幻想郷のインフラ事情

 

序、博麗の巫女激怒する

 

地上最後の理想郷、幻想郷。

今だ妖怪が存在し。

妖怪は人を怖れさせ。

人は妖怪を怖れる。

そして人は勇気をふるって妖怪を退治する。

そんないにしえのルールが今だ生きている幻想郷には、人間代表のバランサーとして、博麗の巫女という超武闘派の巫女が存在している。妖怪の山に最近越してきた守矢神社の東風谷早苗にとっては、大先輩にあたる相手であり。いずれ超えなければならない高い壁だ。

あくまで殺傷力の低いスペルカードルールという決闘方でだが、並み居る敵をなぎ倒し続け。幻想郷の妖怪にその情け容赦なさで怖れられる博麗の巫女は。仕事をするときには文字通りの見敵必殺をする上に。その戦闘力の高さ、容赦なさからくる恐ろしさは群を抜いている。幻想郷の支配者階級である妖怪の賢者達でさえ、博麗の巫女との正面勝負は避けたがるのが実情だ。

その博麗の巫女が激怒した。

これだけで、周囲の妖怪達は恐怖で失神し、何も悪い事はしていなくても泣いてわびるほどの事なのだが。

幸い今回激怒したのは、妖怪相手ではなく。

人間相手でもなく。

ものに対してだった。

博麗の巫女はものぐさだが、たまにパトロールと称して人里に出かけたり。或いは妖怪の山に飛んでいく。

物資は人里から供給されている。

何しろ有事の最大戦力だからだ。

金はないと博麗の巫女はいつも嘆いているが、それは幾つかの理由がある。大妖怪クラスの妖怪が時々面白がって博麗神社に顔を出すため、妖怪神社なんて名前で人里で怖れられていること。更に人里から、当然妖怪も出る道を(自衛能力があればハイキング感覚でいけるが)一時間も行かなければならないこと。更に言えば本人が稼ぐ努力をほとんどしないこと。これらが理由だ。生活のための資金物資は支給されている。

更に言うと、何かあった場合は直接声が掛かるため、本来は自分から出向く必要もない。

空間転移までこなす博麗の巫女にとっては、幻想郷は狭すぎる。

つまりパトロールと称しての暇つぶしである。

しかもパトロール先でものをたかったり、ただ見かけただけの妖怪をしばき倒したりするので、博麗の巫女が来たと言うだけで妖怪は急いで逃げ隠れる。博麗の巫女も弱い妖怪を虐めて楽しんでいるようなことは無く、妖怪退治装置と自分を位置づけ、事務的にぼこぼこにしている様子だ。それが故に余計にタチが悪いのだが。

その博麗の巫女の今日のパトロール先が、妖怪の山にある守矢神社だった。

妖怪の山の有力者である天狗も、領空侵犯だので他の相手には威嚇をするのだが。彼奴にだけは手を出すなと絶対命令が下っていることもあり。エース格の射命丸がいる場合は様子を見に行くが。そうでない場合は、血の気が多い白狼天狗がちょっかいを出して、頭をかち割られて泣いて帰って行く位である。

それほどに恐ろしい博麗の巫女が。

最近山で勢力を伸ばしている(と同時に稼いでいる)守矢神社に、様子を見に来たのである。

博麗の巫女が来るのは、以前守矢神社が幻想郷に越してきたとき。

守矢の巫女である早苗が、力量を見極めるために博麗の巫女に武神二柱から促されて喧嘩を売りに行き。

喧嘩を買った博麗の巫女が乗り込んできたとき以来である。

流石に山の妖怪達も騒然としたが。

更に騒然としたのはその後だった。

博麗の巫女が客間に出された後。

すぐに料理が出てきたのを見て、どういうことだと早苗に問い詰め。

半ば強引に台所に出向いて。

其処に並ぶ「文明の利器」を目撃したからである。

博麗神社にも水回りはある。

水は蛇口から出るようになっている。これについては、人里でも普及している水道を利用しているのだ。

ただし火は竈である。

炭を使って火を熾し。

米も炊くのにも、始めちょろちょろ中ぱっぱ、赤子泣いても蓋取るな、の例に沿って作業をしなければならない。

それなのにだ。

守矢神社の台所には。

なんとスイッチを押すだけで熱くなる「IH」という調理器具があり。

それによってあっという間に湯が沸く。煮物も出来る。早苗には普通でも、博麗の巫女には当たり前では無い。

そればかりか、「炊飯器」という道具を使えば。ご飯をあっという間に炊くことが出来る。

博麗の巫女も術を使って湯を沸かすことが出来るため、風呂などはこれで賄っているほどなのだが。それを差し引いても、この便利さは異常だというのである。

更に博麗の巫女が激怒したのが、「電子レンジ」という調理器具である。

なんとコレを使う事により短時間で冷えていた料理が温まる。満遍なくだ。

これも現在社会では当たり前に存在し、早苗もあるのが当然の生活をしていたが。博麗の巫女にはそうではなかった。

他にもあからさまに得体が知れない便利そうな器具が山のようにある。

守矢が最近になって外の世界から引っ越してきたことは知っていた博麗の巫女ではあるが。

この便利さは普通なのかと早苗に問い詰めてきた。

鬼の形相に早苗は半泣きになりながらも、頷くしかなかった。

しかも間が悪いことに守矢の二柱はそれぞれ視察で神社を離れており。

猛り狂う鬼神と化した博麗の巫女を、早苗は何とか泣きながらなだめなければならないのだった。

とにかく、茶と料理を出す。

ぷんすかしている博麗の巫女はそれを成長期の少年どころか、大食いを生業にしている人間でさえ青ざめる勢いで平らげる。

そして多少腹の虫も収まったのか、幻想郷で最も物理的に恐ろしいと言われている巫女は、早苗に直球で聞くのだった。

「さっきの、うちにもほしいんだけれど」

「複雑な電気系統が必要ですよ。 専門家でないと扱うのは不可能です」

「ならば河童かしらね」

「いえ、問題は他にもあります」

料理を片付けた後。言葉では無理だろうと判断した早苗が、博麗の巫女を連れて行ったのは、電気周りだ。

まったく博麗の巫女には無縁の、複雑極まりない装置がある。

一目で理解させるには。

その複雑さを見せるのが一番だ。

「これはブレーカーといって、簡単に言うと電気を調整する装置です」

「電気くらいは知っているわよ」

「人里でも家によっては電球とかありますもんね。 でもあれは、不安定な電源でも大丈夫なものなんです」

ぴんと来ていない様子の博麗の巫女に。

早苗は説明する。

現在人里では、燃料を使っての発電機が主流で。電気を起こすのも金が掛かるので、ごく一定の時間だけ、灯りが必要な時に使っているという。夜にもやっている飲み屋などでは、火を使った危険な灯りを用いるか、出費を覚悟で夜通し発電機を動かすしかないという。当然燃料代がかさむ。

これに対し、守矢では不完全とはいえ幾つかの発電システムの供給を受けており。

当然変電所もあるので、安定した電気が神社にまで届いている。

なお河童や天狗も、この電気の恩恵を受けているそうだ。

この安定した電気でないと、現在守矢で使っているような精密機器は動かせないのだ。

発電機から来る電気を安定させる装置もあるにはあるが、幻想郷でたくさん作れるようなものではない。近年の外にある発電機の中には大丈夫なものもあるが、それはとてもではないが幻想郷で量産できるものでもない。

それらの説明をしても、博麗の巫女は当たり前のように納得しない。

「どうしてその安定した電気とやらをうちには送れないのよ」

「以前、地底で八咫烏様の力を宿した地獄鴉と交戦したと思います」

「ああ、お空の事」

「そうです」

お空と呼ばれているのは、本名霊烏路空。空と書いて「うつほ」と読む。

地獄鴉と呼ばれる妖怪で、本来はそこまでの実力者では無いのだが、ある理由から八咫烏神の分霊を身に宿し、結果「核融合」を自在に操るようになった。

攻撃力だけなら幻想郷最強の一角。

そう言われている所以である。

元は烏の姿だったのだが、八咫烏神の分霊を宿してから人型になり。

現在では地底で大人しくているものの。

暴れていた頃は手が付けられないほど危険だった。

「あの鳥頭がどうしたの」

「あの子に神奈子様が八咫烏様の分霊を宿したのも、安定した強力な電源を得るためなんですよ。 人里にも引くための、ね」

「……つまり、「安定した」電気の供給は、それだけ大変という解釈で良いのかしら?」

「そういうことです」

今では、四苦八苦の末に。

守矢神社を一として、河童や天狗にはどうにか電気が供給できている。

だが、以前のダム計画の失敗などで、重要な部分以外での電源供給はいまだに出来る目処が立っていない。

つまるところ博麗神社にも電気を引くのは不可能、と言う事だ。

「お空を捕まえて博麗神社に連れて行けば、そのIHだか電子レンジだとかいうのも動くの?」

「変電所も含めると博麗神社の何十倍も巨大な施設が必要だと思います」

「そうなると、河童をこき使わないといけないのかしらね。 元々悪さが目立つし、これから巣に行ってまとめてしばいて来ようかしら。 それで力尽くで働かせて突貫工事させればどうにかなるか」

「いえ、さ、流石にそれは……」

凄まじい言葉に早苗も青ざめる。博麗の巫女は実際にやりかねないし、しかもやり遂げる戦闘力を持っている。河童の中にはそれなりに強い個体もいるが、博麗の巫女が相手ではいくら何でも無理すぎる。もしも博麗の巫女が本気になったらまとめて「物理的に」掃除されてしまうのが目に見えている。

