豪傑死す

 

序、魔王来訪

 

徐州城に足を踏み入れる呂布。圧倒的な気迫が、周囲を蹂躙した。青ざめる兵士達の中で、陳到は立ちつくしていた。呂布を迎えに出た劉備と、その左右にいる張飛と関羽を見て、少しだけ安心する。だがそれも、僅かでしかない。

呂布が本気になっても、張飛と関羽がいるから止められるはずだという淡い期待。そんなものは、期待でしかないのだ。それを、陳到は一番よく分かっていた。

?(エン)州から北上し、一時河北にいたという呂布が、いきなり部下を派遣して劉備に保護を申し出てきたのは三日前のこと。使者だという陳宮は、かって曹操の部下をしていたのだという。何だか世間によく慣れた笑顔を作る男で、故に陳到は危険だと思った。見てくれは良いのだが、全く信用できない男だと思ったからである。

会議がすぐに始まり、陳到も出席した。小沛から馬を飛ばしてきた張飛は、絶対反対だと叫んだ。関羽は無言だった。陳到も反対の意思を通した。

だが、劉備は。

首をゆっくり横に振ったのだった。

「呂布が危険なことは分かっている。 だが、受け入れざるをえまい」

「何故だ、兄者!」

「私がどうやって民の信頼を得ていると思う。 義によってだ」

乱世の中で、義を保つ類い希なる男。

それが世間一般での、劉備の風評である。

実際には、後ろ暗いこともしている。この徐州を奪う際にも、様々な策謀を巡らせたのは事実だ。この乱世で生きて行くには、汚いことをするしかない。

しかし、それでも。劉備はその題目に従って、まず善政と言って良い政を、徐州にて行っていた。

民の生活は良くなり、見回ると目立って笑顔も増えている。横暴をする旧陶謙時代の家臣達も皆去り、この地には穏やかな太陽が差し始めている。

しかし、それは劉備に対する、民の信頼があって成り立っているのだ。もちろん、睨みを利かせている張飛や関羽の存在も大きい。彼らの名を聞いて、恐れぬ賊などいはしないからだ。

だが、彼らを持ってしても、呂布は闇に葬るには、あまりにも難しすぎる。強すぎるし、名前も知れすぎている。

もしも呂布が死ねば、瞬く間に劉備の仕業として、世間に喧伝されることとなるだろう。実際、呂布を殺せる人間は、この近場では劉備の家臣である張飛と関羽くらいしかいないのである。

「これは、恐らく呂布が考えたことではあるまい」

「そうじゃな」

関羽が腕組みしたまま言うと、簡雍がそれに賛同した。国譲は笑顔を浮かべたまま、核心をずばりと突く。

「あの陳宮って人ではありませんか」

「俺もそう思う」

「だとすると、十中八九何かの罠でしょう。 あんな信用できそうも無い人を、此処に置くなんて」

「俺も同感だ、しかしながら、どうしようもない」

陳到が賛同しながらも正論を吐くと、場は静かな沈黙に満たされた。誰もが、呂布を嫌い、陳宮を疑っていた。だが、それでも、話を前に進めなければならないのだ。劉備の言葉は正しい。始まったばかりの徐州政権を、こんなところで潰してしまう訳には行かないのである。

誠実な事で知られる糜竺が挙手する。

「それならば、前線である小沛に配置して、様子を見ましょう」

「ふむ、それならばいざ手を噛まれても、傷が小さいか」

「俺は反対だ! 絶対反対だ!」

「張飛、反対するのなら、何か代案を示すのだ。 それが、お前の立場なら、当然やるべきことだぞ」

劉備がやんわりというので、張飛は顔を真っ赤にしながらも黙り込んだ。

そして、呂布はやってきたのである。

劉備は腰を低くして、呂布に応じている。糜竺の進言通り、小沛に入ってもらい、監視には何人かの旧陶謙軍幹部を付ける予定にすると言う。それらについても軽く話してから、ねぎらいの酒宴に、劉備は呂布を招いていた。

呂布は無言で、劉備を観察している様子であった。張飛が斬りかかりかねない目で呂布を見ていたが、気にもしていない様子だ。圧倒的な力を持つが故に。呂布は、恐れを知らない。そして、恐れなくとも、命に危険がないのだ。

呂布を見送ると、陳到は大きく歎息した。何だか、一気に今まで吹いていた幸運の風が、消え去ってしまったような気さえする。この分だと、更に悪いことが、重なって起こるのかも知れない。

その予感は当たった。

考え得る限り、最悪の形で。

騎馬武者が、徐州城に駆け込んでくる。劉備は今、呂布を歓待している最中だ。張飛と関羽が側に着いているから、幹部の中で今一番高位なのは、陳到と簡雍になる。簡雍が国譲と一緒に走り寄ってきた。

「どうした、何かあったか」

「劉備将軍は」

「今、客人と歓談中だ」

どうやら、早馬と言っても、徐州兵ではない。訛りは予州のもので、しかも鎧がとても豪華である。曹操の兵だなと、陳到は判断した。

「皇帝陛下よりの早文だ。 出来るだけ本人に渡したい」

「陛下の。 それはそれは」

出来るだけ腰を低く応じる簡雍だが、武者は儀礼は良いと遮って、馬を下りた。陳到は国譲を先に行かせて、応接間に案内する。誠実な雰囲気のある、知性的な武者であった。背は低いが、馬術はかなり上手だ。

甘夫人が茶を出す。糜夫人は今劉備と一緒に呂布の所だ。だから、もてなしは側室である彼女の役目である。

「これはかたじけない」

「失礼いたします」

一礼すると、甘夫人は陳到と対角になるように、小さな椅子に座る。武者は于禁と名乗ると、茶を結構上品に啜った。或いは、上級の豪族出身なのかも知れない。

「劉備殿は、お忙しいようですな」

「おかげさまにて」

「徐州攻略に関しては先を越されてしまいましたが、その勇名には、曹操様も一目置かれておりまする。 帝も一度お会いしたいと、何度か申しておりましたぞ」

「わが主君をそのように買っていただき、ありがたい話です。 出来るだけ早く主君を呼びます故、今しばしお待ちくだされ」

「そうお構いなく。 待たせていただきます故」

于禁は上品な笑顔を浮かべる。中性的な雰囲気だが、整えられた口ひげを整えており、不思議とこういう所では妙に男っぽい。この様子では、さぞや女にもてるのではないかと、陳到は思った。

軽く雑談をする。許昌の話を于禁はしてくれたが、とても栄えているようで、さぞ妻が聞いたらうらやましがるだろうなと陳到は思った。気持ちのいい男だが、何処か軍人らしくない。ひょっとすると、戦場では支援に本領を発揮して、敵の突破などの厳しい任務では実力を発揮しきれないかも知れない。

ほどなく、やっと劉備が来た。少し酒は入っているようだが、流石にこういう状況である。それに、客に対する貫禄もついてきていた。呂布には断って、中座してきているのだろう。側には張飛も着いていた。

丁寧な社交儀礼をかわすと、劉備は恭しく手紙を受け取った。于禁も悪い印象は受けなかったようで、髭を整えた口元に笑みを浮かべていた。だが、その手紙の内容がどうせろくでもないことは、陳到にも見当がつく。

于禁を帰してから、さっと竹簡を拡げて中身を見る劉備。竹簡の外側には紙が貼り付けられていて、流石に高級な公式文書であると言うことが分かる。

「……そうか」

「如何なさいましたか」

「内憂外患とはこのことだな。 献帝からのご命令だ。 袁術を討てと」

流石に、目の前が真っ暗になる。

ろくな人材がいないとは言え、袁術の保有する兵力は十五万とも言われている。袁紹、曹操、劉表に匹敵する兵力を動かすことが出来る、数少ない群雄の一人だ。民も苦しんでいるとはいえ、国力も豊富だ。

「断る訳には、いかないのですか」

「曹操の事だ。 恐らく、袁術にも似たような手紙を送っていることだろう。 攻め込まれるくらいなら、此方から先に手を打った方がよい。 惰弱な袁術軍が相手なら、どうにか戦線を維持することくらいなら出来るだろう」

「ですが、今はあの呂布がいます」

「その通りだ。 さっき話してみたが、あれは人間ではなく、その皮を被った虎か何かだと考えた方が良いような男だ。 とても理屈が通じる相手ではない。 それに、側に控えている陳宮は更に厄介だ。 隙を見せれば、即座に徐州を乗っ取りに仕掛けてくるだろうな」

小沛に押し込んで、曹操との対前線に配置するとしても、あまり油断は出来ない。いざというときの傷を小さくするため、糜竺が提案したとおり裏切る可能性がある旧陶謙政権の家臣達も側に置く。そして、最悪の事態に備えて、張飛を残す。

「張飛はなかなかの軍略が身についてきた。 油断さえしなければ、呂布に徐州城を取られるようなこともないだろう」

「兄者、俺は油断などしない」

「うむ。 だが、呂布には知恵者の陳宮がいる。 それをどうにかしなければ、たき火の側で薪を抱えているのと同じだ」

しばし腕組みしていた劉備は、国譲を呼ぶ。

陳到は、今度の戦で出ざるを得ない。劉備の歩兵部隊の内、主力を抱えているのだから当然だ。下丕には簡雍が当たるとして、残るのは国譲しかいない。

「悪いが、国譲。 徐州城に配置換えだ。 張飛の補佐をして欲しい」

「僕で良ければ」

「すまんな。 徐州の将達は、日が浅くて信用しきれない者も多いのだ。 そなたが張飛と一緒に徐州城を守ってくれれば、心強い」

「光栄です」

国譲も、自分が任された仕事の重要性に関しては理解したらしい。

恭しくあたまを下げると、直ちに準備に入った。

劉備は中座していた呂布との宴会に、すぐに戻っていく。残された陳到は、その場を簡雍に任せると、城壁に上がった。

徐州は守りにくい土地だ。すぐに大小の戦乱に巻き込まれることは分かっていた。謀略を敵が駆使してくることも理解はしていた。

しかし、ほんの短時間の平和も楽しむことが出来ない。

それはとても悲しいことなのだなと、思ったのだった。

 

1、謀略戦

 

徐州から、劉備軍一万から一万二千が出撃。袁術軍四万余と交戦を開始。

その情報が入ると同時に、曹操は動いていた。整えていた兵五万をもって、宛に出撃したのである。

馬上で、曹操は上機嫌であった。側に控えている典偉は危ないなと思ったのだが、こういう時の曹操は、何かの謀略を成功させている可能性が高い。また、側には今回初陣となる曹昂もいた。

曹昂を守ることも必要になるから、典偉は気を張り通しであった。実は許?(チョ)も行きたがったのだが、曹操が許可しなかった。今回は楽な戦だからと言うのが、その理由であった。

曹操の側に、典偉は馬を寄せる。

「曹操様、あまり油断はなさいませんように」

「案ずるな。 今回の戦は、いくつもの布石の先にある」

「といいますと」

「まず徐州だ。 今回、徐州を呂布に乗っ取らせる」

さらりと言う曹操。典偉は、先を促す。上機嫌な曹操は、こういう時には徹底的に語りたがるものだからだ。釘を刺すのは、その後でも遅くはない。

典偉は、曹操のことを良く知っている。曹操は途轍もなく頭がいい反面、とんでもなく単純な所がある。だから、典偉でも、行動を読みやすい時があるのだ。戦をして勝てるとはとても思えないが、意外と口げんかをすると弱いかも知れない。それが曹操という男である。

「まず呂布だが、奴は陳宮の進言で、徐州を乗っ取りに掛かるのは明白。 だが、奴が動くには、二つの条件が必要になる」

「その、条件とは」

「一つには、劉備が隙を見せること。 これは袁術と戦わせることで可能となった」

「はい。 わざわざ献帝を動かして、勅書を出させたのでしたな」

「うむ。 そしてもう一つは、余だ」

自慢げに、自分を親指で差す曹操。

典偉は分からないので、続きを聞きたいという不利を見せる。曹操は楽しそうに、かつ満足げに頷く。

「そなたは自分を飾らぬが故、接しやすい。 要は、呂布にとっては、前線で境を接している余が、もっとも面倒な相手だという訳よ。 その余がこうやって出兵すれば、奴はどう思う」

「隙が出来たと思うのではないでしょうか」

「その通りだ。 だが、余の領土に攻め込むには、流石に呂布も兵力が不足しているからな。 まずは簡単に取れる、徐州を襲いに行く、というわけだ」

「それを誘導するための出兵なのですか」

曹操は頷いた。もちろん、豊かな宛を奪って、洛陽を復活させる一手にするという目的もあるという。また、宛を叩いておくことにより、劉表政権に打撃を与えるのも目的の一つだとか。

既に曹操は、袁紹との従属同盟を解消している。河北で激烈なる戦闘を公孫賛と行っている袁紹は、曹操との戦線を開く余裕がないが、劉表を使って曹操に圧力を掛けてくることは予想される。

そうなる場合、先兵になるのは宛の張繍だ。

「張繍さえ叩いて宛に強力な兵を駐屯させておけば、劉表の、ひいては袁紹の頭を抑えることが出来るからな。 後は袁紹との主力決戦に持ち込む前に、如何に周囲の敵を減らすか、だ。 洛陽から西は、今の所気にしなくてもいい。 今気にしておくべきなのは、南と東。 南の劉表と袁術、それに東の呂布。 順番に叩いておくべき彼らを同時に相手にしないためにも、まずは南の劉表の頭を叩いておくわけだ」

「なるほど、大いなる考えが合ってのことですな」

「当然よ。 余を誰だと思っておる」

「しかし曹操様。 徐栄に敗れた時と、今の曹操様は酷似しておられまする」

誇らしげに胸を張っていた曹操は見る間に顔色を変えた。周囲の兵士達も、真っ青になる。典偉は曹操にもう少し馬を寄せると、諫言した。

これは、自分にしかできないことだ。典偉は、そう思って、行動した。本来は兵士達が止めに入る可能性もあるのだが、兵士達は典偉の腕力を知っている。だから、動かなかった。

