闇の渦

 

序、漢王朝崩壊の序章

 

董俊の元へは、蒼白になった伝令が、連日詰めかけていた。どの伝令が持ち込む急報も内容は共通していて、喬冒が全国に発した檄文に乗せられた諸侯が反旗を翻したというものばかりであった。つい最近、支配のたがが緩んだのを良いことに単独で攻め挙がってきた西涼の軍勢を叩きつぶしたばかりだというのに、忙しい話である。

今日も、董俊の前では、抱拳礼をした兵士が頭を垂れていた。鷹揚に頷き、下がるように指示を飛ばすと、兵士はそそくさと退出していく。何進配下だった兵士の中には、夜陰に乗じて脱走するものも目立つようになってきていると、董俊は報告を受けている。無理もない話である。

そして、全て計画通りでもあった。

李需がこの間使い物にならなくなってから、董俊は呂布と徐栄を両翼に据えて、状況の操作に努めている。膝に乗せている献帝の事は最初から考えていない。もう少し大人になってきて、従順であれば生かしてやっても良い、くらいにしか思っていない。

玉座の右に控えている徐栄が、低い声で言う。

「殿。 そろそろ反撃に出なければなりますまい。 今なら各地の領主を、各個撃破出来る可能性がありましょう」

「いや、捨て置け。 全軍が集まった所を叩く」

「お言葉ですが、我が軍は信頼できる戦力を中核にして、十万を少し超える程度でありますぞ。 もし敵が袁紹を中核にして終結すれば、その戦力は三十万を遙かに超えると試算が出ております。 正面からの戦いでは、勝ち目がございませぬ」

洛陽は、交通の要所であると同時に、四方を要塞に囲まれた最重要戦略拠点でもある。東にある虎牢関の堅牢さは有名であるし、西は山道が続いていて、最終的には長安に到る。長安と連結した経済圏としても活動できる所が、洛陽の巨大な強みだ。洛陽と長安だけでも、並の州数個に匹敵する経済能力を備えているのである。

だが、それも。交通の要所であるという強みを失ってしまえば、価値を半減させてしまう。このままだと洛陽は敵の海の中、孤独に浮かぶ島となりはてるだろう。徐栄の不安も、もっともなことであった。

有能な男だが、董一族には迎えていない。なぜならこの男、腐敗していることを憎んではいても、漢王朝そのものには忠義心を抱いているからだ。もしも董一族の真の姿を知ったら、激怒して謀反を起こすことだろう。扱いが難しい奴ではあるが、しかし斬り捨てるにはあまりにも惜しい能力の持ち主。だから、長年培った政治力を駆使して、誘導していくのである。

「儂に考えがある。 だから、兵を保持することだけを考えよ、徐栄」

「そうだ。 何万集まろうが、俺が蹴散らしてやる」

「呂布殿。 心強いお言葉だが、相手は三十万を超える。 如何に貴殿が鬼神に近い武勇の持ち主とはいえ、相手に出来る数ではないぞ」

「だが、指揮を執っているのはごく少数だろう。 そいつらさえ潰してしまえば、後は簡単に潰せる筈だ」

呂布らしい剛気な言葉である。そして、呂布を上手に運用すれば、ある程度実現可能でもある。まあ、実際に勝つのならば、それでもいい。

だが、董俊としては、最初から勝つ気がなかった。

董家の計画では、洛陽は正義と称する諸侯の軍勢によって、徹底的かつ完膚無きまでに蹂躙させる必要がある。それが出来そうにないのならば、自分で焼き払う必要もあるだろう。

徐栄は会議を行う必要性を提示。諸将もそれにおおむね同意した。戦闘に関しては、徐栄の方が専門家だ。最終的な結論を出すにしても、董俊としても彼の意見を尊重する必要がある。一番避けるべきなのは、統制が取れなくなって、誰かが謀反を起こすことだった。もう少し、事態の中枢を、董俊は握っていなければならなかった。だからこそ、曹操の逃走も許してやった。彼奴に足下でうろうろされると、非常に面倒だったからだ。

一通り政務が終わると、軍議にはいる。徐栄は総力での反抗を進言しても入れられないと判断したのか、別の策を提示してきた。

「董卓将軍。 打って出る予定がないのであれば、虎牢関に補給線と防御専門の部隊を常駐させることをお許しください」

「ふむ。 確かにあの関は、天下の険と聞く」

「はい。 三万も軍勢を配備すれば充分でしょう。 呂布将軍にも来てもらえれば、守りは盤石であるかと」

徐栄は使える駒だ。さっき意見を却下したばかりでもある。意欲を落とさないようにするためにも、今度は意見を聞いてやった方が良い。鷹揚に頷くと、徐栄は僅かに表情を曇らせたが、すぐに次の策を提示してくる。

「そして、我が軍としては、機動部隊を二つ創設します。 私が指揮する三万と、胡軫将軍が率いる三万。 私は東へ、胡軫将軍は南へ打って出て、機動力を駆使して敵を攪乱します」

「ふむ、兵を三分してしまって大丈夫なのか」

「問題ありません。 西の軍勢は、この間の敗戦で打って出る余力がありませんし、敵にはまとまりがありません。 機動戦で鍛えた我が部隊と、地の利を得ている胡軫将軍の部隊が攪乱を中心に戦い、やがて補給を断てば、苦せずして敵を蹴散らし、そして葬ることが出来ましょう」

呂布が不満げな顔をする。自分が留守番だと言うことが気に入らないのだろうか。分かるような気がするが、正直な話徐栄の案を却下する理由が董俊には見つからない。本音では却下したいのだが、そうする訳にも行かない。これだけの将が集まっている中である。理不尽な行動は、彼らの信頼を著しく損なう。

そもそも董俊は、腐りきった現在の漢王朝に対する不満を利用しながら、その弱体化を進めているのだ。逆にいえば、漢王朝に不満を持つ者達を上手に制御していかなければ、宮中で反乱を起こされる可能性もある。目先の権力ばかりに拘泥して、結局足下を掬われてしまった、秦の宦官趙高の二の轍は踏みたくない。

しばし腕組みして考え込んでから、董俊は決断する。徐栄の策をいれるのだ。

「よし、徐栄。 そなたの進言通り動くとしよう。 ただし、あくまで敵は集めて叩くことを忘れるな。 あまり派手に動くなよ」

「ははっ。 ありがたき幸せ」

「将軍、俺の、仕事は」

「案ずるな、呂布。 そなたは敵が集まってから、一気にその中核を叩いて貰う。 先陣ではないが、もっとも重要な仕事になる。 今から、その時に備えて、腕が錆び付かないようにしておけ」

いきなり呂布が吠え猛ったので、諸将があわてふためいた。口の涎を拭うと、呂布は満足そうに、軍議の席を出て行った。この間から仮面を被り、高順と名乗って何食わぬ顔をしている丁原もそれに続く。奴は王允の情報工作員と考えて間違いない。本音は、悟らせる訳には行かなかった。

軍議を終えると、後宮に向かう。文句も言わずに趙寧が集めてくる女達が、董俊の足音を聞くと、恐怖と緊張に身を堅くするのが分かった。少し前、気にくわない女官を公衆の面前で牛裂きにしたばかりである。これは、母の入れ知恵だ。女性達の噂は拡散するのが早い。悪意のある噂を流すには、敢えて暴虐を振るうのも一興だった。

後宮から、何名かの護衛を連れて歩いてきた娘が、小さく頷く。董白だった。年のせいか、少し視力が落ちてきた董俊である。ある程度近付かないと、判別が出来なくなってきていた。

「御爺様」

「おお、白か」

「戦ですか? 宮中が戦気に満ちているようですが」

「おお、謀反人どもが湧いて出てきおったからな。 これから討伐して、叩きのめし、首を並べる所だ」

李需が使えなくなった分、董俊の負担は大きくなっている。

それが故だろうか。どこかで、董俊の中で、抑えきれない暴虐が漏れ出してきている。女を抱き潰す速度も上がっていた。董白に対する愛情も、徐々に常軌を逸したものになりつつあった。ある程度それを自覚しているからこそ、あまり顔を合わせないようにしているのだ。

「出来るだけ、寛大な処置をなさってくださいまし」

「白、お前は政のことを気にせずともよい。 お前が董家を回すようになる頃には、全てが終わっている。 儂が、片付けておく。 だから、気にせずとも良い」

事実上、董白の言葉を完全に拒否して、董俊は後宮へ歩いていった。

暴虐が疼いて、体を食い破って外へはみ出しそうだった。

 

1、連合軍結成

 

大地を埋め尽くし、続々と進軍する各地の軍勢。およそ六千を率いて西へ進んでいた曹操は、ルーの後を引き継いだ細作達から、積極的に情報を集めていた。後方には陳宮と程cを残しており、経済の整備と軍勢の調達を行わせている。代わりに近辺には、この間配下にしたばかりの典偉を置き、以前よりも遙かに安心感があった。

街道は人馬でごった返している。それに対して、街道の周辺は、米粒一つ無い有様だ。何処の軍隊も食料が足りない。短期決戦以外はあり得ない状況だなと、曹操は馬上で呟いていた。

「ご注進です」

「うむ」

「袁術将軍が、四万五千の兵を率いて寿春を出ました。 このほかにも、青州の劉岱将軍も、二万の兵を率いて出陣しております」

「うむ、ご苦労であったな」

ざっと計算して、これで軍勢は三十万を超えた。南下してきている袁紹の軍勢五万が中核となり、東部方面軍は勢いを増し、既に二十万近い。そして北上している袁術軍を中心とし、南部方面軍も十万を超えた。後は、董卓がどう出るか、だが。

常識的に考えれば、持久戦だろう。董卓は洛陽近辺の要塞を抑えている上、食料を豊富に備蓄している。それに対して連合軍はまとまりがない烏合の衆で、それに街道周辺は見ての通りである。あまり長期的に戦うことは出来ないだろう。

殆どの諸将は、恐らく洛陽にあると思われる、董卓軍の兵糧を当てにしていることだろう。勝たなければ、後がない状態だと言う訳だ。そして彼らの狙いは、董卓を倒すことに依ってられる名声と、宮城に蓄えられた金銀だ。義だのなんだのと言っているが、実際に国を動かすのは大きな力の流れ。つまり金である。

そして、ルーが命と引き替えにもたらしてくれた情報が、曹操に新しい思考をもたらしてくれる。

「董卓の目的は、恐らく洛陽を完膚無きまでに焼き払うことであろうな」

隣を歩いている典偉は、あまり曹操の独り言に反応しない。曹操は安心して、独り言を呟くことが出来る。

「そうなると、諸将の軍勢を攪乱し、叩きには掛かるだろうが。しかしあまり本気では動くまい。 補給線を遮断されないように気をつけながら、一気に虎牢関を抜くしか策は無さそうだが」

何度か頷いている内に、敵の打つ手が読めてくる。曹操の悪い癖で、兵士達が気味悪がっていることを知っていながら、なかなか止めることが出来ない。となりを無言で歩いている巨漢の典偉に、曹操は不意に話題を向けた。

「典偉」

「何でしょうか」

「敵には呂布という猛将がいる。 万夫不当と呼ばれるほどの使い手だ。 他にも徐栄という手強い男がいるが、武勇という点で呂布に勝る奴はいないだろう」

「存じております。 現在漢でも最強の武将の一人であろうと」

典偉は強い。腕力もずば抜けているし、武術の技量も生半可なものではない。夏候惇や夏候淵なら、五人まとめて相手にするほどの腕前だ。だが、その典偉でも、呂布には勝てるかどうか。

典偉は、楽進に続いてやっと手に入れた、一流の武人だ。下手に失う訳には行かない。丁寧に使いながら、育てていかなければならないのだ。今、曹操は、幾らでも人材を必要としている。

「いざというときは、時間を稼ぐことだけ考えろ。 お前でも、勝てない相手は、いる」

「肝に命じておきましょう」

「ルーの仇はとってやりたいが、しかし今は難しいな」

ルーのことを考えると、呂布のことは絶対に許せない。散々馬鹿にされたしからかわれもしたのだが、あの娘のことを、結局曹操は悪く思っていなかったらしい。だから、呂布のことを憎悪するのだろう。戦いの中でのことだから、仕方がないと言うことは分かっている。しかし、それを納得させられないのが、情というものだ。

この国で、皇帝になると言うことは、人間を超越することを意味する。始皇帝の時代からそれは同じだ。今から、密かに皇帝たらんと思っている曹操としては、こういう感情は抑えていかなければならないものなのだ。

しかし、どうも上手く行かない。背丈と同じく、どうしても気になるものを減らすことは出来なかった。

軍勢が停止した。他の軍勢を見つけたのだ。周囲は味方ばかりだとはいえ、油断していては危険だ。今董卓の下にいる徐栄は熟練した将で、機動戦だけではなく奇襲も得意としているという。さっと陣を組む味方。典偉が手をかざして相手の様子を見ていたが、やがて安心したように振り返った。

「ご安心を。 味方です」

「どこの軍勢だ」

「北平の、公孫賛軍です」

「ほう。 確かあの劉備というものも、所属している部隊だな」

すぐに使者をかわして、合流に掛かる。敵が何処で待ち伏せしているか分からない現状、しっかり兵の数は増やしておいた方が良い。数が多い分動きが鈍くなると言う点は不安ではあるが、しかし敵の総数は十万、味方は六千だ。仮に徐栄が軍の三分の一を投入してきたとしても、曹操軍を叩きつぶすには充分なのである。それに対して、公孫賛の二万を加えれば、互角、負けるとしてもすぐには破れはしないだろう。

公孫賛も歴戦の強者、すぐに合流を承諾してくれた。近くの、見晴らしが良い丘まで出て、其処に布陣する。数日前に、どこかの軍勢が野営した形跡があった。竈が残っているので、それを使うように兵士達へ指示。負担を減らす。

竈の数から、曹操は軍の規模を推測した。約五万と言う所だ。そうなると、袁紹の軍勢だろう。徐栄なり董卓なりが、こんなところでのこのこと野営しているとも思えない。もうすぐ、主力である袁紹軍に追いつくという訳だ。そうなれば、かなり戦いの幅が広がることだろう。

ほどなく、曹操の旧友である鮑信や、幼なじみである張?(バク)の軍勢も合流してきたので、その戦力は四万を超えた。袁紹軍と合流することで、その戦力は九万となり、董卓軍の総戦力にほぼ匹敵するものとなる。そこまで行けば、まずは一安心だ。大軍の中にいるという驕りさえ、持たなければ。

野営の準備が終わった。天幕へ赴く。公孫賛は髪に白い物が増え始めていて、相変わらず猜疑心が強そうな目を周囲に向けていた。曹操が一礼すると、鼻を鳴らして、形だけの挨拶をした。

噂通り、相当な偏屈者であるらしい。天幕の入り口近くには、劉備と、あの関羽と張飛もいた。曹操が目礼だけをすると、劉備はとても感じが良い微笑みを返してくる。何か、いやな予感を感じる笑みだ。この男は、予想よりも遙かに危険な存在かも知れないと、曹操は思った。

