マノカの居場所

 

1、魔界に住む人の子

 

「……天界、魔界の双方を壊滅寸前にまで追い込み、至高神の死によって終結した総力戦(天魔大戦)以降、今まで非常に希薄だった、文明発達途上である人間社会に対しての働きかけが強まりつつある。 かって人間社会との関係は(人間社会で、不要品、ゴミとされた人材のリサイクル)或いは(人間が価値に気づいていない資源の有償回収)等に限られていたが、(アスフォルト皇国)での成功を機に、魔界政府及び天界政府は人間社会にある三大国家に対し政治的働きかけを実施、各国での大使館建造に至った」

「はい、マノカさん、良く出来ました。 次、クラッツェルさん」

こっそり小さくため息をつくと、無事歴史の教科書を読み終えたマノカ=アルカナは席に着いた。自分自身に大きく関係する一文であり、平静に読むのは一苦労だったからである。この初等学校に限らず、魔界に存在する学校全てに特別扱いはない。同時に差別もなく、何から何までが公平だった。また、実力を付けなければ何年経っても次の学級に上がる事は出来ず、逆に実力さえあれば風のような早さで学級を駆け上がる事も可能だ。だから級友という感覚も薄く、隣にいるクラッツェルはマノカにとって数少ない稀少な存在だった。二人はほぼ同等の学習能力を持っていたので、学級やクラスが同じになる事が極めて多かったのである。

クラッツェルは菱形を、正確には少し上下に長細い八面立方体の形をしていて、いつも念動力(サイコキネシス)で宙に浮いている。目も鼻も口もなく、金属的ですべすべの赤黒い全身のどこから音を発しているのかわかりにくいが、ともかく音声コミュニケーションを周囲と図る事が出来た。また光学探知や音声探知も出来るようで、彼がコミュニケーションに困る事は、少なくとも学校内ではない。のっぺりした全身の中、唯一アクセントとなっているのが下部の頂点で、そこからは十センチほどのひも状の器官が延びており、先端部には絹糸のように柔らかいひとつまみの綿毛が付いていた。クラッツェルがいつもより少し高めに浮遊し、サイコキネシスで本をめくるのを横目で見ながら、もう一つマノカはこっそりため息をついた。クラッツェルは相変わらず無機的な音声で、教科書の続きを読み上げる

「これらの行動の目的は、魔界、天界の犯罪者が発展途上世界である人間世界に逃げ込むのを防止すると同時に、魔界、天界双方が互いの抜け駆けを監視する事にある。 また、大使館建造は国力に余裕が出てきた事をも間接的に示し、(見栄の張り合い)をする意味もあった。 人間社会への働きかけに関する重要度はこれらの次になる。 現在魔界政府、天界政府共にもう二つの大使館建造を計画しており……」

授業終了のチャイムが鳴った。足が八本ある蜘蛛のような姿をした妖魔や、全身から無数の触手を伸ばした魔族が大きく延びをした。教室の前で四本の手を叩いた教師が、早くも気を抜きかける皆を牽制する。

「はいはい、今日の授業は此処まで。 明日はアトルモさんから指名します。 それと教科書十七ページから十九ページまで、レポートをまとめて提出する事」

「はーい」

「は〜い」

そのレポートの出来が今後の学級昇格にもろに影響してくるのだから、生徒達は当然真面目に返事をした。だが、どうもマノカは気乗りせず、皆が帰り支度をする中、もう一つこっそりため息をついたのだった。

 

マノカは今年十才になる、魔界では数少ない人間の少女だった。元気が取り柄だと自認する彼女は、ダークグレーの髪の毛をショートに切りそろえており、瞳は鴉の羽のように黒い。背は同年代の生育記録の中では平均より若干高い方だと健康診断の時言われるが、マノカにはどうもぴんと来なかった。比較対照が周囲にいないと言う事情が、最も大きな要因であろう。

先ほどの授業で、マノカが嘆息したのは、ずばり彼女がその政策によって魔界に連れてこられたからである。人間世界で、実の親に孤児院へ捨てられた所を、魔界から派遣された能力調査官が買い取ったのである。大戦末期の政策であったため、同様にして連れてこられた人間はさほど多くもなく、彼女と境遇を共に出来る者は殆どいなかった。今は大分マノカも心の整理が出来ているが、知っていて楽しい過去であるはずもない。心の形成が完全になる前に連れてこられたため、致命的にひねくれる事はなかったのがせめてもの救いであろう。

現在彼女は保護者であるモエギ=アルカナの家に住み込んでいて、生活維持意欲に欠ける保護者の代わりに家事一切を引き受けている。普段は元気で笑顔を絶やさない彼女だが、今日は先ほどの授業のせいか、少し元気がないようだった。住居が近い事もあり、いつも一緒に帰り道を進んでいる(当人にしてみれば歩いているつもりかも知れない)友人クラッツェルも、それを敏感に感じ取ったようだった。

「マノカ、元気がないようだけど、どうした?」

「ううん、何でもない」

「君の精神力はいつもの七十パーセントほどに落ち込んでいる。 運動能力に変動はないから、単純に心の問題だろう」

「あははははは、ただ疲れただけだよ。 心配かけてごめんね」

苦笑するマノカは、相手の鋭さにいつもながら辟易していた。クラッツェルはテレパスとしての力も持ち、相手の考えている詳細事までは分からなかったが、精神状態や肉体状態を感じ取る事が出来るのだ。それは一種覗きに近い物があり、しかも遠慮がないので、時々マノカは困ったが、悪気がないので怒る事も出来なかった。

寡黙なクラッツェルは口が堅く、信頼出来る友である。マノカは足を止めると、ため息をついて言った。

「私も、人間社会でゴミ言われて、こっちに連れてこられたんだよね……」

「人間社会で君はゴミ扱いされたかも知れないが、此処ではきちんと一つの個性として扱われているではないか。 それに君の能力は魔界政府も認める稀少能力で、僕には到底真似出来ない」

クラッツェルの言う事は、全くの事実であった。だがマノカとしては、それにすぐには納得出来なかったのである。まだ精神的に子供だと言う事もあるし、トラウマの一つである事も確かだったから。

「先ほどから、更に精神力が落ちているようだ。 僕のせいなら謝る」

「ううん、いいよ」

「この先に小さな氷菓子の店が出来たそうだ。 君と君の財布が許せば、寄っていかないか?」

「え?本当? ……て、奢ってくれる訳じゃないの」

がっくり肩を落としてみせるマノカ。大げさな動作は、無論相手の反応を引き出したいと思ったからである。しかしクラッツェルは無機的な口調で、それにコメントした。

「こういった行為で、借りを作るのは良くない」

「あははははは、そうだよね、分かってるって」

笑いながら、マノカは、心の中で呟いた。たまには優しくしてくれたって良いじゃないか、と。恋愛感情と言うには微妙だが、クラッツェルと一緒にいると落ち着くのは事実であり、だがいつも淡泊な菱形君はあまりマノカには優しくしてくれなかった。

学校は徹底した実力主義であったから、校則自体は厳しくない。買い食いだろうが遠出だろうが恋愛だろうが結婚だろうが自由にやって良い。ただ、それで成績が落ちたら進級出来ないだけである。クラッツェルが勧めてくれた氷菓子店は最近開いたばかりだが、早くも人気が出ているようで、行列が出来ていた。そして、行列が出来ているだけあって、実際に氷菓子は美味しかった。子供にもわかりやすいおいしさであり、それでいて実に奥が深い味付けである。単に甘いだけでなく、素材のうまみをきちんと引き出し、また見かけに凝る事も忘れていない。行列が出来るのも、当然の話であった。元々感情豊かなマノカは、喜びを声に出すのを押さえられなかった。

「おいしーい! 幸せー!」

「そうか、それは良かった」

「うん、ありがと、クラッツェル!」

礼を言われても、クラッツェルは喜んでいるのか照れているのか、変化がないためさっぱり分からない。だがこの辺は、そういうものだと、もうマノカは割り切っていた。他人を自分の価値基準で決めても仕方がないと、この少女は達観していたのである。

「そだ、お姉ちゃんにも、おみやげに買っていこっと。 もっかい列ぼ?」

「マノカ」

「え? どうしたの?」

「君の精神力が大分回復したようだ。 安上がりな性格で助かる」

コメントに困る言葉を言うと、クラッツェルは無言のままその場に浮き続けていた。冷酷だとか、そういうのではない。単に遠慮無く、事実を指摘し続けているのである。頬を膨らませて、マノカは列の最後尾に戻った。マノカが明らかに不機嫌になっているのに、クラッツェルは何も変化を見せなかった。だがしかし、氷菓子を買い直すまで、無言でクラッツェルは待っていた。それが不器用な優しさなのか、何か必要な事だと思ってやっているのか、少なくともマノカには判断が出来なかった。

 

一見冷酷そうであっても、話しかければ答えをきちんと返してくるクラッツェルは、三年ほど前からマノカの親友だった。総合的な能力及び成長力がほぼ同等という小さな点だけが、超実力社会における学習機構で二人を結びつける唯一の絆だった。

二人は将来社会的な(売り)にするべき、(特殊強調能力)において共通していた。いわゆる(魔法)を更に原始的感覚的にした(PSI能力)である。これは魔界でも使い手が少なく、稀少能力の一つとして認定されている分野の力だった。

クラッツェルは精神力で物体に干渉する(サイコキネシス)や他者の精神を読みとる(テレパシー)といった(PSI)の中では比較的一般的な能力が得意であった。一方でマノカは、(サイコキネシス)を若干使えるほかに、(サイコチェイス)と呼ばれる(PSI)の中でも更に極めて稀少な能力の、魔界でも数少ない使い手だった。両者は共に稀少能力の使い手であったから政府の評価も高く、今後の能力発達に大いに期待をかけられていた。特にマノカは(サイコチェイス)の使い手が魔界でも十人といない事から、政府から学費の支給を提案された事さえあったほどである。

魔界では、何でもかんでも人並みに出来るような人材よりも、何か一つだけでも誰かに真似出来ない力を持つ者の方が遙かに優遇される傾向がある。マノカは人間であったから、どうしても魔族や妖魔に比べて肉体能力に欠ける部分があったが、その能力の特異性から、周囲の評価は決して低くはなかった。だから先ほどクラッツェルは、真似出来ないなどと言ったのである。

だが、マノカはこの力を、決して好いてはいなかった。

他愛ない話をしながら、二人は帰路を歩いていく。クラッツェルの少し後方には、手提げ鞄が宙に浮いて着いてきていた。いや、クラッツェルの場合どちらが前か分からないから、ひょっとすると後ろ向きでで歩いているのかも知れない。

「今日のレポートは大変だ。 毎度君の力を借りるわけにも行かないし、頭痛の種だ」

「クラッツェル、ほんとに政治学苦手だよね」

「(意地の張り合い)というのは特に分からない」

「うーん、きっと(それだけ無駄な事が出来るのなら、国力の回復も本格的になってきている)ってのをみんなに見せるためじゃないのかな」

マノカはその気無く、本質を的確についてみせた。政治学と語学は二人の理解能力に差が出る数少ない学問であり、マノカは政治学が得意で、クラッツェルは語学が得意だった。だが意図的にマノカはクラッツェルにあわせて、学級を進めていた。クラッツェルがそれに気づいているか否か、マノカは知らない。

「そうなのか?」

「推測だよ、推測。 もし違ったらごめんね」

「でも、君の事だ。 この件に関してはおそらく当を得ているのだろう。 参考にさせて貰う」

「あはははは、ありがと。 あ、でも丸写しは止めてね」

マノカの家が見えてきた。小さくも大きくもない、普通の家である。書籍を多く置いているため、窓は若干暗めの色に調節されている。庭には殆ど植物の類が無く、番をする生物の姿も見えない。

「じゃ、また明日ね」

笑顔でマノカが手を振ると、そのままクラッツェルは通り過ぎていった。その後ろ姿をしばし見送ると、これから行う家事を頭の中で整理しながら、マノカは保護者に呼びかける。炊事、洗濯、洗い物、書籍の整理、掃除。人類社会とは比較にならぬほど進歩した文明の利器の手助けはあるものの、簡単に終わる仕事ではない。だが、これは文字通りマノカが(仕)された(事)なのだ。存在の証明とも言える事で、マノカは文句を言いながらも決して家事を苦にはしていなかった。

 

「お姉ちゃん、ただいまー!」

返事はなかった。玄関に靴はあったから、その事態が何を示しているかマノカはすぐに悟った。二階に上がって寝室の引き戸を開けると、案の定其処にはハンモックに体を預けて夢の世界を旅行中の(姉)の姿があった。まだ若いというのに、枕は寝涎で汚れ、実に幸せそうな顔でいびきをかいている。これがマノカの保護者であるモエギであった。

「お姉ちゃん、二度寝しちゃだめだよ、起きてってば」

「あー、うー。 ……あははははははは、ヤドレガネがいっぱいー」

「お仕事終わってないんでしょ? 起きて、起きてってば!」

ハンモックを揺らしてもモエギは起きなかった。腰に手を当ててマノカは頬を膨らませ、身を翻して階下に降りていった。そして戻ってきたときには、フライパンとおたまを手にしていたのである。流石に九年以上このぐうたらと一緒に暮らしているだけのことはあり、マノカは姉を起こす方法を既に熟知していた。

「お姉ちゃん、朝だよ! ほら、起きてっ!」

言葉と同時に、マノカはフライパンに激しく何度もおたまを打ち付けた。けたたましい金属音が部屋を蹂躙し、モエギが跳ね起きて辺りを見回した。そして二十倍以上も年の離れた(妹)を発見し、手の甲で涎を拭いながら言う。寝間着も崩れ放題に崩れていて、目のやり場に困る光景であった。

「あー、おはよ。 今何時?」

「もう夕方だよ。 お仕事、今追い込みどころなんでしょ?」

「あー、おー、うー、そうだった。 仮眠のつもりでつい五時間も寝ちゃったわ」

ハンモックの上で身を起こすモエギは、丁度大人になったくらいの年頃に見える。容姿も殆ど人間と変わらないが、唯一違うのは背中下部から生えている直径十センチ強、長さ二メートル程の尻尾の存在である。尻尾は上部が青黒く、下部は焦げ茶色で蛇の腹部のようになっている。先端部は少し丸まっていて、よく動く小さな触手が何本か生えており、第三の腕として活躍するのだった。この便利な尻尾は力自体も腕などより遙かに強く、また柔軟である。彼女は魔界の先住民族(妖魔族)の一員であり、天界から亡命してきた天使である(堕天使)や、その子孫である(魔族)とは若干違う存在だった。最も、両者の混血は積極的に奨励されており、純血の妖魔や魔族は最近ではむしろ珍しい部類に入るのだが。

「はい、お姉ちゃん」

「サンキュー。 相変わらずあんた気が利くわ」

ぼさぼさの頭をかきながら、大あくびをしてモエギはハンモックをおり、寝間着のボタンをかけ直しながら、要領よく床に散らばった書類を集め終えていた妹から、書類を受け取った。よく見れば結構美人なのに、あらゆる動作が尽く見てくれを悪くする方向へ働いている。要は全く他人の目を気にしない動作をしているからで、特定の恋人でも出来れば少しは生活態度が改まるかも知れない、などとマノカは密かにませた事を考えていた。

「あ、そうだ、これおみやげね」

「お、流石は気配りの達人。 ありがたくちょうだいするよ」

「あはははは、お仕事頑張って」

モエギはデータ整理と統計調査の仕事をしており、忙しいときほど家に閉じこもって時間を気にしない生活をしていた。ここ数日も上司から膨大な資料を渡されたとかで、数時間寝ては十数時間働く生活を繰り返していた。この(生活リズム無視状態)に入ると、普段でさえ相当なモエギのだらしなさに拍車がかかるため、マノカの負担もそれに比例して激増する事になる。今までこの最悪の状況が続いたのは最長で一ヶ月ほどだが、その末期はマノカも流石に疲れ切って授業に手が着かない状態だった。それに比べれば、今回はまだほんの始まりであり、マノカにも充分余裕があった。

手早く氷菓子を食べ終えてしまうと、欠伸をしながら仕事机に戻り、書類を見ながらコンピューターを叩き始めるモエギ。それを横目で見ると、マノカは冷蔵庫に入っている食材を確認し、夕食の献立を考え始めた。整理されたキッチンには、背が届かなかった頃に使っていた小さな台がある。無論今も高い所にある物を取るときには使うのだが、マノカは必要なとき以外、出来るだけこれを使わないようにしていた。宝物だったからである。

「おねえちゃん、今日はヤドレガネとアルフォンソの煮付けにするね」

「はいはーい、適当にお願いね。 あんたに任せるわ」

いつもの問いかけにいつもの返事。暖かい空気を感じて、マノカは目を細めた。彼女はまだ、翌朝届く、人生の変転になる手紙の存在など知るよしもなかった。

 

2,変転する日常、回転する轍

 

「お姉ちゃん、ただいまー!」

子供の仕事の中でも最重要事項である、学校での学習を終えて帰宅したマノカは、姉の返事がないのを、いつものように二度寝したからかと思った。だが、事実は違った。二階に彼女が上がろうとすると、居間で機械に向かって真剣な顔をしているモエギを視界の隅に捕らえたのである。

「……そう、分かった。 じゃあ、よろしく」

モエギが立体映像付電話に向けて話しかけている、いつになく真剣な表情で。相手はたまに見かける魔族の男だった。この男も容姿は人間に近いが、背中に鋭い二対の翼が生えている。また常に表情は硬く、無機的なクラッツェルとは違う意味で硬質の印象を周囲に与える男だった。

