籠の鳥二羽

 

序、従者の苦悩

 

徐晃が馬車を用意した時には、既に真夜中になっていた。献帝に付き従う文官など一人もおらず、揚奉が派遣した兵士達にもやる気が見られない。当然だ。今、中原で暴れている旧官軍や西涼の兵士達に、忠誠心など存在しない。ただ多くが集まっている方に、ついているだけだ。

兵士の質が露骨に低いことは献帝も理解しているようで、身重の皇妃を庇うような動作を見せていた。もはや兵士の一人も従えぬ皇帝であっても、それでも己の妻は守ろうというのであろう。涙ぐましい努力であった。

長安の外では、郭と李?(カク)の軍勢が激突しており、喚声が此処まで聞こえてきている。かっては蜜月だった二人だが、今はさもしい権益を求めて日々激突を繰り返していた。兵士達はもはや山賊も同然で、規律も何もあったものではなかった。

殆どの民は許か、或いは荊州に逃れていった。それも、無理のない話であった。

徐晃が愛馬に跨り、兵士達を見回すと、流石に彼らも表情を引き締めた。徐晃は馬車を用意する前に、彼らの何人かを叩きのめして、己の武勇を見せていた。こうすることで、憎悪を自分に集中させ、なおかつ恐怖で縛ることが出来る。

獣の群れには、長が必要なのだ。

城門にまで辿り着けば、揚奉と董承が待っている手はずである。二人合わせて一万五千ほどの兵力を有しているが、李?(カク)と郭が抑えている戦力の二割にも満たない。凶賊そのものの彼らが、かっては官軍と呼ばれ、漢王朝の中心を守護していたとはもはや信じがたい事なのだが。

今は事実を見て、前に進まなければならないのだ。

「陛下、準備が整いました」

「良し、行ってくれ。 この長安に、戻ることはあるのだろうか」

「その時は、龍車と軍勢に守られ、名実ともの皇帝となっておられましょう」

「そうか。 徐晃、そなたは優しいな」

献帝は董卓に対して見せていた毅然とした態度からも分かるように、賢い人だ。徐晃の言ったようなことが気休めに過ぎないと、理解しているのだろう。だからこそに、徐晃は思う。

この哀れな鳥かごの鳥を、何としても守り抜こうと。

盧植にも来て欲しかったのだが、かの老人は首を横に振った。もう老いていて身動きできないし、最後はせめて生家で迎えたいと言うのだ。老人の切実な願いと悲しい言葉を聞いて、それ以上の無理強いは、徐晃には出来なかった。

白焔と名付けている大斧を振り上げる。長柄の一種で、先端に大きな斧が着いている、特注の得物だ。半ば偶然出来たものを、徐栄がくれたのである。父の形見にも等しいこの品を、徐晃はいつも大事に手入れしていた。

「よし、進軍だ!」

あまり気合いの乗らない声が上がる。

そして、しずしずと北門へ。外での戦の音は、ますます大きくなっている様子だ。

馬車の隣で、徐晃は周囲に目を光らせる。匪賊と化したかっての兵士も多く、隙を見せればいつ襲ってくるかも分からないのだ。

弘農まで出られれば、皇妃の世話をする女官を雇うことが出来るかも知れない。そうすれば、少しは状況もましになるだろう。兎に角、出産は命がけなのだ。まがりなりにも良家の子女である皇妃は、それこそ決死の覚悟で子を産むことになるだろう。出来るだけ最善の状態で、それに臨ませてやりたいものだ。

それに、弘農まで辿り着けば、皇妃の父である伏官もいる。董卓の大粛正から生き残った、つまり目を付けられることもなかったような小物の官吏であり、能力も低い。だが、五百程度の兵力は抑えているから、今の状況では味方に出来ればとてもありがたかった。つまり、五百の兵でも、信頼できる戦力が欲しい所なのである。

北門に到着。三千ほどの兵が待っていた。それならば、宮廷に迎えを寄こせばいいものを。しかも、兵の中には明らかに賊と思われる者が大勢混じっていて、揚奉が如何に手段を選ばず兵を集めているかが知れた。

「皇帝陛下、ご無事で何よりです」

「儀礼的な挨拶はよい。 今は一刻が惜しい。 李?(カク)と郭が気付く前に、早くこの地を脱出せよ」

「ははっ。 流石は陛下にございまする。 それでは、参りましょう」

門を開けると、外は一面の荒野だった。流れ込んでいる川もあるのだが、その全てが干上がるような有様だ。もとよりこの地は、著しく水の便が悪い。洛陽に次ぐ都とするのならともかく、天下を伺うにはあまりにも力が不足している。それが、漢王朝としても遷都に踏み切らざるをえなかった、理由の一つであった。

外は既に真夜中だというのに、明るい。長安の郊外で、幾つかの村を巻き込み、焼き尽くしながら、十万近い軍勢が争っているのだ。もはやどちらが勝っても、形勢など変わりはしないだろうに。彼らの欲は、果てる事を知らないらしかった。

馬車に寄ると、徐晃は出来るだけ他の兵士達に聞こえないように、ささやきかける。

「陛下、例のものは」

「うむ、もう出来ておる。 後は隙を見て、そなたに渡すだけじゃな」

「はい。 ただし、今此処を離れる訳にはいきません。 せめて洛陽の近辺に到るまで、お待ちください」

「うむ。 今の洛陽は、曹操の勢力圏の隣であったな」

献帝は、洛陽はどうなっているだろうかと呟く。分かっているはずなのに。

董卓に焼き尽くされて、もはや洛陽は形を為していない。孫堅がある程度は復興させたが、それでも地方の小都市程度の勢力しか有していない。太守もいるが、典型的な地方豪族で、献帝に忠義を誓うような男ではなかった。

「兎に角、洛陽まで出れば、一息は着くことが出来ます。 曹操は軍事力でも政治力でも、李?(カク)や郭の比ではありませぬゆえ」

「皇妃にややを生んで貰うためにも、急がねばなるまいな」

途中で、董承が合流してきた。最近は董卓に似てきているというこの男は、かなり太り始めていて、脂ぎった腹を揺らしながら馬上にあった。目には残虐な光があり、揚奉よりも注意しなければならないなと、徐晃は内心で思った。揚奉の部下もおいおい集まり、兵力はやがて一万を超えた。

「徐晃」

「は。 如何いたしましたか」

「洛陽に出て、曹操の保護を受けても、もはや朕は権力を望まぬ。 ただ、静かに暮らして行ければいい」

「覇気のない事を申されますな」

内心で正しい判断だと思いながらも、徐晃はそう告げた。献帝は首を横に振りながら、続ける。

「いや、朕が覇気など持てば、却ってこの乱世を混乱させる事になろう。 曹操は、話を聞く限り、野心は強いようだが、民を思いやることも出来るし、乱世を収めようとも考えておるようだな。 ならば、その旗印となって、一刻も早くこの乱世を終わらせることを考えよう」

「陛下、弱気になってはいけませぬ」

「いや、良いのだ。 徐晃は、曹操の下で働け。 そなたほどの男だ。 曹操も、喜んで配下として使ってくれることだろう。 愚かな皇帝のひ弱な護衛としてではなく、大陸に名を残す武人となれ。 それが、尽くしてくれたそなたに、朕から掛けられる、僅かな言葉じゃ」

「畏れ多い事にございます」

心から感謝すると同時に、本当に産まれてきた時期が悪い人だと、徐晃は歎息した。せめて三十年早く産まれていれば、このような事にはならなかっただろうに。産まれる時代を間違える人は何処にでもいるらしいが、この人は典型的なそれだった。

徐々に、長安が遠ざかっていく。ここからが大変だ。揚奉の部下達は、勝ち目がないと分かれば四散してしまうだろう。追撃を防ぐ戦力には、とてもではないが成り得ない。董承は皇帝を出世の道具としか考えていないだろう。此奴も信用は出来ない。

長安近辺での戦闘は激烈を増し、遠くからでもその喚声を聞き取ることが出来る。徐晃は更に馬車を急がせながら、追撃があるなら明日か明後日だなと思い、その時の対応について考え始めていた。

「徐晃よ」

「如何なさいました」

「張繍に、李?(カク)と郭の背後を突かせることは出来ぬか」

「難しいでしょうが、手としてはあるかと思います。 此方でも、検討してみましょう」

張繍に頭を下げるのはあまり良い気分ではないが、確かに手の一つではある。

徐晃は馬上で素早く手紙をしたためる。兵士を一人呼ぶと、金を握らせ、張繍の所に走らせることとした。

「張繍のところで、更に同じ金額を貰うことが出来る。 更に、仕事が終わったら、そのまま張繍の所に残っても、此方に帰ってきても構わないぞ」

「わかりやした。 すぐに向かいやす」

数騎の護衛とともに、兵士達が闇に消える。

献帝の発想力は悪くない。盧植も張繍を使うことを提案はしてくれていたのだが、まさかこの状況でそれを指摘されるとは。

馬車を急がせながら、徐晃は絶対にこの人だけは生き残らせるのだと、決意を新たにしていた。

 

張済の遺産を完全に受け継ぎ、宛を掌握していた張繍は、徐晃からの手紙を受け取って、不機嫌に頷いていた。しかも確実に届けるため、徐晃は兵士に報酬の約束までしていたという。

王座にて頬杖をつく張繍には、既に支配者の貫禄がつき始めている。現在は劉表に接近し、その支配下に半ばはいることで、強力な勢力を維持することに成功していた。圧倒的な経済力を持つ荊州の後ろ盾が、張繍の実力を引き上げていたのだ。

側に跪いたのは賈?(ク)。故あって、宛に逃亡してきた優秀な軍師である。カミソリのように鋭い男で、張繍としても頼りにしている参謀であった。頭脳は鋭いのに、その人格が温厚な所も、張繍は気に入っていた。

「如何しますか」

「約束である以上、無碍にも出来まい。 報酬は支払って、好きなようにさせてやれ」

「は」

賈?(ク)は、非常に優秀な参謀だが、一つだけ欠点がある。何処か人がよい所があるのだ。

実のところ、王允に対する反逆を、李?(カク)や郭に提案したのは、賈?(ク)なのである。進退窮まっていた彼らに、助言を与えて救ったのだ。これは、王允による状況操作だと。このままではあなた方は、あらゆる罪を被せられた上に、王允の権力を支えるための土壌にされると。

この時、二人は王允の制御を抜けたとも言える。本当の意味での、恩人であったのだ。

だが二人は、いざ窮地を脱して権力を得てしまうと、賈?(ク)を恐れた。命の危険を感じた賈?(ク)を、張繍が誘い、宛に脱出してきたのである。そのまま長安に残っていたら、今頃賈?(ク)は謀殺されていたかも知れない。

二人は、その程度の人間だった。二人合わせても、董卓一人に到底及ばなかっただろう。そんなつまらぬ連中に、張繍と徐晃が殺されることを、徐栄は体を張って阻止してくれたのだ。

手紙を拡げてみる。まだ下手な字だが、しっかりした内容だった。隅まで目を通し終えると、舌打ち。賈?(ク)にも見せる。

「どう思う」

「確かに、良い案です。 此処で献帝に恩を売ることは、後のために悪くない結果をもたらすでしょう」

「それは分かる。 しかし現実問題として、私には、まだ李?(カク)と郭に対抗できるほどの戦力が備わっておらぬ。 宛にいる戦力はせいぜい五千、劉表の援軍を計算しても二万に届かぬ上、兵士達の士気も高くない。 奴らに攻め込まれたら、負けるぞ」

「それならば、良い手がございます」

賈?(ク)がにこりと微笑む。この男の微笑みには、邪悪な魔神が宿っている。

不思議と、本人には、全く邪気はない。其処が、不気味さを助長していた。

 

1,曹操の飛躍

 

三万余の兵士が見守る中、ゆっくり進み出た典偉。投げ飛ばされ、地面に這い蹲っていた兵士達を睥睨すると、低い声で言う。

「下がれ。 巻き込まれたら、命の保証は出来ぬぞ」

「わ、分かりました!」

典偉は、十歩ほどの距離を置いて、その男と向かい合った。両手にはそれぞれ戟を握っている。対して、敵は素手だ。鎧も身につけていない。

黄巾党を討伐するために、汝南に来た曹操軍。黄巾党最後の砦に攻め掛かろうとした所、不意にこの男が現れた。曹操に会わせろとだけ叫び、制止しようとした兵士達を投げ飛ばした。それをおもしろがった曹操が、典偉を寄こしたのだ。

体格の良い若者である。背丈は、殆ど典偉と五分か。筋肉も盛り上がる岩山のようで、何より全身から放っている気迫が凄まじい。これは豪傑だ。典偉はそう思い、礼を失しないように接することとした。

「俺は曹操軍の武将、典偉である。 そなたは」

「俺、は。 農民の、許?(チョ)だ」

恐ろしくたどたどしい言葉だった。兵士達の中には、それを聞いて失笑する者もいた。典偉は表情を変えない。この男が、真剣に言葉を紡いだことを知っているからだ。

「曹操に、会わせろ」

「理由は、如何に」

「村の娘が、黄巾党に掠われた。 もしも軍が攻め込んだら、娘は助からない。 だから、曹操に、攻撃を、止めて貰う、つ、つもりだ」

何とかたどたどしいながらも言い終えるのを見届けると、典偉は戟を扱きながら、一歩前に出る。許?(チョ)は表情を全く動かさず、それどころか微動だにしなかった。恐るべき度胸である。

この男、育ち上がれば、あの呂布に匹敵する怪物になるかも知れない。

いや、流石にそれは無理か。しばしの測りの末に、典偉はそう結論した。この男には、野心が感じられない。だから、魔王には成り得ないだろう。

「曹操様に会わせても良い。 だが、兵士達を投げ飛ばした件は、どうするつもりだ」

「それは、娘を助けた後に、詫びる」

十秒近く、沈黙が流れた。

その末に、先に動いたのは、典偉だった。

戟を立てると、兵士達に言う。

「曹操様を此処に」

「典偉様!」

「この男、恐らくは曹操様も気に入るだろう。 それに、此処で戦っても、決着はつかぬわ」

「典偉様が、そのようにおっしゃるのであれば」

兵士達が、さっと陣の奥へ引っ込む。

許?(チョ)はそれを見届けると、不意に地面で胡座をかいた。どうやら、この男なりの、礼儀の示し方らしい。典偉も同じように向かい合って座る。手元に戟は置いてあるが、戦いはこの瞬間、終わったのだ。

膨大な闘気が、会話中もぶつかり合っていた。もう少し兵士達が近付いていたら、心の臓が止まっていたかも知れない。だから、典偉は彼らを遠ざけたのだ。曹操が鍛え上げた兵士達を、無駄に死なせる訳には行かないのである。