「どうか、お聞き入れくださいませ。 今の曹操様は、見事な策に、少し浮かれてしまっているようにも見えまする」

「だ、黙れっ!」

「黙りませぬ。 忘れてはなりませぬぞ、曹操様。 この戦いには、曹昂様も従軍しているのですぞ。 曹操様の油断が敗北を招いたら、曹昂様はどうなるのですか」

流石に青ざめた曹操は、しばし俯いていたが、顔を上げる。

「そうさな。 他ならぬお前の言うことだ。 余のことを考えてのことだと言うことは、よく分かる」

「曹操様」

「出来るだけ、油断はせぬようにする。 余が、張繍ごときに足下を掬われたら、笑い話にもならぬからな」

それを油断というのだ。

典偉はそう思ったが、これ以上は無理だと知った。だから、黙っていた。

こうなれば、曹昂を守るのは、典偉の仕事だ。この戦いは負ける可能性が高い。何があっても、曹昂を守らなければならなかった。

宛の兵士達は、迎撃に出てこない。それが余計、不気味さと、暗雲を煽るかのようであった。

 

張繍は城壁に登る。隣には賈?(ク)がいて、無言で魔神が住む笑みを浮かべ続けていた。城壁の下には、豊かな土地が広がっている。しかし此処は、これから決戦の部隊になるのだ。

宛。洛陽から南に向かい、荊州に向かうには通らなければならない戦略上の要衝である。人口も多く、土地も豊か。何よりも、戦乱に踏み荒らされてはおらず、荊州に向かい、結局この土地に居着いてしまう流民も少なくなかった。

一時期は董卓政権の手に落ちた宛だが、今ではその勢力も壊滅。荊州の大軍閥である劉表の支援を受けながら、旧董卓政権の残党と言っても良い張繍が群雄としてこの地に割拠していた。

張繍は、かって董卓軍で最高幹部をしていた張済の一族であり、その勢力をほぼ保ったまま宛にいる。といっても、兵力は六千を少し超える程度で、劉表軍も最近勢いを増した孫策に掛かりっきりだという理由で、あまり援軍を出してはくれない。だから、六千程度で、どうにか曹操軍を撃退しなければならなかった。

既に作戦は立ててある。

徐栄の弟子として、その知的戦術の全てを叩き込まれた張繍である。賈?(ク)が立てた邪悪な策を、現実的な実行段階に移すことに、さほどの苦労はなかった。後は、落としどころをどうするか、である。

「曹操め、それにしても、日の出の勢いだな」

「ですから、我らが生き残るためには、その出鼻をくじく必要があるのです」

「うむ……」

今は乱世。大きな戦でさえ、日常茶飯事に起こる。

小さな群雄はそれこそ泡のように湧いては消え去り、そのたびに多くの血が流れる。小競り合いの類は毎日発生しており、それで死ぬ人間も多い。徐々に小さな勢力は消え去りつつあるが、それでも乱世が止む気配など無い。

本来、張繍は勢力を保てる状況にない存在である。典型的な小規模群雄の一角であり、曹操に飲み込まれ、消化されて消え去る程度が関の山だ。

しかし、それでも。小勢力だからといって、殺されて良いという理由にはならないはずだ。

生きて何が悪い。そう張繍は思う。

徐栄も、生きるための術を叩き込んでくれた。少し斜に構えた所のある張繍だが、徐栄のことは心の底から尊敬している。その教えについてもだ。今の時代は、泥を啜ってでも生き残る者が、最後に笑う。

そう。英雄ばかりが、生きる時代ではないのだ。

「賈?(ク)よ。 私は、英雄にはなれない。 だが、何があろうと、最終的には生き残る男になりたい」

「お任せください。 そもそも、英雄だからといって、殺して良いという訳ではありませぬ。 そうではないからといって、死ななければならないという理由は成り立ちませぬ」

「うむ」

「曹操殿は、先進的で優秀な、典型的な天才にございまする。 そうですな、五百年に一人の逸材といっても過言ではありますまい。 ですが、かの曹操殿であっても、弱者を踏みにじって良いという理由はありませんからな」

そなたは墨子のようだなと、張繍は笑う。

賈?(ク)は、貴方を勇気づけるためだと、笑い返した。

曹操軍は略奪もせず、しずしずと進んできているという。既に無駄な戦力を消耗しないようにするために、国境の戦力は引き上げてある。劉表の援軍も、様々な方法で到達を確約させた。

「後は、呂布の動きか」

「はい。 曹操の目的は、呂布に徐州を取らせることにございます。 我々は、路傍の小石くらいにしか考えておりません」

「その鼻っ柱を、へし折ってくれような」

賈?(ク)が無言で頷いた。

曹操軍が到着したのは、二日後のことであった。

まず、賈?(ク)の指示通り、敵が包囲を終えるまで、張繍は待った。いきなり攻撃を仕掛けてくるようなことはなかったが、その圧迫感は凄まじい。兵力差もあるし、練度も士気も違う。力攻めをされたらこの城など保たない。その上曹操のことである。念入りにこの城を調べて、下準備もしていることだろう。

敵が、矢文を打ち込んできた。予想通り、降伏勧告だ。

にやりと、張繍は口の端をつり上げた。賈?(ク)が読んだとおりである。

曹操は、天才であるのだが、どこか子供のような所がある。それは天才の、凄まじい能力が故の歪みであるという。普段はそれが強みにも発展するのだが、今はその虚を突く。

天才でも、油断はするのだ。

もしも普段の曹操であれば、猛然と攻め懸かり、落城寸前で降伏勧告を出してくるだろう。

「予定通りだ。 城門を開かせよ」

側に控えていた、大柄な男が頷き、下に駆けていく。最近雇い入れた、鮮卑出身の劉勝という男だ。胡車児という用心棒と同じくらい腕が立つので、重宝している。無口だが真面目に仕事をするし、使っていて悪い気分はしなかった。

やがて、城門が開く。まず入ってきたのは、曹操配下の忠誠度が高い将官達だった。特に典偉の姿が威圧的である。ざっと調べるが、楽進はいない。これだけで、敵の戦力は半減していると考えて良い。郭嘉、荀ケの姿も見えない。特に、もっとも厄介かと思われた戯志才の姿がないので、張繍は一安心した。

張繍は城壁から降りると、敵将達にあたまを下げて回った。

仮にも一勢力の長が敵将の子分達にあたまを下げるなどと言うのは屈辱以外の何者でもないが、これも後で勝つためだ。ざっと見たところ、敵の中で使えそうな上級将校はいない。于禁という男がかなり油断できない様子であったが、それくらいだ。後、典偉はずっと張繍の様子をにらみ付けていて、生きた心地がしなかった。この男、頭は悪いと聞いていたが、張繍の企みに気付いているかも知れない。

たまにいるのだ。頭は悪くとも、途轍もなく勘が鋭い男が。呂布を見てそれを知っている張繍は、典偉には絶対に油断しないようにしようと、この時決めていた。

ざっと見たところ、曹操自身は油断していないが、陣容には隙が多い。これならば、何とかなるだろう。

どうやら曹操は、完全に張繍を格下の相手と考え、新米達の訓練をさせようとでもいうのだろう。

この辺りは、賈?(ク)の読み通りである。曹操は油断していて、その証拠を幾つも見つけることが出来るだろうと、賈?(ク)は言っていた。確かに、その通りであった。賈?(ク)は恐ろしい男だと、張繍は思った。だが、だからといって排斥しようとは考えなかった。

それが、敗れ去った郭らとの、張繍の最大の違いであっただろう。

徐栄のところで鍛え上げられた張繍は、人の使い方や活かし方を理解していた。頭がそれなりに切れるだけに、それ以上の存在も素直に認めることが出来た。だから、今。普通だったらどう考えても勝てそうにない相手である曹操に対して、奇跡のような勝機を掴もうとしている。

曹操が宛城に入ってきた。噂通り、かなり小さな男だ。顔立ちも貧相で、無理に背を高く見せようとしているのがありありと分かる。この余裕の無さはどうしたことなのか。天才であり、あらゆる才能に恵まれていると聞いているのだが。自らの容姿にだけは、強い引け目を感じているとしたら。

それはとても人間らしいことではないのかと、張繍は思った。

何でも完璧に出来たら、それは人間ではない。

そう言う意味で、曹操は人間で。故に、勝ち目もあるのだと、張繍は強く念じた。

「貴様が、張繍か」

「は。 宛城の城主をしている、張繍にございます」

「よく降伏を受け入れた。 余はしばらく此処に滞在するが、その間そなたにもてなしを頼もうか」

「ありがたき幸せにございます」

よし、掛かった。

張繍は、心中にて呟いていた。

 

小さな宛城の中を、張繍は典偉と曹操に連れられ、毎日歩いた。渋面を作っていた張繍だが、実際には毎日機嫌が少しずつ良くなっていた。曹操の部下は張繍をよく馬鹿にしていたが、それは別にどうでも良い。

作戦が開始したら、連中は皆殺しだからだ。

賈?(ク)は作戦を開始する前に、こういった。

曹操は、呂布にまず徐州を奪わせるつもりなのだと。

そのためには、二つの隙が必要になる。劉備が袁術と交戦するために、徐州を離れるのがその一つ。

そして、最大の敵である曹操が、許昌を離れて遠征しているという隙が一つ。

つまり、曹操は呂布を動かすためにも、宛で滞在せざるを得ないのだ。

恐るべき先の先まで見通している曹操の策だが、故に一カ所を崩せば、大規模な破綻も起こす。それは、戦略を学んだ張繍にはすぐに思い当たることであった。

其処までの賈?(ク)の読みは、完璧に当たった。その見事なできばえに、口うるさい所がある張繍も満足した。

次に、曹操を致命的な段階まで油断させなければならない。それには、二つのことが必要である。

張繍は、曹操が見回る辺りを重点的に調べ、まず其処へ、わざとやる気が無く、ひ弱な兵士達を配置した。そしてわざわざ彼らに金まで払い、いつも以上にいい加減な勤務をするようにし向けた。

それを聞くと、他の兵士達も揃ってやる気を無くして、どんどん怠け始めた。

張繍は、曹操が見回る先で欠伸をしていたり、堂々と昼寝をしている兵士達を見て、ほくそ笑んだ。それでいい。もとよりこの戦で、宛にて徴募したり、官軍崩れであったりする兵士になど、最初から期待はしていない。

真の切り札は、近くの郷に隠してある、西涼から徐栄や董卓が連れてきた、猛敢な騎馬軍団だ。主に胡軫に従って長安を離れた者達が中心となっていて、その戦闘能力は徐栄騎馬隊にも相当する。恐らく現在では、楽進の率いる騎馬隊がほぼ互角、呂布の騎馬隊がもう少し上の実力を持っているだろうが、それらに拮抗する戦闘能力を持つ、貴重な部隊である。

既に、曹操が滞在を開始してから三日。最初は緊張感を維持していた曹操は、油断し始めている。典偉は相変わらず周囲に虎のような視線を向け続けているが、曹操さえ本気で油断させてしまえばそれで良いのだ。

執務室にはいると、曹操は典偉を見張りに立てて、竹簡に筆を走らせ始めた。張繍が退出したいというと、一瞬典偉が眉を跳ね上げたが、曹操が許可する。深々と礼をすると、部屋を後にした。もちろん監視の兵士がつくが、そんなものは幾らでもどうにでもなる。流石に将軍待遇の張繍の、自室にまで入ることは出来ないからだ。

まずは第一段階攻略完了。

もちろん現段階で、曹操は張繍に対して油断はしていない。しかし、泳がせるという名目で張繍から監視を外した時点で、彼は迷い始めている。賈?(ク)には会わない。というのも、下手に会うと警戒されるからだ。

策は既に事前に練り尽くしてある。

次なる切り札を、投入する時が来た。

自室に戻ると、小柄な娘が待っていた。年齢不詳で、若々しく見えるのだが、実際の年は誰も知らない。彼女の側には、うつろな目をした美しい娘が立ちつくしていた。どうやら山越の出身らしく、浅黒いながらも、とても性的魅力の強い娘であった。恐らく見る男の性欲を増進させる何か特殊な要素を鍛えているのであろう。

生唾を飲み込んでしまうが、しかし理性で押さえつける。これは人間だが、魔性でもある。

そして本来はやってはいけない禁断の技によって、造り出された娘なのだ。

「林どの。 予定のものを揃えてくれたようだな」

「此方でも、揃えるのには苦労いたしましたよ。 張勲将軍に、感謝してください」

「ああ、分かっている」

最近、袁術のところで、張勲という男が急速に財力、軍事力を増しつつある。兎に角あらゆる裏の通路を使って、自分の所に金を運び込むようなやり方を続けているらしい。扱っている品も、あらゆる禁制のものが中心となっているそうだ。

特に、闇の塩が、凄まじい規模だという。

その過程で、性奴隷や、もっと卑劣な目的で用いる人間も、張勲は扱っているという。その経路から、回して貰った娘だ。

この娘にはあらゆる性技を学ばせている他、特殊な薬物で精神を縛っており、それを与える人間の言うことを何でも聞くという。雛氏という名前で、張繍のこの間死んだ兄の妻であったという設定にしているこの娘こそが。曹操に引導を渡す、切り札であった。

「それでは、雛氏。 今晩から、曹操に紹介する。 まだ喪に服している兄嫁だという設定は、忘れておらぬな」

「はい。 仰せのままに」

「曹操は、若い頃からかなり遊び慣れているらしいのだが、背丈に大きな負い目引け目を感じているらしい。 その辺りを、巧くついて、心に滑り込め。 床をともにしたら、徐々に政務に支障をきたすように、曹操に取り入れ」

こくりと、雛は頷いた。

「貴方も手段を選びませんね」

「生き残るかの瀬戸際で、しかも相手は怪物的な天才だ。 手段など、選んではおられぬわ」

「……賈?(ク)どのは、更にもう一つ先まで、戦略を見越しているようですよ」

その言葉にぞくりとした。

しかし、振り向くと、もう林はいなかった。どうやって消えたかも分からない。奴の吐いた呪いにも等しい言葉が、耳の奥に焼き付いていた。しかし、頭を振って追い払う。賈?(ク)は邪悪な策謀を得意としているが、その性質はむしろ善良な所にある。だから、信頼した方が良い。

しばし自室を彷徨き回った張繍は、雛がいることに気付いて、我に返る。まるで人形のように気配のない娘だ。遊び慣れているという曹操も、流石にこんな気の毒で、人間を少し踏み外している娘を相手にするのは初めてだろう。だからこそに、効果がある。