無茶苦茶だ。

強引に働かせる事は出来るかも知れない。だがそれでは、相手の恨みを買う。

特に生命線を握るような装置を無理矢理作らせたりしたら、どんな爆弾を仕込まれるか分かったものではない。

自分達でも使う装置だから、河童も真面目に作る。或いは河童にも利があるから、真面目に仕事をする。そういうものなのである。

博麗の巫女に、冷や汗を流しながら説明する早苗だが。

実は術よりもステゴロの方が得意と言われている(術メインの戦闘であれだけ強いのに、である)博麗の巫女の脳筋思考にはかなわない。

幸い、間もなく守矢の武神の片方。

諏訪子が戻ってくる。

早苗が涙目になっている事に気付いたか。

或いはテリトリー内だから、途中から話を聞いていたのかも知れない。

何しろ此処は神の領域だ。

軽く博麗の巫女に挨拶すると。

諏訪子は言う。

彼女はこの恐ろしい巫女に、スペルカードルールでは負けたが。単純な実力でなら張り合える数少ない存在である。

「博麗の。 あまりうちの可愛い娘を虐めないでくれるかな」

「理不尽だって言ってるのよ! 何よその便利道具! こっちが宴会だの何だので、どれだけ毎回苦労していると思ってるの」

「気持ちは分かるけれどね、此方もダム建設の際には、その「便利」がそっちまで行くように苦労していたんだよ?」

「やっぱりあいつらのせいか……」

博麗の巫女の目が殺気を帯びる。早苗は小さくひっと悲鳴を零していた。この後に起きる血の惨劇が目に見えるようである。

ダム計画。

以前守矢が主導して行おうとした、幻想郷にダムを造り、人里の信仰を集めようとした計画である。同時に電気供給も出来るようにしようとした。

だがあまりにも協調性がなさ過ぎる河童達に、複雑かつ巨大すぎるシステムの長期工事は無理だった。

好き勝手なものを作り出すわ。

設計図とちがうものを勝手に作り始めるわ。

遊び始めるわで。

技術だけ一流の幼児を集めたかのような有様になったと、博麗の巫女も聞いていた様子である。

更に言えば、幻想郷の賢者達の意向で、人里では意図的に高度な技術発達は抑えるようにしているらしい。

これは人間の技術力が上がりすぎると暴走を確実に開始するから、というのが理由であるとか。

外の世界では、お空の力に近いものを使って、大量の人間を殺すような戦争まで行われた。早苗も知る悲惨な戦争、世界大戦だ。

確かに幻想郷の賢者達によるコントロールを比較的好意的に受け止めている博麗の巫女は、それを引き合いに出すと少しは感情も収まる様子だ。

「いずれにしても、電力関係のインフラを博麗神社まで伸ばすのはまだまだ当分無理だね、悪いけれど」

「はあ、仕方が無いわね。 でも多少はそちらでも努力して便利になるようにしてくれないかしら」

「善処はするよ。 ただ此方もね、山の天狗達がいちいち突っかかってきて五月蠅いし、河童はあの通り統率が取れないしで、面倒極まりないんだよ。 それと、念を押すけれど、無理矢理台所の道具を持っていっても、人里にある発電機じゃ動かないからね。 それは理解しておいて」

むくれた博麗の巫女がそのまま帰って行く。

ようやく恐怖の権化が戻っていったことで。

山の妖怪達も、揃って胸をなで下ろしていたようだった。

諏訪子が嘆息。

「早苗、色々な戦いでだいぶ肝も据わってきたけれど、まだ経験が足りないね。 人食い妖怪の退治にでももう少し出してみるかね」

「ごめんなさい、諏訪子様。 殺しあいは経験もしましたけれど、流石にあの人が相手となると」

「スペルカードルール限定とは言え、あの地獄の神や怨念の権化さえ負かした相手だし仕方が無いけれどね。 もう少し、自分を保って相手のペースに飲まれないようにするのが必要だよ。 それはさておき……」

諏訪子が、茶を促し。

早苗も茶を用意する。

諏訪子は自分の遠い子孫である、守矢の半人半神の巫女、つまり早苗に言う。

「博麗の巫女が言うのも正論ではあるんだよ。 人里や博麗神社は幻想郷の賢者達のコントロールで、今の生活水準が当たり前になっているけれど。 それでも、こんな指先一つで簡単ポンな生活を見れば頭にも来る。 私だって、諏訪の大地を治めていた頃は、こんな技術が普及するなんて思いもしなかったしね」

「月の都には凄い技術があると聞いていますが」

「あれも基本的に上位の月人が独占しているだけだよ。 永遠亭に行っても、生活水準はそんなに良くないだろう? 妖怪兎たちが良い生活を享受しているとでも思うかい?」

からからと笑う諏訪子。

永遠亭は、ある理由から住処である月を離れた神(月人)が隠れ住んでいる場所だ。

確かに凄いテクノロジーの産物はあるにはあるが。

しかし限定してしか使えないようである。

今ではお薬を人里に良心的なお値段で販売している事と。

人里の急病人を摂理に反しないレベルで治療してくれることで。

幻想郷で一定の知名度を得ている。

早苗も何度か訪れたことがあるが。

守りが堅くて、中に自由に入れてくれる、というわけには行かない。

多分理由は、先ほど博麗の巫女が激怒したのと同じだろう。

「つまり、我々は人間の信仰を得るためにも、技術は流さず生活水準だけは向上させてやる必要がある」

「更に力を伸ばすため、ですね」

「そういうことだ。 博麗の巫女はあくまで人間側の存在として生きているから、あまりにも便利すぎるものを見ると腹を立てる。 だけれどね、人里の生活水準だって、古代の生活水準に比べると雲泥なんだよ」

「それは、何となく分かります」

諏訪子と神奈子は。

昔から、人間の世界では孤立していた早苗の、数少ない理解者だった。

元々外では理系の上に不思議な事に興味を持ち、更に名家のお嬢である早苗は、殆ど周囲に対等な友人もいなかった。

金や権力を目当てにすり寄ってくる人間は多かったが。

故に子供の頃から、嫌になるような人間関係を散々見てきた。

田舎では異例なほど豊かな生活をしていた早苗だが。

それも嫉妬の対象になった。壁を作る原因にもなった。誰もが親切だったが、それは人間に対する親切ではなく、別の世界に住んでいる相手への親切だった。

実際、他の家では、未だに汲み取り式の便所が現役だったり。

回すチャンネルがついているテレビがあったりもしたのだ。

頭の固い老人達は、早苗を現人神と祀る事はあっても。

早苗を人間として見てくれることは無かったし。

どうやって機嫌を伺うかばかり考えていた。

両親や祖父母さえ、早苗を現人神として、権力闘争の材料と見なしていた。

まともに大人として接してくれたのは、諏訪子と神奈子だけだった。

故郷を懐かしいとはまったく思わない。

二柱の言う事は、そういうわけで、今でもすっと頭に入ってくる。

二柱こそ、早苗の本当の親と言っても良いのだから。

「しかしどうしましょう。 今は地熱発電で、山に関する電気に関しては安定供給が出来ています。 核融合炉はまだ安定にはほど遠いですし、ダムに関しては河童には任せられないと思いますが」

「現状、幻想郷では清潔な水の供給と、仕組みは分からないがほぼ完全な下水処理が出来ている。 食糧も新鮮なものが「足りて」いる。 それだけで本来は生活満足度は最低水準を維持できてはいるんだけれどね。 ただ、各家庭に安定した電力だけでも用意できればかなり違ってくるだろうね」

「……実はそれについて、少し前に聞いたのですが。 人を驚かすのが苦手な妖怪達は、今でも明るくて困ると話しているそうでして」

「ああ、そういう話は聞くね」

いずれにしても問題は山積みだ。

守矢神社は、積極的に幻想郷の仕組みに関わっている勢力だが。

その道のりは、決して明るくは無いのだと、早苗にも分かるのだった。

 

1、幻想郷の上水

 

幻想郷には水が豊富だ。

守矢神社ごと引っ越してきた湖の他にももう一つ湖がある。その湖の湖畔には、吸血鬼達が住んでいる紅魔館があり。

このほかにも、大きな池は幾つも存在している。諏訪子の眷属の大蝦蟇が住む池もその一つだ。

妖怪の山そのものがかなりの巨大山岳地であり。

此処から流れ出ている川も多い。

今日、早苗は、神奈子に連れられて。

人里と守矢神社の中間地点ほどにある、河童が作った「らしい」ある施設に来ていた。

らしいというのは、現在は河童の管理を離れていて、河童も近づいていないという事が分かっているからだ。

昔は河童も人を襲って殺していたらしいけれど。

それも今は昔の話。

現在では河童は、人間を相手に金を稼ぐことを考える事はあっても。

川に来た人間を殺す目的で襲うことは殆ど、いやほぼ無いそうだ。

実際問題、博麗の巫女とはあまり仲が良くないようだし。博麗の巫女は人間を襲うなら兎も角、殺した妖怪には冗談抜きに容赦をしない。河童もそれは心得ているらしく、商売がらみでは博麗の巫女に強気に出ることはあっても。人命が掛かった場合はかなり下手に出るらしい。流石に河童も命は惜しいし、相手が何をしたらブチ切れるかも心得ている、という事である。

流れる清水には。

魚が気持ちよさそうに泳いでいる。

だが、歩きながら神奈子は言う。神奈子は早苗よりかなり背が高いので、歩きながら話すと、いつも見上げることになる。

「綺麗に見えるかも知れないけれど、真水を飲んだら最悪死ぬよ」

「心得ています。 赤痢、でしたっけ」

「そう。 どんなに綺麗に見えても真水は真水。 中身は危険な細菌だらけだからね」

古い時代でさえ。水は沸かして飲んでいた。

今ではすっかり縁遠くなった病気であり、当時は致命的だった赤痢などに感染する可能性が高かったからだ。

これくらい綺麗に見える川でもそれは同じ事。

また、川の流れは思った以上に速い。

川遊びをしている人間が、流されて死ぬ事は、現在でも時々ニュースになっていたが。

それだけ川は昔から危険な場所だったのだ。

神格化されるケースもあったと言うが、それも当然だろう。

川は生命線であると同時に。

時には暴れ。

時には命を容易く飲み込む。

そういう恐ろしい場所でもあったのだから。

誰でも知っているあの八岐大蛇の正体は色々と説があるが。鉄鋼をもたらした文明の民であるとか、川であるとか。現在でもはっきり分かってはいないらしい。

その中でも、川であると言う説を。

神奈子は推しているようだった。

ほどなく、林に隠れるようにして。

大きな施設が姿を見せる。

かなり強そうな妖怪が、見張りに立っていたが。神奈子が顎をしゃくると、頷いて通してくれた。多分、見た感触では山でえらそうにしている白狼天狗より強いはずだ。誰だろうと早苗は気になった。

「あの方は?」

「幻想郷の管理者の直接の配下だよ。 外では既に伝承が失われた妖怪だね。 古い時代の土着神の成れの果てだ」

「そんな方が見張りに。 つまりそれだけ重要な施設、と言う事ですね」

「そうさ。 此処が壊れたら、真っ先に河童に修復指令が出るほどの、ね」

そうか、それは重要だ。

中に入ると、合羽のような気密服を着るように指示を受ける。それだけ精密な施設という事である。

いわゆるエアシャワーで埃を飛ばし。マスクを着ける。頭もずきんのようなもので抑えて、髪の毛が飛ばないように指示を受けた。指示をしてくる妖怪も、見張り同様、外では殆ど見ない妖怪だった。表情も険しいし、強い力も感じる。

更に専用のスリッパに変えて、中に。

入ると、見覚えのある施設だった。

多数のプール。うおんうおん唸る多数の機械。潤沢に電気を使っているのが分かる。

働いている妖怪は、皆見た事がない強そうな者達ばかり。チェックリストを手にして、事務的に動いている。

此処は浄水場だ。

なるほど、確かにこれは重要施設である。

博麗神社で見たが、現在幻想郷には井戸と蛇口の水道が両方存在している。井戸は緊急用の飲料水や、或いは大量消費する風呂など用に置かれているらしいが、当然沸かさないと飲めない。

