にも目を配れ。 彼らを動かすには弱みを握ることが必要だ。 民を敵と思わず、国の礎と思って慈しみつつも、油断はするな」

「ははっ」

「戯志才は、細作組織の拡大と強大化を急げ。 噂に聞く林や羊の組織の動向も気になっている所だ。 最悪の場合、連中に対抗できるようにしておけ。 事によっては、丸ごと取り込め」

「御意にございます」

軍議を解散すると、その場には曹操と許?(チョ)だけが残った。虎痴はなにやら不安なようで、しきりに辺りを見回していた。

「虎痴よ、どうした」

「そ、それが。 少し前までは寿春に恐ろしい気があったのに、今ではすっかり消えて無くなっているのでして。 お、俺には、どうして良いのか、よく分かりません」

「それはどのように恐ろしいのだ」

「人間なのに、人間だとは思えなくて、邪悪で、全てを貪り尽くすような、そんな雰囲気、です」

まるで古代の神話に出てくる四凶のようだなと、曹操は呟く。そして、それについて説明してやった。

古代神話には、四凶と呼ばれる最強の邪神達が登場する。いずれも妙に人間らしい逸話がありながら、そのくせ人間を喰うだとか、妙な怪物性が付記されている。

それはきっと、古代の王朝が討伐した賊を、怪物的に脚色した存在なのだろうと、曹操は説明してやった。翼を持つ虎という、窮奇について説明してやると、虎痴は身震いして、言った。

「俺でも、そんなのは、手に負えません」

「案ずるな。 どうせ実在はせぬ。 鳳凰だの龍だのを、現実に見た人間がいるか? あれらは権威を作るために、様々な自然現象から創作されたものが殆どだ。 まあ、世のどこかには本物がいるのかも知れないが、実際に生きているとしても、それは伝承に伝わっているものとは大きく違っているだろうな」

だから実際に顔を合わせてみたら、ひげ面の大男かもしれんぞと説明すると、虎痴は理解の限界を超えたらしく、頭から煙を出しそうな顔をしていた。

苦笑すると、曹操はもう休むと言って、天幕に引き上げる。

ルーのことを思い出す。曹操のことをずっと小馬鹿にしていて、でも慈しんでいたあの細作が生きていれば。きっと、少しは苦労も減ったのだろうに。

今は兎に角、戯志才に任せて、後任の人材を育成するしかなかった。

 

翌日から、第二次攻撃が開始された。第二次攻撃からは、兵士達は皆松明を持たされた。これは郭嘉の発案である。

「相手は人間とは言い難い存在です。 火を近づけて、距離を取りながら、射すくめましょう」

「うむ、戦であるし、仕方があるまい」

そう皆は言ったが、誰もが不安げな顔をしていた。特に儒教道徳に深く帰依している荀ケは、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。しかし代案が思いつかなかったらしく、しぶしぶと従った。

全軍が、包囲を縮める。攻めての軍には、昨日冷静な働きを見せた、徐晃の姿もあった。徐晃は曹操が褒美として与えたまだら模様の駿馬に跨り、手には大きな斧を捧げ持っている。一方、楽進は珍しく後衛にいる。これは、何か得体の知れない存在に、奇襲を受けた時、備えるためである。

背後に楽進がいるのなら、曹操も安心が出来る。

指揮剣を振り上げると、まず徐晃の部隊が動き出した。攻城兵器を持ち出し、まず精鋭部隊が城壁を駆け上がる。一矢も乱れぬ統率で、呂布軍や劉備軍が、羨ましそうにその光景を見ていた。

城壁の上の足場を確保すると、徐晃軍の他の部隊も上がり始めた。先頭の部隊に混じっていた徐晃が城壁の上で指示を出し、まず城門が開けられる。昨日までの流れと、此処までは大体同じだ。

違うのは、松明を備えた兵士達が、慎重に中に入り始めたことである。曹操は様子を見守っていたが、許?(チョ)は何も言い出さないし、口は出さなかった。松明に点火されて、昼だというのに明々と周囲を照らし始める。

さて、どうなるか。

曹操が呟くと、ほぼ同時に。伝令の兵士が戻ってきた。血相を変えている。

「曹操様、一大事にございます」

「如何したか」

「そ、それが。 敵兵が、全て瀕死の状態で、転がっておりまする。 どうやら数日かそれ以上、食料を得ていなかったらしく」

口元に手をやった曹操は、やられたと呟いた。

これが、最後の罠だったという訳だ。

「油断しないように、敵の武装解除を進めよ。 兵士達がその様子では、民衆も似たような有様であろう。 炊き出しを開始せよ。 最初は水から、徐々に湯に、粥の密度を濃くしていけ」

「ははっ」

伝令が韓浩の陣を目指して掛けていった。

郭嘉が馬を寄せてくる。言われずとも分かっていると怒鳴りたくなったが、好きなようにさせておいた。

「恐れながら、これは敵の策にございましょう」

「考えを述べてみよ」

「は。 瀕死の住民と兵士達を残すことにより、兵糧を消耗させ、此処に釘付けにさせる策にございます。 以前董卓が行った焦土作戦と、よく似ておりまする」

舌打ちする。この男は、頭は良いのに、どうしてそう何もかもひけらかすような真似ばかりをする。

分かりきっていることだというのに、苛立ちが深まった頭脳では、そう毒づいてしまった。

相手が何者かは分からないが、はっきりしたことがある。これは曹操の性質を利用して、袁術の評判を落とさせようという陰謀だ。それも、後々の歴史に、悪名が伝わるような次元で、である。

しかも、憎悪が感じられないのだ。袁術を憎んでそう言うことをしているのではなく、淡々と駒を動かすようにやっているとしか思えない。

曹操は袁術という男が、小物に過ぎないことを知っている。

此処しばらくの邪悪な策謀は、奴が単なる操り人形に落ちており、背後にいる怪物的な存在が、まるでタチの悪い劇を見せているかのようだと思えてきていた。しかもその劇の内容たるや、小悪程度の袁術に、あらゆる汚物を塗りつけているとしか思えない代物ではないか。

この世界を動かしているのが、英雄ばかりではないことを、曹操は知っている。

政は民の動向によって動かし方を変えなければならない。民の力によって、国の力も変わってくる。

しかし、だ。

この邪悪な空気は、一体何だ。

民をというよりも、この地の歴史そのものを、邪悪な歪みに誘導しようとしている何者かが、いるとしか思えない。

韓浩が来た。今は一刻を争う状況だから、馬上でそのまま報告を聞く。韓浩も状況を理解しているから、馬を寄せて、すぐに報告を始めた。

「曹操様、あまり状況は良くありません」

「述べよ」

「は。 まず城内ですが、兵士達だけではなく、民も飢餓寸前の状況にありました。 家財道具の一切は運び去られており、金目のものは存在しておりません。 強いて言うなら、あの悪趣味な宮殿くらいです」

「ふむ、それらは全て淮南か」

「はい。 周辺の農民はことごとく流民と化して逃げ出しております。 淮南に向かったのはほんの一部で、今郭嘉が領内に誘導中です」

「郭嘉に伝えよ。 流民に紛れて、敵の細作が領内に入り込むかもしれんから、注意するようにと」

それがほとんど効果を示さないであろう事は、誰より曹操が分かっている。しかし、警戒をしないよりは幾分かましだ。

韓浩も、難しいことだと、やんわりと非難してくる。

「は。 しかし、もとよりこの混沌たる情勢です。 国境を越える細作を防ぐのは、不可能に等しいかと」

「うむ、是非もない話だ。 だが、手を打たないよりは良いだろう」

韓浩を下がらせると、曹操は舌打ちしていた。

ざっと頭の中で計算したのだが、この寿春攻略戦、下手に負けるよりも損害が大きくなった。膨大な兵糧と、更に人員が今後の復旧には必要になる。しかも寿春は江東攻略に向けて必要な拠点の上、袁術を抑えるためには絶対に必要な土地である。多少痩せているからと言って、放棄は出来ない。

陣に引き上げると、早速孫策軍と呂布軍から伝令が来た。案の定、兵を引くという。どちらの勢力も、寿春を維持できるような力を備えていないのだから、当然のことだ。曹操に貧乏くじを押しつけたつもりだろう。

孫策軍を率いている程普と、呂布軍を率いている高順が引き上げていくのを見送ると、曹操はぐっと歯をかみしめた。この程度で揺らぐほど国力は低くないが、しかし、誰かが曹操の覇道の足を引っ張っているのは間違いない。今一気に飛躍すれば、袁紹が河北を押さえきれる前に、決戦を挑めるのだ。それなのに、どうしてこう、悪いことばかりが重なるのだ。

しかも曹操の嫡男となった曹丕は著しく人望が無く、早くも宮廷闘争が始まろうとしている。人気がある三男の曹植は、曹操が見た所詩が巧いだけの線が細い若造に過ぎない。今後も戦に耐えられるような男にはならないだろう。曹丕はある程度の図太さを持っているが、しかし戦の才があまり無く、さらに陰湿で強引な所がある。曹操としても、どちらにも跡を任せたくないのが本音であった。

曹昂。ああ、曹昂。

曹昂が生きていたら。

そして曹昂を守る典偉が、生きていてくれたら。

寿春を屯田に掛かる韓浩の部隊を見つめながら、曹操は何度も歎息した。

 

2、江東の闇

 

呉の四家には、孫策の屋敷よりも先に、寿春攻略戦の結果が早馬によって届けられていた。

当然の話である。孫策の下で辣腕を握っているように見える指揮官達も、いずれ傀儡に過ぎない。本当に実権を握っているのは、彼らの参謀や副官として付き従っている、四家の息が掛かった者達なのだから。

四家の一人である張度の屋敷にも、細作は駆け込んできた。覆面をしている正体不明の家主は、若い娘ではないかとも噂されているが、その正体は誰も知らない。細作が跪くと、張度は鷹揚に言った。

「報告を」

「はい。 曹操は寿春を制圧しましたが、予定通り足止めを受けています。 此方に攻撃をしてくる可能性はないでしょう」

「よし、それでいい。 しばらくは時間を稼げたな」

大いに満足して、張度は頷いた。

今回の一件、策を持ち込んできたのは張勲だった。

張勲が派遣してきた使者は、四家に示したのである。このまま曹操が勢力を拡大した場合、遠からず呂布、張繍は飲み込まれ、袁紹は公孫賛との決戦で受けた痛手を回復する前に、曹操と戦わなければならなくなる。

そうなれば、曹操は一気に河北を制圧、返す刀で揚州にも攻め込んでくるだろう、と。

何名かの戦略担当文官がその内容を吟味した結果、同一の結論がはじき出されていた。四家棟梁達がそれを吟味した結果、裏からの支援が決まったのである。

もちろん、孫策には知らせるはずもない。

膨大な麻を用意し、交易品と一緒に運搬した。もとより張勲が築き上げた巨大な闇の流通網が存在しており、それに載せるのは決して難しくなかった。繁栄しているように見える寿春は、とうの昔に、袁術ではなく張勲というヒトデが吐き出した胃袋によって消化されつつあったのだ。

細作も幾らか貸した。そして、予定通りの機に、一気に攻め込んだのである。

実のところ、張勲は袁術が人事不省に陥る所までは予想していなかったらしい。それでも結果に変化はないし、曹操は見事に足止めを受けることになった。四家の計算でも、どのみち曹操が袁紹に勝つと出ている。それならば、少しでも時間を稼いで、態勢を整えなければならなかった。

張度は立ち上がると、奥の部屋に。

そして覆面を外した。

闇の中に浮かび上がったのは、皺だらけの、老人の顔であった。歯は殆ど残っておらず、顔中に向かい傷がある。昔から揚州の闇の主として君臨し続けた男、張度。当然買った恨みも尋常ではなく、名前も四度に渡って変えている。

この顔も、侮られないように隠しているものだ。少し前に助言を受けて、そうするようになった。

未だ気力衰えぬ張度は、妾も常時五人以上抱えており、下手な若者より多くの食料を口にする。鏡の前で、顔に化粧品を塗りたくる。愉悦の声を漏らしながら、張度は紅を老いた肌に塗る。

「ひ、ひひひひ、ひひひひ」

最初は臭いを漏らして、周囲を誤解させるためにやっていた。しかしいつ頃か、鏡に映った自分の姿を見て、妙な快感を覚えるようになっていたのだ。化粧を終えると、覆面をし直す。

そして、四家の他の者達との会談に臨むこととした。

既に馬車は用意されている。馬もまだ乗れるのだが、普段は負担を減らすために馬車にしているのだ。建業の街を行くと、快適である。どの関所も、四家の馬車を遮ることなど出来はしないからだ。例え孫策の一族であっても手続きが必要な関所であっても、四家の人間なら素通りである。

孫策の宮殿に着いた。もちろんその主に挨拶などしない。指示を出すのは、全てが決まってからだ。

四家の力は増大する一方である。孫策など、四家がその気になれば、すぐにでも首が飛んでしまうのだ。

奥に、特別に用意された部屋がある。孫家を皇帝として即位させた際には、執務をさせるつもりで作ったものだ。まだ美術品の類は運び込まれていないが、どのような大きさの美術品を置くかも、既に決まっていた。かなり広い部屋だが、現在は真ん中に机が置かれているだけだ。一段高くなっている場所にも、現状では玉座はない。

机を囲んで座る。張度は二番目で、遅れて他の二人も来る。

今回から、陸遜は会議から外す。どうも四家に対する造反を目論んでいる節があるから、張度が提案したのだ。陸案はもとより若くて才能がある陸遜を毛嫌いしていたこともあり、すぐに提案を受け入れた。

