まき散らされる蛍火
序、種まき
外では灯りが焚かれ、昼のように明るくなっている。大勢の黄巾党信者に酒と肉が振る舞われ、まるで宴会のように賑やかであった。
部下の一人にその場を任せると。兄張宝と共に、今や黄巾党の新しい指導者となった張梁は。自室に戻ってきて、さながら抜け殻の蛹がごとくに天井を見つめていた。もう、喧噪など耳には入っていない。全身が綿のようであった。
兄である張角の正式な葬儀を行ってしまうと、どっと疲れが襲ってきたのだ。いつの間にか、張梁は椅子に崩れ伏していた。
辺りには、兄の痕跡がある。張宝と一緒に泣きながら読んだ、兄の遺書。無数に積まれた、竹簡の束だ。
ずっと前に死んでいたというのに。それでも、たくさん残してくれた竹簡に描かれていた文字の全てが、兄の人格となって。張梁を支えてくれていた。それなのに。盛大な葬儀が終わると、それが空に溶けて消えてしまうかのようだった。
お前には、人を率いる才能がない。そう兄には言われた。宝も同じように言われていたから、兄が特別だったのだろう。こんな短時間で、この漢王朝を揺るがす巨大組織を作り上げた、天才。だがあまりにも時間が足りなかった。もちろん時流に乗ったということもあったが。兄は、紛れもなく、英雄の一人だったのだ。
闇に落ちる覚悟は決めておけと言われていた。感情を捨てるように努力もしてきていた。だが。親代わりだった兄がいなくなった空白感は、どうしても埋めようがないものだったのだ。
「兄者……!」
拳で、机を叩く。涙が溢れてきた。何度も叩く。涙は、止まらなかった。
いい年の男が情けない。そう兄に怒鳴って欲しかったが。しかし、どうにもならなかった。
一晩は、あっという間に過ぎた。
夜がいつの間にか明けていて。外では、騒ぎが起こっていた。顔を洗って、鎧を身につけて。外に出ると、黄色い巾で髪を束ねた部下が、駆け寄ってくる所だった。
「人公将軍!」
「何事か」
「は! 各地からの急報です! 官軍が、一斉に反撃に出ました!」
それは、そうだろう。これほどの好機は他にないと、自分が無能だと理解している張梁でさえ、一目で分かるほどなのだ。もちろんこれの対応策も、兄が緻密な策として残してくれていた。
「やはり、そう来たか」
「前線からは、救援要請が来ております。 既に連絡が取れなくなっている所も、少なくありません」
「うろたえるな。 大賢良師様は、この事態も予測しておられた」
その事態に対するべく描かれた竹簡は、七束にも及んでいた。もちろん張宝と共に、徹底的に目を通して、内容は把握してある。
生き残った信者には、黄色い巾を捨てさせる。そして、各地の村に紛れ込ませる。
追及が厳しそうな場所に関しては、全員で離散する。目指すのは二カ所。青州と、それに漢中だ。青州は言うまでもない。もう住民の殆ど全てが黄巾党とも言って良い場所であり、余程のことがない限り充分に身を隠せる。
そして、漢中だ。
漢中とは、漢王朝の中枢部である洛陽から、遙か西に行った土地。漢王朝の最辺境である涼州の、南。かの高祖劉邦が兵を起こした、蜀の北にある、山深い土地である。しかし土地は豊かで、しかも周囲に対する天然の要塞となっている。
此処は、五斗米道と呼ばれる宗教団体が闊歩する、一種の独立国家と化しているのだ。それ以外にも、漢王朝に抵抗する少数民族が多数おり、身を隠すにはうってつけの場所なのである。
「勝ち目が無さそうな戦線では、即座に非戦闘員に黄色い巾をとかせろ。 我らの目的は漢王朝を倒すことだ。 信者を死なせることではない」
「は、はい」
「そして、確保できそうにない食糧には、全てに火をかけろ。 官軍にくれてやることもない」
そしてそれは、何も自分が持っている食料だけが対象となるのではない。
近隣の村々の中で、黄巾党に協力的ではなかったり、反抗的な態度を取っていた村全ての備蓄が、対象となる。
実行には、一般信者を使わず、兄が手塩に掛けて育て上げた特務部隊を用いる。
これらの作戦により、官軍は兵糧を枯渇し、民はますます飢える。更に言えば、それで宦官共が賄賂の受け取りを控える訳でもないので、彼らの破滅は約束される。この後訪れるであろう乱世を、拡大するには充分である。
既に瀕死である漢王朝に、これでとどめが差されると言っても良い。
せめて自分の手で宦官共を皆殺しにし、外戚どもを八つ裂きにし、皇帝の喉を食い破ってやりたかった。だが、それはもう不可能だろう。各地で官軍は勢いを強めているし、作戦上やむを得なかったとはいえ、民衆は黄巾党に敵意を抱き始めてもいる。もはや、此方に勝ち目はないのだ。
「妻子がいるものは、早めに非難させよ。 我らの味方となっている者達から、早めに通行証の類は用意させる」
「人公将軍!」
「情けない声を出すな。 情けないことだが、正直な話、俺ではこれさえも思いついたかどうか。 感謝するのなら、大賢良師様にしてくれ」
部下達が散る。
家を出ると、葬式の後を片付ける者達を横目に、剣をはいて陣に出る。小高い丘に作られている櫓に登って、戦況を確認。
官軍と、味方が争っている。もう、敵は此処まで来ているのだ。
董卓はどうにでもなる相手だったが、朱儁と皇甫嵩は違う。兵士達もそれを理解して、一気に押し込むつもり満々だった。
ぼんやりと、じわじわ押し込んでくる敵を見つめる。
もう、自分の役割は終わったのだ。そう思うと、気分も、幾らかは楽になるのだった。
1、泥沼の戦い
指揮官が替わって、待遇が悪くなった。それを感じながらも、陳到は今日も前線に出る。支給された槍は既に三回も折れており、そのたびに敵から強奪したものに持ち替えた。今使っているのも、敵将が使っていた朱塗りのものである。馬上で、何度か振るって感触を確認。まだしばらくは使えそうだ。
鎧に触れてみる。かなり痛んできているが、まだ使える。昨日の小競り合いでも一太刀貰ったが、まだどうにかなるだろう。部下達の様子を確認。皆、目ばかりがぎらついていて、満足しているようには見えなかった。
1500ほどの義勇兵達は、あまり食事をしていない。これも待遇が悪化した部分の一つである。董卓とかいう新しい指揮官は、兵士達の食料を横流しして、それで宦官に賄賂を送っているとか言う噂もある。恐らく、それはひがみでも憶測でもなく、事実であろう。陳到は、何度も見た。宦官の使者らしき者が、何度も董卓の陣へ入っていくのを、である。
喉を食い破ってやりたい相手だ。
気付くと、すぐ側に張飛がいた。虎髭のこの大男も、やはり宦官は大嫌いらしい。
「陳到。 よそ見ばかりしていると、死ぬぞ」
「分かっています」
軍はくさび形の陣形を保ったまま、じわじわと進んでいる。官軍は既に敵本隊と接触し、押し返されている様子だ。此処は黄巾党の本拠地であり、敵も精鋭が揃っている。簡単に勝てる相手ではないのに。賄賂を渡すという理由だけで、董卓を抜擢した宦官共は、本当に許し難い屑どもである。
伝令が飛んできた。国譲である。ちょっとぶかぶかの兜を被っている少年は、張飛を見ると無邪気に手を振る。張飛もまんざらではない様子で、虎か何かのように、獰猛に笑って手を振り返す。
「おう、どうした」
「劉備将軍からのご連絡です!」
実際に劉備は将軍などではないが、しかし此処ではそう呼ぶのが通例となっている。義勇兵達も、誰もがそうしていた。
「進軍の方向を変えろと言うことです。 陣形も、代えた方が良いと」
「何だと、どういう事だ!」
張飛は劉備の側にいる時こそ寡黙だが、余所ではだみ声を張り上げて、まるで虎のように吠え猛る。その上乱暴なので、兵士達にはとても恐れられているが、国譲は平気な様子だ。
「大体予想は付くな」
「あん? どういう事だ、陳到!」
「この辺りは、狭隘な地形です。 もし官軍がこのまま押し返されてきた場合、我らも思いきり巻き込まれる事になるでしょう」
それよりは、一旦進軍の方向を変えて、敵の出鼻をくじくか、土手っ腹に穴を開けてやった方がいい。そう告げながら、進軍方向を変えるべく、兵士達に呼びかける。舌打ちしながらも、張飛もそれに従った。
何だか、いつの間にか。張飛の抑え役は、陳到に任されている風がある。それはそれで光栄な事だ。何度か一緒に戦って、この男が歴史に名を残すような猛将であることは、充分に理解できたからである。
くさび形の陣は、あまり早いとは言えないが、それでも進軍用の長蛇陣に代わり、さっと脇道に逸れる。崖同然の路を這い上がって、その上にある小さな森に伏兵した。劉備の率いる本隊約500は既にそこに潜んでいて、関羽と簡雍も其処にいた。張飛が最前列に、陳到はその後ろにつく。
しばし、息を殺して待ち伏せる。義勇兵達も慣れたもので、誰も声一つあげない。馬には布を噛ませており、嘶かないように工夫はしてある。しばし静かにしている内に、陳到は劉備、もしくは関羽が予想した通りになった事に気付いた。
官軍が、陣形を崩して、押し返されてくる。逃げ散る官軍は戦意が無く、中には武器や鎧まで投げ捨てて逃げている者までいた。矢が飛んでくる。真っ黒になって押し込んでくるのは、黄巾党軍。鎧も武具も官軍に比べると粗末だが、しかし戦意は高く、圧倒的な戦況であった。
「ふん、董卓の野郎。 盧植先生が育てた部隊を、ゴミみたいなへぼ軍隊に変えちまいやがった」
「……」
誰も、張飛の発言を咎めない。陳到も、咎める気はしなかった。
押される官軍は、指揮官までもが交戦を諦めて、逃げ始めている。それに比べて、黄巾党は一兵卒までもが鬼のような形相で、泡を吹きながら武具を振るっていた。中には致命傷を明らかに受けているにもかかわらず、悪鬼のようになって武具を振り回しているものまでいる。
なるほど、これでは勝てない訳である。
黄巾党の者達は、信仰に命を捧げている。狂信は時に、命を超越した力を生み出すものなのだ。それに対して、少なくとも歩兵戦では無能な董卓に率いられた兵士達は、どうであろうか。信頼する指揮官である盧植将軍を失い、今は圧倒的な大軍に、無能な指揮で立ち向かわなければならないのだ。
烏合の衆になるのも、当然である。
劉備が、右手を挙げる。義勇軍全部隊に、さざ波のように戦意が響き渡った。劉備を中心にして、静かで、だが熱い高揚が広がっていく。仮にまだ若くとも、経験が小さくとも。劉備は指揮官として、少なくとも董卓よりは勝っている。
陳到は合図の意図を理解して頷くと、声を張り上げた。
「総員、攻撃準備!」
「シャアッ!」
兵士達が、応える。そして、劉備が、右手を振り下ろした。
「かかれええっ!」
声が、とどろく。同時に、愛馬に鞭を入れた張飛が、先頭に立って疾駆し始めた。十騎ほどの騎兵がそれに続き、土煙を上げながら歩兵部隊が後を追う。騎兵の最後尾についた陳到は、歩兵達と速度を合わせながら、槍を構えた。
張飛が、巨大な矛を振り上げる。穂先が少しうねっているそれは、蛇矛と呼ばれている。鍛冶の技術で作ったのではなく、偶然に出来たものらしい。うねった刃先は殺傷力が高く、まるで獲物を求める蛇の牙のように、陽光を反射して、ぎらぎらと輝いていた。
黄巾党軍が、突入してくる張飛隊に気付く。しかし、対応をするべく陣形を整える前に、張飛を先頭とした荒くれ達が突入を果たしていた。
張飛が振るう矛が、当たるを幸いに、敵をなぎ払う。文字通り、敵がゴミのように吹き飛び、引きちぎられ、血しぶきの嵐を巻き起こす。それに続いて突入した陳到は、部下達を散開させつつ、冷静に張飛の後を追った。張飛が深追いしすぎないように、戒めるのが陳到の仕事だ。
馬上で槍を繰りだし、浮き足立っている敵兵の喉を突く。いきなり形勢が逆転した上に、まるで朱に染まった魔神のような張飛の猛威を見て、やはり敵は動揺している。其処に、劉備の指揮する本隊が突っ込む。官軍は逃げ腰になっていたが、暴れ狂う張飛と、遅れて突っ込んできた関羽を見て、ようやく態勢を立て直し、反撃に移った。
「シャアッ!」
叫びと共に、張飛が敵の中隊長を、矛で串刺しにする。ようやく追いついた陳到は、大声で、だが冷静に叫びかける。
「張飛殿! 右へ転進を!」
「おうっ! そうだったな!」
叫びながら、また一人敵兵を突き伏せる。官軍から奪ったらしい高級な鎧を着込んだ男だったが、喉を突かれればひとたまりもない。最初は、こうも簡単にはいかなかった。だが小競り合いで槍の使い方を磨いていく内に、いつの間にか躊躇無く出来るようになっていた。
人殺しとしての天性の才能が、陳到には備わっていたのかも知れない。
勢いに任せて無秩序に突入してくる官軍を避けるように、義勇軍は一つの楔となって、混乱する敵軍を右に突破。猛烈な突進力を見せる張飛は、陳到の呼びかけで己を制御しつつ、右へ左へ敵をなぎ払った。蛇矛が唸りを上げる度に腕が、頭が、血しぶきとともに吹っ飛ぶ。恐ろしい豪傑もいたものである。
やがて、先頭の騎兵達が敵を突破する。歩兵達がそれに続き、張飛が敵をかき回している内に、突破を果たした。最後には、張飛は陳到と共に、最後尾になっていた。関羽が、青龍円月刀と呼ばれる、巨大な長刀を振り回しながら、突破口を開いてくれる。最初に陳到が、最後に張飛が出てきた。
流石の張飛も、乱戦の中で数度の斬撃を浴びていたらしく、鎧に何カ所か傷が入っていた。二十人以上は斬り伏せたであろう張飛にも、限界はあると言うことである。関羽は鎧の肩当てに矢を受けていたが、これは肌に浅く刺さっただけのようで、すぐに抜けた。
官軍が、黄巾党軍を押し返していく。騎馬兵団が出てくると優劣は決定的になり、黄巾党軍は結局勝ちを帳消しにされて、陣に引き上げていった。それを見届けると、劉備は義勇軍兵士達に呼びかける。
「今回も、見事だった。 恐らく董卓将軍は我らの活躍を評価はしないだろう。 だが諸君の働きは、この劉備が覚えている!」
剣を槍を振り上げて、義勇軍の同志達が雄叫びを上げた。