「公孫賛殿。 檄文に応じ、義兵をあげた者同士、今後は共同して軍を進めましょうぞ」

「ああ。 戦に関しては任せていただいても構わない。 問題は補給なのだ」

「それが一番の懸念ですな」

ここしばらく続いた飢饉で、国の蓄えですら減りつつある。道の脇には飢民が溢れており、本来なら軍勢を動かせる状態にない。誰もが期待しているのだ。董卓が蓄えた金銀と、それに洛陽の民が持っている備蓄を。

この軍が洛陽になだれ込めば、どのみち漢王朝は終わるだろう。そう曹操は、冷静に判断していた。

「唯一兵糧が豊富な袁術殿は、知っての通りけちなお方だ。 気前よく、兵糧を出してくれるような事態は期待できまい」

「私が説得いたしましょうか」

「いや、曹操殿に其処までしては申し訳ない。 拙者がどうにかしよう」

曹操は礼をしながらも、内心は誘導尋問に公孫賛が引っかかったことをほくそ笑んでいた。知っているのだ。袁術と公孫賛が、実は既に同盟を結んでいることを。袁紹と袁術の対立が既に始まっていて、両者共に味方を増やすのに躍起となっている。河北随一とも言われる戦上手の公孫賛を、袁術は見事に取り込んだ。だから、その同盟を維持するためにも、袁術は兵糧を出さなければならないのだ。

「それでは、一度私は失礼をします。 他の将とも会っておきたいものですから」

「うむ」

最後まで、公孫賛は横柄だった。

天幕を出た後、今度は旧友である鮑信の陣へ向かう。曹操とほぼ同規模の軍勢を率いてきてくれた彼は、気の良い人物で、出世した今も家臣達に慕われている。だが素直すぎるので、戦線に出すのは不安な存在でもあった。

横柄な公孫賛とは違い、鮑信はとても丁寧な対応をしてくれた。陣には既に張?(バク)の姿もあった。

「おお、孟徳! 久しぶりだ」

「相も変わらず腹黒そうな雰囲気だな。 元気にしていたか」

「ははは、見ての通りだ。 お前達も代わらぬようで、良いことだ」

実際には、既に全員が三十を超し、所帯を持っている状態である。子供時代とは何もかもが違うし、同じであってはならない。だがそれでも、再会を楽しもうと思うのが、人情であろうか。

酒の席が用意されていた。兵士達の苦悩も考えて、極質素な席であったが、こういうのは心意気がものを言うのである。軽くあまり高価ではない酒を口に含むと、だいぶ口も軽くなる。仏頂面のまま控えている典偉は、それでも何も言わなかった。

「それにしても、公孫賛殿の部隊にいる白馬を見たか。 何と多いことよ」

「聞いておる。 騎馬戦を得意とする異民族を、白一色に揃えた精鋭の騎兵部隊で蹴散らして見せたとか。 頼もしき御仁ですな」

「防御戦も相当に得意としているそうだ」

酒を口に含む。暗に城攻めが出来るのかどうかの不安を発したのだが、友人達二人はそれに気付いてくれず、凄い凄いと口にするばかりだった。この辺りは、何だか情けない限りである。彼らは気の毒だが、乱世では没落していく定めだろう。

典偉が顔を上げたので、釣られて視線を移すと。劉備が此方に歩いてくる所だった。関羽と張飛も連れている。さっき、天幕を出る時に、声を掛けて置いたのだ。この間目を付けておいた人物である。出来れば配下にしたいし、それが敵わなくとも人物はしっかり見極めておきたい。

酒が入ると、人間は朗らかになり、口を滑らせ易くなる。だから、人物を判断もしやすくなるのだ。酔眼になり始めた鮑信が、曹操の肩を叩きながら言った。

「ははは、愉快愉快。 で、孟徳。 何者だ、あれは」

「あれが今回、呂布を倒せるかも知れぬ者達だ。 典偉、よく見ておけ。 多分お前を凌ぐ豪傑達だ。 今勝とうと思わなくて良いから、技を盗んでおけ」

「分かりました」

「呂布を、だと?」

黄巾党の乱の時、曹操は彼らの戦いを見ていた。少数精鋭という言葉が見事に当てはまる部隊で、圧倒的に強かった。軍を統率していたのは、耳の長い男。戦の才能は曹操に劣るようだが、部下の心をしっかり掴んでいる。そして奴の配下二人の戦闘能力はどうだ。呂布に対抗できるとしたら、あの二人くらいしか考えられない。

出来れば、公孫賛の所から引き抜いておきたいのだ。今後のことも考えて。

酒の席に入ってきた劉備は、丁寧に挨拶をした。鷹揚に挨拶する関羽と張飛。曹操は三人を出迎えたが、元々地方豪族の中でもかなり力を持っている鮑信と張?(バク)は、露骨に彼らを馬鹿にして掛かっていた。関羽と張飛が、不機嫌そうに眉根を寄せる中、曹操ははらはらしていた。元々食客をしているような人間には、気性が荒い者が多い。考え無しに暴れ出したら、まず抑えられない。

「そなたらは、黄巾党の乱で活躍したと聞いているが、どこで戦ったのだ」

「義勇軍を率い、主に冀州で、黄巾党軍本隊と交戦していました」

「ほう、それは大変であっただろう。 盧植将軍が離れてから、皇甫嵩将軍が来るまでは、随分戦況も苦境にあったと聞く」

「その戦況を支えていたのが、この劉備だ。 彼がいなければ、董卓の軍勢はあっという間に蹴散らされていただろう」

曹操が好意的に紹介するが、鮑信は態度を変えない。相変わらず、馬鹿にしきった目を三人に向けている。

「今に思えば、董卓が敗死していれば、全て片がついていたのかも知れぬが」

「いや、もし董卓が其処で敗死していたら、黄巾党は一気に勢力を増し、洛陽にまで迫っていたかも知れぬ。 彼らの果たした役割は大きい」

「ふむ、貴様がそこまでいうのなら。 しかし、今は何をしているのだ」

「兄弟子でもある公孫賛の下で、一将をしております。 先ほど話に出た盧植将軍の教え子という間柄でして、そのご縁で」

鮑信が驚きの表情を浮かべる。儒学者としてもすぐれ、将軍としてもまず一流と言って良い盧植は漢王朝でも名士の中の名士だ。もちろんその弟子は多くいるが、いずれも大きな成果を残しているものばかりである。

曹操が酒を勧めたので、劉備も一礼して飲み始めた。それに張飛と関羽も倣う。倣うのだが、彼らは強烈に周囲を警戒しており、特に典偉に注意を払っていた。二人に及ばないにしても、相当な使い手だと言うことは理解しているのだろう。

しばし歓待は続いた。

 

宴を切り上げて自軍に戻った曹操は、酒に僅かに曇った頭を振りながら、自分の天幕に戻った。結局劉備達に恩を売ることは出来たが、その人物はあまり掴めなかった。張飛も関羽も護衛に集中していたし、劉備は意外と場慣れしていて、ほとんど襤褸を出さなかった。強い酒を散々勧めたのだが、酔って乱れることもなかった。これは、戦略を変える必要があるだろう。曹操は、まだまだ人材を欲しているのだ。

頭を切り換える。劉備を取り込み損ねたのは惜しいが、他にもやることは幾らでもある。すぐに席に着くと、細作から集めた情報を吟味して、頭に入れていく。やはりルーほどの精度はなく、ある程度判断しなければならないのが煩わしい。

「曹操様、夏候淵にございます」

「入れ」

夏候淵が、楽進と一緒に入ってきた。三百の精鋭を連れて、二人は前線を視察に行っていたのだ。先に進発した諸侯の中には、もう敵と接触している者がいてもおかしくない。そういった情報を集めるのが、彼らの任務だ。細作を裏とすると、彼らが表である。

「ご報告します。 洛陽南部方面で、戦闘が始まった模様です」

「ほう」

「孫堅率いる長沙軍が、董卓配下の胡軫と激突、攻防を繰り広げております。 董卓軍の戦力はおよそ三万。 それに対して味方は約二万八千という所のようです。 袁術殿の本隊は今だ本格的な参戦には到っておりません」

「ふむ、そうか。 胡軫と言えば、董卓配下でも音に聞こえた猛将よな。 兵力的には五分と言うこともあるし、孫堅とは良い勝負になりそうだが」

ルーが持ち帰ってくれた情報からも、曹操は董卓軍の陣容を把握している。胡軫は傭兵の隊長のような仕事をしながら各地を回っていた男であり、董卓の配下として雇われて念願の将軍となり、故にとても忠誠心は高いという。根無し草だった所を、一国一城の主としてもらえたのだから、当然であろう。戦歴も並の官軍将軍とは比較にならず、猛将として鳴らした孫堅とはほぼ五分である事が伺えた。

「それが、詳しいことはまだ分からないのですが、どうやら孫堅将軍は、補給路に致命的な欠陥を抱えているようでして。 なかなかにして攻めきれず、苦戦している模様です」

「ほう。 袁術殿だな」

苦笑した曹操は、進軍を急ぐように命じる。

敵の兵力の三割が南に引きつけられている状況である。洛陽東から、一気に虎牢関を抜けば、勝敗は決する。問題は董卓を逃がさないようにするにはどうするか、だ。問題は袁術だ。おおかた手下である孫堅に手柄を横取りされるのが嫌で、肝心の補給を滞らせているのだろう。

孫堅が抑えている長沙はとても貧しい土地で、何より経済的な流通が非常に遅れてしまっている。彼の軍勢は事実上袁術の支援を受けなければ養っていけない状況である。今回も董卓攻めを行うべく出陣する際、荊州で大規模な略奪と焼き討ちを行い、民の怨嗟をかっているとも聞いている。其処までしなければ、そもそも軍を維持できないほどなのだ。それでも出てきたのは、己を認めさせたいという切実な願望があるからだろう。

元々賊の出身だけあって、孫堅には地盤がない。ある程度大きな功績を立てなければ、彼には未来がないのである。もちろん、武人としての誇りもあるだろうが、一族を背負って立った者としての責務はより大きいはずだ。

曹操は其処まで読み切った。孫堅の荒々しい戦いぶりを見る限り、状況によってはその野心が龍となって天に昇るのも確実だろう。あまり此方も、もたついてはいられない。

翌日、曹操は味方を急かして、進軍を早めた。曹操の動きを見て、公孫賛や他の将達も進軍を早める。

そして翌日には、袁紹の本隊と合流。

そのさらに翌日、敵と接触した。

 

2、前哨戦

 

徐栄は寡黙な男で、戦場にあっても己が手本を示すことで、無言での指揮を行う型の軍人である。今腕組みして見つめている先には、袁紹軍の先手がいる。数は約五千。名門袁家の軍勢だけあり、装備も訓練も立派で、指揮官にも有能な人材を据えている様子が、陣立てからも分かった。

「簡単には突破できぬな」

「そのようにございますな」

郭が言う。その隣には、初陣の若武者である、張繍がいる。董卓軍重鎮の一人である張済の甥であり、粘り強い戦いをすることから、董卓が目を付けている優秀な人物である。今回、徐栄は彼の監督を任された。

張繍も腕組みして敵の陣容をしばしみていたが、やがて徐栄と同じ意見を口にした。頷くと、徐栄はさっと手を振る。

預かった三万の中でも、更に選抜した精鋭五千が、音もなく進軍した。敵に気付かれることもなく、姿を消す。主力はまだ虎牢関に残してある。敢えて敵中に深く進軍するのであれば、このくらいの数が、徐栄には都合が良かった。

ほどなく、孤立している軍勢を発見する。味方の中にいると思って、油断しているのだろう。軍の秩序は案外しっかりしているのだが、しかし彼方此方が脆い。指揮している将軍は有能だが、肝心の司令官が緩んでいるのだと、徐栄は見た。

「あれは何処の軍勢か」

「河内太守、王匡の軍勢かと思われます」

張繍が即答する。なかなかの若者だと思いながら、徐栄は一匹の巨大な獣とかした味方を進める。勝負は一瞬だ。一撃で突き崩し、出来れば近くにいる敵勢に押し込む。混乱が波及した所を、更に叩いて打撃を増す。

王匡は韓浩という優秀な将を抱えていると聞いていたが、それも本人がああでは力を発揮できないだろう。惜しいことである。ふと先陣を見ると、大鉞を手にした若武者が、敵をにらみ付けていた。一目で歴戦の徐栄は見破る。なかなか使えそうな男である。あれも戦闘が終わって生きていたら、呼びつけて直属の配下にしたいものだ。

すっと右手を徐栄があげる。敵を河と挟んでいる、絶好の体勢だ。そのまま、一気に手を振り下ろすと。徐栄の配下として鍛え抜かれた精鋭が、怒濤のごとく敵に襲いかかった。王匡軍の反応も早いが、残念ながら勢いが違う。徐栄は自ら剣を抜くと、前線に突入、一気に指揮を執っている将を斬り伏せた。韓浩ではないなと思いながら、声を張り上げる。

「蹴散らせ!」

「殺っ!」

部下達が唱和する。槍を揃えて、河に敵を突き落とす。鎧を着たまま泳げる兵士はごく少数で、すぐに川に落ちた兵士達は沈んでいった。敵の指揮官らしい騎兵には矢が集中し、逃れる暇もなく屠られていく。

真っ先に突入した味方の中に、大鉞を手にした若い兵士がいた。敵将を馬から突き落とすと、馬を奪い、それに跨った。足だけで馬を挟んで、見事に操りながら、長柄の鉞を振り回し、敵を左右に斬り倒す。血しぶきの中、憤然と暴れ回る若者は、朱に染まっていて、実に頼もしい。

徐栄は掃討戦を郭に任せると、張繍を連れて、五百の騎馬隊を率いて敵に突進。二度、三度と敵陣を突破しつつ、徹底的にかき回した。徐栄の剣は既に柄まで血に染まり、鎧には二本の矢が突き刺さっているが、闘志は衰えない。その炎のような姿を見て、怯える敵兵は、真っ先に馬蹄に掛けられた。

敵は味方とほぼ同数であったが、こう一方的な状況では、勝負にならない。五百ほどが堅固な円陣を組み、さっと撤退に掛かると、他の部隊もそれに倣う。だが、徐栄はそれを許さず、一気に兵を進めて、徹底的に蹂躙した。円陣は二度の突撃には耐えたが、三度目で崩れ、後は支離滅裂に逃げ散った。

わずか二刻ほどで勝敗は決した。王匡軍の半数は戦死し、更に残りの半数は河に落ちて溺死した。生き残った部隊は、意外に鋭い反応を見せた袁紹の陣に逃げ込んだので、徐栄はさらなる敵の打撃を諦め、夕闇に紛れて部下達もろとも姿を消した。敵の損害は死者重傷者を併せて四千三百を超えている。