とりあえず、今回の寿春の一件について話し合う。策が上手く行ったことについては、全員が満足した。ただ、問題がもう一つあった。

孫策は、西へ進みたがっているのである。

つまり荊州を落とそうと画策していた。

これに関しては、四家も吝かではない。豊かな土地を手に入れれば、四家の権力も、増大する。ただ問題なのは、孫策が予定しているのは、そのまま蜀にまで攻め込もうという計画だということであった。

それは、見え透いていた。

孫策は、四家からの独立を画策していると言うことだ。それは許し難い。

ただし、現状それに関しては、問題がなかった。理由は簡単なことである。

「江夏に攻め込んだ孫策軍は、また一息に蹴散らされて帰ってきたわ」

「相も変わらず陸戦では無能きわまりないな。 周瑜はどうした」

「着いていったが、陸上戦で黄祖に翻弄されて、配下をだいぶ失ったようだな。 梁繰であったか、例の荒武者も、殿軍になった所を、ひとたまりもなく討ち取られてしまったらしい」

「ふん、まるで水虎よ」

顧覧の言葉に、皆が遠慮無く笑った。言うまでもないことだが、水虎とは、水に棲む妖怪のことである。水中では無敵を誇るが、陸上では非力きわまりない。四家では孫策と周瑜の事を、水虎だと影で呼んでいた。

荊州の方は、劉表と、軍の指揮を執っている蔡瑁、それに黄祖が抑えている限り、孫策では手も足も出ないことが明白だ。いずれも偏屈な所はあるが有能な人物で、特に黄祖は以前孫堅の迎撃戦を大きな被害を出しながらも成功させてからは、将として一皮向けた雰囲気がある。孫策は毎度のように波状攻撃を仕掛けているが、成功した試しが無く、毎度多くの犠牲を出し、優秀な将帥を消耗させていた。

しかも傑作なのは、それらを史書に「勝利」と記させていることである。孫家の最大の弱点は、妙な見栄を張りたがることだ。そしてそれは、四家がもっとも効率的に孫家を操るためにも、重要なことなのであった。

朱連が机の上で、身をせり出した。

「ところで、例の計画は上手く行っているか」

「おお、喬家から輿入れした例の姫達だな。 上手く行っているもなにも、孫策は毎晩姫を寝床から出さぬそうだ。 他の女には目もくれない有様らしい」

「くくく、それは重畳」

「若造にくれてやるには少し惜しい女だったが、もとより石女である事は我らの手で確認済みよ。 せいぜい精を無駄にするが良いわ」

顧安が言うと、皆が爆笑した。

孫家は、その宮廷に到るまで、四家に掌握されている。そして今、それをどうにか出来る存在は、いない。

 

周瑜は街に出る。護衛と供に、今日は小喬を連れていた。最近妻にした小喬は、孫策が妻にした大喬の妹である。四家に派遣されてきたのは確実だが、しかし周瑜とは体の相性が良いこともあって、寵愛を注いでいた。

もっとも、小喬は姉同様逞しい。政略結婚の道具にされたことなど気にもしていない様子で、単純に周瑜の妻となり、豊かな生活が出来ることを喜んでいる節がある。ただ、周瑜にとって不安が一つある。子供が出来ないのだ。

たぷんたぷんと腹を揺らしながら、馬上で周瑜が進む。この当時ではとても美しい容姿をしている周瑜が行くと、誰もが振り返る。それを見て、嬉しそうにしている小喬。野心的な女であった。

もちろん、周瑜は知っている。いわゆる愚民化政策を目論んで、周瑜の所に送り込まれたのが小喬であると。仲むつまじい夫婦と周囲には思われているが、実情、妻は周瑜に心を許したことなど一度もないと。

それでも、周瑜は小喬を気に入っていた。出来れば、心を開いて欲しいとも思っている。多分、これが愛情という奴なのだろうと、周瑜は考えていた。

「小喬、今日は市場に良い魚が入っているそうだ。 後で料理させよう」

「まあ、それは楽しみですわ」

完璧に見える笑顔を小喬は返してくる。だが、勘が鋭い周瑜には分かる。この女は多分、内心で舌打ちしている。魚が大嫌いなのかも知れない。無理もない話で、元は内陸部の出身だ。

劉岱によって喬冒が殺された後、喬家の一族は酷く苦労したと、周瑜は聞いている。話によると、身売り寸前にまで行ったという。

いや、実際は、本当に身売りしたのだろう。四家に、だ。

彼女が心に仮面を作っているのは、四家の連中に目を覆わんばかりの非道な行いをされたからではないかと、周瑜は睨んでいた。女は化ける生き物だとはいえ、此処まで仮面が分厚いと、色々勘ぐってしまう。そして周瑜が知る限り、四家であれば、どれだけ下劣な策謀を巡らせていてもおかしくはないのだ。

適当に店を見て回っていると、後ろから声を掛けてきた若武者がいた。朱桓という優秀な若者で、専属で周瑜が様々な戦の技を教え込んでいる。四家から派遣されてきた男だが、乱暴な反面素直なので、鍛えればきっと味方に引き込めると周瑜は考えていた。

「ところで、周瑜将軍」

「うむ、どうした」

「袁術は痛手を抱えたまま淮南に引きこもっていますが、今の内に討ってはどうでしょうか」

「考えとしては悪くないが、やめておいた方が良いだろうな」

「どうしてでしょうか」

朱桓は不機嫌そうに口を尖らせた。この若者は気性が荒く、自分が認めた相手でないと、例え上級将校であっても敬語を使うことはない。一歩間違えると賊になりかねない気性であり、同じ荒くれである呂蒙や周泰を兄貴分として慕っているのを、よく見かける。

小喬に似合うかと並行して考えながら、周瑜は髪飾りを手に取りつつ、朱桓に振り向いた。

「今の袁術は確かに弱っている。 確かに攻めれば倒せるだろう」

「ならば、どうして」

「奴の抑えている土地を、維持する能力が我が孫家にはないからだ」

経済力、軍事力、いずれも疲弊しきった袁術政権の残骸を抱え込めるほどのものは無い。その上今袁術が籠もっている淮南の辺りは、地形が入り組んでいて、非常に攻略が面倒だ。勝っても利益が無く、負ければ被害が甚大。それが現状の袁術勢力なのである。

「それでは、まるで商売勘定のようです」

「雄敵と戦いたいか」

「はい。 姑息な黄祖とはもうやりあきました。 火を噴くような気性の相手と、殺し合ってみたいです」

「まあ怖い」

くすくすと小喬が笑ったので、朱桓はついと視線を逸らした。流石に貴種の女性に対しては、意識せざるを得ないらしい。

苦笑すると、周瑜は髪飾りを店主の言い値で買いながら、朱桓を優しく諭した。

「それなら、どのみち袁術は駄目だな。 彼奴の所にいる勇者と言えば紀霊くらいで、しかも奴にしても一流の域は超えん。 本当に強い相手というと、徐州にいる呂布か、予州にいる関羽と張飛。 それに、曹操の護衛をしている許?(チョ)くらいだろうかな」

「いずれも、中原にいる奴らばかりですな」

「この近辺の猛者か? そういえば、荊州には甘寧という猛者がいるが、あれは侠客に近い輩だな。 武人というには少し無理があるか。 他には、そうだな。 最近長沙の守備に入った黄忠という男が恐ろしく強いそうだぞ」

「甘寧は聞いたことがあります。 しかし、黄忠という男は、最近聞きました。 何者なのでしょうか」

周瑜も最近情報を仕入れた。馬上での格闘戦も恐ろしく強いのだが、弓矢の腕前は更に凄まじく、呂布と渡り合えるのではないかと噂されている程だという。しかしながら世渡りの類をする気がないらしく、何よりかなりの高齢で、あまり出世する見込みは無さそうだという話でもあった。一武人であれば、戦略的な警戒は必要ない。例え相手が、呂布に匹敵する武勇を持っていても、だ。

「次の江夏戦が楽しみです」

「楽しみは良いが、無駄に命を散らすような真似だけはするな。 お前は強いが、戦い方が荒っぽすぎて見ていて不安なのだ」

「木っ端武者に殺られるような俺ではありません」

これは近いうちに荒療治が必要かも知れないなと、周瑜は思った。呂蒙はここのところ、初期に四家が連れてきた名将魯粛について勉学を始めており、めきめきと頭角を現し始めている。

朱桓は魯粛を苦手視しているようだから、付けるとしたら別だ。周瑜は忙しくて個別に朱桓を見ている暇がないから、やるとしたら実戦で、危険な目にあって貰うしか無いか。さっき話題に出た、黄忠と戦わせてみるのも良いかも知れない。

店を出ると、小喬が腕を取って、別の店によい宝石が入ったらしいとおねだりを始めた。周瑜は笑顔のまま、次の機会だと言って、そのまま帰路につく。一瞬むすっとした小喬だが、周瑜の機嫌を損ねたらそれまでだと知っているらしく、はいと素直に従った。周瑜も、あまり甘やかせていては全てが駄目になると分かっているから、この辺りでは一切妥協はしない。

近くに朱桓の屋敷があるので、一服することにした。

朱桓の屋敷は使用人が大勢いて、内部には虎の敷物やら鹿の角やら、荒々しさ極まりない物が多く陳列されていた。若いが故に、己の力や財力を、目に見える形で示したいのである。

居間には、何人か朱桓の取り巻きがわいわいと騒いでいたが、周瑜がくるとさっと顔色を変え拝礼して出て行った。

「朱桓よ、もう少し友は選べ」

「はあ。 しかし、彼らは皆、私の武勇を理解してくれるのです」

「そうか」

言葉では通じないだろう。

悪いが此処は、荒療治しかない。この男は、このまま駄目にしてしまうには、惜しすぎる逸材だ。

具体的にはどうするかと考え始めていた時に、伝令が来る。殺気だった伝令は、朱桓の屋敷の使用人達を突き飛ばし、居間にて周瑜を見つけると、慌ただしく頭を下げた。

「ご注進にございます」

「如何したか」

「徐州に、曹操が攻め込みました! 兵は五万五千から六万、現在徐州城近辺で、呂布と激烈なる戦闘を繰り返している模様です!」

いよいよ、始まったか。寿春での痛手を殆ど苦にもしない機動力と国力、恐るべきものである。今回の寿春戦は四家が曹操の力をある程度削ぐために行ったのではないかと周瑜は睨んでいたが、それが適中したのかも知れない。

「小喬、先に帰っていなさい。 私は殿の所に行ってから帰る」

「出仕するなら、私も」

「いや、そなたは大丈夫だ。 それよりも、次の江夏攻略戦に向けて、牙を研いでおくとよいだろう。 武芸に励んでおけ」

「ははっ。 そう仰られるのなら」

素直に従った朱桓を背に、周瑜は孫策へ相談するべく、登城を急ぐ。今回の一件、かなり大きな影響が出るかも知れない。

徐州の呂布は、曹操の本拠地近くにいる、最後の難敵だ。これが取り除かれると、一気に曹操は後方に巨大な安全圏を抱える可能性がある。徐州の民については曹操の虐殺をあまり良く思っていないだろうが、しかし奴は領内にて例外なく善政を敷いており、何年かすればしっかり民はなつくだろう。

そうなれば、揚州へ、徐州を経由して曹操が直接攻め込んでくる可能性も否定は出来ないのだ。

現在の孫策政権では、とてもではないが曹操とまともに戦う能力など無い。戦力の質も量もあまりにも違いすぎる。

早めに手を打たないと危ない。そう、周瑜は考え始めていた。

 

3、虎狩り

 

劉備軍五千、直属の兵五万三千を従え、徐州に攻め込んだ曹操は、呂布軍の前線基地を次々と陥落させていた。劉備軍の歩兵部隊千五百を率いている陳到は、やっとこの日が来たと、歎息していた。

この侵攻のために、既に念入りに準備はしていたのだ。

劉備を経由しているとはいえ、曹操は徐州の人脈を掴み、多くの情報を手に入れていた。前線基地の様子や、各城の弱点、呂布軍の人数などは、全て曹操の掌の上にある。故に侵攻は極めて効率的に進んだ。その手際は人を見る目が確かな劉備を唸らせるに充分で。陳到も間近で何度も劉備が唸るのを見ていた。曹操の実力は明らかだ。

許昌に亡命した時。

曹操は最初、劉備を客人のように歓待した。そればかりか、献帝にも引き合わせたという。劉備は陳到に対して、献帝の印象を、線が細い人だが、意志は強く、とても賢そうだと語った。

それから、献帝を含めて、狩りに出かけたりもした。線が細いながらも、献帝は良く前に出て、兎や鹿を上手に狩った。陳到も曹操軍の諸侯と馬を並べて走り回り、猪を仕留めた。

だが、いずれの将も、劉備を警戒していた。曹操自身からしてそうだったのだから、無理もない話である。

許昌の民は短時間で劉備に良い印象を抱いたようだし、捨て扶持として与えられた予州の民もそれは同じであった。それがますます曹操を警戒させていることを陳到は知っていたが、政で陳到に出来ることはなかった。

関羽も張飛も不満そうにする中、劉備だけはせっせと曹操の求めに応じては、彼方此方に出かけて、外交をしていた。それは恐らく、一緒に着いてきている五千の部下達と、何より義弟達を心配しての事。今曹操の機嫌を損ねたら、皆がどのような目に会うか、知れたものではなかったからだ。