程なく、前後を護衛に囲まれて、曹操が現れた。曹操の右横にて、不測の事態に備える典偉。曹操は楽しそうに、頭を下げる許?(チョ)に相対した。

「余と話したいそうだな」

「は。 農民、許?(チョ)と申します」

「農民であろうが武人であろうが、余は有能なものを求める。 そなたは余が求める要件を満たしていると見た。 それで、賊どもが、村の娘を捕らえているそうだな」

「は。 何儀という凶暴な男で、村が降伏しないのであれば、娘を煮て喰らうと、も、申しております。 今頃、さぞや恐ろしい目に、あっておりましょう」

辛そうに言う許?(チョ)。嘘をついている気配はない。曹操は顎に指先を当てると、ほどなく頷いた。手を叩く。すっと、闇から現れるようにして、何名かの細作が曹操の側に並んだ。

「聞いての通りだ。 人質を救出して参れ」

「は。 三刻ほど、時間をいただけますでしょうか」

「うむ。 三刻待ってもそなたらが帰らなければ、失敗したと見なして攻撃を行う。 行け!」

曹操がもう一度手を叩くと、細作達は影に消えるようにしていなくなった。

許?(チョ)は地面に頭をこすりつけるようにして、這い蹲っていた。曹操は、面白い玩具を見る子供のような目で、許?(チョ)を見つめていた。

典偉の見たところ、許?(チョ)の実力は、自身と五分。そして、その性格は極めて素直で、かつ真面目であろう。曹操が気に入らぬ訳がない。

「娘を救い出したら、余に仕えよ。 村の者達の生活も、面倒を見てやろう」

「ははっ。 ありがたき幸せ、に、ございます、る」

最後少し噛んだが、許?(チョ)は言い終えた。典偉は見事と思い、新たなる同僚が出来たことを、心強く思った。

二刻半ほどして、細作が見事砦から娘を救出。激しい暴行を受けていたようだが、何とか命に別状はなく。意識も保っていた。婚礼前の娘だったという。酷い話であるが、最悪の事態だけは避けられた。盛大に泣き出す許?(チョ)が、曹操に礼を述べる。鷹揚に頷くと、曹操は満足げに含み笑いした。

「良し、片付けよ」

「ははっ!」

曹操が手を挙げて、全軍が一斉に凶賊と化した黄巾党の砦に襲いかかる。その有様は、陸上に巻き起こった津波のようであった。無論黄巾党も反撃をしたが、瞬く間に膨大な数の暴力に飲み込まれる。

かってはともかく、曹操の軍勢は、今や歴戦に次ぐ歴戦で鍛えに鍛えられている。楽進、韓浩はまず一流の将軍と言って良く、何より参謀に人材が整い始めている。田舎の賊が作った砦など、玩具に等しい。

防御柵が焼き尽くされ、炎が砦を舐め尽くしていく。しかも、兵糧庫は焼かないように、慎重に火の回りを計算して、だ。逃げようとする賊には、容赦なく矢が浴びせられた。転がるようにして、曹操の前に出てくる賊達は、皆剣を捨て、這い蹲って震えている。彼らが頼みにしていた守りは、殆ど一瞬で撃ち抜かれてしまったのだった。

戦闘そのものには、一刻も掛からなかった。数千いた賊は、半数が戦死し、残りの九割も捕らえられた。僅かに生き残った連中も、殆ど着のみ着のままである。汝南北部は既に曹操が抑えており、其処で悪さをすることは二度と出来ないだろう。燃え上がる砦を見て、麓の住民達が喚声を上げる。もはや彼らは、袁術には従わないだろう。曹操に絶対的な忠誠を誓う事はほぼ間違いない。

呆然と見つめている許?(チョ)の肩を、典偉は叩く。

「凄まじかろう、曹操様は」

「凄い将軍様だ。 お、俺は、あの方に仕えるのか」

「そうだ。 そしてお前は、俺と同じように、歴史に名を残すのだ。 己の武勇よりも、むしろあのお方の下にいたと言うことでな」

曹操が、賊を縛り上げさせる。

許?(チョ)は一旦村に戻り、民を皆連れて戻ってきた。彼らによって吟味が行われ、最も醜く顔中をゆがめている男が指さされた。

「この男が、何儀です!」

「そうかお前が首領か。 そなたは理想を失い、民を苦しめた凶賊にて、なんら情状酌量の余地はないな。 ふむ、しかし一応、武人として余と戦おうとした心意気については認めんでもない」

一瞬だけ何儀の顔に浮かんだ生気を、だが曹操が打ち砕く。

「許?(チョ)!」

「は、はい」

「武人として、そ奴と戦う事を許す。 せめて、武人としての心意気を、全うさせてやるように」

「ひいっ!」

何儀が哀れな悲鳴を上げた。誰もそれには同情しない。麓の民達から、この男が如何に滅茶苦茶な暴虐を繰り返してきたかが判明していたからだ。周囲の民も、皆何儀に対する敵意を剥き出しに、成り行きを見守っている。

許?(チョ)は渡された武器を幾つか吟味していたが、やがて金砕棒を手に取った。名前の通り、金属の鎧も打ち砕く、巨大な棍棒である。身の丈ほどもあるそれは、とても常人が振るえる代物ではない。

だが、許?(チョ)は、苦もなくそれを持ち上げた。

「何儀、そなたも何か武器を取れ。 武人としての節を汚すな」

「ち、畜生、畜生っ!」

雄叫びを上げる何儀。年貢の納め時という奴だ。典偉は退路をゆっくり塞いで、成り行きを見守った。

「長老は、お前のせいで、寿命を縮めた。 何が黄巾党だ。 民衆を虐めるばかりではないか」

「き、貴様に、大賢良師様の理想が、分かるかっ!」

「張角も、お前のことは良しとは思わなかっただろうな。 戦った事のある余だから分かるが、あの男は凶賊とはほど遠い男であった。 あの当時の黄巾党は、確かに手段を選びはしなかったが、お前のような下劣な連中では断じてなかったのだがな。 それを忘れてしまったお前を、張角は許さないだろう」

曹操が、何儀の精神にとどめを差す。へたり込んだ何儀の頭を、許?(チョ)が振り下ろした金砕棒が砕く。

汝南の戦いは、こうして終結した。

 

凱旋の道で馬に揺られながら、典偉はこれからが大変だなと思った。

戦いの後は、降伏した黄巾党の兵士達を、青州兵に組み込む作業を行わなければならない。敵勢力を滅ぼした場合、殺すのは頂点にいる者達だけにするのが望ましいのである。曹操はそのやり方を続けてきた。そして、隣にいる曹操は、今回も同じようにすると言っていた。

厳密には汝南で配下にした訳だから、青州兵ではないが、同じ黄巾党の人間と言うことで、気心も知れているだろう判断からである。韓浩に任せて、半農半兵の状態にするのだと、曹操は楽しげに語っていた。もちろん、兵士に向いていないような者もいるから、それはそのまま帰農させる訳だ。典偉には、この辺りの曹操の発想は凄いと思う。そして事実、曹操の軍備は著しく増強され、国土も豊かになってきているのだ。いつも背丈を気にして、しかもそれを農民達に見破られ、へこんでいる人物とはとても思えない。だが、これが事実なのだ。

汝南での戦は、殆ど損害らしい損害もなく。袁術の評判を著しく削ぎ、曹操の名を挙げるにとどまっていた。もちろん負傷兵は出たし、死人もあった。しかし将官の死者は一人もおらず、そればかりか汝南の黄巾党が蓄えていた金銀兵糧をしっかり抑えることも出来た。

袁術と敵対している袁紹は、これをどう見ているだろうかと、典偉は思った。袁一族の評判を落とさないための行動であっただろうに、曹操はますます肥え太り、袁術の声望はますます地に落ちた。この分だと、袁術の力を曹操が上回るまで、そう時間は掛からないだろう。ただでさえ袁術は暴政の限りを行い、民衆の怨嗟を買っているのだから。

蝗で大きな被害を受けた曹操だが、早くも立ち直りつつある。それは、この比較的背が低くて貧相な格好をした男が、群雄にぬきんでた存在であることを、端的に示していただろう。

「おお、典偉よ、見えてきたな。 凱旋はいつも気持ちが良いものよ」

「そうでございますな。 乱世を終わらせるためにも、このまま勝ち続けたいものです」

「うむ。 そのためには、まだまだ有能な将が必要だのう。 楽進と韓浩の他にも、同じくらい戦える将をもう何名か欲しい所だ」

許の街にはいると、民衆が曹操の期間を迎えに集まっていた。今回得られた兵糧の内、余剰分は生活が苦しい民にも還元される。蝗の被害を受けて苦しんでいる民は多く、彼らを救うことで、曹操はますます民の深い忠誠を得ることが出来る。

典偉はざっと見回す。許は若干狭いものの、今ではこの国で最も栄えている都市の一つになりつつある。袁紹の本拠である?(ギョウ)は更に凄いという話なのだが、曹操に認めて貰おうと集まる武人の数や、民衆の繁栄を見ていると、いずれ追い越すのも難しくはないだろうと確信できる。

二重の城壁を潜って、奥へ。許の宮殿にたどり着く。

群雄に比べれば質素であるが、それでも内部は広く、一度は迷うと言われている。あれから曹操にべったりになっている許?(チョ)を横目で見ながら、典偉は今後のことを考える。まず呂布を撃退して、?(エン)州を取り戻さなければならないだろう。そして、曹操を裏切った張兄弟にも、鉄槌を降さなければならない。それらが片付いてから、やっと徐州だ。

徐州は交通の要地であり、北は河北に、南は江南へ直接通じているため、古代より大会戦の舞台に幾度となくなった。もしも仮に落とすことが出来ても、今後は激しい争奪戦が行われること疑いなく、兵力に余裕がなければ抑えることは難しい。

曹操が玉座に着くと、武官達は解散になる。許?(チョ)も、新しく付けられたという副官に連れられて、自室へ戻っていった。周囲は細作が固めているし、護衛については現状問題はない。それよりも、許?(チョ)は覚えることが幾らでもあるのだ。

自室に戻り、使用人に茶を出させる。大きな典偉の体に合わせて、雄大に作ってある部屋だ。鎧を脱いで、大きめの椅子に腰掛けて、やっと人心地がついた。風呂にも入りたいが、それは茶を飲み干してからだ。少し甘い茶を何度か傾けると、ようやく戦の緊張感から、体が解放された。

長いすに横になり、使用人達に手足を揉みほぐさせる。

許?(チョ)とはいずれ真剣勝負をしてみたいとは思うが、やればどちらかが確実に死ぬだろう。それに、農民であった許?(チョ)に、この城の中での決まり事や、軍での役割なども教えなければならない。なかなかにこれからは大変だ。それに、新しい武将が次々と曹操に仕えている。彼らの事を見極めて、きちんと対応していかなければ、曹操も寝首を掻かれる可能性がある。

まだまだ、死ぬ訳には行かないのだ。

一通りほぐし終わり、使用人が退出する。また茶を入れさせた。こうやって敢えてゆっくり過ごすことで、頭を徐々に切り換えていくのである。常に戦場にいるような緊張感を持っていると、寿命が縮む。その実例を実父で見ている典偉は、今回のような時に限っては、敢えてのんびりだらりと過ごすようにしていた。

「典偉、帰ってきたのか」

「おお、若様。 典偉は、今戦場から戻りましたぞ」

部屋に入ってきたのは、曹昂だった。菖も一緒にいる。実に仲むつまじい事で、喜ばしい。普段戦場で曹操を守って目を光らせる典偉も、こういう時に限っては、目尻が下がってしまう。

「曹操様にはもうお会いなさいましたか」

「それが、父上は帰ってきて、残務を整理すると眠ってしまわれたのだ」

「毛布を掛けてきました」

「おお、それは心遣いの深いこと。 曹操様も、感謝されるでしょうな」

実際、曹操の息子とは思えないほどに、曹昂は情け深い。鬼のような典偉が、情け深い曹昂を好ましく思うのだから、世の中は不思議である、とも言える。それにしても、次男の丕はどうしたのか。曹昂と一緒に行動して、父に学問の成果でも武芸でも見せれば良いものを。

若干典偉の表情に影が差したことを敏感に察したのか、曹昂は小首を傾げる。

「どうした、典偉。 怪我でもしたのか」

「いやいや、そのようなことはございませぬぞ。 どれ、これから数日は特に何もすることがありませぬでな。 若様の武芸を見て差し上げましょうか」

「武芸はいやじゃ。 若様が怪我をしたらどうするのだ」

「いや、菖、よいのだ。 それに典偉が、私が怪我するような事をする訳がない」

素直な反応を見せる菖に、そう応じる曹昂。これはますます、典偉としても気が抜けなくなってきた。

あまり武芸の才能があるとは言えない曹昂なのだが、それでも努力の量が豊富なので、最近はかなり良い腕になってきている。幼いから体格はどうしようもないが、剣術の型はしっかりしてきているし、踏み込みの際の気迫もなかなかだ。普段着から訓練着に着替えると、中庭に出る。

庭木にふと目が行った。この辺りは蝗の被害を殆ど受けてはいないのだが、それでも所々食い荒らされた葉が散見された。蝗ではなく、蛾や蝶の幼虫に食われたものかも知れない。

「曹操様とも、こうして時々訓練をしたものです。 最近は曹操様もお忙しくて、ほとんど体を動かすことはないのですが」

「父上の負担は、確かに私から見ても相当に重い。 はやく父上のお役に立てるようになりたいものだ」

「菖も、曹昂様のお役に早く立ちたい」

「ははは、今はまず、体を動かして、食べるものを食べて、しっかりと大人になることです。 それが、若様や、菖に出来る、最大の曹操様に対する貢献ですぞ」

心からそう言うと、典偉はまず曹昂に、型からやらせた。

曹操の嫡男は、典偉が目を見張るほどに進歩していた。籠城していた東阿の城や、それに留守をしていた許で、無心に剣を振るっていたという話は聞いている。元々真面目であることもあるし、これなら近いうちに、武芸だけなら曹操を超えることだろう。

まるで自分の息子の成長でも見るかのような目で、典偉は曹昂が振るう訓練剣を、見守っていた。

 

曹昂の訓練を見終えると、典偉は丁度体も温まったことだし、許の宮殿内部を見て回ることにした。戟を手にしているが、他は普段着である。大勢の敵に囲まれるとひとたまりもないが、忍び込んだ賊程度ならこれで充分だ。

兵士達の敬礼に応じながら、典偉はじっくり宮殿の内部を見回っていく。これの設計に携わったのは程cで、流石に隙がない作りになっている。いざというときの脱出口までもが、しっかり仕上げられていた。

丁度その程cと出会ったので、一礼する。仕事の時以外に程cと出会うのは久しぶりだ。それもそうで、?(エン)州の方で補給やら軍の配置やらを進めていたわけで、機会そのものが無かったからだ。

