流れゆく民の嘆き

 

序、漢王朝の軋み

 

中国を貫く大河。名前の通りの色を湛えた黄河のほとりに、立ちつくす男がいた。既に老いている、痩せた小柄な男だ。流れゆく濁った川。今日もまた、死骸が二つ、三つと流れてゆく。だが、誰もそれに構うことはない。

いつしか、男の中も、感覚が麻痺していた。

このままでいいのか。

自問自答するが、答えなど出る訳もない。乾ききった大地。荒れ果てた田畑。そして、気力無く木陰に蹲る農民達。このような状況にもかかわらず、己の権力しか頭にない宦官共と外戚が、いつ果てるとも知れぬ暗闘を繰り広げて、地方を顧みることもない。腐敗しきった国と、どうしようもない現実。既に老境に入りつつある今、男に出来ることは、あまりにも少ない。

疲弊した体を引きずって、自宅に戻る。既に弟たちが来ていた。

かろうじて屋敷の体は保っているが、既に使用人は二人しかおらず、妻も若い男と逃げてしまった。弟たちも同じような状況である。

「兄者。 やはり、難しい状況か」

「ああ。 中央は相変わらず宦官と外戚が下らぬ争いを続けておるわ。 嘆願書を如何に送った所で、何の沙汰もない」

屑がと、弟の宝が吐き捨てる。下の弟である梁は、より危険な光を目に宿していた。

年の離れた二人の弟は、男を親のようにしたっている。宝は体格が良く、剣が得意で、長い顎髭と逞しい肩の持ち主。梁は背がひょろりと高く、槍を得意としていて、細い眼が特徴だ。かって知識人として名を広め、考廉に押されたこともある兄は、弟たちにとって神にも等しい存在であるらしい。だからこそに、その尊厳が踏みにじられている今の世、そのものが許せないのだろう。

男の名は張角。かって名を広めたその知恵も力も衰えきり、今では田舎の貧乏豪族の一人でしかない。

特に、無能だった訳でもない。

中央で繰り返される暗闘の煽りを、たまたま食ってしまったのだ。

元々学問の弟子だった県令(知事)はそんな張角に同情して、色々便宜を図ってはくれている。だが、地方の一県令の発言力など、中央では知れている。嘆願書など、見向きもされはしない。

「党錮の禁以降、何もかもがおかしくなってしまったな」

「いや、もうこの国は駄目だったのさ。 光武帝が立て直した漢も、いよいよ命脈が尽きたのだろうよ」

「声が高いわ、梁。 だが、確かにその通りだ。 国には英傑無く、民は疲弊しきり、要領の良い小物ばかりが利を得る、か」

宦官と外戚の争いは暴走の一途を辿るばかりだ。どちらの派閥がどうの、血脈がどうのと吠え合う内に、国の傾きはどうしようもない所まで来ていた。既に各地では小規模な反乱が勃発しはじめており、それは徐々に中央へ近付きつつある。地方軍閥は力を付けはじめているし、北方や南方の異民族達は、蠢動を始めている。後一押しで、この王朝は崩壊するだろう。

「そこで、だ。 儂はもう長くない。 今の内に、せめて後世の者達が楽を出来るように、この国を潰す手を打ちたいとおもう」

「弱気なことを言うな、角アニキ」

「そうだ。 まだアニキは若い」

「いや、もう長くはないさ。 咳にも血が混じるようになってきた。 これは父上と同じ病だろう。 父はこうなってから、三年と保たなかった。 儂は体が弱い分、父よりも更に早く天に召されるだろうよ」

しばしの沈黙。

やがて、不意に宝が手を叩いた。

どやどやと、屋敷に数人の男達が入ってくる。いずれも劣らぬ凶悪な面構えで、明らかにカタギの者達ではなかった。

張角は動じない。

知っていたからだ。弟たちが、何をしているか。

抱拳礼をすると、男達は跪く。先頭の恰幅がいい大男が、後ろの目つきが鋭いやせぎすの男を視線で指しながら言う。

「張角先生。 俺は趙英。 此方は王真と申しやす」

「知っているぞ。 どちらも荊州で反乱を起こして、討伐された者どもだな。 首はあがらなかったと聞いているが、此方に来ていたか」

「へえ。 お恥ずかしい限りで」

「それで、儂に何のようだ。 弟どもに聞いて知っておろう。 儂には銭もないし、盗賊や山賊への伝手もないぞ」

お人が悪いと、趙英は笑う。もちろん、張角もそれを知った上で、わざと聞いていたのだ。

「先生に助力いただきたいのは、理由でごぜえやす。 その溢れる泉みてえな知識で、漢王朝をぶっ倒す、正当な理由をこさえて欲しいんでさ」

しばしの沈黙の後、張角は頷く。

元々、決めていたことだ。そして、弟たちは、それを察して、背中を押してくれた。孝行な弟たちではないか。

幸い家族は、既に弟たちしかいない。使用人達はずっと尽くしてくれたから、早めに暇を出して故郷に帰らせればいい。彼らもこの苦難の時代の人間だ。豊富な退職金を渡し、それで身を振って貰う他無い。

「分かっておろう。 家族は愚か、子々孫々に到るまで、鬼畜魔道の名を残すことになるだろう。 後の歴史家達には邪悪の権化とされ、公式の記録にもそれを書き連ねられる事だろう。 それでも良いのだな」

「家族は既に死にました。 県令の野郎が、宦官共に賄賂を造るために絞り上げた税金のせいで、満足に粥も食わせてやることが出来ませんで。 それに、後世の悪名なんて、知った事じゃございやせん。 俺らは、現世でさえ、もう居場所がありやせんから」

「ならばいいだろう。 この張角、党錮の禁以来、既に全ての名誉を失っておる。 ならば、最後に儂を信じる弟たちと共に、地獄に堕ちる覚悟は出来ておるわ。 理由なら、既に考えてある。 そして、戦略もな」

「頼もしい限りで」

県令も、最近は張角をもてあましている雰囲気がある。あの男も、所詮は其処までの器だったと言うことだ。ただ、今まで色々手を尽くしてくれはしたから、それなりの礼はしなければならないだろう。

「蒼天は既に死んだ」

立ち上がる。

確かに、空は曇っていた。陽の光はあくまで弱く、疲弊しきったこの大地を照らすには到らない。

そして、既に始まりつつある。

この国が滅び行く時、必ず起こることが。

「そなたら、名を変えよ。 趙英、そなたは馬と名乗れ。 字は元義が良かろう。 王英とやらは、波と名乗れ。 名は才が良いだろう」

それぞれ、大きく頷く。

この時。

張角の中で、この国が、滅ぶことが決まった。

張角が立ち上がると、弟たち二人と、腹心二人が、さっと抱拳礼をする。彼らを見回しながら、張角は言った。

「われらはこれより、黄巾の党を名乗る。 この名乗りに応じる者は、髪を黄色い布で束ねよ」

「黄色の巾で、ございやすか」

「そうだ。 漢王朝の色は青。 その青を克服するのは、黄であるからだ。 我らは漢王朝より空を取り戻し。大地を黄に染める。 この冀州より、この国の全てを揺るがし、変えるのだ」

現在、漢王朝でもっとも豊かな州の一つが、ここ冀州。黄河の北、中国の北部にあるこの州は、多くの文化人を集める豊かな場所だ。だが、それでも。これほどまでに、民は虐げられている。貧しい州の現実がいかなるものか、それは目を覆わんばかりの惨状であろう事は、足をわざわざ運ばぬでも分かる。

黄巾にて髪を束ねた者達を連れ、張角は街に出た。そして、小高い丘に登る。街道が一瞥できる場所だ。

そして、指さす。

視線の先には、豊かだと言われる冀州の州都へ向かう民が、群れを成している。まるでアリのように。いや、アリよりも多いかも知れない。がらがら、がらがらと、車を引く音がし続ける。

砂塵が舞い上がる。その中を蠢く、無数の影。

流民だ。

この国は、古くより人間が多すぎる。

だから、一度政が上手く行かなくなると、こうして食べることが出来る場所へ、多くの人間が移動し始めるのだ。彼らは、他の州から冀州に流れ込んできた者達。そして、現実を知って、これから絶望にたたき落とされる者達でもある。

「見よ。 既に蒼天が死んでいる証拠よ。 そして彼らを黄夫とすれば、この国を転覆させるはたやすい」

「して、いかなる方法で」

「一番苦しい時、人がすがるのはなんだと思う」

顔を見合わせる弟たちと、馬と波。苦笑すると、張角は告げる。別に、無知は悪でも何でもない。

「神よ」

「なるほど、そう言うことでござんすか」

苦しい時、人がすがるもの。それは歴史を問わず国を問わず、人間に都合良く設定できる神々だと決まっている。だから国が乱れる時、「淫祠邪教」の類が大流行するのである。

恐らく神々などいないと、張角は考えているが、それは別にどうでも良い。恐らく、殆どの淫祠邪教でも、教祖は神の存在など信じてはいないだろう。それでも広がるのには、そういう技術があるからだ。

民は途轍もなく大きな力を持っている。

だが、その使い方を知らない。

だから、使い方を知る張角が、その力の向きを少しだけ弄る。これからするのは、そう言うことだ。

「そうだ。 この地に、新たなる神をでっち上げる。 それが実際にいるかどうかなどはどうでもいい。 そして神の代理人と名乗り、適当に奇跡の一つや二つでも起こしてやれば、一気に民は我らが元に集まろう」

奇跡を起こすなど、たやすいことだ。

民の中には、簡単な病に対する知識さえもない。治る病と、そうでないものは即座に見分けがつく。治る病を治してやりながら、それを大げさに喧伝するだけでいい。だましているのではない。実際にそれで助かる者もいる。

そして、もとより。張角は、既に魂が闇にある。今更、路を踏み外すことなど、それこそ何とも思わない。

あの時。己の全てを、欲望に起因した権力闘争から否定された時から。もはや、覚悟は決めていた。そして今、背を押されて。戦いの場に赴く決心もついた。これからは、張角なりのやり方で、民を救わなければならない。

多くの民が死ぬだろう。そして自分は闇へ堕ちる。何千年の後までも、その名は悪の象徴として語られることだろう。

それでも、構わない。

「それでは、早速手配しやす」

「うむ。 一カ所で奇跡を起こしたら、それを国中へ拡げよ。 武装可能な信徒が五十万を越えた時に、蜂起を開始する。 組織化と武器の手配も、それに合わせて進めておかなければならぬな」

「流石は先生。 頼りにさせていただきやす」

さっと、強面の男達が散る。弟たちを促して、自宅に戻りつつ、張角は頭の中で名簿を作り上げていた。

いずれもが。宦官どもに排斥された、知識人達だ。張角と同じように、党錮の禁で全てを失った者ばかりである。

墨をすると、凄まじい勢いで竹簡に名を書き連ねていく。やがて三束ほど出来た所で、弟たちに手渡す。

「連絡を取れ。 いずれもが、宦官と、今の漢に恨みを持つ者達だ」

「必要でしょうか」

「必要だ。 流民の力だけでは、反乱はならん。 今だある程度の関係を中央と結んでいる人間の協力も欲しい。 宦官共を利用するためにもな」

美しい娘も探せと、張角は言った。

もちろん、自分で味見をするのではない。皇帝に献上して、外戚としての力を得るためだ。その力は、立身などのためには使わない。全て、漢王朝を転覆させるためだけに用いる。

他にもやることはある。にっくき宦官どもとも、連絡は確保する。これは、いざというとき相手の足並みを乱すためだ。かなり危険な任務になる。馬か波か、どちらかを派遣しなければならないだろう。

そして、民の間に、密かに連絡網を作り上げることも必要だ。これに関しては、既に案を示してある。ただしそれぞれが、徹底的に頭に叩き込む必要があり、足並みが乱れると一気にほころびが生じかねない。

具体的な説明をし終えると。不思議と、涙が浮かんできていた。弟たちもだ。

「すまぬな、宝、梁。我ら三人、もはや闇以外に先はないと知れ。 我らはこの国を揺るがす切っ掛けとはなることが出来ても、新たなる国を建てることは出来ないだろう」

「分かっている、兄者」

「そうよ。 この世はもとより闇。 我らは兄貴だけが側にいればいい。 このくだらねえ国をぶっつぶして、そして悪名を後世に広めよう」

三人で、酒を飲み交わす。

それは事実上の、今生の別れであった。

 

1、細作

 

闇の中を走る影が一つ。それを追う影が三つ。舌打ちすると、追われる影は速度を上げる。追跡者も、それに合わせて速度を上げた。此処は、洛陽。漢の王都。そして魑魅魍魎が跋扈する、闇の都でもある。

家々の屋根を踏んで走りながら、逃走者は懐に手を入れる。まだ若い娘だ。だがその目には、果てしない闇が湛えられている。

振り返り様に投擲した懐剣が、影の一つを貫く。残りは二人。

王宮に忍び込んで、機密書類を盗み出したのだ。たかが五人の追っ手くらい、でて当たり前である。そのうち三人は、今までに屠った。残った二人は、左右に散る。屋根の上で転がった死骸が、ずるりと滑り、地面に落ちていった。

結構大きな音がしているのに。家々から出てくる人影など一つもない。

腐りきっている役人と、兵士達には、頼っても無駄。通報する意味もない。自分が被害を受けなければいい。

誰もが、そう思っているのだ。

だから、仕事もやり易い。

左に回り込んだ男が、一瞬早く仕掛けてくる。刀を振りかざして、突進してきた。遅れて、右側の男が、懐剣を投げつけてくる。質が低い追っ手である。毛大人も、もう少しましな部下を育てておけばいいものを。

屈んで懐剣をかわすと、突進。左の男の懐に潜り込むと、抜刀。腹を一文字に斬って捨てた。更にもう一本、飛んできた懐剣をはじき返すと、残る一人にせまる。形勢不利と見たか、身を翻して逃げようとするが、遅い。即座に追いつき、首を跳ね飛ばす。すっ飛んだ首は、近くにあった共用の井戸に飛び込んで、大きな水音を立てた。

