亡霊の行進
序、怒濤
青州太守劉岱は、あまりの光景に我を忘れて、ただ見入るばかりだった。
城の外が、全て人間で埋まっているのだ。その全てが黄色の巾を頭に巻き、簡素ながらも武器を手にして、ひたすら呪文のように唱えている。蒼い天は死んだ。これぞ黄夫が立つべき時の証だ。
この国は、人間が多すぎる。
その多すぎる生き物が、乾いた土地を踏みしめて、ただ殺意を震い上げている。
数は、どう少なく見積もっても、二十万を下ることはない。いや、恐らく三十万はいるだろう。戦闘要員だけで考えても、確実に劉岱軍の五倍以上はいる。それだけではない。青州の各地で蜂起した黄巾党軍が、城を囲んでいると言うではないか。
一体どれほどの数が、合計するといるのか。あまり考えたくない事態であった。
それに、青州城も、内部に街を抱えている典型的な作りだ。そこで暮らしている連中の中にも、大勢黄巾党が混じっていると聞いている。このまま戦になれば、勝ち目はまずないと考えて良いだろう。振り返ると、青ざめた顔を並べた部下達が、集合していた。
「どうした。 呼んだ覚えはないぞ」
「黄巾党の者達から、申し出がありました」
いやな予感を覚えた劉岱が、反射的に剣を掴む。だが、部下達は動じる様子もない。
「貴方を殺して首を差し出せば、我らを殺しはしないそうです」
「お、おのれ、貴様ら!」
「喬冒どのを殺した報いでしょう。 部下達皆の命を助けると思って、是非見事な最後をお遂げください」
「ふ、ふふ、巫山戯るなっ!」
剣を振り上げた劉岱は、己の胸に深々と突き刺さった弩の矢を見た。部下共の間から、わらわらと兵士どもが入ってくる。皆、必死の表情だった。あの外の大軍を見れば、無理もない話だ。あんなものに攻め入られたら、助かる可能性など、微塵もない。
仰向けに倒れた劉岱は、急速に薄れていく感覚の中で、確かに笑い声を聞いた。それは、間違いなく喬冒のもの。恐怖が全身を掴んだ。悲鳴を上げようとしたが、肺は既に機能していなかった。
不思議と、劉岱は、首が切り落とされる感覚を、確かに味わっていた。
闇に沈みながら、思う。
もう青州は、終わりだろうと。
青州で圧倒的な大軍を誇る黄巾党が蜂起したという報は、中華全土を瞬く間に駆けめぐった。その数は実数五十万とも百万とも言われ、青州太守劉岱の死もそれに併せて伝えられた。
まるで人の洪水のようだったと、生き残った官軍兵士達が口々に告げる中。討伐に立ち上がった男がいる。
徐栄相手に二度の屈辱的な敗北を喫しながらも、短時間で兵を整え直した、曹操であった。
自室で鼻歌を口ずさみながら、曹操が硯で墨をする。辺りには積み上がった竹簡の山。いずれもが、人材を集めるために、彼方此方に送っているものばかりである。
曹操はここのところ、ほくほく顔であった。上機嫌すぎて気味が悪いと、部下達が口々に言っている程である。最近は外を歩く時に歩調までもが軽やかになりがちだ。近所の子供達の頭を撫でたりすると、何か得体が知れない別の生物でも見るかのように、領民達が曹操を見るのだった。
曹操の機嫌が良いのには、幾つも理由があった。
まず第一に、ようやく人材が揃ってきたことである。
例えば、この間の戦で、壊滅的なまでな打撃を受けた王匡は、完全に気力を喪失。軍勢ばかりか家臣をも丸ごと放棄して、引退してしまった。その敗残兵を曹操はまとめて取り込んだが、その中に韓浩という実に使いでのある将軍がいたのである。
韓浩は戦もなかなかの指揮をするが、それ以上に経済対策の専門家で、ただ金が有り余っていただけの曹操軍を、非常に効率よく管理し直して見せた。最近では貧民を積極的に取り込んでは、実に効率よく荒れた田畑に配置して、一気に農業生産力を向上させた。韓浩が配下に加わってから、曹操の経済力は三倍強に増したほどである。今ではその実力は、兵三万を軽く養い、更に五万以上の追加をしても釣りが来るほどのものにふくれあがっていた。
戦乱から遠のいていた?(エン)州の潜在能力が高かったと言うこともあるが、それ以上に韓浩の有能さは明らかで、それが故に曹操は機嫌が良かったのである。曹操が毎度する出費に頭を痛めていたらしい父も、最近はすっかり機嫌が良くなり、田舎で悠々自適の隠退生活を送っているほどだ。
そしてその韓浩に劣らぬ逸材として、荀ケという男を、最近曹操は手に入れていた。
この男は都でも勢力を持つ名門の出で、一時期袁紹に仕えるべく冀州に向かっていたのだが、既に其処に彼の居場所がなかったので、戻ってきて曹操に謁見したのである。実のところ、袁家と荀家は非常に強い癒着関係を持っており、既に袁家の主要な地位は、荀ケ以外の一族によって占められていた。どちらかと言えば傍流に当たる荀ケに居場所はなく。彼は仕方が無く、曹操に仕えるべく戻ってきたのである。曹操にとっては非常な幸運で、彼は大喜びして荀ケを部下に加え入れたのであった。
彼は韓浩とは違って机上での情報整理を得意としており、一気に曹操の台所事情を向上させた。韓浩が実地での整備を行い、荀ケが流通を確保したことで、曹操の実力は数倍にも増したのである。更に袁紹の依頼で黒山と呼ばれる地域の盗賊を撃破した曹操は、武名を挙げ、その下には連日のように各地の名士勇士が集まり来ていた。
また一通書類が書き上がったので、曹操は満面の笑顔で鈴を鳴らした。最近側仕えをさせている菖という娘が、ぱたぱたと走り寄ってきた。まだ手を出すには幼すぎるが、素直な態度が実に好ましい。
「これを伝令に渡してくるように」
「はい、曹操様」
「よしよし、素直で良い返事だ。 お菓子をやろうな」
そういって、曹操が棚に手を伸ばすと、ぽろりと黒い包みが落ちた。この間今度こそ良く効くという噂の背が伸びる薬を入手したのだ。凄く苦いのだが、確かに何だか少し背が伸びたような気がするので、曹操は気に入っていた。
そそくさと包みを隠すと、代わりに砂糖が入った焼き菓子を渡してやる。菖は小首を傾げていたが、やがて書類とお菓子を受け取って、ぱたぱた走り去っていった。
入れ違いに部屋に入ってくるのは典偉である。最近産まれた曹操の長男である昂を肩に載せている。
「おう、典偉か。 また一人使えそうなのを見つけてな。 今菖に手紙を持たせて、勧誘させる所だ」
「なりふり構わぬ勧誘ぶりですな」
「うむうむ。 今儂は上り調子であるからな! この調子で、部下共を増やし、一気にこの大陸を手中に収めるのだ」
「大きな野望を持つのは良いことです」
典偉は少し前から、楽進と一緒に許の攻略戦に参加させていた。豊かな潜在能力を持つにもかかわらず、この間の董卓連合軍で太守が戦死してしまったため、空白地同然の状態になっていた許は、まさに曹操にとって目の前にぶら下げられた肉も同然だった。其処で、他の地方領主が侵攻する前に、楽進に命じて抑えさせたのだ。夏候惇や夏候淵も連れては行かせたのだが、楽進の報告では、あまり役に立たなかったらしい。
典偉もその点では同じだ。残念ながらこの男には指揮官としての手腕が決定的に欠けているらしく、やはりその武勇だけを今後も使っていきたい所だ。肩から下ろされた昂は、ぼんやりと少し年上の菖を見送っていた。仲がよいのはとても良いことだ。
「ちちうえー。 昂には、仕事がないのですか?」
「おう。 昂よ、お前も仕事がしたいか! そうかそうか、幼いというのに、感心なことだな」
「ありがとうございます。 でも、違うのです。 菖は仕事が出来て楽しそうです。 昂も仕事がしたいです」
「そうかそうか。 ならばそのうち、昂にも出来る仕事を用意しておこう」
昂は向上心が強く、性格がまっすぐで、曹操とはまるで似ていない。典偉に言わせると、かなり良い才能を持っているらしく、武術の進歩は曹操よりも早いくらいだそうである。実に楽しみな二代目だ。ただ、真面目すぎると、乱世で生きるのはとても難しい。この子が大人になる頃には、どうにか乱世を収めておきたいものだと、曹操は思った。
典偉が昂を連れてその場を離れると、曹操はこそこそと背が伸びる薬を飲んで、咳き込んだ。また少し背が伸びた気がしたので、鏡に映して様々な格好をしてみる。上機嫌は収まらない。
再び鼻歌を奏でながら着席し、次は誰に手紙を送ろうかと、考え始めた瞬間だった。
天井から、物音。細作が来たのだ。
「曹操様、二つ重要な報告が」
「うむ、何か」
「一つは、非常に重要な報告です。 長安で、董卓が殺されました」
「な、なんだとっ!」
今までの上機嫌が、それこそ霧のように吹き飛んでしまった。困惑する曹操に、天井裏から細作は続ける。
「まだ詳しいことは分かっておりませぬが、どうやら殺したのは呂布のようです。 長安では董卓一族の凄まじい粛正が続いており、混乱が著しく、精度の高い情報がなかなか入ってきません」
「細作を全て動員して、探らせよ。 組織に属していない細作も片っ端から雇い入れ、重要な情報は兎に角買いあされ。 情報の分析に、文官を何名か貸してやるから、後で申請せよ」
「承知しました」
曹操は軍資金として、箪笥に隠していた金塊の入った袋を床に投げる。するりと天井から降りてきた細作が、それを掴んで、再び天井に消えた。それにしても、まさか董卓が、こんなに速く死ぬとは。
それだけではない。細作が持ち込んだもう一つの情報も、驚天の代物であった。
「そして、今ひとつの情報にございます」
「何だ、凶報か」
「この中華にとってはそうでございましょう。 孫堅が、劉表との戦いに敗れ、戦死いたしました」
「孫堅が、劉表に……」
思わず腕組みして、曹操は唸った。あり得ない話だと思ったのだ。
劉表はそこそこの能力を持つ男だが、戦がそれほど上手い訳ではない。それに対して孫堅は、百戦錬磨の猛将だ。一見すると、劉表が孫堅に勝てる訳がないようにも思える。しかしながら、それは浅はかな結論だ。
劉表は若い頃から黄巾党の討伐で功績を挙げ、部下にも蔡瑁や黄祖のような優秀な将が多い。黄祖は人付き合いが下手なようだが、防衛戦では非常に巧みな手腕を発揮するようだし、蔡瑁は陰険な性格だが緻密でもあり、的確に状況を制御していると聞いている。それだけではない。流民が多く流れ込んでいる荊州は、今人材の宝庫と化しており、若い武将にも、文官にも優れた人材が多いらしい。
それに比べて、孫堅は軍事こそ強いが、それ以外に強みがまるでない男だ。経済的には袁術の支配下にあったし、何より政治下手で、周囲に敵も多かった。特に荊州の民には、散々恨みを買っていると言うではないか。
そしてこれは未確認情報だが、あの林の組織が、今は荊州で劉表の傘下にあるという。奴は侮れない実力を持つ。董卓のところで戦死したという噂もあるが、その勢力は健在であるし、未だに警戒は解かない方が良いだろう。それに対して、孫堅の所には、ろくな細作がいない。
人材、軍事、経済、それに情報。総合力で言えば、孫堅が勝てる相手ではなかったと言うことなのだろう。豊かな土地を抑えている、劉表は。
孫堅の死も衝撃的であったが、しかしそれ以上に驚きだったのは、董卓の死だ。奴が董俊という名前で、そのもくろみは漢を徹底的に壊滅させることだとは、ルーが命がけで伝えてくれた。それから考えると、何かまだ裏があるのかも知れない。
それにしても、この事件によって、中華を抑えていた三大勢力の一つが消え去った。しかし、袁紹と袁術も、それぞれが覇王となるには力が不足しすぎている。今後は当分、抑える者がいなくなった軍閥による、血みどろの争いが繰り返されることだろう。
「軍事力が必要だな」
呟くと、曹操は今までとは違う書状を書き始める。
それは、青州の黄巾党を討伐させて欲しいという、要請の書状であった。
1、裏・美女連環
董俊が起き出してくると、すっかり窶れ、頭の髪の毛も無くなってしまった李需が拝礼した。漢中の五斗米道に代わりの人員を寄こすように要請はしているのだが、なかなか応じてくれない。連中とも、切る時期が近いのかも知れないなと、董俊は考えていた。
「董卓様」
「どうかしたか」
「は。 実は、王允殿が、動き出した様子にございます」
とうとう来たかと、董俊は呟いた。そして、腕組みして考え込む。
これほど暴虐の限りを尽くすことが出来たのも、王允の手による助けがあったからである。奴は漢全域に根を張っており、巨大な関係を各地の豪族とも築いている。もしもこの間の連合軍に王允が援助をしていたら、洛陽は愚か、長安も簡単に落とされてしまっていただろう。
もちろん、短時間で董卓が漢王朝の中枢を掌握できたのも、王允の助けがあったからだ。王允は、董卓に破壊者である事を期待していた。その期待に添うように見せかけて、董卓は己の目的を達成するべく動いてきた。
しかし、である。
王允も、そろそろ気付いたのかも知れない。董卓の裏に、董家の母という巨大な闇の影が存在することに。そしてその目的が、結局の所、究極的な点で違ってきていると言うことに。
董家の目的は、この漢王朝を含む中華文明圏の、完璧な壊滅である。
王允の目的は、王家主体による、漢王朝の掌握および支配である。王允が丞相か何かになり、全てを動かすことが、奴の野望であろう。