蛇口の水道は水量が少ないが。

そのまま飲む事が出来る。

妖怪なら、或いは川の水を普通に飲むことも出来るかもしれない。

半人半神という、人間の領域を踏み越えつつある早苗も、今なら大丈夫かも知れない。神奈子には警告されたが。

だが、幻想郷に住んでいる大半の人間には、生水は致命的だ。

恐らく、浄水場というシステムが外で出来てすぐに、此処は秘密裏に建造されたのだろう。

古い時代、病気が流行る時。その原因は、多くは水周りだった。

特に上水がいい加減な場合は致命的だったと聞く。

江戸時代、世界最大の都市の一つだった江戸でも、安全な水を売る商売が流行っていたという話もある。

神奈子が責任者らしい者に声を掛ける。

驚いたのは、それが幻想郷の賢者の側近である八雲藍だったからだ。

普段は殆ど姿を見せないと聞いていたのだが。此処に来ていると言う事は、そういう事、というわけだ。

なお九本の尻尾を持つ彼女も、勿論気密服のようなものを着ていた。

「お久しぶりです、八雲藍さん」

「お久しぶりです神奈子さん早苗さん。 私も滅多に屋敷からは出ないので、重要な来客とは言え嬉しいですよ」

そうか、そうだろう。

幻想郷の管理者妖怪である八雲紫の忙しさは小耳に挟んでいる。普段は寝こけてばかりいるとか言う悪い噂もあるが。実際には何かあるとすぐに動いているとも聞く。つまり本当は忙しいのだろうと早苗は見ている。

紫が忙しいのなら、懐刀である藍も当然忙しいはずで。今日は色々大変な中、時間を割いてくれている状況だろう。

それくらいは別に誰でも分かる。

故に頭が下がる思いだ。

藍の案内を受けて、浄水場を見学する。神奈子と藍は、幾つか重要な話をしていた。

「山の妖怪の中でも、守矢に忠誠を誓う者は増えている。 何人か此方に回すべく手配しようか?」

「現時点ではまだ信用度が足りませんね。 申し訳ありませんが、此方で精査した上で採用したく思います」

「そうか、まあ仕方が無い。 此方も越してきた時点では、色々問題を起こしたからねえ」

「そういう事です。 流石に貴方方をいきなり全面的に信頼は出来ません。 ましてや此処は、幻想郷ののど元です。 見せるだけでも、かなりの信頼構築を出来ていると思ってください」

施設の中は驚くほど近代的で、監視もかなり緻密に行っている様子だった。

外との交流を持っていることは知っていた。

だがこれは、交流を持っていても相当な難事だったのではあるまいか。

文字通り浄水施設は生命線だ。

特撮でダムが怪獣に破壊されることは昔よくあった。

でも、近年の特撮では、浄水場を占拠して、毒を入れるような悪の組織は殆ど見かけない。

当たり前の話で。

それだけ洒落にならないからである。

浄水の過程を見ていく。

成分の濾過を何重にも行い。

複雑な行程を経て殺菌し。

やがて大型のポンプで人里や、他の地点へも水道管を使って送り出す。塩素殺菌されている水はまずいという話があるし、事実その通りなのだろうが、その代わり非常に安全なのだ。

昔猛威を振るった水ビジネス。

塩素を取り除くとか、水を美味しくするとかいうアレだが。

あれは、これだけ浄水場が水を飲めるように状態を加工し。

更に安全性で言うとミネラルウォーター以上の状態にしている事を、誰も知らないから蔓延した一種のカルトだと言う事が、この場を見ているだけで早苗にも理解出来る。

人は便利になると。

不便を忘れる。

そして安全になると。

危険も忘れる。

生水がどれだけヤバイ代物だったのか、今の外の若い人達は殆ど知らない。かくいう早苗も、二柱に教えられるまでは、川の水は綺麗で、水道水はまずいから、川の水の方が安全なのではないか、などと思っていたほどだ。

視察を終えると、幾つか藍と打ち合わせをして。

それで帰路につく。

水道管は地下に敷設されているので、地上では見えないが。

どうやらかなり厳重に水道管は管理されているらしく。

結界まで駆使して、悪さをする者が出ないように、監視しているようだった。

藍に見送られて、浄水施設を出ると。

しばらく山の中を歩き。

施設が完全に見えなくなってから、飛ぶ。

後は守矢まで飛んでいくだけだが。

途中で神奈子に言われて、振り返る。

神奈子はゆっくり指で指すようにして、どう水道管が移動しているのか、説明をしてくれた。

「あの辺りで分岐して、人里に。 一部は博麗神社に向かっている。 此方の分岐からは、守矢と河童の住処に。 あの辺りにポンプがあって、天狗の住処へ向かっている」

「神奈子様、どうやって調べたんですか?」

「ある程度以上力があれば分かる結界が張られている。 下手に触ると幻想郷の賢者が直接飛んでくる仕組みになっている。 攻撃があった場合も、ある程度ははじき返せるようだね」

「凄いですね」

頷くが。

神奈子の表情は険しい。

「早苗、外で当たり前に水道水を使っていて、どう思っていた?」

「特に何も……」

「そうだろうね。 何度も言ったが、人間は便利になれると不便を忘れる。 ひょっとしたら、幻想郷の賢者達は、これ以上の文明を幻想郷の人間に与えるのに反対しているのではないのかなと私は思っていてね」

確かに。

可能性はあるだろう。

人はそれほど出来た生き物では無い。

便利なものが当たり前のようにあるようになると、本当にそれがどれだけ便利だったのか忘れてしまうものなのだ。

電気が人里にもっと普及したら。

確かにそれがどれだけ便利で。

どれだけ貴重なのか。

人里の人間は忘れてしまうだろうし。

夜にもっと活動するようになるかも知れない。

守矢神社には蛍光灯があるが。

それを使って、夜中まで早苗も本を読んでいることがある。

だが人里では、それは発電機で燃料を燃やさなければできない事であって、当然とてもお金が掛かる。

燃料は幻想郷では、それほどたくさん入手できないものなのだ。

守矢の方が明るいが、なんでだと聞かれたことが以前人里である。

あれは神の御技だと答えて、納得されたのだけれど。

真相を知られたら。

人里の信仰が薄れかねない。

「ダムを作る時には、どの程度の電力を人里に供給するつもりだったんですか?」

「各家庭に電球が灯せる程度だね。 この川で作れるダムの水力発電だと、その程度が限界だから」

「そうなると……まだ人里では、よくて白熱電球なんですね」

「そうなるな」

此処からは、人里も見える。

豊富な水を使って、周囲に田畑が拡がっていて。

人里そのものには、かなりの人々が行き交っている。

少なくとも日中、人里で妖怪におそわれる事はない。

妖怪の賢者がしっかり管理していて。

不貞の妖怪を許さないからだ。

だが、もし夜も電気が点るようになると。

人里の夜は一気に明るくなる。

当然夜に仕事をする人間も増える事だろう。

夜に人里に入り込んで、人を驚かす妖怪はいると聞いている。流石に人を喰らうようなことはないようだが。

だが、人が夜に活動範囲を拡げると。

それも過去の話になる筈だ。

人を驚かす事は、人間が闇になれていないから出来るのであって。

闇そのものが人里から失われてしまえば。

それこそ妖怪は、人里から追い払われてしまう。

強い妖怪は大丈夫だろう。

平然と人里の酒場に通ったりしている妖怪もいる。

だが、弱い妖怪はどうなるのか。

弱い妖怪は死ぬしか無いのか。

そんな考えでは、数に任せて山で横暴を働いている天狗達と同じだし。何より、外の世界の一番悪い人間と同じではないのだろうか。

早苗は口を引き結ぶ。

此処は忘れ去られた理想郷の筈だ。

便利になったら、そんな風になってしまうのでは。

なんのために偉大な文明を持ち込むのか分からない。

流石に早苗も、命蓮寺の住職のように、人と妖怪は平等で、弱い妖怪を救うべきであるとまでは言い切れないし。更に言えば、彼処まで本気で活動することも出来ないだろう。

半分人間を止めた現在でも、早苗は自分が人間であると、何処かで思っている。

つまり全ての妖怪と完全に平等である事なんてできない。

肩を叩かれる。

神奈子が、帰るように促した。

頷くと、守矢に戻る事にする。

これ以上此処で浮いたまま考え事をしていても仕方が無い。

それに、悩んでいる姿を見せることは、それだけ弱みにつながる。半人半神として、信仰も今は得ている身だ。それは決して好ましい事では無い。

ただでさえライバルはあの強大な力を持つ博麗の巫女なのだ。

あの人のように見敵必殺とまでは割り切ることはできない。

今はまだ、彼処まで徹底的にはやれない。

だけれども、博麗の巫女にない強みを生かして、幻想郷のために頑張るのであれば。

早苗は、いつまでも子供のままではいられない。

守矢神社に到着。

神奈子はすぐに出かけていった。

用事があれば神奈子が出て、諏訪子が留守を守るというのが守矢の基本だ。

これは表向きの支配者として神奈子が君臨し。

ミジャグジを怖れる民衆の信仰を実際には諏訪子が集めていた頃からの名残である。

早苗は二人が文字通りあうんの呼吸で動き出すのを見ると。

自分も境内の掃除を始める。

ロープウェーが運行を開始してから、参拝客が来るようになったし、掃除を怠るとすぐに汚れてしまうのだ。

二礼二拍手のやり方なども聞かれるので、教えたりもする必要がある。

また、境内で出店を開く河童もいるので。

彼ら彼女らが好き勝手をしないように、見張りもしなければならない。

今日は二人で出かけたので、諏訪子に任せていたが。

此処からは早苗が作業をする番だ。

それにしても。

夕刻になると。

もう参拝客はいなくなる。

これが電気のない世界の普通なのだと、実感させられる。

それにあわせて河童も出店を切り上げて、引き揚げて行く。

話を聞くと、売り上げは上々だそうだ。

色々としたたかな河童だが。

それ故に、商売にならない時間帯は商売をしない。そういうものなのだろう。

人がいなくなった辺りで、一旦守矢神社と一緒に引っ越してきた家に引き上げる。

諏訪子は既に茶を淹れて、自分でくつろいでいた。

蛍光灯を付けて明るくする。

人里の電球も見たが。

これとは比較にならないほど暗い。

まだ外の世界にいたころ。

老人の家で現役で動いていた、白熱電球と殆ど同じくらいの暗さだった。

「今日は浄水施設を見てきて、どうだった?」

「はい。 勉強になりました」

「博麗の巫女は、彼処に入ったことがないそうだ」

「えっ?」

諏訪子は、涼しい顔で茶を啜る。茶が空になったのを見て、すぐ早苗は動く。

ポットで湯を沸かすと。

新しい茶を淹れた。

この辺りは、既に身に染みついている。

あくまで早苗は巫女。

半人半神であっても。

神に仕える身であるのだ。

「なあ早苗。 博麗の巫女はこの幻想郷の武力だ。 白狼天狗が山の警備を気取っているが、あんなもんじゃない。 一度平和にしすぎて失敗したと判断した賢者が、有事の際の最大戦力として鍛え上げた最強の矛だ。 だが、お前は違う」