程cは相変わらず、背だけは無駄に高い。隣には郭嘉もいた。郭嘉は仕事こそ良くできるのだが、非常に女癖が悪く、今も侍女らしいのをしなだれかけさせていた。戯志才が時々文句を言っていると聞くが、馬耳東風だという。

「おお、典偉どの。 久しぶりです」

「久し振りですな。 ?(エン)州の状況は」

「呂布軍は、蝗の被害から立ち直れていません。 各地で民の怨嗟を受けており、近いうちに良い報告が出来るかと思います」

「それは良いことだ。 曹操様も、今回の件に関しては心を痛めていたからな。 呂布を追い払ったら、張兄弟も叩きのめすことが出来る。 良いことではないか」

仕事の話を一通りしてから、郭嘉に咳払い。それこそこの場で本番を始めかねないような勢いで、侍女と二人の世界に入っていたからだ。

「相変わらずだな、おぬしは」

「いやはや、天才は薄命と申しますでな。 今から悔いがないように、しておる訳なのです」

「それも良いが、ほどほどにな。 あまり噂に興味がない俺の耳にも、醜聞が届いているぞ。 あまり度が過ぎるようだと、他の文官達の仕事にも影響が出よう」

「心得ております。 出来るだけ、宮中では控えるようにしますので」

といいつつも、侍女の服の中に突っ込んだ手を動かし続けている郭嘉。程cと二人でため息をつくと、典偉は見回りの仕事に戻った。あまり郭嘉にばかり、構ってはいられないのである。

曹操の部屋の前に着たので、ちらりと覗いていく。曹操はそれは幸せそうな顔で、寝台に潜り込んでいた。ここのところ気を張り通しであったし、仕方がないことである。兵士達に、あまり大きな音を立てないように念を入れておくと、典偉は再び休憩するべく、自室に戻った。

途中、曹丕を見かけた。一人で黙々と訓練剣を振るっている。周囲に誰も近づけさせない空気で、典偉はそのままその場を後にした。陰険だと噂が流れているようだが、単に孤独が好きな性格なだけかも知れなかった。

今のところ、曹操の周囲はとても平和だ。この平和が長く続いてくれると良いのだがと、典偉は思った。

自室に戻ると、自身も休むことにする。此処しばらくは、苦境にある曹操を守ることで精一杯であり、気が休まる時がなかった。いつも二刻程度しか眠れなかったし、それも二度や三度に分けてのことだ。横になって眠るのも、久し振りである。

だからからか。横になって眠ってしまうと、まだ夕方だったというのに。翌朝まで、すっかり眠り込んでしまった。

 

万歳をしながら体を斜めに捻ったような形で眠っていた曹操が目を覚ますと、何ともう昼になっていた。ここのところ疲れ切っていたとはいえ、随分長く眠ってしまったものである。丸一日、眠り込んでしまった計算になるからだ。

本当に疲れ切っていた曹操は、女も寄せずに眠っていた。曹操は、大あくびして、何度か転びそうになりながら寝台より起き出す。

変な格好で寝ていたが故か、ちょっと体が痛い。それに猛烈に腹が減っている。しかし、為政者として、一日も情報を得ないというのは致命的だ。寝違えていないことを確認しながら手を叩くと、すぐに典偉が飛んできた。曹操以上に大変な状況であったのに、もう起きているのだから大したものだ。基礎体力が違うというのは、素晴らしい事である。

「典偉よ。 何か、余が眠っている間にあったか」

「特に何もございませぬ。 許?(チョ)には今李典がついて、色々と城の中のことを教えておりまする」

「うむ、そうか。 許?(チョ)には、そなた同様、余の護衛を任せようと思っておってな。 そうすれば、そなたの負担もだいぶ軽減されるだろう」

曹操にとっても、典偉は得難い部下だ。軍勢を動かすのには向いていないが、木訥で真面目で、とにかくきちんと仕事をこなすので安心感がある。李典のように有能な男も良いのだが、奴はずっと目を付けていないと危ない。そう言う意味で、典偉に対する信頼感は得がたいものがあった。そして、今度手に入れた許?(チョ)は、典偉の負担を大いに減らせる可能性がある。

侍女達を呼んで、さっさとお着替えだ。今日の背が伸びたように見える靴は、不自然さを感じさせないように、なんと膝の辺りまでを覆う仕組みになっている。特注品だから少しお高いのだが、それでも不自然無く背を高く見せることが出来る辺りが素晴らしい。ただし、少し歩きにくいので、戦場には履いていけない。

そして、冠は普通のものを被った。これは、この間汝南で農民達に指摘されたように、下手に高い冠を被ると、不自然さが目立つからだ。これに加えて、目覚めのお茶と一緒に、背が伸びるというふれこみの薬を飲む。とても苦いのだが、我慢だ。背が伸びると思えば、何ともない。

しかし苦い。咳き込んで、咳払いして。じっと控えている典偉に向き直った。

「典偉よ、許?(チョ)を呼んで参れ」

「ははっ」

「見たところ、許?(チョ)はそなたと同じく真面目で、武勇もほぼ同等だろう。 そなたの負担を軽減できる、良い機会だ。 ただ、まだ若いし経験も足りぬようだから、色々と技を教え込んでやれ」

「御意にございます」

侍女に、今度は少し甘めの茶を入れさせる。飲んでいると、体が芯から温まってきた。は順番に文官を呼んで、様々な報告をさせる。曹操が決済するほどの事は殆ど無かったのだが、幾つか気になることがあった。

程cが持ってきた情報は、特に素晴らしい。?(エン)州での状況は、あの憎き呂布と、張兄弟をけ落とせる好機だと告げている。如何に呂布が怪物じみていても、今度は負けない。対策用の戦術も、幾つも練ってある。

兵糧も、今回の汝南攻略で多く手に入れた。後は兵を編成することと、休養させる事を済ませれば、いつでも出ることが出来る。早速腕組みして、編成を頭の中で組み始める曹操。

いつの間にか来ていた李典が咳払いしたので、許?(チョ)もいることに気付いた。

「曹操様、許?(チョ)を連れて参りました」

「きょ、許?(チョ)です。 今参りました」

「うむ、楽にして良い」

「分かりました」

竹簡を拡げて、さらさらと文字を書き始めた曹操の前で、許?(チョ)はどっかりと床に座り込んで、侍女達が目を剥いた。李典がくすくすと笑っている。気付いたのだが、この男、あまり体が丈夫ではないようである。そう言えば、郭嘉もあまり体が丈夫ではないから、女遊びにいそしむのだとかほざいていた。気持ちは分からないでも無い。曹操だって、背丈に関しては、誰よりも偏執的な部分があることを自覚しているからだ。

竹簡を書き終える。許?(チョ)はむっつりと黙り込みながらも、周囲に気を配っている。良いことだ。この木訥とした農民は、自分がするべき事をきちんと本能で理解している。いずれ武人として、全く恥ずかしくない男になるだろう。

「よし、李典。 この竹簡を複製して、韓浩と、楽進、それに夏候惇と夏候淵、郭嘉と戯志才に届けて参れ」

「ははっ」

「許?(チョ)は、しばし余の護衛をせよ。 あまり危険がない所から、体を慣らしていくようにせよ」

「わ、分かりまして、ございまする」

ぼんやりと許?(チョ)がしているので、曹操は苦笑いした。これは、虎でありながら痴である。

「そなたのあだ名は、虎痴としよう」

「それは、どのような意味、でしょうか」

「虎のような力を持ちながら、普段はぼんやりしているという意味だ」

「そ、その通りかも知れない、です」

素直にそう言ったので、侍女達が大笑いした。曹操も好ましいことだと思いながら、新しい竹簡を拡げて、命令書を書き連ねたのだった。

大反撃の準備は整った。

曹操の動きは、そうなると放たれた矢のように、鋭かった。

 

2、台風と、その目

 

?(エン)州の民は苦しんでいた。

もとより曹操の精密な統治により、?(エン)州は豊かな土地に生まれ変わったのだ。其処に無理矢理割り込んできた呂布を、民は最初から歓迎していなかった。兵士達の中にも、何故かいつの間にか呂布軍に編成されてしまったようなものが多く、誰もが逃げ出したいと考えているのだった。

ただし、それが出来なかったのは。常に魔神がごとく目を光らせている、怪物的な存在。呂布がいるからであった。

呂布は巨大な戟を手にして、いつも全く読めない時間に城の中や、街を見回っていた。彼が跨っている巨大な赤兎馬もそうなのだが、何から何までが圧倒的で、誰もがその姿を見ると首をすくめた。その上、呂布は人の心を読むこと敏感で、自分に逆らおうとしているものにはすぐに気付いた。そして、それが好ましくない理由だと判断すると、即座に首を刎ねてしまうのだった。

それらの事情を、陳宮は正確に把握していた。しかし、それらが民には歪んで映ることもなお、しっかりと理解していた。だからこそに、陳宮は呂布での恐怖統治を進めながら、新たに策を練っていた。

夕刻、呂布が?(エン)州城に戻ってきた。また人を斬ったらしく、強烈な血の臭いを全身からはなっている。自室に戻り、既に何人目か分からない妻を呼ぼうとしていた呂布に、いち早く陳宮が跪いた。

「どうした、陳宮」

「今後採るべき策が、まとまりましてございまする」

「言ってみよ」

呂布の後ろには、高順が控えている。高順は呂布を心から心配しているらしく、陳宮に心を許していない節があった。だが、この状況である。仕方がないだろう。

「まず、この?(エン)州はあまり長時間、維持することが出来ません。 早めに、根拠地を移す算段を練るべきかと思いまする」

「ほう。 して、移すべき場所とは」

「現在、袁術が根拠地を持っている、南陽にございまする」

高順が小首を傾げる。南陽と言えば、此処とはあまりにも遠すぎる。兵を率いて行くにしても、曹操の領土を真っ正面から横切ることになる。それに、最近徐州の情勢がきな臭くもなってきており、簡単には通れそうにもない。そう常識的な人間は考える。

黙り込んでいる呂布に代わって、疑問を呈したのは、高順だった。

「南陽はあまりにも遠い。 どうやって、根拠地を移すつもりだ」

「まず、徐州へ。 そこから、袁術に合体工作を申し入れます」

「合体工作とは、なんだ」

「つまり、婚姻などを用いて、勢力を合一する事です。 袁術は名うての愚者でありますから、養子にでもなれば、簡単に勢力を乗っ取ることができます」

呂布はあまり楽しそうな顔をしなかった。陳宮の予想通り、見る間に眉根を寄せていく。あまりにも獰猛な殺気が、陳宮に叩きつけられた。普通の人間だったら、此処で魂が別の世界にすっ飛んで行ってしまったかも知れない。

だが、陳宮は平然と、それを耐え抜いた。

伊達に、あの王允の部下として、鍛えられてはいないのだ。この世の闇を凝縮したようなあの男と接していた時には、邪悪に耐えるだけではなく、頭も使うことも要求された。だから、自然と鍛え抜かれたのだ。

「俺が、あのような愚かな男の、養子となるのか。 俺が父とした男は、いずれも優れた者達だ。 あのような愚者とは違う」

「それは分かっております。 何も養子でなくても構いません。 ようは友好的な顔をして近寄り、首を刎ねてしまえば良いのです。 袁術は、物資だけは豊富に持っておりますがゆえ」

「ふむ、しかしそれは魔王のやる事ではないな。 あまりにもせせこましく、そしてくだらぬ」

「残念ながら、呂布様。 この国の人間はあまりにも多く、貴方が如何に魔王を自称できる武力を持とうとも、一人で全てを刈り尽くすのは不可能にございます。 それであれば、人間の出来ることを上手に利用しながら、世界を統べるべきにございましょう」

呂布は最強の剣だ。巧く使いこなせば、天下統一もたやすい。

厄介なのは意思を持っていることで、しかも誇り高い所であろうか。だから巧く誇りを刺激しないように、なおかつ自分が望むように、誘導していかなければならない。

「ふむ、そういうものか」

「張兄弟はどうするつもりか」

「あのようなものどもは、捨て石にございます。 呂布様が天下を統一した時には、たまに思い出してやれば良いことです」

「……」

その問いを聞くと、高順は腕組みし、ついと視線を逸らした。義にもとる行為だとでもいうのだろう。下らぬ事だ。表面的に義を示せば、確かに勘違いして着いてくる人間は、幾らかいる。

だが芯から世間一般で言われるような義を抱いている人間など、一体どれだけいるというのか。

少なくとも、陳宮は未だ見たことがなかった。

「それで、具体的にはどうするのか」

「まず、近々曹操が攻め込んできます。 これはほぼ確定情報です」

「ふむ」

「其処で、我が軍の中で使えそうにない連中を捨て石に残して、主力を徐州へ移動させるのです。 徐州は今、陶謙が死に瀕していて、其処へ劉備がつけ込もうとしておりますので、隙がおおきい。 しばらく潜伏しながら様子を見て、徐州を乗っ取った劉備に支援を申し込むのがよろしいでしょう」

劉備は、己の義を宣伝することで、名を売っている。

其処を逆利用して、呂布を客将として迎えさせるのだ。

「その後は、劉備と袁術を戦わせまする」

「どうやって」

「曹操は、徐州のことを未だに根に持ち、恨んでおります。 劉備が徐州を奪えば、快くは思いますまいから。 勝手に、袁術と戦いが起こるように、し向けてくれましょう」

「貴様、一体何者だ。 確かに理にかなうように思えるが」

ただの人間にございまする。

そう言い、あたまを下げると、陳宮は呂布の前を退出した。

小うるさい高順も、所詮は常識的な存在に過ぎない。とてもではないが、陳宮を陥れることが出来る器ではない。

呂布はまだ使える。だから、己の野望をかなえるために、徹底的に利用させて貰う。

自室でほくそ笑んでいた陳宮は、自分の影がおおきくなったことに気付いて、慌てて振り向いた。

蝋燭に照らされるようにして、それはいた。

「林……!」

「相変わらず見事なお手前。 この林、とても感心しました」

「おのれ、化け物め。 ひょっとして、全てを見ていたのか」

逆さに天井からぶら下がっている林は、微動だにしない。笑顔も崩すことがなかった。その変化がない笑顔は、まるで邪神の像がごとく、途轍もなく不気味だった。

呂布に気付かれず、さっきの様子を見ていたとすると。この女は、もはや細作としてこの国最強の存在として仕上がっているのかも知れない。流石に呂布を暗殺するのは難しいだろうが、極めて危険だ。しかもこの女からは、状況を明らかに楽しんでいる、危険すぎる香りがする。

しかし、曹操が侵攻してくるという情報を、いち早く陳宮に伝えたのも、この女なのだ。この女の情報網は非常に使える。しかし、油断すると即座に首に噛みついてくる、そんな危険性が確かにあった。

