魔王と真意

 

序、降臨する魔王

 

董卓の軍勢が、大通りを通っていく。また規模を拡大していた。

自宅の窓からその様子を眺めていた曹操は、面白くもなさげに茶をすすっている袁紹を一瞥すると、書棚から竹簡を一つ取り出した。この間からまとめて注釈を入れている孫子の、続きをやろうと思ったからである。

「曹操、そのようなことをしている時期なのか、今は」

「おちつかれよ」

呪詛の言葉をはいた袁紹を、皮肉混じりにたしなめる。

洛陽に駐留している董卓の軍勢は、最初三千程度だった。一見すると、あまりにも少ない数。一個師団を構成することさえも不可能な小勢だ。このような数で、漢王朝の首都を抑えるのは不可能にも思えたが、事実は違った。

董卓の軍は、皇帝と、その家族を抑えていたからである。

傀儡であっても、やはり皇帝を抑えていると言うことは大きい。しかも今は、最大勢力であった宦官と外戚が共倒れになって消滅し、その利権が宙に浮いている時期なのである。下手をすると、権力への階段を踏み外すおそれがある。

何進の腹心であった袁紹が、何をする暇もなく。董卓は旧何進軍の将軍達を次々に指揮下に組み込み、急激に膨張していた。面白いのは、董卓の配下に組み込まれていく将軍の、誰もが彼を嫌っていたことだろう。嫌われていながらも、平然と勢力を膨張していく董卓は、確かに怪物じみたものをもっていた。

曹操の家には、袁紹が良く来るようになっていた。外戚でも最大級の力を持つ袁家の力を持ってしても、董卓軍の巨大化を防げないという。その愚痴ばかりを、曹操は聞かされていた。

「一体どういう事なのだ。 確かに董卓は怪物じみた奴だが、誰かが最初から念入りに協力する地盤を築いていたとしか思えん」

そう言って、袁紹は新しい茶を所望した。使用人の振りをしているルーが、おもしろがって濃いめの茶を入れ続けている。多分このままだと、目が充血気味の袁紹は今日も眠れず、自室でうんうん唸ることになるだろう。曹操だけではなく、客にまで悪戯をするのだからタチが悪い。しかもばれないようにやる所が狡猾だ。

それにしても、袁紹の洞察は鋭い。十代の頃は、とても勝てる気がしなかった。

年が倍になった今では底も見えている。袁紹は惜しい所まで辿り着くのだが、しかし最良を掴むことが出来ない男なのである。だから、曹操は判断している。袁紹は群雄の中でも、ぬきんでた所までは行けるだろうが。しかし、乱世を統一することは出来ないだろう、と。優秀な参謀がつけば話は別かも知れないが、しかし袁紹に使いこなせるか。今は使いこなせるだろうが、しかし今後は多分無理だろう。

これから来る乱世を統一するのは自分だ。そう曹操は密かに自負していた。

「その通りなのではないかな。 董卓には、有力な協力者がいるとみて、間違いないのだろう」

「むう、しかしそれは、誰なのだ」

曹操も、まだ確信はしていない。だが、候補は絞り込んでいる。

一番怪しいのは、今司空をしている張温だ。奴は一見すると董卓と犬猿の仲だが、しかし自分の権力的な失点を隠すために、董卓に協力した可能性が高いと、曹操は見ている。その証拠に、張温はこれほどの混乱の中にいても、権力を保持している。あの男は無能だ。それなのに、今まで放って置かれている理由がよく分からない。

他にも怪しい者は何名かいる。王允は一見すると反董卓勢力の筆頭にも思えるが、多くの役人が失職している中で、平然と司徒の高位を保ち続けている。怪しいと言えば、旧何進軍で最精鋭を率いていた、丁原もかなりのものだ。奴は董卓と正面から反抗する雰囲気を作ってはいるのだが、その割に協力者を募ろうとしていない。何かもくろみがあるとしか、曹操には思えなかった。

まだ何名か候補に挙げている者がいるのだが、どちらにしても、今の曹操には縁がない話だ。もし縁があるとしたら、これからの情勢次第だろう。もう少し董卓が暴虐の限りを尽くすようになってきたら、動き方も色々とある。

例えば、反董卓軍の参謀のような形となって、いつの間にか全権を握っているとか。

肩を落とした袁紹が、自宅に戻っていく。相変わらず精神的に脆い男だ。曹操はくつくつと笑っていたが、至近からルーに顔を覗き込まれていたことに気付いて、びっくりして後ろに転び掛けた。

「な、何だルー!」

「ご坊。 この間、依頼があった男の事ですが、確認が済みました」

そういえば、宦官共を皆殺しにした時に、出会った使えそうな男がいた。まだ若い男だったのだが、今曹操の配下で一線級の将軍になれそうなのは楽進しかいない状況、人材は幾らでも欲しい。

だから、わざわざルーに探らせていたのだ。

「ええと、名前は徐晃。 最近兄に続いて、官軍に入った男です。 豪族の出身ではなく、洛陽に流れ込んできた流民のようですね。 両親は既に他界。 兄も、この間の動乱のさなかに足を痛めて、今は弟に養われているようです」

「あれほどの武人が、惜しい事よ。 引き抜けそうか」

「それが、実は今、董卓の配下に組み込まれていまして。 引き抜きは、かなり難しいでしょう」

「そうか。 惜しい話だ」

もちろん諦めてはいない。だが、今無理押ししても、状況が悪くなる可能性がある。今は董卓に逆らおうという様子を見せず、静かに状況を伺うべきである。

孫子の注釈を進めようとしていた曹操だが、ルーはまだその場を動かない。報告に続きがあると言うことなのだろう。

「実は、董卓が飼っている細作達が、更に規模を増しております」

「それはそうだろう」

「このままでは、私の腕では、太刀打ちできなくなる可能性があります」

「部下を雇えるように、金は渡しているはずだ。 それでも足りぬか」

ルーは無言だった。

つまり、だ。董卓の方が、資金的に潤沢。それが故に、細作を如何に雇っても、いずれ対抗できなくなる。そう言うことか。

「なるほど、戦略を転換しろと言うことだな」

「はい。 洛陽にいると、いずれご坊はその首を失うことになるかと思います」

「それは困るな」

ルーの言葉に、珍しい逡巡が籠もっている。董卓とは別の方向で怪物じみているし、いつも玩具にしてくる相手ではあるが、曹操も馬鹿ではない。ある程度、心を洞察することも出来る。分かり易くしてくれている時は、であるが。

「分かった。 近々、洛陽を脱走する手段を考えよう」

「お急ぎください。 ああ、そうだ。 寝室の箪笥の奥に隠してある背が伸びる漢方薬ですが、偽物だったので処分しておきました」

思わず目を剥いた時には、既にルーの姿はなかった。

やられた。まさか彼処に隠している事を、気付かれていたとは。結構高い薬だったのだが、実に悔しい。それに恥ずかしい。

曹操のコンプレックスは、容姿が貧しいことだ。背が低く、顔立ちも高貴とされるものにほど遠い。特に背が辛い。最近では、付けひげも用意しているのだが、それも時々ルーに処分されてしまって、困ることがある。付けひげ無しで人前に出ると、とても言い訳が難しいのである。その点だけは、立派な髭を蓄えている袁紹が羨ましいと、曹操は思っている。

「曹操殿」

「おう、曹洪か」

部屋に入ってきた従兄弟の曹洪が、辺りを見回す。この間、ルーに散々からかわれたらしく、軽く心の傷になっているらしい。しかもねずみこうに引っかかって財産を失う所だった曹洪を、ルーは救ったことがあるらしく、頭が上がらないと来ている。実は曹家の最大権力者は、ルーなのかも知れない。

ルーがいないことを確認すると、曹洪は安心した様子で言った。

「董卓からの使者が来ました。 出仕せよとの事です」

「けけけけけけけ。 ご坊、さっそく来ましたな」

「ひいっ!」

天井からいつの間にかぶら下がっていたルーに後ろから声を掛けられて、曹洪が真っ青になってきをつけの格好のまま固まる。しかも慌てながら剣を抜いて振り返ると、其処にはもうルーはいないのだった。

「お、お、おおお、おのれもののけめ!」

「子廉」

「な、何でしょうか」

「諦めよ。 あいつには勝てん」

びっしり背中に汗を掻きながら曹操が言うと、曹洪も諦めた様子で剣を鞘に収めた。虚しい沈黙が空に流れたあと、曹操は繰り返した。

「諦めよ」

「は、はあ」

「そして、ここからが問題だ。 董卓が、出仕せよと言ってきたか」

頭を切りかえる。確かにルーが言っていたとおり、ここからが正念場になる。今まで、董卓は大鉈を振るって大規模な改革を進めている。解任された将軍や太守は多く、新たに領地に任じられた者達が続々と洛陽を経っていた。曹操も、何かしらの官職を受け取らされるのか、或いは。

不満分子として、消されるのか。

事実、八校尉の何名は、既に粛正されて、皇室の直接戦力は無くなってしまっている。宦官と外戚がいなくなったことを、惜しんでいる暇など無い。何か失敗があったら、即座に首を飛ばされるような異様な緊張感が、洛陽を覆っていた。

もちろん、曹操も危惧はしている。部屋にどかどかと入ってきたのは楽進であった。歴戦の武人は、曹操の目をまっすぐに見据えながら、諫言を発する。

「殿、話は聞きました。 出仕してはなりませぬ。 此処は一度郷里に戻り、兵を整えるべきでしょう」

「ほう、どうしてだ」

「董卓は獣のような男であると聞いております。 もしも殿のような有能な方が現れたら、国の柱石にすることよりも、殺して自らの権力を守ることを考えるでしょう」

「なるほど、忠義に篤いそなたらしい」

曹操は頷いた。楽進の言葉を良い意見だと感じたのである。

ただし、それが最善の意見だとは考えなかった。

「まずは、董卓という男を見極めてからだ」

「殿!」

「騒ぐな。 そなたも知っているあのルーや、他の密偵も、そろって董卓の怪物性を報告してきておる。 つまり奴はただの獣と言うよりも、未知の怪物と言って良いような存在なのやもしれぬ。 それならば、近付かずに逃げるよりも、まずは正体を見極めておいた方が対策がしやすい」

孫子の注釈を終えると、曹操は手を叩いて、侍女を呼んだ。

出仕するために、着替えをするのである。もちろん、官職を持っていない護衛達は、連れて行けない。董卓の前には、一人で出ることになる。楽進は最後までむすっとしていたが、後から来た夏候惇になだめられて控え室に戻った。惇は戦ではまるで駄目だが、こういう仕事はそこそこに出来る男だ。男をなだめるのは、案外難しい。酒や食事で機嫌を直せる者もいるが、それはごく一部だ。そういう点で、惇はとても貴重な人材だと、言えるのかも知れなかった。

曹操自身、董卓には興味がある。戦は下手。しかし、怪物じみた所があり、事実あっという間に洛陽を制圧してしまった。そして精鋭の細作達を寄せ付けず、正体をまるで見せようとはしない。

しかし、直接会えば。その正体も、ある程度は分かるかも知れない。

着替えが終わり、官服に身を包んだ曹操は外に出る。曹操は馬には目が無くて、良い馬を幾つも所有しているが、今日乗っていくのは爪黄飛電と名付けられた馬だ。名前の通り爪が黄色くて、いかづちのような速さで走る。もちろん多少は誇張が入っているが、この国では昔から表現を誇張するのが習わしである。

宮城に出向く途中、ぴりぴりしている洛陽の様子を自分の目で見た。一応街は動いているが、帯電した静けさが不気味である。二度、飛電が嘶いた。

宮城に着くと、馬を降りて厩の役人に預ける。後は剣を役人に預けた後、早足で宮中の奥へ。宮中では、ゆっくり歩いてはいけないのである。だからせかせか歩く。周囲の役人達も、余裕がない様子で、せかせか歩いていた。彼らの顔は、一様に青ざめている。何かあったのかも知れない。

その理由を、曹操はすぐに知ることになった。

謁見の間に入る。煙と、肉を焼く匂いがした。

辺りの侍臣達が、皆顔をしかめている。この匂い、嗅いだことがある。そうだ。これは確か。

人間の、肉が焼ける匂いだ。

戦場では、特に攻城戦では嫌と言うほどに嗅いだ。牛や豚の肉とは違う、独特の不快感が鼻を撫でる。思わず袖で鼻を押さえた曹操は、煙の向こうにある、巨大な釜を見た。其処には山と薪が積まれ、囂々と炎が燃えさかっている。

宮中で、しかも謁見の間でだ。

そしてその釜に突き立てられた串には、もう原形をとどめない肉塊が炙られていた。釜の前に置かれている台座には、切り取られた首。血が滴るそれは、司空張温のものに、間違いなかった。

釜を避けて、歩く。拝礼をしようとして、呟く。

「これは一体」

「おお、曹操か」

玉座から声が。

そう。玉座には、巨大な肉の塊が座っていた。膝の上にのせられているのは、蝋人形のような顔色をした皇帝。

なるほど、これは皆が青ざめるのも、無理はない。あまりにも異様な光景。そして、まるで地獄のような有様だ。恐らく、公開処刑として、此処で全てが行われたのだろう。張温は首を切り落とされ、兵士達によって杭にくくりつけられた体は焼かれた。

そして、下手をすると。これから、侍臣達は、張温の肉を食わされるのかも知れない。

あり得る話だ。この国では、古くにそう言う風習があった。暴虐の毒婦として知られる、漢の高祖劉邦の妻呂后も、気に入らない相手の肉を塩漬けにして、各地に送りつけた。肉を喰らいたいほど憎いという表現も、未だに残っている。

務めて心を平静にしながら、曹操は完璧に礼をした。

「曹操、参上いたしました」

「丁度良い所に顔を見せたな。 今、儂に謀反を企んでいた不忠者を、一匹成敗したところだ。 本人は見ての通り。 これからは家族も全て捕らえて、町中で同じように処分する」

さらりと董卓は大量虐殺を宣言。そして侍臣達に、諫言しようという者は、一人も居なかった。

曹操は煙が立ちこめる謁見の間で、董卓を見た。

楽しんでいる様子は、無い。

人間の中には、他人を虐殺して喜ぶ者がいる。その類かと思ったが、違うようだ。

かといって、悲しんでいる様子はない。人間の中には、使命感と危機意識の赴くまま手を血に染める者がいるが、その類でも無い様子だ。

かといって、自慢げでもない。力を誇示することで、悦にいる者でもない様子だ。

そうなると、この男は、何者だ。

魔王という言葉が、曹操の脳裏に浮かぶ。しかし、思い直す。この男は、人間だ。神や魔の心など、物語の中にしか存在しない。怪物じみているルーだって、人間としての心を持っているはず。この男は、何故平然としていられるか、それさえ分かれば。

「曹操よ、儂はそなたを高く評価しておる」

「光栄にございます」

「うむ。 そなたはこれより、一軍を率いる将となって貰おう。 我が手足となり、漢の王室を守れ」

白々しい言葉に、曹操は頷く。

恐怖は、感じる。だがそれ以上に。この男をどうやって打ち崩すか。

打倒の意思。それが、曹操の脳裏で、大きく渦巻き始めていた。

 

1、引かれる撃鉄

 

