徐州燃ゆ

 

序、惨劇の夜

 

月が綺麗だと、屋根に登った曹嵩は思った。最近はすっかり老いた体を、こうして夜風に晒すことが楽しくなっている。

曹操の父である曹嵩は、決して息子のことを良くは思っていなかった。特に十年前までは、札付きの不良息子であるとさえ考えていた。

徐州の片田舎で、今は余生を送る曹嵩だが。この枯れ果てた老人も、若い頃には権力を巡り、漢王朝の中枢にて熾烈な争いを繰り広げたものである。優秀さをかわれ、豪族の名門である夏候氏から宦官である曹騰の養子に出て。

それが故に求められたのは財産を継げる能力。

若い頃から徹底的に鍛え上げられた曹嵩は、何処の誰にも負けない官僚として、活躍したものである。

だから、曹操は、曹嵩にとっていやな息子だった。若い頃からろくでもない仲間とばかり連んで、悪いことばかりしていた。官吏になってからも、敢えて上に逆らうようなことばかりを繰り返して、何ら改める所がなかった。

胆が冷えたのは、一度宦官の中でも上位にいた張譲に喧嘩を売るような真似をした時である。確か女を巡っての事であったが、曹一族が丸ごと潰されかねないような問題になりかけた。あの時は曹嵩が彼方此方手を回して、それこそ膨大な金を使い、ようやく息子を左遷させるだけで済ませたのである。あの時も、曹操は曹嵩に感謝するどころか、相変わらず傍若無人な行動を繰り返していた。

屋根から降りると、茶を一口すする。こうして冷やした体を温めると、また明日の活力となるのだ。しばし、書物を紐解く。まだ読んでいない竹簡が、幾つかあったからだ。どれも楽しい書物ばかり。最近は、娯楽だけを目的に書かれた書物まで出始めているという。まだ曹嵩は、お目に掛かったことがないが。

読書の手を休め、首の後ろを軽く何度か叩く。

分かってはいる。

曹操は優秀な男だ。茶目っ気もあるし、曹嵩に対する敬意だって抱いている。部下達は恐れているが、慕ってもいるのは、能力をきちんと評価してくれるからだ。自慢の息子だと言い切れないのは、あまりにもその行動が唯我独尊的で、曹嵩の胃に穴を開けるようなものばかりだったからである。

そして、乱世に突入してからも、曹操の行動は変わらなかった。

徐栄隊に粉みじんに粉砕されて逃げ帰ったと聞いた時には、心臓が止まるかと思った。黄巾党百万と戦うと言い出した時には、屋敷に駆けつけて殴ろうかとさえ思った。結局どちらも曹操は乗り切ったが、いずれももう、曹嵩には思い出したくない過去ばかりである。息子を信用しろと、言う飲み友達もいる。だが、信用できる域をあまりに超えすぎている息子の行動は、いつも曹嵩の寿命を縮めるのだった。

徐州の片田舎である此処は、とても治安が良い。だから、曹嵩も、それはあまりにも非現実的すぎて、受け入れることが出来なかった。

いきなり部屋に、背中から矢を生やした使用人が、入り込んできたのである。

「ど、どうしたのじゃ!」

「曹嵩様、お、にげ、くださ」

事切れてしまう使用人。

危ない目には、今までも遭ったことはある。だが、念のために雇っている食客達はどうしたのだ。隣の部屋で悲鳴。妻のものだ。外では既に、惨劇が起こっている事を示す悲鳴が、交錯していた。

慌てて外に飛び出すと、既に火が回り始めていた。一体何が起こったのか。歩み寄ってくるのは、血まみれの刀を右手に持つ男。野卑な雰囲気で、あまりにもこの屋敷にはそぐわぬ存在だった。

「曹嵩だな」

「な、何じゃお前は!」

「黄巾党の残党。 仲間の仇、此処で打たせて貰う」

心臓が、胸郭の中で跳ね上がる。だが、同時に何処かおかしいとも感じていた。この男、妙な訛りがある。それに、この動き。黄巾党の賊というよりも、むしろ軍の経験者ではないのか。

どうせ殺されるのだ。だから、最期まで強くあろうと、曹嵩は決めた。

「お、お前、軍人だな!」

「……ほう」

「そうか! さてはあの陶謙めに命じられて、儂を殺しに来たな! 狂犬めが!」

その言葉が終わると同時に、首に灼熱。

どうやら首を刎ねられたらしいと、曹嵩は感じた。

不思議と、息子への憎悪は消え去っていた。恐らくは、息子と陶謙との対立が原因で殺されたというのに。

今はただ、こんな手を平然と使ってくる陶謙と戦わなければならぬ息子を、曹嵩は静かに案じていた。

 

1、徐州に蠢く

 

曹操は、激怒した。

背が伸びる薬とやらに効き目がなかったからでは、ない。それもあるのだが、いきなり飛び込んできた、父の訃報がより大きな原因である。

もとより、不安はあった。だから、早くから曹操の支配圏である?(エン)州に移るように、何度も使者を出していたのだ。それに、密かに護衛として、腕利きの細作数名を、監視のために派遣もしていた。

それなのに、父は殺されてしまった。表向きは黄巾党の残党によるものだという事だが、後から現場を調べた細作達の話によると、それはあり得ないという。あまりにも手慣れている上に、細作も、父が雇った腕利きの食客達も、ほとんど抵抗せずに殺されていると言うではないか。

陶謙の仕業であることは、まず間違いない。

しかも、黄巾党の仕業という事にしておくことで、自分は無関係だと装い、正義を主張することも出来るという訳だ。

流石は、無能なくせに賄賂と人脈を駆使して地位を保ち続けた、怪物的な男である。この辺りの悪巧みの鮮やかさに関しては、敵ながら曹操としても認めざるを得ない所であった。

しばらく自室を彷徨き回ったが、名案は浮かばなかった。

陶謙が袁術からの支援を受けて、曹操に喧嘩を売ってきたのは間違いない事だ。しかし、曹操としては、此処で侵攻を仕掛けた場合、どんな罠が待っているか分からないという事情もある。

だがそれ以上に、苦労をかけ続けた父を惨殺されたという事が、曹操の中で怒りの炎となってのたうち回っていた。

剣を抜くと、何度か振り回す。風を切る音が、泣き声のように聞こえて、余計に切なくなった。

しばらく剣を振り回していると、典偉の声。振り向かず、視線も合わせない。

「曹操様」

「しばし、好きにさせてもらえないかな」

それがならないことは、曹操自身も分かっている。典偉が声を掛けてくるのは、重要な時だけなのだ。それ以外は、いつもむっつりと黙っているのが、典偉という男なのである。だから信頼もしている。

もう一度、名前を呼ばれる。だから、剣を鞘に収めて、振り向いた。怒りがまだ腹の中でのたうち回り、内臓を食い破りそうだった。

「どうした、典偉」

「は。 細作達が、報告を持参して参りました」

そうだ。自分が命じたのだ。だからこそ、怒りにまかせて報告は無視するわけにはいかないのである。

頷くと、つかつかと隣室へ。細作達が、頭を垂れて待っていた。

「このたびは、力足りず、申し訳ございません」

「そなた達に油断があった訳ではないことは分かっている。 それで、重要な報告とは何か」

「はい。 実は陶謙が、漢中から優秀な細作を雇い入れたという情報がございまして」

「そうか、やはりな。 あの男、生かしてはおけぬな」

漢中が、漢王朝の闇の中心であることくらいは、曹操も把握している。ルーが命がけでもたらしてくれた情報の中にも、類似するものが多くあった。董卓の配下で猛威を振るったあの李需も、漢中出身者であると分かっている。

いずれ漢中は徹底的に焼き尽くす。しかしまだ勢力圏が其処まで到達していない。だが、この恨み、骨髄にまで染み渡らせておくつもりだ。

曹操はしばし細作達の前をうろうろしていたが、やがて立ち止まる。

そして、宣言した。

「お前達、陶謙を暗殺できるか?」

「それは、難しいかと思います。 漢中から精鋭の細作が来ているとなると、なおさらです」

「ならば正々堂々と軍を進めて、奴の首を跳ね飛ばすしかあるまいな」

振り返った先には、典偉がいる。

典偉は、あまりそれには賛成ではない様子であったが。しかし、深々と頷いた。

「あまり、民を苦しめないようにしてくださいませ」

「難しいが、出来るだけそうしてみよう」

曹操としても、徐州の民まで皆殺しにするつもりはない。その時は、ただ静かに、典偉の言葉に頷いたのであった。

 

実数にして約十万の兵が?(エン)州を出撃した。その半数は、この間曹操に降伏し、実戦戦力として組み込まれた青州の兵士達であった。彼らは兎に角ガラが悪かったが、数が多いし、何より曹操自身に忠誠を誓っている。思想だの信念だのも重要かも知れないが、彼らの恩義は食料によって支えられているのだ。

実質上、武装した流民であった彼らを救い、食べていけるようにしたのは曹操である。だからこそに。彼らが曹操を裏切ることはない。ただし、曹操の次の世代まで、その忠義が続くかは分からない。この軍事力を活用するためにも、曹操はさっさと勢力を拡大しなければならなかった。

実数十万ともなると、群雄としてはぬきんでた兵力だと言える。これだけの兵力を動員できるのは、長安を制圧した董卓の残党達の他には、袁紹、袁術、それに荊州の劉表くらいであろう。曹操は十万の軍勢を三手に分け、先鋒の指揮を韓浩に任せ、中軍を自分が率いた。後方に楽進を配置したのは、軍の動きを俯瞰的に見る訓練をさせるためである。

留守部隊としても、約五万を各所に配置している。一見すると隙がないが、それでも曹操は安心しなかった。この間配下に加わった荀ケを始め、彼方此方に入念に部下達を配置して、守りを固めさせている。

これで、余程のことがない限り、背後を突かれることはない。そう曹操は判断したから、軍を進めたのである。

中軍で愛馬に揺られながら、曹操は徐州に入った。前衛の部隊が、敵の防御施設を次々抜いているという報告は入っているので、不安はない。徐州の総兵力は総力戦体制で、三万を少し切る程度である。問題は、袁術の支援を、どういう風に陶謙が使ってくるか、だ。奴は戦こそ大したことのない腕前だが、今まで散々搦め手を使って出世を重ねてきた古狸でもある。どのような手を使ってくるか、あまり予想が出来ない。

前線から、伝令が飛んでくる。曹操は馬上で、その報告を受けた。

「ご注進です!」

「うむ、如何したか」

「敵兵およそ五万! 徐州城の前にて展開しております!」

「なに……!?」

数が多すぎる。まだ、どこかの諸侯から、まとまった援軍が到着したという話は聞いていない。

更に、曹操を驚かせる報告が、連続して届いた。今度は、後衛の楽進からだ。此方の伝令は鎧に矢を生やしたままで、余程慌てていたのか、顔に掛かった返り血を拭ってもいなかった。

「ご注進! 後衛が、敵の襲撃を受けています! 敵軍規模、約六万!」

「何と! 徐州城近辺に展開している戦力と併せて、約十一万というか」

「殿! ご注進にございます!」

今度は何だ。内心頭を抱えた曹操は、それでも平然を装い、飛んできた伝令の報告を受ける。

吃驚して馬から落ちかけたのは、周囲に悟らせなかったが。しかし、何処までも驚くべき報告ばかりが来る。

「斥候に出ていた夏候惇将軍が、敵影を確認! 数はおよそ二万五千! まっすぐ此方に向かってきています!」

「殿、これは、敵が十万から十五万程度はいると判断した方が良いのではありませんか」

「あり得ぬ話だ。 徐州にそのような兵力はないし、何よりあったところで、養うことが出来はせぬ。 総力戦体制でも、三万程度の兵を動かすのがやっとなのだぞ。 徐州の兵など、何度も調べたが、一万程度しかおらぬはずだ」

「しかし、それならば、この状況を何と説明するのです」

「可能性としては、袁術あたりの援軍というものがあるが、これは違うな。 袁術でも、これほどの数を動員することは出来ない。 兎に角、一度全軍をまとめて、様子を見た方が良かろう。 韓浩および楽進に伝令を。 中軍に合流するようにと、伝えよ」

すぐに伝令が飛ばされ、曹操は自ら高速機動部隊に乗り込む。敵は二万五千。機動部隊は五千程度だ。しかしその五千が騎馬隊で編成され、速度を極限まで高めている。到達速度から言って、敵は騎馬隊ではないのが確実。蹴散らすのは、さほど難しくはないだろう。そう判断して、曹操は馬腹を蹴る。

一丸となって、曹操軍機動部隊が動き始めた。しかし、次の瞬間、再び驚愕することになる。

「なんだあれは!」

最前衛の兵士が呻く。敵の姿を見たからだ。

それは、兵ではなく軍でもない。

槍だの弓だのを持っているが、いずれもが襤褸を身に纏い、骨と皮になるばかりまでやせこけた、民であった。

それが唸りながら、一歩一歩大地を踏みしめ、迫ってくる。旗らしきものも掲げてはいるが、しかし。

曹操には、陶謙の狙いが読めた。そして、怒りが心底から沸き上がってくる。黄巾党でさえ、此処まで卑劣な事はしなかった。魔王董卓がこれを聞いたら、手を叩いて陶謙を賞賛するに違いない。

「そうか、奴め。 汚い真似をしおる!」

「と、との!」

「すぐに、後方に連絡! 交戦するな! 相手は民だ!」

いきなり、矢が飛んでくる。どうやら貧民に紛れて、敵の正規軍がいるらしい。とことんまでに卑劣な。何名かが射倒されて、曹操は決断せざるを得なかった。

「やむを得ん! 蹴散らせ!」

歯ぎしりする。これは、曹操が末代までに悪名を残す戦になるだろう。そして陶謙は、それをにやにや笑いながら見つめるだけで、成果を全て自分のものとする事が出来る。悪いのは、民を虐殺した曹操だという訳だ。

もちろん、下調べが欠けていたという点で、曹操にも失敗はあった。だが、まさかこのような手を本気で使ってくるとは。

敵を蹴散らすのは造作もないことだった。

だが、兵士達は、本格的な戦いの前に、既に戦意をなくしてしまっていた。

翌日夕刻、地獄の戦いをひとまず切り上げた全軍が集結した。韓浩は真っ青になり、楽進は怒りに歯ぎしりしていた。軍議を開くと、彼らは一概に目を血走らせながら、敵の卑劣を罵った。

何処の部隊も、報告は同じであった。膨大な数の貧民に襲われた。彼らの中には軍が混じっていて、戦闘で対処せざるを得なかった。

一応、勝った。蹴散らした後の貧民は幾らかを保護したが、問題はその後だ。彼らの数は、合計で十万にも達している。しかも飢え死に寸前にまでになっているのだ。食料を分け与えると、一気に兵糧を食い尽くされてしまう。

韓浩が、額の汗を拭いながら言う。

「曹操様、難しい状況です」

「やはり、兵糧が足りぬか」

「はい。 それだけではありません。 陶謙が諸侯に、曹操様が徐州の民を虐殺して回っていると言って、援軍を求めている様子です。 大義名分を得て、これ幸いにと公孫賛や孔融が援軍を送る様子を見せてきています」