「お姉ちゃん、今の人は?」

「……その手紙について確認してた所。 アルの奴、たまに電話してきたと思ったら」

「アルさんって言うの?」

「昔の同僚。 あー、気分悪いから、少しテラスで風に当たってくるわ。 その手紙、私たち宛だから。 ……目通しておきなさい」

それ以上妹と会話しようとせず、尻尾で頭をかきながら、モエギは二階へさっさと上がっていった。マノカは、それが本当に機嫌が悪いときの姉の癖だと知っていた。手紙は開封されており、宛先には確かに二人の名前が明記されている。鞄を降ろして行儀良く正座すると、マノカは文面に目を通し始めた。

(通達。 人間世界の、魔界との同盟国である(連合)の一国コルプテス王国より、魔界大使館に打電あり。 マノカ=アルカナ氏の親と名乗る人間が、同氏の引き取りを要求しているとの事。 大使館は既に(買い取り証明書)が正規の物である事、DNA検査によって、引き取り要求人がマノカ氏の血統上の親である事は確認済み。 引き取り要求人は既に買い取り金額の補填を明言しているが、要求に対する決断はマノカ氏及び保護育成責任者モエギ氏に一任する。 おって連絡されたし)

マノカは目の前が真っ暗になるのを感じた。

 

魔界に連れてこられた直後の事を、マノカはよく覚えていない。ただ、物心付く頃には、自分が周囲の者達と違うと、(お姉ちゃん)と違う生き物だとも、悟っていたのは確かだった。

隣に住むシャッテンさんは、とてもマノカをかわいがってくれたが、マノカとは似てもにつかない姿だった。全長六メートルの濃紺色をしたゼリー状の塊で、全身から無数の触手が生えていたのである。その隣に住むランゲルさんも、向かい隣に住むクライゼルさんも、みんなマノカとは根本的に違う姿をしていた。だが、みなマノカに普通に接してくれた。ただし、特別にかわいがってくれる事もなかった。シャッテンさんは単に子供が好きだったようで、マノカにも他の子供にも平等だった。

仲間が欲しいと、マノカは時々思う事があった。学校に通い始めた頃に、彼女は人間世界の存在と、自分が魔界に来た経緯を知った。当然そのときは大泣きして、数日間学校を休んだほどである。それまでもずっとモエギはモエギなりの優しさでマノカを包んでくれていたのだが、幼い彼女はそれに気づかなかった。しばし大泣きした後、マノカは自分に備わるサイコチェイスの能力を試してみる事にした。それは彼女に強烈なトラウマを宿す原因となる事件を誘発する事となった。

自分が連れてこられたときに、包まれていたという小さな産着。マノカはそれに手を当て、精神を集中した。サイコチェイスとは、いわゆる物品の記憶を調べる(サイコメトリー)の更に進化した能力で、時間、空間を感覚的に捕らえながら、物品の移動経路や通過してきた周囲の映像音声をも精神内に再生する事が出来る力である。当然消耗は非常に激しく、一回使用すると丸一日はまともに頭が働かなくなる。十歳になった今のマノカでもそうであり、七歳だった頃のマノカはサイコチェイスのせいで熱を出して入院した事もあった。マノカはそれでも能力を使った。何で(お父さんとお母さん)が自分を売ったのか知りたかったのである。それには、(どうしようもない事情があったのかも知れない)(ひょっとするとお父さんとお母さんはまだ私を心配しているかも知れない)(愛してくれているかも知れない)という淡い希望があった。

だが、その幼い心が宿す小さな希望は、現実によって完膚無きまでうち砕かれた。サイコチェイスによってマノカが見たのは、小さな教会だった。けばけばしく化粧した女が、宗教衣を着た困惑顔の老人に、眠っているマノカを手渡している。彼らの会話は具体的には理解出来なかったが、表情からそれが何を言っているか嫌と言うほどマノカには分かった。数日後、一抹の希望を託し、人間の言葉を納めた電子図書館に通った彼女は、そこで自動翻訳機能を使って、聞いた言葉を翻訳させてみた。

「あんたももう、いい加減にしたらどうだ? これで産み捨てるのは六人目だろう?」

「うっさいねえ、あのバカ貴族が悪いんだよ。 あたしに子供が出来たって知った途端に専属娼婦の契約解除しやがって。 ちっ、良い金ヅルだったのにさ」

「いっそこの機に誰かと結婚して、この子と一緒に暮らしたらどうかね。 あんたはまだ若いし綺麗なんだし、恋人も何人かいるんだろう? 結婚してくれる人くらいいるんじゃないのか?」

「いやだね。 産んでやっただけでも大変なんだ。 育てるなんて面倒くさい事出来るもんか。 こんな生ゴミ、体から出しただけでもうんざりなんだよ。 大体なんであたしが結婚なんてしなきゃいけないのさ。 ばかばかしい、稼げる内はまだ遊びたいんだ」

マノカは涙がこぼれるのを感じた。それは絶望と一緒に激しく両の目から流れ落ちた。機械は無情であり、プログラム通り、最初に音声入力した言葉をはき続ける。

「これ以上罪作りな事はしなさんな。 それに、たまには親らしく子供達に会いに来てはどうかね? 顔さえ見せに来ないじゃないか」

「うるっさいなあ、どうでも良いだろそんな事。 ははん、あんたひょっとすると、あたしに気があるんだろ。 アハハハハハハ、バァーカ。 いい年こいて。 まあ、金次第で、ヤらせてあげてもいいけどさ」

「……行け。 何を言ってももう無駄なようだな」

嬌笑しながら、厚化粧の女は去っていった。マノカは両手で耳を押さえると、心が強烈な軋みを覚えるのを感じた。自分の甘くぬるい希望が現実によって完膚無きまでに粉砕された事を、何よりも明確に悟ったからである。この後彼女は魔界政府のスカウトマンに買われたのだろうが、そこまで映像を見る気になどなれなかった。

「いやぁあああああああああああああああああっ!」

絶望が籠もった絶叫が、電子図書館に響き渡った。そして、極限の精神疲労から、マノカは意識を失ったのである。

次にマノカが目を覚ましたのは病院だった。隣にはモエギが、ベットにもたれかかって眠っていた。後で聞いた話によると、仕事をほっぽり出して徹夜で着きっきりになってくれていたらしい。この日からマノカは(親)に対する強烈なトラウマを宿すのと同時に、モエギに依存するようになったのである。埋めようがない穴が開いた、心の充足を求めて。

 

肩に手を置かれたのに気づいて、マノカははっとし、顔を上げた。モエギが側にいて、深刻そうに眉間に皺を寄せて顔をのぞき込んでいた。

「大丈夫? 顔真っ青だよ」

「……お……お姉ちゃん……」

「ほら、どうした。 涙まで流して」

姉は柔らかい布を取りだし、丁寧にマノカの涙をふき取ったが、次から次へと涙はわき出し溢れ出た。本当に自分が落ち込んでいるとき、姉が誰よりも優しい事を、マノカはよく知っていた。その優しさに甘えるばかりでは駄目だと良く自分に言い聞かせもしていたのだが、今回は全く体が動かなかった。再び眼前に叩き付けられた現実と、鎌首をもたげてかぶりついたトラウマの存在が、体と心を麻痺させていたのだ。

「晩飯、今日はいらないわ。 私が適当にやるから、あんたは休んでて」

「ご……ごめんね……私……お姉ちゃん……お仕事あるのに……」

「いいっていいって。 きにすんな。 いつも働いてるんだから、たまには休め」

細い体なのに、モエギは結構力持ちで、殆ど脱力して身動き出来ないマノカをそのまま抱え上げて寝床に連れて行った。モエギは丁寧に布団まで掛けてくれたのだが、礼を言う余裕もなかった。大事な線が何本かきれたように、マノカはそのまま意識を失った。

翌朝、マノカは学校を休んだ。それに対して、モエギは何も言わなかった。学校には連絡をしておいたという言葉が、目を覚ましたマノカの耳に届いたが、それに反応する余力は残っていなかったのである。

強烈なトラウマが再び首を持ち上げた事で、マノカは精神的な防御機構を働かせ始めていた。焦点が合わない瞳で、彼女は呟く。マノカは発熱してさえいたのだが、それにも気づいていなかった。

「あのとき……私を否定したのはお母さんだけ」

目を背ける事で我慢してきた巨大な傷を埋めるべく、マノカの心は何か代用品を求め続けてきた。そしてそれが今、歪んだ形で噴出し、言葉の形で外に漏れていたのである。

「ひょっとするとお父さんは……私をまだ愛してくれているかも知れない……お母さんだって……今は優しい人になっているかも知れない……」

寝床から半身を起こすと、マノカはぎゅっと、大きく皺が寄るほど強く布団の端を握りしめた。冷静に考えればどう考えてもそれはないだろうに、今のマノカには其処まで考える余裕がなかった。巨大な心の傷の上に、深く暗い溝の上に、僅かに見える小さな紐。ブラックボックスを開ける紐。それが希望の箱を開ける唯一の物にしか見えなくなっていたのである。

視界が揺れる中、マノカは起き出し、姉の部屋に向かった。足音に気づいたモエギは振り向き、困惑を浮かべた。

「まだ寝てなって。 熱もあるし、食欲もないんでしょ?」

「う、ううん、そんなのいいの。 あの、お姉ちゃん、さっきの手紙なんだけど」

「もう捨てたよ。 あんな不愉快な手紙」

「ありがとう、でもそうじゃないの。 私、お父さんに、あってみたいの」

一瞬おいて、鈍器で殴られた様な表情が、モエギの顔に走った。何があっても滅多に動揺しない姉が、心底から驚き慌てる姿を、マノカは初めて見た。でも、今はそれにさえ感銘を受けないほど、マノカの精神は錯乱状態に陥っていた。

「……ね、熱のせいだね、馬鹿な事いって。 ほら、寝床に戻りなさい。 家事なら適当にやっとくから」

「私、本気だよ、本当に考えたんだよ」

「分かった、今は寝なさい、寝なさいってば!」

動揺するモエギは大事にしている高価なペンさえ取り落とし、マノカを無理矢理抱え上げて急ぎ足で寝床に連れ戻した。マノカが腕の中から見上げるモエギの顔は、信じられないほどの焦燥に満ちていた。布団を整えながら、モエギは言った。

「マノカ……私は、あんたの心に干渉する事は出来ないよ。 でも、よく考えて。 お願いだから、もう少しよく考えて」

「あうだけだよ、向こうに住む訳じゃないよ」

「……あんたを愛してるんだったら、何で十年も放っておいた? しかも人間社会で不必要なほどに社会的地位のある貴族が?」

マノカの視線を受けて、モエギはしまったとばかりに口をつぐんだ。電子図書館でマノカが倒れたときに、モエギはデータバンクから直前まで妹が聞いていたデータを引っ張り出し、目を通しておいたのだろう。

「何か、理由があるのかも知れない、まだ愛してくれているかも知れない」

「……分かった。 分かったから、今はもう寝て」

ついと顔を背けると、モエギはマノカの寝床に背を預け、そのまま座り込んだ。長く気まずい沈黙が続いた。マノカの熱がようやく下がったのは、翌朝の事だった。

 

昨日のやりとりは、二人とも良く覚えていた。マノカの作った朝食を取りながら、モエギは書類の計算をする。それを見ながら、マノカは自分の居所を確認して安心する。いつもの朝だったのだが、昨日のやりとりがそれを微妙に変質させていた。

「……本当に、一度帰るつもり?」

「うん。 ……一晩考えて、決めたんだ」

「そっか。 あんたが自分で考えて決めたんなら仕方がないわ。 アルに連絡しておくから、心配しないで」

「ごめんね、お姉ちゃん」

姉はそれには応えなかった。しばし気まずい沈黙が続き、書類を一枚めくりつつ、モエギは再び口を開いた。

「学校に行ってらっしゃい。 少なくともクラ坊には、この事言っておいたほうがいいよ」

 

「僕は、君の行動に賛成出来ない」

学校の帰り道、マノカの言葉を聞くと同時にクラッツェルはそう断言した。それを言うだけでマノカがどれだけ努力したか、クラッツェルは気付いているはずなのに、そう言った。マノカは悲しかった、はっきり判断力を失っている今でも、悲しみは隠せなかった。だが、姉以外の前で彼女は泣いた事はなかった。無理に悲しみをねじ伏せ、クラッツェルに応える。

「……そう」

「止めた方がいいと思う。 ただ、君がそうしたいというなら、僕は止めない」

クラッツェルはいつものように、あくまで淡々とそう言った。マノカはこれで、決意を完全に固めた。

 

家に戻ると、客人が来ていた。今で正座しているその男は、モエギが(アル)と呼んでいる人物だった。魔界政府認定のスーツをきちんと着こなし、目を閉じて微動だにしない。中肉中背の、引き締まった体つきの男だった。一方でモエギはその向かいにだらしない格好で座り、ぼんやりと頬杖を付いていた。

「ただいま……」

「おかえり、マノカ。 此奴はアル。 昔の同僚で、政府の諜報員してる」

「魔界政府B級諜報員アルフレッド=ラムドです。 事情は聞いているから、楽にしていいよ」

「は、はい」

ぺこりと頭を下げると、マノカは鞄を降ろして、アルフレッドの向かいに座った。アルフレッドはスーツのポケットから小さな機械を出すと、スイッチを押しながら言った。機械は立体映像の再生装置だった。口調はテレビ電話の姿からは到底信じられないほどに優しげだが、兎に角表情の動かない男だった。

「これが君を引き取りたいと言っている男です。 コルプテス王国のエイフォルト侯爵家三男で、名前はユミレル=フォン=エイフォルト。 四十一才になります」

浮かび上がったのは、いかにも軽薄そうな中年男性だった。肉付きは程々だが、眼光は冷酷そうで、口元は締まり無くだらしない笑みを浮かべている。アルフレッドは機械を操作して写真の向きを変えながら、淡々と言った。

「調査してはみましが、色々評判が良くない男ですね。 エイフォルト侯爵家自体は現当主のお陰で評判がよいのだけど。 君は短期間のステイをしたいと言う事で、永住を望むわけではない、と言う事で良いのだね?」

「はい。 お父さんが、どんな人か自分の目で確かめたいんです」

アルフレッドはその答えを聞いて少し考え込んだが、結局マノカの言葉には応えず再び機械のスイッチを押した。数人の立体映像が浮かび上がり、それらは皆違う格好をしていた。

「これがコルプテス王国に住む人間達になります。 右から貴族階級、豪商、平民、農民、スラムで暮らす者達。 民族は四つの民族が混合していて、君が会いたいというユミレルは支配階級民族のローレル人に属しています。 ローレル人は人口の7%を占めていますが、他の民族達からは嫌われていますね。 君の血統上の母親はローレル人ではないから、ローレル人は君を差別するかも知れませんよ。 行くつもりなら覚悟しておいて」

マノカは人間社会を勉強した事がある。魔界より千年以上も科学技術が遅れている社会であり、人間がほんの些細な肌の色や出身地域で差別しあうとも知っていた。人間に近い種族もいるにはいるが、彼らはより酷い差別を受けて特定の地域に押し込められているとも聞いていた。アルフレッドは次々に四つの民族の特徴を示した写真を提示したが、マノカには見分けが付かなかった。こんな些細な差で、どうして差別しあうのかも理解に苦しんだ。

「魔界製の服を着ていくか、それとも郷に従うかは君が決めて。 郷に従う場合、魔界政府から、有償で何着かの服と日用品は提供させてもらうよ。 まあ、有償と言ってもたかの知れた金額だから、心配は無用だけどね」

「はい、有り難うございます」

「翻訳機やその他の装備は気にしなくていいよ。 コルプテス王国との外交関係強化の第一歩として、政府からほんの些細な援助金が出たんだ。 もっとも、人間社会で上げた収益の一部をまわしてもらっただけだけどね。 それでまかなう事が出来るから」

アルフレッドはまた機械を操作し、映像を切り替えた。嫌に華美な服と、逆に嫌に質素な服が浮かび上がった。

「貴族は大体これくらいの服装でいつも過ごしているんだ。 こっちは豪商が普段着ている服だね。 どちらか好きな方を選んで欲しい。 どうせ在庫品だから、貸し出すだけだしね」

「私、こっちがいいな。 こんな服、私には怖くて着られないよ。 動きにくそうだし」

マノカは迷うことなく質素な服を選んだ。アルフレッドは眉をひそめると、確認のためかもう一度聞く。

「そっちでいいの? 貴族は偏狭な人間が多いから、貴族以外を人間と見なさない奴もいるんだよ。 服装一つがトラブルの種になりかねないよ」

「ううん、これでいいよ。 私、貴族じゃないし、お父さんに会いに行くだけだし」

それに、服装なんかで決めつけるような人なら、とマノカは考えていた。

「では、後はこの書類にサインをして。 それと、何かあったらすぐに私を呼んで。 出来る限りの速度で、駆けつけるつもりだから」

「ふーん、随分調子のいい事を言うんだ、アル」

含みのある口調でモエギが口を挟んだが、アルフレッドは別に動揺する様子もなかった。

「私はいつも自然体だよ」

「さーて、どうだか。 マノカ、こいつ信用しちゃ駄目だよ。 チョーシの良い事ばっかりいうんだから」

「あははははは、え、えっと」

「話はこれで終わりだ。 明後日に迎えに来るから、準備をしておくようにね」

表情も変えずにアルフレッドは立ち上がり、スーツの襟を直すと家を出ていった。無言で、白けた目でアルフレッドを見送ると、モエギは茶を飲みながら言った。

「何日くらい向こうにいるつもり?」

「一週間だけ、いようかなって思ってるんだ。 こっちでの勉強遅れちゃうし」

「あんたそんなにガリ勉だったっけ? ま、いいわ。 一週間、長期連休のつもりで過ごしてきなさい」

「……」

マノカが何か言いたいのを悟ったか、モエギは続ける。

「どうしたの?」

「……ううん、何でもない、何でもないよ」

「そう。 ま、後二日あるんだしね」

曖昧にそれに応えると、マノカはさっさと二階に上がり、自室に閉じこもった。ベットの上で膝を抱えると、マノカは小さな声で呟いた。

「バカ……二人とも……」

マノカは、二人に止めて欲しかったのである。二人が強く止めてくれるのなら、行くのを止めるつもりだったのである。

だが、(お父さんは自分を愛してくれているかも知れない)という思いは、以前として根強い。心の中に出来た巨大なクレバスは、容易には修復されそうもなく、それに対処するために父に会いたいともマノカは考えていた。