もちろん一度の破壊の先に、より強固な文明圏の構築を目指している王允は、董俊にとって目障りな存在だ。今まではまだ奴の方が、力が強かった。しかし、王允の力も万能ではないことが、はっきりわかり初めてきている。
その証拠の一つが、この間の洛陽陥落だ。
流民達の行動は、董俊がそそのかしたのではないし、王允の仕業でもないことがはっきりしてきている。あれは民という巨大な竜が、己の体を動かしただけの事件だ。それを、王允は制御できなかった。董俊もそれは同じだ。董俊は宝物類を強奪させたが、それは火事場泥棒を公認で行ったようなものである。
王允は、何か焦っている。ひょっとすると、年が原因かも知れない。どちらにしても、家族会議で協議する必要がある。問題は、母がいつまで呆けずに保つか、なのだが。眼が見えなくなってからの、母の衰えは著しい。そして董家の跡を継ぐのは董白だ。あの娘が、自分の上に立ち、文明壊滅作戦の指揮を執る。何度か言い聞かせながら、董俊は立ち上がった。
「眼を離すな」
「かしこまりましてございまする」
すっと、李需は消えた。
奴は信用できない。二重の細作になっている可能性が高い。だから、董俊は鈴を鳴らす。そして、趙寧を呼び出した。
何処にいても、趙寧は鈴を聞いて駆けつけてくる。今は李応だったか。別にどうでも良いことである。
「はは。 李応、此処にございまする」
「二つ仕事をこなせ」
「ははっ。 なんなりと」
「まず一つ。 王允の家に、最近出入りしている娘の名簿を調べろ。 もう一つ。 呂布を呼んで、この間手に入れた例の娘をくれてやれ。 奴は礼を言いに来るだろうから、その時に高順も一緒に呼べ」
李応は少し此方の顔色をうかがうようなそぶりを見せたが、手を振って行くように促すと、即座に動いた。よちよちと、宦官特有の気味が悪い歩き方をして去っていく李応を見送ると、董俊は己の体を玉座から持ち上げ、後宮へ向かう。皇帝は、最近は面倒なので、玉座の横に小さな席を作って、そちらに座らせていた。
「董卓、何処へ行くのだ」
「ははは。 この爺めも年を取りましてな。 少し奥で休憩をして参りまする」
「そうか。 その間、政務は朕が執り行っておく。 安心して大師は休んでおると良いだろう」
董俊は、背筋がしっかり伸びた皇帝が、玉座に座るのを横目で見ていた。
非常に聡明な子だ。この子が董一族の跡取りだったら、どれほど良かっただろう。そう何度も董俊は考えてしまう。実際、この子に漢王朝の未来を見て、忠誠を尽くす侍臣も少なくない。その気持ちも、分かろうというものだ。
奇妙なものである。実の兄を地下牢に監禁し、今如何にしてこの地の文明を徹底的に破壊するかを考えている男が、一人の子供に愛着を感じてしまっているのだから。それが不思議とおかしくなって、董俊はくつくつと嗤った。
後宮にはいると、既に他の一族は集まっていた。
高順は、暇を貰った娘が呂布の屋敷を出て行くのを、苦々しい思いで見ていた。一体何人目だ。抱き潰す速度が、董卓以上だと思えてくるほどである。それでいて、子供が全く出来ないのだから、どうかしている。その辺り、新しく義理の父となった董卓と共通しているとも言えた。
呂布の屋敷は以外と質素だが、内部には彼を恐れる文官達が持ち込んだ賄賂が山と詰め込まれている。珊瑚に玉、剣に鎧。黄金に宝石。呂布はそのいずれにも興味がないらしく、宝の由来などを聞いても耳の右から左に抜けているようだった。この男が、何故上の空になっているのか、高順には大体見当がつく。
戦がないからだ。
董卓が、最高の武人としてやろうと約束していたのを、高順は知っている。それがどのような意味かは分からないが、いずれにしろろくな内容ではないだろう。ただ、高順としては、呂布をどうにかして、本当に栄達させてやりたいと、最近は考えるようになっている。養子に迎え入れた時とは違い、本物の親心が生じているのだろうと、最近気付いた。別にそれは、不快ではない。
「呂布将軍」
名を呼びながら、ずかずかと屋敷に上がり込む。
屋敷の中では、使用人達が慌てた様子で、大量の食事を作っていた。十人分くらいある。多分、呂布の朝食だろう。油でぎとぎとしているものも多い。この男は、これくらい食べないと、腹を満たすことが出来ないのだ。
皮肉な話だが、料理の多くは、何進が残した帳簿の写しにそって作られている。袁紹が持っていったものが最近では流出していて、それを使っているのだ。いつも不機嫌そうに料理を食べる呂布だが、これに関しては例外。とても美味しそうに食べると料理人が言ってから、高順がそうさせているのだ。
思えば、何進というあの男は無能だった。が、しかし。人を、どこかで幸せに出来る男だったのかも知れない。
呂布は、どうなのだろう。存在するだけで、周囲の全てを不幸にしていく男なのではないのだろうか。例え最強の武を持つ男であっても、それはとても悲しいことなのではないのか。
親心を感じていることもあるし、それ以上に自分の息子だった男だ。呂布のことを、高順は悪くは思っていない。だから、彼が少しでもマシな人生を歩めるようにしてやりたいと考えている。屋敷の中を彷徨く。使用人が、居場所を教えてくれた。
指定通りの場所に、呂布は、いた。自分の寝台の上で、ぼんやりとしていた。
「どうした、呂布将軍」
「父上か」
「もう父上ではないと言っているだろう。 また一人女を抱き潰したそうだな。 全く、少しは最強の武人になるための修練でもしたらどうなのだ」
「武芸では、もはや俺にかなうものはこの大陸に存在しない。 だが、何だろうこの焦燥は。 俺には、何かが足りない」
高順の前で、呂布は頭を抱えている。
それは、虎が頭を抱えているような光景だった。これほどの男にも、まだ恐怖や、悩み、それに起因する闇が存在するという訳だ。僅かにかっての息子が好ましく思えた高順だが。しかし、今はもっと重要な案件がある。
「呂布よ。 王允どのと、董卓殿が仲違いを始めようとしている」
「ほう?」
「考えてみれば、当然の話だ。 見ていて分かったが、董卓殿は、恐らく権力を求めていない。 彼が求めているのは、ただの破壊だ。 それが今までは王允どのにも都合が良かったが、これからはそうではなくなる」
漢王朝を支えてきたのは、二つの巨大都市だ。
一つは洛陽。もう一つは長安。他にも巨大都市は幾つもある。しかしながら、この時代、西のローマを除くどの文明圏でも比肩できないほどの経済規模を持つ、文字通り国家の都となるのは。洛陽と長安だけだ。
ローマの規模は噂でしか聞いたことがないが、それでもこれだけは断言できる。
もしも、長安までも失えば、漢王朝の権力基盤は、経済基盤もろとも壊滅し、消滅するだろう。
許や?(ギョウ)、成都など、高い潜在能力を持つ都市は他にも幾つかある。しかしそのいずれもが何かしらの大きな欠陥を抱えていて、特に中枢部分から遠いという点で一致してしまっている。地方政権には首都として丁度良いかも知れないが、これらの都市から漢という巨大文明圏の手綱を握るのは不可能に近い。
つまり、長安さえもが滅びれば、統一された文明圏はしばらく登場しないと言い切っても良いのだ。
王允はそれを恐れている。
董卓はそれをさせようとしている。
今更ながらに、二人の利害が、食い違ってきたのである。
なぜなら、王允の目的は、既存の腐敗しきった権力の一掃と再構築だから、である。
しかしながら、経済力、政治力は王允が圧倒的に強い。董卓は軍事力で最強のものを持っているが、此処は呂布の判断次第で、事態はどうとでも転ぶだろう。
「それで、お前はどうする」
「何故、俺だ」
「分からないか。 董卓殿と、王允どのと、両方から依頼が来た」
「それぞれを殺せと言うのか」
違う。どちらの依頼も同じ内容で、しかしながら中身が食い違っていた。董卓は、己の死を手伝うようにと言う依頼。彼は呂布に殺されたという事にして、一族もろとも消え失せるつもりらしい。
それに対して王允は、その逃れた董一族を、密かに皆殺しにしろと言う依頼をしてきている。どちらも魅力的な報酬を、呂布に提案してきていた。
董卓は、元々呂布をこの地最強の武人にしてくれると言っていた。それは、呂布にとって嬉しい申し出だ。そして、董卓を「殺す」事で、それが敵うという。確かに暴悪を振りまいた董卓を殺したら、伝説と歴史に残る武人となることだろう。
王允は、大将軍の地位を約束していた。これもまた、歴史に名を残す武人としての証だ。呂布を最強かつ最高の武人としてくれるだろう。しかし、その場合。董卓が約束してくれている、最強の武人というものは手に入らないだろう。多分それは、単純に董卓を殺すだけでは駄目で、ある程度董卓が後からお膳立てしてくれるものであろうから、だ。
「分からないな」
「悩むのは自由だ。 ただし、時間はあまりないぞ」
「いや、そうではないのだ。 王允にとって、董卓は邪魔なのだろう。 いなくなってくれれば、それでいいのではないのか」
「王允どのが恐れているのは、その後のことだ。 今更になって、董卓どのという男の、底が見えなくなってきたのだろうよ」
王允という男は、若い頃は武闘派だった。各地で反乱の討伐や鎮圧で功績を挙げ、何度も出世の足がかりを掴んだ。だが、そのたびに、無能な上司や部下に足を引っ張られ、結局中央に進出できなかった。
結局王允が中央への進出を果たしたのは、もう中年になってからだったと、高順は聞いている。その頃には、若く清新の気に溢れていた男は既に無く。度重なる陰謀劇で心を病んでしまった男だけがいた。
だからこそ、か。王允はあらゆる手を厭わずに勢力を伸ばしたという。宦官とも外戚とも関係を構築し、その裏でおぞましい触手を動かして、確実に権力を増やしていった。彼の憎悪と怨嗟が積み重なった結果が、今の権力なのだという。
だから、こそに。王允には、董卓が分からないのだろう。
「王允という男は、己の積み重ねてきた道を、大事にしているのだな」
「そうだ。 そして董卓は、崩すために道を作り上げてきた」
「そうか。 少し分かった」
「それで、お前はどちらに味方をするつもりだ」
呂布は天井を見ていた。
この男は、野心的だ。ただし、その向きどころが色々とおかしい。高順としては、一度見込んだこともあるから、是非ともまともな方向へ進めるように、誘導してやりたい。しかしながら、呂布は既に大人でもある。必要なことは、自分で考えさせたいとも思っていた。
「張遼には話を付けておく。 お前は、望むとおりのことをするといい」
「俺にとって、武人とは何なのだろう。 いいなと思った女がいても、結局は愛されることはないし、抱き潰してしまう。 戦えると思った相手は遠くへ離れてしまい、滅多に顔を合わせることも出来ない。 そして、誰もが俺を憎む」
「儂は、お前を憎んではおらん」
「……そうか」
考え込む呂布を残して、高順は家を出た。
既に、高順は王允の部下だという思考を捨て、呂布をそれに優先させている。もちろん、王允に恩は受けた。元々大した家柄でもなく、出世からも外れていた丁原に、実質的な軍事力を与えてくれたのは王允なのだ。
だが、自分が所詮駒に過ぎないことも分かってはいた。状況によっては、王允は自分に知らせず、呂布に首を取らせていただろう。互いを利用し合う関係であり、それ以上でも以下でもない。もちろん王允も、高順に人間的な行動などは何も期待してはいない。ただ利害関係に応じて、それに相応しい行動をしてくれればいいとだけ考えていることだろう。
噂に聞くと、王允はこの年まで妻を娶ることもなく、しかし多くの愛人を囲って、十人以上の子女を各地に分散して住まわせているという。これは彼自身が多くの恨みを買っていて、場合によっては三族皆殺しの憂き目に遭うことを想定しているからなのだろう。覚悟はきちんとしているという訳だ。それならば、此方としても。利の大きい方へ、転ぶことに異存はない。
表向き、今のところ董卓と王允の陰謀は、粛々と進んでいる。
王允の所にいる若く美しい娘の評判が長安に流され始めているのは、その伏線だ。
その娘を巡って、呂布と董卓が嫉妬の火花を散らし、やがてそれが董卓の暗殺へとつながっていく。
庶民が分かり易く、かつ喜びそうな内容。
しかしその裏には、遙かに陰険で、邪悪な陰謀が隠されている。
董俊は玉座で膝に皇帝を載せたまま、指先で手すりを何度となく叩いていた。侍臣達はこわごわと董卓の顔色をうかがうばかりである。おもしろ半分に殺してもいいのだが、そんな遊びにはもう飽きた。
未だ、漢中から、李需の代わりは来ない。
元々、黄巾の残党を取り込んだこともあり、漢中の人材は豊富なはずだ。それを考えると、まだ代替人員が来ない理由は、ただ一つ。董卓が、既に漢中の五斗米道政権に見限られた、という事なのだろう。
一通り掃除が終わったら、漢中を潰してやろうと、董俊は決めた。だがその前に。呂布の去就が気になる所だ。この間から、何度も風邪と称して奴は休んでいる。それが、女を巡っての争いが生じているという噂が拡散するには都合が良い状況を造り出してはいるのだが。