「おのれ、何処までも卑劣な!」

楽進が拳を軍議の机に叩きつけた。

民を虐殺したという事実に、代わりはない。曹操はこの徐州の民に、永遠に恨まれることになるだろう。しかし、陶謙はどうか。歴史が奴を、正統に評価する事はあるのだろうか。

或いは後世では、陶謙は曹操の暴虐に踏みにじられた悲劇の名君にされるのかも知れない。そう思うと、曹操は腸が煮えくりかえる思いであった。

近くの河が、死骸で埋まっているという。戦闘能力がない貧民の死骸が、それほど出たと言うことだ。さぞや陶謙は、高笑いしていることだろう。曹操は諸将を見回すと、言った。

「速攻で勝負を付けるぞ。 全軍を一丸として、徐州城を一気に攻略する」

「それが、曹操様。 もう一つ、良くない報告がございます」

苛立った曹操が韓浩に視線を向けると、やはり額の汗を拭いながら、経済戦の専門家は言った。

「何だ」

「実は、陶謙の居場所が分かりませぬ。 徐州城だけではなく、他の主要な軍事拠点に、あらかた陶謙の所在を示す旗が立ち並んでおりまする」

「奴め、二重三重に、罠を仕込んでいたか」

これでは、短期での勝利は望めない。下手をすると、各地の軍事拠点に立つ旗の全てが偽物で、本人は袁術のいる寿春あたりで指揮を執っている可能性さえもがある。そうなってしまうと、曹操にはお手上げだ。袁術と正面切って戦うには、まだ曹操の軍事力は貧弱すぎるのだ。

しばらく苦虫をかみつぶしていた曹操だが、やがて決断して立ち上がる。

「卑劣だの卑怯だのと、そのようなことを言っていても仕方があるまい。 今は戦に勝つことを、全力で考えるべきだ」

「その通りにございます」

楽進が最初に立ち上がり、皆がそれに続いて喚声を上げた。

此処で、敢えて場を盛り上げなければならない。そうしなければ、ただでさえあまりに凄惨な結果に萎えている味方は、空中分解してしまう。曹操が真っ正面に立ち、くじけかけている兵士達を励ます旗にならねばならないのだ。

曹操は、兵士達の前に出る。彼らは整列し、曹操の言葉を待っていた。曹操も頷くと、彼らに最大級の賛辞を送る。

「諸君らの正義は、余が保証する! 例え後世で悪とされようとも、余が諸君らの戦いの理由を覚えている! だから、安心して戦え! いずれ余は天下を取り、それこそが諸君らの戦いが正しかったことの証明となろう!」

「おおーっ!」

兵士達に、難しいことは分からない。

だからこそに、曹操は演説の内容を簡略化した。

一番喜んでいたのは。恐らく、後世でもっとも悪名を擦り付けられるであろう、黄巾党上がりの青州兵達であった。

曹操はそのまま馬車に乗り、陣を見て回る。そして、短時間で、兵士達の士気を復活させることに成功したのであった。

しかし、兵糧がないという問題に関しては、解決できようはずもない。更に悪いことに、占領地を調べた代官達が、皆口を揃えて、米粒一つさえも敵が残してないことを報告してきていた。

悔しいが、一旦国境まで戻り、態勢を立て直すしかない。

敵が援軍を呼び集めるのを承知の上で、曹操は一度徐州の県境まで退いた。各地の防衛拠点からも、兵を引き上げて。

一瞬で勝負がつくと諸将が予想していた徐州攻略戦は、こうして泥沼の様相を見せ始めていた。

 

およそ一万の兵を率いた劉備が、徐州に入る。陳到はその中軍より少し後ろにいて、味方の編成を確認しながら、公孫賛の陰険さを察して歎息していた。元の劉備軍に加えて、公孫賛がもてあましている将ばかりが増援に加えられている。

奴が、この機に厄介払いを計ったのは、確実であった。

青州東部の支配者である、孔融の軍勢も見える。数は約五千。

孔融はかの孔子が子孫である。漢王朝でも名士として名高く、しかし筋金入りの変人として、それ以上に名を知られている。兎に角立派でため息が出るような理論を述べるのだが、現実性は殆ど無く、彼の領地では常に民が苦しんでいるという。政治家ではなく、学者でもするべき人間なのかも知れない。

陳到がざっと見たところ、その軍勢も鍛え上げられているとは言い難く、非常に質が悪かった。率いている将軍達にも、大した人材はいない様子だ。ただ、中軍に一人だけ、なかなか有望そうな若者がいる。まだ元服したばかりの若者だが、雰囲気と言い、体の動かし方といい、並ならぬ大器を感じさせる。

陳到が部下をやって調べさせると、太史慈と呼ばれる青年だという事であった。

聞いたことのある名前だ。この間の青州黄巾党蜂起では、孔融も苦戦を強いられた。その時に、包囲された城を突破して、曹操に援軍を呼びに言った剛勇の若武者がいたという。それが確か太史慈だったはず。まだ若いが、確かに噂通りの若者らしい。張飛や関羽と戦う所を見てみたいものだと、陳到は思った。

他にも何名かの袁術派諸侯が、増援を送ってきていて。最終的に、援軍は合計で二万までふくれあがった。それらの中核となった劉備軍は、徐州城に入る。妙にがらんとした城で、防御をあまり考えていないのは一目で分かる作りであった。陳到も、此処が守るに難しく攻めやすい場所だとは聞いている。だからといって、こうもいい加減な作りだと、ちょっと不安になってくる。

陶謙は噂の暗君だ。民は常に苦しみ、陶一族ばかりが贅沢をしているという。時流を見る目がないのも、袁術と組む所からも分かる。公孫賛の場合は、袁紹と対立していることから袁術と同盟を結ぶ必要があったと理解できる。しかしこの男の場合、袁術と手を組む理由があまりないのだ。

劉備が軍を整列させると、城の中からやせこけた陰険そうな老人が現れる。どうやらこの男が陶謙らしい。拝礼する劉備が、城の中に伴われて言った。関羽が護衛につき、張飛がその場に残る。

簡雍と国譲も、遅れて来た。張飛は不安なようで、何度か地面を靴先でつついていた。

「気にいらねえな。 あの陶謙って爺、何だかちぐはぐなんだよな」

「どういう事か、張飛どの」

「援軍に来る途中で見ただろ、貧民の死骸の山。 あれが出ると同時に、曹操が一旦国境まで退いたっていうじゃねえか。 被害者を装ってるが、何だか奇妙な悪意を感じるんだよ。 彼奴の裏に、誰かがまだ控えてるんじゃねえのか」

「可能性はあるな。 袁術は暗君として名高いし、陶謙も似たようなものだ。 それなのに、あの戦上手の曹操が、一度国境まで退いたというのがそもそもおかしい。 曹操なら、援軍が到着する前に、本拠を一撃して落としそうなものだが」

腕組みして、簡雍も応える。

最近劉備が手に入れた腕利きの細作であるシャネスは、最近洛陽を探りに行っていて、不在にしている。だから彼女の配下達を使って情報を集めるしか無く、当然精度は下がる。だから、色々と憶測で話をしなければならない所が面倒だ。

国譲が、相も変わらず、人たらしな笑みを浮かべて言う。

「まあまあ、此処は味方への不審よりも、敵をどう迎撃するかを考えましょうよ」

「それなら問題はねえだろ。 こんなしょぼい城でも、味方はだいたい三万。 曹操は百万なんて言ってるが、実数は十万程度だって聞いてる。 充分に支えられる」

「理論上はそうなりますが、曹操は一筋縄じゃあいきませんよ」

「同感ですね」

陳到も、国譲の慎重論に同意した。確かに城に籠もっている時点で、三倍程度の兵力差ならどうにでもなる。ただし、それは相手が凡将の場合だ。曹操は戦に敗れたこともあるが、しかし古今の名将だと劉備も認めるほどの男である。そう簡単に、勝てる相手ではないだろう。

城を見て回る。見れば見るほど、酷い防御施設の状態だ。一部では、何と城壁が崩れかけているカ所さえあった。陳到は素早く頭の中で修復計画を建てる。曹操がもう一度押し出してくるまでには、何とか仮でも補修を済ませなければならないからだ。

一通り城を見て回ると、城側から、増援の兵士達に酒が配られ始めていた。陳到も一杯もらう。張飛も軽く酒を呷りながら、ぶつぶつと呟いた。

「それにしても、兄貴と曹操が戦うことになるとはな」

「曹操は劉備将軍を高く評価していますからね。 それで慎重に来てくれると、少しは楽なのですが」

「彼奴がそんな玉かよ。 徐栄の騎馬隊を真似して、高速機動部隊を作ってるって話じゃねえか。 誰かを認めることがあっても、それで尻込みするような奴じゃねえ。 だから面倒なんだよ曹操は」

「なるほど、それは確かに」

張飛が饒舌になってきた。こうなってくると、下の兵士達は彼を避け始める。張飛は基本的に酒が入ると乱暴になる上、見境もなくなるからだ。その上、自分が乱暴になっているという自覚もない。

この辺りは常々劉備からも注意されている。いつか、恨みをためた兵士や部下に刺されるぞと、劉備がかなり強い言葉でたしなめているのを、見たこともある。しかし陳到の知る限り、張飛が態度を改めたという事はない。

劉備が戻ってきた。関羽と一緒に、酒の席に加わる。酔眼で、張飛が真っ先に口を開いた。

「兄者、様子は」

「丁度いい状況だ。 少し話してみたが、間違いない。 陶謙は傀儡だな。 主体的にものは考えていない」

「袁術の、ですか?」

「いや、違う。 あれは袁術の側に、もっと厄介なのがいる印象だ。 兎に角、陶謙自体には、大した力がない。 乗っ取るのは難しくないだろう」

周囲には部下だけだから、劉備はちょっと大胆な発言をした。咳払いをした陳到は、もう真っ赤になっている張飛が暴れないか不安を感じながらも、劉備を遠回しに押さえ込んでみる。

「急いては事をし損じましょう」

「うむ、陳到の言うとおりだ。 今はまず曹操の軍勢を撃退し、陶謙の裏にいる黒幕の正体を見極め、それからこの徐州に手を伸ばしてみる」

「平原には多く劉備殿を慕っている者達がいます。 彼らが移り住めるように、呼びかけてみてはどうでしょうか」

「うむ、それも手だな」

劉備は昔から不思議な貫禄があったが、酒を呷りながら薄めの顎髭を扱いている様子を見ると、最近はそれに拍車が掛かってきた印象である。それに対して、不思議といつまでも子供っぽいのが国譲だ。しかし国譲はもう立派な大人である。最近は年上の女性にもてるのだとか、陳到は聞いていた。

辺りを丁寧に見回していた関羽が、ぼそりと思い一言を告げる。

「ただ。 陶謙には息子がいます。 取って代わると言うことは、彼らを押しのけるという事です。 分かりますな、兄者」

「ああ。 もしも彼らの能力が優れているようなら、徐州は諦めるつもりだ」

「何だ、随分弱気だな」

「話を聞け、張飛。 既に下調べは住んでいる。 陶謙の息子達は、筋金入りの放蕩者達だ。 もちろん、そのような者達に、遠慮などする気はない」

陳到は、今更ながらに劉備が身につけだしたえぐみを感じて、少し多めに酒を呷った。

徐州城には、約三万の兵士がこれで籠城したことになる。兵糧は不自然なほどに豊富で、外に貧民の死骸が山積していたのとは対照的だ。兵士達も、劉備を複雑な目で見つめている。恐らく彼らは、陶謙の政権を良く思っていないのだろう。

その日は、陳到が夜の番を受け持ち、遅くまで起きてきた。

明け方に、騒ぎが起きた。劉備の陣に、男が一人忍び込もうとしたのである。

 

捕らえた男は、痩せていて、ぼうぼうの髪と髭。目だけがぎょろりと剥いていて、栄養失調が色濃く伺えた。

起き出してきた劉備が、粥を与えてやれと言うと、ありがたいと呟いて貪り喰う。彼は劉備に会いたいと言って、陣に忍び込んできたのだ。陳到が捕まえたから良かったが、張飛だったら殴り殺していたかも知れない。

それくらい、男は得体が知れない雰囲気だった。年は四十前後。見かけは比較的老いているのだが、雰囲気が悪い意味で若々しい。無鉄砲で、しかも思慮深そうで、しかしながらどこかが抜けている雰囲気だ。

「それで、おっさん。 兄者に何を伝えたいってんだよ。 こんな朝っぱらから、強引に陣に入り込んできやがって」

早く起こされて機嫌が悪い張飛がすごむが、男は何処吹く風である。むしろ、張飛が鼻白むほどで、大した胆力だと言えた。

「劉備殿は、そちらの御仁か」

「そうだ。 私が劉備だ」

「儂は張昭という。 少し前に、陶謙に罷免されて、今は無官の身だ」

「聞いたことがある。 学者としても知られているお方だな。 私のような一介の傭兵隊長に会いに来てくれて、光栄だ」

劉備が佇まいをなおしたので、張飛もそれに倣う。この辺り、張飛はとても素直である。根は子供のように純真なので、当然かも知れないが。

無言で陳到は兵士達に促して、失礼がないように態度を改めさせた。これで、どうにか客人と劉備が話す態勢が整った。張昭はそれを感じ取ったらしく、自らも汚い服の襟を直すと、向き直る。

「劉備殿は、陶謙をどう見た」

「あまり志が高いお方ではないな。 かといって、悪とされるほど愚かでもないように見えたが」

「その通りだ。 陶謙は典型的な庸人で、悪でもなければ善でもない。 生まれついての地位が、今座っている場所を約束した。 何の努力もせずに軍人となり、今また官吏となって徐州を収めておる。 欲望も人並みで、多くも少なくもない」

「言いたい放題ですな」

「事実を客観的に述べているだけよ。 しかし、そんな陶謙の欲望を的確に把握し、短時間で操った輩がおる。 この手際の良さから言って、以前から陶謙を知っている人間の仕業であろうな」

そう言い終えると、張昭は粥をまた一口啜った。劉備は腕組みしたまま、張昭の言葉を聞き続けている。

陳到はただ周囲に気を配って、会話が他に漏れないようにしていた。

「それで、張昭どのは、私に何をせよと」

「いや、そこまでは期待しておらぬ。 ただ、これから儂は揚州の田舎に引きこもるからな。 徐州にきた有望な者の顔を、一度見ておきたかっただけよ」

「それはまた、二重に光栄な話です」

「次に遭う時は敵同士かも知れぬから、そのような言葉は良いわ。 今教えたことを、どう生かすかは貴殿次第だ。 粥を世話になった」

立ち上がると、張昭は兵士達などいないように、ふらりと陣を出て行った。

劉備はしばらく腕組みして考えた後、手を叩く。するりと、場に小柄な影が入り込んできた。シャネスの部下の細作だ。

「お呼びですか、劉備将軍」

「うむ。 陶謙の周辺を探って欲しい。 どうやらおかしな動きがあるようだ」

「は。 承知いたしました」

「深入りはするな。 妙な闇の気配がある」

早朝から、随分と緊張感がある。細作が消えると、劉備は大きく伸びをすると、部下を呼んで鎧を着込み始める。

曹操の軍勢は、再編成を済ませて、明日にも攻め寄せてくるという。幾らでも、徐州城の内部で、しておくべき事はあった。

 