緒戦は、董卓軍の大勝利に終わった。

近くの森に入り込んで、闇の中陣を敷く。王匡の首こそ取り損ねたが、敵は壊滅。それに対して味方の被害は、百騎にも達していない。まずは、敵の出鼻をくじくに、充分な戦果であった。王匡は兜を捨てて逃げ、雑兵がそれを拾い上げてきていた。董卓に送り届ける手はずを整えると、徐栄は酒宴を始めさせた。半数ずつ二交代で、短い時間だけであるが。

「おめでとうございます、徐栄将軍。 戦歴にまた箔がつきましたな。 どうぞ一献」

「そうだな、貰おうか」

郭が酒を勧めてくるので、形だけ杯を受ける。どうもこの男を、徐栄は好きになれなかった。それなりの手腕はあるのだが、それよりもどうやって権力を保持するか、頭を働かせている様子が気にくわないのである。徐栄の元を離れると、郭は他の将達に酷く威張り散らしていた。この部隊の二番手は自分だと知らしめたいのであろう。

ああいった行動は、徐栄の好みではない。しかし、何時までもそうは言っていられない。

徐栄も長年戦場を渡ってきた。膨大な経験をその身に蓄えてきたが、しかし肉体の衰えはそれ以上に激しい。現役でがんばれるのは、後十年も無いだろう。自分が消えて無くなるのは、別に構わない。愛する者もいないし、残すべき財産もない。しかし、自分が生きたという確かな証は欲しかった。

今の内に、己の全てを叩き込む後継者を作っておきたい。郭は、それに値しない。そう考えていた徐栄は、幾つか思案した後、二人ほど、有望な若者を呼ぶことにした。

「張繍はいるか」

「此処におります」

騎兵を率いて果敢な戦いを見せた張繍の事は、徐栄も見ていた。見事な戦ぶりであり、十年後が楽しみである。

「見事であった。 董卓様には、素晴らしい若武者ぶりであったと伝えておく」

「ありがたき幸せにございます」

「飲め。 今日は多くの命を奪ったが、それ以上に汝の名を多くの者に見せつけた。 戦での事だから、敵を殺したことは忘れよ。 そして、禊ぎ代わりに、ただ飲め」

張繍は頷くと一気に杯を呷り、そしてすぐ真っ赤になった。

そして、配下をやって、あの見事な戦いぶりを見せていた若者を連れてこさせる。しばし時間は経ったかが、不安そうにしている大柄な若者を、兵士は引っ張っていた。大鉞を振るっていた兵に間違いない。

平伏する若者に、鷹揚に徐栄は声を掛ける。

「良い。 粗相をしたから呼んだのではない。 汝の見事な戦ぶりに、感服した次第だ」

「あ、ありがたき幸せにございます」

「名は」

「徐晃と申します」

ほうと、徐栄は呟いた。同じ徐の姓を持つものに、これほどの若武者がいたとは。先ほどの働きは素晴らしく、鍛え上げれば万夫不当の豪傑に育ち挙がるだろう。あと二十年時間があれば、きっと歴史に名を残す男になる。

「そなたは実に筋が良い。 儂の親衛部隊に加われ。 給金は今までの倍だそう」

「あ、ありがたき幸せにございます」

「うむ。 飲め」

杯を勧めると、僅かに躊躇した後、徐晃は受け取った。

宴はすぐに終わり、僅かに酒を入れただけで、陣は再び静まりかえる。一瞬の息抜きは、後の殺戮のためにある。徐栄自身も、馬上で酒を抜きながら、じっと敵がいる可能性がある東を見つめていた。

 

孫堅は腕組みして、敵勢を見つめていた。相変わらず敵は三万。良く統率されていて、あのだらけきった官軍が主体になっているとはとても思えない。董卓自身はともかく、配下にはそれなりに優秀な者がいる、という事だろう。

味方には援軍が加わり、既に兵力は六万を超えている。しかし兵糧が足りない。袁術が約束してくれた追加の兵糧は、何時までも届く様子が無く。孫堅以外の将も、皆苛立っていた。

唯一兵糧を自給できている荊州の劉表軍に、諸侯は兵糧の催促をしていたが、彼の軍勢とて状況は楽ではない。兵糧は少ないし、何より敵陣の堅さが尋常ではない。敵将は既に分かっている。董卓の軍勢でも、三本の指に入る将、胡軫だ。確かに手強い相手だが、今はそれ以上に、飢えとの交戦が先だった。

「敵は意気盛んですな」

「ああ、その通りだ。 何か妙案はないか」

「生憎拙者は敵を叩きつぶすことしか知らぬ無骨者故」

「ふむ、儂にも適当な策はありませぬな」

韓当も黄蓋も、口々にそんな事を言った。元々彼らは胡賊として暴れていたり、地方豪族の中で使えそうな連中を、孫堅がかき集めた部下達だ。荒事に関しては確かに優れているが、頭脳労働に関しては苦手極まる。

まだ幼い息子と、その竹馬の友である周瑜が育てば、ある程度ましになるかも知れない。荊州を抑えて、多くの名士を配下に入れれば、頭脳労働を担当できる者だって出てくるだろう。だが、今孫堅は、自分で何もかも考えなければならなかった。それが故に、基本的に思考が乱暴になりがちで、それが孫堅の苦悩の一つだった。

諸将は孫堅に対して、疑いの目を向けている。それも当然だろう。董卓討伐を始める時に、荊州で各地の豪族を殺し、兵糧を略奪してきたのだから。軍を出さなかったからと言うのが理由だが、あれで多くの反感を買ってしまった。荊州の名士である劉表も、孫堅を憎んでいる様子だ。無理もない話で、彼の従兄弟も孫堅の部下の手に掛かったからだ。結果、孫堅は劉表から兵糧を借りることさえ出来なくなっている。

強いが、孤独な男。

だからこそ、周囲には、そんな彼を利用している、袁術くらいしかいない。

孫堅が眼を細めたのは、不意に敵が陣から引き始めたからである。十中八九罠だろうと思ったが、諸将は違った。これを好機と見たか、我先にと陣へ殺到し始めたのである。どの軍も兵糧が不足しており、今までこれ見よがしに董卓軍から挙がっていた炊煙を見ての行動もあっただろう。

そして、何と孫堅の部隊からも、勝手に攻め掛かる者が出始めていた。眉をひそめた孫堅は、停止するように太鼓を打ち鳴らさせたが、もう兵士達は誰も言うことを聞かない。今回、長沙を出撃するに辺り、荊州周辺で奪ったのは兵糧ばかりではない。各地の農民や貧民も強引に軍に編成した。その悪影響である。太鼓を聞いて停止するのは、古くからの部下だけ。新しく無理に部下にした者達は、もはや言うことを聞かなかった。彼らの腹は飢餓でへこみ、目は欲望にぎらついていた。

ほどなく、兵の八割以上が、勝手に陣に攻めかかり始める。猛烈な戦闘が開始され、すでに退く機会を、孫堅は失っていた。

「まずいな」

「殿、流石にこれは、罠なのではありますまいか」

「言うまでもなく罠だ。 総員、敵兵に備えよ!」

銅鑼を叩き鳴らすよりも早く、敵が動く。陣の横から伏兵が現れ、前しか見えていない諸侯の軍勢に襲いかかったのである。更に陣からも敵が打って出た。不意を突かれた主力部隊が一気に突き崩され、逃げまどう中を直線的に敵の精鋭が切り裂いていく。孫堅は馬に鞭を一つくれると、最精鋭を連れて、突撃を開始した。

味方の陣を一息に突き破った敵精鋭が反転しようとした所に、孫堅の部隊が襲いかかる。敵も即応し、激しい戦いが繰り広げられる中、孫堅は馬を繰って敵将を捜した。矢が数本飛んできて、兜の横を掠め、或いは肩当てに弾かれる。孫堅よりも一回り大きい男が、不意にぬっと現れる。見たことがある。食客として有名な、華雄という奴だ。董卓軍の将軍になっていると聞いていたが、本当だったと言うことだ。

「其処にいるのは、孫堅と見た!」

「応! 我こそは、孫堅なり!」

「やはりそうか! 我が名は華雄! 董卓軍の将なり!」

群がる長沙の荒武者達を、子供を投げ飛ばすように叩きつぶす華雄の鎧は、既に返り血で真っ赤に染まっていた。大混乱している味方は被害を増やすばかりで、支援はとても期待できそうにない。気合いを自らに入れ直すと、孫堅は脇目もふらず、華雄に突進していった。

「おおおおっ! 行くぞ、華雄!」

「来い!」

繰り出した刀を、華雄の長刀が受け止める。五合、六合と刃を交える。だが、孫堅の不利は明らかだった。体格も違うし、何より武人としての年期が違う。しかし、それでも、孫堅は長年の戦いで磨いた経験を武器に、馬を寄せて斬りかかっていく。

その時、不意に脇に幕僚である程普が現れる。程普の投げた短い槍が、華雄の脇腹に突き刺さった。鬼のような形相で、華雄が吠える。

「卑怯っ!」

「戦場で、卑怯も何もあるかっ!」

剣を突き出し、孫堅は華雄の胸を貫いた。大量の血を吐きながらも、華雄は呪いの言葉を、吐き捨てていた。

「ふん、流石は孫子の子孫を勝手に名乗っている男だ。 予見しよう! 貴様の子々孫々に到るまで、己の経歴を勝手に飾り立て、嘘を並べ立て、全てを己が都合の良いように脚色し、それを当たり前にしようとするだろう! それを、黄泉で嗤ってやろうぞ!」

落馬した華雄が、地面に叩きつけられる。

孫堅は肩で息をつきながら、慄然と呪いの言葉をかみしめていた。

味方はどうにか華雄の死に勇気づけられ、体勢を立て直しつつある。胡軫も深追いは避けて、その場で陣を立て直すことを始めていた。頭が冷えた諸将も、部下達もさがり始める。勝手に動いた部隊を罰しようかとも孫堅は思ったが、止めた。そんな事をすれば、兵士の脱走を止められなくなるからだ。

一旦引き上げる。味方は敵の三倍の損害を出した。敵は兵力の補充がほぼ出来ない状況であり、これでも一応戦術的には勝利とも言えるのだが。しかし、兵糧がない状態で、更に味方が疲弊したのも事実。

袁術からの兵糧は、今だ到着しない。

 

徐栄の遊撃軍に悩まされながらも、ついに董卓討伐東部方面軍は合流を果たした。既に戦力は十八万に達しており、しかしやはり兵糧が少ない。堂々と進撃を続けるその威容は大地を圧しており、道の周辺の飢民達は、何事かと乾いた目でそれを見つめていた。もはや彼らの数は、千万を超えているという噂もある。

この国は、戦争をしている場合ではないのかも知れない。そう劉備は言うのだ。だが、このままでは、董卓に国を食いつぶされてしまうだろう。だから、戦争はしなければならないらしい。

陳到には、あまりその辺の話に興味が湧かない。とりあえず、宦官共は皆殺しになった。それで充分に気が晴れた。それに漢王朝がブッ潰れれば、愉快至極と言う所だ。あのような腐りきった王朝、滅びてしまえばいいのだと、陳到は思っている。飢えて死んでいった子と、最初の妻のことは、絶対に忘れない。漢王朝を滅茶苦茶にしているという董卓に、その点では感謝をしているくらいだ。

簡雍が馬を寄せてきた。くりぬいた瓢箪に酒を入れて、持ち歩いている。ちょっと口臭が酒臭い。

「どうした、機嫌が悪そうだな」

「いえ、手柄を立てれば、出世が出来ますから」

「そうか」

無味乾燥した陳到の答えをむしろ面白いと思ったのか、簡雍は側から離れようとはしない。既に先鋒は虎牢関近くまで到達しているというのに、暢気なものである。

伝令が前から来た。兵士達の噂が耳に入ってくる。虎牢関には敵およそ六万が集結しており、鉄壁の守りを固めているという。天下の険として名高い虎牢関を落とすのは大変な難作業になるだろう。董卓軍の動きも気になるが、まずは其処をどうにかしなければならなかった。

夕方には、虎牢関についた。

今までも洛陽には行ったことがあるから、通ったことはあるのだが。改めて敵陣としてみると、とてつもなく厄介な場所だ。高く積み上げられた石垣と、険しい山々。布陣している敵に隙はなく、ようやく来たかと言わんばかりの様子である。しかもこの辺りは地形的に狭く、一気に大軍勢を展開できない。少数での波状攻撃をせざるをえず、大きな被害を出すのは確実だった。

虎牢関の前には、敵の騎馬隊が布陣している。

唸ったのは、虎牢関が非常に考え抜かれた防御施設として建造されていたからだ。改めてみると、関へは緩やかな坂が続いており、守る側には非常に有利である。特に騎馬隊は、長い坂を駆け上がらなければならず、よほど練度が良くなければ、一瞬で逆落としに遭って蹴散らされてしまうだろう。

虎牢関そのものも、並の砦より壁が高い。しかも頑丈な石壁であり、簡単には登れないように側面も磨かれている。夕焼けに照らされる虎牢関は幻想的なまでに美しく、これから大量の血を吸うのが確実だった。

城壁の上には、ずらりと弩が並べられていて、陽光を浴びて光っていた。続々と詰めかける諸侯の軍が陣を張る中、敵は動かない。勝算があると言うことか。無理もない話である。あれだけの防御施設に籠もれば、二倍や三倍の敵など問題にならない。

陳到は部下達に指示を出す。既に陽は落ち始めているが、大変なのは此処からだ。

「馬防柵を念入りに設置しろ。 敵の騎馬隊の突進力は、恐らく今まで見た敵の中でも最強だろう」

「分かりました。 三重にします」

「うむ。 交代は四班に分かれて、一班一刻ずつ休眠を取りながら回す。 明け方には全班が起きて、夜襲に備えろ」

「了解しました」

夜襲は明け方に行うのが常識である。だからこそ、全員がある程度疲れを取りつつ、夜明けに全力で備えられる体勢をとる。黄巾党の乱で培ってきた経験が、こういったところで生きてくる。

他の諸将の陣では、手際が良い所と悪い所で両極端に別れていた。意外にも手際よく布陣しているのは袁紹の軍である。そういえば、有名な武人が何名か仕えていると聞いている。彼らの指導によるものなのだろう。

前線を築き終わったので、本陣へ。公孫賛軍の最前列にいる劉備軍である。その損傷率の高さは、今からでも予想できる。それが故か、公孫賛軍の兵士達の中にも、気の毒そうに陳到を見る者が多かった。

もちろん、殺されてやる気など無い。今回も生き残り、やがて将軍となる。劉備という指導者を得て、陳到には欲が出始めている。だが、それは分不相応なものではないはずだ。天幕に入る。

驚いたのは、深刻な表情で、劉備と関羽が考え込んでいたことだろう。張飛は天幕の外を回って、話を聞かれないように警戒していた。

「如何なさいました」

「うむ、それがな。 曹操殿が、一敗地に塗れたらしい」

「まことですか。 あの戦上手の、曹操殿が」

「曹操殿は相当な戦上手だが、敵はその上を行ったと言うことだ。 敵には恐るべき指揮官がいる。 徐栄という奴だ。 兵士達にも、徐の旗には警戒するように伝えておけ」

関羽の言葉に頷くと、陳到は辛くも兵をまとめて逃げ出したという、曹操の話を聞くことにした。

 