刀を振って血を落とし、鞘に収める。

さて、追っ手がまた現れないうちに、ある程度距離を稼がなければならない。

洛陽は広い。だが、二重の城壁に囲まれたこの街も、既に間隙だらけだ。忍び込むことも、抜け出すことも難しくない。

廃屋に潜り込むと、女官の衣服を脱ぎ捨てて、庶民のものへと代える。そして廃屋を出ると、もはや追跡者が掛かる可能性はゼロとなった。後は巡回の兵士に、難癖を付けられないように気をつけるだけでいい。

娘は細作。

この国の影に生きる者である。

そもそも、孫子の頃から、この国では密偵を育成することが盛んだ。殆どの場合、密偵は内部の人間を裏切らせることで行わせたり、或いは商人や農民に化けて潜り込む。主な仕事は情報収集。今回娘が行ったような仕事は、例外中の例外なのだ。逆に言えば、だからこそ特殊訓練を受けた娘のような人材は重宝されるのである。

この書類は、政策に関するものではない。軍事に関係するものでもない。もっと単純で、おぞましい内容だ。

現在、権力を握っている宦官がいる。

一般に、十常侍と呼ばれる者達だ。

この一人。徐奉という男が行っている、悪しき行状の記録。それが収められているのだ。

不意に、闇の中から声がする。夫のものだ。

「書類は盗み出したか」

「此処にある」

いつのまにか、少し娘よりも背が高い男が、隣を歩いていた。目にはまるで感情が無く、歩いている時も足音がしない。

「追っ手は」

「皆殺しにした」

「そうか。 重畳だな」

それで会話は途切れる。

もとより、機械的に子供を作っただけの間柄だ。世間一般で言われるような愛情などないし、互いに死んだ所で何とも思わない。人間的な感情など、必要とはされない。それが、この闇の世界だ。

娘は組織の長。代々組織を束ねるのは女と決まっていて、組織の長は襲名する。林とだけ、長は呼ばれるのだが、これも不思議なことだ。この国の名前では考えられない。だが、それが故に。この組織の異常性が際だっているとも言えた。

廃屋にはいると、複数の影が、一斉に抱拳礼をした。

その中の一人が、幼子を抱いている。その姿を見ると、娘はどうしてか、心が僅かに和む。

しかし同時に。これから如何にこの子供を育てて、闇の技の数々を教え込むか。それにも、興味が行くのであった。

「目的のものは奪い取ってきた」

「流石にございます、林大人」

「ああ。 そこで、これから次の段階に移行する」

影を見回すと、娘は言葉を一旦切った。

彼女の目的は、現時点では、この国の転覆だ。そのためには、幾つか順番にこなしていかなければならない段階がある。

「以前の会議でも説明したが、今急速に黄巾党と呼ばれる勢力が台頭してきている。 これを利用する」

「今回、林大人が強奪した書類を、横流しするのですな」

「ああ。 この内容は、宦官の一人徐奉の弱みとなる。 これを、現在洛陽で我らと接触のある馬元義に渡す」

そうすることで、黄巾党が、宦官との関係経路を造る切っ掛けとするのだ。林はそう言った。

既に、黄巾党が、漢朝への反逆を目論んでいることは分かっている。その勢力は二十五万にも達しており、そう時を経ずに三十万を越えるとも推察されている。しかもこれは、戦闘可能な人数に限っており、一般の信徒に限っては更に数が多い。幾つかの州では、住民の半数近くが黄巾党になっている所もあるほどである。

そして、黄巾党は。己の勢力を更に拡大するために、宦官との接触を図っている。今の宦官共は、基本的に己の権限の拡大にしか興味がない。黄巾党が増えることに対する危険性は、まるで認識できていないのだ。

現在の皇帝は暗愚の極みにあり、宦官がふんだんに与える美女と性行為をすることしか考えていない。それを操る宦官共は、それと大差ない愚かさで、己の権力だけを求めている。対抗する外戚はどうかというと、これも大差はなく。今の機にと各地の豪族と結託し、軍閥化を無軌道に進めている有様だ。

放って置いても、この国は空中分解する。

だが、それを更に後押しすることで。後の負担を小さくしなければならないのだ。

ただでさえ、腐敗しきった政の煽りを受けて、各地では流民が発生しつつある。後一押しで、致命的な大分裂が始まる。

林の目的はこの国の転覆だが、その先にある目的は、己の権力ではない。

それは、幹部にさえ話したことがない。

林の両親がこの組織を編成するのに、十年かかった。それを目的に応じて編成するために、更に五年が掛かった。

今では、百人を超える規模にまで成長しているこの組織は。ただ粛々と、目的のために動き。そして今も、多くの成果を上げつつあった。

部下の一人が、廃屋に入ってくる。抱拳礼をする彼が、報告を始める。

「ご注進です。 袁成の使者が接触して参りました。 林大人の奪われた書類を、欲しているようです」

「ふん、流石に動きが速いな」

袁家と言えば、名門中の名門。反宦官の勢力の中でも、最大の実力を持つ家だ。もし反乱を起こせば、この国の半分を従えることも可能だろう。あくまで、一枚岩になれば、だが。

「写しをくれてやれ。 もう少し、事態を混乱させた方がいいだろう。 だが、時間差を付けろ。 同時に渡すと怪しまれる」

「は。 馬元義殿を優先いたしますか」

「そうしろ」

これにて解散というと、すっと部下達の姿は消える。

身繕いを少しすると、林は廃屋から出る。既に夜明けになっていた。

大通りには、人が集まり始めている。流石に死骸の周囲では騒ぎが起きているが、通行人は極めて官憲に非協力的な様子であった。それはそうだろう。巻き込まれたくないのだから。

鼻を鳴らすと、林は闇に消えるようにして、雑踏に潜り込む。

そして、その気配は消えた。

 

洛陽を出た林は、城門を見上げた。煉瓦が積み上げられた、堅固な城門。漢王朝の象徴である。

漢王朝。楚漢の死闘を制した劉邦が立ち上げた、この土地の統一王朝である。

一度王莽という男の手で滅びはしたものの、名君として知られる光武帝の手によって再興され、今に至っている。ただし、その命脈は、漢の再興以来百六十年ほど経った今、既に尽きつつある。

この国を揺るがしているのは、何時の時代の王朝も苦しめられた、二つの癌。宦官と、外戚である。どちらも林は大嫌いだ。だから、今回の目的が果たされたら、個人的な策謀で両方とも皆殺しにしてやろうと考えている。

宦官とは、主に皇帝の後宮、つまり跡取りを造るべき妻達の世話をする人間のことである。「万が一のことが起こらないようにするために」、男性機能を切除しており、それがゆえバランスが欠けた欲望を持つことで知られている。性欲が減退する分権力欲が増大する傾向が一般的にあり、そのために幾多の王朝を混乱させ、滅亡に導いた者もいる。秦を滅亡に導いた趙高等が特に有名である。

基本的に彼らは皇帝の妻達の機嫌を取ることが上手であり、しかも皇帝の身近にいる。そのために、皇帝が暗愚だと、大きな権力を与えられやすい。その上専門的な知識などある訳もなく(例外はあるが)、己の権力を如何にして増大させるかばかりを考えるため、政の混乱を招きやすいのである。

また、外戚とは何か。これは皇帝の妻達の、家族のことだ。

言うまでもなく、此方も皇帝の妻から直接つながっているため、大きな権力を得やすい。逆の状況として、最初から外戚が強力な力を持っており、皇帝がその力を頼みに即位する場合もある。

これら二つは、欲によって支えられた権力であることは言うまでもない。

ただ、何故これら二つの勢力が力を持ったのか。それにはまた、大きな闇が秘められている。

街道を歩く。人気は少ない。軍が行き来しやすいように石畳は整備されているが、ただそれだけである。この国の経済は、今摩耗しきっている。王都である洛陽でさえ、経済の沈滞が著しく、浮浪者が街中に溢れているのだ。

林は、知っている。

家柄がない者が出世する方法が、二つだけある。

一つは己の生殖機能を切除して宦官となり、宮廷に出仕すること。

もう一つは己の娘や家族を皇帝に差し出して、権力を得ること。

以上だ。

今の時代、能力によって道を開くなどと言う事は出来ない。権力は既存の権力者達にしっかり押さえ込まれ、下手なことをすれば即座に追い落とされる。そんな魔境に踏み込むには、それなりの対価が必要だ。己の精を捨てて、子孫を造る望みを絶つか。己の家族を売り渡すか。それしかないのである。

もちろん、同じ事は既得の権益を握っている者達も行う。後宮が気楽な世界だと思ったら大間違いだ。其処は権力争いの壮絶な魔境であり、魑魅魍魎が蠢く万魔殿なのだ。欲望が人間の形を為して動き回り、暗殺や謀殺も横行している。

欲望によって、闇は濃さを増す。そして、一度得た権力を手放したくないのが、人間という生物である。

暗闘は繰り返され、いつしか全土がそれに染まった時に。光武帝劉秀が立て直した漢王朝の政は腐りきった。今では腐敗が国中を覆っている。役人は基本的に宦官と外戚の権力争いの結果任命され、能力は一切顧みられない。しかも彼らは任命者に対する「見返り」を得るために必死となる。つまり賄賂を送らないと、瞬く間に罷免されてしまうのだ。結果、各地では搾取に搾取が繰り返され、民の生活を圧迫。結果、もはや国はどうしようもない所にまで、傾きつつあった。

街道を歩くと、辺りには乾いた大地が何処までも広がっている。放棄された田畑だ。農民の中には、逃散してしまうものも多いのである。枯れ木のようにやせ衰えた農民が、まだ残っている田畑を耕してはいるが。彼らもいつまで、この状況に耐えられるか分からない。

林も、そういった逃散農民を先祖に持つ。

彼らの恨みを一身に背負っているのが、林という存在だと言っても良い。

黄河の支流に、橋が架かっている。渡る途中で、誰か高貴な人間の車列とすれ違う。拝礼しながらのぞき見ると、どうやら外戚の一人、何進であった。馬車の上でふんぞり返っているその姿は、何処か滑稽であった。何進は反宦官勢力の筆頭として持ち上げられてはいるが、林が見た所、何の能もない男である。いずれ目的の上で、宦官共と共倒れにさせるには、丁度いい程度の輩であろう。

何進の馬車を見送ると、歩く。目指すは許だ。許は洛陽近辺の大都市であり、今、林が大規模な拠点を構築している都市でもある。いずれ更に中央から離れた所に拠点を造ろうと考えているのだが、それはまだ先の話だ。ただ、その時には、荊州に本拠を置くことを考えてもいる。長江流域の荊州は、今後人が集まる可能性が高く、中央の混乱を眺めながら戦略を練るにはうってつけの場所だ。

数日間、旅を続ける。その途中で、徐々に通り過ぎる人影が増え始めた。やがて、それはやがて群れになり始める。

流民だ。

彼らは、求めている。自分を救ってくれる何かを。それは、食料であり、救いであり、そして信仰だ。

そして誰もが、漢王朝の破滅か、或いは現体制の回復を望んでいた。

貧しい流民の格好をして歩いていると、部下の一人が話し掛けてくる。単独での旅をしているように見せかけて、実は周囲に多くの部下が紛れているのだ。

「林大人。 黄巾党について、幾つか情報を入手して参りました」

「うむ」

「まず洛陽で、ついに馬元義殿が、宦官との接触を持ちました。 多額の賄賂を渡して、信仰の自由を要求しているようです」

「ふ……ん。 そのまま上手く行けば、我々のすることはないのだがな」

「は。 今ひとつは、同じく洛陽にて。 以前校尉を辞して故郷の?(エン)州に戻っていた曹操が、どうやら将校として復帰している模様です」

曹操か、と林は呟いていた。

噂に聞く俊英である。今まではあまり着目してこなかったが、何しろ非常に豊かな資金と人脈を持つ男だ。今後、どう歴史にかかわってくるか読めない所がある。その上、本人の能力は、林が唸るほどである。

平時には能臣となり、乱世では危険な人物になると、誰かが評していたと噂は聞いている。さもありなん。林も、この時代で数少ない能吏ではないかと睨んでいる程の男だ。今後、どのような台風の目になってもおかしくはない。

「何かが起こることを見越しているのかも知れんな。 目を離すな」

「御意」

後、幾つかの情報を渡した後、部下は再び流民に紛れて消える。

現在、林の組織は一種の秘密結社に近い。固定の支援者がいれば、もっと大胆に動くことも出来る。曹操は、将来見据えている、固定の支援者候補の一人であった。もう一人有能な人物がいる。袁成の息子である袁紹だ。だが、此方は、林はあまり支援者として期待は出来ないと考えている。何より、闇での最大勢力たる、毛大人が接近しているので、あまりすり寄る意味がない。

やがて、許が見えてきた。

都市の規模は洛陽に比べると、流石に小さい。

だが、活気がある。畑も豊かに実っており、人々の行き来も活発だ。

この様子では、この許こそが、新たな漢王朝の、或いはそれに代わる政権の首都となるかも知れない。

この国では、大都市は基本的に要塞を兼ねている。城壁が分厚く張り巡らされ、その内側に民が暮らす都市があるのだ。何しろ首都である洛陽からしてそうであり、無論許もそれは同じである。

開け放たれた城門から、するりと中に潜り込む。都市自体の活気も、もはや許の方が上回っているようであった。

「さて、と。 早速、顔を出すか」

呟く。

わざわざ、許まで来た目的は幾つかある。新しい拠点の下見が最たるものだが、もう一つは、細作として最大の勢力を持つ毛大人に挨拶をすることだ。この間仕事が対立して彼の部下を何名か斬り捨てたが、この業界では良くあること。誰も気にはしない。