「一つ、調べて欲しいことがある」

「何でしょうか」

「王允は、ひょっとして生きているのではないか」

長安で、王允は殺されたと、陳宮は聞いた。その家族は皆首を刎ねられたとも聞いている。

しかし、どうも不安がぬぐえないのだ。王允の首はすぐに焼き捨てられてしまったとも聞いているし、何より背中に妙な視線を感じる。奴は本物の怪物だった。董卓と、張り合えるほどの、である。

だからこそに、あらゆる方法で、死を確認しておきたかったのだ。

「これは心配性にございますね。 仮に生きていても、かの人物は既に老境に落ちておりましょう。 未だ若々しい貴方と違い、もはや未来もない。 何をそれほどに恐れているのですか」

「だからこそだ。 奴は人間だと考える方が間違っている。 今も何処で私のことを見ていることか」

自分がこれほど臆病だとは、陳宮も最近まで気付かなかった。呂布の殺気には平然と耐えるのに、まだ生きているかも知れない王允はこれほどに恐ろしいのだから。

だが、あの男は、どれだけ警戒してもおかしくない。部下として仕えていたからこそによく分かる。あれは人間として考える方がおかしいのだ。

「それほどに怖いのであれば、調べて参りましょう」

「……出来るだけ、迅速に頼む。 あの男が生きている限り、残念ながらわが覇業はならぬだろう。 逆に、奴さえいなければ、もはや我に敵はない」

「分かりました。 しばし吉報をお待ちください」

ふと気付くと、既に林はいなかった。

年齢不詳のあの娘も。今や董卓や王允に匹敵する怪物に育ち上がっているのではないか。自分はひょっとして、怪物の掌の上で、転がされているのではないか。それだけではない。もし王允が生きているとしたら、更に二重三重の操り糸が、自分に絡みついているのではないのか。

自分で考えたと思っていることは、或いは全て彼らの思惑通りなのではないか。自分は、哀れな操り人形なのではないか。

そんな恐怖が、陳宮の全身を包む。

笑い飛ばそうともした。だが、笑い飛ばせる材料が、一つもなかった。

 

曹操の動きは速かった。

一ヶ月ほどで兵の再編成と休養を済ませると、怒濤の勢いで?(エン)州に侵攻したのである。

もとより、民衆の支持を全く受けていない呂布軍は、各地の城が内応をする有様で、殆ど支えることが出来ずに内側から壊滅した。途中、呂布が曹操の陣に強襲を仕掛ける一幕もあったのだが、許?(チョ)と典偉が共同して呂布に立ちふさがり、多少の手傷を負いながらも、どうにか曹操を守りきった。

呂布を痛めつけたのはそれだけではない。曹操が準備していた、弩を恐るべき練度で備えていた部隊も、であった。

もとより弩は騎兵に非常に効果的な武器として知られているが、曹操はそれを常識外の装備率で揃え、斉射を行う部隊を訓練していたのである。

それはまさに、鉄の雨であった。

呂布自慢の騎馬隊も、流石に手も足も出ず。呂布自身も鼻白んで、撤退していった。少なくとも、誰の目にもそう見えた。

破れた呂布は、?(エン)州を放棄して、徐州へ逃れていった。

それらの一部始終を見ていた林は、側に控えていた部下達から、報告を聞いていた。眼下では、破れた呂布軍の残党が、曹操に降伏している。元は殆どが?(エン)州の民である。曹操も二つ返事で許している様子であった。

「劉備は、徐州を落としたか」

「ははっ。 林大人の仰せの通り、陶謙の病死につけ込み、その息子達を押しのけて、徐州の実権を握った様子です」

陶謙はもとより、臓器を患っていた。怪物的な精力で保たせてはいたのだが、それも限界が来たと言うことだ。王允に比べるとだいぶ格下だが、それでもこの国に巣くった魔物の一人であったことに違いはない。

同じく魔物の一人である林は軽く同類に黙祷を捧げると、次の手を打つべく、部下共に振り返った。

「次は徐州に戦略の焦点を移さなければならないだろうな」

「争奪戦が始まりますか」

「いや、それはまだ先だ。 今の内に、火種を撒いておく」

徐州は誰もが認める戦略上の要地だ。しかし、一つ問題がある。

極めて守りにくいのである。

恐らくは、徐州は抑えなければならないにもかかわらず、抑えようとする者がいちいち痛手を払うことになるだろう。

つまり、此処に将来大勢力を築きうる連中を介入させていけば、それだけ混沌を加速させることが出来るのだ。

しかも都合がよいことに、物資だけ豊富に抑えている無能な袁術が、徐州に隣接して領土を持っている。此奴をいちいち徐州に介入させれば、それだけ混沌は加速を早めていくことだろう。

問題は、今徐州にいる劉備が、急速に民の支持を集めていると言うことだ。陳群という覇道主義で有名な学者は劉備を嫌って曹操の元へ走ったようだが、それ以外のめぼしい人材は大体が劉備の所へ集まっている。劉備に足下を固められると、あまり林としては面白くない。

「早めに劉備と袁術の間に紛争が起こるように、仕掛ける必要があるな」

「それならば、劉備よりも袁術の方が動かし易いのではありませんか」

「逆だ。 袁術の所には、あの王允が名前を変えて潜り込んでいる。 むしろ劉備から喧嘩を売らせる方が早い」

王允はまだまだ活かしておきたいと、林は思っている。あの男ほど、生きているだけでこの中華を混沌に導く者はいない。董卓や呂布が魔王、林が邪神だとすると、王允は疫病神だろう。

「しかし、劉備はあれでかなり頭が切れます。 巧く乗ってくるでしょうか」

「だから、奴が乗っている、お題目を利用する」

そろそろ、それに相応しい条件が整ってくる。

幾つかの情報を既に握っている林は、それを組み合わせて劉備を追い込むべく、火種を撒く作業に余念がなかった。

一端部下達を、指示を与えて散らせる。一人一人の任務は、それぞれがとても意味を成すようには思えないものばかりだ。だがそれらが、林の頭の中では一つの立体図に組み上がっている。

呂布の所にいる陳宮は、自分こそこの国一の軍師だと思いこんでいるようだが、林に言わせれば笑止。

多少頭が切れる程度の陳宮など、王允や林のような、真の邪悪の前には無力だ。放って置いても、曹操にさえ遅れを取ることは間違いない。

だが、陳宮には使い道がある。自分が頭がよいと思っている者ほど、操りやすい存在はいないのだ。このまま陳宮には、王允に怯えながら、呂布を操って表向きの台風の目となって貰う。それから裏側で糸を引いている王允を適当な所で殺せば、全てがかってない混沌に落ちるだろう。

林にとって心地よいのは、闇の中の世界。それは、間もなく実現しようとしていた。

 

徐州城の城壁の上で。劉備は、自分に喚声を送る民衆を見つめていた。その後ろで、陳到は、同じく感動を味わっていた。

ついに、この日が来た。大望を抱いて傭兵の隊長を続けてきた劉備が一国一城の主となった。

乱世で何かを為すには力がいる。まだ完全とは言えないが、その一端が、ようやくなったのである。隣で感涙にむせび泣いているのは張飛。そして関羽も、眼を細めて、しばしの感動を味わっている様子であった。陳到もむっつりと黙り込んでいたが、嬉しい。国譲や簡雍も、感涙を流していた。

既に、公孫賛から劉備に、連絡が来ている。平原の管理は別の人間に任せるから、徐州の統治を自由に行えと言う趣旨であった。言われるまでもないことである。この徐州は、陶謙の死のどさくさに紛れ、劉備が半ば力づくで奪い取ったのだから。

暗闘を、民に知らせる必要はない。

ただ、陶謙にこの土地を譲られたと、宣伝すればそれでいいのだ。

あまり面白く無さそうな顔をしている者もいる。陳到の後ろ、城壁の上にある小さな櫓の影で、腕組みしているのは。シャネスであった。

今回、陶謙の死の後、最も活躍したのは彼女だ。陶謙の二人の息子を暗殺し、闇に葬った。そして遺言状を偽造できる人間を見繕い、そのほかの影の仕事も全て執り行った。

だが、それが故に。劉備には、ある程度の不審を感じてしまったらしい。本当にこの男は、民のために動いているのか。それとも、己の野心のために、徐州を奪ったのではないのか。

シャネスの気持ちも、分からないではない。陳到も、少し不安はある。だが、今は、陳到が知る中でも最も民のことを考えている君主である劉備が、徐州の主になったことが嬉しかった。

徐州の名士も、続々と劉備の元へ馳せ参じている。もっとも高名な陳群は劉備を嫌って曹操の元へ去ってしまったが、温厚な人格と豊富な知識で知られる孫乾、名士である陳珪と陳登、それに資産家で知られる糜竺、糜芳兄弟など、多くの者達が劉備の元に集った。

その中で、糜兄弟は、徐州有数の富豪と言うこともあり、劉備にとっては心強い味方であった。今まで経済力に苦しめられ続けた劉備にとって、各地に独自の情報網と流通網を築いている大商人の助けは必須であった。しかも誠実なことで知られる糜竺は、劉備を非常に高く買っているらしく、謀反の恐れはあまりない。ただ、弟の糜芳は人格的に色々問題があるため、目を付けていないと危険だという話も、陳到は聞かされていた。

どちらにしても、劉備の力は、徐州にはいる前と比較にならないほどに高まっていた。それに、もう一つ、良い話もあった。

長らく独り身でいた劉備が、ついに結婚を決めたのである。

民衆の前から下がった劉備が、徐州城の最奥に引っ込む。最近はすっかり美しく成長した甘が、それに付き従った。

そう。劉備が、糜竺の妹である糜夫人と結婚することになり、彼女を正室とした。それに会わせて、甘は側室として、劉備の側に置かれることとなったのである。長らく献身的に劉備を支えてきた甘を見てきた陳到としては、実にめでたい話だ。兄と似て誠実な人柄の糜夫人との仲も良好なようで、兎に角良かった。

少し前まで陰謀と謀略が渦巻いていた徐州城は、まるで春が来たように、明るくなっていた。

「信じられねえほど平和だな」

「本当ですねー。 僕も劉備様を見習って、結婚しようかなー」

「はっはっは、国譲なら確かに幾らでも相手は見つかりそうだ」

「結婚したら、いい加減名前の方でも呼んでくださいよ。 字で呼ばれるのも嬉しいですけれど」

武将達がたまり場にしている小さな部屋で脳天気な話をしている簡雍と国譲を横目に、陳到は頭の中で部隊編成にいそしんでいた。侍女が茶を運んできたので、席について啜る。一緒に茶でもどうだと張飛はシャネスに声を掛けていたのだが、あっさり断られていた。

今、劉備が動かせる戦力は大体二万。民衆からの志願兵も会わせて、総力戦なら三万程度を動員できると計算が為されている。陳到が動かす戦力は、その中の四千から五千という所だろう。精鋭は張飛と関羽が握るとして、雑兵を中心とした編成で、如何に効率よく動くかを考えなければならない。

その上、此処徐州は、戦略上の重要点だ。しかも西の曹操は、呂布との抗争が一段落したら攻め込んでくるのは間違いない。南の袁術も、徐州に進出を目論んでいるだろうし、油断が出来る状況にはない。準備は、幾らでもしておかなければならなかった。

「私は、あまり政治のことが分からない」

「ん、どうした、陳到」

「だから、自分に出来ることをして、劉備様に天下を取って貰いたいな」

「ああ、俺もそのつもりだ」

張飛が、陳到の独り言に応じて、大まじめに言った。

そのまま、部屋を退出。城内に与えられている自分の屋敷に。屋敷と言っても小さな家だが、しかし使用人を三人も雇えたので、生活は随分楽になった。

「父上、お帰りなさい」

「ただいま。 いい子にしていたか」

「いやー。 いい子になんかしたくないー」

ぷーっと頬を膨らませると、娘は奥へ駆けていってしまった。

妻は二人目の子を産んだばかりだが、相変わらず不満ばかりを零している。長女は今遊びたい盛りで彼方此方を駆け回っているが、おしとやかに育てて、中原にいる富豪にでも嫁がせようと目論んでいるらしい。不平屋な上に、現在の状況も分かっていないという事もあるが、それでも陳到の妻だ。今後も家族を支えるために、陳到は頑張らなければならなかった。

そのためには、兵士達を的確に訓練する必要がある。

慌ただしく劉備の結婚式を済ませると、劉備は統治の手はずを整える。徐州城には劉備が居座り、戦略上の要衝である小沛には張飛を、下丕には関羽を配置する。関羽の下には国譲を始めとする何人かが、張飛の下には簡雍を筆頭とする何名かが配置されることとなった。

陳到は劉備の直参として、主力の歩兵部隊を率いる。徐州城に一万、小沛と下丕には五千ずつの戦力が配置される。その中でも、陳到が率いるのは大体四千。今までの経歴中でも最大級の戦力である。これを的確に動かすには、今まで以上に、効率の良いやり方が必要であった。

書物上の知識で知っている関羽にも話は聞いているが、まだ纏め切れてはいない。こうなってくると、文字が読めても書けないことが大きな不利として働いてくる。だから、ここ最近は、毎晩書物を開いては、自の練習を続けていた。

「また貴方は、仕事のことを考えているのですか」

「む? いたのか」

気付くと、既に夜中だった。

開いていた竹簡を閉じると、妻にもうすぐ寝ると伝える。そして、思い出して、顔を上げた。

「どうだ、劉備将軍は一国一城の主になっただろう」

「確かにそのようですが、あの曹操という恐ろしい方を敵に回して、周囲もあまり穏やかではない状況だと言うではないですか」

「それでも、此処は劉備将軍が勝ち取った城だ。 だから、私が必ず守り抜く」

「ほどほどにしてくださいませ。 貴方は何処まで行っても、所詮凡人。 英雄達に対抗しようとしても、無理でしょうし」

根本的に興味がない様子で、妻が寝室へさっさと戻っていった。

冷酷な態度だが、事実をそのまま告げる言葉でもある。実際、陳到は、英雄に勝てるとは思っていない。呂布が迫ってきた時助かったのは偶然からだったし、劉備と同じ事が出来るとは思えない。

負け犬根性なのではない。単に、敵わないことを理解しているだけだ。だから、出来る範囲で、己の家族を支えたいと考えている。そのためには、多少無理してでも、勉学しておく必要があるのだ。

陳到は首の後ろを叩くと、もう一つ竹簡を開く。もう、陳到はあまり若いとは言えない。記憶力も落ちてきているし、体力だってそうだ。もう十年もすると、子供達に体力でどうしても勝てなくなってくる。