しかし、董俊としては、薄気味悪い。
呂布は無能とはほど遠い男だ。頭も言われているほど悪くはない。だが、だからこそ。あの何を考えているか時々分からなくなる呂布に対するおそれが、董俊には生じ始めていたことを、否定できない。
呂布は猛獣だと、高順は言った。
猛獣を恐れることは、そのまま死につながる。何度か虎狩りをした事がある董俊は、それを良く知っている。虎に返り討ちにあうのは、だいたいその場で一番怯えている勢子だ。虎は相手の恐怖を察して、力関係を測る。そして、一気に襲いかかるのだ。
玉座から立ち上がった董俊は、馬車を用意するようにと、辺りに吠えた。早足で宮廷を出ると、そのまま呂布の家に向かう。馬車にはわざと、以前から呂布が物欲しそうに見ていた娘を乗せる。最近雇い入れたのだが、董俊はもう飽きてしまったので、別に未練などない。
猛獣は恐れるな。
そう言い聞かせて、呂布の屋敷の前に、馬車を横付けした。
流石に呂布も、董俊の到来には驚いたらしく、鎧を着て出てきた。董俊は肥満した体を揺らしながら馬車を降りる。流石に董俊もそろそろ年だ。馬車から身軽に飛び降りるというような、離れ業はもう出来ない。昔は手足のように馬を乗りこなしたのだが。
「義父上、如何なさいました」
「うむ。 病気と聞いたのでな。 居ても立ってもいられなくなり、様子を見に来たのだ」
それは土産だと、呂布に持ってきた娘を顎でしゃくってみせる。呂布はまるで肉を目の前にした虎のような眼で娘を見ていた。小柄で、何処か董白に似ている娘は、恐怖のあまり失神しそうであった。
単純な所もある男だ。しかし、彼は野生の虎である。虎は決して愚鈍な獣ではない。時に人間の裏を掻くほどの知性を発揮することもある。獲物や、異性、それに子孫を巡る場合は、特に、だ。
呂布の場合は、此処だけが虎と違っている。呂布が求めるのは、最強の座という、人間が欲して止まないもの。それは権力ではない。恐らくは、武力でさえない。
畏怖だ。
呂布が望むのは、その名前を聞くだけで、誰もがひれ伏す事。これぞ、最強の武人が証だからだ。
居間に通される。誰かが来た跡があった。客を帰すことを湯を点ずるというのだが、その痕跡が、今の机に残っている。今、そそくさと使用人が跡を掃除して、新しく冷水を持ってきた。
「ほう? 儂の前に来客か」
「王允殿が来ました」
「ほう」
流石に、王允も考えることは同じだと言うことだ。二人とも、既に相手が邪魔だと思っている。互いを除きに掛かっている。表向き、仲が悪い。しかし、裏では蜜月だった。しかし更にその裏では、今、殺し合いが始まろうとしている。
「単刀直入に言おう。 呂布、儂につけ」
「王允殿も、そう言いました」
「ふふん、なるほどな。 これは妖怪同士の化かし合いになってきたわ」
「そこで、俺は考えました。 義父上は、俺をどのようにして、最強の武人にしてくれるのですか?」
なるほど、これは面白い問いだ。呂布はもとより、一つのことしか言っていない。最強になりたい。ただそれだけ。
多分人情も、義理も、呂布には存在しない。ただ高みを目指す。それだけが、呂布の仲にはある。もちろん丁原にはある程度の恩を感じているだろうが、それ以上でも以下でもあるまい。
董俊は、爛々と光る呂布の眼を見た。返答次第では、この場で斬り殺されることさえあり得る。だが、その緊張感が、むしろ董俊には心地よい。護衛など連れてくるだけ無駄だ。呂布が本気で暴れ出したら、一軍を連れてこなければ殺せない。
「王允は、お前に大将軍の地位を約束したのだろう?」
「はい」
「その地位は砂上の楼閣だ」
呂布が覗き込んできたのは、意味を知りたいからだろう。董俊はあえてもったい付けて、ゆっくり茶をすすってから、呂布の眼を逆に覗き返す。
「もし、儂がいなくなれば、どうなると思う?」
「さあ、よくは分かりませぬが」
「素直でよろしい。 そうだな、こういえばどうか。 儂が西涼から連れてきた将軍どもが、大人しくしていると思うか?」
「思いませぬ」
長安があっという間に灰燼に帰すことを、呂布は悟ってくれた。そうなれば、漢王朝の権威など、ゴミも同然になる。王允はそれを守ろうとして、必死だ。だが、董俊の手綱が無くなった荒武者達を、制御できるものか。
多分、徐栄や胡軫辺りには粉を掛けていることだろう。連中は有能だが、漢王朝に対する忠義などと言うものを備えているから、董俊が死んだ後に、王允の制御下に入る可能性は、ある。
だが、他の将軍達はどうか。胡軫も徐栄も、どちらも誰か優秀な総司令官がいて、初めて実力を発揮できる男だ。董俊は自分がそうだとは言わないが、王允は確実に違うと断言できる。
呂布一人では、どうにもならない。
「なるほど、有意義なお言葉でした」
「まあ、まだ時間はある。 もう少し考えてからでも、遅くはない。 じっくり決めるといいだろう」
それは、ある意味とても不思議な言葉。呂布はこれから董俊を裏切ろうとする可能性があるというのに。何故だろうか。息子と考えているから、ではないだろう。呂布は、董俊と何処か似ている所があるから、なのではないか。
己の行動原理が、欲望に支えられている。それが破滅的で、理論が通用しない。そして、根本的な部分に、闇そのものともいえる狂気が蠢いている。
つまり、同じ穴に住むあやかしというわけだ。
宮廷に戻ると、すっかり青ざめやつれた李需が、呂布がおかしな動きをしていると、今更告げてきた。
鼻で笑うと、董俊は、李需を罷免した。
それから、四日後。
大規模な造反騒ぎが発生。呂布が主導で行った、宮廷反乱である。
董卓が死んだと、各地に電撃的な情報が飛び交った。
政権を新たに握ったのは王允。民は董卓が死んだことを、何よりも喜び、三日三晩祭りが催された。
誰もが、闇が払われたと信じる、その喧噪。
そしてその裏で、闇よりも黒い凝りが、静かに蠢いた。
およそ五百騎の兵馬が、南へ移動していた。流民に混じってのことではあるが、いずれも恐ろしく動きが速く、まさに疾風のように駆け抜けていた。
目指すは交州。漢王朝の最辺境であるが、凶猛な山越族が多く住み、士一族と呼ばれる軍閥が半独立政権を築いている。一旦董一族は其処へ移動して、戦略の再構築と俯瞰をする目的であった。先頭の馬に跨っているのは、董俊である。そしてその後ろの馬車には、董白と、母が乗っていた。
他の一族達も、変わり身を立てて、皆五百騎の中にいる。ただ、本物の董卓は、置いてきた。董俊の、身代わりとして。
今頃ずたずたに切り刻まれて、人相など分からなくなっているだろう。本人よりも太っていることなど、すぐに誰にも分からなくなる。兵士達の恨みは凄まじく、狂気を発して玉座に載せられていた男が、本物かどうかなどどうでもよいだろうから。
全て、綺麗に収まった。特に、兄を自分の影武者に出来たことは快感だった。今まで、何もかもが兄の影としての行動だった。その全ての恨みを被せて、なおかつ最悪の汚名を着せて殺すことが出来たのだ。
血縁同士の憎悪は、特に赤の他人同士のそれよりも深く重くなる。董俊は舌なめずりして、何度もあの時の事を思い出していた。熊手を使って、牢にいる兄を引きずり出した時。叫く、暴れる。その兄を、無理矢理引きずっていって、舌を切り落とした。そして死なないようにだけ処置をして、玉座においた。
「ひ、ひひひひひっ!」
快感が止まらない。董俊は涎を拭うと、空に向けて一つ吠える。馬蹄にそれはかき消されて、誰の耳にも届かない。
だが、この影に生き続けた男は。確かにこの時、己の本懐を達したのだ。
後は、呂布の行動次第。
一旦交州に引き上げた後、董俊は改めて呂布と連絡を取り、彼を最強の武人として暴れ回らせるつもりだ。さて、呂布は一体、どうでるつもりか。快足で馬を飛ばしていた董俊は、気付く。
月明かりに照らされて、何かが行く手に立ちふさがっている事に。
それは赤い巨大な体躯の馬に跨り、手に変形矛を手にしていた。そして発する圧倒的な殺気。
食客として鳴らしてきたはずの、手練れの部下達が、思わず悲鳴を上げる。そう。其処にいたのは、董俊の義理の息子であった。
最強の男。呂布。
「と、董卓様!」
「ほう?」
こうなる可能性も、考慮はしていた。
だから、董俊は驚かなかった。矛を手に取る。月の下にいる呂布に、呼びかける。
「そうか、王允を選んだか」
「選んでいない。 王允は、近々破滅すると、陳宮から手紙が届いた。 俺は、破滅に任せるつもりだ」
陳宮。聞いたことのない名前だ。いや、どこかで聞いたことがある。
そうだ。王允が飼っている部下の一人。頭が兎に角切れるので、王允さえもが警戒していた男だ。確か今は、曹操の部下として潜り込んでいると聞いていたが。これは、意外。月を見るばかりに、その影に瞬く凶星を見逃していたか。
「くくくくくく、なるほど。 どうやら儂も焼きが回ったらしいな」
「貴方は義理とはいえ、父であった人だ。 だから、本懐を遂げるまでは待った」
「なるほど、親孝行な事よ。 くくくくくくっ」
隣にいる牛輔や弟は、既に逃げ腰になっている。だが、董俊は最後まで、魔王らしくあろうと考えていた。
「つまりお前は、我ら二人を、ともに裏切るというわけだな」
「その通り。 俺は、己の道で、最強を目指す。 投げ与えられる最強は、所詮首輪に過ぎぬ。 高順も、その決断に従った。 陳宮はそんな俺を制御するつもりのようだが、そうはさせん。 俺は自分の手で、歴史に名を刻む」
「その意気や良し! 儂は、お前という息子を持つことが出来、誇りに思うぞ! 来い、魔王の息子呂布よ! そして今こそ、新たなる魔王となれ!」
馬車の外で、何かが斬り伏せられる音。ため息をつくと、董白は止まった馬車から出た。右手には、血に染まった刃物がある。
今、曾祖母の息の根を止めた武具だ。
眼が見えなくても。頭が働いている限り、曾祖母はこの地最強の妖怪だ。そして、誰もが倒すことなど敵わぬ存在であった。だから、今しか、好機はなかったのだ。
月明かりの下。累々たる死骸の中、赤い巨馬に跨り、立ちつくす呂布が、董白を見た。董白はゆっくり頷くと、別の馬に跨る。
交州へは、いく。
ただし、董白一人だけで、だ。
もちろんそれは比喩的な意味である。既に飼い慣らしている数名の部下、趙寧を始めとする者達を連れて行って、自分の派閥は作る。食客の中にも、何名か董白が飼い慣らした者はいる。いずれも呂布に殺されず、闇の中に立っていた。
如何に呂布が相手でも、これほど脆く五百騎が壊滅した理由。
それは、董白という裏切りがあったからだ。
董白の部下達が、周りを固める。呂布は既に、変形矛を下げていた。
この男は、倫理など何とも思っていない。しかし、約束は守る。
この道を董卓が通ることを教えた董白に対してまで、無意味に手を下すような男ではないのだ。
「呂布将軍。 これで、今生の別れとなりましょう」
「もはや道は交わらぬとは思う。 惜しいことだ」
足下に、首のない祖父の死骸があった。首は満面の笑顔を湛えたまま、そのすぐ側に転がっている。祖父は凶暴な人生の果てに、ようやく満足したようだった。その闇に幕が下ろされたのは、義理の息子の手によって、だった。魔王の生に、相応しい最期であったといえるだろう。そして、魔王と張り合い続けた闇の支配者王允も、近いうちに同じ運命を辿ることだろう。
董白は軽く目礼すると、馬を走らせた。趙寧が多少不器用に手綱を取りながら、おべっかを向けてくる。
「それで、董白様。 交州へ向かった後、どうなさるのですか」
「士一族と協力体制を作り上げた後、荊州に優秀な人材が集まるかどうか、そしてその名簿を調べます」
その中に、有能な男がいれば、それと婚姻して。以降は、この地の歴史を、正しい方向へ向かうように制御していけばいい。
董一族そのものの築いた情報網は、未だ健在である。董白がそれを完全に掌握するまでは、まだ少し時間が掛かるだろう。
董白は、破壊など望んでいない。鮮卑の悲惨な歴史は、曾祖母に聞かされて、理解はしている。しかしそれをそのまま返したら、同じ悲劇を生産するだけではないか。そのような真似を、董白はしたくなかった。
闇の中、ぼんやりと歩いている男が一人。
李需であった。
眼の焦点は合っておらず、足下もおぼつかない。ただ、帰巣本能に従い、漢中を目指して、ただ暗い山道を歩き続けている。漢中に向かう其処は森深く、虎が出る、山賊さえ寄りつかない難所であった。
誰もが、李需を止めようとした。しかし、李需の耳には入らなかった。ふらふらと、歩きながら、李需は呟く。
「帰りたい、帰りたい、かえ……」
その背中に、数本の小刀が突き刺さった。
泡を吹いて倒れる李需。
そして、闇の中から。既に、一人前の細作になり、暗躍してあの孫堅を屠り去った林が。姿を現した。
ずっと、見ていたのだ。
荊州で孫堅を殺して、首を劉表政権に引き渡してからも。林は各地で精力的に情報を集めていた。新たに毛大人の跡を引き継いだ羊大人との折衝を続け、その方手間にだったから、流石に超人的な精神力を得ていた林でも大変だった。