 

二日はあっという間に過ぎた。その間に、向こうで使うべき日用品が届けられた。人間世界には持ち込んでいけない機器などもあるため、早めにそれらに慣れる必要もある。早速向こうで着るべき服の一着をマノカは着て、全身鏡に映してみた。別世界の民族衣装であったから、マノカは不思議な感じを覚えた。生地は質素で、余り長持ちしそうもない服である。袖は長く、肌を全て隠すデザインだった。ポケットの類はそれなりに付いており、実用度が高いのはマノカにとって嬉しい事だった。

「え、えっと、似合うかな」

「ん、可愛いよ。 あんた元々の造作がいいから、大概の服は似合うわ」

「モエギがそういうなら似合うのだろう」

そう言ってモエギは尻尾の先の手でマノカの頭をくしゃくしゃにした。クラッツェルはいつもの調子でそう言ったが、口調に悪意はない。

「あんたは何処に出しても恥ずかしくない妹だわ。 少なくとも、私にはね」

「確かに、マノカなら何処の人間にもそう引けは取らないだろう」

「ありがとう、お姉ちゃん、クラッツェル」

「いってきな、それで絶対にかえってきなよ」

モエギに抱きついて、マノカは頷いた。クラッツェルは傍らで、それを温かく見守っている。マノカにとって、出陣前の幸せなひとときだった。

 

3,煉瓦の都

 

人間世界と魔界は、人間世界と天界と同じように、次元の裂け目によってつながっている。それは遙か昔に人間の魔術師が開けた穴で、現在は魔界の高度な技術によって固定安定化され、輸送や移動に使われていた。

人員輸送の際、穴を通過するには(ポット)という一種の輸送機を使う。これは大戦時にも使われた軍用輸送機で、普通の電車程度の快適度である。一応冷房は付いているが、揺れるし時間はかかるし、お世辞にも何度も乗りたくなる乗り物とは言えなかった。今では在庫が余っているので、民間にも旧式の物が払い下げられたり、あるいは今回のように民間人を輸送する際にも使用されている。

マノカは支給された服を着て、トランクを持って、それに乗り込んでいた。彼女の席の向かいにはアルフレッドが座っており、他にも人間世界に仕事のある魔界の住民が数名乗り込んでいた。次元の狭間に入ってから外の景色はずっと代わり映えがない灰褐色で、全く変化がなかったため、正直マノカは退屈していた。アルフレッドはアルフレッドで、時々思い出したかのように話しかけてくれたが、話が上手なタイプではない。

「後二時間ほどで到着するよ。 翻訳機のスイッチはオンにしたかい?」

「はい、もうしてあります」

「……そろそろ、次元の狭間を抜ける頃だね」

アルフレッドの言葉が終わるやいなや、ずっと続いていた揺れが止まった。外の景色が不意に色彩を帯び、アルフレッドはブラインドを引き上げてくれた。

魔界とは何から何まで異なる景色であった。空は紅くなく、青い。地面は赤茶けていなく、焦げ茶である。豊かに川が流れ、森は新緑の輝きを見せる。鳥が編隊を組んで飛び、風が優しく彼らを包む。

「わあ……綺麗」

「そうだね。 とても綺麗な所だ。 魔界に比べて、土壌は非常に豊かで、空気も過ごしやすい成分だ。 ただ、一部の魔族や妖魔は日光や聖なる力が苦手だから、差し引きで考えると平均的な魔界の住民には多少暮らしにくい場所だね」

「窓、開けてもいいですか?」

「開かないよ」

次元の狭間を通る事もあるポッドの窓は融着されていて、中からも外からも開かない。心底残念そうな顔をするマノカに、アルフレッドは苦笑して見せた。マノカはこのとき、初めてアルフレッドの表情を見た。

「君は、感情も表情も豊かだな。 私は融通利かずで無愛想だから、旨く表情を作る事も出来ない。 正直羨ましいよ」

「そんな……そんな事ないですよ」

「いいんだよ、謙遜しなくて。 君と住む前のモエギはあんなに感情が豊かじゃなかったんだ」

「ありがとうございます、アルフレッドさん」

マノカはずっとモエギには特定の男が居ないと思っていたが、この間の様子からして、アルフレッドとはただの友人以上の物を感じていた。魔界にはない柔らかく美しい景色を見ながら、マノカはアルフレッドに時々視線を移した。姉とどういう関係だったのか、と聞こうと思ったのだが、なかなか言い出せなかったのだ。

アルフレッドはそんなマノカの様子など知ってか知らずか、新聞を取りだして読み始めた。魔界製の新聞が幾つかと、嫌に薄い新聞だった。怪訝そうな顔で見るマノカに、アルフレッドはコルプテス王国の首都で発行されている新聞だと説明した。

「これの中身は、日常に起きた不思議な事や、民間人の犯罪に関する事、噂なんかを集めた物だ。 政治や国政に関する部分はない」

「どうしてですか?」

「貴族や王族の事を新聞に書いたり、国政にコメントする事は許されていないんだ。 もしそんな事をしたら新聞は一発で発行停止、発行者は打ち首だ」

アルフレッドは首に二回手を当てて見せた。苦笑して見せながら、マノカは膝の上で握り拳を無意識のうちに固めていた。

「まあ、こういった国情で国政や何かを新聞に載せても、国の圧力がかかって、国政を褒め称える内容や、国王を神格化する文章にさせられるさ。 国によっては言で士大夫を殺さず、っていう方針を貫いている場所もあるけど、所詮それも例外でしかない」

「あの……アルフレッドさんは、人間が嫌いですか?」

「……そうだね」

しばし考え込むと、アルフレッドは窓の外を見た。ポッドは海の上を飛んでおり、何処までも続く海原が、青い絨毯となっていた。

「総合的には嫌いな部類に入るかな。 特に無能で傲慢な貴族はね。 君は嫌いじゃないけど」

マノカはずばり吐露された本音に対し、何と言っていいか分からなかった。

 

美しい景色の上を二時間ほど飛んだ後、ポッドは魔界大使館の庭におりた。質実剛健を旨とし、重厚な作りの魔界大使館は、優しげな風と、暖かい日差しの中佇立していた。周囲には人家が無く、豊かな緑が広がっている。向こうの山に見える白い建物は、天界大使館だとアルフレッドがマノカに教えてくれた。コルプテス王国は連合の中でも第三の実力を持つ大国で、この大使館はいわば分室だとも、アルフレッドは付け加えた。マノカはポケットの一つから小さな指輪を取り出すと、丁寧に右手の人差し指にはめた。

「それは?」

「お姉ちゃんがくれたんです。 お守りだって」

マノカの笑顔を見て、アルフレッドはそれ以上追求しなかった。

アルフレッドはそれから大使館の中に入っていった。どうも手続きがあるらしい。一人取り残されたマノカは、辺りを見回した。庭には小さな鳥が群れていて、餌をつつきあっていた。庭に生えた木々は豊かな緑の葉を風にそよがせ、花壇の花は赤や燈の花びらで着飾り、美を競っている。虫が羽を広げて飛び、花にとまっては蜜を舐めていた。目を細めてそれらを眺めていると、手続きが終わったらしいアルフレッドが戻ってきた。彼はスーツから、この国の物らしい落ち着いた服装に着替え直していた。

「少し歩くよ。 今回無重力車は使用を許可されていないんだ」

「はい」

「今は初夏だ。 一番気持ちが良くて、過ごしやすい時期だよ。 歩くのもいい」

そういって、アルフレッドはつばのない帽子をマノカに被せた。帽子は手作りらしかったが、毛の質感が実に暖かい良品だった。

「私の人間の友人が造った物だ。 君の話を聞いて、是非と言ってくれた。 受け取って欲しい」

「はい、よろこんで! とっても嬉しいです!」

「そう言ってくれると、ゼイルも喜ぶよ」

豊かな自然、暖かな手作りの帽子。マノカはこのとき、この世界に来て良かったと思った。

アルフレッドの先導で、でこぼこの山道を二人は歩く。たまに馬車がすれ違ったが、御者は二人には見向きもしなかった。道には馬糞が堂々と転がっていて、アルフレッドは慣れた様子でそれをかわして歩いていく。

道は徐々に太くなっていき、ぽつぽつと人家も見え始めた。周囲には畑が増え始め、時々農民らしい人々とすれ違った。マノカは彼らに白い目で見られ、視線を合わせてもそらされた。アルフレッドは気を利かして、魔界の言葉で言った。

「君は仕立ての良い服を着ているからね、普通こんな所を歩いている人間じゃない」

「はあ……」

「まだもう少し歩くよ、平気?」

「はい、大丈夫です」

それ以上は会話が続かず、アルフレッドは黙々と道を進んだ。やがて道が石畳で舗装され、大きな城壁が見え始めた。城壁の周囲には堀が巡らされ、槍や剣で武装した兵士達が周囲を彷徨いている。

「少しここで待っていなさい。 それと、ここから先はスリが出る事があるから、気をつけて。 すられたらまず荷物は戻ってこないから、いざというときは覚悟して」

行ってしまったアルフレッドを見送ると、マノカは周囲を改めて見回した。農民達は確かに、今彼女が着ている服よりも遙かに粗末な着衣に身を包んでいる。周囲に満ちているのは生活臭だった。綺麗だった河は、この辺ではすっかりにごり、正体を考えたくない物も時々浮かんでいた。

アルフレッドが戻ってきたとき、彼はごつい男を一人連れていた。実に立派な口ひげを蓄えた筋肉質の大柄な男で、見るからに強そうだった。大きな槍を手にしており、黒くて頑丈そうな鎧に全身を包んでいる。頬には鋭い傷の跡があり、眼光は刃で突き刺すかのようだった。歩くたびに地響きがしそうな勢いである。

「ゼイル=フォン=ランカス将軍だ。 彼はこの街の守備隊長をしていて、魔界政府との橋渡し役も務めている。 ゼイル、この子がマノカだ」

「ゼイルじゃ。 よろしく頼むぞ、マノカ君」

「マノカ=アルカナです。 よろしくお願いします」

マノカが丁寧に礼をし、頭を上げると、ゼイル将軍は口ひげをぴくぴくと振るわせていた。そして大きく手を振り上げると、小さく悲鳴を漏らしそうになったマノカの背をばんばんと大きな音を立てて叩いた。

「わあっはっはっはっはっは! 何だ、なあーんだ、礼儀正しいよい子じゃのう! アル、おぬしいい子を連れてきたではないか! ふわっはっはっはっはっはっは!」

「だろう? ゼイル」

そのまま将軍はマノカの頭を巨大な手でぐりぐりと撫で、実に満足そうに大きく頷いた。見かけは怖いが、実に膨大な感情を有する愉快な人らしいとマノカは思った。流石にもう少し手加減して欲しいとも密かに思ったが。巌のような顔を笑顔でくしゃくしゃにして、将軍はひょいとマノカを抱え上げ、悲鳴を上げる彼女を馬の上に乗せてしまった。

「小さなレイディ、このゼイル中将が、父君の所にお連れしようのう! 泥船に乗ったつもりで、安心してくれい!」

「それをいうなら大船だろう」

「細かい事を気にするな、アル! 野郎共! 開門だ! 戸を開けろ!」

図体にふさわしい巨大な声でゼイルは部下達に呼びかけ、戸はすぐに軋み声を上げながら開いた。戸の中には積み木細工のような街が広がっており、多くの人が行き交っていた。道の途中でアルフレッドが話していたが、此処は外敵の侵攻を想定したいわゆる城塞都市であり、内部で全ての経済が完結するシステムを取っているのだそうである。

マノカは流石に頭がくらくらしていたが、相手に悪気がないのは分かり切っていたし、怒る事は出来なかった。街の中はかなり広く、だが独特の臭気が漂っていた。時々馬の側を毛深い豚が通りすぎ、彼方此方によどんだ水たまりが出来ている。

「ゼイルさん、この町では豚を放し飼いにしているんですか?」

「ん? あー? おお、そうじゃとも! 珍しいか?」

「はい、ちょっと」

「しかし豚を飼わないと、街中が糞まみれになってしまうのでな! おっと、レイディの前で失礼をしたの! わっはっはっはっはっはっは!」

マノカの視界の隅で、煉瓦造りの家の二階の窓から、そのまま汚物が投下された。すぐさま豚が駆け寄ってきて、その汚物を争ってむさぼり食う。形容しがたい顔でそれを眺めるマノカは、頭を振って雑念を追い払う。この世界にはこの世界の生活があり、風習がある。それを自分の視点から一方的に蔑視するのは良くない事だと思ったのである。それに、この目の前にいる将軍は、確かにがさつだけどどう考えても悪い人ではない。慣れろ、慣れろ、慣れろ。そう心の中で反復し、マノカは周囲の光景を心に焼き付けるべく、積極的に辺りを見回した。

「レイディ、魔界とここは大分違うのかな?」

「はい、全く」

「どんな風に違うのだ?」

「ええと、何というか。 此処には人間しかいません。 魔界には、魔族も妖魔も、人間も堕天使も、沢山います」

マノカの言った意味をすぐに理解したようで、ゼイルは大笑いした。豪放磊落だが、阿呆でないのは確かなようである。

「なるほど、文明がどうのというのかと思ったら、そうきたかのう」

「文明の優劣なんて、比べようがありませんから」

「お、おお、良い事をいうのう。 レイディ、このゼイル中将、感心したぞ! 息子の嫁に欲しいくらいじゃのう。 うわっはっはっはっはっはっは!」

「ご、ごめんなさい、私、あの」

困惑して慌てるマノカを見て、ゼイル中将はもう一つ大笑いした。

やがて周囲は不意に開けてきて、大きな家が目立つようになった。しかも大きいと言うよりも、一つ一つがまるで宮殿である。今まで神経質なまでに区画整理されていたのに、その苦心と努力をあざ笑うかのように土地を膨大に使い、巨大な屋敷が建てられている。庭の中には巨大な屋敷の他にも小さな家や池、それに森なども作られ、河さえ流れている場所もあった。屋敷が、庶民とは三つも四つも桁が違う、不当なまでに強大な力によって建てられていると一目瞭然である。

「それにしても、いけすかんな」

「いざというときは、頼むぞ、ゼイル」

「? 何の事ですか?」

「ん? おー、レイディは気にせんでええぞ。 何というか、いわゆる一つのアレだ、そう、アレだとも。 要するに男同士の胸襟開いて語り合う秘密という奴じゃな。 そんな事よりも、見えてきたぞ。 レイディの(父上)が住むという屋敷じゃあ。 正確には邸宅の一つで、本邸は荘園の方に建てられとる」

マノカの前にあったのは、城かと思えるほどの巨大な邸宅だった。地面は神経質なまでに綺麗に整備され、庭師が植木をいじっている。テラスや入り口には膨大な装飾が施され、豪勢で華美な装いだった。

周囲に働いている者達は、マノカ達を見てひそひそと何か話している。先頭のゼイルはその中を堂々と進み、やがて現れた頭一つ分小さな執事を上から見下ろした。

「礼の用件で、王国守備隊中将ゼイル=フォン=ランカス及び、魔界大使館特使アルフレッド=ラムド、及びマノカ=アルカナ嬢が参上した。 公約に基づき、屋敷内への立ち入り許可を要求する!」

「はい、聞き及んでおります。 此方へどうぞ」

老執事はそのまま卑屈に何度も頭を下げ、三人を屋敷の奥へ案内した。屋敷の中は天井も異様に高く作られており、玄関は吹き抜けになっていた。階段は緩やかなカーブを描いて二階に続き、床には紅い絨毯が敷かれている。当然のように天井からは巨大なスズランのようなシャンデリラがぶら下がり、壁には無数の絵や芸術品が陳列されている。まるで小さな美術館だと、マノカは思った。綺麗と言うよりも、華美すぎて頭がくらくらする様な空間だ。

三人が通された(応接室)とやらも、小さな家が数件はいるほどの広さで、やたらに大きなソファーが数個も並べられている。ソファーの真ん中にマノカは座り、その左右にアルフレッドとゼイルが立った。ソファーは柔らかすぎて、マノカが少し気を抜くと、体ごと中に沈み込みそうだった。

執事が待つように言い残して出ていって数分後、戸を開けて現れたのは大柄な老人だった。頭も髭も大分白くなってはいるが、目は爛々と輝き、動作はきびきびしている。その後ろから、四人の男が現れた。いずれもマノカが立体写真で見た様な、貴族の服を着ていた。その中に、あの(お父さん)も混じっていた。マノカは背筋が引き締まる感覚を覚えたが、必死に心を落ち着かせた。話して、触れ合ってみなければ、相手の存在は判断出来ないからだ。そしてそうでなければ、ここへ来た意味もなくなってしまうのである。

四人の男達はいずれも肥満したり或いは痩せすぎていて、皆精気がなかった。一番右に立つ男だけはどうした事か背も伸びしゃんとしていたが、他の者達は皆目に宿した脂ぎった光ばかりが目立つ。一番最初に口を開いたのは、最初に入ってきた老人だった。