何か、事件があった時。或いは誰かが殺された時。

誰もが疑うのは、董卓による暗殺である。もとより董卓は、あまりにも恐れられていて、何をしても不思議ではないと思われていた。

正確には、そう思われるように、操作を続けていた。

董家の集まりは、宮城の奥へと、その場を移していた。

董俊は、李需を伴い、薄明かりが灯る小部屋へと足を踏み入れる。かっては、皇帝が寵愛する后と睦み合うために使っていた部屋だ。今は、その機密性を利用して、董家が陰謀を行うために用いている。

董俊は最後だった。他の一族は、全て揃っている。

相変わらず取り仕切っているのは、董卓と董俊の母である。ただし、衰えが一段と進んできており、最近は董白がつきっきりになって、耳になり目になっていた。

その董白は、最近随分美しくなってきている。その反面、会議を良く思わなくなっているようだった。何時までも子供でいる人間などいない。そろそろ、自分がどういう立場の人間で、どのような結果を周囲にばらまいているのか、気付き始めたのだろう。

「来たか。 早速始めるよ」

「はい。 母上」

董俊が床に座る。誰もが信じないだろう。常に玉座について皇帝を膝に乗せ、暴虐な命令を下し、洛陽に恐怖をばらまいている男が、このように母には絶対服従だとは。その一族も、同じだとは。

「李需、情報を共有する。 真新しい話はあったかい」

「まず、袁紹が近々洛陽から逃亡します」

「そうかい。 それなら、渤海の太守にしてやりな」

最初から、それは決めていたことだ。

袁家は言うまでもなく、この中華で最大級の勢力を誇る一族である。下手に扱うことは出来ない。

其処で、此方から「恩」を示すことで、正当性を造り出す。

そうなれば、袁家の正義に、対抗することが出来る。

「分かりました。 それと、皇帝と何大后は如何いたしましょうか」

「もう用はないね。 事故に見せかけて、消しておしまい。 後は後釜だけれども、そうだねえ」

「劉協はどうでしょうか」

「そうだね、今の皇帝に比べれば聡明だし、そこそこにめんこい。 しばらくは皇帝に据えてやるのも悪くはないか」

腕組みした母が咳き込んだので、董白がすぐに背中をさすった。そして、今までの会議で、初めて主体的に言葉を紡いだ。

「大お婆さま、あまり乱暴なことばかりしないで。 洛陽に何度か行きましたけれど、皆悲しんでいます」

「おお、白や。 お前は優しい子だね」

感心したように董俊の母は言うが。しかし、醒めた目で見つめている董俊の前で、彼女は声に呪詛を込める。

「だけれど、やめる訳にはいかないね」

「どうして」

「我々は、もっと酷い目にあいつづけたからだよ。 漢王朝の連中のせいで、どれだけ我ら鮮卑の民が苦しい思いをし続けたか。 貧しい生活の中で耐え続けたか。 あんな豊かな土地で、食べ物もたくさんあって、温かい中暮らして。 極寒の地で散っていった幾多の同胞が、あいつらを許しはしないよ」

咳き込む老母。

董俊は完全に老母と意見を同じくしている。もちろん娘婿の牛輔や、弟の董旻も同じだろう。

鮮卑の民、それに五斗米道、いくらかは仏屠の者達の分もある。

今、董家には、漢王朝に対する膨大な恨みが集っていた。それらが、力を与えているのだ。

白は、知らない。それらの悲しい歴史を。どれだけ鮮卑が苦杯をなめ続けたかを。多くの同胞達が、乾ききった極寒の地で散り続けたかを。だから、誰の心も動かない。優しい言葉は大事なものかも知れないが、それは無力でもあるのだ。

「後は、袁紹を核に、どう反乱を起こさせるかだね」

「その前に、王允との相談を詰めて、戦力を増強いたしましょう。 現在の状況では、袁紹が不意を突いて、宮中を制圧する可能性もあります」

「おお、そうだったね。 丁原の戦力を取り込んでおけば、もう地力で充分に洛陽を守れるんだが」

「そちらはお任せください。 王允と、既に話はついております」

王允の右手として、漢の軍事をじわじわと侵食し続けていた丁原には、此処で死んで貰う。

もちろん、言葉通りの意味ではない。

「今度の会議の際に、皇帝を退位させることを発表します。 その時に、丁原にはわざと儂に噛みつかせるのです」

「ほう。 それで」

「それで、洛陽の外で一戦行い、儂が丁原を暗殺したと言うことにして。 奴の軍勢を、養子である呂布に引き継がせ、更に吸収します」

「なるほどね。 巧いやりかただ」

母が感心して頷いてくれたので、董俊は少しだけほっとした。

独走した場合、内容が気に入らないと、母は怒る。場合によっては、いい大人になっている董俊や董旻を鞭打つことさえある。幼い頃から染みついている恐怖が故に、それが未だに、董俊には恐ろしい。

「それで進めな。 出来るだけ暴虐の名をばらまいていた方が、反乱を起こさせ易いだろうしね」

「御意」

会議が解散になる。その最中、一言も発しなかった李需が、ふと耳打ちしてきた。

「それでは、皇帝と何太后を処分いたします」

「ああ。 出来るだけ目立つように、残虐に殺せ。 公式には事故死とするが、そうではないというような噂も流せ」

「御意」

振り返った時には、もう李需はいない。母が連れてきたとはいえ、何度話しても気味が悪い奴である。

董俊が調べた所、漢と対抗するために、漢中の五斗米道は異能者の育成に余念がなかったという。奴はもちろん五斗米道の精鋭なのだろうが、あのような者達がごろごろいるとなると、流石に寒気もする。もちろん正統な兵法で遅れを取るような相手ではないが、しかし常に背中を気にしなければならない状況だ。出来るだけ恐怖は抱え込みたくない。

異能と言えば。董俊は、歩きながら曹操のことを思い出していた。まだ若いが、かなりの切れ者だ。董俊を観察しようと、冷静な目を向けてきていた。だが、小首を傾げていたのは、あまりにも無感動に暴虐を働いていることが理解できなかったからだろう。

当然の話だ。董俊は家族会議で決まったとおりに、計画を実行しているのだから。どれだけ殺そうが、心など動きはしないのだ。決められたとおりに、予定通りの残虐行為を働いていて、何か感じる所などあろうか。

それに、董俊が家族会議で動いているなど、洞察できる奴がいるとしたら、それはもう人間の領域を越えている。客観的な情報から、董俊の正体を見極めることなど、不可能だ。

もちろん、董俊は後世にも正体を残すつもりはない。今、丁度良い歴史家を見繕っているところだ。暴虐、残酷、極悪非道。それらの語句で業績を塗りつぶすことにより、董俊の人格は伝わらせない。

それも、董家の復讐の一つだ。歴史を絶対視する漢民族に、己の真の姿を伝えない。これほど痛快な報復があろうか。

「御爺様」

「おお、白か」

振り返ると、眉根を寄せて、董白が立っていた。

此処は董一族とその腹心以外は入れない禁制の地だからこそ、董俊は甘い反応もするし、目尻も下がる。孫が可愛いことに、冷血に決められたことを実行する董俊であっても代わりはない。

「大お婆さまを、説得していただけませんか。 このままでは多くの洛陽の人々が、悲しみ続けることになります」

「それはならん。 そなたの願いであってもだ」

「どうしてですか。 確かに鮮卑の悲しみは理解できます。 虐げられた多くの民の怨嗟だって、分かるつもりです。 しかし、これでは、我々はそれ以上の悪を積み重ねてしまっているではありませんか」

白の心優しさには、董俊はいつも驚かされる。だが、驚かされるだけだ。

董俊も、野人ではあるが、文学や音楽などの文化に触れたことはある。それらで感動したことも何度かある。だが、それで生き方を変えたことはない。所詮文化は心の肥やしであって、人生の道しるべではないのだ。恐らくそれは、人の生き方も同じであろう。或いは、それで人生の方向性を変える人間もいるのかも知れないが、董俊はそうではない。

だから、董白の言葉は、心には届かない。

「そなたは、そのようなことは考えなくてもいい。 何、そなたの事も、悪いようにはせぬ。 いずれ董家はそなたに継がれるのだ。 何かを為したいのならば、それからすれば良いであろう」

「御爺様!」

「くどい!」

董白の説得を振り切ると、董俊は後宮を出た。

立ち並ぶ侍臣が、蒼白な顔を董俊に向けている。これでいい。その中に、董旻の従兄弟である、董承の姿があった。早くから洛陽に出仕させていたから、董一族とは見なしていないが、それは表向きのこと。洛陽の情報をせっせと董家に流し続けた、影の立役者の一人だ。無害そうな外見をした中年の男だが、その痩せた体の中には、たっぷりと董家に対する忠誠と、漢王朝への悪意が詰まっている。

此奴にも、何かしらの方法で報いてやろう。

そう思いながら、董俊は彼の前を通り過ぎた。

 

洛陽に帰ってきていた林は、一旦宮廷から出る。相も変わらず守りが堅すぎて、中枢にはとても辿り着くことが出来なかった。ただ二回潜入するだけで、三回も見つかりかけた程である。

これでも林は手練れの中の手練れである自負があったが、それも形無しだ。李需という男と、その配下の細作どもは、今まで中華中枢で蠢いていた細作とはまるで格が違う。話によると毛大人の部下達も大きな被害を出しているとか言う。無理もない話である。

塀を乗り越えて、宮城を後にすると。拠点にしている廃屋の一つに入って、女官の服から平服に着替える。追跡がいないことを確認すると、やっと一息ついた。

最近、少し衰えを感じる。早めに芙蓉に組織を継いで、引退するべきなのかも知れない。細作の衰えは致命的な事態を呼びかねない。組織を破滅に追いやらないためにも、早めの判断が必要かも知れなかった。

すっかり活気が無くなった洛陽の街を歩く。目をぎらつかせているのは兵士達ばかりで、侠客までもが青ざめた顔で行き来している。部下達を集合させている肉屋に急ぐ。以前は時々声を掛けてくる男もいたのだが、今はそのような事もない。

董卓は、必要以上に恐怖をまき散らしている。これが何を意味するか、まだ林は掴めていなかった。

するりと影のように肉屋に裏手に回って、二階に上がる。血の臭いの中、部下達が集まっていた。一人、主要な部下の顔が見えない。

「揚はどうした」

「やられました。 恐らく、李需の手によるものです」

応えたのは夫だ。部屋の壁際で、のほほんとしている芙蓉は、部下の死に動揺している様子もなかった。

これでいい。ますます頭領としては、頼もしくなってきている。

「やむをえんな。 揚の代わりを、芙蓉。 お前が引き継げ」

「はい」

「後は、董卓の周辺だが、今日も中枢には迫ることが出来なかった。 李需は私並みの手練れを、最低でも五人は飼っている。 今までに三人潰したが、まだまだ中枢に潜り込むのは難しいぞ」

「御意。 一つ、妙な知らせがあります」

夫が言う。何と、曹操が接触を求めてきているという。

奴の下には、独自の細作組織がある。細作の間でももののけ呼ばわりされている、西域出身のルーという娘が率いる組織であり、かなりの腕利き揃いだ。だから、林に仕事を依頼する理由がないのだが。

「董卓の暗殺だったら無理だ。 これは私の予想だが、奴は細作には殺せないだろう」

「いえ、違います。 どうやら部下を失いすぎているらしく、同盟の依頼のようです」

「ほう」

毛大人も、損害の大きさに悲鳴を上げ始めていると聞いている。そろそろ、各地の細作組織が連携を採って、一気に董卓と李需を潰しに掛かるのかも知れない。そういえば、この間王允からも連絡があった。此方はまだ敢えて返事はしていないが。

というのも、林は王允と董卓が、裏で同盟を結んでいるのではないかと考えているからだ。

どちらにしても興味深い話だ。毛大人は袁隗に接近していると聞いているし、細作の闇が、董卓への間合いを詰め始めている。

「黄巾の乱以来、停滞していた歴史が、一気に動き始めたようだな」

「御意。 押し流されないようになさいませんと」

「分かっている」

洛陽の街を探りに出させていた、韓が戻ってきた。心なしか、顔が青ざめている。

「長。 今、重要な情報が入りました」

「何だ」

少し前に皇帝が董卓と李需に殺された。新しく幼い劉協が皇帝に据えられたが、これはもちろん董卓の傀儡。これから更に強権的な政が始まるだろうと思われていた矢先である。それ以上に重要な知らせだというのか。

その予想は、当たっていた。

「袁紹が部下達とともに、冀州に逃走しました!」

「ついに来たか」

立ち上がった林は、曹操の申し出を受けると明言。部下をその邸宅へ走らせた。

いよいよ始まる。袁紹は董卓に不満を持つ者達の盟主たるに相応しい勢力の持ち主だ。このまま一気に、董卓に対する反攻作戦が開始されることだろう。しかし、事態はさらなる混沌を呼び起こしていた。

別の部下が駆け込んでくる。

「長、一大事です」

「どうした。 袁紹の件か」

「違います。 丁原が、宮中で董卓と対立し、城外に陣を展開しはじめています。 これは、戦になります」

「ほう!」

これは面白くなってきた。そう思った林は唇を舐めると、夫と芙蓉を見回して、偵察に出ると言った。今回は夫を残して総指揮を執らせて、芙蓉を連れて行く。丁原は元々かなり怪しい王允の、懐刀だ。どう事態が動くのか、非常に気になる。もしもこれが董卓と示し合わせてのことだったら、間近で状況を確認した方が良いだろう。

肉屋を出ると、董卓の軍が動き始めていた。殆どは何進軍の残党ばかりだが、その中でやたら動きの良い部隊が幾つか混じっている。率いているのは徐栄だ。この男は相当な使い手で、董卓を探っている時に何度も胆を冷やさせられた。騎馬軍団を率いて宮城から出てきたのは、李?(カク)、郭、張済らの有力な将軍達である。誰も彼も、とても惰弱な官軍では手に負えないような荒武者ばかりである。元々名だたる武人や有力な食客だった者も少なくない。

そして、鎧兜に身を包んだ董卓が出てくる。かなり太っているが、それでも大型の赤い馬を見事に乗りこなしている。他の董一族は見あたらないから、多分留守番だろう。林の見立てでは、徐栄に任せておいた方が戦下手の董卓が出張るよりもずっと良いと思うのだが、何か思惑があるのかも知れない。右にいる影の薄い男が李需だ。相変わらずまるで表情が読めない。すぐ側に控えているのが、武人として高名な華雄。そして最後尾には、董卓軍で徐栄と並んで名をとどろかせている胡軫が精鋭を率いて控えていた。

殆どの武将は後から部下になった者達だが、しかし錚々たる顔ぶれだ。いずれもが鷹のような殺気を放っている。宦官と宮廷闘争にに明け暮れていた惰弱な連中など、彼らから比べれば鶏にも等しい。

戦が始まるまでは、少し掛かるだろう。それまでに、情報は幾らでも必要だ。それを、林は芙蓉に任せることにした。

 

洛陽の空気が帯電し始めてから、四日後のことである。芙蓉に呼ばれた林は城外に出て、丁原の布陣を確認した。押し出してきた丁原軍は四万。これに対して、董卓軍は六万五千と言う所だ。数、質ともに今や何進軍の大半を引き込んだ董卓が勝っているが、しかし。

