失いし誇りの果てに
序、構造が変わる時
案の定であった。乾いた荒野の出来事である。
膨大な軍勢が、整然と陣を組んでいた。だが戦意は低く、混乱が起こればすぐに全体に波及するだろう。立派なのは装備ばかりで、人間が兎に角駄目だ。
そう冷酷に内心で論じている男有り。指揮官である董卓である。董卓は馬上で、混乱している前衛の様子を眺めつつ、鼻毛を抜いていた。蒼白になっている周囲の兵士達のざわめきが面白い。こうなることなど、目に見えていたというのに。それなのに、動揺している兵士達の様子が、滑稽でならなかった。
涼州で、州刺史を殺して反乱を起こした韓遂と辺章を討伐に出た官軍は、三分の一以下の敵に、良いように翻弄されていた。おとりに引っかかって引きずり回され、狭隘な地形に誘い込まれて叩かれ、或いは火計によって死地に追い込まれ。如何に陶謙が喚き散らそうとも、孫堅が暴れ回ろうと、どうにもならない状態になっていた。
そして、充分に混乱した官軍の様子を見て。韓遂は全戦力で押し出してきたのである。
孫堅の部隊が奮戦しているが、ただそれだけだ。まだ倍以上はいるにもかかわらず、官軍は一方的に押しまくられている。特に張温の中軍は酷く、動けば動くだけ被害を拡大する有様だった。
伝令が飛んできた。
「董卓将軍!」
「何だ」
もう、董卓と呼ばれても、何も躊躇する無く応えられるようになっていた。慣れとは恐ろしいものである。今や董俊は、名実共に董卓であった。同時に、追い出したはずの傲慢な兄の要素が、心の中に染み渡り始めている。そしてそれに気付いてはいながらも、どうしても抗うことが出来なかった。
その不快感が、心身を更に蝕んでいる。まだ兄への恐怖は消えない。睡眠不足が凶暴性をかき立て、兵士達は今や魔物を見るような目で、董卓を見ていた。
陣に飛び込んできた伝令は、額から血を流している上に、鎧に矢を二本も生やしている。前衛の苦戦が伺える。
「張温司令から、増援の要請です! 敵の腹背を突いて欲しいとの事です!」
「此方には此方の考えがある。 しばし待てと伝えよ」
「し、しかし!」
「いいから、言ったとおりにしろ! 首を刎ねられたいか!」
一喝すると、真っ青になった伝令は、飛ぶように逃げていった。鼻を鳴らす董卓に、李需が言う。
「また、ずいぶんと強引な。 後で恨みを買いますぞ」
「知ったことではないわ」
いっそ、張温は此処で戦死させてしまっても良いくらいである。この戦役自体は、鎮圧する自信もある。それにこのような戦役など、外戚と宦官をともに皆殺しにしてしまえば、そもそも発生することも無かったのだ。外戚の一人である張温が死ねば、それだけ乱の鎮圧に近付くというものである。
敵軍の先鋒が、どうやら中軍に達したらしい。混乱が更に大きくなってくる。そして、混乱が、後衛にまで波及してきた。このままでは、董卓の部隊までが、混乱に巻き込まれて、大きな被害を出すだろう。
流石にそろそろ潮時か。実戦経験がないとはいえ、張温の脆さは予想以上だ。これでは、計画を早める他無い。
董卓は、側に控えていた小柄な兵士に、指を鳴らして合図した。兵士が頷き、数名の同僚と共に、近くの丘に走る。
そして、兵士が狼煙を上げると、戦況は一変した。
韓遂の陣に紛れていた劉雄は、狼煙を見ると、時が来たことを悟った。
劉雄は、漢人ではない。鮮卑族の出身である。鮮卑に内心では怯えながらも、野蛮人として見下す漢人が大嫌いであったが、経済的にやっていけないから、漢で暮らしていたのだ。
だが、それもこれまでである。
周囲の仲間と共に、一斉に指揮を執っていた男を串刺しにする。周囲で、同士討ちが始まった。急いで赤い巾を額に巻く。そして、後ろから韓遂の陣を攻め立てた。この乱の首謀者は韓遂である。辺章はお飾りの司令官に過ぎず、奴さえ殺せば全てが終了する。
混乱に陥った韓遂の軍は、いきなり突入してきた董卓の騎馬隊と挟み撃ちにあい、滅茶苦茶に崩されて四散していく。如何に老獪な韓遂といえども、味方の三割以上がいきなり謀反を起こしてはどうにもならない。劉雄は、普段からえらそうにしていて気に入らなかった将軍を見つけると、馬を寄せて、首を一刀に刎ね飛ばした。個々の戦いであれば、漢人など鮮卑の戦士である劉雄の敵ではない。手強いのも中にはいるが、それは例外中の例外である。特に官軍の弱体化は著しく、最近は仕事が楽で仕方がなかった。
韓遂の陣を、董卓軍が蹂躙していく。辺章は逃げようとしているが、目ざとくそれを見つけた張温の兵が追いつき、よってたかって矢を放っていた。あれでは逃げ切れないだろう。だが、奴など別にどうでも良い。狙うは韓遂だけだ。
だが、韓遂は逃げ足が速く、取り巻き達と一緒に脱兎のごとく戦場を離脱していった。官軍も酷く傷ついていて、とても追う余力はない。董卓も追撃を停止して、違う色の狼煙を挙げ始めた。
赤い巾を額に巻いた者達が、馬を下り、武器を捨てて、董卓の陣へと歩き出す。
見知った顔が多い。中には、同じ一族の者までもがいた。
鮮卑だけではない。他の族の者も、多数混じり込んでいる。それだけ、漢の経済は大きく、そこでの生活が魅力的だと言うことだ。どれだけ腐っていても、それに違いはないのである。
そして、誰もが知っている。董卓が、皆の生活を支援してきたことを。董卓自身にも、鮮卑の血が色濃く混じっていると言うことを。
支離滅裂に傷ついている張温の陣を横目に、続々と董卓の部隊に合流。
いつのまにか、董卓の陣は、他のどの官軍部隊よりもふくれあがっていた。開戦前よりも、これは増えているのではないだろうか。
赤い巾を巻いた者達が、次々に褒美を貰っている。劉雄も貰うと、重みを確かめた。砂金だ。これだけあれば、しばらく生活することが出来る。この戦役の間は董卓の陣にいようと考えている劉雄だが、その後は故郷に帰るつもりだ。
故郷には妻も、家族もいる。そして、劉雄の帰りを待っているのだから。
陣の片隅に、自分用の幕が与えられた。小さいが、雨露を凌ぐには充分である。同じように、董卓に根回しされて寝返った兵と共に、酒にする。漢の酒は鮮卑のものよりもずっと美味くて芳醇だ。こればかりは、漢のものが遙かに優れている。
同じ一族の者達でかたまり、円座を作る。周囲でも、似たような光景が繰り広げられていた。
「これからどうするつもりだ」
「この反乱の間だけは、董卓の所にいるさ」
「俺もだ」
どうやら、皆考えることは同じらしい。
董卓はそれなりに話が分かる奴だが、所詮は漢の人間だ。心の底から信頼するには危険すぎる。殆どの者は、利用するだけ利用して、後は故郷に帰るつもりなのである。それが雇われ兵士の性だ。
酒が回ってくると、話し声も大きくなってくる。他の陣は沈鬱な雰囲気だが、大勝した董卓の陣ばかりが賑やかである。
「そういえば、噂に聞いたんだが。 呂布って奴のことを知っているか?」
「そいつがどうしたんだ」
「若いくせにえらい強いことで有名な奴だったんだが、今は漢にいるらしい。 誰だったかな。 確か、北方の豪族の、丁原て奴に仕えているとか聞いている。 其処で、字も貰ったそうだ。 確か奉先とか言ったか」
「ああ、そいつの噂なら聞いているぞ。 力が恐ろしく強い上に、弓も馬も、誰よりも見事にこなすらしいな。 百歩先のうさぎの目を、百発百中で射貫くとか聞いた」
戦場では、同じ一族同士で殺し合うことも珍しくない。雇われ兵士はしたたかだが、同時に悲しい定めも背負っているのである。だから、味方でも、強い奴には警戒する。冗談抜きに、次は戦場で会う可能性があるからだ。
そんな強敵とは戦いたくないものだと思いながら、もう一口酒を呷る。
太鼓が鳴り始めた。張温が、軍議を開くつもりらしい。自分たちには関係がない。だが、ひょっとすると、董卓も出ないかも知れない。
酒をたっぷりかっくらって寝た後。翌朝、降伏した兵士達が集められた。皆には、予定の報酬額の、更に倍が配られる。
驚いた劉雄に、金を配った李需という男は言った。
「今後も、更に仕えて欲しい。 報酬ははずむ」
「はあ。 しかし俺らは、一山幾らの傭兵ですぜ」
「我が主は、幾らでも優秀な兵を欲しておられる。 お前だけではない。 他の者達も、こぞって来るがいい。 今回の働きを、董卓様は喜んでおられる。 故郷に仕送りできるだけの金は、充分に払うぞ」
これは意外な言葉だ。李需は漢人のようだが、異民族である劉雄らを見下す様子もなく、しかもかなりの好条件を提示してきている。もちろん鵜呑みにする訳には行かないが、悪くない話だ。
李需が行くと、誰かが袋の中身を確かめる。しっかり、指定の金額が入っていた。黄金の輝きに、口笛を吹く誰か。
「すげえな。 これはうまい話じゃねえか」
「ああ。 だが、いくら何でも美味すぎるな」
「それは確かにそうだ。 もう少し様子を見て、決めた方が良いだろうけどよ」
そう言いながらも、大事そうに懐へ金をしまう男の顔は輝いていた。完全に心は傾いてしまっているらしい。
「ところで、呂布だが。 仕えているのは丁原と言っていたな」
「ああ、なんでも養子になっているらしいぜ。 ただ、噂によると、何を考えているかさっぱりわからねえ奴らしくてな。 いつ裏切ってもおかしくないとよ」
「ははは、それはいい」
劉雄は、酒を一気に飲み干す。
理由は簡単。小耳に挟んだからだ。その丁原と、董卓がまさに犬猿の仲であると。
丁原は外戚筆頭の何進の腹心らしく、強大な軍事力を握っているらしい。しかも董卓とは反目していて、互いに毛嫌いしているとか。そこそこに実戦経験もあり、優秀な部下も集めているそうだ。
しかもさっきの李需の言葉でぴんと来たが、董卓は今後、勢力を拡大しようとしている。そうなると、まず間違いなく丁原とぶつかり合うことになるだろう。非常に面倒な話になるのは、確実であった。
翌朝早く、董卓の部隊は先頭に立って動き出した。
そして涼州の州都に一番乗りし。そのまま、其処に居座ったのである。
きらびやかな洛陽に凱旋した張温の部隊は、散々な有様であった。無事な人間を捜す方が難しいほどであり、しかも物資の消耗も激しい。出て行く時には黄金作りの鎧に身を包んでいた将官達も、まるで百年の死闘を経たように、くたびれ果てた鎧を情けなく身に纏っている有様であった。手足を失っている兵士も多い。まるで、敗戦の軍のような有様であった。
洛陽の大通りでそれをぼんやりと見ていた阿六は、父に呼ばれて、桶を担いで歩き出す。水売りの阿六は、父と一緒に、それこそ水を飲むような貧しい生活を続けていた。上の兄である徐堅は皇甫嵩将軍の下で働いていると言うが、給料は少なく、苦労は絶えなかった。早く大人になって、もっとましな仕事をしたいものである。
最後の方に、やたらごつい大男がいた。立派な馬に乗っているから将官だろう。逞しい体付きで、目も髭も少し青みが掛かっている。山越と呼ばれる南の民の血が混じっている将軍がいると、聞いたことがあった。確か孫堅というはずだ。あれが孫堅か。何だか気むずかしそうな雰囲気である。
「六! 急げ! 日が暮れちまうぞ」
「わかっただ、おっとう!」
小走りで行く。途中、兵士に三回水を求められたので、椀にくべる。冷たい水を飲んで、兵士は生き返った様子だった。鎧もボロボロで、何カ所かに穴が空いている。酷い戦いだったのだろうなと、阿六は思う。
酷い旅を終えて、やっと洛陽について。兄の伝手を辿って、襤褸屋に住み着いて。ようやく一息ついたのが、ついこの間のことである。楽になったかというと、それはとんでもない話である。家に落ち着いた早々、さっそく増税とかで、稼ぎをたくさん持って行かれてしまった。その上、また近いうちに税が上がるとか言うではないか。このままでは、近いうちに首が回らなくなってしまう。
そして兵隊達が繰り出されて、いざ戦いになっても。結果は見ての通りだ。その上、庶民である阿六には、何のために戦いが生じているのかさえも分からない。一体誰のせいで、こうなってしまっているのか。大勢の人が死んでまで、こんな事になってしまっているのか。
街の外に出る。秘密の水汲み場で、綺麗な水を桶にくみ直す。死骸が流れてくることも少なく、比較的水が澄んでいる場所だ。商売ものの水を汲んだ後は、小さな手桶に水を入れて、顔を洗い、喉を潤す。
人心地がつくと、また仕事に戻る。桶に水を汲んで、市場の方に出た。今日は兵士達が帰ってきたこともあり、そこそこににぎわってはいた。だが、それも今日だけだ。あれだけ酷い状態なのを見ると、近々また徴兵が行われて、洛陽からまた人がぐっといなくなるだろう。その上、流民が無秩序に流れ込んできているのだから、どうしようもないのは子供である阿六にも分かる。
重い水桶を背負って、一日中街を歩き回って。そして得られる稼ぎは、せいぜい食事代と、ほんの少しだけ。揚げた餅を無言でほおばっていると、何故か涙が出てきた。故郷の村では、もう少しマシだったような気がする。でも、あの村は、黄巾党の者達に焼かれてしまった。今帰っても、別の奴が、勝手に住み着いている事だろう。
襤褸屋で、筵にくるまって寝る。酷く寒い。今年も、やたらと気候が厳しいのは、気のせいではないだろう。このままだと、今年も不作になる。下手をすると、蝗が大量に発生するかも知れない。
雨が夜中から降り出したので、雨漏りしない場所へ、もぞもぞと動いて移動した。
それでも、酷く寒かった。
1、果てしない争い
洛陽の中心に、皇帝の住まう宮廷はある。風水や他の思想も取り入れて、様々な面からの防御を固めている施設なのだが。しかし、その実は強固どころか間隙だらけであり、特に人の腐敗が酷かった。
華やかなのは見かけだけだ。豪奢な丸い柱には龍の模様が刻まれ、天井近くには様々な怪物を象った魔除けの意味を成す欄間がある。宮殿の屋根には色とりどりの瓦が積まれ、無数の建物が積み木のように立ち並び、どの廊下も埃一つ落ちてはい無い。行き交うのは、階級を示す美しい服を着た役人達と、いかめしい鎧を着た軍人達。そして、後宮へ行けば、この国の美女を一点に集めた場所がある。
だが、その全てが。腐りきっているのだ。