もう一つの目的は。今、丁度この街に来ている、黄巾党の長。張角の顔を見ておくことであった。

誰もが感じている、世の動乱の足音。間もなくこの国は、かってない程の大乱に巻き込まれることであろう。だが、その中で主体的に動くことが出来ている者は、殆どいない。林がするべき事は。その僅かな存在を、的確に見極める、それだけだった。

 

2、庶民の嘆きと発火する怒り

 

また税が上がる。それを聞いた青州の農民徐伯は、憤慨して鍬を乾ききった地面に叩きつけていた。集会に来ている他の農民達も、皆憤っている。

最近、徐伯が暮らしている三百名ほどの小さな村では、長老と呼ばれる最年長の農民を中心として、集会がもたれるようになっていた。税が上がるようになり、そのままでは生活できなくなってきたからである。切っ掛けになったのは、長老の孫娘が餓死したこと。長老でさえそうなのだ。小作の百姓達の苦労は、言語を絶するものがあった。

夜、皆で集まることになった。無論役人などには知らせない。

村の裏手の竹藪で、密かに竈を造って火をつける。集まってきている村人達は、皆殺気立っていた。

「ふざけんな! 何が増税だ!」

そう叫んだのは、隣に住んでいる黄進である。徐伯より少し背が低くて、もう少し痩せている。彼の後頭部には黄色い巾が巻き付けられていて、闇の中その存在感を誇示していた。たき火の明かりに照らされて、黄色い巾はよく目立つのだ。

徐伯は薪を竈にくべながら、まず常識的な事から口にする。

「これ以上増税されても、出す米がないぞ」

「その通りだ。 村の保正(村長の役割をする役人)に掛け合う他ねえ」

「無理だ。 あの男も、県令とぐるだ。 同じようにして、税金を絞り上げているゲスどもの一匹だ」

徐伯が吐き捨てると、他の農民達が黙り込む。誰かが言わなければならないことを、徐伯が言ってしまったからだ。

徐伯は、この間、飢えにより妻を亡くした。

息子はもっと前に、餓死した。

家の裏手には、父母と、妻と、子の墓が点々と並んでいる。皆飢えて死んだのだ。満足に供養してやることも出来ず、墓は荒れ放題。それなのに、畑を耕す義務ばかりが押しつけられて、造った作物は殆ど税として取り上げられてしまう。水ばかり飲むようにして暮らしてきたが、もう限界だ。

手足には殆ど力が入らず、。肋骨はせり上がっている。皆似たような状況だ。以前視察に来た県令のでっぷり太った体を見て、本気で殺意を覚えたのは、村の誰もが同じだろう。もはや、堪忍できないというのが、本音だ。

「もう、我慢は出来ん。 反乱を起こすか」

物騒なことを、黄進が言い出す。

それを咎める者は誰もいない。徐伯も、それに賛成だった。だが、頭自体は、黄進よりも冷静に回っていた。

「単純に反乱を起こしても、失敗する」

「怖じ気づいたか、伯!」

「いや、事実だ。 反乱を起こすなら、何か考えてからでないと駄目だ。 今はみんなが不満を感じてるが、いきなり反乱を起こしても、軍がやってきたら終わりだ。 考えてもみろ、この村には戦える人数は百人程度しかいない。 全員が反乱に参加したとしても、軍はこの青州だけでも何万っているんだぞ。 孫子でも味方にいるんならともかく、こっちは戦の経験もないシロウトばかりだ。 下手に動けばあっという間に潰されて、皆殺しにされちまう」

そう冷静に言うと、皆黙り込む。頭に血が上っているとはいえ、犬死にしたい訳ではないのだ。

どうせ死ぬなら、戦って死にたい。誰もが、この場でそう考えていた。もちろんそう徐伯も感じている。

だが、無駄死にだけは避けなければならない。

誇りだけの問題ではない。がりがりにやせ細って死んでいった妻や息子のことを考えると。何とか彼らのためにも、意義がある死に方をしたかった。

山に詳しい阿南が呟く。作男をしている、大柄な奴だ。馬鹿力で、十人力とか自称している。実際、牛を力任せに引っ張る所を、何度か徐伯も目撃している。

「近くには山もある。 どうせやるなら、そっちに逃げ込んで、賊でもやるべきか」

「賊、か」

それも悪くはないなと、徐伯は思った。

もはやこの国には、何の未練もない。妻も子も殺してくれた税金泥棒どもが何をしているかは、徐伯も知っている。旨い飯と美女を独占して、自分たちの欲望のためだけにこの国を回している。彼らは農民をそれこそゴミか何か位にしか考えていない。いずれ八つ裂きにしてやるとして、その前に生き残らなければならないのだ。例え、いかなる事をしても。

似たような境遇の人間を苦しめることになることは、分かりきっている。一度人を殺せば、際限なく落ちることもだ。

だが、このまま餓死するのだけは嫌だ。それだけは、絶対に、許せないことだった。

「長老、やろう。 村ごと山に逃げて、賊になろう」

「そうだな。 その前に、二つばかりやることがある」

白髪に湧いたシラミを潰しながら、長老が、黄色く落ちくぼんだ眼球の奥に、深い闇を湛えた。

「まず最初に、保正を殺す。 県令に通報でもされたら面倒だ」

長老の孫娘は、見るも無惨にやせ細って餓死した。

彼女は心優しい娘で、誰からも愛されていた。恐らく長老がこの集まりを募った時には。既に考えは決まっていたのだろう。もう、長老の心は人間ではない。悪鬼羅刹と化しているのだ。

そして、村人達も。

賛同の声が上がる。誰も、二の足を踏もうという者はいない。

「おう、蘭の仇、とってやろうぜ!」

「おうとも。 それで、もう一つとはなんだ」

「黄巾党に救援を頼もう。 そして、彼らと連携して、少しずつ仲間を増やす」

長老が、にやりと、殆ど歯が残っていない口で笑う。

「黄巾党が、漢王朝の転覆を謀っているのは、儂でも分かる程度の事じゃてな。 連中としても、漢王朝の権威を落とすために、各地で反乱が勃発するのは歓迎するはずよ」

「なるほど、裏側から支援するように、頼むと言うことですか」

「そう上手く行くかな。 今、黄巾党が動かないのは、まだ時期が早いと考えているからではないのか」

再び、徐伯が水を差す。一番乗り気になっていた黄進が振り返り、忌々しげに言う。今や敵意に近い光さえ、その目には宿りつつあった。

「今度は何だよ」

「油断は出来ないって言うことだ。 確かに長老の言うとおり、俺達と黄巾党は目的が一致してる。 だけどな、連中はまだ力を蓄えたいはずだ。 隙を見せると、俺達を漢王朝に売って、信用を得ようとするかも知れねえ」

「大賢良師様が、そんな事をするわけねえだろ!」

「あくまでも、油断はしない方がいいって言ってるだけだ。 俺達も隙を見せなければ、そう簡単に寝首を掻かれることもねえだろうよ」

「ふむ、一理あることじゃな」

長老が徐伯の言葉を肯定してくれたので、流石に黄進も黙り込む。

この男は。二月前に妹を病死させてから、すっかりおかしくなってしまった。黄巾党に入って、その教義にのめり込み、張角を神のようにしたっている有様だ。

だが、その気持ちは分かる。

徐伯だって。もし本当に神がいるのならば。すがらせて貰いたい位なのだ。

だが、現実に。神など存在しない。

だから、ただひたすらに、地に足を着けて生き延びることを考えなければならないのである。

すぐに、竹を切り出す。粗末な武器だが、これで人を殺すことは、可能だ。

 

襲撃は、早速行われた。これ以上時を掛けると、もう戦う力もなくなってしまうからだ。

村全員が一致して、保正の家に迫る。塀で覆われてはいるとはいえ、護衛の武人も少なく、大した戦力は有していない。農民を、自分とは別種の生物と考えて、舐めきっているのだ。

奴隷奉公を何度もしたから、屋敷の構造は分かりきっている。倉に米を蓄えていることも、街から時々娼婦を呼んでいることも。今日来ていたら、運が悪いと思って諦めて貰う他無い。

木槌を持った黄進が、表門に回る。徐伯は阿南と一緒に裏手に回る。

保正が飼っている犬が、危険を感じたか吠え始める。同時に、鶏が騒ぎ始めた。

先手必勝。

裏門に、全力で体当たりを掛ける。二度、三度。門がきしみ始めた。五度目で、正門から突入する気配。八度目で、裏門も崩れた。寝間着のまま飛び出してきた武人が何人か。よってたかって竹槍を繰り出し、蜂の巣にする。もがいている武人を何度も突き刺し、血を浴びながら、徐伯は走る。

甲高い悲鳴。

血色の良い女が、殆ど裸のまま飛び出してきた。徐伯をみて悲鳴をまた上げるが、放っておく。そのまま、走る。幾つかある部屋には、豪華な調度品が並んでいて、床も板張りになっていた。庶民は土の上で暮らしているというのに。

転がるように逃げる、鞠のような巨体を見つける。保正だ。

悲鳴を上げる奴の尻に、竹槍を突き刺す。ぎゃっと悲鳴を上げて、保正が飛び上がった。追いついてきた何人かで、滅多刺しにする。悲鳴を上げながら、保正が叫く。

「わ、わしが、何をした!」

「俺の息子を殺した。 妻を殺した。 両親を殺した。 長老の所の蘭を殺した。 他の大勢も殺した」

「し、知らん、知らん! 飢えて、勝手に、死んだんだろう!」

「いや、お前が殺したんだ。 漢の皇帝と、宦官共と、外戚どもと、県令と、お前が、よってたかって殺したんだ。 いずれそいつらも必ず殺す。 だから、お前がまず最初に死ね」

台所から大振りの包丁を持ってくると、無遠慮に振り下ろす。一撃で息が絶えた。何度か首に突き刺している内に、大量の血が掛かって、手が滑りそうになる。舌打ちして、腰を入れて包丁を差し込み、首を切り落とす。

舌を出し、白目を剥いた保正の首を、竹槍に突き刺して、正門に出る。まだ抵抗している武人が何人かいたが、それを見て露骨に逃げに掛かろうとする。

「待て! 俺達の仲間になれば、殺さないでおいてやる!」

「お、おい! どういうつもりだ!」

「そんな奴らでも、シロウトの俺達よりは腕が立つだろう。 戦の技は少しでも覚えておいたほうがいい」

「そうだな。 確かにその通りだ」

武人達は、囲まれていることもある。殺さないという発言が出たことで、渋々ながら武器を捨てる。縛り上げると、隅っこの方に追いやった。血を浴びて興奮している村人達の中で、妙に徐伯は頭が冴えていた。震えている娼婦を見て舌なめずりしている若造達を怒鳴りつける。

「それよりも、さっさと倉を開けろ。 俺達からぶんどった米やら金やらが、腐るほどあるはずだ」

「その通りじゃ。 さっさと車を用意せい。 取り返した作物を積んで、さっさと山へ逃げ込むぞ」

手押しの荷車くらいしか無いかと思っていたのだが、何と奥に牛が引く車があった。これはいい。それにしても、餓死している村人達が出ているのに、牛の太っていることと来たら。

引かれてくる牛を見て、阿南が涎を流しそうな顔で言う。

「美味そうな牛だな」

「喰うのは飯を運び終えてからだぞ」

「ああ、分かってる」

「だが、その前に。 かかあや子供達を呼んでこい。 餓死しそうな奴らに、先に飯を振る舞っておこう」

長老が冷静に指示を飛ばす。

どのみち、役人がこの村に来るまでには、まだまだ時間もある。逃がした奴もいないし、相当な時間稼ぎが出来ていた。シロウトの襲撃にしては上出来である。飯を食ってからでも、充分に逃げられる。

炊き出しが始まる。血だらけの台所でも、誰も文句を言うことはなかった。それにしても、倉から米が出てくること出てくること。これだけのものを搾取して、宦官共に貢ぐつもりだったのかと思うと。こんなに楽に死なせたことを、後悔してしまう。

金蔵にも、結構蓄えていた。これで県令に賄賂を送ったり、女を買っていたのかと思うと、腸が煮えくりかえりそうだった。

無理矢理たたき起こされた子供やかかあ達は最初機嫌が悪そうだったが、大鍋に炊き出された粥を見ると機嫌を直した。さっさと食べ始める彼らの横で、自分も胃に粥を流し込みながら、長老は黄進を呼ぶ。

「早速だが、黄巾党へこの事を知らせてくれ。 だが、さっき教えたとおり、潜伏する山のことは知らせるな。 それに帰りは充分気をつけろ。 知らせ終わったら、犬鳴山で落ち合おう」

「分かった。 大賢良師様が、俺達を裏切るようなことは無いと思うけどな」

「ああ、そうじゃろうそうじゃろう。 だが黄巾党の全員が、大賢良師様に全面的な忠誠を誓っていると言い切れるか? だから、村の皆のためにも、不安要素は取り除いておくんじゃよ」

「そう言われると、確かに弱いな。 分かったよ」

食事を手早く済ませると、黄進は保正の家に置かれていた服に着替えて、さっと外に出る。それを見届けると、徐伯も外に出た。空が白み始めている。まだ体が興奮していて眠気はないが、早めに行動を開始した方がいいだろう。

「長老、そろそろ出た方がいいな」

「ああ。 食事を急がせい」

「みな、急げ! そろそろ出るぞ!」

手を叩いて徐伯が呼びかけると、慌てて皆粥を腹に詰め込んだ。どのみち、金も米も車に詰め終わっている。

持ち出すような家財道具など、誰も殆ど持ってはいない。笠だの簑だの、破れかけた鍋だの。そんなくらいだ。

ぞろぞろと、アリのように人間が行く。

一つの村が、こうして消滅し、移動を開始した。

 