頷く。

外から来た人間だし。

生まれてからずっと闇に住まうものと相対してきた博麗の巫女とは、出発点からして違う。

「我々守矢は、我々のやり方で幻想郷の一角に居場所を作る。 外には未来がないと神奈子が判断した以上、私もそれに従うさ。 そしてやり方を同じにする以上、真剣にやるのは当たり前だ。 今後も幻想郷のインフラについては、少なくとも博麗の巫女よりもお前が詳しくなければならないよ」

「分かりました」

「お前は素直な子だ。 今後もあらゆる勉強をしてもらわないとな」

また茶を飲み干す諏訪子。

新しい茶を淹れようとするが。

断られた。

そのまま諏訪子は、自分の寝室に戻っていく。

守矢の住居は広い。

早苗が幼い頃、神奈子と諏訪子のどちらかが一緒に寝室にいてくれたこともあるが。今はみんな違う寝室を使っている。

しかしながらテレビは一つ。

もっとも今は、テレビも写ることは無いが。

外からの情報は、色々な方法で入手している。

決して外の世界は。

平和とは言えない。

写らないテレビを見て、早苗はふうと嘆息。

明日も、また視察に出向くと言う事で。早めに休んでおいた方が良さそうだった。

 

2、田園と治水

 

神奈子と一緒に、人里に出向く。

人里に出向くときは、早苗一人、と言う事が最近は多かった。それだけ信頼されるようになった、ということなのだが。

今日は少しばかり様子が違うらしい。

神奈子によると。

人里の状態を調べるのが目的だそうだった。

早苗は人里でもだいぶ顔が知られてきたが。

神奈子が直接出向いてくるのは珍しい。

妖怪が人里で、昼間からあからさまに妖怪と分かる姿で活動するのは好ましくない、とされているようだが。

神奈子は妖怪では無く神。

それもこの国の支配者階級神である天津神だ。

手をあわせる人もいるが。神奈子はそれに対して、なれた様子で対応していた。流石という他ない。というよりも、実際に神として人に当たり前に接するのは、むしろ久方ぶりだろうに。それでも平然としているのだから、肝が据わっている。流石に古くは多くの戦いを勝ち抜いた武神である。

「早苗」

「はい」

呼ばれたので行く。

共同井戸だ。

人里にはまだ井戸が残っている。そして、この井戸には必ず封がされていて、悪戯を誰かがしないように見張りもついている。

当たり前の話で。

水道が止まったら、これが生命線になるのだ。

水が豊かな幻想郷だ。人里の井戸もこんこんと沸いている。比較的高所にある博麗神社の井戸にだって、水が豊富にある位なのだ。

此処の水に、だれかが毒やら汚物やらを入れたら。

文字通りの大惨事が引き起こされる。

実際、井戸に毒物を入れた場合、重罪程度では済まなかったという話も聞いたことがある。

現在、この共同井戸は、飲料水としては使われていないようだが。生活用水としては大現役。

桶はまだ使われている。

水道はやはり水の出が遅いので。

飲料用以外の用途。

例えば風呂などでは、此方の水を使うのかも知れない。しかしそれはそれで、また重労働だろう。

幾つか、説明を受ける。早苗は頷いて、その全てをメモしながら覚えた。

神の代理としても、神としても動く早苗だ。人々の生活を知らなければ、話にならない。神奈子の言う事も当然なので、新人神様である早苗も必死である。

「荷車を使って、水を運ぶこともあるようだね」

「大変ですね」

「我々がインフラで恵まれているのは、それだけ大きな戦力を持っていて、活動もしているからと言うのを忘れてはならないよ」

「はい」

他の井戸も見に行く。

くみ上げ式の井戸があった。

手動ポンプである。

早苗のいた田舎でも、老人の家では現役で設置されている場合があったが。これを動かすのはかなりの重労働だ。

ただ、幻想郷の人間は色々と外の世界の人間に比べるとたくましい。

小さな子供でも、動かすのは苦にしていない様子だが。

早苗については、外にいた頃なら兎も角。

幻想郷に入るときに半人半神になってからは、生半可な人間など及びもつかない腕力を手に入れているので、むしろ力の加減が難しいほどである。流石に最近は慣れてきたが、最初の頃はその気が無くても岩を砕いてしまったりして、自分でびっくりしてしまった。

里の外に出る。

田畑が拡がっていて。

水田もある。

稲にはいわゆる陸稲と水稲があるが。陸稲はどうしても稲としての質が落ちるとされていて。幻想郷でもそれは同じである。基本的に余程の事が無い限り陸稲を作ることはない。

田んぼはそういうわけで、幻想郷でも拡がっていて。

水路にはタガメの姿も見受けられた。

神奈子に促されて確認するが、水路は川から直接水を取っている。まあ、この辺りは流石に水道水でなくても大丈夫か。

タガメは外では、早苗の田舎でも滅多に見かけないほど減ってしまった昆虫だが。幻想郷では普通にたくさんいる。

むしろ水路にいる蛙や小魚を襲うため。

子供達にうるさがられているようだった。

外ではプレミアムまでつくほどの虫なのだが。

こうも扱いが違うと、少し面白い。

そういえば春に見られるタンポポも、今ではすっかり外の世界を蹂躙したセイヨウタンポポではなく日本タンポポだ。

ザリガニもアメリカザリガニではなく日本ザリガニである。

この辺りは、幻想郷ならでは。

川の上流に行くと、カワウソもいると聞いている。

流石に天狗の縄張りになるので、まだ現時点では堂々と立ち入りは出来ないのだけれども。

カワウソは日本では既に絶滅してしまった動物だ。

それが普通に見られるのも、極めて特殊な隔離空間ならではなのだろう。

子供が何人か走ってきて、挨拶して隣を通り過ぎていく。

皆和服で、それだけでも日本の現在とは違う。履き物も、殆どの場合下駄やわらじだ。

むしろ洋風の履き物は妖怪が愛用している。また、早苗もそういう意味では例外の一人だった。今でもローファーを使っているからだ。

それで見分けられることもあるのだろうが。子供達が挨拶をしていったのは、早苗が守矢の巫女だと知っているからだ。

守矢の巫女は、半神半人。つまり半分は神様。

だから失礼を働けば罰が当たる。

それが現役でルールとして動いているのが幻想郷である。

比較的食糧も豊かなようだが。

以前早苗が故郷で聞いた話では。

世界大戦が終わった後くらいでは、子供は目につく動物はみんな食べていた、という話も聞く。

ザリガニや蛙、それに蛇なども。体が大きい蛇などはごちそうだったそうだ。

幻想郷の子供達は、そこまでやってはいないようだから。

ある程度食糧については、誰も困っていないと見て良さそうだ。

畑に出る。

コンバインが動いている一方で。

水を手で撒いている人もいる。

肥だめはまだ現役で活動していて。

周囲には注意を示す縄が張られていた。

田畑そのものは近代の機械類と、明治時代の風景が同居していて。

非常にちぐはぐだ。

ただ、そもそも農薬などは使用できないためか。

害虫対策は、相当苦労しているようである。

いわゆる浮塵子(ウンカ)の類は、蛇蝎のごとく嫌われているようで。

働いている農夫に声を掛けると。

浮塵子が出ないようにしてくれと、頼まれることも時々あった。

稲の害虫は。

今でも此処では現役なのである。

農薬の類は使わないようにと、諏訪子にも神奈子にも釘を刺されている。

幻想郷の住民には耐性が無く。

下手をするとそれだけで命を落とす可能性があるから、というのが理由らしい。

勿論農薬の現液なんか現在人でも飲んだら即入院、下手すると死亡案件だが。

それでも気は付けた方が良いだろう。

確か早苗が聞いた話でも。

アルコールを持ち込まれた、文明と途絶していた村が。

一晩で全滅した、という例があるらしい。皆アルコールに耐性が無く、死んでしまったのだ。

世界的に広まっているものであっても。

それが閉鎖空間では、どんな風に作用するかは本当にまったく分からないのである。

その話をしたときは戦慄した。本当に世の中、何が凶器になるのか分からない。

畑を見て回った後は、その周囲の川を見て廻る。

所々人里の周囲に水を引いている所があるが。

いずれもさほど汚れないまま、下流へと進んでいる。というか、飲めそうだと錯覚出来そうな程に澄んでいる。

勿論実際には飲んではいけない。

腰をかがめで川を見ていた神奈子が、手招きする。

水の流れが弱いところで。

かなり巨大な百足のような生物がいた。

川の支流には水の流れが弱いところが出てくるのだが。

そういう所には、川の本流とは別の生物が住み着くことがある。

「ヘビトンボだ。 見た事はあるかい?」

「いえ、名前だけしか知りません。 これがそうなんですね」

「そうか、見たのは始めてか」

神奈子は少し寂しそうに微笑む。

早苗も、名前だけ知っていればむしろマニアックな方なのだろうか。

ヘビトンボ。

トンボの幼虫のヤゴや、蛍の幼虫なども獰猛な事で知られるが、ヘビトンボは更に格上で。

凶暴な種類が多い水生昆虫の中でも最強の一角に位置する存在である。

百足のような姿をしているそれは、巨大な上に凄まじい顎を持っており、毒を持っていないにも関わらずその力は破壊的。

縄張りにいる生物を食い尽くすほどの獰猛さを誇る。さながら水生昆虫のティラノサウルス的存在だ。

一方で水の綺麗さを示す指標になる生物だともいう。

要するに水の汚染にはとても弱い。

凶暴で強くても、必ずしもどこででも生きていける訳では無いのだ。

なお諏訪にも現在も生息していて。

昔は薬の材料にしていたという。

その強さが原因なのだろう。

薬効はともかく。

強力な昆虫から、力を得たいという願望があったのかも知れない。

実際に薬効があるのかは、早苗には分からない。

同級生には、虫に触れないような子もいたけれど。

理系の早苗はむしろ平気な方で。

ヘビトンボの獰猛そうな姿を見ても。

感心するだけだった。

「此奴がこんな人里の側にいると言うことは、下水は川に垂れ流しになっていない、と言う事だ」

「そういうものですか」

「ああ。 便所は肥として使うから良いとして、恐らく下水は別に流していると見て良さそうだね。 浄水場だけではなく、下水処理場もあるかも知れない。 いずれにしても、下水処理の方法は確認しておく必要がありそうだ」

確かに。頷かされる。

清潔さを保つには、まずは上水。

続けて下水だ。

古い時代の西欧ではあるまいし、道ばたに汚物をぶちまけて、放し飼いにしている豚の餌にする、何てことをしていたら。

あっという間に凄まじい病気が発生する事になる。

一度里に戻る。

大きな家を見に行くのかと思ったが。

神奈子はむしろ、小さめの家を選んだ。

此処は守矢に時々来る信者の家で。

神奈子と早苗が来たのを見て驚き、慌てて案内してくれた。

「水周りを見せて貰えますか?」

「水周り!? き、汚いですが、よいのですか?」

「構いません」

早苗から言い出して。

先に用事を済ませる。

まず水周りとして、台所を視察するが。

蛇口の水道は此処にもあった。

水道料金はどれくらい掛かっているかと聞いたのだが、ほぼ無料と言われて驚く。多分外の世界の水道料金の、此処での金銭価値の十分の一くらいだろうと早苗は判断した。

守矢では水道料金は掛かっていない。

電気代もだ。

だが、それはそもそも、インフラを作り出す側だから免除されているだけ。

此処の庶民が、比較的つつましい生活をしているのは知っていたが。

それでもほぼ水道料金が無料というのは驚かされる。

そのまま風呂やトイレも確認。

風呂は板の桶スタイルのもので。

火を使って沸かすタイプのものだ。

ガスは普及していない。

それで間違いないだろう。

早苗の所では、全自動のガス湯沸かし器を使っているが。

こんなものがあると知れたら、またあの博麗の巫女が何を言うか分からない。都市ガスとプロパンガスの違いから説明しなければならないだろう。博麗神社の風呂も、多分これと大差ないはずだ。