だが、奇跡は起こった。これぞ、父母の導きあわせであろう。死して邪神となったこと間違いない父母が、林の獲物とすべく、李需を見つけてくれたのである。
わざと、致命傷は与えなかった。もがく李需の背中を踏みつけながら、林は柳刀を引き抜く。月光が、ぎらぎらと刃に反射した。
「逃がすと思いましたかぁ? 貴様のような抜け殻でも、父母の敵であることに代わりはない。 董俊を殺せなかったのは残念だけれど、ひひひひひひ、お前だけは、我が手で殺す」
「ひ、ひいいっ!」
過剰な精神的消耗により、すっかりはげ上がってしまっている頭頂部が、外気に露出する。林は、蒼白になっている部下達を引き連れて、刀を振り上げ。
そして、振り下ろさなかった。
代わりに、何本か太い針を取り出し、無造作に肩へ、足へと刺していく。
「ぎゃっ! ぐぎゃあ!」
「お前みたいな腑抜けをただ殺しても、面白くも何ともありません。 首を引っこ抜いても、何にもなりませんし。 だから、より残酷に殺してあげましょう」
この間から、敬語で喋ることが、林の癖になっている。それは面白い癖なので、敢えて自分でも残している。より、圧迫感を与えることが出来るからだ。
「お前は、漢中に辿り着く直前に死ぬのです。 今、そうなるように、ツボを針で突いておきました」
李需は金魚のように口を動かしたが、その喉からは何の音もでなかった。喋ることがもう出来ないように、針でツボを突いたからだ。
「さあ、味わうと良いでしょう。望みがその寸前で絶たれる絶望を。そして己の知識や願いを、誰にも伝えられない悲しみを」
李需の指先は震えていて、もう文字を書くことも出来ない。それもツボを突いておいた。
林は邪神に相応しい笑みを浮かべると、部下達を引き連れて、その場を去る。
後はただ。邪神を屠りながらも、その呪いによって後継者に引き合わされ。今、何一つ痕跡を残さずに死に行こうとしている、絶望だけが残っていた。
2、北平演舞
広大な平原に、死屍累々と横たわる無数の影。
文字通りの屍である。
此処で、死闘が行われたのだ。
場所は界橋と呼ばれる地。公孫賛自慢の騎馬軍団と、圧倒的規模を誇る袁紹の軍勢が激突。大きな被害を出しながらも、武将麹義らの奮戦、田豊の知謀などもあって、どうにか袁紹が勝利を抑めることが出来た。
しかし、である。
袁紹の陣では、まさにその二人が、今大きな対立を見せていたのであった。
本幕の中の空気は最悪である。負傷した将も多い中、麹義と田豊は一歩も引かずににらみ合い、主君である袁紹は苦虫をかみつぶしながら、二人の様子を見守っていた。他の武将達は、事態が理解できていない文醜と顔良の猪武者達を除くと、皆生きた心地ではない様子であった。特に頭はそこそこに良いが気が弱いことで知られている郭図に到っては、ずっと脂汗を垂れ流していた。
袁紹が咳払いする。にらみ合いを続けていた二人が、それでようやく視線を逸らす。袁紹の配下として、古くから根拠地を守っている沮授が、其処でようやく発言した。袁紹の期待に、ようやく応えてくれた形である。
「まあまあ、お二人とも。 この戦いは、二人の功績でようやく勝つことが出来たのですから、あまり目くじらを立てなさいますな」
「しかしですな、沮授どの!」
「麹義将軍は確かに公孫賛の騎馬軍団を撃破したが、味方の損害のことが理解できていない! このまま追撃すれば、今度は味方が敗れることになる!」
「おのれ、臆病者がっ!」
殆ど一瞬の和平が、打ち砕かれる。すぐに吠え立った麹義が剣に手を掛け、田豊の左右にさっと顔良と文醜が並ぶ。どちらも袁紹軍では最強の武勇を誇る者達で、単純な武力では麹義など問題にもならない。だから田豊はあくまで強気である。
大きくため息をつくと、袁紹は沮授を下がらせる。そして、二人を見回して、言った。
「二人の意見を総括すると、田豊は敵将厳政を討ち取ったこともあり、侵攻してきた敵に大きな被害を与えたこともあるから、此処は一度引くべきだと言うことだな。 それに対して、麹義は、今公孫賛に打撃を与えておくことで、再侵攻を防ぎ、更に敵の本拠地も蹂躙できる可能性が高い、と言う訳だな」
「御意にございます」
「追撃戦は味方に著しく有利。 是非ともご命令を」
袁紹には、田豊の意見が正しく思えていた。
元々麹義は、一戦場では非常に優秀な男である。この間の虎牢関での戦においても、呂布の猛烈な突撃を見事防ぎ抜いたのは、麹義が考え抜いた防御陣であった。種を明かすと、あれは分厚い馬防柵を幾重にも連ねた上に、意図的に土盛りを多く作って、騎馬隊が非常に入り込みにくく工夫したものである。それを一瞬で見抜いた呂布は、陣への深入りを避けて、他の部隊へ襲いかかったのだ。
だが、その後麹義は、虎牢関への強攻策を主張。田豊と其処でも対立した。幸いにも、その時には田豊の方が遙かに高い地位を持っていたから、無理な城攻めは避けることが出来た。
今回の戦でも、平原に蜘蛛の糸のように張り巡らせた縄により、見事に公孫賛の騎馬隊を叩きつぶすことに成功した。足を殺された公孫賛軍は、その勢いを殺され、更に左右から立った伏兵の挟撃もあり、武将厳政らを失って退いた。
だが公孫賛の得意とする所は、むしろ防御迎撃戦だと、袁紹は知っている。
去年のことだ。董卓討伐軍が解散した後、公孫賛の領地で大規模な黄巾の残党による反乱が発生した。青州から流入したと言うから、劉岱を殺した反乱の、予兆ともいえるものだったのだろう。
その黄巾党に対しても、公孫賛は最初守勢を貫き、その後見事な反撃で敵を壊滅させている。反撃の指揮を執ったのは劉備だと聞いているが、それを抜擢し、作戦指揮をしたのは紛れもなく公孫賛だ。奴は防御、その後の反撃に、本領を発揮する型の指揮官なのである。
だからこそ、袁紹は田豊に賛成している。いるのだが。
武将達は、皆内心で麹義の意見を支持しているのが、袁紹には分かっていた。歯がゆい話である。
理由は簡単で、手柄が欲しいからだ。
冀州はあまりにも簡単に手に入った。冀州を収めていたのは董卓討伐軍にも参加していた韓馥だが、臆病な上にこの間の戦で大打撃を受けた彼は、袁紹にあっさり地位を受け渡して、?(エン)州に逃れていった。今では現地で引退同然の生活を送っていると聞いている。
そんな状況だったから、諸将には手柄を立てる時間も暇もなかった。誰もが、公孫賛を倒すことで、手柄が欲しいのである。
そんな悩みを的確に察したか。挙手した男がいた。袁紹の参謀の一人、逢紀である。
逢紀は痩せた長身の男で、官軍にいた所を袁紹が引き抜いた経歴がある。同年代と言うこともあり、袁紹としては話しやすい男なのだが。他の幕僚達にはあまり好まれていない様子である。
「袁紹様」
「逢紀にも何か意見はあるか」
「はい。 お二人の意見の、折衷ともいえるものにございます」
そう来たかと、袁紹は思った。というよりも、それ以外に策はないだろう。
どのみち、追撃したら味方は壊滅させられる。それならば、出来るだけ被害は抑えつつ、万が一の勝機を探る方が良い。
「敵は敗退したといえども、騎兵を中心とした機動力に長けた編成を維持しておりますし、そのまま追撃するのは芸がない。 此処は是非この戦の勝ちを演出した麹義将軍に、軽騎兵の部隊を預け、追撃戦の指揮を執っていただいては」
「おう、拙者に一軍の指揮をという案か」
「……」
田豊はすぐに意図を理解したらしく、腕組みしてむっつりと黙り込んだ。袁紹は眼を閉じ、頭を何度か振ると、頷く。
「分かった。 それが良いだろう。 麹義、お前は五千の兵を率いて、敵を追え。 くれぐれも無理はするな」
「ははっ。 肝に命じまする」
「審配」
無言で前に出たのは、四角い顔の、如何にも気難しそうな男である。義理堅く優秀な男で、袁紹も信頼している武将の一人だ。ただ、蓄財に関して悪い噂があり、其処をどうにかしたいとかねてから思ってはいる。
「お前には三千の歩兵を与える。 麹義の後詰めとなって、背後を守れ。 もしも退却戦となった場合は、敵を防げ」
「御意」
露骨に麹義が不満そうな顔をしたが、これ以上は譲歩しない。
国境の幾つかの要塞に、兵を配置する旨を袁紹は指示。もしも敵が隙を見せた場合、其処から一斉に侵攻を仕掛ける。或いは、もしも敗退した場合は、其処で味方を収容する。しかも今回は、長期戦になる可能性もある。ある程度の兵糧を運び込んでおく必要もある。だから、それらの指示も袁紹は済ませておいた。
全て終わると、袁紹は天幕でぼんやりとしていた。部下達が全員出て行くのを確認してから、自分の肩を叩く。
やがて疲れを感じた袁紹は、鈴を鳴らした。人当たりが良さそうな老人が、天幕に入ってくる。
最近、彼が正式に雇った細作。羊だ。河北どころか、中華最大の規模を持つ細作組織の長であり、その実力は計り知れない。先代の長が事故のような形で死んだ跡を継いだのだが、今だに悪い評判の一つも聞かない。
「羊、公孫賛の陣を探れ」
「確実に勝ちに行きたいのですか?」
「違うな。 多分今回の戦は負けるだろう。 奴の手の内を、少しでも探っておいたほうがいいだろうからな」
「なるほど、転んでもただでは起きぬと言う事ですか。 それでこそ、覇王というものにございます」
追従を手を振って追い払うと、袁紹は小さく欠伸をしながら、自分の天幕に向かった。最近のことなのだが、必要な作業が全て終わると、眠気を感じるようになってきているのだ。何かの病ではないと良いのだが、今は眠れる内に眠っておいた方が良い。天幕に行く途中で、沮授を見かけたので、呼び止めておく。
「おお、どうした、沮授よ」
「出撃の準備を手伝っておりました」
「そうか。 追撃に参加する部隊以外は、今の内に交代で休ませておけ。 砦に入った後も、休めるとは限らぬからな」
「良い判断にございます。 今のところ、公孫賛による逆撃の可能性は低い故、休むなら今だと私も思います」
頷くと、袁紹はもう一つ付け加えた。料理人を呼ぶように、という事である。
何進の残した料理をまた一つ味わっておこうと思ったのだ。
前祝いではない。
何進の料理は、何度か食べて思ったのだが、不思議と落ち着くのだ。かの御仁は誰が見ても大将軍としては無能だったが、料理人としては歴史に残るお方だった。今でも、袁紹はその点で尊敬を続けている。
天幕に戻ると、すぐに料理が運ばれてきた。今日は掌ほどの小さな川魚を荒々しく焼いた料理で、塩が振ってある。食べてみて驚いたが、焼き方に工夫でもあるのか、骨ごと食べられる。脂がよくのっていて、内臓までもが美味い。
殺伐とした気分を忘れて、しばし袁紹は、川魚の塩焼きを楽しんだ。
劉備軍は、公孫賛軍の最後尾にいた。
虎牢関の戦いでの功績が認められ、平原と呼ばれる土地の守備と管理を任された劉備は、今までの戦力を倍に拡大して、約七千の兵力を手元に置いていた。公孫賛軍が全体で三万五千ほどだから、その実力がよく分かるというものだ。陳到の保有する兵力も千五百にまで達しており、最近では待遇もよりよくなり始めている。
今回の戦では、最初劉備は後詰めを命じられていた。公孫賛は、子飼いの厳政に手柄を立てさせることで、人事の調整をしようと考えていた、らしいのだが。その結果は、見事な惨敗。公孫賛が眼をかけていた厳政は気の毒にも討ち取られ、軍も大きな打撃を受けて撤退に移っていた。
公孫賛の敗退は、陳到でさえ見え透いていた。公孫賛は元々守勢に強い将であり、攻勢にはあまり向いていない。厳政に到っては、公孫賛の悪癖が抜てきを許した将で、もとより勝てると思ってはいなかった。
今でも、公孫賛は悪癖を改めない。
彼は凡庸なものばかりを引き立て、有能な人間を追いやる傾向が強すぎるのだ。
ちらりと、公孫賛軍本隊にいる男を見る。かなり体格がよい武者で、槍の名手である趙雲という男だ。以前関羽や張飛と噂をしたことがある。今回戦いを見る機会があったが、確かに強い。逆に言えば、それだからこそ、公孫賛には遠ざけられている様子だ。気の毒な話である。
不意に、後ろから銅鑼の音。劉備による、停止命令だ。
「全軍、止まれ!」
本隊がさっさと逃走するのを見届けてから、陳到は部下達の陣形を整えた。趙雲は戻りたいような顔を一瞬だけしたが、諦めて本隊と一緒に撤退していった。そのまま劉備は陣を二つに分ける。一つは劉備自身と陳到の部隊。残りの一つは、関羽と張飛が指揮する本隊だ。
陳到隊は、道の真ん中にどうどうと陣取ることにした。素早く馬防柵をくみ上げていく。敵は軽騎兵が主体だろう。柵は急あしらえで充分。代わりに、弓矢に対する対策が重要になってくる。
すぐに盾も用意させる。地面に並べて、その間に弓矢を構えた兵士達が片膝を立てて座り込むことになる。水も用意させた。火矢を打ち込んでくる可能性があるからだ。
作戦は極単純。だからこそに、最初に一撃をしっかり耐え抜く必要がある。戦場で確認したが、麹義はまず一流といって良い将官だ。しっかり第一撃を受け止めておかなければ、かなり大きな損害を受けることになるだろう。
呂布の騎馬隊を思い出して、背筋に寒気を感じる。あのような輩と二度と戦いたいとは思わないが、しかしそれでも、最強の敵を想定して、陣を組むのは必要だ。そうすれば、それ以下の相手なら、支えることも可能になる。