曹操と鮑信の軍、合計一万二千は、徐栄の遊撃部隊を捕捉すべく動いていた。王匡の軍勢が壊滅したことで、敵の士気が上がっている。補給路も各地で脅かされ始めており、機動戦を得意とする曹操が、鮑信を誘って出たのである。

既に後方には広大な安全圏を抱えていると言うこともある。曹操ともあろうものが、油断していたと言うこともある。

曹操が背中に殺気を感じ、振り向いた時には、もう遅かった。

街道を四列縦隊で行軍していた曹操軍の背後から、まるで突進する牛のような勢いで、徐栄軍が攻め掛かってきたのである。

楽進は前線で、典偉は曹操の側。舌打ちして、慌てて指揮を執ろうとする曹操だったが、矢が兜に跳ね返ったので、流石に胆を冷やした。後方にいた曹仁軍は一息に踏みつぶされ、ついでに夏候惇軍が蹴散らされる。そして夏候淵軍を木っ端微塵に粉砕した徐栄の軍が、怒濤のように迫ってきた。夏候惇が一騎打ちを挑もうとしたが、部下達に抱えられて引きずられるように戦場を離脱していった。

慌てて体勢を立て直した鮑信軍が、陣形を拡げて迎撃態勢を作ろうとする。其処で、曹操は二度目の失敗に気付く。鮑信の軍の後ろから、殺気が吹き上がったのである。見れば、後方から迫っている徐栄の軍は、せいぜい五百。本隊は、後ろにいたと言うことだ。

こうなってしまうと、もう収拾はつかない。撤退の銅鑼を鳴らさせる。典偉が大きな矛を構えて、曹操の前に立ちふさがった。そして突きかかってきた騎兵を、一息に打ち倒す。敵の勢いは凄まじく、典偉がいなければ此処で死んでいただろう。

敵騎兵部隊が、一気に陣を駆け抜けて、鮑信軍を挟撃した。もはや、助けるとか、助けないとか、そう言う状況ではなかった。逃げなければ、次の瞬間には、自分の首も跳ね飛ばされる状況である。

楽進が部隊をまとめて、どうにか撤退戦の準備を終えた時には、何もかもが遅かった。

鮑の旗が、乱戦の中倒れる。

曹操はかろうじて残存勢力をまとめて引き上げたが、その時には既に、徐栄軍は影も形もなくなっていた。

敵の損害は百か二百か。それに対して味方は最低でも四千以上が戦死し、残りの六割以上も重傷を負っている。特に鮑信軍は壊滅的な打撃を受けていて、鮑信も首がない死体で見つかった。

ぎりぎりと歯を噛む。今までも曹操は、必ず戦に勝ってきた訳ではない。黄巾党の乱の時も、何度か危険な局面はあった。悲惨な撤退戦を指揮したこともある。しかし、この有様はどうだ。

自分の油断で、四千以上の兵士達は死んだも同然だ。

楽進が来た。全身に七本も矢を浴びていて、返り血で真っ赤になっていた。徐栄軍の激烈な突進をかろうじて食い止め、何度も本陣への到達を防いでくれたのだ。典偉だけではない。楽進がいなければ、曹操は死んでいただろう。

「殿、ご無事でしたか」

「ああ、かろうじてだが」

「酷い戦でしたな。 拙者も、これほど酷い有様は始めてみました」

「全て儂の責任だ。 ほんの一瞬の油断が、これほどの損害を招くとは」

かろうじて首脳部は無事であった。だがこれは、もうまともに前線で戦える状況であるとは言い難い。今後、作戦の主導をするのも難しくなるだろう。袁紹が鼻で笑う様子を思うと、腸が煮えくりかえるようだった。

側を流れる黄河の支流を一瞥した曹操は、へこんでしまった兜を兵士に投げると、吐き捨てた。

「典偉」

「何でしょうか」

「儂を黄河に投げ込め」

「よろしいのですか?」

早くしろと、曹操は腕組みして、目を閉じた。

そのまま体が吹っ飛ぶのを感じて、一瞬後には水の中にいた。これでいい。典偉は良い男だ。それに比べて、自分はなんと情けないことか。

鎧を着たまま泳ぐ術は学んでいる。水面に挙がると、岸から随分離れていた。不安げに見守る兵士達の視線の中、曹操は濡れ鼠になって這い上がる。水に濡れたばかりだというのに、乾いた笑みが挙がってきた。

「典偉、良くやってくれた。 頭が冷えたわ」

「は。 殿のなさりたいように」

水を鎧の端から滴らせながら、曹操は騎乗する。そして行き場を無くして呆然としている鮑信の部隊もかき集めて自軍に編入すると、今度こそ油断がないように、一旦道を戻った。

徐栄は、悔しいがまだ曹操が勝てる相手ではない。

だが、十年後は違う。次にあった時は、必ず屠り去ってやる。そう曹操は、屈辱に濡れながら誓っていた。

 

徐栄が殆ど損害の無かった味方を率いて虎牢関に戻ったのは夜半過ぎだった。既に臨戦態勢に入っている呂布は、虎牢関の外に、手勢と一緒に布陣している。代わりに徐栄を迎えたのは、高順と名乗っている丁原であった。

高順は漢ではそこそこに地位のあった男であるし、顔を知っている者も多い事から、今では仮面を付けている。以前は美髭で知られた男でもあったのだが、今は全て剃ってしまって、人相を変えているというこだわりようである。徐栄も戦歴と経歴を知ってるから、蔑ろには出来ない。抱拳礼に、丁寧に応じた。

後ろには張繍と徐晃がいる。思った通り、徐晃は見事な戦いを見せて、曹操軍の精鋭を何人も打ち倒した。張繍は電撃的な機動戦に良くついてきて、陣を乱すことが全くなかった。非常に頼もしい若者である。同じ年の頃、徐栄がただのチンピラだった事を考えれば、確実に自分を超えていけるだろうと予感させてくれる。

「見事な戦いぶりでしたな、徐栄どの」

「謝々、高順どの。 状況はどうなっているか、説明願えますかな」

「かしこまりました。 南部戦線では、孫堅軍が大きな被害を出しながらも、確実に前進してきています。 既に兵は十万を超えました」

「ふむ。 そろそろ戦略を切り替えなければなるまい」

東部戦線に関しては、じっくり自分の目で配置を見てきた。曹操に大きな打撃を与えたのは収穫だった。奴の発言力はしばらく低下して、その分敵の動きは鈍くなるだろう。僅かな間に、徐栄の機動部隊は一万を超える敵を討ち果たしている。だがその一方で、敵は二十万近い軍勢を、虎牢関前面に集結させていた。

夜襲は失敗すると、徐栄は判断した。だから、呂布にも夜襲はしないように指示を出しておく。呂布は己が最強の武人であるとは知っているようだが、指揮官としてはまだ経験不足だと言うことを自覚しているらしく、ちゃんと徐栄の言葉に従った。それを確認すると、中級指揮官達を呼んで、指示を出しておく。

「じっくり兵士達を休ませておけ。 決戦は明日だ」

「ははっ」

「張繍、徐晃、お前達は此方に来い」

作業をあらかた済ませると、徐栄は目を付けた二人の若者を、自室に呼んだ。

そして机を挟んで座ると、今日の戦いの反省会を始めた。

二人がどのような思想を持つかは分からない。だが、この二人なら、確実に己が残したいものを引き継いでくれる。

そう徐栄は信じた。

だから、己の技を、全て教えようとしていた。

 

3、虎牢関の戦い

 

銅鑼の音が響き渡る。結局夜襲は一度もなく、慣れない部隊ほど疲弊が激しい状態であったが。虎牢関から約三万の敵兵が現れ、接近してきたのだから仕方がない。諸将は出撃の準備を整え、敵陣をにらみ付けていた。

陳到は、曹操を一蹴したという徐栄の旗を見つけていた。敵陣の、第二陣に控えている。第一陣は約一万。翻るのは呂の旗。当然だろう。そして第二陣には徐。第三陣以降には、董卓軍の諸将の旗が並んでいた。

袁紹の陣が主力で、指揮も今回は彼が執っている。旗が振るわれると、何名かの将が、それに応じて兵馬を進める。劉備軍には、まだ鉢が回ってこないが、却ってそれが神経を削る。呂布の陣は全く動かず、それが却って伏せた虎のように不気味だった。陳到には分かる。呂布は、進むべき機会を測っているのだ。

これだけ離れていても、感じる獰猛な殺気。奴の力は、関羽や張飛と同等以上だろう。とんでもない怪物が、敵にはいたものである。そして、その姿を、すぐに陳到は目撃することとなった。

国譲が側に来ている。最近田豫というきちんとした名前を貰い、公式の場ではそう呼ぶようにしているのだが、今でも陳到にとっては国譲だ。字を呼ぶのは親しい相手だけに限られることだから、向こうも悪いようには思っていない様子である。普段から飄々としている国譲が、一気に青ざめた。それに釣られてみる。敵陣に、とんでもない殺気の塊が出現していた。

「呂布だ!」

「あれが呂布か!」

口々に声が飛び交う。国譲の栗毛が恐怖に嘶いたので、慌てて手綱を取る。陳到の馬も、恐怖を感じているようで、小刻みに震えていた。

「陳到さん、まずいですよ。 あれ、勝ち目ありませんよ」

「そうだな。 すぐに張飛将軍を呼んでこい」

張飛は第二陣にいる。まずは一当てして、敵の技量を測ろうという方針のためだ。老練な陳到が敵の様子を見て、其処から張飛に引き継ぐという予定だった。もちろん其処には、劉備に余計な手柄を立てさせないようにするという、公孫賛のさもしい計算が働いている事が明らかだった。

敵を遠目に観察する。非常に長身で、全身に真っ黒い鎧を着込んでいた。右手に提げているのは、巨大な大長刀。いや、もう少し複雑な形状の長柄武器らしい。ああいう長柄は、張飛が蛇矛と称している変形矛のように、偶然に作れるだけの貴重な品物だという事で、それだけでもあの男がただ者ではないことがよく分かる。また、跨っている馬も、全身真っ赤の巨大な体格のものであった。あれは凄まじく足が速そうである。

国譲がすぐに張飛を呼んできてくることを期待しながら、陳到は念入りな防御態勢をしけているか、味方の陣を確認。味方の中には、危険に気付いておらず、前に前に出ている者達もいる。彼らは惜しいが、呂布の馬蹄に蹂躙される運命だろう。諦める他無い。さて、どうやってあの男を防ぐか。

敵の銅鑼が鳴らされる。

ついに、来るべき時が、来た。

呂布が手綱を振るい、咆吼した。同時に、敵軍の兵士達が、一斉に武具を振り上げ、それに倣う。気圧されたらおしまいだ。

「弩!」

ざっと、弓隊が前に出る。弩には既に矢が装填されており、いつでも放つことが出来る状態にある。呂布が突っ込んできたら、高密度の一斉射撃を浴びせて、倒せないにしても少しでも勢いを削がなければならない。そして、今更ながらに失策に気付く。呂布の乗っているあの馬。あの雄大な体格では、既存の馬防柵は役に立たないのではないのか。

呂布が駆け出した。坂道に乗り、一気に勢いを増す。まさに火が出るような勢いで、しかも彼の後ろに従っている騎馬隊も、それにそうそう劣らない。なるほど、地形の入り組んだ平原戦ではともかく、この虎牢関前面の地形では、その圧倒的突破力を、縦横無尽に発揮できるという訳だ。

「オオオオオオオッ!」

最前線に出ていた韓馥軍が、その猛烈な勢いを見て、恐れおののく。その恐怖に、呂布はまっすぐ突っ込んだ。さながら、巨大な虎が、前足を振り上げ、鹿に振り下ろしたかのような光景が現出する。

一撃で、韓馥軍の最前衛が食い破られ、怒濤のように蹴散らされた。必死に逃げ出した韓馥には目もくれず、韓馥軍を蹂躙し尽くすと、その残兵をあまりの速さに対応が遅れていた劉岱軍に押し込む。拡大する混乱。更に劉岱軍に突っ込み、一文字に切り裂いた。勢いは止まらない。馬蹄の音が更に高くなる。唸りを上げて飛来する弩など、藁にも等しい。呂布は勢いを殺さず、その後ろにいた袁紹軍の前衛に突入した。袁紹軍は流石に対応が手慣れていたが、本格的に防御を固める前に呂布はさっと進軍の向きを変え、公孫賛の軍へと迫ってきた。

矛を振り上げた呂布の姿が、怒濤の土煙とともに接近してくる。目は真っ赤に充血していて、火を噴くかのようだった。気圧されたら負けだ。全身を這い上がる、蛭にも似た恐怖をねじ伏せながら、陳到は叫ぶ。

「放てっ!」

「しかし、味方の残兵に当たります!」

「かまうな! 放て!」

陳到の指示で、一斉に弩が放たれる。呂布は弩の矢をあろう事か矛で縦横無尽にたたき落とし、そのまま勢いを殺さず突進してくる。その目が、自分を捕らえていることを、陳到は悟った。虎でさえ逃げ出すような咆吼を、呂布があげた。

「殺っ!」

「っ……!」

死を覚悟した、その瞬間。

不意に真横から、呂布の騎馬隊に矢が降り注ぐ。態勢を整えた連合軍の一部隊、袁遺軍による圧迫であった。凡将だという評判だが、思わぬ一撃に呂布は舌打ちすると、今度は大きく軌道を変えて、まるで一匹の蛇のように騎馬隊を操り、諸将の一角、孔融軍に襲いかかり、ものの四半刻で蹂躙し尽くすという有様だった。

「何て野郎だ」

呟いたのは、急を聞いて前線に出てきた張飛である。気を利かせて、関羽も一緒に来てくれた。関羽はその長い髭をしごきながら、何度も呻いた。真っ赤な顔が、心なしか青ざめているかのように見える。

まだ主力部隊に打撃はないが、諸将の部隊は大きく損害を受けていて、このままだと全軍が押しつぶされる可能性がある。董卓はこれほど戦上手だったか。いや、これは明らかに違う。恐らくは、徐栄による指揮であろう。

呂布の軍が反転し、今度はまっすぐ正面から此方に向かってきた。あれだけ走り回ったというのに、殆ど損害を受けている様子がない。呂布の矛は刃先から石突きまで全て朱に染まっていて、どれほどの敵を斬ったか分からないほどだった。

呂布はただの一騎だというのに。まるで、一軍が突撃してくるような圧力である。これが、中華最強の武人が放つ気迫というものなのか。誰もがすくみ上がる中、それでも立ち向かう者は、いた。

「行くぞ張飛!」

「応っ!」

関羽と張飛が、馬を揃えて走り出す。二人の乗っている馬も相当な体格だが、呂布の乗っている赤いものと比べると、子供と大人ほども差がある。呂布は一瞬だけ眉をひそめたが、しかし矛を振り回し、まず関羽に振り下ろす。