ただ、博麗神社の場合は、術の類を使って湯沸かしをすることも簡単なはずで。

その辺りは、巫女の特権なのだろう。

なおこういった水場には色々な妖怪の伝承があるが。

少なくとも此処にそれらの気配はなかった。

「あかなめとかは見た事がありますか?」

「廃屋には出ると聞いた事がありますが……人里の中では殆ど見た事がないですね」

「なるほど、分かりました」

人里にはあまり妖怪は出ない。

出るとしても突発的に発生したものや。或いは元々時間を掛けて人里に馴染んだもの。

夕刻以降に、酒を飲みに来たりする妖怪くらいだ。

もしくは、人間を子供だまし同然に驚かす、無害な妖怪達くらい。

河童が時々工事などで来たりもするらしいが。

非常にがめついとかで。

あまり評判は良くないらしい。

それでいて、以前河童に話を聞いたのだが。

河童は自分達は人間ととても友好的な種族だと自負しているらしい。

古い時代はたくさんの人を殺して尻子玉を奪い。

更に血まで吸っていたというのに。

感覚というのはそれぞれだが。

不思議なものである。

トイレも見せてもらう。

此方にも日本の伝承としてはカンバリという神が住んでいたりするのだが。

少なくともこの家にはいないようだ。

典型的な汲み取り式で。

あまり長居したい場所ではなかった。

なお紙については、豊富にあるようだ。

頷くと、カンバリ様を知っているか聞く。

知らないと言われたので、頷いてメモを取った。

人里は現在、守矢神社と命蓮寺、それに聖徳王の信者で割れている。

博麗神社にお参りに行く人もいるが。

彼処はそもそも、祭神が何かも巫女自身がよく分からないという事もあり。

信者を公言する人はいないようだ。

ただ、それぞれを掛け持ちしている人もいるようだし。

生活水準がこのくらいである以上。

あまり彼らを責めるわけにも行かない。

現在の外とは比較にならないほどの不安定さなのだ。

それは色々な神にすがりたくもなるだろう。

現在の豊かな外の世界でさえ、カルトは猛威を振るっている。

ましてやこれだけ不安定で、しかも人間が主導権を握っていない世界となれば。不安は推して知るべしと言う所だ。

神奈子に促されて。

早苗は今度は少し大きめの家に向かう。

色々な家を見ていくと。

少しずつ生活水準が違う事が分かる。

例えば少し裕福な家に入ると。

なんとステンレスのシンクがあった。

コレは恐らく、外から流れ着いたものだろう。

無縁塚という場所は、非常に結界が緩く、外から色々なものが漂着すると聞いているのだが。

その中から、こういう使えるものが持って来られて。

そこそこ裕福な人間の手に渡ることもあるようだ。

まあステンレスのシンクくらいだったら、別に文明を一気に転回させたりするような事もないだろう。

幾つかの家をみて回った後。データを全て取って、手帳にまとめていく。

続けて、裕福と一目で分かる家に行く。

一番最後に赴くその家は子供もたくさんいて。

とにかく太った主人が扇風機を使って涼んでいた。

分かり易い。貧しい時代は、太っている事は豊かさのステータスだったらしいと聞いているが、正にそれなのだろう。

使っているのは古い型の扇風機だが。

真っ昼間から発電機を使っても平気、というわけで。人里では異例なほど裕福、ということだ。

主人の相手は神奈子がするので。

その間に早苗は水周りなどを見せてもらう。

早苗と同年代に見えるこの家の長女は。着込んでいる着物の生地からして違った。

なんで神が水周りなんか見るんだろうと、疑念を目に浮かべていたが。

早苗は笑顔を保ったまま、彼女と一緒に水周りを見て回る。

やはりちぐはぐだ。

例えばシンクはステンレス製だが、別に高級品では無い。ちょっとぴかぴかしているが、これは安物だと早苗は即座に看破した。

つまるところ、本当に価値がある品が人里では売れるわけではない、というわけだ。

外からの同じ漂着品だと分かっていても。

技術が解析できるほどの力がないから見栄えが良いものが選ばれるのだろう。

便所に行くと。

それは意外な事に水洗トイレだった。

水洗トイレ自体は古くからある。今のものとはだいぶ違うが、あの武田信玄も使っていたと聞く。

しかも此処のは和式ではなく洋式である。

流石にウォッシュレットはついていないが、これは快適だろう。

ただ。河童に相当ぼられただろうなと、早苗は苦笑する。

「守矢の巫女様」

「はい」

「貴方は外の世界から来たと聞いています。 我が家の豊かさは外の水準と比べてどのくらい、ですか?」

「ごめんなさい、お答えできません」

それについては答えるな。

事前に神奈子にも諏訪子にも言われているばかりか。

なんと以前、八雲紫にまで言われている。

近年幻想郷では、何回か外来人の宇佐見菫子が大問題を起こしたのだが。

彼女も、外ではどうなっているかを、絶対に里の人間に言わないようにと、何度も八雲紫に釘を刺されたそうである。しかも半分脅迫まがいに、だ。

幻想郷で散々怖い目にあった菫子は。涙目で頷くしかなかったそうである。

なお彼女とは時々外の件で話すが、都会育ちの菫子と田舎育ちの早苗は、話もあわないことが多く。逆に向こうはそれが新鮮で面白い様子だ。

今でも菫子はある方法で幻想郷に来てはいるのだが。

紫に言われた事を愚直に守り。

むしろ人里にはあまり近づかないようにしているのだとか。

確かに人里で、外の生活水準など知れ渡ったら、何が起きるか知れたものではない。

博麗の巫女が、守矢神社の現状を言いふらさないかちょっと不安になったが。あの人は幻想郷の管理者側だ。

ものぐさであっても、その辺りはわきまえているだろう。

更に、この家の長女は聞いてくる。

「うちをみて羨ましいと思いますか?」

「それもお答えできません」

「色々と大変ですね」

「ふふ、そうですね」

世間知らずなのは、幸せなのだろうか。

早苗もどちらかと言えば、外では世間知らずだった。

良家のお嬢。それも田舎の政争の道具となればなおさらだ。

田舎の政争は、都会のそれよりもむしろ苛烈なほどで。何処の家に早苗が行った、というだけで、翌日騒ぎになった事さえあった。それが原因で、虐めの矛先を向けられた子までいた。

神奈子と諏訪子がいなければ。

早苗はどうしてそんな事になったのか分からなくて。

ノイローゼになっていたかも知れない。

今では比較的平穏に毎日を(異変解決にかり出されるとき以外は)送れている早苗だけれども。

この子は、昔の自分が。

更に大事に育てられて。

その結果、自分は箱入りで特別でスペシャルだと思い込んでしまったケースだと、何となく理解出来た。

同年代の相手なのに。

何処か哀しみを誘う。

そのまま、神奈子の所に戻り。軽く頷く。

神奈子もそれで悟り。

太った屋敷の主人の自慢話を切り上げると。

そのまま帰路につく。

一緒に人里を歩きながら、軽く話す。神奈子は、周囲に音漏れを防ぐ結界を張っていた。

「どうだった?」

「やはり文明品の価値は正確には理解出来ていないようです。 水周りは見栄えこそいいものの、先の家のものに比べて二回りも昔のものが使われていました。 見栄えが良いので、相当に高かったんでしょう。 トイレは洋風の水洗でしたが、ウォッシュレットはなし。 お風呂は釜でした」

「ふふ、まあそうだろうね。 それで早苗、どう思った?」

「ちぐはぐですね、何とも。 人は自分で文明を管理しないと、こうもちぐはぐな状況に慣れてしまうんですね」

違うねと、神奈子は言う。

神奈子によると、必ずしも人間は自分で文明を管理など出来ていないという。

また優れた文明が必ずしも繁栄する訳でも無いそうだ。

例えば古代のローマでは、蒸気機関が実用寸前にまで行っていたそうだ。

もしこれが実用出来ていたら。

地球の文明は、千年早く進歩していたかも知れない、という。

また神奈子が諏訪に侵攻したとき。

迎え撃った諏訪子は、当時最新鋭の武器である鉄器で応戦してきたという。

「だが、それぞれの結末は知っての通りだ」

「人は、まだ自分で文明を制御するには、幼すぎるのでしょうか」

「さてね。 いずれにしても、この人里は見かけ以上に上手く行っている。 あの裕福な家にしても、実際の保有資産はどうってことはない。 多分人里で一番豊かな家の一つである稗田にしても、大した事は無い。 外の世界の異常な貧富格差に比べれば、此処のはそれこそドングリの背比べに等しいね」

「……」

複雑な気分だ。

人里を管理しているのは妖怪の賢者である。

此処の長老は置物に過ぎない。

以前から時々話をする、人里の自警団で働いてくれている藤原妹紅も。長老がただの置物で、困り事の時は自分が引っ張り出されるので困るとぼやいていた。妹紅は幻想郷の人間でもトップクラスの実力者だが、故に、なのだろう。