「ゼイル将軍、それにアルフレッド殿、このたびは我が家の我が儘を聞いて頂き感謝している。 そちらの子が、不肖の息子の落胤か?」

「はっ! マノカ=アルカナといいます。 道すがら色々話しましたが、素直で利口なとてもよい子ですぞ」

「フム、将軍がそういうならそうなのかもしれぬな」

老人はそれだけ言って、マノカに鋭い視線を向けた。ただ、その視線は相手を値踏みする物であり、超実力主義社会の魔界では数限りなく受けた視線だったので、マノカは笑顔で返す事が出来た。

「マノカ=アルカナです」

「フム……そうか。 ワシの名はグラットル=フォン=エイフォルト。 このエイフォルト侯爵家の当主である。 此方は順番に長男のケレル、次男のカシミ、三男のユミレル、四男のドゥーンだ」

僅かに目を細めながら、グラットル老は言った。おそらく、笑顔で返されるなどとは思いもしなかったのだろう。実際グラットル老の眼光は凄まじく、まるで雷の矢だった。それに平然と対応出来たのは、老人に良い印象を与えるのに充分だったようである。そして、先ほどとは全く異なる鋭い口調で、候は後ろに立つユミレルに言う。

「お前の娘にしては、随分良い面構えだな。 鳶が鷹を産んだか」

「お父様、戯れが過ぎましょうぞ」

「フン……出生証明はされているのだから良いか」

冷や汗を高級そうなハンカチで拭うユミレルを、冷徹に一瞥すると、グラットル老はマノカに向き直った。

「愚かな父にわざわざ会いに来てくれて、ワシから代わりに礼を言わせてもらおう。 有り難う。 長旅で疲れたろう、今日はゆっくり休むと良い」

「はい、ありがとうございます」

「……では、我々は一週間後にまた来ます。 では、失礼します」

アルフレッドは手を振り、ゼイルと共に部屋を出ていった。マノカは結局、この場では(お父さん)と話す機会がなかった。

 

4,貴族

 

マノカはそのまま、屋敷内の一室に通された。屋敷の中では小さな部屋なのだろうが、普通の家並みに広いわ天蓋付きのベットはあるわ机の上にはティーセットが完備されているわと、何から何まで豪華づくしの部屋であった。ベットに腰掛けて、足を揺らしながらマノカは小さくため息をつく。こんな無意味なまでに巨大な部屋で一週間過ごす事になるかと思うと、気が滅入ってしまったのである。

それにしても、と部屋を改めて見回して、マノカは思った。これは相当に不平等な搾取によって作られ、維持されている部屋ではないかと。そのまま彼女はテラスに出て、外を見回してみる。向こうに、先ほど通ってきた市街地が見えた。視界の中は、市街地が半分、貴族の土地が半分と言った所であろう。この城塞都市の中だけでさえ、土地の半分を一握りの貴族が所有していると言う事になる。この部屋に住む事自体が罪悪になるような感覚さえ覚えて、マノカはますます憂鬱になった。

「駄目駄目、こんなんじゃ。 気分かえよっと」

頭を振って憂鬱を追い払うと、マノカは笑顔を作り、屋敷の中を探検する事を思い立った。だが、その企ては入り口でいきなり挫折する事となった。部屋から出た所、早速メイドと執事に呼び止められたのである。

「お嬢様、申し訳ございません。 部屋から出る事は、ユミレル様に禁止されております」

「えっ? どうして?」

「ともかく、部屋にお戻り下さい」

困り顔でそういう執事とメイドを見て、マノカは強く出る事が出来なかった。もし此処で無理を言えば、後でこの人達がどんな目に遭うか分からないのだ。父の命令に不審を覚える前に、マノカは彼らの事を心配したのである。すごすご引き下がったマノカは、しばし憮然としていたが、やがて指を鳴らした。部屋の入り口から顔を出した(お嬢様)を見て、また執事が口を開き欠けたが、マノカはその機先を制した。

「あのね、執事さん、お願いがあるんだけど」

「お願いだ等と滅相もない事でございます。 何なりと御命じ下さいませ」

「あははははは、大げさだなあ。 さっき見かけたんだけど、私と同い年ぐらいのメイドさんいるでしょ? 話し相手になってくれるように頼んでくれないかな? ほら、ここで一人でいるのも退屈だから、話し相手が欲しいなと思って」

「お嬢様のような高貴なお方が、下賤の者とお話になってはなりません」

執事は言下に拒絶したが、当然マノカはそれに屈しなかった。それは想定内の事であったし、これくらいで屈するようでは(お父さん)に真実を問いただす事など出来ようがなかったからである。試練の一つと考え、マノカは更に食い下がる。

「こっそりでいいの。 あ、そうだ、お掃除って事で連れてきて」

「しかし、お嬢様」

「お願い、私此処の事全然知らないし、話し相手もいなきゃ寂しくて死んじゃうよ」

手を合わせて頭を下げるマノカを見て、執事とメイドは明らかに動揺した。メイドが素早く執事の耳になにやら囁き、やがて執事は折れた。

「分かりました、なんとかいたしましょう」

「ほんと? ありがとー!」

「い、いけません、私どもに礼など言っては」

階級制度を通り越した無意味な権威主義に皆がとらわれている事実をマノカは悟ったが、それを此処で諭した所で仕方がない事である。そもそも此方の服装に合わせたのは、郷に入っては郷に従うつもりだったからではないか。

それにしても、同年代の女の子と話せるのは、マノカにとってこの上ない喜びとなった。今まで彼女の周囲に、親しい同年代の存在と言えばクラッツェルくらいしかいなかったし、まして人間の子供など近辺にはいなかったのである。

マノカは頭が悪くはなかったが、だがその想像力には当然限界があった。周囲の者達が、そもそも彼女を人間だと思っていない事など、この時点では気付いていなかったのである。

 

リトは侯爵家で雇われてまだ間がないメイドであった。年は十一才で、たまたま縁があって、侯爵家に雇われる事となった。彼女の兄妹は六人、リトはその三番目で、一番下のまだ七歳の妹を除いて、家族は全員就業していた。そしてこの町では、それは別に珍しい事でも何でもなかった。まだ労働基準法等という物は、一般民衆の権利や教養同様存在していないのである。

住み込みでリトは働いていたが、お世辞にも彼女は有能なメイドとは言えなかった。どじでとろくてうすのろで、しかも気が弱かったから、冷酷な先輩達の、弱い者虐めのいい餌食だった。さんざん虐められて、夜にひっそり納屋で泣くリトの事はメイドの殆ど全員が知っていて、サディストで欲求不満の者には、納屋で泣いているリトを見て舌なめずりする輩までいた。

今日もリトは冷酷な先輩に呼び出された。どんな無理難題を押しつけられるかと蒼白になって震える彼女に告げられたのは、以外にも簡単そうな任務であった。

「リト、あんた今日魔界とかからやってきた例のガキの話し相手して」

「は、はい」

「あんなのでも一応跡継ぎ様らしいから、礼は欠かさないようにね」

先輩の暴言など、リトの耳には入らなかった。安心したリトは今手をつけていた仕事を律儀に片づけると、(任務)をこなすべく(新しく来た人)の部屋に向かおうとした。そしてその途中で、先輩達の陰口を利いてしまったのである。廊下の角を曲がろうとしたリトは、ひそひそ声に気付いて足を止めた。

「でさ、リトをやることにしたのさ」

「アンタ、最低」

最低と言いながら、口調は笑っている。どうも片方は先ほどリトに命令を出した先輩らしい。もう一方も、常にリトに意地悪をする先輩の一人だった。

「聞いた話によると、あの例のガキって、いらないから捨てた所を悪魔が買ってったんだろ? それってさ、元からバケモンかなんかだったんじゃないの?」

「ま、人間じゃないだろうね。 だから、一番愚図のリトでお似合いなのよ」

「てかさ、人間じゃないって事は、人間とか喰うんじゃない? それで腹が減ったから、誰か適当な奴よこせとか言ったんじゃないの?」

「ありえるー! リトの奴、後で見に行ったら、骨んなってベットの下に転がってたりしてー! きゃはははははは、厄介払いが出来てせいせいするわ」

嬌笑が言葉に続いた。リトは、全身にふるえが走るのを止められなかった。考えてみれば、うますぎる話であった。基本的にメイドの仕事というのはハードワークであり、重要な一部の仕事を除けば、周囲に影響力のあるメイドほど簡単な仕事を独占してしまう。なのに、いやに簡単すぎる仕事が、人並みに仕事の出来ないリトに回ってきたのである。

リトは震える手で、宗教的なシンボルである三十字を取りだし、手が真っ白になるほど握りしめた。彼女は聞いた事があった、貴族の子弟は暴力的で破綻した性格の者が多く、子供の頃から弱者に暴力を振るう事を喜びにしている者がいると。第一この家にいるグラットル老の四人の息子の内三人までは、存在自体がその言葉の正しさを立証しているではないか。ましてやその子供であり、しかも悪魔がわざわざ買いとっていったような輩であれば……。

「ほら、リト、何ぐずぐずしてる! ぶたれたくなかったらさっさと行ってきな! 本当にアンタは愚図な子だよ!」

立ったまま失神しかけていたリトを先輩が見つけ、背中を突き飛ばした。追いつめられたリトは心の中で何度も神に祈った。執事はリトの姿を見ると、ついと視線を背けた。誰一人助けに来てくれない情況で、リトは戸を開けた。戸を開けながらも、リトは心の中で彼女が信じる神に祈った。

意外な事に、戸の向こうにいたのは、普通の女の子だった。背丈はおそらくリトより少し高いくらいである。ダークグレーの髪の毛と、真っ黒な瞳。それに何故か商人が着るような服を身につけて、感じのいい笑顔を向けている。

いや、おそらくアレは擬態で、近づいたらナイフぐらいもあるかぎ爪とか牙とかが生えてリトを一息にバラバラにしてしまうのだろう。そしてまだ息があるリトにかぶりついて、内蔵をむさぼり食うに違いない。そんな想像が非常にリアルにリトの脳裏を占領し、元々気が弱い少女は失神しかける心をつなぎ止めるのに精一杯だった。

「その辺、適当に座って」

「はい」

貴族に言葉をかけられた場合、更に上級の貴族から特定の命令がない限り、絶対に逆らっては行けない。豚の真似をしろと言われればそうしなければいけないし、服を脱げと言われればそうしなければならない。美人の先輩の中には、わざわざ野暮ったい口調と動作で個性を崩し、侯爵家兄弟の歓心を買わないようにしている者さえいる。貴族は絶対者であり、民衆の支配者である。それはこの国の絶対的な掟だった。それに逆らえば、待っているのは一族郎党にまで及ぶ死だ。悪魔に違いない女の子は、感じのいい笑顔のまま、無邪気に宣う。

「私、マノカ=アルカナ。 十歳。 貴方は?」

「……リト……です。 十一歳になります」

「リトさんかぁ。 私と同じくらいの年で、こんなハードワークな職場に勤めてるなんて大変だね」

「そんな、滅相もございません。 それに、リトさんなんてとんでもない、呼び捨てにしてください」

「リトさんはリトさんだよ。 それに年上なんでしょ? 呼び捨てなんて失礼だよ」

マノカと名乗った(悪魔の子)は、それからもリトに色々と質問を投げかけてきた。そのいずれもが他愛もない話ばかりで、リトをどうこうしようと言うような物はなかった。次第に恐怖心と警戒心が薄れていくのが、リトにも実感出来た。だんだん話は盛り上がっていき、時々リトは笑顔も見せ始めていた。

リトは、この子が本当に(悪魔の子)なのか、分からなくなり始めていた。感じが良くて、此方の事を尊重してくれて、しかも答えは最後までちゃんと聞いてくれるのだ。しかも大体の事は頷いて、きちんと考えてから言葉を返してくる。こんなに喋りやすい貴族関係の人間と、リトは初めて会った。

「そうだ、リトさん。 私のお父さんとお母さんについて、何か知らない?」

「すみません、お母上様は良く知りません。 お父上様は……」

(悪魔の子)が両親の事を口にしてから、空気が変わったのをリトは感じた。周囲を見回してから、リトは声を潜めた。

「そんな事を言ったら、私、首にされてしまいます」

「あ、そうか。 ……ごめんね」

一瞬だけ、(悪魔の子)の顔に影が差したのをリトは見た。だが、それを指摘するのは失礼だと感じたし、黙っていた。

時間が来て、リトは部屋を出た。部屋を出る彼女に、(悪魔の子)は笑顔で手を振っていた。そしてリトは気付いた、自分は結局何もされなかった、と言う事に。

「何だ、あのガキ、いったい何がしたかったんだ?」

隣で先輩が毒づいていたが、リトには聞こえなかった。ここ数ヶ月で初めて、リトは心がすっきりし、晴れ晴れとするのを感じていた。そしてまたあの子と話したいと、心の底から思ったのだった。

 

マノカはご機嫌だった。同年代の人間の女の子と初めて話す事が出来たという事もあるし、様々な情報を手に入れる事にも成功したからである。ただ、気がかりなのは(お父さん)についてリトが口をつぐんだ事であったが、それは二人で話して確かめるつもりだったし、今の時点では問題がない。

それにしても、リトと話す事が出来たのはマノカにとって嬉しい第一歩であったが、次は対等の立場で話したいというのも本音であった。あんな風に、無意味に絶対者と仰がれて話されても、マノカは嬉しくも楽しくもなかった。そう言う社会なのだから仕方がないとある程度は割り切っていたが、本音から言えば対等に話して欲しかったのである。対等に話せれば、より深く情報を引き出す事も可能であろうし、それによって様々に考えを巡らす事も出来るかも知れない。

夕食の時間がやってきた。ダイニングは他の部屋にもまして巨大で、ダンスパーティなども出来そうな広さであった。天井も無闇に高く、設置されているテーブルはまるで小さな浮島である。一番上座にはグラットル老が座り、マノカは一番下座に案内された。一応マナーとやらにはマノカも目を通してきたが、流石に短時間で全てを覚えきれるわけもない。周囲のくすくす笑う声を聞いて、マノカは赤面した。

「まあ、此方に来たばかりなのだから、恥じる事もない」

「あ、はい。 有り難うございます」

マノカをフォローしたのは実の父親ではなく、グラットル老だった。(お父さん)はといえば、白けた顔で、マナーだけは完璧に夕食を取っている。マノカは幾つかの料理を食べてみたが、いずれも味を栄養価に優先している事が明かで、総合的に見てバランスが取れているとは到底思えなかった。この辺は、毎日料理を作っているが故の判別眼がなせる業であった。味は確かに良いのだが、こんな物を毎日食べていれば体に悪いだろう。

「気に入らないかね?」

「いえ、そんな事はないです」

「遠慮無く言ってみなさい」

グラットル老の言葉に、周囲の者達が明らかに驚きの視線を交わしあった。精気のない上の(おじさん)二人は無関心だったが、(お父さん)等は明らかに不審な視線を向けている。特に(お父さん)の視線には棘さえ含まれている気がして、マノカは萎縮する気分を味わった。

マノカは自分の思う所を言おうとしたが、喉まででかかったそれを押しとどめた。ここでは、文字通り言が士大夫を殺すのだ。もし料理の味はよいが栄養価が偏っているような気がする、等と言おうものなら、下手すると料理人は命を落とす可能性がある。無論状態を改善しようと自分の意見を通す事は大事だが、それによって人が無為に死んでしまったら本末転倒である。ましてやマノカは、ここに短期滞在に来ているだけなのである。

「とても美味しいです、この料理、えへへへへ」

「そうか、口に合わないかと、少し心配したよ」

口の端をグラットル老はつり上げた。その眼光は鋭く、表情は相変わらず厳しかったが、わずかに空気が和んだ気がした。ひょっとすると候は、マノカの配慮に気付いてくれたのかも知れない。

夕食の時も、マノカは時々(お父さん)に視線を向けたが、(お父さん)は終始それに気付かなかった。少なくとも、マノカに笑みを向ける事も、ましてや話しかけてくれる事もなかった。無視したのかも知れないが、マノカはそうだとは考えたくなかった。時間と共に、料理の味がしなくなるのをマノカは感じた。

胃にもたれる夕食の後、マノカは(お父さん)に呼びかけようと決意した。順番に皆が席を立ち、実の娘に一瞥さえせずユミレルが立ち上がった瞬間、マノカは叫んだ。

「ユミレルさん!」

場の空気が凍った気がした。メイド達は困惑した視線を交わしあい、こわばった顔で(お父さん)はマノカを見た。もう後には引けないと、マノカはそれに屈せず立ち上がった。

「二人きりで、話しませんか? やっと、やっと会えたんだから」

「い、いまは忙しい。 後にしろ」

「お父さん!」

その次の瞬間、(お父さん)が自分に向けた視線を、マノカは生涯忘れる事はないだろう。まるで、石畳にこびりついた汚物を眺めるような目で、ユミレルは実の娘を見たのである。呆然と立ちつくすマノカ、そのまま部屋を後にするユミレル。メイド達のひそひそ話が、マノカの耳には嫌に大きく響き続けたのだった。

 

無言で自室に戻ったマノカは、膝を抱えて座り込んでいた。一秒ごとに絶望的になる情況が、心をきつく締め上げていた。ありとあらゆる状況証拠が、(お父さん)がマノカを愛しているどころか、汚物以下に蔑ずんでいると告げていた。

「まだ……まだ分からない……分からないよ」

指輪をした右手を、マノカは強く強く握りしめた。そして両手で頬を叩くと、表情を改め、鋭く視線をドアの方へ射込み、精神を集中した。サバイバル訓練で教わったとおりに、気配を探ったのである。