下級宦官の一人である趙寧は、大きく舌打ちしていた。上納される賄賂の額が、下がる一方である。何人か飼っている役人どもが、役に立たないこと著しい。今度制裁を加えてやろうと思いながら、後宮へ急ぐ。その途中、他の役人や、軍人には頭を下げなければならないのが不愉快だった。今やこの国で一番大きな力を持っているのは、趙寧ら宦官だというのに。
宦官。
それは、男性機能を切除して、皇帝の跡継ぎを残す皇妃達の世話をする者達の事である。
趙寧は六歳の時に、その手術を受けた。酷い痛い手術で、終わった後は二日ほど、生死の境をさまよった。実際に命を落としてしまう者も珍しくはないという。しかも、終わった後は体の構造が変わってしまったことで、小用を足すのにも難儀したし、なにより歩きづらくて仕方がなかった。
うだつが上がらない地方の豪族だった趙寧の父は、一番賢そうだったという趙寧を売り飛ばすことで、富貴を得ようとしたのである。幼いながらもそれを悟った趙寧は、当然父を恨んだ。この国では、無条件で父を尊敬しなければならないという掟があるのだが、知ったことではなかった。
だから、仕事に打ち込んだ。
後宮に上げられてから、趙寧は必死に仕事を覚えた。この国で出世するには、国に娘や妹を売り飛ばすか、或いは生殖機能を除去した息子や弟を売り飛ばすか、その二つしかないとか言われている。その事実を、趙寧は幼い頃から、体で知ることになった。能力の有無など、殆ど関係がない。ただ、既存の権力機構に、如何に媚びを売るかが重要なのである。
宦官もかなり権力闘争が厳しい世界であり、粗相をすれば即座に追い落とされる。必要とされるのは、上手に媚びを売る事だけ。周囲で、何人も追い落とされる宦官を見た趙寧は、笑顔をいつしか忘れて、どんなことをしてでものし上がることだけを考えるようになっていた。そのためには、何をされても笑顔でいなければならなかった。時には特殊な趣味の上役に、尻を差し出したこともある。そして地獄のような宮廷闘争の中で生きている内に、それが当たり前のことだと考えるようになっていた。
一人前になって、特定の貴婦人につくようになると。いかに彼女を美しく見せかけて、皇帝の歓心を引かせるかに、心を揉むようになった。同時に、皇帝の寵愛を受けている女の事を調べ上げて、その周囲にまとわりつき、如何に心を開かせるかも研究しなければならなかった。
半分男ではなくなっている事もあるからだろうか。女の心を知ることが出来る宦官は多く、寵姫達も心を許しやすい。上位の宦官達は皆そう言う心を操る術を身につけた者達ばかりで、しかし性欲が少ない分歪な心を、どこかで発散しなければならないのだった。必然的に、矛先は権力へ向く。
趙寧が後宮にはいると、もう朝の行事が始まっていた。重病の皇帝はもう後宮に出入りしていないが、そうなる前は兎に角忙しかった。見習いの宦官達に指示を出しながら、寵姫(と言っても、もう皇帝と交わっている者は一人も居ないが)の世話をする。化粧品を揃えてきたり、或いは皇帝が好きなお香を焚いたり。寵姫達は占いの類が大好きなので、その手の人間を呼ぶ必要もある。
それが一段落すると、宦官同士で集まって、様々に現状を話し合う。
現在、宦官で一番力を持っているのは、十常侍と呼ばれる者達だ。中常侍という階級にある十名の事であり、皆年期が入った宦官だから、既に男とは似てもにつかない体つきになっている。宦官は年を取ると歩き方がアヒルのようによちよちになり、声が甲高く、更に小太りになってくる。それが生殖機能を取り去った弊害であることは明白だ。上の方にいる宦官達は皆そのような者達で、趙寧もいずれそうなる。
十常侍のまとめ役は張譲と呼ばれる男である。気難しい老人で、男と女の悪い所を集めたような性格をしている。それなのに、必要とあれば幾らでも媚態を尽くせる、羨ましい性格の持ち主だ。
「近頃の状況をまとめておく。 報告を」
「はい」
頭を下げ、報告を開始したのは、同じく十常侍の一人である。
「涼州の反乱は収まりましたが、董卓が与えられた兵を手放そうとしません。 そればかりか、洛陽に戻ってくる気さえも無いようです」
「あの男は、我らが将軍にしてやった恩を忘れたというのか」
そうだそうだと、声が上がる。
趙寧は何処か醒めていた。以前董卓を見たことがあるが、あれは獣のような男だ。宦官を利用するだけして、後は捨てるのではないかと見ていたが。それが実行に移されただけではないのかと思えてしまう。
「外戚の将軍どもはどいつも役立たずだと言うことがこの乱で分かったが、我らの手駒が少なくなったのも事実よ。 いっそ、細作を使って、董卓を消すか」
「それも手だが、奴が反抗すると、対応が面倒だぞ。 今は地位や物品で懐柔するべきなのではないか」
今、外戚の将軍どもが役立たずだと言った宦官がいたが。実際は、宦官が抱えている将軍も、似たようなものである。唯一まともかと思われた董卓は黄巾党との戦いで醜態を晒し、今は独立の動きを見せようとしている。それに、張温につけた将軍達が、今回の乱でどれだけ無惨な動きを見せていたか。
何だか、不意におかしくなってきた。今権力を握っている筈の宦官達は、こんなにも愚かな者達だったのか。そして自分も含めて、こんな連中を国家の中枢に置いてしまったのは一体誰なのだ。
皇帝か。それは違う。
皇帝など、もう何十年も前から、ただの操り人形だ。
外戚か。宦官か。そのどちらも違う。両者ともに寄生虫だが、自主的に漢をこう作り上げたのではない。勝手に腐った漢が、呼び込んだのだ。
ならば、一体誰がこの国を、このようにしてしまったのだ。
いっこうに進まない会議を見計らって、趙寧は挙手した。何だか、気付いてしまうと滑稽だった。今までの自分の人生も、価値観も。こんなところで駆け上がろうとしていたことも、それに宦官達の未来も。
此処にいる連中が、あと何年も生きられないのは、冷静に考えれば明らかだ。腐りきった大樹である漢王朝が倒れてしまえば、寄生虫はどうなるか。木から慌ててはいだした所を、外で待ちかまえていた虫たちに食べられて、それでおしまいだ。
「何だ、趙寧」
「私が、董卓の元へ行こうと思います。 監視役が必要でしょうから」
「ほう、殊勝な心がけよな」
そう言ったのは張譲であった。もちろん、その言葉を形通りとっているようでは、宦官失格だ。相手の言葉には、どんな要素が含まれているか、全て洞察しなければならない。
しばし宦官達は話し合っていた。趙寧が今まで築いてきた関係を吟味して、董卓を監視させると誰が得か考えているのだろう。この辺りは、ついさっきまで自分も同じ穴の狢だったのだからよく分かる。いつまでも、穴に籠もった寄生虫でいるつもりはさらさら無いが。
「良し、分かった。 危険な仕事ではあるが、頼むぞ」
「はは。 必ず良い報告をもたらしましょう」
深々と頭を下げると、そそくさとその場を後にする。今まで世話をしていた寵姫の事を、下の立場の人間に引き継ぐと、その日の内に趙寧は宮廷を出た。供は護衛の武人を四人と、ロバだけである。
他の宦官達が、馬鹿な奴だという目で、趙寧を見ていた。宮中で権力争いに現を抜かすあまり、周囲のことが見えていないのだ。今の内に抜けられて良かったと、趙寧は思った。下手をすると、死ぬまで気付けなかったかも知れないからだ。
今の趙寧には、そんな彼らが哀れでならなかった。
洛陽を出ると、まずは長安へ向かった。しばらく宮廷から出なかったので気付いていなかったが。洛陽の寂れ方は尋常ではなく、民の生活水準が明らかに落ちていた。途中の街道にも、乞食や行き倒れの姿が散見され、腐乱した死骸も時々放置されている。如何に社会が疲弊しているか、これだけでも明らかだ。何カ所かある関で通行証を見せて通るが、中にはろくに確認もしない役人もいた。
長安の様子も、洛陽と大差がなかった。元々水が少なくて、洛陽ほどの規模は保てていない都である。分厚い二重の城壁を越えて街の中にはいるが、彼方此方で腐臭がした。やはり、死骸を処理し切れていないらしい。壁際に、蠅が集った汚い塊が点々としている。見れば、まだ生きている乞食だった。
それなのに、宿では豪勢な食事が出た。娼婦も来たが、何しろ趙寧は宦官なので、することもない。だから、酒の酌だけしてもらった。恨めしそうに武人達が見ていたので、娼婦に追加料金で相手をさせてやる。けちで性根が腐っている宦官がそんな事をしたので、武人達は驚いて、半信半疑の様子で娼婦を伴ってそれぞれの部屋に消えた。
宿で一晩過ごした後は、休むこともなく涼州へ向かう。やはり警備はざるも同然で、まるで咎められることもなかった。
向こうから流れてくる流民が非常に多くて、何人かは恨みがましく趙寧を見た。髭がないと、宦官だとばれやすい。途中に寄った小さな街で、付けひげを購入して、つける。後は体格だが、これは厚着をすることで誤魔化した。
宮廷に入ってからは、殆ど動かしたこともない体である。脂肪の塊になってしまっていて、動くだけで難儀だった。それでも、兎に角さっさと涼州へ行かなければならない。今の洛陽よりも更に危険な所だが、董卓に媚びを売った方が、まだ生き残れる可能性が高い。犬猿の仲である外戚の連中の所に行っても、重用などしてくれはしないだろうから、選択肢は限られてくる。
数日間、旅をしながら涼州へ向かう。どんどん寒くなり、路がほこりっぽくなってくる。街道が少なくなり、細くなる。何もない荒野が、何処までも続くようになった。長安を出てからしばらくすると、街道さえもなくなった。
荒野を走り回る騎馬に、時々出くわした。軍の調練らしいのだが、どの兵士も荒々しい雰囲気で、洛陽にいたなよっとした連中とは大違いだ。これでは、反乱鎮圧に苦労する訳である。まともに戦って、勝てるとは思えない。
二度ほど囲まれて、職務質問をされた。此方が宦官だと悟られると、何をされるか分からない。だからとても冷や冷やしたが、どうにか切り抜けることはできた。
夜には、得体が知れない動物の遠吠えも聞こえるようになった。武人に聞いてみると、狼だという。縄張りに近付いた人間を、警戒して鳴いているのだそうだ。人間が襲われることはまずないそうなのだが、不気味ではあった。覚悟が決まる前であったら、逃げ出していたかも知れない。もしそうなったら、却って危険であっただろう。
幾つかの街に途中立ち寄った。殆どの街は数千人規模であり、中には城壁がないものさえもあった。この辺りは異民族が侵入することもあるそうで、兵士達は誰もが実戦経験を持っているようだ。中には、異民族であろう男もいた。筋骨が逞しく、背が高い。漢の高祖が軽い気持ちで彼らを討伐にいき、散々に打ち負かされたのは有名な話だが、無理もない。これでは勝ち目もないだろう。
やがて、涼州の州都、西涼城についた。
洛陽から比べると、まるで積み木の玩具のような規模だ。焼いた土を積み上げた城壁には、所々雑草が生えているし、日に焼けて色も褪せている。何より高さが半分程度しかない。
城門から中にはいると、街はまるで貧民窟だ。洛陽や長安も酷かったが、もっと気力のない民が多くて、腐臭も酷かった。街の入り口近くにある墓地では、そのまま死骸がうち捨てられている。井戸の一つには、そのまま死骸がもたれかかったままになっていた。住民は誰も彼もが無気力で、死骸に構う様子もなかった。
だが、街の中心に行くと、それなりに活気があった。これは驚きである。どうやら兵士をかき集めているらしく、彼らを目当てにした商売がそれなりに繁盛している様子だ。洛陽の豪華な装備に身を包んだ兵士達ほどではないが、みなそれなりに立派な格好をしている。そして何より、生き生きとしていた。
ようやく、宮城についた。と言っても、非常に質素な城であり、戦闘用の作りであることは一目瞭然。ただ、城の周囲には娼婦を飼っているらしい屋敷が点在していた。董卓は相当な女好きと聞いているから、それらの家だろう。
入り口では、珍しく念入りに、書状が調べられた。
まるで汚物でも見るような目で、趙寧を見た兵士が、奥へ案内してくれる。まあ、無理もないことだ。彼らからすれば、宦官は外戚と並んで諸悪の根源。もちろん、直接的な仇だと考えている者も多いだろう。
だが、違うのだ。正確には、宦官など、そう思う価値もない相手だ。
精神を卑小化された上に、何かの間違いで権力を与えられてしまった愚かな者達。ただ皇帝の性交渉相手を世話するためだけに子孫を残す能力を奪われ、その分権力欲ばかりが異常に肥大化した存在。
それは、ある意味、怪物と同じだ。
小さな宮城の中を歩くと、すぐに奥の間に出た。謁見用の小さな間の奥では、虎皮の上にあぐらを掻いた、大柄な男の姿があった。董卓だ。左右には如何にも歴戦の猛者らしい男達が立ち並んでいる。ただ、どの男も、新参らしく、董卓との精神的なつながりは見ていてあまり感じられない。
抱拳礼をして、正面に座る。董卓に書状を渡すと、乱暴に竹簡を拡げて読み始めた。不愉快そうに眉をひそめる董卓に、趙寧は深々と頭を下げながら言う。
「お人払いをお願いできますか」
「此処にいるのは、儂の腹心ばかりだ。 その必要は無かろう」
「重要な話にございます」
じろりと、董卓が此方を見た。何だろう。以前と、少し雰囲気が違っている。更に強い闇を秘めているような印象を受ける。
「重要な用件、だと?」
「はい」
「徐栄。 お前だけが側に着け」
拝礼をすると、ばらばらと董卓の腹心達が外に出て行く。徐栄と呼ばれた大男だけが、その場に残った。顔中に髭を蓄えた見るからに強そうな男で、雰囲気も落ち着いている。もしも趙寧が妙な動きを見せれば、即座に斬り捨てられるだろう。
董卓が書状を放り捨てる。それは兵を帰して、帰還するように命じたものだ。もちろん、そうするだろう事は、趙寧にも分かりきっていた。
「くだらん命令だ。 儂が今此処を離れたら、誰が涼州を抑えるというのか。 涼州は軍閥が多数割拠する魔境よ。 儂がいなければ、半刻も抑えることは出来ぬ。 お前達は、また反乱を引き起こしたいと見える」
「お言葉の通りにございます。 殆どの宦官には、今の情勢が分かっておりません。 今だ多くの者達が、出世のためだけに、官職を餌にして賄賂を取ることばかりを考えているのです」
「ほう。 お前のような宦官から、そのような言葉を聞くとは思わなかったぞ」