逆に言うと。

長老が置物でも、まるで人里は困っていないと言うことだ。

「それと、早苗。 気付いたかい?」

「ええと、何がでしょうか」

「下水だよ」

「! そういえば、仕組みがよく分かりませんね」

水洗便所にしてもそうだが。

恐らく汚水槽があって。

其処を定期的に点検している筈だ。

庭をしっかり確認しなかったが。流石にトイレの水をそのまま垂れ流しにはしていないだろう。

そうなると。

水道の他にも。

下水道がやはりあるという事だ。

下水処理施設も何処かにあるとみて良い。

浄水場の側とは考えにくい。

そうなると、高度的にもっと低いところか。

幻想郷は、比較的高山地帯に拡がっているのだけれども。

南の方が比較的高度が低い。

そして幾ら結界で隔離されているとは言え。

海がない以上。

川そのものは、実際の川と、何処かしらでつながっている。

突然汚染が酷くなったら、それは騒ぎになるだろう。

外と上手くやっていかなければならないのが幻想郷の実態である以上。

下水の垂れ流しもやっていないはずだ。

人里を出ると、飛んで神社に戻る。

諏訪子が待っていたので、二人に茶を出す。

軽く話をすると。

神奈子が、やはり下水の話を切り出した。

「諏訪子、あんたはどう思う?」

「川の流れに沿って探すのは無益だろうね。 あの狡猾な紫の事だ。 恐らくは林や森に隠して処理場を作っているだろう。 ひょっとすると、地下かも知れない」

「地下か。 それは考えていなかったね」

「何処かに下水管は?」

神奈子が首を横に振る。

そうなると、事前に調べていたと言うことか。

なるほど。

二柱は、本気で幻想郷を掌握するつもりでいるのだと、早苗は理解する。

インフラの掌握は、その土地を支配するには絶対に必要なのだ。

勿論現時点で、賢者達に喧嘩を売る気は無いだろう。

だが、守矢はいずれ、更に勢力を伸ばし、幻想郷での存在感を増すことを当面の戦略にしている。

現在利害が直接対立している山の天狗については、二柱が自分達だけでその気になればいつでも叩きつぶせると断言していたし。

もしも犠牲覚悟の交戦を覚悟しなければならない場合、それは命蓮寺を中心とした連合勢力になるだろうとも明言していた。

事実命蓮寺は広くコネを確保しており、もしも守矢が無茶な拡大政策に出た場合、大連合を組んで対抗してくるかも知れない。

だが、勿論現時点では、其処まで性急に勢力拡大を急ぐ必要もない。

早苗も半分人間を止めている以上。

このまま年を取るのか、よく分からない。

或いは人間と子供を作ることも出来ないかも知れないし。

種族「魔法使い」になって寿命と加齢を捨てた人達のように。

もう年を取らないかも知れない。

人間と同じ感覚で、時間を考える必要はないのだ。

そんな早苗と一緒に、焦らず、確実に幻想郷を支配下に置いていく。

それが、現時点での二柱の考えなのだろう。

諏訪子が腰を上げる。

「私が紫と話をしてくるよ。 隠された下水処理場があるのはほぼ確実と見て良いし、せっかくだから視察をしたいとね」

「ふむ、どうして出る気に?」

「どちらかというと、穢れや呪いを司るのは私の仕事だからね。 私の方が、紫も話をしやすいだろうさ」

くつくつと、諏訪子が笑う。

ぞくりと背筋に悪寒が走った。

確かに守矢の光が神奈子だとすれば、闇は諏訪子だ。

支配者神である天津神の神奈子と。

土着神ミジャグジの支配者である大頭目諏訪子。

二人はとても仲良しだが。

その息の合いっぷりは。

利害の一致から来るものである事も、早苗は理解している。

そして闇を扱う以上、どんな汚れ仕事も、諏訪子は一切厭わないことも。

「私も視察に赴いて良いですか?」

「汚いよ?」

「かまいません。 穢れをどうにかするのも、巫女のつとめです」

「ふふ、真面目で結構。 ただ、紫との交渉は流石にまだ早苗には荷が重い。 全ては話がまとまってからだ」

諏訪子の言葉に早苗は頷く。

満足そうに目を細めると。

今日はもう夕食にしようと。

諏訪子は話を切り替えた。

下水の話をしていたばかりなのに、切り替えが早い。

苦笑すると。

早苗は洗面所でしっかり手を洗ってから。

夕食の準備に取りかかった。

 

3、汚濁は消える

 

下水処理施設の話をしてから半月後。

諏訪子が、ようやく話がまとまったと言って、神社に戻ってきた。

やり手の諏訪子にしては随分時間が掛かったが。

それだけ八雲紫が難色を示した、と言う事なのだろう。

人里の汚濁をそのまま処理する施設だ。

見せると言う事は。

それすなわち幻想郷の暗部に関わると言う事になる。

暗部に関わると言う事は。

言うまでも無く責任を背負い、更に言えば統治に関わっていく事にもつながる。

現在幻想郷には複数の勢力が存在しているが。

いずれもが、基本的に長は「妖怪」の域に留まっている。例外となる永遠亭もあるが、それは中立の組織だ。

それらに対して、守矢は長がいにしえの武神。それも二柱。

幻想郷のバランスを取るためにも、守矢に対してあまり譲歩はしたくないというのが。八雲紫の思惑なのだろうと、諏訪子は半笑いで言っていた。

よそ行きの力強い表情を作っていることが多い長身の神奈子に対して。

小柄な諏訪子は、普段から気の良い田舎の子供みたいな無邪気な顔をしていることが多いのだが。

時々ぞっとするほど怖い笑顔を見せる事がある。

最悪の祟り神であるミジャグジを統括していた、日本神話における最アンダーグラウンドの総元締め。

それが彼女だ。

普通の妖怪とは次元からして違う。他の国では邪神、或いは悪魔と呼ばれるような存在である。それも超ド級の、だ。

当然のことながら、人間の暗部を知り尽くしているだろうし。

光を背負った武神が神奈子であれば。

地中に潜み、闇を味方にしている武神が諏訪子なのである。

時々、早苗でも怖くなるような笑みを浮かべるのは、その辺りが理由だろう。

だが、早苗も彼女に信頼されていて、家族と思われている自負がある。

その信頼を裏切らず。

期待も裏切りたくない。

例え闇を背負っているとしても。

彼女にも家族意識や仲間意識があり。

早苗は彼女の子孫であるからだ。

家族が絶対では無い事など承知しているが。

だからこそに。

孤独だった早苗は。唯一の理解者であった二柱を失いたくないのである。

日取りが決まったので、準備をする。

ただ、浄水場と同じく。

基本的には現場で着替えることになるという。

それと、と。

諏訪子は一つ念押しをした。

「分かっていると思うけれど、早苗。 油断はしないようにね」

「はい。 八雲紫さんにとっても、あまり他の人には見せたい場所だとは思えませんし、トラブルには備えます」

「分かっていればよろしい。 最悪の場合は私が全力で守るけれど、守られるだけでは駄目だよ」

「勿論です」

諏訪子が全力で守ってくれればそれこそ百人力だが。

守られているだけでは駄目だ。

今度はいつか、早苗が二柱を守るくらいでなければならない。

そのためには、いろんな経験を積む。

新しい術も覚える。

戦闘だってする。

殺し合いだってする。

汚いものだって見る。

腹に一物も二物も抱えているような相手とやり合えるようにならなければならないし。世界の汚い部分だって知っていかなければならない。

それが、守矢の巫女としての責務であり。果たさなければならない使命でもあるのだ。

 

まず山にある穴の一つから、地底に降りる。

地底。

幻想郷の妖怪達にとってもスラムと言える場所。

荒くれの妖怪や、人食いの妖怪が追いやられたところで。人間に恨みを持っている者や、襲い喰らう意思を捨てていない者もいる。

事実あの博麗の巫女でさえ。

出向けば喧嘩を高確率で売られるという。

だが、流石に凄まじい力を持つ諏訪子が先導しているからか。

今日は特に、穴を落下するように降りて行っていても。

仕掛けてくる妖怪はいなかった。

鬼か何かがいれば話は違ったのだろうが。

今日はたまたまこの近所にはいないのだろう。

鬼は兎に角怖い物知らずで。

神々にも嬉々として喧嘩を売る事があるらしい。

結果として退治されても、戦いが楽しければ満足するとかで。本当にはた迷惑な連中だと、諏訪子は零していた。

穴を降りきると、巨大な地下空洞に出る。

それこそ、まるで異世界のような光景だ。古典SFに出てくる地底人のコロニーがこんな感じだろうかと錯覚させるほどである。

家も見受けられるが。いずれもが妖怪の住んでいるものだ。

それもどれもこれもが荒々しい雰囲気で。

昔写真で見た九龍城を思い起こさせる。

鬼も含めて、荒々しい妖怪達が未だに住んでいる場所。それが地底なのである。

奥の方に見えるのが地霊殿。

この地底をまとめている、さとりの姉妹が住んでいる場所。

彼女達は、古い時代に地獄と呼ばれていた場所に住んでいる動物の妖怪を多数ペットにしていて。

それらの中には、くだんの核融合使い、お空も混じっている。

なお、さとりの姉妹は幼稚園児くらいの背丈しかないのだが。

それでも相手の心を読むという能力は非常に強力。

更に相手のトラウマを自在に想起する能力を姉は持っていて。

怖い物知らずの地底の妖怪達も。

流石にさとりの姉妹に喧嘩を売る事はしないようだった。

「こっちだよ」

「はい」

諏訪子に促されて、地霊殿とは別方向に飛ぶ。

視線を感じるが、近くを飛んでいる諏訪子が半笑いで言う。

「懐かしい気配を幾つか感じるね。 土着神から妖怪に転落した神は結構いるんだよ」

「お知り合いですか」

「そうなる。 まあいざという時は、声を掛ければいやいやながらも動くだろう」

「……」

守矢の影響力は地底にも及んでいる。

諏訪子の出自を考えると当たり前なのかも知れない。

そういえば、天狗も地底とはある程度関わりがあるらしいと聞いていたが。

それは昔妖怪の山を支配していた鬼達が、地底に去ったから、だろう。

そうなると。

守矢が地底に声を掛けるときは、お願いではなく、むしろ昔の部下を呼びつけて、荒事に参加させるとき。

逆に天狗が地底に声を掛けるときは。

昔の上司に土下座して、手助けして貰うとき。

そういう事になるのか。

天狗も河童も、鬼に支配されていた時代の事を口にすると青ざめる。それだけ、当時の事は思い出したくないのだろう。

そうなると、地底に関すれば、その点だけでも守矢は有利だ。

旧部下で、力も二柱に劣るとはいえ相応に強力な存在を、尖兵として自在に駆り出せるのが守矢。

土下座して旧上司に「出来れば」お出ましを願うのが天狗となる。

そうなれば、確実に戦力を得られるのは守矢の方だ。勿論天狗の方も、運が良ければ鬼を助力に呼び出せるかも知れないが。

それには相当ヘビィな対価を支払うことになるだろう。あの硬直した天狗の組織で、それを決断するのは難しいはずだ。

ほどなく、横穴が見えてきた。

それと同時に、突然桶に入った女の子が上からケタケタ笑いながら落ちてきたが、諏訪子が鬱陶しそうに払いのける。哀れな桶の女の子は、悲鳴を上げながら飛んでいった。

あれは確か、キスメという妖怪だったはず。

いわゆるつるべ落としの妖怪で、未だに人間を襲って殺す意思を強く持っており、あのいい性格で知られる射命丸も取材しようとして本気で襲撃されたという話を聞いている。実際、何度か古い時代に人間の首を刈り取った結果退治され、地底から出られないように封印措置をされたそうだ。

そんな凶悪妖怪を払いのけて放り捨てるとは流石だが。

向こうで岩壁に高速で激突しドカンとか爆発しているのを見て。

相手は幻想郷屈指の凶悪妖怪とは言え、流石に同情してしまった。

「諏訪子様……?」

「前に襲ってきたとき適当に痛めつけてその後忠告したんだけれどね、早苗なら襲って殺せると思ったのかもね。 だからお仕置き」

「は、はい」

「何、妖怪は精神を壊されない限り死なない。 木っ端みじんになってもその内再生するから平気だよ」

冷や汗が流れるが。

まあ仕方が無い。

「そろそろだよ」

「随分難しい場所に作っているんですね」

「それだけ面倒な代物だって事だ。 八雲の手の者も、あのスキマを使って直接移動しているそうだ」

横穴をしばらく行った頃だろうか。

大きな配水管が目立ちはじめた。

なるほど、これが人里の排水を集めている配水管か。施工は誰がやったのだろう。或いは配水管だけ河童に作らせて、施工そのものは一生懸命八雲紫がやったのかも知れない。苦労人だろうとは思っていたが、その様子を想像すると、思わず同情してしまう。