しかし罪深いことだとも、張繍は思った。手段は選んでいられないし、張繍が悩んだ所で、人間の闇は消えない。

まだ、しばらく賈?と接触することは出来ない。

その間に、疑念が深まりすぎないようにしよう。そう自分に言い聞かせながらも、やはり張繍は己の中に芽生えた闇が、徐々に大きくなるのを否定できないでいた。

 

林は、集まっている部下達のいる廃屋へ顔を出した。その右手には、曹操の細作の首を掴んでいた。

部下達が青ざめる中、机の上にそれを置く。ルーが鍛えた、熟練の細作だったのだが。今の林の前には、無力であった。

組織の長になり、特に孫堅の死を主導してからというもの、林の実力は日増しに強化されている。戦略的な判断が出来ることもあり、すでに細作単独としては、中華の闇にて最強と謳われつつある。

「あと三匹潜んでいる。 お前達も、油断せぬように」

「ははっ」

長老格の男が一礼する。その隣にいた劉勝が、まず挙手した。

「林大人。 今回の目的は、一体何なのでしょう」

「知れたことだ。 曹操を負けさせつつも、死なせないことだ。 ただ、邪魔な典偉には、此処で死んで貰う」

「典偉が、邪魔ですか」

「分かっておらぬようだな。 曹操は本来孤独な男で、腹を割って話せる相手が一人もいなかった。 だが、典偉が現れてからは、その真面目で誠実な人柄を信頼して、何かにつけて己の腹の内を見せている。 その典偉が死ねば、どうなると思う。 今回は曹操の戦略をくじくと同時に、奴の心を闇に落とすのが目的だ」

林が口に手を当てて含み笑うと、部下達は蒼白になって俯く。そうだ。これでいい。部下は恐怖によって縛るに限る。

「それで、典偉に引導を渡すのは、私の役目でしょうか」

「たわけ。 それは私の役割だ」

「失礼いたしました」

「そんな楽しい仕事を、譲る訳にはいかぬでな。 ただ、お前には胡車児をくれてやるから、存分に楽しんで殺せ」

劉勝は強い相手と戦うのを好む。部下を押さえつけるだけではなく、楽しみも与えてやることが、人事のこつだ。劉勝は一瞬楽しそうに目を光らせて、深々と礼をした。実力的にも拮抗していたし、戦うのを楽しみにしていたのだろう。

首を始末するように命じて、部下達を解散させる。林は闇に紛れて外に出た。

曹操軍は若い士官が多く、油断し始めている。これはいざ張繍の作戦が開始されたら、殺し放題だ。

典偉は恐ろしく勘が鋭いが、しかし既に呂布にさえ一定距離なら気配を隠せる林である。既に父母の腕は超えている。だが、油断すれば流石に危ないから、二重三重に手を打っておかなければならないだろう。

いずれにしても、此処で典偉は殺す。そして、曹操の戦略も、破綻させる。

今、曹操に此処で勝たせる訳には行かないのだ。此処で曹操に勝たせてしまうと、河北を統一し切れていない袁紹を、曹操が追い越してしまう。それでは、一気にこの大陸の形成が決定して、混沌が産まれようが無くなる。

林が、それでは楽しくない。

何より。細作も、生きる場所が無くなってしまうだろう。

もちろん後者の理由など、部下達を納得させるためだけのものだ。林の本音としては、楽しく面白くこの大陸を嬲ることが出来ればいい。その過程で英雄であったり豪傑であったりする者を、容赦なく殺すことが出来れば更に楽しい。

曹操も、いずれその標的として、おもしろおかしく惨殺したいところだ。

孫堅も、林の手に掛かった。これから、典偉も同じように死んで貰う。

後どれだけの英雄を殺せば、この欲求が満足するのかは分からない。分かっているのは、人間の業が、際限なく深いという事だ。

ふと、城壁から下を見ると、賈?(ク)の姿があった。

曹操軍の情報を流してやったのは林だが、それを元に見事な策を練り上げたのはあの男だ。もし、敵になると、厄介な相手に化けるかも知れない。

油断はしない方が良いだろう。そう林は思った。

張繍は積極的に動き始めている。曹操の細作を処分しながら、林は注意深くその様子を見守る。何しろ勝ちすぎないようにしなければならないし、それでいながら勝たせなければならないのだ。その天秤はとても精緻で、操作が難しい。操作そのものはとても楽しいのだが、いつも神経を削られる。

翌日から、張繍の作戦は始まった。開かれた酒宴で、曹操に雛を早速紹介したのである。

曹操の部下達は、既にだらけはじめていた。張繍の部下がだらけきっているのを見て、己も油断し始めているのだ。それに気付いていない若い士官や兵士が多く、苦々しげにしていた熟練兵達も、やがて気が抜け始めていた。

呂布は、まだ行動を起こしていない。

袁術と劉備の戦闘は一進一退、場所によっては劉備が押し込んでいるという。劉備は積極的に戦線を拡大しないようにしているらしいのだが、関羽や陳到が出張るとつい勝ちすぎてしまい、苦労している様子だ。

呂布はどうやら、劉備が勝ちすぎるのを待っているらしい。もちろんこれは陳宮の入れ知恵だ。よくしたもので、王允は張勲と名を変えてから兵法を学び直したらしく、劉備軍が勝ちすぎないように裏から手を回している様子だ。様々な陰謀が絡み合い、その先端は宛に集まっている。

そして、自分が一番壮大な陰謀をくみ上げたと思いこんでいる曹操のみが、それに気付いていなかった。

宴会で、曹操は早速雛を気に入ったらしい。いわゆる異国的な典偉は曹操の女好きにはあきらめを抱いている様子で、主君の様子にあまり感心を払っていなかった。まだ幼ささえ残している曹昂だけが、不安そうにしている。

あれも、殺すか。

既に曹操の息子達は、あらゆる方向から調べた。孤独癖がある上に、訓練や指揮を見る限り戦下手な事が予想される曹丕よりも。恐らく誰からも愛される曹昂の方が器量が上で、かなり面倒な相手になる。ならば、今の内に殺しておいたほうがいい。

林は、天井裏に隠れて宴会を見守りながら、そう呟いていた。

 

この時代の宴会は、最上座に城主やその賓客が並び、以降順番事に座っていく。座には杯と台に乗せられた山海の珍味が並べられ、楽隊による音楽も披露される。女官達の重要な仕事は、賓客に対する献杯と、楽曲の演奏、それに舞いだ。

舞いに関しては、男が剣舞をすることもある。しかし今日は、雛が剣を持って舞っていた。情熱的な舞いだが、感情は一切こもっていない。城主の席に座っている曹操に対して、たっぷり色目も使う雛だが、しかし。

それはあくまで技術的なもの。情感が籠もっているように見えても、それはうわべだけだ。

涙腺を制御できる女性の特性もある。男性は女性の心理を洞察するのがとても下手であり、曹操も例外ではない。いくらかの事例から、それを知っている林は、ほくそ笑みながら様子を見守る。

実のところ、雛が主人と認識しているのは、張繍ではない。林である。

薬を仕込まれ、「人形」となった雛に、「張繍の命令を聞くように」と指示してある。だがいざというときに優先されるのは林の命令だ。だから、状況次第で自害させることも出来るし、賈?(ク)を刺し殺させる事も可能だ。

だが、それでは面白くない。

操り人形には、あくまでそれに相応しい存在でいて貰えばいい。

闇の中から、まるで蜻蛉のように浮かび上がる細作の気配。部下のものだ。

「林大人」

「如何したか」

「劉備が袁術に大勝し、新兵達が追撃を開始しています。 この様子だと、関羽と陳到が制御する前に、砦の二つか三つは陥落するでしょう」

頷くと、幾つか指示を出して、部下を下がらせた。これで、呂布が動く。後は、一気に渦巻く混沌に棒を入れ、ゆっくり巻き上げていけば良い。

林は天井裏からの監視に戻る。曹操の目は雛に釘付けで、張繍が少し鬱陶しがりながらも、兄嫁だと応えている。これも実は作戦の一つである。曹操が兄嫁を略奪するという事は、張繍の権限を上回ったことを意味しているからだ。そう理屈付けすれば、曹操は更に大喜びして行動を起こすだろう。

雛を抱きかかえるようにして、酔った曹操は自室に消えた。

典偉もそれにあわせて、警護にはいる。

隙は、まだ無い。

張繍も、仕掛ける気がないのは一目で分かる。事実、全く動こうという気配が見受けられなかった。

気長に待つとする。

美味しい果実が熟するまでは、時間が掛かるのだから。

 

不安に苛まれながらも、陳宮は勝利に沸く味方の中で、焼け落ちる徐州城の城門を見つめていた。

劉備が最大限離れた隙をうかがい、呂布をけしかけた。

呂布は、油断もしていなかった徐州城を、見事に落とすことに成功した。主将であった張飛は下丕に逃げ、今は恐らく劉備に急報が飛んでいるはずだ。劉備の家族は取り逃がしたが、既に徐州は呂布が抑えたと言っても過言ではない。

しかし、である。

何かが、喉に引っかかっていた。この間から姿を見せない林と言い、不気味な動きを見せている宛と言い、何かがおかしい。陳宮は頭が良い人間だと自負していたが、それが故に、己の範疇にない現象には弱かった。

呂布が制圧した徐州城に入る。既に残敵の掃討は終了しており、裏切った旧陶謙政権の主将達もあわせて凱歌を挙げる。劉備にとっては気の毒かも知れないが、これが乱世というものだ。

最後に城に入ってきた張遼が、てきぱきと修復の指示を出している。城内の民衆は、いずれも白い目で呂布軍を見ていた。歓迎されていないのは明らかだが、時間を掛けて解決していけば良い。

呂布が、城主の座に着く。一斉にひれ伏す配下達を見て、呂布は不機嫌そうに言った。辺りには激しい戦闘の痕跡が残っており、床には血も飛び散っていた。

「あまり俺好みのやり方ではないが、劉備とは戦えるのか」

「お望みとあらば。 しかし、今は控えた方がよろしいでしょう」

「何故だ」

「我らの目的は、袁術の勢力を奪い取ることにございます。 袁術の抑えている豊かな土地と経済力、それに兵士を手に入れてから、群雄と戦っても遅くはありますまい。 今は徐州の戦略的重要性を利用して、兵力と財力を蓄えましょう」

陳宮が言うが、呂布はあまり嬉しく無さそうだった。此処はあくまで飛躍するための土台に過ぎない。つまり、此処にこだわることは、あまり意味がない。そう言っているのだが、伝わっている自信が無くなってきた。

「呂布将軍」

「分かっている。 だがな、陳宮よ。 俺は、あくまで誇り高き魔王でありたい」

「魔王に背中を向ける人間が悪いのです。 何も気に病むことはございません」

「そうか。 だが、覚えておけ。 これが最後だ。 劉備と戦えぬのなら、わざわざ背中を撃つこともあるまい。 袁術の土地を奪う下準備だというのならば、徐州と下丕だけで充分だ」

恐れていたことになった。呂布は進軍を止めて、小沛に劉備を受け入れると言い出したのである。

微妙な軋みが、全ての戦略を崩し始めている。陳宮は、呂布を裏切る必要があるかも知れないと、この時思い始めていた。

 

2、宛炎上

 

自宅で、いそいそと参内する準備を整える張勲。寿春は今、俄に活気づいていた。彼方此方で人が活発に動き、水路には船がいつもの倍は行き交っている。しかしながら、活気には大きな影があることも、張勲、いや王允は理解していた。

この活気の源泉は、他でもない。己の実力が帝を名乗るに相応しいと考えた袁術が、「成」なる国を立ち上げ、その皇帝になるべく動き出したからである。

袁術は漢の名族出身者であり、確かにその財力も権力も群雄にぬきんでていた。彼に確実に勝てる者となると袁紹くらいしか存在せず、曹操でさえ総合力では一歩劣る。しかしながら、彼の周囲は今、急速にきな臭くなりつつあった。

徐州では彼の派遣した部隊が劉備にこっぴどく打ち砕かれた。揚州では孫策が独立の動きを見せており、度重なる要請にも応えようとしない事態が生じている。これらの不安を押さえ込むために、袁術が策を要求して。

そして、張勲が、焚きつけたのであった。

だから、張勲が、袁術即位を煽った張本人である。

何故、そのようなことをするのか。それには、ちゃんとした戦略が裏にあった。

登城するためには、船に乗った方が早い。衰えが来始めている体を急かして、船に乗り込む。護衛の兵士達が乗り込むのを見届けると、船頭が櫂で岸を押した。三十人乗りの、少し大きな船だ。このまま登城することを考えて、多少凝った装飾になっている。

水路はどんよりと濁って、所々泡立っていた。死んでいる魚も目にする上、何より異臭が凄まじい。排泄物が流し込まれていて、その処理が追いついていないのだ。だから、高級な船には、例外なく香を積んで焚いている。

この船も、香を積んでいる。だから多少はましだが、しかしここのところ異臭がますます酷くなってきていた。

しばし進むと、城門が見えてきた。張勲は袁術軍でも最高幹部の一人だから、他の船は皆道を譲る。無言で腕組みする張勲は、時々兵士の中に、見知った顔を見かけていた。

董卓政権が壊滅してから、此方に流れ込んだ人材は少なくないのである。

やがて、登城した。城内の池に横付けして、降りる。船頭に報酬を渡してやり、帰る時間を告げる。頷いた船頭は、すぐに岸を離れていった。

護衛の兵士達を置いて、張勲は城内へ。無闇に豪奢な城の中は、袁家の力を象徴するように、古今の美術品が大量に陳列されていた。中には秦以前というふれこみのものもあり、好事家を呼んでくれば涎を垂れ流すような空間である。

やがて、会議を行う部屋に到着。既に何名かの将が来ていた。その中には、この間千ほどの兵を連れて袁術に降伏してきた揚奉の姿もある。

「遅くなった」

「何、袁術将軍はまだ寝ておられるほどだ。 気になさることはない」

頬杖をついたまま応えたのは、李豊。その隣では、楽就が腕組みしたまま居眠りをしている。奥でむっつりと不満そうにしているのは紀霊である。この間の大敗では、後陣に位置していて、前衛にいた将軍の暴走を食い止められなかった。何でこんな所にいるのかよく分からない真面目な男であり、責任感も武勇も無駄に捨てているような輩だ。袁家に恩があるらしいのだが、義だの恩だのは乱世において笑い話に過ぎない。いずれ、無駄死にするだろうと、張勲は思っていた。