激しい火花が散った。

喚声が挙がる。この日、多くの将が呂布に立ちふさがったが、いずれも一合と刃を交えることが出来ず、斬り伏せられていた。それなのに、関羽は、その猛烈な一撃に、耐え抜いたのである。

しかし、一撃は呂布の方が明らかに勝っていた。続けて張飛が、横殴りの一撃を浴びせるが、これも難なく呂布に防がれる。後ろに回ろうとする関羽を石突きで牽制しながら、呂布は張飛の胸に向け、矛を繰り出す。張飛の兜が吹っ飛んだのは、身を低くして、張飛が致命の一撃をかわしたからだ。

いずれの一撃も、雷光のように速く、岩のように重い。普通の兵士ではとても繰り出せないような打撃を、牽制代わりに使い、更に本命の攻撃時には神域に近い突きを繰り出す呂布。関羽と張飛ほどの強者を相手に、互角に戦っている。いや、まだ若干の余裕があるほどではないか。

奴の強さは、まだ底を見せていない。

「おおおおっ!」

「ぬんっ!」

呂布が吠え、張飛に突きを繰り出す。かろうじてそれを受けた張飛は、巻き上げて矛を絡め取ろうとするが、呂布が凄まじい腕力にものを言わせて、逆に張飛の矛を弾きあげた。そして、後ろから斬りつけてきた関羽の長刀を受け止めつつ、振り返って今度は関羽に鋭い刺突を、三度、連続で繰り出す。

大量の汗が飛び散る。二撃まではかわした関羽だが、三度目は軽く頬を擦った。大量の血が巻き上げられる中、体勢を立て直した張飛が叫ぶ。

「兄者!」

「応ッ!」

呂布が、始めて眉をひそめた。いつの間にか彼は、完全に挟まれていたからだ。勝負あったと、陳到は思った。

関羽と張飛が、それぞれ同時に振り下ろし、切り上げる。呂布はそれを見もせずに、矛を旋回するだけではじき返して見せた。赤い馬を繰って挟撃から逃れようとするが、それもすぐに関羽が強引に退路を塞ごうとする。しかし呂布は、気合いの声とともに手綱を振るう。

なんと、赤い馬が地面を蹴り、関羽と馬を跳び越したのである。

人馬一体という言葉はある。確かにあるのだが、その究極を、陳到は至近にて見せつけられることとなった。振り返り様に関羽が長刀を振るうが、それさえも呂布は矛を振るって、はじき返して見せた。

「に、人間業じゃねえ!」

張飛の声には、戦慄が含まれていた。だが、今の技は流石に無理があったらしく、赤毛の大柄な馬が苦しそうに嘶いた。舌打ちし、そのまま騎馬隊とともに撤収に掛かる呂布。他の董卓軍は傍観を続けていたが、呂布軍後退と同時に防御陣を整え直す。しかし、勝ち逃げを、袁紹は許さなかった。

というよりも、陳到の見たところ。袁紹は、呂布が退きに転じる瞬間を、可能な限り味方を温存しながら伺っていたのだろう。狡猾だが、指揮の仕方としては間違っていない。最終的には競合者となる「味方」の戦力まで、適度に削ることが出来る。袁紹は陳到が思っていたよりも、遙かに切れる男のようだ。

激しく太鼓が打ち鳴らされる。総攻撃の合図だ。

「かかれえっ!」

諸将が吠える。どの将も、今の失態をすすぐために、必死の様子であった。董卓軍はこうなってしまうと、数の差が露骨に出てくる。呂布の騎馬隊は疲労が隠せないし、徐栄が如何に奮戦しても、どうにもならない。虎牢関に押し込まれた董卓の軍勢は、結局大きな打撃を受けて、門から出ることは出来ない状態に陥った。

しかし、それでも。

虎牢関を力攻めする余力は、諸将にはなく。関の上で無数に構えられた弩を見て、一時後退する他無かった。

結局の所、虎牢関の戦いは前半で呂布一人に押しまくられはしたものの、敵を防御施設に押し込んだという点からも、勝利は勝利であった。ただし被害は大きかったし、追撃する余力がないという点でも、完勝とは言い難く。負傷者の多さを考えると、一時撤退すらも考えなければならない状態であった。事実多くの指揮官を戦死させた韓馥軍は、最後衛にまで後退して、以降は予備戦力として活動する様子だ。

劉備の陣は殆ど無傷であったが、それは関羽と張飛の活躍以上に、偶然とはいえ横やりを入れた袁遺軍の活躍が大きく。陳到は、この世は英雄の活躍で動くばかりではないのだと、改めて思い知ることとなった。

一旦陣を整え直した陳到は、本陣に出頭した。比較的雰囲気が落ち着いている天幕の中では、張飛と関羽が、まだ鎧に飛んだ返り血を落とさないまま座っていた。二人とも、追撃戦では十人以上の敵兵を斬ったのだという。張飛は虎髭を逆立てて、今だ戦闘態勢を解除できていないようだが。関羽はもう平常である。この辺りは流石だ。

他にも簡雍と国譲が来ると、会議が始まる。早速だがと前置きして、劉備は言う。いやな予感がしたが、中級指揮官である以上、上の命令には従わなければならない。

「陳到は、城壁を攻略する部隊を指揮して貰う」

「分かりました」

「うむ。 兵力は倍に増やす。 本隊から兵力を削り、張飛と関羽に分配する。 私は少し後ろで待機して、全体の指揮を執る」

関羽と張飛に配分する兵力は、城門を開いて出撃してきた時の呂布に対抗するためのものだろう。

流石に憂鬱になった。あの城壁を這い登り、落とされ撒かれる熱湯や弩の連射をくぐり抜け、更に城壁の上で敵と戦わなければならないからだ。味方も援護をしてくれるが、城壁の下には、味方の屍が山と積まれるのは、ほぼ間違いない。

劉備は説明を続けていく。本日の戦いで大きな被害を出した諸侯の部隊は下がり、代わりに袁紹の軍を中心として、虎牢関を攻める部隊を編成することとなる。公孫賛軍は呂布の猛攻で被害を殆ど受けなかったから、当然であろう。それに、張飛と関羽の働きによって、呂布が撤退に追い込まれたのは誰もが見ていた。余計に期待は大きくなったのだとも言える。

「危険な任務だが、頼む。 此処を抜けば、董卓軍は総崩れになるだろう」

「劉備将軍。 これは漢王朝を守るための戦いですか」

「いや、違う。 民を守るための戦いだ」

即答した劉備。関羽と張飛は、少し意外そうに主君であり義理の兄でもある男を見た。陳到は、それは嘘だなと内心で思う。多分、劉備は、陳到の意気が上がる答えを選んでくれたのだろう。

劉備自身は、多分この乱世での栄達を望んでいるはずだ。漢王朝に連なる者だという自称を始めているようだが、それは建前に過ぎないだろう。今の時代、誰もが出世の階段を駆け上がれる可能性がある。

陳到は、復讐を望んでいる。しかし、外戚は力を失い、宦官共は全滅し、黄巾党は既にいない。

ならば、せめて民が安らかに暮らせる世界。それが、無難な所なのかも知れなかった。それに、当面は、口うるさい妻と産まれたばかりの子も養わなければならない。その平均的な人間的用件を満たすことが、今の陳到がするべき事なのであった。信念よりも、まずは生活である。ある意味で、妻の言うことは正しいのかも知れない。

しかし、それで本当によいのだろうか。

迷いを抱えながらも、陳到は自陣に戻る。公孫賛の本陣から、雲梯と弩が用意されてきていた。雲梯は城壁に掛けて駆け上がるための、長い梯子である。頑丈に作られてはいるが、当然登っている間は非常に態勢が不安定になるので、弓矢で下から援護してやらなければならない。もちろん構造的にも無理があるので、防御側は比較的簡単に撃退することが可能である。

攻城戦は、三倍から五倍の兵力がないと成功しない。ましてやこの洛陽近辺では、城の内部に都市が造られているのが普通だ。持久戦を想定した作りであり、生半可な労力で落とすことは出来ない。

袁紹軍の兵士達も、同じように考えていることだろう。

兵士達の士気を考えると、あまり弱気な発言は出来ない。自分用の天幕に戻ると、ごろんと横になり、目を閉じる。

そして、思考も閉じた。

 

翌朝。

早朝から、たたき起こされた。袁紹軍が、攻撃用の太鼓を叩き鳴らし始めたからである。常識的な攻撃開始時間よりもかなり早い。陳到は娘と夢の中で遊んでいたので、相当に不愉快になって、いそいそと鎧を着込んだ。外に出ると、兵士達も既に飛び起きて、走り回っていた。

昨日の軍議で、陳到の副官に正式任命された国譲が、何名かの部下を連れて走り寄ってくる。此奴は肝が据わっているから、ぐっすり寝てしっかり体力を回復していた様子である。

「随分早いな」

「はい。 何でも、敵の神経を削るために、わざと早い時間から攻撃を始めてみせるのだとか」

「ふむ、用兵としては間違っていないな」

「陳到さん、大丈夫ですか? 目の下に隈ができていますよ」

問題ないとは言ったが、すぐに思い直して、兵士達に水桶を持ってこさせる。顔を洗うと、だいぶさっぱりした。陳到は超人ではなく凡人だ。英雄的な能力を持つ超人は、この程度のことで苦労はしないのかも知れないなと、陳到は思った。

袁紹軍五万の兵士達が、ざっと前に出てきたのが見えた。敵も既に城壁の上に勢揃いしている様子である。しかし袁紹軍は、攻撃を仕掛ける様子がない。しばらくにらみ合いが続いたが、不意に音もなく引き始める。陳到も孤立を避けるために、後退せざるを得なかった。どうやら嫌がらせというのは、本当らしい。

早朝からたたき起こされた敵は不機嫌そうにしていて、届きもしない矢を放つ兵士の姿も見えた。敵も指揮は決して高くない。そして敵が休もうとした瞬間、再び攻撃開始の太鼓が叩き鳴らされる。

どうやら袁紹は、敵の神経を最初に削りきり、一気に攻め潰すつもりらしかった。

 

籠城が開始されてから二日。虎牢関の司令部では、苛立った呂布が空腹の虎がごとくに彷徨き回っていた。腕組みした徐栄が咳払いをするとそのたびに席に戻るのだが、またしばらくするとくるくる回り始めるのだった。

「徐栄将軍。 何故出撃させない」

その問いも、既に十三回目だ。他の将達は呂布を怖がっているので、基本的に応対は徐栄に任されている。徐栄はゆっくり、丁寧に言い聞かせていく。

「案ずるな、呂布将軍。 貴殿の出番は、今ではないと言うことだ」

「では、いつなのだ」

「今、敵は此方を苛立たせるために、連日嫌がらせの攻撃を仕掛けてきている。 しかし、敵も呂布将軍を恐れている」

「俺を、恐れているか」

少し呂布の機嫌が良くなった。分かり易い男だ。

今は高順と名乗っている丁原が、言っていた。呂布は猛獣だと。猛獣は、相手を侮ると襲う。逆に相手が隙を見せなければ、攻撃をためらう。恐れず向き合うことで、呂布という猛獣をしつけたのだと。

確かにその言葉は正しい。呂布は愚かではないが、とても単純で、ある意味分かり易い男であった。

「分かった。 少し寝てくる」

「うむ。 呂布将軍は、反撃の際には我が軍の最大戦力として活躍して貰わねばならぬからな。 じっくり休んでいてくれ」

「最大戦力か」

やはり嬉しそうに言うと、呂布は自室に引っ込んでいった。

彼に限らず、基本的に戦場に女性は連れてこない。これは性を汚れと捉える一種の宗教的な思想から来る行動である。だが逆に、それが故に対陣が長引くと兵士達は苛立ちを深める。

呂布もそれは同じの様子だ。元々猛獣のような男である。性欲も、それ相応にあると言うことなのだろう。

徐栄は、徐晃と張繍を連れて、城壁の上に出た。袁紹軍が攻撃可能距離ぎりぎりを、行ったり来たりしている。

「徐晃、張繍、どう見る」

「明らかに罠かと思います」

即答したのは張繍だ。徐晃はまず軍学から教え込んでいるので、こういう場では応えるのが遅い。武勇では徐晃が圧倒的に勝っているので、それぞれの優れた所を学ぶようにと、いつも言っている。徐晃はとても素直に言うことを聞くのだが、張繍は少し己の優れている点をひけらかす悪癖が目立った。いずれ早い段階で、それを是正しておきたいものだと、徐栄は思っている。

「何故、そう思うか」

「敵は攻撃を誘うような行動ばかりを繰り返していますが、見れば陣は整然としていて、殺気を湛えています。 逆撃を狙っているのは明らかです」

「何故攻撃を誘おうとする」

「力攻めでは、被害が大きくなるからでしょう。 城壁にとりついた所を、呂布将軍に横から攻撃されては、目も当てられませんから」

頷くと、良くできたと褒める。嬉しそうにするので、徐栄としても教えがいがあった。天才と言うほどではないが、とても有望な若者だ。張繍は全体的に、要領が良く、部下の言うことを聞き要求を的確に見抜ける主君になれそうである。欠点さえ、きちんと抑えることさえ出来れば。

徐晃は無言のまま弓を構えると、ひゅうと一息に、矢を放った。敵の前線に出てきていた兵士の兜に、矢が突き刺さる。驚いた様子で兵士が数歩下がり、敵がさっと緊張した。浅く刺さったから死んではいないようだが、さぞや胆が冷えただろう。

「これで、敵に冷や水を浴びせられたでしょうか」

「おう、なかなかにお前らしいやり方だな」

事実、敵は一旦距離を取ると、改めて挑発を始めていた。動きも慎重になっており、神経を削られたことがよく分かる。

一旦城壁を降りて本陣に戻ると、二人に学問を教える。徐晃は文盲だったが、今では文字も書けるし、難しい文章も読めるようになっていた。短時間で長足の進歩だ。張繍も負けずと頑張っていて、今のところはなかなか差が縮まらない。

面白いのは、二人の意識の差だ。

張繍に以前、将来何を為したいかと聞いた。そうすると、彼は立身出世だと応えた。

徐晃にも同じ事を聞いた。そうすると、父と兄を養って、楽な生活がしたいと応えた。

どちらも間違った考えではない。この年になってようやく得られた愛弟子達に学問を教える徐栄は、どこかで満たされたものを感じていた。それによって、公務以外の時間は大きく削られ、疲労も溜まってはいたが。

「徐晃は、少し前に進みすぎるのが気になるな。 何かする時は、失敗した時の退路を、必ず確保しておいた方がよいだろう」

「分かりました」

「うむ」

兵士達に鬼将軍として恐れられていた徐栄は、笑みをかみ殺すと、二人に退出して良いと言った。

機嫌良く自室に戻り、報告の竹簡を開いた瞬間。伝令の兵士が、部屋に飛び込んでくる。何かあったのは間違いなかった。

「徐栄将軍! 一大事にございます!」

「どうした」

「ははっ! 洛陽南に防御陣を展開していた胡軫将軍が、敗退いたしました!」

思ったよりも粘ったが、どうやら此処までらしい。しかし、もう少し時間を稼ぎたい所だ。

「ふむ、ならば儂が出向くか」

「それが、もう一つ重要な報告がございます」

「何!?」

「洛陽の民が、一斉に長安へ逃げ出し始めた模様です!」

筆を取り落とす。それはまずい。洛陽の民は二十万を超えているが、彼らは重要な流通、経済の担い手だ。しかも、一斉に逃げ出したと言うことは、今更軍が脅かそうが何をしようが、聞く耳を持つようなことはないだろう。