丁原の軍の士気は高い。鉄壁の構えを見せる董卓軍に対し、噂に聞く飛将呂布を筆頭に、錚々たる精鋭を並べ立てて、「ござんなれ」とばかりに堂々たる陣を敷いていた。

両軍がにらみ合う洛陽郊外は避けて、近くの峠に上がる。周囲ははげ山になってしまっているが、此処はそれでも見つかりにくい。特等席とも言える場所だ。

洛陽からは逃げ出す民もちらほらと見えた。流石に戦が始まるとなっては、もうついてはいけないというのが彼らの本音だろう。このまま攻城戦になる可能性さえある。

「母上」

「どうしました、芙蓉」

不意に今まで黙りこくっていた芙蓉が口を開く。あの盧植を付けて鍛えたこの子は、何処に出しても恥ずかしくない使い手に育ちつつある。

「どうも、やる気が感じられませんね」

「お前もそう思いましたか」

「はい。 董卓も丁原も、立派な陣を敷いていますし、兵士達はやる気があるようですが、どうも当人達は淡々と駒を進めているだけのように見えます」

「良く見抜きましたね」

頭を撫でてやると、芙蓉は嬉しそうに眼を細めた。

洛陽にいる曹操は静観の姿勢を見せており、朱儁や皇甫嵩もそれは同じだ。どこか緊迫を欠く対峙は、不意に終わりを告げた。

丁原軍前衛にいた呂布が、動いたからである。

呂布は遠目に見ても、とんでもない殺気を周囲にばらまいていた。噂には聞いていたが、本当に戦うためだけに産まれたような男だ。ちらりと、奴が此方を見た気がした。それだけで、反射的に首をすくめてしまう。

「あれを狩るとしたら、どうしますか?」

「難しいです。 疲れさせて、じっくりやるしかありません」

「良くできました。 でも、正解は、戦わないこと。 世の中には、手に負えない相手というものがいるものなの。 ああいう手合いを見つけたら、任務よりも命を優先して、出来るだけ離れなさい。 それが出来ないのなら、あらゆる努力を重ねて、勝つための布石を打つこと」

「はい、母上」

といっても。あの呂布は、本物の武神だ。この大陸に、勝てる者は果たして一人居るか二人いるか。そういう次元の存在であろう。これだけ離れている峠にも、びりびりと伝わり来る虎のような殺気。

呂布に続いて突進した丁原軍先鋒が、董卓軍の陣に斬り込んだ。本当に陣頭に立つとは。しかも、数万の軍勢の、だ。兵士達は嫌が応にも沸き立つ。飛来する膨大な矢など、呂布はものともしてない。

先鋒第一列に突進した呂布が、迎撃に出てきた敵将を、真っ二つに切り裂いた。本当に真っ二つである。あれも西涼の荒野を駆けめぐってきた強者だろうに、抵抗する暇もなかった。それに、本当に人間を二つに切り裂くとは。一体あの呂布という化け物、どういう腕力をしているのか。

振るう。振り回す。振り下ろす。その一動作ごとに、呂布の周囲に赤い血の華が咲く。吹っ飛んだ手足が地面に落ちるよりも早く、呂布は次の獲物に襲いかかる。渡り合う、等という事は起こらない。ただの一撃。一合のみで、呂布の前にいる敵は、赤い霧と化してしまう。

縦横無尽とはこのことだ。

呂布が吠える。

董卓軍は、目に見えてひるんだ。崩れ始める傷口を拡げるように、丁原の軍が斬り込む。一人、やたら良い動きをしている男がいる部隊がある。敵の弱点を的確に見つけては、綺麗に突き崩すその部隊の指揮官には、見覚えがある。

「あれは、張遼という男です、母上」

「ほう、あれが」

呂布はもう、力加減を知らない雰囲気だ。手当たり次第にぶつかる相手を殺し、引き裂き、喰らって進んでいるかのようにさえ見える。それに対して張遼は、静かに周囲を観察しつつ、誰よりも熱く暴れ狂っている。

どちらも、まるで化け物だ。

二匹の人虎に閉口した董卓軍は反撃を諦め、堅く陣に閉じこもって呂布に矢を浴びせるばかりになっていた。高密度の斉射を浴びて流石に面倒になったのか、呂布も下がると、さっと部下達がそれに続いた。

しかし呂布は、最後尾に残り、部下達を先に行かせる。追撃してくるなら、来てみろと言わんばかりである。事実、それを望んでいるのだろう。

もちろん、董卓軍に、呂布を追う勇気はなかった。部隊の動きからしてもそうであったし、兵士達の様子からしても、追撃が成功するはずがなかった。あの呂布と戦えと言われて、戦意を保てる雑兵などいるわけがない。

「芙蓉、どう見ます」

「丁原の完勝ですね。 表向きは」

やはり、自分の娘ながら、良い読みをする。

あれだけ派手に戦ったにもかかわらず、両軍の被害は想像以上に小さい。呂布も張遼も人外の武勇を発揮していたが、たかが二人では出来ることにも限界があるのだ。特に気になったのは、中級以下の指揮官達の動きである。どちらも功を得ようとするよりも、むしろ被害を小さくしようとしている者が目立った。

そして、何より。負けたはずの徐栄が、平然と腕組みして構えている辺りが臭い。多分この戦いは、仕組まれたものだ。

問題はどのような目的で、である。考え込む林の袖を、芙蓉が引いた。

「母上、一度戻りましょう」

「ふむ、部下達にもう少し広域の情報を拾わせた方が良いかも知れませんね」

林は娘の提案に同意した。後ろ髪を引かれながらも、その場を後にしようとする。だが、途中で気が変わった。

「いや、私は董卓の陣を探ってきます」

「母上、大丈夫ですか?」

「貴方は父の元へ行きなさい。 そして、出来うる限りの情報を集めておくのです」

それだけを言い残すと、林は城外に布陣している董卓の陣へ、完全に気配を殺して忍び寄っていった。

 

夜半。董卓の陣を出た者がいる。四騎の人影である。そのうち一騎は、董卓軍でも名が知れた武人である華雄であった。そしてそのうちの一人。それは、林にも見覚えのある男だった。

髭で顔つきを変えているが、分かる。あれは趙寧だ。

中の下程度の地位を持っていた宦官で、董卓の鈴とするべく今は亡き張譲が派遣した男である。茂みに伏せていた林は、奴が董卓に寝返って、むしろ宦官の情報を流していた事を知っていた。

何度か名前を変えて、今は李応と名乗っているはずだ。董卓は功に報いる男であり、李応は間諜としての功績を評価されて、それなりに重要な地位に付けられている。その李応が出るのである。何かあったと考えて良い。宦官であることを隠すために、付けひげを愛好していることも、既に調査済みだ。

星明かりの下、四騎は走る。林は風そのものとなり、それを追う。

二つ川を越えた。奴らの中には華雄が混じっているから、あまり近付くことも出来ない。冷や冷やする林の前で、一行は間道に入った。そして、そのままどんどん山の中へと行く。松明も付けずに、である。

梟が鳴いている。その下を、四騎は影そのものとなって進んでいた。趙寧だけが気配を漏らしていて、梟が露骨に警戒しているのが面白い。訓練を積んだ武人でもないし、仕方がないことだが。華雄がついたのは、護衛以上に追跡を恐れたからなのだろう。

四騎が止まる。前に、七騎いる。合い言葉をかわしていた。五十歩ほど離れていたが、林はそれを的確に聞き取っていた。七騎の中には、張遼が混じっている。これは、もう少し距離を開けなければならないだろう。

十一騎に増えた影は、息を殺して、近くの廃屋に。木こり小屋だったらしいその場所へ、五人が入り、他は全てが護衛として周囲に展開した。馬を下りた何人かが、槍の石突きで草むらを片っ端からつつき始める。潜んでいる者をあぶり出すための、常套手段である。林は舌打ちする。地味だが、確実な手だからだ。しかもこの状況、兵士を処分したら、すぐに気付かれてしまう。

それでも、林は小屋に近付く。月明かりは敵。星明かりは味方。

そして、拾うのは、音だ。

 

董卓に今回の件での打ち合わせを任されていた趙寧は、かなり緊張していた。何しろ、その場には状況の立役者があらかた揃っていたからである。

わざと雑兵の鎧に身を包み、素性を隠している丁原。その護衛として張遼。そして董卓側からは、趙寧と、護衛として華雄。そして同じく雑兵の格好をして、王允がついてきていたのだ。

下手な交渉をしたら、その場で首が飛ぶ。董卓の恐ろしさを身をもって知っている趙寧は、事前に何度も頭の中で繰り返した交渉を、一つずつ進めていく。

「丁原将軍。 このたびは見事な戦いぶりでした」

「いやいや、此方こそ、呂布がやり過ぎてしまったようで申し訳ない。 息子には既に言い聞かせてあるので、勘弁して貰いたいのだが、良いだろうか」

「董卓将軍は、むしろ喜んでおいででした。 呂布様のような優れた息子をもたれて、丁原将軍は幸せであろうと」

「そうかそうか。 董卓将軍は、人情を解する漢であるな」

丁原が上機嫌になってきたので、趙寧はほくそ笑む。まずは成功と言う所だ。ただし、社交辞令をしに来たのではない。王允立ち会いの下、計画を進めるためにわざわざ来たのである。

「それで、李応どの。 王允様も。 わざわざ来られたと言うことは、いよいよか」

「はい。 既に宮中にいる反対派は、あらかた力を削ぎました。 董卓将軍の覇権を絶対にするためにも」

「そうか。 では、此方も準備は進めているから、予定通りに動くとするか」

呂布、と丁原が叫ぶと、小さな木こり小屋に、大きな影が入り込んでくる。名前を、今呼ばれた男だった。

戦場ではあれほど獰猛な殺気を放っていたというのに、今ではとても静かだ。それが、趙寧には、却って恐ろしかった。

「呂布、今から儂は死ぬことにする」

「そうですか」

「事前に伝えたとおりだ。 儂はこれから高順と名を変え、お前の配下となる。 お前は儂を殺してその首を手みやげにしたというふれこみで、董卓の配下になれ」

「分かりました」

主体性のない返事だ。戦場で鬼神のように暴れ回るが、普段は牛のように大人しい者がいると、趙寧は聞いたことがあった。呂布もその系統の人間なのだろうか。どちらにしても、この男を怒らせたら、生きてはいられないだろう。与しやすいなどと、考えてはならない。

一方で、不満げに腕組みしたのは張遼だ。この男は、戦場以外でも頭が働きそうな雰囲気である。

「しかし、丁原どの。 本当にそれで良いのでしょうか」

「かまわん。 どのみち、漢王朝には荒療治が必要だったのだ。 今回徹底的に内部を洗い出すには、このくらい過激な方がよい」

「ううむ。 王允どのと言ったか。 貴方が全てを握ってしまうのは、却って危険ではないのか」

「ふ、案ずるな。 儂も、正直な話、もう年だ。 儂の仕事は、漢王朝の膿を出し尽くすことだけと考えておる。 権力を貪る余裕など、もうありはせんよ」

まだ張遼は不満げな視線を向けていたが、やがて引き下がった。この男は手強い。恐らくは、呂布よりもずっと、だ。

張遼は咳払いすると、今度は趙寧に矛先を向けてくる。此処が正念場だ。

「趙寧、いや李応とか言ったな。 そなたは、どうして董卓殿についている。 権力を欲したか」

「いえ。 私も、宦官でした。 彼らが如何に無能で、腐敗していたか、良く知っていましたから」

「それで、仲間を売ったか」

「そういう見方も出来ましょう。 しかし、私としても、腐敗した宦官の中で、井戸の中の蛙のように何も知らないまま滅亡に巻き込まれるのはいやだったのです」

事実、宦官は滅びた。あのままでいたら、趙寧も確実に巻き込まれていただろう。それに、何よりだ。今、趙寧は充実している。文字通り権力の井戸の中で、誰が大きい小さいとくだらない押しくらまんじゅうを続けて、外に舌を伸ばして見たこともない餌を貪り食っていた化けガエル達。この国を滅ぼすまでに大きくなった時に、井戸は打ち砕かれ、外から伸びてきた怨嗟の手が肥え太った異形のカエルたちを八つ裂きにしてしまった。

もう少し気がつくのが遅れれば、その一匹に混じっていたことを趙寧は自覚している。だからこそに、今はとても楽しいのだ。

「ふん、お前は好かん」

「張遼」

「しかし、丁原様」

「その辺にしておけ。 合わぬ奴とも、協調することを少しは覚えよ。 それと、儂はもう高順だ。 呂布、お前はこれから、儂の影武者の首を持って、陣に行け。 儂を殺して、これから董卓の軍に下ると告げろ。 お前の圧倒的な武勇を見せつけたのはこの時のためだ。 どの兵士も、お前にはさからわん。 逆らう奴がいたら、その場で斬れ」

無言で頷くと、呂布は陣へ降りていった。

王允が口の端をつり上げる。この場にいる誰よりも、その微笑みは、深い闇を湛えていた。

「それにしても見事な虎だ。 どうやって躾けた、丁原」

「何、あの男は成りこそ恐ろしいですが、根は素朴で善良な男なのです。 ただしとても勘は鋭いでしてな。 だから、儂も、きちんと相手に向き合って、息子として接していただけですわい」

「ほう、そうか」

「猛獣を躾けるやり方と同じです。 鞭で躾けた猛獣は、必ずいずれ牙を剥きます。 猛獣は、幼い頃から愛情をたっぷり含めて育てるのが一番なのですよ」

高順と名を変えた丁原はそう言うと、腕組みして、何かを考え始める。

どうやら役割は終わったらしいと思い、緊張を解こうとした趙寧に、不意に高順と名を変えた丁原が振り返った。

「ところで、元宦官。 李応と言ったか」

「は。 何でしょうか」

「董卓将軍には、今晩中にはけりがつくと伝えておいてくれ。 それと、これは報償だ」

渡されたのは、黄金の袋。

多分、王允も、甘い汁をこっそり吸っていた一人だ。民の怨嗟は、こうして巨悪からは微妙に外れた所に集中していく。だが、恐らくは。何時までも強い悪は存在できないだろう。

なぜなら、悪というものは。光の影にいて、初めて本領を発揮できるからだ。

悪がなければ光は存在できないが、光がなければ悪は大きくなれないのである。生粋の悪の群れで育った趙寧は、それを肌で知っていた。

 

呂布が小屋から出てきた。

そして、林の方を見た。明らかに気付いている。闇の世界を生きてきたからこそに、林は強さに敏感だ。戦っても勝ち目がないことは、よく分かっている。

「俺は、細作が嫌いだ」

呂布が、語りかけてくる。兵士達は小首を傾げて、その様子を見つめている。月明かりの下で、呂布と林は、誰も気付かれぬまま、対峙していた。

「どんな理由があっても、とにかく細作は嫌いだ。 女でも、関係ない」

応えはしない。それを承知で、呂布は続ける。

「俺はこれから天に昇る。 邪魔をするなら、殺す」

呂布は吐き捨てると、獰猛な殺気を称えたまま、丁原の陣へ降りていった。多分誰かを殺すつもりだろう。

林は息を吐き出すと、ゆっくり動悸を整えていった。

これから、更に面白くなる。しかしあの男は避けなければならない。いや、或いは。

あの男を潰すことを、生涯の目標にするべきなのかも知れない。あの男さえいなければ、娘はもっとずっと楽に暴れ回ることが出来るからだ。

林は長年の無理で、体に多くの負担を抱えている。細作の道に入った時期が遅かったこともあり、様々な無理をした。身体能力を上げるために無茶な薬物も多く採ってきたし、喪失した人間性が体も蝕んでいる。それに対して、芙蓉は幼い頃から計画的に薬物を与えて鍛え上げ作り上げた、生粋かつ最強の細作だ。林の名を襲名した時には、小さな組織を率いても、充分以上に毛大人と渡り合うことが出来るだろう。