曹操もそれを分かった上で応じているのが見え見えで、さながら狐と狸の化かし合いであった。陳到は冷や冷やしていて、寿春の戦が来た時は、むしろほっとしたくらいである。そして、今回、やっと徐州の攻略戦だ。

呂布が出てきた時の対応についても、既に全軍に周知している。いずれにしても、一騎討ちは厳禁。絶対に少数では戦わないこと。接近戦は行わず、大勢で遠くから矢を放って仕留めるべし。

歩兵軍に攻め込んできた時は、槍衾を作って、防ぎに掛かる。何より重要なのは、少数の部隊で絶対に突出しないこと。もしも呂布と遭遇した場合は、四方に散って、味方を呼び集めるべし。

まるで怪物でも相手にするかのような命令だが、呂布と実際に戦った経験がある陳到としては、大げさではないと考える内容だ。事実奴は、一万の兵に匹敵するかも知れない最強の武将だ。

徐州城を二万ほどで包囲し、残りが野戦に備える態勢を整えた。徐州城に籠もっている敵将は高順。何度か顔を合わせたが、非常に緻密で老練な戦をする男で、呂布の親ほどに年が離れている。何度か顔もあわせたが、独特の渋い影のある雰囲気で、何か大きな重荷を背負っている印象を受けた。

重荷があるのは、陳到も同じだ。許昌にいる妻と子供らの事を考えると気が重い。人質も同然だし、何より妻はぎゃあぎゃあと五月蠅い。劉備に見切りを付けて曹操に与しろとか余計なことばかり言うので、最近はいい加減腹も立ち始めていた。しかし子供らのことを考えると、安易に離縁とは行かない。

結局、胃に負担を掛けながら、任務を続ける毎日であった。

陣に戻ると、劉備が珍しく落涙していた。何かあったのは間違いない。歩み寄ると、劉備は目を擦りながら言った。

「長安に隠棲為されていた盧植先生が亡くなられた」

「なんと。 惜しい方を無くしましたな」

「うむ。 漢王朝は、これで事実上終わったのかも知れん。 朱儁将軍も皇甫嵩将軍も、既に生きてはおられぬ。 徐晃将軍は漢王朝への忠誠が篤いようだが、しかし当の陛下から、曹操に仕えよと厳命されていると聞く」

劉備は、表向きはともかく、実際にはあまり漢王朝への忠誠が高い人間ではないと陳到は見ている。だからこの言葉は、きっと盧植が死んだことに思いを馳せながら、時代の終わりをかみしめているのだろうと、陳到は判断した。

実際、盧植にとって、劉備はあまり出来が良い生徒ではなかったらしい。酒の席で張飛が口を滑らせたのだが、不良とまで行かなくとも、公孫賛と一緒に遊んでばかりいたそうだ。

「それで、陳到。 如何した」

「は。 周囲を見回って参りましたが、今だ呂布軍は姿を見せません。 徐州城の高順は、呂布にとって親も同然と聞きますのに、見捨てるつもりでしょうか」

「いや、違うな。 それが根本的に違う」

劉備は手を叩いて、外にいる部下達を呼ぶと、関羽と張飛を呼んでこさせる。簡雍は別方面の偵察に出ており、糜兄弟と孫乾は、曹操のところで交渉中だ。

五千の兵とはいえ、陣はあまり広くない。すぐに飛んできた関羽と張飛に、劉備は言い含めた。二人は頷くと、すぐに馬を駆り、精鋭を連れてどこかに出て行った。

「それで、根本的に違うというのは」

「呂布は己を魔王などと呼ぶ男だ。 恐らく、父を見捨てるなどと考えず、真っ正面から曹操軍に挑むつもりだろう」

「兵力差は六倍近いのに、ですか?」

「並の六倍なら、呂布にとって敵ではないな。 陳到が、その辺りは一番良く知っておるのではないかな」

確かに、呂布ならそういう考えもあるのかも知れなかった。

徐州城は沈黙を続けており、曹操軍の諸将は周囲を念入りに警戒している。やがて、曹操が、直接劉備の陣を訪ねてきた。

「これは曹操将軍」

「うむ、抜かりのない警備、感心したぞ。 世間ではそなたを戦下手などと呼んでいるようだが、とんでもない話だな」

「恐縮にございます」

「うむ。 それで、呂布のことだが、我が軍の偵察部隊がついに捕捉した」

南部、下丕と此処の中間地点当たりでしょうと劉備が言うと、流石に曹操も眉を跳ね上げる。背の低い男だが、最近は大勢力の長に相応しい威厳が備わり始めていて、普段のうっかりは戦場で影を潜める。

「何故、分かった」

「呂布は己を魔王などと称する男です故。 恐らく、兵を整えて、真っ向からの勝負を挑んでくるだろうと読んだまでのことです」

「その辺りは、流石に呂布を膝元に置いていただけのことはある。 大した観察力だな」

「恐縮にございます」

あくまで腰が低い劉備に、曹操は頷くと、すぐに指示を飛ばし始めた。そして、慌ただしく自分の陣へ戻っていった。

高順の徐州城には、備える兵を五千ほど配置する。此方の指揮を執るのは、徐晃である。陳到の見たところ、現在の二人は、指揮手腕において拮抗している。ただし、兵力が倍近く離れているから、押さえ込むことは難しくないだろう。

そのほかの曹操軍主力は、呂布軍に備えるべく、凸字型の強烈な野戦陣地を構築した。劉備軍は左翼に配置され、支給された弩を構えて、敵の到来を待つ。緊張の中、姿を現した敵。その兵力は、予想よりずっと多かった。

とびこんでくる伝令が、肩に矢を生やしている。慌ただしく馬を下りると、皆にも聞こえるように叫ぶ。

「敵兵力、約二万五千! まっすぐ此方に向かってきています!」

「二万五千だと! どういう事だ」

「ふむ、恐らくは、陳宮の仕業だな。 近隣の賊徒や、周辺の小規模勢力をことごとく取り込んだのだろう」

「河大太守の旗が見えます! 援軍として、五千ほどが加わっている模様です!」

河大といえば、確か韓浩将軍の出身地だ。そういえばその土地の現在太守珪固は、呂布と結びつきが強く、?(エン)州の争奪戦でも裏から呂布を支援していたという噂があった。

呂布が滅びたら次は自分だと思っているのかも知れない。確かにそれは正しいが、よりにもよって呂布に荷担するとは、時勢が見えぬ男である。

「迎撃の準備を! 関羽、張飛、呂布を探せ! 奴さえ押さえ込めば、呂布軍で面倒なのは張遼と高順だけだ。 高順は徐州城に押さえ込んでいるから、今は考えなくて良い!」

「応、兄者!」

張飛が愛馬にしている巨大な栗毛に跨ると、慌ただしく精鋭騎兵部隊を引き連れて、出撃していった。関羽は同じく赤毛の愛馬に跨り、少し遅れて悠々と出て行く。すぐに飛び出していった張飛と比べ、猛々しいながらも恐るべき冷静さを秘めており、この人物が将来歴史に残る猛将になるかも知れないと、陳到に思わせた。

呂布の旗印は見えない。

そして、敵陣には、あの獰猛な殺気は、見受けられない。

まさか、本隊そのものが囮だというのか。

既に前線は敵の前衛と接触していた。弩兵が質の低い敵兵を一方的に射すくめる。だが、敵の戦意は旺盛で、引こうという気配が見えない。舌打ちすると、陳到は自ら弩を引き、指示を飛ばした。

「指揮官を狙え! こうするんだ!」

弩から発射した矢が、前線で指揮を執っていた敵将の喉を貫いた。

乱戦の中落馬する敵将。敵がひるむ中へ、陳到は部下達を叱咤して、突入。一気に蹴散らした。

不意に、後方が騒がしくなる。あれは夏候惇が指揮している部隊の辺りだ。

「呂布だ! 呂布が単騎で現れたぞ!」

唇を舐める。まさか、本隊を丸ごと全て囮にして、このような策を採るとは。本来なら無謀なだけだが、何しろ相手は呂布である。単騎で一軍に匹敵する存在であり、これだけの無理も出来ると言うことか。

「我らは気にせず、前方の敵をたたけ! 呂布は関羽将軍と張飛将軍が何とかしてくださる!」

怯みかける兵士達を叱咤すると、陳到はまた弩を撃ちはなった。

敵将の顔面に矢が突き刺さり、落馬する。野戦陣を出て、敵を蹂躙し、すぐに戻る。しかし、何度撃退しても。次から次へと、敵は湧いて出てきた。

 

許?(チョ)が戦闘用の長柄槌を手に到着すると、既にその場は血の海だった。

後方だからと言って、夏候惇隊が油断していた訳ではない。野戦陣地には隙がなかったし、しっかり敵にも備えていた。それなのに、呂布は平然と陣を正面から噛み破り、好き放題に蹂躙していったという訳だ。

生唾を飲み込む許?(チョ)の耳が、倒れている兵士が生きているのを察知。辺りに、もう呂布の気配はなかった。

「きょ、きょちょ、しょうぐん」

「呂布は、どうした」

「夏候淵将軍の、陣へ、行きました。 夏候惇将軍は、どうにか、逃げ延びられました、が、重傷です」

「分かった」

相変わらずの化け物だ。気を引き締めて、夏候淵の隊に向かおうとする許?(チョ)の後ろから、騎馬隊の気配があった。

「応、許?(チョ)将軍か」

「関羽どの。 それに張飛どのか」

「奴は我らがどうにかする。 貴殿は曹操将軍の所へ戻られよ」

「いや、曹操様の命だ。 奴を食い止めて、少しでも被害を減らす」

ならば、ともに戦おう。戦場で待っている。そう言い残すと、関羽は馬を走らせる。張飛は既に、夏候淵隊の陣に、部下を引き連れて急行していた。許?(チョ)も愛用している驢馬に跨ると、急いで後を追う。

驢馬は体力があるのだが、馬に比べるとどうしても足が遅い。以前典偉と協力して呂布を迎え撃った時も、速力の差で苦労させられた。純粋な腕力だけは互角だったが、技術が違いすぎる上に速力が違いすぎたので、典偉がいなければ瞬時に討ち取られていただろう。

今は、どうか。

曹操を守りたいと、許?(チョ)は思っている。だから武芸の専門家について、技を磨いて、腕力を鍛え上げた。今なら簡単には負けないという自信もある。だが、それでも。単独では勝てないという確信はあった。

血の海になっている陣を出ると、夏候淵の陣へ。此方も酷い有様だった。どうやら馬のまま、馬防柵を跳び越えたらしい。とんでもない手際である。人馬一体とは、呂布のためにある言葉なのではあるまいか。

喚声が聞こえる。

呂布と、関羽、張飛がぶつかり合っているのなら、好機だ。許?(チョ)でも、呂布を打ち倒せる好機が巡ってくる可能性が高い。

驢馬を走らせる。倒れている兵士達はどれもこれも一刀両断されていて、呂布の尋常ならざる腕力が伺える。呂布自身も、更に体を鍛えていたらしい。恐ろしい相手だと、許?(チョ)は内心思った。あれほど強いというのに、まだ己の実力に、満足していないのが分かったからだ。

ついに、見えた。

関羽と張飛が代わる代わる呂布に撃ち掛かっている。呂布は赤い馬の機動力を最大限に駆使し、右に回っては撃ち懸かり、左に回っては防いでいる。その間、ひっきりなしに関羽と張飛の部下が仕掛けているが、仕掛けるだけ斬り倒されて、死骸を増やすばかりであった。

呂布の全身は、既に返り血で真っ赤だ。許?(チョ)は吠えると、名乗りを上げた。ちらりと一瞥しただけで、呂布の全身から狂風にも似た殺気が吹き付けてくる。怯み掛ける体を叱咤して、許?(チョ)は槌を振り上げ、迫った。

自らを認めてくれた曹操。

農民の自分を、一人前の武人として認めてくれた曹操。

守る。

守り抜くのだ。そのためには、呂布を倒さなければならない。

曹操を守るためなら、相手が何であろうと戦う。

この間、陳到と再会した。ずっと立派になっていて、兄貴分ではなく、親のようにさえ思えた。

だがもしも敵対するのなら。戦える。

斬ることだって、出来る。唯一残った身内とも言える、陳到でも。

槌を振り下ろす。残像を残して、呂布がかわした。そして、戟を撃ち込んでくる。上段からの一撃を、受けた。手が痺れる。驢馬が悲鳴を上げる。あまりにも、重く、凄まじい重圧を込めた一撃だった。

「どいてろ、若造!」

張飛が前に出て、呂布に撃ち込んだ。呂布はと言うと、戟を旋回して、張飛の刺突を受け流しつつ、許?(チョ)の喉を薙ぎに来る。柄を使って防ぐが、力のかけ方を間違えたら即座に真っ二つにされる所だった。

戦慄が走る。張飛と関羽は、こんな怪物と、ずっと戦っているのか。

赤い馬の機動力を駆使して、呂布が瞬時に後ろに回り込んできた。狙われている。そう思うと、全身の毛穴から汗が噴き出した。必死に槌を振り上げて、致命的な一撃を防ぎ抜く。呂布はかあと口を開けて、吠えた。

同時に、驢馬があまりの殺気に気絶して、許?(チョ)が地面に投げ出される。

「おおおおおっ!」

飛び退き、驢馬に足を潰されるのを避ける。心臓が太鼓のように打っていた。張飛と関羽が、残像を残しながら動き、馬を駆けさせる呂布と二対一で、必死に戦っているが、しかし。