早めに森に入って、なおも進む。この辺りに虎は出ないが、それでもはぐれると危険だ。互いに呼び合いながら、慎重に森の奥へ。途中、二度子供がはぐれかけた。だが、念のためつけておいた鈴が役に立って、見つけることが出来た。

阿南がこの辺りの山には詳しい。何処が危ないか、何処でいい獲物が捕れるか、全部知っている。阿南の後について歩きながら、徐伯は話し掛ける。

「今、俺達は三百人くらいいる。 全員が暮らすには、かなり広い場所と、何より水がいる。 大丈夫か」

「大丈夫だ」

「そうか。 そうだ、長老」

「何じゃ、徐伯」

阿南は、正確には本名ではない。

この国では、幾つか名前がある。例えば徐伯の場合、姓は徐、名は伯である。このほかに、親しい間柄になると、使う名前というものがある。これを字(あざな)といい、徐伯の場合は元礼(げんれい)となる。更にもう一つ、幼い頃に使う名前もある。元服すると正式な名前に代わるので、子供の時だけの呼び名である。

ちなみに阿南というのはそれだ。南ちゃんというような意味合いで、正確には名前でさえもない。

人一倍からだが大きい阿南だが、喋ることが少ない上、普段はぼうっとしがちなので、今まで大人と認められていなかった。だが今回の活躍は凄まじく、山路の案内も見事である。充分、大人としての活躍はしていると評価できる。

「山に着いたら、まず阿南に名と字をやらねばな」

「おう、そうじゃったそうじゃった」

「本当か?」

「ああ。 お前はもう、立派な大人だ。 誰もがそれを認めるよ。 許嫁も決めておいた方がいいじゃろう」

嬉しそうに、胸を張って前を歩く阿南。確かに阿南はあまり頭が良くないが、彼の力と知恵は、今立派に皆を支えている。長老が杖を突いて歩きながら、言う。

「そうじゃな。 阿南の名字は許だから、?(ちょ)がいいかの。 字は仲康がいいじゃろうて」

「おお、許?(チョ)か。 良い名だ。 それにどのみち、これから俺達は名前を変えた方がいいだろうからな。 好都合でもある」

阿南には幼い弟もいる。もう何年かしたら、彼にも正式な名前を与えてあげたい所だ。じつは血がつながってはいないのだが、それを知らせる必要は特にない。とても仲が良い兄弟に、水を差すようなこともない。

「ところで、伯。 お前はどうする」

「そうだな。 俺は陳到とでも名乗ることにするさ」

皆、既に悟っていることがある。

この生活は、長続きしない可能性が高い。役人の追求を逃れたとして、山中でどれだけ生きていけるか。大反乱に発展したとして、それに巻き込まれれば一体どういう事になるのか。

だから、村を離れた時には、もう別の存在になっていた方がいい。

その方が後腐れもない。それに、仲間を売るようなこともない。拷問されても、新しい名前だけを言えば、嘘をついたことにはならない。それに、経歴は途中ですっぱり切れてしまう。

開けた場所に出た。近くには、都合がいいことに小川もある。周囲は畑として、耕すことも出来そうだ。

保正の屋敷に来ていた娼婦は、こんな所まで歩かされて、げんなりした様子だった。逃がす訳には行かない。しかし、保正と同じにもなりたくないので、よってたかってまわすような事もしていない。武人達も、武器を取り上げられて、こんな所にまで連れてこられて、流石に疲れ果てているようだった。

「此処が、俺達の新しい村だな」

「ああ。 仮に黄巾党に参加するとしても、かかあや子供達は、此処に残していく事にしよう」

早速男達が散って、村を作りに掛かる。

まずは雨を凌ぐために、粗末であっても家を造らなければならない。水を引いて、田畑を造る。此処には役人もいないし、平等に収穫物を分けることが出来るだろう。最初はやることがたくさんあるが、しかし充実した日々を送ることが出来そうだった。

それが例え、つかの間のものであったとしても。

 

3、全ての始まり

 

許に寄っていた林は、潜伏先である家の二階から、行き交う人々を見下ろす。多くなってきていた。髪に黄色い巾を巻くものの姿が。

何の変哲もない肉屋の二階だが、此処は既に林の組織の隠れ家である。店長は、金で買収した。

既に、実体数で八十万以上。戦闘要員の数だけでも三十万以上と言われる黄巾党。最近では洛陽や許、長安でもその姿を見かけるようになってきている。漢王朝で第二の規模を誇る長安でさえ、その手は徐々に大きく、遠くまで伸びるようになってきていた。現在、この中華の人口は二千万から三千万と推察されている。まだ一割には届いていないが、相当数だと言っても良い。

また、一つ。黄色い巾が通り過ぎた。今朝から数え始めて、百を超えている。行き来した人数を差し引いても、である。職業柄、一度見た人間の顔は忘れない。黄色い巾なんて目立つものを髪に巻いていればなおさらだ。

地方の村では、住民の全てが信者になっている所も珍しくなくなり始めている。大変な人気だと言っても良い。その割に、張角は姿を見せない。たまに現れ、「奇跡」を見せたかと思うと、ふらりと消えてしまう。神出鬼没ぶりを漢王朝の役人達も気味悪がっているようである。一方で、本当に仙人なのだと、信者達は無邪気に信じているのだった。

無理もない。

また今年も悲惨な飢饉が続いていて、何の希望もないのである。せめて神仙にすがって助かりたいと考えるのが、弱い人間の習性だ。それを悪だとか惰弱だとか笑うことが出来る資格を持つ者はいない。

立場が弱くなれば、人間など皆同じだ。

笑う人間は、たまたま今立場が強いだけ。どん底に落ち込んだ時、救いという名の光は、まるで水に垂らした墨汁のように、一気に心を侵食する。一度そうなってしまうと、もう救い無くては生きられなくなる。

それが不幸なことか幸せなことか、林には分からない。

ただ、利用するだけなのだから。

「林大人」

音もなく、夫が部屋に入り込んできた。肉屋の従業員を装っていて、前掛けには豚の血が大量にこびりついていた。他の部下もいるので、林に対しては抱拳礼をする。

「張角からの連絡が来ました。 暗殺依頼です」

「またか。 今度も外戚か?」

「はい。 徐奉の政敵です。 更に、関係を深くしようと考えているようでして」

しかも、一度に三人である。そろそろこれは危険な段階だ。張角は林が見た所かなり頭が切れる男だが、しかし政の才能はどうやら無いらしい。権力を使うタイミングが分かっていない。よく分からないのだが、一度得た力を、際限なく振り回してはその感触を楽しんでいるような。

思い直す。それとは少し違う。

これはひょっとして。

外を見る。窓から乗り出して通行人を見つめるが、しばらく黄色い巾は通らなかった。やがて、一人だけ通る。幼い子供である。恐らく、親が信者なのであろう。

子供は嫌いじゃない。暗殺の対象になる時は容赦なく殺すが。

しばらく子供の挙動を視線で追った後、仕事用に動かしていた頭脳が、結論を出す。

「張角は、ひょっとするとあまり長くないのかも知れないな」

「は……? それはどうして、でしょうか」

「力の使い方が、あまりにも性急すぎる。 まるでやり残したことを、せっかちに片付けようとしているかのようだ」

しかし、張角がやり残したこととは、何だ。

奴が漢王朝に反旗を翻そうとしているのは明らかだ。しかし、それで何が成せる。復讐か。それにしては、少し規模が大きすぎる。しばし腕組みして考え込んでいた林は、やがて結論する。

「今回の仕事は断れ。 此方にも用事が入ったと告げておけ」

「は。 しかし、大口の仕事ではありますが」

「張角の出方を見る」

もしも、どうしても動かないといけない理由があるのなら。何かしらの動きを見せてくるだろう。それで、張角の狙いが読める。

もし林の読み通り、張角の寿命が尽きかけており、なおかつ命を賭して何かを為そうとしているのであれば。

最大の成功率を誇る林の暗殺拒否は。何かしらの動きを、張角にさせるには充分の筈だ。張角は相当に焦っている。確実に何か行動を起こす。

もう一度、窓の外を見る。

この賑わいも、恐らくもう間もなく終わる。

あの子供は、恐らく生き残れないだろう。結構可愛かったのだが。そう思うと、少し残念ではあった。

程なく。

別の部下が、肉屋の二階に飛び込んでくる。

「林大人。 急ぎの用件です」

「何だ」

「徐奉からの使者が。 すぐ下まで来ています」

「……通せ」

毛大人が基本的に宦官相手の仕事は独占しているから、これは珍しい話である。内密に仕事を処理して欲しいと、前置きしたその男は、言った。最初から、仕事を頼むという態度ではない。此方のことを、蛇蝎のように見下している姿勢だった。

更に、挨拶もなく、男はいきなり言う。

「馬元義を、捕らえろ」

「はあ? まずは我らなどに相談せず、官憲に任せればいいのではありませんか」

これは、どういう事か。

宦官徐奉と張角は、蜜月関係にあったはずだ。少なくとも、表向きは。馬元義は言うまでもなく、張角の右腕である。それを捕らえると言うことは、八十万に達する黄巾党を全て敵に回すと言うことだ。

「そのようなことを、説明する理由はない。 前金はこれだけだ」

相場も分かっていない。まるで塵芥のような金額を置くと、帰ろうとした。林の組織は、暗殺者の中では少なくとも質において最高峰の集団に属する。その依頼料は、下手をすると奴隷を百人買えるほどのものなのだ。

林は失笑すると、指を鳴らす。

男が逃げようとする暇さえもなく。襲いかかった部下達が、口を押さえ、急所に刃を突き刺し。瞬く間に、物言わぬ亡骸にしてしまった。

転がっている死体を踏みつける。

林は誇り高い。組織を侮る輩は必ず殺す。相手が例え、宦官だろうと外戚だろうと、だ。

「方針変更だ。 この使者の亡骸を張角に送ってやれ。 そして、私自身は、徐奉を殺してくる」

「どういう事ですか?」

「丁度いい機会だ。 我ら細作の世を招くには、適当な混乱が望ましい。 この使者の死骸をくれてやって、徐奉からの用を併せて伝えてやれば、焦っている張角は確実に反乱を起こす。 それに加えて徐奉を殺しておけば、張角と宦官どもの癒着が一旦途切れて、更に事態は混乱する。 ついでに、馬元義の居場所も突き止めておけ。 黄巾党の方も、混乱させておきたい」

林の狙いは、漢王朝と黄巾党を共倒れにさせること。

そのためには、どのようなえげつない作戦でも、採るつもりでいた。

 

冀州から、張角は許にまで出てきていた。洛陽で活動している馬元義を支援するためだが、不意に沸き上がった問題に、組織は混乱していた。

酒場の一つが、黄巾党の拠点となっている。その地下で、かび臭い酒の桶に囲まれながら。徐奉の使者の亡骸を前にして、腕組みして唸る。

弟の梁と宝は憤慨していたが、張角の認識は二人と異なっていた。

「あの雌虎が」

「兄者、どういう意味だ」

「わからんか。 奴は、特定の顧客がいない細作組織の長だ。 しかも野望にぎらついておる」

野望の方向性はまるで違うが、張角と同種の人種であると言っても良い。あくまでこの地の将来を考え、漢王朝を滅ぼそうと願う張角に対し。恐らく林は、何がどうなってもいいから、組織を大きくしようと考えている、生粋の悪鬼だ。漢王朝を滅ぼそうとは考えているようだが、それはあくまで自分の目的のため。目的が果たされるのであれば、何人死のうが知ったことではないと考えていることだろう。

「そ、そんな」

「慌てるな。 相手の目的の、裏を読め」

激しく咳き込む。慌てて背中をさする弟たち。咳に混じる血も、ますます多くなってきていた。これは、もう一年と時間がないかも知れない。

「恐らく林の狙いは、我らをせっかちに蜂起される事で、混乱を拡大させることだ。 捨て駒にしようと言う訳よ。 奴は今までの行動で、儂の判断力が落ちていて、簡単に操れると考えているのだろうが、そうは行くか。 宝、各地の大方、小方に連絡を出せ。 いつでも反乱を起こせるように、準備をさせるのだ」

「おう、任せろ兄者」

「うむ。 梁、お前は急いで馬元義に拠点の変更をさせろ。 このまま林の立場で混乱の拡大を図るには、徐奉と馬元義の両方を殺すのが最も望ましい。 元義は儂の右腕だ。 奴を失うのは、あまりにも痛い」

「分かった。 すぐに動く」

杖で、張角は乾いた土の床を叩いた。少し前から、これが無いと歩けなくなってきている。体はもう、限界が近い。

だが、それでも。強い信念が、沸き上がる焦りを押さえ込んでいる。確かに此処しばらくの行動は、性急すぎたかも知れない。だが、此処からの策を誤らなければ、まだ巻き返しは充分に出来るのだ。

「悪鬼ごときに、この国を好きなようにさせてたまるか。 腐敗しきった漢王朝は、我らが命に代えても叩きつぶす。 だがその後に来る国は、悪鬼のものであってはならないのだ。 我らは国家百年のために、捨て石となる。 全ての民が、安らかに暮らせる国のために、だ」

「おう!」

力強く弟たちが唱和する。もはや、宦官にも外戚にも専横を許さない国。それが張角の願いであり、理想であった。それを実現するには、まず漢王朝を倒し、既存の権力構造を一掃しなければならない。

四方八方に、黄色の巾で髪を結った男達が散る。

それを見届ける張角は、だが顔色が悪かった。側近の者達を見回すと、張角は指示を出した。

「一度、冀州に戻るぞ」

「は。 しかし、洛陽や許は放っておいても良いのですか?」

「この辺りは漢王朝の中枢に近すぎる。 信者が多く、土地も豊かな冀州を拠点として、百年の計を練る」

そんな時間は無い。それは、張角自身が一番よく分かっている。

だが宝にしろ梁にしろ、張角の跡を継ぐにはあまりにも頼りない。二人の負担を減らすためにも、この処置は絶対に必要なことなのであった。

 