他にもおいおい何名かの将軍が来るが、いずれもだらけきっている。特に袁術の一族達は、産まれながらに権力を得ていて、民を踏みにじって当然と考えているような連中ばかりだ。

張勲はこの国を思って、董卓と手を組んだ。

だから今は、この国を新たなる王の下に再生させなければならない。旧時代の腐敗した権力構造は、一掃しなければならないのだ。

だから、袁術に、皇帝を名乗らせる。

そして見せしめに、滅ぼさせるのだ。一緒に、旧時代に利潤を貪った無能きわまりない袁家の者達には、纏めて墓の下に行ってもらう。それが、張勲が、袁術に身の程知らずの皇位僭称をさせる目的である。

昼近くになって、やっと袁術が現れる。昨晩も遅くまで女を侍らせて飲んでいたらしく、目の下に隈ができていた。

「皆の者、早速だが、会議を始める」

何が早速だ。心中で呟く張勲。

これが、袁術のいる寿春の現実であった。

夕刻まで無意味な軍議を繰り返した。要するに劉備に負けた責任をどうするかという内容であり、既に戦死している朱道将軍に全て押しつけることで決まった。もとより袁術との関連も浅い男で、責任を取る形で全ての財産を没収するという内容になり、袁術は満足した。もちろん没収された財産は、袁術の懐にはいるのである。

突然袁術が素っ頓狂な声を挙げた。

「これ、痛いぞ。 揉め」

「はい、直ちに」

部屋に数人の女が入ってきて、袁術の肩を揉み始める。昏君(馬鹿殿)という言葉があるが、この袁術はまさにそれだった。十年ほど前までは、兄への対抗心を剥き出しにして、無能なりに頑張ってもいたのだ。だが、強大な勢力と、周囲に敵がいない状況が、袁術を天狗に変えてしまった。

今では、保身ばかりに頭が働く、小さくて奇怪な怪物に成り下がった袁術は。毎晩のように酒を飲み、女を抱き、ただそれだけのために生きていた。

会議が終わると、張勲は自宅に戻る。徐州の情勢は気になるが、戻らなければ手に入らない。この寿春に割拠している細作の勢力は多いのだが、嘆かわしいことにいずれもが袁術と関係がない所で情報をやりとりしている。だから張勲が自分で作った闇の情報網と物資の流通網を使って、目的に向けて動かなければならないのだ。

自宅に戻ると、細作が何名か待っていた。寿春に本拠を持つ者達で、一人は林の組織に属している。

「何か、新しい情報は」

「劉備は小沛に入りました。 しばらくは其処で過ごす模様です」

「何、呂布は劉備を殺さなかったのか」

「はい。 噂によると、魔王は堂々とあるべきだとか言っているとか。 今回の策は不本意で、故に劉備にはいずれ徐州を返し、決着を付けるとかほざいているそうです」

相も変わらず訳が分からない男だ。多分陳宮の入れ知恵ではないだろう。呂布は己の奇怪な信念に基づいて、そう判断したという訳だ。劉備もおかしな相手に見込まれて、さぞ迷惑していよう。

もっとも、それを押しつけたのは、張勲と陳宮なのだが。

「まあそれはいい。 後は曹操だが」

「宛城で曹操は敗退、軍は壊滅した模様です。 典偉は戦死、曹操も生死が分かりません」「そうか。 予定通りだな」

今、張勲にとって重要なのは、袁術が皇帝を名乗った挙げ句死ぬことだ。曹操は今の勢力をもう少し維持して、その後機を見て死んで貰う。献帝は賢く、張勲が考える新しい時代の漢にはうってつけの人材だ。

後は、献帝の側に潜り込ませた董承と、更に伏官、後は馬騰らと連携していく。いずれにしても、十年単位で策を練らなければならないだろう。

「詳しく、宛城の戦況を」

「は。 そもそも、戦端が開かれたのは、曹操軍が宛に進駐してから、一週間後の夜でした」

 

典偉は、すっかりだらけきった味方の兵士達の間を歩きながら、歎息していた。彼らを叱っても、殆ど意味がない。

何しろ曹操からして、すっかり張繍の兄嫁だという女に入れ込んでいて、だらけきってしまっているのだから。

曹操はあののろわしい宴会の夜、紹介された雛という女に夢中になっていた。異国的な情緒のある美しい女だが、あらゆる性の技を覚えているだけではなく、曹操はある事が重要なのだと、典偉に言っていた。

それは、朝になってもいなくならないこと、なのだという。

実のところ、曹操は途轍もなく寝相が悪い。野戦陣地で寝ている所を何度か見ているが、確かに寝ている間中何もない空間に蹴りや拳を繰り出し、肘を打ち込み、膝を放っている。これでは、一緒に寝ている愛妾はたまったものではないだろう。事実曹操の妻が、むっつりとした様子で、夜半に寝室を出て行くことを何度か典偉は見ている。

異国的な上、様々な性の技を持ち、しかも曹操の寝相から逃げない女。曹操は年甲斐もなくすっかり夢中になり、毎晩彼女を寝室から出さない熱愛ぶりであった。別に、それについて典偉がとやかく言う気はない。英雄色を好むという言葉もあるくらいだし、女性の魅力については典偉も分かるつもりだからだ。

しかし、である。曹操は例え夢中になっていても、頭はきちんと働く男だった。それなのに、今はすっかりおかしくなってしまっている。骨抜きという言葉があるが、その内容通りになってしまっていた。

精根が尽き果てて、朝も起きてくるのが遅い。政務をしていても、誤字脱字を頻繁している。宛と許昌を往復している文官が、嘆いていた。殿はこのような誤字をする人ではなかったのに、と。

曹昂が来た。不安が強くなっている典偉は、絶対に于禁らがいる駐屯所からでないようにと言っているのだが、それでも来てしまったのだ。典偉は駆け寄ると、強い口調で曹昂に言った。

「若様、なりませぬ」

「しかし、父上は」

「曹操様は、今病気におなりなのです。 あの雛という女によって、魔性の魅力に飲まれてしまったのです」

恐ろしいことだなと、曹昂は呟いた。典偉も同感だ。

兎に角、于禁は今、兵士達を必死に訓練して、士気を取り戻させている。後、典偉は楽進にも書状を出して、此方を視察するようにとも伝えている。徐州の状況が入ってこないのも気になる。細作達は一体何をしているのか。

「典偉、一つ気になることを聞いた。 此処に常駐しているはずの細作達を、見かけないというのだ」

「それは、誰から」

「于禁からだ。 于禁の所へ、細作が姿を見せないという。 しかし、父上の所には、情報が行っていると言うではないか。 これはどういう事なのだ」

それは、気になる。曹操の所に出入りしているのは、あのルーが鍛えた細作達だ、そのような不備が出るとは考えにくい。

まさか。もう既に、闇ともいえる何者かが、動き出しているのではないだろうか。

曹操の所に、大股で踏み込む。ぼんやりと竹簡に筆を走らせていた曹操は、顔に墨を付けたまま振り返った。

「ろうした、てんい」

「どうしたもこうしたもありませぬ。 周囲がおかしな動きを見せてございます」

「おかしな、うごき、らと?」

曹操はろれつも回っておらず、目の焦点も合っていなかった。典偉は大きく歎息したが、どうにもできなかった。まさか、手を挙げる訳にもいかない。しかし、于禁については、どうにか出来るかも知れない。

「曹操様、どうやら于禁の方へ、細作が連絡をしていない模様です。 曹操様に昨晩連絡をしてきた細作は、どのような輩でしたか」

「声しかきいておらぬ。 なに、だいじょうぶれあろう」

「それで、何が大丈夫なのですか!」

「みろ、てんきだ。 みなへいわで、いいことら」

頭を抱えたくなったが、我慢する。曹操に正気に戻って貰うには、方法はただの一つしかない。

雛を遠ざけることだ。

流石に非戦闘員を殺すことに関しては、典偉も負い目を感じた。だから、殺さなくて済む方法を採りたい。何よりあの娘は雰囲気がおかしい。薬物か何かで心を壊されているのではないかと、見ていて思ってしまう。もちろん、兄嫁などと言うのは大嘘だろう。おぞましい何かのやり方で、作り出された特殊な存在であることは間違いない。一部の高級官僚や豪族の中には、贅沢に飽きすぎておぞましき趣味に走る者達もいるという。そう言った者達が喜ぶような存在を提供する闇の流通網があると言うが、きっと其処から流れてきたのだろう。そんな風な結論を、典偉はしていた。

張繍とすれ違ったので、咳払いする。慌てて典偉の方を見たので、やはり此奴は何かを企んでいると、確信。剣に手を掛けるが、さっと胡車児を始めとする何人かが、典偉との間に壁を作った。

「典偉様、どうなさいました」

「黙れ。 貴様らのもくろみは、俺が絶対に阻止する」

「何を恐ろしいことを。 私はただ曹操様に服しておりますし、典偉様の事を尊敬もしております。 そのようにすごまれても、恐縮するばかりにございます」

「おのれ、白々しいことを!」

突破できる自信は、ある。

だが、意外にも。典偉の袖を引いたのは、いつの間にか後ろにいた曹昂だった。

「典偉、もういい。 戻ろう。 すまなかった、張繍将軍。 典偉は、少し気が立っているだけなのだ」

「連日の激務、無理もないことです。 気にはしておりませぬ」

一礼すると、張繍はその場を去る。咎める典偉の視線に、曹昂は声を低くした。

「いかん、典偉。 今仕掛けては駄目だ。 大変なことが分かった」

「如何なさいましたか」

「細作達の亡骸が見つかった。 三人とも、とっくの昔に殺されていたようだ。 城外に埋められていた」

「何と!」

それだけではないと、曹昂は言う。

彼らの一人が、曹操軍しか知らない拠点に、残していてくれた。城外に、およそ二千の精鋭騎兵部隊が分散して隠れているという。もしもすぐに逃げだそうとすれば、連中の追撃を受けて、壊滅だ。

「騎馬隊は、完全に出撃態勢を整えているという。 もしも此方が動き出せば、城内の敵もあわせて襲ってくる。 油断している上に、編成を解除してしまっている味方では対応できない。 即座に父上は討ち取られてしまうだろう」

「そうで、ありましたか」

「更に悪い報告だ。 劉表の援軍が、側まで来ているそうだ。 規模はどうみても二万を超えている。 もう、我々に、勝ち目はない」

悔しそうに、曹昂は俯く。これは偉大なる曹操の人生でも、最悪の失敗の一つになるだろうとも、曹操の長子は言った。

曹操は天才だが、むらの多い男だ。油断から足下を掬われ、そしてすっかり骨抜きにされてしまった。そして今、多くの将兵が、その失敗によって命を落とそうとしている。

だが、典偉は曹操にこの乱世を鎮める可能性を見ている。一度や二度の失敗で、曹操を見限ろうとは思わなかった。むしろ、この失敗を糧にして、更に大きく飛躍して欲しいとも思う。

「典偉。 一つだけ、父上を逃がす方法がある」

「何でございましょう」

「恐らく今夜、敵は襲撃を仕掛けてくる。 其処で、今動ける于禁軍の精鋭を駆使して、父を救い出す。 この宛はある一カ所だけ、とても抜けやすい場所があって、其処を使えば父を脱出させることが出来るだろう。 しかしこの策には、時間を稼ぐための人材が必要なのだ」

「そのようなことでしたら、問題ありません。 この俺の命を、使ってくださいませ」

すまぬと、曹昂は深々頭を下げた。

既に覚悟していたことだ。典偉は笑って、応えた。

「立派になりましたな、若様。 必ずや、曹操様と一緒に、逃げ延びてくださいませ」

「典偉も、時間を稼いだら降伏せよ。 必ず、助け出してみせるから」

頷くことで、安心させられると知っている。だから、典偉は頷いて見せた。

そして、今晩で我が人生は終わりだと、覚悟を決めた。

 

夜半過ぎ。

念が入ったことに、雛氏と一緒に曹操が寝込んだ所を見計らい、張繍が行動を起こした。全城門を塞いで、一気に攻撃を仕掛け始めたのである。

典偉は寝室に乗り込むと、今丁度雛を押し倒そうとしていた曹操の頭をひっぱたき、頭の上から手桶で冷水を被せた。これが最後の奉公だから、多少荒っぽい事も出来る。流石に呆然とした曹操と、遅れて寝室に入った兵士達に、告げる。

「謀反にございます!」

「……?」

「曹操様、謀反が起こりました! 張繍めが兵を率い、曹操様を殺すべく動き出したのです!」

その間、不自然なくらい雛は無反応だった。しばし小首を捻っていた曹操だが。

やがて、不意にその目に光が戻った。

わなわなと震え始める曹操。一気に精神が覚醒していくのが、典偉には分かった。慌てて周囲を見回した後、曹操は短く吠えた。

「くそっ! 余としたことが!」

「この時に備えて、曹昂様が于禁将軍と示し合わせ、脱出の手はずを整えてくれていました。 すぐに北門へお向かいください」

「うむ、鎧を着ている暇はないな。 馬を引け!」

慌ただしく兵士達が外に出て行く。そして、曹操の愛馬である絶影を引っ張り出してきた。既に老馬になりかけているが、その速力は未だ衰えることを知らない。小柄だが身体能力の高い曹操は、ひらりと身を躍らせ、絶影に飛び乗る。一瞬だけ雛を未練そうに見たが、頭を振って見事絶雑念を追い払った。

「典偉、お前も」

「皆、曹操様をお守りして、北門へ急げ。 途中、味方を見かけたら、北門へ逃げるように伝えよ」

「典偉!」

「ここで、典偉めは皆を守りまする。 曹操様は、己の失敗をかみしめながら、生き残って、この乱世に終止符をおうちください」

曹操が、流石に落涙した。そして、視線を典偉から逸らす。

「聞いておらぬ。 待っているから、必ずや生き残れ」

「みな、急げ!」

典偉も曹操から視線を逸らし、そして愛用の戟を手にして、曹操の屋敷の門に立った。構造上、此処を抜かれなければ、曹操に敵兵は追撃を掛けることが出来ない。出来ることは出来るが、あまり大人数では迫れない。