それを補うには、経験を積むしかない。

夜遅くに寝て、朝早くに起きる。家族が起き出してくる前に、調練場に。剣を振るって、体を温めて、走り込みをする。部隊の長達が、おいおい集まってきた。一番年かさの男が、いつも最初からいる陳到を見て、他人事のように言った。

「陳到将軍は、いつも朝一番ですな」

「私には才能もなければ、武勇も大したことがないからな」

だから、努力をするのだ。そう内心で、陳到は呟いた。

「ご謙遜を。 曹操軍との戦いでの奮戦については、聞き及んでいます」

「それは、運が良かっただけだ」

三十歩先の的を見据えて、長弓を引く。精神を集中し、矢を放つが、中心に命中するのは五度に一度という所だ。呂布が百歩の距離から百発百中させると聞くと、どうしても勝てない相手がこの世にいると思わされる。

だから、対抗しようとは思わず、己の出来ることをしていくのだ。

何本か矢を放っているうちに、隊長達が勢揃いした。

今、再編成を進めていて、何人か部下がいない者がいる。彼らにも基礎体力を付けるべく修練をして貰いながら、その動きを見て、決める。まだ、兵士達に陣形を組ませて、模擬戦をやらせるような状態ではないのだ。

基礎修練が一段落した所で、最下位の部隊長達を並べる。彼らは兵士が合図などを忘れた際に、その失敗を補えるように、何倍も知識を深めておかなければならない。台を用意して、その上に立つ。そして、順番に合図を確認させた。鼓の打ち方や、銅鑼の鳴らし方も、その軍によってそれぞれ合図の意味が違っているのだ。

大体は反応できる隊長達が多いが、それでも失敗をする者がいる。陳到自身は、毎晩徹夜をして徹底的に頭に叩き込んだが、他の者達はどうもそうではないらしい。陶謙時代の徐州軍は緩みきっていたが、その悪弊はまだ残っている。

「そこの中隊長、孫真と言ったな。 三回間違えた。 お前は、城の回りを二周してくるように。 それから全ての合図を暗誦し直せ」

厳しすぎるのではないかと顔を見合わせる者もいたが、曹操軍なら多分打ち首にされているだろう。まだ若い孫真は不満そうに外へ駆け出していって、きちんと二周して戻ってきた。足も速いが、他の隊長達に比べてかなり体力がある。その分、残念ながら少し頭が悪いようだ。

それから何度か、しつこいほどに合図の確認を行った。実戦でこれを間違えると、全軍が一瞬で瓦解する可能性さえある。袁術軍だったらどうにか立て直せるかも知れないが、曹操が相手になった場合、一瞬の隙は致命傷につながる。

明日からはそれぞれの部隊の副隊長も連れてきて、覚えさせる。司令官が間違えた時に、補佐させるための者達だ。

夕刻まで、みっしり訓練を入れた。流石に陳到も疲れたが、まだすることがある。書類も幾らか書かなければならないし、それが終わったら肩を叩きながら自宅に戻って、また勉学だ。

気がつくと、もう次の日になっている。

このままの生活が続くと、二人目の子供には、顔を忘れられるかも知れないなと、陳到は思った。

ふと、何か嫌な気配を感じた。

だが、それも一瞬後には、消えて無くなっていた。気のせいだろうと思い直し、陳到は次の竹簡に手を伸ばす。

凡人が、乱世で生きていくこと。

それは、並大抵の努力で、出来ることではないのだ。

 

3、曹操と皇帝

 

怒濤のように攻め寄せた曹操軍が、張超の城を落とした。張?(バク)は、その報告を聞いて、顔を青ざめさせていた。

曹操は幼なじみだ。昔から連んで、色々と馬鹿なことをやってきた。基本的に彼方此方抜けている奴ではあるのだが、しかし根本的な能力の高さには、いつも舌を巻かされていた男。

その軍勢が、今張?(バク)の城を、二重三重に囲んでいた。

張?(バク)は殺されるだろう。張超は既に殺されたという報告も入っている。曹操は世間一般で言われているほど情けを知らない男ではないのだが、しかし今回の件は話が別だ。

曹操の根拠地は一時失陥し、一歩間違えば曹操は死ぬ所だった。

乱世であった。

曹操の領土を、全て奪い取ることが出来る計算もあった。

だから、野望に任せて、曹操の背中を撃ったのだ。もちろん、陳宮の提案が、魅力的だったと言うこともある。しかし、張?(バク)も、この乱世を生きてきた男である。他人の言うことを鵜呑みにして、まともに信じ込むほど愚かではない。

勝算があるから、尻馬に乗ったのだ。

だから、責任は、自分で取らなければならなかった。

既に戦力差は十倍近い。野戦では壊滅的な打撃を受け、主な将軍は皆戦死した。仮に逃げたとしても、呂布ならともかく、張?(バク)に敵の包囲を突破できる訳がなかった。

「張?(バク)将軍。 敵が、降伏を勧告する矢文を射込んで参りました」

「見せよ」

この状況で、曹操が降伏など求める訳ではない。恐らくは、嫌がらせだろう。

幼い頃から一緒にいたから、よくその性格は知っている。曹操は途轍もなく有能だが、どこか子供のような男なのだ。曹操は、命のやりとりをするこの場で、遊んでいるのである。

手紙を拡げてみる。噴き出してしまった。

中身は、ただ一文字だけ。大きめの竹簡には、こう記されていたのである。

犬。

幼い頃のことを、張?(バク)は思い出していた。曹操と一緒に、何人かで連れ立って、富豪の娘にちょっかいを出しに行ったことがあった。屋敷に住んでいたその娘を拐かそうとしたのだ。

この時代、略奪婚は珍しくもなく、故に富豪は娘を非常に厳重に守っていた。曹操は手際よく警備の連中を買収していたし、娘もその頃は男ぶりが良かった張?(バク)に惚れていたので、万事が上手く行くかと思われた。

しかし、である。全てが失敗した。裏門に、とんでもなく大きな犬が配置されていたのである。

それは話に聞くと、北方から商人が仕入れたという、狼に近い種類の犬であったという。兎に角、曹操よりもおおきかった。そして凶暴で、曹操達を見ると吠えたけり、猛り来るって追っかけてきたのである。縄を引きちぎって追ってくる犬を見て、張?(バク)達は、生きた心地がしなかった。やがて犬は、自分よりも小さい曹操に狙いを定めて追いかけてきた。

曹操は木の上に登って逃げたが、尻を噛まれかけ、その部分の衣を破かれてしまった。尻を丸出しにして木の上に登った曹操を、犬が歯をむき出して吠えながら襲おうとしていたその光景は、今でもよく思い出すことが出来る。

娘の略奪婚は、当然上手く行かなかった。

ひょっとしたら、曹操は別の意味で、犬と書いてきたのかも知れない。しかし、もうそれで充分だった。

幼い頃から親友だった曹操を裏切ったのは、張?(バク)なのだから。

乱世と、それによって拡大した野望という魔物に心を喰われてしまった。心が弱かったから、喰われたのだ。幼い頃の楽しい思い出を幾つか思い出しながら、張?(バク)は城壁の上に座り込んだ。

「首を刎ねて、曹操の所へ持っていけ。 そうすれば、儂の家族はどうなるかは分からぬが、少なくともお前達は助命されるだろう」

「将軍……」

「何、これも乱世の常だ。 七人主君を変えて、今はやっと一人前だと思われる時代なのだぞ。 責任を取るのは、儂一人で十分よ」

呵々大笑すると、張?(バク)は目を閉じた。

最後に思い出したのは、結局手に入れられなかった、あの娘の笑顔だった。

 

届けられた張?(バク)の首を見ると、曹操はおおきく頷いた。

わざわざ恥を思い出すような真似をして、竹簡に犬と書いて正解だった。昔からあの男は、そういう所があった。感情に動かされ、中途半端に義理堅い。それは悪いことではないと思うが、乱世で生きて行くには、覚悟が徹底していなかったのだ。

それに計算も甘い。あの程度で、曹操が破れ滅びることは無かっただろう。結局、曹操は勝つべくして勝った。それだけの事であった。

「城の兵士達はどうしますか」

「助命してやれ。 張?(バク)の家族達も、殺したという事にして、裏から逃がしてやれ」

「良いのですか」

「大した能力を持つ者はいないし、何より張?(バク)は潔く首を差し出したのだ。 それくらいはしてやってもよかろう。 ただし、殺したという宣伝は怠るな」

頷くと、典偉は伝令達に、大きな声を張り上げて命令を伝える。そして、死刑を専門としている役人に対して、耳打ちをしていた。

その間、隣にいるのは許?(チョ)であった。大柄なこの男は、ぼんやりと空を見ている事があると思うと、得物を狙う虎のように辺りを見張っていることもある。誠に、虎痴というあだ名は的を得ていたなと、曹操は思った。

「虎痴よ、次はどうすると思う」

「わ、わかりま、せん。 でも、城の民は許してやって、欲し、いです」

「うむ、それは心配するな。 農民達は国の宝よ。 余は楚の覇王ではないからな、民を無為に殺すような真似はせぬ」

「しかし、徐州のことは、聞いたことがございます」

あれは事故だったのだと、曹操は目を伏せた。許?(チョ)は愚かなようでいて、こういう所では不意に核心を突いてくることがあるので、油断できない。仕えて早いのだが、既に二回暗殺を目論んで忍び込んできた細作を斬っているのも、こういう観察力や核心を見抜く力が大きく影響しているのだろう。

「余を信じよ」

「はっ。 曹操様を、信じます」

「うむ。 よし、とりあえず、?(エン)州と予州はこれで平定した。 徐州はしばし放っておくとして、次は西だな」

編成は維持したまま、すぐに軍勢を西に返す。

既に、ルーの残した細作組織から、話は聞いている。献帝が、長安を脱出したのである。弘農は曹操の勢力外であり、今までは李?(カク)らの兵力を警戒して迂闊に手を出せなかったが、念入りな調査の結果、連中の兵が弱体化しきっていることは既に判明している。恐れることは何もない。

献帝を抑えれば、曹操は群雄に一歩ぬきんでる事が出来る。もちろん、天下統一を視野に入れることも出来るだろう。袁術が即位に向けて動いているという話だが、そんなものは誰も気にしない。献帝も所詮は飾りだが、それを抑えておくことで、未だ残っている漢王朝への忠義を捨てぬ者達も、取り込むことが出来る。

「韓浩。 そなたは?(エン)州を守れ。 夏候惇と夏候淵は予州だ。 以前の失敗は、二度と侵すな」

「ははっ」

「楽進は兵五千を率いて、洛陽近辺に展開。 献帝の同行を見守れ。 もし李?(カク)と郭の軍勢が献帝と揚奉に追いつくようであれば、助けろ。 連中は凡将であるし、兵士達の士気も低い。 お前なら問題はないだろうが、敵勢力の兵力だけは多いから油断はするな」

「承知いたしました」

楽進には李典もつける。そして、曹操は二万の兵を?(エン)州に、一万を予州に残すと、自身は五万余を編成状態のまま残して、許に戻ることにした。

いつでも、すぐに動くことが出来るように、である。

少し一緒に過ごしてみて分かったが、許?(チョ)に軍勢を率いる才能はない。だが、側に置いておくだけで安心感があるし、いざというときは敵の前線を突破させる切り札にもなる。

人材が揃ってきているが、まだ二正面作戦をするほどではない。袁紹の所には更に多くの人材が集まっているとも聞く。それに、呂布に荒らされた国力は、回復に時間が必要となる。蝗に食料を食われた貧民達も、保護しなければならない。出費が兎に角かさむのは仕方がないとして、国を効率的に動かして行くにはまだまだ人材が豊富に必要だなと、曹操は馬上で思った。

典偉が馬を寄せてくる。表情は、若干引き締まっていた。

「曹操様。 戯志才が、お話があるという事です」

「ほう。 何だろうか。 呼べ」

咳き込みながら、戯志才が馬を寄せてくる。相変わらず顔色が悪いが、参謀達の中で一番頭がよい男だ。

見張っている典偉を気にも留めず、志才は咳き込みながら、要件を淡々とのべつづける。その独自の調子で続けられる言葉は、何処か異国の音楽を思わせた。

「ゲホゲホ。 殿、楽進将軍を先に西へ向かわせたとか」

「うむ、献帝を抑えさせる」

「気をつけた方がよろしいかと。 今回、情報が来るのがあまりにも早すぎまする。 何か、裏で糸を引いている者の気配が感じられます」

「余に献帝を抑えさせて得をする勢力がいるというのか? それは何処だ」

 しばらく咳き込んでいた志才は、顔を上げる。表情には、若干の悲壮感が漂っていた。この男は、あまり長くは生きられぬだろう。気の毒な話だが。だが、その生を、精一杯燃やし尽くそうとしている。

「或いは、勢力ではないかも知れませぬ。 以前、董卓の裏側について、殿は話してくれましたな」

「ああ。 あれはとんでもない怪物だった。 鮮卑の怨念を一身に集めた、怪物であったと言っても良いかも知れん」

「同類かも、知れませぬ」

「ふむ……そうか。 ならば、どのような非常識な策を巡らせるか分からぬな。 分かった。 細作を最大限に動員して、調べさせよう」

まさか、まだ董卓が生きているという事はないだろう。奴が生きているのなら、混乱はこの比ではないだろうからだ。しかし、確かに志才のいう事は気になる。一体この中華には、まだどんな怪物が潜んでいるというのか。

許?(チョ)を呼び戻す。得に意味のある行動ではない。

曹操は、ふと怖くなったので、呼び戻したのだった。

典偉と許?(チョ)が側に揃っていれば、大体の相手を撃退できるだろう。そう言い聞かせて、曹操はようやく一息ついていた。

 

徐晃は、日ごとに減っていく兵士達を見て、舌打ちしていた。献帝を載せた馬車は、既にかなりボロボロになっている。途中、何度か虎が出る山も越えた。虎と遭遇することはかろうじて無かったのは、軍勢が一緒にいたからに他ならない。少人数だったら、襲われていただろう。

なぜなら、虎も今は飢えているからだ。

近年の不作は、山にも大きな被害を与えている。山を通る時に、立ち枯れた木々や、荒れ果てた野原を幾つも見た。殆ど動物は見かけることが無く、鳥さえもが少なかった。麓の村でも、虎が出て困るという話をしていた。もっとも、虎が無敵なのは茂みの中。実際には、虎は猟犬に追い詰められ、大勢の猟師によってたかってなぶり殺される運命にある。この国を支配しているのは虎ではない。人間なのだ。熊もその点は同じである。個人では勝てないかも知れないが、人間の本領は集団戦にある。

それはよい。良いのだが、兵士達が目減りしているのも、その集団戦が故であった。

董承は将軍としては無能で、兵士を統率するのがやっとだった。彼は戦闘の度に右往左往していて、追撃を仕掛けてくる李?(カク)軍と郭軍に為す術を知らなかった。その点では、まだ揚奉の方が頑張っていたとも言える。だが、彼も結局、大した差はなかった。