洛陽にて、黄巾党の重要人物、馬元義が捕らえられた。広報された内容によると、宦官に賄賂を渡しながら、信者への便宜を図りつつも、その裏側で、各地にて大規模な反乱を目論んでいたのだという。

しかもそれと時を同じくして、中常侍(十常侍とは、中常侍が十人、もしくは十二人集まっている事の別称である)に位置する大物宦官の一人、徐奉が謎の怪死を遂げた。混乱しながらも、漢王朝は馬元義を車割きという過酷な刑罰に処し、死骸をばらばらに引き裂いた。そして、各地に黄巾党の討伐令を発したのである。

だが。先手こそ許したものの。黄巾党の対応は、漢王朝を遙かに超えて素早かった。

総数三十五万とも五十万とも言われる黄巾党の戦闘要員が、一斉に蜂起したのである。腐敗しきった地方の軍は、圧倒的な数の暴力によって瞬く間に飲み込まれ、各地で州刺史(州の長官)や県令(県の長官。複数の県が集まって州になる)が殺された。

漢王朝の対応は、遅れに遅れた。ようやく討伐軍を編成した時には、全てが遅かったのである。

馬蹄の響きが原野を蹂躙し、漢王朝が、音を立てて崩れ始めた。

そして、この地の歴史は、怒濤のごとく動き出すのであった。

それは、全ての始まりの事件。後に言う、黄巾の乱であった。

 

4、大乱の中で

 

泥にまみれて畑を耕していた陳到が顔を上げる。馬に跨り、村の門から駆け入ってきたのは。背中に矢を生やした黄進だった。矢傷だけではない。刀傷も、体中に受けていて、その場で馬から落ちてしまう。

小走りで駆け寄りながら、周囲に呼びかける。すぐに人が集まってきた。

「ち、きしょう」

「喋るな。 今、手当をするからな」

戸板を運んできた女達。湯を用意するように指示すると、揺らさないように丁寧に乗せる。見るからに助かりそうにないが、手当てしてみるまでは分からない。

いやな予感は、していたのだ。

黄巾党が蜂起したと聞いて、大喜びで黄進は村を出て行った。何人かの若者も、それに続いた。世の中を良くするのだと息巻いていたが。どうも、気乗りがしなかった。

この反乱の事を知らせた時に、黄巾党はあまりいい顔をしなかった。どうやら陳到が睨んだとおり、時期が早すぎると踏んだらしい。結局の所漢王朝に場所を漏らすようなこともなかったが、その代わり援助することもなく。結局、落胆した黄進を余所に、丁寧に新しい村作りを続けていたのだ。

そして一年が経ち、ようやく形になってきていた。村の周囲も簡素ながら壁で覆い、捕虜にしていた武人達から武芸も教わって、ある程度は形になっていた。

黄巾党が蜂起したのは、そんなときだった。

そして三ヶ月が経って。今に至る。

黄進を、村長の家に。医術の心得のある者がすぐに呼ばれた。眉を潜める老人は、難しいだろうと言った。言いながらも腕をまくり、応急処置を始める。

まず、背中に足をかけて、矢を抜く。その際に舌を噛まないように、竹を咥えさせた。全身汗だくの黄進の背中から、一気に矢を引き抜くと。鏃が骨に刺さったまま残ってしまった。落ちた時に、食い込んだらしい。医師の腕が悪い訳ではない。

「すぐにノミを!」

ぎゃっと悲鳴を上げてのけぞる黄進を抑えながら、医師がノミを持ってこさせる。

骨を削って、鏃を取り出すのだ。

この間迎えたばかりの、陳到の嫉妬深い妻は、如何にも嫌そうな顔をして外に駆けていった。失神しかけている黄進は、うわごとのように何か呟いていた。

「き、黄色い巾を」

「お前の命の次に大事な巾なら、きちんとついているぞ」

「い、いや。 違う。 と、とって、さっさと、捨てて、くれ。 それと、俺には、もう、構う、な。 さっさと、逃げろ」

やはり、ただごとではない。

気を失ってしまった黄進を押さえつけて、医師がノミを振るう。辺りは鮮血が飛び散り、腑分け場のような有様になった。

体力が残っている内に、処置をしなければならないと、医師は言った。あれほど憎まれ口を聞いていた黄進だが、別に陳到は憎んではいない。抑え続ける。鏃が取れた。後は薬を塗って、布を巻いて固定する。いずれの作業でも、相当な時間を有した。

結局、徹夜になった。

血だらけになった陳到だけが、最後まで医師に付き添った。黄進は何とか命を取り留めてはいたが、あまり状態は良くない。何時の時代でもそうだが、鏃には毒を塗るのが当たり前だからだ。

案の定、翌日から黄進は発熱した。特に傷口が酷く熱を帯びていて、ずっと黄進はうめき続けていた。村長と肩書きを変えた長老も、遅れて様子を見に来る。ここ数日、近辺の地形を見回って、獲物がいそうな場所を探していたのだ。長老は、黄進の様子を見て、舌打ちした。

「お前が心配していたとおりになったようだな、陳到」

「ええ。 黄進と一緒に行った若者達も、これでは生きていないでしょう」

「だから言ったというに」

さっきから、無言で許?(チョ)が側に控えていた。村長と一緒に、近所の様子を見回ってきていたのである。まだ妻は貰っていないが、もう充分に村の一人として恥ずかしくない貫禄を身につけていた。

「やはり、黄巾党と何かあったのだか」

「そうだろうな。 頭の巾を捨ててくれとまで言ったくらいだ」

「そうだとすると、悪い知らせがある」

促されて、外に出る。そのまま、物見櫓の一つに、一緒に上った。徹夜明けだが、最近はしっかり鍛えているから、大丈夫である。

指さされる先には、谷がある。じっと凝視している内に、陳到にも分かってきた。

「あ、あれは!」

「六谷の衆だ。 どうやらこの辺りに、黄巾党の拠点を造ろうとしているらしい。 今朝、村長と一緒に、様子を見てきた。 今日の段階じゃあ、仲良く話して、獲物を分け合ってきたんだが」

六谷は、二つ離れた村落だった。そういえば、黄進が言っていた。陳到らが村を離れてから急激に黄巾党に入る者が増えて、村そのものが黄巾党と化してしまったのだと。此処青州はどこも似たような状況らしく、もう官軍も機能していないと言う。

「前は良かったが、今はもう、此処は余所からも丸見えだ。 もし動くとしたら、早いほうがいいだ」

「そうだな」

決断を、しなければならないらしい。

陳到は、急いで村長の所に戻る。もちろん村長も、許?(チョ)と一緒に言ったのだから、状況は把握していた。

「これから、二つほどすることがある」

「というと」

「まず、儂は許?(ちょ)と、後は村の若い衆を連れて、汝南に逃れる」

汝南。中華のほぼ中央にあるものの、山深く、官の威光も届きにくい場所だ。極端な田舎で、人間もあまり住んでいない。他からも隔絶されがちな土地で、故にほぼ中央にあるにもかかわらず、戦略的な価値もあまり高くない。大河も遠いので、多くの人口を養えないのも、それに輪を掛けている。逆に言えば、犯罪者が隠れるには絶好の場所であり、多くの山賊が跋扈しているという。

考えてみれば、陳到達も、既に立派な重罪人だ。あの屑保正を殺したことは、今でも悪いとは思っていないが、世間的には充分な罪になる。青州の山の中に隠れるよりも、むしろそっちの方が良かったかも知れない。

今回は、丁度良い機会だ。どのみちこの青州は、黄巾党に飲み込まれるだろう。その前に、動かなければならないと考えてはいたのだ。

「それで、陳到。 お前は、大人達の何人かと、此処に残れ。 黄進から話を聞けそうか見極めて、聞けたら我らの後を追ってくれ。 無理そうだったら好きに身を振れ」

「……」

「前から考えていた。 結局の所、外界から隔絶された土地など、夢幻に過ぎない。 この山深い土地でさえそうなのだ。 ならば、少しでも村全体が生き残ることが出来る方法を探らなければならないとな。 お前達とは、これで別れだ。 何、此方も許?(チョ)がいるし、生半可な山賊ごときにはやられやせん」

もちろん、旅路は許?(チョ)がいても厳しいものとなるだろう。とても黄進を連れて行く余裕などはない。村長の言葉は冷たいようにも聞こえるが、充分に理にかなったものであった。

まだ、黄進は意識が戻らない。許?(チョ)に後を任せて自宅に戻ると、妻がふて腐れて寝ていた。

十二才も年下の彼女は嫉妬深く、その上欲深い。ずっと都会に出たい楽な生活がしたいとぐずっていたから、今回は良い機会かも知れない。

「喜べ。 都会に出られるぞ」

「ええ? あなた、それは本当なの?」

「ああ、本当だ」

ただし、此処よりは、な。

そう心中で付け加えると、陳到は夕餉を所望して。すっかり冷え切った粥を、胃に掻き込んだのだった。

 

翌日は村長達の脱出を手伝うだけで、一日が終わってしまった。子供達と、老人達。それに僅かな働き手を連れて、村長は南へ行く。普段だったら無理であっただろうが、幸いにも今は黄巾党が全土で一斉に蜂起していて、国がまともに機能していない。充分に、逃れられる可能性はあった。

もっとも。国がまともに機能していたら、そもそもこんな山奥に逃げ込むこともなかったのだが。

一通り作業を済ませると、流石に疲れ切った。黄進の熱はまだ上がっている状態である。数日が山だろうと、長老と一緒について行った医師は言い残していった。麓の六谷の衆は、此方が騒がしいのに気付いている様子で、時々村の外に斥候らしいのが来ていた。若いのの一人に適当に対応させているが、しかし。もし黄巾党からなにか言い含められたら、即座に襲いかかってくるだろう。

畑は折角作ったが、もう捨てるしかない。作物は出来るだけ持ち出すとしても、あまりたくさんは運べない。悩ましい所だった。

「あなた、いつ都会に出られるの?」

倉から米を出していると、そう妻が聞いてくる。もう少しだと応えてから、荷車に米俵を下ろした。これで、残りの村の衆も、数ヶ月は暮らしていけるだけはある。問題は、黄進の様子なのだが。

熱が、引かないのだ。

これは、駄目かも知れないと、妻と子の死を看取った陳到は考えてはいた。だが、顔には出さない。

黄進が目を覚ましたのは。翌日の早朝だった。

交代で見張りをしていた若い衆に呼ばれて、たたき起こされた陳到は、不満げな声を挙げる妻を残して、さっさと黄進の所へ向かう。対立し続けた相手ではあったが。それでも、最後くらいは看取ってやりたかったのである。

陳到が辿り着いたその時、黄進の体には。誰の目から見ても分かる、死相がはっきりと出始めていた。

落ちくぼんだ目で、じっと外を見ていた黄進は。陳到の到着に気付くと、顔を上げて呻き声を上げた。粗末な布団を避けて、立ち上がろうとした黄進の口から血が流れ。そして目からは涙がこぼれた。

「す、まね、え。 俺が、バカ、だった」

「何があった」

「ぐ、うぜ、ん。 し、っちまった、んだ。 あいつら、農民を、救う気なんか、ね、えん、だ」

側に跪いた陳到は、聞かされる。

黄巾党は、青州を完全に独立国にするつもりだ。青州で膨大な戦力を育成し、冀州の経済力で軍備を強化する。そして各地の信者達と協力し合いながら、官軍を分散させ、各個に撃破するつもりであるらしい。

其処までは、良い。陳到も聞かされていたし、黄進も知っていたことだ。黄進が帰ってくる度に話してくれたし、若者達がそれを熱っぽく語り合ってもいた。つまりこの青州が主戦場になる可能性がある訳で、陳到としては冗談では無いとも思っていたのだが。まあ、それも戦略の一つではあるだろう。

ただ、苦しみ咳き込みながら、黄進は、その先を話す。

「黄巾党は、る、流民を、す、救う、どころか、せ、積極的に、は、発生させるつもりな、んだ」

「なん、だ、と!?」

流民。

陳到も知っている。食を求めて飢えた民が、群れを成したもの。この国では、混乱期に必ず見られる現象である。かって、漢王朝が成立する前には。この流民を丸ごと軍隊とかし、上手に統率した者が天下を取ったとも聞いている。

しかしそれは。まさに死の行軍も意味する。食料無く、荒野を行く民の集団である。弱い者から次々倒れ、はぐれようものなら即座に死が待っている。迷っても死ぬ。生き残ったとしても、食料など得られるとは限らない。

結果、暴徒と化さざるを得ない。攻撃は報復を呼び、やがてそれは破滅的な闘争へと発展していくのである。

そして、それが分かっているからこそ。流民を受け入れようとしない県令や州刺史も多いのだ。

「あいつらは、張角は悪鬼だ。 奴らは、農民を多分、数え切れないくらい、餓死させて、流民へと追いやるつもりだ。 そ、それを、俺は偶然、きいちまったんだ。 て、天幕のよ、横を、通りかかった、時に」

本当かは、分からない。

しかし、陳到には。それが、どうしても笑い飛ばせることとは思えなかったのだ。

確かに巨大な漢王朝は腐りきっている。しかし、その土台を決定的に揺るがせるには、一反乱では不十分だ。致命的に反乱を拡大するためには、漢王朝に不満を持つ人間を、増やさなければならない。

黄巾党の数では、それでは足りない。

確かに漢王朝転覆のための戦略としては、理にはかなっている。

しかし、だからといって。もしも黄進のその言葉が正しいとしたら。張角は悪鬼どころか、魔王と言っても良い存在になりはてているとも言える。何にしても、確かめなければならなかった。

張角を倒してくれと言いながら、黄進は意識を失い。そして、二度と目を覚ますことはなかった。黄進を埋葬し終えると、既に居残り組の中では長になっている陳到は。残った者達を集めた。隣村の偵察は、ますます活発になってきている。もう、あまり時間は残されていない。