徐々に追い詰めているとはいえ、いつ僅かな隙が生じてどちらかが倒されてもおかしくない雰囲気であった。

無事だった馬を見つけて、飛び乗る。怯えた軍馬が竿立ちになるが、しかし何とかいうことを聞かせた。呂布に向かって、再度駆ける。呂布は血走った目を向けてくると、一言だけ呟いた。

「若い割には使えるが、まだまだだな」

「抜かせ!」

許?(チョ)が一撃を振り下ろすと同時に、関羽と張飛が左右から仕掛けた。呂布は馬上で跳躍するという人間離れした動きを見せ、三つの武具の間をすり抜けるようにして飛んだ。そして、駆けていた愛馬の背に着地し、そのまま速力を上げていく。狙うは曹仁の陣か。

だが、時間を必死に稼いだのが幸いした。既に曹仁隊は、弩を並べて迎撃の態勢を整えていたのだ。

ずらりと並んだ弩。馬防柵の向こうで、曹仁が手を振り下ろす。同時に、千を超える度が、一斉に矢を撃ち出していた。しかも、狙うは呂布一人である。呂布は駆け様に体を横に出し、自分が殺した兵士の死骸を拾い上げた。そして、前方にそれを放り投げる。見る間に死骸が弩で針鼠のようになる中、呂布は愛馬とともに身を翻して、陣の外へ出て行った。

許?(チョ)はそれを見ると、馬上で失神しそうになった。気が抜けた瞬間、今までの超絶的な圧力に耐え続けた負担が、一気に襲ってきたのである。張飛がいつの間にか後ろにいて、肩を叩いてくれた。

「さっきは悪かった。 大した根性だぜ、てめえ」

「そ、それほどでも」

「ははは、面白い奴だな」

「早めに曹操殿の所に戻った方が良いだろう。 我らも、兄者の所に戻る」

関羽が張飛を促し、生き残った部下達を纏めて、さっと風のように消えた。許?(チョ)は駆け寄ってきた兵士に厚い布を受け取ると、滝のように流れ出ている汗を拭いながら、呟いていた。

「まだ、駄目だ。 覚悟も、力も足りない」

その悲痛な言葉は、誰の耳にも届かなかった。

 

曹操の所に、続々と報告があがってくる。

正面からの敵攻撃は、難なく退けた。特に楽進の働きは見事で、敵を全く寄せ付けなかった。劉備軍も良い動きをしていて、少数だが侮れない実力を見せていた。此方の損害は考えなくても良い。

一方で呂布による蹂躙の被害は甚大である。兵はそれほど倒されていないし、陣もそのまま使えるのだが、心理に与えた打撃が強烈であった。陣を駆け回り、縦横無尽に迎撃の兵を切り伏せる呂布の化け物じみた姿は、兵士達の心に大きな傷を付けていた。

腕組みした曹操は、参謀達を顎で杓った。郭嘉が最初に挙手する。

「まさかこれほどのものとは。 呂布の戦闘力は、話には聞いていたのですが」

「そういえば、郭嘉どのは呂布を直接見るのは初めてであったか。 奴をどうにかしないと、徐州城の包囲にも支障が出ような」

程cが少し揶揄するように言うと、荀ケもそれに習う。此処は愚痴を言い合ったり、溝を深める場ではない。しかし、それでも。やはり人間は地金があって、会話の時にはそれが出てしまう。

じろりと曹操が睨むと、参謀達は咳払いして、慌てて話を進めた。

「対策に関しては、今まで通りで良いでしょう。 事実曹仁将軍の陣に、奴は入り込めませんでした」

「そうなると、早期発見が胆かな」

「ですな。 しかし今回、奴は偵察の網をくぐり抜けて、後方に現れました。 何かしらの方法で、行動を制限するしかありますまい」

「何か手はないものか」

腕組みした郭嘉に、挙手したのは韓浩だった。

「私はこの地の気候にはさほど詳しくないのですが、このまま対陣しているとやがて雪が降り始めます。 そうなれば、如何に呂布の持つ赤兎といえど、快足を発揮することはできますまい」

「ふむ、そうなると、地元の住民で誰か詳しいものはいないか」

「私が、ある程度は」

挙手したのは、簡雍だった。

劉備配下の簡雍は飄々としているが、民と同じ目線でものを見る事が出来る、曹操軍には貴重な存在だ。もちろん曹操軍の麾下にいる男ではないが、こういう時には部下と見なしても問題ない。

劉備に軽く断ってから、簡雍に話を振る。

「簡雍、何か良い手は」

「地元に、天気を測る名人を何名か知っております。 私が探して、連れて参りましょうか」

「うむ、頼む。  ある程度それで戦略が立てやすくなる」

ぺこりと一礼すると、簡雍は劉備に耳打ちして、その場を離れた。郭嘉は腕組みすると、軽蔑しきった目で簡雍の背中を見つめていた。

「凡人でも、役に立つ場面はあるのですな」

「郭嘉! 劉備将軍、失礼いたしました」

内心腸が煮えくりかえっているだろうに、劉備は笑顔であった。むしろ、平謝りしている程cのほうが痛々しい。

この辺り、処世の苦労を身につけている所が伺えて、曹操にはちょっと羨ましかった。曹操だったら、椅子を蹴って立ち上がっていたかも知れない。流石に郭嘉も、表面上は笑顔を取り繕って、謝る振りをした。

「いえいえ、程cどの、気になさらず」

「失礼いたしました。 ところで、今後の戦略は良いのですが、明日からの呂布対策は如何いたしましょうか。 まだ季節は秋ですし、すぐに雪が降る訳ではありますまい」

「守りを重点的に固めるしかあるまいな。 偵察を倍に増やして、早期発見と早期警戒をするしかない」

荀ケの言葉は、対処療法でしかなかったが、事実上それしか手はなかった。

徐州城を締め上げ、次は小沛。最後には下丕を落とす。さて、妙案は無いものか。そう思った瞬間、劉備が挙手していた。

「少し早いかと思ったのですが、小沛、徐州城を、一気に落とす手だてがございます」

「何。 それは本当か、劉備将軍」

「は。 実は、以前徐州にいた時、私を慕っていた者達がどちらの城にも密かに隠れておりまする故、彼らに手引きさせれば、一気に城を陥落させることも出来ましょう」

「ふむ、そうなると、呂布の戦力を著しく削れる上に、行動も制限できる」

劉備の話によると、配下の細作を使って、彼らと連絡を取るのに三日ほどかかるという。ただ、徐州に侵攻して日が浅いため、彼らの行動が万全ではない可能性もあり、危険を考慮して今まで黙っていたのだそうだ。

三日となると、現実的な待機時間である。もしも連絡を取ってみて、動きづらいようなら、その時は別の手を考えればいい。問題は補給だが、韓浩が国境線近くで屯田をしており、兵糧の心配は少ない。

「よし、まずは内通者を募る。 全てはそれからだ」

「しかしこれは、殆ど虎狩りの様相ですな」

「うむ。 まずは虎の巣穴を抑えて、それから弱った虎をゆっくり包囲して仕留めていくのだから、まさに虎狩りだ」

「呂布を人間だと考えたのが、既に間違いの始まりであったのかも知れぬ」

諸将が言い合う中、曹操は目を閉じる。

何か、まだいやな予感がする。許?(チョ)を呼び寄せると、今夜は厳重に警戒するように、曹操は言いつけた。素直な許?(チョ)は頷くと、徹夜する覚悟で、警戒を開始した。

 

3、追い詰められる魔王

 

シャネスは肩を叩きながら、夜道を歩いていた。数名の部下が付き従う中、彼女は徐州城に潜り込み、陳登と連絡を取ることに成功したのである。

この間の袁術戦で、陳登は見事な奮戦を見せ、呂布の信頼を得ることに成功した。だからか、接触はとてもたやすかった。呂布はあまり細作を好んでいないらしく、闇を抜けて走るシャネスを遮る者は殆どおらず、それが成功の一因ともなった。

小沛の方も、既に陳珪と連絡が取れている。向こうも内応の準備は着実に進んでおり、一両日には策が完成するという。

頼もしい話だが、シャネスはあまりこういう事が好きではない。上の事情で蹂躙され続けた徐州の民は、いつまでこんな苦しみの中にいればいいのか。劉備を疑うつもりはないし、信頼が揺らぐこともないが。しかし、徐州の民を思うと、哀れでならなかった。これで曹操が勝っても、簡単に安息が来るとは思えないからだ。

「シャネス様、急ぎましょう。 如何に呂布軍が少ないとはいえ、呂布の怪物的な武勇を考えると、のんびりもしていられません」

「分かっている。 だがな」

「気を逸らすと、死にますよ」

いつの間にか、至近に影。しかも羽交い締めにされ、のど元に合い口を突きつけられていた。

事態を理解したシャネスが、硬直から解けるまで一呼吸。その間、部下達は何も出来ず、慌てて影を囲むように展開した。

こんな事が出来る奴は、一人しか居ない。

「り、林!」

「今日は、警告に来ました。 徐州を引っかき回すのは、私の知ったことではありませんし、好きにやると良いでしょう。 あの羊大人を敵に回す覚悟で、ですが」

囲まれても、動じている気配さえない。

いや、違う。シャネスの部下くらいになら、囲まれても何でもないのだ。例え背中を見せていても、余裕で対応できる。だから、平然としているのだろう。ぎりぎりと歯を噛むが、動けない。

圧倒的な実力差が、体を硬直させている。

逃れようと何度か試みていたが、林は一厘の隙さえ見せてはくれなかった。これはひょっとすると。条件さえ整えば、呂布の喉にさえ、手が届くかも知れない。

「ただし、呂布を殺すことは許しません。 あれは私の獲物です」

ひょいと、林が手を離してくれた。

つんのめるようにして前に躍り出ながらも、振り返り様に斬りつける。しかしすんでの所で手を止めたのは、既に林の姿が無く、其処には蒼白になった部下が一人いるばかりであったからだ。

どうやらシャネスを離すと同時に跳躍、部下の後ろに出て、背中を蹴飛ばしたらしい。それで、位置が入れ替わっていたという訳だ。既に林の気配は、霞ほども周囲には残っていなかった。

「ば、化け物め」

「最大限の警戒網を敷け。 曹操と、劉備将軍にも警戒を促した方が良い」

今、徐州には、呂布という最強の魔王と。

己の欲望を元に動き回る、闇に生きる邪神が同時に存在しているのだ。

そしてどちらも、並の人間では、まともに戦える相手ではない。数を揃え、条件を整えなければ、互角にさえぶつかり合うことは出来ないだろう。

「奴は、一体何を目論んでいるのでしょうか」

「分からない。 ただ己が楽しむためだけに、どのような非道でも、平然と行うような輩だ。 何をしでかしても対応できるように、あらゆる方向から警戒を続けなければならないだろうな」

「俺は、恐ろしくて仕方がないです」

「私もだ。 いずれ腕を上げて、奴の首をあげる日が来たとしても。 それは一年や二年先ではないだろう」

闇に生きる者とは思えないほどの気弱な会話。だがしかし、それが素直な事実でもあった。

あの圧倒的な邪気に対するには、意地や見栄を張るだけでは駄目だ。現実的に己の腕を鍛え上げて、闇にとけ込む努力が必要だろう。下手をすると、奴一人のために、劉備の細作組織が壊滅させられる可能性もある。

羊大人の組織は圧倒的な規模を保ち、相当な達人も多くいると聞いているが、しかし。あの林ほどの使い手は、まずいないだろう。あれはもはや、人間ではない。本人が言うとおり、邪神窮奇なのかも知れなかった。

そうして考えていて、ふと気付く。

民のことを、すっかり忘れていた。如何に邪神や魔王がいたとしても、この徐州は、民がいなければ動きはしないというのに。

 

徐州城から高順が夜陰に紛れて脱出したのは、包囲を開始してから四日後のことである。同時に小沛からも兵が出たという報告が、曹操軍には入っていた。

連日いつ現れるか分からない呂布に、兵士達は怯えきっていた所である。これ幸いと、曹操は敵の城を攻め落とし、兵士を入れて守りを固めさせた。如何に呂布でも、単身で数千の兵が籠もる城を攻略することなど、出来はしない。

曹操は護衛の者達と城に入った。こじんまりとしていて、武骨な城だ。陶謙が散々宝物の類を集めたと言うが、それも殆ど残っていない。謁見室はそれなりに広く作られていて、城主の座に着くと、一段高い所から数十名の諸将を見回すことが出来た。

一息ついた曹操は、細作を放ち、敵の状況を探る指示を出し終えると、陳登を呼んだ。彼ら陳親子が、今回の不可解な落城につながる策動をしていたのは、間違いなかったからである。

呼ばれて現れた陳登は、一見すると線が細そうな男だが、目には刃のような鋭い光を秘めていた。曹操好みの人材である。目を離すと賄賂を取ろうとする李典といい、こういった油断すると寝首を掻きかねないが優秀な人材は、使いこなしがいがある。そう言う意味で痛恨だったのは陳宮だが、あれは最初から曹操を裏切るつもりで部下になったとしか思えず、今では考えないようにしていた。

「陳登にございます」

「うむ、今回はご苦労であったな。 それで、いかなる策を用いて、歴戦の高順から城をだまし取ったのだ」

「それはですね、このような策にございまする」

陳登が指を鳴らすと、兵士達が竹簡を持ってきた。捧げられるそれを許?(チョ)が受け取り、中身を確認してから、曹操に手渡す。曹操は頷きながら中身を見て、そして高らかに笑った。

「なるほど、呂布の命令書を偽造したのか!」

「あの御仁は警戒心が薄く、我ら家族が簡単に手に入れられる場所に、その印を置いておくことしばしばでした。 陳宮は警戒しなければなりませんでしたが、それも城にいなければ難しくはなく」