長安を脱出してから一週間。弘農に辿り着いた辺りから、李?(カク)と郭による追撃が始まった。あれだけ殺し合いをしていられたのも、手元に献帝がいたからだと、今更ながらに気付いたらしい。連中の兵も脱走でかなり減っている様子であったが、それよりも追撃で味方を減らされる方が早かった。そして統率力が無く、残虐性が目立つ董承や、全体的に平凡より少しまし程度の揚奉では、兵士達はついてこない。

かといって、徐晃にも、武勇を振るう以上の事は出来なかった。何度となく最後尾に立っては、敵を斬り伏せ撃ち伏せ、必死の思いで撃退し続けた。徐晃を見ると逃げる敵も出始めている。徐晃を見ると、踏みとどまる味方もいた。

だが、その武勇にも限界がある。愛用の斧は、もう何カ所も刃こぼれていた。

「徐晃よ」

「はい」

馬車の中から、献帝の声だ。まだ皇妃が産気づくには早い。二人とも、がらがら揺れるおんぼろ馬車によく我慢してくれている。旅の途中で得られる貧しい食べ物にも、ある程度耐えてくれていた。徐晃は自分の分も献帝に渡して、必死に凌いで貰っていたが、しかし限界が近いはずだ。

本来は、龍車と呼ばれる専用の車で移動していただく所だが、そんなものはとっくの昔に略奪されてしまった。お労しいと思いながら、徐晃は馬車に寄る。

「味方は、今どのくらいいる」

「六千を、少し切った辺りですが、既に食料が尽きています。 明日は半分になっているでしょう」

「そうか。 苦労を掛けるな。 洛陽までは、どれくらいだ」

「明日には。 しかし、曹操の支援を、受けられますかどうか」

今までの道中の事を思うと気が重い。徐栄に鍛えられた徐晃も、すっかり弱気になってしまっていた。

道中、董承は狼藉を究めた。村を見れば押し入り、女を兵士達に犯させ、物資を略奪した。河で追撃の敵を見るや、船から兵士達を蹴落とし、船縁にしがみついた兵士の手足を切り落とした。流石に献帝に暴力を振るうことは無かったが、それも徐晃が側で見ていなかったら怪しい所だ。

いずれ史書にこれらは記されるようにしようと徐晃は思っているのだが、それも献帝を助けた忠臣という肩書きに、かき消されてしまいそうである。途中から付き従ってくれている伏官も董承を警戒してくれてはいるが、彼は軍事的には完全に無能だ。献帝の側にいて心の支えになることくらいしか、期待できない。ただ、彼は心優しく責任感が強いので、その点だけは信頼できた。

「気を強く持て、徐晃。 そなたがいなければ、余はとうの昔に皇妃ともども虎の餌食となっていただろう。 史書にどう記されるか分からぬが、そなたこそ真の忠臣よ」

「ありがたき幸せにございます」

「あと一日で着くとなれば、しかし却って気をつけよ。 最後の追い込みを、逆臣どもが仕掛けて来るであろう」

銅鑼が叩き鳴らされる。どうやら、献帝の言葉通りになったらしい。

後背に、約三万の敵兵が出現していた。

今までは、山道の地形を利用して、巧く撃退できていた場面もあった。しかし此処は逃げる場所がない平野だ。敵を撃退するには、方法は一つしかない。

「全軍、全力で逃げよ! 洛陽に逃げ込めば、助かるぞ!」

献帝が叫ぶ。事前に決めていたことだ。既に洛陽の太守は、献帝を受け入れると明言はしていた。もっとも、洛陽は孫堅の手である程度復興したとはいえ、今では地方都市程度の規模しか有していない。

とてもではないが、三万の兵に猛攻を仕掛けられて、支えられるものではなかった。

兵士達が、逃げる。多くは前方に急ぐ。献帝の言葉通り、洛陽に逃げ込めば助かると思っているのだ。徐晃は敢えて馬を逆走させ、最後尾に着いた。

追撃をしていくと、どうしても敵は一直線になりがちだ。敵も味方も兵の質は似たようなものなので、すぐには追いつかれがたい。徐晃は鞍に愛用の斧をくくりつけると、弓を引き絞った。

矢を放つ。先頭にいた騎兵の喉を、見事に貫く。

第二矢。第三矢。次々と、先頭にいる敵が落馬した。兵士達が、目に見えてひるむ。もちろん矢も飛んでくるが、追い矢である。避けるのは、さほど難しくなかった。

第七矢を放つと、敵兵の追撃速度が鈍る。其処で、徐晃は声をからして、味方に速度を上げさせる。

「今だ! 逃げよ、逃げよ!」

脇目もふらずに逃げていく兵士達。すっころぶ者もいたが、見る間に敵兵の餌食になる。徐晃は必死に矢を放ち、時にとって返して先頭の敵兵の頭を斧で叩き割りながら、必死に時間を稼いだ。

今だ焼け跡の残る洛陽が見えてきた。城壁は何カ所も崩れている。城門は。安堵の声が漏れた。何とか開いている。献帝の馬車も、どうにか逃げ込むことが出来た様子である。これで、一安心だ。

同じように後方に残っていた揚奉が、あっと声を挙げる。城門が、閉じられていくのだ。遅れていた五百ほどの兵士が、皆取り残される。

全身朱になって暴れ回っていた徐晃は、城門の前まで駆け寄る。

「まだ味方がいる! 開けてはもらえませぬか!」

「断る!」

城門の上に、武装した太守が現れる。その左右には、ずらりと弓矢を構えた兵士達が並んでいた。明らかに動揺しながらも、揚奉が叫ぶ。

「おのれ! 貴様っ!」

「逆臣董卓の配下とその部下を、入れる訳には行かぬ。 さあ、矢を受けたくなければ、とっとと立ち去るが良い!」

「董承は既に入ったであろう!」

「董承どのは、漢王朝の忠臣よ! 貴様らとは違う!」

更に言い返そうとした揚奉の手綱を、徐晃が掴む。まだ状況が理解できていないらしい揚奉に叫ぶ。

「無理です。 どうやらあの男、事前に董承に言い含められていたようです」

「な、何故にそのような」

「分かりませぬか。 献帝を守り、曹操の所へ送り届けたという名誉を、独占するつもりでしょう。 伏官どのは幸い側におられるようですし、此処は退きましょう」

敵兵が、押し寄せてきていた。三万である。その威容は圧倒的。例え呂布であっても、この兵力では突破できないだろう。

こんなところで死んでは犬死にだ。今、?(エン)州の田舎にいる父や兄にも申し訳が立たない。何より、献帝をもう守ることが出来なくなる。

「皆、適当に逃げ散れ! 許にまで逃げれば、助かるぞ!」

「あ、まて、徐晃!」

「大丈夫、李?(カク)や郭の目当ては献帝です! 後は、曹操将軍の援軍を待ちましょう!」

徐晃は兵士達が逃げ散るのを見送ると、揚奉を促して、その場を離れる。

揚奉は、南へ逃げていった。あの様子だと、恐らくは袁術あたりのところに行くつもりだろう。判断としてはそれほど間違ってはいない。徐晃からすれば衰退すること間違いない相手だが、世間的にはそれなりに名声もある男だからだ。

徐晃は近くの山に逃げ込むと、狭い山道に立ち、斧を構えた。

斧を構えたまま、愛馬に語りかける。といっても、此処数日乗り回しただけの相手だ。長安を出る時に、揚奉軍に一匹貰った。その馬は乱戦の中で首に五本も矢を貰って息絶えた。敵から二度馬を略奪し、それに乗り換えた。

この馬は、敵の中級将校が跨っていたものだから、それなりの名馬だ。だから、働きはかなり良い。故に、徐晃としては、申し訳が立たなかった。

「そなたのような名馬を、このような戦いばかりに繰り出してすまぬ」

馬が嘶く。世話をしている時に、何度か愛咬された。馬としては徐晃を気に入ってくれているらしい。首を撫でながら、徐晃は山道を見据える。虎が出てきても、熊が出てきても、かならず倒してみせる。

こんなところで死ぬ訳にはいかない。

やがて、雨が降り出した。

敵は来ない。

徐晃は構えたまま、待ち続けた。

 

落陽を囲む三万余の兵。楽進が率いる五千は、夜の闇に紛れて、密かに近寄っていた。

ススキのように背が高い細作が戻ってくる。背が低い楽進だが、馬上からだと流石にそれでも見下ろす形になった。頭を垂れた細作は、淡々と報告した。

「敵兵の兵糧は非常に残りが少ない様子です。 これは、あと数日もすれば、更に派手な脱走が始まるでしょう」

「そうか。 ならば、二日三日支えれば、勝ちが確定だな」

李?(カク)も郭も、それなりに董卓のところで戦歴を積み重ねた武将である。董卓の所に来る前も、それなりに名の知られた男達だった。だが、最近の彼らは、かっての勇名をどこかに置き捨ててしまったようだった。無茶な進軍を続け、兵を半減させてしまっていることからも、よく分かる。もはや彼らは、一軍の将と呼べる存在にあらず。ただのならず者達の頭目だ。

それ以上に酷いのは、兵士達の弱体化だ。さっき城壁を囲む様子を見ていたが、士気も練度も著しく低い。かって曹操を蹴散らした徐栄の精鋭と来たら、軍一つがまるで一匹の龍のように、滑らかかつ有機的に動いたものだ。それなのに、まるで殆ど訓練もしたことがない部隊のように、もたもたと包囲を整えていた。陣形もまるで整っていない。

知ってはいたが、間近で見ると、その惰弱さは明らかである。

徐栄と胡軫が、事実上董卓軍の軍事を支えていた。そしてこの二人がいなくなった時。残った者達は、烏合の衆と化してしまったと言う訳だ。もちろん董卓がいなくなり、抑えが無くなったことも原因の一つだろう。

「敵を突っ切って、籠城いたしますか」

李典らしい進言である。出来るだけ危険の少ない方法を、という訳だろう。それは決して間違った判断ではない。

だが、楽進はもっと有効な策を知っていた。

楽進は鼻を鳴らすと、周囲に吠えるように指示を飛ばした。

「此処はむしろ短期決戦を選択する! 敵は烏合の衆の上、疲れ切っておる! 徹底的に叩きつぶして、洛陽近辺から追い払うぞ!」

「殺っ!」

部下達が一斉にそれに応えた。もとより常に先陣を切る楽進と、その配下達である。その勇猛さは、もはや獰猛に近い所にまで到達している。まるで得物を狙う虎のように、五千の兵は闇夜に紛れ、包囲を続けている敵軍に近付いていった。

「楽進将軍!」

「いいから見ておれ」

まだ若い李典は、学問もよくやるし、武芸もかなり出来る。知識が湧く泉という言葉があるが、その通りの男だ。滾々と湧く知性の持ち主で、楽進も感心させられることが多い。しかし、経験の差は、元の能力差を遙かに凌駕する。楽進は曹操の下で良質な戦闘を豊富に経験し、既に円熟の域に達していた。一旦進軍を停止し、適当な林で夜明けまで待つ。交代で兵士達に小休止をとらせ、明星が瞬く少し前に、動き出す。

やがて、一里にまで近付いた。郭軍の後衛が見える。

長安で血みどろの戦闘をしているという噂であったが、やはり練度は低い。恐らくは、だらだらと仲間内での小競り合いを繰り返していたという事なのだろう。それに、上の人間が権力欲剥き出しでは、部下達もやる気を無くす。西涼から連れてこられた精鋭が唯一の懸念だったが、ざっと見たところ、いない。

恐らく、既に愛想を尽かして西涼に去ったか。或いは、宛方面に去った張繍一派が、引き抜いていったのだろう。

敵兵は数に頼って、すっかり油断しきっている。楽進は剣を振り上げると、手綱を引いた。

「良し、総員突撃! 郭軍を突破後、西の山に一旦布陣する!」

わっと殺気を噴き上げながら、楽進軍が全軍一丸となって、敵に突撃した。その騎馬隊は、奇しくもかっての徐栄軍を参考に編成されていた。

 

郭が喚声に飛び起きる。夜襲だと言うことはすぐに分かった。だが、この破壊力のある殺気はどういう事か。

腐敗していても、一軍の将である郭である。流石に一人で寝ていたので、手を叩いて使用人を呼ぶ。すぐに鎧を着て外に出ると。既に陣は壊滅的な有様だった。彼方此方で猛火が上がり、逃げまどう兵士達の姿が見える。それに。

一瞬で、目が醒めた。

見てしまった。迫り来る、凶悪な気迫を備えた騎馬隊の姿を。

あれは、あれは。そんな馬鹿な。あり得るはずがない。そんな言葉が、濁流のように、郭の脳内を蹂躙した。

「じょ、じょ、徐栄将軍!」

「ひいっ!」

兵士達が悲鳴を上げて、更に混乱が加速した。混乱は李?(カク)軍にまで伝染し始めている。敵兵もどれだけいるのか分からない上に、夜明けなので味方は動きも頭も鈍っている。

完璧な夜襲だ。しかも、進軍後の疲れ切った状況を、見事に狙ってきている。

やはり敵は徐栄なのではないか。しかし、死んだ所を確かに見た。しかし、しかし。郭自身も混乱し、馬に跨ると、一目散に逃げ出していた。

後ろで、味方が蹴散らされ、蹂躙される音が響いている。頭を抱えて、郭は僅かに従う部下とともに、近くの山に逃げ込む。許してくれ、助けてくれ。徐栄に必死に許しを請う。だが、すぐ後ろに魔王の手が伸びているようで、何処まで逃げても生きた心地がしなかった。

ふと、気付く。

そして、心臓が口から飛び出しそうになった。

目の前に、いる。馬に跨った男が。

完全に正気を喪失していた郭は、口から泡を吹き、悲鳴に似た絶叫を挙げながら、剣を振り上げていた。

「お、あああああ、うぎゃあああああああああっ!」

敵騎が、長柄の斧を高々と振り上げる。

亡霊め。叫ぶが、相手は微動だにしない。もはや後ろに逃げ道はない。だから、郭は喚き散らしながら突進した。

その首が、すっ飛ばされる。

郭の視界が回転する。そして、見た。

斧を振り下ろした男が、徐栄そのものであった事を。

助けてくれ。殺さないでくれ。

すでに殺されているのに、最後まで郭はそう念じ続けていた。

 

夜明け。逃げ散った兵をどうにか纏めた李?(カク)は、愕然としていた。

郭はどこかに逃げ去り、姿も見えない。恐らくは戦死したのだろうと、誰もが判断していた。それは李?(カク)にとっては良かった。権力を競う相手が、一人減ったのだから。

問題は、兵が八千程度しか残っていなかった事である。郭軍を吸収してその数だ。戦死は二千程度だが、残りは皆、恐怖に駆られて逃げ散ってしまった。兵糧も、逃げた兵士達が皆持ち去ってしまっていた。