「これから、黄巾党を葬る」

「ちょ、ちょっとまった!」

唖然とし、声を張り上げたのは、陳到の次に年を取った男だった。日頃から黄巾党を憎々しく思っていた点では同じだが、全てにおいて覚悟が足りない男でもある。

「何を待つ」

「無謀すぎる! 確かに黄進の遺言が本当なら、俺達はとんでもない秘密を知ったことになる! だからといって、俺達に何が出来るって言うんだ!」

「出来る。 俺達自身がするんじゃなくて、それぞれが群雄となるであろう英傑の元に散るんだ。 それで彼らに真相を告げて、黄巾党を潰して貰う。 もちろん俺達は、その下で命を賭けて戦う」

不安げに視線を交わす村人達。物見櫓から、鐘を鳴らす音。どうやら、隣村で一斉に炊事の煙が上がったらしい。

この国では、戦の前に炊事をする習慣がある。つまり、一斉に煙が上がったと言うことは。殺る気になったと言うことだ。

一番若い男を指名すると、陳到は素早く指示を出す。

「全部の家に行って、竈の中に火を入れてこい。 手が足りなかったら、分けてすぐにやれ」

「い、急いで逃げなくていいのか!?」

「そうすれば、こちらも戦の準備をしていると、向こうに誤認させることが出来る。 時間を稼げる」

何人かが散る。そして、四方向に別れることを決める。

交通の要所である、青州の隣にある徐州へ一派を。此処の太守である人物は、黄巾党の蜂起に対して、重要な役割を果たす可能性が高い。見極める必要がある。汝南へも。もう一派は洛陽へ。これは、官軍の将軍の中に、理解が深そうな人間がいるどうかを見極めるためだ。

「お前は、どうするんだ?」

「俺は冀州へ向かう」

もっとも黄巾党が盛んなのは冀州だと聞いている。それならば、直接潜り込んで、張角の首を狙うか。或いは抵抗勢力に入るのがもっとも手っ取り早い。それに、黄巾党の実像を見極めることも出来る。黄進が理不尽に殺されたことから言っても、全てが嘘と言うことはないだろう。だが、ある程度主観による補正が掛かっている可能性もある。何かを為すためなら、陳到もしっかりそれを見なければならない。

妻は都会である冀州に行くと告げると、素直に喜んだ。

今は喜んでいればいい。

いずれ、この不平ばかりの女にも、覚悟を決めてもらわなければならない。それまでは、せいぜい夢でも見ていれば良いのである。

間もなく。隣の村が、総出で攻め込んでくる。全員が、頭に黄色い巾を巻いていた。村から少し離れた所でその様子を見つめていた陳到は。外門の一つに放火した。

村の周囲に詰んであった乾燥藁が、一気に燃え上がる。全滅させることが出来るかどうかは微妙だが、連中を動揺させ、消火に掛かりっきりにさせることなら充分に可能だ。悲鳴を上げて逃げ散る隣村の衆を冷たく見つめると。陳到は、皆に別れを告げて、妻と二人、冀州に向かったのだった。

こうして、陳到の暮らした故郷は、二度にわたって消滅した。

そしていつの間にか。それを悲しいとも、悔しいとも。思わないようになっていた。

 

5、義勇軍

 

港から軍用船に乗り、続々と、兵が黄河を渡っていく。向かう先は冀州。黄巾党の本隊がいる所だ。

街には兵士の募集をする立て札が掛かり、その近くには首を並べた棚がある。いずれも、黄巾党に属していた者であった。各地で一進一退が続いている状況だが、冀州では官軍の将軍と黄巾党軍が互角の戦いをしている。この機に援軍を送り込んで、一気に決着を付けようというのだろう。

船上で、その光景を、陳到は思い出していた。巨大な船に、客の姿はまばらだ。わざわざこの時期に、冀州に行こうという者はあまりにも少ない。

延津の港に到着していた陳到は、二ヶ月以上足止めされた。冀州へ渡ろうにも、船がないのである。殆どは軍用として抑えられてしまっており、乗せてもらえる余地など有りはしない。

軍に思い切って入ってみようかとも思ってみたが、それも駄目だった。ある程度身元がしっかりしていないと軍に入れてもらえないというのである。まあ、これは無理もない話である。黄巾党の信者に、軍に潜り込まれては、戦をする前に負けてしまう可能性さえもあるからだ。

それに、此処では情報の統制がされていて、あまり目立った話題が入っても来ない。村から持ち出した金も生活費で消えていくし、働くにも仕事自体があまりない。だから、一旦冀州に渡って、其処で何か別の方法を考えなければならなかった。

「聞いたか。 朱将軍が、派手に負けたらしいぞ」

「ああ、聞いてる。 黄巾党の波才って将軍に、追い散らされたらしいな。 今では籠城していて、明日をも知れない状況だっていうぞ」

「いや、それはもう古い情報だな。 その後朱将軍が反撃に出て、波才を討ち取ったとかいう話だ」

「ほう、そうなると、少しは南の方の状況も、落ち着いてきたのかも知れねえな」

うわさ話に耳を傾けながら、陳到は苦笑していた。

どうやら、黄巾党のもくろみは、完成に近付いているらしい。

このまま、仮に黄巾党が滅びたとしても。もう漢王朝は終わりだ。延津に来る途中も、散々見た。膨大な数の流民が、辺りを埋め尽くしているのを。青州に行こうという者達は、黄巾党に救って貰おうと考えているのだろう。逆に青州から逃れ来ている者達は、戦乱を避けていたのだろう。

冀州から逃げてきた流民とも出くわした。彼らは凄まじい官軍と黄巾党の死闘に巻き込まれ、家財産を失っていた。官軍の将軍は評判が良いという話だが、それでもこういう犠牲者は数限りなく出る。やせこけた彼らの中には、もう黄巾賊になるしかないと、呟く者もいた。

喰っていけないのだ。そうでもしない限り。

かってのこの国では、流民を喰わせることが出来る者が、王になったと言う。噂に聞く漢の高祖劉邦などは、ただの気前が良い親爺に過ぎなかったとかいう話もあるし、そんなものなのかも知れない。

彼らに、この状況を演出しているのが、黄巾党。そうせざるを得なくさせたのが宦官共と外戚どもを有する漢王朝だと告げたら、一体どうなったのだろう。そう、黄河を見ながら、陳到は思っていた。

間もなく、船が港に到着する。

妻の落胆の声が聞こえる。

「何よ! とんだ田舎の港じゃない! 寂れてて、人もいないし!」

「当たり前だ」

「じゃあ、何でこんな所に来たのよ!」

「こんな港を、これ以上増やしたくないからだ」

訳が分からないと、妻はそっぽを向いた。

港に船が着く。一応の設備は整っているようだが、兎に角人が少ない。汚れが目立つ桟橋に船が横付けされて、板橋が渡されて。降りる者達に、わらわらと兵士が群がってきた。青州の村から来たと告げると、色々と根掘り葉掘り聞かれたが、妻が黙っていてくれた事もあって、どうにか切り抜けることが出来た。

むっつり黙り込んでいる妻を連れて、港を見て回る。

港はやはり寂れていて、店の類も殆ど機能していない。ただ、延津とは、違う部分もあった。

軍募集の隣。やたら立派な髭を持ち、赤黒い肌の大男が、巨大な立て札を持っている。兎に角目立つ姿なので、通行人も時々足を止めているようだった。

「義勇軍の募集、だと」

「そうだ。 今、義勇軍を募っておる」

陳到の独り言は聞こえていたらしい。

男は陳到よりも更に頭一つ、いや一つ半は大きいかも知れない。見上げるような体格である。目は大きく、顔立ちは四角く。全身はそれこそ、筋肉の塊と言うも生やさしい。分厚い鎧に身を包んでいて、如何にも強そうだった。多分、豪傑というのはこういう男のことを言うのだろう。

ただ、単純に強そうだという訳ではない。妙な空気がある。以前、村に出入りしていた、悪徳商人と近い。それとは違うのだが、微妙に雰囲気が似ていた。大きな裏というか、闇というか。そんなものを抱えている気配だ。

「塩の商人か?」

「どうしてそう思った」

「いや、以前村に出入りしていた闇商人が、お前のような雰囲気だった。 奴はただ汚いだけの男だったが、あんたは違うようにも思える」

しばし男は陳到を見つめていたが、不意に叫ぶ。

「簡雍!」

「おう、羽殿。 どうなさった」

人混みの中から、にゅっと小柄な男が出てくる。鋭い目つきはしているが、今羽と呼ばれた男と比べると、何ともひ弱な印象がぬぐえない。彼が連れているのは、まだ元服したばかりらしい、少年だった。此方は初々しい感じこそあるが、痩せているために美形にはほど遠い、のほほんとした雰囲気である。

「その男を、見極めて欲しい」

「ほう。 羽殿の目にかなったか」

「違う、分からないからだ」

妻は話について行けず、目を白黒させている。それを横目にしながらも、陳到は冷静に状況を見ていた。それにしてもこの簡雍という男、羽と呼ばれるこの巨漢と、良く平然と話せるものだ。大した胆力である。

「興味はあるが、まだ義勇軍にはいると決めた訳ではないぞ」

「おお、羽殿の眼光を前にして、なかなか面白いことを言うな。 ちょっと其処の茶屋で話そう。 奥方も来てくれると嬉しい」

そう友好的に言うが、簡雍という男の口は全く笑っていない。それに対して、彼が連れている少年はとても愛想が良かった。

「さあさ、此方へ」

「失礼がないようにしろよ、国譲」

「簡雍さんにだけは言われたくないですって」

茶屋に連れて行かれる。客は誰もおらず、老婆が一人切り盛りしている様子だ。誰もいない、というよりも。この簡雍以外に客が寄りつかないのだろう。船乗り達は酒を飲みに行くのだろうし、近隣の住民は離散してしまっている。軍人に到っては、規律が厳しい以上こんなところで油を売っている訳にもいかないだろう。

茶が出される。といっても、一瓶幾らというような、高級品ではない。ようやくこの辺でも広まり始めた、庶民の口にも入るようなものだ。香りも悪いし味も殆どしない。ぶつぶつ文句を言っている妻を、国譲と呼ばれた少年が余所に連れて行く。それを横目に、簡雍がさぞ不味そうに茶を飲み干しながら言う。羽と呼ばれた男の前を離れると、途端に態度が大きくなったのも面白い。

「あんた、流民じゃないな。 離散農民にしては、随分格好がしっかりしている」

「ああ。 黄巾党を潰せる仕事を探しに来た」

「ほう。 それは面白い。 して、どうして軍には入らなかった。 此処の指揮を執っている盧将軍はとても評判が良い事を知っているだろうに」

「色々と訳がある」

しばらく沈黙が続く。不意に簡雍が手を叩いて、茶の代わりを所望した。茶菓子もつかないのかとぼやきながら、二杯目を飲み干す。

「人を、殺したのか」

「どうだろうな」

「いや、いや、隠さずともよい。 理由次第では、軍には突きださん。 訛りから言って、青州から来たな。 それに黄巾党を潰すと直接言った所から見るに、お前さんは黄巾党の暗部を知ったか何かして、使命のままに動こうとしている。 そんな所か」

「まあ、大体は正解だ」

恐ろしい洞察力だ。表情を崩したら、一気に畳み掛けられるだろう。そう思って警戒する陳到に、簡雍は更に遠慮無く踏み込んでくる。

「もともと、義勇軍などと言っていることからも分かるように、我が軍は訳ありの人間や、軍や国が嫌いだが、黄巾党はもっと嫌いな連中で構成されている。 あの羽殿でさえその手の人間でな。 お前さんくらいの罪であれば、何ともおもわんよ」

「……」

「何を知ったか、この場ではなさんでも良い。 ただ、近々集めた人間と共に、我らは大将の所へ赴く。 その時、大将に全てを話してくれると、助かるかもしれんな」

沈黙が痛い。やはり簡雍は、言葉を一つ一つ発しながら、此方を丁寧に観察しているようだった。

妻が戻ってきた。あれほど不機嫌そうだったのに、今ではご機嫌になってにこにこしている。一体どんな手妻(手品のこと)を使ったのか、是非教えて欲しいものだと、陳到は思った。

「で、どうするね」

「妻の面倒を見てくれるのなら」

「おう、お安い御用だ」

簡雍は満面の笑みで手をさしのべてきたので、握手をする。

妻もそれに対して、何も文句は言わなかった。

 

それから数日は、関羽という男の元に集った数人の男と、共同での生活をした。港の外では、軍が基地を造っていて、その側に場所が与えられているらしい。なんでもこの方面の司令官である盧将軍と、義勇軍の司令官である劉という男は師弟関係にあるらしく、その接続を利用したのだとか。

朝から晩まで、泥にまみれて訓練をした。流石にこんな時代に生きているだけ有り、皆それなりに逞しく、簡単に根を上げるような者は一人も居なかった。陳到は彼らの中でも、自分がぬきんでていることに、ちょっと驚いていた。

槍を百回振るった後は、剣を使う。あの国譲という少年も、一緒に混じっていたが、やはり少し体力で劣るようだった。

食事は軍からの支給品だが、あまり質の良い米ではなかった。ふと気付くと、隣に関羽が座っていた。あれだけ大きいのに、これほど小さな気配で歩き回ることが出来るのだとすると。とんでもない武術の達人でもあるのだろう。手にしている青龍円月刀は、訓練の時に触らせてもらったが、どうやっても持ち上がらなかった。それを棒きれのように持ち歩いているのだから恐ろしい。こんな強力の持ち主であるのに、武術まで究めているのでは、文字通り手が着けられない。

しかし、近くで見上げると、まだかなり若い。三十には到達していないだろう。しかしこの全身から放出される威厳はどうだ。しばし関羽は無言で陳到を見つめていたが、鉄の扉のように重い口を開く。喋り方も、やはりゆっくりしていた。