「それにしても酷い命令書であるな。 これでは今頃、同士討ちをしてしまっているのではないか」

「分かりませんが、高順が如何に冷静であっても、他の将はどうか分かりませんというのが、素直な所です」

痛快とはこのことだ。

それにしてもと、曹操は陳登を観察した。この男、多分天下への野心などは無く、徐州を保持することしか考えていないだろう。だが、それは別に良い。大器を持たなければならないなどと言うつもりはないし、そうでなくとも有能な人間など、それこそ幾らでもいるからだ。

陳登は、いずれ来る大戦に向けて、徐州を守らせたい人材だ。劉備に今は心を寄せているようだが、徐州をくれてやれば、曹操を裏切ることもないだろう。細作が指示の機会を完璧に守ったとはいえ、この冷静な判断と行動、実に見事。曹操好みな人材であった。

「よし、次は呂布をどうするかだな」

「今のところ、呂布の目撃報告はございませぬ。 恐らくは各地の城が落ちたのを見て、下丕に逃れたのかと思われますが」

「あまり自分に都合の良い憶測ばかり並べるな。 奴のことだ、下丕に逃れる前に、行きがけの駄賃のつもりで、一部隊くらい蹴散らしていくかも知れん」

軽く郭嘉を諭す。

殆ど間をおかず、伝令が飛び込んできた。蒼白になっている。

「ご注進です! 荷駄を守っていた曹洪将軍の部隊が呂布に襲われました! 死者は百名ほどです。 曹洪将軍は、部下達に守られて無事でした」

「そうか。 どうやら読みが当たったようだな」

苦笑した曹操は、兵士達を休ませ次第、すぐに下丕に向かうことを通告。

如何に呂布といえども、補給基地がなければ活動は出来ない。あれだけ大暴れした後は、体を休めなければならないのだ。

其処を襲えば、或いは勝てる可能性もある。

「先鋒として劉備将軍、下丕に向かって欲しい。 もちろん関羽と張飛も連れて行ってくれ。 途中呂布に出くわしたら、仕留めてしまっても構わんぞ」

「分かりましてございまする」

劉備が城主の部屋を出て行く。

曹操は腕組みすると、次の一手を考え始めていた。

 

呂布は戟に敵兵を串刺しにしたまま走っていた。敵の補給部隊を叩きのめし、引き上げる最中であったのだが。徐州城の様子がおかしいので、不安を感じ、下丕に向かう所であった。

呂布は己の実力に自信を持っていた。最強の武人であることは、客観的な事実であったし、跨っている赤兎が最高の名馬である事も同じである。だから、己の武で、敵を叩きつぶすことにこだわっていた。

董俊と出会ったことがその思想にさらなる刃を加えていた。

呂布にとって、武を究めることは、魔王になるのと同じ事。やがて武のみで世界を支配し、その頂点に立つ。己には、武しかないと考えている呂布には、その道以外には存在しなかった。

呂布は知っている。周囲の存在が、自分を人間と見なしていないことを。

多くの女を抱いたが、どれも虎か何かに犯されているとしか考えていなかった。多くの部下を得たが、どいつも呂布を人間だとは思っていなかった。唯一人間として扱ってくれたのは、丁原と董俊だけ。それも、魔王として育てることに興味を持っても、感情を交換することは考えない様子であった。

所詮、呂布にとって、他人は支配するもの。

そう考えていたからこそ、魅力的だった。魔王という、人外の高みが。高みにある、己の存在が。其処に居座っている董俊が。

いつの間にか、周囲は闇になっていた。戟に突き刺していた死骸を放り捨てて、走る。血の臭いを感じて、呂布は眼を細めた。この辺りはまだ味方の勢力圏の筈だ。何故、血の臭いがする。

赤兎が嘶いた。呂布は戟を握り直すと、慎重に進む。

そして、見た。

辺りは死体の山だった。どうやら壮絶な戦闘が行われたらしい。月明かりの下、死骸を見ると、呂布軍のものばかりである。そして、徐州城の兵士の姿が、多く見受けられた。それだけではない。小沛の兵士達の姿もあるではないか。

まだ生きている兵士もいた。奥の方では、数百の兵が駆け回り、負傷者を収容している様子であった。呂布が進み出ると、おおと声が上がった。進み出てきたのは、高順であった。

「呂布、無事であったか」

「高順、これは如何した」

「……やられたわ。 そなたの手紙だというものを陳登が持ってきおったのだが、それが偽物であった。 小沛の兵士達を待ち伏せて、此処で同士討ちをしてしまった。 被害は甚大、とてもではないが、戦線を維持できる状況にない」

「……そうか」

高順がだまされたのなら、もはやどうにも出来なかっただろう。他の将であっても、それよりましな判断が出来たとはとても思えない。それだけ陳登の作った偽手紙が優秀で、演技が真に迫っていたと言うことだ。それにしても、呂布が稼いだ勝利を、一瞬でひっくり返されてしまった。

やはり、呂布が如何に超絶の武勇を誇っても、策略には勝てないというのか。それは、呂布の全てを否定することだ。何とか、それだけは避けたい。呂布は最強の武で、頂点に立ちたいのである。

「陳宮は無事か」

「あの男のことですから、既に下丕で防備を整えておりましょう」

「奴の元へ急ごう。 曹操に睨まれている奴は、いずれにしても行き場がない。 俺を裏切るようなことは無いだろう」

呂布が言うと、苦々しげに高順は頷いた。

闇に紛れて、馬を走らせる。四半減した守備隊の兵士達が、それに続いた。誰もが傷ついていて、後方の追撃を恐れる者が多かった。呂布は高順と、それに無事だった候成を手近に呼ぶ。候成は生真面目な男で、こういう時は信頼できる男であった。

「お前は高順とともに先に行け。 俺が殿軍になる」

「ははっ。 承知いたしました」

「俺が殿軍になる以上、追撃は気にする必要がない。 ゆっくり、脱落者がこれ以上でないように行け」

呂布は二人と兵士達を先に行かせると、自身は街道の真ん中に陣取った。

そして、魔王そのものの威圧感で、後方をにらみ付け続けた。

ほどなく、偵察らしい曹操の軍勢が現れる。だが、呂布を見て、何も出来ずに引き上げていった。

我が武は、天にも届く最強のものである。

そう呟き、しかしそれでも負けつつあることを、呂布は実感しつつあった。陳宮が考えていた、袁術勢力との合体工作も上手く行っているのかよく分からない。陳宮が言ったとおり、一人で千万の敵を相手取るのは、不可能なのかも知れなかった。

大きな気配が近付いてくる。劉の旗を見て、何者が来たのか、呂布は悟っていた。だが、今は疲弊が激しい。味方が充分に逃げ延びて距離を稼ぐことが出来たことを確認すると、呂布は下丕へと退く。

闇の中、ただ敗北感だけを引きずりながら。

 

下丕に呂布が到着すると、既に味方の兵は一万どころか、五千を割り込んでいた。

肩身が狭そうに、陳宮が呂布を出迎えるが、一瞥するだけで、城主の部屋に行く。張遼、高順を始めとする部下達も、既に全員が其処に顔を揃えていた。特別に大きく作らせた玉座に腰掛けると、呂布は陳宮を呼びつける。

「陳宮。 状況を説明せよ」

「ははっ。 大変申し分けにくいのですが、既に徐州の拠点は、あらかたが曹操の手に落ちましてございまする。 裏切り者の陳親子によるものにございます」

「うむ、それは俺の目で直接確認した。 そして、袁術との合体工作とやらについては、どうなっている」

「そちらは、既に手はずが整いました。 赫萌!」

赫萌が進み出ると、恭しく一礼した。

この男、少し前に、袁術の武将である張勲と個人的に結びつき、利権を貪っていたことを高順に暴露され、その俸禄の半分以上を召し上げたばかりである。もとより呂布の配下は寄せ集めの色彩が強く、高順、張遼以外には、まともな忠臣が存在しない。候成は真面目だが、忠臣と判断するのは難しい所があった。

陳宮も、そう言う意味では、信頼できる男ではない。

何しろ赫萌と結びついて、同じように利権を貪っていたことが、判明しているのだから。呂布は許したが、高順は未だに二人を許していない雰囲気があり、ことあるごとに叱責しているのを見ている。

「先ほど、使者が帰還しました。 袁術殿は、呂布将軍の娘を、自分の息子と結び合わせる事により、勢力を合一することに異論がないと申しておりまする」

「ほう、政略結婚か」

呂布には、娘が何人かいる。どうしてか、息子は一人もいなかった。

いずれもとっかえひっかえ抱き潰してきた「妻」が産んだ娘であり、呂布には全く似ていなかった。武勇など備えておらず、儚い華のような軟弱さで、決して呂布は好いていなかった。良くしたもので、娘達も一人として呂布のことを好いてはいない様子である。まあ、母親に対する冷厳な行動を考えれば、当然なのかも知れない。

「俺は別にどうでもいい。 だが、徐州は曹操の手に落ちつつある。 上手く行くか」

「問題は其処にございまする。 護衛に呂布将軍がついていただければ、安心して南陽まで婚姻の馬車を送り届け、同盟が成立し、援軍を期待できるのですが」

「ふむ、援軍か」

袁術のひ弱で惰弱な軍勢のことを、呂布は思い出していた。あのような軍勢が現れても、精強な曹操軍をどうにか出来るものなのか。或いは下丕を囲ませ、その時に背後を突かせれば、どうにかなるのかも知れないが。

「問題は、その援軍が来る時期だが」

「婚姻の話が成立すれば、すぐにでも援軍は参りまする」

「ふむ、そうか。 では陳宮、すぐに話を進めよ。 袁術の惰弱な軍勢でも、活用次第では、ある程度曹操軍を退けることが出来るかも知れぬ」

「承知いたしました」

深々と陳宮はあたまを下げる。高順が苦々しげに、退出していくその背中を見つめていた。他の将も出て行く中、張遼が残り、礼をする。

「呂布将軍。 ご提案がございます」

「何か」

「一度、徐州は放棄した方が良いかも知れませぬ。 もとよりこの土地は、極めて守りにくく、曹操の大軍を防ぐのは難しゅうございます。 仮に袁術の援軍を得てこの場を凌ぐことが出来たとして、次がありましょうか」

「袁術との同盟が成立したら、その時は南陽に乗り込み、袁術の首をその場で刎ねてしまえばいい。 奴は皇帝とか名乗っているようだが、そのようなことはどうでもいい」

全く見当違いの返答をされたと思ったのか、張遼は小首を傾げた。高順が分かり易く噛み砕いて説明を始めたが、呂布は面倒くさいと思って、手を振って二人を退出させる。

張遼の言葉は分かってはいる。確かに正論であり、このまま徐州にとどまるのは難しいだろう。

だが呂布は、魔王でありたいのだ。

出来るだけ逃げずにいたいのである。

逃げなければならない時もある。しかしその超絶の武勇が、一軍にも匹敵するほどに成長していることは、既に証明されている。それならば、武勇を出来るだけ的確に用いることによって、魔王として君臨したいのだ。

徐州を捨ててさっさと逃げれば、或いは死なずに済むのかも知れない。

しかし呂布も、既に肉体的には最盛期にさしかかっている。今後肉体が衰え始めるのは分かっているし、それを食い止めることは出来ない。出来る方法もあるのかも知れないが、それは魔王としての呂布の肉体に起因するものではなく、外法の薬物やら、邪悪な法によるものであろう。

城主の部屋を出て、風呂にはいる。少し寝てから、城壁を上がって、外を見ると。

雪が降り始めていた。

例年よりも、ずっと早い、雪の到来であった。

 

見る間に、徐州の平原が、白く染まっていく。急激に侵攻して下丕を包囲した曹操は、まずいと一言呟いていた。

兵糧はある。補給路も確保している。

しかし、この雪は危険だ。兵士達は防寒着を用意はしているが、雪の量によっては、まともに戦えなくなる可能性が高い。冬将軍などと言うように、早い冬の到来によって、壊滅に追い込まれた軍勢は決して少なくないのだ。その中には、古来より名将と呼ばれてきた人物の軍勢も含まれている。

「韓浩はいるか」

「此処におりまする」

一礼した韓浩に、防寒着の手配を再度確認させる。多少金は掛かってしまうが、仕方がない。場合によっては許昌より手配させるように命令すると、曹操は天幕に入った。

棚に隠してある背が伸びる薬を飲んだ後、鏡に自分を映してみる。少し前からまた別の薬にしてみたのだが、やはりさっぱり背は伸びない。靴で誤魔化すのも限界が近いし、どうしたものかと、腕組みして考えてしまった。

手をすりあわせたのは、曹操が冷え性で、寒さにとても弱いからだ。特に手足の先が冷えて、まともに動かなくなる。

天幕内に置かせた暖炉に手を当てて、しばし暖を取る。いきなりずかずか許?(チョ)が入ってきたが、気にはしない。

「おう、どうした虎痴よ」

「曹操様は寒さに弱いのですか」

「うむ。 こう偏頭痛があってな。 その上手足が冷えて、たまらんのだ」

「そう言う時は腹巻きが効果的だと、もう随分前に死んだばあさまが言っておりましたから、持って参りました」

そういって、許?(チョ)が拡げたのは、なんと本物の虎皮で出来た腹巻きであった。ここ数日呂布を探して駆け回っていたと聞いていたのだが、その途中で仕留めたのか、或いは商人から手に入れたのか。