董卓の指揮が拙劣だったこともある。事実、何度も勝ちを拾っていることもある。だが、此処まで一言で兵士達を高揚させるのは、劉備が特殊な才能を持っているからに他ならないだろう。
敵が引き上げていくのを確認すると、落ちている死骸や、転がっている槍を調べに掛かる。使えそうなものはそのまま使うし、修繕すれば使えるものも、やはり再利用するのだ。正規軍が遠巻きに見ている中、義勇兵達は黄巾党軍の死骸から、鎧を剥ぎ、武具を奪う。敵兵にはまだ幼さを残した子供も少なくはない。それが、陳到に、この現実が如何に醜悪かを告げる。
折れた刃を踏まないように気をつけて歩きながら、荷駄隊に収穫した武具を渡す。使えそうなものは、ちょっと洗ってすぐに支給。刃が欠けていたり、修繕が必要なものに関しては、荷駄隊に処置は任せる。殆どはそのまま売り払い、使えそうなものは修繕して持ってくるのだ。
義勇兵には、不揃いながらも、それでどうにか武具が行き渡る。新人以外は無為に武具を壊してしまうこともないので、どうにか戦が成り立つ。問題は鎧だ。陳到のような中級指揮官でも、新品の鎧は行き渡らないのである。中には、ほとんど普段着同然の格好で、戦っている者も散見される。穴が空いたり、裂けている鎧など、珍しくもない。
死骸からの略奪が終わった後は、葬るだけだ。裸になった血だらけの死骸を平原の隅に運んでいって、埋葬する。数は敵味方を併せて、千を超えている。劉備軍が倒したのはそのうち500ほどであり、200程度は官軍の死骸だ。更に言えば、黄巾党の陣近くにある官軍兵士の死骸は危なくて手が出せないので、その辺りに放っておいてある。いずれ、敵の陣を落とした時に。腐敗したそれらの死骸を、埋葬する事になるだろう。
張飛は、馬上でそれをじっと見ている。陳到も最初は手伝っていたのだが、今は指揮だけをするようにと言われている。一度、黄巾党軍が不意に反撃してきて、それなりの被害を出したことがあったのだ。
「なあ、陳到」
「なんでしょうか」
「分からなくなる事がある。 一体この戦いは、誰が正義で、悪なんだ? 俺達も殺さなければ殺されるし、死体から武具をかっぱがなければ生きていけん。 しかし、それは敵も同じなんだよな」
戦いに、正しいも、間違っているもない。
そんな純粋な問いに、無粋な答えをしても仕方がない。だから、陳到は応える。
「それよりも、張飛殿は、どうして戦おうと思ったのですか」
「世の乱れを、ただしたいと思ったからだ」
即答であった。この粗暴な豪傑が、じつはとても正義感の強い人物だと言うことは、接していれば分かることだ。現実主義者で静かな鉄壁を思わせる関羽とは、その辺りが違っている。
「それならば、黄巾党を倒すまで、戦うしかないでしょう」
「ああ、そうだな。 迷いを呼ぶようなことを言ってすまねえ」
「いいんですよ。 私も、境遇は似たようなものですから」
張飛は、不思議な男だ。
劉備が義勇軍を立ち上げた時から、関羽と張飛、それに簡雍は従っていると言う。どういう経緯から、彼らが集まったのかはよく分からない。ただ、雰囲気的に、どうもただものではなさそうである。
高貴な血筋がどうのこうのというのではない。関羽は塩の密売をしていた雰囲気があるし、張飛は多分どこかの食客(技能を生かして、主君に雇われる者)だったのだろう。劉備は恐らく田舎豪族の出身か。というのも、最低限の礼儀作法を身につけている雰囲気があるからだ。そして、様子からして、簡雍は恐らくは劉備の親族だ。
そんなあくの強い集団が、今此処冀州での戦闘で、戦の中枢を握っている。少し前までは盧植将軍がしっかり戦況を管理していたのだが、今ではこの有様だ。
夕刻になると、義勇兵は引き上げる。その頃には、戦場からすっかり死骸が消えてなくなっていた。
董卓からの使者が来たのも、その頃であった。申し訳程度に支給された食料を見ても、劉備は何も言わずに、笑顔で頭を下げていた。歯がゆくないと言えば嘘になる。しかし此処で官軍に逆らうのは得策ではないのだ。
ただ、良いこともある。
黄巾党軍の増加は、今停止していることが、報告で分かっている。どうやら徐々に負けつつあることが、民衆にも伝わっているらしい。それに関羽の見たところ、非戦闘員を青州に逃がしている節があるという。
また、各地で黄巾党軍を撃破し続けていた皇甫嵩将軍の精鋭が、此方に向かっているという話もある。董卓は歩兵戦ではまるで話にならない指揮官だが、逆に皇甫嵩は盧植に勝るとも劣らない名将であり、一気に敵の残党を蹴散らせる可能性もある。
夕刻になっても、兵士達は血を浴びた興奮を覚ましきれず、大きな声を挙げて騒いでいた。別に止める気もないので、陳到は彼らの様子を見ながら、支援部隊にいる妻の事を考えていた。
我が儘で欲深な女だが。
やはり、離れると寂しいものであった。
早朝。与えられている粗末な天幕にて陳到が目を覚ますと、国譲の気配があった。体を起こして剣を掴むと、小さな声で呼びかけてくる。
「陳到さん、劉備将軍がお呼びです」
「ああ、すぐ行く」
こうやって朝からたたき起こされる時は、大体何かしら重要なことが起こっている。側にある水桶で顔を洗うと、陳到は粗末な鎧を身につけて、天幕へと急いだ。僅かな見張り以外は、皆白河夜船である。夜通し騒いでいたような愚か者はいないが、何時眠れるか分からない状況なのだ。兵士達を起こしてしまうのは気の毒に過ぎる。だから、息を殺して、出来るだけ足音を小さくして、急ぐ。
天幕には、官軍の兵士らしい屈強な男が数人いて、周囲に目を光らせていた。一人はかなり若い。手に白い戦斧を持っていて、寡黙な雰囲気がある。これは相当な豪傑だなと、陳到は思ったが、敢えて黙ってそのままにしていた。
天幕にはいる。
中には、如何にも高級そうな鎧を着た男が、劉備と向かい合い、話をしている所だった。陳到に遅れて、張飛が天幕に入ってくる。簡雍が最後だった。劉備が皆の顔を見回すと、座るように促す。
「揃ったな。 皇甫嵩将軍、此奴らが、我が義勇軍の指揮官達です」
「なるほどな。 董卓軍のふぬけた指揮官達よりも、遙かに使えそうだ」
なんと。まさか、噂の皇甫嵩将軍が、直接義勇軍の陣地に足を運ぶとは。流石に驚いた陳到は、抱拳礼をしたが、良いと言われてちょっと肩身狭く着席する。宦官や外戚どもは殺しても飽き足らないほど憎んでいる陳到だが、たたき上げの軍人であり、各地で戦果を上げている皇甫嵩に対する憎悪はない。むしろ、経歴に相応しい尊敬がきちんとある。
皇甫嵩は六十少し前くらいだろうか。少し老いで体ががたついてきているようだが、それでも均衡が取れた肉体に贅肉はなく、鎧もあまり重そうではない。眼光も鋭く、真実を見極めようと、常に辺りを見回している雰囲気があった。
漢王朝に対する不満を持ちながらも、黙々と任務をこなしてきた、男。そう、陳到はこの将軍を値踏みした。
「わざわざ足を運ばせて貰ったのは、他でもない。 戦況を一気に打開するためだ」
「奇襲、ですか?」
ほとんど、劉備が即答する。
劉備が凄いというのではない。陳到も同じくらいのことは考えていた。このまま原野で消耗戦をしていても、永遠に決着がつかない。此処でもたもたしていると、各地で黄巾党が勢力を盛り返す可能性も高い。
だから、危険を承知で、奇襲を仕掛ける意味がある。
「話が早くて助かる。 敵の守りは強固で、正面から攻撃していても埒があかん。 ましてや董卓将軍は、騎馬を率いての戦いなら見るべき所があるが、歩兵が主力になる原野戦では使い物にならん」
「なるほど。 それで、我らに」
「君たちの戦いぶりは、既に見せて貰った。 充分に官軍の精鋭部隊と言っても通用するほどのものだ。 君はあの盧植先生の下で学んだと聞いているが、大したものだ。 豪傑達を、手足のように使いこなしているではないか」
「いや、お恥ずかしい。 じつは先生の所では悪さばかりしていて、公孫賛の兄貴と一緒に、怒られてばかりでした。 事実、此処に駆けつけた時も、先生は苦虫をかみつぶしたような顔をしておられましたし」
「ははは、そうか!」
劉備の応えに、場が和む。皇甫嵩が連れてきている兵士達も、劉備の応えに、頬を緩ませていた。
多分これは計算尽くだなと、陳到は思う。皇甫嵩もそれを理解しているのだろう。だがそれでも、笑わせるだけのものが、劉備の答えにはあったと言うことだ。
実際、盧植軍は義勇軍を特別扱いしなかった。かといって、粗末にも扱わなかった。二人の微妙な距離感と空気が、陳到にはよく分かる。多分、悪たれがそこそこ立派になって帰ってきた、くらいにしか、盧植は考えていなかったのだろう。
「それで、奇襲についてですが」
「うむ。 董卓将軍の部隊には、正面に展開して、陽動をして貰う」
さっと、皇甫嵩の老いた指が、地図の上を走る。現在、黄巾党が籠城している幾つかの砦を抜けて、敵の本拠地の上で、指が止まった。
「それは、危険ではありませんか」
「奇襲は、二班に分ける。 まず私の率いる2000が、敵の本拠地を叩く。 僅かに時間差を付けて、君たちの率いる部隊が、この砦を落として欲しい」
指が滑る。止まった先の砦は、前線と本拠地をつなぐものであった。つまり、である。董卓の攻撃で敵を引きつけている間に、本拠地を叩く。そして、反転してきた相手を、義勇軍が迎え撃つ、という訳だ。
「しかし、敵は最低でも八万はいます。 董卓軍に対する迎撃に五万が出るとして、合計三千五百程度で、何処までやれますか」
「その辺は心配ない。 州刺史が、我らの攻撃に遭わせて、三万の部隊をぶつけてくれる手はずになっている」
「つまり、斬り込みさえすれば、後が続くという訳ですね」
「そう言うことだ」
流石皇甫嵩。隙のない軍略であった。それに比べて、愚直な突撃を繰り返した董卓は、何と粗が目立つことか。騎兵を率いての戦いなら良いのだろうが、あまりにも不適所過ぎる。
「行動は、今夜からだ。 昼過ぎから夜まで、董卓軍が正面攻撃を開始する。 我らは、早朝に奇襲を仕掛ける」
「は。 しかし、大丈夫でしょうか。 あの董卓が、まともに動きますでしょうか。 しかも、宦官の指示無しに」
「その辺りは問題ない。 こんな時のためにに、宦官どもの弱みを四人分ほど既に握ってある。 連中から圧力を掛けさせる」
「なるほど、宦官と鋏も使いようと言う訳ですな」
美味いだじゃれを言う劉備に、また場が和む。
皇甫嵩が引き上げると、関羽と張飛が、さっと劉備に顔を寄せた。劉備も、別人のように鋭い表情になる。
「兄貴、捨て石にされる可能性は」
「見たところ、危険はないだろう。 ただ、いざというときに備えて、いつでも脱出できる準備はしておかなければならないな」
「そうだな。 他の官軍将軍よりは信用できるようだが、正直な話、背中を預ける気にはなれん」
陳到は席を外そうかと申し出たが、其処に座っているようにと、劉備に言われる。簡雍は小さく欠伸をしていた。相変わらず、鉄のような胆の持ち主である。単に図太いだけかも知れないが。
「敵に攻撃の時間を悟らせないためにも、早めに炊事はしておいた方が良さそうだ」
「典型的な夜襲になりますからな。 それに、早めに偵察をしておいた方がよいでしょうな」
「良し、俺が行ってくる。 陳到、疲れてる所悪いな。 行けるか」
「何とか」
やはり、偵察に出ると言い出した張飛を、抑える役となった。救いなのは、張飛が、自分に手綱が必要だと理解していることだろうか。偵察だから、馬は使わない。徒歩で、敵陣の方へ行く。しかも、昼までには帰らないと危険だ。董卓軍が、性懲りもなく攻撃を開始するため、黄巾党軍が一斉に出てくるからである。発見される可能性が、極めて高くなる。
二人とも鎧を脱いで、一般人の服装になる。一応念のために、黄色い巾も持ち出す。発見されそうになった時、時間稼ぎを目的として巻くためだ。黄巾党軍は文字通りの混成部隊だから、幾らでも言い訳はきく。事実、官軍の細作が、かなりの数潜り込んでいるとも聞いている。
張飛が声を掛けて、義勇軍の中でも精鋭である男が、五人ほど呼び集められた。皆いずれ劣らぬ面構えをしている。素性は聞いていないが、多分侠(一種の無法者。 犯罪組織に近い集団)の出身であったり、人殺しとして追われている者もいるのだろう。その辺りは、陳到と大差のない境遇だと言える。
合流する。平服を着ていても、張飛はずば抜けて大柄で、目立った。そして劉備の前から離れると、途端に饒舌になる。
「さて、てめえら、行くぞ」
「あの辺りに詳しい者がいると心強いですな」
「大丈夫だ。 地元の出身者って点では、俺達もそうだからな」
なるほど、それは心強い。
七人は、人目につかないように陣を離れると、原野を駆けた。
いつの間にか鍛え抜かれていた体だから。あまり、走るのは苦にならなかった。
原野に伏せていた林は、黄巾党の陣へ向かう人間を認めて、顔を上げる。数は七人。二人、かなり強いのが混じっている。特に一人は、相当に準備していかないと、倒すのは無理だろう。
達人を殺す方法はある。それこそ、幾らでもある。
だが、正面から殺すのは難しい。様々な策を使って頭に血を上らせて、戦闘力と判断力を減退させて。そして初見では対処が難しい技をぶつけて。それで、ようやく倒す事が出来る可能性が出てくるのだ。
「母上」
「静かに」
首をすくめたのは、すぐ側に伏せている我が子である。細作としては、今回が初陣となる。
まだ幼いが、既に殺しは経験している。最初は同年代の子供を殺させた。宦官の屋敷に忍び込んで、その養子を仕留めたのだ。内々に囲っていた養子であったらしく、宦官は歯ぎしりしていたが、しかしどうにもならなかったらしい。追及の手は、すぐに止んだ。
それから、徐々に大人へと対象を移していき。充分な経験を積んだ。今回は、大方と呼ばれる、黄巾党の上級指揮官を狙う。此奴を殺すことが出来たら、以降は敵との交戦を視野に入れた、単独任務を入れていくことになる。
そうなれば、立派に一人前だ。