「良い動きをしている。 やはり、人を殺したことがあるのだな。 そして、多くの人の死をも看取っている」

「仕方がない状況だった」

「相手は黄巾党か」

「いや、違う。 いずれ、話すこともあるだろう」

銅鑼が鳴る。となりの軍基地から、一師(軍)が出撃していくらしい。規則的に鳴る銅鑼を見て、関羽が腰を上げた。

「出るぞ。 準備を」

「もう出るのか」

「軍も訓練不足の新兵を投入しなければ追いつかないほどに苦戦しているのだ。 義勇兵はもっと扱いが悪い。 義弟の張飛が如何に前線で暴れ回っても、見事な指揮を劉兄が見せても、補充が追いつかないほどにな」

国譲が関羽用の馬を引いてくる。とても体格がよい、力強い馬だ。関羽の雄大な体躯を乗せて走るのだから、当然だとも言える。さぞや高かったのか、或いはしっかり育て上げたのか。それは分からない。

馬として最大限の愛情表現である愛咬をしている所から見て、相当に関羽はなつかれている。鬣を撫でてやりながら、関羽は声を張り上げる。

「総員、出撃準備! 本隊とこれより合流する! 此処からは戦場だ! 昨日のうちに、思い残すことは無いようにしていたか!」

シャア(殺)と声が上がる。簡雍が言ったように、どの男も皆訳ありな者ばかりであり、向かい傷があったり、手足を失っている者も少なくない。殺気も本物で、確かに殺し合いくらい、誰もが経験しているのが分かった。だから故に。皆、気合いは充分だ。陳到は静かに立ち上がると、支給された槍を手に取る。

竹槍で、保正の護衛の武人達を殺した時に。槍の使い方は理解した。

それから村に連れて行った武人達から教わって。一通りの扱い方も身につけた。

これから、これで再び人を殺す。

ただ、一度、この義勇軍とやらの首領には会っておきたい。関羽のような男を従えているのだから、相当な器量を持っていることはほぼ間違いないだろう。だが、黄巾党の話をして、理解できるかどうか。力になってくれるかどうか。それはまた、別の問題となる。宦官や外戚に関係のある男であれば、その場で殺す必要も生じてくるだろう。

妻は支援部隊と一緒に、此処に残る。義勇軍は全員で1500ほどの規模であり、軍の予備部隊扱いだそうである。補給の任務や炊き出しなど、手伝うことは幾らでもある。支援部隊には女性も何名かいて、妻がいることに対しての違和感は、特にはなかった。妻も機嫌が良いことだし、別に気にすることもない。

今回、合流するこの部隊の規模は50名ほど。ただ、関羽の話では、確実にそれ以上の欠員が出ているはずで、引き続き応募は続けなければならないのだそうだ。如何に激しい戦いが続いているかも、それで明らかだ。一体この国の人間は、どれくらい減ることになるのだろう。五分の一か、六分の一か。もっと少なくなることも、想定しなければならないのかも知れない。

荒野を走る。途中、何度も無人になった村を見かけた。いずれも戦禍にあったのだろう。酷い有様だった。

「不愉快な光景だ」

「これから、幾らでも見ることになる」

隣を走っていた簡雍が言う。意外にも体力のある男で、他の兵士達とも遜色なく、平然と走っていた。全員に鎧が支給はされているが、しかし粗末である。立派な鎧を身につけているのは関羽くらいで、後はどれも軍の兵士のお下がりばかり。中には、戦場で死骸から引き剥いできたようなものもあった。

行軍している軍とすれ違う。向こうは装備もしっかりしていて、兵力も多い。この状況で、しっかりした武勲を上げるには、相当な指揮手腕が必要になることだろう。先頭を走る関羽が、ちらりと軍を一瞥。だが、官軍に対してこれと言った感情はないようで、すぐに視線を逸らす。

訳ありというのも、それだけで明らかだ。あれほどの武人、この状況で、官軍が放って置く訳もないだろうに。

そして、官軍に入って、黄巾党を退治することが、一番の近道であろうに。そうなれば功績を得ることも出来るし、地位を得れば宦官や外戚を排除することも選択肢に入れられるようになる。

なのに、関羽はそれを選ばなかった。国を見限っているのか、或いは。何か理由があるのだろう。

考えている内に、粗末な陣が見えてきた。

廃村の一つを利用しているらしいそれは、とっさに造った砦のようであった。村はずれには多数の墓が建ち並び、腐臭がある。支援部隊の一部も同行していたが、これはひょっとすると。怪我人の手当や、死人の処理に、手が足りていないのかも知れない。予想以上の惨状が、広がっている可能性が高い。

「開門!」

関羽が呼ばわると砦の門が開かれる。先に入っていったのは簡雍である。後の者達も、おいおいと砦に入っていく。

陳到が見たところ、食料はそれなりに蓄えられているようだった。今の状況で、まっとうな手段で手に入れられるとも思えないから、廃村に廃棄されていたものを拝借したのか、或いは黄巾党から強奪したのだろう。

陳到はそのまま、簡雍に呼ばれた。

 

その男は、何の変哲もない若者に見えた。耳が少し長くて、多少太めであったが。逆に言えば、それ以外に外見的な特色はない。少なくとも、簡雍よりは年下に見えるのだが。簡雍の採った態度は、陳到の予想外だった。

任侠の者達がするように、片膝を突いて、礼をしたのである。正式な抱拳礼でない辺りが、二人の不思議な関係を想像させた。

「玄徳兄貴。 例の男を連れてきましたぜ」

「おう、憲和。 ご苦労だったな」

字での呼び合いからして、二人が相当に親しいことがよく分かる。そそくさと簡雍がその場を後にし、護衛らしい虎髭の大男と、玄徳という男と。それに陳到だけが、その場に残された。関羽といい、この大男と言い。この玄徳という人物の下には、どれだけ優秀な人材が集まっていることか。空恐ろしかった。

「楽にしてくれ、陳到殿。 さっき、簡雍から大体の話は聞いてる」

「……それでは」

陳到が抱拳礼を崩してあぐらを掻くと、男は微笑みながら劉備と名乗った。この義勇軍の長だという。

多分豪族の出だろう。それほど逞しくはないが、最低限の教育を受けている雰囲気がある。それに薄いが、口ひげを蓄えてもいる。

「義勇軍に入ってくれたことはとても嬉しい。 簡雍から、訓練で非常に優秀な成績を残しているとも聞いている。 今は人材が一人でも欲しいから、歓迎はしたい。 ただ、俺達も命を賭けて斬ったはったをしているんでな。 ある程度、うち解けた相手じゃなければ、危なくて仕方がないんだ」

益徳、と男が呼ばわると、無言で大男が酒を用意してくれた。豪放な雰囲気があるが、じつは寡黙な人物らしい。軽く礼をすると、男は廃屋を後にする。短時間で此方が危険ではないことを見抜いたのか。そうだとすると、相当な修羅場をくぐってきている事になる。あの関羽という男に匹敵するくらいの豪傑かも知れない。

「飲んでくれ。 あまり良い酒じゃないが、母が造ってくれた秘蔵のものだ」

「かたじけない。 そのように貴重なものを」

「いいって事よ。 それで、だ」

少し酒が進んでから、劉備は身を乗り出す。人なつっこい笑顔の裏には、鋭い刃のような感情がこもっていた。

「陳到殿、目的を聞かせてくれないか。 何故、黄巾党と戦おうとする」

「貴方を見極めさせて貰いたい。 そうしたら、話す」

「ははは、なるほど。 ならば、しばらくは私を見極めてくれ。 訓練の成績は優秀だし、指揮の経験もあるらしいと簡雍が言っていた。 だから、うちでも小隊長を任せたいのだが、いいか」

「ご随意に」

酒を飲み干して、ぐっと礼をする。

一人の農民から、随分の出世だ。まだ、黄巾党の壊滅に手が届くほどではない。だが、やりようによっては、充分に大物の黄巾党幹部を捕らえることも出来る。

劉備という男は、あくまでも開けっぴろげに迫ってくる。陳到が今まで、会ったことがない型の男。

そして、不思議と目が離せなくなる男でもあった。

 

6、蠢く影

 

許の一角。とある肉屋の二階にて、林の組織の構成員達が顔を合わせていた。机上には戦況図が拡げられ、様々な注釈がつけられている。部屋に入ってきた若い男が、また地図に一筆付け加えた。

言うまでもなく、これは林の組織の拠点の一つである。

「ほう。 波才が戦死したか」

「朱儁将軍も活躍していますが、それ以上に湖賊あがりの孫堅という男の働きがめざましいようです」

「ああ、孫子の子孫だとかフいているとか言う、あの水虎(カッパ)か。 どうやら口だけではなく、なかなかやるようだな。 今後、目をつけておけ」

林が命じると、頷いた部下の一人が消える。代わりに、年かさの部下の一人が、地図上に指を走らせる。

「波才が戦死したとはいえ、現在、官軍と黄巾党は一進一退。 しかし、青州では、彼らの目論み通り、信者が爆発的に増えています。 既に青州だけで、百万を越えているという報告もあります」

「各地に官軍を派遣させて、一気に本命で洛陽を突くつもりか」

「恐らくは。 もちろん官軍の中には、狙いに気付いている者もいるでしょう。 しかし、各地の黄巾党の勢いは強く、とても青州までは支えきれないのが現状かと」

「くくく、惜しいことだな。 もう少し張角に寿命があれば、一気に押し切ることも可能であっただろうに」

既に、張角の側に派遣している部下が、報告してきている。

張角は肺の病だ。しかも、もう助かる可能性がない。今年中に、息を引き取る事だろう、と。しかも神意を備えた大賢良師などと吹いているために、それを表に出すことも出来ない。

そして奴の弟二人は、標準以下の能力しか備えていない。更に張角には嫡子もおらず、組織の整備も十分ではない。

ただ、黄巾党には大きな強みがある。

青州に張り巡らせた地盤と、更に全国各地に信者を増やしたと言うことだ。仮にこの反乱が失敗しても、大規模な弾圧は難しい。下手をすると、二度三度と、反乱がまた起こることになるだろう。漢王朝は、失策のツケを、体中に病原体を飼うことになると言う形で払わされた訳だ。

そしてそれらの混乱を、全土に広まった流民が後押ししている。彼らが落ち着くまで、更に大規模な反乱が頻発するのは疑いない。重病人と同じ状況である。

漢王朝は、もう長くはない。張角は、充分に目的を達したと言える。さっさと死んでも、簡単に乱が治まることはないだろう。これからは、ほぼ確実に、英雄達の時代がやってくるだろう。

さて、其処までは張角のもくろみだ。林としては、もう少し、状況を混乱させておきたい。さて、どういう手があるか。

一番問題なのは、現在官軍の将軍には、そこそこまともな人材が多いという事だ。膨大な敵軍とまともに渡り合っている朱儁は言うまでもなく優秀な将軍だし、非常に粘り強い。また別方面の指揮を執っている盧植や皇甫嵩もまず優秀と言って良い指揮を続けている。腐敗した漢王朝にも、これだけの人材が残っていたという訳だ。

もちろん全部が優秀とはとても言えず、敗れている将軍も少なからずいる。例えば、涼州地方を担当している董卓は、草原での騎馬機動戦を得意としているようだ。だが、歩兵同士の戦いが中心になる掃討戦は苦手らしく、勝手が違う戦場でいいように黄巾党軍に叩きのめされているらしい。罷免されないのは、宦官の有力者達に、賄賂を送っているからだろう。

ならば。優秀な人材達が、罷免されるような状況を作ってやればいいのである。

また、漢王朝の宿将達は、皆高齢である。これも付けいる隙になるだろう。これから十年程度で、衰えていくのは間違いないからだ。

幸いにも、この国の中枢は無能の巣窟だ。宦官も外戚も、この状態を引き起こしたのは自分たちなどとは、まるで気付いていない。かっては彼らも貧しい地方の豪族であったり、場合によっては庶民であったりもしたのだが。感覚が一度麻痺してしまうと、正常な判断力は出来なくなるものなのだ。

「宦官共に取り入るのか、それとも外戚にするのか、迷う所だが。 いっそ、共倒れを狙うか」

「共倒れ、ですか」

「この乱で、漢王朝は倒れる。 乱そのものでは倒れないだろうが、もう既に統制能力が無くなっているから、時間の問題だ。 後は群雄が並び立ち、勢力を争い始めることだろう」

その時、中央の制御をしようとする勢力。すなわち宦官と外戚が、一気に力を失ったらどうなるか。

混乱は一気に加速し、致命的な所にまで行くだろう。

「しばらくは、草刈りを続けるぞ」

「と、いいますと」

「宦官と外戚が、それぞれ二大勢力になるように、し向けていく。 宦官は毛大人にやらせておけばいい。 我らは外戚に取り入って、小規模勢力を暗殺して潰していく」

そして、最後は。

互いに食い合うように、滅亡させてしまうのだ。

しかも勢力が統合されていくと、派閥争いは激化する。宦官にも外戚にも伝手がないたたき上げの軍人達は、真っ先に何かしらの罪を着せられて、権力から追い落とされることだろう。それがいやなら反乱を起こすしか無く、負の螺旋が加速されるのはほぼ確実である。

そして、真に戦を知る軍人はいなくなり、漢王朝は壊滅的なまでに弱体化していくのである。

林としては、笑いが止まらないとはこのことだ。

「念のために、毛大人とも打ち合わせておく必要があるだろうな」

「毛大人は、宦官勢力に雇われていると聞いていますが」

「だからこそだ。 もちろん、本音で話す気など無い。 ある程度互いの動きを見極める必要がある、それだけだ」

ただ、一つ懸念がある。

林の組織が暗躍できているのも、国家体制が脆弱化しているからだ。もしも英雄が立ち、強固な体勢を作られると、手も足も出なくなる。訓練を受けようと、所詮林ら細作は闇に生きるものに過ぎない。光を浴びれば、溶けるように消えてしまうのである。