現在、ドアの側には二人の人間がいる。しかも廊下には他にも人の気配があり、其処を通って外に出るのは不可能だろう。マノカは無言でベランダに出て、辺りを見回した。この部屋は三階に位置し、屋敷自体は四階まである。また、ベランダにはとっかかりがあり、手持ちの道具を使って別の部屋に移動するのは不可能ではない。落ちた所で、マノカはサイコキネシスで衝撃緩和が出来るから、死ぬ事はないだろう。

そう、マノカは(お父さん)と直談判する決意を固めたのである。外が封鎖されているのなら、あらゆる手を使って部屋の外に出て、直接部屋まで行くだけの事だった。最も、今は情報が少なすぎるから、実行するとしても明日以降になるだろう。それに、強硬手段は最後の手段としたいのも事実であったし、明日以降はまず交渉を行おうとマノカは考えていた。

あの視線は、勘違いかも知れない。何か自分が悪い事をして、咎められたのかも知れない。そう考える事で、マノカはようやく心を落ち着かせる事が出来た。荷物から着替えを引っ張り出して、パジャマの袖に手を通しながら、マノカは必死に平静を保とうとしていた。後六日で決着をつけねばならないのだ。心を乱して、時間を無駄にしている暇など無かったのである。

 

5,父の正体

 

陽が差しているのに気が付いて、マノカは大きく延びをした。劣悪な環境下でも眠れるのは彼女の特技で、それは精神的な環境でも同じだった。外はまだようやく明るくなった程度で、朝と言うよりは夜明けといった方が時間的に正しいだろう。朝食も作っているマノカは、体が自動的に、この時間に目を覚ますのである。

手鏡を使って髪を整え、歯を磨いて顔を洗う。既に洗面所の使い方はリトから聞いており、それはスムーズに行う事が出来た。水を無制限に使えないし、持ち込みが禁止されているためドライヤーも使えないが、冷たい水で顔を洗えるのはマノカには嬉しい事だった。

朝も早いというのに、執事もメイドももう起きていた。着替えを終えたマノカが戸を開けると、驚いた様子で制止にかかる。

「お嬢様、こんな朝早くにどうしましたか」

「ジョギング行きたいんだけど、外に出ても良いかな?」

「ジョギングとは何でございますかな?」

「健康のために、外を走る事だよ」

昨日の料理を毎日三食続けて食べた上に運動しなければ、確実に太る。女の子であるマノカには、それはまごうことなく死活問題だった。だが、執事はそれが義務であるかのようにマノカの行動を拒んだ。

「駄目でございます。 ユミレル様から禁じられております。 部屋で大人しくしていて下さいませ」

「だいじょうぶ、自分の身くらい自分で守れるよ。 私、これでも邪竜剛縛拳の成績は特Aなんだから」

その言葉は本当である。ただし、より成績比重が高い魔法戦闘技術と、銃器解体組み立て演習、射撃術などの成績はお世辞にも良いとは言えないので(特に射撃は成績が悪い)、実戦実習の成績は並み程度である。ただ、特定の成績が突出しているという事実は、マノカの評価を高める要因の一つであった。

「じゃ、じゃりゅうごうばくけん? い、い、一体なんですか、その恐ろしげなものは!?」

「実戦実習で教えてくれる、汎用立ち技格闘技だよ」

何気なしにマノカが放った説明を受けて、怯えに近い色が執事の顔に走った。実戦実習という言葉で、(じゃりゅうごうばくけん)とやらが戦闘技術であると悟ったのだろう。マノカが哀れに感じるほど、冷や汗を顔中から吹き出して、執事は懇願した。

「お嬢様、ああお嬢様! そのようなはしたない事をなさってはなりません。 どうか貞淑になさってください」

「必要がなければ使わないってば。 どうしても外に出してくれないの?」

「お許し下さい、ユミレル様のご命令なのです」

これ以上食い下がると、この執事が(お父さん)に罰せられる可能性もある。マノカは仕方なく引き下がり、空を仰いで嘆息した。これでは文字通りの籠の鳥である。

腐っていても仕方がないので、マノカは荷物から何冊か本を取りだした。苦手な語学の教科書と、そのノート、それに何冊かの娯楽書である。まだ朝は早いが、マノカは睡眠をコントロールする事が出来ないので、もう一度眠ると昼くらいまで寝込んでしまう。無論執事とかが起こしに来るのだろうが、朝早くから外にいて仕事をしてくれるのに、そこまでしてもらっては悪いとマノカは考えていた。

持ち込んだ娯楽書は、いわゆるゲームブックと、言葉を使ったパズルの本、それに冒険物の小説だった。昨日の内に小説は読み終わってしまったので、マノカはパズルの本を広げて、最初の問題に取りかかった。それが終わるか終わらないかといった時間が過ぎた頃、朝食の時間が来た。

ようやく部屋から出られたマノカは、屋敷の構造を丁寧に観察しながら歩いた。一階にある食堂まで結構距離はあるが、部屋へ移動する際の経路は同じであったから、今まで見ていなかった場所に注意を凝らして得た情報を分析しなければならない。

食堂にはいると、グラットル老が席に着く所だった。彼は彫りの深い顔に笑顔を浮かべ、マノカに言う。

「おお、マノカ、おはよう。 昨日はよく眠れたか?」

「はい」

「それは良かった。 早く席に着きなさい」

笑顔で頷き、マノカは周囲を見回したが、ユミレルの姿はない。グラットル老は鋭い観察力を発揮して、マノカの行動の意味を即座に理解した。

「ユミレルか? 彼奴は大概昼まで寝ている。 どうしようもないぐうたらだ」

「そうなんですか」

「……父と水入らずの時間を過ごしたいのか?」

昨日の、あの汚物を見るような視線を思い出して、マノカは下を見た。だが、視線程度に屈していては行けないのである。

「はい」

「分かった、良いだろう。 ワシが彼奴に話をつけておいてやろう」

「本当ですか? 有り難うございます!」

輝くような笑顔を浮かべ、マノカは心の底からの感謝と共に頭を下げた。グラットル老は厳しい人間のようだが、マノカの事はかなり高く買っているようであった。おそらく、それは聡明な孫に対して感じる可愛さが後押ししている事もあるだろう。

美味しいが健康には悪そうな朝食を食べ終えると、マノカはそれでもご機嫌で部屋に戻った。今のところ苦手な辛い食べ物は出てきていないし、後で何かしら運動を行えば無駄に採ったカロリーも消費できるであろう。

そわそわしながらマノカは待った。その間、殆どパズルなど手に付かなかった。いつもの何倍も時間をかけながら、三つほどパズルを解いた後、執事が戸を叩いた。

「お嬢様、ユミレル様がお会いになるそうです」

 

ユミレルの部屋は四階にあり、超高級ホテルの一室と言っても良いほどの豪華さであった。高価な美術品が辺りに陳列され、一つ一つの家具までが皆高級品である。庶民がどういう暮らしをしているのか、大体これだけで見当が付くであろう。異常なまでに貴族に経済力が偏り、庶民が搾取に喘いでいるのは明白であった。

ユミレルは白けた目でソファーに座り、マノカを見ていた。部屋に入ったマノカの後ろで戸が閉じられ、小さく息を飲み込んで少女は呼吸を整える。

「適当にその辺に座れ」

「はい」

一貫して冷気の視線がマノカに注ぐ。挙げ句、その視線はマノカの胸や腰を何度もなめ回すように行ったり来たりした。五メートルほども離れた椅子に実の娘を座らせると、ユミレルは冷めた声で言う。

「……親父殿に告げ口して、私に話す事を強要したんだって? 下らない事をしおって」

「……?! そんな……」

「ハン、流石に悪魔に育てられただけはあるな。 良い性根だ」

今まで感じて嫌な予感が、全て絡まり合いながら増幅されていくのをマノカは感じた。目の前の男が、(お父さん)が、照れ隠しで酷い事を言っているとはとてもマノカには思えなかった。それに先ほどの視線、人の価値を計る物ではなく、物の価値を計る物だとしか思えない。

「お母さんは、今どうしているんですか?」

「あの淫売なら死んだ」

「えっ……?」

「死んだと言ったら死んだ。 大体豚に等しい淫売の生死など、どうでも良い事だろうが」

一言一言が、膨大な悪意を持ってマノカに突き刺さる。母が、あのマノカを(生ゴミ)と言い、捨てた母が死んだ。そして目の前にいる(お父さん)は、それを悲しむどころかまるで無関心だ。全てが絶望に向け、怒濤の如き勢いで突き進んでいた。

「で、話とはなんだ?」

「何で……今更私を呼んだんですか?」

「なんだと?」

「今まで完全にほったらかしにしておいて、どうして今頃呼びつけたんですか?」

マノカのすがるような視線を受けても、何一つユミレルは感銘を受けなかった。相変わらず汚物を見るような視線でマノカをなめ回しながら、こともなげにほざいた。

「……悪魔共に売られたと言うから、慈悲をかけて拾ってやった。 それだけだ」

「慈悲……? 拾った……!?」

「なんだその目つきは」

「……何で今更って聞いているんです。 慈悲だというなら、何でお母さんと一緒に私を捨てたんですか? そもそも、私は物じゃありません」

むしろマノカの口調は柔らかかったが、相手に不快感をもたらすだけの結果に終わった。いや、どうもこの貴族の男にとって、不快感と感情の爆発は同義のようだった。ペンが飛んできた。反射的にマノカはをそれを避けたが、それよりも更に残酷な物が続けて飛んできた。

「出ていけ! こざかしいガキが、出ていけっ!」

「……!」

「見れば分かるが、今確信した! お前、悪魔共にさぞ良い、お前にふさわしい教育を施されたのだろうなぁ! 私は貴族だぞ! 貴族である、貴族であるこの私に、たかが庶子の、その上おぞましき悪魔に買われた分際で、不快な言葉を投げかけ、親父殿を下らぬ策略で籠絡し、挙げ句に私の怒りを甘んじて受けようとしないだと!? ゴミゴミにふさわしく、黙って私の言うとおりにしていればいいんだ! さあ、部屋に引っ込んで大人しくしていろっ!」

荒々しく机の上のベルをユミレルが鳴らすと、恐縮しながら執事が部屋に入ってきた。口から泡を飛ばしながら、ユミレルは言う。

「もうその忌々しいガキを二度と部屋から出すな! 食事は部屋に運べ! もう顔を見るのも嫌だ!」

「はい、分かりました。 そのように致します」

執事がマノカの腕を取ろうとしたが、それは果たせなかった。マノカはその手を素早く払うと立ち上がり、下を向いたまま言った。

「……帰ります」

「ああん? 帰るだと? 何処に帰るというのだ! お前の家は、此処しかないんだよ!」

「私の家は、魔界の北部第七地区ロッサーナ市街19-22654です。 大体私は、此処に短期間のステイに来ただけです! もう、予定を繰り上げて帰ります!」

「しらんなあ、悪魔が吐くおぞましい言葉など理解出来ぬなあ! 執事、さっさと連れて行け! 何を言おうと耳を貸すな!」

目の前にいる男は、まごうことなく(実の父親)だった。マノカは、想像を絶する絶望が、自分を押しつぶすのを、これ以上もないほど明確に感じていた。彼女は自分の足で歩いて部屋を出た。その背中に、嘲笑と侮蔑の視線が、無数に投じられた。

 

思考停止状態に陥ったマノカは、部屋に戻ると、ベットの上で呆然と空を眺めていた。心が粉々に壊れたのが、誰の目にも明らかだった。今まで一筋の希望に思っていた事が完膚無きまでに粉砕され、泥靴で踏みにじられ、焼却場に投じられたのだから無理もない事であっただろう。

どれほど時間が過ぎたのか、部屋に誰かが入ってきた。リトだった。

「……リトさん?」

「はい、お話ししろと言われて来ました」

ベットの上で半身を起こして、マノカはリトを見た。今まで心の重要部分を占めていた盲目的な期待が消滅すると、嫌にクリアに現実が見えてくる。マノカは、リトの表情の変化を見て、自分が酷い顔をしているのだろうと素直に悟った。

「リトさん、この国の貴族って、みんなあんな感じなの?」

「あんな感じというと、どんな感じですか?」

「おとうさ……ユミレルさんみたいな感じって事」

「そんな事を言ったら、私は首にされてしまいます」

マノカは明らかな怯えがリトの表情に走るのを見て、悟った。彼女の考えは正しいという事実を。

「ひょっとして、むしろましなほうなのかな……」

「……」

リトの方も、リトの方で、マノカがどういう目にあったのか大体悟ったようだった。沈鬱な表情が、それを雄弁に物語っていた。

もう冷めてしまった食事がテーブルの上に置いてあったが、マノカは見向きもしなかった。壊れた心の代わりに何かを探すかのように、淡々とリトに語りかける。

「私の事、メイドさん達どんな風に言ってる? 貴族の悪口じゃないし、どうせ私帰るから、教えてくれない?」

「え? お嬢様は、ずっとこの部屋で暮らすって、お聞きしましたが」

「誰から? 私一週間滞在するだけだよ」

「みんな……そう言っています」

何をユミレルが考えているか知らないが、ようやくマノカは気付いた。自分が監禁されたという事実に。

「詳しく聞かせて、私がどういう風に言われているか。 何言われても怒らないから」

真剣にマノカが見つめ、リトは息をのんだが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。

「マノカ様は、悪魔の子と皆に呼ばれています。 悪魔に買われたのには、それなりに理由があるんだとか、恐ろしい技を沢山使いこなすとか、グラットル老をあやかしの術で籠絡しようとしたとか」

(悪魔に買われた)のには、確かに理由がある。人間社会でゴミ扱いされた人間の中で、魔界でも通用する能力の持ち主を、魔界政府は大戦末期積極的にスカウトした。マノカが自分の能力を嫌いな理由の一つである。また、マノカが魔界の学校で教わった戦闘技術や初等の魔法、人間世界ではそもそも認知されていない(PSI能力)等は、(恐ろしい技)に見えるかも知れない。

しかし、グラットル老を籠絡したというのは一体なんだ。この言葉は、マノカを更に深く傷つけた。

「そう……。 あと、私が何で此処に来たかとか、そういうのは分からない?」

「遺産が目当てじゃ、ないんですか?」

「ユミレルさんは三男でしょう?」

失言に気付いたか、リトは慌てた表情で視線を逸らしたが、マノカは出来るだけ手加減しながら、しかし最大限の速度でその肩を掴んだ。精神的にたがが外れてしまっている上に、実戦実習で鍛えられた彼女が本気になってリトの肩を掴めば、砕けてしまうからだ。

「話して、お願い。 私、遺産なんて欲しくない」

これは正真正銘の本音であった。マノカは結局、魔界を自分の故郷だと考えている。それに、こんな不当な搾取で成り立つような財産、ただでくれると言っても絶対に受け取りたくなかったのだ。だが、リトは本気でおびえてしまい、蒼白になって首を振った。

「許して、許してください」

「お願いリトさん! 教えてよおっ! ううっ……おねがい……おねがいだから……」

ついに感情が爆発したマノカの目からは、大粒の熱い涙がこぼれ落ちていた。リトはそれを見て、ついに覚悟を決めたようだった。

「これはあくまで噂です。 でも、おそらく事実だと思います。 ……長男のケレル様、次男のカシミ様にはお子さまがいないのです。 失礼な話なのですが、ケレル様は男の人にしか興味を持ちませんし、カシミ様は月の物が来る前の女の子しか愛しません。 三男のユミレル様は最近尿に糖が混じる御病気になられて、お医者様からお子を為す事が絶望と宣告されたそうです。 そこで、聡明な四男のドゥーン様を跡継ぎにと侯爵様は考えたのですが、それにユミレル様が食い下がったそうです。 もし私に子供がいたら、その子を跡継ぎに、私を後見人にしてくれまいかと」

「それで……私を捜して呼んだの?」

怒りを遙かに通り越して、呆ればかりがマノカの脳裏を占拠した。こんな男と会うために、お姉ちゃんに無理を言ってこんな所まで来たというのか。こんな下らない家督相続に巻き込まれて、今監禁されているというのか。マノカをユミレルは明らかに道具としてみていたが、全てのパズルが今組み合わさった。要は、マノカはユミレルが財産を得るための道具だったのである。お姉ちゃんに合わせる顔がない、マノカはそう思って、さらなる絶望を感じた。

「ごめんね、リトさん。 そんな事話させて」

「マノカ様、元気を出してください。 一昨日お話し出来たとき、とても私楽しかったです。 ですから、また元気なマノカ様にお戻り下さい」

リトはそれだけ言った後、自分で自分の言葉に驚いている風情だった。マノカはそれで、ほんの少しだけ救われた気がした。しかし、壊れた心を元に戻すには至らなかった。

「ありがとう、リトさん」

それだけ言うのが、今の時点では精一杯であった。リトが部屋を出ていくと、マノカは膝を抱えて泣いた。粉々に壊れた心は、想像を絶する時間をかけないと拾い集められそうもなかった。

それから数日は、食事だけが差し入れられた。リトさえ来なかった。闇は深くなる一方で、絶望はますます大きくなっていった。

精根尽き果てた頃、マノカはついに呟いた。今まで全て自分で考えてきた彼女にも、限界が着たのである。

「助けて……」

涙を拭い、マノカは更に呟く。手の甲で拭った涙は、そこに小さな池を造っていた。

「助けて、お姉ちゃん……」

「呼んだ?」

不意にかけられた懐かしい声に、マノカが顔を上げると、ベランダに手をかけて、月光を背に懐かしい人が笑顔を浮かべていた。(お姉ちゃん)が、モエギが、ベランダから部屋に侵入しようとしていた。不器用にベランダを乗り越えると、頭をかきながら彼女は言う。