呂布を、鬼神の座から引きずり下ろすのには、命を賭ける他ない。

そしてそれは、自分にしかできない。

そう、林は思った。

覚悟も、決めた。

洛陽に戻ると、芙蓉と一緒に、肉屋で見慣れぬ娘が待っていた。そういえば、少し前から接触してきている奴だ。ルーとか言ったか。西域出身の、白い肌と青い眼を持つ娘である。ただし育ったのは此方らしく、言葉に澱みはない。

肉屋の二階、狭い部屋で向かい合う。最初に抱拳礼をしたのは、向こうからだった。

「こんばんは、林大人。 名高い貴方と会うことが出来て、光栄です」

「何用か」

「先に連絡させていただいたとおり。 対董卓の共同戦線を張らせていただこうと考えておりまして」

お納めくださいと、黄金の入った袋を差し出してくる。重みを確かめるが、ちゃんと純度が高い金が入っている。

「曹操の差し金か」

「我が主は曹操様のみにて。 して、如何でしょうか」

「貴様の組織はあまり質も数も無い。 同盟を組むとしても、互いを利用し合う関係になった場合、損害はかなりそちらが大きくなるし、助ける余裕もないぞ。 それでも、良いのだな」

無言で、ルーは頷いた。自分と同じ、覚悟を決めた目だ。

この娘、目の奥に強い感情がこもっている。ひょっとすると、曹操を愛しているのかも知れない。そうだとすると、細作としてはあまり向いていないと言う他無い。だが、思考を読むことは出来る。

そして、ルーの考えていることが。今の林には、あまり不快ではなかった。

「いいだろう。 同盟を組もう」

どのみち、単独では、董卓の下へ辿り着くことさえ難しい。呂布は上に誰かがいて、初めて本領を発揮できる型の人間だ。それならば、やるべき事は決まっているとも言える。

細かい打ち合わせをして、策を幾つか決める。

そうしているうちに、また一つ。面白い情報が入ってきた。

董家も、一枚岩ではないという事を、林は知った。

 

2、曹操の逃避

 

丁原が敗北した。

名だたる将であった丁原が、養子であった呂布に裏切られ。その軍が全て董卓の支配下に入ったと聞いた時、喜んだ者はごく少数だった。もちろん、曹操も舌打ちした一人である。これで、董卓の勢力は圧倒的なものとなり、対抗できる者はいなくなった。もしも対抗するとしたら、地方から軍勢を引き連れて、攻め上がるしかない。

恐らく袁紹はそれを狙っているはずだ。そして、曹操はその場合、袁紹にごまをするくらいしかできない。主体的に行動できないもどかしさが、曹操を余計に苛立たせていた。しばらく部屋をぐるぐる回っていたが、咳払いした夏候惇に気付いて顔を上げる。どうやら、夏候惇の脆弱な気配に気付けないほど、苛立っていたらしい。

「殿。 不安なのですか?」

「そうだな」

「やはりルーのもののけめに、背が伸びる薬を処分されてしまったのが辛いのですか?」

「たわけ! それも確かにあるが、今はもっと重要なことがあるだろう!」

実のところ、曹操は董卓がこのまま勝ち残るとは考えていない。そして恐らくは、董卓も政権の維持を考えていないだろうとも思っている。

このままだと、董卓の政権は、近いうちに空中分解する。敵をあまりにもたくさん作りすぎたし、やり方が強引すぎる。この国の者は歴史を非常に警戒する傾向があり、後世に悪名を残さないために気を遣う事が多い。董卓はそれを全くしないために、知識層から不気味がられてもいる。

曹操は、董卓と直接会って、その真意を確認しようとした。だが、まだ読み切れない。あの男は一体どういう目的で、あのように淡々としているのか。それが分からないのだ。

夏候惇がいるというのに、部屋をまたぐるぐると回り始めた。いつの間にか心配したらしい曹仁と曹洪も来ていた。夏候淵は非番なので、今日は郊外で馬でも乗り回していることだろう。

ぼんやり部下共の顔を見ながら回っていた曹操は、不意に足を止めた。

「殿、背を伸ばす画期的な方法でも思いつきましたかな?」

「そんなものがあったら小躍りしておるわ。 一旦、洛陽を離れようと思う」

思いついたままに言ったが、部下達が青ざめるのが曹操にはよく分かった。董卓は、曹操を召し抱えると言ったのだ。それに逆らって逃げるという事は、追っ手を差し向けられるという事でもある。

追撃戦の厳しさは、此処にいる誰もが知っている。黄巾党と戦った時に、何度か経験した。あのつらさは、筆舌に尽くしがたい。しかも洛陽から曹操の本拠地である?(エン)州までは、非常に遠いのだ。

幸いなことに。今、洛陽からは、民が多く逃げ出しつつある。多くの民は荊州に向かっているが、洛陽に絶望して故郷の荒れ果てた村に戻る者も多い。彼らに混じって逃げれば、故郷まではたどり着けることだろう。

更に、曹操の見かけが貧弱であると言うことも、今回は幸いである。巧く流民に紛れ込んで、逃げる事が出来るだろう。問題は曹洪や夏候惇だ。それなりに見かけが立派だから、それが難しい。

場合によっては、積極的に捨て石になるつもりでいなければならないだろう。

曹操は彼らの苦悩を、即座に見て取ったが、こればかりは仕方がない。これからは乱世になる。それである以上、部下の命は、そうやって効率的に使っていかなければならないのだ。

「惜しいのは徐晃だな。 もう少しで引き抜けそうだったのだが」

「こればかりは、仕方がないでしょう」

「うむ。 まずは?(エン)州で人材と力を集めようぞ」

先鋒に楽進を。更に、曹仁と夏候惇を先発させる。夏候淵と曹洪を側に残して、後は兵士達も皆流民に変装させ、早朝の内に洛陽を出る。恐らく、一日二日で脱走したことには気付かれるはずだ。

使用人達も集めた。あの董卓のことだ。残しておいたら何をされるか分からない。

暇を出して、それぞれに給金を渡す。ただごとではないと悟ったらしく、誰も何も言わなかった。

重そうな荷物は、大体使用人や兵士達に分配してしまう。途中役人が様子を見に来たが、急に金が必要になったのだと言って、下がらせた。大体準備が終わったのが、深夜である。後は兵士達を連れて、曹操はさっさと洛陽を離れた。

こういう時は、流石に曹操も背丈がどうのと言ってはいられない。ルーについても、別に告げなくても巧くやるだろう。後は兵士達だが、皆基本的に故郷で雇った者達ばかりだから、忠誠心も高い。洛陽にいるよりは、?(エン)州に帰った方がまだ心地よいであろうし。

もう一度役人が来るまでが勝負だ。こういう時は、下手に動き回ると、却って部下達が困惑することを、曹操は肌で知っていた。だから主な部下達に準備を任せ、自分は書斎で孫子に筆を入れる。

やがて、切りの良い所まで終わった所で。夏候惇が部屋に来た。

「準備が、整いました」

「良し、行くぞ」

立ち上がると、最後の荷物である孫子を、自ら持って曹操は書斎を出た。

屋敷をもったいないとは思わない。五千の兵を揃えられるほどの富豪なのだ。屋敷の一つや二つなど、何でもない。既に主な将は、おいおい出発を始めていた。楽進の姿は既に無い。楽進と、その子飼い達が、これから道を開いてくれるはずだ。其処を一気に、駆け抜けるのだ。

屋敷に火をつけても良かったが、思いとどまった。ただでさえ不幸続きの洛陽の民である。これ以上苦しめては気の毒だ。冷酷に見えて、そのくらいの仏心を、曹操は備えていた。

洛陽の城門には、兵士がいたが。曹操の顔を見ると、道を空けてくれた。殿軍は、曹洪に任せる。奴は守銭奴だけあって、機転が利く。もしも強敵にあっても、きちんと逃げることを考えるだろう。場合によっては、追っ手を丸め込むことさえやってのけるかも知れない。

「走れ!」

洛陽が見えなくなると、曹操は叫んだ。部下達が一斉にその言葉に従う。

道の脇に点々と散らばっている無数の貧民が。何事が起こったのだろうかと、曹操をぼんやりと見上げていた。その中の一人は、気が触れてしまっているようで、昨日の戦場から採ってきたらしい兜を被っていた。

そのまま、曹操は流民の群れに紛れ込む。

そして、荊州に向かう彼らの中で、速度を上げて。やがて、街道からも外れた。

 

曹操が逃走した。そう趙寧から聞いた時、董卓は寝そべっていた。

生臭い匂いがする。無理もない話である。

趙寧の前の董卓が寝そべっていたのは。ついさっき、剥いだばかりの。人間の皮を重ねたものなのだから。

逆らう者に対して、董卓は徹底した粛正を繰り返している。言にて士大夫を殺さずというのは、儒家の掲げる理想の一つだが、董卓はそれを土足で踏みにじり続けている。この生皮は、決死の覚悟で、董卓に諫言した数名の文官のものだ。いずれも首をその場で刎ねられ、今は董卓の敷物とかしている。

膝枕をしていた董卓は、趙寧の前で、小さく欠伸をした。この欠伸の仕方は、知っている。後で女が欲しいのだ。

董卓の特殊な性癖は、既に趙寧も把握している。今、後宮に入れられている董卓の女は、ことごとく趙寧が集めたものばかりだ。李応と名を変えてはいるが、かっての人脈は健在で、それを使っている。だが、今はそれとは違うことに、気を揉まなければならなかった。

「董卓様。 如何なさいましょうか」

「捨て置け」

「はあ、しかしよろしいのでしょうか」

「奴は切れる男だ。 今頃流民に紛れて、大きく迂回して?(エン)州に向かっているだろう。 奴が着く少し前に、使者を出して、引き渡しを要求しろ。 それだけでいい」

趙寧の見たところ、董卓はわざと反乱を起こさせようとしている。意図は分からないが、洛陽を焼き尽くすつもりでもあるらしい。最近、趙寧も、董卓が嫌に淡々とそれらの悪行を重ねていることには気付いていた。誰か、更に黒幕がいる可能性もある。

それならば、早めに黒幕に、媚びを売らなければならないだろう。趙寧にとって、別に卑劣な考えではない。生殖機能を失い、能力的にも劣る趙寧は、そういった手をどんどん使っていかなければ、そもそも生き残る事が出来ないのだから。

死んでしまっては、正義も何もない。そもそも、宦官だという時点で、何の業績も残していない趙寧は、悪と記される存在である。宦官と言うことを隠してはいるが、それがいつまで有効かさえも分からない。それならば。今を徹底的に、したたかに生きていくしかないではないか。

董卓の前から退出すると、李需とすれ違った。今の話をして、使者を出す打ち合わせを軽くした。使者としての仕事をする役人は、もう出る準備をしていたようなのだが、李応の話を聞くと唖然として、しぶしぶ出るのを取りやめる。書状も、ゆっくり書けば良いようなものだ。それに、宮中の文官が用意する事にもなる。

一通り準備を終えると、次は非公式の仕事である。

今までのつてを使って集めた娘を見に行く。董卓は洛陽を占拠してから、皇帝そのものとして振る舞っているが、女を抱き潰す速度もそれに従って増した。現在一度に五人ずつの愛妾を抱えており、一月に二人か三人は体調を崩して後宮を去るので、そのたびに趙寧が新しい女を用意しなければならない。

宮廷の一室には、既に青ざめた娘達が集められていた。回を重ねるごとに、粗末な身なりの娘が増えてきている。面接をして、お抱えの女官に体を調べさせる。武器の類は持ち込んできていない。

毎度募集に応じてかなりの数の娘が集まるが。面白いのは、あれだけ評判が悪い董卓であっても、娘や妹を平然と差し出す男は後を絶たないと言うことだ。今の時勢、一部の富豪や豪族くらいしか、生活に余裕のある人間はいない。誰も彼も、他人を犠牲にしてでも、生きるために必死という訳だ。

つまり、趙寧が笑われることなど、何もない。皆同じなのだから。

董卓の好みも、分かるようになってきている。あまり大きな声では言えないが、どうやら董卓は、孫娘に似た女を好むようなのだ。これは好意的に考えれば、既に亡くした妻の、若い頃の面影を見ているのかも知れない。しかし趙寧は違うと判断している。どうしようもない、行き場のない欲情が、董卓にはある。それを発散するためにも、女になったばかりの娘ばかりを集めて、己の性欲のはけ口としている訳だ。

何人かを見繕い、絵師に絵を描かせる。他の者達は帰らせるが、何度も面接に来ているものもいる。四回目で採用した娘もいることだし、何も落ちたと言って彼女らは悲観することはない。面接に受かっても、体を壊すことは確実なのだから。

絵をまとめて持っていく。董卓は気怠げに、まだ人間の皮の敷物の上で、寝そべっていた。恭しく絵を差し出すと、面倒くさげに全て目を通していく。そして、二つ弾いた。意外にも、一番美しい娘二人だった。

もちろん、不満は言わない。今の結果を加味して、董卓の趣味に関する情報を、上書きしておく

「ふむ、相変わらずよな、貴様は」

「私には、これしか能がありませぬゆえ」

「それを自覚しているのは立派だ。 これからも泥にまみれ続けよ。 その分くらいの評価は、してやるからな」

「光栄にございます」

董卓が許可した娘は、早速今晩から後宮へ上げることになる。早速手が着くかどうかは分からないが、その分の世話役や宦官を手配しなければならない。趙寧の他にも僅かに生き残った宦官はいて、彼らは目を回すほどに毎日忙しく、悪巧みなどする暇はなかった。

深夜まで仕事は続いた。

そして寝ようとした時。部屋に入ってきた者がいる。

思わず声を挙げかけて、しっと鋭く言われた。その者は。何と、董卓の孫娘である、董白であった。

邪険には出来ない。どういう訳かは分からないが、董家の人間は彼女に大きな敬意を払っている。慌てて居住まいを直そうとする趙寧に、董白は言った。

「李応。 御爺様が新たに囲った女性の似顔絵を見せなさい」

「こ、こちらになります」

素早く目を通していく董白。彼女の目には、強い知性の光と、それ以上の悲しみが宿っている。

白い指が、似顔絵を捲り終えた。大きなため息をついたのは、祖父の嗜好に気付いたからだろうか。

「貴方に、一つ仕事を任せます」

「なんなりと」

董白の目には、獲物を狙う猛獣と同じものがあった。流石はあの董卓の孫だ。そう思った趙寧は、敢えて逆らわずに、全ての言うことを聞いた。

五里霧中の状況だ。出来るだけ周囲に多く切り札は用意した方が良い。そう考えてのことであった。

 