結界も張られていて、見張りもいる。

なんと鬼である。

いわゆる支配者階級である四天王クラスの鬼では無いが、八雲紫の配下に入っている者なのだろう。

鬼は背が高く。伝承に近い姿をしていた。幻想郷のスタンダードである女性型では無いのは、人前に出ないから、かも知れない。

そして鬼は見るからに険しい表情をしていた。

だが、それを見上げる諏訪子は余裕の表情である。

鬼よりも、更に格上の存在だから、だろう。

「話の通りに視察に来たよ。 通してくれる?」

「ああ、分かっている。 ただしもめ事は起こしてくれるなよ。 此処は幻想郷でも重要な場所の一つなんでな。 修理なんかをする時は本当に大変なんだ」

「分かっているさ」

「……開けるぞ」

結界を鬼が一部解除。

しかもかなり複雑なプロセスを経ている。

これは、ひょっとすると、幻想郷を覆っている博麗大結界より更に強力な代物かも知れない。

結界に穴が開いたので、通るが。すぐに封鎖される。

その後、着替え用の部屋に通され、やはり気密服に着替えた。

あまり用意されている気密服のサイズは多くないようで。背の高い神奈子だったら、入れなかったかも知れない。

諏訪子と一緒に黙々と着替え。更にマスクもつける。

エアシャワーを浴びて内部に入ると。

目元だけで凄く憂鬱そうにしている、八雲紫の姿があった。

流石に緊張する。

幻想郷の賢者。事実状現在の幻想郷を管理している存在。

だが、諏訪子は物怖じしていない。

「やあ。 では約束通り、視察させてもらえる?」

「此方よ」

気だるそうな声。

もうなんというか。

本当に勘弁してくれとか、面倒くさいから嫌だとか、休んで眠りたいとか、そんな感情が声からにじみ出ている。

普段は胡散臭げで得体が知れないのに。今日は何というか、隠れた悲哀がにじみ出ている。

ブラック企業で疲れ果てたサラリーマンのようだとか。

そんな感想を早苗は抱いてしまった。

この有様だと、普段よそ行きで作っている顔を、保てないほど疲れ切っているのかも知れない。

最高位の妖怪である八雲紫は。

人里にある本では神に等しい存在などと書かれているが。

その力は有限で。

精神も疲弊するのだと。

これを見ているだけでも、分かるのだった。

下水処理施設も、かなりの高度テクノロジーの塊のようだが。

浄水場と違って、硝子張りの向こうで、露骨な汚水が処理されている。

下水の処理は、実のところいわゆる先進国でも追いついていない国が多い。

特に近年発達してきた国には顕著で。

下水を平然と川に垂れ流し。川がおぞましい色に染まっているような例も少なくない。

ガンジス川などは、近づくだけでよその人間は病気になるという噂があるし。

汚水の処理をきちんとしているのは、それなりに凄い事なのだろう。

解説は、紫の部下らしい、何か良く分からない妖怪がしてくれる。

諏訪子は非常に専門的な知識を持っているが。

これはそもそも、早苗が住んでいた田舎には、それなりの先進技術のある工場もあったからだろう。

田舎だが。

先端技術と無縁、というわけではないのだ。

空気が良い場所には高度な天体望遠鏡が作られることもあるし。

或いは、雇用を見込んで工場が作られることもある。

諏訪子はこの工場を時々見学しに行っていたらしく。

様々な技術について、神奈子と話しあっているのを早苗も聞いた事がある。

故に早苗はいつの間にか理系になっていたのだが。

まあそれは、親代わりの二柱の影響、と言う事だ。

「此処で生物による処理をしていると」

「そうなる。 大量の微生物によって、有機物を分解する。 そのために温度を適当に保ち……」

「最終的に何処に水を捨てている?」

「それは言えないが、いずれにしても川の水質にぴったり一致するように調整している」

それは凄い。

聞くだけでも、かなりの技術が投入されていると言う事は、早苗にも分かる。

公害の時代。

早苗の世代ではぴんとこないが。

恐ろしい公害病が猛威を振るった。

当時の御用学者は、風土病だとか、企業にお金を貰って好き勝手な事をわめき散らしていたが。

実態は明らかすぎるほどだった。

まき散らされた有毒物は。

川から生命を消し。

人間も当然蝕んだのだ。

此処では段階を踏んで、汚水を処理し。

最終的には生物が平然と住める状態にまで持っていく。

水の汚染段階は、分かり易いように処理ごとに透明なパイプで見られるようになっていて。

最初は目を背けたくなるような茶色い水だったものが。

何段階かの処理を経て。

澄んだ水へと変わっていく。

最終段階の水を使ったちょっとしたアクアリウムまで存在していて。

清流にしか住めない生物が展示されていた。

あのヘビトンボもいた。

早苗はメモを取る。

諏訪子はそれを見て、軽く頷いただけで、後は何も言わなかった。

昔も早苗は、二柱に連れられて、彼方此方に見学に行ったのだけれど。

ある年代から、メモを取るようにと言われるようになった。

そしてメモを取った。

二柱は早苗の両親にある程度思考誘導を掛けられるらしく。

最先端科学の本などを、早苗に買い与えるように誘導してくれた。

美しい絵がふんだんに使われた科学雑誌は、最初は何が書いてあるのか早苗にも殆ど分からなかったが。

分かるようになってくると、わくわくしながら読んだものだ。

だが周囲の女の子との溝は更に拡がった。

ファッションだの可愛いものだのアイドルだの。

そういったものに興味を持つ事が「常識」とされていて。

早苗が科学的な話を振っても。

皆おかしな動物でも見るような目をするのだった。

良家のお嬢だから変わり者なのだろう。

そういう露骨な空気まであった。

結局の所、今はそれが役に立っているが。

あの場所に早苗の居場所は最初からなかったし。

最後までなかったのだろう。

好きなものを好きと言ったら迫害されるような場所だ。

今も未練はない。

「紫よ、これだけのテクノロジーを何処で入手した? 永遠亭ではないだろう」

「詳しくは言えないけれど、私も勉強はしていると言う事よ」

「ああ、なるほどな」

少し意地の悪い笑みを浮かべる諏訪子。

理屈は分かったと顔に書いている。

このテクノロジーは、決して外の最先端技術に勝るものではないが。

発展途上国で工場に着いているようなものとは比較にならないほど優れているのも事実である。

つまり幻想郷は。

裏では最先端テクノロジーをある程度使いながら。

表では牧歌的な古き時代の産物が存続している、不思議な場所だと言うことだ。

監視ルームも見せてもらう。

数名の妖怪がいるが。

いずれも相当に古そうな妖怪だった。

河童や天狗ではない。

紫直属の妖怪ばかりだろう。

それはそうだ。

現在幻想郷を事実上動かしている賢者は紫だけ。

他の賢者はあまり幻想郷を積極的に管理しようという意思が感じられないし。

したとしても、たまに力を誇示したり、監視をしていることを示すくらい。

最先端の技術を妖怪が動かしているというのは、それはそれで面白い事ではあるのだけれども。

何だか、紫はこれでは、殆ど部下を有効活用できず。

こういった24時間態勢で何らかの監視をしなければならない施設に人材を割かざるを得ず。

苦労しているのが、目に見えてしまう。

最後に、来客用の休憩室に通される。

先ほどよりは疲れが取れたのか、紫は最初ほど露骨な疲弊を見せてはいなかったが。

諏訪子が無言で差し出した強烈に甘いチョコの棒を受け取ると。

無言で食べ始めた。

茶を出してきたのは。

座敷童である。

そういえばこの子達は、人里で監視役をしていると聞いていたが。

手が空いている子は、此処で働いてもいる、ということか。

「自動監視システムは導入できないのかい?」

「何度か試したのだけれどね。 此処のシステムは特殊なのよ」

「ふーん」

「少なくとも、外の世界の技術者に作らせるわけにはいかないほどに独自の仕組みを使っていてね。 外注するわけにもいかないの。 かといって河童にやらせたら、何を仕込んでくるか知れたものではないわ」

自分でやったらと、諏訪子が無慈悲な事を言うので。

早苗は思わず茶を噴きかけた。

凄まじい知能を持つとか人里の本に書いてある紫だが。

最先端のプログラムを一から組んで自動監視システムを作り。

24時間の監視体制を構築するなんて。

どれだけの時間と手間が掛かるか知れたものではない。

そして残念な事に。

現在でも、外の世界の最先端データセンターでさえも、かなりの監視システムを人間に頼っているのが実情で。

24時間態勢で、非人道的な労働が行われているのが現実だ。

幻想郷でそれを超えるものが作れるとは、早苗には思えないし。

ましてやこんな根幹インフラで。

永遠亭に借りを作るわけには絶対にいかないのだろう。

紫も、言われるまでも無く、口の端を引きつらせていた。

諏訪子の質問は。

それだけ意地が悪い、と言う事だ。

「いずれにしても、見ての通り。 マンパワーの消耗が凄まじいのは分かったと思うし、あまり極端な悪さはしないで頂戴」

「ああ、分かったよ。 あんたがこの幻想郷を本当に愛していて、この土地を守るために身を削っていることもね。 確かにあんたが守ろうとしているものをズタズタにするつもりはないさ」

「ならば、幻想郷の制圧を目論むのは止めて欲しいのだけれども」

「それはそれだ。 もっとも現状のウチの戦力では、まだ幻想郷を乗っ取るのは不可能だがな。 命蓮寺が中心になって大連合を組まれたら、ウチだけで対応するのはとても無理だ。 ただ、あのコチコチに固まってる天狗の組織、あれそろそろ本気でどうにかしないと、妖怪の山はなし崩しにウチのものになるぞ」

頷く紫。

実際問題、天狗とそれ以外で、妖怪の山は真っ二つに割れ。

そして天狗以外は、守矢の事実上の支配下に入っている。

紫もそれは把握しているし。

憂慮もしているのだろう。

その後、幾つか軽い話をするが。

早苗はメモを取る。

此処で使っている技術について、紫はついに具体的な事を口にしなかったが。

どうやら諏訪子は、その正体を見きったようだった。

 