「私も、少し前までは、確かにその愚か者どもの一人でした。 しかし、不意に目が醒めたのです。 漢王朝は宦官と外戚に食い荒らされた結果、もうもちません。 今後は、英雄たる董卓将軍に仕えさせていただきたいと考えております」
身を乗り出した董卓は、目の奥に獰猛な光を輝かせている。しばしの沈黙。身を焼くほどの緊張の中、趙寧は動かず、董卓の行動を待った。
董卓は不意に笑い出す。そして手を叩いた。
「李需!」
「ははっ。 此処におります」
闇からしみ出すようにして、男が現れた。全く気配がないので、いつ現れたのかさっぱり分からなかった。足音もない。特殊な歩法で工夫しているのだろうか。
「こ奴の話は、聞いていたな」
「御意」
「しばらくは使ってみよ。 宮廷や宦官共の内部情報に詳しい奴はいた方が良い。 もしも使えるようなら、お前の配下として利用してやれ。 使えないなら、殺せ」
礼をすると、李需と言う男は、趙寧をその場から連れ出す。徐栄という男は、その間一言も発せず、ただ趙寧の動きを、指の一つも見逃さず、徹底的に監視し続けていた。部屋を出ると、歩きながら李需は言う。
「宦官共の間諜という可能性もある。 しばらくは窮屈な暮らしをして貰うぞ」
「承知の上にございます」
「良い覚悟だ。 董卓様は乱暴で怒りっぽいが、きちんと功には報いてくださるからな」
そうであって欲しいものである。さっきはあのようなことを言ったが、今の時点では、宦官達の中にいるよりはまし程度としか考えていない。もちろん死にたくはないから、これから柔軟に状況に対応する必要もあるだろう。
城の隅に、小さな部屋があった。机があるだけで、床が木張りの粗末な部屋だ。壁には何カ所か罅が入っていて、黄ばんでいる。以前使っていた人間が、煙草を愛飲していたのかも知れない。そういえば、煙草の葉の匂いもする。
宮城では考えられない環境だが、それでも死ぬよりはいい。何より、この緊張感、素晴らしいではないか。宮城で井戸の中の蛙たちによる押しくらまんじゅうに参加し続けていたら、このような経験は出来なかっただろう。
粗末な布団が差し入れられた。部屋の外には、兵士が一人着くという。多分異民族だろう。良い体格をした、血の臭いがしそうな男だ。目は細くて、顔立ちは四角く、漢民族とはだいぶ違う。
「劉雄だ。 これからお前を監視する」
「おう、ご苦労なことだ。 私は趙寧だ。 これは近づきの印だ」
「悪いが、何も受け取れない。 受け取らないように、雇い主に言われている」
豆餅を出そうとしたのだが、さっと断られる。部下の教育も、しっかりしていると言う訳だ。大したものである。
宮中では、如何に賄賂を配るかが、当人の価値を決めた。此処ではそれさえ通用しそうにない。昔は、外の世界で暮らしていたはずなのに。実の父によって中途半端な存在にされてから、何もかもがおかしくなったかのように思える。今までの常識など、全て溝にでも捨てなければ、今後はやっていけないだろう。
翌日からは忙しくなる。それはほぼ確実だ。
趙寧はそれを見越して、さっさと眠ることにした。
洛陽の一角。外戚達の壮麗な屋敷が建ち並び、周囲のくすんだ庶民の家とは雰囲気からして異なる場所がある。
屋根は五色の瓦に彩られ、行き交う人々まできらびやかだ。それらは民から絞り上げた税によって成り立つ贅沢。そして、そんな自覚など、誰一人としてしていない。
丁原はそれを、憂いる者の一人だった。
馬に跨り、何進の屋敷に急ぐ。寒い今朝は、馬も白い息を吐いていたが、陽が昇ってからは気候も落ち着いて、それほど厚着をしなくても外出できる。だから丁原は鎧の上に、毛皮を一枚着込んだだけだ。付き従うのは、呂布のみ。丁原もどちらかといえば長身だが、養子の呂布は桁が違う。並んで立つと、丁原が子供に見えてしまうほどだ。しかも無口なので、威圧感も凄まじい。
呂布を飼い慣らせるのは自分のみと自負している丁原は、それでも恐れることはなかった。猛犬をしつけるこつは、相手を恐れないことだ。呂布は欲望に忠実だが、侮りさえしなければ動向も見誤らない。誰も躾けられなかったこの男を、きちんと使いこなせている丁原は、それなりの胆力があるのだった。
「奉先。 これから、何進将軍の所へ向かう。 危険はないとは思うが、道中ではどうかは分からない。 宦官共の刺客が潜んでいるかも知れないから、気は抜くな」
「御意」
養子は短くそれだけ応える。
鮮やかな赤を主体とした鎧に身を包んだ呂布の姿は、兎に角目立つ。街行く貧しい身なりの庶民達も、どこのえらい将軍だと、呂布を指さし噂しているほどだ。しかももっと寒い北方異民族の領域で生まれ育ったからか、毛皮の一つもつけずに平然としている。丁原も若い頃は随分鍛えたものだが、呂布の場合は更に鍛え方の次元が違うという所なのだろう。
ただ、何でも上手く行くとはいかない。例えば呂布は顔があまりにも厳ついためか、洛陽の若い女にはあまりもてないようだ。むしろ、地獄をくぐってきている流民や、貧民層の娘にはもてるようである。呂布自身の好みはと言うと、これは逆に華やかな娘が良いらしく、特に貴種を好む傾向がある。事実、この間宮廷から引退した華やかな外見の娘をあてがってやると、随分喜んでいた。世の中、なかなか嗜好は一致しないものである。
まるで砦のような何進の屋敷に到着。丁原は何進の腹心だから、顔を見せるだけで中にはいることが出来る。狭そうに呂布が門をくぐると、使用人が出てきて奥へ案内してくれた。丁度昼食が終わった所だと言うことで、何進の食べた料理をのせていた大量の皿が、厨房へ運ばれていく所だった。
奥に通されると、普段着のままの何進が、幸せそうに机に腰掛けていた。屠殺業者出身という噂もある人物だが、実際は違う。南陽の豪族出身である。最初から幾らか伝手があったから、妹を宮廷に売り飛ばして、出世することが出来たのだ。今では妹は、押しも押されぬ次期皇帝陛下の母上であり、つまり何進は、もう少しすれば皇帝の叔父となる訳である。
ただ、袁家のように歴代の権力を持つ名門中の名門外戚ではないから、どうしても権力基盤が脆い。そのため、何進は家族さえも信用しておらず、子飼いの部下を作ろうと必死だった。そしてその重責から逃れるために、美食に走り。今では。
丁原の前に座っている、巨大な脂肪の塊のような姿になってしまっている。
一応大将軍の官職も持っているのだが、黄巾党との戦いでは一度も出撃していない。否、出撃出来なかったのである。何しろ、輿にさえ乗らないほどなのだから。もちろん、実戦経験など、ほとんどない。一度だけ反乱の鎮圧に参加したが、皇甫嵩と朱儁の指揮する軍を、後ろから見ていただけだ。
しかし、気の良い人物ではある。身分が低い者もあまり差別しない。事実、丁原を迎えると、呂布にも分け隔て無く満面の笑みを浮かべる。
「おお、丁原か。 良く来たな」
「ははっ。 今日はいかなる用件にございましょう」
「まずは座れ。 今日はな、いい肉が入っておってな。 お前にも振る舞おうと思っていた所なのだ。 もちろん呂布にも用意してあるぞ。 遠慮無く食べるといい」
まだ喰うつもりなのかと、内心うんざりした丁原の前に、高価な皿にのせられて、大きな肉の塊が運ばれてくる。鵞鳥らしい。油で揚げてあって、確かに美味しそうではあるが。油で濡れている何進の顔を見て、辺りの肉と油の匂いを嗅ぐと、それだけでお腹いっぱいになってしまう。
呂布にも肉が勧められた。平然と肉を喰らい始める養子は、骨ごと平然と噛み砕きながら食べている。二重の意味で食べる気がしなくなった丁原は、話を逸らして対応することにした。
「ところで、何進将軍」
「おお、おお、そうであったな。 実はな、董卓の奴めが、宦官どもの制御を外れて、好き勝手に暴れ始めているらしい。 涼州に居座り、預けられた兵を返そうとしないで、今も帰還する気配がないそうだ」
「ふむ、ついに馬脚を現しましたか」
「そういえば、そなたは董卓が嫌いであったのう。 儂はあまり皆に喧嘩をして欲しくはないのだがのう」
そう言って、何進は鵞鳥の足にかぶりつく。
この人は善良で、何の因果かこんな地位に就いてしまった不幸な人物でもある。ただ、あまりにも想像力と発想力が足りないから、自分が民の税を食いつぶして、その怨嗟の的になっていることに気付いていない。今、せっせと袁家は地方に権力を移動しているが、それが漢王朝が破滅した時に備えているのは確実だ。それなのに、宦官と低次元な争いを繰り広げているこの人は。
やはり、無能であると、言い切って良いのだろう。
丁原のような者を信用してしまっている時点で、それも明らかだ。それに、もしも有能であるのなら。好きな相手とだけではなく、苦手な相手とも、友好関係を構築することが出来るだろう。
「兎に角、董卓については、監視を強めましょう。 場合によっては、我らの方へ引き込むことも出来ます」
「そうか、それはいい。 味方が少しでも増えるのは良いことだ。 それに、誰にも傷ついて欲しくないからのう」
何しろ何進は、異母弟である何苗とも対立してしまっている。それに対する愚痴を時々聞かされるほどなのである。幸いにも、孫の何晏は頭が良いのだが、逆にこれは切れ者過ぎる。切れ者過ぎて、幼いにもかかわらず下手に警戒心を煽っており、将来苦労するのではないかと丁原は見ていた。
何進は何かあると、そのたびに心の傷を癒そうとして、大量に食べる。普段からたくさん食べるのに、だ。
そして今の何進の体型は、如何に彼がこの地位に向いていないのか、それにどれだけ心に負担が掛かるのかを、如実に示していた。
そのほかにも二三話した後、屋敷を出る。今飼っている細作は、あまり腕が良くないので、情報があまり効率的に入ってこない。呂布と馬を並べて歩きながら、丁原は何と無しに聞いてみた。
「奉先。 お前は今後の情勢をどう見る」
「俺には分かりません。 ただ、あの何進という男は、長生きできそうにありません」
「同感だ。 善良な人なのだがな」
「善良」
どうも実感がないらしく、呂布は小首を傾げていた。孔子や墨子の教えも届いていない異国の出身である。無理からぬ話であろうか。話によると、遠い異国では、敵を殺すと死後楽園に行け、負けると地獄へ堕ちるとか聞いた。恐ろしい死後の世界もあったものである。何の救いもない。
屋敷に戻ってくると、細作が来ていた。使用人の格好をしているが、一応この路十年以上の熟練者である。特徴のない中年男性と、その娘に見える。呂布は、この間まで黄巾党で働いていたのではないかと呟いたが、どうしてその結論が出たのかは、教えてくれなかった。
歩み寄ると、男の方が顔を上げる。山越の血が混じっているらしく、少し目が蒼い。
「何か御用でしょうか」
「うむ。 董卓の近辺を探れ」
「難しい任務にございます。 今、董卓の周辺は、各地の豪族が細作を送り込んでいて、とても危険です」
「分かっている。 だから、報酬ははずむ。 また、新しい細作もやとって構わない」
しばしの沈黙の後、細作が提示した金額は、今までの十倍以上のものだった。流石にかなり高いが、背に腹は代えられない。支払うと、二人はすぐに消えた。呂布が鼻を鳴らして、二人がいた辺りを蹴り飛ばした。
「どうした。 気に入らないのか」
「細作は嫌いです」
「そうか。 とりあえず、今日はもう護衛もいいぞ。 妻の所にでも行ってやれ」
「妻は俺を嫌っています。 俺は妻が好きですが」
苦笑すると、近いうちに新しい妻を用意してやると約束する。呂布は大きく頷いて、自宅に戻っていった。元々豪族の娘だし、その上後宮に上がっていたこともあるくらいだから気位が高い。虎が二本の足で立ち上がったような呂布では、満足が出来ない部分もあるのだろう。
さて、此処からは、呂布にも見せることが出来ない仕事だ。
屋敷の裏手に出ると、護衛を連れて、ある男が来ていた。今、漢の権力を、裏で支配しようとしている人物である。表向きは宦官とも外戚とも距離を取り、清潔な雰囲気を保つ、孤高の人物として、心ある人物達の関心を集めているその者は。
王允と呼ばれていた。
文官だと思われがちだが、実戦経験もある人物で、それなりに武術の腕も立つ。表向き激烈な性格で正義感も強い。しかしその裏では、非常に深い闇を湛えている、巨魁とも言える人物だ。
抱拳礼をする。王允は、丁原が小僧の頃から関わりがある、恩人の中の恩人だ。そして、その頃から、この国のある程度の部分を操作してきた存在でもある。宦官も、外戚も、井の中の蛙に過ぎない。それは王允が、いつも丁原に言っていることだった。
「丁原。 今日の何進は、どのような様子であったか」
「は。 董卓の造反に気付いたようで、注意を促されました」
「そうか。 そろそろ何進にも消えて貰わなければなるまいな。 宦官共ももういらんから、まとめて董卓にでも処分させるか」
「しかし、それで大丈夫でしょうか」
「案ずるな。 奴の首には鈴を付けてある。 かなり厄介な関係を持つ鈴で、そう簡単には外れやせん。 しかも儂と利害が一致しているから、何の問題もない」
丁原は知っている。王允の側に侍っている、忠誠心の高い護衛達。彼らの感情のない目が、何を宿しているかを。
彼らは、狂信的な信者なのだ。
通称、五斗米道。
漢中に独立国家を築いている、一種の宗教団体である。漢王朝の攻撃にもびくともせず、いまだ独立を保っている存在。今のところ漢中から外に広がる気配はないが、その支配は強固で、何よりも地盤が強力だ。
その上、黄巾党の残党が、最近は大量に流れ込んでいる。人材も多く、その中には細作になっている者もいる。王允の左右を固めているのも、そんな技能派の黄巾党残党だとか、丁原は聞いた。
この国の秘めている闇を、丁原は王允を通じて、かいま見ていた。
芙蓉は、屋敷の屋根から、王允と丁原のやりとりをじっと見ていた。すぐ隣には、血縁上の父と、後何人かが控えている。北の国境付近から命令を出していた母上は、最近は何人かの部下に権力を分散させ、各地で暗躍させていた。血縁上の父は、その一人。今は芙蓉の身辺も、管理している。
「若。 そろそろ、行きましょう」
「もう少し、見ていたい」
気付かれるようなへまはしない。すっかり背丈の伸びは止まってしまっているが、毎年身体能力は上がっている。見つかっても何ともないし、それに、何より。