洛陽からだいぶ離れた所で、曹操は危地に陥っていた。

囲まれたのである。野盗やその類ではない。確実に、訓練を受けた軍隊であった。数は約千五百。この場にいるのは曹洪のみ。楽進はかなり先にいて、夏候惇や夏候淵、曹仁の救援も期待できない。

しかも、此処は見通しのよい原野だ。

周囲には、同じように囲まれている流民が多数。殆どの者達は、慣れた様子で、襲ってくるのを待ち受けていた。もし襲ってきたら、一斉に散り散りに逃げるつもりなのだろう。盗賊に襲われ慣れて、皆したたかになっていると言うことだ。

その中に一人、妙に身なりが良いのが一人混じっていた。そして冷静に様子を見て、逃げに掛かっている。曹操は感心してその様子を見ていた。顔もすぐに覚えた。或いは、欲しいと思っていた参謀に出来るかも知れない。

「殿!」

「分かっている」

もしも、軍が狙っているのが曹操なら。話は分かりやすい。一旦捕らえられた後、交渉するしかないだろう。しばし軍は此方の様子を伺っていたが、やがて一騎が進み出てきた。しかも、曹操に向かって、まっすぐに、である。

五歩ほどの距離を置いて、男は止まる。冷徹な声が、短い手槍のように投擲された。

「曹操殿、ですな」

「貴様は」

鎧を厳しく着込んだ、見るからに雰囲気が鋭い男であった。細い眼から、鋭い光を容赦なく射込んでくる。

「私は陳宮というものです。 貴方が洛陽から逃げてきたという噂を聞き、是非捕らえて報償にありつこうとでも思っておりましてな」

「しゃあしゃあと、良く言うものだ」

殺気立つ曹洪を抑えながら、曹操は笑う。背中には、冷や汗が伝っていた。

まず第一に、どうやって曹操の居場所を特定した。

それにこの手際の良い包囲。一体どうやった。

どちらにしても、並の男ではない。部下に出来れば面白いが、しかし危険な要素が強すぎる。燃えたぎるような野心を、陳宮は放っていた。曹操と同じである。だからこそに、体がさっきから警戒している。

「しかし、今の董卓政権に貴方を差し出しても、面白いことにはなりそうにない。 どうです。 私も今の雇い主には退屈していた所だ。 雇っていただけませんかな」

「いいだろう」

「殿!」

「?(エン)州までまだしばらく掛かる。 これからあの陶謙の領地を通ることになるからな。 油断は出来ん。 兵士は一人でも多い方がいい」

陶謙。現在徐州を支配している男だが、基本的に良い噂は聞かない。無秩序な軍の拡大を行っており、度重なる増税によって、民の怨嗟は?(エン)州まで聞こえ来ている。部下も質を選ばず増やし続けたため、ろくでもない人間ばかりが揃っているという噂だ。優秀な人物もいるらしいのだが、基本的に忠実な人間にしか心を開かないらしく、賢人が投獄されたという話を何度も曹操は耳にしている。もちろん、彼の領地は半無法地帯であり、通る時には最大限の警戒をする必要がある。

良くしたもので、今袁家の本家を相続して勢力を増やしている袁術も、同じようにして勢力を増しているらしい。袁紹との対立も始まっていて、近いうちに大規模な代理戦争が起こるかも知れないと、曹操は分析していた。

陳宮が戻ると、軍が引き上げ始めたので、流民達はほっとした様子で。とぼとぼと進み始めた。一部は冷静に動いた曹操を見て安心したか、着いてくる。曹操はそれを、別に咎めなかった。

夜まで北上。後?(エン)州まで一日の距離に来た。正確には、此処から全力で駆け抜けることになる。何しろ、陶謙配下の中でも、最も凶暴で民に恨まれているという、?(サク)融の領地を通らなければならないのだ。迂回路もあるのだが、楽進がいずれも駄目だと告げてきている。洪水が起こっていたり、治安が最悪であったり。命の保証が出来ないのだという。

陳宮の部下も五百ほど着いてきてはいるが、それでも危険であることに代わりはない。街道から少し外れて、森の中で火を焚く。流民達には、出来るだけ森の奧へ行かないように念を押したが。しかし、わざわざ言わなくても大丈夫だろう。どの顔を見ても、地獄を見てきた者ばかりだ。

さっき、冷静に動かず様子を見ていた者がいた。曹操が目ざとく見つけて、近くに招く。男は一礼すると、たき火に当たりに来た。街道の側でも、たき火は点々と焚かれているが、その数は少ない。森の木にも限界はあり、薪にしてしまえば無くなるのだ。

街道の側の森は酷く何処も荒れているが、その原因の一端がこれであろうか。

曹操は言葉を選ぶこともない。すらすらと、頭の中から湧いてくる言葉を口にする。

「先ほどは、冷静な判断であったな。 感服したぞ」

「いえ。 大したことはしておりませぬ」

「名を聞かせよ。 儂は曹操という」

「貴方が曹操様ですか。 私は程cと申します」

聞いたことがある。どうにかして部下に出来ないかと思っていた賢人の一人で、四方に行方を捜させていた。何でも地元の太守と対立して出奔したとかで、こんなところで出会えたのは僥倖である。

威丈夫だと聞いていたが、確かにその通りだ。曹操より頭二つ分くらい大きい。見下されて、曹操はちょっと傷ついたが、座るように促す。隣では、曹洪が干し肉を炙っていた。肉汁の香りがする。鍋を流民の一人が持ってきた。大柄な男で、相当な筋肉質であった。男が手際よく、鍋に野草をくべ始める。ほんのり甘い香りが、あたりに漂い始める。

「その様子だと、洛陽から逃げてこられましたか」

「うむ。 今、洛陽にいることは望ましくない。 董卓は近いうちに破滅する」

「でしょうな。 かの御仁の、悪政の数々は耳にしております。 しかし不可解なのは、時に分かっていてやっているとしか思えないことなのです」

「鋭い男よ。 儂も大体そのように見ておる」

使えそうだと、曹操は判断した。

今、手元にいる一線級の将官は楽進のみ。文官でまともに使えそうな者は少ないし、思考の補助が出来る軍師は存在しない。陳宮は文官としても役に立ちそうだが、この程cもなかなか役立ちそうだ。

「儂の所へ来い。 待遇は保証するぞ」

「これはこれは。 そうですな。 しばし仕えさせていただいて、貴方を見極めたいのですが、よろしいでしょうか」

「うむ」

見下されて不快だった事も忘れて、曹操は上機嫌であった。

大男が鍋を火から下ろす。周囲の流民達にも、よく煮えた野草が配られた。曹操も口にしてみたが、まあまあ食べられる味だ。

「悪くないな」

「典偉という男です。 どうやら食客をしていたようなのですが、何しろ口べたで、主君ともめ事を起こして出てきたようでして」

「そうか。 お前も儂に仕えよ。 別に口など働かせなくてもよい。 腕だけ振るえ」

むっつりとしていた典偉は、言われるまま一礼した。愛想の一つもない。曹洪が不満そうに何か言いかけたが、曹操は遮った。

夜が更けてくる。

一度その場を離れた程cと典偉の代わりに、陳宮が来た。部下達に、猪を担がせている。

「おや、もう食事はお済みでしたか」

「おかげさまでな」

「今の内に力を付けておいた方がいいでしょう。 出来るだけ腹に詰め込んで、残りは燻製にしておいた方が良いかと」

言うようにさせておく。それにしてもこのような大きな猪、良くも捕らえることが出来たものだ。

地元の猟師に知己がいるのだろうかと曹操は考えたが、どうやらそれは当たっていたらしい。兵士達は殆ど疲労が無く、むしろ淡々と猪を解体し始めていたからだ。その肉を少し食べてしまうと、もう抗うのは不可能だった。色々と疲労は溜まっていたし、何より明日は今日よりも大変になることが間違いなかったからだ。

戻ってきた典偉を招き、曹操は無造作に命じた。

「周囲を見張れ」

「分かりましてございまする」

「すまぬな。 明日が終われば、ゆっくり休んでくれ。 ?(エン)州に入ってしまえば、もう儂の領土のようなものだ」

もっとも。

既に董卓が手を回しているだろうから、あまり休んでいる時間はないだろうが。

横になると、ルーのことを思い出した。巧く逃げ延びているだろうか。或いはあのもののけの事だから、情報をしっかり掴んで帰ってくるかも知れない。既に体力がない曹洪は寝こけていて、苦笑しながら曹操はその後を追った。

 

橋瑁は、気難しい顔をゆがめて、自室を歩き回っていた。国内でも一二を争うという美貌の妹たちを持つ男であるのに、その顔は厳つく、しかしながらすぐれた威厳を備えていた。

洛陽から来る情報は、どれも絶望的なものばかりだ。董卓の意味不明な暴虐は日ごとその度合いを増し、逃げだす民は増える一方である。心ある臣は次々と惨殺され、その皮を剥いで董卓は寝そべり、或いは宮中で丸焼きにして侍臣に肉を食わせているのだという。その上、民の中から若い娘を選び出し、自らの周囲に侍らすばかりか、後宮の女達にも無作為に手を付けていると言うではないか。

多くの懇願が、橋瑁の元には飛んできている。中には、悲鳴に近い竹簡を飛ばしてきた翌日に、その者が殺されたという報告が来たものさえあった。

今日も、そのような報告があった。机の上には、橋瑁の友が、些細な罪で殺されたという報告書が拡げられている。しかも牛裂きと言う、極めて残虐な刑罰に処されたと言うではないか。さっき怒りにまかせて、公文書にもかかわらず引きちぎってしまった。

やがて、橋瑁は足を止めた。

その全身からは、鬱屈した怒りが、炎のように立ち上っていた。

手を叩いた橋瑁の側に現れたのは、林と呼ばれる者に率いられる細作集団から貸し出されている一人であった。林の組織に情報を流されるのを承知の上で使っている男である。無感情で、仕事がとても早いので、いつも重宝していた。

「今、書類を書く。 それを各地の諸侯へ届けて欲しい。 手始めに袁紹、袁術、曹操、劉岱……」

「分かりましてございまする」

「うむ。 書は昼までには書き上げる。 可能な限りの速度で、各地の諸侯へ届けよ」

すっと男が消える。その場には、最初から誰もいなかったかのように。

橋瑁は元から考えていた計画を実行へ移す。

手始めに、各地の諸侯へ檄文を送る。董卓を滅ぼすには、既に官軍では駄目だ。各地の諸侯から精鋭を募り、数の力でねじ伏せる他無い。そして、急激に膨張した董卓の軍勢は、恐らく一度負ければかなり脆い。此方もそれは同じだが、圧倒的な戦力を前にして、浮き足立つのは烏合の衆の特性だ。

盟主にするのは、袁紹か袁術だろう。戦力として一番期待できるのは、なんといっても袁家である。しかしながら、南陽を中心により多くの資金と地盤を持つ袁術は、残念ながら良い噂を聞かない。それに対して、多少兵力は劣るとしても、河北を中心として勢力を築いている袁紹はかなり優れた器量を持つらしい。連合軍の盟主とするのならば、この男だろう。

手紙を一気に書き上げる。文章を代筆する専門の役人もいるのだが、橋瑁は基本的に彼らとは無縁である。優れた筆力で、心をたぶらかせる。それが、橋瑁の持つ、誰にも負けない特技だ。

書き上げた手紙は三十通を超えた。いずれも、三公による檄文という体裁を採っており、皇帝を暴虐董卓から奪還するという形式である。もちろん嘘だが、今は誰もが大義名分を喉から手が出るほど欲しがっており、董卓を殺せれば理由などどうでも良いのである。それを良く知っている橋瑁は、舌なめずりしながらそれを書き上げた。

昼になって、細作が来た。頭を下げる彼に、手紙をまとめて渡す。檄文が宛先まで辿り着くまで、一月程度か。幾つかは別に奪われてもいい。一人が立てば、後は勝手に内容が一人歩きする。

そう。結局の所、究極的な悪とも言える董卓がいるからそう見えないだけで、他の野心家達も似たようなものなのだ。後は餌をちらつかせてやれば、勝手に食いつく。

後、もう一つ。やっておく事があった。

手を叩いて、長く続いている使用人を呼ぶ。ついでに、食客にしている何名かの武人達も集めさせた。妹たちも、老母と何名かいる兄弟も、である。

「何用ですか、橋瑁様」

「これより、皆を連れて呉に向かって欲しい」

それだけで、使用人は何を命じられた悟ったようだった。そして、橋瑁が、何を企んでいるかも。

「お考え直しを、橋瑁様」

「今、儂が立たなければ、この国は終わる。 儂には皆を率いる器量も軍を指揮する手腕も、董卓の首をたたき落とす武力も無い。 だが、檄文によって皆を焚きつける事だけは出来る。 だから、それを生かして、この国を救うのだ」

妹たち、傾国と歌われる大喬と小喬も、その言葉を聞くと青ざめた。老母に到っては、しくしくと泣き出した程だ。誰もが分かったのである。橋瑁が、死を覚悟しており、自分が失敗した時に巻き込まれないように、家族を南へ逃がすのだと。

呉は長江の南にあり、中華の最辺境の一つである。近辺には異民族として知られる山越がおり、凶猛な戦闘能力で知られている。赴任している太守達も、中央の勢力が衰えたと見るや、即座に独立を計るような土地柄である。

だからこそ、隠れるには都合が良いとも言える。

挙兵のために必要な資金以外は、全て持ち出すようにと、使用人に告げる。そして彼らが屋敷を出るのを見届けると。橋瑁は、一つため息をついた。

董卓を排除できても、この国が良くなる保証はない。

しかし、董卓が滅びなければ、この国は喰らい尽くされてしまうだろう。

一月と経たない内に、三千ほどの兵が集まった。近隣の太守からは、早くも好意的な返事が集まり始めている。そして、その中の一つ。橋瑁を勇気づけたのは、なんといっても?(エン)州の顔役、曹操であっただろう。曹操は真っ先に駆けつけることを約束してくれた。兵も五千以上を集めてくれるという。

檄文が、中華を駆けめぐる。

漢は、黄巾党の乱以来の、大混乱の時代に陥ろうとしていた。

 

狭い自室で橋瑁の檄文を眺めながら、曹操はくつくつと笑っていた。

内容が実に洗練されている。橋瑁は何の能もない男だが、これだけは掛け値無しに本物だ。そして、漢に対する忠誠心も、である。

曹操は、この時代が来ることを待っていた。橋瑁は残念ながら近々命を落とすだろう。だが、その投じた一石は、確実に時代を動かした。既に、中原を中心として、二十万を超える兵が集まることが確実視されている。董卓はせいぜい十万前後程度しか動かせないので、確実に勝てる。董卓が百戦錬磨の用兵家だというのならともかく、奴は戦下手だ。噂に聞く呂布がいても、どうにもならないだろう。

ただ、董卓は、部下をまとめる力だけは優れている。烏合の衆であるうちに勝負を付けた方が良いだろう。既に袁紹は軍を動かし、河北の諸侯がそれに続いていると聞く。袁術も南陽から北上を開始しており、孫堅がそれに続いたとか。孫堅は、袁術の支援がなければ勢力を保てない弱小ぶりだが、戦の手腕に関しては本物だ。今回の戦でも、最前線で活躍して貰いたい所である。