徐州城の城壁の上。劉備の軍勢を見下ろしている影があった。側には、喉を掻ききられ、殺された兵士の亡骸がある。

蠢く闇そのものであるその影の正体は。徐州に今足を運んでいる林であった。

雇い主は王允。もちろん、永久の雇い主にするつもりはさらさらない。奴を生かしておけば、更にこの地の混沌を加速させることが出来る。しかも奴を自分が手伝うことによって、更に効率よく、であるからだ。今、張勲と名乗っている王允は、既に袁術の軍勢をあらかた手中に収めていた。その配下には、以前から王允が人脈を築いていた者達が、何気ない顔をして潜り込んでいる。

後ろに控えていた部下達が、手際よく死骸を片付けていく。劉勝が、控えめにながら、意見を述べる。

「劉備を暗殺するのですか」

「そんな野暮なことをするわけがないだろう。 彼奴を消すのは、もっと勢力が増してきて、邪魔になってからだ」

今の劉備は、確かに優秀な将だが、乱世を沈静化させる方向に動いている存在ではない。林には分かる。奴は強い野心を持っていて、それを徐州に向けている。一国一城の主史になりたいというのが、その本心だろう。

曹嵩を殺したのも、王允の指示によるものだった。曹操と陶謙を本格的にぶつかり合わせて、その背後から飢えた虎をけしかける。これも、王允の策である。その掌の上で躍っている曹操と劉備。そして、それを傍観しながらも、確実に力を伸ばそうとしている陳宮。いずれも林には望ましい状況を造り出している、大事な駒なのだ。重要度も落ちるが、もちろん陶謙もそれに代わりはない。

今、劉備が細作を動かしている。邪魔なルーの妹ほどの手腕はないが、もしも王允の事を嗅ぎつけられると面倒だ。だから、監視する。もしも気付きそうになったら、消す必要もあるだろう。

城で働いている使用人の格好に着替え直すと、林は部下数名を連れて、徐州城に潜り込む。正式に雇われている上に、何度も入り込んだ城だ。もはや隅から隅まで、正確に把握している。林は忙しくなってくると、一刻から二刻しか寝ずに、残りは修練と調査に費やす。徐州に来てからもその習慣を発揮して、徹底的な下調べを続けていた。その結果、敵地を完全に把握することに成功したのだ。

今や城主しか知らないような隠し通路まで、林は記憶に収めていた。

其処へ、わざと罠を幾つか仕掛けておく。劉備の細作が此処を通ろうとしたら、即座に罠が発動して、命を落とすようにしておくのだ。

他にも、天井裏に、幾つかの罠を仕掛けた。

今や、徐州城は、林という人外の化け物の巣である。彼女が張り巡らせた蜘蛛の糸が、獲物を狙って、闇に輝いていた。それは悪意という毒を塗りたくられ、禍々しくも、何処か美しかった。

 

2、徐州城攻防

 

曹操の軍勢が、徐州城の前に布陣した。左右にも、兵のいくらかが割かれている。わざと一方を開けている辺り、曹操の指揮は巧妙で、しかも基本を抑えていた。城壁に上がり、下の様子を逐一確認していた陳到は、部下を何度か劉備の所に走らせながら、その状況を確認していた。

一方向を開けておくのは、決死の抵抗を防ぐためだ。全方向を塞いでしまうと、逃げられないと判断した敵は、それこそ追い詰められた鼠のように抵抗をする。だから、城攻めの際には、わざと一方向を開けるのが常識なのである。

曹操の軍勢は、前評判通り約十万くらいだろうと、陳到は見た。虎牢関に集まった軍勢の半数程度だが、それでも圧倒的な軍勢である。陶謙の部下達は心を飲まれてしまっているようなので、陳到は一喝した。

「今からあれが攻め寄せてくる! だが、此方には劉備将軍も、あの呂布を退けた張飛将軍と関羽将軍もいる! 臆するな!」

「おおっ!」

「あの呂布と、五分に戦った方々か!」

張飛と関羽が、城壁の上では身じろぎもせずに佇立していて、それを見た兵士達の顔に、生気が戻る。

誰もが、あの呂布のことは知っているのだ。しかも、虎牢関で奴を退けた豪傑が、二人も味方には存在している。それがどれほど心強いか。

結局、戦いで勝つには、豪傑を揃えるのでは駄目だ。一般の兵士達を如何にやる気にさせるかが重要になってくる。それを陳到は理解していたから、兵士達を激励するために、切り札である二人の名を躊躇無く出した。

くすくすと笑う声がしたので、振り向く。国譲だった。

「すっかり熟練の将軍ですね、陳到さん」

「お前も、神出鬼没ぶりが板についてきたな」

「わあ、酷いなあ。 僕を妖怪みたいに言わないでくださいよ」

さわやかな笑顔を浮かべる国譲。応じずに、陳到は敵勢を顎でしゃくった。お前はどう思うと、無言で促したのだ。国譲は笑顔を崩さないまま、しかし雰囲気を変えた。真面目に考え込んでから、応えてくる。

「良く訓練された軍勢ですね。 しかも敵意が凄い」

「徐州で散々民を虐殺したと言うが、それにしても凄まじい悪意だ。 曹操の父が、それほど兵士達に慕われていたとは思えん。 何かあると思わないか」

「確かに、あまりに無意味な行動です。 仮に勝ったとしても、徐州では反乱が頻発して、曹操の統治など受け入れないでしょう。 それをあの曹操が、分かっていなかったとは、とても思えません」

「同感だ。 何か、とても嫌なものが裏で蠢いているとしか思えん」

予兆は、既にある。

昨日、陶謙の身辺を探っていた細作が、消息を絶った。裏切った雰囲気ではなく、多分何者かに消されたのだろうという事であった。かなりの手練れであったのに、痕跡も残さずに消されてしまうとは。敵にはそれ以上の手練れが着いているという判断が、それだけで成り立つ。

そう、敵だ。

何か、途轍もなく嫌な敵が、陶謙や曹操の裏にいて、糸を引いているように、陳到には思えていた。

敵は陣形を丁寧に維持したまま、此方の出方をうかがっている。曹操の陣は、南門の手前にあった。劉備が其処にはいて、主力を防ぐ構えを見せている。西門は孔融の軍勢が抑えている様子だが、此方は不安だ。東門は関羽と張飛が防ぐ。陳到ら諸将は、門と門の間にある城壁に上がり、其処から戦況に応じて逐一援軍を投入する形になる。

昼までは、じりじりとしたにらみ合いが続いた。

そして、不意に戦況が動いた。

突如曹操軍の一角で、投石機が前進しだしたのだ。

投石機は大勢の兵士で紐を引き、内部に遠心力を使って投石する装置である。兵士数人分の重さがある石を、城内に叩き込むことが出来るので、かなり危険な攻城兵器であるが、しかしながら命中率が低い。滅多なことでは当たらない上に、装填に時間が掛かるので、心理攻撃くらいにしか使えない。

だがそれに併せて、衝車も動き出していた。

これは巨大な杭に車を着けたような装置であり、門を破壊するために使用する。牛や馬を使って引かせたり、或いは兵士が押したりするのだが、彼らを守るために鉄製の屋根が付けられていることが多く、曹操軍が持ち出したのもそれだった。すぐに応戦の指示を出した陳到は、兵士達に火矢を用意させる。そして、事前に用意させていた、脂を入れた壺を、力自慢の兵士達に配る。

「以前指示したとおり、これに火を付け、敵に投げつける。 主に攻城兵器を狙え」

「ははっ!」

敵も矢を放ち始めていた。ひゅんひゅんと風を切り裂いて、無数の矢が飛来する。城壁の上に伏せた兵士達が素早く応戦開始。激烈な戦闘が、彼方此方で開始されていた。

曹操軍の士気は高い。次々に梯子を城壁に掛けては、矢による援護を受けつつ、次々登ってくる。落としても落としても登ってくるその様子は、蟻を思わせた。そしてその顔には、必死の形相が浮かんでいる。味方であろうと敵であろうと、戦えば大勢が死ぬのだ。そして誰もが生きたいのである。

陳到は不安を感じる。劉備は信頼できる君主だが、このまま戦乱が拡大していくと、更にこのような無意味な争いで死ぬ兵士が出るのではないか。もちろん自分もその一人になる可能性が高い。

弓を引き絞り、放つ。梯子を登っていた大柄な兵士が、悲鳴を上げながら落ちていった。それほど城壁が高くない徐州城だが、それでも落ちれば即死だ。陳到のすぐ隣で戦っていた兵士が、石を持ち上げて敵に落とそうとした瞬間、顔面に矢を受ける。そのまま無言で、城壁から落下していった。ほんの僅かにでもずれれば、陳到が死んでいた。

奥歯をかみしめ、交戦を続ける。やはり西門近くの城壁の旗色が悪い。陳到は部下に指示を残すと、百騎ほどの精鋭を連れて、そちらに向かった。城壁の上はごった返しているので、一度階段を使って内壁を駆け下り、西門へ。城内では、既に投石機の被害で潰れた家や、屋敷が出始めていた。敵は投石機で脂入りの壺を放り込んできてもおり、所々で火の手も上がっていた。

城内では女子供も動員して、消火に当たっている。と言っても余計な水はないので、重要地点以外は延焼を防ぐべく、建物を潰すしか無い。がらがらと押しつぶされる建物の音が響く中、陳到は西門へ到達。内側に、兵士が一人落ちてきた。城壁の上では、一部が破られて、乱戦が始まっていた。

陳到は階段を駆け上がると、敵兵と真正面から出くわした。躊躇無く拝み撃ちに切り下げて、更にもう一人を斬り伏せた。陳到に続いた援軍が、一気に敵を押し返す。激しい戦いの中、肩を後ろから刺された。鎧で滑ったが、しかし痛烈な痛みが走る。振り返り様に斬り捨て、周囲の状況を分析。

どうにか、梯子を登って来た敵は撃退できた。

雨が降り始める。敵はそれに伴い、ますます激しい攻撃を続けてくる。曹操が如何に凄まじい憎悪を抱いているか、示しているような雨だと陳到は思った。

西門の指揮官を見つけた。孔融の部下の将軍である。

首に、弩の矢を受けて戦死していた。兵士達も、いつ死んだのか、気付いていない様子であった。

やりきれないことだと思いながら、代わりの指揮官が来るまでと断った後に、陳到はその場で敵を撃退し続けた。雨に濡れてはいたが、体中が火照って、寒さは感じなかった。そして陳到は、敵を一歩も城内には入れなかった。

 

夜になると、一度曹操軍の攻撃は止んだ。

有利なはずの城防衛だというのに、味方の被害は予想以上に大きい。曹操軍はかなり手練れが揃っていて、指揮も鋭い。弱点と見た地点には攻撃を集中してくるし、城内への圧迫も忘れない。

この様子だと、細作を入れて、分裂工作くらいはしてきているかも知れない。

今の内に交代で休んでおくようにと兵士達に告げると、陳到は劉備軍の幹部達と話すべく、城壁の内側に降りた。彼方此方が焦げ臭く、また血なまぐさい。死骸が積まれているのは、片付ける場所がないからだ。中には投石機の餌食となった、子供の死骸もある。気の毒な話である。しかも、籠城が長引けば、あれが食料となる事を考えると、余計に気の毒であった。

劉備が腹に傷を受けていたので、陳到は驚いた。やはり一時城壁を乗り越えられて、対応に苦労したという。腹の傷はそれほど深くはなく、槍には毒も塗られていなかったので、今は落ち着いているという。それを聞いて安心した陳到だが、しかし手練れの劉備が指揮していてもそれほどの打撃を受けたという事情にも気付いて、戦慄した。

「曹操の野郎、相当に本気だぜ」

「無理もなかろう。 曹操の父が、殺されたという話だ」

「陶謙殿にそれを聞いたが、身に覚えがないらしい」

「さて、それはどうでしょうね」

劉備の言葉に、陳到は少し投げやりに応えた。

陶謙は悪い意味で名が知られている人物である。徐州の政治は上手く行っていないし、その部下にもろくでもない者達が揃っている。今回、曹操軍の進撃が早かったのも、そう言った連中が持ち場をさっさと放棄して逃走したからだという経緯もある。この徐州の民は不幸だなと、陳到は思った。陶謙という暗君に苦しめられ続け、今度は曹操によって蹂躙される。

しかしながら、このご時世である。それが嫌なら、さっさと財産をまとめて、別の土地に移ってしまえば良いのである。一番悪いのは陶謙と曹操だが、民ももう少したくましくあっても良いのではないかと、陳到は考えていた。

「どちらにしても、あと数日が勝負になるな」

「あれだけの大軍ですから、補給が保たないだろうと言うことですか?」

「いや、それもあるのだが。 実は、気になる情報を、昨日戻ったシャネスが持ち帰ってきた」

シャネスは混乱が続いている長安を探りに行っていたはずだが、もう戻ってきたのか。急いでいるとしたら、何か急が発生したという事であろうか。いずれにしても、あまり良くないことが起こったのだろう。

張飛の機嫌が、露骨に悪くなる。どうも張飛はシャネスを意識しているらしく、否定的な言動が感情的になりがちだ。

「あの小娘、いつのまに帰って来やがったんだ」

「そういうな、張飛」

「でも、兄者。 俺は、細作はあまり好きになれねえ」

「それは儂も同じだ、張飛。 武人である以上、影から事を成す細作は、あまり好きにはなれんさ。 だが、それでも、彼らの力は必要だ」

関羽が穏やかに諭したので、劉備が話を続けられる雰囲気が整った。

劉備は声を落とすと、皆の顔を覗き込むようにして、声にまで影を含ませて言う。

「どうやら、呂布がおかしな動きをしているらしい」

「呂布が、ですか?」

「うむ。 袁紹のところで世話になっていた呂布だが、少し前に軍でもめ事を起こして、戦場を離れたらしいのだ。 それからしばらくは活動をしていなかったが、最近昔の部下を集めて、中原に来ているらしい」

「あの野郎、どうせろくな事を考えてやがらねえぜ」

陳到も、その張飛の言葉には同感だ。だが、気になるのは、どうして長安を探っていたシャネスが、そんな情報を持ってきたか、である。呂布は長安で今成立している、董卓の旧部下達による連合政権とは敵対しているはずで、関係性が無いはずなのだが。呂布は何かしらの、陳到も知らない人脈を持っていたと言うことなのか。