これほど面白い見せ物は、他にないではないか。
丁原も王允も、何進も。あまりにも多くの利権が絡んだ、その渦中にいる。宦官。外戚、豪族。五斗米道。最近は仏屠(仏教)も絡み始めていると聞いている。彼らは周辺にあまりにも複雑な利権が絡んでいるから、気付けていない。その利権が、庶民の生活を基盤としている事に。気付けているとしても、操作し切れていない。比較的それを把握している王允でさえ、操作し切れているとは言い難いのが現実である。
だから、少し流民が出るだけで、この国はがたついてしまうのだ。
盧植先生は言った。今のこの国を滅ぼすことは、恐らく子供にでも出来ると。やってみたいと、芙蓉は思う。だが、母上の許可が出ていない。そして、それを王允が今やろうとしている。
上手く行くとはとても思えないが、しかしこの国の屋台骨が腐りきっているのは事実。何処までやれるのかは、興味が尽きない所である。
王允が、丁原の屋敷を出る。
そして、自分の屋敷に向かう途中で。別の所から出てきた細作と合流。小声で話しながら、歩いていた。
あの細作は、宦官が飼っている、毛大人の所の者だ。
なるほど、王允が仕掛ける手が読めた。
父に促されて、芙蓉はその場を離れる。母上に情報はすぐ届くだろう。この後、どう事態が動くのか、楽しみであった。
2、加速する三すくみ
陳到は、槍を構えたまま、蒼白になっている兵士達と相対していた。兵士と言っても、実戦経験もない、洛陽から来た若造ばかり。五人も雁首を並べていても、一人で充分に押さえ込める。
後ろの方からは、悲鳴が聞こえてくる。そして、殴打の音も。
劉備が、太った腐敗役人を、打ち据える音だ。
さっきから、縛り上げた挙げ句に庭の柳につるして、殴っているのだ。放っておくと、殺してしまうかも知れない。別にそれでも構わない。もう始めてしまったことなのだから。漢王朝などに忠義心はさらさら無い。ましてや、宦官に媚びを売って、権力を買ったような輩など、死ねばいいのである。
やがて、ひときわ大きな悲鳴が一つ。
そして、静かになった。
腫れ上がった肉の塊をつるして、持ってきたのは張飛だった。その隣には、国譲がいる。
「陳到さん、もう良いですよ」
「関羽殿は?」
「退路を確保しに行っています。 もっとも、わざわざ血路を開く必要も無さそうですけれど」
そういって、国譲は笑顔を崩さない。剣を抜いている兵士達を前にしているのに、だ。少し前に二十歳になった国譲は、今やすっかり鎧が似合う。ただし、剣の腕は相変わらず大したこともなく。ただその話術だけが、この青年の武器だった。
張飛が、腫れ上がった肉の塊を投げ捨てると、うめき声が上がった。肉の塊は、まだ生きているらしい。劉備も、殺す所まではやらなかったという事だ。槍で突き殺そうと思ったが、張飛が止めた。
「やめとけ。 兄貴でさえ、殺さなかったんだ。 此奴には、そんな事をする価値さえもねえよ」
「それも、そうですね」
「おい、てめえら!」
張飛が目を光らせて、すごんだのは兵士達に対してだ。後ろでは、既に劉備の子飼い達が、馬に荷物を乗せ始めている。陳到の妻も、この間産まれた息子を背負って、ぶつぶつ言いながら馬に跨っていた。
「追いかけてくるなり、州刺史に通報するなり、すきにしろ。 ただし、容赦は一切しねえからな」
すくみ上がった兵士達。陳到は彼らを一瞥すると、張飛の袖を引いた。
「行きましょう。 構う価値も無いでしょうから」
「それもそうだ。 こんな豚ども、人間だと思うだけ時間の無駄だしな」
張飛は役人に唾を吐きかけると、ひらりと大柄な馬に跨った。
劉備と供に黄巾党の乱を生き抜いた兵士達は、一人も欠けずに。安熹県を後にした。
劉備はひたすら北に向かう。関羽と張飛の名は、黄巾党の乱で知れ渡ったためか、或いは別の理由からか。追っ手は一度も来なかった。賢明な判断である。もちろん街には入らなかったから、それで追いづらかったと言うこともあるのだろう。
五十名ほどの兵は、主に山道を中心に通り、その過程で水と食料を補給した。と言っても、どの山もかなり荒れていて、しかも季節は秋になろうとしている。早めに身の振り方を考えないと、危ないかも知れない。
無言でただ劉備の後ろに従っている関羽に、陳到は馬を寄せた。
「関羽どの」
「どうした、陳到」
「今後、行く当てはあるのですか?」
「この方向だと、公孫賛将軍が支配する幽州方面だろう。 将軍は兄者の兄弟子に当たる御方で、若い頃は随分世話になったと聞いている。 今回も、その伝手を頼るのだろう」
あまり良い噂を聞かない人物だ。
公孫家は、北方で対騎馬民族での戦闘に大きな戦果を上げている一族であり、特に騎馬戦闘の巧みさに定評がある。事実本職である騎馬民族鳥丸の侵入軍を何度も蹴散らしている手腕は音に聞こえているほどだ。
ただし、一族内での権力争いが激しいことでも有名であり、現在の当主である賛も、父を謀殺するような形で当主になったという噂もある。血なまぐさい話には事欠かず、当人もかなり猜疑心が強い性格だという。
劉備とは兄弟弟子になると言うのだが、どこまで信用できるのか。正直不安な部分は、小さくなかった。
山を越えると、幽州に入った。これで、一息つけるだろう。幽州南部のこの辺りは公孫賛の私有地であり、官軍もなかなか入りたがらない。
街に入れるというと、妻は喜んだ。だが、陳到は納得こそしてはいたが、あまり嬉しくはなかった。
そもそも、何故このようなことになったのか。
始まりは、視察と称して督郵なる階級の役人が訪れたことであった。視察とは名ばかりで、実際には護衛と女連れであり、しかも美食を山ほど持ち込んでいた。しかも劉備の顔を一度見ただけで、庶民の訴えを聞こうという様子も見せず、村の若い女を物色しては、手を出そうとして何度ももめ事を起こす始末だった。
結局、理由が判明したのは、劉備が督郵を殴り倒す前日のことであった。
この男、上役の宦官に言われて、賄賂を物色するために、地方を回っていたのである。劉備は最初から賄賂を出そうという気配もなかったから、わざとそう言う態度を取っていたのだ。しかも、この男の理屈は、「大した功績もないのに」「官職を恵んでやったのだから」「賄賂ぐらいは出して当然」というものであった事が判明していた。
その書類は、督郵の部下が中央へ持って走ろうとしていた所を、様子がおかしいことに気付いて見張りをしていた陳到が抑えた事で発覚した。あろう事か督郵は、劉備が庶民から賄賂を取り、気に入らない相手は痛めつけているなどと言う訴えを起こそうとしていたのだ。元々督郵が気に入らなかった陳到は、伝令をふんじばり、さっさと劉備の所に書類ごと届け出て。拷問の結果、全てを聞き出した。
そして、皆で殴り込んだのである。
実戦経験もろくにない兵士達など、関羽と張飛、それに豊富な実戦と修羅場をくぐってきている劉備の配下の前では無力も同然だった。そして、愛想を尽かしたために、官職を捨てて。さっさと安熹県を離れたのだった。
確かに、朱儁や皇甫嵩に比べれば功績も劣るかも知れないが、劉備は黄巾党の大軍と最前線で戦い続け、しかもその大半に勝った。後ろでのうのうとしていた宦官や、その取り巻きに、大した功績を立てていないだとか、ほざかれる理由は全くない。これは正当な行為である。正当な行為ではないと見なすのであれば、国家そのものがおかしいのである。
幽州の街には活気が殆ど無く、寂れていた。劉備は関羽を伴って宮城に向かい、他の者達は自由行動になった。と言っても、五十名以上もいる集団である。そのまま浮浪者になる訳にもいかないし、宿を取らなければならない。賄賂など取ったことはなかったから、蓄えは少ないが、此処を出る時劉備に同情した安熹県の皆が、少しずつお金を分けてくれた。丁寧に民に応じていた劉備は人気があり、こういう事が成立したのである。
幸いしばらくの宿代くらいはある。七つの宿に、それぞれ分散して泊まる手配が終わったのは、夕刻のことである。
陳到は当然のように、張飛と同じ宿になった。馬も七つの宿に分けて預けることになって、風呂にはいるとようやく人心地がついた。この辺りは温泉地で、大きな風呂場は快適であった。傷や疲労にも良く効くというふれこみだが、それは薬効と言うよりも、風呂場の特性として普通のものであろう。
張飛はご機嫌な様子で鼻歌を歌いながら、聞いてくる。
「そう言えば、妻っていいもんなのか?」
「いいえ。 私は二回結婚しましたが、最初の妻は貧困の中で早死にさせてしまいましたし、後の妻は村のことを考えての婚姻でしたし。 ただ、村や組織に対する義務を考えると、必要なことかとは思いますが」
「そういうもんか。 別に俺は、女は娼館にでも行けば不自由しねえと思ってはいたんだが」
「急にどうしました? 一緒に行動するようになってから、もう何年も経っているではないですか」
張飛はふんと鼻を鳴らすと、手ぬぐいを頭にかけた。
「俺達は別にいいんだがよ、兄者がそろそろ妻を迎えても良い頃なんじゃないかって思ってな」
「迎えれば良いではないですか」
「それが、どうもそう簡単にはいかないらしくてな」
女の好みが五月蠅いという事は、別にないらしい。劉備は人並みに女に興味はあるようなのだが、権力を得ても女性遍歴が悪化したようなこともない。つまり、単純な動物的欲求以上でも以下でもないのだろう。結婚については、確かにそろそろ社会的な地位を考えても、してもいいころである。ただ、劉備は大きな望みを持っていて、それが故に安易な結婚はしたくないと考えているそうだ。
結婚はしていないが、劉備の身の回りを世話している娘は存在している。ただしまだ十一才で、生理も来ていないから、肉体関係はないらしい。
甘という名の彼女のことは、あまり陳到は良く知らない。どうやら中華の中部にある予州から来たらしいのだが、典型的な流民であり、しかも生活苦から親に奴隷として売り飛ばされた形跡がある。黄巾党の乱の初期、劉備の義勇軍に陳到が加わった直後。劉備が戦場で黄巾党の陣から保護した。飯炊きをやらされていたらしく、その頃は死人のような目をしていた。今でも物静かで、非常に穏やかな娘であり、あまり目立った美人ではないが、劉備も悪くは思っていないようである。今回も、当然のように、旅に着いてきている。
どちらにしても、あまり甘に幸せな話は来そうもない。劉備に大望があるという話は、陳到も聞いたことが何度かあった。そうなると、正妻にはそれなりの家柄の娘が入ることになるだろう。それに関しては確信がある。劉備は能力的にも優れているし、何より周囲の人間を惹きつける大きな魅力がある。必ず大成する。
甘の控えめな笑顔を思い出すと、陳到はやりきれないなと思った。女の考えていることはよく分からないが、それでも何だか気の毒だとは思う。もっとも、向こうからすれば、余計なお世話かも知れないが。劉備の側にいるだけで、それなりに満ち足りている雰囲気があるからだ。
「張飛殿は、劉備将軍に併せているんですか?」
「おうよ。 別に今は不自由を感じているようなこともねえし。 兄者が妻を娶ったら、俺も考えるかな」
「なるほど。 結びつきが強い兄弟ですね」
「あたぼうよ。 俺ら三人は、死ぬ時も生きる時も、いつも一緒だ。 黄巾党の乱の少し前に、三人で誓った。 あの時のことは、死んでも忘れねえ」
たまに、義によって、兄弟の誓いをする者達がいる。劉備と張飛、関羽の三人も、その類だろうという推察はしていたし、話も聞いてはいた。政治的にそれが行われる場合もあるのだが、この三人の場合は違うだろう。
単純な性格の張飛がここまでいうのだ。余程劇的な出会いがあって、そして精神的な結びつきが生じたのだろうと分かる。義で結びついた兄弟が、最後まで仲良くある事は少ないと聞いたこともある。
だが、この三人であれば、きっと最後まで仲良く過ごせるのだろう。そう陳到は思った。
ご機嫌な張飛は、まだ風呂に入っていくという。熱湯でも平然としていそうな雰囲気であるし、陳到は先に上がらせて貰うことにした。
風呂から上がると、妻が顔を見るなりぶーぶー文句を言った。やっぱり田舎じゃないかと言うのである。
「何ですかこの幽州って所は! 酷い田舎ではないですか! どうして好きこのんで、田舎ばかりに行くんですか! あの劉備っていう人は!」
「もう何年か待て。 あの人は、必ず出世するから」
「貴方は昔からそればかり! この子が大人になった時に、どうするつもりですか!」
「その時には、俺は将軍になって、その子は将軍の子だろう」
これは別に不遜でも何でもない。
陳到はそれを、確信していた。
洛陽の一角が、不意に殺気だった。
孫堅が大股で宮城から出ていく。朱儁がなだめているが、言葉が耳に入っていない様子である。元々気が短い孫堅は、本気で腹を立てていた。そうなると、地であるならず者の雰囲気が出てくる。のろのろと自分の前に出てきた兵士を突き飛ばして、孫堅が行く。不幸な兵士は、大柄な孫堅に突き飛ばされて、すっ飛んでしまった。
「孫堅、おい、孫堅!」
「放っておいていただきましょう」
孫堅は、洛陽の街を鎧姿のまま大股に歩いて、自分の宿舎へ帰っていく。朱儁は咳き込んで、思わず足を止めてしまった。孫堅は流石に振り返ると、様子に気付いて、自分の上司に頭を下げた。朱儁は悲しそうに目を伏せると、孫堅に言った。
「すまん。 儂にもう少し力があれば」
「いや、良いのです。 張温がごとき愚物が中央にのさばり、将軍や皇甫嵩どのが追いやられている現状、誰にもどうにも出来なかったでしょう」
もう、皇帝が長くないという話が、朱儁の耳にも入ってきている。最近は起きているよりも寝ている時間の方が多いらしく、そのままもう起きてこないのではないかとさえ言われている。
そんな状況なのにもかかわらず、宦官共は悲しむどころか、如何にして己の権力を守ろうとするかで必死だ。今のところ最大派閥になっている何進の妹である何后に肩入れし、政敵をせっせと殺すことで媚びを売っている。最大の敵であった董氏(霊帝の母)を暗殺したのも、宦官共であったという噂があるほどだ。
そして対抗している外戚達も、手段を選ばなくなってきている。張温は今回、己が生き残るために、自分の無能を全て棚に上げ、参謀だった孫堅と、政敵であり最近妖しい動きをしている董卓に全ての罪を着せた。孫堅は今までの功績を全て否定されて、左遷という形で辺境である長沙の太守にされることとなった。