袁家の戦力を中心に、切り込みには孫堅。そして、彼らを裏から統括するのは、曹操。これぞ、理想的な図式であった。

袁紹に手紙を出そうと思い、竹簡を拡げる。墨を出して、筆を濡らす。

自室は屋敷の奥にあり、埃の臭いが酷い。壁際に建てている蝋燭が、不自然に揺れた。ルーかと思ったが、声は違った。

「お館様」

「貴様は、確かルーの配下だったな」

すっと、闇からしみ出すようにして現れたのは、顔を布で隠した若い男だった。声からそう判断しただけで、本当の年齢は分からない。ルーが何回か連れて仕事をしていたので、良く覚えている。背が高いから、子供ではないのだろうが。

男はしばし言葉を詰まらせた後、言った。いやな予感が、曹操の背を這い登る。それはさながら、闇から産まれた大ミミズのようであった。

「どうした」

「ルー様が、亡くなられました」

ぽとりと、筆を落としてしまう。

自失していたことに気付いた曹操は、目を見開いた。ルーの部下は、うなだれ続けている。

もののけだと言ってはいたが。奴も人間であったことくらい、知っていたのに。

それなのに、こうして死を告げられてしまうと、やはり心も動くか。

しばし唖然としていた曹操だが、部下の死は初めてではない。やがて心を、どうにか立て直した。

「詳しく、聞かせよ」

「分かりまして、ございまする」

ルーの部下は、無念げに頭を下げた。布で隠されている表情の中に、確かに曹操は慟哭を感じ取る。あれで、奴は部下達に慕われていたというのか。

そして、闇の世界の物語がつづられた。

 

3、闇の中での戦い

 

町娘の格好をしたままの林が約束の地点に赴くと、既に結構な数の細作が集まっていた。

合流地点は、洛陽宮城の裏門近く。水が入っていない、乾いた堀の中である。堀は深いが、常に水が入っている訳ではないのである。既に夕刻。赤い太陽から引いた尾が、辺りを闇に染める準備をしていた。堀の中はそれに先んじるように、とっくに闇になっていた。

林は夫と、後は組織から引っ張り出した精鋭達とともに、集めた集団の確認を行う。毛大人の組織から二十。他の弱小組織から合計十五。そして林の組織から七。曹操の飼い犬である、ルーが連れてきたのが四。

もちろん、これだけの数が、堀の中にいてはすぐにばれる。半数ほどは辺りに散り、堀の中と言っても一カ所に集っているという訳ではない。

やがて、夕刻が終わる。太陽が地平に飲み込まれ、夜が来ると。裏門にはかがり火が焚かれ、屈強な兵士達が見張りに着いた。

丁原の部隊を取り込んでからと言うもの、董卓が指揮する軍勢は十万を超えた。一気に倍以上の兵を統率することになったわけであり、その中には董卓に対する不満を抱える者達も多い。だからこそに、要地の見張りには、それなりに信頼性の高い兵を置く必要がある。結果として、見張りに着く兵士は、常に似たような顔ぶれになる。

だから、癖や、欠点も読みやすい。

事前に、四回の打ち合わせを経て、各自の動きは決定している。半数は陽動に当たり、残りが内部に乗り込む。

今回の目的は、李需を消すこと。そして可能であれば、董卓の背後関係を探ること。林は既に、結論している。董卓は自分で考えて行動していない。幾らか得た裏情報が、それを確信へ近づけている。しかし、まだ確信へは到っていない。恐らくは、何者かが糸を引いている。それを確認しないことには、危険すぎて動けないのだ。

芙蓉は置いてきた。今回の任務は、命を賭けた内容となる。当然董卓の近くには呂布もいるだろうし、華雄を始めとする武人達も相当な難敵だ。見つかったら即座に首が飛ぶ覚悟をしなければならない。まだ、芙蓉に、連中の相手は厳しすぎる。

たき火に照らされた兵士達の姿。四交代で見張りに着いている彼らである。既に交代の状況も把握している。狙うのは、交代の直後だ。

奥から、小隊長が現れる。そして、兵士達が、ぞろぞろと交代し始めた。

それと同時に、林は指を鳴らす。さっと、精鋭達が動く。一カ所だけある、塀の警備が緩い所を駆け上がり、一気に城壁を乗り越える。一人目。二人目。城壁に差し込んだ短刀を足がかりに、駆け上がる。四人目が成功した所で、林が乗り込む。林の夫も、それに続いた。

先陣を切ったルーが、部下を手招きしている。兵士達が交代を終える頃には、全員が城壁を乗り越えていた。

城壁の上には、何カ所か詰め所がある。その中に、素早く躍り込む。欠伸をしていた兵士が振り返るよりも早く、短刀を投擲。喉に刺さった短刀が、兵士をよろめかせるよりも先に。既に次の短刀を投げている。見る間に制圧した詰め所の中に味方を招き入れ、鎧を奪って着替えさせる。

そして、裸になった兵士の死骸は、城内の茂みや、涸れ井戸にうち捨てた。

日中に、林は何度か内部に潜入を果たしている。もちろんあまり奥までは入れていないが、今回は人数が多い。だから、色々と、強硬な手段も執ることが出来る。

侵入から一刻。宮中の各所に散った部下達が、一斉に火をつけた。

 

董俊が、ぐったりしている愛妾を押しのけて、着物を身につける。鋭敏な勘が、何か起こったことを悟らせたのだ。すぐに部屋に入ってきたのは李需だ。抱拳礼をする、良く考えが読めない部下は、抑揚のない声で言った。

「侵入者です。 四カ所で放火が発生しました」

「それは陽動だな」

「恐らくは。 既に部下は動かしていますが、将軍の側には私が控えます故」

「頼むぞ。 そうだ、呂布も呼んでおけ」

一礼すると、李需は部屋を出て行く。気絶している愛妾を一瞥すると、董俊は部屋を出た。

豪奢な部屋であろうと、人間がすることに代わりはない。外には顔を洗うための手桶も用意してあるし、不浄だって近くにある。冷たい水で顔を洗って気を引き締めると、呂布を呼んだ。

ぬっと、大柄な黒い影が現れる。十名ほどの兵士を伴っていた。中には、高順と名を変えた丁原の姿もあった。意外と良好な関係を保っている偽の親子である。ちょっと羨ましいかも知れないと、董俊は思った。ただ呂布は、そのままだといつまでも無言でいそうなので、董俊は咳払いする。

「うぉほん。 夜中に呼び出してすまんな」

「何用でしょうか、義父上」

「気がつかぬか。 細作どもが宮中に侵入した。 目的は恐らくは、儂を倒すために、情報を探るつもりだ」

「不快な連中です」

すっと眼を細めた呂布が、辺りを見回す。まるで虎のような殺気だ。しかし、呂布が気付かないと言うことは、周囲に細作はいないと言うことであろう。李需と呂布に守られた状態で、近づける細作などいる訳もない。

董俊は少しだけ安心すると、兵士達に命じる。命じながら、腰帯を巻き直したのは、着替える時に少し失敗したからだ。最近兄のように少し太ってきていて、一人では帯を巻くのが難しくなりつつある。

「女どもを一カ所に集めておけ。 騒がれると、敵に乗じられる可能性がある」

「は。 ご母堂と、董白様は如何いたしますか」

「親族には専用の護衛を付けておる。 下手に騒ぐよりは、静かにしておいたほうが、却って安全だ」

そう。下手に護衛を差し向けると、却って居場所を知らせてしまうことになる。

かって後宮と呼ばれていた、自分専用の寝所を出る。そうすると、その一角に住まわせていた現在の皇帝である献帝が、兵士達に指示を出していた。この間殺してしまった廃帝は父に似た愚物であったが、此方はそれなりに聡明である。母も気に入っているようで、今のところ殺すつもりはない。兵士達も、皇帝の命令が的確なので逆らうこともせず、粛々と警備に当たっていた。

董俊が歩み寄っていくと、皇帝は振り向く。幼い身に、生意気にも帯剣している。背は低いが、既にいっぱしの男であった。

「董卓。 これはどうしたことか」

「は。 陛下を狙う不届き者による襲撃にございます」

「違うな。 儂を狙う賊などおらぬ。 これは董卓、そなたを狙ったものであろう」

「ほほう。 流石は陛下にございます。 不届き者はすぐに排除いたします故、陛下は安心してお休みください」

呂布は相手が皇帝でも遠慮しない。如何に聡明と言っても、呂布が手を伸ばせば、子供に抵抗できるものではない。つまみ上げられるようにして、皇帝は奥の部屋に抱えられていった。どやどやと、三十名ほどの兵士が集められ、護衛に入る。

呂布が戻ってくると、董俊は鼻を慣らした

謁見の間に入った。西涼から連れてきた、忠誠心の高い兵士達が辺りを固める。既に華雄も起き出していて、外の指揮は高順と徐栄が始めている。さて、どう出る。董俊は玉座に腰掛けたまま、心中で侵入者に向け嘯いた。楽しくて仕方がなかった。

 

予想以上に、敵の動きが速かった。警備は混乱したが、それも一時のこと。すぐに徐栄が出てきて、精鋭で要所を掌握。まるで付けいる隙が無くなった。

細作も彼方此方で狩られ始めている。舌打ちした林は、夫と部下を連れて、既に侵入している後宮の深部を行く。何度か李需の部下に出くわしたが、そのたびに出会い頭の短刀を浴びせて、屠り去ってきた。しかし部下も無傷ではいられない。既に何名かが、負傷して脱落していた。

生きて脱出できる可能性は、あまり高くない。途中、寝転けている董卓の愛妾の部屋に侵入して、女官の着物を一着くすねておいた。帰りはこれを着て、堂々と出て行くつもりだ。だがそれも、何処まで上手く行くか。

天井裏に入り込んで、這い進む。後ろに気配。敵ではない。

「林大人」

「ルーどのか。 如何した」

「不審な場所を発見した。 しかし、護衛が少し多い。 手を貸して欲しい」

闇から現れたのは、黄金の髪と蒼い瞳を持つ、あのルーだった。部下は既に一人だけになっていた。

既に毛大人の部下達は撤退を始めている様子だ。無理もない。あまりにも損害が大きすぎる。李需が張り巡らせた諜報網の強度は尋常ではない。董卓や李需の暗殺は、諦めるしかないだろう。

しかし、一つはっきりしたことがある。前からうすうすは感じていたのだが、確信した。仕留めた何人かに、漢中の訛りがあったのだ。

此奴らは、五斗米道の精鋭である。

そう考えれば、董卓と李需の結びつきにも納得が行く。董卓はどういう訳か、この漢をぶっ壊したがっている。そして五斗米道は、漢王朝を潰して、己達の楽園を築き上げようとしている。

両者の思惑は、一致しているのだ。

それを説明すると、這い進んで着いてきたルーは、目を輝かせる。

「面白い話だ。 噂通り頭の切れる人だ、貴女は」

「そうか。 それはいいが、気配を消せ」

足を止めた。

今、周囲には、林と、その夫。ルーと、その部下。併せて四名が、天井裏をはいはいしながら進んでいる。先頭にいた林が、最初に気付いたのは、道理であっただろう。

獰猛な、炸裂するような殺気が近付いてくる。それはまっすぐ、此方を目指していた。早い。とても人間の動きとは思えない。完全に捕捉されていると気付いた林は、小さな声で、だが鋭く叫んだ。

「まずい。 散れ!」

呂布だ。奴が、迫りつつある。

 

董俊の至近にて、巨大な戟を手に控えていた呂布が、不意に顔を上げた。天井の一点を、浅い角度で見つめている。

「どうした、奉先よ」

「敵です。 李需、此処は任せても構わないか」

「お好きなように」

頷くと、呂布は歩き出す。それは見る間にかけ足になった。兵士達が慌てて避ける。そうしなければ、跳ね飛ばしていただろう。

印度に象という巨獣がいると董俊は聞いたことがあったが、まさにそれの突進だ。面白くなってきたと思った董卓だが、この鉄壁から出るほど愚かではない。そのまま頬杖をついて、義理の息子の戦果を待つ。

やがて、何か轟音が響き渡った。

 

地響きに似た感触。その時既に、林は夫とも離れて、全速力で奥へ進んでいた。

呂布だ。しかも近い。

振り返ると、何と呂布の上半身が、天井から生えていた。何かを足がかりに跳躍して、自身を天井に突き刺したのだ。そのまま振り子のように体を揺らして、無理矢理天井に巨体をねじ込んでくる。

既に人間の身体能力ではない。尋常ではない鍛え方をしている自負がある林だが、持って生まれた素質の、絶対的な差を感じてしまう。

これは、駄目だ。本格的に勝てる見込みがない。

さっと、四方に皆が散る。ルーとその部下は、呂布が見ていないことを幸いに、左へ。林の夫は右へ。林はきびすを返すと、そのまま真後ろにはいはいをして逃げる。見ると、ついに鎧を着たまま天井裏に潜り込んだ呂布が、天井板を蹴散らしながら、怒濤の勢いで追いかけてくる所だった。

生まれて初めて、恐怖を感じたかも知れない。

「殺!」

呂布の口から迸ったのは、叫びでも言葉でも咆吼でもない。純粋無垢なる殺気であった。全身が痺れるかと思った。事実、天井が激しく揺れたのは、呂布のそのあまりにも濃度が高い殺気に震わされたからだろう。

闇の中で光っているのは、呂布の二つの瞳だった。慌てて、天井から飛び降りる。下には大勢兵士がいるだろうが、呂布を相手にするよりはマシだ。夫がどれだけ奥へ入り込めるか、それが勝負になる。

出来るだけ呂布を引きつけることが出来れば、それだけ林の組織は有利になる。

出がけに、既に芙蓉には、幾つか言い残したことがある。

まず第一に、もし林が死んだ場合には、襲名するように。芙蓉の素質は、林を凌いでいる。後数年もすれば、立派に大成することであろう。毛大人が老いて死ぬ頃には、中華最強最悪の細作となっているはずだ。

もう一つは、荊州か、南陽へ拠点を移すこと。

南陽を現在握っている袁術は暗愚の上にそそのかしやすく、しかも平穏な地であるため、膨大な流民が流れ込みつつある。今後、河北よりも南陽が、歴史の中心となる可能性が高い。其処へ本拠を持っていくことで、主体的に歴史に関わっていくことが出来る。荊州はそれとは少し違うが、今後戦乱を逃れた民が多く集まる場所だ。情報収集には最適である。

そして、最後は。

思考を進めようとしたが、その暇はなかった。

後ろで、暴力的な爆音がとどろいた。呂布が近付いてきている。

前に、槍を揃えた兵士達の壁。

林は口の端に殺気をひらめかせると、壁を蹴り、体を捻りながら跳躍。天井近くで短刀を取り出し、兵士達に叩きつけた。数人の兵士の喉に短刀が突き刺さり、鮮血が吹き上がる。だが、無事だった兵士達は、落ちてくる林に槍を突き出してきた。

掠めた穂先が、血をしぶかせる。柳刀を抜き、通り抜け様に兵士達の頸動脈を切断する。回転し、旋回し、兵士達を斬り伏せ、自らも何カ所かに槍を受けながらも、前に。すぐ後ろに、呂布が迫ってきていた。悲鳴が上がったのは、避け損ねて跳ね飛ばされた兵士がいたからだろう。