予想は外れた。思いも寄らぬ所から、呂布の情報が出たのだという。

「情報源は、長安でシャネスが接触した、盧植先生だ」

「あのご老体ですか」

「ああ。 先生は、どうやらまだ洛陽近辺で苦労している朱儁将軍と情報のやりとりをしているらしくてな。 その辺りから、呂布の不可思議な移動についての情報が入ってきたらしいのだ。 そして、今呂布は、空になっている?(エン)州を狙っているという」

そうなると、確かに?(エン)州は危機的な状態に陥る。あの台風のような呂布の存在を思い出し、陳到は身震いした。

「とにかく、あの呂布が待つというようなことをする訳がない。 何か起こるなら、すぐだろう。 それまで、耐え抜こう」

劉備が皆を見回して、そう言った。

陳到の見たところ、誰も、それを素直に喜ぶ気にはなれない様子だった。

 

曹操の陣にいた典偉は、夜中だと言うにもかかわらず、無言で曹操の天幕を訪れた。兵士達も、典偉には絶対の信頼を寄せている。だから、咎めなかった。

天幕の中では、蝋燭がともされていた。曹操は遅くまで軍務をしてから寝る。今日もそれに例外はなく、竹簡に目を通していた曹操は、振り向きもせず言う。

「典偉か。 どうした」

「徐州城の中で、空気が変わりました」

「ほう?」

「城の者達が、なにやら複雑な雰囲気を醸し出しています。 喜んでいるような、戦慄しているような」

何かが起こったことは間違いありませんと、典偉は言った。

典偉の見たところ、曹操に武芸の才能はない。此処で言う才能というのは、一騎で百騎を威圧するような、天下に無双たる武芸を収める才能のことである。だから、曹操は、場の空気を感じ取ることが出来ない。

それを補助するのは、典偉の大事な仕事だった。

もっとも、典偉も決してこの大陸最強の武人ではない。彼以上の実力を持つ武人が、今徐州城の内部に二人もいるし、同等に近い奴も一人。関羽と張飛、彼らならもっと正確に城の気配を把握できるのではないかとも思い、忸怩たる気分を味わってもいた。

曹操はさらさらと竹簡に筆を走らせ終えると、顔を上げた。そして、考え込む。恐ろしく優秀でありながら、典偉の発言を真剣に考えてくれるこういう所が、忠誠心を刺激する。分かってやっていることかも知れないが、それはそれで嬉しいものである。

「炊煙は上がっていないな」

「はい。 出ようという気配は、僅かです」

「そうなると、夜襲の可能性は低いか。 指揮の実力差は、昨日の戦いだけで身に染みたはずだ。 下手な夜襲を仕掛けて、被害を増やすようなことは無いだろう」

そうなると、援軍か、此方に何かの異変が起こることを察したか。そう曹操は呟きつつ、次の竹簡に手を伸ばす。典偉は、曹操の思考が終わるのを、根気強く待った。これは自分にしか出来ないことだという誇りが、粘り強い行動を可能としている。

「分かった。 楽進の隊を攻撃から外し、変わりに夏候惇を当てよ。 南門は少し不利になるかも知れんが、別に困るほどの事もあるまい。 いざというときには、援軍も自由に投入できるしな」

「分かりました。 すぐに伝令を飛ばします」

「うむ。 楽進なら、多少の敵増援が現れても、問題なく支えることが出来るだろう」

楽進を後衛に回すことで、仮に敵に増援が現れても、支えることは難しくない。増援と言っても袁術くらいしか思いつかないが、もとより奴は非常にけちで、落ちそうになっている訳でもないのに、徐州に援軍を出す訳がない。徐州が落ちたら自分が危なくなるかも知れないとは、思いつかない男なのだ。そう、以前曹操が説明していたことを、典偉は覚えていた。

「曹操様、現在の状況で、他に援軍を出す可能性がある敵はいませんか」

「ふむ、以外と心配性だなお前は」

「曹操様を案じての事にございます」

「分かっておる。 そなたのような股肱を得るのは嬉しき事よ。 そうさな」

曹操は、淡々と説明してくれる。

他に援軍を出しそうな諸侯はあまり思いつかないし、いたとしてもせいぜい五千か、一万か。不穏な動きをしていると言えば王匡の跡を継いだ?(ケイ)固くらいだが、奴もせいぜい三千程度の兵しか動かせない。董卓討伐軍での、王匡の失敗による被害立て直しが、それだけ大変だと言うことだ。

その説明を聞いても、何処か典偉は不安を隠せなかった。

何か、とんでもない隠し球が陶謙、或いはその後ろにいる輩にはあって。此方は罠にはめられているのではないのか。曹操は、典偉から見ても神のような頭脳を持つ男だ。参謀はあくまで補助的な思考をするに過ぎず、曹操は参考程度にしか用いていない。所々ドジなのは、元々優秀すぎる事に対する歪みではないのかとさえ思えている。

「兎に角、お気を付けください。 拙者も、何かあった時には、命に代えても曹操様をお守りします」

「うむ。 それと、そなたの体力が無尽蔵であることは分かっているが、今日は早めに休んでおけ。 今日は警備を増やすことで、対応する」

「ありがたき幸せ」

曹操が気を使ってくれたので、典偉はむっつりと応えながらも、内心ではとても嬉しかった。

不安は拭いきれなかったが、自分の天幕に戻ると、さっさと眠りにつく。

そして朝になると、状況が一変していた。

 

曹操が寝台の上で目を擦りながら身を起こすと、血相変えた叫び声がした。どうやら伝令の兵士のものらしい。

慌ててある程度着衣を整えて起き出す。髪まで整え直している暇はないから、格好を付けるために冠を付けた。伝令の兵士が、天幕に飛び込んできたのは、曹操が背を高く見せる事の出来る特注の靴を履いた直後だった。

「ご、ご注進です!」

「うむ、どうした」

「呂布です! 呂布が、?(エン)州に現れました!」

「?(エン)州は荀ケと陳宮、それに同盟を結んでいる張?(バク)、張超らも守りに加わっておろう。 それほど心配するような事が起きたのか」

そう言いながらも、曹操は兵士達を呼び、鎧に着替えている。何か起こったから兵士が血相を変えており、それは自分が出ないと解決しないことを理解しているからだ。兵士に一呼吸置かせ、報告させるためにも。曹操は敢えて余裕がある様子を装っているのである。

典偉の懸念が、当たってしまった。そう内心では、曹操も呟いていた。

「それが、陳宮、および張?(バク)、張超、その全員が呂布に内応し、裏切りを働いた模様です!」

「な、なんだとっ!」

「すぐにお戻りください! 今や?(エン)州の命運は、風前の灯火にございます! 荀ケ将軍が支えておりますが、いつまで持ちこたえられるか!」

「良し、楽進と夏候惇を先に向かわせろ。 韓浩は精鋭を連れて遊軍となり、味方が不利な地点に兵を投入。 儂は後詰めとなって、敵の追撃を防ぎながら、その後を追う!」

まさか幼なじみの張?(バク)や、有能さを買って抜擢した陳宮が裏切るとは。まさに痛恨の事態であった。確かに兵士が血相を変える訳である。

訓練をしてある曹操の部下達は、すぐに動いた。楽進は弩の矢がごとき勢いで?(エン)州に向かい、韓浩と夏候惇がその後を追う。曹操は見かけ悠々と、だが必死に本隊五万を整えると、敵から分かり易いように、ゆっくり引き上げ始めた。追撃を掛けてきたら、逆撃を浴びせてやるぞと脅かしているのだ。

その甲斐あってか、敵は追撃を仕掛けてこなかった。徐州城には劉備がいたはずで、恐らく奴が冷静な判断を下したのだろう。曹操はほっとすると同時に、側にいる典偉に、歯ぎしりを漏らしていた。

「まさか、余が信頼していた者達が、あのように裏切るとは」

「曹操様、陳宮については、前々から怪しいと、拙者も申し上げておりました」

「む……そうであったな」

そうなのだ。典偉は、前から陳宮に気をつけるようにと、曹操に言ってくれていたのだ。それなのに、曹操は陳宮が有能であることを理由に、重用し続けた。これは報いであるのかも知れなかった。

「それに張兄弟についても、野心家でありました。 曹操様の友情よりも、野心を採ったのでしょう」

「ふ、ははははは。 そうだ、今が乱世だと言うことを、どこかで忘れてしまっていたのかも知れぬな。 良いだろう。 この屈辱、いずれ必ず晴らしてくれよう。 余にたてつき、その覇道を邪魔したこと、後悔させてくれるわ」

徐州城からの追撃がないと判断した曹操は、全軍を進撃用の三列長蛇陣に素早く切り替え、風を切り裂くような速度で、?(エン)州に向かい始めた。

呂布の恐ろしさはよく分かっている。

だが、対応策はある。

曹操は奥歯をぎりぎりと噛みながら、愛馬の絶影を疾走させた。

 

3,歪みと裏切り

 

呂布が大股で?(エン)州城の中を歩く。陳宮が、そのすぐ後ろには付き従っていて、何を考えているのかよく分からない視線を周囲に向けていた。高順は心配になったが、敢えて何も言わなかった。

既に?(エン)州の西半分は、呂布の手に落ちていた。この城も、数日前までは曹操軍の勢力下にあった。だが、陳宮が念入りに行った根回しと、何より張兄弟の軍事力援助によって、瞬く間に陥落したのである。

今や、曹操軍の勢力は、東半分で必死の抵抗を行っている。荀ケが中心となって抵抗戦力を構築し、本隊の帰還を待っている状況だ。しかも、今まで韓浩が築き上げた農村をつなぐ経済道路や、蓄えた穀物などの半分は抑えている。後は本隊が帰ってきても、防御に徹するだけで勝てる。曹操はいずれ兵士達を養えなくなり、南北に延びた勢力は維持できずに空中分解を起こすだろう。

しかし、問題はそのような消極的戦略を、呂布が選ぶか、という事だ。

それに、高順が見た所、陳宮にはまだ何か裏がある。どうやら何かに対する対応策を練ろうとしているようのだが、その正体が掴めない。陳宮が連れてきた数名の部下、特に赫萌には気をつける必要があるだろう。まるで飢えた猿のような、手段を選ばぬ目つきをしている男だ。

高順の悩みは多い。兵の半分を陳宮が抑えていることや、呂布がやはり相手を殺すことしか考えていないこと。そして、陳宮の防衛戦略が、何処まで上手く行くかの不安。

何よりも、呂布の事を、?(エン)州の民が全く歓迎していないことが大きい。陳宮が起こした強引な反乱は確かに成功した。だが、民を敵に回しての反乱など、長く続く訳もないのだ。董卓は様々な方法で、民衆を押さえ込んだが、それも結局上手くは行かなかった。民衆が逃走したことにより洛陽は放棄せざるを得なかったし、長安も支持を得なかったから結局は上手く行かなかった。しかし、董卓の凄い所は、その辺りを理解した上で動いていた可能性が高い事だ。

呂布にはそれがない。

玉座に呂布が腰掛ける。怯えきった文官が、報告書を奏上した。高順は腕組みしたまま、その様子を見つめていた。

「恐れながら、民は呂布将軍を歓迎しておりません。 曹操将軍の統治は旨く行っており、飢えて死ぬ民が殆どでなかったからにございます」

「喰わせてやれば、民は従うというか」

「呂布将軍、食料は天からの授かり物にございます。 捻出しようとしても、農民達が作り出す以外に、方法がございません。 曹操はそれを理解し、多くの食料を捻出する仕組みを、この地に作り上げていたのです」

「だが、それは俺には関係がない。 要するに、その仕組みを俺が壊さずに、維持すればよいのだろう」

案外物わかりがよいので、高順は安心しかけた。しかし、呂布はあくまで呂布だった。愚かな話である。養子にしていて、その性質を知り尽くしていたはずなのに。どこかで高順は、呂布にものわかりなどというものを期待してしまっていたらしい。

親心が事実を狂わせるのだと、高順は今更ながらに思い知った。

「残りの半分も強奪すれば良いだけのことだ」

「お、お待ちください! 残りの半分は、荀ケが、堅く守りを固めています。 今は占領地を抑えて、民衆の宣撫に努めるべきです!」

「いや、それでは生ぬるい。 曹操をこの手で八つ裂きにしてこそ、民も新たなる魔王が誰なのか、理解することだろう。 そうすれば、多少食料が足りなくても、俺に逆らうことはなくなる」

唖然としている高順。腕組みしたまま、様子を見ている張遼。張遼は、己の武人としての限界を見たがっている節があり、あまり政には興味がない様子だ。そればかりか、呂布が勝つことにさえ、興味がない雰囲気すらある。

高順は不安だった。この軍は、個々人の欲によって支えられている。それは怪物的な呂布という存在を軸にしているのだが。

その軸の下には、今や陳宮という闇が、巣くっているのだった。

どうしてか、似た構造が、つい最近崩壊したことを、高順は間近で見ている。

そう。それは、董卓と、王允の関係に似ていた。

 

呂布軍約三万が襲来した。東阿の城に立てこもった荀ケは、どうにか三つの城を守り通す態勢を作り上げようとしていた所だった。他の城には、既に程cや、他の将軍を派遣している。後は、この城だけだった。

知らせを受けて、荀ケは城壁の上に駆け上がった。元から鍛えたこともない体である。だから、城壁を駆け上がると、全身が悲鳴を上げた。だが、今は、精神がその悲鳴をねじ伏せていた。

城壁から見下ろすと、確かに敵兵が城を囲んでいる。そして、その先頭には。炸裂するような殺気を放つ、巨大な赤い馬に跨った武者がいた。

呂布だ。本人が、直接出てきたか。生唾を飲み込むと、荀ケは飲まれないように、声を張り上げた。

「かねてからの指示通り、守りに徹する! 何があっても、出ようとはするな!」

「ははっ!」

中級、下級の将校達が、気勢を上げた。

待てば、すぐに曹操の本隊が来る。それに、敵の士気は、見たところ振るわない。曹操が恐れられる以上に、民に慕われていたのだと、今更ながら荀ケは敵兵を見て、知った。そう、三万の兵士達は、殆どが呂布によって強制的に挑発された農民なのである。残りは流れ者だが、此方は元々誰にも忠誠心など持ってはいない。

城内にいる戦力は五千という所だ。敗残兵を逐一取り込んでいるので、残りの二城には、時間さえ稼げば更に戦力が集まることだろう。それに本隊約十万が到着すれば、呂布軍など一気に蹴散らすことが出来る。如何に呂布が強くても、以前の虎牢関とは状況が違う。今回の曹操軍は、有能な指揮官の下に一丸となっている上に、士気も高いのだ。

かといって、敵軍三万から、離脱者が出るようには思えない。それはやはり、敵軍の先頭にいる呂布の存在が大きいのだろう。確かにあの殺気を間近で浴びて、逃げようとか逆らおうとか言う勇気を、堀りおこせる者がいるとは思えない。

呂布は、例外的な存在なのだと、間近で荀ケは見て悟った。あの男は、普通の人間なら出来ない、一人で万を威圧するという行動を、実行できる存在なのだ。だが、それが故に。どこかに大きな欠点もあるはずだ。其処さえ突けば、必ずや倒すことだって出来るだろう。それは願望かも知れない。しかし、嘘だと決めつけることも出来ないだろう。