それだけではない。

あの徐栄を戦場で見たという兵士が、何十人もいた。

郭も徐栄に殺されたのではないかという噂が、広がり始めていた。

「ばかな! ありえん!」

声を上擦らせて、李?(カク)は叫んだ。そうだ。あり得るはずがないのだ。恐怖に全身を蝕まれながら、何度も同じ主張を繰り返した。兵士達はそのたびに、青ざめるばかりだった。李?(カク)が否定すればするほど、あり得ない話は信憑性を増すのだった。

だって徐栄は、確かに死んだ。殺したのだ。首を切り落として、晒した。それなのに、何故今更現れる。

それに、どうして李?(カク)と郭を狙ってくる。

恐怖で思考が混乱し始めている。血走った目が次に捕らえたのは。再び突進してくる、敵兵の姿だった。敵はゆっくり休んで、気力充分。それに対して、此方は酷く傷ついて、編成もおぼつかない状態である。

更に、それにあわせて、城内の敵も出撃してきた。逃げ腰になる味方に、李?(カク)は吠える。

「逃げるな! 逃げる奴は斬るぞ!」

だが、如何にそう叫んでみても、もうどうにもならなかった。そして、更に混乱を加速する事態が発生した。

「徐栄軍だ! 徐栄騎馬隊だ!」

誰かが叫ぶ。そうなると、もう兵士達は、一歩も持ち場を死守することが出来なかった。我先に逃げ出す兵士達の中で、李?(カク)ばかりが取り残されてしまった。腹心の者達さえ、既に周囲には、一人も残っていなかった。

終わった。負けた。

それを悟ると、不思議と李?(カク)は頭が冴えていくのを感じた。

よく見る。敵の中に、楽という旗があった。既に周囲が大乱戦になっているにも関わらず、李?(カク)はふらふらと歩きながら、叫んだ。

「は、ははははは、はははははははははは!」

それは、もはや狂気の沙汰。あまりにも目立つが故に、兵士達は却って彼を避けた。泥沼の障気にもにた狂気に全身を掴まれ、発狂の炎に身を焦がしながら、李?(カク)は叫く。

「ひひひひひ、見切った! 曹操め、下らぬ策を弄しおる! もう分かった! もう分かったんだ!」

振り返る李?(カク)は、満面の笑顔であった。

そして、そのまま死んだ。

走り寄った楽進が、首を跳ね飛ばしたからである。

死んでもなお、李?(カク)は笑い続けていた。最後の最後まで、狂気の笑いが、李?(カク)の脳内で響き渡り続けていた。

 

洛陽の城内に入った楽進が最初にしたのは、太守の軍権を取り上げることだった。これは曹操の命を受けてのことであったし、兵士達も迅速に行動した。小都市である洛陽を守り続けた太守は、何故自分がこのような目に会うと叫びながら、兵士達に連れられていった。

楽進に理由はよく分からない。曹操のことだ。きっと理由があっての事だろうとも思うのだが、しかし自分にくらい話してくれても良いだろうとも考えてしまう。曹操は信頼してくれるが、基本的に考えを明かしてくれることはない。それが、楽進には少し悲しい事もあった。

献帝は洛陽の奥に匿われていた。楽進が最上位の拝礼をすると、恭しく頷く。

「曹操の配下の将か」

「は、楽進にございまする」

「勇名は常々に聞いている。 精鋭が揃う曹操軍でも名を知られた、先陣をいつも切る武者だそうだな」

「御恥ずかしい事にございまする」

意外と物知りだなと思いながら、楽進が顔を上げる。

董卓に捕まっていた時には子供だったという献帝は、知性を感じさせる青年に成長していた。薄いが髭も蓄えている。既に皇妃は身ごもっていると言うし、いつまでも子供扱いは出来ないだろう。ただ、楽進でさえ眉をひそめるほどに、身なりがとてもみすぼらしい。部下達は武骨な武者ばかりで、あまり気の利いたことは出来ない。楽進も最高速度で行軍するため、ほとんど余計なものは持ってきていなかった。

「辛い逃避行にございましたでしょう。 後陣の者達が、すぐに玉体に相応しいお召し物を持って参りまする。 ですから、それまではご辛抱を」

「慣れておる。 今のところ、皇妃も温かい部屋と粥を貰って、ややに心配もない。 心配なのは、徐晃だ。 かの勇者はどうなった」

「徐晃、にございますか」

どこかで聞いた名前だ。数秒後、思い出す。

曹操が欲しがっていた若武者である。かなり優秀だったと聞いている。風の噂によると、徐栄に見込まれ、その技の全てを授けられたとか言う。徐栄は最後まで敵だったのだが、しかし古今の名将だった。羨ましいと素直に楽進は思っていた。

「朕が此処まで逃げてくることが出来たのも、徐晃の働きがあったからだ。 董承や揚奉の兵士達が皇妃に手を出せなかったのも、徐晃が目を光らせていたからだ。 あの斧が、どれだけの敵を倒したか。 あれほどの男が、むざむざ死ぬ訳がない。 必ずや生きているはずだ。 探してたもれ」

「分かりました。 直ちに」

献帝が覚えていた特徴を、すぐに人相書きにさせる。以前は若者だった徐晃も、今ではすっかり一人前の武人となっているようだった。是非会ってみたいと、楽進は思った。

五十人ほどの兵士を見繕い、すぐに近くの山を探させた。李?(カク)郭軍の残党狩りを行うのは、曹操の本隊が到着してからだ。逃げ散った兵は二万を超えており、とてもではないが手持ちの戦力では狩り出せない。

徐晃が生きていないと知ったら、曹操の方が悲しむかも知れないなと思うと、自然と捜索にも力が入った。

楽進は、いつの間にか曹操の信頼を得たいと考えるようになっていた。

五人一組で山狩りをさせる。二組には、近くの村も探させた。成果は意外に早かった。探索開始から四刻ほどで、一組の兵士が駆け戻ってきたのである。

「楽進将軍!」

「どうした」

「人相書きの男かは分からないのですが、山道を塞ぐようにして立ちつくす荒武者を発見しました! 手には生首を提げており、髭は伸び放題。 目は爛々と光っていて、まるで鬼神のような姿です!」

「すぐに行く」

山道に逃げ込み、孤独の恐怖と戦っていたのなら、精神に異常をきたしてもおかしくはない。戦闘時の緊張を保ったままあまりにも長時間を過ごすと、取り返しがつかない精神的な傷を負うことも少なくないのだ。

そうやって、廃人になった武人を、楽進は何人も知っている。徐晃がそうなってしまったら、曹操はさぞ悲しむだろう。

献帝のことは頭にない。楽進は漢王朝に対して良い印象を持っていなかったし、あれはどのみち曹操が担ぐ御輿だ。そこそこ気概を持った皇帝のようだが、今更漢王朝の立て直しは不可能だ。曹操のことだから、皇帝の命を盾にしてでも、徐晃を従わせるだろう。そう考えると、結局徐晃は楽進の同僚になる。

山道を急ぐ。地元の民によると、虎が出ることもあるとか言っていた。急がないと危ないかも知れない。しかし、、独走したらもっと危ない。

やがて、見えた。

山道に一人で立ちつくしている。追撃の兵を、一度に相手にしないようにする工夫であろう。馬の足下には、首のない死骸。そして、鞍には生首がくくりつけられている。目には、正気が残っていないように見えた。

「あ、あれです!」

「ふむ、献帝の手配書通りだな」

一騎打ちをしても勝ち目は少ないなと、楽進は呟いた。

かといって、今の徐晃に、蕩々と説得の言葉を投げかけても、聞くかどうか。

ある程度以上近付けば、襲いかかってくるだろう。咳払いすると、楽進は叫ぶ。

「徐晃! 献帝は、既に保護した!」

帰ってきたのは低いうなり声だった。ゆっくり長柄の斧を掲げ上げる徐晃。戦う気だ。自らも剣に手を掛けながら、楽進は叫ぶ。

「献帝は、お前の事を心配しておられた! すぐに此方に来い! 李?(カク)の軍も郭の軍も、既に我らが蹴散らした! 何も恐れる事はない!」

僅かに、反応があった。楽進は、兵士達に刺激しないよう小声で言いつつ、剣から手を離した。徐晃はそれを見て、もう少し反応をする。目に、徐々に人間らしい光が戻りつつあった。

「徐栄は手強い相手だったが、私は尊敬している! あの男が、今の貴殿を見たら、悲しむだろう」

「……」

「徐晃! 正気に戻れ!」

「……貴方は?」

意外と若い声が帰ってきた。

ようやく歎息した楽進は、自分の名前を名乗ると、改めて献帝を既に保護したことを告げた。

しばし楽進を見つめていた徐晃は、斧を下ろした。

「分かった。 降伏する。 献帝には、手を出さないでいて欲しい」

「無論だ。 曹操様も、そのようなことはしないだろう」

信用は出来ないが、しかし他に方法がないという様子で、徐晃は頷く。この様子だと、最初からそれは覚悟していたのかも知れない。

曹操のことだから、徐晃の忠誠を得られるのなら、なおさら献帝を大事にすることだろう。曹操が昔から徐晃に目を付けていて、部下にしたがっていたことを告げると、知っていると徐晃は応えた。

楽進は、嫉妬に近い感情を徐晃に対して覚えたが、しかしそれは黙っていた。

曹操の本隊三万が到着したのは、四日後のことであった。

 

献帝に恭しく拝礼した曹操は、二つの要求をしていた。献帝はその二つともを、受け入れていた様子であった。

典偉は許?(チョ)に曹操の身辺護衛を任せて、洛陽の街を見て回っていた。殆ど焼け野原で、城壁も焼け崩れているカ所が多い。街は一応機能はしていたが、その規模は以前とは比較にもならなかった。

ただし、これからは許の側にあるという事もあるし、経済の回復が見込まれる。そして洛陽が回復したら、すぐにでも弘農、長安へと兵を進めることが可能だ。今は荒れ果てているこの近辺も、曹操が全部を領土に組み込めば、一気に復興させることが出来るだろう。といっても、十年や二十年は掛かることだろうが。

街を見回った後、曹操の所に戻る。

曹操は、侍女に足を洗わせていた。許?(チョ)はぼんやりと部屋の前に立っていて、典偉が咳払いをして、ようやく我に返った。

「何をしているか」

「き、危険は、無かったの、で。 気を抜いていた」

「そうか。 お前の危険察知能力は、確かに信頼できる」

「ありがとう」

ぺこりと頭を下げたので、典偉は苦笑。この手の輩には、誇りが異常に高い奴も少なくないのだが、この男は素直で真面目で扱いやすい。

部屋にはいると、曹操は上機嫌であった。

「おお、典偉。 洛陽はどうであった」

「残念ながら、見る影もありません。 復興には時間が掛かりましょう」

「まあ、それは入った時には分かっていたことだ。 これからは土地の戦略的優位を利用して、まず民を集め、発展させていかなければなるまいな。 幸い、土地は有り余っているし、治安さえ確保すれば戻る民も多かろう。 後は多産を奨励させて、人口を増やさせなければなるまい。 韓浩に、この辺りを積極的に屯田させてみるか」

戦略のことはよく分からないから、典偉は殿の思うままにとあたまを下げた。曹操は、基本的に典偉が理解できていないことを承知の上で、結構重要な話をする事が多い。これは、典偉に気を許してくれている証拠だから、少し嬉しかった。

「献帝だがな」

「如何なさいましたか」

「現状をよく理解しておる。 実はな。 徐晃を使ってやって欲しいと、献帝から申し出てきたわ」

徐晃のことを、曹操は案の定一目で気に入った様子だった。献帝を脱出させた際、守り抜いたその武勇。最後尾に立ち、幾度も敵を斬り伏せた勇気。そして、ついに屈することなく、戦士としてあり続けた胆力。

何よりも、恐るべき冷静さが、曹操を最も喜ばせた。

徐晃は曹操に屈することをあまり喜んではいなかったようなのだが、しかし長期的に見れば、徐晃にとっても悪い話ではない。それに、曹操は最初に、徐晃の家族の面倒を見ることを約束していた。

「献帝自身も、恐らくは徐晃のような男を、宮廷の警備などと言うさもしい仕事で使い殺させたくなかったのだろう」

「不憫な方ですな」

「うむ……。 そうだな」

言われて気付いたらしい。曹操は少しだけ、同情した様子を見せた。

典偉には、献帝の気持ちが少しだけ分かった。己の器量にも、立場にも、見切りを付けてしまっている人物なのだろう。下手に頭がよいから、己がどうすれば皆が幸せになれるのか、よく理解している。

そう。献帝は、何もしないことで、一番皆を幸福に出来る存在なのだ。

それなりに頭も良く、気概もあるのに、それが分かっている事が、どれだけ献帝を苦しめているのか。典偉には、それが気の毒で仕方がなかった。

一人の人間であるならば、気概を持てと言うような言葉もある。

正論だが、気概を持てば世を混乱させるだけの人物だっている。献帝は、それが自分であることを、理解しているのだ。

「ところで、献帝に何の要求を?」

「ん? ああ、あれはな。 一つは、許に移って貰うつもりだ」

「許に、でございますか」

「そうだ。 それにあわせて、許昌と名を変え、皇帝がいる都に相応しい土地へと変えるつもりだ」

意味が分からなかったので、典偉は小首を捻る。曹操は楽しそうに説明してくれた。

「つまり、これで余は、正式に皇帝を有したことになる。 余の敵は、今後朝敵になるというわけだ」

「気休めではありませんか」

「その通り。 だが、気休めでも、無いよりはましだ。 それに、この国が安定した時に、その気休めがものをいうだろう」

「なるほど」

更に、典偉に向けて、曹操は付け加える。

「もう一つは、そうさな。 お前には言っても良かろう。 献帝には、今後も皇帝でいてもらうつもりだ」

「いて貰う、ですか」

「そうだ。 余に、皇位を奪う気はない」

これも、典偉にはよく分からない話であった。曹操は笑いながら、あまり頭が良くない典偉のことを考えて、一つ一つ噛み砕いて言ってくれる。

「余としても、あまりにも頭が悪い皇帝にいてもらっては困るのだ。 仮にも皇帝だからな。 要求されれば美食も美女も出さねばならぬ。 そうなると、悪評が紛々に広まる恐れも強い。 その点、献帝は欲望が少なく、その上賢い。 自分が出過ぎないことで、回りが幸せになることを知っておる。 余としても、とても都合が良い」