そして流民という奴は、一度発生すると、際限なく拡大する傾向にある。もはや、手の打ちようがない。

「董卓将軍は」

「当初は流民を食い止めようとしたのですが、幾ら兵士を動員しても、埒が明かず」

「やむを得ぬな。 総員、闇に紛れて本隊に合流する手はずを整えよ。 後は、胡軫軍だが」

「胡軫将軍は、破れさえしましたが、兵力の八割以上は健在です。 孫堅軍によって陣を奪われはしましたが、的確に撤退戦をご指揮されましたので」

それは重畳と、徐栄は呟く。何度か頷いた後、抱拳礼をして跪いている兵士に、命じた。

「すぐに軍議を開く。 主な武将を集めてくれ」

 

虎牢関から、兵士達の気配が消えた。それを聞いた時、最初に動いたのは陳到だった。夜中のことだったのだが、すぐに飛び起き、鎧を着込む。そして、最前線に、兵士達を連れて出た。

劉備の陣にも、伝令を走らせる。遠くの空が、夜にもかかわらず明るい辺りが、いやな予感を喚起させていた。

張飛と関羽が来た。寝起きをたたき起こされた張飛は機嫌が悪そうで、しかも寝間着らしい黄色い三角形の頭巾を被ったままで、右手に枕を抱えていた。可愛らしい熊が刺繍された頭巾は、確か甘が三兄弟の分を作ったとかいうものだ。関羽は無言で嫌そうな顔をしていたが、張飛は嬉々として使っていたという訳だ。この様子だと、劉備も使っているのかも知れない。関羽に到っては髭に寝癖がついて四方八方に伸びていたが、どうにか戦闘は出来そうな様子だ。張飛は酒を飲んでいたらしく、何だか口臭に酒の香りが混じっていた。目も声も据わっている。

「陳到、てめえ。 本当に何かあったんだろうな!」

「逆です。 何もないように見えるから呼んだんです。 どう思いますか、あれを」

「……」

手をかざして見ていた張飛が、やがてあっと叫ぶ。どうやら気付いたらしい。

「兄者、夜なのに空が明るいぞ!」

「それもあるが、関に誰もいないようだな」

「そういえば、呂布の野郎の気配がねえ!」

「やはり、お二方もそう感じられましたか。 敵は夜陰に乗じて、撤退したと言うことでしょうか」

どうやらそうらしい。劉備も少し遅れてきて、関羽と張飛に事情を聞くと、頷いた。劉備の決断は速かった。

「銅鑼を鳴らせ! 公孫賛将軍の陣にも、伝令を走らせろ」

すぐに攻撃開始の銅鑼が叩き鳴らされる。周囲の陣でも、騒ぎが起こり始めていた。最初に反応したのが袁紹軍で、次に敗残兵をまとめて最近合流してきた曹操軍が動き出す。関羽と張飛だけが豪傑ではない。関に敵がいないことに気付ける使い手は、他にもいると言うことだ。

最初に動き出したのは、最も被害が少ない袁遺軍だった。今回の戦役で、袁遺は凡将だというのに好機を掴みっぱなしである。たまにこういう事があるとは、陳到も聞いたことがある。名将と呼ばれるような人間が、どうでもいいような相手に一敗地に塗れる例があるのだが、袁遺にはそれに類する幸運が降り注いでいるに違いなかった。

兵士達が城壁を登り始めた。雲梯を用意させ、陳到も精鋭達とともに、城壁を乗り越える。虎牢関の恐ろしく高い壁を、どうにか乗り越え終わると、思わず息を呑んでいた。

予想が的中したからだ。

「洛陽が、燃えている!」

「なんて非道な!」

誰かが叫んだが、陳到はそうとは思えなかった。何しろ此処にいる軍は、皆洛陽の物資を目当てにしていた連中である。なだれ込めば、いずれにしろ洛陽は火の海になっていたことだろう。

董卓に害されるか、此処にいる兵士達に蹂躙されるか。どっちにしても、少しマシな程度であろうか。その違いしかなかったのだと言える。

少し遅れて、劉備が城壁に上がってきた。彼は陳到ほどは冷静ではなかったが、何処かやるせない雰囲気を醸し出していた。

「そうか、とうとうこうなってしまったか」

「劉備将軍」

「とりあえず、虎牢関を占拠して、洛陽に向かうべきだろう。 逃げ遅れた者が、いるかも知れない」

先に下に降りていた兵士達が、城門を開けた。

予想される過酷な攻城戦は無かった。しかし、それ以上に今後は過酷な状況が到来しそうである。

城壁を降りると、我先の追撃戦が開始される。陳到はその最前線に立ちながら、今回の戦で得られるものは殆ど無さそうだと呟いていた。というのも、後ろに凄まじい光景が展開されたからだ。

大きな城門が開けられたからか、周囲はまるで水牛の群れが突進しているかのような有様となった。人間同士が押し合いへし合いをしながら、我先に洛陽へと走る。中には転んで、味方に踏まれている気の毒な兵士もいた。騎兵は更に役立たずで、あまりにも歩兵達が渋滞しているので、進めず後ろで呆然としていた。そして城門付近では、ついに人が多すぎるために、進軍が止まってしまっていた。二十万からの人間が殺到したのだから、当然とも言える。

「順番に並べ! 押し合っても出られないぞ!」

「列を作るんだ! こんな所を敵に襲われたら全滅するぞ!」

曹操が叫ぶと、流石に青ざめた兵士達は、不格好ながらも列を作り始める。やがて大混雑は少しずつ緩和され始め、指揮官達も門を通ることが出来るようになり始めた。行儀良く躾けられている曹操の兵士達は、綺麗に隊列を組んでいて、既に虎牢関の内側に陣を作っている状況だ。

陳到も早鐘を鳴らさせて、部下達を纏め上げる。行儀が悪く、洛陽へ走っていく連中は、孔?(ちゅう)の部下達だ。彼も諸侯の一人だが、彼自身もまた兵士達とともに、洛陽へ走っていった。意外にも落ち着いているのは袁紹で、部下達を何体かにまとめて、冷静に進軍を開始している。それを追おうとして、また城門が混雑しかけたので、たまりかねた袁紹が一喝した。

「死にたいのか、貴様ら! 後ろから不意を打たれたら全滅するぞ!」

「し、しかしそのままでは、董卓に逃げられてしまいましょう」

「ばらばらに追ったら返り討ちにあうだけだ! あの呂布を相手に、策無しで勝てると思うか! それに敵にはあの徐栄もいる!」

流石にそれを聞いて手綱を緩めた者達もいたが、先に無秩序に出てしまった連中は、もうどうにもならない状態だ。舌打ちすると、曹操が混雑の中、袁紹に馬を寄せた。

「拙者が」

「おう、曹操。 頼む」

「出来るだけ多くの兵士を、連れて戻ります。 その間に、追撃戦の準備を、整えておいてください」

曹操が、陳到の前を、自分の部下達とともに駆け抜けていく。陳到は劉備に意見を求めようと思ったが、肝心の本人が、まだ門の向こうだった。下級指揮官の一人が、そわそわした様子で言う。

「よろしいのですか、陳到様」

「よい。 我が軍は、此処で陣を張って様子を見る」

「しかし、敵に逃げられてしまうのではありませんか? 手柄を横取りされてしまうのではないでしょうか」

「心配するな」

なおも食い下がろうとする下級指揮官に、陳到は顎で追撃をしていった兵士達の様子を指す。

「見ろ、あれを。 呂布と徐栄が出てきたら、あのような連中では、ひとたまりもないだろう。 関羽どのと張飛どの無しで、お前はあの呂布と戦えるとでもいうつもりか? 今は劉備将軍が追いついてくるのを、少しでも有利な追撃態勢を作りながら、待つのが最上だ」

「分かりましてございまする」

点呼を取らせる。何とか脱走して追撃に加わる兵士が出るのは避けることが出来た。

半刻ほどして、やっと劉備が追いついてくる。公孫賛も一緒だった。抱拳礼をして、状況を説明。公孫賛が、意外なことを言った。

「そうか。 問題のない判断だ」

「公孫賛将軍?」

「我が軍は、虎牢関の守備を買って出る事にした。 全軍少し引き返して、陣を張り直すぞ」

主将である公孫賛の命令は、鶴の一声である。

不満そうだった兵士達も、それには逆らえなかった。

 

膨大な数の流民が、洛陽から逃げ出している。殆どは軍のいない長安へ向かっていた。一人が逃げ出すと、後は雪崩と同じである。もう兵士達も止めようが無く、洛陽の治安は完全に崩壊していた。

闇の中、無人と化した家屋の屋根に立ちつくしているのは、林の名を襲名した芙蓉である。彼方此方に火が上がっているのは、火事場泥棒達の仕業であろう。特に豪商は集中的な襲撃を受けたらしく、彼方此方で悲惨な光景が展開されていた。略奪、強姦、暴行、強盗。あらゆる悪に、役人は手出しが出来ない状態である。しかも殆どの役人は、董卓の恐怖にすくみ上がってしまっていて、自発的に行動するなど思いも寄らない状況であった。何時の時代でも、体制が崩壊する時に、繰り広げられた光景だ。

林の背後には、数名の部下達が控えている。林が顎をしゃくると、忠実な僕どもは報告を始めた。

「董卓軍が動きました」

「ほう」

「豪商達の屋敷を組織的に襲い、金品を略奪しています。 それだけではなく、歴代皇帝の墓を暴いて、副葬品となっている金品を全て運び出しているようです」

「ふ、なるほど」

暴徒に略奪されるくらいなら、自分たちで抑えてしまおうと言う訳だ。食えない考え方だが、しかし。後の歴史に、信じられないほどの悪名を残すことになるだろう。だが、考えてみれば、董卓、いや董俊は、歴史など気にもしていない。彼の目的は、漢王朝の壊滅的な殲滅である。

やがて、南部戦線から撤退してきたらしい胡軫軍が、略奪を行っている董卓軍本隊と合流した。そのまま素早く略奪を終えると、流民に紛れてさっさと逃げ出す。最後に都に入ってきたのは、呂布が率いるおよそ二万五千。彼らは洛陽に片っ端から火をつけると、後は見向きもせずに、流民に紛れて散っていった。

猛火に包まれたとはいえ、その全てが燃えている訳でもない。林は的確に燃えていない場所へ移りながら、煙に巻かれる逃げ遅れた住民達を見つけた。もちろん、助けるつもりなど、これっぽっちもない。

「ふむ、妙だな」

「どうしました、林大人」

「呂布の軍が少ない。 多分徐栄辺りが、伏兵として残ったな」

徐栄の戦歴は、既に部下達から聞いている。凄まじい活躍ぶりで、実際には呂布よりも多くの敵を殺しているだろう。今頃、考え無しに追撃してきている連合軍は、悲惨な目に遭っていることは間違いない。

この戦いは、勝った者が一人も居ない結果に終わりそうだと、林は思った。董卓は洛陽と中原への足がかりを失い、諸侯はただ兵を疲弊させるだけ。後に来るのは、恐らくは大規模な無秩序状態だろう。

実に素晴らしい。林は笑いをこらえるのに、苦労した。

「如何いたしますか」

「半数を長安に派遣して、董卓軍の動きを逐一知らせよ。 私は、本格的に荊州へ移行する準備を整えておく」

「承知いたしました」

さっと部下達がかき消えたのを見送ると、林は懐から剣を取り出した。丁度いい。前祝いに、何十人か殺しておくことにしようと思ったからだ。この混乱は、絶好の好機である。林の内側に燻る欲求の中で、一番強いもの。まるで闇から沸き上がるような殺戮欲を満たすのには、最高の環境であった。雑魚ばかりなのが残念だが、それでも数が集まればそれなりに面白いだろう。

まだ火が回っていなかった富豪の家から、どやどやと出てきた二十人ほどの兵士を見つけた。悲鳴を上げる若い娘を抱えている男は、性欲剥き出しの顔をしていた。いずれもが手に金品を握っており、刀は血にまみれている。

屋根から跳躍。すとんと、彼らの前に着地する。ぽかんとしている一人の喉に、無造作に剣を突き刺す。

そして、後は。

片っ端から惨殺した。

最後の一人をおもしろ半分に殺すと、半分裸にひん剥かれて、連れ去られようとしていた娘だけが残っていた。辺りは屍の山。本来なら、正面から戦っても勝てる相手ではない。これも殺すかと思って、近付いていくと。真横に殺気を感じた。反射的に飛び退くと、今まで立っていた位置に、矢が突き刺さる。舌打ちして、物陰まで飛び退く。相手は、姿を見せない。

「その薄汚い殺気、あの林の血を引くものだな」

それなのに、声だけはする。不愉快な相手だ。目を閉じると、じっくり相手の気配を探していく。娘は逃げてしまったが、それは別に構わない。あんなのは、いようがいまいがどうでもいい。

「その年で、既に性根が腐りきっておるか」

「何者だ」

「お前に応える名などない。 ただ、お前を捜して十年彷徨ったとだけ言っておこう」

「ふん、それはそれは。 熟成した分、殺しがいがあるというものだ」

剣に着いた血を舐め採ると、林は既に見つけた気配に向けて、ゆっくり建物を盾に迂回していく。

恐らくは、母に仕事で家族なり上司なりを殺された輩だろう。つまり、林を恨む充分な理由がある。だから、別に恨むことは別に何とも思わない。むしろ良いことだ。此方としても、殺すのが楽しくなるからだ。

相手が、林の接近に気付いて、距離を取ろうと飛び退く。速い。軽く追うが、すぐに姿を見失った。

しかし、僅かだけだが、その姿は見た。

まだ年若い娘だった。黄金色の髪をしていたから、西域から来たものであったのかも知れない。ルーと同類だろうか。

どちらにしても、殺すべき楽しそうな相手が増えたのは、良いことであった。雑魚ばかり殺していても、退屈であったからだ。

兵士達が、死骸を見つけて、集まってくる気配があった。もとより林の武術は、不意を突いて初めて生きてくるものであり、正面から戦っては分が悪い。頭の悪い雑魚どものざわめきに失笑しながら、林は闇へと姿を消した。

 

まるで、それは鉄壁であった。

曹操はどうにか陣を構えると、逃げてきた味方を庇いながら、徐栄の軍勢と相対していた。敵には追撃の隙がまるで存在せず、そればかりか向かい合っているだけでやっとだった。放たれている戦気が、尋常ではないのだ。