最初に跡継ぎとなる女の子が生まれて良かったと、林は考えている。一応優秀な人材は幾らか確保してあるのだが、それでも何度も子供を産むのは負担が大きい。その上この子は、自分の闇の部分を丸ごと受け継いだかのような、巨大な邪悪を心に秘めている。非常に優秀な細作として、大成するだろう。
そう。あの毛大人が築き上げた組織を、いずれ上回れる程には。
この子に組織を次ぐまでに、生きられるだろうかという不安はある。一体どれほどの敵意と憎悪を身に買い込んでいるか分からない。その上この国では、親の罪は子々孫々までと言う理念がまかり通っており、それで社会を維持してきた。別にそのようなことは林にはどうでも良い。自分自身としては、どんな無惨な死に方をしても覚悟は出来ている。だが、自分の子は、まだ対処能力がない。
だからこそに。一刻も早く、育て上げておかなければならないのだ。
「母上、あいつらを殺すのですか? うずうずします」
「我慢なさい」
目にぎらついた殺意を湛える我が娘の頭を撫でる。この子には、正式な名前がない。最終的には林と襲名する事になるのだが、それまでは記号で呼ばれることになる。今は芙蓉とのみ呼ばれている。
部下達は、芙蓉姫と呼んでいることもあるようだ。
七人がいなくなる。それにしても見事な手際だ。相当に、名の知れた豪傑と、その部下だろう。
今回の依頼主は官軍の皇甫嵩将軍である。目的が林と合致しているから、仕事を受けた。そう。そろそろ、黄巾党には組織的抵抗能力を喪失して貰う必要がある。この時期で黄巾党の乱が収束すれば、調子に乗った宦官と外戚どもは更に権力争いを加速させ、乱を平定した将軍達を罷免し、完全に漢王朝を空中分解させるだろう。
そうなれば。
林の目論み通り。
表向きには、この国の闇で、好き放題にのし上がることが出来る。
そして裏の目論みも。実に容易に、果たせるようになるのだ。
原野の茂みから出て、さっと森の中に移る。幾つかの砦を観察。裸眼で五里離れた砦の中の、大まかな動きを把握する。歩数にして約2000。常人であれば目には移らないだろうが、こちとら鍛え方が違う。
三つめの砦の近くで、目的の人物を発見。どうやら官軍の攻撃を察知して、部下達に指示を飛ばし始めているらしい。ひげ面の小男だった。
「母上、見つけましたか?」
頷くと、自分で探させる。しばし地面に貼り付いて、まるで獲物を狙う大蝦蟇のように砦を見つめていた芙蓉は、やがてにやりと笑う。
「あの小男ですね。 ひげ面です」
「良くできました」
確か名前は程遠志とか言ったか。別にそんな記号はどうでもいい。
目的は殺すこと。出来れば首も確保したいが、今の芙蓉の練度では、それも難しいだろう。
「自分の好きなように、やってみなさい」
「分かりました」
蜥蜴のように這い蹲ると、小刀を咥えて、かさかさと芙蓉は砦に向けて進み始める。闇そのものとなった林は、愛娘の微笑ましい姿を後ろから見つめながら。己も気配を完全に消し、砦へと向かった。
殺すのは、今すぐに、ではない。本日夕刻を見計らって、だ。
砦の側まで来る。そそり立った城壁は高く、かって官軍が整備していなかった頃の痕跡は残っていない。何処も丁寧に整備されて、実戦にも充分耐えられる作りだ。黄巾党は信者の数にものを言わせて、人海戦術でこれをなおしたのだろう。
要所に配置されている兵士達も、油断が少ない。装備こそ劣悪だが、しかし積んでいる戦闘経験の量はかなり多いのだ。官軍との死闘で鍛え上げられた兵士達は、信仰という狂気によって更に力を増している。この砦を抜くのは、容易ではないだろう。皇甫嵩が、奇襲による決着を考えたのも、常識的な判断である。
惜しいのは、黄巾党の指揮官が、董卓と同類の、無能ばかりと言うことだ。いずれ中央を握らせるとしたら、董卓のような愚物が望ましいと林は考えているが。しかしこれから攻略する相手がそんな連中ばかりだと、少し呆れてしまう。
「母上」
「どうしました」
「もう、殺してもいいですか?」
指さす先にあるのは、壁の片隅にある小さな穴。芙蓉の体であれば、此処から砦に潜り込むことも可能だろう。兵士達が入り込むには小さすぎるから、放置されていたという訳だ。
「まだです。 夜明けを待ちなさい」
「えー。 首を切る時のごぎごぎって音、聞きたいのにー」
「我慢するのです。 我慢を覚えないと、いい細作にはなれませんよ」
「……わかりました」
ぷうと頬を膨らませる芙蓉。他の兵士を殺しても良いかと聞かれたので、どうしようかと考え込む。
恐らく、董卓が攻撃を仕掛けてくるまで、まだしばらく時間がある。二人や三人、殺しておいても問題はないが。しかし敵を警戒させてしまっては意味がない。明け方に侵入しづらくなっては、色々と面倒だ。
「それも我慢しなさい」
「えー」
「その代わり、昼くらいになったら始まる小競り合いの中でなら。 何匹殺してもいいですよ」
「わっ! 本当! 母上、大好き!」
声を殺しての会話だし、周囲に気配も漏らしてはいない。
だが、どうしてか、少し気分が良かった。
芙蓉を連れて、一旦砦を離れる。周囲は見て回って、進入路は四カ所見つけてある。早朝なら更に簡単になるだろう。
続々と、砦から敵兵が出てきた。数は8000を越えている。留守部隊は5000という所か。他の砦からも集まってきて、すぐに敵の軍勢は50000を越えた。雑多な装備の黄巾党軍だが、誰一人として死を恐れている者はいない。
官軍が、徐々に接近し始める。今日は、最近めざましい活躍を見せている義勇軍の姿が見えない。
と言うことは。
なるほど、さっきの偵察の連中、官軍にしては強いと思ったら、そう言うことであったか。
ほくそ笑む。これは、ますます楽しくなりそうだ。
官軍と黄巾党の軍が、接近していく。どちらも主力は歩兵。というよりも、騎兵一に対して、歩兵十から二十がいる状況である。それほどにしっかりした編成は、どちらもしていない。
最初は矢を射かけあって、徐々に距離が近付くと、本格的な戦いが始まる。懐剣を抜く芙蓉を戒めて、じっくり戦場へ近付いていく。陣から離れた奴がねらい所だと、芙蓉には教え込んであるが、さっきのような事もある。殺戮衝動が強すぎるこの子は、見ていないとまだまだ危ない。
戦況は、黄巾党軍が有利だ。被害も出しているが、それ以上に官軍を押し込んで、蹴散らしている。左翼部隊が崩れ始めた。だが、今日の官軍は妙に粘り強い。押されながらも、全面崩壊は免れて、きちんと陣形を立て直している。
これは、皇甫嵩将軍の配下が、紛れ込んでいる可能性が高い。中級指揮官から何人か優秀なのを見繕って、混ぜ込んでいるのだろう。
官軍の中で、大斧を振るって、馬上で暴れ回っているのが一人居る。右に左に血しぶきをまき散らし、さながら鬼神のように。だが吠えることもなく、ただ淡々と静かに暴れ、そして囲まれそうになることもなく。進んでは引き、引いては進んでいる。これは、相当に出来る奴だ。鋭い戦術眼を持ち合わせていて、きちんと退路を確保しながら戦っている事になる。
後で調べておこうと、林は思った。
やがて、どさくさに紛れて、官軍右翼部隊の一部が敵を迂回し、側面から斜め後ろで要撃した。出鼻をくじかれた黄巾党軍は少なからず混乱して、陣形が乱れる。かといって、董卓の率いる主力は押され放題であり、反撃どころではなく、ようやく陣形を整えるのがやっとであった。
これでは、皇甫嵩が嘆くだろう。
結局、互いに鋭い動きはしているものの、決め手は欠く情けない戦いがしばらく続いて、ようやく夕刻前に一段落した。小競り合いしながらも両軍が後退し、徐々に距離を置いていく。
途中、芙蓉が、陣を離れた黄巾党の兵を五人ほど仕留めた。どれも懐剣を投げて、喉を一突きである。点々と散っている死骸は物陰に引きずり込んで、あとは芙蓉が好きなように、林はさせた。
嬉々として死骸を切り刻む芙蓉。好きにさせるのは、人間の構造を覚えさせるためだ。こうやって死骸を切り刻むことで、思わぬ急所の位置を学ぶことが出来る。五つの死骸をすっかり細切れにしてしまった頃には、日が暮れていた。
「顔と手を洗ってくるのです」
「はい、母上」
事前に井戸から水を桶に汲んできてある。すぐに真っ赤に染まる桶の水。爪の間も血もしっかり落とさせると、砦に向かう。
ようやく、主菜だ。
「いいですか? 敵を混乱させるためにも、無駄に殺してはなりません。 ただし、大方を仕留めてからは話が別です。 私が彼方此方に放火して敵の気を引くから、貴方は影から小隊長級の敵を片っ端から仕留めて、混乱を加速するのです」
「分かりました、母上」
「よろしい。 それでは、潜り込みますよ」
二匹の人食い蜘蛛が、原野を這うようにして、黄巾党の砦に向かっていく。もちろん、狩られる人間どもはそれに気付いてもいなかった。
2、燃え落ちる願い
陣に戻った陳到は、出迎えた国譲から濡れた布を受け取って、顔と手足を拭いた。埃っぽくて仕方がない。
そのまま、すぐに劉備の所へ向かう。報告は張飛がするが、陳到はそれの補助をしなければならないからだ。戦闘能力が高い張飛ではあるが、劉備の前では口数が少なくなるし、雑な性格も表に出てくる。陳到が補助しないと、色々と細かい所で、齟齬を出しやすいのである。
劉備は片膝を立てた、ちょっと行儀が悪い格好で座りながら待っていた。張飛が来ると、僅かに安堵で顔を輝かせる。張飛が義兄弟だと言っているのを陳到は聞いていたが、それも頷ける話だ。
「無事に帰ったか」
「おう。 こんな任務、屁でもねえ」
「うむ。 地図を」
劉備が呼びかけると、何人かの兵士がさっと天幕の床に地図を拡げた。張飛と一緒に、見てきたものを説明する。殆どは張飛が説明するに任せたが、二三忘れている所があったので、丁寧に捕捉する。
一番大きい地図との相違点は、黄巾党の隠し砦があったことである。どうやら離散した村にいた地元の豪族の、屋敷を改装したものらしい。一応堀と塀を備えていて、中間基地として活用されると面倒だ。これは百名ほどの兵で奇襲した後、焼き払ってしまうのが一番だろう。そう提案すると、劉備は二つ返事で受け入れた。
見てきた砦にも、情報がない備えが結構あった。それらの攻略作戦について張飛が説明すると、劉備はどれも受け入れていた。
陳到が見た所、劉備には相当な戦の才がある。しかし、天才と言うにはかなり無理もある。劉備くらいの指揮官なら、何処にでもいるだろう。ただ、この懐の広さに関してだけは、ちょっと凄いと思わされる。
「ならば、夜襲には問題が無さそうだな」
「皇甫嵩将軍にも、一応これらの偵察結果は伝えておきます」
「そうだな。 念のためにも、言っておいた方が良いだろう」
後は、夜まで休むようにと言われたので、陣の脇に控えていた皇甫嵩将軍の部下に事情を説明した後、自分の幕に戻る。そして、粗末な布団を被って寝た。
こう言う時は、無理にでも寝ておかなければならない。だから、眠れるように、訓練は済ませてある。
気がつくと、もう夜。しっかり眠ったから、もう疲れは取れていた。
既に隊は、いつでも出られるように準備を整えている。昼間に董卓軍と死闘した黄巾党の部隊も、相当に疲弊していることだろう。顔を洗って、意識をしっかり保つ。布で顔を拭いた頃には、すっかり目も醒めていた。
幕を出ると、部下達が揃っていた。頷きながら、様子を見て回る。
騎馬隊が、馬に布を噛ませていた。奇襲をする際に、馬が嘶かないようにするためだ。既にどの地点をどれくらいの戦力で奇襲するかは、計画が出来ている。最重要地点には、関羽と張飛が入って、敵を蹴散らす予定だ。
音もなく、軍勢が動き出す。
満天の星空の下、血に飢えた軍勢が、しずしずと進む。途中、三派に別れた。
敵の隠し砦に、一隊が突入する。戦いの気配はすぐに止み、逃げ出してきた数人を、矢を放って仕留める。陳到は手を挙げて数人を残し、状況に応じて火を放つように命令して、作戦地点へと急いだ。
ほどなく、砦が見えてくる。
空気が肌寒い。そろそろ、早朝になる。劉備を見ると、既に攻撃の準備をさせていて、自らも右手を上げていた。
「よし。 かかれ」
右手を振り下ろす。同時に、義勇兵達が音もなく、砦の城壁に群がる。長い梯子が持ち出され、蜘蛛のように兵士達が登っていった。見張りが気付くが、もう遅い。矢を放って、撃ち落とす。
城壁の上に到着。混乱する敵を押し返しつつ、橋頭堡を確保。同時に、静から動へ、状況を移行させる。
義勇兵達が砦の中に、火矢を放つ。銅鑼を叩き鳴らす。
「官軍50000、夜襲に参上したぞ!」
「この砦は貰った! 命が惜しければ、ひけい、ひけい!」
激しく叩き鳴らされる銅鑼に、敵兵が混乱している。城壁の上から、面白いように矢で射倒すことが出来た。城壁の上で揺れる無数の松明が、更に敵を混乱させる。抵抗は散発的で、まずは逃げようとする敵兵が目立った。
彼方此方の砦で、同時に火の手が上がる。どうやら皇甫嵩将軍も、奇襲を開始したらしい。流石に歴戦の将軍である。まったく文句がつけられない、見事な奇襲だ。城壁を駆け下りて、敵の中で暴れ狂っていた張飛が、砦の指揮官らしい男を斬り倒すのが見えた。関羽は抵抗しようとしている敵を目ざとく見つけては、いちいち蹴散らして回っている。状況は、大体落ち着いた。
城壁を降りて、時々斬りかかってくる残敵を斬り伏せ、部下達と共に掃討しながら、張飛の元へ向かう。矢が飛んできて、首のすぐ側を掠めた。反射的に首をすくめるが、射手の姿はない。
一瞬の差で、生死が分かたれた瞬間であった。
だが、戦場では、日常茶飯事だ。
敵の大半が逃げ出していき、味方が門を制圧する。さて、後は味方の増援が来るまでに、この砦を死守すればいい。城壁の上に登った劉備の姿が見えた。出来るだけ多くの松明を立て並べさせ、鬨の声を上げさせている。空は白み始めているとはいえ、この効果は絶大だ。混乱に陥っている兵士達にはなおさらである。
砦の彼方此方ではまだ小競り合いが続いているが、大勢は、これで決した。