「ステイじゃなくて、ずっと此処にいたいとかアンタが言ってるって聞いて、心配して見に来たら、案の定だったね」

「お、お姉ちゃん……」

「アルは昔の同僚って言ったでしょ? 昔取った杵柄だよ」

そのままモエギは、マノカを優しく抱きしめた。(お姉ちゃん)に合わせる顔がないと思ったマノカは硬直したが、モエギは離さなかった。マノカの涙で、自分の服が汚れるのも厭わないで。

「帰ろう。 色々調べたけど、此処は腐りきってる。 人間社会の貴族なんてこんなモンだってのは知ってたけど、この国の貴族共は更に輪をかけて酷い。 人間は此処に住めるのかも知れないけど、少なくともアンタはここに住めない。 だから、帰ろう」

「お姉ちゃん、私……私……」

「うん?」

「私、バカだった! お姉ちゃんの言う事を、クラッツェルの言う事を聞いていれば良かったのに!」

「気にしてないよ。 クラ坊だって気にしちゃいないさ。 さ、帰ろう。 私たちの家に」

マノカは頷いた。頷くしか出来なかった。自分が求めていた、求め続けていた物がこんな近くにあったと今ようやく気付いたのである。モエギは泣くばかりの妹の頭を優しく撫でた。しかし、残虐なる運命は、そのまま彼らがこの腐敗の屋敷から逃げ出す事を許さなかった。

優しい表情だったモエギが、不意に表情を引き締めた。それにつられてマノカがドアへ振り向くと、武装した男が数人と、ユミレルが部屋に荒々しく入ってきた。

「泥棒猫が、堪忍するが良い!」

ユミレルが右手に持っているのは、マノカも良く知る物だった。714式対魔族破砕銃である。天軍が約200年前に行われた(ロールロースル会戦)まで正式採用していた旧式対魔族銃で、現在では完全に時代遅れになっているものの、人間世界に限定すれば充分に強力な破壊力を持つ兵器である。天軍は兵器管理がずさんで、人間世界で行われた会戦時に、いくらかの武器が人間に流出したのは有名な事実である。歴史で学んだそれが、まさか今更牙を剥いて襲ってくるとは、マノカも思っていなかった。

残忍な笑みを浮かべて、ユミレルが714式をモエギに向けた。もはやこの男に、マノカは何一つ期待する事が出来なかった。

「私の財産を奪おうとは、良い度胸だな。 死ぬが良い、悪魔!」

「この子のためだったら、私は死んだっていいさ。 でもね、ただじゃあ死ねないよ」

さらりとモエギは言った。その口調には、怯えもなければ、恐怖もなく、そして迷いもなかった。自分の力に相手がおびえない事に気付いたユミレルが、異常な憎悪で顔中を塗りたくった。この男にしてみれば、自分が怒れば相手は怖がらなければならないのだろう。自制心を学ばず、身につけなかった人間など、大体そんなものである。

そんな事などお構いなしに、モエギは小さな声で妹に囁く。恐怖はなかったが、その口調には覚悟が含まれていた。

「アンタの能力をフルに使えば逃げ切れる」

「え……?」

「行けっ!」

モエギの尻尾が、風を切って一閃した。それは弧を描いて唸り、武装した男達数人の武器を叩き落とすと、最後にマノカを掴んで、マノカを窓の外へと投じたのである。

窓から投じられたマノカが最後に見た部屋の光景は、目におぞましい狂気を宿したユミレルが何か吠える所、その手にある714式が炎を拭く所、発せられた熱線がモエギの体を貫く所だった。

何かがマノカの中ではじけた。彼女はサイコキネシスで落下の衝撃を殺すと、そのまま跳ね起き、闇の中へと全力疾走した。何事かと慌てる周囲の人間を無視し、市街へと一直線に走る。

確かに714式は強力な武器で、殺傷力は高い。しかしいかんせん200年も前の銃であり、エネルギーは確かに発せられたが確実に致命傷を与えたかどうかは微妙である。つまり、まだモエギは生きているかも知れないのだ。である以上、最大限の努力を欠かしてはならないのだ。今度は、マノカが(お姉ちゃん)を助ける番だった。そして今更ながらにマノカは気付いていた、自分にとって(お母さん)と(お姉ちゃん)は同義であった、という事実に。

何処をどう走ったかは、マノカも覚えていなかった。いつのまにか彼女はスラムの路地裏にたどり着いており、ゴミの山に体を埋めていた。本来ならすぐに離れなければならないのであろうが、もうその気力もなかった。マノカはそのまま、意識を失った。

 

「泥棒猫が、泥棒猫が、泥棒猫がッ!」

わめき散らしながら、ユミレルが床に倒れたモエギを踏みつけ、蹴りつけた。モエギが愛用している眼鏡は既に投げ出され、割れていた。銃撃は確かにモエギを貫いたが、何とかモエギは致命傷は避けた。人間だったら死んでいた事は間違いなく、妖魔族ならではの頑丈さが彼女を救ったとも言えた。だが、痛い事に代わりはなく、度重なる激痛は流石に耐えきれない物であった。

「かはっ! あ、あんた、女の子には、もっと優しく、しなさい、よっ!」

「五月蠅いッ! 黙れ悪魔ッ!」

傷口を痛烈に踏みつけられて、モエギは思わず苦痛の声を上げた。口から涎を垂れ流しながら、ユミレルは更に力を込めて傷口を踏みつける。意識が遠のきかけるモエギは、第三者の声を聞いた。それはさっき確認した、マノカの部屋の外にいた執事だった。

「お待ち下さい、ユミレル様。 その悪魔を殺してはなりません」

「私は不愉快だ! だから此奴を殺して何が悪いッ!」

「それには利用価値があります。 いざというときには、それを使って、あの子供と交換させる事もできるかと」

「……確かにそうだな。 忌々しい、忌々しい悪魔だッ!」

もう一つモエギを蹴りつけると、ユミレルは靴音も高く部屋を出ていった。執事は周囲の男達に命令し、モエギを担いで地下へと運んでいった。

そこは冷たい石室で、牢屋のような作りになっていた。頑強な鉄の戸を開けると、其処には先客が二人いた。一人は死んでおり、一人は意識を亡くして床にはいつくばっていた。

「ほら、そこで寝ていろっ!」

まるで荷物でも放り出すかのように、モエギは床に投げ出された。そして戸は鈍い音と共にしめられ、後には静寂が残った。

「あいたたたた……あいつら……後で覚えてろ……っ!」

モエギは震える手で自分の服を引き裂くと、傷口に当てた。熱線放出系の銃であるから、弾丸は体内に残っていない。それはせめてもの救いであるが、何とか止血はしなければならない。脇腹の傷口を強く締め上げ、何とか一息つくと、モエギは辺りを見回した。激痛は残っているが、何とか死ぬ事はないだろう。

床に倒れている先客は二人、いずれも人間で、片方は老人、片方は子供だった。子供の方はおそらくマノカと同じ年くらいであろう。可哀想に、服を引き裂かれ、輪姦された跡があった。手足には痣が無数に残り、歯形もつけられていた。老人は筋骨ともに逞しい男だったが、胸を撃ち抜かれて死んでいた。おそらくモエギを撃った物と、凶器は同じであろう。既に魂は残っておらず、天界へ移動した、即ち(成仏した)ものかと思われた。死んだのは数日前らしく、此処でなければ確実に腐臭が漂っていただろう。

「大丈夫? しっかりして?」

「あ……あ……。 ……だ……れ……?」

焦点の合わない目で女の子は言った。軍で諜報員をしていたとき、モエギも似たような目にあった事があり、この子の苦しみは痛いほどによく分かった。

「大丈夫、もう大丈夫。 こわい男の人達は行っちゃったよ」

そのままモエギは、辺りに散らばっている服の切れ端を集めて、女の子にかけてやった。無惨な格好だが、裸同然で転がっているよりましだ。緩慢な動作で女の子は、ゆっくりモエギに顔を向けた。

「……おねえ……さん……だれ?」

「私はモエギ=アルカナ。 あんた達が言う悪魔だよ」

「……アルカナ……あく……ま……」

「あんたは? 呼びにくいから、名前の一つも教えてくれる?」

女の子は遠くを見るようにうつろな目でモエギを見ていたが、やがて言った。

「……リト」

 

6,疾走する瞳

 

「あの、おかあさんってよんでもいい?」

「おかあさん? うーん、これでもまだまだ若いんだよ? せめてお姉ちゃんにしてくれないかな」

「うん、分かった。 おねえちゃん」

「素直でよろしい」

幼い頃の思い出。浮遊するような感覚の中、まだようやくよちよち歩きが出来るようになったばかりのマノカは、今と全く姿が変わらないモエギに語りかけていた。

考えてみれば、昔からマノカの親はモエギ一人であったのだ。モエギが(おかあさん)と呼ばれるのを嫌がったから、(お姉ちゃん)と呼ぶようになったのである。実際問題、モエギは母親らしい事を皆してくれた。家事も最初の内は、全てやっていたのである。

それがいつの間にか、マノカには分からなくなっていた。そして、どうしようもなく大きな損失を払って、今ようやく気付く事が出来た。今まで自分の我が儘で、どれほどモエギを傷つけていたか分からない。心の傷の深さは本物だったが、それがどれほど(お姉ちゃん)に新しい傷を付けているか、マノカは考えても見なかったのだ。

(お姉ちゃん)は、この子のためなら死んでも良い、とさえ言ってくれた。マノカの心が、それで一体どれほど救われたか。今度はマノカが(お姉ちゃん)を助ける番だった。絶対に助けなければならない。例え、この身に変えたとしても。なぜなら、(お姉ちゃんは)、彼女にとって(お母さん)でもあったからである。

夢が晴れていく。しかし、決意は、鉄のような固い決意は、心の中に絶対的強度と共に残ったのであった。

 

マノカはゴミの山の中で目を覚ました。太陽の位置から言って、どうやら朝らしかった。身を起こした彼女は、大事な物は何も取られていない事を確認して安心した。特に指輪がまだあった事は、マノカを何よりも安堵させた。靴は取られてしまったが、そんな物はどうでも良かった。後で魔界政府に損失補填でもすればいい事である。そのくらいの貯金なら、マノカも所持しているのだ。

嫌に頭が冴えているのを、マノカは感じていた。そして、実戦演習のサバイバル実習で学んだ事が、実にはっきり頭の中に浮かび上がってきた。サバイバル実習の先生は人間に近い姿をした魔族で、のほほんとした雰囲気だったが、引退前はアルフレッドと同じB級諜報員だったらしかった。

「はーい、ではみんな、もう一度思い出してみようね。 敵地に侵入した、或いは取り残された場合の鉄則は何だったかな? そう、まず第一に目立たない事。 第二に最大限の速度で安全地帯に脱出する事。 そして一番大事なのは、その場にある物を出来うる限り利用すると言う事だったね。 簡易拠点を確保して、まずプランを練るのもいいぞ」

マノカは暗がりに移動しながら、今後の逃走計画を手早く練り、完成させた。簡易拠点に適当な廃屋が見つかり、中に無言のままはいると、そこには先客がいた。ならず者らしい男であり、マノカを見ると凶暴に目を光らせた。

「何だてめっ……」

言い切る事は出来なかった、無言のまま間を詰めたマノカが、サイコキネシスで威力を強化した掌底を鳩尾に見舞ったからである。自分流の戦い方や強みを身につけさせる事は、魔界における教育の常識である。マノカが邪竜剛縛拳で特Aの評価を受けているのも、元々の才能に加えて(PSI能力)をそれに織り交ぜ、強力なコンビネーションを作り上げる事に成功したからである。ならず者は二メートルほども吹っ飛び、壁に叩き付けられて白目を剥いた。一応マノカは手加減したから、死ぬ事もないだろう。念のため床に落ちていたロープで男を縛り上げると、マノカは小さく頷いた。

簡易拠点を確保したマノカは、身につけた指輪に手を当て、目を閉じて精神集中を開始した。(サイコチェイス)の能力を駆使し、自分のいる位置、さらには魔界大使館の位置をも特定する事にしたのである。

手に全ての精神力が集まり行き、一瞬ごとに集中力が高まっていく。世界が徐々に収縮し、音が消えていく。小さな一つの点が、心の中に出来た小さな点が、マノカの全てを吸い寄せていく。膨大な精神力が消耗され、無数の線が点へ向け収束していく。やがて、世界は点一つだけになり、そしてはじけた。

 

サイコチェイスを使う際の、独特の浮遊感がマノカを包んでいた。(お姉ちゃん)がくれた指輪は、大使館までの道と、さらには屋敷内の出来事、加えて此処に逃げるまでに通った経路を全て記憶しているのだ。マノカは丁寧に逃げた経路を辿り、屋敷までの帰り道を立体的に把握した。この記憶の把握も、サイコチェイスの能力の一つであり、強みなのである。以前トラウマを受けた事件で使ったような、数年単位のサイコチェイスの場合、経路をいちいち丁寧に再生などしていられないが、今回は逆にそうしないといけない。ゆっくり、糸をたぐり寄せるように、マノカは慎重に映像を辿っていった。

映像はそれから屋敷内での出来事に映った。ユミレルの暴言も全て再現された。だが、もうマノカは気にしなかった。今はあんな外道の事などよりも、(お姉ちゃん)の事の方が遙かに重要だからである。そして屋敷に来た日にまで時間は戻り、移動経路を逆回しでマノカは辿っていった。

その際の影の方向や、太陽の位置、道行く人々の服装を、マノカは全て記憶していく。結果、入るときに使用した門の方角や、ここからの大体の距離も分かった。そしてやはり彼女の衣服は、道行く人々のそれに比べて若干豪華であることも分かった。このままの服装で逃げようとすれば、おそらく捕まるだろう。

必要な情報を全て引き出してしまうと、サイコチェイスは終わりへ向かう。再び世界は点へ収束していき、はじけた。膨大な精神力が周囲に飛び散り、マノカの精神は現実世界へと戻ってきたのだった。

 

サイコチェイスを終えたマノカは、全身の力が抜けるような虚脱感を味わっていた。しかし、ここでそんな物に屈するわけには行かないのである。驚くべき精神力で、無理矢理自分の精神を引きずり起こし、呼吸を整える事に成功した。

マノカは今うち倒した男に視線を向けた。男は目を覚ましたようで、がたがた震えながらマノカの方を見ていた。改めてみるとまだ若い男で、背もそんなに高くない。服は多少ぶかぶかになるが、この男の服の方が遙かに逃走に成功しやすいだろう。

「乱暴してごめんね。 相談があるんだけど、いい?」

「こ、これいじょうの乱暴は、勘弁してくれ、怒鳴って悪かった、悪かったから」

「私の言う事を聞いてくれたら、何もしないよ」

そういいながら、マノカは男のロープを解いてやった。別に不意をつかれても、この程度の相手になら勝てる自信もあったからである。

「私と服を交換してくれないかな? 上着だけでいいんだけど」

「へ? あ、あんた何を言ってる?」

「それで、私が出ていった後、今日一日此処にいてくれれば、何もしない。 約束するよ」

男はしばしマノカを見やったが、マノカの服が高価な物である事、その取引を飲んだ所で何一つ損はない事、そしてその笑顔に嘘は見つけられない事、等に気付いたのであろう。やがて同意を込めて頷いた。

 

数分で手早く着替えると、マノカは靴と小さな帽子を譲り受け、帽子を目深にかぶって裏路地を飛び出した。男にしてみればマノカの服を売ればそんな損失など遙か時空の果てに忘れられるほどの収入が入るわけで、気前が良くなるのも当然といえた。袖をある程度折らなければならなかった上に、おしゃれの欠片も無い服だったが、それが却って幸いした。街を改めて見やると、サイズのあった服を着ている子供など殆どいなかったのである。もし前のようにきちんとサイズのあった服を着たりしていたら、それだけで目立った可能性が高い。どうも股の辺りまでズボンをたくし上げるのが流行のようで、それを確認した後、マノカは裏路地へもう一度移動してこっそり周囲に会わせた。

(お姉ちゃん)の指輪に触れると、勇気が湧いてくる気がして、マノカは心強かった。そのままマノカは出来うる限りの速度で、普通に混雑した道を選んで通り過ぎた。はやる気を押さえ、普通に歩きながら。不必要にいそげば、却って目立ってしまうからである。

堂々とした態度と、特に目立ちもしない服装が幸いして、周囲の人間は誰もマノカに注意を払わなかった。一度などは何かを探しているらしい兵士にすれ違ったのだが、彼らでさえマノカに注意を払わなかった。おそらく、剰りにも普通の子供に見えたからであろう。

こうして、昼前にはマノカは門の前にたどり着いた。門は流石に兵士が多く、そのまま通り過ぎるのは危険かとも思われた。もしゼイル将軍に会えれば保護してもらえる可能性もあるが、中将という階級から言ってそう簡単に事が運ぶ可能性は低い。幌馬車がそのとき、マノカの前を通り過ぎた。

数分後、マノカは幌馬車を降り、小さくそれに礼をした。素早く幌馬車の荷台に潜り込んで、門を突破する事に成功したのである。後は少し歩くだけで大使館にたどり着く事が出来る。自然とマノカは急ぎ足になり、そして大使館目前、といった場所で足止めを喰らう事となった。