北門は既に于禁が抜いているはずだ。敵の騎馬隊は混乱している味方の主力を踏みにじっているだろうが、それだけは何とか出来るはず。

闇夜から、見る間に大勢の敵が現れる。槍を揃えて迫ってくる無数の敵兵。典偉は戟を振りかざすと吠えた。

「我こそは曹操様の配下、悪来典偉! 腕に覚えがある者は、前に出よ!」

「て、典偉だ!」

逃げ腰になった兵士を無造作に戟で貫くと、天に向けて放り投げる。恐怖の声が上がる中、敵兵に典偉は突進した。

戟を振るい、打ち下ろし、そして薙ぐ。首が飛び、血がまき散らされ、そして引きちぎられた人体が吹っ飛んだ。悲鳴と怒号の中、無数の槍が飛んでくる。何本かが、典偉の雄偉な体躯に突き刺さる。だが、気にしない。

「おおおおおっ!」

絶叫。全身が熱い。

矢が飛んでくるが、ことごとく吹き飛ばし、はじき返す。遅くて鈍くて話にならない。突き刺し、えぐり、蹴り飛ばし、はり倒す。戟を振るって兵士の首を刎ね、蹴り飛ばして背骨をへし折る。

悲鳴の中、典偉は、いつの間にか周囲に死体の山が出来ている事に気付いていた。己の全身からも、鮮血が流れ出していることにも。大量の血と煙。さて、胡車児の奴はどうしたか。

踏み込み、戟を振るう。逃げ腰になった兵士を掴み、放り投げた。身長の四倍も飛んだ兵士は、悲鳴を上げながら落ちてきて、頭から潰れた。わっと逃げ散る敵兵だが、すぐに数を揃えて戻ってくる。

これでいい。

典偉が此処で敵を引きつければ引きつけるほど、曹操が逃げる時間が稼げるのだ。更に来い、幾らでも出てこい。そう呟きながら、典偉は拝み討ちに敵兵を切り伏せ、戟で突き刺し、素手で殴り殺した。

「手が出せません!」

「矢を……」

敵の指揮官らしき男に、戟を投げつける。串刺しになった敵は屋敷の土塀に突き刺さり、目を剥いて即死した。飛びつき、戟を引き抜くと、土塀が崩れる。一斉に敵兵が槍を突き刺してきたが、気にもならない。

戟を振るって、片っ端から叩きつぶした。

もう百人は倒したか。既に頭に血が上りすぎて、視界がぐらつき始めている。二刻は戦っているはずで、これなら曹操は逃げ切れるだろう。口の端をつり上げ、もうひと吠え。もう一刻くらい、時間を稼ぎたい。曹操だけではなく、他の兵士達も出来るだけ逃がしてやりたいのだ。

血震いする。敵はいつの間にか全滅していたが、まだまだ敵の戦力はこんなものではない筈だ。だから、まだまだ心身の戦闘状態は解除しない。

また、敵の一団が来た。百人はいる。

叩きつぶしてやろうと、踏み出した、次の瞬間。まるで、巨大な毒蛇に睨まれているかのような悪寒が典偉の全身を包んだ。

振り返り様に、飛んできた刀をはじき返す。女の声がした。

「ほう。 これを防ぎますか」

「貴様、何者だ」

「雛を仕込んだ者だと応えておきましょう。 ちょっと待っていなさい。 邪魔を始末します」

ふっと、女が走り出す。同時に、周囲に、無数の闇の影が浮かび上がった。細作だ。こんなに潜んでいたのか。

兵士達が悲鳴を上げる中、女が走る。その両手にある柳刀がしなる度、頸動脈から血を迸らせた兵士達が横転し、絶叫し、倒れていく。そして、細作達が爆破したのか。屋敷の門が吹っ飛び、崩れ落ちた。

一瞬だった。殆どの兵士は進路を防がれたから来られなくなった。不意を突いたという理由もあった。だが、瞬時に二十人は倒した。あり得ない腕前である。奇計に頼るという点はあるが、それに特化した技術だと考えれば、やはり恐るべきものがある。既に生きている敵兵はいない。刀についている血を舐め取ると、女はゆっくり振り返った。

闇夜の中、女の目は殺気に光っているかのようだった。

これは、人間ではない。人間の姿をしている、人妖だ。

「さあて、楽しく殺すとしますか」

「おのれ、もののけめ!」

「もののけ? そんな下等と一緒にされては困りますね。 邪神と、呼んで貰いましょうか。 悪来典偉」

ちりちりと感じる。女の全身から吹き上がる、狂気と、それに伴う圧倒的な実力を。いかんと、典偉は思った。此奴は恐らく、彼が見たどんな相手よりも危険だ。此奴を生かしておくだけで、この大陸は闇と混沌に閉ざされるような気がしてならない。

典偉は、残る全ての力を掛けて、この女を倒すと決めた。最後の奉公だ。

踏み出す典偉。女はにやりと笑うと、指を一つ鳴らす。部下らしい細作が頷くと、放り投げてきた。

小さい鞠状のもの。

その正体に気付いた時。典偉は、目を剥き、全身を怒りに変えて絶叫していた。

「お、おおおおおおおおおお、おああああああああっ!」

「おお、そうそう、忘れていましたね。 曹昂は、昼すぎほどに、私が殺しました。 思った以上に頭が切れるようでしたし、放っておくと邪魔でしたので」

「き、貴様、貴様……っ!」

「暗がりに連れ込んでよってたかって刺し殺した時も、最後まで言っていましたよ。 父上、典偉ってね。 体の方はいらなかったので、お鍋で軟らかく煮てから、その辺のわんわん達にあげました」

「ま、まさか、曹操様も!」

典偉の脳が、沸騰しかけている。身内の死は今までも経験した。戦いの中で、狂気に落ちてしまった者だって見た。

だが、此処までの外道鬼畜が、好き放題に邪悪を振りまくのは、流石にはじめて見る事であった。

「うふふふふ、ご安心を。 曹操どのはしっかり許昌まで逃がして差し上げますよ。 ただ、彼がこのまま覇道を進めるのは、私としてはあまり面白くないのです。 進めるにしても、今の機会ではまずい」

「貴様ああっ!」

「この世界は、私の、玩具なんですよ。  ふふふふふ、曹操もいずれ、私がおもしろおかしく嬲り殺しの目に遭わせてあげましょう」

完全に沸騰した典偉が斬りかかるが、戟が貫いたのは、女の残像だった。上。振り向き様に、戟を振るう。いない。また残像。後ろか。背中に灼熱。背骨をえぐるようにして、柳刀が潜り込んできた。

致命傷だ。

全身に受けていた傷から、鮮血が噴き出すかのようだ。

いつもだったら反応できた攻撃に、対応しきれなかった。兵士達が繰り出した槍によって、鎧が傷ついていたから通った一撃だった。しかし、しかしだ。この怪物が、それらを全て計算していたのは、間違いなかった。

典偉は絶叫しながら振り向き、女につかみかかる。しかし、虚しく手は残像を切るばかりであった。更に、何カ所も鎧の傷から柳刀が潜り込んでくる。残像を残しながら周囲を飛び回る女が突き刺してきていたのだ。噴き出す鮮血が、周囲を朱に染めた。

前のめりに倒れる。戟を手放してしまった。急速に失われていく意識の中、典偉は己の頭の上に、女が着地したのに気付く。

「おお、忘れていました、悪来典偉。 私がわざわざ貴方を直接殺しに来たのには、理由が二つありましてね」

「お、のれ……!」

「一つは曹操の心を闇に落とす必要があったこと。 貴方は曹操にとって、数少ない本音を吐ける相手ですから。 前々から貴方は邪魔だったので、殺す計画を立てていたのです」

手を伸ばして、戟を掴む。だが、女が柳刀を一戦させると、手首から先が無くなってしまった。歯ぎしりする。此奴は、まさに邪神だ。万全の状態でも、倒せるかどうか。疲弊した状態では勝てなかった。

「もう一つは、ひひひひひひっ! お前という男を、英雄を自らの手で殺す快感を、他の誰にも譲りたくはなかったのですよ。 きひひひひひ、さあ、見苦しく命乞いでも、格好良く啖呵を切るでも、好きにしてください! どっちにしても、ひひっ! 楽しくて仕方がありませんから!」

三日月のように口をゆがめて女が笑っている。そして、細作どもは、それを見て心底怯えきっていた。闇に生きる細作達でさえ、この女の狂気を恐れている。あまりにも深い邪悪が、其処にあった。

典偉は、最後の言葉を吐き出した。

「お前は、曹操様より遙かに孤独な奴だな。 哀れむぞ」

それを最後に。典偉は、闇に意識を鎮めた。

時間は稼いだのだ。

悔いは、もう無かった。

 

かろうじて宛城から脱出した曹操は、被害の多さに愕然としていた。

死者、およそ一万。連れてきた兵士達は壊滅と言っても過言ではない。特に次代を背負う若い将軍達はほぼ全員が戦死しており、かろうじて逃げ延びた曹真と、事前に脱出の準備を整えていた于禁しか生き残りがいなかった。

その于禁が引いた防御縦深陣のおかげで、どうにか曹操は生き残ることが出来たのだ。丁度現れた劉表の援軍と、張繍の騎馬隊による猛烈な追撃も、どうにか食い止めることが出来ていた。

それだけではない。

一部の青州兵が、この敗北に乗じて略奪を行うという事件があった。山賊同然まで落ちていた連中だから、もとより非常にガラが悪い。当然、己の悪事を反省することもなく、むしろ逆恨みした。その経緯から、彼らを征伐した于禁が、謀反を起こしたという噂が流れた。だが于禁は冷静に行動し、曹操を自分で迎え入れたのである。その冷静な行動にも、曹操は助けられていた。

将官の被害が数え上げられる。曹操の従兄弟であり、初陣であった曹安民が担架に乗せられ、運ばれてきた。全身に十本以上の矢を受けて、戦死していた。かっと目を見開いた彼は、最後まで宛城で味方の撤退を援護し続けたのだという。

典偉と、曹昂の姿も見えない。誰も口にはしないが、二人とも戦死したのは間違いないことだった。

「親不孝者め。 こんな愚かな親のために、早死にしおって」

曹操は悔し泣きしていた。

すっかり雛に入れ込んで、前後が見えなくなっていた。そんな事のために、戦死した曹昂と典偉の事を思うと、胸が張り裂けそうだった。

「典偉よ、すまぬ。 二度と同じ失敗はせぬ。 敵を二度と侮りはしないぞ」

虚空に向けて呟く曹操に、于禁が外套を被せた。曹操は頷くと、涙を擦って落とし、全軍に号令した。

「我らは敗北した! だがこの曹操は生きている!」

傷ついた兵士達が、曹操を見る。

彼らの中にあっただらけや甘えは、既に消え去っていた。

「今回は、この曹操の愚かさが故、勇敢なる諸君らを死地に晒してしまった事を恥ずかしく思う! だが、この曹操、同じ失敗は二度と繰り返さぬ! 余は曹操である! 同じ失敗を繰り返すという事は、余の中には無い!」

兵士達は、じっと曹操を見ていた。

そして、何も喋ることはなかった。

凱旋とはとても言えぬ悲惨な帰還であった。呂布に国をとられた時も曹操は大きく傷ついたが、腹心と嫡男まで失ったのはこれが初めてである。程なくして、近所の農民が、大柄な男に渡されたと言って、荷車を引いてきた。

中には首と胴体が切り離された、曹昂と典偉の亡骸が収められていた。首が無くとも、曹操には一目で分かった。曹昂の遺骸に到っては、骨だけになり、しかも煮立てた跡があったが、それでも分かったのだ。

曹操は二つの死骸を丁寧に埋葬した。

もう、泣くことはなかった。

葬儀を終えると、曹操はもう、何も以前と変わることが無くなっていた。

「曹操様」

自分を覆い隠す大きな影に振り向くと、許?(チョ)だった。神妙な顔つきである。普段からぼうっとしているのが此奴らしいのだが、一応こんな顔も出来るのだ。典偉はもう何処にもいない。

しかし、曹操を守る男は、まだ此処にいた。

「どうした、虎痴」

「菖の姿が見えませぬ。 女官達が探してはいるのですが」

「そうか。 あの死骸を見てしまったという話であるし、気の毒な話だ。 だが、余には表だってはどうにもできぬな。 だから、ルーの組織の細作達を何人か回して、探してやれ。 どこかに飛び出していって、人買いにでも掠われたのなら気の毒だ」

その責任は曹操にもある。だが立場的に、もはや曹昂がいない今、特に社会的地位が高い訳ではない娘に、国を挙げて構っている訳にはいかないのだ。非道な上に無責任だが、他にも曹操にはすることが幾らでもあるのである。

唾棄すべき事だが、曹操は妙に落ち着いていた。許?(チョ)に指示を出し終えた後、思い出して郭嘉を呼ぶ。使用人はすぐにひ弱で細い青年を連れてきた。

「郭嘉、此処に」

「うむ。 徐州の状態はどうなっておる」

「劉備は何とか我慢しているようですが、張飛がしきりに怒声を放っているようです」

「無理もない話だ」

劉備政権で、張飛は対外的な「怒り」の表現を担っている節がある。もしも劉備が何とも思っていなければ、張飛を黙らせているだろう。呂布は呂布で、張飛のことを嫌っている節があり、発言を快くは思っていない様子だ。

「ふむ、狙いは何だと思う」

「恐らくは、曹操様の所へ逃げ込むための下準備かと」

「なるほど、確かにそれなら不自然のない話だな」

今度は、最前線に配置されたのは劉備だ。しかし劉備には、盾に甘んじる気はないのだろう。

呂布の下には、あの陳宮がいる。奴の長期的戦略が何処にあるかも、見過ごせない所であった。

続いて戯志才を呼ぶ。荀ケも。

順番に意見を聞いて、曹操は参考にした。ある程度の情報が集まった所で、頭の中で整理して、撹拌し、充分に練り上げたところで、竹簡を持ってこさせる。

後は、すらすらと筆を走らせた。

敗軍の将とはとても思えない精力が、其処には厳然として存在していた。

さながら精力が人の形を為しているかのようである。

雛のところで腑抜けになっていたが故に。逆に、一気に力が盛り返してきた観があった。

一段落した所で、許?(チョ)を呼ぶ。

「これを、郭嘉に。 これを程cに。 これを楽進に。 それでこれを于禁だ。 覚えたか」

「覚えられませんので、墨と筆を貸してください」

「それならば、使用人を呼んで、それぞれの竹簡を渡せ。 お前が直接届けたら、余の護衛を誰がするのか」

「なるほど」

許?(チョ)は素直で真面目だから、曹操の言うことをきちんときいた。微笑ましいと同時に、信頼できるとも曹操は思った。

結局、曹操は誰か信頼できる人間が側にいないと、やっていけない型の人間なのかも知れなかった。

夕刻には、曹操が思ったとおりに、事は動き出していた。

 