広場に、劉備が降りてくる。鎧の肩当てには矢が刺さっていたが、大した怪我は無さそうだった。
「よし、大勝利だな」
「理想的な奇襲でした」
「うむ。 後は皇甫嵩将軍が、敵の本拠地を巧く落としていれば良いのだが」
そればかりは、歴戦の皇甫嵩に期待するしかない。
もし董卓にそれなりの頭脳があれば、状況に便乗して、前線に攻撃を仕掛けるのだろうが。あの男は今頃娼婦でも幕舎に引きずり込んで、白河夜船だろう。殆ど直接面識はないのに、それがありありと思い浮かべられるのだから面白い。
宦官共は、いずれ一匹残らず殺す。
外戚どもも、それと運命を共にさせてやる。
そして董卓も。何かしらの方法で、消してやろうと、陳到は思っていた。
実現できるかどうかは、別に関係がない。機会があったら成し遂げる。それくらいでいいのだ。
まず黄巾党を叩きつぶして、次は奴ら。
目的がはっきりしていると、生きやすいし、意識の方向性も保ちやすい。
官軍の伝令が、城門に来た。どうやら冀州刺史が、予定通り動き出したらしい。劉備との会話を聞き流しながら、陳到はそう思った。だが、そう巧くはいくまい。黄巾党も優秀な指揮官がいないとはいえ、それなりに常識的な判断はしてくるはずだ。当然、援軍はやってくるだろう。
城壁の上から、兵士の声が飛んできた。
「敵の増援です! 数はおよそ5000!」
そら来た。そう陳到は思いつつ、迎撃の指揮をするべく、城壁を駆け上がった。
大混乱の砦で、林が見つける。小柄な、ひげ面の男を。
前線の指揮を任されている男だ。そして、芙蓉が口に懐剣をくわえたまま、獲物を狙う毒蜘蛛のように、じわりじわりと這い寄る。
此処は、天井裏だ。
かの男は、複数の情報に混乱しつつも、部下達に出撃準備を整えさせていた。正面に展開している官軍の攻撃に備えながらも、中間基地や、本拠への増援も送らなければならないのだ。必然的に、砦の警備は穴だらけになった。それを見越して、毒蜘蛛のように、芙蓉が動き出したのだ。
この子は、まだ幼いのに。天賦の才がある。素晴らしい話だ。
幼い割に優秀なのには理由がある。林が徹底的に闇の技を仕込んでいるのもそうだが、身体能力が上がる闇の薬を飲ませてもいるのだ。そのため体は小柄で、将来的にも成長はかなり遅くなるだろう。下手をすると、生涯子供のような姿のまま、生きることになるのかも知れない。
だが、それは闇に産まれた者の定めだ。
元々、庶民とは育成環境が違いすぎている。殺しに到る理由も決定的に違っている。何のために殺すか、ではない。殺すために、何が出来るか、なのだ。殺しが生活の中心にあり、他の全ては添え物なのだ。
此処まで徹底的に闇に染まっている細作は珍しい。殆どの細作は、商人などに化けて敵地に潜り込み、情報を収集する存在だからだ。林のような暗殺専門の細作はごくごく少数派であり、しかも寿命が短くなりがちだ。もちろん、林も、あまり長生きは出来ないだろう。
芙蓉が動きを止めた。男の周囲から、人間が消えたのだ。伝令を呼びに行ったのだろうが、それで充分。茶を飲もうと、湯飲みに男が手を伸ばした瞬間。芙蓉が仕掛ける。
音もなく天井の板を外すと、するりと飛び降りる。顔を上げた男が、驚愕に目を見開くよりも先に、投擲された懐剣が、喉に滑り込んだ。
どすんと、少し重い音。
湯飲みに手を伸ばしたままの男に歩み寄ると、芙蓉は懐剣を掴み、引き抜いた。朱に染まった手をひとなめしながら、芙蓉は舞い降りた所まで戻ってくる。
「母上、終わりました」
「見事。 戻ってきなさい」
「其処までは届きません。 手を貸してください」
「やれやれ、仕方のない子ですね。 降りる時には、備えをしておきなさい」
まだちょっと世話が焼ける。だが、それでも別に良い。最初から完璧な細作など存在しないし、此処まで鮮やかに出来れば上出来だ。
天井へ引っ張り上げると、板を元に戻し、さっとその場を後にする。戻ってきた伝令が騒ぎ出して、銅鑼が鳴らされた。殺気だって、兵士達が走り回り始める。愚かな連中である。そう言う行動が、ますます隙を大きくするのだ。
事前に潜ませておいた他の部下達が、一斉に砦の彼方此方に火をつける。更に加速する混乱の中。
懐剣を喉に受けて、もんどりうって黄巾党の兵士が倒れる。また一人。燃え上がる戸棚に押しつぶされて、息絶えた。飛んで来るはずの無い矢に喉を貫かれて、横転する一人。今度は城壁の上から、塀へ喉から血をまき散らしながら、一人落ちていく。
影のように動き回る芙蓉の両手には懐剣。いずれも腕が良い鍛冶屋に鍛えさせた逸品ばかりだ。
風を切って、懐剣が飛ぶ。意思があるようにぎらついて、喉に潜り込んだ懐剣が、また一つの命を奪う。
混乱が更に酷くなっていく。時々、芙蓉に気付きそうになる者もいた。だがそれは、林がさらなる闇から放った懐剣によって喉を貫かれ、白目を剥いて倒れる。
芙蓉は派手に殺しているが、正式な武術ではないから、どうしても効率は悪い。絶倫の武勇の持ち主であれば、この倍くらいの勢いで殺すことも出来るだろう。一人になった相手しか襲えないし、視界の死角を移動しながら攻撃するのも手間だ。
だが、それでも。やはり積み上げていく屍は多い。
芙蓉は、嬉々として、黄巾党の者達を狩り続けた。
その上、状況を見た董卓が、珍しく労働意欲に駆られたらしく。或いは、皇甫嵩の部下が、指示を出したのかも知れない。数千の官軍が砦に押し寄せ、更に混乱は加速。表門が燃え落ちると同時に、なだれ込んで来る官軍を見て、ついに黄巾党の者達は交戦の意欲を捨て、我先に逃げ出した。
窮鼠の抵抗を嫌忌したか、それを見届けてから、意気揚々と砦に入ってくる董卓と、その部下共。
黄金作りの派手な鎧を身につけているから、一目で分かった。噂通り、弛みきった樽のような肉体の持ち主だ。
情報によると、非常な強力の持ち主であり、弓も得意だそうである。事実、太っているにもかかわらず、西国産と思われる大型の赤い馬を見事に乗りこなしている。顔中の髭を朝風になびかせながら来る董卓の元に。混乱の中、ちょんぎっておいた、この砦の司令官の首を投げ落とす。
慌てて周りに展開する董卓の部下達。
董卓自身はというと、意外にも落ち着き払っていて、混乱もしなければ慌てるようなこともなかった。
意外な反応である。もっと臆病で、脆弱な輩かと思っていた。
隣に控えている、痩せて背の高い男に、董卓は言う。
「ほう。 これは面白いことだ。 李需、どう見る」
「は。 恐らくは、皇甫嵩将軍の飼っている、細作の手によるものでしょう」
「どういうつもりかは分からんが、首を拾っておけ。 後で、宦官共に手柄として報告することも出来よう」
意外な言葉だ。董卓は、宦官のことを、利用しているつもりだと言うことか。
戦の才は偏っているし、政務の才も無い。だが、何処か化け物じみたものがある男だ。間近で見て、それを林は感じた。これは、巧く利用すれば、一気に漢王朝を叩きつぶす起爆剤に出来るかも知れない。
舌なめずりする林を、芙蓉が小首を傾げて見つめる。
「母上、あれも殺すんですか?」
「今は保留です。 いずれ殺す機会があるでしょうから、顔は覚えておきなさい」
「はい。 そうします。 ……覚えました」
覚えるのは数秒。流石に、芙蓉も林の娘だ。林の名をこの子が襲名した時には、一体どれほどの細作に化けるのか、今から楽しみでならない。この中華を、地獄のどん底へたたき落とす日も近いだろう。
そのまま気配を消して、砦を後にする。
皇甫嵩が立てた奇襲計画は、完璧に成功した。彼方此方の砦が炎を吹いて燃え上がり、優勢な戦力は混乱するばかりで有効な反撃が出来ていない。このまま、恐らく敵の本拠地までが陥落するだろう。
敵将は今確か張梁と張宝が残っているはずだが、それもいつまで保つか。下手をすると、今晩中に首を失うだろう。それくらい、皇甫嵩は有能な男だ。それならば、間近でしっかりと状況を見ておきたい。
周りに部下達が集まってきた。原野の隅、岩山の影へ移動して、状況の確認を行う。
「皇甫嵩将軍の作戦は、予定通り進行しているか」
「は。 州刺史の部隊が、砦を制圧。 黄巾党軍は、各個撃破されています」
「うむ、それでいい。 後は、各地にまき散らされた反乱の芽が、混乱を大きくしていく」
そう。黄巾党は、これくらいでは滅びはしないだろう。
海中の生き物に、とても小さいが、どれだけ分解しても元に戻る輩が存在すると、林は知っている。幼い頃に海岸線で偶然発見したのだが、とても面白い生き物だった。黄巾党は、それに近しい存在になってきている。
民の怨嗟という栄養さえあれば、何度でもよみがえる。体の一部からでも復活し、瞬く間に巨大化する。
そんな怪物こそが、黄巾党だ。
朱儁も皇甫嵩も、どのみち近々解任されるだろう。宦官共には政治闘争をこなす能力はあっても、政治を理解する能力が致命的に欠けているし、軍事に関してはそれ以上に無能無策である。
「林大人、これからどうなさいますか」
「黄巾党の本拠がある広宗へ向かう。 曲陽には今官軍の郭典が向かっているが、あいつは押さえくらいしか出来ないだろう。 まずは広宗の状況を確認してから、曲陽に潜入するかどうかを決める」
「御意。 しかして、黄巾党の乱が一旦終結したら、どうしますか」
「それは、その時に説明する」
手を振って、部下達を解散させる。その場に残った林は、芙蓉に促す。
「張梁の末路を、見届けに行きますよ」
「はい、母上」
我が娘ながら、良い返事だ。
無数の屍を造り出し、殺戮の嵐の中にあった親子は。さらなる殺戮を求めて、その場を後にした。
砦が燃え上がる。兄が遺した黄巾党が、滅びていく。
城壁の上に立っていた張梁は、無感動にそれを見つめていた。否、それは違う。何も考えることが出来なかったのだ。
分かっていた。近々、この時が来ると。しかし、それでも。どうにかして、兄への理解者を、一人でも遺しておきたかった。
これから青州や漢中で、黄巾党の生き残りは火を保っていくだろう。しかし、それは兄への理解者が残ることを意味しない。殆どの信者は、漢王朝への不満から、黄巾党に入ったのだ。教義など、頭から信じていない者も多い。中には黄巾党を名乗って、各地で独立行動していた盗賊団も存在した。
凶賊というに、恐らく黄巾党は相応しい。流民を発生させるために、密かに略奪と放火を推奨していた。黄巾党の支配下になろうとしない街や村は、容赦なく焼き尽くした。結果、この国の民は、平和と安全を求めて右往左往し、蟻のように群れを成して歩き回った。その殆どが、恨んでいるだろう。黄巾党を。
恨まれて当然だ。
だが、兄の志は。
兄は言っていた。この国の病は、あまりにも根深いと。宦官と外戚の確執、管理が行き届かなくなっている地方の豪族、そして周辺に跋扈する異民族。そして何より暗愚を究める皇帝。
多少内部を改革した所でどうにもならない。全てを叩きつぶすくらいの覚悟が必要なのだと。
乱世の時には、破壊する者が必ず現れる。そしてそれは、統治者とイコールではない場合が多い。
楚漢戦役の時は、項羽がそうだった。漢の高祖劉邦は、項羽が既存の仕組みを全て破壊し尽くしてくれたからこそ、後の統治を円滑に行うことが出来たのだ。兄はそれと同じ事をした。計り知れない恨みを買うことを、承知で、だ。
側に控えている影。
やっと雇うことが出来た細作。腕はあまり良くないが、それなりに一生懸命仕事はしてくれた。どうやら弱小組織の一員らしく、やっとついた雇い主が黄巾党だったそうである。殆ど口は聞かない。顔も隠していて、性別も分からない。
「この砦はもう落ちる。 そこで、お前に頼みたいことがある」
「如何なる仕事でしょうか」
「書物を、持ち出して欲しい。 兄が書き残したものをだ」
「全ては持ち出せませんが、どれにいたしましょう」
しばし悩んだ末に、張梁はある一冊について名を上げた。それは、兄が壮年期に。党固の禁にて全てを失う前に。書き残した、一冊だった。
国の政がいかなる存在であり、どうあるべきかを書きつづった書物である。信者の間では、仙人から授かった書ではないかとか言われているらしいが、そのような無責任な噂と事実は違う。
太平要術の書。それが書名だ。名前の通り、太平を祈り、それを為すためにだけ、文が連ねられている。
「分かりました。 して、何処へ持ち出しましょうか」
「どこでもいい。 戦禍に遭わぬ場所へ。 そして、信者にも、もう触れられないようにして欲しい。 著書が兄だと言うことも、隠してくれ。 余裕があったら、写本して、幾らか増やしておいてくれると助かる」
「御意」
「俺はもう長くは生きられないだろう。 だから、報償はこれで最後になる」
金がたっぷり入った袋を渡すと、頷いて細作が姿を消す。ばたばたと足音がして、傷だらけの部下達が姿を見せた。
「人公将軍! もう此処は駄目です! 脱出を!」
「脱出したら、張宝の所へは行かず、青州か漢中へ向かえ。 全ての兵士達に、そう周知するように」
「人公将軍はどうなさるのですか!」
悲痛な叫びに、張梁は首を横に振った。
どのみち、もう命運は尽きている。ここで生き延びても、多くの者を無為に死なせるだけだ。
役割はこれで終わった。後は、漢王朝が滅びるのを、眺めやるだけでいい。
「急げ。 逃げられなくなるぞ」
「人公将軍!」
「いいから行け!」
逡巡していた部下達を一喝。火の手が回り始めて、ついに一人が逃げ出すと、他もそれに続いた。
剣を抜くと、張梁は廊下に出る。もう煙が充満し始めていて、空気がかなり熱くなってきていた。官軍の兵士と、黄巾党の者達が斬り結ぶ音がかなり近い。こんな短時間で、此処まで攻め込んでくるとは。流石は皇甫嵩である。董卓とはまるで指揮手腕が違う。
「いたぞ! 逆賊、張梁だ!」
官軍の兵士が叫ぶ。
四方八方から、足音が迫ってくるのが分かった。それでいい。他の黄巾党の者達が、一人でも多く逃げられる。わざと大股に歩きながら、張梁は、斬りかかってきた兵士の前に出て、拝み撃ちに斬り伏せる。頭が悪い分、腕っ節には昔から自信があった。荊州からきた賊たちと知り合ったのも、兄をバカにしていた役人を殴り殺してしまった時に、居合わせたからだった。