「それよりも、朱儁将軍もご自愛ください。 私などに構っていると、宦官共に貶められましょう」
「もうそれはかまわんよ。 何だか、今まで浮かれていたのがばかばかしくなってきておってな。 皇甫嵩もげんなりしているようで、会う度に愚痴を聞かされる。 儂も、もう引退したいくらいだ。 最近は体も頭も動かなくなってきているし、息子はまるで話にもならん。 若い者の中に、跡を継いでくれる者がいればよいのだが」
「気弱なことを言いなさいますな。 それにしても、いったい誰が、この国をこのようにしてしまったのですか」
「そうだな。 分かっているのは、一人や二人が、原因ではないということだけだろう」
賊であった事もある孫堅が、そのようなことを言うのだから面白い。
朱儁は孫堅を若造の頃に拾って、以降は子飼いの部下として育て上げてきた。若い頃は兎に角血の気が多い奴で、敵兵にやり過ぎたりとか、こっそり略奪をしたりして、ずいぶんと躾けるのに苦労した。
その性根じたいは、おそらく今でも変わっていない。だが、朱儁のことを、親と慕ってくれている事は確からしい。実際、朱儁が言うことだけは、孫堅もきちんと聞いてくれるのだ。
元々、孫堅も、暮らしていけないから賊になったのだ。実の両親は早くに死んだと聞いている。その反動からか、ある程度の地位を得てからは、ずいぶんと多くの子供を作ったようだ。朱儁は覚えていないが、親族一同で十人以上はいるはずである。
そんな複雑な環境にいる孫堅だからこそに。色々と問題は多いのだろう。家族のように接してきた朱儁も、まだ孫堅の闇を、全て見た訳ではない。
「兎に角、私は長沙で兵力を蓄えます」
「おお、そうだな。 どちらにしても、この国はもう終わりだ。 お前は自分の路を行くと良い」
「宿将である貴方がそのように言うのでは、本当にもう救いがない」
もう一度礼をすると、孫堅は自分の家に戻っていった。そしてその日の内に兵をまとめて、洛陽を出て行ったのであった。
朱儁はしばしそれを見送ると、大きく歎息して、自宅に戻った。
そして、本気で、引退するべく準備を始めたのだった。
真っ赤な鎧に身を包んだ曹操は、すれ違う兵士達を見て、小首を傾げた。確かあいつらは。やがて、記憶が一致する。
「孫堅と、その配下達だな。 黄巾党の乱以降は、各地の反乱鎮圧に従事していると聞いていたが」
「それが」
言葉を濁したのは、夏候惇である。情報収集はそれなりに得意だと言うことが分かってきたので、任せるようになってきている。裏の情報はルーが集めてくるので、表は此奴にやらせているのだ。
「実は、この間の韓遂・辺章討伐で、車騎将軍張温の失点を、全て孫堅どのが押しつけられたらしく。 区星とかいう有象無象の賊を討伐するとか言う名目で、長沙に左遷されたようです」
「は、それはそれは。 外戚どもも、愚かなことよ」
呵々大笑した曹操。しかし、どうしても背丈が低いので、あまり威厳が出ない。兵士達もきょとんとした様子で曹操を見ている。ちょっと恥ずかしくなって咳払いすると、曹操は馬の歩みを早めさせる。
その外戚に、番犬として曹操は呼ばれたのだ。
今回、八校尉と呼ばれる、皇帝直属の親衛隊が設立されることになった。各地の優秀な人物を集めて構成される部隊であり、曹操の他には名門外戚である袁紹なども含まれている。
もちろん曹操は、皇帝などとうの昔に見限っている。古巣である?(エン)州をわざわざ離れて此処まで来たのは、状況の分析を進めるためだ。これから漢王朝は壊滅的な混乱にさらされることほぼ確実。美味くすれば、一気に中央を乗っ取ることも可能かも知れない。そうなれば、天下を奪うのは、たやすいこととなるだろう。少なくとも、一地方軍閥から始めるよりは、だ。
曹操は、大宦官の孫である。故に社会的な地位も高く、財産も豊富だ。孫堅のものより遙かに豪華な屋敷が与えられ、幕僚達にもそれなりの家が配備されていた。兵は二千ほどを連れてきているが、いずれも忠誠心が高い私兵ばかりである。
屋敷にはいると、さっそく自室の机の上に、ルーからの書状が来ていた。
董卓の近辺の報告書である。多分、本人もその辺で見ているのかも知れない。早速拡げてみる。
内容は、由々しきものであった。
まず、董卓の周辺に、人材が集まり始めている。食客として有名な徐栄、胡軫らを配下に加えている。董卓の配下には、そもそもまともな歩兵戦闘の指揮官がおらず、故に黄巾党の乱では苦戦することとなった。彼らは食客とはいえ、各地で傭兵として腕を鳴らした強者である。他にも武人として名高い華雄、若き賢者として名を馳せる賈?(ク)等を配下に加えているという。
「なるほど。 中央での戦闘を睨んでの人材収集か」
「さようにございます」
けたけたと笑い声。ぬっと天井からルーが顔を覗かせた。どうやら天井の板を一つ外して、其処に隠れていたらしい。
「相変わらず悪趣味な奴め」
「ひひひひひ、ご坊こそ何を言われます。 洛陽に来たら、早速美女を物色していたではありませんか」
「あ、あれはだな! そ、そう。 儂の妻に相応しい、良家の娘がいないか探していただけで、都の華やかな女に目を奪われていた訳ではないのだぞ!」
「はいはい、ルーめには全て分かっております。 父上のお薦めになる地元の豪族の娘では、将来を考えると不足ですものなあ」
ひょいと、天井裏にルーがひっこむ。
そしてごそごそ音がすると、今度は床下から顔を出した。妖怪の類ではないのかと、一瞬曹操は思ってしまった。こうなると、荷物の中に大事に積んできた、背が伸びるというふれこみの薬についてもばれてしまっているかも知れない。
「ご坊。 少し真面目な話になりますが」
「なんだ」
「董卓の周辺にいる細作が、途轍もなく手強くなっております。 周囲の組織がこぞって参集しているというのもありましょうが、どうも董卓の側に、厄介な輩がついているようでして」
「李需という男だな」
「左様にございます。 恐らくは、各地の細作組織の長とも渡り合えるほどの強者かと思われます」
ひょいと、ルーが再び引っ込む。
そして、床下から右手だけを伸ばした。漢人のものとは違う、とても白くて綺麗な肌だ。これだけ見ると、とても異国的で美しい娘なのだが。妖怪じみた普段の言動のせいで、どうしても女だとは認識できない。
「今回の探索で、十五名の部下を失いました」
「何と、それほどか」
「はい。 今後も董卓の身辺を調べるとなると、かなりの覚悟が必要かと。 ルーめも、もうおそばには仕えられないかも知れません」
「妖怪であるお前らしくもない言いぐさよな。 金なら出してやる。 そうだな。 細作の組織としては、許を中心に活動している、林大人のものがあるだろう。 彼処に応援を頼んでみろ」
しばし沈黙が流れた。
やがて、ルーはお金を無心するように、手招きをした。
皇帝が崩御したのは、中平六年。春のことであった。
そして、何后の息子である劉辯が、小帝として即位した。
何進は、とても悲しそうな顔をした。袁紹と連れだって、丁原が何進の元へ向かった時の事である。
予想はしていた。だから、唖然とした様子の袁紹の肘を小突く。
袁紹は名門袁家の跡取りであり、世間的にもそれに恥ずかしくない人物とされている。丁原の見たところ、確かに決断力も優れているし、武勇も悪くない。戦闘指揮をさせても、かなり良い所まで行けるだろう。
ただし、この男は、緊張感が能力を高める形態の人物だろうとも、丁原は見ていた。権力の上座に登ってしまうと、とたんにやる気を無くしてしまうのではないか。そういう人物を複数見てきた丁原は、ついそう分析してしまうのである。
「何進将軍。 ですから、蹇碩が、貴方を狙っているのです」
「蹇碩は、妹の世話をしてくれた男ではないか。 何故、妹の兄である、儂を殺そうとするのだ」
「それは、我らが宦官どもを追い詰めているからにございます」
ここのところ、頻発する反乱を出汁にして、外戚達は動きを活発化させている。まず皇帝の親衛隊である八校尉を強化し、他にも幾つかの部隊が編成中である。これらの強大な軍事力により、弱体化した官軍を引き締め直し、権力を再び強化しようというのである。霊帝の死によって致命的となった秩序の崩壊を食い止めるために、必要な措置であった。何進はそれを、積極的に進めていた。
そのためには、宦官は邪魔だ。そして、宦官も、それを敏感に悟っている。それらの状況を分かっていないものが此処にいる。何と、とうの何進本人であった。
「そんな。 儂は、みなと仲良くしたいというのに」
「残念ながら、宦官共は貴方をそう見てはいません。 特に蹇碩は、貴方を蛇蝎のように嫌っております」
「悲しい話だのう。 儂は決して、蹇碩を嫌ってはおらぬ。 妹が大変な時に色々と世話をしてくれたし、儂とも何度か親しく話した。 おお、そうだ。 鵞鳥の揚げ物をこう、二人で仲良く話しながら食べてのう」
袁紹が呆れた様子で、鵞鳥の揚げ物を食べる様子を再現する何進を見ている。丁原は、告げようか迷った。
その大事な妹君も。
何進を排除しようと考えている事を。
蹇碩は十常侍の中でも、張譲に続く実力を持つ男である。張譲に比べると若干影響力も劣るが、非常に綿密に張り巡らされた陰謀の糸を握っていて、油断すれば此方の首が飛ばされる。
「食はみなを幸せにしてくれる。 そう儂は信じておる」
「皆が貴方と同じように、心優しくて、相手を思いやる者であればそうなのでしょう」
袁紹が、流石に苛々してきたらしく、机に手を突いて、何進の顔を覗き込む。何進は悲しげに眉をひそめるだけである。
「しかし、殆どの人間は、相手を思いやるよりも、蹴落とし貪り尽くすことを考える生き物です。 特に宦官共は、それに特化している生物だと言っても良いでしょう。 奴らを駆除しなければ、この国は終わります。 終わるのです!」
それは違うと、内心で丁原は呟いた。
宦官を排除しただけでは、この国は救われない。外戚も、ことごとく排除する位でなければ。
別に、そのような性質を持つ人間は、宦官だけではない。一度権力の甘味を知った、外戚も同じなのである。
「ど、どうすれば良いのだ」
「蹇碩を殺します。 全ては、この私と、それに丁原どのにお任せください」
「……一つ、頼みがある」
鈴を鳴らして、何進は料理人を呼ぶ。耳元になにやら囁くと、すぐに料理人は厨房へと飛んでいった。
「頼みとは、何でしょう」
「蹇碩に、あの時食べた鵞鳥の揚げ物を届けてはくれぬか。 もちろん、儂からと言うことで、だ。 今、全く同じ味で、調理させておる。 それを食べて蹇碩が改めないようなら、策を実行に移してくれ」
袁紹はそれこそ、死人でも見たような顔色になった。やはり何進の思考が理解できないのだろう。
最近丁原は気付いたのだが、何進は非常に食に対する記憶力が高くて、いつ何を食べて、どんな味だったのか、精密に覚えている。だから、思うのだろう。蹇碩もあの日の味を思い出して、きっと敵対を思いとどまってくれるだろうと。
違う。
利害で絡み合った人間関係は、多少の感情程度では動かない。
不幸な話だ。多分何進は、料理人か、料理を評論する人間であれば、歴史に名を残すほどの存在なのだろう。実際問題、これだけ精密な記憶を持つ舌はなかなか無い。神の舌と言っても良いかも知れない。
しかし、大将軍としては、残念ながら無能の極みだ。
「蹇碩は、あの日の味を、思い出してくれるといいのう」
何進はそう呟いた。目には涙まで光っている。
そして気付いていない。袁紹が、自分に対して、心底から恐怖を感じ始めていることに。
鵞鳥の揚げ料理が出てきた。丸ごと揚げ混んでいる料理であり、実に食欲をそそる香りが素晴らしい。しかも味を保つために、温かい油に漬け込んだまま持っていくのである。香ばしい油の香りと、香草にじっくりつけ込んだ鵞鳥の肉が混ざり合って、実に美味。確かに、とても美味しい料理である。丁原も振る舞われたことがあるが、確かに感動的な味だった。
逆に言えば、それ以上でも以下でもないのだが。
そのまま、数人の使用人と供に、宮中に届ける。袁紹は基本的に兵士達に顔を見せるだけで、宮中に出入りできる。横一文字に口を引き結んだ袁紹に、丁原は何度か声を掛けたが、届いていない様子であった。
袁紹自身の地位はさほど高くないが、何しろ中華全土に巨大な権益を持つ最大の外戚名門の、次期当主である。だから、例え今が夜であっても、十常侍の中でも特に地位が高い蹇碩であっても、応じない訳にはいかない。
取り次ぎを頼まれた兵士に、蹇碩は不機嫌そうな顔のまま連れられてきた。他の宦官同様、奇怪な太り方をして、よちよち歩きをする、甲高い声の男である。少なからず警戒しているのは、何人か護衛の武人を連れていることからも分かる。袁紹と丁原の配下の武人と、彼らがにらみ合う中で。袁紹は咳払いして、部下に持たせていた車を前に出させる。温かい油が、まだぱちぱちと音を立て続けている。
「それは何かな、袁紹殿」
「何進将軍からの差し入れだ。 鵞鳥の揚げ物、だそうだ」
「ほう。 これは美味そうな料理だ」
その蹇碩の言葉だけで、何進の希望が打ち砕かれたことはほぼ確実であった。美食になれている上に、権力しか頭にない宦官の、しかも筆頭に近い人間である。いちいち食べた料理のことなど、覚えている訳がない。何進のように、食を愛している訳でもないだろうから、なおさらであった。
「それで、用件はそれだけですかな」
「これはあの日に作ったものを、完璧に再現したものだそうだ」
「ほう、あの日」
「では、これにて」
袁紹を促して、その場を離れる。蹇碩は口元に扇を当てて、じっと此方を見つめていた。ひょっとすると、毒味だけさせて、自分は口にさえしないかも知れない。あれは、そういう男だ。
帰る途中も、濃厚な油の匂いがずっと残っていた。
丁原の護衛の一人。最近召し抱えた張遼という男が、歩きながら、質問を投げかけてくる。長身で、精悍な顔つきの男だ。武術も相当な腕前で、まだ若いのに、ある種の貫禄まで備えている。流石に武勇では呂布には及ばないが、それに近い使い手だ。呂布が仕事を休んでいる今日、代わりに護衛を務めている。