呂布はしばし城壁の上を見ていたが、やがて荀ケを見つけたようだ。慌てて陰に隠れる。呂布の矢は、馬術に並んで凄まじいと聞いている。下手をすると、そのまま撃ち落とされるかも知れない。

兎に角、今はこの城に、呂布を引きつけることだ。

「荀ケ将軍、城内の戦力で、敵兵を防ぎきれるでしょうか」

「努力するしかない。 兎に角、私も最前線で指揮を執る。 曹操様の援軍は、速攻で駆けつけてくるはずだ。 だから、あまり長くは戦わなくて良いだろう。 兵士達にも、二三日で援軍が来ると伝えておけ」

不安そうな下級将校にそう言い聞かせると、荀ケが隠れている城壁のすぐ側に、矢が突き刺さった。城壁に、である。呂布の凄まじい腕力が、それだけでも分かる。戦慄する一瞬の隙を突くかのように、敵兵が押し寄せてきた。

喚声が、山津波のようだ。膨大な矢が、城内に降り注いでくる。梯子が城壁に次々掛かった。

敵兵が、城壁の半ば程まで上がってくるまで、待たせる。

そして、機を見計らい、荀ケは一斉に反撃を開始させた。

 

夕刻、呂布軍は一旦距離を置いた。

城内の被害は大きい。敵の被害も大きいはずだが、それを感じ取れないほどに、猛攻は凄まじかった。

何しろ呂布が、最前線で微動だにせず様子を見守っているのである。それでは、敵兵は必死にならざるを得ない。一度などは、逃げようとした敵兵を、呂布の矛が無造作に貫いた。恐ろしい光景だった。そして、矢が飛んでこようが石が飛んでこようが微動だにせず、時に悠々と矛を振るって払いのける呂布の姿は、まさに鬼神。荀ケも、何度か戦慄させられてしまった。

荀ケは元々体力がある方ではない。兵士達を交代で休ませるように指示しながら、自身も城壁の影でへたり込んでいた。瓢箪から水を一気に飲み干す。額を誰かが拭ってくれたので、顔を上げると、菖だった。曹昂もいる。

そうだ。避難してきた彼らを、この小さな城に匿ったのだ。それを考えると、ますます負ける訳には行かない。既に脱出は不可能な状況であるから、なおさらだ。暗愚な指揮官なら、強引にでも脱出させようとしたかも知れない。しかし荀ケは、無謀な突破による兵力消耗と、この拠点を失う意味を知っていたから、そのような行為には出られなかった。

「荀ケ将軍、お疲れではありませんか?」

「いや、大丈夫です。 それよりも、若殿。 呂布はまだすぐ近くで、目を光らせています。 見つかると、矢で射抜かれるかも知れません。 すぐに、奥へお戻りください」

すぐ側には、兵士の死骸がまだ転がっている。中には、呂布に射貫かれて、壁に縫いつけられてしまった者さえある。

曹昂はその無惨な亡骸を見ても、動じない。

「私も曹操の息子です。 幼いからといって、安全な所にばかり引っ込んでもいられません。 私が前に出ることで、少しでも兵士達が勇気づけられるのなら、多少の危険は我慢しましょう」

「若殿!」

「それに、私が死んでも、まだ丕や植がいます。 犠牲になって皆が救われるのならば、喜んでこの命、差し出しましょう」

曹昂は、そんな悲しいことを言った。

曹操の息子は、彼一人ではない。他に曹丕という男子がいるし、男子も女子も何名かいる。ただ、優秀でしかも人格的に優れているのは、曹昂だけだ。曹丕は既に陰険な性格が表に出始めていて、その弟の曹植は詩にばかり興味を示しており、剣も政務も殆ど見向きもしない上に、性格が非常に傲慢である。

だから、荀ケは曹昂を曹家の跡継ぎにおしたいと考えている。まだ、気が早い話かも知れないが。故に、此処で死んで貰う訳には行かない。

「死んではなりませぬ、若殿。 いえ、私が死なせはいたしませぬ」

「荀ケ将軍」

「菖、とにかく奥へ若殿と一緒に隠れていなさい。 私が必ずや、殿が到着するまで、この城を守ります」

「お願いします」

ぺこりと可愛らしく頭を下げると、菖は将来の夫を連れて、奥へ戻っていった。

これはますます負けられないなと、荀ケは思った。

敵陣を見ると、松明が明々と照らされている。まだまだ、攻撃を仕掛けてくるつもりなのは、あれを見ても明らかだった。

 

呂布が陣に引き上げると、陳宮が待っていた。高順がその隣で、あまり面白くも無さそうに、むっつりとしている。

「どうした、陳宮」

「敵の先鋒が到着いたしました。 数は、およそ二万」

呂布は腕組みすると、しばし考え込む。その顔色を覗き込むようにして陳宮はしばし立ちつくしていたが、やがてにやりと笑った。

「私めに、策がございます」

「言ってみよ」

そのまま、陳宮は立て板に水を流すように、策を述べる。

呂布としては、あまりやったことがないような策だ。どちらかと言えば、あの徐栄が得意とするような戦術かも知れない。いや、それも違うなと、呂布は考え直した。徐栄なら、もっと堂々と戦いながら、心理戦で曹操を罠にはめるだろう。

「一旦城は諦めると言うことか」

「あのような城、曹操の首を取ってしまえば、いつでも落とせまする」

「確かにそうだ。 それに、力攻めを続けても、じきに落ちる」

面白くない相手だと呂布が言うと、そうでしょうと陳宮が相づちを打つ。気色の悪い追従だが、自分の性格を把握した上で、調子を合わせているのだと呂布には分かっていたから、放っておいた。呂布を、此処まで冷静に観察し、行動を併せてきた者は他にいない。丁原、つまり高順でさえ、今でもおっかなびっくり接している事があるくらいなのである。陳宮は大したものだと、呂布としても思えるからである。ただし、油断したらいつでも裏切るような男であろうとも、呂布は判断していた。

すぐに一旦軍勢を引き、山の斜面に、伏せるように布陣する。眼下には街道があり、曹操軍が急いで布陣を進めていた。まずは守りを固め、翌日突破戦を仕掛けてくるつもりだろう。あの兵力に籠城されると、攻め手が無くなる。良い判断である。

だが、今回はそれを逆用させて貰う。

夜襲を仕掛けるのは芸がない。曹操軍は戦慣れしていて、当然夜襲のいなし方も良く心得ている。数が多少多くても、奇策を逆手に取られると、非常に損害が大きくなるものなのだ。

数限りない戦場を走り回ってきた呂布は、それを知っている。だから、今回のように兵力で勝っている場合は、それを生かして正攻法で仕留める。ただし、其処に陳宮が調味料を加える、と言う訳だ。

上手く行けば、夏候惇を使って、曹操を仕留めることが出来るかも知れない。良く言って凡将程度の夏候惇である。此奴を使って大物を釣り上げることが出来れば、まさに僥倖であろう。

呂布は部下達とともに、朝を待つ。

こんな時、新人の兵士は眠るのさえ苦労する。だが呂布は、戦に出るのも狩りをするのも同じくらいに、戦場を駆け回ってきた男だ。目を閉じると、平然と休むことが出来るのだった。

早朝、曹操軍が動き出した。やはり呂布軍の陣に向けて、矢の陣形を組んで、突撃していく。

そう、呂布がわざと残しておいた、空の陣地にだ。彼処には高順が僅かなともに残り、敢えて多めに炊煙を上げて、偽装工作をしていたのだ。呂布は動き出した曹操軍を一瞥すると、愛馬に鞭をくれた。

「殺っ!」

「殺っ!」

呂布の言葉に、部下達が一斉に喚声を上げた。そして、はかられたことに気付いた曹操軍に向けて、斜め後ろから、しかも山の斜面から勢いを付けて襲いかかった。曹操が相手であれば、これほど上手く行ったかは分からない。兎に角、奇襲は成功した。

敵の後衛に接触した呂布は、当たるを幸いになぎ倒す。敵は一時の混乱から立ち直ると、韓浩の率いる部隊が鋭く逆撃を加えてきた。呂布の突進が、必死の反撃で僅かに鈍るが、それには膨大な人命という対価が必要となった。呂布の矛が振り回される度に、戦に熟練した兵士達の首がすっ飛び、胸板が貫かれる。その対価として出来た僅かな時間を頼りに、曹操軍歩兵部隊は全力で東阿城へ逃げ込んでいく。高順が行く手を阻もうとしたが、其処は城側から援軍が出撃してきたので、防御に徹しざるを得なかった。

攻守入り乱れる大乱戦になったが、基本的に戦いは一方的な展開となった。韓浩が必死の機動戦を見せるも、数が多い敵に背後から襲われてはどうにもならない。一万ほどの敵は城に逃げ込んだが、残りの半数は四散。五千を率いていた韓浩は三分の一を戦死させ、さっきまで呂布が隠れていた斜面に居座った。それに対し、返り血で真っ赤になるほど斬りまくった呂布の後ろにいた呂布軍は、損害らしい損害を受けていない。

完全勝利である。更に、予定通りの土産もあった。

屈辱に歯をかみしめた夏候惇が、張遼に縛り上げられて連れてこられた。呂布が居場所を特定し、其処を集中的に攻め挙げたのだ。親衛隊らしいのもついていたが、全て呂布が叩き殺した。

「おのれ、呂布っ! 空き巣狙いの、こそ泥めが!」

普段は温厚で、皆のまとめ役になっているという夏候惇が、目を剥いて叫んだ。意外に激しい所も秘めているらしいと、呂布は思った。しかし、激しい所を、戦で活かせないのでは意味がないなとも、戦場が全てである呂布は加えて結論した。

だから、思う所を、そのまま口にする。悪意もなければ、助言でもない。ただ、利用できる道具に対して、感想を述べただけだ。

「お前は将としては無能だな。 曹操のところで、まとめ役をやるには適していると聞いてはいたが、指揮官としては実に与しやすい」

「くっ……」

「陳宮、この小魚を使って、大魚をつり上げるのだな」

「はい。 曹操は丁度、身内とも信じていた張兄弟に裏切られ、逆に信頼できる一族の者を重視しています。 必ずや、夏候惇を取り戻そうと焦るはずです。 其処を突いて、殿が首を取るのです」

無念そうに項垂れた夏候惇を一瞥して、陳宮がせせら笑う。ほんの僅か前まで同僚だったとは思えない態度だ。この男はやはり、忠義を期待してはいけない存在なのだと、呂布は改めて思った。

呂布は一旦東阿城の前面から部隊を引き上げると、殆どの戦力を一度抑えた?(エン)州城に戻し、自身は五千ほどの戦力を率いて闇夜に消えた。

 

曹操の元へ、先鋒が文字通り手玉に取られたという情報が入ってきたのは、?(エン)州に帰還してすぐのことであった。その上、夏候惇は敗退、捕らえられたと聞くと、流石に曹操も冷静ではいられなかった。

夏候惇は確かに戦ではあまり強くないが、皆をまとめることが出来る希少な人材で、その上彼の一族である。幼なじみで刎頸の友とも思っていた張兄弟が裏切った直後だという事もある。曹操の心は激しく動揺し、どうしたら夏候惇を救出できるのか、そればかりを考え始めていた。

上の空になった曹操は、馬が急に止まったので、危うく落ちかけた。踏みとどまって辺りを見ると、手綱を掴んだ典偉が一緒に止まっていた。どうやら飛電の手綱を典偉が掴んで、腕力で強引に止めたらしい。

「ど、どうした」

「落ち着きなされませ、曹操様。 何なら、また河に放り込みましょうか」

「いや、それはいい。 すまぬな、典偉。 確かに余とした事が、ずいぶんと慌ててしまっていたらしい」

頬を叩いて、意識を引き戻す。

兵士達が不安そうにしているのだ。曹操が不安なままでは、呂布と戦った時に大きな被害を出すだろう。此処は心を鬼にしてでも、場合によっては夏候惇の救出を諦めてでも、戦わなければならないのだ。

其処へ、韓浩からの伝令が来た。傷だらけで、鎧には返り血さえ飛んでおり、如何に激しい戦いだったのかが分かる。

「ご注進です」

「どうした」

「は。 呂布は軽騎兵だけを率いて、姿を消しました。 現在韓浩将軍が、一旦東阿の部隊と合流、兵を率いて探索中です」

「そうか。 兎に角我らは、東阿を目指して、まずは進軍する必要がありそうだな」

本拠地である?(エン)州の半分をとられたとはいえ、曹操の領地は予州、青州の西半分、さらには司隷の一部と、広範囲にわたっている。韓浩が農業を発展させている?(エン)州の半分をとられたのは確かに痛いが、地力が違う。それだけで、即座に立ちゆかなくなるような事はないのだ。

全ては、状況を見極めてからだ。そう思うと、曹操は進軍中の陣形を纏め上げ、奇襲に警戒しながら、しかし最大限の速度で根拠地に向かった。

 

4、蝗

 

曹操軍本隊が東阿に辿り着いた時、その兵力は相当に疲弊していた。道中、呂布の軽騎兵によるひっきりなしの奇襲を受けたからである。しかも呂布は、備えている陣を強引に突破し、一度に数十人を斬り伏せて去っていく。その上呂布は腕利きを見つけては、いちいち殺していくのだ。単騎でそれである。呂布に殺された人数自体は知れているのだが、その面子が、いちいち曹操が高禄で召し抱えた腕利きばかりなのである。そのいずれもが、一合とて呂布の刃を受け止めることが出来ずに殺されていた。

軍として備えているはずであるのに、各部隊はその異常な武勇に戦慄さえ始めており、曹操としてはまずいと感じ始めていた。曹操自身は、側に典偉が控えているから、事故は起こらないだろうと考えている。だが、他の将官達は、いつ事故に見舞われるか分からない。

その上、夏候惇の所在は知れない。もう首を落とされてしまったのかも知れない。肩を落としながら、東阿城に入った曹操は、息子に出迎えられることとなった。

「お帰りなさいませ、父上」

「おお、昂か。 すまぬな、余が不甲斐ないばかりに、苦労をさせた」

「そのようなことを言わないでくださいませ、父上。 父上はいつもどうどうと、背が伸びる靴を履いていれば良いのです」

失言したことに気付いていないらしい昂の頭を複雑な気分で撫でると、曹操は一旦兵士達に休養を取らせる。離散した兵はいない。先鋒の残兵達も、おいおいと戻ってきてはいる。損害は五千程度に抑えることが出来ていたが、徐栄に破れて以来の敗戦に、曹操は冷静ではいられなかった。

自室にはいると、机を拳で何度か叩く。罪のない机を、そう言えばかなり高かったことを思い出してなでなでしながら、曹操は腕組みして考え込む。陳宮は何故裏切ったのか。それ以前に、何故夏候惇を人質として抑えたのか。曹操の心を乱すだけではなく、まだ他に狙いがあるのではないか。