二人目を斬り、三人目の首を跳ね飛ばした。体が軽い。脇に剣が突き刺さるが、気にならない。斬り、切り倒し、叫びながら襲いかかってきた兵士を、正面から唐竹割にする。狭い通路の前後には、既に敵兵が充満していた。槍を揃えて、五六人が、同時に突きかかってくる。
前後左右から、張梁の体が串刺しになった。
流石に、焼け付くように痛い。一番最初に槍を繰りだした、壮年の兵士が、噛みつきそうな顔で怒鳴った。
「俺の娘の仇だ! 思い知ったか悪鬼張梁!」
「おお、そうか」
大量に血を吐き出す。
良かった。俺は、最後に、誰かのためになることをしてやれたのだ。
この男は、張梁を殺したことで、娘の敵を討てたらしい。その上、手柄にありつくことも出来るだろう。
一斉に槍が引き抜かれる。娘の敵だと叫んだ男が槍を捨て、剣を上段に構えた。もう、霞んで、よく見えない。だから、張梁は、ただ静かに笑い続けた。
己の首が、跳ね飛ばされるまで。
陣の彼方此方から勝ち鬨が上がっている。戦いは完全な勝利に終わり、広宗の黄巾党本拠地は陥落し、敵将を討ち取ることに成功したからだ。董卓がどれだけ攻めてもびくともしなかった広宗は、皇甫嵩の手により、僅か一夜にして灰燼と帰したのである。
その皇甫嵩は、届けられた張梁の首を見て、腕組みをしていた。分からないからだ。まるで獣のように凶暴な輩かと思っていたのに。どうしたことだ、この全てを成し遂げたような、安らかな笑みは。
「これで皇甫嵩将軍が、この戦での軍功第一ですな」
「そうだな」
無邪気に喜ぶ副官に素っ気なく返すのは、それが如何に無意味なことか悟っているからだ。
軍功など、どうせ現在実権を握っている宦官共が、好きなようにいじくるに決まっている。宦官にも外戚にも大した伝手がない皇甫嵩では、大した褒美は与えられないだろう。もちろん、褒美を強奪する手はある。宦官の弱みを、幾つか握ってはいるからだ。だがそれも絶対ではない。
そればかりか、むしろ今後は、罪をでっち上げられて、戦功を帳消しにされる可能性も高い。宦官共の政争の材料とするために、得た地位を奪われる可能性は、更に高くなるだろう。
もう皇甫嵩は老境に入っている。今更権力などに興味はない。ただ、家族に類が及ばないようにすることだけが、今の望みだった。
そして、気付く。この男、ひょっとして、ただ漢王朝を滅ぼすことだけが目的だったのではないのかと。そうなると、今回の乱で噴出した巨大な社会矛盾が、漢王朝を叩きつぶすのは明白となっている現在。望みは叶ったことになる。
大きくため息をつくと、張梁の首を下げさせる。まだ、黄巾党には張宝が残っており、曲陽が強力な要塞として健在である。そちらも落とさなければ、戦いは勝ったとは言えない。
腰を上げようとした皇甫嵩の前に、伝令が飛び込んでくる。彼が飼っている、細作の一人で、良い腕の私兵だ。
「張角の墓を発見しました」
「捨て置け。 別に知らせることもないだろう。 ……いや、そうだな。 死骸を発見して、首を打ったと言うことにしておけ。 適当に首はその辺の死骸から見繕え」
「御意」
伝令が消えると、今度こそ皇甫嵩は腰を上げた。
青州に睨みを利かせている朱儁と連合して、一気に曲陽を落とす。勢いに乗っている味方の様子からいっても、落とすのは難しくないだろう。ただ、問題は。その後だ。乱が平定されたことで調子に乗った宦官共と外戚どもが、どんな下らぬ争いを起こすか。外戚筆頭の何進はでくの坊だし、宦官の中心である十常侍は極めて陰湿だ。
輿を持ってこさせる。最近、戦の後での馬移動が苦になってきていて、その場合はもっぱら輿を使っているのだ。衰えたなと思う。
ふと、思い出して、手を叩いた。側近が駆け寄ってくる。
「劉備は無事か」
「は。 砦を見事に落として、現在は控えております」
「そうだったな」
報告は既に受けていたのに、忘れてしまっていた。衰えた挙げ句に、呆けてきている事を感じてしまう。だが、それで思考を止めていてはいけない。
「次の戦は、朱儁と共に曲陽を攻略する。 その時に、あの男も従軍させたい」
「御意。 早速手配します」
走り去る側近。輿が兵士達に担がれて、陣を出る。
しばらく揺られているうちに。皇甫嵩は、うとうとと居眠りを始めてしまっていた。
3、稀代の新星
曲陽へ向かう。そう告げられた時、陳到はあまり気乗りがしなかった。しかし、この義勇軍に入ったことで、黄巾党の本拠が壊滅する所を、見ることが出来たのである。義の点からも、命令には従わなければならなかった。それに、黄巾党の主力が、曲陽にて健在だと言うではないか。
奴らは叩きつぶさなければならないのだ。それを考えると、やはり気乗りがしないなどと、言ってはいられなかった。
皇甫嵩軍の本隊に加えて、各地から続々と精鋭が曲陽に向かっている。総数は80000を越えるだろうと、簡雍が呟いているのを、この間聞いた。陳到はそこまで状況に詳しくないから、ほうと呟いただけである。ただ、曲陽にはそれ以上の敵軍勢が駐屯しているという話もある。しかも要塞地帯だと言うから、戦はそう簡単に終わることもないだろう。奇襲も、二度とは通じまい。
馬上にて揺られていると、張飛が馬を寄せてきた。
「おう。 どうした、気乗りしないみてえだな」
「いえ、黄巾党を潰すことが、私の目的ですから」
「そうだな。 黄巾党は、俺にとっても仇だ。 さっさとぶっつぶして、この戦をおわらせてえ所だが」
「おわらないですよ、この乱世は。 宦官と外戚が、この世から消えない限りね」
少し前に劉備から聞いたのだが、中央で権力を得られない外戚、特に袁家は、地方に権力を移し始めているのだという。何進は見限られ始めていると言うことだ。その結果、地方対中央という構図が出来はじめており、それが意味するのは、更に拡大する混乱という訳だ。
「何だかなあ。 俺を宮廷に入れてくれたら、一晩で宦官共の首を根こそぎ引っこ抜いてやるんだけどな」
「その時は是非。 ただ、我らの功績も、宦官に知人がいないし賄賂も送っていない以上、黙殺されることでしょう」
「不愉快だな。 皇帝の側に侍る豚どもが」
「全くです。 宦官共を潰す時は、私にも一声掛けてください。 殆どは張飛殿に譲りますが、残りは私が殺したいので」
がははははと豪快に笑う張飛は、馬を進めて先へ行った。
多分、冗談だと思ったのだろう。
もちろん、本気で言ったのだが。
黄河の渡しに到着。船に乗って、そのまま曲陽へ。無数の軍船が移動していく様子は壮観だ。どの船も、兵士を満載していた。だがいずれの船も大きく傷ついていて、老朽化が目立った。
数日掛けて、曲陽へ到着。
既に整然と軍が陣を組んでおり、遠巻きに曲陽を包囲していた。その中に、ひときわ目立つ二つの陣地があった。
一つは真っ赤な陣である。規模は兵力5000程度。そのうち一割ほどが真っ赤な鎧に身を包んでおり、天幕も赤くしている。非常に目立っており、官軍の兵士達も指さしては口々に噂をしていた。
もう一つは粗末な陣だが、兎に角作りが猛々しい。戦気が滾るようであり、いつでも出撃できるように態勢を整えていた。
劉備はそれらの陣の中間点に陣を構築した。皇甫嵩の率いてきた部隊が後衛となったのは、多分功績の平等化を図るためだろう。張梁を葬った皇甫嵩が、張宝までをも葬ったら、功績が偏りすぎる。
先鋒は朱儁軍の最精鋭が務めており、赤い陣はその中に組み込まれているようだ。猛々しい陣もそこに入っていることから考えると、朱儁は相当な精鋭を育てていることになる。何だか、陳到にも心配になった。これでは、宦官の腐れ外道どもに、余計な警戒をさせるのではないか。
夕刻には、布陣が終わった。
もちろん劉備に、主要な会議に参加する権利など無い。本陣では朱儁と皇甫嵩が顔をつきあわせて話をしているのだろうが、劉備はもちろん陳到はいたって暇で、ぼんやりと陣を歩き回っていた。
黄進の最後が、今でも思い出される。黄巾党の理想に心を梳かされ、最後はそれを呪いながら死んでいったあの男は。今は、天なり地の底なりで、満足しているだろうか。黄巾党は、今滅びようとしている。真の大乱は、これからだとしても、だ。
徐々に暗くなっていく空を見つめながら、陳到はこれで良かったのだろうかと、小さく呟く。汝南に行った村の者達は、許?(チョ)がきちんと守っているだろうか。各地に散った皆は、黄巾党と戦っているだろうか。
色々考えているうちに、彼方此方の陣で、小さな騒ぎが起こり始めた。夜襲ではない。時間的に無謀だし、何より散発的すぎる。ひょっとすると、喧嘩かも知れない。ただ、油断はしない方が良いだろう。
手を叩いて、部下を集める。
「すぐに松明を増やして、警戒しろ」
「はい」
多くの戦いで鍛えられた部下達は、皆きびきびと動く。すぐに松明が増やされ、鎧を身につけた兵士達は殺気だって走り回った。警戒が増す中、徐々に騒ぎが大きくなってくる。これはどうやら、無謀な夜襲だったらしいと、陳到も判断。徐々に、剣戟の音や、悲鳴が近くなってきていた。
赤い鎧を着ていた兵士達の陣が、燃え上がり始めた。お手並み拝見といこうと、陳到は思った。
真っ先に出たのは楽進だった。小柄な男だが、誰よりも早く状況に気付くと、槍を持って兵士達の先頭に立つ。
闇夜に紛れて、たくさんの黄巾賊が押し込んでくる。数は四万を超えている。夜襲としては、尋常ではない規模だ。腕組みして戦況を見やる曹操の前で、既に死闘が始まっていた。
「総員、押し返せ!」
楽進が突撃して、二人、三人と黄巾賊を突き倒す。ようやく出てきた曹仁が、やたら大きな刀を振るってそれに加勢した。周囲の官軍の陣地は、水が満ちるように静かに浸透してきた黄巾賊に対応が遅れて、彼方此方で蹴散らされている。混乱が酷く、前線の状況は分からない。朱儁は無事に指揮を執っているようだが。
曹操は、矢が飛んできても動かず、状況を見守っていた。鎧を着て出てきた夏候惇と曹洪を一瞥。まだまだ、とてもではないが、一人前とは言えない。楽進を顎で指して、すぐに加勢するように指示。
兵士達が、ようやく秩序を持って動き出していた。
一番遅れてきたのは、夏候淵である。奇襲を得意としているはずの淵は、着崩した鎧を引きずって、慌てた様子で駆けてきていた。
「申し訳ありません」
「何をしていた。 楽進を少しは見習え」
「は」
大弓を取り出すと、夏候淵が闇夜に向かって矢を引き絞る。ひゅうと風を切る音。柵を乗り越えようとしていた大柄な黄巾賊が、眉間に矢を受け、もんどりうって倒れた。更に一矢。闇の中で、悲鳴が上がる。流石に弓矢だけは立派だ。戦略的な視点だけは、どうやっても覚えさせることが出来ないのだが。
後ろから殺気。闇にまぎれて、一人近付いてきていたらしい。夏候淵が振り返り様に一矢を放ち、至近から顔面を貫いた。どっと、喚声が湧く。味方ではない。敵だ。どうやら、官軍の将官が討ち取られたらしい。
もう隠す必要もないと思ったか。曲陽の城門が盛大に開き、どっと黄巾賊が押し出してきた。数は十万を超えているかも知れない。曹操の陣は柵を巧みに使って防いでいるが、はてさていつまで守れるか。
「御坊。 ルーめにございます」
「何事か」
「陣の後ろに、三百ほどの敵兵が回り込んでいます。 正面の攻撃と併せて、突っ込んでくるつもりのようです」
さあ、どうなさいます。そう楽しげにルーは言うと、ひひひと笑って消えた。曹操は腕組みをしたまま、さてどうしたものかと呟く。正面は今楽進が必死に支えているが、それもいつまで保つか。後ろにまわす兵力など、存在しない。かといって、援軍を頼もうにも、どの官軍部隊も自分を守るだけで手一杯だろう。
これは、ひょっとすると、負けるかも知れない。その時には、可能な限り味方の戦力を温存しつつ、何とか逃げ延びる必要がある。しかし曹操は、撤退戦を非常に苦手としていて、任せられる部下もいない。
後方より喚声。回り込んでいた敵が、突入してきたか。天幕に火が放たれて、矢も飛んでくる。一心不乱に矢を放ち続けていた夏候淵が、叫ぶ。
「殿! お逃げください!」
「いや、もう少し様子を見ろ」
燃え始めた天幕が、辺りを昼間のように照らす。黄巾賊は更に勢いを増し、全面の圧力も強くなってきた。それに対して、味方は浮き足立つばかりだ。
大股で、曹操が前線に出る。途中で、二度、突きかかってきた敵を、無造作に斬り捨てる。
もみ合うような死闘が続く前線に出た。幾つかの柵は既に引き倒され、敵味方の血で真っ赤に染まっている。曹操は声を張り上げた。
「密集隊形! 全面の敵を突き崩すぞ!」
「応ッ!」
最初に反応したのは楽進。他の将も、柵にこだわるのをやめ、円陣を素早く組む。どっと押し込んできた黄巾賊に向けて、曹操はひらりと愛馬に跨りながら、剣を振るった。
「突撃!」
次の瞬間。黄巾賊の先手は、一気に粉砕されて。秩序を喪失した。
苦戦した曹操軍の前に躍り出たのは、孫堅の部隊であった。
孫堅。
大柄で、筋肉質な男である。目は若干蒼く、髭には紫色の部分が含まれている。多分に、漢民族以外の血が混じっているのだ。
孫堅は、かの高名なる伝説的軍師、孫子の血を引くと自称する存在である。実際には長江を縄張りとする江賊の出身で、朱儁に討伐されて抜擢された男だ。戦は賊の出身者らしく兎に角荒々しく、己の野望を全てに優先させる所がある。朱儁はそれを見事に使いこなし、今まで数に勝る黄巾賊を打ち倒してきた。
この破れかぶれの総攻撃でも、賊らしい勘を発揮して、孫堅は真っ先に動いた。後方に、である。そして、賊の攻勢がぎりぎりまで伸びるのを、待っていたのだ。そうなれば、元々勢いに任せた奇襲である。崩すのは、そう難しくもない。
少数の戦力を率いている強みもある。まるで肉を切り裂く牛刀のように、孫堅の少数部隊は一丸となって、黄巾賊の中を突破。敵軍を静かに撃退し続けていた朱儁の本陣に合流したのだった。