3、劉家の混沌

 

宛にて、曹操が張繍に破れた直後。

呂布に徐州を取られた劉備は、小沛にて城壁に登り、腕組みをしていた。

劉備の家族はどうにか無事だった。破れたとはいえ、張飛の奮戦の結果である。陳到の家族も、全員が逃れていた。旧陶謙政権の人間達の、特に曹豹を中心とした勢力が、呂布を招き入れた事が分かっていた。

一万の兵士達は、殆どが劉備についてきた。しかし、その戦力を維持することが難しいのも、また事実であった。既に兵糧が足りなくなりつつあり、装備も行き通らない。矢は非常に数が不足し始めていた。

陳到は訓練を終えて城壁に上がった。劉備に呼ばれていたからだ。

「如何なさいましたか」

「うむ。 早い内に、曹操の所に亡命しようと考えている」

またそれは、大胆な戦略であった。もちろん陳到が告げられたと言うことは、もうとっくに張飛や関羽も知っているのだろう。

曹操は少し前まで、敵対していた相手だ。しかも、袁術を巧く使って、呂布に徐州を取らせた可能性が高い。その男の所へ逃げ込むというのは、またずいぶんと大胆な考えであった。

「しかし、大丈夫でしょうか」

「問題ない。 もし私を殺せば、曹操の所へ逃げ込む者はいなくなる。 それに暗殺の類は、側に張飛と関羽がいるから確実に防げる」

「なるほど、それなら私も大丈夫かと思います」

頷くと、理由はもう一つあると、劉備は言った。

陳到は、これはただの事後報告だと理解しているから、ただ黙って聞いている。

「曹操という男を、側で見極めておきたいのだ」

「不思議な男だと聞いておりますからな」

「うむ。 時に子供のように不思議な言動を取ると思えば、炎のように動いて兵を操るともいう。 その姿は、恐らく側で見なければ、見極めることが出来ないだろう。 今回は丁度いい機会だ。 それに、許昌の繁栄を直に確認することで、曹操がどれほどの力を持っているのか、計ることもできるだろうからな」

一つ二つ語らいながら、外に出ると。国譲がいた。

少し前に、故郷から連絡があったという。今までは劉備のために骨を折ってくれた彼だが、いよいよ帰らなければならない様子だ。雰囲気作りの達人として、とても役に立ってくれた彼がいなくなるのはとても寂しいことだが、事情が事情だから仕方がない。

国譲の実家では、もう彼しか家を継ぐ人間がいないのだ。しかも一族は土地を離れられないらしい。ただ、国譲は、劉備に生涯敵対することはないし、知ることは絶対に教えるとも誓ってくれていた。

「陳到将軍。 あ、劉備様。 わざわざ有難うございます」

「河北はこれから袁紹のものとなろう。 彼は民政が巧みだが、その子孫や部下に人材はいないとも聞いている。 気をつけて暮らせよ」

「はい。 いずれ仕官も考えてはいますが、落ち着くまでは家族の側にいようと思います」

そうやって、国譲は白い歯を見せて笑った。いつまでも若々しい男である。

劉備がわざわざ苦しい中から用意した馬車に乗り、国譲は北へ向かう。何人か、彼を慕う若い兵士が一緒について行った。張飛や関羽も見送りに来させたかったなと劉備がぼやく。今、二人は陳宮が仕掛けたらしい山賊の対応に出ていて、此処にはいないのだ。

馬車は一旦曹操の領地に入り、白馬港から河北へ向かうという。既に予州や?(エン)州は安全地帯になり、民衆は安心して移動しているという。もちろん、国譲にも危険はないだろう。劉備の部下であるとひけらかせば睨まれるかも知れないが、奴は世渡り上手だから心配はない。

彼の馬車がいなくなると、劉備は小首を傾げてみせる。この時期に古くからの腹心を失うのは痛いが、義の人として己を立てている劉備だ。それに、陳到の知る限り、劉備が人情家であることは事実である。それに関して、嘘偽りは恐らく無い。

「それにしても解せぬのは、今回の一件よ。 曹操や陳宮が裏で動いていたのは分かっていたが、何かもっと巨大な裏があるとしか思えぬ」

「シャネスに調べさせてみては如何でしょうか」

「既に調べさせてはいるのだが、あまりにも闇が深すぎて、簡単に全容解明はできないと一度だけ言ったきり、新しい報告はない。 本業の情報収集の方が優先度が高いし、曹操の側に行けば何か分かるかも知れないというのもあるからな」

流石は劉備だ。仕事が早い。

仕事に劉備が戻るのを見届けると、陳到は己の仕事をすることにした。

陳到は歩兵達のうち、精鋭ではない部隊を動かすことを要求されている。彼らの中から、劉備にどこまでもついてくると言う者達を選別し、今の内にしっかり訓練しておく必要があるのだ。

訓練場に赴く。徐州城に比べると小さいが、それでも一応の設備が整っている。戦に備えて、張飛が丁寧に処置してくれていたのだ。乱暴でがさつだという雰囲気がある張飛なのだが、こうしてみると案外緻密な所もあると分かる。

小隊長達を集めて、訓練を始める。しばらく訓練をしていた時に、不意に伝令が訓練場に飛び込んできた。

「陳到将軍!」

「如何したか」

「袁術が、およそ三万の兵を引き連れて、小沛に攻め込んでくる様相を見せています!」

この間こてんぱんに叩いてやったというのに、元気な話である。陳到は肩を掴んで腕を回しながら、聞き返す。

「劉備様にも知らせたか」

「は。 関羽将軍と張飛将軍を呼び戻すまでも無いだろうと、劉備様は仰せでした」

「そうだな。 劉備将軍と、俺の部隊だけで充分だろう」

袁術の軍勢は数だけは多いが、練度も士気も著しく低い。ただ物資だけは豊富にあるから、油断すると押しつぶされる可能性がある。それだけを気をつければ、特に問題はない。人材もおらず、いずれもろくでもない者達ばかりだ。特に袁術の一族だと言うだけで将軍をしている輩が何名かいて、それらは非常に対処がしやすい。ただ、一人だけまともな敵将がいて、奴には気をつけなければならなかった。

「敵将は、紀霊だと報告があります」

「そうか。 面倒な相手だな」

そのまともな敵将が今回は出てきていることを聞くと、陳到は歎息した。多少は対処が面倒になりそうである。

兵を整えて、三日後。

袁術が、予定通り押し寄せてきた。今の時期としては、不可思議な出兵である。劉備が用意した軍勢は五千ほどだが、兵糧が殆ど無く、継続戦闘能力は非常に短いと言わざるを得ない。

袁術軍はそれに対して、兵糧を豊富に持ち込んできている。劉備としては、これを奪っておきたい所だと、出陣前に陳到にぼやいていた。

「民の血税だ。 奪って民に還元するのが筋だな」

「その前に、まず勝たないとなりませんな」

「その通りだ」

徐州は平地が多く、しかもその殆どに大規模な道が通っている。

かって楚の覇王項羽がこの地を本拠にしたことからも分かるように、大軍勢が展開しやすいのだ。しかも、袁術軍は三万である。自由に展開されてしまっては、勝ち目が無くなる。

偵察が戻ってきた。熟練した兵士である彼は、深々とあたまを下げた。

「敵は、陣形を整えたまま、ゆっくりと街道を進んで参りまする。 そろそろ、前線基地の一つに接触いたします」

「うむ。 では、予定通りに動く」

流石に紀霊だ。隙も小さい。だが、勝利に驕れば、兵士達は言うことを聞かなくなる。聞けば紀霊は袁一族に代々仕えている家の出身者であり、非常に生真面目で寡黙な男だという。

さっさと袁術など見限ればよいのにとも陳到は思うのだが、人にはそれぞれの信念がある。恐らく紀霊は、何かの恩が袁術に対してあるのかも知れないし、あまりそう言うことを強制してはならない。

疾風のように、五千の兵士達が動き出す。脱落者は一人も居ない。紀霊のことを心配するのは後だ。まずは、敵を叩きのめす。

敵軍は、五百の兵が籠もる砦を囲み、攻城兵器を使って攻め始めていた。放っておけば、二刻ももたずに落ちるだろう。砦を守っているのは簡雍で、飄々とした用兵で攻め手を撃退し続けているが、それにも限界がある。砦の一角から火が上がった。袁術軍が、投石機で、油の入った大瓶に火をつけ放り込んできたのである。

遠くからもその苛烈な攻めが伺える。劉備は味方の隊形を整え終えると、静かに右手を挙げた。

そして振り下ろした。

一本の矢となった劉備軍が、土煙を蹴立てて、袁術軍に背後から襲いかかる。あまりにも想定外の方向から襲いかかられて、袁術軍は動揺の声を挙げた。其処へ一気に斬り込み、混乱を加速させる。一度敵軍を突破し、攻城兵器の周囲にいる敵をなぎ払い、蹴散らして通る。

紀霊将軍は自ら精鋭らしい騎兵を揃え、一声掛けると突撃してきた。劉備は一つの矢となった味方を叱咤し、それに真っ正面からぶつかる。紀霊は三尖刀と呼ばれる、先が別れた大長刀の使い手である。以前の戦いでも見かけたが、武勇だけであればなかなかに侮りがたいものを持っている。長柄の武器を振り回しながら、最前衛で吠え猛る紀霊の周囲には、見る間に死骸が山となった。

激しくぶつかり合い、一度離れる。砦の兵士達も撃ってで、大乱戦になった。こうなると、練度と士気の差が出る。混乱状態になった袁術軍は、僅かな紀霊周辺の精鋭を除いて、全く身動きが取れなくなった。それに対して劉備軍は訓練が行き届いているから、銅鑼一つで全軍が見事な動きを見せる。

劉備配下の親衛隊と紀霊隊がぶつかり合っているうちに、陳到は敵の主力を思う存分蹴散らし、蹂躙した。三刻もしないうちに、敵兵は二千近くを失い、逃げ腰になる。更にその背後に、三千ほどの兵が現れる。

「増援だ! 増援が現れたぞ!」

わざと大声で伝令に叫ばせる。逃げ腰になった敵兵の背を更に討った。増援として現れたのは、賊の対処を終えた関羽と張飛の部隊であった。突撃してくる関羽に、紀霊は真っ正面からぶつかり合う。

だが、二三合戦うだけで、紀霊の不利は明らかだった。しかし、関羽とぶつかり、一刀で討ち取られないだけでも大したものである。額から汗を飛ばす紀霊に、余裕を持って渡り合いながら、関羽は静かに言った。

「惜しいことだな。 袁術のような愚物に、おぬしのような者が仕えるか」

「主君が無能であることは分かっている! だが、言うな!」

鋭い渾身の突きを繰り出す紀霊だが、関羽はひらりと避け、長刀の石突きではじき飛ばす。馬からたたき落とされた紀霊は、それでも綺麗に受け身を取り、駆け寄ってきた部下達に守られながら、引いていった。

数里を後退した袁術軍は、どうにか態勢を立て直す。約八千にふくれあがった劉備軍に、被害は殆ど無い。それに対し袁術軍は、死者だけで三千を超えており、負傷者を含めると戦闘可能要員は二万を割り込んでいた。

関羽と張飛、それに簡雍と合流して、劉備軍は一旦砦にはいる。周囲に散らばっている武具類は略奪。敵の荷駄隊が置き忘れた兵糧も回収した。

にらみ合いを続ける劉備軍と袁術軍。一旦袁術軍は増援を呼ぶ構えに入り、防御陣形に移った。こうなると多少面倒である。劉備は、豊富な戦利品を後方に運ばせる指示を飛ばしながら、砦の焼けこげた城壁に登り、腕組みした。

「増援を呼ばれると厄介だな」

「何でだ、兄者。 また蹴散らしてやればいいじゃねえか」

「いや、張飛、そうはいかん。 紀霊は有能な男だ。 確かに袁術軍は練度も士気も著しく低いが、指揮官が違えば化けるぞ。 指揮官が替わらない限り、同じような奇襲は二度と通じないだろう」

「同感です。 他の袁術軍将だったら、もう立て直しが聞かず、寿春に逃げ帰っていることでしょう」

陳到も同意したので、張飛は腕組みして唸る。不機嫌そうではなく、状況を理解すべく頭を回転させている様子だ。

劉備は咳払いすると、話を先に進めた。

「今の内に叩くにしても、戦力が不足している。 かといって、呂布がどう動くか分からない以上、小沛を空にする訳にもいかんな」

「小沛には、我らが戻って備えましょうか。 遊撃に移ったようにも見えるはずですが」

「そうだな。 関羽、張飛。 三千を率いて、小沛に戻って欲しい。 糜竺は信用できる男だが、呂布が来たら支え切れまい。 こんな時に国譲がいてくれたら、少しは安心できるのだが、過ぎたことを悔いても仕方があるまい」

やはり、挙兵以来の幹部を死ではないにしても手元から離してしまい、劉備もへこんでいる様子であった。陳到にとって劉備は英雄そのものだが、それでもこういった所では人間味が感じられて好感が持てる。

その時、不意に地平の果てに砂塵が生じた。徐州の方から、一万を超える軍勢が迫っているのだ。

城壁を降りかけていた張飛と関羽が戻ってくる。あの方向から、あれだけの規模の軍勢を率いてくる可能性があるのは一人しか居ない。

「呂布か!」

「その様子だな。 此方に来たという事は、小沛は落ちたのか?」

「すぐに探らせます」

陳到が伝令を手配するが、そうしている内に、呂布軍は袁術軍と劉備軍の砦の間に布陣してしまっていた。

伝令がすぐに小沛に飛んでいき、そして帰ってくる。小沛は落ちておらず、呂布が攻め込んでも来ていないという。一安心した所で、ぎょっとする。呂布が、一騎で砦の側に来たのである。