馬上で曹操は、冷や汗を掻き通しであった。闇夜にはためく徐の旗は、ここから先へは通れないことを示すかのように、風をはらんでいる。そして味方の兵士達も、それ以上進むことが出来ず、すくみ上がっていた。

楽進が最前線で敵と向かい合っているから、簡単に崩されるようなことはないだろう。だがしかし、それでも。どれだけ敵陣を分析しても、勝ちの目を、曹操は見いだすことが出来なかった。

「典偉よ」

「どうしました」

「今の儂は、どう見える」

「恐れながら、徐栄という大敵の前に、手も足も出ないように見えます」

大きく頷くと、曹操は天を仰いだ。己の今の心境を、ずっと記憶にとどめておこうと思ったからだ。つい数日前に、典偉に河へ放り込んで貰ったというのに、まだまだ性根は代わっていないらしい。しばしの精進が必要だろうと、曹操は思った。

前衛にいた夏候惇が、馬を飛ばしてきた。曹操同様に、全身に冷や汗を掻いていた。

「敗残兵の収容、ほぼ終了しました!」

「孔?(ちゅう)殿は」

「どうにか生き延びたようですが、しかし左腕を失われていて」

「やむを得ぬか。 他の兵士達の状況に比べれば、まだましよな」

曹操は歎息すると、全軍に撤退命令を出す。袁紹の増援を呼んでも良いが、この夜闇では多くの兵士を展開できないし、奇襲を受けたらどのような混乱が起こるか分からない。此処は撤退が、賢い考えだ。

最後尾に楽進を残し、そのまま曹操は兵を帰す。無理に追撃していった兵士達のうち、生きて帰れたのは四割程度。虎牢関を抜くのに、連合軍は随分大きな犠牲を払った。翌日、朝になってから進撃するにしても、手にはいるのは焼け野原になった洛陽だけだろう。このまま、軍が維持できるとは思えなかった。

ただ、どのみち連合軍が乱入したら、洛陽は焼け野原になっていただろう。それを考えると、どっちにしても、民にとっては不幸であっただろうか。

徐栄は追撃してこなかった。虎牢関の一連の戦いは、この夜に終わったと言っても良かった。

 

4、祭りの後と、尾を引く憎悪

 

洛陽に最初に入ったのは、孫堅の部隊だった。孫堅の部隊を見て、思わず呻いたのは、袁紹であった。

洛陽の南部に貼り付いていた彼の部隊は、誰も彼もが飢えに目をぎらつかせていて、餓鬼同然の姿をしていたからである。馬も半減していた。どうやら、食べてしまったらしかった。このままでは、残りの馬も食べてしまうことだろう。

袁紹軍が来ても、彼らは殆ど無反応であった。慌てて馬を進めた袁紹の前に立ちふさがったのは、穏やかならぬ目つきをした、孫堅であった。無精髭が生え、頬は痩けて、まるで百年の飢えを経験したような顔であった。

袁紹は、戦慄する。飢えは人を変えてしまうと聞いていたが、まさかこれほどとは。江東の猛虎と言われた男が、このような有様になってしまうとは。今更ながら兵士達の苦悩を知って、袁紹は恐怖と絶望を同時に感じていた。

「孫堅将軍、何という有様か」

「袁術将軍が、食料を提供してくれぬ。 董卓軍は、自分の食料に火を掛けて、撤退していった。 洛陽には、米粒一つ残ってはいなかった」

「すぐに、出来るだけの手配をしよう」

「頼む」

血を吐きそうな顔で、孫堅が言った。腐敗臭がする。どうやら、怪我人は食糧の不足もあって体力が維持できず、傷口を腐らせてしまったり、そのまま息絶えてしまう様子だった。

そして場合によっては。その屍も、すぐに同胞の腹に入ってしまうのだろう。

蒼白になって、袁紹は辺りを見て回る。

洛陽は完全に焼き払われていた。ただの一晩で、百年以上も漢の天下を支え続けた都が、焼けて消えてしまったのである。点々と散らばっているのは、焼けこげた死体だ。手を天に突き出した死骸は、袁紹も今まで攻城戦などで見たことがあったが。これほどの数を見たのは、初めてであった。

どのみち焼き払われる運命だったのだと呟いてみたが、袁紹はそこまで割り切ることが出来なかった。

「凄まじい光景ですな」

「うむ。 この光景を造り出したのは、やはり董卓か?」

「違うでしょうな」

側にいた田豊が即答した。彼は非常に頭の良い男だが、袁紹から見れば、その賢さが却って不気味だった。参謀とはそういうものだと割り切っていても、いつ裏切られるかと思うと、胃が締め付けられるように痛い。

田豊はというと、どうやらそんな袁紹に時々呆れはしているようだが、それでもきちんと仕えてくれている。だから今は、二人の危うい関係は巧く機能していた。

「民は其処まで柔ではありません。 きっと董卓が負けることと、連合軍がなだれ込んだら洛陽は火の海になることを想像して、自分から長安なり荊州なりに逃れていったのでしょう。 それに促される形で、董卓は慌てて洛陽を後にした。 もちろん、虎牢関の戦況が思わしくなかったという事もあるのでしょうが」

「つまり我々は、民の偶発的行動によって負けたというのか」

「そう言うことになりましょうな」

「雄敵呂布ならともかく、民が大勢逃げ出したと言うだけで、董卓もそれに併せて逃げ出しざるを得ず、我らも戦が続けられなくなるとは」

袁紹が大きく歎息した。

既に、糧秣は絶望的な状況である。これから故郷に引き上げるだけでも精一杯だ。しかも引き上げた所で、豊富に食料が蓄えられているという訳でもない。ここ数年の悪政と飢饉の影響で、殆ど富は何処にも残っていない。その上、多少の蓄積があった洛陽は、この有様だ。

それでも。袁紹は、袁術のしでかした失敗の尻ぬぐいは、してやろうと思ってはいた。袁紹は律儀で、性根が善良だった。自覚はしていなかったが。

「かなり厳しい状態だが、孫堅に最低限の食料は分けてやれ。 袁術にも、孫堅に、此処にとどまるくらいの食料は分けてやるように、きつく言っておけ」

「ははっ。 しかし、袁紹殿、よろしいのですか? 弟君の顔に、泥を塗ることになりましょうぞ」

「かまわぬ。 あれは袁本家の長男に産まれたと言うだけしか取り柄のない男だ。 こうやって、恥の一つも掻いておいた方が良い。 だから傍流に産まれた儂に、跡継ぎの座をとられるのよ」

「かしこまりましてございまする」

田豊が去るのを見届けると、すぐ後ろに控えていた文醜に、袁紹は命じた。

「引き上げるぞ」

「は。 しかし、連合軍はどうするのですか?」

「解散だ。 これ以上、洛陽にとどまっていたら、全軍が餓死してしまうわ」

焼き尽くされた洛陽には、もはや何もない。

再建には、十年以上の時が、確実に必要だった。

 

曹操は、洛陽を見下ろす小高い丘にいた。

洛陽から、殆どの人間が逃げ出していく。ほんの一晩で民があらかたいなくなり、皇帝も董卓もいなくなり、後から入ってきた軍達も、ことごとくが逃げ出していった。唯一残ったのは孫堅の軍だが、これは後始末を押しつけられたに等しい。特に悲惨だったのは、曹操の軍だった。彼の部隊だけ、二度も敗退しており、王匡や鮑信の敗残兵までも押しつけられて、これから敗戦処理に邁進しなければならない状況だ。

洛陽近辺には、朱儁将軍が残っていた。彼は逃げ損ねた民などをまとめて、しばらくこの近辺にとどまるという。年老いて最近引退した皇甫嵩と殆ど同じ年齢にもかかわらず、このような仕事ばかり押しつけられて、気の毒な話である。朱儁は孫堅とも関係が深いので、二人で連携して巧くやって貰うしかないだろう。洛陽の再建もしてくれるかも知れない。あまり、期待は出来ないが。

出てくる時にきらびやかだった鎧なのに、既に傷だらけだ。持ってきた愛剣は二本も折ってしまった。秘蔵の品も、戦いの中で幾つか紛失してしまった。特に背が伸びる薬を失ってしまったのは痛かった。あれは高かったのだ。背を高く見せる靴を失わずに済んだのは、唯一の救いであったが。

典偉が構えをとったので、振り向くと。其処には、劉備とその配下達がいた。

「此処におられましたか」

「おお、劉備殿か」

「曹操将軍も、今回は災難でしたな。 何の利も益もない戦いに巻き込まれてしまって」

「そうだな」

ルーが命がけで採ってきてくれた情報を、今後生かす機会があるのだろうか。ルーが枕元に立って、首を絞められないか心配だ。彼奴は生きていた時から怪物じみていたから、それくらいは平気でやってみせるだろう。

ただ、董卓も、これで中原に対する足がかりを失った。長安はもとより都として問題が多々ある場所で、中原からも遠い。今後董卓の勢力は半減し、戦略的価値も著しく減ることだろう。

逆に言えば。

今回の戦いの結果、一人勝ちする者はいなくなる。今後は恐らく、董卓と、袁家による二大勢力の争いが始まる。いや、曹操の見たところ、袁家はこのまま二分する可能性が高い。下手をすると、三分した勢力同士による、凄まじい乱戦が開始されるかも知れない。しかも大勢力と言っても、支配力は知れている。今後は野心家達が入り乱れての、猛烈な総力戦が開始されるだろう。

曹操は、前から言おうと思っていたことを、劉備に告げた。

「劉備殿。 我が軍に来る気はないかな」

「ほう、これは光栄なお言葉ですな」

「今回の戦いで、確信した。 余の力はまだ足りぬ。 余自身の力もそうだが、何よりも優秀な部下が足りぬのだ。 此処にいる典偉や、楽進は優秀な男だが、それ以外にはまだこれといった将がおらぬ。 おぬしであれば、我が覇道を必ずや手助けできる。 そう思うのだが」

しばし黙り込んでいた劉備は、やがて首を横に振った。露骨な失望が曹操の顔に浮かぶ。だが、劉備は表情を変えなかった。

「貴方は、今の漢王朝を、どう思われますか」

「既に滅びている」

「私は、そうは思っていません。 確かに救いがたい部分も多々ありますが、しかし、立て直せるものだと思っております」

其処が、私と貴方の違いですと、劉備は言った。

後ろにいる中級将校が、僅かに眉をひそめたようだが、曹操は気にしない。強い人徳を持つ劉備であっても、部下が完全に一枚岩という訳がない。多少は思想が違う部下がいてもおかしくはないのだ。

「なるほど、貴公に、自分の王国を作る気は無いと言うことだな」

「私は、漢王朝を立て直して、その下で民が安寧に暮らすことが出来れば、それで良いのです」

「事実上漢王朝は、王莽の手で一度滅びているではないか。 光武帝より150年あまりしか、実際の漢は歴史がない。 その程度しか実績を持たぬ王朝に、今更何を託そうというのだ」

漢という仕組みそのものが、もう限界に来ているのだと、曹操はもう一度繰り返した。劉備は、笑顔を崩さない。

「そのことに関しては、恐らく平行線でありましょう」

「ふふん、そうか。 しかし、いずれ貴殿は、我が配下となることだろう」

「その時はよろしくお願いいたします」

「うむ」

劉備は一礼すると、曹操の側を離れていった。典偉はしばし関羽と張飛を見つめていたが、やがて歎息した。

「殿、もしも戦いになれば、私ではあの二人に敵いませんでした。 一人でさえ、倒すのは無理だったでしょう」

「案ずるな。 あの劉備は、戦う場所をわきまえている男だ。 無為に此処で戦を始めるようなことは無かっただろう。 仮に儂とお前を倒すことが出来ても、兵力に差がありすぎる。 いずれは討ち取られるような戦を、感情にまかせてする男ではない」

少なくとも、今曹操の前にいた劉備は、そういう男だった。

既に、混乱は始まっている。兵糧の貸し借りの問題が表面化し始めており、連合軍だった諸侯の軍勢の間で、小競り合いが始まっているという。特に劉岱と喬冒の軍勢の間での対立は深刻だとか。かっては袁紹が目を付けていたから良かったのだが、今ではいつ発火してもおかしくないという。

いずれにしても、曹操にはあまり関係がない話である。

「一度、?(エン)州に戻るぞ。 戦力を建て直す」

全軍に号令を掛けると、曹操は洛陽を離れた。

そして潮が引くようにして、洛陽から民がいなくなった。

それと同時に、今まで味方だった者同士の、凄まじい暗闘が開始された。

 

最初に暗闘の犠牲になった諸侯は。奇しくも、檄文を発し、董卓討伐軍結成の切っ掛けとなった男。喬冒であった。

鳴り響く銅鑼の音。

喬冒は、ついにその時が来たことを悟った。洛陽を完全に離れてしまえば、青州太守の劉岱にとって、喬冒は土地からしても離れた相手になる。仕掛けてくるなら、今晩だろうと思っていたのだが。やはりそうなった。

兵士達には、備えさせている。

そもそも、劉岱に兵糧を貸したのが間違いの元だった。性根が卑しい劉岱は、如何に兵糧を借り逃げするかしか考えておらず、返せと言ったら逆に激高する有様だった。そればかりか、今度は此方が持っているなけなしの兵糧を目当てに、戦を仕掛けてこようという雰囲気さえ醸し出していたのだ。

青州は劉岱が収める土地だが、半ば黄巾党の残党達に支配されているという噂があり、借りたものを返せる状況にないのだろうという事は分かる。しかし、これではまるで、山賊か何かではないか。

鎧を着て天幕を出ると、既に陣の各所から火が上がっていた。もはや、檄文を発した事など、何一つ意味を成していない。董卓による報復という最悪の事態は逃れはした。だが、倍の兵力を持つ劉岱軍に夜襲を仕掛けられて、しかもそれを防げなかったとなると。もはや喬冒の運命は決まっていた。

家族を先に呉へ逃しておいて、良かった。ただ、そう喬冒は思った。

「殿! お逃げください!」

「いや、もういい。 この様子では、もはやどうにもならぬだろう。 白旗をあげよ」

「し、しかし殿!」

「お前達だけでも生き延びよ。 劉岱が狙っているのは、儂の首だけだ」

こういう発言をする時点で、喬冒は群雄になれない男なのだ。それは自覚している。武将達も、それを察してか。一礼すると、我先に闇へと散っていった。程なく、槍を構えた兵士達が、喬冒に殺到してきた。

新しい時代の幕を開くことが出来た。

董卓による全土の支配は、これで阻止することが出来た。

友よ。今、儂も、お前のいる場所へ行こうぞ。儂は失敗ばかりして、結局何も為すことがなかったが。それでも温かく迎えてくれるだろうか。

そう呟く喬冒の胸に、無数の槍が突き刺さっていた。

 

勝ち鬨を揚げる劉岱軍を見下ろしていたのは、黄金の髪を持つ娘であった。手にぶら下げているのは、さっき刈り取ったばかりの生首である。

娘は間諜であった。

ただし、さほど腕が良い間諜ではない。それが証拠に、今手にぶら下げている首を取るのに、随分苦労した。息も上がっているし、傷も浅くはない。ただし、手にしている首そのものには、大きな価値がある。