ただし、強引かつ猛烈な戦いで、部下の多くが傷ついていた。しかし孫堅は、それを何とも思っていない。幾らでも補充は効くし、戦場では生きるも死ぬも運命次第だと考えているからだ。
大量の血を浴びていた孫堅が陣に来ると、朱儁は鼻を鳴らす。
痩躯の朱儁は、長い髭を蓄えた老人である。神経質な性格だが、戦の才は確かで、孫堅も今はまだ勝てないだろうと考えている。今はまだ、であるが。
いずれ復讐してやろうと、孫堅は考えている。朱儁はどのみち、もうあまり社会的な名声を長く維持できない。元々の性格もあるし、たたき上げで宦官や外戚に関係があまり強くないということもある。この乱が終われば、何かしらの形で粛正されるだろうと、孫堅は見積もっていた。その時には、たっぷり礼をさせて貰うつもりだ。
殺そうとまでは考えていない。実際問題、抜擢してくれた恩はあるからだ。だが、それ以上のものはない。むしろ、討伐された時に殺された弟の事を、今でも恨みに思っていた。
孫堅は、芯から賊なのだ。だから、武人と違い、義とかはあまりこだわりがない。出世するためならどんなことでもするし、敵は容赦なく殺す。もちろん、媚びを売る事にも、抵抗はない。
朱儁が凄いと孫堅が思う所は、それらを全て理解した上で。孫堅を使っているという事なのだ。だから、まだ仕えている。逆にそれこそが朱儁の限界だろうとも、孫堅は考えているが。
「見事な反撃だな、孫堅」
「ありがたき幸せにございます」
「ふん、まあそれでいい。 それよりも、そろそろ敵将が姿を見せるはずだ。 そこで、お前に奴を、張宝を討ち取って貰いたい」
「おやすい御用で」
事実、おやすい御用だと、孫堅は考えている。
今までの戦を見る限り、張宝の指揮手腕は知れている。もしもそれなりの力を持つ将であれば、わざわざこんな時間ではなくて、早朝に仕掛けてきただろう。兵士の疲労が頂点に達する上に、眠気が動きを阻害するからだ。
その上、今黄巾賊は動きが鈍り始めている。無茶な規模での総攻撃を仕掛けたために、無駄に力を使ってしまっているからだ。同じく賊上がりの部下達と共に、柵の際に孫堅は出た。大柄な体躯に相応しい巨大な剣を振りかざすと、群がる敵兵を右に左に斬り倒す。そして、闇の中目を凝らす。すぐ後ろについてきていた、同じく賊上がりの韓当が、槍を振り回して敵を追い払いながら言う。
「堅兄貴、敵将がいそうな方向は」
「……まずいな」
「何がでやすか」
孫堅の目は、敵将とは別の方角に向けられていた。
そちらには、今まさに殺到しようとする。山津波のような殺気があった。何か、とんでもない奴がいる。しかも、複数だ。
「すぐに突入する! 動ける奴は、全員俺に続け!」
負傷者は連れて行けない。急がなければ、あの得体が知れない殺気に、敵将の首を持って行かれる可能性がある。
同じく賊あがりの猛者達が、おのおの武器を振り上げて、叫ぶ。
「殺(シャアッ)!」
「行くぞ!」
叫ぶと、孫堅は自らが先頭に立って、敵中に躍り込んだ。
張宝は、周囲を固める部下達を、ぼんやりと見つめていた。
今朝、兄の遺品が届いた。太平要術の書と銘打たれた、あの本だった。張梁の飼っていた細作が、届けてきたものである。原本は安全な所に移されていて、写しであったらしいのだが。
それを読んで、兄の理想と現実のあまりの落差を見て。魂が抜けてしまったかのようだった。
悪魔になれ。そう兄は言った。以降、無限大の恨みを買うと知れ。そうも言われた。
だから、覚悟は決めた。それなのに。実際には、誰よりもこの国を思っていた兄の本音が書かれた書物を見て、やはり張宝は、落涙を抑えることが出来なかった。
本当にこの国は。腐る所まで、腐っていたのだ。
そして、自分たちは、その大黒柱を崩す、役割を終えた。
官軍は気付いていないようだが、この戦の目的は、奇襲ではない。一人でも多くの部下を、逃がすためだ。
事実、かなりの数の部下が、既に突破を成功させている。そして敵の反撃が開始された今。敵の狙いは張宝へと移りつつあった。だが、それでも。どうしても、頭が巧く働いてくれなかった。
梁はどんな風に死んだのだろう。そう思うが、情報が無くて、判断のしようがない。ただ、激しい戦いと、少しずつ迫ってくる敵兵の槍先を、眺めるばかりだった。味方を救うために、自分が犠牲になることは、最初から決めていた。今この場から脱出する者達は、漢王朝を潰すための大事な駒なのだ。
無感動な張宝に、流石に部下達も疑念を感じているらしい。陣を組んで敵に備えながらも、時々視線を送ってくる。それに恐怖が含まれていることを敏感に悟りながらも、張宝は敢えて何も言わなかった。
矢が飛んでくる。肩当てに突き刺さった。鬼の形相で、敵味方が至近でもみ合い始めた。
「地公将軍! お逃げください!」
誰かが叫ぶ。それさえも、もうどうでも良かった。
ふと、思ったことを口にする。
「兄上と、梁は、九泉の下へ行っているだろうか」
それは、あの世の、有名な待ち合わせ場所だ。流石に顔をくしゃくしゃにした部下が、肩を掴む。
「お気を確かに!」
「いや、いいのだ。 後はもう気にするな。 みな、めいめいに逃げよ」
勢いを盛り返した官軍が、怒濤のごとく押し寄せてくる。戦いに慣れた黄巾党の兵士達も、浮き足立つ。ましてや、張宝が腑抜けになってしまっている現状では、なおさらだとも言える。
後方の城から、火が上がった。どうやら気が利いている敵が、突入を始めたらしい。ついに逃げ崩れ始める味方の陣を見て、張宝は、やっと心が醒めてくるのを感じていた。そうだ。これが、兄が言っていた、悪魔としての結末。
そしてこれから我ら三兄弟は、悪の化身として、末代までも呪われ祟られることだろう。
ならば、これから、悪魔としての最後を見せつけてやらなければなるまい。
「最後のつとめだ。 ついてくる者はいるか!」
「殺っ!」
叫びがとどろく。
張宝と共に戦い続けた三百ほどが、一丸となる。高笑い。何だか、急に楽しくなってきた。愛馬の、星毛の腹を一蹴り。徐々に加速を始める。
剣を振りかざし、敵のただ中に飛び込む。わっと敵が群がってきた。斬り放題だ。どれだけ斬っても、敵が尽きることはない。五人、六人。血を全身に浴びながら、張宝は高笑いする。無数に立てられた松明が、悪鬼のように血にまみれた張宝を、これ以上もなく鮮明に照らし上げる。
「俺は黄巾党の張宝! 俺を討って手柄に出来るものなら、してみるがいい!」
「張宝だ! 討ち取れっ!」
絶叫した敵指揮官に、脇目もふらず突撃。そのまま、一刀にて首を跳ね飛ばす。無数の矢が飛んできて、部下がばたばた倒れる中、張宝は愛馬と共に走る。愛馬の首に、二本の矢が突き刺さり、竿立ちになる。だが、馬は耐えてくれた。そのまま、速度を落とさず、走る。
悪魔となると決めたあの日。兄が、最後に兄弟に向けて笑顔を見せてくれた。
親代わりで。誰よりも善良で。責任感が強くて。兄弟には優しかった兄を、侮辱し、貶め、そして全てを否定した世間が憎い。宦官共が憎い。外戚どもが許せない。だから、殺す。殺す殺す殺す。そして、この漢王朝を、焼き尽くしてやる。
「驚いたな。 陣頭の猛将だとは聞いていなかったのだが」
息が上がってきて、その声が真横から聞こえた。剣を振り上げようとして、思い出す。今さっき、敵に切り落とされてしまった。そいつは馬から蹴り落として、踏み殺してやった。だが、もう、意識も遠のき始めている。相手の顔も見えないが、その落ち着き払った様子からして、首をくれてやるには惜しくない相手だろう。
「誰だ。 名乗れ」
「張燕」
「おう、そうか。 同じ張の姓を持つよしみだ。 この首、くれてやる」
視界が、急激に下に移動した。どうやら、ついに馬が力尽きたらしい。周囲にある、無数の悪意。皆が、自分を殺そうとしている。
やっと、それで気付く。これこそが、末代まで悪として罵られるものの境地だと言うことに。
含み笑いが漏れてきた。やっと、兄の役に立てた。今までずっと頼りっぱなしで、死後まで迷惑をかけ続けた兄に、これで顔向けが出来る。一緒に地獄に堕ちても構わない。さぞやあの世で話が弾むことだろう。
闇の中を漂うような感覚の中、張宝はもう一つ、静かに笑う。
世間など、関係ない。
ただ、今は。成し遂げた達成感のみがあった。
3、乱の終わりと、さらなる乱の始まり
黄巾党の乱を鎮圧し終え、洛陽に凱旋した官軍を迎えたのは、熱狂的な歓喜などではない。ただ、冷め切った視点だった。無理もない話である。今回、急に増税が発生し、庶民の生活は更に苦しくなった。その上、家族や知人に黄巾党がいる者も多く、同情的な考えも生じやすかったのだ。
更に言えば、民衆は既に漢王朝を見放している。どうせこの乱が終わっても、混乱は続くと、誰もが気付いているのだ。たまたま今回は勝てたかも知れない。だが、どのみち次の戦いは勝てやしないだろう。そう、冷ややかな視線が、官軍を見つめていた。もちろん官軍も、自分たちの立場が危ういことは気付いているのだろう。褒美を受け取ると、さっさと職場を離れる兵士が続出していた。
張宝の首を取ってきた、張燕からしてそうなのである。他の、一山幾らで扱われていた雑兵などは、更にその傾向が強かった。
馬上で機嫌が良さそうな朱儁と並んで、不機嫌そうにむっつりしているのは皇甫嵩である。昨日、早速宦官の使いが、彼の下を訪れたからだ。宦官の使いは、事もあろうに、こんな事をほざいた。
「黄巾党の蓄えていた金銀を、さぞ懐にお入れになったことでしょう。 見逃してやるから、我らに何割か上納しなさい」
事実上の、賄賂の無心である。
もちろん、皇甫嵩はそんな事はしていない。兵士達が略奪はしたかも知れないが、それを組織的に煽った覚えはない。多分、宦官もそれを知っている。だが、皇甫嵩が兵士を煽って、戦場付近の民衆から略奪を行わせ、金品を懐に入れたとは思っているのだ。
董卓が、そうだったからである。
基本的に、この手の政治と政治闘争の区別がついていない輩は、自分と同じ思想の人間しか世の中にいないと考えている。ましてや宦官は、精神の均衡が普通の人間より取れていないこともあり、その傾向がより顕著だ。自分達と董卓は同じ。だから、皇甫嵩も同じ。そういう風に、考える連中なのだ。
宦官共は戦の時、党固の禁を解除して、知識人達を黄巾党へ流れるのを、防ごうとした。それも、知識人達の思想を理解したからではない。単純に、その方が儲かると考えたからだ。
「皇甫嵩将軍、どうしました」
「いや、何でもない」
上機嫌の朱儁に、不機嫌に返す皇甫嵩。
彼の所には、まだ飢えた猿のような宦官共の賄賂要求は来ていない様子だが、それもいつまで続くことか。
いっそのこと。官軍を率いてこのまま宮城に乱入し、宦官共を皆殺しにするのはどうか。一瞬魅力的な考えにも思えたが、駄目だ。この国は既に、芯から腐りきっている。宦官共を皆殺しにした所で、すぐに代わりが現れるだけだ。外戚にしてもそれは同じである。筆頭の何進をはじめとして、ろくな人材がいない。命を賭けて害を除いたところで、何も代わりはしないのである。
空虚な凱旋が終わる。
ふと、側にいる副官に聞いてみた。
「盧植将軍はどうしている」
「まだ士官用の牢に入れられているはずです」
「何とかして、出してやりたいところなのだが」
剛直な盧植は、左豊とかいう無能な腐れ宦官の、賄賂要求を断ったことで、適当な罪をでっち上げられて牢に入れられた、と言うことになっている。実際にはそれまでも散々賄賂を要求されて、それらをことごとく袖にしていたことが要因であるらしいのだが、どちらにしても同じ事だ。
「今回の褒美は、陛下に直接いただくことになる。 その時に、赦免をお願いするとしようか」
「一番手柄である将軍の口からその言葉が出れば、陛下も必ずや心を動かすことにございましょう」
「そうだと良いのだがな」
知っている。
今、漢王朝の霊帝は、あまりにも女性との性交渉を重ね続けた結果、重度の性病に懸かっている。これは後宮の侍女を姉に持つ兵士からの情報だから、まず間違いはない。最近は脳も少しおかしくなってきているという話であり、まともに意見など聞くかどうか。
「それと、劉備はどうなった」
「あの男は、田舎の、確か安熹県という田舎の、尉に任命されたはずです」
尉と言えば、治安を守る程度の役割であって、功績に比べてあまりに小さい褒美だと言える。当然義勇軍は解散。劉備は五十名ほどを連れて、安熹県に向かったとも、副官は言った。
難儀なことだなと、皇甫嵩は思った。
基本的に、きちんと褒美を与えることが出来ない国は、長続きしない。漢王朝は恐らく霊帝の代で、実質的に終わるだろう。後はお飾りで二代か三代は続くかも知れないが、何の実権もないのは目に見えている。
どのみち、もう軍人としての自分は長くない。それまでに、少しでも状況は改善しておきたいと、皇甫嵩は思った。
陳到は、ぶつぶつ文句を言う妻を連れて、安熹県に急いでいた。今回、黄巾党を潰すことが出来たのは、劉備についていったからではない。だが、劉備は陳到の話を聞いてくれた上で、きちんと受け入れてくれた。その度量は大きく、身を任せるに足る。そう、陳到は判断したのだった。
不満そうなのは、妻だけではない。張飛も、である。
張飛は張宝が戦死した最後の戦いで、全軍の先頭に立って、猛烈な大暴れをした。孫堅さえもが、張飛の突撃に煽られる形で、突撃を開始した程である。それなのに、僅かに矛が届かず、張宝の首は他人に渡ってしまった。
劉備も、平然としてはいたが、時々不安そうにしていた。師匠であるという官軍の盧植将軍が、今だ無実の罪で捕まったままであるからだろう。関羽は無言のまま黙々と馬を進めており、後ろでは簡雍と国譲がなにやら楽しげに話し込んでいた。
途中、焼き払われた村を通り過ぎる。黄巾党は、兎に角流民を増やす戦略を採った。このため、彼らが通った村では、食料が片っ端から焼き払われた。当然民衆はそれでは生きていけないから、離散してしまった。