帰り道。

地底を出て、妖怪の山に降り立つと。

何名かの妖怪が此方に来た。

いずれも立場が弱い妖怪ばかりだ。

諏訪子に促され。

早苗が前に出る。

一人ずつ並んで貰って、話を聞く事にする。

ある者は、食事が足りないという。

支給されている食事があるのだが。

どうにも味が良くないそうである。

ただ、勿論他の妖怪も、足りない分は支給されている食糧で賄っている、と言う事は知っているようだし。

何より幻想郷には食糧の絶対量が足りていない。

頷くと、今度幻想郷の賢者に相談すると約束した。

どこからか合法的に食糧を入手してきているらしい事は分かっているのだが。

支給されている食糧は、恐らくはあまり質が良くないのだろう。

或いは味気ないのかもしれない。

そうなると、料理方法などを教えるのが一番だろうか。

また別の一人は。

天狗に縄張りから追い出され。居場所がないと嘆いていた。

こういう妖怪はかなり多く。

守矢で調整して居場所を作っているが。

数に任せて他の妖怪を思うまま圧迫する天狗には、色々と腹も立つ。

彼らは力の論理で動いているだけだが。

鬼がいたころはこんな事は無かった、という妖怪達の嘆きからするに。

本来、妖怪の山を治めるには器量が足りていなかったのだろう。

縄張りについてはある程度把握しているし。

場合によっては天狗に返還交渉もする。

縄張りの位置をメモ。

次の妖怪の相談を聞く。

全ての妖怪の相談を聞き終えた頃には。

すっかり夜も更けていた。

「まだ天狗は拡大政策を行っているようですね」

「私達と戦うためだよ」

「!」

「彼奴らは自分達だけでは、私達二柱にさえ勝てない事を知っている。 血の気が多い若い天狗なら兎も角、少なくとも天魔はそうだ。 だから必死に戦力の拡大と、他の勢力との同盟を急いでいる。 紫が釘を刺してきただろ。 天狗にも恐らく同じ事をしている筈さ」

天狗が力に任せた暴挙に出ている、と言う事はあまり紫には関係無いのだろう。

ある程度勢力同士の間に対立があり。

それがバランス良く保たれることが重要。

分析の結果がそれらしい。

吸血鬼異変というもので、幻想郷は一度外来種の吸血鬼に乗っ取られ掛けたらしく。

その時の反省も経て。

平和呆けしすぎないように。

敢えて勢力間の対立を煽っているのだとか。

理屈は分かるが。

それでは、大きな勢力に所属できない弱い妖怪は、どうすればいいのか。

「いずれにしても、この縄張りの強奪は目に余ります。 交渉に出向きたいのですが」

「まだ早い、といいたいところだが、神奈子と一緒にそろそろ出て貰うかね。 早苗ももっと経験を積むべきだからね」

「ありがとうございます」

「いずれにしても、早苗。 まだ知らない事が多いし、これからももっと努力していかなければならないよ。 あの博麗の巫女は努力をまったくしなくても、戦闘経験だけで圧倒的に強くなるタイプだ。 早苗はそうじゃない以上、必要なのは努力して経験を積み、腕を磨くことだよ」

神社に話しながら戻る。

神社では。

神奈子が夕食を用意して待ってくれていた。

食事を終えてから、下水設備の話をする。

諏訪子が、結論から述べた。

「あれは設計図だけ持ち込んで、部品を河童に作らせているね。 それもそれぞれ別の河童にやらせているとみた」

「へえ」

「組み合わせは自分でやっているけれど、何しろそんな訳で調整が彼方此方必要になるんだろう。 動かすまで一苦労だった筈で、自動監視システムなんて作れるわけがない」

からからと諏訪子が笑う。

神奈子が結論は同じだと言った。

浄水施設も。

多分同じだろうと。

諏訪子は茶を啜りながら言う。

「監視のためのマンパワーは幾らでもいる。 側近の部下をああいったクリティカルなインフラに割かなければならないとなると、紫自身があらゆる場面に自分自身で対応して、疲弊しているのはほぼ確実だね」

「その隙を突く、ですか?」

「いや、今は恩を売る。 幾ら怠惰な他の幻想郷の賢者達も、今の私達が全部相手にするには荷が重い。 特に龍神が動き出した場合、少しばかり手に余る」

龍神。

話にしか聞かない、幻想郷の最長老。

現在は眠っているという話だが。

幻想郷の設立にも関与しているとか。

他の幻想郷の賢者の更に上に立つ存在で。

怖い物知らずの妖怪達でさえ、その怒りは怖れるという話である。

諏訪子が茶を飲み終え。

もう寝ると言って、席を外した。

神奈子は頷くと、最後に話してくれた。

「まず最初は妖怪の山の実権を握るところからだ。 どうせ天狗は今のまま行けば自壊する。 その後に山の実権を握るのは我等だ。 その後は、インフラの整備をしながら人里の信仰を集め、力を更に蓄える。 後は他の勢力が連合しないように注意しながら、イニシアチブを握るように動いていけば良い」

「分かりました。 戦略については理解しました」

「素直でよろしい。 いずれにしても、この土地に未来を作るのは早苗、お前の自己研鑽に掛かっているよ。 私達も可能な限り力を貸すから、しっかり勉強するんだよ」

「はい」

今日はここまでだ。

メモをたくさん取ったので、確認しておく。

幻想郷は、外の脅威に常にさらされている場所だと言う認識はあった。

だが内部のインフラも、かなり危ういバランスで動いているものなのだと、今日再確認出来た。

もし改善するとしたら、どうしたらいいのだろう。

或いは、幻想郷の支配に食い込むようになれば。

その改善についても、考えられるのだろうか。

しばし目を閉じる。

早苗は、其処まで残酷にはなれない。

まだ早苗は。

何処かで、心に一線を引いている。

実戦も経験した。

殺し合いも。

本気で潰すつもりで戦わなければ、殺される状況にも身を置いた。

だが、それでもなお、だ。

天狗はただ利害が競合しているだけで。

普通の妖怪だ。

悪党集団だったら、どれだけ楽だっただろう。

天狗だって、腐敗しきった組織を改革できず。苦悩しているのが早苗には分かる。

実際、若手の天狗の中には。

外から来た早苗に興味を示して、話を聞きたがる姫海棠はたてのような者もいる。

話をしてみると、少し箱入りで世間知らずだけれど、根は良い子だ。早苗とも箱入り同士という事もあってある程度話があう。

いずれ、あの子とも殺し合いになるのだろうか。

天狗と二柱の実力差は圧倒的。

もし戦いになれば、二柱は文字通り情けも掛けず容赦もしない。

天狗が再起不能になるまで叩き潰すだろう。

それが目に見えている以上。

悲しい結末は、避けられそうに無かった。

大きく嘆息すると。

蛍光灯を見上げる。

あれでさえ、人里から見ればオーバーテクノロジーだ。

此処はあくまで忘れ去られた者にとっての理想郷。

弱者にとっての天国ではないし。

誰もが平等に暮らせる場所でも無い。

何か、良い方法はないのだろうか。

二柱は少なくとも戦う気満々。天狗も応戦するつもりでいる。今はまだ爆発していないが、何かの切っ掛けで戦闘が開始されれば、後はなし崩しになるだろう。

また溜息が漏れた。

悪さをした妖怪を退治することに関しては、気は咎めない。

だが、このままでは。

その後の事は。

あまり考えたくなかった。

 

4、儚いインフラ

 

ロープウェーの調子が悪いと言うことで、早苗は朝から様子を見に行く。見ると、河童が多数集って、必死に直しているようだった。

話もわいわいとしているが。

河童達が集まると、碌な事をしないことは分かりきっている。

守矢に行こうとしていた人達も。

足止めを食い。

更に不安そうにロープウェーを見つめていた。

諏訪子が来る。

「あの人間達は私が見るから、早苗は河童を」

「分かりました」

二手に分かれる。

河童達の所に話を聞きに行くと。

河童の中でも特に優れた力と知識を持つ、河城にとりが気付いて、手を振って来た。

「守矢の巫女さん。 ちょっといいかい」

「どうなさいました」

「見てくれよこれ」

言われたまま確認すると。

どうやら、重要な部品が一つ、ねじ曲がってしまっているようだった。

「大きな力が掛かったようで、これは丸ごと変えないと駄目だな。 一日で何とか直すよ」

「分かりました。 お願いします」

「これは正直な話、修理費を請求は出来ない。 多分だが、工事に使った材料に、不良品が混ざっていたんだ。 使い方が悪かったんじゃ無い以上、こっちの責任だ。 すまなかった」

「いえ、直していただけるのなら大丈夫ですよ」

河童は兎に角がめつく。

金には非常に五月蠅いのだが。

技術者としてのプライドは高いようで。

時々こんな風に驚かされる事を言う。

或いは、技術そのものが河童にとっての誇りなのかも知れない。普段はしたたかでも、技術に疑念を抱かれるような事が起きると、真剣に対応する、のかも知れなかった。

諏訪子に状況を話す。

そうすると、やむを得ないかと、諏訪子は嘆息した。

早苗は一段高い所に登ると、集まっている人達に、呼びかける。

「すみません、ロープウェーの故障が見つかりました。 今日は守矢への参拝は出来ません。 明日には今日の埋め合わせをしますので、それでお許しください」

「わかったよー!」

「しゃあない、帰るとするか」

わいわいと戻っていく人里の人達。

看板を諏訪子が用意して、今日は参拝できませんと立てかけておく。

更に何かの術を掛けて固定。

話を聞くと、なんと地下でミジャグジが固定しているという。

流石というか何というか。

あの恐怖の祟り神を、そんな風に使うとは。

にやりと笑う諏訪子。

「悪さをしたら、一発で分かる。 仕置きも簡単だからね」

「流石諏訪子様ですね」

「それよりも、あれ。 どう思う」

「少なくとも手抜き工事の類ではないでしょう。 かといって天狗の仕業とも思えません」

あのロープウェーは、天狗にも利があるものだ。

意図的に壊したとは思いにくい。

見ると、河童達が新しい部品を持ってきて、修理を始めている。

クレーンのようなものや。

かなり大がかりな重機も使っていた。

一旦ワイヤーを巻き上げた後。

ロープウェーを修理する。

ブロックごとに分けている様子で。

そのブロックをそのまま取り替えるようだ。

河童は無料で良いと言っていたが。

そういえば、河童は自分達の誇りに賭けて、勝手に壊れるようなものは作らないとも言っていた。

変なところで生真面目なのだなと、苦笑してしまう。

「河童は私が見ておくよ。 早苗は一度戻って、明日の出店の値引きでも考えておいておくれ」

「分かりました」

ふと、気付く。

様子を見に来たらしい博麗の巫女が遠くで手をかざして此方を見ている。

まあ流石に彼女も犯人ではないだろう。

ロープウェーには色々怒っていたようだが。

それでも、人里も関わるインフラに無茶をするような人では無い。

だが、彼女は結局の所。

この幻想郷のアンダーグラウンドを知らない。

それはほぼ確定だ。

どうして知らないのだろう。

紫にとっては、大事なこの幻想郷を守るための、最強の矛の筈なのに。

妖怪では無いから、だろうか。

だとしたら、少し寂しくもある。

早苗はもう、人では無いと、紫にも認められているようなものだからだ。

拡がる田畑は美しい。

水も緑もまた豊かだ。

だがこの幻想郷は。

誰もが平等で幸せに暮らせる都合が良い理想郷では無い事だけは。

早苗にも分かる事だった。

 

(終)