馬蹄の音が近付いてきた。
最近は、それだけで、相手の規模が推測できるようになってきていた。敵の数はだいたい五千。こちらよりだいぶ数が多いが、出会い頭の激突となれば支えることはさほど難しくない。ただし、救援の機会が遅れれば、味方は瞬時に壊滅だ。
緊張が走る。関羽と張飛が巧くやってくれることを祈るしかない。
闇夜を走る騎馬軍団が見える。敵も、此方に気付いた。喚声が挙がり、銅鑼の音が一斉に響き渡った。
「撃て!」
敵将の声が、此処まで届く。膨大な矢が降り注いできた。馬防柵に突き刺さるもの、盾に突き刺さるもの。もちろん、何名かの兵士達はもろに矢を受けて打ち倒される。劉備が冷静に迎撃の指示を出す。
「撃ち返せ!」
同時に、構えていた兵士達が、一斉に弩の矢を敵騎馬軍団に浴びせかける。火力が足りないから、どうしても矢戦での勝負になると分が悪いが、しかし劉備軍の指揮は高い。兵士達の殆どが、皆劉備を信頼しているのだ。
陳到の頬を矢が掠めた。もう一本が飛んできたので、剣で払いのける。徐々に、矢の集中が進んできた。敵は機動力を駆使して駆け回りながら、矢を的確に打ち込んでくる。足下に矢が突き刺さり、土の塊が跳ね上げられた。負傷した兵士が、仲間達に抱えられて、陣の奥へ運ばれていく。
敵が熊手を持ち出した。横殴りに走りながら、馬防柵に引っかけ、引きずり倒しに掛かる。熊手を持った騎兵に矢が集中するが、なかなかに動き鋭く、簡単にはいかない。星明かりに照らされる旗印から分かってはいたが、流石は麹義だ。間違っても、無能な将ではない。
まだか。そう口中でつぶやく。
熊手を持った騎兵が次々と射落とされるが、矢での援護を受けながら、次々新手が現れる。反撃が弱い所を集中的に狙ってくるだけではない。火矢まで放ってくるので、対応が難しくなり始めていた。
陣に入り込まれたら終わりだ。此方は歩兵中心の編成である。一気に蹂躙されて、その場で勝負がついてしまう。しかも敵は見たところ、追撃用の軽騎兵中心の編成である。その戦意は高く、味方を完膚無きまで殺戮し尽くすことだろう。
冷や汗を拭ったその肩に、矢が突き刺さった。幸い浅い刺さり方だったから、服で止まった。舌打ちすると、自ら弩を手にとって、打ち返す。騎兵を一人打ち倒して、ほっとため息をつく。まだまだ、敵は怒濤のように現れる。
「敵の増援です!」
「数! 方角!」
「南に、約三千! 二里ほど置いて、此方を伺っている模様です!」
そうなってくると、既に兵力でも、此方を上回っていることになる。編成から言って、公孫賛の本体に追いつかれたら、再起不能の打撃を与えられてしまうだろう。
劉備が任されている平原は、所詮公孫賛の兵力によって守られている場所であって、独立した勢力ではない。守るのも難しく、戦略的にも価値はあまりなく。もしも公孫賛が力を失えば、瞬く間に袁紹なり他の群雄なりに踏みにじられてしまう程度の土地なのだ。だから、公孫賛を守らなければならない。
あの、自分にへつらう者ばかりを引き立て、劉備のような優秀な将を捨て石にするような男を、だ。
だが、それでも。劉備がそうしているのだから、陳到は従うつもりだ。劉備自身に対する信頼感が、公孫賛に対する不信感よりも遙かに大きいからである。
敵の後続戦力は動かない。
恐らくは、此方の陣の様子を見て、伏兵を警戒しているのだろう。そう考えてみると、後続の将は手強い。多分、追撃戦の指揮を執っている、麹義よりも格上の将だ。袁紹軍に人材が多いとは聞いていたが、なかなかに侮れない敵が多いものだ。
更に飛んでくる矢が増える。悲鳴混じりの声を、部下が挙げた。
「陳到将軍! 関羽将軍と、張飛将軍はまだでしょうか!」
「もう少し待て! 耐えろ!」
一部の騎兵が、陣を迂回して、後方に回ろうとしている。矢を浴びせるが、恐ろしい機動力を駆使して、瞬く間に逃れた。一部と言っても、数は千を超えている。あの兵力でも、騎兵中心である以上、破壊力は凄まじい。公孫賛軍の敗残兵に接触されたら、その時点で大きな被害が出るだろう。
万事休すか。
眼を閉じた部下を、殴りつける。正面からの圧力が、更に強くなる中、陳到は弩を巻き上げ、更に一矢を放った。
敵の騎兵が、露骨に隊形を崩す。
真横から、その時ようやく、味方の騎馬隊が突入した。
麹義隊が大きな被害を出して引き上げると、ようやく人心地がついた。陣はそのままにして、一旦休憩にはいる。兵士達は二交代で休ませることにしたが、何しろ矢戦が主体であったから、負傷兵が多い。すぐに伝令を走らせて、公孫賛に救護用の物資と人手を要請した。要請は、したが。
陳到自身が、あまり良い返事が来ると信じてはいなかった。
呻き声が彼方此方から聞こえてくる。陳到自身も二カ所に負傷していたので、軽く手当をしてもらった。後は天幕に引き上げて、寝ることにする。部下達も交代で休み始めていた。若い兵士は、興奮が冷めやらず、まだ眼をぎらつかせて彷徨いている者もいた。
そう言う連中をしかりつけながら、自分の天幕に。
平原に移ってから、妻の機嫌が目立って良くなっている。だいぶ中原に近いからだが、しかしながら田舎であることに代わりはない。残念ながら、憧れの大都市である洛陽は既に灰。長安も近々灰燼に帰す可能性が高い。
ごろんと寝台に横になると、大きく欠伸。そして、三刻ほど、貪るようにして眠った。
眼が醒めると、もう日が高い。追撃を仕掛けてくる敵もおらず、味方も二交代目の連中が休み始めていた。偵察を何名か出してみるが、まだ敵の本隊が動く様子はない。この状況では、既に味方は国境の要塞地帯に逃れた、と考えても良いだろう。
身支度を調えると、劉備がいる本幕へ。
本幕にはいると、劉備は、難しい顔をしていた。関羽も張飛も、その場にはいない。不思議と簡雍だけはいて、国譲と机上遊技に興じていた。
「おお、陳到か。 昨晩はご苦労であったな」
「いえ、殿がいなければ、兵はそうそうに崩されていたでしょう」
「そう謙遜するな。 ところで、関羽と張飛が来たら、重要な話がある。 それまで待って欲しい」
頷くと、兵士が持ってきた折りたたみの椅子に腰掛けた。
袁紹軍の追撃が来る可能性もある。だからあまりのんびりもしていられないのだが、此処なら走って国境の要塞に充分逃げ込むことも出来る。敵の軽騎兵には大きな損害が出ているし、何より関羽と張飛の率いる強烈な騎兵部隊の破壊力を、彼らは間近で目にしている。
関羽と張飛が来た。張飛はとても眠そうで、目がしょぼしょぼだった。話によると、張飛は朝にとても弱いらしく、機嫌が悪いと言うよりも、動きが鈍くなる。以前虎牢関の戦いで、枕を抱えて頭巾を被ったまま現れたが、それも偶然ではなかったと言うことだ。
「兄者、こんな朝から、何用だよ」
「虎もが恐れるそなたでも、朝は弱い。 なかなかに面白いことだな。 関羽、張飛、重要な話がある。 座ってくれ」
「そう兄者がいうからには、かなり危険な話に思えるな」
「ああ、その通りだ」
目を擦りながら、熊のような図体の張飛が窮屈そうに折りたたみの椅子に座った。関羽は最初から無言で、その隣に腰掛ける。劉備は咳払いすると、信頼できる兵士達に天幕の外を固めさせて、そしてなおかつ声を潜めた。
「重要な話というのは他でもない。 袁紹と袁術が完全に仲違いしたのは、そなた達も知っておろう」
「はい。 兄者の言うとおり、袁術は袁紹と袂を分かち、孔融などと同盟を締結し、袁紹との対決姿勢を強めていると言う話ですが」
「どうやら、公孫賛どのも、正式にその同盟に参加するつもりらしい。 袁紹との対立が、更に激しくなるだろうな」
「本当か? おいおい、兄者。 それは不味いんじゃないのか?」
張飛がぼやくように言う。寝ぼけているのと、身内ばかりなので、口調が多少荒い。陳到もそれに同意した。
「袁術は、件の愚人。 仮に袁紹と対抗できる諸将を味方に付けて、多くの物資を集めたとしても、天下が取れるとは思えません」
「その通りだ。 袁紹はそれに対し、曹操と手を組んで、中原を任せ、自身は河北の平定に専念するつもりらしい」
「判断としては、間違っていないでしょうな。 河北には多くの人材と、鍛え抜かれた兵馬がいます」
平和な時代が続いた漢だが、それでも国境地帯では、異民族との小競り合いが始終続いていた。公孫賛も、それらの小競り合いで名を挙げた人物だった。もちろん、こういった場所では兵士も鍛え抜かれる。袁紹軍に人材や特に優れた武人が多いのも、こういった枯れた土地で鍛え抜かれたからである。
それに対して、袁術は抑えている物資や土地こそ豊かかも知れないが、対董卓戦での様子を見る限り、それを万人に分け与えようとするとはとても思えない。どのみち、大した勢力も築けないで、自滅するだろう。
しばしの沈黙の後、国譲が最初に言った。
「つまり、殿は公孫賛を見限ると?」
「今のまま、事態が推移したら、それを考えている」
場が、沈黙に包まれた。
劉備が、運ばれてきた茶を一口すすった。沈黙が流れる中、やはり劉備が、そのまま場を動かしていく。
「ただ、それでも、今はまだ公孫賛どのと手を結んでいくつもりだ」
「相手は兄弟子だというのに、随分乾いた考えですな」
「それが乱世というものだ。 ただ、私はそれでも、あくまで民のために戦いたいと思っている。 袁術と組むことは、そのためにもあり得ない」
陳到も、袁術の噂は色々と聞いている。
元々自制心をまるで身につけずに、袁家の嫡男として育ったらしく、その性格は非常に傲慢かつ子供じみているという。そんな奴が、万民のためにと行動する訳がない。そう言う意味で、劉備の発言には、確かな説得力があった。
「今は兎に角、味方を出来るだけ多く生きて故郷に帰すことだ。 公孫賛殿との関係を切るのは、その後でも良いと考えている」
「分かりました。 全力を尽くします」
陳到が代表して言うと、他の将達もそれに倣った。
関羽と張飛は、腕組みして様子を見守っている。恐らく、そうやって忠誠を示す意味も無いのだろう。彼らは劉備と絆で結びついているのだから。
或いは、彼らだけは、他の何かを知らされているのかも知れなかった。
陳到はさっさと陣に戻ると、撤退の準備を始めた。
時間は稼げたと言っても、ものには限度がある。いつまでも此処に陣取っていたら、いずれ袁紹の本隊に囲まれて、袋だたきにされるのが落ちだ。そうなっては、関羽や張飛がいても、どうにもならないだろう。
今は、劉備を信じよう。そう陳到は思った。
陳到達が出て行くのを見送ると、最初に発言したのは関羽だった。張飛はむっつりと黙り込んだまま、腕組みしている。劉備が見た所、昨晩告げたことが、余程衝撃的だったのだろう。
「兄者」
「言うな。 私だって、平原の民達を見捨てるつもりはない。 ただ、やはり袁術と同盟を組むのは承服できない。 それだけだ」
「それで、いつ出奔するつもりだ」
「近々、だな」
劉備はこの間、非常に優秀な細作を得た。以前曹操に仕えていたルーという優秀な細作のことは聞いたことがあるのだが、腹違いの妹だという。悲惨な境遇であったらしく、性格は非常に厳しいものがあるのだが、しかし腕前は確かだ。闇の中での戦いであれば、関羽や張飛とも良い勝負が出来るかも知れない。
彼女、シャネスがもたらした情報によると。
現在青州をほぼ制圧した黄巾党との戦闘を想定している曹操に、近々陶謙が戦いを挑むという。これは可能性が高い、ではなく。袁術が裏で物資を支援しているため、ほぼ確実だという。恐らく消耗した隙を狙ってのことだろうが、劉備から言わせれば無謀も極まる。正直な話、曹操に勝てる訳がない。
しかし、だ。曹操も簡単に陶謙がおさめている徐州を落とすことは出来ないだろうとも、劉備は踏んでいる。
其処でである。袁術からどうせ支援要請があるのだから、全軍を率いて徐州に出陣。隙を見て、徐州を乗っ取るつもりだ。
平原と徐州では、土地の規模が比較にならない。徐州を手に入れることが出来れば、劉備は初めて群雄と肩を並べることが出来る。かなり最初の立ち位置が後ろになってしまったが、それでもかなりの優位だ。
ただ、不安点もある。
徐州は非常に守りにくい土地で、しかも交通の要所であるため、大会戦の舞台となりやすいのである。外交にしても防衛にしても、かなりの工夫が必要となってくるのは、ほぼ間違いない。
良い点もある。
交通の要所であると言うことは、人が集まりやすいということだ。今までは殆ど家族経営に近かった所に、多くの人材を追加することが出来るだろう。徐州の名族には、優秀な人材も少なくないと、劉備は聞いている。特に優秀な参謀と、中級指揮官達を何人か見繕いたい所だ。
それらを話し終えると、今までずっと黙り込んでいた張飛が、不意に発言した。
「兄者が群雄になるためなら、俺はどんな汚い手でも使うつもりだぜ。 だが、あまり民を失望させるような事をすると、後に響くんじゃねえのかな」
「そうだな。 張飛の言うとおりだ。 今後も、行動は慎重に取らなければならないだろうな」