見える。戟を振り上げる呂布の姿が。避けることも、逃げることも出来ない。最後に思い浮かべたのは、娘の姿。最強最悪の細作に成長し、中華を闇から支配しつつある、この世に顕現した悪鬼。

最高の晴れ姿を見せる娘の事を夢想しながら、林は己に降ってくる、呂布の戟の、殺気そのものが具現化した光を見つめていた。

 

林の気配がかき消えた。ルーは全身に戦慄を感じながら、後宮を走る。

自分とは比較にならない手練れだった林なのに。呂布という奴は、こうも桁違いの使い手だというのか。

散々暴れ回ったからか、警備がさっきよりも間隙を多くしている。どうしても突破できなかった、さっきの部屋も、警備が減っていた。部下と頷きあい、飛び込む。慌てた兵士達を、己も刃を受けつつ、一瞬で斬り伏せた。

兵士が死に際に突きだしてきた槍が、肩を掠めていた。垂れ落ちる鮮血。後ろにいる部下が、息を呑む。

部屋の中には、月明かりが人の形を為したような、美しい娘がいた。かなりの貴人だと分かる。だが、どこかに、生まれついてではない、素質としての高貴さを感じさせられた。声にも、恐怖があまり無い。

「何者です」

「もののけにございます」

「まあ、美しい髪と瞳。 でも、兵士達を倒した手腕からしても、確かにもののけのようですね」

悲しそうに目を伏せる。ひょっとすると、噂に聞く、董卓の孫娘か。

董卓は皇族を殆ど処分してしまったか、或いは遠ざけていると聞く。そうなってくると、このような奥まった所にいるのは、その家族か、愛妾だろう。貴人を愛妾にしているとは聞いていないから、消去法でそうなる。孫娘は、いそいそと机から取り出した。竹簡の束である。

「貴女は細作ですね。 以前、貴女のようなお方に、一度あったことがあります」

「仰せの通り。わたしは細作にございます」

「それならば、貴女に、いや貴女の主人にも、これを依頼させていただきます。 命に代えても、これを外に持ち出してください」

手渡された竹簡。白魚のような指だった。環境の厳しい片田舎の西涼で生まれ育ったというのに、どれだけ大切にされてきたのか、手だけを見ても分かる。

そして、董卓が、如何に孫を大事にしているのかも。恐らくは、孫もそれを知っているのだろう。だが、敢えてそれでも。言った。

「董家の実権を握っているのは、曾祖母です。 そして、曾祖母は、漢の民そのものを憎んでいます。 このままでは、漢は憎悪によって囓り倒され、焼き尽くされてしまうことでしょう。 その前に、曾祖母を倒してください。 私には、その力がない。 だから、依頼させていただきます」

「分かりました」

これは、きっと曹操にとって、大きな武器になる。董白と接触が出来ただけでも素晴らしい成果だ。さて、後は出来る限り、生きて帰らなければならない。曹操を、まだまだからかって遊びたいのだ。

曹操のことは、多分好きだ。ルーの事をあまり怖がらなかったし、遊びにもつきあってくれた。これが本当に気難しいだけの輩だったら、とっくに首にされているだろう。曹操はルーが使えると判断したから、欠点にも目をつぶって、側に置いてくれた。

それで、充分だ。

呂布が、此方に気付いたらしい。徐々に速度を上げているのが分かる。一礼すると、ルーは部下とともに走る。途中、何度か兵士に見つかる。だが、声を挙げられる前に、出会い頭に短刀を叩き込んで、沈黙させる。

部下はまだ着いてきていた。全身傷だらけだが、それでもどうにか走っている。ルーは、覚悟を決めた。

「この竹簡、お前に預ける」

「不吉なことを申されますな」

「不吉なものか。 あの呂布が、既に私に狙いを定めている。 逃げ切れない場合を想定するのは、当然のことだ」

そして走りながら竹簡を拡げ、内容の文書を読み下す。血を吐くような文面だった。その間部下が前に立ち、障害になる兵士を排除する。だが、ルーほど手早くは行かず、ついに悲鳴を上げさせてしまう。

無数の気配が殺到してくる。流石は徐栄だ。どちらかが、生け贄になるしかない。そして、部下では、時間を稼ぐことさえ出来ない。結論は、出ている。

最後に、曹操が箪笥の奥にいそいそと背が伸びる薬をしまっている姿が、脳裏を占める。あの薬は、もちろんうさんくさいいかがわしい代物だった。だが、曹操はそれを分かった上で、すがっていた節がある。

曹操は、ルーが知る限り誰よりも頭が切れる男だ。多分この大陸を、後も主体的に動かしていくことだろう。だが、そんな曹操でも、弱い部分や隙は確かにあった。だから、ルーは好きだった。

英雄ではない、曹操の生の部分が。

竹簡を投げ渡す。部下は受け取ると、一礼して闇に消える。殺到してくる兵士達に、ルーは無数の短刀を投げつけた。もちろん彼らも黙ってはいない。剣が槍が突き出され、次々に体を掠め、或いは切り裂く。

そして、ついに見える。魔王に使える、最強の武人の姿が。

大きく戟を振りかぶった呂布は、目に何の感情も抱いていなかった。ただ邪魔をするものを、排除しようと考えているようだった。

口の端に冷笑が浮かぶ。この男、長生きできない。必ず、むごたらしすぎる最期を遂げることになるだろう。人の上に立てる器ではないのに、そればかり願っている目だ。せめて、己の取り柄が暴力しかないことに気付いて、誰かに従う道を選べばいいものを。

「殺!」

逃げ遅れた味方さえも踏みつぶしながら突進してきた呂布が、一声。それだけで、全身が痺れた。兵士達の中には、泡を吹いて倒れる者さえいる。ルーは最後の短刀を取り出すと、呂布が戟を振り下ろす瞬間を見計らって、投擲した。もちろんそれには毒が塗ってある。

だが、願いは届かず。呂布は軽く首を傾けるだけで、ルーの最後の意地を踏みにじった。

ルーが最後の瞬間思い浮かべたのは。薬を隠している所を曹洪に見つけられて、右往左往する曹操の姿だった。

 

血に染まった戟をぶら下げて、呂布が董俊の所に帰ってきた。手には肉塊をぶら下げている。元がなんだったか、もう分からないほどに潰してしまったのだろう。仕方のないことだ。呂布の腕力は董俊も知っている。もう、人間を遙かに超越してしまっている。

「仕留めました」

「ご苦労。 しかし、全てを仕留めたのか」

「いえ。 手強いのを二匹だけです。 気配が小さいのは、追い切れませんでした」

「ふん、そうか。 まあいい」

夜中とはいえ、状況はこれで一段落だ。もちろん、敵が第二派攻撃を仕掛けてくる可能性もあるから、多くの兵士達は不寝番になる。董俊としても多少は心苦しいが、それより先にやるべき事がある。

まず、白の様子を見に行くことだ。

白の部屋に、賊が来たことは、既に報告を受けている。兵士達は数名が討ち倒されており、それでありながら、白は無事であったという。何かあったのだと、子供にさえ分かる。歪んだ愛情を白に抱いていることを、董俊は既に自覚していた。だが、手を出さなかったのは、ぎりぎり彼の誇りが邪魔していたからだろう。

呂布を連れて、白の部屋に。寝間着から着替えていた白は、厳しい表情で、董俊を迎えた。

「無事か」

「どうにか」

「何かあったようだな。 ひょっとして、細作に何か依頼でもしたのか」

「いいえ。 どうやら皇帝陛下を捜していたようでしたので、居場所を教えてあげたら、消えました」

呂布が、違うと短く言った。もの凄い迫力で、小さな悲鳴を上げて兵士達が首をすくめる。董俊は意地悪く、様子を見守る。

「奴らは、皇帝を、狙ってはいなかった」

「貴方の接近に気付いて、逃げに入ったのではありませんか」

「うむ、そうかも知れない」

あっさり丸め込まれる呂布。やはりこの男、頭の方はさっぱりである。ため息をつきそうになったが、やめる。義理の父として、呂布の顔も立ててやらなければならない所だ。多少面倒くさいが。

「流石に聡明だな。 儂は鼻が高いぞ」

「御爺様。 いつまでこのような血なまぐさい事を続けるつもりなのですか」

「さあな」

引き上げる。白はずっと、刺すような視線を背中に送っていた。それがむしろ心地よい。手を叩いて、趙寧を呼びつける。今は李応だが。

「李応!」

「は。 今此処に」

宦官らしい気色の悪い小走りで、すぐに李応が現れる。欠伸をし始めている呂布を横目に、堂々と董俊は言った。

「目が醒めてしまったからな。 女を二三人たたき起こせ。 それと酒だ」

「かしこまりましてございまする」

ぱたぱたと李応は消えていった。夜中にたたき起こされたというのに、笑顔を浮かべていて、不平一つこぼさなかった。

意外と使える男だが、しかし。重用しすぎるのも考え物だ。董俊は宦官を重用するばかりに腐敗し、没落していった漢の事を思い出す。多分歴代の皇帝は、こうやって気が利く宦官に、いつのまにか見せてはならない腹を見せてしまっていたのだろう。

気持ちは分かるが、迎合する事はない。なぜなら、董俊は、宦官はおろか、誰も信用していないからだ。

さて、今晩のことは、ただでは済むまい。それは董俊の中で、確信としてある。幾人かの文官でも将軍でも、適当に罪をでっち上げて八つ裂きにして肉を喰らって済む問題ではない。

このままでは母の目論み通り、洛陽は魔界に落ちる。漢はそれに引きずり込まれ、泥沼の煉獄に溺れることとなるだろう。どうやら、董卓の予想以上に、その刻限は迫っているようだった。

胸の奥がちりちりする。董白の顔を思い浮かべて、思わず一声吠える。悲鳴を上げて逃げ散る文官。

後宮の一室にはいる。丁度李応が来て、準備が整った所だった。

寝ぼけ眼の愛妾は、まだ幼ささえ残している。それに対して、董俊は容赦なく性欲をぶつけて、発散した。

 

致命傷を受けていた。

林の気配が消えたことを悟りながらも、揚順は闇の中を進んでいた。それが、細作の仕事だから。林は、知っていた。揚順が、自分の夫が致命傷を受けていたことを。それでもなお、仕事を果たさなければならないことを。

目的の地点に、辿り着いた。

ようやく、辺りは静まり始めている。林の死骸は、呂布が木っ端微塵にしてしまったらしく、ぶつぶつ言いながら文官が片付けていた。慣れているのだろう。恐怖は、その目に宿っていなかった。

そして、その側に。いる。

李需だ。

今はまだ、芙蓉には対抗できない。

呂布は、もうどうしようもない。虎狩りと同じで、人数を使って追い詰めていくしかない相手だ。だが、此奴は違う。武勇は備えているが、しかし。倒せる。

いや、殺すのは難しいだろう。だが、しかし。

天井裏から、飛び降りた。

李需が振り返りつつ、短刀を投じてくる。もとより承知の上。

それが胸に突き刺さるのを感じながらも、揚順は、短刀を投じていた。

「ぎゃっ!」

悲鳴は、隣の文官から上がった。大量の鮮血が掛かったからである。李需の左肩に、深々と。毒を塗りたくった揚順の最後の太刀が潜り込んでいた。これで良くても李需は左腕を一生使えない。悪ければ、毒が全身に回って死だ。

床にたたきつけられる。ふと、目に入ったのは。

妻の、小さな手だった。手首から先しか、残っていない。だが、それでもいい。

床の血だまり肉の塊は、妻の体だったもの。妻は自分を駒の一つとしか考えていなかったが。揚順は、妻を確かに愛していた。

だから、これでいい。妻の体の中で死ねるのだ。何の未練があろうか。

「……名高き細作、林、その夫だな。 揚順とか言ったか。 何故、そのような死に方をする」

「最後くらい、人間になりたいと、思わぬか」

「理解できぬ」

李需が肩に突き刺さっていた短刀を、力任せに引き抜く。その顔に、明らかな恐怖が宿っていた。理解できないものを見た時の光が、目に焼き付いてしまっている。

よし。これで。芙蓉にも、此奴は手に負える。

五斗米道という精神的な麻薬で心を侵していた李需が、人間になり。人間をやめつつある愛娘が、いずれ追い越す。素晴らしいことではないか。やがて愛娘は林の名を継ぎ、この国を殺戮と恐怖の闇で満たすのだ。

ああ、その闇が見たい。揚順は心からそう思った。だが、今はもう良い。身体能力だけで自分を選んだ妻だが、今だけは独占できるのだ。それで、もう充分だ。

やがて、揚順の意識は消える。

だが、口元には、確かな笑みが残っていた。

 

4、大戦乱始まる

 

何処までも広がる乾いた荒野。其処に、五千を超える兵士達が展開していた。

馬上で陳到が指揮剣を振るうと、方陣を組んでいた兵士達が一斉に進み始める。叩き慣らされる銅鑼の音にも問題はない。頷きながら、陳到は剣を振るい直して、兵士達の足を止めさせた。

眼前には、張飛が指揮している二百の騎馬軍がいる。その動きに合わせて、進んだり、止まったり、陣を組み替えたり。陳到が指揮している千は、劉備が指揮している二千ほど巧くは動いていないが、それでもかなり見事に進退するようになっている。

劉備の陣から、太鼓の音。小休止の合図だ。

「良し、休憩とする! 一刻、めいめい好きに休め!」

声を張り上げる。兵士達が応、と短く答え、散り始めた。荒野に好き勝手に散り始め、食事を始めたり、寝転がったりする。陳到も芦毛の馬から降りると、近くの岩に腰掛けた。

劉備の下で兵士の訓練をしていた陳到は、充実しているとは言えない毎日を送ってはいたのだが、それでも少しずつ兵士達が仕上がっていくのを見ると達成感はある。生活も随分義勇軍の頃に比べると裕福になってきていて、妻も文句を言わなくなってきていた。この間産まれた娘も、比較的健康に育っている。今のところ、これと言った不安は無い。

だが、劉備軍の幹部である陳到は、色々と良くない話も聞いている。

まず、雇い主の公孫賛だが。やはり、劉備を厭い始めているらしい。兄弟子だという話なのだが、その情以上に、劉備の有能さが面倒になってきたのだろう。公孫賛の周囲には凡庸な男しかいないのだが、理由を聞いて陳到は呆れた。公孫賛は、日頃から公言しているという。

有能な奴を雇っても、そいつは感謝などしない。能力に相応しい待遇を受けているだけだと考えるからだ。凡庸な奴を雇ってやれば、感謝して、忠誠を尽くすことだろう。

それは確かに真理の一つであるかも知れない。しかしながら、そう言うことを言うくせに、己は野心満々で、軍拡に余念がない。自分だけは特別だというようなその姿勢が、部下達の忠誠心を刺激しないのは明白で、事実あまり評判は良くない。

その一方で、公孫賛は、戦は上手だ。特に防衛戦は非常に見事で、劉備が何度も絶賛していた程である。防衛の戦略も優れていて、領地の各地には要塞を築き上げ、兵士の数も見境無く増やしている。そいつらの訓練を劉備は任されている訳だが、張飛などは不満たらたらだった。陳到も、あまり良い気分はしない事が多い。