昨日の夜、部屋に乱入してきた男達だった。剣や槍で武装し、周囲にはその仲間らしい者達も見える。もう大使館まで歩いて五分と言う所で、連中は道の真ん中に陣取り、周囲に鋭く目を光らせていた。とっさに茂みに隠れなければ、発見され、捕まってしまったであろう。流石に支援もなくこの人数が相手では、邪竜剛縛拳特Aの成績を誇るマノカも勝てる気がしなかった。しかも今は、サイコチェイスを使った直後で、著しく力を消耗しているのである。

迂回路を探すべく、マノカは道を外れ、辺りを調べたが、状況は悪化の一途を辿った。運の金貨を使い果たしでもしたか、辺りは非常に藪深く、しかも深い谷が幾つもあった。周り中を調べた結果、大使館にたどり着くには男達のいる道を通り過ぎねばならない事も判明し、マノカは覚悟を決めた。指輪に触れ、目を閉じる。残る精神力と、体力の全てをかけて、突破に掛ける事にしたのである。

こういう状況下では、まずリーダーを潰す事が大事である。そして、兵力の寡多を敵に見誤らせる事も重要である。いずれも実戦演習で学んだ事であり、マノカは手近な材料を使って、トラップを作り始めた。二時間ほどの苦闘の末、トラップと言うには剰りにも簡単な物が出来、チャンスを伺うべくマノカは道の脇に伏せた。

 

機を見計らって、マノカは捕まえた兎達を放した。兎には蔓で造った紐が結びつけられ、その先には木の枝が結びつけられている。彼らが一斉に周囲に逃げ散ると同時に、茂みからマノカは飛び出し、戦闘能力が一番高いと思われる男へと躍りかかった。

「せいっ!」

邪竜剛縛拳の基本型の一つ、竜尾。頸動脈を狙った回し蹴りである。普段なら身長差もあり足は届かないが、マノカはサイコキネシスを利用して飛び上がり、それを成功させた。不意の一撃に男はもんどり打って倒れ、同時に周囲に喧噪が巻き起こる。兎につけられた木の枝が茂みを一斉に揺らしたからである。

混乱を起こした男達の間を、マノカは疾走した。途中その打ちかかってくる者もいたが、いずれも手加減なしのマノカの一撃の前に地に張った。残りの力が少なく余裕がない事も、攻撃における仮借の無さに影響していた。だが、追撃される態勢はどうしても不利であり、しかも敵は攻撃に一切容赦がなかった。躊躇無く監禁した事と言い、おそらく(生きていれば良い)とでも言われているのであろう。

後ろから矢が数本飛来する。ジグザグに走ってそれを避けたが、第二射迄は避けられなかった。一本の矢が、マノカの肩を後ろから深々貫いたのである。ついにマノカは力つき、数歩進んだ時点で前のめりに倒れた。男達が、周囲からわらわらと集まってきた。

「ガキが、手こずらせやがってよう!」

今までの疲労が、一気にマノカに襲いかかっていた。男の一人が矢を力尽くで引っこ抜き、更に傷口を靴で踏みつけた。舌なめずりしながら、男の一人がマノカの服に手をかけ、一気に引き裂いた。何をしようとするのかは、誰の目にも明らかだった。しかも、誰もそれを止めようとはしなかった。もう、マノカには抵抗する力も残っておらず、心の中で姉の名を呼びながら彼女は観念した。

「へへへ、お前も好きだな、オイ」

「へっ、これぐらいの役得がなきゃやってらんねーんだよ」

「何が役得だ。 恥知らずの外道共が!」

第三者の声が場に割り込んだ。そして、激しい殴打音が響き渡った。更にサイコキネシスを使う気配もして、爆発音も響いた。悲鳴と怒号が交差し、それはすぐに止んだ。力強い手がマノカを抱き上げ、顔をのぞき込んだ。もう一つ、懐かしい幾何学的な存在が、すぐ側で影を落としている。

「マノカ君、大丈夫か」

「アルフレッド……さん?」

「……事情は大使館の中で聞こう。 君の姉さんについても聞きたい」

「何にしても良かった。 心配した」

「……クラッツェル」

ゆっくり周囲を見回し、マノカはクラッツェルとアルフレッドの姿を認めた。そして、意識を失ったのだった。

 

数時間後、意識を取り戻したマノカがまず最初にした事は、食事を取る事だった。味はともかく、栄養価が豊富でバランスが取れている魔界式の食事は懐かしく、暖かい味であった。やはり自分は魔界の住人なのだと、マノカは改めて思った。周囲には魔族や妖魔が行き交っていて、普通に話をしている。それを見て、随分心が落ち着くのをマノカは感じていた。傷は魔界の高度な回復魔法と医療技術で既に完治しており、痛みもなかった。

うつらうつらとしているマノカの横にはアルフレッドとクラッツェルが着きっきりでいてくれた。アルフレッドの話によると、一週間が過ぎた時点でエイフォルト侯爵家から(ステイから永続居住に変えたいと本人の要望があった)という報告があり、確認を取る作業をしている最中にモエギが独走したらしかった。モエギはクラッツェルも連れてきたのだが、改めてエイフォルト侯爵家の腐敗した情況を聞くといてもたってもいられなくなり、アルフレッドの制止を振り切って飛び出していってしまったそうだった。その後、大使館の周囲を不審人物が彷徨き始めた事に気付いたアルフレッドとクラッツェルは、いざという事態に備えており、結果マノカを救出する事に成功したそうである。

取り合えず体力が回復し、精神が落ち着いて口が利ける状態になると、マノカは事情を余すことなく喋った。アルフレッドと、彼がC級政治家だと紹介してくれた外交官ゴファルス、それにクラッツェルは、それを全て聞き終えた後、真剣な顔で意見を交わしあった。

「まず、モエギを助けに行く必要がありますね。 政府への許可を打診して頂けますか?」

「それは問題がない。 だが問題は、その後だ。 今回の件で、おそらくこの国と魔界の造り始めたばかりの信頼関係は全てパーになる。 あ、いや、君に責任はないよ」

ゴファルスはごつい顔に笑顔を湛えて、慌てて俯いたマノカをフォローした。一見すると脂ぎった普通の中年のおじさんだが、かなり人は良いらしい。顔の横にあるひれを揺らしながら汗を拭うゴファルスに、クラッツェルが白けた調子で言った。

「こんな国と外交などする必要があるとは僕には思えない。 色々聞いたが、いずれ滅び行く国である事は間違いないだろう」

「だが、天界がこの国と外交を結ぶ努力をしている以上、我らもそれをしないわけには行かないのだ。 出遅れてしまう可能性があるからな。 コルプテス王国が公式に謝罪してくればよいのだが、難しいだろうな。 いっそのこと天界にも事情を話して、仲良くこの国から手を引くか。 しかしそうなると、アスフォルトの人間世界大使館本部にも確認を取らなければならないし。 うーむ、いやまてよ、連合本部に圧力をかけるという手もあるな」

「その辺の交渉は任せます。 それよりも、一刻も早い許可を。 出来れば戦闘許可も打診願います」

「うむ、分かった。 出撃人員は、君だけで良いのか?」

アルフレッドの後ろで、マノカが手を挙げた。クラッツェルもそれに言葉をあわせた。

「私も行きます」

「僕も行く」

「駄目だ。 後は公的機関の人間に任せてくれないか?」

「いやです。 這いずってでもついていきます! お姉ちゃんが危ないんです!」

アルフレッドがゴファルスに視線を向けたが、助けは得られなかった。

「ま、君が二人を守りきればいい事だろう。 わたくしは何も見てない事にしておくよ」

「やれやれ、いつから魔界政府の人間は、こんなに規律に甘くなったんだ」

心底困ったようにアルフレッドが言ったが、彼の味方は誰もいなかった。今回の事件については、事情を知る大使館の者達全員が心底頭に来ていたからである。流石に魔界製兵器の使用までは許可されなかったが、多少暴れても、全員が口裏を合わせて黙認するだろう。

「仕方がない。 その代わり、自分の身は自分で守るんだよ」

アルフレッドの前で、マノカは真剣に頷き、クラッツェルは無言で通した。

 

7,親子

 

最初は、ただ面倒くさいとだけ思っていた。

魔軍から退役したモエギに、マノカが預けられたとき、彼女は後にこの子供が自分にとって掛け替えのない存在になるなどとは思ってもいなかった。だが、自分無しではマノカが生きられない事を悟ると、少しずつモエギは変わっていった。いつの間にか、モエギは精神的に親となっていたのである。

軍から退役したきっかけになった事件を、今でもモエギは覚えている。敵の捕虜になった彼女は、味方の精鋭が敵を蹴散らすまで、延々と輪姦されていたのである。至高神の元徹底した階級社会が造られ、血筋が全てを決定した、腐敗した体制の中にあったかっての天軍では、そんな事は珍しくもなかった。その時、モエギが最後まで信じていたアルフレッドは、結局助けにこれなかった。病院に見舞いに来たアルフレッドに、モエギは思いつく限りの罵詈雑言を浴びせて、軍を退役したのだった。彼女は、アルフレッドに傷の痛みを叩き付ける事でしか、心を保てなかったのである。

心に大きな傷をおったモエギだったが、マノカと接すれば接するほどそれは癒されていった。やがて、モエギはアルフレッドの事を許せるほどにまで回復していた。だが、同時に気付いていた。マノカが寂しがっている事を。(両親)をほしがっている事を。幸いマノカはとても素直で優しい子に育ったが、それはモエギの力ではなかったとも、モエギは考えていた。サイコチェイスを使ったマノカが真実を見て倒れる事件が起こってから、ますますモエギはマノカに強く出る事が出来なくなった。

元々魔界は超実力主義社会であり、社会のシステムを非常に強固にすると同時に、自己の能力開発も徹底的に求められる。それには自己啓発が必要不可欠であったから、親であっても子供にあれこれ強制するような風潮は好まれなかった。何よりモエギ自身がそう言う環境で育ったのだから、それも当然だっただろう。だがマノカが(強制してほしがっている)事も、モエギは悟っていたから、彼女の悩みは膨らむ一方だった。

あの手紙が来て、マノカがいなくなって、モエギは自分が如何にあの子に依存していたか悟った。そして駆けつけてみれば、案の定マノカは虐げられ、泣いていた。この子のためなら命をかけても良いと、モエギはずっと前から思っていたはずなのに、形にして示す事が出来ないでいた。

だが、それも形にして示す事が出来た。モエギは、満足だった。

 

「ん……?」

脇腹に痛みが走って、モエギは目を覚ました。どうも青臭い事を考えていたようで、少し気恥ずかしかった。隣にはようやく落ち着いたリトが寝ていて、代わらず死体もあった。

マノカは逃げられたはずだと、モエギは確信していた。だから、今は随分と晴れ晴れとした気分だった。だが同時に寂しくもあった。まだまだマノカと一緒に暮らしたいという気持ちも強いのである。その一方で、子供はいずれ親から自立するものだから、こういう形で自立するのもありかな等とも考えたりしていた。

「丸一日位経ったかな?」

呟くと、モエギは脇腹を押さえながら立ち上がり、ふらつく足でドアにもたれかかった。見張りはいるが、戸から随分離れた所にいるらしい。この戸を突破出来るはずがないと、高をくくっているのだろう。実際今の状態ではその通りなので、モエギは舌打ちすると、改めて状態の確認に戻った。

そのとき不意に、モエギはある大きな気配の接近に気付いた。良く知る気配であり、正体は間違いなかった。

「……今度間に合わなかったら、もう二度と許さない」

ぼそりと呟くと、モエギは寝息を立てているリトの頭を膝に乗せ、一つため息をついたのだった。

 

「敵戦力、およそ50。 正面突破十分に可能」

「ねずみ取りは任せておけい。 一匹もにがさんから、安心していけ」

「ありがとう、ゼイルさん。 こんな事まで協力して貰って」

「うわっはっはっはっはっはっは! 麗しのレイディにそう言ってもらえると、まさしく光栄の極みじゃのう! 安心しておねえたまを助けてくるが良かろう!」

そう言って、ゼイル将軍は相変わらず手加減無しの様子でマノカの頭をくしゃくしゃにし、背中を叩いた。今、此処にいるのはゼイル将軍の手兵およそ五十名、それにアルフレッド、マノカ、クラッツェルである。最近ユミレルがならず者を多数集めているというのは将軍も知っており、今回はそのならず者が騒ぎを起こし、それを処罰するために駆けつけたという名目で手を貸してくれている。将軍の手兵は皆忠誠心が厚く、また強者揃いで、ふぬけ貴族に雇われたならず者程度に遅れは取らない。

「すまんな、流石に侯爵家には手出しできんのだ。 その代わり、ある程度のもみ消しには協力するぞ。 思う存分暴れてこい」

「ありがとう、ゼイル。 メインの攻撃は君たちがしなさい。 私はサポートとガードに徹するから」

「はい!」

「了解」

二人の返事を確認すると、アルフレッドは驚くべき事に堂々と侯爵家の屋敷に足を踏み入れた。しかも真っ正面からである。たちまちわらわらとならず者が現れ、アルフレッドの進路を塞いだ。背中に翼を持つアルフレッドを前にしても、全く動じないのは、勇気か或いは蛮勇か。

「なんだてめえは!」

「悪魔だ」

「はん、頭がイカれてやがるのか? とっととうせろ若造!」

「年が十倍も離れた者に若造呼ばわりとはね。 呆れた話だ」

そのままアルフレッドは前に進み、それを阻止しようと進み出た一人が真横に吹っ飛んだ。ノーモーションで、超高速の裏拳をアルフレッドが見舞ったのである。そのまま乱闘になったが、傍目にはアルフレッドは一切動かず、つっかかっていく者が勝手にはじき飛ばされていくように見え、それはある意味シュールな光景だった。一応アルフレッドの動きを見切る事だけは出来たマノカは、半ば呆然と言った。

「うわ、はやっ!」

「流石に現役の諜報員だ。 僕たちも出るぞ」

「うん」

気力体力共に完全回復している上に、動きやすい魔界製の普段着に着替えているマノカと、彼女を遙かに凌ぐ戦闘向き(PSI能力)の使い手であるクラッツェルがそのまま参戦し、アルフレッドの両脇で右に左に邪魔者をなぎ倒した。クラッツェルのサイコキネシスは強烈無比で、三四人まとめて敵を捕獲し、空中に持ち上げて地面に叩き付ける。本当に相手が死なないギリギリの攻撃で、一切仮借がなかった。地面に叩き付けられた音があまりに凄いので、マノカが心配したほどである。アルフレッドは二人が参戦すると、後は本当にサポートに徹し、飛び道具を払い落としたり、マノカの後ろに回り込んだ敵を弾いたりした。程なく辺りには三十人ほどのならず者が転がり、障害はなくなった。後は逃げ出すか、遠巻きに此方を伺うばかりである。

「後は、例のバカ貴族を叩き潰すだけだね。 グラットル老も哀れだ、此処まで子供に恵まれないとはね」

「……それより、お姉ちゃんを助けないと」

「無駄話をしている余裕はない」

クラッツェルが率先して進み始めたので、慌てて二人は後を追った。屋敷の中にも残存戦力がいる可能性が高いし、何か罠がある可能性も少なくないのである。

屋敷の中を知るマノカが案内に立ち、屋敷の中を三人はくまなく回った。途中メイドや執事にあったが、何を聞いてもおびえるばかりで要領を得なかった。心配していた罠は幸いなく、無駄に体力を消耗する事はなかった。やがて四階にたどり着いた彼らは、グラットル老の部屋にたどり着いた。

部屋の中にはグラットル老と、彼の四人の息子達がいた。グラットル老は堂々とした態度で入り込んできた者達を見据えたが、マノカを見て唖然と口を開けた。

「マノカ、何をしている? 風邪を引いて寝ているのではなかったのか?」

「お父様、お気をつけ下さい! やはりこの子供は悪魔の子でした! 先ほど大暴れしたのは、この子です!」

あきれ果てた事をほざくユミレル。アルフレッドが前に進み出て、スーツの埃を払う。

「事情をお話しいたしましょう、グラットル殿」

「お父様、お聞きになっては行けません! 悪魔の奸計に乗ってはいけませんぞ」

「黙っていろ! ……全ては両者の言い分を聞いてから判断する」

流石老雄グラットル、迫力ある一喝はユミレルを黙らせ、安心したようにアルフレッドは説明を始めた。途中何度もユミレルはそれを遮ろうとしたが、グラットル老の視線を向けられるたびに黙り込んだ。そしてアルフレッドの話が終わると、今度はユミレルが説明を始めたが、意味不明な上に支離滅裂であった。グラットル老は嘆息し、マノカに頭を下げた。

「そうか、この屋敷の事はこのバカ息子共に任せていたでな、しらなんだ。 すまなかったな」

「いえ、そんな事はもういいんです。 だからお姉ちゃんを返してください!」

「ユミレル、早くマノカの姉君をお出ししろ」

「し、しりません、知るわけがないでしょう!」

太い腕が一閃して、ユミレルを殴り飛ばした。立ち上がったグラットル老が、実の息子に手をあげたのだ。奇怪なわめき声を上げるユミレルに、グラットル老は大喝した。その目には、心の底から上がり来た、煉獄の炎が燃えさかっていた。

「愚か者がッ! 貴様は我が侯爵家の恥さらしだ! そればかりか、人類の恥部だ!」

「な、なぐったな! なぐったなーっ! この私を、この私をーっ!」

「貴様は勘当だ。 我が家の家督は、ドゥーンに継がせる。 とっとと貴様の屋敷に失せ、隠居するが良い!」

グラットル老の言葉には重みと威厳があったが、惜しいかな、ユミレルのような根本的に腐った人間には無駄であった。また、反省を促す事も出来なかった。目に凶気を湛えたユミレルが部屋を飛び出し、走り出す。アルフレッドとクラッツェルがすぐにその後を追う。ドゥーンの口の端がそのとき僅かにつり上がったが、マノカにはその意味が分からなかった。