拡げてみると、腹巻きどころか、毛布に使えてしまいそうな大きさであった。しかも虎の生側だから、内側は実に生々しい血の跡や肉片がこびりついている。これは、商人から買ったものではあるまい。

「まさかこの虎は」

「偵察中に現れましたので、叩き殺しました。 兵士達を襲いましたし、何より麓で恐れられていた人食い虎でしたので。 可哀想ではありましたが、兵士達を守るためには、仕方がありませんでした」

「いや、それは良い。 むしろ良くやった。 褒美は後でつかわすとして、ふむ、そうだな。 今度、虎を殺して皮を剥いで余の腹巻きを作ったと、皆に言ってみよ。 多分皆が、ますますお前を認めてくれるぞ」

「そんなものですか。 村では時々、邪魔な虎を始末していたのですが」

何故そんな事が凄いと思われるのか分からないという様子で、許?(チョ)は小首を傾げながら天幕を出て行った。入れ替わりに、ルーが残した細作の一人が、音もなく入ってくる。

「何かあったか」

「はい。 北平では、いよいよ公孫賛が敗色濃くなりはじめております。 もとより粗暴で猜疑心が強かったあの御仁には、頼れる者もいなかったようで、功臣まで疑うようになり、次々と心ある者は離れて行っている様子です」

「まずいな。 此方の態勢が整う前に、袁紹に河北を統一されると、手の討ちようが無くなる」

曹操の部下は、袁紹は大した人物ではないなどと言っているものも多いが、実情は違う。袁紹は確かに地味だが、確実な手腕と決断力を持ち、的確に行動できる優秀な男だ。多分平時に産まれていたら、優秀な宰相として辣腕を振るい、献帝を多方面から助けていたことだろう。

唯一の欠点は若干判断が遅いことだが、それも確実性を増すためである。ただ、最近は世継ぎ問題が持ち上がり始めており、少し能力の衰えが始まっている節が見られる。

曹操が判断する所、多分袁紹が生きている間は、河北を抑えることは出来ないだろう。奴が死んでから初めて、河北に手を伸ばすことが出来る。しかも念入りに根を張った袁紹の勢力を駆逐するには、早くて五年、下手をすると十年はかかることであろう。

細作達を使ってしきりに袁紹が弱いという情報を流させているのは、その圧倒的な勢力に対する恐怖心をぬぐい去るためだ。逆に言えば、そう言った小細工をしておかなければ、袁紹とは戦う土俵にさえ立てないのである。

河北を袁紹が完全に抑えた場合、軍事力は約三倍、国力は二倍半にまで開くと、既に試算が出ている。もとより河北は土地が豊かで、屯田をして必死に格差を埋めている曹操とは地力が違うのだ。

後は、ルーが言っていたことを、そろそろ身を入れて調査しなければならないかも知れない。

徐州を平定したら、宛を落とす。今度こそ勝つ。

そうしたら、許昌と洛陽を結ぶ経済圏が確立し、袁紹と戦える下地が整う。長安はその後でもいい。

そして長安を落としたら、五斗米道によって支配されている謎の土地、漢中をしっかり見極める必要があった。

手を叩いて、侍従を呼ぶ。まだ?(エン)州しか領土がなかった頃から使えてくれている、古株の老人だ。曹操のことを決して好んではいないようなのだが、真面目に血道に仕えてくれている。

この時代、主君を何度変えてやっと一人前というのは、何も武人に限った話ではない。そう言う意味では、非常に貴重な人材だ。

「お呼びでございますか」

「うむ。 これを余にあった大きさの腹巻きに仕立て直してくれ。 これではあまりにも大きすぎるでな」

「どれ。 確かにこれはあまりにも大きい上に武骨すぎますな。 腹巻きと言うよりも、ただ剥いだだけの生皮ではございませぬか。 この品の様子から言って、あの虎痴どのが持ってきたのですかな」

「うむ。 確かに武骨で粗雑だが、しかし奴の苦労と忠義に報いてやりたいから、使いたい。 だから、使いやすいようにしてくれ」

かしこまりましたと、一礼して侍従は出て行った。

外に出ると、とうとう吹雪になり始めていた。この冬中に、決着を付ける。そう曹操は考えると、天幕の中で、大きく伸びをした。

 

兵一千を連れて偵察に出ていた陳到は、雪が激しく降り始めたのを見て舌打ちした。防寒着は用意してきているが、これほど本格的に降り出すとかなり厄介だ。それに、話に聞いた所では、呂布は北方の騎馬民族出身だという。向こうは此方とは比較にならないほど寒いとか言う話で、呂布にとっては寒さなど苦にもならないだろう。

「全員、防寒着を着ろ。 戦闘に備える」

「ははっ」

兵士達がそそくさと防寒着の襟を合わせる中、陳到はどこか遠くで、馬蹄の響きを聞いた。全速力で走っている音だ。

攻撃時、あまり遠くから、全速力で走ってくることはない。馬でも人間でも疲れ果ててしまうからだ。全速力になるのは、敵の直前である。しかし、複数方向から全速力での足音が聞こえることはなく、陳到は小首を傾げた。

「なんだ、この音は」

「馬蹄かと思われますが」

「そんな事は分かっている。 一人、関羽将軍の陣へ向かえ。 ひょっとすると、何かしらの緊急事態かもしれん」

騎兵の伝令が一人、陳到の指示のまま、飛び出していった。

その馬蹄の響きを聞いて思い出す。ひょっとしてこれは。似たような内容なのではないか。つまり、呂布軍なりなんなりの伝令かあるいは他の情報を握っている者が、急いで下丕に向かっている。

もしそうだとすると、食い止めないと危険だ。

いわゆる英雄と呼ばれる人間であれば、瞬時にその判断を導き出せたかも知れない。しかし、陳到にはこれが限界だった。

「全員、馬蹄に追いつくぞ! 敵の密偵かも知れん!」

「呂布だった場合は、どういたしますか」

「一あてして退く!」

馬に鞭をくれると、陳到は走り出す。部下達が一呼吸遅れて、それに続いた。前方から聞こえてきた馬蹄は、徐々に右にずれ込んでいく。それだけ移動が早いと言うことだ。一瞬本当に呂布かと思ったが、どうも違う様子だ。

見えた。

一見旅人の群れに見えた。鎧兜を身につけていることはないし、兵士ではなく武人を護衛に連れている。

しかし、人数が多すぎる。また、商人であれば、この雪の中急ぐ理由がない。近辺の街なり村なりに入って、一旦暖を取ることを考えるだろう。

「止まれ! 其処の者達、止まれ!」

陳到が呼びかけると、連中の顔に凄絶な表情がひらめいた。これは、後ろ暗いことが確実にある。瞬時に事態を把握した陳到は、声を張り上げた。

「敵だ! 捕らえよ! 逃がすよりは殺せ!」

わっと、敵が散る。横殴りに襲いかかった一千の兵。数人の武人を、数にものを言わせて取り押さえる。だが、散った以上、全員を一気に捕らえるのは難しい。陳到自身は、剣を抜いて躍り掛かってきた武人の一人を、一刀に斬り伏せていた。地面に落ちて痙攣していた武人は、まもなく動かなくなった。

矢が飛び、更に数人の敵が倒れる。だが、馬上の相手は、歯を食いしばり、鬼のような形相で下丕に急いでいる。まだ下丕の包囲は完成しておらず、劉備軍だけが展開している状況だ。このままだと、逃げ込まれる。

そう思った時、雪の中に大柄な人影が現れる。

長い髭を振り乱したその影は。関羽だった。

「ヤッ!」

鋭いかけ声と共に、関羽の馬が走り始める。絶望を顔中に浮かべた男が、一瞬で関羽の腕に囚われ、空中に投げ出されていた。決して小柄な男ではないのに、関羽に掛かると幼児のようだった。雪が積もり始めている地面に落ちた男を、兵士達が一斉に取り押さえる。

他にも、逃げた敵は数名いた。もう、追い切れる距離ではなかった。

呼吸を整え、関羽に近付く。関羽一騎が来ただけで、こうも状況が変わるとは。味方ながら、恐ろしい男であった。

「助かりました、関羽将軍」

「いや、油断のない巡回と早期発見、流石は陳到将軍だ。 地味ながら、貴殿の功績は実に大きい。 兄者に報告して、禄をと言えないのが、今の辛い所だな」

苦笑した関羽は、捕らえた男を見て、目を剥いた。陳到も、近付いてみて、あっと声を挙げていた。誰か分かったからだ。

「赫萌か」

「赫萌というと、呂布配下の」

「義の無い男として知られているが、この必死な様子、既に逃げ場がない状態という訳だな。 お前のような男は、楽な方向にものを考える。 だから必死だと言うことは、逃げ場が全て抑えられていると言うことだ」

顔を逸らした赫萌は、兵士達に、無理矢理関羽に顔を向けられた。歯を食いしばって、目を一生懸命つぶった赫萌だが、もはや名前が知られてしまえば、顔は明らかだった。どうやら、陳到の判断は正しかったらしい。

歎息する陳到は、赫萌が現れた方角を関羽に教える。関羽は既に結論を出した。

「方角からして、淮南だな。 袁術と何かしらの取引をしていた可能性が高い。 曹操殿の所へ連れて行った方が良かろう」

「そのようですね」

弱体化しているとはいえ、袁術の援軍がいまくると、かなり面倒なことになる。袁術自体はまるで恐れるに値しない相手だが、紀霊はかなり良い用兵をするし、しかも此処は呂布の庭に等しい場所だ。そして、可能性は極小だが。袁術の兵力と呂布の武勇が結びつきでもしたら、大変な事になるだろう。

赫萌に縄を付けると、関羽はすぐに曹操の陣に飛んでいってくれた。陳到は兵を纏めると、一旦包囲陣に帰還する。劉備がたき火を彼方此方に焚いて、兵士達の暖を取るように準備をしていた。

状況を説明すると、劉備は腕組みする。呂布に備えて陣には張飛がいて、ずっと下丕の城をにらみ付けていた。

「呂布が袁術と同盟を結びたがっているという話は、随分前からあった。 シャネスもそう言う話をしていたことがある」

「今まで、どうして同盟は上手く行かなかったのでしょうか」

「問題は其処だ。 これはあくまで私の私感なのだが、ひょっとすると呂布は、袁術の勢力を手に入れるために、陳宮あたりにそそのかされて、徐州に入ってきたのではないのだろうか」

「そうなると、何故」

「袁術側に、それを見抜いている者がいたとしたら」

ひょっとすると、これは予想より遙かに大きな闇が裏にあるかも知れん。そう劉備は言うと、張飛と並んで下丕を見つめた。視線の先には、恐らく呂布がいる。だが、何をしているのかは、まるで読めない。

あの男は、あまりにも人間離れしすぎているからだ。

「逆に言えば、その人間離れしている男でも、袁術を頼らなければならないほどに追い詰められていると言うことだ。 このまま締め上げていけば、勝利は近いぞ」

「曹操殿の用兵は、恐るべき迅速さでありましたからな」

「ああ。 味方ながら、寒気がするほどの手際であったな」

陳到は、少し前から聞かされている。

劉備は、シャネスに言って、袁紹と連絡を取り始めている。何でも劉備の見たところ、曹操は民の安寧をもたらすようには思えないのだそうだ。曹操は全てを理論で判断する傾向が、特に政では顕著だ。だから国は一応豊かになる。しかしその一方で、極限まで酷使もされる。

それは、曹操のような優秀な男の内は、まだ良い政のやり方だろう。

もしも二代目以降、それが踏襲された場合。この国は一気に疲弊し、やがて立ち直れなくなるほどの打撃を受けてしまうのではないか。

それはあくまで予想に過ぎない。だが、曹操はあまりにも優秀すぎる。そうなる可能性は、決して低くない。そう劉備は。陳到と、張飛と関羽と、簡雍の前で語った。いずれ劉備は、曹操に反旗を翻すつもりだ。

劉備は恐らく、敵に回した曹操を想定して、今の話をしている。

陳到は、今後も劉備に仕えるつもりだ。優秀すぎる曹操の危険性についての話に納得も行ったし、劉備の発言についても嘘は感じられなかった。それに、劉備は陳到を評価してくれる。曹操だったら、凡人の陳到を評価して、此処までの役を与えてくれることは無いだろう。

しばらくすると、何と曹操の本隊が直接やってきた。勇猛で知られる楽進の隊と、それに最近めきめき頭角を伸ばしているという徐晃の隊もいた。これは、曹操はかなり本気だと見た。

後陣として、韓浩の部隊もいた。青州兵を連れているが、彼らは大量の土木材を運んできていた。曹操が号令を掛けると、見る間に野戦陣地が構築され始める。下丕を丸ごと囲むような状況だ。

歩み寄っていった劉備に、曹操はすぐに手を振って近付く。まるで子供のような動作を、時にこの男は見せる。

「おお、劉備殿。 話は聞いた」

「これはまた、大掛かりですな」

「うむ。 古代にもあった例なのだが、敵陣を包囲している時に、更にその外側から包囲されてしまったという実例がある。 その時のことを考え、しかも相手は呂布だから油断もしないように、まず下丕を徹底的に囲んでしまう」

「多少の奇襲であれば、苦もなく退けられそうですな」

徐晃と楽進は兵を展開して、油断無く下丕の動きを見つめていた。もちろんこういう時、城側からは工事を邪魔するために出撃してくるのが定石なのだが。呂布は、全く動く気配がない。

あれだけ一人の武勇を発揮して暴れ狂い、多くの被害を出させた男である。これは、不気味を通り越して、策の存在を疑う方が自然であった。事実、曹操は、後ろに向かって叫んでいた。