結局の所、何を自分はしているのだろう。岩に腰掛けて、妻が面倒くさがりながらも作ってくれた麦の粽を口に入れながら、陳到はぼんやりとそんな事を考えていた。

馬蹄の音。騎馬武者が一人、近付いてくる。国譲だ。

「陳到さん」

「国譲か。 どうした」

「劉備将軍が、話があるという事でした。 調練が終わったら、申し訳ないのですが、集まっていただけますか」

「分かった」

午後の調練は、もう三刻ほどやって終わりだ。張飛の騎馬軍も、午後は機動戦を視野に入れた激しい訓練をすることになる。兵士達は疲れ果てることになるし、それは陳到も同じ事である。

午後の激しい訓練はあっという間に過ぎた。やはり年を取ってきているのかも知れない。時間が過ぎるのを、とても早く感じる。

午後、兵士達を宿舎に送り届けて、全てが終わった時には夕刻になっていた。凝った肩を叩きながら、天幕へ。劉備と、張飛と関羽だけがいた。簡雍と国譲は、まだ来ていない。最近、公孫賛の所に来たという食客が使えそうだという話を、関羽が劉備としていたが、陳到もその話を振られた。

「陳到、そなたはどう思う。 趙雲という男なのだが、かなりの武芸の使い手だ。 無学に近いようだが」

「話には聞いています。 槍を使わせれば、天下無双とか」

「ああ、誇張じゃねえ。 槍で立ち会ったら、関兄貴でも俺でも危ないだろうな」

「それほどの使い手ですか」

しかし、あまり重用されていないという。例の、優秀な奴を雇っても発言を、実行に移していると言うことなのだろう。気の毒な話である。

「此方で引き取れないかと交渉をしているのだが、しかし公孫賛どのはあまり良い顔をしなくてな」

「劉備殿の人望が篤いということです。 これ以上は、自分の中に更に別勢力を作るようなものだと思っているのでしょう」

「そのようなものか。 何だか、器が小さいな」

「まあ良いではないか。 今は、静かに時を待とう」

そう劉備が絞めると、他の幹部達も揃って天幕に入ってきた。

全員が揃った所で、劉備が皆を見回しながら、言った。

「近々、出兵することになる」

「おお。 相手は袁紹ですか。 それとも噂に聞く劉虞どのとの対立が本格化したとか」

「いや、どちらでもない。 相手は董卓だ」

一気に、場に緊張が走る。

洛陽はかなり遠い上、仲がよいとは言い難い太守も間に多くいる。いきなり攻め込むのではない。恐らくは、いよいよ各地の諸侯が手を組んで、連合軍で洛陽に攻め込むのだろう。董卓に任命された太守も少なくないのだが、それらにも皆見放されたという事であろう。

董卓の暴虐は、ここ幽州にまでも聞こえてきている。逆らう者を殺して、皮を剥いだり肉を喰らったりと、いにしえの暴君を思わせる凶行を毎日のように行っているという。

「噂によると、橋瑁どのが発した檄文が出回っているらしい。 まだ儂は見ていないが、かなりの名文だと言うことだ」

「檄文が心を動かしたと言うよりも、皆利益にかられての事でしょうなあ」

「簡雍」

「はっはっは、申し訳ない」

関羽に睨まれて、簡雍は笑って誤魔化した。事実、陳到もそう思う。義だのなんだので、命を賭けてあの董卓に逆らおうという者がどれだけいるというのか。実際には、董卓が独占している権限を、皆欲しがっているだけなのだ。

それくらいのことは陳到も分かる。だが、国を動かすともなると、それを分かった上で、何か理由が必要になる。いわゆる、大義名分という奴だ。

英雄が一人居れば、国は動くのではない。多数いる民を納得させて、初めて動くのである。

「考えられる理由が、もう一つあります」

「何だ、国譲」

「はい。 どうやら、洛陽から逃げ出す民が増えてきているそうです。 治安も悪化の一途を辿っていて、周囲の州でもその煽りを食っているとか」

「なるほど、長期の防衛は難しいだろうという事か」

現在、陳到の聞く話では、董卓は実数で十万超の軍勢を有しているという。もしも諸侯が立ち上がれば、その五倍から六倍の戦力を用意できるだろう。黄巾党の乱で、各地の戦力を見た陳到は、そういう計算を自然にすることが出来ていた。総力戦体制でなくとも、二十万から二十五万は堅い所だ。しかも相手は戦下手の董卓だから、必ず勝つことが出来るだろう。

しかし、どうもいやな予感がしてならない。先に腕組みをしたのは、劉備だった。

「それにしても、董卓はどうしてあのような分かり易い暴虐を働いているのだろう」

「確かに」

劉備の前では口数少なく、張飛が頷く。黙考していた関羽が、酒に手を伸ばしながら、ぼそぼそと、珍しく自信なさげに言う。

「董卓の考えは、読めぬ」

「関羽どのにも、ですか?」

「ああ。 どうも常識的な考えが通じるとは思えぬのだ。 どんな愚かな人間でも、それなりの目的があって動くはずなのに、それが見えぬ。 ましてや董卓は、洛陽を乗っ取った手際からしても、愚かな輩だとは思えないのだ。 兄者、董卓には気をつけた方が良いだろう。 奴はひょっとすると、人間の思考とは別の所にいる、正真正銘本物の化け物やも知れぬ」

「ふむ、恐ろしい結論だな。 しかしそれが本当であっても。 我ら兄弟が揃う所、倒せぬ相手などいるものか」

劉備の言葉は確信に満ちていて、しかも納得させる響きがあった。力強く張飛と関羽が頷く。

陳到も、それを聞くと、安心した。

翌日、公孫賛から出兵の命令が来た。

規模は二万。劉備はそのうちの二千五百を率いることとなった。幽州の戦力としては、総力戦体勢ほどではないにしても、相当な規模である。この部隊の中には、黄巾党の乱で生死を共にし、その後もずっと着いてきた五十名がいる。その後、劉備とともに戦い、後に頼ってきた部下達も少なからず集まっていて、ある意味私兵のような状況になっていた。

しかも、である。公孫賛軍二万の中には、劉備が鍛えた兵が八千ほど混じっている。その殆どが劉備を悪く思っていないようだから、公孫賛が劉備を危険視するのも、無理からぬ事であったかも知れない。

陳到は二千五百の兵の内、歩兵部隊五百を率いることとなった。主に張飛の率いる最精鋭騎兵部隊百の支援を行う戦力であり、ともに敵に突撃する突破戦力となる。

既にいっぱしの将軍だと言っても良い。しかしそれを聞いても、妻はやはり喜ばなかった。

与えられている貧しい宿舎で、妻は頬を膨らませる。爪に火をともすという次元の悲惨さではないが、少なくとも妻が好き勝手に服を買えるような裕福さでもない。窓からはすきま風が吹き込んでくるし、土間は冷たい。使用人も数が少なくて、いつもやりくりが大変だった。

「あなた、将軍と言いますが、率いる兵もたかが数百ではありませんか」

「並の数百ではない。 それに、いずれそれが万にもなるだろう」

「それは何時のことなのですか。 この子がお嫁に行く頃ですか。 そもそも、この片田舎に、いつまでいなければならないのですか」

「そうは言うがな、もう安全な都会など何処にもない。 洛陽と長安はあの魔王董卓が抑えているし、何処の大都市も流民の処理で手一杯だ。 それを早く終わらせるために、劉備殿に賭けてみるしかないのではないのかな」

まだ妻は不満そうだった。だが、娘がぐずり始めたので、仕方なさそうに黙り込む。娘をあやしていると、ふと思い出す。汝南に逃げた長老達は、無事でやっているだろうか、と。

長老は年であったし、もう生きていないかも知れない。そうなると、許?(チョ)が巧く皆をまとめているかに話の焦点が移る。力はとても強かったが、木訥とした男であったし、何より汝南の辺りは黄巾党の生き残りが大勢逃げ込んでいるとも聞いている。

しかし、今は構っている暇がない。

劉備の勢力が汝南まで及ぶ日が来るのだろうか。それに関しては、陳到も分からないとしか言いようがない。

この広い中華で、離ればなれになるというのは、とても大変なことなのだ。

「ちちうえ、ちちうえー」

娘が手を伸ばしてきたので、抱き上げる。高い高いをしてやると、きゃっきゃっと黄色い声を挙げて、喜んだ。

 

ルーの死んだ経緯を聞いた曹操は、託された竹簡を受け取り、感慨にふけっていた。

あのもののけのような娘であっても、死ぬのだ。それに、ルーが死んでみて、決してかの娘を悪く思ってはいなかった自分に気付く。もちろん既に妻も子もいる身ではあるのだが、あれも確かに家族の一人であったのだろう。

心の奥に、ぽっかりと穴が空いてしまったようである。

竹簡を拡げてみる。

董家の謎が、其処には記されていた。董白が記したというのだが、とても繊細で美しい文字だ。読み進めて、驚く。董家が合議制で回されていたとは。それに、実権を握っていたのが、齢八十を超える董卓の母だというのも凄まじい。

北方の騎馬民族との確執は、もちろん曹操も知っている。今でこそ彼らは大人しいし、これと言った英雄もいないが、元々とても優れた戦士の素質を持つ者達である。数と経済規模で圧倒してきた漢ではあるが、蔑視してただで済む相手ではない。いずれ、貪欲に戦士としての活用を図りたい所だが。しかしこの竹簡に記された生々しい中身を見ていると、それも難しいと思えてきた。

出兵の準備は、進んでいる。

袁紹の四万、袁術の三万五千を主力に、大体二十八万から三十五万の兵が集まる見込みである。董卓側に着く諸侯はまず存在しないから、敵は十万から十万五千と見て良い。この戦いは勝ちだ。しかし、董白の竹簡を見る限り、董卓の目的は、洛陽を維持することだとはとても思えない。

董家は恨みそのものを原動力にして行動しているという。それは漢そのものに向いており、囓り倒すことしか考えていないとしたら。多分洛陽は、丸ごと焼け落ちる憂き目に遭うのかも知れない。

「との、出兵の準備が整いました」

「うむ」

部屋に入ってきた程cに、鷹揚に頷く。ルーが命と引き替えに暴いてくれた董家の弱点である。必ず活用しなければならない。それに、ルーが率いていた部隊を再編成しなければ、情報戦で諸侯に対抗できなくなる。袁紹は既に細作の最大勢力を抑えているとか言う話だし、情報戦で遅れを取ると致命的だ。

人材が欲しい。一人でも多く。

貪欲に人材を求める曹操は、新たに部下にした程cと典偉だけでは、満足していなかった。

?(エン)州からおよそ五千を率いて、曹操が出撃したのは翌日のこと。全国各地から、董卓軍の領地に向けて、圧倒的な軍勢が迫りつつあった。

 

一度に両親を失った芙蓉は、組織の再編成に大わらわだった。洛陽郊外にある、朽ちた砦が今の本拠となっている。その中で、書類や人員の整理を続けていたのだ。

既に外は中秋の名月が掛かっている。だが、しばらく眠れそうにない。それほどに、相続の仕事は膨大だった。幸いにも、芙蓉を見捨てて逃げる部下は、殆どいなかった。

いや、今はもう、林だが。

生き残り、戻ってきた部下達をまとめると、まずやったことは「林」の襲名である。幸いにも、両親が育ててきた精鋭は多くが無事だ。組織の質は、まだまだ充分に保たれている。母が付けてくれた盧植によって、様々な学問も身につけた。

混乱する洛陽は、まさに魔の都と化しつつある。治安は崩壊。民衆はいつ全て流民とかしてもおかしくない状況だ。今ならそれこそ、白昼堂々殺し放題である。悲鳴を上げて逃げまどう無力な民をなぶり殺しにしまくる。何と甘美なことであろう。

一瞬それを実行に移そうと考えた芙蓉だが、思いとどまる。此処で暴れ狂うのも一興だが、その前にしておくことがある。

一通り仕事が終わった所で、既にボロボロになっている、砦の謁見の間に皆を集めた。朽ちた玉座に腰掛けて、足を組む芙蓉を、部下達が怪訝そうに見上げる。高笑いでもしたくなるところだ。結構気分が良い。

「荊州に、本拠を移す、ですか?」

「そうだ。 私自身は、まだやることがあるが、本拠はすぐに荊州へ移す」

「し、しかし。 何故中原ではなく、荊州に」

「これから、中原は焼け野原になる。 安全を求めて、民が流入するのは荊州だ。 そして、恐らくは歴史も、中原よりも荊州で激しく動くことになるだろう」

これは別に予言でも何でもない。

ただの規定の未来である。

そしてこれから、林と名を変えた芙蓉は、まず李需を殺す。董卓も破滅に追い込む。いや、董俊であったか。どちらにしても関係ない。董と名がつく輩は、この世から一匹も余さず消し去ってやる。

最後には、呂布だ。正面から倒すことが出来なくても、消す方法などそれこそ幾らでも存在している。死ぬより辛い目に遭わせて、なぶり殺しにしてやる。それを、林は既に決めていた。

この中華の、深層の闇に近い場所に、林はいる。

それを怒らせることは、邪神の逆鱗に触れるも同じ事。

そして、この中華そのものを、いずれ林は己の遊び場とする。思いのままに殺し、嬲り、焼き、そして喰らうのだ。

そう、林の目的こそ、それだ。

中華そのものを、林のおもちゃ箱にして、徹底的に陵辱し、踏みにじり、そして焼き尽くして喰らい尽くして破滅させる。

何故そんな事をするか。

したら面白いからに決まっている。

そう。あの董俊が目を剥くほどの暴虐の徒が、此処にいるのだ。

実は、母の目的もそれに似ていた。最強の細作軍団を作り、中華を裏から好きなように動かす。それが彼女の夢だった。

林は違う。それを更に一歩進めたものだ。すなわち、林という個人が行おうというのである。其処にあるのは、まさに究極の暴虐。魔王そのもの、邪神の姿であるとも言える。それを個人で為すのだ。楽しくて面白げでぞくぞくするではないか。

足を組み替えた林を、部下が感動の瞳で見上げた。勘違いされているが、させておいても、まあいいだろう。

「ご両親の仇を、討つのですね」

「もちろんそうだ」

それもある。部下達は頭を垂れると、すぐに荊州へ移るべく準備を始めた。

さて、林自身はどうするか。

丁原が名前を変えて、呂布の監視役になっていることはもう知っている。恐らく近々起こる大決戦で、董俊は負けるだろう。その時、董俊が死なないように、幾つか仕掛けておく必要がある。

まず手を伸ばすのは、王允だ。奴が実際には、洛陽と長安、さらには董家の間抜けどもを操作している。極論すれば、最悪の暴君を作って既存の仕組みを完全に崩壊させ、死後その旨味を全てかっさらうつもりなのだ。それは実に楽しそうだが、其処までやらせては林としても面白くない。

だから、色々と仕込んでおく。

部下達が消えると、林は再び足を組み直した。薬の影響か、さっぱり背は伸びない。大人になった気もしない。

だが、一応、恋はする。

最近自覚はしてきたのだ。己が恋をしていることに。

相手は、殺戮と暴虐と、それに乱世であった。

ほくそ笑むと、林は立ち上がる。色々な策が思いついた。そして実際に力を持つ林には、その幾つもが実行できる。

早速邪悪なる宴の準備をすべく、林は闇へと、その身を躍らせた。

 

(続)