「どうしてあのような無駄なことを。 あの男が、何進将軍と食に対する価値を等しくしている訳がありませんし、変に警戒させるだけではないのでしょうか」
「何進将軍は、無駄だと考えていない。 それだけだ」
「そんな」
「だが、案外これは良い策かもしれん。 蹇碩は猜疑心の塊のような男だ。 あのような意味の分からぬ策を施されれば、必ず含むものがあるとして、無い頭をせいぜい必死に働かせるだろう。 それだけ、時間を稼ぐことも出来る。 或いは暴発的な行動に出るかも知れない」
後は、我らが、奴を殺してしまえばいい。
そう、丁原は冷厳に呟いた。
翌朝、何進の寝室から悲鳴が上がった。
昨日のこともある。何進の屋敷に、張遼とともに泊まり込んでいたのだが。どうやら、網に魚が掛かったらしい。丁原はむしろほくそ笑みながら寝床から起き出し、軽めに武装した。
大股に、何進の部屋に急ぐ。昨晩の内から、屋敷には細作を多く配備していたのだ。何進に危険はないが、それでも形だけでも急ぐ必要がある。
何進の慌てた声が、外まで漏れていた。使用人どもを押しのけて、部屋にはいる。剣に手を掛けていたのは、血の臭いに、歴戦をくぐり抜けた体が勝手に反応したからである。
使用人の一人が、短刀を手にしたまま、床に転がっていた。かっと目を見開いて、血だまりの中沈んでいる。喉には深々と、別の短刀が突き刺さっていた。細作が、忍び込んできた所を殺ったのだろう。
死骸を転がしてみると、もう冷たくなっている。何進は、自室で行われた惨劇に、気付きもしなかったと言うことだ。眠ったまま楽になっていた方が、この人は幸せだったかも知れないと、丁原は思ってしまった。
「丁原! 丁原!」
「此処におります」
「な、なんということだ! 誰の差し金だ!」
「ほぼ間違いなく、蹇碩かと」
実際には、分からない。ひょっとすると、王允辺りが、煮え切らない何進の尻を突き飛ばすつもりであったのかも知れない。そうなると、この暗殺者は、捨て石として使われた事になる。
他の宦官の可能性もある。何進は、兎に角多くの宦官達から、恨みを買っているからである。正確には、妬みに近いが。
だが、今は、それらの事情は全て無視する。これは愚かで邪悪な蹇碩の仕業にしておかなければならない。そうしなければ、更に話が面倒くさく、ややこしくなる。もう一つ言うならば。蹇碩の屋敷を調べれば、暗殺の証拠など、幾らでも出る。出なければ、こっちで用意すれば良いだけのことだ。
奴が、黒なのは間違いないのだから。
「後は全てお任せを」
「て、丁原。 このような。 このようなことが、あって良いのか。 蹇碩は、あの美味を、忘れてしまったのか」
「そう言うことにございましょう」
言い捨てると、丁原は屋敷を出た。すぐに袁紹の所に使いを出し、兵を揃える。三千ほどの戦力が待機しており、すぐに出撃できるようにしていた。宮中に殴り込むのには、充分な戦力だ。
八校尉は既に此方の策に乗っており、むしろ積極的に参加してくるだろう。丁度いい。逆らうようなら、他の宦官どもも皆殺しである。
すぐに兵士達は揃った。
皆、宦官憎しで意思は揃っている。誰もが、この時勢に後宮にいるというだけで好き勝手に暮らしている宦官を憎んでいるのだ。手を叩いて、最初に言い聞かせる。
「狙うは宦官、蹇碩のみだ。 他の者には目もくれるな! ただし、抵抗するものは容赦なく斬れ!」
「殺(シャア)っ!」
さて、武力のない宦官共が、どんな手に出るか。
これから、洛陽が修羅場になるのは確定事項だ。その中で、どれだけ王允が予想している未来図が事実となるのか。
宮中に突入していく兵士達を見送りながら、丁原はほくそ笑んでいた。
3、動き出す巨魁
皇帝以外のものは、例え丞相や将軍であってもおいそれとは入れない、禁断の地。それが後宮である。
皇帝の子孫を残すためだけに集められた、と表向きになっている娘達が、秘密の花園を作っていると考えているのは、浅はかな世間知らず達だ。
実際の後宮は、閉鎖社会を良いことに様々なしきたりや掟が縦横無尽に絡み合い、利権によってそれが加速する、万魔の園なのである。巨大な金品が動き、憎悪と猜疑心が闇の縦横となって織物を作り上げている。それが、後宮の真実だ。
其処を中心にして権力を発展させた宦官と外戚が、今漢を牛耳っていることから考えても。如何にその業が深いかは一目瞭然。歴代の皇帝の中には、伏せられてはいるが、闇のさらに底にある後宮を疎いて、男色に走った者さえ存在しているという。
構造さえよく分からない其処を、袁紹は走る。むせかえるような香水の匂いと、抑えられた照明が、余計に気味の悪さを加速させる。彼方此方で女の悲鳴や、そうでない者の悲鳴が混じる。ある程度は仕方がない。皇帝が幼くて、この後宮は今機能していない。そんな所にいる女の方が悪いのだ。そう、袁紹は強弁しながら走った。
宦官を見つけた。逃れようとするが、鍛えに鍛えている袁紹とでは身体能力に差がありすぎる。すぐに髪の毛を掴んで、床に引きずり倒す。悲鳴を上げた男の声は、妙に甲高くて、気色が悪かった。
「蹇碩はどこだっ!」
「し、知りませぬ!」
「ならば死ねっ!」
剣が一閃し、どすんと短い音が響いた。すっとんだ首が、転がっていって、高級な魚がたくさん泳いでいる池に落ちた。派手な水音が上がる。
宦官に対しての、事実上の無差別殺戮をそそのかしたのは袁紹だ。実際には袁紹の部下だけが突入したのではないが、しかし後宮は今や地獄絵図と化している。側に付き従っているのは、眼の細い長身の男である。田豊という。
「後宮の構造を、今の内に図に起こしておきたいのですが」
「好きにしろっ!」
血振るいした袁紹は、かっと口を開けると、次の獲物を求めて大股で歩き出した。急がなければならない。何太后が本格的に動き出すと、何かと面倒だ。少なくとも蹇碩だけでも抑えなければ。そうしなければ、突入に意味が無くなってしまう。
彼方此方を、殺気だった兵士達が走り回っている。袁紹とかちあうと、流石に礼をしようとするが、片手を上げて押しとどめる。此処は戦場だ。上司に対する礼など不要。大声で叫ぶと、兵士達は感激した様子で走り去っていく。
ほどなくして。
急に、袁紹の右手の壁が破れて、小太りの男が飛び出してきた。何かとんでもない化け物でも見たような悲鳴を上げながら、転がり出てくるそのものを、袁紹は知っていた。蹇碩である。
「いたかっ! 謀反人!」
「し、知らぬ! 知らぬ!」
「問答無用っ!」
袁紹の剣が、蹇碩の首を刎ねた。首は壁にぶつかると、回転しながら廊下の向こうへ転がっていった。恐怖を顔中に貼り付かせた肥満した顔。袁紹は、大きく肩で息をつきながら、ふと気付く。
此奴は、何に恐怖して、よりによって袁紹の前に飛び出してきた。
袁紹の前に跪いた男が一人。鬼のような顔をした、恐ろしげな武人である。名は文醜という。もちろん、後から付けた名前だ。元の名前は韓安というらしいのだが、無頼として諸国を歩いているうちに、箔を付けるために改名したらしい。
「袁紹将軍」
「どうした」
「十常侍どもは、変に気付いて、すぐに何太后様の部屋に逃げ込んだ模様です。 突入して良いものか、流石に兵士達も迷っている様子で」
「……引き上げさせろ。 ほれ、蹇碩は見ての通り私が仕留めた。 この戦は、完全ではないにしても、勝利だ」
頭が少しずつ冷えてきた袁紹は、勝ち鬨を上げさせると、さっさと引き上げることにした。冷静になってみると、如何に邪悪な相手であるとしても、寝覚めが悪い話である。抵抗力もない連中を、大勢で殺して回ったのだから。
しかしそうしなければ、殺されたのはこっちだったのだ。
兵士に性的な暴行を加えられた女官は流石にいなかったようだが、乱戦(というべきか)の煽りで、怪我をした者は多数いたようである。それに、戦いが長引くと、愚かな行為に走る兵士達も出てくるだろう。
宦官も充分に殺したし、見せしめとしては充分だ。もしこれでも奴らが懲りないようならば、徹底的にやればいい。
何故、袁紹は、自分が思考を急いでいるのか、よく分からなかった。追いついてきた田豊が、袖を引く。
「袁紹様。 なりません」
「なに?」
「この機に、宦官を皆殺しにするべきです。 奴らは国の病。 此処で処理しておかなければ、末代まで害を残しましょう」
田豊は兎に角頭がいい男だ。その献策が外れたことは、今までただの一度もない。心が揺らいだ袁紹だが、しかし。敵の方が、動きが速かった。
伝令が走り寄ってくる。何進からだった。田豊が露骨に舌打ちする。抱拳礼して、口早く伝令がまくし立てた。
「袁紹将軍、引き上げるようにと、何進将軍からのお知らせです」
息を呑んだ。宦官共が、何太后に手を回して、何進に泣きつかせたのは目に見えていた。しかし。それを僥倖としてしまう自分に、袁紹は気付いていた。
「そうか。 ならば、仕方あるまい」
「袁紹様!」
田豊が、隣にいる文醜に目配せした。場合によっては伝令を斬ってでも、というのだろう。混乱の中だ。何が起こっても仕方がない状況である。確かに、もみ消せる。決断すべきではないのか。
決断すべきだ。そう袁紹が考えた瞬間。
また、背筋に、何か途轍もない闇を感じた。怖くて、振り返ることが出来ない。一体、この奥には、何が潜んでいる。
「ひ、引き上げるぞ!」
逃げるようにして、袁紹は叫び、その場を後にした。
闇の中。静かに笑みを浮かべ続けていた者。それは、芙蓉だった。
母に言われていたのだ。近々、何進と宦官が衝突する。それを長引かせ、出来れば共倒れさせるようにと。
母の事は大好きだが、それ以上に。面白そうだったから、命令に従った。いや、少し違う。面白く無さそうでも命令には従う。あまりにも面白そうだから、嬉々として、命令に従ったのだ。
もちろん、蹇碩を追い立てたのも芙蓉だ。ちょっと殺気をぶつけてやるだけで、実戦経験もない蹇碩は、魔物にでも出くわしたかのように驚いて、隠れ場所を飛び出した。わざと袁紹の前に出るようにしたのは、趣味からだ。実に後の様子は面白かった。人の命をもて遊ぶことの、何と楽しいことか。
袁紹は、使える。今の一瞬で、それを芙蓉は看破していた。
頭がいい。武勇もある。だがそれ以上に。計算を、勇気に優先できないのだ。こういう形態の人間は、非常に操作しやすい。今後毛大人が接近するだろうとは聞いているが、裏側から圧力を容易に掛けられるだろう。
後ろから気配。振り返ると、いたのは、父だった。
公式の場では敬語で接して来る父だが、二人きりの時は親子らしい言葉遣いに戻る。それが、芙蓉には心地よい。
「巧くやったようだな」
「母上も喜んでくれるかな」
「あの人は喜ぶだろう。 娘がもう一人前の悪鬼羅刹と化しているのだからな」
「うふ、うふふふふふ」
頭を撫でられて、思わず笑ってしまう。
どさくさに紛れて、十五人ほど殺した。殺して良いと判断したからだ。兵士と違って、肉が随分軟らかくて。斬る時の感触や、刺す時の音が違って。随分面白かった。既に三桁に達する人間を殺している芙蓉だが、今度の殺しもまた、新鮮な経験だった。
「さて、次は宦官共の反撃か」
「どうするつもりだろうな」
「手など見えているよ」
これでも、伊達に盧植から師事していない。いっぱしの戦略は、既に身に叩き込んでいる。
その盧植は最近何進に請われて先生を辞めてしまったが、必要なことは全て覚え込んだ。もう、あの老人は必要ない。
父を促して、闇の中を走る。殺戮の匂いが漂う後宮を出ると、洛陽の夜は騒然としていた。彼方此方を軍が走り回っている。多分、最大級の警戒をしいているのだろう。
「問題は母上の安全なんだけどねえ」
「どういう事だ」
「ん? 宦官は、多分番犬を呼ぶつもりだよ」
番犬。
そう。董卓だ。
奴は宦官達にとって、扱いづらいが番犬のような存在だ。少なくとも、宦官達はそう考えている。
ただ、予想される宦官にとっての最大の懸念は、董卓には大した軍事力が無いと言うことだ。官軍の一個師団を私物化しているとはいえ、貧しい上に治安が最悪の涼州では、各地の豪族に睨みを利かせる兵力が多数必要となる。動かせる戦力はせいぜい一万。機動部隊となると、三千程度だろう。戦の才もたかが知れている。
母上の情報によると、相当に優秀な部下を多数集めているという話だが、それも付け焼き刃だ。
ただし、母上からの情報によると、董卓はやはり入れ替わっている可能性が高い。政治的能力が高かった「本物」と比べると、「偽物」は軍事的な能力に見るべき点があるらしい。また、人を見る目も確かであるとか。そうなると、軍事的に優秀な部下を集めることに、意味が出てくる。
そして、李需という男。それに、母上が追加で送ってきた、要注意人物として、董卓の母もいる。本人に政治的な能力が無くても、彼らが補えば、充分に力を発揮するのかも知れない。
それらを加味すると、宦官共は多分番犬の筈の董卓に喰い殺されるだろう。その前に、何進を謀殺しておいた方が良い。しかも、出来るだけ自然な形で。
「何進を暗殺するのか」
「いや、それは最後の手段にするよ。 殺るのは、あくまで宦官達にしてもらわないと困る」
そう。愚劣な宦官どもには、自分で滑稽極まる人生の幕を下ろして貰う必要がある。
そして、外戚と共倒れになる事で、漢の混乱を、決定的な所にまで押し込んで貰わないといけないのだ。
今後、母上の組織が、好き勝手に暴れるためにも。
丁原が何進の元に戻ると、多数の武官が集まっていた。朱儁や皇甫嵩、それに今までは大人しくしていた盧植までもがいる。張温もいるが、朱儁と皇甫嵩に挟まれて、非常に肩身が狭そうだった。八校尉の一人である曹操の姿も見える。曹操は背が低いが、真っ赤な鎧を着ていて、周囲の視線を集めていた。
何進が脂肪まみれの巨体を引きずって現れると、大量に返り血を浴びた鎧を着たままの袁紹が付き従っていた。袁紹の使用人が車を押しており、その上には蹇碩の首が乗せられている。恐怖に歪んだ表情のまま固定されているそれを見て、張温が顔を背けた。情けない男である。
「皆も見ての通りだ。 悪事を宮中にて張り巡らせていた宦官共の首魁、蹇碩は討ち果たした」
おお、と声が上がる。
皆嬉しそうにしているのを見て、何進はやはり悲しげに眉をひそめていた。