「兎に角、何かあった場合は、儂らで責任を取ればいい」
「そういうな、関羽。 我ら兄弟、三人常に一緒だ。 あの桃園の誓いを忘れないようにしていこう」
劉備の言葉に、張飛と関羽は大きく頷いた。
やがて、陳到の部下が、撤退の準備が出来たと告げてきた。ならば、此処にとどまる意味はもう無い。公孫賛の本隊も、既に撤退を終えたという報告が来ている。悠々と国境の砦にまで戻れば良いだけだ。
少し前まで、公孫賛は劉備に平原を任せたことを失敗だと考えていた節がある。しかしながら、今ではそれを力づくで認めさせた事になる。誰もが、撤退戦を成功させた劉備の手柄を認めることだろうからだ。
後は、平原を足がかりに、更に大きな場所を狙っていく。
いつの間にか、劉備は群雄として、全く遜色がない考え方を、出来るようになってきていた。
劉備が帰還してきたのを見て、公孫賛は舌打ちしていた。
周囲には凡人ばかりという状況を、公孫賛は苦労して作り上げてきた。それなのに、あの男は、全てを台無しにしようとしている。兵士達も無邪気に熱狂していて、このままでは劉備の人気は高まるばかりであった。
世間的には凡庸な戦の才能しか持っていないと思われている劉備だが、公孫賛に言わせればとんでもない話である。奴はまず一流と言って良い戦の才を持っていて、それを巧みに隠しているだけだ。今回の撤退戦でも、世間的には負けと言うことになってはいるが、手持ちの部隊をほぼ完璧に保ったままの帰還である。凡将ではこうはいかなかっただろう。
劉備は厄介だ。
今や公孫賛は、かっての弟弟子を、恐れるようになってきていた。
軍議を行う部屋に、部下達を集める。劉備は二人の豪傑を連れて、堂々と歩いてきた。子飼いの部下達の中にも、劉備を尊敬のまなざしで見ている者が多い。当然の話だ。劉備が殿軍を務めなければ、此処にいる何名もが生きては帰れなかったのだろうから。
内心で苦虫をかみつぶしながらも、公孫賛は劉備の業績を称える。他の部下達は、凡庸であるが故に。無邪気にそれに追従して。手を子供のように叩いていた。
近々、陶謙が曹操と戦いを行うと、公孫賛も聞いている。
それならば、その時に厄介払いをしてしまうのが一番だろうとも、思う。実績から言っても、劉備をその時援軍として派遣することになるだろうし、曹操と相打ちにでもなってくれれば万々歳だ。
独立されても、それはそれでかまわない。最近殺した群雄である劉虞の部下達を押さえ込むまでにまだ少し時間が掛かる。袁紹と闘いながら、もっと厄介な劉備に対処するのは、歴戦の強者である公孫賛にも、無理だった。だからそれなら、いっそのこと独立して、側から離れてくれた方が扱いやすい。
幾つか、社交辞令をかわす。劉備は深々と礼をすると、部屋を出て行った。
褒美の手配をしながら、公孫賛はふと気付く。もはや劉備は、かってのはな垂れではなく、自分を脅かす存在なのだと。
背筋に寒気が走った。
今まで自分が、すぐ側に獲物を狙う虎を置いていたような気分になっていた。そしてその餌は、間違いなく自分の喉だ。
無言で、公孫賛は虚空を見つめた。
群雄として地歩を確保した男は、いつのまにか。猜疑心と恐怖の虜となりつつあった。
3、曹操、飛躍
青州西部は、完全に無法の野となりつつあった。
もとより青州は、豊かな土地である。ただし洛陽から遠いこと、地形がとても厳しいこともあり、存在自体が天然の要塞に近い。それが故に黄巾党の残党が逃げ込むには丁度良かったし、彼らの思想が一度浸透すると為す術がなかった。
曹操は、青州から逃げ延びてきた官民や兵士達を庇って自分に取り入れながらも、積極的に新たな領地を開拓していた。将軍としても非常に使い出がある韓浩は、領土の開発に回して、経済力、軍事力の拡大に注力させた。荀ケにはその後押しを手伝わせ、そして戦略そのものは程cに立てさせる。
これらの作業は歯車のように見事なかみ合いを見せ、曹操の負担は著しく軽減されつつある。しばらくは上機嫌のまま、事態が推移しそうである。
そして、決定的な軍事力が、まもなく手にはいる。それを考えると、しばらくは笑いが止まりそうになかった。
ただ、問題も幾つかある。
楽進は優秀な将だが、軍の規模が拡大する度にはっきりしてきた。大軍の総指揮を執らせるには、決定的に向いていない。これに関しては、他に優秀な指揮官を捜して、用意する必要がある。残念ながら、それに関しては韓浩も同じだ。夏候淵や夏候惇には、あまりにも荷が重すぎる。
しばらくは自身で軍の総指揮を執らなければならないだろう。いつの間にか六万を超えていた自身の軍勢を、急速に再編成しながら、曹操はそう思った。
「曹操様」
どたどたと、やかましい足音。丁度つまみ食いでもしようと居間に向かっていた曹操は、顔を上げる。
歩み来たのは、最近貫禄を出そうと必死に努力している曹仁だった。その威厳を出す方法というのが、顔中に髭を生やすことだというのだから微笑ましい。
悠々と居間にはいると、茶を出すように使用人達へ命令。それを啜りながら、曹仁が居間に来るのを待った。
「此処におられましたか、殿」
「うむ、如何した」
「幾つかご報告がございます。 まず、董卓配下の何名かの将軍が、長安にて反乱を起こしました。 王允は鎮圧に当たっておりますが、かなり厳しい状況です」
「それはそうだろうな」
曹操は、細作を多くはなっていたから、知っている。
王允は、黒幕になると圧倒的な力を発揮できるが、いざ表に出ると、力を半減させてしまう男だった。さながらそれは、夜行性の猫が、昼間は寝てばかりいる光景に似ていたかも知れない。
特に政務に関しては駄目だった。王允が得意としていたのは、あくまで糸を引くことであり、政務ではなかった。彼は古典を引くことばかりにこだわり、現実の政治を見ていなかったのかも知れない。
結果、董卓配下の軍事力を掴むことには、失敗した。
いや、それは少し違う。
曹操の見たところ、裏で何者かが暗躍していた可能性がある。特にあの林や、今急速に名を挙げていると噂のルーが妹などは、その候補になりうるだろう。どちらにしても、長安もこれで滅ぶ。
曹操としては、願ったりの状況だ。完全に漢王朝の操作が失われれば、後は好き勝手に出来る。そればかりか、皇帝を捕まえることが出来れば、後の歴史を自在に操作していくことさえ可能だ。
曹操がくつくつと嗤ったので、曹仁が小首を傾げる。
「あの、次の報告に移ってもよろしいでしょうか」
「応、すまなかったな。 考え事をしておったわ」
「顔がにやけておりましたぞ」
「くくくく、今後の状況があまりにも儂に有利であったのでな。 さて、曹仁。 報告を続けよ」
不可思議そうに小首を傾げつつも、曹仁は報告に戻る。それでは駄目だが、今はまだ別にいい。問題になってくるのは、曹操一人で領土を見ることが出来ず、信頼できる軍団長を選抜して政務に当たらせる事が出来るようになってからだ。
その時、曹仁は軍団長としては力不足だろう。そう曹操は、身内に対して冷酷な判断を下していた。もちろん、表には出さないが。まあ、人材が足りない場合は、参謀を付けて軍団を任せるという手もある。
「北平では、公孫賛が劉虞を殺して、勢力を拡大しております。 ただし、界境の戦いでは、袁紹が勝った模様です」
「劉虞どのも、天下に聞こえる義人で、漢王朝の皇族にはもったいない御仁であったのだがな。 やはり乱世には向かなかったか。 袁紹も、彼を皇帝に擁立するという戦略があったろうに、残念だろうな」
「お気の毒な話ではありますが。 そして、やはり曹操様が目をつけておられた劉備が、界境の戦いで、公孫賛軍が壊滅するのを防いだ模様です」
「そうか。 やはり、な」
報告は以上だった。手を振って下がらせると、曹操は鈴を鳴らす。
ぱたぱたと走り来たのは、曹昂である。無邪気な笑顔を浮かべている。
「ちちうえ、なんですか?」
「おう。 そなたはこれから、この手紙を楽進将軍に届けて参れ」
「はい、ちちうえ」
「良い返事だ。 それでは、できるだけ一人でやるのだぞ」
頷くと、真剣な表情で、曹昂は駆けていった。
これでいい。一応曹昂には細作も付けてある。あまり無茶な失敗をしたりとか、掠われたりするような事はないだろう。
意外に早く、楽進は来た。楽進は、あまり背が高くない。そう遠くない未来に、曹昂に背丈を抜かれてしまうかも知れない。
最近また向かい傷が増えた楽進を、向かいに座らせる。茶を出し、一杯ずつすすった所で、話を切り出した。
「さて、そろそろ青州の黄巾党が進撃してくる頃だ。 準備は出来ておるな」
「は。 ぬかりなく」
「うむ、それでいい。 当初の戦略通り進めれば、かならず勝てる」
「それならば、良いのですが」
楽進はもう一杯茶をすすった。これは不安を呷っているのではない。曹操に、驕るなと、遠回しに釘を刺しているのだ。
徐栄との戦い、そして敗北。それは曹操の心に、大きな傷となって刻まれている。言われるまでもない。徐栄の高速機動戦を、曹操はあれからじっくり研究した。そして楽進に、同じ動きが出来る部隊を訓練させている。最終的には何部隊かあの水準で動ける部隊を創設し、一つは実験的試みとして夏候淵に任せるつもりである。
「分かっている。 余は、負けるにしても、同じ方法で二度は破れぬ」
「それでこそ、殿にございます」
楽進は忠臣だが、それは盲目的に曹操の部下をしている事を意味しない。彼は常に曹操の力量を測っている。だから、曹操もそれに応えなければならない。一礼して出て行く楽進を見て、曹操は何度も満足して頷いた。
圧倒的な黄巾党の軍勢が、曹操の支配する?(エン)州になだれ込んできたのは翌日のこと。
決戦が、開始された。
小高い丘に布陣した曹操は、眼下の原野に布陣した黄巾党軍を見つめた。
百万。
それはあくまで自称であり、実数ではない。戦闘要員は十万から十五万、難民がその数倍という所であろう。
青州の太守をしていた劉岱はあまり有能ではなく、今回の失敗を引き起こした。彼らは暴徒と化して、黄巾党の理想という仮面を被って、劉岱を殺した。もちろん、黄巾党の乱の時に、夢や希望を捨てていなかった者も混じっているのだろう。
彼らは武装した流民だ。だからこそ、鎮める方法は、ただの一つしかない。
「凄い数ですなあ」
「我が軍が五万。 敵はその三倍から、四倍という所でしょうか」
「いや、もっと多いのではないのかな」
曹仁と曹洪、夏候惇が好き勝手なことを言い合っている。
下で蠢いている黄巾党の数は、だいたい四十万と計算が出ている。ただし実働戦闘員は十万ほどで、練度は高くない。しかし、士気が高い。油断すれば、あっという間に膨大な数に飲み込まれて、全滅してしまうだろう。
典偉が来た。韓浩に、話を付けるように連絡をしておいたのだ。
「曹操様、準備が整いました」
「うむ。 余としても、出来るだけ無為な殺しはしたくない。 最小限の被害で、事を収めるぞ」
指揮剣を振るう。防御柵からしみ出すようにして、今まで鍛え上げてきた軍勢が、一斉に動き始めた。更に、峠の地形を利用して、逆落としに加速。更に加速していく。誰も、狂気じみた加速を恐れない。徐栄の軍を研究して、速度を恐れない、なおかつ転ぶことのない軍勢を作り上げたのだから。
黄巾党軍は面食らった様子である。地形的な有利を利用して、防戦に徹すると思っていたのだろう。だが、甘い。曹操は愛馬の飛電を駆り、全軍の先頭に立ち、雄叫びを上げながら敵勢に突進した。
瞬く間に、敵の姿が近付いてくる。圧倒的な勢いの曹操と騎馬兵団を見て、彼らは明らかにひるんだ。
そこへ、食い込んだ。
一撃で、先頭集団を粉砕。曹操は自ら返り血を浴びながら剣を振るい、敵をなぎ倒した。矢も飛んでは来たが、散発的なものであった。剣を振るいながら、敵を冷静に観察。報告通り、ろくな武装もしていない兵士がかなり多い。ある程度食い込んだ所で、敵を蹴散らしながら、不意に方向を変えて、峠に戻る。撤退をし始めると、敵も追いすがってきた。其処へ、峠から突出した歩兵部隊が、槍を揃えての突撃を仕掛け、更に膨大な矢を浴びせる。閉口した敵は一旦距離を取り、歩兵部隊も余裕を持って引き上げた。
曹操が峠に引き上げると、敵兵の死体が累々としていた。典偉が、面白くも無さそうな顔で、剣についた血を拭っていた曹操に歩み寄ってくる。
「曹操様」
「うむ、どうした」
「敵には子供もいました。 素手でつかみかかってきました。 乱戦の中でありましたが故、殺さざるを得ませんでした」
「ああ、それだけ戦意も豊富と言うことだな」
この時代、子供の命は、平和な時代に比べて、驚くほどに価値が低い。
可愛かろうと関係ない。産まれてすぐの命は、社会を構成する作業に従事することが出来ない。もちろん子供がいなければ、未来の社会はない。しかしこういう乱世で、人間は決まった考え方をするのだ。
子供が死んでも、また作ればいいと。
親がそのように考えるのである。だから、子供も荒む。そして、更に負の連鎖が、その子供へと向けられていくことになるのだ。
典偉はそれが面白くない様子だ。曹操だって、子供はいるから、気持ちは分かるつもりである。