「すぐに参謀達を集めよ。 敵が、何か策を講じている可能性がある」

 

4、魔王落つ

 

この時代、城塞は内部に都市を内包している形態が一般的である。呂布がよっていた下丕にしても、それは例外ではない。だから基本的に、都市を攻める時、兵糧攻めは通用しにくい。自給自足がある程度出来るため、長時間の包囲にも強いのだ。

すっかり包囲された下丕では、降り積もる雪の処理に追われていた。城壁の上に展開している兵士約八千は、曹操軍の見張りに忙しく。主に動員されたのは、下丕に元から棲んでいる住民達である。当然彼らは呂布軍を快く思っていないし、更に雪の中の重労働である。

呂布のことを良く思う住民など一人もいない。それを、歩き回りながら、呂布は感じていた。

獣の群れは、強さで統率する。これは歴とした事実だ。

ただ、この間張遼が連れてきた地元の長老は、面白いことを言っていた。

猿は、基本的に最強の雄が群れを統率する。しかしながら、ただ強いだけの猿は、結託した雌に追い出されることがあるのだという。

猿の中にも思いやりや優しさという要素が厳然として存在しており、それを欠落させてしまっている個体は、受け入れられないのだとか。聞いた当初は何とも思わなかったのだが、下丕を歩いて見て、それを強く感じていた。

猿でさえそうなのだとすると。

超絶の武力を持っていても、民に受け入れられる要素を満たさなければ、追い出されるのかも知れない。

もっとも、人間の精神は、猿よりもずっと複雑だ。その割には単純な所もあり、「良さそうに見える」個体が、受け入れられる。多分最大の違いは、嘘を的確につけるか、そうではないかなのだろう。

呂布は魔王だと自認している。だから、嘘などつく必要がない。

しかしその信念が、今になって魔王の足を引っ張っているのかも知れなかった。

候成が側に跪いた。城壁の上で敵を監視している高順と張遼ではなく、候成が来たと言うことは、袁術との交渉が一段落したと言うことか。

「呂布将軍」

「如何したか」

「袁術どのより返事が参りました。 陳宮将軍や、他の重鎮の方々とも、協議したいのですが」

「手紙を見せよ」

候成が差し出した竹簡を拡げて、ざっと目を通す。文字は董俊に飼われていた時に覚えた。高順、つまり丁原の配下だった時にも読めはしたのだが、書くことは出来なかった。董俊と丁原が、二人で字を書けるようにと仕込んでくれたのだ。

そう言う意味で、二人には感謝している。

だから、董俊は、望み通りにしてやったのだ。

「ほう。 娘を差し出せば、同盟を組む事を承知したか」

「如何なさいますか。 今なら突破は不可能ではないと思えますが」

「……気が進まんな」

呂布は思うのだ。まず第一に、袁術の判断ではない。恐らくこれは、袁術の側にいる、誰かが書いたものだろう。

そして第二に、己の武力は、そんなさもしい事のために使うために存在しているのか。呂布の武力は、呂布という存在の人格をそのまま反映している。呂布という男は、魔王であり、己の武によってのみ立つのだ。

ならば、己の武ではないものを頼るために、武を振るうのは、本末転倒ではないのか。そう呂布は考えた。

「もしやるとしたら、全軍一丸となり、一気に淮南に抜けるか」

「判断をするのであれば、皆の前でお願いできませぬか」

跪いたまま、候成はそのようなことを言った。言っている意味が分からなかったので、呂布は思わず立ち止まっていた。

「何だと?」

「以前から、言おうと思っておりました。 貴方は信念に生きる人であり、それは立派な事だと思います。 しかし我らはそれによって命を賭けなければならないのです。 王であるならば、それなりに納得できる理由を、示していただけませぬか」

呂布の全身から殺気が迸っても、候成は意見を変えず、あたまを下げるようなこともなかった。候成など、呂布からすれば枯れ木も同然である。その気になれば、素手で首を引っこ抜くことだってたやすい。

それなのに、何故だ。何故この男は、逆らう。

猿の群れと同じ事が、今此処でも起こっているのは知っている。しかし、直接呂布の武力を見ている筈の者が、何故逆らうのだ。

混乱する呂布を、後ろから高順と張遼が押さえ込んできた。なにやら高順が叫んでいる。兵士達が候成を縛り上げているのが、嫌に遠くに見えた。陳宮が走り寄ってきて、呻き声を上げている呂布に対して、蛙のようにひれ伏した。

「お許しを、呂布将軍」

「う、が、ぎ、おおおお」

「候成将軍、そなたも謝れ」

「謝りませぬ! そもそも、高順将軍。 貴方が言わなければならない事だった筈なのですぞ。 忠臣だというのなら、主君を諫めるのは当然のこと! ましてや、この状況で、命を賭けなければならない事を、己の思いつきで部下に強要するようなことが、あって良いと思うのですか!」

激烈な候成の弾劾は、呂布の耳に入らなかった。そもそも、意味が理解できなかった。何故だ。何故、逆らうのだ。そればかりが、呂布の脳裏で反響してきた。魔王として相応しい武勇は示し続けたはず。董俊は、魔王として相応しい恐怖を見せつけ続けていた。だが、己の欲望を優先させた結果、暗闘によって滅び去った。しかし、呂布は違う。己の欲望よりも先に、魔王としての恐怖、圧倒的な暴力を示し続けていたではないか。何故に逆らうのだ。

いつの間にか、自分の屋敷にいた。兵士数十人がかりで、此処まで引っ張られたらしい。唸りながら、見下ろすと、血だらけになった候成が倒れていた。高順が、拳を振るわせながら言った。

「逆らった罪により、百回の棒打ちに処しました。 候成は得難い忠臣でありますがゆえ、これでお許しを」

「……」

もう、呂布には、何が何だか分からなかった。

高順がそう言うのなら、候成は有用な人材なのだろう。だが、呂布には、己の武力を認めない、異物だとしか思えなかった。しかし、今まで親として呂布を支えてくれた高順のことは、決して悪く思えないし、疑うことも出来ない。

呂布は視線を逸らすと、屋敷の奥に引っ込んだ。

そして、浴びるように酒を飲んだ。

 

張遼は深く絶望していた。

戦場で、武勇を振るうこと。それが武人の喜びだとばかり思っていた。しかし、それを体現している男である呂布が。その信念に反するという理由である事は分かるにしても、候成の意見を聞き入れなかったことが、悔しかった。

張遼が駆けつけた時には、既にどうしようもない状態だった。少しでも介入が遅れていれば、候成は生きたまま呂布に解体されてしまっていただろう。

候成は、張遼と同年代で、兎に角手堅い真面目な男だ。劉備の配下で言うと陳到に似ているかも知れない。平均的な手腕だが、生真面目で義理堅い所を、呂布も評価しているのだと、張遼は思っていた。

だが、これは違う。

はっきりと、違うことが確認できてしまった。

屋敷の奥に引っ込んでしまった呂布に、心中で呪詛の言葉を並べた。貴方は確かに強い。恐らくこの大陸でも、最強の猛者だろう。

だが、それならば何故、自らと違うものの言葉に、耳を傾けることが出来ないのか。魔王だからというのは理由にならない。あの董卓でさえ、配下の意見はより分けて、有用なものは受け入れていたのだ。

張遼は天を仰いで歎息すると、屋敷に戻った。

曹操軍はしばらく攻めてこない。赫萌が今頃、袁術との取引について話しているだろうから、それに対する警戒を進めているはずだ。まさか呂布がよく分からない理由で忠臣を殴り倒し、意味不明の理由で閉じこもっている等という事は、思いつきもしないだろう。曹操が有能であるが故にだ。

屋敷に足を踏み入れると、物資はかなり寂しくなっていた。もとよりあまり豊かとは言えない状況であり、しかも戦続きである。兵士達の苦労を減らすために、張遼は率先して自分の蓄えを出していたのだ。

奥から、咳の声。

この間から屋敷に住まわせている、唐という名前の侍女だ。仕事が出来るような年ではなく、まだ年上の侍女達に様々なことを教わりながら、ようやく食事だけは貰っているような状況である。

ひ弱で、放っておくとそのまま陽の光に溶けてしまいそうな子供である。張遼はこの唐と接し始めた半年ほど前から、目立って他人の心を把握しようと努めている自分に気付くようになっていた。

「お殿様? 今は戦ではありませんの?」

「いや、戦は少し休みだ。 我らの総大将が、へそを曲げてしまってな」

「呂布様は、力は虎のようなのに、心はまるで子供みたい」

そう言うと、唐は咳き込んだ。

生まれついて肺が弱いらしく、それで親に捨てられたのだという。襤褸を纏って廃村の井戸の側で寝転がっていたのを、張遼が拾ってきた。今時、何処にでもいる貧民である。弱者は死ぬ時勢だが、張遼はそれを見過ごすことが出来なかった。ある程度着替えさせて身繕いさせてやると、それなりに見られるようになった。仕事も真面目にするし、嘘もつかない。ただ、時々言うことがとても痛烈だった。

「もう休め。 仕事ももう無いだろう」

「咳が酷くて、眠れませんの」

「それは弱ったな。 私はまだこれから、幾つかしなければならない仕事があるしな」

「冗談ですの」

そう言うと、唐は奥にいそいそと消えていった。唐の嘘をつかない性格は良く知っている。多分気を使ったのだろう。あんなに幼いのに、むごい話だと、張遼は思いながら、右手の茂みに向けて声を掛けた。

「家に来るなら、堂々と来れば良いではないか」

「今はそうも言っておられませんでしてな」

茂みから立ち上がったのは、筋骨逞しい大男であった。宋憲という名の男であり、呂布配下でも五本の指に入る使い手である。張遼と高順を除くと、同僚の中で、この男に勝てる者はいないかも知れない。

その隣には、魏続という男がいる。山賊上がりの指揮官だが、なかなか巧妙な用兵をするため、陳宮と高順の推薦で出世した。二人とも、候成の共通の友人であり。

そして、今では。呂布に共通の反意を抱く、同士でもあった。

「今回の件か」

「うむ。 真面目で温厚な候成に、あのようなことを。 一体呂布将軍は、どうなってしまわれたのだ」

「分からん。 だが、呂布将軍は、昔から変わっていないような気もする。 周囲が対処方法を身につけて、それで追い詰められ始めたのかも知れない」

天を仰いで、張遼は歎息した。

決断するべき時が、近いのかも知れなかった。

 

呂布の屋敷に、真っ青になった陳宮が駆け込んできた。ここしばらく、袁術との講和策および、合体工作の詰めをしていた呂布の参謀は、何事かと慌てる侍従達にまくし立てていた。

流石の呂布も、陳宮がこれほど血相を変えているのに、無視する訳にはいかない。屋敷の奥から現れると、話を聞けるように、自室に招く。

呂布の部屋は、殺した虎の皮を並べていたり、或いは人間の生皮を陳列したりもしている。全て呂布が倒した獲物のなれの果てであり、己の強さを確認するための必要作業であった。

「如何したか、陳宮」

「こ、この陳宮、とんでもないことに、き、気付きました」

「如何したのだ」

辺りを見回した陳宮が、落涙する。呂布は最大級の不安をかき立てられた。

この陳宮は野心的で自分が世界の中心にいると本気で確信しているような男だが、しかしその頭脳と冷静さは本当だった。今まで何度も曹操の裏を掻き、戦略を見事に立ててその攻撃を凌いできた。

徐州戦になってから、陳登に足下をすくわれはしたが、呂布にとって頼れる参謀であることに違いはない。その陳宮が、一体何に気付き、慌てているというのか。

「兎に角落ち着け」

「お、落ち着いてはおられませぬ。 よ、良いですか、呂布将軍! お、お、王允が、王允が名前を変えて、生きていたのです!」

王允。その名前は懐かしい。

董俊と陰謀面で連携していた、漢王朝最後の癌。宦官の殺戮も裏で糸を引き、中枢に巣くっていた外戚の勢力も皆殺しにし、そして董俊の暴虐を裏から支えていた立役者だ。てっきり、呂布は、郭らに王允が殺されたとばかり思っていた。それなのに、陳宮は取り乱しながら、奴が生きているという。

「そればかりではありません。 袁術の側にいて、奴を操っている張勲が! お、王允なのです!」

「何と。 それは真実か」

「真実にございまする。 思えばあの下劣なやり口と、邪悪な策謀、どうして今まで気付かなかったのか、この陳宮一生の不覚にございます。 そればかりではありませぬ。 手を回して調べさせた所、袁術は既に人事不省の状態で、奴の勢力は完全に王允の手の下に落ちているようです」

そして、と陳宮は付け加えた。

王允のもくろみは、漢王朝による、この地の完全なる支配。

そのためには、呂布は邪魔なのだという。淮南に行っても、陰謀に巻き込まれて、殺されるだけだと。

「ば、万策、つきましてございまする。 かくなる上は、呂布将軍だけでも落ち延びくだされ」

「しかし、逃げると言っても、何処へ行けば良い」

「袁紹と言いたい所ですが、かの御仁は以前呂布将軍と揉めておりまする。 しかし中原には勢力無く、荊州には呂布将軍を受け入れる余地がありませぬ。 益州は安定していて、呂布将軍を嫌悪するだけでしょう。 西涼は混沌たる状況で、呂布将軍が入る場所があるかどうか」

「ならば、漢中か」

「……恐らくは、それしかございませぬ」

漢中。漢王朝から独立を保ち続けた、五斗米道の本拠地である。未だ多くの謎を抱え、信者達による鉄の結束を誇り、そして膨大な数の優秀な細作を抱えている。近年は危険がないことからか、あまり介入はしていないようだが、しかし巨大な潜在能力を秘めた土地である事に間違いはない。