「それで、今後どうするべきか、相談するために皆に集まって貰った。 何か意見はないか」
「それでは、それがしが」
盧植が手を挙げる。何進は、それを見ると、目に見えてひるんだ。
何進は盧植を苦手としている。あまりにも頭が切れるし、何進よりも正しい意見を口にすることが多いからだ。それに苛烈な意見を遠慮無く言うことも、苦手としている理由の一つだろう。
「この機に、宦官をこの世から滅するべきかと思います」
「賛成。 私も意見を同じくします」
曹操が短く、だがはっきり言った。朱儁、それに皇甫嵩もそれに賛同する。この場にはいないが、孫堅が此処にいたら、きっと同じ意見を述べただろう。
しかし、何進は、どう見ても乗り気ではない。
「だがのう。 既に兵が後宮に乗り込むという暴挙を為してしまっているし、多くの宦官を誅殺してもいる。 これ以上、無為に血は流したくないのう。 妹も、恩のある宦官達に、あまり酷いことはしないで欲しいと言ってきておってのう」
「生ぬるい!」
一喝が飛んだ。それは盧植からだった。
既に老いてはいるが、丁原から見ても、盧植はあらゆる点で何進を凌いでいる。気力、判断力、体力、知力、記憶力、そして武勇。その全てが、何進の判断を否定していた。何進はまるで龍に睨まれた子兎のようにすくみ上がってしまっていた。
「国家百年の計を考えなされ、大将軍! 此処で宦官共を殺しておかなければ、この国の病巣は除かれませぬ。 太后様には、後で珍しい贈り物でもしてご機嫌を取ればよいではないですか。 今は、真っ先に除くべき者を除くべきです!」
「し、しかし」
「それならば、私に良い提案がございます」
袁紹が挙手した。盧植がうさんくさげに若き未来の星を見つめる。袁紹と交友があるという曹操は、腕組みして面白そうに状況の推移を見守っていた。
「各地の諸侯に手紙を出し、洛陽に集めるのです。 そして、一気に事態を解決いたしましょう」
「何故に、そのような危険なことをなさる」
「漢王朝を再びまとめるためです。 このままでは、そのうち各地の諸侯が好き勝手をするようになり、乱世が始まりましょう。 今回敢えて中央の混乱を知らせることにより、皆の団結を図り、そして再び漢王朝の礎をまとめるのです」
唖然とした盧植が、反論を始める。それを、にやにやしながら事態の推移を見守る曹操。朱儁と皇甫嵩は腕組みして、無言で反対の意思を示していた。
丁原は、面白いなと思った。元々これは、王允が指示してきている策であり、袁紹が提案しなければ丁原が言い出す手はずだった。何進がそれを受け入れるのは間違いない。何しろ妹君から、そうして欲しいという書状が届いているからだ。
「分かった。 皆を集めて、意見を聞こう。 どうせ宦官達に、これといった武力はないのだ。 いざというときには、好きなように出来るではないか」
「……翻意なさいませ、大将軍。 もしもそのような策を採れば、野心家達に付けいる隙を見せるだけです。 この国は、真の闇へと落ちましょう」
「盧植将軍、そのように人を疑うでない。 人はきっと、美食にてわかり合える。 ほれ、皆にも、儂自慢の料理を振る舞おうぞ。 悔しくも蹇碩には儂の心は届かなかったが、皆なら理解してくれるだろう。 そう儂は信じておる」
料理が運ばれてきた。
山海の珍味というに相応しいものばかりである。海から運ばれてきた塩漬けの魚類を、豪勢に調理したものもある。珍しい動物の肉類も、ふんだんに使われていた。南国の甘い果実も、並べられている。しかもそれらが、何進の神がかった舌が判断した、一流の料理人達によって調理されているのだ。
何進が食べ始めると、渋々他の将軍達も、それに倣う。ただし、直後に誰もが頬をゆるめていた。
確かに美味しい料理だ。丁原もそれを認める。
だが、それで、世を動かすことは出来ない。
隅の方で、こっそり曹操ががつがつ食べていた。豊かな生活をしている彼の舌でさえ唸らせるほどのものだということだ。
だが、感動させるのは、所詮一時だけなのである。
空虚な騒ぎは、夜半まで続いた。
結局、なにも変わりはしなかった。
董俊は、届けられた書状を見て、ついに時が来たことを悟った。すぐに家族を集めて、会議が始められる。地下の牢に入れている董卓は、もちろん会議には参加しない。最近は孫娘の董白が誰かも分かっていない様子で、見ると性欲を満たそうとして手を伸ばす。それを見て、董白は悲しそうに目を伏せる。何度かそんな事が合ってから、董白は祖父の牢に近寄らなくなった。だが心配なようで、御爺様はと時々俊に聞く。それが溜まらなく辛かった。
父に全く似ず美しく育ち始めている董白が、母の杖となって、支え歩きながら部屋に入ってくる。母は頭脳こそ衰えていないが、ここのところ足腰がすっかり弱ってしまい、白が良く支えている。心優しい白は、献身的に曾祖母を支えていて、冷酷な董俊も、それを見ていると目尻が下がる。
弟や、甥達も入ってくる。最後に一族である牛輔(ぎゅうほ)が入ってきたのを確認してから、会議が始まる。最上座に座った母が、自分の子らを見回しながら、煙草をくねらせて煙を吐き出した。
「いよいよ、漢王朝が終わる時が来たようだね」
「その通りです、母上。 何進が愚かにも、諸侯を集めて、一気に事態を解決するとかほざき出しました。 そそのかしたのは袁紹のようですが、同じ事です。 この機に乗じて、洛陽を乗っ取る所存です」
「それがいい。 それが、我が一族の悲願でもある」
そう。董俊の母は、北方の騎馬民族の出身である。彼らの悲願は、経済的に圧迫を繰り返し、差別と迫害を平然と加え続けてきた漢に対する復讐。そしてその意思は、董俊の中でも息づいている。
確かに、先に境を侵したのは、騎馬民族かも知れない。しかし、だからといって、それからずっと迫害を受けるいわれなどはない。
漢はずっと、騎馬民族に圧迫を加えてきた。目の仇にしてきたと言っても良い。それだというのに、軍事力として、いざというときは酷使ばかりする。董俊の母も、そうして父を亡くしたのだ。
「数百年は漢人がまともな国を作れないほどに痛めつけておやり」
「仰せのままに」
母の目にぎらつく闇を、董俊も共用していた。この場にいる、白以外の全員が、漢に深い恨みを抱いている。
「ところで、その後はどういたしましょう」
そうおずおずと言ったのは、牛輔であった。無能な男ではないのだが、何処か気弱で、時々苛立たされる事がある。
董俊は、鼻を鳴らすと、吐き捨てた。
「知るか。 その時は、その時考える」
李需が小首を傾げるような動作をする。外で何かあったらしい。大股に部屋を出ると、遠くで剣戟の交わる音がした。細作だろう。
「またか。 ここのところ、多いな」
「董卓将軍が、これからこの国の命運を握ると、誰もが知っているのでありますよ」
「ふん」
母は露骨な李需のおべっかにたいして、何も言わない。
だから、董卓も、咎めはしなかった。
結局細作は、朝には追い払うことが出来た。二度ほどもの凄い腕利きが来たのだが、そいつも今は引き上げたらしく、ここのところは小物ばかりだ。命の危険を感じたことは、一度もない。李需が連れている細作の部隊は途轍もなく優秀で、洛陽の貧弱な細作などに遅れはとらなかった。
翌朝。趙寧が、待ちに待った書状を携えてきた。
「董卓将軍。 これを」
「うむ」
書状を改めると、其処には。
張譲から助けを求める文面が、踊っていたのであった。
かなり緻密な軍事機密までもがしたためられている。どうやら相当に焦っているらしい。しかもまともな判断力を無くしているらしく、趙寧をもろに信じてしまっている様子だ。これなら、乗り込むだけで、洛陽は自ら董俊の手に落ちる。
「全軍、出撃準備!」
「おおっ!」
涼州の城に、鬨の声が広がっていく。
この涼州は、漢の吹きだまり。漢に恨みを持つ人間も、そして北方の騎馬民族も、山ほど流入している土地。しかも董俊は、そんな者達ばかりを、兵隊としてかき集めた。彼らの全てが漢を恨み、呪っている。現在進行形で、だ。
数百年にわたって蓄えられた恨みと、破壊衝動が。今解き放たれ、漢王朝の中枢へ、迫ろうとしていた。
4、魔王襲来
何進が、参内したその日。何かいやな予感を覚えて、袁紹はそわそわしていた。武官達が集まるその部屋には、各地から参集している将軍も多く集っており、いつになく活気がある。だからこそに、そわそわしている袁紹は目立っていた。
「どうなさいました。 小用ですか」
「あほう。 違うわ」
文醜が仏頂面で愚かなことを言ったので、しかりつける。腕っ節は素晴らしいのだが、本当に頭の悪い男だ。
あの虐殺の夜から、宦官共は大人しい。あれほど雇っていた細作もどこかへ行ってしまったらしく、将軍や武官が暗殺されることもなかった。一時期は、毎晩のように暗闘の死者が出ていたのだが。
だが、それが故に、却って不気味だ。一体何を企んでいるのか。
何進は宦官達が改心したに違いないとか、見当違いのことを言って喜んでいた。あまりにも駄目な将軍だが、だがそれが故に。逆に部下皆からは愛されている。事実、一般の兵士達にも気前よく食事を与えるので、嫌われてはいない。ただ、その豪勢な食事が、貧民の犠牲によって成り立っていると、気付いていないだけだ。
袁紹自身は、大概の相手からなら、身を守れる自信がある。だが何進は違う。いつも腕利きはつけているのだが、宮中だとそうもいかない。不安になった袁紹は、隣にいた朱儁に聞く。
「朱儁将軍。 大将軍は、どうしたのでしょうか」
「なに! それはどういうことだ」
不意に朱儁の眉が険しくなる。同時に、更に向こうにいた皇甫嵩と盧植も加わってきた。
「我らは、貴公が護衛を担当していると聞いていたぞ」
「だ、誰からですか!」
「しまった、はめられた!」
盧植が吠える。同時に、周囲が一気にざわつきだした。
手を叩いたのは盧植だ。最年長と言うこともあり、官職以上の貫禄を備えていて、すぐに周囲を纏め上げる。この辺りは、袁紹も盗んでいきたい技だ。
「何進将軍を見たものは!」
「わ、私が!」
片手を上げたのは、淳于瓊という若い将である。殆ど人数あわせのように八校尉に加わっている人物で、経歴も浅い。外戚のつてがあるから、若くして権力を得ているという、何とも駄目な人物だ。
「実は、袁紹どのの配下だという見慣れぬ兵士に呼ばれて、奥に。 何だかとても喜んでいたようなのですが」
「まさか、料理がどうとか言われていなかっただろうな」
「そ、そう言われていました! 何進将軍が先日届けてくれた料理がとても美味しかったからとか、それで大喜びして、ついて行かれて!」
天を仰いだ盧植。朱儁は剣を抜くと、辺りにいる将軍達に呼びかけた。
「全員、戦闘準備! 何進将軍を救い出すぞ! 敵は後宮にいる! 宦官共は、見かけ次第皆殺しだ!」
「おおっ!」
喚声が上がる。外に兵士達を呼びに、何名か将軍が戻る。腕に自信がある者達は、その場に残って、どこから突入するか、盧植の指示を仰ぎ始めていた。すぐにどやどやと殺気だった兵士達が、宮中に入ってくる。蒼白になる文官を押しのけて、盧植が吠えた。
「行くぞ! 今晩こそ、この漢の病を、全て断つ!」
もう、生きてはいないかも知れない。
そう袁紹は思ったが、盧植に併せて、気勢を上げた。
宮中の最奥。
皇帝と供に、玉座に座って、何太后は待っていた。兄の死を、である。
何太后は、昔から兄が嫌いだった。うだつの上がらない豪族の娘であった頃からだ。
強力な外戚の後ろ盾が無い状態で、何太后がのし上がるのは、尋常な努力ではすまされなかった。元々の外見的な武器もあったが、それだけでは、後宮ではのし上がることは出来ないのだ。陰湿な虐めが横行し、場合によっては暗殺が平然と行われるような場所である。それこそ、悪鬼羅刹の心構えでいなければ、即座に追い落とされる。其処が後宮であった。
自分が血で血を洗う宮中の権力闘争の中、必死に皇帝の歓心を買って。そして生みたくもない子供を作って。さらには邪魔な董前太后を暗殺して。ようやく安定した権力に乗ったというのに。
それなのに、兄はどうだ。
毎日毎日豚のように喰らって、それで何もしないうちに大将軍になっていた。権力への執着も見せず、そればかりか自分の努力を無視するような言動ばかりを繰り返していた。
そうだ。昔から、この男は大嫌いだったのだ。
闘争心がない。権力欲がない。周りの全てと仲良くしたいとか、寝言ばかりほざいている。権力欲の塊である何太后にとって、兄は理解しがたい、不気味な存在以外の何者でもなかった。
だから、今回は、宦官共の策に乗ったのだ。
別に、兄などいなくても、皇帝を抑えている限り、何か間違いが起こることもない。そういう絶対的な計算が、何太后を、凶行の片棒を担がせる行為へと走らせたのだ。
どうすれば兄がのこのこ出てくるか、妹だから知っていた。料理を褒めてやればいいのだ。
案の定、馬鹿な兄は、宦官達に、数日前に料理を送っていた。確かに美味しい料理かも知れないが、だからどうしたというのだ。不気味がっている張譲らに、吹き込んでやった。どうすれば、兄がのこのこ出てくるかを。
何時粛正されるかも知れないと、びくびくし通しであった張譲ら十常侍は、簡単に動いた。
心は、何も痛まなかった。
どたどたという足音が聞こえてきた。まだ幼い皇帝が、小さく悲鳴を上げて、自分の影に隠れる。この聞き苦しい足音は、誰か。間違いなく、兄のものだ。それに併せて、悲鳴と、怒声も聞こえてくる。
兵士達が槍を揃えて、兄を追いかけ回しているのだ。
無能な兵士どもである。あのような兄など、即座に仕留められるだろうに。これだけ時間が掛かっているというのは、どういう事か。
兄が見えた。血だらけで、手を伸ばして。助けを請いながら、無様に走っていた。何度も槍で突き刺されているだろうに、死なないのは、分厚い脂肪の鎧で守られているからだろう。
「冷!」
自分の名が呼ばれた。どうやら、兄が玉座にいる自分に気付いたらしい。反吐が出る。
性欲しか取り柄がない皇帝に抱かれて抱かれ続けて、やっと作った地位なのだ。このような無様で無能な兄のせいで、失ってなるものか。
皇帝は泣き出していた。何太后は、周囲の兵士達に目配せする。
見かけだけはそれなりに屈強な兵士達が、一斉に剣を抜きはなった。何進は、それを見て、絶望的な声をあげた。