「分かっている。 出来るだけ速く勝負を付ける」
「ありがたき幸せ。 しかし、酷い戦にございますな」
「見て分かるだろうが、彼らは武装した流民だ。 楚覇王や漢高祖が争っていた時代は、ああいう武装流民をそのまま兵士に仕立て上げて、殺し合いをしていたそうだ」
「何と。 聖祖と呼ばれる者達は、鬼ですか」
心底から不快そうに典偉が唸る。
鬼のような容姿であるのに、彼はとても優しい心を秘めているかのようだ。曹操には、それが好ましかった。
負傷兵の後送を行うと、ようやく一段落ついた。敵は更に援軍が現れている様子だ。もっとも、それは援軍と言うよりも、青州より食料を求めて流れてきた貧民達だろう。
今、河北にも、多くの民が流れ込んでいる。荊州もだ。そして?(エン)州でも、流民を巧く取り込んで、将来の力にしたいものである。その計画の半分以上は、既に達成できているとさえ言える。
後は、彼らを一度完膚無きまでに打ち破って、屈服させるだけだ。
夕方から、軍議を行う。諸将は徐栄式の高速機動部隊の破壊力を見て、感嘆を隠せない様子だった。夏候惇が是非指揮をしたいと言い出したが、却下。しばらくは歩兵部隊を率いて、機動部隊の調整を見稽古して貰う。実際に夏候淵や夏候惇に機動部隊を任せるのは、もう少し後だ。
重要度の低い報告が終わった後に、曹操はにやりと笑い、皆の顔を見回す。実は机の下に台を置いて、背丈を高く見せて威厳を保っているのは秘密だ。
「さて、諸君。 余の見立てでは、事前の予想通り、そろそろ敵が動く」
「夜襲のつもりでしょうか」
「そうだ。 彼らは兵法もろくに知らない。 夜襲と言えば、夜になってから行う襲撃だと考えているのだろう」
既に、細作達が敵陣を探ってきている。彼らは殆ど炊事を隠すこともなかった。なけなしの食料を貪り食う様子は餓鬼のようだったと、細作は揃って口にしてきていた。
「準備は万端です」
「うむ。 此処で敵を蹴散らし、逆に夜明けに本物の夜襲をしかけてやる。 これで、勝負がつくだろう」
「僅か二日で、百万の兵を破る、ですか」
「対峙していた期間を含めれば、二週間というところだ。 だが、これで余の武名は更に上がることとなる。 そうすれば、優秀な将がたくさん入ることになり、余はご機嫌になって鼻歌を歌いつつ、軽やかに歩むことになるだろう」
とても素晴らしい笑顔で曹操が言うと、部下達は形容しがたい笑顔でそれに応えていた。彼らも最近曹操が異常に機嫌がよい事くらいは知っているという事だ。
ただ、机の隅にいる陳宮だけは、静寂の中に非常に冷たい笑顔を浮かべていた。とても優秀な男なのだが、曹操にはそれがどこかで気になっていた。
闇の中、黄巾党軍が砦に忍び寄ってくる。一部隊が動き出すと、まるで山津波のように、全軍が釣られている。
明確な指揮系統が無い証拠だ。数が如何に多くても、これではしっかり訓練された軍隊には、勝てない。
曹操は逸る部下達を抑えると、敵を直前まで引きつけた。彼らが峠の中程まで登った所で、松明を振り上げさせる。同時に、闇の中で立ち上がった兵士達が、一斉に弩を撃ちはなったのである。
黄巾党軍の先鋒は、文字通り不意を突かれて壊滅した。其処に、逆落としを仕掛ける。何が起こっているか分からない敵兵の中に飛び込むと、一気に蹴散らす。歩兵達も矢を乱射し尽くした後は、槍を揃えて敵兵を蹂躙した。
再び万を超える死骸を残して、敵が後退する。更に夜明けに、予定通り奇襲を仕掛けると、敵は悲鳴に近い呻き声を上げながら、必死に撤退していった。僅か三度の交戦で、黄巾党軍は三万を超える損害を出しており、大地は血で真っ赤に染まっていた。それをしたのが自分だと気付いて、慄然とする兵士も多い中。曹操は峠の自陣に仁王立ちし、腕組みして淡々と赤い原野を見つめていた。
さて、これで屈服してくれれば良いのだが。典偉への手前もある。指導者がきちんと約束を守れない社会は、繁栄も、長続きもしないのだ。
一応、使者も飛ばしてある。此方の損害は、未だ兵士千にも達していないことを、いやみたらしく書いた後。降伏するなら、食料は支給するし、民としても迎え入れると告げてある。もちろん、此方に逆らったことを、罪に問わないとも書いてある。劉岱を殺したことについては黙認するとも書いた。
これなら、大丈夫だろう。そう曹操は判断していた。
やがて、使者が帰ってきた。竹簡を手にしていて、あまり顔色は良くない。曹操は竹簡をその場で拡げると、大きく歎息して、典偉に渡す。
典偉が、見る間に憤怒した。
「こ、この分からず屋、どもめ!」
「どうやら、もうひと戦が必要らしいな。 馬を引け! 全軍で敵を叩きつぶし、降伏させるぞ!」
「殺っ!」
兵士達が唱和する。
彼らもこの凄惨な光景には、ほとほと嫌気が差していたのだろう。だからこそに、まだ実力の差が分からず、数だけを頼りに押してこようとする黄巾党には、頭に来ていたという訳だ。
懸念していた兵士達の戦意も、下がることはなかった。文字通り鬼のような形相で全軍の先頭に立つ典偉がにらみ付ける中、体勢を立て直した黄巾党軍が地平の果てから迫ってくる。
今度は陣を組む気もなく、気力の続く限り、数だけを武器に押し込んでくるつもりらしい。
それは多少面倒かも知れない。峠の上に張った陣には物資も豊富にため込んではいるが、数だけを頼りに攻めてこられると、多少処理が大変だ。それでも、兵士達は恐れる様子がない。
「よし! まずは火矢!」
「放て!」
曹操の指示で、たっぷり脂を含んだ布を鏃に巻き付けた矢が用意される。そして発射前に点火。側には、投石機も用意されていた。
中級、下級指揮官達の指示とともに、火矢が放たれる。唸りを上げた火矢が、目に狂気を宿して迫ってくる黄巾党の兵士達に、無数に降り注いだ。悲鳴を上げて倒れる兵士達だが、その背中を押すようにして、次々新手が現れる。曹操は大量の油を流させると、それに点火させた。
燃え上がる劫火。
だが、黄巾党の兵士達は、止まらない。多分後ろから本当に押されている事もあるのだろう。
それに脇目もふらず突っ込んできた。
そろそろ潮時か。そう考える曹操の前で、洪水のように押し寄せる黄巾党の兵士達が、自分の体で消火作業をしている。消し炭になった兵士達を踏み越えて、新手が現れるのだ。流石に味方の兵士達も、蒼白になっている。
これが狂信の力か。曹操は、遠慮無い迎撃作戦の指揮を陣頭で執り、全身火傷しながらも槍を揃えて突っ込んでくる黄巾党兵士を拝み撃ちに斬り倒しながら、戦慄を隠せなかった。すぐ側で、千切っては投げ、千切っては投げながら、典偉が聞いてくる。
「曹操様! そろそろ前線がもちませんぞ!」
「よし、作戦通りに行くぞ。 全部隊、三回に分けて後退しろ!」
「ははっ!」
典偉が脇に抱えていた敵兵を頭上に放り投げると、素早く側にあった鉄製の丸盾を掴みあげ、拳を叩きつける。銅鑼を鳴らしたかのように、鋭い音が響き渡り、それが合図となった。陣の各所で、鼓が叩き鳴らされる。兵士達が、するりと敵の攻勢を抜けるようにして、逃げ出した。
あれだけの大軍を相手にするのである。二つや三つの策くらい、事前に準備してある。そもそも、だ。青州からあれほどの武装流民が、どうして幽州ではなく?(エン)州に来たのか。それは、食料があるからだ。この飢餓が続いているご時世に、?(エン)州は食料を豊富に貯蓄している。しかもその量を増やしつつある。だからこそに、青州の黄巾党は、流れ込んできた。
「よし、退け退けっ!」
「殿の周囲を守れ! 退け、退けえっ!」
曹操は時々陣頭指揮を執って逆撃を繰り返しながら、じりじりと撤退を支援する。やがて彼の部隊も含めて、殆どの戦力が峠から撤退を終えた。黄巾党の部隊が、峠を制圧しきるの、見守る。消火作業だけでもかなり大変なはずだ。
曹操はほくそ笑みながら、狼煙を打ち上げさせる。
そして、敵の動きが、見事に止まった。
曹操が防衛線にしていた後方には、更に分厚い防御線が、事前に準備してあったのだ。この砦一つを抜くのでさえ、この被害である。黄巾党の兵士達が、心を折られるのも当然であっただろう。
もちろん、種を明かすと。最初は無人の防御陣であった。今は最前線から逃げてきた兵士達が入っていて、守りを固めている。そして彼らが掲げた松明が、まるで不落の長城がごとく、幾つかの山に張られた防御陣を、闇に浮かび上がらせたのである。
完全に敵の動きが止まったのを見届けると、曹操はやはり大した被害がなかった味方を引き連れて、正面の砦に入った。
さて、今度はどうだ。
竹簡の降伏勧告書は、四通まで用意してある。流石に最期までは使いたくないが、しかし。
敵の動きを見る限り、どうやら勝負はついたようであった。
翌朝。黄巾党の指導者達が、雁首を揃えて曹操の陣を訪れた。あれだけの攻撃の後だというのに、殆ど被害がない様子を見て、彼らは更に絶望を深くし、うなだれていた。
実際には。
曹操以外の部隊は、倒された兵士こそ少ないが、それなりの目に見える被害を出していたのである。だから、それを隠蔽できる陣に、わざと曹操は彼らを案内させたのだ。この辺りは、曹操の予想通りの反応を引き出すことが出来たので、大成功である。曹操も本幕の裏側から、彼らがうなだれる様子を見て、満面の笑みで拳を振り上げていた。
「わはははは、ざまをみろ」
「曹操様」
「おおっ! て、典偉! いつから其処にいた!」
「曹操様が、黄巾党のアホ面どもが良く来たものだ、どれ、余の策に引っかかって右往左往する所を見物してやろう、わははははとおっしゃっていた辺りからです。 早めに、彼らに顔を見せた方が良いと思いますが」
「わ、分かっておるわい」
背後にいた典偉が恐るべき記憶力を発揮したので、曹操はぐうの音も出なかった。この男はあまり頭が良くないのだが、所々で妙な記憶力を発揮するので困る。赤面して咳払いして、精神を整えると。曹操は何事もなかったかのように、黄巾党の幹部どもに見られぬよう、回り込んで本幕に入った。
うなだれている黄巾党の幹部どもを見ると、精神もしっかり冷えた。出来るだけ傲慢にならないように、正面に座る。互いを見回す彼らに、低く抑えた声を掛けた。
「よくぞ、降伏を決断したな」
「ほ、本当に、皆の食事は世話してくれるのだな」
どうやら、完全に心が折れたらしいと、曹操は内心でほくそ笑んだ。人間は、精神的に刃こぼれすると、本音が最初に出てくるものなのだ。
何のことはない。宗教だの思想だのと言っているが、要は食事がしたいのである。豊かな生活と、命が脅かされない暮らしが欲しいのだ。だから、曹操はそれを与えてやることで、彼らを部下として取り込むのである。
「この曹操、様々な駆け引きはしてきたが、貧民につく嘘はない。 お前達の中から、健康な若者や、従軍経験者を、半農半兵の状態として活用するつもりはあるが、きちんと他の者達は喰わせてやる」
「しかし、我らは黄巾の教えに従った者達じゃ。 降伏した所を、殺そうというのではないかという者達もおってな」
「表向き、その教えを振りかざさなければ良い。 ただし、他の者に、黄巾党の教えとやらを強制しようとしたらゆるさん。 それがなければ、政道への批判も、きちんとした手続きを踏めば許す。 もちろん、権力に任せて、お前達を踏みにじるような真似もしないから、安心せよ」
ため息をつくもの、まだこわごわとしているもの。
だが、彼らは一通り、曹操が分かり易く噛み砕いた話を信用した。
兵士達も、彼らの圧倒的な数は目撃していたからだろうか。曹操の決断を、非難しようという者はいない様子だ。夏候惇や夏候淵、曹仁もそれらについては文句を言わなかった。ただ一人、曹洪が不安そうに言う。
「ところで、殿」
「うん? どうした」
「本当に、彼らを喰わせていけるのですか? 昨日聞いたのですが、実数で五十万を軽く超えているというのでしょう? 農民として土地の生産力を上げるのに使うとしても、かなり厳しくはありませんか」
「何を言う。 この中華の地には、一千万を遙か超える民がいるのだぞ。 それだけの潜在能力が備わっていると言うことだ。 それに、我が軍には、糧食の専門家である韓浩も加わっておる。 心配するな」
実際、韓浩からしばらくは問題ないと連絡が来ている。後は彼らを農民として受け入れて働かせ、国の力を富ませれば、ますます問題はなくなる。そればかりか、曹操は群雄としてぬきんでた力を得ることにもなる。
翌日から、黄巾党の兵士達が降伏し始めた。少しずつ彼らを受け入れ、事前に用意していた荒れ地や田畑に配置していく。青州西部は完全に無政府状態になっていたので、曹操が堂々と軍を入れても、誰も文句は言わなかった。
酷い状態だった青州だが、それでもまだまだ多くの民を養う余地はある。丸焼きにされていた青州城を修復する必要もあったし、各地の村々も復興させなければならない。立ちゆかなくなって、無人になってしまった村も多くあった。それらを急速に調査して、曹操は自分の領土に組み込むべく、準備を進めていった。