少しずつ、頭が冴えてきた。

そして、気付く。今一番動揺しているのは、曹操以上に、韓浩ではないかと言うことに。

「いかん!」

思わず曹操は立ち上がる。

韓浩は、現在の曹操軍にとって、軍政の要だ。特に農業政策という点で、韓浩を失うと、曹操軍が受ける打撃は計り知れないほどである。今、夏候惇を抑えられたことを一番気に病んでいるのは、間違いなく韓浩だ。増援を出さなければ、寡少な兵力で無理な突撃を仕掛ける可能性も低くない。

「楽進を呼べ!」

こんな時、単独で動かせるのが楽進くらいしかいないのがもどかしい。

もっと有能な将が欲しい。そうすれば、挟撃でも、遊撃でも、好きなように動かせるのに。楽進に指示を出し終えると、曹操は腕組みして、深くため息をついた。

だが、曹操はただ腐ってはいなかった。何しろ、転んでもただでは起きぬ男であった。徐栄に負けても、その騎馬兵団を再現するべく、試行錯誤したほどの頭脳である。負けっ放しで、いるわけがなかった。

歩き回っていて、ふと気付く。陳宮は、今まで曹操の策を全て読み切っていた。それならば、これも予想の範疇となるのではないのか。

曹操は鋭く自席に着くと、何も描いていない竹簡に素早く筆を走らせる。曹操の動きと、呂布の動きを比べてみたのだ。そして、あっと短く叫ぶと、手を叩いて典偉を呼んだ。すぐに典偉は駆けつけてくる。

「如何いたしました」

「荀ケだけを残して、全軍で出撃する。 余は五万を引きいる。 それで、だ。 余の兵力を偽装し、六万程度に見せよ」

典偉は何も疑わず、言葉を鵜呑みにして、すぐに部屋を出て行った。曹操は心地よい高揚に身を包まれながら、躍り上がるようにして叫んだ。

「読み切ったぞ! 陳宮っ!」

 

楽進軍約五千が出撃するのを見て、近くの山に潜んでいた陳宮はほくそ笑む。そして、呂布の所へ、すぐに伝令を飛ばした。

曹操は予想通り、此方の狙いを看破してきた。夏候惇を取り戻そうと決死の覚悟をしている韓浩を援護するべく、最も信頼している将軍である楽進を出撃させてきた。現在、夏候惇は呂布軍本隊が抑えていて、手ぐすね引いて攻撃を待ちかまえている。韓浩と楽進が攻め込んできたら、袋の鼠にして即座に取り押さえる手はずだ。

此処で楽進も韓浩も捕らえてしまえば、一気に曹操を揺さぶることが出来る。曹操自身も出撃してきた所を、一撃浴びせて、叩き殺す。

それで、この地は、呂布のものとなる。そしてそれは、陳宮のものとなることをも意味しているのだ。

さて、予定通りだと思い、腰を上げた瞬間だった。

陳宮の表情に、戦慄が走った。

地が揺れるような音とともに、東阿城に控えていた、曹操軍のほぼ全戦力と思われる大軍勢が出撃したのである。数は陳宮が見たところ、六万を超えていた。

これを好機と見るか、或いは危地と見るか。素早く思考を巡らせた陳宮は、後者だと判断した。曹操は冷静さを失わないまま、全力で呂布と戦いに出てきている。しかも奴は、この大陸で現在最も頭が良い人間の一人だ。化け物じみた武勇を持つ呂布といえど、かなり危ない。

伝令を集めると、陳宮は珍しく焦りを隠せないまま告げた。

「一旦?(エン)州城まで引き、其処で態勢を立て直す」

「しかし、呂布様が納得しますでしょうか」

「させる。 このままぶつかり合うのは危険すぎる」

問題は、軽騎兵を率いたまま姿を消している韓浩の存在だ。呂布にはどうにか連絡を付けるとして、奴が冷静を取り戻すとあまり面白くない事態になる。急ぐべく、陳宮は伏兵していた戦力をまとめ、曹操の後背につく。距離を保って気付かれないように、五里ほど行った所であったか。

後方より、馬蹄の響き。

しまったと思った時には、もう遅かった。

前方を行く曹操軍は囮。後方に、別働隊が控えていたのだ。恐らくは兵力を偽装していたのだろう。慌てていたが故に、気付くことが出来なかった。

陳宮は衝撃を受けていた。曹操が頭が良いことなど知っている。だが、まさか自分の裏を掻かれるとは、思っていなかったのだ。歯ぎしりする陳宮に、味方の軍が駆け寄ってくる。呂布だった。同時に、前方の曹操軍が一斉に反転した。

「陳宮、呼ばれて駆けつけたが、どうした」

「曹操に策を読まれました」

「ふむ、そうか」

「こうなったら、全軍で一カ所を突破し、迂回して?(エン)州城に戻りましょう」

別に咎める様子もなく、呂布は言う。曹操軍の別働隊は、見る間に馬防柵を並べて、堅固な陣を組み始める。そして、圧倒的な数の弩を並べ、月明かりの下その鏃を輝かせた。一方曹操軍の本隊は、その数自体を武器にして、圧倒的な勢いで迫ってくる。

「西より敵影!」

「む、あ奴らか」

呂布が振り仰ぐ。その先にいたのは、雑多な装備ながら、非常に勢いのある軍勢であった。坂から駆け下りる勢いを利して、一気に呂布軍中央を突破。そして、夏候惇を奪回していった。

「追いますか」

「放っておけ」

呂布はそれだけ短く言うと、迫る曹操軍本隊に向き直る。そして、強引な突撃を開始した。

膨大な矢が降り注ぎ、今度はばたばたと打ち倒されるのは、呂布軍の番だった。しかも呂布が突撃してくると、どの部隊も相手にせず、さっと道を空け、通り過ぎた後を左右から挟撃に掛かる。

こうなってしまうと、もとより戦意が低い呂布軍は、崩れるのも早い。味方だと叫んで、剣を捨てて敵陣に逃げ込んでしまう者も多く、或いはさっと闇へ姿をくらましてしまう兵士も少なくなかった。呂布は血を浴びて魔王そのものの暴れぶりをしめしたが、それも一戦場での事に過ぎない。しかも敵は、槍を揃えてひたすら距離を取ることばかりを狙い、一騎打ちを狙ってくる者など一人も居なかった。

「おのれ、誇り無き雑兵どもめが!」

呂布が虎のような雄叫びを上げると、流石に怯えた兵士達が何歩も下がる。その隙間を縫って、呂布が抜けると、陳宮が指揮する後軍が一気にそれを支えて突破を果たした。しかし、兵力の半数が失われ、残りも経戦が難しい状態である。それに、重要な人質である夏候惇も取りかえされてしまった。

敗残兵をまとめて、?(エン)州城へ戻る。領民は、ざまあみろと言う目で此方を見ていた。誰もが曹操の統治で生活が楽になったことを知っているのだ。其処へ強引に割り込んだ挙げ句、暴虐を働きまくっている呂布を、快く思うはずがなかった。

ただし、領民の呂布に対する恐怖だけは、相変わらずだった。呂布が真っ赤な返り血を落とさぬまま現れると、領民達はさっと頭を下げて、その姿を見ないようにする。その代わり、陳宮が現れると、石を投げる者もいた。兵士達が追い払いながら、城へ陳宮を護衛する。

ようやく城にはいると、呂布が玉座にいた。返り血を落とさないのは、もうその姿が気に入っているからだとしか思えない。

「申し訳ありません。 大魚を逸したばかりか、大きな損害を受けてしまいました」

「いや、良い。 そなたは出来る限りの事をした。 曹操が、その更に上を行っただけのことだ」

呂布がそう言ったので、怯えきっている文官達が、驚いてその顔を見た。武官達までもが、困惑を表情に浮かべている。呂布は、短時間で魔王としての恐るべき成長を見せようとしている。

「それで、陳宮。 これから、俺はどうすればいい」

「は。 しばらくは守りを固めるべきかと思います。 一旦兵力を整え……」

「ご注進です! 曹操軍およそ七万、城外に布陣いたしました!」

「どうやら、悠長に構えている暇は無くなったようだな」

早い。流石に早い。

部下をしていた時、曹操は危険な君主だった。確かに所々抜けていたし、油断すると部下の前でとんでもない醜態を晒すこともあった。だが、実際の能力は、群雄の中でもずば抜けている。

城壁に出ると、早速曹操軍が、攻め寄せてきているのが見えた。味方は約二万五千、敵は七万。皮肉にも、曹操が作り上げた?(エン)州城の分厚い防御が、曹操自身を簡単には寄せ付けない。

城壁の上から曹操軍を見つめていた呂布は、不意に視線を空へと移す。飛んできた矢を、無造作に掴んで捨てながら、である。

「うむ、どうやら戦どころではなくなりそうだな」

「と、いいますと」

「すぐに倉庫を密封する準備を。 ありったけの食料を地下か、倉庫へ隠すように伝えよ」

「何が起こるのですか、呂布将軍」

城壁を悠々と降り始める呂布は、振り向きもせずに、陳宮に応える。

その身には、魔王に相応しい、邪悪な威厳が宿り始めていた。

「蝗だ。 空を覆い尽くす蝗の群れが、近いうちに襲い来る」

 

?(エン)州城を攻め続ける部下を横目に、曹操は先ほど救出された夏候惇と対面していた。側では、地面に這い蹲るようにして、韓浩が頭を下げている。

韓浩は少し痩せすぎている男で、平均的な美的感覚からは外れている。そのため女性達にはあまり人気がないという話だ。だが、曹操にとって重要なのは能力であって、容姿などどうでもいい。容姿が優れていないのは曹操も同じなので、その気持ちがよく分かるという事もある。

「曹操様、申し訳ありませんでした。 この韓浩、一生の不覚にて」

「この夏候惇、殿の面目を失わせた次第、併せる顔もありません」

「良い、戦は兵家の常だ。 余とて、今までに何度となく敵に敗れておるわ」

片手を挙げて、謝り続ける二人を制すると、曹操は敗因を聞こうとした。また同じ失敗をさせないための、常套的な手段である。だが、その前に。韓浩が不可思議な事を言い出す。

「恐れながら。 おしかりはまた後で受けまする。 実は、もう一つ、まだお伝えできていなかった、重要な事がございます」

「うん、どうした」

「今年の気象条件は、非常に危険な災害を起こす要因を秘めております。 各地からは、その予兆が、既に示されております」

「災害、だと? それは何だ」

韓浩は不思議そうに自分を見る夏候惇に頷くと、戦慄を隠さない様子で言った。

「蝗にございます」

「何っ!」

曹操が、流石に陣椅子から立ち上がる。

この時代の誰もが知っている。蝗は、大災害の一つだ。地震や台風と並ぶ、極めて危険な災害。食料は食い尽くされ、干ばつや洪水に匹敵する大飢饉の引き金となる。蝗によって、国が傾いた事例さえもが存在している。韓浩は、額の汗を拭いながら、曹操に蒼い顔で説明を続けた。

「申し訳ありませぬ。 曹操様が到着する前に判明いたしましたので、いまだ各地に連絡は出来ておりませんで」

「う、うむ。 しかし、蝗が本当に飛来するのか」

「間違いございません。 伝令が間に合えば、最低限の食料だけは守りきる事が出来ましょう。 しかし、軍の荷駄はどうにもなりません」

「戦どころでは無いと言うことか」

歯ぎしりしながらも、曹操は腕組みした。

蝗の恐ろしさは、飛来することと、それに数が多いことだ。まるで虫の洪水のような有様になる。しかもそれらが、ことごとく人間が食べる穀物の全てを貪るのだ。場合によっては死肉まで喰い漁る。一度実際に見なければ、想像も出来ない災厄。それが蝗害というものなのである。

ある程度備蓄が豊かだとはいえ、今年は厳しくなる。収穫は全滅だと考えた方が良い。韓浩が伝令を出してくれなければ、生きるための食料までもが無くなる所であった。曹操はしばし考え込んでいたが、もう一つだけ確認をする。

「韓浩、被害が出そうな範囲はどの辺りか」

「?(エン)州全域は、穀物類が全滅に等しい打撃を受けましょう。 早めに手を打たなければ、全滅するのは穀物だけではすみませぬ」

「うむ。 ならば、策は決まったな。 夏候惇!」

「ははっ!」

平伏した夏候惇に、曹操は名誉挽回の機会をくれてやることにした。この男は、自分の存在意義に人望を賭けている。だからこそに、人望を一度の敗戦で失っては台無しだ。その辺りを考慮して、得意そうな仕事を回してやるのだ。

「そなたは兵一万を率い、?(エン)州の各地へ急げ。 既に韓浩が伝令を飛ばしているとは思うが、そなたは兵士達を使って、蝗の害を可能な限り食い止めよ。 いかなる手を用いても構わぬ。 対策方法を知っている者がいたら、召し出して話を聞け。 兵の使い方は、編成からそなたに任せる」

「承知いたしました」

夏候惇はもう一度頭を下げると、陣を足早に出て行った。呂布軍も戦どころではないし、しばらく外敵の到来は考慮しなくてもいい。蝗まみれの土地など、手に入れても仕方がないからだ。戦下手な夏候惇に大兵力を任せておいても、失敗はしないだろう。

「他の諸将は、許や青州の拠点を固めよ。 出来る限りの兵糧も運び込め」

「ははっ。 そうなると、今は?(エン)州を奪還しないのですな」

「仕方のないことだ。 それよりも、今は力を蓄える。 今まで以上に、強力な人材を集めて、天下を伺うぞ」

夏候淵に応えると、曹操は自ら許に向かった。

一旦?(エン)州から視線を離し、殆ど無法地帯とかしている、漢王朝の中枢部を狙うためであった。

 

徐が空を見上げる。何か、禍々しい気配を感じたからだ。

昨年、息子の晃の薦めで、徐は一家を連れて?(エン)州に逃れてきた。流民達は河北や荊州に向かう者が大半だったので、むしろ目立たず行動することが出来て、賊やごうつくばりな領主に脅かされることもなく、すんなり曹操の領地にはいることが出来たのだった。

それからしばらくは、とても安定した生活が続いていた。

曹操は恐ろしい男だという噂であったが、実際に領土で暮らしてみると、税がとても安い上に、流通もしっかりしている。ただ、戦の旅に小さな税が取られるのだが、それも洛陽で暮らしていた時のような、悲惨な額ではなかった。流民である徐にも土地は与えられたし、手続きをした後は領民としての権利も保障された。

近頃呂布が大暴れしたが、それも徐のいる村までは押し寄せることもなく。平穏な暮らしが出来ていたと思っていたのだが。

禍々しい空の気配は、遠くから大地を伺うかのようである。いやな予感を覚えた徐は、大けがをして軍を退役した長男を呼ぶ。鍬を持って田を耕していた長男は、二つ返事で徐の方へ来た。