「どうする? 転ばせるのは簡単だ。 いっそ八つ裂きにしてやろうか」

「いや、泳がせよう。 後を追うよ」

「……お姉ちゃん」

今更ながら、あんな人間に依存しようとした事を、マノカは心の底から恥じていた。指輪に触れると、マノカは首を振って雑念を追い払い、二人を追った。

 

地下室は異様な空気に満ちていた。モエギが監禁されている部屋はすぐに見つかり、マノカはアルフレッドとクラッツェルの前だというのに、涙が溢れるのを止められなかった。そのままモエギに抱きつき、泣きじゃくる。一瞬だけ、和やかな雰囲気が場を覆った。

「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ! 良かった、良かった……!」

「そんな泣かないで、可愛い顔が台無しじゃないか」

そういうモエギも、涙をこっそり拭っていた。そして、表情を改めると、アルフレッドに向き直る。

「……間に合ったじゃん」

「二度は、遅れたくはなかったからね」

意味ありげな会話をする二人を見て、マノカはやはりこの二人がただならぬ関係か、あるいはそうだったのだろうと悟った。そして、頭が冷えてくると、周囲が見えてきた。目の焦点が合っていないリトの姿は、少なからずマノカを動揺させた。

「リトさん……酷い……! 誰がこんな事を!」

「知り合いか?」

「うん、私の話を色々聞いてくれた人。 ……それでこんな酷い目に……」

「気にするな。 君のせいじゃなくて、あのバカ貴族が悪い」

クラッツェルが一応慰めているらしい横で、アルフレッドは死体の確認をしていた。体型的にはグラットル老と似ているが、別人である。

「ヒャハハハハハハハ、壊してやる、私の物にならないなら、全部壊してやる!」

地下通路の奥から、強烈な障気が溢れてくる。魔界では平凡な空気だが、人間世界では極めて異質なそれが、周囲を覆う。執事を連れて地下におりてきたグラットル老が、牢の中と闇の向こうを交互に見やり、舌打ちして叫んだ。

「ユミレル! いい加減にせんか!」

「うるせえ、老いぼれッ! そのガキを餌に遺産の相続書にサインさせたら、暗殺されたって事にして財産全部私の物にしようと思ってたのによぉッ!」

「そうか、それでこの死体を用意したのか。 で、グラットル老自身は、その無様な化け物の餌にでもするつもりだったのか?」

「そうよ。 此奴は与えた餌を毎回全部くっちまうんでナア! 糞親父は隙をみせやがらねえから、そうするしかなかったんだよッ! 全部親父が悪いんだ! なかなか死にやがらねえわ、ドゥーンに遺産を継がせるなんてほざいたりするわ、私のいいなりにならないわ! てめえがいけねえんだ、全部てめえがわるいんだっ!」

ふと恐ろしい可能性に、マノカは思い立った。そしてその可能性を、ユミレルが全て自分から裏付けした。

「あの淫売も遺産の一部よこせなんてほざかなけりゃ、もうちったあ長生き出来たのによぉっ! 其処のガキもそこの悪魔にべらべら何でもかんでも喋らなきゃ、廻される事もなかったのになあッ! いいざまだっ! ヒャハハハハハハハ、いいざまなんだよっ! クズ共がッ!」

「……ま、貴族なんてのはこんな物だ。 特に此奴が図抜けて狂ってるわけでもない」

「反論できん。 それにしても、バカ息子が迷惑をかける」

「処分しても、よろしいですね?」

アルフレッドの言葉に、グラットル老は無念そうに頷いた。それに呼応するように、通路の奥から、鰐と山羊と象を足して三で割ったような生き物が這いずり現れた。背中からは無数の触手が生えており、その足下にはユミレルが714式を手に立っていた。

天軍と魔軍が戦いの際使用した生物兵器の一部は苛烈な戦いのさなかに逃げ出し、人間世界で野生化した。それと、その子孫を総称して(魔物)と言う。現在は人間による品種改良や種の分化が進んだため、魔界政府や天界政府も知らない魔物も数多く存在している。人間はそれを戦争に使ったり、今回のように用心棒に使ったりしていた。無論野生化した魔物が、人を襲う事も良くあった。折り畳み式の携帯無線を取り出すと、アルフレッドは敵を見据えながら言う。

「こちらアルフレッド。 魔物との応戦許可願う。 敵戦闘力、推定1550」

「此方魔界大使館、応戦を許可する」

「了、解」

ぱちんと音を立てて、携帯無線をしまうアルフレッド。それと同時に、無数の触手がアルフレッドに向け飛んだ。そのスピードは速く、当たった箇所の石壁が砕ける。それを危なげなくアルフレッドは避けていたが、魔物の口から放った光球がその体を直撃した。剰りにもスピードが違うため、一瞬対応が遅れたのである。

「おじいさん!」

マノカがとっさにグラットル老を突き飛ばしたその横を、はじき飛ばされたアルフレッドが吹っ飛び、轟音と共に壁に激突した。勝ち誇って嬌笑を上げるユミレル、だが埃を払ってアルフレッドは立ち上がった。流石にスーツは駄目になっていたので、ぼろ切れとなったそれを破り捨てながらアルフレッドは再び構えを取った。無駄のない均整の取れた肉体が、闇に浮かび上がる。白けた様子でそれを見ながら、モエギが言った。

「相変わらず読みが甘い。 多分1800はあるよ、あれの戦闘力値」

「何、充分に許容範囲内さ」

もう一度アルフレッドが地を蹴り、魔物に迫る。だが魔物はかなり学習能力が高いようで、今度は触手を鋭くマノカとグラットル老に向けて延ばした。だが一瞬早くクラッツェルがマノカの前に躍り出、サイコキネシスでシールドを造った。触手がそれに次々に叩き付けられる。シールドの消耗は激しく、触手の威力が伺われる。

「なかなか手強い」

「クラッツェル! 私も手伝う!」

両手を前につきだしたマノカが、自らもサイコキネシスでシールドを張り、クラッツェルのそれを補強した。だが魔物は触手を数本束ね、巨大な槌として二人に叩き付けたのである。轟音を上げて襲いかかる死の一撃に、舌打ちしたアルフレッドはきびすを返し、両腕をクロスさせてそれを受け止めた。そしてそれを待っていた魔物が、数発の光球を一気にアルフレッドに叩き付けた。準閉鎖空間に強烈な爆発が巻き起こり、辺りを蹂躙し尽くした。

しばしの静寂、だがそれを切り破った者がいた。アルフレッドである。煙を突き破って突進した彼は、そのまま自らも触手を失いもがく魔物に突進、跳躍した。そのまま連続して天井と床を交互に蹴りつけて加速しながら、殺意の弾丸となって突撃する。そのままアルフレッドは、回避しようとして緩慢に体の位置をずらした魔物の、土手っ腹を貫通した。

「ふう、ふうっ!」

崩れ落ちる魔物を横目に、アルフレッドは大きく息をついた。ハンデ付きだったとはいえ、相当に手強い相手であり、消耗は大きかった。壁に手をつき、呼吸を整えていく。ようやく一息ついたアルフレッドは、ユミレルがいない事に気付いた。

「しまった!」

叫びをあざ笑うように、銃声が響き渡った。

 

爆発を受け止めるために、全ての精神力を使ってサイコキネシスシールドを展開したクラッツェルが、マノカの横に転がっていた。普段何があっても宙に浮いている彼が、地面に転がっているのである。如何に深刻な事態か、誰の目にも明かであろう。

その後ろには、腰を抜かした執事と、無言のまま立ちつくすマノカ、マノカと同じ相手をにらみつけるモエギ、今の爆発からモエギを守ろうとして片膝をついたままのグラットル老がいた。彼らの視線は、一人の共通の敵に向けられている。714式を手にした、ユミレルである。彼は異様に要領よく、爆発の寸前にシールドの内側に逃げ込んだのである。

「チェックメイトだ……あは……ひゃははははははは……」

「貴様という奴は、何処まで恥を知らぬのだ」

「うるさいっ! 私は貴族だ! だから私がやる事は全部正しいんだよぉっ!」

長い沈黙を破るように、マノカが前に進み出た。決着をつけるためにも、この男と戦う必要があると思ったのである。

「ユミレルさん、認めたくはないけど、貴方は血のつながった人間です」

「ああん? 今更下らない言葉吐いて、命乞いしても遅いんだよ……淫売の血ぃ引いた、混血のゴミが!」

マノカは更に進み出た。怯えと恐怖がユミレルの顔に奔り、男はわめき散らす。

「来るんじゃない、来るんじゃないっ! 殺すぞ、悪魔め!」

「私を侮辱した事はもういいんです。 どうしてお姉ちゃんを撃ったんですか?」

「何だと?」

「応えてください! どうしてお姉ちゃんを撃ったっ!」

沈黙は、マノカにとっては長く続いた。しかし、おそらくユミレルにとっては一瞬だっただろう。

「この私が、悪魔を撃って何が悪い! 其処の雌猫が、愚かにも遺産を横取りしようとして貴様を持ち帰りにきたから撃っただけだろうがッ! そのグズで不細工な雌猫が悪いんだよっ! 銃で撃ったのに、ゴキブリのように生き残りやがって、さっさと死ねば良いのによぉッ!」

「……! 言いたい事はそれだけか……」

「なんだと、なんだと! 貴様、それが父に対する、貴族に対する口の利き方かっ!」

「まずいな、キれた」

ぼそりとクラッツェルが言った。彼は、どうしてマノカの邪竜剛縛拳の成績が最高のSでなくその下の特Aだか良く知っていたのである。当然それはモエギも知っていて、グラットル老と執事に回れ右を促した。マノカの全身を覆うオーラが、炸裂したかのようだった。凄まじい殺気が辺りを舐めつくし、灼熱の塊とかしたマノカが叫ぶ。

「言いたい事はそれだけかといっているんだっ! 貴様の何処が父親だっ! 貴様は、血のつながったただの他人だっ! 貴様のような外道が、お姉ちゃんを、よくもお姉ちゃんをバカにしたなあっ!」

「黙れッ! 死ねええッ!」

714式が火を噴いたが、火線は一瞬前にマノカの頭があった位置を通過するに留まった。殆ど残像が残るほどのスピードで動いたマノカは、サイコキネシスを全く手加減無しに使って腕力を最大限まで強化し、一息にユミレルの腕をへし折った。

更にマノカは膝蹴りをユミレルの鳩尾に叩き込み、体を曲げて絶叫する愚物の喉を掴んで、そのまま石壁に叩き付けた。石壁に円状の亀裂が走る。そして手を離すと、マノカは小さく息を吐き出し、構えを取り、四階まで響くほどの凄まじいラッシュ攻撃を一切容赦なく叩き込んだのである。

ユミレルが文字通りの再起不能になるまで、ほんの十秒もかからなかった。マノカが最高の成績を与えられない理由はこれであった。一度キれると、相手が再起不能になるまで攻撃を止めないし、手加減も一切しないのである。今までは止めに入れる者がいたから惨事にはならなかったが、今回は止める者もいなかったし、止める必要もなかった。普段優しくて素直な子ほど、本気で怒らせればこういった結果を招く。そしてマノカの怒りを引き出したのは、自分ではなく、自分の一番大事な人への侮辱だった。

肩で息をつきながら、かろうじて生きているだけの肉塊になった(実の父親)を見下ろしているマノカ。モエギは、彼女を後ろから抱きしめて、言った。

「終わったね、良く自分で決着をつけた」

「うん……」

「さ、帰ろう。 今度こそ」

再び落涙するマノカとモエギを、結局最後の戦いには間に合わなかったアルフレッドが、頭をかきながら見守っていたのだった。

 

8,一番近くにあるもの

 

「これでよろしかったのでございますか?」

「ああ、良くやってくれた。 お前の一族は、引き立ててやるから心配するな」

「ありがたき幸せにございます」

テラスで佇んでいたのは、侯爵家四男のドゥーンであった。兄の暴走を知りながら黙認し、時折影から手助けさえしてやったのは、彼だったのである。執事は彼の右腕であり、スパイであったのだ。

兄が暴走すれば、いずれ魔界の力によって制裁される。それは正しい読みであった。モエギが侵入した際意図的に庭の警備を減らしておいたのも彼の仕業だった。マノカには口が利けなくなる毒が何度か食事に混ぜて出されたのだが、こっそり食事もすり替え、それが届かないようにもしていた。そして兄が致命的な暴走を行うのに支障がないように、兄の行動を可能な限り父の目からも隠した。これが一番の難事業であり、最後まで愚劣極まりなかったユミレルにはどれほどの苦労か理解すら出来なかっただろう。

「ドゥーン様、貴方も恐ろしいお方でございますな」

「……この国は、近いうちに滅びる。 内部の不満が頂点に達し、民衆の一斉蜂起が始まり、暴利をむさぼった貴族と王家はうち倒されて国の構造自体が変わる」

「はっ……?」

「そのとき、侯爵家が生き残るには、愚劣な兄たちが当主では無理だ。 父は有能だが、惜しいかな、新しい時代についていける頭脳を持ち合わせてはいない。 私が当主になり、この家を、そしてこの国を導いて行かねばならないのだよ」

蒼白になる執事を一瞥すると、ドゥーンは再び山々の向こうを見やる。

「可愛い姪には酷い事をしてしまったが、これからは激動の時代が来る。 その波の中を生き残るためには、ある程度の犠牲が必要不可欠だ。 あ、そうそう、一応兄上は病院で面倒を見てやれ。 ただし、絶対に完治しないようにもしろ。 医師に手を回しておけ」

もはや言葉もない執事の前で軽く笑うと、ドゥーンは部屋に戻っていった。

五年後、彼の予言は見事に的中する。コルプテス王国はついに発生した大規模な民衆反乱によって崩壊、十年間の混乱の後、連合諸国の援助を受け、エイフォルト候国として再出発するのである。初代国主は、マノカの従兄弟に当たる、ドゥーンの子カイラーカスであった。

 

「クラッツェル、おはよー!」

「おはよう、マノカ」

いつもの元気な通学路での挨拶。マノカにとって、いるべき場所での、あるべき生活が戻ってきた。相変わらずクラッツェルは無機的だし、モエギはだらしがなかったが、此処こそが自分の居場所であるとマノカは知っていた。

「昨日の夜、リトさんからお手紙が来たんだ。 もう退院出来るんだって」

「それは良かったな」

「うん! アルフレッドさんが、魔界大使館で雇ってくれるって言ってたから、きっとこれからも大丈夫だね」

笑顔が戻ったマノカ。全てが良い方向に動いているように、彼女には思えていた。一週間のステイでの遅れももう取り戻し、今では前と何も代わらない生活が戻っていた。コルプテスで友達になったリトとゼイル将軍は、時々手紙をくれる。将軍は五人目の孫が出来たとかで、文面中に幸せが踊っていた。

「結局侯爵家はどうなった?」

「侯爵家は、正式に魔界大使館に謝罪をくれたみたい。 でも、コルプテス王国内では箝口令が敷かれて、事はもみ消されたんだって」

「恥を恥として認められないのか」

「うーん、きっと体面が何よりも大事な世界なんだよ」

別に恨み辛みは口調に籠もっていない。マノカには、(おじいさん)が謝ってくれた事で充分だったのだ。

「それに、今になって思うんだ。 (あの人)も、ひょっとすると被害者だったのかも知れないって。 住む世界が違えば、いい人だったのかも知れないって」

「さてね」

「きっとそうだよ。 ……きっと、多分」

あんな相手でさえフォローを入れるマノカに、クラッツェルはそれ以上コメントしなかった。しばしの沈黙の末、話題を切り替える。

「今日は射撃実習のテストだな」

「あはははは、がんばりまーす」

 

学校が終わって、マノカが帰宅すると、モエギは幸せそうに鼾をかいて二度寝していた。今は仕事がかなりせっぱ詰まっており、何があっても起こすようにと言われているので、マノカはフライパンとおたまを持ってくる。ハンモックの横には、新しく買い換えた眼鏡があって、綺麗に磨かれていた。

マノカは知っている、それはあの事件の後、アルフレッドがプレゼントした物であると。姉は憎まれ口を叩きながらも、受け取った後はとても大事にしていると。ひょっとすると、近いうちに、あんな(血がつながった他人)ではなく、(お父さん)がマノカの側に現れるかも知れなかった。目を細めて、幸せを感じながら、マノカはフライパンをうち鳴らした。

「お姉ちゃん、朝だよーっ!」

「んあっ!? おー、あー、うー、二度寝しちゃったよ」

涎を拭いながら、モエギが身を起こす。そして眼鏡を緩慢な動作で身につけると、例の如く既に妹が拾い集めていた書類を受け取った。

「今日、学校はどうだった?」

「射撃のテスト、散々だったよ。 次は頑張りなさいって、先生に言われちゃった」

「そっか、ま、アンタは良くやったよ。 無理しない程度に、次もがんばんな」

「うん」

身を翻し、マノカは夕食を造りに向かう。しばしモエギは書類を見ながら端末を叩いていたが、不意に声をかけた。

「ねえ、マノカ」

「何ー? お姉ちゃん」

「あのさ、お義兄ちゃんとか、欲しくない?」

野菜を刻んでいたマノカは、幸せに手が止まるのを感じていた。その言葉が何を意味するか、ずっと願っていた事がかなえられようとしている事が、明確に、何よりも明確に分かったからである。実の親との再会で得られなかった物が、形となって生まれ出ようとしていた。

「……うん! 欲しい!」

「そっか」

目尻を拭ってマノカが振り向くと、モエギが笑みを浮かべていた。夢は、現実へと代わろうとしていたのだった。

(終)