まあ、どのみちその懸念も、杞憂に過ぎないだろうと林は考え直す。そのように短時間で、其処までの体勢が起こることもないだろう。もしも起こるとしたら、光武帝劉勝や、楚の覇王項羽並の人物が漢の中枢部にいるという、あり得ない事態を想定しなければならない。

そのような人物はいない。

「良し、散れ」

手を叩いて、部下達を解散させる。人気が無くなった部屋で一人、林は思う。己の野望を。

そして、そろそろ、元気に走り回れるようになった娘に、殺しを経験させなければならないという事も。

細作は闇に生きるもの。

次期頭領には、若い内から、闇の英才教育を施しておかなければならないのだ。

林自身も、程なくその部屋から消えた。

 

7、見果てぬ夢と、これからの夢

 

机に向かい、竹簡に凄まじい勢いで筆を走らせていた張角は、どうやら死期が来た事に気付いた。胸が締め付けられるようにいたい。だがまるで顔には出さず、震える手で鈴を鳴らす。現れた部下に、言う。

「弟たちを」

「は。 大賢良師様」

呼吸がうまく出来ない。苦しい。

どんな薬も、まるで効き目がなかった。これでも古今東西の書物に通じている自信はあったのだが、それら知識も役に立たなかった。最初から分かっていたし、諦めてもいた。だが、あがきが無駄に終わった時。悲しくないと言えば嘘になる。

黄巾党を巨大な組織に成長させて、反乱を主導してみて、幾つか分かったことがある。

まず、一つ目に。弟たちには、思った以上に才能がない。戦略が的確だったから、反乱を此処まで巨大化することが出来た。漢王朝を、自分の道連れにすることも出来る。それは弟たちの功績ではない。

二つ目に、何かおぞましい意思が反乱に介在している。林の組織が暗躍しているのは分かっているが、その裏には更に糸を引く者の存在が感じられる。何者かは分からないが、いずれこの国が新たな王朝として成立する時には、倒さなければならない相手だろう。

そして最後に。結局自分は、英雄でも英傑でもない。薄汚れた、悪魔の一匹に過ぎないという事だ。

弟たちが、部屋に入ってきた。

目が霞む。だが、最後の瞬間まで、張角は毅然としていようと考えていた。膨大な努力で、弟たちに向き直ると、張角は最後の笑みを浮かべた。

「私は、もう駄目だ」

「あ、兄者!」

「落ち着け。 これからのことは、周囲の竹簡に記しておいた。 自分たちで判断せず、この竹簡に記したとおりに行動せよ。 数年は、それでしのげるはずだ」

張角は理解していた。激務が、己の寿命を縮めたのだと。そして、死を隠せるのも、せいぜい三ヶ月。林の組織は即座に把握するだろうし、官軍にもいずれ漏れる。その時までに、青州の大軍団を訓練し終えるかが勝負だ。

「兄者!」

背中を、梁に支えられていた。何時の間にか、倒れ込んでいたのだ。宝も梁も、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。意識も、薄れてきている。どうやら、これが最後の時らしい。

最後に、張角は夢を見た。

漢王朝が倒れた後、宦官にも、外戚にも、好きなようにされない国が訪れていた。

そこで張角は、悪魔のごとき悪人として扱われていた。自分の像に投げつけられる石。はきかけられる唾。

だが、それでも良かった。分かっていたことだ。それでも、誰かがやらなければならなかった。誰にも理解されなくても、張角は漢王朝を倒さなければならなかったのだ。

平穏な国を飛んで回る。何処にも、戦の影はなかった。

微笑む。そして、心の底から笑った。何という幸せな夢か。ああ、夢だと分かっている。だが、それでも。これが、張角の願いだった。

そして、張角の意識は、闇へ溶けた。

未練は、ひとかけらもなかった。

 

小高い丘の上で、腕組みして立ちつくす男の影有り。

小柄な男だ。顔立ちもとくに優れている訳ではなく、その辺の雑踏に紛れれば、十中八九他の者と見分けがつかなくなる。腰には豪華な飾りのついた剣を帯びていて、鎧も豪華であったが。しかし生来の貧弱な体格を、隠すことは出来なかった。

背を高く見せる靴を履いているのだが、歩きにくいばかりであまり効果がない。そろそろこれもやめて、別の方法を試そうと、男は考えていた。もう二十代を半ば以上過ぎてはいるが、気合いを入れれば少しくらい背も伸びるだろう。

そんな情けないことを考えつつも、表情だけは引き締めているその男は、曹操と言う。字は孟徳。見かけの通り、裕福な家の出だ。

裕福なのも当然で、彼は宦官の孫である。もちろん宦官に子をなすことは出来ないので、養子を採ることになる。曹操はその養子の更に子。地元では、彼の陰口をたたく時には、必ず宦官の孫と言うものである。

その悔しさをばねに、曹操はずっと努力してきた。多少小柄でも、武術はその辺の相手には絶対に負けないし、学問に関しては地元の古老でさえ敵わない。それでも、背丈だけはどうしようもない。

何とかならないものかと心中嘆きながら、視線を逸らす。気配があったからだ。

周囲には取り巻きも部下もいない。剣に手を掛けながら、向き直る。

「何者か」

「曹操様にございますね」

「それがどうかしたか」

老婆の声だ。もちろん聞き覚えなど無い。背中に冷や汗を感じながらも、曹操は戦闘態勢に心身を整える。それをからかうように、甲高い笑い声が響いた。

「私めにございます」

ひょいと、草の影から姿を見せたのは。

曹操が飼っている細作。ルーと呼ばれる娘であった。

娘と言うが、正確な年齢は分からない。髪の毛は金色で、目は蒼い。顔立ちも、この地の人間とは違いすぎている。多分西から流れてきたのだろうが、その素性は分からない。父から譲り受けた小さな細作組織の、今は主力となって働いている者だ。名前に相当する文字もない。

変声と変装の達人で、何を考えているか全く分からない怖い娘である。だが、曹操に害を為すようなことは一度もしたことがない。悪戯は、散々されたが。一番困ったのは、前から目をつけていた娘を部屋に連れ込もうとした時に、何食わぬ顔で部屋にいたことだ。娘には引っかかれるわ、親爺には怒られるわで、散々だった。色々個人的な弱みも握られているので、あまり強く出られないのが悔しい相手である。

ずっと昔は兎のように小さかったが、今は曹操よりも大きい。娘に見下ろされるのが、曹操には非常な屈辱であった。だが、ルーは役に立つ奴なので、あまり多くは言えない。

「お前か。 危うく斬る所だったぞ」

「けけけけけ、ご坊には無理にございます」

「ぬかせ。 それで、何のようだ」

「周囲に人がいなくなるのを待っておりました」

すっと、ルーが蒼い目を細める。何か重要な報告がある時に、ルーが見せる癖だ。以前は、宦官の徐奉が張角と通じていると報告してきた時に見せた。さて、今度は一体何だろうか。良いことではあろうが、手放しには喜べまい。

その予想は、当たった。

「張角が死にました」

「それは本当か」

「ご坊に嘘をついてなんになりましょう」

「……そうか。 分かった」

頷くと、曹操は自陣に戻る。

此処は、味方の陣の中にある丘だ。大胆な行動をする曹操も、流石に敵地で一人になるほど愚かではない。

兵力は、およそ5000。個人の財力で集められる戦力としては、限界に近いほどのものだ。彼の両親と祖父が、如何に大きな権力を持っていたか、これだけでもよく分かる。厳しい訓練を続けたため、今では並の官軍部隊よりも早く動き、鋭く敵と戦うことが可能である。

中でも、金を掛けて集めた精鋭部隊は、全員が赤い鎧を身につけている。戦場ではかなり目立つが、それが故に効果は絶大だ。最近では、激突する黄巾党部隊は、赤い鎧を見るだけで浮き足立つようになってきている。

幕僚達が集まってきた。若い頃からの友人と、金に任せて集めた名の知れた武人が半々と言う所である。

「戦況は」

「特に変化ありません。 西の平野で、先ほど小規模な小競り合いがありましたが、大きな被害は出ていません」

「そうか」

本体である朱儁将軍の部隊が主力となっているから、曹操の私兵部隊は出番が少ないという事もある。元々粘り強い朱儁は、今や完全に己の調子を取り戻し、黄巾党の軍を押しまくっていた。

妙に黄巾党軍の動きが鈍いとも曹操は感じていた。考えてみれば、ルーの報告がそれで納得の行くものともなる。張角の弟二人は、どちらも大した能力を持っていないと聞いている。兄が仔細まで丹誠込めた遺言を残しても、そろそろ襤褸が出ることであろう。

「朱儁将軍は大したものだな。 惜しむらくは、中央に人脈もなく、何より年を取りすぎているという事だろうか」

意見を求めて、部下達を見回す。

従兄弟である夏候惇が最初に進み出た。曹操との折衝役を、他の部下達に任され気味な男だ。戦の才能は殆ど無いし、武術もあまり得意ではないのだが、まとめ役として得難い男である。曹操より頭一つ大きいが、体そのものは痩せていて、幼い頃の事故で右目を無くしている。だから鏡が嫌いだと、常日頃から公言している。

「滅多なことを言いなさいますな。 誰が聞いているか分かりませんぞ」

「ああ、そうであったな」

「ただ、朱儁将軍が年を取りすぎているのは事実かと思います。 時々、判断に間違いをするのを、我らも感じておりましたし」

「うむ。 いざというときには、充分に手柄を立てる余地はあるが、しかし今の中央に、それを正統に評価できる度量があるとも思えはしないが」

一人笑う曹操に、部下達は首をすくめた。気の弱い者達だ。

今のところ、曹操の下にはこれといった部下が多くない。同じく従兄弟の曹仁はいわゆる猪武者で、優秀な指揮官がいて初めて破壊力を発揮できる。ぼうぼうに髭を蓄えた大男で、見るからに強そうだ。実際に強いのだが、思慮が足りなすぎて、一軍の指揮を任せるには危険すぎる。同じく親族の夏候淵は、痩身の大男で、夏候惇よりも更に頭半分大きい。此方は弓が得意で、速攻での戦いに光るものがあるが。残念ながら戦略的な視野が狭く、一軍の将としては不足である。

隅に控えている、記録係から抜擢した楽進は、曹操同様小柄な男だが、この者だけはまず一流と言っていい能力の持ち主だ。非常に勇敢で、強行突破戦術と高速機動戦に関しては、抜群のものがある。ただし、曹操の親族ではないので周囲との関係が薄い上に、何より何故か周囲から侮られがちである。背が低いと、男は損だ。今は武勲を積ませて、周囲に納得させるべく四苦八苦している所である。

今、戦場に出ている曹洪は、あらゆる点での能力が足りない。だから鍛えているのだが、しっかり育ち上がるかどうか。

人材が足りない。常に曹操は、そう感じてしまう。

「今後の戦略についてだが、恐らく青州に黄巾党を追い込むことになるだろう。 俺の見たところ、黄巾党は各地に官軍を分散させ、その隙を青州の本隊で一気に突こうとしていた。 だが」

思った以上に、官軍の将軍達の動きは速く、それが黄巾党の戦略を瓦解させた。今では南部の主な黄巾党軍を壊滅させた朱儁将軍の精鋭が、青州の軍に対する防波堤となっており、簡単には突入できなくなっている。

そのほかの地方でも、官軍の奮戦は凄まじい。表向きの主力である冀州でさえ、互角の戦況である。数倍の数を相手にしながら、官軍の将軍達は良くやっているとも言える。ただ、冀州方面の指揮官である盧植は宦官との折り合いが悪く、特に最大派閥である十常侍と呼ばれる集団とは反目していると聞く。近々、十常侍と仲がよいと言われている董卓将軍と指揮を交代させられるという噂もある。そうなると、冀州方面は一気に戦況が逆転される可能性もあるが、はて。どうなるか。

「官軍も、落としどころは用意しているのではないでしょうか」

「青州は抑えて置いて、冀州に戦力を集中して、敵の中枢を陥落させ、信者達の戦意を削ぐというような形でか」

「は。 それが一番現実的に思えます」

「ふん、確かにそうだが、元々世にはびこる悪政が原因で、この乱は此処まで拡大したのだ。 しかもこの戦いで活躍した将軍達は、いずれも権力から遠ざけられるか、追い落とされる事だろう」

こんな乱は始まりに過ぎないと、曹操は考えている。

これから群雄達が並び立ち、血で血を洗う死闘が始まることだろう。その時こそ、曹操が昇竜となって、世を駆けめぐる時だ。今は、中央からの評価などどうでも良い。力を蓄えて、優秀な部下を集めて、機会をうかがうだけだった。

部下達を解散させると、曹操は天幕に入り、人事の名簿に目を通す。新しく応募してきた者の経歴を確認するが、やはり大した奴はいない。指先で机を何度か叩いている内に、後方支援が出来る文官が足りないのだと気付いた。

この乱が終わってからでいい。優秀な支援役を手に入れたいものだと、曹操は思った。

ふと、天幕に気配。ルーのものだ。

「忘れてました。 も一つ報告です」

「どうした」

「どうやら、盧植将軍の罷免が、早まりそうです。 宦官達にとって、賄賂を提供しない盧植将軍は、邪魔者でしかないようですから」

「ふん、愚かな奴らだ。 あれでも祖父はまだマシだったのだな。 現実的な判断力は備えていたのだからな」

吐き捨てると、曹操は細作を増やすように指示。ルーに金の入った袋を放って渡した。今後は情報が幾らでも必要になる。頷くと、ルーは闇に消えて、後は何の気配も残らなかった。

曹操には、夢がある。

宦官の孫だと、バカにされない世界を造ることももちろんその一つ。

だがやはり、男としては。

大陸の歴史に名を残す、巨大な英雄となりたかった。

 

(続)