「どうした、父上」

「なにやら、禍々しい気配が近付いてきていないか」

「禍々しい気配か。 俺にはよく分からんな。 呂布の軍勢は、曹操様が食い止めたという話だし」

「呂布なんぞよりも、儂には洪水や日照りの方が余程恐ろしいわ」

息子は軍を辞めたとはいえ、力はまだその辺の男よりも余程強い。だから腕っ節には期待できるのだが、こういう知識はからきしだ。以前は職人だった徐も、農民に転身してからは、気候や日照を読む技術を身につけたが、息子はいつまで経っても身につけない。大きく歎息すると、徐は鍬を振り上げようとして、その手を止めた。

大勢の軍人が、わらわらと村に入ってきたからだ。えらそうに髭を蓄えた将軍らしい片眼の男が、なにやら叫んでいる。まさか、この小さな村が戦場になるのか。いやな予感を覚えた徐だったが、予想は外れた。

「間もなく、此処に蝗が飛来する!」

鍬を取り落とす。隣にいる長男も、あんぐりと口を開けていた。なるほど、空の向こうに感じた禍々しい気配は蝗であったのか。生唾を飲み込む徐に、追い打ちするように、片眼の将軍は言う。

「各自、急いで行動開始! 食料をすぐに土に埋めるか、自宅に持ち帰れ! 作物は放っておくと全滅する! 多少青くても、収穫できる分はすぐに刈り取れ! 用水路は蝗だらけになって飲めなくなるから、井戸の蓋をすぐに覆え!」

周囲が大混乱になる。

蝗と言えば、恐怖の代名詞だ。徐も幼い頃に蝗害の恐怖を味わったことがあるが、思い出したくもない事である。すぐに長男を急かす。

「急げ! 蓄えていた麦を、すぐに家に運んで、埋めろ! 窓を閉めて、隙間を出来るだけ分厚く土で塞げ! 屋根は仕方がないから、兎に角隙間を塞いで、後は土間に穴を掘って、食料を隠すんだ!」

「お、おう!」

兵士が数人、此方に駆けてきた。食料を徴発されるのかと思って身構えた徐だが、違った。

「手伝うことがあるか?」

「助かる。 あの辺りの麦は、焼けば食べられるから、刈り取りたい」

「任せろ。 俺も去年までは農民だった。 道具を借りるぞ」

まだ若い兵士が、道具を手にすっ飛んでいった。

徐の方でも、作業を進める。まだ青い麦を刈り取り、荷車に詰め込む。奥の方にある水田は、諦めるしかない。まだ穂もついていない状態なのだ。井戸を板で覆い、家の窓を土で塞ぐ。状況が分かっていないらしい三男を急かして、長男を手伝わせる。麦を家に運び込んだ後、土間に作った穴の中に放り込んで、上から土をかけた。これで、蝗が飛来しても、何とかしのげるはずだ。

家の戸に、隙間を見つけたので、慌てて土で塞ぐ。外にあった道具類も、根こそぎ家の中に運び込んだ。庁舎の方を見ると、そちらも大騒ぎになっていた。倉庫の中にある食料類も、皆土の中に埋めるか、地下に隠そうと必死らしい。蝗の凄まじさは、一度体験したものにしか分からないだろう。皆が必死になるのを、若い者ほどよく分からないと言った風情で見つめていた。

やがて、来た。

空の向こうに、黒い染みが広がり始める。

それと同時に、羽音が聞こえ始めた。

背筋に寒気が這い上がる。以前見た時よりも、数倍は凄まじい規模だ。あの黒い点が、全て飛来する蝗なのだと思うと、もはやどうにもならないのではないかという、絶望感が全身を包む。

既に軍は次の街に行ったらしい。幾つの街に、この恐怖を伝えることが出来るのか。

「父上、早く家に!」

長男に手を引かれて、家に入る。末の娘が、怖がって泣いていた。戸を内側から閉めると、穴という穴を塞ぐ。戸の隙間も、すぐに泥を詰め込んだ。壁に小さな穴が開いているのを見つけて、慌てて泥で塞ぐ。生きた心地がしなかった。

がん、がんと凄まじい音が、すぐにし始める。窓に、戸に、蝗がぶつかっているのだ。連中も知っているのだろう。人間の家の中には、食料が蓄えられているという事を。ざわざわざわと、もの凄い音。家に止まった蝗たちが、壁を噛んでいるのだろうか。一家はぎゅっとひとかたまりになって、恐怖の虫が去るのを、ひたすらに待った。

戸を開けることなど、とても出来ない。無数の手が、人間を求めて外をはい回っているかのようだ。がさり、がさりと音がする。蝗の塊が、地面に落下した音だろう。

悪夢が続く。

夜になっても、蝗の音は止まなかった。

天井が何時食い破られてもおかしくない状況だ。さっき急いで補強したが、それでも不安は残る。

時々、壁に耳を付けて、外の様子を伺う。そのたびに、大量の羽音が聞こえて、悲鳴を零してしまうのだ。はい回る音も凄まじい。まるで巨大な虫の体内に飲み込まれてしまったかのようだ。

乱れる呼吸を、必死に抑える。

子供達は、怖がって泣くばかりだ。自分の方がむしろ泣きたいくらいである。時間の感覚も無くなってしまった。

ただ闇が、辺りを覆い尽くしていた。

 

三日後、ようやく蝗の音が止んだ。

徐がこわごわ戸に手を掛けると、開かない。長男と二人で押したり引いたりしているうちに、ようやく戸が開いた。

そして、開かなかった理由が、よく分かった。

外には一寸ほどの分厚さで、蝗の死骸が積もっていたのである。

用水路は蝗の死骸で全て埋まっていた。田畑は文字通り全滅。蝗に全て食い尽くされてしまっていた。掘り返してみようと思ったが、無駄である。根までもが、蝗の餌食になっていたからだ。

蝗は共食いしたらしく、体が殆ど満足に残っていない者が多かった。

これからこの蝗の死骸が腐って、想像を絶する悪臭をまき散らすのだと思うと、背筋に寒気が走る。しばらくは仕事どころではない。後は、曹操がどれだけ助けの手をさしのべてくれるか、だ。

屋根を叩くと、あられのように蝗の死骸が落ちてきた。他の家々からも、おいおい村人が出てくる。三つどなりの揚は、精根が尽き果てたような顔をしていた。話を聞いてみると、屋根が一部破れていて、膨大な蝗に入り込まれたのだという。慌てて土の中に隠した麦以外は、全て食べられてしまったのだそうだ。

末の娘が、蝗の死骸をつついていた。やめるように言うと、不思議そうに言った。

「おとう、蝗、お腹に何も入ってないよ」

「腹が減っていたんだろうよ。 だから、大勢で攻めてきたのさ」

「まるで人間みたいだね」

末娘の言葉に、徐は反論できない。

長安にいるという晃が、今無事なのか、それだけをぼんやりと考えていた。

それでも、体は動く。今年の収穫は全滅だが、どうにかして今後生きていかなければならないからだ。

山を見ても、はげ上がってしまっている。これは、人間だけではなく、他の動物も致命的な打撃を受けているだろう。特に山間部は、虎に気をつけないと危ない。

「曹操様に、期待するしかないな」

「ああ。 それが駄目なら、賊にでもなるしかねえ」

村人達が口々に言う中、徐は箒を使って、蝗の死骸を集め始めた。腐る前に、燃やしてしまおうと考えていた。

 

「蝗の被害は、甚大です」

帰ってきた夏候惇は、開口一番にそう言った。許に新たな屋敷を構えた曹操は、頬杖をして、親族でもある部下の報告を聞く。左右には、貪欲にかき集めた侍臣達がいた。最近、また使えそうな文官を数名手に入れた。特に郭嘉という男は、戯志才という男と並んで、実に頭が切れる。武官としてはまだこれという男が見つかっていないが、この二人だけで荀ケを数名は手に入れたようなものである。

夏候惇は項垂れたまま、それ以上何も言わない。

既に部下から、曹操も詳しい報告は受けている。

夏候惇の活躍によって、村々の被害は最小限に抑えることが出来た。二つほど、連絡が間に合わず、根こそぎ備蓄を食い尽くされた村があったが、他の村の被害はごく小さい。それでも、次の収穫はほぼ期待できない状態であるし、蝗によって食い尽くされた兵糧は百数十万石に達するという試算も出ている。

だが、無策のままなら、被害はその程度では済まなかった。必死に駆け回った夏候惇は、充分に名誉を挽回した。韓浩に到っては、経済面で曹操を支える、股肱としての活躍を全うしたと言っても過言ではない。

「まずは復興計画を建てねばならぬな」

「難しいのは、呂布の勢力圏に被害地域が隣接しているという事です。 あの呂布の事ですから、兵糧を運び込めば、それを奪いに来かねません」

程cが最初に言うと、何人かが賛同した。しかし、彼らは、別に兵糧を運ばなくても良いとは言っていない。農民をどう護衛するか、呂布をどう退けるか、それを論点にしているのだ。

曹操は玉座で腕組みした。

「呂布については、策は一応ある。 この間は使っている暇がなかったがな。 ただ、それだけでは問題もあろう。 郭嘉、そなたも対呂布用の戦術を、幾つか考えておくようにな」

「承知つかまつりました」

まだ若いのに、少し大げさなくらいの身振りで郭嘉が言う。この男、女癖が最悪で、しかも極度の酔っぱらいであり、酒を飲むと周囲から人がいなくなるほどなのである。曹操も、歓迎会で頭から酒を被されたほどである。酒飲み友達の典偉などは、毎度顔に落書きをされたりしているそうだ。

ただ、頭脳は確かだ。だから、曹操も怒らずに黙認している。そして、今回、呂布対策を任せる気にもなった。

「韓浩、そなたは兵糧の輸送計画と、青州、予州の食料増産計画を建てよ。 かねてからそなたが口にしていた、青州兵を半農民とする政策を、本格的に試してみても構わぬぞ」

「ははっ。 早速実施いたしまする」

「程cは韓浩の補助。 それから、戯志才は軍の再編成を進めよ。 楽進には一万を与えるから、荀ケとともに、?(エン)州の残りを守れ」

「承知いたしました」

指示を矢継ぎ早に飛ばし終えると、曹操は一息ついた。まだ項垂れている夏候惇を一瞥すると、もう良いから数日は休めと指示。実際夏候惇は、此処一月ろくに寝ていないという。

後は、張兄弟をどうするかだ。

悔しい話だが、呂布にも手こずっている現状、連中に報復する手がない。幼なじみとして遊んでやったのに、裏切った張超は八つ裂きにしてやっても飽き足りない。張?(バク)に到っては、その名前を後世に無能と無知の代名詞として伝えてやる位のことをしないと、気が済まなかった。

自室に引っ込んだ後、悶々と報復策を考えている内に、夜が明けてしまった。

目の下に隈ができているのに気付いて、曹操はいかんと呟く。顔をばしゃばしゃと手桶で洗っていると、典偉がいつの間にか側にいた。

「どうした、何かあったか」

「はい。 曹洪将軍が、汝南への侵攻を申し出ています」

「兵糧など無いぞ。 来年の収穫を得るまでは、身動きできんというに」

その上、汝南は袁家の本拠地である。袁紹や袁術を相手に戦うには、まだ曹操の軍事力は著しく不足している。しかも今は、兵糧が無い状態である。餓死者が出るほど酷い有様ではないのだが、それでも大々的に軍を動かすのは避けたいのだ。

「とにかく、今は駄目だ。 典偉を通じて言ってくるとは、あやつめ、余計な知恵ばかり身につけおって」

「申し訳ありません」

「いや、そなたは怒らずとも良い。 汝南にはいずれ侵攻するとしても、今はその時期ではない。 むしろ今は」

曹操は西の空を見る。

そちらには、焼け果てた洛陽と、混乱の極みにある長安がある。

「空白地も同然の、洛陽と長安を手に入れるべきだろうな。 まあ、曹洪の言い分も、聞いては見るか」

蝗の痛手からは、まだ立ち直れない。

しばらくは、力を蓄えるのに専念すべきだと、曹操はもう一度自分に言い聞かせながら、立ち上がるのだった。

 

5、悲しみの逃避

 

長安で、斧を片手に徐晃が王宮を見回る。既に殆どの女官はおらず、兵士の姿もまばらである。何としても、皇帝だけは守らなければならない。そう思っても、一人の手ではやはり限界が近かった。

魔界という言葉がある。人ならぬ魔物どもが跳梁跋扈する土地のことだが、今の長安がまさにその魔界であった。

董卓と王允という二大権力者がいなくなった結果である。董卓の子分をしていた連中がそれぞれ権力を握ったのだが。それが、早くも分裂して、殺し合いを始めていたのであった。

李?(カク)と郭、張済と樊稠の四人が最初権力を握っていたのだが、既に張済と樊稠は権力の座から脱落。張済は粛正され、不安分子達はその甥である張繍とともに、宛城へ逃れていった。樊稠に到っては、些細な失敗を攻められて粛正され、今や抑えの効かなくなった李?(カク)と郭が、暴虐の限りを尽くしていた。

同じ暴虐の限りを尽くすと言っても、董卓とこの二人では器量に差がありすぎた。今や二人の私兵はいがみ合うようになり、長安を舞台に日々激突を繰り返していた。そして、民はもう長安と漢王朝を見捨てて、そそくさと逃げ出し始めているほどなのだ。もうこの政権が長くはないことくらい、誰にでも分かる。

曹操を頼れと、徐栄は徐晃に言い残した。しかし、そもそもこの長安から、皇帝を連れ出せる方法がない。なけなしの金をはたいて何度か細作を雇おうとしたのだが、いずれも上手く行かなかった。

現在、李?(カク)と郭に対抗しようとしている将軍は、董承くらいである。董卓の一族だった男で、粗暴で陰険な男だが、しかしそれなりの軍事力は持っている。他には、揚奉という将軍がいる。彼は現在の徐晃が仮に主君としていて、それなりの指揮手腕を持ち、李?(カク)と郭に不満を持っている兵士達を纏め上げて、第三勢力を構築している存在だった。

この二人を巧く動かすことが出来れば、曹操の元に皇帝を逃がすことが出来る。

だが、どうして良いのか、悩んでも妙策が出ないのだった。

「徐晃よ。 徐晃よ、どこじゃ」

皇帝が呼んでいる。本来は名誉なことの筈だが、そもそも皇帝を構う人間が殆どいない現状、徐晃に回ってきている鉢は途轍もなく小さい。急いで奧へ行くと、寂れた玉座の上で、皇帝が泣いている皇妃をなだめていた。二人とも衣服が不潔になり始めていて、頬が痩けていた。

「徐晃、参上いたしました」

「うむ。 皇妃が、食事をしたいといっておる。 腹のやや子にも触るでな。 何か、用意してはもらえぬか」

「は。 口に合うかは分かりませんが、すぐに」

「すまぬな。 そなたにろくに給金を払うことも出来ぬ、無力な朕を許してくれ」

一礼して、退出する。もはや、皇帝にそのような敬意を払うのは、徐晃一人に過ぎない。

献帝は聡明な青年だ。きっと霊帝の代わりに産まれていれば、漢がこのような事にはならなかったのだろう。そう信じたい所だが、それは主君に対するひいき目かも知れない。あれから、徐栄に言われたとおり、廬植に師事して、この国の歴史を学んだ。そうすると、知った。この国が、宦官と外戚というばけものどもに、如何に食い荒らされてきたか。そして、霊帝の時代には、それももうどうしようもない状況になっていたのだ。