自分の村を思い出してしまう。隣に、いつの間にか簡雍が並んでいた。
「それにしても、酷い有様だな」
「官軍に、流民を養えるとは思えません。 この乱は、形を変えて、更に続くことでしょう」
「そうであろうな」
少し背が低いロバに乗って、簡雍はゆっくり来ている。義勇兵を解散してもついてくるだけあって、周囲の兵士達は皆劉備に命を捧げる覚悟をしている者ばかりだ。そんな中、やる気がなさげで、しかも態度のでかい簡雍は目立つ。
「お前さんも、いいのか、うちの大将で。 官軍に残れば、それなりの将軍にいずれはなれるんじゃないのか?」
「いえ、もう官軍は終わりです」
そう。官軍はもう終わりだ。今回の戦いで、それははっきりした。漢王朝はそのうち滅びるが、それに伴って内部分裂で壊滅するか、或いは反乱につきあわされて討伐されるか、いずれかだろう。
それに。
官軍にいれば、皇帝ではなく、外戚や宦官に頭を下げることになる。冗談ではない。その点、劉備の下にいれば、連中の顔も見ずに済むし、命令だって聞かなくていい。ある程度の生活も保障されるし、良いことづくめだ。
落ち着いたら、汝南に行って、長老と許?(チョ)がどうなったか知りたい所だ。多分生き延びてはいるだろうが、それもこのご時世では、絶対とは言えない。手紙など届くはずもないだろうし、二度と会えない可能性も高い。
道ばたに、髑髏が落ちていた。行き倒れのものだろう。しかも今日だけで、七つも見た。少し足を止めて、埋葬だけする。妻は手を全く動かさなかったが、国譲と、意外にも簡雍が手伝ってくれた。埋葬を済ませると、急いで皆の後を追う。
ふと、幼い娘を連れた母親とすれ違う。一瞬だけ、視線が交錯した。どうも禍々しいものを感じて、陳到は振り返るが。既に其処には、誰もいなかった。
「陳到、今の親子がどうかしたか」
「いえ、別に」
簡雍は異変に気付いていないらしい。
何だか、どれだけ積まれた髑髏よりも。あの親子の方が、禍々しかったかのように、陳到には思えていた。
芙蓉が、ちらりと去っていった男を見た。そろそろ若いとは言えなくなっている年であり、様々な事を経験して、心を焼かれている目をしていた。芙蓉は小さくて可愛い手で口元を押さえると、此方を見上げてくる。
「母上、あの男を殺したいです」
「駄目よ。 普段は、無意味に殺してはいけません」
「ええっ、残念です」
「普段から、己を律する術を覚えなさい。 戦場では、幾らでも己を狂気に任せて構わないから」
実際の所、弱者に対する暴力で快楽を得る細作や武人は幾らでもいる。だが、一流になると、例えその嗜好を持ち合わせていても、様々な方法で抑えられるか、或いは発散方法を持っているのが普通である。そうでないと、大事な任務の時に、失敗する可能性が高くなる。
そういった凶暴性や快楽追求は、人間が故だと、林は思っている。
一流の存在になるには。その人間から、様々な意味で脱却する必要があるのだ。
「それで、母上、何処へ行くんですか?」
「毛大人に会ってきたから、その帰りです。 これから、許に戻って、次の作戦を練る前に、ちょっと彼方此方で育つ反乱の芽について確認するのです」
「反乱の芽?」
「いずれ分かるようになります」
芙蓉には素質があるが、教えないことは知らなくて当然だ。だから、一応のことは教えておかなければならない。だが流石に、今回の大規模な作戦について、知るには早すぎる。今は殺しの方法について覚えることと、的確にそれをこなせること。この二つだけで充分だ。
今は幽州からの帰りである。今、宦官に媚びを売っているこの国最大の細作組織、通称斑。それを率いる毛大人と会ってきたのだ。
彼はそろそろ老人になろうとしているが、まだ目の光は衰えておらず、抱えている闇もまた深い。まだまだ、倒せる相手ではない。
この国は孫子の時代から情報戦を重視しているから、個人に雇われている者も、或いは国に雇われている者も。多くの細作がいる。細作同士で様々な問題から身を守るためにも、同胞である程度の情報共有が必要になる。その会合に、出てきたのだ。毛大人の衰えも確認しておきたかったのだが、まだまだ倒すことは難しい。いずれ潰さなければならない相手だが、まだ時期は早い。
これから、七日ほど掛けて、青州に寄る。
そして、確認するのだ。これから巻き上がる大乱の埋め火を。
黄河を渡って、部下達と一度合流。先行させていた10名ほどの部下と共に、廃屋に入る。村自体が無人なのだが、それでも人目につかないようにするには、廃屋に集うのが適切だ。
「青州の様子は」
「は。 黄巾党の信者は増える一方です。 恐らく既に、青州だけで80万を超えているかと。 最終的には、100万を超えた辺りで落ち着くでしょう」
「戦闘要員はそれから考えても、30万を越えるか。 いいだろう。 後は、宦官共が無能な刺史を送り込めば、反乱が始まるな」
「林大人、此方に一つ気になることが」
挙手したのは、許の周辺を探っていた部下だ。最近青州の反乱の目を探る任務に移っている。
「何だ」
「はい。 それが、董卓の様子がおかしいのです」
「奴は元からおかしかっただろう」
そうこともなげに林は言った。
実際の所、董卓はせいぜい地方の県令程度が似合いの器で、戦にも才が乏しく、政務は更に苦手としている。だが、この間。戦場で見た董卓は、どこかがおかしかった。確かに戦の才に関しては乏しいのだが、何処か怪物じみていた。的確に首を放り投げた林と芙蓉の正体についても洞察していたし、宦官を軽蔑しきった発言もしていた。
「最近、嗜好が変わったという報告が来ているのを、耳にしました。 以前は肉付きの良い女を好んでいたのを、この頃は大人になったばかりの、幼さが残る娘を好むようになったとか」
「ほう。 あの体格でか」
樽のように太っている董卓も、若い頃は腕力絶倫で知られていた。もちろん、精力も似たようなものだったであろう。
しかし、奴は既に中年で、そろそろ老人になろうとしている。そんな次期に、不意に女の好みが変わるとは。
林は客観的に人間という生物を分析して、闇の仕事をこなしてきた。男には男の嗜好が、女にはまた別の好みがあることを知っている。性に関する考え方も、対極と言って良いほど違っているし、権力欲に関しては更に違っている。
しかし、自分の型式というものをある程度確定すると、其処から変わることの出来る人間は少ない。中にはいるが、それは例外で、余程心が強い者に限られてくる。董卓はどうだ。今までの経歴から考えて、あり得ないだろう。
奴は、良く言って侠の顔役程度の器である。それが、不意に嗜好を変え、思考にも鋭さが加わり始めているとすると。
「大きな事件を身近で経験したか、或いは別人にすり替わったのではないか」
「なるほど。 早速調査いたします」
「気をつけろ。 董卓は今、李需という優秀な参謀を手に入れている。 現実的な思考を第一にする男で、細作も多数飼っている手強い相手だ。 油断はしないようにしろ」
「は。 いざというときは消しても構わないでしょうか」
駄目だと、告げる。
今後、董卓には大きな利用価値がある。もう少し泳がせる必要があり、それにはある程度力のある参謀が必要だ。だから、殺せる機会があっても、生かしておく。
まだまだ、目的は遠い。漢王朝を叩きつぶすにも、まだ少し時間が掛かる。そのためには、手駒は幾らでも並べておいた方が良いのだ。
手を叩いて解散を告げると、周囲から気配が消える。
自分を見上げている芙蓉の頭を撫でる。
「さあ、青州へ行きますよ」
「はい。 母上。 そうだ、今回は何人殺すんですか?」
「そうね。 黄巾党の蜂起につなげる火種を作るために、何人か連中の顔役を殺しておく必要があります。 官軍の仕業に見せかけて、一つくらい村を消そうとも思っている所だし。 そうね。 貴方にも、訓練をかねて、二十人ほど殺して貰おうかしら」
「わあ! 母上、大好き!」
抱きついてくる芙蓉。
闇の更に闇にいる林も、この時だけは表情が緩む。
しかし。その本質は。決して光に傾くことはないのであった。
4、董卓の影
暗い部屋で、もがいている影があった。まるで肉の塊である。若い頃の精悍さはもはや微塵も遺していない、老いたその脂肪と贅肉の塊は。
董卓という名前を、かって持っていた。
足音が近付く。それを聞くと、もがいていた肉塊が、動き出す。光のある方に。掴んだのは牢。ひいひい、ひいひいとあえぎ声が漏れた。歩み寄る影。雄大な肥満体を持つ、中年男性。
今、董卓という名を持つ男である。
「どうした兄者。 そのような姿になっても、まだ女が恋しいか」
牢から手を伸ばして、呻く脂肪の塊。太りすぎて顔は既に崩れかけており、腹はもう何段になっているかも分からない。二月以上風呂にいれていないのだが、もうこういう状態になると、清潔も不潔もあまり関係がないらしい。餌を与えるだけで、異臭を放ちながらも、ぴんぴんしていた。
餌を、煮込んだ肉を足下に置いてやると、素手で食器を掴んで、がふがふと音を立て飲み下す。そして、床に飛び散った肉汁を、愛おしそうに舐めた。冷たい目でその様子を見ていた董卓は、鼻を鳴らすと、その場を離れた。
牢から出てきた董卓を、李需が迎える。
よく分からない素性の男だ。官職に就いていたとも言うのだが、どうもそのような形跡もない。そして、何を考えているのかも、全く理解できない。
「董卓様。 ご様子は、どうでしたか」
「どうもこうもない。 もう、理性も保ってはおらぬ。 ただの生きた肉の塊だ」
少し前までは、自分と同じ姿をしていたというのに。
理性が無くなった途端。人は、こうも変わるというのか。
そのまま、職場へ歩く。今日中に、書かなければならない書類が百三十通もある。その上、それらの全てに政治的判断が必要となる。李需と顔をつきあわせるのは憂鬱だが、他に方法もない。
今、此処にいる董卓は。牢の中にいるものの、双子の弟である。本当の名前は董俊という。
董卓は兎に角敵が多い男であり、常日頃から気が休まることがなかった。辺境の名家の出身であり、周囲に異民族達も多く。彼らへの対応で若い頃から気を揉んでいた董卓は、猜疑心の塊のような男だった。
若い頃には、それでも義侠心を持ち合わせてもいた。兵士達には気前が良かったし、自分の戦下手を理解して部下達に作戦も任せていた。だが、しかしだ。中年にさしかかってから、董卓は確実におかしくなった。今まで信頼していた部下達まで疑うようになり、そして、何回か、諫言した部下が斬られた。若くして息子が夭折してからは、更にそれが顕著になった。夜な夜な剣を持って街に出ては、人を斬るようになった。それを、武人達が捕らえて、牢屋に押し込むことになった。
元々、地方豪族である董家は、軍事力も弱く、反乱をしても成功する可能性は低い。地元の異民族達とどうにか折り合いを付けてはいるが、それも薄れ始めていた状況なのである。
結果、董家の中で、会議がもたれたのである。
出席したのは、董卓の母と、兄弟数名。後は、夭折した董卓の息子が遺した、孫娘だけであった。
その時のことを、今でも董俊は思い出すことが出来る。
孫娘は大人しい子供で、曾祖母の膝に乗って無邪気に笑みを浮かべ続けていた。その会議で、母が最初に発言する。今でも、故郷である鮮卑の衣服を愛用している彼女は、顔に蓄えた皺以上に、威厳を保っていた。
中華のしきたりでは、儒教思想に従い、男系社会の傾向が強い。しかし、董家では、異民族達を懐柔するために、三代にわたって周辺の騎馬民族から嫁を取っている。そのため、母系社会である騎馬民族の影響が強く、今でも最大の権力者は母だった。
「もう卓はだめさね。 しかし、今、卓の代わりになれる者はいない」
はっきりそう言われると、我こそはという顔をしていた、下の弟である旻は、悔しそうに俯いていた。
母が顔を向けたのは、俊であった。董家のしきたりによる順番的には白なのだが、いくら何でも幼すぎる。それに漢民族のしきたりでは、女性が高い社会的地位に居座るのは難しい。実権を握っていた例はそれこそ幾らでもあるが、この子はさほど賢くもないし、何より幼すぎる。
「俊。 お前が代わりに卓になりな」
「は。 しかし母上、俺は卓兄者の影武者に過ぎません。 兄者よりは戦も出来る自信はありますが、顔役達をあれほど巧くまとめられません」
「卓もね、擢が早死にした時には、そんな事を言っていたよ。 あんたは見たところ、卓に比べてそれほど劣っている訳でもない。 足りない分は、経験を積んで補いな」
長い煙管から煙を吹き出すと、母は咳き込んだ。背中をさする白は、卓には似ておらず、随分優しげな目をしている。兄には過ぎた孫娘だなと、俊は思った。多分早死にした、卓の息子の嫁が優しい女だったからだろう。
「分かりました。 しかし、卓兄者はどうしますか」
「連れて行くしか無かろう。 それにしても、この大事な時に。 あの子は結局、心が最後まで脆いままであったわ」
母が煙を吐き出すのを、静かに瞬は見つめていた。
その会議から、しばし経って。黄巾党の乱が起こった。しばらくは兄のように粗暴に振る舞っていた董俊は、やがて兄の悪い所を少しずつ己の中から追い出すように動き始めていた。わざと戦に負けるのもうんざりであったし、宦官共に媚びを売るのはもっといやだった。
李需を母が連れてきたのも、その頃である。元官僚だと言ったが、何処まで信用できるかは分からない。ただ、母が使えと言ってきた男である。逆らう訳には行かなかった。それに、卓と違って政に才がない俊は、李需がいなければ、まともに仕事をこなす自信がなかった。
書類をようやく処理し終えて、肩を叩く。
董俊は、今まで結婚もしていない。妾も何人か囲ってはいたが、いずれも長続きせず。最近は兄の事も考えて、短期契約で娼婦を雇うようにしていた。だから子供もいない。作る前に、年を取りすぎてしまった。
ため息をついて、幕舎に戻る。