これは、河北の間諜組織を収めている、毛という男の首だ。混乱の中、前線に出てきた所を襲撃した。そして、ついに首を取ったのである。

董卓に殺された姉の敵を討ちたい。そう娘は願っていた。しかし、それには力が足りない。今はただ、己の力を蓄えながら、董卓を打倒しうる者を見極めたい。そう考えていたのだ。

だが、最有力候補だった曹操は、董卓配下の徐栄に二度も敗れ。袁紹はみっともなく逃げだし。袁術に到っては、問題外という有様であった。

毛の首を取ったのは、曹操に売り込むためだった。しかし、これでは無理かも知れない。曹操が董卓を倒すまで、一体どれほどの時が掛かるのか。かといって、益州に引きこもってしまった劉焉や、荊州にいる劉表ではあまりにも遠すぎる。孫堅では、単体で董卓を倒すのはとても無理だろう。

だから、諸侯の中で、使えそうな相手を探していた。そして、この惨劇に立ち会ったのである。

「無様な連中。 小さな虫同士で噛み合って、何が楽しいんだろう」

まだ幼い顔立ちから、痛烈な批判が出る。

元々、漢民族ではない娘は、社会の底辺で生きていくために、姉に従って闇の技を覚えた。そうしなければ、人間として生きることさえできなかった。しかし、それでも人間が持つ闇の深淵は知れない。乱世になると、その凶暴な本性が、露骨に表に出てくる。娘は、何度もそれに家族を蹂躙されてきた。自分自身も。

だから、手段を選ばず、強くなったのだ。

林という最強の闇が、今大きく蠢こうとしている。奴は奇しくも、自分と同年代の娘に思える。何という皮肉。今回殺した毛のような狒々爺であったら、どれだけ殺すのが楽であったか。

血震いすると、娘は首をその辺りの草むらに隠して、陣に忍び込むこととした。劉岱を殺すのは難しいが、喬冒の首を遺族に届けてやる位のことは出来るかも知れない。持ち運ぶ際には酒か何かに浸けないと、すぐに腐ってしまうから、結構お金がいる。伊達や酔狂でやるには、ちと危険が大きいことだが。

だが、娘は、あの林のような怪物にはなりたくなかったのだ。人間の果てしない業を目にしているが故に。

喬冒の首を切り落とした兵士が、喚声を上げている。周囲には十人以上がいて、更に集まってきている。もう、この状態から首を取り返すのは不可能だ。一旦距離を取って、彼らが油断する隙を狙うしかない。

燃えさかる陣から、兵士達が引き上げ始める。劉岱の陣は闇の中で、飢えた虎のように殺気を放っていた。其処へ、兵士達はぞろぞろ帰っていく。時々喬冒軍の残党が駆り出されている様子だった。兵士達は皆殺気立っていて、少しでも手柄を立てようと、或いは己の凶暴な欲求を殺人という形で満たそうと、それぞれ必死だった。

距離を保ったまま、娘は着いていく。元々低い背を、草むらに隠して、まるで肉食獣のように敏捷な動きで。

程なく、喬冒の首を取った兵士が、陣に入ろうとして。

その瞬間、足下を射た。

彼が躓き、首から手を離す。首袋に入れられた、喬冒の首が、転がった。陣は小高い場所に作られており、見る間に転がる速度を上げる。闇の中である。一瞬で大切な戦利品を見失った兵士は、泣きそうな顔で辺りを探した。だが、見つかる訳もない。

首を拾い上げた娘は、さっとその場を後にしたからだ。

貴重な大将首と、それに闇の世界での有名人の首。しばし悩んだ末に、娘は呂布と互角に戦ったという部下二人を有している、劉備の所へ向かうことにした。

見るだけなら良いだろう。

その時は、そう思っていた。

 

5、大乱の時代、幕開け

 

味方の残存勢力をまとめて長安に到達した徐栄は、ごった返す流民を見て流石に絶句していた。

皆、飢えている。数は二十万を軽く超えているだろう。長安の元からの民を併せると、四十万以上に達するはずだ。彼らは一様に不満を抱えている。下手な政策を採ろうものなら、あっという間に大反乱が発生して、董卓の首はすっ飛ぶことになるだろう。

かといって、あの董卓が、暴虐の手を緩めてくれるとは思えない。

徐晃が、穏やかならぬ顔で、周囲を見回していた。彼の父と兄は、洛陽で暮らしていたのだ。巧く逃げ延びていればこの中にいるはず。徐栄は頷くと、彼に指示した。

「一日だけ、時間をやろう。 家族を捜してくると良い」

「ははっ! 必ず戻ります」

「うむ」

張繍は董卓軍内でも大幹部になる張済の一族だから、あまり危険は気にしなくても良い立場である。必死にすっ飛んでいった徐晃を無感動に見つめていた張繍に、徐栄は聞いてみる。

「張繍よ、どうした」

「はい。 彼らをどう活用するべきなのか、考えておりました」

「まず食べさせてやることを考えなければなるまい。 なかなかに難儀なことだぞ、これは」

「分かっております。 長安の民がいきなり倍増する形ですし、長安の蓄えを放出しなければならないでしょう」

それに続けて、何か張繍が言おうとしたのを遮るように、伝令が飛んでくる。この状況での伝令である。ろくでもない事に違いないと思ったら、その予想は当たっていた。

「徐栄将軍!」

「どうした」

「それが、不可思議なことが起こっています! 流民達が、それぞれ北上する者達と、南下する者達に分かれ始めています! ほとんどは長安に入ろうとしません!」

なるほど、そう言うことか。徐栄は唸った。流民達も、愚かではないと言うことだ。今後戦乱の発生確率が低いと思われる江南と、河北に逃れようというのだろう。これが意味する事は、ただ一つしかない。

董卓は、民に信頼されていないのだ。致命的な段階から。

今までの暴虐を考えると、無理もない話である。この流民は一見貧民の集まりにも思えるが、武装すれば兵士にもなるし、知識層の人間も多く混じっている。董卓軍は、彼らを養うことが出来ない。

掌の間から、砂金がこぼれていくかのような光景であった。

徐晃が戻ってきたのは、夕刻だ。どうやら家族は無事であったらしい。僅かな砂金は、取りこぼさずに済んだ。それが救いであった。

残務を終えると、徐栄は宮廷に参上した。既に呂布は他の将とともに董卓の側に控えていた。董卓は早速気に入らない文官を処刑する命令を下したらしく、辺りには重苦しい空気が漂っていた。

このまま、長安も、董卓に食い尽くされるかも知れない。

徐栄はそう思ったが、口にはしない。暴虐であっても、徐栄を認めてくれた主なのだ。今まで傭兵という根無し草だった徐栄に、これほどの大軍を指揮する機会をくれた存在なのである。

それに、漢の皇帝も、董卓は抑えている。逆らうことは、考えられなかった。

「徐栄よ、よくぞ戻った」

「力いたらず、申し訳ありませんでした」

「良い。 そなたの鬼神がごとき暴れぶりは、諸将が口を揃えている所だ。 しかもあの小生意気な曹操を、二度も破ったと言うではないか。 そなたには、更に高い位を与えてやらねばなるまいな」

「光栄にございます」

機嫌が良いようで、徐栄は安堵した。董卓は基本的に身内には優しいのだが、それでも怒る時には怒るからだ。

「知っているだろうが、洛陽には孫堅、その西には朱儁が謀反して残りおった。 連中はお前も知っての通り手強い相手だ。 まとまりのない軍では、討伐に向かわせても、返り討ちにあうのが関の山だろう」

「御意にございます」

「うむ。 其処で、そなたに三万の軍を引き続き授ける。 長安の東に、眉宇と呼ぶ城を築き、其処にて東よりの襲撃を見張れ。 積極的に攻勢に出る必要はない」

的確な戦略だ。足元が固まっていないのは、董卓も同じなのだ。戦場では無能な人物だが、ある程度の戦略眼はあるという事なのか。いや、徐栄は少し前から疑念を抱いている。本当に、これらは董卓が考えている事なのか。

宮廷を提出する途中、足早に歩いている美しい娘とすれ違った。確か、董卓の孫娘の董白だ。以前はまだ無邪気な子供だったのだが、今はもうすっかり美しく成長している。董卓が相当深い愛情を注いでいると言うことで、不幸な話である。ろくな男が寄ってこないだろうから。縁談で、親ほども年が離れた男の相手をさせられるのは、今からほぼ間違いない所だ。

「徐栄将軍?」

「おや、如何いたしました」

その董白が、振り返って一礼してきた。徐栄は意外だと思いながら、それに応える。周りの兵士達が青ざめる。董白は、董卓の宝も同然だ。下手な扱いをしたら、首を飛ばされる。徐栄も、董白を見る董卓の眼がおかしいことは承知はしている。だが、それが故に、如何に大事かという事は理解しているつもりだ。

しかし、徐栄は董卓の不興を買うような事を恐れてはいない。場合によっては、董白の政略結婚の相手にも成りうる武勲を立てたし、何より今董卓軍を支えているという自負もある。

「洛陽の街は、どうなったのです」

「暴徒によって、全て焼き尽くされてしまいました。 惜しい話です」

「嘘。 祖父の命令で、火を放ったのでしょう」

声を荒げるようなことはなかったが、董白はじっと此方を見つめてきた。咳払いすると、徐栄は言う。

「あの状況では、仕方がなかったことなのです。 董白どの」

「どう仕方がなかったというのです」

「洛陽に迫った賊軍は、皆宝物と食料を目当てにしていました。 彼らが乱入すれば、いずれにしろ洛陽は火の海となっていたでしょう」

これは正論だから、別に声を荒げる必要など無い。

ただし、董白は賢い娘であるし、そんな事くらいでは屈しなかった。

「祖父の暴虐が、招いた災いではありませんか」

「董卓様は、何か考えあっての事なのでしょう。 残念ながら我ら臣下に、その真意は測りかねます」

「徐栄」

「何でしょうか」

董白は、冷たい眼で、貴方でもそのような逃げ方をするのですねと言った。

この時、徐栄は董白が何か知っていることを悟る。そして、この災いが、恐らくはマダ終わらないだろう事も。

徐栄は自宅に戻ると、すぐに張繍と徐晃を呼んだ。

そして、出来るだけ急いで、己の全てを仕込むこととしたのであった。

 

すっかり気力を失ってしまってはいるが、間諜としての仕事はそれなりにこなしている李需が、報告書を持ってきた。董俊は中身を確認すると、親族会議で披露することを決めた。

少し前から、母の眼が見えなくなってきている。もう覚悟していたことだったが、それでも時間がないことを悟らされる。すぐに会議を招集。眼が見えなくても、まるで妖のような執念で、思考だけははっきりしている母が最上座につく。その隣には、最近目立って発言が多くなってきている董白が座った。

全員が揃う。長安でも、基本的に、することは同じだった。

「母上、それでは報告を開始いたします」

「おう。 俊や、何かあったか」

「幾つか。 まず、袁紹ですが、積極的な勢力拡大工作を開始いたしました。 冀州の韓馥から州牧の地位を奪い取った模様です。 これに、弟の袁術が反発、各地の諸侯を巻き込んで、袁家の内乱が始まっています」

「ほう、そうかえ。 どうやら、完全にこの国は三つの勢力に別れるようだね」

ひひひひひと、母が嗤う。最近は全てが妖怪じみてきている母は、笑い声までもがおかしくなりつつある。本当に眼が見えないのかと不安になるのだが、その両目はしっかりと閉じられていた。

「袁術は公孫賛の抱き込みに成功。 このほかにも孔融、陶謙等が、袁術にすりよる姿勢を見せています」

「ほう。 そうなると、袁紹の方には誰が着く」

「曹操がまず第一に、劉表も袁紹の下につく模様です。 袁術の動きは速く、曹操には陶謙を、劉表には孫堅を当てる構えを造り出しています」

「ふん、袁術が考えたことではないさ。 小利口な部下が、適当に口利きをしたのだろうよ。 袁紹なら思いつくかも知れないが、あのような小僧に、何が出来るものか」

同感である。袁術には遠大な戦略を考えるような頭脳など無い。今まで何度か接触してきて、身の程知らずの野望と、名門袁家の誇りばかり鼻につく、愚かな男だとしか思えなかった。急に進歩したようなことも考えられないし、恐らくは母の発言が正しいはずだ。

董俊は、今だ生きている兄のことを思い出す。敢えて環境を厳しくしているというのに、気が触れてしまっている兄は、今だ牢の中で生きながらえている。人間としての知性を無くしてしまっても、あれだけ生きる事が出来るのだ。例え愚かであっても、袁術は侮れないのかも知れない。

とん、と煙管を叩いて、母が煙草の燃えかすを落とした。皆が背筋を伸ばす中、董家を取り仕切る、大妖怪が発言する。

「さて、それじゃあ、いよいよこの長安も滅ぼすとしようかね」

「長安と洛陽の中間にある弘農は如何いたしますか」

「同じだよ。 まとめて焼き尽くしてしまうとしようかい」

「大お婆さま!」

もう、白の言葉も、母の耳には入らない。もはや足腰も悪く、眼も見えないこの女怪こそが。なんということだろう。実は今、漢をもっとも強力に動かしている、その根源なのだ。

「俊! まとめて長安と弘農を滅ぼす手だてを考えな」

「そうですな。 我らがいきなりいなくなる、というのはどうでしょう。 そして残るのは、我が配下の軍人達だけ。 王允もそろそろ斬り捨て時です。 あいつに全てを押しつけて、我らは消えてしまう。 後は想像を絶する混沌が訪れます。 それで、長安も弘農も、綺麗に焼け野原になるでしょう」

「ほう、なるほど。 主体的な手綱が無くなってしまえば、馬は暴走するばかりだ。 確かに面白い手だね」

「時期に関しては、後で適当に吟味いたします。 呂布も抱き込んでおいて、計画の一翼を担わせましょう」

董俊の母が頷くと、会議は終了した。

後は、どうやって姿をくらますか、考える必要がある。丁原と同じように、素性を偽るのが一番だろう。そして、誰も知らない闇へ潜り込み、この大陸をさらなる混乱の中にたたき落とすのだ。

後宮を出ると、董俊は満点に広がる星空を見た。

あの星空でさえも、地獄の業火で焼き尽くしてくれよう。

そう、呟く。

兄の代わりとして生き続け、そして今も結局兄の代わりでしかない自分への怒り。何時までも死なず、知性無き怪物として牢の中で蠢き続ける兄への恐怖。そして自覚している、肉親の情を超えた董白への劣情。その全てが、董俊の中で混沌となり、闇を造り出していた。

仏頂面で立ちつくす呂布を、ふと董瞬は見た。そして、口の端をつり上げる。

「呂布よ」

「どうしましたか」

「そなたを後数年で、歴史に名が残る、最強の武人としてやろう」

「それは嬉しいことです」

そう言いながらも、呂布はやはり仏頂面だった。

董俊は、其処に、己と同じ闇を見ていた。

 

(続)