歎息すると、人気のない後宮を歩く。もう手がとても回らない状態で、掃除は全く為されていないので、彼方此方に蜘蛛の巣が張っていた。

徐晃は奥の誰もいない厨房へ行くと、倉庫から埃を被った米俵を引っ張り出し、まず米を洗う。一人暮らしが長いから、炊事洗濯はお手の物だ。いちおう将校の扱いなのだが、何しろ貧しい生活である。使用人の一人も居ないため、全ていつの間にか身についてしまった。

米を炊くと、後はとってきた野草を煮る。肉があると良いのだが、流石に其処までは望めない。荒れ果てた長安の周囲を探しても、野ウサギ一匹捕まるかどうか。一旦火を止めて、外を軽く見て回ってきたが、出店の類は存在しない。仮にあったとしても、あっというまに夜盗同然の兵士達に襲われて、根こそぎ物資を持って行かれてしまう。

長安は、都として既に死んでいるのだ。

ほとんどの住民は、既に逃げてしまった。此処にいても、暮らすことが出来ないからだ。残っているのは、欲の皮を突っ張らせた李?(カク)と郭、それにその周辺にいる連中ばかりだ。

頭を振って、徐晃は後宮に戻る。野草の湯(煮物)を皇帝と皇妃に出した。

「お口に合いますかどうか」

「なんの。 あの逆臣どもが持ってきた、腐った肉に比べれば、そなたの出す料理はさながら天上の珍味よ」

「畏れ多いお言葉にございます」

「見たところ、兵士どもはもういないようだな。 どうにかして、この機に脱出は出来ぬのか」

皇帝が、湯を口に掻き込みながら言う。徐晃はさっと辺りをうかがうと、声を落として応えた。一応後宮は揚奉が抑えていることになっているのだが、兵士の質は極めて低く、とても信頼できるものなどいない。心ある者は皆各地の群雄の元へ向かうか、或いは張繍と一緒に去ってしまった。

「確かに後宮の中に兵士はおりませんが、入り口は全て監視されており、なおかつ長安は分厚い城壁に囲まれた街にございます。 全ての門が、李?(カク)と郭に抑えられており、脱出は非常に難しい状況です」

「そうか。 しかし皇妃の腹も、いずれ大きくなる。 そうなると、脱出は更に困難になろう」

「は。 仰せの通りにございます」

「頼るのはそなたしかおらぬ。 出来るだけ早く、脱出の計画を建てて欲しい」

一礼すると、徐晃は憂いを湛えて、後宮を出た。

寂れた町外れにある庵に向かう。其処には、すっかり老いた盧植が暮らしているのだ。もう権力の全てを返上した老将軍も、今は憂いの日々を過ごしていた。

徐晃が庵を訪れると、居間で茶を点てていた盧植は開口一番に言った。

「長安の脱出計画についてか」

「は。 師父」

「そなたは一武将としては優れているが、陰謀渦巻く宮中に籍を置くにはむいておらぬなあ。 何もかもが素直すぎる」

「お恥ずかしい事にございます」

湯をひび割れた湯飲みに入れる。冷たい土間の上でそれを口にする。今も心細い思いをしているだろう皇帝を思うと、徐晃は忸怩たる思いであった。

焦っては何もならぬ。そう徐栄にも言われた。それなのに、まだ焦りを感じてしまう自分が情けない。そして恥ずかしい。

「そう卑下するな。 顔に出ておるぞ」

「申し訳ありません」

「……実はな。 皇帝を、長安から脱出させる策が一つだけある」

盧植が声を落とすと、辺りはぴんとした緊張に包まれた。徐晃が膝を揃えて、師父の顔を覗き込む。

茶をすすると、既に権力も武力も失った老人は、少しつまらなそうに言った。

「揚奉と董承を利用するのだ」

「は。 して、どのようにして」

「近々、董承が、明確な分派行動を起こす。 恐らくは長安郊外で大規模な戦闘が発生するはずだ。 それを、揚奉に知らせろ」

「は、しかしそうなりますと、揚奉が今度は権力を握り、陛下を蔑ろにするのではありませんか」

疑問を口にすると、盧植はその通りだと呟いた。だから、その先へ、策を進めるのだとも。

「そこで、お前はこう吹き込め。 もう長安に未来はない。 それならば、皇帝を手みやげにして、曹操の所に行った方が得だと」

「なるほど、それならば、揚奉の戦力に護衛されつつ、陛下を曹操の元へ届けることが出来ますな」

「ただし、この策には、一つ問題がある」

「それは、何でしょうか」

すっと、盧植が枯れ果てた枝のような指を挙げて、徐晃を差す。

徐晃は何故自分が示されたのか分からず、ぽかんと口を開けた。

「私に、ございますか」

「曹操は、前お前に目を付けていたのを忘れたか」

「そういえば、そのような話だったとか聞いたことがあります」

「曹操の要求は、恐らくお前になるだろう。 皇帝の側には使えることが出来なくなり、戦場を駆け回ることになる。 しかも曹操は皇帝の命を握って、お前を極限まで酷使するだろうな。 それに、耐えられるか?」

さっと、徐晃は青ざめた。

武人として、曹操に仕えることに抵抗はない。今の時代、七人主君を変えて一人前という言葉があるくらいなのだ。裏切りを繰り返すのが当たり前だというわけではなく、乱世でそれだけ主君となる人間が死にやすいのである。

しかし、曹操は天下を統一する可能性が非常に高い男だ。今後は主君を変える可能性は低くなる。それについては別にいい。

曹操は、皇帝を盾に、徐晃を働かせようとする。その可能性が、極めて高いという所が気に入らない。

徐栄に託された皇帝である。例え生活は苦しくとも、平穏な生活はさせてやりたい。権力などは別にどうでも良い。皇帝であることの幸せは、必ずしも権力を得ることではないだろうからだ。

だがそれにしても、皇帝が自分のせいで苦しめられるかと思うと、辛かったのは事実だ。

「もうあまり時間はないぞ。 決断するのならば、早めにな」

「は。 師父、有難うございました」

「良い。 徐栄は戦うしか能のない男だったが、お前のような誠実で真面目な男を後に残してくれた。 徐栄の良い部分だけを引き継いだお前はきっと歴史を大きく動かす男になるだろう。 心配せずに、己が信じたとおりの道を、好きなように行け」

深々と頭を下げると、徐晃は庵を出た。

そして大きく歎息すると。皇帝に、此処を出ること。そして曹操の所へ向かうこと。最期に、自分は側にはいられないが、常に心は仕えている事を告げるべく。後宮へ歩き出したのだった。

 

中華の中央南部。汝南。

かって平穏だった其処は、今争いの地に変わり果てていた。

どうしてこうなったと、物見櫓に立ち、許?(チョ)は思う。彼のいる村は、現在分厚い柵と土塀に覆われており、必死に敵の侵入を防いでいる状態であった。そう、敵である。

完全に匪賊と化した、黄巾党の残党達だ。

元々この土地は、山深く、誰かが隠れるには絶好の場所だった。だから後ろ暗い所のある、許?(チョ)達の村も、此処に逃げ込んできたのである。

だが、それも政務がこうも乱れ放題だと、負の方向へ向かってしまう。

此処の土地を収めている袁一族は、金にならない汝南に見切りを付けて、最近では半ば統治を放棄してしまっていた。得に許?(チョ)の住んでいる北部山岳地帯に到っては、完全に無法地帯も同然だった。

結果、黄巾党の中でも、もっとも凶悪な連中が集い、暴虐の限りを尽くすようになったのだ。

周囲の村々は、もはや奪うものが無い所まで焼き尽くされてしまった。許?(チョ)の村にも、何儀となのる男が率いる軍勢が、何度となく襲いかかってきていた。いずれも許?(チョ)の武勇で撃退してきたが、攻め込んでくる敵の数は多くなる一方だ。

歎息して物見櫓を降りると、血相を変えた村人が走り寄ってくる。向かい傷がない者は、もはや子供にしかいない。手足を失っている者達も、多数いる。駆けてきた男も、まだ若いというのに、顔を横切る凄惨な向かい傷を持っていた。

「許?(チョ)どん! 大変だ!」

「どうした、葉どん」

「倫が、黄巾党に掠われた! 奴ら、明日までに降伏しないと、倫を焼いて喰うって言ってる!」

周囲がざわつく。この土地で、人間を喰うことは、珍しくもない。実際連中は、それくらい平気でやる。

倫は来月結婚する、大事な身の上だ。急いで長老の所へ行くと、其処でも凶報が発生していた。

今まで、老いながらも、何とか村をまとめてきた長老が、床に伏していたのだ。

床には、大量の血が飛び散っていた。

「許、許?(チョ)」

「長老!」

「す、すまんな。 もう、儂は駄目らしい。 め、迷惑を掛けたな」

「長老! 気を確かに!」

この貧しい村を引っ張り、一生懸命生きてきた老人は、痙攣すると、おおきく息を吐き出して。

再び大量の血を吐いて、そのまま事切れてしまった。

村が絶望に包まれる。葬式など、している暇はない。更に、村の外に出ていた若者が、柵の中に飛び込んできた。

「どこかの軍だ! 凄い数がいる!」

「旗印は!」

「曹って書いてある!」

分からないが、曹という名を持つ賊は今いない。袁術の配下にもそんな名前の将軍はいないはずだ。

ならば、余所から来た将軍の可能性が高い。ひょっとすると、話を聞いてくれるかも知れない。

「俺が、出てくる」

もはや希望を託す相手は、その曹しかいない。

それはきっと、自己解決を放り出す逃避。だが、しかし。村の皆を助けるためなら、許?(チョ)はどんなことでもする。

かって、陳到がそうしたように。

今度は、許?(チョ)が皆を守る番だった。

 

荒れ果てた地だと、曹操は最初思った。豊かな土地だと聞いていたのに、実際に足を踏み入れてみると、話とは随分違う。山が多く、森も多い。それなのに田畑は荒れ果てていて、如何に政策が上手く行っていないか明らかだ。

曹操は結局汝南に出兵していた。兵力は三万。曹操軍の全軍からすると三分の一にも満たないが、今の経済状態からはあまり面白い出征ではない。

これはどういう事かというと、袁紹から依頼があったからである。

汝南の一部では、黄巾党の残党が、激しい跳梁跋扈を繰り返していた。しかしながら、土地が近い袁術は、それに見向きもしなかった。かの小人は蓄財にしか興味が無く、民が苦しもうが死のうが知ったことではなかったのである。

袁紹も、そこまで民を案じている訳ではないだろう。ただ彼は、袁家の評判に傷を付けることを恐れた。だから、従属同盟をさせている曹操に、討伐を依頼してきたのである。それはあまり褒められた動機ではないが、民にとってはどっちでも同じ筈だ。

もちろん、曹操もただ黄巾党の討伐をするだけで終わらせるつもりはない。まずは食糧の確保。この土地の黄巾党が、民から取り上げた兵糧を膨大に蓄えていることを、曹操は既に知っていた。かっての理想も思想も失っている黄巾党だが、使える部分は確かにあるのだ。全て殺すのはもったいない。また、人材としても、役に立つ者はいるだろう。そういう者も、確保しておきたい所だ。

軍を進める。袁術配下の役人には抵抗するものもいたが、肝心の主君が動かないのだから仕方がない。曹操は各地に軍を展開させて、草でも刈るように黄巾党の残党を処分し、民衆の感謝を買っていった。

馬上でふんぞり返る曹操は、背が伸びたように見える靴を履き、民衆に己の「背が高い」姿を見せつける事を忘れない。上機嫌でふんぞり返る主君に、楽進が馬を寄せてきた。彼も曹操と同じく、背が低い男だ。

「曹操様」

「どうした、楽進」

「は。 先遣隊からの報告に寄りますと、前方にかなり強力な黄巾党軍が巣くう砦がございます。 一度兵力を集中して、落としに掛かった方がよろしいかと」

「ふむ、たかが黄巾党の残党といえど、油断はせぬ方が良さそうだな。 そなたの好きなようにせよ」

深々と頭を下げた楽進が去っていく。今なら楽進より背が高く見えると思って、曹操はとても楽しい気分だった。民衆が噂しているのが聞こえる。素知らぬ顔をしながら、耳を傾けてみると。あまり嬉しくない会話をしていた。

「曹操様の背丈って、何だか不自然じゃない?」

「うん、きっと背が伸びるように見える靴でも履いてるんだよ。 冠も妙に長いみたいだし」

聞かなかったことにして、曹操はそっと靴を馬上で直した。

ちょっと悔しかったが、顔に出す訳には行かないのが恨めしい。

翌日から、兵が集結してきた。曹仁や曹洪には丁度いい実戦訓練で、彼方此方の黄巾党の砦を独力で最小限の被害で落としてきた。最近充実してきた人材を補助に付けて、指揮を補わせた事もある。いずれの舞台も被害は最小限で、充分な成果を上げていた。

積み上げた兵糧を前に、満面の笑みを浮かべる細い男。李典という、新たに配下にした男だ。兎に角文武両道な奴なのだが、ちょっと欲望が強すぎるのが玉に瑕か。

「ご覧ください、曹操様! 膨大な兵糧が蓄えられておりました!」

自分のことのように嬉しそうに言う李典。別にこの兵糧は李典のものではないので、曹操はあっさり方針を告げる。

「うむ、三割は民衆に返してやれ。 残りは許に運んで、我らが兵糧とする」

「ははっ。 すぐにでも実施いたします」

「代官には荀ケが付け。 残りの戦力は、全員であの砦を落とす」

李典が少し残念げな顔をするが、無視。この男は、隙あれば賄賂を取り、物資をちょろまかそうとする。だから生真面目な荀ケを側に付けて、しっかり欠点を補うのだ。

およそ三万の兵が集結し、敵勢力に対する。敵の兵力は、約二千と報告が来ていた。地方の賊としては最大級の規模だろう。これ以上の勢力となってくると、黒山で勢力を展開している張燕くらいである。

さて、攻撃を開始する。そう宣言しようとした時、前衛に混乱が起こった。

「何事だ!」

「それが、汚い大男がいきなり現れまして。 なにやら曹操様に話があるとか。 もちろん兵士達は無視して進もうとしたのですが、これが恐ろしく強く、何十人も投げ飛ばされてしまいまして」

「ほう。 面白そうな奴よ。 典偉、連れてこい。 お前なら勝てるだろう」

「自信はありませんが、やってみます」

またこれで、面白そうな人材が手に入りそうである。曹操は人知れず含み笑いをした。

まだだ。まだまだ人材を集めて、一気に天下を取る。

天下を取った後には、数百年続く政権にするために、実力主義の国家を建設する。其処には外戚も宦官もおらず、ただ実力のみで評価された家臣達が切磋琢磨し、すぐれた政を行うのだ。

曹操の夢は、一度転んだくらいではくじけない。

そして、その野望も。

 

(続)