兄のことは恨んでいた。しかし、解放されてみると、それ以上に辛い仕事を、兄がこなしていたように思えてくる。発狂してしまった兄が、寝床の下に潜んでいて、あのぶくぶくと太りきった手を伸ばしてくるのではないかと、想像してしまう。
何度、夜中に跳ね起きたか分からない。
少しずつ、確実に。董俊は消耗しつつあった。
側で寝ているのは、兄が死んだことで、堂々と囲えるようになった愛妾。やっと大人になったばかりで、殆ど子供に等しい娘だ。あまりにも性交の頻度が多いので、どの愛妾も体を壊してすぐにやめてしまう。この娘も、少し前からいつもうつらうつらとしているようになっているから、あまり長くは保たないだろう。
そして、当然のように。子供も、出来ることはなかった。
額の汗を拭う。
何もかもが、気怠かった。
青州で村二つを潰し、それを黄巾党の仕業に見せかけて戻ってきた林は、部下達の報告を受けていた。そろそろ芙蓉も会議に出して良い頃である。一人前くらいの力量は、そろそろ得つつあるからだ。
だが、年齢的にまだ若すぎることもあるし、何より戦略や戦術を身につけていない。実戦での体の動かし方は分かっているが、それだけだ。だから、今は。会議に出すよりも、専門の教師につけて、孫子から何から、軍学書を学ばせているのである。
暗い部屋である。いつも会議の場所は変わるが、此処は酒屋の地下であり、周囲には無数の酒桶が並んでいる。つんと甘い匂いが鼻をつく。酒好きにはたまらない空間であろう。
「董卓の身辺ですが、やはり細作が多くて簡単には近づけません」
「そうか。 無理に近付いて、人員を損ねるな」
「は。 今の時点では、これらの情報が、判明しております」
さっと並べられる竹簡。ざっと目を通す。
やはり、女の嗜好が随分変わっている。それに、おかしな点がある。
「息子が死んでから、あの男はだいぶ抱える女を減らしていたはずだったな」
「は。 そのように聞いております」
「その割には、女をかなりのペースで抱き潰しているな。 しかも、若いを通り越して幼いと言われるような娘ばかりだ」
「そう言われれば。 新しい愛妾も、私が向こうを出るつい三日前に体を壊して、暇を貰っていたようです」
しかも、常時三人を身近においている状態だ。
女になっている以上、別に囲うことに問題はない。政略結婚が絡むと、十二三才の娘を妻にする場合も珍しくはないのだ。ただ、この時期になって幼さの残る娘ばかりを好むというのは、少し妙だ。
やはりこれは、別人に入れ替わったとしか思えない。しばし口を押さえて考え込んでいた林だが、頷く。
「青州はお前達に任せる。 私は董卓を探る。 四人だけついてこい」
「何か、気になることが」
「恐らく、今董卓と呼ばれている男は別人だ。 元々董家は多くの異民族の血を混ぜ込んでいて、独自の風習を多く持つともいう。 北方の騎馬民族は、母親の権限が強く、女性達が漢よりも遙かに生き生きとしているとか聞いている。 ひょっとすると、董卓の老母が、未だに実権を握っているのかも知れん。 我々としても、もう少し情報を探らないと、本質を見誤るおそれがある」
「なるほど。 分かりました」
今後、漢王朝を潰すのに、董卓は最適の人材だ。ただ、まだあまりにも保有権力と戦力が小さい。今後何かしらの方法で戦力を増やさせないと、漢王朝を揺るがさせるのは難しいだろう。
近辺にいる、李需という新しい参謀のことも、しっかり調べておきたい。何者か見極めておかないと、足下をすくわれる可能性もある。保有している細作の数もかなり多いようだし、部下達に任せておくと危ない。
「一応、毛大人とも接触を持て」
「情報を交換するのですか?」
「そうだ。 宦官と接近している毛大人も、そろそろ新しい顧客を捜している時期だと聞いている。 董卓を有望視している可能性もあるから、情報を収集するためにも、接触はしておいた方が良い」
後、幾つか細かいことを決めると、流れ解散となった。
芙蓉の父は、青州方面の指揮を執る。後、数人を荊州にまわして、情報を探らせる。今、黄巾党の乱から逃れた無数の民が、長江の流域にある荊州に集まりつつある。あの辺りが、今後歴史の中心になる可能性がある。許と並んで、目を離せない地区だ。
外に出てから、管理している家の一つへ。丁度今、芙蓉の教師を招いている時間だ。覗いてみると、竹簡にちょくちょくと手習いをしている時間であった。上級の豪族ではないから、紙など使えない。墨をすっては、手習いを続けている。
芙蓉は良くやっている。かんしゃくを起こしても、教師を殺すようなこともない。殺してはならないと、告げてあるからだ。
それに、教師も良い。黄巾党の乱で、宦官共に賄賂を渡さず、首にされた盧植を、何と雇うことが出来たのだ。そのうち官職に復帰するのはほぼ間違いないと言われているから、今の内に学ばせることが出来るのは幸運である。豊富な実戦経験と知識を持つ盧植は、世間の評判など関係なく、良い教師だ。
手習いが終わり、盧植が家から出てくる。厳しい目をした、背の高い老人である。かなり武術にも長けると聞いているが、それ以上に気むずかしさが目立つ。
二三話をした後、給金を渡す。丁寧に確認した後、盧植は言った。
「あまり家庭のことに口を挟む気はないが、娘さんには、もう少し光を当てた方が良いでしょうな」
「のびのびと暮らさせていますが、それでは駄目ですか?」
「……貴方、あの娘に何を仕込んでいるのですか。 時々、戦に出過ぎて心を焼かれてしまった武人のような目をしていますぞ。 巧く隠してはいるが、武術も相当に出来るようだし。 そのまま放っておくと、将来は怪物になりましょう」
しばし、視線をぶつけ合う。
最初に視線を逸らしたのは、盧植だった。
「まあいい。 私は今、しがない一教師に過ぎませんからな。 これ以上、ご家庭のことに口を挟むのはやめておきましょう」
「貴方は優秀な教師です。 それを評価して、暮らせるだけの給金を渡しています。 これからも、娘にあらゆる知識を仕込んでいってください。 お願いしますよ」
一目で分かることだが、盧植は強い。老いてはいるが、並の武人ならそれこそ瞬きする間に斬り伏せるほどの腕前だ。林でも、戦うとなるとそれなりの準備が必要になってくるだろう。
だが、盧植は宦官共に賄賂を渡さなかったために、今は散々否定的な噂を流されて、その名誉を帳消しにされている。如何に優れた学者でも武人であっても、喰えなければ、生きていけないのだ。
頭を下げて見送ると、家に入る。芙蓉が、まるで子供みたいに、にこにこと微笑んでいた。
「あ、母上。 お帰りなさい」
「ただいま。 と言っても、すぐに并州に出かけなければならないけれど」
「またお仕事?」
「ええ」
いいなあと、芙蓉は口を尖らせる。二月ほどは、学問に集中させる。あまり殺しばかりさせると、中毒になるからだ。殺戮中毒になると、やはり冷静な殺しが難しくなってくる。幼いうちになってしまうと、細作としては致命的だ。殺人兵器であることは、優秀な細作である事を意味しない。
それに、今回は余裕のない任務になる。まだ推測段階だが、李需の正体が林の予想通りだと、かなり危険な相手だ。武力はないだろうが、しかし。多くの手練れを同時に相手にするのは、相当に神経を使う。まだ幼い芙蓉には、とても耐えられないだろう。
今回は探るだけだが、それでも命がけだ。だから、此処に芙蓉は残していく。
一日だけ一緒にして。後は、すぐに旅だった。
目指すは并州。広い中華でも、最辺境と言っても良い場所である。董卓の古巣であり、現在目立った官職を与えられていない奴が、軍を率いて駐屯している場所でもある。
行く途中で、訛りは身につけておく。
そして、心残りもないように、しておく。
何時死んでもおかしくない、細作としての心得であった。
5、埋め火
曹操が兵を率いて、?州に帰ってくる。反乱鎮圧の帰りであった。兵士達はうんざりした顔をしている。無理もない話である。皆、反乱を起こしている方にこそ、同情していたからだ。
黄巾党の乱が終わった後も。案の定、戦乱は終わりなどしなかった。
彼方此方で小規模な反乱が頻発し、逃散して流民になる農民が続出した。現状では、治安が最悪なこともある。
だが、それ以上に。暮らしていけないのだ。
まず食料がない。増税に次ぐ増税で、豪族達でさえ喰うものに困るような状況である。その上、事態を理解していない宦官や外戚達が、なおも賄賂を求めるものだから、更に状況は悪化する。
かくして離散した農民達は賊になり、山や河にて略奪を行うようになった。一度悪事に手を染めると、人間は際限なく落ちる。すぐに人殺しも経験するようになり、悪い者同士で集まって、更に大規模な残虐行為を行うようになる。
今回、曹操が討伐したのは、そんな「賊」の一派だった。山に籠もり、周辺の村を襲っては略奪、暴行、殺戮を繰り返した者達であった。だが討伐してみると、皆がりがりにやせ細っており、抵抗する力も殆ど無かった。倉庫にも殆ど蓄えなど無く、砦の裏手には餓死者の死骸が大量に遺棄されていた。
しかも、そのうちかなりの数に、肉を食った跡が残っていたのである。
憂鬱な顔をする兵士達に、死骸を埋葬させて。首謀者達の首をはねた後、残りは捕虜として連れて帰ってきた。幸い、曹家にはある程度の金と土地がある。農民として使い、いざというときには兵士にもするつもりであった。
自宅に戻ると、机の上にルーが報告書を置いていた。神出鬼没な奴である。ひょっとすると、床下当たりに潜んで様子を伺っているかも知れないが、別にそれはいい。さっと目を通して、状況を把握していく。
各地で官軍も動き出してはいたが、しかし反乱の数が多すぎる。特に大規模だったのは、涼州で発生した反乱である。
漢王朝には、三公と呼ばれる高位の官職がある。かってからこれらは、外戚が独占しており、特に袁家の者達が歴任していた。軍務を司る大尉、土地と人民を管轄する司空、財務を支配する司徒の三つの役職がそれに当たる。この中でも、この反乱では司空である張温が六個師団に達する兵を率いて鎮圧に向かった。そして、戦は下手だが対異民族の戦闘で実績を上げている董卓も、従軍を命じられた。
この涼州の反乱は、完全に無法地帯化している状況の中で、土地の有力豪族である韓遂等が半独立国家を作ろうと目論み、起こしたものである。元々混沌としていた状況が、これによって更に加速し、もはや涼州に秩序はなくなった。流石にこの状況を見て、宦官達も焦り、討伐には同意したのである。
ただし、自分たちの子飼い(だと考えている)董卓をつけることを、忘れなかったが。
官職ばかり高くて実戦経験がろくにない張温が動員されたのは、多分皇甫嵩や朱儁に、これ以上手柄を立てさせないようにするためだろう。宦官どもも大概愚かだが、外戚もそれに匹敵する。彼らに任せておけば簡単に片がつくのに、自分たちの権益が侵されるのを恐れているのだ。
張温は外戚の中でも特に権力が強く、複雑な関係を宮廷に張り巡らせている。それ故に横柄きわまりなく、閲兵した霊帝に拝礼さえしなかったと、ルーの報告書にあった。細作を増やしているだけあって、よく調べているものだと、曹操は感心した。ルー自身も忍び込みの達人だし、或いは自分で見たのかも知れない。
傲慢な老人の顔を、曹操は思い出していた。盧植のように老いと共に知恵と力を蓄える者もいる一方で、こういう無能な老人もいる。なにやら面白い事実ではないか。
張温は確かに宮廷内では大きな力を持っているかも知れないが、辺境の血みどろな争いで力を蓄えた韓遂をはじめとする猛者達には、そんなものは通用しない。それに、率いていくのが董卓では、制御もしきれまい。
報告書を一通り見てから、曹操は失笑していた。この討伐軍は失敗する。一応実戦経験豊富な孫堅もついているが、それを相殺するように、冷酷なことで知られる陶謙が参謀についている。それに動員される官軍は、黄巾党との戦いにもあまり出ていない。宦官子飼いの部隊ばかりだ。黄巾党よりも遙かに手強い涼州軍閥の戦力の前には、まるで無力だろう。
「ご坊。 報告を読み終わったようですな」
「ずっと其処にいたか」
不意に床下から聞こえてきたルーの声に、曹操は内心ちょっと吃驚しながらも、表向きは冷静に応えた。やはりいきなり床下から声がすれば、曹操でも驚く。
「少し前に調べたのですが、董卓が面白い動きをしております」
「今は何処の軍閥も、己の兵力を蓄えるのに必死だからな。 荊州近辺でも劉表が兵力を蓄えているし、北部国境では劉焉が虎視眈々と皇帝の座を狙っておる。 今は、私もある程度兵力を蓄えたい所だ」
「ひひひ、背にばかりこだわっている場合ではありませんな」
「そのようなことは関係なかろう」
内心どきりとしながらも、曹操は冷静をどうにか保ったまま言った。この娘は、どうしてこう、人の急所を的確に突いてくるのか。恐ろしい奴である。
「それで、董卓の動きとは」
「はい。 それが、どうやら、今回の反乱にかこつけて、涼州の太守になる事を考えているようでして」
「ほう」
対異民族に関しては、並ぶ者のない董卓である。確かに、血で血を洗う抗争の中で鍛え上げられている涼州の兵士達を部下に抑えれば、一気に戦力を拡大することも出来るだろう。
問題は、無能な張温による討伐がほぼ確実に失敗することと、それによって多くの兵が失われるだろうことだ。それをどうやって抑えるのかが興味深い所である。
「監視を強めよ。 細作として、多くの人数を雇ってかまわん」
「はい。 ご坊の仰せのままに」
ルーの気配が消える。
曹操は無意識の内に、背を伸ばす事が出来るとふれこんでいた漢方薬が入っている机の棚に触れていたことに気付き、慌てて手を引っ込める。雑念を追い払うと、今後の対応と、どうやって兵力を蓄えるかを、しばし考え続けていた。
(続)
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