黄巾党の者達は、まるで餓鬼の群れだった。軍の中には多くの釜を用意して、粥を作らせていたのだが。それを見ると、皆目を爛々と光らせ、飛びついて、貪るように喰らった。おぞましい姿だが、飢えに見舞われると、人はこうなるのだ。曹操は彼らの様子を目に焼き付けておくことを、厭わなかった。
曹操に、青州太守としての正式な認可が来たのは、黄巾党を平定してから、しばし経ってのこと。
もはや何の意味もない太守であったが。曹操はほくそ笑みながら、受けたのだった。
こうして、曹操は自分の親衛隊とも言える軍を手に入れた。後の世に、彼らは青州兵と呼ばれ、その凶暴さで知られることとなる。
4、漢王朝の落日
徐栄は、蒼白になった部下に呼ばれて、天幕を出る。
そして陣から敵軍を見下ろして、思わず呻いていた。
予想はしていた。しかし、まさかこれほどの数が集まるとは。それに比べて、味方の何と少ないことか。
すぐ側には、同じように蒼い顔を並べた部下達がいた。
此処は、長安西の平原。
そして、今徐栄は。己が王允によって、捨て駒として使われたことを知った。
そもそも、事の発端は、董卓の突然の死から始まった。王允と呂布が主導する部隊は、一気に宮城を落とし、董卓の家族は皆殺しにされた。眉宇城は業火に燃え落ち、董卓の痕跡は全て焼き尽くされ、消え失せた。
もとより、徐栄は董卓に恩義がある。だから、密かにこの陰謀の裏に何かがあるのではないかと思い、また提出された董卓の死骸を見て不審に思ったこともあり、様々に手を尽くして調べていた。
その結果、どうもおかしな動きがあったことに気付いた。漢王朝への忠義も、徐栄にはある。だから、もしも董卓を排除した王允が、同じようにして権力を恣にしようというのなら。何とか排除しないと行けないと、思ってもいた。
だがその矢先に、反乱が起こった。無理もない話だ。王允は董卓の配下を皆殺しにするとまで宣言していたのだ。子飼いの部下達は皆西涼に逃げた。彼らは最初、降伏を受け入れてくれるのならそうしたいとまで言っていた。だが、王允はそれをはねつけて、軍を派遣するとまで言い出したのである。
何かが、おかしかった。
徐栄も、董卓と王允が、裏で手を組んでいたのではないかとは、最初から疑っていた。それにしてもこの異常な憎悪は何だとは、思った。何にしても、今はまだ動くには早すぎる。だから、徐栄は胡軫とともに軍を連れて、反乱を起こしたという部隊の討伐に出てきたのだが。
その結果がこれ。味方の兵力と、敵の戦力は、おそらく四倍近く差がある。しかも、此方は全軍であるのに対して、敵は多分編成から言っても先鋒だ。本隊が合流すれば、兵力差は十倍以上に開くだろう。
「じょ、徐栄将軍!」
「張繍、徐晃。 言っておくことがある」
蒼白になっている若武者二人に、徐栄は咳払いした。
まあ、このような人生もよいものだ。この二人には、忙しい中、己の全てを叩き込んだ。まだ不十分な所もある。だが、張繍は乱世で生きていくしたたかさを。徐晃は武人として、最高の筋を通せる強さを。手に入れていた。
「張繍、そなたは反乱を起こした張済の甥であったな。 降伏しても、罪には問われまい」
「そ、そんな! 私は、徐栄将軍の部下で」
「生き延びよ。 そして、儂という愚かな老人がいたことを、後世に伝えてくれ」
徐栄は、それきり張繍から視線を外した。顔を真っ赤にしていた張繍は、やがて顔を背けると、数名の部下と一緒に、陣を離れていった。
徐晃はもう泣き始めていた。徐栄は、最期の会話だと思って、言葉を慎重に選びながら紡いだ。
「そなたには、もっと厳しいことを頼みたい」
「何でしょうか」
「皇帝陛下を、守って欲しい。 これから、長安は獣のような連中が蹂躙する、地獄の都と化すだろう。 誰かが守らなければ、陛下は恐らく、助かるまい」
しかし、徐栄も治安が悪い漢末の世を生き抜いてきた男だ。そのまま、漢王朝の天下が続くとは思っていない。
だから、付け加える。
「袁紹は駄目だ。 袁術は論外。 劉表には発展の展望がないし、劉焉には皇帝になろうという野望さえ感じられる。 そうだな。 今、恐らく一番可能性があるのは、曹操、だろうな」
「何の話、でしょうか」
「隙を見て、陛下を曹操の元に連れて行って欲しい。 もちろん、曹操も乱世の群雄の一人だ。 陛下を頂に、政務を見る気など無いだろう。 だが、最初から頼っていけば、傀儡としてなら丁重に扱ってくれるやも知れぬ」
皇帝には、それしかもう、平穏に生きる道がない。
そう判断したから、徐栄はそう頼む。己の、血がつながらない息子に。
徐晃は、頷いてくれた。徐栄は、自身も頷く。もはや、思い残すことは、これで何もない。
「儂の集めた書物の類は、盧植老人に預けてある。 あの男は政務も良く知っているから、頼れる。 何かあったら、助言を頼め」
「はい、徐栄将軍」
「よし、行け。 儂は今から、最期の戦いに出る」
徐晃が、何度か振り返りながらも。騎兵を何名か連れて、長安に戻っていった。胡軫はその様子を、何処か離れた雰囲気で見ていた。
「儂は死なんぞ。 まだまだな」
「それも手の一つだろう。 儂はもう、充分に生きた。 これからは衰えるだけだし、それに頼もしい息子達に、全てを託すことも出来た。 彼奴らは、必ず後の歴史に名を残すだろう。 それで充分よ」
からからと笑う。胡軫は鼻を鳴らすと、振り返らずに、長安へ戻っていった。
残った兵は、二千という所か。敵は最低でもその十倍は来るだろう。ならば、頭から徹底的に叩いてやるだけのこと。
殺されてやるつもりなど、毛頭無い。
それに、西涼の軍ならば、徐栄が鍛えてきたも同じ。手の内は、知り尽くしている。
「儂に従ってきてくれた兵士達よ!」
剣を抜いて、呼びかける。
多分、誰もが気付いている。これが、最期の戦いになることを。
「儂の意地につきあうことはない! 敗色が濃くなったら、逃亡せよ! 死ぬのは、老兵である儂だけでいい!」
「最期まで、将軍とともにあります!」
一人が言うと、唱和する声が方々から起こった。
馬鹿な奴らだ。そう徐栄は思った。そして、鬨の声を揚げさせる。
敵は明らかにひるんでいた。無敗を誇った徐の旗。しかも、数は少ないとはいえ、士気は旺盛。少しだけ、気分が良い。自分が築いてきたものが、多くの人間に浸透しているのだから。
敵陣の先頭にいる男に、見覚えがある。あれは確か、郭だ。
どれ、最期の稽古をつけてやろう。徐栄はそう思った。もちろん、不抜けた戦をするようならば、その場で首をたたき落としてやる。
「行くぞ!」
「セアッ!」
騎兵が馬腹を蹴る。
全軍が、一団となって敵に躍り掛かった。
命からがら逃げ帰ってきた郭の軍勢を見て、青ざめたのは李?(カク)である。
董卓軍残党の指揮を執っているのはこの二人に加えて、樊稠と張済。四人で指揮を執るという非常に不安定な状況であり、故に指揮系統も分散化していた。壊滅した郭軍の後方には、勢い凄まじい徐の旗が見える。
「な、何が起こったのだ、郭!」
「見ての通りだ! 早く援軍を! というか、守りを固めろ!」
「敵はたかが二千、此方は二万三千だぞ! それにお前だけでも、八千は連れていたではないか!」
それが、今逃げ帰ってきた兵は、千か、二千か。他はどうしたのだ。
郭は多少陰湿な性格が目立つが、指揮官としてはまず一流と言って良い人間だ。そうでなければ、あの董卓が抜擢しない。李?(カク)とも指揮手腕はだいたい拮抗していて、だからこそに四頭体制の一角ともなっている。
郭が振り返ると、もう敵軍が至近に迫っていた。周囲は蜂の巣を叩いたような大騒ぎである。
「ぎゃあっ! もう来た!」
「お、王允め! 何が徐栄の力を削いでおくだ! 嘘ばかり言いおって!」
「奴はもう許せん! 長安に乗り込んだら、八つ裂きにしてくれる!」
めいめい馬に飛び乗ると、一斉に陣を出る。こうなったら、もう陣形も何も関係ない。数で押しつぶして、磨り潰してくれる。
そう考えて、先頭集団が接触した瞬間。その戦略が消し飛んだ。
まるで刃物で薄い氷を叩き割るかのように。一撃で先頭集団が粉砕されたのだ。
もはや数の差など、関係なかった。
「兎に角、数を減らせ! 矢だ矢! 近付かせるな!」
倍以上の敵がいるような指揮を、反乱軍は続けた。
そして、勝負がついたのは、夕刻のことだった。
誰もが呆然として、戦場を見つめている。
徐栄の軍は、全滅。徐栄自身は、馬上で十本以上の矢を受け、そのまま事切れていた。
しかし反乱軍も、一万近くが野に斃れていた。
「徐栄将軍は、我らの師匠であった。 手強いのは、当然であったか」
呟いたのは、四人の中で最年長の張済であった。もっとも常識的で、誰もがまとめ役として認めている男だ。
「それにしても、それ以上に情けないのは、味方のこの有様だ。 十分の一以下の相手に、何という様よ」
吐き捨てたのは樊稠。最精鋭を率いる男で、荒武者として知られている。
郭と李?(カク)は、互いの顔を見合わせた。二人とも、徐栄に追いまくられて、戦場を必死に逃げ回ったのだ。戦線が崩壊しなかったのは、張済が頑張ってくれたからである。
郭は全身に冷や汗を掻いていた。
思い出したのだ。確かに反董卓連合軍に、恐怖を叩き込んだのは。今王允と仲違いして、出奔してしまった呂布。しかし、実際に軍勢を打ち破り続け、その浸透を阻んできたのは、あの徐栄だったのだ。
味方に引き込む努力は、無論した。だが、徐栄は結局の所、漢王朝に対する忠義を優先した。愚かな話である。その時は、そう思っていた。
だが、本当に愚かなのはどっちだったのだろう。
ようやく軍勢を整え直す。もう長安にはろくな戦力がない。というよりも、既に殆どの将軍が内応済みだ。王允がそうさせた。後は、此方が味方だと思って油断している王允本人を、斬ってやれば済む。奴は此方を小物だと考えている。そのはずだ。
ふと、どうして自分がそう考えているのか分からなくなり、郭はもう一つ身震いした。
長安が燃える。
それを小高い丘から、見下ろす影が複数。
その先頭に立っているのは、今長安に入った連中が殺したと思いこんでいる王允。そしてその後ろには、彼が雇った林が控えていた。林の手引きにより、殆どの部下を置き捨て、王允は身一つで脱出したのだ。
王允は老いた顔を歪ませ、歯ぎしりしていた。予定とは違う状況になってしまったからだ。だが、それでも彼自身は命を拾った。それならば、まだ再起は幾らでも出来る。そう、王允は考えていた。
「で、王允どの。 これからどうするんですか?」
「まずは揚州に行く」
「あんな所行っても、袁術と、その配下の屑くらいしかいないですよ」
「だから望ましいのだ。 袁術はただの阿呆だが、故に操作もしやすい」
それに、土地も豊かだ。王允が密かに力を蓄えるには丁度いい。入念に張り巡らせた人脈の網は、まだ幾らか生きている。陳宮に抑えられた部分もあるが、王允はまだ、諦めてはいなかった。
「護衛せよ」
「へいへい、お客様」
林が目配せをすると、細作達が動く。
王允は鼻を鳴らすと、燃え上がる長安を後に、揚州へ向かった。
この老人は、何故林が仕事を受けたか、うすうす気付いている。
そう知りながら、敢えて林はこの腐りきった性根を持つ老人を助けてやった。理由は簡単である。利害が一致したからだ。
林の目的は、さらなる政情の混乱だ。林の腕は今や漢でも最上位に食い込むほどであるが、しかし無敵ではないし、組織力も足りない。まだまだ、混乱が続いてくれなければ、頂点は取れない。
そのためには、王允のような老人が、暴れ回ってくれることが望ましいのである。
既に長安を離れた呂布が、中原に争乱を巻き起こすことはほぼ間違いない。奴は人間の形をした台風として、暴れ回ることだろう。それに、陳宮が画策している闇の人脈を使ったもくろみにも興味がある。林も、存在だけ走っているが、流石にその全容は掴んでいないのだ。
「林大人」
「何だ」
「あのような老人を助けて、本当に我らの役に立つのでしょうか」
そう言ったのは、鮮卑出身の、劉勝という男だ。つい最近拾った。何でも徐栄の部隊にいたらしく、やたらと腕っ節が良い。国にいる家族を養うために軍属にいたらしいのだが、徐栄の死で何もかも馬鹿らしくなったという事だ。其処で、やけ酒を呷っている所を、誘って部下にした。
だから、余計に王允を憎んでいるのだろうと、思い当たる。確かに徐栄の部下としては、王允は許せぬ敵だろうから。
「貴様は、漢が嫌いか?」
「いきなりなんですか」
「嫌いだろう? なら、放っておけ」
あの老人は、漢にとって百害を為すことがあっても、一利も造り出すことはない。そう林は言い、笑顔のまま蒼白な劉勝の肩を叩く。自分の半分くらいしか無さそうな小娘に圧倒されてる劉勝は、引きつった笑みを浮かべた。
「貴方は、化け物だ」
「有難う。 最高のほめ言葉だ。 父母も喜ぶことだろう」
凶暴な笑みを浮かべると、林は部下達を促し、ぶつぶつ何か呟きながら歩いている王允を、きちんと揚州寿春に送り届けた。
やがて、林の目論み通り。
更に、この地の争乱は、加速していくことになる。
(続)
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