「劉備よ!」

「何用か、呂布どの」

「今から、俺が袁術軍との講和を取り持つ。 降りてこられよ」

「や、野郎!」

激発しかけた張飛を劉備が制止する。

腕組みして考え込んだ劉備だが、すぐに結論を出した。

「分かりました。 そちらに向かいましょう」

「紀霊も、すぐに呼ぶ。 俺の陣で、待っていろ」

赤兎馬を駆って、呂布が袁術軍の陣に消える。歯ぎしりしている張飛の肩を、関羽が叩いた。

張飛の怒りも分かる。陳到も、呂布を見ると歯ぎしりを抑えきれない。

「張飛、抑えよ」

「しかし、兄者!」

「今、袁術軍と、呂布を同時に相手にしたら、我らは滅亡だ。 奴が何を考えているかは分からないが、兎に角様子を見よう。 兄者は、我ら二人がついていれば守りきれるし、いざとなったら奴とは俺が差し違える」

「陳到、此処の守りは任せる。 頼むぞ」

劉備は義弟二人を促し、城壁を降りていった。

陳到は部隊の兵士達を見回す。皆一様に不安がっていて、中には怯えきった様子で同僚と小声の会話をしている者もいた。無理もない話である。この状況で、不安にならない者がいたら、それは精神的に人間を超えてしまっているだろう。

しばし、沈黙が続く。

陳到は、兵士達の模範にならなければならないから。城壁で腕組みして、目をつぶってじっとしていた。

陳到がおろおろしていては、それが兵士達に伝染する。もしそうなれば、いざ呂布と袁術が攻めてきた時に、大混乱の内に兵士達は逃げ散ってしまうこともありうる。だが陳到が落ち着いた様子を見せていれば、兵士達も統率を保ったまま、行動することが出来るのだ。

戦場でものを言うのは、的確な指示と、はったりだ。

十年以上戦場にいる陳到は、それを全身で熟知していた。

二刻も待った頃だろうか。劉備達が帰ってきた。呂布軍も引き上げていく。そして、渋々と言った様子で、袁術軍も引き上げていった。

城壁の上に、劉備が登ってくる。

兵士達が喚声を上げているが、劉備自身の顔は、どうも浮かなかった。

「何があったのですか」

「どうもこうもない。 呂布が、強引に戦を止めさせたのだ」

「どうやって、ですか」

「それがな。 兵士に、百歩先に槍を立てさせた。 そして、その槍の穂先に、矢が命中したら戦を止めろと言いだしてな」

そして、呂布は本当に当ててしまったのだという。

しかも、三回連続で、だ。

歯ぎしりしていた紀霊だが、呂布の絶倫な技量を見て、それ以上何も言えずに引き上げていったという。呂布自身も、何も言わずに、徐州へ引き上げていったそうだ。ただ、側にいた陳宮が、珍しく苛立ちを顔中に湛えていたのだとか。

呂布が弓の達人だと言うことは陳到も知っていたが、まさかそれを外交の材料にするとは。呂布は案外、侮りがたい頭脳の持ち主なのかも知れない。

「我々も、一旦引きましょう」

「そうだな。 簡雍、砦を修復しておいてくれ。 それと、兵糧だが、半分ほどはすぐに近くにある峨朗山に移しておこう」

それは隠語である。実際に、峨朗山というものは存在しない。

劉備がそう言う時には、近くに作り上げている隠し砦に、兵糧を運び込むことを意味しているのだ。

小沛を放棄するつもりでいる劉備だが、いざ再起の戦いをする時には、先立つものがいる。だから、こういう準備は欠かさないというわけだ。既に徐州の民を味方に付けている劉備である。転戦に転じた場合、こういう蓄えがものを言う。

後は陳親子の活躍次第である。

実は、劉備に忠誠を誓っていた陳親子が、既に徐州に潜り込んでいる。陶謙政権の時にも裏側の仕事を得意としていた親子であるのだが、劉備には強い忠誠を誓っていて、故に徐州の統治が円滑に進んでいた。

ただ、彼ら親子は、徐州そのものを愛している節があり、利益になると見れば呂布に本音からの忠誠を誓うだろう。だからこそに、意味がある。呂布が、徐州の民を、慈しむようなことなどあり得ないからだ。

それと国譲が地元に戻ってから、どれだけ劉備を補助できるかも興味深い。

「袁術との前面激突は回避できたが、しかしまだ危機が去った訳ではない。 むしろこれから更に厳しくなるだろう」

劉備が皆を見回して、言った。

だが、今までもそれは同じであったし。陳到は、今後も劉備に忠誠を誓うことを決めていたから、何とも思わなかった。

「兄者、俺達がついてる」

張飛の言葉に、頷く。ただ、それだけで良かった。

 

田豫は、実家へ向かう馬車に揺られながら、今後のことを考えていた。劉備達と過ごした此処しばらくは、彼の人生でもっとも大きな時代だった。恐らく今後誰に仕えることになっても、これほどの楽しい時間は得られないだろうと、田豫は確信していた。

大人になっても、国譲と呼ばれ続けた。結局本名で呼んでくれることがなかった陳到や張飛。殆ど必要な会話しかしなかったが、静かな思いやりを持っていた関羽。それに、圧倒的な目映い人間的輝きを持っていた劉備。

英雄に仕えていたのだ。それが、田豫の、今後の人生の誇りとなることだろう。なにやら徐州の状況がきな臭い中離れるのは非常に心苦しいが、今後は田豫なりのやり方で、劉備を補助していくまでのことであった。

徐州を出た田豫の乗る馬車は、ほどなく黄河にさしかかった。港のある白馬に向けて、これから西にずっと向かうことになる。海としか思えない巨大な河の流れに逆らうようにして、延々と西へ。乾いた大地だが、黄河の側だけは、豊かに実りが目立った。

護衛としてついてきてくれた古株の兵士達は、曹操の領土にはいると殆どが引き上げていった。治安が露骨に良くなったからである。

適切な税が課せられ、物資が行き渡っている農民達は、皆表情が明るい。途中寄った宿場町では、簡単に護衛の武人達を雇うことができた。米を除いて、物資も比較的安い上に、入手も簡単である。徐州とはえらい違いだと、田豫は思った。劉備の統治が上手く行っていないのではない。経済の規模と、仕組みが根本的に違っているのだ。

この辺りからも、曹操の圧倒的な能力がよく分かる。役人達も的確に仕事をしている様子で、若々しさを通り越して幼さを残している田豫も侮られることなく、黄河を渡る手続きを済ませることが出来た。

白馬まで、ほとんど不快感を味わうことなく旅を進めることが出来た。中立地帯として残されている幾つかの港町は露骨に治安が悪く、護衛の武人を連れていなければ達が悪い破落戸どもに絡まれていた可能性が高い。それなりの武術は身につけたし、自分の身くらいなら守る自信もあるが、不要な争いは避けるのが、田豫の人生訓だ。それを丁寧に全うしながら、白馬から北に向かう船に乗る。船に乗る人間は殆どおらず、河北と中原の経済が完全に切り離されていることが、見ていて分かった。

河北に着く。

?(ギョウ)まで行くと、兎に角よくにぎわっていた。後は幽州までもう少しである。豊富に物資もあり、にぎわっているのだが、治安自体は良くない。役人はいばりちらしているし、何より民の顔も明るくはなかった。

宿で、商人を見かけたので、声を掛けてみる。宿にはそれぞれの部屋の他に、食事を取ることが出来る居間がだいたいあるのだが、殆どは囲炉裏を囲んで周囲に粗末な椅子や机が並べてあるだけである。そんな場所の一角に座っている、周囲に誰も寄せ付けない雰囲気の、神経質そうな、痩せた老人だった。

「すみません、お話を伺ってもよろしいですか?」

「何だ、飯のタネになりそうなことか」

「場合によっては」

にこにこと、誰にも好かれる笑顔を作ったまま、田豫は話し掛ける。最初は世間話から初めて、徐々に確信に斬り込んでいく方式で、老人の心をしっかり解かしていく。四半刻も話した頃には、すっかり老人は笑顔になっていた。

老人の話によると、袁紹は良く統治をしているが、税が高い上に、袁一族に人材がおらず、徐々に疑心暗鬼になり始めている様子だという。心ある有能な家臣達は皆苦々しく思っているらしいこともあるという。

「それは何ですか?」

「家督だよ」

老人が声を潜めた。

潜めるようなことかと田豫は思ったが、笑顔を崩さず、老人が話しやすいようにお膳立てしてやる。

何でも、袁紹の長男は非常に出来が悪く、所行も見られたものではないという。

それに対して三男は兎に角美しい顔立ちをしていて、袁紹の言うことを良く聞くので、兎に角気に入られているそうである。また、袁紹も一般的なもめ事のタネを撒いているものだなと、田豫は思った。

年老いてから出来た子供は、溺愛してしまうものらしい。田豫はそれを、豊富な情報から知っている。理論的には、これは人間の本能らしく、非常にかしこい人間でもやらかしてしまう事なのだそうである。以上は昔、挙兵前に管路という学者に聞いた。

袁紹は曹操の裏をかくほどの有能な男だが、しかし人間的な要素が強すぎるらしい。もしくは、それを抑えることが出来る家臣がいないと言うことなのだろう。悲しい話だが、袁家はこの代、或いは次の世代にてことごとくが滅ぶかも知れない。袁紹は有能だが跡継ぎに恵まれず、下手をすると権力が死後に空中分解するだろう。袁術は多分、後数年も保たない。

かって、董卓とこの国を三分した袁術、袁紹。その勢力にも、限界が見えてきていると、田豫は感じた。それに対して曹操は上り調子が著しい。劉備はそんな相手と争わなければならないのだと思うと、心配だった。

「有難うございました。 とても役に立ちました」

「おお、そうか、そうか」

「お礼にといっては何ですが、中原に行くのはどうでしょう。 来る途中に曹操将軍の領土を通ってきましたが、非常に良く繁栄して、民も笑顔が明るかったです。 あの様子ならば、商売も上手く行きますよ」

「それは確かに素晴らしそうだ」

老人は立ち上がると、宿を出て行った。

田豫も翌日宿を後にすると、公孫賛の領土である幽州へまっすぐ向かった。

三日ほどの旅の後、実家につく。ずいぶんと時間は掛かってしまったが、結局帰ってきた。

門を潜ると、使用人達が出迎えてくれた。

田豫の実家は、大きな塩商人だ。密売屋ではなく、政府公認の、である。

河北で財を為した田家は、あらゆるあくどい商売を行ってきた家であり、塩の専買権も役人を買収して手に入れた。主に先代がそれだけの地位を確保したのだが、それが故に敵も多く、家族も彼方此方で賊の手に掛かったりして、殆ど生きていない。河北で田家の者だと言えば、皆が眉をひそめるほどに、悪名は高いのだ。

家族の中で、唯一生き残っている妹が、奥で待っていた。田豫同様に、とても幼い顔立ちをしている娘だ。番頭の李も側に控えている。

今までは劉備が後ろ楯になり、経済的な裏付けがあったから、田家は潰れずに済んでいた。だが父がいなくなった今、田豫が直接指揮を執らなければ、家族は四散し、使用人達も皆職を失うことになる。

田豫は劉備のことを、理想的な主君だと考えていた。本人の力量は最高とはいかずとも高い次元にあるし、何より部下達をとても大事に思いやってくれる。民のことだって考えてくれる。

だからこそに、側を離れるのは辛かった。最後の日、別れを惜しんで、劉備が泣いてくれたことを、田豫は生涯忘れないだろう。例え商売上の理由であったとしても、田豫は絶対に劉備と敵対するつもりはなかった。

しばしの思いが駆け抜ける。

その中、口を最初に開いたのは、妹だった。

「兄貴、やっと帰ってきてくれましたか」

「銘、苦労を掛けたね。 これからは私が、田家をもり立てていくよ」

「当然です。 残っていた私がどれだけ苦労したと思っていやがりますか、この駄目兄貴は」

「すまなかった」

妹は、田家を今まで支えてくれたのだ。父が仕込んだ商売の知識と技術を使って。それはとても苦しいことであっただろうに。

こんな言葉遣いだが、銘はとても心優しくて、阿漕な田家の商売をずっと快くは思っていなかった。それでも家のため、使用人達のために、自分を殺して働いてくれたのだ。それに応えなければならない。

いっそのこと、家と使用人ごと、劉備の所に馳せ参じるという手も考えた。だが、田家の地盤はあくまで河北であり、そのまま人間だけ連れて行っても劉備の役に立つことは出来ない。

もし劉備の所に行くとしたら、人脈を纏め上げて、役に立てるようになってからだ。そう、田豫は考えていた。

これから商売が忙しくなる。

それ以上に、状況を見極めて、最終的には劉備に役立つようにしていかなければならない。今後可能性があるあらゆる状況を想定して、劉備のために動く。

それが、田豫としての、忠義の示し方であった。

 

4、肥えた豚と、その周囲

 

ついに、袁術の元から孫策が独立した。しかも、孫策が抑えていた領土は、ことごとく離反した。

そもそもの切っ掛けは、言うことを聞かない孫策に業を煮やした袁術が、無能な一族の者達を、ことごとく代官として派遣し、孫策の奪った領地を抑えに掛かったことだ。有能な者達ならともかく、彼らは名家の出身であり、しかも他の一族の人間をゴミか何かとしか考えていないような連中である。

摩擦は瞬く間に発火を産んだ。

張勲は笑止だと思ってみていた。袁術は孫策がそれを裏から煽ったと考えているようだが、事実は違う。

そもそも、孫策の飛躍は、裏側から江東の四家が糸を引いていたから出来たことである。孫策は戦の才に秀でてはいるが、あれほどの短期間で、兵力もなく、地盤もない状態で躍進できる訳がない。裏から、孫策が江東を支配することで特をする連中が、状況を操作したから、今の事態が到来していたのだ。

仮に連中が袁術の支配が望ましいと考えていたら、孫策はとっくの昔に墓の下にいることだろう。四家は、江東を独立させ、己の権益を守り抜くつもりだ。気の毒だが、孫策は今後も、せいぜい荊州に進む程度の選択肢しか与えられないだろう。領土の拡大など、夢のまた夢だ。もちろん、天下統一など、戦略に組み込むことは出来ない。

それらの状況を、袁術は理解できていない。

戦だと、袁術は吠え猛る。彼の軍勢は十五万を超えていて、確かに圧倒的な戦力ではある。しかしながら、その兵の質は著しく低い。この間の徐州攻防戦でも、二度にわたって劉備に撃退され、蹴散らされたことからも、一目瞭然だ。紀霊が負けたのは、実際には後ろで袁術の息子が色々作戦に口を出した挙げ句、女まで戦場に連れ込んでいたため、兵士の士気が著しく落ちたという理由もあるのだ。