「なるほど」

「さて、許に皇帝を移す準備をするぞ。 そなたと許?(チョ)には、忙しい日々が来るが、大丈夫か」

「問題ありません」

「そうか」

即答した典偉に、曹操は腕組みして見せた。何か、典偉のために褒美を考えている時に、見せる動作だ。

曹操は、大げさに手を一つ打つ。この人は、こういう大げさなことをする時、まるで子供のようである。

「そなたにも、あだ名を考えておこう。 いにしえの悪来のような武勇の持ち主と言うことで、これからは悪来典偉と呼ぶことにするか」

「その人物は、どのような武人なのですか」

「名前の通り、悪名の強い男だ。 殷の紂王に仕え、ともに暴虐を貪ったとされている」

「俺は、そのように暴虐ですか」

「いや、お前はとても真面目で信頼できる男だ。 悪来は途轍もない怪力の持ち主であったらしくてな。 その凄まじい怪力と、未だに名前が残る圧倒的な恐怖の象徴として、お前に相応しいあだ名だと判断した」

そう言われると、曹操がよく考えてくれていることが分かる。典偉は一礼すると、曹操の部屋を退出した。

許?(チョ)は口を開けて、相変わらずぼんやりとした表情で立っていた。居眠りさえしかねない雰囲気だが、早くも実績を積んでいることもあり、信頼できる。典偉は、殿を頼むと言い残すと。新しく貰ったあだ名を胸に、帰り道の安全を確保するべく、周囲を調べに出ることとした。

曹操軍は、ますます強大になってきている。

だが、何か落とし穴があるかも知れない。そう、典偉は思い始めていた。

 

5、小覇王飛躍と、その実

 

孫策は、小高い丘の上から、見下ろしていた。

江東の大地を。

ついに、此処まで来た。

故郷である長沙は、今だ遠くにある。だが、江東を手に入れれば、父の名を、そして孫家を復興することが可能だ。

涙がこぼれそうになる。

しかし、付き従う軍勢に、弱みを見せる訳には行かなかった。

「伯符」

「どうした、公勤」

すぐ側に付き従う親友が字を呼んだので、字で呼び返す。

隣にいる男は、周瑜。父と共に戦っていた頃からの戦友である。友人としては更に古く、幼い頃からの竹馬の友であった。

兎に角、幼い頃からでっぷりと太った「美しい」体型をしていて、女性にはもてた。それに対して孫策は非常に痩せており、あまり女性にはもてなかった。今ではある程度筋肉がついてきて大柄になってきて、それなりに女性にももてるようにはなってきたが。しかし、周瑜はもっと太ったので、更にもてた。

周瑜が進むと、馬上でたぷんたぷんと脂肪が揺れるようである。いつも何かを口にしている事もあり、脂肪は減る様子もない。孫策も無意味に間食を採ったりしているのだが、さっぱり太る気配がなかった。

「あと少しだな。 父君の悲願が果たせる」

「ああ。 そうだな」

そう。父は急ぎすぎた。

だから、失敗した。そして敗死したのだ。

俺が、その跡を継いで。絶対に、孫家の名を天下にとどろかせる。

そう誓ってから、既に五年が過ぎていた。

 

孫策は、董卓討伐などで名を馳せた、猛将孫堅の長男である。

孫堅は戦こそ強かったが、経済力はなく、政治的にもあまり有能とは言えなかった。それに領土も貧弱で、袁術に支援されなければ、勢力を維持することも出来なかった。軍事ばかり奇形的に発達した、弱小群雄の一人であった。

董卓の討伐後、孫堅はそんな状況を打開すべく、荊州の大軍閥劉表に襲いかかった。兵力の差は五倍、いや六倍以上。国力の差は、更におおきかった。その上劉表の下には、江夏にて鉄壁の防御を敷く名将黄祖がおり、今までの抗争で孫堅は何度兵を出しても刃が立たなかった。

孫堅が死んだ時のことを、孫策は今でも思い出すことが出来る。

最初、黄祖に勝った。だが、あまりにも勝ちすぎた。

不自然だと、少しは孫策も思った。しかし、あの黄祖に勝ったと言うことの方が、より気を大きくしてしまっていた。

気がつくと、どんどん荊州の奥深くに誘い込まれていた。そして、全方位を包囲され、補給を断たれ、味方は疲れ切っていたのだ。

後は見るも無惨な壊滅であった。歴戦の孫堅軍といえども、疲れ切った所に全方位から、しかも五倍以上の敵の猛撃を浴びてはひとたまりもなかった。世間一般で無能と言われている黄祖は、見事に孫堅の軍勢を壊滅させるべく、芝居を打って見せたのである。裏で奴に情報を流していた細作がいる雰囲気もあったが、それよりも、孫堅の焦りが軍の壊滅を招いたのは、間違いのない事実であった。

絶望的な壊滅的敗北の中、かろうじて孫策は生き延びた。

父が殺され、首を晒されたという話を聞いても、何もすることが出来なかった。劉表を憎み、黄祖を恨むことで、必死に生きていった。

周瑜とも離ればなれになった。頼った袁術のところで、まるで猟犬のように扱われ、勝ち目のない圧倒的大軍勢と戦わされたりしながら、必死に生き延びた。

そして、二年前。

勢力の拡大を求めていた袁術に、己に千余の兵を与えれば、江東を切り取ってみせると進言したのである。表向きは、そうなっている。

袁術の軍勢は、十五万とも二十万とも言われている。孫策をゴミ同然に考えていた袁術は、それは面白そうだとでも思ったのだろう。二線級どころか、戦場では使い物にならない老兵や、あまりにも風紀を乱すことで問題視されていた部隊ばかりを、孫策に貸し与えたのだった。

だが、孫策がいざ号令を掛けると。

かって、孫堅が部下にしていた者達が、続々と集まってきた。

進軍を開始した時には、残りカスだったはずの部隊は、士気の高い精鋭に生まれ変わっていたのだ。

そう。表向きは、そうなっている。

そして、二年。揚州の名族である劉?(ヨウ)を始めとする強敵達を打ち倒し、ついに独立の足がかりを作ったのだった。

体中に傷が増えた。

そして、敵も。

見下ろす江東は、あまりにも急激に勢力を拡げたが故に、反乱分子の巣窟だった。暗殺者も日常的に襲ってくる。

それに、袁術に対する反抗的な態度も、見抜かれ始めていた。

暗殺者のいくらかは、袁術に送り込まれたものに間違いなかった。

馬を走らせる。およそ、五千の兵がそれに続いた。既に本拠に定めている建業には、二万の兵が常時駐屯していた。総力戦になれば、五万までの兵を動員できる。既に父の勢力を、孫策は凌いでいた。

今日は、曹操に対してよしみを通じようとしている部下を、粛正するために来た。ここのところ、外の敵を討つよりも、内の敵を倒すことの方が多く、孫策もいい加減うんざりしていた。しかし、どうにもならない理由があった。

孫策は、噂通りの覇王ではなかったからである。

 

進軍する孫策軍を見下ろす四つの影。そして、その周囲にて分厚く壁を作る、護衛の兵士達。

通称、呉の四家当主達。

江東の、真の支配者である。

彼らの少し後ろに控えて状況を見守っている若武者陸遜は、その一族であった。

もとより、長江の南、その東部に位置するこの地域は、南部からの山越の侵入、入り組んだ地形による複雑な抗争など、人がまとまりようのない条件が整っていた。

呉越同舟という言葉があるが、これはかってこの地に割拠した二つの勢力が、途轍もなく仲が悪かったことを意味している。漢による統一王朝が成立してからも、住民の対立は長く続き、小競り合いは日常茶飯事であった。

そのような時代を経て、住民達はいずれ自治を思いついた。しかし、傑出した勢力がいては、それも巧く生きようがない。其処で彼らが考えたのは、権力を分散し、裏側から各地の権益を制御することであった。

そうして、四家は産まれた。

江東の権益と情報を一手に握る四家は、財力、軍事力、いずれも表だってではないが、各地の群雄に匹敵するものを持っている。そして、彼らこそが、孫策の黒幕。小覇王誕生の、真の立役者であった。

そもそも、である。

如何に武名高い孫堅の長子とはいえ、今は乱世である。敗残の小僧が、けちで知られる袁術から、どうして支援を引き出すことが出来たのか。

兵士一千というと少なくも思えるが、袁術が準備したのは、彼らの装備や、兵糧もである。それを考えると、その出費が膨大なことはすぐに分かってくる。孫策が玉爾を差し出したという噂もあるのだが、そのような幾らでも偽装できる道具で、袁術のような強欲な男を騙せる訳がない。

実情は、彼ら四家が、裏から袁術の家臣達に、手を回したのである。

必要だったからだ。

既に乱世は、江東にも及ぼうとしていた。つまり、江東は軍事力を用いて、一つにまとまる必要があった。四家は表に出ない方針がある。だから、英雄が登場し、軍事的に一つに纏める必要があったのだ。

だから、孫策が選ばれた。

まず最初に、一番金を持っている陸家が動いた。膨大な賄賂がものを言った。袁術同様、彼らも腐りきっていて、賄賂さえ渡せば何も考えず、どんなことでもした。人材を集めるのも、四家が手を回した。孫堅の部下達がこうも素早く集まったのは、事前に念入りな準備をしていたからに他ならない。

かくして、孫策は挙兵したのだ。

御輿は動かなければ意味がない。

今度動いたのは、顧家だった。情報を駆使して、各地の群雄の弱点を、孫策に逐一教え込んだ。そして朱家と張家は、人材を次々に孫策の元に送り込んだ。富豪であり、優れた武人である魯粛。二張と言われ、偏屈で知られながらも知性溢れるようだと言われる張昭、それに温厚で、誰よりも緻密な知性を持つと言われる張紘。朱家からも、主筋ではないが有能な朱然を。そして陸家からも、目付役として陸積という男が派遣された。

こうして、人材と兵を与えられた孫策は。

もとより弱体化著しかった江東の各勢力を粉砕し、「勢力を拡げた」のである。

孫策は賢い男であり、自分が操り人形に過ぎないことを知っていた。付け加えるならば、飼い猫のように大人しい男でもなかった。だから、四家は二重三重に首輪に鈴を付けていた。その兵も、人材も、皆四家の息が掛かっていた。だから、孫策は、いつも真っ青だった。

孫策の軍勢は動きが鋭く、迎撃に出てきた「反乱軍」を見る間に蹴散らしていく。鼻を鳴らしたのは、陸家の当主である陸安であった。陸安は、白い髭を胸まで垂らしている、痩せた男である。目には陰険な光が常にあった。

「野良猫が、威勢だけはよいな」

「あまり油断するなよ、陸の。 あの男は出来るぞ。 油断したら、喉を噛み裂かれる」

「ふん、朱連。 相変わらず慎重な事よ」

朱連と言われた男はよく太っていて、馬上で腹を揺らしていた。その隣にいるのは、やたら大きな目をした小男。顧覧という。金に五月蠅い男で、情報にも詳しい。まるで枯れ木のような指を動かして、彼は指し示す。

「孫策よりも、あの周瑜が面倒だのう。 余計な知恵も働くようだし、早めに首輪を付けて置いた方がよかろう」

「そうさな。 女で縛るか」

「そうそう。 それがいい」

からからと笑う顧覧に、下劣な提案をしたのは、顔が見えない正体不明の存在だった。深々と着衣を頭まで被っていて、人相を消している。張度と言う名を持っているが、他の四家当主も、顔を知らなかった。

声はとても若く、女ではないかという噂もある。だが、その下劣かつ容赦のないやり口から、四家でももっとも残虐だという者もいた。

やがて、孫策は反乱軍を蹴散らした。陸家と権益で食い合っていたため、反乱の汚名を被せられた呉景には死んで貰う必要があった。だから、孫策を動かした。ただ、それだけの事であった。

陸遜は、四家を良くは思っていない。目映い魅力を持つ孫策を良いように操り、この江東を好きなようにしている。しかし、今の陸遜は、無力な若造に過ぎない。孫策が彼らに嬲られるのを、黙ってみているしかなかった。

「時に、陸遜」

「は。 何でしょうか」

「お前にも、いずれ孫策の部下として働いて貰うぞ」

陸安がそう言うと、四家当主達は、そのまま兵を引き上げる。

もしも、彼らが機嫌を損ねれば、即座に孫策は暗殺という名目で処理され、この世から消されるだろう。

そして、陸遜にそれを阻む力はない。

だが。

孫家に仕えて、力を蓄えて。そして、いずれ四家の隙を見て、反乱を起こせば。上手く行くかも知れない。

少なくとも、陸遜に言わせれば、孫策の方がこの妖怪達より遙かにマシだ。民を道具としか考えず、如何に己の権益と安全を守るかしか考えていないこの連中は、董卓や袁術の同類である。

部下が恭しく差し出してきたのは、呉景が謀反を起こしているという「証拠」であった。竹簡には、こう書かれている。

「孫策の勢い、尋常ならず。 曹操様は、早めに警戒なされよ」

「そうか。 立派な証拠だな」

侮蔑が口から思わず漏れ出ていた。

これは証拠として、完璧な代物だ。恐らく、筆跡も似せられている。

そして、証拠ではないと言う人間がいれば、即座に四家に消されるだろう。

しかも曹操を敵に指名しているのは、単に将来権益を食い合う恐れがあるから、以外の何の理由もないのだ。

今、陸遜に出来るのは、これを子供の使いがごとく、孫策に届けることだけ。

口惜しい。

だが、私兵だけで三万を超えると言われる四家は、その気になれば地方の小規模な群雄など三日で滅ぼせる力を持っているのだ。もちろん、それは孫策も例外ではない。

馬を走らせる。殲滅戦の指揮を執っていた孫策と、それに周瑜が見えてきた。手を振る。槍を揃える兵士達を、孫策が制した。

既に戦闘の勝負はついており、反撃は散発的だった。流石に兜を脱ぐようなことはなかったが、孫策には笑う余裕さえあった。

「おお、陸遜ではないか」

「は。 陸安様から、お届けものです。 呉景が謀反の証拠を、見つけたと言うことです」

「……そうか」

孫策は一瞬だけ眉を跳ね上げたが、だが笑顔を崩さず証拠を受け取った。陸遜は悔しくて、胃が焼けるようだった。

このように優秀な英雄を食い物にして、存在している四家とは何だ。

可能性ある若者を使い殺しにして、己の権益を守っている妖怪達は何者なのだ。

孫策は部下達の前で怒って見せている。曹操を必ず倒すとまで吠えていた。しかし、周瑜は、こっそり陸遜の肩を叩いてくれた。

「有難う。 伯符のために怒ってくれて」

「周瑜どの」

「だが、あまりそんな表情を作るな。 今は、伯符と一緒に怒れ。 それでいいんだ」

思わず落涙した陸遜は、この時誓った。

いずれ、己が滅びようとも。今や江東最大の怪物と化している、四家を滅ぼすのだと。

 

(続)