「どうしてだ! どうしてだ冷! お前には、いつも美味しいものを、食べさせてやったではないか! 兄の選ぶ料理が、それほど不味かったのか!」
「私は、昔からあんたのそう言う所が大ッ嫌いだった」
殺せ、と命を降す。
走り寄った兵士達が、一斉に剣を振り下ろす。
そして、兄は死んだ。
宮中に突入した兵士達の先頭に立って、盧植が剣を振るう。この間の粛正劇では、無差別殺戮をそそのかしたのは袁紹だった。だが今度は、権力を取り戻した盧植が、その汚れ役を買って出ていた。
盧植の剣捌きは凄まじく、時々突きかかってくる宦官派の兵士達も、まるで枯れ木でも斬り倒すように打ち砕いている。まるで勝負にならないというのが正しい所で、後ろからついて行っている曹操は舌を巻いた。この男が三十才若ければ、宮中を宦官などの好きにさせることは、無かったのかも知れない。
既に、何進の死は確定していた。さっき、突入の寸前。殺気立つ兵士達の前に、下っ端の宦官が、震えながら台に乗せて、その首を持ってきたのだ。
無念そうな表情ではなかった。むしろ、悲しそうだった。
曹操は冷静に洞察していた。何進は、恐らく妹に謀殺されたのだ。それに、自分が信じて止まなかった食が、最後まで他人を動かせなかったこともあるだろう。だから、悲しげな顔のまま、逝ったのだ。
盧植は無言で、その宦官の首を刎ねた。
そして、真っ先に、突入を開始したのである。
袁紹は、皇帝を探しに奥へ向かっている。盧植は、宦官の掃討が、主な仕事だった。曹操は早足で着いていくが、殆ど何もすることがない。それほど、盧植の手際は見事であった。
「最初から、こうすれば良かったものを」
「左様にございますな」
曹操が呟くと、側を固めている楽進もそれに同意して頷いた。降伏した兵士が、慌てて服を脱いで、生殖器を晒しているのが見えた。そうすることによって、宦官ではないと示しているのだ。嫌なものを見てうんざりした曹操は、指を鳴らすと、後宮の裏門へと進路を変えた。
「殿、何処へ行かれます」
「袁紹のことだ。 どうせ皇帝を十常侍どもにかっさらわれて、今頃泣きっ面になっているだろう。 それを見に行く」
「悪趣味な」
「放っておけ」
楽進にまで呆れられて、曹操はちょっと頭に来たが、別に怒っても仕方がない。こう言う時、役に立ちそうな人材が楽進くらいしか近辺にはいないので、粛正する訳にもいかないのだ。
後宮に入っても、宦官達の死骸が点々としていた。必死に逃げようとした所を、背中から斬られた死骸ばかりだ。今回は襲撃の規模が違うこともある。所々には、女官の死骸も点々としていた。中には兵士に暴行された形跡のある死骸もあった。
余程訓練されていない限り、兵士はこういう事をする。何時の時代も、何処の国でも同じ事だ。卑劣で恥ずべき行為だが、戦場で頭に血が上っていると、それに気付けない。だから、訓練は重要なのだ。
「ふん、袁紹め。 部下もきちんと統率できぬか」
「戦場の狂気というのもありましょうが、しかし酷い有様ですな」
「この後宮は、民の血税を絞り上げて作った、虚飾の宮殿だ。 こうやって戦禍に遭うのは、当然の成り行きであっただろうよ」
もちろん、兵士達の中には、後宮のようなものを、直接的に恨んでいる者も多いだろう。曹操に付き従う何騎かの赤い鎧の精鋭にも、似たような感情を抱いている者がいるようだった。曹操の言葉に対する僅かな仕草からも、それが伺えた。
前から、血だらけの斧を手にぶら下げて、男が歩いてくる。まだ若い。元服したばかりだろうか。その割には肝が据わっていて、使いどころがありそうな男だ。ちょっと抱拳礼がぎこちないが、それでもしっかりした態度である。それに、手にしている斧からも、優れた腕力が伺える。
「曹操様」
「何か」
「皇帝陛下が、宦官共に連れられて、後門から脱出した模様です。 皇甫嵩将軍が、援軍を頼めと」
「おう。 分かった。 すぐに行く」
まだ時々殺戮の音がする後宮を急ぐ。見回すが、どうも趣味ではない。いずれこの国を奪うとしても、その時は自分好みな後宮を作りたいものである。集める女は、曹操に相応しい、頭のいい女だけでいい。
後宮がどれほど漢王朝の財政を圧迫していたか、曹操は全て知っている。何しろ、宦官の孫だからだ。祖父は愚かな男ではなかったが、その職業は愚劣の極みであった。
愚行は繰り返してはならないのである。
大股で、後宮を抜ける。そうすると、血の臭いがしなくなった。点々と散らばっていた死骸も無くなり、代わりに辺りを警戒して歩き回る兵士の姿が目立った。彼らを一瞥しながら、曹操はすぐ後ろにいる楽進に声を掛ける。
「さっきの男、素性を調べておけ」
「は。 後で手配します」
「うむ。 正直な所、戦でまともに使えるのがお前くらいしかいないからな。 今後負担を減らすためにも、優秀な奴は幾らでも必要だ」
後門に出る。
騒ぎが、周囲で起こっていた。
「ふむ、どうやら何か起こったな」
「気を緩められぬように」
「分かっておる」
騒ぎの様子からして、ろくでもないことが起こったのは確実だ。曹操としても、気を抜くつもりはない。
袁紹を見つけた。蒼白になっている。おろおろするばかりで、側にいる大柄な護衛もどうして良いのか分からないようだった。
「本初!」
「おお、孟徳か」
二人は若い頃からの親友である。と、少なくとも袁紹は思っているらしい。だから、呼びかけは字で行う。困り切っていた様子の袁紹は、外をちらちら見ながら、言う。
「大変なことになったぞ」
「見れば分かる」
「あ、ああ。 実はな。 董卓が、洛陽の外に、陣を張っているらしい。 外に出た盧植将軍が陣を今組んでいる所だ。 下手をすると、戦になるかも知れん」
「ほう」
予想内の出来事だ。少し前に、ルーから董卓が軍を動かし、自らも出陣したという報告は受けていた。奴の部隊は選りすぐった騎馬ばかりで、規模は三千。もちろん洛陽を落とすには不可能な数だが、この機に乗じれば。
そして、皇帝を巧く抑えることが出来れば。
止めるつもりはない。董卓に、朝政を回せる訳がないからだ。大混乱に落ちれば、それこそ曹操には好都合。天下を奪うのは、更に容易となる。
騒ぎが、ひときわ大きくなる。曹操は楽進を促して、後門に出た。袁紹が、慌てて着いてくる。
外に出ると、松明をかざした一団が、しずしずと向かってくる所だった。
先頭の集団は、どうやら北方の騎馬民族で構成されているらしい。体格的にも優れていて、鎧兜にも漢の官軍とは違う意匠が施されている。そして馬の左右には、無念そうな表情を浮かべた、宦官の首がぶら下がっていた。この様子だと、皇帝を擁して脱走した宦官どもは、皆殺しだろう。
そして彼らのすぐ後ろ。皇帝が、車に乗せられて、運ばれてくる。怯えきった表情で左右を見回しているまだ幼い皇帝を足下に置いて、傲然で車の上でふんぞり返っているのは、董卓だ。驚くべき事に、その少し後ろには、宦官らしい男が一人、馬上で平然として付き従っている。見たこともない宦官だ。十常侍ではない。何太后はどうした。探していると、いた。かなり後ろの方の車で、真っ青になっている。多分、宦官達が言っていた事と、全く違う事態になったからだろう。
愚かな女だと、曹操は思った。宮中の権力争いなど、この漢で行われてきた血みどろの闘争の、ほんの一部に過ぎないのに。それを全てだと錯覚したから、このようなことになった。
頼るべき相手を、間違えたのだ。
おそらくあの女の命は、もう長くはないだろうなと、曹操は思った。
「控えい! 皇帝陛下の御前であるぞ!」
董卓の車の近くにいる、大柄な士官が声を張り上げる。あの容姿、情報にある徐栄だろう。側には名だたる武人が顔を揃えており、余程の戦力でも突破は難しいことを伺わせた。兵士達がしぶしぶ地面に這い蹲って頭を下げる中を、董卓の車は通りすぎていく。
そして、宮廷に入っていった。
もはや、葬儀どころではなかった。
だから、死骸を、せめて自分と腹心だけで、葬ることにした。
袁紹は、何進の墓の前で。呆けたように立ちつくしていた。質素な仮葬儀を主導した所までは気力も続いたのだが。それも終わると、すっかり魂が抜けてしまったかのようだった。
肩を叩かれたので振り返ると、曹操だった。
「それが、大将軍の墓か」
「質素であろう。 哀れなほどに」
そう。小さな墓だ。地方の貧しい豪族の墓と、見間違えてしまうような、土盛り。それが、何進の、末路だった。近く彼の妹も、此処に入ることになるだろうと、袁紹は恨みを込めて予想していた。
参拝客も、殆どいない。袁紹は、それが悔しかった。何進に世話になっていた者達の殆どが、今は右往左往するか、董卓に媚びを売りに行っている。憤然として自宅に引きこもった盧植や、悔しいながらも将軍としての責務を果たそうとしている朱儁と皇甫嵩。それに、腹心だった丁原くらいしか、此処には来ていなかった。
いや、今。別の者達が来た。
本来だったら無礼だとされることなのだろうが、この粗末な墓である。誰も咎めない。
そこそこに立派な見かけの、耳が長い男。その後ろには、如何にも強そうな巨漢が二人。そして、冴えない男が二人従っていた。一人は農民のようで、もう一人はばくち打ちのような風情である。
「此処が、何進大将軍の墓ですか」
「貴殿は」
「はい。 現在は公孫賛将軍の下で傭兵をしている、劉備と申します」
「ほう、貴殿が。 盧植将軍の下で、黄巾党と鬼神のように戦ったという話、聞いているぞ」
「恐縮です」
袁紹に代わって、曹操がそう言った。袁紹はそれに何か言う気力もなかったので、参拝を無言で許す。
墓を皆で丁寧に掃除して、水を撒いて。そして備えをする。見事な統率で、まるで隙がなかった。一通り作業が終わると、劉備は、呆けている袁紹に言う。
「私はもう洛陽から主君とともに帰る所なのですが、何進将軍とは、どういう御方だったのですか?」
袁紹は、ぼそぼそと応える。今はもう、劉備だろうが誰だろうが、吐き出したい気分だった。
袁紹は、この人が如何に愚かであっても、嫌いではなかったのだ。
善良な人だった。運が悪く、こんな所に腰を据えてしまった。だから、首を失うことになった。
劉備は話を聞き終えると、頷きながら言う。
「なるほど。 この人にとって、食は信仰だったのでしょう」
「……なるほど、それは確かにそうかも知れぬ」
言われてみれば、確かに合点がいく。
誰もが共通していると思いこみ、それで世界が平和になると錯覚していた。そう。何進にとって、己の舌が主人であり、食は神だったのだろう。
だが、何進の信じる神を、誰もが支持しなかった。思想もである。だから、何進の心は、何処にも届かなかったのだ。
「世間では愚かだと言われているようですが、私はそうは思いません。 むしろ、気の毒な人だったのでしょうね」
「……劉備とか言ったか。 貴殿の名、覚えておこう」
「恐縮です」
劉備は、一礼すると、その場を去っていった。
そして、二度と、客が墓に訪れることはなかった。
ふと、顔を上げた袁紹が、何進の家に入っていく。曹操はにやにやしながら着いてきた。
「どうした」
「せめて、何進大将軍が残した、食への情報だけでも、儂の手で保存しておこうと思ってな」
「ふむ。 確かに歴史を動かすことはなかったが、貴重な文献には違いない」
「そうだ。 平和で、皆が豊かになった世が来た時には。 何進将軍の理想が、形になるかも知れぬからな」
曹操は、最後まで、袁紹に対して、醒めた言葉を投げ続けていた。袁紹はそれに気付きながらも、敢えて心にて耳を塞いでいた。
洛陽からの帰り道。陳到は、劉備に話し掛けていた。辺りは乾ききった路が延々と続いており、貧しい田畑の側には、うつろな目をした農民達が転がっている。もう、この国は駄目だと、一目で分かる光景だ。
「劉備将軍。 どうでしたか、何進という人の話は」
「そうだな。 歴史の中ではただの愚か者として斬り捨てられる人物だろう。 だが、何だか悲しい男に、私からは見えたな」
「そうですか。 俺達からすれば、血税で豪華な食事をして、それに気付いていないと言うだけで、許し難い輩ですが」
「そういうな、陳到。 確かにその点では許し難いが、悪気はなかっただろうし、わざとでもなかったんだろう」
そう劉備は言うが、やはり許せるものではない。
確かに、皆が美味しいものを食べていれば、世界は平和になるかも知れない。
しかしそんな美味しいものが、皆に行き渡る訳がない。何進が美味しいものを食べている側では、その何百倍もの貧しい民が飢餓に苦しんでいたのだ。現実認識の甘さがもたらす、愚かな思想と、それの信奉者。
そんなものは、劉備がなんといおうと、許せる訳がなかった。
陳到は今回、公孫賛と劉備と供に都へ上がって、宮中を見た。血税でこんなものを作って、連日くだらない政治闘争を繰り広げていたかと思うと、反吐が出た。何進は許せないし、宦官共も不愉快だ。
外戚筆頭の何進が死に、宦官が全滅したことで、この漢は中枢が空白になった。今は洛陽に残るか、故郷に戻るかで、皆が揉めているらしい。そんな中で、いち早く故郷に戻るように、劉備は公孫賛に進言し、受け入れられたのだ。
理由はよく分からない。だが、あのような所にいたら、きっと頭がおかしくなるだろうと、陳到は思った。
話を変える。そう言えば、身近でめでたい話があったのだ。
「そういえば、甘が女になったと聞きました。 そろそろ娶ってやってはどうですか」
「いや、もう少し待つ。 今妻を持つと面倒だからな。 正室に、しかるべき妻を迎えてからだ」
「貴方は慈悲深いようでいて、そう冷静な計算も働くのですな」
「この時代を生きるには、必須のことだ。 甘にも、それは言い含めてある」
劉備は、顔色も変えなかった。
それが冷酷なのか、強さなのか。陳到には、判断できなかった。
「そうだ、陳到。 一つ、言っておく」
「何でしょうか」
「洛陽は恐らく、近々灰燼と帰す。 その時、更に天下は乱れるだろう」
息を呑む陳到から視線を逸らすと、劉備は更に帰路を急ぐように、周囲に命じた。
地平の果てに、無限の荒野が広がっている。民の怨嗟を、吸い尽くすかのような光景だった。
(続)
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