その上、如何に豊かな寿春といえども、こうも繰り返して乱脈な生活をつづけていれば、疲弊もする。袁術は近々即位する野心を隠してもおらず、そのために豪華な宮殿やら何やらを作り続けていて、税は上がる一方だ。民は既に寿春を離れ始めている。しかもここのところ、袁術は難癖を付けては富豪から財産を取り上げるような真似を続けており、著しく人心は離反し続けていた。

予想通りの展開である。

これらを裏から煽っているのは、もちろん張勲、正確には名を張勲と変えた王允である。袁術は恐ろしく単純な男で、取り入るのも操るのも簡単だった。そして今、袁術は一身に汚名を集めながら、滅びようとしている。

最高の素材である。

漢王朝をこのまま立て直すには、袁術のような愚物が皇帝を名乗り、無様に敗北して滅亡することが必要なのだ。

曹操の側にいる董承からも、連絡が来ている。そろそろ、計画を実行に移せそうだという事である。しばらく抑えるように、念を押して置く。董承は権力を思うままにしたくてうずうずしている様子で、場合によっては消しておく必要がある。まだ動くには早いからだ。

急いては事をし損じるのである。

袁術が呼んでいるというので、宮廷に「参内」する。既に部下達にも、自分を皇帝と考えるようにと、袁術は言い始めていた。紀霊は流石に眉をひそめている様子だが、他の武将達は大喜びである。袁術と結託して阿漕な金儲けをしている一部の豪商も、事態を歓迎している様子だ。

素晴らしい。纏めて膿を出すにはこれ以上の状況はない。

参内している途中、揚奉に出会った。揚奉は不安そうに腕組みして、紀霊と話し合っていた。張勲を見かけると、一礼。

張勲は仮面を常に付けているが、それだけでは不安なので、顔に凄まじい向かい傷を付けて人相を変えている。声も以前とは少し違うように、工夫をしていた。

「如何為されたのかな、紀霊将軍、揚奉将軍」

「それが、近々また徐州に侵攻すると、袁術様が宣っているそうでして。 信頼篤い張勲将軍なら止められるのではないかと思いましてな」

「張勲どの、今徐州に侵攻するのは、百害あって一利もありませぬ。 どうか、袁術様を説得していただけませぬかな」

馬鹿な連中である。

張勲が、その百害あって一利もない状況に、袁術を誘導しているのを理解していない。非常に守りにくい徐州は、確かに奪うには良い土地だが、その後維持するのがほぼ不可能だ。それを考えると、是非袁術には無駄な出兵をして、兵力を消耗して欲しいのである。

一見すると、劉備と呂布の対立という無意味な火種を抱えている徐州は獲りやすい。正確には、袁術にも簡単にその利益を錯覚させるほどに、である。

しばらくは手駒が多い方が良い。そう判断した張勲は、出来るだけ沈鬱な声を作って、二将に応じた。

「難しいですが、何とかやってみましょう」

「お頼み申しまする、張勲どの」

揚奉が深々とあたまを下げた。本音では、多分即位も取りやめて欲しいのだろう。

元々野心的な男であったが、今ではこの通り。長安からの脱出と、それに伴う董承の裏切りで、すっかり牙を抜かれてしまった観がある。或いは、本来はこのように善良な男で、心の中の闇が時々暴れ出すのかも知れない。

どちらにしても、関係ない。張勲にとっては、道具の一つでしかない。漢王朝を復興し、自らがその栄光を手にする。それだけが、張勲にとって、大事なことであった。それが成せるのなら、他の人間の命など、どうでも良いのである。

口の端に冷笑をひらめかせると、張勲は袁術の元へ赴く。本来は気高い筈の理想は、彼が今まで浸かり続けた境遇が故。今や邪悪なるものへとなりはてていた。

 

「だが、そう言う訳には行かないのです」

寿春城の屋根裏で、そう呟いたのは林であった。下では、袁術と張勲が話し合いをしている。張勲は非常に巧みに袁術の心を掴んでいた。会話でも、外すことはない。袁術が欲望第一の人物を熟知していて、退屈そうにしたらすぐに女や金品の話をして、それからゆっくり目的へ誘導していく。

すっかり張勲の支配下にある袁術は、もはや出来が悪い操り人形に過ぎない存在と化しつつあった。

林としても、張勲がやりたい放題に暴れるのは大歓迎である。これほど混沌を加速する奴はいないし、何より見ていて面白い。

しかし、これ以上好き勝手をされるのもかんに障る。何より張勲は頭が決して悪くない。此方の動きに気付かれると、思わぬ逆撃を受ける可能性もあった。それを避けるためにも、時々は抑えておかなければならない所だ。

さっと屋根裏を離れると、待機していた部下の所へ。最近袁胤の所に貼り付いている細作で、袁術への影響力を考慮して様々な働きをさせている。使用人の振りをして紛れ込んでいる奴の側に、音もなく林は降り立った。

「韓、仕事だ」

「はい。 林大人」

「袁術に、徐州攻略を延期させろ。 袁胤に、案件七の情報を流せ」

「かしこまりましてございまする」

すっと部下が消える。林は満足して頷くと、一旦拠点の一つにしている襤褸屋に移動するべく、その場を離れた。

空虚な繁栄の下にある寿春だが、それももう長くは続かないだろう。夜の闇の中、家々の屋根を蹴って林は行く。その動きは疾風のようで、気配もまるで無い。既に林に、単独の武技で勝てる細作など存在しなかった。

さて、次の手は。そう考えた瞬間、体が勝手に動く。瓦葺きの屋根の上で跳躍し、飛来した小型の剣をはじき返す。鋭い音がして、屋根に突き刺さった剣は、しばし小刻みに震えていた。

「ほう?」

「恐るべき手練れだな。 此処まで腕を上げていたか」

「確か劉備の所にいるシャネスでしたね。 こんな所にわざわざ出向いてくるとは、さては主君の伽に飽きましたか?」

「戯れ言はいい! 見つけたが最後、貴様は此処で討つ!」

すっと姿を見せるのは、生真面目そうな娘。あのルーの妹である、劉備の細作シャネスであった。かなり腕を上げている。これだと、部下達では相手にするのがかなり難しいだろう。

だが、林の敵ではない。

闇の中、数度刃を交える。鋭く、重い一撃だが。林には届かない。三度目の袈裟懸けが、残像を切ったところで、林は距離を取った。相手の狙いが分からない以上、安易に仕留めるのは面白くない。

それに、此奴にはあまり食指が動かないのだ。

「それで、何をしに来たのですか?」

「黙れ! 世の混乱を加速する怪物が!」

「怪物ごときが、私と釣り合うものですか。 邪神と言ってもらいましょう。 そうそう、伝説に残る窮奇あたりなら、私と釣り合うかも知れませんね」

飛来した刀を、連続してたたき落とす。足を動かす必要もない。あまりにも鬱陶しいようなら、この場で斬るか。そう思った瞬間、シャネスは屋根に煙幕を叩きつけた。大量の煙が周囲を覆う。

闇夜では、煙幕は却って目立つ。さながら広がったクラゲのようだなと、林は思った。煙を破って飛来する刀をはじき返すと、既に気配は消えていた。あの様子だと、何年かすれば林と戦えるようになるかも知れない。

まあ、それはそれで面白い。

すっと、周囲に浮き上がる気配。展開していた部下達が戻ってきたのだ。そろそろ住民どもが騒ぎ出す。急いで撤収した方が良い頃だ。

「如何しましたか、林大人」

「何、羽虫が一匹まとわりついてきただけだ。 それよりも、劉備の細作が寿春に潜んでいる可能性が高い。 見つけ次第、全部殺せ」

「御意」

部下達が散るのを見届ける。

少し疲れたから、温泉にでも行って帰るとするか。

そう林は肩を叩きながら思った。

美味しい酒は、熟成するまで時間が掛かる。楽しいことには、長時間の仕込みが必要になってくる。

林は、楽しむためなら、努力を惜しまない。

 

呂布軍が動く様子だと、陳桂からの連絡があった。どうやら陳宮が、呂布を決断させたらしい。呂布は最後まで渋っていたのだが、しかしながら高順も今回ばかりは賛成したらしく、派兵が決まったそうである。

陳到が大股で城主の部屋に押しかけると、既に劉備は撤兵の準備を進めていた。以前から決めていたことだから、仕方がない。驚いたのは、住民達の代表が、詰めかけていたことであった。

長老格の老人が、床に這い蹲るようにしてあたまを下げている。陳到は部屋の外に一旦出ると、様子を見守った。彼らが必死で、邪魔してはまずいと思ったからだ。陳到も、元は逃散農民だ。彼らの苦悩は、いやというほど理解している。

「劉備様、行かないでくだせえまし」

「聞けば、呂布はそらあ恐ろしい男じゃそうですて。 徐州にいる従兄弟が、おっそろしい奴だと言っていましただ」

「分かっている。 だが、呂布は逆らわなければ何もしない男でもある。 今、我らが籠城しても勝ち目はない。 皆を悪戯に苦しめる訳にも行かぬ。 必ず戻ってくるから、それまで頑張って欲しい」

実際には、兵力で押し切られる可能性は低いし、呂布を抑えることも出来る。

しかし、兵糧が足りないのだ。長期の戦闘になれば、思い切り徐州の民は苦しむことになるだろう。

「呂布は、近いうちに徐州から出て行く。 それは、断言してもいい」

「本当ですかだ」

「本当だ。 その後は私か、曹操が徐州の支配者になるだろう。 私はあまり自信がないが、曹操は冷酷だが民のことを思いやった政もする人物で、生活は確実に楽になる。 だから、あまり気にしなくても大丈夫だ」

徐州の民の虐殺は、陶謙が仕組んだことだったとも、劉備は説明する。民の中には納得していないものもいる様子だが、確かに陶謙が暗君だったのは彼らにも周知の事実であった。だから、最終的に、劉備の言葉を不安がるものは出なかった。

「袁術と呂布が滅べば、徐州の状態は安定する。 その時は、戦争からも遠くなって、皆平和に暮らすことが出来る。 それまで、我慢して欲しい」

「後どれくらいで、そうなるのですかな」

「袁術が滅ぶまで、後数年と私は見ている。 その時になれば、徐州は平和になっているだろう」

実際には、袁紹と曹操が総力戦を行えば、徐州が再び戦禍に包まれる可能性もある。しかしながら、其処までは流石に読めないのが事実だ。それに劉備もそう考えているように、陳到も曹操が勝つ可能性が高いと思っている。徐州まで、曹操が押し返される可能性は低いだろう。

民の代表が帰っていった。劉備は大きくため息をつくと、陳到にはいるよう促す。部屋の中には簡雍を始めとした中級の将校達が勢揃いしていた。張飛と関羽は国境まで出ている様子だ。

ただし、呂布の様子を確認している張飛に対して、関羽は許昌近辺にいる。此方は曹操に交渉中だ。以前曹操の使者として来た于禁が国境に出張ってきていて、劉備軍のうち着いてくることを希望している五千ほどを受け入れる準備を進めてくれているという。もちろんただで受け入れる気などさらさら無いだろうが、それでも劉備は此方が良いと判断したのだ。

幾つか細かい打ち合わせをしている内に、呂布軍が動いたという報告が入った。規模は一万五千。戦って負けるとは思わないが、長期戦が出来ない現状で、戦端を切るのは愚の骨頂だ。

劉備はすぐに小沛を出た。

陳到は最後尾で、逆撃の体勢をとったまま、味方の撤退を支援する。

劉備に着いていくと言って、五千ほどの民が一緒に徐州を出た。陳到の三千が最後尾でそれを護衛し続けて、呂布軍の先鋒を寄せ付けなかった。

 

小沛に入った呂布は、兵糧が半分ほど残されているのを見て、高順に質問して来た。

「劉備は、どうして兵糧をもっていかなかった」

「恐らくは、これを民のものと考えているからでしょうな」

「そうか」

呂布は兵糧に手を付けないように兵士達に命じる。劉備に対して、不思議な感覚を呂布が抱いているのに、高順は気付いていた。それを危険視した陳宮が、今回の侵攻を命じたことも。

高順には、一つの見解がある。呂布は主君として、劉備を手本にしようとしているのではないのか。そう思えてきている。

魔王を自称する呂布だ。性格は激しく凄まじい。だがその一方で、以前陳宮に言われた言葉を、きちんと理解している節がある。国は呂布一人では回すことが出来ないのだ。そして、呂布にないものを、劉備は根本から備えている。

だから、呂布は劉備に学ぼうとしている。

もちろん劉備を意識しているのは、手強い相手だと思っているから、という事もあるのだろう。

残務を片付けるべく、城外に高順が向かうと、中級の将校達が談笑しているのに出くわした。

「また劉備の奴、尻尾を巻いて逃げて行きやがったぜ」

「ああも負けてばかりの将だと、部下も大変だよな」

「お前達」

さっと、談笑を止めた彼らが高順に向き直る。表情を強張らせる彼らに、高順は言った。

「劉備を馬鹿にしているようだが、お前達が劉備の立場だったら、これだけ短時間で民の心を掴み、撤退戦でも味方を殆ど失わず、なおかつ同伴の民を守って切り抜けることが出来るというのだな?」

鋭い指摘に、彼らが押し黙る。

出来るはずが、無い。

「少なくとも、劉備は凡百の男ではない。 油断していると、次に首を飛ばされるのはお前達になるだろう。 努々忘れないようにすることだ」

「しかし、いつも負けてばかりいます」

「それでも生き残る。 それが劉備の恐ろしい所だ。 覚えておけ、お前達。 劉備はお前達の殆どよりも長生きするだろう。 それは奴の恐ろしさの一つであり、敵わぬ所だと思え。 そうすれば、ひょっとすると、奴に敵対しても生き延びることが出来るかもしれんぞ」

蒼白な顔を見合わせている部下達の前から離れると、高順は舌打ちした。

袁術との合体工作の前に、部下にこうもろくな人物がいないと大変である。張遼の他には、武官として仕えそうなのは候成くらいである。魏続と宋憲は武勇こそ優れているが一軍を指揮できる男ではないし、陳宮は例のごとくいつ裏切ってもおかしくない。

自分がしっかりしなければ。

悪寒の中で、高順はそう思う。

どうも、何かいやな予感が消えてくれない。

滅びが、近いような気がした。

 

(続)