もし漢中に脱出するとなると、まず中原に出て、曹操の追撃をかわし、司隷に入って無政府地帯を抜け、そして南下しなければならない。道など、ない。

当然のことながら、軍を連れて行くことなど出来ない。呂布一人で脱出する他、無いだろう。

しかしである。

呂布は、魔王だ。

一人で逃げるなどと言うことが、魔王のやることなのか。魔王は堂々たる存在であるべきで、こういう時こそ、曹操を真っ正面から打ち破るべきなのではないのか。

「曹操を、打ち破る手はないか」

「こ、この期に及んで、それは不可能にございまする。 外は鉄壁、呂布将軍が最強といえども、関羽と張飛が敵にはおります。 袁術は先ほど説明したとおりですし、頼みにしていた河大の援軍は、既に曹操の陰謀によって四分五裂の有様です。 もし曹操と戦えば、それは正面から死にに行くようなものにございまする」

「其処をどうにかせよ。 曹操までの道を造るだけで良いのだ」

「ああ、呂布将軍。 私は、もう此処までに、ございまする」

陳宮は大量に吐血すると、その場に倒れてしまった。部屋に入ってきた侍女が青ざめたが、初めてのことではない。そそくさと陳宮を担いで、外に連れ出していった。呂布は一人になった。高順は。高順はどうしたのだ。

ふらふらと外に出ようとする。

その時、呂布は見た。己の前に、屍山血河があるのを。

屋敷の者達が皆殺しにされている。そして血の海の中、立っている者が一人。右手に柳刀をぶら下げた、あの細作であった。いや、違う。年が若すぎる。そうなると、あの、呂布が殺した細作の、娘か。

「き、さ、ま」

「どうでしたか? 陳宮にただ真実を囁いてやるだけで、これだけの事が出来るのです」

「殺す」

ゆっくり戟を振り上げる呂布。外からは、一斉に喚声が上がった。細作は僅かに表情をゆがめる。

「間近で相対してみて分かりましたが、まだ勝てそうにないですね。 流石は最強の武人と言うべきか」

「貴様ぁああああっ!」

呂布が振り下ろした戟が床に突き刺さり、巨大な亀裂を穿つ。屋敷そのものが揺れ、柱が数本倒壊した。

既に細作の姿は無かった。屋敷を出ると、外には敵意を抱く将兵が大勢いた。そして、縄につながれ、囚われているのは。

高順だった。

「高順!」

「呂布、逃げろ! まっすぐ漢中へ逃げるのだ! 儂は此処までだ。 だが、お前は、まだ生き延びることが出来る! お前一人なら! お前だけなら! 漢中へ逃げ込める!」

「いやだ。 俺は魔王だ!」

「だだをこねるな、呂布! 儂の、父の言うことが聞けぬのかあああっ!」

絶叫した高順が、後ろから魏続が振るった棒で殴られ、気絶した。吠え猛ると、呂布は無数の兵士達に躍り掛かる。周囲から飽和攻撃を仕掛けてくる兵士達を、片っ端から斬り、打ち砕き、殴り、そして叩きつぶした。

既に陳宮は人事不省。そして、高順は。高順は、どうなった。

見えた。棒で殴られ、意識を失っている。口から血を吐いていて、もう危ないのだと分かる。分かるのだ。あまりにも多くの人間を、壊してきたが故に。絶叫。そして、立ちふさがる張遼に目を剥いた。

「お前までが、裏切る、のか!」

後ろから槍で突きかかってきた兵士を、振り向きもせず殴り殺す。顔面を砕かれた兵士は、その場で横転した。だが兵士達は顔を真っ青にしながらも、槍衾を作って突きかかってくる。

「兵士達を纏めたのは、私だ。 貴方には、もう従えないと、判断したが故」

「何故だ。 俺はこの大陸、最強の存在だ! 何故従わない!」

「確かに貴方は最強だ! 誰もがそれを認めている!」

張遼の言葉が、響き渡った。そして、一瞬動きが止まった呂布に、兵士達が全方位から一斉に槍を突き刺した。

肉に槍が突き刺さる音が、天高く響き渡る。

「だが、貴方は、その強さで自分だけを守った。 だから、誰も着いてこなかったのだ」

「それ、が、俺の決めた、道だ!」

兵士達が絶叫し、跳ね飛ばされた。

何と、呂布は筋肉で槍をことごとくはじき返したのだ。体に突き刺さっていた無数の槍がへし折れ、兵士達が吹っ飛ぶ。呂布の全身には穴が開き、鮮血が噴き出していたが、魔王は未だ倒れてはいなかった。

流石に、己の化け物じみた主君を見慣れていた兵士達でさえ蒼白になり、後ずさりする。張遼が長刀を構え、魏続と宋憲がそれに習う。だが呂布は目もくれず、一歩、一歩と歩み出す。

そして、倒れている、縛られた高順を担ぎ上げた。

「撃て、撃ち殺せ!」

魏続が叫ぶ。一斉に、五百を超える兵士達が弩を構えた。

しかし、呂布が振り向くと。まるで人間の五十倍はある虎に睨まれたかのように、誰もが動けなくなってしまった。

城門に出た呂布は、腕力だけでそれを開けた。既に人間の域を超越しきっているこの男が、雪が降り積もる原野に出ると。

其処には、一万を超える曹操軍の兵士達が、全員弩を発射できる態勢で、待ちかまえていたのである。

「いまだ! 呂布を撃て!」

大口を開けて、呂布は笑う。

そうだ。これでなくてはならん。魔王の前に立ちふさがるのだ。これくらいの相手でなければ。

高順を抱えたまま、呂布は吠える。もはや空が真っ黒に見える程の矢が降り注いでくる中、針鼠のようになりながらも、呂布は走った。そして笑った。何本矢が刺さろうと、知ったことではなかった。

「ふは、ははははは、はははははははははは!」

「ひいっ! ば、ばけものっ!」

怯える敵兵の声が、これ以上もなく面白い。突入すると、呂布は素手で、当たるを幸いに敵兵を掴んでは千切り、千切っては放り捨てた。武器など、もういらない。いらないのだ。恐慌状態に陥った敵兵が槍を揃えて刺してくるが、もう気にもならなかった。何度刺されようと、倒れる気はしなかった。

既に担いだ高順は息絶えていた。呂布はそれでも、高順、いや丁原の死骸を離さなかった。

見える。曹操がいる。

関羽と張飛が、立ちふさがる。

曹操の周囲にいる奴らが、網を飛ばしてきた。いつもなら避けられる攻撃だが、呂布はもう、数歩歩くのが精一杯だった。

だが、倒れない。

魔王であるからだ。

無数の網が、視界を塞ぐ。曹操は呆れたように呟いた。

「貴様は、本当に人間か」

「違う。 俺は魔王呂布。 この地に最強を刻み、そして後の歴史にも、最強の名を残す男だ!」

顔面にも数本の矢が刺さっていたが、それでも呂布は倒れない。網の上から、重厚な縄が掛けられた。兵士達は恐れて、呂布に近寄ってこない。曹操は、そのまま縄で絞め殺すようにと、兵士達に命じた。

呂布は笑う。

それならば、いい。

それならば、立ったまま死ねる。

首に掛かった縄が、締め上げられていく。

呂布は、最後まで笑っていた。

 

呂布の死骸を検分すると、矢傷だけで四百を超え、槍傷はその倍に達していた。それでも、首を絞めるまで生きていたのだ。戦慄を隠せない諸将に混じり、曹操は呟く。

「この男は、後の歴史に語り継がれるだろう。 悔しいが、呂布にとって、この戦は勝利であったのだろう」

「曹操様」

「うろたえるな。 我らにとっても、勝ちだ。 高順もろともに、埋葬してやれ。 惜しい男達であったわ」

それは本音からの言葉であった。呂布の墓は道祖神の横に作られて、特に銘は入れられなかった。高順の墓もその隣に。曹操なりに、最大限の敬意を払った埋葬が行われた。戦時だからあまり豪華ではなかったが。

下丕に籠もっていた諸将が、降伏してくる。呂布に数百人殺されたようだが、それでも殆どは無事だった。ただし兵士達の中には、あまりにも常軌を逸した魔王のような呂布を見て、心神喪失になり、使い物にならない状態になっている者も少なくなかった。

運び出されて来た陳宮は廃人になっていた。目は焦点があっておらず、ぶつぶつ呟くばかりである。その言葉は、王允が、王允がと繰り返すばかりであり、曹操は大きく歎息した。

「医師に診せてやれ。 ただし、正気を取り戻すようなら牢にいれよ。 この男は、ほうっておくには危険すぎる」

「ははっ」

李典が、陳宮の手を引いていく。陳宮は小鳥のように小首を傾げて、辺りを見ていた。狂気の笑いが響き渡る。于禁が眉をひそめて、言った。

「策士として、あれほど名をとどろかせた御仁であったのに。 むごいものです」

「策士ではあった。 不愉快なほどにな。 だが、心が弱かったのだ。 だから己の心にいる魔物にも勝てなかった」

それに、もう一つ。曹操は結論を出していた。何か奴を操っていた存在がいるかも知れないと。王允である可能性は、分からないとしか言いようがない。王允の死を見届けた訳ではないからだ。

張遼を始めとする、呂布軍生き残りの諸将が曹操に跪いた。徐州の他の戦線で、討ち取った山賊達の首領も、其処に並べられていた。その中から曹操は、張遼と蔵覇という男だけを直接の部下に加えた。後は諸将の配下に配分し直す。

兵士達が残った。徐州で抱えるには、少し多すぎる。幾らかを屯田兵にすることに決めて、残りについては別の方向に任せることにした。

「劉備将軍に、彼らは任せる。 小沛を与えるから、其処の守備に当たってくれ」

「は。 仰せのままに」

「徐州城は、車仲に任せる。 しばらくはそなたが押さえ込め」

車仲は中堅どころの将軍で、今までの激戦にも参加してきている。手腕は並だが、忠誠度が信頼できる水準にあり、曹操としても混乱多い徐州を任せるのに丁度いい人材であった。

酷い雪が降り注いでいるが、結局袁術の増援は現れなかった。

曹操軍は、殆ど被害なく徐州を落とした。

かってのように虐殺をすることもなく、徐州が豊かになるように幾らか手を打っていったので、民衆の怨嗟も僅かに和らいでいた。

 

舌打ちした林は、さっさと引き上げることにした。

呂布を、殺せなかった。

磨き上げた経験が、戦っても勝てないと告げていた。だから身を退いてしまったが、あれは踏みとどまるべきであったのかも知れない。後悔が次から次へ押し寄せてきて、林の体を蝕んでいた。

あれほど策を弄したのに、結局呂布政権は殺せても、呂布本人は殺せなかったのだ。

己の手であの首を切り落としたかった。それを成し得なかったことを思うと、腸が煮えくりかえるようだった。

ふらふらと歩いている内に、小さな集落を見かけた。ちょうどいい。八つ当たりに皆殺しにしていこう。そう思ったのだが、集落にはいると、中は無人だった。まあ、無理もない話だ。この徐州は、何度も強豪に踏みにじられたのである。治安は最悪、民衆は流民になって去る他無い。

苛立ちが頂点に達した林は、空を仰いで大きく歎息した。

己の思うがままにあらゆる暴虐を重ねてきた天才細作の、初めての挫折であったかも知れなかった。

部下達の元に戻る。幾つか、報告が来ていた。その中で重要なものは、やはり北平に関するものであった。

「林大人。 北平の公孫賛は、ついに本拠まで追い込まれました。 如何に易京の巨大要塞地帯とはいえ、既に袁紹の大軍勢を支えるのは不可能な状態に来ております」

「そうか。 滅亡するまで監視を続けよ」

「御意」

袁紹はこのまま、河北の王になるだろう。それでいい。曹操と、是非血みどろの闘争を繰り広げて欲しいものだ。ただ、少し時間を稼ぎたい所である。先に袁術に滅びて貰わないと、曹操に戦える条件が整わない。如何に曹操の方が優れた将兵を揃えていると言っても、袁紹の大軍勢にはとても対抗できないだろう。

幾つか策を部下に指示する。

そして、自身は寿春に向かうことにした。

どのみち、羊大人とは戦わなければならないのだ。そろそろ曹操に取り入ることを視野に入れ、幾つか手を打っておかなければならない。

まだまだ、為さなければならないことは、幾らでもあった。

 

張勲は顔を上げると、自室であったことに気付いた。

淮南に移ってから、働きづくめだ。あらゆる悪を袁術に押しつけ、その勢力を見るも無惨に滅ぼさせなければならない。そのためには、部下達の評判も、ことごとく最低限の代物に落とさなければならなかった。

立ち上がる。

立ちくらみがした。流石に年だ。其処に過労が加わって、肉体に限界が見え始めている。

しかし、屈しない。漢王朝による支配を復活させ、自身がその中枢に座るまでは、死ねないのだ。

暗い情熱が、張勲、いや王允の体を突き動かしている。

そして、その手が、ついに最後の一手を、竹簡に記した。

「全軍に、出撃の命令を下す」

己の手を、口に出して反芻する。食料も無し、勝てる見込みも無し、多いのはただ兵力だけ。そんな段階で出兵しても、待っているのは滅びだけ。そう、その滅びこそが、王允の求めるものであった。

笑う。

闇の中で。

漢王朝の栄光は、間近に迫っていた。

 

(続)